◇。◇。◇。 【牛肉と馬鈴薯】 【国木田独歩】 ◇。◇。◇。  明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀端に/西洋づくりの余り立派ではないが、それでもかなりの建物があった:、建物は今でもある、しかし持ち主が代わって、今では明治倶楽部その者はなくなってしまった。  この倶楽部がまだ繁盛していた頃のことである、ある年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に明かりが点いていて、折々高く笑う声が外に漏れていた。いったいこの倶楽部は夜分’人の集まっていることは少ないので、ストーブの煙はいつも昼間ばかり立ちのぼっているのである。  しかるに八時はさっき打っても人々はまだなかなか散じそうな様子も見えない。車が六台’玄関の横に並んでいたが、車夫どもは’みんな勝手のほうで例の一六勝負サイチュウらしい。  すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を目深に被ったのが、真っ暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。  うちから戸が-あくと、 「竹内さんは来ておいでですかね」と低い声の落ち着いた調子で訊ねた。 「ハア、おいでで御座います、貴方は?」と片目のホソガオの、和服を着た受付が丁寧に言った。 「これを」と-いだした名刺には五号活字で岡本セイフとしてあるばかり、なんの肩書もない。受付はそれを受け取り/急いで二階に上がっていったが間もなく降りて来て 「どうぞこちらへ」と案内した、導かれて二階へ上がると、ストーブを盛んに焚いていたので、ムッとする程あったかい。ストーブの前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍らのテーブルにウイスキーの壜が乗っていて/コップの飲み干したるもあり、ついだままのもあり、人々はいい加減に酒がまわっていたのである。  岡本の姿を見るや竹内は立って、元気よく 「まアこれへ掛けたまえ」と一つの椅子をすすめた。  岡本は容易に坐に-つかない。見回すとそのうちの五人は兼て一面識くらいはある人であるが、一人、色の白い中肉のヒンの良い紳士はまだ見知らぬ人である。竹内はそれと気がつき、 「ウン貴方はまだこの方をご存知ないだろう、紹介しましょう、この方はカミムラさんと言って北海道炭鉱会社の社員の方です、カミムラさん、この方は僕のごく旧い友だちで岡本さん‥‥」  とまだ言い終わらぬに/カミムラと呼ばれし紳士は快活な調子で 「ヤ、初めて‥:‥お書きになった物は常に拝見していますので‥:‥今後ご懇意に‥‥」  岡本はただ「どうかお心安く」と言ったぎり黙ってしまった。そして椅子に倚った。 「サアその先を‥‥。」と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生やしている紳士が言った。 「そうだ❢。 カミムラさん、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭の毛の薄い、痩せ型の紳士が促した。 「イヤ岡本さんが見えたから急にやりにくくなった/ハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少しはにかんだような笑い方をした。 「なんですか?」  岡本は竹内に問うた。 「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居たまえ/名論卓説、滾々として尽きずだから」 「ナニもう大概吐き尽したんですよ、貴方は我々’俗物党と違がって本物なんだから、幸い貴方のを聞きましょう、ね諸君❢」  とカミムラは逃げかけた。 「いけないいけない、先ず君の説を終えたまえ❢」 「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。 「僕のは岡本さんの説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、つまり、理想と実際は一致しない、到底’一致しない‥‥」 「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。 「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」 「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。 「だってねエ、理想は食べられませんものを❢。」と言ったカミムラの顔は兎のようであった。 「ハハハハ/ビフテキじゃアあるまいし❢。」と竹内は大口を開けて笑った。 「いやビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」 「オムレツかね❢。」と今まで黙って半分’眠りかけていた、真っ赤な顔をしている松木、座中で一番’年の若そうな紳士が真面目で言った。 「ハッハッハッハッ」と一坐が噴きだした。 「イヤ笑いごとじゃアないよ」とカミムラは少し躍起になって、 「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると芋も喰えないことになる。/諸君は牛肉と芋とどっちがいい?」 「牛肉がいいねエ❢。」と松木はまた眠むそうな声で真面目に言った。 「しかしビフテキに芋は付き物だよ」と頬髭の紳士が得意らしく言った。 「そうですとも❢。 理想は則ち実際の付き物なんだ❢。 芋もまるきり無いと困る、しかし芋ばかりじゃア全く閉口する❢」  と言って、カミムラはやや満足したらしく岡本の顔を見た。 「だって北海道はジャガイモが名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。 「そのジャガイモなんです、僕はそのジャガイモにはさんざん酷い目に遇ったんです。ね、竹内さんはご存知ですが/僕はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、やはりその頃は熱心なアーメンの仲間で、言いかゆれば大々的ジャガイモ党だったんです❢」 「君が?」とさも不審そうな顔つきで井山がしょぼしょぼマナコを見張った。 「何も不思議は無いサ、その頃はうら若いんだからね、岡本さんはおいくつかしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なるジャガイモ党でしたがね、/学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、ピュリタンを以って任じていたのだから堪らない❢」 「大変なピュリタンだ❢。」と松木がまた口を入れたのを、カミムラはちょっと顎で止めて、ウイスキーを嘗めながら 「断然この穢れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本はじっとカミムラの顔を見た。 「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師のうちに北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところがまた先方はうまいことを話して聞かすんです。やれネーチュール(自然)がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森また森だの、堪ったもんじゃアない❢。 僕はすっかりまいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して/こんなふうな想像を-えがいていたもんだ。‥‥先ず僕が自己の額に汗して森を開き/林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、‥‥」 「そのヒャクショウが見たかったねエ/ハッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。 「イヤ実地やったのサ、まア待ちたまえ、追い追い其処へ行くから‥:‥、その内にだんだんと田園が出来て来る、おもにジャガイモを作る、/ジャガイモさえ有りゃあ喰うに困らん‥‥」 「ソラジャガイモが出た❢。」と松木はまた口を入れた。 「其処で田園の真ん中に家がある、構造は極めて粗末だが/一見’米国風に出来ている、ニューイングランド殖民地時代そのままというふうに出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横のほうに一ツ。窓をいくつ附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ‥‥」 「そしてほんとにその’家が出来たのかね」と井山はまたしょぼしょぼマナコを見張った。 「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは‥:‥そうだそうだ/ニャクオウ寺へ散歩に往って帰る時だった❢」 「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。 「それから北のホウへ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄みわたった小川がこの防風林の右のほうからうねり出て屋敷の前を流れる。無論この’川で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真っ白な背を浮べてるんですよ。この’川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したがやはり附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました‥:‥まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ‥:‥先ず冬になると‥‥」 「ちょッとお話の途中ですが、貴方はその『冬』というオンにかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。  カミムラは驚ろいた顔つきをして 「貴方はどうしてそれをご存知です、これは面白い❢。 さすが貴方はジャガイモ党だ❢。 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、なんだかその冬則ち自由というような気がしましてねエ❢。 それに僕は例の熱心なるアーメンでしょう/クリスマス万歳の仲間でしょう:、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、のきから棒のようなツララが下がっていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聞いても『冬になると‥:‥』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪がすっかり家を埋めてしまう、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる:、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと落ちる、牛ベ屋でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る❢」 「君は詩人だ❢。」と叫けんで床を靴で蹴ったものがある。これは近藤といって/岡本がこの部屋に入って来てのちもイチゴンを発しないで、ただウイスキーと首っ引きをしていた背の高い、一癖あるべき面構えをした男である。 「ねエ岡本さん❢。」と言い足した。岡本はただ、黙って首肯いたばかりであった。 「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていう”グレーのチャルチャードの翻訳を愛読して/自分で作ってみたものだアね:、こんにちの新体詩人から見ると僕は先輩だアね」 「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地になって言った。 「ナーニ僕だってフタツミツやったものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。 「綿貫さん、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。 「イヤお恥ずかしいことだが僕はご存知の女けのない通り/詩人’けは全くなかった、『権利義務』で一貫してしまった:、どうだろう僕は余程’俗骨が発達してるとみえる❢。」と綿貫は頭を撫でてみた。 「イヤ僕こそ甚だお恥ずかしい話だがこれでやはりやったものだ、そして何かの雑誌にフタツミツ載せたことがあるんだ❢。 ハッハッハッハッハッ」 「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴き出してしまった。 「そうすると諸君はみんな詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ/奇談’奇談❢。」と綿貫が叫んだ。 「そうか、諸君もやったのか、驚ろいた、その昔は’みんななジャガイモ党なんだね」とカミムラは大いに面目を施したという顔つき。 「お話の先を願いたいものです」と岡本はカミムラを促がした。 「そうだ、先をやりたまえ❢。」と近藤は殆ど命令するように言った。 「宜しい❢。 それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持ちといったら無いね、何だかこう/馬鹿野郎❢。 というような心持ちがしてねエ、上野のステーションで汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと/僕は窓から頭を出して/東京のホウへ向いてツバキを吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て/人知れずハンケチで涙を拭いたよほんとに❢」 「ちょっときみ、ちょっと『馬鹿野郎❢』というような心持ちというのが僕には了解が出来ないが‥:‥そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。 「ただ東京のヤツらを言ったのサ、ミョウリに汲々としているそのざまは何だ❢。 馬鹿野郎❢。 俺を見ろ❢。 という心持ちサ」とカミムラもまた真面目で註解を加えた。 「それから道行は抜きにして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、/ジャガイモの本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、いわゆる額に汗するのはこれからだというんで直ちに着手したねエ。もっとも僕と最初から理想をイツにしている友人、今はやっぱり僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取り掛かったのだ、そら、竹内さん知っておるだろう/梶原信太郎のことサ‥‥」 「ウン梶原さんが❢? あれがやっぱりジャガイモだったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。 「そうサ、いまじゃア鬼のようなツラをして、血のたれるビフテキを二口に喰ってしまうんだ。ところが先生/僕と比較するとはじめから利口であったねエ、フタ月ばかりも辛抱していたろうか、ある日こんな馬鹿げたことは断然止そうという動議を提出した:、その議論は何も自らこんな思いをして隠者になる必要はない/自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、/ジャガイモよりか牛肉のほうが滋養分が多いというんだ。僕はそのとき大いに反対した、君-よすなら-よせ、僕は一人でもやると力んだ。すると先生やるなら勝手にやりたまえ、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨て台詞を吐いて直ぐいってしまった。取残された僕は力んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、ミツキばかり辛抱したねエ。豪いだろう❢」 「馬鹿なんサ❢。」と近藤が叱るように言った。 「馬鹿? 馬鹿たアコクだ❢。 今から見れば大馬鹿サ、しかしその時は全く豪かったよ」 「やっぱり馬鹿サ、はじめから君なんかの柄にないんだ、北海道でジャガイモばかり食おうなんていうがらじゃアないんだ、それを知らないでミツキも辛抱するなア馬鹿としか言えない❢」 「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『がらにない』ということは次第に悟って来たんだ。有り難いことには僕にジャガイモのがらが無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例のヤツがだんだん近づいて来た:、その露払いが秋、第一’秋からして思ったよりか感心しなかったのサ:、しんとした林の上をパラパラと時雨て来る、ヒの光が何となく薄いような気持ちがする:、話相手はなしサ/食うものは一粒いくらと言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝るところは木の皮を壁に代用した掘立小屋」 「それは貴方’覚悟の前だったでしょう❢。」と岡本が口を入れた。 「其処ですよ、理想よりか実際のいいほうがいいというのは。覚悟はしていたもののやはり余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」  カミムラは言ってサカズキでちょっと口を湿して 「僕は痩せようとは思っていなかった❢」 「ハッハッハッハッハッハッ」とみんな笑いだした。 「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原のヤツの言った通りだ、馬鹿げきっている、よそうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死んでいたね」 「其処でどういうんです、貴方の目下のお説は?」と岡本は嘲るような、真面目なふうで言った。 「だからジャガイモには懲り懲りしましたというんです。なんでも今は実際’主義で、かねが取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君とストーブにあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹がすいたら牛肉を食う‥‥」 「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、そいつが馬鹿なんだ」と綿貫は大いに息巻いた。 「僕は違うねエ❢。」と近藤は叫んだ、そして煖炉をあとに椅子へ馬乗になった。凄い光を帯びた眼で座中を見回しながら 「僕はジャガイモ党でもない、牛肉党でもない❢。 カミムラさんなんかは最初、/ジャガイモ党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして’牛の焦げる匂いを嗅いで歩く、そのざまったらない❢」 「オイオイ、他人をアッコウする前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」とカミムラが切り込んだ。 「堕落? 堕落たア高いところから低いところへ落ちたことだろう、僕は幸いにして最初から高いところに居ないからそんなみっともないことはしないんだ❢。 君なんかは主義でジャガイモを喰ったのだ、好きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓えたのだ:、僕なんかは好きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代わり今だってがつがつしない、‥‥」 「一向’要領を得ない❢。」とカミムラが叫けんだ。近藤は直ちに何ごとをか言いださんと身構えをした時、給仕の一人がつかつかと近藤のソバに来て/その耳について何ごとをか囁いた。すると 「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ❢。」と怒鳴った。 「なんだ?」と座中の一人が驚いて聞いた。 「ナニ、車夫の野郎、また博打に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。‥:‥要領を得ないたア何だ❢。 大いに要領を得ているじゃアないか、君らは牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から好きなんだ、主義でもヘチマでもない❢」 「大いに賛成ですなア」と静かに落ち着いた声で言った者がある。 「賛成でしょう❢。」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。 「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言うヤツほど愚かなものはない」と岡本はその冴え冴えした眼光を座上に放った。 「その説を承ろう、是非願いたい❢。」と近藤はその四角な顎を突き出した。 「君は何方なんです、牛と芋、エ、芋でしょう?」とカミムラは知った顔に岡本の説をいざのうた。 「僕もやっぱり、牛肉党に-あらず、/ジャガイモ党にあらずですなア、しかし近藤さんのように牛肉が好きとも決っていないんです。勿論例の主義という手製料理は大嫌いですが、さりとて肉とか芋とかいう嗜好にも従うことが出来ません」 「それじゃアなんだろう?」と井山がそのもっともらしいしょぼしょぼマナコをぱちつかした。 「なんでもないんです、比喩はよして露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず:、それならって俗に和して肉慾を充たして以って我が生’足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、しないのではないので:、実をいうと何方でもいいから決めてしまったらと思うけれどなんという因果か今以てたった一つ、不思議な願いを持っているからそのために何方ともエ決めないでいます」 「なんだね、その不思議な願いと言うのは?」と近藤は例の押しつけるような言いぶりで問うた。 「一口には言えない」 「まさか狼の丸焼きで一杯’飲みたいという洒落でもなかろう?」 「まずそんなことです。‥‥実は僕、ある娘に懸想したことがあります」と岡本は真面目で語りいだした。 「愉快愉快、話し愈々佳境に-いって来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子をストーブのホウへ引き寄せた。 「少し話しが出し抜けですがね、まず僕の不思議の願いというのを話すにはこの辺から初めましょう。その娘はなかなかの美人でした」 「ヨウ❢。 ヨウ❢。」と松木は躍り上がらんばかりに喜こんだ。 「どちらかと言えば丸顔の/色のくっきり白い、肩つきの按排は’西洋婦人のように肉付きが佳くって”しかもなだらかで:、眼は少し眠むいようなふうの、/パチリとはしないが物思いに沈んでるというキミがあるこの眼に愛嬌を含めてじっと見つめられるなら/大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられてしまったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目くらいから変に引きつけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕はまだラブしたとは思いませんでしたねえ。 「ある日’僕がその女の家へ行きますと、両親は不在でただ女中とその娘とイモトの十二になるのと三人ぎりでした。すると娘は身体の具合が少し悪いと言って鬱いで、奥のマに独り、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを/僕は縁側に腰をかけたまま聴いていました。 『お栄さん/僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪りません』と思わず’口に出しますと 『わたくしは何故こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と娘がさもさも頼りなさそうに言いました:、僕にはこれが大哲学者の厭世論にも優ってほんとらしく聞こえたが、その先は詳しく言わないでも解りましょう。 「二人は忽ち恋のヤッコとなってしまったのです。僕はその時’初めて恋の楽しさと哀しさとを知りました、フタ月ばかりというものはまるで夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一つ二つお安くない幕を話すと先ずこんなこともありましたっケ、 「ある日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが/僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが/夜の十時ごろ漸く散会になり/僕はホテルから芝サン内の娘の宅まで、月が佳いから歩いて送ることにして/母と三人ぶらぶらとやって来ると:、道みち母は口を極めて洋行夫婦を褒め/頻りと羨ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間的傾向を有しているのを残念がる意味があって:、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩いていた娘は、僕の手を強く握りました:、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。 「それからサン内の森の中へ来ると、月が木の間から蒼然たる光を洩して一段の趣を加えていたが、母は我々よりイツアシばかり先を歩いていました。夜は更けて/人の往き来も稀になっていたから/辺りは極めて静かに/僕の靴の音、二人の下駄の響きばかり物々しゅう反響していたが:、さっきの母の言い草が胸に応えているので僕も娘も無言、母も急に真面目くさって黙って歩いていました。 「森影暗く/月の光を遮った所へ来たと思うと/娘はいきなり僕に抱きつかんばかりに寄り添って 『貴方’母の言葉を気にしてわたくしを見捨ててはいけませんよ』と囁き:、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左のホオにべたり熱いものが触れて一種、花にも優る香りが鼻先を掠めました。突然’明るい所へ出ると、娘の両目には涙がいっぱい含んでいて、その顔色は物凄いほど蒼白かったが、ひとつは月の光を浴びたからでも有りましょう:、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒けを覚えて/恐いとも哀しいとも言いようのない思いが胸につかえてちょうど、鉛の塊が胸を圧しつけるように感じました。 「その夜、カドグチまで送り、母なる人がちょっと上がって茶を飲めと勧めたを辞し/自宅へと帰路に就きましたが:、ある難しい謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く解りでもするといったような心持ちがして、決して比喩じゃアない、確かにそういう心持ちがして、気になってならない。そこで直ぐは帰らずサン内のさむしい所を撰ってぶらぶら歩き、いつの間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけてしばらくじっと品川の沖の空を眺めていました。 『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が稲妻のように僕の-しんちゅう最も-くらき底に閃いたと思うと/僕は思わず躍り上がりました。そしてそこらを夢中で往きつ戻りつ/地を見つめたまま歩いて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱するかのように言ってみたが、魔は決して去らない:、僕はおりおり足を止めて地を見つめていると、蒼白い娘の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。 「遂に僕は心を静めて今夜’充分’眠るほうが良い、全く自分の迷いだと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上る時は少しも気がつかなかったが/道端にある木の枝から/人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷や水をかけられたように感じて、そこに突っ立ってしまいました。 「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路に脱ぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分かる‥:‥僕は一切’夢中でコウヨウ館のほうから山内へ下りると突き当たりにあるあの交番まで駈けつけて/その由を告げました‥‥」 「その女が君の恋していた娘であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言った。 「それではまるで小説ですが、幸いに小説にはなりませんでした。 「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが/兵士には国に帰ってしまわれ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました:、ともかく僕はその夜殆ど眠りませんでした。 「しかし能くしたもので、その翌日’娘の顔を見ると普段に変っていない:、そしてそのうっとりした眼に笑みを含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えてしまいました。それからまたヒト月ばかりはなんのこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで‥‥」 「成程これはお安くないぞ」と綿貫が床を蹴っって言った。 「まア黙って聴きたまえ、それから」と松木は至極’真面目になった。 「先を僕が言おうか、こうでしょう、お終いにその娘が欠伸一つして、それで神聖なる恋がお終いになった、そうでしょう?」と近藤も何故か真面目で言った。 「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴き出してしまった。 「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。 「君でも恋なんていうことを知っているのかね。」これは井山のがらにない言い草。 「岡本さんの話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と’ある娘と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、ミツキめに女が欠伸一つした、二人は分かれた、これだけサ。要するにたれの恋でもこれが大切りだよ、女という動物はミツキたつと十人が十人、飽きてしまう、夫婦なら仕方がないからくっついている。しかしそれは女が欠伸を噛み殺してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」 「そうかも知れません、しかし僕のは幸いにその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。 「僕もその頃、カミムラさんのお話と同様、北海道熱の烈しいのに罹っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽しみでした、やはりカミムラさんのアメリカ風の家は/僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取りまでしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと明かりを見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑い声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、‥‥」 「だって僕は相手が無かったのですもの」とカミムラが情けなそうに言ったので、どっとみんなが笑った。 「君がジャガイモ党を変節したのも、一つはそのせいだろう」と綿貫が言った。 「イヤそれは嘘だ、カミムラさんにもし相手があったら北海道の土を踏まぬ先に変節していただろうと思う:、女と言うヤツが到底ジャガイモ主義を実行しうるもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋が好きなんていうのは嘘サ❢。」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句でまたみんながどっと笑った。 「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたのでようよう静まった。 「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので/僕はひとまず国に帰り、親族に托してあった山林タハタを悉く売り飛ばし:、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間くらいのつもりで国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折り合いやらで思わず二十日もかかりました。 するとある日’娘の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、娘はもう死んでいました」 「死んで?」と松木は叫けんだ。 「そうです、それで僕の総ての希望が悉く水の泡となってしまいました。」と岡本の言葉がまだ終らぬうち/近藤は左の如く言った、それがまるで演説口調、 「イヤどうも面白いラブ談を聴かされ我ら一同’感謝の至りに堪えません:、さりながらです、僕は岡本さんのためにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧ろ喜びます、かえって喜びます:、もしもその娘にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」  とまでは頗る真面目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑みを含ませて、 「なんとなれば、女は欠伸をしますから‥:‥凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎むべきの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸:、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸はニョシの天セイ、一は最も悲しむべく、一はもっとも憎むべきものである」  と少し真面目な口調に返り、 「則ちニョシは生命に-うむということは殆どない、/年若い女が時々そんな様子を見せることがある、しかしそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない:、幸いにしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽しみという字の全意義は/かかるニョシの境遇に於いて尽されているだろう。しかし忽ち倦んでしまう、則ち恋に倦んでしまう、ニョシの恋に倦んだヤツほど始末にいけないものは決して他にあるまい:、僕はこれを憎むべきものと言ったが/実は寧ろ憐れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに-うむことがある、かかる場合に恋に出遇うときは/初めて一方の活路を得る。そこで-まったき心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合にあっては恋則ち男子の生命である」  と言って岡本を顧み、 「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」 「一向に要領を得ない❢。」と松木が叫けんだ。 「ハッハッハッハッ/要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ/今のように言ってみたいので。どうです岡本さん、だから僕は思うんだ/君がジャガイモ党でもなくビフテキ党でもなく/ただ一つの不思議なる願いを持っているということは、死んだ娘に遇いたいというんでしょう」 「ノー❢。」と一声叫けんで岡本は椅子を立った。彼はもう余程’酔っていた。 「ノーと先ず一語を下して置きます。/諸君にして’もし僕の不思議なる願いというのを聴いてくれるなら話しましょう」 「/諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。みんなはただ黙って岡本の顔を見ていたが/松木と竹内は真面目で、綿貫と井山とカミムラは笑みを含んで。 「それではノーの一語を今一度叫けんで置きます。 「なるほど僕は近藤さんのお察しの通り恋愛によって一方の活路を開いた男の一人である。であるから娘の死は僕に取っての大打撃、殆ど総ての希望は破壊し去ったことは先程’申し上げた通りです、もし例の返魂香とかいう代物があるなら僕は二三百斤’買い入れたい。どうか娘を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思いがします。僕は平気で白状しますがいくたび僕は娘を思うて泣いたでしょう。いくたびその名を呼んで大空を仰いだでしょう。実にあの娘の今一度この世に生き返って来ることは僕の願いです。 「しかし、これが僕の不思議なる願いではない。僕のほんとの願いではない。僕はまだまだ大いなる願い、ふかい願い、熱心なる願いを以っています。この願いさえ叶えば娘は復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜しい。娘が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。 「あしたに道を聞かば夕べに死すともかなりというのと/僕の願いとは大に意義をイにしているけれど、その心持ちは同じです。僕はこの願いが叶わんくらいなら今から百年生きていても何の役にも立たない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。 「全世界の人’悉くこの願いを持っていないでも宜しい、僕独りこの願いを追います、僕がこの願いを追うたがために/その為めに強盗罪を犯すに至っても僕は悔いない、殺人、放火、何でも構いません:、もし鬼ありて僕に保証するに、汝の妻を与えよ/我れこれを姦せん/汝の子を与えよ/我れこれを食らわん/しからば我は汝に汝の願いを叶わしめんと言えば/僕は雀躍して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」 「こいつは面白い、早くその願いというものを聞きたいもんだ❢。」と綿貫がその髯を力任せに引いて叫けんだ。 「今に申します。/諸君はこんにちのようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う:、そこでビスマークと/カブールと”グラッドストンと/豊太閤みたような人間をつきまぜて/ひとつ鋼鉄のような政府を作り、思い切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない:、僕も実にそういう願いを以っています、しかし僕の不思議なる願いはこれでもない。 「聖人になりたい、クンシになりたい、慈悲の本尊になりたい、クリストや/釈迦や/孔子のような人になりたい、ほんとにそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願いが叶わないで以って、そうなるならば、僕は一向’聖人にも神の子にもなりたくありません。 「山林の生活❢。 と言ったばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、このごろの冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴いているのを見ると、直ぐ僕の血’は波立ちます。堪らなくなる❢。 しかしです、僕の一念ひとたび’かの願いに触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願いさえ叶うなら紅塵三千ジョウの都会に車夫となっていてもよろしい。 「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は’なんだとか、やかましい議論があります。科学と/哲学と/宗教とはこれを研究し/闡明し、そして安心リュウメイの地をその上に置こうともがいている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン裸足というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願いというのはこれでもない。もし僕の願いが叶わないで以って、大哲学者になったなら/僕は自分を冷笑し/自分のツラに『偽り』の一字を烙印します」 「なんだね、早く言いたまえその願いというやつを❢。」と松木はもどかしそうに言った。 「言いましょう、吃驚しちゃアいけませんぞ」 「早く早く❢」  岡本は静かに 「吃驚したいというのが僕の願いなんです」 「なんだ❢。 馬鹿馬鹿しい❢」 「なんのこった❢」 「落とし噺か❢」  人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙って岡本の説明を待っているらしい。 「こういう句があります、 ◇。◇。◇。 【Awake, poor troubled sleeper: shake off】 【ザイ torpid night-mare dream.】 ◇。◇。◇。 【即ち僕の願いとは夢魔を振い落したいことです❢」】 「なんのことだか解らない❢。」と綿貫は呟やくように言った。 「宇宙の不思議を知りたいという願いではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願いです❢」 「いよいよ以って謎のようだ❢。」と今度は井山がその顔をつるりと撫でた。 「死の秘密を知りたいという願いではない、死ちょう事実に驚きたいという願いです❢」 「イクラでも君/勝手に驚けばいいじゃアないか、何でもないことだ❢。」と綿貫は嘲るように言った。 「必ずしも信仰そのものは僕の願いではない、信仰無くしては片時たりとも安んずる能わざるほどに/この宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願いであります」 「成程こいつはますます解りにくいぞ」と松木は呟やいて/岡本の顔を穴のあくほど見つめている。 「寧ろこの使い古した葡萄のような目の玉を抉り出したいのが僕の願いです❢。」と岡本は思わずタクを打った。 「愉快愉快❢。」と近藤は思わず声を揚げた。 「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの肝は喰いたく思わない、/彼が十九歳の時’学友アレキシスの雷死を目の当たりに見て/死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。 「勝手に驚けと言われました綿貫さんは。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、しかし決して勝手に驚けないのです。 「僕の恋人は死にました。この世から消えて失くなりました。僕はすっかり恋のヤッコであったから/かの娘に死なれて僕の心は掻き乱されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡なったがための悲痛である。死ちょう冷刻なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上にクワウるものがあることが知られます。 「曰くカストム(習慣)の力です。 ◇。◇。◇。 【Our birth is but asleep and フォーゲッティング.】 ◇。◇。◇。  この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の子どもの時からいろいろな事に出遇う、毎日’太陽を見る、毎夜’星を仰ぐ、ここに於いてかこの不可思議なる天地も一向’不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常’茶番となってしまう。哲学でそうろうの科学でござるのと言って、自分は天地の外に立っているかの態度を以ってこの宇宙を取り扱う。 ◇。◇。◇。 【Full soon ザイ soul shall have her earthly freight,】 【And custom lie upon ズィー with a weight,】 【Heavy as frost, and deep almost as life ❢】 ◇。◇。◇。  この通りです、この通りです❢ 「即ち僕の願いはどうにかしてこの霜をはたき落さんことであります。どうにかしてこの古び果てたカストムの圧力からのがれて、驚異の念を以ってこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、/ジャガイモ主義となろうが、はた厭世の徒となってこの生命を-のろおうが、決して頓着しない❢ 「結果は頓着しません、原因を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。 「ヤレ月の光がビだとか/花の夕べがナンだとか、星の夜は’なんだとか、要するに滔々たる詩人のモンジは、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代のマツ流に至っては悉くそうです。 「僕の知人にこう言った人があります。吾とはなんぞや(What am I ?)なんちょう馬鹿な問いを発して自ら苦しむものがあるが/到底’知れないことはいかにしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです、しかしこの問いは必ずしもその答を求むるがために発した問いではない。実にこの天地に於けるこの我がちょうものの如何にも不思議なることを痛感して/自然に発したる心霊の叫である。この問いその物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願いは寧ろ、どうにかしてこの問いを心から発したいのであります。ところがなかなかこの問いは口から出ても心からは出ません。 「我れいずくより来り、我れいずくにか往く:、よく言う言葉であるが、やはりこの問いを発せざらんと-ほっして/発せざるを得ない人の心から/宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です/虚偽です。 「もう止しましょう❢ 駄目です、駄目です、いくら言っても駄目です。‥‥アアくたびれた❢。 しかし最後にイチゴンしますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人‥‥」 「僕はどちらへ属するのだろう❢。」と松木は笑いながら問うた。 「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は’みんなな平気のヘイザの種類に属します。イヤ世界’十幾億万人のうち、平気な人でないものが幾人ありましょうか:、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は’みんなな平気で理窟を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜ひとつの夢を見ました。 「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独りでとぼとぼ辿って行きながら思わず『マサカ死のうとは思わなかった❢』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。 「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり/子に死なれたりしても、やはり自分の死んだあと、地獄の門でマサカ自分が死のうとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」 「人に驚かして貰えばしゃっくりが止まるそうだが、何も平気で居て牛肉が喰えるのに/好んで吃驚したいというのも物好きだね/ハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。 「イヤ僕も吃驚したいと言うけれど、やはり単にそう言うだけですよ/ハハハハ」 「ただ言うだけか/アハハハハ」 「ただ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」 「そうか❢。 ただお願い申してみる位なんですね/ハッハッハッハッ」 「やはり道楽でさ/アハッハッハハッ」と岡本は一緒に笑ったが、近藤は岡本の顔に言うべからざる苦痛の色を見て取った。 ◇。◇。◇。 【底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』】 【1970(昭和45)年5月30日発行】 【入力:八木正三】 【校正:LUNA CAT】 【1998年5月23日公開】 【2011年5月23日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】