◇。◇。◇。 【牛肉と馬鈴薯】 【国木田独歩】 ◇。◇。◇。  明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺《堀端》に西洋作《/西洋づくり》の余り立派ではないが、それでも可《か》なりの建物があった、《:、》建物は今でもある、しかし持主《持ち主》が代《代わ》って、今では明治倶楽部その者はなくなって了《しま》った。  この倶楽部が未《ま》だ繁盛していた頃のことである、或年《ある年》の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火《明かり》が点いていて、時々高《折々高》く笑う声が外面《外》に漏れていた。元来《いったい》この倶楽部は夜分人《夜分’人》の集《集ま》っていることは少ないので、ストーブの煙は平常《いつ》も昼間ばかり立ちのぼっているのである。  然《しか》るに八時は先刻打《さっき打》っても人々は未《ま》だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車《車》が六台玄関《六台’玄関》の横に並んでいたが、車夫どもは皆《’みん》な勝手の方《ほう》で例の一六勝負最中《一六勝負サイチュウ》らしい。  すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深《目深》に被ったのが、真暗《真っ暗》な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。  内《うち》から戸が開《-あ》くと、 「竹内君《竹内さん》は来てお出《いで》ですかね」と低い声の沈重《落ち着》いた調子で訊ねた。 「ハア、お出《いで》で御座います、貴様《貴方》は?」と片眼《片目》の細顔《ホソガオ》の、和服を着た受付が丁寧に言った。 「これを」と出《-いだ》した名刺には五号活字で岡本誠夫《岡本セイフ》としてあるばかり、何《なん》の肩書もない。受付はそれを受取《受け取》り急《/急》いで二階に上《上が》って去《い》ったが間もなく降りて来て 「どうぞ此方《こちら》へ」と案内した、導かれて二階へ上《上が》ると、煖炉《ストーブ》を熾《盛ん》に燃《焚》いていたので、ムッとする程温《程あった》かい。煖炉《ストーブ》の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍《傍ら》の卓子《テーブル》にウイスキーの壜が上《乗っ》ていて|こっぷ《/コップ》の飲み干したるもあり、注《つ》いだままのもあり、人々は可《い》い加減に酒が廻《ま》わっていたのである。  岡本の姿を見るや竹内は起《立》って、元気よく 「まアこれへ掛け給《たま》え」と一《一つ》の椅子をすすめた。  岡本は容易に坐に就《-つ》かない。見廻《見回》すとその中《うち》の五人は兼て一面識位《一面識くらい》はある人であるが、一人、色の白い中肉の品《ヒン》の可《良》い紳士は未《ま》だ見識《見知》らぬ人である。竹内はそれと気がつき、 「ウン貴様《貴方》は未《ま》だこの方を御存知《ご存知》ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君《カミムラさん》と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君《カミムラさん》、この方は僕の極《ご》く旧い朋友《友だち》で岡本君《岡本さん》‥‥」  と未《ま》だ言い了《終わ》らぬに上村《/カミムラ》と呼ばれし紳士は快活な調子で 「ヤ、初めて‥‥《:‥》お書きになった物は常に拝見していますので‥‥《:‥》今後御懇意《今後ご懇意》に‥‥」  岡本は唯《た》だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了《しま》った。そして椅子に倚った。 「サアその先を‥‥。」と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生《生や》している紳士が言った。 「そうだ❢《❢。》 上村君《カミムラさん》、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪《頭の毛》の薄い、痩方《痩せ型》の紳士が促した。 「イヤ岡本君《岡本さん》が見えたから急に行《や》りにくくなったハ《/ハ》ハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞《は》にかんだような笑方《笑い方》をした。 「何《なん》ですか?」  岡本は竹内に問うた。 「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居給《居たま》え名論卓説《/名論卓説》、滾々として尽きずだから」 「ナニ最早大概吐《もう大概吐》き尽したんですよ、貴様《貴方》は我々俗物党《我々’俗物党》と違がって真物《本物》なんだから、幸貴様《幸い貴方》のを聞きましょう、ね諸君❢」  と上村《カミムラ》は逃げかけた。 「いけないいけない、先ず君の説を終え給《たま》え❢」 「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。 「僕のは岡本君《岡本さん》の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之《つまり》、理想と実際は一致しない、到底一致《到底’一致》しない‥‥」 「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。 「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」 「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。 「だってねエ、理想は喰《食》べられませんものを❢《❢。》」と言った上村《カミムラ》の顔は兎のようであった。 「ハハハハビ《/ビ》フテキじゃアあるまいし❢《❢。》」と竹内は大口を開けて笑った。 「否《いや》ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」 「オムレツかね❢《❢。》」と今まで黙って半分眠《半分’眠》りかけていた、真紅《真っ赤》な顔をしている松木、坐中《座中》で一番年《一番’年》の若そうな紳士が真面目で言った。 「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯《噴き》だした。 「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村《カミムラ》は少し躍起になって、 「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯《芋》も喰えないことになる。諸君《/諸君》は牛肉と馬鈴薯《芋》とどっちが可《い》い?」 「牛肉が可《い》いねエ❢《❢。》」と松木は又《ま》た眠むそうな声で真面目に言った。 「然《しか》しビフテキに馬鈴薯《芋》は附属物《付き物》だよ」と頬髭の紳士が得意らしく言った。 「そうですとも❢《❢。》 理想は則ち実際の附属物《付き物》なんだ❢《❢。》 馬鈴薯《芋》も全《まる》きり無いと困る、しかし馬鈴薯《芋》ばかりじゃア全く閉口する❢」  と言って、上村《カミムラ》はやや満足したらしく岡本の顔を見た。 「だって北海道は馬鈴薯《ジャガイモ》が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。 「その馬鈴薯《ジャガイモ》なんです、僕はその馬鈴薯《ジャガイモ》には散々酷《さんざん酷》い目に遇ったんです。ね、竹内君《竹内さん》は御存知《ご存知》ですが僕《/僕》はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張《やはり》その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換《か》ゆれば大々的馬鈴薯《大々的ジャガイモ》党だったんです❢」 「君が?」とさも不審そうな顔色《顔つき》で井山がしょぼしょぼ眼《マナコ》を見張った。 「何も不思議は無いサ、その頃は|ウラ《うら》若いんだからね、岡本君《岡本さん》はお幾歳《いくつ》かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯《ジャガイモ》党でしたがね、学校《/学校》に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、清教徒《ピュリタン》を以《以っ》て任じていたのだから堪らない❢」 「大変な清教徒《ピュリタン》だ❢《❢。》」と松木が又《ま》た口を入れたのを、上村《カミムラ》は一寸《ちょっ》と腮《顎》で止めて、ウイスキーを嘗めながら 「断然この汚《穢》れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然《じっ》と上村《カミムラ》の顔を見た。 「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中《うち》に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方《また先方》は甘《うま》いことを話して聞かすんです。やれネーチュール(自然)がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又《森ま》た森だの、堪ったもんじゃアない❢《❢。》 僕は全然《すっかり》まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此《/こんな》ふうな想像を描《-えが》いていたもんだ。‥‥先ず僕が自己の額に汗して森を開き林《/林》を倒し、そしてこれに小豆を撒く、‥‥」 「その百姓《ヒャクショウ》が見たかったねエハ《/ハ》ッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。 「イヤ実地行《実地や》ったのサ、まア待ち給《たま》え、追い追い其処へ行くから‥‥《:‥》、その内にだんだんと田園が出来て来る、重《おも》に馬鈴薯《ジャガイモ》を作る、馬鈴薯《ジャガイモ》さえ有りゃア《あ》喰うに困らん‥‥」 「ソラ馬鈴薯《ジャガイモ》が出た❢《❢。》」と松木は又《ま》た口を入れた。 「其処で田園の中央《真ん中》に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風《/一見’米国風》に出来ている、新英洲殖民地時代《ニューイングランド殖民地時代》そのままという風《ふう》に出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横の方《ほう》に一ツ。窓を幾個附《いくつ附》けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ‥‥」 「そして真個《ほんと》にその家《’家》が出来たのかね」と井山は又《また》しょぼしょぼ眼《マナコ》を見張った。 「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは‥‥《:‥》そうだそうだ若王寺《/ニャクオウ寺》へ散歩に往って帰る時だった❢」 「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。 「それから北の方《ホウ》へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡《わた》った小川がこの防風林の右の方《ほう》からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川《’川》で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真白《真っ白》な背を浮べてるんですよ。この川《’川》に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張《やは》り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました‥‥《:‥》まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ‥‥《:‥》先ず冬になると‥‥」 「ちょッとお話の途中ですが、貴様《貴方》はその『冬』という音《オン》にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。  上村《カミムラ》は驚ろいた顔色《顔つき》をして 「貴様《貴方》はどうしてそれを御存知《ご存知》です、これは面白い❢《❢。》 さすが貴様《貴方》は馬鈴薯《ジャガイモ》党だ❢《❢。》 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何《なん》だかその冬則ち自由というような気がしましてねエ❢《❢。》 それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうク《/ク》リスマス万歳の仲間でしょう、《:、》クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒《のき》から棒のような氷柱《ツララ》が下《下が》っていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴《聞い》ても『冬になると‥‥《:‥》』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家《すっかり家》を埋めて了《しま》う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、《:、》折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜《落》ちる、牛部屋《牛ベ屋》でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る❢」 「君は詩人だ❢《❢。》」と叫けんで床を靴で蹶《蹴っ》たものがある。これは近藤といって岡本《/岡本》がこの部屋に入って来て後《のち》も一言《イチゴン》を発しないで、唯《た》だウイスキーと首引《首っ引き》をしていた背の高い、一癖あるべき顔構《面構え》をした男である。 「ねエ岡本君《岡本さん》❢《❢。》」と言い足した。岡本はただ、黙言《黙っ》て首肯いたばかりであった。 「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていうグ《”グ》レーのチャルチャードの飜訳《翻訳》を愛読して自分《/自分》で作ってみたものだアね、《:、》今日《こんにち》の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」 「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地になって言った。 「ナーニ僕だって二《フタ》ツ三《ミ》ツ作《やっ》たものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。 「綿貫君《綿貫さん》、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。 「イヤお恥《恥ずか》しいことだが僕は御存知《ご存知》の女気《女け》のない通り詩人気《/詩人’け》は全くなかった、『権利義務』で一貫して了《しま》った、《:、》どうだろう僕は余程俗骨《余程’俗骨》が発達してるとみえる❢《❢。》」と綿貫は頭を撫《撫で》てみた。 「イヤ僕こそ甚だお恥《恥ずか》しい話だがこれで矢張《やは》り作《やっ》たものだ、そして何かの雑誌に二《フタ》ツ三《ミ》ツ載せたことがあるんだ❢《❢。》 ハッハッハッハッハッ」 「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯《噴き出》して了《しま》った。 「そうすると諸君は皆詩人《みんな詩人》の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々《/奇談’奇談》❢《❢。》」と綿貫が叫んだ。 「そうか、諸君も作《やっ》たのか、驚ろいた、その昔は皆《’みんな》な馬鈴薯《ジャガイモ》党なんだね」と上村《カミムラ》は大《大い》に面目を|施こ《施》したという顔色《顔つき》。 「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村《カミムラ》を促がした。 「そうだ、先をやり給《たま》え❢《❢。》」と近藤は殆ど命令するように言った。 「宜しい❢《❢。》 それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持《心持ち》といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎《/馬鹿野郎》❢《❢。》 というような心持《心持ち》がしてねエ、上野の停車場《ステーション》で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕《/僕》は窓から頭を出して東京《/東京》の方《ホウ》へ向いて唾《ツバキ》を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知《/人知》れずハンケチで涙を拭いたよ真実《ほんと》に❢」 「一寸《ちょっ》と君《きみ》、一寸《ちょっ》と『馬鹿野郎❢』というような心持《心持ち》というのが僕には了解が出来ないが‥‥《:‥》そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。 「唯《た》だ東京の奴等《ヤツら》を言ったのサ、名利《ミョウリ》に汲々としているその醜態《ざま》は何だ❢《❢。》 馬鹿野郎❢《❢。》 乃公《俺》を見ろ❢《❢。》 という心持《心持ち》サ」と上村《カミムラ》もまた真面目で註解を加えた。 「それから道行は抜《抜き》にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯《ジャガイモ》の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂《いわゆ》る額に汗するのはこれからだというんで直《直ち》に着手したねエ。尤《もっと》も僕と最初から理想を一《イツ》にしている友人、今は矢張僕《やっぱり僕》と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛《取り掛か》ったのだ、そら、竹内君知《竹内さん知》っておるだろう梶原信太郎《/梶原信太郎》のことサ‥‥」 「ウン梶原君《梶原さん》が❢? あれが矢張馬鈴薯《やっぱりジャガイモ》だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。 「そうサ、今《いま》じゃア鬼のような顔《ツラ》をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了《しま》うんだ。ところが先生僕《先生/僕》と比較すると初《はじめ》から利口であったねエ、二月《フタ月》ばかりも辛棒《辛抱》していたろうか、或日《ある日》こんな馬鹿気《馬鹿げ》たことは断然止《断然止そ》うという動議を提出した、《:、》その議論は何も|自か《自》らこんな思《思い》をして隠者になる必要はない自然《/自然》と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯《ジャガイモ》よりか牛肉の方《ほう》が滋養分が多いというんだ。僕はその時大《とき大い》に反対した、君止《君-よ》すなら止《-よ》せ、僕は一人でもやると力味《力》んだ。すると先生やるなら勝手にやり給《たま》え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞《捨て台詞》を吐いて直ぐ去《い》って了《しま》った。取残された僕は力味《力》んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月《ミツキ》ばかり辛棒《辛抱》したねエ。豪いだろう❢」 「馬鹿なんサ❢《❢。》」と近藤が叱るように言った。 「馬鹿? 馬鹿たア酷《コク》だ❢《❢。》 今から見れば大馬鹿サ、然《しか》しその時は全く豪かったよ」 「矢張馬鹿《やっぱり馬鹿》サ、初《はじめ》から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯《ジャガイモ》ばかり食《食お》うなんていう柄《がら》じゃアないんだ、それを知らないで三月《ミツキ》も辛棒《辛抱》するなア馬鹿としか言えない❢」 「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄《がら》にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有《有り難》いことには僕に馬鈴薯《ジャガイモ》の品質《がら》が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴《ヤツ》が漸次近《だんだん近》づいて来た、《:、》その露払《露払い》が秋、第一秋《第一’秋》からして思ったよりか感心しなかったのサ、《:、》森《しん》とした林の上をパラパラと時雨て来る、日《ヒ》の光が何となく薄いような気持《気持ち》がする、《:、》話相手はなしサ食《/食》うものは一粒幾価《一粒いくら》と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処《ところ》は木の皮を壁に代用した掘立小屋」 「それは貴様覚悟《貴方’覚悟》の前だったでしょう❢《❢。》」と岡本が口を入れた。 「其処ですよ、理想よりか実際の可《い》いほうが可《い》いというのは。覚悟はしていたものの矢張《やは》り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」  上村《カミムラ》は言って杯《サカズキ》で一寸《ちょっ》と口を湿して 「僕は痩せようとは思っていなかった❢」 「ハッハッハッハッハッハッ」と一同笑《みんな笑》いだした。 「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴《ヤツ》の言った通りだ、馬鹿げきっている、止《よ》そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死《死ん》でいたね」 「其処でどういうんです、貴様《貴方》の目下のお説は?」と岡本は嘲るような、真面目な風《ふう》で言った。 「だから馬鈴薯《ジャガイモ》には懲々《懲り懲り》しましたというんです。何《なん》でも今は実際主義《実際’主義》で、金《かね》が取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉《ストーブ》にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減《すい》たら牛肉を食う‥‥」 「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴《そいつ》が馬鹿なんだ」と綿貫は大《大い》に敦圉《息巻》いた。 「僕は違うねエ❢《❢。》」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後《あと》に椅子へ馬乗になった。凄い光を帯びた眼で坐中《座中》を見廻《見回》しながら 「僕は馬鈴薯《ジャガイモ》党でもない、牛肉党でもない❢《❢。》 上村君《カミムラさん》なんかは最初、馬鈴薯《ジャガイモ》党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛《’牛》の焦《焦げ》る臭《匂い》を嗅いで行《歩》く、その醜体《ざま》ったらない❢」 「オイオイ、他人を悪口《アッコウ》する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村《カミムラ》が切り込んだ。 「堕落? 堕落たア高い処《ところ》から低い処《ところ》へ落ちたことだろう、僕は幸《幸い》にして最初から高い処《ところ》に居ないからそんな外見《みっとも》ないことはしないんだ❢《❢。》 君なんかは主義で馬鈴薯《ジャガイモ》を喰ったのだ、嗜《好》きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ、《:、》僕なんかは嗜《好》きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代《代わ》り今だってがつがつしない、‥‥」 「一向要領《一向’要領》を得ない❢《❢。》」と上村《カミムラ》が叫けんだ。近藤は直《直ち》に何ごとをか言い出《だ》さんと身構《身構え》をした時、給使《給仕》の一人がつかつかと近藤の傍《ソバ》に来てそ《/そ》の耳に附《つ》いて何ごとをか囁いた。すると 「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ❢《❢。》」と怒鳴った。 「何《なん》だ?」と坐中《座中》の一人が驚いて聞いた。 「ナニ、車夫の野郎、又《ま》た博奕《博打》に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。‥‥《:‥》要領を得ないたア何だ❢《❢。》 大《大い》に要領を得ているじゃアないか、君等《君ら》は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜《好》きなんだ、主義でもヘチマでもない❢」 「大《大い》に賛成ですなア」と静《静か》に沈重《落ち着》いた声で言った者がある。 「賛成でしょう❢《❢。》」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。 「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴《ヤツ》ほど愚《愚か》なものはない」と岡本はその冴え冴えした眼光を座上に放った。 「その説を|承たまわ《承》ろう、是非願いたい❢《❢。》」と近藤はその四角な腮《顎》を突き出した。 「君は何方なんです、牛と薯《芋》、エ、薯《芋》でしょう?」と上村《カミムラ》は知った顔に岡本の説を誘《いざの》うた。 「僕も矢張《やっぱり》、牛肉党に非《-あら》ず、馬鈴薯《ジャガイモ》党にあらずですなア、然《しか》し近藤君《近藤さん》のように牛肉が嗜《好》きとも決っていないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌《大嫌い》ですが、さりとて肉とか薯《芋》とかいう嗜好にも従うことが出来ません」 「それじゃア何《なん》だろう?」と井山がその尤《もっと》もらしいしょぼしょぼ眼《マナコ》をぱちつかした。 「何《なん》でもないんです、比喩は廃《よ》して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、《:、》それならって俗に和して肉慾を充《充た》して以《以っ》て我生足《我が生’足》れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為《し》ないのではないので、《:、》実をいうと何方でも可《い》いから決めて了《しま》ったらと思うけれど何《なん》という因果か今以て唯《た》った一つ、不思議な願《願い》を持《持っ》ているからそのために何方とも得決《エ決》めないでいます」 「何《なん》だね、その不思議な願《願い》と言うのは?」と近藤は例の圧《押》しつけるような言振《言いぶり》で問うた。 「一口には言えない」 「まさか狼の丸焼《丸焼き》で一杯飲《一杯’飲》みたいという洒落でもなかろう?」 「まずそんなことです。‥‥実は僕、或少女《ある娘》に懸想したことがあります」と岡本は真面目で語り出《いだ》した。 「愉快々々《愉快愉快》、談愈々佳境《話し愈々佳境》に入《-い》って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉《ストーブ》の方《ホウ》へ引寄《引き寄せ》た。 「少し談《話し》が突然《出し抜け》ですがね、まず僕の不思議の願《願い》というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女《娘》はなかなかの美人でした」 「ヨウ❢《❢。》 ヨウ❢《❢。》」と松木は躍上《躍り上が》らんばかりに喜こんだ。 「どちらかと言えば丸顔の色《/色》のくっきり白い、肩つきの按排は西洋婦人《’西洋婦人》のように肉附《肉付き》が佳くってし《”し》かもなだらかで、《:、》眼は少し眠むいような風《ふう》の、パ《/パ》チリとはしないが物思《物思い》に沈んでるという気味《キミ》があるこの眼に愛嬌を含めて凝然《じっ》と睇視《見つめ》られるなら大概《/大概》の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了《しま》ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位《三度目くらい》から変に引《引き》つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未《ま》だ恋《ラブ》したとは思いませんでしたねえ。 「或日僕《ある日’僕》がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯《た》だ女中とその少女《娘》と妹《イモト》の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女《娘》は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥の間《マ》に独《独り》、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕《/僕》は縁辺《縁側》に腰をかけたまま聴いていました。 『お栄さん僕《/僕》はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪りません』と思わず口《’口》に出しますと 『小妹《わたくし》は何故こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女《娘》がさもさも頼《頼り》なさそうに言いました、《:、》僕にはこれが大哲学者の厭世論にも優って真実《ほんと》らしく聞《聞こ》えたが、その先は|詳わ《詳》しく言わないでも了解《解》りましょう。 「二人は忽ち恋の奴隷《ヤッコ》となって了《しま》ったのです。僕はその時初《時’初》めて恋の楽しさと哀しさとを知りました、二月《フタ月》ばかりというものは全《まる》で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二《一つ二つ》お安価《安く》ない幕を談《話》すと先ずこんなこともありましたっケ、 「或日午後五時頃《ある日午後五時頃》から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕《/僕》の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜《/夜》の十時頃漸《十時ごろ漸》く散会になり僕《/僕》はホテルから芝山内《芝サン内》の少女《娘》の宅まで、月が佳いから|歩る《歩》いて送ることにして母《/母》と三人ぶらぶらと行《や》って来ると、《:、》途々母《道みち母》は口を極めて洋行夫婦を褒め頻《/頻り》と羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有しているのを残念がる意味があって、《:、》かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて|歩る《歩》いていた娘は、僕の手を強く握りました、《:、》それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。 「それから山内《サン内》の森の中へ来ると、月が木間《木の間》から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩《イツアシ》ばかり先を|歩る《歩》いていました。夜は更けて人《/人》の通行《往き来》も稀になっていたから四辺《/辺り》は極めて静《静か》に僕《/僕》の靴の音、二人の下駄の響《響き》ばかり物々しゅう反響していたが、《:、》先刻《さっき》の母の言草《言い草》が胸に応えているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って|歩る《歩》いていました。 「森影暗く月《/月》の光を遮った所へ来たと思うと少女《/娘》は卒然僕《いきなり僕》に抱きつかんばかりに寄添《寄り添》って 『貴様母《貴方’母》の言葉を気にして小妹《わたくし》を見捨《見捨て》ては不可《いけ》ませんよ』と囁き、《:、》その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬《ホオ》にべたり熱いものが触《触れ》て一種、花にも優る香《香り》が鼻先を掠めました。突然明《突然’明る》い所へ出ると、少女《娘》の両眼《両目》には涙が一《いっ》ぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、一《ひとつ》は月の光を浴びたからでも有りましょう、《:、》何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気《寒け》を覚えて恐《/恐》いとも哀しいとも言いようのない思《思い》が胸に塞《つか》えてちょうど、鉛の塊が胸を圧しつけるように感じました。 「その夜、門口《カドグチ》まで送り、母なる人が一寸《ちょっ》と上《上が》って茶を飲めと勧めたを辞し自宅《/自宅》へと帰路に就きましたが、《:、》或難《ある難し》い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解《解》りでもするといったような心持《心持ち》がして、決して比喩じゃアない、確《確か》にそういう心持《心持ち》がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内《サン内》の淋《さ》むしい所を撰ってぶらぶら|歩る《歩》き、何時《いつ》の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時《しばら》く凝然《じっ》と品川の沖の空を眺めていました。 『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電《稲妻》のように僕の心中最《-しんちゅう最》も暗《-くら》き底に閃いたと思うと僕《/僕》は思わず躍り上がりました。そして其所《そこ》らを夢中で往きつ返《戻》りつ地《/地》を見つめたまま|歩る《歩》いて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、《:、》僕はおりおり足を止めて地を凝視《見つめ》ていると、蒼白い少女《娘》の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。 「遂に僕は心を静めて今夜十分眠《今夜’充分’眠》る方《ほう》が可《良》い、全く自分の迷《迷い》だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少《少し》も気がつかなかったが路傍《/道端》にある木の枝から人《/人》がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水《冷や水》をかけられたように感じて、其所《そこ》に突立《突っ立》って了《しま》いました。 「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬ《脱》ぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分《分か》る‥‥《:‥》僕は一切夢中《一切’夢中》で紅葉館《コウヨウ館》の方《ほう》から山内へ下りると突当《突き当たり》にあるあの交番まで駈けつけてそ《/そ》の由を告げました‥‥」 「その女が君の恋していた少女《娘》であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言《言っ》た。 「それでは全《まる》で小説ですが、幸《幸い》に小説にはなりませんでした。 「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士《/兵士》には国に帰って了《しま》われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、《:、》ともかく僕はその夜殆ど眠りませんでした。 「然《し》かし能くしたもので、その翌日少女《翌日’娘》の顔を見ると平常《普段》に変っていない、《:、》そしてそのうっとりした眼に笑《笑み》を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了《しま》いました。それから又一月《またヒト月》ばかりは何《なん》のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで‥‥」 「|なるほど《成程》これはお安価《安》くないぞ」と綿貫が床を蹶《蹴っ》って言った。 「まア黙って聴きたまえ、それから」と松木は至極真面目《至極’真面目》になった。 「其先《先》を僕が言おうか、こうでしょう、最後《お終い》にその少女《娘》が欠伸一つして、それで神聖なる恋が最後《お終い》になった、そうでしょう?」と近藤も何故か真面目で言った。 「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯《噴き出》して了《しま》った。 「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。 「君でも恋なんていうことを知っているのかね。」これは井山の柄《がら》にない言草《言い草》。 「岡本君《岡本さん》の談話《話》の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女《’ある娘》と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目《ミツキめ》に女が欠伸一つした、二人は分《分か》れた、これだけサ。要するに誰《たれ》の恋でもこれが大切《大切り》だよ、女という動物は三月《ミツキ》たつと十人が十人、飽きて了《しま》う、夫婦なら仕方がないから結合《くっつ》いている。然《しか》しそれは女が欠伸を噛殺《噛み殺》してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」 「そうかも知れません、然《しか》し僕のは幸《幸い》にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。 「僕もその頃、上村君《カミムラさん》のお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽《楽しみ》でした、矢張上村君《やはりカミムラさん》の亜米利加風《アメリカ風》の家は僕《/僕》も大判の洋紙へ鉛筆で図取《図取り》までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火《明かり》を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声《笑い声》、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、‥‥」 「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村《カミムラ》が情けなそうに言ったので、どっと皆《みんな》が笑った。 「君が馬鈴薯《ジャガイモ》党を変節したのも、一《一つ》はその故《せい》だろう」と綿貫が言った。 「イヤそれは嘘言《嘘》だ、上村君《カミムラさん》にもし相手があったら北海道の土を踏《踏ま》ぬ先に変節していただろうと思う、《:、》女と言う奴《ヤツ》が到底馬鈴薯主義《到底ジャガイモ主義》を実行し得《う》るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋が嗜好《好》きなんていうのは嘘サ❢《❢。》」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句で又《ま》た皆《みんな》がどっと笑った。 「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々静《ようよう静》まった。 「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕《/僕》は一先故郷《ひとまず国》に帰り、親族に托してあった山林田畑《山林タハタ》を悉く売り飛ばし、《:、》その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位《十日間くらい》の積《つもり》で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合《不折り合い》やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日少女《ある日’娘》の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女《娘》は最早死《もう死》んでいました」 「死んで?」と松木は叫けんだ。 「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となって了《しま》いました」《。」》と岡本の言葉が未《ま》だ終らぬうち近藤《/近藤》は左の如く言った、それが全《まる》で演説口調、 「イヤどうも面白い恋愛談《ラブ談》を聴かされ我等一同感謝《我ら一同’感謝》の至《至り》に堪えません、《:、》さりながらです、僕は岡本君《岡本さん》の為《た》めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、却《かえっ》て喜びます、《:、》もしもその少女《娘》にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」  とまでは頗る真面目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味《笑み》を含ませて、 「何《なん》となれば、女は欠伸をしますから‥‥《:‥》凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく|憎く《憎》む可《べ》きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、《:、》生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子《ニョシ》の天性《天セイ》、一は最も悲しむべく、一は尤《もっと》も憎むべきものである」  と少し真面目な口調に返り、 「則ち女子《ニョシ》は生命に倦《-う》むということは殆どない、年若《/年若》い女が時々そんな様子を見せることがある、然《しか》しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、《:、》幸《幸い》にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽《楽しみ》という字の全意義はか《/か》かる女子《ニョシ》の境遇に於《於い》て尽されているだろう。然《しか》し忽ち倦《倦ん》で了《しま》う、則ち恋に倦《倦ん》でしまう、女子《ニョシ》の恋に倦《倦ん》だ奴《ヤツ》ほど始末にいけないものは決して他にあるまい、《:、》僕はこれを憎むべきものと言ったが実《/実》は寧ろ憐れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦《-う》むことがある、かかる場合に恋に出遇う時《とき》は初《/初》めて一方の活路を得る。そこで全《-まった》き心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在《あっ》ては恋則ち男子の生命である」  と言って岡本を顧み、 「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」 「一向に要領を得ない❢《❢。》」と松木が叫けんだ。 「ハッハッハッハッ要領《/要領》を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今《/今》のように言ってみたいので。どうです岡本君《岡本さん》、だから僕は思うんだ君《/君》が馬鈴薯《ジャガイモ》党でもなくビフテキ党でもなく唯《/た》だ一《一つ》の不思議なる願《願い》を持っているということは、死んだ少女《娘》に遇いたいというんでしょう」 「否《ノー》❢《❢。》」と一声叫けんで岡本は椅子を起《立》った。彼は最早余程酔《もう余程’酔》っていた。 「否《ノー》と先ず一語を下して置きます。諸君《/諸君》にしても《’も》し僕の不思議なる願《願い》というのを聴いてくれるなら談《話》しましょう」 「諸君《/諸君》は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆《みんな》は唯《た》だ黙って岡本の顔を見ていたが松木《/松木》と竹内は真面目で、綿貫と井山と上村《カミムラ》は笑味《笑み》を含んで。 「それでは否《ノー》の一語を今一度叫けんで置きます。 「なるほど僕は近藤君《近藤さん》のお察《察し》の通り恋愛に依《よっ》て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女《娘》の死は僕に取《取っ》ての大打撃、殆ど総ての希望は破壊し去ったことは先程申上《先程’申し上》げた通りです、もし例の返魂香とかいう価物《代物》があるなら僕は二三百斤買《二三百斤’買》い入れたい。どうか少女《娘》を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思《思い》がします。僕は平気で白状しますが幾度僕《いくたび僕》は少女《娘》を思うて泣いたでしょう。幾度《いくたび》その名を呼《呼ん》で大空を仰いだでしょう。実にあの少女《娘》の今一度この世に生き返って来ることは僕の願《願い》です。 「しかし、これが僕の不思議なる願《願い》ではない。僕の真実《ほんと》の願《願い》ではない。僕はまだまだ大《大い》なる願《願い》、深《ふか》い願《願い》、熱心なる願《願い》を以《以っ》ています。この願《願い》さえ叶えば少女《娘》は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。少女《娘》が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。 「朝《あした》に道を聞かば夕《夕べ》に死すとも可《か》なりというのと僕《/僕》の願《願い》とは大に意義を異《イ》にしているけれど、その心持《心持ち》は同じです。僕はこの願《願い》が叶わん位《くらい》なら今から百年生きていても何の益《役》にも立《立た》ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。 「全世界の人悉《人’悉》くこの願《願い》を有《持っ》ていないでも宜しい、僕独りこの願《願い》を追います、僕がこの願《願い》を追うたが為《た》めにそ《/そ》の為めに強盗罪を犯すに至《至っ》ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関《構》いません、《:、》もし鬼ありて僕に保証するに、爾《汝》の妻を与えよ我《/我れ》これを姦せん爾《/汝》の子を与えよ我《/我れ》これを喰《食ら》わん然《/しか》らば我は爾《汝》に爾《汝》の願《願い》を叶わしめんと言えば僕《/僕》は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」 「こいつは面白い、早くその願《願い》というものを聞きたいもんだ❢《❢。》」と綿貫がその髯を|力任か《力任》せに引《引い》て叫けんだ。 「今に申します。諸君《/諸君》は今日《こんにち》のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、《:、》そこでビスマークとカ《/カ》ブールとグ《”グ》ラッドストンと豊太閤《/豊太閤》みたような人間をつきまぜて一鋼鉄《/ひとつ鋼鉄》のような政府を形《作》り、思切《思い切》った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、《:、》僕も実にそういう願《願い》を以《以っ》ています、しかし僕の不思議なる願《願い》はこれでもない。 「聖人になりたい、君子《クンシ》になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督《クリスト》や釈迦《/釈迦》や孔子《/孔子》のような人になりたい、真実《ほんと》にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願《願い》が叶わないで以《以っ》て、そうなるならば、僕は一向聖人《一向’聖人》にも神の子にもなりたくありません。 「山林の生活❢《❢。》 と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃《ごろ》の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いているのを見ると、直ぐ僕の血《血’》は波立ちます。堪らなくなる❢《❢。》 然《しか》しです、僕の一念ひとたびか《’か》の願《願い》に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願《願い》さえ叶うなら紅塵三千丈《紅塵三千ジョウ》の都会に車夫となっていてもよろしい。 「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何《’なん》だとか、やかましい議論があります。科学と哲学《/哲学》と宗教《/宗教》とはこれを研究し闡明《/闡明》し、そして安心立命《安心リュウメイ》の地をその上に置こうと悶《もが》いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足《裸足》というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願《願い》というのはこれでもない。もし僕の願《願い》が叶わないで以《以っ》て、大哲学者になったなら僕《/僕》は自分を冷笑し自分《/自分》の顔《ツラ》に『偽《偽り》』の一字を烙印します」 「何《なん》だね、早く言いたまえその願《願い》というやつを❢《❢。》」と松木はもどかしそうに言った。 「言いましょう、喫驚《吃驚》しちゃアいけませんぞ」 「早く早く❢」  岡本は静《静か》に 「喫驚《吃驚》したいというのが僕の願《願い》なんです」 「何《なん》だ❢《❢。》 馬鹿馬鹿しい❢」 「何《なん》のこった❢」 「落語《落とし噺》か❢」  人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言《黙っ》て岡本の説明を待《待っ》ているらしい。 「こういう句があります、 ◇。◇。◇。 【Awake, poor troubled sleeper: shake off】 【|thy《ザイ》 torpid night-mare dream.】 ◇。◇。◇。 【即ち僕の願《願い》とは夢魔を振い落したいことです❢」】 「何《なん》のことだか解らない❢《❢。》」と綿貫は呟やくように言った。 「宇宙の不思議を知りたいという願《願い》ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願《願い》です❢」 「愈々以《いよいよ以っ》て謎のようだ❢《❢。》」と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。 「死の秘密を知りたいという願《願い》ではない、死ちょう事実に驚きたいという願《願い》です❢」 「イクラでも君勝手《君/勝手》に驚けば可《い》いじゃアないか、何でもないことだ❢《❢。》」と綿貫は嘲るように言った。 「必ずしも信仰そのものは僕の願《願い》ではない、信仰無くしては片時たりとも安《安ん》ずる能わざるほどにこ《/こ》の宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願《願い》であります」 「|なるほど《成程》こいつは益々解《ますます解》りにくいぞ」と松木は呟やいて岡本《/岡本》の顔を穴のあくほど凝視《見つめ》ている。 「寧ろこの使用《使》い|古る《古》した葡萄のような眼球《目の玉》を剜《抉》り出したいのが僕の願《願い》です❢《❢。》」と岡本は思わず卓《タク》を打った。 「愉快々々《愉快愉快》❢《❢。》」と近藤は思わず声を揚げた。 「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆《肝》は喰いたく思わない、彼《/彼》が十九歳の時学友《時’学友》アレキシスの雷死を眼前《目の当たり》に視《見》て死《/死》そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。 「勝手に驚けと言われました綿貫君《綿貫さん》は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然《しか》し決して勝手に驚けないのです。 「僕の恋人は死《死に》ました。この世から消えて失《失く》なりました。僕は全然恋《すっかり恋》の奴隷《ヤッコ》であったからか《/か》の少女《娘》に死なれて僕の心は掻乱《掻き乱》されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡なったが為《ため》の悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に|加う《クワウ》るものがあることが知られます。 「曰くカストム(習慣)の力です。 ◇。◇。◇。 【Our birth is but asleep and |forgetting《フォーゲッティング》.】 ◇。◇。◇。  この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児《子ども》の時から種々《いろいろ》な事に出遇う、毎日太陽《毎日’太陽》を見る、毎夜星《毎夜’星》を仰ぐ、ここに於《於い》てかこの不可思議なる天地も一向不可思議《一向’不可思議》でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番《尋常’茶番》となって了《しま》う。哲学で候《そうろ》うの科学で御座《ござ》るのと言って、自分は天地の外に立《立っ》ているかの態度を以《以っ》てこの宇宙を取扱《取り扱》う。 ◇。◇。◇。 【Full soon |thy《ザイ》 soul shall have her earthly freight,】 【And custom lie upon |thee《ズィー》 with a weight,】 【Heavy as frost, and deep almost as life ❢】 ◇。◇。◇。  この通りです、この通りです❢ 「即ち僕の願《願い》はどうにかしてこの霜を叩《はた》き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣《カストム》の圧力から脱《の》がれて、驚異の念を以《以っ》てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯《ジャガイモ》主義となろうが、将《は》た厭世の徒となってこの生命を咀《-のろお》うが、決して頓着しない❢ 「結果は頓着しません、源因《原因》を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。 「ヤレ月の光が美《ビ》だとか花《/花》の夕《夕べ》が何《ナン》だとか、星の夜は何《’なん》だとか、要するに滔々たる詩人の文字《モンジ》は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流《マツ流》に至《至っ》ては悉くそうです。 「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何《なん》ぞや⦅《(》What am I ?⦆《)》なんちょう馬鹿な問《問い》を発して|自か《自》ら苦《苦しむ》ものがあるが到底知《/到底’知》れないことは如何《いか》にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、然《しか》しこの問《問い》は必ずしもその答を求むるが為《た》めに発した問《問い》ではない。実にこの天地に於けるこの我《我が》ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然《/自然》に発したる心霊の叫である。この問《問い》その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願《願い》は寧ろ、どうにかしてこの問《問い》を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問《問い》は口から出ても心からは出ません。 「我何処《我れいずく》より来り、我何処《我れいずく》にか往く、《:、》よく言う言葉であるが、矢張《やは》りこの問《問い》を発せざらんと欲《-ほっ》して発《/発》せざるを得ない人の心から宗教《/宗教》の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽《/虚偽》です。 「もう止しましょう❢ 無益《駄目》です、無益《駄目》です、いくら言っても無益《駄目》です。‥‥アア疲労《くたびれ》た❢《❢。》 しかし最後に一言《イチゴン》しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人‥‥」 「僕は何方《どちら》へ属するのだろう❢《❢。》」と松木は笑いながら問うた。 「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆《’みんな》な平気の平三《ヘイザ》の種類に属します。イヤ世界十幾億万人《世界’十幾億万人》の中《うち》、平気な人でないものが幾人ありましょうか、《:、》詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆《’みんな》な平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜一《昨夜ひとつ》の夢を見ました。 「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死《死の》うとは思わなかった❢』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。 「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子《/子》に死《死な》れたりしても、矢張《やは》り自分の死んだ後《あと》、地獄の門でマサカ自分が死《死の》うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」 「人に驚かして貰えばしゃっくりが止《止ま》るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに好《/好》んで喫驚《吃驚》したいというのも物数奇《物好き》だねハ《/ハ》ハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。 「イヤ僕も喫驚《吃驚》したいと言うけれど、矢張《やは》り単にそう言うだけですよハ《/ハ》ハハハ」 「唯《た》だ言うだけかア《/ア》ハハハハ」 「唯《た》だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」 「そうか❢《❢。》 唯《た》だお願い申してみる位なんですねハ《/ハ》ッハッハッハッ」 「矢張《やは》り道楽でさア《/ア》ハッハッハハッ」と岡本は一所《一緒》に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可《べ》からざる苦痛の色を見て取った。 ◇。◇。◇。 【底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』】 【1970(昭和45)年5月30日発行】 【入力:八木正三】 【校正:LUNA CAT】 【1998年5月23日公開】 【2011年5月23日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】