「あかい花 他四篇」あとがき 神西清 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)凄惨《せいさん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)当時|人民派《ナロドニチェストヴォ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JISX0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28] -------------------------------------------------------  ガルシンを語る人はかならずその印象ぶかい目のことをいう。それはまつげのながい、ぱっちりした、茶色のよく澄んだ目で、幼少のころから善良さと温順さと、そして一種の哀愁の色をたたえていたといわれる。それは彼が四歳のときある将軍から、「洗礼者ヨハネを思い出させる」とたたえられた目であり、また晩年には画家レーピンの名作『イヴァン雷帝とその皇子』において、父帝の手に倒れた皇子のまさに息たえんとする痛ましい眼光の、モデルになった目でもあった。彼の芸術を語ることは、やがてこの目の閲歴を語ることにほかならない。それは前世紀末のあんたんたる一時代に生きたロシア・インテリゲンツィアの良心の営みを、そのままに照り返している目だったのである。  フセヴォーロド・ミハイロヴィチ・ガルシン Vsevolod Mikhajlovich Garshin は、一八五五年二月、南露エカテリノスラーフ県なる母方の領地で生まれた。父方の家系は古くキプチャク汗国時代に発祥すると伝えられる小地主貴族である。胸甲騎兵の将校であった父親とともに南ロシアで過ごされた彼の幼年時代は、あたかもあの悽惨《せいさん》なクリミヤ戦役の直後に当たっており、したがって父の家に集まる軍人たちの血なまぐさい戦争譚《せんそうだん》に、彼の幼ない情感と献身愛とははげしくかきたてられずにはいなかった。加うるにすこぶる放任主義であったらしい父親の膝下《しっか》における早期の濫読《らんどく》があった。自伝によると五歳から八歳までのあいだの読書は、ロシアの古典はもとより、ビーチャ=ストウ女史の諸作やユーゴーの『パリの聖母寺』、また当時獄中にあったチェルヌィシェーフスキイの急進的なユートピア小説『何をなすべきか』にまで及んでいたという。  一八六三年彼はペテルブルグに移り、やがて同地の中学校に入学したが、卒業の直前十七歳のとき最初の狂疾の発作に襲われて、しばらく精神病院に収容されなければならなかった。この精神の疾患は母方の遺伝に根ざすものといわれているが、より直接の素因が彼の幼時からの過敏な感性と外界印象との、激しい摩擦にあることは疑いをいれない。  やがてようやく中学をおえた彼は、医科大学志望を学制上の支障によって断念して、鉱業専門学校に入学した。このころの彼は、しきりに若い画家の一団と交じわって、彼らに励まされながら文芸上の試作にふけった。彼が有名な画家ヴェレシチャーギンの生々しい戦争画から、強烈な印象を受けたのもこの時代のことである。画家たちとの交遊の形見として、彼には生涯を通じて数篇の美術批評がある。  一八七六年バルカンが大いに乱れた。彼は従軍を願い出たが、適齢未満のゆえをもって許されなかった。しかし翌年の四月いよいよトルコに対する宣戦が布告されると、彼は進級試験をなげうって一兵卒を志願し、直ちにブルガリヤの戦線へ向けての辛労多い行軍に加わることができた。従軍の動機はただただ、人々と苦難をともにせずにはおられない殉教的な衝動であった。戦場で彼は勇敢な兵士だった。前後二回の戦闘に参加したが、一八七七年八月アヤスラルの激戦で左脚に負傷して、同月ハリコフの家に後送された。彼はこの療養中に、すでに野戦病院で書き始められていた作品を脱稿した。それが『四日間』Chetyre dnje[#「Chetyre dnje」は斜体] で、同年十月、当時|人民派《ナロドニチェストヴォ》の雑誌として権威のあった「祖国時報」にかかげられ、異常なセンセイションを巻きおこした。 『四日間』は同じ隊の一兵卒の身におこった恐るべき出来事に取材している。彼はそれを戦場で死体埋葬の勤務についていた際に親しく目撃したのである。彼自身の戦地における体験を直接に物語った作品としては、『一兵卒イヴァーノフの回想より』(八三年発表)及び『戦争情景』(七七年発表)がある。総じて彼の「戦争物」の特色は、普通人の目には決してうつらぬ壮大な戦争絵巻を強いて描こうとはしないことである。彼は純粋に一兵卒の目をもって、閃々《せんせん》として去来する「戦争の赤い翼」のはためきを、素直に記しとどめるのである。  作家としての道の開けたのを見て、彼はその年の末ペテルブルグに帰って、創作に没頭した。この二三年間は彼が心身ともに健康にめぐまれて旺盛《おうせい》な創作力を示した時期で、『アッタレーア・プリンケプス』Attalea Princeps[#「Attalea Princeps」は斜体](八〇年発表)はこのころの所産である。これはあとにも述べるように動植物の世界に舞台を借りた一連の童話風の作品の一つであるが、その整った形式によってこの方面での彼の成功作とされている。青空を慕ってやまぬしゅろの運命に託されたこの苦渋な比喩《ひゆ》物語は、絶望的なアイロニイをたたえながら、あんたんたる時代の空気につつまれた良心の苦悶《くもん》を表わしている。これと同じ時期に書かれた作品には、『きわめて短い物語』をはじめ、『臆病者』、『邂逅《かいこう》』、『画家たち』、『一夜』など、すすり泣きと哀訴に貫かれた諸篇が数えられるが、なかんずく『従卒と士官』(八〇年、長篇の第一章として発表)は揺るぎない構成をそなえて、チェーホフの雰囲気《ふんいき》ゆたかな短篇の先駆をなすかに見える佳作である。  しかし一八八〇年の二月、彼は再びはげしい狂疾の発作に襲われた。このときの常軌を逸した行動の一例として、夜中の三時に突然、時の大官ロリス=メーリコフを訪問したという話がある。この人物はまず穏健な政策によって政治犯の鎮圧に当たっていた独裁官であるが、彼はその面前にひざまずいて号泣しながら、メーリコフ襲撃のかどによって捕えられて、極刑に処せられようとしていた一青年の命ごいをしたのである。そしてようやくなだめられて辞去したのちも、絶望のあまり終夜、泥濘《でいねい》にまみれてペテルブルグの近郊を憑《つ》かれた者のようにさまよったのであった。この※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《そうわ》は、哀憐の重みにたえずに狂気してゆく彼の姿をよく物語るものであろう。彼はふたたび精神病院の門をくぐり、その後一年あまりを叔父《おじ》の田荘に病を養った。厭世的《えんせいてき》な基調のうちに明るい諧謔《かいぎゃく》を交じえた『夢がたり』To, chevo ne bylo[#「To, chevo ne bylo」は斜体](八二年発表)は、この療養期の所産である。 『夢がたり』は、『アッタレーア』などと並んで、動植物の世界に仮託された童話の形式を持っている。ガルシンがこうした童話形式に寄せた愛好は、つとにウスペンスキイも指摘しているように、この作者独特の生活印象への異常な敏感さによって説明しうるであろう。すなわち彼の病める神経は、生活事象を逐一精細に記述する重荷にたえられず、それら印象の圧迫からの急速な解放を、比喩の世界に求めたものであろう。たとえば『夢がたり』のごとき、文字どおり掌《てのひら》大の小作品でありながら、そのうちに作者が触れようと試みている人生の面のおびただしさに、われわれは驚くのである。  一八八三年、彼はナヂェージダ・ゾロチーロヴァという女医学生を妻にむかえた。これは心身ともに病みつかれた彼の後半生にとって、母とも姉とも、また保姆《ほぼ》ともなった女性である。彼はまた官途について、ここにつかのまの平安が訪れることになった。この時期の作品には、『あかい花』Krasnyj tsvetok[#「Krasnyj tsvetok」は斜体](八三年発表)、『熊』(同じく)などがある。 『あかい花』はハリコフの精神病院における作者自身の痛ましい体験を布地として、これに『悪』との戦いに身を滅ぼす一インテリ青年の悲劇を縫いとったものであり、ガルシンの全作を通じて最も調子の高い、彼の正義感の力づよく流露した作品として評されている。またこれを精神病理の側から見ても、当時の精神病医シッコルスキイらも指摘したように、狂躁《きょうそう》状態の内面描写――ことに正常な意識と病的な意識との並存状況の精緻《せいち》きわまる浮彫りにおいて、古典的価値を有するものとされている。この作品はやがてチェーホフの『六号室』などによってうけつがれる一系の癲狂院《てんきょういん》小説の、きららかな源泉をなすものであった。  なおこのころ彼は、ピョートル大帝の時代に取材する歴史小説をもくろんで、しきりに材料の蒐集《しゅうしゅう》に努めたけれど、ほどなく痼疾《こしつ》が悪化したため、この計画はついに実現されなかった。すなわち一八八四年からのち、彼は毎年の春から夏にかけて、救われがたい憂欝症《ゆううつしょう》――数ヵ月にわたって持続する無興味と無気力と不眠症――に定期的に見舞われるに至り、ようやく創作時における精神の緊張にたえず、作品の数は目に見えて減って行った。この最後の時期の所産としては、量的には最も大きく、質的にはかなりの弛緩《ちかん》を示している作品『ナヂェージダ・ニコラーエヴナ』のほか、一二の民話の試みがある。 『信号』Signal[#「Signal」は斜体](八七年発表)は明らかに、当時相ついで発表されていたトルストイの民話の刺戟によって書かれたものである。とはいえ彼がトルストイに学んだのは民話の特質をなす素朴で通俗的な表現精神であり、その根柢に横たわる教義に至っては、ガルシンのまったく認容しがたいものがあったのである。『信号』には、あらゆる悪条件の累積にもかかわらず、なお人間の犠牲の力への燃えるような信念を捨てえぬガルシンの心情が、最後の歌をひびかせている。  一八八八年三月、痼疾のようやく重るのを感じた彼は、ついにコーカサスへの転地療養を決心したが、その出発の朝、迫まりくる発狂の恐怖におびやかされて発作的に階段の上から飛び降り自殺を図った。そして脚部に致命傷を負って、五日にわたる苦悶ののちに息を引きとった。臨終の床を見舞った友人の「痛むか」という問いに、彼は心臓を指さしながら、「ここの苦しみに比べれば、こんな痛みは何でもない」と答えたと伝えられる。  ガルシンの生涯と芸術が、「異常にとぎすまされた道徳的敏感さ」によって貫かれていたことは、以上の瞥見《べっけん》からも容易に導きうる結論である。彼もまた「悔悟せる貴族」の一人として、その精神の系譜は、サルトィコフ=シチェードリンやウスペンスキイなどいわゆる七〇年代の人民派作家に、直接のつながりを持っている。しかも彼がようやく青年期を迎えたときはすでに、人民派の理想の夢は早くも農民の現実の姿のうえに幻滅を味わっていたのであるし、ついで八〇年代にはいればあの確信的な反動家ポベドノースツェフの強力な弾圧に、あらゆる希望は根こぎにされるのである。それは抒情《じょじょう》詩人ナドソンによって、 [#ここから2字下げ] 花は散りうせ火は燃えつきた 底しれぬ夜が墓穴のように暗い…… [#ここで字下げ終わり] と歌われたあんたんたる日々であった。ガルシンの作家的生涯は、この幻滅と破産の一時代のうちにあわただしく開花しまた閉じたのであって、この意味から彼を、もっとも純粋な八〇年代作家と呼ぶことができるであろう。  その三十三年の短い生涯を通じて完成された作品は二十篇に満たず、業績は決して大きくはないのであるが、しかも彼が長く愛慕されるゆえんは、その病弱の身をもってあの窒息せんばかりの空気のなかに、一点の弱々しくはあるが曇りない良心の灯をよく守り通したところにある。このささやかな灯はやがて、コロレンコの不撓《ふとう》の実践力や、チェーホフの魔のごとき現実直視の力によってうけ継がれることになったのを思えば、晩年の彼がこの二作家にあつい信頼を置いていたのも決して偶然ではないのである。 [#3字下げ]一九三七年夏 [#地から2字上げ]訳者 [#1字下げ]付記  今回の改版に当たり、一九五五年国立出版所発行の「ガルシン著作集」を参照して、旧版に訳し落とされたと思われる個所を数ヵ所訳し加えた。[#地付き](一九五九年七月 池田健太郎) 底本:「あかい花 他四篇」岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店    1975(昭和50)年9月1日第1刷発行    1976(昭和51)年4月1日第2刷発行 ※底本における表題「あとがき」に、底本名を補い、作品名を「「あかい花 他四篇」あとがき」としました。 入力:蒋龍 校正:hitsuji 2020年2月21日作成 青空文庫作成ファイル: 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