クリスマス・カロル A CHRISTMAS CAROL ディッケンス Dickens 森田草平訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鉄物《かなもの》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)そんな物|打遣《うっちゃ》らかして [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「燧」の「火」に代えて「糸」、U+7E78、24-18] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]第一章 マアレイの亡霊[#「第一章 マアレイの亡霊」は中見出し]  先ず第一に、マアレイは死んだ。それについては少しも疑いがない。彼の埋葬の登録簿には、僧侶も、書記も、葬儀屋も、また喪主も署名した。スクルージがそれに署名した。そして、スクルージの名は、取引所においては、彼の署名しようとするいかなる物に対しても十分有効であった。  老マアレイは戸の鋲のように死に果てていた。  注意せよ。私は、私自身の知識からして、戸の鋲に関して特に死に果てたような要素を知っていると云うつもりではない。私一個としては、むしろ柩の鋲を取引における最も死に果てた鉄物《かなもの》と見做したいのであった。けれども、我々の祖先の智慧は直喩にある。そして、私のような汚れた手でそれを掻き紊すべきではない。そんなことをしたら、この国は滅びて仕舞う。だから諸君も、私が語気を強めて、マアレイは戸の鋲の様に死に果てていたと繰り返すのを許して下さいましょう。  スクルージは彼が死んだことを知っていたか。もちろん知っていた。どうしてそれを知らずにいることが出来よう。スクルージと彼とは何年とも分らない長い歳月の間組合人であった。スクルージは彼が唯一の遺言執行人で、唯一の財産管理人で、唯一の財産譲受人で、唯一の残余受遺者で、唯一の友達で、また唯一の会葬者であった。そして、そのスクルージですら、葬儀の当日卓越した商売人であることを失うほど、それほどこの悲しい事件に際して気落ちしてはいなかった。そして、万に一つの間違いもない取引でその日を荘厳にした。  マアレイの葬儀のことを云ったので、私は出発点に立ち戻る気になった。マアレイが死んでいたことには、毛頭疑いがない。この事は明瞭に了解して置いて貰わなければならない。そうでないと、これから述べようとしている物語から何の不思議なことも出て来る訳に行かない。あの芝居の始まる前に、ハムレットの阿父さんは死んだのだということを充分に呑み込んでいなければ、阿父さんが夜毎に、東風に乗じて、自分の城壁の上をふらふらさまよい歩いたのは、誰か他の中年の紳士が文字通りにその弱い子息の心を脅かしてやるために、日が暮れてから微風の吹く所へ――まあ例えばセント・パウル寺院の墓場へでも――やみくもに出掛けるよりも、別段変ったことは一つもない。  スクルージは老マアレイの名前を決して塗り消さなかった。その後幾年もその名は倉庫の戸の上にそのままになっていた。すなわちスクルージ・エンド・マアレイと云うように。この商会はスクルージ・エンド・マアレイで知られて居た。新たにこの商会へ這入って来た人はスクルージのことをスクルージと呼んだり、時にはマアレイと呼んだりした。が、彼は両方の名に返事をした。彼にはどちらでも同じ事であったのだ。  ああ、しかし彼は強欲非道の男であった。このスクルージは! 絞り取る、捩じ取る、掴む、引っ掻く、かじりつく、貪欲な我利々々爺であった! どんな鋼でもそれからしてとんと豊富な火を打ち出したことのない火燧石のように硬く、鋭くて、秘密を好む、人づき合いの嫌いな、牡蠣のように孤独な男であった。彼の心の中の冷気は彼の老いたる顔つきを凍らせ、その尖った鼻を痺れさせ、その頬を皺くちゃにして、歩きつきをぎごちなくした。また目を血走らせ、薄い唇をどす蒼くした。その上彼の耳触りの悪い嗄《しわが》れ声にも冷酷にあらわれていた。凍った白霜は頭の上にも、眉毛にも、また針金のような顎にも降りつもっていた。彼は始終自分の低い温度を身に附けて持ち廻っていた。土用中にも彼の事務所を冷くした、聖降誕祭にも一度といえどもそれを打ち解けさせなかった。  外部の暑さも寒さもスクルージにはほとんど何の影響も与えなかった。いかな暖気も彼をあたためることは出来ず、いかな寒空も彼を冷えさせることは出来なかった。どんなに吹く風も彼よりは厳しいものはなく、降る雪も彼ほどその目的に対して一心不乱なものはなく、どんなに土砂降りの雨も彼ほど懇願を受け容れないものはなかった。険悪な天候もどの点で彼を凌駕すべきかを知らなかった。最も強い雨や、雪や、霰や、霙でも、ただ一つの点で彼に立ち優っていることを誇ることが出来るばかりであった。それはこれ等のものは時々どんどんと降って来た、然るにスクルージには綺麗に金子を払うと云うことは金輪際なかった。  何人もかつて往来で彼を呼び留めて、嬉しそうな顔つきをして、「スクルージさん、御機嫌はいかがですか。何日私の許へ会いに来て下さいます?」なぞと訊く者はなかった。乞食も彼に一文遣って下さいと縋ったことがなく、子供達も今いつです? と彼に訊いたことがなかった。男でも女でも、彼の生れてから未だ一度も、こうこういうところへはどう行きますかと、スクルージに道筋を訊ねた者はなかった。盲人の畜犬ですら、彼を知っているらしく、彼がやって来るのを見ると、その飼主を戸口の中や路地の奥へ引っ張り込んだものだ。そして、それから「丸っ切り眼のないものはまだしも悪の眼を持っているより優《ま》しですよ、盲人の旦那」とでも云うように、その尾を振ったものだ。  だが、何をそんな事スクルージが気に懸けようぞ! それこそ彼の望むところであった。人情なぞは皆遠くに退いておれと警告しながら、人生の人ごみの道筋を押し分けて進んで行くことが、スクルージに取っては通人の所謂『大好物』であった。  ある時――日もあろうに、聖降誕祭の前夜に――老スクルージは事務所に坐っていそがしそうにしていた。寒い、霜枯れた、噛みつくような日であった。おまけに霧も多かった。彼は戸外の路地で人々がふうふう息を吐いたり、胸に手を叩きつけたり、煖くなるようにと思って敷石に足をばたばた踏みつけたりしながら、あちらこちらと往来しているのを耳にした。街の時計は方々で今し方三時を打ったばかりだのに、もうすっかり暗くなっていた。――もっとも終日明るくはなかったのだ。――隣近所の事務所の窓の中では、手にも触れられそうな鳶色をした空気の中に、赤い汚点の様に、蝋燭がはたはたと揺れながら燃えていた。霧はどんな隙間からも、鍵穴からも流れ込んで来た。そして、この路地はごくごく狭い方だのに、向う側の家並はただぼんやり幻影の様に見えたほど、戸外は霧が濃密であった。どんよりした雲が垂れ下がって来て、何から何まで蔽い隠して行くのを見ると、自然がつい近所に住んでいて、素敵もない大きな烟の雲を吐き出しているんだと考える人があるかも知れない。  スクルージの事務所の戸は、大桶のような、向うの陰気な小部屋で、沢山の手紙を写している書記を見張るために開け放しになっていた。スクルージはほんのちっとばかりの火を持っていた。が、書記の火はもっともっとちょっぽりで、一片の石炭かと見える位であった。でも、彼は、スクルージが石炭箱を始終自分の部屋にしまって置いたので、それを継ぎ足す訳に行かなかった。書記が十能をもって這入って行くたんびに、きっと御主人様は、どうしても君と僕とは別れなくちゃなるまいねと予言したものだ。それが為に、書記は首に白い襟巻を巻きつけて、蝋燭で煖まろうとして見た。が、元々想像力の強い人間ではなかったので、こんな骨折りをして見ても甲斐はなかった。 「聖降誕祭でお目出とう、伯父さん!」と、一つの快活な声が叫んだ。これはスクルージの甥の声であった。彼は大急ぎで不意にスクルージの許へやって来たので、スクルージはこの声で始めて彼が来たことに気が附いた位であった。 「何を、馬鹿々々しい!」とスクルージは言った。  彼は霧と霜の中を駆け出して来たので、身体が煖まって、どっからどこまで真赤になっていた。スクルージのこの甥がですよ。顔は赤く美しく、眼は輝いて、ほうほうと白い息を吐いていた。 「聖降誕祭が馬鹿々々しいんですって、伯父さん!」と、スクルージの甥は云った。「まさかそう云う積りじゃないでしょうねえ?」 「そういう積りだよ」とスクルージは云った。「聖降誕祭お目出とうだって! お前が目出たがる権利がどこにある? 目出たがる理由がどこにあるんだよ? 貧乏しきっている癖に。」[#「。」」は底本では「」。」] 「さあ、それじゃ」と甥は快活に言葉を返した。「貴方が陰気臭くしていらっしゃる権利がどこにあるんです? 機嫌を悪くしていらっしゃる理由がどこにあるのですよ? 立派な金持ちの癖に。」[#「。」」は底本では「」。」]  スクルージは早速に巧い返事も出来かねたから、また「何を!」と云った。そして、その後から「馬鹿々々しい」と附け足した。 「伯父さん、そうぷりぷりしなさんな」と、甥は云った。 「ぷりぷりせずにいられるかい」と、伯父は云い返した、「こんな馬鹿者どもの世の中にいては。聖降誕祭お目出とうだって! 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいわい! お前にとっちゃ聖降誕祭の時は一体何だ! 金子もないのに勘定書を払う時じゃないか。一つ余計に年を取りながら、一つだって余計に金持にはなれない時じゃないか。お前の帳面の決算をして、その中のどの口座を見ても丸一年の間ずっと損にばかりなっていることを知る時じゃないか。俺の思う通りにすることが出来れば」と、スクルージは憤然として云った、「聖降誕祭お目出とうなどと云って廻っている鈍児《どじ》どもはどいつもこいつもそいつのプディングの中へ一緒に煮込んで、心臓に柊《ひいらぎ》の棒を突き通して、地面に埋めてやるんだよ。是非そうしてやるとも!」 「伯父さん!」と甥は抗弁した。 「甥よ!」と、伯父は厳格に言葉を返した。「お前はお前の流儀で聖降誕祭を祝え、俺はまた俺の流儀で祝わせて貰おうよ。」 「祝うんですって!」と、スクルージの甥は相手の言葉を繰り返した。「だが、ちっとも祝っていないじゃありませんか。」 「では、俺にはそんな物|打遣《うっちゃ》らかして置かせて貰おうよ」とスクルージは云った。「聖降誕祭は大層お前の役に立つだろうよ! これまでも大層お前の役に立ったからねえ!」 「世の中には、私がそれから利益を掴もうとすれば掴めたんだが、敢てそれをしなかった事柄がいくらもありますよ、私は敢て云いますがね」と甥は答えた。「聖降誕祭もその一つですよ。だが、私はいつも聖降誕祭が来ると、その神聖な名前や由来に対する崇敬の念から離れて、いや、聖降誕祭に附属しているものが何にもせよ、その崇敬の念から切り離せるとしたらですよ、それから切り離しても、聖降誕祭の時期というものは結構な時期だと思っているのですよ。親切な、人をゆるしてやる、慈悲心に富んだ、楽しい時期だと。男も女も一様に揃って、閉じ切っていた心を自由に開いて、自分達より目下の者どもも実際は一緒に墓場に旅行している道|伴侶《づれ》で、決して他の旅路を指して出掛ける別の人種ではないと云うように考える、一年の長い暦の中でも、私の知っている唯一の時期だと思っているのですよ。ですから、ねえ伯父さん、この聖降誕祭というものは私の衣嚢の中へ金貨や銀貨の切れっぱし一つだって入れてくれたことがなくとも、私を益してくれた、またこれから先も益してくれるものだと、私は信じているんですよ。で、私は云うのです、神よ、聖降誕祭を祝福し給え! と。」  大桶の中にいた書記は我にもなく拍手喝采した。が、すぐにその不穏当なことに気が附いて、火を突っついて、最後に残った有るか無いかの火種を永久に掻き消してしまった。 「もう一遍手を叩いて見ろ」とスクルージは云った。「君は地位を棒に振ることに依って、聖降誕祭を祝うだろうよ。貴方は中々大した雄弁家でいらっしゃるね、もし貴方」と、彼は甥の方へ振り向いて附け足した。「貴方が議会へお出にならないのは不思議だよ。」 「そう怒らないで下さい、伯父さん。いらっしゃいよ、私どもの宅で一緒に食事をしましょうよ。」  スクルージは、自分は相手が地獄に落ちたのを見たいものだと云った、実際彼はそう云った。彼はその言葉を始めから終いまで漏さず云ってしまった。そして、(自分がお前の宅へ行くよりは)先ずお前がそう云う怖ろしい目に遭っているのを見たいものだと云った。 「だが、何故です?」スクルージの甥は叫んだ。「何故ですよ?」 「お前はまた何故結婚なぞしたのだ?」と、スクルージは訊いた。 「あの女を愛したからでさ。」 「愛したからだと!」と、世の中にお目出たい聖降誕祭よりも、もっと馬鹿々々しいものはこれ一つだと云わんばかりに、スクルージは唸った。 「では左様なら!」 「いや、伯父さん、貴方は結婚しない前だって一度も来て下すったことはないじゃありませんか。何故今になってそれを来て下さらない理由にするんですよ?」 「左様なら」と、スクルージは云った。 「私は貴方に何もして貰おうと思っちゃいませんよ。何も貰おうと思っちゃいませんよ。どうして二人は仲好く出来ないのですかね。」 「左様なら」と、スクルージは云った。 「貴方がそう頑固なのを見ると、私は心から悲しくなりますよ。二人はこれまで喧嘩をしたことは――私が相手になってしたことは一度だってありません。ですが、今度は聖降誕祭に敬意を表して、仲直りをして見ようと思ったのです。私は最後まで聖降誕祭の気分を保って行くつもりですよ。ですから、聖降誕祭お目出とう、伯父さん!」 「左様なら」と、スクルージは云った。 「そして、新年お目出とう!」 「左様なら」と、スクルージは云った。彼の甥はこう云われても、一語もつっけんどんな言葉は返さないでその部屋を出て行った。彼は表側の戸口の所で立ち停って、書記に時節柄の挨拶をした。書記は冷えていたが、スクルージより温かい心を持っていた。と云うのは、彼も丁寧に挨拶を返したからである。 「まだ一人居るわい」と、スクルージは彼の声を聞き附けて呟いた。 「一週間に十五シリング貰って、女房と子供を養っている書記の奴が、聖降誕祭お目出とうだなんて云っていやがる。俺は瘋癲病院へ退き込もうかな。」  この狂人はスクルージの甥を送り出しながら、二人の他の男を導き入れた。彼等は見るから気持の好い、恰服《かっぷく》のいい紳士であった。そして、今や帽子を脱いで、スクルージの事務室に立っていた。彼等は手に帳簿と紙とを持って、彼にお辞儀をした。 「こちらはスクルージとマアレイ商会で御座いますね?」と、その中の一人が手に持った表に照し合わせながら訊ねた。「失礼ながら貴方はスクルージさんでいらっしゃいますか、それともマアレイさんでいらっしゃいますか。」 「マアレイ君は死んでから七年になりますよ」と、スクルージは答えた。「七年前のちょうど今夜亡くなったのです。」 「もちろんマアレイさんの鷹揚なところは、生き残られたお仲間に依って代表されているので御座いましょうな」と、紳士は委任状を差出しながら云った。  確かにその通りであった。と云うのは、彼等二人は類似の精神であったからである。鷹揚なところという気味の悪い言葉を聞いて、スクルージは顔を顰めた。そして、頭を振って、委任状を返した。 「一年中のこのお祝い季節に当たりまして、スクルージさん」と、紳士はペンを取り上げながら云った。「目下非常に苦しんでいる貧窮者どものために、多少なりとも衣食の資を拵えてやると云うことは、平日よりも一層願わしいことで御座いますよ。何千という人間が衣食に窮しているのです、何十万という人間が有り触れた生活の慰楽に事を欠いているので御座いますよ、貴方。」 「監獄はないのですかね」と、スクルージは訊ねた。 「監獄はいくらもありますよ」と、紳士は再びペンを下に置きながら云った。 「そして共立救貧院は?」とスクルージは畳みかけて訊いた。「あれは今でもやっていますか。」 「やって居ります、今でも」と、紳士は返答した。「やっていないと申上げられると好う御座いますがね。」 「踏み車や救貧法も十分に活用されていますか。」 「両方とも盛に活動していますよ。」 「おお! 私はまた貴方が最初に云われた言葉から見て、何かそう云う物の有益な運転を阻害するような事が起こったのではないかと心配しましたよ」と、スクルージは云った。「それを伺ってすっかり安心しました。」 「そう云う物ではとてもこの多数の人に対して基督教徒らしい心身の慰安を供給してやることが出来ないと云う所信の下に」と、その紳士は返辞をした。「私ども数人の物が貧民のために肉なり、飲料なり、燃料なりを買ってやる資金を募集しようと努力しているので御座います。私どもがこの際を選んだのは、それが特に、貧乏が痛感されていると共に、有福な方々が喜び楽しんでおいでの時だからで御座います。御寄附はいくらといたしましょうか。」 「皆無」と、スクルージは云った。 「匿名がお望みで?」 「いや、私は打遣っといて貰いたいのだ」と、スクルージは云った。「何が望みだとお尋ねになるから、こう御返辞をしたのです、私は自分でも聖降誕祭だって愉快にはしていない。ですもの、怠惰者を愉快にしてやる訳には行きません。私は今挙げたような造営物の維持を助けている――それだけでも随分|費《かか》りますよ。暮しの立たない者はそこへ行くが可いのさ。」 「多くの人がそこへ(行こうと思っても)行かれません。また多くの人は(そんな所へ行く位なら)いっそ死んだ方が優《ま》しだと思って居りましょう。」 「いっそ死んだ方がよけりゃ」と、スクルージは云った、「そうした方が可い、そして、過剰の人口を減らす方が可う御座んすよ。それに――失礼ですが――そう云う事実は知りませんね。」 「でも、御存知の筈ですが」と、紳士は云った。 「いや、そりゃ私の知った事じゃない」と、スクルージは答えた。「人間は自分の仕事さえ好く心得てりゃ、それで沢山のものです。他人の仕事に干渉するには及ばない。私なぞは自分の仕事で年中暇なしですよ。左様なら、お二人さん!」  自分達の主旨を押して追求したところで、とても無駄だと明白に看て取ったので、紳士達は引き下がった。スクルージは急に自分が偉くなったように感じながら、平生の彼よりはずっと気軽な気持で、再び仕事に取り掛った。  その間にも霧と闇とはいよいよ深くなったので、人々は馬車馬の前に立って、途中その馬を案内する御用を承わりたいと申し出でながら、ゆらゆら燃える松明を持って歩き廻った。年数を経た教会の塔は――その銅鑼声の古い鐘はいつも壁の中のゴシック型の窓から何喰わぬ顔してスクルージを見下ろしていたものだが、その塔も見えなくなった。そして、あの高い所にあるあの凍った頭の中で歯ががちがち噛み合ってでもいるように、後に顫えるような震声を曳いて、雲の中で一時間目毎、十五分目毎の鐘を打った。寒さはいよいよ厳しくなった。大通りでは、路地の隅で、二三の労働者が瓦斯管の修繕をして居た。そして、火鉢の中に火を沢山燃して置いて、その周囲に襤褸を来た男達と子供達の一団が夢中になって手を煖めたり、火焔の前に眼をぱちつかせたりしながらむらがっていた。水道の栓はひとり打遣って置かれたので、その溢れ出る水は急に凍って、厭世的な氷になってしまった。柊の小枝や果実が窓の中の洋灯の熱にパチパチ弾けている店々の明るさは、通りがかりの人々の蒼い顔を真赧にした。家禽屋だの食料品屋だのの商売は素晴らしい戯談になってしまった。すなわち取引とか売買とかいうような面白くもない原則がこれと何かの関係があろうとは、到底信じられないような、華やかな観世物になってしまったのであった。市長閣下は堂々とした官邸の城砦の中で、何十人という料理番と膳部係とに、市長家として恥ずかしくないような、聖降誕祭の用意をするように吩咐けた。また前週の月曜日酒に酔って、血腥い真似をしたと云うかどで市長から五シリングの罰金に処せられた詰らない仕立屋すら、痩せた女房と赤ん坊とが牛肉を買いに駆け出して行った間に、屋根裏の部屋で明日のプディングを掻き廻していた。  いよいよ霧は深く、寒さも加わって来た。突き刺すような、身に徹えるような、噛みつくような寒さであった。聖ダンスタンがいつもの武器を使う代りに、こんなお天気で一と撫でして、悪魔の鼻をちょいと痺れさせてやったら、その時こそ実際悪魔は大声挙げて咆吼したことでもあろう。骨が犬に咬まれるように、飢えた寒さに咬みつかれ、もぐもぐ噛じられた、一つの尖った若い鼻の持ち主がスクルージの鍵の穴から覗き込んで、聖降誕祭の頌歌を彼に振舞おうとした。が、 [#ここから3字下げ] 神は貴方がたを祝福したまわん、愉快そうな紳士方よ、 貴方がたを狼狽せしむる者は一としてなからん! [#ここで字下げ終わり] と初めの文句を歌い出した刹那に、スクルージは非常に猛烈な勢いで簿記棒を引掴んだ。それがために歌唄いは仰天して、その鍵の穴を霧と、それよりももっと主人と性の合った霜とに任せて置いたまま遁げ出した。  とうとう事務所の閉じる時刻がやって来た。厭々ながらスクルージはその腰掛から降りて、大桶の中に待ち構えていた書記に、黙ってその事実の承認を与えた。書記は早速蝋燭を消して帽子を被った。 「明日は丸一日欲しいんだろうね?」とスクルージは云った。 「ご都合が宜しければ、貴方。」 「都合は宜しくないさ」と、スクルージは云った。「また公平な事でもないさ。で、そのために半クラウンを差引こうと云い出したら、君は酷い目に遭ったと思うだろう、きっとそうだろうな!」  書記は微かに笑った。 「しかもだ」と、スクルージは云った、「君の方じゃ仕事もしないのに一日の給料を払わせられる俺を酷い目に遭わせたとは考えないのだ。」  書記は一年にたった一度のことだと云った。 「毎年十二月二十五日に人の懐中物を掏《す》り取るにしちゃ、まずい言い訳だ」と、スクルージは大きな外套の顎までボタンを掛けながら云った。「だが、どうしたって丸一日休まずには置かないのだろう。明くる朝はその代りに一層早く出て来なさいよ。」  書記はそうしましょうと云うことを約束した。スクルージはぶつぶつ云いながら出て行った。事務所は瞬く間に閉じられてしまった。そして、書記は白い襟巻の長い両端を腰の下でぶらぶらさせながら、(と云うのは彼は外套を持っていなかったからで。)聖降誕祭前夜のお祝いに、子供達の列の端に附いて、コーンヒルの大通りの氷った辷り易い道の上を幾度となく往復した。それから目隠し遊びをしようと思って、全速力でカムデン・タウンの自宅へ駆け出して行った。  スクルージは行きつけの陰気な居酒屋で、陰気な食事を済ました。そこにあった新聞をすっかり読んでしまって、あとは退屈凌ぎに銀行の通帳をいじくっていたが、やがて寝に帰った。彼はかつて死んだ仲間の所有であった部屋に住っていた。それは中庭の突き当りの陰気な一構えの建物の中にある薄暗い一組の室であった。この建物は、少年の頃に他の家々と一緒に隠れん坊の遊びをしながら、そこへ走り込んだまま、元の出口を忘れてしまったものに違いないと想像せずにはいられなかったほど、ここにある必要のないものであった。今はすっかり古びて、随分物凄いものになっていた。何しろ他の室は皆事務所に貸してあって、スクルージの外には誰も住んで居ないのだから。中庭は真暗で、その石の一つ一つをも知っている筈のスクルージですら、已むを得ず手探りで這入って行った位であった。霧と霜とは、その家の真黒な古い玄関の辺りにまごまごしていたが、ちょうどそれは天気の神がじっと悲しげに考え込みながら、閾の上に坐っているのかと思われる位であった。  ところで、入口の戸敲きには、それは非常に大きなものであったと云う外に、別段変ったことはなかった。それは事実である。またスクルージは、そこに住っている間、朝に晩にそれを見ていたと云うことも事実である。またスクルージは、倫敦《ロンドン》市民の何人《だれ》とも、市の行政団体、市参事会、組合員などを引っ包めても――引っ包めてもと云うのは少し大胆だが、倫敦市中の何人《だれ》とも同じように、所謂想像力なるものを余り持っていなかったと云うことも事実その通りである。またスクルージは、この日の午後七年前に死んだ仲間のことを口にした切りで、それ以来少しもマアレイの上に思いを致さなかったと云うことも心に留めて置いて貰いたい。で、そうした上で、スクルージが、戸の錠前に鍵を押し込んでから、それがいつの間にどうして変ったと云うこともないのに、その戸敲きを戸敲きと見ないで、マアレイの顔と見たと云うことは、一体どうしたことであろうか、それを説明の出来る人があったら、誰でもいいから説明して貰いたい。  マアレイの顔。それは中庭にある外の物体のように、見透かせない闇の中にあるのではなく、真暗なあなぐらの中にある腐敗した海老のように、気味の悪い光を身の周りに持っていた。それは怒ってもいなければ、猛々しい顔でもない。その昔マアレイが物を見る時の容子そっくりの容子をして、すなわちその幽霊然たる額に幽霊然たる眼鏡を掻き上げて、じっとスクルージを見遣った。頭髪は息か熱した空気でも吹きかけられているように、へんてこに動いていた。そして眼はぱっちり開いていたが、まるで動かなかった。その眼とどす黒い顔の色とはその顔をぞっと怖毛《おじけ》の立つような気味の悪いものにした。が、その顔の気味悪さは顔とは全然無関係で、顔の表情の一部分というよりも、むしろその支配を超脱しているように思われた。  スクルージがこの現象を眼を凝らして見ると、それはまた一つの戸敲きであった。彼はどきりともしなかった、または彼の血は赤児の時から恐ろしいというような感じは知らないで通して来たが、今もその感じを意識しなかったなぞと云えば、それは嘘だ。が、しかし彼は一たび放した鍵に手を掛けて、頑強にそれを廻わした。それから中へ這入って蝋燭を点けた。  彼は戸を閉める前に、一寸躊躇して手を控えた。そして、廊下の方へ出っ張っているマアレイの弁髪を見て脅かされることだろうと、半ばそれを待ち設けてでもいるように、先ずその戸の背後を用心深く見廻わした。が、その戸の裏には、戸敲きを留めてあった螺旋と女螺旋との外には何もなかった。そこで彼は「ぷっ! ぷっ!」と云った。そして、その戸をぴっしゃり閉めてしまった。  その響は雷鳴のように家の中に響き渡った。階上のどの室も、酒商の借りている地下のあなぐらの中のどの樽も、それぞれ特有の反響を立てて高鳴りをしたように思われた。スクルージは反響なぞにおびえるような男ではなかった。彼はしっかり戸締りをして、廊下を横切って、階段を上って行った。しかも緩やかに。歩いている間に蝋燭の心を切りながら。  読者諸君は、六馬立ての馬車を駆って古い階子段を駆け上がるとか、または、新に議会を通過した法令の穴を潜って馬車を駆るとか云うようなことを漠然と話していても宜しい。だが、私は誰でもあの階段の上に棺車を引き上げようと思えば上げられる、しかも壁の方に横木をやり、欄干の方へ扉を向けて、それを横にして引き上げることも出来る、しかもそれを容易くすることが出来ると云うことを云いたいのだ。そうするだけの広さは十分にあって、まだ余地がある位であった。それが恐らくスクルージの薄暗がりの中で自分の前を自動棺車が上って行くのを見たように思った原因でがなあろう。街上からは五六個の瓦斯灯の光りが射しても、十分にこの入口を照らしはしなかったろう。それだもの、スクルージの蝋燭ではかなり暗かったとは、誰にも想像がつこう。  スクルージは、そんなことには少しも頓着しないで、上って行った。暗闇は廉《やす》いものだ。そして、スクルージはそれが好きであった。が、彼はその重い戸を閉める前に、何事もなかったか検めようとして、室々を通り抜けた。彼もそうして見たくなる位には、十分その顔の追憶を持っていたのだ。  居間、寝室、物置。すべてが依然として元の通りになっていた。卓子の下にも、長椅子の下にも、誰もいなかった。煖炉には少しばかりの火が残っていた。匙も皿も用意してあった。粥(スクルージは鼻風を引いていた)の小鍋は炉房の棚の上にあった。寝床の下にも、誰もいなかった。押入の中にも誰もいなかった。寝間着は胡散臭い恰好をして壁に懸かっていたが、その中にも誰もいなかった。物置も普段の通りであった。古い煖炉の蓋と、古靴と、二個の魚籠と、三脚の洗面台と、火掻き棒があるばかりであった。  すっかり安心して、彼は戸を閉めて、錠を下ろした。二重に錠を下ろした、それは彼の習慣ではなかった。こうして先ず不意打ちを喰う恐れをなくして置いて、彼は頸飾を外した。寝間着を着て上靴を穿いて、寝帽を被った。それから粥を啜ろうとして煖炉の前に坐った。  実際それは極めてとろい火であった。こんな厳寒の晩には有れども無きが如きものであった。で、余儀なくその火の近くへ寄って腰を下ろして、長い間その上に伸しかかっていた。そうしなければ、こんな一握の焚物からは暖かいと云うほん[#「ほん」に傍点]の僅かな感じでも引き出すことは出来なかったのだ。煖炉はずっと以前に和蘭のある商人が拵えた古い物で、周囲には聖書の中の物語を絵模様にした、風変りな和蘭の瓦が敷き詰めてあった。カインや、アベルや、パロの娘達や、シバの女王達、羽布団のような雲に乗って空から降ってくる天の使者や、アブラハムや、ベルシャザアや、牛酪皿に乗って海に出て行こうとしている使者達や、幾百と云う彼の心を惹く人物がそこに描かれていた。しかも七年前に死んだマアレイのあの顔が古えの予言者の鞭のように現れて来て、総ての人間を丸呑みにしてしまった。若しこの滑っこい瓦がいずれも最初は白無地に出来ていて、その表に取りとまりのない彼の考えの断片から取って、何かの絵を形成する力を持っていたとしたら、どの瓦にも老マアレイの頭が写し出されたことであろう。 「馬鹿な!」と、スクルージは云った。そして、室の中をあちこちと歩いた。  五六度往ったり来たりした後で、彼はまた腰を下ろした。彼が椅子の背に頭を凭せかけた時、不図一つの呼鈴に眼が着いた。それはこの室の中に懸っていて、今は忘れられたある目的のために、この建物の最上階にある一つの室と相通ずるようになっていた、この頃は使われない呼鈴であった。で、見上げた途端に、この呼鈴がゆらゆら揺れだしたので、彼は非常に驚いた。いや、不思議な何とも云われない恐怖の念に襲われた。最初は、ほとんど音も立てないほど、極めて緩やかに揺れていた。が、じきに高く鳴り出した。そして、家の中のどの鈴も皆同じように鳴り出した。  これが続いたのは半分か一分位のものであったろう。が、それは一時間も続いたように思われた。呼鈴は鳴り出したときと同じく、一斉に止んだ。その後に、階下のずっと下の方で、チャランチャランと云う、ちょうど誰かが酒屋のあなぐらの中にある酒樽の上を重い鎖でも引き摺っているような音が続いた。その時スクルージは化物屋敷では幽霊が鎖を引き摺っているものだと云われたのを聞いたことがあるように追想した。  あなぐらの戸はぶんと[#「ぶんと」は底本では「ふんと」]唸りを立てて開いた。それから彼は前よりも高くなったその物音を階下の床の上に聞いた。それから階子段を上って来るのを、それから真直に彼の室の戸口の方へやって来るのを聞いた。 「まだ馬鹿な真似をしてやがる!」と、スクルージは云った。「誰がそれを本気に受けるものか。」  とは云ったものの、一瞬の躊躇もなく、それが重い戸を通り抜けて室の中へ、しかも彼の眼の前まで這入り込んで来た時には、彼も顔色が変った。それが這入って来た瞬間に、消えかかっていた(蝋燭の)焔はちょうど「私は彼を知っている! マアレイの幽霊だ!」とでも叫ぶように、ぱっと跳ね上がって、また暗くなった。  同じ顔、紛れもない同じ顔であった。弁髪を着けた、いつもの胴衣に、洋袴に、長靴を着けた、マアレイであった。靴に附いた※[#「燧」の「火」に代えて「糸」、U+7E78、24-18]《ふさ》は、弁髪や、上衣の裾や、頭の髪と同じように逆立っていた。彼の曳き摺って来た鎖は腰の周りに絡みついていた。それは長いもので、ちょうど尻尾のように、彼をぐるぐる捲いていた。それは(スクルージは精密にそれを観察して見た)、弗箱や、鍵や、海老錠や、台帳や、証券や、鋼鉄で細工をした重い財嚢やで出来ていた。彼の体躯は透き通っていた。そのために、スクルージは、彼を観察して、胴衣を透かして見遣りながら、上衣の背後に附いている二つの釦子《ぼたん》を見ることが出来た位であった。  スクルージはマアレイが腸《はらわた》を持たないと云われていたのを度々聞いたことがあった。が、今までは決してそれを本当にしてはいなかった。  いや、今でもそれを本当にはしなかった。彼は幽霊をしげしげと[#「しげしげと」は底本では「しけじけと」]見遣って、それが自分の前に立っているのだとは承知してはいたけれども、その死のように冷い眼の人をぞっとさせるような影響を感じてはいたけれども、また頭から顎へかけて捲き附けていた褶んだ半帛の布目に気が附いてはいたけれども――こんな物を捲き附けているのを彼は以前見たことがなかった、――それでもまだ彼は本当に出来なくって、我と我が感覚を疑おうとした。 「どうしたね!」と、スクルージは例の通り皮肉に冷淡に云った。「何ぞ私に用があるのかね。」 「沢山あるよ。」――マアレイの声だ、疑うところはない。 「貴方は誰ですか?」 「誰であったかと訊いて貰いたいね。」 「じゃ、貴方は誰であったか」と、スクルージは声を高めて云った。「幽霊にしては、いやにやかましいね。」彼は「些細なことまで」と云おうとしたのだが、この方が一層この場に応《ふさ》わしいと思って取り代えた。(註、「幽霊にしては」と「些細なことまで」が原語では語呂の上の「しゃれ」になっているのである。) 「存生中は、私は貴方の仲間、ジェコブ・マアレイだったよ。」 「貴方は――貴方は腰を掛けられるかね」と、スクルージはどうかなと思うように相手を見ながら訊ねた。 「出来るよ。」 「じゃ、お掛けなさい。」  スクルージがこの問を発したのは、こんな透明な幽霊でも椅子なぞに掛けられるものかどうか、彼には分らなかったからである。そして、それが出来ないという場合には、幽霊も面倒な弁解の必要を免れまいと感じたからである。ところが、幽霊はそんな事には馴れ切っているように、煖炉の向う側に腰を下ろした。 「お前さんは私を信じないね」と、幽霊は云った。 「信じないさ」と、スクルージは云った。 「私の実在については、お前さんの感覚以上にどんな証拠があると思っているのかね。」 「私には分らないよ」と、スクルージは云った。 「じゃ、何だって自分の感覚を疑うのか。」 「だって」と、スクルージは云った、「些細な事が感覚には影響するものだからね。胃の工合が少し狂っても感覚を詐欺師にしてしまうよ。お前さんは消化し切れなかった牛肉の一片かも知れない。芥子の一点か、乾酪の小片か、生煮えの薯の砕片位のものかも知れないよ。お前さんが何であろうと、お前さんには墓場よりも肉汁の気の方が余計にあるね。」  スクルージはあまり戯談なぞ云う男ではなかった。またこの時は心中決して剽軽な気持になってもいなかった。実を云えば、彼はただ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎮めたりする手段として、気の利いた事でも云って見ようとしたのであった。それと云うのも、その幽霊の声が骨の髄まで彼を周章せしめたからであった。  一秒でも黙って、このじっと据わった、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けていようものなら、それこそ自分の生命に関わりそうに、スクルージは感じた。それに、その幽霊が幽霊自身の地獄の風を身の周りに持っていると云うことも、何か知ら非常に恐ろしい気がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかった。しかしそれは明白に事実であった。と云うのは、この幽霊は全然身動きもしないで腰掛けていたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴の※[#「燧」の「火」に代えて「糸」、U+7E78、27-7]が、竈から昇る熱気にでも吹かれているように、始終動いていたからである。 「この楊子は見えるだろうね?」と、スクルージは今挙げたような理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、また一つにはただの一秒間でもよいから、幽霊の石のような凝視を側《わき》へ逸《そ》らしたいと望みながら訊いた。 「見えるよ」と、幽霊が答えた。 「楊子の方を見ていないじゃないか」と、スクルージは云った。 「でも、見えるんだよ」と、幽霊は云った。「見ていなくてもね。」 「なるほど!」と、スクルージは答えた。「私はただこれを丸呑みにしさえすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵えた化物の一隊に始終いじめられてりゃ世話はないや。馬鹿々々しい、本当に馬鹿々々しいやい!」  これを聞くと、幽霊は怖ろしい叫び声を挙げた。そして、物凄い、慄然《ぞっ》とするような物音を立てて、その鎖を揺振《ゆすぶ》ったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。しかし幽霊が室内でこんな物を巻いているのはちと暖か過ぎるとでも云うように頭からその繃帯を取り外したので、その下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかったことであろう!  スクルージはいきなり跪いて、顔の前に両手を合せた。 「お助け!」と彼は云った。「恐ろしい幽霊様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」 「世間の欲に眼の暮れた男よ」と、幽霊は答えた。「お前は私を信ずるかどうじゃ?」 「信じます」と、スクルージは云った。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽霊が出るのですか。また何だって私の許へやって来るのですか。」 「誰しも人間というものは」と、幽霊は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行って、あちこちとひろく旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうするように申し渡されているのだ。世界中をうろつき歩いて、――ああ悲しいかな!――そして、この世に居たら共に与かることも出来たろうし、幸福に転ずることも出来たろうが、今は自分の与かることの出来ない事柄を目撃するように、その魂は運命を定められているのだよ。」  幽霊は再び叫び声を挙げた。そして、その鎖を揺振って、その幻影のような両手を絞った。 「貴方は縛られておいでですね」と、スクルージは顫えながら云った。「どういう訳ですか。」 「私が存命中に鍛えた鎖を身に着けているのさ」と幽霊は答えた。「私は一輪ずつ、一ヤードずつ、拵えて行った。そして、自分の勝手で捲き附けたのだ。自分の勝手で身に着けたのだ。お前さんはこの鎖の型に見覚えがないかね。」  スクルージはいよいよますます慄えた。 「それとも」と、幽霊は言葉をつづけた、「お前さんは自分でも背負っているその頑丈な捲環の重さと長さを知りたいかね。それは七年前の聖降誕祭の前晩にも、これに負けないくらい重くて長かったよ。その後もお前さんは苦労してそれを殖やして来たからね。今は素晴らしく重い鎖になってるよ。」  スクルージは、もしか自分もあんな五六十尋もあるような鉄の綱で取り巻かれているのじゃないかと、周囲の床の上を見廻した。しかし何も見ることは出来なかった。 「ジェコブ(註、これは猶太人に多い名であるそうな。スクルージの洗礼名エベネザアも同様。)」と、彼は憐みを乞うように云った。「老ジェコブ・マアレイよ、もっと話しをしておくれ。気の引き立つようなことを云っておくれ、ジェコブよ。」 「何も上げるものはないよ」と、幽霊は答えた。「そんなものは他の世界から来るのだ、エベネザア・スクルージよ。そして、他の使者がもっと質の違った人間の許へもって行くのよ。それにまた私は自分の云いたいことを話す訳にも行かない。後もう[#「もう」に傍点]ほんの少しの時間しか許されていないのだからね。私は休むことも停まってることも出来ない。どこにもぐずぐずしてることも出来ない。私の魂は私どもの事務所より外へ出たことがなかった。――よく聴いておいでよ――生きてる間、私の魂は私どもの帳場の狭い天地より一歩も出なかった。そして、今や飽き飽きするような長たらしい旅程が私の前に横わっているんだよ。」  スクルージが考え込む時には、いつでもズボンのポッケットに両手を突っ込むのが癖であった。幽霊の云ったことをつくづく考え運らしながら、今も彼はそうしていた。が、眼も挙げなければ、立ち上がりもしなかった。 「極くゆっくりとやって来たのでしょうね。」と、スクルージは謙遜で丁寧ではあったが、事務的な口調で訊いた。 「ゆっくりだ!」と、幽霊は相手の言葉を繰り返した。 「死んで七年」と、スクルージは考えるように云った。「その間始終歩き通しでしょう?」 「始終だとも」と、幽霊は云った。「休息もなければ、安心もない。絶え間なく後悔に苦しめられてるんだよ。」 「では、よほど速く歩いてるのですか」と、スクルージは訊いた。 「風の翼に乗ってよ」と、幽霊は答えた。 「それじゃ七年間には随分沢山の道程《みちのり》が歩かれたでしょう」と、スクルージは云った。  幽霊は、それを聞いて、もう一度叫び声を挙げた。そして、区がそれを安眠妨害として告発しても差支えなかろうと思われるような、怖ろしい物音を真夜中に立てて、鏈をガチャガチャと鳴らした。 「おお! 縛られた、二重に足枷を嵌められた捕虜よ」と、幽霊は叫んだ、「不死の人々のこの世のためにせらるる不断の努力の幾時代も、この世の受け得る善のまだことごとく展開し切らないうちに、永劫の常闇の中に葬られざるを得ないと云うことを知らないとは。どんな境遇にあるにせよ、その小さな範囲内で、それぞれその性に合った働きをしている基督教徒の魂が、いずれも自分に与えられた人の為に尽す力の広大なのに比べて、その一生の余りに短きに過ぐるを嘆じていると云うことを知らないとは。一生の機会を誤用したことに対しては、いくら永い間後悔を続けてもそれを償うに足りないと云うことを知らないとは! しかも私はそう云う人間であった! ああ、私はそう云う人間であったのだ!」 「だがしかし、お前さんはいつも立派な事務家でしたがね」と、スクルージは言い淀みながら云った。彼は今や相手の言葉を我が身に当て嵌めて考え出したのである。 「事務だって!」と、幽霊はまたもや其の手を揉み合せながら叫んだ。「人類が私の事務だったよ。社会の安寧が私の事務だった。慈善と、恵みと、堪忍と、博愛と、すべてが私のすべき事務だったよ。商売上の取引なぞは、私の職務という広大無辺な海洋中の水一滴に過ぎなかったのだ。」幽霊は、これが有らゆる自分の無益な悲嘆の源泉であるぞと云わんばかりに、腕を一杯に伸ばしてその鎖を持ち上げた。そして、それを再び床の上にどさりと投げ出した。 「一年のこの時節には」と幽霊は云った、「私は一番苦しむのだ。何故私は同胞の群がっている中を眼を伏せたまま通り抜けたろう! そして、東方の博士達を一貧家に導いたあのお有難い星を仰いで見なかったろう! 世の中にあの星の光が私を導いてくれるような貧しい家は無かったのか。」  スクルージは、幽霊がこんな調子で話し続けて行くのを聞いて、非常に落胆した。そして、無性にがたがたと慄え出した。 「よく聞いていなよ!」と、幽霊は叫んだ。「私の時間はもう尽きかかっているのだからね。」 「はい、聞いていますよ」と、スクルージは云った。「ですが、どうかお手柔らかに願いたい! 余り言葉を飾らないで下さい。ジェコブ君、お願いですよ。」 「どう云う理由で私がこうしてお前さんの眼に見えるような恰好でお前さんの前に現れるようになったかと云うことは、私は語ることを許されていない。姿は見せなかったが、私は幾日も幾日もお前さんの傍に坐っていたのだよ。」  それは聞いて決して気持の好い話ではなかった。スクルージは慄え上った。そして、前額から汗を拭き取った。 「そうして坐っているのも、私の難行苦行の中で決して易しい方ではないよ」と、幽霊は言葉を続けた。「私は今晩ここへ、お前さんにはまだ私のような運命を免れる機会も望みもあると云うことを教えて上げるためにやって来たのだ。つまり私の手で調べて上げた機会と望みがあるんだね、エベネザー君よ。」 「お前さんはいつも私には親切な友達でしたよ」とスクルージは云った。「どうも有難う!」 「お前さんはお見舞いを受けるよ」と、幽霊は言葉を次いだ、「三人の幽霊に。」スクルージの顔はちょうど幽霊の顎が垂れ下がったと同じ程度に垂れ下がった。 「それがお前さんの云った機会と望みのことなんですか、ジェコブ君。」と、彼はおどおどした声で訊いた。 「そうだ。」 「私は――私はいっそ来て頂きたくないので」と、スクルージは云った。 「三人の幽霊の訪問を受けなけりゃ」と、幽霊は云った、「到底私の踏んだ道を避けることは出来ないよ。明日一時の鐘が鳴ったら、第一の幽霊が来るからそう思っていなさい。」 「皆一緒に来て頂いて、一時に済ましてしまう訳には行きませんかな、ジェコブ君」と、スクルージは相手の気を引いて見た。 「その明くる晩の同じ時刻には、第二の幽霊が来るからそう思っていなさい。またその次ぎの晩の十二時の最後の打ち音が鳴り止んだときに、第三の幽霊が来るからそう思っていなさい。もうこの上私と会おうと思いなさるな。そして、二人の間にあったことを貴方自身のために記憶《おぼ》えて置くように、好く気を附けなさい!」  この言葉を云い終わった時、幽霊は卓子の上から例の繃帯を取って、以前と同じように、頭のまわりにそれを捲きつけた。その顎が繃帯で上下一緒に合わさった時に、その歯の立てたガチリと云う音で、スクルージもそれと知った。彼は思い切って再び眼を挙げて見た。見ると、この超自然の訪客は腕一杯にぐるぐるとその鎖を捲きつけたまま、直立不動の姿勢で彼と向い合って立っているのであった。  幽霊はスクルージの前からだんだんと後退りして行った。そして、それが一歩退く毎に、窓は自然に少しずつ開いて、幽霊が窓に達した時には、すっかり開き切っていた。幽霊はスクルージに傍へ来いと手招ぎした、スクルージはその通りにした。二人が互に二歩の距たりに立った時、マアレイの幽霊はその手を挙げて、これより傍へ近づかないように注意した。スクルージは立停まった。これは相手の云うことを聴いて立ち停まったと云うよりも、むしろ吃驚して恐れて立ち停まったのであった。と云うのは、幽霊が手を挙げた瞬間に、空中の雑然たる物音が、連絡のない悲嘆と後悔の響きが、何とも云われないほど悲しげな、自らを責めるような慟哭の声が彼の耳に聞えて来たからである。幽霊は一寸耳を澄まして聴いていた後で、自分もその悲しげな哀歌に声を合せた。そして、物寂しい暗夜の中へうかぶように出て行った。  スクルージは、自分の好奇心に前後を忘れて、窓の所まで随いて行った。彼は外を眺め遣った。  空中は、落着きのない急ぎ足で彼方此方をうろつき廻り、そして、歩きながらも呻吟している妖怪変化で満たされていた。そのどれもこれもがマアレイの幽霊と同じような鎖を身につけていた、中に二三の者は(これは有罪会社の輩かも知れない)一緒に繋がれていた。一として縛られていないのはなかった。存命中スクルージに親しく知られて居たものも沢山あった。彼は、白い胴服《チョッキ》を着て、踵に素晴らしく大きな鉄製の金庫を引きずっている一人の年寄の幽霊とは生前随分懇意にしていたのであった。その幽霊は、下の入口の踏段の上に見えている赤ん坊を連れた見すぼらしい女を助けてやることが出来ないと云うので、痛々しげに泣き喚いていた。彼等全体の不幸は、明かに、彼等が人事に携わってそれを善くしようと望んでいて、しかも永久にその力を失ったと云う所にあるのであった。  これ等の生物が霧の中に消え去ったのか、それとも霧の方で彼等を包んでしまったのか、彼には何れとも分らなかった。しかし彼等も、その幽霊の声々も共に消えてしまった。そして、夜は彼が家に歩いて帰った時と同じようにひっそりとなった。  スクルージは窓を閉めた。そして、幽霊の這入って来た戸を検めた。それは彼が自分の手で錠を卸して置いた通りに、ちゃんと二重に錠が卸してあった。閂にも異常はなかった。彼は「馬鹿々々しい!」と云おうとしたが、口に出し掛けたまま已めた。そして、自分の受けた感動からか、それとも昼間の労れからか、それともあの世を一寸垣間見たためか、それとも幽霊の不景気な会話のためか、それともまた時間のおそいためか知らないが、非常に休息の必要を感じていたので、着物も脱がないで、そのまま寝床へ這入って、すぐにぐっすりと寝込んだ仕舞った。 [#3字下げ]第二章 第一の精霊[#「第二章 第一の精霊」は中見出し]  スクルージが眼を覚ましたときには、寝床から外を覗いて見ても、その室の不透明な壁と透明な窓との見分けがほとんど附かない位暗かった。彼は鼬のようにきょろきょろした眼で闇を貫いて見定めようと骨を折っていた。その時近所の教会の鐘が十五分鐘を四たび打った。で、彼は時の鐘を聞こうと耳を澄ました。  彼が非常に驚いたことには、重い鐘は六つから七つと続けて打った、七つから八つと続けて打った。そして、正確に十二まで続けて打って、そこでぴたりと止んだ。十二時! 彼が床についた時には二時を過ぎていた。時計が狂っているのだ。機械の中に氷柱が這入り込んだものに違いない。十二時とは!  彼はこの途轍もない時計を訂正しようと、自分の時打ち懐中時計の弾条《ばね》に手を触れた。その急速な小さな鼓動は十二打った、そして停まった。 「何だって」と、スクルージは云った、「全《まる》一日寝過ごして、次の晩の夜更けまで眠っていたなんて、そんな事はある筈がない。だが、何か太陽に異変でも起って、これが午《ひる》の十二時だと云う筈もあるまいて!」  そうだとすれば大変なことなので、彼は寝床から這い出して、探り探り窓の所まで行った。ところが、何も見えないので、已むを得ず寝間着の袖で霜を拭い落した。で、ほん[#「ほん」に傍点]の少し許り見ることが出来た。彼がやっと見分けることの出来たのは、ただまだ非常に霧が深く、耐らないほど寒くて、大騒ぎをしながらあちらこちらと走り廻っている人々の物音なぞは少しもなかったと云うことであった。若し夜が白昼を追い払って、この世界を占領したとすれば、そう云う物音は当然起っていた筈である。これは非常な安心であった。何故なら、勘定すべき日というものがなくなったら、「この第一振出為替手形一覧後三日以内に、エベネザー・スクルージ若しくはその指定人に支払うべし」云々は、単に合衆国の担保に過ぎなくなったろうと思われるからである。  スクルージはまた寝床に這入った。そして、それを考えた、考えた、繰り返し繰り返し考えたが、さっぱり訳が分らなかった。考えれば考えるほど、いよいよこんぐらかってしまった。考えまいとすればするほど、ますます考えざるを得なかった。  マアレイの幽霊は無性に彼を悩ました。彼はよくよく詮議した揚句、それは全然夢であったと胸の中で定めるたんびに、心は、強い弾機《ばね》が放たれたように、再び元の位置に飛び返って、「夢であったか、それとも夢ではなかったのか」と、始めから遣り直さるべきものとして同じ問題を持ち出した。  鐘が更に十五分鐘を三たび鳴らすまで、スクルージはこうして横たわっていた。その時突然、鐘が一時を打った時には、最初のお見舞いを受けねばならぬことを幽霊の戒告して行ったことを想い出した。彼はその時間が過ぎてしまうまで、眼を覚ましたまま横になっていようと決心した。ところで、彼がもはや眠られないことは天国に行かれないと同様であることを想えば、これは恐らく彼の力の及ぶ限りでは一番賢い決心であったろう。  その十五分は非常に長くて、彼は一度ならず、我知らずうとうととして、時計の音を聞き漏らしたに違いないと考えた位であった。とうとうそれが彼の聞き耳を立てた耳へ不意に聞えて来た。 「ヂン、ドン!」 「十五分過ぎ!」とスクルージは数えながら云った。 「ヂン、ドン!」 「三十分過ぎ!」 「ヂン、ドン!」 「もう後《あと》十五分」と、スクルージは云った。 「ヂン、ドン!」 「いよいよそれだ!」と、スクルージは占めたとばかりに云った、「しかも何事もない!」  彼は時の鐘が鳴らないうちにかく云った。が、その鐘は今や深い、鈍い、空洞《うつろ》な、陰鬱な一時を打った。たちまち室中に光が閃き渡って、寝床の帷幄《カーテン》が引き捲くられた。  彼の寝床の帷幄は、私は敢て断言するが、一つの手で側《わき》へ引き寄せられた。足下《あしもと》の帷幄でも、背後《うしろ》の帷幄でもない、顔が向いていた方の帷幄なのだ。彼の寝床の帷幄は側へ引き寄せられた。そして、スクルージは、飛び起きて半坐りになりながら、帷幄を引いたその人間ならぬ訪客と面と面を突き合せた。ちょうど私が今読者諸君に接近していると同じように密接して。そして、私は精神的には諸君のつい[#「つい」に傍点]手近に立っているのである。  それは不思議な物の姿であった――子供のような。しかも子供に似てると云うよりは老人に似てると云った方が可いかも知れない。(老人と云ってもただの老人ではない)、一種の超自然的な媒介物を通じて見られるので、だんだん眼界から遠退いて行って、子供の躯幹にまで縮小された観を呈していると云ったような、そう云う老人に似ているのである。で、その幽霊の頸のまわりや背中を下に垂れ下がっていた髪の毛は、年齢《とし》の所為《せい》でもあるように白くなっていた。しかもその顔には一筋の皺もなく、皮膚は瑞々《みずみず》した盛りの色沢《つや》を持っていた。腕は非常に長くて筋肉が張り切っていた。手も同様で、並々ならぬ把握力を持っているように見えた。極めて繊細に造られたその脚も足も、上肢と同じく露出《むきだし》であった。幽霊は純白の長衣を身に着けていた。そして、その腰の周りには光沢のある帯を締めていたが、その光沢は実に美しいものであった。幽霊は手に生々《いきいき》した緑色の柊の一枝を持っていた。その冬らしい表徴とは妙に矛盾した、夏の花でその着物を飾っていた。が、その幽霊の身のまわりで一番不思議なものと云えば、その頭の頂辺《てっぺん》からして明煌々たる光りが噴出していることであった。その光りのために前に挙げたようなものが総て見えたのである。そして、その光りこそ疑いもなくその幽霊が、もっと不愉快な時々には、今はその腋の下に挟んで持っている大きな消灯器《ひけし》を帽子の代りに使用している理由であった。  とは云え、スクルージがだんだん落ち着いてその幽霊を見遣った時には、これですらそれの有する最も不思議な性質とは云えなかった。と云うのは、その帯の今ここがぴかりと光ったかと想うと、次には他の所がぴかりと輝いたり、また今明るかったと思う所が次の瞬間にはもう暗くなったりするに伴れて、同じように幽霊の姿それ自体も、今一本腕の化物になったかと思うと、今度は一本脚になり、また二十本脚になり、また頭のない二本脚になり、また胴体のない頭だけになると云うように、その瞭然《はっきり》した部分が始終揺れ動いていた。で、それ等の消えていく部分は濃い暗闇の中に溶け込んでしまって、その中に在っては輪廓一つ見えなかったものだ。そして、それを不思議だと思っているうちに、幽霊は再び元の姿になるのであった、元のように瞭然《はっきり》として鮮明な元の姿に。 「貴方があのお出での前触れのあった精霊でいらっしゃいますか」と、スクルージは訊ねた。 「左様!」  その声は静かで優しかった。彼の側にこれほど近く寄っているのではなく、ずっと触れてでもいるように、へんてこに低かった。 「何誰《どなた》で、またどういう方でいらっしゃいますか」と、スクルージは問い詰めた。 「私は過去の聖降誕祭の幽霊だよ。」 「ずっと古い過去のですか」と、スクルージはその侏儒のような身丈《せい》恰好《かっこう》に眼を留めながら訊いた。 「いや、お前さんの過去だよ。」  たとい誰かが訊ねたとしても、恐らくスクルージはその理由を語ることが出来なかったろう。が、彼はどう云うものか、その精霊に帽子を被せて見たいものだと云う特別な望みを抱いた。で、それを被るように相手に頼んだ。 「何!」と幽霊は叫んだ、「お前さんはもう俗世界の手で、私の与える光明を消そうと思うのか。俗衆の我欲がこの帽子を拵えて、長の年月の間にずっと私を強いて無理に額眉深にそれを被らせて来たものだ。お前さんもその一人だが、それだけでもう沢山じゃないかね。」  スクルージは、決して腹を立てさせるつもりではなかった、また自分の一生の中いつの時代にも故意に精霊を侮辱した覚えなぞはないと、うやうやしげに弁解した。それから彼は思い切って、何用あってここへはやって来たのかと訊ねた。 「お前さんの安寧のためにだよ」と、幽霊は云った。  スクルージはそれは大変に有難う御座いますと礼を述べた。しかし一晩邪魔されずに休息した方が、それにはもっと利き目があったろうと考えずにはいられなかった。精霊は彼がそう考えているのを見て取ったに違いない。と云うのは、すぐにこう云ったからである。 「じゃ、お前さんの済度のためだよ。さあいいか!」  こう云いながら、幽霊はその頑丈な手を差し伸べて、彼の腕をそっと掴まえた。 「さあ立て! 一緒に歩くんだよ。」  天気と時刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言《あらが》って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。 「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」 「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」  こう云っているうちに、彼等は壁を[#「壁を」は底本では「塵を」]突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦《ロンドン》の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。 「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」  精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほん[#「ほん」に傍点]の瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。 「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」  スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡《にきび》だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。 「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。 「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」 「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」  二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆《くね》った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々《すがすが》しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。 「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」  陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。 「学校はまだすっかり退《ひ》けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」  スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。  彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。  彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火《とろび》の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。  家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊の[#「白楊の」は底本では「柏楊の」]葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。  精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。 「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王《サルタン》の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」  スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。 「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺《てっぺん》から萵苣《ちしゃ》の[#「萵苣《ちしゃ》の」は底本では「萵苔《ちしゃ》の」]ようなものを生《は》やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日《フライデー》が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆け出して[#「駆け出して」は底本では「騙け出して」]行く、しっかり! おーい! しっかり!」  それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。 「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」 「一体どうしたと云うんだね?」 「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」  幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。  こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片《かけら》が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。  彼は今や読書していなかった、落胆《がっかり》したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。  その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。 「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅《うち》へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」 「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。 「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」 「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。  彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。  誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片《ひとかけら》とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。 「いつも脾弱《ひよわ》な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」 「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」 「彼女は一人前になって死んだ」と、幽霊は云った、「そして、子供達もあったと思うがね。」 「一人です」と、スクルージは答えた。 「いかにも、」と、幽霊は云った。「お前さんの甥だ!」  スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡単に「そうです」と答えた。  彼等はその瞬間学校を後にして出て来たばかりなのに、今はある都会の賑やかな大通りに立っていた。そこには影法師のような往来の人が頻りに往ったり来たりしていた。そこにはまた影法師のような荷車や馬車が道を争って、あらゆる実際の都市の喧騒と雑閙とがあった。店の飾り附けで、ここもまた聖降誕祭の季節であることは、明白に分っていた。ただし夕方であって、街路には灯火が点いていた。  幽霊はある商店の入口に立ち停まった。そして、スクルージにそれを知っているかと訊ねた。 「知っているかですって!」と、スクルージは答えた。「私はここで丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」  彼等は中に這入って行った。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛糸で編んだ帽子のこと。)を被った老紳士が、今二インチも自分の身丈《せい》が高かろうものなら、きっと天井に頭を打ち附けたろうと思われるような、丈の高い書机の向うに腰掛けているのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。 「まあ、これは老フェッジウィッグじゃないか! ああ! フェッジウィッグがまた生き返った!」  老フェッジウィッグは鉄筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指していた。彼は両手を擦った。たぶたぶした胴服《チョッキ》をきちんと直した。靴の先から頭の頂辺まで、身体中揺振って笑った。そして、気持の好さそうな、滑らかな、巾のある、肥った、愉快そうな声で呼び立てた――― 「おい、ほら! エベネザア! ディック!」  今や立派な若者になっていたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入って来た。 「ディック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽霊に向って云った。「なるほどそうだ。あそこに居るわい。彼奴は私に大層懐いていたっけ、可哀そうに! やれ、やれ!」 「おい、子供達よ」と、フェッジウィッグは云った。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だよ、ディック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまえ」と、老フェッジウィッグは両手を一つぴしゃりと鳴らしながら叫んだ、「とっとと仕舞うんだぞ!」  読者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣っ附けたかを話しても信じないであろう。二人は戸板を持って往来へ突進した――一、二、三――その戸板を嵌めべき所へ嵌めた――四、五、六――戸板を嵌めて目釘で留めた――七、八、九――そして、読者が十二まで数え切らないうちに、競馬の馬のように息を切らしながら、家の中へ戻って来た。 「さあ来た!」と、老フェッジウィッグは吃驚するほど軽快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、ここに沢山の空地を作るんだよ。さあ来た、ディック! 元気を出せ、エベネザア!」  片附けろだって! 何しろ老フェッジウィッグが見張っているんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出来ないものもなかった。一分間で出来てしまった。動かすことの出来るものは、ちょうど永久に公的生活から解雇されたように、ことごとく包んで片附けられてしまった。床は掃いて水を打たれた、洋灯は心を剪られた、薪は煖炉の上に積み上げられた。こうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むような、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と変った。  一人の提琴手が手に楽譜帳を持って這入って来た。そして、あの高い書机の所へ上って、それを奏楽所にした。そして、胃病患者が五十人も集ったように、げえげえ云う音を立てて調子を合せた。フェッジウィッグ夫人すなわちでぶでぶ肥った愛嬌の好い女が這入って来た。三人のにこにこした可愛らしいフェッジウィッグの娘が這入って来た。その三人に心を悩まされている六人の若者が続いて這入って来た。この店に使われている若い男や女もことごとく這入って来た。女中はその従弟の麺麭焼きの職工と一緒に這入って来た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云う牛乳配達と一緒に這入って来た。道の向う側から来たと云う、主人から碌《ろく》すっぽ喰べさせて貰わないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引っ張られたと云うことが後で分かった女中の背後に隠れるようにしながら這入って来た。一人また一人と、追い追いに衆皆《みんな》が這入って来た。中には極り悪そうに這入って来る者もあれば、威張って這入って来る者もあった。すんなりと這入って来る者もあれば、不器用に這入って来る者もあった。押して這入って来る者もあれば、引張って這入って来る者もあった。とにかくどうなりこうなりしてことごと皆這入って来た。たちまち彼等は二十組に分れた。室を半分廻って、また他の道を戻って来る、室の真中を降りて行くかと思えばまた上って来る、仲の好い組合せの幾段階を作ってぐるぐる廻って行く。前の先頭の組はいつも間違った所でぐるりと曲って行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終いには先頭の組ばかりになって、彼等を助ける筈のしんがりの組が一つも後に続かないと云う始末だ。こんな結果になった時、老フェッジウィッグは舞踏を止めさせるように両手を叩きながら、大きな声で「上出来!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、黒麦酒の大洋盃の中へ真赧になった顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云わんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構わず、直ぐさままたやり始めたものだ。ちょうどもう一人の提琴手が疲れ果てて戸板に載せて家へ連れ帰られたので、自分はその提琴手をすっかり負かしてしまうか、さもなければ自分が斃れるまでやり抜こうと決心した真新しい人間でもあるように。  その上にもまだ舞踏があった、また罰金遊びもあった。そして、更にまた舞踏があった。それから菓子が出た、調合葡萄酒が出た、それから大きな一片の冷えた焼肉が出た、それから大きな一片の冷えた煮物が出た。それから肉饅頭が出た、また麦酒が[#「麦酒が」は底本では「麦酒か」]沢山に出た。が、当夜第一の喚び物は焼肉や煮物の出た後で、提琴手が(巧者な奴ですよ、まあ聴いて下さい!――読者や私なぞがこうしろああしろと命ずるまでもなく、ちゃんと自分のやるべきことを心得ていると云う手合ですよ!)「サー・ロージャー・ド・カヴァリー」(註、古風な田舎踊の名、当時非常に流行したものらしく、メレディスの「エゴイスト」の中にも出て来る。)を弾き始めた時に出たのであった。その老フェッジウィッグはフェッジウィッグ夫人と手を携えて踊りに立ち出でた。しかも、二人に取っては誂え向きの随分骨の折れる難曲に対して、先頭の組を勤めようと云うのだ。二十三四組の踊手が後に続いた。いずれも隅には置けない手合ばかりだ。踊ろうとばかりしていて、歩くなぞと云うことは夢にも考えていない人達なのだ。  が、彼等の人数が二倍あっても――おお、四倍あっても――老フェッジウィッグは立派に彼等の対手になれたろう、フェッジウィッグ夫人にしてもその通りだ。彼女はと云えば、相手という言葉のどういう意味から云っても、彼の相手たるに応わしかった。これでもまだ讃め足りないなら、もっと好い言葉を教えて貰いたい、私はそれを使って見せよう。フェッジウィッグの腓《ふくらはぎ》からは本当に火花が出るように思われた。その腓《ふくらはぎ》は踊のあらゆる部分において月のように光っていた。ある一定の時において、次の瞬間にその腓《ふくらはぎ》がどうなるか予言せよと云われても、何人にも出来なかったに相違ない。老フェッジウィッグ夫婦が踊の全部をやり通した時――進んだり退いたり、両方の手を相手に懸けたまま、お叩頭をしたり、会釈をしたり、手を取り合ってその下をくぐったり、男の腕の下を女がくぐったり、そして、再びその位置に返ったりして、踊の全部をやり通した時、フェッジウィッグは「飛び上った」、――彼は足で瞬きをしたかと思われたほど巧者に飛び上った。そして、蹌踉《よろめ》きもせずに再び足で立った。  時計が十一時を打った時、この内輪の舞踏会は解散した。フェッジウィッグ夫妻は入口の両側に一人ずつ陣取って、誰彼の差別なく男が出て行けば男、女が出て行けば女と云うように、一人々々握手を交して、聖降誕祭の祝儀を述べた。二人の丁稚を除いて、総ての人が退散してしまった時、彼等はその二人にも同じ様に挨拶した。で、こうして歓声が消え去ってしまった。そして、二人の少年は自分達の寝床に残された。寝床は店の奥の帳場の下にあった。  この間中ずっと、スクルージは本性を失った人のように振舞っていた。彼の心と魂とはその光景の中に入り込んで、自分の前身と一緒になっていた。彼は何も彼もその通りだと確信した、何も彼も想い出した、何も彼も享楽した。そして、何とも云われない不思議な心の動乱を経験した。彼の前身とディックとの嬉しそうな顔が見えなくなった時、始めて彼は幽霊のことを想い出した、幽霊が、その間ずっと頭上の光を非常にあかあかと燃え立たせながら、じっと自分を見詰めているのに気が附いた。 「些細な事だね」と、幽霊は云った、「あんな馬鹿な奴どもをあんなに有難がらせるのは。」 「些細ですって!」と、スクルージは問い返した。  精霊は二人の丁稚の云ってることに耳を傾けろと手真似で合図をした、二人は心底を吐露してフェッジウィッグを褒め立てているのであった。で、彼がそうした時、幽霊は云った。 「だってなあ! そうじゃないか。あの男はお前達人間の金子をほん[#「ほん」に傍点]の数ポンド費やしたばかりだ、高々三ポンドか四ポンドだろうね。それが、これほど讃められるだけの金額かね。」 「そんな事じゃありませんよ」と、スクルージは、相手の言葉に激せられて、彼の後身ではない、前身が饒舌《しゃべ》ってでもいるように、我を忘れて饒舌った。「精霊どの、そんな事を云ってるんじゃありませんよ。あの人は私どもを幸福にもまた不幸にもする力を持っています。私どもの務めを軽くも、また重荷にもする、楽しみにも、また苦しい労役にもする力を持っています。まああの人の力が言葉とか顔附きとかいうものに存しているにもせよです、すなわち〆めることも勘定することも出来ないような、極く些細な詰まらないものの中に存しているにもせよです、それがどうしたと云うのです? あの人の与える幸福は、それがために一身代を費やしたほど大したものなのですよ。」  彼は精霊がちらと此方《こちら》を見たような気がして、口を噤んだ。 「どうしたのだ?」と、幽霊は訊ねた。 「なに、別段何でもありませんよ」と、スクルージは云った。 「でも、何かあったように思うがね」と、幽霊は押して云った。 「いえ」と、スクルージは云った。「いえ、私の番頭に今一寸|一語《ひとこと》か二語《ふたこと》云ってやることが出来たらとそう思ったので、それだけですよ。」  彼がこの希望を口に出した時に、彼の前身は洋灯の心を引っ込ませた。そして、スクルージと幽霊とは再び並んで戸外に立っていた。 「私の時間はだんだん短くなる」と、精霊は云った。「さあ急いだ!」  この言葉はスクルージに話し掛けられたのでもなければ、また彼の眼に見える誰に云われたのでもなかった。が、たちまちその効果を生じた。と云うのは、スクルージは再び彼自身を見たのである。彼は今度は前よりも年を取っていた。壮年の盛りの男であった。彼の顔には、まだ近年のような、厳い硬ばった人相は見えなかったが、浮世の気苦労と貪欲の徴候は既にもう現われ掛けていた。その眼には、一生懸命な、貪欲な、落ち着きのない動きがあった。そして、それは彼の心に根を張った欲情について語ると共に、だんだん成長するその木(欲情の木)の影がやがて落ちそうな場所を示していた。  彼は独りではなくて、喪服を着けた美しい娘の側に腰を掛けていた。その娘の眼には涙が宿って、過去の聖降誕祭の幽霊から発する光の中にきらついていた。 「それは何でもないことですわ」と、彼女は静かに云った。「貴方に取っちゃ本当に何でもないことですわ。他の可愛いものが私に取って代ったのですもの。これから先それが、若し私が傍に居たらして上げようとしていた通りに、貴方を励ましたり慰めたりしてくれることが出来れば、私がどうのこうのと云って嘆く理由はありませんわね。」 「どんな可愛いものがお前に取って代ったのかね」と、彼はそれに答えて訊いた。 「金色のもの。」 「これが世間の公平な取扱いだよ」と、彼は云った。「貧乏ほど世間が辛く当たるものは他にない。それでいて金子を作ろうとする者ほど世間から手厳しくやっ附けられるものも他にないよ。」 「貴方はあまり世間と云うものを怖がり過ぎますよ」と、彼女は優しく答えた。「貴方の他の希望は、そう云う世間のさもしい非難を受ける恐れのない身になろうと云う希望の中に、ことごと皆呑み込まれてしまったんですね。私は貴方のもっと高尚な向上心が一つずつ凋落して行って、到頭終いに利得と云う一番主要な情熱が貴方の心を占領してしまうのを見て来ましたよ。そうじゃありませんか。」 「それがどうしたと云うのだ?」と、彼は云い返した。「仮に私がそれだけ悧巧になったとして、それがどうだと云うのだ? お前に対しては変っていないのだよ。」  彼女は頭を振った。 「変っているとでも云うのかね。」 「私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の来るまでは、それに満足していた時分に、その約束は出来たものですよ。貴方は変りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。」 「私は子供だったのだ」と、彼はじれったそうに云った。 「貴方自身のお心持に聞いて御覧になっても、以前の貴方が今の貴方でないことはお分りになりますわ」と、彼女はそれに応えて云った。「私は元のままです。二人の心が一つであった時に前途の幸福を約束してくれたものも、心が離れ離れになった今では、不幸を一杯に背負わされています。私はこれまで幾度またどんなに胆に徹えるほどこの事を考えて来たか、それはもう云いますまい。私もこの事については考えに考えて来ました。そして、その結果貴方との縁を切って上げることが出来ると云うだけで、もう十分で御座います。」 「私がこれまで一度でも破約を求めたことでもあるのか。」 「口ではね。いいえ、そりゃありませんわ。」 「じゃ、何で求めたのだ?」 「変った性貰で、変った心持で、全然違った生活の雰囲気で、その大きな目的として全然違った希望でです。貴方の眼から見て私の愛情をいくらかでも価値あるもの、値打ちのあるものにしていた一切のものでです。この約束が二人の間にかつてなかったとしたら」と、少女は穏やかに、しかしじっくりと相手を見遣りながら云った、「貴方は今私を探し出して、私の手を求めようとなさいますか。ああ、そんな事はとてもない!」  彼はこの推測の至当なのに、我にもあらず、屈服するように見えた。が、強いてその感情を抑えながら云った。「お前はそんな風に思っては居ないのだよ。」 「私も出来ることなら、そんな風に考えたくはないんですわ」と、彼女は答えた。「それはもう神様が御存じです! 私がこう云ったような真相を知った時には、(同時に)それがどんなに強く、かつ抵抗すべからざるものであるか、あるに違いないかと云うことを知ってるんですよ。まあ今日にしろ、明日にしろ、また昨日にしても、貴方が仮りに自由の身におなんなすったとして、持参金のない娘を貴方がお選びになるなぞと云うことが、私に信じられましょうか――その女と差向いで話しをなさる時ですら、何も彼も欲得ずくで測って見ようと云う貴方がさ。それとも、一時の気紛れから貴方がその唯一の嚮導の主義に背いてその女をお選びになったところで、後ではきっと後悔したり悔んだりなさるに違いないのを、私を知らないでしょうか。私はちゃんと知っています。そして、貴方との縁を切って上げます――それはもう心から喜んで、昔の貴方に対する愛のためにね。」  彼は何か云おうとした。が、彼女は相手に顔をそむけたまま再び言葉を続けた。 「貴方にもこれは多少の苦痛かも知れない――これまでの事を思うと、何だか本当にそうあって欲しいような気もしますがね。しかしそれもほん[#「ほん」に傍点]の僅かの間ですよ。僅かの間経てば、貴方はじきにそんな想い出は、一文にもならない夢として、喜んで抛棄しておしまいになるでしょうよ。まああんな夢から覚めて好かったと云うように思ってね。どうかまあ貴方のお選びになった生活で幸福に暮して下さいませ!」  彼女は男の前を去った。こうして、二人は別れてしまった。 「精霊どの!」と、スクルージは云った、「もう見せて下さいますな! 自宅《うち》へ連れて行って下さいませ。どうして貴方は私を苦しめるのが面白いのですか。」 「もう一つ幻影《まぼろし》を見せて上げるのだ!」と、幽霊は叫んだ。 「もう沢山です!」と、スクルージは叫んだ。「もう沢山です。もう見たくありません。もう見せないで下さい!」  が、毫も容赦のない幽霊は両腕の中に彼を羽翼締《はがいじ》めにして、無理矢理に次に起ったことを観察させた。  それは別の光景でもあれば別の場所でもあった。大層広くもなく、綺麗でもないが、住心地よく出来た部屋であった。冬の煖炉の傍に一人の美しい若い娘が腰掛けていた。その娘は、自分の娘の向い側に、今では身綺麗な内儀になって腰掛けている彼女を見るまでは、スクルージも同一人だと信じ切っていた位に、前の場面に出て来たあの少女とよく似ていた。部屋の中の物音は申分のない騒々しさであった。と云うのは、心に落着きのないスクルージには数え切れないほど大勢の子供がいたからであった。あの有名な詩中(註、ウォーヅウォースの「弥生に書かれたる」と題する短詩。)の羊の群とは違って、四十人の子供が一人のように振舞うのではなく、各一人の子供が四十人のように活動するのだから溜まらない。従ってその結果は信じられないほどの賑やかさであった。が、誰もそれを気にするようには見えない。それどころか、母親と娘とはきゃっきゃっと笑いながら、それを見て非常に喜んでいた。そして、娘の方は間もなくその遊戯に加わったが、たちまち若い山賊どもに、それはそれは残酷に剥ぎ取られてしまった。私もあの山賊の一人になることが出来たら、どんな物でも呉れてやるね、きっと呉れてやるよ。とは云え、私なら決してあんなに乱暴はしないね、断じて断じて。世界中の富を呉れると云っても、あの綺麗に編んだ毛をむしゃくしゃにしたり、ぐんぐん引き解いたりはしない積りだね。それからあの貴重な小さい靴だが、神も照覧あれ! たとい自分の生命を救うためだと云っても、私はそれを無理に引っ奪《た》くるようなことはしないね。冗談にも彼等、大胆な若い雛っ子連がやったように彼女の腰に抱き着くなんてことは、私には到底出来ないことだ。そんな事をすれば、私はその罰として腰の周りに私の腕が根を生やしてしまって、もう再び真直に延びないものと予期しなければならない。然も、実際を白状すると、私は堪らなく彼女の唇に触れたかったのだ。その唇を開かせるために、彼女に言葉を懸けて見たかったのだ。その伏眼がちの眼と睫毛を見詰めながら、しかも顔を赧らめさせずに置きたかったのだ。髪の毛を解いてゆるく波打たせて見たかったのだ。その一インチでも価に積もれないほど貴重な記念品になるその髪の毛を。一口に云えば、私は、まあ白状するがね、このもっとも重大な子供の特権を有しながら、しかもその特権の価値を知っているほどの大人でありたかったのだ。  ところが、今や入口の扉を叩く音が聞えた。すると、たちまち突貫がそれに続いて起って、彼女はにこにこ笑いながら、滅茶々々に着物を引き剥がされたまま、顔を火照らした騒々しい群れの真中に挟まれて、やっと父親の出迎いに間に合うように、入口の方へ引き摺られて行った。父親は、聖降誕祭の玩具や贈物を背負った男を伴れて戻って来たのである。次には叫喚と殺到、そして、何の防禦用意もない担夫に向って一斉に突撃が試みられた! それから椅子を梯子にして、その男の体躯に這い上りながら、その衣嚢《かくし》に手を突き込んだり、茶色の紙包みを引奪《ひったく》ったり、襟飾りに獅噛み着いたり、頸の周りに抱き着いたり、背中をぽんぽん叩いたり、抑え切れぬ愛情で足を蹴ったりが続く! 包みが拡げられる度に、驚嘆と喜悦の叫声でそれが迎えられた。赤ん坊が人形のフライ鍋を口に入れようとしているところを捕えただの、木皿に糊づけになっていた玩具の七面鳥を呑み込んじゃったらしい、どうもそれに違いないのだと云うような、怖ろしい披露! ところが、これは空騒ぎに過ぎなかったと分って、やれやれと云う大安心! 喜悦と感謝と有頂天! それがどれもこれも皆等しく筆紙に尽くし難い。で、その内にはだんだん子供達とその感動とが客間を出て、長い間かかって一段ずつ、階子段をやっと家の最上階まで上って行って、そこで寝床に這入ると、そのまま鎮まったとさえ云えば、沢山である。  そして、今やこの家の主人公が、さも甘ったれるように娘を自分の方へ凭れ掛けさせながら、その娘やその母親と一緒に自分の炉辺に腰を卸した時、スクルージは前よりも一層注意して見守っていた。そして、ちょうどこの娘と同じように優雅で行末の望みも多い娘が、自分を父と呼んで、己れの一生のやつれ果てた冬の時代に春の時候をもたらしてくれたかも知れないと想い遣った時、彼の視覚は本当にぼんやりと霑《うる》んで来た。 「ベルや」と、良人は微笑して妻の方へ振り向きながら云った。「今日の午後、お前の昔馴染に出会ったよ。」 「誰ですか。」 「中《あ》てて御覧。」 「そんな事中てられるものですか。いえなに、もう分りましたよ」と、良人が笑った時に自分も一緒になって笑いながら、彼女は一息に附け加えた。「スクルージさんでしょう。」 「そのスクルージさんだよ。私はあの人の事務所の窓の前を通ったのだ。ところで、その窓が閉め切ってなくって、室の中に蝋燭が点火してあったものだから、どうもあの人を見ない訳に行かなかったのさ。あの人の組合員は病気で死にそうだと云う話を聞いたがね。その室にあの人は一人で腰掛けていたよ――世界中に全くの一人ぼっちで、私はきっとそうだと思うね。」 「精霊どの!」と、スクルージは途切れ途切れの声で云った。「どうか他の所へ連れて行って下さい。」 「これ等のものがこれまであった事柄の影法師だとは、私からお前さんに云って置いたじゃないか」と、幽霊は云った。「あれがあの通りだからと云って、私を咎めては不可ないよ。」 「どこかへ連れて行って下さい!」と、スクルージは叫んだ。「私にはもう見て居られません!」  彼は幽霊の方へ振り向いた。そして、幽霊が、それまで彼に見せたいろんな人の顔が妙な工合にちらちらとそこに現われているような顔をして、じっと自分を見詰めているのを見て、どこまでも幽霊と揉み合った。 「貴方もどこかへ行って下さい! 私を連れ帰って下さい。もう二度と私の所へ出て下さるな!」  この争闘の間に――幽霊の方では少しも目に見えるような抵抗はしないのに、敵手がいくら努力してもびくとも動じないと云うような、これが争闘と称ばれ得るものなれば――スクルージは幽霊の頭の光が高く煌々と燃え立っているのを見た。そして、幽霊の自分の上に及ぼす勢力とその光とを朧げながら結び着けて、その消火器の帽を引っ奪って、いきなり飛びかかってそれを幽霊の頭の上に圧し附けた。  精霊はその下にへちゃへちゃと倒れた。その結果、精霊はその全身を消化器の中に包まれてしまった。が、スクルージは全身の力を籠めてそれを抑え附けていたけれども、なおその下から地面の上に一面の洪水となって流れ出すその光を隠すことが出来なかった。  彼は自分の身が疲れ果てて、とても我慢し切れない睡魔に圧倒されているのを意識していた。それだけなら可いが、なおその上に自分の寝室の中に寝ていることも意識していた。彼はその帽子に最後の一と拈《ひね》りを呉れた。それと同時に彼の手が緩んだ。そして、ようよう寝床の中へよろけ込むか込まないうちに、ぐっすり寝込んでしまった。 [#3字下げ]第三章 第二の精霊[#「第三章 第二の精霊」は中見出し]  素敵《すてき》もない大きな鼾を掻いている最中に不図眼を覚まして、頭を明瞭《はっきり》させようと床の上に起き直りながら、スクルージは別段報告されんでも鐘がまた一時を打つところであるのを悟った。ジェコブ・マアレイの媒介に依って派遣された第二の使者と会議を開こうと云う特別の目的のためには、随分際どい時に正気に返ったものだと、彼は心の中で思った。が、今度の幽霊はどの帷幄を引き寄せて這入って来るだろうかと、それが気になり出すと、どうも気味悪い寒さを背中に覚えたので、彼は自分の手でそれ等の窓掛を残らず側《わき》へ片寄せた。それからまた横になって、鋭い眼を寝台の周囲に放ちながら、じっと見張っていた。と云うのは、彼も今度は精霊が出現するその瞬間に、こちらから戦いを挑んでやろうと思ったからで、不意を打たれて、戦々《おどおど》するようになっては耐らないと思ったからである。  如才がないと云うことと、常にぼんやりしていないと云うことを自慢にしている、磊落なこせつかない[#「こせつかない」に傍点]質《たち》の紳士と云うものは、『字《じ》か素《す》か』と云うような子供の遊戯から殺人罪に到るまで何でも覚悟していると云うようなことを云って、冒険に対する自分の能力の範囲の広大なことを表現するものである。なるほど、この両極端の間には、随分広大で包括的な問題の範囲がある。スクルージのためにこれほど大胆不敵な真似は敢てしないでも、私は、彼が不思議な出現物の可なり広い範囲に対して覚悟をしていたことを、赤ん坊と犀との間なら何が出て来てもそんなに彼を驚かせなかったろうと云うことを信じて貰いたいと、諸君に向って要求することを意とするものではない。  ところで、スクルージはまず何物に対しても心構えはしていたようなものの、無に対しては少しも覚悟が出来ていなかった。従って、鐘が一時を打って、何の姿も現われなかった時には、恐ろしい戦慄の発作に襲われた。五分、十分、十五分と経っても、何一つ出て来ない。その間彼は寝台の上に、燃え立つような赤い光の真只中《まっただなか》に横になっていた。その光は、時計が一時を告げた時に、その寝台の上を流れ出したものである。そして、それがただの光であって、しかもそれが何を意味しているか、何をどうしようとしているのか、さっぱり見当を附けることが出来なかったので、スクルージに取っては十二の妖怪が出たよりも一層驚駭すべきものであった。時としてはまたその瞬間に自分が、それと知るだけの慰藉さえも持たないで、自然燃焼の興味ある実例に陥っているのじゃあるまいかと、怖ろしくもあった。が、最後に彼も考え出した――それは読者や著者の私なら最初に考え附いたことなのだ。と云うのはこういう難局に当ってはどう云う風にせねばならぬかと云うことを知って、またきっとそれを実行するであろうところのものは、常に難局の中にある者ではない。当事者以外の者であるからである。――で、私は云う、最後に彼もこの怪しい光の本体と秘密とは隣室にあるのじゃないか、更に好くその跡を辿って見ると、どうもその光はそこから射して来るようだからと云うことを考え附いた。この考えがすっかり頭の中を占領すると、彼はそっと起き上がって、上靴《すりっぱ》を穿いたまま戸口の方へ足を引き摺りながら歩み寄った。  スクルージの手が錠にかかったその刹那、耳慣れぬ声が彼の名を喚んで、彼に中に這入れと命じた。彼はそれに従った。  それは自分の部屋であった。それに毛頭疑いはない。ところが、それが驚くべき変化を来していた。四方の壁にも天井にも生々した緑葉が垂れ下がって、純然たる森のように見えた。その到るところに、きらきらとした赤い果実《このみ》が露のように燦めいていた。柊《ひいらぎ》や寄生木や蔦のぱりぱりする葉が光を照り返して、さながら無数の小形の鏡が散らかしてあるように見えた。スクルージの時代にも、マアレイの時代にも、また幾十年と云う過ぎ去った冬季の間にも、この化石したような冴えない煖炉がついぞ経験したことのないような、それはそれは盛んな火焔が煙突の中へぼうぼうと音を立てて燃え上っていた。七面鳥、鵞鳥、猟禽、家禽、野猪肉、獣肉の大腿、仔豚、腸詰の長い巻物、刻肉饅頭《ミンスパイ》、|李入り菓子《プラムプッディング》、牡蠣の樽、赤く焼けている胡桃、桜色の頬をしている林檎、露気の多い蜜柑、甘くて頬の落ちそうな梨子、非常に大きなツウェルブズ・ケーク、ポンス酒の泡立っている大盃などが各自の美味《おい》しそうな湯気を部屋中に漲らして、一種の玉座を形造るように、床の上に積み上げられていた。この長椅子の上に、見るも愉快な、陽気な巨人がゆったりと構えて坐っていた。彼はその形において豊饒の角に似ないでもない一本の燃え立つ松明を持っていたが、スクルージが扉の後《うしろ》から覗くようにして這入って来た時、その光を彼に振り掛けようとして、高くそれを差し上げた。 「お這入り!」と、幽霊は叫んだ。「お這入り! そして、もっと好く俺《わし》を御覧よ、おい!」  スクルージはおずおず這入って、この幽霊の前に頭を垂れた。彼は今や以前のような強情なスクルージではなかった。で、精霊の眼は朗らかな親切らしい眼ではあったけれども、彼は眼を上げてその眼にぶつかることを好まなかった。 「俺《わし》は現在の降誕祭《クリスマス》の幽霊じゃ」と、精霊は云った。「俺《わし》を御覧よ。」  スクルージはうやうやしげな態度でそうした。精霊は、白い毛皮で縁取った、濃い緑色の簡単な長衣、若しくは外套のようなものを身にまとっていた。この着物は体躯《からだ》の上にふわりと掛けてあるばかりで、その広やかな胸は丸出しになっていた。その有様は、さもそんな人工的なものを用いて包んだり護ったりするには及ばないと威張っているようであった。上衣の深い襞の下から見えているその足も、矢張り裸出《むきだ》しであった。またその頭には、ここかしこにぴかぴか光る氷柱《つらら》の下がっている柊の花冠の外に、何一つ冠ってはいなかった。その暗褐色の捲毛は長くかつゆるやかに垂れていた。ちょうどそのにこやかな顔、きらきらしている眼、開いた手、元気の好い声、打ち寛《くつろ》いだ態度、快げな容子と同じようにゆるやかに。またその腰の周りには古風な刀の鞘を捲いていた。が、その中に中味はなかった。而もその古い鞘は銹びてぼろぼろになっていた。 「お前さんはこれまで俺《わし》のような者を見たことがないんだね!」と、精霊は叫んだ。 「決して御座いません」と、スクルージはそれに返辞をした。 「俺《わし》の一家の若い連中と一緒に歩いたことがなかったかね。若い連中と云っても、(俺はその中で一番若いんだから)この近年に生まれた俺《わし》の兄さん達のことを云ってるんだよ」と、幽霊は言葉を続けた。 「そんな事があったようには覚えませんが」と、スクルージは云った。「どうも残念ながら一緒に歩いたことはなかったようで御座います。御兄弟が沢山おありですか、精霊殿?」 「千八百人からあるね」と、幽霊は云った。 「恐ろしく沢山の御家族ですね、喰わせて行くにも」とスクルージは口の中で呟いた。  現在の聖降誕祭の幽霊は立ち上がった。 「精霊殿!」と、スクルージは素直に云った、「どこへなりともお気の向いた所へ連れて行って下さいませ。昨晩は仕様事なしに随いて行きましたが、現に今私の心にしみじみ感じている教訓を学びました。今晩も、何か私に教えて下さりますのなら、どうかそれに依って利するところのあるようにして下さいませ。」 「俺《わし》の上衣に触って御覧!」  スクルージは云われた通りにした。そして、しっかりそれを握った。  柊も、寄生樹も、赤い果実も、蔦も、七面鳥も、鵞鳥も、猟禽も、家禽も、野猪肉も、獣肉も、豚も、腸詰も、牡蠣も、パイも、プッディングも、果物も、ポンス酒も、瞬く間にことごとく消え失せてしまった。同様に部屋も煖炉も、赤々と燃え立つ焔も、夜の時間も消えてしまって、二人は聖降誕祭の朝を都の往来に立っていた。街上では(寒気が厳しかったので)人々は各自の住家《すまい》の前の舗石の上や、屋根の上から雪をこそげ落しながら、暴々しい、しかし快活な、気持ちの悪くない一種の音楽を奏していた。屋根の上から下の往来へばたばたと雪が落ちて来て、人工の小さな吹雪となって散乱するのを見るのは、男の子に取っては物狂おしい喜びであった。  屋根の上の滑《なめら》かな白い雪の蒲団と、地面の上のやや汚《よご》れた雪とに対照して、家の正面は可なり黒く、窓は一層黒く見えた。地上の雪の降り積った表皮《うわかわ》は、荷馬車や荷車の重たい車輪に鋤き返されて、深い皺を作っていた。その皺は、幾筋にも大通りの岐かれている辻では、幾百度となく喰い違った上をまた喰い違って、厚い黄色の泥濘や凍り附いた水の中に、どれがどうと見分けの附かない、縺れ合った深い溝になっていた。空はどんよりして、極く短い街々ですら、半ばは溶け、半ばは凍った薄汚い霧で先が見えなくなっていた。そして、その霧の中の重い方の分子は煤けた原子の驟雨となって、あたかも大英国中の煙突がことごとく一致して火を点けて、思う存分心の行くままに烟を吐き出してでもいるように降って来た。この時候にも、またこの都の中にも、大して陽気なものは一つとしてなかった。それでいて、真夏の澄み渡った空気だの照り輝く太陽だのがいくら骨を折って発散しようとしてもとても覚束ないような陽気な空気が戸外に棚引いていた。  と云うのは、屋根の上でどしどし雪を掻き落していた人々が、屋根上の欄干から互いに呼び合ったり、時々は道化た雪玉――これは幾多の戯談口よりも遥に性質《たち》の好い飛道具である――を投げ合ったり、それが旨く中ったと云って、からからと笑ったり、また中らなかったと云って、同じようにからからと笑ったりしながら、陽気に浮かれ切っていたからである。鳥屋の店はまだ半分開いていた、果実屋の店は今日を晴れと華美を競って照り輝いていた。そこには大きな、円い、布袋腹の栗籠が幾つもあって、陽気な老紳士の胴衣のような恰好をしながら、戸口の所にぐったりと凭れているのもあれば、中気に罹ったように膨れ過ぎて往来へごろごろ転がり出しているのもあった。そこにはまた赤々と褐色の顔をして、広い帯を締めた西班牙《スペイン》種の玉葱があって、西班牙の坊さんのように勢いよく肥え太ってぴかつきながら、娘っ子が通りかかる度に、淫奔で狡猾そうな眼附きで棚の上からそっ[#「そっ」に傍点]と目配せしたり、吊り上げてある寄生樹を真面目腐った顔で見遣ったりしていた。(註、聖降誕祭では婦人が寄生樹の下を通ると、それに接吻してもいいそうな。)そこにはまた梨子だの、林檎だのが色盛りの三色塔のように高く盛り上げられていた。そこにはまた葡萄の房が、店主の仁慈《なさけ》で、通りすがりの人が無料で口に露気を催すようにと、人目に立つ鉤にぶら[#「ぶら」に傍点]下げられていた。そこにはまた榛《はしばみ》の実が苔が附いて褐色をして、山と積み上げられていた。そして、その香気で、森の中の古い小径や、枯れた落葉の中を踝まで没しながら足を引き摺り引き摺り愉快に歩き廻ったことを想い出させていた。そこにはまた肉が厚く色の黒ずんだノーフオーク産の林檎があって、蜜柑や檸檬の黄色を引き立たせたり、その露気の多い肉の締った所で、早く紙袋に包んでお持ち帰りになって、食後に召上れと切に懇願したり嘆願したりしていた。これ等の精選した果物の間には、金魚銀魚が鉢に入れて出してあったが、そんな無神経な血の運りの悪い動物でも、世の中には何事か起っていると云うことを感知しているように見えた。そして、一尾残らずゆっくりした情熱のない昂奮の下に彼等の小さな世界をぐるぐると喘ぎながら廻っていた。  食料品屋! おお食料品屋! 恐らくは一二枚の雨戸を外して、自余《あと》は大概締めてあった。だが、その隙間からだけでも、こんな光景がずらりと見えるんだ! それは単に秤皿が帳場の上まで降りて来て愉快な音を立てているばかりではなかった。また撚糸がそれを捲いてある軸からぐるぐると活発に離れて来るばかりではなかった。また缶が手品を使っているようにからからと音を立ててあちこち転がっているばかりではなかった。また茶と珈琲の交じった香気が鼻に取って誠に有難かったり、乾葡萄が沢山あって而も極上等に、巴旦杏が素敵に真白で、肉桂の棒が長くかつ真直で、その他の香料も非常に香ばしく、砂糖漬けの果物が、極めて冷淡な傍観者でも気が遠くなって、続いて苛々して来るほどに、溶かした砂糖で固めたり塗《まぶ》したりされているばかりでもなかった。またそれは無花果がじくじくとして和らかであったばかりでも、また仏蘭西梅が盛に飾り立てた箱の中からほどの好い酸味を持って顔を赧めながら覗いているばかりでも、または何でも彼でも喰べるに好く、また聖降誕祭の装いを凝らしているばかりでもなかった。それよりもむしろお客が皆この日の嬉しい期待に気が急いで夢中になっているのであった、そのために入口で互いに突き当って転がったり、柳の枝製の籠を乱暴に押し潰したり、帳場の上に買物を忘れて帰ったり、またそれを取りに駆け戻って来たりして、同じ様な間違いを幾度となく極上の機嫌で繰返しているのであった。同時に食料品屋の主人も店の者も、前垂を背中で締め着けている磨き上げた心臓型の留め金は、一般の方々に見て頂くために、またお望みなら聖降誕祭の鴉どもに啄いて貰うために、表側に懸けた彼等自身の心臓で御座いと云わぬばかりに開放的にかつ生々と働いていた。  が、間もなく方々の尖塔(の鐘)は教会や礼拝堂に善男善女を呼び集めた。彼等は、晴れ着を着飾って街一杯に群がりながら、さもさも愉快そうな顔を揃えて、ぞろぞろと出掛けて来た。すると、同時に数多の横町、小径、名もない角々から、無数の人々が自分達の御馳走を麺麭屋の店へ搬びながら出て来た。これ等の貧しい人々の楽しそうな光景は、痛く精霊の御意に適ったと見えて、彼は麺麭屋の入口に、スクルージを自分の傍に惹き附けながら立っていた。そして、彼等が御馳走を持って通る毎に蓋を取って、松明からその御馳走の上に香料を振りかけてやった。その松明がまた普通の松明ではなかった、と云うのは、一度か二度御馳走を搬んで来た人達が互に押し合いへし[#「へし」に傍点]合いして喧嘩を始めた時、彼はその松明から彼等の上に二三滴の水を振りかけてやった。すると、彼等はたちまち元通りの好い機嫌になったものだ。彼等はまた、何しろ聖降誕祭の日に喧嘩するなんて恥かしいこったと云ったものだ。その通りだとも! まったく、その通りだとも!  その内に鐘の音は止んだ。そして、麺麭屋の店も閉じられた。しかしどこの麺麭屋でもその竈の上の雪溶けの濡れた所には、それ等の御馳走やその料理の進行に伴うのどかな影がほんのりと表われていた。つまりそこでは、どうやらその石まで料理されているように、舗道が湯気を立てていたのである。 「貴方が松明から振り掛けなさいますものには、何か特別の香味でも附いていますのですか」と、スクルージは訊ねた。 「あるね。俺自身の香味だよ。」 「それが今日のどんな御馳走にでもよく適《あ》うので御座いますか」と、スクルージは訊ねた。 「親切に出される御馳走なら、どんな御馳走にも適うのじゃ、貧しい御馳走には特に適うんだね。」 「何故貧しい御馳走に特に適うので御座いますか。」 「そう云う御馳走は別けてもそれが入用じゃからね。」 「精霊殿!」と、スクルージは一寸考えた後で云った、「私どもの周囲のいろいろな世界のありとあらゆる存在の中で、(他の物ならとにかく)貴方がこれ等の人々の無邪気な享楽の機会を奪おうとしていられると云うことは、私はどうも不思議でなりませんよ。」 「俺《わし》が?」と、精霊は叫んだ。 「七日目毎に貴方は彼等が御馳走を喫べる便宜を奪っておしまいになるんですよ。彼等がとにかく御馳走を喰べられるのはこの日位なものだと云われているその日にですね」と、スクルージは云った。「そうじゃありませんかい。」 「俺《わし》がだ!」と、精霊は叫んだ。 「貴方は七日目毎にこう云う場所を閉めさせようとしておいでになるのでしょう?」と、スクルージは云った。「だから、同じ事になるんですよ。」 「俺《わし》がそうしようと思ってるんだって?」と、精霊は大きな声で云った。 「間違っていたら御免下さい。ですが、貴方のお名前で、少なくとも貴方のお身内のお名前で、そう云う事をして居りますのです」と、スクルージは云った。 「お前方のこの世の中にはね」と、精霊は答えた、「俺《わし》達を知っているような顔をしながら、情欲、驕慢、悪意、憎悪、嫉妬、頑迷、我利の行いを俺達の名でやっている者があるんだよ。しかもそいつ等は、かつて生きていたことがないように、俺達や、俺達の朋友親戚には一面識もない奴等なんだよ。これはよく記憶《おぼ》えて置いて、彼奴等のしたことについては、彼奴等を責めるようにして、俺達を咎めてもらいたくないものだね。」  スクルージはそうすると約束した。それから彼等は前と同じように姿を現わさないで、町の郊外へ入り込んで行った。精霊が、その巨大な体躯にも係らず、どんな場所にもらくらくとその身を適応させることが出来たと云うことは、また彼が低い屋根の下でも、どんな高荘な広間ででも振舞うことが可能であったと同じように優雅《しとやか》に、その上いかにも神変不思議の生物らしく立っていたと云うことは、彼の顕著な特質であった。(そして、その特質をスクルージは既に麺麭屋の店で気が附いていたのである。)  精霊が真直にスクルージの書記の家へ出掛けて行ったのは、恐らくこの精霊が彼のこの力を見せびらかすことにおいて感ずる快楽のためか、それでなくば彼の持って生れた親切にして慈悲深い、誠実なる性質と、総ての貧しき者に対する同情のためかであった。何となれば、彼は実際出懸けて行った、そして自分の着物に捕《つか》まっているスクルージを一緒に連れて行った。それから戸口の敷居の上でにっこり笑って、彼の松明から例の雫を振り掛けながら、ボブ・クラチット(註、ボブはロバートの愛称である。)の住居を祝福してやろうと立ち止まった。考えても見よ! ボブは一週間に彼自身僅かに十五ボブ(註、一ボブは一シリングの俗称である。)を得るばかりであった。――彼は土曜日毎に自分の名前の僅かに十五枚を手に入れるばかりであった。――而も現在の基督降誕祭の精霊は彼の四間《よま》の家を祝福してくれたのであった。  その時クラチット夫人すなわちクラチットの細君は二度も裏返しをした着物で、粗末ながらにすっかり身繕いをして、しかし廉《やす》くて、六ペンスにしては好く見えるリボンで華やかに飾り立てて出て来た。そして彼女は、これもまたリボンで飾り立てている二番目娘のベリンダ・クラチットに手伝わせて、食卓布をひろげた。一方では、子息のピータア・クラチットが馬鈴薯の鍋の中に肉叉を突込んだ。そして、恐ろしく大きな襯衣《シャツ》(この日の祝儀として、ボブが彼の子息にして嗣子なるピーターに授与したる私有財産)の襟の両端を自分の口中に啣えながら、我ながらいかにも華々しくめかし込んだのに嬉しくなって、流行児の集まる公園に出懸けて自分の下着を見せたくて堪らなかった。さて、二人の一層小さいクラチット達、すなわち男の児と女の児とは、麺麭屋の戸外で鵞鳥の匂いを嗅いだが、それが自分達のだと分ったと云って、きゃあきゃあ叫びながら躍り込んで来た。そして、これ等の小クラチット達はサルビヤだの葱だのと贅沢な考えに耽りながら、食卓の周囲を躍り廻って、ピータア・クラチット君を口を極めて褒めそやした。その間に彼は(襯衣の襟が咽喉を締めそうになっていたが、別段自慢もしないで)のろのろした馬鈴薯が漸く煮えくり返りながら、取り出して皮を剥いてくれと、大きな音を立てて鍋の蓋を叩き出すまで、火を吹き熾していた。 「それはそうと、お前達の大切《だいじ》の阿父さんはどうしたんだろうね?」と、クラチット夫人は云った。「それからお前達の弟のちび[#「ちび」に傍点]のティムもだよ! それからマーサも去年の基督降誕祭には約三十分も前に帰って来ていたのにねえ。」 「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と云いながら、一人の娘がそこに現われた。 「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と、二人の小クラチットどもは叫んだ。「万歳! こんな鵞鳥があるよ、マーサ!」 「まあ、どうしたと云うんだね、マーサや、随分遅かったねえ!」と云いながら、クラチット夫人は幾度も彼女に接吻したり、彼是と世話を焼きたがって、相手のシォールだの帽子だのを代って取って遣ったりした。 「昨夜《ゆうべ》のうちに仕上げなければならない仕事が沢山あったのよ」と、娘は答えた、「そして、今朝はまたお掃除をしなければならなかったのでねえ、阿母さん!」 「ああああ、来たからにはもう何も云うことはないんだよ」と、クラチット夫人は云った。「煖炉の前に腰をお掛けよ。そして、先ずお煖まりな。本当に好かったねえ。」 「いけない、いけない、阿父さんが帰っていらっしゃるところだ」と、どこへでもでしゃばり[#「でしゃばり」に傍点]たがる二人の小さいクラチットどもは呶鳴った。「お隠れよ、マーサ、お隠れよ。」  マーサは云われるままに隠れた。阿父さんの小ボブは襟巻を、総《ふさ》を除いて少くとも三尺はだらりと下げて、時節柄見好いように継ぎを当てたり、ブラシを掛けたりした、擦り切れた服を身に着けていた。そして、ちび[#「ちび」に傍点]のティムを肩車に載せて這入って来た。可哀そうなちび[#「ちび」に傍点]のティムよ、彼は小さな撞木杖を突いて、鉄の枠で両脚を支えていた。 「ええ、マーサはどこに居るのか」と、ボブ・クラチットは四辺《あたり》を見廻しながら叫んだ。 「まだ来ませんよ」と、クラチット夫人は云った。 「まだ来ない!」と、ボブは今まで元気であったのが急に落胆《がっかり》して云った。実際、彼は教会から帰る途すがら、ずっとティムの種馬になって、ぴょんぴょん跳ねながら帰って来たのであった。「基督降誕祭だと云うのにまだ来ないって!」  マーサは、たとい冗談にもせよ、父親が失望しているのを見たくなかった。で、まだ早いのに押入れの戸の蔭から出て来た。そして、彼の両腕の中に走り寄った。その間二人の小クラチットどもはちび[#「ちび」に傍点]のティムをぐいぐい引っ張って、鍋の中でぐつぐつ煮えている肉饅頭の歌を聞かせてやろうと台所へ連れて行った。 「で、ティムはどんな風でした?」と、クラチット夫人は、先ずボブが軽々しく人の云うことを本気にするのを冷かし、ボブはまた思う存分娘を抱き締めた後で、こう訊ねた。 「黄金のように上等だった」と、ボブは云った。「もっと善かったよ。あんなに永く一人で腰掛けていたもので、どうやらこう考え込んでしまったんだね。そして、誰も今まで聞いたこともないような不思議な事を考えているんだよ。帰り途で、私にこう云うんだ、教会の中で衆皆《みんな》が自分を見てくれれば可いと思った。何故なら自分は跛者だし、聖降誕祭の日に、誰が跛者の乞食を歩かせたり、盲人を見えるようにして下さったかと云うことを想い出したら、あの人達も好い気持だろうからとこう云うんだよ。」  皆にこの話をした時、ボブの声は顫えていた。そして、ちび[#「ちび」に傍点]のティムも段々しっかりして達者になって来たと云った時には、一層それが顫えていた。  せわしない[#「せわしない」に傍点]、小さな撞木杖の音が床の上に聞えた。そして、次の言葉がまだ云い出されないうちに、ちび[#「ちび」に傍点]のティムは彼の兄や姉に護られて、もう煖炉の傍の自分の床几に戻って来た。その間ボブは袖口をまくり上げて――気の毒な者よ、あんな袖口がこの上まで汚《よご》れようがあるか何ぞのように――ジン酒と檸檬で鉢の中に一種の熱い混合物《まぜもの》を拵えた。そして、それをぐるぐる掻き廻してから、とろ[#「とろ」に傍点]火で煮るために炉側の棚の上に載せた。ピーター君と二人のちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]した小クラチットどもは鵞鳥を取りに出掛けたが、間もなくそれを持って仰々しい行列を作って帰って来た。  あらゆる鳥の中で鵞鳥を最も稀有なものと、諸君が思われたかも知れないような騒ぎが続いて起った。羽の生えた怪物、それに比べては、黒い白鳥も異とするに足りない――で、実際この家では鵞鳥がまずそれと同じようなものであった。クラチット夫人は肉汁(前以て小さな鍋に用意して置いた)をシューシュー煮立たせた。ピータア君はほとんど信じられないような力で馬鈴薯を突き潰した。ベリンダ嬢はアップル・ソースに甘味をつけた。マーサは(湯から出し立ての)熱い皿を拭いた。ボブはちび[#「ちび」に傍点]のティムを食卓の小さな片隅へ連れて行って、自分の傍に腰掛けさした。二人の小クラチットどもは衆皆《みんな》のために椅子を並べた。衆皆《みんな》と云う中にはもちろん自分達の事も忘れはしなかった。そして、自分の席について見張りをしながら、自分達の盛《よそ》って貰う順番が来ないうちに早く鵞鳥が欲しいなぞと我鳴り立ててはならないと思って、口の中一杯に匙を押込んでいた。到頭お皿が並べられた。食前のお祈りも済んだ。それからクラチット夫人が大庖丁を手に取って、ゆるゆるとそれを一遍並み見渡しながら、鵞鳥の胸に突き刺そうと身構えた時、一座は息を殺してぱたりと静かになった。が、それを突き刺した時には、そして、永い間待ち焦れていた詰め物がどっと迸り出た時には、食卓の周囲から喜悦の呟き声が一斉に挙がった。そして、ちび[#「ちび」に傍点]のティムでさえ二人の小クラチットどもに励まされて、自分の小刀の柄で食卓を叩いたり、弱々しい声で万歳! と叫んだりした。  こんな鵞鳥は決して有りっこがなかった。ボブはこんな鵞鳥がこれまで料理されたとは思われないなぞと云った。その軟かさと云い、香気と云い、大きさと云い、廉価なことと云い、皆一同の嘆称の題目であった。アップル・ソースと潰した馬鈴薯とで補えば、家中残らずで喰べるに十分の御馳走であった。まったくクラチット夫人が、(皿の上に残った小さな骨の破片をつくづく見遣りながら、)さも嬉しそうに云った通り、彼等はとうとうそれを喰べ切れなかったのだ! それでも各自は満腹した、別けても小さい者達は眼の上までサルビヤや葱に漬かっていた。ところが、今度はベリンダ嬢が皿を取り換えたので、クラチット夫人は肉饅頭を取り上げて持って来ようと、独りでその部屋を出て行った――肉饅頭を取り出すところを他の者に見られることなぞとても我慢が出来なかったほど、彼女は神経質になっていたのである。  仮りにそれが十分火が通っていなかったとしたら! 取り出す際に、それが壊れでもしたら! 仮りにまた一同の者が鵞鳥に夢中になっていた間に、何人かが裏庭の塀を乗りこえて、それを盗んで行ったとしたら――想像しただけで、二人の小クラチットどもが蒼白になってしまったような仮定である。あらゆる種類の恐怖が想像された。  やッ! 素晴らしい湯気だ! 肉饅頭は鍋から取り出された。洗濯日のような臭いがする! それは布片であった。互に隣り合せた料理屋とカステラ屋のまたその隣りに洗濯屋がくっついているような臭いだ! それが肉饅頭であった! 一分と経たないうちに、クラチット夫人は這入って来た――真赧になって、が、得意気ににこにこ笑いながら――火の点いた四半パイントの半分のブランディでぽっぽと燃え立っている、そして、その頂辺には聖降誕祭の柊を突き刺して飾り立てた、斑《ふ》入《い》りの砲弾のように、いかにも硬くかつしっかりした肉饅頭を持って這入って来た。  おお、素敵な肉饅頭だ! ボブ・クラチットは、しかも落着き払って、自分はそれを結婚以来クラチット夫人が遣り遂げた成功の最も大なるものと思う旨を述べた。クラチット夫人は、心の重荷が降りた今では、自分は実は粉の分量について懸念を抱いていたことをうち明けようと思うとも云った。各自それについて何とか彼とか云った。が、何人もそれが大人数の家庭に取っては、どう見ても小さな肉饅頭であるなぞと云うものもなければ、そう考えるものもなかった。そんな事を云おうものなら、それこそ頭から異端である。クラチットの家の者で、そんな事を暗示して顔を赧らめないような者は一人だってなかったろう。  とうとう御馳走がすっかり済んだ、食卓布は綺麗に片附けられた。煖炉も掃除されて、火が焚きつけられた。壺の調合物は味見をしたところ、申分なしとあって、林檎と蜜柑が食卓の上に、十能に一杯の栗が火の上に載せられた。それからクラチットの家族一同は、ボブ・クラチットの所謂団欒(円周)、実は半円のことであるが、それを成して、煖炉の周囲に集った。そして、ボブ・クラチットの肱の傍には家中の硝子器と云う硝子器が飾り立てられた――すなわち水飲みのコップ二個と、柄のないカスタード用コップ一個と。  これ等の容器は、それでも、黄金の大盃と同様に壺から熱い物をなみなみと受け入れた。ボブは晴れ晴れしい顔附きでそれを注いでしまった。その間火の上にかかった栗はジウジウ汁を出したり、パチパチ音を立てて割れた。それからボブは発議した。―― 「さあ皆や、一同に聖降誕祭お目出とう。神様よ、私どもを祝福して下さいませ。」  家族の者一同はそれに和した。 「神様よ、私ども一同を祝福したまわんことを」と、皆の一番後からちび[#「ちび」に傍点]のティムが云った。  彼は阿父さんの傍にくっついて自分の小さい床几に腰掛けていた。ボブは彼の痩せこけた小さい手を自分の手に握っていた。あたかもこの子が可愛くて、しっかり自分の傍に引き附けて置きたい、誰か自分の手許から引き離しやしないかと気遣ってでもいるように。 「精霊殿!」と、スクルージは今までに覚えのない興味を感じながら云った。「ちび[#「ちび」に傍点]のティムは生きて行かれるでしょうか。」 「私にはあの貧しい炉辺に空いた席と、主のない撞木杖が大切に保存されてあるのが見えるよ。これ等の幻影が未来の手で一変されないで、このまま残っているものとすれば、あの子は死ぬだろうね。」 「いえ、いいえ」と、スクルージは云った。「おお、いえ、親切な精霊殿よ、あの子は助かると云って下さい。」 「ああ云う幻影が未来の手で変えられないで、そのまま残っているとすれば、俺の種族の者達はこれから先|何人《だれ》も」と、精霊は答えた、「あの子をここに見出さないだろうよ。で、それがどうしたと云うのだい? あの児が死にそうなら、いっそ死んだ方がいい。そして、過剰な人口を減らした方が好い。」  スクルージは精霊が自分の言葉を引用したのを聞いて、頭を垂れた。そして、後悔と悲嘆の情に圧倒された。 「人間よ」と、精霊は云った、「お前の心が石なら仕方ないが、少しでも人間らしい心を持っているなら、過剰とは何か、またどこにその過剰があるかを自分で見極めないうちは、あんな好くない口癖は慎んだが可いぞ。どんな人間が生くべきで、どんな人間が死ぬべきか、それをお前が決定しようと云うのかい。天の眼から見れば、この貧しい男の伜のような子供が何百万人あっても、それよりもまだお前の方が一層下らない、一層生きる値打ちのない者かも知れないのだぞ! おお神よ、草葉の上の虫けらのような奴が、塵芥の中に蠢いている饑餓に迫った兄弟どもの間に生命が多過ぎるなぞとほざくのを聞こうとは!」  スクルージは精霊の非難の前に頭を垂れた。そして、顫えながら地面の上に眼を落とした。が、自分の名が呼ばれるのを聞くと、急いでその眼を挙げた。 「スクルージさん!」と、ボブは云った。「今日の御馳走の寄附者であるスクルージさんよ、私はあなたのために祝盃を上げます。」 「御馳走の寄附者ですって、本当にねえ」と、クラチット夫人は真赧になりながら叫んだ。「本当に此辺へでもあの人がやって来て見るがいい、思いさま毒づいて御馳走してやるんだのにねえ! あの人のことだから、それでも美味しがって存分喰べることでしょうよ。」 「ねえ、お前」と、ボブは云った。「子供達が居るじゃないか! それに聖降誕祭だよ。」 「たしかに聖降誕祭に違いありませんわね」と、彼女は云った。「スクルージさんのような、憎らしい、けちん坊で、残酷で、情を知らない人のために祝盃を上げてやるんですから。貴方だってそう云う人だとは知っているじゃありませんか、ロバート。いいえ、何人だって貴方ほどよくそれを知っている者はありませんわ、可哀相に。」 「ねえ、お前」と、ボブは穏かに返辞をした。「基督降誕祭だよ。」 「私も貴方のために、また今日の好い日のためにあの人の健康を祝いましょうよ」と、クラチット夫人は云った。「あの人のためじゃないんですよ。彼に寿命長かれ! 聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う! あの人はさぞ愉快で幸福でしょうよ、きっとねえ。」  子供達は彼女に倣って祝盃を挙げた。彼等のやったことに真実が籠っていなかったのは、これが始めてであった。ちび[#「ちび」に傍点]のティムも一番後から祝盃を挙げた。が、彼は少しもそれに気を留めていなかった。スクルージは実際この一家の食人鬼であった。彼の名前が口にされてからと云うもの、一座の上に暗い陰影が投げられた。そして、それは全《まる》五分間も消えずに残っていた。  その影が消えてしまうと、彼等はスクルージと云う毒虫の片が附いたと云う単なる安心からして、前よりは十倍も元気にはしゃいだ。ボブ・クラチットはピータア君のために一つの働き口の心当りがあることや、それが獲られたら、毎週五シリング半入ることなどを一同の者に話して聞かせた。二人の少年クラチットどもはピータアが実業家になるんだと云って散々に笑った。そして、ピータア自身は、その眩惑させるような収入を受取ったら、一つ何に投資してやろうかと考え込んででもいるように、カラーの間から煖炉の火を考え深く見詰めていた。それから婦人小間物商のつまらない奉公人であったマーサは、自分がどんな種類の仕事をしなければならないかとか、一気に何時間働かなければならないかとか、明日は休日で一日自宅に居るから、明日の朝はゆっくり骨休めをするために朝寝坊をするつもりだとか云うことを話した。また、彼女はこの間一人の伯爵夫人と一人の華族様とを見たが、その貴公子は「ちょうどピータア位の身丈《せい》恰好《かっこう》であった」とも話した。ピータアはそれを聞くと、たとい読者がその場に居合せたとしても、もう彼の頭を見ることは出来なかったほど、自分のカラーを高く引張り上げたものだ。その間栗と壺とは絶えずぐるぐると廻されていた。やがて一同はちび[#「ちび」に傍点]のティムが雪の中を旅して歩く迷児《まいご》のことを歌った歌を唄うのを聞いた。彼は悲しげな小さい声を持っていた。そして、それを大層上手に唄った。  これには別段取り立てて云うほどのことは何もなかった。彼等は固より立派な家族ではなかった。彼等は身綺麗にもしていなかった。彼等の靴は水が入らぬどころではなかった。彼等の衣服は乏しかった。ピータアは質屋の内部を知っていたかも知れない、どうも知っているらしかった。けれども、彼等は幸福であった、感謝の念に満ちていた、お互に仲が好かった、そして今日に満足していた。で、彼等の姿がぼんやりと淡くなって、しかも別れ際に精霊が例の松明から振り掛けてやった煌々たる滴りの中に一層晴れやかに見えた時、スクルージは眼を放たず一同の者を見ていた、特にちび[#「ちび」に傍点]のティムを最後まで見ていた。  その時分にはもう段々暗くなって、雪が可なりひどく降って来た。で、スクルージと精霊とが街上を歩いていた時、台所や、客間や、その他あらゆる種類の室々で音を立てて燃え盛っている煖炉の輝かしさと云ったら凄じかった。此方では、チラチラする焔が、煖炉の前で十分に焼かれている熱い御馳走の皿や、寒気と暗黒とを閉め出すために、一たびは開いても直ぐにまた引き下ろされようとしている深紅色の窓掛と一緒になって、小ぢんまりした愉快な晩餐の用意を表わしていた。彼方では、家中の子供達が自分達の結婚した姉だの、兄だの、従兄だの、伯父だの、叔母だのを出迎えて、自分こそ一番先に挨拶をしようと、雪の中に走り出していた。また彼方には、皆頭巾を被って毛皮の長靴を履いた一群の美しい娘さんが、一度にべちゃくちゃ饒舌りながら、軽々と足を運んで、近所の家に出掛けて行った。そこへ彼等がぽっと上気しながら這入って来るのを見た独身者は災禍《わざわい》なるかな――手管のある妖女どもよ、彼等はそれを知っているのである。  ところで、読者にして若しかく親しい集会に出掛けて行く人数から判断したとすれば、どの家も仲間を待ち設けたり、煙突の半分までも石炭の火を積み上げたりしてはいないで、折角お客様がそこへ着いても、一人も自宅にいて出迎えてくれる者はないだろうと思われるかも知れない。どの家にも祝福あれや! いかに精霊は欣喜雀躍したことぞ! いかにその胸幅を露《む》き出しにして、大きな掌をひろげたことぞ! そして、手のとどく限りあらゆる物の上に、その晴れやかで無害な快楽をその慈悲深い手で振り撒きながら、ふわふわと登って行ったことぞ! 灯火の斑点で黄昏時の薄暗い街にポツポツ点を打ちながら駆けて行く点灯夫ですら、今宵をどこかで過すために好い着物に代えていたが、その点灯夫ですら精霊が通りかかった時には声を立てて笑ったものだ――聖降誕祭の外に自分の伴侶があろうとは夢にも知らなかったけれども。  ところで、今や精霊から一言の警告もなかったのに、突然二人は冬枯れた物寂しい沼地の上に立った。そこには巨人の埋葬地ででもあったかのように、荒い石の怖ろしく大きな塊がそちこちに転っていた。水は心のままにどこへでも流れ拡がっていた。いや、結氷が水を幽閉して置かなかったら、きっとそうしていたであろう。苔とはりえにしだ[#「はりえにしだ」に傍点]と、粗い毒々しい雑草の外には何も生えていなかった。西の方に低く夕陽が一筋火のように真赤な線を残して消えてしまった。それが一瞬間荒漠たる四辺の風物の上に、陰惨な眼のようにあかあかとぎらついていたが、だんだん低く、低くその眼を顰めながら、やがて真暗な夜の濃い暗闇の中に見えなくなってしまった。 「ここはどう云う所で御座いますか」と、スクルージは訊ねた。 「鉱夫どもの住んでいるところだよ、彼等は地の底で働いているのだ」と、精霊は返辞をした。「だが、彼等は俺を知っているよ、御覧!」  一軒の小屋の窓から灯火が射していた。そして、それを目懸けて二人は足早に進んで行った。泥土や石の壁を突き抜けて、真赤な火の周りに集っている愉快そうな一団の人々を見附けた。非常に年を取った爺と媼とが、その子供達や、孫達や、それからまたその下の曾孫達と一緒に、祭日の晴着に美々しく飾り立てていた。その爺は不毛の荒地をたけり狂う風の音にとかく消圧《けお》されがちな声で、一同の者に聖降誕祭の歌を唄ってやっていた。それは彼が少年時代の極く古い歌であった。一同の者は時々声を和して歌った。彼等が声を高めると、爺さんもきっと元気が出て声を高めた。が、彼等が止めてしまうと、爺さんの元気もきっと銷沈してしまった。  精霊はここに停滞してはいなかった、スクルージをして彼の着衣に捕まらせた、そして、沼地の上を通過しながら、さてどこへ急いだか。海へではないか。そうだ、海へ。スクルージは振り返って、自分達の背後に陸の突端を、怖ろしげな岩石が連っているのを見て慄然とした。水は自分の擦り減らした恐ろしい洞窟の中に逆捲き怒号して狂奔して、この地面を下から覆そうと烈しく押し寄せていたが、その水の轟々たる響には彼の耳も聾いてしまった。  海岸から幾浬か離れて、一年中荒れ通しに波に衝かれ揉まれている物凄い暗礁の上に、ぽっつりと寂しげな灯台が建てられていた。海藻の大きな堆積がその土台石に絡まり着いて、海鳥は――海藻が水から生れたように、風から生れたかとも想われるような――彼等がその上をすくうようにして飛んでいる波と同じように、その灯台の周囲を舞い上ったり、舞い下ったりしていた。  が、こんな所でさえ、灯光の番をしていた二人の男が火を焚いていた、それが厚い石の壁に造られた風窓から物凄い海の上に一条の輝かしい光線を射出した。向い合せに坐っていた荒削りの食卓越しに、ごつごつした手を握り合せながら、彼等は火酒の盃に酔って、お互いに聖降誕祭の祝辞を述べ合ったものだ。そして、彼等の一人、しかも年長者の方が――古い船の船首についている人形が傷められ瘢痕づけられているように、風雨のために顔中傷められ瘢痕づけられた年長者の方が、それ自身本来|暴風雨《はやて》のような、頑丈な歌を唄い出した。  再び精霊は真黒な、絶えず持ち上げている海の上を走り続けた――どこまでも、どこまでも――彼がスクルージに云ったところに拠れば、どの海岸からも遙かに離れているので、とうとうとある一艘の船の上に降りた。二人は舵車を手にした舵手や、船首に立っている見張り人や、当直をしている士官達の傍に立った。各自それぞれの配置についている彼等の姿は、いずれも暗く幽霊のように見えた。しかしその中の誰も彼もが聖降誕祭の歌を口吟んだり、聖降誕祭らしいことを考えたり、または低声でありし昔の降誕祭の話を――それには早く家郷へ帰りたいと云う希望が自然と含まれているが、その希望を加えて話したりしていた。そして、その船に乗っている者は、起きていようが眠っていようが、善い人であろうが悪い人であろうが、誰も彼もこの日は一年中のどんな日よりも、より[#「より」に傍点]親切な言葉を他人に掛けていた。そして、ある程度まで今日の祝いを共に楽しんでいた。そして、誰も彼も自分の心に懸けている遠方の人達を想い遣ると共に、またその遠方の人達も自分のことを想い出して喜んでいることをよく承知していた。  風の呻きに耳を傾けたり、またはその深さは死の様に深遠な秘密であるところの未だ知られない奈落の上に拡がっている寂しい暗い闇を貫いて、どこまでも進んで行くと云うことは、何と云う厳粛なる事柄であるかと考えたりして、こうして気を取られている間に、一つの心からなる笑い声を聞くと云うことは、スクルージに取って大きな驚愕に相違なかった。しかも、それが自分の甥の笑い声だと知ることは、そして、一つの晴れやかな、乾いた、明るい部屋の中に、自分の傍に微笑しながら立っている精霊と一緒に自分自身を発見すると云うことは、スクルージに取って一層大いなる驚愕であった。で、その精霊はいかにも相手が気に適ったと云うような機嫌の好さで以て、その同じ甥をじっと眺めているのであった。 「は! は!」と、スクルージの甥は笑った。「は、は、は!」  若し読者諸君にしてこのスクルージの甥よりはもっと笑いにおいて恵まれている男を知るような機会があったら、そんな機会はありそうにもないが、(万々一あったとしたら、)私の云い得ることはただこれだけである、(曰く)私もまたその男を知りたいものだと。私にその男を紹介して下さい、私はどうかしてその人と知己になりましょうよ。  疾病や悲哀に感染がある一方に、世の中には笑いや上機嫌ほど不可抗力的に伝染するものがないと云うことは、物事の公明にして公平なるかつ貴き調節である。スクルージの甥がこうして脇腹を抑えたり、頭をぐるぐる廻したり、途方もない蹙《しか》め面《つら》に顔を痙攣《ひきつ》らせたりしながら笑いこけていると、スクルージの姪に当るその妻もまた彼と同様にきゃっきゃっ[#「きゃっきゃっ」に傍点]と心から笑っていた。それから一座の友達どもも決して敗《ひ》けは取らないで、どっと閧の声を上げて笑い崩れた。 「はッ、はッ、はッ、は、は、は!」 「あの人は聖降誕祭なんて馬鹿らしいと云いましたよ、本当にさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人はまたそう信じているんですね。」 「一層好くないことだわ、フレッド」と、スクルージの姪は腹立たしそうに云った。こう云う婦人達は愛すべきかな、彼等は何でも中途半端にして置くと云うことはない。いつでも大真面目である。  彼女は非常に美しかった。図抜けて美しかった。えくぼのある、吃驚したような、素敵な顔をして接吻されるために造られたかと思われるような――確にその通りでもあるのだが――豊かな小さい口をしていた。頤の辺りには、あらゆる種類の小さな可愛らしい斑点があって、それが笑うと一緒に溶けてしまったものだ。それからどんな可憐な少女の頭にも見られないような、極めて晴れやかな一対の眼を持っていた。引括めて云えば、彼女は気を揉ませるなとでも云いたいような女であった。しかし世話女房式な、おお、どこまでも世話女房式な女であった。 「へん[#「へん」に傍点]なお爺さんですよ」と、スクルージの甥は云った。「それが本当の所でさ。そして、もっと愉快で面白い人である筈なんだが、そうは行かないんですね。ですが、あの人の悪い事にはまた自然《ひとりで》にそれだけの報いがあるでしょうから、何も私が彼是あの人を悪く云うことはありませんよ。」 「あの方はたいへんなお金持なのでしょう、ねえフレッド」と、スクルージの姪は云い出して見た。「少なくとも、貴方は始終私にはそう仰しゃいますわ。」 「それがどうしたと云うの?」と、スクルージの甥は云った。「あの人の財産はあの人に取って何の役にも立たないのだ。あの人はそれで何等の善い事もしない。それで自分の居まわりを気持ちよくもしない。いや、あの人はそれで行く行く僕達を好くして遣ろうと――はッ、は、は! そう考えるだけの満足も持たないんだからね。」 「私もうあの人には我慢出来ませんわ」と、スクルージの姪は云った。スクルージの姪の姉妹も、その他の婦人達も皆同意見であると云った。 「いや、僕は我慢出来るよ」と、スクルージの甥は云った。「僕はあの人が気の毒なのだ。僕は怒ろうと思っても、あの人には怒れないんだよ。あの人の可厭《いや》なむら[#「むら」に傍点]気で誰が苦しむんだい? いつでもあの人自身じゃないか。たとえばさ、あの人は僕達が嫌いだと云うようなことを思い附く。するともう、ここへ来て一緒に飯も喫べてくれようとはしない。で、その結果はどうだと云うのだい? 大層な御馳走を喫べ損ったと云う訳でもないがね。」 「実際、あの方は大層結構な御馳走を喰べ損ったんだと思いますわ」と、スクルージの姪は相手を遮った。他の人達も皆そうだと云った。そして、彼等は今御馳走を喰べたばかりで、食卓の上に茶菓を載せたまま、洋灯を傍にして煖炉の周囲に集まっていたのであるから、十分審査官の資格を具えたものと認定されなければならなかった。 「なるほど! そう云われれば僕も嬉しいね」と、スクルージの甥は云った。「だって、僕は近頃の若い主婦達に余り大した信用を置いていないのだからね。トッパー君、君はどう思うね?」  トッパーはスクルージの姪の姉妹達の一人に明らかに眼を着けていた。と云うのは、独身者は悲惨《みじめ》な仲間外れで、そう云う問題に対して意見を吐く権利がないと返辞したからであった。これを聞いて、スクルージの姪の姉妹――薔薇を挿した方じゃなくて、レースの半襟を掛けた肥った方が――顔を真赧にした。 「さあ、先を仰しゃいよ、フレッド」と、スクルージの姪は両手を敲きながら云った。「この人は云い出した事を決してお終いまで云ったことがない。本当に可笑しな人よ!」  スクルージの甥はまた夢中になって笑いこけた。そして、その感染を防ぐことは不可能であったので――肥った方の妹などは香気のある醋酸でそれを防ごうと一生懸命にやって見たけれども――座にある者どもは一斉に彼のお手本に倣った。 「僕はただこう云おうと思ったのさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人が僕達を嫌って、僕達と一緒に愉快に遊ばない結果はね、僕が考えるところでは、些《ちっ》ともあの人の不利益にはならない快適な時間を失ったことになると云うのですよ。確かにあの人は、あの黴臭い古事務所や、塵埃だらけの部屋の中に自分一人で考え込んでいたんじゃ、とても見附けられないような愉快な相手を失っていますね。あの人が好《す》こうが好くまいが、僕は毎年こう云う機会をあの人に与える積りですよ。だって僕はあの人が気の毒で耐らないんですからね。あの人は死ぬまで聖降誕祭を罵っているかも知れない。が、それについてもっと好く考え直さない訳にゃ行かないでしょうよ――僕はあの人に挑戦する――僕が上機嫌で、来る年も来る年も、『伯父さん、御機嫌はいかがですか』と訪ねて行くのを見たらね。いや、あの憐れな書記に五十ポンドでも遺して置くような心持にして遣れたら、それだけでも何分かの事はあった訳だからね。それに、僕は昨日あの人の心を顛動させて遣ったように思うんだよ。」  彼がスクルージの心を顛倒させたなぞと云うのが可笑しいと云って、今度は一同が笑い番になった。が、彼は心の底から気立ての好い人で、とにかく彼等が笑いさえすれば何を笑おうと余り気に懸けていなかったので、自分も一緒になって笑って一同の哄笑を[#「哄笑を」は底本では「洪笑を」]励ますようにした。そして、愉快そうに瓶を廻わした。  お茶が済んでから、一同は二三の音楽をやった。と云うのは、彼等は音楽好きの一家であったから。そして、グリーやキャッチを唄った時には、仲々皆手に入ったものであった。殊にトッパーは巧妙な唄い手らしく最低音で唸って退けたものだが、それを唄いながら、格別前額に太い筋も立てなければ顔中真赧になりもしなかった。スクルージの姪は竪琴を上手に弾いた。そして、いろいろな曲を弾いた中に、一寸した小曲(ほん[#「ほん」に傍点]の詰らないもの、二分間で覚えてさっさと口笛で吹かれそうなもの)を弾いたが、これはスクルージが過去の聖降誕祭の精霊に依って憶い出させて貰った通りに、寄宿学校からスクルージを連れに帰ったあの女の子が好くやっていたものであった。この一節が鳴り渡ったとき、その精霊がかつて彼に示して呉れたすべての事柄が残らず彼の心に浮んで来た。彼の心はだんだん和いで来た。そして、数年前に幾度かこの曲を聴くことが出来たら、彼はジェコブ・マアレイを埋葬した寺男の鍬に頼らずして、自分自身の手で自分の幸福のために人の世の親切を培い得たかも知れなかったと考えるようになった。  が、彼等も専ら音楽ばかりして、その夜を過ごしはしなかった。暫時すると、彼等は罰金遊びを始めた。と云うのは、時には子供になるのも好い事であるからである。そして、それには、その偉大なる創立者自身が子供であるところからして、聖降誕祭の時が一番好い。まあ、お待ちなさい。まず第一には目隠し遊びがあった。もちろんあった。私はトッパーがその靴に眼を持っていたと信じないと同様にまったくの盲目《めくら》であるとは信じない。私の意見では、彼とスクルージの甥との間にはもう話は済んでいるらしい。そして、現在の聖降誕祭の精霊もそれを知っているのである。彼がレースの半襟を掛けた肥った方の妹を追い廻わした様子というものは、誰も知らないと思って人を馬鹿にしたものであった。火箸や十能に突き当たったり、椅子を引っくり返したり、洋琴に打っ突かったり、窓帷幄に包まって自分ながら呼吸が出来なくなったりして、彼女の行く所へはどこへでも随いて行った。彼はいつでもその肥った娘がどこに居るかを知っていた。彼は他の者は一人も捕へようとしなかった。若し諸君がわざと彼に突き当りでもしようものなら(彼等の中には実際やったものもあった)、彼も一旦は諸君を捕まえようと骨折っているような素振りをして見せたことであろうが、――それは諸君の理性を侮辱するものであろう、――直ぐにまたその肥った娘の方へ逸れて行ってしまったものだ。彼女はそりゃ公平でないと幾度も呶鳴った。実際それは公平でなかった。が、到頭彼は彼女を捕まえた。そして、彼女が絹の着物をさらさらと鳴らせたり、彼を遣り過ごそうとばたばた藻掻いたりしたにも係らず、彼は逃げ場のない片隅へ彼女を追い込めてしまった。それからあとの彼の所行というものは全く不埒千万なものであった。と云うのは、彼が自分に相手の誰であるかが分からないと云うような振りをしたのは、彼女の頭飾りに触って見なけりゃ分らない、いや、そればかりでなく、彼女の指に嵌めた指環だの頸の周りにつけた鎖だのを抑えて見て、やっと彼女であることを確かめる必要があるような振りをしたのは、卑劣とも何とも言語道断沙汰の限りであった。他の鬼が代ってその役に当っていたとき、二人は帷幄の背後で大層親密にひそひそと話しをしていたが、彼女はその事に対する自分の意見を聞かせたに違いない。  スクルージの姪はこの目隠し遊びの仲間には入らないで、居心地のよい片隅に大きな椅子と足台とで楽々と休息していた。その片隅では精霊とスクルージとが彼女の背後に近く立っていた。が、彼女は罰金遊びには加わった。そして、アルファベット二十六文字残らずを使って自分の愛の文章を見事に組み立てた。同じようにまた『どんなに、いつ、どこで』の遊びでも彼女は偉大な力を見せた。そして、彼女の姉妹達もトッパーに云わしたら、随分敏捷な女どもには違いないが、その敏速な女どもを散々に負かして退けた。それをまたスクルージの甥は内心喜んで見ていたものだ。若い者年老った者、合せて二十人位はそこに居たろうが、彼等は皆残らずそれをやった。そして、スクルージもまたそれをやった。と云うのは、彼も今(自分の前に)行われていることの興味に引かれて、自分の声が彼等の耳に何等の響も持たないことをすっかり忘れて、時々大きな声で自分の推定を口にした。そして、それがまた中々好く中ったものだ。何故ならば、めど[#「めど」に傍点]切れがしないと保険附きのホワイトチャペル製の一番よく尖った針でも、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]だと自分で思い込んでいるスクルージほど鋭くはないのだから。  こう云う気分で彼がいたのは、精霊には大層気に適ったらしい。で、彼はお客が帰ってしまうまでここに居させて貰いたいと子供のようにせがみ出したほど、精霊は御機嫌の好い体で彼を見詰めていた。が、それは罷りならぬと精霊は云った。 「今度は新しい遊戯で御座います」と、スクルージは云った。「半時間、精霊殿、たった半時間!」  それは Yes and No と云う遊戯であった。その遊戯ではスクルージの甥が何か考える役になって、他の者達は、彼が彼等の質問に、それぞれその場合に応じて、Yes とか No とか返辞をするだけで、それが何であるかを云い当てることになった。彼がその衝に当って浴びせられた、てきぱきした質問の銃火は、彼からして一つの動物について考えていることを誘《おび》き出した。それは生きている動物であった、何方かと云えば不快《いや》な動物、獰猛な動物であった、時々は唸ったり咽喉を鳴らしたりする、また時には話しもする、倫敦《ロンドン》に住んでいて、街も歩くが、見世物にはされていない、また誰かに引廻わされている訳でもない、野獣苑の中に住んで居るのでもないのだ、また市場で殺されるようなことは決してない、馬でも、驢馬でも、牝牛でも、牡牛でも、虎でも、犬でも、豚でも、猫でも、熊でもないのだ。新らしい質問が掛けられる度に、この甥は新にどっと笑い崩れた、長椅子から立ち上って床《ゆか》をドンドン踏み鳴らさずに居られないほどに、何とも云いようがないほどくすぐられて面白がった。が、とうとう例の肥った娘が同じように笑い崩れながら呶鳴った。―― 「私分かりましたわ! 何だかもう知っていますよ、フレッド! 知っていますよ。」 「じゃ何だね?」と、フレッドは叫んだ。 「貴方の伯父さんのね、スクル――ジさん!」  確かにその通りであった。一同はあっ[#「あっ」に傍点]と感嘆これを久しゅうした。でも、中には「熊か」と訊いた時には、「然り」と答えられべきものであった。「否」と否定の返辞をされては、折角その方へ気が向き掛けていたとしても、スクルージ氏から他の方へ考えを転向させるに十分であったからねと抗議した者もあるにはあった。 「あの人は随分僕達を愉快にしてくれましたね、本当によ」とフレッドは云った。「それであの人の健康を祝って上げないじゃ不都合だよ。ちょうど今手許に薬味を入れた葡萄酒が一瓶あるからね。さあ、始めるよ、『スクルージ伯父さん!』」 「宜しい! スクルージの伯父さん!」と、彼等は叫んだ。 「あの老人がどんな人であろうが、あの人にも聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う!」と、スクルージの甥は云った。「あの人は僕からこれを受けようとはしないだろうが、それでもまあ差し上げましょうよ、スクルージの伯父さん!」  スクルージ伯父は人には知らないままで気も心も浮々と軽くなった。で、若し精霊が時間を与えてくれさえしたら、今の返礼として自分に気の附かない一座のために乾盃して、誰にも聞えない言葉で彼等に感謝したことであろう。が、その全場面は、彼の甥が口にした最後の一語がまだ切れない間に掻き消されてしまった。そして、彼と精霊とはまたもや旅行の途に上った。  彼等は多くを見、遠く行った。そして、いろいろな家を訪問したが、いつも幸福な結果に終った。精霊が病床の傍に立つと、病人は元気になった。異国に行けば、人々は故郷の近くにあった。悶え苦しんでいる人の傍に行くと、彼等は将来のより[#「より」に傍点]大きな希望を仰いで辛抱強くなった。貧困の傍に立つと、それが富裕になった。施療院でも、病院でも、牢獄でも、あらゆる不幸の隠棲《かくれが》において、そこでは虚栄に満ちた人が自分の小さな果敢ない権勢をたのんで、しっかり戸を閉めて、精霊を閉め出してしまうようなことがないからして、彼はその祝福を授けて、スクルージにその教訓を垂れたのであった。  これが只の一夜であったとすれば、随分長い夜であった。が、スクルージはこれについて疑いを抱いていた。と云うのは、聖降誕祭の祭日全部が自分達二人で過ごして来た時間内に圧縮されてしまったように見えたからである。また不思議なことには、スクルージはその外見が依然として変らないでいるのに、精霊は段々年を取った、眼に見えて年を取って行った。スクルージはこの変化に気が附いていたが、決して口に出しては云わなかった。が、到頭子供達のために開いた十二夜会(註、聖降誕祭から十二日目の夜お別れとして行うもの。)を出た時に、二人は野外に立っていたので、彼は精霊を見遣りながら、その毛髪が真白になっているのに気が附いた。 「精霊の寿命はそんなに短いものですか?」と、スクルージは訊ねた。 「この世における俺《わし》の生命は極くみじかいものさ」と、精霊は答えた。「今晩お仕舞いになるんだよ。」 「今晩ですって!」と、スクルージは叫んだ。 「今晩の真夜中頃だよ。お聴き! その時がもう近づいているよ。」  鐘の音はその瞬間に十一時四十五分を報じていた。 「こんな事をお訊ねして、若し悪かったらなにとぞ勘弁して下さい」と、スクルージは精霊の着物を一心に見詰めながら云った。「それにしても、何かへんてこな、貴方のお身の一部とは思われないようなものが、裾から飛び出しているようで御座いますね。あれは足ですが、それとも爪ですか。」 「そりゃ爪かも知れないね、これでもその上に肉があるからね。」と云うのが精霊の悲しげな返辞であった。「これを御覧よ。」  精霊はその着物の襞の間から、二人の子供を取り出した。哀れな、賤しげな、怖ろしい、ぞっとするような、悲惨《みじめ》な者どもであった。二人は精霊の足許に跪いて、その着物の外側に縋り着いた。 「おい、こらッ、これを見よ! この下を見て御覧!」  彼等は男の児と女の児とであった。黄色く、瘠せこけて、ぼろぼろの服装をした、顔を蹙めた、欲が深そうな、しかも自屈謙遜して平這《へたば》っている。のんびりした若々しさが彼等の顔をはち切れるように肥らせて、活き活きした色でそれを染めるべきところに、老齢のそれのような、古ぼけた皺だらけの手がそれをつねった[#「つねった」に傍点]りひねった[#「ひねった」に傍点]りして、ずたずたに引裂いていた。天使が玉座についても可いところに、悪魔が潜んで、見る者を脅し附けながら白眼《にら》んでいた。不可思議なる創造のあらゆる神秘を通じて、人類のいかなる変化も、いかなる堕落も、いかなる逆転も、それがいかなる程度のものであっても、この半分も恐ろしい不気味な妖怪を有しなかった。  スクルージはぞっとして後退《あとずさ》りした。こんな風にして子供を見せられたので、彼は綺麗なお子さん達ですと云おうとしたが、言葉の方で、そんな大それた嘘の仲間入りをするよりはと、自分で自分を喰い留めてしまった。 「精霊殿、これは貴方のお子さん方ですか。」スクルージはそれ以上云うことが出来なかった。 「これは人間の子供達だよ」と、精霊は二人を見下ろしながら云った。「彼等は自分達の父親を訴えながら、俺に縋り着いているのだ。この男児は無知である。この女児は欠乏である。彼等二人ながらに気を附けよ、彼等の階級のすべての者を警戒せよ。が、特にこの男の子に用心するがいい、この子の額には、若しまだその書いたものが消されずにあるとすれば、『滅亡』とありあり書いてあるからね。それを否定して見るがいい!」と、精霊は片手を町の方へ伸ばしながら叫んだ。「そして、それを教えてくれる者をそしるがいい。それでなければ、お前の道化た目的のためにそれを承認するがいい。そして、そしてそれを一層悪いものにするがいい! そして、その結果を待っているがいい!」 「彼等は避難所も資力も持たないのですか」と、スクルージは叫んだ。 「監獄はないのかね」と、精霊は彼自身の云った言葉を繰返しながら、これを最後に彼の方へ振り向いて云った。「共同授産場はないのかな。」  鐘は十二時を打った。  スクルージは周囲を見廻わしながら精霊を捜したが、見当らなかった。最後の鐘の音が鳴り止んだ時、彼は老ジェコブ・マアレイの予言を想い出した。そして、眼を挙げながら、地面に沿って霧のように彼の方へやって来る、着物を着流して、頭巾を被った厳かな幻影を見た。 [#3字下げ]第四章 最後の精霊[#「第四章 最後の精霊」は中見出し]  幽霊は徐々に、厳かに、黙々として近づいて来た。それが彼の傍に近く来た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精霊は自分の動いているその空気中へ陰鬱と神秘とを振り撒いているように思われたからである。  精霊は真黒な衣に包まれていた。その頭も、顔も、姿もそれに隠されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかった、この手がなかったら、夜からその姿を見別けることも、それを包囲している暗黒からそれを区別することも困難であったろう。  彼はそれが自分の傍へ来た時、その精霊の背が高く堂々としていることを感じた。そして、そう云う不可思議なものがそこに居ると云うことのために、自分の心が一種厳粛な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかった。と云うのは、精霊は口も利かなければ、身動きもしなかったから。 「私はこれから来る聖降誕祭の精霊殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云った。  精霊は返辞をしないで、その手で前の方を指した。 「貴方はこれまでは起らなかったが、これから先に起ろおうとしている事柄の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので御座いますね」と、スクルージは言葉を続けた。「そうで御座いますか、精霊殿?」  精霊が頭を傾《かし》げでもしたように、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辞であった。  スクルージもこの頃はもう大分幽霊のお相手に馴れていたとは云え、この押し黙った形像に対しては脚がぶるぶる顫えたほど恐ろしかった。そして、いざこれから精霊の後に随いて出て行こうと身構えした時には、どうやら真直《まっすぐ》に立ってさえいられないことを発見した。精霊も彼のこの様子に気が附いて、少し待って落ち着かせて遣ろうとでもするように、一寸立ち停まった。  が、スクルージはこれがためにますます具合が悪くなった。自分の方では極力眼を見張って見ても、幽霊の片方の手と一団の大きな黒衣の塊の外に何物をも見ることが出来ないのに、あの薄黒い経帷子の背後では、幽霊の眼が自分をじっと見詰めているのだと思うと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身体中がぞっとした。 「未来の精霊殿!」と、彼は叫んだ。「私は今までお目に懸かった幽霊の中で貴方が一番怖ろしゅう御座います。しかし貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、また私も今までの私とは違った人間になって生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思ってするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでしょうか。」  精霊は何とも彼に返辞をしなかった。ただその手は自分達の前に真直に向けられていた。 「御案内下さい!」と、スクルージは云った。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん経ってしまいます。そして、私に取っては尊い時間で御座います。私は存じています。御案内下さい、精霊殿!」  精霊は前に彼の方へ近づいて来た時と同じように動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に随いて行った。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くように思った。  二人は市内へ這入って来たような気がほとんどしなかった、と云うのは、むしろ市の方で二人の周囲に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたように思われたからである。が、(いずれにしても)彼等は市の中心にいた。すなわち取引所に、商人どもの集っている中にいた。商人どもは忙しそうに往来したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになって話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考え込みながら自分の持っている大きな黄金の刻印を弄《いじ》ったりしていた。その他スクルージがそれまでによく見掛たような、いろいろな事をしていた。  精霊は実業家どもの小さな一群の傍に立った。スクルージは例の手が彼等を指差しているのを見て、彼等の談話を聴こうと進み出た。 「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥った大漢が云った。「どちらにしても、それについちゃ好くは知りませんがね。ただあの男が死んだってことを知っているだけですよ」 「いつ死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。 「昨晩だと思います。」 「だって、一体いかがしたと云うのでしょうな?」と、またもう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうん[#「うん」に傍点]と取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にそうもないように思ってましたがね。」 「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云った。 「一体あの金子はいかがしたのでしょうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえら[#「えら」に傍点]のような瘤をぶらぶら下げた赤ら顔の紳士が云った。 「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云った、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでしょうよ。(とにかく)私には遺して行きませんでしたね。私の知っているのはこれっきりさ。」  この冗談で一同はどっと笑った。 「極く安直《あんちょく》なお葬《とむらい》でしょうな」と、同じ男が云った。「何しろ会葬者があると云うことは全然《まるで》聞かないからね。どうです、我々で一団体つくって義勇兵になっては?」 「お弁当が出るなら行っても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云った。「だが、その一人になるなら、喰わせるだけは喰わせて貰わなくっちゃね。」  一同また大笑いをした。 「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云った。「僕はこれまでまだ一度も黒い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬礼の弁当を喫べたこともないからね。しかし誰か行く者がありゃ、僕も行きますよ。考えて見れば、僕は決してあの人の一番親密な友人でなかったとは云えませんよ。途で会えば、いつでも立ち停って話しをしたものですからね。や、いずれまた。」  話手も聴手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混ってしまった。スクルージはこの人達を知っていた。で、説明を求めるために精霊の方を見遣った。  幽霊はだんだん進んである街の中へ滑り込んだ。幽霊の指は立ち話しをしている二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだろうと思って、再び耳を傾けた。  彼はこの人達もまたよく知り抜いていた。彼等は実業家であった。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思われようと始終心掛けていた。つまり商売上の見地から見て、厳密に商売上の見地から見て、よく思われようと云うのである。 「や、今日は?」と、一人が云った。 「や、今日は?」と、片方が挨拶した。 「ところで」と、最初の男が云った。「彼奴もとうとうくたばり[#「くたばり」に傍点]ましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」 「そうだそうですね」と、相手は返辞をした。「随分お寒いじゃありませんか、ええ?」 「聖降誕祭の季節なら、これが順当でしょう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」 「いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますからね。左様なら!」  このほかに一語もなかった。これがこの二人の会見で、会話で、そして別れであった。  最初スクルージは精霊が外見上こんな些細な会話に重きを置いているのにあきれかえろうとしていた。が、これには何か隠れた目算があるに違いないと気が附いたので、それは多分何であろうかとつくづく考えて見た。あの会話が元の共同者なるジェコブの死に何等かの関係があろうとはどうも想像されない、と云うのは、それは過去のことで、この精霊の領域は未来であるから。それかと云って、自分と直接関係のある人で、あの会話の当て嵌まりそうな者は一人も考えられなかった。しかし何人にそれが当て嵌まろうとも、彼自身の改心のために何か隠れた教訓が含まれていることは少しも疑われないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置こうと決心した。そして、自分の影像が現われたら、特にそれに注意しようと決心した。と云うのは、彼の未来の姿の行状が自分の見失った手掛りを与えてくれるだろうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだろうと云う期待を持っていたからである。  彼は自分の姿を求めて、その場で四辺を見廻わした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立っていた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けている時刻を指していたけれども、玄関から流れ込んで来る群衆の中に自分に似寄った影も見えなかった。とは云え、それはさして彼を驚かさなかった。何しろ心の中に生活の一変を考え廻らしていたし、またその変化の中では新たに生れた自分の決心が実現されるものと考えてもいたし、望んでもいたからである。  静かに黒く、精霊はその手を差し伸べたまま彼の傍に立っていた。彼が考えに沈んだ探究から眼を覚ました時、精霊の手の向き具合と自分に対するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めているなと思った。そう思うと、彼はぞっと身顫いが出て、ぞくぞく寒気がして来た。  二人はその繁劇な場面を捨てて、市中の余り人にも知られない方面へ這入り込んで行った。スクルージも兼てそこの見当も、またこの好くない噂も聞いてはいたが、今までまだ一度も足を踏み入れたことはなかった。その往来は不潔で狭かった。店も住宅もみすぼらしいものであった。人々は半ば裸体で、酔払って、だらしなく、醜くかった。路地や拱門路からは、それだけの数の下肥溜めがあると同じように、疎らに家の立っている街上へ、胸の悪くなるような臭気と、塵埃と、生物とを吐き出していた。そして、その一廓全体が罪悪と汚臭と不幸とでぷんぷん臭っていた。  このいかがわしい罪悪の巣窟の奥の方に、葺卸屋根の下に、軒の低い、廂の出張った店があって、そこでは鉄物や、古襤褸や、空壜、骨類、脂のべとべとした腸屑(わたくず)などを買入れていた。内部の床の上には、銹ついた鍵だの、釘だの、鎖だの、蝶番いだの、鑪だの、秤皿だの、分銅だの、その他あらゆる種類の鉄の廃物が山の様に積まれてあった。何人も精査することを好まないような秘密が醜い襤褸の山や、腐った脂身の塊りや、骨の墓場の中に育まれかつ隠されていた。古煉瓦で造った炭煖炉を傍にして、七十歳に近いかとも思われる白髪の悪漢が自分の売買する代物の間に坐り込んでいた。この男は一本の綱の上に懸け渡した種々雑多な襤褸布を穢《むさ》くるしい幕にして、戸外の冷たい風を防いでいた。そして、穏やかな隠居所にぬくぬく暖まりながら、呑気に烟草を喫《ふ》かしていた。  スクルージと精霊とがこの男の前に来ると、ちょうどその時一人の女が大きな包みを持って店の中へこそこそと這入り込んで来た。が、その女がまだ這入ったか這入り切らぬうちに、もう一人の女が同じように包みを抱えて這入って来た。そして、この女のすぐ後から褪《は》げた黒い服を来た一人の男が随いて這入った。二人の女も互に顔見合せて吃驚したものだが、この男は二人を見て同じように吃驚した。暫時は、煙管を啣えた老爺までが一緒になって、ぽかんとあきれ返っていたが、やがて三人一緒にどっと笑い出した。 「打捨《うっちゃ》って置いても、どうせ日傭い女は一番に来るのだ」と、最初に這入って来た女は叫んだ。「どうせ二番目には洗濯婆さんが来るのだ、それから三番目にはどうせ葬儀屋さんがやって来るのさ。ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と、老爺さん、これが物の拍子と云うものだよ。ああ三人が揃いも揃って云い合せたようにここで出喰わすとはねえ!」 「お前方は一番好い場所で出会ったのさ」と、老ジョーは口から煙管《パイプ》を離しながら云った。「さあ居間へ通らっしゃい。お前はもうずっと以前から一々断らないでもそこへ通られるようになっているんだ。それから自余《あと》の二人も満更知らぬ顔ではない。まあ待て、俺が店の戸を閉めるまでよ。ああ、何と云うきしむ[#「きしむ」に傍点]戸だい! この店にも店自身に緊着《くっつ》いてるこの蝶番いのように錆びた鉄っ片れは他にありゃしねえよ、本当にさ。それにまた俺の骨ほど古びた骨はここにもないからね。ははは! 俺達は皆この職業《しょうばい》に似合ってるさ、まったく似合いの夫婦と云うものだね。さあ居間へお這入り。さあ居間へ!」  居間というのは襤褸の帷幄《カーテン》の背後になっている空間であった。その老爺は階段の絨緞を抑えて置く古い鉄棒で火を掻き集めた。そして、持っていた煙管《パイプ》の羅宇《らう》で燻っている洋灯の心を直しながら(もう夜になっていたので、)再びその煙管を口へ持って行った。  彼がこんな事をしている間に、既にもう饒舌ったことのある女は床の上に自分の包みを抛り出して、これ見よがしの様子をしながら床几の上に腰を下ろした――両腕を膝の上で組み合せて、他の二人を馬鹿にしたようにしゃあしゃあ[#「しゃあしゃあ」に傍点]と見やりながら。 「で、どうしたと云うんだね! 何がどうしたと云うんだえ、ええディルバアのお主婦さん?」と、その女は云った。「誰だって自分のためを思ってする権利はあるのさ。あの人[#「あの人」に傍点]なんざ始終そうだったんだよ。」 「そりゃそうだとも、実際!」と、洗濯婆は云った。「何人《だれ》もあの人以上にそうしたものはないよ。」 「じゃ、まあそう可怖《おっかな》そうにきょろきょろ[#「きょろきょろ」に傍点]立っていなくとも好う御座んさあね、お婆さん、誰が知ってるもんですか。それに此方《こちとら》だってお互に何も弱点《あら》の拾いっこをしようと云うんじゃないでしょう、そうじゃないかね。」 「そうじゃないともさ!」と、ディルバーの主婦さんとその男とは一緒に云った。「もちろんそんな積りはないとも。」 「それなら結構だよ」と、その女は呶鳴った。「それでもう沢山なのさ。これ位僅かな物を失くしたとて、誰が困るものかね。まさか死んだ人が困りもしないだろうしねえ。」 「まったくそうだよ」と、ディルバーの主婦さんは笑いながら云った。 「死んでからも、これが身に着けていたかったら、あの因業親爺がさ」と、例の女は言葉を続けた。「生きている時に、何故人間並にしていなかったんだい? 人間並にさえしてりゃ、お前、いくら死病に取り憑かれたからとて、誰かあの人の世話位する者はある筈だよ、ああして一人ぽっちであそこに寝たまま、最後の息を引き取らなくたってねえ。」 「まったくそりゃ本当の話だよ」と、ディルバーの主婦さんは云った。「あの人に罰が当ったんだねえ」 「もう少し酷い罰が当てて貰いたかったねえ」と、例の女は答えた。「なに、もっと他の品に手が着けられたら、大丈夫お前さん、もう少し酷い罰を当てて遣ったんだよ。その包みを解いておくれな、ジョー爺さんや。そして、値段をつけて見ておくれな。なに、明白《はっきり》と云うが可いのさ。私ゃ一番先だって構やしないし、また皆さんに見ていられたって別段|怖《こわ》かないんだよ。私達はここで出会わさない前から、お互様に他人《ひと》の物をくすねていたことは好く承知しているんだからねえ。別段罪にゃならないやね。さあ包みをお開けよ、ジョー。」  が、二人の仲間にも侠気があって、仲々そうはさせて置かなかった。禿げちょろの黒の服を着けた男が真先駆けに砦の裂目を攀じ登って、自分の分捕品を持ち出した。それは量高《かさだか》の物ではなかった。印刻が一つ二つ、鉛筆入れが一個、袖口《カフス》ボタンが一組、それに安物の襟留めと、これだけであった。品物はジョー爺さんの手で一々検められ、値踏みされた。爺さんはそれぞれの品に対して自分がこれだけなら出してもいいと云う値段を壁の上に白墨で記した。そしていよいよこれだけで、後にはもう何もないと見ると、その総額を締め合せた。 「これがお前さんの分だよ」と、ジョーは云った。「釜で煮られるからと云っても、この上は六ペンスだって出せないよ。さ、お次は誰だい?」  ディルバーの主婦さんがその次であった。上敷とタウェルの類、少し許りの衣裳、旧式の銀の茶匙二本、一挺の角砂糖挟み、それに長靴二三足。彼女の勘定も前と同じように壁の上に記された。 「俺は婦人にはいつも余計に出し過ぎてね。これが俺の悪い癖さ。またそれがために損ばかりしているのさ」と、ジョー老爺は云った。「これがお前さんの勘定だよ。この上一文でも増せなどと云って、まだこれを決着しないものにする気なら、俺は折角奮発したのを後悔して、半クラウン位差引く積りだよ。」 「さあ、今夜は私の荷物をお解きよ、ジョーさん。」と、最初の女が云った。  ジョーはその包みを開き好いように両膝を突いて、幾つも幾つもの結び目を解いてからに、大きな重そうな巻き物になった何だか黒っぽい布片《きれ》を引き摺り出した。 「こりゃ何だね?」と、ジョーは云った。「寝台の帷幄《カーテン》かい。」 「ああ!」と、例の女は腕組みをしたまま、前へ屈身《こご》むようにして、笑いながら返辞をした、「寝台の帷幄だよ。」 「お前さんもまさかあの人をあそこに寝かしたまま、環ぐるみそっくりこれを引っ外して来たと云う積りじゃなかろうね。」と、ジョーは云った。 「そうだよ、そう云う積りなんだよ」と、その女は答えた。「だって、いけないかね。」 「お前さんは身代造りに生れついてるんだねえ」と、ジョーは云った。「今にきっと一身代造るよ。」 「そうさ、私も手を伸ばすだけで何がしでもその中に握れるような場合に、あの爺さんのようなあんな奴のためにその手を引っ込めるような、そんな遠慮はしない積りだよ、ジョーさん、お前さんに約束して置いても可いがね」と、例の女は冷やかに返答した。「その油を毛布の上へ垂らさないようにしておくれよ。」 「あの人の毛布かね」と、ジョーは訊ねた。 「あの人のでなけりゃ、誰のだと云うんだよ」と、女は答えた。「あの人も(ああなっては)毛布がなくたって風邪を引きもしまいじゃないか、本当の話がさ。」 「まさか伝染病で死んだんじゃあるまいね、ええ?」と、老ジョーは仕事の手を止めて、(相手を)見上げながら云った。 「そんな事はびくびくしないでも可いよ」と、女は云い返した。「そんな事でもありゃ、いくら私だってこんな物のためにいつまでも彼奴の周りをうろついているほど、彼奴のお相手が好きじゃないんだからね。ああ! その襯衣《シャツ》が見たけりゃ、お前さんの眼が痛くなるまで好く御覧なさいだ。だが、いくら見ても、穴一つ見附ける訳にゃ行かないだろうよ、擦り切れ一つだってさ。これが彼奴の持っていた一番上等のだからね。また実際好い物だよ。私でもこれを手に入れなかろうものなら、他の奴等はむざむざと打捨《うっちゃ》ってしまうところなんだよ。」 「打捨《うっちゃ》るってどう云うことなんだい?」と、老ジョーは訊ねた。 「彼奴に着せたまま一緒に埋めてやるのに極まってらあね」と、その女は笑いながら答えた。「誰か知らんが、そんな真似をする馬鹿野郎があったのさ。でも、(良い按排に)私が(それを見附けて、)もう一度脱がして持って来ちまったんだよ。そんな目的には(キャリコで沢山さ。)キャリコで間に合わなかったら、キャリコなんてえものは何にだって役に立ちはしないよ。死骸には(麻の襯衣)同様しっくり似合うものね。彼奴があの(麻の)襯衣を着ていた時見っともなく見えたよりも、見っともなく見える筈はないよ。」  スクルージは慄然としながらこの対話に耳を傾けていた。例の老爺さんの洋灯から出る乏しい光の下に、銘々の分捕品を取り捲いて、彼等が坐っていた時、彼はたとい、彼等が死骸其者を売買する醜怪な悪鬼どもであったとしても、よもこれより烈しくはあるまいと思われるほどの憎悪と嫌忌の情を以てそれを見やったものだ。  老ジョーが銭の入っているフランネルの嚢を取り出して、床の上に銘々の所得を数え立てた時に、例の女は「はッ、はァ!」と、笑った。「これが事の結末《むすび》でさあね。彼奴が生きていた時分は、誰でも彼でも脅《おど》かして傍《そば》へ寄せ附けなかったものだが、そのお蔭で死んでから私達を儲けさしてくれたよ。はッ、はッ、はァ!」 「精霊殿!」と、スクルージは頭から足の爪先までぶるぶると顫えながら云った。「分りました。分りました。この不幸な人間のように私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりゃどうしたのでしょう!」  目の前の光景が一変したので、彼はぎょっとして後へ退った。彼は今やほとんど一つの寝床に触れようとしていたのだ。帷幄も何もない露出《むきだ》しの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽われて、何物かが横わっていた。それは何とも物は云わないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言していた。  この部屋は非常に暗かった、どんな風の部屋であるか知りたいと思う内心の衝動に従って、スクルージはその部屋の中をぐるりと見廻わしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには余りに暗かった。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が真直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪われて、誰一人見張っている者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手《して》もないままで、この男の死体が横わっていた。  スクルージは精霊の方を見やった。そのびく[#「びく」に傍点]ともしない手は死体の頭部を指していた。覆い物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただろうと思われるほど、いかにもぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]に当てがわれていた。彼はその事について考えた。そうするのがいかにも造作ないことだと云うことにも気が附いた、結局そうしたいとも思って見た。が自分の傍からこの精霊を退散させる力が自分にないと同様に、この覆い物を引《ひ》き剥《め》くるだけの力がどうしても彼にはなかった。  お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、ここに汝の祭壇を設《しつら》えよ。そして、汝の命令のままになるような、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領国なればなり。ながらしかし愛されたる、尊敬せられたる、名誉づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出来ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出来ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。またその心臓も脈も静かに動かないからではない。否、その手は生前気前よく、鷹揚で、誠実であったからである。その心は勇敢で、暖かで、優しかったからである。そして、その脈搏は真の人間のそれであったからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!  何等の声がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やった時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考えた、万一この人間が今生き返ることが出来たとしたら、先ず第一に考えることはどんな事であろうかと。貪欲か、冷酷な取引か、差し込むような苦しい心遣いか。こう云うものは彼を結構な結果に導いてくれた、まったくね! 「この人はこう云うことで私に親切にしてくれた、ああ云うことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云って呉れるような、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝ていた。一疋の猫が入口の戸を引掻いていた、炉石の下ではがりがり噛じっている鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在って何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそわそわしているのか、スクルージはとても考えて見るだけの勇気がなかった。 「精霊殿!」と、彼は云った。「これは恐ろしい所です。ここを離れたところで、ここで得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云うことを信じて下さい。さあ参りましょう!」  ところが、精霊はまだじっと一本の指でその頭部を指していた。 「もう解りました」と、スクルージは返辞をした。「私も出来ればそうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精霊殿。それだけの力がないのです。」  またもや精霊は彼の方を見ているらしかった。 「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあったら」と、スクルージはもうこの上見てはいられないような気持で云った。「なにとぞその人を私に見せて下さい。精霊殿、お願いで御座います!」  精霊は一瞬間彼の前にその真黒な衣を翼のように拡げた。そして、それを引いた時には、そこに昼間の部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。  その女は誰かを待っているのであった。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びているのであった。と云うのは、彼女が部屋の中を頻りに往ったり来たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がったり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかったりした。そして、(傍で)遊んでいる子供達の声を平気で聞いていられないほど苛々していたからである。  やっと待ち焦れていた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎えた。良人と云うのは、まだ若くはあるが、気疲れで、滅入り切ったような顔をした男であった。が、今やその顔には著しい表情が現われていた、自分ながら恥かしいことに思って、抑えようと努めてはいるが、どうも圧え切れないような、容易ならぬ喜びの表情であった。  その男は炉の側《はた》に自分のためにとて蓄《と》って置かれてあった御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈黙していた後で、)彼は何と返辞をしたものかと当惑しているように見えた。 「好かったのですか」と、彼女は相手を助けるように云った。「それとも悪いのですか。」 「悪いんだ」と、彼は答えた。 「私達はすっかり身代限りですね?」 「いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。」 「あの人の気が折れれば」と、彼女は意外に思って云った、「望みはありますわ! 万一そんな奇蹟が起ったのなら、決して望みのない訳ではありませんよ。」 「気の折れるどころではないのさ」と、彼女の良人は云った。「あの人は死んだんだよ。」  彼女の顔つきが真実を語っているものなら、彼女は温和《おとな》しい我慢強い女であった。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思った。そして、両手を握ったまま、そうと口走った。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願った。そして、(相手を)気の毒がった。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であった。 「昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実《ほんとう》のことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。」 「それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?」 「そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣《あとつぎ》がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!」  出来るだけその心持を隠すようにはしていたが、二人の心はだんだん軽くなって行った。子供達は解らないながらもその話を聞こうとして、鳴りを鎮めて周囲に集まっていたが、その顔はだんだん晴れ晴れして来た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になった家庭であった。この出来事に依って惹起された感情の中で、精霊が彼に示すことの出来た唯一のものは喜悦のそれであった。 「人の死に関係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云った。「でないと、今しがた出て来たあの暗い部屋がね、精霊殿、いつまでも私の眼の前にちらついているでしょうからね。」  精霊は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行った。歩いて行く間に、スクルージは自分の姿を見出そうと彼方此方を見廻わしたものだ。が、どこにもそれは見附からなかった。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチットの家に這入った。すると、母親と子供達とは煖炉の周りに集まって坐っていた。  静かであった。非常に物静かであった。例の騒がしい小クラチットどもは立像のように片隅にじっと塊《かた》まって、自分の前に一册の本を拡げているピータアを見上げながら腰掛けていた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしていた。が、確かに彼等は非常に静かにしていた。 「『また孩子《おさなご》を取りて、彼等の中に立てて、さて‥‥』」  スクルージはそれまでどこでこう云う言葉を聞いたことがあるか。彼はそれまでそれを夢に見たこともなかった。彼と精霊とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を読み上げたものに違いない。だが彼はどうしてその先を読み続けないのか。  母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を当てた。 「どうも色が眼にさわってねえ」と、彼女は云った。  色が? ああ、可哀そうなちび[#「ちび」に傍点]のティムよ! 「もう快《よ》くなりましたよ」と、クラチットの主婦《かみ》さんは云った。「蝋燭の光では、黒い物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお帰りの時分には、どんな事があっても、どんよりした眼をお目にかけまいと思ってるんだよ。そろそろもうお帰りの時分だね。」 「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉じながら云った。「だが、阿父さんはこの四五日今までよりは少しゆっくり歩いて戻ってらっしゃるようだと思いますよ、ねえ阿母さん。」  彼等はまたもやひっそりとなった。が、漸くにして、彼女は云った、それもしっかりした元気の好い声で――それは一度慄えただけであった。―― 「阿父さんは好くちび[#「ちび」に傍点]のティムを肩車に乗せてお歩きになったものだがねえ、それもずいぶん速くさ。」 「僕もおぼえています」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」 「わたしも覚えていますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覚えているのであった。 「何しろあの児は軽かったからね」と、彼女は一心に仕事を続けながら、再び云った。「それに阿父さんはあの児を可愛がっておいでだったので、肩車に乗せるのが些《ちっ》とも苦にならなかったのだよ、些とも。ああ阿父さんのお帰りだ!」  彼女は急いで迎えに出た。そして、襟巻に包《くる》まった小ボブ――実際彼には慰安者(註、原語では襟巻と慰安者の両語相通ず。)が必要であった、可哀そうに――が這入って来た。彼のためにお茶が炉棚の上に用意されていた。そして、一同の者は誰が一番沢山彼にそのお茶の給仕をするかと、めいめい先を争ってやって見た。その時二人の小クラチットどもは彼の膝の上に乗って、それぞれその小さい頬を彼の顔に押し当てた――「阿父さん、気に懸けないで頂戴ね、泣かないで下さいね」とでも云うように。  ボブは彼等と一緒に愉快そうであった。そして、家内中の者にも機嫌よく話しをした。彼は卓子の上の縫物を見やった。そして、クラチットのお主婦《かみ》さんや娘どもの出精と手ばやさとを褒めた。(そんなに精を出したら、)日曜日(註、この日が葬式の日と定められたものらしい。)のずっと前に仕上げてしまうだろうよと云ったものだ。 「日曜日ですって! それじゃあなたは今日行って来たんですね? ロバート」と、彼の妻は云った。 「ああそうだよ」と、ボブは返辞をした。「お前も行かれると好かったんだがね。あの青々した所を見たら、お前もさぞ晴れ晴れしたろうからね。なに、これから度々見られるんだ。いつか私は日曜日にはいつもあそこへ行く約束をあの子にしたよ。ああ小さい、小さい子供よ」と、ボブは叫んだ。「私の小さい子供よ。」  彼は急においおい泣き出した。どうしても我慢することが出来なかったのだ。それを我慢することが出来るようなら、彼とその子供とは、恐らくは彼等が現在あるよりもずっと遠く離れてしまったことであろう。  彼はその室を出て、階段を上って二階の室へ這入った。そこには景気よく灯火《あかり》が点いて、聖降誕祭のお飾りが飾ってあった。そこにはまた死んだ子の傍へくっ附けるようにして、一脚の椅子が置いてあった。そして、つい[#「つい」に傍点]今し方まで誰かがそこに腰掛けていたらしい形跡があった。憐れなボブはその椅子に腰を下ろした。そして、少時考えていた後で、やや気が落ち着いた時、彼は死んだ子の冷たい顔に接吻した。こうして彼は死んだものはもう仕方がないと諦めた。そして、再び晴れやかな気持になって降りて行った。  一同の者は煖炉の周囲にかたまって話し合った。娘達と母親はまだ針仕事をしていた。ボブはスクルージの甥が非常に親切にしてくれたと一同の者に話した。彼とはやっと一度位しか会ったことがないのだが、今日途中で会った時、自分が少し弱っているのを見て、――「お前も知っての通り、ほん[#「ほん」に傍点]の少し許り弱っていたんだね」と、ボブは云った。――何か心配なことが出来たのかと訊いてくれた。「それを聞いて」と、ボブは云った。「だって、あの方はとても愉快に話しをする方だものね、そこで私も訳を話したのさ。すると、『そりゃ本当にお気の毒だね、クラチット君、貴方の優しい御家内のためにも心からお気の気だと思うよ』と云って下さった。時に、どうしてあの人がそんな事を知っているんだろうね? 私には分からないよ。」 「何を知っているのですって、貴方?」 「だって、お前が優しい妻《さい》だと云うことをさ」と、ボブは答えた。 「誰でもそんなことは知ってますよ」と、ピータアは云った。 「よく云ってくれた、ピータア」と、ボブは叫んだ。「誰でも知ってて貰いたいね。『貴方の優しい御家内のためには心からお気の毒で』と、あの方は云って下すったよ。それから『何か貴方のお役に立つことが出来れば』と、名刺を下すってね、『これが私の住居《すまい》です。なにとぞ御遠慮なく来て下さい』と云って下さったのさ。私がそんなに喜んだのは、なにもあの方が私達のために何かして下さることが出来るからってえんじゃない。いや、それもないことはないが、それよりもただあの方の親切が嬉しかったんだよ、親切がさ。実際あの方は私達のちび[#「ちび」に傍点]のティムのことを好く知ってでもいらして、それで私達に同情して下さるのかと思われる位だったよ。」 「本当に好い方ですね」と、クラチットの主婦《かみ》さんは云った。 「お前も会って話しをして見たら、一層にそう思うだろうよ」と、ボブは返辞をした。「私はね、あの方に頼んだら――いいかい、お聞きよ――何かピータアに好い口を見附けて下さるような気がするんだがね。」 「まあ、あれをお聞きよ、ピータア」と、クラチットの主婦《かみ》さんは云った。 「そして、それから」と、娘の一人が叫んだ。「ピータアは誰かと一緒になって、別に世帯を持つようになるのだわね。」 「馬鹿云え!」と、ピータアはにたにた笑いをしながら云い返した。 「まあまあ、そう云うことにもなるだろうよ」と、ボブは云った。「いずれその間《うち》にはさ、もっとも、それにはまだ大分時日があるだろうがね。しかし何日《いつ》どう云う風にして各自《めいめい》が別れ別れになるにしても、きっと家《うち》の者は誰一人あのちび[#「ちび」に傍点]のティムのことを――うん、私達家族の間に起った最初のこの別れを決して忘れないだろうよ――忘れるだろうかね。」 「決して忘れませんよ、阿父さん!」と、一同異口同音に叫んだ。 「そしてね、皆はあの子が――あんな小さい、小さい子だったが――いかにも我慢強くて温和《おとな》しかったことを思い出せば、そう安々と家《うち》の者同志で喧嘩もしないだろうし、またそんな事をして、あのちび[#「ちび」に傍点]のティムを忘れるようなこともないだろうねえ、私はそう思ってるよ。」 「いいえ、決してそんな事はありませんよ、阿父さん!」と、また一同の者が叫んだ。 「私は本当に嬉しい」と、親愛なるボブは叫んだ。「私は本当に嬉しいよ。」  クラチットの主婦《かみ》さんは彼に接吻した、娘達も彼に接吻した、二人の少年クラチットどもも彼に接吻した。そして、ピータアと彼自身とは握手した。ちび[#「ちび」に傍点]のティムの魂よ、汝の子供らしき本質は神から来れるものなりき。 「精霊殿!」と、スクルージは云った。「どうやら私どもの別れる時間が近づいたような気がいたします。そんな気はいたしますが、どうしてかは私には分かりませぬ。私どもが死んでるのを見たあれは、どう云う人間だか、なにとぞ教えて下さいませ。」  未来の聖降誕祭の精霊は前と同じように――もっとも、前と違った時ではあったがと、彼は考えた。実際最近に見た幻影は、すべてが未来のことであると云う以外には、その間に何の秩序もあるように見えなかった――実業家達の集まる場所へ彼を連れていった。が、彼自身の影は少しも見せてくれなかった。実際精霊は何物にも足を留めないで、今所望された目的を指してでもいるように、一直線に進んで行った。とうとうスクルージの方で一寸待って貰うように頼んだものだ。 「只今二人が急いで通り過ぎたこの路地は」と、スクルージは云った。「私が商売をしている場所で、しかも長い間やっている所で御座います。その家が見えます。未来における私はどんな事になっていますか。なにとぞ見せて下さいませ!」  精霊は立ち停まった。その手はどこか他の所を指していた。 「その家は向うに御座います」と、スクルージは絶叫した。「何故《なぜ》貴方は他所《よそ》を指すのですか。」  頑として仮借する所のない指は何の変化も受けなかった。  スクルージは彼の事務所の窓の所へ急いで、中を覗いて見た。それは矢張り一つの事務所ではあった。が、彼のではなかった。家具が前と同じではなかった。椅子に掛けた人物も彼自身ではなかった。精霊は前の通りに指さしていた。  彼はもう一度精霊と一緒になって、自分はどうしてまたどこへ行ってしまったかと怪しみながら、精霊に随いて行くうちに、到頭二人は一つの鉄門に到着した。彼は這入る前に、一寸立ち停って、四辺《あたり》を見廻した。  墓場。ここに、その時、彼が今やその名を教えらるべきあの不幸なる男は、その土の下に横わっていたのである。それは結構な場所であった。四面家に取りかこまれて、生い茂る雑草や葭に蔽われていた。その雑草や葭は植物の生の産物ではなく、死の産物であった。また余りに人を埋め過ぎるために息の塞るようになっていた。そして、満腹のために肥え切っていた。誠に結構な場所であった!  精霊は墓の前に立って、その中の一つを指差した。彼はぶるぶる慄えながらその方に歩み寄った。精霊は元の通りで寸分変る所はなかった。而も彼はその厳粛な姿形に新しい意味を見出したように畏れた。 「貴方の指していらっしゃるその石の傍へ近づかないうちに」と、スクルージは云った、「なにとぞ一つの質問に答えて下さい。これ等は将来本当にある物の影で御座いましょうか、それともただ単にあるかも知れない物の影で御座いましょうか。」  精霊は依然[#「依然」は底本では「 然」]として自分の立って居る傍の墓石の方へ指を向けていた。 「人の行く道は、それに固守して居れば、どうしてある定まった結果に到達する――それは前以て分りもいたしましょう」と、スクルージは云った。「が、その道を離れてしまえば、結果も変るものでしょう。貴方が私にお示しになることについても、そうだと仰しゃって下さいな!」  精霊は依然として動かなかった。  スクルージはぶるぶる慄えながら、精霊の方に這い寄った。そして、指の差す方角へ眼で従いながら、打捨り放しにされたその墓石の上に、「エベネザア・スクルージ」と云う自分自身の名前を読んだ。 「あの寝床の上に横わっていた男は私なのですか」と、彼は膝をついて叫んだ。  精霊の指は墓から彼の方に向けられた、そしてまた元に返った。 「いえ、精霊殿、おお、いえ、いいえ!」  指は矢張りそこにあった。 「精霊殿!」と、彼はその衣にしっかり噛じりつきながら叫んだ。「お聞き下さい! 私はもう以前の私では御座いません。私はこうやって精霊様方とお交りをしなかったら、なった筈の人間には断じてなりませんよ。で、若し私に全然見込みがないものなら、何故こんなものを私に見せて下さるのです?」  この時始めてその手は顫えるように見えた。 「善良なる精霊殿よ」と、彼は精霊の前の地に領伏《ひれふ》しながら言葉を続けた。「貴方は私のために取り做して、私を憐れんで下さいます。私はまだ今後の心を入れ代えた生活に依って、貴方がお示しになったあの幻影を一変することが出来ると云うことを保証して下さいませ!」  その親切な手はぶるぶると顫えた。 「私は心の中に聖降誕祭を祝います。そして、一年中それを守って見せます。私は過去にも、現在にも、未来にも(心を入れ代えて)生きる積りです。三人の精霊方は皆私の心の中にあって力を入れて下さいましょう。皆様の教えて下すった教訓を閉め出すような真似はいたしません。おお、この墓石の上に書いてある文句を拭き消すことが出来ると仰しゃって下さい!」  苦悶[#「苦悶」は底本では「若悶」]の余りに、彼は精霊の手を捕えた。精霊はそれを振り放とうとした。が、彼も懇願にかけては強かった。そして、精霊を引き留めた。が、精霊の方はまだまだ強かったので、彼を刎ね退けた。  自己の運命を引っ繰り返して貰いたさの最後の祈誓に両手を差上げながら、彼は精霊の頭巾と着物とに一つの変化を認めた。精霊は縮まって、ひしゃげて、小さくなって、一つの寝台の上支えになってしまった。 [#3字下げ]第五章 大団円[#「第五章 大団円」は中見出し]  そうだ! しかもその寝台の柱は彼自身の所有《もの》であった。寝台も彼自身のものなら、部屋も彼自身のものであった。別けても結構で嬉しいことには、彼の前にある時が、その中で埋め合せをすることの出来るような、彼自身のものであった。 「私は過去においても、現在においても、また未来においても生きます!」と、スクルージは寝台から這い出しながら、以前の言葉を繰り返した。「三人の精霊は私の心の中に在って皆力を入れて下さるに違いない。おお、ジェコブ・マアレイよ。この事のためには、神も聖降誕祭の季節も、褒め讃えられてあれよ。私は跪いてこう申上げているのだ、老ジェコブよ、跪いてからに!」  彼は自分の善良な企図に昂奮し熱中するのあまり、声まで途切れ途切れになって、思うように口が利けない位であった。先刻《さっき》精霊と啀《いが》み合っていた際、彼は頻りに啜り泣きをしていた。そのために彼の顔は今も涙で濡れていた。 「別段引き千断られてはいないぞ」と、スクルージは両腕に寝台の帷幄の一つを抱えながら叫んだ。「別段引き千断られてはいないぞ、鐶も何も彼も。みんなここにある――私もここに居る――(して見ると、)ああ云う事になるぞと云われた物の影だって、消せば消されないことはないのだ。うむ、消されるともきっと消されるとも!」  その間彼の手は始終忙しそうに着物を持て扱っていた。それを裏返して見たり、上下逆様に着て見たり、引き千断ったり、置き違えたりして、ありとあらゆる目茶苦茶のことに仲間入りをさせたものだ。 「どうしていいか分からないな!」と、スクルージは笑いながら、同時にまた泣きながら喚いた。そして、靴下を相手にラオコーンそっくりの様子をして見せたものだ。「俺は羽毛《はね》のように軽い、天使のように楽しく、学童のように愉快だよ。俺はまた酔漢《よっぱらい》のように眼が廻る。皆さん聖降誕祭お目出度う! 世界中の皆さんよ、新年お目出度う! いよう、ここだ! ほーう! ようよう!」  彼は居間の中へ跳ね出した。そして、すっかり息を切らしながら、今やそこに立っていた。 「粥の入った鍋があるぞ」と、スクルージはまたもや飛び上がって、煖炉の周りを歩きながら呶鳴った。「あすこに入口がある、あすこからジェコブ・マアレイの幽霊は這入って来たのだ! この隅にはまた現在の聖降誕祭の精霊が腰掛けていたのだ! この窓から俺は彷《さまよ》える幽霊どもを見たのだ! 何も彼もちゃん[#「ちゃん」に傍点]としている、何も彼も本当なのだ、本当にあったのだ。はッ、はッ、はッ!」  実際あんなに幾年も笑わずに来た人に取っては、それは立派な笑いであった、この上もなく華やかな笑いであった。そして、これから続く華やかな笑いの長い、長い系統の先祖になるべき笑いであった! 「今日は月の幾日か俺には分らない」と、スクルージは云った。「どれだけ精霊達と一緒に居たのか、それも分らない。俺には何にも分らない。俺はすっかり赤ん坊になってしまった。いや、気に懸けるな。そんな事構わないよ。俺はいっそ赤ん坊になりたい位のものだ。いよう! ほう! いよう、ここだ!」  彼はその時教会から打ち出した、今まで聞いたこともないような、快い鐘の音に、その恍惚状態を破られた。カーン、カーン、ハンマー。ヂン、ドン、ベル。ベル、ドン、ヂン。ハンマー、カーン、カーン。おお素敵だ! 素敵だ!  窓の所へ駆け寄って、彼はそれを開けた。そして、頭を突き出した。霧もなければ、靄もない。澄んで、晴れ渡った、陽気な、賑やかしい、冷たい朝であった。一緒に血も踊り出せとばかり、ピューピュー風の吹く、冷たい朝であった。金色の日光。神々しい空、甘い新鮮な空気。楽しい鐘の音。おお素敵だ! 素敵だ! 「今日は何かい」と、スクルージは下を向いて、日曜の晴れ着を着た少年に声を掛けた。恐らくこの少年はそこいらの様子を見にぼんやり這入り込んで来たものらしい。 「ええ?」と、少年は驚愕のあらゆる力を籠めて聞き返した。 「今日は何かな、阿兄《にい》さん」と、スクルージは云った。 「今日!」と、少年は答えた。「だって、基督降誕祭じゃありませんか。」 「基督降誕祭だ!」と、スクルージは自分自身に対して云った。「私はそれを失わずに済んだ。精霊達は一晩の中にすっかりあれを済ましてしまったんだよ。何だってあの方々は好きなように出来るんだからな。もちろん出来るんだとも。もちろん出来るんだとも。いよう、阿兄《にい》さん!」 「いよう!」と、少年は答えた。 「一町おいて先の街の角の鳥屋を知っているかね」と、スクルージは訊ねた。 「知っているともさ」と、少年は答えた。 「悧巧な子じゃ!」と、スクルージは云った。「まったくえらい子じゃ! どうだい、君はあそこに下がっていた、あの賞牌を取った七面鳥が売れたかどうか知っているかね。――小さい方の賞牌つき七面鳥じゃないよ、大きい方のだよ?」 「なに、あの僕位の大《で》っかいのかい」と、少年は聞き返した。 「何て愉快な子供だろう!」と、スクルージは云った。「この子と話しをするのは愉快だよ。ああそうだよ! 阿兄《にい》さん!」 「今でもあそこに下がっているよ」と、少年は答えた。 「下がってるって?」と、スクルージは云った。「さあ行って、それを買って来ておくれ。」 「御戯談でしょ」と、少年は呶鳴った。 「いや、いや」と、スクルージは云った。「私は真面目だよ。さあ行って買って来ておくれ。そして、ここへそれを持って来るように云っておくれな。そうすりゃ、私が使の者にその届け先を指図してやれるからね。その男と一緒に帰ってお出で、君には一シリング上げるからね。五分経たないうちに、その男と一緒に帰って来ておくれ、そうしたら半クラウンだけ上げるよ。」  少年は弾丸《たま》のように飛んで行った。この半分の速力で弾丸を打ち出すことの出来る人でも、引金を握っては一ぱし確かな腕を持った打ち手に相違ない。 「ボブ・クラチットの許へそれを送ってやろうな」と、云いながら、スクルージは両手を擦《こす》り擦り腹の皮を撚らせて笑った。「誰から贈って来たか、相手に分っちゃいけない。ちび[#「ちび」に傍点]のティムの二倍も大きさがあるだろうよ。ジョー・ミラー(註、「ジョー・ミラー滑稽集」の著者。)だって、ボブにそれを贈るような戯談をしたことはなかったろうね。」  ボブの宛名を書いた手蹟は落着いてはいなかった。が、とにかく書くには書いた。そして、鳥屋の若い者が来るのを待ち構えながら、表の戸口を開けるために階子段を降りて行った。そこに立って、その男の到着を待っていた時、彼は不図戸敲きに眼を着けた。 「俺は生きてる間これを可愛がってやろう!」と、スクルージは手でそれで撫でながら叫んだ。「俺は今までほとんどこれを見ようとしたことがなかった。いかにも正直な顔附きをしている! まったく素晴らしい戸敲きだよ! いよう。七面鳥が来た。やあ! ほう! 今日は! 聖降誕祭お目出度う!」  それは確かに七面鳥であった。こいつあ自分の脚で立とうとしても立てなかったろうよ、この鳥は。(立ったところで、)一分も経たない間《うち》に、その脚は、封蝋の棒のように、中途からぽき[#「ぽき」に傍点]と折れてしまうだろうよ。 「だって、これをカムデン・タウンまで担いじゃとても行かれまい」と、スクルージは云った。「馬車でなくちゃ駄目だろうよ。」  彼はくすくす笑いながら、それを云った。くすくす笑いながら、七面鳥の代を払った。くすくす笑いながら、馬車の代を払った。くすくす笑いながら少年に謝礼をした。そして、そのくすくす笑いを圧倒するものは、ただ彼が息を切らしながら再び椅子に腰掛けた時のそのくすくす笑いばかりであった。それから、あまりくすくす笑って、とうとう泣き出した位であった。  彼の手はいつまでもぶるぶる慄え続けていたので、髯を[#「髯を」は底本では「髪を」]剃るのも容易なことではなかった。髯剃りと云うものは、たといそれをやりながら踊っていない時でも、なかなか注意を要するものだ。だが、彼は(この際)鼻の先を切り取ったとしても、その上に膏薬の一片でも貼って、それですっかり満足したことであろう。  彼は上から下まで最上の晴れ着に着更えた。そして、とうとう街の中へ出て行った。彼が現在の聖降誕祭の幽霊と一緒に出て見た時と同じように、人々は今やどしどしと街上に溢れ出していた。で、スクルージは手を背後にして歩きながら、いかにも嬉しそうな微笑を湛えて通行の誰彼を眺めていた。彼は、一口に云えば、抵抗し難いほど愉快そうに見えた。そのためか、三四人の愛嬌者が、「旦那お早う御座います! 聖降誕祭お目出度う!」と声を掛けた。その後スクルージは好く云ったものだ。「今まで聞いたあらゆる愉快な音響の中でも、この言葉が自分の耳には一番愉快に響いた」と。  まだ遠くも行かないうちに、向うから例の恰服《かっぷく》の好い紳士がこちらへやって来るのを見た。前の日彼の事務所へ這入って来て、「こちらはスクルージさんとマアレイさんの商会ですね?」と訊いたあの紳士である。二人が出会《でくわ》したら、あの老紳士がどんな顔をして自分を見るだろうかと思うと彼は胸にずきり[#「ずきり」に傍点]と傷みを覚えた。而も彼は自分の前に真直に横わっている道を知っていた。そして、それに従った。 「もしもし貴方」と、スクルージは歩調を早めて老紳士の両手を取りながら云った。「今日は? 昨日は好い工合に行きましたか。まったく御親切に有難う御座いましたね。聖降誕祭お目出とう!」 「スクルージさんでしたか。」 「そうですよ」と、スクルージは云った。「仰しゃる通りの名前ですが、どうも貴方には面白くない感じを与えましょうね? ですが、まあどうか勘弁して下さい。それから一つお願いが御座いますがね――」ここでスクルージは何やら彼の耳に囁いた。 「まあ驚きましたね!」と、かの紳士は呼吸《いき》が絶えでもしたように叫んだ。「スクルージさん、そりゃ貴方本気ですか。」 「なにとぞ」と、スクルージは云った。「それより一文も欠けず、それだけお願いしたいので。もっとも、それには今まで何度も不払いになっている分が含まれているんですがね。で、その御面倒を願われましょうか。」 「もし貴方」と、相手は彼の手を握り緊めながら云った。「かような御寛厚なお志に対しましては、もう何と申上げて宜しいやら、私には――」 「もう何も仰しゃって下さいますな」と、スクルージは云い返した。「一度来て下さい。一度手前どもへいらして下さいませんでしょうか。」 「伺いますとも」と、老紳士は叫んだ。そして、彼がその積りでいることは明白であった。 「有難う御座います」と、スクルージは云った。「本当に有難う御座います。幾重にもお礼を申上げますよ。それではお静かに!」  彼は教会へ出掛けた。それから街々を歩き廻りながら、あちこちと忙しそうにしている人々を眺めたり、子供の頭を撫でたり、乞食に物を問い掛けたり、家々の台所を覗き込んだり、窓を見上げたりした。そして、何を見ても何をしても愉快になるものだと云うことを発見した。彼はこれまで散歩なぞが――いや、どんな事でもこんなに自分を幸福にしてくれることが出来ようとは夢にも想わなかった。午後になって、彼は歩みを甥の家に向けた。  彼は近づいて戸を敲くだけの勇気を出す前に、何度も戸口を通り越したものだ。が、勇を鼓してとうとうそれをやっ附けた。 「御主人は御在宅かな」と、スクルージは出て来た娘に云った。好い娘だ! 本当に。 「いらっしゃいます。」 「どこにおいでかね」と、スクルージは訊いた。 「食堂にいらっしゃいます、奥様と御一緒に。それでは、お二階に御案内申しましょう。」 「有難うよ。御主人は俺《わし》を知ってだから」と、スクルージはもう食堂の錠の上に片手を懸けながら云った。「すぐにこの中に這入って行くよ、ねえ。」  彼はそっとそれを廻わした。そして、戸を周って顔だけ斜《はす》にして入れた。彼等は食卓を眺めているところであった、(その食卓は大層立派に飾り立てられていた。)と云うのは、こう云ったような若い世帯持ちと云うものは、こう云う事に懸けてはいつでも神経質で、何も彼もちゃん[#「ちゃん」に傍点]となっているのを見るのが所好《すき》なものであるからである。 「フレッド!」と、スクルージは云った。  ああ胆が潰れた! 甥の嫁なる姪の驚き方と云ったら! スクルージは、一寸の間、足台に足を載せたまま片隅に腰掛けていた彼女のことを忘れてしまったのだ。でなければ、どんな事があっても、そんな真似はしなかったであろう。 「ああ吃驚した!」と、フレッドは叫んだ。「そこへ来たのは何誰《どなた》です?」 「私だよ。伯父さんのスクルージだよ。御馳走になりに来たんだ。お前入れて呉れるだろうね、フレッド!」  入れて呉れるだって! 彼は腕を振り千断《ちぎ》られないのが切めてもの仕合せであった。五分間のうちに、彼はもう何の気兼ねもなくなっていた。これほど誠意の籠った歓迎はまたと見られまい。彼の姪は(彼が夢の中で見たと)すっかり同じように見えた。トッパーが這入って来た時も、そうであった。あの肥った妹が這入って来た時も、そうであった。来る人来る人皆がそうであった。素晴らしい宴会、素晴らしい勝負事、素晴らしい和合、素―晴―ら―し―い幸福!  しかも明くる朝早く彼は事務所に出掛けた。おお実際彼は早くからそこに出掛けた。先ず第一にそこへ行き着いて、後れて来るボブ・クラチットを捕えることさえ出来たら! これが彼の一生懸命になった事柄であった。  そして、彼はそれを実行した、然り、彼は実行した! 時計は九時を打った。ボブはまだ来ない。十五分過ぎた。まだ来ない。彼は定刻に後るること正に十八分と半分にして、やっとやって来た。スクルージは、例の大桶の中へボブの這入るところが見られるように、合の戸を開け放したまま腰掛けていた。  彼は戸口を開ける前に帽子を脱いだ。襟巻も取ってしまった。彼は瞬く間に床几に掛けた。そして、九時に追い着こうとでもしているように、せっせと鉄筆《ペン》を走らせていた。 「いよう!」と、スクルージは成るたけ平素の声に似せるようにして唸った。「どう云う積りで君は今時分ここへやって来たのかね。」 「誠に相済みません、旦那」と、ボブは云った。「どうも遅なわりまして。」 「遅いね!」と、スクルージは繰り返した。「実際、遅いと思うね。まあ君ここへ出なさい。」 「一年にたった一度の事で御座いますから」と、ボブは桶の中から現われながら弁解した。「二度と[#「二度と」は底本では「二廣と」]もうこんな事は致しませんから。どうも昨日は少し騒ぎ過ぎたのですよ、旦那。」 「では、真実《ほんとう》のところを君に云うがね、君」と、スクルージは云った。「俺《わし》はもうこんな事には一日も耐えられそうにないよ。そこでだね」と続けながら、彼は床几から飛び上がるようにして、相手の胴衣《チョッキ》の辺りをぐい[#「ぐい」に傍点]と一本突いたものだ。その結果、ボブはよろよろとして、再び桶の中へ蹣跚《よろめき》き込んだ。「そこでだね、俺は君の給料を上げてやろうと思うんだよ。」  ボブは顫え上がった。そして、少し許り定規の方へ近寄った。それで以ってスクルージを張り倒して、抑え附けて、路地の中を歩いている人々に助けを喚んで、狭窄衣でも持って来て貰おうと咄嗟に考えたのである。 「聖降誕祭お目出とう、ボブ君!」と、スクルージは相手の背中を軽く打ちながら、間違えようにも間違えようのない熱誠を籠めて云った。「この幾年もの間俺が君に祝って上げたよりも一層目出たい聖降誕祭だよ、ええ君。俺は君の給料を上げて、困っている君の家族の方々を扶けて上げたいと思っているのだがね。午後になったら、すぐにも葡萄酒の大盃を挙げて、それを飲みながら君の家《うち》のことも相談しようじゃないか、ええボブ君! 火を拵えなさい。それから四の五の云わずに大急ぎでもう一つ炭取りを買って来るんだよ、ボブ・クラチット君!」  スクルージは彼の言葉よりももっと好かった。彼はすべてその約束を実行した。いや、それよりも無限に多くのものを実行した。そして、実際は死んでいなかったちび[#「ちび」に傍点]のティムに取っては、第二の父となった。彼はこの好い古い都なる倫敦《ロンドン》にもかつてなかったような、あるいはこの好い古い世界の中の、その他のいかなる好い古い都にも、町にも、村にもかつてなかったような善い友達ともなれば、善い主人ともなった、また善い人間ともなった、ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃん[#「ちゃん」に傍点]と承知していたからである。そして、そんな人間はどうせ盲目[#「盲目」に傍点]だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人《ひと》を笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。  彼と精霊との間にはそれからもう何の交渉もなかった。が、彼はその後ずっと禁酒主義の下に生活した。そして、若し生きている人間で聖降誕祭の祝い方を知っている者があるとすれば、あの人こそそれを好く知っているのだと云うようなことが、彼について終始云われていた。吾々についても、そう云うことが本当に云われたら可かろうに――吾々総てについても。そこで、ちび[#「ちび」に傍点]のティムも云ったように、神よ。吾々を祝福し給え――吾々総ての人間を! 底本:「クリスマス・カロル」岩波文庫、岩波書店    1929(昭和4)年4月20日初版発行    1936(昭和11)年1月10日10刷 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「惘れ→あきれ、彼処→あそこ、恰→あたか、窖→あなぐら、或→ある、吩咐け→いいつけ、雖も→いえども、如何→いか、如何→いかが、幾許→いくら、何時→いつ、毎→いつ、愈々→いよいよ、吋→インチ、泛ぶ→うかぶ、恭々しい→うやうやしい、笑靨→えくぼ、於て→おいて、晩い→おそい、彼処→かしこ、且→かつ、嘗て→かつて、廉→かど、屹度→きっと、擽られ→くすぐられ、此奴→こいつ、踰える→こえる、此処→ここ、悉く→ことごとく、此の→この、是迄→これまで、嘸→さぞ、薩張り→さっぱり、逍遥い→さまよい、併し→しかし、直き→じき、蔵う→しまう、志→シリング、殿→しんがり、掬う→すくう、即ち→すなわち、凡て→すべて、其奴→そいつ、其処→そこ、謗る→そしる、哮り→たけり、慥か→たしか、但し→ただし、忽ち→たちまち、恃んで→たのんで、些っとも→ちっとも、恰度→ちょうど、就て→ついて、就いて→ついて、即いて→ついて、突慳貪→つっけんどん、兎ある→とある、何奴→どいつ、何処→どこ、処→ところ、迚も→とても、兎に角→とにかく、乍併→ながらしかし、何卒→なにとぞ、成程→なるほど、成る程→なるほど、蔓って→はびこって、疾い→はやい、夙く→はやく、汎く→ひろく、変梃→へんてこ、殆ど→ほとんど、磅→ポンド、真逆→まさか、益々→ますます、又→また、亦→また、真個→まったく、迄→まで、侭→まま、見窄らしい→みすぼらしい、寧ろ→むしろ、簇って→むらがって、齎して→もたらして、勿論→もちろん、尤も→もっとも、八釜しい→やかましい、窶れ→やつれ、稍→やや、寛く→ゆるく、宥して→ゆるして、寛やか→ゆるやか、余つ程→よっぽど、余程→よほど、蹌け→よろけ」 以下は、章の初出にルビを補いました。 「廉《やす》い、廉《やす》くて、倫敦《ロンドン》、西班牙《スペイン》、襯衣《シャツ》」 ※丸括弧内に示された「註」は、底本ではすべて割註となっています。 ※疑問点への対処にあたっては、改版された1938(昭和13)年2月5日13刷を参照しました。 入力:大久保ゆう 校正:松永正敏 2002年12月22日作成 2017年7月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。