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【闇中問答】
【芥川竜之介】
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【第一章】　────
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　ある声：　お前は俺の思惑とは全然’違った人間だった。
　僕：　それは僕の責任ではない。
　ある声：　しかしお前はその誤解にお前自身も協力している。
　僕：　僕は一度も協力したことはない。
　ある声：　しかしお前はフ-ウ流を愛した、─:─あるいは愛したように装ったろう。
　僕：　僕はフ-ウ流を愛している。
　ある声：　お前はどちらかを愛している？　風流か？　それとも一人の女か？
　僕：　僕はどちらも愛している。
　ある声：　（冷笑）それを矛盾とは思わないと見えるな。
　僕：　誰が矛盾と思うものか？　一人の女を愛するものは古瀬戸の茶碗を愛さないかも知れない。しかしそれは古瀬戸の茶碗を愛する感覚を持たないからだ。
　ある声：　風流人はどちらかを選ばなければならぬ。
　僕：　僕はあいにく風流人よりもずっと多欲に生まれついている。しかし将来は一人の女よりも古瀬戸の茶碗を選ぶかも知れない。
　ある声：　ではお前は不徹底だ。
　僕：　もしそれを不徹底と言うならば、インフルエンザに罹ったあとも冷水摩擦をやっているものは誰よりも徹底しているだろう。
　ある声：　もう強がるのはやめにしてしまえ。お前は内心は弱っている。しかし当然お前の受ける社会的非難をはね返す為にそんなことを言っているだけだろう。
　僕：　僕はもちろんそのつもりだ。第一’考えて見るがいい。はね返さなかったが最後、押しつぶされてしまう。
　ある声：　お前は何と言う図々しい奴だ。
　僕：　僕は少しも図々しくはない。僕の心臓は瑣細な事にあっても氷の触ったようにひやひやとしている。
　ある声：　お前はタリ-ョクシャのつもりでいるな？　
　僕：　もちろん僕はタリ-ョクシャの一人だ。しかし最大のタリ-ョクシャではない。もし最大のタリ-ョクシャだったとすれば、あのゲエテと言う男のように安んじて偶像になっていたであろう。
　ある声：　ゲエテの恋愛は純潔だった。
　僕：　それは嘘だ。文芸史家の嘘だ。ゲエテは丁度’三十五の年に突然イタリイへ逃走している。そうだ。逃走と言うほかはない。あの秘密を知っているものはゲエテ自身を例外にすれば、シュタイン夫人一人だけだろう。
　ある声：　お前の言うことは自己弁護だ。自己弁護くらい容易いものはない。
　僕：　自己弁護は容易ではない。もし容易いものとすれば、弁護士と言う職業は成り立たない筈だ。
　ある声：　口巧者な横着ものめ❢。　誰ももうお前を相手にしないぞ。
　僕：　僕はまだ僕に感激を与える樹木や水を持っている。それから和漢東西の本を三百冊以上’持っている。
　ある声：　しかしお前は永久にお前の読者を失ってしまうぞ。
　僕：　僕は将来に読者を持っている。
　ある声：　将来の読者はパンをくれるか？
　僕：　現世の読者さえ碌にくれない。僕の最高の原稿料は一枚’十円に限っていた。
　ある声：　しかしお前は資産を持っていたろう？
　僕：　僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
　ある声：　しかしお前は家を持っている。それから近代文芸トクホンの‥:‥
　僕：　あの’家の棟木は僕には重たい。近代文芸トクホンの印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰ったのはシゴヒャク円だから。
　ある声：　しかしお前はあのトクホンの編者だ。それだけでもお前は恥じなければならぬ。
　僕：　何を僕に恥じろと言うのだ？
　ある声：　お前は教育家の仲間入りをした。
　僕：　それは嘘だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしている。僕はその仕事を取り戻したのだ。
　ある声：　お前はそれでも夏目先生の弟子か？
　僕：　僕はもちろん夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知っているかも知れない。しかしあの気違いじみた天才の夏目先生を知らないだろう。
　ある声：　お前には思想と言うものはない。偶々あるのは矛盾だらけの思想だ。
　僕：　それは僕の進歩する証拠だ。阿呆はいつまでも太陽は-たらいよりも小さいと思っている。
　ある声：　お前の傲慢はお前を殺すぞ。
　僕：　僕は時々こう思っている。──あるいは僕は畳の上では往生しない人間かも知れない。
　ある声：　お前は死を恐れないと見えるな？　な？
　僕：　僕は死ぬことを怖れている。が、死ぬことは困難ではない。僕はニサン度’首をくくったものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだあとはある快感さえ感じて来る。僕は死よりも不快なことに会えば、いつでも死ぬのに躊躇わないつもりだ。
　ある声：　ではなぜお前は死なないのだ？　お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか？
　僕：　僕はそれも承知している。ヴェルレエンのように、ワグナアのように、あるいはまた大いなるストリントベリイのように。
　ある声：　しかしお前は贖わない。
　僕：　いや、僕は贖っている。苦しみにまさる贖いはない。
　ある声：　お前は仕かたのない悪人だ。
　僕：　僕は寧ろゼンナンシだ。もし悪人だったとすれば、僕のように苦しみはしない。のみならず必ず恋愛を利用し、女から-かねを絞るだろう。
　ある声：　ではお前は阿呆かも知れない。
　僕：　そうだ。僕は阿呆かも知れない。あの「痴人の懺悔」などと言う本は僕に近い阿呆の書いたものだ。
　ある声：　その上お前は世間見ずだ。
　僕：　世間知りを最ジョウとすれば、実業家は何よりも高等だろう。
　ある声：　お前は恋愛を軽蔑していた。しかし今になって見れば、ヒッキョウ恋愛至上主義者だった。
　僕：　いや、僕はコンニチでも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。
　ある声：　しかしお前は恋愛の為に父母妻子を抛ったではないか？
　僕：　嘘をつけ。僕はただ僕自身の為に父母妻子を抛ったのだ。
　ある声：　ではお前はエゴイストだ。
　僕：　僕はあいにくエゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
　ある声：　お前は不幸にも近代のエゴ崇拝にかぶれている。
　僕：　それでこそ僕は近代人だ。
　ある声：　近代人は古人にしかない。
　僕：　古人もまた一度は近代人だったのだ。
　ある声：　お前は妻子を憐まないのか？
　僕：　誰か憐まずにいられたものがあるか？　ゴオギャアンの手紙を読んで見ろ。
　ある声：　お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。
　僕：　どこまでも是認しているとすれば、何もお前と問答などはしない。
　ある声：　ではやはり是認しずにいるか？
　僕：　僕はただあきらめている。
　ある声：　しかしお前の責任はどうする？
　僕：　四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、─:─僕の責任は四分の一だけだ。
【ある声：　お前は何と言う下等な奴だ❢】
　僕：　誰でも僕くらいは下等だろう。
　ある声：　ではお前は悪魔主義者だ。
　僕：　僕はあいにく悪魔主義者ではない。殊に安全地帯の悪魔主義者には常に軽蔑を感じている。
　ある声：　（暫く無言）兎に角お前は苦しんでいる。それだけは認めてやってもいい。
　僕：　いや、うっかり買いかぶるな。僕はあるいは苦しんでいることに誇りを持っているかも知れない。のみならず「得れば失うを恐る」はタリ-ョクシャのすることではないだろう。
　ある声：　お前はあるいは正直者かも知れない。しかしまたあるいは道化者かも知れない。
　僕：　僕もまたどちらかと思っている。
　ある声：　お前はいつもお前自身を現実主義者と信じていた。
　僕：　僕はそれほど理想主義者だったのだ。
　ある声：　お前はあるいは滅びるかも知れない。
　僕：　しかし僕を造ったものは第二の僕を造るだろう。
　ある声：　では勝手に苦しむがいい。俺はもうお前に別れるばかりだ。
　僕：　待て。どうかその前に聞かせてくれ。絶えず僕に問いかけるお前は、──目に見えないお前は何ものだ？
　ある声：　俺か？　俺は世界の夜明けにヤコブと力を争った天使だ。
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【第二章】　────
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　ある声：　お前は感心に勇気を持っている。
　僕：　いや、僕は勇気を持っていない。もし勇気を持っているとすれば、僕は獅子の口に飛び込まずに/獅子の食うのを待っているだろう。
　ある声：　しかしお前のしたことは人間らしさを備えている。
　僕：　最も人間らしいことは同時にまた動物らしいことだ。
　ある声：　お前のしたことは悪いことではない。お前はただ現代の社会制度の為に苦しんでいるのだ。
　僕：　社会制度は変ったとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするのに極まっている。
　ある声：　しかしお前は自殺しなかった。兎に角お前は力を持っている。
　僕：　僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死に方をする為に一日に蠅を十匹ずつ食った。蠅を細かにむしった上、のみこんでしまうのは何でもない。しかし噛みつぶすのはきたない気がした。
　ある声：　その代りお前は偉大になるだろう。
　僕：　僕は偉大さなどを求めていない。欲しいのはただ平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない-かねさえあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いている。ワグネルでさえこの通りだ。あの我の強いワグネルでさえ。
　ある声：　お前は兎に角苦しんでいる。お前は良心のない人間ではない。
　僕：　僕は良心などを持っていない。持っているのは神経ばかりだ。
　ある声：　お前の家庭生活は不幸だった。
　僕：　しかし僕の細君はいつも僕に忠実だった。
　ある声：　お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持っていることだ。
　僕：　嘘をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間知を持っていることだ。
　ある声：　しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露れないうちにお前の愛している女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまった。
　僕：　それも嘘だ。僕は打ち明けずにはいられない気もちになるまでは打ち明けなかった。
　ある声：　お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されている。
　僕：　僕は詩人だ。芸術家だ。けれどもまた社会の一分子だ。僕の十字架を負うのは不思議ではない。それでもまだ-かるすぎるだろう。
　ある声：　お前はお前のエゴを忘れている。お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。
　僕：　僕はお前に言われずとも僕の個性を尊重している。しかし民衆を軽蔑しない。僕はいつかこう言った。──/「ギョクは砕けても、瓦は砕けない。」シェクスピイアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるであろう。しかれ彼等を生んだタイは、──大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変えても、必ずそのうちから生まれるであろう。
　ある声：　お前の書いたものは独創的だ。
　僕：　いや、決して独創的ではない。第一’誰が独創的だったのだ？　古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。なかんずく僕は度たび盗んだ。
　ある声：　しかしお前は教えてもいる。
　僕：　僕の教えたのは出来ないことだけだ。僕に出来ることだったとすれば、教えない前にしてしまったであろう。
　ある声：　お前は超人だと確信しろ。
　僕：　いや、僕は超人ではない。僕等はみんな超人ではない。超人はただツァラトストラだけだ。しかもそのツァラトストラのどう言う死を迎えたかはニイチェ自身も知らないのだ。
　ある声：　お前さえ社会を怖れるのか？
　僕：　誰が社会を怖れなかったか？
　ある声：　牢獄に三年もいたワイルドを見ろ。ワイルドは「みだりに自殺するのは社会に負けるのだ」と言っている。
　僕：　ワイルドは牢獄にいた時に何度も自殺を計っている。しかも自殺しなかったのはただその方法のなかったばかりだ。
　ある声：　お前は善悪を蹂躙してしまえ。
　僕：　僕は今後もいやが上にも善人になろうと思っている。
　ある声：　お前は余り単純過ぎる。
　僕：　いや、僕は複雑過ぎるのだ。
　ある声：　しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだろう。
　僕：　それは著作権のなくなったあとだ。
　ある声：　お前は愛の為に苦しんでいるのだ。
　僕：　愛の為に？　文学青年じみたお世辞は好い加減にしろ。僕はただ情事に躓いただけだ。
　ある声：　誰も情事には躓き易い。
　僕：　それは誰も金銭の欲に溺れ易いと言うことだけだ。
　ある声：　お前は人生の十字架にかかっている。
　僕：　それは僕の自慢にはならない。情婦殺しや拐帯犯人も人生の十字架にかかっているのだ。
　ある声：　人生はそんなに暗いものではない。
　僕：　人生は「選ばれたる少数」を除けば、誰にも暗いのはわかっている。しかもまた「選ばれたる少数」とは阿呆と悪人との異名なのだ。
　ある声：　では勝手に苦しんでいろ。お前は俺を知っているか？　折角お前を慰めに来た俺を？
　僕：　お前は犬だ。昔あのファウストの部屋へ犬になって入って行った悪魔だ。
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【第三章】　────
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　ある声：　お前は何をしているのだ？
　僕：　僕はただ書いているのだ。
　ある声：　なぜお前は書いているのだ。
　僕：　ただ書かずにはいられないからだ。
　ある声：　では書け。死ぬまで書け。
　僕：　もちろん、──第一そのほかに仕かたはない。
　ある声：　お前は存外落ち着いている。
　僕：　いや、/少しも落ち着いてはいない。もし僕を知っている人々ならば、僕の苦しみを知っているだろう。
　ある声：　お前の微笑’はどこへ行った？
　僕：　天上の神々へ’帰ってしまった。人生に微笑を送る為に第一には吊り合いの取れた性格、第二に-かね、第三に僕よりも逞しい神経を持っていなければならぬ。
　ある声：　しかしお前は気軽になったろう。
　僕：　うん、僕は気軽になった。その代りに裸の肩の上に/一生の重荷を背おわなければならぬ。
　ある声：　お前はお前なりに生きるほかはない。あるいはまたお前なりに‥‥
　僕：　そうだ。僕なりに死ぬほかはない。
　ある声：　お前は在来のお前とは違った、新しいお前になるだろう。
　僕：　僕はいつでも僕自身だ。ただ皮は変わるだろう。ヘビの皮を脱ぎ変えるように。
　ある声：　お前は何もかも承知している。
　僕：　いや、僕は承知していない。僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、──僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠っている。
　ある声：　お前もまた俺の子供だった。
　僕：　誰だ、僕に接吻したお前は？　いや、僕はお前を知っている。
　ある声：　では俺を誰だと思う？
　僕：　僕の平和を奪ったものだ。僕のエピキュリアニズムを破ったものだ。僕の、──いや、僕ばかりではない。昔支那の聖人の教えた中庸の精神を失わせるものだ。お前の犠牲になったものは至る所に横わっている。文学史の上にも、新聞記事の上にも。
　ある声：　それをお前は何と呼んでいる？
　僕：　僕は──僕は何と呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配する （デーモン） だ。
　ある声：　お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには来ない。
　僕：　いや、僕は誰よりもお前の来るのを警戒するつもりだ。お前の来る所に平和はない。しかもお前はレントゲンのようにあらゆるものを滲透して来るのだ。
　ある声：　では今後も油断するな。
　僕：　もちろん今後は油断しない。ただペンを持っている時には‥:‥
　ある声：　ペンを持っている時には来いと言うのだな。
　僕：　誰が来いと言うものか❢。　僕は群小作家の一人だ。また群小作家の一人になりたいと思っているものだ。平和はそのほかに得られるものではない。しかしペンを持っている時にはお前のトリコになるかも知れない。
　ある声：　ではいつも気をつけていろよ。第一’俺はお前の言葉をいちいち実行に移すかも知れない。ではさようなら。いつかまたお前に会いに来るから。
　僕：　（一人になる。）芥川竜之介❢。　芥川竜之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれている葦だ。空模様はいつなんどき変るかも知れない。ただしっかり踏んばっていろ。それはお前自身の為だ。同時にまたお前の子供たちの為だ。自惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
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（昭和二年、遺稿）
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【底本：「現代日本文学大系43”芥川竜之介集」筑摩書房】
【1968（昭和43）年8月25日初版第1刷発行】
【入力：j.utiyama】
【校正：野口英司】
【1998年3月23日公開】
【2004年2月17日修正】
【青空文庫作成ファイル：】
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