◇。◇。◇。 【母を尋ねて三千里】 【アミーチス】 【日本童話研究会ヤク】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  もう何年か前、/ジェノアの少年で十三になる男の子が、ジェノアからアメリカまで/ただ一人で母をたずねて行きました。  母親は二年前にアルゼンチンの首府/ブエーノスアイレスへ行ったのですが:、それは一家がいろいろな不幸にあって、すっかり貧乏になり、たくさんなお金を払わねばならなかったので/母は今一度お金持ちの家に奉公して/お金をもうけ/一家が暮せるようにしたいがためでありました。  このあわれな母親は十八歳になる子と/十一歳になる子とをおいて出かけたのでした。  船は無事で海の上を走りました。  母親はブエーノスアイレスにつくとすぐに/夫の兄弟にあたる人の世話で/その土地の立派な人の家に働くことになりました。  母親は月に八十リラずつもうけましたが/自分は少しも使わないで、ミツキごとにたまったお金を故郷へ送りました。  父親も心の正しい人でしたから一生懸命に働いて/よい評判をうけるようになりました。父親のただ一つのなぐさめは/母親が早くかえってくるのを待つことでした。母親がいないうちはまるでからっぽのようにさびしいものでした。ことに小さいほうの子は母を慕って毎日泣いていました。  月日は早くも経って/一年はすぎました。母親のほうからは、身体の工合が少しよくないというみじかい手紙がきたきり、なんの便りもなくなってしまいました。  父親は大変心配して/兄弟の所へ二度も手紙を出しましたが/何の返事もありませんでした。  そこでイタリイの領事館からたずねてもらいましたが、ミツキほどたってから「新聞にも広告してずいぶんたずねましたが見あたりません」といってきました。  それからイクツキか経ちました。なんの便りもありません。父親と二人の子供は心配でなりませんでした。わけても小さいほうの子は父親に抱きついて「お母さんは、お母さんは、」といっていました。  父親は自分がアメリカへいって妻を探してこようかと考えました。けれども父親は働かねばなりませんでした。一番年上の子も/今ではだんだん働いて手助けをしてくれるので、一家にとっては、はなすわけにはゆきませんでした。  親子は毎日悲しい言葉をくりかえしていると、ある晩、小さい子のマルコが、 「お父さん/僕をアメリカへ’やって下さい。おかあさんをたずねてきますから。」  と元気のよい声でいいました。  父親は悲しそうに、頭をふって/なんの返事もしませんでした:、父親は心の中で、「どうして小さい子供を一人でひと月もかかるアメリカへやることが出来よう。大人でさえなかなか行けないのに」と思ったからでした。  けれどもマルコはどうしてもききませんでした。その日も、その次の日も、毎日毎日、父親にすがりついて頼みました。 「どうしてもやって下さい。ほかの人だって行ったじゃありませんか。いっぺんそこへゆきさえすればおじさんの家を探します。もしも見つからなかったら領事館をたずねてゆきます。」  こういって父親にせがみました。父親はマルコの勇気にすっかり動かされてしまいました。  父親はこのことを自分の知っているある汽船の船長に話しすると/船長はすっかり感心して/アルゼンチンの国へ行く三等切符を一枚ただでくれました。  そこでいよいよマルコは/父親も承知してくれたので旅立つことになりました。父と兄とはふくろにマルコの着物を入れ、マルコのポケットにいくらかのお金を入れ、おじさんの所書きをもわたしました。マルコは四月の晴れた晩、船にのりました。  父親は涙を流してマルコにいいました。 「マルコ、孝行の旅だから/神様はきっと守って下さるでしょう。勇気を出して行きな、どんな辛いことがあっても。」  マルコは船の甲板に立って/帽子をふりながら叫びました。 「お父さん、行ってきますよ。きっと、きっと、‥‥」  青い美しい月の光りが海の上にひろがっていました。  船は美しい故郷の町を離れました:、大きな船の上にはたくさんな人たちが乗りあっていましたが/だれ一人として知る人もなく、自分一人/小さなふくろの前にうずくまっていました。  マルコの心の中にはいろいろな悲しい考えが浮んできました。そして一番悲しく浮んできたのは──おかあさんが死んでしまったという考えでした。マルコは夜もねむることが出来ませんでした。  でも、ジブラルタルの海峡が過ぎた後で、はじめて大西洋を見た時には/元気も出てきました。望みも出てきました。けれどもそれはしばらくの間でした、自分が一人ぼっちで見知らぬ国へゆくと思うと/急に心が苦しくなってきました。  船は白い波がしらをけって進んでゆきました。ときどき甲板の上へ美しい飛魚が跳ね上がることもありました。日が波のあちらへおちてゆくと/海のオモテは火のように真っ赤になりました。  マルコはもはや力も抜けてしまって/板の間に身体をのばして/死んでいるもののように見えました。大ぜいの人たちも、退屈そうにぼんやりとしていました。  海と空、空と海、昨日も今日も船は進んでゆきました。  こうして二十七日間つづきました。しかししまいには凉しいいい日がつづきました。マルコは一人のおじいさんと仲よしになりました。それはロムバルディの人で、ロサーリオの町の近くに農夫をしている息子をたずねて/アメリカへゆく人でした。  マルコはこのおじいさんにすっかり自分の身の上を話しますと、おじいさんは大変同情して、 「大丈夫だよ。もうじきにおかあさんに会われますよ。」  といいました。  マルコはこれをきいて/たいそう心を丈夫にしました。  そしてマルコは首にかけていた十字のメダルにキスしながら「どうかおかあさんに会わせて下さい」と祈りました。  出発してから二十七日目、それは美しい五月の朝:、汽船はアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスの都の岸にひろがっている/大きなプラータ川に錨を下ろしました。マルコは気ちがいのようによろこびました。 「かあさんはもうわずかなところにいる。もうしばらくのうちに会えるのだ。ああ/自分はアメリカへ来たのだ。」  マルコは小さいふくろを手に持って/ボートから波止場に上陸して/勇ましく都のほうに向って歩きだしました。  一番はじめの街の入口にはいると、マルコは一人の男に、ロ-スアルテス街へ行くにはどう行けばよいか教えて下さいとたずねました:、ちょうどその人はイタリイ人でありましたから、いま自分が出てきた街を指さしながら/ていねいに教えてくれました。  マルコはお礼をいって教えてもらった道を急ぎました。  それはせまい真っすぐな街でした。道の両側にはひくい白い家が立ち並んでいて、街にはたくさんな人や、馬車や、荷車がひっきりなしに通っていました。そしてそこにもここにも色々な色をした大きな旗がひるがえっていて、それには大きな字で汽船の出る広告が書いてありました。  マルコは新しい街にくるたびに、それが自分のさがしている街ではないのかと思いました:、また女の人に会うたびに/もしや自分の母親でないかしらと思いました。  マルコは一生懸命に歩きました。と、ある十文字になっている街へ出ました。マルコはそのかどをまがってみると、それが自分のたずねているロスアルテス街でありました。おじさんの店は175番でした。マルコは夢中になって駆け出しました。そして小さな組糸店に入りました。これが175でした。見ると店には髪の毛の白い/眼鏡をかけた女の人がいました。 「何か用でもあるの?」  女はスペイン語でたずねました。 「あの、これはフランセスコ-メレリの店ではありませんか。」 「メレリさんはずっと前に死にましたよ。」  と女の人は答えました。  マルコは胸をうたれたような気がしました、そして彼は早口にこういいました。 「メレリが僕のおかあさんを知っていたんです。おかあさんはメキネズさんの所へ奉公していたんです。わたしはおかあさんをたずねてアメリカへ来たのです。わたしはおかあさんを見つけねばなりません。」 「可愛そうにねえ!」  と女の人はいいました。そして「わたしは知らないが/裏の子供にきいて上げよう。あの子がメレリさんの使いをしたことがあるかもしれないから──、」  女の人は店を出ていって/その少年を呼びました。少年はすぐにきました。そして「メレリさんはメキネズさんの所へゆかれた。時々わたしも行きましたよ。ロスアルテス街のハシのほうです。」  と答えてくれました。 「ああ、ありがとう、奥さん」  マルコは叫びました。 「番地を教えて下さいませんか。キミ、僕と一緒に来てくれない?」  マルコは熱心にいいましたので/少年は、 「では行こう」  といってすぐに出かけました。  二人はだまったまま長い街を走るように歩きました。  街の端までゆくと/小さい白い家の入口につきました。そこには美しい門が建っていました。門の中には草花の鉢がたくさん見えました。  マルコはいそいでベルをおしました。すると若い女の人が出てきました。 「メキネズさんは’ここにいますねえ?」  少年は心配そうにききました。 「メキネズさんはコルドバへ行きましたよ。」  マルコは胸がドキドキしました。 「コルドバ? コルドバってどこです、そして奉公していた女はどうなりま-したか。わたしのおかあさんです。おかあさんをつれて行きましたか。」  マルコはふるえるような声でききました。  若い女の人はマルコを見ながらいいました。 「わたしは知りませんわ、もしかするとわたしの父が知っているかもしれません、しばらく待っていらっしゃい。」  しばらくするとその父はかえってきました。背の高い/ひげの白い紳士でした。  紳士はマルコに 「お前のおかあさんはジェノア人でしょう。」  と問いました。  マルコはそうですと答えました。 「それならそのメキネズさんのところにいた女の人は/コルドバという都へゆきましたよ。」  マルコは深いため息をつきました。そして 「それでは私はコルドバへゆきます。」 「かわいそうに。コルドバはここから何百マイルもある。」  紳士はこういいました。  マルコは死んだように、門によりかかりました。  紳士はマルコの様子を見て、かわいそうに思い/しきりに何か考えていました。が、やがて机に向かって、1通の手紙を書いて/マルコに渡しながらいいました。 「それではこの手紙をポカへ持っておいで、ここからポカへは二時間ぐらいでゆかれる。そこへ行ってこの手紙の宛名になっている紳士をたずねなさい。誰でも知っている紳士ですから、その人が明日お前をロサーリオの町へ送ってくれるでしょう:、そこからまた誰かにたのんでコルドバへゆけるようしてくれるだろうから。コルドバへゆけば/メキネズの家もお前のおかあさんも見つかるだろうから、それからこれをおもち。」  こういって紳士はいくらかのお金をマルコにあたえました。  マルコは’ただ「ありがとう、ありがとう」といって小さいふくろを持って外へ出ました。そして案内してくれた少年とも別れて/ポカのほうへ向かって出かけました。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  マルコはすっかり疲れてしまいました。息が苦しくなってきました。そしてその次の日の暮れ方、果物を積んだ大きな船にのり込みました。  船は三日4晩’走りつづけました。ある時は長い島を縫うてゆくこともありました。その島にはオレンヂの木がしげっていました。  マルコは船の中で一日に二度ずつ/少しのパンと/塩かけの肉を食べました。船頭たちはマルコのかなしそうな様子を見て/言葉もかけませんでした。  夜になるとマルコは甲板で眠りました。青白い’月の光りが/広々とした水の上や/遠い’岸を銀色に照しました:、マルコの心はしんとおちついてきました。そして「コルドバ」の名を呼んでいると”まるで昔話にきいた不思議な都のような気がしてなりませんでした。  船頭は甲板に立って歌を歌いました、そのうたはちょうどマルコが小さい時/おかあさんからきいた子守唄のようでした。  マルコは急になつかしくなって/とうとう泣き出してしまいました。  船頭は歌をやめるとマルコのほうへ駆けよってきて、 「おい/どうしたのだ、しっかりしなよ。ジェノアの子が国から遠く来たからって泣くことがあるものか。ジェノアの子は世界にほこる子だぞ。」  といいました。マルコはジェノアタマシイの声をきくと/急に元気づきました。 「ああそうだ、わたしはジェノアの子だ。」  マルコは心の中で叫びました。  船は夜の明け方に、パラアナ川にのぞんでいる/ロサーリオの都の前にきました。  マルコは船をすてて/ふくろを手にもって/ポカの紳士が書いてくれた手紙をもって/アルゼンチンの紳士をたずねに/町のほうをゆきました。  町’にはたくさんな人や、馬や、車がたくさん通っていました。  マルコは一時間あまりもたずね歩くと、やっとその家を見つけました。  マルコはベルをならすと/家から髪の毛の赤い/意地の悪そうな男が出てきて 「なんの用か、」  とぶっきらぼうにいいました。  マルコは書いてもらった手紙を出しました。その男はその手紙を読んで 「主人は昨日の午後/ブエーノスアイレスへ/御家の人たちをつれて出かけられた。」  といいました。  マルコはどういってよいかわかりませんでした。ただそこに棒のように立っていました。そして 「わたしはここでだれも知りません。」  と哀れそうな声でいいました。するとその男は、 「物もらいをするならイタリイでやれ、」  といってぴしゃりと戸をしめてしまいました。  マルコはふくろをとりあげて/しょんぼりと出かけました。マルコは胸をかきむしられたような気がしました。そして 「わたしは’どこへ’行ったらよいのだろう。もうお金もなくなった。」  マルコはもう歩く元気もなくなって、ふくろを道におろして/そこに俯いていました:、道を通りがかりの子供たちは/立ち止まってマルコを見ていました。マルコはじっとしておりました。するとやがて「おい/どうしたんだい」とロムバルディの言葉でいった人がありました。マルコはひょっと顔を上げてみると、それは船の中で一緒になった/年よったロムバルディのお百姓でありました。  マルコはおどろいて、 「まあ、おじいさん!」  と叫びました。  おヒャクショウもおどろいてマルコのそばへかけて来ました。マルコは自分の今までの有様を残らず話しました。  お百姓は大変可愛そうに思って、何かしきりに考えていましたが、やがて、 「マルコ、わたしと一緒にお出で/どうにかなるでしょう。」  といって歩き出しました。マルコは後について歩きました。二人は長い道を歩きました、やがてお百姓は一軒の宿屋の戸口に立ち止りました。看板には「イタリイの星」と書いてありました。  二人は大きな部屋へはいりました。そこには大ぜいの人がお酒をのみながら/高い声で笑いながら話しあっていました。  お百姓はマルコを自分の前に立たせ/皆にむかいながらこう叫びました。 「皆さん、しばらくわたしの話を聞いて下さい、ここにかわいそうな子供がいます。この子はイタリイの子供です。ジェノアからブエーノスアイレスまで母親をたずねて一人で来た子です。ところがこんどはコルドバへ行くのですが/お金を一銭も持っていないのです。何とかいい考えが皆さんにありませんか。」  これをきいたゴロクニンのものは立ち上がって、 「とんでもないことだ。そんなことが出来るものか」  といいました。するとその中の一人は、テーブルをたたいて、 「おい、我々の兄弟だ。われわれの兄弟のために助けてやらねばならぬぞ。全く孝行者だ。一人で来たのか。ほんとに偉いぞ。愛国者だ、さあこちらへ来な、葡萄酒でも飲んだがよい。わしたちが母親のところへとどけてあげるから心配しないがよい。」  こういってその男はマルコの肩をたたき/ふくろを下ろしてやりました。  マルコのうわさが宿屋じゅうにひろがると/大ぜいの人たちが急いで出てきました:、ロムバルディのおじいさんは/マルコのために帽子を持ってまわると/たちまち四十二リラのお金があつまりました。  みんなの者はコップに葡萄酒をついで、 「お前のおかあさんの無事を祈る」といって飲みました。  マルコはうれしくてどうしてよいかわからず/ただ「ありがとう」といって、おじいさんのくびに飛びつきました。  つぎの朝/マルコはよろこび勇んでコルドバへ向って出かけました。マルコの顔はよろこびにかがやきました。  マルコは汽車にのりました。汽車は広々とした野原を走ってゆきました。つめたい風が汽車の窓からひゅっと入ってきました。マルコがジェノアを出た時は四月の末でしたが/もう冬になっているのでした。けれどもマルコは夏の服を着ていました。マルコは寒くてなりませんでした。そればかりでなく/身体も心もつかれてしまって/夜もなかなか眠ることも出来ませんでした。マルコはもしかすると/病気にでもなって倒れるのではないかと思いました。おかあさんに会うことも出来ないで死んだとしたら‥:‥マルコは急にかなしい心になりました。  コルドバへゆけばきっとお母さんに会えるかしら、本当におかあさんに会うことがたしかに出来るかしら。もしもロスアルテス街の紳士が間違ったことをいったのだとしたらどうしよう。マルコはこう思っているうちに眠ってゆきました。そしてコルドバへ行っている夢を見ました、それは一人のあやしい男が出てきて、「お前のおかあさんは’ここにいない」といっている夢でした。マルコははっとしてとびおきると/自分の向こうの端に三人の男が/恐ろしい眼つきで何か話していました。マルコは思わずそこへかけよって、 「わたしは何も持っていません。イタリイから来たのです。おかあさんをたずねに一人で来たのです。貧乏な子供です。どうぞ、何もしないで下さい。」  といいました。  三人の男は彼をかわいそうに思って/マルコの頭をなでながら/いろいろ言葉をかけ/一枚のシオルをマルコの体にまいて、眠られるようにしてくれました。その時はもう広い野には/夕日がおちていました。  汽車がコルドバにつくと/三人の男はマルコをおこしました。  マルコは飛びたつように汽車から飛び出しました。彼は停車場の人に/メキネズの家はどこにあるかききました。その人はある教会の名をいいました。家は’そのそばにあるのでした。マルコは急いで出かけました。  町’はもう夜でした。  マルコはやっと教会を見つけ出して、ふるえる手でベルをならしました。すると年取った女の人が/手にあかりを持って出てきました。 「何か用がありますか」 「メキネズさんはいますか。」  マルコは早口にいいました。  女の人は両手を組んで頭をふりながら答えました。 「メキネズさんはツークーマンへゆかれた。」  マルコはがっかりしてしまいました、そしてふるえるような声で、 「そこはどこです。どのくらい離れているのです。おかあさんに会わないで、死んでしまいそうだ。」 「まあ可愛そうに、ここからシゴヒャ-クマイル離れていますよ。」  女の人は気の毒そうにいいました。  マルコは顔に手をおしあてて、「わたしはどうしたらいいのだろう、」  といって泣き出しました。  女の人はしばらくだまって考えていましたが、やがて思い出したように、 「ああ、そうそう、よいことがある:、この町を右の方へ’ゆくと、たくさんの荷車を牛にひかせて/明日ツークーマンへ出かけてゆく商人がいますよ。その人に頼んでつれていってもらいなさい。何か手つだいでもすることにして、それが一番よい/今すぐに行ってごらんなさい。」  といいました。  マルコはお礼をいいながらふくろをかつぎ/急いで出かけました。しばらくゆくとそこには大ぜいの男が/荷車に穀物のふくろを積んでいました。セイの高い/口ひげのある男が長靴を履いて/仕事の指図をしていました。その人がこの親方でした。  マルコはおそるおそるその人のそばへ行って「自分もどうか連れていって下さい。おかあさんを探しにゆくのだから。」  と頼みました。  親方はマルコの様子をじろじろと見ながら 「お前をのせてゆく場所がない。」  とつめたく答えました。  マルコは一生懸命になって、頼みました。 「ここに十五リラあります。これをさしあげます。そして途中で働きます。牛や馬の飲み水もはこびます。どんな御用でもいたします。どうぞ連れて行って下さい。」  親方はまたじろじろとマルコを見てから、今度はいくらかやさしい声でいいました。 「おれたちはツークーマンへゆくのではない、サンチヤゴという別の町へゆくのだよ。だからお前をのせていっても途中で-おりねばならないし、それに-おりてからお前はずいぶん歩かなければならぬぞ。」 「ええ、どんな長い旅でもいたします。どんなことをしましてもツークーマンへまいりますから/どうかのせていって下さい。」  マルコはこういって頼みました。  親方はまた、 「おい/二十日もかかるぞ。つらい旅だぞ。それに一人で歩かねばならないのだぞ。」  といいました。  マルコは元気そうな声でいいました。 「はい/どんな事でもこらえます、おかあさんにさえ会えるなら。どうぞのせていって下さい」  親方はとうとうマルコの熱心に動かされてしまいました。そして「よし」といってマルコの手を握りしめました。 「お前は今夜’荷車の中で寝るのだよ。そして明日の朝、四時におこすぞ。」  親方はこういって家の中へ’はいってゆきました。  朝の4時になりました。星は冷たそうに光っていました。荷車の長い列はがたがたと動き出しました。荷車はみな/六頭の牛にひかれてゆきました。そのあとからはたくさんの馬もついてゆきました。  マルコは車に積んだ袋の上にのりました。がすぐに眠ってしまいました。マルコが目をさますと、荷車の列はとまってしまって、人足たちは火をたきながら/パンをやいて食べているのでした。みんなは食事がすむとしばらく昼寝をして/それからまた出かけました。みんなは毎朝五時に出て/九時にとまり、夕方の五時に出て/十時にとまりました。ちょうど兵隊が行軍するのと同じように規則正しくやりました。  マルコはパンをやく火をこしらえたり/牛や馬にのませる水を汲んできたり/角灯の掃除をしたりしました。  みんなの進む所は、どちらを見ても広い平野が続いていて/人家もなければ人影も見えませんでした。たまたま二三人の旅人が馬にのってくるのに会うこともありましたが、風のように一散に駆けてゆきました。くる日もくる日もただ広い野原しか見えないので/みんなは、退屈で退屈でたまりませんでした。人足たちはだんだん意地悪くなって、マルコをおどかしたり/無理使いしたりしました。大きな秣をはこばせたり、遠い所へ水を汲みにやらせたりしました。そして少しでもおそいと/大きな声で叱りつけました。  マルコはへとへとにつかれて、夜になっても眠ることが出来ませんでした:、荷車はぎいぎいとゆれ、体はころがるようになり、おまけに風が吹いてくると/赤い土ほこりがたってきて/息をすることさえ出来ませんでした。  マルコは全く疲れ果ててしまいました。それに朝から晩まで叱られたりいじめられたりするので/ヒに日に元気もなくなってゆきました。ただマルコをかわいがってくれるものは親方だけでした。マルコは車のすみに小さくうずくまって/ふくろに顔をあてて泣いていました。  ある朝、マルコが水を汲んでくるのがおそいといって/人足の一人が、/彼をぶちました。それからというものは人足たちは代る代る彼を足でけりながら、「この’宿無し犬め」といいました。  マルコは悲しくなって/ただすすりあげて泣いていました。マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ/荷車の中で何も食べずに苦しんでいました。ただ水をくれたりして/親切にしてくれるものは親方だけでした。親方はいつも彼のところへ来ては、 「しっかりせよ。母親に会えるのだから」  といって慰めてくれました。  マルコは、もう自分は死ぬのだと思いました。そしてしきりに「おかあさん。もう会えないのですか。おかあさん」といって胸の上に手を組んで祈っていました。  親方は親切に看護をしたので、マルコはだんだんよくなってゆきました。すると今度は一番安心することの出来ない日がきました。それはもう九日も旅をつづけたので/ツークーマンへゆく道と/サンチヤゴへ行く道との分れる所へ来たからです。親方はマルコに別れなければならないことをいいました。  親方は何かと心配して/道のことを教えてくれたり/歩く時にじゃまにならないようにふくろをかつがせたりしました。マルコは親方の体に抱きついて/別れのあいさつをしました。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  マルコは青い’草の道に立って/手をあげながら荷車の一隊を見送っていました。荷車の親方も人足たちも手をあげてマルコを見ていました。やがて一隊は平野の赤い土ほこりの中にかくれてしまいました。  マルコは草の道を歩いてゆきました。夜になると草のしげみへはいって/ふくろを枕にして眠りました。やがて幾日かたつと/彼の目の前に青々とした山脈を見ることが出来ました。マルコは飛びたつようによろこびました。山のてっぺんには白い雪が光っていました。マルコは自分の国のアルプスサンを思い出しました。そして自分の国へ来たような気持ちになりました。  その山はアンデズサンでありました。アメリカの大陸の背骨をつくっている山でした。空気もだんだんあたたかになってきました。そして所々に小さい人家が見えてきました。小さい店もありました。マルコはその店でパンを買って食べました。また黒い顔をした女や子供たちにも出会いました。その人たちはマルコをじっと見ていました。  マルコは歩けるだけ歩くと/木の下に眠りました。その次の日もそうしました。そうするうちに彼の元気はすっかりなくなってしまいました。靴は破れ/足から血’がにじんでいました:、彼はしくしく泣きながら歩き出しました。けれども「おかあさんに会えるのだ」と思うと足の痛さも忘れてしまいました。  彼は元気を出して歩きました。広いきび畑を通ったり、果てしない/野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間も経ちました。彼の足からは絶えず血が’にじみ出ました、また急に元気がなくなって来ました:、でもとうとうある日の夕方/一人の女の人にあいましたから、 「ツークーマンへはここからいくらありますか。」  とたずねました。  女の人は、 「ツークーマンはここから二マイルほどだよ。」  と答えました。  マルコはよろこびました。そしてなくした元気をとりもどしたように歩き出しました。しかしそれはほんのしばらくでした。彼の力はすぐに抜けました。けれども心の中はうれしくてなりませんでした。  星はきらきらとかがやいていました:、マルコは草の上に体をのばして/美しい星空を眺めました。この時はマルコの心は幸福でありました。マルコは光っている星に話でもするようにいいました。 「ああ/おかあさん、あなたの子のマルコは今ここにいます。こんなに近くにいます。どうぞ無事でいて下さい、おかあさん、あなたは今’何を思っていられますか。マルコのことを思って下さるのですか。」  マルコの母親は病気にかかって/メキネズの立派な屋敷に寝ていました。ところがメキネズは思いがけず/ブエーノスアイレスから遠くへ’出かけねばならなくなり/コルドバへきたのでした:、そのとき母親はハレモノが体の内に出来たので/外科のお医者さんにかかるため/ツークーマンに見てもらっていたのでした。けれども大変な重い病気だったので/どれだけたっても治りませんでした。それで手術をしてもらうということになりました。けれども母親は 「わたしはもうこらえる力がありません。手術のうちに死んでしまいます。どうかこのまま死なせて下さい。わたしはもう苦しまずに死にとうございます。」  といいました。  主人と奥さんは「手術をうけると早く治るから、もっと元気を出しなさい、子供たちのためにも早く治らなければなりません」としずかにいってきかせました。  母親は’たださめざめと泣きだしました。 「おお/子供たち、みんなはもう生きていないだろう。わたしも死んでゆきたい。旦那様、奥さま、ありがとうございます。何かとお世話になりましてありがとうございます。わたしはもうお医者さまにかかりたくありません。わたしはここで死にとうございます。」  主人は「そんなことをいうものではない」といって女の手をとって慰めました。  けれども彼女はまるで死んだように眼をとじていました。主人と奥さんとはろうそくのかすかな光で/このあわれな女を見守っていました。「家を助けるために三千里も離れた国へ来て、あんなに働いたあとで死んでゆく。本当に可哀そうだ。」主人はこういってそこにぼんやりと立っていました。  マルコは痛い足をひきずりながら、ふくろをせおって次ぎの日の朝早く/アルゼンチンの国でもっともにぎやかな町である/ツークーマンの町へはいりました。ここもまた同じような街で、まっすぐな長い道と、ひくい白い’家とがありました。ただマルコの目をよろこばしたものは/大きな美しい植物と、イタリイでかつて見たこともないようにすみ切った青空でありました。彼は街をずんずん歩いてゆきました。そしてもしか母親に会いはしないかと/女の人に会うたびにじっと見ました。女の人みんなに自分の母親でないかたずねてみたい心持ちになりました。街の子供たちはシゴニ-ンあつまってきて、みすぼらしい/ほこりだらけの少年をじっと見ていました。  しばらく行くと道の左かわに/イタリイの名の書いてある宿屋の看板が目につきました。中には眼鏡をかけた男の人がいました。  マルコは駆けていってたずねました。 「ちょっとおたずねしますが/メキネズさんの家はどちらでしょうか。」  男の人はちょっと考えていましたが、 「メキネズさんはここにはいないよ。ここから六マイルほど離れているサラヂーロというところだ。」  と答えました。  マルコは剣で胸をつかれたようにそこに打ち倒れてしまいました。すると宿屋の主人や女たちが出てきて、「どうしたのだ、どうしたというのだ、」といいながら/マルコを部屋の中へ入れました。  主人は彼をなだめるようにいいました。 「さあ、何も心配することはない。ここからしばらくの時間でゆける。川のそばの大きな砂糖工場がたっているところに/メキネズさんの家がある。誰でも知っているよ、安心なさい、」  しばらくするとマルコは生きかえったように起き上がりながら、 「どちらへ行くんです、どうぞ早く道を教えて下さい。私はすぐにゆきます。」  といいました。  主人は、 「お前はつかれている、休まないと行かれない。今日はここで休んで明日ゆきなさい、一日かかるのだから。」  とすすめました。 「いけません。いけません。私は早くおかあさんに会わなければなりません。すぐにゆきます。」  マルコの強い心に動かされて、宿屋の主人は一人の男を/わざわざ町はずれの森まで送ってよこしました。マルコは大変よろこんで/教えてもらった道を急ぎました。道の両がわにはこんもりとした並木が立ちならんでいました。マルコは足の痛いことも忘れて歩きました。  その夜母親は大そう苦しんで/もう息も切れ切れに、「お医者さまを呼んで下さい。助けて下さい。わたしはもう死にます。」  といいました。  主人や奥さんや女中たちは女の手をとってなぐさめました。  もう夜中でありました。マルコはもう歩む力もなくなって/幾度となく転びました、けれどもマルコは「おかあさんに会えるのだ」という心が胸にわいてきて/足の痛いことも忘れてしまいました。  やがて東の空がしらじらとあけてきて、銀のような星も/次第に消えてゆきました。  朝の八時になりました。ツークーマンのお医者さんは/若い一人の助手をつれて/病人の家へ来ました。そしてしきりに手術をうけるようにすすめました。メキネズ夫婦もそれをすすめました。けれどもそれは無駄でした。女はどうしても手術をうける気はありませんでした。手術をうけないうちに死んでゆくのだとあきらめているからでした。医者はそれでもあきらめずに/もう一度’いってみました。  けれども女は、 「わたしはこのまま安らかに死んでゆきとうございます。」  といいました、そしてまた消えてゆくような声で、 「奥さま、わたしの荷物と、この少しばかりのお金を/家の者に送ってやってください、私はこれで死んでゆきます。どうぞ私の家へ手紙も出して下さい。わたしは子供を忘れることが出来ません。小さい子のマルコはどうしているでしょう、ああ/マルコが‥‥」  といいました。  その時、主人もいませんでした。奥さんはあわただしく駆けてゆきました。しばらくすると医者はよろこばしい顔をしてはいってきました。主人も奥さんもはいってきました。そして病人に、いいました。 「ジョセハ、うれしいことをきかせてあげるよ。」 「おどろいてはいけません。」  女はじっとその声をきいていました。  奥さんは 「お前がよろこぶことですよ、お前の大そう可愛がっている子に会うのですよ。」  女はきらきらする目で奥さんを見ました。そしてありったけの力を出して頭をあげました。  その時でした、ぼろぼろの服をきて/ほこりだらけになったマルコが入口に立ったのでした。  女はびっくりして「あっ」と叫び声をあげました。  マルコは駆けよりました。母親は痩せた細い手をのばしてマルコをだきしめました。そして気ちがいのように「どうしてここへ来たの/本当にお前なのか。本当にマルコだねえ、ああ本当に」と叫びました。  女はすぐに医者のほうをむいて言い出しました。 「お医者様、どうぞ治して下さい。早く手術をして下さい。わたしは早くよくなりたいです。どうぞお医者さま、マルコに見せないで。」  マルコは主人につれられて部屋を出ました。奥さんも女たちもいそいで出てゆきました。  マルコは不思議でなりませんでしたから、 「おかあさんをどうするのですか。」  と主人にたずねました。  主人はおかあさんが病気だから/手術を受けるのだといいました。  と不意に女の叫び声が’家じゅうに響きました。  マルコはびっくりして「おかあさんが死んだ」と叫びました。  医者は入口に出て来て「おかあさんは助かった、」といいました。  マルコはしばらくぼんやりと立っていましたが、やがて医者の足許へ駆けていって泣きながら、 「お医者さま、ありがとうございます。」  といいました。  しかし医者はマルコの手をとってこういいました。 「マルコさん。おかあさんを助けたのは私ではありません。それはお前です。英雄のように立派なお前だ!」 ◇。◇。◇。 【底本:「家なき子」九段書房】 【1927(昭和2)年10月15日発行】 【入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(前田一貴)】 【校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)】 【2005年6月15日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。