◇。◇。◇。◇。◇。 【道化芝居】 【北條民雄】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  どんよりと曇つ《っ》た夕暮《夕暮れ》である。  省線の駅を出ると、みつ子はすぐ向ひ《かい》の市場《イチバ》へ|這入つ《入っ》て今夜のおかずを買つ《っ》た。それを右手に抱いて、細い路地を幾つも曲つ《がっ》て、大きな工場と工場とに挟まれた谷間のや《よ》うな道を急ぎ足で歩いた。今日は会社で珍しく仕事が多かつ《っ》たので、まだタイプに慣れない彼女の指先はひりひりと痛みを訴へ《え》たが、それでも何か浮き浮きと楽しい気持《気持ち》であつ《っ》た。こんな気持《気持ち》を味ふ《う》のも、もう何年振《何年ぶ》りであら《ろ》う、ふとそんな感慨が彼女の頭に浮ぶのである。これからは少しづ《ず》つでも自分達の生活を良くしなくちや《ゃ》あ、ここ二三年《二’三年》の生活はあまりにみじめであつ《っ》た──。しかし彼女はふと夫の山田の顔を思ひ《い》出すと、瞬間何故《瞬間’何故》ともなく不安な気持《気持ち》に襲は《わ》れた。またあんな苦しい生活が来るのではあるまいか、といふ《う》暗い予感が自然と頭に流れて来るのだ。が《が/》彼女は急いでその不吉な考へ《え》をもみ消すと、夏までにはもつ《っ》と上等なアパートへ引越さ《そ》うか、《:、》いやそれよりも今はもつ《っ》と辛抱して来年になつ《っ》たら家《’家》を持た《と》う、それまでは出来る限り切りつめてお金をためよう、などと考へ《え》耽るのであつ《っ》た。  彼女は足をとめた。没落者、ふとさ《そ》ういふ《う》言葉を思ひ《い》出したのである。彼女は口許に薄つ《っ》すらと微笑を浮べると、わたしにはわたしの生活が一番大切、と強く頭の中で考へ《え》た。そして、何時までもそんな言葉が、意外なほどの執拗さで自分の中に潜んでいるのに驚いた。  工場街を抜けると、ち|よつ《ょっ》と樹木などが生えた一郭があつ《っ》て、そこに彼女のアパートはあつ《っ》た。工場の職工などを相手に建てられた安つ《っ》ぽい木造で、この|あた《辺》りにはさ《そ》うい|ふ家《う’家》が二三軒《二’三軒》あつ《っ》た。彼女はさつ《っ》き市場《イチバ》で買つ《っ》た新聞の包みを習慣的に左手に持ち換へ《え》ると、とんとんと階段を昇り始めた。すると階下から、 「お手紙ですよ。」  と呼ぶおかみさんの声が聴《聴こ》えた。急いでそれを貰ふ《う》と、また階段を昇りながら裏返して見た。一通は学校時代の友達の筆蹟であつ《っ》た。この友達とはもう四年ほども交は《わ》りが跡絶えていたのであるが、彼女はこの頃この友達との交は《わ》りを復活させたいと願つ《っ》て、二十日ばかり前に書いて出したことがあつ《っ》た。恐らくはその返事であら《ろ》う。彼女は他にもか《こ》ういふ《う》友達の二三《ニサン》にその時一緒《とき一緒》に手紙を書いたが、返事は今まで一通もなかつ《っ》た。だから彼女は自分の手紙から二十日も経つ《っ》ていたので、その遅いことにち|よつ《ょっ》と不満を感じたが、しかしやはりうれしくもあつ《っ》た。  他の一通《1通》は全然未知の名前で、おまけに自分の住所も何も書いてなかつ《っ》た。 「辻 一作《/一作》。」  彼女はドアの鍵を|がちやがちや《ガチャガチャ》と鳴らせて室《部屋》に這入《入》ると、立つ《っ》たままその手紙の裏を見、表《おもて》を見しながら呟いた。誰だら《ろ》う? 勿論《もちろん》夫あてのものであるが、山田の友達ならたいてい彼女は知つ《っ》ていた。彼女は夫の友達を──もつ《っ》とも今は全く友達もなくなつ《っ》ているが、──《─:》次々と思ひ《い》出して行つ《っ》たが、さ《そ》ういふ《う》固有名詞は探しあたらなかつ《っ》た。すると何故ともなく不安になつ《っ》て来た。  彼女はちらりと机の上の時計に眼を走らせた。もう夫の帰つ《っ》て来るのは間もない時刻である。手紙をあけるのは後にして、彼女はそれを机に投げ、上衣を脱いでスカートだけで炊事場に降りた。ガスに火を点けて先づ《ず》炭をおこし、それからさつ《っ》き買つ《っ》た蓮根を|こんこん《コンコン》と音立《音’立》てて切り始めたが、その未知の男に対する不安はやはり去らなかった。理由はないが、その男はきつ《っ》と夫のあの時代の友達に相違ないと思は《わ》れ、そこから自分の生活が脅かされるや《よ》うな気がしてならなかつ《っ》た。彼女は前から、夫の以前の友達がひ|よつ《ょっ》こり訪ねて来たりして、色々と面倒な問題が起りは《は-》せぬかと絶えず心配したりび《/び》くびくしたりしていたのである。  夕食の支度が出来ると、餉台《卓袱台》にそれを拡げて白い布を被せ、また時計を眺めて見た。六時か、十分前《10分前》くらいには何時も山田は帰る。彼女はち|よつ《ょっ》と耳を澄ませて、窓下《窓した》の通りに気を配つ《っ》て見たが、夫の靴音はしなかつ《っ》た。今夜も飲んでいるのではあるまいか、と、ちらりと頭をかすめる予感があつ《っ》たが、六時になつ《っ》たら独りで先に食べようと考へ《え》て|さつ《/さっ》きの手紙を取つ《っ》た。どんなことを書いているかといくらか浮いた気持《気持ち》であつ《っ》たが、開いて見て失望した。友達は書簡箋一枚に、久々で手紙を貰つ《っ》てうれしかつ《っ》たこと、返事の遅れてすまなかつ《っ》たこと、あなたも無事でうれしいこと、自分もどうにか平和でいることなどが、達筆に走り書《書き》されてある。それは殆ど事務的な紋切型の言葉使ひ《い》で、心のニュアンスも愛情も感ぜられないものだつ《っ》た。彼女は何か相手の背中でも見ているや《よ》うな感じがした。その達者な文字までが、なんとなく|つん《ツン》と澄まし込んでいるや《よ》うに見え出して、背負投げを食は《わ》されたや《よ》うな気持《気持ち》であつ《っ》た。わたしなどとうつ《っ》かり交際しては損でもすると思つ《っ》ているに違ひ《い》ない、と彼女は思は《わ》ずひねくれた猜疑を起さね《ね-》ばいられなかつ《っ》た。彼女は受難時代──山田の三年間の下獄と、その後の失業生活とをか《こ》う呼ぶことにしていた──《─:》を思ひ《い》出して、あの生活苦がわたしをこんなにひねくれさせてしまつ《っ》た、と反省して情《/情》ない気持《気持ち》がした。しかしあの頃のことを考へ《え》ると、これは猜疑ではなく的確な批評かも知れなかつ《っ》た。  実際その頃には誰も彼《か》も彼女等《彼女ら》を敬遠したのだ。とりわけ夫《’夫》の山田が転向者の極印を自ら額《ヒタイ》に貼つ《っ》て出獄して以来は、更に激しい侮辱と冷眼を彼女等《彼女ら》は忍ばねばならなかつ《っ》たのである。学校時代の友人も教師も彼女から離れてしまつ《っ》たのは勿論《もちろん》、田舎の村長である父さへ《え》も彼女を家に入《い》れることを拒んだ。彼女が訪ねて行つ《っ》た四谷の伯母の如きは、玄関口で彼女に向つ《かっ》て食塩を撒いた程だつ《っ》た。その上に餓《餓え》が追つ《っ》て来た。山田は臨時仕事に出て十日働いては二十日休《二十日’休》まねばならず、彼女は、日給三十銭のセルロイド工場へ|通つ《-かよっ》た。ある正月には山田は年賀郵便の配達夫《配達フ》になつ《っ》たりしたが、ゲートルを巻いて肘《/肘》の裂けた外套を着て土間に立つ《っ》た夫の姿は、今もなほ《お》忘れることが出来なかつ《っ》た。山田が今の会社へ通|ふや《うよ》うになつ《っ》たのはつい半年ほど前で、さ《そ》うした生活にせつ《っ》ぱつまつ《っ》た果《果て》に伯父《/伯父》に泣きついて入れて貰つ《っ》たのである。山田の伯父はその無線電信会社の重役で、山田にとつ《っ》ては殆ど仇敵にも等しい関係があつ《っ》た。山田が捕へ《え》られたのはその会社の争議をリイダアしている時だつ《っ》たのである。そのために就職を頼みに行つ《っ》た山田がどんな屈辱を忍ばねばならなかつ《っ》たか、みつ子にもいくらかは判つ《っ》ていた。とは言へ《え》、山田を伯父のところへ行かせたのは彼女で、彼女は一晩泣いて山田にそれを頼んだのである。夫が獄中にいる頃には、社会の情勢が彼女の思想を支へ《え》、思想が彼女の精神を支へ《え》ていた。しかしさ《そ》うした社会の情勢が押し流されると共に彼女《/彼女》の思想も押し流された。今になつ《っ》て考へ《え》て見ると彼女《/彼女》の中には思想は全くなかつ《っ》たのである。唯社会《ただ社会》の波と、山田への愛情があつ《っ》ただけであつ《っ》たや《よ》うに思は《わ》れた。しかしか《こ》うした反省はどうでもよかつ《っ》た。生活状態を少しでも良くすることが、彼女にとつ《っ》て第一の仕事になつ《っ》た。どんなことがあつ《っ》ても今の生活を失つ《っ》てはならない、そのためには堪へ《え》難いや《よ》うな侮蔑をも彼女は忍んだ。  彼女がタイプを習つ《っ》たのは山田が仕事を持つ《っ》てからで、自分が仕事を持つ《っ》ていれば、もし山田が失職するや《よ》うなことがあつ《っ》ても直ちに餓《餓え》に迫られるといふ《う》ことはない。また山田が失業しなければ自分の働いた分《ぶん》だけは貯金することが出来る。これは将来の平和の基礎であり、さ《そ》うすれば子供が欲しいといふ《う》楽しい希望も持ち得るのだ。彼女は今まで子供が出来はしないかとそ《/そ》こに不安ばかり感じて来た。と言ふ《う》よりも自分の中にある子供への欲望を彼女《/彼女》は絶えず押し殺して来たのである。これは彼女にとつ《っ》て淋しいことに違ひ《い》なかつ《っ》た。今までの夫婦生活に子供の生《生ま》れなかつ《っ》たところを見ると、もう生涯子供《生涯’子供》は出来ないかも知れなかつ《っ》たが、しかしそれでも子供が欲しいなあと|考へ得《’考えう》るや《よ》うになれば《ば-》どれだけ楽しいことか、《:、》それは平和な生活であり、豊かな気持《気持ち》である。  彼女はそこの邦文を四ヶ月で卒業すると、丸の内のあるドイツ人の経営している合資会社へ|這入つ《入っ》た。そこへ|這入つ《入っ》てからまだ二ヶ月にもならないのであるが、彼女はこれで永年《長年》の苦労も終つ《っ》たや《よ》うな気持《気持ち》になつ《っ》た。とは言へ《え》、その会社へ就職した最初の日の印象は忘れることが出来なかつ《っ》たし、また今も尚侮辱《なお侮辱》や屈辱はあつ《っ》たが──。実は彼女はそこの就職試験に失敗したのだ。学校を出たての彼女はタイピストとしてはほんの素人も同然であつ《っ》たし、それに二三人《二’三人》、永年《長年》同業で苦労したや《よ》うな人たちも就職を希望していて彼女《/彼女》は手もなく落されてしまつ《っ》た。が、一室《イッシツ》でそれを言ひ《い》渡された時──それは日本人だつ《っ》た──彼女は自分でもびつ《っ》くりする程の声で突如《/突如》として泣き出してしまつ《っ》たのだ。言ふ《う》までもなく山田も仕事を持つ《っ》ていたので、彼女が職を得なかつ《っ》たとてさ《/そ》う心配するほどのことはなかつ《っ》たのであるが、《:、》彼女は失敗したと言ひ《い》渡されたとたん、以前の失業の記憶が突然まざまざと蘇つ《っ》て眼先《/眼先》が真暗《真っ暗》になつ《っ》た。それは殆ど肉体的苦痛に等しかつ《っ》た。胸がぐつ《っ》としめつけれ《ら》れて、喉が急に|痙攣つ《-ひっつっ》てしまつ《っ》たのである。 「かは《わ》いさ《そ》うでしゆ《ゅ》、かは《わ》いさ《そ》うでしゆ《ゅ》。」といふ《う》ドイツ人の声がその時聴《とき聴こ》えた。  彼女はか《こ》うして就職したのであるが、それは悪く言へ《え》ば技術《/技術》もない癖に泣きおとしの手で外国人の同情を買つ《っ》たのに等しかつ《っ》た。その後その会社の連中が彼女をどんな眼で見、どんな態度をとるかはその日にもう決定してしまつ《っ》たのである。その上《上’》そこに欧文を受け持つ《っ》ている年上のタイピストもいたのである。  しかし彼女はどんな侮蔑にも屈辱にも耐へ忍んだ。時には便所へ|這入つ《入っ》たとたんに涙がぼろぼろ出て来たりするのだつ《っ》たが、しかし以前の生活よりはまだましだと思つ《っ》てあきらめた。ばかりでなく、久々で鳴る踵の高い靴や、いそがしく電車を乗り降りする気持などに、なんとなく生き|復つ《返っ》たや《よ》うな思ひ《い》もするのだつ《っ》た。  彼女は友達の冷淡な手紙を読《’読》み終《終わ》ると、まだ自分が以前と同じみじめな状態でいると相手に思は《わ》れていることが口惜《悔》しかつ《っ》た。そしてこの前自分の書いた手紙の文句を思ひ《い》出して、自分がまだこの友達を女学校時代と同じや《よ》うな気持《気持ち》でいるものと信じていたのが腹立たしかつ《っ》た。彼女はもう一通を取り上げると、ち|よつ《ょっ》とためらつ《っ》たが、さ《そ》ういふ《う》腹立たしさもあつ《っ》たので、思ひ《い》切つ《っ》て封を裂いた。 ◇。◇。◇。  長い間お目にかかれませんでした。お元気ですか。こちらはどうにか無事にをります。久々で東京へ出て来ましたのでお目にかかれればと願つ《っ》てを《お》ります。もし御迷惑でありませんでしたら、|××日《ペケペケニチ》の午後六時より三十分間×《/ペケ》駅にてお待ちしてを《お》ります。  久しぶりのことですので、こちらは是非お目にかかりたく存じています。  では他は拝眉の節に──辻《:辻》 ◇。◇。◇。  さきのに較べるとこの手紙はひどく簡単であつ《っ》たが、彼女には何か迫つ《っ》て来るものがあつ《っ》た。長い間お目にかかれませんでしたといふ《う》文句のあるところを見ると、以前にはかなり親しい交は《わ》りがあつ《っ》たのに違ひ《い》なかつ《っ》た。文字は女のや《よ》うに優しく細く、一画一画がはつ《っ》きりと楷書されてあつ《っ》て美しかつ《っ》たが、彼女には親しめない文字だと思は《わ》れた。それによく読んで見ると、この手紙にはどこか怪しいところがあつ《っ》た。会ひ《い》たければやつ《っ》て来るのが普通であり、呼び出すのなら大変忙しい場合でなければならぬ。ところがこれには文字が楷書でゆつ《っ》くりと記されてあるや《よ》うに、どこにも忙しげなところはなかつ《っ》た。ひどく簡単に、しかも悠々と書かれたものに違ひ《い》なかつ《っ》た。無気味なものを感じ、彼女はこの手紙が、や《よ》うやく安定しかけた自分達の生活を、毀さないまでも罅《/罅》を入《い》れるもののや《よ》うに思へ《え》てならなかつ《っ》た。  六時が過ぎても山田は帰つ《っ》て来なかつ《っ》たので、彼女は独りで夕食を食べ始めた。時々ぐぐと腹の中《なか》が鳴るほど空《-す》いていたので飯はうまかつ《っ》たが、また|ぐでぐで《グデグデ》に酔払つ《っ》て来るのに違ひ《い》ないと思ふ《う》と、次第に腹が立つ《っ》て来た。これではどんなに自分が生活を守つ《っ》ても、片端《片っ端》から夫が大穴を穿《あ》けて行くや《よ》うなものだと、彼女は近頃の夫に苛立《苛立た》しいものを感じるのだつ《っ》た。彼女にも、夫の苦痛が全然判らない訳ではなかつ《っ》た。しかし右も左も厚い壁に囲まれたや《よ》うに、抜路《抜け道》の一本もないことが明瞭な社会の中にあつ《っ》て、《:、》そしてそれは夫にも判り切つ《っ》たことである筈だのに、どうして苦しむことを止《辞》めてしまはないのか、その点がどうしても理解出来なかつ《っ》た。 「お前は誠実といふ《う》ことを知つ《っ》ているのか。」  先日も|へべれけ《ヘベレケ》になつ《っ》て帰つ《っ》て来た夫に向つ《かっ》て彼女が抗議すると、山田は急にそんなことを言ふ《う》のであつ《っ》た。 「誠実? 判らないわ、あなたのや《よ》うに、し|よつ《ょっ》ちゆ《ゅ》う酔つ《っ》ぱらつ《っ》ていることが誠実なの。妻を散々苦しめることが誠実なの。わたしにはそんな誠実はい《要》らない。わたしは‥‥。」 「生活が一番大切、つ《っ》て言ひ《い》たいんだら《ろ》う。ふん、お前の言ふ《う》ことなぞ判り切つ《っ》ている。お前は自分をあざむくことに少しの苦痛も感じないでいられる、|いは《言わ》ば幸福な人間だよ。」 「それ|ぢや《じゃ》あなたは自分を偽つ《っ》ていないの。生活をぶち毀すことに幸福を感じていられるの? そりや《ゃ》あなたは幸福かも知れないわ、お酒を飲んでるんだもの。でも、わたしがたまんない。」 「生意気なこと言ふ《う》な。」 「言ふ《う-》わ。」 「黙れ!」  そして山田は顔を歪めて苦痛な表情をすると、急に|にやにや《ニヤニヤ》と気味悪い微笑を浮べて、 「お前の言ふ《う》ことはみんな正しい。俺は一言もないよ。俺は何時でもお前に頭を下げる。しかしお前はさ《そ》ういふ《う》正しさで俺をやつ《っ》つける権利はないのだ。いいか、さ《そ》ういふ《う》正しさは正しければ正しいほど愚劣なのだ。しかしもういい。睡い。」  そして大きな|あくび《欠伸》をして、差し上げた両腕を彼女の肩に落すと、不意に乱暴な接吻をして、あとはむつ《っ》つりと黙り込んで一言《/一言》も口を利かないのであつ《っ》た。  彼女はかつての夫を思ひ《い》出した。その頃の山田は動作も言葉もきびきびとして、細い靱《-しな》やかな体は鞭のや《よ》うに動いた。眼は鋭く冴えて強烈《/強烈》な精神と深い愛情を象徴していた。しかし今の夫にはさ《そ》ういふ《う》面影は全くなかつ《っ》た。眼は何時《-いつ》もどんよりと曇つ《っ》て、言葉の中には一語一語皮肉《一語一語’皮肉》なものが潜んで、彼女は何か言ふ《う》度に嘲笑されているや《よ》うな気がする。かつての夫には、どうかすると時々うつ《っ》とりとさせられることがあつ《っ》て、自分も処女のや《よ》うにこつ《っ》そりと赧《赤》くなつ《っ》たりしたことがあつ《っ》たが、今は夫のことを思ふ《う》度に、はがゆい苛立ちと、不満と、にがにがしいものばかりが湧き立つ《っ》て来る。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  廊下にかかつ《っ》ている柱時計が十二時を報ずると、みつ子はもう床《トコ》に就いていることが出来なくなつ《っ》て、ネルの寝巻一枚のまま起き出した。十時になつ《っ》ても山田は帰つ《っ》て来なかつ《っ》たので、独りで先に床《トコ》に|這入つ《入っ》たのであつ《っ》たが、勿論忿怒《もちろんフンヌ》がいつ《っ》ぱいで眠られる訳はなかつ《っ》た。それでも強ひ《い》て眠つ《っ》てしまはうと考へ《え》て眼を閉ぢ《じ》ていると、怒りは次第に孤独な、淋しさに変つ《わっ》て行くのである。これは何時ものことであつ《っ》た。彼女は山田の遅いことに、初めは噛みついてでもやりたいや《よ》うな怒気を覚えるが、《:、》夜が次第に更け渡るにつれて言|ひや《いよ》うもない孤独と、誰からも見捨てられてしまつ《っ》たや《よ》うな胸に食ひ《い》入る不安とを感ずるのである。これはあの失業時代の、さむざむとした気持、路地に投げ捨てられた野良猫のや《よ》うな行場《行き場》のない気持《気持ち》が、彼女の心の中に黒い斑点となつ《っ》て焼きついているために違ひ《い》なかつ《っ》た。そして山田と一緒に寝ている時でも、どうかするとその当時の夢に脅かされて、真夜中に突然むつ《っ》くりと起き、布団の上に坐つ《っ》て泣《’泣》き出したりすることも珍しくなかつ《っ》た。山田はさ《そ》ういふ《う》時には驚くほどの優しさで|いたはつ《労っ》てくれることがあつ《っ》た。なんといつ《っ》ても山田の方《ほう》は彼女の気持《気持ち》を隅から隅まで知り尽しているのに違ひ《い》なかつ《っ》た。しかしさ《そ》うい|ふ時山田《うとき山田》は決して一言も物を言は《わ》なかつ《っ》た。彼女を愛撫する腕に表情が感ぜられるだけである。彼女は山田の腕の中に身を投げながら、ふと彼の険しい顔色に気がつくと、このまま彼の愛撫に飛び込んで行つ《っ》て良《-い》いのか悪いのか判らぬ戸惑つ《っ》た気持《気持ち》を感じた。  彼女は山田の机に顔を伏せると、胴を丸めて小娘のや《よ》うにしくしくと泣き始めた。日中は四月半《四月’半》ばの陽気で太陽《/太陽》の光線もじつ《っ》とりと厚味を持つ《っ》て重苦しいくらいであつ《っ》たが、夕方から曇り始めた空は夜《/夜》になると何時しか雨になつ《っ》ていた。彼女は両股《/両股》をしつ《っ》かりと合せ身《/身》を縮めて泣き続けた。が暫《/暫》くさ《そ》うしているうちに、昼間の疲れも出て来て、何時とは《は-》なしに気持良くうとうととなり始めた。彼女は何回か意識が覚めたりぼんやりとしたりしているうちに、遂に夢路に引き入れられて行つ《っ》た。彼女は会社の夢を見た。退け時だつ《っ》た。ハンド・バッグを片手に持つ《っ》てエレベーターに乗つ《っ》た。がやがやと騒ぐ声が箱の外から聴《聴こ》えて来る。ドイツ語やフランス語が入り乱れた。彼女は山田には内密でこつ《っ》そりフランス語の自習をしていたので、特に耳を澄ませてそれを理解しようと骨を折つ《っ》た。エレベーターは|止つ《止まっ》たきり動かなかつ《っ》た。少女がハンドルを|がちやがちや《ガチャガチャ》させているが少《/少》しも動かなかつ《っ》た。とそ《/そ》こへ巨大なドイツ人がやつ《っ》て来ると恐《/恐ろ》しい形相《ギ-ョウソウ》をして彼女に迫つ《っ》て来た。彼女は身を縮め、恐怖に呼吸もつ《詰》まりさ《そ》うであつ《っ》た。そして何か一生懸命に叫ば《ぼ》うと身をもだえていると、何時の間にか眼を覚《覚ま》している自分に気づいた。彼女は今日会社《今日’会社》からの帰りに、ドイツ人と一緒にエレベーターを降りたのをちらりと思ひ《い》出しながら、しかしまだ夢の中にいるや《よ》うな気持《気持ち》で顔を上げた。と、そこに人が立つ《っ》ているので思は《わ》ず|きや《キャ》ッとい|ふや《うよ》うな声を出して、ばね仕掛けのや《よ》うに一歩飛び退つ《っ》た。顔が真蒼になり、胸が|どきんどきん《ドキンドキン》と鳴つ《っ》た。 「まあ、あなただつ《-っ》たの。」  と彼女はや《よ》うやく声をひつ《っ》つらせながら言つ《っ》たが、何か夫の山田とは違|ふや《うよ》うな気がしてならなかつ《っ》た。山田はぼんやりと放心したや《よ》うな表情で部屋の中に立つ《っ》ている。顔が土のや《よ》うに蒼く、頭髪は|ぐしよぐしよ《グショグショ》に濡れ、彼女は狂人を見るや《よ》うな気がした 「俺だよ。」  と山田は細い、ささやくや《よ》うな声で言つ《っ》たが、まだ坐ら《ろ》うともしなかつ《っ》た。みつ子はなんと言つ《っ》たらいいのか判らず、暫くぼんやりと夫の顔を眺めた。  山田は崩れるや《よ》うに坐つ《っ》た。綿のや《よ》うに疲れ切つ《っ》ているのがみつ子にも解つ《っ》た。彼女はや《よ》うやく立つ《っ》て火鉢の火をかき起《起こ》し、 「どうしてたの。」  と訊いた。酒の匂ひ《い》は少しもなかつ《っ》た。それ|ぢや《じゃ》酒も飲まないで今までどこにいたのだら《ろ》う。彼女は夫の頭から、手、膝と順に眺めた。服もズボンも露が垂れるほど濡れている。彼女は帰りの遅いのをなじるよりも、何故とも知れぬ痛ましい思ひ《い》がして来た。寒いのであら《ろ》う、山田は小刻みに体を|ふるは《震わ》せて、 「疲れた。」  と弱々しい声で言つ《っ》た。 「どうしてたのよ、一体《’一体》。」  と彼女はじれつ《っ》たさ《そ》うに言つ《っ》て、山田の手を掴んだ。死人《しにん》のや《よ》うに手は冷たかつ《っ》た。 「歩いてた。」  山田は何か考へ《え》込むや《よ》うな声で、ぽつんとそれだけ言つ《っ》た。 「歩いてた?」 「うん。」 「どこを?」 「色んなところだ。」 「色んなところつ《っ》て?」 「方々《ほうぼう》だ。」 「どうしたの。どうかしてるわ、この人。」 「疲れた。お茶を一杯飲ませろ。」 「だつ《っ》て、もう遅いのよ。」  すると急に山田の顔に苛立たしげなものが浮んだと思つ《っ》た間髪、みつ子の頬《ホオ》がぴしりと鳴つ《っ》た。彼女は思は《わ》ず頬《ホオ》を|押へ《押さえ》たが何故《/何故》か声が立たなかつ《っ》た。かつて一度も見たことのない恐《恐ろ》しい激怒の形相《ギ-ョウソウ》で、山田はじつ《っ》とみつ子を見つめている。額《ヒタイ》の肉がぴくぴくと痙攣した。瞬間二人はひたと睨み合ふ《う》形で視線を交へ《え》た。が間《/間》もなく山田の顔から、その苦痛な表情が消えると、彼は音もなくゆらりと|立上つ《立ち上がっ》て、着物を脱いで寝巻を被ると|黙つ《/黙っ》て布団の中へ|もぐ《潜》り込んだ。みつ子は夫の脱ぎ捨てた着物を眺めると、今まで|押へ《押さえ》ていた怒りが突然《突然’》湧き立つ《っ》て来て、そこに散らされた靴下を掴むと、力いつ《っ》ぱい夫の顔に叩きつけた。が靴下《/靴下》は彼女の指にもつれ、ふわりと山田の頭に落ちかかつ《っ》ただけであつ《っ》た。すると更に激しい怒りが湧いて来て、手当り次第に夫に投げつけ始めた。しかし山田は身動きもしなかつ《-っ》た。彼女はわつ《っ》と泣き出しなが《が-》ら山田の頭髪にしがみついた。と山田《/山田》の手が彼女の手をぐつ《っ》と握つ《っ》た。 「よせ」  と鋭く山田は言つ《っ》た。 「ひ、ひとをこんなに待たせて‥‥ぶつ《っ》て。」 「わかつ《っ》た。」 「ぶたれてから解《分か》られてたまるもんか!」  が、彼女は造作もなく蒲団《布団》を被せられてしまつ《っ》た。床《トコ》の中で暴れてみようとしても無駄であつ《っ》た。彼女は強引な気持《気持ち》で固く身をちぢめて、山田に尻を向けて押し黙つ《っ》ていた。  山田は深い溜息を吐《つ》くと、 「静かに寝かせてくれ、俺が悪かつ《っ》た。」  細い声であつ《っ》た。そしてそれきり身動きもしないのである。みつ子は身を固くしながらも、次第に気持《気持ち》が落着《落ち着》き出すと、時々そつ《っ》と山田の方《ほう》に気を配つ《っ》て見た。 「お前は、俺が今夜どんなことをしていたか解るのか。」  と山田は不意に|ぽつん《ポツン》と言つ《っ》た。 「そんなことわたしに解る訳ない|ぢや《じゃ》ないの。」  彼女はまださつ《っ》きの余憤《-ヨフン》があつ《っ》たので、不機嫌に返事した。 「それ|ぢや《じゃ》俺がどんなことをしていたか知りたくはないのか。」 「知りたくない。」 「さ《そ》うか。」そして暫く考へ《え》込んでいたが「お前はこの頃俺をやつ《っ》つけるのが非常に上手になつ《っ》た。しかし一度として俺の胆《肝》を突き刺したことはない。お前は、お前の愚劣さでしか俺をやつ《っ》つけることが出来ないのだ。しかし女といふ《う》奴はなんといふ《う》奇妙な動物だら《ろ》う、俺はお前のその愚劣さにのみ魅力を感じている。」 「そんなに愚劣愚劣つ《っ》て言は《わ》ないで頂戴。」 「お前マ《/マ》ダムボバリーといふ《う》小説を読んだことあるか。」 「遅いのよ。もう。」 「俺は明日は休む。今度の日曜には会社の花見だ。」 「花見?」 「さや《よ》う。蓄電機課の花見だよ。」 「休んだり花見をしたり‥‥わたしは日曜にはお洗濯するわ。わたしは何時でもみじめよ。」 「ただし俺は花見には行かぬ。」 「もう遅いのよ。わたしは明日は勤めに出なければならないのよ。安眠の妨害をしないで頂戴。」 「妨害はしないが、俺は今夜は独りごとを喋るよ。朝まで喋るよ。俺も時々はお前が俺の気持《気持ち》を理解し得ると思ふ《う》瞬間があるのだが、しかしそんなことはもういい。ただ俺は今夜黙つ《っ》ていては気が狂ふ《う》。俺は今夜は人を一人殺《ひとり殺》したのだ。」 「人を?」 「ああさ《/そ》うだよ。その男、それはもう四十四五《四十シゴ》だつ《っ》たかな、完全に死んだよ。大道の真中《真ん中》でだよ。心臓が裂けて、内出血《ナイシュッケツ》して、口からもだらだら血を流しながら死んだ。街燈《街灯》で見ると、血がアスファルトの上を流れていた。俺はそれをじろりと横眼で睨んで帰つ《っ》た。明日は新聞に出るだら《ろ》う‥‥。」 「あんたが殺したの?」 「さや《よ》う、俺が殺したのだ。」  みつ子はくるりと夫の方《ほう》に向き直つ《っ》た。そしてどうした気持《気持ち》の変化か、やにはに山田の胸にしがみついた。 「ハハハ、心配するな、捕まりはしない。神は人間に過失といふ《う》抜道を造つ《っ》て置いたからね‥‥。」  そして山田は今夜の出来事を順序も連絡もなく喋り出した。人間は誰でも自分の頭に溜つ《っ》ている重苦しい記憶や事件を、どうかした瞬間になると、もうどうしても口から外へ吐き出してしまは《わ》ねば《ば-》いられなくなるものである。それは殆ど発狂したや《よ》うであつ《っ》た。山田は時々《ときどき》口を噤んで、俺は《は-》なんだつ《っ》てこんな下らんことを喋つ《っ》ているのだら《ろ》う、と激しい自己嫌悪に襲は《わ》れながら、しかし口が自然と動くのである。そしてしまひ《い》には、もうこんな気持《気持ち》の状態になれば、無理に押し黙つ《っ》て見たところでなんにもならぬに|定つ《決まっ》ている、《:、》それならいつ《っ》そ自分の気持からブレーキを抜いて放任し、ひとつ思ひ《い》のままに喋らせてみようとい|ふ気持《う気持ち》にもなるのだつ《っ》た。そして心のずつ《っ》と奥の方《ほう》で、例へ《え》ば向ひ《かい》合つ《っ》て立てられた二枚の反射鏡の無限《/無限》に連なる映像の最奥《サイオウ》のポイントと思は《わ》れる|あた《辺》りで、《:、》こつ《っ》そり|にやり《ニヤリ》と微笑《微笑’》し、どうせ乗りかかつ《っ》た船だ、と呟くのであつ《っ》た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼は今日会社《今日’会社》を何時ものや《よ》うに終業して、|別段変つ《別段’変わっ》たこともなく帰途についたのだつ《っ》たが、ひどく気分が重苦しかつ《っ》た。そしてなんとなく吐気《吐き気》を催して来るや《よ》うな不安がしてならなかつ《っ》た。彼はずつ《っ》と前から胃病だつ《っ》たので時々《”ときどき》道端で吐くことがあつ《っ》たのである。彼は不快な、苛々した気持《気持ち》であつ《っ》た。しかしさ《そ》うした自分の気持《気持ち》にはなるべく知らん顔をするや《よ》うな気持《気持ち》で歩いていた。それはちや《ょ》うど|ぶすぶす《ブスブス》と|燻つ《-くすぶっ》ている煙硝のや《よ》うなものを無理に蓋《フタ》しているや《よ》うな工合だつ《っ》た。悪臭の漂つ《っ》ている河っぷちを暫く歩いて橋を渡ると、もうアパートはすぐそこにあつ《っ》た。  橋の上まで来ると、彼は|一寸立停つ《ちょっと立ち止まっ》て灰汁のや《よ》うに濁つ《っ》た水面を見おろした。彼は家へ帰ることがひどく嫌だつ《っ》た。働くや《よ》うになつ《っ》てから急に浮き浮きとしだした妻や、下等なアパートの趣味などが、吐気《吐き気》を募らせるほど不愉快に思ひ《い》出されて来るのである。とりわけみつ子の体を思ひ《い》出すと、もう何か胸の中がむつ《っ》と閊へ《え》るや《よ》うな気がするのだつ《っ》た。女といふ《う》ものは、美しいと見える時にはどこまでも美しく、むしや《ゃ》ぶりつきたいや《よ》うな欲望を男に起《起こ》させるが、しかし一《ひと》たび不潔に見え始めると、もう胸が悪くなるほど不潔に見えて来るものである。彼は妻の一挙手一投足を不快な、腹立たしい気分で思ひ《い》出した。平常はあどけないと見え、その稚拙な言動や思考形態も一種の魅力と映じていたものが、今日はその無知を軽蔑したくなるばかりであつ《っ》た。彼は今までに何度も妻を不快の対象としたことはあつ《っ》た。妻あるがためになんとなく自分の精神は下等になつ《っ》て行き、自分の行動は蛆のや《よ》うに意気地のないものになつ《っ》て行く、《:、》さ《そ》う思つ《っ》て直ちに離別しようと決意したこともあつ《っ》たのである。しかしそれは単に決意しただけであった。よし一時《いっとき》、一瞬にしろ、彼はさ《そ》う決意することによつ《っ》て自分の気持《気持ち》を慰めたのだ。彼としても、か《こ》うした自慰の愚劣さには絶間なく自己嫌悪を感じてはいたが、しかし、さ《そ》うする以外に抜路《抜け道》はなかつ《っ》た。とは言へ《え》、これが抜路《抜け道》にならぬことも意識していたが、要するに彼は、その時々の自分の心理を|一時ごまか《イチジ誤魔化》しで処分したのである。詮じつめれば、自分が|一番意気地な《一番’意気地無》しであつ《っ》たのだ。彼はこの断定を意識の表面に浮《浮か》せることを避けた。それは意識的に避けたのではない、本能的な自己防禦、自分の前に突《突っ》立つ《っ》た巨大な敵、社会から自己を守ら《ろ》うとする本能的な自己欺瞞であつ《っ》た。勿論《もちろん》彼は自分にか《こ》うした自己防禦を意識したが、この意識をも避《-さ》ける本能があつ《っ》た。そこに至つ《っ》て彼の自己分析の|メス《メ-ス》は曇り、彼は分析の結果を意識の黒板に記述することをしなかつ《っ》た。そしてここに浮き上つ《がっ》て来るものはと言へ《え》ば、|あは《哀》れな自嘲と、一見気まぐれに見える身振りであつ《っ》た。この身振りは、しかし深刻といふ《う》のかも知れぬ。  暫く水面を眺めていたが、やがて彼はのろのろと、いかにも思ひ《い》切り悪さ《そ》うな足どりで足を動かし始めた。どこかへ行つ《っ》て酒でも飲ま《も》う、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》が浮き上つ《がっ》て来て、橋を渡り終へ《え》ると、アパートとは反対の駅《/駅》のある大通りの方《ホウ》へ出て行つ《っ》た。駅前に出、そこをち|よつ《ょっ》と裏町に廻《回》ると、ごちや《ゃ》ごちや《ゃ》と入り乱れてバ《/バ》アやカ《/カ》フエ《ェ》や茶房《/茶房》などが並んでいる。しかしそこへ来ると、もう酒を飲むのも嫌になつ《っ》てしまつ《っ》た。彼はち|よつ《ょっ》と額《ヒタイ》に掌をあてて見て、さてどうしようか、と思ひ《い》惑つ《っ》た。彼は昼間の会社での不快な出来事を反芻しながら、自分が今こんなに腐つ《っ》た気持《気持ち》でいるのは、あれが尾を引いているのだ、と気づいた。ただあ《/あ》れだけのことが、と彼は、そんな小さなことにまでこれほど気持《気持ち》を狂は《わ》せられる自分が腹立たしくなつ《っ》た。それは昼飯《昼めし》の時だつ《っ》た。彼のいる課《’課》の連中で花見の相談が持ち上つ《っ》た。彼はその時、もうかなり《り-》かかつ《っ》ていた整流器がや《よ》うやく出来上つ《っ》たばかりだつ《っ》たので、飯《メシ》を食ふ《う》とすぐその製品の前に行つ《っ》ていた。|いは《言わ》ば自分の作品であつ《っ》たので、彼は久々に一つのものを完成した喜びを味つ《わっ》ていたし、《:、》それに真《シン》から打解けて話し合|ふや《うよ》うな友達は一人もいなかつ《っ》たので、時間になつ《っ》たらすぐ試験して見ようなどと思ひ《い》ながらぼんやりとしていた。彼は会社でも孤独であつ《っ》た。みな彼の前身を知つ《っ》ていて、人事係から注意でも|廻つ《回っ》ているのか誰《/誰》も彼を敬遠するのである。彼は仕事そのものに全身をぶち込ま《も》うと思つ《っ》た。しかしそこにも、彼は何か気持《気持ち》にまつは《わ》りついて来る執拗《-しつこ》い悪臭のや《よ》うなものを感じて、夢中になることが出来なかつ《っ》た。彼は毎日何か目に見えぬ、しかし重要なものが自分の中から抜け去つ《っ》ているや《よ》うな空虚さを感じた。仕事と自分との間に間隙が生じ、それが虚ろな穴になつ《っ》て、電流や電線《/電線》や金属類《/金属類》が生命《イノチ》を持たなかつ《っ》た。夢中になることが出来れば、アンペアメーターの針の微動のや《よ》うな呼吸が、金属からも電流からも感じられるのである。  その時どつ《っ》といふ《う》喚声があがり、手を拍つ《っ》て口々にはやし立てる女工等《女工ら》の声がふくれ上つ《がっ》て聴《聴こ》えて来た。それが静まると、彼は呼ばれて花見《/花見》だがどうだ、と課長に持ちかけられた。彼が賛成するむねを答へ《え》、 「場所は‥‥。」  と訊きかけた途端であつ《っ》た。突然《突然’》女達の間から、へえ、と如何にも驚いたとい|ふや《うよ》うな声がもれ、 「左翼の闘志も‥‥。」  と|しまひ《/終い》の濁つ《っ》た言葉が聴《聴こ》えた。彼は思は《わ》ずむつ《っ》として振り向くと、リイク部の佐山が、女たちの間に混つ《じっ》て|にやにや《ニヤニヤ》と笑つ《っ》ている。一瞬|あた《/辺》りが|しん《シン》となつ《っ》た。と、課長が、 「佐山、君には当日の会計を命《メイ》ず。」  と厳かに言つ《っ》て、どつ《っ》とみなを笑は《わ》せた。  か《こ》うしてその場は納つ《まっ》たものの、しかし山田の気持《気持ち》はなかなか納《納ま》らなかつ《っ》たのである。彼は今までにも佐山が彼をあてこすつ《っ》たり、女工にこつ《っ》そり何かを耳うちしたりしているのを知つ《っ》ていた。どんなグループにも|定つ《決まっ》て一人は、絶えず他人のすきばかりを覗つ《っ》たり蔭口《/蔭口》ばかりを利いて、病的なほど自分の利害に狡猾な才能を持つ《っ》ている者がいるが、佐山もやはりさ《そ》ういつ《っ》たタイプの人間であつ《っ》た。勿論《もちろん》とるに足りぬ、と山田は今まで黙殺して来たのであつ《っ》たが、しかしその時にはさすがにかつ《っ》とせざるを得なかつ《っ》た。それは相手の弱点をしつ《っ》かり掴んだ上での嘲笑であつ《っ》た。ざまあ見ろ、山田の内部の苦しみや懊悩を一蹴《ひとけ》りしたのである。そして山田にとつ《っ》て腹立たしいことには、か《こ》うした嘲笑を正しいと認めねばならなかつ《っ》たのである。いや正しいとは言へ《え》ぬにしろ、少くともこの嘲笑に対して弁解の余地は与へ《え》られていないのだ。もし弁解するならば、ますます自分が愚劣になるばかりであつ《っ》た。どんなに腹立たしから《ろ》うとも、ただ黙つ《っ》て引き退るより他にないのである。彼は一日《イチニチ》、陰鬱な不快《/不快》な気持《気持ち》で働いた。言ふ《う》までもなく佐山といふ《う》個人は軽蔑すればよかつ《っ》たが、しかしその言葉には軽蔑し切れぬものが響いているのである。 「人から、お前は|ばか《馬鹿》だと言は《わ》れて、しかもその言葉に賛成せねばならんとは、ふふふふ。」  彼はのろのろと歩きながら、さ《そ》う呟いて歪んだや《よ》うな微笑をもらした。  街は夕暮《夕暮れ》だつ《っ》た。  駅前の市場《イチバ》からは急《忙》しげに前垂《前垂れ》をひらひらさせながら、女中やおかみさんが流れ出て来た。通《とお》りを歩いている人々は、無数の木片が渦に巻かれたや《よ》うに駅の中に吸|ひ《い》入れられて行き、轟音を立てて走つ《っ》て来る電車が停《停ま》る度に、内部から泡のや《よ》うに人々が溢れ出て来た。彼は、どこもかしこも人間で|うぢやうぢや《ウジャウジャ》している街といふ《う》ものがひどく厭は《わ》しく思は《わ》れ、都会の空気の重さを両肩に感じた。彼はどこか人間のいない、猿や犬《/犬》や狼《/狼》や熊《/熊》や狐《/狐》や、そんなものばかりのいる世界を想像して見た。勿論《もちろん》そこには青い木の葉や、清冽な水流がある。彼は自分が少年のや《よ》うな空想をしているのを意識したが、大人といふ《う》ものは時々ふと少年の日に復《帰》り、その頃と全く同じ|い気持《気持ち》の瞬間を味ふ《わう》ことによつ《っ》て意外《/意外》に多くの休息を与へ《え》られているのに気づいた。その時、彼の頭の中に突然すつ《っ》と人の顔が映つ《っ》て流れ去つ《っ》た。彼は、はつ《っ》と|立停つ《立ち止まっ》て、|はて《ハテ》あれは誰だつ《っ》たかな、と考へ《え》て、それが大林清作《大林’清作》であつ《っ》たのを知ると、何故ともなく面白くなつ《っ》て、街の真中《真ん中》に立つ《っ》たまま|にやにや《ニヤニヤ》と笑ひ《い》出した。彼はまだ田舎の小学校にいた頃、一度大林清作《一度’大林’清作》の頭を金槌で|打つ《ぶっ》たことがあつ《っ》た。するとそこがぼこんと脹れ上つ《がっ》て、大林はぼろぼろ涙を流しながら頭をかかへ《え》て手工室の中をぐるりと一廻転《一回転》した。彼は泣かせようと思つ《っ》て|撲つ《ぶっ》たのではなく、おい、と呼ぶ代《代わ》りに槌で|こつん《コツン》とやつ《っ》たのであつ《っ》た。それは手工の時間の出来事である。大林清作《大林’清作》は今は百姓《ヒャクショウ》をやつ《っ》てい《-い》、三人も子供をもつ《っ》ている。  ふふふふ、あいつどうしてるかな、頭の良《-い》い男だつ《っ》たが、と考へ《え》ながら、彼はまた歩き出したが、はたと当惑せざるを得なかつ《っ》た。彼は行先《行き先》が|定つ《決まっ》ていなかつ《っ》たのである。田舎へ行つ《っ》てみよう、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》が不意にその時浮《とき浮か》んで来た。今夜汽車《今夜’汽車》に乗れば明朝は大阪に着く、すると明日の晩は四国へ着くわけだ。彼はびつ《っ》くりしたや《よ》うに片手を挙げて車をとめ、 「東京駅。」  と言つ《っ》た。みつ子の顔が浮んで来、こんな気まぐれも所詮は道化染《道化じ》みた大仰な身振りに過ぎぬといふ《う》意識があつ《っ》たが、《:、》反面には、もつ《っ》と道化ろ、もつ《っ》と道化ろと自分をけしかけるものがあつ《っ》た。  東京駅に着くと、彼は広い構内をただあちこち歩き|廻つ《回っ》た。ここも人でいつ《っ》ぱいだつ《っ》た。彼は二等待合室に|這入つ《入っ》て見た。若い女や太つ《っ》た仏頂面《仏頂ヅラ》をした老紳士などが、落着《落ち着》きのない様子で並んでいた。彼は腰を下《下ろ》すと、煙草に火を点けた。しかしすぐ|立上つ《立ち上がっ》て今度は三等待合室へ行つ《っ》て見た。ここはひどく薄暗くて汚れていた。白い着物を着けた朝鮮の女が、紙袋のや《よ》うな恰好に体をふくらませて、栄養不良な子供を連れて立つ《っ》ていた。子供は日本の着物を着ているが、何か不安さ《そ》うに、|あた《辺》りの人々を見廻《見回》している。この子供の眼には、これらの人々が敵と見えるだら《ろ》うか、それとも味方と見えるだら《ろ》うか、彼はそんなことを考へ《え》ながら、じつ《っ》と暫く眺めていた。母親はその子の手を引いて、何か朝鮮語でささやいた。彼女の片方の手には、もう一人の子供が抱かれている。父親は便所か、買物か、大方その|あた《辺》りであら《ろ》う。山田はふと大阪駅を思ひ《い》出した。あそこは何時《-いつ》行つ《っ》て見ても朝鮮人が|うぢやうぢや《ウジャウジャ》している。大きな荷物を積み上げてそれに凭《寄》りかかつ《っ》ている朝鮮女、腰《コシ》をかける場所がなく地べたにしや《ゃ》がんでいる女、《:、》飴玉か何かをしや《ゃ》ぶつ《っ》ている子供、紙のや《よ》うな顔と袋のや《よ》うな着物、さ《そ》ういつ《っ》たものが次々と思ひ《い》出された。黄色のジプシイ《ー》──彼はさ《そ》う呟いて待合室を出ると、切符売場の方《ホウ》へ歩いて行つ《っ》た。心の中《うち》を寒々としたものが流れて、自分自身がジプシイ《ー》になつ《っ》たや《よ》うな気持《気持ち》であつ《っ》た。俺のや《よ》うなものを精神的ジプシイ《ー》つて言ふ《う》んだら《ろ》う、二等待合室へ|這入つ《入っ》ても、三等待合室へ|這入つ《入っ》てもさほどに目立たないほど調和のある男だからな、《:、》しかし待てよ、俺はこれから本気に四国くんだりまで行く気なのかしら? 四国まで行つ《っ》て、そして何があるのだら《ろ》う。|ばかばか《馬鹿馬鹿》しい|ぢや《じゃ》ないか。──しかももう切符の売場の前まで来ていた。|ぢやらぢやら《ジャラジャラ》と金《-かね》を数へ《え》る音が聴《聴こ》え、多度津、と窓から覗き込んで春《/春》のコートを片手に抱へ《え》た若い女が言ふ《う》のが聴《聴こ》えた。五六人《ゴ六人》がつめかけて自分の番の来るのを待つ《っ》ている。山田はその列の最後に|立停つ《立ち止まっ》た。しかしまだ切符を買ふ《う》気にはなつ《っ》ていなかつ《っ》た。やがて自分の番が来た。彼はしぶしぶと、まるでひどく損な物でも買は《わ》されるや《よ》うな様子でガマ口を取り出した。が、その途端に、不機嫌さ《そ》うにむつ《っ》つり黙り込んで煙管を咥へ《え》ている田舎の父の姿が浮んで来て、どうした工合か急に財布をまたポケットに蔵ひ《い》込んで|買ふ《/買う》のをやめてしまった。彼はふらふらと流されるや《よ》うに駅を出ると、銀座へでも出てみようといふ《う》気になつ《っ》て有楽町《/有楽町》の方《ホウ》へ足を動かし出した。  しかし、間もなくそれも嫌気《嫌け》がさして来て、今度はしぶしぶと日比谷公園の方《ホウ》へ向ひ《かい》始めた。日はもうすつ《っ》かり暮れてしまつ《っ》て、高架線や市電の音が何《/何》か魔物めいて聴《聴こ》えて来た。彼は地下室を歩いているや《よ》うな気持《気持ち》で、のろのろと足を動かすのだつ《っ》たが、もういつ《っ》そじつ《っ》と立つ《っ》ていようかといふ《う》気になつ《っ》てならなかつ《っ》た。空を仰いで見た。ただ真黒に塗り潰されていて、星でも見えないものかと尋ねて見たが、星も月も、一点の光りもなかつ《っ》た。無気味な夜が底のない深《-ふか》さで垂れ下つ《っ》ているのだ。その闇の空間のところどころに、花火のや《よ》うな広告燈が見える。彼は突然《突然’》大きく口を開いて欠伸をした。疲れが少しづ《ず》つ体を痺れさせ始めていた。それはひどく空虚な、|もの《物》悲しい気持《気持ち》の欠伸であつ《っ》た。人通りは丸でなかつ《っ》た。丸の内の通りの角《カド》まで来ると、彼は谷の奥でも覗くや《よ》うな工合に、丸ビル前の方《ほう》を眺めていたが、またひとつ欠伸が出た。丸ビルの前では自動車の光りが交錯して、何十匹《ナンジュッピキ》もの電気鰻が海底を泳ぎ|廻つ《回っ》ている光景はこんなものかも知れぬと思は《わ》せられた。  しかし、と彼は|立停つ《立ち止まっ》て呟いた。俺はこりや《ゃ》なんだら《ろ》う、なんとなく少し気持《気持ち》が変だぞ、一体どうするつもりなんだら《ろ》う、それに、俺は一体何を考へ《え》てるんだら《ろ》う、どうも今日は頭が少し変になつ《っ》ている、《:、》第一こんなことをやつ《っ》たとて何《なん》の利益もありや《ゃ》しない|ぢや《じゃ》ないか、俺が今歩いているのは、ただ体をへとへとにするために歩いているや《よ》うなものだ──。しかし彼はさ《そ》う呟きながら、その自分の呟きをもう少しも聴いていなかつ《っ》た。  その時、旦那、どちらまで? と車が徐行して来た。すると彼は急に、用のある人間のや《よ》うな声で、 「大島。」  と言つ《っ》たが、自分でも驚くほど大きな声が飛び出た。それは殆どどなりつけるや《よ》うな調子であつ《っ》た。大島? なんのために? と車が動き始めるとまた自問したが、もう自分の気持《気持ち》を調べるのが面倒|くさ《臭》かつ《っ》た。ただ車は光りと光りとの間を矢のや《よ》うに走つ《っ》ている。人間の思考なんかこの運動の前には無力なのだ。  夜の大川を渡ると、車は次第に圧し潰されたや《よ》うな家々の間に|這入つ《入っ》て行つ《っ》た。悪臭が|ぷん《プン》と鼻を衝いて来さ《そ》うである。しかし細民街の近づくに従つ《っ》て、気持《気持ち》がだんだん落着《落ち着》いて行つ《っ》た。とは言へ《え》、それは落着《落ち着》きなどといふ《う》言葉では現は《わ》し切れぬものがあつ《っ》た。もう《う-》どうとも《も-》なりやがれ、と狂暴に自己を突き離した落着《落ち着》きであつ《っ》たのである。  彼はある大きな製鋼所の裏で車を捨てた。  どこからともなく物の腐敗した臭ひ《い》が漂つ《っ》て来た。彼は狭い路地から路地へとあてもなく歩き続けた。幾つも橋を渡つ《っ》ては、機械工場や硝子工場《ガラス工場》などの間をぐるぐると歩き|廻つ《回っ》た。何《なん》のために歩くのか、といふ《う》自問がひつ《っ》きりなしに浮んだが、彼はなんとなくさ《そ》うせずには《は-》いられなかつ《っ》た。彼は何時の間にか亀戸に這入《入》り込《こ》んで、電車通りを踏み切ると、吾妻町の方《ホウ》へ向つ《かっ》て行つ《っ》た。|あた《辺》りには、ひしや《ゃ》げたや《よ》うな家がいつ《っ-》ぱい並んでいた。彼は何年か前を思ひ《い》出した。その頃も何度かこの路地を往来した。しかしそれはなんと張り切つ《っ》た気持《気持ち》であつ《っ》たことか。体全体が熱を帯びて、足の下には揺ぎのない大地があつ《っ》た。しかし今はどうだら《ろ》う、丸で足下の大地が潰れ、融《溶》け去つ《っ》たや《よ》うではないか。この|あた《辺》りは、かつて彼の活動したうちの最《/最》も記憶に残る地区であつ《っ》たのである。彼はみじめな、うちのめされたや《よ》うな気持《気持ち》を味ひ《わい》ながら、しかし何かその時代の熱情が、再び体内に湧き上つ《がっ》て来るや《よ》うな気がした。そして彼は、長い間見失つ《っ》ていた自分といふ《う》ものを、再び見つけたや《よ》うな気がした。  彼はどぶ川の土手の上を歩いて行つ《っ》た。川には石炭を積んだ船が二つ三つ、沈みかかつ《っ》ているや《よ》うに揺らいでいる。悪臭のしみ込んだ風が吹いて来ると、水面が遠くの灯《明かり》を映して光つ《っ》た。|あた《辺》りは殆ど真暗《真っ暗》であつ《っ》た。その頃のことが次々と思ひ《い》出されて来た。それはちや《ょ》うど予告映画のフイルムを見るや《よ》うに、仲間の誰彼の姿の一《ワン》カットが廻転《回転》するのである。今もなほ《お》行方不明の男、まだ獄中にいる男、押上駅で捕は《わ》れた男、或はまた、男のや《よ》うにがむしや《ゃ》らな女、さ《そ》ういつ《っ》た一人一人の姿が鮮明に蘇つ《っ》て来た。彼は土手に積んだ煉瓦の上に腰をおろすと、なほ《お》も映像をくり拡げて行つ《っ》た。彼は激しい孤独を感じた。あれらの連中は今どうしているであら《ろ》う、みな散り散りとなつ《っ》てしまひ《い》、みな生きる方向を見失つ《っ》てしまつ《っ》た。そしてこの俺はどうだら《ろ》う、みつ子はどうだら《ろ》う──。彼は自分が少年のや《よ》うに泣けるものなら、思ひ《い》切つ《っ》ておいおいと慟哭したいと思つ《っ》た。じつ《っ》と煉瓦の山に身を凭せながら、彼は今の時代に生きる人間の苦痛を考へ《え》た。  がそ《/そ》の時、彼の頭の中に今までま|はつ《わっ》ていたフイルムが突然ぴたりと停止した。そこにはまだ二十前《ハタチまえ》の、林檎のや《よ》うな頬《ホオ》をした少年の顔が浮んでいた。辻一作、とこの男は自分を呼んでいるが、本名は大林一作で、清作の弟である。彼は今までこの少年をすつ《っ》かり忘れてしまつ《っ》ていた自分を不思議に思つ《っ》た。あれだけ自分に激しいものを教へ《え》たこの少年は、今どうしているだら《ろ》う、たしかもう二十四五《二十シゴ》にはなつ《っ》た筈だが。彼はふと運命といふ《う》暗い言葉が、自分にまで取り憑いて来るや《よ》うな、不安な、嫌なものを感じた。彼は丸切りこの男のことを忘れていたのではなかつ《っ》た。ただこの男を思ひ《い》出すことがたまらなかつ《っ》たのだ。  彼は突然立上《突然’立ち上が》ると、狂暴な足どりで歩き始めた。が五六間《/ゴロッケン》も進むと、また以前と同じや《よ》うな、のろまな、疲れたや《よ》うな足どりになつ《っ》てしまつ《っ》た。ふん、俺は《は-》なんて愚劣な人間になつ《っ》てしまつ《っ》たのだ、と彼は呟いた。少年のや《よ》うに泣きたい、などと思つ《っ》たことを考へ《え》ると、彼はもう自分に唾を吐《-は》きかけたくなつ《っ》て来た。ふふ、しかし辻一作がどうしたといふ《う》のだ、と彼はまた呟き出した。辻一作がどうしたといふ《う》のだ、俺は俺さ。彼は真暗《真っ暗》な川っぷちを五ノ橋通りの方《ホウ》へ出て行つ《っ》た。そして走つ《っ》て来た車をつかまへ《え》ると、いきなり、売春婦のいる街の名を叫んだ。  細いトンネルのや《よ》うな路地を、人々は肩をすり合せ、突きあ《当》たり、足をも《-も》つらせながらうごめいている。その入口で車を捨てると、彼は一枚の木の葉のや《よ》うにその中にもぐり込んだ。動物園の檻を覗いて廻《回》るや《よ》うな残虐な気持《気持ち》で、彼は人々の間を揺れて行つ《っ》た。しかしここでも気持《気持ち》は満《満た》されなかつ《っ》た。‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》とい|ふ気持《う気持ち》はもう全くな《無》くなつ《っ》ていた。彼はむつ《っ》つりと黙り込んで、横目でちらちら家の中を覗きながら、幾つも曲り角を曲つ《がっ》て歩いた。‥‥呼ぶ声もただうるさいばかりであつ《っ》た。彼はただ人々の動くにまかせて動いて行くだけである。  ある路地で、彼は突然《突然’》上衣の裾を掴まれ、ぐいと引かれた。思は《わ》ず体が浮いて軒下に引き込められた。座敷から半身《ハンミ》を乗り出した女の腕がその時ぐいと伸びると、彼の帽子を頭から抜き取つ《っ》てしまつ《っ》た。 「お上《あが》んなさい、よ、さあ。」  と女が体をくねらせながら言つ《っ》た。彼はもの憂ささ《そ》うに顔をあげると、ひどくけだるさ《そ》うな声で、 「帽子をくれ。」  と一言言つ《っ》た。 「だつ《っ》て、よ、お上《あが》んなさい。今夜暇《今夜/暇》なのよ。ほら、ね、ね。」  しかし山田はもう帽子を取り返す気もなくなつ《っ》ていた。面倒|くさ《臭》かつ《っ》た。彼は急に身を飜《-ひるがえ》すと人込みの中に混り込んだ。帽子は女の手に残したままであつ《っ》た。彼は電車通りへ出た。もう歩くのも、動くのも嫌であつ《っ》た。体は疲れ切つ《っ》て、両方の足の腱が針金にでもなつ《っ》たや《よ》うである。彼はそのままべつ《っ》たりと地べたへ突き坐つ《っ》てしまひ《い》たかつ《っ》た。しかし坐つ《っ》てしまふ《う》わけにもいかない。彼はまたのろのろと歩く以外にどうしや《よ》うもなかつ《っ》た。おまけに腹はもうさつ《っ》きから空《-す》き切つ《っ》ていた。それでも少しも食ひ《い》たいといふ《う》気が起つ《こっ》て来なかつ《っ》た。といふ《う》よりも彼は食ふ《う》ことをすつ《っ》かり忘れてしまつ《っ》ていた。頭の中は何か乾いたものでもいつ《っ》ぱいつまつ《っ》ているや《よ》うな工合になつ《っ》ていた。  彼はふと空を仰いだ。頬《ホオ》に雨がぽつんとかかつ《っ》たのである。空は勿論真黒《もちろん真っ黒》であつ《っ》たが、雨はもう|さつ《/さっ》きから降り始めているらしかつ《っ》た。ぽつぽつと頬《ホオ》や頸筋に当る程度ではあつ《っ》たが。 「雨か。」  と彼は呟いた。そしてまた車を停めると、 「横浜。」  と言つ《っ》た。車の中で時計を見ると、もう十一時をとつ《っ》くに|廻つ《回っ》ていた。彼はまだ八時か九時のつもりでいたのであつ《っ》た。横浜へ行つ《っ》て、そしてどうするのか、しかしもうそんなことはどうでもよかつ《っ》た。彼は体を休《’休》めたかつ《っ》たのである。  雨は次第に激しくなつ《っ》て来た。窓へ|びちやびちや《ビチャビチャ》と降りかかつ《っ》た。彼は眼を閉ぢ《じ》ると、ぐつ《っ》たり体を凭りかけて、車が急カーブを描《-えが》く度に|ぐにやり《グニャリ》と揺らいでは、居眠りから覚めたや《よ》うに窓外を眺めた。頭には何の感想も浮ばなかつ《っ》た。今日一日《今日イチニチ》を振り返ることも、これから先のことも考へ《え》ることが出来なかつ《っ》た。それは多量の睡眠剤が効き始めて、神経が徐々に鈍くなり、全身に快い酔ひ《い》心地が襲つ《っ》て来た時のや《よ》うであつ《っ》た。彼は大きく|あくび《欠伸》を続けざまにした。しかしバックミラアに映る自分の顔は血の気がなかつ《っ》た。|もぢやもぢや《もじ-ゃもじ-ゃ》と髪が乱れて、彼は死人でも見る気がして、ぞつ《っ》としたりしたが、しかし、それが自分の顔であるといふ《う》点は考へ《え》ても見なかつ《っ》た。彼は白痴のや《よ》うに虚ろな気持《気持ち》であつ《っ》たのである。  やがて車は川崎を過ぎると、国道を驀地《まっしぐら》に突き進んで行つ《っ》た。すつ《っ》かり寝静まつ《っ》た両側の家は次第にまばらになり、ただ街燈《街灯》だけが果《果て》もなく続いていた。彼は快い震動に身をまかせながら、しゆ《ゅ》うんと鳴るアスファルトの音をうつらうつらと聴いた。運転手は不動の姿勢で、丸く照《照ら》し出された前方を見つめて、ハンドルをゆるゆると左右に動かせている。辷るや《よ》うな車の中で、山田は次第に《に-》夢見心地に|這入つ《入っ》て行き、このまま明日まで走り続けているといいだら《ろ》う、などとぼんやりと考へ《え》るのであつ《っ》た。が、鶴見|あた《辺》りまで来た時であつ《っ》た、突然|がたん《’ガタン》と車が上下すると、|二三間辷つ《ニサンケン辷っ》てきききと停つ《まっ》た。運転手が蒼白《ソウハク》になつ《っ》た顔を振り向くと、 「やつ《っ》たらしいです。」  とささやくや《よ》うな声で言つ《っ》て、ドアを開いて飛び下《-お》りて行つ《っ》た。 「やつ《っ》た?」  と山田はぼんやり眼を開いたが、その時にはもう運転手はいなかつ《っ》た。雨の音がびしよ《ょ》びしよ《ょ》と聴《聴こ》え、暗い外を眺めると街燈《/街灯》を映して濡れた街路樹が白く光つ《っ》ている。|あた《辺》りは人影もなく、ただ降り注ぐ雨足《アマアシ》がコンクリートの舗道にはねていた。どうしたのかな、と山田は怪しんで見たが、それ以上考へ《え》て見るのも面倒であつ《っ》た。 「どうもやつ《っ》ちまつ《っ》たらしいです。すみません、車を|更へ《替え》て下さい。」  間もなく運転手が駈け帰つ《っ》て来ると、興奮した声で車内の山田にさ《そ》う投げつけて、再び雨の中に駈け出して行つ《っ》た。山田は初めて人を轢殺したのであるのを悟つ《っ》た。しかし何《-なん》の感じも湧かないのみか、こんな所で車を降ろされるのかと思ふ《う》とうんざりした。彼はまた両眼《両目》を閉すと、さつ《っ》きの夢心地を追うや《よ》うに体をクッションに凭せた。人を殺した、といふ《う》ことが、なんとなく|ばかばか《馬鹿馬鹿》しいことのや《よ》うに思へ《え》るのであつ《っ》た。と、この時車《とき車》の背後で何か大声で叫んでいる声が二三入《二三’入》り乱れて、靴音なども聴《聴こ》えて来た。彼はのそり立上《立ち上が》ると、雨の降つ《っ》ているのも忘れたや《よ》うに外へ降りた。女に帽子を取られてしまつ《っ》ているので、雨は|じやんじやん《ジャンジャン》頭髪を濡らし、首|すぢ《筋》に流れ込んだ。  車から十二三間《十ニサンケン》も後方に、四五人《シゴニ-ン》が集つ《まっ》て何か口々に喚いている。街燈《街灯》にぼんやりと照《照ら》し出されたその黒い塊の横には、粉々にう《打》ち壊か《さ》れた荷車が転がつ《っ》ている。山田はふらふらとそこまで足を運んで見た。人々に囲まれて、屍体は仰向けに寝て、着物も何も|ぐしよぐしよ《グショグショ》になつ《っ》ている。首は横に歪んだままねぢ《じ》向けて、頬《ホオ》をべつ《っ》たりとアスファルトにつけ、横向きの口からは血がだらだらと流れていた。雨が洗|ふや《うよ》うに降つ《っ》ているのに、不思議とその血が山田にははつ《っ》きりと見えた。一人の巡査がそれを抱き起しにかかつ《っ》たが、どうしたのかまた置いた。人々は山田にはまだ気づいていなかつ《っ》た。彼は二三分《ニサンプン》ぼんやりとその屍を眺めていたが、やがて風に流されるや《よ》うにとぼとぼと川崎の方《ほう》に向つ《かっ》て歩き出した。雨に濡れることも、疲れていることも、もう深夜に近いといふ《う》ことも、歩いてどうなるかといふ《う》ことも、彼は考へ《え》て見る気がしなかつ《っ》た。心が傷ついている時《とき》、その外部の風景は奇怪な鮮明さで眼に映る。彼は今にも|べたん《ベタン》と坐つ《っ》てしま|ひさ《いそ》うな足どりで歩きながら、今見た屍体が夢魔のや《よ》うな鮮《鮮や》かさで何時《/何時》までも瞼から離れなかつ《っ》た。とは言へ《え》それが、死、とい|ふなまなま《う生々》しい悲痛な出来事として映るのでもなければ、だらだらと流れる血に恐怖し、人生の悲惨を目のあたり見た衝撃でもない。それは一枚の写真のや《よ》うに、鮮明な輪郭と、色と動きとがあるだけであつ《っ》た。ふと顔をあげた。すると向ひ《かい》側に赤い交番の電燈《電灯》が見え、何故ともなく彼は、はつ《っ》と胸を突かれたや《よ》うな気になつ《っ》た。  彼は二三丁《二’三丁》もふらふらと歩いた。そして空車は来ないものかと暗い街路の遠方を眺めるのであつ《っ》た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  山田はさつ《っ》きから電車に揺られながら、落着《落ち着》きのない何分間《ナン分間》かを過していた。か《こ》うして出かけて行くことに激しい嫌悪を覚えたり、どうしても会は《わ》ねばならぬと強く思つ《っ》たり、あれからあの男は一体どうなつ《っ》ているであら《ろ》うと好奇心《/好奇心》とも恐怖ともつかないものを覚えたりするのだつ《っ》た。そして遠い過去が思ひ《い》出され、それからの、辻一作と山田との関係に於ける空白の幾年《イクネン》が、何か暗い谷間のや《よ》うに思へ《え》るのであつ《っ》た。この幾年《イクネン》をあの少年はどう過し、どう生《’生》き抜《ぬ》いて来たのであら《ろ》う。彼は人生といふ《う》もの、運命と言は《わ》れるもの、さ《そ》ういつ《っ》たものの暗黒な一つの断層を眼前に突き出されたや《よ》うな気持《気持ち》であつ《っ》た。  山田が辻と初めて会つ《っ》たのは、彼が高等工業を卒業したばかりの年であつ《っ》た。辻一作は薄汚いバスケットを一つ提げて、兄清作《兄/清作》の依頼状を持つ《っ》てはるばる四国から山田を頼つ《っ》て出て来たのである。その頃、津波のや《よ》うに湧き興つ《っ》た社会思想の飛沫《シブキ》を浴び、自己の内部に社会理想の火が燃え上つ《っ》たばかりであつ《っ》た山田は、《:、》必然この少年にそのはけ口を見出さざるを得なかつ《っ》た。彼は、このどこか傲岸さ《そ》うに眼を光らせた、小さな機関車のや《よ》うに意志的なものを持つ《っ》た少年を愛し、これを彼の最初の弟子としたのである。山田は毎日勤めから帰つ《っ》て来ると、唯物史観を、無産者政治教程を講義した。その頃辻《ころ辻》は十六であつ《っ》た。山田は何年か後《あと》になつ《っ》て、その頃の辻と自分とを思ひ《い》出すと、あんな小さな子供を掴へ《まえ》てど《/ど》うしてああ熱心になれたのか不思議な気がしたが、《:、》しかしその頃から辻の内部に彼の影響に耐へ《え》得る強靱な何物か、それは知性の萌芽とも言は《わ》るべきものがあつ《っ》たために違ひ《い》なかつ《っ》た。  辻と起臥を共にしたのは僅か一年|あま《余》りに過ぎなかつ《っ》たが、白紙のや《よ》うな少年の頭脳にとつ《っ》ては、決して短い時間ではなかつ《っ》た。少年はある日突然決意《日’突然’決意》の色を現は《わ》しながら言つ《っ》たのである。 「おれ、田舎に帰る。」  か《こ》うして辻の少年らしい空想や希望は、農民運動といふ《う》全く違つ《っ》た形として現は《わ》れ、二人は別れた。辻はただ社会思想の火を自己の内部に発火させるためにのみ上京したや《よ》うなものであつ《っ》た。その後の辻《’辻》の動勢《動静》については山田は殆ど知らなかつ《っ》た。勿論《もちろん》初めの|一二ヶ《一’二個》年は文通が行は《わ》れ、辻に必要な文書なども山田を通じて送られたが、しかしその後どうしたのか手紙もばつ《っ》たり絶えてしまつ《っ》た。そのうち山田はみつ子と結婚し、捕は《わ》れて下獄した。  山田は、暗い、陰鬱な監獄生活のうちにも時々《ときどき》辻を思ひ《い》出しては、或は彼も自分と同じや《よ》うな所に日を送つ《っ》ているのでは《は-》あるまいかと不安な予感に襲は《わ》れたりした。そして黙々と手仕事を運ばせながら、ふと辻《/辻》は今年で幾つになつ《っ》たかな、などと指を折つ《っ》て見たりした。彼は自分の弟か、甥を思ひ《い》出すや《よ》うな、なつかしい気持《気持ち》であつ《っ》た。ところが監獄生活の一年が終《終わ》り、二年目の秋であつ《っ》た。彼は突然《突然’》辻の面会を受けた。  山田は電車の中で眼を閉ぢ《じ》、その面会の状況を思ひ《い》浮べた。それはなんとなく奇妙な、そして驚くべき瞬間であつ《っ》た。  彼は辻の変つ《わっ》た姿に先づ《ず》驚いた。彼は秋らしくセルを着流していたが、それはもう黄色く陽やけして、それに小柄な風采《/風采》のあがらぬ体つきはひどく貧相で、か|へつ《えっ》て山田の方《ほう》が|あは《哀》れを覚えたほどであつ《っ》た。その上以前《うえ以前》のや《よ》うな赤い頬《ホオ》は消え、頭髪はぼうぼうと乱れ、ふと肺病にでもなつ《っ》たのではないかと思は《わ》れるほど蒼く痩せていた。額《ヒタイ》にはまだ二十《ハタチ》だといふ《う》のに深い横皺が二三本《ニサン本》も刻み込まれて、なんとなく山田はぞつ《っ》とした。そしてどうしたのか辻は、山田と向ひ《かい》合つ《っ》ても、むつ《っ》つりと口を噤んだまま口を開かなかつ《っ》た。仕方なく山田の方《ほう》から、 「どうしたんだ。」  と言は《わ》ずには《は-》いられなかつ《っ》た。 「うん。」  と辻は、怒つ《っ》ているや《よ》うに返事した。 「元気でいたのか。」 「うん。君《キミ》、元気か。」  山田は今まで辻から君《キミ》と呼ばれたことがなかつ《っ》たので、びつ《っ》くりして辻の口許を眺めやつ《っ》た。辻はそれきり黙つ《っ》てしまひ《い》、何かひどく考へ《え》込んでいるのである。 「ああ、俺はこの通《とお》り丈夫だ。しかし、君はどうしていたんだ。どうも少し変|ぢや《じゃ》ないか。外《そと》の情勢はどうかい、この頃。」 「うん。」  そして辻は何か憂は《わ》しげな眼つきで|あた《辺》りを見廻《見回》し、急に山田の顔を眺めて微笑《微笑’》しようとしては、また唇を固く閉《閉ざ》してしまふ《う》のだつ《っ》た。何かある、と山田は心中《シンチュウ》で思ひ《い》ながらも、これではどちらが面会に来たのか判りや《ゃ》しない|ぢや《じゃ》ないかと、腹立たしいものを感じたりした。長い沈黙が続き、二人は向ひ《かい》合つ《っ》たままお互の顔を眺めたり、足で床をこつこつと打つ《っ》たりした。辻はどこか落着《落ち着》きがなかつ《っ》た。彼は絶えず|あた《辺》りを見廻《見回》し、山田と視線が合ふ《う》とびつ《っ》くりしたや《よ》うに眼を外した。やがて辻はふらりと|立上つ《立ち上がっ》て、もう山田に背を向けて歩き出した。 「おい帰《/帰》るのか。」  辻は背を向けたまま|立停《立ち止ま》ると、 「ああ。」  と言つ《っ》たが、くるりと振り返つ《っ》て、山田の耳許に口を寄せると、ささやくや《よ》うな声で、 「俺、病気なんだよ。恐《恐ろ》しい病気になつ《っ》ちまつ《っ》たんだ。」 「病気?」  辻は瞬間思ひ《い》惑つ《っ》たや《よ》うに眼をつぶると、急に顔に血の気が上つ《っ》て、上ずつ《っ》た声で一息に、 「癩病だよ。」  と言つ《っ》て、扉の外に出て行つ《っ》た。山田はがんと頭をどやされたや《よ》うな気持《気持ち》であつ《っ》た。瞬間辻を呼び返さ《そ》うと思つ《っ》たが、声が出なかつ《っ》た。  あれから、もう四年に近い日が流れている。彼は辻の顔を想像して見ることが出来なかつ《っ》た。何か空恐しく、不安で、重苦しいのである。  その駅の改札口を出ると、山田は構内をあちこちと見廻《見回》し、早かつ《っ》たかな、と思つ《っ》て時計を眺めて見たりしながら、しかし一種の興奮状態に胸が弾んでいた。辻らしい姿が見当《見当た》らないので、彼はち|よつ《ょっ》と焦つ《っ》たものを覚えながら、しかし心の底にはこのままいつ《っ》そ辻が現は《わ》れなければいいとい|ふ気持《う気持ち》のあることはど《/ど》うしや《よ》うもなかつ《っ》た。 「お元気ですか、ご無沙汰ばかししてを《お》りました、呼び出したりして‥‥。」  さ《そ》ういふ《う》声が不意に横から聴えた。しかし山田は自分に言は《わ》れたとも思へ《え》なかつ《っ》たのでその方《ほう》には注意もせず、なほ《お》前方を見廻《見回》していると、 「あの、僕、辻ですが。」  山田はびつ《っ》くりして振り返ると、 「ああ、いや、僕山田です。」  と、まごついた返事になつ《っ》てしまつ《っ》た。 「体、その後、お体はどうですか。心配してましたが、どこにいられるか解りませんでしたので。ええ僕は元気でいます。」  山田はこんな会見を想像していなかつ《っ》た。相手がどう病変していても、よう、その後どうだつ《っ》たい、と気さくに相手の肩をぽんと打つ、そんな光景を考へ《え》ていたので|よけい《/余計》まごついてしまつ《っ》た。それに自分の口から、|ました《マシタ》調の言葉など出ようとは全然予期していなかつ《っ》たので、自分の言葉にびつ《っ》くりした気持《気持ち》であつ《っ》た。  二人は並んで駅を出たが、山田は自然と相手の顔手足などに注意が向いてならなかつ《っ》た。彼はさ《そ》ういふ《う》自分の注意を意識しては、あわてて視線をあらぬ方《ほう》に向けるのだったが、しかし心の中では何かほつ《っ》とした軽やかなものを覚えていた。辻は監獄で会つ《っ》た時と同じや《よ》うに小さな体で、|もぢやもぢや《もじ-ゃもじ-ゃ》の頭髪が中折帽の間からはみ出して、その髪の間に痩せた、骨ばつ《っ》た顔が覗いていた。あの時よりも痩せはひどくなつ《っ》て見えるが、しかしか|へつ《えっ》て健康さ《そ》うであつ《っ》た。彼は鼠色の背広を着て、外套を重ねている。 「今どうしているのかね。」  喫茶店などの並んだ細い路地に這入《入》ると、山田はさ《そ》う訊いて見た。出来るだけ以前のや《よ》うな親しさを取り戻さ《そ》うとする気持《気持ち》の余裕が出来、言葉使ひ《い》も気軽にした。 「うん、療養所にいる。」 「体は良《-い》いのかい。」 「まあ今《/今》のところは、どうにか‥‥。」 「自由に出て来《-こ》られるのか、何時でも。」 「自由つ《っ》て訳《わけ》には《は-》ゆかないけど。年《ネン》に一回くらいは‥‥。」  辻は憂鬱さ《そ》うな小さい声でぽつりぽつりと答へ《え》、ともすれば沈黙に墜《落》ち込みさ《そ》うであつ《-っ》た。山田はどうした訳か沈黙に墜《落》ち込むことが妙に恐《恐ろ》しいや《よ》うに思は《わ》れ、頭の中で言葉を探すのであつ《っ》たが、この場合どんなことを語ればいいのか見当がつかなかつ《っ》た。お互《互い》に交は《わ》りの断ち切れていた何年かが、深い谷《’谷》のや《よ》うに二人の間《あいだ》にあつ《っ》た。ましてや病苦に傷ついているであら《ろ》う辻を考へ《え》ると、うつ《っ》かり言葉も出ないのである。 「東京はちつ《っ》とも変つ《わっ》ていない。」  と、辻は|あた《辺》りを見廻《見回》すや《よ》うに首を動かして、突然そんなことを言ふ《う》のであつ《っ》た。 「うん、もう一通《ひと通》り出来上つ《っ》たからね、これからは案外変化《案外’変化》が少いだら《ろ》うよ。しかし、君は何年、そこにいたのだね。」 「三年。足かけ四年になる。」 「しかしよく僕の住所が判つ《っ》たね。随分あちこち動いたからね。」 「兄貴に訊いた。」 「ああさ《/そ》うか。元気だら《ろ》う、兄貴。」 「うん。」 「病院は大きいのかい。」 「五百人ほどいる。」 「面会なんか出来るの。」 「出来る。自由だ。」 「そのうち出かけて行つ《っ》てもいいかい。」 「うん。来てくれ。癩病ばかりしかいないところだ。」  山田は瞬間言葉《瞬間’言葉》が途切れた。辻が日常茶飯の調子で、癩病、と自分の病気を苦もなく言つ《っ》てのけるのに驚いたのだ。変つ《わっ》た、と山田は強く思ひ《い》ながら辻《/辻》の横顔を眺めた。そして心の中がなんとなく緊張するのを覚え、一体この男は今どんな思想に、どんな信念に生きているのであら《ろ》うか、といふ《う》激しい好奇心が湧き出し始めた。以前の思想は? そのままでいるのか、それとも全然別な道を発見したのか。 「しかし君《キミ》なんか、どこも病気のや《よ》うには見えないが。退院は出来ないのか。」 「退院? しようと思へ《え》ば出来るが‥‥してもつまらん。」 「しかし病気は軽いんだら《ろ》う。」  山田はふと、こんなことを訊いていいのかな、と思ひ《い》返したが、しかし口《’口》から出てしまつ《っ》たので、どんな返事が来るかと待つ《っ》た。辻はなんとも答へ《え》なかつ《っ》た。そして頬《ホオ》に薄い微笑を浮べると、そのまま黙り込んでしまつ《っ》た。山田は不安なものを覚え、ではやつ《っ》ぱり外面はなんとも見えなくても、内部ではもう相当やられているのか、とあやぶむ気持《気持ち》であつ《っ》た。 「病気は、軽くても重くても同じことだ。」  と辻は長い沈黙の後《あと”》ぽつんと言つ《っ》た。不治、この言葉がぴんと山田の心に来た。彼はぐつ《っ》と胸を押されたや《よ》うな気持《気持ち》で、言葉がなかった。 「しかし治療はしているのだら《ろ》う。」  と山田は遠慮勝ちに訊いた。 「しているが‥‥。」  と辻は言葉を濁し、また微笑《微笑’》した。  二人は茶房へ|這入つ《入っ》た。人がいつ《っ》ぱい立て混み、レコードが|がちやがちや《ガチャガチャ》と鳴つ《っ》ていて、落着《落ち着》いて話など出来さ《そ》うにもなく、山田はもつ《っ》と良《-い》いところはないかと思案した。辻は腰を下《下ろ》すと、落着《落ち着》かぬげに|あた《辺》りを見廻《見回》しては、じつ《っ》と視線を一方に走らせたり、音楽に耳を澄ませようとするらしく、ち|よつ《ょっ》と眼を閉ぢ《じ》て見たりする。しかしさ《そ》うした小さな表情の一つ一つにも、どことなくぎごちない固さが感ぜられて、山田は何か気の毒のや《よ》うな気もするのであつ《っ》た。田舎者、でないまでも、兎に角長い間人前《あいだ人前》に出なかつ《っ》た者が急に表へ引き出された時のや《よ》うな工合であつ《っ》た。落着《落ち着》けないことを意識して強ひ《い》て|落着か《落ち着こ》うとする時の表情、さ《そ》ういつ《っ》たものを山田は見て取つ《っ》た。  紅茶と菓子が来ると、山田は砂糖を辻の茶碗に入れながら、 「お腹空いてないか。」  と訊いて見た。 「いや。いつ《っ》ぱいだ。」 「もつ《っ》と静かな|ところ《所》へ行か《こ》うか。」 「うん。さ《そ》うだね。しかし、」と言つ《っ》て辻は時計を眺め、 「君《キミ》、いいのかい。奥さん待つ《っ》てやしない? 僕、ち|よつ《ょっ》と君に会へ《え》ばよかつ《っ》た。」 「そんなこといいよ。久しぶり|ぢや《じゃ》ないか、君さへ《え》よければ僕はなんでもないよ。」 「うん、僕、いいけど‥‥。」  と辻は言ひ《い》ながらフォークを動かし、どうしたはずみか|がちやん《ガチャン》と音を立ててそれを落してしまつ《っ》た。辻はあつ《っ》と小さく叫んで、顔を真赤《真っ赤》にすると、いきなりそれを拾ひ《い》にかかつ《っ》たが、急にまた手を引込《引っ込》めた。滑稽なほど狼狽が見え、山田はとつ《っ》さに、 「いいよ君《キミ》、拾は《わ》せるよ。」  と小さく辻にささやいて、給仕女《ウエイトレス》を呼んだ。人々の視線がさつ《っ》とこちらに射られるのを山田は感じ、なんでもないとい|ふ風《うふう》に微笑をつくつ《っ》て、 「これから出て来る時は必ず僕の所へ寄り給へよ。」  と言つ《っ》てごまかさ《そ》うとした。 「うん、寄るよ。寄るよ。だけど、僕。うんあの、僕来年も出て来るよ。毎年一回づ《ず》つ出て来ることにしているんだ。でも、君《キミ》、嫌だら《ろ》う。」 「そんなことないさ。そんな気兼ねはよし給へよ。」 「うん。娑婆のやつ等《ら》は病気に対して認識不足だから、僕だつ《っ》て、さ《そ》う簡単にあれするんだつ《っ》たら出て来やしない。いや、出て来るよ。出て来るよ。社会だつ《っ》て、我々に犠牲を要求し得るほど立派に出来てやしない。社会は我々より愚劣|ぢや《じゃ》ないか。しかし、いや‥‥。」  そして辻はや《よ》うやく上気《逆上》せがさがりかけていた顔を再びさつ《っ》と赧《赤》くすると、突然口《突然’口》を噤んで上体《/上体》を真直ぐにしたまま一方をじつ《っ》と見つめ、《:、》また急に視線を外らして|あた《辺》りの人を窺|ふや《うよ》うにきらりと眼を光らせた。その眼には、今まで見えなかつ《っ》た、鋭い、挑むや《よ》うな、焔《炎》が燃えていた。山田はさ《そ》うした辻の表情を注意深く眺めながら、何か言|ひや《いよ》うのない陰惨な臭気とも言ふ《う》べきものを感じるのであつ《っ》た。長い間《あいだ》の苦痛、屈辱と、堪へ《え》得ぬばかりの運命に虐げられたであら《ろ》うことを、彼はその眼に感じ、その挑戦するや《よ》うな唐突《/唐突》な言葉に感じた。  二人はそこを出るとも《/も》う暗《’暗》くなりかけた街を暫く歩いて、とある小さなそば屋の二階へ上つ《っ》た。 「幾日《幾にち》くらい東京にいるんだね。」  酒が出ると、山田は銚子を取り上げながら訊いて見た。 「二週間ほどいたんだけど、もうあと三日で帰る日なんだ。」 「|幾日つ《イクニチっ》て、日も定められている訳だね。」 「うん。」 「病院はひどいところかい。」 「さあ。」  と辻は考へ《え》るや《よ》うに独言して、 「説明出来ない。兎に角普通人《角’普通じん》の人間概念は通用しない。」 「いや、さ《そ》ういふ《う》意味|ぢや《じゃ》なく、|いは《言わ》ば政治的な意味、つまりなんて言ふ《う》か、病院生活だね、病院の支配者と患者との関係とかいつ《っ》た風な‥‥。」 「平和だよ。」 「平和、か。しかし時々《ときどき》問題なんか起つ《っ》て新聞に出たりする|ぢや《じゃ》ないか。」  すると辻は急に可笑しさ《そ》うに大声で笑つ《っ》て、ぐつ《っ》と酒を飲むと、 「退屈だからあんな問題が起るんだね。」と一言してから、独言《独り言》のや《よ》うに下を向いたまま呟いた。 「社会の人間は病院をまるで陰惨な、人間の住んでいるところ|ぢや《じゃ》ないや《よ》うに考へ《え》ている。嘘だ、そんな考へ《え》は。社会と較べりや《ゃ》余程病院の方《ほう》が立派だ。少くともあそこでは人間が人間らしい精神で生きている。ところが社会はなんだ、嘘偽《虚偽》と、欺瞞と、醜悪とに満ちてる|ぢや《じゃ》ないか。病院だつ《っ》て愚劣なこともあれば、醜悪でもある。しかし社会よりはまだましだ。それだのに、社会のやつらに会ふ《う》と|定つ《決まっ》て好奇心に眼を光らせて病院のことを訊きたがる。病院のことを訊いてどうするんだ。恐いもの見たさの心理だら《ろ》う。或は病院を思ひ《い》切り醜悪なものとして予想して、それが本当であるかどうか知りたい、むしろ本当であらせたいんだ。なんといふ《う》愚劣さだ。醜悪なものを見たいなら、社会は社会自身の足下を見りや《ゃ》いいのだ。少くとも社会は癩院に対して恥ぢ《じ》るべきだ。」 「いや、僕はそんな気持《気持ち》で訊きや《ゃ》しないよ。」 「うん、うん、そりや《ゃ》君の言ふ《う》ことは判る。」 「なんて言ふ《う》か、僕は‥‥。」  しかし辻は山田を|押へ《押さえ》るや《よ》うに言ひ《い》出した。 「僕の病院にいる五百人の患者が、どんな汚辱と、屈辱との中に生きて来たか。それは恐《恐ろ》しい汚辱だ、屈辱だ。しかしそれに、彼等はじつ《っ》と堪へ《え》て来たんだ。癩病を前にして黙つ《っ》て頭を下げない奴《ヤツ》は、ただそれだけでその男が愚劣な人間の証拠だ。それは恐《恐ろ》しい屈辱だ。売春婦の屈辱なんぞ問題にならぬ。そしてその屈辱は今もなほ《お》続いているんだ。恐らく死ぬまで、死ぬまでだぜ、この言葉をよく考へ《え》て見てくれ、死ぬまで屈辱は絶えやしないんだ。しかしこんなこと君に言つ《っ》たつ《っ》て通じやしない。癩者の間で三日でも暮して見るがいい、それがどんなに恐るべき、胆《肝》の寒くなるや《よ》うな世界か解るだら《ろ》うよ。それに彼等はじつ《っ》と堪へ《え》忍んでいるんだ。人間が人間自身の内的な力で生き、人間の最奥《サイオウ》の力で生きているんだ。人間が人間として最も純粋な美しい状態はそれを措《お》いて他に決してないんだ。癩者はそれを無意識のうちにやつ《っ》てのけるんだ。」  山田は辻の言葉にじつ《っ》と耳をかたむけながら、しかし何かちぐはぐな、ピントの合は《わ》ないものを感じてならなかつ《っ》た。辻が眼を光らせ、熱した口調で語つ《っ》ている事柄も、彼には何か無関係な、辻の独りよがりの興奮のや《よ》うな気がするのである。それに山田にとつ《っ》ては、癩者の精神が美しから《ろ》うと醜くから《ろ》うと、どうでもいいことであつ《っ》た。彼はただ辻のさ《そ》うした言葉から、辻の興味の対象が何にあり、辻の思想が以前と較べてどのや《よ》うな変形を受けているかを推察するのが楽しみであつ《っ》た。この男、すつ《っ》かりヒユマニストになつ《っ》たぞ、と、そんなことを考へ《え》て彼は|にやり《ニヤリ》と笑|ふ気持《う気持ち》であつ《っ》た。するとふ《-ふ》と、さつ《っ》きからの自分の気持《気持ち》を振り返つ《っ》て、自分が癩患者辻一作《癩患者’辻’一作》を前にしたため、なんとなく他所行きな気持《気持ち》になつ《っ》ていたのに気づいて、なんのことだ、とい|ふや《うよ》うな気持も湧いて来た。  辻はもうかなり酒《’酒》がま|はつ《わっ》たと見えて、眼《目》を充血させ、興奮した面持《面持ち》で山田をじつ《っ》と見つめたり、盃《サカズキ》を急に口に持つ《っ》て行つ《っ》たりするのであつ《っ》た。 「しかし君《キミ》、遅くなりや《ゃ》しないのかい。」  と山田は訊いて見た。山田も、もうかなり酔がま|はつ《わっ》て来ていた。 「大丈夫。」 「しかし随分君も変つ《わっ》たね。」  と、山田は辻をしげしげと眺めながら言つ《っ》た。 「変つ《わっ》た? うん、変つ《わっ》たよ、変つ《わっ》たよ、すつ《っ》かり変つ《わっ》てしまつ《っ》たかも知れない。しかし変《変わ》らない部分だつ《っ》てある。」 「ああそ《/そ》りや《ゃ》ね、やつ《っ》ぱり、あの頃の、十六だつ《っ》たね、あの時。あの時の君とちつ《っ》とも変らないところもあるよ。君らしいところはやつ《っ》ぱり君らしいが、しかし考へ《え》方なんか‥‥。」 「考へ《え》方ね、ああ、変つ《わっ》たよ、。社会主義なんて俺は捨てた。」と辻はきつ《っ》ぱり言ひ《い》切ると、急に挑むや《よ》うな眼つきで山田を見、おそろしく興奮した調子で続けた、《:、》それは、社会主義を捨てたといふ《う》ことによつ《っ》て相手から冷笑を浴せられるに違ひ《い》ないと信じていて、それを懸命に反駁しようとするかのや《よ》うであつ《っ》た。彼は丸で堪らない嘲笑を受けたかのや《よ》うであつ《っ》た。 「社会主義は、捨てたよ、完全に俺は捨ててしまつ《っ》たんだ。笑ふ《う》奴は勝手に笑つ《っ》たらいいんだ。笑へ《え》る奴《ヤツ》がそんなにいるもんか。俺は俺自身でさ《そ》ういふ《う》自分をさんざん笑つ《っ》たんだ。もうさんざん自分で自分を笑つ《っ》たんだ。しかし今|ぢや《じゃ》もう笑ひ《い》やしない。いや、俺が、俺の方《ほう》から思想を捨てたん|ぢや《じゃ》ない。決してさ《そ》う|ぢや《じゃ》ないんだ。思想が、思想の方《ほう》が俺を捨てたんだ。俺は思想に突つ《っ》ぱなされてしまつ《っ》たんだ。俺も病気になつ《っ》て初めのうちは、一生懸命思想《一生懸命’思想》や理論にしがみついていた。さ《そ》うだ、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》。唯《ただ》、君《キミ》、俺の場合に於《於い》ては‥‥‥‥‥‥なんにもならないだけのことなんだ。だから俺はあの理論が全然無意味だなんて考へ《え》てやしないよ。ただ俺にとつ《っ》ては無意味なんだ。俺には不要なんだ。あれは社会理論|ぢや《じゃ》ないか。ところが俺は社会から拒否されてしまつ《っ》てるんだ。つまり理論に拒否されたんだ。さ《そ》ういふ《う》俺が、大切さ《そ》うに理論を頭の中で信じていたつ《っ》てそれが何《なん》になる。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》なんて全然無意味|ぢや《じゃ》ないか。それは靴みたいなものだ、穿いて歩いてこそ価値があるんだ、頭の上に乗せていたつ《っ》てなんにもなりや《ゃ》しないんだ。(ここまで苛立たしげに語つ《っ》て来て辻は突然《突然’》言葉を切り、急に何事かに考へ《え》込み、今度は低い声で下を向いたまま語り続けた。それは独言《独り言》のや《よ》うであつ《っ》た)俺《:俺》はそのために苦しんだよ。夜だつ《っ》てろくに眠りや《ゃ》しなかつ《っ》た。病院へ|這入つ《入っ》たはじめのうちは、それでも信じていたよ。しかしそれは病気を知らなかつ《っ》たからに過ぎなかつ《っ》た、俺はもう一度社会へ出て、社会人と同じや《よ》うにやつ《っ》て行けると思つ《っ》ていた。だから俺は、その頃は自分を社会人として、少しも疑は《わ》なかつ《っ》た。だから社会理論《’社会理論》を頭の中に寝かせて置いても不思議|ぢや《じゃ》なかつ《っ》た。何時かは起きる時がある、何時かは起き上《上が》る、さ《そ》う信じていたんだ。ところが日《’日》が経つにつれて病気が、どんな病気であるか知らされちまつ《っ》た。それは知らされざるを得ないことだ。俺は、俺といふ《う》人間が最早全く社会にとつ《っ》て不要な人間であり、|いは《言わ》ば一個の‥‥《/テン/テン/テン/》に過ぎないことを知つ《っ》た。俺はただ毎日毎日、俺の体が腐つ《っ》て行くのを眺めて、死ぬる日を待つ《っ》ていなけりや《ゃ》ならないんだ。いや、俺の体だけ|ぢや《じゃ》ない、俺個人の肉体だけ|ぢや《じゃ》決してないんだ。俺は、俺の周囲にいる連中の体が腐つ《っ》て行くのを毎日見せつけられたんだ。来《く》る日も来る日も鼻がかけたり、指が落ちたり、足が二本共無《二本とも無》かつ《っ》たり、全身疵だらけの連中ばかり眺めて暮《暮ら》して、そいつらの体の腐つ《っ》て行く状《さま》を眺めていなけりや《ゃ-》ならなかつ《-っ》たんだ。昨日まで眼あきであつ《っ》た者が今日は盲目《メクラ》になつ《っ》ていた。今日《今日’》二本足を持つ《っ》ていた男が翌日は足が一本になつ《っ》ているんだ。俺はそれを、じつ《っ》と、黙つ《っ》て眺めて暮して来た。今こそ俺は軽症だが、やがてああなる。あんな風《ふう》になる。足がなくなる、指が落ちる、盲目《メクラ》になる。ああ、これが、こんな風《ふう》なことを考へ《え》なけりや《ゃ》ならない生活がどんなものか、君に判るかね。しかも生命《イノチ》は長いんだ。まだまだ長いんだ。しかし、俺はもうこんなこと言つ《っ》たつ《っ》て何《なん》にもなりや《ゃ》しない。俺の気持《気持ち》がどんなであつ《っ》たか、語ることなんか出来やしない。それは語ることも出来ないくらいなんだ。自分が全く無意味な、社会にとつ《っ》て不要な人間に過ぎない、といふ《う》ことをはつ《っ》きり俺は意識したんだ。しかも生きているんだ。今後、何年も、何年も生きて行かなくちや《ゃ》ならないんだ。この気持《気持ち》を君が判つ《っ》てくれたらなあ。しかし誰にも判りや《ゃ》しない、判るもんか。俺は独りぽつ《っ》ちになつ《っ》た、全く孤独になつ《っ》たんだ。社会にいる連中なんかも、一人前に、やれ淋しいの、やれ孤独《孤独’》だのつ《っ》て言ふ《う》。そんな連中に孤独つ《っ》てどんなものであるか判るもんか。決して判りや《ゃ》しない。それは恐《恐ろ》しいもんだ。身を切り刻まれるや《よ》うなもんだ。体中の血液が凍つ《っ》てしま|ふや《うよ》うなものだ。しかしこんな形容|ぢや《じゃ》伝は《わ》りや《ゃ》しない──俺《:俺》は運命といふ《う》ものを見たよ。現実といふ《う》ものを見たよ。この孤独の中でどんな風《ふう》に生きたらいいんだら《ろ》う。俺は生きる方向も、態度も失つ《っ》ちまつ《っ》たんだ。しかも俺の周囲にいる人間は癩患ばかりだ。癩患の巣だからね。こんな風になつ《っ》て、生きるといふ《う》ことが正しいと思ふ《う》かね、正しいと思ふ《う》かね。ね、答へ《え》てくれ。」  辻は不意に言葉を切つ《っ》て、激しい|眼ざ《眼差》しでじつ《っ》と山田を凝視《見つ》めた。顔面の半分は覆つ《っ》てしまふ《う》ほどぼさぼさと垂れた髪の間に覗いている辻の、小さな鋭い眼を山田は見返しながら、勿論辻《もちろん辻》が返事など望んでいはしないのを知つ《っ》ていた。そして山田はふと|あくび《欠伸》が出たくなつ《っ》て、それをかくすためにち|よつ《ょっ》と体を動かせて坐り直したりするのであつ《っ》た。辻が熱つ《っ》ぽく語つ《っ》ているほど山田には切実に感ぜられないのである。すると辻は更に苛々しげに眉毛をぴくぴくと動かせて、語り始めた。 「答へ《え》なんか聴きたくないよ。勿論《もちろん》答へ《え》なんか聴かなくたつ《っ》て構《かま》やしない。ただ俺が言ひ《い》たかつ《っ》たのは、生きるとは何か、といふ《う》新しい問題が俺の前に出て来たつ《っ》てことを言へ《え》ばよかつ《っ》たんだ。俺は俺の周囲で死んで行く病人や、生きながら腐つ《っ》て行く──いいか、生きながら腐るんだぜ!──《─:》そんな連中を眺めて、毎日毎日眺めて、この現実を、世界を、どう解釈し、どう説明したらいいのか、といふ《う》問題が新しい俺の問題になつ《っ》たのだ。いや、嘘だ、俺はこんなことを、こんな風《ふう》に言ふ《う》つもり|ぢや《じゃ》なかつ《っ》た。現実を解釈する、現実を分析する、それが何だ。それが何《なん》になるんだら《ろ》う。どんなに分析したつ《っ》て、どんなに解釈したつ《っ》て、現実はそんなことに構つ《っ》てやしない。現実は人間の知性がどうあら《ろ》うと知らん顔して、現実は、ただ現実それ自身のために動き、それ自身の仕事を仕事としている。これが運命といふ《う》ものだ。人間は、ただ、この迫つ《っ》て来る力を前にして、恐れ、戦慄《慄》き、泣き、叫び、涙を流すだけなんだ。現実の批判と言つ《っ》たつ《っ》て、解釈と言つ《っ》たつ《っ》て、所詮、この号泣、叫びの一変形に過ぎないんだ。人間はただ泣くだけなんだ、涙を流して慰め合ふ《う》だけなんだ。君《キミ》は笑つ《っ》てるね。君から見ればこんなことは、|あは《哀》れな人間のく《繰》り|ごと《言》だら《ろ》うよ、弱者の泣言《泣き言》だら《ろ》うよ。それからこんな考へ《え》は古い、つ《っ》て君は言ひ《い》たいんだら《ろ》う。そりや《ゃ》古いかも知れない。しかし俺は古くつ《っ》たつ《っ》て構《かま》やしない。古いとか新しいとかいふ《う》ことは問題にならんのだ。俺の場合に於《於い》ては問題にならんのだ。俺は俺の世界のことを言つ《っ》てるんだ。他人のことなんか知つ《っ》たことか。いや、待てよ、俺は何を言ふ《う》つもりだつ《っ》たんだら《ろ》う。さ《そ》うだ、俺は死な《の》うと思つ《っ》たんだ。自殺しようと考へ《え》たんだ。ところが死ねなかつ《っ》た。何度もやつ《っ》てみようとした。しかし駄目だつ《っ》た。いや、さ《そ》う|ぢや《じゃ》ない、死ねないことが解つ《っ》たんだ。死ねないことがだよ。死ねない、この意味を君が解つ《っ》てくれたらなあ。しかし解りや《ゃ》しない、それは自殺する勇気がなくて死ねない、なんていふ《う》ん|ぢや《じゃ》ない、死んだつ《っ》てなんにもならないつ《っ》てことなんだ。死んでもなんにもならない、さ《そ》うな《な-》んだ。しかし、なんて言つ《っ》たらいいのかなあ。なんて言葉つ《っ》て奴は不便なんだら《ろ》う、言つ《っ》たとたんに|ばかばか《馬鹿馬鹿》しくなつ《っ》てしまふ《う》。つまり、死んだつ《っ》てなんにもならないつ《っ》て言ふ《う》のは、俺が死んだつ《っ》て人は生きている、俺が死んだつ《っ》て、癩病はやつ《っ》ぱり存在する、つ《っ》てことなんだ。しかし、か《こ》う言つ《っ》てもどうも本当|ぢや《じゃ》ないや《よ》うな気がする──。」  辻は口を噤んで、頭の中に適切な言葉を探さ《そ》うとでもするかのや《よ》うに、じつ《-っ》と空間に眼を注いで考へ《え》込んだ。しかし、山田はもうさつ《っ》きから次第に退屈し始めていた。そして辻の眼がぎらぎらと光つ《っ》たり、熱した額《ヒタイ》の汗がてらてらとしたりするのを見ているうちに、なんとも言へ《え》ない、気持《気持ち》の悪い、嫌なものを感じてならなかつ《っ》た。俺は今癩病患者《いま/癩病’患者》と酒を飲んでいる、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》がふと頭に浮んで来たりすると、彼は何か、無気味な、恐怖に似たものを感じた。そして辻が、人生の苦悩を一人で背負ひ《い》込んだや《よ》うなことを言つ《っ》ているのに対して、なんとなく不快を覚えてならなかつ《っ》た。それに辻の語り振《ぶ》りはといへ《え》ば、絶えず言ひ《い》直したり、まごついたり、独りで合点《ガテン》したり、それはひどく独りよがりな《な-》お喋りに過ぎない、と山田には思は《わ》れるのである。  話が途切れ、沈黙が続いた。辻はさつ《っ》きの続きを言は《お》うと口をもぐもぐさせていたが、どうしたのか不意に、はじかれたや《よ》うに|ぴよこん《ピョコン》と|立上つ《立ち上がっ》た。そしてぐるりと|あた《辺》りを見廻《見回》すと、黙つ《っ》たまま坐つ《っ》た。彼に《の》顔にはなんとも言|ひや《いよ》うのない困惑《/困惑》とも恐怖ともつかないものが現は《わ》れては消えていた。 「どうしたのだ。」  と山田も訊いて見ずには《は-》いられなかつ《っ》た。すると辻は、いや、ち|よつ《ょっ》と、と軽く微笑《微笑’》したが、どこか|こは《強》ばるや《よ》うな微笑であつ《っ》た。 「ち|よつ《ょっ》とね、ここが東京でないや《よ》うな気がしたんだよ。」  と辻は言つ《っ》た。 「東京でないや《よ》うな?」 「なんだかね。夢見てるや《よ》うな、妙な気がしたんだ。俺のうしろに患者がいつ《っ》ぱい坐つ《っ》ているや《よ》うな気がしたんだ。坐つ《っ》てたつ《っ》て構《かま》やしないよ、そりや《ゃ》勿論《もちろん》。だけど、なんだかぞつ《っ》としたんだ。足かけ四年病院《四年/病院》から一歩も出なかつ《っ》たのでね、錯覚が起るんだよ。」  さ《そ》う言つ《っ》て辻はまた微笑《微笑’》しようとしたが、それも途中から消えてしまつ《っ》て、あとはおそろしく黙り込み、何ごとか深い物思ひ《い》の中に沈んで行つ《っ》た。引揚げようか、と山田は言ひ《い》たくなつ《っ》て来たが、辻のさ《そ》うした姿を見ていると、どうもその言葉が吐きにくく思は《わ》れた。山田も自然と考へ《え》込み始めた。  山田はふと二日前の夜のことを思ひ《い》出した。自動車が、がたんと揺れた時の動揺がはつ《っ》きりと蘇つ《っ》て、アスファルトに頬《ホオ》をべつ《っ》たりとくつ《っ》つけて死んでいる男の姿が眼前に浮き上つ《がっ》て来た。あの男の家族は? 今どうしていることだら《ろ》う、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》が浮んで来ると、彼は今まで感じなかつ《っ》た罪悪感、自責の念にかられ始めた。成程あれは運転手の過失に相違ない、しかし俺は何の用もないのに、況やあんな愚劣な気持《気持ち》で車を走らせたのだ。さ《そ》う思ふ《う》と、罪は凡て自分にあるや《よ》うな気がした。おまけに、あの運転手は免許証を取り上げられるか、休職を命ぜられるか、そのどつ《っ》ちかだ。 「しかしね、辻、君も随分そりや《ゃ》苦しんだら《ろ》うけれども、僕たちだつ《っ》て決して楽|ぢや《じゃ》ないよ。ひ|よつ《ょっ》としたら、さ《そ》ういふ《う》どん底までいつ《っ》そ墜ちてしまつ《っ》た方《ほう》が、人間的には幸福であるかも知れないと思ふ《う》よ。」  山田はあの夜のことを一つ一つ思ひ《い》出し、また日頃の自分の気持《気持ち》の行場《行き場》のない、どうにもならない有様《有り様》などを思ひ《い》出しながら言つ《っ》た。すると辻は急に顔を上げて山田の方《ほう》を見たが、黙つ《っ》てまた考へ《え》込んだ。山田は、辻がまだ自分の転向を知らないのに気づいていたので、 「実《じつ》はね《-ね》、俺も転向してしまつ《っ》たんだよ。」  と告白的な気持《気持ち》になりながら言つ《っ》た。そしてこの時になると急に俺といふ《う》言葉が出た。 「転向した?」  と辻はさつ《っ》と顔を上げて、鸚鵡返《鸚鵡がえ》しに言つ《っ》た。がす《/す》ぐ低い声になつ《っ》て、 「俺も多分さ《そ》うだら《ろ》うと思つ《っ》ていた。」  と続けたが、その言葉の中には皮肉や冷笑は少しも響いていなかつ《っ》た。そしてひどく重大さ《そ》うにまた考へ《え》込んだ。 「実際のところ、僕らにしたつ《っ》て、自分の生きる方向も、態度も判らないんだよ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》全くつかないや《よ》うな情勢で、ただだんだん‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》つつあるといふ《う》ことだけが判るんだ。転向したからといつ《っ》て、このまま没落してしまひ《い》たいとい|ふや《うよ》うな気持《気持ち》はないし、出来得《出来う》るならば自分の生《セイ》を歴史の進歩に参加させたいのだ。転向して出獄したその頃などは、さ《そ》うい|ふ気持《う気持ち》で随分あせりもしたし、絶望もした。しかし結局どうしや《よ》うもなかつ《っ》たんだ。どんな風《ふう》にどうしや《よ》うもなかつ《っ》たかといふ《う》ことは、なかなか説明出来ないことだけれども、しかし君《キミ》も新聞や雑誌くらいは見ていたら《ろ》う。小説なんかでも、どんな風《ふう》にどうしや《よ》うもないかといふ《う》ことばかり書かれてある始末なんだからね。」  言葉をち|よつ《ょっ》と切つ《っ》てそこで山田は辻の方《ほう》を眺めやつ《っ》た。辻は下を向いたまま黙つ《っ》て耳を傾けていた。しかし山田はもう語るのが嫌であつ《っ》た。この男の前でこんなことを語つ《っ》て、それが何《なん》になる、要するに俺は、俺の心の中の煩悶を誰かに知つ《っ》て貰ひ《い》たい、《:、》そして知つ《っ》て貰ふ《う》ことによつ《っ》て同情をかすめ取ら《ろ》うとしているのだ、なんといふ《う》愚劣なことだ──。しかし酒の酔もあつ《っ》たであら《ろ》う、自然と口が開いて、彼が《は》くどくどと出獄後の自分の生活や気持《気持ち》を語るのであつ《っ》た。そして現在ではもう‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》を持つといふ《う》ことは殆ど自虐に似てをり、といふ《う》よりも誠実《/誠実》さは自虐と自嘲とに変形せざるを得ないといふ《う》ことや、《:、》さ《そ》ういふ《う》自分たちがどんなにせつ《っ》ぱつまつ《っ》た、‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》置かれているかを長々と説明して、 「結局《結局’》僕も癩院にいるのとそんなに変つ《わっ》てやしない状態なんだ。そりや《ゃ》肉体は腐らないけどねえ、精神が腐るんだ、いや腐らされざるを得ないんだ。君が君の病院に於ける気持《気持ち》が僕に伝は《わ》らないつ《っ》て残念がるや《よ》うに、僕もまた僕の気持《気持ち》は君にはなかなか判つ《っ》て貰へ《え》ないの|ぢや《じゃ》ないかと思ふ《う》んだ。そりや《ゃ》精神まで腐らせるのはその者の意識の力が貧弱だからだ、つ《っ》て言へ《え》ばなるほど僕は一言もないが、《:、》しかし少くとも僕はこれもある意味では誠実に生きているつもりなんだ。ところが‥‥《/テン/テン/テン/》であるが故に‥‥《/テン/テン/テン/》な、腐つ《っ》た状態とならざるを得ないといふ《う》奇妙な事情があるんだよ。そして時々どうかすると、馬鹿か白痴《/白痴》みたいな状態にならされたりするくらいなんだ。|二三日前《ニサンニチ前》もこんなことがあつ《っ》たよ。それは夜なんだが、もつ《っ》とも僕はこんな風《ふう》な自分を決して正しい状態だとは思つ《っ》ていないよ。それどころ|ぢや《じゃ》なく、僕はか《こ》ういふ《う》状態から抜け出なくちや《ゃ》ならんと考へ《え》ているし、これを抜けなくちや《ゃ》人間としても全く意味ない愚劣極《/愚劣極》まるものになつ《っ》てしまふ《う》ことは意識しているよ。ただね、今は僕がどんな気持《気持ち》でいるか君に解つ《っ》て貰へ《え》りや《ゃ》いいんだ。もつ《っ》とも解つ《っ》て貰つ《っ》たつ《っ》てそれはどうにもならんことだけれど、しかしまあ聴いてくれ。」  彼はそんなことを喋りたくなつ《っ》た自分を嘲笑したくなつ《っ》た。まるでお互《互い》に自分の苦労を打ち明け合つ《っ》て、お互《互い》に慰め合は《お》うとしている老人たちのや《よ》うではないか。ほんにまあお前様も随分苦労なさりましたねえ、でもねえわたしもそりや《ゃ》随分と苦労な目に会ひ《い》ましただ、まあまあ浮世は苦しいことでござんすわいな、とでも言つ《っ》てるや《よ》うなもの|ぢや《じゃ》ないか。山田は実際、その時ふとそんな光景を思ひ《い》出して、なんとなく|にやにや《ニヤニヤ》と笑つ《っ》たのである。  彼は長いことかかつ《っ》て、二日前の夜のことを自分《/自分》の気持《気持ち》を説明しながら念入りに話した。もつ《っ》とも初めのうちは時々《ときどき》激しい嫌悪に襲は《わ》れて話半ばに急に口を噤んだりした。しかしその度に、かまふ《う》ものか、かまふ《う》ものか、といふ《う》考へ《え》が浮んで来て|なほ《/なお》も話を続けていると、何時とは《は-》なしにその自分の物語にひそかに感心して聞き惚れているもう一人の自分が彼の横に坐り始めるのであつ《っ》た。勿論《もちろん》彼のこととて、そのもう一人の自分をも極力軽蔑《極力’軽蔑》し続《’続》けたが、しかしそれも結局は放任状態になつ《っ》て、《:、》しまひ《い》には彼も興奮した口調となり、勢《勢い》余つ《っ》て少し誇張したや《よ》うな部分も出来るといふ《う》始末であつ《っ》た。無論《むろん/》誇張といつ《っ》ても大したことではなかつ《っ》た。 「僕は実際、今考へ《え》て見ても、何故あんな、愚劣なことが出来たのか、自分でもよく判らないよ。況《いわん》や土手の上でおいおい泣き出したくなつ《っ》たりしたんだからね。さ《そ》うだ、僕はたしかにあそこのところで君を思ひ《い》出したよ。正直のところ僕は君を思ひ《い》出すのは好き|ぢや《じゃ》なかつ《っ》た。それはやつ《っ》ぱり、君《キミ》の病気のせいだと思ふ《う》んだ。か《こ》う言つ《っ》ても悪く取らないでくれ給へね。ただなんとなくだよ、なんとなく僕は君の病気が恐かつ《っ》たんだ。正直に言つ《っ》て、僕は君を思ひ《い》出すのが何か|いとは《厭わ》しい、暗い、運命みたいなものにぶつかるや《よ》うな気がしてならなかつ《-っ》たんだ。いやしかし、これだけ|ぢや《じゃ》ない、これだけ|ぢや《じゃ》ないよ、もう一つ重大なことは、僕の思ひ《い》出す君の姿といふ《う》ものが、あの監獄の場面を除くとあ《/あ》とはもうあの頃の、十六から七へかけての丸一ヶ《個》年の君の姿ばかりなんだ。あの頃の僕と君との関係は、嘘のないところ師《/師》とその弟子といふ《う》あんばいだつ《っ》たからね。だから僕は‥‥《/テン/テン/テン/》以来といふ《う》ものは君を思ひ《い》出す度に自責の念にかられたんだ。もっともこんな自責は単に僕のセンチメンタリズムに過ぎないといふ《う》ことは意識しているし、また僕が君の師となつ《っ》たといふ《う》事実は既に説明するまでもない大きな力の必然だつ《っ》たんだら《ろ》う。それにも|かかは《関わ》らず、僕はどうにも君に悪いことをしたや《よ》うな気がしてならなかつ《っ-》たんだ。それに君が病気になつ《っ》てからは|なほ《尚》更なんだ。何故だら《ろ》う、僕の‥‥‥《/テン/テン/テン/》させる業《ゴウ》に相違ないんだ。‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》はどんなにそれを説明しても人間的にはたしかに汚点なんだから‥‥。」 「待つ《っ》てくれ、ちよ《ょ》、ち|よつ《ょっ》と待つ《っ》て呉れ。どうしてそれが汚点なんだい? 俺にや《ゃ》判らん。それを汚点とするかどうかは、その個人の精神によつ《っ》て決定する問題|ぢや《じゃ》ないか。‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》によつ《っ》て更に高まる場合だつ《っ》てあり得るのだからね。君《キミ》はさきに定規を作つ《っ》ておいて、その上で人間を決定して行か《こ》うとしているんだ。」 「うん、うん、そりや《ゃ》君の言|ふ風《うふう》にも考へ《え》られるかも知れない。しかし僕は、僕として信じている方法を使ふ《う》以外にないんだ。だからもうち|よつ《ょっ》と僕の言ふ《う》ことを聴いてくれ。ね君、さ《そ》ういつ《っ》た風な僕の気持《気持ち》は判つ《っ》てくれるだら《ろ》う。僕はどうも今夜君に僕の気持《気持ち》を判つ《っ》て貰ひ《い》たい気がして来ているんだ。君《キミ》はさつ《っ》き社会の奴《ヤツ》なんかに孤独が判るかつ《っ》て言つ《っ》ていたが、しかし僕も孤独だよ。そりや《ゃ》女房もいるし、会社にも勤めているけれども、僕の気持《気持ち》を判つ《っ》てくれる者なんか一人もいやしないし、また話相手になる者だつ《っ》て一人もいないんだ。だから久しぶりで君なんかに会ふ《う》と、もつ《っ》とも今の気持《気持ち》は千里を隔てているかも知れないが、しかしやつ《っ》ぱり精神的に共通なものが残つ《っ》ているや《よ》うな気がするんだ。これは以前のお互を取り戻さ《そ》うとする僕の幻覚みたいなものかも知れないがね。しかし僕は君にだけでも僕の気持《気持ち》を打ち明けてしまひ《い》たかつ《っ》たんだ。僕があんな愚劣な行為をして、おまけに人を一人殺《ひとり殺》してしまつ《っ》たりしなければならなかつ《っ》た僕の気持《気持ち》は、君なら判つ《っ》て貰へ《え》るん|ぢや《じゃ》ないかと思ふ《う》んだ。」  ここまで語つ《っ》て来て山田は、突然、不快な苛々した嘔吐《/嘔吐》しさ《そ》うな嫌悪が、激しい勢《勢い》で盛り上つ《がっ》て来るのを感じた。彼はもう一言も口をきくのが嫌になつ《っ》た。彼は急いで冷たくなつ《っ》た盃を取り上げると一口に飲み、続けてまた二三回《二’三回》飲んだ。こんな小僧に、俺は何を打ち明けてるんだ、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》が頭に浮き上つ《がっ》て過ぎると、彼は苦々しい顔つきになりながら、《:、》しかし銚子を取り上げると辻の盃《サカズキ》に流し込んだ。そして辻の顔を眺めたとたん、彼はなんとなくはつ《っ》とし、どうした心のはずみか、しまつ《っ》た、と頭の中で呟いていた。何がしまつ《っ》たんだ、ふん、と彼は妙に|不貞くさ《不貞腐》れた気持《気持ち》になつ《っ》て自分の心を静めたが、それが静まつ《っ》たと思ふ《う》と今度は言|ひや《いよ》うのない羞恥が湧いて来始めた。何《なん》のための羞恥か、何《なん》のための羞恥か。  辻は冷然とした顔つきになつ《っ》て山田を眺めている。その顔には今までなかつ《っ》た人を食つ《っ》た、冷笑、明《明ら》かに相手を軽蔑し切つ《っ》た表情が流れていた。辻は物を言は《わ》なかつ《っ》た。そしてやがてその冷笑が消えると、急に何か言ひ《い》たげに咽喉《ノド》を動かしていたが、それも止《-よ》してしまひ《い》、突然ふらりと|立上つ《立ち上がっ》た。 「帰るのか。」 「うん、もう遅いのでね。」 「待て、ち|よつ《ょっ》と待つ《っ》てくれ。」  そして辻を坐らせると、山田は、《微笑’》しながら、 「勝つ《っ》たからつ《っ》ていきなり引揚げるのは卑怯だよ。」  辻は瞬間山田《瞬間’山田》の言葉を理解しかねるや《よ》うな顔つきをしたが、どうしたのか憂は《わ》しげな、重苦しい物思ひ《い》に沈み始めた。 「僕は《は-》ね、ち|よつ《ょっ》と君に今批評されたかつ《っ》たんだよ。だつ《っ》て君はさつ《っ》きあんな表情をした|ぢや《じゃ》ないかね。」  と山田は辻の顔を覗き込んだ。辻はやつ《っ》ぱし黙つ《っ》て考へ《え》込んでいる。そしてち|よつ《ょっ》と箸を動かせると、残り少くなつ《っ》た酢の|もの《物》をつまんだが、食は《お》うともしないで箸を置いた。かなり長《’長》い沈黙が二人の間を流れた。と、急に辻は顔をあげてきつ《っ》と山田を見、 「言ふ《う》よ、言ふ《う》よ。みんな言つ《っ》てしまは《お》う。いいね。」  いいとも、と山田が答へ《え》る間《マ》も与へ《え》ないで辻はいきなり、 「嘘だ、君は嘘を言つ《っ》てるんだ。君《キミ》は芝居を|うつ《打っ》たん|ぢや《じゃ》ないか。」  と叫ぶや《よ》うに言ひ《い》切ると、急にまた冷笑を頬《ホオ》に浮べて、毒々しい表情で山田をじつ《っ》と眺めた。 「芝居?」  と山田は思は《わ》ず聴き返したが、むつ《っ》と怒気が衝き|上つ《あがっ》て来た。今まで大切に蔵つ《っ》て置いたものを、足蹴にされたや《よ》うな気持《気持ち》である。 「さ《そ》うだ。芝居だ。君《キミ》はお芝居を|うつ《打っ》ていたんだ。君《キミ》はお芝居を|うつ《打っ》て、いい気持《気持ち》になりたかつ《っ》たん|ぢや《じゃ》ないか。人間といふ《う》奴は非常に真剣な気持《気持ち》でお芝居をう《打》つぜ。興奮し、泣き、涙を流しながらお芝居をう《打》つんだ。それは嘘のない、自分でも気のつかぬ、のつ《っ》ぴきならない気持《気持ち》でお芝居をう《打》つんだ。さ《そ》ういふ《う》のつ《っ》ぴきならないところへわざと自分の気持《気持ち》を落し込んで、その気持《気持ち》を自分の本心だと自分で信用してしまふ《う》んだ。素朴人ならそこらで芝居と本心とがごつ《っ》ちや《ゃ》になつ《っ》てしまふ《う》んだ。ところで、ところで、君《キミ》、君《キミ》は自分でちや《ゃ》んと自分の芝居を承知してやつ《っ》てるん|ぢや《じゃ》ないか。何故なら君みたいな自意識をいつ《っ》ぱい頭につめ込んだ男に、自分のお芝居くらい気のつかない奴がいるもんか。君の話振《話ぶ》りで俺はちや《ゃ》んとそれに気がついた。君が何故そんな芝居をう《打》たなくちや《ゃ》ならないか、判るさ。そんなことは俺にだつ《っ》て判る。社会意識といふ《う》奴だら《ろ》う。君がさつ《っ》き言つ《っ》た、歴史の進歩に参加するつ《っ》て意識さ。しかしいきなり、直接に参加するのは危険だからね。だから君《キミ》はどうにもしや《よ》うのない情勢つ《っ》て言葉を発見して置いて、その上で君はその大切な意識を燃やしているんだ。その方《ほう》が芝居としては深刻だよ。しかもどうしや《よ》うもない情勢だから君《キミ》の身には、たとへ《え》人を車で轢き殺しても危険はないさ。自分の首が斬られるか、他人の首を斬るか、誰だつ《っ》て他人の首を先に取ら《ろ》うとするんだ。君の本心は歴史なんか少しも進歩しなくつ《っ》たつ《っ》て構《かま》やしないんだ。ただただ君自身《キミ自身》が平和でありさへ《え》すればいいのだ。」 「それ|ぢや君《じゃキミ》は、凡ての思想は虚偽だつ《っ》て言ふ《う》のか。そりや《ゃ》君の言ふ《う》通り人間の本能といふ《う》ものは醜悪で自我的で、他人を守るよりも先づ《ず》自己の武装を整へ《え》ようとするだら《ろ》う。しかし君《キミ》は人間の醜悪が、さ《そ》ういつ《っ》た悪が、何時までも地上に存続することを望んでいるのか。僕は少くとも、我々の内部にさ《そ》うした醜悪を認めて、それと戦ふ《う》ことを正しいとしているんだ。」  山田はむらむらと湧き上つ《がっ》て来る怒気を鎮めながら、しかし興奮した声で言ひ《い》放つ《っ》た。辻は、さつ《っ》きの興奮状態とは似ても似つかぬほど落着《落ち着》いて、冷然と山田を眺めている。それは意地悪な、毒気《毒け》を含んだ表情であつ《っ》た。 「そりや《ゃ》君の言ふ《う》通りだ。いや君の言ふ《う》通りかも知れない。しかし要するにそれは君の自己弁護さ。その証拠に、君はお芝居を|うつ《打っ》てる|ぢや《じゃ》ないか。いや、芝居だけとは言は《わ》ん、俺は今夜はなんでも言ふ《う》ぞ、何もかも言つ《っ》てしまふ《う》ぞ、臭《くさ》いものの蓋を俺はあけてしまひ《い》たいんだ。いいか、君はお芝居をう《打》つ前に既に‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》いる|ぢや《じゃ》ないか、何故‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》。それほど‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》持つ《っ》ていながら、‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》。僕の眼には‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》が映つ《っ》ている。どんな‥‥‥《/テン/テン/テン/》でも、たとへ《え》‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》はなければならない、そんな理屈もあるさ。しかし理屈に過ぎないんだ。自己欺瞞だ。君が監獄の中で見たものは、まさしく運命といふ《う》ものであつ《っ》たんだ。その運命に翻弄される君といふ《う》個人であつ《っ》たのだ。君《きみ》は自分の本心にそれがないつ《っ》て言ふ《う》か。いや言は《わ》さないぞ。さつ《っ》き|君自身さ《キミ自身そ》う言つ《っ》た|ぢや《じゃ》ないか。君《キミ》はその時自分《とき自分》が、それまでは社会的なものであり、社会といふ《う》地盤の上に立つ《っ》ていた自分が、社会から断ちきれ、地盤はゆらいで崩れて、君は全くの、全然独りぽつ《っ》ちになつ《っ》てしまつ《っ》たのを意識したんだ。いや、意識なんてもの|ぢや《じゃ》ない、もつ《っ》と深い、根元的《コンゲン的》な、それは肉体で、全身で直《じ》かに感じたんだ。感じたが、しかし君《キミ》はその時すぐ顔を外向《背》けてしまつ《っ》たのだ。恐《恐ろ》しいからな。実際、孤独を意識することは恐《恐ろ》しいことだからな。顔を外向《背》けたんだ。君のお芝居はその時から始まつ《っ》たのさ。だから現在の状態で君が孤独だとか、苦しいとか言つ《っ》たつ《っ》て、そんなのは嘘だ。もし幾らかでも苦しいことがあるなら、それは自分のお芝居に気がついているからだ。ふん、そんなのは贅沢つ《っ》ていふ《う》んだ。顔を外向《背》ける場所があつ《っ》たのだからな。抜路《抜け道》だよ、それは。君の場合には抜路《抜け道》があつ《っ》たんだ。しかし俺の場合には抜路《抜け道》が一本もなかつ《っ》た。ほんとに、文字通り、抜路《抜け道》は一本もないんだ。それは真暗《真っ暗》な、長い長い、どこまで行つ《っ》ても果てのない隧道《トンネル》のや《よ》うなものだつ《っ》た。さ《そ》うな《な-》んだ。隧道よりももつ《っ》とひどい。死ぬまで、死ぬまで果《果て》はないのだ。この真暗《真っ暗》な中で、泣いたり喚いたりしているだけだ。」  辻は突然《突然’》言葉を切つ《っ》た。毒々しい表情は何時の間にか消えて、なんとなく悲しげな|眼ざ《眼差》しで山田を見上げた。語りぶりも初めのうちは山田に毒づいているや《よ》うであつ《っ》たのが次第にモノローグ化して行き、《:、》俺はこんなことを喋りまくつ《っ》ているが、しかしこの俺は今後どうして行つ《っ》たらいいのだら《ろ》う、とでも思ひ《い》迷つ《っ》ているかのや《よ》うであつ《っ》た。が、山田は聴いているうちに次第に不愉快さが募つ《っ》て、嫌らしいものを辻のうちに感じ始め、顔を見合は《わ》すのさへ《え》も|いとは《厭わ》しかつ《っ》た。辻は人間を二つに分けて考へ《え》ている、それは健康者と病人とだ。そしてこの男は健康な人間に対して本能的な憎悪を持つ《っ》ている。山田はさ《そ》う思つ《っ》て、辻と自分との間には最早絶対に近づくことの出来ない裂目《裂け目》が出来ているのを感じた。この男に向つ《かっ》て自分の気持《気持ち》を理解して貰は《お》うと思ひ《い》、いい気になつ《っ》てお喋りをした自分を考へ《え》ると、彼はいたたまれないものを覚えた。彼はもう一時《いっとき》も早く別れてしまひ《い》たかつ《っ》た。が、辻はまたしても独言《独り言’》とも、山田に聴かせようともつかない調子でぶつぶつと呟き続けるのであつ《っ》た。 「しかし、俺は人間を信じる。人間性を信じるよ。俺はあの療養所へ|這入つ《入っ》て初めて人間に出合つ《っ》た。人間はどんなに虐げられても、どんな屈辱を浴びせられても、決して心を失ひ《い》はしないんだ。いやさ《そ》う|ぢや《じゃ》ない、どん底に落ち込んだ時、初めて人間はその人間性を獲得するんだ。社会の奴等《奴ら》はみな宙ぶらりんでいる。色んな自由や、色んな幸福が許されているから駄目なんだ。そんなものを、そんな幸福や自由を全部、失つ《っ》てしまつ《っ》た時になつ《っ》て、初めて人間は人間になる。それは我々にまつは《わ》りついている下らんものが全部洗ひ《い》落されるんだ。社会の奴等《奴ら》は苦しんだこともないくせに苦しんだや《よ》うな恰好をする。孤独になつ《っ》たこともないくせに独りぽつ《っ》ちになつ《っ》たや《よ》うな真似をして見る。愚劣だ。みな自己満足だ。だから彼等《彼ら》が癩病院にやつ《っ》て来ると、どんな偉さ《そ》うな連中でも化けの皮をはがされてしまふ《う》。俺はさ《そ》ういふ《う》風景を何度も見た。さ《そ》うだ。俺は病気になつ《っ》たが、ちつ《っ》とも不幸|ぢや《じゃ》ない。俺は人間を信じているから、生きることが出来るに違ひ《い》ないんだ。人間が信じられないでどうして生きられるんだ。俺も初めのうちは毎晩社会《毎晩’社会》の夢《’夢》を見た。社会を憧れたんだ。しかしもうそんな夢なんか見やしない。俺は《は-》なにもかにも《も-》みな捨てちまつ《っ》たよ。しかしそれが惜しいなんて思《おも》やしない。思ふ《う》もんか。俺は今後何年でも、あの世界で暮すつもりだ。それでいいんだ。どんなに苦しかつ《っ》たつ《っ》て、独りぽつ《っ》ちになつ《っ》たつ《っ》て、構《かま》やしない。俺は黙つ《っ》て、独りでそれに堪へ《え》て行く。しかし、随分苦しいことだら《ろ》うなあ‥‥。」  辻はち|よつ《ょっ》と山田の顔を眺め、それから下を向いて黙り込んだ。今自分《いま自分》の言つ《っ》たことをじつ《っ》と頭の中でくり返しているかのや《よ》うである。それは堪へ《え》られない痛苦を眼の前に置き眺めながら、懸命に自分に向つ《かっ》て説き聴かせているや《よ》うな工合だつ《っ》た。 「おい、もう行か《こ》うか。」  と山田は我慢出来ない気がしてさ《そ》う言つ《っ》た。 「え?」  と辻はどうしたのかきよ《ょ》とんとした顔つきになつ《っ》て山田を見上げた。頭の中に次々に浮んで来る想念に辻は我《吾》を忘れていたのであら《ろ》う、瞬間辻の顔は白痴のや《よ》うに無表情になつ《っ》た。が、突然はじかれたや《よ》うに|立上つ《立ち上がっ》た。 「行《い》くよ、行くよ。や、君《キミ》、遅くまで、すまなかつ《っ》たね。ほんとに。俺、何を喋つ《っ》ていたんだら《ろ》う、なんだか、俺今夜はどうかしている。どうかしてるぞ。さ《そ》うだ、会計、俺する。」  おそろしく狼狽した調子で言ふ《う》と、彼は不意に顔を真赤《真っ赤》にして夢中になつ《っ》て部屋の障子をあけて慌《/慌》しげに女中を呼んだ。  二人は広い路《道》を駅に向つ《かっ》て歩き出した。もう夜はかなり更けて、人通りは殆どまばらになつ《っ》ていた。長い時間の割には酒量は少《少な》かつ《っ》たので、|二人共酔つ《二人とも’酔っ》ぱらつ《っ》てはいなかつ《っ》た。辻はむつ《っ》つりと黙り込んで、何か深く考へ《え》耽つ《っ》ている。山田も、もう物を言ふ《う》のが嫌であつ《っ》た。腹立たしく不快で、そしてみじめな気持《気持ち》でいつ《っ》ぱいだつ《っ》た。俺はこの男に今夜は完全にやられた。  間もなく駅《’駅》に着き、二人は電車ホームに昇つ《っ》た。サラリーマン風な男が四五人《シゴニン》、あちこちに散つ《っ》て、ホームをこつこつ行つ《っ》たり来たりしているきり、乗客の影もなかつ《っ》た。 「|ぢや《じゃ》あ君《キミ》、まあ体は大切にしてくれよ。そのうち訪ねるからね。」  と山田は嫌々ながら別れの言葉を述べた。こんな言葉を吐くのも彼には面倒くさいばかりでなく、今夜は不愉快だつ《っ》た。と、辻は不意に手を差し出して山田の手を掴んだ。山田はびつ《っ》くりして慌てて手を引込《引っ込》めようとしたが、仕方なく辻の手を握つ《っ》た。相手の病気がぴんと頭に来ると共に、彼はひどくて《照》れ臭かつ《っ》た。 「俺、今夜、随分無茶言つ《っ》たなあ。怒らんでくれよ、怒らんでくれよ。」  と哀願するや《よ》うな眼つきで言つ《っ》た。 「うん、いいんだよ、そんなの。俺も色んなことを考へ《え》させられた。又、機会があつ《っ》たら出て来てくれ。」  嘘つき、と山田は自分の言葉を聴きながら思つ《っ》たが、しかし辻の哀願的な言葉を聴くと妙に哀れつ《っ》ぽい気もした。これから癩病院に帰つ《っ》て行か《こ》うとしている辻を見ると、やはりなんとなく人生の侘しいものに触れる思ひ《い》がするのである。辻の孤独な姿を、薄暗い夜の閑散な駅頭に彼は初めて見たや《よ》うな気がし出したのだ。と、辻は不意にぼろぼろと涙を流し始めた。そして|痙攣つ《ひきつっ》たや《よ》うな声で、途切れ途切れに、 「判らん、俺、は、何もかも、判らん、判らなくなつ《っ》てしまつ《っ》た。ああ、どうしたらいいんだら《ろ》うなあ‥‥。」  しかしその言葉の終らぬうちに電車が来た。山田は、左様なら、と言つ《っ》て乗つ《っ》た。ドアがしまつ《っ》た。山田は硝子越しにホームの辻に向つ《かっ》てち|よつ《ょっ》と手をあげた。辻は微笑《微笑’》しようとしたが、急にやめてしまつ《っ》て、反対側の方《ホウ》へ歩いて行くのが見えた。なんだかよろけて行くや《よ》うであつ《っ》た。  山田の電車が動き始めた時、辻の乗る電車が轟音を立てながら辷り込んで来た。とたんに山田は思は《わ》ず、はつ《っ》として窓に手をかけた。恰度突《恰度’突っ》立つ《っ》た杭が倒れるや《よ》うに、向う側の線路にゆらりと倒れかかつ《っ》た辻の体が、瞬間《瞬間/》はつ《っ》きりと山田の眼に映つ《っ》たのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  次の駅に電車が停《停ま》ると、山田は慌ててホームに飛び降りた。電車を乗り換へ《え》て|引返さ《引き返そ》うと思つ《っ》たのである。しかし降りた《た-》とたんに彼はもう引返《引き返》す気持《気持ち》がなくなつ《っ》ていた。頭蓋骨をめちや《ゃ》めちや《ゃ》にされ、その上胴体《うえ胴体》の|あた《辺》りから二つに轢断されているかも知れない辻は、血液と肉と、脳味噌とでぐちや《ゃ》ぐちや《ゃ》になつ《っ》ているに違ひ《い》ない。彼はさ《そ》う思ふ《う》ともうむつ《っ》と嫌気《嫌け-》がさして来た。しかもその肉にも血にも病菌が|うぢやうぢや《ウジャウジャ》しているのだ。彼はなんとなく、腐敗した屍体を思ひ《い》浮かべてならなかつ《っ》た。それにもう死んでしまつ《っ》ているに|定つ《決まっ》ているのに、わざわざ引返《引き返》したとて何にもならない|ぢや《じゃ》ないか。彼は屍骸に|かかは《係わ》りたくなかつ《っ》たのだ。彼の乗つ《っ》て来た電車は、一度に幾つものドアをしめて出てしまつ《っ》た。彼は取り残された形で、暫くぼんやりとホームに突《突っ》立つ《っ》ていた。  彼は急に半泣きのや《よ》うな微笑を|にやり《ニヤリ》と浮べると、階段の方《ホウ》へのろのろと歩き出した。彼は自分の芝居気《芝居っ気》に気づいたのだ。もしさつ《っ》き辻《/辻》にか《こ》うした芝居気《芝居っ気》を嘲笑されなかつ《っ》たら、図々しく引返《引き返》して見たかも知れなかつ《っ》た。勿論芝居気《もちろん芝居っ気》に気づかぬ振りをして──。しかし今は《は-》もうさ《/そ》うするのも不快であつ《っ》た。彼は電車から飛び降りぬ先から引返《/引き返》して見る気なぞて《/て》んでなかつ《っ》たのである。しかし|引返さ《引き返そ》うといふ《う》気の起つ《っ》て来ない自分に気がつくと、なんとなく悪いことをしているや《よ》うな気がし、今はびつ《っ》くりして慌しく引返《引き返》すのが人間として本当だと思つ《っ》たのだ。するとそのとたんに自づと気分が慌しくなり、びつ《っ》くりしたや《よ》うな工合になつ《っ》た。その気持《気持ち》の波に乗つ《っ》て飛び降りたのであるが、降りると同時に辻《/辻》の血だらけになつ《っ》た屍が浮んで来たのである。  彼はどこかで、独りで飲みな|ほさ《おそ》うと考へ《え》ながら駅を出た。しかしものの半丁と進まぬうちに、もう一時《いっとき》も早く家に帰つ《っ》て体を休めたい気持《気持ち》になつ《っ》て来て、また駅に引返《引き返》した。乗客は二三人《二’三人》しかなかつ《っ》た。彼はベンチに腰をおろすと、何故ともなくぐつ《っ》たりとした気持《気持ち》になつ《っ》て、溜息に似たものを一つ吐いた。なんとなく行場《行き場》の失せた、孤独なものを感じていた。妻の顔が浮《浮か》んで来ると、頬桁を一つぴしりと張倒《張り倒》してやりたいや《よ》うな愛情が湧き上つ《がっ》て来始めた。ところで、辻のことだけは奇怪にもこの時すつ《っ》かり忘れてしまつ《っ》て全《/全》く浮んで来なかつ《っ》た。時々ちらりとかすめることがあつ《っ》たが、彼は急いで、本能的に心を外らした。  やがて遠くで電車の音が聴《聴こ》え出した。彼は|立上つ《立ち上がっ》て、ホームの端に立つ《っ》て待つ《っ》た。今飛《いま飛》び込んでは少し早過ぎる、彼はふとそんなことを考へ《え》た。電車は徐行しながら、しかしかなりの速力で突進して来た。今だ、と彼は心の中で強く叫んだ。瞬間、重々しく線路を押しつけながら車体は静かに通過し、やがて停つ《まっ》た。彼はその黒い箱の下で胴体を轢断されて転がつ《っ》ている自分の体を頭に描《-えが》きながら、明るい箱の中へ|這入つ《入っ》た。間もなく車輪は動き始め、彼は、なんとなくほつ《っ》とした。もう凡て済んでしまつ《っ》た、といふ《う》感じを味ひ《わい》ながら、何故ともなく速力を計つ《っ》て見る気持《気持ち》になつ《っ》た。物質の運動といふ《う》ものがこの時ほど頼もしく心地よかつ《っ》たことはない。  アパートへ帰つ《っ》て見ると、みつ子はもう頭から蒲団《布団》を被つ《っ》て寝ていた。おい、と呼んで見る気になつ《っ》たが、すぐ面倒臭く思は《わ》れ出したので、そのまま|どかん《ドカン》と火鉢の前に坐つ《っ》てバ《/バ》ットに火をつけた。ひどく体が疲れていた。彼は仰向けに転がると、足を火鉢の上に乗せて、鼻から煙を吹き出した。辻は、しかし俺に会ふ《う》前から死ぬ気でいたのだら《ろ》うか、それともあの駅に来て突然《突然’》死ぬ気になつ《っ》たのだら《ろ》うか。さ《そ》ういふ《う》疑問が浮んで来ると、続いて彼の身振りや表情や、言葉つきなどが次々と浮んで来た。ここが東京でないや《よ》うな気がする、と|ぴよこん《ピョコン》と|立上つ《立ち上がっ》て言つ《っ》た時の、あの恐怖の|眼ざ《眼差》しが浮んで来ると、山田は何か薄気味悪いものを感じた。彼は癩病院がどんなところであるか皆目知らなかつ《っ》たが、何か真暗《真っ暗》な、太陽の光線もささない、陰惨なものを感じた。辻は恐らくは俺に会ふ《う》前から死のことを考へ《え》ていたのに違ひ《い》ない、と山田は考へ《え》た。彼はふと、自分の芝居気《芝居っ気》を突かれた時のことを思ひ《い》出して、あれは結局《結局/》辻が辻自身を突いた言葉に過ぎないのだと気づいた。また山田の‥‥《/テン/テン/テン/》対して言つ《っ》た言葉も、あれは山田の‥‥《/テン/テン/テン/》に辻の心理を映して見ただけのものに違ひ《い》なかつ《っ》た。しかしそこまで考へ《え》ると、彼はもう辻のことを考へ《え》て行く気がなくなつ《っ》てしまつ《っ》た。なんとなく嫌気《嫌け》がさして来てならないのである。 「おい。」  と山田はみつ子を呼んで見た。返事がなかつ《っ》た。彼はもう一度呼んで見る気がしなかつ《っ》たので、残り少くなつ《っ》た煙草をじ|ゆつ《ゅっ》と吸つ《っ》て火鉢に投げ込み、天井を眺めた。するとまた辻の姿が浮んで来て、もう線路の人だかりもなくなり、血は洗は《わ》れ、屍体はどこかへ運ばれてしまつ《っ》たに違ひ《い》ないと思つ《っ》た。彼は人影のない夜の駅と、杭の|やう《様》に倒れかかつ《っ》た辻の体とを描き出して見た。しかしやはりあいつは不幸な男だつ《っ》た、しかしああなればやつ《っ》ぱし死んだ方《ほう》が良かつ《っ》たのだ。 「早く寝なさいよ、何やつ《っ》てるの。」  とみつ子が不機嫌さ《そ》うに蒲団《布団》から顔を出して言つ《っ》た。と、どうしたのか|むつ《/むっ》と山田は怒りを覚えた。それを|押へ《押さえ》ると、また俺は人を一人殺《ひとり殺》した、と言ひ《い》たくなつ《っ》て来たが、今夜はもうやめにした。さ《そ》う言つ《っ》て彼女の不機嫌を一撃する効果を感じている自分を意識したためだ。彼は寝衣《寝巻》に|更へ《替え》ると、また火鉢の前に坐って新聞を展《広》げて見た。彼はこんな夜は一人で寝ることが出来たらどんなに良から《ろ》うと思つ《っ》て、誰か自分の横に人間のいることがうるさくてならなかつ《っ》た。 「何やつ《っ》てるのよ。」  とみつ子は|かん高《甲高》くなりながら言つ《っ》た。 「新聞読んでるんさ。」 「早く寝たらいい|ぢや《じゃ》ないか。」 「‥‥‥‥《◇。◇。◇。》」 「よう、今幾時《いまイクジ》だと思つ《っ》てるの。」 「うるさいね。」 「寝なさいよ。早く。」 「静かにしろ。」  するとみつ子は不意にしくしくと泣き始めた。山田はふと今朝のことを思ひ《い》出した。今朝彼女はしつこく山田に花見に行つ《っ》てくれと奨めたのだつ《っ》た。山田は花見なぞ行つ《っ》ても行かなくてもいいと思つ《っ》ていたのであるが、あまりしつこく言ふ《う》ので腹も立ち、どんなことがあつ《っ》てもあんな連中と酒なぞ飲まん、と断言したのだ。彼女は勿論夫《もちろん夫》が会社の連中と折合ひ《い》の悪くなることをひどく恐れていたのである。 「おい、もう泣落《泣き落と》しの手なんぞ古いそ《-ぞ》、ドイツ人には効目はあるかも知れん《ん-》がね。」  と山田は笑ひ《い》ながら言つ《っ》た。が、言つ《っ》てしまつ《っ》てから、言ふ《う》の|ぢや《じゃ》なかつ《っ》た、と思は《わ》れ出した。彼は今までも妻と口論する度にこの言葉を思ひ《い》出してたが、これだけは口に出すのをやめていた。なんと言つ《っ》ても、この言葉は彼女の第一の急所であり、疵口であつ《っ》たのだ。彼女の今の生活態度が如何に愚劣なものであるにしろ、その必死な気持だけは掬んでやらねばならぬものがあると山田は考へ《え》ていた。もつ《っ》とも山田は彼女の気持とは反対ばかりの行動をとり、ともすればその必死な気持《気持ち》をからかつ《っ》て見たくなるのであつ《っ》たが、その疵口だけは|いたはつ《労っ》てやつ《っ》ていたのだ。  みつ子は突然がばとはね起き、激しく泣きじや《ゃ》くりながら言ひ《い》出した。 「嘘つき! わたしと一緒になる時なんて言つ《っ》たの、あんた、なんと言つ《っ》たか思ひ《い》出して見い。結婚することはお互《互い》に高まることを前提としなければいけない、そして、結婚することによつ《っ》て共同に戦ふ《う》ことだつ《っ》て言つ《っ》た|ぢや《じゃ》ないか。何時お互《互い》に高まるや《よ》うなことをしてくれたんだ。何時共同になつ《っ》て戦つ《っ》てくれたんだ。何時だつ《っ》てあんたは、わたしの気持《気持ち》を踏みにじつ《っ》て来た|ぢや《じゃ》ないか。わたしが一生懸命になつ《っ》て生活を持ち直さ《そ》うと考へ《え》ているのに、あんたはそれを毀すことばかりして来た|ぢや《じゃ》ないか。少しはわたしの気持だつ《っ》て判つ《っ》てくれたらいい|ぢや《じゃ》ないの。」 「へえ、そんなことを言つ《っ》たことがあつ《っ》たかね。」  と山田は苦笑しながら言つ《っ》た。 「なに言つ《っ》てるんだ、とぼけて。またからかつ《っ》てる|ぢや《じゃ》ないか。何時だつ《っ》てあんたはそんな調子よ。」 「そりや《ゃ》勿論《もちろん》今だつ《っ》てその言葉を信用するよ。しかしだ、いいか、まあさ《そ》う腹ばかり立《’立》てないで聴け、いいか、そんならお前一度《前’一度》くらいでも俺の気持《気持ち》を判ら《ろ》うとしたことがあるか。」 「そんならあんた一度でもわたしに自分の気持《気持ち》を教へ《え》てくれたことがあつ《っ》たの。」 「大有りさ。二日前の晩だつ《っ》てあの通《とお》り|ぢや《じゃ》ないか。少々て《’照》れ臭《くさ》いのを我慢して、しかも具体的に俺の行為と心理を平行させながら話したくらい|ぢや《じゃ》ないかね。それをお前は、理解出来なかつ《っ》ただけさ。或《あるい》は理解しようとする気がてんでなかつ《っ》たんだね。」 「あれはあんたが勝手に|独言言つ《独り言言っ》たん|ぢや《じゃ》ないか。」 「さ《そ》うか、そんならもういい。」 「駄目駄目。あんたがよかつ《っ》たつ《っ》てわたしがいけない。今夜はどんなにしたつ《っ》て形《-かた》をつけて頂戴。」 「かたを? ふん、ではお前はお別れになりたいのかね。はつ《っ》きり言へ《へ!》。」  山田は自然と声が鋭くなつ《っ》た。みつ子は叫ぶや《よ》うに言ひ《い》出した。 「何時、何時別《いつ別》れてくれつ《っ》て言つ《っ》た、何時別《いつ別》れてくれつ《っ》て言つ《っ》たんだ。あんたが、別れたいからそんなこと言ふ《う》んだ、そんなこと言ふ《う》んだ、そんなこと言ふ《う》んだ。わたしを、わたしを|ばか《馬鹿》にしてるんだ。」  が、そこまで言ふ《う》と咽喉《ノド》がつまつ《っ》て、うううとい|ふや《うよ》うな声を出して眼からぼろぼろと涙を落した。彼女は無意識的に蒲団《布団》の端を両手でしつ《っ》かり掴んで、手放しで泣いていた。山田には勿論《もちろん》女の気持なぞ判り切つ《っ》ていた。形《かた》をつけてくれとみつ子が叫んだのも、勢《勢い》余つ《っ》て辷つ《っ》た言葉である。とは言へ《え》、か《こ》ういふ《う》言葉を辷らせるからには、彼女の中にか《こ》ういふ《う》言葉を辷らせる動機、即ち別れたいといふ《う》気持も時には起《起こ》るのであら《ろ》う。しかし別れた後《あと》をどうするか、これが彼女には不安なのだ。それに彼女は山田といふ《う》男がなんとなく好きなのだ。彼女は以前のや《よ》うな山田、情熱的で、意志的で、どこから見ても頼もしく輪郭《/輪郭》の鮮明な山田を眺めて、以前のや《よ》うにうつ《っ》とりとした気持《気持ち》が味ひ《わい》たいのだ。しかし山田は|にやにや《ニヤニヤ》と笑ひ《い》ながら、なほ《お》意地悪く訊いて見た。 「しかしお前形《前/かた》をつけるつてことは、さ《そ》う考へ《え》るより考|へや《えよ》うがないや《よ》うな気がするがね。」 「勝手にせえ、そんなに別れたかつ《っ》たら別れてやる、別れてやる。あ、あ、今まで人をさんざん苦労させて、くやしい。別れたら首を縊《くく》つて死んでやる。わたしが、あんたがいないあとでどんな気がして、どんなことしていたのか知つ《っ》ているんか。」 「首を縊《くく》るより鉄道自殺の方《ほう》がいいよ。」  と山田は何故ともなく言つ《っ》た。 「鉄道なんかで死ぬもんか、どうしても首を縊《くく》るんだ。あんたがいないあとで、わたしがどんなことしたか‥‥。」 「そんなに首を縊《くく》りたけりや《ゃ》それもいいさ、無論俺《むろん俺》は、留守のうちにお前がしたことなんか知らんね。」 「死な《の》うとしたんだぞ。」 「ほう、なるほど。しかしまだ生きてる|ぢや《じゃ》ないか。」 「からかふ《う》ない。本気に死んでやるつもりだつ《っ》た。ああ、あの時死《とき死》んどけばよかつ《っ》た。」  とみつ子は身をもだえるや《よ》うにしながら涙《/涙》を手の甲でこすつ《っ》た。山田はもう面倒|くさ《臭》くなつ《っ》たし、それにさつ《っ》きからまた辻のことを思ひ《い》出し始めていたので、黙り込んだ。なんといふ《う》愚劣なこと、と彼は、今自分《いま自分》のみつ子と争つ《っ》ている姿を横合《横合い》から眺めるや《よ》うな気持《気持ち》で呟いた。彼は、彼を押し出さ《そ》うとするみつ子の両手を片手に掴んで、無理に床《トコ》に這入《入》り蒲団《布団》を被つ《っ》た。そして大きく一つ|あくび《欠伸》をすると、 「喧嘩はまた明日続《明日’続》きをやるとして、今夜はもう睡いよ。」  と言つ《っ》て眼を閉ぢ《じ》た。彼は実際ひどく睡気《眠気》が襲つ《っ》て来るのを感じた。 「睡るもんか、睡るもんか。」  と彼女は言ひ《い》ながら、山田を蒲団《布団》の外へ押し出さ《そ》うとした。しかし山田を力まかせに押すと、彼はちつ《っ》とも動かず、反対に彼女の体が後ずさつ《っ》てしまふ《う》のでよけい腹が立つ《っ》た。それで山田の首に腕を巻きつけると、一生懸命に締めつけ始めた。山田はじつ《っ》と眼を閉ぢ《じ》たまま、次々に浮んで来る辻の姿を追つ《っ》た。辻が倒れ込んだ駅の仄暗い閑散な風景を思ひ《い》出すと、なんとなく侘しいものを感じた。辻は死んだ、しかし俺は生きている、どつ《っ》ちがいいか判りはしない、そして生きている俺は、こんな愚劣な生活を今後何年も何年も続けて行かなければならない、と彼は辻の口調を真似て考へ《え》た。しかしこれに堪へ《え》て行くより致方《仕方》もないのだ、ただじつ《っ》と堪へ《え》ること、‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》兎に角、じつ《っ》と堪へ《え》ること。ただそれだけでも並大抵ではない、そしてただ堪へ《え》て行くだけでも貴いことかも知れぬ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》のは愚劣だと辻は言つ《っ》て死んだが(辻はそれをなんと言は《お》うとも捨て切れなかつ《っ》たのに違ひ《い》ない)しかし今はじつ《っ》と寝かせて‥‥《/テン/テン/テン/》ているだけでも貴いのだ、《:、》自分の‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》であつ《っ》た、辻の言つ《っ》たや《よ》うに、たしかに自分は自分といふ《う》個人の運命的な姿を見た、《:、》しかしそれだけが‥‥《/テン/テン/テン/》の全部では決してない、がしかし‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》なのだ、ただじつ《っ》とあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》、自分の個人の運命に堪へ《え》て行くことそれが最も正しかつ《っ》たのだ、もしあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥、《:、》‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》しなかつ《っ》たら、もつ《っ》と今の‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》は異つ《っ》ていたかも知れぬ、いやそれが異らないにしろ少くともあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》がもつ《っ》と多いに違ひ《い》ない、《:、》‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》によつ《っ》て社会はあの‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》なつ《っ》たのはたしかだ、とは言へ《え》それは凡て過去のことだ、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥《/テン/テン/テン/》それ以外に一つもない──。そこまで考へ《え》た時、頭のどこかにちらりと、妥協はないか、といふ《う》言葉がひらめいたが、 「うるさい|ぢや《じゃ》ないか!」  とみつ子に向つ《かっ》てどなりつけた。 「な、なにがうるさいんだ。」 「うるさい、ばか!」  激しい忿怒《フンヌ》が湧き上つ《がっ》て来るのを山田は|押へ《押さえ》ながら、 「静かに寝ろ。」 「寝るもんか、寝るもんか。」  とみつ子は一度横たへ《え》た体をまたはね起きて坐つ《っ》た。 「なぐるぞ。」  と山田は思は《わ》ず声が荒くなつ《っ》た。 「なぐれ、なぐれ。ええ、くやしい。」  その時山田《とき山田》は突然《突然’》辻の冷笑した顔を思ひ《い》出し、胸の中が焼けるや《よ》うな気がして平手が飛んだ。みつ子はわつ《っ》と泣声《泣き声》を立てながらむしや《ゃ》ぶりついて来た。山田はむつ《っ》くり起き上《上が》ると女の首にぐつ《っ》と腕を巻いて引き寄せた。みつ子は足をばたばたさせながら身をもがいた。山田は怒りと愛情とのごつ《っ》ちや《ゃ》になつ《っ》た気持《気持ち》で、首に巻いた腕に力を加へ《え》、激しく締めつけた。瞬間みつ子は山田の顔を見上げるや《よ》うにして頬《ホオ》に微笑に似たものを浮ばせたが、急にさつ《っ》と恐怖の色を浮べると、う、ううと息をつめてもがいた。山田の顔に浮んだ奇怪な憎悪と愛情とのもつれた表情に、彼女はぞつ《っ》とした。彼女の眼からはもう涙も出ていなかつ《っ》た。彼女の表情は恐怖に|こはばつ《強張っ》てしまつ《っ》たのだ。彼女は夢中になつ《っ》て首に巻かれた男の腕をもぎ放さ《そ》うとしたが、山田の腕は荒縄のや《よ》うにしまつ《っ》て固かつ《っ》た。彼女が《は》やがてぐつ《っ》たりと力が抜け始めた。  山田は、はつ《っ》と電気にでもかけられたや《よ》うに腕を放すと、 「みつ子、みつ子。」  と叫んで肩をゆすぶつ《っ》た。瞬間みつ子は放心したや《よ》うな表情でぼんやり山田を見つめていたが、突然はじかれたや《よ》うに一尺ばかり後《後ろ》へ辷り退ると、蒲団《布団》に顔を|うづ《埋》め、声も立てずにしくしくと泣き始めた。山田は妻を眺めながら、今の自分の気持《気持ち》を彼女に説明し、納得させることは不可能だと思つ《っ》た。なんとなく暗澹としたものを覚え、自分も泣いて見たかつ《っ》た。彼は黙つ《っ》たまま彼女を抱き寄せると、 「寝なさい。」  とささやくや《よ》うに言つ《っ》て、自分も頭から蒲団《布団》を被つ《っ》た。なんだか涙が出て来そうであつ《っ》た。今泣《いま泣》かなければ、俺はもう生涯泣《生涯’泣》くことすら出来なくなる、さ《そ》ういふ《う》考へ《え》が自然と頭に浮んで、彼は悲しみの高まつ《っ》て来るのを待つや《よ》うな気持《気持ち》であつ《っ》た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【──1937.4.23──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「定本《テイホン》◇ 北條民雄全集◇ 上巻」東京創元社】 【   1980(昭和55)年10月二十日《月ハツカ》初版】 【初出《ショシュツ》:「中央公論」】 【   1938(昭和13)年4月号】 【※《◇》底本《テイホン》は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【※《◇》促音「つ」と「っ《小さい/つ》」の混在は、底本通《底本どお》りです。】 【入力:Nana ohbe】 【校正:富田晶子】 【2016年9月9日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。