◇。◇。◇。◇。◇。 【道化芝居】 【北條民雄】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  どんよりと曇った夕暮れである。  省線の駅を出ると、みつ子はすぐ向かいのイチバへ入って今夜のおかずを買った。それを右手に抱いて、細い路地を幾つも曲がって、大きな工場と工場とに挟まれた谷間のような道を急ぎ足で歩いた。今日は会社で珍しく仕事が多かったので、まだタイプに慣れない彼女の指先はひりひりと痛みを訴えたが、それでも何か浮き浮きと楽しい気持ちであった。こんな気持ちを味うのも、もう何年ぶりであろう、ふとそんな感慨が彼女の頭に浮ぶのである。これからは少しずつでも自分達の生活を良くしなくちゃあ、ここ二’三年の生活はあまりにみじめであった──。しかし彼女はふと夫の山田の顔を思い出すと、瞬間’何故ともなく不安な気持ちに襲われた。またあんな苦しい生活が来るのではあるまいか、という暗い予感が自然と頭に流れて来るのだ。が/彼女は急いでその不吉な考えをもみ消すと、夏までにはもっと上等なアパートへ引越そうか:、いやそれよりも今はもっと辛抱して来年になったら’家を持とう、それまでは出来る限り切りつめてお金をためよう、などと考え耽るのであった。  彼女は足をとめた。没落者、ふとそういう言葉を思い出したのである。彼女は口許に薄っすらと微笑を浮べると、わたしにはわたしの生活が一番大切、と強く頭の中で考えた。そして、何時までもそんな言葉が、意外なほどの執拗さで自分の中に潜んでいるのに驚いた。  工場街を抜けると、ちょっと樹木などが生えた一郭があって、そこに彼女のアパートはあった。工場の職工などを相手に建てられた安っぽい木造で、この辺りにはそういう’家が二’三軒あった。彼女はさっきイチバで買った新聞の包みを習慣的に左手に持ち換えると、とんとんと階段を昇り始めた。すると階下から、 「お手紙ですよ。」  と呼ぶおかみさんの声が聴こえた。急いでそれを貰うと、また階段を昇りながら裏返して見た。一通は学校時代の友達の筆蹟であった。この友達とはもう四年ほども交わりが跡絶えていたのであるが、彼女はこの頃この友達との交わりを復活させたいと願って、二十日ばかり前に書いて出したことがあった。恐らくはその返事であろう。彼女は他にもこういう友達のニサンにそのとき一緒に手紙を書いたが、返事は今まで一通もなかった。だから彼女は自分の手紙から二十日も経っていたので、その遅いことにちょっと不満を感じたが、しかしやはりうれしくもあった。  他の1通は全然未知の名前で、おまけに自分の住所も何も書いてなかった。 「辻 /一作。」  彼女はドアの鍵をガチャガチャと鳴らせて部屋に入ると、立ったままその手紙の裏を見、おもてを見しながら呟いた。誰だろう? もちろん夫あてのものであるが、山田の友達ならたいてい彼女は知っていた。彼女は夫の友達を──もっとも今は全く友達もなくなっているが、──:次々と思い出して行ったが、そういう固有名詞は探しあたらなかった。すると何故ともなく不安になって来た。  彼女はちらりと机の上の時計に眼を走らせた。もう夫の帰って来るのは間もない時刻である。手紙をあけるのは後にして、彼女はそれを机に投げ、上衣を脱いでスカートだけで炊事場に降りた。ガスに火を点けて先ず炭をおこし、それからさっき買った蓮根をコンコンと音’立てて切り始めたが、その未知の男に対する不安はやはり去らなかった。理由はないが、その男はきっと夫のあの時代の友達に相違ないと思われ、そこから自分の生活が脅かされるような気がしてならなかった。彼女は前から、夫の以前の友達がひょっこり訪ねて来たりして、色々と面倒な問題が起りは-せぬかと絶えず心配したり/びくびくしたりしていたのである。  夕食の支度が出来ると、卓袱台にそれを拡げて白い布を被せ、また時計を眺めて見た。六時か、10分前くらいには何時も山田は帰る。彼女はちょっと耳を澄ませて、窓したの通りに気を配って見たが、夫の靴音はしなかった。今夜も飲んでいるのではあるまいか、と、ちらりと頭をかすめる予感があったが、六時になったら独りで先に食べようと考えて/さっきの手紙を取った。どんなことを書いているかといくらか浮いた気持ちであったが、開いて見て失望した。友達は書簡箋一枚に、久々で手紙を貰ってうれしかったこと、返事の遅れてすまなかったこと、あなたも無事でうれしいこと、自分もどうにか平和でいることなどが、達筆に走り書きされてある。それは殆ど事務的な紋切型の言葉使いで、心のニュアンスも愛情も感ぜられないものだった。彼女は何か相手の背中でも見ているような感じがした。その達者な文字までが、なんとなくツンと澄まし込んでいるように見え出して、背負投げを食わされたような気持ちであった。わたしなどとうっかり交際しては損でもすると思っているに違いない、と彼女は思わずひねくれた猜疑を起さね-ばいられなかった。彼女は受難時代──山田の三年間の下獄と、その後の失業生活とをこう呼ぶことにしていた──:を思い出して、あの生活苦がわたしをこんなにひねくれさせてしまった、と反省して/情ない気持ちがした。しかしあの頃のことを考えると、これは猜疑ではなく的確な批評かも知れなかった。  実際その頃には誰もかも彼女らを敬遠したのだ。とりわけ’夫の山田が転向者の極印を自らヒタイに貼って出獄して以来は、更に激しい侮辱と冷眼を彼女らは忍ばねばならなかったのである。学校時代の友人も教師も彼女から離れてしまったのはもちろん、田舎の村長である父さえも彼女を家にいれることを拒んだ。彼女が訪ねて行った四谷の伯母の如きは、玄関口で彼女に向かって食塩を撒いた程だった。その上に餓えが追って来た。山田は臨時仕事に出て十日働いては二十日’休まねばならず、彼女は、日給三十銭のセルロイド工場へ-かよった。ある正月には山田は年賀郵便の配達フになったりしたが、ゲートルを巻いて/肘の裂けた外套を着て土間に立った夫の姿は、今もなお忘れることが出来なかった。山田が今の会社へ通うようになったのはつい半年ほど前で、そうした生活にせっぱつまった果てに/伯父に泣きついて入れて貰ったのである。山田の伯父はその無線電信会社の重役で、山田にとっては殆ど仇敵にも等しい関係があった。山田が捕えられたのはその会社の争議をリイダアしている時だったのである。そのために就職を頼みに行った山田がどんな屈辱を忍ばねばならなかったか、みつ子にもいくらかは判っていた。とは言え、山田を伯父のところへ行かせたのは彼女で、彼女は一晩泣いて山田にそれを頼んだのである。夫が獄中にいる頃には、社会の情勢が彼女の思想を支え、思想が彼女の精神を支えていた。しかしそうした社会の情勢が押し流されると共に/彼女の思想も押し流された。今になって考えて見ると/彼女の中には思想は全くなかったのである。ただ社会の波と、山田への愛情があっただけであったように思われた。しかしこうした反省はどうでもよかった。生活状態を少しでも良くすることが、彼女にとって第一の仕事になった。どんなことがあっても今の生活を失ってはならない、そのためには堪え難いような侮蔑をも彼女は忍んだ。  彼女がタイプを習ったのは山田が仕事を持ってからで、自分が仕事を持っていれば、もし山田が失職するようなことがあっても直ちに餓えに迫られるということはない。また山田が失業しなければ自分の働いたぶんだけは貯金することが出来る。これは将来の平和の基礎であり、そうすれば子供が欲しいという楽しい希望も持ち得るのだ。彼女は今まで子供が出来はしないかと/そこに不安ばかり感じて来た。と言うよりも自分の中にある子供への欲望を/彼女は絶えず押し殺して来たのである。これは彼女にとって淋しいことに違いなかった。今までの夫婦生活に子供の生まれなかったところを見ると、もう生涯’子供は出来ないかも知れなかったが、しかしそれでも子供が欲しいなあと’考えうるようになれば-どれだけ楽しいことか:、それは平和な生活であり、豊かな気持ちである。  彼女はそこの邦文を四ヶ月で卒業すると、丸の内のあるドイツ人の経営している合資会社へ入った。そこへ入ってからまだ二ヶ月にもならないのであるが、彼女はこれで長年の苦労も終ったような気持ちになった。とは言え、その会社へ就職した最初の日の印象は忘れることが出来なかったし、また今もなお侮辱や屈辱はあったが──。実は彼女はそこの就職試験に失敗したのだ。学校を出たての彼女はタイピストとしてはほんの素人も同然であったし、それに二’三人、長年同業で苦労したような人たちも就職を希望していて/彼女は手もなく落されてしまった。が、イッシツでそれを言い渡された時──それは日本人だった──彼女は自分でもびっくりする程の声で/突如として泣き出してしまったのだ。言うまでもなく山田も仕事を持っていたので、彼女が職を得なかったとて/そう心配するほどのことはなかったのであるが:、彼女は失敗したと言い渡されたとたん、以前の失業の記憶が突然まざまざと蘇って/眼先が真っ暗になった。それは殆ど肉体的苦痛に等しかった。胸がぐっとしめつけられて、喉が急に-ひっつってしまったのである。 「かわいそうでしゅ、かわいそうでしゅ。」というドイツ人の声がそのとき聴こえた。  彼女はこうして就職したのであるが、それは悪く言えば/技術もない癖に泣きおとしの手で外国人の同情を買ったのに等しかった。その後その会社の連中が彼女をどんな眼で見、どんな態度をとるかはその日にもう決定してしまったのである。その上’そこに欧文を受け持っている年上のタイピストもいたのである。  しかし彼女はどんな侮蔑にも屈辱にも耐へ忍んだ。時には便所へ入ったとたんに涙がぼろぼろ出て来たりするのだったが、しかし以前の生活よりはまだましだと思ってあきらめた。ばかりでなく、久々で鳴る踵の高い靴や、いそがしく電車を乗り降りする気持などに、なんとなく生き返ったような思いもするのだった。  彼女は友達の冷淡な手紙を’読み終わると、まだ自分が以前と同じみじめな状態でいると相手に思われていることが悔しかった。そしてこの前自分の書いた手紙の文句を思い出して、自分がまだこの友達を女学校時代と同じような気持ちでいるものと信じていたのが腹立たしかった。彼女はもう一通を取り上げると、ちょっとためらったが、そういう腹立たしさもあったので、思い切って封を裂いた。 ◇。◇。◇。  長い間お目にかかれませんでした。お元気ですか。こちらはどうにか無事にをります。久々で東京へ出て来ましたのでお目にかかれればと願っております。もし御迷惑でありませんでしたら、ペケペケニチの午後六時より三十分間/ペケ駅にてお待ちしております。  久しぶりのことですので、こちらは是非お目にかかりたく存じています。  では他は拝眉の節に──:辻 ◇。◇。◇。  さきのに較べるとこの手紙はひどく簡単であったが、彼女には何か迫って来るものがあった。長い間お目にかかれませんでしたという文句のあるところを見ると、以前にはかなり親しい交わりがあったのに違いなかった。文字は女のように優しく細く、一画一画がはっきりと楷書されてあって美しかったが、彼女には親しめない文字だと思われた。それによく読んで見ると、この手紙にはどこか怪しいところがあった。会いたければやって来るのが普通であり、呼び出すのなら大変忙しい場合でなければならぬ。ところがこれには文字が楷書でゆっくりと記されてあるように、どこにも忙しげなところはなかった。ひどく簡単に、しかも悠々と書かれたものに違いなかった。無気味なものを感じ、彼女はこの手紙が、ようやく安定しかけた自分達の生活を、毀さないまでも/罅をいれるもののように思えてならなかった。  六時が過ぎても山田は帰って来なかったので、彼女は独りで夕食を食べ始めた。時々ぐぐと腹のなかが鳴るほど-すいていたので飯はうまかったが、またグデグデに酔払って来るのに違いないと思うと、次第に腹が立って来た。これではどんなに自分が生活を守っても、片っ端から夫が大穴をあけて行くようなものだと、彼女は近頃の夫に苛立たしいものを感じるのだった。彼女にも、夫の苦痛が全然判らない訳ではなかった。しかし右も左も厚い壁に囲まれたように、抜け道の一本もないことが明瞭な社会の中にあって:、そしてそれは夫にも判り切ったことである筈だのに、どうして苦しむことを辞めてしまはないのか、その点がどうしても理解出来なかった。 「お前は誠実ということを知っているのか。」  先日もヘベレケになって帰って来た夫に向かって彼女が抗議すると、山田は急にそんなことを言うのであった。 「誠実? 判らないわ、あなたのように、しょっちゅう酔っぱらっていることが誠実なの。妻を散々苦しめることが誠実なの。わたしにはそんな誠実は要らない。わたしは‥‥。」 「生活が一番大切、って言いたいんだろう。ふん、お前の言うことなぞ判り切っている。お前は自分をあざむくことに少しの苦痛も感じないでいられる、言わば幸福な人間だよ。」 「それじゃあなたは自分を偽っていないの。生活をぶち毀すことに幸福を感じていられるの? そりゃあなたは幸福かも知れないわ、お酒を飲んでるんだもの。でも、わたしがたまんない。」 「生意気なこと言うな。」 「言う-わ。」 「黙れ!」  そして山田は顔を歪めて苦痛な表情をすると、急にニヤニヤと気味悪い微笑を浮べて、 「お前の言うことはみんな正しい。俺は一言もないよ。俺は何時でもお前に頭を下げる。しかしお前はそういう正しさで俺をやっつける権利はないのだ。いいか、そういう正しさは正しければ正しいほど愚劣なのだ。しかしもういい。睡い。」  そして大きな欠伸をして、差し上げた両腕を彼女の肩に落すと、不意に乱暴な接吻をして、あとはむっつりと黙り込んで/一言も口を利かないのであった。  彼女はかつての夫を思い出した。その頃の山田は動作も言葉もきびきびとして、細い-しなやかな体は鞭のように動いた。眼は鋭く冴えて/強烈な精神と深い愛情を象徴していた。しかし今の夫にはそういう面影は全くなかった。眼は-いつもどんよりと曇って、言葉の中には一語一語’皮肉なものが潜んで、彼女は何か言う度に嘲笑されているような気がする。かつての夫には、どうかすると時々うっとりとさせられることがあって、自分も処女のようにこっそりと赤くなったりしたことがあったが、今は夫のことを思う度に、はがゆい苛立ちと、不満と、にがにがしいものばかりが湧き立って来る。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  廊下にかかっている柱時計が十二時を報ずると、みつ子はもうトコに就いていることが出来なくなって、ネルの寝巻一枚のまま起き出した。十時になっても山田は帰って来なかったので、独りで先にトコに入ったのであったが、もちろんフンヌがいっぱいで眠られる訳はなかった。それでも強いて眠ってしまはうと考えて眼を閉じていると、怒りは次第に孤独な、淋しさに変わって行くのである。これは何時ものことであった。彼女は山田の遅いことに、初めは噛みついてでもやりたいような怒気を覚えるが:、夜が次第に更け渡るにつれて言いようもない孤独と、誰からも見捨てられてしまったような胸に食い入る不安とを感ずるのである。これはあの失業時代の、さむざむとした気持、路地に投げ捨てられた野良猫のような行き場のない気持ちが、彼女の心の中に黒い斑点となって焼きついているために違いなかった。そして山田と一緒に寝ている時でも、どうかするとその当時の夢に脅かされて、真夜中に突然むっくりと起き、布団の上に坐って’泣き出したりすることも珍しくなかった。山田はそういう時には驚くほどの優しさで労ってくれることがあった。なんといっても山田のほうは彼女の気持ちを隅から隅まで知り尽しているのに違いなかった。しかしそういうとき山田は決して一言も物を言わなかった。彼女を愛撫する腕に表情が感ぜられるだけである。彼女は山田の腕の中に身を投げながら、ふと彼の険しい顔色に気がつくと、このまま彼の愛撫に飛び込んで行って-いいのか悪いのか判らぬ戸惑った気持ちを感じた。  彼女は山田の机に顔を伏せると、胴を丸めて小娘のようにしくしくと泣き始めた。日中は四月’半ばの陽気で/太陽の光線もじっとりと厚味を持って重苦しいくらいであったが、夕方から曇り始めた空は/夜になると何時しか雨になっていた。彼女は/両股をしっかりと合せ/身を縮めて泣き続けた。が/暫くそうしているうちに、昼間の疲れも出て来て、何時とは-なしに気持良くうとうととなり始めた。彼女は何回か意識が覚めたりぼんやりとしたりしているうちに、遂に夢路に引き入れられて行った。彼女は会社の夢を見た。退け時だった。ハンド・バッグを片手に持ってエレベーターに乗った。がやがやと騒ぐ声が箱の外から聴こえて来る。ドイツ語やフランス語が入り乱れた。彼女は山田には内密でこっそりフランス語の自習をしていたので、特に耳を澄ませてそれを理解しようと骨を折った。エレベーターは止まったきり動かなかった。少女がハンドルをガチャガチャさせているが/少しも動かなかった。と/そこへ巨大なドイツ人がやって来ると/恐ろしいギ-ョウソウをして彼女に迫って来た。彼女は身を縮め、恐怖に呼吸も詰まりそうであった。そして何か一生懸命に叫ぼうと身をもだえていると、何時の間にか眼を覚ましている自分に気づいた。彼女は今日’会社からの帰りに、ドイツ人と一緒にエレベーターを降りたのをちらりと思い出しながら、しかしまだ夢の中にいるような気持ちで顔を上げた。と、そこに人が立っているので思わずキャッというような声を出して、ばね仕掛けのように一歩飛び退った。顔が真蒼になり、胸がドキンドキンと鳴った。 「まあ、あなただ-ったの。」  と彼女はようやく声をひっつらせながら言ったが、何か夫の山田とは違うような気がしてならなかった。山田はぼんやりと放心したような表情で部屋の中に立っている。顔が土のように蒼く、頭髪はグショグショに濡れ、彼女は狂人を見るような気がした 「俺だよ。」  と山田は細い、ささやくような声で言ったが、まだ坐ろうともしなかった。みつ子はなんと言ったらいいのか判らず、暫くぼんやりと夫の顔を眺めた。  山田は崩れるように坐った。綿のように疲れ切っているのがみつ子にも解った。彼女はようやく立って火鉢の火をかき起こし、 「どうしてたの。」  と訊いた。酒の匂いは少しもなかった。それじゃ酒も飲まないで今までどこにいたのだろう。彼女は夫の頭から、手、膝と順に眺めた。服もズボンも露が垂れるほど濡れている。彼女は帰りの遅いのをなじるよりも、何故とも知れぬ痛ましい思いがして来た。寒いのであろう、山田は小刻みに体を震わせて、 「疲れた。」  と弱々しい声で言った。 「どうしてたのよ、’一体。」  と彼女はじれったそうに言って、山田の手を掴んだ。しにんのように手は冷たかった。 「歩いてた。」  山田は何か考え込むような声で、ぽつんとそれだけ言った。 「歩いてた?」 「うん。」 「どこを?」 「色んなところだ。」 「色んなところって?」 「ほうぼうだ。」 「どうしたの。どうかしてるわ、この人。」 「疲れた。お茶を一杯飲ませろ。」 「だって、もう遅いのよ。」  すると急に山田の顔に苛立たしげなものが浮んだと思った間髪、みつ子のホオがぴしりと鳴った。彼女は思わずホオを押さえたが/何故か声が立たなかった。かつて一度も見たことのない恐ろしい激怒のギ-ョウソウで、山田はじっとみつ子を見つめている。ヒタイの肉がぴくぴくと痙攣した。瞬間二人はひたと睨み合う形で視線を交えた。が/間もなく山田の顔から、その苦痛な表情が消えると、彼は音もなくゆらりと立ち上がって、着物を脱いで寝巻を被ると/黙って布団の中へ潜り込んだ。みつ子は夫の脱ぎ捨てた着物を眺めると、今まで押さえていた怒りが突然’湧き立って来て、そこに散らされた靴下を掴むと、力いっぱい夫の顔に叩きつけた。が/靴下は彼女の指にもつれ、ふわりと山田の頭に落ちかかっただけであった。すると更に激しい怒りが湧いて来て、手当り次第に夫に投げつけ始めた。しかし山田は身動きもしなか-った。彼女はわっと泣き出しなが-ら山田の頭髪にしがみついた。と/山田の手が彼女の手をぐっと握った。 「よせ」  と鋭く山田は言った。 「ひ、ひとをこんなに待たせて‥‥ぶって。」 「わかった。」 「ぶたれてから分かられてたまるもんか!」  が、彼女は造作もなく布団を被せられてしまった。トコの中で暴れてみようとしても無駄であった。彼女は強引な気持ちで固く身をちぢめて、山田に尻を向けて押し黙っていた。  山田は深い溜息をつくと、 「静かに寝かせてくれ、俺が悪かった。」  細い声であった。そしてそれきり身動きもしないのである。みつ子は身を固くしながらも、次第に気持ちが落ち着き出すと、時々そっと山田のほうに気を配って見た。 「お前は、俺が今夜どんなことをしていたか解るのか。」  と山田は不意にポツンと言った。 「そんなことわたしに解る訳ないじゃないの。」  彼女はまださっきの-ヨフンがあったので、不機嫌に返事した。 「それじゃ俺がどんなことをしていたか知りたくはないのか。」 「知りたくない。」 「そうか。」そして暫く考え込んでいたが「お前はこの頃俺をやっつけるのが非常に上手になった。しかし一度として俺の肝を突き刺したことはない。お前は、お前の愚劣さでしか俺をやっつけることが出来ないのだ。しかし女という奴はなんという奇妙な動物だろう、俺はお前のその愚劣さにのみ魅力を感じている。」 「そんなに愚劣愚劣って言わないで頂戴。」 「お前/マダムボバリーという小説を読んだことあるか。」 「遅いのよ。もう。」 「俺は明日は休む。今度の日曜には会社の花見だ。」 「花見?」 「さよう。蓄電機課の花見だよ。」 「休んだり花見をしたり‥‥わたしは日曜にはお洗濯するわ。わたしは何時でもみじめよ。」 「ただし俺は花見には行かぬ。」 「もう遅いのよ。わたしは明日は勤めに出なければならないのよ。安眠の妨害をしないで頂戴。」 「妨害はしないが、俺は今夜は独りごとを喋るよ。朝まで喋るよ。俺も時々はお前が俺の気持ちを理解し得ると思う瞬間があるのだが、しかしそんなことはもういい。ただ俺は今夜黙っていては気が狂う。俺は今夜は人をひとり殺したのだ。」 「人を?」 「ああ/そうだよ。その男、それはもう四十シゴだったかな、完全に死んだよ。大道の真ん中でだよ。心臓が裂けて、ナイシュッケツして、口からもだらだら血を流しながら死んだ。街灯で見ると、血がアスファルトの上を流れていた。俺はそれをじろりと横眼で睨んで帰った。明日は新聞に出るだろう‥‥。」 「あんたが殺したの?」 「さよう、俺が殺したのだ。」  みつ子はくるりと夫のほうに向き直った。そしてどうした気持ちの変化か、やにはに山田の胸にしがみついた。 「ハハハ、心配するな、捕まりはしない。神は人間に過失という抜道を造って置いたからね‥‥。」  そして山田は今夜の出来事を順序も連絡もなく喋り出した。人間は誰でも自分の頭に溜っている重苦しい記憶や事件を、どうかした瞬間になると、もうどうしても口から外へ吐き出してしまわねば-いられなくなるものである。それは殆ど発狂したようであった。山田はときどき口を噤んで、俺は-なんだってこんな下らんことを喋っているのだろう、と激しい自己嫌悪に襲われながら、しかし口が自然と動くのである。そしてしまいには、もうこんな気持ちの状態になれば、無理に押し黙って見たところでなんにもならぬに決まっている:、それならいっそ自分の気持からブレーキを抜いて放任し、ひとつ思いのままに喋らせてみようという気持ちにもなるのだった。そして心のずっと奥のほうで、例えば向かい合って立てられた二枚の反射鏡の/無限に連なる映像のサイオウのポイントと思われる辺りで:、こっそりニヤリと微笑’し、どうせ乗りかかった船だ、と呟くのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼は今日’会社を何時ものように終業して、別段’変わったこともなく帰途についたのだったが、ひどく気分が重苦しかった。そしてなんとなく吐き気を催して来るような不安がしてならなかった。彼はずっと前から胃病だったので”ときどき道端で吐くことがあったのである。彼は不快な、苛々した気持ちであった。しかしそうした自分の気持ちにはなるべく知らん顔をするような気持ちで歩いていた。それはちょうどブスブスと-くすぶっている煙硝のようなものを無理にフタしているような工合だった。悪臭の漂っている河っぷちを暫く歩いて橋を渡ると、もうアパートはすぐそこにあった。  橋の上まで来ると、彼はちょっと立ち止まって灰汁のように濁った水面を見おろした。彼は家へ帰ることがひどく嫌だった。働くようになってから急に浮き浮きとしだした妻や、下等なアパートの趣味などが、吐き気を募らせるほど不愉快に思い出されて来るのである。とりわけみつ子の体を思い出すと、もう何か胸の中がむっと閊えるような気がするのだった。女というものは、美しいと見える時にはどこまでも美しく、むしゃぶりつきたいような欲望を男に起こさせるが、しかしひとたび不潔に見え始めると、もう胸が悪くなるほど不潔に見えて来るものである。彼は妻の一挙手一投足を不快な、腹立たしい気分で思い出した。平常はあどけないと見え、その稚拙な言動や思考形態も一種の魅力と映じていたものが、今日はその無知を軽蔑したくなるばかりであった。彼は今までに何度も妻を不快の対象としたことはあった。妻あるがためになんとなく自分の精神は下等になって行き、自分の行動は蛆のように意気地のないものになって行く:、そう思って直ちに離別しようと決意したこともあったのである。しかしそれは単に決意しただけであった。よしいっとき、一瞬にしろ、彼はそう決意することによって自分の気持ちを慰めたのだ。彼としても、こうした自慰の愚劣さには絶間なく自己嫌悪を感じてはいたが、しかし、そうする以外に抜け道はなかった。とは言え、これが抜け道にならぬことも意識していたが、要するに彼は、その時々の自分の心理をイチジ誤魔化しで処分したのである。詮じつめれば、自分が一番’意気地無しであったのだ。彼はこの断定を意識の表面に浮かせることを避けた。それは意識的に避けたのではない、本能的な自己防禦、自分の前に突っ立った巨大な敵、社会から自己を守ろうとする本能的な自己欺瞞であった。もちろん彼は自分にこうした自己防禦を意識したが、この意識をも-さける本能があった。そこに至って彼の自己分析のメ-スは曇り、彼は分析の結果を意識の黒板に記述することをしなかった。そしてここに浮き上がって来るものはと言えば、哀れな自嘲と、一見気まぐれに見える身振りであった。この身振りは、しかし深刻というのかも知れぬ。  暫く水面を眺めていたが、やがて彼はのろのろと、いかにも思い切り悪そうな足どりで足を動かし始めた。どこかへ行って酒でも飲もう、そういう考えが浮き上がって来て、橋を渡り終えると、アパートとは反対の/駅のある大通りのホウへ出て行った。駅前に出、そこをちょっと裏町に回ると、ごちゃごちゃと入り乱れて/バアや/カフェや/茶房などが並んでいる。しかしそこへ来ると、もう酒を飲むのも嫌になってしまった。彼はちょっとヒタイに掌をあてて見て、さてどうしようか、と思い惑った。彼は昼間の会社での不快な出来事を反芻しながら、自分が今こんなに腐った気持ちでいるのは、あれが尾を引いているのだ、と気づいた。ただ/あれだけのことが、と彼は、そんな小さなことにまでこれほど気持ちを狂わせられる自分が腹立たしくなった。それは昼めしの時だった。彼のいる’課の連中で花見の相談が持ち上った。彼はその時、もうかなり-かかっていた整流器がようやく出来上ったばかりだったので、メシを食うとすぐその製品の前に行っていた。言わば自分の作品であったので、彼は久々に一つのものを完成した喜びを味わっていたし:、それにシンから打解けて話し合うような友達は一人もいなかったので、時間になったらすぐ試験して見ようなどと思いながらぼんやりとしていた。彼は会社でも孤独であった。みな彼の前身を知っていて、人事係から注意でも回っているのか/誰も彼を敬遠するのである。彼は仕事そのものに全身をぶち込もうと思った。しかしそこにも、彼は何か気持ちにまつわりついて来る-しつこい悪臭のようなものを感じて、夢中になることが出来なかった。彼は毎日何か目に見えぬ、しかし重要なものが自分の中から抜け去っているような空虚さを感じた。仕事と自分との間に間隙が生じ、それが虚ろな穴になって、電流や/電線や/金属類がイノチを持たなかった。夢中になることが出来れば、アンペアメーターの針の微動のような呼吸が、金属からも電流からも感じられるのである。  その時どっという喚声があがり、手を拍って口々にはやし立てる女工らの声がふくれ上がって聴こえて来た。それが静まると、彼は呼ばれて/花見だがどうだ、と課長に持ちかけられた。彼が賛成するむねを答え、 「場所は‥‥。」  と訊きかけた途端であった。突然’女達の間から、へえ、と如何にも驚いたというような声がもれ、 「左翼の闘志も‥‥。」  と/終いの濁った言葉が聴こえた。彼は思わずむっとして振り向くと、リイク部の佐山が、女たちの間に混じってニヤニヤと笑っている。一瞬/辺りがシンとなった。と、課長が、 「佐山、君には当日の会計をメイず。」  と厳かに言って、どっとみなを笑わせた。  こうしてその場は納まったものの、しかし山田の気持ちはなかなか納まらなかったのである。彼は今までにも佐山が彼をあてこすったり、女工にこっそり何かを耳うちしたりしているのを知っていた。どんなグループにも決まって一人は、絶えず他人のすきばかりを覗ったり/蔭口ばかりを利いて、病的なほど自分の利害に狡猾な才能を持っている者がいるが、佐山もやはりそういったタイプの人間であった。もちろんとるに足りぬ、と山田は今まで黙殺して来たのであったが、しかしその時にはさすがにかっとせざるを得なかった。それは相手の弱点をしっかり掴んだ上での嘲笑であった。ざまあ見ろ、山田の内部の苦しみや懊悩をひとけりしたのである。そして山田にとって腹立たしいことには、こうした嘲笑を正しいと認めねばならなかったのである。いや正しいとは言えぬにしろ、少くともこの嘲笑に対して弁解の余地は与えられていないのだ。もし弁解するならば、ますます自分が愚劣になるばかりであった。どんなに腹立たしかろうとも、ただ黙って引き退るより他にないのである。彼はイチニチ、陰鬱な/不快な気持ちで働いた。言うまでもなく佐山という個人は軽蔑すればよかったが、しかしその言葉には軽蔑し切れぬものが響いているのである。 「人から、お前は馬鹿だと言われて、しかもその言葉に賛成せねばならんとは、ふふふふ。」  彼はのろのろと歩きながら、そう呟いて歪んだような微笑をもらした。  街は夕暮れだった。  駅前のイチバからは忙しげに前垂れをひらひらさせながら、女中やおかみさんが流れ出て来た。とおりを歩いている人々は、無数の木片が渦に巻かれたように駅の中に吸い入れられて行き、轟音を立てて走って来る電車が停まる度に、内部から泡のように人々が溢れ出て来た。彼は、どこもかしこも人間でウジャウジャしている街というものがひどく厭わしく思われ、都会の空気の重さを両肩に感じた。彼はどこか人間のいない、猿や/犬や/狼や/熊や/狐や、そんなものばかりのいる世界を想像して見た。もちろんそこには青い木の葉や、清冽な水流がある。彼は自分が少年のような空想をしているのを意識したが、大人というものは時々ふと少年の日に帰り、その頃と全く同じ気持ちの瞬間を味わうことによって/意外に多くの休息を与えられているのに気づいた。その時、彼の頭の中に突然すっと人の顔が映って流れ去った。彼は、はっと立ち止まって、ハテあれは誰だったかな、と考えて、それが大林’清作であったのを知ると、何故ともなく面白くなって、街の真ん中に立ったままニヤニヤと笑い出した。彼はまだ田舎の小学校にいた頃、一度’大林’清作の頭を金槌でぶったことがあった。するとそこがぼこんと脹れ上がって、大林はぼろぼろ涙を流しながら頭をかかえて手工室の中をぐるりと一回転した。彼は泣かせようと思ってぶったのではなく、おい、と呼ぶ代わりに槌でコツンとやったのであった。それは手工の時間の出来事である。大林’清作は今はヒャクショウをやって-い、三人も子供をもっている。  ふふふふ、あいつどうしてるかな、頭の-いい男だったが、と考えながら、彼はまた歩き出したが、はたと当惑せざるを得なかった。彼は行き先が決まっていなかったのである。田舎へ行ってみよう、そういう考えが不意にそのとき浮かんで来た。今夜’汽車に乗れば明朝は大阪に着く、すると明日の晩は四国へ着くわけだ。彼はびっくりしたように片手を挙げて車をとめ、 「東京駅。」  と言った。みつ子の顔が浮んで来、こんな気まぐれも所詮は道化じみた大仰な身振りに過ぎぬという意識があったが:、反面には、もっと道化ろ、もっと道化ろと自分をけしかけるものがあった。  東京駅に着くと、彼は広い構内をただあちこち歩き回った。ここも人でいっぱいだった。彼は二等待合室に入って見た。若い女や太った仏頂ヅラをした老紳士などが、落ち着きのない様子で並んでいた。彼は腰を下ろすと、煙草に火を点けた。しかしすぐ立ち上がって今度は三等待合室へ行って見た。ここはひどく薄暗くて汚れていた。白い着物を着けた朝鮮の女が、紙袋のような恰好に体をふくらませて、栄養不良な子供を連れて立っていた。子供は日本の着物を着ているが、何か不安そうに、辺りの人々を見回している。この子供の眼には、これらの人々が敵と見えるだろうか、それとも味方と見えるだろうか、彼はそんなことを考えながら、じっと暫く眺めていた。母親はその子の手を引いて、何か朝鮮語でささやいた。彼女の片方の手には、もう一人の子供が抱かれている。父親は便所か、買物か、大方その辺りであろう。山田はふと大阪駅を思い出した。あそこは-いつ行って見ても朝鮮人がウジャウジャしている。大きな荷物を積み上げてそれに寄りかかっている朝鮮女、コシをかける場所がなく地べたにしゃがんでいる女:、飴玉か何かをしゃぶっている子供、紙のような顔と袋のような着物、そういったものが次々と思い出された。黄色のジプシー──彼はそう呟いて待合室を出ると、切符売場のホウへ歩いて行った。心のうちを寒々としたものが流れて、自分自身がジプシーになったような気持ちであった。俺のようなものを精神的ジプシーつて言うんだろう、二等待合室へ入っても、三等待合室へ入ってもさほどに目立たないほど調和のある男だからな:、しかし待てよ、俺はこれから本気に四国くんだりまで行く気なのかしら? 四国まで行って、そして何があるのだろう。馬鹿馬鹿しいじゃないか。──しかももう切符の売場の前まで来ていた。ジャラジャラと-かねを数える音が聴こえ、多度津、と窓から覗き込んで/春のコートを片手に抱えた若い女が言うのが聴こえた。ゴ六人がつめかけて自分の番の来るのを待っている。山田はその列の最後に立ち止まった。しかしまだ切符を買う気にはなっていなかった。やがて自分の番が来た。彼はしぶしぶと、まるでひどく損な物でも買わされるような様子でガマ口を取り出した。が、その途端に、不機嫌そうにむっつり黙り込んで煙管を咥えている田舎の父の姿が浮んで来て、どうした工合か急に財布をまたポケットに蔵い込んで/買うのをやめてしまった。彼はふらふらと流されるように駅を出ると、銀座へでも出てみようという気になって/有楽町のホウへ足を動かし出した。  しかし、間もなくそれも嫌けがさして来て、今度はしぶしぶと日比谷公園のホウへ向かい始めた。日はもうすっかり暮れてしまって、高架線や市電の音が/何か魔物めいて聴こえて来た。彼は地下室を歩いているような気持ちで、のろのろと足を動かすのだったが、もういっそじっと立っていようかという気になってならなかった。空を仰いで見た。ただ真黒に塗り潰されていて、星でも見えないものかと尋ねて見たが、星も月も、一点の光りもなかった。無気味な夜が底のない-ふかさで垂れ下っているのだ。その闇の空間のところどころに、花火のような広告燈が見える。彼は突然’大きく口を開いて欠伸をした。疲れが少しずつ体を痺れさせ始めていた。それはひどく空虚な、物悲しい気持ちの欠伸であった。人通りは丸でなかった。丸の内の通りのカドまで来ると、彼は谷の奥でも覗くような工合に、丸ビル前のほうを眺めていたが、またひとつ欠伸が出た。丸ビルの前では自動車の光りが交錯して、ナンジュッピキもの電気鰻が海底を泳ぎ回っている光景はこんなものかも知れぬと思わせられた。  しかし、と彼は立ち止まって呟いた。俺はこりゃなんだろう、なんとなく少し気持ちが変だぞ、一体どうするつもりなんだろう、それに、俺は一体何を考えてるんだろう、どうも今日は頭が少し変になっている:、第一こんなことをやったとてなんの利益もありゃしないじゃないか、俺が今歩いているのは、ただ体をへとへとにするために歩いているようなものだ──。しかし彼はそう呟きながら、その自分の呟きをもう少しも聴いていなかった。  その時、旦那、どちらまで? と車が徐行して来た。すると彼は急に、用のある人間のような声で、 「大島。」  と言ったが、自分でも驚くほど大きな声が飛び出た。それは殆どどなりつけるような調子であった。大島? なんのために? と車が動き始めるとまた自問したが、もう自分の気持ちを調べるのが面倒臭かった。ただ車は光りと光りとの間を矢のように走っている。人間の思考なんかこの運動の前には無力なのだ。  夜の大川を渡ると、車は次第に圧し潰されたような家々の間に入って行った。悪臭がプンと鼻を衝いて来そうである。しかし細民街の近づくに従って、気持ちがだんだん落ち着いて行った。とは言え、それは落ち着きなどという言葉では現わし切れぬものがあった。もう-どうとも-なりやがれ、と狂暴に自己を突き離した落ち着きであったのである。  彼はある大きな製鋼所の裏で車を捨てた。  どこからともなく物の腐敗した臭いが漂って来た。彼は狭い路地から路地へとあてもなく歩き続けた。幾つも橋を渡っては、機械工場やガラス工場などの間をぐるぐると歩き回った。なんのために歩くのか、という自問がひっきりなしに浮んだが、彼はなんとなくそうせずには-いられなかった。彼は何時の間にか亀戸に入りこんで、電車通りを踏み切ると、吾妻町のホウへ向かって行った。辺りには、ひしゃげたような家がいっ-ぱい並んでいた。彼は何年か前を思い出した。その頃も何度かこの路地を往来した。しかしそれはなんと張り切った気持ちであったことか。体全体が熱を帯びて、足の下には揺ぎのない大地があった。しかし今はどうだろう、丸で足下の大地が潰れ、溶け去ったようではないか。この辺りは、かつて彼の活動したうちの/最も記憶に残る地区であったのである。彼はみじめな、うちのめされたような気持ちを味わいながら、しかし何かその時代の熱情が、再び体内に湧き上がって来るような気がした。そして彼は、長い間見失っていた自分というものを、再び見つけたような気がした。  彼はどぶ川の土手の上を歩いて行った。川には石炭を積んだ船が二つ三つ、沈みかかっているように揺らいでいる。悪臭のしみ込んだ風が吹いて来ると、水面が遠くの明かりを映して光った。辺りは殆ど真っ暗であった。その頃のことが次々と思い出されて来た。それはちょうど予告映画のフイルムを見るように、仲間の誰彼の姿のワンカットが回転するのである。今もなお行方不明の男、まだ獄中にいる男、押上駅で捕われた男、或はまた、男のようにがむしゃらな女、そういった一人一人の姿が鮮明に蘇って来た。彼は土手に積んだ煉瓦の上に腰をおろすと、なおも映像をくり拡げて行った。彼は激しい孤独を感じた。あれらの連中は今どうしているであろう、みな散り散りとなってしまい、みな生きる方向を見失ってしまった。そしてこの俺はどうだろう、みつ子はどうだろう──。彼は自分が少年のように泣けるものなら、思い切っておいおいと慟哭したいと思った。じっと煉瓦の山に身を凭せながら、彼は今の時代に生きる人間の苦痛を考えた。  が/その時、彼の頭の中に今までまわっていたフイルムが突然ぴたりと停止した。そこにはまだハタチまえの、林檎のようなホオをした少年の顔が浮んでいた。辻一作、とこの男は自分を呼んでいるが、本名は大林一作で、清作の弟である。彼は今までこの少年をすっかり忘れてしまっていた自分を不思議に思った。あれだけ自分に激しいものを教えたこの少年は、今どうしているだろう、たしかもう二十シゴにはなった筈だが。彼はふと運命という暗い言葉が、自分にまで取り憑いて来るような、不安な、嫌なものを感じた。彼は丸切りこの男のことを忘れていたのではなかった。ただこの男を思い出すことがたまらなかったのだ。  彼は突然’立ち上がると、狂暴な足どりで歩き始めた。が/ゴロッケンも進むと、また以前と同じような、のろまな、疲れたような足どりになってしまった。ふん、俺は-なんて愚劣な人間になってしまったのだ、と彼は呟いた。少年のように泣きたい、などと思ったことを考えると、彼はもう自分に唾を-はきかけたくなって来た。ふふ、しかし辻一作がどうしたというのだ、と彼はまた呟き出した。辻一作がどうしたというのだ、俺は俺さ。彼は真っ暗な川っぷちを五ノ橋通りのホウへ出て行った。そして走って来た車をつかまえると、いきなり、売春婦のいる街の名を叫んだ。  細いトンネルのような路地を、人々は肩をすり合せ、突き当たり、足を-もつらせながらうごめいている。その入口で車を捨てると、彼は一枚の木の葉のようにその中にもぐり込んだ。動物園の檻を覗いて回るような残虐な気持ちで、彼は人々の間を揺れて行った。しかしここでも気持ちは満たされなかった。‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/という気持ちはもう全く無くなっていた。彼はむっつりと黙り込んで、横目でちらちら家の中を覗きながら、幾つも曲り角を曲がって歩いた。‥‥呼ぶ声もただうるさいばかりであった。彼はただ人々の動くにまかせて動いて行くだけである。  ある路地で、彼は突然’上衣の裾を掴まれ、ぐいと引かれた。思わず体が浮いて軒下に引き込められた。座敷からハンミを乗り出した女の腕がその時ぐいと伸びると、彼の帽子を頭から抜き取ってしまった。 「おあがんなさい、よ、さあ。」  と女が体をくねらせながら言った。彼はもの憂さそうに顔をあげると、ひどくけだるそうな声で、 「帽子をくれ。」  と一言言った。 「だって、よ、おあがんなさい。今夜/暇なのよ。ほら、ね、ね。」  しかし山田はもう帽子を取り返す気もなくなっていた。面倒臭かった。彼は急に身を-ひるがえすと人込みの中に混り込んだ。帽子は女の手に残したままであった。彼は電車通りへ出た。もう歩くのも、動くのも嫌であった。体は疲れ切って、両方の足の腱が針金にでもなったようである。彼はそのままべったりと地べたへ突き坐ってしまいたかった。しかし坐ってしまうわけにもいかない。彼はまたのろのろと歩く以外にどうしようもなかった。おまけに腹はもうさっきから-すき切っていた。それでも少しも食いたいという気が起こって来なかった。というよりも彼は食うことをすっかり忘れてしまっていた。頭の中は何か乾いたものでもいっぱいつまっているような工合になっていた。  彼はふと空を仰いだ。ホオに雨がぽつんとかかったのである。空はもちろん真っ黒であったが、雨はもう/さっきから降り始めているらしかった。ぽつぽつとホオや頸筋に当る程度ではあったが。 「雨か。」  と彼は呟いた。そしてまた車を停めると、 「横浜。」  と言った。車の中で時計を見ると、もう十一時をとっくに回っていた。彼はまだ八時か九時のつもりでいたのであった。横浜へ行って、そしてどうするのか、しかしもうそんなことはどうでもよかった。彼は体を’休めたかったのである。  雨は次第に激しくなって来た。窓へビチャビチャと降りかかった。彼は眼を閉じると、ぐったり体を凭りかけて、車が急カーブを-えがく度にグニャリと揺らいでは、居眠りから覚めたように窓外を眺めた。頭には何の感想も浮ばなかった。今日イチニチを振り返ることも、これから先のことも考えることが出来なかった。それは多量の睡眠剤が効き始めて、神経が徐々に鈍くなり、全身に快い酔い心地が襲って来た時のようであった。彼は大きく欠伸を続けざまにした。しかしバックミラアに映る自分の顔は血の気がなかった。もじ-ゃもじ-ゃと髪が乱れて、彼は死人でも見る気がして、ぞっとしたりしたが、しかし、それが自分の顔であるという点は考えても見なかった。彼は白痴のように虚ろな気持ちであったのである。  やがて車は川崎を過ぎると、国道をまっしぐらに突き進んで行った。すっかり寝静まった両側の家は次第にまばらになり、ただ街灯だけが果てもなく続いていた。彼は快い震動に身をまかせながら、しゅうんと鳴るアスファルトの音をうつらうつらと聴いた。運転手は不動の姿勢で、丸く照らし出された前方を見つめて、ハンドルをゆるゆると左右に動かせている。辷るような車の中で、山田は次第に-夢見心地に入って行き、このまま明日まで走り続けているといいだろう、などとぼんやりと考えるのであった。が、鶴見辺りまで来た時であった、突然’ガタンと車が上下すると、ニサンケン辷ってきききと停まった。運転手がソウハクになった顔を振り向くと、 「やったらしいです。」  とささやくような声で言って、ドアを開いて飛び-おりて行った。 「やった?」  と山田はぼんやり眼を開いたが、その時にはもう運転手はいなかった。雨の音がびしょびしょと聴こえ、暗い外を眺めると/街灯を映して濡れた街路樹が白く光っている。辺りは人影もなく、ただ降り注ぐアマアシがコンクリートの舗道にはねていた。どうしたのかな、と山田は怪しんで見たが、それ以上考えて見るのも面倒であった。 「どうもやっちまったらしいです。すみません、車を替えて下さい。」  間もなく運転手が駈け帰って来ると、興奮した声で車内の山田にそう投げつけて、再び雨の中に駈け出して行った。山田は初めて人を轢殺したのであるのを悟った。しかし-なんの感じも湧かないのみか、こんな所で車を降ろされるのかと思うとうんざりした。彼はまた両目を閉すと、さっきの夢心地を追うように体をクッションに凭せた。人を殺した、ということが、なんとなく馬鹿馬鹿しいことのように思えるのであった。と、このとき車の背後で何か大声で叫んでいる声が二三’入り乱れて、靴音なども聴こえて来た。彼はのそり立ち上がると、雨の降っているのも忘れたように外へ降りた。女に帽子を取られてしまっているので、雨はジャンジャン頭髪を濡らし、首筋に流れ込んだ。  車から十ニサンケンも後方に、シゴニ-ンが集まって何か口々に喚いている。街灯にぼんやりと照らし出されたその黒い塊の横には、粉々に打ち壊された荷車が転がっている。山田はふらふらとそこまで足を運んで見た。人々に囲まれて、屍体は仰向けに寝て、着物も何もグショグショになっている。首は横に歪んだままねじ向けて、ホオをべったりとアスファルトにつけ、横向きの口からは血がだらだらと流れていた。雨が洗うように降っているのに、不思議とその血が山田にははっきりと見えた。一人の巡査がそれを抱き起しにかかったが、どうしたのかまた置いた。人々は山田にはまだ気づいていなかった。彼はニサンプンぼんやりとその屍を眺めていたが、やがて風に流されるようにとぼとぼと川崎のほうに向かって歩き出した。雨に濡れることも、疲れていることも、もう深夜に近いということも、歩いてどうなるかということも、彼は考えて見る気がしなかった。心が傷ついているとき、その外部の風景は奇怪な鮮明さで眼に映る。彼は今にもベタンと坐ってしまいそうな足どりで歩きながら、今見た屍体が夢魔のような鮮やかさで/何時までも瞼から離れなかった。とは言えそれが、死、という生々しい悲痛な出来事として映るのでもなければ、だらだらと流れる血に恐怖し、人生の悲惨を目のあたり見た衝撃でもない。それは一枚の写真のように、鮮明な輪郭と、色と動きとがあるだけであった。ふと顔をあげた。すると向かい側に赤い交番の電灯が見え、何故ともなく彼は、はっと胸を突かれたような気になった。  彼は二’三丁もふらふらと歩いた。そして空車は来ないものかと暗い街路の遠方を眺めるのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  山田はさっきから電車に揺られながら、落ち着きのないナン分間かを過していた。こうして出かけて行くことに激しい嫌悪を覚えたり、どうしても会わねばならぬと強く思ったり、あれからあの男は一体どうなっているであろうと/好奇心とも恐怖ともつかないものを覚えたりするのだった。そして遠い過去が思い出され、それからの、辻一作と山田との関係に於ける空白のイクネンが、何か暗い谷間のように思えるのであった。このイクネンをあの少年はどう過し、どう’生きぬいて来たのであろう。彼は人生というもの、運命と言われるもの、そういったものの暗黒な一つの断層を眼前に突き出されたような気持ちであった。  山田が辻と初めて会ったのは、彼が高等工業を卒業したばかりの年であった。辻一作は薄汚いバスケットを一つ提げて、兄/清作の依頼状を持ってはるばる四国から山田を頼って出て来たのである。その頃、津波のように湧き興った社会思想のシブキを浴び、自己の内部に社会理想の火が燃え上ったばかりであった山田は:、必然この少年にそのはけ口を見出さざるを得なかった。彼は、このどこか傲岸そうに眼を光らせた、小さな機関車のように意志的なものを持った少年を愛し、これを彼の最初の弟子としたのである。山田は毎日勤めから帰って来ると、唯物史観を、無産者政治教程を講義した。そのころ辻は十六であった。山田は何年かあとになって、その頃の辻と自分とを思い出すと、あんな小さな子供を掴まえて/どうしてああ熱心になれたのか不思議な気がしたが:、しかしその頃から辻の内部に彼の影響に耐え得る強靱な何物か、それは知性の萌芽とも言わるべきものがあったために違いなかった。  辻と起臥を共にしたのは僅か一年余りに過ぎなかったが、白紙のような少年の頭脳にとっては、決して短い時間ではなかった。少年はある日’突然’決意の色を現わしながら言ったのである。 「おれ、田舎に帰る。」  こうして辻の少年らしい空想や希望は、農民運動という全く違った形として現われ、二人は別れた。辻はただ社会思想の火を自己の内部に発火させるためにのみ上京したようなものであった。その後の’辻の動静については山田は殆ど知らなかった。もちろん初めの一’二個年は文通が行われ、辻に必要な文書なども山田を通じて送られたが、しかしその後どうしたのか手紙もばったり絶えてしまった。そのうち山田はみつ子と結婚し、捕われて下獄した。  山田は、暗い、陰鬱な監獄生活のうちにもときどき辻を思い出しては、或は彼も自分と同じような所に日を送っているのでは-あるまいかと不安な予感に襲われたりした。そして黙々と手仕事を運ばせながら、ふと/辻は今年で幾つになったかな、などと指を折って見たりした。彼は自分の弟か、甥を思い出すような、なつかしい気持ちであった。ところが監獄生活の一年が終わり、二年目の秋であった。彼は突然’辻の面会を受けた。  山田は電車の中で眼を閉じ、その面会の状況を思い浮べた。それはなんとなく奇妙な、そして驚くべき瞬間であった。  彼は辻の変わった姿に先ず驚いた。彼は秋らしくセルを着流していたが、それはもう黄色く陽やけして、それに小柄な/風采のあがらぬ体つきはひどく貧相で、かえって山田のほうが哀れを覚えたほどであった。そのうえ以前のような赤いホオは消え、頭髪はぼうぼうと乱れ、ふと肺病にでもなったのではないかと思われるほど蒼く痩せていた。ヒタイにはまだハタチだというのに深い横皺がニサン本も刻み込まれて、なんとなく山田はぞっとした。そしてどうしたのか辻は、山田と向かい合っても、むっつりと口を噤んだまま口を開かなかった。仕方なく山田のほうから、 「どうしたんだ。」  と言わずには-いられなかった。 「うん。」  と辻は、怒っているように返事した。 「元気でいたのか。」 「うん。キミ、元気か。」  山田は今まで辻からキミと呼ばれたことがなかったので、びっくりして辻の口許を眺めやった。辻はそれきり黙ってしまい、何かひどく考え込んでいるのである。 「ああ、俺はこのとおり丈夫だ。しかし、君はどうしていたんだ。どうも少し変じゃないか。そとの情勢はどうかい、この頃。」 「うん。」  そして辻は何か憂わしげな眼つきで辺りを見回し、急に山田の顔を眺めて微笑’しようとしては、また唇を固く閉ざしてしまうのだった。何かある、と山田はシンチュウで思いながらも、これではどちらが面会に来たのか判りゃしないじゃないかと、腹立たしいものを感じたりした。長い沈黙が続き、二人は向かい合ったままお互の顔を眺めたり、足で床をこつこつと打ったりした。辻はどこか落ち着きがなかった。彼は絶えず辺りを見回し、山田と視線が合うとびっくりしたように眼を外した。やがて辻はふらりと立ち上がって、もう山田に背を向けて歩き出した。 「おい/帰るのか。」  辻は背を向けたまま立ち止まると、 「ああ。」  と言ったが、くるりと振り返って、山田の耳許に口を寄せると、ささやくような声で、 「俺、病気なんだよ。恐ろしい病気になっちまったんだ。」 「病気?」  辻は瞬間思い惑ったように眼をつぶると、急に顔に血の気が上って、上ずった声で一息に、 「癩病だよ。」  と言って、扉の外に出て行った。山田はがんと頭をどやされたような気持ちであった。瞬間辻を呼び返そうと思ったが、声が出なかった。  あれから、もう四年に近い日が流れている。彼は辻の顔を想像して見ることが出来なかった。何か空恐しく、不安で、重苦しいのである。  その駅の改札口を出ると、山田は構内をあちこちと見回し、早かったかな、と思って時計を眺めて見たりしながら、しかし一種の興奮状態に胸が弾んでいた。辻らしい姿が見当たらないので、彼はちょっと焦ったものを覚えながら、しかし心の底にはこのままいっそ辻が現われなければいいという気持ちのあることは/どうしようもなかった。 「お元気ですか、ご無沙汰ばかししておりました、呼び出したりして‥‥。」  そういう声が不意に横から聴えた。しかし山田は自分に言われたとも思えなかったのでそのほうには注意もせず、なお前方を見回していると、 「あの、僕、辻ですが。」  山田はびっくりして振り返ると、 「ああ、いや、僕山田です。」  と、まごついた返事になってしまった。 「体、その後、お体はどうですか。心配してましたが、どこにいられるか解りませんでしたので。ええ僕は元気でいます。」  山田はこんな会見を想像していなかった。相手がどう病変していても、よう、その後どうだったい、と気さくに相手の肩をぽんと打つ、そんな光景を考えていたので/余計まごついてしまった。それに自分の口から、マシタ調の言葉など出ようとは全然予期していなかったので、自分の言葉にびっくりした気持ちであった。  二人は並んで駅を出たが、山田は自然と相手の顔手足などに注意が向いてならなかった。彼はそういう自分の注意を意識しては、あわてて視線をあらぬほうに向けるのだったが、しかし心の中では何かほっとした軽やかなものを覚えていた。辻は監獄で会った時と同じように小さな体で、もじ-ゃもじ-ゃの頭髪が中折帽の間からはみ出して、その髪の間に痩せた、骨ばった顔が覗いていた。あの時よりも痩せはひどくなって見えるが、しかしかえって健康そうであった。彼は鼠色の背広を着て、外套を重ねている。 「今どうしているのかね。」  喫茶店などの並んだ細い路地に入ると、山田はそう訊いて見た。出来るだけ以前のような親しさを取り戻そうとする気持ちの余裕が出来、言葉使いも気軽にした。 「うん、療養所にいる。」 「体は-いいのかい。」 「まあ/今のところは、どうにか‥‥。」 「自由に出て-こられるのか、何時でも。」 「自由ってわけには-ゆかないけど。ネンに一回くらいは‥‥。」  辻は憂鬱そうな小さい声でぽつりぽつりと答え、ともすれば沈黙に落ち込みそうであ-った。山田はどうした訳か沈黙に落ち込むことが妙に恐ろしいように思われ、頭の中で言葉を探すのであったが、この場合どんなことを語ればいいのか見当がつかなかった。お互いに交わりの断ち切れていた何年かが、深い’谷のように二人のあいだにあった。ましてや病苦に傷ついているであろう辻を考えると、うっかり言葉も出ないのである。 「東京はちっとも変わっていない。」  と、辻は辺りを見回すように首を動かして、突然そんなことを言うのであった。 「うん、もうひと通り出来上ったからね、これからは案外’変化が少いだろうよ。しかし、君は何年、そこにいたのだね。」 「三年。足かけ四年になる。」 「しかしよく僕の住所が判ったね。随分あちこち動いたからね。」 「兄貴に訊いた。」 「ああ/そうか。元気だろう、兄貴。」 「うん。」 「病院は大きいのかい。」 「五百人ほどいる。」 「面会なんか出来るの。」 「出来る。自由だ。」 「そのうち出かけて行ってもいいかい。」 「うん。来てくれ。癩病ばかりしかいないところだ。」  山田は瞬間’言葉が途切れた。辻が日常茶飯の調子で、癩病、と自分の病気を苦もなく言ってのけるのに驚いたのだ。変わった、と山田は強く思いながら/辻の横顔を眺めた。そして心の中がなんとなく緊張するのを覚え、一体この男は今どんな思想に、どんな信念に生きているのであろうか、という激しい好奇心が湧き出し始めた。以前の思想は? そのままでいるのか、それとも全然別な道を発見したのか。 「しかしキミなんか、どこも病気のようには見えないが。退院は出来ないのか。」 「退院? しようと思えば出来るが‥‥してもつまらん。」 「しかし病気は軽いんだろう。」  山田はふと、こんなことを訊いていいのかな、と思い返したが、しかし’口から出てしまったので、どんな返事が来るかと待った。辻はなんとも答えなかった。そしてホオに薄い微笑を浮べると、そのまま黙り込んでしまった。山田は不安なものを覚え、ではやっぱり外面はなんとも見えなくても、内部ではもう相当やられているのか、とあやぶむ気持ちであった。 「病気は、軽くても重くても同じことだ。」  と辻は長い沈黙のあと”ぽつんと言った。不治、この言葉がぴんと山田の心に来た。彼はぐっと胸を押されたような気持ちで、言葉がなかった。 「しかし治療はしているのだろう。」  と山田は遠慮勝ちに訊いた。 「しているが‥‥。」  と辻は言葉を濁し、また微笑’した。  二人は茶房へ入った。人がいっぱい立て混み、レコードがガチャガチャと鳴っていて、落ち着いて話など出来そうにもなく、山田はもっと-いいところはないかと思案した。辻は腰を下ろすと、落ち着かぬげに辺りを見回しては、じっと視線を一方に走らせたり、音楽に耳を澄ませようとするらしく、ちょっと眼を閉じて見たりする。しかしそうした小さな表情の一つ一つにも、どことなくぎごちない固さが感ぜられて、山田は何か気の毒のような気もするのであった。田舎者、でないまでも、兎に角長いあいだ人前に出なかった者が急に表へ引き出された時のような工合であった。落ち着けないことを意識して強いて落ち着こうとする時の表情、そういったものを山田は見て取った。  紅茶と菓子が来ると、山田は砂糖を辻の茶碗に入れながら、 「お腹空いてないか。」  と訊いて見た。 「いや。いっぱいだ。」 「もっと静かな所へ行こうか。」 「うん。そうだね。しかし、」と言って辻は時計を眺め、 「キミ、いいのかい。奥さん待ってやしない? 僕、ちょっと君に会えばよかった。」 「そんなこといいよ。久しぶりじゃないか、君さえよければ僕はなんでもないよ。」 「うん、僕、いいけど‥‥。」  と辻は言いながらフォークを動かし、どうしたはずみかガチャンと音を立ててそれを落してしまった。辻はあっと小さく叫んで、顔を真っ赤にすると、いきなりそれを拾いにかかったが、急にまた手を引っ込めた。滑稽なほど狼狽が見え、山田はとっさに、 「いいよキミ、拾わせるよ。」  と小さく辻にささやいて、ウエイトレスを呼んだ。人々の視線がさっとこちらに射られるのを山田は感じ、なんでもないというふうに微笑をつくって、 「これから出て来る時は必ず僕の所へ寄り給へよ。」  と言ってごまかそうとした。 「うん、寄るよ。寄るよ。だけど、僕。うんあの、僕来年も出て来るよ。毎年一回ずつ出て来ることにしているんだ。でも、キミ、嫌だろう。」 「そんなことないさ。そんな気兼ねはよし給へよ。」 「うん。娑婆のやつらは病気に対して認識不足だから、僕だって、そう簡単にあれするんだったら出て来やしない。いや、出て来るよ。出て来るよ。社会だって、我々に犠牲を要求し得るほど立派に出来てやしない。社会は我々より愚劣じゃないか。しかし、いや‥‥。」  そして辻はようやく逆上せがさがりかけていた顔を再びさっと赤くすると、突然’口を噤んで/上体を真直ぐにしたまま一方をじっと見つめ:、また急に視線を外らして辺りの人を窺うようにきらりと眼を光らせた。その眼には、今まで見えなかった、鋭い、挑むような、炎が燃えていた。山田はそうした辻の表情を注意深く眺めながら、何か言いようのない陰惨な臭気とも言うべきものを感じるのであった。長いあいだの苦痛、屈辱と、堪え得ぬばかりの運命に虐げられたであろうことを、彼はその眼に感じ、その挑戦するような/唐突な言葉に感じた。  二人はそこを出ると/もう’暗くなりかけた街を暫く歩いて、とある小さなそば屋の二階へ上った。 「幾にちくらい東京にいるんだね。」  酒が出ると、山田は銚子を取り上げながら訊いて見た。 「二週間ほどいたんだけど、もうあと三日で帰る日なんだ。」 「イクニチって、日も定められている訳だね。」 「うん。」 「病院はひどいところかい。」 「さあ。」  と辻は考えるように独言して、 「説明出来ない。兎に角’普通じんの人間概念は通用しない。」 「いや、そういう意味じゃなく、言わば政治的な意味、つまりなんて言うか、病院生活だね、病院の支配者と患者との関係とかいった風な‥‥。」 「平和だよ。」 「平和、か。しかしときどき問題なんか起って新聞に出たりするじゃないか。」  すると辻は急に可笑しそうに大声で笑って、ぐっと酒を飲むと、 「退屈だからあんな問題が起るんだね。」と一言してから、独り言のように下を向いたまま呟いた。 「社会の人間は病院をまるで陰惨な、人間の住んでいるところじゃないように考えている。嘘だ、そんな考えは。社会と較べりゃ余程病院のほうが立派だ。少くともあそこでは人間が人間らしい精神で生きている。ところが社会はなんだ、虚偽と、欺瞞と、醜悪とに満ちてるじゃないか。病院だって愚劣なこともあれば、醜悪でもある。しかし社会よりはまだましだ。それだのに、社会のやつらに会うと決まって好奇心に眼を光らせて病院のことを訊きたがる。病院のことを訊いてどうするんだ。恐いもの見たさの心理だろう。或は病院を思い切り醜悪なものとして予想して、それが本当であるかどうか知りたい、むしろ本当であらせたいんだ。なんという愚劣さだ。醜悪なものを見たいなら、社会は社会自身の足下を見りゃいいのだ。少くとも社会は癩院に対して恥じるべきだ。」 「いや、僕はそんな気持ちで訊きゃしないよ。」 「うん、うん、そりゃ君の言うことは判る。」 「なんて言うか、僕は‥‥。」  しかし辻は山田を押さえるように言い出した。 「僕の病院にいる五百人の患者が、どんな汚辱と、屈辱との中に生きて来たか。それは恐ろしい汚辱だ、屈辱だ。しかしそれに、彼等はじっと堪えて来たんだ。癩病を前にして黙って頭を下げないヤツは、ただそれだけでその男が愚劣な人間の証拠だ。それは恐ろしい屈辱だ。売春婦の屈辱なんぞ問題にならぬ。そしてその屈辱は今もなお続いているんだ。恐らく死ぬまで、死ぬまでだぜ、この言葉をよく考えて見てくれ、死ぬまで屈辱は絶えやしないんだ。しかしこんなこと君に言ったって通じやしない。癩者の間で三日でも暮して見るがいい、それがどんなに恐るべき、肝の寒くなるような世界か解るだろうよ。それに彼等はじっと堪え忍んでいるんだ。人間が人間自身の内的な力で生き、人間のサイオウの力で生きているんだ。人間が人間として最も純粋な美しい状態はそれをおいて他に決してないんだ。癩者はそれを無意識のうちにやってのけるんだ。」  山田は辻の言葉にじっと耳をかたむけながら、しかし何かちぐはぐな、ピントの合わないものを感じてならなかった。辻が眼を光らせ、熱した口調で語っている事柄も、彼には何か無関係な、辻の独りよがりの興奮のような気がするのである。それに山田にとっては、癩者の精神が美しかろうと醜くかろうと、どうでもいいことであった。彼はただ辻のそうした言葉から、辻の興味の対象が何にあり、辻の思想が以前と較べてどのような変形を受けているかを推察するのが楽しみであった。この男、すっかりヒユマニストになったぞ、と、そんなことを考えて彼はニヤリと笑う気持ちであった。すると-ふと、さっきからの自分の気持ちを振り返って、自分が癩患者’辻’一作を前にしたため、なんとなく他所行きな気持ちになっていたのに気づいて、なんのことだ、というような気持も湧いて来た。  辻はもうかなり’酒がまわったと見えて、目を充血させ、興奮した面持ちで山田をじっと見つめたり、サカズキを急に口に持って行ったりするのであった。 「しかしキミ、遅くなりゃしないのかい。」  と山田は訊いて見た。山田も、もうかなり酔がまわって来ていた。 「大丈夫。」 「しかし随分君も変わったね。」  と、山田は辻をしげしげと眺めながら言った。 「変わった? うん、変わったよ、変わったよ、すっかり変わってしまったかも知れない。しかし変わらない部分だってある。」 「ああ/そりゃね、やっぱり、あの頃の、十六だったね、あの時。あの時の君とちっとも変らないところもあるよ。君らしいところはやっぱり君らしいが、しかし考え方なんか‥‥。」 「考え方ね、ああ、変わったよ、。社会主義なんて俺は捨てた。」と辻はきっぱり言い切ると、急に挑むような眼つきで山田を見、おそろしく興奮した調子で続けた:、それは、社会主義を捨てたということによって相手から冷笑を浴せられるに違いないと信じていて、それを懸命に反駁しようとするかのようであった。彼は丸で堪らない嘲笑を受けたかのようであった。 「社会主義は、捨てたよ、完全に俺は捨ててしまったんだ。笑う奴は勝手に笑ったらいいんだ。笑えるヤツがそんなにいるもんか。俺は俺自身でそういう自分をさんざん笑ったんだ。もうさんざん自分で自分を笑ったんだ。しかし今じゃもう笑いやしない。いや、俺が、俺のほうから思想を捨てたんじゃない。決してそうじゃないんだ。思想が、思想のほうが俺を捨てたんだ。俺は思想に突っぱなされてしまったんだ。俺も病気になって初めのうちは、一生懸命’思想や理論にしがみついていた。そうだ、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥、‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/。ただ、キミ、俺の場合に於いては‥‥‥‥‥‥なんにもならないだけのことなんだ。だから俺はあの理論が全然無意味だなんて考えてやしないよ。ただ俺にとっては無意味なんだ。俺には不要なんだ。あれは社会理論じゃないか。ところが俺は社会から拒否されてしまってるんだ。つまり理論に拒否されたんだ。そういう俺が、大切そうに理論を頭の中で信じていたってそれがなんになる。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/なんて全然無意味じゃないか。それは靴みたいなものだ、穿いて歩いてこそ価値があるんだ、頭の上に乗せていたってなんにもなりゃしないんだ。(ここまで苛立たしげに語って来て辻は突然’言葉を切り、急に何事かに考え込み、今度は低い声で下を向いたまま語り続けた。それは独り言のようであった):俺はそのために苦しんだよ。夜だってろくに眠りゃしなかった。病院へ入ったはじめのうちは、それでも信じていたよ。しかしそれは病気を知らなかったからに過ぎなかった、俺はもう一度社会へ出て、社会人と同じようにやって行けると思っていた。だから俺は、その頃は自分を社会人として、少しも疑わなかった。だから’社会理論を頭の中に寝かせて置いても不思議じゃなかった。何時かは起きる時がある、何時かは起き上がる、そう信じていたんだ。ところが’日が経つにつれて病気が、どんな病気であるか知らされちまった。それは知らされざるを得ないことだ。俺は、俺という人間が最早全く社会にとって不要な人間であり、言わば一個の‥/テン/テン/テン/に過ぎないことを知った。俺はただ毎日毎日、俺の体が腐って行くのを眺めて、死ぬる日を待っていなけりゃならないんだ。いや、俺の体だけじゃない、俺個人の肉体だけじゃ決してないんだ。俺は、俺の周囲にいる連中の体が腐って行くのを毎日見せつけられたんだ。くる日も来る日も鼻がかけたり、指が落ちたり、足が二本とも無かったり、全身疵だらけの連中ばかり眺めて暮らして、そいつらの体の腐って行くさまを眺めていなけりゃ-ならなか-ったんだ。昨日まで眼あきであった者が今日はメクラになっていた。今日’二本足を持っていた男が翌日は足が一本になっているんだ。俺はそれを、じっと、黙って眺めて暮して来た。今こそ俺は軽症だが、やがてああなる。あんなふうになる。足がなくなる、指が落ちる、メクラになる。ああ、これが、こんなふうなことを考えなけりゃならない生活がどんなものか、君に判るかね。しかもイノチは長いんだ。まだまだ長いんだ。しかし、俺はもうこんなこと言ったってなんにもなりゃしない。俺の気持ちがどんなであったか、語ることなんか出来やしない。それは語ることも出来ないくらいなんだ。自分が全く無意味な、社会にとって不要な人間に過ぎない、ということをはっきり俺は意識したんだ。しかも生きているんだ。今後、何年も、何年も生きて行かなくちゃならないんだ。この気持ちを君が判ってくれたらなあ。しかし誰にも判りゃしない、判るもんか。俺は独りぽっちになった、全く孤独になったんだ。社会にいる連中なんかも、一人前に、やれ淋しいの、やれ孤独’だのって言う。そんな連中に孤独ってどんなものであるか判るもんか。決して判りゃしない。それは恐ろしいもんだ。身を切り刻まれるようなもんだ。体中の血液が凍ってしまうようなものだ。しかしこんな形容じゃ伝わりゃしない──:俺は運命というものを見たよ。現実というものを見たよ。この孤独の中でどんなふうに生きたらいいんだろう。俺は生きる方向も、態度も失っちまったんだ。しかも俺の周囲にいる人間は癩患ばかりだ。癩患の巣だからね。こんな風になって、生きるということが正しいと思うかね、正しいと思うかね。ね、答えてくれ。」  辻は不意に言葉を切って、激しい眼差しでじっと山田を見つめた。顔面の半分は覆ってしまうほどぼさぼさと垂れた髪の間に覗いている辻の、小さな鋭い眼を山田は見返しながら、もちろん辻が返事など望んでいはしないのを知っていた。そして山田はふと欠伸が出たくなって、それをかくすためにちょっと体を動かせて坐り直したりするのであった。辻が熱っぽく語っているほど山田には切実に感ぜられないのである。すると辻は更に苛々しげに眉毛をぴくぴくと動かせて、語り始めた。 「答えなんか聴きたくないよ。もちろん答えなんか聴かなくたってかまやしない。ただ俺が言いたかったのは、生きるとは何か、という新しい問題が俺の前に出て来たってことを言えばよかったんだ。俺は俺の周囲で死んで行く病人や、生きながら腐って行く──いいか、生きながら腐るんだぜ!──:そんな連中を眺めて、毎日毎日眺めて、この現実を、世界を、どう解釈し、どう説明したらいいのか、という問題が新しい俺の問題になったのだ。いや、嘘だ、俺はこんなことを、こんなふうに言うつもりじゃなかった。現実を解釈する、現実を分析する、それが何だ。それがなんになるんだろう。どんなに分析したって、どんなに解釈したって、現実はそんなことに構ってやしない。現実は人間の知性がどうあろうと知らん顔して、現実は、ただ現実それ自身のために動き、それ自身の仕事を仕事としている。これが運命というものだ。人間は、ただ、この迫って来る力を前にして、恐れ、慄き、泣き、叫び、涙を流すだけなんだ。現実の批判と言ったって、解釈と言ったって、所詮、この号泣、叫びの一変形に過ぎないんだ。人間はただ泣くだけなんだ、涙を流して慰め合うだけなんだ。キミは笑ってるね。君から見ればこんなことは、哀れな人間の繰り言だろうよ、弱者の泣き言だろうよ。それからこんな考えは古い、って君は言いたいんだろう。そりゃ古いかも知れない。しかし俺は古くったってかまやしない。古いとか新しいとかいうことは問題にならんのだ。俺の場合に於いては問題にならんのだ。俺は俺の世界のことを言ってるんだ。他人のことなんか知ったことか。いや、待てよ、俺は何を言うつもりだったんだろう。そうだ、俺は死のうと思ったんだ。自殺しようと考えたんだ。ところが死ねなかった。何度もやってみようとした。しかし駄目だった。いや、そうじゃない、死ねないことが解ったんだ。死ねないことがだよ。死ねない、この意味を君が解ってくれたらなあ。しかし解りゃしない、それは自殺する勇気がなくて死ねない、なんていうんじゃない、死んだってなんにもならないってことなんだ。死んでもなんにもならない、そうな-んだ。しかし、なんて言ったらいいのかなあ。なんて言葉って奴は不便なんだろう、言ったとたんに馬鹿馬鹿しくなってしまう。つまり、死んだってなんにもならないって言うのは、俺が死んだって人は生きている、俺が死んだって、癩病はやっぱり存在する、ってことなんだ。しかし、こう言ってもどうも本当じゃないような気がする──。」  辻は口を噤んで、頭の中に適切な言葉を探そうとでもするかのように、じ-っと空間に眼を注いで考え込んだ。しかし、山田はもうさっきから次第に退屈し始めていた。そして辻の眼がぎらぎらと光ったり、熱したヒタイの汗がてらてらとしたりするのを見ているうちに、なんとも言えない、気持ちの悪い、嫌なものを感じてならなかった。俺はいま/癩病’患者と酒を飲んでいる、そういう考えがふと頭に浮んで来たりすると、彼は何か、無気味な、恐怖に似たものを感じた。そして辻が、人生の苦悩を一人で背負い込んだようなことを言っているのに対して、なんとなく不快を覚えてならなかった。それに辻の語りぶりはといえば、絶えず言い直したり、まごついたり、独りでガテンしたり、それはひどく独りよがりな-お喋りに過ぎない、と山田には思われるのである。  話が途切れ、沈黙が続いた。辻はさっきの続きを言おうと口をもぐもぐさせていたが、どうしたのか不意に、はじかれたようにピョコンと立ち上がった。そしてぐるりと辺りを見回すと、黙ったまま坐った。彼の顔にはなんとも言いようのない/困惑とも恐怖ともつかないものが現われては消えていた。 「どうしたのだ。」  と山田も訊いて見ずには-いられなかった。すると辻は、いや、ちょっと、と軽く微笑’したが、どこか強ばるような微笑であった。 「ちょっとね、ここが東京でないような気がしたんだよ。」  と辻は言った。 「東京でないような?」 「なんだかね。夢見てるような、妙な気がしたんだ。俺のうしろに患者がいっぱい坐っているような気がしたんだ。坐ってたってかまやしないよ、そりゃもちろん。だけど、なんだかぞっとしたんだ。足かけ四年/病院から一歩も出なかったのでね、錯覚が起るんだよ。」  そう言って辻はまた微笑’しようとしたが、それも途中から消えてしまって、あとはおそろしく黙り込み、何ごとか深い物思いの中に沈んで行った。引揚げようか、と山田は言いたくなって来たが、辻のそうした姿を見ていると、どうもその言葉が吐きにくく思われた。山田も自然と考え込み始めた。  山田はふと二日前の夜のことを思い出した。自動車が、がたんと揺れた時の動揺がはっきりと蘇って、アスファルトにホオをべったりとくっつけて死んでいる男の姿が眼前に浮き上がって来た。あの男の家族は? 今どうしていることだろう、そういう考えが浮んで来ると、彼は今まで感じなかった罪悪感、自責の念にかられ始めた。成程あれは運転手の過失に相違ない、しかし俺は何の用もないのに、況やあんな愚劣な気持ちで車を走らせたのだ。そう思うと、罪は凡て自分にあるような気がした。おまけに、あの運転手は免許証を取り上げられるか、休職を命ぜられるか、そのどっちかだ。 「しかしね、辻、君も随分そりゃ苦しんだろうけれども、僕たちだって決して楽じゃないよ。ひょっとしたら、そういうどん底までいっそ墜ちてしまったほうが、人間的には幸福であるかも知れないと思うよ。」  山田はあの夜のことを一つ一つ思い出し、また日頃の自分の気持ちの行き場のない、どうにもならない有り様などを思い出しながら言った。すると辻は急に顔を上げて山田のほうを見たが、黙ってまた考え込んだ。山田は、辻がまだ自分の転向を知らないのに気づいていたので、 「じつは-ね、俺も転向してしまったんだよ。」  と告白的な気持ちになりながら言った。そしてこの時になると急に俺という言葉が出た。 「転向した?」  と辻はさっと顔を上げて、鸚鵡がえしに言った。が/すぐ低い声になって、 「俺も多分そうだろうと思っていた。」  と続けたが、その言葉の中には皮肉や冷笑は少しも響いていなかった。そしてひどく重大そうにまた考え込んだ。 「実際のところ、僕らにしたって、自分の生きる方向も、態度も判らないんだよ。‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/全くつかないような情勢で、ただだんだん‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/つつあるということだけが判るんだ。転向したからといって、このまま没落してしまいたいというような気持ちはないし、出来うるならば自分のセイを歴史の進歩に参加させたいのだ。転向して出獄したその頃などは、そういう気持ちで随分あせりもしたし、絶望もした。しかし結局どうしようもなかったんだ。どんなふうにどうしようもなかったかということは、なかなか説明出来ないことだけれども、しかしキミも新聞や雑誌くらいは見ていたろう。小説なんかでも、どんなふうにどうしようもないかということばかり書かれてある始末なんだからね。」  言葉をちょっと切ってそこで山田は辻のほうを眺めやった。辻は下を向いたまま黙って耳を傾けていた。しかし山田はもう語るのが嫌であった。この男の前でこんなことを語って、それがなんになる、要するに俺は、俺の心の中の煩悶を誰かに知って貰いたい:、そして知って貰うことによって同情をかすめ取ろうとしているのだ、なんという愚劣なことだ──。しかし酒の酔もあったであろう、自然と口が開いて、彼はくどくどと出獄後の自分の生活や気持ちを語るのであった。そして現在ではもう‥‥‥‥/テン/テン/テン/を持つということは殆ど自虐に似てをり、というよりも/誠実さは自虐と自嘲とに変形せざるを得ないということや:、そういう自分たちがどんなにせっぱつまった、‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/置かれているかを長々と説明して、 「結局’僕も癩院にいるのとそんなに変わってやしない状態なんだ。そりゃ肉体は腐らないけどねえ、精神が腐るんだ、いや腐らされざるを得ないんだ。君が君の病院に於ける気持ちが僕に伝わらないって残念がるように、僕もまた僕の気持ちは君にはなかなか判って貰えないのじゃないかと思うんだ。そりゃ精神まで腐らせるのはその者の意識の力が貧弱だからだ、って言えばなるほど僕は一言もないが:、しかし少くとも僕はこれもある意味では誠実に生きているつもりなんだ。ところが‥/テン/テン/テン/であるが故に‥/テン/テン/テン/な、腐った状態とならざるを得ないという奇妙な事情があるんだよ。そして時々どうかすると、馬鹿か/白痴みたいな状態にならされたりするくらいなんだ。ニサンニチ前もこんなことがあったよ。それは夜なんだが、もっとも僕はこんなふうな自分を決して正しい状態だとは思っていないよ。それどころじゃなく、僕はこういう状態から抜け出なくちゃならんと考えているし、これを抜けなくちゃ人間としても全く意味ない/愚劣極まるものになってしまうことは意識しているよ。ただね、今は僕がどんな気持ちでいるか君に解って貰えりゃいいんだ。もっとも解って貰ったってそれはどうにもならんことだけれど、しかしまあ聴いてくれ。」  彼はそんなことを喋りたくなった自分を嘲笑したくなった。まるでお互いに自分の苦労を打ち明け合って、お互いに慰め合おうとしている老人たちのようではないか。ほんにまあお前様も随分苦労なさりましたねえ、でもねえわたしもそりゃ随分と苦労な目に会いましただ、まあまあ浮世は苦しいことでござんすわいな、とでも言ってるようなものじゃないか。山田は実際、その時ふとそんな光景を思い出して、なんとなくニヤニヤと笑ったのである。  彼は長いことかかって、二日前の夜のことを/自分の気持ちを説明しながら念入りに話した。もっとも初めのうちはときどき激しい嫌悪に襲われて話半ばに急に口を噤んだりした。しかしその度に、かまうものか、かまうものか、という考えが浮んで来て/なおも話を続けていると、何時とは-なしにその自分の物語にひそかに感心して聞き惚れているもう一人の自分が彼の横に坐り始めるのであった。もちろん彼のこととて、そのもう一人の自分をも極力’軽蔑し’続けたが、しかしそれも結局は放任状態になって:、しまいには彼も興奮した口調となり、勢い余って少し誇張したような部分も出来るという始末であった。むろん/誇張といっても大したことではなかった。 「僕は実際、今考えて見ても、何故あんな、愚劣なことが出来たのか、自分でもよく判らないよ。いわんや土手の上でおいおい泣き出したくなったりしたんだからね。そうだ、僕はたしかにあそこのところで君を思い出したよ。正直のところ僕は君を思い出すのは好きじゃなかった。それはやっぱり、キミの病気のせいだと思うんだ。こう言っても悪く取らないでくれ給へね。ただなんとなくだよ、なんとなく僕は君の病気が恐かったんだ。正直に言って、僕は君を思い出すのが何か厭わしい、暗い、運命みたいなものにぶつかるような気がしてならなか-ったんだ。いやしかし、これだけじゃない、これだけじゃないよ、もう一つ重大なことは、僕の思い出す君の姿というものが、あの監獄の場面を除くと/あとはもうあの頃の、十六から七へかけての丸一個年の君の姿ばかりなんだ。あの頃の僕と君との関係は、嘘のないところ/師とその弟子というあんばいだったからね。だから僕は‥/テン/テン/テン/以来というものは君を思い出す度に自責の念にかられたんだ。もっともこんな自責は単に僕のセンチメンタリズムに過ぎないということは意識しているし、また僕が君の師となったという事実は既に説明するまでもない大きな力の必然だったんだろう。それにも関わらず、僕はどうにも君に悪いことをしたような気がしてならなかっ-たんだ。それに君が病気になってからは尚更なんだ。何故だろう、僕の‥‥/テン/テン/テン/させるゴウに相違ないんだ。‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/はどんなにそれを説明しても人間的にはたしかに汚点なんだから‥‥。」 「待ってくれ、ちょ、ちょっと待って呉れ。どうしてそれが汚点なんだい? 俺にゃ判らん。それを汚点とするかどうかは、その個人の精神によって決定する問題じゃないか。‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/によって更に高まる場合だってあり得るのだからね。キミはさきに定規を作っておいて、その上で人間を決定して行こうとしているんだ。」 「うん、うん、そりゃ君の言うふうにも考えられるかも知れない。しかし僕は、僕として信じている方法を使う以外にないんだ。だからもうちょっと僕の言うことを聴いてくれ。ね君、そういった風な僕の気持ちは判ってくれるだろう。僕はどうも今夜君に僕の気持ちを判って貰いたい気がして来ているんだ。キミはさっき社会のヤツなんかに孤独が判るかって言っていたが、しかし僕も孤独だよ。そりゃ女房もいるし、会社にも勤めているけれども、僕の気持ちを判ってくれる者なんか一人もいやしないし、また話相手になる者だって一人もいないんだ。だから久しぶりで君なんかに会うと、もっとも今の気持ちは千里を隔てているかも知れないが、しかしやっぱり精神的に共通なものが残っているような気がするんだ。これは以前のお互を取り戻そうとする僕の幻覚みたいなものかも知れないがね。しかし僕は君にだけでも僕の気持ちを打ち明けてしまいたかったんだ。僕があんな愚劣な行為をして、おまけに人をひとり殺してしまったりしなければならなかった僕の気持ちは、君なら判って貰えるんじゃないかと思うんだ。」  ここまで語って来て山田は、突然、不快な苛々した/嘔吐しそうな嫌悪が、激しい勢いで盛り上がって来るのを感じた。彼はもう一言も口をきくのが嫌になった。彼は急いで冷たくなった盃を取り上げると一口に飲み、続けてまた二’三回飲んだ。こんな小僧に、俺は何を打ち明けてるんだ、そういう考えが頭に浮き上がって過ぎると、彼は苦々しい顔つきになりながら:、しかし銚子を取り上げると辻のサカズキに流し込んだ。そして辻の顔を眺めたとたん、彼はなんとなくはっとし、どうした心のはずみか、しまった、と頭の中で呟いていた。何がしまったんだ、ふん、と彼は妙に不貞腐れた気持ちになって自分の心を静めたが、それが静まったと思うと今度は言いようのない羞恥が湧いて来始めた。なんのための羞恥か、なんのための羞恥か。  辻は冷然とした顔つきになって山田を眺めている。その顔には今までなかった人を食った、冷笑、明らかに相手を軽蔑し切った表情が流れていた。辻は物を言わなかった。そしてやがてその冷笑が消えると、急に何か言いたげにノドを動かしていたが、それも-よしてしまい、突然ふらりと立ち上がった。 「帰るのか。」 「うん、もう遅いのでね。」 「待て、ちょっと待ってくれ。」  そして辻を坐らせると、山田は微笑’しながら、 「勝ったからっていきなり引揚げるのは卑怯だよ。」  辻は瞬間’山田の言葉を理解しかねるような顔つきをしたが、どうしたのか憂わしげな、重苦しい物思いに沈み始めた。 「僕は-ね、ちょっと君に今批評されたかったんだよ。だって君はさっきあんな表情をしたじゃないかね。」  と山田は辻の顔を覗き込んだ。辻はやっぱし黙って考え込んでいる。そしてちょっと箸を動かせると、残り少くなった酢の物をつまんだが、食おうともしないで箸を置いた。かなり’長い沈黙が二人の間を流れた。と、急に辻は顔をあげてきっと山田を見、 「言うよ、言うよ。みんな言ってしまおう。いいね。」  いいとも、と山田が答えるマも与えないで辻はいきなり、 「嘘だ、君は嘘を言ってるんだ。キミは芝居を打ったんじゃないか。」  と叫ぶように言い切ると、急にまた冷笑をホオに浮べて、毒々しい表情で山田をじっと眺めた。 「芝居?」  と山田は思わず聴き返したが、むっと怒気が衝きあがって来た。今まで大切に蔵って置いたものを、足蹴にされたような気持ちである。 「そうだ。芝居だ。キミはお芝居を打っていたんだ。キミはお芝居を打って、いい気持ちになりたかったんじゃないか。人間という奴は非常に真剣な気持ちでお芝居を打つぜ。興奮し、泣き、涙を流しながらお芝居を打つんだ。それは嘘のない、自分でも気のつかぬ、のっぴきならない気持ちでお芝居を打つんだ。そういうのっぴきならないところへわざと自分の気持ちを落し込んで、その気持ちを自分の本心だと自分で信用してしまうんだ。素朴人ならそこらで芝居と本心とがごっちゃになってしまうんだ。ところで、ところで、キミ、キミは自分でちゃんと自分の芝居を承知してやってるんじゃないか。何故なら君みたいな自意識をいっぱい頭につめ込んだ男に、自分のお芝居くらい気のつかない奴がいるもんか。君の話ぶりで俺はちゃんとそれに気がついた。君が何故そんな芝居を打たなくちゃならないか、判るさ。そんなことは俺にだって判る。社会意識という奴だろう。君がさっき言った、歴史の進歩に参加するって意識さ。しかしいきなり、直接に参加するのは危険だからね。だからキミはどうにもしようのない情勢って言葉を発見して置いて、その上で君はその大切な意識を燃やしているんだ。そのほうが芝居としては深刻だよ。しかもどうしようもない情勢だからキミの身には、たとえ人を車で轢き殺しても危険はないさ。自分の首が斬られるか、他人の首を斬るか、誰だって他人の首を先に取ろうとするんだ。君の本心は歴史なんか少しも進歩しなくったってかまやしないんだ。ただただキミ自身が平和でありさえすればいいのだ。」 「それじゃキミは、凡ての思想は虚偽だって言うのか。そりゃ君の言う通り人間の本能というものは醜悪で自我的で、他人を守るよりも先ず自己の武装を整えようとするだろう。しかしキミは人間の醜悪が、そういった悪が、何時までも地上に存続することを望んでいるのか。僕は少くとも、我々の内部にそうした醜悪を認めて、それと戦うことを正しいとしているんだ。」  山田はむらむらと湧き上がって来る怒気を鎮めながら、しかし興奮した声で言い放った。辻は、さっきの興奮状態とは似ても似つかぬほど落ち着いて、冷然と山田を眺めている。それは意地悪な、毒けを含んだ表情であった。 「そりゃ君の言う通りだ。いや君の言う通りかも知れない。しかし要するにそれは君の自己弁護さ。その証拠に、君はお芝居を打ってるじゃないか。いや、芝居だけとは言わん、俺は今夜はなんでも言うぞ、何もかも言ってしまうぞ、くさいものの蓋を俺はあけてしまいたいんだ。いいか、君はお芝居を打つ前に既に‥‥‥/テン/テン/テン/いるじゃないか、何故‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/。それほど‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/持っていながら、‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/。僕の眼には‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/が映っている。どんな‥‥/テン/テン/テン/でも、たとえ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/はなければならない、そんな理屈もあるさ。しかし理屈に過ぎないんだ。自己欺瞞だ。君が監獄の中で見たものは、まさしく運命というものであったんだ。その運命に翻弄される君という個人であったのだ。きみは自分の本心にそれがないって言うか。いや言わさないぞ。さっきキミ自身そう言ったじゃないか。キミはそのとき自分が、それまでは社会的なものであり、社会という地盤の上に立っていた自分が、社会から断ちきれ、地盤はゆらいで崩れて、君は全くの、全然独りぽっちになってしまったのを意識したんだ。いや、意識なんてものじゃない、もっと深い、コンゲン的な、それは肉体で、全身でじかに感じたんだ。感じたが、しかしキミはその時すぐ顔を背けてしまったのだ。恐ろしいからな。実際、孤独を意識することは恐ろしいことだからな。顔を背けたんだ。君のお芝居はその時から始まったのさ。だから現在の状態で君が孤独だとか、苦しいとか言ったって、そんなのは嘘だ。もし幾らかでも苦しいことがあるなら、それは自分のお芝居に気がついているからだ。ふん、そんなのは贅沢っていうんだ。顔を背ける場所があったのだからな。抜け道だよ、それは。君の場合には抜け道があったんだ。しかし俺の場合には抜け道が一本もなかった。ほんとに、文字通り、抜け道は一本もないんだ。それは真っ暗な、長い長い、どこまで行っても果てのないトンネルのようなものだった。そうな-んだ。隧道よりももっとひどい。死ぬまで、死ぬまで果てはないのだ。この真っ暗な中で、泣いたり喚いたりしているだけだ。」  辻は突然’言葉を切った。毒々しい表情は何時の間にか消えて、なんとなく悲しげな眼差しで山田を見上げた。語りぶりも初めのうちは山田に毒づいているようであったのが次第にモノローグ化して行き:、俺はこんなことを喋りまくっているが、しかしこの俺は今後どうして行ったらいいのだろう、とでも思い迷っているかのようであった。が、山田は聴いているうちに次第に不愉快さが募って、嫌らしいものを辻のうちに感じ始め、顔を見合わすのさえも厭わしかった。辻は人間を二つに分けて考えている、それは健康者と病人とだ。そしてこの男は健康な人間に対して本能的な憎悪を持っている。山田はそう思って、辻と自分との間には最早絶対に近づくことの出来ない裂け目が出来ているのを感じた。この男に向かって自分の気持ちを理解して貰おうと思い、いい気になってお喋りをした自分を考えると、彼はいたたまれないものを覚えた。彼はもういっときも早く別れてしまいたかった。が、辻はまたしても独り言’とも、山田に聴かせようともつかない調子でぶつぶつと呟き続けるのであった。 「しかし、俺は人間を信じる。人間性を信じるよ。俺はあの療養所へ入って初めて人間に出合った。人間はどんなに虐げられても、どんな屈辱を浴びせられても、決して心を失いはしないんだ。いやそうじゃない、どん底に落ち込んだ時、初めて人間はその人間性を獲得するんだ。社会の奴らはみな宙ぶらりんでいる。色んな自由や、色んな幸福が許されているから駄目なんだ。そんなものを、そんな幸福や自由を全部、失ってしまった時になって、初めて人間は人間になる。それは我々にまつわりついている下らんものが全部洗い落されるんだ。社会の奴らは苦しんだこともないくせに苦しんだような恰好をする。孤独になったこともないくせに独りぽっちになったような真似をして見る。愚劣だ。みな自己満足だ。だから彼らが癩病院にやって来ると、どんな偉そうな連中でも化けの皮をはがされてしまう。俺はそういう風景を何度も見た。そうだ。俺は病気になったが、ちっとも不幸じゃない。俺は人間を信じているから、生きることが出来るに違いないんだ。人間が信じられないでどうして生きられるんだ。俺も初めのうちは毎晩’社会の’夢を見た。社会を憧れたんだ。しかしもうそんな夢なんか見やしない。俺は-なにもかにも-みな捨てちまったよ。しかしそれが惜しいなんておもやしない。思うもんか。俺は今後何年でも、あの世界で暮すつもりだ。それでいいんだ。どんなに苦しかったって、独りぽっちになったって、かまやしない。俺は黙って、独りでそれに堪えて行く。しかし、随分苦しいことだろうなあ‥‥。」  辻はちょっと山田の顔を眺め、それから下を向いて黙り込んだ。いま自分の言ったことをじっと頭の中でくり返しているかのようである。それは堪えられない痛苦を眼の前に置き眺めながら、懸命に自分に向かって説き聴かせているような工合だった。 「おい、もう行こうか。」  と山田は我慢出来ない気がしてそう言った。 「え?」  と辻はどうしたのかきょとんとした顔つきになって山田を見上げた。頭の中に次々に浮んで来る想念に辻は吾を忘れていたのであろう、瞬間辻の顔は白痴のように無表情になった。が、突然はじかれたように立ち上がった。 「いくよ、行くよ。や、キミ、遅くまで、すまなかったね。ほんとに。俺、何を喋っていたんだろう、なんだか、俺今夜はどうかしている。どうかしてるぞ。そうだ、会計、俺する。」  おそろしく狼狽した調子で言うと、彼は不意に顔を真っ赤にして夢中になって部屋の障子をあけて/慌しげに女中を呼んだ。  二人は広い道を駅に向かって歩き出した。もう夜はかなり更けて、人通りは殆どまばらになっていた。長い時間の割には酒量は少なかったので、二人とも’酔っぱらってはいなかった。辻はむっつりと黙り込んで、何か深く考え耽っている。山田も、もう物を言うのが嫌であった。腹立たしく不快で、そしてみじめな気持ちでいっぱいだった。俺はこの男に今夜は完全にやられた。  間もなく’駅に着き、二人は電車ホームに昇った。サラリーマン風な男がシゴニン、あちこちに散って、ホームをこつこつ行ったり来たりしているきり、乗客の影もなかった。 「じゃあキミ、まあ体は大切にしてくれよ。そのうち訪ねるからね。」  と山田は嫌々ながら別れの言葉を述べた。こんな言葉を吐くのも彼には面倒くさいばかりでなく、今夜は不愉快だった。と、辻は不意に手を差し出して山田の手を掴んだ。山田はびっくりして慌てて手を引っ込めようとしたが、仕方なく辻の手を握った。相手の病気がぴんと頭に来ると共に、彼はひどく照れ臭かった。 「俺、今夜、随分無茶言ったなあ。怒らんでくれよ、怒らんでくれよ。」  と哀願するような眼つきで言った。 「うん、いいんだよ、そんなの。俺も色んなことを考えさせられた。又、機会があったら出て来てくれ。」  嘘つき、と山田は自分の言葉を聴きながら思ったが、しかし辻の哀願的な言葉を聴くと妙に哀れっぽい気もした。これから癩病院に帰って行こうとしている辻を見ると、やはりなんとなく人生の侘しいものに触れる思いがするのである。辻の孤独な姿を、薄暗い夜の閑散な駅頭に彼は初めて見たような気がし出したのだ。と、辻は不意にぼろぼろと涙を流し始めた。そしてひきつったような声で、途切れ途切れに、 「判らん、俺、は、何もかも、判らん、判らなくなってしまった。ああ、どうしたらいいんだろうなあ‥‥。」  しかしその言葉の終らぬうちに電車が来た。山田は、左様なら、と言って乗った。ドアがしまった。山田は硝子越しにホームの辻に向かってちょっと手をあげた。辻は微笑’しようとしたが、急にやめてしまって、反対側のホウへ歩いて行くのが見えた。なんだかよろけて行くようであった。  山田の電車が動き始めた時、辻の乗る電車が轟音を立てながら辷り込んで来た。とたんに山田は思わず、はっとして窓に手をかけた。恰度’突っ立った杭が倒れるように、向う側の線路にゆらりと倒れかかった辻の体が、瞬間/はっきりと山田の眼に映ったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  次の駅に電車が停まると、山田は慌ててホームに飛び降りた。電車を乗り換えて引き返そうと思ったのである。しかし降りた-とたんに彼はもう引き返す気持ちがなくなっていた。頭蓋骨をめちゃめちゃにされ、そのうえ胴体の辺りから二つに轢断されているかも知れない辻は、血液と肉と、脳味噌とでぐちゃぐちゃになっているに違いない。彼はそう思うともうむっと嫌け-がさして来た。しかもその肉にも血にも病菌がウジャウジャしているのだ。彼はなんとなく、腐敗した屍体を思い浮かべてならなかった。それにもう死んでしまっているに決まっているのに、わざわざ引き返したとて何にもならないじゃないか。彼は屍骸に係わりたくなかったのだ。彼の乗って来た電車は、一度に幾つものドアをしめて出てしまった。彼は取り残された形で、暫くぼんやりとホームに突っ立っていた。  彼は急に半泣きのような微笑をニヤリと浮べると、階段のホウへのろのろと歩き出した。彼は自分の芝居っ気に気づいたのだ。もしさっき/辻にこうした芝居っ気を嘲笑されなかったら、図々しく引き返して見たかも知れなかった。もちろん芝居っ気に気づかぬ振りをして──。しかし今は-もう/そうするのも不快であった。彼は電車から飛び降りぬ先から/引き返して見る気なぞ/てんでなかったのである。しかし引き返そうという気の起って来ない自分に気がつくと、なんとなく悪いことをしているような気がし、今はびっくりして慌しく引き返すのが人間として本当だと思ったのだ。するとそのとたんに自づと気分が慌しくなり、びっくりしたような工合になった。その気持ちの波に乗って飛び降りたのであるが、降りると同時に/辻の血だらけになった屍が浮んで来たのである。  彼はどこかで、独りで飲みなおそうと考えながら駅を出た。しかしものの半丁と進まぬうちに、もういっときも早く家に帰って体を休めたい気持ちになって来て、また駅に引き返した。乗客は二’三人しかなかった。彼はベンチに腰をおろすと、何故ともなくぐったりとした気持ちになって、溜息に似たものを一つ吐いた。なんとなく行き場の失せた、孤独なものを感じていた。妻の顔が浮かんで来ると、頬桁を一つぴしりと張り倒してやりたいような愛情が湧き上がって来始めた。ところで、辻のことだけは奇怪にもこの時すっかり忘れてしまって/全く浮んで来なかった。時々ちらりとかすめることがあったが、彼は急いで、本能的に心を外らした。  やがて遠くで電車の音が聴こえ出した。彼は立ち上がって、ホームの端に立って待った。いま飛び込んでは少し早過ぎる、彼はふとそんなことを考えた。電車は徐行しながら、しかしかなりの速力で突進して来た。今だ、と彼は心の中で強く叫んだ。瞬間、重々しく線路を押しつけながら車体は静かに通過し、やがて停まった。彼はその黒い箱の下で胴体を轢断されて転がっている自分の体を頭に-えがきながら、明るい箱の中へ入った。間もなく車輪は動き始め、彼は、なんとなくほっとした。もう凡て済んでしまった、という感じを味わいながら、何故ともなく速力を計って見る気持ちになった。物質の運動というものがこの時ほど頼もしく心地よかったことはない。  アパートへ帰って見ると、みつ子はもう頭から布団を被って寝ていた。おい、と呼んで見る気になったが、すぐ面倒臭く思われ出したので、そのままドカンと火鉢の前に坐って/バットに火をつけた。ひどく体が疲れていた。彼は仰向けに転がると、足を火鉢の上に乗せて、鼻から煙を吹き出した。辻は、しかし俺に会う前から死ぬ気でいたのだろうか、それともあの駅に来て突然’死ぬ気になったのだろうか。そういう疑問が浮んで来ると、続いて彼の身振りや表情や、言葉つきなどが次々と浮んで来た。ここが東京でないような気がする、とピョコンと立ち上がって言った時の、あの恐怖の眼差しが浮んで来ると、山田は何か薄気味悪いものを感じた。彼は癩病院がどんなところであるか皆目知らなかったが、何か真っ暗な、太陽の光線もささない、陰惨なものを感じた。辻は恐らくは俺に会う前から死のことを考えていたのに違いない、と山田は考えた。彼はふと、自分の芝居っ気を突かれた時のことを思い出して、あれは結局/辻が辻自身を突いた言葉に過ぎないのだと気づいた。また山田の‥/テン/テン/テン/対して言った言葉も、あれは山田の‥/テン/テン/テン/に辻の心理を映して見ただけのものに違いなかった。しかしそこまで考えると、彼はもう辻のことを考えて行く気がなくなってしまった。なんとなく嫌けがさして来てならないのである。 「おい。」  と山田はみつ子を呼んで見た。返事がなかった。彼はもう一度呼んで見る気がしなかったので、残り少くなった煙草をじゅっと吸って火鉢に投げ込み、天井を眺めた。するとまた辻の姿が浮んで来て、もう線路の人だかりもなくなり、血は洗われ、屍体はどこかへ運ばれてしまったに違いないと思った。彼は人影のない夜の駅と、杭の様に倒れかかった辻の体とを描き出して見た。しかしやはりあいつは不幸な男だった、しかしああなればやっぱし死んだほうが良かったのだ。 「早く寝なさいよ、何やってるの。」  とみつ子が不機嫌そうに布団から顔を出して言った。と、どうしたのか/むっと山田は怒りを覚えた。それを押さえると、また俺は人をひとり殺した、と言いたくなって来たが、今夜はもうやめにした。そう言って彼女の不機嫌を一撃する効果を感じている自分を意識したためだ。彼は寝巻に替えると、また火鉢の前に坐って新聞を広げて見た。彼はこんな夜は一人で寝ることが出来たらどんなに良かろうと思って、誰か自分の横に人間のいることがうるさくてならなかった。 「何やってるのよ。」  とみつ子は甲高くなりながら言った。 「新聞読んでるんさ。」 「早く寝たらいいじゃないか。」 「‥‥‥◇。◇。◇。」 「よう、いまイクジだと思ってるの。」 「うるさいね。」 「寝なさいよ。早く。」 「静かにしろ。」  するとみつ子は不意にしくしくと泣き始めた。山田はふと今朝のことを思い出した。今朝彼女はしつこく山田に花見に行ってくれと奨めたのだった。山田は花見なぞ行っても行かなくてもいいと思っていたのであるが、あまりしつこく言うので腹も立ち、どんなことがあってもあんな連中と酒なぞ飲まん、と断言したのだ。彼女はもちろん夫が会社の連中と折合いの悪くなることをひどく恐れていたのである。 「おい、もう泣き落としの手なんぞ古い-ぞ、ドイツ人には効目はあるかも知れん-がね。」  と山田は笑いながら言った。が、言ってしまってから、言うのじゃなかった、と思われ出した。彼は今までも妻と口論する度にこの言葉を思い出してたが、これだけは口に出すのをやめていた。なんと言っても、この言葉は彼女の第一の急所であり、疵口であったのだ。彼女の今の生活態度が如何に愚劣なものであるにしろ、その必死な気持だけは掬んでやらねばならぬものがあると山田は考えていた。もっとも山田は彼女の気持とは反対ばかりの行動をとり、ともすればその必死な気持ちをからかって見たくなるのであったが、その疵口だけは労ってやっていたのだ。  みつ子は突然がばとはね起き、激しく泣きじゃくりながら言い出した。 「嘘つき! わたしと一緒になる時なんて言ったの、あんた、なんと言ったか思い出して見い。結婚することはお互いに高まることを前提としなければいけない、そして、結婚することによって共同に戦うことだって言ったじゃないか。何時お互いに高まるようなことをしてくれたんだ。何時共同になって戦ってくれたんだ。何時だってあんたは、わたしの気持ちを踏みにじって来たじゃないか。わたしが一生懸命になって生活を持ち直そうと考えているのに、あんたはそれを毀すことばかりして来たじゃないか。少しはわたしの気持だって判ってくれたらいいじゃないの。」 「へえ、そんなことを言ったことがあったかね。」  と山田は苦笑しながら言った。 「なに言ってるんだ、とぼけて。またからかってるじゃないか。何時だってあんたはそんな調子よ。」 「そりゃもちろん今だってその言葉を信用するよ。しかしだ、いいか、まあそう腹ばかり’立てないで聴け、いいか、そんならお前’一度くらいでも俺の気持ちを判ろうとしたことがあるか。」 「そんならあんた一度でもわたしに自分の気持ちを教えてくれたことがあったの。」 「大有りさ。二日前の晩だってあのとおりじゃないか。少々’照れくさいのを我慢して、しかも具体的に俺の行為と心理を平行させながら話したくらいじゃないかね。それをお前は、理解出来なかっただけさ。あるいは理解しようとする気がてんでなかったんだね。」 「あれはあんたが勝手に独り言言ったんじゃないか。」 「そうか、そんならもういい。」 「駄目駄目。あんたがよかったってわたしがいけない。今夜はどんなにしたって-かたをつけて頂戴。」 「かたを? ふん、ではお前はお別れになりたいのかね。はっきり言へ!。」  山田は自然と声が鋭くなった。みつ子は叫ぶように言い出した。 「何時、いつ別れてくれって言った、いつ別れてくれって言ったんだ。あんたが、別れたいからそんなこと言うんだ、そんなこと言うんだ、そんなこと言うんだ。わたしを、わたしを馬鹿にしてるんだ。」  が、そこまで言うとノドがつまって、うううというような声を出して眼からぼろぼろと涙を落した。彼女は無意識的に布団の端を両手でしっかり掴んで、手放しで泣いていた。山田にはもちろん女の気持なぞ判り切っていた。かたをつけてくれとみつ子が叫んだのも、勢い余って辷った言葉である。とは言え、こういう言葉を辷らせるからには、彼女の中にこういう言葉を辷らせる動機、即ち別れたいという気持も時には起こるのであろう。しかし別れたあとをどうするか、これが彼女には不安なのだ。それに彼女は山田という男がなんとなく好きなのだ。彼女は以前のような山田、情熱的で、意志的で、どこから見ても頼もしく/輪郭の鮮明な山田を眺めて、以前のようにうっとりとした気持ちが味わいたいのだ。しかし山田はニヤニヤと笑いながら、なお意地悪く訊いて見た。 「しかしお前/かたをつけるつてことは、そう考えるより考えようがないような気がするがね。」 「勝手にせえ、そんなに別れたかったら別れてやる、別れてやる。あ、あ、今まで人をさんざん苦労させて、くやしい。別れたら首をくくつて死んでやる。わたしが、あんたがいないあとでどんな気がして、どんなことしていたのか知っているんか。」 「首をくくるより鉄道自殺のほうがいいよ。」  と山田は何故ともなく言った。 「鉄道なんかで死ぬもんか、どうしても首をくくるんだ。あんたがいないあとで、わたしがどんなことしたか‥‥。」 「そんなに首をくくりたけりゃそれもいいさ、むろん俺は、留守のうちにお前がしたことなんか知らんね。」 「死のうとしたんだぞ。」 「ほう、なるほど。しかしまだ生きてるじゃないか。」 「からかうない。本気に死んでやるつもりだった。ああ、あのとき死んどけばよかった。」  とみつ子は身をもだえるようにしながら/涙を手の甲でこすった。山田はもう面倒臭くなったし、それにさっきからまた辻のことを思い出し始めていたので、黙り込んだ。なんという愚劣なこと、と彼は、いま自分のみつ子と争っている姿を横合いから眺めるような気持ちで呟いた。彼は、彼を押し出そうとするみつ子の両手を片手に掴んで、無理にトコに入り布団を被った。そして大きく一つ欠伸をすると、 「喧嘩はまた明日’続きをやるとして、今夜はもう睡いよ。」  と言って眼を閉じた。彼は実際ひどく眠気が襲って来るのを感じた。 「睡るもんか、睡るもんか。」  と彼女は言いながら、山田を布団の外へ押し出そうとした。しかし山田を力まかせに押すと、彼はちっとも動かず、反対に彼女の体が後ずさってしまうのでよけい腹が立った。それで山田の首に腕を巻きつけると、一生懸命に締めつけ始めた。山田はじっと眼を閉じたまま、次々に浮んで来る辻の姿を追った。辻が倒れ込んだ駅の仄暗い閑散な風景を思い出すと、なんとなく侘しいものを感じた。辻は死んだ、しかし俺は生きている、どっちがいいか判りはしない、そして生きている俺は、こんな愚劣な生活を今後何年も何年も続けて行かなければならない、と彼は辻の口調を真似て考えた。しかしこれに堪えて行くより仕方もないのだ、ただじっと堪えること、‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/兎に角、じっと堪えること。ただそれだけでも並大抵ではない、そしてただ堪えて行くだけでも貴いことかも知れぬ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/のは愚劣だと辻は言って死んだが(辻はそれをなんと言おうとも捨て切れなかったのに違いない)しかし今はじっと寝かせて‥/テン/テン/テン/ているだけでも貴いのだ:、自分の‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/であった、辻の言ったように、たしかに自分は自分という個人の運命的な姿を見た:、しかしそれだけが‥/テン/テン/テン/の全部では決してない、がしかし‥‥‥‥/テン/テン/テン/なのだ、ただじっとあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/、自分の個人の運命に堪えて行くことそれが最も正しかったのだ、もしあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥:、‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/しなかったら、もっと今の‥‥‥/テン/テン/テン/は異っていたかも知れぬ、いやそれが異らないにしろ少くともあの‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/がもっと多いに違いない:、‥‥‥‥/テン/テン/テン/によって社会はあの‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/なったのはたしかだ、とは言えそれは凡て過去のことだ、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/テン/テン/テン/それ以外に一つもない──。そこまで考えた時、頭のどこかにちらりと、妥協はないか、という言葉がひらめいたが、 「うるさいじゃないか!」  とみつ子に向かってどなりつけた。 「な、なにがうるさいんだ。」 「うるさい、ばか!」  激しいフンヌが湧き上がって来るのを山田は押さえながら、 「静かに寝ろ。」 「寝るもんか、寝るもんか。」  とみつ子は一度横たえた体をまたはね起きて坐った。 「なぐるぞ。」  と山田は思わず声が荒くなった。 「なぐれ、なぐれ。ええ、くやしい。」  そのとき山田は突然’辻の冷笑した顔を思い出し、胸の中が焼けるような気がして平手が飛んだ。みつ子はわっと泣き声を立てながらむしゃぶりついて来た。山田はむっくり起き上がると女の首にぐっと腕を巻いて引き寄せた。みつ子は足をばたばたさせながら身をもがいた。山田は怒りと愛情とのごっちゃになった気持ちで、首に巻いた腕に力を加え、激しく締めつけた。瞬間みつ子は山田の顔を見上げるようにしてホオに微笑に似たものを浮ばせたが、急にさっと恐怖の色を浮べると、う、ううと息をつめてもがいた。山田の顔に浮んだ奇怪な憎悪と愛情とのもつれた表情に、彼女はぞっとした。彼女の眼からはもう涙も出ていなかった。彼女の表情は恐怖に強張ってしまったのだ。彼女は夢中になって首に巻かれた男の腕をもぎ放そうとしたが、山田の腕は荒縄のようにしまって固かった。彼女はやがてぐったりと力が抜け始めた。  山田は、はっと電気にでもかけられたように腕を放すと、 「みつ子、みつ子。」  と叫んで肩をゆすぶった。瞬間みつ子は放心したような表情でぼんやり山田を見つめていたが、突然はじかれたように一尺ばかり後ろへ辷り退ると、布団に顔を埋め、声も立てずにしくしくと泣き始めた。山田は妻を眺めながら、今の自分の気持ちを彼女に説明し、納得させることは不可能だと思った。なんとなく暗澹としたものを覚え、自分も泣いて見たかった。彼は黙ったまま彼女を抱き寄せると、 「寝なさい。」  とささやくように言って、自分も頭から布団を被った。なんだか涙が出て来そうであった。いま泣かなければ、俺はもう生涯’泣くことすら出来なくなる、そういう考えが自然と頭に浮んで、彼は悲しみの高まって来るのを待つような気持ちであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【──1937.4.23──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「テイホン◇ 北條民雄全集◇ 上巻」東京創元社】 【   1980(昭和55)年10月ハツカ初版】 【ショシュツ:「中央公論」】 【   1938(昭和13)年4月号】 【◇テイホンは、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5の86)を、大振りにつくっています。】 【◇促音「つ」と「小さい/つ」の混在は、底本どおりです。】 【入力:Nana ohbe】 【校正:富田晶子】 【2016年9月9日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”///www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。