◇。◇。◇。◇。◇。 【新版◇ 放浪記】 【林芙美子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一部】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【放浪記以前】 ◇。◇。◇。  私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。 ◇。◇。◇。 【更けゆく秋の夜◇ 旅の空の】 【侘しき思いに◇ 一人なやむ】 【恋いしや古里◇ なつかし父母】 ◇。◇。◇。  私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、/九州の桜島の温泉宿の娘である。母は余所者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云うところであった。私が生まれたのはその下関の町である。──故郷に-いれられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。──八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖のアマクサから逃げて来た/浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る’旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。  今の私の父は養父である。この人は岡山の人間で、実直すぎるほどの小心さと、アブノーマルな山っ気とで、人生の半分は苦労で-うもれていた人だ。私は母の連れごになって、この父と一緒になると、ほとんど住処と云うものを持たないで暮らして来た。どこへ行っても木賃宿ばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ‥‥。」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へ入ったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃’流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京町近くの小学校へかよって行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾と言った順に、4年の間に、7度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。 「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ‥‥」  せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭になっていたのだ。それは丁度、ノウガタの炭坑マチに住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせま-しょうたいなあ‥‥。」遊ばせては勿体ない年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。 ◇。◇。◇。  ノウガタの町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。砂で漉した鉄分の多い水で/舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが7月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると:、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李に入れて、母が後押しで炭坑や/陶器製造所へ行商に行っていた。  私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯に巻いて、毎日’町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女の人が美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けたノキが不透明な欠伸をしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先には、町を歩いている女とは正反対の、これはまた不健康な女達が、尖った目をして歩いていた。七月の暑い陽射しの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、カラのモッコをぶらさげた女の群れが、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。  流行歌のおいとこそうだよの唄が流行っていた。 ◇。◇。◇。  私の三銭の小遣いは双子美人の豆本とか、氷饅頭のようなもので消えていた。──間もなく私は小学校へ行くかわりに、須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で-かよった。その頃、笊をさげて買いに行っていた米が、たしか十八銭だったと覚えている。夜は近所の貸本屋から、腕の喜三郎や横紙破りの福島正則、不如帰、なさぬ仲、渦巻などを借りて読んだ。そうした物語の中から何を教わったのだろうか? メデタシ、メデタシの好きな、虫のいい空想と、ヒロイズムとセンチメンタリズムが、海綿のような私の頭をひたしてしまった。私の周囲は朝から晩まで-かねの話である。私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。雨が何日も降り続いて、父の借りた荷車が雨にさらされると、朝も晩も、かぼちゃ飯で、茶碗を持つのが本当に淋しかった。 ◇。◇。◇。  この木賃宿には、通称シンケイ(神経)と呼んでいる、坑夫上がりの狂人’が居て、この人はダイナマイトで飛ばされて馬鹿になった人だと/宿の人が云っていた。毎朝早く、町の女達と一緒にトロッコを押しに出かけて行く/気立ての優しい狂人’である。私はこのシンケイによく虱を取ってもらったものだ。彼は後で支柱フに出世したけれど、ほかに、島根のほうから流れて来ている祭文語りの入れ目の男や、夫婦者の坑夫がフタクミ、蝮酒を売るテキヤ、親指のない淫売婦、サーカスよりも面白い集団であった。 「トロッコで圧されて指を取った云いよるけんど、嘘ばんた、誰ぞに切られたっとじゃろ‥‥」  馬屋のお上さんは、片目で笑いながら/母’にこう云っていたものだ。或る日、この指のない淫売婦と私は風呂に行った。ドロドロの苔むした暗い風呂場だった。この女は、腹をぐるりとひと巻きにして、臍のところに朱い舌を出したヘビの入れ墨をしていた。私は九州で初めてこんな凄い女を見た。私は子供だったから、しみじみ正視して/この薄青い/こわいヘビの入れ墨を見ていたものだ。  木賃宿に泊っている夫婦モノは、たいてい自炊で、自炊でない者達も、米を買って来て/炊いてもらっていた。  ほうろくのように焼けた暑いノウガタの町角に、そのころカチュウシャの絵看板が立つようになった。異人娘が、頭から毛布をかぶって、雪の降っている停車場で、汽車の窓を叩いている図である。すると間もなく、頭の真ん中を二つに分けたカチュウシャの髪が流行って来た。 ◇。◇。◇。 【カチュウシャ可愛や◇ 別れの辛さ】 【せめて淡雪◇ とけぬマに】 【神に願いを◇ ララかけましょうか。】 ◇。◇。◇。  なつかしい唄である。この炭坑マチにまたたく間に、このカチュウシャの唄は流行してしまった。ロシヤ女の純情な恋愛はよくわからなかったけれど、それでも、私は映画を見て来ると、非常にロマンチックな少女になってしまったのだ。浮かれ節(浪花節)より他に芝居小屋に連れて行ってもらえなかった私が、たった一人で隠れて/カチュウシャの映画を毎日見に行ったものであった。当分は、カチュウシャで夢見心地であった。石油を買いに行く道の、白い夾竹桃の咲く広場で、町の子供達と/カチュウシャごっこや、炭坑ごっこをして遊んだりもした。炭坑ごっこの遊びは、女の子はトロッコを押す真似をしたり、男の子は炭坑節を唄いながら土をほじくって行くしぐさである。 ◇。◇。◇。  そのころの私はとても元気な子供だった。  一カ月ばかり勤めていた粟おこし工場の二十三銭ナリにもさよならをすると:、私は父が仕入れて来た、扇子や化粧品を鼠色の風呂敷に背おって、遠賀川を渡り/隧道を越して、炭坑の社宅や坑夫小屋に行商して歩くようになった。炭坑には、色々な行商人が入り込んでいるのだ。 「暑うしてたまらんなア。」この頃私には、こうして親しく言葉をかける相棒が二人ばかりあった。「松ちゃん。」これはカツキから歩いて来る駄菓子屋で、可愛い十五の少女であったが、間もなく、チンタオへ芸者に売られて行ってしまった。「ひろちゃん。」干物屋の売り子で、13の少年だけれど、彼の理想は、一人前の坑夫になりたい事だった。酒が呑めて、ツルハシをちょっと高く振りかざせば人が驚くし、町の連鎖劇は無料でみられるし:、月の出た遠賀川のほとりを、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった。──その頃よく均一と云う言葉が流行っていたけれど、私の扇子も均一の十銭で、鯉の絵や、七福神、富士山の絵が描いてある。骨は頑丈な竹が7本ばかりついている。毎日平均二十本くらいはかたづけていった。緑色のペンキのはげた社宅の細君よりも、坑夫長屋をまわったほうがはるかに扇子はさばけていった。ほかにラッパ長屋と云って、ひと棟に’ジュッ家族も住んでいる鮮人長屋もあった。アンペラの畳の上には玉葱をむいたような子供達が、裸で重なりあって遊んでいた。  烈々とした空の-したには’、掘りかえした土が口を開けて、雷のように/遠くではトロッコの流れる音が聞えている。昼食どきになると、蟻の塔のように材木を組み渡した暗い坑道口から、泡のように湧いて出る坑夫達を待って、幼い私はあっちこっち扇子を売りに歩いた。坑夫達の汗は水ではなくて、もう黒い飴のようであった。今、自分達が掘りかえした石炭土の上にゴロリと横になると、バクバクまるで金魚のように空気を吸って/よく眠った。まるでゴリラの群れのようだった。  そうしてこの静かな景色の中に動いているものと云えば、棟を流れて行く昔風なモッコである。昼食が終るとあっちからもこっちからもカチュウシャの唄が流れて来ている。やがて夕顔の花のようなカンテラの明かりが、薄い光で地を這って行くと、けたたましいサイレンの音だ。国を出るときゃ玉の肌‥‥何でもない唄声ではあるけれど、濛々とした石炭土の山を見ていると/何だか子供ゴコロにも切ないものがあった。 ◇。◇。◇。  扇子が売れなくなると、私は一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった。炭坑まで小一里の道程を、よく休み休み私はアンパンをつまみ食いして行ったものだ。父はその頃、商売上の事から坑夫と喧嘩をして/頭をグルグル手拭いで巻いて/宿にくすぼっていた。母は多賀神社のそばでバナナの露店を開いていた。無数に駅からなだれて来る者は、坑夫の群れである。ヒトヤマいくらのバナナは割によく売れて行った。アンパンを売りさばいて母’のそばへ籠を置くと、私はよく多賀神社へ遊びに行った。そして大ぜいの女や男達と一緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますように。──多賀さんの祭には、きまって雨が降る。多くの露店商人たちは、駅のひさしや、多賀さんの境内を往ったり来たりして雨空を見上げていたものだった。 ◇。◇。◇。  10月になって、山(炭坑)にストライキがあった。マチナカは、ジンと鼻をつまんだように静かになると、炭坑から来る坑夫達だけが殺気ダッて活気があった。ストライキ、さりとは辛いね。私はこんな唄も覚えた。炭坑のストライキは、始終の事で/坑夫達はさっさと他の炭坑へ流れて行くのだそうだ。そのたびに、町の商人との取引は抹殺されてしまうので、めったに坑夫達には品物を貸して帰れなかった。それでも坑夫相手の商売は、手っ取りばやくてユカイだと商人たちは云っていた。 ◇。◇。◇。 「あんたも、四十過ぎとんなはっとじゃけん、少しは身を入れてくれんな、仕様がなかもんなあた‥‥」  私は豆ランプの明かりのかげで、一生懸命探偵小説のジゴマを読んでいた。裾に’さしあって寝ている母が父にいつもこうつぶやいていた。/外はながい雨である。 「一軒、家ちゅうもんを、定めんとあんた、こぎゃん時に困るけんな。」 「ほんにヤカマシかな。」  父が小声で呶鳴ると、あとはまた雨の音だった。──そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。 「戦争でも始まるとよかな。」  この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと-かねが流れて来るといいと云っていた。「あんたは、ほんまによか生まれつきな。」母’にこう云われると、指の無い淫売婦は、 「小母っさんまで、そぎゃん思うとんなはると‥‥。」彼女は窓から何か投げては淋しそうに笑っていた。二十五だと云っていたが、労働者上がりら-しいプチプチした若さを持っていた。 ◇。◇。◇。  11月の声のかかる時であった。  黒崎からの帰り道、父と母と私は、大声で話しながら、軽い荷車を引いて、暗い遠賀川の堤防を歩いていた。 「おっかさんも、お前も車へ乗れや、まだまだ-とおいけに、歩くのはしんどいぞ‥‥」  母と私は、荷車の上に乗っかると、父は元気のいい声で唄いながら/私たちを引いて歩いた。  秋になると、星が幾つも流れて行く。もう-じき街の入口である。後ろのほうから、「おっさんよっ-」と呼ぶ声がした。渡り歩きの坑夫が呼んでいるらしかった。父は荷車を止めて「なんぞ-」と呼応した。二人の坑夫が這いながら-ついて来た。二日も食わないのだと云う。逃げて来たのかと父が聞いていた。二人とも鮮人であった。折尾まで行くのだから、かねを貸してくれと何度も頭をさげた。父は黙って五十銭銀貨を二枚出すと、一人ずつに握らせてやった。堤の上を冷たい風が吹いて行く。茫々とした二人の鮮人の頭の上に星が光っていて、妙にがくがく私たちは慄えていたが、二人共一円もらうと、私たちの車の後ろを押して長いこと黙って町までついて来た。  しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へデンチを売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、唐津物の糶売りをしてみたい、これが唯一の目的であった。何によらず炭坑マチで、手っ取りばやく売れるものは、食物である。母のバナナと、私のアンパンは、雨が降りさえしなければ、二人の食べる位は売れて行った。馬屋のハラいは月二円二十銭で、今は母も/家を一軒借りるよりこのほうが楽だと云っていた。だが、どこまで行ってもみじめすぎる私たちである。秋になると、神経痛で、母は何日も商売を休むし、父はデンチを売って/たった四十円の-かねしか持って来なかった。父はその-かねで、唐津焼を仕入れると、佐世保へ一人で働きに行ってしまった。 「じき二人は呼ぶけんのう‥‥」  こう云って、父はヒに焼けた厚司一枚で汽車に乗って行った。私は一日も休めないアンパンの行商である。雨が降ると、ノウガタの街中を軒並にアンパンを売って歩いた。  このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売はちょっとも苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭と云うふうに、私のこしらえた財布には’かねがたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮らした。或る日’、マチから帰ると、美しいヒワ色の兵児帯を母が縫っていた。 「どぎゃんしたと?」  私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私たち三人は、ノウガタを引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い道が暮れそめていて、私の目に悲しくうつるのであった。白帆が一つ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、キングサリや、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【さいはての駅に下り立ち】 【雪あかり】 【さびしき町に歩みいりにき】 ◇。◇。◇。  雪が降っている。私はこの啄木の歌をふっと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の明かりが薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅い花のようで、とても美しかった。 ◇。◇。◇。 「ねやア/お嬢ちゃんおんぶしておくれッ-」  奥さんの声がしている。  ああ/あの百合子と云う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて/全く火の玉を背おっているような感じである。──せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。 (バナナに鰻、豚カツに蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)  気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。  夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も往ったり来たりしている。秋江氏の家へ来て、今日で一週間あまりだけ-れど、先の目標もなさそうである。ここの先生は、日に幾度も梯子段を上がったり降りたりしている。まるで二十日鼠のようだ。あの神経には/全くやりきれない。 「チャンチンコイチャン/ よく眠ったかい!」  私の肩を覗いては、先生は安心をしたようにじんじんばしょりをして二階へ上がって行く。  私は廊下の本箱から、今日はチエホフを引っぱり出して読んだ。チエホフは心の古里だ。チエホフの吐息は、姿は、みな生きて、黄昏の私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読んでいると、もう一度チエホフを読んでもいいのにと思った。京都のお女郎の話なんか、私には縁遠い世界だ。  夜。  家政婦のお菊さんが、台所で美味しそうな五目寿司を拵えているのを見て/とても嬉しくなった。  赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。  お蔭で本が読めること──。年を取って子供が出来ると、仕事も手につかないほど心配になるのかも知れない。反感がおきる程、先生が赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するものではないと思った。  うまごやしにだって、可憐な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら‥‥。奥さんは野そだちな人だけれど、眠ったようなひとで、この家では私は一番好きな人である。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  ひまが出るなり。  別に行くところもない。大きな風呂敷ヅツみを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金2円なり。足の先から、冷たい血が’あがるような思いだった。──ぶらぶら大きな風呂敷ヅツみをさげて歩いていると、何だかザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに蒼い瓦ぶきの文化住宅の貸し家があったので這入ってみる。庭が広くて、ガラス窓が12月の風に磨いたように冷たく光っていた。  疲れて-ねむたくなっていたので、休んで行きたい気持ちなり。勝手口を開けてみると、錆びた鑵詰のかんからがごろごろ散らかっていて、座敷の畳が泥で汚れていた。昼間の空家は淋しいものだ。薄い人の影があそこにもここにもたたずんでいるようで、寒さがしみじみとこたえて来る。どこへ行こうと云うあてもないのだ。二円ではどうにもならない。はばかりから出て来ると、荒れ果てた縁側のそばへ狐のような目をした犬がじっと見ていた。 「何でもないんだ、何でもありゃしないんだよ。」  言いきかせるつもりで、私は縁側の上へきっとつったっていた。 (どうしようかなア‥‥、どうにもならないじゃないのッ!) ◇。◇。◇。  夜。  新宿のア-サヒマチの木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道が餡このようにこねこねしている通りの旅人宿に、1泊三十銭で/私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に/豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、便りにもならない長い手紙を書いてみた。 ◇。◇。◇。 【みんな嘘っぱちばかりの世界だった】 【甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく】 【マーケットの屋上のように寥々とした全生活を振り捨てて】 【私は木賃宿の布団に静脈を延ばしている】 【列車にフンサイされた死骸を】 【私は他人のように抱きしめてみた】 【真夜中に煤けた障子を明けると】 【こんなところにも空があって月がおどけていた。】 ◇。◇。◇。 【みなさまさよなら!】 【私は歪んだサイコロになって”また逆もどり】 【ここは木賃宿の屋根裏です】 【私は堆積された旅愁をつかんで】 【飄々と風に吹かれていた。】 ◇。◇。◇。  夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。 「すみませんが‥‥」  そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返し’に結った女が、乱暴に私の薄い布団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。 「オイ/ お前、おきろ!」  やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンとホオを殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、なかなかしずまらない。 「今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は‥‥」  薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗めながら、私の枕元に立っているのだ。 「お前はあの女と知合いか?」 「いいえ、不意にはいって来たんですよ。」  クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがかりは持たなかっただろう──。刑事が出て行くと、私は伸び伸びと手足をのばして/枕の下に入れてある財布にさわってみた。残金はイチエン六十五銭なり。月が風に吹かれているようで、歪んだ高い窓から/色々な光の虹が私には見えてくる。──ピエロは高いところから飛び降りる事は上手だけれど、飛び上がって見せる芸当は容易じゃない、だが何とかなるだろう、食えないと云うことはないだろう‥‥。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、 「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭ダマ一つきりしかないんだ。」  大声で云って正直に立っている。すると、十ゴロクの小娘が、 「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。  労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。  大きなメシドンブリ。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭ダマ一つの栄養食だ。労働者は天真に/大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭ダマ一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の-もりが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭なりを払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明’と紙一重で、ほんとに朗かだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これはまた、十銭ダマ一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重なのではないだろうか──。 ◇。◇。◇。  お母さんだけでも東京へ来てくれれば、何とかどうにか働きようもあるのだけれど‥‥沈むだけ沈んでチンボツしてしまった私は難破船のようなものだ。シブキがかかるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局’私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。あの女は三十すぎていたかも知れない。私がもしも男だったら、あのまま一直線にあの夜の女に溺れてしまって、今朝はもう二人で死ぬる話でもしていたかもしれない。  昼から荷物を宿屋にあずけて、神田の職業紹介所に行ってみる。 ◇。◇。◇。  どこへ行っても砂’原のように寥々とした思いをするので、私は胸がつまった。 (お前さんに使ってもらうんじゃないよ。)  おたんちん!  ひょっとこ!  馬鹿野郎/  何と冷たい、コウマンチキな女達なのだろう──。  桃色の吸取りガみのようなカードを、紹介所の受付の女に渡すと、 「月給三十円くらいですって‥‥」  受付女史はこうつぶやくと、私の顔を見て、せせら笑っているのだ。 「女中じゃいけないの‥‥事務員なんて、女学校デが’うろうろしているんだから駄目よ、女中ならたくさんあってよ。」  あとからあとから美しい女の群れが雪崩れて来ている。まことにごもっともさまなことです。  少しも得るところなし。  紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢と、イタリア大使館の女中との三つだった。私のふところには、もう九十銭余りしかないのだ。夕方’宿へ帰ると、芸人達が、植木鉢みたいに鏡の前に並んで、鼠色の白粉を顔へ塗りたくっている。 「昨夜はニブしか売れなかった。」 「藪睨みじゃア/買手がねえや!」 「ヘン、これだっていいって人があるんだから‥‥」 「はい御苦労様なことですよ。」  ジュウシゴの娘同士の話しなり。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  こみあげてくる波のような哀しみ、まるで狂人’になるような錯覚がおこる。マッチをすって、それで眉墨をつけてみた。──午前十時。麹町三年町の伊太利大使館へ行ってみた。  笑って暮らしましょう。でも何だか顔がゆがみます。──異人の子が馬に乗って門から出てきた。門のそばには壊れた門番の小屋みたいなものがあって、綺麗な砂利が遠い玄関までつづいている。私のような女の来るところではないように思えた。地図のある、赤いジュウタンの広い部屋に通された。白と黒のコスチュウム、異人の奥さんって美しいと思う。遠くで見ているとなおさら美しい。さっき’馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰って来た。男の異人さんも出て来たけれど、大使さんではなく、書記官だとかって云う事だった。夫婦とも背が高くて圧迫を感じる。その白と黒のコスチュウムをつけた夫人にコックベヤを見せてもらった。コンクリートの箱の中には玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二つ置いてあった。この七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきをするのだと云うことだ。まるで廃屋のような女中部屋である。黒い鎧戸がおりていて石鹸のような外国の臭いがしている。  結局ヨウリョウを得ないままで門を出てしまった。豪壮な三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹きあげる12月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラしていて心にしみた。人種が違っては人情も判りかねる、どこか他を探してみようかしら。電車に乗らないで、堀ばたを歩いていると、何となく故郷へ帰りたくなって来た。目当てもないのに東京でまごついていたところで/結局はどうにもならないと思う。電車を見ていると死ぬる事を考えるなり。  本郷の前の家へ行ってみる。叔母さんつめたし。近松氏から郵便が来ていた。出る時に十二社の吉井さんのところに女中が入り用だから、ひょっとしたらあんたを世話してあげようと云う先生の言葉だったけれど、その手紙は薄墨で書いた断り状だった。  文士って薄情なのかも知れない。  夕方’新宿’の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。(誰か、このいまの私を助けてくれる人はないものなのかしら‥:‥)新宿駅の陸橋に、紫色のシグナルが光ってゆれているのをじっと見ていると、涙で瞼がふくらんできて、私は子供のようにしゃっくりが出てきた。  何でも当たってくだけてみようと思う。宿屋の小母さんに正直に話をしてみた。仕事がみつかるまで、したで一緒にいていいと言ってくれた。 「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いいのになると’七十円くらい這入るそうだが‥‥」  どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七十円もはいれば素敵なことだ。とにかくブラさがるところをこしらえなくてはならない‥‥。ジュッ燭の電気のついた帳場の炬燵にあたって、お母さんへ手紙を書く。  ──ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。  この間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。 「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」 「お父つぁん/怒ってた?」  電気の下で見ると、もう四十くらいの女で、乾いたような崩れた姿をしていた。 「私のほうじゃ/あんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れ込んで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃあないんですよ。お父つぁん、油をしぼられてプンプン怒ってますよ。」  人のよさそうな老けたお上さんは、茶を淹れながらあの女の事を悪く云っていた。  夜、お上さんにうどんをご馳走になる。明日はここの小父’さんの口添えで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。すべては自分の元気な体を頼みに働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた布団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。 (国へかえってお嫁にでも行こうかしら‥‥) ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割りをしてくれるのだと云う親分のところへ/酒を一升持って行く。  道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐって、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼ま場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶を啜っていた。 「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に蔵が建ちましょうよ。」  お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。  誰も知人のない東京なので、恥ずかしいも糞もあったものではない。ピンからキリまである東京だもの。裸になりついでにうんと働いてやりましょう。私はこれよりももっと辛かった菓子工場の事を思うと、こんなことなんか平気だと/気持ちが晴れ晴れとしてきた。  夜。  私は女の万年筆屋さんと、当てのない門札を書いているお爺さんの間に店を出さして貰った。蕎麦屋で借りた雨戸に、私はメリヤスの猿股を並べて「二十銭均一」の札をさげると、万年筆屋さんの電気にすかして、ランデの死を読む。大きく息を吸うと/もう春の気配が感じられる。この風の中には、遠い遠い思い出があるようだ。鋪道は灯の’川だ。人の洪水だ。瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算器を売っていた。「諸君! 何万何千何百何に何千何百何十加えればいくらになる。みんな判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」  沢山の群集を相手にタカビシャに出ている、こんな商売も面白いものだと思う。  お上品な奥様が、猿股を二十分もひねっていて、たった一つ買って行った。お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。 「私が少しかわるから、お前は、御飯をお上がり。」  お新香に竹輪の煮つけが、瀬戸の重ねバチにはいっていた。鋪道に背中をむけて、茶も湯もない食事をしていると、万年筆屋の-ねえさんが、 「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」  と大きい声で言っている。  私はフッと塩っぱい涙がこぼれて来た。母’はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母さんの唄ではないが、タッタカタノタだろう。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さん達がしている。一つあんなのを欲しいものだ。洋品店の4月の窓飾りは、金と銀と桜の花で目がくらむなり。 ◇。◇。◇。 【空に拡がった桜の枝に】 【うっすらと血の色が染まると】 【ほら枝の先からハナイロの糸がさがって】 【情熱のくじびき】 ◇。◇。◇。 【食えなくてボードビルへ飛び込んで】 【裸で踊った踊り子があったとしても】 【それは桜の罪ではない。】 ◇。◇。◇。 【ひとすじの情】 【ふたすじの義理】 【爛漫と咲いた青空の桜に】 【生きとし生ける】 【あらゆる女の】 【裸の唇を】 【するすると奇妙な糸がたぐって行きます。】 ◇。◇。◇。 【貧しい娘さん達は】 【夜になると】 【果物のように唇を】 【大空へ投げるのですってさ】 ◇。◇。◇。 【青空を色どる桃色ザクラは】 【こうした可憐な女の】 【仕方のないくちづけなのですよ】 【そっぽをむいた唇の跡なのですよ。】 ◇。◇。◇。  ショールを買う-かねを貯めることを考えたら、なかなか大変なことなので/割引きの映画を見に行ってしまった。フイルムは鉄路の白バラ、少しも面白くなし。途中’雨が降り出したので、小屋から飛び出して店に行った。お母さんは茣蓙をまとめていた。いつものように、二人で荷物を背おって駅へ行くと:、花見帰りの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、あっちにもこっちにも藻のようにただよい/なかなか賑やかだ。二人は人を押しわけて電車へ乗った。雨が土砂降りだ。いい気味だ。もっと降れ、もっと降れ、花がみんな散ってしまうといい。暗い窓にホオをよせて外を見ていると、お母さんがしょんぼりと/子供のようにフラフラして立っているのが硝子窓に写っている。  電車の中まで意地悪がそろって-いるものだ。  九州からの音信なし。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  雨にあたって、お母さんが風邪を引いたので/一人で夜店を出しに行く。本屋にはインキの新しい本がたくさん店頭に並んでいる。何とかして買いたいものだと思う。ぬかるみにて’道悪し、道玄坂はアンコを流したような鋪道だ。イチニチ休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出すことにする。色のべたべた滲んでいるような街路には、私とゴムグツ屋さんの店きりだ。女達が私の顔を見てクスクス笑って通って行く。ほお紅がたくさんついているのかしら、それとも髪がおかしいのかしら、私は女達を睨みかえしてやった。女ほど同情のないものは無い。  いいお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ屋さんが店を出した。場銭が二銭上がったと云ってこぼしていた。昼はうどんを二杯たべる。(十六銭なり)学生が、一人で五ツも品物を買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来ようと思う。帰りに鯛焼を十銭買った。 ◇。◇。◇。 「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが‥‥」  帰ると、母は寝床の中からこう云った。私は荷物を背おったまま呆然としてしまった。昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たのだと、母は書きつけた病院のあて名の紙を探していた。  夜、芝の安さんの家へ行く。若いお上さんが、眼を泣き腫らして病院から帰って来たところだった。少しばかり出来上がっている品物をもらってお金を置いて帰る。世の中は、よくもよくもこんなにヒビだらけになっているものだと思う。昨日まで、元気にミシンのペタルを押していた安さん夫婦を想い出すなり。春だと云うのに、桜が咲いたと云うのに、私は電車の窓に凭れて、赤坂のお濠の燈火をいつまでも眺めていた。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  父より長い音信が来る。長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の-かねを、お母さんがみんな送ってくれと云うので/為替にして急いで送った。アシタはアシタの風が吹くだろう。安さんが死んでから、あんなに軽便な猿股も出来なくなってしまった。もう疲れきった私たちは、何もかもがメンドくさくなってしまっている。  十四円九州へ送った。 「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳は誰ぞに貸さんかい。」  貸間、貸間、貸間、私はとても嬉しくなって、子供のように’紙に貸間と書き散らすと、鳴子坂の通りへ’それを張りに出て行った。寝ても覚めても、結局は死んでしまいたい事に話が落ちるけれど、なにくそ! たまには米の五升も買いたいものだと笑う。お母さんは近所の洗いばりでもしようかと云うし、私は女給と芸者の広告がこのごろ目について仕方がない。縁側に腰をかけて日向ぼっこをしていると、黒い土の上から、モヤモヤとかげろうがのぼっている。もう-じき5月だ。私の生まれた5月だ。歪んだガラス戸に洗った小切れをベタベタ張っていたお母さんは、フッと思い出した様に云った。 「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前もお父さんも八方塞りだからね‥‥」  明日から、この八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへちまもあったものじゃない。次から次から悪運のつながりではありませんかお母さん!  腰巻も買いたし。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  家の貸間はあまり汚ない’家なので/誰もまだ借りに来ない。お母さんは八百屋が貸してくれたと云って/大きなキャベツを買って来た。キャベツを見るとフクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいと思う。がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。夜、風呂屋で母が聞いて来たと云って、派出婦にでもなったらどんなものかと相談していた。それもいいかも知れないけれど、根が野性の私である。金持ちの家風にペコペコ頭をさげる事は、腹を切るより切ない事だ。母の侘しげな顔を見ていたら、涙が無性にあふれてきた。  腹がへっても、ひもじゅうないとカブリを振っている時ではないのだ。明日から、今から飢えて行く私たちなのである。ああ/あの十四円は九州へとどいたかしら。東京が厭になった。早くお父さんが金持ちになってくれるといい。九州もいいな、四国もいいな。夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんに便りを書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれるような人はないかと思ったりした。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  朝起きたらもう下駄が洗ってあった。  いとしいお母さん! 大久保百人町の派出婦会に行ってみる。中年の女の人が二人、ミセのマで縫いものをしていた。人が足りなかったのであろうか、そこの主人は、添書きのようなものと地図を私にくれた。行く先の私の仕事は、薬学生の助手だと云うことである。──道を歩いている時が、私は一番愉しい。5月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、まことに天下太平にござそうろうと旗をたてているように見えた。この街を見ていると/苦しい事件なんか/何もないようだ。買いたいものが何でもぶらさがっている。私は桃割れの髪をかしげて電車のガラス窓で直した。本村町で降りると、邸町になった路地の奥にそのうちがあった。 「ごめん下さい!」  大きな家だな、こんな大きい家の助手になれるかしら‥‥、戸口で私は何度かかえろうと思いながら/ぼんやり立っていた。 「貴方、派出婦さん! 派出婦会から、さっき出たって電話がかかって来たのに、おそいので/坊ちゃん/怒ってらっしゃるわ。」  私が通されたのは、洋風なせまい応接室だった。壁には、色褪せたミレーの晩鐘の口絵が張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクして柔かである。 「お待たせしました。」  何でもこの人の父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬見本の整理で/訳のない仕事だそうだ。 「でもそのうち、僕の仕事が忙しくなると清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎のホウへ研究に行くんですが、来てくれますか。」  この男は二十シゴくらいかとも思う。私は若い男の年がちっとも判らないので、じっと背の高いその人の顔を見ていた。 「いっそ派出婦のほうを-よして、毎日きませんか。」  私も、派出婦のような/いかにも品物みたいな感じのするところより/そのほうがいいと思ったので、一カ月’三十五円で約束をしてしまった。紅茶と、洋菓子が出たけれど、まるで、日曜の教会に行ったような少女の日を思い出させた。 「君はいくつですか?」 「二十一です。」 「もう肩上げをおろしたほうがいいな。」  私は顔が熱くなっていた。三十五円毎月つづくといいと思う。だがこれもまた信じられはしない。──家へ帰ると、母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母’にも縁のないお祖母さんだけれど/たった一人の義父の母だったし:、田舎で真田オビの工場に-かよっているこのお祖母さんが、キトクだと云うことは可哀想だった。どんなにしても行かなくてはならないと思う。/九州の父へは、シゴニチ前に-かねを送ったばかりだし、今日’行ったところへ-かねを’借りに行くのも厚かましいし:、私は母と一緒に、ヨツキもためているのに家主のところへ相談に行ってみた。十円’かりて来る。たくさん利子をつけて返そうと思う。残りの御飯を弁当にして風呂敷に包んだ。──一人旅の夜汽車は侘しいものだ。まして年をとっているし、ささくれた身なりのままで、父の国へ’やりたくないけれど、二人とも絶体絶命のどんづまり故、黙って汽車に乗るより仕方がない。岡山まで切符を買ってやる。薄い明かりの下に、下関行きの急行列車が沢山の見送り人を呑みこんでいた。 「シゴニチうちには、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして’行っていらっしゃい。しょぼしょぼしたら馬鹿ですよ。」  母は子供のように涙をこぼしていた。 「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事をしても送りますから、安心してお祖母さんのお世話をしていらっしゃい。」  汽車が出てしまうと、何でもなかった事が急に悲しく切なくなって、目がぐるぐるまいそうだった。省線をやめて東京駅の前の広場へ出て行った。長いことクリームを顔へ塗らないので、顔の皮膚がヒリヒリしている。涙がまるで馬鹿’の様に流れている。信ずる者よ/来たれ’主のみもと‥‥遠くで救世軍の楽隊が聞えていた。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくて/たとえイエスであろうと、お釈迦さまであろうと、貧しい者は信ずるヨユウなんかないのだ。宗教なん-てなんだろう! 食う事にも困らないものだから、あの人達は街にジンタまで流している。信ずる者よ来たれか‥‥。あんな陰気な歌なんか真っ平だ。まだ気のきいた春の唄があるなり。いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血反吐を吐いて、華族さんの自動車にでも/しかれてしまいたいと思う。いとしいお母さん、今、貴方は戸塚、藤沢あたりですか、三等車の隅っこで何を考えています。どの辺を通っています‥‥。三十五円が続くといいな。お濠には、帝劇の明かりがキラキラしていた。私は汽車の走っている線路の景色を空想していた。何もかも何もかも辺りはじっとしている。天下太平で御座候だ。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  浮世ハナれて奥山ずまい、こんな卑俗な唄にかこまれて、私は毎日’玩具のセルロイドの色塗りに-かよっている。日給は七十五銭なりの女工さんになって/今日で4カ月:、私が色塗りをした蝶々のおさげどめは、懐かしいスヴニールとなって、今頃はどこへ’散乱して’行っていることだろう──。日暮里の金杉から来ているお千代さんは、お父つぁんが寄席の三味線ひきで、兄弟六人の裏屋ズマいだそうだ。「私と-お父つぁんとで働かなきゃあ、食えないんで-すもの‥‥。」お千代さんは蒼白い顔をかしげて、侘しそうに赤い絵具をべたべた蝶々に塗っている。ここは、女工が二十人、男工が十五人の小さなセルロイド工場で、鉛のように生気のない女工さんの手から、キュウピーがおどけて-いたり:、夜店モノのおさげどめや、マエ芯オビや、様々な下層階級相手の粗製品が、毎日毎日私たちの手から洪水の如く/イチバへ流れてゆくのだ。朝の七時から、夕方の五時まで、私たちの周囲は、ゆでイカのような色をしたセルロイドの蝶々や、キュウピーでいっぱいだ。文字通り護謨くさい、それらの製品に-うもれて仕事が済むまで、私たちはめったに首をあげて窓も見られないような状態である。事務所の会計の細君が、私たちの疲れたところを見計らっては、/皮肉に油をさしに来る。 「急いでくれなくちゃ困るよ。」  フン/お前も私たちと同じ女工上がりじゃないか、「俺達ゃ機械じゃねえんだよっ。」発送部の男達がその女が来ると、舌を出して笑いあっていた。五時になると、二十分は私たちの労力のおまけだった。日給袋のはいった笊が回って来ると、私たちはしばらくは、激しい争闘を開始して、自分の日給袋を見つけ出す。──夕方、襷を掛けたまま工場の門を出ると、お千代さんが、あとから追って来た。 「あんた、今日イチバへ寄らないの、わたし今晩のおかずを買って行くのよ‥‥」  ヒト皿八銭の秋刀魚は、その青く光った油と一緒に、私とお千代さんの両手にかかえられて、サンゼンと生臭い匂いを二人の胃袋に通わせてくれるのだ。 「この道を歩いている時だけ、あんた、楽しいと思った事ない?」 「本当にね、わたしホッとするのよ。」 「ああ、でもあんたは一人だからうらやましいと思うわ。」  美しいお千代さんの束ねた髪に、白く埃がつもっているのを見ると、街の華やかな、一切のものに、私は火をつけてやりたいような興奮を感じてくる。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  なぜ?  なぜ?  私たちはいつまでもこんな馬鹿な生き方をしなければならないのだろうか? いつまでたっても、セルロイドの匂いに、セルロイドの生活だ。朝も晩も、べたべた三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離された歪んだ工場の’中で、こつこつ無限に長い時間と/青春と/健康を搾取されている。若い女達の顔を見ていると、私はジンと悲しくなってしまう。  だが待って下さい。私たちのつくっている、キュウピーや蝶々のおさげどめが、貧しい子供達の頭をお祭のように飾る事を思えば、少し少しあの窓の下では、微笑んでもいいでしょう──。 ◇。◇。◇。  二畳の部屋には、土釜や茶碗や、ボール箱の米櫃や行李や、そうして小さい机が、まるで一生の私の負債のようにがんばっている。ななめにしいた布団の上には、天窓の朝陽がキラキラ輝いていて、埃が縞のようになって/私の顔の上へ流れて来る。いったい革命とは、どこを吹いている風なのだ‥‥中々うまい言葉をたくさん知っている、日本の自由主義者よ。日本の社会主義者は、いったいどんなお伽噺を空想しているのでしょうか?  あの生まれたての、玄米パンよりもホヤホヤな赤ん坊達に、絹のむつきと、木綿のむつきと/いったいどれだけの差をつけなければならないのだろう! 「あんたは、今日は工場は休みなのかい?」  叔母さんが障子を叩きながら呶鳴っている。私は舌打ちをすると、妙に重々しく頭の下に両手を入れて、今さら重大な事を考えたけれど、涙が出るばかりだった。  母の音信1通。  たとえ五十銭でもいいから送ってくれ、私はリュウマチで困っている。この家にお前とお父さんが早く帰って来るのを、楽しみに待っている。お父さんのほうも思わしくないと云う便りだし、お前の暮らし向きも思う程でないと聞くと/生きているのが辛いのです。──たどたどしいカナ文字の手紙である。最後に上様’母よりと書いてあるのを見ると、母を手で叩きたいほど可愛くなってくる。 「どっか体でも悪いのですか。」  この仕立屋に同じ間借りをしている、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けて入って来た。背タケが十ゴロクの子供のようにひくくて/髪を肩まで長くして、私の一等厭なところを惜しげもなく持っている男だった。天井を向いて考えていた私は、クルリと背をむけると/布団を被ってしまった。この人は有難いほど親切ものである。だが会っていると、憂鬱なほど不快になって来る人だ。 「大丈夫なんですか!」 「ええ/体の節々が痛いんです。」  ミセのマでは商売ものの菜っ葉服を小父さんが縫っているらしい。ジ‥‥と歯を噛むようなミシンの音がしている。「六十円もあれば、二人で結構暮せると思うんです。貴方の冷たい心が淋しすぎる。」  枕元に石のように坐った松田さんは、苔のように暗い顔を伏せて/私の顔の上にかぶさって来る。激しい男の息づかいを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。今までこんなに、優しい言葉を掛けて私を慰めてくれた男が一人でもあっただろうか、みんな私を働かせて煙のように捨ててしまったではないか。この人と一緒になって、小さな長屋にでも住まって、所帯を持とうかしらとも思う。でもあんまりそれも淋しすぎる話だ。10分も顔を合せていたら、胸がムカムカして来る松田さんだった。 「すみませんが、私は体の工合が悪いんです。ものを言うのが、何だか億劫ですの、あっちい行ってて下さい。」 「当分’工場を休んで下さい。そのあいだの事は僕がしますよ。たとえ貴方が僕と一緒になってくれなく-っても、僕はいい気持ちなんです。」  まあ-なんてチグハグな世の中であろうと思う──。  夜。  米を一升買いに出る。ついでに風呂敷をさげたまま/逢初橋の夜店を歩いてみた。キリバナ屋、ロシヤパン、ドラ焼屋、魚の干物屋、野菜屋、古本屋、久々で見る散歩道だ。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  ヘエ、マチはクリスマスでございますか。救世軍の慈善鍋も/飾り窓の七面鳥も、新聞も雑誌も一斉に街に氾濫して、ビラも広告旗も/血まなこになっているようだ。  暮れだ、急行列車だ、あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくては’と、汚れた壁の黒板には、二十人の女工の色塗りの仕上げダカが、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに私たちをおびやかすようになってきた。規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、十銭ひきと、日給袋にぴらぴらテープのような伝票が張られて来る。 「厭んなっちゃうね‥‥」  女工はまるで、ササラのように腰を浮かせて御製作なのだ。同じ絵描きでも、これはまたあまりにも滑稽な、ドミエの漫画のようではないか。 「まるで人間をゴミだと思ってやがる。」  五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋はなかなか回りそうにもない。工場ヌシの小さな子供達を連れて、会計の細君が、四時頃自動車で街へ出掛けて行ったのを、一番小さいおミツちゃんが便所の窓から眺めていて、女工達に報告すると:、芝居だろうと云ったり、正月の着物でも買いに行ったのだろうと云ったり、手を働かせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出’した。 ◇。◇。◇。  7時半。  朝から晩まで働いて、六十銭の労働の代償をもらってかえる。土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と箸を並べると、つくづく人生とはこんなものだったのかと思った。ごたごた文句を言っている人間の横っ面をひっぱたいてやりたいと思う。御飯の煮える間に、お母さんへ’の手紙の中に/長い事して貯めていた/桃色の五十銭札五枚を入れて封をする。たった今、なにとなにがなかったら楽しいだろうと空想して来ると、五円の間代が馬鹿らし-くなってきた。二畳で五円である。一日働いて米が二升きれて平均六十銭だ。また前のようにカフェーに逆もどりでもしようかしらともおもい、幾度も幾度も、水をくぐって、私と一緒に疲れきっている壁の銘仙の着物を見ていると、全く味気なくなって来る。何も御座無く候だ。あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない不精もの故、爆裂弾を持たしたら、喜んでそこら辺へ投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真っ二つになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きている事もまんざらではない。沢庵を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒れ地があると書いてある。ああそう云う未開の地に私たちの、ユウトピヤが出来たら愉快だろうと思うなり。鳩ぽっぽ鳩ぽっぽと云う唄が出来るかも知れない。皆で仲よく飛んでこいと云う唄が流行るかも知れない。──風呂屋から帰りがけに、暗い路地口で松田さんに会った。私は黙って通り抜けた。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ) 「何も変なふうに義理立てをしないで、松田さんが、折角’貸して上げると云うのに、あなたも借りたらいいじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当てにしているんですからねえ。」  髪の毛の薄い小母さんの顔を見ていると、私はこのままこの家を出てしまいたい程くやしくなってくる。これが出掛けの戦争だ。急いで根津の通りへ出ると、松田さんが酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。ニコニコして本当に好人物なのに、私はどうしてなのかこの人にはムカムカして仕様がない。 「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいいんですが、貴方がこだわると困るから。」  そう云って、チリ紙にこまかく包んだ-かねを/松田さんは私の帯の間に挾んでくれている。私は肩上げのとってない昔風な羽織を気にしながら、妙にてれくさくなって/ふりほどいて電車に乗ってしまった。──どこへ行く当てもない。正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影を踏んで降りた。狂人じみた口入屋の高い広告燈が、難破船の信号みたように風にゆれていた。 「お望みは‥‥」  牛太郎のような番頭にきかれて、まず私は固唾を呑んで、商品のような求人広告のビラを見上げた。 「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん/良く考えたほうがいいですよ。」  肩掛けもしていない、このみすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、じろじろ私の様子を見ている。下谷の寿司屋の女中さんの口に紹介をたのむと、イチエンの手数料を五十銭にまけてもらって/公園に行った。今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗かな鼾をあげて眠っている。西郷さんの銅像も浪人戦争の遺物だ。貴方と私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとは’お思いになりませんか。霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンのおいしい頃ですね。 ◇。◇。◇。  貴方も私も寒そうだ。  貴方も私も貧乏だ。  昼から工場に出る。生きるは’つらし。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づくし。払えばいいのだ、借りておこうかしら、弱き者よ/汝の名は’貧乏なり。 ◇。◇。◇。 【家にかえる時間となるを】 【ただ一つ待つことにして】 【今日も働けり。】 ◇。◇。◇。  啄木はこんなに楽しそうに’家にかえる事を歌っているけれど、私は工場から帰ると/棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それがたった一つの楽しさなのだ。二寸’ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた目、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。──松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ったとおもうと、台所から入って来て声をかける。 「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい、いま肉を買って来たんですよ。」  松田さんも私と同じ自炊生活である。なかなか’締まった人らしい。石油コンロで、ジ‥‥と肉を煮る匂いが、切なく口を濡らす。「すみませんが、この葱’切ってくれませんか。」昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった十円ばかりの-かねを貸して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。こんな人間に図々しく-されると一番たまらない‥‥。遠くで餅をつく勇ましい音が聞えている。私は黙ってぽりぽり大根の塩漬を噛んでいたけれど、台所のほうでも侘しそうに、こつこつ葱を刻み出しているようだった。「ああ刻んであげましょう。」黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、私は松田さんの包丁を取った。 「昨夜はありがとう、五円を小母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」  松田さんは黙って/竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っている。奥では花が始まったのか、小母さんの、いつものヒステリーゴエがびんびん天井をつき抜けて行く。松田さんは黙ったまま米を研ぎ出した。 「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」 「ええ/貴方が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」  洋食ザラに分けてもらった肉が、どんな思いで私ののどを通ったか。私は色んな人の姿を思い浮べた。そしてみんなくだらなく思えた。松田さんと結婚をしてもいいと思った。夕食のあと、初めて松田さんの部屋へ遊びに行ってみる。  松田さんは新聞をひろげてゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて/笊へ入れていた。あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、また前よりもさらに凄くキリリッと弓をはってしまい、私はそのまま部屋へ帰ってきた。 「寿司屋もつまらないし‥‥」  外は嵐が吹いている。キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。吹きすさめ、吹きすさめ、嵐よ吹雪よ。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴ったところで私は一匹の烏猫だ。世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃっている。またいつもの’淋しい朝の寝覚めなり。薄い壁に掛った、黒いパラソルをじっと見ていると、そのパラソルが色んな形に見えて来る。今日もまたこの男は、ほがらかな桜の小道を、我々’同志よなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云い合いながら行く事であろう。私はじっと背中を向けてとなりに寝ている男の髪の毛を見ていた。ああこのまま布団の口が締って、出られないようにしたらどんなものだろう‥‥。この人にピストルを突きつけたら、この男は鼠のようにキリキリ舞いをしてしまうだろう。お前はタカが芝居者じゃないか。インテリゲンチャの太鼓持ちになって、我々’同志よも-みっともないことである。私はもうあなたには愛想がつきてしまいました。あなたのその黒い鞄には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差し出していましたよ。 「俺はもう-じき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど‥‥俺には俺の節操があるし。」  私は男にはとても甘い女です。  そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみましょうかと云ってみるのだ。そして私はこのシゴニチ、働く家をみつけに出掛けては、魚のハラワタのように疲れて帰って来ていたのに‥‥この嘘つき男メ/ 私はいつもあなたが用心をして鍵を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗いてみたのですよ。二千円の金額は、あなたが我々プロレタリアと言っているほど少くもないではありませんか。私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦らし-くなっていた。二千円と、若い女優があれば、私だったら当分は長生きが出来る。 (ああ浮世は’つろうござりまする。)  こうして寝ているところは円満なご夫婦である。冷たい接吻はまっぴらなのよ。あなたの体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。あなたはそんな女の情慾を抱いて、お勤めに私の首に手を巻いている。  ああ/淫売婦にでもなったほうがどんなにか気づかれがなくて、どんなにいいか知れやしない。私は飛びおきると男の枕を蹴ってやった。嘘つきメ/ 男は炭団のようにコナゴナに崩れていった。爛漫と花の咲き乱れた4月の明るい空よ、地球の外’には、サツサツとして熱風が吹きこぼれて、オーイオーイと見えない呼び声が/4月の空に弾けている。飛び出してお出でよッ/ 誰も知らない所で働きましょう。茫々とした霞の中に私は神様の手を見た。真黒い神様の腕を見た。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【一度は気休め二度は嘘】 【3度のよもやにひかされて‥‥】 【憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。】 ◇。◇。◇。 【ニワトリの生胆に】 【花火が散って夜が来た】 【東西/ 東西/】 【そろそろ男との大詰めが近づいて来た。】 【一刀両断に切りつけた男のハラワタに】 【メダカがぴんぴん泳いでいる。】 ◇。◇。◇。 【臭い臭い夜で】 【誰も居なけりゃ/泥棒に入りますぞ!】 【私は貧乏ゆえ男も逃げて行きました。】 ◇。◇。◇。 【ああ真暗いほっかぶりの夜だよ。】 ◇。◇。◇。  土を見つめて歩いていると、しみじみと侘しくなってきて、病犬のように慄えて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。美しい街の鋪道を今日も私は、私を買ってくれないか、私を売ろう‥‥と野良犬のように彷徨してみた。引き止めても引き止まらない’切れたがる絆ならば/この男ともあっさり別れてしまうより仕方がない‥‥。窓外の/名も知らぬ大樹のたわわに咲きこぼれた白い花には、小さい白い蝶々が群れていて、いい匂いがこぼれて来る。夕方、お月様で光っている縁側に出て/男の芝居のせりふを聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切ってきて:、私も大きな声でどっかにいい男はないでしょうかとお月様に呶鳴りたくなってきた。この人の当たり芸は、かつて芸術座の須磨子のやったと云う「剃刀」と云う芝居だった。私は少女の頃、/九州の芝居小屋で、この人の「剃刀」と云う芝居を見た事がある。須磨子のカチュウシャもよかった。あれからもうだいぶ時がたっている。この男も四十近い年だ。「役者には、やっぱり役者のお上さんがいいんですよ。」ひとり稽古をしている明かりに写った男の影を見ていると、やっぱりこの人も可哀想だと思わずには’いられない。紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠くに去ってしまう。 ◇。◇。◇。 「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ‥:‥でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻のまま他所の男の宿へ忍んで行っていた。」 「俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるでゴムのように’はじき返って、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいい気持ちだった。」  二人で縁側に足を投げ出していると、男は明かりを消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をしている。私は圏外に置き忘れられた、たった一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ていると/この男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃくがどっかで哄笑っている、私は悲しくなってくると、足の裏がかゆくなるのだ。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる回ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいいだろう──。 「何だか一人でいたくなったの‥‥もうどうなってもいいから一人で暮らしたい。」  男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふりちぎって、別れと云う言葉の持つ淋しい言葉に涙を流して/私を抱こうとしている。これも他愛のないお芝居なのか、さあこれから忙しくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ出て行った。誰もかも握手をしましょう、ワンタンの屋台に首をつっこんで、まず支那ザケをかたぶけて、私は味気ない男の旅愁を吐き捨てた。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  街の四ツ角で、まるで人よりも冷やかに、私も男も別れてしまった。男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日かよっているのだ。 ◇。◇。◇。  私も今日から通いでお勤めだ。男に食わしてもらう事は、/泥を噛んでいるよりも辛いことです。テイのいい仕事よりもと、私のさがした職業はギュウ屋の女中さん。「ロースあおり一丁願いますッ。」梯子段をトントンと上がって行くと、しみじみと美しい歌が歌いたくなってくる。広間に群れたどの顔も/面白いフイルムのようだ。肉ザラを持って、梯子段を上がったり降りたりして、私の前帯の中も、それに並行して/少しずつ-お金でふくらんで来る。どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は美味しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。だけど、上がったり降りたりで、私はいっぺんにへこたれてしまった。「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」女中ガシラの髷に結ったお杉さんが、物かげで腰を叩いている私を見て慰めてくれたりした。 ◇。◇。◇。  十二時になっても、この店は素晴らしい繁昌ぶりで、私は家へ’帰るのに気が気ではなかった。私とお満さんをのぞいては、みんな住み込みの人なので、平気で残っていて/客にたかっては色々なものをねだっている。 「たあさん、わたし水菓子ね‥‥」 「あら/わたし鴨南よ‥‥」  まるで野生の集まりだ、笑っては食い、笑っては食い、無限に時間がつぶれて行きそうで/私は焦らずには’いられなかった。私がやっと店を出た時は、もう一時近くで、/店の時計が遅れていたのか、市電はとっくになかった。神田から田端までの路のりを思うと、私はがっかりして坐ってしまいたいほど悲しかった。街の明かりはまるで狐火のように一つ一つ消えてゆく。仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来る。上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、サンカが恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。雨気を含んだ風が吹いていて、日本髪の両鬢を鳥のように羽ばたかして、私は明滅する仁丹の広告燈にみいっていた。どんな人でもいいから、道連れになってくれる人はないかと/私はぼんやり広小路のほうを見ていた。  こんなにも辛い思いをして、私はあの人に真実をつくさなければならないのだろうか? 不意に法被を着て自転車に乗った人が、さっと煙のように目の前を過ぎて行った。何もかも投げ出したいような気持ちで走って行きながら、「貴方は八重垣町のホウへいらっしゃるんじゃあないですかッ-」と私は大きい声でたずねてみた。 「ええそうです。」 「すみませんが田端まで帰るんですけれど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴けませんでしょうか?」  今は一生懸命である。私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人テイの男にすがってみた。 「私も使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」  もう何でもいい/私はポックリの下駄を片手に、裾をはしょってその人の自転車の後ろに乗せてもらった。しっかりと法被の人の肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、ふと自分がおかしくなって涙をこぼしている。無事に帰れますようにと/私は何かに祈らずには’いられなかった。  夜目にも白く/染物とかいてある法被の字を眺めて、吻と安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくな-っている。根津の町でその職人さんに別れると、また私は飄々と歌を唱いながら道を急いだ。品物のように冷たい男のそばへ‥‥。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  国から汐の香りの高い布団を送って来た。お陽様に照らされている縁側の上に、送って来た布団を干していると、何故だか父様よ母さまよと/口に出して唱いたくなってくる。  今晩は市民座の公演会だ。男は早くから化粧箱と着物を持って出かけてしまった。私は長いこと水を貰わない植木鉢のように、干からびた熱情で二階の窓から男のいそいそとした後姿を眺めていた。夕方’四谷のミワ会館に行ってみると場内はもういっぱいの人で、舞台は例の「剃刀」である。男の弟は目ざとく私を見つけると/目をまばたきさせて、ねえさんはなぜ楽屋に行かないのかとたずねてくれる。人のいい大工をしているこの弟のほうは、兄とは全く別な世界に生きているいい人だった。  舞台は乱暴な夫婦喧嘩のところだった。おお/あの女だ。いかにも得意らしくしゃべっているあの人の相手女優を見ていると、私は初めて女らしい嫉妬を感じずには’いられなかった。男はいつも私と着て寝る寝巻を着ていた。今朝’二寸ほど背中がほころびていたけれど/私はわざと直しては’やらなかったのだ。一人よがりの男なんてまっぴらだと思う。  私はくしゃみを何度も何度もつづけると、ぷいと帰りたくなってきて、詩人の友達二’三人と、暖かい戸外へ出ていった。こんなにいい夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろうと思うなり。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ) 「僕が電報を打ったら、じき帰っておいで。」と云ってくれるけれど、この人はまだ嘘を云ってるようだ。私はくやしいけれど十五円の-かねをもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。  汐の香りのしみた私の古里へ私は帰ってゆくのだ。ああ何もかも逝ってしまってくれ、私には-なんにも用はない。男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でささやかな別宴を張った。 「私は当分/あっちで遊ぶ積りよ。」 「僕はこうして別れたって、きっと君が恋しくなるのはわかっているんだ。ただどうにも仕様のない気持ちなんだよ今は、本当にどうせき止めていいかわからない程、呆然とした気持ちなんだよ。」  汽車に乗ったら私は煙草でも吸ってみようかと思った。駅の売店で、青いバット五ツ六ツも買い込むと/私は汽車の窓から、本当に冷たい握手をした。 「さようなら、体を大事にしてね。」 「有難う‥‥御機嫌よう‥‥」  固く目をとじて、パッと瞼を開けてみると、せき止められていた涙が一時にあふれている。明石行きの三等車の隅っこに、荷物も何もない私は、足を伸び伸びと投げ出して/涙の出るにまかせていた。途中で面白そうな土地があったら/降りてみようかしらとも思っている。私は頭の上にぶらさがった鉄道地図を、じっと見上げて/駅の名を一つ一つ読んでいた。新しい土地へ降りてみたいなと思うなり。静岡にしようか、名古屋にしようか、だけど何だかそれも不安で仕方がない。暗い窓に凭れて、走っている人家の明かりを見ていると、暗い窓にふっと私の顔が/鏡を見ているようにはっきり写っている。 ◇。◇。◇。 【男とも別れだ!】 【私の胸で子供達が赤い旗を振っている】 【そんなによろこんでくれるか】 【もう私はどこへ’も行かず】 【みんなと旗を振って暮らそう。】 【みんなそうして飛び出しておくれ、】 【そして石を積んでくれ】 【そして私を胴上げして】 【石の城の上に乗せておくれ。】 ◇。◇。◇。 【さあ男とも別れだ泣かないぞ!】 【しっかりしっかり旗を振ってくれ】 【貧乏な女王様のお帰りだ。】 ◇。◇。◇。  外は真っ暗闇だ。切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口も硝子窓に押しつけて、塩辛い干物のように張りついて泣いていた。 ◇。◇。◇。  私は、これからいったい何処へ’行こうとしているのかしら‥‥駅々の物売りの声を聞くたびに、おびえた心で私は目を開けている。ああ/生きる事がこんなにむずかしいものならば、いっそ乞食にでもなって、いろんな土地土地を流浪して歩いたら面白いだろうと思う。子供らしい空想にひたっては泣いたり笑ったり、おどけたり、ふと窓を見ると、これはまた奇妙な私の百面相だ。ああこんなに面白い生き方もあったのかと、私は固いクッションの上に坐りなおすと、飽きる事もなく、なつかしくいじらしい自分の百面相に見入ってしまった。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【私はお釈迦様に恋をしました】 【仄かに冷たい唇に接吻すれば】 【おお’もったいない程の】 【痺れゴコロになりまする。】 ◇。◇。◇。 【もったいなさに】 【なだらかな血潮が】 【逆流しまする。】 ◇。◇。◇。 【心憎いまでに落ちつきはらった】 【その男振りに】 【すっかり私の魂は’つられてしまいました。】 ◇。◇。◇。 【お釈迦様/】 【あんまりつれないではござりませぬか】 【蜂の巣のようにこわれた】 ◇。◇。◇。 【私の心臓の中に】 【お釈迦様】 【ナムアミダブツの無常を悟すのが】 【能でもありますまいに】 【その男ぶりで】 【炎のような私の胸に】 【飛びこんで下さりませ】 【俗世に汚れた】 【この女の首を】 【死ぬほど抱きしめて下さりませ】 【ナムアミダブツのお釈迦様/】 ◇。◇。◇。  妙に侘しい日だ。気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない。朝から、降りどおしだった雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうに-じつによく降っている。こんな-しを書いて、壁に張りつけてみたものの/私の心はすこしも愉しくはない。 【 ──スグコイ/カネイルカ】  青ぶくれのした電報用紙が、ヒラヒラと私の頭に浮かんで来るのは妙だ。  馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、今は切ない私である。高松の宿屋で、あの人の電報を本当に受取った私は、嬉し涙を流していた。そうして、はち切れそうな土産物を抱いて、いま、この田端の家へ帰って来たはずだのに──。ハンツキもたたないうちにまた別居だとはどうした事なのだろう。私は男に二カ月分の間代を払ってもらうと、テイのいい居残りのままだったし、男は金魚のように尾をヒラヒラさせて、本郷の下宿に越して行ってしまった。昨日も出来上がった洗濯物を一ぱい抱えて、私はまるで恋人に会いにでも行くように/いそいそと男の下宿の広い梯子段を上がって行ったのだ。ああ私はその時から、飛行船が欲しくなりました。明かりのつき始めたすがすがしい部屋に、私の胸に泣きすがったあの人が、桃割れに結ったあの女優とたった二人で、魚の様にもつれあっているのを見たのです。暗い廊下に出て、私は眼にいっぱい涙をためていました。顔いっぱいが、いいえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなってしまって、切なかったけれども‥‥。 「やあ‥‥。」私は子供のように天真に哄笑して、切ない眼を、始終’机の足のほうに向けていた。あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界への駆け足だ。「十五銭で接吻しておくれよ-」と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。  男と云う男はみんなくだらないじゃあないの! 蹴散らして、踏みたくってやりたい怒りに燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽんに呑み散らした私の情けない姿が、こうしていまは静かに雨の音を聞きながら/トコの中にじっとしている。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あの人は女優の首を抱えていることだろう‥‥そんな事を思うと、私は飛行船にでも乗って、爆裂弾でも投げてやりたい気持ちなのです。  私は二日酔いと空腹で、ヒョロヒョロしている体を立たせて、ありったけの’米を土釜に入れて/井戸端に出て行った。階カの人達はみんな風呂に出ていたので/私は気兼ねもなく、大きい音をたてて米をサクサク洗ってみたのです。雨に濡れながら、ただ一筋にはけて行く白い水の手ざわりを一人で楽しんでいる。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  朝。  ほがらかな、よいお天気なり。雨戸を繰ると白い蝶々が雪のように群れていて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。雲があんなに、白や青い色をして流れている。ほんとにいい仕事をしなくちゃいけないと思う。火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住まいもなかなかいいものだと思った。朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした新鮮な空気を吸うと、本当に元気になって来る。だけど楽しみの郵便が、質屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円’四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ。私は縞の着物に黄色い’帯を締めると、日傘を廻して幸福な娘のような姿で街へ出てみた。例の通り/古本屋への日参だ。 「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから‥‥。」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかかえて見ている。 「一番いま流行る本なの、じき売れてよ。」 「へえ‥‥スチルネルの自我経ですか、イチエンで戴きましょう。」  私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂に一ツずつそれを入れて、まぶしい外に出た。そしていつものように飯屋へ行った。  本当にいつになったら、世間の人のように、こぢんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。一ツ二ツの童話くらいでは満足に食ってはゆけないし、と云ってカフェーなんかで働く事は、よれよれに荒んで来るようだし、男に食わせてもらう事は切ないし:、やっぱり本を売っては、その時々の私でしかないのであろう。夕方’風呂から帰って爪をきっていたら、画学’生の吉田さんが一人で遊びにやって来た。写生に行ったんだと云って、十号の風景画をさげて、絵の具の匂いをぷんぷんただよわせている。詩人の相川さんの紹介で知ったきりで、別に好きでも嫌いでもなかったけれど、一度、二度、三度と来るのが重なると、ちょっと重荷のような気がしないでもない。紫色のシェードの下に、疲れたと云って寝ころんでいた吉田さんは、ころりと起きあがると、 ◇。◇。◇。 【瞼、瞼、薄ら瞑った瞼を突いて、】 【きゅっと抉って両目をあける。】 【長崎の、長崎の】 【人形つくりはおそろしや!】 ◇。◇。◇。 「こんな唄を知っでいますか、白秋の-しですよ。貴方を見ると、この-しを思い出すんです。」  風鈴が、そっと私の心をなぶっていた。涼しい縁端に足を投げ出していた私は、明かりのそばにいざりよって/男の胸に顔を寄せた。悲しいような動悸を聞いた。悩ましい胸の哀れな響きの中に、しばし私はうっとりしていた。切ない悲しさだ。女のゴウなのだと思う。私の動脈はこんなひとにも噴水の様なしぶきをあげて来る。吉田さんは慄えて黙っていた。私は油絵具の中にひそむ、油の匂いをこの時ほど悲しく思った事はなかった。長い事、私たちは情熱の克服に努めていた。やがて、背の高い吉田さんの影が門から消えて行くと、私は蚊帳を胸に-だいたまま泣き出していた。ああ私には別れた男の思い出のほうが生々しかったもの‥:‥私は別れた男の名を呼ぶと、まるで手に負えない我が儘娘のように/ワッと声を上げて泣いているのだ。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  今日は隣の八畳の部屋に別れた男の友達の、イソリさんが越して来る日だ。私は何故か、あの男の魂胆がありそうな気がして不安だった。──飯屋へ行く道、お地蔵様へ線香を買って上げる。帰って髪を洗い、さっぱりした気持ちで団子坂の静栄さんの下宿’へ行ってみた。「二人」と云う私たちの-しのパンフレットが出ている筈だったので/元気で’坂を駆け上がった。窓の青いカーテンをめくって、いつものように窓へ凭れて静栄さんと話をした。この人はいつ見ても若い。房々した断髪をかしげて、しめっぽい瞳を輝かしている。夕方、静栄さんと印刷屋へパンフレットを取りに行った。たった八頁だけれど、まるで果物のように新鮮で好ましかった。帰りに南天堂によって、皆に一部ずつ送る。働いてこのパンフレットを長くつづかせたいものだと思う。冷たいコーヒーを飲んでいる肩を叩いて、辻さんが鉢巻をゆるめながら、讃辞をあびせてくれた。「とてもいいものを出しましたね。お続けなさいよ。」飄々たる辻潤の酔態に微笑を送り、私も静栄さんも幸福な気持ちで外へ出た。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  種まく人たちが、今度文芸戦線と云う雑誌を出すからと云うので、私はセルロイドガングの色塗りに-かよっていた/小さな工場の事を-しにして、「工女の唄える」と云うのを出しておいた。今日は都新聞に別れた男への私の-しが載っている。もうこんな-しなんか辞めましょう。くだらない。もっと勉強して立派な-しを書こうと思う。夕方から銀座の松月と云うカフェーへ行った。ドンの-しの展覧会がここであるからだ。私の下手な字が麗々しく先頭をかざっている。橋爪氏に会う。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  雨が細かな音をたてて降っている。 ◇。◇。◇。 【陽春/二’三月◇ 楊柳ひとしく/花をなす】 【春風/いちや/ケイタツにいり◇ 楊花/飄蕩して/ナンカにおつ】 【情を含みて/コをいづれば/脚に力なく◇ 楊花を拾い得て/なみだ/胸をうるおす】 【秋去り/春来たる/双燕シ◇ ネガワくは/楊花を含みて/カリに入れ】 ◇。◇。◇。  明かりの下に横坐りになりながら、ハクカを恋した霊太后の-しを読んでいると、つくづく旅が恋しくなってきた。イソリさんは引っ越して来てからいつも帰りは夜更けの1時過ぎなり。階カの人は勤め人なので九時頃には寝てしまう。ときどき田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞えるだけで、この辺は山住いのような静かさだった。つくづく一人が淋しくなった。楊ハクカのように美しいひとが欲しくなった。本を伏せていると、焦々して来て私は階カに-おりて行くのだ。 「今頃どこへゆくの?」階カの小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。 「割引なのよ。」 「元気がいいのね‥‥」  蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど所詮はどこへ’行っても淋しい一人身’なり。小屋が閉まると、私はまた溝鼠のように部屋へ帰って来る。「誰かお客さんのようでしたが‥‥。」小母さんの寝ぼけた声を背中に、疲れて上がって来ると、吉田さんが紙を円めながらポッケットへ入れている所だった。 「おそく上がって済みません。」 「いいえ、わたし/活動へ行って来たのよ。」 「あんまりおそいんで、置き手紙’をしてたとこなんです。」  別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居につかえそうに背の高い吉田さんを見ていると、私は何か圧されそうなものを感じている。 「随分雨が降るのね‥‥」  これくらい白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、かの人はじっと私の顔を見つめて来た。私はこの男が好きで好きでたまらなくなりそうに思えて困ってしまう。だけど、私はもう色々なものにこりごりしているのだ。私はおとなしく両手を机の上にのせて、明かりの光りに眼を走らせていた。私の両の手先きが小さく、慄えている。一本の棒を二人で一生懸命に押しあっている気持ちなり。 「貴方は私を嬲っているんじゃないんですか?」 「どうして?」  何と云うマの抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ’巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか‥:‥私は口の内につぶやきながら、この人をこのまま-こさせなくするのもちょっと淋しい気がしていた。ああ友達が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれども‥‥私はいつか涙があふれていた。  いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。かの人は私を睨み殺すのかも知れない。生唾が舌の上を走った。私は自分がみじめに思えて仕方がなかった。別れた男との/幾月かを送ったこの部屋の中に、色々な夢がまだ泳いでいて/私を苦しくしているのだ。──引っ越さなく-ては’とてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭にえがいていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。「僕を愛して下さい。だまって僕を愛して下さい!」:「だからだまって、私も愛しているではありませんか‥‥。」せめて手を握る事によってこの青年の胸が癒されるならば‥‥。私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。貞操のない私の体だけども、まだどこかに私の一生を託す男が出てこないとも限らないもの。でもこの人は新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸、青い眉、太陽のような目。ああ私は激流のような激しさで泣いているのだ。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  淋しくそうろう。くだらなくそうろう。かねが欲しくそうろう。北海道あたりの、アカシヤの香る並木道を一人できままに歩いてみたいものなり。 「もう起きましたか‥‥」  珍らしくイソリさんの声が障子の外でしている。 「ええ/起きていますよ。」  日曜なのでイソリさんと静栄さんと三人で久しぶりに、吉祥寺の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私はこの人と会うのは二度目だ。私がおさない頃、近松さんの家に女中にはいっていた時、この人は茫々としたむさくるしい姿で、牛の絵を売りに来たことがあった。子供さんがジフテリヤで、大変侘しげな風采だったのをおぼえている。靴をそろえる時、まるで河馬の口みたいに靴の底が離れていたものだった。私は小さい釘を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。きっとこの人は気がつかなかったかも知れない。/上野山さんは飄々と酒を呑み/よく話している。夜、上野山氏は一人で帰って行った。 ◇。◇。◇。 【地球の回転椅子’に腰を掛けて】 【ガタンとひとまわりすれば】 【引きずる赤いスリッパが】 【片っ方飛んでしまった。】 ◇。◇。◇。 【淋しいな‥‥】 【オーイと呼んでも】 【誰も私のスリッパを取ってはくれぬ】 【度胸をきめて】 【回転椅子から飛び降り】 【飛んだスリッパを取りに行こうか。】 ◇。◇。◇。 【臆病な私の手はしっかり】 【回転椅子’にすがっている】 【オーイ誰でもいい】 【思い切り私の横ツラを】 【はりとばしてくれ】 【そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ】 【私はゆっくり眠りたいのだ。】 ◇。◇。◇。  落ちつかない寝床の中で、私はこんな-しを頭に描いた。したで三時の鳩時計が鳴っている。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  世界は星と人とより成る。エミイル・ヴェルハアレンの「世界」と云う-しを読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかも欠伸ばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人を軽蔑してやりましょう。人よ、攀じ難いあの山がいかに高いとても、飛躍の念さえセツならば、恐れるなかれ/不可能の、金の駿馬をせめたてよ。──実に’つまらない-しだけれども、才子と見えて-じつに巧い言葉を知っている。金の駿馬をせめたてよか‥‥窓を横ぎって紅い風船が飛んで行く。呆然たり、呆然たり、呆然たりか‥‥。何と住みにくい浮世でございましょう。  故郷より’手紙が来る。  ──現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに自惚れてはならない。お母さんも、だいぶ衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。──父より五円の為替。私は五円の為替を膝において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ’舌を出した。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  前の屍室には、今夜は青い明かりがついている。また兵隊がひとり死んだのだろう。青い窓の明かりを横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツ/ぼんやりうつっている。 「あら! 螢が飛んどる。」  井戸端で黒島伝治さんの細君がぼんやり空を見上げていた。 「本当?」  寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。  夜。隣の壺井夫婦、黒島夫婦/遊びに見える。  壺井さん曰く。 「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人でイチバへタライを買いに行ったら、かねも払わないのに、三円いくらの釣り銭とタライをくれてちょっとドキッとしたぜ。」 「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも蝋燭を買いに行って、五クローネルの釣り銭と蝋燭をただでもらって来るところがありましたね。」  私も夫も、壺井さんの話はちょっとうらやましかった。──泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私たちの長屋だろう。兵営の屍室と/墓地と/病院と、安カフェーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。 「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」 「たけのこ盗みに行くか‥‥」  三人の男たちは道の向こうの竹藪を背戸に持っている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。女達は久しぶりに街の明かりを見たかったけれども、あきらめて太子堂の縁日を歩いてみた。竹藪の小路に出した露店のカンテラの明かりが噴水のように薫じていた。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私たちは散歩に出る話をした。鍵を締めて、一足おそく出て行ってみると、どっちへ行ったものか、夫の蔭はその辺に見えなかった。焦々して日照りのはげしい丘の道を往ったり来たりしてみたけれど/随分おかしな話である。待ちぼけを食ったと怒ってしまった夫は、私の背をはげしく突き飛ばすと/閉ざした家へはいってしまった。またおこっている。私は泥棒猫のように台所から部屋へ入ると、夫はいきなり束子や茶碗を私の胸に投げつけて来た。ああ、この剽軽な粗忽モノをそんなにも貴方は憎いと云うのですか‥‥私は井戸端に立って蒼い雲を見ていた。右へ’行く道が、左へまちがっていたからと云っても、「馬鹿だねえ」と云う一言ですむではありませんか。私は自分の淋しい影を見ていると、小学生時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にも写っていたあの不思議な世界のあった頃を思い出してくるのだ。青くて高い空を私はいつまでも見上げていた。子供のように涙が湧きあふれて来て、私は地べたへ’しゃがんでしまうと、カイロの水売りのような郷愁の唄を歌いたくなった。  ああ全世界は’お父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸汽船のような工場の音がしていた。ああ尾道の海/ 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りて行った。そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした原っぱだった。三宿の停留場に、しばらく私は電車に乗る人か何かのように立っては’いたけれど、お腹がすいて目がまいそうだった。 「貴方! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か心配ごとでもあるのではありませんか。」  今さきから、じろじろ私を見ていた二人の老婆が、馴々しく近寄って来ると/私の身体をじろじろ眺めている。笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切な’お婆さんは、ゆるゆる歩きだしながら/信仰の強さで足の曲った人が歩けるようになったことだとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、色々と天理教の話をしてくれるのであった。  川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、楓の青葉が、爽やかに塀の外にふきこぼれていた。二人のバアさんは広い神前に額ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊を始めだした。 「お’国はどちらでいらっしゃいますか?」  白い着物を着た中年の神主が、私にアンパンと茶をすすめながら、私の侘しい姿を見てたずねた。 「別に国と云って決まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」 「ホウ‥‥随分遠いんですなあ‥‥」  私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ-つまんで食べた。一口’噛むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。──何もない。何も考える必要はない。私は-つと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。ただ口に味覚があればいいのだ。──家の前へ行くと、あの男と同じように固く玄関は口をつぐんでいる。私は壺井さんの家へ行くと、ゆっくりと足を投げ出してそこへ寝かしてもらった。 「お宅に少しばかりお米はありませんか?」  人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が厭になってしまったわと云う話におちてしまっている。 「たい子さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」 「そりゃあ、ええなあ‥‥」  そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。本当に素直な人だ。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章クラブの-しの稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂も、今日は素敵に楽しい街になって、/店の一ツ一ツを私は愉しみに覗いて通った。 ◇。◇。◇。 【隣人とか】 【肉親とか】 【恋人とか】 【それが何であろう】 【生活の中の食うと云う事が満足でなかったら】 【描いた愛らしい花はしぼんでしまう】 【快活に働きたいと思っても】 【悪口雑言の中に】 【私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。】 ◇。◇。◇。 【両手を高くさしあげてもみるが】 【こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか】 【いつまでも人形を抱いて黙っている私ではない】 【お腹がすいても】 【職がなくっても】 【ウオオ/ と叫んではならないのですよ】 【幸福な方が眉をおひそめになる。】 ◇。◇。◇。 【血をふいて悶死したって】 【ビクともする大地ではないのです】 【陳列箱に】 【ふかしたてのパンがあるけれど】 【私の知らない世間はなんとまあ】 【ピヤノのように軽やかに美しいのでしょう。】 ◇。◇。◇。 【そこで初めて】 【神様コンチクショウと呶鳴りたくなります。】 ◇。◇。◇。  長いあいだ電車にゆられていると、私はまたなんの慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。しを書く事がたった一つのよき慰めなり。夜、飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。 ◇。◇。◇。 【俺んとこの】 【あの美しい】 【ケッコ◇ ケッコ鳴くのが】 【ほしんだろう‥‥。】 ◇。◇。◇。  二人はそんな唄を歌っている。  壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  今夜は太子堂のお祭りで、家の縁側から、前の広場の相撲場がよく見えるので、みんな背のびをして集まって見る。「西/ 前田河ア」と云う行司の呼び声に、縁側へ爪さきだって-いた私たちは/ドッと吹き出して哄笑した。知った人の名前なんかが呼ばれるととてもおかしくて堪らない。貧乏をしていると、みんな友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまうものとみえる。みんなはよく話をした。怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんも千葉の海岸で見た人魂の話をした。この人は山国の生まれなのか/非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労をしている人なり。夜更け一時過ぎまで花遊びをする。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  萩原さんが遊びにみえる。  酒は呑みたし-かねはなしで、敷布団を一枚’屑屋にイチエン五十銭で売って焼酎を買うなり。お米が足りなかったのでうどんの玉を買ってみんなで食べた。 ◇。◇。◇。 【平手もて】 【吹雪にぬれし顔を拭く】 【友共産を主義とせりけり。】 ◇。◇。◇。 【酒呑めば/鬼のごとくに青かりし】 【大いなる顔よ】 【悲しき顔よ。】 ◇。◇。◇。  ああ若い私たちよ、いいじゃありませんか、いいじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱して/うどんをつつき/焼酎を呑んでいる。その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行って、夫が帰って来ると蚊帳がないので/私たちは部屋を締め切って/蚊取り線香をつけて寝につくと、 「オーイ起きろ起きろ-」と大ぜいの足音がして、麦踏みのように地響きが頭にひびく。 「寝たふりをするなよオ‥‥」 「起きているんだろう。」 「起きないと火をつけるぞ!」 「オイ/ 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ、起きないかい‥‥」  飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞えている。私は笑いながら黙っていた。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  朝、ネドコの中ですばらしい新聞を読んだ。  本野子爵夫人が、不良少年少女の救済をされると云うので、円満な写真が大きく新聞に載っていた。ああこんな人にでもすがってみたならば、何とか、どうにか、自分の行く道が-ひらけはしないかしら、私も少しは不良じみているし、まだ二十三だもの:、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている本野夫人の住所を切り抜いて/麻布のそのお屋敷へ出掛けて行ってみた。 ◇。◇。◇。  折目がついていても浴衣は浴衣なのだ。私は浴衣を着て、空想で胸をいっぱいふくらませて歩いている。 「パンをおつくりになる、あのハヤシさんでいらっしゃいましょうか?」  女中さんがそんな事を私にきいた。どういたしまして、パンを戴きに上がりました林ですと心につぶやきながら、 「ちょっとお目にかかりたいと思いまして‥‥。」と云ってみる。 「そうですか、いま愛国婦人会のホウへ行っていらっしゃいますけれど、すぐお帰りですから。」  女中さんに案内をされて、ロッカクのように突き出た窓ぎわのソファに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭に見いっていた。青いカーテンを透かして、風までがすずやかにふくらんではいって来る。 「どう云う御用で‥‥」  やがてずんぐりした夫人は、蝉のように薄い黒羽織を着て応接マにはいって来た。 「あの/お先にお風呂をお召しになりませんか‥‥」  女中が夫人にたずねている。私は不良少女だと云う事が厭になってきて、夫が肺病で困っていますから/少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云ってみた。 「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業に手助けをしているきりで:、お困りのようでしたら、九段の婦人会のホウへでもいらっして、仕事をなさってはいかがですか‥‥」  私はテイよく埃のように外に出されてしまったけれど、─:─彼女が眉をさかだてて/なぜあの様な者を上へ上げましたと、いまごろは女中を叱っているであろう事をおもい浮べて、ツバキをひっかけてやりたいような気持ちだった。ヘエー何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。夕方になると、朝から何も食べていない二人は、暗い部屋にうずくまって/当てのない原稿を書いた。 「ねえ、洋食を食べない?」 「ヘエ?」 「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」 「かねがあるのかい?」 「うん、だって背に腹は代えられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは/かねを取りにこないでしょう。」  洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。一口くらいは残しておかなくちゃ変よ。腹が少し豊かになると、生きかえったように私たちは私たちの思想に青い芽を-もやす。全く鼠も出ない有様なのだから仕方もない──。  私は蜜柑箱の机に凭れて童話のようなものをかき始める。外は雨の音なり。玉川のほうで、絶え間なく鉄砲を打つ音がしている。深夜だと云うのに、元気のいい事だ。だが、いつまでこんな虫みたいな生活が続くのだろうか、うつむいて子供の無邪気な物語を書いていると、つい目頭が熱くなって来るのだ。  イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにもありません。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  胸に凍みるような侘しさだ。夕方、頭の禿げた男の云う事には、「俺はこれから女郎かいに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どうだい?」私は白いエプロンをくしゃくしゃに円めて、涙を口にくくんでいた。 「おカアさん! おカアさん!」  何もかも厭になってしまって、二階の女給部屋の隅に寝ころんでいる。鼠が群れをなして走っている。暗さが眼に馴れてくると、雑然と風呂敷ヅツみが石塊のように辺りに転がっていて、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れていた。煮えくり返るような騒々しい階カの雑音の上に、おばけでも出て来そうに、女給部屋は淋しいのだ。ドクドクと流れ落ちる涙と、ガスのように抜けて行く悲しみの氾濫、何か正しい生活にありつきたいと思うなり。そうして落ちついて本を読みたいものだ。 ◇。◇。◇。 【しゅうねく強く】 【家の貧苦、酒の癖、遊びの癖、】 【みなそれだ。】 【ああ、ああ、ああ】 ◇。◇。◇。 【切りつけろ/それらに】 【とんでのけろ、はねとばせ】 【私が-なんべん叫びよばった事か、苦しい、】 【血を吐くように芸術を吐き出して/狂人のように踊りよろこぼう。】 ◇。◇。◇。  槐多は’かくも叫びつづけている。こんなうらぶれた思いの日、チエホフよ、アルツイバアセフよ、シュニッツラア、私の心の古里を読みたいものだと思う。働くと云う事を辛いと思った事は一度もないけれど、今日こそ安息がほしいと思う。だが今はみんなお伽話のようなことだ。  薄暗い部屋の中に、私は直哉の「和解」を思い出していた。こんなカフェーの雑音に巻かれていると、日記をつける事さえおっくうになって来ている。──まず雀が鳴いているところ、朗かな朝陽が長閑に光っているところ、ヒにあたって青葉の音が色が雨のように薫じているところ:、槐多ではないけれど、狂人のように、ひとり居の住居が恋しくなりました。  十方空しく御座候だ。暗いので、私はただじっと眼をとじているなり。 「オイ/ ゆみちゃんは’どこへ’行ったんだい?」  階カでお上さんが呼んでいる。 「ゆみちゃん/居るの? お上さんが呼んでてよ。」 「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」  八重ちゃんが乱暴に階カへ降りて行くと、漠々とした当てのない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたならと唄い出したくなっている。メフィストフェレスがそろそろ踊りだして来たぞ! 昔お偉いルナチャルスキイ-となん申します方が、──生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤよ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手をいれると、死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母’のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら‥‥。別れた男の顔が、熱い瞼に押して来る。 「オイ/ ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々くらいは我慢して階カへ降りて働いておくれよ。」  お上さんが、声を尖らせて梯子段を上がって来た。ああ何もかも一切合財が煙だ’砂だ’泥だ。私はエプロンの紐を締めなおすと、陽気に唄を唄いながら、海底のような階カの雑沓の中へ降りて行った。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  朝から雨なり。  造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足どまりと、コートを借りて、蛾のように女は他の足どまりへ行ってしまった。 「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」  八重ちゃんが白いくるぶしを掻きながら私を嘲笑っている。 「ヘエ/ そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんのパラソルでも盗んで逃げて行こうかしら。」  私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ちゃんが、 「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ‥‥。」と云っている。由ちゃんは十九で、サガレンで生まれたのだと白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を抜いでいる栗色の皮膚に、窓ガラスの青い雨の影が、細かく写っている。 「人間ってつまらないわね。」 「でも、木のほうがよっぽどつまらないわ。」 「火事が来たって、大水が来たって、木だったら逃げられないわよ‥‥」 「馬鹿ね!」 「ふふふふ誰だって馬鹿じゃないの──」  女達のおしゃべりは夏の青空のように朗かである。ああ私も鳥か何かに生まれて来るとよかった。電気をつけて、みんなで阿弥陀を引いた。私は四銭。女達はアスパラガスのように、ドロドロと白粉をつけかけたまま/みんなだらしなく寝そべって/蜜豆を食べている。雨がカラリと晴れて、窓から涼しい風が吹きこんでくる。 「ゆみちゃん、あんたいい人があるんじゃない? 私そう睨んだわ。」 「あったんだけれど遠くへ行っちゃったのよ。」 「素敵ね!」 「あら、なぜ?」 「私は別れたくっても、別れてくんないんですもの。」  八重ちゃんはカラになったスプーンを嘗めながら、今の男と別れたい-わと云っている。どんな男の人と一緒になってみても同じ事だろうと私が云うと、 「そんな筈ないわ、石鹸だって、十銭のと五十銭のじゃ随分-しなが違ってよ。」と云うなり。  夜。酒を呑む。酒に溺れる。もらいは二円’四十銭、アリガタヤ、カタジケナヤ。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。  もっと早く!  もっと早く!  たまに自動車に乗るといい気持ちなり。雨の町に燈火がつきそめている。 「どこへ行く?」 「どこだっていいわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」  運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかしら。──午後からの公休日を所在なく消していると、自分で車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてやろうと云ってくれる。田無と云うところまで来ると、赤土へ自動車がこね上がってしまって、雨の降る櫟林の小道に、自動車はピタリと止ってしまった。遠くの、眉ほどの山裾に、明かりがついているきりで、ざんざぶりの雨にまじって、地鳴りのように雷鳴がして/稲妻が光りだした。雷が鳴るとせいせいしていい気持ちだけれど、シボレーのフル自動車なので、雨がガラス窓に叩かれるたび、霧のようなしぶきが車室にはいってくる。そのたそがれた櫟の小道を、自動車が一台通ったきりで、雨の怒号と、雷と稲妻。 「こんな雨じゃあ道へ出る事も出来ないわね。」  松つぁんは黙って煙草を吸っている。こんな善良そうな男に、芝居もどきのコンタンはあり得ない。雨は冷たくていい気持ちだった。雷も雨も破れるような響きをしている。自動車は雨に打たれたまま夜の櫟林にとまってしまった。  私は何かせっぱつまったものを感じた。機械アブラクサい松さんの菜っぱ服をみていると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来て仕方がない。ジュウシチハチの娘ではないもの。私は逃げる道なんか上手に心得ている。  私がつくろって言った事は、「あんたは、まだ私を愛してるとも云わないじゃないの‥‥暴力で来る愛情なんて、私は大嫌いよ。私が可愛かったら、もっとおとなしくならなくちゃあ厭-」  私は男の腕に狼のような歯形を当てた。涙に胸がむせた。負けてなるものか。雨の夜が白みかけた頃、男は汚れたままの顔をゆるめて眠っている。 ◇。◇。◇。  遠くで黎明をつげるニワトリの声がしている。朗らかな夏の朝なり。昨夜の汚ない男の情熱なんかケロリとしたように、風が絹のように音をたてて流れてくる。この男があの人だったら‥‥コッケイな男の顔を自動車に振り捨てたまま、私は’どろんこの道におり歩いた。紙一重の昨夜のつかれに、腫れぼったい瞼を風に吹かせて、久し振りに私は晴々と郊外の路を歩いていた。──私はケイベツすべき女でございます! /荒みきった私だと思う。走って櫟林を抜けると、ふと松さんがいじらしく/気の毒に思えてくる。疲れて子供のように自動車に寝ている松さんの事を考えると、走って帰っておこしてあげようかとも思う。でも恥ずかしがるかもしれない。私は松さんが落ちついて、運転台で煙草を吸っていた事を考えると、やっぱり厭な男に思え、ああよかったと晴々するなり。誰か、私をいとしがってくれる人はないものかしら‥‥遠くへ’去った男が思い出されたけれども、ああ7月の空に流離の雲が流れている。あれは私の姿だ。野花を摘み摘み、プロヴァンスの唄でも歌いましょう。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  女給達に手紙を書いてやる。  秋田から来たばかりの、おみきさんが鉛筆を嘗めながら眠りこんでいる。酒場ではお上さんが、一本のキング・オブ・キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、氷をたくさん呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。 「ちょっと! ラヴレーターって、どんな書出しがいいの‥‥」  八重ちゃんが真黒な眼をクルクルさせて赤い唇を鳴らしている。秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の田舎女達が、/店のテーブルを囲んで、遠い古里に手紙を書いているのだ。  今日は街に出てメリンスの帯を一本買うなり。イチエン二銭──8尺求める──。何か落ちつける職業はないものかと、新聞の案内欄を見てみるけれどいいところもない。いつもの医専の学生の群れがはいって来る。ハツラツとした男の体臭が汐のように部屋に流れて来て、学生ずきの、八重ちゃんは、書きかけのラヴレーターをしまって、両手で乳をおさえて/しなをつくっている。  二階では由ちゃんが、サガレン時代のゴウだと云って、私に見られたはずかしさに、プンプン匂う薬をしまってゴロリと寝ころんでいた。 「世の中は面白くないね。」 「ちっともね‥‥」  私はお由さんの白い肌を見ていると、妙に悩ましい気持ちだった。 「私は、これでも子供を二人も産んだのよ。」  お由さんはハルピンのホテルの地下室で生まれたのを振り出しに、色んなところを歩いて来た-らしい。子供は朝鮮のお母さんにあずけて、新しい男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフェー生活だそうだ。 「着物が一、二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかしらと思っているのよ。」 「こんなこと、いつまでもやる仕事じゃないわね、体がチャチになってよ。」  春夫のトウソウ残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言’目を-いた優しい/柔かい言葉があった。何もかも夢のように‥‥、落ちついてみたいものなり。キハツで紫の衿をふきながら、「ゆみちゃん! どこへ行っても便りは頂戴ね。」と、由ちゃんが涙っぽく私へこんなことを云っている。何でもかでも夢のようにね‥‥。 「そんな本’面白いの。」 「うん、ちっとも。」 「いいほんじゃないの‥‥わたし高橋おでんの小説読んだわ。」 「こんなほんなんか、自分が憂鬱になるきりよ。」 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  よそへ行ってほかのカフェーでも探してみようかと思う日もある。まるでアヘンでも吸っているように、ずるずるとこの仕事に溺れて行く事が悲しい。毎日’雨が降っている。  ──ここに我らは芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間が如何なる道によって進むか。夢想/ ビの小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的に創造の道によってかは、勿論、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵が彼にはより少く絶望的に思われる。けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつつある栄養の緊張力に関係する。緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望を持つ─:─女達が風呂に出はらったあとの昼間の女給部屋で、ルナチャルスキイの「実証美学の基礎」を読んでいると、こんな事が書いてあった。──ああどうにも動きのとれない今の生活と、感情の落ちつきなさが、私を苦しめるなり。私は暗くなってしまう。勉強をしたいと思うあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を走りまわっている。みきわめのつかない生活、死ぬるか生きるかの二ツの道‥‥。夜になれば、白人国に買われた土人のような淋しさで/埓もない唄を歌っている。メリンスの着物は汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタもないこの暑さでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで生きているより仕方もない。  なんの条件もなく、一カ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  一尺シホウの四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コックベヤで御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽいちょっと面白そうな女なり。ああ厭になってしまう、なぜか人が恋しい。──どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいい/私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようなものだ。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  広いホールの中を片づけてしまって/始めて自分の体になったような気がした。本当にどうにかしなければならぬ。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋に帰るのだけれども、一日じゅう立ってばかりいるので、疲れて夢も見ずに/すぐ寝てしまうのだ。淋しい。ほんとにつまらない。住み込みは辛いと思う。その内、かよいにするように部屋を探したいと思うけれども/なにぶん出る事も出来ない。夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと眼を開けていると、ドブのところだろう/虫が鳴いている。  冷たい涙が腑甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。なんとかしなくては’と思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達と三人’枕を並べているのが、私には何だか/コミセに曝された茄子のようで侘しかった。 「虫が鳴いてるわよ。」そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たい-わね。」とお秋さんが云う。  梯子段の下に枕をしていたおトシさんまでが、「へん、あの人でも思い出したかい‥‥。」と云った。──みんな淋しいお山の閑古鳥だ。うすら寒い秋の風が蚊帳の裾を吹いた。十二時だ。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結ってみる。日本髪はいいな。キリリと元結を締めてもらうと眉毛が引きしまって。たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと前髪は額に垂れて、違った人のように私も美しくなっている。鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。こんなに綺麗に髪が結えた日には、何処かへ行きたいと思う。汽車に乗って遠くへ’遠くへ行ってみたいと思う。  隣の本屋で銀貨をイチエンサツに替えてもらって/田舎へ出す手紙の中に入れておいた。喜ぶだろうと思う。手紙の中からおサツが出て来る事は私でも嬉しいもの。  ドラ焼を買って皆と食べた。  今日はひどい嵐なり。雨がとてもよく降っている。こんな日は淋しい。足が石のように固く冷える。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  静かな晩だ。 「お前どこだね/国は?」  金庫の前に寝ている年取った主人が、この間来たトシちゃんに話しかけていた。寝ながら他人の話を聞くのも面白いものだ。 「私でしか‥‥樺太です。豊原って御存知でしか?」 「へえ、樺太から? お前一人で来たのかね?」 「ええ‥‥」 「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」 「長い事、函館の青柳チョウにもいた事があります。」 「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」 「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛がありますもの。」  啄木の歌を思い出して私はトシちゃんが好きになった。 ◇。◇。◇。 【函館の/青柳チョウこそ/悲しけれ】 【友の恋歌】 【矢車の花。】 ◇。◇。◇。  いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。本当に何だか人生も楽しいもののように思えて来た。みんないい人達ばかりである。初秋だ、うすら冷たい風が吹いている。侘しいなりにも/何だか生きたい情熱が燃えて来るなり。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。  客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて/かねもなく/頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん、ちっとも-かねを無心して下さらないので/余計どうしていらっしゃるかと心配しています。  と思う。 「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」  三年もこの家で女給をしているお計ちゃんが/男のような口のききかたで私をさそってくれた。 「ええ‥‥行きますとも、いつでも泊めてくれて?」  私はそれまで少し-かねを貯めようと思う。こんなところの女達のほうがよっぽど親切で思いやりがあるのだ。 「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎に惚れました、一生捨てないでねなんて馬鹿らしい事は真っ平だよ。こんな世の中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、私に子供を生ませるとプイさ。私たちが私生児を生めば皆そいつがモダンガールだよ、いい面の皮さ‥‥馬鹿馬鹿しい浮世じゃないの? 今の世は真心なんてものは薬にしたくもないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからなのさ‥‥」  お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少し稼いだ。トシちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風器の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんたけれど、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって云ったので来たのだと云っていた。  お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と云ったら、「あらそうかしら‥‥。」と詰まらな-そうな顔をしていた。この家では一番’美しくて、一番’正直で、一番’面白い話を持っていた。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  仕事を終ってから湯に入るとせいせいする気持ちだ。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯をつかって、二階のヒロ座敷へ寝てしまうと、私たちはいつまでも風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝からちょっとも腰掛けられない私たちは、みんな疲れているのでうっとりとしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上がってしまうまで、聞きほれているのだ。──貴方一人に身も世も捨てた、わたしゃ初恋しぼんだ花よ。──何だか本当に可愛がってくれる人が欲しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。かねを貯めて呑気な旅でもしましょう。 ◇。◇。◇。  この秋ちゃんについては面白い話がある。  秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんを歓迎した。秋ちゃんは十九で処女で大学生が好きなのだ。私はみんなのあとから秋ちゃんのたくみに動く眼を見ていたけれど、眼のフチの黒ずんだ、そして生活に疲れた衿首の皺を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではないと思える。  その来た晩に、皆で風呂にはいる時だった、秋ちゃんは侘しそうにしょんぼり廊下の隅に何時までも立っていた。 「オイ! 秋ちゃん、風呂へ入って汗を流さないと/体がくさってしまうよ。」  お計さんは歯ブラシを使いながら大声で呼びたてると、やがて秋ちゃんは手拭いで胸を隠しながら、そっと二坪ばかりの風呂へ入って来た。 「お前さんは、赤ん坊を生んだ事があるんだろう?」お計ちゃんがそんな事を訊いている。 ◇。◇。◇。  庭は一面に真白だ!  お前/忘れやしないだろうね。ルューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯皮のように、何処までも真直ぐに長く続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。  お前/覚えているだろう? 忘れやしないだろう? 【 ‥‥‥‥】  そうだよ。この桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見たところで仕方がない‥‥。と、桜の園のガーエフの独白を、別れたあの人はよく云っていたものだ。私は何だか塩っぽい追憶に耽っていて、歪んだガラス窓の大きい月を見ていた。お計さんが甲高い声で何か云っていた。 「ええ/私ね、二ツになる男の子があるのよ。」  秋ちゃんはなんのためらいもなく、乳房を開いて勢いよく湯煙をあげて風呂へ入った。 「うふ、私、処女よもおかしなものさね。わたしゃお前さんが来た時から睨んでいたのよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」 「肺が悪くて、赤ん坊と家にいるのよ。」  不幸な女が、あそこにもここにもうろうろしている。 「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」  肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていたトシちゃんがトンキョウに叫んだ。 「私のはミツキメでおろしてしまったのよ。だって癪にさわる-ったらないの。私は豊原の町中でも誰も知らない者がないほど華美な暮らしをしていたのよ。私がお嫁に行った家は地主だったけど、とてもひらけていて、私にピヤノをならわせてくれたのよ。ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾き。そいつにすっかり騙されてしまって、わたし/子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと判っていたから云ってやったわ。そしたら、そいつの言い分がいいじゃないの──旦那さんの子にしときなさい──だってさ:、だからわたし悔しくて、そんな奴の子供なんか産んじゃ大変だと思って/辛子を茶碗一杯といて呑んだわよ/フフフ:、どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりよ。」 「まあ‥‥」 「えらいね、あんたは‥‥」  仲間らしい讃辞がしばし止まなかった。お計さんは飛び上がって風呂水を何度も何度も、トシちゃんの背中にかけてやっていた。私は息づまるような切なさで感心している。弱い私、弱い私‥‥私はツバを引っかけてやるべき裏切った男の頭を考えていた。お話にならないオオ馬鹿者は私だ! 人のいいって云う事が何の気安めになるだろうか──。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  ふと目を覚ますと、トシちゃんはもう仕度をしていた。 「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」  湯殿に二人の荷物を運ぶと、私はホッとしたのだ。博多オビを音のしないように締めて、髪をつくろうと、私は二人分の下駄を/店の土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理バは鼠がチロチロしていて、人のいい主人の鼾も平らだ。お計さんは子供の病気で昨夜’千葉へ帰って留守だった。──私たちは学生や定食の客ばかりではどうする事も出来なかった。辞めたい辞めたいとトシちゃんと二人でひそひそ語りあったものの、みすみす忙しい昼間の学生連と、少ない女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかったのだ。かねが這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私たちは、逃げるよりほかに方法もない。朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑としていて、食堂のセメントの池には、赤い金魚が泳いでいる。部屋には灰色に汚れた空気がよどんでいた。路地口の窓を開けて、トシちゃんは男のようにピョイと地面へ飛び降りると、湯殿のタカマドから降ろした信玄ブクロを取りに行った。私は二’三冊の本と/化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。 「まあこんなにあるの‥‥」  トシちゃんはお上りさんのような恰好で、蛇の目の傘と空色のパラソルを持ってくる。それに樽のような信玄ブクロを持っていて、これはまるで切実な一つの漫画のようだった。小川町の停留所でシゴ台の電車を待ったけれど、登校時間だったせいか/来る電車はどれも学生で満員だった。往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると/顔も洗わない昨夜からの私たちは、薄汚く見えただろう。たまりかねて、私たち二人はそば屋に飛び込むと/初めてつっぱった足を延ばした。そば屋の出前持ちの親切で、円タクを1台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなかった。ぺしゃんこに疲れ果ててしまって、水がやけに飲みたかった。 「大丈夫よ! あんなイエなんか/出て来たほうがいいのよ。自分の意志どおりに動けば私は後悔なんてしない事よ。」 「元気を出して働くわねえ。あんたは一生懸命勉強するといいわ‥‥」  私は目を伏せていると、涙があふれて仕方がなかった。たとえトシちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであったとしても、今の頼りない身には/ただ訳もなく嬉しかった。ああ! 国へ帰りましょう。‥‥お母さんの胸の中へ’走って帰りましょう‥‥自動車の窓から朝の健康な青空を見上げた。走って行く屋根を見ていた。鉄色にさびた街路樹の梢に/雀の飛んでいるのを私は見ていた。 ◇。◇。◇。 【うらぶれて/異土のかたいとなろうとも】 【古里は遠きにありて思うもの‥‥】 ◇。◇。◇。  かつてこんな-しを何かで読んで感心した事があった。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  秋風が吹くようになった。トシちゃんは先のご亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。 「寒くなるから‥‥。」と云って、八端のドテラをかたみに置いてトシちゃんは東京をたってしまった。私は朝から何も食べない。童話や-しを三ツ四ツ売ってみた所で白い御飯が一カ月’喉へ通るわけでもなかった。お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして来て、私は私の思想にもカビを生やしてしまうのだ。ああ私の頭にはプロレタリアもブルジュアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。 「飯を食わせて下さい。」  眉をひそめる人達の事を思うと、いっそアラウミのはげしいただなかへ/身を投げましょうか。夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が階カから聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって来て、遠く明るいクルワの女達がふっと羨ましくなってきた。私はいま飢えているのだ。沢山の本もいまは-もう二’三冊になってしまって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの、「労働者セイリョフ」、直哉の「和解」がささくれているきりなり。 「また、料理店でも行って稼ぐかな。」  切なくあきらめてしまった私は、おきゃがりこぼしのだるまのように、変にフラフラした体を起して、歯ブラシや/石鹸や/手拭を袖に-いれると、私は風の吹く夕べの街へ出て行った──。女給入用のビラの出ていそうなカフェーを/次から次へ野良犬のように尋ねて、ただ食うために、何よりもかによりも/私の胃の腑は何か固形物をほしがっているのだ。ああどんなにしても私は食わなければならない。街中が美味しそうな食物で埋っているではないか! 明日は雨かも知れない。重たい風が飄々と吹く度に、興奮した私のハナアナに、すがすがしい秋の果実店から/あんなに芳烈な匂いがしてくる。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  焼き栗の声がなつかしい頃になった。クルワを流して行く焼き栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、タタミにごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした侘しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や/山や/海や、別れた人達の顔を思い出してくる。  水っぽい眼を向けてお話をする神さまは’、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ‥‥。 ◇。◇。◇。 「まだ痛む?」  そっと上がって来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私のハナアナに、プンと海苔の香りをただよわせて、お君さんは枕元に寿司ザラを置いた。そして黙って、私の目を見ていた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんできて、薄い布団の下から財布を出すと、君ちゃんは、「馬鹿ね-」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打った。そして、布団の裾をジタジタとおさえて、そっとまた、裏梯子を降りて行くのだ。ああなつかしい世界である。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  風が吹いている。  夜明近く水色の細いヘビが、スイスイと地を這っている夢を見た。それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起きるときから胸騒ぎがして仕方がない。素敵に楽しい事があるような気がする。朝の掃除がすんで、じっと’鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れすさんで、私はああと長い溜息をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりとした自分の顔を見ていると、急に焦々してきて、唇に紅々と紅を引いてみた。──あの人はどうしているかしら、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたけれども、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ‥‥神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなっている。  暖簾越しにすがすがしい三和土の上の’盛塩を見ていると、ジョ学生’の群れに蹴飛ばされて、さっと散っては山がずるずると低くなって-いっている。私がこの家にきてちょうど二週間になる。もらいはかなりあるのだ。朋輩が二人。お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返のよく似合う/ほんとに可愛い娘だった。 「私は四谷で生まれたのだけれど、十二の時、よその小父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。わたし/芸者屋にじき売られたから、その小父さんの顔もじき忘れ-っちまったけれど‥‥私そこの桃千代と云う娘と、広いつるつるした廊下を、よくすべりっこしたわ、まるで’鏡みたいだったの。内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴を履いて見にいったのよ。土が凍ってしまうと下駄で歩けるの。だけどお風呂から上がると、鬢の毛がピンとして、とてもおかしいわよ。わたし/六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったの。」  客が飲み食いして行ったあとの、こぼれた酒で、テーブルに字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。もう一人私より一日早くはいったお君さんは背の高い母性的な、気立のいい女だった。クルワの出口にあるこの店は、案外しっとり落ちついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。こんなところに働いている女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあっていても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合うと、他愛もなくすぐまいってしまって、十年の知己のように、姉妹以上になってしまうのだ。客が途絶えてくると、私たちはよくかたつむりのようにまあるくなって話した。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  どんよりとした空である。キミちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしどこかで嗅いだ事のある花の匂いがする。夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。「あんたはとうとう裸を見られたんですってよ。」お初ちゃんが笑いながら/鬢窓に櫛を入れている私の顔を鏡越しに覗いてこう云った。 「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事訊いたから、風呂って云ったの。」  呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。 「嘘だよ!」 「アラ/ 今そう言ったじゃないの‥‥水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと思ってたら、帰って来て、水野さんてば、女湯をあけたんですって:、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ‥‥て言ったってさ:、そしたら、ああ病院とまちがえましたってじっとしてたら丁度あんたが、裸になったところだって:、水野さん/それゃあ大喜び-なの‥‥」 「へん! 随分助平な話ね。」  私はやけに頬紅を刷くと、大学生は薄い蒟蒻のような手を合せて、「怒った? かんにんしてね-」と云っている。何云ってるの、裸が見たけりゃ、おテントウ様の下で真裸になって見せますよ! 私は大きな声で呶鳴ってやりたかった。一晩中気分が重っくるしくって、私はウデタマゴを七ツ八ツ/テーブルへぶっつけて割った。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。夕方になると、クルワの中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚ばかり食べさせられて、体中にうろこが浮いてくるだろう。夜霧が白い。電信柱’の細いかげが針のような影を引いている。のれんの外に出て、走って行く電車を見ていると、なぜか電車に乗っているひとがうらやましくなってきて/鼻の中が熱くなった。生きる事が実際’退屈になった。こんなところで働いていると、すさんで、すさんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。 ◇。◇。◇。 【若い姉さん/なぜ泣くの】 【薄情男が恋しいの‥‥。】 ◇。◇。◇。  誰もかも、誰もかも、私を笑っている。 ◇。◇。◇。 「キング・オブ・キングスを十杯のんでごらん、十円の賭けだ!」  どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのような十円札を、テーブルにのせた。 「何でもない事だわ。」私はあさましい姿をしらじらと電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干してしまった。キンキラ坊主は呆然と私を見ていたけれども、負けおしみくさい笑いを浮べて、鷹揚に消えてしまった。喜んだのはカフェーの主人ばかりだ。へえへえ、一杯イチエンのキング・オブを十杯もあのムスメが呑んでくれたんですからね‥‥ペッペッペッと吐きだしそうになってくる。──眼が燃える。誰もかも憎らしいヤツばかりなり。ああ私は貞操のない女でございます。一つ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達よ、眉をひそめて、星よ/月よ/花よか! 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いては’いられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならないじゃないの。真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑っている。 ◇。◇。◇。 【歌うを’聞けば梅川よ】 【しばし情けを捨てよかし】 【いずこも恋にたわぶれて】 【それ忠兵衛の夢がたり】 ◇。◇。◇。  しを歌って、いい気持ちで、私は窓硝子を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて‥‥あああの夜空を見上げて御覧なさい、絢爛な、虹がかかった。キミちゃんが、大きい目をして、それでいいのか、それで胸が痛まないのか、貴方の心をいためは’せぬかと、私をグイグイ掴んで二階へ上がって行った。 ◇。◇。◇。 【やさしや/年もうら若く】 【まだ初恋のまじりなく】 【手に手をとりて行く人よ】 【なにを-かくるるその姿】 ◇。◇。◇。  好きな歌なり。ほれぼれと涙に溺れて、私の体と心は遠い遠い地の果てに/ずッと’あとしざりしだした。そろそろ’時計のねじがゆるみ出すと、例の月はおぼろに/白魚の声色屋の/こまちゃくれた子供が来て、「ねえ旦那/ おぼしめしで‥‥ねえ旦那おぼしめしで‥‥。」とねだっている。  もうそんな/影のうすい不具者なんか/出してしまいなさい! 何だかそんな可憐な子供達のささくれた白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなる。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  奥で三度’御飯を食べると、主人の機嫌が悪いし、と云って客におごらせる事は/大きらいだ。二時がカンバンだって云っても、遊廓帰りの客がたてこむと、夜明けまでも知らん顔をして/主人は暖簾を引っこめようともしない。コンクリートの床が、妙にビンビンして/動脈がみんな凍ってしまいそうに/肌が粟立ってくる。酸っぱい酒の匂いが臭くて焦々する。 「厭になってしまうわ。‥‥」  初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのを絞りながら、呆然とつっ立っていた。 「ビール-」  もう4時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くのほうでニワトリの鳴く声がしている。新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で/銀流しみたいな男がはいって来た。 「ビールだ!」  仕方なしに、私はビールを抜いて、コップになみなみとついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、「なんだ/ えびすか、気に喰わねえ。」と、捨てぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い鋪道へ出て行ってしまった。唖然とした私は、急にムカムカしてくると、残りのビール瓶をさげて、その男の後を追って行った。銀行の横を曲ろうとしたその男の黒い影へ私は思い切りビール瓶をハッシと投げつけた。 「ビールが呑みたきゃ、ほら呑まして上げるよッ。」  けたたましい音をたてて、ビール瓶は、思い切りよく、こなごなに壊れて、しぶきが飛んだ。 「何を!」 「馬鹿っ!」 「俺はテロリストだよ。」 「へえ、そんなテロリストがあるの‥‥案外つまんないテロリストだね。」  心配して走って来たお君ちゃんや、二’三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはあわてて路地の中へ’消えて行ってしまった。こんな商売なんて辞めてしまいたいと思う‥‥。それでも、北海道から来たお父さんの手紙には、今は帰る旅費もないから、少しでもよい/送ってくれと云う長い手紙だ。寒さには耐えられないお父さん、どうしても四五十円は送ってあげなければならぬ。少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようかしらとも思う。おでん屋の屋台に首を突っ込んで、箸につみれを突きさした初ちゃんが店の明かりを消して/一生懸命チャメシを食べていた。私も興奮したあとのふるえを鎮めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、おでんを肴に、酒を一本つけて貰った。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  浅草はいいところだ。  浅草はいつ来てもよいところだ‥‥。テンポの早い明かりの中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチュウシャです。長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって、安酒に酔った私は/誰もおそろしいものがない。ああ一人の酔いどれ女でございます。酒に酔えば泣きじょうこ、痺れて手も足もばらばらになってしまいそうなこの気持ちのすさまじさ‥‥酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をしては通れない。あの人が外に女が出来たと云って、それがいったい何でしょう。本当は悲しいのだけれど、酒は広い世間を知らんと云う。町の明かりがふっと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくっつけて、すさんだ顔を見ていると、ああ/あすから私は勉強をしようと思う。夢の中からでも聞えて来るような小屋の中の楽隊。あんまり自分が若すぎて、私はなぜかやけくそにあいそがつきて腹をたててしまうのだ。  早く年をとって、年をとる事はいいじゃないの。酒に酔いつぶれている自分をふいと反省すると、ダイドウの猿芝居じゃないけれど/全くほっかぶりをして歩きたくなってくる。  浅草は酒を呑むによいところ。浅草は酒にさめてもよいところだ。一杯五銭の甘酒、一杯五銭のしる粉、ヒトクシ二銭の焼鳥は何と肩の張らないご馳走だろう。金魚のように風に吹かれている芝居小屋の旗をみていると、その旗の中にはかつて私を愛した男の名もさらされている。ワッハ、ワッハ、あのいつもの声で私を嘲笑している。さあ皆さん御機嫌よう。何年ぶりかで見上げる夜空の寒いこと、私の肩掛けは人絹がまじっているのでございます。他人が肩に手をかけたように、スイスイと肌に風が通りますのよ。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  朝の寝床の中でまず煙草をくゆらす事は/淋しがりやの女にとっては/この上もないなぐさめなのです。ゆらりゆらり/輪をえがいて浮いてゆくむらさき色のけむりは愉しい。おテントウ様の光りを頭いっぱい浴びて、さて今日はいい事がありますように‥‥。赤だの/黒だの/桃色だの/黄いろだのの、疲れた着物を三畳の部屋いっぱい脱ぎちらして、女一人の気安さに、うつらうつら/私はひだまりの亀の子のようだ。カフェーだの、ギュウ屋だの、めんどくさい事よりも、いっそ屋台でも出して/おでん屋でもしようかと思う。誰が笑おうと彼が悪くチを云おうと、赤い尻からげで、あら、えっさっさだ! 一つ屋台でも出して何とかこの年のけじめをつけてみたいものだ。コンニャク、がんもどき、竹輪につみれ、辛子のひりりッとしたのに、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしですか、元気を出しましょう。だが、あるところまで来ると私はペッチャンコに崩れてしまう。たとえそれがつまらない事であっても、そんな事の空想は、子供のようにうれしくなるものだ。  貧乏な父や母’にはすがるわけにもゆかないし、と云って転々と働いたところで、月に本がイチニ冊買えるきりだ。わけもなく飲んで食ってそれで通ってしまう。三畳の部屋をかりて最小限度の生活はしても/貯えもかぼそくなってしまった。こんなに暮らし向きが立たなく/真っ暗闇になると、本当に泥棒にでもはいりたくなってくる。だが目が近いのでいっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいとおかしくなってしまって、冷たい壁に私の嗤いがはねかえる。何とかして-かねがほしい。私の濁った錯覚は、他愛もなく夢に溺れていて、夕方までぐっすり眠ってしまった。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  お君さんが誘いに来て、二人はまた何かいい商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって横浜行きの省線に乗った。今まで働いていたカフェーが寂れると、お君さんも一緒にそこを辞めてしまって、お君さんは、長いこと板橋のご亭主のとこへ帰っていたのだ。お君さんのご亭主はお君さんより三十あまりもトシが上で、初めて板橋のその’家へたずねて行った時、私はその男の人をお君さんのお父さんなのかと間違えてしまっていた。お君さんの養母や/お君さんの子供や、何だかごたごたしたその家庭は、めんどくさがりやの私にはちょいと判りかねる。お君さんもそんな事はだまって別に話もしない。私もそんな事を訊くのは胸が痛くなるのだ。二人ともだまって、電車から降りると、青い海を見はらしながら丘へ出てみた。 「久し振りよ、海を見るのは‥‥」 「寒いけれど、いいわね海は‥‥」 「いいとも、こんなに男らしい海を見ていると、裸になって飛びこんでみたい-わね。まるで青い色がとけてるようじゃないの。」 「ほんと! おっかないわ‥‥」  ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が/雁木に腰をかけて波の荒い景色にみいっていた。 「ホテルってあすこよ!」  目のはやいキミちゃんがみつけたのは、白い家鴨の小屋のような小さな酒場だった。二階の歪んだ窓にはシミだらけな毛布が太陽にてらされている。 「かえりましょうよ!」 「ホテルってこんなの‥‥」  朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして/一人でキャッキャッと笑っていた。 「がっかりした‥‥」  二人共また押し黙って向こうの寒い茫漠とした海を見ている。烏になりたい。小さいカバンでもさげて旅をするといいだろうと思う。キミちゃんの日本風なひさし髪が風に吹かれていて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【風が鳴る白い空だ!】 【冬のステキに冷たい海だ】 【狂人だってキリキリ舞いをして】 【目のさめそうな大海原だ】 【四国まで一本筋の航路だ。】 ◇。◇。◇。 【毛布が二十銭/お菓子が十銭】 【三等客室はくたばりかけたどじょう鍋のように】 【ものすごいフットウだ。】 ◇。◇。◇。 【しぶきだ/雨のようなしぶきだ】 【みはるかす白い空を眺め】 【十一銭在中の財布を握っていた。】 ◇。◇。◇。 【ああバットでも吸いたい】 【オオ/ と叫んでも】 【風が吹き消して行くよ。】 ◇。◇。◇。 【白い大空に】 【私に酢を呑ませた男の顔が】 【あんなに大きく、あんなに大きく】 ◇。◇。◇。 【ああやっぱり淋しい一人旅だ!】 ◇。◇。◇。  腹の底をゆすぶるように、遠くで蒸汽の音が鳴っている。鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか/海のあなたに一ツ一ツ消えて行って、唸りをふくんだ冷たい12月の風が、乱れた私の銀杏返しの鬢を頬っぺたにくっつけるように吹いてゆく。八ツ口に両手を入れて、じっと柔かい自分の乳房をおさえていると、冷たい乳首の感触が、わけもなく甘酸っぱく涙をさそってくる。──ああ、何もかもに負けてしまった。東京を遠く離れて、青い海の上をつっぱしっていると、色々に交渉のあった男や女の顔が、一ツ一ツ白い雲のあいだから/もやもやと覗いて来るようだ。 ◇。◇。◇。  あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、古里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。そうして今朝はもう鳴門の沖なのだ。 「お客さん! 御飯ぞなッ-」  誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想は/やっぱり古里へ背いて都へ走っている。旅の古里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだけれども、なぜか侘しい気持ちがいっぱいだった。/穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると/丹塗りのはげた膳の上には/ヒジキの煮たのや味噌汁が/あじきなく並んでいた。薄暗い燈火のした’には’大ぜいの旅役者やお遍路さんや、子供を連れた漁師の-かみさんの中に混じって、私も何だか愁々として旅心を感じている。私がイチョウがえしに結っているので、「どこからおいでました?」と尋ねるお婆さんもあれば「どこまで行きゃはりますウ?」と問う若い男もあった。二ツくらいの赤ん坊に添い寝をしていた若い母親が、小さい声で/旅の古里でかつて聞いた事のある子守唄を歌っていた。 ◇。◇。◇。 【ねんねころいち】 【おやすみなんしょ】 【朝も-とうから/おきなされ】 【よいの浜風ア/身にしみますで】 【ヨサは早よからおやすみよ。】 ◇。◇。◇。  あの濁った都会の片隅で疲れているよりも、こんなにさっぱりした海の上で、自由にのびのびと息を吸える事は、ああやっぱり生きている事もいいものだと思う。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  真っ黄いろに煤けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。 「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」 「ああ。」 「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」  父が北海道へ行ってから、もう4カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父の便りが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋の出汁を取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈へ明かりをいれるのを渋ったりしている。 「さむうなると人が動かんけんのう‥‥」  しっかりした故郷と云うものをもたない私たち親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での始めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今は’もうこの旅人宿も荒れ放題に荒れて、今は母’ひとりの内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を/古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると/懐しい昔の夢が段々蘇って来る。長崎の黄いろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄や/ああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸の奥から出て来ると”まるで別な世界だった私を見る。夜、コタツにあたっていると、/店のマを借りている月琴ひきの夫婦が飄々と淋しい唄を歌っては/月琴をひびかせていた。外は音をたてて/みぞれまじりの雪が降っている。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  久し振りに海辺らしいお天気なり。ニサンニチ前から泊りこんでいる浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には/鰯を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。 「お前もいいかげんで、遠くへ’行くのを辞めて/こっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな‥‥」 「へえ‥‥どんなひとですか?」 「実家は京都の聖護院の煎餅屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな‥‥いい男や。」 「‥‥‥‥」 「どやろ?」 「おうてみようかしら、面白いなア‥‥」  何もかもが子供っぽく愉快だった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上がれか:、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると布団のように恋しくなるものだ。  東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅へ’の道だ。駅の時間表を見ていると/涙がにじんで来て仕方がない。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  赤靴のひもをといてその男が座敷へ上がって来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。 「あんたいくつ?」 「僕ですか、二十二です。」 「ホウ‥‥じゃ私のほうが上だわ。」  げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は何故か見覚えがあるようであったが、考え出せなかった。ふと、私は明るくなって、口笛でも吹きたくなった。 ◇。◇。◇。  月のいい夜だ、星が高く光っている。 「そこまでおくってゆきましょうか‥‥」  この男は妙に余裕のある風景だ。入れ忘れてしまった国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても二人ともだまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て/私自身が浅ましくなってきた。男なんてみんな火を焚いて焼いてしまえだ。私はお釈迦様にでも恋をしましょう。ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色っぽい目をして、私のこのごろの夢にしのんでいらっしゃる。 「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」 「ハア?」  いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて/隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう‥‥。久し振りに家の前の燈火のついたお泊宿の行燈を見ていると、不意に頭をなぐられたように母’がいとしくなってきて、私はかたぶいた梟の眼のような行燈をみつめていた。 ◇。◇。◇。 「寒いのう‥‥酒でも飲まんかいや。」  茶の間で母と差しむかいで一合の酒にいい気持ちになっている。親子はいいものだと思う、こだわりのない気安さで母の顔を見た。鼠の多い煤けた天井の下に、また母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまう。 「あんなひとは厭だわねえ。」 「気立てはいい男らしいがな‥‥」  淋しい喜劇である。ああ、東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙をいっぱい書こう。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【海は真白でした】 【東京へ旅立つその日】 【青い蜜柑の初なりを籠いっぱい入れて】 【四国の浜辺から天神丸に乗りました。】 ◇。◇。◇。 【海は気むずかしく荒れていましたが、】 【空は鏡のように光って】 【人参燈台のベニイロが眼にしみる程あかいのです。】 【島での悲しみは】 【すっぱり捨ててしまおうと】 【私は冷たい汐風をうけて】 【遠く走る帆船をみました。】 ◇。◇。◇。 【1月の白い海と】 【初なりの蜜柑の匂いは】 【その日の私を】 【売られて行く女のようにさぶしくしました。】 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮らしてみようかと思う‥‥。天保山の安宿の二階で、何時までも鳴いている猫の声を寂しく聞きながら、私は呆んやり寝そべっていた。ああこんなにも生きる事は難かしいものなのか‥‥私は身も心も困憊しきっている。潮臭い布団はまるで、魚のハラワタのようにズルズルに汚れていた。風が海を叩いて、波音が高い。 ◇。◇。◇。  からっぽの女は私でございます。‥‥生きてゆく才もなければ、生きてゆく富’もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長いこと文字に親しまない目には、ご一泊イチエンよりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。  夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをむいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしようかとも思う。とても淋しい宿だ。「古傷や/恋のマントに/むかい酒。」お酒でも愉しんでじっとして-いたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京のたくさんの友達を思い浮べていた。みんなどの人も自分に忙しい人ばかりの顔だ。  汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて/雪の夜の沈んだ港’をながめている。青い明かりをともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄を歌っていた。沈鐘の唄も歌った。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互いに見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後の便りを受取って/もう七年にもなる。あの男は、ピカソの絵を論じ、槐多の-しを愛していた。私は頭を殴りつけている/強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満行きの電車に乗った。紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんより走る街並を眺めながら/私は大阪も面白いと思った。誰も知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木が、腰を揉みながらオオカゼにゆれている。  /毛布ドンヤは案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いているシチハチニンの店員達は病的に蒼い顔をして/忙がしく立ち働いていた。随分長い廊下だった。何もかもピカピカと手入れの行きとどいた、大阪人らしい好みの/こぢんまりした座敷に、私は初めて/老いた女主人と向きあって坐った。 「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」  出鱈目の原籍を東京にしてしまった私は、ちょっとどう云っていいのかわからなかった。 「姉がいますから‥‥」  こんな事を云ってしまった私は、またいつものめんどくさい気持ちになってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子ザラとお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。 「一郎さん!」  女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十ゴロクの男が、棒のようにはいって来た。 「この人が来ておくれやしたんやけど‥‥」  役者のようにほそぼそとしたその若主人は/光った目で私を見た。  私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺れて来る思いだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。──天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船がたくさんはいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。  ──何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。──どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。  五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔のように、/毛布ドンヤへ住み込む事になった。  昼でも奥のマには、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよく訳のわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下で/じっと両手を揃えてみていると/爪の一ツ一ツ’が黄色に染まって、私の10本の指は/蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛りみせへ運ばれて来る。店員は皆で9人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと/カミ女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中’みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。 「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」  お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事も/お糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅のほうにお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。──夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、9人の番頭や小僧たちがみんなどこへ引っこむのか/一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い布団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれに/みすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に/タカ下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二つ並んで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢が、布団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないで/ぴちゃぴちゃ湯音をたてている。あの白い産毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。黙った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ:、泪のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は顔をそむけた。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  毎朝の芋粥にも私は馴れてしまった。  東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁は’いいものだ。新巻鮭の一片一片を身をはがして食べるのも美味い。  大根の切り口みたいな大阪のおテントウ様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、美味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく/子供っぽくなって来る。  雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。──夕方、たくさん荷箱を積んである蔭で、私は人に隠れて思い切り足を掻いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたいほど切なくて仕様がなかった。 「ホウ/えらい霜やけやなあ。」  番頭のカネキチさんが驚いたように覗いた。 「霜やけやったら煙管でさすったら一番や。」  若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては/火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。ゼニ勘定の話ばかりしているこんな人達の間にも/こんな親切がある。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ) 「お前は金のショウで金は金でも、金屏風の金だからコギレイな仕事をしなけりゃ駄目だよ。」  よく母’がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事は’じきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ/ と叫びあがりたいほど焦々するなり。  ただ一冊のワイルド・プロフォンディスにも愉しみをかけて読むなり。  ──私は灰色の11月の雨の中を嘲り笑うモッブにとり囲まれていた。  ──獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。──夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ。夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、たくさん星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぽっちで星を見上げている。 ◇。◇。◇。  老いぼれたような私の心に反ピレイして、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。  私はしみじみと白粉の匂いをかいだ。眉をひき、口紅も濃くぬって、私は柱カガミのなかの姿に/あどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛もさして、桃色のてがらもかけて/髷も結んでみたい。弱き者よ/汝の名は’女なり、しょせんは世に汚れた私でございます。美しい男はないものか‥‥。なつかしのプロヴァンスの唄でも歌いましょうか、胸の燃えるような思いで/私は風呂桶の中の魚のように柔らかくくねってみた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  街は春の売出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。──女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。  ──随分苦労なすったんでしょう‥‥という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんの便りは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんの便りだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに:、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。 ◇。◇。◇。  お店から一日’暇をもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。──午後六時二十分’京都チャク。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛けに蒼白い顔をうずめて迎えに出てくれていた。 「わかった?」 「ふん。」  二人は黙って冷たい手を握りあった。  私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目をいた。  椿の花のように素敵にいい唇だ。二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京都の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。京極は昔のままだった。京極の何とかと云う店には、かつて私たちの胸を騒がした美しい封筒が飾窓に出ている。だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて/私たちは久し振りに明るい明かりの下に顔を見合せた。私は一人立ちしていても貧乏だし、お夏さんは親のすねかじりで勿論お小遣いもそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。女学生’らしいあけっぱなしの気持ちで、二人は帯をゆるめてはお代わりをして食べた。 「貴方ぐらい住所の変わる人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」  お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。 ◇。◇。◇。  円山公園の噴水のそばを/二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。 「秋の鳥辺山はよかったわね。落ち葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛の墓にお参りした事があったわね‥‥」 「行ってみましょうか!」  お夏さんは驚いたように眼をみはった。 「貴方はそれだから苦労するのよ。」  京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向こうの立木のところで、夜鳥が鳴いている。──下鴨のお夏さんの家の前がちょうど-交番になっていて、赤い燈火がついていた。モンの吊燈籠の下をくぐって、そっと二階へ上がると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。メンドウな話をくどくどするより黙っていましょう‥:‥お夏さんが火を取りに階カに-おりて行くと、私は窓に凭れて、しみじみと大きい欠伸をした。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【丘の上に松の木が一本】 【その松の木の下で】 【じっと空を見ていた私です。】 ◇。◇。◇。 【真っ青’い空に老松の葉が】 【針のように光っていました】 【ああ何と云う生きる事のむずかしさ】 【食べる事のむずかしさ。】 ◇。◇。◇。 【そこで私は】 【貧しい袂を胸にあわせて】 【古里にいた頃の】 【あのなつかしい童心で】 【コトコト松の幹を叩いてみました。】 ◇。◇。◇。  この老松の-しをふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立の間を、私はむやみに歩くのだ。──久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。──下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフェーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの-かねを、原稿用紙の下に入れておくと、誰もいない気安さに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。 「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手を貼った/かなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を噛みながら、ただならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い女の’手紙の束をみつけ出したのだ。  ──やっぱり温泉がいいわね、とか。  ──あなたの紗和子より、とか。  ──あの夜泊ってからの私は、とか。  私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。──温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけれども/貴方も少し作って下さいと書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやりたくなっている。原稿用紙の下にした二十円の-かねを袂に-いれると、私はそのまま戸外に出てしまった。  あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく-しや小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりではなかったか‥‥。私は肺病で狂人じみている、その不幸な男のために、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた‥‥。」と、唄わなくてはならなかったのだ。夕暮れの涼しい風をうけて、若松チョウの通りを歩いていると、新宿のカフェーに帰る気もしなかった。ヘエ/ 使い果たしてニブ残るか、ふっとこんな言葉が思い出されるなり。 ◇。◇。◇。 「貴方、私と一緒に温泉に行かない。」  私があんまり酔っぱらっているので、その夜時ちゃんは淋しい眼をして私を見ていた。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  ああ人生いたるところにセイザンありだよ、男から詫びの手紙が来る。  夜。  時ちゃんのお母さんが裏口へ来ている。時ちゃんに五円’貸すなり。チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。貯金でもして、久し振りに母の顔でも見てこようかしらと思う。私はコックバへ行くついでに/ウイスキーを盗んで呑んだ。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  魚屋の魚のように淋しい寝ざめなり。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のように、一切を休めて眠っている。私は枕元の煙草をくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見ていた。まだ十七で肌が桃色だ。──お母さんは雑色で氷屋をしていたが、お父つぁんが病気なので、二三日おきに時ちゃんのところへ裏口から-かねを取りに来た。カーテンもない青い空を映した窓ガラスを見ると、西洋支那料理の赤い旗が、まるで私のように、へらへら風に膨らんでいる。カフェーに勤めるようになると、男に-いだいていたイリュウジョンが夢のように消えてしまって、みんなひと山いくらに-ひんがさがってみえる。別にもうあの男に稼いでやる必要もない故、久し振りに古里のしょっぱい風を浴びようかしら。ああ、でも可哀想なあの人よ。 ◇。◇。◇。 【それはどろどろの街路であった】 【こわれた自動車のように私はつっ立っている】 【今度こそ身売りをして-かねをこしらえ】 【みんなを喜ばせてやろうと】 【今朝はるばると幾十にち目でまた東京へ帰って来たのではないか。】 ◇。◇。◇。 【どこを探したって買ってくれる人もないし】 【俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたら/もう死んでもいいと云った】 【今朝の男の言葉を思い出して】 【私はさめざめと涙をこぼしました。】 ◇。◇。◇。 【男は下宿だし】 【私が居れば宿料がかさむし】 【私は豚のように臭みをかぎながら】 【カフェーからカフェーを歩きまわった。】 ◇。◇。◇。 【愛情とか肉親とか世間とか夫とか】 【脳のくさりかけた私には】 【みんな縁遠いような気がします。】 ◇。◇。◇。 【叫ぶ勇気もないゆえ】 【死にたいと思ってもその元気もない】 【私の裾にまつわってじゃれていた/小猫のオテクサンはどうしたろう】 【時計屋のかざり窓に/私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。】 【なんとうわべばかりの人間がうろうろしている事よ!】 ◇。◇。◇。 【肺病は馬の糞汁を呑むとなおるって】 【辛い-つらい男に呑ませるのは】 【心中ってどんなものだろう】 【かねだ-かねだ/かねが必要なのだ!】 【かねは天下のまわりものだって云うけど】 【私は働いても働いてもまわってこない。】 ◇。◇。◇。 【何とかキセキはあらわれないものか】 【何とかどうにか出来ないものか】 【私が働いている-かねはどこへ’逃げて行くのだろう】 ◇。◇。◇。 【そして結局は薄情モノになり】 【ボロカスオンナになり】 ◇。◇。◇。 【死ぬまでカフェーだの女中だのボロカスオンナになり果てる】 【私は働き-じにしなければならないのだろうか!】 【病に僻んだ男は、】 【お前は赤い豚だと云います。】 ◇。◇。◇。 【矢でも鉄砲でも飛んでこい】 【胸くその悪い男や女の前に】 【芙美子さんのハラワタを見せてやりたい。】 ◇。◇。◇。  かつて、貴方があんまり私を邪慳にするので、私はこんな-しを雑誌にかいて/貴方にむくいた事がある。浮いた稼ぎなので、あなたは私に焦々しているのだと/善意に解釈していたオオ馬鹿者の私です。そうだ、帰れるくらいはあるのだから、汽車に乗ってみましょう。あの快速船のしぶきもいいじゃないの、人参燈台の朱色や、青い海、ツツンツンだ。夜汽車、夜汽車、誰も見送りのない私は、お葬式のような悲しさで、何度も不幸な目に逢って乗る東海道線に乗った。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) 「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がっていやしないかな‥‥」  明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人たちばかりだった。私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして/何だか気がかりな気持ちで神戸駅に-おりてしまった。 「これでまた仕事がなくて食えなきぁ、ヒンケルマンじゃないけれど、汚れた世界の罪だよ。」  暑い陽射しだった。だが私には、アイスクリームも、氷も買えない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄いろい汚れた鏡に、水引草のように淋しい自分の顔を写して見た。さあ矢でも鉄砲でも飛んで来いだ。別に当てもない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公さんのホウへブラブラ歩いて行ってみた。  古ぼけたバスケットひとつ。  骨の折れた日傘。  煙草の吸殻よりも味気ない女。  私の捨身の戦闘準備はたったこれだけなのでございます。  砂ぼこりのなかの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋が出ている。私は水の涸れた六角型の噴水の石に腰を降ろして、日傘で風を呼びながら、晴れた青い空を見ていた。あんまりおテントウ様が強いので、何もかもむき出しにぐんにゃりしている。  何年昔になるだろう──十五くらいの時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公をしていたのを思い出した。ニイーナという二ツになる女の子のおもりで/黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よくその子供を乗っけては/メリケン波止場のほうを歩いたものだった。──鳩が足元近く寄って来ている。人生/鳩に生まれるべし。私は、東京の生活を思い出して涙があふれた。  一生たったとて、いったいいつの日には、私が何千円、何百円、何十円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るのだろうか‥:‥、私を可愛がって下さる、行商をしてお母さんを養っている気の毒な’お父さんを慰めてあげる事が出来るのだろうか‥:‥、何も満足に出来ない私である。ああ全く考えてみれば、頭が痛くなる話だ。「もし、あんたはん! 暑うおまっしゃろ、こっちゃい’おはいりな‥‥。」噴水の横の鳩の豆を売るお婆さんが、豚小屋のような店から声をかけてくれた。私は人懐っこい笑顔で、お婆さんの親切に報いるべく、頭のつかえそうな、アンペラ張りの店へはいって行った。文字通り、それは小屋のようなところで、バスケットに腰をかけると、豆くさいけれども、それでも涼しかった。ふやけた大豆が石油缶の中につけてあった。ガラスの蓋をした二ツの箱には、おみくじ-や、固い昆布がはいっていて、それらの品物がいっぱい埃をかぶっている。 「お婆さん、その豆一皿くださいな。」  五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらいのけた。 「ゼゼなぞほっときや。」  このお婆さんにいくつですと聞くと、七十六だと云っていた。虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。 「東京はもう地震はなおりましたかいな。」  歯のない’お婆さんは巾着をしぼったような口をして、優しい表情をする。 「お婆さん/お上がりなさいな。」  私がバスケットからお弁当を出すと、お婆さんはニコニコして、口をふくらまして私の玉子焼きを食べた。 「お婆さん、暑うおまんなあ。」  お婆さんの友達らしく、腰のしゃんとしたみすぼらしい老婆が店の前にしゃがむと、 「おバアはん、なんぞええ、仕事ありまへんやろかな、でもな、あんまりぶらぶらしてますよって会長はんも、ええ顔しやはらへんのでなあ、なんぞ思うてまんねえ‥‥」 「そうやなあ、栄町の宿屋はんやけど、布団の洗濯があるというてましたけんど、なんぼう二十銭も出すやろか‥‥」 「そりゃええなあ、二枚あろうてもわて食えますがな‥‥」  こだわりのない二人のお婆さんを見ていると、こんなところにもこんな世界があるのかと、淋しくなった。 ◇。◇。◇。  とうとう夜になってしまった。港の明かりのつきそめる頃はどこにも行き場のない気持ちになってしまう。朝から汗でしめっている着物の私は、ワッと泣きたいほど切なかった。これでもへこたれないか! これでもか! 何かが頭をおさえつけているようで、私はまだまだへこたれるものかと口につぶやきながら、当てもなくノキをひらって歩いていると、バスケット姿が、オイチニイの薬屋よりもはかなく思えた。お婆さんに聞いた商人宿は’じきにわかった。全く国へ帰っても仕様のない私なのだ。お婆さんが御飯タきならあると云ったけれど。海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群れが多かった。  船乗りは意気で勇ましくていいものだ。私は商人宿とかいてある行燈をみつけると、耳朶を熱くしながら、宿代を聞きにはいった。親切そうなお上さんが帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいいと、旅心をいたわるように、「おあがりやす」と云ってくれた。三畳の壁の青いのが変に淋しかったが、朝からの着物を浴衣にきかえると、私は宿のお上さんに教わって/近所の銭湯に行った。旅と云うものはおそろしいようでいて/肩の’張らないものだ。女達はまるで蓮の花のように小さい湯船を囲んで、珍らしい言葉でしゃべっている。旅の銭湯にはいって、元気な顔はしているのだけれど、あの青い壁に押されて寝る今夜の夢を思うと、私はフッと悲しくなってきた。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  坊さん簪買うと云うた‥‥窓の下を人夫たちが土佐節を唄いながら通って行く。爽やかな朝風に、波のように蚊帳が吹き上がっていて、まことに楽しみな朝の寝ざめなり。郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋しくなってきた。私の思い出になんの汚れもない四国の古里よ。やっぱり帰りたいと思う‥‥。ああ御飯タきになっていたとこで仕様もないではありませんか。  別れて来た男の罵詈雑言を、私は唄のように天井に投げとばして、精一杯息を吸った。「オーイ、オーイ」と船員達が窓の下で呼びあっている。私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を/除虫菊の仲買の人にイチエンで買ってもらうと、私は兵庫から高松行きの船に乗る事にした。  元気を出して、どんな場合にでも、弱ってしまってはならない。小さなミセ屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた兵庫の船宿で/高松行きの切符を買った。やっぱり国へ帰りましょう。──透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと私を呼んでいる。私は不幸な娘でございます。汚れたハンカチーフに、氷のカチ割りを包んで、私はホオに押し当てていた。子供らしく子供らしく、すべては天真爛漫に世間を渡りましょう。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  呆然として梯子段の上の汚れた地図を見ていると、夕暮れの日射しのなかに、地図の上は落莫とした秋であった。寝ころんで煙草を吸っていると、訳もなく涙がにじんで、何か侘しくなる。地図の上では/たった二’三スンの間なのに、可哀想なお母さんは四国の海辺で、朝も夜も私の事を考えて暮らしているのでしょう──。風呂から帰って来たのか、階カで女達の姦しい声がする。妙に頭が痛い。用もない日暮れだ。 ◇。◇。◇。 【寂しければ海中にさんらんと入ろうよ、】 【さんらんと飛び込めば海が胸’につかえる/泳げばながるる】 【力いっぱい踏んばれ/岩の上の男。】 ◇。◇。◇。  秋の空気があんまり青いので、私は白秋のこんな唄を思い出した。ああこの世の中は、たったこれだけの楽しみであったのだろうか、ヒイフウ‥‥私は指を折って、ささやかな可哀想な自分の年齢を考えてみた。「おゆみさん! 電気つけておくれッ。」お上さんの甲高い’声がする。おゆみさんか、おゆみとはよくつけたものなり。私の母さんは阿波の徳島十郎兵衛。夕御飯のおかずは、いつもの通りに、するめの煮たのに、コンニャク、そばでは、出前のカツレツが物々しい示威運動で黄いろく揚っている。私の食慾はもう立派な機械になりきってしまって、するめがそしゃくされないうちに、私は水でそれをゴクゴク喉へ流し込むのだ。二十五円の蓄音器は、今晩も-ずいずいずっころばし、ごまみそずいだ。公休日で朝から遊びに出ていた十子が帰って来る。 「とても面白かったわ、新宿の待合室で四人も私を待っていたわよ、私は知らん顔をして見ててやったの‥‥」  そのころ女給達の仲間には、何人もの客にイチニチの公休日を共にする約束をしては/一つ場所に集合をさせてすっぽかす事が流行っていた。 「私、今日は妹を連れて映画を見たのよ、自腹だから、スッテンテンになってしまったわ、かせがなくちゃ場銭も払えない。」  十子は汚れたエプロンを胸にかけて、皆にお土産の甘納豆をふるまっている。  今日は月の病気。胸苦しくって、立っている事が辛い。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  折れた鉛筆のように、女達はみんなゴロゴロ眠っている、雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。──生きのびるまで生きて来たという気持ちです。随分長いこと会いませんね、神田でお別れしたきりですもの‥‥。もう、しゃにむに淋しくてならない、広い世の中に可愛がってくれる人がなくなったと思うと泣きたくなります。いつも一人ぼっちのくせに、他人の優しい言葉’をほしがっています。そしてちょっとでも優しくされると嬉し涙がこぼれます。大きな声で深夜の街を唄でも歌って歩きたい。夏から秋にかけて、異状体になる私は働きたくっても働けなくなって弱っています故、自然と食べる事が困難です。かねが欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら云う事はありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります。明日はとても嬉しいんですよ。少しばかりの稿料がはいります。それで私は行けるところまで行ってみたいと思います。地図ばかり見ているんですが、ほんとに、なんの楽しさもないこのカフェーの二階で、私を空想家にするのは/梯子段の上の汚れた地図ばかりなのです。ひょっとしたら、裏日本の市振と云うところへ行くかも知れません。生きるか死ぬるか、とにかく旅へ出たいと思っております。  弱き者よの言葉は、そっくり私に頂戴出来るんですけれど、それでいいと思います。野生的で行儀作法を知らない私は、自然へ身を投げかけてゆくより仕方がありません。このままの状態では、国への仕送りも出来ないし、私の人に対して済まない事だらけです。私は我慢強く笑って来ました。旅へ出たら、当分’田舎の空や’土から、健康な息を吹きかえすまで、働いて来るつもりです。体が悪いのが、何より私を困らせます。それにまた、あの人も病気ですし、厭になってしまう。かねがほしいと思います。伊香保のホウへ下働きの女中にでもと談判をしたのですが、一年間の前借百円ナリではあんまりだと思います。──何のために旅をするとお思いでしょうけれど、とにかく、このままの状態では、私はハレツしてしまいますよ。人々の思いやりのないアッコウ雑言の中に生きて来ましたが、もう何と言われたっていいと思います。私はへこたれてしまいました。冬になったら、十人リキに強くなってお目にかかりましょう。とにかく行くところまで行きます。私の妻であり夫であるたった一ツの真っ黄な詩稿を持って、裏日本へ行って来ます。お体を大切に、さようなら──。 ◇。◇。◇。  フッツリ御無沙汰をしていてすみません。  お体は相変らずですか、神経がトゲトゲしているあなたにこんな手紙を差し上げるとあなたは、ひねくれた笑いをなさるでしょう。私、実さい涙がこぼれるのです。いくら別れたと云っても、病気のあなたのことを考えると、侘しくなります。困った事や、嬉しかった思い出も、あなたのひねくれた仕打ちを考えると、恨めしく味気なくなります。イチエンサツ二枚入れて置きました。怒らないで何かにつかって下さい。あの女と一緒にいないんですってね、私が大きく考え過ぎたのでしょうか。秋になりました。私の唇も冷たく凍ってゆきます。あなたとお別れしてから‥‥。たいさんも裏で働いています。 ◇。◇。◇。  ──おかあさん。  おかね、おくれて、すみません。  あきに、なって、いろいろ、ものいりが、しておくれました。  からだは、げんきでしょうか。わたしも、げんきです。このあいだ、おくって、くださった、はなのくすり、おついでのときに、すこしおくってください。せんじてのむと、のぼせが、なおって、かおりがよろしい。  おかねは、いつものように、はんを、おして、ありますから、このままきょくへ、とりにゆきなさい。  おとうさんの、たよりありますか、なにごとも、ときのくるまで、のんきにしていなさい、わたしも、ことしは、あくねんゆえ、ただじっとしています。  なによりも、からだを、たいせつに、いのります。ふうとうを、いれておきます、へんじをください。 ◇。◇。◇。  私は顔中を涙でぬらしてしまった。せぐりあげても、せぐりあげても泣き声が止まない。こうして一人になって、こんなすさんだカフェーの二階で手紙を書いていると、一番胸に来るのは、老いた母’のことばかりである。私がどうにかなるまで死なないでいて下さい。このままであの海辺で死なせるのはみじめすぎると思う。あした局へ行って一番に送ってあげよう。帯芯の中には、ささけたイチエンサツがロクシチ枚もたまっている。貯金帳は出たり入ったりでいくらもない。木枕に頭をふせていると/くるわの二時の拍子木がカチカチ鳴っていた。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  /窓外は愁々とした秋景色である。小さなバスケット一つに一切をたくして、私は興津行きの汽車に乗っている。トケを過ぎると小さなトンネルがあった。 ◇。◇。◇。 【サンプロンむかしロオマの巡礼の】 【知らざる穴を出でて南す。】 ◇。◇。◇。  私の好きな万里の歌である。サンプロンは、世界最長のトンネルだと聞いていたけれど、一人のこうした当てのない旅でのトンネルは、なぜかしんみりとした気持ちになる。海へ’行く事がおそろしくなった。あの人の顔や、お母さんの思いが、私をいたわっている。海まで走る事がこわくなった。──三門で下車する。燈火がつきそめて/駅の前は桑バタケ。チラリホラリ藁屋根が目についてくる。私はバスケットをさげたままぼんやり駅に立っていた。 「ここに宿屋がありますでしょうか?」 「この先の長者町までいらっしゃるとあります。」  私は日在浜を一直線に歩いていた。10月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私を興奮させてしまった。ただ海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮れそめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。遠くから、犬の吠える声がする。かすりの半纏を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。波が大きくしぶきすると/犬はおびえたようにキリッと首をもちあげて/海へ向って吠えた。エンライのような海のオトと、黒犬の唸り声は何かこわい感じだ。 「この辺に宿屋はありませんか?」  この砂浜にたった一人の人間であるこの可憐な少女に私は呼びかけてみた。 「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」  なんの不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。  日在浜のはずれで、ちょうど長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸び伸びと自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえ恐ろしく思った。天井には、何の魚なのか、サカナの尻尾の乾いたのが張りつけてある。  この部屋の電気も暗ければ/この’旅の女の心も暗い。あんなに憧憬れていた裏日本の秋は見る事が出来なかったけれども、この外房州は裏日本よりも豪快な景色である。市振から親不知へかけての民家の屋根には、沢庵石のようなのがたくさん置いてあった。線路の上まで白いしぶきのかかるあの蒼茫たる町、崩れた崖の上にとげとげと咲いていたあざみの花、みんな、何年か前のなつかしい思い出である。私は磯臭い布団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびんを出してイチニ滴/ハンカチに落した。このまま消えてなくなりたい’今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを/押し花のように鼻におし当てていた。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  遠雷のような汐鳴りの音と、窓を打つショウショウたる雨の音に、私がぼんやり目を覚ましたのは十時頃だったろうか:、コロロホルムの酢のような匂いが、まだ部屋中に流れているようで、私はそっと窓を開けた。入江になった渚には蒼く染ったような雨が煙っていた。しっとりとした朝である。母家でメザシを焼く匂いがする。──昼からあんまり頭が痛むので、娘と二人で黒犬を連れて、日在浜のホウへ散歩に出て見た。渚近い漁師の家では、女や子供たちが三々五々群れていて、ナマイワシを竹串につきさしていた。竹串にさされたナマイワシが、筵の上にならんで、雨あがりの薄日がその上に銀を散らしている。娘はバケツにいっぱいナマイワシを入れてもらうと/その辺の雑草を引き抜いてかぶせた。 「これで十銭ですよ。」帰り道、娘は-おもそうにバケツを私の前に出してこう云った。 ◇。◇。◇。  夜は’ナマイワシの三杯酢に、海草の煮つけに生玉子のご馳走だった。娘はお信さんと云って、お天気のいい日は千葉から木更津にかけて/魚の干物の行商に歩くのだそうである。/店で茶をすすりながら、老夫婦にお信さんと雑談をしていると、水色の蟹が敷居の上をゴソゴソ這って行く。生活に疲れ切った私は、石ころのように動かない’この人達の生活を見ていると、何となく羨ましくなって来る。風が出たのか、雨戸が難破船のようにゆれて、チエホフの小説にでもありそうな/古風な浜辺の宿なり。11月にはいると、このへんではもう足の裏がつめたい。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【富士を見た】 【富士山を見た】 【赤い雪でも降らねば】 【富士をいい山だと賞めるには当らない】 ◇。◇。◇。 【あんな山なんかに負けてなるものか】 【汽車の窓から何度も思った回想】 【尖った山の心は】 【私の破れた生活を-おびやかし】 【私の眼を寒々と見下ろす。】 ◇。◇。◇。 【富士を見た】 【富士山を見た】 【烏よ】 【あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け】 【真っ赤な口でひとつ嘲笑ってやれ】 ◇。◇。◇。 【風よ!】 【富士は雪の大悲殿だ】 【ビュン、ビュン吹きまくれ】 【富士山は日本のイメージイだ】 【スフィンクスだ】 【夢の濃いノスタルジヤだ】 【魔の住む大悲殿だ。】 ◇。◇。◇。 【富士を見ろ】 【富士山を見ろ】 【北斎の描いたかつてのお前の姿の中に】 【若々しいお前の火花を見たけれど】 ◇。◇。◇。 【今は老い朽ちた土まんじゅう】 【ギロギロした眼をいつも空にむけているお前】 【なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ】 ◇。◇。◇。 【烏よ風よ】 【あのしらじらとさえかえった】 【富士山の肩を叩いてやれ】 【あれは銀の城ではない】 【不幸のひそむ雪の大悲殿だ】 ◇。◇。◇。 【富士山よ!】 【お前に頭をさげない女がここにひとり立っている】 【お前を嘲笑している女がここにいる。】 ◇。◇。◇。 【富士山よ富士よ】 【颯々としたお前の火のような情熱が】 【ビュンビュン唸って】 【ゴオジョウなこの女の首を叩き返すまで】 【私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。】 ◇。◇。◇。  私はまた元のもくあみだ。胸にエプロンをかけながら二階の窓をあけに行くと、遠い向こうに薄い富士山が見えた。ああ/あの山の下を私は幾度か不幸な思いをして行き返りした事である。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの寥々たる風景は、私の魂も体も/汚れのとれた美しいものにしてくれた。野中の一本杉の私は、せめてこんな楽しみでもなければ-やりきれない。明日から紅葉デーで、私たちは狂人のような真っ赤な着物のおそろいだそうである。都会の人間はあとからあとから、よくもこんなはずかしくもない、滑稽な趣向を思いつくものだと思う。また新しい女が来ている。今晩もお面のように白粉をつけて、二重な笑いでごまかしか‥‥浮世とはよくも云い当てしものかな──。留守中、母’から、さらしの襦袢が二枚’送って来ていた。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  カフェーでスイキャクにもらった指輪が思いがけなく役立って、十三円でシチにいれると/私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。フル道具屋で箱火鉢と小さい卓袱台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あとはハンツキブンあまりの間代をいれるのが精一杯だった。十三円の-かねの他愛なさよ。  寒い息を吐きながら、二人が重い荷物を両方から引っぱって帰った時は、ちょうど十時ちかかった。 「ちょっと! 前のうちねえ、小唄の師匠さんよ、ホラ‥‥いいわね。」 ◇。◇。◇。 【傘さして】 【かざすやクルワの花吹雪】 【この鉢巻は過ぎしころ】 【紫におう江戸の春】 ◇。◇。◇。  目と鼻の路地向こうの二階屋から、沈んだ三味線のネジメがきこえている。細目にあけた雨戸の蔭には、お隣の明かりの明るい障子のこまかいサンが見える。 「お風呂は明日にして寝ましょう、ウエブトンは借りたのかしら?」  時ちゃんはピシャリと障子を締めた。──敷布団はたいさんと私と一緒の時代のが/たいさんがコボリさんのところへお嫁に行ったので残っていた。あの人は鍋も包丁も敷布団も置いて行ってしまった。一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を私は思い出していた。同居の軍人上がりや/二階でおしめを洗ったその細君や、人のいいサカ屋の夫婦や。用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読みましょう。 「どうしたかしら、たい子さん?」 「あの人も、今度こそは幸福になったでしょう。コボリさん、とても、頑丈ないい人だそうだから、誰が来ても負けないわ‥‥」 「いつか遊びに連れて行ってね。」  二人は、階カの小母さんから借りた上蒲団をかぶって寝た。日記をつける。 ◇。◇。◇。 【1、拾参円の内より】 【茶ブ台◇ 壱円。】 【箱火鉢◇ 壱円】 【シクラメンひと鉢◇ 参拾五銭。】 【飯茶碗◇ 弐拾銭。 二個。】 【吸物わん◇ 参拾銭。 二個。】 【ワサビヅケ◇ 五銭。】 【沢庵◇ 拾壱銭。】 【箸◇ 五銭。 五人前。】 【茶呑道具◇ 盆つき◇ 壱円拾銭。】 【桃太郎の蓋物◇ 拾五銭。】 【皿◇ 弐拾銭。 二枚。】 【間代日割り◇ 六円。(三畳9円)】 【火箸◇ 拾銭。】 【餅網◇ 拾弐銭。】 【ニュームのつゆ杓子◇ 拾銭。】 【御飯ジャクシ◇ 参銭。】 【鼻紙ヒトタバ◇ 弐拾銭。】 【肌色美顔水◇ 弐拾八銭。】 【御神酒◇ 弐拾五銭。 一合。】 【引越し蕎麦◇ 参拾銭。 階カへ/。】 【1、壱円拾六銭◇ 残金】 ◇。◇。◇。 「たったこれだけじゃ、心細いわねえ‥‥」  私は鉛筆のしんで頬っぺたを突つきながら、つんと鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。 「炭は’あるの?」 「炭は、階カの小母さんが取りつけの所から月末払いで取ってやるって云ったわ。」  時ちゃんは安心したように、銀杏返しのびんを細い指で持ち上げて、私の背中に凭れている。 「大丈夫ってばさ、明日からうんと働くから元気を出して勉強してね。浅草を辞めて、日比谷あたりのカフェーなら通いでいいだろうと思うの、酒の客が多いんだって、あの辺は‥‥」 「通いだと二人とも楽しみよねえ、一人じゃ御飯もおいしくないじゃないの。」  私は煩雑だった今日の日を思った。──萩原さんとこの’おセッちゃんに、お米も二升もらったり、絵描きのミゾグチさんは、折角’北海道から送って来たと云う餅を、風呂敷に分けてくれたり、指輪を質屋へ持って行ってくれたりした。 「当分二人で一生懸命働こうね、ほんとに元気を出して‥‥」 「ゾウシキのお母さんのところへは、月に三十円も送ればいいんだから。」 「私も少しくらいは原稿料が入るんだから、黙って働けばいいのよ。」  雪のオトかしら、窓に何かササササと当たっている音がしている。 「シクラメンって厭な匂いだ。」  時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪も櫛も枕元へ抜いて、「さあ寝んねしましょう-」と云った。暗い部屋の中では、花の匂いだけが強く私たちをなやませた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【積る淡雪積ると見れば】 【消えてあとなきはかなさよ】 【柳なよかに揺れぬれど】 【春は心のかわたれに‥‥。】 ◇。◇。◇。  時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足がならんでいた。 「あら、もう起きたの。」 「雪が降ってるのよ。」  起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグツグツ白く吹きこぼれていた。 「炭はもう来たのかしら?」 「階カの小母さんに借りたのよ。」  いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。久し振りに猫の額程の茶ブ台の上で、イクネンにもない長閑なお茶を呑むなり。 「やまと館の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」  時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざしている。 「こんなに雪が降っても出掛ける?」 「うん。」 「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう。童話が行ってるから。」 「もらえたら、熱いものをこしらえといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなることよ。」  初めて、隣の六畳の古着屋さん夫婦にもあいさつをする。鳶のカシラをしていると云う階カのお上さんの旦那にも会う。みんな、歯ぎれがよくて下町ジンらしい人達だ。 「この家も前は道路に面していたんですよ。でも火事があってねえ、こんなとこへ引っこんじゃって‥‥うちの前はお妾さん、路地のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね‥‥」  私はお歯黒で歯をそめているお上さんを珍らしく見ていた。 「お妾さんか、道理でちょっと見たけどいい女だったわよ。」 「でも階カの小母さんがあんたの事を、この近所にはちょっと居ない、いい娘ですってさ。」  二人は同じような銀杏返しをならべて/雪の町へ出て行った。雪はまるで、気の抜けた泡のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、やみくもに降っている。 「金儲けは辛いね。」雪よドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじに傘をクルクルまわして歩いた。どの窓にも明かりのついている八重洲の大通りは、紫や、ベニのコートを着た勤めがえりの女の人達が、雪にさからって歩いている。コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめな蟇蛙のようだ。──白木さんはお帰りになったあとか、そうれ見ろ! これだから、やっぱりカフェーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強をしろと云うなり。新聞社の広い受付に、このみじめな女は、かすれた文字をつらねて困っておりますからと/おきまりの置手紙を書いた。  だが時事のドアは面白いな。クルリクルリ、まるで水車のようだ。クルリと二度押すと、前へ逆もどりしている。郵便屋が笑っていた。何と小さな人間たちよ。ビルディングを見上げると、お前なんか一人’生きてたって、死んだって同じじゃないかと云っているようだ。だけど、あのビルディングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。成金になるなんて云ってやったら邪険な親類も、冷たい友人もみんな、驚くことだろう。あさましや芙美子よ、消えてしまえ。時ちゃんは、かじかんでこの雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに──。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  ああ今晩も待ち呆け。箱火鉢で茶をあたためて時間はずれの御飯をたべる。もう一時すぎなのに──。昨夜は二時、おとといは一時半、いつも十二時半にはきちんと帰っていた人が、時ちゃんに限ってそんな事もないだろうけれど‥‥。卓袱台の上には書きかけの原稿が二’三枚’散らばっている。もう家には十一銭しかないのだ。  きちんきちんと、私にしまわせていた十円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったけれど、いったいどうしたのかしらと思う。  蒸してはおろし/蒸してはおろしするので、ウムシガマの御飯はビチャビチャしていた。蛤鍋の味噌も固くなってしまった。私は原稿も書けないので、机を鏡台のそばに押しやって、淋しくトコをのべる。ああ髪結さんにも行きたいものだ。もう十日あまりも銀杏返しをもたせているので、頭のヂがかゆくて仕方がない。帰って来る人が淋しいだろうと、電気をつけて、紫の布をかけておく。  三時。  したのお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、時ちゃんが酔っぱらったような大きな足音で上がって来た。酔っぱらっているらしい。 「すみません!」  青ざめた顔に髪を乱して、紫のコートを着た時ちゃんが、布団の裾にくず折れると、まるで駄々っ子のように泣き出してしまった。私は言葉をあんなに用意して待っていたのだけれど、一言も云えなくなってしまって/黙っていた。 「さようならあ時ちゃん!」  若々しい男の声が窓の下で消えると、路地口で間抜けた自動車の警笛が鳴っていた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  二人ともオモぶせな気持ちで御飯をたべた。 「このごろは少しなまけているから、あなたは梯子段を拭いてね、私は洗濯をするから‥‥」 「ええ/私するから、ここほっといていいよ。」  寝不足なはれぼったい時ちゃんの瞼を見ていると、たまらなくいじらしくなって来る。 「時ちゃん、その指輪はどうして?」  かぼそい薬指に、白い石が光って/台はプラチナだった。 「その紫のコートはどうしたのよ?」 「‥‥‥‥」 「時ちゃんは貧乏がいやになってしまったのねえ?」  私は階カの小母さんに顔を合せる事は肌が痛いようだった。 ◇。◇。◇。 「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」  水道の水と一緒に、小父さんの言葉が痛く胸に来た。 「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内のカシラなんだから、ちょっとでも風評が立つと、うるさくてね‥‥」  ああご尤も様で、洗いものをしている背中にびんびん言葉が当たって来る。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  時ちゃんが帰らなくなって今日で五日である。ひたすら時ちゃんの便りを待っている。彼女はあんな指輪や紫のコートに負けてしまっているのだ。生きてゆく目当てのないあの女の落ちて行く道かも知れないとも思う。あんなに、貧乏はけっして恥じゃあないと云ってあるのに‥‥十八の彼女は/ベニも紫も欲しかったのだろう。私は五銭あった銅銭で駄菓子を五ツ買って来ると、トコの中でフル雑誌を読みながら食べた。貧乏は恥じゃあないと云ったものの/あと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋を済度してはくれぬ。手を延ばして押入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想するなり。  何もないのだ。涙がにじんで来る。電気でもつけましょう‥‥。駄菓子ではつまらないと見えて腹がぐうぐう辛気に鳴っている。隣の古着屋さんの部屋では、秋刀魚を焼く強烈な匂いがしている。  食慾と性慾/ 時ちゃんじゃないが、せめてひと椀のめしにありつこうかしら。  食慾と性慾/ 私は泣きたい気持ちで、この言葉を噛んでいた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【なんにも云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に脅迫されて、浅草の待合に居ります。この人には奥さんがあるんですけれど、それは出してもいいって云うんです。笑わないで下さいね。その人は請負師で、いま四十二の人です。】 【着物もたくさんこしらえてくれましたの、貴方の事も話したら、40円くらいは毎月出してあげると云っていました。わたし嬉しいんです。】 ◇。◇。◇。  読むにたえない時ちゃんの手紙の上に/私はこんな筈ではなかったと涙が火のように溢れていた。歯が金物のようにガチガチ鳴った。私がそんな事をいつ頼んだのだ! 馬鹿、馬鹿、こんなにも、こんなにも、あの十八の女はもろかったのかしら‥‥目が円くふくれ上がって、何も見えなくなるほど泣きじゃくっていた私は、時ちゃんへ’向かって心で呼んで見た。  所を知らせないで。浅草の待合なんて-なんなのよッ。  四十二の男なんて!  きもの、きもの。  指輪もきものもなんだろう。信念のない女よ!  ああ、でも、野百合のように可憐であったあの可愛い姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女だったのに。なんだって、最初のベエゼをそんな浮世のボオフラのような男にくれてしまったのだろう‥‥。愛らしい首を曲げて、春は心のかわたれに‥‥私に唄ってくれたあの少女が、四十二の男よ呪われてあれだ! 「林さん/書留ですよッ-」  珍らしく元気のいい小母さんの声に、梯子段に置いてある封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留だった。金二十三円ナリ! 童話の稿料だった。当分ひもじいめをしないでもすむ。胸がはずむ、ああうれしい。神さま、あんまり幸福なせいか、かえって淋しくて仕様がない。神様神様、嬉しがってくれる相棒が四十二の男に抱かれているなんて‥‥。 ◇。◇。◇。  白木さんのいつものやさしい手紙がはいっている。いつも云う事ですが、元気でご奮闘ご精励を祈りまつる。──私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二部】 ◇。◇。◇。◇。◇。 (1月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【私は野原へほうり出された赤いマリ】 【力強い’風が吹けば】 【大空高く】 【鷲の如く飛びあがる】 ◇。◇。◇。 【おお/風よ叩け】 【燃えるような空気をはらんで】 【おお/風よ早く】 【赤いマリの私を叩いてくれ】 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  雪空。  どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあの人と会って来よう。 「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」  私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。 「じゃア、今度’島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの‥‥」  私に「サーニン」を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていていいと言ったあの人の言葉が胸に来る。──波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。汐風が胸の中で大きくふくらむ。 「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの‥‥災難と思うてお母さん達と一緒にまた東京へ行ったほうがええ。」 「でも、一度おうて話をしてこんことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの‥‥」 「考えてみなさい、もう去年の11月から便りがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。酉年はどうもわしはすかん。」  私は男と初めて東京へ行った/一年余りの生活の事を思い出した。  晩春5月のことだった。散歩に行った雑司ヶ谷の墓地で、何度も何度もお腹をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行ってはハカイ-シに腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ヶ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お父さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡よりはかないものだと思った。 「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って-おうて見るとええ。」  そろばんを入れていたお父さんはこう言ってくれたりした。尾道の家は、二階が六畳フタマ、階カはハンプと煙草を売る年寄り夫婦が住んでいる。 「随分この家も古いのね。」 「あんたが生まれた頃、この家は建ったんですよ。ジュウシ五年も前にゃア、まだこの道は海だったが、埋立して海がずっと向こうへ’行きやんした。」  明治三十七年生まれのこの煤けた浜辺の家の二階に部屋ガりをして、私たち親子三人の放浪者は気安さを感じている。 「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」  港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。行李から本を出すと、昔の私の本箱にはだいぶ恋の字が並んでいる。隣室は大工さん夫婦、お上さんはだるま上がりの白粉の濃い女だった。今晩、町は、寒施ギョウなので、暗い寒い港町には提灯の火があっちこっち飛んでいた。赤飯に油揚げを、大工さんのお上さんは白粉くさい手にいっぱいこんなものを持って来てくれた。 「おばさんは、二三日うち/島へ行きなさるな?」 「この十五日が工場の勘定日じゃけん、メリヤスを少し持って行こうと思ってますけに‥‥」 「私のうちも船のほうじゃあ仕事が’日がつまんから、何か商売でもしたら云うて、繻子足袋の再製品を聞いたんじゃけど、どんなもんだろうな?」 「そりゃアよかろうがな、職工はこの頃景気がよかとじゃけん、シナさえよけりゃ買うぞな、商売は面白かもん/私と行ってみなさい、これに手伝わせてもええぞな。」 「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましょう。」  船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出るのは引きあわない話だそうな。  夕方。  ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」と云う本を持って来てくれる。金田さんは私のショウガッコ-ウトモダチなり。本を読む事が好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがついていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。  ──勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積む雪を落花と蹴散らし。暗くなるまで波止場の肥料置場でここを読む。紫のひふを着た少女の物語り、雨後の日の夜のあばたの女の物語など、何か、若い私の胸に匂いを運んでくれる。金田さんは、みみずのたわごとが面白いと云っていた。十時頃、山の学校から帰って来ると、お父さんが、花をしに行ってまだ帰らないのだと母は心配’していた。こんな寒い夜でも達磨船が出るのか、お父さんを迎えに町へ出てみると、雁木についたランチから/白い女の顔が人魂のようにチラチラしていた。いっそ私も-あら海に身を投げて自殺して、あの男へ情熱を見せてやろうかしらとも思う:、それともひと思いに一直線に墜落して、あの女達の群れにはいってみようかと思う。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  島で母達と別れると、私は磯づたいに男の村のホウへ行った。イチエンで買った菓子折を大事にかかえて/因島のトイのように細い町並を抜けると、1月の寒く冷たい/青い海が/漠々と果てもなく広がっていた。何となく胸の焼ける思いなり。あの人とはもう三カ月も会わないのだもの、東京での、あの苦しかった生活を/あの人はすぐ思い出してくれるだろう‥‥。丘の上は一面の蜜柑山、ミのなったレモンの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかった。  ウシ二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。1月の太陽は、こんなところにも、霧のような美しい光芒を散らしていた。畳をあげた表の部屋には、あの人の羽織がかけてあった。こんな長閑な住居にいる人達が、どうして私の事を、馬の骨だの牛の骨だのなんかと言うのだろうか:、黙って砂埃りのしている縁側に腰をかけていると、あの男のお母さんなのだろう、煤けて背骨のない藁人形のようなおばあさんが、鶏を追いながら裏のほうから出て来た。 「私、尾道から来たんでございますが‥‥」 「誰をたずねておいでたんな。」  声には何かトゲトゲとした冷た-さがあった。私は誰を尋ねて来たかと訊かれると、少女らしく涙があふれた。尾道でのはなし、東京でのはなし、私は一年余りのあの人との暮らしを物語って見た。 「私は何も知らんけん、そのうちまた誰ぞに相談しときましょう。」 「本人に会わせてもらえないでしょうか。」  奥から、あの人のお父さんなのか、六十近い老人が煙管を吹き吹き出て来る。結局は、アメリカから帰った姉さん夫婦が反対の由なり。それに本人もこのごろ造船所の庶務課に勤めがきまったので、あんまり幸福を乱さないでくれと言う事だった。こんな煤けたレモンの山裾に、数万円の財産をおもりして、その日その日の食うものも倹約している百姓生活。あんまり人情がないと思ったのか、あの人のお父さんは、今日は祭りだから、飯でも食べて行けと云った。女は年を取ると、どうして邪険になるものだろう。お婆さんはツンとして腰に縄帯を巻いた姿で、牛小屋にはいって行った。真黒いコンニャクの煮しめと、アブラげ、里芋、雑魚の煮つけ、これだけが祭りのご馳走である。縁側で涙をくくみながらよばれていると、荒れた水田の小道を、なつかしい顔が帰って来ている。 ◇。◇。◇。  私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。 「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんか/もらえんと云うのだから‥‥」  お父さんの話だ。あの人は黙って首をたれていた。──どう煎じ詰めても、あんなにも勇ましいと思っていた男が黙っていて一言も云ってくれないのでは、私が百万べん言っても動いてくれるような親達ではない。私は初めて空漠とした思いを感じた。男と女の、あんなにも血も肉も焼きつくような約束が、こんなに他愛もなく崩れて行くものだろうかと思う。私は菓子折をそこへ置くと、蜜柑山に照りかえった黄いろい日を浴びて村道に出た。あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。 「お前は、長い間、苦労ばかりして来たので/よく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで‥‥」  1月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。 「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」  私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。 「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい、出来なければ私がします。」  男から菓子折を引き取ると、私は精一杯の力をこめてそれを海へ投げ捨てた。 「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにしても、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」  私は黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いてこの男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。 「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうちまたひとりで東京へ帰ります。」 ◇。◇。◇。  砂浜の汚い藻の上を踏んで歩いていると、男も犬のように何時までも黙って私について来た。 「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先だけの優しさなんてよして下さい。」  町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも言おう、これも言おうと思っていた気持ちが、もろく叩きこわされている。東京で-えがいていたイメージイが/愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に蜿蜒と続いた山’壁を見上げた。 ◇。◇。◇。  造船所の入口には店を出したお父さんとお母さんが、大工のお上さんと、もう店をしまいかけていた。 「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、履いたと思ったらじき破れたよ。」  薬で黒く色ゾめしてあるので、履くとすぐピリッと破れるらしい。 「おばさん! 私はもう帰りますよ。みんなおこってきそうで、おそろしいもん‥‥。」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋をイッソク七十銭に売っているんだからとても押しがフトかった。大工の-かみさんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。 「さあ、船を出しますで!」  船長さんが鈴を鳴らすと、利久下駄をカラカラいわせていた大工の-かみさんは、桟橋と船に渡した渡しごをわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷ヅツみを、コロリと海の中へ’落してしまった。 「あんまり高いこと売りつけたんで、バチが当たったんだでな。」  上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷ヅツみをすくい取っていた。  みんな、何もかも過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、明かりのついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心頼みに空想を-えがいていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ) 「お前は考えが少しフラフラして-いかん!」  お父さんは、東京行きの信玄ブクロをこしらえている私の後ろから言った。 「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ’行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」 「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」 「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」  ご尤も様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代わりにたべなさいよ。」停車場の黒い柵に凭れて母は涙をふいていた。ああいいお父さん! いいお母さん! 私はすばらしい成金になる空想をした。 「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私たちを助けてくれたと云うのです? 私たち親子三人の世界なんてどこにもないんだから/ナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」 「親子三人が一緒に住めん云うてのう‥‥」 「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身をコにして働きますよ。」 ◇。◇。◇。  いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたら/お母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。──段々陽のさしそめて来る港町をつっきって/汽車はサンバの磯べづたいに走っている。私の思い出から、たんぽぽの綿毛のように色々なものが海の上に飛んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹のように浮んでいた。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  烈々とした太陽が、雲を裂き/空を裂き光っている。帯の間にしまったニツウの履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。新富ガシの橋をカーヴしながら、電車は新富座に突きささりそうに/朽ちた木バシを渡って行く。坂本チョウで降りると、汚い公園が目の前にあった。かねでもあれば氷のいっぱいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の体臭は軽蔑されるに違いない。石突きの長いパラソルの柄にホオをもたせて、公園の汚れたベンチに私は涼風をもとめてすずんでいた。 「オイ/ 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね‥‥」  驚いて振り返って見ると、垢モブレな手拭を首に巻いた浮浪シャが私の後ろに立っていた。 「五銭? わたし二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり‥‥」 「じゃあ二銭おくれよ。」  三十も過ぎているだろうこの頑丈な男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所のホウへ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。玩具箱をひっくり返したような公園の中には、樹とおんなじように埃をかぶった人間が、あっちにもこっちにもうろうろしている。  茅場町の交叉点からちょっと右へ入ったところに、イワイと云う株屋がみつかった。薄暗い鉄格子のはまった事務室には遊び人ふうの男や、忙がしげに走りまわっている小僧や”まるで人種の違ったところへ来た感じだった。 「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、ひけは四時です。ところでギョクづけが出来ますかね。」 「ギョクづけって-なんです?」 「簿記ですよ。」 「少しぐらいは出来ようと思います。」  まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう──。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。  お母さんや!  お母さんや!  あなたに十円くらいも送れたら/あんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。 「ええギョクづけだって、なんだってやります。」 「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう──」  白い絹のワイシャツを、帆のように扇風器の風でふくらましたこの頭の禿げた男は、私を事務ヅクエの前に連れて行ってくれた。大きな、まるで岩のような事務ヅクエを前にすると、三十五円の憂鬱が身にしみて、ギョクづけだってなんだって出来ますと云った事が、おそろしく思えてきた。小僧が持って来た大きい西洋綴りの帳面を開くと、それは複式簿記で、私のちょっと知っている簿記とは、はるかに縁遠いものだった。目がくらみそうに汗が出る。生まれてかつて見た事もないような、長い数字の行列、数字を毎日書き込んだり、珠算をいれるとなると、私は一日で完全に、キチガイになってしまうだろう。でも私は珠算をいかにも美味そうにぱちぱちハジきながら/子供の頃、算術で丙ばかりもらっていた事を思い出して、胸が冷たくなるような気がした。これだけの長い数字が、どれだけ我々の人生に必要なのだろうか、ふっと頭を上げると/小僧が氷あずきをおやつに持って来てくれている。私は浅ましくもうれし涙がこぼれそうだった。氷と数字、赤や青の直線、簿記棒で頭をコツコツやりながら、でたらめな数字を書き込んだのが恐ろしくなっている。 ◇。◇。◇。  帰ってみたら電報が来ていた。  シュッシャニオヨバズ。  えへだ! あんなに大きい数字を毎日毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  二階から見ると、赤いカンナの花が/隣の庭に咲いている。  昨夜、何か訳のわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭’のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみがまた湧いて来て、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪の日の舟のように侘しくなってくる。こんどは、とても好きなひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。  カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生まれかわってきましょう。昼から、千代田橋’ぎわの株屋へ行ってみる。 【──/1◇ 2◇ 3◇ 4◇ 5◇ 6◇ 7◇ 8◇ 9◇ 10──】  これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大ぜいの応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、また、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分わたしは風の子供だ。  明石の女もメリンスの女も、一歩’外に出ると、睨みあいを捨ててしまっている。 「どちらへお帰りですの?」  私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎が、ナンビも泳いでいた。銀座の鋪道が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう‥‥。赤煉瓦の鋪道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は辞めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものと/けじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ‥‥家へかえったら当分履歴書はお休みだ。 ◇。◇。◇。 【空と風と】 【河と樹と】 【みんな秋の種子】 【流れて◇ 飛んで】 ◇。◇。◇。  夜。  電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪んだ月に、指を円めて覗き眼鏡していると、ホクロのようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。 「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい侘しさ、私は月に光った自分の裸の肩を/この時ほど美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ズシンと体をぶっつけながら、何か悔しさで、体中の血が鳴るように聞える。だがぼんやりと眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えて/お隣でやっている蓄音器のマズルカの、ピチカットのたくさん’入った嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  おとつい行った株屋から速達が来た。ペケニチよりご出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなったような気がした。パラソルを二十銭で屑屋に売った。  日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉屋、橋の向こうが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務ヅクエに初めて差しむかいになると、二人とも笑ってしまった。 「御縁がありましたのねイ。」 「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」  この人は袴を履いて来ているが、私も袴を履かなくちゃいけないのかしら‥‥。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンなギョクづけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生まれで/小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイー。」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当もうまし、鮭のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。 ◇。◇。◇。  ニイカイ◇ サンヤリ/  自転車で走って小僧がかえって来ると、/店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり/電話をしている。 「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」  重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女の人が、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。 「オヤ/ これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう‥‥」  黒ずくめの恰好をした女の人は、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上がれと云って、私の掌にのせてくれた。  こんなお金を月給以外にもらっていいのかしら‥‥前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い日をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。 「貴方はまだ一人なの?」  袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。 「わたし二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」  私は黙って笑っていた。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  だいぶ仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手提げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階カの小母さんはこの頃少し機嫌よし。──社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。 「お早うございます。」 「ヤア-」  事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、 「ここの扇風器をかけて。」と呼んでいる。  私は屑箱を台にすると、高いかもいのスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風器のオト:、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心になんの用意もない私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風器を突き飛ばしてやった。 「アッハハハハハ/いまのは冗談だよ。」  私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。ホオを強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。 「いまのは冗談だよ‥‥」  何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。 ◇。◇。◇。 「怒った! 馬鹿だね/君は‥‥」  ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。 ◇。◇。◇。  昼。  黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ’行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背広の男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った/ 買った!」ベランダの-したには’、芋をもむような人のアタマ、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。  夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし袋にイチエンサツのはいったのをもらう。何だかこんな幸運も”またズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師達や小僧が丁半でアミダを引いていた。 「ねイ/ハヤシさん! 私たちもしない? 面白そうよ。」  茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。 「おい姉さん! ハインナヨ‥‥」 「‥‥‥‥」 「入るといいものを見せてやるぜ。生まれて始めてだわって、嬉しがるヤツを見せてやるがどうだい。」  羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向こうへ行ってしまった。 「アラ/ そんないいもの‥‥じゃア入るわ、お金そんなにないから少しね。」 「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ‥‥」 「じゃ見せて!」  相棒はペンを捨ててみんなのそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。 「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」  私も声につられて店のマへ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真っ赤な絵に私は両手で顔を覆うた。 「意気地がねえなア‥‥」  みんなは逃げ出している私のあとから笑っていた。 ◇。◇。◇。  夜。  ひとりで、新宿の街を歩いた。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) 「ああもしもしペケペケのヤですか? こちらは須崎ですがねイ、今日はちょっと行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。ペケペケさんにそう云って下さいねイ。」  また、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう、オギヤさんの「ねイ」がビンビンひびいている。 「ねイ/ 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって‥‥」  私たちは事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と/オギヤと/私と4人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白いハマチリメンの帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。 「ちんやにでも行くだっぺか!」  私もオギヤも吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚れバナシを聞いて、テーブルの上は皿小鉢の行列である。私は胸の中かムンムンつかえそうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって/何かワンワン唸り合っている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。  私は頭が痛いので、途中から帰らしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。 「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」  小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。 「さよなら、またあした。」 ◇。◇。◇。  家へかえると、八百屋とコメ屋と炭屋のつけが来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階カでかたくりのねったのをよばれる。トコへ入ったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。興奮して眠れず。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  今日もまたあの雲だ。  むくむくと湧き上がる雲の流れを/私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社に歩いて行こう─:─そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ‥‥私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。 「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」 「まだ電車も自動車もありませんよ。」 「勿論歩いて行くんですよ。」  この青年は黙って無気味な/暗い雲を見ていた。 「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」 「さあ、この広場の人達が退却するまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」  この生齧りの哲学者メ。 「御両親のところで、当分落ちつくんですか‥‥」 「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二ソウのほうは焼けてや-しないでしょうかね。」 「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」 「でも行って来ましょう。」 「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」  青年は土に突きさしたパラソルを取って、クルクルまわしながら/雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。やどの人達は、みんな荷物を片づけていた。 「林さん大丈夫ですか、一人で‥‥」  皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、ときどき小さい地震のしている’道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群れがつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒いパラソルをまわして歩いている。  私は下宿に昨夜’間代を払わなかった事を/何だか奇跡のように考えている。おテントウさま相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかには使えない。途中’一升イチエンの米を二升買った。ほかに朝日を五つ求める。  干しうどんの屑を五十銭買った。母たちがどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影を踏んで歩いた。 「よくもこんなに焼けたもんですね。」  私は二升の米を背おって歩くので、ハツカ鼠臭い体臭がムンムンして厭な気持ちだった。 「すいとんでも食べましょうか。」 「私おそくなるから-よしますわ。」  青年は長いこと立ち止まって汗をふいていたが、パラソルをくるくるまわすと/それを私に突き出して云った。 「これで五十銭かして下さいませんか。」  私はお伽話的なこの青年の行動に/好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して/青年の手にのせてやった。 「貴方はお腹がすいてたんですね‥‥」 「ハッハッ‥‥。」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑していた。 「地震って素敵だな!」  十二ソウまでおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性群が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出しなんかを出して/裸足で歩いているのだ。 ◇。◇。◇。  十二ソウについた時は日暮れだった。本郷からここまで4リはあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。 「まあ入れ違いですよ。今日’引っ越していらっしたんですよ。」 「まあ、こんな騒ぎにですか‥‥」 「いいえ/私たちが、ここをたたんで帰国しますから。」  私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西ものらしい薄情さを持った/髪のうすいこの女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のようにみんな地べたにしゃがんでいる。  星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところのホウへ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前に/ポプラで囲まれた広場があった。そこには、二’三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね‥‥。」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私のために寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。 「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」  夜警に出かけると云う、トシとったご亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  朝。  久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばらヒタイにかかって来る。床屋さんにおコメ二升をお礼に置いた。 「そんな事をしてはいけませんよ。」  お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。 「実は重いんですから‥‥」  そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背おわせてしまった。昨日’来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松チョウまで来ると、膝が痛くなってしまった。すべては天真爛漫にぶつかってみましょう。私は、缶詰の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢も盾もたまらなくなって/大きい声で呼んでみた。 「乗っけてくれませんかッ。」 「どこまで行くんですッ-」  私はもう両手を缶詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、4つの朝日を運転手達に出した。 「ありがとう。」 「ねえさんさよなら‥‥」  みんないい人達である。  私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな蝙蝠ガサの下で、キミの悪い雲を見上げていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり/煙草をふかして私を待っていたのだ。 「入れ違いじゃったそうなのう‥‥。」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。 「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」  矢継ぎ早の私の言葉に、父は、昨夜’朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。 「もらってええかの?‥‥」  お父さんは子供のようにわくわくしている。 「お前も一緒に帰らんかい。」 「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、ニサンにち内にはまた行きますから‥‥」 ◇。◇。◇。  道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。 「産婆さんはお出でになりませんかッ‥‥どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」  と、産婆を探して呼んでいる人もいた。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしい便りを聞くように、私も大ぜいの頭の後ろから/新聞をのぞきこんだ。  ──灘の酒造家より、お取引先に限り、酒荷船に大阪まで/無料にてお乗せいたします。定員五十名。  何と云う素晴らしい’文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってカマウものかと思った。  旅へ出よう。美しい旅の古里へ’帰ろう。海を見て来よう──。  私は二枚ばかりの単衣を風呂敷に包むと、それを帯の上に背おって、それこそ飄然と、誰にも黙って下宿を出てしまった。万世橋’から乗合の荷馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のように/ガックンガックン首を振りながら/長いこと芝浦までゆられて行った。道中費、金七十銭なり。高いような、安いような気持ちだった。何だか馬車を降りた時は、お尻が痺れてしまっていた。すいとん──ウデアズキ──おこわ──果物─:─こうした、ごみごみと埃をあびた露店の前を通って行くと、肥料臭い匂いがぷんぷんしていて、芝浦の築港には鴎のように/白い水兵達が群れていた。 「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいるコヤのそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。 「貴方お一人ですか‥‥」  事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をじろじろ見ていた。 「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴きたいのですが‥‥国ではみんな心配してますから。」 「大阪からどちらです。」 「尾道です。」 「こんな時は、もう仕様オマヘン。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ‥‥」  ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行く事だろう。あああの海、あのイエ、あの人:、お父さんや、お母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云っていたけれど、少女時代を過したあの海沿いの町を、一人ぽっちの私は恋のようにあこがれている。「カマウもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりゃ、いいんだもの?」鴎のような水兵達の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが出来た。──70人ばかりの乗客の中に、女といえば、私と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しいガラの浴衣を着た女と/三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣蓙の上に-しじゅう横になって雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。  私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽の上に腰をかけているきりで、彼女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。「ヘエ/ お高く止っているよ。」あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。 ◇。◇。◇。  女が少ないので船員達が-みんな私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生まれて-くればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼんバコを膝でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。井筒の模様の浴衣に着かえると、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音が響く。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。私はそっとジョウ甲板に出ると、吻と息をついた。美しい夜あけである。乳色の涼しいしぶきを蹴って、この古びた酒荷船は、颯々と風を切って走っている。月もまだうすく光っていた。 「暑くてやり切れねえ!」  機関室から上がって来たたくましい船員が、朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。マドロスのお上さんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポーズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一ツ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びおこした。美しい夜明けであった。清水コウが夢のように近づいて来た。船乗りのお上さんも悪くはない。  午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員たちが甲板を叫びながら走って行った。 「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」  ジョウ甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。二日目であるのに、まだ、一言も声をかけてはくれない。この船は、どこの港へも寄らないで、一直線に大阪へ急いで走っているのだから嬉しくて仕方がない。  料理人の人が「おはよう-」と声をかけてくれたので、私は昨夜/蚊にせめられて-ねられなかった事を話した。 「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ。今日は船員室でお休みなさい。」  この料理人は、もう四十くらいだろうけれど、私と同じくらいの背の高さなので”とてもおかしい。私を自分の部屋に案内してくれた。カーテンを引くと押入れのような寝室がある。その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開けて/私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイがまとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝室に楽々と寝そべった。ちょっと頭を上げると/枕もとの円い窓の向こうに/大きな波のしぶきが飛んでいる。今朝の美しい機関士も、ビスケットをボリボリかみながらちょっと覗いて通る。私は恥ずかしいので寝たふりをして顔をふせていた。肉を焼く美味しそうな油の匂いがしていた。 「私は’ね、外国航路の厨夫だったんですが、一度東京の震災を見たいと思いましてね、ひと船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」  大変丁寧な物云いをする人である。私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、ご馳走を食べた。 「後で内緒でアイスクリームを製ってあげますよ。」本当にこの人は好人物らしい。神戸に家があって、9人の子持ちだとこぼしていた。  船に灯が入ると、今晩はみんな船底に集まってお酒盛りだと云う。料理人の人達はてんてこ舞いで忙しい。──私は明かりを消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。フッと私は、私の足先に、生温かい人肌を感じた。人の手だ! 私は枕元のスイッチを-ひねった。鉄色の大きな手が、カーテンの外に引っこんで行くところである。妙に体がガチガチふるえてくる。どうしていいのかわからないので、私は大きなセキをした。  やがて、カーテンの外に呶鳴っている料理人の声がした。 「生意気な! 汚ない真似をしよると承知せんぞ!」  サッとカーテンが開くと、料理包丁のキラキラしたのをさげて、料理人の人が、一人の若い男の背中を突いてはいって来た。そのむくんだ顔に覚えはないけれど、鉄色の手にはたしかに覚えがあった。何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理包丁の動くたびに、私は冷や冷やとした思いで、私は幾度か料理人の肩をおさえた。 「くせになりますよッ-」  機関室で、なつかしいエンジンの音がしている。手をはなしながら、私は黙ってエンジンの音を聞いていた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女のように見えてきて、体じゅうが妙にネツっぽくなって来る。  こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の布団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、布団を蹴って窓を開けた。──思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、はかなく、味気なく、拠り所なく、頼みなきもの:、捉えがたく、あらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど-この世は寂し。──チョコレート色の、アトリエの煙を見ていると、白秋のこんな-しをふっと思い出すなり、まことに頼み甲斐なきは人の世かな。3階の窓から見降ろしていると、川端画塾のモデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜りでは、ルパシカの紐の長い/画学生たちが、これはまた野放図もなく長閑な角力遊びだ。上から口笛を吹いてやると、カッパ頭がみんな三階を見上げた。さあ、その土俵の上にこの3階の女は飛び降りて行きますよッって呶鳴ったら、みんな喜んで拍手をしてくれるだろう─:─川端画塾の横の石垣のアパートに越して来て、今日でもう十日あまり:、寒空には毎日チョコレート色のストーヴの煙があがっている。私は二十通余りも履歴書を書いた。原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉バだなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用をしてくれないのです、だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽くて、説明も要らない。  障子にバラバラ砂っ風が当たると、したの土俵場から、画学生たちはキャラメルをつぶてのように、三階へ投げてくれる。そのキャラメルの美味しかったこと‥‥。隣室の女学生が帰って来る。 「うまくやってるわ!」  私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、 「ちょいと絵描きさん、もっとほうってよ、も一人ふえたんだから‥‥。」と云った。  下からは遊びに行ってもいいかと云うサインを画学生たちがしている、すると、この十七の女学生は指を2本出してみせた。 「その指/なんのことよ。」 「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ‥‥」  この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰ってこないと/私の布団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。 「私のお父さんはサクラ洗い粉の社長なのよ。」  だから私は石鹸よりも、この洗い粉をもらう事が多い。 「ね、つまらないわね、わたし/月謝がはらえないので、学校を-よしてしまいたいのよ。」  火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やしてスミをおこす。 「階カの七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって:、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら‥‥」  彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分では「ベニ」がね/と云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜洗い粉の空袋がたくさん部屋へ持ちこまれる事がある。 「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくれない。」 「馬鹿ね/ ベニさんは:、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」 「だってうちのパパは’ね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とても損だってさあ。」  3階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者とキュウサイと、貸金と女中の欄が目についてくる。 「お姉さん/ こんど常盤座へ行ってみない、3館共通で、朝から見られるわよ、私、歌劇女優になりたくって仕様がないのよ。」  ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先で器用に唄っていた。  夜。  松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円余りも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたいためであった。 「貴方にバナナを食べさせ-ようと思って持って来たのです。食べませんか。」  この人の言う事は、一つ一つが何か思わせぶりな言い方にきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番’嫌いだ。 「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」  いつもこう言ってあるのに、この人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても:、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。 「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」  松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷして溜息をしていた。サクラ洗い粉の部屋へ行くのは厭だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛くなってきたので、そっとドアのそばへ’行く。ああ十円と云う-かねが、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら:、その十円がみんな、ミシン屋の小母’さんの懐へ入っていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに‥‥。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳で迎えた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。 「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」  松田さんの懐には、剃刀のようなものが見えた。 「誰が悪いんです! 変な真似は辞めて下さい。」  こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。 「何もしません、これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」  ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。 「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、シゴニチすればなんとかしますから‥‥」  松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子段を降りて帰って行ってしまった。──夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。みんな、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  花屋の菜の花の金色が、硝子窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、産園ペケペケとペンキの板がかかっていた。何度も思いあきらめて、結局は産婆にでもなってしまおうと思って、たずねて来た千駄木町のペケペケ産園。歪んだ格子を開けると玄関の三畳に、三人ばかりも女が、炬燵にゴロゴロしていた。 「なんなの‥‥」 「新聞を見て来たんですけども‥‥助手見習入用ってありましたでしょう。」 「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら‥‥」 ◇。◇。◇。  二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当たっていた。 「ここは女ばかりてすから、遠慮はないんですのよ、私がほうぼうへ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」  このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階カの女達が、主人と言ったのがこの女の人なのだろうか‥:‥高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。 「実は’ね、階カにいる女達は、みんな素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが/ご都合いかが?」  あぶらのむちむちして白い柔かい手をホオに当てて、私を見ているこの女の眼には、何かキラキラした冷た-さがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くのほうを見ている。その遥かなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷え冷えと底知れない野心が光っていた。 「ええ/今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」 ◇。◇。◇。  昼。  黒いボアにホオを埋めて女主人が出て行った。小女が台所で玉葱を油でいためている。 「ちょっと! 厭になっちゃうね、また玉葱にしょっぺ汁’かい?」 「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!‥‥」 「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」  ジロジロ睨みあっている瞳を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、「助手さん/ 寒いから汚ないでしょうけど、ここへ来て当たりませんか-」と云ってくれた。私は何か底知れない気うつさを感じながら襖をあけると、雑然とした三畳の玄関に、女が六人くらいも坐っていた。こんなに沢山の妊婦達はいったいどこから来たのかしら‥‥。 「助手さん! 貴方はお国どこです?」 「東京ですの。」 「おやおや、そうでございますの、ちょっとこりゃゴマメだわよ。」  女達は、アハアハ笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さなテーブルを囲んで、箸を動かせる。 「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から-かねを取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売ドのくせに!」  女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。 「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」  淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして/急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も言わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもないふうをよそおい、玄関へ出る。 「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの‥‥」 「ちょいと、先生が帰るまでは帰っちゃ駄目だわ‥‥私たちが叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」  何と云う救いがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑しそうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴がイッソクぬいであった。 「見て御覧なさいな、本が1冊と雑記帳ですよ、何も盗りやしませんよ。」 「だって黙って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」  女中風な女が、一番’不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。 「困るのは勝手ですよ。」  戸外の暮色に押されて/花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか‥‥。だが、何年と見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんなふうになるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。いま見て来た女達の、ミもフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が呪わしくさえ思えて、寒い3月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱としょっぺ汁。共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪って暮らしているのかしら‥‥。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ1通あり。──当てにならない僕なんか当てにしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分’親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう──。男の親達が、余所者の娘なんか許さないと言ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。 ◇。◇。◇。  おとうさんが、きゅうしゅうへ、ゆくので、わたしは、おまえのところへ、ゆくかもしれません、たのしみに、まっていなさい──母’よりの手紙。  精一杯’声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。  ハト、マメ、コマ、たのしみにまっていなさいか!  郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて/何か探していた。窓を開けると、3月の陽を浴びて、画学生たちが相撲を取ったり、壁に凭れたり、あんなに長閑に暮らせたら愉しいだろう:、私も絵を描いた事がありますよ、ホラ/ ゴオガンだの、ディフィだの、好きなのですけれど、重苦しくなる時があります。ピカソに、マチイス、この人達の絵を見ていると、生きて-いたいと思います。 「そこのアパートに空間はありませんか?」  新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一斉に男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。 「フタマあいてるんですか!」  私はベニの真似をして2本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅ソウサクされているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。  焦心。女は’つらし。生きるは’つらし。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  階カの台所に-おりて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が/窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう4月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。 「お姉さん-いますか?」  敷きっぱなしの布団の上で内職に白樺の栞の絵を描いていると、学校から帰って来たベニがドアを開けてはいって来た。 「ちょっと! とてもいい仕事がみつかったわ、見てごらんなさいよ‥‥」  ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。  ──地方行きの女優募集、前借り可‥‥。 「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修行してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」 「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて‥:‥時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」 「大丈夫よ、あんな不良パパ、このごろは、七号室のお妾さんに洗い粉をやったりなんかしてるわ。」 「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」  お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。したの一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。 ◇。◇。◇。  ベニのパパが紹介をしてくれた白樺の栞描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、ドロ絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クローバーも百合もチュウリップもサンショクスミレもギョイのままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺の栞達はどこへ’持って行くのだろうか‥:‥三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。  夜。  春日町のイチバへ行って、一升の米袋を買って来る。階カまで降りるのがめんどくさいので、3階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売モノの石材のようになかなかやかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。シジュウオンナときたら、爪の垢まで人のやることがしゃくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来アパートなんて燃えてなくなれだ! 出窓で、グツグツ御飯を炊いていると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭から、コンテを動かしている女の人の頭が見える。自分の好きな勉強の出来る人は羨ましいものだ。同じ絵描きでも私のは個性のないペンキ屋さんです。セルロイドの色塗りだってそうだったし‥‥。明日は、いいお天気だったら、布団を干して/このだらしのない花園をセイケツにしましょう。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。布団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと:、来たるペケニチ、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると好都合ですと云ったふうな私宛のハガキだった。心当たりが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人モノの私の名を利用したのかも知れないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか‥‥淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュの群れたちの事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、キのままの女だから、あんなフウな群れに落ちればすさまじいものだと思う。  今日はカゼ強し。上野の桜は咲いたかしら‥‥桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン萌えてくるといい。夕方ベニのパパが街から帰ってくる。 「林さん! 坊やはどこへ’行きましたでしょうね。」 「さあ、何だか、今日はほうぼうを歩く-んだと云ってましたが‥‥」 「しようがないな、寒いのに。」 「ベニちゃんは、もう学校を-よしたんですか、小父さん。」  外套をぬぎぬぎ私のドアをあけたベニのパパは、ずるそうに笑いながら、 「学校は新学期から-よさしますよ。どうも落ちつかない子供だから‥‥」 「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに‥‥」 「母親がないからですよ、一つ林さん/マザーになって下さい。」 「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべたほうが早いんですからね。いやーアよ。」 「だってお半長右衛門だってあるじゃありませんか。」  私はいやらしいので黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を真っ赤にして帰って来る。 「お姉さん! うどんの玉、たくさん買って来たから上げるわ。」 「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」  ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ-」と呼んだ。 「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くと’いいわよ‥‥」 「あらひどい!」 ◇。◇。◇。  七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたを歌って通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら:、遠くから考えると、涙の出るようないい人なのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞に行こうと思う。夜、龍之介の「戯作三昧」を読んだ。魔術、これはお伽噺のようにセンチメンタルなものだった。印度人と魔術、日本の竹藪と雨の夜か‥‥。霧つよく、風が静かになる、ベニは何か唄っている。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  ベニの帰らない日が続く。 「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」  ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。 ◇。◇。◇。  今日は陽気ないいお天気である。もう/病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きく包帯をしていた。 「三週間くらいでなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」  松田さんは、由井正雪みたいに髪を長くしていて、寒けがする程、みっともない姿だった。昔昔、毒草と云う映画を見たけれど、あれに出て来る傴僂男にそっくりだと思った。ちょいとした感傷で、この人と一緒になってもいいと云うことを、よく考えた事だが厭だった。ほかの事でも真実は返せる筈だ、蜜柑をむいてあげる。  病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋も脱ぎ散らかしている。ベニは儚げに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。 「パパには黙っててね。」 「御飯でもたべる?」  ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。 ◇。◇。◇。  夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎を噛んでいた。海沿いの桜並木、海の上からも、薄赤い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変’愛していたのだけれど、私が早いこと会いに行けないのを感違いして、その人は町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新しい姿で咲き始めている。──やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に怒鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外’賢明なのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定書きだった。  十四円七十三銭なり。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費:、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  ひからびた、鈴蘭もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺の栞を鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥ふかいところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら‥:‥粛々としたその姿を胸に-えがきながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。  軒一つの境いで、風景や/静物や/裸体を描いている画学生と、型の中へ’泥絵具を流しては/それで食べている女と、─:─新聞を見ると、アルスの北原という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う。もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから‥‥:、明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんなふうに云っているのかしら、階カへ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。 「ホウ/絵をお描きになるんですね。」 「いいえ/内職ですのよ。」  およそこんな男は大きらいだ。この男の眼の中には、人を馬鹿にしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。 「昨日、信越の旅から来たのですか、東京はあたたかですね。」 「そうですか。」  新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。 「貴方も、芝居をなすったそうですが、芝居のほうを少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」 「女優なんて、とてもガラじゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなンて私にはメンドクサクてとても出来ません。」 「なかなか貴方は面白い事を言いますね。」 「そうですかね。」 「これから、しょっちゅう遊びに-こさせてもらいます。いいですか。」  ジュウシチハチの娘って、どうしてこう審美眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいので、チエホフの「かもめ」を読んだ‥‥。  ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。 「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に溺れて、取りかえしのつかない事になるのは厭ね:、ベニちゃんは、とても生一本で面白いヒトだけれど、案外貴方の生一本は内弁慶じゃなかったの、色んな事に目が肥えるまでは用心はしたほうがいいと思ってよ。」  彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。 「だって逃げられなかったのよ。」 「八ツ山ホテルってところでしょう。」 「うん。」  ベニは怪訝な顔をしていた。 「男の払った勘定ガキを持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、─:─十四円七十三銭って、こんなもの落してみっとも-ないわよ。」 「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり言うのよ、からかってやるつもりだったの‥‥」 「貴方が揶揄われたんでしょう、ご馳走さま。」  パパのいないベニは淋しそうだった。川水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  朝。  東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お姑さんが一人ある由。 「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」  暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味な構えである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。所詮、私と云う女はあまのじゃくかも知れないのだ。柳は柳。風は風。 ◇。◇。◇。  ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷ヅツみをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパートじゅうのお内儀さん達が、3階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜ斯くも薄きものか:、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢的な事を大きく捏造して、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートジュウの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている。スッとした女なり。 「お姉さん! わたし金沢へ’帰るのよ、パパからの言づけなの、そこはねえ、みんな他人なんですのよ、だってまだ見ない親類なんて、他人より困るわねえ、本当はかえりたくないのよ。」 「そうね、こっちにいられるといいのにね。」 「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし‥‥」  夜、ベニと貧しい別宴を張った。 「忘れないわ、二’三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。 「桜’でも見に行きましょうか?」  二人は公園の中を黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて:、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛けをベニの肩にかけてやった。 「まだ寒いからこれをあげるわ。」  上野の桜、まだ初々たり。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  ちっとも気がつかない内に、私は脚気になってしまっていて、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事もこの二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。薬も買えないし、少し悲惨な気がしてくる。/店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそろえて、客を呼ぶのだそうである──。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、みちの照りかえしがぎらぎら目を-いて/頭が重い。レースだの、ボイルのハンカチだの、フランス製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、みせじゅうはしゃぼんの泡のように/白いものずくめである。薄いものずくめである。閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給80銭の私は売り子の人形だ。だが人形にしては’きたなすぎるし、腹が減りすぎる。 「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそくらい云って下さい。」  酸っぱいものを食べたあとのように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。硝子のピカピカ光っている鏡の面をちょっと覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、なんとまあおどけた厭な姿なのでしょう‥‥。顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿:、そんな野生の女が、胸にレースを波たたせた水色の事務服を着ているのです。ドミエの漫画ですよこれは‥‥。何とコッケイな、なんとちぐはぐなメンドリの姿なのでしょう。マダム・レースやミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。それに、サーヴィスが下手だとおっしゃる貴方の目が、いつ私を首きるかも判らないし:、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長い忍耐は、あまりに大きい疲れを植えて、私は目立たない人間に目立たない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそ目立つ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴方はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく戦っているべき、彼も彼女も今はどこへ’行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食いものにして、強権者になる日の事を考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新らしく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。  夜──九時。省線を降りると、道が暗いので/ハーモニカを吹きながら家へ帰った。しよりも小説よりも、こんな単純な音だけれど/音楽はいいものです。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  青山の貿易店も、今は高架線のかなたになった。二週間の労働賃銀’十一円ナリ、東京での生活線なんてよく切れたがるもんだ。隣のシンガーミシンの生徒かっこクエスチョンさんが、歯をきざむようにギイギイとひっきりなしにミシンのペタルを押している。毎日の生活断片をよくうったえる秋田の娘さんである。古里から十五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さんなり。いい人だ。彼女に紹介状をもらって、ペケペケ女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落した、おそろしく頭でっかちな三階建ての下宿屋のノキに、螢ほどの小さい字で社名が出ていた。まるで心太を流すよりもヤスヤスと女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキももはや何でもないと思った。  昼。  下宿の昼食をもらって舌つづみを打つと、女記者になって二’三時間もたたない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。四畳半に尨大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた中年の社長と、ペケペケ女性新聞発行ニンの社員が一人:、私を入れて三人のペケペケ女性新聞。チャチなものなり。また、生活線が切れるんじゃないかと思ったけれど、とにかく私は街に出てみたのだ。訪問先は秋田雨雀氏のところだった。このごろのご感想は‥‥私はこの言葉を胸にくりかえしながら、雑司ヶ谷の墓地を抜けて、キシボジンのそばで番地を探した。本郷のごみごみした所からこの辺に来ると、何故か落ちついた気がしてくる。イチニ年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあった‥‥。秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみながら出ていらした。まるで少年のようにキラキラした目、やさしそうな感じの人である。お嬢さんは千代子さんと云って、初めて-いった私を十年のお友達のように話して下すった。厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明して下さる。この役者は誰、この女優は誰、その中に別れた男のプロマイドも張ってあった。 「女優ってどんなのが好きですか、日本では‥‥」 「わたし判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」  私はいまだかつて私をこんなに優しく遇してくれた女の人を知らない。二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。部屋は実に雑然と古本屋の-かんがあった。談話取りが談話がとれなくて、油汗を流していると、秋田さんは二’三枚すらすらと私のノートへ手を入れて下すった。お寿司を戴く。来客スウニンあり。暮れたのでおくって戴く。赤い月が墓地に出ていた。火のついた街では氷を削るような音がしている。 「僕は散歩が好きですよ。」  秋田氏は楽しげにコツコツ靴を鳴らしている。 「あそこがすずらんと云うカフェーですよ。」  舞台の様なカフェーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。  私は何か書きたい興奮で、黙って江戸川のホウへ歩いて行った。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  階カの旦那さんが/二日ほど国へ行って来ますと云って、二階の私たちへ/後の事を頼みに今朝上ってみえたのに:、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を/襖の間から招いた。 「あのねちょっと!」  小声なので、私もそっといざりよると、 「随分ひどいのよ、階カの奥さんてば外の男と酒を呑んでるのよ‥‥」 「いいじゃないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」 「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を呑めるかしら‥‥」  オビを巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ’顔洗いに行くと、コシ障子の向こうに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。ただうらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋でヒトヤマ十銭のバナナを買って来て食べた。女一人は気楽だと思うなり。糊の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出して/クープリンの「ヤーマ」を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。 「ちょっと起きてますか?」  もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来た-らしい。 「ええ”まだ眠れないでいます。」 「ちょっと! 大変よ!」 「どうしたんです。」 「呑気ねッ、階カじゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へ’はいって眠っててよ。」  シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。 「ずいぶん人をなめているわね、旦那さんがかえって来たらみんな云ってやるから、私よかトウも下なくせに、ませてるわね‥‥」  ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような/変な狂態を演じようとしている。 「兄さんかも知れなくってよ。」 「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」  私は何だか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。 「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女は憤然として黙って出て行った。やがて梯子段をとんとん降りて行ったかと思うと、「私たちは貴方を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ-」と云う声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってくる。一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら‥‥。私は布団を顔へずり上げて固く瞼をとじた。何もかもいやいやだ。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) 【──ビョウキスグカエレタノム】  母’よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母’ではないもの‥‥、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りにシャへ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借りは絶対に駄目だと云う。だが私の働いた-かねは/取ろうと思えば十五円くらいはある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる-」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて悄気てしまう。これは、こんなところでみきわめをつけたほうがいいかも知れない。 「じゃ借りません! その代り辞めますから今までの報酬を戴きます。」 「自分で勝手によされるのですから、社のほうでは、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、まだ十二サンニチしかならないじゃありませんか!」  黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私はまた二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階カの細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している所だった。彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、ブカッコウな姿で、荷車の上に乗っかっていた。全てはああ空しである──。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  駅には、山や海へ’の旅行者が白い服装で涼しげだった。したの細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折ってみた。何度目の帰郷だろうと思う。 ◇。◇。◇。 【露草の茎】 【壁に乱れる】 【万里の城】 ◇。◇。◇。  今は何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の-しの1章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、いい人間に出くわすと涙を感じるし、困ったヤツなり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑い話ひとつあり──。  ─囚人曰く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」  ─宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」  囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。  ─囚人、「あれは誰のです?」  ─医師、「イエスの父なり。」  囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て──  ─囚人、「あの女は誰だね。」  ─淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」  そこで囚人’歎じて曰く、子供は監獄に/父親は病院に、お母さんは淫売婦に”ああ──。私はクツクツ笑い出してしまった。のろい閑散な夜汽車に乗って退屈していると、こんなにユカイなコントがめっかった。眠る。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが焦々してきて、私は気が小さくなってくる。どことなく老いて憔悴している母が、第一番に言った言葉は、「待っとったけん/ わしも気が小さくなってねえ‥‥。」そう云って涙ぐんでいた。今夜は海の祭で、おしょうろ流しの夜だ。夕方東の窓を指さして、母が私を呼んだ。 「可哀そうだのう、むごかのう‥‥」  窓の向こうの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯グモがむくむくしている波止場の上に、黒く突き揚った船の起重機、その起重機のさきには一匹の朝鮮牛が、四つ足をつっぱって、哀れに唸っている。 「あんなのを見ると、食べられんのう‥‥」  雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には屠殺されてしまって、紫のインを押されるはずだ。何を考えているのかしら‥‥。船着場には古綿のような牛の群れが唸っていた。  鰯グモがかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群れもいつか去ってゆき、起重機も腕を降ろしてしまった。月の仄かな海の上には、もう二ツ三ツ/おしょうろ船が流れていた。火を燃やしながら美しい紙船が、雁木を離れて沖のホウへ出ていた。ミナトには古風な伝馬船が密集している。そのあいだを火の紙船が月のように流れて行った。 「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」 「そら人間だもん‥‥」  母はぼんやりした顔でそんな事を云っている。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へ差しかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。  貧しい私たち親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど‥‥。「ねえ、お母さん! 私たちの東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど‥‥だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び/旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当てもなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海沿いの遊女屋の行燈が、椿のように白く点々と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった/海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。  尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返し、何度も水をくぐった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道に入り、肥料臭い匂いがしている。 ◇。◇。◇。  船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、/町の明かりを見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭ダマひとツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた。落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞こえた。「因の島行きが出やんすで‥‥。」歪んだ梯子段を上がって客引が知らせに来ると、ヒにやけた縞のはいった蝙蝠と、小さい風呂敷ヅツみをさげて、私は波止場へ降りて行った。 「ラムネいりやせんか!」 「玉子-こうてつかアしゃア。」  物売りの声が、夕方の波止場の上を往ったり来たりしている。紫色の波にゆれて/因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の明かりの下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日ほど、糸崎へ行って来る云うてであった‥‥。」と嘘をついて/母が、侘しげにほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。 ◇。◇。◇。  夜。 「皆さん、はぶい着きやんしたで!」  船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、ヤスヤスと息をしているのだ。造船所で働いているのだ。 「この辺に安宿はありませんでしょうか。」  運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷ヅツみをおくと、私は雨戸を開けて/海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂に-いれると、ラムネ一本のスキバラのまま/潮臭い布団に長く足を延ばした。耳の奥のほうで、蜂の様なブンブンと云う喚声があがっている。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  枕元をごそごそと水色の蟹が這っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。 「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅のホウへ’おいでんさったほうが‥‥。」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛んでいた。社員達は全部書類を持ってクラブへ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を/山の上から見降ろしていると:、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻のような職工の群れが唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。8月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺れた樹の色は、爽やかな匂いをしていた。 「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」  髪を後ろになびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。 「しっかりやれッ-」 「負けなはんな!」 「オーイ‥‥。」真っピルマの、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、「しっかりやってつかアしゃア。」 「ご亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」  私は訳もなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている:、ここから見ていると、あんな門くらいはすぐ崩れてしまうように脆く見えているのに‥‥。 「職工は正直でがんすけん、みんな体でぶっつかって行きゃんさアね。」  とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して’行っている。 ◇。◇。◇。 【潮鳴りの音を聞いたか!】 【茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!】 ◇。◇。◇。 【煤けたランプの明かりを女房達に託して】 【島の職工達は磯の小石を蹴散らし】 【夕焼けた浜辺へ集まった。】 ◇。◇。◇。 【遠い潮鳴りの音を聞いたか!】 【何千と群れた人間の声を聞いたか!】 【ここはウチウミの静かな造船港だ】 【貝の蓋を閉じてしまったような】 【因の島の細い町並に】 【油で汚れたズボンや/菜っぱ服の旗がひるがえっている】 【骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音】 【そのオトはワアン、ワアンと】 【島いっぱいに吠えていた。】 ◇。◇。◇。 【青いペンキ塗りの通用門が/勢いよく群れた肩に押されると】 【敏活なカメレオン達は】 【職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて】 【雪ヨの狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう】 【表情の歪んだ固い職工達の顔から】 【怒りの涙がほとばしって】 【プチプチ-おとをたてているではないか】 【逃げたランチは】 【トアミのように拡がった巡警の船に横切られてしまうと】 【さてもこの小さな島の群れた職工達と/逃げたランチの間は】 【ただ一筋の白いミズケムリに消されてしまう。】 ◇。◇。◇。 【歯を噛み/ヒタイを地にすりつけても】 【空は──昨日も今日も変わりのない平凡な雲の流れだ】 【そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は】 【波に呼びかけ海に吠え】 【ドックの破船の中に渦をまいて雪崩れていった。】 ◇。◇。◇。 【潮鳴りの音を聞いたか!】 【遠い波の叫喚を聞いたか!】 【旗を振れッ/】 【うんと空高く旗を振れッ】 ◇。◇。◇。 【元気な若者達が】 【光った肌をさらして】 【カララ◇ カララ◇ カララ】 【破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると】 【海水止の堰を喰い破って】 【帆船は風の唸る海へ出て行った】 ◇。◇。◇。 【それ旗を振れッ】 【勇ましく歌を唄えッ】 【朽ちては’いるが元気に風を孕んだ帆船は】 【白いしぶきを蹴って海へ出てゆく】 ◇。◇。◇。 【寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる】 【波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!】 【可哀想な女房や子供達が】 【あんなにも背伸びをして】 【空高く呼んでいるではないか!】 ◇。◇。◇。 【遠い潮鳴りの音を聞いたか!】 【波の怒号するのを聞いたか】 【山の上の枯木の下に】 【枯木と一緒に諸手を振っている女房子供の目の底には】 【火の粉のように海を走って行く】 【勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。】 ◇。◇。◇。  宿へ帰ったら、青ざめた男の顔が、ぼんやり煙草を吸って待っていた。 「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」 「‥‥‥‥」  私は子供のように涙が溢れた。なんの涙でもない。しらじらとした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、黙ってしきいの所に立って/長いこと泣いていた。 「ここへ来るまでは、縋れたら縋ってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりと縋らなくてはいけないと思いました。」  黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。 「今晩’町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、ちょっと覗いてみなくては‥‥。」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計を/そっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると/目が廻りそうだった。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。 「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったいなんだろうと思う。──尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹を打ちつけては、あの人の子供を産む事をおそれていたけれど、今はそれもいじらしいお伽話になってしまった。昨日の電報ガワセで義父や母が一息ついてくれればいいと思うなり。浜辺を洗髪をなびかせながら歩いていると、/町で下駄屋をしているあの人の兄さんが、私をオーイオーイと後から呼びかけて来た。久し振りに見る兄さん、尾道の私の家に、枝になった蜜柑や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのままで笑いかけている。 「儂に、何も言わんもんじゃけん、苦労させやした。」  海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、タが青々していて/蜜柑山がウッソウと風’に鳴っていた。 「あいつが気が弱いもんじゃけん。」  ヒにやけた侘しげな顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では嫂さんが、米をついていた。牛が一匹/優しい眼をして私を見ている。私は、どうしてもはいりたくなかったのだ。何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなっている。白い道のつづいている浜路を、私は’あとしざりをするように、宿へ帰って行った。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ’帰ろう。私の財布は五’六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金と/デベラの青籠と、風呂敷ヅツみをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。 「気をつけてのう‥‥」 「ええ! 兄さん、もうストライキは’すんだんですか。」 「職工のほうが折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」  あの人も寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、またいつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。/船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。 ◇。◇。◇。  ああ何だか馬鹿’になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売を探して歩かないように、この暮れは楽に暮らしたいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に/藻がもつれた糸のようにからまって来る。 「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ──」 「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」  船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向こうの島を眺めていた。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【──その夜】 【カフェーのテーブルの上に】 【盛花のような顔が泣いた】 【なんのその】 【樹の上にカラスが鳴こうとて】 ◇。◇。◇。 【──夜は辛い】 【両手に盛られた】 【わたしの顔は】 【みどり色の白粉に疲れ】 【十二時の針をひっぱっていた。】 ◇。◇。◇。  横浜に来て五日あまりになる。カフェー・エトランゼの黒いテーブルの上に、私はこんな-しを書いてみた。「俺くらいだよ、お前と一緒にいるのは‥‥誰がお前のような荒んでボロボロに崩れるような女を愛すものか。」  あの東京の下宿で、男は私に思い知れ、思い知れと云うふうな事を云うのです。泊るところも、たよる男も、御飯を食べるところもないとしたら、‥‥私は小さな風呂敷ヅツみをこしらえながら、どこにも行き場のない気持ちであった。そう云って別れてしまった男なのに、「お前が便利なように云ってやったんだよ、俺から離れいいようにね。」男は私を抱き伏せると、お前も俺と同じような病気にしてやるのだ。そう云って、肺の息をふうふう私の顔に吐きかけてくる。あの夜以来、私は男の下宿代をかせぐために、こんなところへまで流れて来たのです。 「国へかえってみましょう、少し位は出来るかも知れませんから‥‥」  こんなことをして-かねをこしらえる事を/私は貞女だとでも思っているのでしょうか神様/ 「もう店をしまって下さい。」  マダム・ロアの鼻の頭が油で光っている。ここは十二時にはカンバンにするのであるらしい。桃割れに結ったおキクさんと、お君さんと私、バラックの女給部屋には、重い潮風が窓から吹きこんでくる。 「ね、東京にかえりたくなったわ。」  お君さんは子供の事を思い出したのか、手拭いで顔をふきながら、大きい束髪に風を入れていた。──ここのマダム・ロアは、ドイツ人で、ご亭主は東京にドイツビールのオフィスを持っている人だった。いつも土曜日には帰って来るのだそうである。一度チラとやせた背の高い姿を見たきり。マダム・ロアは、古風なスカートのように肥って黙った女だった。私はお君さんのご亭主の紹介で来たものの、ここはあまり収入もないのだ。コックも日本人なので、外人客は料理は食べないで、いつもビールばかり呑んで行った。 「私、あんたんとこ-の人に紹介されて来たので、本当は東京へ帰りたいんだけれど、遠慮をしていたのよ。」 「浜へ行ったら-かねになるなんて云って、結局はあの女と一緒になりたかったからでしょうよ。」  お君さんのご亭主は、お君さんと親子ほども年が違っているのに妾を持っていた。 「実際、私たちは男のために苦労して生きてるようなものなのね。」  お君さんは波止場の青い明かりを見ながら、着物も脱がないでぼんやり部屋に立っている。私はフッと、去年のいまごろ、寒い日にお君さんと、この浜へ来た事を思い出した。あれから半年あまり、もうお君さんとは会えないと思いながら、どっちからともなく尋ねあって行き来している事を思うと、ほほ笑ましくなって来る。──13の時に子供を産んだと云うお君さんは、「私はまだ本当の恋なんてした事がないのよ。」と云うなり。今は二十二で、九つの子供のあるお君さんは、子供が恋人だとも言っていた。ふしあわせな’お君さんである。養母の男であったのが、今のご亭主になって”十年もお君さんはその男のために働いて来たのだと云う。十年も働きあげたと思うと、カフェーの女給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐって、彼女に/妾に/養母さんと云った不思議な生活だった。彼女は、「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供のために働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、彼女から言えばコッケイな話かも知れない。 ◇。◇。◇。 「電気を消して下さい!」  ドイツ人はしまり屋だと云うけれど、マダム・ロアが水色の夜の着物を着て/私たちの部屋を覗きにくるのだ。電気の消えたせまい部屋の中で、私はまるでお伽話のような蛙の声を聞いた。東京の生活の事、お母さんの事、これからさきの事、なかなか眠れない。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  九つになるお君さんの上の子供が/一人でお君さんをたずねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしっきりなしに店の前を走って行く。  朝。  マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をしていた。「お菊さんに店をたのんでちょっと波止場へ行ってみない? 子供に見せたいのよ。」冷たいスープを呑んでいる私の傍で、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げをたくし上げては縫ってやっていた。 「お君さんの弟かい!」  船乗りあがりの年をとったコックが、煙草を吸いながら、子供をみていた。 「ええ/私の子供なのよ‥‥」 「ホー、いくつだい? よく一人で来られたね。」 「‥‥‥‥」  歯の白い少年は、黙って侘しげに笑っていた。私たち三人は手をつなぎあって波止場の山下公園のホウへ行ってみる。赤い吃水線の見える船が、沖にいくつも碇泊していた。インド人が二人、ぼんやり沖を見ている。蒼い4月の海は、西瓜のような青い粉をふいて光っていた。 「ホラ/ お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行くんだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」  お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子供はかすんだような嬉しい眼をして/海を見ている。桟橋から下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っぱられそうだった。波止場には煙草屋だの、両替店、待合所、なんかが並んでいる。 「母さん、僕、水のみたい。」  ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道のホウへ走って行くと、お君さんは袂からハンカチを出して子供のそばへ歩いて行く。 「さあ、これでお顔をおふきなさい。」  ああ何と云う美しい風景だろう、その美しい母子風景が、思い思いな苦しみに打ちのめされては/きりっと立ちあがっては前進してゆくのだ。少年が母をたずねて、この浜辺までひとりで辿って来た情熱を考えると、泣き出したいだろう-お君さんの気持ちが胸に響くなり。 「あの子と一緒に間借りでもしようかとも思うのよ:、でも折角、父親がいて離すのもいけないと思って我慢はしてるのだけれど、私、ハタラキジニをしに生まれて来たようで、厭になる時があるわよ。」 「ね、小母さん! ホテルって何?」  フッと見ると波止場のそばの橋の横に、いつか見たホテルと云う白い文字が見えた。 「旅をする人が泊るところよ。」 「そう‥‥」 「ね、坊や! みんなうちにまだいるの?」 「うん、お父さんちにいるよ、お婆ちゃんも、小母ちゃんも銀座のほうにこのごろ-かよって、とても夜おそいの、だから僕だの父ちゃんが、かわりばんこに駅へむかいに行くんだよ‥‥」  お君さんは怒ったように黙って海のほうを見ていた。 ◇。◇。◇。  昼は伊勢佐木町に出て、三人で支那蕎麦を食べた。 「ね、あんた、私、写真を取りたいのよ、一緒に写ってくれない。」 「私もそう思ってたの、いつまた離ればなれになるかも判らないんですもの、丁度いいわ、坊やも一緒に取りましょう。」  支那の軍人の制服のような感じの電車に乗って、浜近い写真館に行った。 「三人で取ると、誰かが死ぬんだって、だから犬ころでもいいから借りましょうよ。」  お君さんが、ブカッコウな張り子の犬をひざに-だいて、坊やと私とが立っている姿を撮ってもらう。バックは、波止場の桟橋、林立した古風な帆柱が見えます。 「坊や! 今日は母ちゃん’とこへ寝んねしていらっしゃいね。」 「一緒に帰るの‥‥」 ◇。◇。◇。  お君さんは淋しそうに、一人でスヴニールのレコードをかけていた。マダム・ロアは今日は東京へ外出していない。椅子を二つ並べてコックはぐうぐう眠っている。もらいイチエンたらず、私も坊や達と東京へ’帰ろうと思う。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ) 「こんな旅が一生続いたらユカイよ。」  エトランゼの裏口から、一ツずつ大きい荷物を持った私たち二人の女を、マダム・ロアは気の毒そうにみて、一週間余りしかいない私たちへ/給料を十円ずつ封筒へ入れてくれた。 「また来て下さい、夏はいいんですよ。」  お君さんと違ってイエのない私は、またここへ逆もどりしたいなつかしい気持ちで、マダム・ロアを振り返った。黙った女ってしっかりしているものだ。背広を着た彼女が、二階から私たちを何時までも見送ってくれていた。 「よかったらうちへ’いらっしゃいよ。雑居だけどいいじゃないの‥‥そしてゆっくり探せば。」  駅でバナナをむきながら、お君さんがこう言ってくれた。東京へ行ったところで、ひねくれたあの男は、私をまた殴ったり叩いたりするのかも知れない。いっそお君さんの家にでもやっかいになりましょう。サンドウイッチを買って汽車に乗った。汽車の中には桜のマークをつけたお上りさんの人達がいっぱいあふれていた。 「桜どきはこれだから厭ね‥‥」  一つの腰掛けをやっとみつけると、三人で腰を掛ける。 「子供との汽車の旅なんて何年にもない事だわ。」 ◇。◇。◇。  夕方、お君さんの板橋の家へ着いた。 「随分、一人でやるのは心配したけれど、一人で行きたいって云うから、あたしがやったんだよ。」  髪を蓬々させた’お婆さんが寝転んで煙草を吸っていた。 「この間は失礼しました、今日は何だか一緒にかえりたくなって/ついて来ましたのよ。」  長屋だてのギシギシした板の間をふんで、お君さんのご亭主が出て来た。 「こんなところでよければ、いつまででもいらっしゃい。またそのうちいいところがありますよ。」と云ってくれる。  部屋の中には、若い女の着物が脱ぎ散らかしてあった。 ◇。◇。◇。  夜更け。フッと目が覚めると、 「子供なんかを駅へむかいにやる必要はないじゃありませんか、貴方が行っていらっしゃい、貴方が厭だったら私が行って来ます。」  お君さんの甲走った声がしている。やがて、土間をあける音がして、ご亭主が駅へ妾さんをむかいに出て行った。 「オイお君! お前もいいかげん馬鹿だよ、なめられてやがって‥‥」  向こうのはじに寝ていた’お婆さんが口ぎたなくお君さんをののしっている。ああ何と云う事だろう、何と云う家族なのだろうと思う。硝子窓の向こうには春の夜霧が流れていた。一緒に眠っている人達の、思い思いの苦しみが、夜更けの部屋に満ちていて、私はたった一人の部屋がほしくなっていた。 ◇。◇。◇。 (4月ペケニチ)  雨。終日坊やと遊ぶ。妾はお久さんと云って頬骨の高い女だった。お君さんのほうがずっと柔かくて美しいひとだのに、縁と云うものは不思議なものだと思う。男ってどうしてこんななのだろう‥‥。 「フン/そんなに浜は不景気かね。」  肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすいていた。 「何だよお前さんのその言いかたは‥‥」  お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒っていた。雨が降っている。うっとうしい4月の雨だ。路地のなかの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。  神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とのんびり話をしていた。 「今はちょうど何でも美味しい頃なのね。」と云っている。  雨の中を、夕方、お久さんとご亭主とが街へ仕事に出て行った。婆さんと、子供とお君さんと私と4人でテーブルを囲んで御飯をたべる。 「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行ったし。」  お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを云った。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっていて古い女達は-みんないなくなってしまっていた。新しい女が随分ふえていて、お上さんは病気で二階に臥せっていた。──また明日から私は新宿で働くのだ。まるで蓮沼に落ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私なり、牛込の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封してあった。養父の代筆で、──あれが肺病だって言って来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわからない:、お母さんはとても心配して、このごろは金光様をしんじんしている、一度かえって来てはどうか、いろいろ話もある。──まあ! 何と云う事だろう、そんなにまでしなくても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は自分が病気だからって云ってやったのかしら‥:‥よけいなおせっかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女のかたがいらっしてお泊りになるんですよ。」と云っている。ブドウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急にくらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と云うことだろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思う。街を吹く5月のすがすがしい風は、秋のように身にしみるなり。 ◇。◇。◇。  夜。  ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  六時に起きた。  昨夜の無銭飲食のヤツのことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと:、汚い鋪道の上に、散らしの黄や赤が、露にベトベト濡れてヒに光っていた。四谷までバスに乗る。窓硝子の紫の鹿の子を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて‥‥どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子の黒襟を掛けたりしているのですが、私だって、貴方みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴方と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。チカメではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴方の姿がうらやましくて仕方がない。──神宮外苑のホウへ行く道の、ちょっと高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃がかぶさったまま/露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと:、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男:、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭な気持ちだった。ここまで取りに-こなければ十円近くの-かねは、私が帳場に立て替えなければならないし:、転んでもただでは起きないカフェーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ-かねに引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。/店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。 「代書へ行って届書をかいて来い、アーン-」  あぶくどもメ/ 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。  代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、かねを払うだんになると、二枚’並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけて軽蔑をしてやりたくなった。  帰って帳場に-かねを渡して二階へ上がると、皆は起きて布団をたたんでいる所だった。掃除をすっぽかして横になる。5月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように/石のように/私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一つ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。 ◇。◇。◇。 【陸の果てには海がある。】 【白帆がゆくよ。】 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと、/店の自転車を借りて、遊廓の前の広い道へ出て行った。朝の陽をいっぱい浴びて、並んだジョロ屋の二階のてすりには、布団の行列:、したの写真棚には、お葬式のビラのような初店の女の名前を書いた白い’紙がびらびら風に吹かれていた。朝帰りの男の姿が、まるで雨の日のこうもりがさのようだと、時ちゃんは冷笑しながら、勇ましく大通りで自転車を乗りまわしている。桃割れにゆった女が自転車でクルワの道を流しているので、男も女も立ち止まっては見て行くなり。 「さあ、ゆみちゃんお乗りよ、後ろから押してやるから。」  馬鹿げた朗かさで、ドン・キホーテの真似をする事も面白い。ニサン回乗っているうちにペタルが足について来て、するするとハンドルでかじが取れるようになった。 ◇。◇。◇。 【キング・オブを10杯呑ませてくれたら】 【私は貴方に接吻を一ツ投げましょう】 【おお/哀れな給仕女よ】 ◇。◇。◇。 【青い窓の外は雨の切子硝子】 【ランタンの明かりの下で】 【みんな’酒になってしまった】 ◇。◇。◇。 【革命とは北方に吹く風’か!】 【酒はぶちまけてしまったんです。】 【テーブルの酒の上に真っ赤な口を開いて】 【火を吐いたのです】 ◇。◇。◇。 【青いエプロンで舞いましょうか】 【金婚式、それともキャラバン】 【今晩の舞踏曲は‥‥】 ◇。◇。◇。 【さあまだあと3杯もある】 【しっかりしているかって】 【ええ大丈夫よ】 【私はお利口な人なのに】 【本当にお利口なひとなのに】 【私は私の気持ちを】 【つまらない豚のような男達へ】 【惜しげもなく切り花のように】 【ふりまいているんです】 【ああ革命とは北方に吹く風’か──】 ◇。◇。◇。  さてさてあぶない生胆取り、ああ何もかも差しあげてしまいますから、二日でも三日でも誰か私をゆっくり眠らせて下さい。私の体から、何でも持って行って下さい。私は泥のように眠りたい。石鹸のようにとけてなくなってしまって、下水の水に、酒もビールも、ジンもウイスキーも、私の胃袋はマッチの代用です。さあ、私の体が入り用だったらタダで差し上げましょう。なまじっかタダでプレゼントしたほうがあとくされがなくてせいせいするでしょう。酔っぱらって椅子と一緒に転んだ私を、時ちゃんは馬のように引きおこしてくれた。そうして耳に口をつけて言った事は、 「新聞を上からかぶせとくから、少しつっぷして-ねむんなさい、酔っぱらって仕様がないじゃないの‥‥」  私の布団は新聞でたくさんなのですよ、私は蛆虫のような女ですからね、酔いだってさめてしまえばもとのもくあみ、一日がずるずると手から抜けて行くのですもの:、早く私の革命でもおこさなくちゃなりません。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  太宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。雨の中を、お由さんと時ちゃんと三人で行った。/古風な寺の廊下に、紅紫とりどりの疲れた女達が、背景と二重写しみたいに、そぐわないモダンさで群れている。ちょっとした屏風がたててあるのだけれども、お閻魔様も映画の赤い旗もみんなまる見えだ。上半身を晒して、店晒しのお役人の前に、私たちは口をあけたり胸を押されたりしている。匂いまで女給になりきってしまった私は、いまさら自分を振りかえって見返してみようにも/みんな遠くに飛んでしまっている。お由さんは肺が悪いので、診てもらうのを厭がっていた。時ちゃんを待ちながら、寺の庭を見ていると/ねむの花が桃色に咲いて、旅の田舎の思い出がふっと浮んできた。  夜、鼠花火を買って来て燃やす。  チップイチエン二十銭なり。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  昼、浴衣を一反’買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人とも黙って笑ってしまう。あの人は鰻がたべたいと云う。二人でうな丼を食べに入る。何か心楽し。浴衣の-かねをみんな持たせてやる。病人はいとしや。──母’より小包み来る。私が鼻が悪いと云ってやったので、ガラガラに乾してある煎じ薬と/足袋と/絞り木綿の腰巻を送って来た。カフェーに勤めているなんて云ってやろうものなら、どんなにか案じるお母さん、私は大きいおウチの帳場をしていると嘘の手紙を書いて出した。 ◇。◇。◇。  夜。  お君さんが私のところへたずねて来た。これから質屋に行くのだと云って大きい風呂敷ヅツみを持っていた。 「こんな遠いところの質屋まで来るの?」 「前からのところなのよ。板橋の近所って、とても貸さないのよ‥‥」  相変らず一人で苦労をしているらしいお君さんに同情するなり。 「ね、よかったらお蕎麦でも食べて行かない、おごるわよ。」 「ううん/いいのよ、ちょっと人が待っているから、またね。」 「じゃあ質屋まで一緒に行く、いいでしょう。」  その後銀座のほうに働いていたと云うお君さんには若い学生の恋人が出来ていた。 「私はいよいよ決心したのよ、今晩これからちょっと遠くへ都落ちするつもりで、実は貴方の顔を見に来たの。」  こんなにも純情なお君さんがうらやましくて仕方がない。何もかも振り捨てて私は生れて始めて恋らしい恋をしたのだわ。ともお君さんは云うなり。 「子供も捨てて行くの?」 「それが一番身に-こたえるんだけれども、もうそんな事を言ってはおられなくなってしまったのよ。子供の事を思うと空恐ろしくなるけれど、私とても、とても勝てなくなってしまったの。」  お君さんの新しい男の人は、あんまり豊かでもなさそうだったけれど、若者の持つりりしい強さが、辺りを-あっしていた。 「貴方も早く女給なんておよしなさい、ろくな仕事じゃアありませんよ。」  私は笑っていた。お君さんのように何もかも捨てさる情熱があったならば、こんなに一人で苦しみはしないとおもう。お君さんのお養母さんと、ご亭主とじゃ、私のお母さんの美しさは比較になりません。どんなに私の思想のいれられない革命が来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。貴方達は貴方達の道を-いって下さい。私はありったけの財布をはたいて、この勇ましく都落ちする二人に祝ってあげたい。私のゼッタイのものが母’であるように、お君さんの唯一の坊やを、私は蔭で見てやってもいいと思えた。  街では星をいっぱい浴びて、ラジオがセレナーデを唄っている。  私の袂には、エプロンがまるまってはいっている。  夜の曲。都会の夜の曲。メカニズム化したセレナーデよ、あんなに美しい唄を、ラジオは活字のように街の空で唸っている。騒音化した夜の曲。人間がキカイに食われる時代、私は煙草屋のウインドウの前で/白と赤のマントを拡げたマドリガルと云う煙草が買いたかったのだ。すばらしい享楽、すばらしいデキスイ、マドリガルの甘いエクスタシイ、嘘でも言わなければこの世の中は馬鹿らしくって歩けないじゃありませんか──。さあ、みんなみんな、私は何でもかでもほしいんですよ。 ◇。◇。◇。  時ちゃんは文学書生とけんかをしていた。 「なんだいドテカボチャ、ひやけの茄子/ もう五十銭たしゃ/横丁へ行けるじゃあないか!」  酔っぱらった文学書生がキスを盗んだというので、時ちゃんが、ソーダ水でじゅうじゅう口をすすぎながら呶鳴っていた。お上さんは病気で二階に寝ている。いつも女給達の生血を絞っているからろくな事がないのよ。しょっちゅう病気してるじゃないの‥‥こう言ってお由さんはお上さんの病気をキミよがっていた。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  お上さんはいよいよ入院してしまった。出前持ちのカンちゃんが病院へ行って帰ってこないので、時ちゃんが自転車で出前を持って行く。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出る程おかしかった。とにかく、この女は自分の美しさをよく知っているからとても面白い。──夕方’風呂から帰って着物をきかえていると、素硝子の一番てっぺんに星が一つチカチカ光っていた。ああ久しく私は夜明けと云うものを見ないけれど、田舎の朝空がみたいものだ。表に盛塩してレコードをかけていると、風呂から女達が順々に帰って来る。 「もうそろそろ自称飛行家が来る頃じゃないの‥‥」  この自称飛行家は奇妙な事に支那そば一杯と、ラオチューいっぱいでシゴ時間も駄法螺を吹いて/イチエンのチップをおいて帰って行く。別に御執心の女もなさそうだ。  三番目。  私の番に五人連れのトルコ人がはいって来た。ビールを一ダース持ってこさせると、順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな呑みぶりである。白い風呂敷ヅツみの中から、まるでトランクのように大きい風琴を出すと、風琴の紐を肩にかけて鳴らし出す。秋の山の風でも聞いているような、風琴の音色、みんな珍らしがってみていた。ボクノヨブコエワスレタカ。なんだと思ったらかごの鳥の唄だった。帽子の下に、もう一つトルコ帽をかぶって、なかなか意気な姿だった。 「ニカイ◇ アガリマショウ。」  若いトルコ人が私をひざに-だくと、二階をさかんに指差している。 「ニカイノ◇ アルトコロ/コノヨコチョウデス。」 「ヨコチョウ? ワカラナイ。」  私たちを淫売婦とでもまちがえているらしい。 「ワタシタチ◇ トケイヤ。」  若いのが遠い国で写したのか、珍らしい樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれるなり。 「ニカイ◇ アガリマショウ、ワタシ◇ アヤシクナイ。」 「ニカイアリマセン。ミンナ◇ カヨイデス。」 「ニカイ◇ アリマセン?」  またビール一ダースの追加、一人がコールドビーフを註文すると、お由さんが気に入っていたのか、何かしきりに皿を指さしている。 「困ったわ、わたし英語なんか知らないんですもの、ゆみちゃん何を言ってんのか聞いてみてよ‥‥」 「あの、飛行機’屋さんにおききなさいよ、知ってるかも知れないわ。」 「冗談じゃない、発音がちがうから判らないよ。」 「あら飛行機’屋さんにも判らないの、困っちゃうわね。」 「ソースじゃなさそうね。」  何だか辛子のようにも思えるんだけれど、生憎、からしかと訊く事を知らない私は、 「エロウ・パウダ?」  顔から火の出る思いで聞いてみた。 「オオエス/ エス-」  辛子をキュウキュウこねて持って行くと、みんな手の指を鳴らして喜んでいた。  自称飛行家はコソコソ帰っていった。 「トルコの天子さん-なんて言うの?」  時ちゃんが、エロウ・パウダ氏にもたれて聞いている。 「テンシサンなんて判るもんですか。」 「そう、私はこの人すきだけど通じなきゃ仕方がないわ。」  酒がまわったのか、風琴は遠い郷愁を鳴らしている。ニカイ◇ アガリマショウの男は、盛んに私にウインクしていた。日本人とよく似た人種だと思う、トルコってどんなところだろう。私は笑いながら聞いた。 「アンタの名前、ケマルパシャ?」  五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首を振っていた。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんなところへ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなって/お母さん達が幸福になるような-かねがほしいのだ。なまじっか頑丈な血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに-かねがほしいのだ! 【 富士山──暴風雨】  停車場の待合所の白い’紙に、いま富士山は大荒れだと書いてある。フン/ あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷ヅツみ一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。辺りはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべてシュウフウバンリ、信じられないものばかりが濁流のように氾濫している。爪の垢ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当てもなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると/瞼が熱くふくらが-って来た。便所臭い三等車の隅っこに、イチョウがえしの鬢をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。 ◇。◇。◇。 【古里の厩は遠く去った】 【花がみんなひらいたツキヨ】 【港まで走りつづけた私であった】 ◇。◇。◇。 【朧な月の光りと赤い放浪記よ】 【首にぐるぐる白い首巻きをまいて】 【汽船を恋した私だった。】 ◇。◇。◇。  一切合切が、いつも風呂敷ヅツみ一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷ヅツみから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、しや日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺れている私です。  汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が4人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。 「姐御はこっちに腰掛けたら‥‥」  同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷に/疲れた浴衣である。もう三十ニサンにはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何かアダめいた匂いがして/窶れた河合武雄と/云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向こう横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛んでいた。 「ああとてもひでえ目にあったぜ。」  目玉のグリグリした小さいほうが、ひとわたり周囲をみまわして大きいほうにつぶやくと、汽車は逆もどりしながら、ヨコカワの駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行らしいのだ。向こうの男と女は、ときどき思い出したようにボソボソ話しあっていた。「アレ/ なんだね、俺あキミがわるいでッ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を追うと、芸人達の持ちものである網棚のバスケットから、黒ずんだ/赤い血のようなものがボトボトしたたりこぼれていた。 「血’じゃねえかね!」 「旅のお方/ お前さんのバスケットじゃねえかね。」  背中あわせの、芸人の男女に、田舎女の亭主らしいのが、大きい声で呶鳴ると、ボンヤリと当てもなく窓を見ていた男と女は、あたふたと、恐れ入りながら、バスケットを降ろして蓋をあけている。──ここにもこれだけの生活がある。私はホオの上に何か血の気の去るのを感じる思いだった。そのバスケットの中には、ふちのかけた茶碗や、朱のはげた鏡や、白粉や櫛や、ソースびんが雑然と入れてあった。 「ソースの栓が抜けたんですわ‥‥」  女はそう独り言を言いながら、自分の白い手の甲にみみずのように流れているソースの滴をなめた。その侘しげなバスケット物語が、トヤについたこの人達の幾日かの生活をものがたっている。女の人はバスケットを棚へ上げると、あとはまた汽車の轟々たる音である。私の前の弟子らしい男達は、眠ったような顔をしていた。 「ああ俺アつまらねえ、東京へ帰って、いまさんの座にでもヘエリていや、いつまでこうしてたって、寒くなるんだしなア‥‥」  弟子たちのこの話が耳にはいったのか、紺縮みの男は、キラリと眼をそらすと、 「オイ/ たんちゃん、ヨコカワへついたら、電報一ツたのんだぜ。」  と、云った。四人とも白けている。夫婦でもなさそうな二人のものの言いぶりに、私はこの男と女が妙に胸に残っていた。  夜。  直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、のきの出っぱった煤けた街が見えている。嵐モヨイのシ-ュウシュウとした潮風が強く吹いていて、あんなにあこがれて来た私の港の夢はこっぱみじんに叩きこわされてしまった。こんなところも各自の生活で忙がしそうだ。仕方がないので私は駅の前の旅館へひきかえす。硝子戸に、いかやと書いてあった。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  階カの廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群れがさわいでいた。  洗面所で顔を洗っていると、 「俺あ鰯をもういっぺん食べてえなア。」  山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長いキバシがあった。海だろうか、川なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を塵芥に混じって鳩の死んだのが”まるで’雲をちぎったように流れていっていた。旅空で鳩の流れて行くのを見ている私。ああ何もこの世の中からもとめるもののなくなってしまったいまの私は、別に私のために心を痛めてくれるひともないのだと思うと、私はフッと鳩のように死ぬる事を考えているのだ。何か非常に明るいものを感じる。キバシの上は荷車や人の足音でやかましく鳴っている。静かに流れて行く鳩の死んだのを見ていると、幸福だとか、不幸だとか、もう、あんなになってしまえばクウのクウだ。なにもなくなってしまうのだと思った。だけど、鳥のように美しい姿だといいんだが、あさましい死体を晒す事を考えると侘しくなってくる。駅のそばで団子を買った。 「この団子の名前は何と言うんですか?」 「ヘエ/継続だんごです。」 「継続だんご‥‥団子が続いているからですか?」  海辺の人が、なんて厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて‥‥。駅の歪んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が/馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。田舎’だって山奥だって私の生きてゆける生活はあるはずだ。私のガラスのような感傷は、もろくこわれやすい。田舎だの、山奥だの、そんなものはお伽噺の世界だろう。煤けた駅のベンチで考えた事は、やっぱり東京へ’帰る事であった。私が死んでしまえば、誰よりもお母さんが困るのだもの‥‥。  低迷していた雲が切れると、灰をかぶるような激しい雨が降ってきた。汐くさい旅客と肩をあわせながら、こんなところまで来た私の昨日の感傷をケイベツしてやりたくなった。昨夜の旅館の男衆がこっちを見ている。イチョウがえしに結っているから、酌婦かなんかとでも思っているのかも知れない。私も笑ってやる。  長い夜汽車に乗った。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  またカフェーに逆もどり。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃにひとがこいしい‥‥。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけて踏みたくって下さい。乞食’と隣りあわせのような私だ。家もなければ古里も、そしてたった一人のお母さんをいつも泣かせている私である。誰やらが何とか云いましたって‥‥、酒を飲むと鳥が群れて飛んで来ます。樹がざわざわ鳴っているような不安で落ちつけない私の心、ヘエ/ 淋しいから床を蹴って、心臓が唄います事に、よりどころなきうすなさけ、ても味気ないお芙美さん‥‥。誰かが、めちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んで行きました。声をたてて泣いている私の声、そっと眼を挙げると、女達の白い手が私の肩に鳥のように並んでいました。 「飲みすぎたのね、この人は感情家だから。」  サガレンのお由さんが私のことを誰かに言っている。私は血の上るようなみっともなさを感じると、シャンと首をもたげて/鏡を見に立って行った。私の顔が二重に写っている鏡の底に、私を睨んでいる男の大きい目、私は旅から生きてかえった事がうれしくなっている。こんな甘いものだらけの世の中に、自分だけが真実らしく死んで見せる事は愚かな至りに御座候だ。継続だんごか! 芝居じみた眼をして、心ありげに睨んでいる男の顔の前で、私はおばけの真似でもしてみせてやりたいと思う。‥‥どんな真実そうな顔をしていたって、酒場の男の感傷は生ビールよりはかないのですからね、私がたくさん酒を呑んだって帳場では喜んでいる、蛆虫メ/ 「酔っぱらったからお先に寝さしてもらいます。」  芙美子は強し。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  秋風が吹く頃になりました。わたしはアイーダーを唄っています。 「ね! ゆみちゃん、私は、どうも赤ん坊が出来た-らしいのよ、厭になっちまうわ‥‥」  黙って本を読んでいる私へ、みっちゃんが小さい声でこんな事を云った。誰もいないサロンの壁に、薔薇の黄いろい花がよくにおっていた。 「いく月ぐらいなの?」 「さあ、ミツキぐらいだとおもうけど‥‥」 「どうしたのよ‥‥」 「いま私んとこ子供なんか出来ると困るのよ‥‥」  二人はだまってしまった。おでんを食べに行った女達がぞろぞろかえって来る。  私のいやな男がまたやって来る。えてして芝居もどきな恰好で、女を何とかしようと云うものに、ろくなのはいない。こんなお上品な男の前では、大口をあけて、何かむしゃむしゃ食べているに限ります。私はウデ玉子をテーブルのカドで割りながら、お由さんと食べる。 「おゆみさん/いらっしゃいよ。」  酔いどれ女の芸当がまた見たいんですか、私は表に出てゆくと、街を吹く秋の風を力いっぱい吸った。エプロンをはずして、私もこの人混の中にはいってみたいと思った。露店が雨のように並んでいる。 「ちょっとおたずねしますが、お宅は女給さん要らないでしょうか?」  昔のスカートのように、いっぱいふくらんだ信玄ブクロを持った大きい女が、人混から押されて私の前に出て来た。 「さあ、いま四人もいるのですけれど、まだ要ると思いますよ、聞いてあげましょうか、待っていらっしゃい。」  ドアを押すと、あの男は酔いがまわったのか、お由さんの肩を叩いて言っていた。 「僕はどうも気が弱くてね。」  ご尤も様でございますよ。──連れて来てごらんと云うお上さんの言葉で、台所からまわって、私は信玄袋の女をまねくと、急に女は泣き出して言った。「私は田舎から出て来たばかりで、初めてなんですが、今晩行くところがないから、どうしてもつかって下さい、一生懸命はたらきます。」と云っている。うすら冷たい風に、メリンスの単衣がよれよれになって寒そうだった。どうせ、こんなカフェーなんて、女でありさえすればいいのだもの、この女だって、信玄ブクロをとれば鏡をみつめ出すにわかっています。 「お上さん、とても’店には女がたりないんですからおいてあげて下さいよ。」  上州生れで、繭のように肥った彼女は、急な裏梯子から信玄ブクロをかついで二階の女給部屋に上がって行った。「お蔭様でありがとうございます。」暗がりにうずくまっている女の首が太く白く見えた。 「あなた、いくつ?」 「十八です。」 「まあ若い‥‥」  女が着物をぬいで不器用な手つきで仕度をしているのをそばでじっと見ていると、私は何かしら眼頭が熱くなって来た。ああ暗がりって、どうしてこんなにいいものなのだろう、埃のいっぱいしている暗い明かりの下で、唇を毒々しくルウジュで塗った女達が、精一杯な唄を歌っている。おお神様/いやなことです。 「ゆみちゃん! あの人がいらっしゃってよ。」  いつまでもこの暗がりで寝転がって-いたいのに、由ちゃんが何か頬ばりながら二階へ上がってきた。新らしくきた女の人にエプロンを貸してやる。妙にガサガサ荒れた手をしていた。 「私、一度ショ帯を持った事がありましてね。」 「‥‥‥‥」 「これから一生懸命働きますから、よろしくお願いいたします。」 「ここにいる人達は、みんな同じことをして来た人達なんだから、みんな同じようにしていりゃいいのよ。場銭が十五銭ね、それから、/店のものはこわさないようになさい、三倍くらいには取られてしまうのよ、それから、この部屋で、お上さんも旦那も、女給もコックも一緒に寝るんだから、その荷物は棚へでもあげておおきなさい。」 「まあこんなせまいところにねるのですか。」 「ええそうなのよ。」  階カへ降りると、例の男がよろよろ歩いて来て私にいった。 「どっか公休日に遊びに行きませんか!」 「公休日? ホッホホホホ/私とどっかへ行くと、とても-かねがかかりますよ。」  そうして私は帯を叩いて言ってやった。 「わたし赤ん坊がいるから当分駄目なんですよ。」 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ) 「飯田がね、鏝でなぐったのよ‥‥厭になってしまう‥‥」  飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい子さんを見ると:、ふと自動車や/行李や/時ちゃんが何か非常に重荷になってきてしまって、来なければよかったんじゃないかと思えて来た。 「どうしましょうね、今さらあのカフェーに逆もどりも出来ないし、少し回って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから‥‥」 「ええ、ではそうしてね。」  私は運転手のキチさんに行李をかついでもらうと、さか屋の裏口の薬局’みたいな上がりばなに行李を転がしてもらって、今度はカルガルと、時ちゃんと二人で自動車に乗った。 「キチさん! 上野へ連れて行っておくれよ。」  時ちゃんは無様な行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。 「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴方の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら‥‥」 「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、オオブネに乗ったつもりでいらっしゃい。」  二人はお互いに淋しさを噛み殺していた。 「何だか心細くなって来たわね。」  時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。 ◇。◇。◇。 「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」  十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車’代を出した。 「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」  キチさんは、私たちの前に汚れた手を出すと、 「馬鹿/ 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。  キチさんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。 「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」  私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。キチさんは甘いもの’好きだから:、ホラお汁粉一杯上がったよ! ホラも一ツ一杯上がったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも/今の淋しい私には笑えなかった。「キチさん! 元気でいてね。」時ちゃんはキチさんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。──歩いて私たちが本郷の酒屋の二階へ帰って行った時は/もう十二時ちかかった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共黙って白い肩掛けを胸にあわせた。 ◇。◇。◇。  酒屋の二階に上がって行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら‥‥私は妙にしらじらとしたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。 「たい子さんと云うひとが帰らなければ私たちは’ねられないの?」  時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。 「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、布団を出してあげましょうか。」  押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、布団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。 「貴方は林さんでしょう‥‥」  その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。 「僕、山本です。」 「ああそうですか、たいさんに-しじゅう聞いていました。」  なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。いろいろ話をしていると、段々この青年のいい所がめについて来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしていた。  たい子さんは幸せ者だと思う。私は別れて間もない男の事を考えていた。あんなに私をなぐってばかりいたひとだったけれど、この人の純情が十分の一でもあったらと思う。時ちゃんはもういびきをかいて眠っていた。「では僕は帰りますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」もう二時すぎである。青年は下駄を鳴らして帰って行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々と持って歩いていたけれど、今はどうしてしまったかしら、部屋の中には折れた鏝が散乱していた。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  雨が降っている。夕がた時ちゃんと二人で風呂に行った。帰って髪をときつけていると、飯田さんが来る。私は袖のほころびを縫いながら、このごろおぼえた唄をフッと歌いたくなっていた。ああ厭になってしまう。別れてまでノコノコと女のそばへ来るなんて、飯田さんもおかしい人だと思う。たい子さんは黙っている。 「こんなに雨が降るのに行くの?」  たい子さんは侘しそうに、ふところ手をして私たちを見ていた。 ◇。◇。◇。  二人で浅草へ来た時は夕方だった。激しい雨の降る中を、一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家を探してまわった。やがてきまったのはカフェー世界と云う家だった。 「どっかへ引っ越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」  時ちゃんは本当に可愛い娘だ。野性的で、行儀作法は知らないけれども、いいところのある女なり。 「久し振りで、二人で、別れのお酒盛りでもしましょうか‥‥」 「おごってくれる?」 「体を大事にして、にくまれないようにね。」  浅草の都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私たちはいい気持ちに横ずわりになった。雨がひどいので、お客も少ないし、バラック建てだけれども、落ちついたいい’家だった。 「一生懸命勉強してね。」 「当分会えないのね時ちゃんとは‥‥私、もう一本呑みたい。」  時ちゃんはうれしそうに手を鳴らして女中を呼んだ。やがて、時ちゃんをカフェーに置いて帰ると、たい子さんは一生懸命何か書き物をしていた。九時ごろ山本さんみえる。  私は一人で寝床を敷いて、たい子さんより先に寝ついた。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  フッと眼を覚ますと、せまい布団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。 「起きなさい。」 「私/いくらでも眠りたいのよ‥‥」  たい子さんは白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、ヒの光りを見上げた。──梯子段を上がって来る音がしている。たい子さんは無意識に、手を引っこめると、 「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」と云った。  私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。やがて襖があくと、寝ているの? と呼びかけながら山本さん入って来る。山本さんが私たちの枕元になれなれしく坐ったので、私はちょっと不快になる。しかたなく目をさました。たい子さんは、 「こんなに朝早くから来て”まだ寝てるじゃありませんか。」 「でも勤め人は、朝か夜かでなきゃあ来られないよ。」  私はじっと目をとじていた。どうしたらいいのか、たいさんのやり方も手ぬるいと思った。厭なら厭なのだと、はっきりことわればいいのだ。 ◇。◇。◇。  今日から街はリョウアンである。昼からたい子さんと二人で銀座のホウへ行ってみた。 「私は’ね、原稿を書いて、生活費くらいは出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思っているのよ‥‥」  たいさんは茶色のマントをふくらませて、電気スタンドの美しいのをショーウインドウに眺めながら、そのスタンドを買うのが唯一の理想のように云った。歩けるだけ歩きましょう。銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を/足をそろえて二人は歩いていた。朝でも夜でも牢屋はくらい、いつでも鬼メが窓から覗く。二人は日本橋の上に来ると、子供らしく欄干に手をのせて、飄々と飛んでいる白い鴎を見降ろしていた。 ◇。◇。◇。 【一種の興奮は私たちには薬かも知れない】 【二人は幼稚園の子供のように】 【足並をそろえて街の片隅を歩いていた。】 【同じような運命を持った女が】 【同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。】 【なにくそ!】 【笑え! 笑え! 笑え!】 【たった二人の女が笑ったとて】 【つれない世間に遠慮は無用だ】 【私たちも街の人達に負けないで】 【国へのお歳暮をしましょう。】 ◇。◇。◇。 【鯛はいいな】 【甘い匂いが嬉しいのです】 【私の古里は遠い四国の海辺】 【そこには父もあり母’もあり】 【家も垣根も井戸も樹木も】 ◇。◇。◇。 【ねえ、小僧さん!】 【お江戸日本橋のマークのはいった】 【大きな広告を張って下さい】 【嬉しさをもたない父母が】 【どんなに喜んで遠い近所に吹聴して歩く事でしょう】 【──娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って呉れましたが、まあ一ツお上がりなして】 【ハイ‥‥。】 ◇。◇。◇。 【信州の山深い古里を持つ彼女も】 【茶色のマントをふくらませ】 【いつもの白い歯で叫んだのです。】 【──アシタはアシタの風が吹くから、ありったけのゼニで買って送りましょう‥‥。】 【小僧さんの持っている木箱には】 【さつまあげ、鮭のごまふり、鯛の飴干し】 ◇。◇。◇。 【二人は同じような笑いを感受しあって】 【日本橋に立ちました。】 ◇。◇。◇。 【日本橋/ 日本橋/】 【日本橋はよいところ】 【白い鴎が飛んでいた。】 ◇。◇。◇。 【二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。】 【ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう】 【二人はどん底の唄を歌いながら】 【気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。】 ◇。◇。◇。  私はなつかしい木箱の匂いを胸にだいて、国へのお歳暮を愉しむ思いだった。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ) 「今夜は、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴方の詩集くらいは出してくれるかもわからないわね。新聞をやっているひとの息子ですってよ‥‥」  たいさんがそんなことを云った。たいさんと二人で夕飯を食べ終ると、二人は隣の部屋の、軍人上がりの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦もののところへまねかれて遊びに行く。「貴方達は呑気ですね。」たいさんも私もニヤニヤ笑っている。お茶をよばれながら、三十分も話をしていると庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ぞろりとした恰好だ。この人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程くにゃくにゃした体つきをしていた。でも人の良さそうな坊ちゃんである。こんな人に詩集を出して貰ったって仕様がない。私は菓子を買って来た。炬燵にあたって三人で雑談をする。やがて、飯田さんと山本さん二人ではいって来る、タダナラナい空気だ。  飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。「何をするんですッ。また、たい子さんもどうしたのッ、これは‥‥。」たいさんは、流れる涙をせぐりあげながら話した。「飯田にいじめられていると、山本のいいところが浮んで来るの、山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのよ。」:「どっちをお前は本当に愛しているのだ?」私は二人の男がにくらしかった。 「何だ貴方達だって、いいかげんな事をしてるじゃないのッ-」 「なにッ-」  飯田さんは私を睨む。 「私は飯田を愛しています。」  たい子さんはキッパリ云い切ると、飯田さんをジロリと見上げていた。私はたいさんが何故か憎らしかった。こんなに侮辱されてまでもあんなひとがいいのかしら‥:‥山本さんはドブへ落ちた鼠のようにしょんぼりすると、布団は僕のものだから持ってかえると云い出した。すべてが渦のようである。──やがて何時の間にか、たい子さんはいち早く山田清三郎氏のところへ逃げて行った。私はブツブツ云いながら三人の男たちと外に出た。カフェーにはいって、酒を呑む程に酔がまわる程に、四人は’ますますくだらなく落ちこんで来る。庄野さんは私に下宿に泊れと云った。布団のない寒さを思うと、私は何時の間にか庄野さんと自動車に乗っていた。舌たらずのギコウにまけてなるものか。私は酒に酔ったまねは大変上手です。二人はフトンの上に、二等分に帯をひっぱって寝た。 「山本君だって飯田君だってたいさんだって、あとで聞いたら関係があると云うかも知れないね。」 「云ったっていいでしょう。貴方も公明正大なら、私も公明正大ね、一夜の宿をしてくれてもいいでしょう。布団がなけりゃ/仕様がないもの。」  私は、私に許された領分だけ手足をのばして目をとじた。たいさんも宿が出来たかしら‥‥目頭に熱い涙が湧いてくる。 「庄野さん! 明日起きたら、御飯を食べさせて下さいね、それからお金もかしてね、働いて返しますから‥‥」  私は朝まで眠ってはならないと思った。男の興奮状態なんて、政治家と同じようなものだ、駄目だと思ったらケロリとしている。明日になったら、またどっかへ行くみちをみつけなくてはいけないと思う。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  ゆかいな朝である。一人の男に打ち勝って、私は意気揚々とさか屋の二階へ帰ってきた。たいさんも帰っていた。畳の上では何か焼いた跡らしく、点々と畳が焦げていて、たいさんの茶色のマントが、見るもむざんに破られていた。 「庄野さんとこへ昨夜’泊ったのよ。」  たいさんはニヤリと笑っていた。いやな笑い方である。思うように思うがいいだろう。私はもう捨てばちであった。たいさんはいいひとが出来たと云った。そして結婚をするかも知れないと云っている。うらやましくて仕様がない。今はただ黙っていたいと云っていた。淋しかったが、たいさんの顔は何か輝いていて幸福そうだ。みじめな者は私一人じゃないか。私はくず折れた気持ちで、片づけているたい子さんの白い手を呆んやりながめていた。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  キズイセンの花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒いテーブルの上にはキズイセンが三毛猫のように見えた。階カの台所から夕方の美味しそうな匂いと音がしている。二日も私は御飯を食べない。しびれた体を三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃っぽく悲しくなってくる。生唾が煙になって、みんな胃の腑へ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、ホオの肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃の腑は旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。  外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって構いはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に詰まった思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻もホオも紅くした子供の群れが、束子で擦るようにきゅうきゅう厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。──一縷の望みを-いだいて百瀬さんの家へ行ってみる。留守なり。知った家へ来て、寒い風に当たる事は、腹がへって苦しいことだ。留守居の爺さんに断って家へ入れて貰う。古ぼけて妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が葱のように見えた。壁に積んであるたくさんの本を見ていると、なぜだか、舌に唾が湧いて来て、この書籍の堆積が妙に私を誘惑してしまう。どれを見ても、カクテール製法の本ばかりだった。1冊売ったらどの位になるのかしら、支那蕎麦に、てん丼に、五目ずし:、盗んで、すいている腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて/私を嗤っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄を歌っていた。ああ結局は、硝子ヒトエさきのものだ。果てしもなく砂に溺れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転がるより仕様がない。へへッ/とにかく、ニニンがシである。たった一枚のこっている、二銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメンドリにでも生まれかわってくれないかぎり、私の胃の腑は永遠の地獄だ。歩いて池の端から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんもセッちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、セッちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたので/やみくもに涙が溢れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかのメシが、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣き笑いしていると、凸坊が驚いて、玩具をほおり出して一緒に泣き出してしまった。 「オイ/ 凸坊/ おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」  恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで’町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊はフシをつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが/矢のように流れてくる。 ◇。◇。◇。 「時ちゃんて’娘/どうして?」 「月初めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう‥‥」 「若いから貧乏に負け-っちまうのよ。」  私は赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚をセッちゃんに上げようと思った。セッちゃんの肌が寒そうだった。寝転んで、天井を睨んでいた恭ちゃんがこのごろつくった-しだと云って、それを大きい声で私に朗読してくれた。激しい飛び散るようなその-しを聞いていると、私一人の-うえるとか飢えないとかの問題が、まるでもう子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的で、私の浅い食慾を嘲笑しているようである。まさしく盗む事も不道徳ではないと思えた。帰って今夜は’いいものを書こう。興奮しながら、楽しみに私は夜風の冷たい町へ出て行った。 ◇。◇。◇。 【星がラッパを吹いている。】 【突きさしたら血が吹きこぼれそうだ】 【破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に】 【私はまるで淫売婦のような姿態で】 【無数の星の冷たさを眺めている。】 【朝になれば】 【あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか】 【誰でもいい!】 【思想も哲学も軽蔑してしまった、白いベンチの女の上に】 【臭い接吻でも浴びせて下さいな】 【一つの現実は】 【しばし飢えを満たしてくれますからね。】 ◇。◇。◇。  /家に帰る事が、無性に厭になってしまった。人間の生活とは、かくまでも侘しいものなのか! ベンチに下駄をぶらさげたまま横になっていると、星があんまりまぶしい。星は何をして生きているのだろう。  星になった女/ 星から生まれた女/ 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで馬鹿のように悲しくなるだけだ。夜更け、馬に追いかけられた夢を見た。隣室の唸り声/あたま痛し。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  朝から雪混りの雨が降っている。/寝床で当てにならない原稿を書いていると、十子が遊びに来てくれた。 「私、どこへも行く所がなくなったのよ、ニサンにち泊めてくれない?」  羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿態から、押花のような匂いをかいだ。 「ニサンにち泊めることは安いことだけれど、お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」 「カフェーのお客って、みんなジュウみたいね、鼻のさきばかり赤くしていて、真実なんかと云うものは爪の垢ほどもありゃしないんだから‥‥」 「カフェーのお客でなくったって、いまどき、物々交換でなくちゃ‥‥この世の中は世知辛いのよ。」 「あんなところで働くのは、体より神経のほうが先に参っちゃうわね。」  十子は、帯をコブ巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして布団へもぐり込んで来た。「ああ極楽/ 極楽-」すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時までもおかしそうに笑っていた。  寒い夜気に当たって、硝子窓が音を立てている。家を持たない女が、/寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して/裾にさし合って寝ているのだ。私はたまらなくなって、飛びおきるなり火鉢にどんどん新聞をまるめて焚いた。 「どう? 少しは暖かい?」 「大丈夫よ‥‥」  十子は布団をホオまでずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。  午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうような/おいしい気持ちがした。炬燵がなくても、二人で布団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう‥‥。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  朝/六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹とした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたの泡よりはかなく、めんどくさく思えて来る。 「私、つくづく’家でも持って落ちつきたくなったのよ:、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフェーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの‥‥」 「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、そのほうがずっといい。」 「つまらないわね。」 「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの:、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」  階カより部屋代をさいそくされる。カフェー時代に、私に安ものの、ヴァニティケースをくれた男があったけれど、あの男にでも-かねを借りようかしらと思う。 「あああの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから‥‥」  ハガキを出してみる、神様/ こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って/かねを借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百リくらいは離れている。犀と云う雑誌の同人だと云う、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。かねの話も結局’駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。 「ね、先生/ おしるこでも食べましょうよ。」  順子さんが夜会巻きふうな髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく/犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人を探したいものだ。四人は、エンラクケンの横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へ入る。黒いテーブルについて、つまみの紫蘇の実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私たち三人は、小石川の紅梅亭と云う寄席に行った。カガスズの新内と、サンコウの酔っぱらいにちょっと涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの-かねがあれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺のような空想を-いだいていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したと云う。三人は細かな雨の降るサカナマチの裏通りを歩いていた。 「ね、先生/ 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから‥‥」  順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋でもつつきたいと云う。 「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」  秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一帖買ってかえる。──八銭なり──体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声あげて嘲笑ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭がハジけていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷ヅツみが部屋の隅に転がっていて、新しい蛇の目の傘が/しっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室ではまた今夜も秋刀魚だ。トウちゃんの羽織を壁にかけていると、トウちゃんが笑いながら梯子段を上がって来て、「おヨシちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。みんなカフェーの友達である。この女はどこか、英百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「トウちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日ほど泊めて下さいね。」まるで綿でも詰まっているかの様に大きな髷なしの髪をセルロイドの櫛でときつけながら、「女ばかりもいいものね‥‥時ちゃんにこの間逢ってよ。どうも思わしくないから、またカフェーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」お芳さんが米も煮えている/カレーも買ってくれたんだと云って、十子がかいがいしく卓袱台に茶碗をそろえていた。久し振りに明るい気持ちになる。敷布団がせまいので、昼夜帯をそばに敷いて、私が真ん中、三人’並んで寝る事にした。何だか三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。高いところからおっこちるような夢ばかり見るなり。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  新聞社に原稿をあずけて帰って来ると、ハガキが一枚来ていた。今夜来ると云う、あの男からの速達だった。トウちゃんもヨシちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。あんな男に-かねを貸してくれなんて言えたものではないではないか‥‥、トウちゃんに相談をしてみようかと思う‥‥、妙に胸が騒がしくなってきた。あのヴァニティケースだって/ほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引きかのものなのだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものであろう。路傍の人以外に何でもありはしないではないの。あんなハガキ一本で来ると云う速達をみて気持ちわるし。その人はもうかなりな年であったし、私は歯がズキズキするほどムナサワがしくな-ってしまった。夜。──霰まじりの雪が降っていた。女達はまだ帰って来ない。雪を浴びた林檎の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男が来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は黙って両手を火鉢にかざしていた。「いい部屋にいるんだね。」この男は、まるで妾の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、「そんなに困っているの‥‥。」と云った。 「十円くらいならいつでも貸してあげるよ。」  暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね-」と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。 「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。」  隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。 「誰です! 笑っているのは‥‥笑いたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは-よして下さい!」  男の出て行ったあと、私は二階から果物籠を地球のように路地へほうり投げてしまった。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  私は私がぼろかす女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の長閑な笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくなるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってしまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃の腑が、菜っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊は、さながら生きているミイラのようだ。古い新聞を十度も二十度も読みかえして、じっと畳に寝ころんでいる姿を、私はそっと遠くに離れて/他人事のように考えている。私の体はいびつ、私のこころもいびつなり。とりどころもない、燃えつくした肉体、私はもうどんなに食えなくなってもカフェーなんかに飛び込む事は辞めましょう。どこにも-いれられない私の気持ちに、テラテラまがいものの艶ぶきをかけて/笑いかける必要はないのだ。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向こうを向いていて飢えればいいのだ。 ◇。◇。◇。  夜。  利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。この男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんなアナキストは嫌いなのだ。「貴方が死ぬほど好きだ。」と言ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩も遠くから私を監視している状態なんて、私の好かないところです。 「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」  私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂点まで飢えて来ると/鉄板のように体がパンパン鳴っているようで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフェーの女給とか女中だなんて! 10本の指から血がほとばしってでそうなこの肌寒さ‥‥さあ革命でも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、なにもかもからっぽなのだ。階カの人達が風呂へ行ってるスキに味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤いたまえ。あざけりたまえかし。  あああさましや芙美子消えてしまえである。  働いていても、自分には爪の垢ほども食べる足しにはならないなんて、今までの暮らしむきは、細く長くだった。ああイチエンの-かねで私は五日も六日も食べていった事があった。死ぬる事なんていつも大切に取っておいたのだけれど、明日にも自殺しようかと考えると、私はありったけのぼろ屑を出して部屋にばらまいてやった。生きている間の私の体臭、なつかしや/いとしや。疲れてドロドロに汚れた黒いメリンスの衿に、垢’と白粉が光っている。私は子供のように自分の匂いをかぎました。この着物で、むかし、私はあの人に抱かれたのです。あの思い! この思い! 青ざめて血の上って来る孤独の女よ、胸を抱いた両手の中には、着物や帯や半衿のあらゆる汚れから来る体臭のモンタージュなり。  私はこのすばらしいエクスタシイを前にして、誰に最後の嘲笑さるべき手紙を書こうかと思った。Aにか、Bにか、Cにか‥‥。シャックリの出る私の人生観をちょっと匂わしてね。面白い興奮だと思う。「ね、こんなに、私は貴方を愛しているのに‥‥。」古新聞の上に散らかった広告の上には、ちょっと面白いサラダと/ビフテキのような名前が載っていた。三上於菟吉なんてちょっとエネルギッシュでビフテキみたいだが、これも面白い。吉田絃二郎なんて、菜っぱと小鳥みたいなエトランゼ。私は二人へ同じ文章を書いてみようと思った。 ◇。◇。◇。 【海ぞいの黍バタケに】 【なんの願いぞも】 【固き葉の颯々と吹き荒れて】 【二十五の女は】 【真実いのちを切りたき思いなり】 【真実’死にたき思いなり】 ◇。◇。◇。 【伸びあがり伸び上がりたる】 【玉蜀黍ははかなや/実が一ツ】 ◇。◇。◇。  ああこんな感傷を手紙の中にいれる事は辞めましょう。イサベラ皇后様がコロンブスを見つけた興奮で、私のペン先はもうしどろもどろなのだ。ああソロモンの百合の花に、ドブドブと墨汁をなすりつけたまえ! ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  朝、冷たい霧雨が降っていた。晩あたりは雪になるかも知れない。久しく煙草も吸わない。この美しい寝ざめを、ああ石油の匂いのプンプンする新しい新聞が読みたいものだと思う。  隣室のにぎやかな茶碗のオト、我に遠きものあり。昨夜書いたニツウの手紙、私はうっすりとした笑いを心に感じると、何もかも、馬鹿くさい気がしてしまった。だけどまあ、人生なんてどっちを見ても薄情なものだ。真実めかして‥‥ところで、問題は私の懐中に三銭の銅貨があることである。この三銭のお金にセンチメンタルを送ってもらうなんて事は、向こうさまに対して冒涜だけれど、十銭ダマで七銭おつりを取るヨユウがあったら、私はこのニツウの手紙を書かないで済んだかも知れないのだ──。日本綴りのボロボロになった「一茶’句集」を出して読むなり。 ◇。◇。◇。 【きょうの日も/棒ふり虫よ/アスもまた】 【故郷は/蠅まで人を/さしにけり】 【思うまじ/見まじとすれど/我が家かな】 ◇。◇。◇。  一茶は徹底した虚無主義者だ。だけど、いま私は飢えているのです。この本がいくらにでも売れないかしら。──寝たっきりなので、体をもち上げるとポキポキ骨が鳴ってくる。指で輪をこしらえて、私の首を巻いてみると、おいたわしや私の動脈は/別に油をさしてやらないのに、ドクドク澄んだ音で血が流れを登っている。尊しや。 ◇。◇。◇。  二通の手紙。どっちをさきにだしましょうか。何と他愛もない事なのだろう。吉田氏へ手紙を出す事にきめる。さて、音のしなくなった足をふみしめて街に出てみるなり。  湯島天神に行ってみた。お爺さんが車をぶんぶんまわして、桃色の綿菓子をつくっていた。あるかなきかの桃色の泡が/真鍮の桶の中から湧いて出てくると、これが霧のような綿菓子になる。長いこと草花を見ない私の眼には、まるでもう牡丹のように写ります。「おじいさん! 二銭頂戴。」子供の頭ぐらいの大きい綿菓子を私はそっと抱いた。誰もいない石のベンチでこれを食べよう。綿菓子を頬ばって、思うまじ/見まじとすれど/我が家かな、漠然とこんな孤独を愛する事もいい’では’ありませんか。 「おじいさん、3銭下さいな。」  あえなくも菜っぱと小鳥の感傷が、桃色の甘い綿菓子に変ってしまった。何と愛すべき感傷’であろう。私の聯想は舌の上で涙っぽい砂糖に変ってしまった。しっかりと目をつぶって、切手を貼らない吉田氏へ’の手紙をポストに投げる。新潮社気付で送ったけれど、一笑されるかもしれない。三上氏へ’の手紙は破る。とても華やかに暮らしている人に、こんな小さな現実なんて、消えてなくなるかも知れないもの──。身近にある人の事なんか妙にかすんでしまってくる。綿菓子のじいさんは、この寒空に雨が煙っているのに、何時までもガラガラと真鍮の車をまわしていた。ベンチに腰をかけて雨を灰のようにかぶって綿菓子をなめている女、その女の眼には遠い古里と、お母さんと男のことと、私のかんがえなんて、こんなくだらない郷愁しかないのだ! ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  昼夜帯と本を二’三冊売って2円10銭つくる。本屋さんが家までついて来て云う事には、「お家さえ判っておりませば、また頂きに上がります。」どういたしまして、私の押入れの中はマニア作家の頭のように、がらくたばかりですよ。  昼。  浅草へ行った。浅草はちっぽけな都会ゴコロから離れた楽土です。そんなことをどっかの屋根裏作家が云いました。浅草は下品で鼻もちがならぬとね。どのお方も一カ月せっせと豚のように食っているものだから、頭ばかり厖大になって、シネマとシャアローとエロチックか:、顔を鏡にてらしあわせてとっくりとよくお考えの程を‥‥ところで浅草のシャアローは帽子を振って言いました。「地上のあらゆるものを食いあきたから、こんどは、空を食うつもりです。」浅草はいいところだと思うなり。明かりのつき始めた浅草のオオヂョウチンの下で、私の思った事は、この二円十銭で朗かな最後をつくしましょう。と云うことだ‥‥何だか春めかしい宵なり、線香と女の匂いが薫じて来ます。雑沓の流れ。──公園劇場の前に出てみると、水谷八重子の一座の旗の中に、別れたひとの青い旗が出ている。これは面白い。他人よりも上品にかぎの締ったあの男と私の間、すべてはお静かにお静かにと/永遠に歳月が流れています。裏口からまわって、楽屋口の爺さんに尋ねてみると/つんけんした面構えだった。廊下はいっぱい食物の皿小鉢で、お姫様も女学生も雑居のありさまなり。歪んだ硝子窓に立てかけた鏡が二ツ、何年か前の見覚えのある黒い鞄が転がっていた。 「ヤア-」  楽屋へ坐っていると、下男風な丁髷をのっけた男がはいって来た。 「随分ご無沙汰しています。」 「お元気でしたか。」  浅草の真ん中の劇場の中で久し振りに、私は別れた男の声を聞いた。 「芝居でも見ていらっしゃい、ヒトヤクすんだら私のは済むんだからお茶でも飲みましょう!」 「ええ、ありがとう、奥さんもいま一緒に何か演っているんですか?」 「あああれ! 死にましたよ、肺炎で。」  あんなにも憎しみを持って別れた女優の顔が、遠くに浮んで、私はしばらくは信じられなかった。この男はとても真面目な顔をして嘘をついたから‥‥。 「嘘でしょう。」 「貴方に嘘なんかついた-って仕様がないもの、前々から体は弱かったのね。」 「本当ですか? 気の毒な‥‥顔をつくって下さいな、わたし初めて貴方の楽屋を見たの。楽屋のなかって随分淋しいもんね。」  男と話していると、背の高い若ザムライが、両刀をたばさんではいって来る。 「ああ紹介しましょう、この人は宮島資夫君の弟さんでやっぱり宮島さんと云うひとです。」  この人はきっちりと肉のしまった、青年らしい肩つきをしていた。──随分、この男も年をとったとも思えるし、鞄の中から詩稿なぞを出しているのを見ると、この人が役者である事が場違いのような気がして仕方がない。体だって肥っているし、それに年をとって、若い渋味のない声だし:、こんな若い人達ばかりの間に混じって芝居なんかしているのが、気の毒に思えて仕方がなかった。私はこの男と田端に家を持った時、初めて肩上げをおろしたのを覚えている。「僕の芝居を見て下さい、そして昔のようにまた悪口たたかれるかな。」私は名刺をもらうと楽屋口から外へ出た。今さらあの男の芝居を見たところでしようがないし、だが、大きな雨がひとしずく私のホオにかかってきたので、あわててコヤへ入るなり。舞台はバテレン信徒を押し込めてある牢屋の場面で、八重子の花魁や、牢番や、侍が並んでいる。桜が爛漫と舞台に咲いている。そして舞台には小鳥が鳴いていた。長い/愚にもつかない芝居である。私は舞台を眺めながら色んな事を考えていた。「バテレンよゼウスよ!」あの人はちょっと声が大きすぎる。私は耳をふさいであの男の牢屋の中の話を聞いていた。八重子の美しい花魁が牢の外に出ると、観客は湧き立って拍手を送っていた。美しい姿ではあるけれども、何か影のない姿である。私は退屈して外へ出てしまった。あの人は「お茶でも一緒に飲みましょう。」と言ったけれど、縁遠いものをいつまでも見ていなくてはならないなんて、渦は一切吸わぬ事だ──。薬屋をみつけては、小さいカルモチンの箱を一ツずつ買う。死ねないのならば、それでもいいし、少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗かに。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  5色のテープがひらひら舞っていた。  どこかで爆竹の弾ける音がすさまじく耳のそばでしている。飛行機かしら、モータボートかしら‥‥私の錯覚から、白い泡を飛ばしている海の風景が空の上に見えてきました。銀色の燈台が限りの底にゴマツブ程に見えたかと思うと、こんどはまるで’象の腹のようなものが/眼の中じゅうに拡がって:、私はずしんずしん/地の底に体をゆりさげられているようだった。十子が私の裸の胸に手拭を当ててくれている。私はどうしても死にたくないと思った。目をあけると、瞼に弾力がなくて、扇子をたたむようにくぼんで行く。私は死にたくない‥‥。「若布とかまぼこのてんぷらと、お金が五円きていますよ。」私は瞼を締める事が出来なかった。耳の中へ’ゴブゴブ熱い涙がはいって行く。枕元で、鋏をつかいながら十子が、母さんのところから送って来た小包をあけてくれた。お母さんが五円送ってくれるなんて、よっぽどの事だと思う。階カの叔母さんがかゆをたいて持って来てくれた。気持ちがよくなったら、この五円を階カへあげて、下谷の家を出ようと思う。 「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない?」  私は生きて-いたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。そして、何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う──。 ◇。◇。◇。  私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。  毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴方のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に訊かれると、私はぐっと詰まってしまうのだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なのですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなつかしがっているところが非常に多い。──思わず年を重ね、色々な事に旅愁を感じて来ると、ふとまた、本当の古里と云うものを私は考えてみるのだ。私の原籍地は、鹿児島県、東桜島、古里温泉バとなっています。全く遠く流れ来つるものかなと思わざるを得ません。私の兄弟は六人でしたけれど、私は生れてまだ兄達を見た事がないのです。一人の姉だけには、つらい思い出がある。──私は夜中の、あの地鳴りの音を聞きながら、提灯をさげて、姉と温泉に行った事を覚えているけれど、野天の温泉は、首をあげると星がよく光っていて、島はカンテラをその頃とぼしていたものだ。「よか、ごいさ。」と、云ってくれた村の叔母さん達は、みんな、私を見て、余所者と結婚した母を蔭でののしっていたものだ。もうあれから十六シチ年にはなるだろう。  夏になると、島にはたくさん青いゴリがなった。城山へ遠足に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来たメタケの煮たのが三切れはいっていて、大阪の鉄’工場へはいっていた両親を、どんなにか私は恋しく思った事です。──冬に近い或る夜。私は一人で門司まで行った記憶もあります。大阪から父が門司までむかいに来てくれると云う事でしたけれど、九ツの私は、五銭ダマ一ツを/帯にくるくる巻いてもらって、帯に門司行きの木札をくくって汽車に乗ったものです。  肉親とは斯くも-つれなきものかな! 花が何も咲いていなかったせいか、私は門を出がけに手にさわった柊の枝を折って、門司まで持って行ったのを覚えています。門司へ着くまで、その柊の枝はとても生き生きしていました。門司から汽船に乗ると、天井の低い三等船室の暗がりで、父は水の光に透かしては、私の頭の虱を取ってくれた。鹿児島は私には縁遠いところである。母と一緒に歩いていると、ときどき少女の頃の淋しかった自分の生活を思い出して仕方がない。 「チンチン行きもんそかい。」 「おじゃったもはんか。」  などと云う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、東京の真ん中で平気でつかっているのだ。──長い事たよりのなかった私たちに、姉が長い手紙をくれて言う事には:、「母さん! お元気ですか、いつもお案じ申しています。私はこの春、男の子を産みましたけれど、この5月は初の節句です、華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はその手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうして私の心は固く冷たかった。「お母さん! 義理だとか人情だとか、そんな考えだけは捨てて下さい。長い間、私たちはどれだけの義理にすがって生きていたのでしょうか、人情にすがっていたのでしょうか、いつも蹴とばされ、はねられどおしで三人はこれまで来たのですよ。私は赤ん坊に祝ってやる事をおしんでいるのではないのですけれども、覚えていますかお母さん!」困って、最後に、よりすがった気持ちで、私は昔姉に借金の手紙を出した事がある。すると姉からの返事は、私はお前を妹だとは思ってやしない。私をそだててくれもしない母親なんてありようがないのだし、私はお前にどんな事をする義務があるのです。遠い旅ゾラで、たった十円ばかりの-かねに困る貴方たち親子の苦しみは、それは当たり前のことですよ。故郷や、子供を捨てて行く親の事を思うと、私は鬼だと思っているくらいです。以後’頼ってはくれぬように──。それ以後、この世の中はお父さんとお母さんと私の三人きりの世界だと思った。どんなに落ちぶれ果てても、幼い私と母を捨てなかったお父さんの真実を思うと、私は精一杯の事をして報いたく思っている。姉の気持ち、私の気持ち、これを問題にするまでもなく/数千里の距離のある事だ。だのに、華やかに赤ん坊を祝ってほしい/何年ぶりかの姉の手紙をみて、母は何か送って祝ってやりたいようであった。──だが私は今でもあの姉の手紙を憎んでいる。どんなにか憎まずには’いられないのだ。本当に憎んでいるのだ。──いまだかつて温かい言葉一つかけられなかった古里の人たちに、そうして姉に、いまの母は何かすばらしい贈物をして愕かせたいと思っているらしい。「お母さん! この世の中で何かしてみせたい、何か義理を済ませたいなんて、必要ではないではありませんか。」と私はおこっているのであった。ああだけど、母’のこの小さな願いをかなえてやりたいとも思う。私は何と云うひねくれ者であろうか、長い間の忍耐が、私を何も信じさせなくしてしまいました。肉親なんて/犬にでも喰われろと云った激しい気持ちになっている。 ◇。◇。◇。 【ああ二十五の女心の痛みかな】 【遠く海の色透きて見ゆる】 【黍バタケに立ちたり二十五の女は】 【玉蜀黍よ、玉蜀黍】 【かくばかり胸の痛むかな】 【二十五の女は海を眺めてただ呆然となり果てぬ。】 ◇。◇。◇。 【一ツ二ツ三ツ四ツ】 【玉蜀黍の粒々は、二十五の女の侘しくも物ほしげなる片言なり】 【蒼い海カゼも】 【黄いろなる黍バタケの風も】 【黒い土の吐息も】 【二十五の女心を濡らすかな。】 ◇。◇。◇。 【海ぞいの黍バタケに立ちて】 【なんの願いぞも】 【固き葉の颯々と吹き荒れるを見て】 【二十五の女は】 【真実いのちを切りたき思いなり】 【真実’死にたき思いなり】 ◇。◇。◇。 【伸びあがり伸びあがりたる】 【玉蜀黍は儚や/実が一ツ】 【ここまでたどりつきたる二十五の女の心は】 【真実’男は要らぬもの】 【そは悲しくむずかしき玩具ゆえ】 ◇。◇。◇。 【真実ショタイに疲れるとき】 【生きようか、死のうか】 【さても侘しき諦めかや】 【真実’友はなつかしけれど/一人一人の心ゆえ‥‥】 ◇。◇。◇。 【黍の葉の気ぜわしい自棄なそぶりよ】 【二十五の女心は】 【一切を捨て走りたき思いなり】 【片目をつむり/片目をひらき】 【ああスベもなし/男も欲しや/旅もなつかし】 【ああもしようと思い】 【こうもしようと思う‥‥】 【おだまきの糸つれづれに】 【二十五の呆然と生き果てし女は】 ◇。◇。◇。 【黍バタケの畝に寝ころび】 【いっそふかぶかと眠りたき思いなり】 ◇。◇。◇。 【ああかくばかりせんもなき】 【二十五の女心の迷いかな。】 ◇。◇。◇。  これだけが精一杯の、私のいまの生き方なのです、そしてこのごろの私は、火のような懊悩が、心を焼いている。さあ! もっと殴って、もっと私をぶちのめして下さい。私は土の崩れるような大きな激情がよせて来ると、何もかもが一切虚しくなり果てて、死ぬる事や、古里の事を考え出してくる。だけど、ナニクソ/ たまには一升の米も買いたいと言っていたあの頃の事を考えると、私は自分をほろぼすような悪念を克服してゆく事に努力をしなければなりません。この「放浪記」は、私の表皮にすぎない。私の日記の中には、目を覆いたい苦しみがかぎりなく書きつけてある。 ◇。◇。◇。  これからの私は、私の仕事に一生懸命に没入しようと思っている。子供のような天真な心で生きて行きたいと思うけれども、このシゴネンの私の生活は、体の放浪や、旅愁なんかと云うなまやさしいものではなかった。行くところもないようないまだに苦しい生活の連続でした。私はうんうん唸ってすごして来ました。どこまでが真実なのか、どこまでが嘘なのか、見当もつかない色々なからくりを見て:、むかしの何か愉しいものが、もう今は、本当に何もなかったのだと云う淋しさ‥‥。空へのあこがれ、土へのあこがれ、黙って遠い姉にも、何か祝ってやってもいいでは’ないかとも思っています。母の弱い気持ちもなごむにちがいないのです。愚にもつかない私のひねくれた気持ちを軽蔑するがいい。黍バタケのあぜに寝ころび、いっそふかぶかと眠りたき思いなりです。そこで、このごろの私はじっと’口をつぐんで、しっかり自分の仕事に没入してゆきたい事がたった一ツの念願であり:、ただ一筋の私の行くべき道だと思うようになりました。 ◇。◇。◇。  林芙美子と云う名前は、少々私には苦しいものになって来ました。甘くて/根気がなくて/淋しがりやで。私は一度、この名前をこの世の中から本当になくしてしまいたいとさえ考えています。道を歩いている時、雑誌のポスターの中に、「林芙美子」と云う文字を見出す時がある。いったい林芙美子とはどこの誰なのだろうと考えています。街を歩いている私は、街裏の女よりも気弱で、二’三年も着古した着物を着て、石突きの長い雨傘を持って、ぽくぽく道を歩いている。昔の私は、着る浴衣もなくて、紅い海水着一枚で蟄居していた事もある。少しばかり原稿が売れだして来ると、「三万円もたまりましたか?」と訊くひとが出て来たけれども、全くこれは動悸のする話でした。私の家の近くにあぶらやと云う質屋があるけれども、ここのおやじさんだけは、林芙美子と云うのは案外貧乏文士だねと苦笑しているに違いない。  ショウ都会の港町に生まれた赤毛の娘は、そのおいたちのままで、労働者とでも連れ添っていたほうが、私にはどんなにか幸福であったかも知れない。今の生活は、私と云うものを、広告のように切り刻んでほうぼうへ吹き飛ばしているようなものでしょう。生活がまるで中途半端であり、生活が中途半端だからよけいに苦しい。──少しばかり生活が楽になった故、義父も母も呼びよせてはみたけれども、貧しく、あのように一つに共同しあっていた者達の気持ちが:、一軒の家に集まってみると、一人一人の気持ちが東’や西や南へてんでに背を向けているのでした。みんな、円陣をつくって、こちらへ向いて下さいと願っても、一人一人が一国一城のアルジになりすぎているのです。厠へなぞ這入っていると、思わず涙が溢れる事がある。長いあいだ親達から離れていると、血を呼ぶ愛情はあっても、長い間一ツになって生活しあわないせいか、その愛情と云うものが妙に薄くなってしまっているのを感じている。  放牧の民のようであった私の一族と云うものが、今は、一定の土地に落ちついて、私の云う、半アンジュウ生活に落ちついている異民族的な集まりになりましたけれど:、そして、みんなみんな東’や西や南へ向って行く気持ちは解るのだけれども、そこに暗雲が渦をなして流れて行くのは、なんとしてもいなみがたい事だろうと思える。私はなるたけいい生活をして行きたいと思いました。善良な人達である故に、その善良な人達を苦しめたくないと思い、この二’三年、幾度となく離れたり集まってみたりもしてみました。打ち割って云えば、母と二人だけで簡素な生活に這入れる事が、本当は一番の理想なのだけれども、なかなかそうもゆかない。私の母はフィリップ型の女で、気弱なくせに勝気でその日その日だ。私は長い間、この母親の姿だけを恋い求めていたようです。義父は母’よりも若いひとで、色々な曲折はあったけれども/二十年もこの養父は母と連れ添っていました。私は自分の作品の中に、この義父の事を大変思いやりぶかくは書いているけれども、ジュウシチハチの頃は、この義父をあまり好かなかったようです。だけど、今は、私もあれから十年も年齢をとりました。私もひとかどのフンベツがついて来ると、好きとか嫌いと云うよりもまずこの父を気の毒な人であったと思い始め:、養父に就いてそんなに心苦しくも思わないのだけれども、母親に対するような愛情のないのはなんとしても仕方がないと思っています。私はジュウニサン歳の頃から働いていました。両親に送金を始めたのは十シチハチ歳の頃からであったでしょう。不思議にキモノ一つ欲しいとも思わなかったせいか、働くことはあたりまえの事だと思って/わずかながらも私は送金をしていました。  現在になって、私はどうやら両親を遊ばせておける位になったのだけれども、その日その日を働いて日銭をもうけて来ている人達なので、なかなか私につきそって隠居をして来ようとはしない。私から商売の資本を貰っては、今だに小商いを始めて、シゴニチとたたないですぐ失敗をしているのです。私はこんなことにくたびれ始めました。隠居をして/草でもむしっていてくれているほうが、私にはうれしいのだけれども、なんとしても仕方がないのです。皆が別な意味で私を頼り切っているとも云えます。収入と云えば私の「書く」と云う事だけのことで、別にしっかりした安定もないのだ。世に知れている私と云うものは、ふてぶてしくあるかも知れない。酒呑みのようにきこえているかも知れない。だが、私は本当は酒も煙草もきらいだ。酒をのむことで気持ちを誤魔化していられるうちは楽だけれども、今はそんなもので誤魔化しきれなくなってしまいました。みんなみんな/あまり善良すぎる人たち故に。──私はまた七年前にひそやかながら現在の夫と結婚をしている。義父にはまだ母親がいるし、私から云えば義理の祖母’なのだけれども、この祖母の持論は、「お前のお母さんのために、私の息子が二十年間も子供もなく、男の一生が台無しになってしまった。」と云うのであった。だから、結局は恩と云うものを忘れてくれるなと云う事なのだろうけれども、この祖母には月々わずかながら隠居費と云うものも私は送っている。妙に私と云うものが固く皆に頼られているのです。やりきれないとは思いながら、私は自分に出来るあいだはとも考えて弱くなっています。けれど、私の仕事はマッチ箱を貼るのや/ミシンの内職とも違うし:、机の前に坐ってさえおれば原稿が-かねにでもなるようにも思っているらしい家族達に、私のいまの気持ちを正直に云ったところでどうにも始まった事でもないだろうと思います。いっそ、ミシンのペタルでも押して内職したほうが楽しみかも知れないのだけれど‥‥。長い間不幸な境遇にあった人達であっただけに、私はこの人達を愛してゆこうと思いました。そうして愛していました。だけど、一旦この小家族の中で波がおきると、母は父のホウへよりそって行ってしまって、私はまるであってもなくてもいい存在になってしまう。思い合うよりもまず憎み合う気持ちを淋しく考えます。頭が痛いと云えば薬を飲めばなおってしまうと思っている人達である。  朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、コメ味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、なかなか私の生活も忙しい。そのあいだに自分のものも書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私はなかなか気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、ときどき空虚なものが私を噛みます。梅雨時はとくにうっとうしいせいか、思いきりよく果ててしまいたい気も時にするときがあります。このまま消えてしまったならばせいせいするだろうと云った気持ちが切なのです。だけど、私がいなくなってしまえば、タコの糸が切れたように、家族の者達がキリキリ舞いをしてしまう事を考え始めると/それも出来ないような思いである。目標を定めたいと思って、頃日’禅と云うものをやりだしたのだけれども、まだそれも未詳の境地で:、自分だけの本当の悟りを開くにはなかなか前途はるかなものがあります。このごろの心のやり場にして、私はウォルター・ペイターを読んでいます。「ウォルター・ペイターは少数の中の特異な芸術家で、我々は彼の生活の中に/芸術に対する芸術家の生活の/極度の謙譲の例を見出す。彼の生活は、あたかも多量の潮を容れるために平かになった満潮時の海のように/心の経験が深くなればなる程かえって静まった。」と云う一節があったけれども、心の経験がペイターの日蔭であるならば、ペイターも案外ロマンチストに違いない。だが、そんなところが魅力なのか、ペイター研究はなかなか愉しい。ペイターは、また美しく大きな仕事を残して早世した人達を愛し/同情していたと云う事でもあるけれど、それにはひどく同感だ。  なんの雑誌であったか、最近松井須磨子の写真を見ました。実に美しかった。精練の美がにじみ出ていた。この人の老いた顔を、この写真から想像する事は出来ない。霜のように烈々とした美しい写真であった。天才肌のこのような女の死はひどく勿体なさを感じるけれど、なかなか利口なひとであったとも考えられる。とくにこの人が女優であるが故に。──私は、松井須磨子のような美貌も持っていなければ、まして天才でもないのだ。だけど、私は、何かしら老いて行く事をひどく恐れはじめています。肉体のおとろえもさる事ながら、作品の上のおとろえは/これはハイザンと云うにはあまりに-つらすぎる気持ちでしょう。  私はまた一面には台所をたいへん愛しています。家族の者達を愛していることは勿論。そうして自らこの中で安心して老い朽ちて行く自分を/私は瞼をとじて観念しているのだ。 「お前の仕事なぞ大したもンじゃないじゃないか。」言葉の行きがかりで夫の口から時にこのようなことも聞くけれど、あんまり当たり過ぎている事を、あまり身近な人間からきかされるので、痛いと云うよりも冷や汗が出る思いでした。私の仕事と云えば、色々な夾雑物ばかりのもので、本当はこれとして澄んだものが一つもない。実際ここまでは’きたけれど、ここから道が切れてしまった感じなのです。  過去に、私はまた一つの恋愛を持っていたこともあるけれど、これにはプレイトニズムではないけれど、私の芸術の中に、「恋をするものの密かな気息であり、天上の星の音楽である。」と云う言葉のようなものがありました。実に一瞬ではあったけれど、私の絶え絶えな気持ちによくムチ打ってくれるものがありました。その恋愛は、私との愛情がまだ終わりをつげないうちに滅んで亡くなってしまいました。この恋愛に破れた時は、生きる自信がなくなってしまったような気持ちでした。だけど、その小さな事件もまた私の過去の月日の中へ’流れて行ってしまいましたけれども:、私はチエホフの可愛い女のように、何かに寄りすがらなければ生きて行けない女であるらしい。──私は肉親と云うものには信を置かない。人よりも始末が悪いからだ。働きものだと云うので愛されている事は苦しいことである。苦しいはずだのに、結局はこの人達によりそって大根を刻み/人参を刻んでいるのです。私は最近本をサンヨン冊出しました。1冊は本屋がつぶれて半分しか印税がもらえず、あと三冊の印税は、これで少し雑文を辞めて/一年くらいは勉強をしなおすために取っておこうと考えているのだけれども:、外国時代の借金や、「これが最後だから」と云う義父の言葉に、小喫茶店くらいは出せる程のものを分けていたら、またそろそろ私は机の前に坐らなければならなくなりました。税務署からは税金のお達しも来ました。なかなか忙しい私です。自分でもこの気持ちや生活を排斥していながら、死にでもしなければ改正出来そうもないありさまに呆れている。嫌な女の部類です。生活が中途半端だけでなく、心までが中途半端で、自分で自分の気持ちにやりきれなくなる時がある。今は馬鹿馬鹿しく大きい家にいますけれども、これも私の或る一面の気持ちかも知れません:、少し清算して奥床しい家に引越したいものとも考えています。  私は、書けるだけ書こう。体は割合’丈夫だ。その丈夫さがいとわしいのだけれど、仕事をするには、体が健全でなければならないと思っています。果てる時は果てる時だと思っている。大熊長次郎と云う人の歌にこのようなのがある。 ◇。◇。◇。 【静かにぞ/ねむらせたまえ】 【人間の】 【命死にゆく/時のおわりに】 ◇。◇。◇。  これは、ほのぼのとした歌で、強がっている私を妙に悲しがらせる。実際悲しい時がある。勉強も字を書く事も嫌になってしまう時がある。芝居や映画も久しく疎縁だ。白々しい時は、唇に両手をあててじっとしているに限る。媒介物によって身を終ってしまいたいような、そんな焦々した日も多いのだけれども、本当はこれからいい仕事をしたいと思っています。「大した仕事じゃないじゃないか。」と云う、その私の大した事でもない仕事に、私はいまなお拘泥して生きているのです。何もダイドウの真ん中を行くのばかりが小説でもないと思っている。片隅の小道を通るような、私なりに小さくつつましいものが書きたいと思います。  どうも、私はこのごろ恐怖症にかかっているのかも知れない。人がみなおそろしく思える。訪ねてくれる人よりほか、私は私のほうからは誰も訪ねて行かない。夢をみてもおそろしい。ウツツでいても時に後ろに誰か立っているような錯覚をおこしている。大きな心でいたわりあってくれるものと云えば、もう/犬ぐらいのものです。月夜、石の段々に腰をかけていると、犬だけが、私によりそって来ている。私の手からはもう何もなくなってしまいました。本当は月夜の自分の影さえもなつかしいのだけれど‥‥。私の頭の中はいま真空だ。危急なものが流れこんで来そうに思える。その危急なものをまとめてみたいと日夜考えているのだけれども、その正体をつかむまでに至らない。ここまで書いて来て、何度となくこのようなぶちまけを書く事に私は嫌悪をもよおして来たのだけれど‥‥。まあいいとしましょう。  人にあれこれ云われなくても反省しすぎる位、反省して私は自分の事をさらけだしているつもりだ。この上なんの思い出だろう。過去の事は、苛められるムチにしかすぎない。  今は、両親とも別居してしまいました。広い家には私は女中と二人で気抜けしたように呆んやりしているけれど、愛してほしいと云う気持ちの母親が、まるで子供みたいに遠く離れていっていますし。──新聞を見ると毎日身の上相談と云うものがある。実際’女と云うものの身の上が、いかにオオネがなくて弱々しいのかと笑っていたけれども、私も段々笑えなくなり始めました。  ただ、力を出して仕事に熱中し/努力したいと思っています。それより他には私にはなにもなくなったのだ。何かもっと云いたい気もするけれども、心が鬱々としている時、何かはっきり云えない気持ちなのです。──静かな観照、素材の純化、孤独な地域、このような作品を長年’思っています。そして私の反省は死ぬまで私を苦しめることでしょう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三部】 ◇。◇。◇。◇。◇。 (3月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【烏が光る】 【都会の上にも光る】 【烏が白く光る】 【花粉の街◇ 電信柱’のいただき】 【ゆれますよ◇ ゆれてるよ】 【停まるところがない】 【肺が歌う◇ 短い景色の歌なの。】 ◇。◇。◇。 【茶色の雨の中を】 【私は耳をおさえて歩く】 【耳が痛い◇ 痛いのよ】 【雨中の烏が光る】 【もがきながら飛ぶ】 【杳かな荒野の風の夢】 【肺が歌う◇ 短い景色の歌なの。】 ◇。◇。◇。 【私は何故歩くのだろう】 【烏の命数だ】 【烏のようにどこかで私は生れた】 【停まるところのない夜】 【光って飛ぶ】 【自分が光るのではない】 【辺りの光線がわっと笑うのだ】 【私の肺が歌う◇ それだけなの‥‥。】 ◇。◇。◇。 【独りずまいの猫◇ 独りずまいの犬】 【誰もいない道の石ころ】 【露が消える】 【烏の空◇ 光る烏】 【釘を抜くようなすべっこい光】 【よろめき◇ よろめき◇ ただ光る烏】 【肺が歌う◇ 肺だけが歌うだけなのよ。】 ◇。◇。◇。  二つの肺の袋だけが私のような気がする。郵便が戻って来たので、ああそうかと思う。  読売新聞に送った「肺が歌う」と云う-し、清水さんと云うお方が長くて載せられぬと云う手紙だ。花柳病の薬の広告はいやにでっかく出ているけれども、貧乏な女の-しは長くて新聞には載せられないのだ。  たった八頁の新聞は馬鹿な-しなぞ余地がないのだ。  ピアレスベッドの広告が出ている。私はこんな丈夫な、ハイカラなベッドに一度も寝たことがない。タイガー美人女給募集。白いエプロンをかけて、長い紐を蝶々のように背中で結んで、ビールの栓抜きに鈴をつけた洒落た女給さんが眼に浮ぶ。新聞を見ていると、どろんこの轍の中へ’、牛のフンをにじりつけたような気持ちの悪さになって来る。  さて、どっこいしょ!  いやに体が重たいな。バナナのたたき売りがヒトヤマ十銭。ずるずるにくさりかけたのを食べたせいか体中に虫がわいたようになる。朝っぱらから、何処かで大正琴を無茶苦茶にかきならしている。  肺が歌うなぞと云う、たわけた-しが-かねになるとは思わないけれども、それでも、世間には一人くらいはものずきな人間がありそうなものだ。  /寝床をかたづけて髪結いに行く。  キンツル香水をヒト瓶もつけたような、大柄な女が髪を結ってもらっていた。あんまり匂いがはげしいので、袖で鼻を押さえていたいような気がする。頭が痛くなる。奥では髪結さん一家が、総掛かりで桜の造花つくりの内職だ。眼がさめるようだ。  もう-じき花見なのだ。  桃割れに結って貰う。安いかもじなので、どうにも工合が悪く、眉も目尻も吊りあがるほどだ。二階で、急に、女の声で、「助平だねえッ」と云った。みんなびっくりして、天井をみあげる。 「また昼間っからやってるよ。どったんばったん角力ばかりやってンですよ。──なあにね、酔っぱらって、おかみさんをいじめるのが癖なンで‥‥」  髪結さんがびんまどに、筋槍をつきたてながらくすくす笑っている。みんなも笑った。ご亭主は株屋で、細君はギュウ屋の女中だそうだ。朝から酒を飲んで、寝床をたたんだ事がないと云う夫婦だそうだ。  白いタケナガをかけてもらう。結い賃が三十銭、タケナガが二銭、三十五銭払う。  まるで頭の上は果物籠をのっけたような感じ、十五日ぶりでさっぱりとする。  肺が歌うがつっかえされたのだから、今度は品をかえて童話を持って行く事にする。  茅チョウから上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。埃がして、まるで夕焼みたいな空。何だか生きている事がめんどうくさくなる。黒門町からピエロの赤い服を着たちんどん屋の連中が三人乗り込んで来る。車内はみんなくすくす笑い出した。若いピエロが切符を切って貰っている。青と紅のだんだらジマの繻子の服で、顔だけは化粧をしていないので、なおさら妙だ。  あんな恰好をして生きてゆく人もある。ニットウはいくら位になるのかしら‥‥。私は知らん顔をして窓の外を見ていたけれど、段々、むちゃくちゃになってもいいような気がしてきた。一人くらい、私と連れ添う男はないものかと思う。  私を好きだと云うひとは、私と同じようにみんな貧乏だ。風に吹かれる雨戸のようにふわふわしている。それっきりだ。  銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。中野秀人と云うひとに逢う。花柳はるみと云う髪を剪ったハイカラな女の人と暮らしているひとだと風評にきいていたので、胸がどきどきした。世間の人と云うものは、なかなかひとの貧乏な事情なぞ判ってはもらえない。しをそのうち見ていただきますと云って戸外へ出る。  中野さんの赤いネクタイが綺麗だった。  紹介状も何もない女の-しなんか、どこの新聞社だって迷惑なのだ。銀座通りを歩く。  広告に出ていたタイガーと云う’店があった。並んで松月と云う店もある。みとれるように綺麗なひとがきどった小さい白前垂れをしてのぞいている。胸まであるエプロンはもう流行らないのかしら。  砂まじりの強い風が吹いた。  4丁目で、コック風な男が、通りすがりの人に広告マッチを一つずつくれている。私も貰った。あとがえりして二つも貰った。  ものを書いて-かねにしようなぞと考えた事が、まるで夢みたいに遠い事に思える。表通りの暮らしは、裏通りの生活とはまるきり違うのだ。十銭の牛飯も食えないなんて‥‥。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  ハイネとはどんな西洋人か知らない。  甘い-しを書く。  恋の-しも書く。ドイツのお母さんの-しも書く。そして-しが売れる。生田春月と云うひとはどんなおじさんかな‥‥。ホンヤクと云う事は飯を煮なおして、焼飯にする事かな。ハイネと生田春月はどんなカンケイなのか知らないけれど、本屋の棚にハイネが生まれた。ぽつんと立っている。  私は無政府主義者だ。  こんな窮屈な政治なんてまっぴらごめんだ。人間と自然がたわむれて、ひねもす生殖のいとなみ‥‥それでよいではございませんか。猫も夜々を哀れにないて歩いている。私もあんなにして男がほしいと云って歩きたい。  箒で掃きすてるほど男がいる。  婆羅門タイシの半偈の経とやら、はんにゃはらみとは云わないかな‥‥。  蛆が湧くのだ。私の体に蛆が湧くのだ。  朝から水ばかり飲んでいる。盗っ人にはいる空想をする。どなたさまも戸締りに御用心。いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。ひどいことをしてみせようと思っている。  夜。牛めしを食べて、ロート目薬を買う。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  夜、牛込の生田長江と云うひとをたずねる。  この人はらい病だと聞いていたけれど、そんな事はどうでもいい。詩人になりたいと云ったら、何とか筋道をつけてくれるかもしれない。  私はもう七十銭しか持っていないのだ。  アオウマを見たりと云う題をつけて、しの原稿を持ってゆく。古ぼけた浪人のいるような家だ。電灯が馬鹿にくらい。どんなおばけが出て来るかと思った。  部屋の隅っこに小さくなっていると、生田氏がスッと奥から出て来た。何の変哲もない大島の光った着物を着ている、痩せた人だった。顔の皮膚がばかにてらてら光っている。  声の小さい、優しい人であった。  何も云わないで、原稿を見ていただきたいと云ったら、いま、すぐには見られないと云う。  私は七十銭しか持っていないので、体中がかあと熱くなる。 「どんなひとの-しを読みましたか?」 「はい、ハイネを読みました。ホイットマンも読みました」  高級な-しを読むと云う事を、云っておかないと悪いような気がした。だけど、本当はハイネもホイットマンも私のこころからはセンマンリも遠いひとだ。 「プウシュキンは好きです」  私はいそいで本当の事を云った。  あなたもご病気で悲惨のきわみだけれど、私も貧乏で、悲惨のきわみなのです。四百四病の病より、ヒンよりつらいものは無いと、うちのおっかさんが口癖に云います。だから、私はころされた大杉栄が好きなのです。  広い部屋。暗いトコのマに/切り口の白い本が少し積み重ねてある。シタンの机が一つ。暑くるしいのに障子が閉めてある。傘のない電灯が馬鹿にくらい。  遠くに離れて坐っているので、生田さんは馬鹿に細っこく見える。四十くらいの人だと思う。  何と云う事もなく、生田春月と云うひとを尋ねるべきだったと思う。婆やさんみたいなひとがお茶を持って来たので、私はがぶりと飲んだ。  病気の人を侮辱してはいけないと思った。  詩の原稿をあずけて帰る。  どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。  上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡を吹いている。宝丹の広告燈もまばゆい。  おしる粉一ぱいあがったよのだみ声にさそわれて、五銭のおしる粉を食べた。夜店が賑やかだ。  水中花、ナフタリンの花、サスペンダー、ロシヤパン、万能大根刻み、玉子の泡立器、古本屋の赤い表紙のクロポトキン、青い表紙の人形の家。ぱらぱらと頁をめくると、松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る。  福神漬屋の酒悦の前は黒山のような人だかり。インド人がバナナの叩き売りをしている。  十三屋の櫛屋の前に、艶歌師がヴァイオリンを弾いていた。みどりも深きはくようの‥‥ほととぎすの歌だ。随分古めかしい歌を歌っている。  いっとき立ち止まってきく。トシマのいちょうがえしの女がそばに立っていた。昔、佐世保にいた頃、私はこの歌をきいた事がある。誘われるようななつかしさを感じる。  艶歌師が歌ってくれるようないい小説が書きたい。だけど、小説はナガったらしくてめんどうくさい。ルパシカを着て、紐を前で長く結んでいる艶歌師の四角い顔が、文章クラブの写真で見た、室生犀星と云うひとに似ている。  路地をはいってゆくと、湯帰りの階カのおばさんに逢った。おばさんは洗濯物を夜干ししていた。 「部屋代、何とかして下さいよ。本当に困るンですからね‥‥」  はいはい、私だって本当に困るンですよ。じっさいのところ、私だって苦労しつづけたのですよと云いたかった。  明日は玉の井に身売りでもしようかと思う。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  地虫が鳴いている。  ぷちぷち音をたてて青葉が萌えてゆくような気がする。夜中だ。おいなりさんを売りに来る。声が近くになり、また遠くなってゆく。狐寿司はうまいだろうな。甘辛い油揚げの中にいっぱいつまった飯、じとじと’汁がたれそうなかんぴょうの帯。  階カでは博打が始まっている。 ◇。◇。◇。 【魚の骨の骨】 【水流に滴る岸辺の草】 【魚の骨の骨】 【蕨色の雲マに浮ぶ灰】 【こんちはと河下のあいさつ】 【悶と云う字◇ 女の字】 【悶は股の中にある】 【嫋々と匂う股の中にある】 【モンと云う字よ。】 ◇。◇。◇。 【魚の骨の骨】 【弓をひいてたてまつる一筆】 【魚の骨の骨】 【還かえってくる情愛】 【愁と云う字◇ その字】 【天下の人々が口にする】 【ハラワタのなかにある】 【愁いの海に沈むフネよ。】 ◇。◇。◇。 【一切無我/】 ◇。◇。◇。 【○】 ◇。◇。◇。 【この街にいろいろな人が集まってくる】 【飢えによる堕落の人々】 【萎縮した顔◇ 病める肉体の渦】 【下層階級のはきだめ】 【天皇陛下は狂っておいでになるそうだ】 【患っているもののみの東京/】 ◇。◇。◇。 【一層怖ろしい風が吹く】 【ああ、何処から吹く風なのだ!】 【情事ははびこる◇ かびが生える】 【美しい思想とか】 【善良な思想と云うものがない】 【怯えて暮らしている】 【みんな何かに怯えている。】 ◇。◇。◇。 【隙間から見える青ざめたる天使】 【不思議な無限‥‥】 【神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。】 【貧弱な行為と汎神論者の鍋】 【りくぞくと集まってくる人々】 【何かを犯しに来る人々の群れ】 【街のオオドケイも狂いはじめた。】 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  雨。  ユーゴーの惨めな人々を読む。  ナポレオンは英雄で、ワーテルローの背景をすぐ眼に浮べるほど立派なお方と思っていたのだけれど、共和制をくつがえして、ナポレオン帝国をたてた矛盾が、変に気にかかって来る。こうした世の中で、たった一片のパンを盗んだ男が十九年も牢へはいっている事も妙だ。  たった一片のパンで、十九年の牢獄生活に耐えてゆく、人間も人間。世の中も世の中なりか。  駄菓子屋へ行って一銭の飴玉を五ツ買って来る。  鏡を見る。愛らしいのだが、どうにもならぬ。  急に油をつけて髪をかきつけてみる。十日あまりも髪を結わないので、頭の地肌がのぼせて仕方がない。  脚がずくずくにふくらんできた。穴があく。麦メシをどっさりたべるといい。どっさり食べると云う事が問題だ。どっさりとね‥‥。  ナポレオンのような戦術家が生まれて、どいつにもこいつにも十年以上の牢獄を与える。人民はまるで算盤玉みたいだ。不幸な国よ。朝から晩まで食べる事ばかり考えている事も悲しい生き方だ。いったい、私は誰なの? なんなのさ。どうして生きて動いているんだろう。  ウデ玉子飛んで来い。  あんこの鯛焼き飛んで来い。  苺のジャムパン飛んで来い。  蓬莱軒のシナそば飛んで来い。  ああ、そばやのゆで汁でも只飲みして来ようか。ユーゴー氏を売る事にきめる。五十銭もむつかしいだろう‥‥。  良心に必要なだけの満足を汲み取りか、食慾に必要なだけの-かねを工面して生きてゆくことにも閉口頓首でございます。  ナポレオン帝政カの天才について。  或る薬屋が軍隊のために、ボールガミの靴底を発明し、それを革として売出して40万リーブルの年金を得たのだそうだ。或る僧侶が、ただ、鼻声だと云うために大司教となり、行商人が金貸しの女と結婚して、七八百万’の-かねを産ませた。十九世紀のさなかにある、フランスの修道院は、日に向かっている梟に過ぎないなんて‥‥3度の革命を経てパリーはまた喜劇のむしかえし。  私は今日はこれから、この偉大なユーゴーの「みぜらぶる」と別れなければならない。  天才とは‥‥ちっぽけな日本にはございません。気違いがいるだけ。だあれも、天才なんて見たことがない。天才とは贅沢品みたいなものだ。日本人は狂人ばかりを見馴れて葬ることしか出来ない。  おいたわしや、気が狂ったと云う陛下も、本当は天才なのかもしれない。くるくるとお勅語をお巻きになって、眼鏡にして臣下をごらんになったと云う伝説ごとだけれど、哀れな陛下よ。あなたは哀しいばかりに正直な天才です。  終日雨なり。飴玉と板昆布で露命をつなぐ。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ)  アオウマを見たりを生田氏より送りかえして貰う。日光にさらす。ヒにあたると、紙はすぐくるりとはねあがる。  しは死に通じると云うところでしょうね。ええご返事がないところはひきょうみれん‥‥。 「少女」と云う雑誌から三円の稿料を送って来る。半年も前に持ちこんだ原稿が十枚、題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。──詩集なぞ誰だって見向きもしない。  間代/二円入れておく。  おばさんは急に、にこにこしている。手紙が来て判を押すと云う事はお祭のように重大だ。三文判の効用。生きていることもまんざらではない。  急にせっせと童話を書く。  蜜柑箱に新聞紙を張りつけて、風呂敷を鋲でとめたの。箱の中にはインクも/ユーゴー様も/土鍋も/魚も同居。あいなめイチビ買う。コメ一升買う。風呂にも入る。  豚の王様、紅い靴、どっちも六枚ずつ。風呂あがりのせいか、安福せっけんの匂いが、肌にぷんぷん匂う。何と云う事もなく、せっけんの匂いをかいでいたら、フランスと云う国へ行ってみたいなと思う。  日本よりは住み心地のいいところではないかしら‥‥。夢にみるほど恋いこがれてみたところで仕方がない。猫が汽車に乗りたいと思うようなものだ。  私のペンは不思議なペン。  私は地図のようなものを書いてみる。まず、朝鮮まで渡って、それから、一日に三里ずつ歩けば、何日目にはパリーに着くだろう。そのあいだ、飲まず食わずでは’いられないから、私は働きながら行かなければならない。  ちょっと疲れて来る。  夜、あいなめを焼いて久しぶりに御飯をたべる。涙があふれる。平和な気持ちになった。 ◇。◇。◇。 (5月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【なまぐさい風が吹く】 【緑が萌え立つ】 【夜明のしらしらとした往来が】 【石油色に光っている】 【森閑とした5月の朝。】 ◇。◇。◇。 【多くの夢が煙立つ】 【頭蓋骨が笑う】 【囚人も役人も◇ 恋びとも】 【地獄の門へは同じ道づれ】 【みんな苛めあうがいい】 【責めあうがいい】 【自然が人間の生活をきめてくれるのよ】 【ねえ◇ そうなんでしょう?】 ◇。◇。◇。  夢の中で、わけもわからぬ人に逢う。宿屋の寝床で白いシーツの上に、頭蓋骨の男が寝ている。私を見るなり手をひっぱる。私はちっとも怖がらないで、そばへ行って横になった。私は、なまめかしくさえしている。  眼がさめてから厭な気持ちだった。  ネドコの中で-しを書く。  納豆売りのおばさんが通る。あわてて納豆売りのおばさんを二階から呼びとめて、階カへ降りてゆくと、雨あがりのせいか、ぱあっと石油色に/道が光っている。まだあまり起きている家もない。雀だけが忙わしそうに石油色の道におりて遊んでいる。何処からか、ハトも来ている。栗の花が激しく匂う。  納豆に辛子をそえて貰う。  私はこのごろ、もう自分の事だけしか考えない。家族のある、あたたかい家庭と云うものは、ナンマンリもさきの事だ。  こころのなかで、ひそかに、私は神様を憎悪する。こころやすく死んでしまいたいと口にするような女がいる。それが私だ。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、私はまるで、兎がひとねむりするみたいに、死にたいと云うことをこころやすく云ってみる。それで、何となく気が済むのだ。気が済むと云う事は一番かねのかからない愉しみだ。  死ぬと云えば、すぐ哀しくなってきて、何となくやりきれなくなる。  何でも出来るような気がしてくる。勇気で頭が風船のようにふくらんで来る。  昼からヨロズ朝報に行く。  まだ係りの人が来ていないと云うので、社の前の小さいミルクホールで牛乳を一杯飲む。人力車が行く。自動車が行く。自転車が行く。お昼なので、赤い塗りの箱を山のように肩にかついで、そばやが行く。かあっと照りつける往来を見ていると、肺が歌うなぞと云う-しを持ちあるいている自分が厭になって来た。誰も知らないところで、一人でもがいている必要はない。第一、大した駄作で、いまどき、肺のことなぞ誰も考えているものか‥‥。空気を吸うことなぞ’どうでもいいのだ。  ああ、かねさえあれば、千頁の詩集を出版してやりたい。友達もない、かねもない、ただ、亀の子のように、のこのこ日向を歩きまわっている。まるで私は乞食のような哀れさだ。誰もめぐんでなんかくれない。洟もひっかけやしない。ああ、わっと云うような景色のなかからお札は降って来ないかな。千頁の詩集を出してやる! 題は男の骨、もっとむざんな題でもいい。  名もない女の-しなぞ買ってもらわなくてもいい。いまに千頁の詩集を出版しましょう。まるで仏壇のような金ピカ詩集/ デコンデコンに塗りたくって、美しい絵を入れて、もう一つおまけに、詩集用のオルゴオルもつけてね:、まず、きれいな音の中から、しが飛び出して来るやつ‥‥奇想天外詩集と云うものを出したい。どこかに、色気の深い金持ちの紳士はいないものかしら。千頁の詩集を出してくれれば、私は裸になって逆立ちをしてみせてもいい。  私はいつも、新聞社のかえり、悲しくなる。広い沙漠に迷いこんだみたいに頼りどころがないのだ。ぴゅうぴゅうと風の吹くなかを、私一人が歩いているような気がする。  鬼でもいいから逢いたいものだ。慄えてくる。歩きながら泣いている。涙と云うものは妙な-ものだ。ただの水、生ぬるい水、ぞっこん心がしびれてくる水、人の情のようになぐさめてくれる水、誇張の水、歩きながら泣くのはまことに工合がいい。風がすぐ乾かしてくれる。ハンカチもいらない。袂も汚れない。  鍋町の文房具屋でハトロンの封筒も買って、郵便局で封を書いて、肺は歌うを朝日新聞に送る。何とかなるだろうと云う空想だけの勇気だ。  泣きながら歩いたのでホオがつっぱるような気がする。匂いのいい文学的なクリームと云うやつはないかな。長い事、クリームもおしろいも塗った事がない。  果物屋は桜んぼうの出さかり、皿に盛って金十銭。  浅草に行く。  やたらに食物店ばかりが眼につく。ひょうたん池のところで、ウデ玉子を二つ買って食べる。ハムスンの飢えと云う小説を思い出した。昼間からついているイルミネーションと楽隊、色さまざまなのぼりの賑わい。サンカン共通十銭なりで、オペラに、活動に、浪花節。ここだけは大入満員の盛況だ。  私は急に役者になりたいと思った。  白いマントを着たイヴァン・モジュウヒン。なかなかよい男だ。泥絵具で、少々、イヴァン・モジュウヒンはにやけている。活動は久しく見た事がない。  玉子のげっぷが出る。  郵便局から出した-しはまだとどかないだろう。取りかえしに行きたくなった。しを書くと云う事が、人生になんの必要があるのだろう‥‥。早くかたづきそうらえ。何も云う事これなくそうろう。ぽおっといつまでも明るい空。私は夜が好きだ。私は夜のように早く年をとりたい。早く三十になりたい。葬儀屋の女房になって、線香くさい飯を食うようになっているかもしれない。それとも、私は貧乏な外科医の若い学生と同棲して、もう生きたまま解剖してもらってもいい。私はねえ、この世が辛くなってしまったのよ。腹のなかを十文字に割ってハラワタをつかみ出したら、蛆が行列していたって。私はどうせ、どぶのなかから誕生したのです。哀れまれる事はないのよ。何処にでもいる女なのよ。つまみぐいが好きで、悲劇が好きで、きどってる人間がしんからきらいで‥‥だって、きどってる人間だって、女とも寝てるじゃないの。同じような事なんだけど、衣食住が足りれば、第一、品と云うものが必要になる。  浅草はいいところだ。  みんなが、何となくのぼせかえっている。体中でいきいきしている。イルミネーションが段々はっきりして来る。  誰にでもある共通な、自然なこころの置場なのよ。三角の山盛りで、黄色に塗った五銭のアイスクリン。エエ/ひやっこいアイスクリン/ その隣りが壺焼。おでん屋は皿ほどもあるがんもどきをつまみあげている。  十字の切りかたは知らないけれど、ああ神様と祈りたくなります。  全心全霊をかたむけてエホバよ。  プウシュキンはヒンのいい-しばかりお書きになっていた。そして、人の魂をとろかすもの。私ときたら鼻もちならぬ。  みんな自分が可愛いのだ。どなたさまも自分に惚れすぎている。人の事はみえない。だから、私が、いくら食べたいと云う-しを書いても駄目なの。疲れてへとへとで、洗濯せっけんもないのよ。  家へ帰りたくない。  ひと晩じゅう浅草を歩いて-いたい。  鐘撞堂の後ろに、小さい旅館がたくさん並んでいる。「あんた貫一さんはないのかい?」一人て呆んやり歩いている私に、旅館の番頭が声をかける。 「ジュウシチハチとなってるかな?」  私はおかしくなった。浅草に夜が来た。みんな生き生きと光る。楽隊は鳴りひびく。風はまことに涼やかで、私のおっぱいが一貫目もあるほど重い。感性の気違い。一目’みただけで、この娘、売物と云う表情をしている、ヤスキブシの看板に凭れて休む。何とも陽気なただならぬ気配で、床をふみならす音、口笛を吹きたてる群集。あらえっさっさアのソプラノ合唱。日本の歌は原始的で、肉体的だ。のぼせあがっている。何もかもすべて、すべてがのぼせあがっている。  鯉のぼりのようなのぼせ方だ。たしなみのいいズボンを履く事がきらいで、下帯一つで歩いている。もともとは原始民族なのだけど、ちょっとかぶれて火ぶくれをおこして来たのだ。  かんたんな火ぶくれなのよ、ねえ、塗りぐすりでかためて調法であろう‥‥。苦悩を売りものにしてみたところで、もともと偽の文明。第一イルミネーションの光りのほうが無慈悲だ。皮をハいだ、底の底まで見透せる妙な光りかたである。美人が少しも美人にはみえない。光りの空、息苦しい光彩の波の中に、人はひしめきあっている。私もひしめきあっている。  なるほど、日本は黄金トウ/ ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  山のように厚いノートはないものか、枕のようにでっかいノート。  頭のなかにたまっている、何もかも、きっちり挾んで逃げないようにしておきたい。  オカアサマ、私生児はへこたれませんよ。もう面倒なことは考えないでいましょう。どんなに家柄がいいと云ったところで/落ちぶれてどろどろになる貴族もいます。貴族とは紋のような紋。あおいの紋は立派だそうだけれど、私はやっぱり菊や桐の紋が好きです。  私は折れた鉛筆のようにごろりと眠る。  世の中はいろんなもので賑やかだ。  十二ソウの鉛筆工場の水車の音が、ごっとんごっとん耳に響く。爽やかな風が吹いているのに/私は畳に寝ころんでいる。ただ、呆んやりと哀しくなるばかり。本当はちっとも死にたくはないのに、私はあの人に、死ぬかもしれないと云う手紙を書きたくなった。  少しも死にたくはないのに、死にたいと思うこともある。空想が象のようにふくらんで来る。象が水ぶくれになってよたよたと這いまわって来る。  何処かで鮭を焼く匂いがしている。  あの人が走って来てくれるような、長い手紙を書きたかったけれど、紙もインクもない。新宿の甲州屋の陳列のなかの万年筆が、電信柱’のようににゅっと眼に浮ぶ。二円五十銭だったかな。紙はつるつるしたのが自由自在だけれど、こちらは素かんぴん。ああ胴欲ではござりませぬか。  シンシンとよく蝉が啼きたてている。  部屋の中を見まわしてみる。かび臭い。トコのマもなければ、棚も押入もない。この暑いのに、オッカサンはまだネルの着物を着ている。洗いざらしたネルの着物で、ことことさっきからキャベツを刻んでいる。部屋の隅に板切れを置いて、まことにきれいな姿なり。  私たちはキャベツばっかり食べている。ソースをかけて肉なしのキャベツをたべる。それはねえ、ただ、まぼろしの料理。夢のなかの出来事さ。粉挽も見た事がない。魚はもちろん、魚屋の前は眼をつぶって、息を殺して通る。あいなめに、鯛に、さばに、いさき、かつおの紳士。──フランセ・ママイといってね、ときどき私のところへヨバナしに来る笛吹きの爺さんが:、ああドーデーと云う方は’かねに困らぬ小説家なのであろう。風車小屋だよりは、ぜいたく至極な物語りで、十二ソウの汚ない風車小屋とはだいぶおもむきが違うのであろう。俳句でもつくってみたくなるけれど、どうも、川柳モドキになってしまう。風に吹かれただけで俳句がつくりたくなる。蝉の声をきいただけで、ああと溜息まじり。  さあ、そろそろ時間が来ました。  神楽坂に夜店を出しに行く。藁ダナの床屋さんから雨戸を借りて、鯛焼き屋の横に店をひろげる。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  朝から雨。  仕方がないからオッカサンと風呂に行く。着物をぬぐと私は元気になって来る。富士山のペンキ絵がべろんと幕を張ったよう。松がシゴホンあって、その横に花王せっけんの広告。  おなかの大きい不器量なおかみさんが一人、かがみの前で鼻唄を歌っている。どうして、あんなにむやみにおなかがふくれるのか私にはわからない。どうしたはずみで、あんなおなかになるのだろう。それでも、見ているととても愛らしい。何度も、まあるいおなかに湯をかけている。  窓の外を誰か口笛をふいて通っている。父さんは北海道へ行ってそれっきり。なかなか思わしい仕事もないのであろう。私も口笛を吹いてみる。  ああ、そは-かの人か、うたげのなかに、女学校時代のことがふっとなつかしく頭に浮んで来る。宝塚の歌劇学校へ行ってみたいと思った事もあった。田舎回りの役者になりたいと思った事もあった。初恋の人は、同級の看護婦といっしょになってしまった。  ここから尾道は何百リも遠い。まるで、虫けらみたいな生き方だ。東京には、いっぱい、いい事があると思ったけれど何もない。  裸になっている時が一等しあわせだ。  オッカサンは流しの隅っこで円くなって洗濯をしている。私は風呂の中であごまでつかって口笛を吹く。知っているうたをみんな吹いてみる。しまいには出鱈目な節で吹く。出鱈目な節のほうがよっぽど感じが出て、しみじみと哀しくなって来る。昨夜読んだ、ユジン・オニイルの「長いかえりの船路」の中の:、イヴン、てめえ、娘っ子に会いたいって唸ってたんだぜ、そのくせ、娘っ子がやって来ると、てめえ、豚小屋の豚のように喉をならしてやがるんだと云うところを思い出した。  私はもう娘ではないけれど、何だか、娘さんみたいな気持ちになって来る。  夜、ひどい吹き降りになった。  電気をひくくさげて、小さいそろばんをはじく。いくらそろばんをはじいたところで、かねが出て来るものでもない。オッカサンは鉛筆をなめなめ帳面づけ。いくらそろばんをはじいても、根が呆んやりと、うわのそらでいるせいか、いっこうに勘定に身がはいらない。まちがえてばかりいる。それでもただひとりの肉親がそばにいる事は賑やかでいいものだ。  花ちゃんやア、ハアイ‥‥私はろくろ首の女だ。どこへ’でも首がのびて自由自在。油もなめに行く。男もなめにゆく。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  万世橋の駅に行く。  赤レンガの汚れた建物。広瀬中佐が雨に濡れている。  マンソウの果物テンで、西瓜が真っ赤に眼にしみる。私は駅の入口に立って白いハンカチを持って立っている事になっている。どんな男が肩を叩くのかは知らない。双葉劇団支配人と云うのは、どんな恰好で電車から降りて来るのだろう。  古池や/蛙飛び込む水の音。私はそのカワズさんなのよ。仕方がないから古池へどぼんと飛び込むのさ。むつかしい事なんか考えちゃいない。ただ、どぼんと飛びこむだけのこと。  眼鏡をかけた背の高い男が私の前を通って、またふっとあとがえりして立った。充分’自信のあるいでたち。「広告を見たひと?」:「ええそうです。」その男は歩き出した。私も、犬のようにその男のあとからついて行った。まさか、私が、夜店を出しているしがない女とは思うまい。私は今日は、びっくりするほど、おしろいを白くつけて来たのだ。田舎娘ジ-ョーキョーの図である。  雨の中を須田町まであるいて、小さいミルクホールへ入る。この男も、あまり-かねがあるのでもあるまい。  双葉劇団と云うのは田舎まわりの芝居なのだそうだ。女優が少ないので、もう-すぐからでも稽古にかかってもいいと云った。  白いハンカチが胸ポケットからはみ出ている。何だか忘れそうな影のうすい顔だ、いやらしいものが直感で胸に来る。どんな事でもがまんはするけれど、こんな男にだまされるのは厭だ。サラリーは働き次第だと云う事だけれど、私は戸外の雨ばかり見ていた。  五銭の牛乳を二杯ご馳走して貰う。私は牛乳をわざわざ飲みたいとは思わない、揚げたてのカツレツがたべたいのだもの。  私が履歴書を出すと、その男は煙草で汚れた指で、ざっと拡げて、履歴書をポケットへしまった。履歴書よりも、この男は私の体が必要なのかも知れない。  ボイルの浴衣に雨傘を持ったよれよれの女の姿は/この男には却って好都合’なのだろう。神田の三崎町のホテルに事務所があると云うのでついて行ったけれど、出て来た女中は始めての客のような顔をしている。  事務所と云うのは空想の事務所。何もない部屋のすがたは妙に落ちつきがない。  その男は嘘ばかり云うので、私も嘘ばかり云う。世の中は味なものではございませんか。  鉛筆工場の水車の音がごっとんごっとん耳について来る。どんな芝居をやってみたいかと云うので、皿屋敷の菊と云う役、どんどろ大師のお弓、それからカチュウシャのようなのとならべたててみる。きれいな幕が見える。お客さんが手を叩く。なんなら、二階から手紙を読むお軽もいい。菊次郎と云う女形の美しい姿をおぼえているので、私の空想は自由自在だ。菊次郎も松助も、左団次もこの男は何も知らない。  いっしょに遊びたいと云ったけれど、私はもう、芝居者のような気持ちで、気が浮かないから厭だと云って立ちあがった。  急に遊びたいなんておかしいじゃないのと/さっさと階カへ降りると、女中が「あら、おそばが来ましたよ」と云った。ざるそばの赤うるしのまるい笊が重ねてあったが、にっこり笑って戸外へ出た。傘をさすのも忘れて雨の中を歩く。ごうごうと電車の音ばかり。四方八方’電車の唸りだ。  いやに、赤うるしのざるそばの重ねたのが眼について離れない。四つもあの男はそばを食べるのかしら‥‥。そばが食べたいな。  巷に雨の降るごとく、何処かの誰かが歌った。重たい雨。厭な雨。不安になって来る雨。リンカクのない雨。空想的になる雨。貧乏な雨。夜店の出ない雨。首をくくりたくなる雨。酒が飲みたい雨。一升くらいざぶざぶと酒が飲みたくなる雨。女だって酒を飲みたくなる雨。昂奮してくる雨。愛したくなる雨。オッカサンのような雨。私生児のような雨。私は雨のなかを/ただあてもなく歩く。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【うれいひめたるくちうたは】 【うたともなりぬ◇ けむりとも】 ◇。◇。◇。  長い行列のなかに立っていると、女と云うものは旗のように風まかせになって来る。早いはなしが、この長い行列の女たちだって。ただいい暮らしさえあれば、こんな行列には立たなくても済むのだ。何か職がほしいと云う事だけでしばられているにすぎない。  失業は貞操のない女のように荒んでむちゃくちゃになって来る。たった三十円の月給が身につかないとは-なんとした事であろう。五円もあれば、アキタコマチのぱりぱりが一斗かえる。ほっこりとたきたてに、沢庵をそえてね。それだけの願いなのよ。何とかどうにか-なりませんか。  行列は少しずつちぢまり、笑って出て来るもの、失望して出て来るもの、扉の前に立っている私たちは、少しずついらいらとして来る。  菜種ドンヤの、たった二人ばかり入り用の女事務員が/ざっと百人あまりも並んでいる。やっと私の番になった。履歴書と引きくらべて、まず、人品骨柄、器量がいいか悪いかできまる。しばらく晒しものになって、ハガキで通知をしますと云う返事。こんなのは毎度のことで馴れてはいるけれど/何とも味気ない。ふしあわせな生まれつきだと思う。飛びきりに美しいと云う事は、それだけでもけっこうな事であろう。私には何もない。ただ丈夫な身体があると云うだけ。  生きていて、まず、何とか生活してゆくと云う人間の大切ないとなみが、いつも失敗むざんだ。堕落してゆくに都合のいいレディーメイド。やとい主は烱眼無類だ。こんな女なぞはやとってくれない。  だけど、もし、やとってもらって、三十円も月給を貰えたら、私は血反吐を吐くほど一生懸命’働きたいのだけど‥‥。もう、お天気の日を選んで夜店を出すのは厭になった。  ほんとに厭な事だ。土ぼこりをいっぱい吸って眼の前に立ち止まる人を/そっと見上げて笑うしぐさにあきあきした。卑屈になって来る。私はまずなんとしても広いロシヤへ行きたいね。バーリン、バーリン(旦那、旦那)。ロシヤは日本よりか広いに違いない。女の少ない国だったらどんなにいいだろう。 ◇。◇。◇。 【インキを買ってかえる。】 【何とかしてお目もじいたしたくそうろう。】 【お金がほしくそうろう。】 【ただの十円でもよろしくそうろう。】 【マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく-そうろう。】 【シナそばが一杯たべたくそうろう。】 【雷門助六をききに行きたくそうろう。】 【朝鮮でも満洲へでも働きに行きたくそうろう。】 【たった一度お目もじいたしたくそうろう。】 【本当にお金がほしくそうろう。】 ◇。◇。◇。  手紙を書いてみるがどうにもならぬ。あの人にはもうお嫁さんがあるのだ。ただ、なぐさみに歌の文句を書いてみるだけ。  夜。  眠れないので、電気をつけて、ぼろぼろのユジン・オニイルを読む。ヤヌシの大工さんが、夜通し、ろくろをまわして、玩具のコマをつくっている。どの人も、夜も日もなく働かねば食えない世の中なり。蚊がうるさいけれど、蚊帳’のない暮らしむきなので、皿におがくずを入れていぶす。へやの中がいぶる。それでも蚊がいる。丈夫な蚊だ。うるさい蚊だ。オッカサンに浴衣を買ってやりたいと思うけど仕方がない。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  爽やかな天気だ。まばゆいばかりの緑の十二ソウ。池のまわりを裸馬をつれた男が通っている。馬がびろうどのような汗をかいている。しいんしいんと蝉が鳴きたてている。  氷屋の旗がびくともしない。  オッカサンも私も背中に雑貨を背おって歩いている。全く暑い。東京は暑いところだ。  新宿までの電車賃を倹約して、鳴子坂の三好野で焼団子を五串買ってたべる。お茶は何度でもおかわりして、ああちょっとだけしあわせ。  オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりしていて、子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで/粗暴な冒険にみちた生活をしたのだそうだ。偉くなってしまえば、こんな身の上話もああそうなのかと思う。私も芝居を書いてみようかな。奇想天外な芝居。それとも涙もなくなるヤツ。オニイルだって、いつも悲愴な時ばかりではなかったであろう。  時には鼻唄まじりにいいご機嫌な時もあったに違いない。  よろよろと荷をかついで、小さいべっぴんさんは暑い街を歩く。どうでもいいのだ。もうやぶれかぶれなのだ。はっきりと道の上にうつした影は/ひきがえるのように這っている。  哀れなオッカサンが何故私を生んだのだろう。私生児と云う事はどうでもいい事だけれど、オッカサンには罪はない。なんの咎める事があろう。世界のどこかのお后さまだって私生児を生む事もある。世の中と云うものはそんなものだ。女は子供を産むために生きている。むずかしい手つづきを踏むことなんか考えてはいない。男の人が好きだから身をまかせてしまうきりなのだ。  神楽坂の床屋さんで水を飲ませて貰う。  今日は縁日で夕方から賑やかなのだそうだ。  きれいな芸者がたくさん歩いている。しのぶ売りも金魚屋も出ている。今日は水中花’を売るおばさんの隣りに場所割りがきまる。  店を出して、私は雨傘を出してゴザの上に坐る。何とも暑い夕陽だ。夕陽は何処から来るのだろう。じりじりと照りつける/凪のような暑さ。人通りが馬鹿に多いけれど、パンツも/沓下も/ステテコもなかなか売れそうにもない。オッカサンは下谷までお使い。  市松の紙の屋根を張った虫売りが/前の金物屋の店さきに出た。じょうさい屋が通る。  みがきこんだ岡持ちをさげた手拭い浴衣の男が、自転車に片足かけて坂をすべってゆく。  華やかな町の姿だ。一人だって、雨傘をさしてしゃがんでいる女には気にもとめない。 ◇。◇。◇。 【おえんまさまの舌は一ジョウ】 【まっかな夕陽】 【煮えるような空気の底】 ◇。◇。◇。 【哀しみのしみこんだ鼻のかたち】 【その向こうに発射する一つのきらめき】 【別に生きようとも思わぬ】 【たださらさらと邪魔にならぬような生存】 ◇。◇。◇。 【おぼつかない冥土’の細道から】 【あるか-なきかのけぶり◇ けぶり】 【推察するような漂いもなく】 【私の青春は朽ちて灰になる、】 ◇。◇。◇。 【本当の事を云って下さい】 【ただそれが知りたいだけだ】 【人非人と同様の土ぼこりの中に】 【視力の近い虹の世界が】 【いっぱいカタツムリをふりおとしている】 【一つ一つ転げおちて草の葉の露と化して】 【茫の世界に消えてゆく】 【悪巧みは何もない脆い生き方】 【血と匂いを持たぬカタツムリの世界】 ◇。◇。◇。 【ああ夢の世界よ】 【夢の世のぜいたくな人達を呪う】 【なんのきっかけもない暑い夕陽の怖ろしさ。】 ◇。◇。◇。  私はぱりぱりに乾いてゆく傘の下で、じいっと赤い夕陽を眺めていた。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  飲食店にはいって、ふっと、箸立ての汚ない箸のたばを見ると、私には卑しいものしかないのを感じる。人の舌に触れた、はげちょろけの箸を二本抜いて、それで丼飯を食べる。まるで犬のような姿だ。汚ないとも思わなくなってしまっている。人類も何もあったものではない。ただ、猛烈に美味いと云う感覚だけで/鰯の焼いたのにかぶりつく。小皿のなかの水びたしの菜っぱのコウコウ。  いつまでも私は不安だ。卑しくて犬のように這いずりまわっているくせに、もう、死んでしまいたいと思うくせに、誰かをだましてやろうと思っているくせに、私には何の力もない。袖口も、襟もとも垢でぴかぴか光っている。いっそ裸で歩きたい位だ。  食堂を出て動坂の講談社に行く。おんぼろぼろの板塀のなかにひしめく人の群れをみていると、妙に入りそびれてしまう。講談社と云うところは蚤の巣のようだと思う。文明も何もない。ただ、汚ないぼろぼろの長い板塀にかこまれている。昨夜一晩で書きあげた鳥追女と云う原稿が-かねに替るとは思われなくなってくる。浪六さんのようなものを書くにはよほど縁の遠い話だ。  私はねえ、下宿料が払えないのよ。この二三日、遠慮して下宿の御飯をなるべく食べないようにしているのよ。講談なんて書けもしないくせに、浪六さんを手本にして、眼を真っ赤にして書いてみたけれど、結局はイチモンにもならぬ。赤い郵便自動車が行く。とても幸福そうだ。あのなかには、沢山たくさん為替がはいっているに違いない。何処から誰に送る為替か知らないけれど、一枚や二枚、ひらひらと舞い落ちて来ないものかしら。  小石川の博文館へ行く。  どうれと、玄関番が出て来そうだ。おばけ屋敷のようだ。田舎医者の待合室みたいな畳敷きの待合室に通される。いかにも疲れたような人達が思い思いに待っている。その人たちがじろじろと私を見ている。まるで子守っ子のような肩あげのある私を不思議そうに見ている。まさか鳥追女と云う講談を書いているとは思うまい。  私はイチヨウと云う名前がとてつもなく気に入っている。尾崎紅葉もいい。小栗風葉もいい。みんな偉いひとには「ヨウ」の字がつくので、私も講談を書くときは五葉くらいにしてみようかと考えた。色あせた夏羽織を着た背の高いひとが出て来た。私は胸がどきどきしてくる。こなければよかったと思う。  いずれ見てからお返事をしますと云う事で、私のみっともない原稿はみもしらぬ人の手に渡ってしまった。急いで博文館を出て、深呼吸をする。これでもまだ私は生きてるのだからね。あんまりいじめないで下さい。神様/ 私は本当は男なんかどうでもいいのよ。お金がほしくってたまらないのよ。高利貸しと云う人間はどこの町に住んでいるのだろう。植物園のなかにはいって行く。  きれいな夕陽。つるべ落しの空あい。私もはずみを食って真っ逆さま。憂鬱な空想の花火。ああ講談なんて馬鹿なことを考えたものだ。  木蔭で、麦藁帽をかぶった、年をとった女の人が油絵を描いている。なかなかうまいものだ。しばらく見とれている。芳烈な油の匂いがする。この人は満足に食べられるのかしら。芝生に子供が遊んでいる絵だ。辺りには人っ子一人いないけれど、絵のなかでは、二人の子供がしゃがんでいる。絵描きになりたいと思う。  白い萩の花の咲いているところで横になる。草をむしりながら噛んでみる。何となくつつましい幸福を感じる。夕陽がだんだん燃えたって来る。  不幸とか、幸福とか、考えた事もない暮らしだけれど、この瞬間はちょっといいなと思う。しみじみと草に腹這っていると、目尻に涙が溢れて来る。なんの思いもない、水みたいなものだけれど、涙が出て来ると/いやに孤独な気持ちになって来る。こうした生き方も、大して苦労には思わないのだけれど、下宿料が払えないと云う事だけはどうにも苦しい。無限に空があるくせに、人間だけがあくせくしている。  夕焼の燃えてゆく空の奇蹟がありながら、ささやかな人間の生き方に/なんの奇蹟もないと云うことは悲しい。別れた男の事をふっと考えてみる。憎いヤツだと思った事もあったけれど、今はそうでもない。憎いと思うところはみんな忘れてしまった。  今は眼の前に、なまめかしい、白い萩が咲いているけれど、いまに冬がくれば、この花も茎もがらがらに枯れてしまう。ざまをみろだ。男と女の間柄もそんなものなのでしょう。ホトトギスのナミコさんが千年も万年も生きたいなんて云ってるけれど、あまりに人の世を御存じないと云うものだ。花は一年で枯れてゆくのに、人間は五十年もご長命だ。ああ嫌な事だ。  私は天皇さまに直訴をしてみる空想をする。ふっと私をごらんになって、馬鹿に私が気に入って、いっしょにいいところにおいでとおっしゃるような夢をみる。夢は人間とっておきの自由だ。天皇さまに冷酒と/がんもどきのおでんをさしあげたら、うまいものだねとおっしゃるに違いない。私はなぜ日本に生まれたのだろう。シチリヤ人と云うのがあるそうだ。音楽が大変好きなのだそうだ。私はシチリヤ人がどんな人種なのか見たことがない。  不意にカナカナが啼きたてた。夕焼がだんだん妙なふうに蒼ずんで来ている。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  夜が明けかけて来たけれど、どうにもならない。  昨夜は布団を売る事にきめて/安心して眠ったのだけれど、こう涼しくては布団を売るわけにもゆかない。葛西善蔵と云うひとの小説みたいにどうにもならなくなりそうだ。私は別に酒が飲みたい欲もないけれど、生きようがないではありませんか。  らっきょうと、甘いうずら豆が食べたい。キハツ油も買いたい。朝帰りの学生があると見えて、スリッパを鳴らして二階へ上がってゆく足音がする。ここからヨシワラまではさほどの道のりでもあるまい。ヨシワラでは女をいくら位で買ってくれるものかと思案してみる。  さて、朝になれば、いよいよまた活動出発の用意。雀がよく鳴いている。上々の天気。硝子窓から柿の葉が覗いている。台所のほうで小さい唄声がきこえる。私はフッと思いついて、この下宿’の女中になれぬものかと思う。客部屋から女中部屋に転落してゆくだけだ。給料は要らない。ただ食べさせてもらってアメツユをしのげればいい。この部屋の先住の英文科の帝大生が/壁にナイフで落書をしている。エデンの園とは? 私も知らない。この気取りやさんは、落第をして郷里に戻って行ったのだそうだけれども、私には戻ってゆく故郷もない。  ダダイズムの-しと云うのが流行っている。つまらない子供騙しみたいな-し。言葉の遊び。血が流れていない。捨て身で正直なことが云えない。ただ、やぶれかぶれだけ。だから私も作ってみようと眼をつぶって、蝙蝠ガサと烏と云う-しをつくってみる。目をつぶっていると、黒いものからぱっぱっと聯想がとぶ。おかしなことばかり考える。まず、第一に匂いの思い出が来る。それから水っぽい涙が鼻をならしに来る。わにに喰いつかれたような、声も出ない悲鳴が出て来る。私の乳房が千貫の重さで、うどん粉の山のようにのしかかっている。手の爪に白い星が出ている。いい事があるのだそうだけれど信じない。シーツなぞ長いこと敷いたことのない敷布団に、私はなまぐさく寝ている。これが本当のエデンの園です。布団は芝居ののぼりでつくった、まことにしみじみとするカンヴァスベッド。 ◇。◇。◇。 【感化院出の誰の誰】 【許して下さいと云う言葉を日にいくど】 【頂戴とか下さいとか】 【雨のなかに立って物ゴう姿】 【不安なシンギン】 【世の誰とも連絡がない。】 ◇。◇。◇。 【感化院出の芙美子さん】 【人間ではない氷のかたまり】 【十九世紀の日本語の飴】 【眼がまわりますね】 【道中があぶない?】 【何をおっしゃいますやら。】 ◇。◇。◇。 【感化院は官立】 【帝国大学も官立さ】 【ただそれだけの違いだよ。】 ◇。◇。◇。  襖がイッスンほど開いた。若い男がのぞいている。だれ? あわてて襖がしまる。ここは郵便局じゃございませんだ。  私と寝たいのならさっさと這入っていらっしゃい。  起きるなり、顔も洗わないで戸外へ出る。黄いろいペンキグルマをひいて、意気な牛乳屋さんが通る。苦学生にしてはいやに清潔だ。西片町に出る。そろそろ暑いヒがのぼりはじめてきた。運送屋さんの前の共同水道で、顔を洗って、ついでに水をがぶがぶと飲んで満腹のほうえつ。ついでに、髪にも水をつけて手でなでつける。根津へ戻って恭次郎さんの家へ行ってみようかとも思うけれど、セッちゃんにまた泣きごとを云いそうなのでやめる。朝の新鮮な空気の中をただ無性に歩く。大学の前へ行ってみる。果物屋ではリンゴにみがきをかけている男がいる。何年にも口にしたことのないリンゴの幻影が、現実ではぴかぴかと紅くまるい。柿も、ぶどうも、いちじくも、翠滴がしたたりそうな匂い。──さいやんかね、だっさ、さいやんかねえ、おんだぶってぶって、おんだ、らったんだりらああおお‥:‥タゴールの-しだそうだけれど、意味も判らずに、折にふれては私はつまらない時に唄う。  高橋新吉はいい詩人だな。  岡本潤も素敵にいい詩人だな。  壺井繁治が黒いルパシカ姿で、うなぎの寝床のような下宿住まい、これも善良ムヒな詩人。蜂みたいなだんだらジャケツを着た萩原恭次郎はフランス風の情熱の詩人。そしてみんなムルイに貧しいのは、私と御同様‥‥。  根津のゴンゲン様の境内で休む。  ゴンゲン様は何様をおまつりしてあるのか知らない。ただあらたかな気がする。気がやすまる。ハトがいる。震災の時、ここで野宿をした事を思い出す。  根津のゴンゲン裏にかつぶしを売っている大きい店がある。ここの息子が根津なにがしとか云う活動役者だそうだ。まだ一度も見たことがないけれど、定めしよい男なのであろう。千駄木町へ曲るカドに、小さい時計屋さんがある。恭ちゃんの家の前を通って医専のホウへ/坂を上がってゆく。夜になるとここはお化けの出るサカ。 ◇。◇。◇。 【昼の霧◇ 香ばしき昼の霧】 【わが母の肩のあたりの霧】 【爪は語らず】 【陽もまばゆくて昼の霧よ】 【五里霧中のなかに泳ぐ】 【女だるまのすすりなく霧。】 ◇。◇。◇。 【ああさんたまりあ】 【裸馬の肌えに巻く’霧】 【昼の霧はバットの銀紙】 【スサノオノミコトの恋の霧】 【かねもなき日の埃のワタ】 【紡ぎぐるまのくりごとよ】 【昼の霧◇ 哀しき昼の霧。】 ◇。◇。◇。  急に辺りの草木が葉裏をかえしたような妙な空あいになり、霧のようなものが立ちこめてみえる。坂の途中の電信柱に凭れてみる。しんしんと辺りに湯茶の煮えるような音がする。真昼の妖怪かな。私はお腹が-すいたのよ。  急に体じゅうがふるえて来る。どうして生きていいのか腹が立って来る。声をたてて泣きたくなる。  八重垣町の八百屋で玉蜀黍を二本買って下宿へ’帰る。脱兎のいきおいで部屋へ行き、玉蜀黍の皮をむく。しめった玉蜀黍の茶色のひげの中から、ぞうげ色の粒々が行列して出て来る。焼きたいな。こつこつと焼いて醤油をつけて食べたい。  下宿の箱火鉢に紙屑を燃やして根気よく玉蜀黍を焼く。 ◇。◇。◇。 (9月ペケニチ)  母’より十円の為替が来る。  ありがたや、かたじけなや。何もかもなむあみだぶつの心持ちなり。  どしゃぶりの雨。下宿に五円いれる。昼めしが運ばれる。切り昆布に/油揚げの煮たのに/麩のすまし汁。小さいお櫃に過分な御飯。雨を見ながら一人しずかに食事をする愉しさ。敵は幾万ありとても/わが仕事これよりモユルと意気ごんでみる。食事のあと、静かに腹這い童話を書く。いくつでも出来そうな気がしてなかなか書けない。  どしゃぶりの雨は西むきの硝子窓の敷居の中にまでいっぱい吹き込んで/川のようにたまる。  夜も下宿の飯。  コンニャクと/コロッケと/とろろ昆布のすまし汁。のこりの飯は握り飯にしておく。夜ふけて、野村吉哉さんが尻からげで遊びに来る。全身ずふぬれ。唇が馬鹿に紅い。中央公論に論文を書いたと云う。中央公論ってどんなのさ。千葉亀雄がおじさんだとかで、この人の紹介だそうだ。別にえらいとも’思わないけれど、尊敬しなければ悪いのだと思って、感心してみせる。馬鹿に煙草を吸うひとだ。四畳半は濛々。二階でマンドリンの音がしている。学生は金持ちで暇人ぞろいだ。ヨシワラに行く学生もある。玉突きに行く学生もある。下宿で大事がられる学生は、いつも金盥をさげて風呂に行っている。  野村さんと握り飯を分けあって食べる。三角の月とか星とかの-しを読んでくれたけれども、さっぱり判らない。しを書くには泣くことも笑うことも正直でなければならない。貧乏してまで言葉の嘘を書く必要はない。白秋が好きだと云ったら野村さんは笑った。白秋は溺れる詩人。人にうたわれる詩人だ。雀の好きな詩人。みみずくの家を持った詩人。/九州の土から生まれた詩人。  十二時ごろ、恭ちゃんのところへ行くと云って野村さん”また尻からげで帰る。そっと襖を開けて廊下をうかがうあたり、うれしくなってしまう。馬鹿に脚の白いひとなり。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  渋谷の百軒店のウーロン茶をのませる家で、しの展覧会なり。  ドン・ザッキと云う面白い人物にあう。おかっぱで、椅子の間を踊り歩く。紙がないので、新聞紙に-しを書いて張る。 ◇。◇。◇。 【おそれながら申しあげます】 【わたしはただ息をしている女】 【百万円よりも五十銭しか知らない】 【牛めしは十銭】 【葱と犬の肉がはいってるのね】 【小さくてだるまみたいで】 【よく泣いているおこりんぼ。】 ◇。◇。◇。 【いいえもういいのよ】 【男なんかどうでもいいの】 【抱きあって寝るだけのこと】 【十五銭のコップザケ】 【皿においてるけど】 【馬鹿に’尻だかで世間をごまかす】 【酔えばいい気持ち】 【千も万も唄いたくなるのよ。】 ◇。◇。◇。 【いずくにか】 【わがふるさとはなきものか】 【葡萄の棚下に寄りそいて】 【寄りそいて】 【ひと房の青き実をはみ】 【君と語ろう◇ ひねもす】 【ひねもす‥‥。】 ◇。◇。◇。  かえり十時。道玄坂の古本屋で、イバニエスのメイ・フラワア号を買う。40銭なり。駅の近くの居酒屋で赤松月船と酒を飲む。コブ巻き二つとコップザケ。馬鹿に勇ましくなる。  下宿へ御帰還’十二時。シンとした玄関に大きい金庫が坐っている。あの中に何かあるのだろう。洗面所へ行って水を飲む。冷え冷えとしている。こおろぎがないている。ふっとつまらなくなる。イチニチイチニチが無為なり。いったいどうなるのか判らぬ。一度、田舎へ’かえりたいと思う。下宿を出る必要がある。夜逃げをするには、逃げこむ先を考えねばならぬ。  寝ころんで、メイ・フラワア号を読む。破船の酒場が馬鹿に気に入った。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  詩人は共食いの共産党だ。持ってるものは平等につかう。借金もそれ相当なもの。手近な目的はただ食べる事に追われるばっかり。人命終熄の一歩手前でうろうろしているばかりなり。天才は一人もいない。自分だけが天才と思っているからよ。それ故、私たちはダダイスト。ただ何となく感じやすく、ゲキしやすく、信念を口にしやすい。何もないくせに、まずここんところから出発してゆくより仕方がない。  風が吹くので、いろいろな男のことを考える。誰のところに逃げこんで行ったらいいのかと考える。だけど考える事は何もならない。勇気だけだ。何しろ、相手を驚かせる戦術なのだからはずかしい。またマンドリンがきこえて来る。籠の鳥のほうがよっぽど羨ましい。ああ狂人’になりそうだ。  こんなに童話を書き、講談を書いても一銭にもならないなんて。インキだって-かねがかかるのよ。  昼から風の中を仕事さがしに歩く。  何もない。人があまっている。美人はざくざく。ただ若いだけではどうにもならない。神田の古本屋でイバニエスを売る。二十銭にうれる。40銭が二十銭に下落してしまった。九段下の野々宮写真館のとなりの造花ドン屋で女工募集をしている。何しろ手さきがブ器用だから‥‥薔薇もチュウリップもまちがえて作りそうだ。日給80銭は悪くない。不安の前には妙に吐き気が来る。嘔くものもない妙な不安な状態。やすくに神社はあらたか。まず丁寧にお辞儀をしてイモアライ坂のホウへ歩く。  あまてらすおおみかみの頃には、こんなに人もあまってはいなかったのだろう。美人もうようよいなかったのだろう。あまてらすおおみかみさまは裸で岩戸からのぞいておいでになる。かがみや、たまや、みつるぎは、どこでおもとめになったのか不思議だ。にわとりはどこで生まれたのだろう。ああ昔はよかったに違いない。  その時節になるとちゃんと秋の風が吹く。魚屋はみとれるほどの美しさ。しけであろうと嵐であろうと、魚は陸へどしどしあがって来る。胸に黄いろいあばらのついた軍服で、近衛の騎馬隊が、三角の旗を立てて風の中を走ってゆく。馬も食っている。騎馬隊の兵隊さんも食っているのだ。何処かで琴のネがしている。豆腐屋では大鍋いっぱい油をはって油揚げを揚げている。荷車いっぱいにおからをバケツで積みこんでいるニンプがいる。酒屋の店さきの水道の水は出っぱなしで、小僧が一升ドックリを洗っている。味噌樽がずらりと並び、味の素や福神漬や、ギュウカンがずらりと並んで光っている。イモアライ坂の停留場前の三好野では、豆大福が山のようだ。三好野へはいって一皿十銭のおこわと豆大福を二つ買って、たっぷりと二杯も茶をのんで、私は壁の鏡をのぞいている。  おたふくさまそっくりで、少しも深刻ミがない。髪の毛はまるでかもじ屋の看板のように房々として、鬢がたりないので、まげがほどけかけている。世紀がふくらむごとに、大量に人がふえてゆく。悲劇の巣は東京ばかりでもあるまい。田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、椿姫の歌を歌い、弓張月を読んだむすめが、今はこんな姿で、悄然と生きている。大福の粉が唇いっぱいにふりかかり、まるで子守女のつまみぐいの図だ。  夜。また気をとりなおして童話の続きにかかる。風は’ますますひどくなって来た。酔っぱらいの学生が二階の廊下で女中をからかっている。ときどき声が小さくなる。誰かが二階から中庭へむけて小便をしていると見えて、女中がいけませんよッと叱っている。 ◇。◇。◇。 【罌粟は風に狂う】 【干し草の柩のなかに腹這う哀愁】 【オトガイの下に笑いを締め出して】 【じいと息を殺してみるのが人生】 【山の彼方には雲ばかり】 【気の毒なやせ馬の雲に乗って】 【幸福なんか来ると思うのがまちがい】 【地獄におちよ生きながら】 【地獄におちて這いまわる】 【罌粟の範囲で散りかかる】 【強迫善意の拷問台】 【運命のなかでの交渉】 【刺だらけの青春】 【男が悪いのではない】 【みんな女がブ器用だからだ】 【やたらに自由なぞあるものか】 【勝手にいじめぬく好奇心の勧工場】 【安物の手本ばかりが並んでいる】 ◇。◇。◇。  夜が更けて来るにつれて風もしずかになり、あたり一面’平野の如し。童話のなかの和製ハンネレが少しも動いてこない。第一、私はハンネレのような淋しい少女はきらい。それでも和製ハンネレを書かないことには、本屋さんはみとめてくれないのだ。一枚三十銭の原稿料とはいい気なものだ。十枚書いてまず三円。十日は満足に食べられます。  えらい童話作家になろうとは思わぬ。死ぬまで-しを書いて野垂れ死にするのが関の山。おかあさんごめんなさい。芙美子さんはこれきりなのよ。これきりで死んでしまうのよ。誰が悪いのでもない。なまける心はさらさらないのだけれど、どうにも一人立ちの出来ぬ生まれあわせです。貧乏は平気だけれど、死ぬのは痛いのよ。首をつるのも、汽車にひかれるのも、水に飛び込むのもみんな痛い。それでも死ぬ事を考えています。  たった一度でいいから、おかあさんに、四五十円も送れる身分にはなりたいと空想して/泣く事もあります。  いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います。せめて、手紙の中へ’、十円札の一枚も入れて送ってあげましょう。  下宿ズマイは懲り懲り。収入の道もないのに、小さいお櫃の御飯が食べたいばっかりに下宿ズマイをしたら、光陰矢の如し。すぐ月日がたってゆくのには閉口頓首。  第一、何かものを書こうなぞとは妙な-ことです。でもね、私は小説と云うものを書いてみたいと思います。島田清次郎と云うひとも、あっと云うような長いものを書いたのだそうです。小説はむつかしいとは思いますけれど、馬がいななくような事を書けばいいのよ。一生懸命’息はずませてね。  お母さん’元気ですか。もう、じき住所はかえます。また、誰かといっしょになろうと思います。仕方がないんですよ。靴がやぶけて水がずくずくとはいって来るような厭な気持ちなのです。小説を書いたところでひょっとしたら大した事ではないかもしれません。いつも、なんだって、つっかえされてがっかりすることばかりですからね。一人でいると張合いがないのです。  自分で正しいと思う判断がまるきりつかない。自信がなくなると、人間はぼろくずのようになってしまう。はっきりと、これが恋だと思うような事をしたこともない。ただ、しを書いている時だけが夢中の世界。  下宿ズマイと云うものは、人間を官吏型にしてしまう。びくびくと辺りをうかがう。大した人間にはなれない。月末には布団を干して、田舎から来た為替を取りに行く。たったそれだけで下宿の月日は過ぎて行くのでしょう。私のことじゃないのよ。ここにいる学生達の事なの‥‥。ハイネ型もいなければ、チエホフ型もいない。ただ、自分を見失ってゆく訓練を受けるだけ。  童話を書きあげて/夜更け銭湯へ行く。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【宵あかり◇ 宵の島々静かに眠る】 【海の底には魚の群落】 【ひそやかに語るひめごと】 【サカナのささやき/サカナのやきもち。】 【遠いところから落日が見える】 【地の上は紙一重の夜の前ぶれ】 【人間は呻きながら眠っている】 【宵の島々◇ 宵あかり】 【兵隊は故郷をはなれ】 【学生は故郷へかえる。】 【人ごとならずとささやきながら】 【人々は呻きながら生きる】 【この世に平和があるものか】 【岩おこしのべとべとの感触だ】 【人生とは何でしょう‥‥】 【拷問の続きなのよ】 【人間はいじめられどおし。】 【いつかはこの島々も消えてゆくなり】 【牛とニワトリだけが生きのこって】 【この二つの動物がまじりあう】 【羽根のはえたうし】 【とさかをもった牛】 【ツノのはえたニワトリ】 【尻尾のあるニワトリ。】 【永遠なんぞと云うものがあるものか】 【永遠は耳のそばを吹く風なり】 【宵あかり◇ ただ島々は浮いている】 【乳母車のようにゆれている】 【考古学者もほろびてしまう‥‥。】 ◇。◇。◇。  掟なくば/罪は死にたるものなり。ああアブラハムもダビデも如何にも遠い’神である。小説とはどんな形で書くのかわからない。ただ、ひたすら空想するばかりだけでもないのだろう。罪を書く。描く。善は馬鹿馬鹿しいと鼻をかむ。悪徳だけに心をもやす‥‥。月日がたてば忘れられ/消えてゆく罪。じっと眼をすえていると、なんのまとまりもなく頭が痛くなって来る。私の肉体は、だんだん焼かれる魚のように興奮して来る。誰かと夫婦にならなければ身のおさまりがつかなくなってしまう。  下宿屋は男の巣でありながら、まことに落書のエデンの園の如く、森々とこの深夜を航海している。  小説を書きたいと思いながら、何もかも邪魔っけでどうにもならない。雁が鳴いている。私は本当に詩人なのであろうか? しは印刷機械のようにいくつでも書ける。ただ、むやみに書けると云うだけだ。一文にもならない。活字にもならない。そのくせ、何かを猛烈に書きたい。心がその為にはじける。毎日火事をかかえて歩いているようなものだ。  文字を並べて書く。形になっているのかどうかは疑問だ。これが-しと云うものであろうか。──恋草をチカラグルマにナナグルマ、積みて恋うらく、わが心は’も。昔のえらいヌカダなにがしと云う女の人が歌った歌も出鱈目なのであろうか‥‥。私はかいこのように熱心に糸を吐く。ただ、なんの技巧もなく、毎日毎日糸を吐く。胃のなかがからっぽになるまで糸を吐いて死ぬ。  一文にもならぬ事が、ふしあわせでもなければ、運の悪い者ときめてかかる事もない。希望のない航海のようなものだけれども、どこかに浮島がみえはしないかとあせるだけだ。  オニイルの鯨取りの戯曲を読んで淋しくなった。  本を読めば、本がすべてを語ってくれる。人の言葉はとらえどころがないけれども、本の中に書かれた文字は、しっかりと人の心をとらえて離さない。 ◇。◇。◇。 【もう-じき冬が来る】 【空がそう云った】 【もう-じき冬が来る】 【山の樹がそう云った。】 【小雨が走って云いに来た】 【郵便屋さんがまるい帽子を被った。】 ◇。◇。◇。 【夜が云いにきた】 【もう-じき冬が来る】 【鼠が云いに来た】 【天井裏で鼠が巣をつくりはじめた。】 【冬を背おって】 【人間が田舎からたくさんやって来る。】 ◇。◇。◇。  童謡をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当てにする事は一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。書いてはつっかえされて私はまた書く。山のように書く。海のように書く。私の思いはそれだけだ。そのくせ、頭の中にはつまらぬ事も浮んで来る。  あの人も恋しい。この人もなつかしや。ナムアミダブツのおしゃか様。  首をくくって死ぬる決心がつけばそれでよろしい。その決心の前で、私は小説を一つだけ書きましょう。森田草平の煤煙のような小説を書いてみたい。  夜更けて谷中の墓地のホウへ散歩をする。  きらめくばかりの星屑の光。なんの目的で歩いているのかはわからないけれども、それでも私は歩く。按摩さんが二人、笛を吹いては大きく笑いながら行く。ゲカ-イは地とすれすれに、靄が立ちこめて秋ふけた感じだ。  石屋の新しい石の白さが馬鹿に-かるそうに見える。私は泣いた。行き場がなくて泣いた。石に凭れてみる。いつかは、私もハカイ-シになるときが来る。いつかは‥‥。私はお化けになれるものだろうか‥‥。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないと云うつまらぬ苛責。みんな煙の如し。  雨戸の奥で、石屋さんの家族の声がしている。まだ無縁な、誰のハカイ-シになるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌をふるって、コツコツと/石を刻んで-かねに替えるのだ。  いずれの商売も同じことだ。  石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷たい。わざと孤独に身を沈めた格好でいると、涙があとからあとから溢れこぼれる。  平和に雨戸を閉ざした横丁が/奥ふかくつづいている。省線の音がする。匂いのいい花の香りがただようている。私はいつもおなかが-すいている。少しでも-かねがあれば、私は尾道へかえってみたいのだ。  私は多摩川にいる野村さんと一緒になろうかと思う。  どうにも、独りでは’やりきれないのだ。  誰も通らない星あかりの昏い-とおりを、墓地のホウへ歩いてみる。怖ろしい事物には、わざと突きすすんで触れてみたいような荒びた気持ちだ。おかしくなければ、私は尻からげになって、四つん這いになって石みちを歩きたい位だ。狂人みたいだと云うのは、こんな気持ちをさして云うのであろう‥‥。  結局はいったい、自分は何を求めているのだろうと考えてみる。かねがほしい。ほんのしばらくの落ちつき場所がほしい。  知らない路地から路地を抜けて歩く。まだ起きて賑やかに話しあっている家もある。ひっそりと眠っている家もある。 ◇。◇。◇。 (10月ペケニチ)  団子坂の友谷静栄さんの下宿へ行く。「二人」と云う同人雑誌を出す話をする。十円のかねの工面も出来ない身分で、雑誌を出す事は不安なのだけれども、友谷さんが何とかしてくれるのに違いない。豊かな暮らしむきでいる人の生活は/不思議とも何とも云いようがない。  友谷さんに誘われて、二人で銭湯へ行く。二人の小さい裸体が朝の鏡に写っている。マイヨールの彫刻のような二人の姿が、二匹の猫がたわむれているようだ。何と云う事もなく、私は外国へ行きたくなった。バナナをいっぱい頭にのせたインド人のいる都でもいい。何処か遠くへ’行きたい。女の船乗りさんにはなれないものかな。外国船のナースみたいな職業と云うものは無いかな。  しを書いていたところで、一生うだつがあがらないし、第一飢えて干乾しになるより仕方がない。私が、栗島澄子ほどの美人であるならば、もっと幸せな生き方もあったであろう‥‥。友谷さんもきれいなご婦人だ。この人には全身に自信がみなぎっている。浅黒い肌ではあるけれども、その肌の色は野性の果物の匂いがしている。私の裸は金太郎そっくり。ただ、ぶくぶくと肥っている。お尻の大きいのは、下品な証拠だ。うまいものを食べている訳ではないけれど、よくふとってゆく。ぶくぶくによく肥る。  友谷さんはかたねりの白粉を首筋につけている。浅黒い肌が雲のように淡く消えてゆく。久しく、白粉をつけた事がないので、私は男の子のように鏡の前に立って体操をしてみる。ふっと、このまま走って電車道まで歩いたらおかしいだろうなと思う。  裸で道中なるものか‥‥何かの唄にあったけれども、誰も好きだと云ってくれなければ、私はその男の人の前で、裸で泣いてみようかと思う‥‥。  風呂の帰り、友谷さんと、団子坂の菊そばに寄る。ざるそばの海苔の香りが素敵。空もからりとして好晴なり。庭の大輪の白い菊の花が、そうめんのように、白い’紙の首輪の上に開いている。不具者のような大輪の菊の花なり。──湯上がりにそばを食べるなぞとは幸福至極。「二人」は500部ばかりで、十八円くらいで出来る由なり。八頁で、紙は素晴しくいいのを使ってくれるそうだ。私は銘仙の羽織をシチにおく事を考える。シゴ円は貸してくれるに違いない。  書く。ただそれだけ。捨て身で書くのだ。西洋の詩人気取りではいかものなり。気取りはおあずけ。食べたいときは食べたいと書き、惚れている時は、ほれましたと書く。それでよいではございませんか。  空が美しいとか、皿がきれいだとか、「ああ」と云う感歎詞ばかりでごまかさない事だ。いまに私は本格的なダダイズムの-しを書きましょう。  帰りの坂道でイソリ幸太郎さんにあう。この涼しいのに尻からげ。セルの着物に角帯。私は下宿にもどる気もしないので、動坂へ出て、千駄木町のホウへ歩く。涼やかな往来を楽隊が行く。アイゾメから一高のホウへ抜けてみる。帝大のイチョウが金色をしている。エンラクケンの横から曲ってみる。菊富士ホテルと云う所を探す。宇野浩二と云うひとが長らく泊っている由なり。小説家は詩人のようでないからちょっと怖ろしい。鬼のような事を言い出されてはこっちが怖い。そのくせ何となく逢ってみたい気もする。  小説を寝て書く人だそうだ。病人なのかな。寝て書くと云う事はむつかしい事だ。ホテルはすぐ判った。おっかなびっくりで這入って行くと、女中さんは気さくに案内してくれる。宇野さんは青っぽい布団の中に寝ていた。なるほど寝て書くひとに違いない。スペイン人のようにモミアゲの長いひと。小説を書いている人は部屋のなかまで何となく満ちたりた感じだった。「話をするように書けばいいでしょう」と言った。なかなかそうはいきませんねと心で私はこたえる。散らかった部屋。誰かがたずねて見えた由にて、早々に引きあげる。ああ、宇野浩二までに行くには前途遥なりだ。宇野浩二とはいい名前なり。寝て書けると云う事は大したものだと思う。話をするように書くと云う事が問題だ。あのね、私はねと書いてみた所でどうにもなるものではない。  作家の部屋と云うものは、なんとなく凄味があってキミが悪い。歩きながら、女子美術の生徒のむらさきの袴の色のほうが、馥郁としていると考える。小説とはつまらないものかも知れない。人々は生き生きと歩き、話し、暮らしている。街を歩いているほうが、小説よりも面白い。  夕方、下宿へ戻る。  野村さん、日曜日には遊びにいらっしゃいと云う置手紙あり。がらんとした部屋の中に坐ってみる。落ちつかない。寝ている宇野浩二の真似でもしてみようかと思うけれども、ふとっているので、すぐ、両肘がしびれて来るに違いない。夕飯ごろの下宿は賑やかだ。みんな-かねを払っているから、煮物の匂いも羨ましい。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  朝から降りやまない雪のなかを、子供をおぶった芳ちゃんと出かける。積もるとみせかけて、牡丹雪は案外なところで消えてゆく。寛永寺坂の途中で、恭次郎’さんに逢う。友人のところに泊ったのだと云って、見知らぬ二人連れの男の人と並んで、寒いアイゾメのホウへ降りて行った。  恭次郎さんはいい男だな。あの人は嘘を云わない。だけど、私は恭次郎さんの-しは一向に判らない。恭次郎さんを見ると、私はすぐ岡本さんのことを思い出す。私は岡本さんが好きだ。友谷さんの旦那さんだと云うことがめざわりで仕方がない。だけど、男の人と云うものは、私のような女は一向に眼中には’いれてくれない。  あんまり寒いので、坂の途中の寺の前のたいやき屋で、たいやきを十銭買う。芳ちゃんと歩きながら食べる。のこりの二つを一つずつ分けて、二人ともあったかいヤツを八ツ口の間から肌へじかにつけてみる。 「おお熱いッ」  ヨシちゃんが笑った。私はたいやきを胃のあたりへ置いてみる。きいんと肌が熱くていい気持ちだ。かいろをだいているみたいだ。我慢のならない淋しさが胃のなかにこげつきそうになって来る。雪が降る寛永寺坂。登りつめると、うぐいすだにの駅にかかった陸橋。橋を越して合羽橋へ出て、頼んでおいた口入所へ行く。稲毛の旅館の女中と、浅草のギュウ屋の女中の口が一番私にはむいている。  お芳さんは、子供づれで稲毛へ行くと云うし、私は浅草がいいときめた。何も遠い稲毛の旅館の女中にならなくてもいい筈だと思うのだけれど、お芳さんは、馬鹿’に稲毛が気にいっている。子供が小児ぜんそくと云うので、海辺で働いているほうが子供の為にいいと云うのだ。子供は私生児で、その父親は代議士なのだそうだけれども、それも本当なのか嘘なのか私には判らない。不器量なお芳さんに、そんな男があるとも思えなかったし、第一、それが本当ならば、何も稲毛まで行く事もあるまい。  私は三円の手数料を払って損をしたような気がした。保証人がいらないと云うのが何よりの仕合せだ。  浅草の古本屋で、文章クラブの古いのをみつけて買う。黄いろい色頁の広告に、十九歳の天才、島田清次郎著「地上」と云う広告が眼につく。十九歳と云う年頃は天才と云うにはふさわしい年頃かもしれない。──私だって天才くらいはいつも夢にみているのだけれども、この天才はひもじいと云う事にばかり気をとられて/凡才に終わりそうだ。  いったい、どこに行ったら平和にメシが食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない。第一、こう寒くては何もかもちぢかんでしまう。単衣の重ね着で、どろどろに汚れているメリンスの羽織と云うていたらくでは、尋常な勤め口もありよう筈がない。  浅草へ行く。公園のなかで、うどんを一杯ずつ食べて、ついでに腹の上で冷たくなった、たいやきも出して食べる。うどん屋の天幕の裾から、小雪まじりの冷たい風が吹きぬけて来る。二ツの七輪から火の粉がさかんにはぜている。盛んな火勢だ。熱い茶を何杯も貰う。オブイバンテンをほどいて、お芳さんは子供に乳をふくませ、おしめをあてかえてやっているけれど、ずっくりと濡れたおしめの匂いが何となく不快で仕方がなかった。女だけが貧乏なくじを引いていると云った姿なり。一生子供なンかほしくないと思う。子供は何度も可愛いくしゃめをしている。  八銭で買った足袋にも穴があいている。私は若いのに、かさかさに乾いている。ずんぐりむっくりだ。今戸焼きの狸みたいだ。どうせそんなものよ。ねえ、カンノン様。私はあんたなんか拝む気はないのよ。もっと苛めて下さい。ゴリヤクと云うものは金持ちに進上して下さい。  うどんのげっぷが出る。いやらしくて仕方がない。うどんになんの哲学があるのよ。天才はカステイラを食べているンでしょう? うどんの人生。そのくせ、私は、高尚だとか、文学だとか、音楽や、絵画と云うものに無関心では’いられない。──ポオルとヴィルジニイなんて、可愛らしい小説じゃあないの──。オブロモフもこの世にはいます。オネーギン様、あらあらかしこだ。いっぺんでいいから私と恋を語るひとはないものかしら‥‥。明日からギュウ屋の女中だなんて悲しい。牛殺しがいっぱいやって来る。地獄の鍋に煮てやる役はさしずめ鬼娘。ああ味気ない人生でございます。  私は女優になりたい。  浅草は人の波、ゆくえも知らぬさすらい人の巷なりけり。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  駒形のどじょう屋の近く、ホウリネス教会の隣りの隣り、ちもとと云うミセ。まず家の前を二’三度往ったり来たりして様子をうかがってみる。昨夜の塩の山が崩れてみじん。薄日の射した板塀。人様の家は怖い。牛と云う文字が、急に眼の中に寄って来て、犇くと云う文字に見えて来る。ああ私には絶好の機会と云うものがない。私は若い、若いから機会をつかみたいのだ。  ちもとの裏口から入って行く。台所の若い男がくすりと笑った。逆毛をたてた大きい耳かくしの髪がおかしいのかも知れない。流行と云うものは私には少しも似合わないのだけれども、やっぱり当世の真似はしてみたくなる。  女中部屋からのぞいている顔。猿のように皺だらけのお上さんが、可もなし不可もなしと云った顔つきで、「まア、働いてごらん」と至極あっさりしている。  持ちものは風呂敷ヅツみ一つ。まず朝食に、ドンブリいっぱいの御飯に/がんもどきの煮つけ一皿。ああ嬉しくて私は膝をつきそうにあわててしまう。 ◇。◇。◇。 【恋などとは’たかのしれたものだ】 【散る思いまことにたやすく】 【ひと椀の飯に崩折れる乞食の愉楽】 【洟水をすすり/心を捨てきる】 【この飯食うさまの安らかさ】 【これも我が身なり/真実の我が身よ】 【哀れすべてを忘れ切る飢えの行】 【尾を振りて食う/今日の飯なり。】 【無宿者の歩みつく道】 【一面の広野と化した巷の風】 【ああ無情の風と歎く我が身’なり。】 ◇。◇。◇。  脂の浮いた、どろどろに浸みついた牛肉の匂い。吐気が来そうだ。女中達は全部そろえば八人になるのだそうだけれど、五人が通いで、ここに住み込んでいるのは三人。みなどの顔も大したことではない。耳かくしはおかしいと云うことで、さっそく髪結さんに連れて行って貰う。いちょうがえしに結うのだそうだ。私はまだ桃割れの似合う若さだのに、いちょうがえしでなければならないと聞いて/がっかりしてしまう。  かたねりの白粉も買わなければならない。何しろ、お風呂へ行って、首だけ白くつけると云う不思議さ。一緒に風呂へ行った澄さんと云うのが、御園白粉が一番いいと教えてくれたけれど、もういちょうがえしに結って、かねはみんな出してしまったので、白粉はニサンにち借りる事にする。  夕方から女中部屋は大変なにぎわいなり。  赤ん坊に乳を呑ませている女もいる。みんな二十ゴロクにはなっていそうな女ばかり。私が肩あげをしていると云うので、こそこそと笑いものになる。おヨシさんから借りた着物のゆきが長いので、その説明をしようと思ったけれど/めんどう臭くなってやめる。どんぐりの背くらべの身すぎ世すぎでいて、この仲間の意地の悪さに腹が立つ。  朝、私をみてくすりと笑った料理番はヨシツネさんと云った。料理バへ火さげを持って火を取りに行くと、「お前さん、西洋まげより、その髪のほうがずっといいよ」と云ってくれた。そして、「ほい、みかん食べな」と云って小さいみかんを二つ投げてくれる。  ヨシツネさんはサダクロウみたいな感じ、与市兵衛を殺しそうな凄味のある顔をしている。  二三日は座敷へも出ないでツカイヤッコだ。火を運ぶ。下足も取る。ビールや酒も運ぶ。十二時がかんばん。足がつっぱって来る程、へとへとに疲れてしまう。枯れすすきや、かごの鳥の唄が賑やかだ。ああ、これでは私の行く末は牛の犇きと少しも変らない。  イチギョウの’し一つ書く気力も失せそうだ。あんなに飯をたべたいと望みながら‥‥。夕食は、ドンブリいっぱい山盛りの飯に、いかの煮つけ。ありがたやと食べながら、パンのみに生きるに-あらずの思いが湧く。  誰も私の存在なぞ気にかけてくれる人もないだけに安楽な生活なり。ヨシツネさんは馬鹿に親切なり。 「お前さん、こんなとこ始めてかい?」 「ええ‥‥」 「亭主はあるのかい?」 「いいえ」 「生まれは何処だ?」 「丹波の山の中です」 「ほう、丹波たア何処だい?」  さあ、私も知らない。黙って煮込バを出て行く。まず、一カ月がせいぜいと云った勤め場所なり。  夜、女中部屋へ落ちついたのが二時すぎ。私は呆んやりしてしまう。汚れた箱枕をあてがわれて、それに生乾きの手拭をあてて横になる。女達は、寝ながら賑やかに正月のやりくりバナシをしている。  どの男から何をせしめて、この男から何を工面してもらって、ああ、こんなひとたちにも男の人がいるのかと妙な気がして来る。お芳さんは今日は子供を連れて稲毛へ行ったかしら‥‥。私はここにいられるだけいて、その上で、多摩川の野村さんのところへお嫁に行こうかと思う。考えてみたところで、あそこよりほかに行く当てもない。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  ヨシツネさんが話があると云う。なんの話かと、ヨシツネさんについて、朝の街を歩く。  泥んこに掘りかえされた駒形の通りから、ぶらぶらと公園のホウへ行く。六区の中の/旗の行列。立ちんぼうがぶらついている瓢箪池のところまで来ると、ヨシツネさんは、紙に包んだ薄皮まんじゅうを出して/三つもくれた。 「お前いくつだ」 「ハタチ‥‥」 「ほう、若く見えるなア、俺は十シチハチかと思った」  私が笑ったので、ヨシツネさんも頭をかいて笑った。筒っぽの厚司を着て/汚れた下駄をはいているところは大正のサダクロウだ。  話があると云って、なかなか話がない。ああそうなのかと思う。まんざら嬉しくなくもないけれど、何となくあんまり好きな人でもない気がして来る。朝のせいか、すきすきと池のまわりは汚れて寒い。ヨシツネさんはウデ玉子を4つ買った。塩が固くくっついているのが一ツ五銭。歯にしみとおるように冷たいウデ玉子を、池を向いて食べる。枯れた藤棚の下に、ぼろを着た子供が二人でめんこをして遊んでいる。 「俺、いくつ位にみえる?」  背の高いヨシツネさんが、大きい唇に、玉子を頬ばりながら訊いた。 「二十五ぐらい?」 「冗談云っちゃいけないよ。まだ検査前だぜ‥‥」  へえ、そうなのかと吃驚してしまう。男の年は少しも判らない。ああそんなに若いのかと、急に楽々した気持ちで、 「あんた生まれは何処?」  と、訊いてみた。 「横浜だよ」  ああ海の見えるところだなと思う。 「どうして、あんなギュウ屋なンかにいるの?」 「不景気でどこにも一人前の口がないからよ。検査が済んだら、さきの事を考えるつもりだ」  汚ない池の水の上に、ほうった玉子のからがきらきら反射している。別に話もない。物憂そうな楽隊の音がしている。石道は昨日の雪どけでべとついている。寒い。カンノン様を拝んで仲店へ出る。ヨシツネさんがふっと小さい声で、 「俺のとこへ来ないか?」  と、云った。 「何処?」 「松葉町に、おふくろと二階がりしてるンだよ。おふくろは他所の家へ手伝いに出掛けていまいない」  私はヨシツネさんがあんまり若いので行く気がしない。子供のくせにとおかしくてたまらない。 「どうだ?」と訊かれて、私は、「いやだわ」と云った。ヨシツネさんはまた歩き出す。私も歩く。ただ、寒いのでやりきれない。歩いているのは平気だけれど、私は恋をするなら、もう、心の重たくなるような男がいい。ヨシツネさんの二階がりに行く気はさらさらないのだ。  仲店で、ヨシツネさんはつまみ細工の小さい簪を一つ買ってくれた。ひと足さきに私は店へ帰る。  まだ、通いの人達は来ていない。小さい簪が馬鹿に美しい。澄さんの鏡をかりて髪に差してみる。変わりばえもしない顔立ちだけれども、首の白いのが妙に哀れに思える。何だか玉の井の女になったような寒々しい気になって来るけれども、何とない自信も湧いて来る。 ◇。◇。◇。 【馬がかんざしを差した】 【よろけながら荷をひく馬】 【一斗も汗を流して】 【ただ宿命にひかれてゆく馬】 ◇。◇。◇。 【たづなに引かれてゆく馬】 【ときどき白い溜息を-ついてみる】 【誰もみるものは無い】 【ときどき激しい勢いでいばりをたれ】 【尻っぺたにむちが来る】 【坂を登る駄馬】 ◇。◇。◇。 【いったいどこまで歩くのだ】 【無意味’に歩く】 【何も考えようがない。】 ◇。◇。◇。  退屈なので、鉛筆をなめながら-しを書く。女達はあれこれとやりくりバナシをしている。誰かが私の簪をみて、 「あら、いいのを買ったじゃアないの」  と、云った。私はみんなにみせびらかしているような気がしてきた。  文章倶楽部を読む。生田春月選と云う欄に、投書の-しがたくさん載っている。  夜。ヨシツネさんがまたみかんをくれた。だんだんこの店も師走いっぱい忙わしい由なり。煮方の料理番が、私がヨシツネさんにみかんを貰っているのを見て冷かしている。  漂いながら夢のかずかずだ。淋しい時は淋しい時。ヨシツネさんと云うのは、義経と書くのだそうだ。  ヨシツネさんは善良そのものに見えるけれど、どうにも話が合いそうにもない。私がこの人の二階へ行って寝たところで、私の人生に大したこともなさそうだ。この人と一緒になったところで、私はすぐ別れてしまうに違いない。ヨシツネさんは平和なひとだ。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  歳末売出しの景気だけは馬鹿に騒々しい。──私はやっと客の前へ出るようになった。チップはかなりあるけれど、ときどき女たちに意地悪をされて/取られてしまう事もある。ヨシツネさんが云った。 「お前、馬鹿に本を読むのが好きだな。あんまり読むとチカメになるよ」  私はおかしくて仕方がない。もう、とっくにチカメになっているのだもの。稲毛のおヨシさんから手紙。思わしくないので、正月前に、また東京へ戻りたい由。子供は風邪ばかり引いて、百日咳のひどいのにかかっている。お芳さんは大工さんと夫婦になる由なり。どうにもくってゆけないので、連れごでいいと云われたのを倖い、大工さんと一緒になって住むから、勉強するのだったら、一部屋くらいは貸して上げると景気のいい話だ。  私は、正月には野村さんのところへ行きたい。野村さんは、早く一緒になろうと云ってくれている。あの人も貧乏な詩人。  ここで始めて紫めいせんを二反買う。金五円なり。暮までには、裾まわしと、羽織の裏が買えそうだ。  今日は髪結さんのかえり、ヨシツネさんに逢った。また話があると云う。ヨシツネさんは突然「これはプラトニックラブだよ」と云った。私はおかしくなって、くすくす笑いこける。 「プラトニックラブってなによ?」 「惚れてると云うことだろう‥‥」  私は何と云うこともなく、何も、野村さんでなくてもいいと思った。ヨシツネさんと一緒になってもいいような気がした。寒いのでミルクホールにはいる。  大きなコップに牛乳を波々とついで貰う。ヨシツネさんは紅茶がいいと云う。今日は私がご馳走する。ケシの実のついたアンパンを取って食べる。紫色のあんこが柔らかくて馬鹿にうまい。金二十銭なりを払う。  ヨシツネさんは、月々五六十円くらいにはなるのだそうだ。子供が出来てもやってゆけない事はないと云う。私は、お芳さんの汚ない子供を思い出して/ぞっとしてしまう。 「私は、お嫁さんになる気はないのよ。勉強したいのよ。ヨシツネさんはもっと若い、ジュウシチハチのお嫁さんがいいでしょう‥‥」  ヨシツネさんは黙っていた。しばらくして、「なんの勉強だ」と訊く。  なんの勉強だと云われて私は困る。 「私は女学校の先生になりたいのよ」  ヨシツネさんは妙な顔をしていた。私も妙な気がした。何だか、罪を犯したような/やましい気になる。  夕方から雨。ヨシツネさんは馬鹿にていねいだ。プラトニックラブと云った顔が、急に中学生のように見えて来る。  澄さんの客に呼ばれて、随分’酒をのまされた。少しも酔わない。客は帝大の学生ばかり。ヨシツネさんと同じ位だけれど、馬鹿に子供子供してみえる。 「この人は、本ばかり読んでいるのよ」と、澄さんが云った。 「なんの本を読んでいるンだ?」  ずんぐりした、小さい学生が私に杯をさしながら尋ねた。私は「猿飛佐助よ」と大きい声で云った。みんなワアっと笑った。猿飛佐助がどうしておかしいのか私には判らない。酔ったまぎれに、コンヤ高尾を唸ってみせる。みんな驚いている。  学生とはそんなものだ。あんまり酔ったので、女中部屋へ引っこんだのだけれど、苦しくてもどしそうになる。ヨシツネさんがのぞきに来たのを幸い、洗面器を持って来て貰った。酢っぱいものがみんな出る。すべてを吐く。 「ヨシツネさん!」 「なんだよ‥‥」 「そこへ突っ立ってないで、シオミズでも持って来てよ」  ヨシツネさんはすぐシオミズをつくって来てくれた。オビをとくと、五十銭ダマがばらばらと畳にこぼれる。 「無理して飲むヤツはないよ」 「うん、プラトニックラブだから飲んだのよ。あんた、そう云ったじゃないの‥‥」  ヨシツネさんが急にかがみこんで、私の背中をいつまでもなでてくれた。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  火を燃やしたくなったので、からになった炭俵や、枯葉をあつめてどんどを燃やす。私はこうした条件のなかで生きる元気がない。少しもない。大切なものを探し出して燃やしてやりたくなる。部屋のなかへはいって、大切なものを探してみる。野村さんの-しの原稿を三枚ばかり持ち出して火の上にあぶってみる。焼けてしまえばこの-しは灰になるのだと思うと、憎さも-にくしだけれども、何となく気おくれして、いけない事だと思い、またもとのところへしまう。  私は何も出来ない。勇気のない女になりさがってしまっている。今朝、私たちは命がけであらそった。そして、男はしたいだけの事をして/街へ行ってしまった。後片付けをするのは私なのだ。障子は破れ、カーテンは引きちぎれ、皿も茶碗も満足なのはない。貧乏をすると云う事が、こんなに私たちの心身を食い荒してしまうのだ。残酷なほどむき出しになるのだ。私は男をこんなに憎いと思ったことはない。私は足蹴にされ、台所の揚げ板のなかに押しこめられた時は、この人は本当に私を殺すのではないかと思った。私は子供のように声をあげて泣いた。何度も蹴られて痛いと云う事よりも、思いやりのない男の心が憎かった。  毎日のように、私は男の原稿を雑誌社に持って行った。少しも売れないのだ。何だかもう行きたくなくなったのよと冗談に云った事が、そんなに腹立たしいのだろうか‥‥。私は、どんなに辛い時だってにこにこしている事なんかやめようと思う。どうしても行きたくない事も時にはある。わけのわからぬところへ使いに行くのは我慢がならないのだ。自分で行ってくればいいのだ。私はもう、そんな辛い使いにはあきあきした。  メシも食えないのに一人前の事を云うなッと怒った。メシが食えないと云って、物乞いのような気持ちには私はなれないのだ。  火を燃やしながら、私は今度こそ別れようと思う。そのくせ、一銭も持たないで家を飛び出した男の事を考えて/無性に泣けて来る。どうしているかと哀れなのだ。  道の下の鯉’の池が、石油色に光っている。大家さんの女中さんらしいのが枯れすすきの唄を歌って/横の道を通っている。大家さんは宮武骸骨さんと云う人なのだそうだ。家からずっと離れた丘の上に屋敷があるので、ここの人達を見た事がない。私の家は六畳一間に押入れに台所。ツチカベのないバラックで、昔は物置であったのかもしれない。私はここへ引越して来ると、新聞紙を板壁に二重に張った。布団は野村さんので充分だと云うので、下宿屋の-はらいの足しに売り払って、三円ばかし残しておいたので、私はカーテンや米を買ってお嫁入りして来たのだけれども‥‥。火を燃やしながら、私はいろいろな事を考える。もう、これが私の人生の終わりなのかもしれない。私は死にたいと思う。もう、こんなフウな生き方がめんどうくさいのだ。独りでいるには淋しいし、二人になればもっと辛いのだと思うと、世の中が妙にはかなくなって来る。  夜、破れたカーテンを-つくろいながら、いろいろな空想をする。火の気のない凍るような夜ふけ。足音がするたび、きき耳をたてる。遠くで多摩川電車のごうごうと云う音がする。あんまり静かなので、耳の中がしんしんと鳴る。行く末はどんなになるのか見当がつかない。どうにかなるだろうと思ってもみる。朝から飯をたべていないので、体中が凄んで来る。虎のようにのそのそと這いまわりたいような烈しい気持ちになる。  部屋の中を綺麗にかたづけて寝床を敷く。ここにも敷布のない寝どこ。寝巻きがないので裸で私はおやすみ。水へ飛びこむような冷たさ。こっぽりと着物を布団の上にかける。着物の匂いがする。時々、枕もとで鯉がはねる。夜更けの街道をトラックが地響きをたてて/坂を降りて行く。 ◇。◇。◇。 【冒涜はおつつしみ下され】 【私には愚痴や不平もないのだ】 【ああ百方’手をつくしても】 【このとおりのていたらく】 【神様もわろうておいでじゃ】 【折も折なれば】 【私はまた巡礼に出まする】 ◇。◇。◇。 【時は満てり/神の国は近づけり】 【汝ら悔い改めて福音を信ぜよ】 【ああ女猿飛佐助のいでたちにて】 【空を飛び-カコウを渡り】 【血しぶきをあげて私は闘う】 【福音は雷の音のようなものでしょうか】 【ちょっとおたずね申し上げまする】 ◇。◇。◇。  どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷たい着物に手を通して、七輪に火を熾す。湯をわかして、竹の皮についたひとなめの味噌を湯にといて飲む。シナそばが食べたくて仕方がない。十銭の-かねもないと云う事は/奈落の底につきおちたも同じことだ。トントン葺きの屋根の上を、小石のようなものがぱらぱらと降っている。ここは丘の上の一軒家。ヘンゲが出ようともかまわぬ。鏡花モドキに池の鯉がさかんにはねている。味噌湯をすする私の頭には、さだめし大きな耳でも生えていよう‥‥。狂人’になりそうだ。どうにもならぬと思いながら、夜更けの道を、あの人がアンパンをいっぱい抱えて帰りそうな気がして来る。かすかに足音がするので、私ははだしで外へ出て見る。雪かと思うほど、辺りは月の光りで明るい。関節が痛いほど寒い。ぱったりと戸口で二人が逢えばどんなに嬉しかろう‥‥。  遠い足音は何処かで消えてしまった。硝子戸を閉ざして、また七輪のそばに坐る。坐ってみたところで、寒いのだけれども、横になる気もしない。何か書いてみようと、机にむいてみるのだけれども/膝小僧が破れるように寒くてどうにもならない。少し書きかけてやめる。かんぴょうでもいいから食べたい。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  朝。思いがけなく母’が真っ赤な顔をしてたずねて来る。探し探しして来たのだと云って小さい風呂敷ヅツみをふりわけにかついで、硝子戸のそとに立っていた。私はわっと声をあげた。ああ、何と云うことでございましょう。浜松で買ったと云う汽車の弁当の食い残しの折りが一ツ。ウデ玉子が七ツ。ネーブルが二ツ。まことにまことにこれこそ神の国の福音のような気がする。私へのネルの新しい腰巻きに包んだちりめんじゃこ。それに、母の着がえと髪の道具。顔も洗わないで、私は木の香りのぷんと匂う弁当を食べる。薄く切った赤い蒲鉾、梅干、きんぴらごぼう。糸ごんにゃくと肉の煮つけ、はりはり、縦横無尽に味わう。  田舎も面白いことがない由なり。不景気は底をついとるぞなと母は歎く。いくら持っているのと聞くと、六十銭より持っておらぬと云う。どうするつもりなのと叱ってみる。シゴニチ泊めて貰えれば、お父さんも商売の品物を持って来ると云う。  霜のきつい朝だったのだけれど、ぽかぽかとしたヒが部屋いっぱいに射し込む。泊めたくても布団がないのよと云ってはみたものの、このまま何処へ’この人を追い出せると云うのだろう‥‥。三枚の座蒲団をつないで大きいフトンを一枚ずつ分けて/何とか工夫をして寝て貰うより仕方がない。  陽のあたるところへ布団を引っぱって来て/母に横になって貰う。母’はもう部屋の様子で、私の貧しい事を察したとみえて、何も云わないで、水ばなをすすりながら羽織をぬいで、ネドコの中へ’はいった。私は小さい火鉢に、昨日のどんど焼きの灰を入れて火を入れる。やがて、湯がしゅんしゅんとわく。茶の葉もないので、弁当の梅干を入れて熱い湯を母へ飲ませる。  父は輪島塗りの安物を仕入れたので、それを東京で売るのだそうだ。東京には百貨店と云う便利なものがあるのを知らないのだ。夜店で並べて売ったところで、いくらも売れるものではない。私は困ってしまう。ウデ玉子を一つむいて食べる。あとは男へ食べさせてやりたい。 「東京も不景気かの?」 「とても不景気ですよ」 「どこも同じかのう‥‥」  梅干をしゃぶりながら母が心細い顔つきをしている。今度の男さんは、どのような人柄で、何の商売かとも母は聞かない。非常に助かる。聞かれたところでどうしようもないのだ。母は’からの茶筒に手拭をあて、暫く眠った。口を開けて気持ちよさそうに眠っている。昼過ぎになって野村さん戻って来る。  母を引きあわせようとする間をすりぬけて、机へ向いて本を読み始める。母と私は台所の板の間に座蒲団を敷いて坐った。湯をわかしてウデ玉子を四つにネーブルを二つ、机のそばへ持って行って、おみやげですよと云うと、ただ、ほしくないよッときつく云って、見向きもしない。私はカアッとして、ウデ玉子を男の頭にぶちつけてやりたい気になった。何と云うひねくれたひとであろうかとやりきれなくなって来る。まだこの人は怒っているのだろうか‥‥。このえこじな、がんこなところが私には不安なのだ。私の書きかけの-しの原稿がくしゃくしゃにまるめられて部屋のすみに-ほってある。私はそれを拾ってしわをのばしているうちに、何とも切なくなってきて、誰にもきこえないように泣いた。どうしたらいいのか自分でもわからない。母は息をころしたように台所の七輪のそばにうずくまっている。泣くだけ泣くと、すぐからりと気持ちが晴れて、私はもうどうでもいいと云う思いにつきあたって/気が軽くなった。母’がしょんぼりした格好で、私を見るので、私はにゅっと舌を出してみせた。涙がこぼれぬ要心のために、舌を出していると、こめかみと鼻の芯がじいんと痛くなる。  台所の土間へ降りて、縁の下にかくしてある風呂敷の中に、しわをのばした原稿をしまう。見られては悪いものばかりはいっている。長いあいだ書きためた愚にもつかないものばかりだけれども、何となく捨てかねて持ち歩いている私の-し。これこそイチモンにもならぬものだ。焼いてしまいたいと何度か思いながら、十年も経ったさきへ行って、こんなこともあった、あんなこともあったと思うのも無駄ではないとも思える。  どうにもやりきれないので、外出をする仕度をする。何処と云って行くあてはないのだけれども、一応’母を連れ出してよく話をしなければならぬ。私はコナズミを火鉢の中に敷いて、火をこっぽりと埋めて、やかんをかけておいた。二つある玉子を母’にもむいてやる。母は音もさせないで玉子をのみこむように食べた。 「ちょっと、そとへお母さんと出て来ます」  と、机のそばへ行ったのだけれど、男は相変らず見向きもしない。二人で外へ出た時は、腹の底から溜息が出た。私は何度も深呼吸をした。私がそんなに厭な女なのだろうかと思う。まるで自信がなくなってしまう。ごみくずのような気がして来る。ただ、私は若すぎると云うだけだ。何も知らないのかも知れない。それでも自分には何の悪気もないのよと弁解めいた気持ちにもなるのだ。  たまにささやかな-かねがはいって、五銭で豆腐を買い、三銭でめざしを買い、三銭でたくあんを買って、三色もご馳走が出来たと云うと、つまらんことを自慢にすると小言が出るし:、たまに風呂へ行って、余所の女のように首へおしろいを塗って戻ると、君の首はいくびだから太くみえて醜いのだと云う。どうしたらいいのか私にはわからない。この男と一生’連れそってゆくうちには、はがねのようにきたえられて、泣きも笑いもしない女に訓練されそうな気がして来る。私はふところへいれて来た玉子をむいて、母’へもう一つ食べなさいと口のそばへ持って行ってやった。もうほしゅうないと云うので厭な気持ち。むりやり食べさせる。  私は歩きながら、ふっと、前に別れた男のところへ行って/十円程かねを借りようかと思った。芝居をしていたひとなので、旅興行にでも出ていたらおしまいだと思ったけれども、運を天に任せて渋谷へ出て、それから市電で神田へ出てみる。街は賑やかで、何処も大売出し。明るい燈火が夜空にほてっている。停留所のそばには、ウチワダイコを叩いてゆく人達がいた。レディメイドの洋服屋が軒なみに並んでいる。母は茶色のコオールテンの上下十五円の服を手にして、お父さんに丁度よかねと、いっとき眺めていた。かねさえあれば何でも買えるのだ。かねさえあればね。  私は洋服を見たり、賑やかな神保町の街通りを見たりして、なかなか考えがさだまらなかった。やっとの思いで母を通りに待たせて、その人の家へ行ってみる。路地をはいると魚を焼く匂いがしていた。台所口から覗くと、その人のお母さんがびっくりして私を見た。お母さんはあわてた様子でどもりながら、風呂へ行っているよと云った。私はすうっとあきらめの風が吹いた。どうでもいいと思った。急いでさよならをして路地を出ようとすると、その人が手拭をさげて戻って来た。私は逢うなり十円貸して下さいと云った。靄の深い路地の中に、男は当惑した様子で、家へ戻って行った。そしてすぐ何か云いながら五円札を持って来て、これだけしかないと云って、私の手にくれるのだ。私は息が出来ないほど体が固くなっていた。ツミを犯しているような気がした。あなたの平和をみだしに来たのではないのよ。美しいおくさんと仲良くお暮らし下さいと云いたかった。私はまるで雲助みたいな自分を感じる。芝居に出て来るごまのはいのような厭な厭な気がして来た。走って路地を出ると、洋服屋の前で母’はしょんぼり私を待っていた。私の顔を見るなり母は、「何処か便所はなかとじゃろか? どうしようかのう、冷えてしもて、足がつっぱって動けん」と云う。私は思いきって母をおぶい、近くの食堂まで行った。食堂の扉を開けると、むっとするほど湯気がこもって、石炭ストーヴがかっかっと燃えてあたたかい部屋だった。母を椅子にもおろさないで、私はすぐ、憚りを借りて連れて行った。腰が曲らないと云うので、男便所のほうで後ろむきに体をささえてやる。何と云う事もなく涙があふれて仕方がないのだ。涙がとまらないのだ。男達の残酷’さが身にこたえて来るような気がした。別に、どの人も悪いのではないのだけれども、こうした運命になる自分の身の越度が、あまりに哀れにみじめったらしくて/やりきれなくなるのだ。  私は今日から、ものを書く男なぞ好きになるのは辞めようと心にきめる。俥夫でも大工でもいいのだ。そんな人と連れ添うべきだ。私も、もう、今日かぎり-しなぞ書くのはふっつりやめようときめる。私の-しを面白おかしく読まれてはたまらない。ダダイズムの-しと人は云う。私の-しがダダイズムの-しであってたまるものか。私は私と云う人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! ただ、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ。  母をストーヴのそばの椅子に腰かけさせる。座蒲団を借りて、腰を高くして楽にしてやる。 「御飯に、寄せ鍋に、酒を一本頂戴」  酒が十五銭、寄せ鍋が二人前六十銭。メシが一皿五銭。私は熱い酒を母のチョコと私のチョコについだ。酒が泡を吹いている。盃がまた涙でくもってぼおっと見えなくなる。私はたてつづけに三ヨン杯飲む。酒が胸に焼けつくようだ。壁の鏡のそばで、学生が二人/夕刊を読みながら、焼飯を食べている。母も眼をつぶって盃を口へ持って-いっている。二本目の酒を註文して、また独りで飲む。心の中が朦朧として来る。母’は寄せ鍋のつゆを皿盛りの御飯にかけてうまそうに食べている。  空腹に酒を飲んだせいか、馬鹿にご酩酊。私は下駄をぬいで椅子に坐った。両手の中に顔を伏せていると/部屋のなかがシーソーのようにゆらゆらと揺れる。何も思う事はない。ただ、ゆらりゆらり/体がゆれているきり。無様な卑しい女は私なのよ。ええ、そうなの‥‥まことにそうなンです。蛆が降りかかって来そうだ。  盃に浮いた泡をふっと吹く。煮えたぎった酒。おっかないサケ。しどろもどろの酒。セ-ンバンの思いがふうっと消えてなくなってゆくサケ。背中をなでて貰いたいサケ。若い女が酒を飲むのを、妙な顔で学生が見ている。世間から見ればおかしなものに違いない。だいぶあたたまったのか、母も椅子の上にちょこんと坐った。私はおかしくてたまらない。 「大丈夫かの?」  母は’かねの事を心配している様子。私は現在のここだけが安住の場所のような気がして仕方がない。何処へも行きたくはない。  しめてイチエン4銭のハラいなり。4銭とはお新香だそうだ。京菜の漬けたのに、沢庵の水っぽいのが二切れついている。  あかね射す山々、サウロ彼の殺されるをよしとせり。その日エルサレムに在る教会にむかいて大いなる迫害おこる‥‥。ああ、すべては今日より葬れ。今日よりすべてを葬るべし。  瀬田へ戻ったのが十時。湯気のたっている熱いシュウマイをまずシュにささげん。──野村さんはもう布団の中に寝ていた。机の横に、私の置いたままの恰好で、玉子とネーブルがまだ生きている。私は部屋に立ったまま恐怖を感じる。足もとが震えて来る。壁のほうをむいたまま動かない人を見ては/朦朧とした酔いもさめ果てる。私は破れた行李を出して、その中に座蒲団を敷き/母をその中に坐らせる。早く夜明けが-くればいいのだ。七輪に木切れを焚き/部屋をあたためる。  新聞紙を折りたたんで、母の羽織の下に入れてやる。膝にも座蒲団をかけ、私も行李の蓋の中へ’坐る。まるで漂流船に乗っているような恰好だ。  七輪の生木がぱちぱちと弾けて、何とも云えない優しい音だ。来年は私も二十一だ。はやく悪年よ去れ! 神様、いくらでも私をこらしめて下さい。もっとぶって、打ちのめして下さい。もっと、もっと、もっと‥‥。私は手が寒いので、羽織の肩あげをぷりぷりと破って袖口で手を包んだ。血反吐を吐いてくたばるまで神様、ぶちのめして下さい。  明日はカフェーでも探して、母を木賃宿にでも連れて行こうと思う。あったかいシュウマイを風呂敷に包んで母のシタハラに抱かせる。しんしんと寒いので、私は木切れを探しては燃やす。涙の出るほど/けぶい時もある。駅の待合所にいるつもりになれば何でもないのだ。寝ているひとは-しにんのように動かない。全身で起きていて、あの人も辛いのに違いないと思う。辛いからなおさら動けないのだ。 ◇。◇。◇。 (12月ペケニチ)  夕焼けのような赤い夜明け。すみがないので、私は下の鯉屋の庭さきから、木切れを盗んで来る。七輪にやかんをかけて湯をわかす。机のそばのネーブルを一つ取って来て、母へミカン汁をしぼって/それに熱い湯をさして飲ませる。  さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、台所のほうで賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々の団欒とは/かくも温かく愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。男の為にバットを二箱’買う。福神漬を五十匁買う。  帰ってみると、母は朝陽の射している濡れ縁のところで/手鏡をたてて小さい丸髷をなでつけていた。男は、べっとりと油ぎった顔色の悪さで、口を開けて眠っている。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  侮辱拷問も‥‥何もかも。黙って笑っている私の顔。顔は笑っている。つまんで捨てるような、ごみくその、万事がうすのろの私だけれども、心のなかでは鬼のような事を考えている。あの人を殺してしまいたいと云う事を考えている。私の小さい名誉なぞもう、ここまでにいたれば恢復の余地なしだ。  奇怪な悶絶しそうな生き方! そしてイチモンの-かねもないのだ。  獰猛な、とどろくような思いが胸のなかに渦巻く。今夜の雪のように。雪よ降れッ。降りつもって、この街をうめつくして、窒息するほど降りつもるがいい。今夜も、この雪の夜も、どこかで子供を産んでいる女がいるに違いない。  雪と云うものはいやらしいものだ。そして、しみじみと悲しいものだ。泥んこのアナグラのなかの道につらなる木賃宿の屋根の上にも雪が降っている。すさんで眼の玉をぐりぐりぐりぐりと鳴らしてみたい凄んだ気持ちだ。  ただ、男のそばから逃げ出したと云う事だけが喝采拍手。いったい、神様、私にどうしろとあなたは云うのよ。死ねばいいの? 生きてどうしようもないふうに追いこむなんてつれないではございませんか! 追込みベヤの暗い六畳の部屋。まず、ごみ箱のような匂いがする。骸骨のようなよぼよぼの爺さんが一人と、四人の女。私だけが肩あげをして若い。ただ、若いと云うのは名ばかり。女の値打ちなぞ/一向にありませんとね‥‥。一升ばかり飲んで酔っぱらって、雪の街を裸で歩いてみたいものだ‥‥。ええ飲まして下さるなら、一升でも二升でも飲んでみせます。  私は、じいっと台の上の豆らんぷを頼りに、自分の-しを読んでみる。  みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いているのに/一銭にもならない。どんな事を書けば-かねになるのだッ。もう、殴る事なンかしない優しい男はいないのだろうか? 下手くそな字で、何がどうしたとか書いたところで、誰もああそうなのと云ってくれる者は一人もない。  鯖のくさったのを食べて/げろを吐いたようなもンだ‥‥。おっかさんは私に抱きついてすやすやおやすみだ。時々、雪風が硝子戸に叩きつけている。シナそば屋のチャルメラの音色がかすかにしている。ものを書いてみようなぞとは不思議せんばん。お前のようなうすのろに何が出来るのだ。  明日は場末のカフェーにでも住み込んで、まずたらふくおまんまを食べなければならぬ。まず食べる事。それから、いくばくかの-かねをつくる事。拷問/ 拷問/ 私にもそれ位の生きる権利はあろう‥‥。  みんなしたり顔で生きている。  お爺さんが起きて、煙管で煙草を吸いはじめた。寒くておちおち眠っていられないとこぼしている。トワズガタリのお爺さんの話。二日ほど前までは四谷の喜ヨシと云う寄席の下足番をしていたのだそうだ。心がけが悪くて子供は一人もない由なり。時には養老院にはいる事も考えるけれど、何と云ってもしゃばの愉しみはこたえられぬ。一日や二日は食わいでも、しゃばの苦労は愉しみだと爺さんが面白い事を云う。もう六十五歳だそうだ。私の半生は暗剣殺続きで、芽の出ない尽くめだと笑っていた。暗剣殺とはなんなのか判らん。卑劣な生き方とは違うらしい。さしずめ、私たちはサンリンボウの続きをやっていると云うものだろう。毎日、心の中で助けてくれッ、助けてようと唄のように唸ってばかりいる。電気ブランを飲んでるような唸り方なり。 「お爺さん、玉の井って知ってる?」 「ああ知ってるよ」 「前借りさしてくれるかしら?」 「ああ、ソレャアさしてくれるねえ」 「私のようなものにもさしてくれるかしら?」 「ああ、さしてくれるとも‥‥お前さん行く気かい?」 「行ってもいいと思ってるのよ。死ぬよりはましだもン」  爺さんは両手で禿げた頭を抱えこむようにさすりながら黙っていた。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  からりとしたジョウ天気。眼もくらむような光った雪景色。四十年配のいちょうがえしの女が、/寝床に坐ってバットを美味しそうに吸っている。敷布もない木綿の敷布団が垢光に光っている。新聞紙を張った壁。飴色の坊主畳。天井はしみだらけ。トイを流れる雪解け。じいっと耳を澄ましていると、ととん、とんとん、ととんと/初午の太鼓のような雪解けの音がしている。みんなは起き出してそれぞれ旅人の身繕い。私は窓を開けて屋根の雪をつかんで顔を洗った。レートクリームをつけて、水紅をホオへ日の丸のようになすりつける。髪には逆毛をたてて、まるで饅頭のような耳かくしにゆう。耳がかゆくて気持ちが悪い。  烏が啼いている。省線がごうごうと響いている。朝のアサヒマチはまるでどろんこのびちゃびちゃな街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。  私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮らしをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。  役にもたたぬ風呂敷ヅツみを私たちは三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。  洋々たり万里の光りだ。曖昧なものは-なに一つない。ただ、雪解けの泥々ミチを行く気持ちが心に重たい。痩せた十字架の電信柱がヒに光っている。堕落するには都合のいい道連ればかりだ。裸の生活はあきあきした。華族さんの自動車にでもぶちあたって、おおちこうよれと云うような仕儀には到らぬものか。若いと云う事は淋しい事だ。若いと云う事は大した事でもないのだもの‥‥。私の手は饅頭のようにふくれあがっている。短い指のつけ根にえくぼがある。女学校のころ、ディンプル・ハンドだと先生に云われた。笑った手。私の手はいまだに笑っている。  山出しの女中さんよろしくの姿では誰も相手にしようがあるまい。玉の井で前借りもむつかしいに違いあるまい。  まず、おっかさんを宿へ残して、角筈を振り出しに/朝の泥んこ道を、カフェーからカフェーへ歩いてみる。朝のカフェーの裏口は汚くて哀しくなってしまう。勇気を出せ、勇気を出せと唸ってみたところでどうしようもない。金の星と云う店に勤める事にする。金の星とは名ばかり、地獄の星とでも云いたいような貧弱な店。まず、ここから花火をどおんと打ちあげる事につかまつる。おジョロ屋が軒なみなので、客は相当ある由なり。台所で女の子が、私に塩せんべいを一枚くれた。ふっと涙があふれそうになる。ほてい屋で、十五銭の足袋をイッソク買う。  /宿賃はひとり三十五銭。当分は二人七十銭の先払いでこの宿が安住の場所。本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前取って/おっかさんと私の昼めしとする。  夕方、金の星に御出勤。女は私を入れて三人。私が一番若い。ネフリュウドフはみつからぬものかと思う。心配なしに表情だけで「ねえ」と云ってみなければならぬとなれば、少々下膨れであっても、ひとかどの意地の悪さでチップをかせがねばならぬ。ああ、チップとは何でしょうかね。お乞食さんと少しも変らない。全身全力で「ねえ」と云わなければならぬ商売。ものを書いてたつきとなるなぞ、ああ遠い。もう眼がみえませぬと臭い便所の中で舌を出してやる。ものを書くなぞと云う希望なぞはない。何も出来っこはない。しを書くなぞとは愚の骨頂だ。ボオドレエルがなんだって? ハイネのぶわぶわネクタイは飾りものなのよ。全く、あのひと達は何で食べていたのかしら‥‥。  ヌウザボン、ブウサベエだ。パルドン、ムッシュウ。ちょいとごめんなさいねと云う言葉だそうですね。  おかみさんに、羽織をかたにして二円借りる。イチエン五十銭をおっかさんにやって、電車道の富の湯へ行く。大きい鏡にうつったところはまず健康児。少しも大人らしくない、くりくりとした桃色の裸。首から上だけがお釜をかぶったようないでたち。女給さんがうようよとはいっている。しゃべっている。三助が忙わしそうに女の肩をぽんぽんと叩いている。滝のあるペンキ絵。白粉や産院の広告が眼につく。何日ぶりで湯にはいったのかとおかしくなる。  街は雪解けで/仄明るい街のネオンサインが間抜けてみえる。仮の名をまず淀君としようか。蝙蝠のお安さんとしようか‥‥。左団次の桐一葉の舞台が瞼に浮かぶ。ああ東京はいろんな事があったと思う‥‥。辛いことばかりのくせに、辛い事は/倖せな事にはみんな他愛なく忘れてしまう。どんどろタイシの弓ともじって、弓子さんと云う名にする。弓は固くてせめてもの慰めだ。ハッしとまとをいて下さい。  わけのわからぬ客を相手に、二円の収入あり。まず大慶至極。泥んこ道の夜店の古本屋で、チエホフとトルストイの回想を五十銭で買う。大正十三年三月十八日印刷。ああいつになったら、私もこんな本がつくれるかしら‥‥。 ≪誰でも物を書いた時は、始めと終わりとを削らなければならないと思いますよ。そこで、我々’小説家は、嘘を云いがちですからね。そして短く書かなければいけません。出来るだけ短く‥‥≫  チエホフがこんな事を云っている。  十一時頃/客がちょっと途絶える。/店の隅っこで本を読んでいると、勝美さんと云う大きい女が、「あんたチカメなのね」と云った。もう一人はお信さん。子供が二人もあって、通いなのだそうだ。勝美さんは色が黒いので、オキシフルを綿につけては顔を拭いている。私は白粉をつけない事にする。顔をいじくる気はもうとうないのだ。勝美さんだけが住み込みでいる。朝、塩せんべいをくれた女の子が、メリンスのちゃんちゃんこを着て店へ出て来た。痩せた病身な子供だ。  明日は太宗寺にサーカスがあるから一緒に行こうと私に云う。ろくろ首の見世物もあるのだそうだ。  アサヒマチへ戻ったのが二時。くたくたに疲れる。今夜も同じ顔ぶれ。  何だか少しも眠れないので、豆ランプを枕もとに置いて読書。 ◇。◇。◇。 (1月ペケニチ)  まア驚いた。トルストイと云う作家は、伯爵だったンだ。──いわゆるトルストイの無政府主義と呼ばれるものは、主要的にかつ基礎的に、我々スラヴの反国家主義を表現しているものであり:、それは真実の国民的特徴であり、往時から我々の肉の中に沁みこみ、漂浪テキに散ろうとする我々の慾望でもあります。──ロシヤの歴史のユウなる作家トルストイが、伯爵さまであったとは今日の日まで私は知らなかった。伯爵さまでも野垂れ死にをするのだ。  おかあさん、ロシヤ人のトルストイは華族さんなんですよ。驚いたものだ。私は妙な気がして体中がぞおっと寒くなった。 「えらい勉強だね」  銀時計のおばさんが髪をかきつけながら笑っている。  まことに御勉強ですとも‥‥。トルストイが華族の出だって事は始めて知った事なンだもの、吃驚してしまう。私はトルストイの宗教的なくさみは判りたくないけれども、トルストイの芸術は美しく私の胸をかきたてる。あなたは、蔭では密かに美味いものを食っていたンでしょう? アンナ・カレニナ、復活、ああどうにもやりきれぬ大きさ‥‥。  しおしおとして/金の星に御出勤。  別れた人なぞは杳かにごま粒ほどの思い出となり果てた。せめて三十円の-かねがあれば、私は長いものを書いてみたいのだ。天から降って来ないものかしら‥‥。ひと晩くらいは豚小屋のような寝かたをしてもかまいません。三十円めぐんでくれる人はないものか‥‥。  テーブルを拭き、椅子の脚を拭く。ああ無意味な仕事なり。水を流し、ドアの真鍮をみがく。やりきれなくなって来る。手が紫色にはれあがって来る。泣いているディンプル・ハンド。女の子が鳩笛を吹いている。お女郎が列をなして店の前を通っている。みんな蒼い顔をして/首にだけ白粉を塗った妙ないでたち。島田に鹿子のフサのさがったような髪かたち。身丈の長い羽織なので、田舎風に見える。暗い冬の荒れ模様の空の下を/奇妙な列が行く。誰も何とも思わない。こうした行列を怪しむものは一人もないのだ。  今日はレースのかざりのあるエプロンを買う。女給さんのマークだ。金80銭なり。  東京の哀愁を歌うにふさわしい寒々とした日。足が冷たいので風呂をやめて、椅子に坐って読書。全く寒い。新しいエプロンののりの匂いが厭になる。  夜。  シゴニ-ンの職人フウの男が私の番になる。  カツレツ、カキフライ、焼飯、それにジュウ何本かのサケ。げろを吐いて泣くのもおれば、怒って絡むのもいる。じいっと見ているとなかなか面白い。一時間ほどしてジョロ屋へ出征との事だ。  ああ世の中は広いものだと思う。どんな女がこの男達の相手になるのかと気の毒になって来る。玉の井に行かなくてよかったと思う。在所から売られて来た娘の、今日の行列のさまざまが思い出されて来る。  勝美さんはもう、相当酔っぱらって歌を歌い始めた。客は二人。二人ともインバネスを着た相当ないでたち。お信さんは時々レコードをかけながら/するめをしゃぶっている。今夜は商売繁昌なので、やっと奥から火鉢が出る。  勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくもなんともない。ゴロク杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男のほうが、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。  夕飯を八時頃食べる。いかの煮つけを食べながら、あの人はいまごろ、何を食べているのだろうかと哀れになって来る。欠点のない立派なひとにも考えられる。お互いの気まずさは/別れて幾日もしないうちに消えてきれいになるものだ。惚れ惚れとするような手紙でも書いて、ほんの少しの為替でも入れてやりたいような気がして来る。  一時のかんばん過ぎにも客があった。  勝美さんはすっかり酔っぱらって、何処から私は来たのやら、いつまた何処へ’帰るやらと/妙な唄を歌っている。狭い店の中は煙草の煙で濛々。流しや花売りが何度も這入って来る。わあっと狂人のように叫びたくなって来る。勝美さんは酔って火鉢の中へ’、焼飯をあけている。油のいぶる厭な匂いがする。  かえり二時半。  今夜は’お爺さんはいないかわりに/子供づれの夫婦モノが寝ている。収入三円80銭なり。足袋’がまっくろで気持ちが悪い。  豆ランプを引きよせて読書。ますます眠れない。  みんなが単純なことを書かなければならぬ。いかにして、ピータア・セミョノヴィッチが、マリイ・イワノヴナと結婚したか、それだけで充分です。そしてまた、なぜ、心理的研究、様子、珍奇などと小見出しを書くのでしょう。みんな単なる偽りです。見出しは出来るだけ簡単に、あなたの心の浮かんだままがよく、ほかのものはいけません。括弧やイタリックや、ハイフンも出来るだけ少く使うこと、みんな陳腐です。──なるほどね。私もそう思いますが、若い気持ちの中には、なかなかそうはゆかない珍奇さに魅力を持つものです。でも、いまにいつか私もチエホフの峠にかかりましょう。いまに‥‥。  思いだけが渦をなしてヒタイの上を流れる。ごうごうと音をたてて流れて行く。そしてせんじつめるところは焦々として何も書けないと云うこと。このままでは何も出来やしない。まさか、年を取ってからもカフェーの女給さんでいようとは思わない。何とか神様にお助けを願いたいものだ。ノートを出して何か書こうと鉛筆を握ってはみるけれども/何一つとして言葉が浮かんで来ない。別れたひとの事が気にかかるだけだ。  さきの事は一切夢中。あのねえ、私はこんな事考えるのよと云うような小説でも書けないものかと思う‥‥。  田舎へ帰りたくなったとおっかさんは云う。ごもっともな事です。私だって、田舎へ行って、久しぶりに、晴々とした田舎の空気を吸いたいのだけれども、こんなしがない小銭をかせいでいてはどうにもなるものではない。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【朝霧は船より白く】 【遠き涙の硝子イシ】 【酷い土中のなかの石】 【寒の花も凍るよと】 【つれなき肌のイッショクは】 【高き声して巷の風に】 【独りは歩くただ歩く。】 ◇。◇。◇。 【汚水の底のどろどろと】 【この胃袋の衰弱を】 【笑いも出来ぬ人ばかり】 【おのが思いも肩掛けに】 【はかなき世なりと神に問う。】 ◇。◇。◇。 【人の世は灰なりとこそ】 【こもれる息もウタカタの】 【そのウタカタの浮き沈み】 【男こいしと唄うなり】 【地獄のほむら音たてて】 【荒く息する語り合い。】 ◇。◇。◇。 【せめてと頼むひともなく】 【いつかと待てど甲斐もなく】 【浮世の豆のはぜかえり】 【はかなきは土中の硝子】 【吹かれて光る土中の硝子。】 ◇。◇。◇。  善悪貴賤、さまざまの音響のなかに私はひっそり閑と生きている一粒のアミーバアなり。母を田舎へ戻して二日。もう、何事もここまでで程よい生き方なりと心にきめる。死ぬのはどうしても厭/ それなのにどうしても生きてゆかなければならない人間の慾。──野村さんよりハガキが来る。表記に越した。どうやら活気のある生活をとり戻した。一度来られたし。先日の手紙ありがとう。かねはたしかに受取った。  やにわに、ただ心だけが走る。牛込のサカナマチで市電を降りて、牛込の郵便局のホウへ歩く。昼夜銀行の横を曲って、泡盛屋の前をはいったベンガラ塗りの小さいアパート。二階の七番と教えられて扉を叩く。何もないがらんとした部屋なり。  何処かへ出掛けるところとみえて/あの人が帽子をかぶって立っていた。私はやみくもに笑った。あの人もにやにや笑った。とてもいいところへ引越したのねと云うと、詩集を一冊出したので、これからは大変景気がよくなるだろうと云う。それにしても、部屋の中はがらんとしている。野村さんは、これから食堂へ飯を食いに行くのだが、五十銭かしてくれと云う。一緒に戸外へ出る。  泡盛屋の前で、半纏着のお爺さんが酔ってたおれている。縄のれんの中にはひしめくような人だかり。銭湯のような繁昌ぶりだ。  飯田橋まで歩いて、松竹食堂と云うのにはいる。テーブルは砂ぼこり。丼飯にしじみ汁、鯖の煮つけで、また、夫婦のよりが戻ったような気になる。この人といることは身のつまる事だと思いながら、私はまた陽気な気持ちになり、うんうんといい返事ばかりしてみせる。この人といて’泣く事ばかりだったと云う事はみんな忘れてしまう。  このごろは-しの稿料も幾分かよくなったよと野村さんの話なり。新潮社と云うところは’し一つに就いて六円もくれるのだそうだ。羨ましい話だ。食堂を出て、また牛込まで歩く。郵便局のところで、野村さんは、とてもひげの濃いずんぐりした男の人と丁寧なあいさつをした。佐々木俊郎と云う人で、新潮社にいる人だそうだ。ああそれで、あんなに丁寧なあいさつをしなければならなかったのかと思う。  私は心のうちでごおんと鐘の鳴るような淋しい気持ちになった。ものを書くと云うことはみじめなものだと思った。一年に1度くらい六円の稿料を貰っては第一食べてはゆけないではないのと云うと、あの人は、むっとしたそぶりで、風のなかへぺっぺっとつばきを吐いた。  アパートの前でさよならと云うと、あの人は私なぞ見向きもしないでさっさと二階へ上がって行った。私はどうしたらいいのか途方にくれる。朝霧や、二人起きたる台所。多摩川にいた頃の二人の侘しい生活を思い出して、私は下駄をにぎったまま二階へ上がって行く。扉を開けると、野村さんは、帽子をかぶったまま本を読んでいる。私は、本当にこの人が好きなのか嫌いなのか自分でも判らなくなっている。じいっと坐っているとカフェーに帰りたくて仕方がない。「じゃア、帰ります。またそのうち来ます」と云うと、あの人はそばにあったナイフを私に放りつける。小さいナイフは畳に突きささった。私はああと心のなかに溜息が出る。まだこの人は、この厭な癖が抜けないのだ。瀬田の家でも、私は幾度かナイフを投げつけられた。このまま立ちあがると、野村さんは私の体を足で突き飛ばすに違いないので/身動きもならない。寒々とした雨もよいの空がぼんやり眼にうつる。  誰かが扉をノックしている。私は立ちあがって、扉を開けた。見知らぬ若い男の人が立っている。私はその人を救いの神のように思い、どうぞおはいり下さいと云って、そっと下駄をつかんで廊下へ出て行った。野村さんが何か云って廊下へ出て来たけれども、私は急いで表へ出て行った。風邪をひきそうに頭の痛い気持ちだった。  横寺町の狭いとおりを歩きながら、私は浅草のヨシツネさんの事をふっと思い浮べた。プラトニックラブだよと云ったヨシツネさんの気持ちのほうがいまの私にはありがたいのだ。  独りでいると粗暴な女になる。  夜。  酔っぱらって唄を歌っているところへ、にゅっと野村さんが這入って来た。私は客の前で唄を歌っていた唇をそっとつぼめて、黙ってしまった。私の番ではなかったけれども、あの人に-かねのない事は判りきっている。胸のなかが酢っぱくなって来る。  勝美さんがほおずきを鳴らしながら酒を持って行った。私は’腰から下がふわふわとして来る。そっと勝美さんを裏口へ呼んで、あの人は私の知ってるひとで/かねがないのだからと云うと、勝美さんはのみこんで表へ出て行った。私はそのまま遊廓のホウへ歩いて行く。畳屋の管さんに逢う。何処へ行くンだと云うから、煙草’買いに行くンだと云うと、カンさんは、寿司をおごろうと云って、屋台寿司に連れて行ってくれた。カンさんは新内のうまいひとだ。西洋洗濯屋の二階に、お妾さんを置いていると云う風評だった。  ゆっくり時間をとって、帰ってみると、まだ野村さんは’いた。そばへ行って話す。酒を飲み、焼飯を食って、平和な表情だった。私は、どんな犠牲もかまわないと思った。  十時ごろ野村さん帰る。  土のなかへめりこんで行きそうな気がした。愛情なぞと云うものはありようがないのだと自分で気づく。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  朝、大久保まで使いに行く。家賃をとどけに行くのだ。いくらはいっているのか知らないけれど、ふくらんだ封筒を見ると、これだけあればイチニカ月は黙って暮らせるのだと思う。大久保の家主は大きい植木屋さん。帳面に受取りの判こを貰って、お茶を一杯よばれて帰る。  新宿の通りはがらんとしている。花屋’のウインドウに三色スミレ’や、ヒヤシンスや、薔薇が咲き乱れている。花はいたって幸福だ。電車通りのムサシノ館はカリガリ博士。久しく活動も見ないので、見たいなと思う。街を歩きながらうとうととした気持ちなり。平和な気配。森閑と眠りこけている遊廓のなかを通ってみる。どの’家のノキにも造花の桜が咲いている。 ◇。◇。◇。 【裏町の黄色いソラに】 【のこぎりの目立ての音がしている】 【売春の町にほのめく桜◇ 2月の桜】 【水族館の水に浮く金魚色の女の写真】 【牛太郎が布団を乾している】 【はるばると思いをめぐらした薄日に】 【二階の窓々に鏡が光る。】 ◇。◇。◇。 【売春はいつも女のたそがれだ】 【念入りな化粧がなおさら】 【犠牲は美しいと思いこんでいる物語】 【鐙のない馬◇ 汗をかく裸馬】 【レースのたびに白い息を吐く】 【ああこの乗心地】 【騎手は眼を細めて腿で締める】 【不思議な顔で】 【のぼせかえっている見物客】 【遊廓で馬の見立てだ。】 ◇。◇。◇。  雑貨屋で大学ノート二冊買う。40銭なり。小さいあみ目のある原稿用紙はみるのもぞっとしてしまう。あの人を想い出すからだ。あの人は小さいあみ目の中に、月が三角だと書き、星が直線だと書く。生きて血を噴くものにおめにかかりたいものだ。ふわふわと鼻をふくらませて第一に息を吸うこと。口にいっぱいうまいものを頬ばること第二。千松は厭でそうろう。誰とでも寝るために女は生きている。今はそんな気がする。  ふっと気が変って、また牛込へ尋ねてゆく。野村さんは不在。神楽坂の通りをぶらぶら歩く。古本屋で立ち読み。このぐらいの事は書けると思いながら、古本屋のノキを出ると、もう寒々と心の中が凍るように淋しくなる。何も出来ないくせに、思う事だけは狂人のようだ。また本屋に立ち寄ってみる。手当たり次第にぱらぱらと頁をめくる。何となく気が軽くなる。そしてまた戸外へ出ると/心細くなって来る。歩いていることがつまらなくなって来る。すべては手おくれになった手術のようで、死を待つばかりの心細さ‥‥。  /店へ戻ると、もう掃除は出来ていた。  医学生が三人で紅茶を飲んでいる。二階へ上がって畳に腹這い/ごろごろと転ぶ。口の中から蚕の糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  雨。風呂の帰り牛込へ行く。  エリオシロイをつけているので、如何にも女給らしいと野村さんが叱る。はい、私は女給さんなのだから仕方がないでしょうと云う。女給さんがどうして悪いのよ。何でもして働かなくちゃ、人さまは食わしてくれないのだもの‥‥。もう、私の働いている場所へ’来ないで下さいねと云うと、野村さんは灰皿を取って、私の胸へ投げつけた。眼にも口にも灰が入る。肺の骨がピシッと折れたような気がした。扉口へ逃げると、野村さんは私の頭の毛をつかんで/畳へ抛り出した。私は死んだ真似をしていようかと思った。眼が吊りあがって、猫にくいつかれた鼠のような気がした。何か二人の間には間違いごとがあるのだと思いながら、男と女の引力がつながっている。腹の上を何度か足で蹴られた。もう、かねなぞ鐚一文も持って来るものかと思う。  千葉亀雄さんが親類だと云うのだから、あの人に話してみようかと思ったりする。私は動けないので、羽織を足へかけて海老のように曲って眠る。  夕方になって眼が覚める。あの人はむこうむきで机へ向いている。何か書いている。金盥の手拭を取ると手拭がかちかちに凍っている。呆んやりと裸電気を見ていると、お母さんのところへ帰りたくなった。  肺の骨がどうにも痛い。灰皿は破れたまま散らかっている。  早く店へ戻りたいとも思わない。このまま朝まで眠っていたいのだ。寒さで、体がぶるぶる震えている。風邪を引いたのか、馬鹿に頭の芯がずきずきと音をたてている。  そっと起きて髪を結いなおす。  その夜、起きられないので、財布を出して、あの人に、カレーなんばんを二つ取って来て貰って/二人で食べた。何も話がないので二人で仲良く寝てしまう。 ◇。◇。◇。 (2月ペケニチ)  朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。/寝床のなかで、いつまでもあれこれと考えている。野村さんは紅い唇をして眠っている。肺病病みの唇だ。肺病は馬のフンを煮しめたシルがいいと誰かに聞いた事がある。この人の気性の荒さは、肺病のせいなのだと思うと/ぞっとして来る。多摩川で一度血を吐いた事がある。一つしかない手拭を、私が熱湯で消毒したのを見て、野村さんはとても怒った事がある。  もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきの/さむるも夢の/ゆくえかな。誰かの句をふっと思い出した。何となく、外国へ行ってみたくなる。インドのような暑い国へ行ってみたいのだ。タゴールと云う詩人もインドの人だそうだ。  野村さんは、通いにして、また一緒に住めばいいと云ってくれたのだけれど、私は心のなかに/そんな気のない事をはっきりと自覚している。私は殴られる相手としてウスバ-カな顔をしているのはたくさんだ。楽天家ぶっているのには閉口。あなたが、殴りさ-えしなければ戻って来たいのよと嘘を云う。  /店へ戻ったのがお昼。がんもどきの煮つけと冷飯。息をもつかず喉を通る。近所の薬屋で桜膏を買って来て/こめかみへ張る。胸の骨が痛いので、胸にも桜膏を幾枚も張りつける。 ◇。◇。◇。 【あわれ籠もりいのヒヤシンス】 【むらさきのはなびら】 【うす紅のべん】 【におう◇ におう】 【尼ぼとけの肩。】 ◇。◇。◇。 【うなばらにただよう屍】 【根株のひげ根の波よせて】 【におう◇ におう】 【汐ざいの遠鳴り】 【波ガシラみな北にむく。】 ◇。◇。◇。 【伏せて憩う母】 【屍の炬燵】 【ほのかににおう】 【うつつ世のつかれ念仏】 【欠伸まじりの或日の太陽。】 ◇。◇。◇。  自由に作曲が出来たら、こんな意味を歌いたい。 ◇。◇。◇。 (3月ペケニチ)  うららかな好晴なり。ヨシツネさんを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂。一銭じょうきに乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、コッパ、猫のふやけたのも流れている。河向こうの大きい煙突からもくもくと煙が立っている。駒形橋のそばのホウリネス教会。あああすこはやっぱり素通りで、ヨシツネさんには逢う気もなく、どじょう屋にはいって、真黒い下足の木札を握る。トウダタミに並んだ長いちゃぶ台と、木綿の薄べったい座蒲団。やながわに酒を一本つけて貰う。隣りの鳥打帽子の番頭フウな男が/びっくりした顔をしている。若い女が真昼に酒を飲むなぞとは妙な事でございましょうか? それにはそれなりの事情があるのでございます。久米のヘイナイ様は縁切りの神さんじゃなかったかしら‥‥。酒を飲みながらふっとそんな事を思う。鳥打帽子の男、「いい気持ちそうだね」と笑いかける。私も笑う。  ささくれた角帯に、クリップで小さい万年筆の頭がのぞいている。その男もお酒を飲んでいる。/店さきにずらりと自転車が並び、だんだん客が増えて来る。まるで天井にかげろうがまっているような煙草の濛々とした煙。少しの酒にいい気持ちになって来る。どじょう鍋になまずのみそ椀、香のものに御飯、それに酒が一本で八十銭。何がなんだってと啖呵の一つもきりたいようないい気持ちで戸外へ出る。広い道をふらふらと歩く。二天門のホウへまわってみる。ごたごたと相変らずの人の波だ。裸の人形を売っている露店でしばらく人形を眺めてみる。やっぱり器量のいいのから売れてゆく。昼間のネオンサインがうららかな昼の光りに淡く光っている。鐘つき堂の所から公園のなかへぶらぶら歩く。  誰一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに、なつかしい浅草の匂い。淡嶋さまの、小さい池の上の橋のところに出て少し休む。ハトが群れている。線香屋さんの線香の匂いがする。ああ何処を向いても他国のお方だ。埃っぽい風が吹いている。あらゆる音がジンタのように聞えて来る。  池の石の上に、甲羅の乾いた亀がもそもそと歩いている。いまにいいことがあるぞと云ってくれているのではないかと、にゅっと首をあげている亀の表情をじいっと飽きずに眺めている。少しはねえ、いいことがあるように、私のことも考えて下さいなと亀に話しかけてみる。欲張ってはいかん。はい、承知いたしました。何が慾しい? はい、お金がどっさりほしいです。毎日心配なく御飯がたべられるほど/お金がほしいです。男は要らぬか? はい、男は要りません。当分いりません。それは本当かね? はい、本当の事でございます。男はやっかいなものです。辛くて一緒にはおられません。私は何をしたら一番いいでしょう? それは知らん。あんまり薄情な事は云わないで下さい。──亀と話をしているのは面白い。一人で私はぶつくさと亀と話をしている。  足もとの小石を拾って、汚れた池へ/ドポンと投げる。亀の首が縮む。その縮みかたが-なんだかいやらしい。わあっと笑い出したくなって来る。  こんなに賑やかなところにいて、亀も私も到って孤独だ。観音様が何だよと呶鳴りたくなる。大きなお堂のなかへ土足でがたがたと這入る。暗い奥に明かりが漁火のようにゆらゆらと光っている。  夕方/新宿へ’帰る。行くところもないので店へ戻る。二階で勝ちゃんが大きな声で浪花節を歌っている。電気もつけないで薄暗い所で歌を歌っている。あああれが傾城傾国と云い、かねさえあれば自由になるものか、わしもやっぱり人の子じゃア‥‥。気持ちの悪い声なり。  疲れたので、毛布を出して横になる。  ああこれでは一生このままで終ってしまう。どうにもならぬ。ぱっとした事はないのだろうか‥‥。何かがバクハツするような事はないのでしょうかね、神様‥‥。毛布が馬鹿に人間臭い。暗い戸外を、「別嬪さん」と男がどこかの女を呼んでいる声がしている。今日は主人夫婦は子供を連れて成田さんにお参り。おかみさんのおふくろさんが留守番に来ている。コックの大さんと云う爺さんが、私たちにいりめしをつくってくれている。  勝ちゃんが階カからウイスキーを盗んで来た。私製ジョニオーカア。暗がりで二人でウイスキーをビンの口から飲みあう。一丈くらいも体がのびたような気がする。文明人のする事ではないでしょうけれど、まあ、この女達を哀れにおぼしめして下さい。私は酔うと鼻血の出るような勇ましい気になる。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【太った月が消えた】 【悪魔にさらわれて行った】 【帽子も脱がずにみんな空を見た。】 【指をなめる者】 【パイプを咥えるもの】 【声を挙げる子供たち】 【暗い空に風が唸る。】 ◇。◇。◇。 【喉笛に孤独の咳が鳴る】 【鍛冶屋が火を燃やす】 【月は何処かへ消えて行った。】 【匙のような霰が降る】 【啀みあいが始まる。】 ◇。◇。◇。 【賭け金で月を探しに行く】 【何処かの煖炉に月が放り込まれた】 【人々はそう云って騒ぐ。】 【そうして、何時の間にか】 【人間どもは月も忘れて生きている。】 ◇。◇。◇。  スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学。ラブレエの恋文。みんな人生への断り状だ。生きていることが恥ずかしいのだ。労働は神聖なり、誰かがおだてて貧乏人にこんな美名をなすりつける。鼻持ちもならぬほど、貧民を軽蔑し、無学文盲をあなどりたい為に、いろんな規則ががんじがらめに製造される。貧民は生まれながらの私生児のようなものに落ちこんで行く。  幸福の馬車は、いちはやくこうした徒輩の間を一目散に走り去ってゆく。みんな見送る。ただ、ぼんやりとわめき散らす。月が盗まれたような気がして来る。虚空に浮いている幸福な金貨のような月の光りは消えた。月さえも万人の所有物ではないのだ。──私は貴族は大嫌い。皮膚に弾力のない不具者だ。  今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤のハゲ頭に口紅がついている。浅草のオペラ館で、木村時子につけて貰ったベニだと御自慢。集まるもの、宮島資夫、イソリ幸太郎、片岡鉄兵、渡辺渡、壺井繁治、岡本潤。  イソリさん、俺の’家には金の茶釜がいくつもあると呶鳴っている。  なにかは知らねど、心わあびて‥‥渡辺渡が眼を細くして唄っている。私はお釈迦様の-しを朗読する。人間、やぶれかぶれな気持ちになると云うものは全く気持ちのいいものだ。やぶれかぶれの気持ちの中から、いろいろな光彩が弾ける。黒いルパシカを着た壺井繁治と、角帯を締めた片岡鉄兵がにやにや笑っている。  辻潤ヤクのスチルネルがいくら売れたところで、世の中は大した変わりばえもしない。日本と云うところはそう云ったところだ。がんじがらめの王国。──帰り、カゴ町の若月紫蘭邸へ寄る。東儀鉄笛の芝居の話あり。  岸輝子さん/黒い服を着ている。私はこの人の音声が好きだ。──俳優とは如何なるものであろうか‥‥。私には何の自信もないのだけれども、ただ、こうして-かよって来るだけだ。そして、ヨカナアンを覚え、オフェリヤを猿真似のように私は朗読する。詩人にもなってみたい、俳優にもなってみたい、そして、絵描きにもなってみたい。  若い周囲には、魔法のように様々な本能が/怖れげもなくうごめいている。この、若い人達の中から、どれだけの名優が生まれて来るのかは判らないけれども、この座に坐っている時だけは/幸福の門の前に立っているような気がする。紫蘭邸を一歩’外へ出ると、何とない自分の将来に対して幻滅を感じるのだけれども、朗読をしている間は倖せな思いがする。  今夜は’ストリンドベリイの稲妻に就いての講義あり。  帰り、カゴ町の広い’草っぱらで螢が飛んでいた。帰り十二時。白山まで長駆して歩いてかえる。  炭屋の二階四畳半が当座の住居。部屋代は四円。自炊するのにはヒトヤマ二十銭の炭を買って/燃料にはことかかない。蜜柑箱の机に向かってまた仕事。童話をいくつ書けば、いったいものになるのか判らない。シンデレラめいたもの、イソップめいたもの、そのどれもこれもが一向になんの反響もない。  辺りがわあっと炭臭い。炭臭くてどうにもならない。──神様、神様と云うもの‥‥。まるい、ふわふわ、三角のとげとげ、どんな形をしているのだ、貴方は? 髯をはやして眼をつぶって、白い羽根をシダのように垂れさげているのですかね。もやもやの真空なのか? 神よ! いったい、貴方は、本当に私のまわりにも立っているのか云って下さい。きっと、私のようなもののところには来ないのでしょう? 神様/ 本当に貴方は人間のところに存在しているのですかどうですか? 神様よ。私には一向に見えない。そのくせ、私は見えない貴方に手を合わせる。誰も見ていないから、甘ったれ、涙を流して、じいっと、貴方に祈る。何とかして、このイソップが明日の糧になりますように。あの編輯者の咽喉元を締めつけてやって下さい。パイプを咥えて気取って、二時間も、あの暗い狭い玄関に待たされる。下手くそな、自分の童話を巻頭に乗せて威張っているようなあの編輯者をこらしめて下さい。たまに買ってくれれば上前をはねてしまう。一日中お椀のようなナイトキャップをかぶって、パイプを咥えているのがハイカラだと思っている男。  あまり無名なものの作品は載せたくないんだと云う。読者の子供が、無名も有名も知った事ではない筈だ。一生懸命に書いてみたンですけど駄目でしょうかと必死になる。私は何時間も待たされてなぶり者になってしまう。一枚三十銭でなくてもいい、二十銭でもいいから取って下さいと頼んでみる。では特別ですよとこの間も十枚でイチエン五十銭くれて、まアよく勉強するンだな。アンデルゼンでも読みたまえ。はい、アンデルゼンを読みます。玄関を出るなりわっと割れるような息をする。  あの編輯者メ、電車にはねられて死なないものかと思う。雑誌も送って来やしない。本屋で立ち読みをすると、私の童話が、いつの間にか彼の名前で、堂々と巻頭を飾っている。頭も尻尾も書きかえられて、私の水仙と王子が/ちゃんと絵入りで出ている。  次の原稿を持って行く時は、私は、そんなものは何も知らない顔で、にこにこと笑って行かなければならない。また二時間も待たされて、笑顔をつづけている事にくたびれてしまう。ああ、厭な仕事だと溜息が出る。神様/ これでも悪人をはびこらせておくのですか。  童話が厭になると-しを書く。だけど、しもてんから売れやしない。見ておきましょうと云って、みんな霞のように忘れられてしまう。  神様よ。いったい、どうして生きてゆけばいいのか私は判らない。貴方は何処に立っているんですか。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  朝、重い頭をふらふらさせて、本郷森川町の雑誌社へ行く。電車道でナイトキャップの男に会う。笑いたくもないのに丁寧に笑って挨拶をする。その男は/社へ行く道々も、詩集のようなものを読みながら歩いている。  玄関の暗い土間のところに、壁に凭れてまた待つ用意をする。小さい女の子が出て来て、厭な眼つきをして私を見ては引っこむ。 「赤い靴」と云う原稿を拡げて、私はいつまでも同じ行を読んでいる。もう、これ以上’手を加えるところもないのだけれども、何時までも壁を見て立っているわけにはゆかないのだ。  ああ、やっぱり芝居をしようと思う。  時計は十二時を打っている。二時間以上も待った。いろんな人の出入りに、邪魔にならぬように立っていることがつまらなくなって、戸外へ出る。なんだって、あの男は冷酷無情なのかさっぱり判らない。無力なものをいじめるのが心持ちがいいのかも知れない。  歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。  セッちゃんは洗濯。坊やが飛びついて来る。  朝も昼も食べないので、体中が空気が抜けたように力がない。坊やに押されると、すぐ尻餅をついてしまう。恭ちゃんのところも一銭もないのだと云う。恭ちゃんは前橋へ金策の由なり。  銀座の滝山町まで歩く。昼夜銀行前の、時事新報社で出している、少年少女と云う雑誌は割合いいのだと聞いたので行ってみる。  係の人は誰もいないので、原稿をあずけて戸外へ出る。辺りいちめん食慾をそそる匂いが渦をなしている。木村屋の店さきでは、出来たてのアンパンが陳列の硝子をぼおっと曇らせている。紫色のあんのはいった甘いパン、いったい、何処のどなたさまの胃袋を満すのだろう‥‥。  4丁目の通りには物々しくお巡りさんが幾人も立っている。誰か皇族さまのお通りだそうだ。皇族さまとはいったいどんな顔をしているのだろう。平民の顔よりも立派なのかな。ゆっくり歩いてカフェーライオンの前へ行く。ふっと見ると、往来ばたの天幕小屋に、広告受付所、都新聞と云うビラがさがって、そのそばに、小さく広告受付係の婦人募集と出ている。天幕の中には、テーブルが一つに椅子が一つ。そばへ寄って行くと、中年の男の人が、「広告ですか?」と云う。受付係に雇われたいのだと云うと、履歴書を出しなさいと云うので、履歴書の紙を買う-かねがないのだと云うと、その男の人は、吃驚した顔で:、「じゃア、これへ簡単に書いて下さい。明日から来てみて下さい」と親切に云ってくれた。ざらざらの用紙に鉛筆で履歴を書いて渡す。  この辺はカフェーの女給募集の広告が多いのだそうだ。皇族がお通りだと云うので/街は水を打ったように森閑となる。どの人もうつむいて動かない。巡査のサアベルが鳴る。  人々の列の向こうをざわざわと自動車が通る。自動車の中の女の顔が面のように白い。ただそれだけの印象。さあっと民衆は息を吹きかえして歩き始める。ほっとする。  明日から来てごらんと云われて、急に私は元気になった。日給で八十銭だそうだけれども、私には過分な-かねだ。電車賃は別に支給してくれる由なり。その男の人の目尻のいぼが好人物に見える。 「明日早く参ります」と云って歩きかけると、その人が天幕から出て来て、私に何も云わないで十銭ダマを一つくれた。お辞儀をするはずみに涙があふれた。神様がほんの少しばかりそばへ寄って来たような/ぬくい幸福を感じる。執念深い飢えがいつもつきまとっている私から、明日から幸福になる前ぶれの風が吹いて来たような気がする。今朝、私はコメ屋で貰った糠を/湯で溶いて食べた事がおかしくなって来る。体を張って働くより道はないのだと思う。売れもせぬ原稿に執念深く未練を持つなんて馬鹿馬鹿しい事だ。「赤い靴」の原稿は、あのままでまた消えてゆくに違いないのだ。  あの皇族の婦人はいかなる’星のもとに生まれ合せたひとであろうか? 面のように白い顔が伏目になっていた。どのようなものを召上り、どのようなお考えを持たれ、たまには腹もおたてになるであろうか。あのような高貴の方も子供さんを生む。ただそれだけだ。人生とはそんなものだ。  夕方から雨。  傘がないので、明日の朝の事を考えると憂鬱になって来る。  夜更けまで雨。どこかであやめの花を見たような/紫色の色彩の思い出が/瞼の中を流れる。 ◇。◇。◇。 (6月ペケニチ)  前はライオンと云うカフェーで、その隣りは間口イッケンの小さいネクタイ屋さん。すだれのようにネクタイが/狭い店いっぱいにさがっている。  今日で4日目だ。  三行広告受付で忙しい。イチギョウが五十銭の広告料は高いと思うけれども、いろんな人が広告を頼みに来る。──芸妓募集、年齢十五歳より三十歳まで、衣服相談、新宿十二ソウ-ナニケと云うふうに/申込みの人の註文を3行に縮めて受付けるのだ。浅草、松葉町カフェードラゴン、と云うのが麗人求むなのだから、私は色々な事を空想しながら受付ける。  かんかんとヒの照る-とおりを、美しい女達が行く。私はまだ洗いざらしたネルを着ている。暑くて仕方がないけれど、そのうち浴衣の一反も買いたいと思う。  眼の前のカフェーライオンでは眼の覚めるような、派手なメリンスを着た女給さんが出たり入ったりしている。世の中には、美しい女達もあるものだと思う。まるで人形のようだ。第一等の美人を募集するのに違いない。  こうした賑やかな通りは、およそ、文学と云うものに縁がない。かねさえあれば、いかなる享楽もほしいままなのだ。その流れの音を私は天幕の中でじいっと見つめている。たまには乞食も通る。神様らしきものは通らない。そのくせ、昼食どきのサラリーマンの散歩姿は、みんな爪楊枝を咥えて歩いている。ズボンのポケットにちょっと手をつっこんで、カンカン帽子をアミダにかぶり、爪楊枝をガムのように噛んでいる。  私は天幕の中で色々な空想をする。テーブルのひき出しの中には、ギザギザの大きい五十銭銀貨が溜ってゆく。これを持って逃げ出したらどんな罪になるのだろう‥‥。広告主はみんな受取を持って来るから、広告がいつまでたっても出ないとなれば/呶鳴りこんで来るかもしれない。これだけの-かねがあれば、どんな旅行だって出来る。外国にだって行けるかも知れない。これだけの-かねを持って何処かへ行く汽車に乗る。そして、それが罪になって、手をしばられて監獄へ行く。空想をしていると、頭がぼおっとして来る。この半分を母へ送ってやれば、どんないい人が見つかったのかと田舎では驚くかもしれない。あのひと達を二人そろって呼びよせる事も出来る。  理想的な同人雑誌を出す事も出来るし、自費出版で美しい詩集を出す事も出来る。テーブルの鍵をじいっとみつめていると、心がわくわくして来る。ひき出しをあけて/かねを数える。百円以上も貯っている。大したものだ。銀貨の重なった上に掌をぴたりとあててみる。気が遠くなるような誘惑に駆られる。わたし以外にはここには誰もいない。四時になれば、あの目尻にいぼのあるひとが-かねを取りに来る。  罪人になる奇蹟。  何と云う罪になり、どのくらい監獄にはいるものだろう‥‥。  神様がこんな心を与えるのだ。神がね。 「朝から’夜中まで」の銀行員の気持ちにもなる。  プロシャのフレデリックは「誰でも、自分自身の方法で自分を救わなければならぬ」と云ったそうだ。ああ、誰かが-かねを持って、この天幕を訪れる。私は鉛筆をなめながら、注文ヌシの代筆で3行の文章を綴る。みんな美しい奴隷を求める下心だ。その下心を3行に綴るのが私の仕事。もう、私の頭の中には-しも童話も何もない。  長い小説を書きたいと想う事があっても、それはただ、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処かへ逃げてゆく。  花柳病院の広告を頼みに来る医者もいる。まことに、芸妓募集、花柳病院とは充実したものだ。私は皮肉な笑いがこみあげて来る。あらゆるファウストは女に結婚を約束して、それからすぐ女を捨てる。三行広告にも/いろいろな世相が動いている。  それが証拠には、産婆の広告も毎日やって来る。子供やりたしとか、もらいたしとか、いかようにも親切に相談とか。広告を書きながら、私は私生児を産みに行く女の唸り声を聞くような気がする。  そして、私は、毎日、いぼさんから八十銭の日給を頂戴して/とことこ本郷まで歩いて帰るのだ。  感化院。養老院。狂人病院。警察。秘密探偵。ステッキガール。玉の井。根津あたりの素人淫売宿。あらゆる世相が都会の背景にある。  或る作家曰く、三万人の作家志望者の、一番どんじりにつくつもりなら、君、何か書いて来たまえ‥‥。ああ、恐るべき魂だ。あの編輯者が、私を二時間も待たせる根性と少しも変わりはない。  私は生涯、この歩道の天幕の広告取りで終る勇気はない。天幕の中は6月の太陽でむれるように暑い。ほこりを浴びて、私はせいぜい小っぽけな鉛筆をくすねるだけで生きている。  北海道の何処かの炭坑が爆発したのだそうだ。死傷者’多数ある見込み‥‥。銀座の鋪道はなまめかしくどろどろに暑い。太陽は縦横無尽だ。新聞には、株で大富豪になった鈴木某女の病気が出ている。たかが株でもうけた女の病気がどうであろうと、犯罪は私の身近にたたずんでいる。  株とはなんなのか私は知らない。濡手で粟のつかみどりと云う幸運なのであろう。人間は生れた時から何かの影響に浮身をやつしている。  三万人のしっぽについて小説を書いたところで、いったい、それが何であろう、運がむかなければどうにも身動きがならぬ。  夜、独りで浅草に行く。ジンタの音を聴くのは気持ちがいい。誰かが日本のモンマルトルだと云った。私には、浅草ほど愉しいところはないのだ。ヤツメウナギ屋の横丁で、三十銭のちらし寿司を奮発する。茶をたらふく飲んで、/店の金魚を暫く眺めて、柳さく子のプロマイドをエハガキ屋でいっとき眺める。  どの路地にもしめった風が吹いている。  ふっと、しを書きたくなる一瞬がある。歩きながら眼を細める。何処からも相手にされない才能、あの編輯者のことを考えると/ぞおっとして来る。まんまと人の原稿をすり替えた男。この不快さは一生忘れないぞと思う。私にだって憎悪の顔がある。いつも笑っているのではありません。笑顔で窒息しそうになる気持ちを/幸福な人間は知るまい。私は、そんな人間の前で笑っていると、胸の中では呼吸のとまりそうな窒息感におそわれる。  一つの不運がそうさせるのだ。  残酷な人の心。チエホフの、アルビオンの娘みたいなものだ。  寿司屋では茶柱が二本も立ったので、眼をつぶってその辻占をぐっと呑みこんでしまった。だから、お前はいやしいと云うのだ。ほんの少しの事にでも期待を持ちたがる。たかが広告取りの女に、誰が何をしてくれると云うのだねと、神様みたいなものがささやきかける。また、あの糠。いやな、日向臭い糠──。帰り/合羽橋へ抜けて、逢初町のホウへ出るところで、辻潤の細君だと云う小島キヨさんに逢う。  アイゾメの夜店で、ロシヤ人が油で揚げて/白砂糖のついたロシヤパンを売っていた。二つ買う。  現実に戻ると、日給の八十銭はなかなかありがたい。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【薄曇り/4年にわたる東京の】 【隙間をもれて】 【思い出はこの空気の濁り】 【午後にやむ雨】 【蝉の声’網目の如し】 【胸の轟きオ止みめぐる’血】 【西片町のとある垣根の野薔薇】 【其処此処に捉われる風】 ◇。◇。◇。 【小さき詩人よ】 【在り処なくさまよう詩人】 【窮して舞うゼニなしの詩人】 【寂寞の重さにひしがれ】 【彷徨うは旅の夢跡】 【どこやらに琴のきこゆる】 【消える音◇ 消える夢】 ◇。◇。◇。 【西片町の静かなる朝】 【金魚屋の憩うノキ】 【浸み渡るエンの水】 【赤い尾ひれのたまゆらの舞い】 ◇。◇。◇。 【喉が乾く】 【真白な歯は水くぐる】 【歓びは枇杷の果のしたたり】 【盗みて食う庭かげ】 【酢くしわめる舌は】 【イギリス語の如し】 ◇。◇。◇。 【不愉快なバイブルの革ビョウシ】 【しめって臭く犬の皮むけ】 【西片町の屋敷の匂い】 【枇杷の実はくさったまま】 【木もれびの下のキジ猫】 【森閑としずもれる西片町】 ◇。◇。◇。 【金魚屋のバッカン帽子が呟く】 【詩人もしゃがむ】 【円にうつす水鏡】 【雲に浮く金魚の合唱】 【生死のほどはいまもわからぬ】 【ただこの姿あるうちに召しませ】 ◇。◇。◇。 【西洋洗濯のペンキグルマ】 【白いトウの表札と呼鈴】 【時間のとどまる一瞬の朝】 【この家々が澄まして悪を憎む】 【ペンキグルマは後追う詩人】 【どこやらでウソの鳴き声】 【世に叫ぶ何ものも持たざる詩人】 【開闢とは今日のことなり】 【昨日はもうすでに消え】 【あるは今日のみ今の現実】 【明日が来るのか‥‥】 【明日があるのか詩人は知らぬ】 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ) ◇。◇。◇。 【マダラマダラに立つマダラマダラ】 【人生の青さの彼方】 【重く軽く生きるマダラマダラ】 【燈火によるかげろう】 【ただひきずられて生きる】 【忽然と消えるも知らず】 【希望らしげなマダラマダラの顔】 【悪念’怨恨その日暮し】 【どうせ死ぬ日があるまでは】 【ムイシュキン様の憤怒’絶望。】 ◇。◇。◇。 【よりにもよって暗い’顔】 【楽しい月日の人生なぞとは】 【あわあわとタワケたことだ】 【辛抱強くよくも飽きずに】 【Mボタンをはずしたり閉めたり】 【閃き吹きあげる炎の息】 ◇。◇。◇。 【マダラマダラの辛抱強さ’の厚顔】 【頻りと雷同するマダラマダラ】 【時々はあじさいの地位名誉】 【下碑が鍋尻を洗う器量】 ◇。◇。◇。 【軽く重く衝突するマダラマダラ】 【トコのマには忠孝】 【欄間には洗心】 【壁間には欲張ったフウ流】 【ああ私は下婢となって】 【毎日毎日鍋尻を洗うのだ】 【マダラマダラの偽善/】 ◇。◇。◇。  自分が何故こんなところにいるのか判らない。ただ、何となく家庭らしさをあこがれて来たような/あいまいな気持ちばかり。五円のおてあてではどうにもならぬ。──旦那さまは大学の先生だと云う。何を教えているのかさっぱり判らない。英国へ行っていた経歴はあるのだそうだ。毎朝パン食。牛乳が一本。ひげをそって、水色裏の蝙蝠ガサを持って御出勤になる。大学までは、ほんの眼と鼻のところだのに、蝙蝠ガサの装飾が入り用なのだ。暑くても寒くても動じぬ人柄なり。歴史を語るのだそうだけれども、私は一度も講義を聞いたことはない。奥さんは年上で、もう五十くらいにはなっているのだろう。彫の深い面のような顔、表札のトウに似たコイゲショウだ。奥さんの姪が一人。赤茶色の艶のない髪を耳かくしに結って/鏡ばかり見ている。ヒタイが馬鹿に広くて、眼の小さいところがメダカに似ている。三十を過ぎたひとだそうだけれども、声が美しい。この暑いのにいつも足袋を履いたかたくるしさ。私は、この民子さんの素足を見た事がない。  喜びにつけ、悲しみにつけ、私は私の人生に倦怠を感じはじめた。偶然から湧いて来る体験、そんなものにほとほと閉口頓首:、男といっしょにいるのも厭、夜の酒場勤めも長続きするものではないとなれば、結局は女中にでもなるより仕方がないけれど、これも私のガラにはあわない。今日で三日になるけれど、何となく居づらい。ここの雨戸の開閉がむずかしいように、何とも不馴れなことばかりなり。  己惚れの強さがくじけてしまう。何とも楽なことではないけれども、楽をしようなぞとは思わぬかわりに、ほんの少々のひまがほしい。女中ふぜいが、深夜に到るまで本を読んでいるなぞとは使いづらいに違いない。こちらも気の引けることだけれども、今夜こそは早く電気を消して眠りにつこうと思いながら、暗いところではなおさらさえざえとして頭がはっきりして来る。越し方、行く末のことがわずらわしく浮び、虚空を飛び散る速さで、瞼のなかを様々な文字が飛んでゆく。  速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。  仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々’疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮らしと云うものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムスンの飢えのなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生き方が、無意味だと解った時の味気なさは/下手な楽譜のように、ふぞろいな濁った諧音で、いつまでも耳の底に鳴っているのだ。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  暑いので、胸や背中にあせもが出来る。帯をしっかり結んでいるので、何とも暑い。蝉がジンヤジンヤと啼きたてている。台所で水を何杯も飲む。窓にかぶさっている八ツ手の葉が暑っくるしい。明日は一応ひまを取って、千駄木へ帰ろうと思う。  こうしていてはどうにもならないのだ。五円の収入では田舎へ仕送りも出来ない。心の籠った美しい世界は何処にもない。自分で自分を卑しむ事ばかりだ。己惚れと云うものが、第一に自分を不遇のなかに追いこんでいるのだ。ものを書きたい気持ちなぞ何もなるものではないくせに、奇抜なことばかり考えては、自分で自分をあざけり笑うのみ。人には云えないけれど、自分がおかしい。何もまともなものは書けもしないくせに、文字が頭の芯にいつも明滅していると云う事はおかしい事なのだ。たかが田舎者のくせに、いったい文学とは何事なのでございましょうか? 神様よ。屡々、異様な人生が私にはある。そして、それに流されている。何かをやってみる。そして、その何かがすぐ不成功に終る。自信がなくなる。  失敗は人をおじけさせてしまう。男にも、職業にも私はつまずいてばかりいる。別に、誰が悪いと恨むわけではないのだけれども、よくもこんなに、神様は私と云うとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。神様と云うものは意地の悪いものだ。あなたは、戦慄と云う事を感じた事はないのだろう‥‥。  やかましい音をたててジョウサイ屋が路地口に来る。物売りの男を見るたびに、行商をしている義父の事を思い出す。たまには五十円くらいもぽんと送ってやれないものかと思う。リンカの垣根に、ひまわりが丈たかく後ろむきに咲いているのが見える。  来世は花に生まれて-きたいような物悲しさになる。ひまわりのキは、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれを妙な事だと思う。──奥さんは近いうち新潟へ帰郷の由。早くこの家を出なければならぬ。  夕方、八重垣町の縫物屋へ/奥さんのナツバオリの仕立物を取りに行く。戸外を歩いていると吻とする。どの往来も打水がしてある。今日はアイゾメの縁日だと、とある八百屋の店さきで人が話しあっている。バナナがうまそうだし、西瓜も出ている。久しく西瓜も食べた事がない。  ふっと、田舎へ帰りたい気がする。赤い袴をはいた交換手らしい女が/サンヨニンで私の前をはしゃぎながら行く。大正琴の音色がしている。季節らしさのこもった夕暮なり。かねさえあれば旅行も出来よう、この季節らしさが悔しくなって来る。いつまでも、仕事探しで、よろよろと、ハタチの私の青春は朽ちてゆくのかもしれない。漂うに任せての生活にも本当に厭になってしまう。自分らしい落ちつき場所と云うものはなかなかみつからぬものだ。  人生と云うものはこんなに何かしらごちゃごちゃと寄り添っていながら、わざと濁ったホウへ、苦しいホウへ、退屈なホウへ流されて行ってしまっている。そして、人々は不用意に風邪を引く。何処で引いたのかは気がつかない。夜、メダカ女史が泣いていた。どのような原因なのかは知らないけれども、取り乱して泣いている。白いカバーの掛かった座布団の重ねてある暗いところで泣いている。書斎は森閑としている。  台所で一人で食事。来る日も来る日も、生ぬるい味噌汁と御飯。ぬか漬の胡瓜を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきのパンが食べたい。  奥さんが、小さい声で’叱っている声がする。恩をアダで返されたようなものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。──メダカ女史の見栄坊が根こそぎ失脚してしまった。その後は声をたてて泣く。女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの茄子を出して食べる。  酢っぱい’汁が舌にあふれる。  凪に近い暑さ。風鈴が時々ものうく鳴る。明日はこの家を出たいものだ。何しろ、蚊が多いのは’やりきれない。台所をかたづけて、水道で体を拭いていると、ひどい藪蚊にさされる。皮膚が弱いのですぐプッとふくれる。浴衣を水洗いしてヨボしをして置く。いい月夜なり、写真のような白と黒の影で、狭い庭のそこここに/白い人が立っているような錯覚がする。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  濁った水を走る、小さい魚の眼にも、澄んだ真夏の空が光っている。およそ、模範的だなぞと云う人間ぐらい厭なものは無い。歩いている人間がみんなそうだ。2本の足をかわりばんこに動かして、まるで、目の前に希望がぶらさがっているような、あくせくした行進だ。  この世の中にどんな模範があるのだろう。人いじめで、いやらしくて、大嘘吐きで、自分ばかりをおたかく考えている人間。口に人類だの人道主義だなぞと云って、あのメダカ女史をうまいことだましたに違いない。その恋人は一生足袋を履いて暮さなければ/格が落ちるとでも教育されたのに違いない。  女には反抗する姿勢がないのだ。すぐ、じめじめと泣き出す。  夜、上野の鈴本へエイ子さんと行く。  猫八の物真似、雷門助六のじげむの話面白し。ああすまじきものは宮づかえ、千駄木へ戻って、井戸で水を浴びる。  物干に出て涼んでいると、星が馬鹿に綺麗だ。地虫が啼いている。蚊が唸っている。夜更けまで、何処かで木魚を叩くような音がしている。長い月日を西片町で暮らしていたような気がする。英子さんは、二三日して大阪へ戻る由なり。そのあとのことはまた考えればいいのだ。せめて、二三日、黙ってぐっすり眠りたいものなり。 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  昼近く、読売新聞に行き、清水さんに面会に行くが、とうとう-しを返される。帰り、恭ちゃんのところへ寄る。ここも、不如意な暮らしむきなり。セッちゃんと縁側で昼寝。氷水を十杯も飲みたい気持ちで眼が覚める。セッちゃんは子供を柱へくくりつけて洗濯。  何処へも行き場のない、行きくれた気持ちで縁側で足をぶらぶらさせていると、路地の外をものうい唄を歌ってジンタが通る。籠の鳥でも知恵ある鳥は、人目しのんで逢いに来る。‥‥何だかその唄が身につまされて/心のなかが味気なくなって来る。庭のすみに、小さい朝鮮朝顔の桃色の花がいっぱい咲いている。久しぶりで、しみじみと花の咲いたのをみた。恭次郎さん/なかなか戻らない。財布をはたいて、釜あげうどんを二つとって/セッちゃんと食べる。かねは天下のまわりもの、いずれは、のろのろとした速度で、また-かねのはいる事もありましょう。 ◇。◇。◇。 【アイゾメの縁日は】 【香具師がいっぱい】 【粉だらけの白い朝鮮飴】 【螢売りに虫売り】 【大道手品は喝采でいっぱい】 【カーチンメンドの冷やし飴】 【臆病者の散歩】 【カアバイトのくさい燈火】 【バナナ屋のねじり鉢巻】 【ええあの太いのがくさるのよ】 ◇。◇。◇。 【ゴム管で聴く蓄音機】 【ホーマーの-しでもあるのかな】 【深山の薄雪草にも似た宵】 【綿の水を吸ってキヌ糸ソウが青い】 【水中花はコップの中でヒトムラ】 【アルペンの高山植物ら-しく】 【男を売る店は一軒もない】 【乾いた海酸漿のベニ色】 【心臓が黙って歩いている】 ◇。◇。◇。 【ああ五時間もすれば】 【またどんな人生がやって来るのだろう】 【不可能のなかに後退してゆく脚】 【少しずつ思いの色が変化する】 【ゴマ入りの飴玉をしゃぶる】 【縁には紐のない玉手箱。】 ◇。◇。◇。 (7月ペケニチ)  英子さんが一緒に大阪へ行かないかと云う。大阪へ行く気はしないけれど、岡山へは帰りたい。久しぶりに、母’にも逢いたいものなり。英子さんの旦那さんより十円’かりる。岡山まで行きさえすれば、帰りは何とかなるだろう。昼、西片町に荷物を取りに行く。メダカ女史が荷物と、五十銭ダマ6つくれる。この本は、貴方のではないでしょうと云って、伊勢物語を出して来る。はい、私のですと云うと、いいえ、これはうちの本ですと云う。何だか釈然としないので、これは、私が夜店で買ったのだからと、台所にいつまでも立っていた。メダカ女史/しらべて来ると云って引っこんでいったけれど、暫くして黙って、「勉強家ね」と云って持って来る。本と云うものは女中風情の読むものではないと思っていたのに違いない。ありましたかと尋ねると、メダカ女史は返事もしない。ああやれやれだ。昔男ありけりだ。大した事でもない。  夜、エイ子さんと、エイ子さんの子供と三人で東京駅へ行く。汽車へ乗る事も久しぶりだけれども、何となく東京へ名残惜しい気持ちなり。別れた人が急になつかしくなって来る。80銭のボイルの浴衣が/お母さんへの土産。  プラットホームはひっそりとして、洋食の匂いがしている。見送りの人もまばら。ホームを涼しい風が吹いている。流暢な東京言葉にもお別れ。横浜を過ぎる頃から車内がひっそりして来る。山北の鮎寿司をエイ子さんが買う。半分ずつ食べる。英子さんの旦那さんは大工さんだが/無類にいいひとなり。  何ものにもとらわれる事なく、何時までも汽車旅を続けて-いたいようなのんびりさだ。汽車に乗って、岡山へ’帰るなぞとは/昨日まで考えつかなかった事だけに/愉しくて仕方がない。さきの事はさきの事で、また、何とか、人生のおもむきは変ってゆくであろう。譜面台のない人生が未来にはある。私はそう思う。自分の運命なンか少しも判ってはいないけれども、運命の神様が何とかお考えになっているのには違いない。ぞっとするような事も度々だけれど、この汽車に乗れる幸福はまことに有難いことだ。東京へ再び来る事があったら/十円は身をコにしても返さなければならない。西片町はさよなら。  何事も/思し召しのままなる人生だ。えらそうな事を考えてみたところで、運命には抗しがたい。昔男ありけりではないが、ああ、あんな事もあった、こんな事もあったと、暗い窓を見ていると、田園の明かりがどんどん後ろへ消えてゆく。少しも眠れない。一つのささやかな遍歴の試みが、私をますます勇気づけてくれる。何でも捨て身になって働くにかぎる。しなぞはもう金輪際’書くまい。しを書きたい願望や情熱は、ここのところどうにもならない。ダイ詩人になったところで、人は何とも思わぬ。狂人のようになれぬ以上は、このみじめな環境から這い出すべしだと思う。夜の雲がはっきりみえる。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  岡山の内山下へ着いたのが九時頃。橋本では、まだみんな起きて涼んでいた。一カ月程前に、お父さんもお母さんも尾道へ戻っていると云うので、私はがっかりする。ひと晩やっかいになって、明日の早い汽車で尾道へ行くことにする。橋本は、義父の姉の家なり。女学校へ行っている娘が二人。小さい時に逢ったきりだったので、久しぶりに会ったせいか、二人とも背の高い娘になっていた。  姉娘の清子と銭湯に行き、風呂から上がって、銀行のそばの屋台でショウガ入りの冷やし飴を飲む。かねがないと云う事がなんとしても辛い。尾道までの汽車賃を明日’朝云い出す事にする。  何をして働いているのか、誰も尋ねてはくれない。それも助かる。岡山は静かな街だとおもう。どおんとした凪。むし暑くて寝る気がしない。いつでも、屠殺される前の不安な状態が胸を締めつける。かねの百円も持って帰ったのなら、こんな白々しい人達ではあるまいと思える。  女学校二年の光子が、二階で遅くまで英語の歌を歌っていた。トィンクル/トィンクル/リトルスター、ハオアイ/ワンダア/ホアツユウアール、ホエン/アップアバウト/インザスカイ。私もこの歌はならった事がある。何だか、遠い昔のことのような気がして来る。義父が岡山の鶴の卵と云う’菓子を買って来てくれた事を思い出した。  朝。台所で朝飯をよばれたけれど、かねの話を云い出しそびれる。折角’来たのだから、友達を尋ねると云って戸外へ出る。  学校時代の友達に逢いに行ったところで、別にもてなして貰えると云うあてもない。暑い街の反射で汗びっしょりになって、賑やかな街に出る。狭い商店街の通りには天幕がずっと張り渡されて、昏い涼しい影をつくっていた。どの店も奥深い感じなり。青木と云う西洋食器店を何となく探してみる。転落して無一文となり果てた級友の訪問ぐらい/迷惑な事はあるまいと思える。  ふっと、青木と云うハイカラな西洋食器店をみつけた。暫く陳列の前に立って、コオヒイヂャワンや、アヒルの灰皿や、スカートを拡げた西洋人形の辛子入れなぞを眺めている。緑のペンキ塗りの陳列のなかのぴかぴか光る金いろ、赤、コバルト、トウの涼しさ。メリンスの着物に白いエプロンをした美しい子供が店さきに出て来たので、中根慶子さんはいますかと聞いてみる。  子供はすぐ奥へはいって行った。私は陳列の硝子に顔をうつしてみる。水の底の昏い皿の上に/私のむくんだ顔が載っている。髪はちぢれた耳かくし。おお暑い、暑いだ。水車の音が耳に来る。洗いざらした鳴戸ちぢみのカスリ。袂はよれよれでござんす。帯は赤と白のナッセンのメリンス。洗うと毛羽だってむくむくと溶けてしまいそうな安物。足袋と下駄はエイ子さんに大阪の梅田駅で貰ったもの。  中根さん出て来るなり、ンまアと云って驚く。尾道の学校を出て4年。一度も相逢うことなく-こんにちに到る。紺飛白を着てきちんとした姿。何とも落ちぶれた姿の自分が、荷車にひかれた昆布のような気持ちなり。中根さん、地味な色のさめたエの長いパラソルを持って出て来る。公園へ行こうと云う。  日本でも有名な公園の由なり。公園になぞ行く気はないのだけれども仕方なく、公園へついて行く。中根さんは無口なひとなり。まだかたづかない由にて、私に小説を書いているのかと聞く。小説の話なぞは、夢のような事なのでやめる。東京での様々を打明けたらこの人は驚くであろう。  公園は暑くてつまらないところであった。  景色を眺める事になんの興味もない。若いせいかも知れないけれども、蝉の-あぶられるようなそうぞうしさ。池のほとりを高等学校の生徒が灰色の服を着て/下駄ばきで歩いている。みんなりりしく見える。中根さん、カインの末裔を読んだかと云う。私は東京の生活が荒れているので、そんな静かなものは読んでは’いられない。  赤松の木陰に茶みせがある。中根さんはそこへ這入る。水づけになっているラムネを二本註文する。みぞれをかいてもらって、それへラムネをかけて飲む。舌の上がぴりぴりとして/その醍醐味は蒼涼。蝉取りの少年がたくさん遊んでいる。どおんと眠ったような公園の景色なり。  締め合わせられる、つなぐ、断れる。心がきれぎれで、ラムネのびんの玉を、からからとゆすぶっているだけ。尾道へ行く旅費。二円五十銭もあれば、羊かんも買って帰れる。きらきらと向こうはヒが射している。こちらは深い蔭になって、長い縁台に眼鏡をかけた男が/口を開けて昼寝をしている。氷の旗のゆれる色彩。目をこらして辺りをみているのだけれども、この景色も、汽車の中では忘れてしまうに違いない。袂の中へ’がまぐちを落して、ひそかに氷とラムネ代を勘定する。  中根さんも東京へ行きたいとぽつりぽつり話しているけれども、私はうわのそらで、銅貨を数える。昔は仲が良かったと云うだけで、意味もなく公園の景色なぞを眺めていなければならないつまらなさに哀しくなって来る。  氷とラムネ代を払って、4銭残る。みえ坊で嘘つきで、ていさいのいいことばかりで、中根さんに旅費を借りる事を断念。──昼前に橋本へ帰り、勇気を出して、借銭を申し込んで二円’五十銭おばさんより借りる。二人の女学生は急に軽蔑したような目で私を見ている。この眼が一等いやなのだ。私はまるで犯罪人になったようなうらぶれた気持ちで/昼の駅へ行く。  羊かんを買わないで、弁当を買う。三等の待合室で弁当を食べる。売店で青いバナナを二本買う。五銭なり。  少しばかりの-かねが、こんなに勇気づけてくれる。公園でのびのびとラムネを飲めばよいものを、ゼニ勘定をしながらびくびくして飲んだ事に腹立たしくなる。中根さんは別に厭な女でもないのに、吐気がするほど厭に思えて来る。ご馳走をした上に、びくびくして、中根さんにへりくだってものを云っている自分にやりきれなくなっていた。小説はうれるの? いいえ売れないのよ。どんなものを書いているの? どんなものって、童話みたいなものよ。一々あやまって返事をしていたような惨めさが/話していながら、ああ駄目だ駄目だと中根さんに押されて来る。奴隷根性。いつもぺこぺこ。何とかして貰うつもりもないのに/笑顔をつくってへりくだってみせる。  しや小説を書くと云う事は、会社づとめのようなものじゃありませんのよと/心の中でぶつくさ云いわけしている。  尾道へ着いたのが夜。  むっと道のほてりが裾の中へ’はいって来る。とんかん、とんかん/鉄を打つ音がしている。汐臭い匂いがする。  少しもなつかしくはないくせに、なつかしい空気を吸う。土堂の通りは知ったひとの顔ばかりなので、暗い線路沿いを歩く。星がきらきら光っている。虫が辺りいちめん鳴きたてている。鉄道草の白い花がぼおっと線路沿いに咲いている。神武天皇さんの社務所の裏で、小学校の高い石の段々を見上げる。右側は高いキバシ。この高架橋を渡って、私ははだしで学校へ行った事を思い出す。線路沿いの細い路地に出ると「バンヨリは’いりゃせんかア」と魚屋が、平べったいタライを頭に乗せて呼び売りして歩いている。夜釣りの魚を晩よりと云って/漁師町から女衆が売りに来るのだ。  持光寺の石段シタに、母の二階がりの家をたずねる。びちょびちょの外便所のそばに/夕顔が仄々と咲いていた。母は二階の物干で行水をしていた。尾道は水が不自由なので、担い桶’一杯二銭で水を買うのだ。  二階へ上がって行くと母は吃驚していた。  天井が低く、二階の庇すれすれの堤の上を線路が走っている。黄いろい畳が熱い位ほてっている。見覚えのある蓋のついた本箱がある。本箱の上に金光様がまつってある。行水から出て来ると、たらいの水に洗濯物を-つけながら、母は首でもくくりたいと云う。  義父は夜遊びに行って留守。博打に夢中で、このごろは仕事もそっちのけで、借銭ばかりで/夜逃げでもしなければならぬと云う。  私は、帯をといて、裸で熱い’畳に腹這う。上りの荷物列車が光りながら/窓のさきを走っている。家がゆれる。  押入れも何もない汚ない部屋。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  愛する者よ。なんじらこの一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千日は一日のごとし。壁に張りつけてある古い新聞紙にこんな宗教欄がある。愛する者よ。か、オエにまみれ、いっこうにぱっとしない人生、つき砕かれた心が、いま、この天井の低い部屋の中で眼をさます。一晩中、そして朝も、休みなく汽車が走っている。サカナの町と云う小説を書きたくなる。階カの親爺さんと義父は連れだって出たまま/今朝も戻っては来ない。  朝日が北の壁ぎわにまで射し込んで暑い。線路の堤にいちめんの松葉ぼたんの花ざかり。煎りつくように蝉が鳴きたてている。  昼過ぎの汽車で宮様が御通過になる由にて、線路沿いの貧民窟の窓々は/夜まで開けては’ならぬ、と云うお達しが来る。干し物も引っこめるべし、汚れものを片づけるべし。母は物干台を片づけ、ぞうりをはいて屋根ガワラの掃除をしている。宮様とはいったい何者なのか私たちは知らない。何も知らないけれども尊敬しなければならないのだ。昼頃から、線路の上を巡査が二人みまわっている。  障子を閉めて、裸で、チエホフの退屈な話を読む。あまり暑いので、梯子段の板張りに寝転んで本を読む。風琴と魚’の町、ふっとこんな尾道の物語りを書いてみたくなる。  母は掃除を済ませて、白い風呂敷ヅツみの/大きい荷物を背おって商売に出掛ける。  階カのおばさんが、辛子のはいったところてんを一杯ごちそうしてくれる。そろそろ、宮さんがお通りじゃンすでエ‥:‥近所の女衆が叫んでいる。  轟々と地響きをたててお召列車が通る。障子の破れから覗くと、窓先の堤の上に/巡査が列車に最敬礼をしている。巡査の肩に大きいトンボがとまっている。羽根が白く透けてふるえている。汽車の窓の中に白いカヴァーがちらちらして、赤い顔の男が本を読んでいたのが/すっと過ぎ去る。  真実な一つのフイルムが、線路をすっとかき消えて行く。巡査が頭を挙げる。すばやく障子の破れから私は頭を引っこめる。  忍耐づよい貧民。力が抜ける。それきりの為に、また固く障子を閉めておく。負担になってもにこにこ笑ってドゲザしている。ただ、それきりの生き方。なんの違いが、一瞬の宮様にあるのだろう‥‥。宮様は涼しい汽車で本を読んでいる。私は暑い部屋の中で、チエホフの退屈な話を読んでいるだけだ。  本箱の中に、古い私のノートあり。学生の頃の日記。大した事もなし。エルテルにのぼせあがっている感想。伊藤白蓮のかけおちをノラの如しと書いている。  当分はこのままで必死に小説を書いてみようと思う。  夕方より雨。母が、油紙を頭からかぶって戻って来る。手籠に、いちじくのはじけたのを土産に買って来てくれる。尾道では、いちじくの事をとうがきと云うなり。  義父帰らず。  母は警察へあげられたのではないかと心配している。雨で涼しいのでノートに少しばかり小説めいたものを書きつけてみるけれども、すぐ厭になってしまう。大した事もないのだ。伊勢物語’読了。  ものを書いて暮すなぞと云う事はあきらめるほうがいい。どうにもものには’ならぬ。作曲家が耳のないのを忘れていて、音色を空想するだけ‥‥。孤独に流されているだけでは、一字も言葉は生れて来ない。海辺の町へ戻って、まだ私は海を見ない。  夜更けて義父が戻って来た。  クレップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている風采が/どうもいやらしい。かねもないくせに敷島をぷかぷかふかしていた。  東京は景気はどうかの。東京は不景気です。俺も今度こそ、何とかしようとは思うンじゃが、うまくゆかん‥‥。  あんまり暑いので、母と夜更けの浜へ涼みに行き、多度津通いの大阪商船の発着所の、石段のところで暫く涼む。露店で氷まんじゅうや、冷やし飴を売っている。暑いので腰巻一つで、海水へ入る。浮きあがる腰巻きのはじに青い燐がぴかぴか光る。思い切って重たい水の中へ’すっとおよいでみる。胸が締めつけられるようでいい気持ちだ。  暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊って、ランプをとぼしているのが如何にも涼しそうだ。雨あがりのせいか、海辺はひっそりしている。  千光寺の明かりが、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  風琴と魚’の町’少しはかどる。  小説と云うものはどんなふうに書くものかは知らない。ただ、だらだらと愚にもつかぬ事をノートに書きながら/自分で泣いているのだからいやらしくなって来る。蚊が多いので夜は一切書けない。第一、小説と云うものを書く感情は存在していないのだ。すぐ-しのような歌い方になってしまう。物事を解剖してゆく力がない。愍むがよい。ただ、それきりだ。観察が甘く、まるで童話的だ。  東京へ’帰るには、二十円も工面しなければならぬと云う事が頭にちらつく。人よりに-あらず、人に由るに-あらず、イエス・キリスト及びこれを死人の中より甦えらせ給いし/父なる神に由りて使徒となれるパウロ。小説を書く筆者の琴線がたかなることなくしては、神は人のうわべを取り給わずである。自分にそのような才能があるとは思えない。書いても、書いても突き戻されていることに赤面しないあつかましさ。支離滅裂な心理の底をくぐる。小さいサカナの影を追うようなものだ。まことしやかに活字が並ぶ。血反吐を吐いたものはみるにも読むにもたえぬ。警察の眼も光る。無政府主義とは唄ではないのだ。それを願う願いは、この世の何処かにあるのだけれども‥‥。お伽の世界をねらう/平和な獣だけの理想の天地。宮様がお通りになるからと云って、一日じゅう障子を閉ざして/息を殺していなければならぬ/私は階級なのだ。そして、宮様は一瞬にして雲の彼方に消えてゆく人である。どうして、そのような人を尊敬しなければ生きてゆけないのだろう。  警備の巡査も生きている。肩にとまったトンボも生きている。障子の中には、/無作法な裸で、チエホフをぶらさげている女が立っている。  尾道へ戻った事を後悔する。  ふるさとは遠くにありて想うものなり。たとい異土のカタイとなろうとも/ふるさとは再び帰り来る処に-あらずの感を深くするなり。  死に-たくもなし、生きたくもなしの無為徒然の気持ちで、今日もノートに風琴と魚’の町のつづきを書く。  母も、もう一度、東京へ出て夜店を出したいと云う。義父と別れてさえくれれば、私はどんなに助かるだろうと思うけれども、母’はこれも成り行きの事故、いましばらく辛抱しなさいと云う。義父はまた今朝から博打に出掛けてゆく。母’だけが、体をすりへらしてこっぱみじんの働きぶりなり。  ただ、母も私も、長い苦痛の連続のみにすがって生きているようなものなり。せめて、私が男に生まれていたならばと思う。母の働いた-かねはみんな父の博打の元手に消えてしまう。  夜は母と二人で、夜の浜辺へ出て、露店でうどんを食べて済ませる。/家にいると借金取りがうるさいと云うので、また、暗い海水浴。  海水は汚れてどろどろ、葬式の匂いがする。そのうち、ええこともあろうぞ‥‥母’がふっとそんな事を云う。私は桟橋のほうまでおよぐ。燐が燃える。向島のドックで、人の呼んでいる声がしている。こんなことでは、何の運命もない、風琴と魚’の町の原稿を東京へ持って行ったところで、ぱっと華咲くようないい日が来るとは信じられぬ。いまひといき、いまひといきと暗い冷たい水のホウへおよいで行く。  やがて、石段に戻って、素肌にぬるい着物を着る。濡れたものをしぼっていると、うどんのげっぷが出て来る。肌がぴいんと締まって来た気がする。自然な温かい気持ちになり、猛烈に激しい恋をしてみたくなる。いろんな記憶’の底に、男の思い出がちらちらとする。  家へ戻ると、階カはみんな出掛けて留守。階カのおばさんも、このごろはコブ巻きの内職をなまけて遊び歩いているとの事なり。  あばら家同然の二階。裸電気の下で、母と私ははだかになって涼む。燈火の賑やかな上り列車が走って行く。羨ましい。  どうしても東京へ行きたいのだけれども、いまがいま、二十円の-かねつくりは出来かねると母’はしょげている。十円でも出来ればいいのだと思う。蚊イブシを燃やして、小さいちゃぶ台にノートを拡げる。もう、あとを続けて書くより仕方がない。甘くてどうにも妙な小説だ。幻影だけでまとまりをつけようとするプロット。暑いせいかも知れない。たらふく食わないせいかも知れない。頭の上にさしせまった思いがあるせいかも知れない。風琴と魚’の町と云うタイトルだけのものだ。生活の疲労に圧倒されて、かえって幻影だけがもやもやと眼の先をかすめるプロット。  どうして、いつまでも、こんな暮らしなのかと思う。母はエンピツをなめながら帳面をつけている。別に大したキンダカでもないのに、帳面をつけている恰好は大真面目なもの。粘土に足をとられて、身動きもならぬ暮らしだ。──別れなさいよ。うん、別れようかのう。別れなさいよ。そして、二人で東京へ行って、二人で働けば、毎日メシが食べられる。メシを食う事も大切じゃが、父さんを捨ててゆくわけにもゆくまい。別れなさいよ。もう、いい年をして、男なぞは要らないでしょう‥‥。お前は小説を書いておってむごかこつ云うオナゴじゃのう‥‥。私は、黙ってしまう。心配も愉しみの一つで、今日まで連れ添って来た母と義父とのつながりを/自分にあてはめて考えてみる。母は倖せな人なのだ。  一生懸命、ノートに私ははかない事を書きつけている。もう、誰も頼りには’ならぬ-のだ。自分の事は自分で、うんうんと力まなければ生きてはゆけぬ。だが、東京で有名な詩人も、尾道では’なんのあとかたもない。それでよいのだと思う。私は尾道が好きだ。バンヨリは’いりゃんせんかのう‥‥魚売りの声が路地にしている。釣りたてのぴちぴちした小魚を塩焼きにして食べたい。  その夜、義父たちは、階カの親爺さんもいっしょに警察へあげられた。夜更けてから、母は階カのおばさんと、何処かへひそかに出掛けて行った。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  百舌鳥が、けたたましく濠の向こうで鳴いている。四谷見附から、溜池へ出て、溜池の裏の竜光堂という薬屋の前を通って、豊川稲荷前の電車道へ出る。電車道の線路を越して、小間物屋の横から六本木の通りへ出て、池田屋干物店前で池田さんに声をかける。  池田さんがパアと晴れやかな顔で出て来る。今日は珍らしく夜会巻きでなかなかの美人なり。/店さきには、たらこや、鮭、棒だらなぞの美味しそうなものがぎっしり並んでいる。  二人は足袋屋の横丁を曲って、酒井子爵邸の古色蒼然とした門の前を歩く。  今日は新富座で寿美ゾウの芝居がある由なり。いかにも江戸っ子らしい池田さんの芝居ばなし。今日は寿美蔵が手拭を-まく日だから、どうしても、早い目に’社を出て行くのだと大いに張りきっている。赤坂の聯隊が近いのだということで、会社へ着くころには、いつも喇叭が鳴りひびいている。  小学新報社というのが私たちの勤め先。旧館の二階の日本マに、机をヤッツ程あわせて、私たちは毎日せっせと帯封書きだ。今日は、鹿児島と熊本を貰う。まだ時間が早いので、窓ぎわで池田さんと、宮本さんと三人で雑談。日給をなんとかして月給制度にして貰いたいと話しあう。日給80銭ではなんとしてもやってゆけないのだ。四谷見附から市電の電車賃を倹約してみたところで、親子三人ではなかなか食べてはゆけない。池田さんは親がかりなので、働いたブンがみんな小遣いの由なり。羨ましい話だ。八時十分前、みんな集まる。私は例によって、一番暗い悪い席に坐る。アタマ株の富田さんが指図をするので、窓ぎわの席へはなかなか坐れない。  ショウガッコウ便覧の活字も小さいので、眼の近い私には、人の二倍はかかってしまう。眼鏡を買いたくても、80銭の日給では、その日に追われて眼鏡を買うどころのさわぎではない。  もう-じき一の酉が来る。  富田さんは今日は銀杏返し’に結っている。この人は大島ハッカクというのが好きだとかで、飽きもせずに寄席の話ばかりしている。  宛名を書くのがめんどう臭くなって来る。ぼんやりとしてしまう。ふっと横の砂壁にちらちらと朝の陽が動いている。幻燈のようなり。池田さんも、富田さんも大島の羽織で、日給80銭の女事務員には見えない。池田さんは眼は細いけれども/芸者にしてみたいような美人なり。干物屋の娘のせいか、いつもにきびがどこかに出来ている。  何という事もなく、夫婦別れというものはなかなか出来ぬものなのかと思う。夫婦というものが、妙なつながりのように考えられて来る。昨夜も義父と母は、あんなに憎々しく喧嘩をしあっていたくせに、今朝は、案外ケロリとしてしまっていた。義父と母が別れてさえくれたなら、私は母と二人きりで、身をコにしても働くつもりなのだけれども、私は、義父が本当はきらいなのだ。いつも弱気で、何一つ母の指図がなければ働けない/義父の意気地のなさが腹立たしくなって来る。義父は独りになって、若い細君を持てば、結構、自分で働き出せる人なのであろう‥‥。母の我執の強さが憎くなって来るのだ。  また琵琶のネが聴える。別にこの仕事に厭気がさしているわけではないけれども、長く続けてゆける仕事ではないと思う。それにしても、このあたりの森閑とした屋敷のかまえは、いかなる幸運な人々の住居ばかりなのかと不思議に思える。朝から琵琶を鳴らし、ピヤノを叩いているひっそりした階級があるのだと思うと、生まれながらの運命をつかんでいる人達なのであろう。──昼から新聞の発送。  新聞の青インクが生かわきなので、帯封をするたびに、腕から手がいれずみのように青くなる。大正天皇と皇太子の写真が正面に出ている。大正天皇は少々気が変でいらっしゃるのだという事だけれども、こうしてみると立派な写真なり。胸いっぱいに、菊の花のような勲章。すりが悪いので、天皇さまも皇太子も顔じゅうにひげをはやしたような工合に見える。  のりをつけるもの、帯封を張るもの、県別に束ねるもの、戸外へ運び出すもの、辺りはほこりが朦々として、みな、たすきがけで、手拭のアネ様カブリ。発送が手間取って、全部済んだのが五時過ぎ。そばを一杯ずつふるまわれて昏い街へ出る。池田さんは芝居に遅れたとぷりぷりして急いで戻って行った。  四谷の駅ではとっぷり暗くなったので、やぶれかぶれで、四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。  家へ’帰る気がてんでしないのだ。家へ帰って、夫婦喧嘩をみせられるのはたまらない。二人とも貧乏で小心なのだけれども、悪人よりも始末が悪いと思わないわけにはゆかない。夜店を見て歩く。焼鳥の匂いがしている。夜霧のなかに、新宿まで続いた夜店の明かりがきらきらと華やいで見える。旅館、写真館、うなぎ屋、骨つぎ、三味線屋、月賦の丸二の家具屋、このあたりは、昔はジョロ屋であったとかで、家並がどっしりしている。太宗寺にはサアカスがかかっていた。  行けども行けども賑やかな夜店のつづき、よくもこんなに売るものがあると思うほどなり。今日は東中野まで歩いて帰るつもりで、一杯八銭の牛丼を屋台で食べる。肉とおぼしきものは小さいのが一切れ、あとは玉葱ばかり。メシは宇都宮の吊天井だ。  角筈のほてい屋デパートは建築サイチュウとみえて、夜でも工事場に明るい明かりがついている。新宿駅の高いキバシを渡って、煙草専売局の横を/鳴子坂のホウへ歩く。しゅうしゅうと音をたてて夜霧が流れているような気がする。南部修太郎という小説家の/夜霧という小説を/ふっと思い出すなり。  家へ帰ったのが九時近く。義父は銭湯へ行って留守。台所で水をがぶがぶ飲む。母は火鉢でおからを煎りつけていた。別に遅かったねと云うわけでもない。自分の事ばかり考えている人なり。鼻を鳴らしながらおからを煎っている。鍋を覗くと、黒くいりついている。何をさせても下手な人なり。葱も飴色になっている。強烈な母の我執が哀れになる。部屋の隅にごろりと横になる。/谷底に沈んで行きそうな空虚な思いのみ。卑屈になって、なんの生甲斐もない自分の身の置き場が、妙にふわふわとして浮きあがってゆく。胴体を荒縄でくくりあげて、空高く起重機で吊りさがりたいような疲れを感じる。お父さんとは別れようかのと母’がぽつんと云う。私は黙っている。母は小さい声で/こんな成り行きじゃからのうとつぶやくように云う。私は、男なぞどうでもいいのだ。もっとすっきりした運命と云うものは無いのかと思う。義父の仕入れた輪島塗りの膳が、もういくらも残ってはいない。これがなくなれば、また、別のネタを仕入れるのだろう。  次から次から商売を替えて、一つの商売に根気のないと云う事が、義父と母を焦々させているのであろう。十二円の家賃が始めから払えもしないで、毎日’鼻つきあわせてごたごたしている。第一、まともに家なぞ借りたがるよりも、田舎へ帰って、木賃宿で自炊生活をして、二人で気楽に暮らしたほうがよさそうに思える。折角、どうにか、私が私一人の暮らしに落ちつきかけると、二人は押しかけて来て、いつまでも同じ事のくりかえしなのである。東京で別れたところで、お父さんはさしずめその日から困るンじゃからのうと、また、ぽつりと母が云う。私は’いりついて臭くなってきた鍋を台所へ持って行った。母は呆気にとられている。何をさせても無駄づくりみたいな母の料理が気に入らない。私は火鉢のかっかっと熾った火に灰をかぶせて、瀬戸引きのやかんをかける。 「何を当てつけとるとな、お前の弁当のおかずをつくってやろうと思うて焚いとるんじゃが‥‥」  私はそんな真黒いおからのおかずなんかどうでもいいのだ。黙って寝転んで、袖の中へ’すっぽりと頭も顔もつっこんでいると、母は急に鼻を荒くすすりながら、わし達が邪魔なら、今夜にでも荷造りをして帰ると云い始めた。木綿ウラの袂の中に秋の匂いがする。おおこの匂い。季節の匂い、慰めの匂い。袂の中で眼を開けると、モウカガスリの四角い模様が明かりに透いてみえる。お前はお父さんをどうして好かんとじゃろか? と母が泣きながら云う。あンたよりも二十才も若い男をお父さんなぞと云わせないでよとハンパクする。母は呻ってつっぷしてしまう。お前じゃとて成り行きと云うものがあろうがの‥‥。男運が悪いのはお前も同じことじゃないかのと云う。 「お前は八つの時から、あの父さんに養育されたンじゃ。十二年も世話になって、いまさらお父さんはきらいとは云えんとよ」 「いいや、私は育てられちゃいないッ」 「女学校にも上がっつろがや‥‥」 「女学校? 何を云うとるンな、学校は、私がハンプの工場に行きながら行ったンを忘れんさったか。夏休みには女中奉公にも出たり、行商にも出たりして、私は自分で自分の事は稼いだンよ。学校を出てからも、少しずつでも送っとるのは忘れてしもうたンかな?」  云わでもの事を、私は袂の中で呶鳴る。 「お前はむごい子じゃのう‥‥」 「ああ、もう、こう、ごたごたするンじゃ、親子のエンを切って、あんたはお父さんと何処へ’でも行きなさいッ。私は、明日から淫売でも何でもして自分のことは自分で始末つけるもン」  袂の中で涙が噴きあげる。父の下駄の音がしたので、私はプイと裏口から川添の町を歩く。白い乳色のもやが立ちこめて、畑のあっちこっちにちらちらと人家の明かりがまたたく。川添町と云ったところで、東京もここは郊外の郊外、大根畑の土の匂いが香ばしく匂う。  何処へ行くと云うあてもない。  東中野のボックスのような小さい駅へ出て、釣り堀の/藪の道のホウへ歩く。駅前の大きなサカ屋だけが明るい燈火を/夜霧の中に反射している。星がちかちかとまばたいている。辛抱強く。何事も辛抱強くだ。いざという時には、甲府行きの汽車にひかれて死ぬ事も賑やかな/甘酢っぱい空想。だが、神様、いまのところはこのままでは死にきれぬ。 ◇。◇。◇。 (11月ペケニチ)  豪雨。土肌を洗い流す程の大雨なり。尻からげになって会社へ行く。池田さんは、紺飛白のビロード襟のかかったアマゴートを着て来る。なかなか意気な雨ゴートなり。今日は弁当なし。昼は雨の中を、六本木まで出て、そば屋でそばを食べて、ふんだんにそばづゆを貰って飲む。どろりとしたそばづゆに、唐辛子を浮かしてすする。  六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と、正木不如丘編輯の四谷文学というフル雑誌と、トウソンの浅草だよりという感想集三冊を八十銭で求める。獄中記はもうぼろぼろなり。  富田さん、麻布のえち十と云う寄席へ行かないかとみんなを誘うけれど、私は雨なので断って早く家に帰る。沛然とした雨が終日つづく。この雨があがれば、いよいよ冬の季節にはいるのであろう。足袋を洗い、火鉢にかざしてあぶる。義父も母も雨音をきいてつくねんとしている。 ◇。◇。◇。 【左右いずれとも決しがたき宿命】 【悲劇はただの笑い話なり】 【ご返事を待つまでもなく】 【只今はごうごうの雨】 【雨量は桝ではかりがたく】 【ただ手をつかねて成り行きを見るのみ。】 ◇。◇。◇。 【犠牲は払っているわけではない】 【不可能の冬の薔薇】 【孤独と神秘を頼みとする貧乏グラシ】 【人は革命の書をつくり】 【私はアハハと笑う】 【ただ、何事もおかしいのだ】 【真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。】 ◇。◇。◇。 【自分の運命を切りひらけと云われたところで】 【運命は食パンではないのです。】 【どこからナイフをあててよいのか】 【人生の狩猟は力の限り盛大に】 【鼻うごめかし】 【涙をすすり】 【つばを飲み】 【脚をふんばりだ。】 ◇。◇。◇。 【秩序の目標はブルウとブラック】 【仮説の中でひっそりと鼠を食う】 【その霊妙なる味と芳香】 【ああロマンスの仮説】 【誰にも黙殺されて自分の生血をすする】 【少しずつ少しずつの塩辛い血。】 ◇。◇。◇。 【革命とは水っぽい艶々の羊かん】 【かんてん◇ かんてん◇ かんてんの泥】 【人間一人が孤独で戦う】 【グンゼイは要りません】 【家柄やお国柄では飯は食えぬ。】 ◇。◇。◇。  講談を書こうと思い始める。漱石調で水戸黄門。トウソン調で唐犬ゴンベエ。鴎外調で佐倉ソウゴロ。ハッしはっしと切り結ぶと云う陰惨ごとは/どうにも性分にはあわないながら、売りものには花をそえて、変転自在でなければならぬ。芥川の影燈籠も一つの魅力なり。  今夜からは、寒いので、親子三人どうしても/一つの寝床に入らねばならぬ。布団のあとからぬっと脚をさしこむ気がしない。ああ、せめて二枚の布団よ、どこからか降って来ないものか。しんしんと冷える。母と義父はもう寝床で背中あわせに高鼾なり。  電気をひくくさげて、ペン先にたっぷりとインキをふくませて、紙の上にタプタプとおとしてみる。いい考えも湧いて来そうな気がしていながら、なかなか神霊は湧いて来ない。  行きくれた、この貧しい老夫婦’の寝姿を横にしては/胸もつまってしまう。壁ぎわに電気を吊りかえて、小さい卓袱台に向かう。  ニサン頁も-しばかり書きつらねて、講談はイチギョウも書けない。トタン屋根にそうぞうしくあたる雨あしに、頭はこっぱみじんに破れそうなり。運命’尽きぬオタアロオなり。  お前もわしも男運がないと云った母の言葉を想い出して、ふっと「男運」と云う小説らしきものを書いてみたき気持ちがするけれども、それもものうく馬鹿馬鹿しく、やめてしまう。  根が雑草の私生児で、男運などとは口はばたきいいなり。伊勢物語ではないけれども、昔男ありけり、性猛々しく、乞食を笑いつつ/乞食よりもおとれる貧しき生活をすとて、女に自殺せばやと誘う。女、いなとよと叫び、畳をにじりて、ともに添寝せばやと、せめてその事のみに心はぐらかさんものとたくらみ、紐と云う紐、刃物と云う刃物とりあげてたくみたり‥‥。  雨は少々’ゴウゴウの鳴りをひそめる。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  高架線の下をくぐる。ゴウゴウと汽車が北へ走ってゆく。  息せき切って、あの汽車は何処へ行くのかしら、もう、私は厭だ。何もかも厭だ。生ぬるい草いきれのこもった風が吹く。お母さんが腹が痛くなったと云う。堤に登って、暫くやすみなさいと云ってみる。征露丸を飲みたいと云うけれど、大宮の町には遠い。  じりじりと日が照る。  よくもこんなに日が照るものだと思う。何処かで山鳩が啼いている。荷物に凭れて、暫く休む。今夜は大宮へ泊りたいのだけれども、我慢して帰れば帰れない事もないのだが、何しろ商売がないのには弱ってしまう。目をつぶっていると、虹のような疲れかたで、きりきりと額が暑い。手拭を顔へかぶる。お母さんは、少ししゃがんでいきんでみようかと云う。三日も便秘しているのだそうで、どうも頭が割れるようでのうと云う。 「おおげさな事を云うてるよ。少しそのへんでゆっくりしゃがんでなさい」 「うん、何か紙はないかの」  私は荷物の中から新聞紙を破ってお母さんへ渡した。弱り目に、祟り目。幽霊みたいな運命のヤツに祟られどうしだ。いまに見よれ。そんな運命なんか叩き返してみせる。あんまりいじめるなよ、おい、ぞうもく野郎! 私は青い空に向かって男のように雑言を吐いてみる。私は、こんな生き方は厭なんだよ。みずみずしい風が吹く。それもしみったれて少しずつ吹いている。  お母さんは裾をくるりとまくって、草の中へ’しゃがんだ。握りこぶし程に小さい。死んじまいなよ。何で生きてるんだよ。何年生きたって同じことだよ。お前はどうだ? 生きて-いたい。死にたくはござらぬぞ‥‥。少しは色気も吸いたいし、メシもぞんぶんに食いたいのです。  蝉が啼きたてている。まあ、こんなに、畑や田んぼが広々としているというのに、誰も昼寝の最中で、行商人なぞは見向きもしない。草に寝転んでいると、体ごと土の中へ’持ってゆかれそうだ。堤の上をまた荷物列車が通る。石材を乗せて走っている。材木も乗っている。東京は大工の書入れ時だ。あんな石なんかを走らせて、あの石の上に誰が住むのだろう。  寝ながら口笛を吹く。 「まだかね?」  時々、お母さんへ声をかけてやる。人間がしゃがんでいる恰好というものは、天子様でも淋しい恰好なんだろう。皇后さまもあんなふうにおしゃがみなのかねえ。金’の箸で挾んで、羽二重の布に包んで、綺麗な水へぽちゃりとやるのかもしれない。  俺とお前は枯れすすき、花の咲かない枯れすすき‥‥。大きい声で唄う。全く惚れ惚れするような声なり。おいたわしやのこの人なき真昼。窒息しそうだなぞと云っても、こんなにたくさん空気があっては/陽気にならざるを得ない。ただ、空気だけが運命のおめぐみだ。  絶世の美人に生んでくれないのがあなたの失策さ‥‥。何処にでもあるような女なんか、世の中は見向いてもくれないのさ。 「ああ、やっと出た」 「たくさんかね?」 「たくさん出たぞ」  お母さんは立ちあがって、ゆっくり裾をおろした。 「えらい見晴しがいいのう」 「こんなところへ、小屋をたてて住んだらいいね」 「うん。夜は淋しいぞ‥‥」  用をたして気持ちがいいのか、母は私の横へ来て、セルロイドの歯のかけた’櫛で髪をときつける。  大宮の町へ行って銭湯に入りたくなった。下駄をぬぐと、ハナオのところをのこして、象の足のように汚れた足。若い女の足とも思えぬ。爪はのび放題。指のまたにごみが溜まっている。私も用をたしに行く。股の中へ’すうすうと風がはいって来る。裸の脚はいい気持ちだ。ふとってふとって、まず、この両の腿で五貫目というところかな。眼の下を自転車が走ってゆく。玄米パンのほやほや売りだ。私が股を拡げているのも気がつかないで、玉転がしのように往還を走って行ってしまった。草が濡れてゆく。  また、背中を汽車が来る。地響きが足の裏にぶきみだ。  大宮の町へ出たのは三時。どおんと暑い。八百屋の店先に胡瓜の山。美味そうなのを二本買って、母と二人で齧る。塩があればもっと美味いだろう。二人で、手分けして、両側を軒並みに声をかけて行く。 「クレップのシャツと、ステテコは要りませんか、お安くしときますけどね」  何処も返事もしてくれない。母が建具屋さんの店先に腰を掛けている。何か買ってくれるらしい。三十軒も歩いた。やっと、製材所で見せてみなと云われる。  ネジリ鉢巻きの男が三人、汗を拭きながら寄って来る。私は手早く材木の上へ荷物をひろげた。おが屑の匂いが涼しい。 「大阪から仕入れてるんでとても安いんですよ。輸出の残りなンですよ」 「ねえさんは、美味そうにふとってるな。旦那持ちかい?」  私は心のうちでえっへ、と笑う。何持ちなんだか、さっぱり自分で自分の生態がわからないですとね。上下三円’五十銭を五十銭もまけさせられて、三組売る。ちょっと、神様に感謝する。犬も歩けば棒にあたるだ。また荷を背おって町角を曲る。お母さんは影もかたちも見えぬ。どうせ大宮の駅で逢えばいいのだ。  大宮は少しも面白くない’町なり。  東京へ戻ったのが七時頃。雨が降っていた。  ざんざぶりのなかを金魚のようにゆられて川添いに戻る。今日は十五日。豆ローソクのお光りをあげる。蛙が啼いている。炭’がないので、近所の炭屋でヒトヤマ二十銭の炭を買って来て飯を焚く。隣りの駄菓子屋の二階の学生が/大正琴をかきならしている。何処からともなく蕎麦の出汁を煮出している匂いがする。胃袋がぶるぶる震えて仕方がない。この世の中に奇蹟はないのだ。皇族に生まれて来なかったのが身のあやまり‥‥。私は総理大臣にラブレターを出してみようかと思う。夜、ゴオゴリの鼻を読む。鼻が外套を着てさすらってゆく。そして、しょうことなく、だらしなく読者に媚を呈して、嘘をとりまぜた考えが虚空に消えてゆく。  苦しめば苦しむほど、生甲斐のある何かだ。吻とする人生を得たいために、時には厭なこともやりかねない。このままな無頓着では’いられない。私にだって、そんな馬鹿馬鹿しい程の時がめぐって来るのだろうか‥‥。このまま何でもなく通りすぎる貧窮のつづきかな。かねさえあれば、もっと、どうにかなるのか、浅はかな世の中だ。──その癖、何を考えているのか。自分で自分がさっぱり判らない。正直で誠実で、人情ブカくて、それが貧乏人のけちな根性さね‥‥。何もないから、せめて正直で、おずおずして、ゼニ勘定ばかりしている。隣りの大学生は大正琴を弾きながら、親から-かねが送って来て、肉屋の女と恋をしている。結構な生まれ合わせだ。  上り月の夜に小菜の汁に米の飯、べんけいさんは理想が小さい。ねえ、それなのに、私はべんけいさんの理想も/途方もない贅沢に思ってます。人さまとは縁もユカリもないのよ。私は私こっきりの生き方。五貫目もある重い腿をぶらさげて、時には男の事も考える。誰かいいひとはいないかしら、せめて、十日も満足に食わせてくれる男はいないものかと考える。だって、ねえ、こんなに貧乏して、体中を蚤に食わしているンじゃアやりきれない。全く、私は生まれなきゃよかった部類の女なンだから‥‥。私は馬と夫婦になったっていいと思う。全く邪魔っけな重たい体なンて不用そのもの、鼻だけで歩きたい位のものだ。ゴオゴリもこんな気持ちで/なが-ったらしい小説なんかでかきくどいたのに違いない。 ◇。◇。◇。 【何時寝るともなく】 【静かに眠り夢をみる】 【ただ食べる夢/男の夢】 【特別残酷な笑い事の夢】 【耳の奥で調子を取る慾】 【びいんびいんと弓を鳴らす】 【茶碗つぎの中国人の夢】 ◇。◇。◇。 【走って行って追いかえされて】 【けろりとして烏のように啼く】 【太々しいくせに時には泣きたくなる】 【咬み傷一つ誰にもつけた事のない】 【よぼよぼの鼠のくりごと】 【畸形で、男と寝たがる意地ぎたなさ】 【その日その日が食ってゆければ】 【まず学者は論文を書く】 【そんなものなのだろうけれど】 ◇。◇。◇。 【私は陳列を見ているといいのだ】 【みんな手に取ってみせる力が湧く】 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  下谷の根岸に風鈴を買いに行き、円い帽子入れに風鈴を詰めて貰って、大きなかさばった荷物を背おって歩く。薄い硝子の玉に、銀のメッキをしたのがダースで八十四銭。馬鹿馬鹿しい話なンだけど、これを草しのぶの下に吊して、色紙のタンザクをつけて売るには’ね。汗びっしょりで、何とも気持ちが悪い。からりと晴れた空。まるで、コオボウ大師を背中にしょってるような暑さなり。  夜、一銭なしで、義父’上京。  広島も岡山も商売は不景気な由なり。  私はこの人達から離れて暮らしたいと思う。一緒に暮らしていると、べとべとにくさってしまいそうだ。心のなかでは、いつでも気紛れな殺人を考えている。少しずつ犯人になった恐怖におそわれる。自分も死んでしまえばいいと思いながら、人間はこうした稀れな心理のなかにはなかなか飛び込めないものだと思う。穏やかに暮らしてゆくには、日々の最少の糧がなくては生きてゆけない。頻繁に心理的なしゃっくりになやまされる。考える果ては’かねが欲しい事だ。かねさえあれば、単純な生き方が何年かは続けられる。このさきざき、珍らしい事が起きようとは思わない。充分満足する心が与えられない。前の荷馬車屋で酔っぱらいの歌がきこえる。火の粉のように爆発したくなる。もう一度、あの激しい大地震はやって来ないものだろうか。何処を歩いても、美味そうなパンが並んでいる。食べた事もないふわふわなパンの顔。白い肌、触れる事も出来ないパン。  夜更けて、ハムスンの「飢え」を読む。まだまだこの飢えなんかは天国だ。考える事も自由に歩く事も出来る国の人の小説だ。エヴォリュウション(進化)と、革命という言葉が出て来る。私にはそんな忍耐もいまは’ない。泥々で渇望の渦のなかに、何も考えないで生きているだけだ。窒息から、かろうじて生きているだけだ。悔しくなると、そこいらへ小刀で落書きをしたくなる生き方を/神様よ/御存じですか‥‥。ただ、こうして手をつかねて風鈴をしのぶ草にくくりつけている。馬鹿に涼しそうだと云って買ってゆく人間の顔が眼に浮ぶ。いまに何とか人生を考えなければな-るまい。  夜更けの川添の町を心を竦めて私は歩く。尻からげで、ただ、黙って歩いている。星なんぞは眼にもはいらない。星なんか、みんな私は私の眼から流してしまう。それきりだ。私が尻からげをして歩いているので、狂人女かと、歩く人が、そっとよけて通ってゆく。私はにやにや笑う。男が来ると、わざと、そのホウへすたすたと歩いてみる。男は大股に、私のほうから逃げてゆく。心のなかでは、疾風怒濤が吹きつけていながら、生きて境界のちがう差異が私には判って来る。自分以外の人間が動いていて、その人間たちが、みんな、それぞれに陰鬱にみえる。  私は、いつでも、売春的な、いやらしい自分の心のはずみに驚く。何も驚く事はないくせに、ちょっとした動機で、いつでも自分をやけくそに捨ててしまえる根ざしはあるものなり。暑いせいか、私は’ますます原始的になり、せめて、今夜だけでも平凡では’いられないと苛々して来る。迷惑は何処にもころがっていると思いながら、窓の明かりを見ると、石を投げたくなるのはどうした事だろう。  小さい制限のなかで生きているだけなのよ。そこから、出る事も引っこむ事も出来ない。イエス・キリスト’宣わくだ。キリストがベツレヘム生まれだなんて怪しいものだ。いったい、イエス・キリストなんて、大昔に生きていましたのかね。誰も見た人はないし、誰も助けられたものは無い。おシャカ様にしたって怪しいものだ。  太陽や月を神様にしている孤島の人種のほうがはるかに現実的で、真実セイがあるのに、神様だなんて、たかが人間の形をしているだけの喜劇。この環境の息苦しさを誰一人怪しむものもない。 ◇。◇。◇。 (8月ペケニチ)  今日はサンリンボウで、商売に出ても、大した事もないと、お母さんも義父も朝寝。みいんみいんと暑くるしく蝉が啼きたてている。前の牛小屋では、荷車に山のように白いトウフのおからが盛りあげて、蠅が胡麻のようにはじけている。おからが食べたくなる。葱を入れて油で煎ったら美味いな。  /家にいるのが厭なので、また、荷物を背おって一人で出掛ける。別に大した事もないけれど、いつもサンリンボウのような暮らしで、今日のようないい天気をとりにがすのも変な話だと、大久保へ出て、浄水から、煙草専売局へ出て、新宿まで歩く。油デりのカアッとした天気だ。抜弁天へ出て、一軒一軒歩いてみるが、クレップのシャツなぞ買ってくれる家もない。  余丁町のホウへ出て、暑い陽射しのなかに、ぶらぶら歩く。亀が’這っているような自分の影が何ともおかしい。三宅やす子さんの家の前を通る。偉い女の人に違いない。門前の石段にちょっと腰を降ろして休む。三宅さんは、朝飯も食べない女が、自分の門前に腰をかけているとも思うまい。門の中で、男の子供が遊んでいる。頭のでっかい子供だ。  若松町へ出て、また、わけもわからずに狭い’路地の中を歩いてみる。腹がへって、どうにも歩けやしない、漠然とした考えにとらわれる。第一、暑いので、気が遠くなりそうだ。ところてんでも食べたいものだ。  背中は汗びっしょり、脚のホウへ汗が滴になって流れる。下宿屋をのぞいてみるが、学生はみんな帰省していて/ひどく閑散。  なんの為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。真実を云えば、商売をする事よりも、ただ、己れのセンチメンタルに引きずられて歩いて-いたい下心なのかも知れない。歩いて、いい事もないとなれば、それがまた、自分を悲しく/やるせなくしていると、私は甘くなって、下駄を引きずりながら歩く。/家にいて、親の顔なぞ見たくもないと云う、そんなわけと云うものなり。ヒトツブトンに何時までも抱きあって寝ている親の姿はいやらしい。上品になりたくても上品にはなれない。親の厄介さがたまらない。何処かへ一人で行って、たった一人で暮らしたい。ああ、そんな事を考えて歩くと、また、べたべたと涙が溢れる。塩っぱい涙を舌のさきでなめているかと思うと、もう、けろりとして、また背中の荷物をゆすぶりあげて歩く。カタツムリのような私のずんぐりむっくりした影。風呂へ入って、さっぱりと髪を洗う夢想’。首筋から、胸へかけて、ぶつぶつとあせものかさぶたではどうにもなりません。  小石川の博文館に、いつか小説を持って行ったが、懸賞小説はいまやっていないと断わられてしまったが、島田清次郎は、どんなに工合のいい頭をしているのかしら‥‥。行商も駄目、書く事も駄目となれば、玉の井に体を売り込むより仕方がないね。三好野で、三角の豆餅を一皿取って食べる。温い茶がごくごくと喉を通る。  相変らずの下等な趣味。臆病で、弱気で、そのくせ、何かのほどこしを待っているこの精神だ。ほどこしを受けたい一心で生きているようなものだ。ねえ、私は、ねえと云う小説を書きたし。ウエルテルの嘆きと少しも変らぬ、そんなものだ。快適な地すべりをして、ウエルテルの文字は流れている。甘い事この上なしの惚れブミなり。私はもっと、憎悪を持って、男の事を考える。嘘ばかりで、文学が生まれている。みせかけの図々しさで、作者は語る。淫蕩で、仁慈のあるスタイルで、田舎者の読者をたぶらかす。厭じゃありませんか。  いっその事、/神田の職業紹介所まで行って、また、あの桃色カードの女になってみようかと思う。月三十円もあれば、また、静かに書き物は出来る。畳に腹ばって、二十枚’八銭の原稿紙を書きつぶす快味。たまには電気ブランの一杯もかたむけて、野宿の夢を結ぶジオゲネスの現実。面白くもないこの日常から、きりきりと結びあげたい気にもなる。  蒸気をシュッシュッと吐いて生きなければなりませんとも‥‥。おてんとうさまよ。どうして、そんなに、じりじりと暑く照りつけて苦しめるのですか? 暑い。全く、暑くて悶死しそうだ。どっかに、大きな水たまりはありませんかね。鯨の如く汐を噴いてみたいのですよ。  一銭の商売にもありつけず、夕方ご帰還。  キャベツにソースをふりかけて、麦飯にありつく。義父はしのぶ売りに出掛けて留守。お母さんは腰巻一枚で洗濯。私も裸になって、井戸水をかぶる。  少女画報から、原稿返っている。  舌を出して封を切る。  奇蹟の森なぞと気どった題をつけても、原稿は案外戻って来る。何も、奇蹟なぞありようがない。信心家の貧しい少女が、パレスチイナでの地を支配する物語なぞ、犬に食われてしまうのは必定:、のぼせあがって、世界一の作文なぞに思った事も束の間。ああ、この心のほこりも蝶の如く雨の中にかきつけられてしまいましたである。  井戸水を浴びて、かっかっと火照る体で畳に腹這い、多少なりとも先途の事を考える。明かりをしたって、蛾やカナブンブンが飛んで来る。何よりもうるさいのは蚊軍の責め苦なり。  古い文章倶楽部を出して読む。相馬泰三の新宿遊廓の物語り面白し。細君はトリ子さんと云うのだそうだが、文章では美人らしい。  ああ、世の中は広いものだ。毎日、何とか、美味いものを食って、夫婦でのんびり夜店歩きの世界もある。  あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。それだけの事だ。名もなき女のいびつな片言。どんな道をたどればカタイになり、春月になれるものだろうか、写真屋のような小説がいいのだそうだ。あるものをあるがままに、おかしな世の中なり。たまには虹も見えると云う小説や-しは駄目なのかもしれない。食えないから虹を見るのだ。何もないから、天皇さんの馬車へ近寄りたくもなろう。陳列箱にふかしたてのパンがある。誰の胃袋へ入るだろう。  裸でころがっているといい気持ちだ。蚊にさされても平気で、私はうとうと二十年もさきの事を空想する。それでも、まだ何ともならないで、行商のしつづけ。子供のゴ六人も産んで、亭主はどんな男であろうか。働きもので、とにかく、毎日の御飯にことかかぬひとであれば倖なり。  あんまり蚊にさされるので、また、汗くさいちぢみに手を通して、畳に海老のようにまるまって’紙に向かう。何も書く事がないくせに、いろんな文字が頭にきらめきわたる。二銭銅貨と云う題で-しを書く。 ◇。◇。◇。 【青いカビのはえた二銭銅貨よ】 【牛小屋の前でひらった二銭銅貨】 【大きくて重くてなめると甘い】 【蛇がまがりくねっている模様】 【明治三十四年生れの刻印】 【遠い昔だね】 【私はまだ生まれてもいない。】 ◇。◇。◇。 【ああとても倖せな手ざわり】 【何でも買えるショッ感】 【薄皮まんじゅうも買える】 【大きな飴玉が4つね】 【灰で磨いてぴかぴか光らせて】 【歴史のあかを落して】 【じいっと私は掌に置いて眺める】 ◇。◇。◇。 【まるで金貨のようだ】 【ぴかぴか光る二銭銅貨】 【文鎮にしてみたり】 【裸のヘソの上にのせてみたり】 【仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「新版◇ 放浪記」新潮文庫、新潮社】 【1979(昭和54)年9月30日初版発行】 【1983(昭和58)年7月30日9サツ】 【底本の親本:「林芙美子作品集第イッカン」新潮社】 【1955(昭和30)年12月初版発行】 【初出:「女人藝術」:】 【1928(昭和3)年10月号から1930(昭和5)年10月号】 【◇底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」:(非常に小さい、2の67)と「≫」:(非常に大きい、2の68)に代えて入力しました。】 【入力:任天堂株式会社】 【校正:松永正敏】 【2008年6月8日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。