◇。◇。◇。◇。◇。 【本所松坂町】 【尾崎士郎】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 【吉良の殿様よい殿様】 【赤いお馬の見廻りも】 【浪士にうたれてそれからは】 【仕様がないではないかいな、──】 ◇。◇。◇。◇。◇。  巷間に流布されている俗謡は吉良郷民の心理を諷したものであろう。まったく仕様がない。メイファーズである。人間万事塞翁が馬、──何が起るか見当もつかないところに人間の宿命があるのであろう。終りよければすべてよしというのはシェークスピアの戯曲であるが、家庭を愛し、隣人に慕われ、善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終りに近づこうとするに及んで、運命がだしぬけに逆転する。  もし、私の郷里の殿様である吉良上野《吉良コウ-ズケ》が元禄十三年の秋、中風か何かで死んでいたとしたら、終戦後、戦争に関係のある英雄豪傑がことごとく抹殺された今日《コンニチ》の歴史教科書の中においては追放をうけない史上の人物として、《:、》メモランダムケースによる「好ましからざる人物」の折紙をつけられる筈もなく、名君吉良上野《名君’吉良コウ-ズケ》の令名は日本全国を風靡していたであろう。  まったく惜しいことをしたものである。幸不幸、運不運のわかれ目は間一髪、しまったと思ったときはもうおそい。因果応報なぞというのは嘘の皮である。  私の郷里は正確にいうと愛知県幡豆郡横須賀村であるが通称「吉良郷」と呼ばれ、後年この土地に任侠の気風《キフウ》が汪然として沸《た》ぎりたったのも、《:、》彼等が尊敬措《尊敬お》く能わざる領主、吉良上野《吉良コウ-ズケ》に対する愛情の思い止み|がた《難》きものに端《タン》を発しているといえないこともない。いやいえないどころか、世を怨み、運命に憤る庶民の感情は三百年間、大地に沁みとおる水のごとく綿々《/綿々》として今につづいているのである。  もし嘘だと思ったら「吉良郷」まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野《吉良コウ-ズケ》の悪口《悪くチ》を一言半句でも囁いたら、どんな結果を生ずるか、《:、》私(作者)といえども軽々《カルガル》しく保証のかぎりではない。  村には「吉良史蹟保存会」というものがあって、名君行状の数々は余すところなく調査しつくされているが、「保存会」から刊行しているパンフレットの中にある年譜にも次のような一節が書き加えられている。 「世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙に遑あらず、これすべて芝居浪花節の題をもって史実なりと誤認するより起る。宮迫村出生《ミヤバ村出生》の清水一学、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の斎藤清左衛門等《斎藤清左衛門ら》を、松の間刃傷後、上杉家より護衛のため附《付》け人として来たるというがごときその一例にして真《シン》に嗤うに堪えぬ、云々」  嗤うに堪えぬ。どころか彼等の怒りは心頭に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰《吉良コウ-ズケ顕彰》の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というものがあった。赤馬は上野介の愛撫した彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者もつれず領内の巡視に出かける。そのときの上野介は宗匠頭巾をかぶった好々爺で彼《/彼》は道で、すれちがう誰彼の差別もなく、和やかな微笑を湛えて話しかけた。  菜種の黄、レンゲの紫に彩られた田舎道に領主《/領主》の赤馬が絵のようにうかびあがると鼻《/鼻》たれ小僧どもがわいわい騒ぎながら駈けあつまってくる。  春の|陽ざ《陽射》しにゆるやかな影を刻んで、のろのろと動いてゆく赤馬の姿の愉しさが象徴するものは上野介の人徳ででもあった。  領民の不平や不満は細大もらさず一つとして領主からとりあげられぬものはな《無》い。この好々爺は、気が向くと、|細葉(ホソバ)《細葉》の垣《カキ》をめぐらした百姓家の前へ馬をつなぎ、 「いい天気じゃのう、ああ咽喉《ノド》が乾いた、──茶を一杯所望するぞ」  と、屈託のない声をかけながら、軒《のき》の低い百姓家の暗い土間の中へ《へ’》のっそりと入ってゆく。 「これは御領主《ご領主》さま」  野良着のままの老百姓が、裏で働いている。女房に、それ茶を出せ、それ座蒲団を、なぞといっているあいだに彼は縁ばたに腰をおろす、下肥えのにおいがどこからともなく漂ってくる|庭先き《庭先》で、《:、》女房が運んでくる出がらしの番茶を啜りながら今年《/今年》の植附《植付》けはどうだったとか、暮し向きに不如意なことはないかとか、世間ばなしに笑い興じている上野介の姿の中には、《:、》およそ領主というものにふさわしい威厳はどこにもなかった。  もちろん、彼にも名君らしい行状を意識的に示すことによって村民《/村民》の信頼を深めようという気持《気持ち》がなかったわけではあるまい。しかし、それがために、あらかじめ新聞社に電話をかけ、彼が農家を訪問する時間を打合せ、写真班に、馬の頭《’頭》を撫でているところを特《/特》に写させるような真似はしなかった。  今もなお、横須賀村の外郭に黄金堤という名前で呼ばれている堤防の一部が残っているが、《:、》これは彼が、灌漑の便に乏《とぼ》しく、毎年梅雨期《毎年ツユ期》に入ると雨水《アマミズ》が氾濫して水害に悩まされている吉良郷の住民のために丘陵《/丘陵》の起伏を利用して築いた堤防である。これが実現されると領内の耕作地はたちまち豊饒な田園に一変するが、《:、》しかし、これに隣接する他領、特に岡山以北の土地は矢作川大平川《矢作川/大平川》の下流が逆流することになるので隣接領《/隣接領》の大名から再三中止の申入れがあったにもかかわらず、《:、》一度決潰したら二度と再築しないという約束で、強引に築きあげてしまった。全村の農民が土木工事に参加した。高さ十三尺《13シャク》、長さ百間の堤防は一夜のうちに出来あがってしまったのである。  これがために水害はたちまち跡を絶った。新秋の風は肥沃千里の田園をかすめて、村民の生活は年毎《トシごと》に裕福になってきた。それが終ると、彼はすぐ道路の改修にとりかかり、一種《1種》の耕作整理を断行した、──《─:》すべて、上野介が四十をすぎてからの行状で、領民と彼との接触はいよいよぬきさしならぬものになってきた。  このような隅々にまで善政の行きわたっている村に悪代官なぞのはびこる余地はない。入っては、従四位上少将、高家の筆頭、出でてはすなわち一代《1代》の名君、《:、》禄は僅かに四千二百石《四千二ヒャッコク》ではあっても、江戸城内における彼の権勢と、領地における実収入《ジッ収入》は優に四五万石《シゴ万石》の大名を凌駕していた。  その上、徳川家と彼との関係は単なる君臣という言葉で解決することのできないような|ふか《深》いつながりをもっている。  系図をひろげただけで一目瞭然であるが、彼こそは清和源氏の直流南北朝《直流/南北朝》から応仁の乱を経て上野介の代にうつるまで五百余年間、《:、》そのあいだに幾度か変転する時代の波にもまれたとはいうものの吉良一族は、北条時政の娘を母として生《生ま》れた義氏以来、同じ領地に君臨していた。  それも徳川家康の父広忠の代までは、横須賀村の東端、駮馬東条の街道に|ちか《近》き丘の上に小《/小》なりとはい《言》え一城をまもるレッキとした城主であった。  徳川家とのつながりは、広忠が幼年の頃であるから、上野介の代から数えればそれほど遠い昔ではない。戦国乱世の習わしで、浮沈定めがたき運命に遭逢した徳川一家は四分五裂《シブンゴレツ》の窮境に陥《落》ち、やっと十歳《10歳》になったばかりの広忠は、《:、》時の東条城主吉良持広をたよって落ちのびてきた。  広忠の幼名《ヨウミョウ》は仙千代であるが、持広《モチヒロ》は身をもってこの一少年をかくまい、進んで仙千代のために烏帽子親となって、彼に元服させ名前の一字をあたえて広忠と名乗らせた。  昨日は人の身の上、今日はわが身の上である。家臣たちに迎えられて広忠が岡崎城に帰る日が来た頃には、吉良一族は、城主持広の歿後戦乱の波にもまれて今川勢の強襲に遭い、藤浪畷、鎧ヶ淵の戦いにもろくも敗れた。落城の惨苦を辛うじて逃れた当主義安《当主ヨシヤス》の未亡人俊継尼《未亡人シュンケイニ》は、亡き義安の|わす《忘》れ形見、義定をつれて駿河を転々としていたが、《:、》永禄十二年、吉良荘に帰ることをゆるされ、瀬戸村にささやかな草庵を結んで侘《/侘》しい生活をつづけていた。  そのことは、風のたよりで、どこからともなく、早くも三河一円に儼《ゲン》として勢威を保《-たも》っている若き徳川家康の耳にも伝わってきた。家康も父の恩に酬いたい気持《気持ち》に唆られたものらしい。天正七年正月、鷹狩に名を託して瀬戸村へやってきた。家忠日記によると、彼は俊継尼《シュンケイニ》を伯母としての礼をもって対面し、その日の引出物に瀬戸全村二百戸の知行をおくった上に、 「義定の将来は必ず某《ソレガシ》がおひきうけ申した、わが父広忠のうけた御恩は夢にも忘れたことはござらぬ──《─:》成人したら岡崎へ来《-こ》られるがよい」  と、くりかえし言い残して帰っていったという。暗澹たる吉良一族の前途は明るい輝きにみちみちてきた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  もし、義定が家康の知遇に応じ得る才幹にめぐまれた男であったとしたら、この好運をとり逃すようなことはなかったであろう。家康は青年義定のために彼の一家を再興するための、はなやかな機会をねらっていた。  時代は次第に熟してくる。豊臣の天下が来ると家康は内大臣になり、二百万石の大大名になった。義定にしてみれば、父祖の家名どころか、名誉も権勢も手に唾してとるべしである。しかし、運はついに人によって決する。家康がいかに彼のために絶好のチャンスを選ぶために苦心したところで、所詮、槍ひと筋につながる戦場の功績なしには義定を一挙に五万石、十万石の大名にとりたてるというわけにはゆかぬ。義定は、このようにめぐまれた境遇に身を置いているにもかかわらず、しかし、戦国に生きて一家を成す男ではなかった。性来の庸愚、怯惰、──剣戟の音を聞いただけで唇が乾いて胸がドキドキするような男だから、血刀をひっさげて戦場を駈け廻るなぞということはもってのほかである。今までにも機会は何《-なん》べんとなくあったが義定《/ヨシサダ》はそのたびごとに家康の期待を裏切るよりほか道はなく、家康も義定の将来はひきうけたと口約束は《は-》したものの、当の義定《ヨシサダ》の器量は家康にもそろそろわかってきたらしい。  そこへ、慶長五年、天下分け目の関ヶ原となった。もし義定が気の利いた男であったら、敵陣の中へ|おど《’躍》りこんだり名だたる大将と組打ちなぞをしなくとも、彼は井伊直政の手勢に加えられ、曲りなりにも遊軍の一部将として扱われていたのだから、《:、》なるべく強そうなやつのあとから敗走する敵軍を追って、恰好だけでもせめて勇気凛々たるところを示しているだけでよかったのだ。それだけで、どさくさの論功行賞にまぎれて一万石くらいの大名にはとりたてられていたであろうが、しかし彼ならびに彼の軍隊は後方にあって一歩も動こうとしなかった。  これが、ほかの場合であったら、いかに気《気’》の長い家康といえども、義定を一喝して瀬戸村へでも追い返してしまったであろうが、《:、》しかし堂々たる決戦に勝利を占め、一夜にして天下に君臨した家康にとっては、義定が武勲を立てようと立てまいと大した問題ではない、《:、》すっかり上機嫌になっていた家康は、唯《ただ》、関ヶ原に出陣したというだけの理由で彼に、横須賀、吉田、鳥羽、一色その他の部落を合わせた吉良郷に、三千二百石《三千二ヒャッコク》の禄高をあたえた。破格にちかい恩典というべきであった。  上野介はその義定から四代目にあたる。いよいよ泰平の時代となってみれば、義定との関係がどうあろうにもせよ、江戸城内における彼の地位は牢として抜くべからざるものがある。  況んや、上野介は義定のような凡庸な男ではない。彼が将軍綱吉に謁見を賜わったのが十三歳のときであり、綱吉もまた彼と同じ十三歳であったから、長ずるにつれてその信任はひと方ならぬものがあったというのも当然であろう。十七歳にして従四位に叙せられたのも偶然ではない。十八歳で結婚したが、彼の女房は米沢十五万石、上杉弾正大弼綱勝《上杉弾正大弼’綱勝》の妹である。これと同時に上野介の長男三之助は上杉家の養子となって綱勝のあとを継いでいるし、長女鶴子は島津家に入って薩摩守綱貴の室となっている。  彼《彼’》の代になってから四千二百石《四千二ヒャッコク》を拝領することになったが、しかし知行の多寡はもちろん、高家筆頭なぞという地位も表面の格式だけで、《:、》かつては百二十万石《百二十’万石》の雄藩、謙信入道の直系である東北の雄藩上杉《雄藩’上杉》と、九州の名門島津《名門’島津》をうしろ楯として、《:、》将軍綱吉の知遇に任ずる上野介義央《上野介ヨシナカ》が江戸城内においてどのような権勢を保《-たも》っていたかということは想像に絶するものがあったであろう。  齢四十九歳《ヨワイ四十九歳》に達した上野介は、上杉家に生《生ま》れた春千代を養子として鍛冶橋《/鍛冶橋》の吉良邸に迎えた。自分の長男を上杉家にやり、こんどは養子を上杉家から逆輸入するというようなことは実《-じつ》にややこしいはなしであるが、このややこしさの中にも上野介の存在がいかに重要視されていたかということを立証するに足る理由のあることはいうまでもない。  それはともかくとして、五十にして天命を知った彼は、父祖の霊をまつる岡山の華蔵寺に梵鐘の供養を行った。彼にしてみれば、今や江戸城内における彼の地位は位人身《クライ人身》をきわめたというべきものである。  自分の能力の計算に謙虚であった彼は、現在の境遇に心から満足しきっていた。しかし、上野介相当の誇《誇り》もあれば名誉もある。それを思うがままに実現したところで誰に遠慮し、誰をはばかるところがあろう。人生もそろそろ終りに近い。人の世の儚さを、せめてもの思《’思》い出として、彼は吉良歴代の系譜の中から従四位に叙せられたものだけをえらびだし、三体の木像を刻ませた。左が義定、中央が義安、右が自分、すなわち上野介義央《上野介ヨシナカ》なのである。  小堀遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を模してつくったといわれ、本堂から長い渡り縁をつたわって一段下った書院風《書院ふう》の客室へ|はい《入》ると、《:、》鬱蒼《うっそう》と茂る境内の杉林を背景にした中庭は淡々とした趣向の中に、しっとりと心に迫るような風致をたたみあげている。  無造作にならべた石や、植込の松の配置にも、自然に調和した落ちつきがあり、控えの間《マ》の窓障子をあけると、額《ガク》におさまった絵のように鐘楼がうかびあがる。上野介はこの部屋がすきで、領地へかえると、ほとんど陣屋へは入らず、大抵華蔵寺《大抵’華蔵寺》の一室で日をすごしていた。  三体の木像を安置した霊屋が出来ると、彼は自分の墓をつくった。もはや、この世に思いおくことはない。強《し》いて言えば、あとはただ名君として行状を後世に残すことだけである。  元禄五年の春、五十二歳になった上野介は飄然として領地へかえってきた。着いたのは三月《3月》のはじめの雨の日である。大気はまだ|うす《薄》ら寒かっ《-っ》たが華蔵寺《/華蔵寺》には早くも春の気配が漾っていた。  その夜、上野介は天英和尚の点ずる茶を喫したあとで、歌をつくった。 「雨雲は今宵《/今宵》の空にか《/か》かれども晴《/晴》れゆくままにい《/い》づる月かげ」  俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている、いかにも名君の心境であろう、──《─:》上野介は、長旅の疲れでその夜は|ぐっすり《グッスリ》と眠った。翌日は未明に起きて、父祖の墓に詣《-もう》で、それから早春の田舎道を赤馬に乗って素遊《ソユウ》する手筈が整えられていた。  天英和尚《/天英和尚》と、昔ばなしに打ち興じ、これから寝に就こうとするとこへ、代官唐沢半七郎が駮馬村《/駮馬村》の名主利右衛門同道《名主’利右衛門’同道》でやってきた。  上野介は利右衛門《’利右衛門》の来訪を伝えられると、用向《用向き》を訊こうともせず、すぐ通《-とお》せといった。六十をすぎた利右衛門は唐沢半七郎のあとについて廊下の前にひれ伏した。 「殿様にはいつもながら御機嫌うるわしく、恐悦のいたりに存じあげます」 「まア、まア」  と、上野介は片手をひろげて遮りながらいった。「どうした、領民、いずれも無事にすごしているか、──《─:》遠慮せずと、こっちへ入るがよい、何か急な用事でもあるのか?」 「百姓一同御高恩《百姓一同ご高恩》に感泣いたしております」  唐沢半七郎が膝を敷居際《敷居ぎわ》に乗りだした。 「それは何よりじゃ」 「おそれながら、それにつきまして」 「何《なん》じゃ?」 「格別の御慈悲におすがり申したき出来事が発生いたし、某《ソレガシ》の一存にて計り定めがたく、ぜひとも殿様の御判断を仰ぎたいと存じまして」 「いや、何でもいうがよい、──その方一存《ほう一存》で計えぬというのはよくよくのことであろう。人命にでもかかわることか?」 「ありがたく存じあげます。事の仔細は名主利右衛門《名主’利右衛門》より言上いたすことと存じまするが、おそれながら今日持参《今日’持参》の嘆願書、ひととおりお眼どおし下さりまするよう、つつしんでお願いいたします」  半七郎が、うやうやしく差しだした嘆願書を上野介は無造作にうけとると、すぐ短檠の灯かげの下で一気に読み下した。事件は上野介の到着する二日前に起《起こ》ったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  筍の名産地と呼ばれた吉良領の中でも駮馬一帯は特に本場とされて、うねりつづく丘陵の傾斜面は、道《みち》という道が竹林にかこまれている。  平坦な街道は山裾を縫う坂の下にあった。しかし、村とはいうものの、竹藪の中にぽつんぽつんと小さな家が茅葺きの屋根をうかべているだけで、戸数は合せて四五十戸《シゴジュッコ》もあろうか、──《─:》どの家にも低い土塀にかこまれた細葉の垣根があった。  その昔、南朝の遺臣、足助次郎重範の一族が、段々山麓《段々’山麓》から山づたいに逃れ、此処《ここ》に落ちのびて臥薪嘗胆、樵夫《木こり》や百姓《ヒャクショウ》に身をやつして生活の基礎を築いたのが起源とされている。  山にかこまれているだけに気温が高く、谷合いの道には紅梅の花の蕾がふくらみかけていた。月のうつくしい晩である。黒い影が竹藪の中のほそい道をのぼってきた。丘のかげに、屋根の傾きかかった小さい百姓家があった。 「いるか」  太く濁った、ねばりつくような声である。  大地を踏みつけるような乱れた足音が聞《聞こ》えた。 「寒いのう、おのぶさんいる、かや?」  木目が荒れて、ところどころにすき間ができ、ひと押しすればすぐ倒れそうな板戸である。その板戸を指先きで、コツコツとはじいた。  すき間から覗いてみると、土間につづく板縁の横に囲炉裏があり、枯れた雑木の枝がくすぶりながら燃えている。栗の実のはぜる音が聞《聞こ》えた。  三十をすぎた母と十四になる娘と、七つになる息子との三人ぐらしである。母と娘が顔を見合わせた。また来やがった──と思うだけで、もう身も世もない気もちなのである。  おのぶは、娘をうしろへ庇《かば》うようにしながら、 「誰かな!」  低い、もつれるような声で表《オモテ》の板戸の方《ほう》を向いた。「今夜はもうやすんだでのう」  そうい《言》ってから慌てて娘の肩《’肩》を小突いた。 「お絹、そっと裏から出あ、藤作さんに、栗がよ《-よ》う焼けたからおいでといってな」 「うん」  十四にしては大柄すぎる。つやつやしい皮膚の色をした、丸ぽちゃで、ふくふくとし肉《/肉》づきは今にもはちきれそうである。やっと娘《ムスメ》になったばかりの、色気にはまだまだよほど間《マ》の遠いかんじではあるが、しかし、それだけに、あどけない眼には夢みるような浄らかさがあった。  生活の習慣から自然に生じたものらしい。──彼女はぞくぞくっと身ぶるいした。男のおそろしさを、むしろ本能的といいたいほど肉体に犇々とかんずるのである。 「そいだが」  母の耳に口をよせてささやいた。「おっかあ、大丈夫かや、ひとりで?」 「早うゆけ!」  おのぶは、きつい眼で睨みつけた。もはや蛇にみこまれた蛙である。そんな言葉のやりとりに手間どっている余裕はなかった。とたんに表《オモテ》の声が、ガラリと変った。 「おい、いるのかい《/い》ねえのか?」  じりじりしているらしい、いやがらせである。いることはわかりきっているのだ。返事次第で蹴やぶっても入るぞ、という威嚇をひそめた声である。  おのぶは、そっと土間へおりてから、急に声の調子を変えた。 「権次さまかね?」  カンヌキにはわざと手をふれず、そっとうしろを振りかえったのは娘が裏口から出てゆく姿を見届けたかったのであろう。どうせ、唯《ただ》で帰る相手ではない。おのぶはこういう運命にもうすっかり馴れついていた。娘の眼にふれるところにいたくなかっただけのことである。  それと同時に、外にいる権次にも娘の抜けだしたことを気どられたくなかった。彼女は両手でガタガタと戸をゆるがし、それから力いっぱいに左へ押しあけた。 「おい、気をもたせるなよ、先客がいるのかと思ってハラハラするじゃねえか」  熟柿くさいにおいが、あぶらぎった体臭の中に溶けて、ぷうんと鼻先に流れてきた。おのぶは、わざとらしく捨鉢な笑顔を見せながら、 「ふざけるもんじゃないよ、人聞きの|わる《悪》い」  男と死に|わか《別》れてから早くも六年になる。女の手ひとつで、とにもかくにも一家の生活を支えて、野良仕事はもちろん、機織から、近所の養蚕の手つだいまでやって、《:、》かいがいしく働いているおのぶの顔は浅黒く陽《ヒ》にやけてはいたが、三十五の今日《コンニチ》にいたるまで小皺ひとつうかんでいない。眼と鼻のあいだの寸《スン》が少しつまっていることだけが難といえば難であるが、しかし、内《うち》に疼く肉体の若さは化粧をしていないだけにみずみずしかった。 「惚れてかよえば千里も一里というが、山坂となると一里の道は辛いぞよ」  柄にもない気のきいた台詞である。下顎《シタアゴ》のぎっくりと骨ばった、平べったい顔は酒で赤黒く火照っていた。そいつが、盲目縞《メクラジマ》の着物に対の羽織というと、いかにも板についているが、それも垢じみて、裾がすりきれている。 「そろそろさめてきた──早速だがいっぱいひっかけたいな」  落し差しにした一刀を鞘ぐるみ腰《’腰》からはずして、縁ばたにおいた一升徳利を囲炉裏の前へ押しだした。  それから、すぐ、あたりをきょろきょろと見廻しながら、 「お絹は|どこ《何処》へい《行》った──さっき、声が聞《聞こ》えたと思ったが」  ほそい眼にかすかな微笑をうかべた。 「藤左衛門さんとこへ風呂をもらいにいったよ、何度も呼びにきてくれたもんでな、ほっといても|わる《悪》いと思って」 「まア、いいやな、そのあいだにひとやすみするかな」  立ちあがって奥の間《マ》へ入ろうとするのを、おのぶは慌てて障子の前へ立ちふさがった。 「春次郎が寝ついたばかりで、お前さん、音を立てちゃすぐ眼がさめちまうよ」 「今夜はいやに嫌うじゃねえか──よし、ほいじゃ、用談の方《ほう》を|先き《先》に片づけちまうべい」  どうせ、手の中の獲物である。ジタバタするだけさせておいてからおさえつける愉しさを心得ぬほどの青二才ではない。わざと糞落ちつ《-つ》きに落《落ち》ついて、おのぶが不承不精に出す湯呑へ、手酌でなみなみとつ《-つ》ぎ入れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  渓流の音が湧くように聞えてくる。河鹿の鳴く声《’声》。さやさやと鳴る笹の葉ずれの音《’音》。 「もう、お前さん、そんなに酔っとるのに、いいかげんにしといた方《ほう》がいいよ」 「いやに突っかかるじゃねえか──どうせ、今夜は帰れやしねえんだ、来る早々素っ気ないことをいうなよ」 「だって、お前さん、春次郎だって、もう七つになるよ、バカなことを」 「何をバカな──おれのいっているのはお絹のはなしだぜ、ハッキリと返事をきかなきゃ帰れやしねえじゃねえか、《:、》桔梗屋の旦那はかんかんになっているんだ、あれから何日経《何日’経》つと思う、これじゃ、仲に入ったおれの立つ瀬がねえよ、子供の使いじゃあるめえし」  桔梗屋というのは、山麓の横須賀村に隣接する富田郷のつくり酒屋の主人である。五十はとっくにすぎているが、性来の色ごのみで、そいつが片手間に金貸稼業をはじめたのだから何をやりだすか推《/推》して知るべしである。奉公女とくると下働きの飯焚きから日傭い女にいたるまでかつて手をつけなかったためしはなく、《:、》それも大してあくどいというやり方ではないが、親切ごかしに貧乏な水呑百姓に金《-かね》を貸してやっては、奉公名儀で小綺麗《コギレイ》な娘をつぎつぎと手に入《い》れるキッカケをつくる。殊更、無理難題を吹っかけなくとも存分に慾望をみたすことができるとすれば、先ず結構なお道楽というべきであろう。もちろん、赤ん坊が生《生ま》れたら生《生ま》れたなりに、金《かね》のつかいよう一つで結構どうにでも片《カタ》がついてゆくものである。  その要領を呑みこんで、手先に使われているのがこの近在を根城《ネジロ》にする賭博渡世の権次で、「こび権《ごん》」といえば醜名は全村に鳴りひびいているけれども、《:、》彼もまた、人情豊かな吉良領の中で一応、不逞無頼の鼻つまみものになっているというだけのことである。「こび権《ごん》」の「こび」は人に「こびる」という意味と、こびりついたら離れぬという意味と二様《/二様》に通じている。つまり、強いものや金《-かね》のあるやつは飽くまでこびへつらい、相手が弱いと見こんだらこびりついて離れぬという、型どおりの寸法書きに狂いのない当世向きの小器用なやつなのである。もっとも、それでいて彼自身がいっぱしの任侠の徒を気どっていることはいうまでもあるまい。  女ひとりで貧しい一家を支えていれば、これも土地の習慣で、祭りや婚礼の夜、振舞酒《振舞ザケ》に酔った若い衆たちが、未亡人の家を遊び場所にするのは必ずしも昔にかぎったはなしではない。  姉もさしたに妹《/妹》もささしょ同《/同》じ蛇の目のからかさを──《─:》と盆踊りの唄にはずみをつけて、つぎつぎの梯子酒を飲み歩くのも素性の|わる《悪》い若い衆だけではなかった。いずれにしても牧野姓を名乗るおのぶの家がいつの間にか彼等にとって、なくてはならぬ場所になっていたことだけはたしかである。  桔梗屋の隠居の頼みに応じたのが権次であるかどうかということは疑問であるが、しかし、六年間孤閨《六年間コケイ》をまもっていたおのぶの色香にうつつをぬかした彼にとっては、もはや役得どころのさわぎではない。古往今来、一挙両得というのは商法の道で、むしろ、今《いま》となると桔梗屋の方《ほう》がダシに使われているというべきが至当であろう。 「おれにまかしときゃ、|わる《悪》いようにはしねえよ、何しろ隠居の気の短いことじゃ、このおれだって手こずっているんだからな、《:、》どうだい、明日といわずいっそのこと今夜、とにかく、すぐ帰ったっていいんだからな、お目見得だけにでもつれてゆこう、《:、》なアに着物なんぞ着替えるにも及ばねえや、|ふだん着《普段着》で結構だよ、風呂にいったというんならちょうどいいじゃねえか」 「そんなこと、お前さん」  相手の魂胆が自分にあることはわかりきっている。むっとこみあげてくる感情をおさえていると、次第におのぶの表情が硬《強》ばってきた。それを持ち前の愛想笑いにゴマ化しながら、 「まだお絹には、ひとことも話しとりゃせんのに、いくら親だからといって、そんな無体なことを」  長い火箸で絶えまなしに囲炉裏の中から真黒に焼けた栗を拾いだす、同じ動作を無意識のうちにくりかえしていた。 「おい、何《なん》だって、今になりやがって」  声の調子が一変する。おのぶはびくっと肩をふるわせながら身をひいた。「だけんど、あんた、たしかにいったじゃないの、じっくり考えてから御返事《ご返事》するって」 「考えるにも程度があらア、あれから、もう十日も経っているんだぜ、それじゃあ、何《なん》ぼ何でも桔梗屋の隠居が可哀そうだ」  こび権《ごん》は、すばやく内ぶところへ手を入れたと思うと、紙でひねった小さな包《包み》を一つ、おのぶの眼の前へつきだした。「給金の前渡しだといって、ちゃんと預ってきたんだ。遠慮することはねえよ、しまっておきねえ」  さア《あ》、どうだと言わんばかりに胡坐《アグラ》の腰をゆるがし、左手で毛脛をさすりあげた。  竹藪の丘を一つ越えると藤左衛門の屋敷である。  十五になったばかりの長男の藤作は一年ごとにぐいぐいと背丈《背タケ》がのびて、がっしりとした骨組はうしろから見ると未成年の子供のようではない。  草相撲のさかんなこの土地でも、大人の力士に伍して、大関とまではゆかないにしても三役から下ったことはなかった。  お絹は小さい頃から、母といっしょに藤左衛門の家《イエ》へ、農繁期の手伝いにゆく習慣がついているので、ひとり息子の藤作とは兄妹同様に扱われている。  親孝行──なぞというと近頃はすっかり流行おくれの肩身の|せま《狭》い廃り言葉になっているが、子供の権利だとか義務だとかいうことがうるさく宣伝されない時代のことである。前の年(元禄四年)の秋から藤左衛門が軽い中風の気味《キミ》で寝つく日が多くなり、藤作は一人で大人の三倍も稼いで祖母《/祖母》と母と病気の父親を養っていた。  燈芯のうすい行燈の灯《明かり》が破れた障子にうつる。土門《ツチモン》をはいると野良着のままで薪を割っている藤作の姿が見えた。 「ああ、よかった」  と、お絹はひとりごとのように呟き、ほっと溜息をついた。 「何だ、お絹ちゃん」  藤作はお絹が嫌いではなかった。うす闇の中から彼女の顔があらわれたとき、彼は妙に胸のはずむような思いがした。どうして、そんな気持《気持ち》になったのか自分にもわからぬ。とたんに、お絹がじっとさし俯向いてしまった。おどおどしている彼女の素振《-そぶ》りにはいつもの明るさはなかった。まるで何かに追いかけられ、咄嗟に逃げこんできたようなかんじである。 「藤《トウ》やん、栗が焼けたから来いって」 「栗?」 「うん、おっかアが来てくれって」 「栗なんか喰いたかねえや」 「そいだがね」 「何《なん》だい?」  藤作は薪割りの手斧《テオノ》を振りあげながらいった。 「|わる《悪》いやつが来とるんだよ」 「誰だ?」 「こび権《ごん》がね──いやなやつ、おっかアをいじめるんだよ、それで、帰るまで藤《トウ》やんが来てくれたらいいって」 「ふうん、こび権《ごん》が何しに来とるのかや?」 「藤《トウ》やん、来ておくれよ」  お絹が前掛けで顔をおさえ、しくしくと泣きだした。大柄《/大柄》なお絹の姿は女らしさが目立つだけに、藤作の眼にいたいたしく映った。  こび権《ごん》は藤作にとっては村の大人である。大人が何を仕出かそうと子供が入ってゆく余地はない。しかし、お絹のおふくろが苛められているとすればこいつはだまっているわけにはゆかぬ。大人よりも図体の大きい藤作は、こび権《ごん》に対する不安も恐怖感も持ってはいなかった。  事件はそれから三十分足らずのあいだに起《起こ》ったのである。囲炉裏を前にして、おのぶを口説いていた「こび権《ごん》」は話の埒があかないのに業を煮やしていた。いや、業を煮やしているように見せかけていたのである。それに、立てつづけに呷る冷酒の酔いも手伝っていたであろう。彼《彼’》の眼は憤りともつかず、悩ましさともつかぬ一種異様な輝きをおびてきた。  彼は、チェッと舌打ちをしてから忌まいましそうに上唇を舐めた。それから土間へおりていった。裏戸のカンヌキをかけるためである。  こび権《ごん》はカンヌキをかけた上に突っかい棒をした。 「おい」  おのぶの横へ、ぴったりと坐るが早いか、矢庭に彼女の両肩を抱きすくめた。 「お前さん──春次郎が」  苦しそうに喘ぐおのぶの肩は、ぐっと前へひきよせられた。こび権《ごん》はひと息に行燈の灯《明かり》を吹き消した。 「いいってえことよ、なア、お前と向いあっているうちに頭が、かあっとのぼせてきた、おらア、お前が好きだよ」  環境と雰囲気次第では、こび権《ごん》よりも、もっといやな男に身をまかした経験がないわけではない。祭《祭り》の夜にふらふらと入ってくる若い衆たちを迎えるためにも、こっそり|うす化粧《薄化粧》をすることを忘れたことのないおのぶだった。しかし今夜の境遇にいて、こび権《ごん》の自由になる気はなかった。男の力がぐっと彼女の上体に加わって、あやうく横へ《へ’》ねじ倒されようとしたとき、おのぶは無気味な悪寒に|全身粟だ《全身’粟立》つような思いで、倒れながら男の顎を下からつきあげた。 「いやだよ、おらア」 「おい、声をだすなよ」  |はだけ《ハダケ》た裾をおさえた男の足がぐっとのしかかってきた。 「ね、今夜は、──今夜は、今夜はいけないんだよ」  こび権《ごん》も性来、気のつよい男ではなかったが、此処《ここ》まで来てから場所柄を考えて引っ込むわけにもゆかなかった。  いよいよ反抗すると、おのぶの方《ほう》にも、こび権《ごん》をはねっかえすだけの底力があった。  必死になって、もがいているとき裏戸のがたがたとゆれる音が聞《聞こ》えた。しかし、その音はおのぶの耳にもこび権《ごん》の耳にも聞えなかった。  裏戸が外からはずれ、野良着のままの藤作がとびこんできたのはちょうどそのときである。藤作はもう夢中だった。おのぶが殺されると思ったのだ。外《ソト》の月あかりで、おのぶの上に馬乗りになっている、こび権《ごん》を見ると彼は藁草履をはいたまま縁側にとびあがり、必死になっておどりかかった。首すじをおさえると、こび権《ごん》の身体は機みを喰ったように横へ倒れた。 「野郎、何をしゃらくせえ」  藤作の入ってきたことがわかったら、それだけでこび権《ごん》は手をはなしたであろう。相手が誰だかハッキリしなかったところへ、だしぬけに首すじをおさえられたので、女の手前|いや《/嫌》でも彼はひらき直らずには《は-》いられなかった。  こび権《ごん》は一種の乱酔状態に陥っている。彼は衝動的に囲炉裏のそばにおいてあった刀をとった。それ以外に相手を威嚇する方法はなかったからである。藤作は胸の底で何かパチンと大きくはじけるような音《音’》を聞いた。言葉ではない。ありあまる体力の自然にあふれだす瞬間の発作である。もはや、藤作が逃げだすか、こび権《ごん》が刀を捨てて這いつくばるか二つに一つの道しかない。  こび権《ごん》は一気に刀をひきぬいた。もちろん斬りかかる意志はなかったが、それは結局藤作《結局’藤作》の敵愾心と闘志を煽りたてることに役立っただけである。彼はほとんど無意識のうちに足元にころがっていた雨戸の支え棒を拾いあげた。  それを右手に握りしめるのと、こび権《ごん》にとびかかるのとほとんど同時だった。ふらふらした足どりで、やっと立っているこび権《ごん》が刀を振りあげようとしたとき、右の手首をしたたか打ち据えられて、あっという間に刀をとりおとした。間髪を容れぬ変化の早業である。藤作は《は-》こび権《ごん》の落した刀《カタナ》を手につかむとみ《見》る間《マ》に真っ向から斬りつけた。血しぶきがとび、大兵《ダイヒョウ》のこび権《ごん》は悲鳴に似た唸り声をあげて、うしろへバッタリと倒れ、そのまま息が絶えてしまった。血刀《/血刀》をひっさげて立っている藤作の心に意識が徐々によみがえってきた。  おのぶは腰が抜けたようになって、虚ろな眼をきょとんと見ひらいたまま、ひと口も物を言わなかった。いつの間にか奥の障子もとりはずされ、すやすやと眠っている春次郎の寝姿だけが、ぼうっと藤作の視野に映った。 「藤《トウ》やん」  と、腹からしぼりだすような声で叫びながら、お絹がぴったりと彼によりすがった。 「すみません、藤《トウ》やん」 「仕方がねえや、おれ、今から名主さまのところまでいってくる」  彼の遠縁にあたる近藤利右衛門のことをおもいだしたのである。子供ごころにも、これで一生が終りを告げたという気持《気持ち》がぴったりと来た。 「絹ちゃん──おれのうちへいって、おとっつぁんによう話してやってきてくれよ」  一刻もじっとしていられぬ気持《気持ち》である。坂道を駈けるように下ってゆく藤作のあとからお絹が息をはずませながら追いすがる。途中で何を話したのか、どの道をどう歩いてきたのか、二人ともよくおぼえていない。いつのまにか裏山づたいに華蔵寺の墓地の前へ出ていた。  藤作の運命がどうなるかということは、お絹にも大体想像《だいたい想像》がつく。おそらく生きてふたたび会う機会はあるまい。お絹の悲しさはおさえがたき愛著《愛着》に変ってくる。高い杉の梢から流れてくる月光の下でお絹はぴったりと藤作によりそった。そこから長い石段をおりると、名主利右衛門《名主’利右衛門》の屋敷はすぐ左にひらけた藪のかげにあった。どこかで、ほう、ほう、と梟が啼いている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  この事件が村じゅうにひろがったのは翌《明く》る日の朝である。その前夜、下手人藤作《下手人-藤作》の自首によって一切のことが明るみへさらけだされた。  事件は、いちいち面倒な詮索や調査をするまでもなく至極簡単明瞭《至極-簡単明瞭》であった。殺人行為の発生すべき直接の誘因はどこにもない。加害者にも被害者にも恩怨にからまる感情のなかったことはいうまでもないからである。藤作はこのとき、すでに死を決していた。名主利右衛門《名主’利右衛門》はこの事件をいかに処理すべきかということについて考え惑ったが、しかし順当な判断をもってすれば、いかに相手が悪評の高い男であったとしても、殺人の罪だけは《は-》まぬがるべくもないのである。  このとき六十をすぎた村の長老である利右衛門は、この事件を正式に法律の裁きにかけて、藤作の一生を|むざむざ《ムザムザ》と葬り去るに忍びぬ気持《気持ち》になっていた。いろいろ考えあぐんだ末に彼は藤作をつれて陣屋に出頭し、吉良荘の代官唐沢半七郎《代官’唐沢半七郎》に事情を具申した。唐沢もまた利右衛門と同意見であり、二人にとって何よりも好都合なことは領主吉良上野介《領主’吉良上野介》が次の日に横須賀村へ到着するという消息の入ったことである。利右衛門は久しい以前から気さくな上野介としばしば言葉をまじえたことがある。人間的な恩愛のこまやかな上野介に嘆願書を提出することがそれほど難しい仕事でないことを彼は知っていた。こんどの上野介の帰国の目的は、ひと足おくれ江戸を発足することになっていた養子左兵衛義周(春千代)を華蔵寺へつれてきて、あたらしくできた木像を見せるためであった。  話は前にもどる。上野介は唐沢のさしだした、利右衛門署名《利右衛門’署名》の嘆願書を通読してから、ちらっと老名主の顔へ視線をうつした。 「その方《ほう》のことは堤防修築のとき以来、よくおぼえているぞ」  利右衛門は|ぐっ《グッ》と胸が迫って声が出なかった。 「いろいろ苦労が多いのう」 「お言葉ありがたく存じます、殿様の御苦労とくらべたら、利右衛門ごときものの苦労なぞは」 「いや、そうでもあるまい──この藤作と申す小伜を、すぐさまつれてまいるがよいぞ」 「こちらでござりますか?」 「苦しゅうない、十五歳で村随一の力持ちといえば、さぞかし身体も大きいであろうな」 「おそれながら、骨格衆《骨格-衆》にすぐれ、見るからに逞しく存じあげます」  利右衛門がそういったとき、半七郎の顔には当惑の色がうかんできた。 「某《ソレガシ》より申上《申し上》げます。唯今、仮牢にて吟味中でござりまするが、それも野良着のままにて御前へ推参いたさせますることはいかがかと存じまするが」 「いや、その心配には及ぶまい、すぐつれてまいれ」  鶴のひと声である。二人はすぐさま領主の御前をひきさがった。  これはまるで夢のような──いや、夢にしたところで、このような運命の忽然とひらけることはあるまい。野良着のままで上野介の前にひきだされた藤作は、事件に対しては一言半句のお咎めもなく、その日から左兵衛附《左兵衛’付き》の小姓にとりたてられ、名を一学と改めることにきまった。名主、利右衛門をはじめ、藤作の身の上を案じていた村びとたちは事の意外におどろきながらも、しかし一様にほっと胸を撫でおろした。さすが名君の裁きである。  それから十日ほど経って、左兵衛の一行が到着すると、御霊屋びらきの式典が催された。その夜、陣の前には夜更《ヨフ》くるまで篝火が燃え、村民の奉納した花火の音が、|おぼろ《朧》月夜の空にはじけていた。うねうねとつづく山車の列は、笛、太鼓の囃子に調子を揃えて山門から霊屋の前まで、炬火《松明》の光りを先登に、あとからあとからと、夜あ《明》けがたまでつづいていた。  あくる日は、異例ともいうべき領内巡遊が行われた。いつものように、お忍び同様な赤いお馬の見廻りではない。殿様の乗馬の赤いことは例年のごとくであるが、これに随従する騎馬の武士は十人あまりで、各部落ごとに出迎えの人垣が往来の両側をうずめていた。行く|先き先き《さきざき》に待っているものは、感謝と尊信の思いをひそめた領民たちの視線である。その眼にふれると上野介は、|あふる《アフル》るばかりの情愛にみちた笑顔で答える。  領民たちの眼に、大名らしい威厳もとりつくろわず、ゆるゆると馬をすすめてゆく上野介のすがたほど世にも気高いものはなかった。彼のあとから左兵衛を抱いた山吉新八郎の馬がつづき、そのすぐ|うし《後》ろには、見るからに愛くるしい、さわやかな相貌をした若い武士が栗毛《/栗毛》の馬の手綱をしっかりとひきしめていた。 「あれだよ」 「えっ──あれが」 「馬子にも衣裳というが、あれが藤作か」 「あれが、のう」  行列がすぎ去ってゆくと、人垣はざわざわとくずれ、みんな口々にささやきあった。ここでもかしこでも、清水藤作、──ではない、清水一学の噂で持ちきっている。おどろきと、讃歎にみちた声の波紋はみるみるうちに大きくひろがってゆく。  その行列が駮馬から宮迫《ミヤバ》に入ると、沿道にはほとんど全村の老若男女が礼装してならんでいた。  ああ、清水一学。ほら、左兵衛の若殿を抱いた山吉様から二番目のあれだよ、あのきりっとした若侍《若ザムライ》、あれが昨日まで、この同じ道を炭俵を背負《背お》いながら往復していた藤作なのだ。人垣は水を打ったように、しんとしている。そのうしろから、感極《感きわま》って、かすかに啜り泣くような声さえも聞えてきた。竹林にかこまれたほそい坂《’坂》はやっと人馬が一列《1列》になって通れるほどの道幅しかない。行列がそこへさしかかったとき、夢見るような思いで、あたりを見まわしている一学の眼に人《/人》の列から少し|はな《離》れて、低い丘のかげに、しょんぼりと立っている二人の女の姿が映った。はなれているとはい《言》っても僅かに二間ほどの距離しかない。お絹と、彼女のおふくろのおのぶであることはすぐにわかった。四つの眼がじっと彼を見詰めている。一学は妙に息づまるような思いに胸をしめつけられた。村の人たちは、行列が見えなくなっても、まだ同じ位置から立ち去ろうともしなかった。 「おっかア」  と、お絹が母の肩によりすがって、しくしく泣きだした。「藤《トウ》やんには、もう会えねえのかと思うと、おれ悲しゅうて」 「会えねえなんて、そげんなことがあってたまるかい、──藤《トウ》やんはこっちを向いてニコリと笑ったのをお前も見たずら」 「おれ、もう涙が出て、人の顔もようわからんかった」 「藤《トウ》やんだって、お前、きっと昔のことをおもいだすことがあるべえよ」  お絹は黙って母親の肩にもたれ、しくしくと泣いている。彼女の瞳の底に刻みつけられた凛々しく逞しい小姓の姿の中に、昨日までの藤作の|おもかげ《面影》は、もはや探るべくもなかった。  十日あまり滞留《滞留’》して、祖先の回向が滞りなく終ると、上野介の一行は江戸へひきあげていった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  一年が経ち、二年がすぎる。江戸からの消息は打ってひびくようにすぐ村へ伝わってくるが、吉良荘の人たちの注意は清水一学にあつまっていた。一学の噂になると、みんな眼の色を変え、固唾を呑み、呼吸をはずませる。  一学の人気は江戸の屋敷の中でも|大へん《大変》なもので、彼はその頃、二刀流の剣士として盛名を謳われていた浦周之助《浦’周之助》の町道場にかよい、元禄九年には早くも免許皆伝をうけた。今や上野介の側近には彼の相手になれるものは一人もいない、──というような噂が伝わってきた。  事実、彼と山吉新八郎とは同じ左兵衛づきの中小姓であるが、小姓としての格と待遇は山吉の方《ほう》がはるかに上であっても武芸《/武芸》においてはほとんど比較にならなかった。一学は剣技に錬達《レンタ-ツ》しているだけではなく、それに持ち前の膂力が加わって、どのような敵に対しても肉体的な迫力を示した。その進境の眼ざましさには浦周之助《/浦周之助》も舌を巻いている。おそらく、実戦になったら、彼のもつ永続性は|ほんとう《本当》の底力を発揮するであろうと噂されていた。  吉良郷の人たちは、あたらしい消息の入るごとに一学の帰郷を待ちこがれていた。今までは毎年必ず帰ってきた上野介が、六十ちかくなると、つぎつぎと身体に故障を生じてくるものらしく、いよいよ帰国と決定してからすぐ取止《取りや》めになったことが何度あるか知れなかった。  元禄九年にも、帰郷の通報があったが、急に、十一歳になった養子左兵衛をつれて将軍綱吉に謁見を賜うことにきまったので沙汰やみとなった。元禄十一年の四月にも帰郷の内意がつたえられたが、それが九月に持ち越され、いよいよ出立《出立’》という間際になって、突然の火事で鍛冶橋の屋敷が類焼し、そのまま延期になった。  火事のあとで、呉服橋の袂に替地を拝領したので、すぐさま新邸の建築にとりかかった。若い頃から建築道楽であった上野介は、ほとんどその指揮にかかりきっていたので休息するひまもなかった。  その新邸の建築費用は二万五千五百両で、これは一切、上杉家から支出されることになっていた。このとき二十一歳になった一学は、左兵衛の剣術指南役を仰せつかり、邸内に独立したひと棟を拝領した。こうなると自然、身のまわりの世話をするものも必要になり、ふと思いだしたのが|幼な馴染《幼馴染》のお絹のことであった。  何よりも彼女の消息を知りたかったが、しかし、それと口に出しては言えず、一日も早く帰郷の日の来るのを待っているうちに、二三年《二’三年》が瞬くうちにすぎてしまった。  元禄十四年、三月──江戸城では恒例の勅使を迎えることになり、このとき六十一歳になった上野介は、最後の御奉公《ご奉公》を終えてすぐ家督を左兵衛にゆずり、吉良荘へ隠遁することになっていた。一学は横須賀出身であるから、本来ならば上野介に随伴させるべきであるが、しかし、左兵衛にとってお側はなれずの家来であるから、たぶん江戸屋敷へ残ることになるだろうと噂されていた。  その頃から一学は茶屋酒《茶屋ザケ》の味をおぼえはじめた。相棒は山吉である。酒の味がわかるにつれて酒量はぐいぐいとあがってきた。すでに二十四歳である。 「ああ。おれなぞは時代をとりちがえて生れてきたのだ──戦国の世に生《生ま》れていたらなア。」酔うと必ず、憮然として腕をさする。茶屋女《茶屋オンナ》に興味を持たぬ彼は朝から家《’家》にひきこもって、ひとりで冷酒をあおっていることもあった。  三月十四日は、うす曇りで、風のつよい日であった。早朝から上野介が登城したあとで、一学は山吉のほかに新見弥七郎《’新見弥七郎》と大須賀次郎右衛門《’大須賀次郎右衛門》を自室に招いて、朝から、ちびりちびりやっているとき、執事役の清水団右衛門が真っ蒼《青》になってとびこんできた。その朝、城内では勅諭奉答の儀式が行われることになっていたが、兇変はそれに先立って起《起こ》った。  松の間《マ》の廊下で、上野介はその日の饗応役、浅野内匠頭から、だしぬけに斬りつけられたのである。  内匠頭《内匠ノカミ》、刃傷の動機はこの青年大名が勅使饗応係に任命されたときから端を発する。彼は殿中の作法典範をわきまえぬため、一切の指導を上野介に仰いだ。そのときの進物が鰹節一連で、それがあまりに軽少すぎたという理由のために上野介の憎悪を買ったことに原因すると言われている。  もちろん、賄賂公行《賄賂コウコウ》の時代ではあったし、大役《タイ役》が、儀式の指揮に任ずる上野介に心こめて贈り物をすることは当然の儀礼ではあったとしても、その贈り物の多寡に応じて態度を変えようとするほど上野介は利慾に眼のくらんだ男ではない。  血のつながりこそないが、家康との縁故による彼の地位は江戸城内に厳としてそびえている。六十をすぎて現世に望みを絶とうとしている彼が世上伝わるごとく内匠頭《内匠ノカミ》の訪問をうけ、その懇請に耳を貸しながら、《:、》かげでこっそり贈り物を覗いてみて、鰹節一連とはもってのほかだ、と俄《にわ》かに態度を一変して底意地の|わる《悪》さをムキ出しにするなぞということが考えられるであろうか。  そのとき内匠頭《内匠ノカミ》とならんで勅使饗応役に任ぜられた伊達左京亮は、加賀絹数巻《加賀絹スウマキ》、黄金百枚《オウゴン百枚》、それに加えて狩野探幽の描いた竜虎の図双幅をおくったということになっているが、《:、》よしんば仮りにこれが事実であったとしても上野介《/上野介》はこれと鰹節とをくらべてみて、よろしい浅野の青二才にひと泡吹かせてやろうと思い立つほど思慮の浅い男ではない。今日《こんにち》、賄賂といえば、直ちに吉良上野《吉良コウ-ズケ》を聯想するのが、「忠臣蔵」によって煽られた民間常識とされているが、《:、》上野介の精神分析を試みて、彼が江戸城においては暴虐にして冷酷無慚《冷酷無残》な所行を繰返しながら、《:、》領地へかえっては恩愛|あふる《アフル》る名君であったという近代的な二重人格が実証される根拠がないかぎり、この事件を一方的な判断によって解決することは適当ではあるまい。三州吉良の領民が三百年間、一斉に肩をそびやかして、「忠臣蔵」を一歩も領内へ入《い》れなかったということは、亡き領主に対する哀憐同情というがごとき消極的な理由からではない。若き浅野内匠頭の不幸が一斉の同情をよび起したことに理由があるとすれば、あの一日の偶然によって悲運のどん底にたたきこまれた吉良上野《吉良コウ-ズケ》に何故同情しないのであろうか。横須賀村の言い分は大石一党の斬込《切り込み》にいたる必然の動きを否定しているのではない。彼等の眼底にちらちらと動く赤馬に乗った上野介の姿の中には「忠臣蔵」の師直《モロナオ》によって象徴された奸悪無比な人間像はかすかな翳さえも残してはいないのである。もし彼等が封建制下《封建制カ》における領主と領民との関係だけで、吉良上野《吉良コウ-ズケ》の仁徳を讃えているのだとしたら、吉良家の存続するあいだはともかく、《:、》これが他の領主の支配下になり、更に転々して今日《コンニチ》にいたるまで、三百年間一定不変の感情をもって臨んでいるということがどうしてあ《有》り得ようか。  とにかく、勅使饗応の役柄というものは幕府にとっては重要なつとめであり、何びとが任命されたところで接伴の方法は柳営の内部において型どおり準備さるべき性質のものでなければならぬ。  世上つたえられる話によると、大体次のような順序によって浅野内匠頭は吉良上野《吉良コウ-ズケ》のつくったワナにひっかかっている。 (第一)鰹節一連に憤りをかんじた上野介は内匠頭《内匠ノカミ》の懇請をけんもほろろな態度ではじきかえした。 「勅使接伴のことは愚老なぞの知るところではない、指図なぞとは余計なこと、貴下《キカ》の御一存で取計《取り計ら》らわれたらよろしかろう」 「いや、某《ソレガシ》も不肖の身をもって、万一のことがあっては申し訳ないと考え、再三御辞退申上《再三御辞退申し上》げたるところ、《:、》その儀ならば上野介殿の指図をうけたらよろしかろうとの仰せにて止むなくおひきうけいたしたる次第、何卒若年《なにとぞ若年》の拙者をお引き廻《回》し願いとう存ずる」 「それほどまでに申さる《る-》るならば是非もござらぬ、指図はともかく御助言だけは申し上《あ》ぐることにいたそう、《:、》何につけても御進物が肝要でござる、饗応にあずかる柳営内の重役にはもとよりのこと、勅使御二方に対しては日々御進物をお届けなさることをお忘れなきようにされねばならぬ」  上野介は浅野家から自分に対して莫大な賄賂の届けらるべきことを期待していたというのが巷間の流説として残されている。もし果《果た》して内匠頭《内匠ノカミ》が彼の提言どおりに行《-おこな》ったとしたら、上野介はそれで満足したであろうか。前述のごとく彼はこのとき六十一歳の高齢で、茶道と歌道にう《打》ち込む以外には浮世に望みをもたぬ心境に身を置こうとしていた。彼はその頃、次のような歌を詠じている。 「名にし|おふ《負う/》今宵の空の月《/月》かげはわ《/わ》きて|いとは《厭わ》んう《/浮》き雲もなし」  彼が鰹節の贈りものに不満をかんじたとしたところで、もし賄賂がほしかったら内匠頭《内匠ノカミ》が役目を充分に果《果た》した上でとるべき道はいくらでもあったであろう。彼は老巧の智者であるが奸才にたけた悪役人ではない。大体《大体’》この世の野望に見切りをつけた男は、何でも思う存分のことを歯に衣《キヌ》を着せず、人前をも憚らずに、ずばりずばりと言ってのけるもので、彼もまた青年内匠頭《青年内匠ノカミ》に対して言いたい放題のことは言ったであろう。これは必ずしも内匠頭《内匠ノカミ》だけでないことはもちろんである。いずれにしても彼が故意に内匠頭《内匠ノカミ》を痛めつけ、彼にキリキリ舞いをさせることによって快哉を叫ぶというような人柄でなかったことだけは明白である。 (第二)内匠頭《内匠ノカミ》は上野介の戒告をうけたが、どうしても納得する事ができず、その足で熟知の間柄である老中の月番土屋相模守《月番’土屋相模守》を訪ねた。大役《タイ役》を全うするために吉良上野介の指揮を仰ごうとして出向いていったが、連日勅使《連日’勅使》ならびに重役に進物を差し上《-あ》ぐるという事については一体どのように取り計ったらよいものであろうかという質問に対して相模守は、《:、》「これは初耳、そのような話はき《訊》いたこともござらぬ」といって一笑に附した。「饗応役がそこまで気をつかわれる必要はあるまい。日々進物を届けるなぞという先例は聞いたこともござらぬ、いかに上野介殿の意見であろうとも一から十までそれに従わねばならぬという法はない、《:、》貴下《キカ》の一存にて手ぬ《抜》かりなきようにされたらよろしかろう」  坊間の浮説はこのへんから次第に深刻な様相を呈してくる。 (第三)まもなく内匠頭《内匠ノカミ》の親友である戸沢下総守《戸沢シモウサノカミ》と小笠原長門守が浅野邸へやってきて、《:、》上野介は傲慢不遜な男であるから、貴公が老中(土屋相模守)を訪問して内談をとり交わしたことがわかったらどのような意地の|わる《悪》い妨害をするかもわからぬ、《:、》たとえいかなることがあろうとも、じっとこらえて忍ばれることが大切である、とくりかえし忠告して帰っていったのはそれからまもなくである。このことは室鳩巣の義人録の中にも出ている話だからおそらく真実であろうが、これによってみると、内匠頭《内匠ノカミ》と上野介との関係は柳営内でも相当噂にはのぼっていたらしい。 (第四)三月十一日、勅使の芝上野参詣の接伴にあたった内匠頭《内匠ノカミ》は、その前日休息所《前日/休息所》の畳表をあたらしくすべきかどうかということについて上野介の意見を求めたところが、彼は立ちどころに、 「それには及びますまい」  と答えた。すると当日の朝になって、伊達家の方《ほう》では院使饗応の間の畳をすっかりとりかえたということがわかった。これは上野介に一杯喰わされたぞというので慌てて江戸市中の畳屋を狩りあつめ、宿房普光院《シュクボウ普光院》の畳二百畳《畳二百ジョウ》を一夜のうちにとり替えさせた。それが終るとこんどは料理である。精進料理にすべきかどうかという伺いを立てたところが精進料理で結構だという返事である。ところが、いよいよとなってみると|大へん《大変》なまちがいで、|大鯛一ぴき《大鯛’一匹》ずつを膳の上に備えねばならぬということがわかった。これは|大へん《大変》だというので全市の肴屋を動員してやっと何とか恰好をつけたというのであるが、苟も勅使饗応の大盛宴である。こんなことは大抵最初《大抵’最初》からわかっていなければなるまい。内匠頭《内匠ノカミ》はまるでコック長か女中頭《女中ガシラ》みたいに、ひとりでヤキモキしながら台所を覗いたり、部屋の中をうろつき廻ったりしているようであるが、このようなことはすでに役割と係《係り》が当然きまっている筈である。 (第五)それがいよいよ三月十四日になると殿中で勅諭に対する奉答式が行われる。この日参内《日’参内》の諸大名、ならびに幕府要員はいずれも衣冠束帯で列席することを命じられた。内匠頭《内匠ノカミ》はこのときも長裃《ナガカミシモ》にすべきか烏帽子に大紋にすべきかについて上野介に意見を求めた。すると長裃《ナガカミシモ》でよろしかろうという返事なので一応そのようにとりきめたものの、度重なる前例もあることである。またしても上野介の策謀にひっかかるのではないかという気がしたので、浅野家の重役一同相談の上、いざというときの用意をして、《:、》長裃《ナガカミシモ》で登場してみると果《果た》せるかな、列席の諸大名はじめ同僚の接待役一人として長裃《ナガカミシモ》をつけているものはな《無》い。ああ、またたばかられたかと、此処《ここ》に内匠頭《内匠ノカミ》の憤りはついに最後的な段階に達した。すぐさま高家の控室へ出かけていって上野介に詰めよると、彼は空とぼけた態度で憎々しげにうそぶいた。 「ああそうでござったか、これは失礼を申上《申し上》げた。そのような筈ではなかったが、何しろ近頃耳《近頃’耳》も遠く、|もうろく《耄碌》のせいか|間ちが《間違》いばかり起して相すまぬ」  上野介に対して信をうしなっている内匠頭《内匠ノカミ》が再三再四彼の指揮を仰ぎにいったということも納得のできぬはなしであるが、それよりも恒例の儀式について一切合財、上野介に聴かねばならぬという道理はあるまい。それも田舎からはじめて出てきた大名が饗応役の内匠頭《内匠ノカミ》に伺いを立てるということならわかっているが、《:、》参列の諸侯ことごとく一定した服装をしなければならぬという壮麗な儀式に、モーニングにすべきか、羽織袴にすべきかということについて連日殿中《連日’殿中》に詰めきっている内匠頭《内匠ノカミ》が当日までこれを知らないで過しているという法があろうか。それも特別に秘密を要する応対の挨拶か何かであればともかく、城内にも友人の多い彼が、全員ことごとく燕尾服というときに、饗応役の自分だけは何事も知らず、紋附、《-》袴で出かけてゆく筈はあるまい。浮説の作製者によると、上野介が内匠頭《内匠ノカミ》を憎んだ原因は鰹節一件だけではなく、《:、》彼の鍾愛する美少年に懸想した上野介が、ひそかにこれをゆずりうけたいといって所望したのをあっさりはねつけたことにふかい意趣がこもっていたということになっているが、上野介がそれほどの執拗な好色家であったかどうか。彼もまた若き日は当時の大名なみには女も犯し妾も蓄えたかも知れぬが六十《/六十》をすぎた今となって猶且つ他人の恋人に思いをかけるような粘りづよさがあったかどうか。これが「忠臣蔵」になると内匠頭《内匠ノカミ》の女房に哀恋の誘いをかけてはねつけられ、その|意趣晴らし《'意趣バラシ》に内匠頭《内匠ノカミ》にひと泡吹かせようと決意をかためることになっている。もし彼が、それほど好色道楽の男であったとしたら、由来美人美男《由来’美人美男》の系譜をひく三州吉良郷で、娘か女房を奪われて領主を怨んでいる男の一人や二人はいそうな筈である。かくて、いよいよ十四日。花ぐもりの朝であった。接待役の伊達、浅野両侯と高家の代表者は松の廊下にあつまって勅使一行の来着を待っている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そのとき、内匠頭《内匠ノカミ》は何をかんじたのか、自席を立ち、上席にいる上野介の前へおずおずと進み出ていった。 「おたずね申したき儀がござる、勅使御到着《勅使ご到着》のせつは、われ等接待係《ら接待係》は御玄関式台上《お玄関式台ウエ》にてお迎えいたすべきか、それとも式台下にてお待ち申すべきか。」言葉の終らぬうちに、白髪赭顔《ハクハツ赭顔》の上野介の眼がギロリと光る。「何を|いま《今》更──迂闊千万ではござらぬか、殿中の作法が何一つとしてわからず、それで図々しくも接待役を勤めようとは慮外も慮外」  一説によると、此処《ここ》に桂昌院殿《桂昌院どの》の御内使《ご内使》、梶川与三兵衛が出てきて、内匠頭《内匠ノカミ》に何か打ち合せようとするのを、そばで聞いていた上野介が、横合いから与三兵衛の肩をたたいて、 「何《なん》の御用でござるか、上野《コウ-ズケ》が承わりましょう。内匠頭《内匠ノカミ》に仰せられてもあのとおりじゃ、お役目のつとまるわけもござるまい」  この言葉が耳に入った瞬間、殺気は若き内匠頭《内匠ノカミ》の顔にみなぎった。  飾刀《カザリガタナ》の柄《ツカ》に手がかかったのと上野介の身体が横倒しになったのとほとんど同時である。烏帽子のふち金《がね》で辛うじて眉間に迫った切先をうけとめたものの、しかし頭から吹き出る血は早くも顔に流れ、浅黄の紋服に沁みわたった。上野介がよろよろと立ちあがろうとしたとき、つづく二の太刀がうしろから袈裟がけに肩を目がけてうちおろされたが、とたんに上野介が逃げるように前へのめったので、その隙《スキ》にうしろから梶川与三兵衛に抱きとめられた。 「殿中でござるぞ、御乱心めさるな」  忠臣蔵では此処《ここ》が|大立ち廻《大立回》りになり見せ場になるのであろう。 「お放し下され、武士のなさけじゃ」  城内は煮えかえるようなさわぎである。その日の裁断は即決をもって行われた。内匠頭《内匠ノカミ》は即刻、奥州一ノ関の城主田村建顕に身柄をあずけられ、城中、時計の間《マ》に監禁されたが、《:、》当然老中会議《当然’老中会議》が行われた上で罪科が決定するものと予想されていたにも拘わらず、将軍綱吉の一存によってその日の中に切腹が申し渡された。理由は勅使饗応の大任を帯びている身でありながら宿意をもって殿中を騒がしたる段不届至極であるというのである。民衆の同情は忽ち翕然として内匠頭《内匠ノカミ》にあつまった。  もし上野介が殿中で横死していたとしたら内匠頭《内匠ノカミ》に対する同情はこれほどごうごうと湧き起ることもなかったであろう。斬《切》りつけられた上野介は、急難に臨みながら時節をわきまえ、場所をつつしみたる段神妙に思召《思し召》さる──という老中からの申し渡しによって何《なん》のお咎めもなく、《:、》傷の手当がすむと、すぐ駕籠に乗せられて呉服橋内《呉服橋うち》の邸宅へ|引返え《引き返》したが、しかし、その処断の片手落ち、というよりもあまりにも懸隔の甚しいことが義《/ギ》に勇む江戸町民の心に何《/何》か腑に落ちないものをかんじさせた。  上野介の帰国がこれによって沙汰やみとなったことはいうまでもない。同じ年の九月二日、上野介から申し出たお役御免の嘆願も叶って、彼は折角、新築したばかりの呉服橋の邸宅から本所(本庄)松坂町の新邸へ移ることになった。  新邸の敷地は二千五百余坪現在《二千五百余坪/現在》の回向院の裏にあたる。町《マチ》とはい《言》っても当時は人家もまばらな部落にすぎなかった。  殿中刃傷の噂が風のように横須賀村につたわってくると、村民の代表者たちは、主君上野《主君コウ-ズケ》の安否を気づかって鎮守の神社にあつまり祈願《/祈願》を凝らした。華蔵寺には村の善男善女が引きも切らずに参詣し、中には木像を安置した霊屋の前で終夜一睡もしないで祈りつづけているものもあった。  上野介にしてみれば彼が六十一歳まで用意周到に築きあげた一生涯《イッ生涯》が、たった一日《1日》の不慮の出来事のために、がらがらと音を立てて崩れ落ちてしまったのである。それをふせぐ方法はどこにもない。敵討ち全盛の時代であってみれば一朝にして禄を|はな《離》れた赤穂の浪人たちが、お家断絶《イエ断絶》、一族離散の恨みを上野介の一身に向って集中しつつあることは疑うべくもない。  上野介は只管《ひたすら》、蟄居謹慎して、残りすくなき余生をもっぱら茶道にいそしみながら過していたが、しかし、それにもかかわらず彼の身辺に渦巻く妖気は日を経るにつれて次第に濃厚の度を加えてきた。  元禄十五年十二月十四日。松坂町の吉良邸では納めの茶会が催された。  客は縁辺につながる人たちばかりであったが、夜にはいって降りだした雪が時ならぬ興《キョウ》を添えたので、一座の空気は急にひきしまって、《:、》歓をつくすというところまではゆかないにしても、主客共に笑いさざめきあって散会したのは十時《10時》を過ぎる頃だった。  一学もその席に列していたが、外来の客が雪の中を駕籠に乗って帰ってゆくのを見送ってしまうと、表門をぎいっと閉める音が聞《聞こ》えた。 「おい、飲み直そう、雪見酒《雪見酒’》じゃ」  彼は同輩の新見、斎藤、小塚、左右田の四人を誘って、裏門からぬけだし、行きつけのたそや行燈、船宿「新七」の二階へあ《上》がって、どっかりと胡坐《アグラ》をかいた。 「近頃、浅野の痩浪人どもが江戸の街をうろついているそうだ、それについて|新ら《新》しい噂は聞かぬか?」 「このあたりでも怪しいやつが、しきりにお屋敷の様子をうかがっているようですな、小林(平八郎)様なぞもこの頃では夜もおちおち眠られぬ御様子《ご様子》で」  新見弥七郎が、あたりをきょろきょろ|見廻わ《見回》した。「夜廻《夜回》りなぞも、よほど厳重にしないといけませぬな」 「いや、来るときには来るよ、やつ等《ら》にしてみれば、それも尤《尤も》なはなしだ、浪人どもが乗り込んできたら、おれはいつでもいさぎよく斬られてやる」 「だまって斬られるのですか?」 「バカめ、だまって斬られるやつがどこにある、痩浪人が何百人来たところで防ぐ気になればおれ一人で充分だ、しかし、あれだけ苦心して仇敵を討とうとしているやつをみると進んでやっつける気には《は-》ならぬ」  川ぞいの屋根につもった雪の|塊り《塊》がバサリと大きな音をたてて水面へ落ちた。一学は熱燗の酒をぐっと一杯ひっかけ、ハ、ハ、ハ、と、はずみのついた声で笑いながら、 「いざとなると、しかし、そうもゆくまいな」  その晩は、何となく調子がはずまないので十二時ちかくなってから引《’引》き返えしてくると吉良邸裏門《/吉良邸裏門》は雪で埋まっていた。一学は自分の部屋へ入ると、ごろりと横になり、そのまま高鼾をかいて眠ってしまった。長いあいだかかって座敷の|あと片附《アト片付》けをしている女中たちのささやきが、しいんとなった夜気を縫って、しばらくぼそぼそと聞えていたが、やがて、それもひっそりとなった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  しんしんと更ける丑寅の刻、──いまでいうと午前三時半という頃おいであろうか、一学が眼をさましたときは、屋敷の中は乱闘のまっ最中であった。すぐ|間近か《間近》にひびく陣太鼓の音で眼がさめたのだ。一学は慌ててはね起きた。袴をはき股立ちをかかげるが早いか、彼はその晩、上野介と左兵衛の眠っている筈の奥の部屋へ駈けつけた。  浪士の一隊は、小林平八郎以下の護衛の武士に防ぎとめられて、まだ玄関口から中の間の廊下へ踏みこんできたばかりの所だった。  奥の寝所ではさすがに上野介は達人らしく敷布団の上に正坐していたが、十六になったばかりの左兵衛は薙刀を片手に持ったまま、おろおろした表情で部屋の前を往ったり来たりしている。どよめく声は前後左右から迫っていた。一学も、今となってはどこへ《へ’》上野介親子を逃がしていいのか見当がつかなかった。いざとなったら、次の間《マ》の壁を楯として、とびかかってくるやつを一人一人片っぱしから斬り倒すだけのことである。  そこへ、用人の鳥居理右衛門が躍るような足どりでとびこんできた。 「殿《トノ》、こちらへ」と、引きつるような声で叫びながら、上野介の身体を抱えるようにして台所の方《ホウ》へつ《連》れていった。  咄嗟のあいだに一学の頭には、左兵衛を逃がさねばならぬという考えがチカチカと閃いたのと、寝巻のまま、ぶるぶる顫《震》えながら立っていた左兵衛の小脇を支えて雨戸を蹴やぶるのとほとんど同時だった。  裏庭を突っ切って植込《植込み》をぬけると、すぐ隣りの土井邸の塀につづいている。一学はもう夢中だった。 「此処《ここ》からお逃げ下さい、──お父上は一学が引きうけ申した、必ずお逃げ下さい、吉良家の血《血’》につながる大切なお身の上をお忘れてはなりませぬぞ」  無理矢理に、力にまかせて肩にかつぎ、えいっという掛け声もろともに、小柄な左兵衛の身体を石塀の中へ《へ’》投げお《落》とした。  これでやっと自分の役目がすんだと思うと、宿酔にしびれた全身にあたらしい血が燃えあがってきた。そのまま、引き返して、中庭へ廻ろうとすると、矢庭に燈籠のかげから槍の穂先が、するどく胸元にひらめいた。それを軽くはずして泉水のふちへ出たとたんに、たちまち五六人《ゴ六人》の浪士にとりかこまれた。一学は両刀を振りかざしながら、右に払い左に躱し、正面からとびかかってきたやつを右に握った大刀で一気に肩から斬り下げた。手応えは確かにあったらしく、仰向けざまに泉水の中に倒れるのを見すましてから、隙に乗じて廊下にとびあがった。呻き声や悲鳴が部屋の隅々から聞えてくる。もう味方の侍の中で防戦している男は一人もいなかった。  一学を目がけて斬り込んでくる浪士の数は五人、十人とふえてくる。眼も醒《-さ》むるばかりの雪の色であった。  よき死に場所だという気持《気持ち》が、はなやかな思いを湧き立たせるようである。血《血’》にまみれた彼の両刀に月の光がキラキラと映った。一学はふたたび敵の重囲の中へ《へ’》おどりこんだ。もう盲目滅法《盲滅法》である。彼は腕のつづくかぎり根《/コン》のつづくかぎり斬《切》りまくった。乱闘乱撃の中で一学は横から来た敵に足を払われたと思うと、間一髪で、声も立てずにぶっ倒れた。 「手ごわいやつじゃった、清水一学に相違あるまい。」雪の上に両刀をしっかりと握りしめたまま倒れている一学の死骸を土足で踏みつける男は一人もいなかった。  江戸からの噂は連日のように横須賀村へ流れてくる。村から選抜されて吉良邸に仕えていた百姓《ヒャクショウ》の娘や青年たちが悄然として帰ってくるにつれて村《/村》の空気は次第に険悪になってきた。「何《なん》というむごたらしい、──あの御老体をそのように寄ってたかって」  老人たちは話に聴き入りながら、手を合せたり珠数をつまぐったりした。なさけぶかい御領主さまにつきまとった四十七人の浪士は鬼畜にもひとしい男たちであった。 「それで、どうした、藤作は?」  威勢のいい男が腕まくりをして気色《ケシキ》ばんだ。「藤作だけは、まさかおめおめとやられはすまい」 「惜しいことをなされました、前の夜の酒で、ぐっすりと寝込んでいなされ、寝巻の上から袴をはいたままとびだしてゆかれましたが、《:、》あの晩、敵を正面から引きうけて闘われたのは藤作様と小林様《小林さま》くらいのものでございましょう」  清水一学を子供の頃からよく知っている四十《シジュウ》すぎた女中が悲しそうな声でいった。女中たちはみんな押入《押入れ》の中や縁の下でふるえていたのだ。清水一学の働きぶりについて彼女たちが知るよしもなかったが、あとからの噂によると一学だけは小林とならんで吉良家のために気を吐いた勇者であることが江戸市中にも知れわたった。しかし、上野介に浴せかける嘲罵の声はもう村境までひたひたと迫っている。おくれて江戸から帰ってくる連中も、三州吉良の住民だというと、もう誰からも本気で相手にはされなかった。 「あいつは吉良だよ」  という声が、一歩村《一歩’村》の外へ《へ’》出ると、どこからともなく聞えてくる。忠臣蔵が方々《ホウボウ》であたらしい感動をよびおこすにつれて横須賀村《/横須賀村》の住民たちは肩身の狭い思いをしなければならなかった。しかし、いつまでも息をひそめていられるものではない。他領へ嫁にいった娘や、養子にやられた青年たちが吉良出身という理由で破談になり、村へ帰ってくると、彼等は、徐々にすくめていた肩をそびやかした。 「吉良領がどうしたんだ、忠臣蔵のへっぽこ芝居にたぶらかされている奴等《ヤツら》におれたちの気持《気持ち》がわかってたまるもんかい、《:、》よし、ひと口でも吉良上野《吉良コウ-ズケ》の悪口《悪くチ》をたたいてみやがれ、そのままにしておくものか」  青年たちは三人五人と肩を組んで、祭礼があるごとに他領へ押しかけていった。可哀想なのは上野介よりも彼等自身の姿である。  ある晩、岡崎の町までいって、こっそり忠臣蔵の芝居を見て帰ってきた男が、自暴酒《ヤケ酒》をあおりながら村の衆に報告した。 「阿呆らし《し-》くて見ていられねえや、おい藤作が上杉家の附《付》け人になって出てくるんだよ、そいつがお前、清水一角と名前まで変っていやがるんだからおかしくって」  二百五十年間、横須賀村は門戸をとざし、節をまもりとおした。誰れひとり藤作に会った男なぞはもういる筈もなかったが、しかし彼等は同じことを同じ調子で語りつたえていた。赤馬にまたがった上野介の姿はもう彼等の記憶にこびりついてしまっている。高原にかこまれた黄金堤には秋風の立つのが早い。今年も、もうそろそろ秋の夜祭の季節が近づこうとしている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「仇討騒動異聞◇ 時代小説の楽しみ【10】」新潮社】 【   1991(平成3)年2月5日】 【底本《底本’》の親本:「特集◇ 文藝◇ 臨時増刊号」河出書房】 【   1956(昭和31)年12月25日発行】 【※《◇》底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【入力:sogo】 【校正:フクポー】 【2018年1月27日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。