◇。◇。◇。◇。◇。 【フランダースの犬】 【マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー】 【菊池寛ヤク】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ネルロとパトラッシュ──この二人はさびしい身のうえ同志でした。  ふたりともこの世に頼るものなく取り残された独りぼっち同志ですから、その仲のいいことは言うまでもありません。いや、「仲がいい」くらいな言葉では言いあらわせません。兄弟でもこれほど愛し合っている者はまずないでしょう。ほんとにこれ以上の親しさは考えられないほどの間柄でした。しかも、ふたり、と言っても人間同志ではないのです。ネルロは、フランスとベルギーの境を流れるムーズガワのホトリの田舎町アンデルスに生まれた少年。パトラッシュは、フランダース産の大きな犬なのです。このふたりは、トシカズから言ったら、いわゆる同じ年ですが、一方はまだあどけない子供ですのに、一方はすでに老犬の部類に入っています。ふたりが友達になったそもそものはじまりは、お互いに同情し合ったのがもとで:、日をふるにしたがって、その気持ちは’ますます深まり、今ではもう切っても切れない親し-さにむすびついてしまいました。  村はずれの小さな小屋、それがふたりの家でした。  この村というのは、ベルギーの首府アントワープから一里半ばかり離れたフランダースのイチ村落で、まわりには麦畑や牧場が広々とつらなっていて:、その平野を貫ぬく大きな運河の岸には、ポプラやハンノキの長い並木が、そよそよ’吹く微風にさえ枝をゆすぶっていました。村には家屋敷がおよそ二十ばかり、その鎧戸は、みんな明るい緑色か、青空そのままの色に塗られ、屋根は、多くは紅い薔薇色、または黒と白のまだらに塗られていました。壁は雪のように真っ白で、太陽に輝いている時は目が痛くなるほどでした。村の中央には、苔むした土手の上にフウ車がそびえ立っています。このフウ車はこの辺一帯の低地の目標ともなっているものでした。ずっとずっと昔、このフウ車は羽根も何もかもすっかり真っ赤に塗られたこともありました。が今は’もうその燃えるような赤い色も風雨にさらされて汚く色あせてしまい、まわり具合も、よぼよぼのおじいさんのように、止ったり、動いたり、という有様になってしまいました。とは言えまだこの辺の人達の麦搗の役は充分足しています。このフウ車と向き合って古ぼけた小さな教会堂が建っています。その細長い塔の上の鐘は、朝に夕に、静かな、悲しげな音をひびかせるのでした。/東北のほう/広々とした平野の彼方にはアントワープの旧教寺院の尖った塔が、そびえ立っているのが望まれました。へーやには果てしもなくあおやかな穀物のハタケがひろがって、まるで一面海のようでした。  さて、その村はずれの小屋の主人というのは、大変’年取った、そして大変’貧乏で、ジェハン・ダアズというおじいさんでした。このおじいさんも、ずっと以前は軍人で、あのナポレオンの大軍がこのベルギーに攻め入って来た時には、戦いに出た経歴も持っています。しかもこのおじいさんが、その戦場から持ち帰ったものとしては何一つなく、ただ、大きな傷を受けて、一生チンバをひきずらねばならないことだけでした。  ジェハンじいさんが八十才になった時、じいさんの娘が、アンデルスというところで死に、二才になったばかりの男の子をおじいさんの手に残しました。自分一人の暮らしさえやっとであるこの貧乏なおじいさんは、それでも愚痴一つこぼさず、この厄介者を引き受けました。そしてこの厄介者は’じき、おじいさんにとって、可愛い、尊い、なくてはならない大切なものになってしまったのでした。その忘れがたみのネルロ──じつの名は’ニコラスというのだが、それを可愛らしく呼んでネルロとしたのです─:─は、この上ないおじいさんの慰め手となって、この小さな小屋は本当に平和でした。小屋は粗末な掘っ立て小屋にすぎませんでしたが、おじいさんは、いつもきちんと片づけ、貝殻のように白く塗り立てて、まわりには、ささやかな豆や/薬草や/南瓜の畑をつくっていました。  このおじいさんと孫とは、おそろしく貧乏で、全くなにも口にすることのできない日が幾にちもあり、たとえどんなにうまく行った日でも、これで十分というほど食べられることなど決してありませんでした。ですから二人にとっては、これで腹一ぱいというだけ食べられれば、それがもう天国へ’登ったほどありがたいことなのでした。しかしこんなに貧乏でも、おじいさんは親切でやさしく、孫のネルロも、嘘を言わない、無邪気な素直な心を持っていました。  ふたりはもうほんのわずかなパンの皮と/キャベツの葉っぱで満足して、その上はなんにも望みませんでした。ただ一つ、ねがいと言っては、犬のパトラッシュが、いつまでも側にいてくれればいい、と言うことだけでした。本当にパトラッシュがいなかったら、今頃このおじいさんと孫はどうなっていたことでしょう。  パトラッシュは彼等にとって全くなくてはならないものでした。この犬’一匹が、彼等──老いぼれた不具者と頑是ない幼子──にとっては:、ただ一人の稼ぎ人、ただ一人の友達、ただ一人の相談相手、ツエとも柱ともたのむ、ただ一つの頼りなのでした。フランダースの犬は、一体に頭も四本の脚も大きく、耳は狼のようにぴんと立っていて、何代も何代も親ゆずりの荒い労働で鍛え上げたがっしりしたその足は、何れも外側にひらいてふんばっていて、見るからに異常な筋肉の発達を示しています。全くフランダースの犬は、親子代々、一生、はげしい/むごたらしい労働にこきつかわれ、力つきて、ついには路上に血を吐いて行きだおれる、という運命を持っているのでした。そうした犬を両親にしてパトラッシュは生まれました。彼は悪罵と鞭とに育てられ/イッピキマエの犬となる前に/すでに荷車を挽く擦傷のいたさと、首輪の苦しみを味わいました。彼は生れてやっと、一年たつやたたずで、もう、ある金物行商人の手に売られ、そこで、思い出すもおそろしい生活を強いられたのでした。その主人と言うのは、飲んだくれの情知らずで、食べ物などろくろく与えず、山のような荷をひかせ、絶え間なく鞭をふり下ろすのでした。幸か不幸か、パトラッシュには力がうんとありました。根がこう言った残酷な労働をするように生まれ落ち、慣らされて来た、鉄のような血統を受けているのですから、大抵の労働には、へたばることなく、したがって苦痛は増すばかりでした。重荷、鞭、飢渇/これらの苦しみが、この憐れな犬の、その主人からもらうただ一つのお給金のようなもので、その他には何一つ報いられるものはありませんでした。  こんな、地獄のような苦しみを、二年ばかりも-こらえて来たあとのある日のことでした。その日パトラッシュは、いつもの通り、あの有名な画家ルーベンスが生まれたアントワープの町に通ずる埃っぽい/気持ちの悪い道を、あえぎあえぎ、車をひいて行きました。車には、鍋類、鉄皿、鉄瓶、バケツ、その他いろんな瀬戸物’類、真鋳類、錫類などが山と積んでありました。丁度’夏の真っ盛りでその暑さと言ったらありません。そうした中をパトラッシュは一日じゅう何も食べず/そのうえ半日も水を口にしないのでした。パトラッシュは苦しげにあえぎました。けれども主人は知らぬ顔で、のっそりのっそりついて行くばかり、時たま犬のほうを見るかと思えば、すでに鞭は打ち下ろされて、その長い革ひもの先は、擦傷も露わな犬の腰にぐるぐると巻きつくのでした。金物屋は、道ばたにサカ屋でもみつければ、忽ち入りこんでビールをひっかけるのでしたが、イヌには、運河の水をひと飲みするだけの暇さえ与えず、ただもう追い立てに追い立てて/鞭をならすのでした。  クワッと照りつける太陽に、焼けるように熱くなった道。飢え切ってキリキリいたむ腹、かわき切ってヒリヒリいたむ喉、目は砂ぼこりでかすみ、腰に結びつけられた重荷の軛の情け容赦のない重さ。さすがのパトラッシュも、ぼっと気が遠くなり、生まれて始めてよたよたとよろめいて、口から泡をふいて倒れてしまいました。これを見ると金物屋は、彼独特の気つけ薬をとり出しました。ああ、それは蹴ることでした。怒鳴ることでした。かたい樫の棒で殴りつけることでした。しかし、どんなに蹴ってみても、怒鳴ってみても、殴ってみても、今度はもうパトラッシュには効き目がありませんでした。彼は、ただもうぐったりと身動きもせず、白っぽい埃の中に横たわったきりでした。しばらくして行商人は、もうこれはとてもだめだと分かると、さもいまいましげに舌打ちをして、手荒く梶棒からとき放し、犬の体を、どん、と草のしげみへ蹴とばして:、このヤクザ野郎め、蟻にさされるとも、烏につつかれるとも、勝手にしやがれ、と口汚く罵って、それから、ぷんぷん-おこりながら/今度は自分で車を坂のホウへ曳いて行きました。丁度その日は、向こうのルーヴァンの町でお祭りがある前の日でした。で、金物屋は、早くそのイチバへ行きついて、金物の店を出すのに都合のいい場所をとろうといそいでいるのでした。ですからこんなことになった今、金物屋の癇癪は大変なものでした。そのルーヴァンまでは、まだなかなかなんですもの。金物屋は、どこかに飼い主にはぐれた犬でも居ないものか、いたら、なるたけ大きな奴をひっ捕えて、しばりつけてやろうと、ワルゴスい目をきょろきょろさせながら、さもやり切れなそうに車をひいて行きました。パトラッシュは蹴込まれたままでいました。茫々と草のしげったドブのなかに──  その日、その街道は大変なにぎわいでした。てくてく歩く人、驢馬に乗る人、あるいは二輪馬車、四輪馬車を走らす人、いずれも、お祭り気分で浮かれながら/ぞろぞろ行くのでした。もちろんその人達の目にも、倒れた犬はうつったでしょうが、みんな、そのまま行き過ぎてしまいました。要するにたかが死んだ犬’一匹、──それが、この地方でなんのめずらしいものですか。世界中どこへ行ったって、やはりなんでもないことなんでしょう。  しばらくすると、人波に揉まれながら、腰の曲った、よぼよぼのチンバのおじいさんが、やって来ました。別にお祭りに出かけるらしくもなく、みすぼらしいボロを着て、埃の中をだまりこんでやって来ました。このおじいさんが、パトラッシュをみつけると不思議そうに立ち止り、草を分けてそばへ寄り、親切な目つきで、しげしげと犬の体をしらべてみるのでした。  おじいさんのそばには、三才ばかりの、バラのような頬っぺたの、髪の房々した/瞳の黒い子供がくっついていました。草は、その子の胸までもあるのでした。子供はおじいさんにつかまり、これは大変だ、と言わんばかりに目をまるくして、可哀想な犬をじっとみつめていました。こうしてふたりははじめて会ったのでした。──子供のネルロと、大犬のパトラッシュとが。──  さて、ジェハンじいさんは、いろいろに骨を折って、ようやく’犬の体を、じき近くの、自分の小屋へ運びこみ、息のたえたこの犬を、心をこめて介抱してやりました。しかし、パトラッシュの倒れたのは、暑さと飢渇とつかれで、一時’目がくらんだためですから、日陰へ静かにねかしておくうちに、やがて、元気をとり戻して来ました。そうして、はや、よろめきながら、立ち上がろうとさえするのでした。それからナン週間ものあいだ、パトラッシュは、力もなく、役にもたたず、全くの病犬で、死には’すま-いかと、案じられるようでした。しかしそのあいだ、犬は決して、荒くどなられることもなく、いたい鞭も受けませんでした。ただ受けるのは、可愛らしい子供の、片言交じり慰めと、おじいさんの、親切な労りばかりでありました。まことに、このさびしい年寄りと、幼子、この二人だけが、心をつくして病気の犬を見守るのでした。小屋の隅には、枯草を山のように積んで、犬の寝床ができました。そうしておじいさんと幼子とは、じっと耳をすまして、犬の寝息をうかがい、その息さえ聞こえれば、ほっと安心するのでした。  犬はようやく元気になって、はじめて、一声吠えてみると、それを嬉しがって、おじいさんと子供とは、どっと笑うのでした。そして、元気になってよかったと、嬉しなみだをこぼすのでした。殊にネルロは、夢中になってよろこんで、すぐ駆け出して行って、野菊を-つみあつめて首輪をこしらえて来て、それをアラゲのパトラッシュの首にかけてやり、子供らしい赤いやわらかい唇で、何度も何度も、キスするのでした。こうしてパトラッシュは、すっかり元気をとりもどして、もと通りの大きな、がっしりと力が満ちた犬になりました。はじめ、パトラッシュは、以前と様子のちがっているのが、気がかりなフウでしたが、間もなく、すべてのことが分かって来たので、すっかり安心しました。こうしておじいさんと子供の親切な心が分かると共に、パトラッシュの心の内には、生まれてはじめて愛というものが、非常な力で湧き上がったのでした。そしてその愛は、その後一生、パトラッシュが死ぬまで、一度も鈍ったことはありませんでした。パトラッシュは、恵まれた、今度の新しい生活のすべてを知ろうとして、その澄んだ目で、じっと注意深く、おじいさんと子供のすることを見守っていました。  さてこのジェハンじいさんの仕事と言うのは、毎朝、近所の、牧場主たちの牛乳を、小さな手車で、アントワープの町へ運ぶことでした。村の人達は、このおじいさんを哀れんで/そうした仕事を与えていたのでした。何しろごくの正直者ですから、牛乳を運んでもらうばかりでなく、村にいて、仕事としては、畑の番、牛小屋、鶏小屋の番、小さな田の番、などいろいろ頼まれるのでした。しかし、もうそろそろおじいさんには、仕事がむずかしくなって来ました。なにしろ八十三という年寄りになったのですもの。アントワープへ行くにしても、三里からの道を歩かねばならないのでした。  パトラッシュは、はじめて、しゃんと起き出た日、おじいさんが持って出たり/持って帰ったりする牛乳缶を、じっと気をつけてながめていました。鳶いろの首に野菊の花環を巻かれたままで、日向ぼっこをしながら。そして、そのあくる朝になると、パトラッシュは、おじいさんがまだ車に手をかけないさきに起きて行って、ぴったり、車の梶棒のあいだに体をおきました。それは丁度、私は車をひくことを知っています。どうかせめてこんな仕事でなりと、御恩がえしをさせて下さい、と言うかのようでした。が、このおじいさんは、犬に車を曳かせるのは、神さまが犬をつくられたミココロではない、と信じている人でしたから、それを長いこと、許さずにいました。しかし、パトラッシュはどうしてもそれを辞めません。おじいさんが、自分の体を梶棒に-ゆわいつけてくれないと知って、今度は、歯でくわえて曳いて行こうとするのでした。これには、さすがのおじいさんも根負けがし、また、自分の助けた動物の、恩をかえそうとする心の健気で熱心なのに打たれて、とうとうそれを承知してしまいました。そこで、犬が挽きよいように車をつくりなおし、おじいさんの命のあるかぎり、それを毎あさ犬が、せっせと曳くことになったのでした。冬になると、おじいさんは、ルーヴァンの祭りの日に、死にかかった犬をドブから救いあげてやったことの幸せを、つくづく感謝するのでした。何しろ、年老いて、おとろえる一方のおじいさんです。もしこの忠義な犬が、骨身惜しまず働いてくれなかったとしたら、雪道や、ぬかるみの深い轍の跡を、重い牛乳缶をつけてひっぱって行くのが、どんなに辛いことだったでしょう。  ところで、パトラッシュにとっては、こうして働くことがまるで天国のように思われました。あの因業な昔の主人に、山なす重荷をつけられて、一足毎に鞭でぴしぴし打たれた身には、このおじいさんの緑色の小さな手車に、ぴかぴか光る真鍮の缶をのせて行くことなど、思いもかけなかった楽しさでした。まして親切なおじいさんが、たえず、やさしい声をかけてくれたり、抱きしめたりしてくれるのですもの。なおありがたいことには、一日の仕事が、三時か四時には済んでしまって、あとはパトラッシュの自由な時間なのでした。日向ぼっこをしようが、子供と一緒にふざけようが、近所の犬と遊ぼうが、まったくしたい放題。パトラッシュはもうもう満足し切っていました。殊に運のいいことには、前の主人の金物屋は、あのルーヴァンのお祭りさわぎに、ひどく酔っぱらったあげく、喧嘩をして殺されてしまったのです。生きていて、もしも見つけ出されでもしたら、パトラッシュは否応なし、この新しい居心地のいい’家から、ひきずられて行かねばならなかったでしょうに。  それから二’三年たちました。ジェハンじいさんは、それまで悩んで来たチンバの上に、今度はリュウマチを患って/足がひどくしびれるようになり、もうこの上は、車について出かけられなくなってしまいました。この時六才になっていたネルロは、それまで何遍となくおじいさんにつれられて行って、アントワープの町の様子も知りつくしていましたので、おじいさんに代って車について行くことになりました。牛乳を売って代金を集め、それを、それぞれの牧場主にとどける。その様子がいかにもいじらしくて気の毒なので、見る人の心を感じさせずにはおきませんでした。  ネルロは本当に美しい少年でした。黒目勝ちな凉しい瞳、薔薇のように生き生きしたホオ、そしてつややかな髪が、ふさふさと華奢な襟元まで垂れていました。で、この少年と/犬と/牛乳グルマをモデルにする画家が、たくさん出て来ました。──緑色の牛乳グルマにかがやく真鍮の缶、それを曳くのは大きな鳶色の猛犬。梶棒につけた’小鈴が、ひと足毎に可愛いネをたてて、付き添うのは可憐な美少年。小さな白い素足に大きな木靴を履いて、ルーベンスの名画から抜け出して来たような/楽しげなあどけないその顔は、どんなにヒトをひきつけたことでしょう:、大ぜいの画家たちが我勝ちにと-えがいたのももっともなことでした。  ネルロとパトラッシュとはすっかりこの仕事に慣れ、また、こころからこの仕事を-すいていたので、夏になってジェハンじいさんの病気がよくなっても、もうおじいさんは出かけて行かなくてもすむのでした。おじいさんは日あたりのいいコヤの入口に腰を下ろして、ネルロとパトラッシュがいそいそと畑の木戸をくぐり、やがて、その姿が遠くへ’消えてしまうまで見送り、とろとろっと居ねむって、短い夢さえみる。やがて目をさまして、お祈りをしたり、ハタケのものなど見回ったりする、そうこうするうちに時計が三時を打つと、おもてへ出て、ネルロたちを待ち受けるのでした。うちへ近づくと、パトラッシュは嬉しそうにひと声たかく吠えます。そして梶棒をはずしてもらって、ゆっくりとくつろぐのです。ネルロはその日の賃銀を得意そうに計算し、やがて、みんなそろってライ麦のパンに、牛乳やちょっとしたスープを添えて食べるのでした。  目をあげれば、野は、次第次第に暮れて行き、宵闇が、遥かな旧教寺院の尖った塔を’ぼかし始めるのです。それから、おじいさんにお祈りをしてもらって、みんな安らかなねむりにつくのでした。こう言う楽しい暮らしが、イクニチとつづき、イクネンとつづきました。そして、ネルロとパトラッシュの生活は、相変らず幸福で平和でした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  春と夏とは、ネルロたちにとって、一番楽しい時でした。一体フランダースというところは見渡す限りどこまでも牧場やタハタがつらなっているだけで、変化に乏しい、あまり面白いとは言えない土地ですが、そこにはまた、この地方独特の景色もあるというものです。  運河の岸の、梢あざやかな長い並木道、水際には、高い藺の間に花が咲き、古ぼけた荷足り舟が、青い樽を積み、さまざまな旗をひらめかして、静かにすべって行く。変化に乏しく/退屈であっても、ネルロとパトラッシュにとっては実にこの上もない楽園でした。ふたりは仕事がすむと、きっとつれだって出かけて来る。運河の土手の、したたるようなアオクサのしげみに身をうずめて浮びきたり、浮び去る重たげな舟をながめる。すると、かぐわしい夏花の匂いと、爽やかなウシオの香りとが、混り合って、漂って来るのでした。ふたりは、やさしげな満ち足りた瞳をして、いつまでもいつまでも、そうして坐っているのでした。しかし冬は本当に辛いのでした。ふたりはまだ暗いうちから起き出るのに、それでも、ひるのうちに仕事がすっかり終るようなことはめったになく:、それに小屋は、あたたかい時には思いもしなかったような隙間や節穴が一ぱいで、冬の夜更けには、寒い冷たい風が吹き込んで、まるで家畜小屋にでもいるような気がするのでした。春から秋へかけて、実らないながらも、そのしげった緑の葉で小屋をつつんでくれたぶどうも、冬になるとみすぼらしく枯れ果てて、黒い汚い蔓がからみついているばかりです。あやまって水を床にこぼしたりすれば、じきそれが凍りついてしまうのでした。広い荒れ野は雪に-うもれて、ネルロの華奢な手足は痺れ/パトラッシュの頑丈な脚もツララで傷ができました。しかしふたりは健気にも泣き言一つ言わず、梶棒の鈴の音もほがらかに、毎朝’三里の道を行くのでした。アントワープの町の人々はみないじらしがって、パンキれにスープを添えて、持ち出して来てくれるおかみさんや、帰りのアキグルマの中へ焚き木の束を入れてくれる人などあらわれました。また同じ村の女などで、わざわざ牛乳などとっておいて、ふたりの帰りをねぎらってくれる人もあるのでした。  そういうわけで、知るかぎりの人々に愛され、いたわられて、この小さな藁小屋の中はいつも楽しげな笑い声がみちていました。  パトラッシュは、本当に幸せでした。同じ炎天の下でも、同じ氷雪の路でも、昔と今では地獄と極楽の相違です。たとえひどく空腹を感じ、足の傷みがひりひり痛むことがあっても、おじいさんの親切な労りと、少年のやさしいキスとは、すべての苦痛をおぎなって余りあるのでした。パトラッシュはこのうえ何をのぞみましょう。けれどもそのパトラッシュにたった一つ、不安と言えば言えるものがありました。それはこうでした。アントワープの都には、古代石造建築の名残りが、たくさん残っています。今は’もうアントワープは、俗っぽい商業地になってしまいましたけれど、それでも、尊いお寺やお社が、昔の名残りを-とどめていました。  世に名高い大画家ルーベンスはこの町に生まれたのです。アントワープが商業地以外に芸術の都としても世に知られるようになったのは/ひとえにこのルーベンスのおかげでした。彼の尊敬すべき偉大な魂は/今もなおアントワープの町の上をさまよい、見守っていると言えましょう。ほんとにアントワープ到るところにルーベンスを感じ、ルーベンスを感じることによって、この町のすべてが清められ深められるとも言えましょう。  そのルーベンスの白い墓標は、アントワープの中央、セントジャック寺院内の、いと物静かなところに立っています。その静けさの上を、時折、おだやかなオルガンの音と、讃美歌の合唱がながれていくのでした。芸術家の墓のうちでも、こんないい場所に/これほど立派に立っているのは少ないでしょう。  さて、パトラッシュの心配というのはこれでした。この、厳かにそびえている古びた石造建築の中に、時折ネルロの姿が消えてしまう。その暗いアーチ型の玄関の奥にネルロが吸いこまれてしまって、パトラッシュだけがぼんやり、敷石の上にとり残されるのです。  パトラッシュは、一体どんな面白いものがあって、自分と離れたことのない仲よしを/いつもいつもあの門内へさそいこんでしまうのだろうと、不思議で堪らないのでした。一’二度、彼はそれを見きわめようとして、牛乳グルマをくっつけたまま、入口の石段をガラガラ登りかけたことがありましたが:、そのたび、黒服に銀の鎖をつけた背の高い門番にイチゴンのモトに追いかえされてしまいました。パトラッシュは仕方なく、小さいご主人に変わりがなければいいがと案じながら、じっとねそべって、ネルロが出て来るのを辛抱強く’待っているのでした。  パトラッシュはどこの村の人たちも教会へ行くことを知っています。大ぜい揃って、あの赤いフウ車のむかいの、古ぼけた教会堂へ出かけるのも見ていますから、ネルロが、お寺へ入るのが別に心配というのではありません。ただ、気になるのは、その町の寺院から出て来る時のネルロの顔色なのでした。非常に興奮したようにあかくほてったホオをしているかと思えば、またひどくあおざめている時もあって:、そう言う日にかぎって、家へ帰ってからも、ぼんやり夢みるような目をして、すわりこんだきり、一向’遊ぼうともしないのです。そして運河の彼方に暮れていく空をながめては、いかにも、思い沈んだ/悲しげな様子をしているのでした。  パトラッシュは、心配で心配でたまりません。これは一体どういうわけなのだろう、なんにせよ、こんな小さい子供が、こんな真面目くさった顔つきになるのは、普通でもないし良いことでもないと:、パトラッシュは口にこそ出さね、気をくばって、ネルロの行くところは野と言わず、イチバの人混みと言わず、片時もそばを離れないことにきめたのでした。  おかしいことには、ネルロは村の教会へは行こうともしません。ただ行きたがるのはあの町の大寺院だけです。パトラッシュはその寺院のオオモンのそとに取り残されて/背のびをしたりため息をついたり、はては大声に吠えたりしますが/どうにもなりません。やがて門の扉が閉められるころになって/ネルロはようやくつまみ出されるようにして追い出されて来ます。そして、すぐ犬の首に抱きついて、そのひろい鳶いろのヒタイにキスしながら、いつもきまったように、 「パトラッシュ、僕は見たくって──ひと目でいい。見さえすれば──」と、きれぎれにつぶやくのです。それは一体’何のことであろう。パトラッシュは、思いやりのこもった目で、じっと少年の顔をみつめるのでした。  ある日、門衛がいないで、扉があいたままにしてあるのをさいわい、犬は少年のあとを追ってこっそり内へ入りこんで-みました。少年はうっとりとして「キリスト昇天」の絵の前にうずくまっていましたが、うしろに犬の来ているのに気がつくと、立ち上がってやさしく’犬を胸のあたりまで抱き上げました。その顔は、涙にぬれていました。ネルロは、堂内の両側にかかげてある二つの絵をぴったりと覆った厚い布を指して、言いました。 「パトラッシュ、貧乏でお金がはらえないからあの絵が見られないなんて、なんて情けないことだろう。貧乏人には見せられないなんて、どうしてあの絵の作者が言うものか、いつだって僕らに見せるつもりだったんだ、毎日見ててもいいと思ったにちがいない。それだのに、こんなに覆ってしまうなんて、金持ちが来て、かねを払わなければ、いつまでも美しい絵に光りもあてないなんて。ああ/見たいな、見たいな/見さえすれば僕、死んでもいいんだが──」  パトラッシュははじめて知りました。あんなにもネルロをひきつけ、さそい入れたものが、この覆われた二つの大きな絵だったということを。しかしパトラッシュにもどうすることもできませんでした。 「キリストの昇天」「十字架上のキリスト」この二つの名画の見物料を儲け出すことは、ネルロにとってもパトラッシュにとっても、丁度この寺院の高い尖塔によじのぼると同様/全く思いもよらぬ難事だったのです。ふたりは、余分なお金など、それこそ一文もありはしません。炉に焚く薪のヒトタバ、うすいスープのひと鍋さえ思うに任せぬ哀れな身ですもの。  しかしながら、ネルロの心は、このルーベンスの二つの名画を見たいと言う願いを、どうしてもあきらめることができず、いや、ますます燃えさかるのみでした。身は水呑百姓の子供の哀れな牛乳配達にすぎなかったけれど、ネルロの心は常に高く、大画家ルーベンスを夢見ていました。  ひもじさ寒さも気にとめず、いつも心にえがいて楽しんでいるのは、かつて見て知っている『キリスト昇天』のその神々しい顔つき:、金髪を肩に波打たして、そのヒタイに消えることなき栄光のてりかがやいている図でした。貧しいなかに育ち、なんの教育も受けていないが、少年ネルロは、まさしく天才の素質を持っていたのです。もとより、誰一人そんなことを気づく者はなく、ネルロ自身も、そんなことは思ったこともありません。ただそれを知っているのは、ネルロのそばを離れたことのない犬のパトラッシュだけでした。パトラッシュは、ネルロがよく白墨で石の上などへ、動物や植物などをいろいろと描くのを、また、一緒に枯草のトコにねむる時など、そうしてそんな時のネルロの顔が、どんなにぱあっと輝いているかを見知っていました。ネルロが大画家ルーベンスの魂に向かって、いろいろな賛めことばや、思いつめた祈りを捧げているのを聞きました。また、度々、よろこびと悲しみとが混じり合ったような、なんとも言うことのできない涙が、この小さな子供の瞼からあふれ落ちて、パトラッシュの皺のよった、鳶いろの額へかかるのも知っていました。  その頃、ジェハンじいさんは病気になって/トコについていました。 「ネルロや/お前が早く大きくなって、せめてこのコヤでも自分のものにして、田の一反でも持って、近所の衆に旦那と言われるようになってくれたら、おじいさんも安心して目がつぶれるがな。」と、おじいさんはトコの中で、ナンベンもこんなことをくりかえし言っていました。このあたりの百姓の望みと言ったら、土地を少しでも持って、村の人達に旦那と呼ばれるようになる、それがもう何よりの最大の望みなのでした。このおじいさんも、若い時には飛び出してあらゆる地方を流れあるき、しかも何一つ儲けて帰ったと言うでもなく、とうとうこんなに年寄って/ようやく一つところに落ちつき:、やっぱり百姓は百姓の分相応な望みで暮すのが一番だと悟って、可愛い孫’のために、ひたすらそれを願ったのでした。  だが、ネルロはだまっていました。ルーベンスやヨーンデェンスや、ヴァン・グィリなどの大芸術家、その人達の天才と同じものが、少年ネルロの血にも流れていたのです。  ネルロの考えている未来は、おじいさんの考えとは全くちがっています。わずかばかりの土地を耕して、小っぽけな家に住み、自分より貧乏な人や、せいぜい同じくらいの貧乏人同志から、旦那と呼ばれて満足するなどと言うことは、ネルロにとっては思いもよらぬことです。あかあかと燃える夕映えの空、うっすらと狭霧の立ちこめる朝などに、遠くそびえるあの大寺院の尖塔は、ネルロの心と、おじいさんの言葉とは全くちがったものを告げているのでした。しかし少年がこれを話すのは、犬のパトラッシュだけで、まるで赤ん坊にでも言いきかすように、ゆっくりゆっくりその耳にささやくのでした。車について野原を行く時にも、風そよぐ運河の岸の叢に並んでねころぶときにも、きまって、これをささやくのでした。  パトラッシュのほかにもう一人だけ、ネルロは話相手がありました。それはアロアという小さな女の子で、あの丘の上のフウ車の家の娘で、お父さんの粉挽屋は、この村一番のお金持ちでした。アロアは、まだほんの幼い少女でした。ぽっちゃり肥えて、なにか紅い花のような子でした。そのぱっちりした黒い瞳の愛らしさと言ったらないのでした。アロアはよく、ネルロやパトラッシュと遊びました。野原で鬼ごっこをしたり、雪投げをしたり、野菊を摘んだり、くるみひろいに行ったり。ある時は手をつないで教会堂へ行ったり、水車小屋の中の大きな炉ばたにすわりこんだり。──アロアはその金持ちな粉挽屋のたった’一人娘でした。いつもさっぱりと可愛い着物をつけて、お祭の時など両手に持ち切れないほどお菓子だの、おもちゃだの買うことができるのでした。アロアがはじめて洗礼式に出かけた時、その巻き毛の金髪の上へかぶった帽子は/おばあさん譲りのクリン織りのとても見事な贅沢なもので:、万事がそういうふうですから、アロアはまだやっと十二なのに、もう近所の人々の口のハにのぼって:、あのムスメをうちの息子のお嫁にもらったら/さぞいいお嫁さんになるが、などと噂されました。しかし本人のアロアは一向無邪気な可愛い子供で、自分の-うちの財産のことなど知りもせず、とにかく一番好きなのは/ジェハンじいさんとこ-の孫と/犬とでありました。  アロアの父親は、コゼツの旦那と言われていい人だが、すこし頑固でした。  ある日、彼が水車小屋のうしろの畑を通りかかると、丁度ネルロとアロアが遊んでいました。娘が真ん中の高くつんだ枯草の上にすわり、パトラッシュの大きな鳶いろの頭をひざにのせている。辺りにはひなげしや、矢車草などと色とりどりにちらばっていて、それをネルロが松のけずり板に、写生しているところでした。コゼツの旦那は、立ち止まって、その写生をながめました。ぽちゃぽちゃしたホオ、黒い瞳、不思議によく似ています。彼はこの一人娘を、目に入れても痛くないほど、可愛がっていたのでした。ふいに彼は、何を思ったか、お母さんが呼んでいるのに、なぜぐずぐずしているのかとアロアを叱りつけ、アロアがびっくりして泣き出すのもかまわず、家のホウへ追いやってしまいました。そして振りかえって、ネルロの手からその板ぎれを取り上げました。 「なぜ、こんな馬鹿げた真似ばかりしているんだ。」  ネルロはあかくなってうなだれ、 「僕は見えるものを何でも写生するんです。」と小さい声で言いました。コゼツはだまっていましたが、やがて五十銭銀貨’を一つさし出しました。 「それは悪いひまつぶしというものだ。だがこれは大層よくアロアに似ているから、うちの母さんにみせたらよろこぶだろう。この-かねをやるから、この絵は儂にくれ。」  するとネルロは顔をあげ、手をうしろへやって、 「いいえ、僕、お金なんかいりません。この絵がよかったら持っていらっしゃい。いつもあなたは親切にして下すったんですもの。」こう無邪気に言って、そして少年は犬を呼び、畑を横切ってさっさとそこを立ち去りました。 「あの銀貨をもらっていたら、あれがみられたんだが、でも僕はあの絵を売ることはできない。たとえあれが見られるにしても。」と、少年は犬に向かってつぶやくのでした。その夜コゼツは、 「あの子供をあまりアロアと遊ばせちゃいかんね。あとできっと心配事が起こって来るよ、あの子供は今年十五だし、娘は十二だ。それにあの子は、ちょっとした顔つきでもあるし。」とおかみさんに話しかけました。おかみさんは、ストーヴの上に置かれたさっきの絵につくづく見入りながら、 「それに真面目な子で、一本気のようでもございますしね。」と言いました。 「そこじゃて。それをわしは思うのじゃ。」と、コゼツはたばこをつめながら言いました。 「ほんとにそうでございますね。あなたのお考えどおりになります。」とおかみさんは口ごもりながら、 「大層’結構のように思われますわ、娘だってこの財産をつぎますればふたりの一生は安楽ですし、それに越した二人の幸せはありませんわ。」 「だから女は困るというのじゃ、馬鹿な。」と、主人はパイプをテーブルに打ちつけて、 「あの子供が-なんじゃ、乞食じゃないか。おまけに画家になろうなどと自惚れているからなお始末が悪い。これ、よく注意して、もう決して遊ばせてはならんぞ。」  おかみさんは、ネルロを可愛がっていましたが、気の弱い人だったので、そのまま黙って、主人の言うとおりにすることにしてしまいました。けれども、母親として、娘が一番仲よくしている友達と裂こうということもできず、主人としても、貧乏ということ以外には何一つ欠点のない子供に対して、そう酷いことをしむけることもできませんでした。が、わざわざそんなことをしなくても、コゼツの目的は達せられました。  ネルロは男らしく、静かで感じ易い少年でしたから、もうそれ以後はあきらめて、たとい暇があっても、丘の上の赤いフウ車のホウへは、足をはこばなくなったのでした。なにがあんなにコゼツの旦那の気にさわったのか、ネルロには分かりませんでした。ただ大方、牧場でアロアを写生したことがいけなかったんだろうと思っていました。で、時として、アロアが彼をみつけてとんで来て、手にすがりつくことでもあると、彼は悲しげにほほえんで、いろいろとなだめるのでした。 「ね、アロアちゃん。お父さんのご機嫌を悪くしないで下さいね。お父さんは、僕があなたを怠け者にでもするように思っていらっしゃるんだからね。だから僕と一緒に遊ぶのがお気に入らないんでしょう。でもお父さんはいい方で、ほんとにあなたを可愛がっていらっしゃるんだから、僕たちは、ご機嫌を損ねるようなことをしてはいけない。ね、アロアちゃん。よく分かったでしょう。」とは言えそれは、悲しさ、さびしさをおさえぬいた言葉でした。  ネルロにとっては、微風にそよぐポプラ並木の朝の景色も、もはや以前のように、楽しげに晴々しくは見えませんでした。その古ぼけた赤いフウ車は、ネルロにとっては一つの目印で、そこまで来ると、一休みするのが決まりでした。そして、往きにも帰りにも、水車小屋の人達に元気よく挨拶すると、その低い水車小屋の木戸の上にアロアの金髪がちらとゆれて:、やがて、アロアの小さなもみじのような手に、パトラッシュのご馳走のパンの皮や魚の骨などが持って来られるのが常でした。──が、今は、──パトラッシュは不思議そうな目つきで、木戸がかたく閉じられてあるのをながめます。少年はさっさと通り過ぎて行くが、その心の中では/辛いのでした。  アロアは窓の中で、編み物をしている手に、ほろっと涙を落す。主人のコゼツは、粉袋や粉挽き機械の間をせっせと働きながら、いよいよ心を頑なにして独り言を言うのでした。 「こうして離しておくほうがいいのじゃ。あの子供はどうせ乞食みたいで、そのうえ画家になろうなどと、とんでもない馬鹿げた夢を見ている。まかりまちがえば、こののちどんな不幸せが起こって来るかもしれん、用心用心。」  こうした間にも、れいの松の板ぎれは、粉挽屋の食堂のストーヴの上の/置時計と十字架像の間に、大事そうに飾られてありました。ネルロはときどき、絵だけがこうも歓迎されて、それを描いた自分はなぜ除けものにされるのかしらと、悲しい、さびしい思いを-いだくのでしたが:、ネルロは決して恨みがましいことは’口に出しませんでした。ひとりずっと、心の中の悲しみに-こらえているのが、彼のサガでした。ジェハンじいさんは、よく彼に言い聞かせました。 「わしらは貧乏人じゃ、何でも神さまが下されたものをそのままお受けせねばならぬ。それにはよいことも悪いこともあろう。だが、貧乏人は、えり好みをするのじゃない。」  少年はだまって、おじいさんの言葉を聞いていました。彼はなんにもその言葉に逆いませんでした。しかし、 「いや、貧乏人だって、時にはえらばねばならぬこともある。偉くなる道をえらぶ、それを誰がいけないというものか。」  ネルロはけがれない心に、一途にこう考えていました。  ある日、運河のほとりの麦畑に、ネルロがたった一人で佇んでいると、ふとそれを可愛らしいアロアがみつけて駆け出して来ました。そしてネルロによりそいながら、しくしく泣き出すのでした。明日はアロアの誕生日なので、これまでなら、ネルロを招いて、おいしいご馳走をしたり、大きな納屋であそびまわったりして、楽しくすごせるはずなのに、今年に限ってお父さんもお母さんも、ネルロを呼んではいけないと言い渡されたのでした。ネルロはやさしく少女にキスして/そして、深く胸のうちに決心したことをささやくのでした。 「ね、アロアちゃん、僕もいつかは’きっと偉くなってみせますよ。やがて時が来れば、お父さんが持っていらっしゃる僕の描いたあの松の板ぎれだって、あの大きさの銀を出しても買えない程なネが出ますよ。そうなったら、お父さんだって、戸を閉めて僕をいれないようなことはなさらないでしょう。ただ、アロアちゃん/僕を忘れないでね。忘れないで下さいね。僕きっと偉くなるから──」 「まあ/あたしがあんたを忘れるって言うの、そんなこと言うなら-いいわ。」と愛らしく泣きぬれたアロアは、ホオをふくらしてすねたように叫びました。その眼には、まごころがあらわれていました。少年はそれを見ると/胸がせまって、いそいで目をそらしました。遥か彼方には、宵闇にホノジロく、あの旧教の大伽藍がそびえ立っていました。少年の顔には、一瞬間、何か崇高なかがやきがひらめきました。アロアはちょっとこわくなったほどでした。 「僕は偉くなる。」と、少年は深い息をして呟きました。 「アロアちゃん、偉くなれなかったら、僕は死ぬ。」 「死ぬんですって、じゃ/あたしを忘れてしまうのね。」と、アロアは少し苛立ってネルロを押しのけました。少年は頭をふって、ほほ笑み、背丈ほどもある、黄色に熟れた麦のかげを、家のホウへ帰って行くのでした。少年の目には幻が浮んでいました。──いまにきっと幸せになれる時が来る。名を成して再び故郷に帰って来て、あらためてアロアのお父さんに挨拶したら、その時、お父さんはどんなに僕をよろこびむかえてくれるだろう。村の人達も僕を見ようとして集まって来て、哀れだった昔のことなど思い出し、よけいその成功をよろこんでくれるだろう。その時が来たら、ジェハンおじいさんには、あのセント・ジャック寺の中に-えがいてある偉いお坊さんのように、毛皮や紫の着物を着せてあげて、その肖像を-えがいてあげよう。それから忠犬パトラッシュの首には金の首輪をつけてやり、自分のすぐそばへおいて、集まって来る人々に、 「この犬が、前には私のたった’一人の友達だったのです。」と紹介しよう。住む’家は、あの大寺院の塔のみえる丘の上へ/大理石の宮殿のようなのがいい。そこへ多くの貧乏な淋しい/そして大きな望みを-いだいている少年たちをあつめ、明るく楽しい生活を与えてやって:、彼らをはげまし、もし彼らが自分の名をほめたたえるようなことがあれば「いや、私に感謝する程のことはない。ルーベンスに感謝しなさい。もしルーベンスがなかったら、私はなんにもなれなかったろう/」と言おう─:─こんな空想が、全く清らかにあどけなく、ほほえましく少年の胸を掩いつつむのでした。  このアロアの誕生日の夜、ネルロとパトラッシュはうすぐらいコヤで、まずい粗末な夕食をとっていました。丁度そのころ水車小屋の中では、村の子供たちがすっかり招かれて、明るい灯火の下で、おいしいめずらしいお菓子やご馳走をホオばりながら、笛や胡弓に合せて、おどり狂っているのですから:、ネルロにとっては、よい気持ちのしない日であるにもかかわらず、彼はよく-こらえて、コヤの入口に犬と並んで腰かけ、 「ね、パトラッシュ。くよくよするのは’よそうよ。」こう言いながらパトラッシュの首をだいてキスしてやるのでした。粉挽き場のほうからは、楽しげな笑い声がつたわって来ます。 「いいさ、いいさ。いまにだんだん変わって来るからね、辛抱おしよ。」  少年は未来のことを確く信じていますが、パトラッシュはさすがに犬ですから、現在うまい肉のご馳走にありつけないことには、将来にどんなたくさんのご馳走を思い浮べてみても、それではつぐないがつかないのでした。で、その日以後/パトラッシュはコゼツの旦那の姿を見れば、いまいましそうに唸り声をあげるのでした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「今日はアロアさんの誕生祝いの日だろう。」とおじいさんは、コヤの隅っこのトコの中から聞きました。少年はだまってうなずきました。おじいさんが、それをおぼえていたのが少年はどんなに切なかったでしょう。 「じゃどうしてお前出かけないんだい。」と、おじいさんはまた問いかけました。 「お前、いつの年だって行かないことはないじゃないか。」 「だって僕、おじいさんが病気だし──」と少年は、うつむいて言葉を濁しました。 「なんの、なんの、わしのことなら気にせんで行っといで。出がけにビュレットのおばさんに頼んで行ってさえくれればすぐ来てみてくれるよ。──ネルロ、お前どうしたんだ。まさかあそこのお嬢さんの悪くチでもしゃべったんじゃあるまい-な。」と、おじいさんは不思議でならないのでした。 「いいえ、おじいさん。悪くチなんか──」と、少年は口早に答えましたが、そのうなだれた顔はあかくなりました。 「なんでもないのよおじいさん。ただ、コゼツの旦那が、今年は僕を招ばなかっただけ。あの人、ちょっと僕に思い違いをしてるらしいの。」 「だってお前、なんにも悪いことは’しなかったんだろう。」 「それが、いいか悪いか、僕には分からないんです。僕は、アロアちゃんの顔を、松の板ぎれへ写生しただけなの。」 「ああそうか。」  おじいさんはだまってしまいました。ネルロの無邪気な言葉を聞いて、おじいさんにはすっかりわけが分かったのです。老いぼれて、長い間、掘立小屋の中にねたきりではありましたが、おじいさんは、まだ、世間がどう言うものかと言うことを、忘れてはいませんでした。おじいさんはやさしく孫の美しい顔を自分の胸のへんに引きよせて、 「お前は貧乏な子だからのう。」  その声は掠れてふるえました。 「ほんとに貧乏なんだからのう。お前も辛い目を見るのう。」 「いいえ、おじいさん。僕は金持ちとおなじよ。」と、ネルロはささやきました。実際のところ、ネルロはそう信じていたのです。自分は強い力を持っている。王様の力でもどうすることもできないほどの力を持っているように思えました。少年は立ち上がって、再び戸口に佇みました。秋の’夜は静かで、高いポプラの枝が微風に揺らいでいます。空は夥しい星でした。少年は目をあけてじっとそれをながめました。粉挽屋の家の、窓という窓はあかあかと灯火がもれて、時折、笛の音がひびいて来ます。涙が少年のホオをつたわりました。まだ-なんと言ってもほんの子供ですから、悲しいのでした。けれども、にっこり笑顔をつくって、 「なあに将来だ。」とひとり言を言いました。夜が更けるまで彼はそうして佇んでいましたが、やがてパトラッシュを抱いてトコにつき、さびしくもおだやかな眠りに落ちて行きました。  さて少年には、パトラッシュのほか誰にも知らせない一つの秘密がありました。小屋には小さな次のマがあって、そこはネルロだけが入るところになっていました。ひどく荒れた部屋ですが/北側から光線が入ります。この部屋でネルロは、キギレで不細工な画架をこしらえ、それに大きな’紙を張り、そこへこれぞと思うものをぜひ一つ描きあげようと一生懸命になっているのでした。ネルロは、誰にも絵の描き方を教わったことはありません。むろん、絵具を買う余裕などもありません。ただ、白と黒の使い分けで目にうつるものを描くだけでした。いま、彼が木炭筆で描いたばかりの大きな絵は、一人の老人が、倒れた樹に腰を下ろしているところ、ただそれだけです。少年は以前、年取ったキコリのネッセルが、夕方になると、そんな様子で休んでいるのを度々’見たのでした。輪廓の具合や影の描き方など、誰におそわったでもないけれど、ネルロは自分の考え一つで、さも老いぼれた、つかれた老人を描きました。宵闇がせまって来る暮れどき、倒れた樹に腰を下ろして、あらゆる世の苦労をなめつくしたようなつかれた顔つきで、じっと思い沈んでいるこの老いたキコリの様子は、全く-しの趣きがありました。もとよりその絵は素人らしく、欠点もありますが、しかし、本当に自然な/率直な絵です。いかにも、悲しさに咽んでいるようで、ある美しささえ’持っています。パトラッシュはいつも、何時間でも動かずにこの絵ができ上がっていくのをながめていました。そして、ネルロの心に希望が燃えているのをさとりました。その希望と言うのも、おそらく、向こう見ずな、無駄なことかもしれませんが、ネルロはこの絵を出品して、年額二百フランの賞金を得るために/競争してみようとしているのです。そのころ、アントワープの町では、十八才以下の天分ある少年は、身分にかかわらず、鉛筆画’か木炭画の自作の作品を出して、そのうち一枚だけがえらばれて/この賞金をもらうことになっていました。ルーベンスに縁の深いこの町では、一流の絵のタイカが三人審査員になって、それらの作品の優劣をきめることになっていました。  春と夏と秋を打っ通して、ネルロはこの大作の完成に余念がありませんでした。もしこれがうまく栄冠を担えれば/彼にとっては、年来の宿望に向かって第一歩をふみ出すことになるのです。ネルロはこの企てを誰にも言いませんでした。おじいさんに言ったところで分かってはもらえないし、それにアロアは、もう彼にとって、ないも同じでした。打ち明けるのはただ犬のパトラッシュだけ。そうしていつも、 「ああ/ルーベンス、ルーベンスの魂が知っていたら、きっと僕を選び出してくれるのだが。」とつぶやくのでした。パトラッシュもまた、こんなことを考えていました。ルーベンスと言う人は、きっと犬を愛していたにちがいない。もし犬を深く愛していたんでなければ、あんなに正しく、美しい、犬が描けるものではないと──。  出品する絵は、いずれも12月のツイタチに運ばれて、その月の二十四日に結果が発表されることになっていました。で、もしうまく、入選すれば、クリスマスにはニジ-ュウのよろこびを持てるわけでした。身を切るような寒風の吹き荒ぶその日、ネルロは波打つ胸をおさえて、いよいよ出来上がった苦心の絵を、牛乳グルマにのせて、パトラッシュと一緒に、町へ’運んで行きました。そして、決められた通りに展覧会の入口のところに置きました。 「大抵だめだろう──僕には分からない──。」  ネルロは、妙に臆病になって、なにか、胸’が痛いほどでした。絵は置いて来たものの、考えてみれば、ずいぶん向こう見ずな話です。靴下もないようなこの貧乏な子供が、自分の名さえろくろく書けない無学の身で、はずかしくもなく、そんな一流のタイカたちに、自分の絵を見てもらうなんて──  だが、ネルロは、大寺院に近づくにつれてだんだん元気をとりもどしました。威厳のある王様のようなルーベンスの姿が、暗い中からすっと浮んで来て、ネルロに微笑みかけ、ささやくように思われたからです。 「気を落してはいけないよ。私だって、アントワープに名を残すようになったのは、決して、弱い心ではできなかったことだよ。」  冷たい夜を、ネルロは、わが心をはげましつつ、帰って行きました。彼は全力をつくしたのです。あとはもう、神様のミココロに任せる他ありませんでした。  その夜、ネルロが家へ帰ってから雪が降り出し、幾にちも幾にちも降りつづきました。田も畑もあぜみちも、すっかり雪にうずもれてしまい、川という川はみんな、かたく凍りついてしまいました。もうこうなると、牛乳を持ち回るのは、実に辛いのでした。吹きさらしの野、夜明けの暗いヒトケのない’町は、よけい寒さがこたえるのでした。殊に犬のパトラッシュは、少年がトシゴトに次第に力を増して行くのに反し、ますます老いぼれて行くのみで、骨の節々が強ばって来て/はげしく疼いて苦しいのでした。 「パトラッシュ、お前はもう/うちで寝ておいで-よ。お前ももう隠居してもいい頃だ、大丈夫、僕ひとりで車はひけるから。」と、ネルロが無理にも止めようとしたのは、ヒトアサやフタアサのことではありませんでした。が、パトラッシュは聞きません。毎朝、起きると、彼はちゃんと梶棒のところへ行っています。そして、今までナガの年月通い慣れたその野みちを、雪を蹴って、進むのでした。ただ少年に、以前より手数をかけるのは、牛乳グルマの輪が、凍った轍の跡にはまって、動きのとれない時、後ろから棒をさしこんでもらうだけでした。これだけ、昔より力がおとろえたのです。 「死ぬまでは休息と言うことはない。」パトラッシュはいつもこう考えていました。が、ときどき、ふっと、その最後の休息が、間近に迫って来たように感じられて、なんだか目が前ほどはっきり見えなくなったし:、教会堂の鐘が五つ鳴って、パトラッシュに、起きて働かねばならぬ時が来たと知らせると、ぱっとはね起きるのに変わりありませんが、それが前とちがって、非常な苦痛に感じられるのです。 「かわいそうなパトラッシュ。お前も、わしと一緒に、安楽往生をするのかい。」  ジェハンじいさんは、やせこけた皺だらけの手で、犬の頭をなでました。このおじいさんと老犬とは、いつも、パンの皮を分けてたべました。そしていつも同じ心で、/年を取るのを嘆きつつ/行く末のことを案じ合うのでした。お互いが死んでしまったら、あとに残るあの可愛いネルロはどうなるでしょう。  ある日の午後のこと、少年と犬とが、アントワープからの帰りみちでした。雪は凍って、まるで大理石のようにひろい野原にしきつめていました。ふと足許を見ると、可愛らしい人形が落ちていました。五六寸の、たいへん美しい太鼓叩きの人形で、ちっとも傷のついていない/立派なおもちゃでした。ネルロは拾い上げて、いろいろ探してみましたが、落し主が分からないので、それをアロアにやったら、さぞよろこぶだろう、と考えました。落し主が分からないのだから、それを長いあいだの仲よしにやっても、別にわるいことではあるまい、と彼は思ったのでした。  ネルロが粉挽屋のところを通った時は、もう静かな晩になっていました。アロアの部屋の小さい窓はよく分かっています。その窓のすぐキワから斜め下につき出た屋根、彼はその屋根によじのぼって、静かに窓をたたくと、なかで小さな灯火がつきました。アロアは窓をあけてびっくりしました。ネルロは太鼓叩きの人形をアロアの手に握らして、小さな声で口早に言いました。 「アロアちゃん、お人形だよ。雪の上で拾ったの。とっておおきなさいよ、ね、神様が下すったんですもの。」  ネルロはするすると屋根をすべりおりて、アロアが、ありがとう、と言う間もなく、闇の中に消えてしまいました。その夜、粉挽き場が火事になって、水車場と母家だけは助かりましたが、納屋と沢山の麦がやけました。村じゅうは大変なさわぎで、アントワープからは、雪を蹴立てて、蒸気ポンプがかけつけて来ました。さいわい、保険がつけてあったので、大した損害にはなりませんでしたが、主人のコゼツは、かんかんに怒って、この火事はあやまちからではなく、きっと誰かが、つけ火をしたにちがいないと、どなりました。この時ネルロも、まろらかな夢を破られて、びっくりしてかけつけて来ましたが、コゼツの旦那は荒々しく彼をつきのけて、腹が立ってたまらないように、 「貴様は宵にここらをうろついていたな。俺はちゃんと知っているぞ、貴様こそ今夜の火事には一番’覚えがあるはずだ。」と怒鳴りました。ネルロはあまりのことにぼんやりしてしまって’口が利けませんでした。場合が場合だから、聞いている人は、それを冗談だと聞きすごしてくれないだろうと、全く途方にくれてしまいました。  粉挽屋の主人は、翌日になっても、近所の人の前で大っぴらにこの言葉を口にしました。すると中には、ネルロがその夜、別に用もないのに粉挽き場の辺をうろうろしていたの、アロアと遊ぶことを断られたので、ネルロがコゼツの旦那を恨んでいたのと、蔭口をきく者も出てき:、そのうえ何とかしてこのお金持ちに取り入って、その一人娘を息子の嫁にもらい、財産にありつこうと言う腹ぐろい人達も交じって、ジェハンじいさんの孫は、全く可哀想な立場におかれてしまいました。  村の人達は誰もまさか、コゼツの旦那の言葉を、信じるわけではないのですが、何しろ、狭い村のことではあり、村一番のお金持ちの気に逆らっては何かと自分たちの損ですから:、あんまり親切そうにしているところをコゼツの旦那に見られては面倒だと、みんな、申し合せたように、ネルロを-さけるようになってしまったのでした。ですから、それからは、ネルロとパトラッシュが、毎朝アントワープへ運んで行く牛乳の御用を聞きにまわっても、牧場主たちは、以前のように、何かと親切に計らってくれず:、素っ気ない態度で、あまり’口も利いてくれないのでした。  粉挽屋のおかみさんは、涙ぐんで、おそるおそる主人に言いました。 「あなた、それではあんまり可哀想ですわ。私、あの子が気の毒でたまりません。あの子はほんとに、無邪気な正直者ですもの。いくら、くやしく感じたことがあったとしたって、ゆめにもあんな大それた悪いことをするような子ではありませんわ。」  けれどもコゼツの旦那は一徹者ですから、一度、自分の口から言いふらしたことは、是が非でも、押し通さねばすまないのでした。たとえ、心の奥底で、悪かったが、と気がついて居りながらも、哀れなネルロ、いかに身が潔白なれば構わないとは言え、そこはまだ子供です。 「なあに。僕の絵さえ入選したら、村の人達だって、すこしは僕に同情してくれるだろう。」と気をとりなおしても、パトラッシュとたったふたりでいる時など、止めようもない涙があふれ落ちるのでした。全く幼い時から会う人毎に可愛がられ、ほめられて大きくなった身が、突然あられもない汚名をきせられ:、その頼りにしていた世間の、打って変った冷たい素っ気ない態度を堪えしのんで行くことは、死にも勝る苦しみでした。雪が降りつづき、村の人達はみんな炉ばたに集まるのに、ネルロとパトラッシュは除け者で、もう用はないのです。隙間の多いあばら家に、ふたりはしょんぼりとおじいさんのおもりをする。炉は、いつしか火が消えて冷たく、食卓の上には、食べ物のない時が続くのでした。それもそのはず、近頃アントワープから驢馬を仕立てて、毎日’牛乳を買い出しに来る商人があらわれたのです。そうして、少年を哀れんで、その商人の牛乳を買わず、緑色の小さな牛乳グルマを待っていてくれる家は、ほんのサンヨンケンに減ってしまい:、そのために、パトラッシュが曳かねばならぬ車の荷は軽くなったものの、ネルロの財布に入る端金はいよいよわずかになってしまったのでした。  犬は、いつも止まる家の前には、ちゃんと車を止めますが、その門は、もはや彼等のためには開かれませんでした。哀れみを乞うようにじっと見上げる犬の眼は、見る人の胸を打ちましたが/みんな無理に目をつぶって/心を鬼にして閉め出すのでした。パトラッシュは、力なくアキグルマをひいて行きます。誰だって、人情のないものはありませんが、コゼツの旦那の気にさわるのをおそれたからでした。  いよいよクリスマスは近づいて来ました。寒さは一層’きびしくなり、雪は六尺も積もり、氷は、牛や人間が、どこを踏んでも大丈夫なほど厚くなりました。この季節が、このあたりでは一番楽しい時なのです。どんな貧乏な家にも、あたたかな/おいしいご馳走やお菓子が用意され、ストーヴの上には、スープ鍋が、さも美味そうに湯気を立てていて、部屋は色美しく飾られて、楽しげな笑い声がもれるのでした。馬という馬はみんな鈴をつけられ、その音が、いたるところに、にぎやかにひびくのでした。またそとには、若い娘たちが美しい頭巾に厚い上着をつけ、キャッキャッとはしゃぎながら、雪みちをあちこちの集まりに/行きつ戻りつしています。そのうちに、ただ、ネルロの小屋だけが、暗く/冷たいのでした。  ネルロとパトラッシュは、全くのふたりっきりになってしまいました。クリスマスの一週間前/とうとうジェハンじいさんは息をひきとってしまったのです。おじいさんは、ねている間に死にました。明け方のうす明りに、はじめてそれを知ったふたりの嘆きは、どんなだったでしょう。おじいさんは、どんなに彼等を愛しぬいていたことでしょう。おじいさんは、長い長い間、病のトコについたきりで身動きもならず、ふたりのために何をしてやることもできませんでしたが:、しかもこの親切な言葉とやさしい笑顔とは、つかれて帰って来るふたりにとって、どんなに大きな慰めだったことか──: そのなきがらを松板のヒツギにおさめ、小さな教会堂のとなりの/名もない墓に-ほうむったとき、ふたりは悲しみきわまって、雪の上に泣きくずれたまま、立ち去ろうともしませんでした。ああ、犬と少年──彼等は全く、この世に頼るものなく取り残されたのでした。  今度こそは哀れに思って心も解けるだろう、と信じたおかみさんの心頼みも空しく:、粉挽屋の主人は、そのささやかな葬式が、門前を過ぎるのを見ても、眉をよせたまま悔やみ一つつぶやこうとはしませんでした。気の弱いおかみさんは、とりつくスベもなく涙をふきふき、そっと凋まない花を花環に編んで、アロアにそれを墓場へ持って行かせ:、今は少年も立ち去って、人影もないその墓の上にうやうやしく置かせたのでした。  ネルロとパトラッシュは、はりさけるような悲しい胸を抱いて墓場を立ち去ったが、その帰り行くコヤさえも、なおふたりに慰めを与えることをしませんでした。それは、この小さな家のチダイがヒト月遅れになってしまっていたところへ、この悲しい葬式のために、ネルロは、最後の一銭まで、払ってしまったのです。小屋の持ち主というのは靴やのおやじで、世の中に-かねほど可愛いものは無いと思っている/人情知らずでした。彼は、ネルロの詫言に耳をも貸さず、家賃やチダイが払えないなら、その代りコヤにあるものは、鍋から釜から、キギレ一つ、石塊一つに至るまで、すっかりおいて明日限り立ち退けと、むごい宣告を下したのでした。小屋は、貧しく小さかったが、ネルロたちは、どんなになつかしい思い出を、そこに持っていることでしょう。夏になれば、一面にまといついて繁るぶどう。朝まだき、露をふくんで彼等にほほえみかける、畑の豆の花。彼等のどんなよろこびも、どんな悲しみも、みんな見守っていたこのコヤ。どんなにつかれて帰って来ても、安らかにいこわせてくれたこのコヤ。──その晩/ネルロとパトラッシュは、一晩中火の気のない炉ばたで、灯火もつけず抱き合っていました。めいめい、心の中に、このコヤの、過ぎ去った日のことを思い起しながら──  やがて一夜があけました。それはクリスマスの前の日でした。ネルロはふるえながら、冷え切った両腕でかたく犬を抱きしめた。大粒の涙が、はらはらと犬の額にかかりました。 「パトラッシュ、行こうよ。ね、行こう。僕等は’じっとして蹴り出されるまでもない。ね、さ、行こう。」  ふたりは、悲しげに並んでコヤを出ました。どんな大事なものも、どんな懐かしいものもすっかり残して、全くの/着のみ着のままで──。緑色の牛乳グルマの前を通るとき、パトラッシュは、さも切なげに首をたれてしまいました。ああ/これももうふたりのものではないのでした。  彼等は、通いなれた道を、アントワープのホウへ辿りました。まだ太陽は登らず、道に沿うた大抵の家は、まだ’戸を閉めていました。町には、ニサ-ンの人影もありましたが、誰も少年と犬をふりむく人はありません。  ネルロはある家の前に来ると、立ち止まって、訴えるような目つきで家の中をのぞきました。それは、おじいさんが元気だったころ、よくやって来たことのある人の家でした。 「もし。パンのケンピがありましたら、犬にやって下さいませんか。これはもう老いぼれている上に、きのうのお昼から、なんにも食べてないのです。」と、ネルロはおそるおそる言いました。すると家の女の人はすばやく戸をしめて、このごろは麦が高くって、というようなことをぶつぶつ呟くのでした。ネルロとパトラッシュはとりつくすべもなく、またとぼとぼと疲れた足をひきずって行きました。町についた時には、もう鐘は10時を鳴らしていました。 「僕がなんか売れそうなものを持ってたら、パトラッシュにパンを買ってやれるんだが。」  だが、ネルロが身につけているものと言っては、ぼろぼろの着物と、汚れた木靴だけでした。パトラッシュはネルロの心持ちを悟って、鼻先をネルロの手のうちに押しつけ、どうか、自分のためなら心配してくれるな、なにもいらぬからと、頼むような様子をみせました。  その日の十二時には、例の絵の審査の結果が発表されることになっていました。その会場の入口には、もう大ぜいの少年が集まっていました。みんなお父さんやお母さんにつれられて/いろいろささやき合っているのでした。その群れに入りこんだ時、ネルロの胸は激しく波打って、痛いようでした。彼はパトラッシュをしっかりと抱きしめました。やがて’町の大鐘が音たかく鳴り渡りました。十二時になったのです。と同時に玄関のドアが開いて、大ぜいはときめく胸をおさえながら、なだれこみました。当選の絵は、上段に置いてある/台の上に飾られることになっていたのです。はっと思った瞬間、ネルロは目がくらみ、頭がぼーっとして、体がくずおれかかりました。ようやく気をしずめて、もう一度その飾られた絵を見ましたが、ああ、それは彼の描いた絵ではありませんでした。やがて、よく響き渡る声で、当選した絵は、アントワープ生まれのハトバヌシの子、ステファン・キイスリングの作であると告げられました。  ネルロが気がついた時は、彼は玄関先の石の上に倒れていて、パトラッシュが一生懸命/彼を正気づかせようと鼻をすりつけていました。すこし離れたところでは、アントワープの少年団が/入選した名誉ある友達を大騒ぎをしてとりかこみながら、これからその波止場の家まで威勢よく送って行こうとしているところでした。ネルロはよろよろと立ち上がって、パトラッシュをしっかり抱きしめました。 「ああ、もうだめだ。パトラッシュ、もう何もかも。」  ネルロは幾度も倒れそうになるのを、ようよう踏みこらえました。もう、お腹がすき切って、辛抱できないほどです。やっぱり、村へひきかえすほかはないのです。犬はコウベをたれて、したがいました。パトラッシュの強い足も、もう疲れ果てているのでした。雪は’ますます降りしきり/厳しい北風が吹きつけました。野原は殊に凄まじく、慣れた道を横切るにも、並大抵ではないのでした。やっとの思いで村に近づいた時、カネが四つ鳴りました。突然パトラッシュは立ち止りました。なにか、雪の中にかぎつけたものとみえ、妙な吠え方をして、咬え出したのは小さな革袋で、それをネルロにわたしました。丁度その近くに小さな十字架像があって、その下にささやかなお燈明があったので:、ネルロは気のない様子で、そのうすあかりに袋を近づけてしらべると、コゼツという名が書いてあり、中には六千フランという大金の切手が入っていました。これを見るとぼんやりしていた少年の気持ちが、しゃんとして来ました。彼は早速それを懐に押しこんで、犬をなでて歩き出しました。パトラッシュも小走りにつづきました。ネルロはまっすぐに粉挽小屋へかけつけて、入口の戸をたたきました。開けたのはおかみさんで、目を泣きはらしていました。アロアもそばにすがりついていました。 「ああ/お前さんだったの、可哀想に。」とおかみさんは涙をこぼしこぼし/優しい声で言いました。 「でもね、早くお帰りよ。旦那さんが見たらやかましいからね。今夜、うちでは大変な心配事ができたんだよ。旦那さんが、さっき馬でお帰りの途中、大金’の入った財布を落してね、いま探しにお出かけなすったところなの。あいにくこの雪ではねえ──。もしみつからなかったら、うちは丸つぶれになってしまうんだよ。ほんとにうちの人が、お前さんに辛くした報いが、いま来たのですよ。」  少年は革袋を取り出し、パトラッシュを家の中に呼び入れました。 「この犬が、このお金をいま見つけたんです。」と、ネルロは口早に言いました。 「どうぞ旦那さまにそうおっしゃって下さい。もうこの犬も老いぼれて来ましたから、どうかこの犬だけ/宿を貸して/飢えないようにしてやって下さい。おねがいです。僕の跡を追いますから、どうかやさしくなだめてやって──。」  待って、と言う間もなく、少年は身をかがめて犬にキスしたかと思うと、すばやくドアを閉め、闇の中へ’走り去ってしまいました。おかみさんもアロアも、あまりのよろこびとおどろきに言葉も出ませんでした。パトラッシュは’しめ-こまれた樫のドアに腹立たしく吠えかかったが/もうだめでした。おかみさんもアロアも、ネルロのことは気になりましたが、何事も父親が帰ってから、今はせめてパトラッシュだけにもと:、お菓子や肉を一ぱい出して来て、一生けんめいなだめ、炉ばたの温かいところに誘おうとしましたが、それは何の甲斐もありませんでした。パトラッシュは石のようにドアの前に頑張ったまま/見向きもしないのでした。  しばらくたって、別の入口から、主人のコゼツがしょんぼりかえって来ました。どっかと腰を下ろすと、うめくように言いました。 「ああ、もうだめだ。提灯をつけて残らず探して見たのだが、もうない。──娘にゆずるブンも何もかもすっかりなくなってしまった。」  おかみさんは革袋を差出して、事の次第を話しました。聞いているうちに、コゼツはたまらなくなって、ぶるぶる震える体を投げ出し、両手でしっかりと顔を掩ってしまいました。 「ああ、儂はあの子に-つらく当たって来た。わしのような人間が、どうしてあの子の親切を受けることができようか。」と、彼は身悶えしてうめきました。小さなアロアは、それに元気づいて父のそばへにじり寄り、その美しい巻き毛の頭を父の膝におしつけながら、 「お父さん、ネルロはもう-うちへ来てもいいのね。明日’招んでもいいのね、セ-ンのように。」  コゼツは娘をしっかり抱きしめました。その顔は涙でぬれていました。 「ああ、そうとも、そうとも。明日のクリスマスには招ぶのだよ。いつでも遊びに来たい時は来てもらうがいい。わしの剛慾がこんな罪をつくったので、いま神様がこらしめて下すったのだ。儂は神様におすがりして、あの子に償いをせねばならぬ。罪ほろぼしをせねばならぬ。」  アロアは嬉しさのあまり、父親にキスして、大きな膝からすべり落ちるが早いか、ドアの方ばかり、見守っている犬の許に駆けて行って、 「今夜、パトラッシュにご馳走してやってもいいの。」と/さも嬉しそうに叫びました。 「いいとも、いいとも。うんとご馳走しておやり。」とコゼツは言いました。この老いた頑固なおやじさんも、全く心の底から改心してしまったのでした。  その夜は’クリスマスの前夜ですから、大きな粉挽き場の中は、目の覚めるように美しく飾り立てられていました。吊された線の枝々。うめもどきの赤い実がたくさんなっている枝の間から、十字架像と、時鳥の形をした置時計がのぞいています。アロアをよろこばせるための、紙でこしらえた提灯には灯火がつき、いろいろなおもちゃや、目の覚めるような絵紙につつんだおいしいお菓子が一ぱい並んでいます。このクリスマスの飾りをした明るい楽しい、そして食べ物のたくさんある部屋で、パトラッシュを一番のお客さんにしようと、アロアは一生けんめいでした。が、パトラッシュは暖かい炉ばたへ行こうとも/ご馳走をふりむこうともしませんでした。体は凍え、おなかは-すき切っているにもかかわらず、ネルロがいなければ/犬はなんにも食べたくもなく、慰められもしないのです。パトラッシュはただ石のようにドアのそばにすわりこんで/逃げ道はないかと、そればかり狙っているのでした。これを見たコゼツは言いました。 「あの子がいないといかんのだな。よしよし/夜があけたら、何はおいてもわしが迎いに行ってやるからな。」  ああ、パトラッシュのほかに、誰がネルロの心を知っていよう。犬を残してただひとり、飢えと悲しみとを覚悟して出て行ったその雄々しくもいたましい心─:─それはただ、パトラッシュだけが感じていることなのです。  粉挽屋の台所は大へん暖かです。炉のなかでは、大きなホダがぱちぱちと赤く燃え、隣近所の人々は、夕飯のために-あぶった鵞鳥の肉ヒトキレと/お酒一ぱいとにありつくために、代わる代わるやって来ます。アロアは、明日こそ大好きなネルロと遊べるという嬉しさにはしゃぎまわって、その金髪が頭の後ろで踊ってばかり-いました。主人のコゼツは、胸が一ぱいになって、涙ぐんだ眼で娘に笑いかけながら、どうしたら娘のなつかしがる友達と仲なおりができるかと考えています。また、おかみさんはやさしい、満足そうな顔つきで、静かに糸車のそばにすわりました。置時計は時鳥の啼き声そっくりに時を告げました。その中でパトラッシュは、第一のお客さまとしていろいろ親切な言葉をかけられても、やはり頑張って動きません。ネルロがいなくては、どんなに楽しみもご馳走も/パトラッシュをよろこばすことはできないのです。  やがて、大きな食卓の上に、さまざまなご馳走が並べられ、お客さんたちは席につきました。部屋の中にはよろこびの声が満ちて、キリスト降誕の仮装をした大ぜいの子供が、それぞれ心をこめた贈物をアロアに贈った、その時でした。今まで隙を狙っていたパトラッシュは/新しく来たお客が思わずドアのカケガネをはずしたとたん、風のように抜け出しました。パトラッシュはその疲れ切った足がつづく限り、暗い夜の雪みちを走りに走って行きました。ただひたむきにネルロの跡を追うばかりです。もしこれが人間であったら、あるいはそのおいしいご馳走と、暖かい炉ばたと、安楽な眠りとに誘われて、止ったかもしれません。が、しかしパトラッシュは、この老いたフランダースの犬は、遠い昔を忘れてはいませんでした。あのおじいさんと幼子とが、道ばたのドロミゾに息絶った自分を救い上げ、見守ってくれたその遠い昔を。  外は吹雪でした。もう十時でしょう。ネルロの足跡は大方消えてしまっているので、匂いを嗅いで/足跡を辿って行くパトラッシュの苦心は/じつにいたましいようでした。ようやく見つけ出す、すぐ消えている、また探し出す、また見失う、そんなことを百度以上もくりかえしつつ、パトラッシュは走りつづけました。この一寸先も見えない吹雪の夜を、飢えと寒さによろめきながらパトラッシュは、ただ主人を探し出すという一途な愛に支えられて/走りつづけて行くのでした。ネルロの足跡は、吹雪にかき消されては’いるものの、とにかくまっすぐにアントワープに向かっていることだけは分かります。パトラッシュがやっとの思いでアントワープの町はずれまで辿りつき/それから狭い曲りくねった道に入った時は、もう真夜中を過ぎていました。町の中も真っ暗でただ、ところどころ/戸の隙間から細いあかりがもれているだけでした。酔っぱらいの歌声がどこかで起こって、そして消えて行きました。しんとしずまりかえった中に、風だけが街灯の高い鉄柱につきあたって、すさまじい響きをたてるのでした。ネルロの足跡はこの町に入ってから、大ぜいの通行人の足跡にまじり合い、ふみにじられて、それを拾って行くのは、今までより、もっともっと困難でした。寒さが骨までしみ通り、足は凍ったカドで傷つきました。しかもパトラッシュは、恐ろしいほどの忍耐を以って、ネルロの跡を嗅ぎ求めて行きました。  こうして、堪えに堪えて、パトラッシュはついに愛する主人の足跡を追って、町の中央の旧教寺院の入口までのぼりついたのでした。ああ、ここは、一番慕っていたところだ、と、犬は思いました。ネルロが芸術というものに憧れている心持ちは、パトラッシュには分からないながら、なにか、哀れに悲しく、そして神々しく感じられたのでした。  大寺院の門は、真夜中の集まりがすんだあと、ドアが閉じていませんでした。門番が、早く帰ってご馳走が食べたかったか、それとも眠くて鍵をかけ損ねて気づかなかったのか、なにかそんな手抜かりがあったからでしょう:、ドアが半分開けたままんなっていて、パトラッシュの求める足跡は、そこからてんてんと白い雪を落して奥へつづいているのでした。そのかすかな白いひとすじにみちびかれて、神々しい静かな堂内の、ひろびろした丸天井の下を通って、まっすぐに聖堂の入口まで来ると、そこに倒れているネルロを見い出しました。パトラッシュは、よろめくようにかけよって、ぴったりと顔をすりよせました、「あなたを見すてるような、そんな不忠ものと思わないで──」と言うように。  ネルロは低く叫んで身を起しました。そして、しっかりと犬を抱きしめながらささやきました。 「おおパトラッシュ、可哀想なパトラッシュ。ふたり一緒に死のう。世間の人は、もう僕たちには用がないのだ。ここで横になって死のう。僕たちはたったふたりっきりだ。」  ものの言えないパトラッシュは、答えの代わりに、なおもネルロの胸にひしとその頭をおしつけました。大粒の涙が、その茶色の悲しそうな瞼にたまりました。  ふたりは刺されるような寒さの中で、しっかりと抱き合って横になりました。  ふたりが横たわっている石造建築の広い内部は、野ざらしよりもっと寒さがひどいのでした。そのふれるもの一切を凍らせずにはおかないような狂風。──闇の中を、ときどき蝙蝠がとびまわるのでした。ルーベンスの絵の下にふたりは横たわっていました。あまりの寒さに、体はしびれ、不思議な眠気が襲って来て、ふたりは次第に気が遠く、うっとりとなって行きました。ふたりの心には過ぎ去った楽しい日のことが浮び出ました。夏の牧場の花の咲きみだれた中を/互いに追いつ追われつ駆けまわったことや、運河の岸のしげった草の中にすわり、静かに滑り行く船を眺め暮らしたことや──。ふたりは争いというものを知りませんでした。ネルロはパトラッシュをいとしみ、パトラッシュはネルロを慕い、お互いに深く-ふかく愛し合っていました。ふたりがこの世に生きていたのは短いあいだでしたが、ふたりが尽くさねばならない義務は尽くしました。どんな人にも獣にも恨みを持ったことがなく、きわめて素直でしたから、決して心に-なんのとがめることもなく、はればれしていました。そして今、飢えにおとろえ果て、血は寒さに凍り/クリスマス前夜の夜あかしの楽しさを思い浮べながら、コンコンと死んで行こうとするのです。  突然、大きな白い光が、がらんとした堂の中に流れ入りました。月でした。いつしか雪は降り止んで、いま、雲マを逃れ出た月の光は、二つの名画を照し出しました。絵をつつんであった覆いは、少年がここへ入った時/すでに引き裂いてしまったから、この一瞬、「キリストの昇天」と「十字架上のキリスト」の2名画は実にはっきり認め得たのでした。思わずネルロは立ち上り、両手を絵のホウへさし出しました。感きわまった涙が、その青ざめたホオにあふれ落ちました。 「見た、ああ/僕はとうとう見た。」と、少年は叫びました。「ああ/神さま、もうこの上はなんにもいりません。」  足の力がつきて、膝がしらでようよう身を支えながら、なおもネルロは喰い入るように、その崇拝している荘厳な絵に見入りました。清らかな月の光は、そのあこがれの絵を隅々まではっきりと示しました。が、これも一瞬にしてかくれ、堂内は再び真っ暗な闇がひろがりました。絵のほうにさし出されていたネルロの両手は、再び犬の体を抱きました。 「ああ、神さまのお顔が拝めるだろう。──あそこに。」彼’の唇がかすかに動きました。「神様は私たちをお見すてにはならない。神様は’お慈悲深い──。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜があけました。アントワープの町の人々は、この大伽藍の内に、少年と犬とを見い出しました。もうふたりとも、冷たく息絶えていました。さびしい夜の寒さは、若い命と、年老いた命とを一緒に凍らして、静かな、永い眠りにつかせたのでした。クリスマスの朝がほのぼのと明けて、坊さん-たちがやって来た時には、石のようにかたく抱き合った少年と犬のなきがらの上に、ルーベンスの名画は覆いをむしりとられて、その偉大なる天才の筆の跡をあらわし:、清々しい朝の光が、神’の子の頭に置いたいばらの冠をてらしていました。やがて、一人の頑固そうな顔をした老人が、おいおい泣きながらやって来て、 「儂はまあこの子供に、なんという/むごい扱いをしたことだろう。ああ/すまないすまない。罪滅ぼしをせねばらなぬ。わしの、聟になるべきはずの子だったのに──。」  またしばらくすると、その頃有名な画家がやって来て集まっている人々に言うのでした。「本当の値打から言ったら、たしかにこの子がえらばるべきだったのに。あの夕暮の、倒れた樹に腰を下ろしたロウキコリの絵。あの絵には天才のひらめきがあった。未来には’きっとすぐれた画家になれる子だった。儂は何とかして探し出してみっしり仕込んで、その天才をみがかそうと考えていたものを──。」  また、巻き毛の麗しい少女は泣きくずれながら、父の腕にすがって、声を惜しまずかきくどくのでした。 「ネルロ/いらっしゃいよ。仕度はみんなできてよ。あなたのために、仮装した子供たちが、めいめい贈り物を手にしているし、笛吹きのじいさんが、いま吹きはじめるところなの。あなたと私は、このクリスマスの一週間は、ちっとも離れず炉ばたで栗を焼いてていいんですって。クリスマスの一週間どころか/いつまでいたって構わないって。ね、パトラッシュも嬉しいでしょう。早く起きていらっしゃいよ、ネルロ。」  けれども、偉大なルーベンスの絵のほうに向けたままのその死顔は、口許にかすかな笑みを浮べたまま、辺りの人々に、「もうおそい」と答えているかのようです。  ほがらかな鐘のネが鳴りわたり、太陽はうららかに雪の野を照らし、華やかに着飾った人々は往来にむらがって、よろこんでいますが、もはやネルロとパトラッシュとは、人の慈悲にすがる必要はありませんでした。ふたりが生きている間に一生けんめいに求めていたものを、死んで何もいらなくなった今になって、はじめてアントワープの人達が与えたのです。  命のあるあいだ/離れられなかったこのふたりは、死んでからも離れませんでした。少年の腕はどうしても離すことのできないほど/しっかりと犬を抱きしめていました。  恥じ入って後悔した村の人達は、ふたりのために、神さまが特別のお恵みをお与え下さるように祈りながら、墓を一つにして、主従抱き合ったままでほうむりました。──とこしえに─◇。◇。◇。─(おわり) ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「小学生全集26◇ クロウマ物語・フランダースの犬」興文社、文芸春秋社】 【   1929(昭和4)年5月23日発行】 【◇「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。】 【◇総ルビをパラルビにかえました。】 【入力:大久保ゆう】 【校正:門田裕志】 【2003年11月6日作成】 【2005年12月17日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。