◇。◇。◇。 【闇中問答】 【芥川竜之介】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  或声《ある声》: お前は俺の思惑とは全然違《全然’違》つ《っ》た人間だつ《っ》た。  僕: それは僕の責任ではない。  或声《ある声》: しかしお前はその誤解にお前自身も協力している。  僕: 僕は一度も協力したことはない。  或声《ある声》: しかしお前は風流《フ-ウ流》を愛した、─《─:》─或《あるい》は愛したや《よ》うに装つ《っ》たら《ろ》う。  僕: 僕は風流《フ-ウ流》を愛している。  或声《ある声》: お前はどちらかを愛している? 風流か? それとも一人の女か?  僕: 僕はどちらも愛している。  或声《ある声》: (冷笑)それを矛盾とは思は《わ》ないと見えるな。  僕: 誰が矛盾と思ふ《う》ものか? 一人の女を愛するものは古瀬戸の茶碗を愛さないかも知れない。しかしそれは古瀬戸の茶碗を愛する感覚を持たないからだ。  或声《ある声》: 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。  僕: 僕は生憎風流人《あいにく風流人》よりもずつ《っ》と多欲に生まれついている。しかし将来は一人の女よりも古瀬戸の茶碗を選ぶかも知れない。  或声《ある声》: ではお前は不徹底だ。  僕: 若《も》しそれを不徹底と|云ふ《言う》ならば、インフルエンザに罹つ《っ》た後《あと》も冷水摩擦をやつ《っ》ているものは誰よりも徹底しているだら《ろ》う。  或声《ある声》: もう強がるのはやめにしてしまへ《え》。お前は内心は弱つ《っ》ている。しかし当然お前の受ける社会的非難をはね返す為にそんなことを言つ《っ》ているだけだら《ろ》う。  僕: 僕は勿論《もちろん》そのつもりだ。第一考《第一’考》へ《え》て見るが善《い》い。はね返さなかつ《っ》たが最後、押しつぶされてしまふ《う》。  或声《ある声》: お前は何と|云ふ《言う》図々しい奴だ。  僕: 僕は少しも図々しくはない。僕の心臓は瑣細な事にあつ《っ》ても氷の|さはつ《触っ》たや《よ》うにひやひやとしている。  或声《ある声》: お前は多力者《タリ-ョクシャ》のつもりでいるな?   僕: 勿論僕《もちろん僕》は多力者《タリ-ョクシャ》の一人だ。しかし最大の多力者《タリ-ョクシャ》ではない。若《も》し最大の多力者《タリ-ョクシャ》だつ《っ》たとすれば、あのゲエテと|云ふ《言う》男のや《よ》うに安んじて偶像になつ《っ》ていたであら《ろ》う。  或声《ある声》: ゲエテの恋愛は純潔だつ《っ》た。  僕: それは嘘だ。文芸史家の嘘だ。ゲエテは丁度三十五《丁度’三十五》の年に突然伊太利《突然イタリイ》へ逃走している。さ《そ》うだ。逃走と|云ふ外《言うほか》はない。あの秘密を知つ《っ》ているものはゲエテ自身を例外にすれば、シユ《ュ》タイン夫人一人だけだら《ろ》う。  或声《ある声》: お前の言ふ《う》ことは自己弁護だ。自己弁護位手易《自己弁護くらい容易》いものはない。  僕: 自己弁護は容易ではない。若《も》し手易《容易》いものとすれば、弁護士と|云ふ《言う》職業は成り立たない筈だ。  或声《ある声》: 口巧者な横着ものめ❢《❢。》 誰ももうお前を相手にしないぞ。  僕: 僕はまだ僕に感激を与へ《え》る樹木や水を持つ《っ》ている。それから和漢東西の本を三百冊以上持《三百冊以上’持》つ《っ》ている。  或声《ある声》: しかしお前は永久にお前の読者を失つ《っ》てしまふ《う》ぞ。  僕: 僕は将来に読者を持つ《っ》ている。  或声《ある声》: 将来の読者はパンをくれるか?  僕: 現世の読者さへ《え》碌にくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円《一枚’十円》に限つ《っ》ていた。  或声《ある声》: しかしお前は資産を持つ《っ》ていたら《ろ》う?  僕: 僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。  或声《ある声》: しかしお前は家を持つ《っ》ている。それから近代文芸読本《近代文芸トクホン》の‥《‥:》‥  僕: あの家《’家》の棟木は僕には重たい。近代文芸読本《近代文芸トクホン》の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つ《っ》たのは四五百円《シゴヒャク円》だから。  或声《ある声》: しかしお前はあの読本《トクホン》の編者だ。それだけでもお前は恥ぢ《じ》なければならぬ。  僕: 何を僕に恥ぢ《じ》ろと|云ふ《言う》のだ?  或声《ある声》: お前は教育家の仲間入りをした。  僕: それは嘘だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしている。僕はその仕事を取り戻したのだ。  或声《ある声》: お前はそれでも夏目先生の弟子か?  僕: 僕は勿論夏目先生《もちろん夏目先生》の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つ《っ》ているかも知れない。しかしあの気違ひ《い》じみた天才の夏目先生を知らないだら《ろ》う。  或声《ある声》: お前には思想と|云ふ《言う》ものはない。偶々あるのは矛盾だらけの思想だ。  僕: それは僕の進歩する証拠だ。阿呆はいつまでも太陽は盥《-たらい》よりも小さいと思つ《っ》ている。  或声《ある声》: お前の傲慢はお前を殺すぞ。  僕: 僕は時々か《こ》う思つ《っ》ている。──或《あるい》は僕は畳の上では往生しない人間かも知れない。  或声《ある声》: お前は死を恐れないと見えるな? な?  僕: 僕は死ぬことを怖れている。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度頸《ニサン度’首》をくくつ《っ》たものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだ後《あと》は或快感《ある快感》さへ《え》感じて来る。僕は死よりも不快なことに会へ《え》ば、いつでも死ぬのに|ためらは《躊躇わ》ないつもりだ。  或声《ある声》: ではなぜお前は死なないのだ? お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか?  僕: 僕はそれも承知している。ヴエ《ェ》ルレエンのや《よ》うに、ワグナアのや《よ》うに、或《あるい》は又大《また大》いなるストリントベリイのや《よ》うに。  或声《ある声》: しかしお前は贖は《わ》ない。  僕: いや、僕は贖つ《っ》ている。苦しみにまさる贖ひ《い》はない。  或声《ある声》: お前は仕かたのない悪人だ。  僕: 僕は寧ろ善男子《ゼンナンシ》だ。若《も》し悪人だつ《っ》たとすれば、僕のや《よ》うに苦しみはしない。のみならず必ず恋愛を利用し、女から金《-かね》を絞るだら《ろ》う。  或声《ある声》: ではお前は阿呆かも知れない。  僕: さ《そ》うだ。僕は阿呆かも知れない。あの「痴人の懺悔」などと|云ふ《言う》本は僕に近い阿呆の書いたものだ。  或声《ある声》: その上お前は世間見ずだ。  僕: 世間知りを最上《最ジョウ》とすれば、実業家は何よりも高等だら《ろ》う。  或声《ある声》: お前は恋愛を軽蔑していた。しかし今になつ《っ》て見れば、畢竟恋愛至上主義者《ヒッキョウ恋愛至上主義者》だつ《っ》た。  僕: いや、僕は今日《コンニチ》でも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。  或声《ある声》: しかしお前は恋愛の為に父母妻子を抛つ《っ》たではないか?  僕: 嘘をつけ。僕は唯僕自身《ただ僕自身》の為に父母妻子を抛つ《っ》たのだ。  或声《ある声》: ではお前はエゴイストだ。  僕: 僕は生憎《あいにく》エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。  或声《ある声》: お前は不幸にも近代のエゴ崇拝にかぶれている。  僕: それでこそ僕は近代人だ。  或声《ある声》: 近代人は古人に若《し》かない。  僕: 古人も亦一度《また一度》は近代人だつ《っ》たのだ。  或声《ある声》: お前は妻子を憐まないのか?  僕: 誰か憐まずにいられたものがあるか? ゴオギヤ《ャ》アンの手紙を読んで見ろ。  或声《ある声》: お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。  僕: どこまでも是認しているとすれば、何もお前と問答などはしない。  或声《ある声》: ではやはり是認しずにいるか?  僕: 僕は唯《ただ》あきらめている。  或声《ある声》: しかしお前の責任はどうする?  僕: 四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、─《─:》─僕の責任は四分の一だけだ。 【或声《ある声》: お前は何と|云ふ《言う》下等な奴だ❢】  僕: 誰でも僕位《僕くらい》は下等だら《ろ》う。  或声《ある声》: ではお前は悪魔主義者だ。  僕: 僕は生憎悪魔主義者《あいにく悪魔主義者》ではない。殊に安全地帯の悪魔主義者には常に軽蔑を感じている。  或声《ある声》: (暫く無言)兎に角お前は苦しんでいる。それだけは認めてやつ《っ》ても善《い》い。  僕: いや、うつ《っ》かり買|ひ冠《いかぶ》るな。僕は或《あるい》は苦しんでいることに誇りを持つ《っ》ているかも知れない。のみならず「得れば失ふ《う》を惧《恐》る」は多力者《タリ-ョクシャ》のすることではないだら《ろ》う。  或声《ある声》: お前は或《あるい》は正直者かも知れない。しかし又或《またあるい》は道化者かも知れない。  僕: 僕も亦《また》どちらかと思つ《っ》ている。  或声《ある声》: お前はいつもお前自身を現実主義者と信じていた。  僕: 僕はそれほど理想主義者だつ《っ》たのだ。  或声《ある声》: お前は或《あるい》は滅びるかも知れない。  僕: しかし僕を造つ《っ》たものは第二の僕を造るだら《ろ》う。  或声《ある声》: では勝手に苦しむが善《い》い。俺はもうお前に別れるばかりだ。  僕: 待て。どうかその前に聞かせて呉《く》れ。絶えず僕に問ひ《い》かけるお前は、──目に見えないお前は何ものだ?  或声《ある声》: 俺か? 俺は世界の夜明けにヤコブと力を争つ《っ》た天使だ。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  或声《ある声》: お前は感心に勇気を持つ《っ》ている。  僕: いや、僕は勇気を持つ《っ》ていない。若《も》し勇気を持つ《っ》ているとすれば、僕は獅子の口に飛び込まずに獅子《/獅子》の食ふ《う》のを待つ《っ》ているだら《ろ》う。  或声《ある声》: しかしお前のしたことは人間らしさを|具へ《備え》ている。  僕: 最も人間らしいことは同時に又動物《また動物》らしいことだ。  或声《ある声》: お前のしたことは悪いことではない。お前は唯現代《ただ現代》の社会制度の為に苦しんでいるのだ。  僕: 社会制度は変つ《っ》たとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするのに極まつ《っ》ている。  或声《ある声》: しかしお前は自殺しなかつ《っ》た。兎に角お前は力を持つ《っ》ている。  僕: 僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死に|かた《方》をする為に一日に蠅を十匹づ《ず》つ食つ《っ》た。蠅を細かにむしつ《っ》た上、のみこんでしまふ《う》のは何でもない。しかし噛みつぶすのはきたない気がした。  或声《ある声》: その代りお前は偉大になるだら《ろ》う。  僕: 僕は偉大さなどを求めていない。欲しいのは唯平和《ただ平和》だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金《-かね》さへ《え》あれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いている。ワグネルでさへ《え》この通りだ。あの我の強いワグネルでさへ《え》。  或声《ある声》: お前は兎に角苦しんでいる。お前は良心のない人間ではない。  僕: 僕は良心などを持つ《っ》ていない。持つ《っ》ているのは神経ばかりだ。  或声《ある声》: お前の家庭生活は不幸だつ《っ》た。  僕: しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつ《っ》た。  或声《ある声》: お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持つ《っ》ていることだ。  僕: 嘘をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智《世間知》を持つ《っ》ていることだ。  或声《ある声》: しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露れないうちにお前の愛している女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつ《っ》た。  僕: それも嘘だ。僕は打ち明けずにはいられない気もちになるまでは打ち明けなかつ《っ》た。  或声《ある声》: お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されている。  僕: 僕は詩人だ。芸術家だ。けれども又社会《また社会》の一分子だ。僕の十字架を負ふ《う》のは不思議ではない。それでもまだ軽過《-かるす》ぎるだら《ろ》う。  或声《ある声》: お前はお前のエゴを忘れている。お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。  僕: 僕はお前に言は《わ》れずとも僕の個性を尊重している。しかし民衆を軽蔑しない。僕はいつかか《こ》う言つ《っ》た。──《─/》「玉《ギョク》は砕けても、瓦は砕けない。」シエ《ェ》クスピイアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるであら《ろ》う。しかれ彼等を生んだ胎《タイ》は、──大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変へ《え》ても、必ずそのうちから生まれるであら《ろ》う。  或声《ある声》: お前の書いたものは独創的だ。  僕: いや、決して独創的ではない。第一誰《第一’誰》が独創的だつ《っ》たのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中僕《なかんずく僕》は度たび盗んだ。  或声《ある声》: しかしお前は教へ《え》てもいる。  僕: 僕の教へ《え》たのは出来ないことだけだ。僕に出来ることだつ《っ》たとすれば、教へ《え》ない前にしてしまつ《っ》たであら《ろ》う。  或声《ある声》: お前は超人だと確信しろ。  僕: いや、僕は超人ではない。僕等は皆超人《みんな超人》ではない。超人は唯《ただ》ツア《ァ》ラトストラだけだ。しかもそのツア《ァ》ラトストラのどう|云ふ《言う》死を迎へ《え》たかはニイチエ《ェ》自身も知らないのだ。  或声《ある声》: お前さへ《え》社会を怖れるのか?  僕: 誰が社会を怖れなかつ《っ》たか?  或声《ある声》: 牢獄に三年もいたワイルドを見ろ。ワイルドは「妄《みだ》りに自殺するのは社会に負けるのだ」と言つ《っ》ている。  僕: ワイルドは牢獄にいた時に何度も自殺を計つ《っ》ている。しかも自殺しなかつ《っ》たのは唯《ただ》その方法のなかつ《っ》たばかりだ。  或声《ある声》: お前は善悪を蹂躙してしまへ《え》。  僕: 僕は今後もいやが上にも善人になら《ろ》うと思つ《っ》ている。  或声《ある声》: お前は余り単純過ぎる。  僕: いや、僕は複雑過ぎるのだ。  或声《ある声》: しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだら《ろ》う。  僕: それは著作権のなくなつ《っ》た後《あと》だ。  或声《ある声》: お前は愛の為に苦しんでいるのだ。  僕: 愛の為に? 文学青年じみたお世辞は好い加減にしろ。僕は唯情事《ただ情事》に躓いただけだ。  或声《ある声》: 誰も情事には躓き易い。  僕: それは誰も金銭の欲に溺れ易いと|云ふ《言う》ことだけだ。  或声《ある声》: お前は人生の十字架にかかつ《っ》ている。  僕: それは僕の自慢にはならない。情婦殺しや拐帯犯人も人生の十字架にかかつ《っ》ているのだ。  或声《ある声》: 人生はそんなに暗いものではない。  僕: 人生は「選ばれたる少数」を除けば、誰にも暗いのはわかつ《っ》ている。しかも又《また》「選ばれたる少数」とは阿呆と悪人との異名なのだ。  或声《ある声》: では勝手に苦しんでいろ。お前は俺を知つ《っ》ているか? 折角お前を慰めに来た俺を?  僕: お前は犬だ。昔あのフア《ァ》ウストの部屋へ犬になつ《っ》て|はひつ《入っ》て行つ《っ》た悪魔だ。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  或声《ある声》: お前は何をしているのだ?  僕: 僕は唯書《ただ書》いているのだ。  或声《ある声》: なぜお前は書いているのだ。  僕: 唯書《ただ書》かずにはいられないからだ。  或声《ある声》: では書け。死ぬまで書け。  僕: 勿論《もちろん》、──第一その外《ほか》に仕かたはない。  或声《ある声》: お前は存外落ち着いている。  僕: いや、《、/》少しも落ち着いてはいない。若《も》し僕を知つ《っ》ている人々ならば、僕の苦しみを知つ《っ》ているだら《ろ》う。  或声《ある声》: お前の微笑《微笑’》はどこへ行つ《っ》た?  僕: 天上の神々へ《へ’》帰つ《っ》てしまつ《っ》た。人生に微笑を送る為に第一には吊り合ひ《い》の取れた性格、第二に金《-かね》、第三に僕よりも逞しい神経を持つ《っ》ていなければならぬ。  或声《ある声》: しかしお前は気軽になつ《っ》たら《ろ》う。  僕: うん、僕は気軽になつ《っ》た。その代りに裸の肩の上に一生《/一生》の重荷を|背負は《背おわ》なければならぬ。  或声《ある声》: お前はお前なりに生きる外《ほか》はない。或《あるい》は又《また》お前なりに‥‥  僕: さ《そ》うだ。僕なりに死ぬ外《ほか》はない。  或声《ある声》: お前は在来のお前とは違つ《っ》た、|新ら《新》しいお前になるだら《ろ》う。  僕: 僕はいつでも僕自身だ。唯皮《ただ皮》は変《変わ》るだら《ろ》う。蛇《ヘビ》の皮を脱ぎ変へ《え》るや《よ》うに。  或声《ある声》: お前は何も彼《か》も承知している。  僕: いや、僕は承知していない。僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、──僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がつ《っ》ている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠つ《っ》ている。  或声《ある声》: お前も亦俺《また俺》の子供だつ《っ》た。  僕: 誰だ、僕に接吻したお前は? いや、僕はお前を知つ《っ》ている。  或声《ある声》: では俺を誰だと思ふ《う》?  僕: 僕の平和を奪つ《っ》たものだ。僕のエピキユ《ュ》リアニズムを破つ《っ》たものだ。僕の、──いや、僕ばかりではない。昔支那の聖人の教へ《え》た中庸の精神を失は《わ》せるものだ。お前の犠牲になつ《っ》たものは至る所に横|はつ《わっ》ている。文学史の上にも、新聞記事の上にも。  或声《ある声》: それをお前は何と呼んでいる?  僕: 僕は──僕は何と呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配する (|Daimo^n《デーモン》) だ。  或声《ある声》: お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには来ない。  僕: いや、僕は誰よりもお前の来るのを警戒するつもりだ。お前の来る所に平和はない。しかもお前はレントゲンのや《よ》うにあらゆるものを滲透して来るのだ。  或声《ある声》: では今後も油断するな。  僕: 勿論今後《もちろん今後》は油断しない。唯《ただ》ペンを持つ《っ》ている時には‥《‥:》‥  或声《ある声》: ペンを持つ《っ》ている時には来いと|云ふ《言う》のだな。  僕: 誰が来いと|云ふ《言う》ものか❢《❢。》 僕は群小作家の一人だ。又群小作家《また群小作家》の一人になりたいと思つ《っ》ているものだ。平和はその外《ほか》に得られるものではない。しかしペンを持つ《っ》ている時にはお前の俘《トリコ》になるかも知れない。  或声《ある声》: ではいつも気をつけていろよ。第一俺《第一’俺》はお前の言葉を一々実行《いちいち実行》に移すかも知れない。ではさや《よ》うなら。いつか又《また》お前に会ひ《い》に来るから。  僕: (一人になる。)芥川竜之介❢《❢。》 芥川竜之介、お前の根をしつ《っ》かりとおろせ。お前は風に吹かれている葦だ。空模様はいつ何時変《なんどき変》るかも知れない。唯《ただ》しつ《っ》かり踏んばつ《っ》ていろ。それはお前自身の為だ。同時に又《また》お前の子供たちの為だ。|うぬ惚《自惚》れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。 ◇。◇。◇。 (昭和二年、遺稿) ◇。◇。◇。 【底本:「現代日本文学大系43芥川竜之介集《”芥川竜之介集》」筑摩書房】 【1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行】 【入力:j.utiyama】 【校正:野口英司】 【1998年3月23日公開】 【2004年2月17日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。