◇。◇。◇。◇。◇。 【父帰る】 【菊池寛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【人物】 【黒田賢一郎◇     二十八歳】 【その弟◇  新二郎◇  二十三歳】 【その妹◇  おたね◇  二十歳《ハタチ》】 【彼らの母◇ おたか◇  五十一歳】 【彼らの父◇ 宗太郎】 【時】 【明治四十年頃】 【所】 【南海道の海岸にある小都会《ショウ都会》】 ◇。◇。◇。 情景◇ 中流階級のつつましやかな家《’家》、六畳の間《マ》、正面に箪笥があって、その上に目覚時計《目覚まし時計》が置いてある。前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立《’立》っている。卓子台《ちゃぶ台》が出してある。賢一郎、役所から帰って和服に着替えたばかりと見え、寛いで新聞を読んでいる。母のおたかが縫物をしている。午後七時に近く戸外《/戸外》は闇《暗》し、十月《10月》の初め。 ◇。◇。◇。 賢一郎: おたあさん、おたねはどこへ《へ’》行ったの。 母:   仕立物を届けに行った。 賢一郎: まだ仕立物をしとるの。もう人の家《ウチ》の仕事やこし、せんでもええのに。 母:   そうやけど嫁入りの時に、一枚でも余計ええ着物を持って行きたいのだろうわい。 賢一郎: (新聞の裏を返しながら)《:)》この間いうとった口はどうなったの。 母:   たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。向こうはくれくれいうてせがんどったんやけれどものう。 賢一郎: 財産があるという人やけに、ええ口やがなあ。 母:   けんど、一万や、二万の財産は使い出《だ》したら何の役にもたたんけえな。家《ウチ》でもおたあさんが来た時には公債や地所で、|二、三万円《ニサンマン円》はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出《だ》したら、笹につけて振るごとしじゃ。 賢一郎: (不快なる記憶を呼び起したるごとく黙している)‥‥。 母:   私は自分で懲々《懲り懲り》しとるけに、たねは財産よりも人間のええ方へやろうと思うとる。財産がのうても、亭主の心掛がよかったら一生苦労せいで済む《む-》けにな。 賢一郎: 財産があって、人間がよけりゃ、なおいいでしょう。 母:   そんなことが望めるもんけ。おたねがなんぼ器量よしでも、家《ウチ》には金《’かね》がないんやけにな。この頃《ごろ》のことやけに、少し支度《仕度》をしても三百円や五百円はすぐかかるけにのう。 賢一郎: おたねも、お父さんのために子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度《仕度》だけでもできるだけのことはしてやらないかん。私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。 母:   そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。その後《あと》でお前にも嫁を貰《-もろ》うたらわしも一安心《ヒトアンシン》するんや。|わし《儂》は亭主運が悪かったけど子供運はええいうて皆《みんな》いうてくれる。お父さんに行かれた時はどうしようと思ったがのう‥‥。 賢一郎: (話題を転ずるために)《:)》新は大分遅《だいぶ遅》いな。 母:   宿直やけに、遅うなるんや。新は今月からまた月給が上《上が》るというとった。 賢一郎: そうですか。あいつは中学校でよくできたけに、小学校の先生やこしするのは不満やろうけど、自分で勉強さえしたらなんぼでも出世はできるんやけに。 母:   お前の嫁も探してもろうとんやけど、ええのがのうてのう。園田の娘ならええけど、少し向《向こ》うの方《ほう》が格式が上やけにく《/く》れんかも知れんでな。 賢一郎: まだ|二、三年《二’三年》はええでしょう。 母:   でもおたねをほかへやるとすると、ぜひにも貰わないかん。それで片《カタ》が付くんやけに。お父さんが出奔した時には三人の子供を抱えてどうしようと思ったもんやが‥‥。 賢一郎: もう昔のことをいうても仕方がないんやけえに。 ◇。◇。◇。 (表の格子開《格子ひら》き新二郎帰《/新二郎’帰》って来る。小学教師にして眉目秀れたる青年なり) ◇。◇。◇。 新二郎: ただいま。 母:   やあおかえり。 賢一郎: 大変遅かったじゃないか。 新二郎: 今日は調べものがたくさんあって、閉口してしもうた。ああ肩が凝った。 母:   さっきから御飯にしようと思って待っとったんや。 賢一郎: 御飯がすんだら風呂へ行って来るとええ。 新二郎: (和服に着替えながら)《:)》おたあさん、たねは。 母:   仕立物を持って行っとんや。 新二郎: (和服になって寛ぎながら)《:)》兄さん! 今日僕《今日’僕》は不思議な噂をきいたんですがね。杉田校長が古新町《フルジンマチ》で、家《ウチ》のお父さんによく似た人に会ったというんですがね。 母と兄: うーむ。 新二郎: 杉田さんが、古新町《フルジンマチ》の旅籠屋が並んどる所を通っとると、前に行く六十ばかりの老人がある。よく見るとどうも見たようなことがあると思って、近づいて横顔を見ると、家《ウチ》のお父さんに似ていたというんです。どうも宗太郎さんらしい、《:、》宗太郎さんなら右の頬《ホオ》にほくろがあるはずじゃけに、ほくろがあったら声をかけようと思って、|近よ《近寄》ろうとすると水神さんの横町《横丁》へ《へ’》、こそこそとはいってしもうたというんです。 母:   杉田さんなら、お父さんの幼な友達で、一緒に槍の稽古をしていた人やけに、見違うこともないやろう。けどもうお前、二十年にもなるんやけにのう。 新二郎: 杉田さんもそういうとったです。何しろ二十年も会わんのやけに、しっかりしたことは《は’》いえんけど、子供の時から交際《つきお》うた宗太郎さんやけに、まるきり見違えたともいえんいうてな。 賢一郎: (不安な瞳を輝かして)《:)》じゃ、杉田さんは言葉をかけなかっ《-っ》たのだね。 新二郎: ほくろがあったら名乗る心算でいたのやって。 母:   まあ、そりゃ杉田さんの見違いやろうな。同じ町へ帰ったら自分の生《生ま》れた家《ウチ》に帰らんことはないけにのう。 賢一郎: しかし、お父さんは家《ウチ》の敷居はちょっと越せないやろう。 母:   私はもう死んだと思うとんや、家出してから二十年になるんやけえ。 新二郎: いつか、岡山で会った人があるというんでしょう。 母:   あれも、もう十年も前のことじゃ。久保の忠太さんが岡山へ行った時、家《ウチ》のお父さんが、獅子や虎の動物を連れて興行しとったとかで、忠太さんを料理屋へ呼んで御馳走《ご馳走》をして家《/ウチ》の様子をきいたんやて。その時は金時計を帯にさげたり、絹物ずくめでえらい勢いであったいうとった。それからはなんの音沙汰もないんや。あれは戦争のあった明くる年やけに、もう|十二、三年《ジュウニ三年》になるのう。 新二郎: お父さんはなかなか変《変わ》っとったんやな。 母:   若い時から家《ウチ》の学問はせんで、山師のようなことが好きであったんや。あんなに借金ができたのも道楽ばっかりではないんや。支那へ千金丹を売り出すとかいうて損をしたんや。 賢一郎: (やや不快な表情をして)《:)》おたあさん《ん/》お飯《まんま》を食べましょう。 母:   ああそうやそうや。つい忘れとった。(台所の方《ホウ》へ立って行く、姿は見えずに)杉田さんが見たというのもなんぞの間違いやろ。生きとったら年《トシ》が年《トシ》やけに、はがきの一本でもよこすやろ。 賢一郎: (やや真面目に)《:)》杉田さんがその男に会《-お》うたのは何日《いつ》のことや。 新二郎: 昨日の晩の九時頃じゃということです。 賢一郎: どんな身なりをしておったんや。 新二郎: あんまり、ええなりじゃないそうです。羽織も着ておらなんだということです。 賢一郎: そうか。 新二郎: 兄さんが覚えとるお父さんはどんな様子でした。 賢一郎: |わし《儂》は覚えとらん。 新二郎: そんなことはないでしょう。兄さんは八《8》つであったんやけに。僕だってぼんやり覚えとるに。 賢一郎: |わし《儂》は覚えとらん。昔は覚えとったけど、一生懸命に忘れようと、かかったけに。 新二郎: 杉田さんは、よくお父さんの話をしますぜ。お父さんは若い時は、ええ男であったそうですな。 母:   (台所から食事を運びながら)《:)》そうや、お父さんは評判のええ男であったんや。お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌を添えて、送って来たという話があるんや。 新二郎: なんのために、箸箱をくれたんやろう、ハハハハハ。 母:   丑の年やけに、今年は五十八じゃ。家《ウチ》にじっとしておれば、もう楽隠居《ラクインキョ》をしている時分じゃがな。 ◇。◇。◇。 (三人食事《三人/食事》にかかる) ◇。◇。◇。 母:   たねも、もう帰ってくるやろう。もうめっきり寒うなったな。 新二郎: おたあさん、今日浄願寺の椋の木で百舌が鳴いとりましたよ。もう秋じゃ。‥‥兄さん、僕はやっぱり、英語の検定をとることにしました。数学にはええ先生がないけに。 賢一郎: ええやろう。やはり、エレクソンさんとこへ通うのか。 新二郎: そうしようと、思っとるんです。宣教師じゃと月謝がいらんし。 賢一郎: うむ、何しろ一生懸命にやるんだな、父親《てておや》の力は借らんでも一人前の人間には《は’》なれるということを知らせるために、勉強するんじゃな。わしも高等文官をやろうと思うとったけど、規則が改正になって、中学を出とらな受けられん《ん-》いうことになったから、諦めと《-と》んや。お前は中学校を卒業しとるんやけに、一生懸命やってくれないかん。 ◇。◇。◇。 (この時、格子が開いて、おたねが帰って来る。色白く十人並以上の娘なり) ◇。◇。◇。 おたね: ただいま。 母:   遅かったのう。 おたね: また次のものを頼まれたり、何かしとったもんやけに。 母:   さあ御飯《/御飯》おたべ。 おたね: (座りながら、やや不安なる表情にて)《:)》兄さん、今帰《いま帰》って来るとな、家《ウチ》の向う側に年寄の人がいて家《/ウチ》の玄関の方《ほう》をじーと見ているんや。(三人とも不安な顔になる) 賢一郎: うーむ。 新二郎: どんな人だ。 おたね: 暗くて、分からなんだけど、背の高い人や。 新二郎: (立って次の間へ行き、窓から覗く)‥‥。 賢一郎: 誰かいるかい。 新二郎: いいや、誰もおらん。 ◇。◇。◇。 (兄弟三人沈黙《兄弟三人/沈黙》している) ◇。◇。◇。 母:   あの人が家を出たのは盆の三日後であったんや。 賢一郎: おたあさん、昔のことはもういわんようにして下さい。 母:   わしも若い時は恨んでいたけども、年が寄るとなんとなしに心が弱うなってきてな。 ◇。◇。◇。 (四人は黙って、食事をしている。ふいに表の戸がガラッと開く、賢一郎の顔と、母の顔とが最も多く激動を受ける。しかしその激動の内容は著しく違っている) ◇。◇。◇。 男の声: 御免! おたね: はい! (しかし彼女も立ち上《上が》ろうとはしない) 男の声: おたかはおらんかの? 母:   へえ! (吸いつけられるように玄関へ行く、以下声《以下/声》ばかり聞える) 男の声: おたかか! 母の声: まあ! お前さんか、えろう! 変ったのう。 ◇。◇。◇。 (二人とも涙ぐみたる声を出している) ◇。◇。◇。 男の声: まあ! 丈夫《達者》で何よりじゃ。子供たちは大きくなったやろうな。 母の声: 大きゅうなったとも、もう皆立派《みんな立派》な大人じゃ。上《上が》ってお見まあせ。 男の声: 上《上が》ってもええかい。 母の声: ええとも。 ◇。◇。◇。 (二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老《/老》いたる妻に導かれて室《部屋》に入《-い》り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが) ◇。◇。◇。 新二郎: お父さんですか、僕が新二郎です。 父:   立派な男になったな、お前に別れた時はまだ碌に立てもしなかったが‥‥。 おたね: お父さん、私がたねです。 父:   女の子ということは《は’》きいていたが、ええ器量じゃなあ。 母:   まあ、お前さん、何から話してええか。子供もこんなに大きゅうなってな、何より結構やと思うとんや。 父:   親はな《無》くとも子《’子》は育つというが、よういうてあるな、ハハハハハ。 ◇。◇。◇。 (しかし誰もその笑いに合せようとするものはな《無》い。賢一郎は卓に倚ったまま、下を向いて黙している) ◇。◇。◇。 母:   お前さん、賢《ケン》も新もようでけた子でな。賢《ケン》は《は’》な、二十《ハタチ》の年に普通文官いうものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降《くだ》ったことがないんや。今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。 父:   そら何より結構なことや。わしも、|四、五年前《シゴ年前》までは、人の|二、三十人《ニサン十人》も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。呉で見世物小屋が丸焼《丸焼け》になったために、えらい損害を受けてな。それからは何をしても思わしくないわ。その内に老先《老い先》が短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。老先《老い先》の長いこともない者やけに皆《/みんな》よう頼むぜ。(賢一郎を注視して)《:)》さあ賢一郎! その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。(賢一郎応《賢一郎/応》ぜず) 母:   さあ、賢《ケン》や、お父さんが、ああおっしゃるんやけに。さあ、久し振りに親子が会うんじゃけに祝《/いお》うてな。 ◇。◇。◇。 (賢一郎応《賢一郎/応》ぜず) ◇。◇。◇。 父:   じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれえ。 新二郎: |はあ《ハア》。(杯《サカズキ》を取り上げて父にささんとす) 賢一郎: (決然として)《:)》止《辞》めとけ。さすわけはない。 母:   何をいうんや、賢《ケン》は。 ◇。◇。◇。 (父親、激しい目にて賢一郎を睨んでいる。新二郎もおたねも下を向いて黙っている) ◇。◇。◇。 賢一郎: (昂然と)《:)》僕たちに父親《てておや》があるわけはない。そんなものがあるもんか。 父:   (激しき憤怒《フンヌ》を抑えながら)《:)》なんやと! 賢一郎: (やや冷やかに)《:)》俺たちに父親《てておや》があれば、八歳《ヤッツ》の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。俺たちに父親《てておや》があれば、十《トウ》の年から給仕をせいでも済んどる。俺たちは父親《てておや》がないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達に|からか《揶揄》われて泣いたのを忘れたのか。俺たちに父親《てておや》があるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。 ◇。◇。◇。 (おたか、おたね泣《/泣》いている。新二郎涙《新二郎/涙》ぐんでいる。老いたる父も怒りから悲しみに移りかけている) ◇。◇。◇。 新二郎: しかし、兄さん、《:、》おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていのことは我慢してくれたらどうです。 賢一郎: (なお冷静に)《:)》おたあさんは女子《オナゴ》やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親《てておや》があるとしたら、それは俺の敵《カタキ》じゃ。俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「《「:》皆お父さんの故《せい》じゃ、恨むのならお父さんを恨め」というていた。俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵《カタキ》じゃ。俺は十《トウ》の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、《:、》いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月《ひと月》ばかり無かった時に、親子四人《親子4人》で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆《-みんな》その敵《カタキ》を取りたいからじゃ。俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。父親《てておや》に捨てられても一人前の人間には《は’》なれるということを知らしてやりたいからじゃ。俺は父親《てておや》から少しだって愛された覚えはない。俺の父親《てておや》は俺が八歳《ヤッツ》になるまで家を外に飲み歩いていたのだ。その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦《/情婦》を連れて出奔したのじゃ。女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。いや、俺の父親《てておや》がいなくなった後《あと》には、おたあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳《通い帳》まで無くなっておったもんじゃ。 新二郎: (涙を呑みながら)《:)》しかし兄さん、お父さんはあの通《とお》り、あの通《とお》りお《/お》年を召しておられるんじゃけに‥‥。 賢一郎: 新二郎! お前はよくお父さんなどと空々しいことがいえるな。見も知らない他人がひょっくり入ってきて、俺たちの親じゃというたからとて、すぐに父に対する感情を持つことができるんか。 新二郎: しかし兄さん、肉親の子として、親がどうあろうとも養《-やしの》うて行く‥‥。 賢一郎: 義務があるというのか。自分でさんざん面白いことをしておいて、年が寄って動けなくなったというて帰ってくる。俺はお前がなんといっても父親《てておや》はない。  父:   (憤然として物をいう、しかしそれは飾った怒りでなんの力も伴っていない)《:)》賢一郎! お前は生みの親に対してよくそんな口が利けるのう。 賢一郎: 生みの親というのですか。あなたが生んだという賢一郎は二十年も前に築港で死んでいる。あなたは二十年前に父としての権利を自分で捨てている。今の|わし《儂》は自分で築きあげた|わし《儂》じゃ。|わし《儂》は誰にだって、世話になっておらん。 ◇。◇。◇。 (すべて無言、おたかとおたねのすすりなきの声がきこえるばかり) ◇。◇。◇。 父:   ええわ、出て行く。俺だって二万や三万の金《-かね》は取り扱《あつこ》うてきた男じゃ。どなに落ちぶれたかというて、食うくらいなことはできるわ。えろう邪魔したな。(悄然と行かんとす) 新二郎: まあ、お待ちまあせ。兄さんが厭だというのなら僕がどうにかしてあげます。兄さんだって親子ですから、今に機嫌の直ることがあるでしょう。お待ちまあせ。僕がどななことをしても養《-やしの》うて上げますから。 賢一郎: 新二郎! お前はその人になんぞ世話になったことがあるのか。俺はま《’ま》だその人から拳骨の一つや二つは貰ったことがあるが、お前は塵一つだって貰ってはいないぞ。お前の小学校の月謝は誰が出したのだ。お前は誰の養育を受けたのじゃ。お前の学校の月謝は、兄さんがしがない給仕の月給から払ってやったのを忘れたのか。お前や、たねの|ほんとう《本当》の父親《てておや》は俺だ。父親《てておや》の役目をしたのは俺じゃ。その人を世話したければするがええ。その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。 新二郎: しかし‥‥。 賢一郎: 不服があれば、その人と一緒に出て行くがええ。 ◇。◇。◇。 (女二人とも泣きつづけている。新二郎黙《新二郎/黙》す) ◇。◇。◇。 賢一郎: 俺は父親《てておや》がないために苦しんだけに、弟や妹にその苦しみをさせまいと思うて夜も寝ないで艱難したけに、弟も妹も中等学校は卒業させてある。 父:   (弱く)《:)》もう何もいうな。わしが帰って邪魔なんだろう。わしやって無理に子供の厄介にならんでもええ。自分で養《-やしの》うて行くぐらいの才覚はある。さあもう行こう。おたか! 丈夫《達者》で暮せよ。お前は|わし《儂》に捨てられてかえって仕合せやな。 新二郎: (去らんとする父を追いて)《:)》あなたお金はあるのですか。晩の御飯もまだ食べとらんのじゃありませんか。 父:   (哀願するがごとく瞳を光らせながら)《:)》ええわええわ。 ◇。◇。◇。 (玄関に降りんとしてつまずいて、縁台の上に腰をつく) ◇。◇。◇。 おたか: あっ、あぶない。 新二郎: (父を抱き起しながら)《:)》これから行く所があるのですか。 父:   (まったく悄沈として腰をかけたまま)《:)》のたれ死《死に》するには家《ウチ》は要らんからのう‥‥《:‥》(独言《独り言》のごとく)《:)》俺やってこの家《ウチ》に足踏《足踏み》ができる義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方《ホウ》へ自然と足が向いてな。この街へ帰ってから、今日で三日じゃがな。夜になると毎晩家《毎晩ウチ》の前で立っていたんじゃが、敷居が高《たこ》うて入《’はい》れなかったのじゃ‥‥しかしやっぱり入らん方《ほう》がよかった。|一文な《一文無》しで帰って来ては誰にやって|ばか《馬鹿》にされる‥‥《:‥》俺も五十の声がかかると国が恋しくなって、せめて千と二千とまとまった金《-かね》を持って帰ってお《/お》前たちに詫をしようと思ったが、年が寄るとそれだけの働きもできんでな‥‥《:‥》(ようやく立ち上《上が》って)《:)》まあええ、自分の身体ぐらい始末のつかんことはないわ。(蹌踉《ソウロウ》として立ち上《上が》り、顧みて老いたる妻を一目見《ひと目見》たる後《あと》、戸をあけて去る。後四人《あと四人》しばらく無言) 母:   (哀訴するがごとく)《:)》賢一郎! おたね: 兄さん! ◇。◇。◇。 (しばらくのあいだ緊張した時が過ぎる) ◇。◇。◇。 賢一郎: 新! 行ってお父さんを呼び返してこい。 ◇。◇。◇。 (新二郎、飛ぶがごとく戸外《/戸外》へ出る。三人緊張《三人/緊張》のうちに待っている。新二郎や《/や》や蒼白《ソウハク》な顔をして帰って来る) ◇。◇。◇。 新二郎: 南の道を探したが見えん、北の方《ほう》を探すから兄さんも来て下さい。 賢一郎: (驚駭して)《:)》なに見えん! 見えんことがあるものか。 ◇。◇。◇。 (兄弟二人狂気《兄弟二人/狂気》のごとく出で去る) ◇。◇。◇。 【──幕──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「菊池寛◇ 短篇と戯曲」文芸春秋】 【1988(昭和63)年3月25日第|1刷発行《イッサツ発行》】 【入力:真先芳秋《マサキ芳秋》】 【校正:野口英司】 【1999年1月1日公開】 【2005年10月17日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。