◇。◇。◇。◇。◇。 泥棒と若殿 山本周五郎 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その物音は初め広縁のあたりから聞《聞こ》えた。縁側の板がぎしっとかなり高く鳴ったのである、成信《+シゲノブ》は本能的に枕許の刀へ手をのばした、しかし指が鞘に触《=ふ》れると、いまさらなんだという気持になって手をひっこめた。  ──もうたくさんだ、どうにでも好きなようにするがいい、飽き飽きした。  こう思いながら、仰向きに寝たまま腹の上で手を組み合せた。右がわの壁に切ってある高窓の戸の隙間から、月の光が青白い細布《ホソヌノ》を曳いたように三条《+ミスジ》ながれこんでいる。ついさっきまで夜具の裾のほうにあったのが、今はずっと|短か《短》くなって、破れ畳の中ほどまでを染めているにすぎない、するともう三時ころなのだなと思った。  物音は広縁から|とのい《トノイ》の間《マ》へ|はい《入》った。ひどく|用心ぶか《用心深》い足つきである。床板《床イタ》の落ちているところが多いから、そこでもときおりぎしっぎしっと軋むが、そのたびに物音はぴたりと止って、|暫ら《暫》くは息をひそめている|ようす《様子》だった。そのうちにあまり用心しすぎたせいだろう、畳の破れめにでも|躓ず《躓》いたらしく、どさどさとよろけざま、なにかを踏みぬく激しい音が聞《聞こ》えた。  ──切炉へ踏みこんだな。  成信《シゲノブ》はこう思ってつい|にやにや《ニヤニヤ》した。うろたえた相手の顔が見えるようである。へまな人間をよこしたものだと、苦笑《=にがわら》いをもらしたとき、そっちでぶつぶつ呟やくのが聞《聞こ》えた。 「おう痛え、擦り剥《む》いちまった、ちきしょう、なんてえ家だ、どこもかしこもぎしぎし鳴りあがって、こんな陥し穴みてえなものまで有りあがって、──へっ、おまけにすっからかんで、どこになにがあるかわかりあしねえ、ちきしょう、まるで化物屋敷だ」  擦り剥《む》いたところを縛るのだろう。手拭かなにか裂く音がした。こんどは人がいないものと信じたか、独りでしきりに|ぐち《愚痴》や不平をこぼしながら、|暫ら《暫》くそこらをごそごそやっていた。それからやがて襖をあけ、この寝所《=シンジョ》へとはいって来た。  ずんぐりと小柄の男だった。短《=みじ》かい半纏のようなものを着て、股引をはき、素足で、頬|かぶ《被》りをしていた。もちろん武士ではないし、刺客などというものとも類《=ルイ》の違う人間だ。  ──とするとこれは、ことによると盗人というやつかもしれぬ。  そう思うと可笑くなって、成信《シゲノブ》はついくすくす笑いだした。相手はぎょっとしたらしい。こっちへふり返り、眼をすぼめて、そこに敷いてある夜具を眺め、その中に人間の寝ているのを見た。それからとつぜん「ひょう」というような奇声をあげてとびのいた。 「だ、誰だ、──なんだ」  男はこう叫びながら、及び腰になってこちらを覗いた。成信《シゲノブ》は黙っていた、仰向けに寝たまま身動きもしない、──男は迷って、逃げようかどうしようかと考え、そのあげくやっと決心したのだろう、やおら片手の出刃庖丁を持ちなおし、それを前方へつき出してどなった。 「やい起きろ、金《かね》を出せ、起きて来い野郎」 「─《◇─》───」 「金《かね》を出せってんだ、おとなしく有り金《=がね》を出しあよし四《/四》の五のぬかすと唯あおかねえ、|どて《土手》っ腹《ぱら》へこいつをおんめえ申すぞ」  成信《シゲノブ》はやっぱり黙っていた。男はじっとようすをうかがい、ひと足そろっと前へ出た。 「ふてえ野郎だ、狸ねえりなんぞしやあがって、それとも何か計略でも考《-かん》げえてやがるのか、へっ、こっちあな、表《=おもて》に三十人から待ってるんだぞ、ぴいとひとつ呼笛《+ヨビコ》を吹きあよ、《:、》へっ、命知らずの野郎どもがだんびら物をひからしてとびこんで来るんだ、じたばたすると命あねえぞ」 「──面白いな、ひとつそれを吹いてみろ」 「なにょう、な、なんだと野郎」 「──その呼笛《ヨビコ》を吹いてみろと云うんだ」  含み笑いをしながら成信《シゲノブ》がそう云うと、男はうっと詰り、それから出刃庖丁をゆらゆらさせ、精いっぱい凄んで喚きたてた。 「ふざけるな、しゃらくせえや、なにょうぬかす。笑あせるな野郎、ちきしょうめ、──やい、なんでもいいから金《-かね》を出せ」 「──気の毒だが金《-かね》はない」 「てめえおれを素人だと思ってるのか、これだけの大屋敷《オオ屋敷》で金《-かね》がねえ、へっ、金《かね》はないってやがる、ばかにするなってんだ、やい起きろ、こっちあちゃんとめどをつけて来たんだ、四《=し》の五《=ご》のぬかすと家捜しをするぞ」 「それはいい思いつきだ、遠慮はいらないからすぐやってみろ」  成信《シゲノブ》はさらに、こうつけ加えた。 「捜してみてもしも有ったらおれにも少し分けて呉れ」 「ふざけたことを云いやがる、しゃらくせえや、ばかにしやあがるな、野郎、みていろ、そこを動くと命あねえぞ」  こう脅迫して、こちらがじっとしているのを認め、そろそろ家捜しにとりかかった。しかしそれはそう安楽にはゆかなかった。襖はすぐ倒れるし、戸棚の戸はあけるなりおっこちた。がらがらとなにかが倒れ、:「痛《いて》え」という声がしたと思うと、またどこかを踏みぬいたとみえ、板のへし折れるはげしい音が聞《聞こ》えた。 「ええいめえましい、こんちきしょう、なんてえ家だ、なんてひでえ家だ」  こう云ったとたん、男はばりばりどすんとどこかへ落ちこんだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  助けて呉れと云ったようでもある。だがそうではないかもしれない、:「やい」とか「しゃらくせえまねをするな」というような|罵し《罵》り声《=ゴエ》は、慥かに床下のほうから聞えて来た。──それから|暫ら《暫》くごそごそやっていたが、間もなく這いあがったのだろう、そこでまたぶつぶつ不平をこぼした。 「とんでもねえ家《’家》へへえっちゃった、がたがたですっからかんで、満足な建具ひとつ有りあしねえ、うっ、──ぺっぺっ、ちきしょう、なにか口ん中へとびこみあがった」  だがまだ諦らめきれないとみえ、納戸のほうへいってなにか掻きまわしていた。そのうちに天床《天井》から大きな石でも落ちたように、がらがらずしんめりめりと凄《=すさ》まじい物音がした。男は悲鳴をあげ、とびのくとたんに柱へ頭でもぶっつけたものか、ごつんという音がして、こんどはもっと大きな悲鳴が聞《聞こ》えた。 「おい、たくさんだ、もうよせ」成信《シゲノブ》はふきだしながらこう呼んだ、:「──本当になにも有りあしない、捜してもむだだからやめるがいい」  ああ吃驚した、とんだめにあった、ひでえ家だ、なっちゃねえや。こんなことを云いながら男はこっちへ戻って来た。 「やい、本当になんにもねえのか」 「おまえの云うとおりすっからかんだ、おれも始めにそう云ったではないか」 「笑いごっちあねえや、おお痛え」  男は方々《ほうぼう》を撫でまわしながら、夜具のそばへ来て坐った。右足の股引を捲《まく》りあげて、そこを布切《布切れ》で縛ってある。さっき擦り剥《む》いたところなんだろう。──男はあたりを眺めやり、溜息をついた。するとそのとき彼の腹の中《’中》でくうくうぐるぐると妙な音がした。 「腹がへってるんだが、なにか食う物はねえか」 「ないようだな」 「晩飯の残りでいいんだ、なにか食《=く》わしてくれ」 「──それがないんだ」  舌打ちをして男は立上《立ち上が》った。それから厨のほうへいったが、なにかがたがたやりながら、ひどく腹を立てたように、:「だだっ広くってなにがどこに有るかわからねえ」とか、:「ここに竈があるとすれば」とか、:「ちぇっ、こいつも空《=カラ》っぽだ」とか、いろいろ独り言を云ったのち、がっかりしてまた夜具のそばへ戻って来た。 「米櫃も空《=カラ》っぽみてえだが、米もねえのか」 「──おれは嘘は云わない」 「じあおめえどうしてるんだ」 「──ごらんのとおりさ」 「だって飯は食ってるんだろう」 「──今日で三日、なにも口へは入《=い》れな《な-》い」 「しようがねえなあ」  男は太息《吐息》をついてこちらを眺めた。するとまた腹がくうくうと鳴ったので、|なま睡《生唾》をのみながら立ち、なにか考えていたが、もういちど、:「しようがねえなあ」と呟やき、広縁からどこか外へと出ていった。  成信《シゲノブ》は間《=あいだ》もなく眠ったらしい、誰かゆり起す者があるので眼をさますと、障子が仄明るくなり、すぐ側《そば》にさっきの男が立っていた。 「起きて顔《=かお》を洗わねえか、飯ができたぜ」 「──飯《メシ》、‥‥どうしたんだ」 「どうしたっていいや、早く起きねえ」  男は厨のほうへ去った。年《=とし》は三|十四《十’四》、五だろうか、色のくろい愚直そうな顔《=かお》で、ちから仕事をした者《=もの》に特有の、こごんだ|逞ま《逞》しい肩と外へ曲った太い足とが眼立《目立》った。  ──それも面白い。にが笑いをして成信《シゲノブ》は起き、少しばかりふらふらするが、嗽ぎ口の廊下から井戸のほうへと出ていった。  表《おもて》のほうは正門から段下りに、畑や田のある村里へとひらけているが、裏は二千坪にあまる庭《’庭》がそのまま、|片ほう《片方》は黒谷の深い渓流へさがり、奥へゆけばしぜんと鬼塚山へつづいている。そちらにも昔は柵をまわしてあったのだが、ずっとまえに朽ち倒れて、今では山との境界がなにもない。それで鹿とか猪とか、ときには熊などまでのこのこはいって来るし、狐や狸などは常住の巣をもっているようだ。──二十年以上も人が住まず、もちろん手入れなどもながくしないので、樹という樹は勝手なほうへ伸びたいだけ伸び、お互いの枝《=エダ》と枝、葉と葉をさ《差》し交わし重ねあうところへ、|藪枯らし《藪カラシ》や藤や葛《=クズ》などがむやみに絡みついているから、どれが松どれが梅とも差別がつかなかった。‥‥もちろん見るかぎり夏草の繁みで、地面のみえるところはごく僅かしかない。そのひとところ、ちょうど厨口の外《=そと》に当るところに井戸があり、その四、五間《=五ケン》さきには山水を集めたほそい流れが、夏でも指のこごえるほど冷たい水を湛えて屋敷の内をよこぎっていた。  顔を洗って戻ると、夜具があげてあり、広縁のほうへ寄って男が膳ごしらえをしている、大きな鍋からはこうばしい味噌汁の匂いがひろがり、蓋をとった釜から飯の湯気が立っていた。 「顔《=カオ》を洗ったか、じあここへ坐んねえ」  男はこう云って膳のそっちを指さした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  坐って箸をとったものの、成信《シゲノブ》はちょっとそこで躊躇した。つまらないようなはなしだが、渇しても盗泉の水をのまずということが頭にうかんだのである。 「どうしたんだ、食わねえのか」 「──いや、食わなくは、ないが」 「じあさっさとやんねえな、ちっとも遠慮するこたあねえんだ、ひもじいときあお互いさまよ、にんげん三日も食わずにいて堪るもんか」  こう云ったが、やはり成信《シゲノブ》は食べようとしない。どうしたんだ、と、男は|訝か《訝》しげにこちらを見まもった。それからふいに肩をいからせ、 「そうか、おめえこの米や味噌をおれが盗んで来たと思ってるんだな、冗談じゃあねえ、そんなべらぼうな、おめえ、とんでもねえこった」  本気に怒った顔で口《=クチ》をとがらした。 「おらあ身銭を出して、この米も味噌もちゃんと買って来たんだぜ、嘘だと思うならいってきいてみねえ、この下の柘榴の花の咲いている百姓家《=百姓や》だ、石臼みてえに肥えたかみさんからちゃんと買って来たんだから」 「いや勘弁して呉れ、おれが悪かった、それでは馳走になる」  ほっとして成信《シゲノブ》は茶碗を持った。  終ると男は膳をさげ、厨口から出ていって、向《向こ》うの流れでよごれものを洗うらしい。成信《シゲノブ》は|風とお《風通》しのよい小書院へい《行》って横になり、ぼんやり庭《’庭》の樹立《木立》を眺めやった。──まもなく男がやって来た。手を拭きながらあたりを見まわし、さてと云ったが、なにか迷うようにこちらを見て、ぶしょう鬚の伸びた顎を撫でたり、ぼんのくぼを掻いたりした。 「じあこれでおらあゆくが、おめえまだずっと此処にいるのか」 「──まあ、そうだ」 「それでその、飯なんぞどうするんだ、なにか当《当て》はあるのか」 「──なんにも、ない」 「ないったって、そんなおめえ、それじあかつえて死んじまうぜ」 「──まあそうだろう」  男はまた頤《顎》を撫で、ぼんのくぼを掻いた。こちらを見たり、肩をゆすったりして、なにかあいまいなことを云って、不決断にいちど出てゆこうとした。が、すぐ引返して来て、 「しようがねえ、冗談じあねえ」  こう云って赤児《赤子》の頭ほどの風呂敷包《風呂敷ヅツミ》を腰からとり、成信《シゲノブ》の前へどさりと置いた。 「まさかおめえが飢死にをするってえのに、おれがみすててゆかれるもんじあねえ、とんだところへへえっちまった、こんなべらぼうなはなしがあるもんか、──だが、まあしようがねえ、なんとかするから、これでも食べて待っていねえ」 「──おまえそれで、どうするんだ」 「どうするったってどうしようもねえじゃねえか、なんとかするよりしようがねえ、まあいいから此処に待っていねえ」  男は怒ったような顔《=かお》でどこかへ出ていった。  ──土地の人間ではないな。  成信《シゲノブ》はこう思った。この附近はいうまでもない、城下町《=じょうかまち》の者《=モノ》でさえ、この鬼塚山の御殿が廃屋であり、近づくことを禁じられ、それを犯すと罰せられることを知っている。ときおり百姓とか猟人とか樵などにやつして、まわりをうろうろする者《=もの》があるが、それは滝沢一派の監視者たちで、そのなかには成信《シゲノブ》の命《=イノチ》をちぢめる役を受持った人間もいるのである。  三年まえに此処へ幽閉されるまで、成信《シゲノブ》は江戸の京橋|木挽町《=こびきちょう》にある中屋敷にいた。彼は大炊頭成豊の二男《次男》に生《生ま》れ、成豊の側室である生母とともに、ずっと中屋敷で育った。  大炊頭はいちど大坂城代で五年ちかく江戸を留守にしたが、その他《タ》のときは寺社奉行とか、若年寄とか、勘定奉行とか老中などとかいうぐあいに、重職の席からはなれることが少なく、参覲《参勤》のいとまで領地へ帰るのもごく稀《稀’》であった。──そういう多忙なためでもあろう、成信《シゲノブ》は二十歳《ハタチ》になるまで数えるほどしか父に会っていない。また丸の内《=うち》にある上屋敷には、長男の成武《+シゲタケ》のほかに女姉妹が三人いて、兄とは定日には挨拶にゆくので話しもしたが、姉や妹たちは|名まえ《名前》を聞くだけで顔を見たこともなかった。  成信《シゲノブ》は十五の年《=トシ》に他家《=タケ》から養子にのぞまれた、殆どまとまりかかったらしいが、父の成豊がどうしても承知せず、その後《=ご》も二、三そういうはなしがあったのに、みんな断わったそうである。──これが思わぬ紛争の原因になったわけだが、成信《シゲノブ》としては、自分をはなさないのは父が自分を愛しているからだと思い、|ひじょう《非常》に感動したことをおぼえている。‥‥だが父の大炊頭は彼が二十一歳のとき卒中で倒れ、兄の成武《シゲタケ》と彼をめぐって、家督問題のはげしいあらそいが始まった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  まえにも記したように、大炊頭はつねづね公務に追われるため、藩の政治は老臣にまかせきりのようなかたちだった。その首班は江戸の筆頭家老で、滝沢図書助といい、風貌も才腕もずばぬけた、ひところ名執政《メイ執政》という評の高い人物でもあった。──図書助は十五年ちかくその席にいた、それだけの能力と人望があったのだろう、しかし一方では彼に反感をもち、その政策に不満をいだく者も少なくなかった。うがちずきな人たちに云わせると、大炊頭そのひとがすでに図書助を嫌っていたそうである。‥‥反滝沢派の中心は梶田重右衛門であるが、彼が大炊頭の側用人だったところから考えると、案外それが事実であったかもしれない。  滝沢派は兵部|成武《シゲタケ》の家督をいい張った。もちろんそれが正論である。成武《シゲタケ》は長男であるし、八歳のとき将軍にめみえも済んでいる。ただ十三歳のとき脳をひどく病んでから、躯《体》だけは丈夫であるが頭がわるく、ときどきおかしな挙動をしたり、言語がはっきりしないようなところがある、それが問題であった。  梶田派は成信《シゲノブ》を擁立しようとした。  ──成武《シゲタケ》が脳を病んだ直後から、大炊頭は成信《シゲノブ》に家督をなおすつもりであった。幾たびも養子のはなしがあったのを、大炊頭が断わりとおしたのはそのためである。  |かれ《彼》らは《は-》こう主張し、その反面、成武《シゲタケ》が白痴であるということを、幕府の閣老のあいだに宣伝したらしい。‥‥大炊頭は卒中で倒れて寝たきりだった。全身の麻痺で、口をきくこともできなかったようだ。  成信《シゲノブ》は詳しいゆくたては知らない。知りたいとも思わなかったが、三年まえの二月《=ニガツ》のはじめのある夜、いつも側《そば》に仕えている鮫島平馬という者《=モノ》が来て、──梶田重右衛門がとつぜん謹慎になったこと、その一派のおもだった者《=もの》はみな職を免ぜられ、三人ほど追放になった者《=もの》があること、《:、》そして若殿の身にも累が及ぶかもしれないので、充分に注意して貰いたいことなどを顔色を変えてあわただしく申し述べた。  注意するもしないもなかった。その翌朝《=ヨクアサ》、成信《シゲノブ》はみしらぬ侍たちにとり囲まれ、本所の下屋敷へと移された。そしてひと月すると上屋敷から使者が来て、大炊頭の名でつぎのようなことを申し渡された。  ──おまえは一部の奸臣と謀《=はか》って、兄、成武《シゲタケ》をさし越し、自分が家督になおろうと企だてた、この事実はわが家法《カホウ》の重過であって、とうていゆるすわけにゆかない。そのため国もとへ長《ナガ》の蟄居を申しつけるものである。  成信《シゲノブ》はいちど父に会いたいと云ったが、|かれ《彼》らは耳にもいれなかったし、中屋敷にいる生母と別れをつげるひまもなく、すぐさま領地へ送られてしまった。──この鬼塚山の御殿というのはまえの領主の山荘だったそうで、松平家が移封して来てから、成信《シゲノブ》の祖父にあたる大炊頭成光というひとが、|暫ら《暫》く隠居所に使ったことがある。それもごく短《=みじ》かい期間のことで、あまりに荒れているし、城と五里も離れていて不便なため間もなくやめたらしい。それからのちは番人も置かず、荒廃するままにしてあったというが、‥‥国もとへ着くとすぐ成信《シゲノブ》はここへ入《=い》れられたのであった。  初めのうちは侍五人と、下僕が数人ついていた。そのうちに侍が一人ずつ減ってゆき、下僕も去り、今年の春から成信《シゲノブ》ひとりだけとり残された。しかし米だけはどうにか届いていたのだが、それもだんだん間遠になり、ついには米も来《-こ》なくなった。──城からはときどきようすを視《見》に来るし、この屋敷まわりには妙な人間がつねにうろうろしている、三度《3度》ばかり成信《シゲノブ》を刺しに忍びこんだ者もあった。ごく最近も表《オモテ》の門番所のかげから、広縁にいる彼に矢を射かけたことがある。  城《しろ-》からようすを視《見》に来る役人に、従者の欲しいこと、食糧の届かないこと、また刺客のことなど、たびたび訴えてみた。すると役人は、自分たちはすべて江戸からの申しつけどおりにしているが、貴方のおこないがあまりに粗暴で、従者がみな逃げだしてしまうのである、《:、》食糧はきちんと届いている筈であると答え、また刺客の件についてはつぎのように云った。  ──そんなことは有ろうとも思えないが、もし事実とすれば梶田一派のまわし者であろう、貴方のお命《=イノチ》をちぢめて、継嗣問題の密謀をやみに葬むるつもりではないか。  成信《シゲノブ》は《は-》やんぬるかなと思った。  ──餓死か暗殺か、もう運命はきまった。  じたばたするだけむだである。こう覚悟をきめ、すべてを投げ出した気持で、米が一粒もなくなると共に、そこで飢え死ぬつもりで寝ていたのであった。  こういう状態のところへ賊が|はい《入》った。おそらく他国から来たもので、なんにも事情を知らないのであろうが、選《え》りにえってこんなところへ|はい《入》るというのは皮肉すぎる。──おれを素人だと思うかなどと威張ったが、おそらくそのとおりに違いない。ひとがらも悪人にはみえないし、自分の銭《=ぜに》で米味噌を買い、煮炊きをして食《=く》わせさえした。 「家来たちがおれの命《=イノチ》をちぢめようとしているのに、盗賊はおれに飯を食《=く》わせて呉れた、妙な|世のなか《世の中》だ」  成信《シゲノブ》はこう呟やいて、男の置いていった包《包み》をあけてみた。中《=ナカ》には味噌をまぶした大きな握り飯が三《3》つ|はい《入》っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  |うす暗《薄暗》くなってから男が帰って来た。 「おう今けえったぜ」男は広縁のところからそう叫んだ、:「おそくなっちまった、腹が減ったろう、いますぐ飯にするからな」  裏へまわってゆく男のうしろ姿をみおくりながら、成信《シゲノブ》はふと胸の温《-あた》たまるような感動をさそわれた、自分では理解しがたい、|温た《温》かく胸のうるおうような感動である。彼は久しぶりで机に向《向か》い、それへ両肱をついて、厨口のもの音をなつかしいような気持で聞いていた。  食膳は味噌汁と飯のほかに、鉢いっぱいの梅干が出ていた。 「これもみんな買って来たものか」 「よせやい、いやなことを云うな」男は眼を三角にし、口をとがらした、:「にんげんひとり抱えて、おめえ、泥棒なんぞでやってゆけるもんじあねえや」 「──はあ、そういうものか」 「独り身ならそれあ、まあ泥棒でも食っていけるかもしれねえ、けれどもおめえという者を抱えてみりあ、|まじめ《真面目》に稼がなくっちゃあ追っつきあしねえや」 「──はあ、それは気の毒だな」 「いやな挨拶をするなよ、気の毒だったってべつに、おれだってそんなに泥棒なんぞしたかあねえや、まあ食おう、──飯が少しかてえかもしれねえ」  夜になると夜具を並べて寝た。おそろしく疲れたとみえて、男は横になるとすぐ眠りこんだ。大きな鼾をかいたり、|どたんば《土壇場》たんと手足を投げだしたり、夜具の外《=ソト》へころげ出たり、無作法きわまる寝かたであった。──成信《シゲノブ》はいつもの癖で、蚊遣り火を焚きながら、燈火《=トウカ》をひき寄せて夜半すぎまで本を読んだ。  明くる朝も男はどこかへでかけたが、出てゆくとき成信《シゲノブ》に昼食のあるところを教え、今日はなにか魚の干物でも買って来ようと云った。 「ところで名めえが知れねえで不便なんだが、おらあ伝九郎てえんだ、伝九《デンク》ってえばいいんだが、おめえの名はなんていうんだ」 「──おれか、おれの名は‥‥信《ノブ》だ」 「ただ信《ノブ》だけかい、お侍らしくないじゃねえか、なんのなに信《ノブ》てえわけじゃねえのか」 「──いやそれでいい、信《ノブ》でいいんだ」 「ただの信《ノブ》、さとうただのぶか」  芝居ですれあ碇を背負《せお》ってくる役だ、などと、まちがったしゃれを云いながら出ていった。  伝九郎は云ったとおり、その日はちめという魚の干物を買って帰った。ここへ幽閉されてから初めての魚《魚’》といってもよい、成信《シゲノブ》は幾たびも、:「うまい」と云いそうになっては口《=くち》をつぐんだ。──こうして三日、四日と経った。伝九郎は大妻川の堤防工事で|働ら《働》いているという。それはいいが、いつも厳《=きび》しい監視者はどうしたのか、伝九郎のような人間が出はいりしているのに、どうしてすてておくのか、そこが成信《シゲノブ》には不審に思われた。 「この屋敷へ出はいりして、誰かに咎められたことはなかったか」  いちどそうきいてみたところ、 「おらあそんな|へま《ヘマ》なこたあしねえよ」  伝九郎は《は-》さも猜《-ず》るそうに笑った。 「この近所の百姓だって、おれたちが此処にいるこたあ知っちあいめえ、工事場《=コウジバ》の者なんざ云うまでもねえさ、そこはおれだって考《カン》げえてらあな」  ほの暗《ぐら》いうちに出て昏れてから帰る。往来《+ユキキ》とも黒谷の谿流に沿った杣道《杣ミチ》をとるので、まだ途中で人にであったこともないと云った。これまでの監視ぶりは、そんなことでごまかされるような、|なまぬる《生ぬる》いものではなかった。とすれば、あるいは監視がゆるんだのかもしれない。  ──そういえば城からのみまわりも暫らく来《-こ》ないようだが。  成信《シゲノブ》はこんなふうに考えていた。  はなはだ奇妙な、一種の共同生活が、こうして続いていった。男は言葉つきこそ対等であるが、そのほかのことは主人に仕える召使いのようだった。労働をして稼ぎ、煮炊きをして成信《シゲノブ》に喰《食》べさせ、洗濯までするのである。──家臣に仕えられて育った成信《シゲノブ》すら、ときには済まないと思い、なぜこんなにして呉れるのかと、|訝か《訝》しくなることもあった。 「おめえってひとはじつにふしぎだ」伝九郎は伝九郎でそんなことを云った、:「おらあ生《生ま》れてからこんな気持になったなあ初めてだが、おめえを見ているとへんに楽しいような、うれしいような、《:、》──こう、なんと云えばいいか、その、|世のなか《世の中》も案外いいもんだっていうような気持かな‥‥ふしぎにそんな気持がするんだ」 「──これまではそうではなかったのか」 「そうでねえからこそ、泥棒にでもなっちめえてえ量見にもなったのよ、思いだしてもはらわたの煮えるような、ひでえめにばかりあって来たからな」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  伝九郎はごくたまに、それもきわめて断片的に、自分の身の上ばなしをした。  生活の環境がちがうし、こまかい部分は話さないから、ごくあらましのことしかわからなかったが、ぜんたいとして、その過去はいたましいほど運が悪く、聞くほうでも暗然となるようなことが多かった。──彼は江戸の下町《=したまち》の生《生ま》れで、家はちょっとした乾物屋だった。父親はおとなしい好人物であったが、酒を飲むとひとが変《変わ》り、あるだけの金《-かね》を持ってとびだしたきり、五日も六日も帰らないようなことがしばしばあった。結局は店を飲みつぶしてしまい、親子三人で長屋へひっこむと、まもなく父親は急死した。急死といっても酔って川へおちて死んだのである。 「おらあそれで七つの年から蜆を売りに出たもんだ」  母親が後夫をむかえ、彼は日本橋のほうの海産物の問屋へ小僧にいった。義理の父というひとがまたずぬけた酒のみで、母親はずいぶん苦労したらしい、そのためか三年ばかりして亡くなった。 「だから十三《=13》でおらあみなしごになったわけだ、本当はみなしごなんだが残ったその義理のおやじてえのがいる、こいつがおれの厄病神になりあがった」  新三《シンゾウ》というその男は、妻に死なれてから三日にあげず店へ来た。伝九郎をよびだして小遣い銭《=せん》をねだる、いつもひどく酔っていて、大きな声をあげたり、ときには暴れたりした。なにかの職人だということだが、もうまえから仕事などはしないらしい。博奕《博打》うちにでもなっているのか、風態《フウテイ》も悪いしいやな人相だった。──問屋の主人もそんな人間にしげしげ来られるのは迷惑だったろう、新三《シンゾウ》がたびたび、:「こんな給金の安いところへ置くわけにあいかねえ」などと云うのを|幸わ《幸》い、二年たらずで態《テイ》よく店からひまをだされた。  伝九郎は樽ひろいをした。子守りもした。石屋、左官、車屋、米屋、いろいろな家へ小僧にいった。だがそれは職をおぼえるためではない、年季奉公の約束で、さきに幾ら幾らと養父が金《-かね》を取る、そうして少し経つとそこを逃げだすのである。つまり先取りの金《-かね》が目的なのだ、──なかには奉公《ホウコウ》さきがよくって、逃げたくない、この家で暮したい、そう思うことがある。すると日本橋の問屋の例で、養父が毎日のように酔っぱらって来て、前借《前借り》を増せとか、給金が安いとか喚きたて、店さきへ寝たり、暴れまわったりする、それでたいてい向《向こ》うからひまがでた。  二十五で妻をもらったとき、伝九郎は本所で左官のてつだいをしていた。妻は居酒屋などにいた女らしく、養父が伴《連》れて来ていつくようにさせたのであるが、以来、その長屋のひと間《マ》は博奕場《博打場》のようになった。いつも妙な人間が出いりをし、夜|どお《通》し賽ころや花札の音がしていた。妻は伝九郎などそっちのけで、そのなかまと博奕《博打》を打ったり、酒の相手をして騒いだり、まるで夫婦というようなものではなかった。 「その女は百日《100日》もいたかな、まもなくそのなかまの一人とどこかへいっちまった、じつはそれがその女の本当の亭主だったらしい」  養父は彼を搾れるだけ搾りとおした。そして胃《/胃》を病んで死んだのであるが、寝こんでから息をひきとるまで、半年以上ものあいだ彼を「不孝者《不孝もの》」といって罵しり続けた。──伝九郎は三十になっていた、はじめて自分ひとりの、好きなように生きられるときが来た。そう思ったのであるが、これといって手に職があるわけではないし、年《とし》がもう年で、そのときどきの仕事を転々と稼ぐよりほかにしかたがなかった。  三十一で二度めの妻をもった。もう二十三になる気の強い女でいちど嫁にいったことがあるらしい、こまめに|働ら《働》くのはいいが、口やかましいうえにぐちっぽくて、おそろしい吝嗇で、しかも平気で嘘をついた。 「そのじぶんおらあ車力《シャリキ》をしていたが、親方にみこまれて古石《フルイシ》場の近くへ帳場を持たせてもらった、堅いところをみこまれたんだろう、車《=クルマ》を十二台と曳き子を三人あずかった、貸し車《グルマ》もするわけなんだが、《:、》──その曳き子のなかに吉五郎という男がいて、こいつはおれより古株なんだが、‥‥悪《=わる》い野郎で、三月《ミツキ》と経たねえうちに帳場の金《-かね》をさらってずらかりあがった、《:、》そればかりならいいが、十二台の車《=クルマ》もひとに売る約束で、その金《-かね》も持ってきあがったにはびっくりした」  もちろん彼はその親方とは縁《=エン》が切れた。一方では妻の吝嗇と嘘つきと口やかましいのにあいそをつかしていた、がみがみと云いたいほうだいのことを云って、それこそ三杯《3杯》の飯を二杯に詰めて、そうして自分はへそくりを溜めるというふうだった。──もう顔を見るのも声を聞くのもいやらしくなったので、古石《フルイシ》場の帳場がつぶれるとすぐ、彼は江戸を逃げだした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「この土地へ来《=く》るまでにあずいぶんほうぼう渡り歩いたが、どこにもおちつく場所はなかった、世間はせちがれえし、にんげんは猜《-ず》るくて不人情で、おらあ小股をすくわれたり陥し穴へつきおとされたり、ひでえめにあいどおしだった、──さすがのおれも業《ゴウ》が煮えて、やけっぱちになって、そうして、《:、》‥‥ええくそ、そっちがそうならこっちもと思って──だが智恵のねえやつはしようがねえ、泥棒にへえったのがこの化物屋敷だよ、《:、》‥‥へっ、まったくのところうまく出来てやがる」  話しはごくとびとびで前後がとり違ったり、同じことをなんども繰り返したりした。そのうえ成信《シゲノブ》には理解のつかないところがたくさんある、樽ひろいとか蜆売りとか、そのほか日傭《=ヒヨウ》とりの暮しなどは殆んどわからなかった。──しかし成信《シゲノブ》にはその話しは楽しかった、楽しいといっては違うかもしれない、事実はいたましく哀れなのだ、聞いて思わず歎息《ため息》のでるようなことがしばしばであった。けれどもそこには成信《シゲノブ》などの知らない、活き活きした生活があり、人間のあからさまなすがたが感じられた。  夜半《ヤハン》に眼がさめて、隣りに熟睡している伝九郎の寝息を聞きながら、成信《シゲノブ》はしみじみとしたおもいで、酔って川へはまって死んだという彼の実父のことを想像した。七つという年で蜆を売り歩いたという、霜のおりた、寒い、早朝の街のひっそりとした景色を、眼にえがいてみた。  ──このおれがもしそのような身の上だったら。  成信《シゲノブ》は彼と自分とを置き替えてみた。すると置き替えたほうが人間らしく、生き甲斐《=ガイ》のあるように感じられた。  古石《フルイシ》場の帳場から金《-かね》をさらって逃げたという男。吝嗇で嘘つきで口やかましい女房。彼を苦しめ、搾れるだけ搾りながら、死ぬまで彼を「親|不孝者《不孝もの》」と罵しったという養父。妻とは名ばかりで、博奕《博打》を打ち酒を飲んで騒ぎ、じつはほかに本当の亭主があったという初めの女。──みんなそれぞれ狡猾でいやらしい、だがそうやって伝九郎をいためつけ、彼を騙し、彼を憎み、彼からくすねたり奪ったりしながら、|かれ《彼》ら自身もそれほど恵まれはしなかったであろう。‥‥今でもどこか世間の隅のほうで、それぞれの苦しい生活に追われ、ときにつくねんと溜息でもついているのではないだろうか。  ──みんな気の毒な、哀れな本当はよき人たちなんだ。少なくともおれの周囲にいる人間よりは人間らしい。  二十日あまりいっしょに暮すうち、成信《シゲノブ》はすっかり伝九郎が好きになった。彼の躯《体》には生きた世の|なか《中》の匂いが附いている、良《い》いところも醜くいところも、卑しさも清らかさもひっくるめた、正直なあるがままの人間の呼吸が感じられた。 「おう信《ノブ》さん、おめえどじょう汁《=ジル》を食うか」 「──よく知らないが食うだろう」 「食うだろうってどじょう汁《=ジル》も知らねえのか、へえ、おめえ知らねえものばかりじゃねえか」 「──うん、まあそんなところだ」 「よっぽど家《’家》が貧乏か、それともお大名の若さまみてえだぜ」  こんなふうで、まだ口にしたことのないものもいろいろ喰《食》べた。武家の生活とは違って、無作法な下品なような感じであるが、すべてに情があり真実がこもっていた。──炊きたての飯に熱い汁《シル》をかけて食ううまさ、肌ぬぎの茶漬け、青じその香《香り》をきかした冷奴、さらに釜底の狐色に焦げたところへ塩をふった握り飯など、品《ヒン》も作法もなくうまかった。これが本当の喰《食》べものだという気がした。 「おもしれえことがあるぜ、信《ノブ》さん」  ある夜、夕餉をとりながら伝九郎がこう云った。 「|世のなか《世の中》は広大だ、おれがどじだと思ったら、おれに輪をかけた野郎がいやあがる」 「──それはいることは、いるだろう」 「いるったって、それがおめえ、泥棒だぜ」 「──ばかなことを、まさか‥‥」 「それがそうらしいんだ、百姓みてえな恰好《=カッコウ》なんだが、表《おもて》の塀のまわりや、裏庭の奥のほうをときどきうろついている、《:、》おらあ気がつかねえふうで見ているが、さっき飯を炊いてるときもちらっとしやがった、──厩のぶっ壊れたのがある、あのかげのところだ」  成信《シゲノブ》は顔を俯むけた。表情の変るのをみられたくなかったのである。伝九郎はまるで気がつかず、|にやにや《ニヤニヤ》しながら面白そうに云った。 「今夜あたりへえって来るかもしれねえ、そうしたらこんだあおれが見物《=ケンブツ》する番だ、へっ、つんのめったり、踏みぬいたり、|どたんば《土壇場》たん独りで暴れて、埃まみれの汗だくんなって、それですっからかんのなんにも無しとくらあ、──へっ、野郎びっくらして馬鹿にでもなっちまうな」  だがその夜はなにごともなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「どうしようてんだ、あの野郎、なにをいつまでまごまごしてるんだ、まだへえる決心がつかねえのかな」  伝九郎はもどかしそうに舌打ちをした。 「思いきってへえりあいいじゃねえかなあ、こっちは手出しはしねえんだ、見ていて笑ってやろうってだけなんだ、八方《=ハッポウ》あけっ放しで待ってるんだ、よっぽどの臆病者にちげえねえ」  彼がいくら不平を云っても、やっぱり泥棒の|はい《入》るようすはなかった。──するとある日、伝九郎がその話をしてから七日ほど経っていたが、曇り日《び》のむしむしする午後、成信《シゲノブ》が小書院で横になって本をみていると、まえ庭のほうで「若殿、若殿──」という声がした。成信《シゲノブ》は頭だけそっちへ向けて、誰だ、と、もの憂げに答えた。 「平馬《ヘーマ》でございます、鮫島平馬《鮫島平馬’》でございます」  成信《シゲノブ》はだるそうに本を投げた。鮫島平馬、ああ江戸の中屋敷にいた男か、そう思ったが、起きてゆく気持にはなれなかった。 「──なんだ、おれになにか用か」 「急ぎますので、要点だけ申しあげます、大殿には御他界《ご他界》にございます、御承知でいらっしゃいますか」 「──知らない、初めて聞いた」  五月十日に逝去したと云うのを聞きながら、成信《シゲノブ》は眼をつむって、口のなかでそっと、:「父上」と呟いた。平馬《ヘーマ》はさらに、梶田重右衛門が家老に就任し、滝沢図書助が待命になったこと、つまり情勢が大きく変化し始めたことを述べた。しかし成信《シゲノブ》にはもうそんなことは興味がない、誰が勝ち誰が負けようと、権力の席がどう変ろうと、彼にはなんの関わりもないことだ。  ──そうか、父上はお亡くなりなすったのか、御臨終は平安だったろうか、中屋敷の母上はおなごりを申しにあ《-あ》がれたろうか。  平馬《ヘーマ》はなお続けていた。この山荘は早くから自分たち同志の者《=モノ》で護って来た。すでに滝沢家の監視はゆるんでいるが、情勢がはっきり決定するまでは油断ができない。非常手段を打たれる心配もあるから、いま|暫ら《暫》くこのままかげから守護をしている、若殿にもそのつもりで辛抱して頂きたい、などとも云った。  そのなかで一つ意外なことがあった。それは三度《3度》あらわれた刺客も、ふいに矢を射かけた者《=モノ》も、みな梶田一派の人間だったということで、これには成信《シゲノブ》もびっくりした。 「まことにやむを得ぬ、苦肉の策でございました」  平馬《ヘーマ》は歯《=ハ》をくいしばった声《=こえ》でそう云った。 「滝沢党ではかねてから、若殿のお命《=イノチ》をおちぢめ申す|てだ《手立》てにあいみえました、《:、》それで逆手《サカテ》を打ったのですが、|かれ《彼》らは幸いこれをみやぶることができず、手を濡らさずして目的を達すると思ったようすでございました、《:、》──かような事情で、万《ばん》やむを得ない窮余の策ですから、不礼《無礼》のだんはどうぞ幾重《=いくえ》にもお赦しを願います」  成信《シゲノブ》はしまいまで横になっていた。そうして平馬が去ろうとしたとき、 「──みんなにそう云え、もうおれに構うな、いいか、おれのことは放《ほ》っておけと」  刺客が自分の|みかた《味方》だったということは、なにより成信《シゲノブ》を不愉快にした。それは愚弄ではないか、そのとき成信《シゲノブ》は|しんけん《真剣》であった。本当に暗殺されるかもしれないと思った。枕のそばへ刀を置く習慣も、夜よく熟睡のできない癖も、みんなそれ以来身についたものである。  ──刺客などが来るとすれば梶田一派のまわし者であろう。  城《しろ-》からみまわりに来た役人が、そう云って冷笑したことを思いだす。|かれ《彼》らは裏を掻かれていたわけであるが、成信《シゲノブ》の身にすれば、:「裏を掻く」ことのほうがずっと恥かしかった。 「いやだ、つくづくいやな世界だ」  成信《シゲノブ》はこう呟やき、なにもかも忘れたいというように、頭をはげしく左右に振った。 「──伝九《デンク》、二人でどこかへゆくか」  成信《シゲノブ》はその夜そう云った。 「悪くはねえな、おめえさえいて呉れりあ、おらあどこでどんな苦労でもするぜ」 「──なに、おれだって、なにか、するさ」 「それあさきゆきあそうさ、にんげん遊んで食ってちあ天道さまに申しわけがねえ、けれどもせくこたあねえぜ、おめえの躯《体》が丈夫になり、そういう気持が出てからのはなしさ」 「──おれは、躯《体》は丈夫だよ」 「自分じあそのつもりだろうがそうじあねえ、おめえの躯《体》は病んでる、病気てえものじあねえかもしれねえが」  伝九郎は|きまじめ《生真面目》な顔《=かお》でこちらを見た。 「そうよ、躯《体》か心んなかかわからねえが、とにかくどこか相当いたんでる、おらあこれでそういう勘はわりかた慥かなんだ」 「──ほう、そんなふうにみえるかな」 「心配するこたあねえんだぜ、信《ノブ》さん、おれがついてるからな、大船《オオブネ》‥‥ってえわけにあいかねえが、おれにできるだけのこたあするつもりだ、まあいいから、当分おめえは暢気にしていねえ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  成信《シゲノブ》は本気であった。伝九郎といっしょにここを出奔し、どこでもいい、この身で働いて、人間らしい慎《=つつ》ましい生活をしよう。伝九郎を騙し、搾り、くすね、罵しり|辱し《辱》めたような人間はどこにでもいるに違いない。しかしそれもさして悪くはない、権力争奪の傀儡《カイライ》にされるより、はるかに人間らしく、生き甲斐《=ガイ》もありそうだ。  ──出てゆこう、伝九郎といっしょに、自分で働いて生きよう。  成信《シゲノブ》がそう決心するのと反対に、伝九郎はなかなか動くけしきがなかった。堤防工事の人足の親方がだいぶ彼に執心で、その頃はもう小頭《コガシラ》にひきあげていた。さきへいってはひと現場まかせてもいいような口《=くち》ぶりらしい。 「自分でもいやなんだが、どうもおれにあそういうところがあるらしい」  伝九郎はてれくさいような眼つきをした。 「おらあ|嫌え《キレエ》なんだ、そういうことはいやなんだけれども、──古石《フルイシ》場のときもそうなんだが、へんに信用されるところがあるらしい、べつにおべっかを遣うようなこたあねえつもりなんだが」  しかし信用されてみれば悪い気持ではないし、こちらもそれだけのことをする義理はある。伝九郎はそういうつもりのようだ。 「此処はこのとおりぶっ壊れの化物屋敷で、誰に邪魔をされる心配もねえ、閑静で暢気で、おれたちがこうしているにあ持って来いだぜ、──とにかくもうちっといてみようや」  こんなふうに云っているうちに、十日ばかり経ってしまった。  その日はよく晴れて、秋をおもわせるような、爽やかな、ややつよい西風《ニシカゼ》が、朝からしきりに樹々《=木々》の枝《=エダ》を鳴らしていた。伝九郎がでかけて一刻《=いっこく》あまり経ったろうか、遠くから馬蹄の音が近づいて来て、表門のところで停った。──五、六騎はいるらしい、成信《シゲノブ》はどきっとし、刀をひきよせてそっちを見た。平馬《ヘーマ》が云ったように、滝沢派で非常手段を打ちに来たのかもしれない。  ──もうやみやみと討たれはしないぞ。  こう思っていると、前栽をまわって五人の武士がはいって来た。なかに一人、塗笠を冠った者《=もの》がいて、その者《=もの》だけがそこで笠をぬぎ、刀を侍者に渡して、こちらへ進んで来た。他の四人はその場に膝をついて控えたが、鮫島平馬の顔もそのなかにみえた。  こちらへ来たのは榁久左衛門という者だった。江戸の上屋敷《=かみやしき》でたびたび会ったことがある、中老格で、慥かずっと馬廻り支配をしていた筈だ。年《=とし》は|四十三、四《シジュウサンシ》、柳生流の達者だと聞いたように思うが、──今みるとたいそう痩せて、左右の鬢が白くなったし、日《=ヒ》にやけて、とがったような顔《=かお》に、おちくぼんだ眼だけが強い光りを帯びていた。 「おみ忘れでございましょうか、榁久左衛門にございます」  縁《=エン》さきに片膝をついて彼はこう云った。そうして、頭を下げたまま、成信《シゲノブ》にながい辛労をさせたことを詫び、城へ迎えるために来たこと、詳しい事情は城へいってから申しあげよう、御乗馬を曳いて来てあるから、すぐしたくをしてお立ち下さるようにと云った。 「──おれに構うな、平馬《ヘーマ》にそう申した筈だ」  成信《シゲノブ》は正坐して静かにそう答えた。 「──城へはゆかぬ、いやだ」 「わたくしは五日まえに江戸からこちらへ到着いたしました、当地におきましてのおいたわしい御日常《ご日常》は、江戸でもあらまし承知しておりましたが、こちらへまいり、三年以来の詳しいことを聞きまして、おそれながら五体も砕けまじい、心魂の消えるおもいにございました」 「──おれが飢えていたことも聞いたか」  成信《シゲノブ》は寧ろほほ笑みながら云った。 「──おれが泥棒に食《=く》わせて貰っていることも聞いたか」 「おそれながらすべて承知いたしております、その者《=モノ》とのお暮しぶりも、そのお暮しぶりが御意にめしたというごようすも、また、御身分《ご身分》をすてて世に隠れるおぼしめしのことも、すべて承知いたしております」  これは成信《シゲノブ》には思いがけない言葉だった。平馬《ヘーマ》か、とも思ったが、平馬《ヘーマ》にもそこまでわかる筈はない、出奔して庶民のなかへはいろうという思案は、伝九郎のほかに知る者《=もの》はない筈である。──では伝九郎か、そう考えてきて成信《シゲノブ》ははっと眼をあげた。 「──伝九郎の足をとめたのはそのほうどもか」 「当地の者どもが計らいました、知れざるように手をまわして、賃銀も多く遣わし、役もつけ、今後もながく当地にいて、身の立つようにとも計らってございます」 「──それでおれが城へ帰ると思うのだな」  成信《シゲノブ》は冷やかな、しかし強い調子でこう云った。 「──おれはいやだ、もうおれに構うな、おまえたちの傀儡《カイライ》になるのはもうごめんだ、おれは人間らしく生きることを知った、おれは人間らしく生きる」 「その仰せは覚悟のうえでまいりました」  久左衛門はこう云って静かにこちらを見あげた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「おぼしめしどおり市井《=シセイ》のひととなり、御意のままにお暮しなされば、御身おひとつなんのお心づかいもなく、無事安穏におすごしあそばすことができましょう、《:、》しかしそれだけでようございましょうか、御自分《ご自分》だけ気まま安楽におすごしあそばせば、他のことはどうなろうと構わぬ、そうお思いなされますか」  久左衛門の眼はきらきらと光った。 「ただいまそのほうどもの傀儡《カイライ》と仰せられましたが、このたびの御継嗣問題では三名《3名》の者《=もの》が切腹しております、《:、》梶田どのをはじめ同志の者ども、みないのちをなげだし、肝胆を砕いて奔走いたしました、《:、》──こんにちまでの若殿のながい御艱難は、申すもおそれおおいしだいですが、われらもまた死ぬ覚悟でやってまいったのです、《:、》‥‥滝沢どの一党が兵部さま御相続をしいましたのは、おそれながら御瘋疾《ゴフウシツ》にわたらせらるるを幸い、おのれの権勢をほしいままにし、専制、事をおこなう手段でございました」  しだいに声が激しく、調子もぐんぐん強くなった。 「これまでも滝沢どの一党の専断は眼にあまるものがあり、大殿にもよほど御心痛《ご心痛》あそばされたとうかがっております、兵部さま御瘋疾《ゴフウシツ》のあとより、若殿を御世子《ご世子》になおし、それによって重職の交替と、政治の更新とを御思案あったと承わりました、《:、》──さればこそ梶田どのはじめわれら同志の者《=もの》は、骨を砕き肉を削るおもいでやってまいったのです、御家《:オイエ》のため、政治を建てなおすため、ひいては七万五|千石《=千ごく》の領民のために、‥‥そうしてようやく今日という時がまいりました、この日のためにみな身命をなげだして働いたのです、《:、》──若殿、こなたさまはこれらの者《=もの》を捨てて、自分おひとりだけ安穏に暮したいとおぼしめしますか」  いつか成信《シゲノブ》は眼を伏せていた。久左衛門は声をやわらげ、そっと息をついて続けた。──人間には身分のいかんを問わずそれぞれの責任がある、庶民には庶民の、侍には侍の、そして領主には領主の、それぞれが各自の責任を果してこそ|世のなか《世の中》が動いてゆく。領主となって一藩《イッパン》の家臣をたばね、領民の生活をやすんずるよき政治を執るということは、市井《=シセイ》のひとになるよりは困難で苦しい。しかし大殿も先大殿も、その苦しい困難な責任を果された。‥‥気まま安楽に生きたいと思うまえに、自分の責任ということも考えなければならぬであろう。われわれ同志ばかりでなく、一藩《イッパン》をあげてあなたを待っている。みんな手をさしのべるおもいで待っているのである。──久左衛門はこう云って、涙でうるんだ眼でじっとこちらを見まもった。 「お帰り下さい、若殿、お願いでございます」  眼を伏せたまま成信《シゲノブ》はやや|暫ら《暫》く黙っていた。さっきからみると頬《ホオ》がこけ、眉のあたりに一種の気宇のあらわれがみえる、彼はやがて静かに顔《=かお》をあげ、あるかなきかに頷《-うな》ずきながら云った。 「──わかった、城へ帰ろう」  それが聞《聞こ》えたのだろう、前栽の脇につくばっていた四人の者達が、いっせいに芝の上へ手をつき、耐えかねた様に、啜り泣きの声をあげた。 「──伝九郎はおれにとっては、恩人ともいうべき者だ、ゆくすえをくれぐれも頼む」 「必らず御意どおりにつかまつります」 「──おれは明日ひとりで帰る、彼とひと夜《夜’》なごりをおしみたい、今日はこれでひきとるように」  成信《シゲノブ》は|かれ《彼》らが去ってからも、ながいことそこに坐っていた。それから庭へ出てゆき、荒れはてた邸内をあちらこちら歩き廻《回》った。彼の相貌はひきしまり、あたりを見廻す眼には強い意志のいろがあらわれた。 「──伝九、‥‥おれは帰るよ」  口のなかでそっと呟やき、風のわたる晴れあがった空《=そら》へと、かなしげに眼をやった。  伝九郎が帰って来たとき、成信《シゲノブ》は竈で汁《=シル》を拵《=こしら》えていた。頭から灰まみれで、煙《ケムリ》にまかれたのだろう、眼のまわりを黒く汚《=よご》していた。伝九郎はびっくりし、とんで来て、彼の手から火吹き竹をひったくった。 「なにをこんな、おめえがなにもこんなことをするこたあねえじゃねえか、冗談じゃねえ、お天気が変らあ」 「──今日はおれがするよ、わけがあるんだ」 「わけがあったっておめえに出来るこっちあねえ、おれが代るから向《向こ》うへい《行》って」 「──いや、もう済んだんだ」  成信《シゲノブ》は鍋の蓋をとり、笊にあげてあった刻み大根を入《=い》れた。 「──飯《メシ》も炊けたし、魚も焼いてある」 「こいつあびっくり仰天だ、冗談じあねえ、せっかく続いていた日和が、これできっとおじゃんになるぜ」 「──まあ足を洗え、そして飯にしよう」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  食膳に向うと伝九郎はもういちど驚ろいた。 「おめえこれあ、これあどうして、ちゃんとしたもんじあねえか」 「──ちゃんとしたもの、とは、なにがだ」 「飯《メシ》も上出来だし魚の焼きかたもいいし、おまけに芹のしたした《-た》あ驚いた、こいつあたいした驚きだ、兜をぬいだぜ」  成信《シゲノブ》は笑ってなにも云わなかった。 「お侍は恐えてえことを云うがまったくだな、すまして肩肱を張ってるが、いざとなれあこんなこともできるんだ、やっぱり修業《修行》てえものが違うんだな」 「──そう褒めるな、まぐれ当りだ」 「御謙遜《ご謙遜》にあ及ばねえ、と、思いだしたんだが、おめえさっきこれにあわけがあるとか云ったようだが、あれあなんだ」 「──うん、しかしそれは、喰《食》べてからに、しよう」 「気をもたせねえで呉れ、心配になるぜ」  食事をしながら話すつもりだった。しかし箸をとってみると口《=クチ》がきれない、《:、》それでいっとき延ばしたわけであるが、食事が済み、|あと片づ《アトカタヅ》けが終って、いつもの炉端へ坐ってからも、胸さきの詰《詰ま》るような気持で、どうにも話しができなかった。 「どうしたんだ、わけてえの《-の》はなんだ」 「──なに、たいしたことでは、ないさ」 「たいしたことでねえにしても、話しを聞かなくちあおちつかねえ、云って呉《=く》んねえな」  成信《シゲノブ》は蚊遣りの煙《ケムリ》にむせて、咳をしながら脇へ向き、笑いながら、じつはわけもなにもない、あのときのでまかせだと云った。 「冗談じあねえ本当かいそれあ、本当になんにもわけあねえのかい」 「──いちどぐらいは、おれが煮炊きをして、伝九に喰《食》べて貰いたかった、おまえにはずいぶんながいあいだ、世話になったから」 「やめたやめた、そんな水|臭《=くせ》えこたあ聞きたくあねえ、おらあ横にならして貰うぜ」  伝九郎はそこへ寝ころび、手足をうーんと思いきり踏みのばした。──いつもそうして、その日の仕事場の出来ごとなどを話し、終りのほうは舌がもつれて、欠伸が欠伸につぐようになると、そのままそこで眠ってしまう。夜中になって気温の下るじぶん、成信《シゲノブ》が起して寝床へい《入》れてやるのだが、その夜はいつもより早く、十時頃にはゆり起した。 「──さあ寝るんだ、風邪をひくぞ」  伝九郎は殆んど夢中のようで、這って夜具までゆくとそれなり、手足を投げだして眠りこけた。──成信《シゲノブ》はその寝姿を、やや|暫ら《暫》く見まもっていたが、裏庭の樹《=キ》をわたる風の音《’音》を聞いて、われに返ったように立上《立ち上が》った。──今だ、今ゆかぬと気が挫ける。  時が経つほどみれんが強くなる。朝までというつもりだったが。早いほうがまちがいなしと思い切って、なにもかもそのまま、立っていってすばやく身仕度《身支度》をした。──袴をはき、刀を持てばよい、広縁のきしみを除《-よ》けて、沓脱ぎの草履をさぐり当てた。そうして前庭《マエ庭》へ出てゆくとたん、うしろから伝九郎の声がした。 「おめえいっちまうのか、信《ノブ》さん」  成信《シゲノブ》は身の竦む思いで立停った。 「おれを置いて、いっちまうのか」 「──伝九郎、堪忍して呉れ」成信《シゲノブ》は頭《コウベ》を垂れ、声をころして云った、:「──おまえはこの土地でりっぱに生きてゆける、おれも生きたい、おれも武士として生きたくなった、おまえがおまえらしく生きるように、おれもおれらしく生きたくなったんだ、‥‥世話になり放《っ放》しで済まない、まことに済まないがおれをゆかせて呉れ」 「晩の飯はこのためだったんだな」伝九郎は広縁の柱を抱《だ》いたまま云った、:「おらあ信《ノブ》さんといっしょにいたかった、一生ふたりで暮せると思ってたんだ、信《:ノブ》さんと暮すようになってから、初めておらあ生きる張合《張り合い》ができ、|世のなか《世の中》が明るくみえてきた、ようやっと人間らしい気持になれたのに、《:、》──いまんなっておめえにいかれちまう、信《ノブ》さんてえものがいなくなる、‥‥伝九が可哀そうだたあ、思っちあ呉れねえのか」  成信《シゲノブ》は夜の空《=そら》をふり仰いだ、頭をはげしく左右に振り、きっぱりと力《=チカラ》をこめて云った。 「──また会おう、伝九《デンク》、人間にはそれぞれの道《=みち》がある、おれはおれの道《=みち》をゆくんだ、達者でいて呉れ、さらばだ」  成信《シゲノブ》は思いきって、大股にぐんぐん歩きだした。 「それじあ、いっちまうんだな、信《ノブ》さん」伝九郎の声がうしろから追って来た、:「おらあもうとめねえよ、──どうかりっぱに出世して呉《=く》んな、‥‥祈ってるからな、病まねえようにして、──いつか、もしできたら、会いに来て呉《=く》んな、信《ノブ》さん、おらあ待ってるぜ」  歯《=ハ》をくいしばり、耳をふさぐおもいで、成信《シゲノブ》はずんずん門の外《=ソト》へ出た。するとそこに誰かいてつくばった。 「お供をつかまつります」  鮫島平馬《鮫島平馬’》である、成信《シゲノブ》は頷《-うな》ずいて、そのまま道を下《=くだ》っていった。  まだ西風《西’風》が強く、夜空はちりばめたような星であった。  ──信《ノブ》さん、いっちまうのか信《ノブ》さん。  成信《シゲノブ》の耳には伝九郎のかなしい声《=コエ》がいつまでも聞えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 底本:「山本周五郎全集第二十二巻◇ 契りきぬ・落ち梅記」新潮社    1983(昭和58)年4月25日発行 初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社    1949(昭和24)年12月 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:北川|松生《マツオ》 2020年3月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https:《コロン/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。