◇。◇。◇。◇。◇。 【小説◇ 不如帰】 【徳冨蘆花】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第百版フジョキの巻首に】 ◇。◇。◇。◇。◇。  不如帰が百版になるので、校正かたがた久しぶりに読んで見た。お坊っちゃん小説である。単純な説話で置いたらまだしも、無理に場面をにぎわすためかき集めた千々石山木の安っぽい芝居がかりやら、小川某女の蛇足やら、粗を言ったら-きりがない。百版という呼び声に対してももっとどうにかしたい気もする。しかし今さら書き直すのも面倒だし、とうとうほんの校正だけにした。  十年ぶりに読んでいるうちに端なく思い起こした事がある。それはこの小説の胚胎せられた一夕の事。もう十二年ゼンである、相州逗子の柳屋という家のマを借りて住んでいたころ、病後の保養に子供ひとり連れて来られた婦人があった。夏の真盛りで、宿という宿は皆ふさがって、途方に暮れておられるのを見兼ねて、サイと相談の上/自分らが借りていた八畳フタマのその一つをご用立てることにした。夏のことでなかの仕切りはカタばかりの小簾一重、風も通せば話も通う。ひと月ばかりの間にだいぶ懇意になった。サンジュウシゴの苦労をした人で、(ホトトギスの小川某女ではない)大層情の深い話上手のかただった。夏も末方のちと曇ってしめやかな晩方の事、子供は遊びに出てしまう、婦人と自分とサイと雑談しているうちに、ふと婦人がさる悲酸の事実談を話し出された。もうそのころは知る人は知っていたが自分にはまだ初耳の「浪子」の話である。「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男君」は悲しんだ事、片岡中将が怒って娘を引き取った事、ビョウジョのために静養室を建てた事、一生の名残に「浪さん」を連れて京阪の遊をした事:、川島ケからよこした葬式のショウカを突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。婦人は鼻をつまらせつつしみじみ話す。自分は床柱にもたれてぼんやりきいている。サイはコウベをたれている。日はいつか暮れてしもうた。古びた田舎家のマウチが薄ぐらくなって、話す人の浴衣ばかり白く見える。臨終のあわれを話して「そうお言いだったそうですってね──:もうもう二度と女なんかに生まれはしない」──:言いかけて婦人はとうとう歔欷して話をきってしもうた。自分の脊髄をあるものが稲妻のごとく走った。  婦人は間もなく健康になって、かの一夕のハナシを置き土産に都に帰られた。逗子の秋は寂しくなる。話の印象はいつまでも消えない。朝な夕な/波はアイオンを送って、蕭瑟たるシュウコウの浜に立てば/影なき人の姿がつい目先に現われる。かあいそうは過ぎて苦痛になった。どうにかしなければならなくなった。そこで話の骨に勝手な肉をつけて/イッペン未熟の小説を起草して国民新聞に掲げ、のち一冊として民友社から出版したのがこの小説不如帰である。  で、ホトトギスのまずいのは自分が不才のいたすところ、それにも関せず読者の感を惹くフシがあるなら、それは逗子の夏の一夕にある婦人の口に-よって訴えた「浪子」が自ら読者諸君に語るのである。要するに自分は電話の「針金」になったまでのこと。 【  明治四十二年二月二日/昔の武蔵野今は東京府下】 【北多摩郡千歳村粕谷の里にて】 【徳冨健次郎しるす】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一部】 【ジョウヘン】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  上州伊香保チギラの三階の障子ひらきて、夕景色を眺むる婦人。年はジュウハチク。ひんよき丸髷にゆいて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。  色白の細面、眉のあいだ/ややせまりて、ホオのあたりの肉寒げなるが、疵といわば疵なれど、ヤサガタのすらりと-しおらしき人柄。これやホクフウに一輪つよきを誇る梅花にあらず、また霞の春に蝴蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかに匂う月見草、と品定めもしつべき婦人。  春の日脚の/西にカタブきて、遠くは日光、足尾、エチゴザカいの山々、近くは、小野子、子持、赤城の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば:、つい下の榎’離れて唖々と飛び行く烏の声までも金色に聞こゆる時、雲二つフラフラと赤城の後ろより浮かびいでたり。三階の婦人は、そぞろにその行方をうちまもりぬ。  両手ユタかにかきいだきつべきふっくりと可愛げなる雲は、おもむろに赤城の頂きを離れて、さえぎるモノもなき大空を/相並んで金の蝶のごとくひらめきつつ、ゆうゆうとして足尾のほうへ流れしが:、やがて日落ちて黄昏寒き風の-たつままに、二つの雲/今は薔薇色に移ろいつつ、ウエシタに吹き離され、しだいにくるる夕空を/別れ別れにたどると見しもしばし、下なるはいよいよ細りて/いつしか影も残らずきゆれば:、残れる一つはさらに灰色に移ろいてボイヤリと空にさまよいしが、  果ては山も空もただひと色に暮れて、三階に立つ婦人の顔のみぞ/夕やみに白かりける。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お嬢──おやどういたしましょう、また口がすべって、オホホホホ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?」 「ホホホホ、ここにいるよ」 「おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪を召しますよ。旦那様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?」 「どう遊ばしたんだろうね?」と障子をあけて内に入りながら「なんなら下へ-そう言って、お迎いをね」 「さようでございますよ。」言いつつ手さぐりにマッチをすりてランプを-つくるは、五十あまりの老女。  おりから梯子の音して、宿の女は上り来つ。 「おや、恐れ入ります。旦那様は大層ごゆっくりでいらっしゃいます。‥‥はい、あの/いましがた若い者をお迎えに差し上げましてございます。もうお帰りでございましょう。──お手紙が──」 「おや、お父さまのお手紙──早くお帰りなさればいいに!」と丸髷の婦人は-さもなつかしげに上書きを打ちかえし見る。 「あの、殿様のゴジョウで──。早く伺いたいものでございますね。オホホホホ、きっとまたおもしろいことをおっしゃってでございましょう」  女は戸を立て、火鉢の炭をついで去れば、老女は風呂敷づつみを戸棚にしまい、立ってこなたに来たり、 「本当に冷えますこと! あちらとはよほど違いますでございますねエ」 「五月に桜が咲いているくらいだからねエ。バアや、もっとこちらへお寄りな」 「ありがとうございます。」言いつつ老女はつくづくカオ打ちながめ「嘘のようでございますねエ。こんなにお丸髷にお結い遊ばして、ちゃんとすわっておいで遊ばすのを見ますと、バアやがお育て申し上げたお方様とは思えませんでございますよ。セン奥様がお亡くなり遊ばした時、バアやに負ぶされて、母さま母さまッてお泣き遊ばしたのは、昨日のようでございますがねエ。」はらはらと落涙し「お輿入れの時も、バアやはネエあなた、あの立派なご様子をセン奥様がごらん遊ばしたら、どんなにおうれしかったろうと思いましてねエ」と襦袢の袖引き出して目をぬぐう。  こなたも引き入れられるるようにうつぶきつ、火鉢にかざせしユンデの指環のみ/燦然と照り渡る。  ややありて姥は-おもてを-あげつ。「御免遊ばせ、またこんな事を。オホホホ/トシが寄ると愚痴っぽくなりましてねエ。オホホホホ、お嬢──奥様もこれまではいろいろ御苦労も遊ばしましたねエ。本当によく御辛抱遊ばしましたよ。もうもうこれからはおめでたい事ばかりでございますよ、旦那様はあのとおりおやさしいお方様──」 「お帰り遊ばしましてございます」  と女のこえ/梯子の口に響きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「やあ、くたびれた、くたびれた」  足袋草鞋’脱ぎすてて、でむかう二人にちょっと会釈しながら、廊下に上りてこしニジュウサンシの洋服の男、提灯持ちし若い者を見返りて、 「いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか」 「まあ、きれい!」 「本当にま、きれいな躑躅でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?」 「きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉がシャクナゲに似とるだろう。あす/浪さんに活けてもらおうと思って、折って来たんだ。‥‥どれ、すぐ湯に入って来ようか」 ◇。◇。◇。◇。◇。 「本当に旦那様はお活発でいらっしゃいますこと! どうしても軍人のお方様はお違い遊ばしますねエ、奥様」  奥様は丁寧に畳みし外套をそっと接吻してエコウにかけつつ、ただほほえみて無言なり。  梯子もゴウと上る足音/障子の外に絶えて、「ああいい気持ち/」と-いり来る先刻の若者。 「おや、旦那様もうお上がり遊ばして?」 「男だもの。アハハハハ」と快く笑いながら、妻がきまりわるげに羽織るオオジマの褞袍ひきかけて、「失敬」と座ぶとんの上にあぐらをかき、両手にホオをなでぬ。栗虫のように肥えしゴブがり頭の、日にやけし顔はさながらジュクせる桃のごとく、眉濃く/目いきいきと、ハナシタにうっすり毛虫ほどの髭は見えながら、まだどこやらに幼顔の残りて、ほほえまるべき男なり。 「あなた、お手紙が」 「あ、オトッサンだな」  若者はちょいといずまいを直して、封を切り、なかを-いだせば落つる別封。 「これは浪さんのだ──ふむ、お変わりもないと見える‥‥ハハハハ/滑稽をおっしゃるな‥‥お話を聞くようだ。」笑みを含んで読み終えし手紙を巻いてそばに置く。 「おまえにもよろしく。場所が変わるから、持病の起こらぬように用心おしっておっしゃってよ」と「浪さん」は-膳を運べる老女を顧みつ。 「まあ、さようでございますか、ありがとう存じます」 「さあ、飯だ、飯だ、今日は握り飯二つでイチンチ歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。‥‥ハハハ。こらあなんちゅうサカナだな、鮎でもなしと‥‥」 「山女とか申しましたっけ──ねエバアや」 「そう? うまい、なかなかうまい、それ/おかわりだ」 「ホホホ、旦那様のお早うございますこと」 「そのはずさ。今日は榛名から相馬ガタケに上って、それからフタツ嶽に上って、屏風岩の下まで来ると迎えの者に会ったんだ」 「そんなにお歩き遊ばしたの?」 「しかし相馬ガタケのながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々たるヘイゲンさ、利根がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠めたら、ひとつ人麿と腕っ比べをしてやるところだった。アハハハハ。そらもひとつおかわりだ」 「そんなに景色がようございますの。行って見とうございましたこと!」 「ふふふふ。浪さんが上れたら、金鵄勲章をあげるよ。そらあひどい山だ、カナグサリが十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ江田島できたい上げた体で、今でもすわというとマストでもリギングでもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい」 「まあ、あんな事を。」にっこりカオをあからめ「これでも学校では体操もいたしましたし──」 「ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて:、一方で『地球の上に国というクウニは』何とか歌うと、みんなが扇を持って立ったりしゃがんだり/ぐるり回ったりしとるから、踊りのさらいかと思ったら、あれが体操さ! アハハハハ」 「まあ、お口がお悪い!」 「そうそう。あの時/山木の娘と並んで、お下げに-いって、ありあ何とか言ったっけ、ブドウイロの袴’履いて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ」 「ホホホホ、あんなことを! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?」 「山木はネ、うちの親が世話したんで、今に出入りしとるのさ。ハハハハ、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね」 「あんなこと!」 「オホホホホ。そんなにご夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ホホホホ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  前回かりに若者といえるは、海軍少尉男爵/川島武男と呼ばれ、このたびリョウバイありて陸軍中将/子爵片岡キとて/名は海内に震える将軍の長女’浪子とめでたくゴウキンの式を挙げしは、つい先月の事にて:、ここしばしの暇を得たれば、新婦と/その里より-つけられし老女の幾を連れてシゴニチゼン/伊香保に来たりしなり。  浪子は8つの年’母に別れぬ。8つの昔なれば、母の姿かたちははっきりと覚えねど、始終笑みを含みていられしことと、臨終のその前にわれを臥所に呼びて、やせ細りし手にわが小さきタナゾコを握りしめ:「浪や、母さんはとおーいとこに行くからね、おとなしくして、おとうさまを大事にして、コウちゃんをかあいがってやらなければなりませんよ。もうゴロクネン‥‥。」と言いさしてはらはらと涙を流し「母さんがいなくなっても/母さんをおぼえているかい」と/今は肩過ぎし我が黒髪の/そのころはまだふっさりと額ぎわまで剪り下げしを/かいなでかいなでしたまいし事も/記憶の底深く-えりて/思い出ぬ日はあらざりき。  一年ほど過ぎて、今の母は来つ。それより後は何もかも変わり果てたることになりぬ。先の母はれっきとしたる侍の家よりこしなれば、よろず折り目正しき風なりしが、それにてもあのように仲よきご夫婦は珍しと女の言えるをきけることもありし。今の母はやはりれっきとした侍の家から来たりしなれど、早くより英国に留学して、男まさりの上に西洋風の染みしなれば:、何事も先とは打って変わりて、すべて先の母の名残とおぼゆるをば/さながら打ち消すように片端より改めぬ。父に対しても事ごとに遠慮もなく語らい論ずるを、父は笑いて聞き流し「よしよし、おいが負けじゃ、負けじゃ」と言わるるが常なれど:、ある時ごく気にいりの副官、難波といえるを相手の晩酌に、母も来たりて座にいしが、父はじろりと母を見てからからと笑いながら「なあ難波君、学問のでくる奥さんは持つもんじゃごわはん、いやさんざんな目にあわされますぞ、アハハハハ」と言われしとか。さすがの難波も母の手前、何と挨拶もし兼ねて/手持ちぶさたに杯を上げ下げして-いしが、そのあと/おのが奥さんにくれぐれも/娘どもには書物を読み過ごさせな、高等小学卒業で沢山と言い含められしとか。  浪子は幼きよりいたって人なつこく、しかも利口に、香炉峰の雪にスダレを巻くほどならずとも、三つのころより姥に抱かれて見送る玄関に/われから帽をとって父の頭に載すほどの気は-ききたり。伸びん伸びんとする幼心は、たとえば春の若菜のごとし。よしや/ひとたび雪に降られしとて、踏みにじりだに/せられずば、おのずから雪とけて青々とのぶるなり。母に別れし浪子の哀しみは/子供には似ず深かりしも、あとの日だに照りたらば/苦もなく育つはずなりき。束髪にゆいて、そばへ寄れば香水の香の立ち迷う、目少し釣りて/口大きなる今の母を初めて見し時は、さすがに少したじろぎつるも:、人なつこき浪子は/この母君にだに慕い寄るべかりしに、継母はわれからさしはさむ一念に/かあゆき子をば押し隔てつ。世なれぬわがままものの、学問の誇り、邪推、嫉妬さえ手伝いて、まだ8つ九つのカアイコを/心ある大人なんどのように相手にするより、こなたは取りつく島もなく、寒ささびしさは心にしみぬ。ああ愛されぬは不幸なり、愛することのできぬは-なおさらに不幸なり。浪子は母あれども愛するを得ず、イモトあれども愛するを得ず、ただ父と姥の幾と/実母の姉なる伯母はあれど、何を言いても伯母はよその人、幾は召使いの身:、それすら母の目’常に注ぎてあれば、少しよくしても、してもらいても、互いにひいきの引き倒し、かえってためにならず。ただ父こそは、父こそは渾身’愛に満ちたれど、その父中将すらも/さすがに母の前をば-かねらるる、それも思えば慈愛の一つなり。されば母の前では余儀なくしかりて、蔭へ回れば言葉少なく情深く/いたわる父の人知らぬ苦心、敏き浪子は充分に酌んで:、ああうれしいかたじけない、どうぞ身をコにしても父上のおためにと/心に思いはあふるれど、気がつくほどにすれば、母は自分の領分に踏み込まれたるように気をわるくするがつらく:、光を-つつみて言葉寡に/気もつかぬテイに控え目にしていれば、かえって意地ワルの-やれドンブツのと/思われ/言わるるも情けなし。ある時はいささかの間違いより、ながるるごとき長州弁に/英国じこみの論理法もて/滔々と言いまくられ、おのれのみかは亡き母の上までも/おぼろげならずあてこすられて:、さすがにくやしくかんだ唇’開かんとしては/縁側にちらりと父の影’見ゆるに/口をつぐみ、あるいはまたあまり無理なる邪推されては「おっかさまもあんまりな」と窓かけの陰に泣いたることもありき。父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながらイエが世界の女の子には、五人の父より一人の母なり。その母が、その母がこの通りでは、十年の間には癖もつくべく、艶も失すべし。「本当にあの子はちっともさっぱりした所がない、いやにシュウネイな人だよ」と夫人は常にののしりぬ。ああ/土鉢に植えても、高麗コウチの鉢に植えても、花は花なり、いずれかヒの光を待たざるべき。浪子は実に日陰の花なりけり。  さればこのたび川島ケと縁談整いて、輿入れすみし時は、浪子も息をつき、父中将も、継母も、伯母も、幾も、皆それぞれに息をつきぬ。 「奥様(浪子の継母)はご自分は派手がお好きなくせに、お嬢様にはいやあな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし姥の幾が:、嫁入りじたくの薄きを気にして、セン奥様がおいでになったらとかき口説いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが家の門をいでぬ。今まで知らぬ自由と楽しさの/このさきに待つとし思えば、父にわかるる哀しさも/いささか慰めらるる心地して、いそいそとして行きたるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  伊香保よりミサワの観音まで一里あまりの間は、ひと筋の道、ヘビのごとく禿山の中腹に沿うてうねり:、ただ二か所ばかりの/山の裂け目の谷をなせるに陥りて”また這い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は赤城より上毛のヘイゲンを見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒めるツチより、さまざまのクサ/萱/萩/桔梗/女郎花の若芽など、生え-いでて/毛氈を敷けるがごとく:、美しき草花そのあいだに咲き乱れ、綿帽子着たゼンマイ、ひょろりとした蕨、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば/春の日の永きも忘るべき所なり。  武男夫婦は、今日の晴れを蕨ガりすとて、姥の幾と宿の女中を一人つれて、ヒルゴよりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれがこしと見え、女中に持たせしケットを草のやわらかなるところに敷かせて、武男は靴ばきのままごろりと横になり:、浪子は麻裏を脱ぎ/朱鷺色のハンケチにて二つ-みつ膝のあたりをはらいながらふわりとすわりて、 「おおやわらか! もったいないようでございますね」 「ホホホ/お嬢──あらまた、御免遊ばせ、お奥様の/いいお色におなり遊ばしましたこと! そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。 「あんまり歌ってなんだか渇いて来たよ」 「お茶を持ってまいりませんで」と女中は風呂敷解きて/夏蜜柑、袋入りの乾菓子、折り詰めの巻き寿司など取り出す。 「何、これがあれば茶は要らんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」 「あんなことをおっしゃるわ」 「旦那様のおとり遊ばしたのには、ヘゴがどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。 「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ハハハ。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」 「きれいな空ですこと、碧々して、本当に小袖にしたいようでございますね」 「水兵の服には-なお良かろう」 「おおいい香り! 草花の香りでしょうか、あ、雲雀が鳴いてますよ」 「さあ、お鮓をいただいてお腹ができたから、もうひとかせぎして来ましょうか、ねエ女中さん」と姥の幾は宿の女を促し立てて、また蕨採りにかかりぬ。 「すこし残しといてくれんとならんぞ──まめなバアじゃないか、ねエ浪さん」 「本当にまめでございますよ」 「浪さん、くたびれはしないか」 「いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくし/こんなに楽しいことは始めて!」 「遠洋航海なぞすると随分いい景色を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。じつにせいせいするよ。そら/そこの左のほうに白い壁がちらちらするだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った渋川さ。それからもっとこっちの碧いリボンのようなものが利根川さ。あれが坂東太郎た見えないだろう。それからあの、赤城の、こうずうと-たれとる、それそれ/煙が見えとるだろう、あの下のほうに何だかうじゃうじゃしてるね、あれが前橋さ。何? ずっと向こうの銀のビンのようなの? そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああ/もうサキはかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし霞がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん」  浪子はそっと武男の膝に手を投げて吐息つき 「いつまでもこうして-いとうございますこと!」 「黄色の蝶2つ/浪子の袖をかすめてひらひらと飛び行きしあとより、さわさわと草’踏む音して、帽子かぶりし影法師/だしぬけに夫婦の目先に落ち来たりぬ。 「武男君」 「やあ! 千々石君か。どうしてここに?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新来の客はニジュウロクシチにや。陸軍中尉の服を着たり。軍人には珍しきイロジロの好男子。惜しきことには、口のあたりどことなくイヤしげなるところありて、黒水晶のごとき目の光鋭く、見つめらるる人に不快の感を起こさすが、疵なるべし。こは武男が従兄に当たる千々石ヤスヒコとて、当時参謀本部の下僚におれど、腕ききの聞こえある男なり。 「だしぬけで、びっくりだろう。実は昨日’用があって高崎に泊まって、今朝渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは蕨採りの御遊だと聞いたから、道を教わってやって来たんだ。なに、明日は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。ハッハッ」 「ばかな。──君それからうちに行ってくれたかね」 「昨日ちょっと寄って来た。叔母さんも元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすったっけ。──赤坂のほうでもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。  さっきからあからめし顔はひとしおあこうなりて浪子は下むきぬ。 「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、娘子軍百万ありといえどもおそるるに足らずだ。──なにさ、さっきからこのご婦人方がわが輩一人をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、アッコウして困ったんだ」と武男は顋もて/今きし姥と女中をさす。 「おや、千々石様──どうしていらっしゃいまして?」と姥はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。 「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだんだ」 「オホホホ、あんなことをおしゃるよ──:ああそうで、へえ、明日はお帰り遊ばすんで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、おユウのしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」 「うん、それがいい、それがいい。千々石君も来たから、どっさりごちそうするんだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ハハハハハ。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるんだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。アハハハハ」  引きとめられて浪子は居残れば、幾は女と荷物になるべきケット/蕨などとりおさめて帰り行きぬ。  あとにミタリはひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日もたかければとてミサワの観音に-もうで、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。  夕日はモノキキヤマの肩より花やかにさして、ミチの左右の草原は萌黄の色燃えんとするに、そこここに立つひとつ松の影/長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、麓のほうは夕煙’諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてモウと鳴く声/空に満ちぬ。  武男は千々石と並びて話しながら行く/あとより浪子は従いて行く。ミタリは静かに歩みて、今しも谷を渉り終わり、サカを上りてまばゆき夕日の道にいでつ。  武男はたちまち足をとどめぬ。 「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひとっ走り取って来るから──:なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」  と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が去りしあとに、浪子は千々石と一間ばかり離れて無言に立ちたり。やがて’谷を渉りて/かなたの坂を上り果てし武男の姿/小さく見えたりしが、またたちまちかなたに向かいて消えぬ。 「浪子さん」  かなたを望みいし浪子は、耳もと近き声に呼びかけられて思わず身を震わしたり。 「浪子さん」  一歩近寄りぬ。  浪子は二三歩’引き下がりて、余儀なく顔をあげたりしが、例の黒水晶の目にひたとみつめられて、わき向きたり。 「おめでとう」  こなたは無言、耳までさっと紅になりぬ。 「おめでとう。イヤ、おめでとう。しかしめでたくないやつもどこかにいるですがね。へへへへ」  浪子はうつむきて、杖にしたる海老色のパラソルのさきもて/しきりに草の根をほじりつ。 「浪子さん」  ヘビにまつわらるる栗鼠の/今は是非なく顔を上げたり。 「なんでございます?」 「男爵に-かね、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう」 「何をおっしゃるのです?」 「へへへへへ、華族で、かねがあれば、ばかでも嫁に行く、かねがなけりゃどんなに慕っても唾もひっかけん、ね、これが当今のヒメゴゼです。へへへへ、浪子さんなんざそんな事はないですがね」  浪子もさすがに血相変えてきっと千々石をにらみたり。 「何をおっしゃるんです。失敬な。も一度武男の目前で言ってごらんなさい。失敬な。男らしく父に相談もせずに、無礼センバンなフミをひとにやったりなんぞ‥‥もうこれから決して容赦はしませぬ」 「なんですと?」千々石の額は真っ暗くなり来たり、唇をかんで、一歩ニホ’寄らんとす。  だしぬけにいななく声/足下に起こりて、バジョウの半身/サカより上に見え来たりぬ。 「ハイハイハイッ。お邪魔でがあすよ。ハイハイハイッ」とバジョウなる六十あまりの親父、ほっかむりをとりながら、怪しげに二人の様子を見かえり見かえり行き過ぎたり。  千々石は立ちたるままに、動かず。ヒタイのスジはややのびて、結びたる唇のほとりに/冷笑のみぞ浮かびたる。 「へへへへ、御迷惑ならお返しなさい」 「何をですか?」 「何が何をですか、おきらいなものを!」 「ありません」 「なぜないのです」 「汚らわしいものは焼きすててしまいました」 「いよいよですな。別に見た者はきっとないですか」 「ありません」 「いよいよですか」 「失敬な」  浪子は忿然として放ちたる眼光の、彼がまっ黒き目のすさまじきに見返されて、不快に得堪えず/ぞっと震いつつ、はるかに目をそらしぬ。あたかもその時/谷を隔てしかなたの坂の口に/武男の姿見え来たりぬ。顔一点/棗のごとくあかく夕日にひらめきつ。  浪子はほっと息つきたり。 「浪子さん」  千々石は懲りずまに/あちこち逸らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、一言いって置くが、秘密、何も秘密に、な、武男くんにも、御両親にも。で、なけりゃ──後悔しますぞ」  稲妻のごとき眼光を浪子の-おもてに-さしつつ、千々石は身を転じて、俛してそこらの草花を摘み集めぬ。  靴音高く、ステッキ打ち振りつつ坂を上りこし武男「失敬、失敬。あ/苦しい、走りずめだったから。しかしあったよ、ステッキは。──う、浪さんどうかしたかい、ひどくイロが悪いぞ」  千々石は今つみし菫の花を胸の飾紐にさしながら、 「なに、浪子さんはネ、君があまりひま取ったもんだから、おおかた迷子になったんだろうって、ひどく心配しなすったんさ。ハッハハハハ」 「アハハハハ。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか」  ミタリの影法師は相並んで道べの草に曳きつつ/伊香保のカタに行きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  午後三時/高崎発/上り列車の中等室のかたすみに、人なきを幸い、靴ばきのまま腰掛けの上に脚さしのばして、巻莨をふかしつつ、新聞を読みおるは千々石安彦なり。  手荒く新聞を投げやり、 「ばか!」  ハのあいだより/もの言う拍子に落ちし巻莨を/腹立たしげに踏み消し、窓の外に唾吐きしまま/しばらくたたずみていたるが、やがて舌打ち鳴らして、部屋の長さを二三度行き来して、また腰掛けに戻りつ。手をこまぬきて、目を閉じぬ。まっ黒き眉はイチモンジにぞ寄りたる。 ◇。◇。◇。◇。◇。  千々石安彦はみなし子なりき。父は鹿児島の藩士にて、維新の-いくさに討ち死にし、母はヤスヒコが六歳の夏/そのころカクランと-いいけるコレラに斃れ、六歳のみなし子は叔母──父のイモトの手に引き取られぬ。父のイモトはすなわち川島武男の母なりき。  叔母はさすがに少しはヤスヒコをあわれみたれども、叔父はこれを厄介者に思いぬ。武男が仙台平の袴ハきて儀式の座につく時、コクラバカマの萎えたるを着て/シモザにすくまされし千々石は、身は武男のごとく/親、財産、地位などの/あり余る者ならずして:、まったく我がコブシと我が知恵に世を渡るべき者なるを早く悟り得て、武男を悪み、叔父をうらめり。  彼は世渡りの道に/裏とオモテのふた筋あるを見ぬきて、いかなる場合にも捷径をとりて進まんことを誓いぬ。されば叔父の陰によりて陸軍士官学校にありける間も、同窓の者は試験の、点数のと騒ぐマに、千々石は郷党の先輩にも出入り油断なく:、いやしくも交わるに/身の頼りになるべき者をえらみ、他の者どもが卒業証書’握りてほっと息つくマに、早くも手づるつとうて/陸軍の首脳なる参謀本部の囲い内に乗り込み:、ほかの仲間はあちこちの中隊付きとなりて/それ練兵/やれ行軍と追い遣わるるに引きかえて、千々石は参謀本部の階下に/煙’吹かして冗談のマに/軍国の大事もあるいは耳に入る/うらやましき地位に巣くいたり。  この上は結婚なり。猿猴のよく水に下るはつなげる手あるがため、人の立身するはよき縁あるがためと、早くも知れる彼は:、戸籍リならねども、某男爵は某侯爵の婿、某学士ケン高等官は某伯の婿、某富豪は某伯の子息の養父にて、某侯の子息のサイも某富豪の娘と暗に指を折りつつ、早くも其処此処と配れる眼は/片岡陸軍中将の家に注ぎぬ。片岡中将としいえば、当時’予備にこそおれ、驍名天下に隠れなく、畏きあたりのオン覚えも-いとめでたく、度量カツダイにして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。千々石は早くこの将軍の隠然として/天下に重き勢力を見ぬきたれば、いささかの便りを求めて次第に近寄り、如才なく奥にも取り入りつ。目は直ちに第一の令嬢’浪子をにらみぬ。一には父中将の愛/おのずからもっとも深く浪子の上に注ぐをいち早く見て取りしゆえ、二には今の奥様は/おのずから浪子を疎みてどこにもあれ/縁あらば早く片づけたき様子を見たるため:、3にはまた浪子のつつしみ深く気高きを好ましと思う念もまじりて、すなわちその人を目がけしなり。かくて様子を見るに中将はいわゆる喜怒’容易に色にあらわれぬフト腹の人なれば、何と思わるるかは-ちと測り難けれど、奥様の気には確かにいりたり。二番目の令嬢の名はお駒とて/少し跳ねたるサンゴの乙女は/ことにわれと仲よしなり。その下には今の奥様の腹にて、二人の子供あれど、こは問題のほかとして/ここに老女の幾とて/センの奥様の時より勤め、今の奥様の輿入れ後/奥台所のダイ更迭を行われし時も”中将の声がかりにてひとり居残りし女:、これが終始’浪子のそばにつきて/われに好意の乏しきが邪魔なれど、なあに、本人の浪子さえ攻め落とさばと、千々石はやがて一年ばかり機会をうかがいしが:、今は待ちあぐみて/ある日’宴会帰りの-えいまぎれ、大胆にも1通のフミ/フタエ封にして表書きを女文字に、殊更に郵便をかりて浪子に送りつ。  その日/メイありてにわかに遠方に出張し、ミツキあまりにして帰れば、わが留守に浪子は貴族院議員’加藤ナニガシの媒酌にて、人もあるべきに我が従兄弟/川島武男と結婚の式すでに-すみてあらんとは! 思わぬ不覚をとりし千々石は、腹立ちまぎれに、色よき返事このようにと心に祝いて/土産に京都より-こうて-きし友禅縮緬/ずたずたに引き裂きて屑籠に投げ込みぬ。  さりながら千々石はいかなる場合にも全く吾を忘れおわる男にあらざれば、たちまちにして敗余の兵を収めつ。ただ心外ナルはこの上かのフミの一条/もし浪子より中将に/武男に漏れなば大事の便りを失う恐れあり。持ち込みよき浪子の事なれば、まさかと思えど”またおぼつかなく、高崎に用ありて行きしを幸い、それとなく伊香保に滞留する武男夫妻をおとのうて、やがて探りを入れたるなり。 【 いまいましきは武男──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 「武男、武男」と耳ぢかにたれやら呼びし心地して、愕と目を開きし千々石、窓よりのぞけば、列車はまさに上尾のステーションにあり。エキフが、「上尾’上尾」と呼びて過ぎたるなり。 「ばかなッ!」  ひとり自らののしりて、千々石は起ちて二三度’車室を往き戻りつ。心に纏う或るものを振り落とさんとするように身震いして、座にかえりぬ。冷笑の影、目にも唇にも浮かびたり。  列車はまたも上尾を出でて、シップウのごとく馳せつつ、幾駅か過ぎて、王子に-つきけるとき、プラットフォムの砂利’踏みにじりて、ゴロクニンドヤドヤと中等室に入りこみぬ。なかに五十あまりの男の、一楽の/二枚ゾロい白縮緬の兵児帯に/頑丈なキングサリをきらめかせ、メテの指に分厚な金の指環をさし、赤ら顔の目じり/著しくたれて、左の目シタに/したたかなる赤ボクロあるが、腰かくる拍子に/フット目を見合わせつ。 「やあ、千々石さん」 「やあ、これは‥‥」 「どちらへおいででしたか。」言いつつ赤ボクロは立って千々石がそばに腰かけつ。 「はあ、高崎まで」 「高崎のお帰りですか。」ちょっと千々石の顔をながめ、少し声を低めて「時にお急ぎですか。でなけりゃ/夜食でもごいっしょにやりましょう」  千々石はうなずきたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  橋場の渡しのほとりなる/とあるスイ荘の門に山木ヒョウゾウ別邸とあるを見ずば、ナニガシの待合かと思わるべきヤヅクりの:、しかもネじめの音しめやかに/婀娜めきたる島田の障子に映るか、さもなくば紅の毛氈敷かれて/花札など落ち散るにふさわしかるべき二階のヒトマに:、わざと電灯の野暮を避けて例のアンドウランプを据え、取り散らしたる杯盤のマに、あぐらをかけるは千々石と/今’一人の赤ボクロは問うまでもなき当家の主人/山木ヒョウゾウなるべし。  遠ざけにしや、そばにハンベる女もあらず。赤ボクロの前には小形の手帳を広げたり、鉛筆を添えて。番地官名など細かに肩書きして/姓名’数多’記せる上に、鉛筆にてさまざまのシルシつけたり。丸。四角。三角。イの字。ハの字。ゴオロクシチなどの数字。あるいはローマ数字。点’かけたるもあり。ひとたび消して/イキルとしたるもあり。 「それじゃ千々石さん。そのほうはそれと決めて置いて、いよいよ決まったらすぐ知らしてくれたまえ。──大丈夫’間違いはあるまいね」 「大丈夫さ、もう大臣の手もとまで出ているのだから。しかし何しろ相手がしょっちゅう運動しとるのだから/例のも思い切って撒かんといけない。これだがね、こいつなかなか食えないやつだ。しっかり轡をかませんといけないぜ」と/千々石は手帳の上のイツの名をさしぬ。 「こらあどうだね?」 「そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく頑固なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ」 「いや/陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるんで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのは-よかったが。あら何とか言ったっけ、赤髭の大佐だったがな、そいつが-なんのかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、賄賂なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ/菓子箱を蹴飛ばしたと思いなさい。例のウエが干菓子で、下が白いのだから、たまらないさ。コウヨウが散る雪が降る、座敷じゅう──◇。◇。◇。の雨だろう。するとそいつめ/いよいよ腹あ立てやがって、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっとまとめをつけはつけたが、オオボネ折らしあがったね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも──」 「しかし武男なんざ/親父が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だって正直だって好きなまねしていけるのだがね。僕のごときは腕一本──」 「いやすっかり忘れていた」と赤ボクロはちょいと千々石の顔を見て、懐中より十円紙幣五枚取り-いだし「いずれ何はあとからとして、まあ車代に」 「遠慮なく頂戴します。」手早くかき集めて内ポケットにしまいながら「しかし山木さん」 「括弧クエスチョン」 「なにさ、播かぬ種は生えんからな!」  山木は苦笑いしつ。千々石が肩/ぽんとたたいて「食えン男だ、惜しい事だな、せめて経理局長ぐらいに!」 「ハハハハ。山木さん、清正の短刀は子供の三尺’三寸よりか切れるぜ」 「うまく言ったな──しかしキミ、蠣ガラチョウだけは用心したまえ、素人じゃどうしてもしくじるぜ」 「なあに、端金だからね──」 「じゃ/いずれ近日、様子がわかり次第──なに、車は出てから乗ったほうが大丈夫です」 「それじゃ──家内も御挨拶に出るのだが、娘が手放されんでね」 「お豊さんが? 病気ですか」 「実はその、なんです。このひと月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて此処へ来ているですて。いや千々石さん、カカだの子だの滅多に持つもんじゃないね。かねもうけは独身に限るよ。ハッハハハ」  主人と女に玄関まで見送られて、千々石は山木の別邸をいで行きたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  千々石を送り終わりて、山木が奥へ帰りいるとき、かなたの襖/すうと開きて、色白き/ただし髪薄くして/しかも前歯二本/不行儀に反りたる四十あまりの女いりきたりて/山木のそばに座を占めたり。 「千々石さんはもうおかえり?」 「いま追っぱらったとこだ。どうだい、トヨは?」  反っ歯の女は/いとど顔を長くして「ほんまにあんた。あれにも困り切りますがな。──カネ、お前はあち往っておいで。今日もなあんた、ちいと何かが気に食わんたらいうて、お茶碗を投げたり、着物を裂いたりして、しようがありまへんやった。ほんまに十八という年をして──」 「いよいよもって巣鴨(刑務所)だね。困ったやつだ」 「あんた、そないな冗談どころじゃございませんがな。──でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、竹にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には靴下を編んであげたし、それからハンケチのフチを縫ってあげたし:、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年のお年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、ミイナ自腹あ切って編んであげたのに:、なアんの沙汰なしであの不器量な意地わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ:、あたしも山木の娘やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいってな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた」 「ばかを言いなさい。勇将の下に弱卒なし。お前はさすがにトヨがおっかさんだよ。そらア川島だって新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも万更’馬鹿でもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ってさ、ほかに片付く分別が肝心じゃないか、ばかめ」 「何がアホかいな? はい、あんた見たいに利口やオマヘンさかいな。エイトシをして、あれやこれや足袋とりかえるような──」 「そう雄弁’滔々まくしかけられちゃア困るて。お前は本当にバ:──だ。すぐムキになりよる。なにさ、おれだって、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯/楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、二人でちっと説諭でもして見ようじゃないか」  と夫婦’打ち連れ、廊下伝いに娘お豊の棲める離れにおもむきたり。  山木ヒョウゾウというはいずこの人なりけるにや、出所’定かならねど、今は世に知られたる紳商とやらのイチニンなり。出世の初め、今は故人となりし武男が父の世話を受けしこと少なからざれば、今も川島ケに出入りすという。それも川島ケが新華族中にての財産家なるがゆえなりという者あれど、そはあまりに-こくなる評なるべし。本宅を芝’桜川チョウに構えて、別荘を橋場の渡しのほとりに持ち、昔は高利も貸けるが:、今はもっぱら陸軍その他官省の請負をギョウとし、嫡男を米国ボストンの商業学校に入れて、娘お豊はつい先ごろまで華族女学校に通わしつ。妻はいついかにして持ちにけるや、ただ京都ものというばかり、すこぶる醜きを、よくかの山木は辛抱するぞという人もありしが:、実は意気婀娜など形容詞のつくべき女/諸処に家いして、代わる代わる行く山木を待ちける由は/妻もおぼろげならずさとりしなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  トコには琴、月琴、ガラスバコ入りのオオ人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには姿見あり。いかなる高貴の姫君や/住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、玉蜀黍の毛を束ねて結ったようなる島田をオオワラワに振り乱し、ごろりと横に臥したるジュウシチハチの娘:、色白の下膨れといえばかあいげなれど、その下膨れが少し過ぎて/ホオのあたりの肉’今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた’口はとずるも面倒といいがおに/しじゅう洞門を形づくり:、うっすりとあるかなきかの眉の下にありあまる肉をかろうじて二、三ブ/ウエシタに押し分けつつ開きし目’のうち/いかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りが/とんと今もってさめぬようなり。  いま何かいいつけられて笑いを忍んで立って行く女のセナに、「ばか」と一つ後ろ矢を射つけながら、娘はじれったげに掻巻’踏みぬぎ:、床の間にありし大形の──袴’履きたる女生徒の多くうつれる写真をとりて、糸のごとき目にまばたきもせず見つめしが、やがてその一人の顔と覚しきあたりを/しきりに爪弾きしつ。なおそれにも飽きたらでや、爪もてその顔の上にジュウオウに疵をつけぬ。  襖の開く音。 「たれ? 竹かい」 「うん竹だ、頭の禿げた竹だ」  笑いながら枕辺にすわるは、父の山木と母なり。娘はさすがにあわてて写真を押し隠し、起きもされず寝’もされずといわんがごとく/横になりおる。 「どうだ、お豊、気分は? ちっとはいいか? いま隠したのはなんだい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ/見せなといえば。──なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか丑の時参りでもしたほうがよっぽど気がきいてるぜ!」 「あんたまたそないな事を!」 「どうだ、お豊、お前も山木ヒョウゾウの娘じゃないか。ちっと気を大きくしてヤマキを出せ、ヤマキを出せ:、あんなけちけちした男に心中立て──それもさ/こっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか:、こら、お豊、三井か三菱、でなけりゃア大将か総理大臣の息子、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝っ玉のちいせえ事でどうするものか。どうだい、お豊」  母の前ではジュウオウに駄々をこねたまえど、お豊’姫もさすがに父の前をば憚りたもうなり。突っ伏して答えなし。 「どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った小浪御寮だ。小浪といえば、ねえお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらあおもしろいぞ。祇園キヨミズ知恩院、金閣寺拝見がいやなら西陣へ行って、帯か三枚ガサネでも見立てるさ。どうだ、あいた’口に牡丹餅よりうまい話だろう。お前も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ」 「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」 「おれ? ばかを言いなさい、この忙しいなかに!」 「それならわたしもまあ見合わせやな」 「なぜ? 飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?」 「おほ」 「なぜだい?」 「オホホホホホ」 「気味の悪い笑い方をするじゃないか。なぜだい?」 「あんた一人の留守が心配やさかい」 「ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、おっかさんの言ってるこたアみんな嘘だぜ、マに受けるなよ」 「オホホホ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア」 「ばかをいうな。それよりか──な/お豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれえ事が出て来るぜ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  赤坂氷川町なる片岡中将の邸内に/栗の花咲く六月’半ばのある土曜の昼過ぎ、主人/子爵片岡中将はネルの単衣に鼠縮緬の兵児帯して、どっかりと書斎の椅子に倚りぬ。  五十にマは-なかるべし。ヒタイのあたり少し禿げ、両鬢ソウようやく繁からんとす。タイリョウは二十二貫、アラビアダネの逸物も将軍の座下に汗すという。両の肩’怒りて首を没し、フタエのアギト直ちに胸につづき、安禄山フウの腹’ベンベンとして、牛にも似たる太腿は/行くに相擦れつべし。色は思い切ってアカグロく、鼻太く、唇厚く、鬚薄く、眉も薄し。ただこのからだに似げなき両目’ほそうして光り和らかに、さながら象の目に似たると、今にも笑まんずる気配の絶えずクチもとに彷徨えるとは:、いうべからざる愛嬌と滑稽のシミをば著しく-えがきいだしぬ。  ある年の秋の事とか、中将’微服して山里に猟り暮らし、ババひとり住む山小屋に渋茶ひと椀所望しけるに、ババつくづくと中将の様子を見て、 「でけえ体だのう。兎のひとつもとれたんべいか?」  中将’莞爾として「ちっともとれない」 「そねえな殺生したあて、あにが商売になるもんかよ。その体でヒヨウ取りでもして見ろよ、五十両は大丈夫だあよ」 「月にかい?」 「あに! ねんによ。悪いこたあいわねえだから、ヒヨウ取るだあよ。いつだあておらが世話あしてやる」 「おう、それはありがたい。また頼みに来るかもしれん」 「そうしろよ、そうしろよ。そのでけえ体で殺生は惜しいこんだ」  こは中将の知己の間に一つ話としてときどきいづる佳話なりとか。知らぬ目よりは/さこそ見ゆらめ。知れる目よりは/このタイサン-ガンガンとして/物に動ぜぬダイ器量の将軍をば、まさかの時の鉄壁とたのみて、その二十二貫/コヤマのごとき体格と/常に怡然たるシンショクとは/洶々たる三軍の心をも安か-らしむべし。  肱近のテーブルにはセイジコーチの鉢に植えたる武者ダチのサイチクを置けり。頭上には高く両陛下のギョエイを掲げつ。下りてかなたの一面には「仁を成す」のガクあり。落款は南洲なり。架上に書あり。マンテルピースの上、すみなる三角棚の上には、内外人の写真シチハチマイ、軍服あり、ヘーソーのもあり。  草色のカーテンを絞りて、東南ニホウの窓は6つとも朗らかに明け放ちたり。東のほうは眼下に/人うごめき’家かさなれる谷町を見越して、青々としたる霊南台の上より、愛宕塔のサキ、尺ばかりあらわれたるを望む。鳶ありてその上をめぐりつ。南は栗の花咲きこぼれたる庭なり。その絶え間より氷川ヤシロのイチョウの梢/アオホコをたてしように見ゆ。  窓より見晴らす初夏の空あおあおと浅黄ジュスなんどのように光りつ。見る目’清々しき青葉のそこここに、卵色の栗の花ふさふさと一杯に咲きて、えがけるごとく空の緑に映りたり。窓近くさしいでたるヒトエダは、枝の武骨なるに似ず、日のさすままに/緑玉、碧玉、琥珀/さまざまの色に透きつ幽める/その葉のアイアイに:、エポレットそのままの花ゆらゆらと/枝もたわわに咲けるが、吹くとはなくて大気のふるうごとに/カは偲びやかに書斎に音ずれ:、薄紫の影は窓のシキミより/主人がユンデに持てる「サイベリア鉄道の現況」のページの上にちらちらおどりぬ。  主人は暫しその細き目を閉じて、吐息つきしが、またおもむろに開きたる目を冊子の上に注ぎつ。  いずくにか、車井の音からからと/珠をまろばすように聞こえしが、またやみぬ。  午後の静けさはイッ邸に満ちたり。  たちまちスキをねらう二人の曲者あり。尺ばかり透きし扉より/そっと頭をさし入れて、また引き込めつ。忍び笑いの声は戸の外に渦まきぬ。一人の曲者は8つばかりのオノコなり。膝ぎりの水兵の服を着て、編み上げ靴を履きたり。一人の曲者は五つか、6つなるべし、紫矢絣の単衣に紅のオビして、髪ははらりと目の上まで散らせり。  二人の曲者は暫しトの外にたゆたいしが、今はこらえ兼ねたるように”4つの手ひとしく扉をおしひらきて、一斉に突貫し:、部屋のなかほどに横たわりし新聞綴じ込みの堡塁を難なく乗り越え、真一文字に中将の椅子に攻め寄せて、水兵は右、振り分け髪は左、コヤマのごとき中将の膝を生けどり、 「おとうさま!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「おう、帰ったか」  いかにもゆったりとそのベンベンたる腹の底より押しあげたようなるベースを発しつつ、中将はにっこりと笑みて、その重やかなる手して/右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。 「どうだ、ショウ試験は? でけたか?」 「僕ァね、僕ァね、おとうさま、僕ァ算術は甲」 「あたしね、おとうさま、今日は縫い取りがよくできたって先生お褒めなすってよ」  と振り分け髪はふところより/幼稚園の拵え物を取り-いだして中将の膝の上に置く。 「おう、こら立派にでけたぞ」 「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんなヘイなの、とうとミナカミに負けちゃった。僕ァくやしくって仕方がないの」 「勉強するさ──今日は修身の話はなんじゃったか?」  水兵は快然と笑みつつ、「今日はネ、おとうさま、クスノキマサツラの話よ。僕マサツラア/大好き。マサツラとナポレオンはどっちがエライの?」 「どっちもエライさ」 「僕ァね、おとうさま、マサツラア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ァ海軍になるんだ」 「ハハハハ。川島の兄さんの弟子になるのか?」 「だって、川島の兄さんなんか少尉だもの。僕ァ中将になるんだ」 「なぜ大将にやならんか?」 「だって、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」 「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」 「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウ/おとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝をハネダイにして/からだをウエシタに揺すりながら、:「今日はネ、おもしろいお話を聞いてよ、あの兎と亀のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、──:ある所に一匹のウサギと亀がおりました──あら/おかあさまいらっしてよ」  柱時計の午後二時をうつ拍子に、いりきたりしはサンジュウハチクの丈高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、高き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目’少しく釣りて、どこやら/ちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり刷きて、唇をまれに漏るる歯は”まばゆきまで白くみがきぬ。パッとしたお召の単衣にクロジュスの丸帯、左右の指に珠入りの金環/アタエ高かるべきをさしたり。 「またおとうさまに甘えているね」 「なにさ、いま学校の成績を聞いてた所じゃ。──さあ、これからお父さんのおけいこじゃ。みんなソトで遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」 「まあ、うれしい」 「万歳!」  二人は嬉々として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、部屋をいで去りしが、やがて「万歳/」「兄さま/あたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。 「どんなに申しても、あなたはやっぱり甘くなさいますよ」  中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがったほうがいいさ」 「でもあなた、厳父慈母と/俗にも申しますに、あなたがかあいがってばかりおやんなさいますから、ほんとに逆さまになってしまって、わたくしは始終しかり通しで、悪まれ役はわたくし一人ですわ」 「まあそう短兵急に攻めんでもええじゃないか。どうかおテヤワらかに──先生はまずそこにおかけください。ハハハハ」  打ち笑いつつ中将は/立ってテーブルの上より/ふるきローヤルの第三リードルを取りて、固唾をのみつつ、薩オンまじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人──夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。  こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介のブフとして身を起こしたる子爵は、シンセイのソウボウに逐われて/外国語を修るのひまもなかりしが、昨年来/予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人繁子。長州の名ある侍の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか。げにもロンドンのケムリにまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、みんなわが洋のほかにて/見もし/聞きもせし通りに行わんとアセれど、事おおかたは志しと違いて:、オトコオンナは陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなずき、かつ良人の何事も鷹揚に東洋ふうなるが、まず夫人’不平のタネなりけるなり。  中将がセンシンバンクしてイッページを読み終わり、まさに訳読にかからんとする所に:、戸/翻りて/紅のリボンかけたる下げ髪の──十五ばかりの乙女いりきたり、中将がダイの手に-ちさきリードルをささげ読めるさまのおかしきを、ほほと笑いつ。 「おかあさま、飯田町の伯母様がいらっしゃいましてよ」 「そう」と見るべく見るべからざるほどのしわを/眉の間に寄せながら、ちょっと中将の顔をうかがう。  中将はおもむろにたち上がりて、椅子を片寄せ「こちへご案内もうしな」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「御免ください」  と入ってこしはシジュウゴロクとも見ゆる/ヒンよき婦人、目/病ましきにや、水色の眼鏡をかけたり。顔のどことなく伊香保の三階に見し人に似たりと思うもそのはずなるべし。こは片岡中将の先妻の姉セイコとて、貴族院議員/子爵加藤俊明氏の夫人、仲立ちとして浪子を川島ケにトツがしつるも/この夫婦なりけるなり。  中将はにこやかにたちて椅子をすすめ、椅子に向かえる窓の-とばりを少し引き立てながら、 「さあ、どうか。非常にご無沙汰をしました。お家じゃ相変わらずお忙しいでしょうな。ハハハハハ」 「まるで植木屋でね、木鋏は放しませんよ。ホホホホ。まだショウブには早いのですが、自慢の朝鮮柘榴が花盛りで、薔薇もまだ残ってますから/どうかおほめに来てくださいまして、ね、くれぐれ申しましたよ。ホホホホ。──どうか、キイさんやミイちゃんをお連れなすって」と水色の眼鏡は片岡夫人のほうに向かいぬ。  打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の違い、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉──:これが-しじゅう心にわだかまりて、不快のタネとなれるなり。吾ひとり主人中将の心を占領して、吾ひとりイエに女主人の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入りして、亡き妻の面影を主人の目先に浮かぶるのみか:、口にこそ-いださね、わがこれをも昔の名残とし疎める浪子、姥の幾らに同情を寄せ、死せる孔明のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こして吾と争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権とれしは/やや心安きに似たれど:、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、髣髴ボチュウの人の出で-きたりて/吾と良人を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法/家政の経綸をも争わんずる心地して、おのずから安からずおぼゆるなりけり。  水色の眼鏡は蝦夷錦の信玄袋より瓶詰の菓子を取り-いだし 「もらい物ですが、キイさんとミイちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。──それからこれは駒さんに」  と紅茶を持てこし紅のリボンの乙女に紫陽花の花簪を与えつ。 「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人はクダンの瓶をテーブルの上に置きぬ。  おりから女の来たりて、赤十字社のお方の’奥様にご面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。部屋をいでけるとき、あとより-つきていでし乙女を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に/内の話を立ち聞く乙女をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間のほうへ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を疎めるに引きかえて/お駒を愛しぬ。言葉少なにして何事も内気なる浪子を、意地わるき拗ね者とのみ思い誤りし夫人は、姉に比してやや侠なるイモトの/おのが気質に似たるを喜び:、一つは姉へのあてつけに、一つはまた継子とて愛せぬものかと世間に見せたき心も──ありて、父の愛の姉にそそげるに対して/おのずから味方をイモトに求めぬ。  ワタクシヅヨき人の性質として、あるほうには人の思わくも思わず/わが思うままにやり通すこともあれど、また思いのほかにもろくて/人の評判に気をかねるものなり。畢竟/ナと利とあわせ収めて、好きな事する上に/人によく思われんとするは、我儘モノの常なり。かかる人に限りて、おのずから諂いを喜ぶ。子爵夫人は男まさりの、しかも洋風じこみの、議論にかけては威命’天下に響ける夫中将にすら引けを取らねど、中将の/いたるところ友を作り/逢う人ごとに慕わるるに引きかえて:、愛なき身には味方なく、心さびしきままに/おのずから諂い寄る人をば喜びつ。召使いのオトコオンナもことに遅きはいつか-しりぞけられて、世辞よきが用いられるようになれば:、幼き駒子も必ずしも-あねを忌むにはあらざれど、姉を譏るが継母の気に入るを覚えてより、ついには告げ口の癖をなして、姥の幾に顔しかめさせしも/一度二度にはあらず。されば姉は嫁ぎての今までも、継母のためには細作をも務るなりけり。  東側の縁の、二つ目の窓の陰に身を側めて、聞きおれば、ときどき腹より押し出したような父の笑い声、凛とした伯母の笑い声、かわるがわる聞こえしが:、後には話し声のようやくコエヒクになりて、「姑」「浪さん」などのとぎれとぎれに聞こゆるに、紅リボンの乙女は/いよよ耳かたぶけて聞き居たり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「シィッシャクーーーヨッシュウをコウーーーゾル、ジュッウーマーーーンヨッキノッ敵イーーー、なんぞーーーオッソレンわアーーーれに、カッマクーーーラァダンジありイーーー」  と/足拍子’踏みながらやってこしさっきの水兵、目ばやく縁側にたたずめる紅リボンを見つけて、紅リボンが/しきりに手もて’口をおおいて見せ:、頭を掉り/手を振りて見せるも委細かまわず「姉さま姉さま」と走り寄り「何してるの/」と問いすがり、姉がしきりに頭をふるを「何/ 何/」と問うに:、紅リボンは顔をしかめて「いやな人だよ」と思わず声高に言って、しまったりと言い顔に/肩をそびやかし、ソウソウに去り行きたり。 「ヤアイ、逃げた、ヤアイ」  と叫びながら、水兵は父の書斎に-いりつ。来客の顔を見るより/にっことわらいて、ちょっと頭を下げながら/つと父の膝にすがりぬ。 「おやキイさん、すこし見ないうちに、また大きくなったようですね。毎日’学校ですか。そう、算術が甲? よく勉強しましたねエ。近いうちにおとうさまやおかあさまと伯母さんとこにおいでなさいな」 「ミイはどうした? おう、そうか。そうら、伯母様がこんなものをくださったぞ。うれしいか、アハハハハ」と菓子の瓶を見せながら「かあさんはどうした? まだ客か? 伯母様がもうお帰りなさる、とそう言って来い」  いで行く子供のあと見送りながら、主人中将はじっと水色眼鏡の顔を見つめて、 「じゃ/幾の事はそうきめて/どうか角立たぬように──ハアそう願いましょう。いやじつはわたしも/そんな事がなけりゃいいがと思ったくらいで、まあやらないほうじゃったが、浪がしきりに言うし、自身もコンモウしちょったものじゃから──:はあ、そう、はあ、はあ、何分願います」  語’半ばにいりこし子爵夫人繁子、水色眼鏡のほうをちらと見て「もうお帰りでございますの? あいにくの来客で──いえ、いま帰りました。なに、また慈善会の相談ですよ。どうせ物にもなりますまいが。本当に今日はお愛想もございませんで、どうぞ千鶴子さんによろしく──:浪さんがいなくなりましたらちょっとも遊びにいらっしゃいませんねエ」 「こないだから少し加減が悪かったものですから、どこにもご無沙汰ばかりいたします──:では」と信玄袋をとりておもむろに立てば、  中将も/やおら体を起こして「どれそこまで運動かたがた、なにそこまでじゃ、そらキイもミイも運動に行くぞ」  いづるを送りし夫人繁子は/やがて居間の安楽椅子に腰かけて、慈善会の趣意ガキを見ながら、駒子を手招きて、 「駒さん、なんの話だったかい?」 「あのね、おかあさま、よくはわからなかったけども、何だか幾の事ですわ」 「そう? 幾」 「あのね、川島のお婆さんがね、リュウマチで肩が痛んでね、それでこのごろは大層’気むずかしいのですと。それにね、幾が姉さんにね、姉さんのお部屋でね、あの、奥様、こちらの御隠居様はどうしてあんなに御癇癪が出るのでございましょう:、本当に奥様おツロうございますねエ、でもお年寄りの事ですから、どうせ永い事じゃございません、てね、そんなに言いましたとさ。本当にばかですよ、幾はねエ、おかあさま」 「どこに行ってもいい事はしないよ。困ったバアじゃないかねエ」 「それからねエ、おかあさま、ちょうどその時縁側をお婆さんが通ってね、すっかり聞いてしまって、それはそれはひどく怒ってね」 「罰だよ!」 「怒ってね、それで姉さんが心配して、飯田町の伯母様に相談してね」 「伯母様に!?」 「だって姉さんは、いつでも伯母様にばかり何でも相談するのですもの」  夫人は苦笑いしつ。 「それから?」 「それからね、おとうさまが幾は別荘番にやるからってね」 「そう」と額をいとど曇らしながら「それっきりかい?」 「それから、まだ聞くのでしたけども、ちょうどキイさんが来て──」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が母は、名をおケイと言いて/今年五十三、時々リュウマチスの起これど、そのほかは無病息災、麹町カミ二番ちょうの屋敷より/亡夫の眠る品川東海寺まで/徒士の往来’容易’なりという。体重は十九カン、公侯伯子男爵の女性を通じて、ガラにかけては関脇は確かとの評あり。しかしその肥大も実はゴロク年前/ゼンフミチタケの病没したるあとの事にて、その以前はやせぎすの/色青ざめて、病人のようなりしという。されば押しつけられしゴム毬の/手を離されてぶくぶくと膨れ上がる類いにやという者もありき。  亡夫はゲイ藩の軽きジョーカサムライにて、おケイの縁づきてこし時は、太閤様に少しましなる婚礼を-なしたりしが:、維新の風雲に際会して/身を起こし、大久保甲東に見込まれて/久しく各地にレイインを務め、一時’探題の名は世に聞こえぬ。しかも持ち前のわがまま強情が累をなして、明治政府にトモ少なく、浪子を仲立ちせる加藤子爵などは/その少なき友のイチニンなりき。甲東’没後はとかく志しを得ずして世をおえつ。男爵を-えしも、実は生まれどころのよかりしおかげ、という者もありし。されば強情もの、わがままもの、癇癪持ちのミチタケはいつも怏々として/不平を酒に漏らしつ。三合入りのタイ杯/たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を掉って県会に臨めば、議員にガンショクある者少なかりしとか。さもありつらん。  されば川島ケはつねに戒厳令のモトにありて、家族は避雷針’なき大木のしたに/夏’住むごとく、戦々恐々として明かし暮らしぬ。父の膝をば我が舞踏場として、父にまさる遊び相手は世になきように’幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより/奴婢’出入りの者/果ては居間の柱まで主人が鉄拳の味を知らぬ者なく:、今は紳商とて世に知られたるカの山木ごときも/この賜物を頂戴して/痛み入りしこともたびたびなりけるが、ナニこれしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに廉い所得税だ、としばしば伺候しては-いただきける。右の通りの次第なれば、それ御前の御機嫌がわるいといえば、台所の鼠までひっそりとして、迅雷一声/奥より響いて/耳のふとき下女/手に持つ庖丁取り落とし:、用ありて私宅へ来る属官などは”まず裏口に回って今日の天気予報を聞くくらいなりし。  三十年から連れ添う夫人おケイの身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに舅や姑もありて/夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなくシュウトメ舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初めゴロクタビは夫人もちょいと盾ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、韓信流に負けて匍匐し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて3度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末のサンヨネンは別してはげしくなりて、不平が煽る無理ざけの炎に、モユルがごとき癇癪を、二十年の上も/それでキタわれし夫人もさすがにあしらいかねて:、武男という子もあり、鬢に白髪もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方’男爵夫人と人にいわるる栄耀も物かは:、いっそこのつらさにかえて/墓守りのカカともなりて/世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうするマについ三十年うっかりと過ごして:、そのつれなき夫ミチタケが目をネブって棺のなかに仰向けに寝し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。  涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫ミチタケ存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されて/どこにいるとも知れざりし夫人、奥のマよりノコノコいで来たり、見る見るイエいっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりていし夫人を見し者は、いずれもあきれ果て-つ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど顔かたち/気質まで似て来るものといえるが:、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き眉毛をひくひく動かして、煙管片手に相手の顔をじっと見る様子より、立ち居の荒さ、それよりも第一’癇癪が似たとは愚か/亡くなられし男爵そのままという者もありき。  江戸のカタキを長崎で討つということあり。「世の中の事は概して江戸のカタキを長崎で討つものなり。在野党の代議士/こんにち議院に慷慨’激烈の演説をなして、盛んに政府を攻撃したもう。至極結構なれども、実はその気焔の一半は、昨夜うちにてさんざんにアイスクリーム(高利貸)を食いたまいし鬱憤と聞いて知れば、ありがた味も半ば減ずるわけなり。されば南シナ海の低気圧は岐阜愛知に洪水を起こし、タスカローラの陥落は三陸にカイショウを見舞い、モロナオはかなわぬ恋のやけっ腹を「物の用にたたぬ手かき」に立つるなり。宇宙はただ平均、物は皆そのヘイを求むるなり。しこうしてその平均を求むるに、吝嗇モノのヒナシをハタるように、吾より-あせりて-いま戻せ/明日返せとせがむがショウジンにて:、いわゆるタイジンとは/一切の勘定をテントウ様の銀行に任して、われは真一文字にわがブンをかせぐ者ぞ」と/ある人情博士はノタマいける。  しかし凡夫は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なきほうに向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし堪忍の水門、夫の棺の蓋とずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う一人は、もはやいかにコブシを伸ばすも/わが頭には届かぬ遠方へ逝きぬ。今まで黙りていしは意気地なきのには-あらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず/積みし貸し金、利に利をつけて/むやみに手近の者にハタり始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄肌の人物だけ、迷惑にもまた/どこやらに小気味よきところもありたるが:、それほどの力はなしに/わけわからず、狭くひがみて/わがまま強き奥様より出でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。  浪子の姑はこの通りの人なりき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  丸髷を揚巻にかえし-そのおりなどは、まだ「お嬢様、おやすくおトモいたしましょう」と見当違いの車屋に言われて、召使いの者に奥様と呼びかけられて/返事にたゆとう事はなきようになれば:、花嫁の心もまず少しは落ちつきて、初々しさ恥ずかしさの/狭霧にボイヤリとせしあたりのようすも/ようよう目に分かたる-るようになりぬ。  家ごとに変わるは家風、おん身には言って聞かすまでもなけれど、構えて/里を背負うてサキへ行きたもうな、片岡浪は今日限り亡くなって/今よりは川島浪よりほかになきを忘るるな。とはや晴れの衣装’着て馬車に乗らんとする前に/父の書斎に呼ばれてねんごろに言い聞かされしを忘れしにはあらねど、さて来て見れば、家風の相違も大抵の事にはあらざりけり。  身代はむしろ/里にも優りたらんか。新華族のなかにはまず指折りといわるるだけ、武男の父が久しく県令知事務めたるマに/積みし宝は巨万に上りぬ。さりながら里にては、父中将の名声’海内に噪ぎ、今は予備におれど交際広く、昇る日の勢い盛んなるに引きかえて:、こなたは武男の父ミチタケが没後は、存生の-みぎり/何かとたよりてこし大抵の輩は/おのずから足を遠くし、そのうえ親戚も少なく、知己とても多からず、お袋は人好きのせぬ方なる上に:、これよりカセイを興すべき当主はまだ年若にて/官等も低き’家にあることもまれなれば、家運はおのずから/澱める水のごとき模様あり。里にては、継母が派手な西洋ごのみ、もちろん経済の講義は得意にて/妙な所に節倹を行ない「奥様は土産のやりかたもご存じない」と女どもの陰口にかかることはあれど、そこは軍人づきあいの/概して何事も派手に押し出してするほうなるが:、こなたはどこまでも昔ふう/むしろ田舎風の、よくいえば昔忘れぬ嗜みなれど、実は趣味も理屈も/やはり米から自分に舂いたる時にかわらぬ未亡人、何でもかでも自分でせねば頭が痛く:、亡夫の時/シモベかなんぞのように使われしタザキナニガシといえる正直一図の男を執事として、これを相手に月に薪がナンバ/スミが何俵の勘定までせられ:、「おっかさん、そんな事しなくたって、菓子なら風月からでもお取ンなさい」と時たま帰って来て武男が言えど、やはり手製の田舎羊羹むしゃりむしゃりとホオばらるるというふうなれば:、姥の幾が浪子についてこしすら「タイケはどうしても違うもんじゃ、武男がゴキ椀’下げるようにならにゃよいが」など/常に当てこすりていられたれば、幾の排斥も/あながち障子の外の立ち聞きゆえばかりではあらざりしなるべし。  利口なようでも十八の花嫁、まるきり違いし家風のなかに突然’入り込みては、さすが事ごとに惑えるも無理にはあらじ。されども浪子は父の戒めここぞと、われを抑えて何も家風に従わんと決心のホゾを固めつ。その決心を-こころむる機会はスユに来たりぬ。  伊香保より帰りてほどなく、武男は遠洋航海におもむきつ。軍人の妻となる身は、留守がちは覚悟の上なれど、新婚マもなき別離は/いとどハラワタを断ちて、その当座は手のうちの玉をとられしように/ほとほと何も手につかざりし。  おとうさまが縁談の初めに逢い-たもうて至極気に入ったと-のたまいしも、添って見てげにと思い当たりぬ。鷹揚にして男らしく、さっぱりとして情け深く/寸分卑しい所なき:、本当に若いおとうさまのそばにいるような、そういえば肩を揺すってドシドシお歩きなさる様子、子供のような笑い声までおとうさまにそっくり、ああうれしいと浪子は一心にかしずけば:、武男も初めて持ちし妻というものの限りなくかわゆく、ヒトリゴの身はイモトまで添えて得たらん心地して「浪さん、浪さん」といたわりつ。まだミツキに足らぬ契りも、すぐる世より相知れるように親しめば、しばしの別れもかれこれともに限りなき傷心のタネとはなりけるなり。さりながら浪子は永く別れを傷む暇なかりき。武男が出発せしのち/ほどもなく姑が持病のリュウマチスはげしく起こりて/例の癇癪のはなはだしく、幾をサトへ戻せしのちは、別して辛抱の力をためす機会も多かりし。  新入の学生、その当座は古参のためにさんざんにいじめられるれど、のちにはおのれ古参になりて、あとの新入生をいじめるが、何よりの楽しみなりと書きし人もありき。綿帽子-とっての心細さ、たよりなさを覚えているほどの姑、義理にも嫁をいじめられるものでなけれど、そこは凡夫のあさましく:、花嫁の花落ちて、姑と名がつけば、さて手ごろの嫁は来るなり、わがままも出て、いつのまにか/わがつい先年まで大の大の大きらいなりし姑そのままとなるものなり。「それそれその衽は四寸にしてこう返して、イイエそうじゃありません、こっちよこしなさい、ハタチにもなって、お嫁さまもよくできた、へへへへ」とあざ笑う声から目つき:、吾もハタチの花嫁の時ちょうどそうしてしかられしが、ああ/吾ながら恐ろしいと/ハッと思って改むるほどの姑はまだ上の上、目にて目を償い、歯にて歯を償い:、いわゆる江戸の姑のその敵を長崎の嫁で討って、知らず知らず平均をわが一代のうちに求むるもの少なからぬが世の中。浪子の姑もまたその一人なりき。  西洋流の継母に-きたわれて、今また昔風の姑に練らるる浪子。病める年寄りの/用しげく女を呼ばるるゆえ、しいて「わたくしがいたしましょう」と引き取って/慣れぬこととて意に満たぬことあれば:、こなたには礼を言いてわざと召使いの者を例のダイオンジョウにしかり飛ばさるるその声は、十年がほども継母の雄弁レーゴを聞き尽くしたる耳にも/今さらのように聞こえぬ。それも初めしばしがほどにて、あとには癇癪の矛先/直接に吾に向かうようになりつ。幾が去りしのちは、たれ慰むる者もなく、時々はどうやらまた昔の日陰に立ち戻りし心地もせしが、部屋に帰って机の上の/銀の写真掛けにかかった逞ましき海軍士官の面影を見ては:、うれしさ恋しさなつかしさの/むらむらと込み上げて、そっと手にとり、食い入るようにながめつめ、キッスし、頬ずりして、今そこにその人のいるように「早く帰ってちょうだい」とささやきつ。良人のためにはいかなる辛抱も楽しと思いて、われを捨てて姑に仕えぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  流汗を揮いつつ/華氏99度の香港より申し上げそろ。佐世保’抜錨まではセンビン/すでに申し上げ置きたる通りにこれ有り候う。さて佐世保出帆後は連日の快晴にて/暑気’焼くがごとく、さすが神州海国男子も少々辟易:、もっとも同僚士官及び兵’のうち八’九名/日射病に襲われたる者これ有りそうらえども、小生は至極健全、毫も病室の厄介に相成り申さず。ただしご存じ通りの黒ん坊が/赤道ちかき烈日に焦がされたるため、いよいよもって大々的コクメン漢と相成り:、今日ちょっと同僚と上陸し、市中の理髪店にいたり候うところ、ふと鏡を見てわれながらびっくりいたし候う。意地わるき同僚が、きみ、どう、着色写真でも撮って、君のブライドに送らんかと戯れ候うも一興に候う。途中は右の通り快晴(もっとも一回モンスーンの来襲ありたれども)一同万歳を唱えて昨早朝/錨を当湾内に投じ申し候う。  先日のお手紙は佐世保にて落手、一読’再読いたし候う。母上リョウマチス、年来のご持病、誠に困りたる事に候う。しかし今年は浪さんが控えられ候う事ゆえ、小生も大きに安心に候う。何とぞ小生に代わりて/よくよく心をオン用いくださるべく候う。ご病気の節は別してご気分よろしからざる方なれば、浪さんも定めていろいろと骨折らるべくヨウサツいたし候う。赤坂のほうも定めておかわりもなかるべくと存じ申し候う。加藤の伯父さんは相変わらず木鋏が手を放れ申すまじきか。  幾ばあは帰り候うよし。なにゆえに候うや存ぜずそうらえども、実に残念の事どもに候う。浪さんより便りあらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りにはバアへ沢山土産を持って来るとオン伝えくだされたく候う。じつに愉快な女にて小生も大好きに候うところ、赤坂のほうに帰りしは残念に候う。浪さんも何かと不自由に/さびしかるべくと存じ候う。加藤の伯母様や千鶴子さんは時々まいられ候や。  千々石はおりおりまいり候うよし。小生らは誠に親類少なく、千々石はその少なき親類のイチニンなれば、母上も自然’頼みに思す事に候う。同人をよくタイするも母上に孝行の一にこれ有るべく候う。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候う。(下略) 【香港にて】 【   七月 某日/武男】 【  お浪どの】 ◇。◇。◇。◇。◇。  母上に別紙(これを略す)読んでお聞かせ申し上げられたく候う。  トーチにはシゴニチ碇泊、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候う。帰国は多分’秋に相成り申すべく候う。  手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 (前文略)去る五月は/浪さんと伊香保にあり、蕨採りて慰みしに/今は南半球なる豪州シドニーにあり、サウゾルンクロッスの星を仰いでその時を想う。奇妙なる世の中に候う。先年’練習艦にて遠洋航海の節は、どうしても時々’船酔いを感ぜしが、今度は無病息災/われながら達者なるにあきれ候う。しかし今回は先年に覚えなき感情’身につきまとい候う。航海中/当直の夜など、まっ黒き空に金剛石をまき散らしたるような南天を仰ぎて、ひとり艦橋の上に立つ時は、何とも言いがたき感が起こりて:、浪さんの姿が目さきにちらちらいたし(女々しと笑いたもうな)候う。同僚の前では/さもあらばあれ/家郷’遠征を思うと吟じて平気に澄ましておれど、(笑いたもうな)浪さんの写真は始終/ある人の内ポケットに潜みおり候う。今この手紙を書く時も、うちのあの六畳の部屋の/芭蕉の陰の机に頬杖つきて/この手紙を読む人の面影がすぐそこに見え候う(中略)  シドニー港内には夫婦、家族、他人交えずヨットに乗りて遊ぶ者多し。他日/功成りナ遂げて/小生も浪さんも白髪のジジババになる時は、あにただヨットのみならんや、五千トンぐらいの汽船をイッ艘こしらえ、小生が船長となって、子供や孫を乗組員として/世界週航を企て申すべく候う。そのセツはこのシドニーにも来て、何十年ゼン/血気ざかりの海軍少尉の夢を白髪の浪さんに話し申すべく候う(下略) 【シドニーにて】 【   八月 某日/武男生】 【  浪子さま】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 【 去る七月十五日/香港よりお仕出しの/おなつかしき玉章とる手おそしと/くりかえしくりかえしくりかえし拝し上げ参らせ候う: さそうらえば激しき暑さの-おさわりもあらせられず/何より何よりオン嬉しゅう存じ上げ参らせ候う: このもと御母上様ご病気も/この節は大きにお快く/何とぞ何とぞ御安心遊ばし候うよう願い上げ参らせ候う: わたくしごとも毎日とやかくと/さびしき日を送りおり参らせ候う: お留守の事にもそうらえば/何とぞ母上様の御機嫌に-いり候うようにと/心がけおり参らせそうらえども/不束の身は何も至り兼ね候う事のみ/なれぬこととて何かとしくじりのみいたし/誠に困り入り参らせ候う: ただただイチニチも早く御帰り遊ばし/健やかなるお顔を拝し候う時を楽しみに/毎日’暮らしおり参らせ候う】 【 赤坂のほうも-なんぞかわり候う事もこれ無く/先日より逗子の別荘のほうへ皆々まいり/加藤家も皆々興津のほうへまいり/東京はさびしきことに相成り参らせ候う: 幾も一緒に逗子に罷りこし無事あいつとめおり参らせ候う: おん言付けの趣’申しつかわし候うところ/当人も涙を流して喜び申し候うよし/くれぐれもよろしくおん礼申し上げ候うよう/申し越し参らせ候う】 【 わたくしごとも今になりて/いろいろ勉強の足らざりしを憾み参らせ候う: 家政の事は女の本分なればよくよく心を用い候うよう/かねがね父より戒められ候う事とて/宅におり候うころよりなるたけそのつもりにて-い参らせそうらえども:何を申しても女のあさはかに/そのような事はいつでもできるように思い/いたずらに過ごし参らせ候うより/今となりてあの事も習って置けばよかりし/この事も忘れしと思いあたる事のみ多く困り入り参らせ候う: 英語の勉強もオン仰せのこともこれ有りそうらえば/ぜひにと心がけ参らせそうらえども/机の前にばかりすわり候うては母上様の御思召もいかがと存ぜられ/今しばらくは何よりもまず家政のけいこに打ちかかり申したく/何とぞ何とぞ悪しからず思召のほど願い上げ参らせ候う】 【 誠におはずかしき事にそうらえども/どうやらいたし候うせつはさびしさ悲しさのやる瀬なく/早く早く早く御目にかかりたく/翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候う事もこれ有り/夜ごとヒごとにお写真とお船の写真を取り出でてはながめ入り参らせ候う: 万国地理など学校にては何げなく見過ごしにいたし候うものの/近ごろは忘れし地図など今更にとりいでて/今日はお船のこのあたりをや過ぎさせたまわん/明日は明後日は-と鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候う: ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつきもうさんをなど/あらぬ事まで心に浮かび/われとわが身をしかり候うても日々物思いに沈み参らせ候う: これまでナニゴコロなく目も止め申さざりし新聞の天気予報など/今いますあたりはこのほかと知りながら/風など警戒のいで候うせつは実に-じつに気にかかり参らせ候う: 何とぞ何とぞお’尊体を御大切に‥‥(カブン略)】 【浪より】 【  恋しき】 【    武男様】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【(上略)近ごろはよるよるお姿の夢にいり/実に-じつに一日千秋の思いをなしおり参らせ候う: 昨ヤもごいっしょに船にて伊香保に蕨とりにまいり候うところ”ふとたれかが私どもの間に立ち入りて/お姿は遠くなり/わたくしは船より落ちると見て魘われ候うところを/母上様に起こされようよう胸なでおろし参らせ候う: 愚痴と存じながらもなんとやら気に相成り/それにつけても御帰りが待ち遠しく存じ上げ参らせ候う: 何もなにもお帰りの上にと日々東の空をながめ参らせ候う: あるいは行き違いになるや存ぜずそうらえども/この状はハワイホノルル留め置きにて差し上げ参らせ候う(下略)】 【   十月 某日/浪より】 【  恋しき恋しき恋しき】 【    武男様】 【       おんもとへ】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二部】 【中編】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今しも午後八時をうちたる床の間の置き時計を炬燵の中より顧みて、川島未亡人は 「八時──もう帰りそうなもんじゃが」  とつぶやきながら、やおらその肥え太りたる手をさしのべて/煙草盆を引き寄せ、つづけざまに二三プク吸いて、耳カタブけつ。山の手ながら松の内の夜は車東西に行き違いて、隣りには福引きの興やあるらん、若きナンニョの声/しきりにささめきて、おりおりどっと笑う声も手にとるように聞こえぬ。未亡人は舌打ち鳴らしつ。 「何をしとっか。つッ。赤坂へ行くといつもああじゃっで‥‥タケもタケ、浪も浪、里も里じゃ。今時の者はこれじゃっでならん」  膝立て直さんとして、持病のリュウマチスの痛みに触れけん、「あいた/あいた。」顔をしかめて癇癪まぎれに煙草盆のフチ/手荒に打ちたたき「松、松松」とけたたましく小間使いを呼び立つる。その時おそく「お帰りい」の呼び声勇ましく二丁の車/がらがらと門に入りぬ。  三が日の晴れ着の裾踏み開きて馳せ来たりし小間使いが、「御用/」と手をつかえて、「何をうろうろしとっか、早よ玄関に行きなさい」としかられてあわてて引き下がると、引きちがえに 「おっかさん、ただいま帰りました」  と凛々しき声にサキを払わして手袋を脱ぎつつハイり来る武男のあとより、外套と吾妻コートを女に渡しつつ、浪子は夫に引き沿うてしとやかに座につき、手をつかえつ。 「おかあさま、大層おそなはりました」 「おおお帰りかい。だいぶゆっくりじゃったのう。」 「はあ、今日は、なんです、加藤へ寄りますとね、赤坂へ行くならちょうどいいからいっしょに行こうって言いましてな、加藤さんも伯母さんもそれから千鶴子さんも、総勢五人で出かけたのです。赤坂でも非常の喜びで、幸い客はなし、話がはずんで、ついおそくなってしまったのです──:ああ酔った」とジュクせる桃のごとくなれるホオをおさえつ、小間使いが持てこし茶をただ一息に飲みほす。 「そうかな。そいはにぎやかでよかったの。赤坂でもお変わりもないじゃろの、浪どん?」 「はい、よろしく申し上げます、まだ伺いもいたしませんで、‥‥いろいろおミヤをいただきまして、くれぐれお礼申し上げましてございます」 「ミヤといえば、浪さん、あれは‥‥うんこれだ、これだ」と浪子がさし出す盆を取り次ぎて、母の前に差し置く。盆には雉子ひと番い、鴫/鶉などうずたかく積み上げたり。 「ご猟の品かい、これは沢山に──ごちそうが-でくるの」 「なんですよ、おっかさん、今度は非常の大猟だったそうで、つい大晦日の晩に帰りなすったそうです。ちょうど今日は持たしてやろうとしておいでのとこでした。まだ明日はシシが-くるそうで──」 「シシ? ──シシが捕れ申したか。たしかわたしのほうがみッつ上じゃったの、浪どん。昔から元気のよか方じゃったがの」 「それはなんですよ、おっかさん、非常の元気で、今度も二日も三日も山に焚火をして/ノジクしなすったそうですがね。まだなかなか若い者に負けんつもりじゃて、そう威張っていなさいます」 「そうじゃろの、おっかさんのごとリュウマチスが起こっちゃもう仕方があいません。人間は病気が一番いけんもんじゃ。──おお/もうやがて九時じゃ。着物どんかえて、やすみなさい。──おお、そいから今日はの、タケどん。ヤスヒコが来て──」  立ちかかりたる武男はいささか安からぬ色を動かし、浪子もふと耳をカタブけつ。 「千々石が?」 「何かお前に用がありそうじゃったが──」  武男は少し考え、「そうですか、私もぜひ──あわなけりゃならん──要がありますが。──なんですか、おっかさん、私の留守に-かねでも借りに来はしませんでしたか」 「なぜ? ──そんな事はあいません──なぜかい?」 「いや──少し聞き込んだ事もあるのですから──:いずれそのうちあいますから──」 「おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての」 「ハ、あの山木のばかですか」 「あれが来てこの──そうじゃった、十日にごちそうをすっから、ゼッヒお前に来てくださいというから」 「うるさいやつですな」 「行ってやんなさい。おとっさんの恩を覚えておっが/かあいかじゃなっか」 「でも──」 「まあ、そういわずと行ってやんなさい──どれ、わたしも寝ましょうか」 「じゃ、おっかさん、おやすみなさい」 「ではお母さま、ちょっと着がえいたしてまいりますから」  若夫婦は打ち連れて、居間へ通りつ。小間使いを相手に、浪子は良人の洋服を脱がせ、琉球紬の綿入れ/二枚’重ねしを/ふわりと打ちきすれば、武男は無造作に白縮緬の兵児帯シリダカに引き結び、やおら安楽椅子に倚りぬ。洋服の塵を払いて次の間のエコウにかけ、「紅茶を-いれるようにしてお置き」と小間使いにいいつけて、浪子は良人の居間に-いりつ。 「あなた、お疲れ遊ばしたでしょう」  葉巻の青きケブリを吹きつつ、今日到来せし年賀状’名刺など見てありし武男はふり仰ぎて、 「浪さんこそくたびれたろう、──おおきれい」 「括弧クエスチョン」 「美しい花嫁様という事さ」 「まあ、いや──あんなことを」  さと顔’打ちあかめて、ランプの光まぶしげに、目をそらしたる、常には蒼きまで白き色の、今ぼうっと桜色に匂いて、ツヤツヤとした丸髷/さながら鏡と照りつ。浪に千鳥の裾模様、黒襲に白茶シュチンの丸帯、碧玉を刻みしフォルゲットミイノット(勿忘草)の襟どめ、(このたび武男が米国より持て来たりしなり):シブのハジ/ロクブの笑みを含みて、嫣然として明かりのうちに立つ姿を、わが妻ながらいみじと武男は思えるなり。 「本当に浪さんがこう/着物をかえていると、まだ昨日来た花嫁のように思うよ」 「あんなことを──そんなことをおっしゃると往ってしまいますから」 「ハハハハもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」 「ホホホ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海にいで、秋は帰るべかりしに、ソウ港に-つきけるとき、器械に修復を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、旧臘’押しつまりて帰朝しつ。今日’正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない/加藤家より浪子の里をおとないたるなり。  武男が母は昔気質の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、ネダイに寝ねて/匙もて食らうこと思いも寄らねど:、さすがに若主人のみは幾分か/治外の法権を享けて、十畳のその居間は和洋折衷とも-いいつべく、畳の上に緑色の絨毯を敷き、テーブルに椅子’二’三脚:、トコには唐画の山水をかけたれど、ビカンには父ミチタケの肖像をかかげ、開かれざるショキョウと洋籍の棚は片すみに排斥せられて:、正面の床の間には父が遺愛の備前兼光の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真’額/数多掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年の大ぜいうつりたるは、江田島にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、ゴロクサイのオノコの父の膝に倚りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの一人写しの軍服なるは/舅片岡チュウジョウなり。主人が年若くソゴウなるに似もやらず、几案整然として、すみずみにいたるまで一点の塵を留めず:、あまつさえフル銅ヘイに早咲きの梅一両枝/趣ぶかく活けたるは、温かき心と/細かなる注意と/熟練なる手と/常にこの部屋に往来するを示しぬ。げにそのヌシは銅ヘイの下に梅花の香りを浴びて、ハート形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく部屋のすみずみまでも照らして、火桶の炭火は緑の絨毯の上に/紫がかりし紅の炎を吐きぬ。  愉快という愉快は世にカズあれど、つつがなくながの旅より帰りて、旅衣を普段着の着心地よきにかえ:、窓外に-ほゆる-よあらしの音を聞きつつ/居間の暖炉に足’さしのべて、聞きなれし時計のキツキツを聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた阿母’老健にして、新妻のさらに愛しきあるをや。葉巻の香しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを享けけるなり。  ただ一つの翳は、さきに母の口より聞き、いま来訪名刺のうちに見たる、千々石安彦の名なり。今日武男は千々石につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々石が-つとむる参謀本部に/千々石にあてて1通のはがきを寄せたる者あり:、折節/千々石は不在なりしを/同僚のナニガシ何心なく見るに、高利ガシの名高きナニガシの貸し金督促状にして、しかのみならず/その金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密/おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々石の姿を/あるまじき相場のイチに見たる者あり。とにかく種々嫌疑の雲は千々石の上に覆いかかりてあれば、この上とても/千々石には心して、かつ自らカイチョクするよう忠告せよと、参謀本部にチョウたる某将軍とは/爾汝のあいだなる舅中将の話なりき。 「困った男だ」  かくひとりごちて、武男はまた千々石の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接に会いて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、着物をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかにいりきたりぬ。 「おお紅茶、これはありがたい。」椅子を離れて火鉢のそばにあぐらかきつつ、 「おっかさんは?」 「今おやすみ遊ばしました。」紅茶の熱きをすすめつつ、なお-くれないなる良人の顔をながめ:「あなた、お頭痛が遊ばすの? お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母が-おしいするものですから」 「なあに──今日は実に愉快だったね、浪さん。おとっさんのお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。ハハハハ、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」  浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて 「その上に──」 「エ? なんです?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。 「存じません、ホホホホホ。」さと顔あからめ、うつぶきて指環をひねる。 「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が上手になったのかい。これでは襟どめぐらいは廉いもんだ。ハハハハ」  火鉢の上にさしかざしたるタナゾコに/ぽうっと薔薇色になりしホオを押えつ。少し吐息つきて、 「本当に──永いあいだ-おっか様も──どんなにおさびしくっていらっしゃいましてしょう。またすぐお勤めにいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」 「始終ウチにいようもんなら、それこそ3日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」 「まあ、あんなことを──も一つあげましょうか」  くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと/火鉢のフチにはたきつ、快くあたりを見回して、 「半年の余もハンモックに揺られて、家に帰ると、十畳敷がもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。──ああ、何だか二度ホニムーンをするようだ」  げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の1時に来つらん心地せらるるなりけり。  言葉は暫し絶えぬ。二人はうっとりとして/ただ相笑めるのみ。梅の-かはサイサイとして二人が火桶を擁して/相向かえるあたりをめぐる。  浪子はふと思いいでたるように顔を-あげつ。 「あなたいらっしゃいますの、山木に?」 「山木かい、おっかさんがああおっしゃるからね──行かずばなるまい」 「ほほ、わたくしも行きたいわ」 「行きなさいとも、行こういっしょに」 「ホホホ、よしましょう」 「なぜ?」 「こわいのですもの」 「こわい? 何が?」 「うらまれてますから、ホホホ」 「うらまれる? 恨む? 浪さんを?」 「ホホホ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。あのお豊さん‥‥」 「ハハハ、何を──ばかな。あの馬鹿ムスメもしようがないね、浪さん。あんな娘でももらいてがあるかしらん。ハハハ」 「おっかさまは、千々石はあの山木と親しくするから、お豊をサイにもらったらよかろうって、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」 「千々石?──千々石?──あいつ-じつに困ったやつだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は──僕も軍人だが──実にひどい。ちっとも昔の武士らしいふうはありやせん、みんな-かねのためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費をせっして、ツネの産を積んで、まさかの時に内顧の憂いのないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵’の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに-じつに不快なは、あの賭博だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって/下’からむさぼることばかり知っとる」  今そこに当の敵のあるらんように息巻き/荒く攻め立つる”まだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞きほるる浪子はゆゆしと誇りて、早く海軍大臣か/ないし軍令部長にして/海軍部内の風を一新したしと思えるなり。 「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、父がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろモノを持って来ますの。父はそんな事はダイキンモツですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけても/やはりいろいろナをつけて持ち込んで来ましたわ。で、父が冗談に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」 「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん──:やあもう十時か。」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。 「本当に時が早くたつこと!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  芝’桜川チョウなる山木ヒョウゾウが屋敷は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれよりニシノクボの丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、カエデ/桜/松/竹など/おもしろく植え散らし:、ここに石ドーロウあれば、かしこに稲荷の祠あり、またその奥に思いがけなき四阿あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て/不義に築きし万金の蜃気楼なりけり。  時はすでに午後四時過ぎ、夕烏の声おちこちに聞こゆるころ、座敷の騒ぎを後ろにして/日影薄き築山道を庭下駄を踏みにじりつつ上り行く羽織袴の男あり。こは武男なり。母の言葉/もだしがたくて、今日’山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬサカズキあぐることの面白からず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、とっくにも辞し去らんと思いたれど:、山木がしきりに引きとむるが上に、必ず逢わんと思える千々石の/エンたけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなくとどまりつ、ひそかに座を立ちて、ねっせる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なきほうをたどりしなり。  武男が舅中将より千々石に関する注意を受けて帰りし両三日後、ワニカワの手鞄さげし見も知らぬ男/突然川島ケに尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々石安彦、保証人の名前は顕然’川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。センポウの口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り-いだしたる往復の書面を見るに、マゴう方なき千々石が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事のタザキも、さる相談にあずかりし覚えなく、印形を貸したる覚えさらになしという。かの噂にこの事実’思いあわして、武男はシチブ/コトの様子を推しつ。あたかもその日/千々石は手紙を寄せて、明日/山木の宴会に会いたしといい越したり。  その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々石は来たらず:、しきりに波立つ胸の不平を葉巻のケブリに吐きもて、武男は崖道を上り、ミンチクの小藪を回り、フユツタの陰に立つ四阿を見て、しばし腰をおろせるとき、横手のわき道に駒下駄の音して、はたと豊子と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾模様ある藤色縮緬の三枚ガサネ、きらびやかなる服装せるほどますます隙のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど-ほそうして、 「ここにいらっしたわ」  サンジュッサンチ巨砲の-まとには立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷りとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ 「あなた」 「なんです?」 「おとっさんがご案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」 「案内? 案内は要らんです」 「だって」 「僕は一人で歩くほうが勝手だ」  これほど手強く打ち払えばいかなるゴウテキも退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて 「そうお逃げなさらんでもいいわ」  武男はひたと当惑の眉をひそめぬ。そも/武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入りしたれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが:、まだジュウイチニの武男は常にお豊を打ちたたき/泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り/所変わり/人長けて、武男がすでにシン夫人を迎えけるこんにちまでも、お豊はなお当年の乱暴なるボっちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対して儚き恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時も/なるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵のハカリゴトに陥れ-るを、またいかんともするあたわざりき。 「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたいほうに行くのだ」 「あなた、それはあんまりだわ」  おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男/行かんとしては引きとめられ、逃れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに/新ヒタカガワのひと幕を-いだせしが、ふと思いつく由ありて、 「千々石はまだ来ないか、お豊さん/ちょっと見て来てくれたまえ」 「千々石さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」 「千々石はときどき来るのかね」 「千々石さんは昨日も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」 「うん、そうか──しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」 「わたし嫌よ」 「なぜ!」 「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしが嫌だって、浪子さんが美しいって、そんなに’人を追いやるものじゃなくってよ」  油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩して逃げんとするとき、 「お嬢様、お嬢様」  と女の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男は-つと藪を回りて、ニサンジュッポ足早に落ち延び、ほっと息つき 「困ったヤツだ」  とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害──座敷のほうへ行きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  日は-いり、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所のほうに残れるとき、羽織袴は脱ぎすてて、煙草盆をさげながら、おぼつかなき足’踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入りこし主人の山木:、赤禿げのヒタエの湯げも立ちのぼらんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、くずるるようにすわり、 「若旦那も、千々石さんも、お待たせ申して失敬でがした。ハハハハ、今日はおかげで非常の盛会‥‥いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。ゴタイジンなんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木ヒョウゾウ──:なあに、一升やそこらハハハハハ大丈夫ですて」  千々石は黒水晶の目を山木に注ぎつ。 「だいぶご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」 「もうかるですとも、ハハハハ──いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管をようやく吸いつけ、一服吸いて「なんです、その、今度あのマルマルが売り物に出るそうで、実はナイナイ様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業のほうは、大有望さ。追い追い内地雑居と来ると、いよいよ妙だが、いかがです若旦那、タザキさんの名義でもよろしいから、ニサン万ご奮発なすっちゃ。きっともうけさして上げますぜ」  と本性違わぬナマエイの口は、酒よりもなめらかなり。千々石は黙念と座しいる武男を流し目に見て、「マルマル、確か青物町の。あれは一時もうかったそうじゃないか」 「さあ、もうかるのを下手にやり崩したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ」 「それは惜しいもんだね。素っ寒貧の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、ヒトカタぬいで見ちゃア」  座に着きし初めより始終’黙念として/不快の色は覆う所なきまでビウにあらわれし武男、いよいよ喜ばざる色を動かして、千々石と山木を等分に/いかりを含みたる目じりにかけつつ 「御厚意かたじけないが、わが輩のように、いつサカナの餌食になるか、裂弾、榴弾の-まとになるかわからない者は、別に金もうけの必要もない。失敬だがその某会社とかに三万円を投ずるよりも、わが輩はむしろ海員養成費に献納する」  にべなく言い放つ武男の顔、千々石はちらとながめて、山木にめくばせし、 「山木君、利己主義のようだが、その話はあと回しにして僕の件から願いたいがね。川島君も承諾してくれたから、願って置いたとおり──ゴインがありますか」  証書らしき一葉の書付を取り-いだして山木の前に置きぬ。  千々石の身辺に嫌疑の雲のかかれるも-うべなり。彼は昨年来その位置の便宜を利用して、山木がために参謀となり/チョウジャとなりて、その利益の分配にあずかれるのみならず:、大胆にも官金を融通して蠣ガラチョウに万金をつかまんとせしに、たちまち五千円余の損亡を来たしつ。山木をゆすり、その貯えの底をはたきて二千円を得たれども、なお三千の不足あり。そのただ一親戚なる川島ケは富みて/かつ未亡人の覚えめでたからざるにもあらざれど、出すといえばおくびも惜しむ叔母の性質を知れる千々石は、打ち明けて頼めば到底らちの明かざるを見破り:、一時を弥縫せんと、ここに私印偽造の罪を犯して武男のレンインを騙り、高利の三千円を借り得て、ひとまず官金消費の跡を濁しつ。さるほどに期限迫りて、果てはわが-つとむる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得て/かの三千円を償い、武男の-かねをもって/武男の名を贖わんと欲せしなり。さきに武男をおとないたれど/折り悪しく得逢わず、その後ニサンニチ職務上の用を帯びて他行しつれば、いまだ高利ガシのすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。  山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の入れ物を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取りいでつつ/保証人なるわが名の下に捺しぬ。ソを取り上げて、千々石は武男の前に差し置き、 「じゃ、きみ、証書はここにあるから──:で、かねはいつ受け取れるかね」 「かねはここに持っている」 「ここに?──冗談はよしたまえ」 「持っている。──では、参千円、確かに渡した」  懐中より1通の紙に包みたるもの取り出でて、千々石が前に投げつけつ。  打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々石の顔はたちまち紅になり、また蒼くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利ガシの手にあらんと信じ切ったる証書を/現に目の前に見たるなり。武男はタザキに事の由を探らせしのち、ついに怪しかる名前の上の三千円をハラいしなりき。 「いや、これは──」 「覚えがないというのか。男らしく罪に服したまえ」  子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に/十二ブンに裏をかかれて、イッコウの憤怨/炎のごとく燃え起こりたる千々石は、切れよと唇をかみぬ。山木は打ちおどろきて、煙管をやに下がりに持ちたるまま二人の顔を眺むるのみ。 「千々石、もうわが輩は何もいわん。親戚のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利ガシのはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」  あくまで辱められたる千々石は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるをミトムルほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。 「いや、きみ、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ──」 「何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の’罪人になってまで高利を借りる必要がどこにあるのか」 「まあ、聞いてくれたまえ。実は切羽つまった事で、かねは要る、借りるところは無し。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母さんには言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ──済まぬと思いながら──:、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと──」 「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」  膝を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、 「これさ、若旦那、まあ、お静かに、──何か詳しい訳はわかりませんが、たかが二千や三千の-かね、それにご親戚であって見ると、これは御勘弁──ねエ若旦那。千々石さんも悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表ざたになって見ると、千々石さんの立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」 「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。──山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、──:それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」  もはや事ここにいたりては-おそるる所なしと度胸を据えし千々石は、再び態度を嘲罵にかえつ。 「絶交?──別に悲しくもないが──」  武男の目は炎のごとくひらめきつ。 「絶交はされてもかまわんが、かねは出してもらうというのか。腰抜けめ!」 「何?」  ケシキダつ双方の勢いに/えいもいくらかさめし山木はたまり兼ねて二人が間に分け入り「若旦那も、千々石さんも、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、──:これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫い/こなたを繕う。  押しとめられて、しばし黙念としたる武男は、じっと千々石が-おもてを見つめ、 「千々石、もういうまい。わが輩も子供の時から君と兄弟のように育って、実際’才力の上からも-としからも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのはイチ個人の事だが、君はまだその上に──いや言うまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみにイチゴンいって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは-かねより貴いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃ/もう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」  厳然として言い放ちつつ武男は/膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き捨てつ。つと立ち上がって次の間にいでし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき娘お豊を煽り倒しつ。「あれえ」という声をあとに/足音荒く玄関のほうにいで去りたり。  あっけにとられし山木と千々石と顔見あわしつ。「相変わらず-ぼっちゃまだね。しかし千々石さん、絶交料三千円は随分いい儲けをしたぜ」  落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々石は黙念として唇をかみぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  如月初め”ふと引きこみし風邪の、ひとたびは-おこたりしを、ある夜’姑の胴着を-しあぐるとて/急ぐままに夜ふかししより再びひき返して:、今日’二月の十五日というに/浪子はいまだトコあぐるまで快きを覚えざるなり。  今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも/今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで:、日々吹き募る北風は雪を誘い/雨を帯びざる日にも/さながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒縁のみぞ多くなり行く。この寒さは/さらぬだにつよからぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれというコトなれる病態もなけれど、ただアタマ重く/ショクうまからずして/日また日を渡れるなり。  いま二時をうちし時計の/蜩など鳴きたらんように/凛々と響きしあとは、しばし物音’絶えて、秒を刻み行く時計の/かえって静けさをクワウるのみ。珍しくうららかに浅緑をのべしショシュンの空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々たる日の光/くまなくシショウに栄えて:、余りの光は紙を透かして/浪子が仰ぎ臥しつつ/黒スコッチの靴下を編める手先と、雪より白き枕に漂う寝乱れ髪の上に/ちらちらおどりぬ。左の障子には、ひょろひょろとした南天の影/手水鉢をおおうてうつむきざまに映り、メテには槎枒たる老梅の/ジュウオウに枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花はカぞうべくまばらなるにも/春の浅きは知られつべし。南縁ケンをむかうるにやあらん、腰板の上に猫の頭の映りたるが、今日の暖気に浮かれ出でし羽虫’目がけて飛び上がりしに:、捕りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる頭の/しきりにうなずきつ。微笑を含みてこの有り様を見し浪子は、日のまぶしきに眉を-あつめ、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに寝返りして、編みかけの靴下を撫で試みつつ、またジュウオウに編み棒を動かし始めぬ。  ドシドシと縁に重やかなる足音して、タケ低き仁王の影/障子を伝い来つ。 「気分はどうごあんすな?」  と枕辺にすわるは姑なり。 「今日は大層ようございます。起きられるのですけども──。」と編み物をさしおき、襟の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、 「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいっもんか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生が仕事、なあ/浪どん。お前は武男が事ちゅうと、何もかも忘れっちまいなはる。いけません。早う養生してな──」 「本当に-すみません、やすんでばかし‥‥」 「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」  うそをつきたもうな、御身は常に当今の嫁なるものの/シュウトに礼足らずとつぶやき、ひそかにわが嫁のこれに異なるをもっけの幸いと思うならずや。浪子は里にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母の/よろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから/一種’古風のシミを有せるなりき。  姑はふと思いいでたるように、 「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう-けえてきもした?」  浪子は枕辺に置きし一通の手紙のなか/ぬき-いだして姑に渡しつつ、 「この日曜にはきっといらっしゃいますそうでございますよ」 「そうかな。」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。このカンにエットからだイゴかして見なさい、それこそ-なか病気も出て来ます。風邪は-じいと寝ておると、なおるもんじゃ。武はトシが-わかかでな。医者をかえるの、やれ転地をすっのと騒ぎもす。わたしたちが-わかか時分な、腹が痛かてて寝るこたなし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間がひらけてクっと皆が-よおうなり申すでな。ハハハハ。タケにそう-けえてやったもんな、おっかさんがおるで心配しなはんな、ての、ハハハハハ、どれ」  口には笑えど、目はいささか喜ばざる色を帯びて、いで行く姑の後ろ影、 「御免遊ばせ」  と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。  親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人の帰りし以来、一種異なる関係の/姑との間にわきいでたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、ソゴウなる男心にも/留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々しく姑の思える様子は、敏き浪子の目をのがれず。時には-かの孝──姑のいわゆる──と/この愛の道と、一時に踏みがたく分かるることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。 「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」  と呼ぶ女の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。いり来る人を見るより/喜色はたちまちビカンに上りぬ。 「あ、おチズさん、よく来たのね」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「今日はどんな?」  藤色縮緬のオコソ頭巾とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕辺近く立ち寄るは島田のジュウシチハチ:、紺地ハスアヤの吾妻コートにすらりとした姿を包んで、三日月眉’匂やかに、凛々しき黒目がちの、見るからサエザエとした’娘。浪子が伯母/加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの子なり。浪子と千鶴子は一つ違いの従姉妹同士。幼稚園に通うころより/じつの兄弟も及ばぬほど睦み合いて、浪子がイモトの駒子をして「姉さんはおチズさんとばかり仲よくするからわたし嫌だわ/」といわしめしこともありき。されば/浪子が川島ケに嫁ぎてこしのちも、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守のあいだ/心さびしく/憂き事多かる浪子を慰めしは、モユルがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞ/その重封なるものなりける。  浪子はほほえみて、 「今日はよっぽどよいほうだけども、まだ髪が重くて、時々せきが出て困るの」 「そう?──寒いのね。」うやうやしく座ぶとんをすすむる女をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。桐胴の火鉢に/指環の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色に匂えるホオを押さう。 「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」 「あ、よろしくってね。あまり寒いからどうかしらってひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少し-いいほうだったら逗子にでも転地療養しなすったらってね、昨夕もおっかさんとそう話したのですよ」 「そう? 横須賀からもちょうどそう言って来てね‥‥」 「兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ」 「でももうそのうちよくなるでしょうから」 「だって、このごろの風邪は本当に用心しないといけないわ」  おりから小間使いの/紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。 「カネや? おっかさんは? お客? そう、どなた? 国のかたなの?──おチズさん、今日はゆっくりしていいのでしょう。カネや、おチズさんに何かご馳走しておあげな」 「ホホホホ、お百度参りするのだもの、ご馳走ばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ。」言いつつ袱紗包みのコジュウを取り出し「/こちらの伯母さんはお萩がおすきだったのね、少しだけども、──お客様ならあとにしましょう」 「まあ、ありがとう。本当に‥‥ありがとうよ」  千鶴子はさらにベニ蜜柑を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお土産よ。でもすっぱくていけないわ」 「まあきれい、ヒトツむいてちょうだいな」  千鶴子がむいて渡すを、さも-うまげに吸いて、ヒタエにこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。 「うるさいでしょう。ざっと-いってたほうがよかないの? ね、ちょっと結いましょう。──そのままでいいわ」  勝手知ったる次のマの鏡台の櫛取り-いだして、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。 「そうそう、昨日の同窓会──知らせが来たでしょう──は/おもしろかってよ。みんながよろしくって、ね。ホホホホ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もうミツニヒトツはお嫁だわ。それはおかしいの、大久保さんも/本多さんも/キタコウジさんもみんな丸髷に-いってね、変に奥様じみているからおかしいわ。──痛かないの?─ホホホホ、どんな話かと思ったら、みんな自分の吹聴ですわ。そうそう、それからシンシ別居論が始まってね、キタコウジさんは自分がちっとも家政ができないにおっかさんがたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし:、大久保さんはまたおっかさんがやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜっかえしてやったら、おチズさんはまだ門外漢──漢がおかしいわ──だから話せないというのですよ。──すこし詰まり過ぎはしないの?」 「イイエ。──それはおもしろかったでしょう。ホホホホ、みんな自分から割り出すのね。どうせところところで違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、おチズさん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるって、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」  父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、里にありけるころより継母の政を傍観しつつ、ひそかに自家のケンをいだきて、自ら一家の女主になりたらん日には、みごとイエを整えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島ケに来たり嫁ぎて、万機’一に摂政タイコウの手にありて、身はその位ありて/その権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばし己を収めて/姑の支配の下に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま良人にかしずくことのままならぬを/ひそかにかこてるおりおりは、かつてわが国風に合わずと思いし継母が得意のシンシ別居論の/あるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが:、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心にタイせるなり。  継母の下にトトセを送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める従姉妹の底意を、ことごとくは汲みかねし千鶴子、みつに組みたる髪の端を/白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも御機嫌がわるくって?」 「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、‥‥うちにいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ! それで、いつでも此処ではおかあさまがクイーンだから/おれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするんだって、しょっちゅう言って聞かされるのですわ‥‥:あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」  言いつつ/みつ組みにせし髪を撫で試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。  櫛をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の蓋を開きて、タナソコに載せつつ、 「何度見てもこのビンはきれいだわ。本当に兄さんはよくなさるのねエ。うちの──兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる俊次といいて、目下’外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないって:、フレンチを勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のって、責めてばかりいるから困るわ」 「ホホホホ、おチズさんが丸髷に-いったのを早く見たいわ──島田も惜しいけれど」 「まあいや!」美しき眉はひそめど、裏切る微笑’は/薔薇の莟めるごとき唇に流れぬ。 「あ、ほんに、萩原さんね、そら/わたしたちより一年サキに卒業した──」 「あの松平さんに-いらっした方でしょう」 「ハ、あの方がね、昨日離縁になったんですって」 「離縁に? どうしたの?」 「それがね、お父さんお母さんの気には-いってたけども、松平さんがきらってね」 「子供がありはしなかったの」 「一人あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのお父さんがひどく怒ってね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですって」 「まあ、かあいそうね。──どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」 「腹が立つのねエ。──逆さまだとまだいいのだけど、シュウトの気に入っても良人にきらわれて/あんな事になっては本当につらいでしょうねエ」  浪子は吐息しつ。 「同じ学校に出て/同じ教場で/同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。──おチズさん、いつまでも仲よく、さきざきチカラになりましょうねエ」 「うれしいわ!」  二人の手はおのずから相むすびつ。ややありて浪子はほほえみ、 「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ホホホホ、笑っちゃいやよ。これから何年かたってね、どこか外国と-いくさが起こるでしょう、日本が勝つでしょう:、そうするとね、おチズさんとこの兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう:、それからうちが艦隊の司令長官で、ナンジュッ艘という軍艦を向こうのミナトにならべてね‥‥」 「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、うちのお父さんが貴族院でナン億万円の軍事費を議決さして‥‥」 「そうするとわたしはおチズさんと赤十字の旗でも立てて出かけるわ」 「でもからだが弱くちゃできないわ。ホホホホ」 「オホホホホ」  笑うもとより浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。 「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」 「時々’咳するとね、ここに響いてしようがないの」  言いつつ浪子の目は/たちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  山木が奥の小座敷に、あくまで武男に辱められて、モユルがごときフンシツを胸に畳みつつ/わが寓に帰りしその夜より僅々五日を経て:、千々石は突然’参謀本部よりして/第一師団の某連隊付きに移されつ。  人の一生には、なす事なす事’皆’図星をはずれて、さながらコウテンことにわれイチニンをえらんで/折檻また折檻の鞭を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる:、いわゆる「泣きっ面に蜂」の時期/少なくとも一度はあるものなり。去年以来/千々石はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、子供と見くびりし武男には下司同然に辱められ、ただ一親戚たる川島ケとの通路は絶えつ。果てはただイチ立身のショウケイとして、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、イチゴン半句の挨拶もなくはぎとられて:、このごろまでウシウマ同様に思いし師団の一士官とならんとは。疵持つ足の千々石は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ馬糞のシュウをいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが:、この打撃はいたく千々石を刺激して、従来/事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに:、イチトヒのフンコン/猛火よりもはげしくトウジョウし来たるを覚えざらしめたり。  頭上に輝く名利の冠を、上らば必ず得べき立身の梯子に足ふみかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然’蹴落とされしは千々石が今の身の上なり。誰が蹴落とせし。千々石は武男が言葉の端より、参謀本部にチョウたる将軍が/片岡中将と無二の昵懇なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来/かねには淡白なる武男が、三千金のために、──たといギインの事はありとも──法外にいかれるを怪しみて:、浪子が古き事まで取り出でて/吾を武男に讒したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実はドカに油さし、失恋のうらみ、功名の道における蹉跌の恨み:、失望、不平、嫉妬さまざまの悪寒は中将と浪子と武男をめぐりて炎のごとく立ちのぼりつ。かの常にわがレイトウを誇り、情に熱して数字を忘るるの愚を笑える千々石も、連敗の余の/さすがに気は乱れ/心くるいて:、イッコウの怨毒/いずれに向かってか吐き尽くすべき道を得ずば、自己──千々石安彦が五尺の身”まず破れおわらんずる心地せるなり。  復讐、復讐、世に心よきは/にくしと思う人の血をすすって、そのホオのイチレンに/舌鼓うつときの感なるべし。復讐、復讐、ああ/いかにして復讐すべき、いかにしてうらみ重なる片岡川島両家をみじんに吹き飛ばすべき地雷カキョウを発見し:、なるべくおのれは危険なき距離より糸をひきて、憎しと思う輩の/心ヤブれ/腸裂け/骨くじけ/脳まみれ/生きながら死ぬ光景をながめつつ、快く一杯を-すごさんか。こはひと月以来’夜となく日となく/千々石の頭を往来せる問題なりき。  梅花/雪とこぼるる三月中旬、ある日/千々石は親しく往来せる旧同窓生のナニガシが/第三師団より東京に転じ来たるをむかうるとて、新橋におもむきつ。待合室をいづるとて、あたかも十ゴロクの乙女を連れし丈高き婦人──貴婦人の婦人待合室よりいで来たるにはたと行きあいたり。 「お珍しいじゃございませんか」  駒子を連れて、片岡子爵夫人’繁子はたたずめるなり。一瞬時、変われる千々石の顔色は、先方の顔色をのぞいて、たちまち一変しつ。中将にこそ浪子にこそ恨みはあれ、少なくもこの人をば敵視する要なしと早くも心を決せるなり。千々石はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、 「ついごぶさたいたしました」 「ひどいお見限りようですね」 「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の用で、つい多忙だものですから──:今日はどちらへか?」 「ハ、ちょっと逗子まで──あなたは?」 「何、ちょっと友達を迎えにまいったのですが──:逗子はご保養でございますか」 「おや、まだご存じないのでしたね、──病人ができましてね」 「ご病人? どなたで?」 「浪子です」  おりからベルの鳴りて人はウシオのごとく改札口へ流れ行くに、乙女は母の袖引き動かして 「おかあさま、おそくなるわ」  千々石はいち早く子爵夫人が手にしたる四季ブクロを引っとり、打ち連れて歩みつつ 「それは──なんですか、よほどお悪いので?」 「はあ、とうとう肺になりましてね」 「肺?──結核?」 「ハ、ひどく喀血をしましてね、それでつい先日/逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に。」言いつつ千々石が手より四季ブクロを受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ちとお遊びにいらっしゃいよ」  派手なるカシミールのショールと/紅のリボンかけしお下げと/はるかに上等室にきゆるを目送して、ホを返す時、千々石の唇には恐ろしき微笑を浮かべたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  医師が見舞うたびに、あえて’口にはいわねど、その症候の/次第に著しくなり来るを認めつつ、手立てを尽くして防ぎ止めんとせし甲斐もなく:、目には見えねど浪子の病は日々に募りて、三月の初めには、疑うべくもあらぬ肺結核の初期に-いりぬ。  わが健やかを鼻にかけて/今どきの若者の弱きをあざけり、転地の事耳にいれざりし姑も、いま目の前に浪子の一度ならずに喀血するを見ては:、さすがに驚き──伝染の恐ろしきを聞きおれば──恐れ、医師が勧むるまま/しかるべき看護婦を添えて/浪子を相州逗子なる里──片岡家の別墅に送りやりぬ。肺結核! 茫々たる野原にただひとり立つ旅人の、頭上に迫り来る夕立雲のまっ黒きを望める心こそ、もしや、もしやとその病を待ちし浪子の心なりけれ。今は恐ろしき沈黙はすでに-とく破れて、カミナリ鳴り/稲妻ひらめき/コクフウ吹き/白雨ほとばしるマナカに立てる浪子は、ただ身を賭して/早く風雨のチョウイを通り過ぎなんと思うのみ。それにしても第一撃のいかにすさまじ-かりしぞ。思いいづる三月の二日、今日は常にまさりて快くおぼゆるままに、久しく打ちすてし生け花の慰み、姑の部屋のカヘイにささん料に:、おりから帰りて居たまいし良人に願いて、匂いも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く端居して、あれこれとえらみ居しに:、にわかに胸先くるしく/頭ふらふらとして、紅の靄’目先に渦まき、われ知らずアと叫びて、肺を絞りし鮮血のクレナイなるをハけるその時! その時こそ「ああとうとう/」と思う同時に、いずくともなくはるかに/わが墓の影を垣間見しが。  ああ死! 昔’世をつらしと見しころは、セイ/なんの楽しみぞ/死/なんの悲しみぞと思いし折りもありけるが、今は人のイノチの-おしければ/いとどわが命の惜しまれて/千代までも生きたしと思う浪子。情けなしと思うほど、病に勝たんの心も切に、おりおり沈むわが気をふり起こしては、われより医師を促すまでに怠らず/病を養えるなりき。  目と鼻の横須賀にあたかも在勤せる武男が、ひまをぬすみてしばしば往来するさえあるに、父の書、伯母、千鶴子の見舞たえ間なく:、別荘には、去年の夏/川島ケを追われし以来/絶えて久しきかの姥のいくが、その再会の縁由となれるがために/病そのものの悲しむべきをも喜ばんずるまで/浪子をなつかしめるありて:、アトうべくは昔に倍する熱心もてフクジするあり。まめまめしき老僕が心を用いてつこうるあり。春寒/きびしきト門を去りて、身を暖かき湘南の空気に投じたる浪子は、日々に自然の人をいつくしめるオンコウを吸い、身をめぐる暖かき人の情けを吸いて、気も心もおのずからのびやかになりつ。地を転じてすでに二旬を経たれば、喀血やみ/咳嗽やや減り、一週二回/東京より来たり診する医師も、快しというまでにはいたらねど/病の進まざるをかいありと喜びて:、この上’激しき心神の刺激を避け、安静にして療養の功を続けなば、快復の望みありと許すにいたりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に山桜’咲き初めて、山また山に/さりもあえぬ白雲をかけし四月’初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山もひと色に打ち煙り、たださえ’永き日の/果てもなきまで永きココチせしが、日ぐれがたより大降りになって、風さえ強く吹きいで:、戸障子の鳴る音すさまじく、いかりたける相模灘の濤声、万馬のオドるがごとく、カイソン-トを閉ざして/トモシビ一つ漏る家もあらず。  片岡家の別墅にては、今日は-とくクべかりしに/勤務上やみがたき要ありておくれし武男が、夜にいりて、風雨のアンを衝きつつ来たりしが、今はすでにイをあらため、晩餐を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。相向かいて、浪子は美しき巾着を縫いつつ、ときどき針をとどめて/良人の方打ちながめては笑み、風雨の音に耳カタブけては/静かに思いに沈みており。揚巻に結いし緑の髪には、一朶の山桜を/葉ながらにさしはさみたり。二人の間には、1脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはジジと燃えつつ、ウスクレナイの光を落とし:、そのかたわらには白磁ヘイにさしはさみたるヒトエダの山桜、雪のごとく-もくして語らず。今朝’別れこし故山の春を夢むるなるべし。  風雨の声/オクをめぐりて騒がし。  武男は手紙を巻きおさめつ。「お父さんもよほど心配しておいでなさる。どうせ明日はちょっと帰るから、赤坂へ回って来よう」 「明日いらっしゃるの? このお天気に!──でもお母さまもお待ちなすっていらっしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」 「浪さんが!!! とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは島流しにあったつもりでいなさい。ハハハハ」 「ホホホ、こんな島流しなら生涯でもようござんすわ──:あなた、タバコ召し上がれな」 「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり-くる前の日と、帰った日は、二日ぶりのむのだからね。ハハハハハ」 「ホホホ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」 「それはごちそうさま。大方おチズさんの土産だろう。──それは何かい、立派な物ができるじゃないか」 「この間から日が永くってしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど──:イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ/何だか気分がセイセイしたこと。もう少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」 「ドクトル川島がついているのだもの、ハハハハ。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなった。もうこっちのものだて」  この時’次の間より/かの老女のいくが、カシバチと茶盆を両手にささげ来つ。 「ひどい時化でございますこと。旦那様がいらっしゃいませんと、ねエ奥様、今晩なんざ/とても目が合いませんよ。飯田町のお嬢様はお帰り遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと帰りますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。茂平(老僕)どんは/いますけれども」 「こんな晩に船に乗ってる人の心持ちはどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」 「なあに」と武男は茶をすすり果てて/風月の唐饅頭’二つ三つ一息に平らげながら:「なあに、これくらいの時化はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も大時化に出あうと、随分こたえるよ。四千’何百トンの船がサンヨンジュウドぐらいにカタブいてさ、山のようなやつがドンドン甲板を打ち越してさ:、船がぎいぎい鳴ると/あまりいい心持ちはしないね」  風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣/つぶてのごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。ミタリが言葉しばし途絶えて、風雨の音のみぞ/すさまじき。 「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな晩は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」  浪子はジヘイにさしし桜の花びらを軽くなでつつ「今朝/爺やが山から折って来ましたの。きれいでしょう。──でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき蓮月の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし/心のままに/とく咲きて、すがすがしくも/散る桜かな』:よく詠んでありますのねエ」 「なに? すがすがしくも散る? 僕──わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。いくさでも早く討ち死にするほうが負けだよ。もう少し強情にさ、しつこくさ、気ながなほうを奨励したいと思うね。それでわが輩──わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん:、しつこしと/人はいえども/八重桜”さかり長きは/うれしかりけり、ハハハハ梨本裸足だろう」 「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」 「ハハハハ、バアやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」  話の途切れ目を”またひとしきり激しくなりまさる風雨の音、波の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶の湯をカウるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器を/ちょっと明かりに透かし見て、今宵は常よりも上らぬ熱を手柄顔に良人に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの桜を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて 「もう一年たちますのねエ、ようくおぼえていますよ、あの時/馬車に乗って出るとみんなの者が送って出てますから/何とか言いたかったのですけど/どうしても口に出ませんの。オホホホ。それから溜池橋を渡ると/もう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て:、それから山王のあの坂を上がるとちょうどサクラのさかりで、馬車の窓からはらはらはらはら”まるで吹雪のように降り込んで来ましてね:、ホホホ、髷に花びらがとまってましたのを、もうおりるというとき、気がついて伯母がとってくれましたっけ」  武男はテーブルに頬杖つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。ハハハハ、あの時/浪さんの澄まし方といったら/ハッハハハ思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」 「でも、ホホホホ──あなたも若殿様できちんと澄ましていらっしたわ。ホホホホ:手が震えて、サカズキがどうしても持てなかったんですもの」 「だいぶおにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ笑みつつ/鉄瓶を持ちて再びいりきつ。「バアやもこんなに気分が清々いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような心持ちがいたしますでございますよ」 「伊香保はうれしかったわ!」 「蕨がりはどうだい、たれかさんのおみ足がだいぶ重かったっけ」 「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。 「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなって、また蕨とりの競争しようじゃないか」 「ホホホ、それまでにはきっとなおりますよ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  明くる日は、昨夜の嵐に引きかえて、不思議なほどの上天気。  帰京は午後と定めて、午前の暖かく/風なき間を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口より/はらはら松の砂山を過ぎ、浜にいでたり。 「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」 「じつにいい天気だ。伊豆が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」  二人はすでに乾ける砂を踏みて、今日の凪を地曳すと立ち騒ぐ漁師、’貝’拾う子らをあとにし、新月型の’浜を次第に人すくなきほうに歩みつ。  浪子はふと思いいでたるように「ねえあなた。あの──千々石さんはどうしてら-っしゃるでしょう?」 「千々石? 実に不埒きわまるやつだ。あれから一度も会わんが。──なぜ聞くのかい?」  浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜/千々石さんの夢を見ましたの」 「千々石の夢?」 「ハア。千々石さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」 「ハハハハ、キダクサンだねエ、どんな話をしていたのかい」 「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。──おチズさんが、あのかたと山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々石さんがウチに出入りするようなことはありますまいね」 「そんな事はない、ないはずだ。おっかさんも千々石の事じゃ怒っていなさるからね」  浪子は思わず吐息をつきつ。 「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらっしゃいましょうねエ」  武男はハタと胸を衝きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を替えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌の次第に悪しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ:、さまざまの壁訴訟の果ては昂じて里の悪くチとなり、いささかなだめんとすれば/妻をかばいて親に抗する戯け者と罵らるることも、すでに一再に止まらざりけるなり。 「ハハハハ、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、ライハルはどうか暇を都合して、おっかさんと三人/吉野の花見にでも行くさ──:やあもうここまで来てしまった。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」  二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。 「不動まで行きましょう、ね──イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」 「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」  武男は浪子をたすけ-ひきて、山の根の岩を伝える一条のサイケイを、しばしば立ち止まりては憩いつつ、一丁あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松’五’六本、ひょろひょろと崖より秀でて、斜めに海をのぞけり。  武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが膝を抱きつ。「いい凪だね!」  海は実に凪げるなり。キンゴの空は天心にいたるまで青々と晴れて雲なく、一碧の海はショショ/練れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ襞だにもなし。海も山もハルヒを浴びて悠々として眠れるなり。 「あなた!」 「何?」 「なおりましょうか」 「エ?」 「わたくしの病気」 「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」  浪子は良人の肩に倚りつ、「でもひょっとしたら/なおらずにしまいは-せんかと、そうときどき思いますの。母もこの病気で亡くなりましたし──」 「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。大丈夫なおる。なおると医者もいうじゃあないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらアおっかさんはその病気で──か知らんが、浪さんはまだハタチにもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ/うちの親類の大河原、ね、あれは右の肺がなくなって、医者が匙をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりあきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」  武男は浪子のユンデをとりて、わが唇に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環/燦然として-かがやけり。  二人は暫し/もくして語らず。江の島のほうよりいで来たりし白帆一つ、うなづらをすべり行く。  浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、──:あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」 「本当? うれしい! ねエ、二人で!──でもおっかあさまがいらっしゃるし、お努めがあるし、そう思っておいでなすっても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ──:わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」  武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪をかいなで:「ああ/もうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなって、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」  浪子は良人の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたって、病気したって、死んだって、未来の未来の先までわたしはあなたの妻ですわ!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々石の唇に上りし微笑は、とかんと欲して解き得ざりし難問の/忽然としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の凱歌なりき。にくしと思う川島片岡両家の関鍵は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特に/われ千々石安彦のために復讐の機会を-あたうるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く’家にあらず:、姑息の間にケイケイ一片の言葉を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに/なんの子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし/生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々石は実にかく思いて、いささか不快の眉を-ひらけるなり。  叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに-いかりしほど、叔母はわれに-いからざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ──千々石の/年’よりも世故に長けたる頭に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた親戚’知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細くおぼゆる叔母が、若夫婦にあきたらで/味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだイッペイを進めずして/その作戦計画の必ず成功すべきを測りしなり。  胸中すでにセイチクある千々石は、さらに山木を語らいて、時々川島ケに行きては、その模様を探らせ、かつは自己──千々石はいたく悔悛覚悟せる由をほのめかしつ。浪子の病すでにふた月に及びて/はかばかしくちせず、叔母の機嫌のいよいよ悪しきを聞きし四月の末:、武男はあらず、執事のタザキもカヨウを帯びて旅行せし隙をうかがい、一夜/千々石は不意に絶えて久しき川島ケの門を-いりぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く-ふかく沈吟せるところに行きあわせつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「いや、一向ハカがいきませんじゃ。かねは使う、ふた月もミツキも経ったて-ようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。──こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあのとおり子供──」 「そこでございますて、伯母さん、実にわたくしもこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、──:御恩になった叔父さんや叔母さんに対しても、また武男くんに対しても、このまま黙って見ていられないのです。ジツにいわば川島ケの一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで──:いや、叔母さん、この肺病というヤツばかりは恐ろしいもんですね、叔母さんもいくらもご存じでしょう:、サイの病気が夫に伝染して/一家’総ダオれになるはよくある例です、わたくしも武男くんのウエが心配でなりませんて:、叔母さんから少し御注意なさらんと大事になりますよ」 「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい──」  手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、──:ばかが、サイの事ばかい」  千々石はにやりわらいつ。「でも叔母さん、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男くんもいよいよ/こらそうあるべきじゃありませんか」 「それじゃてて、サイが病気すっから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」  千々石は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男くんもいい細君ができて、叔母さんもやっと御安心なさると、すぐこんな事になって──:しかし川島ケの存亡は実に今ですね──:ところでお浪さんの里からは何か挨拶がありましたでしょうな」 「挨拶、ふん、挨拶、あの横柄なカカが、ふん/ちっとばかい土産を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の内から二’三度、きは来たがの──」  千々石は再び大息しつ。「こんな時にゃ/里からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母さん」 「そうとも」 「それはいいですが、心配なのは武男くんの健康です。もしもの’事があったらそれこそ川島ケは破滅です、──:そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母さんがカキをお結いなさるわけにも行きませんし──」 「そうじゃ」 「でも、このままになすっちゃ川島ケの大事になりますし」 「そうとも」 「子供の言うようにするばかりが親の努めじゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」 「そうじゃ」 「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」 「おおそうじゃ」 「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底──」 「いや、そこじゃ」  膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母の様子を見るより、千々石は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその注ぎ込みし薬の/見る見る回るを認めしのみならず、叔母のシンデンもとすでにイチ種子の落ちたるありて、いまだトコウの顧慮におおわれいるも:、そのドを破りて芽ぐみ/長じ花さき実るにいたるは/ただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざ-るべきを悟りしなりき。  そのシンシツにおいて悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでも憎めるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを捨てて姑に調和せんとするをば、さすがに母も知り:、あまつさえそのある点において趣味をわれとおなじゅうせるを感じて、口にしかれど心には/わが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしと/ひそかに思えることもありき。さりながら浪子がほとんど-ひと月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、目先に喀血の恐ろしきを見るに及び:、なおその病いの少なからぬ費用をかけ/時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか/嫌厭と名づけんか/自ら分つあたわざる/ある一念のシンテイに生えいでたるを覚えつ。彼を思い-いで、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中にウンジョウするに従って、武男が母は上うちおおいたる顧慮のイッカイイッカイ’融け去りて/かの一念の驚くべき勢いもて日々’長じ来たるを覚えしなり。  千々石はブンミョウに叔母が心の経路をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなくビウ軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その萌芽をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島ケに往来することの/おぼろにほかに漏れしころは、千々石はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ:、かの山木に向かい/近きに起こるべき活劇の前触れをなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  五月初め、武男はその乗り組める船の”まさにクレより佐世保におもむき、それより函館付近に-おこなわるべき連合艦隊の演習に列せんため/引き返してホッコウするはずなれば:、かれこれ四五十日がほどは/帰省の折りを得ざるべく、しばしのイトマかたがた、あるよ帰京して母の機嫌を伺いたり。  近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、今宵は珍しくニコニコ顔を見せて、風呂を焚かせ、武男が好物の薩摩ジルなど自ら手をおろさぬばかり/肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、様子のいつになくあらたまれるを不思議──とは思いしが、幾つになっても可愛がられてうれしからぬ子はなきに:、父に別れてより-ひとしおハハなつかしき武男、母の機嫌のなおれるに心うれしく、快く夜食の箸をとりしあとは、湯にいりてはらはら降り出せし雨の音を聞きつつ:、この上の欲には浪子が早く全快して/ここにわが帰りを待っているようにならばなど/今日’立ち寄りてこし’逗子の様子思い浮かべながら:、陶然とよき心地になりて/浴を-いで、女が羽織る普段着を無造作に引きかけて、葉巻握りしメテの甲に額をこすりながら、母が八畳の居間にいりきたりぬ。  小間使いに肩ひねらして、羅宇の長き煙管にて”国分をくゆらしいたる母は目をあげ:「おお早’上がって来たな。ホホホホホ、おとっさまがちょうどそうじゃったが──:そ、その座ぶとんにすわっがいい。──松、お前はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って茶棚よりカシバチを取りいでつ。 「まるでお客様ですな」  武男は葉巻をひと吸い吸いて/碧きケブリを吹きつつ、うちほほえむ。 「タケどん、よう帰ったもった。──実はその、ちっと相談もあるし、ゼッヒ帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子──寄って来つろの?」  逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたる嘘も言いかねて、 「はあ、ちょっと寄って来ました。──だいぶ血色も直りかけたようです。おっかさんに済まないって、ひどく心配していましたっけ」 「そうかい」  母はしげしげ武男の顔をみつめつ。  おりから小間使いの茶道具を持てこしを母は引き取り、 「松、お前はあっちいっていなさい。そ、その襖をちゃんとしめて──」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  手ずから’茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら煙管をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。 「なあタケどん、わたしももうだいぶ弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。昨日お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。としが寄ると何かと心細うなって-こまいますよ──:タケどん、お前/からだを大事にしての、病気をせんごとしてくれんとないませんぞ」  葉巻の灰をほとほと火鉢のフチにはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれど/さすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ:「私は-しじゅう外にいますし、何もかもおっかさんが総理大臣ですからな──浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなっておっかさんのお肩を休めたいってそういつも言ってます」 「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」 「でも、だいぶいいほうになりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」 「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、タケどん──:お医者の話じゃったが、浪どんのカサマも、やっぱい肺病で亡くなってじゃないかの?」 「はあ、そんなことをいってましたがね、しかし──」 「この病気は親から子に伝わってじゃないかい?」 「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く風邪から引き起こしたんですからね。なあに、おっかさん/用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな丈夫な方ですし、浪の妹──ハア/あのお駒さんです──あれも肺のハの字もないくらいです。人間は医者のいうほど弱いものじゃありません、ハハハハハ」 「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと煙管をはたきながら 「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもんでな、タケどん。お前も知っとるはずじゃが、あの知事の東郷、な、お前がよくけんかをしたあの子のカサマな、どうかい、あの人が肺病で死んでの、一昨年の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい:、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子さん──どこかの技師をしとったそうじゃがの──もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなった、な。みいなカサマのがうつったのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、タケどん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすればオオゴトじゃと思うっがの」  母は煙管をさしおきて、少し膝をすすめ、もくして聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ 「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ居い申したが──」  少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、 「浪じゃがの──」 「ハア?」  武男は顔をあげたり。 「浪を──引き取ってもろちゃどうじゃろの?」 「引き取る? どう引き取るのですか」  母は武男の顔より目をはなさず、「里によ」 「里に? 里で養生さすのですか」 「養生もしようがの、とにかく引き取って──」 「養生には逗子がいいですよ。里では子供もいますし、里で養生さすくらいなら-ここのほうがよっぽどましですからね」  冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震いごえに「タケどん、お前’酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはナ、浪を──里に戻すのじゃ」 「戻す? ‥‥戻す? ──離縁ですな!」 「こーれ、声が-たかかじゃなっか、タケどん。」うちふるう武男をじっと見て 「ジエン、そうじゃ、まあジエンよ」 「離縁! 離縁!──なぜですか」 「なぜ? さっきからいうとおり、病気が病気じゃからの」 「肺病だから‥‥離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」 「そうよ、かあいそうじゃがの──」 「離縁嫁」  武男の手よりすべり落ちたる葉巻は/火鉢に落ちておびただしくうち煙りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母はしきりにケブる葉巻を灰にほうむりつつ、少し乗り出して 「なあ、タケどん、あんまいふいじゃからお前もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで幾晩も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。  そらあもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、お前も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで/ジエンのしもすじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気──」 「病気はいいほうに向いてるです。」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。 「まあわたしの言うことを聞きなさい。──それはいまの所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはヨウクお医者から聞いたが、この病気ばかいは一時よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ:、肺結核でようなった人はまあ一人もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が-いま死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなっは請け合いじゃ。そのうちにはきっとお前に伝染すっなこら請け合いじゃ、なあタケどん。お前にうつる、子供がでくる、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人のお前も、の、大事な跡取りの子供も、肺病持ちなって、死んでしもうて見なさい、川島ケはつぶれじゃなっかい。ええかい、お前がおとっさまの丹精で、せっかくこれまでになって、天子様からお直々に取り立ててくださったこの川島ケも/お前のダイでつぶれっしまいますぞ。──そいは、も、浪もかあいそう、お前もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない:、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて/主人のお前にゃ代えられン、川島ケにも代えられン。ようく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」  黙念と聞きいる武男が心には、今日見舞いこし病妻の顔ありありと-うかみつ。 「おっかさん、私はそんな事はできないです」 「なっぜ?」母はやや声高になりぬ。 「おっかさん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」 「そいは死ぬかもしれン、じゃが、タケどん、わたしはお前の命が惜しい、川島ケが惜しいのじゃ!」 「おっかさん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心を汲んでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかしおっかさんを大事にして、私にもよくしてくれる:、実に罪も何もないあれを病気したからって離別するなんぞ、どうしても私はできないです。肺病だって治らん事はありますまい、現に治りかけとるです。もしまた治らずに、どうしても死ぬなら、おっかさん、どうか私のサイで死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは-おっかさんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあっても私はできないです!」 「へへへへ、武男、お前は浪の事ばっかいいうがの、自分は死んでもかまわんか、川島ケはつぶしてもええかい?」 「おっかさんはわたしのからだばっかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたってどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決してイエのためにいい事はありません。決して川島ケの名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」  難関あるべしとは期しながら/思いしよりも激しき抵抗に出会いし母は、例の癇癖のむらむらと胸先にこみあげて、ヒタイのあたりスジだち、こめかみ動き、煙管持つ’手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに笑みを装いつ。 「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。お前はまだトシが-わかかで、世の中を知んなさらんがの、よくいうわ、それ、ショウの虫を殺しても大の虫はたすけろじゃ。なあ。浪はショウの虫、お前──川島ケは大の虫じゃ、の。それは向こうも気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなっか。何と思われたて、川島ケが断絶するよかまだええじゃなっか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんなことは世間に幾らもあります。家風に合わんとジエンする、子供がなかとジエンする、悪い病気があっとジエンする。これが世間の法、なあタケどん。なんの不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。一体こんな病気のしたときゃの、嫁の里から引き取ってええはずじゃ。向こうからいわんからこっちで言い出すが、なんのわるか事/恥ずかしか事があっもんか」 「おっかさんは世間/世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は打ちこわしていい、打ちこわさなけりゃならんです。おっかさんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の家だってせっかく嫁にやった者が病気になったからって戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の里から肺病は剣呑だからって浪を取り戻したら、おっかさん/いい心持ちがしますか。同じ事です」 「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなっか」 「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血がとまって少しいいほうに向いたかという時じゃありませんか:、今そんな事をするのは実に血をハかすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だってそんな事はできんです、おっかさんはわたしに浪を殺せ‥‥とおっしゃるのですか」  武男は思わず/熱き涙をはらはらと畳に落としつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母は-つと立ち上がって、仏壇より一つの位牌を取りおろし、座に帰って、武男の目先に押しすえつ。 「武男、お前はナ、女親じゃからってわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前でま一度言って見なさい、さ言って見なさい。ご先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、ま一度言って見なさい、不孝者めが!」  きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢のフチ打ちたたきぬ。  さすがに武男も少し気色ばみて「なぜ不孝です?」 「なぜ? なぜもあっもんか。サイの肩ばっかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなっか。親が育てたからだを粗末にして、ご先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなっか。不孝者、武男、お前は不孝者、ダイ不孝者じゃと」 「しかし人情──」 「まだ義理人情をいうっか。お前は親よかサイが大事なっか。たわけめが。何いうと、サイ、サイ、サイばかいいう、親をどうすっか。何をしても浪ばっかいいう。不孝者めが。勘当すっど」  武男は唇をかみて熱涙を絞りつつ「おっかさん、それはあんまりです」 「何があんまいだ」 「私は決してそんな粗末な心は決して持っちゃいないです。おっかさんにその心が届きませんか」 「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪をジエンせンッか」 「しかしそれは」 「しかしもねもんじゃ。さ、武男、サイが大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が──? ──エエばかめ」 「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の羅宇はぽっきと折れ、雁首はクウを飛んではたと襖を破りぬ。途端に「ハッ」と襖のあなたに固唾をのむ人の気はいせしが、やがて震いごえに「御免──遊ばせ」 「だれ? ──なんじゃ?」 「あの! 電報が‥‥」  襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが女主人のイチゲイに会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりのあいだ──ながら、この瞬間に二人があいだのネツやや下りて、しばらくは親子ともに黙念と相対しつ。雨はまた/ひとしきり’滝のように降り注ぐ。  ハハはようやく’口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。 「なあ、タケどん。わたしがこういうも、何もお前のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたった一人のお前じゃ。お前に出世をさせて、丈夫な孫-でえて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」  黙念と考え入りし武男はわずかに頭を-あげつ。 「おっかさん、とにかく私も。」電報を示しつつ「この通り出発が急になって、明日はおそくも帰艦せにゃならんです。ひと月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私が帰ってくるまでは、待っていてください」 ◇。◇。◇。◇。◇。  あくる日’武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医をおとないて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子におりつ。  汽車を下りれば、日’落ちて五日の月/薄紫の空にかかりぬ。ノカワの橋を渡りて、一路の砂はほのぐらき松の林に-いりつ。林をうがちて、ハネツルベの黒く夕空にそびゆるを望めるとき、思いがけなき爪音’聞こゆ。「ああ琴をひいている‥‥。」と思えば心の臓をむしらるるココチして、武男は暫し門外にナンダをぬぐいぬ。今日は常よりもココロよかりしとて、浪子は良人を待ちがてに/絶えて久しき琴’取り出でて奏でしなりき。  顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちていし晩餐の机に、浪子は良人と向かいしが、二人ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑みに紛らして、手ずから良人のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて 「あなた、もういらっしゃるの?」 「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなっていなさい」  互いにしっかと手を握りつ。玄関に-いづれば、姥のいくは靴を直し、しもべの茂平はステーションまで送るとて手鞄をユンデに、月はあれど/提灯ともして待ちたり。 「それじゃバアや、奥様を頼んだぞ。──浪さん、行って来るよ」 「早く帰ってちょうだいな」  うなずきて、武男は-しもべが照らせる提灯の光を踏みつつ/門を出でて十スウホ:、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ:「あなた、早く帰ってちょうだいな」 「すぐ帰って来る。──浪さん、夜気にうたれるといかん、早くはいんなさい!」  されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の朦朧として見えたりしが、やがて道はめぐりて/その姿も見えずなりぬ。ただ-みたび 「早く帰ってちょうだいな」  という声のあとをしとうてむせび来るのみ。顧みれば片割月の影/冷ややかに松にかかれり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お帰り」の前触れ勇ましく、先刻’玄関先にニニンビキをおりし山木は、早’湯にいりて、早咲きの花菖蒲の活けられしトコを後ろに:、ふうわりとした座ぶとんにあぐらをかきて、さあこれからがようようこっちのからだになりしという風情。欲には酌にんが-ちとブ意気とオモイガオに、しかし愉快らしく、サイの-お隅の顔じろりと見て、まず3’4杯カタブくるところに、女が持てこし新聞の号外ランプの光にてらし見つ。 「うう/朝鮮か‥‥東学党ますます猖獗‥‥なにシンコクが出兵したと‥‥。さあだいぶおもしろくなって来たぞ。これでこっちも出兵する──-いくさになる──さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、お前も一つ飲め」 「あんた、ほんまに-いくさになりますやろか」 「なるとも。愉快、愉快、実に愉快。──愉快といや、なあお隅、今日ちょっと千々石に会ったがの、例の一条もダイブ-ハカが行きそうだて」 「まあ、そうかいな。若旦那が納得しやはったのかいな」 「なあに、武男さんはまだ帰って来ないから、相談も納得もありゃしないが、お浪さんがまた血を喀いたんだ。ところで御隠居ももうだめだ、武男が帰らんうちに断行するといっているそうだ。もう一度’千々石につっついてもらえば、大丈夫できる。武男さんが帰りゃなかなか断行もむずかしいからね、そこで帰らんうちにすっかりカタをつけてしまおうと御隠居も思っとるのだて。もうそうなりゃあこっちのものだ。──さ、御台所、お酌だ」 「お浪はんもかあいそうやな」 「お前もよっぽど変ちきな女だ。お豊がかあいそうだからお浪さんを-ひいてもらおうというかと思えば、もうできそうになるとコンダアお浪さんがかあいそう! そんなばかな事はヨシとして、今度はお豊を後釜に据えるフンベツが肝心だ」 「でもあんた、留守にお浪はんを離縁して、武男はん──若旦那が承知しなはろまいがな、なああんた──」 「さあ、武男さんが帰ったら怒るだろうが、離縁してしまって置けば、帰って来てどう怒ってもしようがない。それに武男さんは親思いだから、御隠居が泣いて見せなさりア、まあ泣き寝入りだな。そっちはそれでよいとして、さて肝心要のお豊’姫の一条だが、とにかく武男さんの火の手が少ししずまってから、食糧つきの行儀見習いとでもいう押し出しで、無理に押しかけるだな。なあに、むずかしいようでもやすいものさ。御隠居の機嫌さえとりアできるこった。お豊がいよいよ川島男爵夫人になりア、あれは恋がかなうというものだし、おれはさしより舅役で、武男さんはあんな坊ちゃんだから、川島ケの財産はまずおれが扱って-やらなけりゃならん。すこぶる妙──いや妙な役を受け持って、迷惑じゃが、それはまあ仕方がないとして、さてお豊だがな」 「あんた、もうオマンマになはれな」 「まあいいさ。取るとやるの前祝いだ。──ところでお豊だがの、お前もっと躾をせんと困るぜ。あのとおり毎日’駄々をこねてばかりいちゃ、アッチ行ってからが実際思われるぞ。観音様が姑だって、ああじゃ愛想をつかすぜ」 「それじゃてて、あんた、躾はわたしばかいじゃでけまへんがな。いつでもあんたは──」 「おっとその言い訳が拙者大きらいでござるて。ハハハハハハ。論より証拠、おれが躾をして見せる。さ、お豊をここに呼びなさい」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お嬢様、お奥でちょいといらっしゃいましって」  と小間使いの竹が襖を明けて呼ぶ声に、今しも夕ゲショウを終えてまだ鏡の前を立ち去り兼ねしお豊は、悠々とふりかえり 「あいよ。いま行くよ。──ねエ竹や、ここんとこが」  と鬢をかいなでつつ「ちっとそそけちゃいないこと?」 「いいえ、ちっともそそけてはいませんよ。オホホホホ。お造りがよくできましたこと! ホホホホッ。ほれぼれいたしますよ」 「いやだよ、お世辞なんぞいってさ。」言いながらまた鏡をのぞいてにこりと笑う。  竹は口打ち覆いし袂をとりて、固唾を飲みつつ、 「お嬢様、お待ち兼ねでございますよ」 「いいよ、いま行くよ」  ようやく思い切りしテイにて/鏡の前を離れつつ、チョコチョコバシりに幾間か通りて、父の居間に-いり行きたり。 「おお、おトヨか。待っていた。ここへ来な来な。さ/おっかさんに代わって酌でもしなさい。おっと乱暴な銚子の置き方をするぜ。茶の湯生け花のけいこまでした令嬢にゃ似合わんぞ。そうだそうだ/そう山形に置くものだ」  はや/陶然と色づきし山木は、サイのとむるをさらに幾杯か重ねつつ「なあお隅、お豊がこうお造りした所は随分別嬪だな。色は白し──成りは-よし。うちじゃそうもないが、外に出りゃちょいとお世辞もよし。惜しい事には-おっかさんに似て少し反っ歯だが──」 「あんた!」 「目じりをもう三ぶ上げると女っぷりが上がるがな──」 「あんた!」 「こら、お豊何をふくれるのだ? ふくれると娘っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。お前がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯つげつげ」  なみなみと注がせし猪口を一息にあおりつつ、 「なあお豊、今もおっかさんと話したことだが、お前も知っとるが、武男さんの事だがの──」  むなしき槽櫪の間にふて寝したる/馬の春草の香しきを聞けるごとく、お豊はふっと頭をもたげて両耳を引っ立てつ。 「お前が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも祟られて──」 「あんた!」お隅夫人は-みたび眉をひそめつ。 「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが塩梅が悪い、というんで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判は-せん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちのカタがついたら、そろそろ後釜の売りつけ──いやここだて、おれもおっかさんもお前をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ──というわけにも行くまいから、まあお前を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、アシコに入りこますのだ。──御隠居に頼んで、な/いいかい、ここだて──」  一息つきて、山木はサイと娘の顔をかれよりこれと見やりつ。 「ここだて、な/お豊。少し早いようだが──いって聞かして置く事があるがの。お前も知っとるとおり、あの武男さんのおっかさん──御隠居は、評判の癇癪持ちの、わがままものの、頑固の──おっと/お前がおっかさんをアッコウしちゃすまんがの──:とにかくここにすわっておいでのこのおっかさんのように──やさしくない人だて。しかし鬼でもない、蛇でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼の嫁でもヘビの女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。──と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな年寄りでも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、お前がいよいよ先方へ、まあ小間使いケン/細君候補生として入り込むときになると、第一今のようになまけていちゃならん:、朝も早く起きて──年寄りは目が早くさめるものじゃ──:ほかの事はどうでもいいとして、御隠居の用をよく-たすのだ。いいかい。第二には-だ、今のようになんといえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると向こうで折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三には-だ、──これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだって、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、ナイナイはどうでもいいが、表向きの所をよく注意しなけりゃいけんぜ。姑御にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの悪くチもつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもんで、わが子のサイだから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際/あまりいいと姑のほうではおもしろく思わぬ。まあ一種の嫉妬──わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑のほうが疎略になる──と、まあ姑のほうでは思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての──おっと、そう角が生えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじゃぞ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この子はホンにわたしの嫁だ、倅のサイじゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。姑嫁のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、お前は御隠居の嫁だ、とそう思っていなけりゃならん。なあに/御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首っ玉にかじりついて、ぶら下がってあるいても構わんさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかしお前も恋しい武男さんの奥方になろうというんじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。明日といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」  言葉のうちに、襖ひらきて、小間使いの竹「ご返事がいるそうでございます」  とイップウの女筆の手紙を差し-いだしぬ。  封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙をサイと娘の目さきにひけらかしつつ 「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島ケより手紙して/山木を招けるスジツゼン、逗子に療養せる浪子はまた喀血して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分’事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。あいだ両三日を置きて、門をいづること稀なる川島未亡人の膨大なる体は、飯田町なる加藤家の門を-いりたり。  離婚問題の親子の間に争われつる-かの夜、武男がジショクの思うにまして激し-かりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰りくるまでは黙止すべき約をば為しつれど:、よしそれまで待てばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬショウゲの出で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがに-かのコトジチもあり/この顧慮もまたなきにあらずして:、その心はありながら、いまだときどき来てはあおる千々石を満足さすほどの果断なる処置をば成さざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然として/かつて媒妁をなしし加藤家を-おとないたるなり。  番町と飯田町といわば目と鼻の間に棲みながら、いつなりしか媒妁の礼にこしよりほとんど’顔を見せざりし川島未亡人が/突然’来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ:、ねんごろに客間に請ぜし加藤夫人も/その話の要件を聞くよりハタと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!  いかなる顔のいかなるクチあればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客の様子を打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、ふとき両手を膝の上に組みて、肌たゆまず、目まじろがず、口を漏るる薩弁の淀みも-やらぬは、戯れにあらず、狂気せしにもあらで:、まさしくフンベツの上と思えば、驚きはまた胸を衝く-いかりにかわりつ。あまり勝手な言い分と、罵倒せんずることのすでに喉元までいでけるを、じつの娘とも思う浪子が一生の浮沈のキョウと、わずかに飲み込みて:、まず問い-つ、また説きつ、なだめもし、請いもしつれど、わが事をのみ言い募るセンポウの耳にはすこしも-いらで、かえってそれは-いらぬ繰り言:、こっちの話を浪の里に伝えてもらえば要は済む/というふうの明らかに見ゆれば、話聞く聞く/病める姪の顔、亡きイモト──浪子の実母──の臨終:、浪子が父中将の傷心、など胸のうちに/あらわれ来たり乱れ去りて、情けなく腹立たしき涙のわれ知らず催し来たれる夫人は/キッとカタチをあらため:、当家においてはご両家の結縁のためにこそご加勢’も致しつれ、さる不義非情のご加勢は決してできぬこと、良人に相談するまでもなくその’義は堅くお断わり、ときっぱりとはねつけつ。  忿然として加藤の門をいでたる武男が母は、ソクヤ手紙して山木を招きつ。(篤実なるタザキにてはらち明かずと思えるなり)。おりもおりとて主人の留守に、かつはまどい、かつは怒り、かつは悲しめる加藤子爵夫人と千鶴子と心を3方に砕きつつ、母は-さ言えど/いかにも武男の素意にあるまじと思うより:、その乗艦の所在を糺して至急の報を発せるマに、いらちにいらちし武男が母は早じき談判と心を決して、その使節を命ぜられたる山木の車は/すでに片岡家の門にかかりしなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  山木が車/赤坂氷川町なる片岡中将の門をいれるとき、あたかも英姿’颯爽たるイチ将軍の/栗毛の馬にまたがりつつ-いで来たれるが:、車の駆け込みし音にふと驚きて、馬は竿だちになるを、ばじょうの将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、手綱を絞りて容易に乗り静めつつ、一回’圏をえがきて、カツカツと歩ませ去りぬ。  みごとの武者振りを見送りて、コワヅクろいして/いかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐり慣れたる身の、常にはあるまじく/キモ落つるを覚えつ。昨夜’川島ケに呼ばれて、その使命を託されし時も、頭をかきつるが、いま現にこの場に臨みては/彼は実にダイなりと誇れるキモの-なおショウにして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを憾みしなり。  名刺ひとたび入り、書生ふたたび出でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には清韓の地図’一葉’広げられたるが、まだ清めもやらぬ火皿のマッチシガーのからとともに、セン座の話をほぼ想わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ:、あいついで海内の注意’一に朝鮮問題に集まれる今日このごろは、主人中将も予備にこそおれ/おのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの暇/あるべくも思われず。  山木が椅子に倚りて、ぎょろぎょろあたりをながめおるとき、遠雷の鳴るがごとき足音’次第に近づきて、やがてコヤマのごとき人は/ゆるやかにいりて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて起てる拍子に、わが掛けていし椅子をば後ろざまにどうと蹴倒しつ。「あっ、これは粗相を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかるのち二つ-みつ-よつ/続けざまに主人に向かいて丁重に辞儀をなしぬ。今の粗忽のわびも混じれるなるべし。 「さあ、どうかおかけください。あなたが山木さん──お名は承知しちょったですが」 「ハッ。これは初めまして‥‥手前は山木ヒョウゾウと申す不調法もので(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子は-ききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)‥‥:どうか今後ともごひいきを‥‥」  避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句──:しかるのち中将は言葉をあらためて、山木に来意を問いつ。  山木は口を開かんとしてまず固唾をのみ、固唾をのみてまた固唾をのみ、みたび口を開かんとしてまた固唾をのみぬ。彼はつねに誇るそのリュウカツ自在なる舌の/今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  山木はわずかに口を開き、 「実は今日は川島ケのご名代でまかりいでましたので」  思いがけずといわんがごとく、主人の中将はそのガラに似合わぬ細き目を/山木が-おもてに注ぎつ。 「ハア?」 「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが──まあ私がまかりいでました次第で」 「なるほど」  山木はしきりににじみいづるヒタイの汗’押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたんでございますが、少し都合もございまして──私がまかりいでました次第で」 「なるほど。でご用は?」 「その要と申しますのは、──申し兼ねますが、その/実はアチラの奥様/浪子様──」  主人中将の目はまばたきもせず/しばしあなたの-おもてを打ちまもりぬ。 「ハア?」 「その、若奥様でございますが、どうもかような事はじつもって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあのご病気につきましては、手前ども──:川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快いほうではございますが──:まあおめでとうございますが──」 「なるほど」 「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し分でございますが、実はご病気がらではございますし──:御承知どおり川島のほうでも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男──さんだけでございますんで:、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうもじつもって申しにくい──:いかにも身勝手な話でございますが、ご病気がご病気で、その、万一伝染──まあそんな事もめったにございますまいが──:しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませんので、その、万一武男──川島の主人に異変でもございますと、まあ川島ケも断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが:、何分にもその、じつもってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、ご病気がご病気──」  言いよどみ/言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて/モク念と聞きいたる主人中将は、この時メテをあげ、 「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が剣呑じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」  うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻を/テーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。  山木は踏み込めるぬかるみより/手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。 「さようでございます。じつもって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず──」 「で、武男君はもう帰られたですな?」 「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは本人’承知の上の事でございまして、どうかあしからずその──」 「よろしい」  中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかにエツボにいりて目をあげたる山木は、目を閉じ’口を結びて/さながらネブれるごとき中将の相貌を仰ぎて、さすがに一種の畏れを覚えつ。 「山木さん」  中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。 「ハッ」 「山木さん、あなたは子を持っておいでかな」  その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに頭を下げつつ「ハッ。倅が一人に──娘が一人でございまして、何分お引き立てを──」 「山木さん、子というやつはかわい者じゃ」 「ハッ?」 「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。──お使いご苦労じゃった」  使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒と-わぶ-るにか、五つ六つ-なな八つ/続けざまに小腰を屈めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰りいる書斎の戸をばハタと-さしたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さ/やるせなく思うほど”いよいよ長きヒマタヒの/さすがに暮らせば暮らされて、はやひとつきあまりたちたれば、麦刈り-すみて/山百合’咲くころとなりぬ。すぐる日の喀血に、ひとたびは気落ちしが、幸いにして医者の言えるがごとく/そのあとに-いちじるしき衰弱もなく、先日函館よりの良人の手紙にも帰りの-ちかかるべきを知らせ来つれば:、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし/浪子は薬用に運動に/細かに医者の戒めを守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ。さるにてもこのシゴニチ、東京だよりのはたと絶え、番町の宅よりも、里よりも、飯田町の伯母よりすらも、はがき一枚こぬことの何となく気にかかり:、今しも日長の手すさびに/山百合を-いくとてカヨウを挟みおれる浪子は、水さし持ちていりきたりし姥のいくに 「ねエ、バアや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?」 「さようでございますねエ。おかわりもないんでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。──ほんとにナンてきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに旦那様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」  浪子は手に持ちし山百合の花うちまもりつつ「きれい。でも、山に置いといたほうがいいのね、剪るのはかあいそうだわ!」  二人が問答のウチに、一輛の車は別荘の門に近づきぬ。車は加藤子爵夫人を載せたり。川島未亡人の要求をはねつけしその翌日、子爵夫人は気にかかるままに、要を託して車を片岡家に走らせ、ここに初めて川島ケの使いが早くもジキ談判に来たりて、すでに中将の承諾を得て去りたる由を聞きつ。武男を待つの企ても今はむなしくなりて、かつ驚きかつ嘆きしが、せめては姪の迎え(手放し置きて、それと聞かさば不慮の事の起こりもやせん、とにかく膝下に呼びとって、と中将は慮れるなり)にと、すぐその足にて逗子には来たりしなり。 「まあ。よく‥‥ちょうど今うわさをしてましたの」 「本当によくまあ‥‥いかがでございます、奥様、バアやがことは当たりましてございましょう」 「浪さん、按配はどうです? もうあれから何も変わった事もないのかい?」  と伯母の目はちょっと浪子の-おもてをかすめて、脇へそれぬ。 「ハ、いいほうですの。──それよりも伯母様はどうなすったの。たいへんにお色が悪いわ」 「わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。──時候のせいだろうよ。──武男さんから便りがありましたか、浪さん?」 「一昨日、ね、函館から。もう近々に帰りますって──いいえ、ナンチという事は決まらないのですよ。おミヤがあるなんぞ書いてありましたわ」 「そう? おそい──ねエ──もう──もう何時? 二時だ、ね!」 「伯母さん、何をそんなにそわそわしておいでなさるの? ごゆっくりなさいな。おチズさんは?」 「あ、よろしくって、ね。」言いつついくが持てこし茶を受け取りしまま、飲みもやらずウチアンじつ。 「どうぞごゆるりと遊ばせ。──奥様、ちょいとお肴を見てまいりますから」 「あ、そうしておくれな」  伯母は打ち驚きたるように浪子の顔をちょっと見て、また目をそらしつつ 「およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん──迎えに来たよ」 「エ? 迎え?」 「あ、おとうさまが、病気の事でお医者と少し相談もあるからちょいと来るようにってね、──:番町のほうでも──承知だから」 「相談? なんでしょう」 「──病気のことですよ、それからまた──:お父さんも久しく会わんからってね」 「そうですの?」  浪子は怪訝な顔。幾も不思議に思える様子。 「でも今晩はお泊まり遊ばすんでございましょう?」 「いいえね、あちでも──医者も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね」 「へエー!」  バアは驚きたるなり。浪子も腑に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、姑は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。 「伯母様/何を考え込んでいらっしゃるの? ──:看護婦は行かなくもいいでしょうね、すぐ帰るのでしょうから」  伯母は起ちて浪子の帯を直し襟をそろえつつ「連れておいでなさいね、不自由ですよ」 ◇。◇。◇。◇。◇。  四時ごろには用意成りて、三丁の車/門に待ちぬ。浪子は風通御召の単衣に、御納戸色繻珍の丸帯して、髪は揚巻にクチナシの花一輪、革色の傘’メテにつき、漏れいづる咳をシロアヤのハンカチにおさえながら、 「バアや、ちょっと行って来るよ。あああ、久しぶりに帰るのね。──それから、あの──お単衣ね、もすこしだけども──あ、いいよ、帰ってからにしましょう」  忍びかねてほろほろ落つる涙を伯母は傘に押し隠しつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  運命の穴/黙々として人を待つ。人は知らず識らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくにしたごうて一種冷ややかなる気はいを感ずるは、たれもしかる事なり。  伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京のトに上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど腑に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母が様子の/ただならぬも深く隠せる事のありげに思われて、問わんも汽車の内/人の手前、それもなりがたく:、新橋に着くころはただ/このくらき疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。  皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ/伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎけるとき:、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の一人、ふっとこなたを顧みて/あたかも浪子と目を見合わしつ。千々石! 彼は浪子の頭より爪先までひと目に測りて、殊更に目礼しつつ──笑いぬ。その一瞥、その笑いの怪しく胸に響きて、頭より水そそがれしココチせし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならで/さらに悪寒を覚えしなり。  伯母はもの言わず。浪子も-もくしぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の屋敷に着けば、黄昏ほのかに栗の花の-かを浮かべつ。モンのウチソトには荷車釣り台など見えて、脇玄関にランプの明かりさし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下りれば、玄関には女にランプとらして/片岡子爵夫人たたずみたり。 「おお、これは早く。──御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の-おもてより加藤子爵夫人に走りつ。 「おかあさま、お変わりも‥‥おとうさまは?」 「ハ、書斎に」  おりから「姉さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに”二人のハラカラ走り出で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいていで来たりぬ。 「おおミイちゃん、キイさん。どうだえ? ──ああ駒ちゃん」  道子はすがれる姉の袂を引き動かしつつ:「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも此処にいるのね。お道具もすっかり来てよ」  はっと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、女も、駒子も一斉に浪子の-おもてをうちまもりつ。 「エ?」  おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの/部屋も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしくうちに置きたる我が箪笥/ 長持ち/ 鏡台!  浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。  みな泣きつ。  重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。 「お、おとうさま!」 「おお、浪か。待って──いた。よく、帰ってくれた」  中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかきいだきつ。  半時の後、家の内しんとなりぬ。中将の書斎には、親子ただ二人、再び帰らじと此処をいでし日/別れの戒めを聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の膝にむせび、中将は咳き入る娘のセナをおもむろになでおろしつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「号外! 号外! 朝鮮事件の号外!」と鈴の音の/けたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一丁の車/がらがらと番町なる川島ケの門に-いりたり。武男は今しも帰り来たれるなり。  武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは畢竟センの太刀、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げと嫁が箪笥諸道具一切を片岡家に送り戻し:、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ腫れ物、切ってしまって安心と/この二’三ニチ/近ごろになき好機嫌のそれに引きかえて、若夫婦方なる召使いは/気の毒とも笑止ともいわん方なく:、今にもあれ旦那がお帰りなさらば、いかに孝行のかたとて、なかなかひと通りでは済むまじとはらはら思っていたりし/その武男はいま帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に往き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は横須賀に着きて暇を得るやいな/急ぎ帰り来たれるなり。  いま奥よりいで来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、 「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産なんぞ持っていらっしたよ」 「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまうおっかさんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼婆め」 「あれくらいいやな婆っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩でお芋を掘ってたんだもの。わたしゃもうこんな’家にいるのが、しみじみいやになっちゃった」 「でも旦那様も旦那様じゃないか。ご自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのわ、あんまり七月のお槍(ボンヤリ)じゃないかね」 「だって、そらア/ムリャないわ。遠方にいらっしたんだもの。だれだって、女じゃあるまいし、肝心な息子に相談もしずに、さっさと嫁を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう──奥様は尚おかあいそうだわ。今ごろはどうしていらっしゃるだろうねエ。ああいやだ──ほうら、婆あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせっせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」  奥のヒトマには親子の問答/次第に熱しつ。 「だって、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で──実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさかおっかさんがそんな事を──実にひどい──」 「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなっかい。わたしじゃって何も浪が悪かというじゃなし、お前が-かあいいばっかいで──」 「おっかさんはからだばっかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」 「武男、お前はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび言いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」 「だって、あんまりです、実際あんまりです」 「あんまいじゃって、もうあとのマツイじゃなっか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすっかい。女々しか事をしなはっと、親の恥ばっかいか、お前の男が立つまいが」  黙念と聞く武男は切れよとばかりシタ唇をかみつ。たちまちボツネンと立ち上がって、病妻にもたらし帰りしカコイ林檎の籠をみじんに踏み砕き、 「おっかさん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすった。もうお目にかかりません」 ◇。◇。◇。◇。◇。  武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。  カンザンの風雲はいよいよ急に、シチゲツの中旬/廟堂の議はいよいよシンコクと開戦に一決して、同月十八日には樺山中将/新たに海軍軍令部長に補せられ:、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべきメイを-こうむりつ。捨てばちの身は砲丸の-まとにもなれよと、武男はまっしぐらに船とともに西に向かいぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、屋敷ジュウの日あたりよく静かなるあたりをえらびて:、ことに浪子のために八畳ヒトマ/六畳フタマ/四畳一間の離れを建て、逗子より姥の幾を呼び寄せて、浪子とともにここに棲ましつ。九月にはいよいよメイありて現役に復し、一夕/夫人繁子を書斎に呼びて懇々’浪子の事を託したるのち:、同十三日ダイトウに扈従して広島大本営におもむき、翌月さらに大山大将’山路中将と前後してリョウトウに向かいぬ。  われらが次を逐うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かのショウコンも、この怨恨も、しばし征清戦争の大渦に巻き込まれつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三部】 【ゲ編】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  明治二十七年/九月十六日/午後五時、わが連合艦隊は戦闘準備を整えて大同コウコウを発し、西北に向かいて進みぬ。あたかも運送船を-ごして/オウリョッコウコウ付近に見えしという敵の艦隊を尋ねいだして、雌雄を一戦に決せんとするなり。  吉野を旗艦として、高千穂、浪速、秋津洲の第一遊撃隊、先鋒として前にあり。松島を旗艦として千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑の本隊これに-つぎ、砲艦赤城及びイクサ見物と称する軍令部長を載せし西京丸/またその後ろにしたがいつ。十二隻の艨艟/一縦列をなして、午後五時大同コウコウを離れ、伸びつ縮みつ/竜のごとく黄海のウシオを巻いて進みぬ。やがて日は海にいりて、陰暦八月十七日の月/東にさし上り、船は金波銀波をさざめかして月色のうちをはしる。  旗艦松島のガンルームにては、晩餐とく-すみて、副直’その他/要務を帯びたるは久しき前にいで去りたれど、なおゴロクニンの残れるありて、談まさに興に-いれるなるべし。舷窓をば明かりを漏らさじと閉ざしたれば、温気’うちにこもりて、さらぬだに血気ざかりの顔はいよいよ紅に照れり。テーブルの上にはカヒワン四つ五つ、菓子ざらはおおむねたいらげられて、ただカステーラの一片が/いづれの少将軍に屠られんかとキョウキョウとして心細げに横たわるのみ。 「陸軍はもうヘイジョウを陥したかもしれないね」と短小精悍とも-いいつべき一少尉は/頬杖つきたるまま一座を見回したり。「しかるにこっちはどうだ。じつに不公平もまたはなはだしというべしじゃないか」  でっぷりと肥えしショウシュケイは一隅より莞爾と笑いぬ。「どうせ幕が-あくとすぐ済んでしまう芝居じゃないか。幕間の長いのもまた一興だよ」 「なんて悠長な事を言うから困るよ。ペイヤン相手のメクラオニゴも/もうわが輩はあきあきだ。今度もかけちがいましてお目にかからんけりゃ、わが輩は、だ、長駆’渤海湾に乗り込んで、タークの砲台に砲丸の一つもお見舞いもうさんと、堪忍袋がたまらん」 「それこそ袋のなかにハイるも同然、帰路を絶たれたらどうです?」真面目に横槍を-いるるは候補生のナニガシなり。 「何、帰路を絶つ? 望む所だ。しかし悲しいかな君のペイヤンはそれほど敏捷にあらずだ。あえてけちをつけるわけじゃないが、今度も見参は-ちとおぼつかないね。支那じんの気の長いには実に閉口する」  おりから靴音の近づきて、たけ高き一少尉’入り口に立ちたり。  短小少尉はふり仰ぎ「おお航海士、どうだい、なんにも見えんか」 「月ばかりだ。点検が済んだら、すべからく寝て鋭気を養うべしだ。」言いつつ菓子ざらに残れるカステーラの一片をホオばり「むむ、少し‥‥甲板に出ておると‥‥腹が減るには驚く。──ボーイ、菓子を持って来い」 「君も随分食うね」と赤きシャツを着たる一少尉は微笑みつ。 「借問す/君はどうだ。菓子を食って老人組を罵倒するは、けだしわが輩/ガンルームの英雄の特権じゃないか。──どうだい、諸君、兵はみんな明日を待ちわびて、目がさえて困るといってるぞ。これで失敗があったら-じつに兵’の罪にあらず、──マルマルの罪だ」 「わが輩は勇気については毫も疑わん。望む所は沈勇、沈勇だ。無鉄砲は困る」というはこの仲間にての年長なるメート(甲板士官)。 「無鉄砲といえば、○番分隊士は実に驚くよ」と他のイチニンはことばをさしはさみぬ。「勉励も非常だが、第一/いかに軍人はイノチを惜しまんからって、命の安売りはここですと看板もかけ兼ねん勢いはあまりだと思うね」 「ああ、川島か、いつだったか、そうそう、威海衛砲撃の時だってあんな剣呑な事をやったよ。川島を司令長官にしたら、それこそ三番じゃないが、艦隊を渤海湾に連れ込んで、タークどころじゃない、ペイホーをさかのぼってリーのおやじを生けどるなんぞ言い出すかもしれん」 「それに、様子が以前とはすっかり違ったね。非常に怒るよ。いつだったか僕がバロネス川島(川島男爵夫人)の事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳を頂戴する所さ。僕は鎮遠の三十サンチより実際○番分隊士のイッケンをおそるるね。ハハハハ何か子細があると思うが、ガリバルジー君、君は川島と親しくするから恐らく秘密を知っとるだろうね」  と航海士はガリバルジーといわれし赤シャツ少尉の顔を見たり。  おりからボーイのうずたかく盛れる菓子ざら持ち来たりて、ガンルームの話は暫しヨウザンとなりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜十時’点検終わり、差し当たる職務なきは臥し、他はそれぞれ方面の務めに就き、高声’明かりを禁じたれば、ジョウ甲板もゲカンパンもジャクとして/さながら人なきようになりぬ。舵手に令する航海長の声のほかには、ただ煙突のケブリのふつふつとして白く月にみなぎり、スクルーの波をかき、大いなる心臓のうつがごとく/オヤみなき機関の響きの艦内に満てるのみ。  月影’白き前艦橋に、二個のジンエイあり。その一は艦橋の左ハシに凝立して動かず。一は靴音静かに、墨より黒き影をひきつつ、五歩にして止まり、ジュッポにして返る。  こは川島武男なり。この船の○番分隊士として、当直の航海長とともに、フクチョクの4時間を艦橋に立てるなり。  彼は-いま艦橋の右ハシに達して、双眼鏡をあげつ、艦のシホウを望みしが、見る所なきもののごとく、メテをおろして、ユンデに欄干を握りて立ちぬ。前部砲台のほうより士官二人、小声にあい語りつつ艦橋の下を過ぎしが、また蔭の暗きに消えぬ。甲板の上/ジャクとして、風冷ややかに、月はいよいよ冴えつ。艦首にうごめく番兵の影を見越して、海を望めば、ただ左舷に淡き島山と、見えみ見えずみ/月光のうちを行くセンカン秋津洲をのみ隅にして、イッ艦のほか/月に白める黄海の水あるのみ。またひとしきりケムリに和して勢いよく立ち上る火花の行くえを見送れば、タイショウの上高く/星を散らせる秋の夜の空は湛えて、月に淡き銀河一道、微茫として白く海より海に流れ入る。 ◇。◇。◇。◇。◇。  月は-みたびかわりぬ。武男が席を蹴って母に辞したりしより、月は-みたび移りぬ。  このミツキの間に、彼がシンセイはいかに多様のキョウガイを経きたりしぞ。カンザンの風雲に胸をおどらし、佐世保の湾頭には「今度このせつクニのため、遠く離れて出でて行く」のリカにハラワタを断ち、宣戦の大詔に腕を取り縛り、威海衛の砲撃に初めて火の洗礼を授けられ:、心をおどろかし目を驚かすべき事は/続々起こり来たりて、ほとんど彼をして-かんがうるの暇なからしめたり。多謝す、これがために武男はその心を飲み尽くさんとする-あるものをば思わずして、わずかに吾を持したるなりき。この国家の大事に際しては、渺たる滄海のイチゾク、吾’川島武男が一身の死活浮沈、なんぞ問うに足らんや。彼は-かく自ら叱し、かの痛をおおうてこの職分の道に従い、絶望の勇をあげて征戦の事に従えるなり。死を彼はシンに塵よりも軽く思えり。  されど事もなき艦橋の上の夜、カンカイの夏暑くして/ハンモックの夢’結びがたき夜は、ともすれば痛恨ウシオのごとくみなぎり来たりて、マスラオの胸’裂けんとせしこと幾たびぞ。時はうつりぬ。今は-かの当時、何を恥じ、何を-いかり、何を悲しみ、何を恨むともわかちがたき感情の、ハラワタに沸りし時は過ぎて、一片の痛恨’深く-こして、人知らずわが心を食らうのみ。母はカののち”ふたたび書を寄せ’物を寄せて/つつがなく帰り来たるの日を待つと言い送りぬ。武男もさすがに老いたる母の膝下’さびしかるべきを思いては、かの時の過言を謝して、その健康を祈る由書き送りぬ。されど解きても融けがたきひと塊りの恨みは深く-ふかくムナゾコに残りて:、彼が夜々ハンモックの上に、北洋艦隊の殲滅と/わが討ち死にの夢に伴なうものは、雪白のショールをまとえる/病めるある人の面影なりき。  消息たえて、月は-みたび移りぬ。彼なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきがごとく、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。  武男は-かく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月/松に掛かりて、朧々としたる逗子の夕べ、われを送りて門に立ちいで、「早く帰ってちょうだい」と呼びし人はいずこぞ。思い入りて眺むれば、白きショールをまとえる姿の、今しも月光のうちより歩みいで来たらん心地すなり。  明日にもあれ、首尾よく敵の艦隊に会して、この身’砲弾の-まとにもならば、すべて世は一場の夢と過ぎなん、と武男は思いぬ。さらにその母を思いぬ。亡き父を思いぬ。幾年前’江田島にありける時を思いぬ。しこうして心は再び病める人の上に返りて ◇。◇。◇。◇。◇。 「川島君」  肩をたたかれて、打ち驚きたる武男は急に月に背きつ。驚かせしは航海長なり。 「じつにいい月じゃないか。いくさに行くとは思われんね」  打ちうなずきて、武男はひそかにナンダをふり落としつつ双眼鏡をあげたり。月’白うして黄海、物のさえぎるなし。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  月落ち、夜は紫に明けて、九月十七日となりぬ。午前六時をすぐるころ、艦隊はすでに海洋島の近くに進みて、まず砲艦赤城を島のタントウ湾に遣わして/敵の有無を探らしめしが、湾内むなしと帰り報じつ。艦隊さらに進航を続けて、大-ショウロク島を斜めに見つつ/大孤山沖にかかりぬ。  午前十一時/武男は要ありて行きしワートルームを出でて”まさにハッチにかからんとする時、上甲板に声ありて、 「見えたッ!」  同時に靴音の-せわしく馳せ違うを聞きつ。心臓の鼓動とともに、ソウテイに踏みかけたる足ははたと止まりぬ。あたかもテイカを通りかかりし一人の水兵も、ふっと立ち止まりて武男と顔見合わしたり。 「川島分隊士、敵艦が見えましたか」 「おう、そうらしい」  言いすてて武男は乱れうつ胸をいたずらにおし静めつつ/足早に甲板に上れば、ジンエイ馳せ違い、ヨビコ鳴り、信号手’は-せわしく信号旗’を引き上げおり:、艦首には水兵多くたたずみ、艦橋の上には司令長官、艦長、副長、参謀、諸士官、いずれも口を結び/目を据えて、はるかに艦外の海を望みおるなり。その視線を趁うて望めば、北の方黄海の水、天と相合うところに当たりて、黒きイト/スジのごとくほのかに立ち上るもの、一、/二、/三、/四、/五、/六、/七、/八、クジョウまた十条。  これまさしく敵の艦隊なり。  艦橋の上に立つイチ将校/袂時計を-いだし見て「一時間半は大丈夫だ。準備ができたら、まず腹でもこしらえて置くですな」  マナカに立ちたる一人はうなずき「お待ち遠様。諸君、しっかり頼みますぞ」と言い終わりて髯をひねりつ。  やがて戦闘旗ゆらゆらとタイショウの頂高く引き揚げられ、スウセイのラッパは、艦橋より艦内くまなく鳴り渡りぬ。配置につかんと、艦内に行きか-う人の影織るがごとく、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者、治療室に入る者、右舷に行き、左舷に行き、艦尾に行き、艦橋に上り:、ジュウオウに動ける局部の作用/たちまち成るを告げて、戦闘の準備は時を移さず整いぬ。あたかも五時に近くして、戦わんとしてまず午餐の令はいでたり。  分隊長を助け、部下の砲員を指揮して/手早く右舷速射砲の装填を終わりたる武男は、ややおくれて、ガンルームにハイれば、同僚ミナすでに集まりて、箸おり皿鳴りぬ。短小少尉は真面目になり、メート(甲板士官)はしきりにヒタイの汗をぬぐいつつうつむきて食らい、年下の候補生はおりおり他の顔をのぞきつつ、劣らじと皿をかえぬ。たちまち箸をからりと投げて立ちたるは赤シャツ少尉なり。 「諸君、敵を前に控えて悠々と昼飯をくう諸君の勇気は──立花宗茂に劣らずというべしだ。お互いにみんなそろって今日の夕飯を食うや否やは疑問だ。諸君、別れに握手でもしようじゃないか」  いうより早く隣席にありし武男が手をば/ムズと握りて二’三度打ちふりぬ。同時に一座は総立ちになりて手を握りつ、握られつ、皿は二個三個/からからとテーブルの下にマロビオチたり。サキョウにあざある一少尉は少軍医の手をとり、 「わが輩が負傷したら、どうかおテヤワらかにやってくれたまえ。その賄賂だよ、これは」  とシゴ度も打ちふりぬ。からからと笑える一座は、またたちまち真面目になりつ。ひとり去り、二人去りて、果ては-むなしきキベイの狼藉たるを-とどむるのみ。  零時二十分、武男は、分隊長のメイを帯び、副艦長に打ち合わすべき事ありて、ゼン艦橋に上れば、わが艦隊はすでに単縦陣を形づくり:、約四千メートルを隔てて第一遊撃隊の四艦はまっ先に進み、本隊の六艦はわが松島を先登としてこれにつづき、赤城西京丸は本隊の左舷に沿うてしたがう。  仰ぎ見るタイショウの上高く/戦闘旗は青空にハたたき、煙突のケブリ真っ黒に巻き上がり、舳先は海をさいて/ハクハ高く両舷にわきぬ。将校あるいは双眼鏡をあげ、あるいは長剣のツカを握りて艦橋の風に向かいつつあり。  はるかにホッポウの海上を望めば、さきに水天のマに一髪の-うかめ-るが如く見えし煙は、イップンイップンに肥え来たりて、敵の艦隊さながら海中よりわきいづるごとく:、ケムリまず見え、ついでハリダイの檣ほの見え、煙突見え、艦タイ見え、檣頭の旗影”また点々として見え来たりぬ。ひときわすぐれて目立ちたる定遠’鎮遠’相並んで中軍を固め、経遠’至遠’広甲’サイエンは左翼、来遠’セイエン超勇’揚威は右翼を固む。西に当たってさらにケブリの見ゆるは、平遠’広丙’鎮東’鎮南/及び六隻の水雷艇なり。  敵は単横陣を張り、我が艦隊は単縦陣をとって、敵のマナカをさして丁字形に進みしが、あたかも敵陣をさる一万メートルの所に至りて、わが先鋒隊はとっさに針路を左に転じて、敵の右翼をさしてまっしぐらに進みつ。先鋒の左に転ずるとともに、わが艦隊は竜の尾をふるうごとく/ゆらゆらと左に動いて、彼我の陣形はテイ字/一変して八字となり:、彼は横に張り、われは斜めにその右翼に向かいて、さながら一大コンパスケイをなし、彼進み、われ進みて、あいサる六千メートルにいたりぬ。この時敵陣のマナカに控えたる定遠’艦首の砲台に白煙むらむらと渦まき起こり、三十サンチの両弾丸/空中に鳴りをうって/わが先鋒隊の左舷の海に落ちたり。黄海の水/驚いて逆しまに立ちぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  黄海! 昨ヤ月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲を-ひたし、島影を載せ、スイオウの夢を浮かべて、悠々として絵よりも静かなりし黄海は、いま修羅ジョウとなりぬ。  艦橋をおりて武男は右舷速射砲台に行けば、分隊長はまさに双眼鏡をあげて敵のほうを望み、部下の砲員は兵曹以下おおむねジャケットを脱ぎすて:、腰より上はヒジぎりのシャツをまといて/潮風に黒めるスジブトの腕をあらわし、シロ木綿もて/しっかと腹部を巻けるもあり。もくして号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつ/すでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵のマナカを堅めし定遠’鎮遠はまっ先にぬきんでて、オウ陣やや鈍角をなし:、距離/ようやく-ちぢまりて2艦の形は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年/かの二艦を横浜の埠頭に見しことを思いいでたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然’当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、ハクハをけり、砲門を開きて、咄々来たってわれに迫らんとするさまの、さながら/悪獣なんどの来たり向こうごとく:、恐るるとにはあらで/一種やみがたき嫌厭を/憎悪の胸中にみなぎりいづるを覚えしなり。  たちまち海上はるかにイッセイの雷とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島のタイショウをかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男はゴチョウより脊髄を通じて/言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲ビに群がりし砲員の列/ひとたびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島のシヘンにミズバシラをけ立てつ。 「分隊長、まだですか。」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷’及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、曳縄’握られつ。待ち構えたるイッセイのラッパ鳴りぬ。「打てッ/」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷ソクホウ/一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく/渦まき起こりぬ。  あたかもその答礼として、定遠’鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸/すさまじく空にうなりて、煙突のウエ二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず頭を下げぬ。  分隊長’顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」  武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。 「さあ、打てッ! しっかり、しっかり──打てッ!」  右舷ソクホウは連べ打ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうちたる時限弾の一個は、砲台近く破裂して、今しも弾丸を砲ビに運びし砲員の一人/武男が後ろにどうと倒れつ。起き上がらんとして、また倒れ、血はさっとほとばしりて/したたかに武男がズボンにかかりぬ。砲員の過半はそなたを顧みつ。 「だれだ? だれだ?」 「西山じゃないか、西山だ、西山だ」 「死んだか」 「打てッ!」分隊長の声鳴りて、砲員みな砲に群がりつ。  武男は手早く運搬しゅに死者を運ばし、ふりかえってその位置に立たんとすれば、分隊長は武男がズボンに目をつけ 「川島君、負傷じゃないか」 「なあに、今のとばしるです」 「おおそうか。さあ、今のカタキを討ってやれ」  砲は間断なく発射し、艦は全速力をもてはしる。わが本隊は敵のオウ陣に対して大いなる弧をえがきつつ、かつイかつ馳せて、一時三十分過ぎにはすでに敵を半周してその右翼を回り、まさに敵の背後にいでんとす。  第一回の戦い終わりて、第二回の戦いこれより始まらんとすなり。松島の右舷砲/しばし鳴りを静めて、諸士官’砲員’淋漓たる汗をぬぐいぬ。  この時彼我の陣形を見れば、わが先鋒隊はいち早く敵の右翼を乱射して、超勇’揚威を戦闘力なきまでに悩ましつつ、イッ回転して本隊と敵の背後を撃たんとし:、わが本隊のうち比叡は速力劣れるがため本隊に続行するあたわずして、大胆にもひとり敵陣のマナカを突貫し、死戦して活路を開きしが、火災のゆえに圏外に去り、西京丸”また危険をのがれて圏外に去らんとし:、敵前に残されし赤城は六百トンのショウ艦をもって独力奮闘’チョウイを衝いて、比叡のあとを追わんとす。しかして先鋒の四艦と、本隊の五艦とは、せいせいとして列を乱さず。  敵のほうを望めば、超勇’焼け、揚威’戦闘力を失して、敵の右翼乱れ、左翼の三艦は列を乱して我が比叡’赤城を追わんとし、その援軍水雷艇は隔離してイッペンにあり。しかして定遠’鎮遠’以下スウ艦は、わがその背後にまわらんとするより、急に舳先をめぐらして縦陣に変じつつ、健気にもわが本隊に向かい来たる。  第二回の戦いは今や始まりぬ。わが本隊は西京丸が掲げし「赤城’比叡’危険」の信号を見るより、速力ダイなる先鋒隊の四艦を遣わして、赤城比叡をビする敵の三艦を追い払わせつつ:、一隊五艦’依然’単縦陣をとって、同じく縦陣をとれる敵艦を中心にダイなる蛇の目をえがきもて/かつ走りかつ撃ち、二時すでに半ばならんとするとき、敵艦隊を一周し終わって敵のこなたに達しつ。このときわが先鋒隊は比叡’赤城をビする敵の三艦を一戦にけ散らし、にぐるを追うて敵の本陣に駆り入れつつ、一括してかなたより攻撃にかかりぬ。さればわが本隊先鋒隊はあたかも敵の艦隊をマナカに取りこめて、左右よりさし挟み撃たんとすなり。  第三次の激戦今始まりぬ。わが海軍の精鋭と、敵の海軍の主力と、共に集まりたる彼我の艦隊は、ダイ全速力もて馳せ違い/入り乱れつつ相たたかう。あたかも二竜のナガクジラを巻くがごとく/黄海の水たぎって一面の泡となりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【その5】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  わが本隊は右、先鋒隊は左、敵の艦隊をまん中に取りこめて、引っクルンで撃たんとす。戦いは今たけなわになりぬ。戦いの熱するに従って、武男はいよいよ吾を忘れつ。その昔/学校にありて、ベースボールに熱中せし時、勝敗のここしばらくのマに決せんとする大事の時に際するごとに:、身のたれたり’場所のいずくたるを忘れ、ほとんどモノありて/空よりわれを引き回すように覚えしが、今やあたかもその時に異ならざるの感を覚えぬ。艦隊’敵と離れて”また敵に向かい行くマと、艦体’一転して左舷敵に向かい/右舷しばらく閑なるマとを除くほかは、間断なき号令に声かれ、汗は淋漓として満面にしたたるも、さらに覚えず。旗艦を目ざす敵の弾丸/ひとえに松島にむらがり、鉄板上に裂け、ボクハン焦がれ、血は甲板に-まみるるも、さらに覚えず。敵味方の砲声はあたかも心臓の鼓動に時を合わしつつ、ややマあればジヘンの淋しきを怪しむまで、身は全く血戦の熱に浮かされつ。されば、部下の砲員も乱れ飛ぶ敵弾を物ともせず、装填し照準を定め曳縄を張り発射し”また装填するまで、射的場の精確さらに実戦の熱を加えて:、火災は起こらんとするに消し、たまは命ぜざるに運び、死亡’負傷はたちまち運び去り、ほとんど士官のメイを待つまでもなく、手おのずから動き、足おのずから働きて、戦闘機関は間断なくなめらかに運転せるなり。  この時目をあぐれば、灰色の煙’空をおおい/海をおおうて/十重二十重に渦まけるマより、思いがけなき敵味方の檣と軍艦旗は/かなたこなたに仄見え:、ほとんど秒ごとに轟然たる響きは海を震わして、たまは弾と空中に相うって爆発し、海は間断なくミズバシラをけ上げて煮え返らんとす。 「愉快! 定遠が焼けるぞ!」涸れたる声ふり絞りて分隊長は叫びぬ。  煙の絶え間より望めば、コウリョウキを翻せる敵の旗艦の前部は/黄煙’渦まき起こりて、蟻のごとく敵兵のうごめき騒ぐを見る。  武男を初め砲員一斉にカイを叫びぬ。 「さあ、やれ。やっつけろッ!」  勢い込んで、砲は一時’に打ち-いだしぬ。  左右より夾撃せられて、敵の艦隊は崩れ立ちたり。超勇はすでにまっ先に火を帯びて沈み、揚威はとくすでに大破して逃れ、致遠また没せんとし、定遠’火’起こり、来遠また火災に苦しむ。こらえ兼ねし敵艦隊はついに定遠’鎮遠を残して、ことごとくちりぢりに逃げ-いだしぬ。わが先鋒隊はすかさずそのあとを追いぬ。本隊’五艦は残れる定遠’鎮遠を撃たんとす。  第四回の戦い始まりぬ。  時まさに三時、定遠の前部は火いよいよ燃えて、コウエンおびただしく立ち上れど、なお逃れず。鎮遠またよく旗艦をゴして、2大テッ艦’巍然/山のごとくわれに向かいつ。わが本隊の五艦は今や全速力をもって敵の周囲を馳せつつ、幾回かめぐりては乱射し、めぐりては乱射’す。砲弾は雨のごとく二艦に注ぎぬ。しかも軽装カイバのサラセン武士が馬をめぐらして/重鎧の十字軍士を射るがごとく、命中する弾丸多くは二艦の重鎧にはねかえされて、艦外に破裂し終わりつ。午後三時二十五分/我が旗艦松島はあたかも敵の旗艦と相並びぬ。わがうち出す速射砲弾のまさしく-かがカンプクに中りて、はねかえりて花火のごとく/むなしく艦外に破裂するを望みたる武男は、いかりに堪え得ず、歯をくいしばりて、右の手もて剣のツカを破れよと打ちたたき、 「分隊長、無念です。あ‥‥あれをごらんなさい。畜生ッ!」 【 分隊長は血眼になりて甲板を踏み鳴らし】 「うてッ! 甲板をうて、甲板を! なあに! うてッ!」 「うてッ!」武男も声ふり絞りぬ。  歯をくいしばりたる砲員は憤然として/勢い猛く連べ打ちに打ち-いだしぬ。 「も一つ!」  武男が叫びし声と同時に、霹靂’満艦を震動して、砲台内に噴火山の破裂するよと思うその時おそく、雨のごとく飛び散る物にうたれて、武男はどうと倒れぬ。  敵艦の打ち-いだしたる三十サンチのダイ榴弾’二個、あたかも砲台のまん中を貫いて破裂せしなり。 「残念ッ!」  叫びつつはね起きたる武男は、また尻居にどうと倒れぬ。  彼は-いま体のカハンにおびただしき苦痛を覚えつ。倒れながらに見れば、あたりは一面の/血、’火、肉のみ。分隊長は見えず。砲台はホラのごとくなりて、そのあいだより青きもの揺らめきたり。こは海なりき。  苦痛と、いうべからざるいたましき香のために、武男が目は閉じぬ。人のうめくコエ。物のモユル-オト。ついで「火災/ 火災/ ポンプ用意ッ/」と叫ぶ声。同時に馳せ来る足音。  たちまち武男は手ありて吾をモタグるを覚えつ。手の脚部にふるるとともに、限りなき苦痛は脳頂に響いて、思わず「あ」と叫びつつのけぞり──紅の靄/閉ざせる目の前に渦まきて、次第にわれを失いぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  大本営所在地’広島においては、十ゲツ中旬、第一師団はとくすでに金州半島に向かいたれど、そのあとに第二師団の健児/広島’狭しと入り込み来たり:、しかのみならず臨時議会開かれんとして、六百の代議士’続々’東より来つれば、高帽腕車はいたるところ佩剣’馬蹄の響きと入り乱れて、維新’当年の京都のニギアイを/再びここ山陽に見る心地せられぬ。  市の目ぬきという大手町通りは「参謀総長ミヤ殿下」「伊藤内閣総理大臣」「川上陸軍中将」なんど/いかめしき宿フダうちたるあたりより:、二丁目三丁目と下がりては/戸ごとに「徴発に応ずべき坪数マルマルジョウ、マルマ」と貼札して:、おおかたの家には士官’下士の姓名兵の/隊号ニンズを記せし紙フダを張りたるは、バラックにも置きあまりたる/兵士の流れ込みたるなり。そのあいだには「マルマル酒保事務所」「マルマルクミ人夫事務’取扱所」など看板’新しくジンエイの忙しく出入りするあれば:、そこの店先にては-せわしくラムネ瓶をオオバコに詰め込み、こなたの店はビスケットの箱/山のごとく荷造りに汗を流す若者あり。この間を縫うて-ばじょうの将官が大本営のほうに急ぎ行きしあとより、電信局にかけつくるにか/鉛筆を耳にさしはさみし新聞記者の車を飛ばしてすぐる:、やがて鬱金木綿に包みしチョー刀と鞄を載せてステーションのほうより来る者、おもて黒々と日にやけて”まだ夏服の破れたるまま宇品より-いま上陸して来つと覚しきモノと行き違い:、新聞の写真付録にて見覚えある元老の/何か思案顔に車を走らすこなたには、近きに出発すべき人夫が鼻歌うとうて往来をぶらつけば:、かなたの家の縁先に剣をとぎつつ健児が歌うホクオンの軍歌は、川向こうのなまめかしき広島ブシに和して響きぬ。 「陸軍ご用達し」と一間あまりのダイ看板、その他看板二’三枚、入り口の3方にかけつらねたる家の/玄関先より往来にかけて粗製ケット/防寒服ようのもの山と積みつつ:、番頭らしきが若者ゴロクニンをさしずして荷造りに-いそがしき所に、客を送りてそそくさと奥よりいでこし五十あまりの親父:、ヒタイやや禿げて/目じりたれ/左眼の下にしたたかな赤ボクロあるが、何か番頭にいいつけ終わりて、いらんとしつつ/たちまち門外をカミ手に過ぎ行く車を目がけ 「タザキさん‥‥タザキさん」  呼ぶ声の耳に入らざりしか、そのままに過ぎ行くを、若者して呼び戻さすれば、車は門に帰りぬ。車上の客は五十あまり、色赤黒く、ホオひげ少しは白きもまじり、黒紬の羽織に新しからぬ同じ色のチュウヤマをいただき/蹴込に中形の鞄を載せたり。呼び戻されてけげんの顔は、玄関に立ちし主人を見るより驚きにかわりて、帽を脱ぎつつ 「山木さんじゃないか」 「タザキさん、珍しいね。いったいいつ来たんです?」 「この汽車で帰るつもりで」とタザキは車をおり、筵繩なんど取り散らしたる間を縫いて玄関に寄りぬ。 「帰る? どこにいつおいでなので?」 「はあ、つい先日佐世保に行って、いま帰りです」 「佐世保? 武男さん──旦那のお見舞?」 「はあ、旦那の見舞に」 「これはひどい、旦那の見舞に行きながら行き帰りとも素通りは実にひどい。娘も娘、御隠居も御隠居だ、はがきの一枚も来ないものだから」 「何、急ぎでしたからね」 「だって、行きがけにちょっと寄ってくださりゃよかったに。とにかくまあお上がんなさい。車は返して。いいさ、お話もあるから。ひと汽車おくれたっていいだろうじゃないか。──ところで武男さん──旦那の怪我はいかがでした? じつはわたしもあの時お怪我の事を聞いたんで、ちょいとお見舞に行かなけりゃならんならんと思ってたんだが、思ったばかりで、──:ちょうど第一師団が近々にでかけるというんで、滅法忙しか-ったもんですから、ついその何で、お見舞状だけあげて置いたんでしたが。──ああそうでしたか、別に骨にも障らなかったですね、大腿部──ハアそうですか。とにかく若い者は結構ですな。お互いに年寄りはちょっと指さきにトゲが立っても、一週間や二週間はかかるが、旦那なんざお年が若いものだから──:とにかく結構おめでたい事でした。御隠居も御安心ですね」  中腰に構えしタザキは時計を-いだし見つ、座を立たんとするを、山木は引きとめ 「まあいいさ。幸いのついでで、少し御隠居に差し上げたいものもあるから。夜汽車になさい。夜汽車だとまだだいぶ時間がある。ちょっと用を済まして、どこぞへ行って、一杯やりながら話すとしましょう。此処の魚は実にうまいですぜ」  口は肴よりもなお-うまかるべし。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  秋の夕日/アマヤス川に流れて、川に臨めるナニガシ亭の障子を金色に染めぬ。二階は貴衆両院議員の有志が懇親会とやら/抜けるほどの騒ぎに引きかえて、下の小座敷は女も寄せず/ただ二人話しもてサカズキをあぐるは山木と-かのタザキと呼ばれたる男なり。  このタザキは、武男が父の代より執事の役を務めて、今もほど近きわが家より日々’川島ケに通いては、何くれとまめやかに世話をなしつ。如才なく切って回す力量なきかわりには、主家の収入をぬすみてわがふところを肥やす気づかいなきがこの男の取り柄と、武男が父は常に言いぬ。されば川島隠居にも武男にも浅からぬ信任を受けて、今度も隠居のメイによりて/はるばる佐世保に主人の怪我をば見舞いしなり。  山木は持ったるサカズキを下に置き、ヒタイのあたりをなでながら「実は-なんですて、わたしも帰りはしても一日泊まりで/すぐとまた此処に引き返すというようなわけで、そんな事も耳に入らなかったですが。それではなんですね、あれから浪子さんもよほどわるかったのですね。なるほどどうも/ちっとひどかったね。しかしともかくも川島ケのためだから仕方がないといったようなもので。ハアそうですか、近ごろはまた少しはいいほうで、なるほど、逗子に保養に行っていなさるかね。しかしあの病気ばかりはいくらよく見えてもどうせ死病だて。ところで武男──いや若旦那はまだ怒っていなさるかね」  椀の蓋をとればマツダケの香の立ちのぼりて/鯛の脂の珠と-うかめるをうまげに吸いつつ、タザキは髯押しぬぐいて 「さあ、そこですがな。それはもう/もとをいえば何もお家のためでしかたもないといったものの、なあ山木さん、旦那の留守に何も相談なしにやっておしまいなさるというは、御隠居も少しご気随が過ぎたというものでな。じつはわたしも旦那のお帰りまでお待ちなさるようにと申し上げて見たのじゃが、あのお気質で、いったんこうと言い出しなすった事は否応なしにやり遂げるお方だから、とうとうあのとおりになったんで。これは旦那がおもしろく思いなさらぬももっともじゃとわたしは思うくらい。それに困った人はあの千々石さん──:たしかもうアッチ(シン国)に-いったように聞いたですが」  山木はじろりとあなたの顔を見つつ「千々石/ ハアあの男はこのあいだ出かけたが、なまじっか顔を知られた報いで、ここにいるうちもたびたび無心にやって来て困ったよ。ツラの皮の厚い男でね。いくさで死ぬかもしれんから香奠と思って餞別をくれろ、その代わりイノチがあったらきっと金鵄勲章をとって来るなんかいって、百両ばかり踏んだくって行ったて。ハハハハハ、ところで武男さんは怪我がよくなったら、ひとまず帰りなさるかね」 「さあ、ご自身はよくなり次第/すぐまた戦地に出かけるつもりでいなさるようですがね」 「相変わらず元気な事を言いなさる。が、タザキさん、一度は帰って御隠居と仲直りをなさらんといけないじゃあるまいか。どれほど気に入っていなすったか知らんが、浪子さんといえばもはや縁の切れたもので、そのうえ達者な方でもあることか、死病にとりつかれている人を、まさかあらためて呼び取りなさるという事もできまいし:、まあ過ぎた事は仕方がないとして、早く親子’仲直りをしなさらんじゃなるまい、とわたしは思うが。なあ、タザキさん」  タザキは打ち案じ顔に「旦那はあのとおり真っ直ぐなお方だから、よし御隠居のほうがわるいにもしろ、自分の仕打ちもよくなかったとそう思っていなさる様子でね。それに今度わたしがお見舞に行ったんでまあ御隠居のお心も-かよったというものだから、仲直りも何もありやしないが、しかし──」 「イクササナカの縁談もおかしいが、とにかく早く奥様を-よびなさるのだね。どうです、旦那は御隠居と仲直りはしても、やっぱり浪子さんは忘れなさるまいか。若い者は最初のうちはよく強情を張るが、しかし新しい人が来て見るとやはりかわゆくなるものでね」 「いやそのことは御隠居も考えておいでなさるようだが、しかし──」 「むずかしかろうというのかね」 「さあ、旦那があんな一途な方だから、そこはどうとも」 「しかしおイエのため、旦那のためだから、なあタザキさん」  話は暫し途切れつ。二階には演説や終わりつらん、拍手の’音’盛んに聞こゆ。障子の夕日やや薄れて、ラッパの音’耳に冷ややかなり。  山木はサカズキを清めて、あらためてタザキにさしつつ 「時にタザキさん、娘がお世話になっているが、困ったやつで、どうです、御隠居のお気には-いりますまいな」  浪子が去られしより、ひと月あまりたちて、山木は親しく川島隠居の薫陶を受けさすべく行儀見習いの名をもって、娘お豊を川島ケに入れ置きしなりき。  タザキはほほえみぬ。何か思いいでたるなるべし。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  タザキは-ほほえみぬ。川島未亡人は眉をひそめしなり。  武男が憤然’席を蹴立てて去りしかの日、母はこの子の後ろ姿をにらみつつ叫びぬ。 「不孝者めが! どうでも勝手にすっがええ」  母は武男が常によくコウにして、わが意を-むかうるに踟蹰せざるを知りぬ。知れるがゆえに、その浪子に対するの愛/もとより浅きにあらざるを知りつつも、その両立するあたわざる場合には、一も二もなく-かの愛をすてて/この孝を取るならんと思えり。思えるがゆえに、その仕打ちのわれながらむしろ果断にすぐるを思わざるにあらざりしも、なおイエのため武男のためと謂いつつ、独断をもて浪子を離別せるなり。武男が-いかりの意外にはげしかりしを見るに及んで、母は初めてわが違算を悟り、同時にいわゆる母なるものの決して絶対的権力を/その子の上に有するものにあらざるを知りぬ。さきにはその子の愛の浪子に注ぐを一種不快の目をもて見たりしが、今は母の愛/母の威光/母の恩をもってしてなお/死に瀕したるイチ浪子の愛に勝つあたわざるを見るに及び:、わが威権’全くおちたるように、その子をば全く浪子に奪い去られしように感じて、かつは武男を怒り、かつは里に帰り去れるのちまでもなお浪子を罵しれるなり。  なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにか/おのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が-いかりの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えて/その子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半にひとり奥のマの/天井にうつるアンドウの影ながめつつ/かんがうるとはなく思えば、いずくにか汝の誤りなり/汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の-みだるるを覚えぬ。世にも強きは自らこれなりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人より/あるいはわが衷なるあるものより/わが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝を折る時なり。急所を刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は-いかる。武男が母は、これがために抑えがたきいかりは-なおさらにモンを加えて、いよいよ武男の-いかるべく、浪子の悪むべきを覚えしなり。武男は席を蹴って去りぬ。一日またイチニチ、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出’でて怒り、将来を想うて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方なきにまた怒り:、いかり怒りて怒りの疲れにようやく夜もネブるを得にき。  川島ケにては平常にも恐ろしき隠居が疳癪の/近ごろはまた/ひた燃えに燃えて、慣れしおんなばらも幾たびか/手荷物をしまいかけるマに、朝鮮事起こりてホウトウ牙山の号外は飛びぬ。いくさに行くに暇乞いの手紙の一通もやらぬ不埒なやつと母は幾たびか怒りしが:、世間の様子を聞けば、田舎よりその子の遠征を見送らんといで来る老婆、物を贈り書を送りてその子を励ます母もありというに、子は親に怒り親は子を-いかりて一通の書だに取りかわさず:、彼は戦地にわれは帝都に、おのおの心に不快の塊をいだいて、もしこのままに永別となるならば、と思うとはなく、ほのかに感じたる武男が母は、ついにののしりののしりガを折りて/引きつづき二通の書を戦地にあるその子にやりぬ。  折りかえして戦地より武男が返書は来たれり。返書来たりてよりひと月あまりにして、1通の電報は佐世保の海軍病院より/武男が負傷を報じこしぬ。さすがに母が電報をとりし手は/わなわなと打ち震いつ。ほどなくその負傷は命に関するほどにもあらざる由を聞きたれど、なおタザキを遠く佐世保にやりて/その様子を見させしなりき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  タザキが佐世保より帰りて、子細に武男の様子を報ぜるより、母はやや安堵の胸をなでけるが、なおこの上は全快を待ちて一応’顔をも見、またいくさ-すみたらば武男がために/早くコウサイをむかうるの得策なるを思いぬ。かくして一には浪子を武男の念頭より絶ち、一には川島ケの祀りを存し、一にはまた心の奥の奥において、さきに武男に対せる仕業の/やや暴に過ぎたりしその罪亡ぼしをなさんと思えるなり。  武男にコウサイを早く迎えんとは、浪子を離別に決せしその日より早く/すでに母の胸中にわきいでし問題なりき。それがために数’多からぬ知己’親類の/カしうべき娘を心のうちにあれこれと繰り見しが、思わしきものもなくて、思い迷えるおりから、山木は突然’娘お豊を行儀見習いと称して川島ケに入れ込みぬ。武男が母とて白痴にもあらざれば、山木が底意は必ずしも知らざるにあらず。お豊が必ずしも知徳兼備のケン婦人ならざるをも知らざるにはあらざりき。されどおぼるる者は藁をもつかむ。武男が’妻定めに窮したる母は、山木が望みを幸い、試みにお豊を預かれるなり。  試験の結果は、タザキがほほえめるがごとし。試験者も受験者も共に満足せずして、いわば女ばらがうさはらしの種となるに終われるなり。  初めは平和、次ぎに小口径の猟銃を用いてケイケイに散弾を撒き、ついに攻城砲の恐ろしきを打ち-いだす。こは川島未亡人がナンピトに対しても-もちうる所の法なり。浪子もかつてその経験をなめぬ。しかしてその神経のビンに/感の鋭かりしほどその苦痛を感ずる事もハヤかりき。お豊も今その経験をしいられぬ。しかしてその無為にして化するテイの性質は、散弾の飛ぶも/ほとんどいずこの家に煎る豆ぞとオモイガオにすぐるより、かの攻城砲は/例よりもすみやかに持ち-いだされざるを得ざりしなり。  その心’悠々として常に春がすみのたなびけるごとく、胸中に一点の物無うして/ニンガの別’定かならぬのみか、往々にして個人の輪郭消えて直ちに動植物と同化せんとし、春の夕べに庭などに立ちたらば:、タマも体もそのまま霞のうちに融け去りて/すくうも手にはたまらざるべきお豊も/恋に自己を自覚し初めてより、にわかに苦労というものもカイし始めぬ。眠き目こすりて起きいづるより、あれこれと追い使われ、その果ては小言’怒鳴り。もっとも陰口’当てこすりは概して解かれぬままに鵜呑みとなれど、つるべ打つ攻城砲のみは/いかに超然たるお豊も当たりかねて、恋しき人の家ならずば/とくにも逃げ-いだしつべく思えるなり。さりながら父の戒め、おりおり桜川チョウのうちに帰りて聞く母の教えはここと、けなげにもなお攻城砲の前に陣どりて、日また日を忍びて過ぎぬ。時にはたまり兼ねて思いぬ、恋は-かくもつらきものよ、もはや二度とは人を恋わじと。あわれむべきお豊は、川島未亡人のためにはその乱れがちなる胸の安全管にせられ、家内のオンナオトコには日長の慰みにせられ:、恋しき人の顔を見ることも無うして、生まれ出でてより例なきコッキと辛抱をもって/当てもなきものを待ちけるなり。  お豊が来たりしより、武男が母は新たに一の懊悩をば添えぬ。失える玉はダイにして、去れる嫁はケンなり。比較になるべき人ならねども、お豊が来たりて身近に使わるるに及びて、なすことごとに気に入るはなくて:、武男が母は堅くその心をふさげるにかかわらず、ともすれば昔わが叱りもし/罵りもせしその人を思い-いでぬ。光を-つつめる女の、言葉多からず立ち居にしとやかなれば、見たる所は目より鼻にぬけるほど派手には見えねど、不なれながらもよくこちの気を飲み込みて機転もきき、第一’心がけの殊勝なるを、図に乗っては口ぎたなくののしりながら:、心の底にはあの年ごろでよく気がつくと暗に白状せしこともありしが、いま目の前に同じ年ごろのお豊を置きて見れば、是非なく比較はとれて、事ごとに思うまじと思う人を思えるなり。されば日々’気にくわぬ事の出で来るごとに、春がすみの化けていでたる人間の/名をお豊と呼ばれて/目はサイサイと/口も閉じあえず座れるかたわらには:、いつしか色少し青ざめて髪’黒々と/しとやかなる若き女の利発らしき目をあげて/つくづくとわが顔をながめつつ「いかがでございます?」というようなる心地して/武男が母は思わずもわななかれつ。「じゃって、病気をすっがわるかじゃなっか」と幾たびか言い訳すれど、なお妙に胸先に込みあげて来るものを、自己は怒りと思いつつ、果てはまた大声あげて、お豊に当たり散らしぬ。  されば、広島の旗亭に、山木がタザキに向かいて娘お豊を武男がコウサイにと/おぼろげならず言いいでしその時は:、川島未亡人とお豊の間は/去る6ゲツにおける日清のあいだよりも危うく、彼いだすか、われ-いづるか、危機はいわゆる一髪にかかりしなりき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  枕辺ちかき小鳥の声に呼びさまされて、武男は目を-あきぬ。  ベッドの上より手を伸ばして、窓かけ引き退くれば、いま向こう山を離れし朝日/花やかに玻璃ソウにさし込みつ。山は朝霧’なお白けれど、秋の空はすでに青々と澄み渡りて、窓前イチジュ”染むるがごとくクレナイなる桜の梢を/あざやかにシンし-いだしぬ。梢に両サンワの小鳥あり、相’語りつつエダより枝におどれるが、ふと言い合わしたるように玻璃ソウのうちをのぞき:、ハンミをもたげたる武男と顔見合わし、驚きたって飛び去りし羽風に、黄なる桜のイチヨウばらりと散りぬ。  われを呼びさませしアシタの使いは彼なりけるよと、武男はほほえみつ、また枕につかんとして、痛める所あるがごとくいささか眉をひそめつ。すでにしてようやく身をベッドの上に安んじ、目を閉じぬ。  アシタ静かにして、耳わずらわす音もなし。ニワトリ鳴き、ふなうた遠く聞こゆ。  武男は目を開いて笑み、また目を閉じて思いぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が黄海に負傷して、ここ佐世保の病院に身を託せしより、すでにひと月’余り過ぎんとす。  かの時、砲台のマナカに破裂せし敵の/ダイ榴弾の乱れ飛ぶにうたれて、尻居にどうと倒れつつ/激しき苦痛に一時われを失いしが:、苦痛のはなはだしかりし割に、脚部の傷は二か所とも幸いに骨を避けて、そのほかは/ちとの火傷を受けたるのみ。分隊長はガイも-とどめず、同僚は戦死し、部下の砲員’無事なるは稀なりしが中に、不思議の命をとりとめて、この海軍病院に送られつ。初めはさすがにネツもはげしく上りて、ベッドの上のうわ言にも手をホコにして/敵艦をののしり/分隊長と叫びては医員を驚かししが:、もとより血気盛んなる若者の、傷もさまで重きにあらず、時候も秋涼に向かえるおりから、熱は次第におり、経過よく、膿腫の憂いもなくて、すでにひと月あまり過ぎし今日このごろは、なお幾分の痛みをばおぼゆれど:、ともすれば石炭酸のカの満ちたる部屋をぬけいでて/シュウセイの庭におりんとしては軍医の小言をくうまでになりつ。この上はただ速やかに戦地に帰らんと、ひたすら/医の許しを待てるなりき。  思いすててチリアクタよりも-かるかりし命は不思議にながらえて、熱’去り/苦痛’薄らぎ/食欲'復するとともに、われにもあらでセイを楽しむ心は動き、従って煩悩’もわきぬ。蝉は殻を脱げども、人はおのれを逃れ得ざれば、戦いの熱病の/熱にナカタえし記憶の糸は/その体のやや癒えて/その心の平生に帰るとともに”またおのずから-かかげ起こされざるを得ざりしなり。  されどタイシツよく体質を新たにするにひとしく、わずかに一紙を隔てて死と相見たるの経験は、武男が記憶を別ヨウに新たなら-しめたり。激戦、及びその前後に相次いで起こりし/異常の事と異常の感は、風雨のごとくその心を奮い動かしつ。風雨はすでに過ぎたれど、余波はなお心の海に残りて、浮かぶ記憶はおのずから異なるテイをとりぬ。武男は母を-いからず、浪子をば今は世になき妻を思うらんように/その心の龕に祭りて、浪子を思うごとに/さながら遠き野末の悲歌を聞くごとく、一種なつかしき哀しみを覚えしなり。  タザキ来たり見舞ぬ。武男はよりて母の近況を知り”またほのかに浪子の様子を聞きぬ。(武男の気をそこなわんことを恐れて、タザキはあえて山木の娘の一条をばいわざりき):武男は浪子の事を聞いて落涙し、タザキが去りしのちも、松風さびしき湘南の/別墅に病める人の面影は、黄海の戦いとかわるがわる武男がショウショウの夢にいりつ。  タザキが東に帰りしのちスジツにして、いずくよりともなくひと包みの荷物武男がもとに届きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  武男は今その事を思えるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が思えるはこれなり。  一週ゼンの事なりき。武男は読みあきし新聞を投げやりて、ベッドの上に欠伸しつつ、窓外を打ちながめぬ。同室の士官’昨日’退院して、室内には彼一人なりき。時は黄昏に近く、病室はほのぐらくして、窓外には秋雨’滝のごとく降りしきりぬ。隣室の患者に電気か来るにやあらん。じじの響き/絶え間なく雨に和して、うたた室内のわびしさを添えつ。聞くともなくその音に耳を仮して、目は窓に向かえば、吹きしぶく雨’淋漓としてガラスにしたたり、しとどぬれたる夕暮れの庭は”まだらに現われて”また消えつ。  茫然としてながめ入りし武男は、たちまち頭よりケットを引きかつぎぬ。  5分ばかりたちて、人のいり来る足音して、 「お荷物が届きました。‥‥おやすみですか」  頭を-いだせば、ベッドの横側に立てるは、小使なり。油ガミ包みをいだき、二ジュウモンジに絡げし’重やかなる箱をさげて立ちたり。  荷物? タザキかえりてまだ幾カもなきに、たが何を送りしぞ。 「ああ荷物か。どこからだね?」  小使が読める差出人は、聞きも知らぬ人の名なり。 「ちょっとあけてもらおうか」  油ガミを解けば、新聞、それを解けば紫の包みいでぬ。包みを解けばいでたり、ネルの単衣、柔らかき絹物の袷、白縮緬の兵児帯、雪を欺く足袋:、袖広き襦袢は脱ぎ着’容易かるべく、真綿の肩ぶとんは/長き病床に床ずれあらざれと願うなるべし。箱の内はなんぞ。クグナワを解けば、なかんずく好める淡雪のダイなると/バナナの鮮らけきとアフルルまでに満ちたり。武男の胸の鼓動は急になりぬ。 「手紙も何もはいっていないかね?」  カをふるい/これを移せど寸の紙だになし。 「ちょいとその油ガミを」  包み紙をとりて、わが名を書ける筆の跡を見るより、たちまち胸のふさがるを覚えぬ。武男はそのフデを認めたるなり。  カレなり。カレなり。カレならずして/たれかあるべき。その縫える衣の一針ごとに、跡はなけれど”まさしくそそげる千コウのナンダを見ずや。その病をつとめて書ける文字の震えるを見ずや。  人の去るを待ち兼ねて、武男は男泣きに泣きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  もとより涸れざる泉は-いま新たに開かれて、武男は限りなき愛の/滔々としてみなぎるを覚えつ。昼は思い、夜はカレを夢みぬ。  されど夢ほどに世は自由ならず。武男はもとより信じて思いぬ、二人が間は死だもつんざくあたわじと。いわんや区々たる世間の手続きをや。されどもその心を実にせんとしては、その区々たる手続き儀式が/キボウと現実の間に/こゆべからざる障壁として立てるを覚えざるあたわざりき。世はいかにすとも、カレは限りなくわが妻なり。されど母はわが名によってカレを離別し、カレが父はカレに代わってカレを引き取りぬ。世間の前に二人が間は絶えたるなり。平癒を待ってひとたび東に帰り、母にあい、浪子をおとのうて心を語り、再びカレを迎えんか。いかに自ら欺くも、武男はいわゆる世間の義理体面の上より/さることのなすべく”またなしうべきを思い得ず:、事は成らずして畢竟’再び母とわれとの間を/前にも増して乖離せしむるに過ぎざるべきを思いぬ。母に逆らうの苦はすでになめたり。  広い宇宙に生きて/思わぬカセにわが愛をすら縛らるるを、歯がゆしと思えど、武男は-のがるる道を知らず、やる方なき懊悩に/日また日を送りつつ:、ただショウシともにわが妻はカレと思いてわずかに自ら慰めあわせて/心に浪子をば慰めけるなり。  今朝も夢さめて武男が思える所は、これなりき。  この朝/軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りしのち、イップウの書は東京なる母より届きぬ。書中にはタザキかえりていささか安堵せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許し次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事! もしくは彼がもっとも忌み-かつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。  武男はついに帰京せざりき。  十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦’松島の/修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許しを得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って/此処に碇泊せる艦隊に帰り去りぬ。  佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函せり。一はその母にあてて。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  秋風吹き始めて、避暑の客は都に去り、病を養う人ならでは-とどまる者なき九月初めより、今ここ十一月’初めまで:、ヒの温かに/風なき時をえらみて、五十あまりの女に伴なわれつつ、そぞろに逗子の浜べを運動する一人の淑女ありき。  やせにやせて砂に落つ影もサイサイといたわしき姿を、網曳く漁夫、日ごと浜べを歩むビョーカクも皆’見るに慣れて、あうごとに頭を下げぬ。たれ伝うともなくほのかにその身の上をば聞き知れるなりけり。  こは浪子なりき。  惜しからぬ命/つれなくもなお永らえて、また今年の秋風を見るに及べるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。  浪子は去る六月の初め、伯母に連れられて帰京し、思いも掛けぬ宣告を伝え聞きしその翌日より、病は見る見る重り、前後を覚えぬまで胸を絞って心血のクレナイなるを吐き:、医は-もくし、ヤカラは眉をひそめ、自己は旦夕に死を待ちぬ。命は実に一縷につながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。何思う間もなく/たちまちシンセイの暗きにおちたるこの身は、なんの楽しみあり、なんのかいありて、世に永らえんとはすべき。たれを恨み、たれを恋う、さる念’は形をなすヒマもなくて、ただ身をめぐる暗黒の/恐ろしくいとわしく、早くこのうちを逃れんと思うのみ。死は実にただ一の活路なりけり。浪子は死をまちわびぬ。身は病のトコに苦しみ、心はすでに世の外に飛びき。今日にもあれ、明日にもあれ、この身のホダシ絶えなば、惜しからぬ世を下に見て、魂’千万里の空を天に飛び、なつかしき母の膝に心ゆくばかり/泣きもせん、訴えもせん、と思えば/待たる-るは実に死の使いなりけり。  あわれカレは死をだに心に任せざりき。今日、今日と待ちし今日は幾たびかむなしく過ぎて、ひと月あまり経たれば、われにもあらで/病ややマに、ふた月を経てさらに軽くなりぬ。思いすてし命をまたさらにこの世に引き返されて、浪子はまた薄命に泣くべき身となりぬ。浪子は実に惑えるなり。セイの愛すべく/死の恐るべきを知らざる身にはあらずや。なんのために医を迎え、なんのために薬を服し、なんのために惜しからぬ命をつながんとするぞ。  されど父の愛あり。アシタにユウベにカレが病床をセイし、自ら薬餌を与え、さらに自ら指揮してカレがために心静かに病を養うべき離れを建て:、いかにもしてカレを生かさずば-やまざらんとす。父の足音を聞き、わが病の間なるによろこぶ慈顔を見るごとに、浪子は恨みにはおとさぬ涙の/おのずからホオにしたたるを覚えず、みだりに死をこいねごうに忍びずして、父のために務めて病をば養えるなり。さらに一あり。浪子は良人を疑うあたわざりき。海’涸れ山くずるるも固く良人の愛を信じたるカレは、この度の事’一も良人の心にあらざるを知りぬ。病ややマになりて、ほのかに武男の消息を聞くに及びて、いよいよその信に印捺されたる心地して、カレはいささか慰められつ。もとよりこの後のいかに成り行くべきを知らず、よしこの-やまい-いゆとも/ひとたび絶えし縁は再びつなぐ時なかるべきを感ぜざるにあらざるも:、なお二人が心は冥々のウチに通いて、この愛をばナンピトもつんざくあたわじと心に謂いて、ひそかに自ら慰めけるなり。  されば父の愛と、このほのかなる望みとは、手を尽くしたる名医の治療と相待ちて、消えんとしたるカレが玉の緒をひとたびつなぎ留め:、九月初めより浪子は幾と看護婦を伴のうて再び逗子の別墅に病を養えるなりき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  逗子に来てよりは、ヤマイやや快く、あたりの静かなるに、心も少しは静まりぬ。海の音とおき昼過ぎ、湯上がりのタイを安楽椅子に寄せて、鳥のネの清きを聞きつつうっとりとしてあれば、さながら/いにし春のころ/ここにありける時の心地して、今にも良人の/横須賀より来たり訪わん思いもせらるるなりけり。  別墅の生活は、去るシゴガツのころに異ならず。幾と看護婦を相手に、日課は服薬運動の時間をたがえず、体温を検し、定められたる摂生法を守るほかは、せめての心やりに/歌詠み/秋草を活けなどして過ごせるなり。週に一ニ回、医は東京より来たり見舞ぬ。月に両三日、あるいは伯母、あるいは千鶴子、まれに継母も来たり見舞ぬ。その幼きハラカラ二人は病める姉をなつかしがりて、しばしば母に請えど、病を忌み、かつは二人の浪子になずくを面白からず思える母は、ただしかりてやみぬ。今の身の上を聞き知りてか、昔の学友の手紙を送れるも少なからねど、おおかたは文字’麗しくして/心を慰むべきものはかえってまれなる心地して、よくも見ざりき。ただ千鶴子の来たるをば待ちわびつ。聞きたしと思う消息はおもに千鶴子より伝われるなり。  縁絶えしより、川島ケは次第に遠くなりつ。幾百里’西なる人の面影は日夕’心に往来するに引きかえて、浪子はさらにその人の母をば思わざりき。思わずとにはあらで、思わじと務めしなりけり。心ひとたびその姑の上に及ぶごとに、われながら恐ろしく苦き一念の/オサうれどムラムラと胸にわき来たりて、気の怪しく乱れんとするを、浪子はふりはらいふりはらいて、心を他に転ぜしなり。山木の娘の川島ケに入りこみしと聞けるその時は、さすがに心地乱れぬ。しかもそは/わが思う人のあずかり知る所ならざるべきを思いて、しいて心をそなたにふさげるなり。カレが身は湘南に病に伏して、心は絶えず西に向かいぬ。  この世において最も愛すなる二人は、現に征清のエキに従えるならずや。父中将は浪子が逗子に来たりしより間もなく、大元帥トウカにコジュウして広島におもむき、さらに遠くリョウトウに-むかわんとす。せめて新橋までと思えるを、父は制して、くれぐれも自愛し、凱旋の日には全快して迎えに来よと言い送りぬ。武男はあの後直ちに戦地に向かいて、現に連合艦隊の旗艦にありと聞く。シューウ-シューセイ/身につつがなく、戦闘の務めに服せらるるや、いかに。ニチニチヤヤ/陸に海に心は馳せて、世には要なしといえる浪子も/おどる心に新聞をば読みて、皇軍連勝、わが父’息災、武男の武運長久を祈らぬ日はあらざりしなり。  九月末にいたり、黄海の捷報は聞こえ、さらにスジツを経て負傷者のうちに浪子は武男の姓名を見-いだしぬ。浪子は一夜眠らざりき。幸いに東京なる伯母のその心をくめるありて、いずくより聞き得て報ぜしか、浪子は武男の負傷のはなはだしく重からずして/現に佐世保の病院にある由を知りつ。ショウシの憂いを慰められしも、さてかなたを思いやりて、かくもしたしと思う事の多きにつけても、今の身の上の思うに任せぬ恨みは”またむらむらと胸をふさぎぬ。なまじいに夫妻の名義’絶えしばかりに、まさしく心は通いつつ、彼は西に傷つき、われは東に病みて、行きて問うべくもあらぬのみか、明らさまにははがき一枚の見舞すら心に任せぬ身ならずや。かく思いてはやるかたなくもだえしが、なおやみがたき心より思いつきて:、浪子は病のヒマヒマに幾を相手にその人の衣を縫い、その好める品をも取りそろえつつ、裂けんとすなる胸の思いのマンブン一も通えかしと、名をば隠して、はるかに佐世保に送りしなり。  週去り/週来たりて、十一月中旬、佐世保の消印ある一通の書は浪子の手に落ちたり。浪子はその書をひしと握りて泣きぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  打ち連れて土曜の夕べより見舞にこし千鶴子とイモト駒子は、今朝’帰り去りつ。しばしにぎやかなりし家の内”また常のさびしきにかえりて、曇りがちなる障子のうち、浪子はひとりトコにかけたる亡き母の写真にむかいて座しぬ。  今日、十一月十九日は亡き母の命日なり。はばかる人もなければ、浪子は手箱より母の写真取り出でてトコにかけ、千鶴子が持てこし白菊の/やや狂わんとするをその前に手向け:、午後には茶など-いれて、幾の昔語りに耳カタブけしが、今は幾も看護婦も罷りて、浪子はひとり写真の前に残れるなり。  母に別れてすでにトトセにあまりぬ。トトセのあいだ、浪子は亡き母を忘る-るの日なかりき。されど今日このごろはなつかしさの堪えがたきまで募りて、事ごとにその母を思えり。恋しと思う父は今’遠くリョウトウにあり。継母は近く東京にあれど、中垣の隔て昔のままに、ともすれば聞きづらきことも耳に-いる。亡き母の、もし亡き母の無事に永らえて居たまわば、かの苦しみも告げ、この悲しさも訴えて、かよわきこの身に負いあまる重荷も/すこしは軽く思うべきに:、何ゆえ見すてて逝きたまいしと思うもとより涙はわきて、写真は霧を隔てしようにおぼろになりぬ。  昨日のようなれど、指を折ればトトセたちたり。母上の亡くなりたもうその年の春なりき。自らはヤツ、イモトは五つ(そのころは片言まじりの、今はあのとおり大きくなりけるよ)桜模様の曙染、二人そろうて美しと父上にほめられてうれしく:、われは右/イモトは左/母上を中に、馬車をきしらして、クダンの鈴木に撮らしし内の一枚は/ここにかけたるこの写真ならずや。思えばトトセは夢と過ぎて、母上はこの写真になりたまい、わが身は──。  わが身の上は思わじと定めながらも、味気なき今の境涯はあいにくにありありと目の前に現われつ。思えば思うほどなんの楽しみも/なんの望みもなき身はトエハタエ/コクウンに包まれて、この八畳のマは/日影も漏れぬ死囚牢になりかわりたる心地すなり。  たちまち柱時計はヤウチに響き渡りて午後二時をうちぬ。おどろかれし浪子はノガルルごとく次の間に立てば、ここには人もなくて、裏のほうに幾と看護婦と語る声す。聞くともなく耳カタブけし浪子は、またこの部屋を出でて庭におり立ち、枝折戸あけて浜にいでぬ。  空は曇りぬ。秋ながらうっとりと雲立ち迷い、海はまっ黒に顰みたり。大気は恐ろしく静まりて、一陣の風なく、一波だに動かず、見渡す限り海にハンエイ絶えつ。  浪子は次第に浜を歩み行きぬ。今日は網曳する者もなく、運動する人の影も見えず。子を負えるトオあまりの女の子の/歌いながら貝拾えるが、浪子を見てほほえみつつ頭を下げぬ。浪子はサンとして笑みつ。またうっとりと思いつづけて、うつむきて歩みぬ。  たちまち浪子は立ち止まりぬ。浜尽き、岩おこれるなり。岩に一条の道あり、そをたどれば滝の不動にいたるべし。この春’浪子が良人に導かれて行きしところ。  浪子はその道をとりて進みぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その4】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  不動シの下まで行きて、浪子は岩をハろうて座しぬ。この春’良人と共に座したるもこの岩なりき。その時はシュンセイうらうらと、浅緑の空に雲なく、海は鏡よりも光りき。今は秋/陰暗として、空に異形の雲’満ち、海はわが坐す岩の下まで満々とたたえて、そのすごきまで黒き-おもてをテンパするイッパンの影だに見えず。  浪子はふところより1通の書を取り-いだしぬ。書中はただ両三行、武骨なる筆跡の、しかも千万語にまさりて浪子を思いに堪えざらしめつ。「浪子さんを思わざるの日は一日もこれなくそろ」。この一句を読むごとに、浪子は今さらに胸迫りて、恋しさの切らる-るばかり身にしみておぼゆるなりき。  いかなればかく曲がれる世ぞ。身は良人を恋い恋いて/病よりも思いに死なんとし、良人は-かくも想いて居たもうを、いかなれば夫妻の縁は絶えけるぞ。良人の心は血よりも紅にそそがれてこの書中にあるならずや。現にこの春この岩の上に、二人並びて、ヨロズヨまでもと誓いしならずや。海も知れり。岩も記すべし。さるをいかなれば世はほしいままに二人が間を裂きたるぞ。恋しき良人、なつかしき良人、この春この岩の上に、岩の上──。  浪子は目を-あきぬ。身はひとり岩の上に坐せり。海は黙々として前にたたえ、後ろには滝の音ほのかに聞こゆるのみ。浪子は顔打ちおおいつつ咽びぬ。サイサイとやせたる指を漏りて、涙ははらはらと岩におちたり。  胸は乱れ、頭は次第に熱して、ジュウオウに飛びかう思いは/オサのごとく来し方をひと目に織り-いだしつ。浪子は今年の春/良人にたすけ引かれてこの岩に来たりし時を思い、発病の時を思い、伊香保に遊べる時を思い、結婚の夕べを思いぬ。伯母に連れられて帰京せし時、むかしむかしその母に別れし時、母の顔、父の顔、継母、イモトを初めさまざまの顔は稲妻のごとくその心の目の前を過ぎつ。浪子はさらに昨日’千鶴子より聞きし旧友の一人を思いぬ。カレは浪子より二つ長けて/一年’早く大名華族のうちにも才子の聞こえある洋行帰りの某伯爵に嫁ぎしが:、シュウトの気には入りて、良人にきらわれ、子供一人もうけながら、良人は内にショウを置き外に花柳の遊びに浸り/今年の春’離縁となりしが、ついこのごろ病死したりと聞く。カレは良人にすてられて死し、われは相思う良人と裂かれて泣く。さまざまの世と思えば、彼も悲しく、これもつらく、浪子はいよいよ黝うなり来る海の-おもてをながめて吐息をつきぬ。  思うほど、気はますます乱れて、浪子は身を-いる-るヒマもなきまで/世のせまきをおぼゆるなり。身はなにフソクなき家に生まれながら、なつかしき母にはヤツの年に別れ、肩をすぼめて継母の下にトトセを送り、ようやく良縁定まりて父の安堵/われもうれしと思う間もなく:、姑の気には-いらずとも良人のためには水火もいとわざる身の、思いがけなきタイシツを得て、その病いも少しは-おこたらんとするを喜べるほどもなく:、死ねといわるるはなお慈悲の宣告を受け、愛し愛さるる良人はありながら容赦もなくあいだを裂かれて、夫と呼び妻と呼ばるることもならぬ身となり果てつ。もしそれほど不運なるべき身ならば、なにゆえ世には生まれこしぞ。何ゆえ母上とともに、われも死なざりしぞ。なにゆえに良人のもとにはカしつるぞ。なにゆえにこの病を発せしその時、良人の手に抱かれては死せざりしぞ。なにゆえに、せめてかの恐ろしき宣告を聞けるその時、その場に倒れては死なざりしぞ。身には不治の病をいだきて、心は添われぬ人を恋う。なんのためにか世に永らうべき。よしこの-やまい-いゆとも、添われずば思いに死なん──死なん。  死なん。なんの楽しみありて世に永らうべき。  ハフリ落つる涙をぬぐいもあえず、浪子は海の-おもてを打ちながめぬ。  伊豆大島のほうに当たりて、スミイロに渦まける雲/急にむらむらと立つよと見るとき、いうべからざる悲壮の音は/はるかの天空より落とし来たり、大海の-おもてたちまち皺みぬ。一陣の風’吹き-いで-けるなり。その風/鬢をかすめて過ぎつと思うほどなく”まっ黒き海のマナカに一団の雪わくと/見る見る奔馬のごとく寄せて、浪子が座したる岩も砕けよとうちつけつ。渺々たるソウヨウは一分時ならずして千波万波’鼎のごとく沸きぬ。  雨と散るしぶきを-さけんともせず、浪子は一心に水の-おもてをながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄となりて良人に添うはまさらずや。良人は今’黄海にあり。よし遥かなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡と消えて、タマは良人のそばに行かん。  武男が書をば/しっかとふところに収め、風にみだる-る鬢かき上げて、浪子は立ち上がりぬ。  風は飄々として無辺の天より落とし来たり、かろうじて浪子は立ちぬ。目をあぐれば、雲は雲と相追うて空を奔り、海は目の届く限り一面に波と泡と”まっ白に煮えかえりつ。湾をヘダツル桜山は悲鳴してタテガミのごとく松を振るう。風’吼え、海’哮り、山も鳴りて、コウコウのオト天地に満ちぬ。  今なり、今なり、今こそこの玉の緒はタユる時なれ。導きたまえ、母。許したまえ、父。十九年の夢は、今こそ──。  襟引き合わせ、履物をぬぎすてつつ、浪子は今’打ち寄せし浪の岩に砕けて/シラアワ沸るあたりを目がけて、身をおどらす。  その時、あと背後に叫ぶ声して、浪子はたちまち抱き止められつ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「バアや。お茶を-いれるようにしてお置き。もうあの方がいらっしゃる時分ですよ」  かく言いつつ浪子はおもむろに幾を顧みたり。幾はそこらを片づけながら 「ほんとにあの方はいいかたでございますねエ。あれでも耶蘇でいらっしゃいますってねエ」 「ああそうだってね」 「でもあんな方が切支丹でいらっしゃろうとは思いませんでしたよ。それにあんなに髪を切っていらっしゃるのですら」 「なぜかい?」 「でもね、あなた、耶蘇のほうではご亭主が亡くなっても髪なんぞ切りませんで、なおのことおめかしをしましてね、すぐとまたお嫁入りの口をさがしますとさ」 「ホホホホ、バアやはだれからそんな事を聞いたのかい?」 「イイエ、ほんとでございますよ。一体あの宗旨では、若い者までがそれは生意気でございましてね、ほんとでございますよ。幾が身内の隣りに一人そんな子がございましてね、もとはあなた/おとなしい子で、それがあの宗旨の学校にあがるようになりますとね、あなた、すっかり様子が変わっちまいましてね:、日曜日になりますとね、あなた、親が今日は忙しいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね:、それから学校はきれいだけれどもイエはきたなくていけないの、おっかさんは頑固だの、すぐ口をとがらしましてね:、それに学校に上がっていましても、あなた、受取証が一枚書けませんでね、仕事をさせますと、日が一日’襦袢の袖をひねくっていましてね:、お惣菜の大根をゆでなさいと申しますと、あなた、大根を俎板に載せまして、包丁を持ったきりぼんやりしておるのでございますよ。親もこんな事ならあんな学校に-いれるんじゃなかったと悔やんでいましてね。それにあなた、その子はわたしはあの二百五十円より下の月給の良人には-いかない、なんぞ申しましてね。ほんとにあなた、あきれかえるじゃございませんか。もとはやさしい子でしたのに、どうしてあんなになったんでございましょうねエ。これが切支丹の魔法でございましょうね」 「ホホホホ。そんなでも困るのね。でも、なんだって、いい所もあれば、わるいところもあるから、よく知らないではいわれないよ。ねエバアや」  心得ずといわんがごとく小首カタブけし幾は、熱心に浪子を仰ぎつつ 「でもあなた、耶蘇だけはおよし遊ばせ」  浪子はほほえみつ。 「あのかたとお話ししてはいけないというのかい」 「耶蘇がみんなあんな方だと良うございますがねエ、あなた。でも──」  幾は口をつぐみぬ。うわさをすれば影ありありと西側の障子に映り来たれるなり。 「お庭口から御免ください」  細く和らかなる女の声響きて、せわしく幾が立ちてあけし障子の外には、五十あまりの婦人の小作りなるがたたずみたり。年よりも老けて、多き白髪を短くきり下げ、黒地の被布を着つ。やせたる上にやつれて見ゆれば、打ち見にはやや陰気に思わるれど、目に温かなる光ありて、細き口もとにおのずからなる微笑あり。  幾があたかも噂したるはこの人なり。未だし。一週間以前の不動祠畔の水屑となるべかりし浪子を折りよくも抱き留めたるはこの人なりけり。  ラッパを吹き/鼓を鳴らして/名を売ることをせざれば、知らざる者は名をだに聞かざれど、知れる者は/その包むとすれどおのずから身にアフルる光を浴びて、ながくその人を忘るるあたわずというなり。姓は小川/ナはキヨコと呼ばれて、目黒のあたりに大ぜいのミナシゴ女と棲み、一大家族の母として”路傍に遺棄せらるる幾多の霊魂を拾いては育みソダツるを楽しみとしつ。肋膜炎に悩みし病余の体を養うとて、昨月の末より此処に来たれるなるが:、かの日、あたかも不動シにありて図らず浪子を抱き止め、その主人を尋ねあぐみて狼狽して来たれる幾に浪子を渡せしより、おのずから往来の道はひらけしなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 【 茶を持て来て今’罷らんとしつる幾はやや驚きて】 「まあ、明日お帰り遊ばすんで。へエエ。せっかくおなじみになりかけましたのに」 【 老婦人もその和らかなる眼差しに浪子を包みつつ】 「私もも少し逗留して、お話もいたしましょうし、ごあんばいのいいのを見て帰りたいのでございますが──」  言いつつ懐より小形の本を取り-いだし、 「これは聖書ですがね。まだごらんになったことはございますまい」  浪子はいまださる物を読まざるなり。カレが継母は、その英国に留学しつるあいだは、信徒として知られけるが:、帰朝の日/その信仰と/その聖書をば挙げて/そのフルグツ及び反故とともにロンドンの宿りにのこし来たれるなり。 「はい、まだ拝見いたした事はございませんが」  幾はなお立ち去りかねて、老婦人が手中の書を、目をツブラにしてうちまもりぬ。手品の種はかのうちに、と思えるなるべし。 「これからその何でございますよ、ご気分のよろしい時分に、読んでごらんになりましたら、きっとおためになることがあろうと思いますよ。私も今’少し逗留していますと、いろいろお話もいたすのですが──:今日はお別れに私がこの書を読むようになりましたその始末をね、お話ししたいと思いますが。あなたお疲れはなさいませんか。なんならご遠慮なくお休みなすって」  しみじみと耳カタブけし浪子は顔を-あげつ。 「いいえ、ちょっとも疲れはいたしません。どうかお話し遊ばして」  茶を入れかえて、幾は次に立ちぬ。  小春日の午後は夜よりも静かなり。海の音遠く、障子に映る松の影も動かず。ただはるかに小鳥のネの清きを聞く。東側のガラス障子を透かして、秋の空高く澄み、錦にそまれる桜山は午後の日に燃えんとす。老婦人はおもむろに茶をすすりて、うつむきて被布の膝をかいなで、仰いで浪子の顔うちまもりつつ、静かに口を開き始めぬ。 「人の一生は長いようで短く、短いようで長いものですよ。  私の父は旗本で、まあ歴々のうちでした。とうに人のモノになってしまったのですが、ご存じでいらっしゃいましょう、小石川の水道橋を渡って、少しまいりますと、大きな榎が茂っている所がありますが、私はあの屋敷に生まれましたのです。十二の年に母は果てます、父はひどく力を落としましてアトも-とらなかったのですから、子供ながら私がいろいろ家事をやってましたね。それから弟に嫁をとって、私はやはり旗本の、格式は少し上でしたが/小川の家にまいったのが、二十一の年、あなたがたはまだなかなかお生まれでもなかったころでございますよ。  私も女大学で育てられて、辛抱なら人に負けぬつもりでしたが、実際にその場に当たって見ますと、本当に身にしみてつらいことも随分多いのでしてね。時が時で、良人は滅多にうちにいませず、シュウトに良人の兄弟が二人(これはあとで縁づきましたが)ありまして、まあ主人を五人もったわけでして、それは人の知らぬ心配もいたしたのですよ。舅はそうもなかったのですが、姑がよほど仕えにくい人でして、じつは私の前に、嫁に来た婦人があったのですが、半年足らずのマに、逃げて帰ったということで:、亡くなった人をこう申すのははしたないようですが、気荒な、押し強い、弁も達者で、まあ俗に背中を打って咽をしむるなど申しますが、ちょっとそんな人でした。私も十分辛抱をしたつもりですが、それでも時々は辛抱しきれないで、屏風の陰で泣いて、赤い目を見て叱られてまた泣いて、亡くなった母を思い出すのもたびたびでした。  そうするうちに維新の騒ぎになりました。江戸じゅうはまるで鍋のなかのようでしてね。良人も父も弟もみんな彰義隊で上野にいます、それに舅が大病で、私は身持ちというのでしょう。ほんとに気は気でなかったのでした。  それから上野は落ちます、良人は宇都宮からだんだん函館までまいり、父は行くえがわからなくなり、弟は上野で討ち死にをいたして、その家族も失くなってしまいますし、舅もとうとう病死をしましてね:、そのなかでわたくしは産をいたしますし、何が何やらもう夢のようで、それから家禄はなくなる、家財はとられますし、私は姑と年寄りの-しもべをひとり連れましてね:、当歳の子をだいてあの箱根をこえて静岡に落ちつくまでは、恐ろしい夢を見たようでした」  この時’看護婦いりきたりて、会釈しつつ、薬を浪子にすすめ終わりて、いで行きたり。しばし瞑目してありし老婦人は目を開きて、また語りつづけぬ。 「静岡でのバクシの苦労は、それはお話になりませんくらいで、将軍家がまずあのとおり、勝先生なんぞも裏小路の小さな家にくすぶっておいでの時節ですからね:、五千石の私どもに三人ブチはもったいないわけですが、しかし恥ずかしいお話ですが、そのころはおトウフが一丁とは買えませんで、それに姑はぜいたくになれておるのですから、ほんとに気をもみましたよ。で、私はネ、町の女子供を寄せて手習いや、仕事を教えたり、夜もおそくまで、賃仕事をしましてね。それはいいのですが、姑はいよいよ気が荒くなりまして、時勢のしわざを私に負わすようなわけで、それはひどく当たりますし、良人はいませず(良人は函館ごはしばらく牢に入っていました:)父の行くえもわかりませんし、こんな事なら死んだほうがと思ったことは日に幾たびもありましたが、それを思い返し思い返ししていたのです。本当にこのころは一年に年のトオもとりましたのですよ。  そうするうちに、良人も陸軍に召し出さるるようになって、また箱根をこえて、もう東京ですね、その東京に帰ったのが、さよう、明治五年の春でした。その翌春’良人は洋行を命ぜられましてね。チョウセキの心配はないようになったのですが、姑の気分は一向に変わりませず──:それはいいのでございますが、気にかかる父の行くえがどうしてもわかりません。  良人が洋行しましたその秋、ひどい雨の降る日でしたがね、小石川の知るべまでまいって、その家で雇ってもらった車に乗って帰りかけたのです。日は暮れます、ひどい雨風で、私は幌の内に小さくなっていますと、車屋はぼとぼとぼとぼと引いて行きましょう:、饅頭笠をかぶってしわだらけの桐油合羽をきているのですが、雨がたらたらたらたら合羽から落ちましてね、提灯の火はちょろちょろ道の上に流れて、車屋は時々ほっほっ/吐息をつきながら引いて行くのです。ちょうど水道橋にかかると、提灯がふっと消えたのです。車屋は梶棒をおろして、奥様、お気の毒ですがその腰掛けの下にオランダ付け木(マッチの事ですよ)がはいっていますから、というのでしょう。風がひどいのでよくは聞こえないのですが/その声が変に聞いたようでね、とや-こうしてマッチを出して、蹴込のほうに向いてマッチをする、その明かりで車屋の顔を見ますと、あなた、父じゃございませんか」  老婦人がわれにもあらず顔打ちおおいぬ。浪子は汪然として泣けり。次の間にもイキススリの声聞こゆ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  目をぬぐいて、老婦人は語り続けぬ。 「同じ東京にいながら、知らずにいればいられるものですねエ。それから父と連れ立って、まあ近くの蕎麦屋にまいりましてね、様子を聞いて見ますと、上野の落ちたあとは諸処方々を流浪して、手習いの先生をしたり、病気したり:、今は昔の家来で駒込のすみにごくごく小さな植木屋をしているその者にかかって、自身はこう毎日貸しぐるまを引いているというのでございますよ。うれしいやら、悲しいのやら、情けないのやら、込み上げて、ろくに話もできないのです。それからまあその晩は父に心づけられて別れましてね。  夜もだいぶふけていました。帰るとあなた/姑は待ち受けていたというテイで、それはひどい怒りよう/苦りようで、情けないじゃございませんか、私に何か暗い、あるまじい仕業でもあるように言いましてね。胸をさすって、父の事を打ち明けて申しますと、気の毒と思ってくれればですが、それはもう聞きづらい恥ずかしい事を──:あまり悔しくて、情けなくて、今度ばかりは辛抱も何もない、もうもう此処にはいない、今からすぐと父のそばに行って、とそう思いましてね、姑が臥せりましたあとで、そっと着物を着かえて:、悴(6つでした)がこう休んでいます枕もとで書き置きを書いていますと、悴が夢でも見たのですか、眠ったまま右の手を伸ばして「かあさま、行っちゃいやよ」と申すのですよ。その日小石川にまいる時’置いて行ったのですから、その夢を見たのでしょうが、びっくりしてじっとその寝顔を見ていますと、その顔が良人の顔そのままになって、私は筆を落として泣いていました。そうすると、まあどうして思い出したのでございますか、まだ子供の時分にね、寝物語に母から聞いた嫁姑の話、あの話がこうふと心に浮かみましてね:、ああ/私一人の辛抱で何も無事に治まることと、そう思い直しましてね──:あなた、ご退屈でしょう?」  身にしみて聴ける浪子は、こたうるまでもなくただ涙の顔を-あげつ。幾が新たに汲める茶をすすりて、老婦人は再びダンチョをつぎぬ。 「それからとやかく姑にわびましてね、しかしそんなわけですからなかなか父を引き取るの/貢ぐのということはできません。で、まあごくナイナイで身のまわり(多くもありませんでしたが)の物なんぞ売り払ったり:、それもながくは続かないのですから、良人の知るべに頼みましてね、ある外国公使の夫人に物好きで日本の琴を習いたいという人がありましてね:、それで姑の前をとやかくして/それから月に幾たび琴を教えて、まあ少しは父を楽にすることができたのですが、そうするうちに、その夫人と懇意になりましてね、それは珍しいやさしい人でして:、時々は半わかりの日本語でいろいろ’話をしましてね、読んでごらんなさいといって本を一冊くれました。それがね、そのころ初めて和訳になったマタイ伝──この聖書の初めにありますのでした。少し読みかけて見たのですが、何だか変な事ばかり書いてありまして、まあそのままにうっちゃって置いたのでした。  それから翌年の春、姑はふとチュウフウになりましてね、気の強い人でしたが、それはもう子供のように、ひどくさびしがって、ちょいとでもはずしますと、おキヨ/おキヨとすぐ呼ぶのでございますよ。そばにすわって、蠅を追いながら、すやすや眠る姑の顔を見ていますと、本当にこうなるものをなぜ一度でも心に恨んだことがあったろう、できることならもう一度丈夫にして、とそうおもいましてね:、精一杯’骨を折ったのですが、そのかいもないのでした。  姑が亡くなりますと程なく良人が帰朝しましてね。それから引き取るというきわになって、父も安心したせいですか、急に病気になって、つい二三日でそれこそ眠るように消えました。もう生涯’会われぬと思った娘には会うし、やさしくしてくれるし、自分ほど果報者はないと、そう申しましてね。──でも私は思う十ブン一もできませんで、今でも思い出すたびにもう一度活かして/思う存分喜ばして見たいと思わぬ時はありませんよ。  それから良人は次第に立身いたします、悴は大きくなりまして、私もよほど楽になったのですが、ただ気をもみましたのは、良人のタイシュ──軍人は多くそうですが──の癖でした。それから今でもやはりそうですが、そのころは別してね、男のほうが不行跡で、良人なんぞはまあ西洋にもまいりますし、少しはいいのでしたが、それでも恥ずかしい事ですが、私も随分心配をいたしました。それとなく異見をしましても、あなた、笑って取り合いませんのですよ。  そうするうちにあの十年の-いくさになりまして、良人──近衛の大佐でした──もまいります。そのあとに悴が猩紅熱で、まあヒルヨルつきっきりでした。四月十八日の晩でした、悴が少しいい方でやすんでいますから、女なぞもみんな休ませまして、私は悴の枕もとに、アンドウの光で少し縫い物をしていますと、ついウトウトいたしましてね。こう気がとおーくなりますと、すうと人の来る気はいがいたして、悴の枕もとにすわる者があるのです。たれかと思って見ますと、あなた、良人です、軍服のままで、血だらけになりまして、青ざめて──ま、あなた、思わず言ったその声にふっと目がさめて、あたりを見るとだれもいません。アンドウの火がとろとろ燃えて、悴はすやすや眠っています。もうすっかり汗になりまして、動悸がはげしく打って──  その翌日から悴は急にわるくなりまして、とうとうその夕刻に息を引き取りましてね。もう夢のようになりましてその体を抱いているうちに、着いたのが良人が討ち死にの知らせでした」  話者は口をつぐみ、聴者は息をのみ、室内しんとして水のごとくなりぬ。  やや久しゅうして、老婦人は再び口を開けり。 「それから一切夢中でしてね、日と月と一時に-いったと申しましょうか、何と申しましょうか、それこそほんにまっ暗になりまして、辛抱に辛抱してつまりがこんな事かと思いますと、いっそこのまま治らずに──:すぐそのあとで患いましたのですよ──:と思ったのですが、幸せか不幸せか病気はだんだんよくなりましてね。  病気はよくなったのですが、もう私には世の中がすっかりカラになったようで、ただ生きておるというばかりでした。そうするうちに、知るべの勧めでとにかく’家を畳んでしばらくその宅にまいることになりましてね。病後ながらぶらぶら道具や何か取り細めていますと、いつでしたか箪笥を明けますとね、亡くなりました悴の袷の下から本が出てまいりましてね:、ふと見ますと先年’外国公使の夫人がくれましたその聖書でございますよ。読むでもなくつい-みていますと、ちょいとした文句が、こう/妙に胸に響くような心持ちがしましてね──:それはこの本にもシルシをつけて置きましたが──:それから知るべのうちに越しましても、ときどき読んでいました。読んでいますうちに、山道に迷った者がどこかに’鶏の声を聞くような、まっくらな晩にかすかな光がどこからか-さすように思いましてね。もうその本をくれた公使の夫人は帰国して、いなかったのですが、だれかに話を聞いて見たいと思っていますうちに、知るべの世話でそのころできました女の学校の舎監になって見ますと、それが耶蘇教主義の学校でして:、その教師のなかにまだ若いご夫婦の方でしたが、それは熱心な方がありましてね、このご夫婦が私の”まあ先達になってくだすったのですよ。その先達にフミハジメを教わってこの道に入りましてから、今年でもう十六年になりますが、杖とも思うは-じつにこの本で、一日もそばを放さないのでございますよ。霊魂不死という事を信じてからは、死を限りと思った世の中が広くなりまして、天の父を知ってからは親を失って”また大きな親を得たようで:、愛の働きを聞いてからは子を失くして”また大ぜいの子を持った心持ちで、望みという事を教えられてから、辛抱をするにも楽しみがつきましてね──  私がこの本を読むようになりました始末は”まあざっとこんなでございますよ」  かく言い来たりて、老婦人は熱心に浪子の顔打ちまもり、 「実は、ご様子はうすうす承っていましたし、ああして時々’浜でお目にかかるのですから、ぜひ伺いたいと思う事もたびたびあったのですが、──:それがこう/ふとお心やすくいたすようになりますと、またすぐお別れ申すのは、まことに残念でございますよ。しかしこう申してはいかがでございますが、私にはどうしてもちょっとのお馴染みのかたとは思えませんよ。どうぞお身を大事に遊ばして、必ず気をながくお持ち遊ばして、ね、決して短気をお出しなさらぬように──:ご気分のいい時はこの本をごらん遊ばして──:私はあちらに帰りましても、朝夕こちらの事を思っておりますよ」 ◇。◇。◇。◇。◇。  老婦人はその翌日’東京に去りぬ。されどその贈れる一書は常に浪子の身近に置かれつ。  世にはかかる不幸を経ても/なお人を慰むる誠を余せる人ありと思えば、母ならず伯母ならずして/なおこの茫々たる世にわれを思いくくる人ありと思えば:、浪子はいささか慰めらるる心地して、聞きつる履歴を時々’思い-いでては、心こめたる贈り物の一書をひもとけるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  第二軍は十一月二十二日をもって旅順を攻め落としつ。 「お母さま、お母さま」  新聞を持ちたるままあわただしく千鶴子はその母を呼びたり。 「なんですね。もっと静かにものをお言いなさいな」  水色の眼鏡にちょっとにらまれて、さっと-おもてにクレナイを散らしながら、千鶴子はほほと笑いしが、また真面目になりて、 「お母さま、死にましたよ、あれが──あの千々石が!」 「エ、千々石! あの千々石が! どうして? 討ち死にかい?」 「戦死将校のなかに名が出ているわ。──いいキミ!」 「またそんなはしたないことを。──そうかい。あの千々石が討ち死にしたのかい! でもよく討ち死にしたねエ、チズさん」 「いいキミ! あんな人は生きていたって、邪魔になるばかりだわ」  加藤子爵夫人は暫し黙念として沈吟しぬ。 「死んでもだれひとり泣いてくれる者もないくらいでは、生きがいのないものだね、チズさん」 「でも川島のおばあさんが泣きましょうよ。──川島てば、お母さま、お豊さんがとうと逃げ出したんですって」 「そうかい?」 「昨日ね、また何か始めてね、もうもうこんな’家にはいないって、泣き泣き/帰っちまいましたんですって。ホホホホホホ/様子が見たかったわ」 「だれが行ってもあの家では納まるまいよ、ねエ/チズさん」  親子’相見て言葉途絶えぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  千々石は死せるなり。千鶴子親子が右の問答をなしつるより二十日ばかり立ちて、一片の遺骨と一通の書と/寂しき川島ケに届きたり。骨は千々石の骨、書は武男の書なりき。そのスウセツを摘みてん。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【⦅前文略⦆】  旅順陥落の翌々日’、船渠’船舶等’艦隊の手に引き取ることと相成り、将校以下数名上陸いたし、私儀も上陸仕りそろ。激戦後の事とて、惨状は筆紙に尽くしがたく⦅中略⦆仮設野戦病院の前を過ぎ候うところ、ふと担架にて人を運び居候を見受け申し候う。青ケットをおおい、顔にはシロ木綿のきれをかけてこれ有り、そのきれの下より見え候う口もと顋のあたり/いかにも見覚えあるようにて、尋ね申しそうらえば、これは千々石中尉と申し候う。その時の喫驚/お察しくださるべく候う。⦅中略⦆おおいをとり申しそうらえば、色青ざめ、きびしく歯をくいしばりい申し候う。傷は下腹部に一か所、その他二か所、いずれもイスザン砲台攻撃のさい/受け候う弾創にて、今朝まで知覚これ有り候うところ、ついに絶息いたし候うよし。⦅中略⦆なお同人の同僚につきいろいろ承り候うところ、彼は軍中の憎まれ者ながら/いくさのみぎりは随分あい働き:、すでに金州攻撃の際も、部下の兵士とミナミ門の先登をいたし候うよしにて、今回もなかなか働き候うとの事に御座候う。もっとも平生は往々’士官の身にあるま-じき所行もナイナイこれ有り、陣中ながら身分不相応のキンスを貯えい申し候う。すでに一度は貔子窩において、軍司令官閣下の厳令あるにかかわらず、何か徴発いたし候うとて/土民に対し残酷千万の仕打ちこれ有り/すでにその処分もこれ有るべきところ⦅中略⦆とにかく戦死は彼がためにもっけの幸いにこれ有りべく候う。  母上様’御承知の通り、彼は重々不埒のかどもこれ有り、彼がためには実に迷惑もいたし、私儀もすでに断然絶交いたしおり候う事にこれ有りそうろえども、死骸に対しては恨みもござなく:、昔’兄弟のように育ち候う事など思いそうらえば、不覚の落涙も仕り候う事に御座候う。よって許しを受け、火葬いたし、骨をオン送り申し上げ候う。しかるべくごほうむり置きくだされたく願い奉り候う。 【⦅下略⦆】 ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が旅順にて遭遇しつる事はこれに-とどまらず、わざと書中に漏らしし一の出来事ありき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が書中に漏れたる事実は、左のごとくなりき。  千々石の死骸に会えるその日、武男はひとり遅れて波止場のほうに帰り居たり。日くれぬ。  舎営のカドのきらめく歩哨の銃剣、将校馬蹄の響き、下士をしかりいる士官、あきれ顔にたたずむシンジン、ジュウオウに行き違う軍属、それらの間を縫うて行けば、軍夫ゴロクニン、焚火にあたりつ。 「めっぽう寒いじゃねえか。ウチにいりゃ、葱鮪でイッペエてえとこだ。吉、てめえあ”またいい物’引っかけていやがるじゃねえか」  吉といわれし軍夫は、分捕りなるべし、紫緞子の美々しき胴着を着たり。 「源公を見ねえ。皮の四百両もするてえヤツを着てやがるぜ」 「源か。ヤツくれえ馬鹿に運の強えやつあねえぜ。ブツちゃア勝つ、遊んで褒美はもれえやがる、鉄砲玉ア/当たりっこなし。運のいいたヤツのこっだ。おいらなんざ大連湾でもって、から負けちゃって、この袷一貫よ。チキショウめ、分捕りでもやつけねえじゃ、ほんとにやり切れねえや」 「分捕りもいいが、きをつけねえ。さっきもおれアうっかり踏んごむと、殺しに来たと思いやがったんだね、いきなり桶の後ろから抜身のヤツが飛び出しやがって、おいらあもうちっとで娑婆にお別れよ。ちょうど兵隊さんが来て/ヤツめ/すぐくたばっちまやがったが。おいらあ/肝つぶしちゃったぜ」 「ばかなヤツじゃねえか。まだ殺され足りねえてんだな」  旅順落ちていまだ幾にちもあらざれば、げに/シンペイの人家に隠れて捜し-いだされて/抵抗せしため殺さるるも少なからざりけるなり。  聞くともなき話’耳にいりて/武男はいささか不快の念を動かしつつ、次第に波止場のほうに近づきたり。このあたり人け少なく、トモシビまばらにして、一方に建て連ねたる造兵廠の影/黒く地に敷き、一方には街灯の立ちたるが、薄月夜ほどの光を地に落とし、やせたる狗ありて、地を嗅ぎて-いけり。  武男はこの建物の影に沿うて歩みつつ、目はたちまち二十間を隔てて先に歩み行く二つのジンエイに注ぎたり。影は確かにわが陸軍の将校士官のうちなるべし。一人はカツ大に”一人は細小なるが、打ち連れて物語などして行くさまなり。武男はその一人をどこか見覚えあるように思いぬ。  たちまち武男はわれとカの二人の間にさらに人ありて/建物の影を忍び行くを認めつ。胸は不思議におどりぬ。家の影さしたれば、明らかには見えざれど、影のなかなる影は、一歩進みて止まり、ニホ行きてうかがい、まさしく二人のあとを追うて次第に近づきおるなり。たまたま家と家とのナカ絶えて、流れ込む街灯の光に武男はそのシンジンなるを認めつ。同時にものありて/彼が手中にひらめくを認めたり。胸打ち騒ぎ、武男はひそかに足を早めてそのあとを慕いぬ。  最先に歩めるカの二人が今しも街の端にいたれるとき、闇中を歩めるカの黒影は猛然とアンを離れて、二人を追いぬ。驚きたる武男がつづいて走り-いだせる時、シンジンはすでにロクシチケンの距離に迫りて、メテは上がり、短銃響き、細長なる一人はどうと倒れぬ。驚きて振りかえる他の一人を今’一発、短銃のバネをひかんとせるとき、まっしぐらに馳せつきたる武男は拳をあげて/折れよと彼が右腕をたたきつ。短銃落ちぬ。驚き怒りてつかみかかれる彼を、武男は打ち倒さんとスマう。カのカツ大’なる一人も馳せ来たりて武男に力を添えんとするとき、短銃の’音に驚かされしわが兵士/ばらばらと馳せきたり:、武男が手にあまるカのシンジンを直ちに蹴倒して引っくくりぬ。瞬間の争いに/汗になりたる武男が混雑の間よりいでけるとき、倒れし一人をたすけ起こせるカのカツ大’なる一人は/こなたに向かい来たりぬ。  この時街灯の光はまさしく片岡中将の-おもてをば照らし-いだしつ。  武男は思わず叫びぬ。 「やッ、貴方は!」 「おっ/きみは!」  片岡中将はその副官といずくかへ行ける帰りを、殊勝にもシンジンの狙えるなりき。  副’官の疵は重かりしが、中将は微傷だも負わざりき。武男は図らずしてダイキュウを救えるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。  この事いずれよりか伝わりて、浪子に達せし時、幾は限りなくよろこびて、 「ごらん遊ばせ。どうしても御縁が尽きぬのでございますよ。精出してご養生’遊ばせ。ねエ、精出して養生いたしましょうねエ」  浪子はさびしく打ちほほえみぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  いくさのうちに、年は暮れ、かつ明けて、明治二十八年となりぬ。  一月より二月にかけて威海衛’落ち、北洋艦隊亡び、三月末には南のかたボウコ列島すでにわが有に帰し、北のかたにはわが大軍ウシオのごとく進みて、遼河以東にセッキの敵を見ず。ついで講和使’来たり、四月中旬には平和条約締結の報あまねく伝わり、三国干渉のうわさについで、リョウトウ還付の事あり。同五月末/大元帥陛下’凱旋したまいて、いくさはさながら大鵬の翼を収るごとく/シュクゼンとしてやみぬ。  旅順に千々石の骨を収め、片岡中将の危厄を救いしのち、武男は威海衛の攻撃に従い、また遠く南のかたボウコ島占領の事に従いしが:、六月初旬/その乗艦のひとまず横須賀に凱旋する都合となりたるより、久々ぶりに帰京して、たえて久しきわが家の門を-いりぬ。  想えば去年の六月、席をけって母に辞したりしより/すでに一年を過ぎぬ。幾たびか死生のきわを通り来て、むかしの不快は薄らぐともなく痕を滅し、佐世保病院の雨の日、威海衛’港外/風氷る夜は想いのわが家に向かって飛びしこと幾たびぞ。  一年ぶりに帰りて見れば、家の内’なんの変わりたることもなく、わが車の音にいで迎えつる女の顔の新しくかわれるのみ。母は例のごとく肥え太りて、リュウマチス起これりとて、一日トコにあり。タザキは例のごとく日々’来たりては、六畳のヒトマに控え、例のごとく事務をとりて”また例刻に帰り行く。型に入れたるごとき日々の事、見るもの、聞くもの、さながらに去年のままなり。武男は望みを得て望みを失える心地しつ。一年ぶりに母にあいて、絶えて久しきわが家の風呂にいりて、うずたかき蒲団に安坐して、好める膳に向かいて:、さて釣床ならぬ黒ビロードの括り枕に疲れし頭を横たえて、しかも夢は結ばれず、枕べ近き時計の12時をうつまでも、目はいよいよさえて、心の奥に一種鋭き苦しみを覚えしなり。  一年の月日は親子の破綻を繕いぬ。少なくも繕えるがごとく見えぬ。母もさすがに喜びてそのヒトリゴを迎えたり。武男も母におうて一の重荷をばおろしぬ。されど二人が間は、顔見合わせしその時より、全く隔てなきあたわざるを武男も母も覚えしなり。浪子の事をば、彼も問わず、これも語らざりき。彼の問わざるは問うことを欲せざるがためにあらずして、これの語らざるは彼の聞かんことを欲するを知らざるがためにはあらざりき。ただかれこれともにこの危険の問題をば務めて避けたるを、たがいにそれと知りては、さしむかいて話トダユルごとに/おのずから座の安からざるを覚えしなり。  佐世保病院の贈り物、旅順のかの出来事、それはなくとももとより忘るる時はなきに、今昔ともに棲みし家に帰り来て見れば、見る物ごとにその面影の忍ばれて、武男は怪しく心地乱れぬ。カレは今いずこにおるやらん。わが帰りこしと知らでやあらん。思いは千里も近しとすれど、縁絶えては一里と離れぬ片岡ケ、さながらヒよりも遠く、カレが伯母の家は呼べば-こたう-る近くにありながら、なんの顔ありて行きてその消息を問うべきぞ。想えば去年の五月/艦隊の演習におもむく時、逗子に立ち寄りて別れを告げしが一生の別れとは知らざりき。かの時’別荘の門に送り-いでて「早く帰ってちょうだい」と呼びし声は今も耳に残れど、今はたれに向かいて「いま帰った」というべきぞ。  かく思いつづけし武男は、ある日’横須賀におもむきしついでに逗子に-おりて、かの別墅のほうに迷い行けば、おもての門は閉じたり。さては帰京せしかと思いわびつつ、裏口より入り見れば、じじい一人’庭の草をむしり居つ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  武男が-いり来る足音に、じじいはおもむろに振りかえりて、それと見るよりいささか驚きたるテイにて、鉢巻をとり、小腰を屈めながら 「これはおいでなせえまし。旦那様アいつおけえりでごぜえましたんで?」 「ニサンニチ前に帰った。お前も相変わらず達者でいいな」 「どういたしまして、はあ、ねっからいけませんで、はあ/お世話様になりますでごぜえますよ」 「何かい、お前はもうよっぽど長く留守をしとるのか?」 「いいや、何でごぜえますよ、その、アトゲツまでは奥様──:ウンニャお嬢──ごごご病人様とバアやさんがおいでなさったんで、それからまア/ワタクシがお留守をいたしておるでごぜえますよ」 「それではアトゲツ帰ったんだね──:ではあっちにいるのだな」  と武男はひとりごちぬ。 「はい、さよさまで。殿様がアッチからおけえりなさるその-めえに、東京におけえりなさったでごぜえますよ。ハア、それから殿様とごいっしょに上方に行かっしゃりましたご様子で、まだけえらっしゃりますめえと、はや思うでごぜえますよ」 「上方に?──では病気がいいのだな」  武男は再びひとりごちぬ。 「で、いつ行ったのだね?」 「シゴンチマエ──。」と言いかけしが、じじいはふと今の関係を思い-いでて、言い過ぎは-せざりしかとオモイガオにたちまちクチをつぐみぬ。それと感ぜし武男は思わず顔をあからめたり。  ふたり相向かいてしばし黙念としていたりしが、じじいはさすがに気の毒と思い返ししように、 「ちょいと戸を明けますべえ。旦那様、お茶でも上がってまあお休みなさっておいでなせえましよ」 「何、かまわずに置いてもらおう。ちょっと通りかかりに寄ったんだ」  言いすてて武男はかつて来なれし屋敷内を回り見れば、さすがに守る人あれば荒れざれど、戸はことごとくしめて、手水鉢に水絶え、庭の青葉は茂りに茂りて:、ところどころに梅の実こぼれ、青々としたる芝生に咲き残れる薔薇の花/半ばは落ちて、ほのかなる香りは庭に満ちたり。いずくにも人の気はなくて、屋後の松に蝉のネのみぞ姦しき。  武男はソウソウに-じじいに別れて、コウベをたれつつ-いで去りぬ。  五六日を経て、武男はまた家を辞して遠くナンセイのトに上ることとなりぬ。家に帰りて10余にち、他の同僚は凱旋の歓迎のと面白く騒ぎて過ごせるに引きかえて、武男は面白からぬ日を送れり。遠く離れてはさすがになつかしかりし家も、帰りて見れば思いのほかに面白き事もなくて、武男はついにその心のあきを満たすべきものを得ざりしなり。  母もそれと知りて、苦々しく思える様子はおのずから言葉の端にあらわれぬ。武男も母のそれと知れるをば知り得て、さしむかいて語るごとに、ものありて間をヘダツルように覚えつ。されば親子のあいだはもとのごとき破裂こそなけれ、武男は一年後の今の/かえってもとよりも母に遠ざかれるを憾みて、なお遠ざかるをいかんともするあたわざりき。親子は冷然として別れぬ。  横須賀より乗るべかりしを、出発になんなんとして/障りありてイチジツの期をあやまりたれば、武男は呉より乗ることに定め、六月の十日というに/孤影’蕭然として東海道列車に乗りぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  宇治の黄檗ザンを/今しも-いで来たりたるミタリ連れ。五十余りと見ゆる肥満の紳士は、洋装して、キンガシラのステッキを持ち、二十ばかりの淑女は黒綾のパラソルをかざし、そのあとより五十あまりの女らしきが信玄袋をさげて従いたり。  ミタリの出で来たるとともに、門前に待ち居し三輛の車/がらがらと引き来るを、老紳士はパラソルの淑女を顧みて 「いい天気じゃ。すこし歩いて見てはどうか」 「歩きましょう」 「お疲れは遊ばしませんか」と女は口を添えつ。 「いいよ、少しは歩いたほうが」 「じゃ/疲れたら乗るとして、まあぶらぶら歩いて見るもいいじゃろう」  三輛の車をあとに従えつつ、ミタリはおもむろに歩み初めぬ。いうまでもなく、こは片岡中将の一行なり。昨日’奈良より宇治に宿りて、平等院を見、扇の芝の昔を弔い、今日は山科の停車じょう-より大津のほうへ行かんとするなり。  片岡中将はサンヌる五月にリョウトウより凱旋しつ。一日’浪子の主治医を招きて書斎に密談せしが、その翌々日’より、浪子を伴ない、ヒの幾を従えて、飄然として京都に来つ。閑静なる河ぞいの宿をえらみて、ここを根拠地と定めつつ、軍服を脱ぎすてて平服に身を包み、人を避け、公会の招きを辞して:、ただ日々’浪子を連れてはカレが意のむかうままに、博覧会を初め名所’古刹を遊覧し、西陣に織り物を求め、キヨミズに土産を買い、優遊の限りを尽くして、ここに10余にちを過ぎぬ。世は暫し中将の行くえを失いて、浪子ひとりその父を占めけるなり。 「黄檗を出れば日本の茶つみかな。」茶つみのサカリはとく過ぎたれど、風は時々ホウロの香りを送りて、ここそこに二番茶を摘む女の影も見ゆなり。茶のアイアイは麦’黄いろく熟れて、さくさくと鎌の音聞こゆ。目を-あぐれば和州の山遠く夏ガスみに薄れ、宇治川は麦のホズエを渡る白帆にあらわれつ。かなたに屋根のみ見ゆる村里より/ゴケイの声/ゆるくノヅラを渡り来て、打ち仰ぐ空には薄紫に焦がれし雲/ふわふわと漂いたり。浪子は吐息つきぬ。  たちまちユンデの畑道より、夫婦と見ゆるヒャクショウ二人/話しもて-いで来たりぬ。昼餉を終えて今しもハタにいで行くなるべし。男は鎌を腰にして、女は白手拭いをかむり、歯を染め、土瓶の大いなるを手にさげたり。出会いざまに、立ち止まりて、しばし一行の様子を見し女は、行き過ぎたる男のあと小走りに追いかけて、何かささやきつ。二人ともに振りかえりて、女は美しく染めたる歯を見せてほほえみしが、また相’語りつつ花茨こぼるる畦道に-いり行きたり。  浪子の目はそのあとを追いぬ。竹の子ガサとシロ手ぬぐいは、次第に黄ばめる麦に沈みて、やがてかげも見えずなりしと思えば、たちまちハタのかなたより 「ヌシは正宗、ワシャ錆びガタナ、ヌシは切れても、ワシャきれぇーーぬ」  歌う声/哀アイとして野づらに散りぬ。  浪子はさしうつむきつ。 【 ふりかえり見し父中将は】 「くたびれたじゃろう。どれ──」  言いつつ浪子の手をとりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 【 中将は浪子の手をひきつつ】 「年のたつは早いもんじゃ。浪、お前はおぼえておるかい、お前がちっちゃかったころ、よくお父さんに負ぶさって、ぽんぽんお父さんが横腹をけったりしおったが。そうじゃ、お前が五つ6つのころじゃったの」 「オホホホホ、さようでございましたよ。殿様が-おんぶ遊ばしますと、チイオ嬢様がよくおむずかり遊ばしたんでございますね。──ただ今もどんなにおうらやましがっていらっしゃるかもわかりませんでございますよ」と気軽に幾が相槌うちぬ。  浪子はたださびしげにほほえみつ。 「駒か。駒にはおわびにどっさり土産でも持って行くじゃ。なあ、浪。駒よかチズさんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから」 「さようでございますよ。あちらのお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。──本当に私なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして──:あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの螢の名所で、ではあの駒沢がシンセツにあいました所でございますね」 「ハハハハ、幾はなかなか学者じゃの。──いや世の中の移り変わりはひどいもんじゃ。お父さんなぞが-わかか時分は、大阪から京へ上るというと、いつもあのサンジュッコクで、鮓のごと詰められたもんじゃ。いや、それよかお父さんがの、ハタチの年じゃった:、オオ西郷と有村──カエダと月照さんを大阪まで連れ出したあとで、大事な用がでけて、お父さんが行くことになって、さあ/あと追っかけたが、あんまり急いで一文無しじゃ。とうとう頬被りをして裸足で──夜じゃったが──伏見から大阪まで川土手を走ったこともあったんじゃ。ハハハハ。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ」  おくれし車を幾が手招けば、からからと挽き来つ。ミタリは乗りぬ。 「じゃ、そろそろやってくれ」  車は徐々にバクホを穿ち、茶バタケを貫きて、山科のほうに向かいつ。  前なる父が-うなじの白髪を見つめて、浪子は思いに沈みぬ。良人に別れ、不治の病をいだいて、父に伴なわるるこの遊びを、うれしといわんか、哀しと思わんか。望みも楽しみも世に尽き果てて/遠からぬ死を待つわれを不幸といわば、そのわれを思い想う父の心を汲むにかたからず。浪子は限りなき父の愛を想うにつけても、今の身はただ慰めらるるほかに/父を慰むべき道なきを哀しみつ。世を忘れ人を離れて親子ただ二人/名残の遊びをなす今日このごろは、せめて子供の昔にかえりて、物見遊山もわれから進み:、やがて-きゆべき空蝉の身には要なき唐織り物も、末はイモトに形見の品と、ことに派手なるをえらみしなり。  父を哀しと思えば、恋しきは良人’武男。旅順に父の危うきを助け給いしとばかり、あとの消息はたれ伝うる者もなく、思いは飛び/夢は通えど、今はいずくにか居たもうらん。あいたし、一度あいたし、息あるうちに一度、ただ一度あいたしと思うにつけて:、さきに聞きつる鄙歌のあいにく耳に響き、かの百姓夫婦のむつまじく語れる面影は目先に浮かび、楽しきアラヌに引きかえて/憂いを包むフウツウの袂恨めしく──  せぐり来る涙をハンケチにおさえて、泣かじと唇をかめば、あいにく咳のしきりに濡れぬ。  中将は気づかわしげに、ふりかえりつ。 「もうようございます」  浪子はわずかに笑みを作りぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  山科に着きて、トウコウの列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに座して新聞を広げつ。  おりから煙を吐き/地をとどろかして、神戸行きの列車は東より来たり、まさにいでんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開け閉てする音、プラットフォームの砂利’踏みにじりて駅フの「山科、山科」と叫びすぐる声/かなたに聞こゆるとともに、汽笛’鳴りてこなたの列車はおもむろに動き始めぬ。開ける窓の下に座して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前にこし時、窓に頬杖つきたる洋装の男と顔見合わしたり。 「まっあなた!」 「おッ浪さん!」  こは武男なりき。  車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。 「おあぶのうございますよ、お嬢様」  幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。  新聞’手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。  列車は五間過ぎ──十間過ぎぬ。落つばかり伸び上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくカのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。  たちまちレールはサンカクをめぐりぬ。両ソウのほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆるキヌを裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。  浪子は顔打ちおおいて、父の膝にうつむきたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  七月七日の夕べ、片岡中将の屋敷には、人多く集いて、皆’小声にものいえり。令嬢’浪子の病’革まれるなり。  かねては-ひと月の余もと期せられつるケイ洛の遊より、中将父子の去月’下旬/にわかに帰り来たれるとき:、玄関にいで迎えし者は、医ならざるも浪子の病勢/おおかたならず進めるを疑うあたわざりき。はたして医師は、イッシンして覚えず顔色を変えたり。月ならずして病勢にわかに加われるが上に、心臓に-いちじるしき異状を認めたるなりき。これより片岡ケには、深夜も明かり燃えて、医は間断なく出入りし、ゲツマツより避暑に赴くべかりし子爵夫人も/さすがにしばしその行’を見合わしつ。  名医の術も施すに由なく、幾が夜ごとヒごとの祈念もかいなく、病は日々に募りぬ。スウドの喀血、そのアイアイには心臓の痙攣起こり、はげしき苦痛のあとはおおむねコンコンとしてうわ言を発し、今日は昨日より、あすは今日より、衰弱いよいよ加わりつ。その咳嗽を聞いて夜ごとねむらぬ父中将の/わが枕辺に来るごとに、浪子はほのかに笑みて苦しき息を忍びつつ/明らかにもの言えど、うとうとと-なりては/絶えず武男の名をば呼びぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日あすと医師のことに戒めし/その今日は夕べとなりて、部屋部屋は明かりあまねく点きたれど、声高にもの言う者もなければ、しんしんとして人ありとは思われず。今’皮下注射を終えたるあとをしばし静かにすとて、廊下伝いに離れよりいでこし二人の婦人は、小座敷の椅子に倚りつ。一人は加藤子爵夫人なり。今一人はかつて浪子を不動祠畔に救いしかの老婦人なり。去年の秋の暮れに別れしより、しばらく相見ざりしを、浪子が父に請いて使いして招けるなり。 「いろいろ御親切に──ありがとうございます。あれも一度はお目にかかってお礼を申さなければならぬと、そう言い言い致しておりましたのですが──:お目にかかりまして本望でございましょう」 ◇。◇。◇。◇。◇。  加藤子爵夫人はわずかに口を開きぬ。  こたうべき言葉を知らざるように、老婦人はただ吐息つきて頭を-さげつ。ややありて声を低くし 「で──◇。◇。◇。はどちらにおいでなさいますので?」 「台湾にまいったそうでございます」 「台湾!」  老婦人は再び吐息つきぬ。  加藤子爵夫人はわき来る涙をかろうじておさえつ。 「でございませんと、あのとおり思っているのでございますから、世間体はどうともいたして、あわせもいたしましょうし、暇乞もいたさせたいのですが──:何をいっても昨日今日台湾に着いたばかり、それがほかと違って軍艦に乗っているのでございますから──」  おりから片岡夫人いりきつ。そのあとより目を泣きはらしたる千鶴子は急ぎ足にいりきたりて、その母を呼びたり。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  日は暮れぬ。去年の夏に新たに建てられし離れの八畳には、燭台の光ほのかにさして、大いなるネダイ一つ据えられたり。その雪白なるシーツの上に、目を閉じて、浪子は横たわりぬ。  二年に近き病に、やせ果てし身はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露われ、蒼白き-おもての-いとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が”氷に和せしセキシュをときどき筆に含まして浪子の唇を潤しつ。こなたには今’一人の看護婦とともに、目くぼみ/頬落ちたる幾が/うつむきて足をさすりぬ。室内しんしんとして、ただたちまち急に/たちまちかすかになり行く浪子の呼吸の聞こゆるのみ。  たちまち長き息つきて、浪子は目を開き、かすかなる声を漏らしつ。 「伯母さまは──?」 「来ましたよ」  言いつつしずかにいりきたりし加藤子爵夫人は、看護婦がすすむる椅子をさらに寝床近く引き寄せつ。 「少しはねむれましたか。──何? そうかい。では──」 【 看護婦と幾を顧みつつ】 「少しのマあっちへ」  ミタリを出しやりて、伯母はなお近く椅子を寄せ、浪子の額にかかるおくれ毛をなで上げて、しげしげとその顔をながめぬ。浪子も伯母の顔をながめぬ。  ややありて浪子は吐息とともに、わなわなとふるう手をさしのべて、枕の下より1通の封ぜし物を取り-いだし 「これを──届けて──わたしがなくなったあとで」  ほろほろとこぼす涙をぬぐいやりつつ、加藤子爵夫人は、さらに眼鏡の下よりハフリ落つる涙をぬぐいて、その書をしかとふところにおさめ、 「届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ」 「それから──この指環は」  ユンデを伯母の膝にのせつ。その第ヨンシに燦然と照るは一昨年の春、新婚の時武男が贈りしなり。去年去られし時、かの家に属するものをばことごとく送りしも、ひとりこれのみ-おしみて手放すに忍びざりき。 「これは──持って──行きますよ」  新たにわき来る涙をおさえて、加藤夫人はただうなずきたり。浪子は目を閉じぬ。ややありてまた開きつ。 「どうしていらっしゃる──でしょう?」 「武男さんはもうあちらに着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、──:そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども──:浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが──手紙も確かに届けるから」  ほのかなる笑みは浪子の唇に上りしが、たちまち色なきホオのあたり/ベニをさし来たり、胸は波うち、もゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、 「ああつらい! つらい! もう──もう女なんぞに──生まれはしませんよ。──あああ!」  眉をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつセキシュを含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、イノチを縮むる咳とともに、肺を絞って一盞のコウケツを吐きつ。コンコンとして寝床の上に倒れぬ。  医とともに、ミナいりぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【その3】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  医師は騒がず看護婦を呼びて、応急の手だてを施しつ。さしずして寝床に近き玻璃ソウを開かせたり。  涼しき空気は一陣’水のごとく流れ込みぬ。まっ黒き木立の後ろ/ほのかに明るみたるは、月出でんとするなるべし。  父中将を始めとして、子爵夫人、加藤子爵夫人、千鶴子、駒子、及び幾も次第にベッドをめぐりて居流れたり。風はそよ吹きて/すでに死せるがごとく横たわる浪子の鬢髪をそよがし、医はしきりに患者の-おもてをうかがいつつ脈をとれば、こなたに立てる看護婦が手中のシショクはたはたとゆらめいたり。  10分過ぎ十五分過ぎぬ。静かなる室内/かすかに吐息聞こえて、浪子の唇わずかに動きつ。医は手ずからひと匙のセキシュを口中に注ぎぬ。長き吐息は再び静かなる室内に響きて、 「帰りましょう、帰りましょう、ねえあなた──:お母さま、来ますよ来ますよ──おお、まだ──ここに」  浪子はぱっちりと目を-あきぬ。  あたかもリンタンに上れる月は一道のユウコウを射て、惘々としたる浪子の顔を照らせり。  医師は中将にめくばせして、カタエに-しりぞきつ。中将は進みて浪子の手を執り、 「浪、気がついたか。お父さんじゃぞ。──みんなここにおる」  クウを見詰めし浪子の目は次第に動きて、父中将の涙に-くもれる目と相’会いぬ。 「おとうさま──おだいじに」  ほろほろ涙をこぼしつつ、浪子はわずかにメテを移して、その左を握れる父の手を握りぬ。 「お母さま」  子爵夫人は進みて浪子の涙をぬぐいつ。浪子はその手を執り 「お母さま──御免──遊ばして」  子爵夫人の唇はふるい、物をエ言わず/顔’打ちおおいて退きぬ。  加藤子爵夫人は泣き沈む千鶴子を励ましつつ、かわるがわる進みて浪子の手を握り、駒子も進みて姉のトコぎわにひざまずきぬ。わななく手をあげて、浪子はイモトの前髪をかいなでつ。 「コウちゃん──さよなら──」  言いかけて、苦しき息をつけば、駒子は打ち震いつつひと匙のセキシュを姉の唇に注ぎぬ。浪子は閉じたる目を開きつつ、見回して 「キイさん──ミイちゃん──は?」  二人の子供は子爵夫人の計らいとして、すでに月の初めより避暑におもむけるなり。浪子はうなずきて、ややうっとりとなりつ。  この時’座末に泣き浸りたる幾は、つと身を起こして、力なくたれし浪子の手をひしと両手に握りぬ。 「バアや──」 「お、お、お嬢様、バアやもごいっしょに──」  泣きくずるる幾をわずかに次へ立たしたるあとは、しんとして水のごとくなりぬ。浪子は口を閉じ、目を閉じ、死の影は次第にその-おもてをおおわんとす。中将はさらに進みて 「浪、何も言いのこす事はないか。──しっかりせい」  なつかしき声に呼びかえされて、わずかに開ける目は加藤子爵夫人に注ぎつ。夫人は浪子の手を執り、 「浪さん、何もわたしがうけ合った。安心して、お母さんの所においで」  かすかなる笑みの唇に上ると見れば、見る見る瞼は閉じて、眠るがごとく息絶えぬ。  さしいる月は蒼白き-おもてを照らして、笑みは-なお唇に浮かべり。されど浪子は永く眠れるなり。 ◇。◇。◇。◇。◇。  三日を隔てて、浪子は青山墓地に葬られぬ。  交遊広き片岡中将の事なれば、会葬者はきわめておおく、浪子が同窓の涙を覆うて見送れるも多かりき。少しく子細を知れる者は中将のアンルイを帯びて/カンソクに立つを見て断腸の思いをなせしが、知らざる者も老女の幾が吾を忘れて棺にすがり/泣き口説けるに袖をぬらしたり。  亡き人は妙齢の淑女なればにや、夏ながらさまざまの生け花の寄贈’多かりき。そのなかにシジュウあまりの羽織袴の男がもたらしつるもののみは、中将の玄関より突き返されつ。その生け花には「川島ケ」の札ありき。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 【その1】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ヨツキあまり過ぎたり。  霜に染みたる南天の影/長々と庭に臥す午後四時過ぎ、あいも変わらず肥えに肥えたる川島未亡人は、やおら障子をあけて縁側にいで来たり、手水鉢に立ち寄りて、水なきに舌鼓を鳴らしつ。 「まあつ、──たけえ」  呼ぶ声に一人は庭口より/一人は縁側より/あわただしく走り来つ。恐慌の色は-おもてにあらわれたり。 「ワイドモはなあにをしとっか。こないだもいっといたじゃなっか。こ、これを見なさい」  柄杓をとって、からの手水鉢をからからとかき回せば、色を失える二人はただ息をのみつ。 「ハヨせんか」  耳チカき落雷にいよいよ色を失いて、二人は去りぬ。未亡人は何か口のうちにつぶやきつつ、やがてもたらしこし水に手をあらいて、いらんとするとき、他の一人は-いりきたりて小腰を屈めたり。 「何か」 「山木様とおっしゃいます方が──」  こと終わらざるに、1種の冷笑は不平と相半ばして/面積’広き未亡人の顔をおおいぬ。じつを言えば去年の秋/お豊が逃げ帰りたる以後は/おのずから山木の足も遠かりき。山木は去年このかたの-いくさに幾マンの利を占めける由を聞き知りて、川島未亡人はいよいよもって山木の仕打ちに不満をいだき:、召使いにむかいて恩の忘るべからざるを説法するごとに、暗に山木を実例にとれるなりき。しかも習慣はついに勝ちを占めぬ。 「通しなさい」  やがて屋敷に通れる山木は幾たびか/カの赤ボクロの顔を上げ下げつ。 「山木さん、久しぶりごあんすな」 「いや、御隠居様、どうも申しわけないごぶさたをいたしました。ぜひお伺い申すでございましたが、その、戦争後は商用でもって始終あちこちいたしておりまして、まずご壮健おめでとう存じます」 「山木さん、いくさじゃしっかい儲かったでごあんそいな」 「へへへへ、どういたしまして──まあおかげさまでその、とやかく、へへへへへ」  おりから小間使いが水引かけたる品々を腕もたわわにささげ来つ。 「お客様の──。」と座のモナカに差し-いだして、罷りぬ。  じろり一瞥を台の上の物にくれて、やや満足の笑みは未亡人の顔にあらわれたり。 「これはいろいろ気の毒でごあんすの、ホホホホ」 「いえ、どうつかまつりまして。ついほんの、その──いや、申しおくれましたが、武──若旦那様も大尉に御昇進遊ばして、ご勲章やご賜金がございましたそうで:、実は先日新聞で拝見いたしまして──おめでとうございました。で、只今はどちら──佐世保においででございましょうか」 「タケでごあんすか。タケは昨日帰ってきもした」 「へエ、昨日? 昨日お帰りで? へエ、それはそれは、それはよくこそ、お変わりもございませんで?」 「相変わらずボっちゃまでコマいますよ。ホホホホ、今日は朝から出て、まだカエいません」 「へエ、それは。まずお帰りで御安心でございます。いや御安心と申しますと、片岡様でも誠にハヤ/お気の毒でございました。たしかもう百かにちもお過ぎなさいましたそうで──:しかしあのご病気ばかりはどうもいたし方のないもので、御隠居様、さすがお目が届きましたね」  川島夫人は顔ふくらしつ。 「あいの事じゃ、わたしも実に-こまいましたよ。銭はつかう、悴とけんかまでする、そのあげくにゃ鬼婆のごと言わるる、とくのいかン嫁御じゃってな、山木さん──。そいばかいか/あいが死んだと聞いたから、悔やみにタザキをやって、ショウカをなあ、やったと思いなさい。礼どころか──突っ返してきもした。失礼じゃごあはんか、なあ山木さん」  浪子が死せしと聞きしその時は、未亡人もさすがによき心地はせざりしが、そのたまたま贈りしショウカの/一も二もなく突き返されしにて、よろずの感情はさらりと消えて、ただ苦味のみ残りしなり。 「へエ、それは──それはまたあんまりな。──いや、御隠居様──」 【 小間使いがささげ来たれるひと椀のメイに/なめらかなる唇をうるおし】 「昨年来は長々お世話に相成りましてございますが、娘──トヨも近々に嫁にやることにいたしまして──」 「お豊どんが嫁に?──それはまあ──そして向こうは?」 「先方は法学士で、ただいま農商務省のマルマル課長をいたしておる男で、ご存じでございましょうか、マルマルと申します人でございまして、千々石さんなども-もと世話に──:や、千々石さんと申しますと、誠にお気の毒な、まだ若いお方を、残念でございました」  一点の翳/未亡人の額をかすめつ。 「いくさはいやなもんでごあんすの、山木さん。──そいでその婚礼はいつ?」 「取り急ぎましてシアサッテに決めましてございますが──:御隠居様、どうかひとつお出でくださいますように、──:川島様の御隠居様がおすわり遊ばしておいで遊ばすと申しますれば、へへへ/手前どもの鼻も-たこうございますわけで、──:どうかぜひ──家内も出ますはずでございますが、その、取り込んでいますので──タケ──若旦那様もどうか──」  未亡人はうなずきつ。おりから五点をうつトコの置き時計を顧みて、 「おお/もう五時じゃ、日が短いな。タケはどうしつろ?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 【その2】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  白菊を手にさげし海軍士官、青山ミナミチョウのほうより共同墓地にいりきたりぬ。  あたかも新嘗祭の空/青々と晴れて、午後の光は墓地に満ちたり。秋はここにも紅に照れる桜の葉はらりと落ちて、仕切りのカキに-えむ山茶花の香りほのかに、線香の煙立ち上るあたりには小鳥の声かすかに聞こえぬ。いま笄町のほうに過ぎし車の音/かすかになりて消えたるあとは、静けさひとしお増さり、ただはるかに響く都のどよみの、この寂寞に和して、カの-うつつとこの夢と/あい共に人生の哀歌を奏するのみ。  生垣のあいだより衣の影/ちらちら見えて、やがていでこしニジュウシチハチの婦人、目を赤うして、水兵服の7つばかりのオノコの手を引きたるが、海軍士官と行きすりて、ゴロッポ過ぎし時、 「母さん、あのおじさんもやっぱし海軍ね」  という子供の声聞こえて、婦人はハンケチに顔をおさえて行きぬ。それとも知らぬ海軍士官は、道をカンガウルようにしばしば立ちとどまりては新しき墓標を読みつつ:、ふと一等墓地の中に松’桜を交え植えたる一頻りのハカショの前にいたり、うなずきて立ち止まり、カキの小門の閂を動かせば、手に従って開きつ。正面には-とし経たる石塔あり。士官は-つと入りて見回し、横手になお新しき墓標の前に立てり。松は墓標の上にスイガイをかざして、黄ばみ赤らめる桜の落ち葉/点々としてこれをめぐり、近ごろ立てしと-おぼゆる卒塔婆は簇々としてこれを護りぬ。墓標には墨痕あざやかに「片岡浪子の墓」の六字をかけり。海軍士官は墓標をながめて石のごとく突っ立ちたり。  やや久しゅうして、唇ふるい、嗚咽は食いしばりたる歯を漏れぬ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  武男は昨日帰れるなり。  五か月ゼン山科の停車じょう-に/今この墓標の下に臥す人と相見し彼は、征タイの艦中に加藤子爵夫人の書に接して、浪子のすでに世にあらざるを知りつ。昨日かえりし今日は、加藤子爵夫人をおとないて、昼すぐるまでその話にハラワタを断ち、今ここに来たれるなり。  武男は墓標の前に立ち/吾を忘れてやや久しく哭したり。  三年の幻影はかわるがわる涙の狭霧のうちに-うかみつ。新婚の日、伊香保の遊、不動祠畔の誓い、逗子の別墅に別れし夕べ、最後に山科に相見しその日、これらは稲妻のごとく次第に心に現われぬ。「早く帰ってちょうだい!」と言いし言葉は耳にあれど、ひとたび帰ればカレはすでにわが家の妻ならず、ふたたび帰りし今日はすでにこの世の人ならず。 「ああ、浪さん、なぜ死んでしまった!」  われ知らず言いて、ナンダは新たに泉とわきぬ。  一陣の風/頭上を過ぎて、桜の葉/はらはらと墓標をうって翻りつ。ふと心づきて武男はナンダを押しぬぐいつつ、墓標の下に立ち寄りて、ややしおれたる花立ての花を抜きすて、持てこし白菊をさしはさみ、手ずから落ち葉をハラい、内ポッケットをかい探りて一通の書を取りいでぬ。  こは浪子の絶筆なり。今日’加藤子爵夫人の手より受け取りて/読みし時の心はいかなりしぞ。武男は書をひらきぬ。仮名書のうつくしかりし手跡は痕もなく、その人の筆かと疑うまで字はふるい/墨はにじみて、涙のあとハンハンとして残れるを見ずや。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【 もはや最後も遠からず覚え候うまま/ひと筆’残しあげ参らせ候う: 今生にてはオン目もじのフシもなきことと存じおり候うところ/天のオン憐れみにて/先日は不慮のオン目もじ申しあげ/うれしくうれしく:しかし汽車の内のこととて何も心に任せ申さず/誠に誠にオン残り多く存じ上げ参らせ候う:】 ◇。◇。◇。◇。◇。  車の窓に身をもだえて、すみれ色のハンケチを投げしその時の有り様は、歴々と目先に浮かびつ。武男は目を上げぬ。前にはただ墓標あり。 ◇。◇。◇。◇。◇。  ままならぬ世にそうらえば、何も不運と存じ/たれも恨み申さず/このままに身は土と朽ち果て候うとも/タマは永くオンソバに付き添い── ◇。◇。◇。◇。◇。 「おとうさま、たれか来てますよ」と涼しき子供の声/耳ぢかに響きつ。引きつづいて同じ声の 「おとうさま、川島の兄さんが」と叫びつつ、花をさげたるトオばかりのオノコ/武男がそばに走り寄りぬ。  驚きたる武男は、浪子の遺書を持ちたるまま、ナンダを払ってふりかえりつつ、あたかもボモンに立ちたる片岡中将と顔見合わしたり。  武男はコウベをたれつ。  たちまち武男はムズとわが手を握られ、ふり仰げば、涙を浮かべし片岡中将の双眼と相向かいぬ。 「武男さん、わたしもキツかった!」  互いに手を握りつつ、二人が涙は滴々として墓標の下に落ちたり。  ややありて中将はナンダを払いつ。武男が肩をたたきて 「武男さん、浪は死んでも、な、わたしはやっぱいアンタの親父じゃ。しっかい頼んますぞ。──前途遠しじゃ。──ああ、久しぶり、武男さん、いっしょに行って、ゆるゆる台湾の話でも聞こう!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「小説◇ 不如帰」岩波文庫、岩波書店】 【   1938(昭和13)年7月1日第イッサツ発行】 【   1971(昭和46)年4月16日第34サツ改版発行】 ◇/1898(明治31)年から翌年にかけて「国民新聞」に連載されたとき、ホトトギスには「ほととぎす」と読みが示してあった。後に著者は、本作品を「ふじょき」と呼び、巻頭の「第百版フジョキの巻首に」にも、そうルビが付してある。だが、底本は扉と奥付に、「ほととぎす」とルビを振っている。 【入力:鈴木伸吾】 【校正:林 幸雄】 【2001年2月16日公開】 【2011年8月27日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン-/-/-/www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。