本所松坂町 尾崎士郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)吉良《きら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)人間万事|塞翁《さいおう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#丸10、1-13-10] ------------------------------------------------------- [#ここから1字下げ] 吉良《きら》の殿様よい殿様 赤いお馬の見廻りも 浪士にうたれてそれからは 仕様がないではないかいな、―― [#ここで字下げ終わり]  巷間《こうかん》に流布《るふ》されている俗謡は吉良郷民の心理を諷《ふう》したものであろう。まったく仕様がない。メイファーズである。人間万事|塞翁《さいおう》が馬、――何が起るか見当もつかないところに人間の宿命があるのであろう。終りよければすべてよしというのはシェークスピアの戯曲であるが、家庭を愛し、隣人に慕われ、善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終りに近づこうとするに及んで、運命がだしぬけに逆転する。  もし、私の郷里の殿様である吉良|上野《こうずけ》が元禄《げんろく》十三年の秋、中風か何かで死んでいたとしたら、終戦後、戦争に関係のある英雄豪傑がことごとく抹殺された今日の歴史教科書の中においては追放をうけない史上の人物として、メモランダムケースによる「好ましからざる人物」の折紙をつけられる筈《はず》もなく、名君吉良上野の令名は日本全国を風靡《ふうび》していたであろう。  まったく惜しいことをしたものである。幸不幸、運不運のわかれ目は間一髪、しまったと思ったときはもうおそい。因果応報なぞというのは嘘《うそ》の皮である。  私の郷里は正確にいうと愛知県|幡豆《はず》郡横須賀村であるが通称「吉良郷」と呼ばれ、後年この土地に任侠《にんきょう》の気風が汪然《おうぜん》として沸《た》ぎりたったのも、彼等が尊敬|措《お》く能《あた》わざる領主、吉良上野に対する愛情の思い止みがたきものに端を発しているといえないこともない。いやいえないどころか、世を怨《うら》み、運命に憤る庶民の感情は三百年間、大地に沁《し》みとおる水のごとく綿々として今につづいているのである。  もし嘘だと思ったら「吉良郷」まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁《ささや》いたら、どんな結果を生ずるか、私(作者)[#「(作者)」は1段階小さな文字]といえども軽々しく保証のかぎりではない。  村には「吉良史蹟保存会」というものがあって、名君行状の数々は余すところなく調査しつくされているが、「保存会」から刊行しているパンフレットの中にある年譜にも次のような一節が書き加えられている。 「世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙に遑《いとま》あらず、これすべて芝居浪花節の題をもって史実なりと誤認するより起る。宮迫《みやば》村出生の清水一学、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の斎藤清左衛門等を、松の間|刃傷《にんじょう》後、上杉家より護衛のため附け人として来たるというがごときその一例にして真に嗤《わら》うに堪えぬ、云々」  嗤うに堪えぬ。どころか彼等の怒りは心頭に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というものがあった。赤馬は上野介の愛撫《あいぶ》した彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者もつれず領内の巡視に出かける。そのときの上野介は宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶった好々爺《こうこうや》で彼は道で、すれちがう誰彼の差別もなく、和やかな微笑を湛《たた》えて話しかけた。  菜種の黄、レンゲの紫に彩られた田舎道に領主の赤馬が絵のようにうかびあがると鼻たれ小僧どもがわいわい騒ぎながら駈けあつまってくる。  春の陽ざしにゆるやかな影を刻んで、のろのろと動いてゆく赤馬の姿の愉《たの》しさが象徴するものは上野介の人徳ででもあった。  領民の不平や不満は細大もらさず一つとして領主からとりあげられぬものはない。この好々爺は、気が向くと、細葉(ホソバ)の垣をめぐらした百姓家の前へ馬をつなぎ、 「いい天気じゃのう、ああ咽喉《のど》が乾いた、――茶を一杯所望するぞ」  と、屈託のない声をかけながら、軒の低い百姓家の暗い土間の中へのっそりと入ってゆく。 「これは御領主さま」  野良着のままの老百姓が、裏で働いている。女房に、それ茶を出せ、それ座蒲団を、なぞといっているあいだに彼は縁ばたに腰をおろす、下肥えのにおいがどこからともなく漂ってくる庭先きで、女房が運んでくる出がらしの番茶を啜《すす》りながら今年の植附けはどうだったとか、暮し向きに不如意なことはないかとか、世間ばなしに笑い興じている上野介の姿の中には、およそ領主というものにふさわしい威厳はどこにもなかった。  もちろん、彼にも名君らしい行状を意識的に示すことによって村民の信頼を深めようという気持がなかったわけではあるまい。しかし、それがために、あらかじめ新聞社に電話をかけ、彼が農家を訪問する時間を打合せ、写真班に、馬の頭を撫でているところを特に写させるような真似はしなかった。  今もなお、横須賀村の外郭に黄金堤という名前で呼ばれている堤防の一部が残っているが、これは彼が、灌漑《かんがい》の便に乏しく、毎年梅雨期に入ると雨水が氾濫《はんらん》して水害に悩まされている吉良郷の住民のために丘陵の起伏を利用して築いた堤防である。これが実現されると領内の耕作地はたちまち豊饒《ほうじょう》な田園に一変するが、しかし、これに隣接する他領、特に岡山以北の土地は矢作《やはぎ》川大平川の下流が逆流することになるので隣接領の大名から再三中止の申入れがあったにもかかわらず、一度|決潰《けっかい》したら二度と再築しないという約束で、強引に築きあげてしまった。全村の農民が土木工事に参加した。高さ十三尺、長さ百間の堤防は一夜のうちに出来あがってしまったのである。  これがために水害はたちまち跡を絶った。新秋の風は肥沃千里の田園をかすめて、村民の生活は年毎に裕福になってきた。それが終ると、彼はすぐ道路の改修にとりかかり、一種の耕作整理を断行した、――すべて、上野介が四十をすぎてからの行状で、領民と彼との接触はいよいよぬきさしならぬものになってきた。  このような隅々にまで善政の行きわたっている村に悪代官なぞのはびこる余地はない。入っては、従四位上少将、高家《こうけ》の筆頭、出《い》でてはすなわち一代の名君、禄《ろく》は僅《わず》かに四千二百石ではあっても、江戸城内における彼の権勢と、領地における実収入は優に四五万石の大名を凌駕《りょうが》していた。  その上、徳川家と彼との関係は単なる君臣という言葉で解決することのできないようなふかいつながりをもっている。  系図をひろげただけで一目|瞭然《りょうぜん》であるが、彼こそは清和源氏の直流南北朝から応仁の乱を経て上野介の代にうつるまで五百余年間、そのあいだに幾度か変転する時代の波にもまれたとはいうものの吉良一族は、北条時政の娘を母として生れた義氏以来、同じ領地に君臨していた。  それも徳川家康の父広忠の代までは、横須賀村の東端、駮馬《まだらめ》東条の街道にちかき丘の上に小なりとはいえ一城をまもるレッキとした城主であった。  徳川家とのつながりは、広忠が幼年の頃であるから、上野介の代から数えればそれほど遠い昔ではない。戦国乱世の習わしで、浮沈定めがたき運命に遭逢《そうほう》した徳川一家は四分五裂の窮境に陥《お》ち、やっと十歳になったばかりの広忠は、時の東条城主吉良持広をたよって落ちのびてきた。  広忠の幼名は仙千代であるが、持広は身をもってこの一少年をかくまい、進んで仙千代のために烏帽子《えぼし》親となって、彼に元服させ名前の一字をあたえて広忠と名乗らせた。  昨日は人の身の上、今日はわが身の上である。家臣たちに迎えられて広忠が岡崎城に帰る日が来た頃には、吉良一族は、城主持広の歿後《ぼつご》戦乱の波にもまれて今川勢の強襲に遭い、藤浪|畷《なわて》、鎧《よろい》ヶ|淵《ふち》の戦いにもろくも敗れた。落城の惨苦を辛うじて逃れた当主義安の未亡人俊継|尼《に》は、亡き義安のわすれ形見、義定をつれて駿河《するが》を転々としていたが、永禄十二年、吉良荘に帰ることをゆるされ、瀬戸村にささやかな草庵《そうあん》を結んで侘《わび》しい生活をつづけていた。  そのことは、風のたよりで、どこからともなく、早くも三河一円に儼《げん》として勢威を保っている若き徳川家康の耳にも伝わってきた。家康も父の恩に酬《むく》いたい気持に唆《そそ》られたものらしい。天正七年正月、鷹狩に名を託して瀬戸村へやってきた。家忠日記によると、彼は俊継尼を伯母としての礼をもって対面し、その日の引出物に瀬戸全村二百戸の知行をおくった上に、 「義定の将来は必ず某《それがし》がおひきうけ申した、わが父広忠のうけた御恩は夢にも忘れたことはござらぬ――成人したら岡崎へ来られるがよい」  と、くりかえし言い残して帰っていったという。暗澹《あんたん》たる吉良一族の前途は明るい輝きにみちみちてきた。  もし、義定が家康の知遇に応じ得る才幹にめぐまれた男であったとしたら、この好運をとり逃すようなことはなかったであろう。家康は青年義定のために彼の一家を再興するための、はなやかな機会をねらっていた。  時代は次第に熟してくる。豊臣の天下が来ると家康は内大臣になり、二百万石の大《だい》大名になった。義定にしてみれば、父祖の家名どころか、名誉も権勢も手に唾してとるべしである。しかし、運はついに人によって決する。家康がいかに彼のために絶好のチャンスを選ぶために苦心したところで、所詮《しょせん》、槍《やり》ひと筋につながる戦場の功績なしには義定を一挙に五万石、十万石の大名にとりたてるというわけにはゆかぬ。義定は、このようにめぐまれた境遇に身を置いているにもかかわらず、しかし、戦国に生きて一家を成す男ではなかった。性来の庸愚《ようぐ》、怯惰《きょうだ》、――剣戟《けんげき》の音を聞いただけで唇が乾いて胸がドキドキするような男だから、血刀をひっさげて戦場を駈け廻るなぞということはもってのほかである。今までにも機会は何べんとなくあったが義定はそのたびごとに家康の期待を裏切るよりほか道はなく、家康も義定の将来はひきうけたと口約束はしたものの、当の義定の器量は家康にもそろそろわかってきたらしい。  そこへ、慶長五年、天下分け目の関ヶ原となった。もし義定が気の利いた男であったら、敵陣の中へおどりこんだり名だたる大将と組打ちなぞをしなくとも、彼は井伊直政の手勢に加えられ、曲りなりにも遊軍の一部将として扱われていたのだから、なるべく強そうなやつのあとから敗走する敵軍を追って、恰好だけでもせめて勇気|凜々《りんりん》たるところを示しているだけでよかったのだ。それだけで、どさくさの論功行賞にまぎれて一万石くらいの大名にはとりたてられていたであろうが、しかし彼ならびに彼の軍隊は後方にあって一歩も動こうとしなかった。  これが、ほかの場合であったら、いかに気の長い家康といえども、義定を一喝して瀬戸村へでも追い返してしまったであろうが、しかし堂々たる決戦に勝利を占め、一夜にして天下に君臨した家康にとっては、義定が武勲を立てようと立てまいと大した問題ではない、すっかり上機嫌になっていた家康は、唯、関ヶ原に出陣したというだけの理由で彼に、横須賀、吉田、鳥羽、一色その他の部落を合わせた吉良郷に、三千二百石の禄高をあたえた。破格にちかい恩典というべきであった。  上野介はその義定から四代目にあたる。いよいよ泰平の時代となってみれば、義定との関係がどうあろうにもせよ、江戸城内における彼の地位は牢として抜くべからざるものがある。  況《いわ》んや、上野介は義定のような凡庸な男ではない。彼が将軍綱吉に謁見《えっけん》を賜わったのが十三歳のときであり、綱吉もまた彼と同じ十三歳であったから、長ずるにつれてその信任はひと方ならぬものがあったというのも当然であろう。十七歳にして従四位に叙せられたのも偶然ではない。十八歳で結婚したが、彼の女房は米沢十五万石、上杉弾正|大弼《だいひつ》綱勝の妹である。これと同時に上野介の長男三之助は上杉家の養子となって綱勝のあとを継いでいるし、長女鶴子は島津家に入って薩摩守綱貴の室となっている。  彼の代になってから四千二百石を拝領することになったが、しかし知行の多寡《たか》はもちろん、高家筆頭なぞという地位も表面の格式だけで、かつては百二十万石の雄藩、謙信入道の直系である東北の雄藩上杉と、九州の名門島津をうしろ楯《だて》として、将軍綱吉の知遇に任ずる上野介|義央《よしなか》が江戸城内においてどのような権勢を保っていたかということは想像に絶するものがあったであろう。  齢《よわい》四十九歳に達した上野介は、上杉家に生れた春千代を養子として鍛冶橋《かじばし》の吉良邸に迎えた。自分の長男を上杉家にやり、こんどは養子を上杉家から逆輸入するというようなことは実にややこしいはなしであるが、このややこしさの中にも上野介の存在がいかに重要視されていたかということを立証するに足る理由のあることはいうまでもない。  それはともかくとして、五十にして天命を知った彼は、父祖の霊をまつる岡山の華蔵寺に梵鐘《ぼんしょう》の供養を行った。彼にしてみれば、今や江戸城内における彼の地位は位人身をきわめたというべきものである。  自分の能力の計算に謙虚であった彼は、現在の境遇に心から満足しきっていた。しかし、上野介相当の誇もあれば名誉もある。それを思うがままに実現したところで誰に遠慮し、誰をはばかるところがあろう。人生もそろそろ終りに近い。人の世の儚《はかな》さを、せめてもの思い出として、彼は吉良歴代の系譜の中から従四位に叙せられたものだけをえらびだし、三体の木像を刻ませた。左が義定、中央が義安、右が自分、すなわち上野介義央なのである。  小堀遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を模《も》してつくったといわれ、本堂から長い渡り縁をつたわって一段下った書院風の客室へはいると、鬱蒼《うっそう》と茂る境内の杉林を背景にした中庭は淡々とした趣向の中に、しっとりと心に迫るような風致をたたみあげている。  無造作にならべた石や、植込の松の配置にも、自然に調和した落ちつきがあり、控えの間の窓障子をあけると、額におさまった絵のように鐘楼がうかびあがる。上野介はこの部屋がすきで、領地へかえると、ほとんど陣屋へは入らず、大抵華蔵寺の一室で日をすごしていた。  三体の木像を安置した霊屋が出来ると、彼は自分の墓をつくった。もはや、この世に思いおくことはない。強《し》いて言えば、あとはただ名君として行状を後世に残すことだけである。  元禄五年の春、五十二歳になった上野介は飄然《ひょうぜん》として領地へかえってきた。着いたのは三月のはじめの雨の日である。大気はまだうすら寒かったが華蔵寺には早くも春の気配が漾《ただよ》っていた。  その夜、上野介は天英|和尚《おしょう》の点ずる茶を喫したあとで、歌をつくった。 「雨雲は今宵の空にかかれども晴れゆくままにいづる月かげ」  俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている、いかにも名君の心境であろう、――上野介は、長旅の疲れでその夜はぐっすりと眠った。翌日は未明に起きて、父祖の墓に詣《もう》で、それから早春の田舎道を赤馬に乗って素遊する手筈が整えられていた。  天英和尚と、昔ばなしに打ち興じ、これから寝に就こうとするとこへ、代官唐沢半七郎が駮馬村の名主利右衛門同道でやってきた。  上野介は利右衛門の来訪を伝えられると、用向を訊《き》こうともせず、すぐ通せといった。六十をすぎた利右衛門は唐沢半七郎のあとについて廊下の前にひれ伏した。 「殿様にはいつもながら御機嫌うるわしく、恐悦のいたりに存じあげます」 「まア、まア」  と、上野介は片手をひろげて遮《さえぎ》りながらいった。「どうした、領民、いずれも無事にすごしているか、――遠慮せずと、こっちへ入るがよい、何か急な用事でもあるのか?」 「百姓一同御高恩に感泣いたしております」  唐沢半七郎が膝を敷居際に乗りだした。 「それは何よりじゃ」 「おそれながら、それにつきまして」 「何じゃ?」 「格別の御慈悲におすがり申したき出来事が発生いたし、某の一存にて計り定めがたく、ぜひとも殿様の御判断を仰ぎたいと存じまして」 「いや、何でもいうがよい、――その方一存で計えぬというのはよくよくのことであろう。人命にでもかかわることか?」 「ありがたく存じあげます。事の仔細《しさい》は名主利右衛門より言上いたすことと存じまするが、おそれながら今日持参の嘆願書、ひととおりお眼どおし下さりまするよう、つつしんでお願いいたします」  半七郎が、うやうやしく差しだした嘆願書を上野介は無造作にうけとると、すぐ短檠《たんけい》の灯《ほ》かげの下で一気に読み下した。事件は上野介の到着する二日前に起ったのである。  筍《たけのこ》の名産地と呼ばれた吉良領の中でも駮馬一帯は特に本場とされて、うねりつづく丘陵の傾斜面は、道という道が竹林にかこまれている。  平坦な街道は山裾を縫う坂の下にあった。しかし、村とはいうものの、竹藪《たけやぶ》の中にぽつんぽつんと小さな家が茅葺《かやぶ》きの屋根をうかべているだけで、戸数は合せて四五十戸もあろうか、――どの家にも低い土塀《どべい》にかこまれた細葉の垣根があった。  その昔、南朝の遺臣、足助次郎重範の一族が、段々|山麓《さんろく》から山づたいに逃れ、此処《ここ》に落ちのびて臥薪嘗胆《がしんしょうたん》、樵夫や百姓に身をやつして生活の基礎を築いたのが起源とされている。  山にかこまれているだけに気温が高く、谷合いの道には紅梅の花の蕾《つぼみ》がふくらみかけていた。月のうつくしい晩である。黒い影が竹藪の中のほそい道をのぼってきた。丘のかげに、屋根の傾きかかった小さい百姓家があった。 「いるか」  太く濁った、ねばりつくような声である。  大地を踏みつけるような乱れた足音が聞えた。 「寒いのう、おのぶさんいる、かや?」  木目が荒れて、ところどころにすき間ができ、ひと押しすればすぐ倒れそうな板戸である。その板戸を指先きで、コツコツとはじいた。  すき間から覗《のぞ》いてみると、土間につづく板縁の横に囲炉裏があり、枯れた雑木の枝がくすぶりながら燃えている。栗の実のはぜる音が聞えた。  三十をすぎた母と十四になる娘と、七つになる息子との三人ぐらしである。母と娘が顔を見合わせた。また来やがった――と思うだけで、もう身も世もない気もちなのである。  おのぶは、娘をうしろへ庇《かば》うようにしながら、 「誰かな!」  低い、もつれるような声で表の板戸の方を向いた。「今夜はもうやすんだでのう」  そういってから慌《あわ》てて娘の肩を小突いた。 「お絹、そっと裏から出あ、藤作さんに、栗がよう焼けたからおいでといってな」 「うん」  十四にしては大柄すぎる。つやつやしい皮膚の色をした、丸ぽちゃで、ふくふくとし肉づきは今にもはちきれそうである。やっと娘になったばかりの、色気にはまだまだよほど間の遠いかんじではあるが、しかし、それだけに、あどけない眼には夢みるような浄《きよ》らかさがあった。  生活の習慣から自然に生じたものらしい。――彼女はぞくぞくっと身ぶるいした。男のおそろしさを、むしろ本能的といいたいほど肉体に犇々《ひしひし》とかんずるのである。 「そいだが」  母の耳に口をよせてささやいた。「おっかあ、大丈夫かや、ひとりで?」 「早うゆけ!」  おのぶは、きつい眼で睨みつけた。もはや蛇にみこまれた蛙である。そんな言葉のやりとりに手間どっている余裕はなかった。とたんに表の声が、ガラリと変った。 「おい、いるのかいねえのか?」  じりじりしているらしい、いやがらせである。いることはわかりきっているのだ。返事次第で蹴やぶっても入るぞ、という威嚇《いかく》をひそめた声である。  おのぶは、そっと土間へおりてから、急に声の調子を変えた。 「権次さまかね?」  カンヌキにはわざと手をふれず、そっとうしろを振りかえったのは娘が裏口から出てゆく姿を見届けたかったのであろう。どうせ、唯で帰る相手ではない。おのぶはこういう運命にもうすっかり馴れついていた。娘の眼にふれるところにいたくなかっただけのことである。  それと同時に、外にいる権次にも娘の抜けだしたことを気どられたくなかった。彼女は両手でガタガタと戸をゆるがし、それから力いっぱいに左へ押しあけた。 「おい、気をもたせるなよ、先客がいるのかと思ってハラハラするじゃねえか」  熟柿《じゅくし》くさいにおいが、あぶらぎった体臭の中に溶けて、ぷうんと鼻先に流れてきた。おのぶは、わざとらしく捨鉢《すてばち》な笑顔を見せながら、 「ふざけるもんじゃないよ、人聞きのわるい」  男と死にわかれてから早くも六年になる。女の手ひとつで、とにもかくにも一家の生活を支えて、野良仕事はもちろん、機織《はたおり》から、近所の養蚕《ようさん》の手つだいまでやって、かいがいしく働いているおのぶの顔は浅黒く陽にやけてはいたが、三十五の今日にいたるまで小皺《こじわ》ひとつうかんでいない。眼と鼻のあいだの寸が少しつまっていることだけが難といえば難であるが、しかし、内に疼《うず》く肉体の若さは化粧をしていないだけにみずみずしかった。 「惚《ほ》れてかよえば千里も一里というが、山坂となると一里の道は辛いぞよ」  柄にもない気のきいた台詞《せりふ》である。下顎《したあご》のぎっくりと骨ばった、平べったい顔は酒で赤黒く火照《ほて》っていた。そいつが、盲目縞の着物に対の羽織というと、いかにも板についているが、それも垢《あか》じみて、裾がすりきれている。 「そろそろさめてきた――早速だがいっぱいひっかけたいな」  落し差しにした一刀を鞘《さや》ぐるみ腰からはずして、縁ばたにおいた一升徳利を囲炉裏の前へ押しだした。  それから、すぐ、あたりをきょろきょろと見廻しながら、 「お絹はどこへいった――さっき、声が聞えたと思ったが」  ほそい眼にかすかな微笑をうかべた。 「藤左衛門さんとこへ風呂をもらいにいったよ、何度も呼びにきてくれたもんでな、ほっといてもわるいと思って」 「まア、いいやな、そのあいだにひとやすみするかな」  立ちあがって奥の間へ入ろうとするのを、おのぶは慌てて障子の前へ立ちふさがった。 「春次郎が寝ついたばかりで、お前さん、音を立てちゃすぐ眼がさめちまうよ」 「今夜はいやに嫌うじゃねえか――よし、ほいじゃ、用談の方を先きに片づけちまうべい」  どうせ、手の中の獲物である。ジタバタするだけさせておいてからおさえつける愉しさを心得ぬほどの青二才ではない。わざと糞《くそ》落ちつきに落ついて、おのぶが不承不精に出す湯呑へ、手酌《てじゃく》でなみなみとつぎ入れた。  渓流の音が湧くように聞えてくる。河鹿《かじか》の鳴く声。さやさやと鳴る笹《ささ》の葉ずれの音。 「もう、お前さん、そんなに酔っとるのに、いいかげんにしといた方がいいよ」 「いやに突っかかるじゃねえか――どうせ、今夜は帰れやしねえんだ、来る早々素っ気ないことをいうなよ」 「だって、お前さん、春次郎だって、もう七つになるよ、バカなことを」 「何をバカな――おれのいっているのはお絹のはなしだぜ、ハッキリと返事をきかなきゃ帰れやしねえじゃねえか、桔梗《ききょう》屋の旦那はかんかんになっているんだ、あれから何日経つと思う、これじゃ、仲に入ったおれの立つ瀬がねえよ、子供の使いじゃあるめえし」  桔梗屋というのは、山麓の横須賀村に隣接する富田郷のつくり酒屋の主人である。五十はとっくにすぎているが、性来の色ごのみで、そいつが片手間に金貸稼業をはじめたのだから何をやりだすか推して知るべしである。奉公女とくると下働きの飯焚《めした》きから日傭《ひやと》い女にいたるまでかつて手をつけなかったためしはなく、それも大してあくどいというやり方ではないが、親切ごかしに貧乏な水呑百姓に金を貸してやっては、奉公名儀で小綺麗《こぎれい》な娘をつぎつぎと手に入れるキッカケをつくる。殊更、無理難題を吹っかけなくとも存分に慾望《よくぼう》をみたすことができるとすれば、先ず結構なお道楽というべきであろう。もちろん、赤ん坊が生れたら生れたなりに、金のつかいよう一つで結構どうにでも片がついてゆくものである。  その要領を呑みこんで、手先に使われているのがこの近在を根城にする賭博渡世の権次で、「こび権」といえば醜名は全村に鳴りひびいているけれども、彼もまた、人情豊かな吉良領の中で一応、不逞《ふてい》無頼の鼻つまみものになっているというだけのことである。「こび権」の「こび」は人に「こびる」という意味と、こびりついたら離れぬという意味と二様に通じている。つまり、強いものや金のあるやつは飽くまでこびへつらい、相手が弱いと見こんだらこびりついて離れぬという、型どおりの寸法書きに狂いのない当世向きの小器用なやつなのである。もっとも、それでいて彼自身がいっぱしの任侠の徒を気どっていることはいうまでもあるまい。  女ひとりで貧しい一家を支えていれば、これも土地の習慣で、祭りや婚礼の夜、振舞酒に酔った若い衆たちが、未亡人の家を遊び場所にするのは必ずしも昔にかぎったはなしではない。  姉もさしたに妹もささしょ同じ蛇《じゃ》の目のからかさを――と盆踊りの唄にはずみをつけて、つぎつぎの梯子《はしご》酒を飲み歩くのも素性のわるい若い衆だけではなかった。いずれにしても牧野姓を名乗るおのぶの家がいつの間にか彼等にとって、なくてはならぬ場所になっていたことだけはたしかである。  桔梗屋の隠居の頼みに応じたのが権次であるかどうかということは疑問であるが、しかし、六年間|孤閨《こけい》をまもっていたおのぶの色香にうつつをぬかした彼にとっては、もはや役得どころのさわぎではない。古往今来、一挙両得というのは商法の道で、むしろ、今となると桔梗屋の方がダシに使われているというべきが至当であろう。 「おれにまかしときゃ、わるいようにはしねえよ、何しろ隠居の気の短いことじゃ、このおれだって手こずっているんだからな、どうだい、明日といわずいっそのこと今夜、とにかく、すぐ帰ったっていいんだからな、お目見得《めみえ》だけにでもつれてゆこう、なアに着物なんぞ着替えるにも及ばねえや、ふだん着で結構だよ、風呂にいったというんならちょうどいいじゃねえか」 「そんなこと、お前さん」  相手の魂胆が自分にあることはわかりきっている。むっとこみあげてくる感情をおさえていると、次第におのぶの表情が硬ばってきた。それを持ち前の愛想笑いにゴマ化しながら、 「まだお絹には、ひとことも話しとりゃせんのに、いくら親だからといって、そんな無体なことを」  長い火箸《ひばし》で絶えまなしに囲炉裏の中から真黒に焼けた栗を拾いだす、同じ動作を無意識のうちにくりかえしていた。 「おい、何だって、今になりやがって」  声の調子が一変する。おのぶはびくっと肩をふるわせながら身をひいた。「だけんど、あんた、たしかにいったじゃないの、じっくり考えてから御返事するって」 「考えるにも程度があらア、あれから、もう十日も経っているんだぜ、それじゃあ、何ぼ何でも桔梗屋の隠居が可哀そうだ」  こび権は、すばやく内ぶところへ手を入れたと思うと、紙でひねった小さな包を一つ、おのぶの眼の前へつきだした。「給金の前渡しだといって、ちゃんと預ってきたんだ。遠慮することはねえよ、しまっておきねえ」  さア、どうだと言わんばかりに胡坐《あぐら》の腰をゆるがし、左手で毛脛《けずね》をさすりあげた。  竹藪の丘を一つ越えると藤左衛門の屋敷である。  十五になったばかりの長男の藤作は一年ごとにぐいぐいと背丈《せたけ》がのびて、がっしりとした骨組はうしろから見ると未成年の子供のようではない。  草相撲のさかんなこの土地でも、大人の力士に伍して、大関とまではゆかないにしても三役から下ったことはなかった。  お絹は小さい頃から、母といっしょに藤左衛門の家へ、農繁期の手伝いにゆく習慣がついているので、ひとり息子の藤作とは兄妹同様に扱われている。  親孝行――なぞというと近頃はすっかり流行おくれの肩身のせまい廃《すた》り言葉になっているが、子供の権利だとか義務だとかいうことがうるさく宣伝されない時代のことである。前の年(元禄四年)[#「(元禄四年)」は1段階小さな文字]の秋から藤左衛門が軽い中風の気味で寝つく日が多くなり、藤作は一人で大人の三倍も稼いで祖母と母と病気の父親を養っていた。  燈芯《とうしん》のうすい行燈《あんどん》の灯が破れた障子にうつる。土門をはいると野良着のままで薪《まき》を割っている藤作の姿が見えた。 「ああ、よかった」  と、お絹はひとりごとのように呟《つぶや》き、ほっと溜息をついた。 「何だ、お絹ちゃん」  藤作はお絹が嫌いではなかった。うす闇の中から彼女の顔があらわれたとき、彼は妙に胸のはずむような思いがした。どうして、そんな気持になったのか自分にもわからぬ。とたんに、お絹がじっとさし俯向《うつむ》いてしまった。おどおどしている彼女の素振りにはいつもの明るさはなかった。まるで何かに追いかけられ、咄嗟《とっさ》に逃げこんできたようなかんじである。 「藤やん、栗が焼けたから来いって」 「栗?」 「うん、おっかアが来てくれって」 「栗なんか喰《く》いたかねえや」 「そいだがね」 「何だい?」  藤作は薪割りの手斧《ておの》を振りあげながらいった。 「わるいやつが来とるんだよ」 「誰だ?」 「こび権がね――いやなやつ、おっかアをいじめるんだよ、それで、帰るまで藤やんが来てくれたらいいって」 「ふうん、こび権が何しに来とるのかや?」 「藤やん、来ておくれよ」  お絹が前掛けで顔をおさえ、しくしくと泣きだした。大柄なお絹の姿は女らしさが目立つだけに、藤作の眼にいたいたしく映った。  こび権は藤作にとっては村の大人である。大人が何を仕出かそうと子供が入ってゆく余地はない。しかし、お絹のおふくろが苛《いじ》められているとすればこいつはだまっているわけにはゆかぬ。大人よりも図体の大きい藤作は、こび権に対する不安も恐怖感も持ってはいなかった。  事件はそれから三十分足らずのあいだに起ったのである。囲炉裏を前にして、おのぶを口説いていた「こび権」は話の埒《らち》があかないのに業を煮やしていた。いや、業を煮やしているように見せかけていたのである。それに、立てつづけに呷《あお》る冷酒の酔いも手伝っていたであろう。彼の眼は憤りともつかず、悩ましさともつかぬ一種異様な輝きをおびてきた。  彼は、チェッと舌打ちをしてから忌まいましそうに上唇を舐《な》めた。それから土間へおりていった。裏戸のカンヌキをかけるためである。  こび権はカンヌキをかけた上に突っかい棒をした。 「おい」  おのぶの横へ、ぴったりと坐るが早いか、矢庭に彼女の両肩を抱きすくめた。 「お前さん――春次郎が」  苦しそうに喘《あえ》ぐおのぶの肩は、ぐっと前へひきよせられた。こび権はひと息に行燈の灯を吹き消した。 「いいってえことよ、なア、お前と向いあっているうちに頭が、かあっとのぼせてきた、おらア、お前が好きだよ」  環境と雰囲気次第では、こび権よりも、もっといやな男に身をまかした経験がないわけではない。祭の夜にふらふらと入ってくる若い衆たちを迎えるためにも、こっそりうす化粧をすることを忘れたことのないおのぶだった。しかし今夜の境遇にいて、こび権の自由になる気はなかった。男の力がぐっと彼女の上体に加わって、あやうく横へねじ倒されようとしたとき、おのぶは無気味な悪寒《おかん》に全身|粟《あわ》だつような思いで、倒れながら男の顎を下からつきあげた。 「いやだよ、おらア」 「おい、声をだすなよ」  はだけた裾をおさえた男の足がぐっとのしかかってきた。 「ね、今夜は、――今夜は、今夜はいけないんだよ」  こび権も性来、気のつよい男ではなかったが、此処まで来てから場所柄を考えて引っ込むわけにもゆかなかった。  いよいよ反抗すると、おのぶの方にも、こび権をはねっかえすだけの底力があった。  必死になって、もがいているとき裏戸のがたがたとゆれる音が聞えた。しかし、その音はおのぶの耳にもこび権の耳にも聞えなかった。  裏戸が外からはずれ、野良着のままの藤作がとびこんできたのはちょうどそのときである。藤作はもう夢中だった。おのぶが殺されると思ったのだ。外の月あかりで、おのぶの上に馬乗りになっている、こび権を見ると彼は藁草履《わらぞうり》をはいたまま縁側にとびあがり、必死になっておどりかかった。首すじをおさえると、こび権の身体は機《はず》みを喰ったように横へ倒れた。 「野郎、何をしゃらくせえ」  藤作の入ってきたことがわかったら、それだけでこび権は手をはなしたであろう。相手が誰だかハッキリしなかったところへ、だしぬけに首すじをおさえられたので、女の手前いやでも彼はひらき直らずにはいられなかった。  こび権は一種の乱酔状態に陥っている。彼は衝動的に囲炉裏のそばにおいてあった刀をとった。それ以外に相手を威嚇する方法はなかったからである。藤作は胸の底で何かパチンと大きくはじけるような音を聞いた。言葉ではない。ありあまる体力の自然にあふれだす瞬間の発作である。もはや、藤作が逃げだすか、こび権が刀を捨てて這《は》いつくばるか二つに一つの道しかない。  こび権は一気に刀をひきぬいた。もちろん斬りかかる意志はなかったが、それは結局藤作の敵愾心《てきがいしん》と闘志を煽《あお》りたてることに役立っただけである。彼はほとんど無意識のうちに足元にころがっていた雨戸の支え棒を拾いあげた。  それを右手に握りしめるのと、こび権にとびかかるのとほとんど同時だった。ふらふらした足どりで、やっと立っているこび権が刀を振りあげようとしたとき、右の手首をしたたか打ち据えられて、あっという間に刀をとりおとした。間髪を容《い》れぬ変化の早業である。藤作はこび権の落した刀を手につかむとみる間に真っ向から斬りつけた。血しぶきがとび、大兵のこび権は悲鳴に似た唸《うな》り声をあげて、うしろへバッタリと倒れ、そのまま息が絶えてしまった。血刀をひっさげて立っている藤作の心に意識が徐々によみがえってきた。  おのぶは腰が抜けたようになって、虚《うつ》ろな眼をきょとんと見ひらいたまま、ひと口も物を言わなかった。いつの間にか奥の障子もとりはずされ、すやすやと眠っている春次郎の寝姿だけが、ぼうっと藤作の視野に映った。 「藤やん」  と、腹からしぼりだすような声で叫びながら、お絹がぴったりと彼によりすがった。 「すみません、藤やん」 「仕方がねえや、おれ、今から名主さまのところまでいってくる」  彼の遠縁にあたる近藤利右衛門のことをおもいだしたのである。子供ごころにも、これで一生が終りを告げたという気持がぴったりと来た。 「絹ちゃん――おれのうちへいって、おとっつぁんによう話してやってきてくれよ」  一刻もじっとしていられぬ気持である。坂道を駈けるように下ってゆく藤作のあとからお絹が息をはずませながら追いすがる。途中で何を話したのか、どの道をどう歩いてきたのか、二人ともよくおぼえていない。いつのまにか裏山づたいに華蔵寺の墓地の前へ出ていた。  藤作の運命がどうなるかということは、お絹にも大体想像がつく。おそらく生きてふたたび会う機会はあるまい。お絹の悲しさはおさえがたき愛著《あいちゃく》に変ってくる。高い杉の梢《こずえ》から流れてくる月光の下でお絹はぴったりと藤作によりそった。そこから長い石段をおりると、名主利右衛門の屋敷はすぐ左にひらけた藪のかげにあった。どこかで、ほう、ほう、と梟《ふくろう》が啼《な》いている。  この事件が村じゅうにひろがったのは翌る日の朝である。その前夜、下手人藤作の自首によって一切のことが明るみへさらけだされた。  事件は、いちいち面倒な詮索《せんさく》や調査をするまでもなく至極簡単明瞭であった。殺人行為の発生すべき直接の誘因はどこにもない。加害者にも被害者にも恩怨《おんえん》にからまる感情のなかったことはいうまでもないからである。藤作はこのとき、すでに死を決していた。名主利右衛門はこの事件をいかに処理すべきかということについて考え惑ったが、しかし順当な判断をもってすれば、いかに相手が悪評の高い男であったとしても、殺人の罪だけはまぬがるべくもないのである。  このとき六十をすぎた村の長老である利右衛門は、この事件を正式に法律の裁きにかけて、藤作の一生をむざむざと葬り去るに忍びぬ気持になっていた。いろいろ考えあぐんだ末に彼は藤作をつれて陣屋に出頭し、吉良荘の代官唐沢半七郎に事情を具申した。唐沢もまた利右衛門と同意見であり、二人にとって何よりも好都合なことは領主吉良上野介が次の日に横須賀村へ到着するという消息の入ったことである。利右衛門は久しい以前から気さくな上野介としばしば言葉をまじえたことがある。人間的な恩愛のこまやかな上野介に嘆願書を提出することがそれほど難しい仕事でないことを彼は知っていた。こんどの上野介の帰国の目的は、ひと足おくれ江戸を発足することになっていた養子左兵衛|義周《よしちか》(春千代)[#「(春千代)」は1段階小さな文字]を華蔵寺へつれてきて、あたらしくできた木像を見せるためであった。  話は前にもどる。上野介は唐沢のさしだした、利右衛門署名の嘆願書を通読してから、ちらっと老名主の顔へ視線をうつした。 「その方のことは堤防修築のとき以来、よくおぼえているぞ」  利右衛門はぐっと胸が迫って声が出なかった。 「いろいろ苦労が多いのう」 「お言葉ありがたく存じます、殿様の御苦労とくらべたら、利右衛門ごときものの苦労なぞは」 「いや、そうでもあるまい――この藤作と申す小伜《こせがれ》を、すぐさまつれてまいるがよいぞ」 「こちらでござりますか?」 「苦しゅうない、十五歳で村随一の力持ちといえば、さぞかし身体も大きいであろうな」 「おそれながら、骨格衆にすぐれ、見るからに逞しく存じあげます」  利右衛門がそういったとき、半七郎の顔には当惑の色がうかんできた。 「某より申上げます。唯今、仮牢にて吟味《ぎんみ》中でござりまするが、それも野良着のままにて御前へ推参いたさせますることはいかがかと存じまするが」 「いや、その心配には及ぶまい、すぐつれてまいれ」  鶴のひと声である。二人はすぐさま領主の御前をひきさがった。  これはまるで夢のような――いや、夢にしたところで、このような運命の忽然《こつぜん》とひらけることはあるまい。野良着のままで上野介の前にひきだされた藤作は、事件に対しては一言半句のお咎《とが》めもなく、その日から左兵衛附の小姓にとりたてられ、名を一学と改めることにきまった。名主、利右衛門をはじめ、藤作の身の上を案じていた村びとたちは事の意外におどろきながらも、しかし一様にほっと胸を撫でおろした。さすが名君の裁きである。  それから十日ほど経って、左兵衛の一行が到着すると、御霊屋びらきの式典が催された。その夜、陣の前には夜更くるまで篝火が燃え、村民の奉納した花火の音が、おぼろ月夜の空にはじけていた。うねうねとつづく山車《だし》の列は、笛、太鼓の囃子《はやし》に調子を揃えて山門から霊屋の前まで、炬火《たいまつ》の光りを先登に、あとからあとからと、夜あけがたまでつづいていた。  あくる日は、異例ともいうべき領内巡遊が行われた。いつものように、お忍び同様な赤いお馬の見廻りではない。殿様の乗馬の赤いことは例年のごとくであるが、これに随従する騎馬の武士は十人あまりで、各部落ごとに出迎えの人垣が往来の両側をうずめていた。行く先き先きに待っているものは、感謝と尊信の思いをひそめた領民たちの視線である。その眼にふれると上野介は、あふるるばかりの情愛にみちた笑顔で答える。  領民たちの眼に、大名らしい威厳もとりつくろわず、ゆるゆると馬をすすめてゆく上野介のすがたほど世にも気高いものはなかった。彼のあとから左兵衛を抱いた山吉新八郎の馬がつづき、そのすぐうしろには、見るからに愛くるしい、さわやかな相貌をした若い武士が栗毛の馬の手綱をしっかりとひきしめていた。 「あれだよ」 「えっ――あれが」 「馬子にも衣裳というが、あれが藤作か」 「あれが、のう」  行列がすぎ去ってゆくと、人垣はざわざわとくずれ、みんな口々にささやきあった。ここでもかしこでも、清水藤作、――ではない、清水一学の噂で持ちきっている。おどろきと、讃歎《さんたん》にみちた声の波紋はみるみるうちに大きくひろがってゆく。  その行列が駮馬から宮迫に入ると、沿道にはほとんど全村の老若男女が礼装してならんでいた。  ああ、清水一学。ほら、左兵衛の若殿を抱いた山吉様から二番目のあれだよ、あのきりっとした若侍、あれが昨日まで、この同じ道を炭俵を背負いながら往復していた藤作なのだ。人垣は水を打ったように、しんとしている。そのうしろから、感極って、かすかに啜《すす》り泣くような声さえも聞えてきた。竹林にかこまれたほそい坂はやっと人馬が一列になって通れるほどの道幅しかない。行列がそこへさしかかったとき、夢見るような思いで、あたりを見まわしている一学の眼に人の列から少しはなれて、低い丘のかげに、しょんぼりと立っている二人の女の姿が映った。はなれているとはいっても僅《わず》かに二間ほどの距離しかない。お絹と、彼女のおふくろのおのぶであることはすぐにわかった。四つの眼がじっと彼を見詰めている。一学は妙に息づまるような思いに胸をしめつけられた。村の人たちは、行列が見えなくなっても、まだ同じ位置から立ち去ろうともしなかった。 「おっかア」  と、お絹が母の肩によりすがって、しくしく泣きだした。「藤やんには、もう会えねえのかと思うと、おれ悲しゅうて」 「会えねえなんて、そげんなことがあってたまるかい、――藤やんはこっちを向いてニコリと笑ったのをお前も見たずら」 「おれ、もう涙が出て、人の顔もようわからんかった」 「藤やんだって、お前、きっと昔のことをおもいだすことがあるべえよ」  お絹は黙って母親の肩にもたれ、しくしくと泣いている。彼女の瞳《ひとみ》の底に刻みつけられた凜々《りり》しく逞しい小姓の姿の中に、昨日までの藤作のおもかげは、もはや探るべくもなかった。  十日あまり滞留して、祖先の回向《えこう》が滞りなく終ると、上野介の一行は江戸へひきあげていった。  一年が経ち、二年がすぎる。江戸からの消息は打ってひびくようにすぐ村へ伝わってくるが、吉良荘の人たちの注意は清水一学にあつまっていた。一学の噂になると、みんな眼の色を変え、固唾《かたず》を呑み、呼吸をはずませる。  一学の人気は江戸の屋敷の中でも大へんなもので、彼はその頃、二刀流の剣士として盛名を謳《うた》われていた浦周之助の町道場にかよい、元禄九年には早くも免許皆伝をうけた。今や上野介の側近には彼の相手になれるものは一人もいない、――というような噂が伝わってきた。  事実、彼と山吉新八郎とは同じ左兵衛づきの中小姓であるが、小姓としての格と待遇は山吉の方がはるかに上であっても武芸においてはほとんど比較にならなかった。一学は剣技に錬達しているだけではなく、それに持ち前の膂力《りょりょく》が加わって、どのような敵に対しても肉体的な迫力を示した。その進境の眼ざましさには浦周之助も舌を巻いている。おそらく、実戦になったら、彼のもつ永続性はほんとうの底力を発揮するであろうと噂されていた。  吉良郷の人たちは、あたらしい消息の入るごとに一学の帰郷を待ちこがれていた。今までは毎年必ず帰ってきた上野介が、六十ちかくなると、つぎつぎと身体に故障を生じてくるものらしく、いよいよ帰国と決定してからすぐ取止めになったことが何度あるか知れなかった。  元禄九年にも、帰郷の通報があったが、急に、十一歳になった養子左兵衛をつれて将軍綱吉に謁見を賜うことにきまったので沙汰やみとなった。元禄十一年の四月にも帰郷の内意がつたえられたが、それが九月に持ち越され、いよいよ出立という間際になって、突然の火事で鍛冶橋の屋敷が類焼し、そのまま延期になった。  火事のあとで、呉服橋の袂《たもと》に替地を拝領したので、すぐさま新邸の建築にとりかかった。若い頃から建築道楽であった上野介は、ほとんどその指揮にかかりきっていたので休息するひまもなかった。  その新邸の建築費用は二万五千五百両で、これは一切、上杉家から支出されることになっていた。このとき二十一歳になった一学は、左兵衛の剣術指南役を仰せつかり、邸内に独立したひと棟を拝領した。こうなると自然、身のまわりの世話をするものも必要になり、ふと思いだしたのが幼な馴染《なじみ》のお絹のことであった。  何よりも彼女の消息を知りたかったが、しかし、それと口に出しては言えず、一日も早く帰郷の日の来るのを待っているうちに、二三年が瞬くうちにすぎてしまった。  元禄十四年、三月――江戸城では恒例の勅使《ちょくし》を迎えることになり、このとき六十一歳になった上野介は、最後の御奉公を終えてすぐ家督を左兵衛にゆずり、吉良荘へ隠遁《いんとん》することになっていた。一学は横須賀出身であるから、本来ならば上野介に随伴させるべきであるが、しかし、左兵衛にとってお側はなれずの家来であるから、たぶん江戸屋敷へ残ることになるだろうと噂されていた。  その頃から一学は茶屋酒の味をおぼえはじめた。相棒は山吉である。酒の味がわかるにつれて酒量はぐいぐいとあがってきた。すでに二十四歳である。 「ああ。おれなぞは時代をとりちがえて生れてきたのだ――戦国の世に生れていたらなア」酔うと必ず、憮然《ぶぜん》として腕をさする。茶屋女に興味を持たぬ彼は朝から家にひきこもって、ひとりで冷酒をあおっていることもあった。  三月十四日は、うす曇りで、風のつよい日であった。早朝から上野介が登城したあとで、一学は山吉のほかに新見弥七郎と大須賀次郎右衛門を自室に招いて、朝から、ちびりちびりやっているとき、執事役の清水団右衛門が真っ蒼になってとびこんできた。その朝、城内では勅諭奉答の儀式が行われることになっていたが、兇変《きょうへん》はそれに先立って起った。  松の間の廊下で、上野介はその日の饗応《きょうおう》役、浅野|内匠頭《たくみのかみ》から、だしぬけに斬りつけられたのである。  内匠頭、刃傷の動機はこの青年大名が勅使饗応係に任命されたときから端を発する。彼は殿中の作法典範をわきまえぬため、一切の指導を上野介に仰いだ。そのときの進物が鰹節《かつおぶし》一連で、それがあまりに軽少すぎたという理由のために上野介の憎悪を買ったことに原因すると言われている。  もちろん、賄賂《わいろ》公行の時代ではあったし、大役が、儀式の指揮に任ずる上野介に心こめて贈り物をすることは当然の儀礼ではあったとしても、その贈り物の多寡に応じて態度を変えようとするほど上野介は利慾に眼のくらんだ男ではない。  血のつながりこそないが、家康との縁故による彼の地位は江戸城内に厳としてそびえている。六十をすぎて現世に望みを絶とうとしている彼が世上伝わるごとく内匠頭の訪問をうけ、その懇請《こんせい》に耳を貸しながら、かげでこっそり贈り物を覗《のぞ》いてみて、鰹節一連とはもってのほかだ、と俄《にわ》かに態度を一変して底意地のわるさをムキ出しにするなぞということが考えられるであろうか。  そのとき内匠頭とならんで勅使饗応役に任ぜられた伊達《だて》左京亮は、加賀絹数巻、黄金百枚、それに加えて狩野探幽の描いた竜虎《りゅうこ》の図双幅をおくったということになっているが、よしんば仮りにこれが事実であったとしても上野介はこれと鰹節とをくらべてみて、よろしい浅野の青二才にひと泡《あわ》吹かせてやろうと思い立つほど思慮の浅い男ではない。今日、賄賂といえば、直ちに吉良上野を聯想《れんそう》するのが、「忠臣蔵」によって煽られた民間常識とされているが、上野介の精神分析を試みて、彼が江戸城においては暴虐にして冷酷|無慚《むざん》な所行を繰返しながら、領地へかえっては恩愛あふるる名君であったという近代的な二重人格が実証される根拠がないかぎり、この事件を一方的な判断によって解決することは適当ではあるまい。三州吉良の領民が三百年間、一斉に肩をそびやかして、「忠臣蔵」を一歩も領内へ入れなかったということは、亡き領主に対する哀憐《あいれん》同情というがごとき消極的な理由からではない。若き浅野内匠頭の不幸が一斉の同情をよび起したことに理由があるとすれば、あの一日の偶然によって悲運のどん底にたたきこまれた吉良上野に何故同情しないのであろうか。横須賀村の言い分は大石一党の斬込にいたる必然の動きを否定しているのではない。彼等の眼底にちらちらと動く赤馬に乗った上野介の姿の中には「忠臣蔵」の師直《もろなお》によって象徴された奸悪《かんあく》無比な人間像はかすかな翳《かげ》さえも残してはいないのである。もし彼等が封建制下における領主と領民との関係だけで、吉良上野の仁徳を讃えているのだとしたら、吉良家の存続するあいだはともかく、これが他の領主の支配下になり、更に転々して今日にいたるまで、三百年間一定不変の感情をもって臨んでいるということがどうしてあり得ようか。  とにかく、勅使饗応の役柄というものは幕府にとっては重要なつとめであり、何びとが任命されたところで接伴の方法は柳営の内部において型どおり準備さるべき性質のものでなければならぬ。  世上つたえられる話によると、大体次のような順序によって浅野内匠頭は吉良上野のつくったワナにひっかかっている。 (第一)鰹節一連に憤りをかんじた上野介は内匠頭の懇請をけんもほろろな態度ではじきかえした。 「勅使接伴のことは愚老なぞの知るところではない、指図なぞとは余計なこと、貴下の御一存で取計らわれたらよろしかろう」 「いや、某も不肖の身をもって、万一のことがあっては申し訳ないと考え、再三御辞退申上げたるところ、その儀ならば上野介殿の指図をうけたらよろしかろうとの仰せにて止むなくおひきうけいたしたる次第、何卒《なにとぞ》若年の拙者をお引き廻し願いとう存ずる」 「それほどまでに申さるるならば是非もござらぬ、指図はともかく御助言だけは申し上ぐることにいたそう、何につけても御進物が肝要でござる、饗応にあずかる柳営内の重役にはもとよりのこと、勅使御二方に対しては日々御進物をお届けなさることをお忘れなきようにされねばならぬ」  上野介は浅野家から自分に対して莫大《ばくだい》な賄賂の届けらるべきことを期待していたというのが巷間の流説として残されている。もし果して内匠頭が彼の提言どおりに行ったとしたら、上野介はそれで満足したであろうか。前述のごとく彼はこのとき六十一歳の高齢で、茶道と歌道にうち込む以外には浮世に望みをもたぬ心境に身を置こうとしていた。彼はその頃、次のような歌を詠じている。 「名にしおふ今宵の空の月かげはわきていとはんうき雲もなし」  彼が鰹節の贈りものに不満をかんじたとしたところで、もし賄賂がほしかったら内匠頭が役目を充分に果した上でとるべき道はいくらでもあったであろう。彼は老巧の智者であるが奸才にたけた悪役人ではない。大体この世の野望に見切りをつけた男は、何でも思う存分のことを歯に衣《きぬ》を着せず、人前をも憚《はばか》らずに、ずばりずばりと言ってのけるもので、彼もまた青年内匠頭に対して言いたい放題のことは言ったであろう。これは必ずしも内匠頭だけでないことはもちろんである。いずれにしても彼が故意に内匠頭を痛めつけ、彼にキリキリ舞いをさせることによって快哉《かいさい》を叫ぶというような人柄でなかったことだけは明白である。 (第二)内匠頭は上野介の戒告をうけたが、どうしても納得する事ができず、その足で熟知の間柄である老中の月番土屋|相模守《さがみのかみ》を訪ねた。大役を全うするために吉良上野介の指揮を仰ごうとして出向いていったが、連日勅使ならびに重役に進物を差し上ぐるという事については一体どのように取り計ったらよいものであろうかという質問に対して相模守は、「これは初耳、そのような話はきいたこともござらぬ」といって一笑に附した。「饗応役がそこまで気をつかわれる必要はあるまい。日々進物を届けるなぞという先例は聞いたこともござらぬ、いかに上野介殿の意見であろうとも一から十までそれに従わねばならぬという法はない、貴下の一存にて手ぬかりなきようにされたらよろしかろう」  坊間《ぼうかん》の浮説はこのへんから次第に深刻な様相を呈してくる。 (第三)まもなく内匠頭の親友である戸沢|下総守《しもうさのかみ》と小笠原|長門守《ながとのかみ》が浅野邸へやってきて、上野介は傲慢不遜《ごうまんふそん》な男であるから、貴公が老中(土屋相模守)[#「(土屋相模守)」は1段階小さな文字]を訪問して内談をとり交わしたことがわかったらどのような意地のわるい妨害をするかもわからぬ、たとえいかなることがあろうとも、じっとこらえて忍ばれることが大切である、とくりかえし忠告して帰っていったのはそれからまもなくである。このことは室鳩巣《むろきゅうそう》の義人録の中にも出ている話だからおそらく真実であろうが、これによってみると、内匠頭と上野介との関係は柳営内でも相当噂にはのぼっていたらしい。 (第四)三月十一日、勅使の芝上野|参詣《さんけい》の接伴にあたった内匠頭は、その前日休息所の畳表をあたらしくすべきかどうかということについて上野介の意見を求めたところが、彼は立ちどころに、 「それには及びますまい」  と答えた。すると当日の朝になって、伊達家の方では院使饗応の間の畳をすっかりとりかえたということがわかった。これは上野介に一杯喰わされたぞというので慌てて江戸市中の畳屋を狩りあつめ、宿房普光院の畳二百畳を一夜のうちにとり替えさせた。それが終るとこんどは料理である。精進料理にすべきかどうかという伺いを立てたところが精進料理で結構だという返事である。ところが、いよいよとなってみると大へんなまちがいで、大鯛《おおだい》一ぴきずつを膳《ぜん》の上に備えねばならぬということがわかった。これは大へんだというので全市の肴《さかな》屋を動員してやっと何とか恰好をつけたというのであるが、苟《いやしく》も勅使饗応の大盛宴である。こんなことは大抵最初からわかっていなければなるまい。内匠頭はまるでコック長か女中頭みたいに、ひとりでヤキモキしながら台所を覗いたり、部屋の中をうろつき廻ったりしているようであるが、このようなことはすでに役割と係が当然きまっている筈である。 (第五)それがいよいよ三月十四日になると殿中で勅諭に対する奉答式が行われる。この日参内の諸大名、ならびに幕府要員はいずれも衣冠束帯で列席することを命じられた。内匠頭はこのときも長|裃《かみしも》にすべきか烏帽子に大紋にすべきかについて上野介に意見を求めた。すると長裃でよろしかろうという返事なので一応そのようにとりきめたものの、度重なる前例もあることである。またしても上野介の策謀にひっかかるのではないかという気がしたので、浅野家の重役一同相談の上、いざというときの用意をして、長裃で登場してみると果せるかな、列席の諸大名はじめ同僚の接待役一人として長裃をつけているものはない。ああ、またたばかられたかと、此処に内匠頭の憤りはついに最後的な段階に達した。すぐさま高家の控室へ出かけていって上野介に詰めよると、彼は空とぼけた態度で憎々しげにうそぶいた。 「ああそうでござったか、これは失礼を申上げた。そのような筈ではなかったが、何しろ近頃耳も遠く、もうろくのせいか間ちがいばかり起して相すまぬ」  上野介に対して信をうしなっている内匠頭が再三再四彼の指揮を仰ぎにいったということも納得のできぬはなしであるが、それよりも恒例の儀式について一切合財、上野介に聴かねばならぬという道理はあるまい。それも田舎からはじめて出てきた大名が饗応役の内匠頭に伺いを立てるということならわかっているが、参列の諸侯ことごとく一定した服装をしなければならぬという壮麗《そうれい》な儀式に、モーニングにすべきか、羽織|袴《はかま》にすべきかということについて連日殿中に詰めきっている内匠頭が当日までこれを知らないで過しているという法があろうか。それも特別に秘密を要する応対の挨拶か何かであればともかく、城内にも友人の多い彼が、全員ことごとく燕尾《えんび》服というときに、饗応役の自分だけは何事も知らず、紋附、袴で出かけてゆく筈はあるまい。浮説の作製者によると、上野介が内匠頭を憎んだ原因は鰹節一件だけではなく、彼の鍾愛《しょうあい》する美少年に懸想《けそう》した上野介が、ひそかにこれをゆずりうけたいといって所望したのをあっさりはねつけたことにふかい意趣がこもっていたということになっているが、上野介がそれほどの執拗《しつよう》な好色家であったかどうか。彼もまた若き日は当時の大名なみには女も犯し妾《めかけ》も蓄えたかも知れぬが六十をすぎた今となって猶且《なおか》つ他人の恋人に思いをかけるような粘りづよさがあったかどうか。これが「忠臣蔵」になると内匠頭の女房に哀恋の誘いをかけてはねつけられ、その意趣晴らしに内匠頭にひと泡吹かせようと決意をかためることになっている。もし彼が、それほど好色道楽の男であったとしたら、由来美人美男の系譜をひく三州吉良郷で、娘か女房を奪われて領主を怨んでいる男の一人や二人はいそうな筈である。かくて、いよいよ十四日。花ぐもりの朝であった。接待役の伊達、浅野両侯と高家の代表者は松の廊下にあつまって勅使一行の来着を待っている。  そのとき、内匠頭は何をかんじたのか、自席を立ち、上席にいる上野介の前へおずおずと進み出ていった。 「おたずね申したき儀がござる、勅使御到着のせつは、われ等接待係は御玄関式台上にてお迎えいたすべきか、それとも式台下にてお待ち申すべきか」言葉の終らぬうちに、白髪|赭顔《しゃがん》の上野介の眼がギロリと光る。「何をいま更――迂闊《うかつ》千万ではござらぬか、殿中の作法が何一つとしてわからず、それで図々しくも接待役を勤めようとは慮外も慮外」  一説によると、此処に桂昌院殿の御内使、梶川与三兵衛が出てきて、内匠頭に何か打ち合せようとするのを、そばで聞いていた上野介が、横合いから与三兵衛の肩をたたいて、 「何の御用でござるか、上野が承わりましょう。内匠頭に仰せられてもあのとおりじゃ、お役目のつとまるわけもござるまい」  この言葉が耳に入った瞬間、殺気は若き内匠頭の顔にみなぎった。  飾刀の柄に手がかかったのと上野介の身体が横倒しになったのとほとんど同時である。烏帽子のふち金で辛うじて眉間《みけん》に迫った切先をうけとめたものの、しかし頭から吹き出る血は早くも顔に流れ、浅黄の紋服に沁みわたった。上野介がよろよろと立ちあがろうとしたとき、つづく二の太刀がうしろから袈裟《けさ》がけに肩を目がけてうちおろされたが、とたんに上野介が逃げるように前へのめったので、その隙にうしろから梶川与三兵衛に抱きとめられた。 「殿中でござるぞ、御乱心めさるな」  忠臣蔵では此処が大立ち廻りになり見せ場になるのであろう。 「お放し下され、武士のなさけじゃ」  城内は煮えかえるようなさわぎである。その日の裁断は即決をもって行われた。内匠頭は即刻、奥州一ノ関の城主田村建顕に身柄をあずけられ、城中、時計の間に監禁されたが、当然老中会議が行われた上で罪科が決定するものと予想されていたにも拘《かか》わらず、将軍綱吉の一存によってその日の中に切腹が申し渡された。理由は勅使饗応の大任を帯びている身でありながら宿意をもって殿中を騒がしたる段不届至極であるというのである。民衆の同情は忽《たちま》ち翕然《きゅうぜん》として内匠頭にあつまった。  もし上野介が殿中で横死していたとしたら内匠頭に対する同情はこれほどごうごうと湧き起ることもなかったであろう。斬りつけられた上野介は、急難に臨みながら時節をわきまえ、場所をつつしみたる段神妙に思召《おぼしめ》さる――という老中からの申し渡しによって何のお咎めもなく、傷の手当がすむと、すぐ駕籠《かご》に乗せられて呉服橋内の邸宅へ引返えしたが、しかし、その処断の片手落ち、というよりもあまりにも懸隔の甚しいことが義に勇む江戸町民の心に何か腑《ふ》に落ちないものをかんじさせた。  上野介の帰国がこれによって沙汰《さた》やみとなったことはいうまでもない。同じ年の九月二日、上野介から申し出たお役御免の嘆願も叶《かな》って、彼は折角、新築したばかりの呉服橋の邸宅から本所(本庄)[#「(本庄)」は1段階小さな文字]松坂町の新邸へ移ることになった。  新邸の敷地は二千五百余坪現在の回向院の裏にあたる。町とはいっても当時は人家もまばらな部落にすぎなかった。  殿中刃傷の噂が風のように横須賀村につたわってくると、村民の代表者たちは、主君上野の安否を気づかって鎮守の神社にあつまり祈願を凝らした。華蔵寺には村の善男善女が引きも切らずに参詣し、中には木像を安置した霊屋の前で終夜一睡もしないで祈りつづけているものもあった。  上野介にしてみれば彼が六十一歳まで用意周到に築きあげた一生涯が、たった一日の不慮の出来事のために、がらがらと音を立てて崩れ落ちてしまったのである。それをふせぐ方法はどこにもない。敵討ち全盛の時代であってみれば一朝にして禄をはなれた赤穂《あこう》の浪人たちが、お家断絶、一族離散の恨みを上野介の一身に向って集中しつつあることは疑うべくもない。  上野介は只管《ひたすら》、蟄居謹慎《ちっきょきんしん》して、残りすくなき余生をもっぱら茶道にいそしみながら過していたが、しかし、それにもかかわらず彼の身辺に渦巻く妖気は日を経るにつれて次第に濃厚の度を加えてきた。  元禄十五年十二月十四日。松坂町の吉良邸では納めの茶会が催された。  客は縁辺につながる人たちばかりであったが、夜にはいって降りだした雪が時ならぬ興を添えたので、一座の空気は急にひきしまって、歓をつくすというところまではゆかないにしても、主客共に笑いさざめきあって散会したのは十時を過ぎる頃だった。  一学もその席に列していたが、外来の客が雪の中を駕籠に乗って帰ってゆくのを見送ってしまうと、表門をぎいっと閉める音が聞えた。 「おい、飲み直そう、雪見酒じゃ」  彼は同輩の新見、斎藤、小塚、左右田の四人を誘って、裏門からぬけだし、行きつけのたそや行燈、船宿「新七」の二階へあがって、どっかりと胡坐をかいた。 「近頃、浅野の痩浪人どもが江戸の街をうろついているそうだ、それについて新らしい噂は聞かぬか?」 「このあたりでも怪しいやつが、しきりにお屋敷の様子をうかがっているようですな、小林(平八郎)[#「(平八郎)」は1段階小さな文字]様なぞもこの頃では夜もおちおち眠られぬ御様子で」  新見弥七郎が、あたりをきょろきょろ見廻わした。「夜廻りなぞも、よほど厳重にしないといけませぬな」 「いや、来るときには来るよ、やつ等にしてみれば、それも尤《もっとも》なはなしだ、浪人どもが乗り込んできたら、おれはいつでもいさぎよく斬られてやる」 「だまって斬られるのですか?」 「バカめ、だまって斬られるやつがどこにある、痩浪人が何百人来たところで防ぐ気になればおれ一人で充分だ、しかし、あれだけ苦心して仇敵《きゅうてき》を討とうとしているやつをみると進んでやっつける気にはならぬ」  川ぞいの屋根につもった雪の塊りがバサリと大きな音をたてて水面へ落ちた。一学は熱燗《あつかん》の酒をぐっと一杯ひっかけ、ハ、ハ、ハ、と、はずみのついた声で笑いながら、 「いざとなると、しかし、そうもゆくまいな」  その晩は、何となく調子がはずまないので十二時ちかくなってから引き返えしてくると吉良邸裏門は雪で埋まっていた。一学は自分の部屋へ入ると、ごろりと横になり、そのまま高鼾《たかいびき》をかいて眠ってしまった。長いあいだかかって座敷のあと片附けをしている女中たちのささやきが、しいんとなった夜気を縫って、しばらくぼそぼそと聞えていたが、やがて、それもひっそりとなった。  しんしんと更ける丑寅《うしとら》の刻、――いまでいうと午前三時半という頃おいであろうか、一学が眼をさましたときは、屋敷の中は乱闘のまっ最中であった。すぐ間近かにひびく陣太鼓の音で眼がさめたのだ。一学は慌ててはね起きた。袴をはき股立《ももだ》ちをかかげるが早いか、彼はその晩、上野介と左兵衛の眠っている筈の奥の部屋へ駈けつけた。  浪士の一隊は、小林平八郎以下の護衛の武士に防ぎとめられて、まだ玄関口から中の間の廊下へ踏みこんできたばかりの所だった。  奥の寝所ではさすがに上野介は達人らしく敷布団の上に正坐していたが、十六になったばかりの左兵衛は薙刀《なぎなた》を片手に持ったまま、おろおろした表情で部屋の前を往《い》ったり来たりしている。どよめく声は前後左右から迫っていた。一学も、今となってはどこへ上野介親子を逃がしていいのか見当がつかなかった。いざとなったら、次の間の壁を楯《たて》として、とびかかってくるやつを一人一人片っぱしから斬り倒すだけのことである。  そこへ、用人の鳥居理右衛門が躍るような足どりでとびこんできた。 「殿、こちらへ」と、引きつるような声で叫びながら、上野介の身体を抱えるようにして台所の方へつれていった。  咄嗟のあいだに一学の頭には、左兵衛を逃がさねばならぬという考えがチカチカと閃《ひらめ》いたのと、寝巻のまま、ぶるぶる顫《ふる》えながら立っていた左兵衛の小脇を支えて雨戸を蹴やぶるのとほとんど同時だった。  裏庭を突っ切って植込をぬけると、すぐ隣りの土井邸の塀につづいている。一学はもう夢中だった。 「此処からお逃げ下さい、――お父上は一学が引きうけ申した、必ずお逃げ下さい、吉良家の血につながる大切なお身の上をお忘れてはなりませぬぞ」  無理矢理に、力にまかせて肩にかつぎ、えいっという掛け声もろともに、小柄な左兵衛の身体を石塀の中へ投げおとした。  これでやっと自分の役目がすんだと思うと、宿酔にしびれた全身にあたらしい血が燃えあがってきた。そのまま、引き返して、中庭へ廻ろうとすると、矢庭に燈籠《とうろう》のかげから槍の穂先が、するどく胸元にひらめいた。それを軽くはずして泉水のふちへ出たとたんに、たちまち五六人の浪士にとりかこまれた。一学は両刀を振りかざしながら、右に払い左に躱《かわ》し、正面からとびかかってきたやつを右に握った大刀で一気に肩から斬り下げた。手応えは確かにあったらしく、仰向けざまに泉水の中に倒れるのを見すましてから、隙に乗じて廊下にとびあがった。呻《うめ》き声や悲鳴が部屋の隅々から聞えてくる。もう味方の侍の中で防戦している男は一人もいなかった。  一学を目がけて斬り込んでくる浪士の数は五人、十人とふえてくる。眼も醒《さ》むるばかりの雪の色であった。  よき死に場所だという気持が、はなやかな思いを湧き立たせるようである。血にまみれた彼の両刀に月の光がキラキラと映った。一学はふたたび敵の重囲の中へおどりこんだ。もう盲目滅法である。彼は腕のつづくかぎり根のつづくかぎり斬りまくった。乱闘乱撃の中で一学は横から来た敵に足を払われたと思うと、間一髪で、声も立てずにぶっ倒れた。 「手ごわいやつじゃった、清水一学に相違あるまい」雪の上に両刀をしっかりと握りしめたまま倒れている一学の死骸を土足で踏みつける男は一人もいなかった。  江戸からの噂は連日のように横須賀村へ流れてくる。村から選抜されて吉良邸に仕えていた百姓の娘や青年たちが悄然《しょうぜん》として帰ってくるにつれて村の空気は次第に険悪になってきた。「何というむごたらしい、――あの御老体をそのように寄ってたかって」  老人たちは話に聴き入りながら、手を合せたり珠数《じゅず》をつまぐったりした。なさけぶかい御領主さまにつきまとった四十七人の浪士は鬼畜にもひとしい男たちであった。 「それで、どうした、藤作は?」  威勢のいい男が腕まくりをして気色ばんだ。「藤作だけは、まさかおめおめとやられはすまい」 「惜しいことをなされました、前の夜の酒で、ぐっすりと寝込んでいなされ、寝巻の上から袴をはいたままとびだしてゆかれましたが、あの晩、敵を正面から引きうけて闘われたのは藤作様と小林様くらいのものでございましょう」  清水一学を子供の頃からよく知っている四十すぎた女中が悲しそうな声でいった。女中たちはみんな押入の中や縁の下でふるえていたのだ。清水一学の働きぶりについて彼女たちが知るよしもなかったが、あとからの噂によると一学だけは小林とならんで吉良家のために気を吐いた勇者であることが江戸市中にも知れわたった。しかし、上野介に浴せかける嘲罵《ちょうば》の声はもう村境までひたひたと迫っている。おくれて江戸から帰ってくる連中も、三州吉良の住民だというと、もう誰からも本気で相手にはされなかった。 「あいつは吉良だよ」  という声が、一歩村の外へ出ると、どこからともなく聞えてくる。忠臣蔵が方々であたらしい感動をよびおこすにつれて横須賀村の住民たちは肩身の狭い思いをしなければならなかった。しかし、いつまでも息をひそめていられるものではない。他領へ嫁にいった娘や、養子にやられた青年たちが吉良出身という理由で破談になり、村へ帰ってくると、彼等は、徐々にすくめていた肩をそびやかした。 「吉良領がどうしたんだ、忠臣蔵のへっぽこ芝居にたぶらかされている奴等におれたちの気持がわかってたまるもんかい、よし、ひと口でも吉良上野の悪口をたたいてみやがれ、そのままにしておくものか」  青年たちは三人五人と肩を組んで、祭礼があるごとに他領へ押しかけていった。可哀想なのは上野介よりも彼等自身の姿である。  ある晩、岡崎の町までいって、こっそり忠臣蔵の芝居を見て帰ってきた男が、自暴《やけ》酒をあおりながら村の衆に報告した。 「阿呆《あほ》らしくて見ていられねえや、おい藤作が上杉家の附け人になって出てくるんだよ、そいつがお前、清水一角と名前まで変っていやがるんだからおかしくって」  二百五十年間、横須賀村は門戸をとざし、節をまもりとおした。誰れひとり藤作に会った男なぞはもういる筈もなかったが、しかし彼等は同じことを同じ調子で語りつたえていた。赤馬にまたがった上野介の姿はもう彼等の記憶にこびりついてしまっている。高原にかこまれた黄金堤には秋風の立つのが早い。今年も、もうそろそろ秋の夜祭の季節が近づこうとしている。 底本:「仇討騒動異聞 時代小説の楽しみ※[#丸10、1-13-10]」新潮社    1991(平成3)年2月5日 底本の親本:「特集 文藝 臨時増刊号」河出書房    1956(昭和31)年12月25日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正:フクポー 2018年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。