◇。◇。◇。 【氷島】 【萩原朔太郎】 ◇。◇。◇。 【自序】 ◇。◇。◇。  近代の抒情詩、概ね皆感覚に偏重し、イマヂズムに走り、あるいは理智の意匠的構成に耽って、詩的情熱の単一な原質的表現を忘れて居る。却ってこの種の-しは、こんにちの批判で素朴的なものに考えられ、詩の原始形態の部に範疇づけられて居る。しかしながら思うに、多彩の極致は単色であり、複雑の極致は素朴であり、そしてあらゆる進化した技巧の極致は、無技巧の自然的単一に帰するのである。芸術としての-しが、すべての歴史的発展の最後に於いて、究極するところのイデアは、所詮ポエヂイの最も単純なる原質的実体、即ち詩的情熱の素朴純粋なる詠嘆に存するのである。(この意味に於いて、著者は日本の和歌や俳句を、近代詩のイデアする未来的形態だと考えて居る。)  こうした理窟はとにかく、この詩集に収めた少数の-しは、すくなくとも著者にとっては、純粋にパツショネートな詠嘆詩であり、詩的情熱の最も純一の興奮だけを、素朴直截に表出した。換言すれば著者は、すべての芸術的意図と芸術的’野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである。したがって著者は、決して自ら、この詩集の価値を世に問おうと思って居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく芸術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだろう。  著者の過去の生活は、北海の極地を漂い流れる、侘しい氷山の生活だった。その氷山の島々から、幻のようなオーロラを見て、著者は憧れ、悩み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して来た。著者は「永遠の漂泊者」であり、いづこに宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。そうした痛ましい人生と、その実生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである。読者よろしく、巻尾の小解と参照して読まれたい。 ◇。◇。◇。  ちなみに、集中の「郷土ボウケイシ」五篇は、うち「監獄裏の林」のイッペンを除くほか、すべて既刊の集に発表した旧作である。ここにそれを再録したのは、詩のスタイルを同一にし、且つ内容に於いても、本書の詩篇と一脈の通ずる精神があるからである。換言すればこの詩集は、ある意味に於いて「郷土ボウケイシ」の続篇であるかも知れない。著者は東京に住んで居ながら、故郷’上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を叙べるのである。それ故にこそ、すべての詩篇は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌われて居る。読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない。これは「歌うための詩」なのである。 ◇。◇。◇。 【昭和九年二月/著者】 ◇。◇。◇。 【我が心”また新しく/泣かんとす】 【冬ひ暮れぬ/思い起せや/岩に牡蠣】 ◇。◇。◇。 【漂泊者の歌】 ◇。◇。◇。 【日は断崖の上に登り】 【憂いは陸橋の下を低く歩めり。】 【無限に遠き空の彼方】 【続ける鉄路の柵の後ろに】 【一つの寂しき影は漂う。】 ◇。◇。◇。 【ああ汝◇ 漂泊者❢】 【過去より来りて未来を過ぎ】 【久遠の郷愁を追い行くもの。】 【いかなればソウジとして】 【時計の如くに憂い歩むぞ。】 【石もて蛇を殺すごとく】 【一つの輪廻を断絶して】 【意志なき寂寥を踏み切れかし。】 ◇。◇。◇。 【ああ◇ 悪魔よりも孤独にして】 【汝は氷霜の冬に耐えたるかな❢】 【かつて何物をも信ずることなく】 【汝の信ずるところにフンヌを知れり。】 【かつて欲情の否定を知らず】 【汝の欲情するものを弾劾せり。】 【いかなればまた愁い疲れて】 【やさしく抱かれキスする者の家に帰らん。】 【かつて何物をも汝は愛せず】 【何物もまたかつて汝を愛せざるべし。】 ◇。◇。◇。 【ああ汝◇ 寂寥の人】 【悲しき落日’の坂を登りて】 【意志なき断崖を彷徨い行けど】 【いづこに家郷はあらざるべし。】 【汝の家郷は有らざるべし❢】 ◇。◇。◇。 【ルナパアクにて】 ◇。◇。◇。 【ルナパアクの午後なりき】 【楽隊は空に轟き】 【廻転木馬の目まぐるしく】 【艶めくベニのゴム風船】 【群集の上を飛び行けり。】 ◇。◇。◇。 【今日の日曜をここに来りて】 【われら模擬飛行機の座席に乗れど】 【そばへに思惟するものは寂しきなり。】 【なになれば君が瞳に】 【やさしき憂愁をたたえ給うか。】 【座席に肩を寄りそいて】 【キスするミ手を借したまえや。】 ◇。◇。◇。 【見よこの飛翔する空の向こうに】 【一つの地平は高く揚り◇ また傾き◇ 低く沈み行かんとす。】 【暮春に迫る落日’の前】 【われら既にこれを見たり】 【いかんぞ人生を展開せざらむ。】 【今日の’儚き憂愁を捨て】 【飛べよかし❢。◇ 飛べよかし❢】 ◇。◇。◇。 【明るき四月の外光の中】 【嬉嬉たる群集の中に混りて】 【ふたり模擬飛行機の座席に乗れど】 【君のワルツは遠くして】 【そばへに思惟するものは寂しきなり。】 ◇。◇。◇。 【乃木坂倶楽部】 ◇。◇。◇。 【12月また来たれり。】 【なんぞこの冬の寒きや。】 【去年はアパートの五階に住み】 【荒漠たる洋室の中】 【壁にベットを寄せてさびしく眠れり。】 【我が思惟するものは何ぞや】 【すでに人生の虚妄に疲れて】 【今もなお家畜の如くに飢えたるかな。】 【我れは何物をも喪失せず】 【また一切を失い尽せり。】 【いかなれば追わるる如く】 【歳暮の忙がしき街を憂い迷ひて】 【昼もなお酒場の椅子に酔わむとするぞ。】 【虚空を翔け行く鳥の如く】 【情緒もまた久しき過去に消え去るべし。】 ◇。◇。◇。 【12月また来たれり】 【なんぞこの冬の寒きや。】 【おとなうものはドアをノックし】 【我れの懶惰を見て憐れみ去れども】 【石炭もなく煖炉もなく】 【白堊の荒漠たる洋室の中】 【我れひとりベットに醒めて】 【昼もなお熊の如くに眠れるなり。】 ◇。◇。◇。 【殺せかし❢。◇ ころせかし❢】 ◇。◇。◇。 【いかなればかくも気高く】 【優しく◇ 麗しく◇ 香わしく】 【すべてを越えて君のみが匂いたまうぞ。】 【我れは醜き獣にして】 【いかでミ情けの数にも足らむ。】 【もとより我れは奴隷なり◇ 家畜なり】 【君がミ足の下に腹這い◇ 犬の如くに仕えまつらむ。】 【ねがわくは我れを踏みつけ】 【侮辱し】 【唾を吐きかけ】 【また床の上に-けり】 【きびしく苛責し】 【ああ◇ 遂に──】 【我が息の根の止まる時までも。】 ◇。◇。◇。 【我れはもとより家畜なり◇ 奴隷なり】 【悲しき忍従に耐えむより】 【はや君の鞭の手をあげ殺せかし。】 【打ち殺せかし❢。◇ 打ち殺せかし❢】 ◇。◇。◇。 【帰郷】 ◇。◇。◇。 【昭和四年の冬、妻と離別し/二児を抱えて故郷に帰る】 ◇。◇。◇。 【我が故郷に帰れる日】 【汽車は烈風の中を突き行けり。】 【ひとり’車窓に目ざむれば】 【汽笛は闇に吠え叫び】 【炎は平野を明るくせり。】 【まだ上州の山’は見えずや。】 【夜汽車のほのぐらきシ-ャトウの影に】 【母’なき子供らは眠り泣き】 【ひそかにみな我が憂愁を探れるなり。】 【嗚呼また都を逃れ来て】 【いづこの家郷に行かむとするぞ。】 【過去は寂寥の谷に連なり】 【未来は絶望の岸に向えり。】 【砂礫のごとき人生かな❢】 【我れ既に勇気おとろへ】 【暗憺として’とこしなへに生きるに倦みたり。】 【いかんぞ故郷に独り帰り】 【さびしくまた利根川の岸に立たんや。】 【汽車は荒野を走り行き】 【自然の荒寥たる意志の彼岸に】 【人の憤りを烈しくせり。】 ◇。◇。◇。 【ハギ亭】 ◇。◇。◇。 【少年の日は物に感ぜしや】 【我れはハギ亭の二階によりて】 【かなしき情感の思いにしずめり。】 【その亭の庭にも草木茂み】 【風ふき渡りてぼうぼうたれども】 【かの古き’またれびと/ありやなしや。】 【いにしえの日には鉛筆もて】 【オバシマにさえ-しるせし名なり。】 【──郷土ボウケイシ──】 ◇。◇。◇。 【家庭】 ◇。◇。◇。 【古き家の中に坐りて】 【互いに黙しつつ語り合えり。】 【仇敵にあらず】 【債鬼にあらず】 【「見よ❢。◇ 我れは汝の妻】 【死ぬるともなお離れざるべし。」】 【眼は意地わるしく◇ 復讐に燃え◇ 憎憎しげに刺し貫ぬく。】 【古き家の中に坐りて】 【ぬぐるべきすべもあらじかし。】 ◇。◇。◇。 【珈琲店◇ 酔月】 ◇。◇。◇。 【坂を登らんとして渇きに耐えず】 【ソウロウとして酔月のドアをひらけば】 【狼藉たる店の中より】 【破れしレコードは鳴り響き】 【場末の煤ぼけたる電気の影に】 【貧しき酒瓶の列を立てたり。】 【ああ◇ この暗愁も久しいかな❢】 【我れまさに年老いて家郷なく】 【妻子’離散して孤独なり】 【いかんぞまた漂泊の悔いを知らむ。】 【女ら群がりてタクを囲み】 【我れの酔態を見て憫みしが】 【たちまち罵りて財布を奪い】 【残りなくゼニを数へて盗み去れり。】 ◇。◇。◇。 【新年】 ◇。◇。◇。 【新年来たり】 【門松は白く光れり。】 【道路みな霜に凍りて】 【冬の凛烈たる寒気の中】 【地球は’その週暦を新たにするか。】 【我れはなお悔いて恨みず】 【百たびもまた昨日の弾劾を新たにせむ。】 【いかなれば虚無の時空に】 【新しき弁証の非有を知らんや。】 【我が感情は飢えて叫び】 【我が生活は荒寥たる山野に住めり。】 【いかんぞ暦数の回帰を知らむ】 【見よ❢。◇ 人生は過失なり。】 【今日の思惟するものを断絶して】 【百度もなお昨日の悔恨を新たにせん。】 ◇。◇。◇。 【晩秋】 ◇。◇。◇。 【汽車は高架を走り行き】 【思いは陽射しの影をさまよう。】 【静かに心を顧みて】 【満たさるなきに驚けり。】 【巷に秋の夕日散り】 【鋪道に車馬は行き交えども】 【我が人生は有りや無しや。】 【煤煙くもる裏街の】 【貧しき家の窓にさえ】 【ムラキアオイの花は咲きたり。】 【──朗吟のために──】 ◇。◇。◇。 【品川沖観艦式】 ◇。◇。◇。 【低き灰色の空の下に】 【軍艦の列は横われり。】 【暗憺として錨をおろし】 【みな重砲の城の如く】 【無言に沈鬱して見ゆるかな。】 ◇。◇。◇。 【曇天暗く】 【埠頭に観衆の群れも散りたり。】 【しだいに暮れゆく海波の上】 【既に分列の任務を終えて】 【船らみな帰港の情に渇けるなり。】 ◇。◇。◇。 【冬の日’沖に荒れむとして】 【浪は舷側に凍り泣き】 【錆は鉄板に食いつけども】 【軍艦の列は動かんとせず】 【蒼茫たる海洋の上】 【彼等の叫び、渇き、熱意するものを強くじせり。】 ◇。◇。◇。 【ひ】 ◇。◇。◇。 【赤く燃える火を見たり】 【ケモノの如く】 【汝は沈黙して言わざるかな。】 ◇。◇。◇。 【夕べの静かなる都会の空に】 【炎は美しく燃え出づる】 【たちまち流れはひろがり行き】 【瞬時に一切を亡ぼし尽せり。】 【資産も、工場も、大建築も】 【希望も、栄誉も、フウキも、野心も】 【すべての一切を焼き尽せり。】 ◇。◇。◇。 【火よ】 【いかなればケモノの如く】 【汝は沈黙して言わざるかな。】 【さびしき憂愁に閉されつつ】 【かくも静かなる薄暮の空に】 【汝は熱情を思い尽せり。】 ◇。◇。◇。 【サブウェイにて】 ◇。◇。◇。 【ひとり来りてサブウェイの】 【青きホウムをさまよいつ】 【君待ちかねて悲しめど】 【君が夢にはなきも-のを】 【なに幻の後尾灯】 【虚ろにくらきトンネルの】 【壁に映りて消え行けり。】 【壁に映りて過ぎ行けり。】 ◇。◇。◇。 【「なに幻の後尾灯」「なに幻の恋人を」に通ず。掛ケ詞。】 ◇。◇。◇。 【小出新道】 ◇。◇。◇。 【ここに道路の新開せるは】 【ひたとして市街に通ずるならん。】 【我れこの新道の交路に立てど】 【さびしきヨモの地平をきわめず】 【暗鬱なる日かな】 【天日’家並の-のきに低くして】 【林の雑木”まばらに切られたり。】 【いかんぞ◇ いかんぞ思惟をかえさん】 【我れの叛きて行かざる道に】 【新しき樹木/みな切られたり。】 【──郷土ボウケイシ──】 ◇。◇。◇。 【告別】 ◇。◇。◇。 【汽車は出発せんとほっし】 【カマに石炭は積まれたり。】 【いま遠きシグナルと鉄路の向こうへ】 【汽車は国境を越え行かんとす。】 【人のいかなる愛着もて】 【かくも機関車の火力されたる】 【烈しき熱情をなだめ得んや。】 【駅路に見送る人々よ】 【悲しみの底に歯がみしつつ】 【告別の傷みに破るなかれ。】 【汽車は出発せんとほっして】 【すさまじく蒸気を噴き出し】 【裂けたる如くに吠えさけび】 【汽笛を鳴らし吹き鳴らせり。】 ◇。◇。◇。 【動物園にて】 ◇。◇。◇。 【灼きつく如く寂しさ迫り】 【ひとり来りて園内の木立を行けば】 【枯葉みな地に落ち】 【猛獣は檻の中に憂い眠れり。】 【彼等みな忍従して】 【人の投げあたえる肉を食らい】 【本能の蒼き瞳に】 【鉄鎖のつながれたる悩みをたえたり。】 【暗鬱なる日かな❢】 【我がこの園内に来たれることは】 【彼等の動物を見るにあらず】 【我れは心の檻に閉じられたる】 【飢餓の苦しみを忍び怒れり。】 【百たびも牙を鳴らして】 【我れの欲情するものを噛みつきつつ】 【さびしき復讐を戦いしかな❢】 【いま秋の日は暮れ行かむとし】 【風は人けなき小道に散らばい吹けど】 【ああ我れはなお鳥の如く】 【無限の寂寥をも飛ばざるべし。】 ◇。◇。◇。 【中学の校庭】 ◇。◇。◇。 【我れの中学にありたる日は】 【艶めく情熱になやみたり。】 【怒りて書物を投げすて】 【ひとり校庭の草に寝ころび居しが】 【なにものの哀傷ぞ】 【はるかにかの青きを飛び去り】 【天日直射して◇ 熱く帽子の庇に’てりぬ。】 【──郷土ボウケイシ──】 ◇。◇。◇。 【国定ちゅうじの墓】 ◇。◇。◇。 【我がこの村に来りし時】 【上州の蚕すでに終りて】 【農家みな冬のシキミを閉したり。】 【太陽は埃に暗く】 【セイジたる竹藪の影】 【人生の貧しき惨苦を感ずるなり。】 【見よ◇ 此処に無用の石】 【路傍の笹の風に吹かれて】 【無頼の眠りたる墓は立てり。】 ◇。◇。◇。 【ああ我れ故郷に低徊して】 【ここに思えることは寂しきかな。】 【久遠に輪廻を断絶するも】 【ああ’かの荒寥たる平野の中】 【日月我れを投げうって去り】 【意志するものを亡び尽せり。】 【いかんぞ残生を新たにするも】 【冬の蕭条たる墓石の下に】 【汝はその認識をも無用とせむ。】 【──上州国定村にて──】 ◇。◇。◇。 【広瀬川】 ◇。◇。◇。 【広瀬川白く流れたり】 【時されば皆幻想は消え行かむ。】 【我れのライフを釣らんとして】 【過去の日’川辺に糸をたれしが】 【ああ’かの幸福は遠きにすぎさり】 【ちいさき魚は目にも止まらず。】 【──郷土ボウケイシ──】 ◇。◇。◇。 【虎】 ◇。◇。◇。 【虎なり】 【コウ茫として巨像の如く】 【百貨店ジョウオクカイの檻に眠れど】 【汝はもと機械にあらず】 【牙歯もて肉を食い裂くとも】 【いかんぞ人間の物理を知らむ。】 【見よ◇ 穹窿に煤煙’流れ】 【工場クガイの屋根屋根より】 【悲しき汽笛は響き渡る。】 【虎なり】 【虎なり】 ◇。◇。◇。 【午後なり】 【バルウムは高く揚りて】 【薄暮に迫る都会の空】 【高層建築の上に遠く坐りて】 【汝は旗の如くに飢えたるかな。】 【杳として眺望すれば】 【街路を這い行く蛆虫ども】 【生きたる食餌を暗鬱にせり。】 ◇。◇。◇。 【虎なり】 【エレベエタアの往復する】 【東京シチュウ繁華の屋根に】 【琥珀のマダラなる毛皮をきて】 【荒野の如くに寂しむもの。】 【虎なり❢】 【ああすべて汝の残像】 【虚空のむなしき全景たり。】 【──銀座松坂屋の屋上にて──】 ◇。◇。◇。 【無用の書物】 ◇。◇。◇。 【ソウハクの人】 【路上に書物を売れるを見たり。】 【アバラみな瘠せ】 【シャモの如くに叫べるを聴く。】 【我れはもと無用の人】 【これはもと無用の書物】 【一銭にて人に売るべし。】 【冬ちかき日に袷をきて】 【非有の窮乏は酢えはてたり。】 【いかなれば涙を流して】 【かくも黄色く古びたる頁の上に】 【我が情熱するものを情熱しつつ】 【寂しき人生を語り続けん。】 【我れの認識は空無にして】 【我れの所有は無価値に尽きたり。】 【買うものはこれを買うべし。】 【路上にコウジンは散らばり去り】 【烈風は砂を巻けども】 【我が古き感情は叫びて止まず。】 【見よ❢。◇ これは無用の書物】 【一銭にて人に売るべし。】 ◇。◇。◇。 【虚無の鴉】 ◇。◇。◇。 【我れはもと虚無の鴉】 【かの高き冬至の屋根に口を開けて】 【風見の如くに咆号せむ。】 【季節に認識ありやなしや】 【我れの持たざるものは一切なり。】 ◇。◇。◇。 【我れの持たざるものは一切なり】 ◇。◇。◇。 【我れの持たざるものは一切なり】 【いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。】 【独り橋を渡るも】 【灼きつく如く迫り】 【心みな非力の怒りに狂わんとす。】 【ああ我れの持たざるものは一切なり】 【いかんぞ乞食の如くシュウジとして】 【道路に落ちたるを乞うべけんや。】 【捨てよ❢。◇ 捨てよ❢】 【汝の獲たるケチくさき名誉と希望と、】 【汝の獲たる汗くさきゼニを握って】 【勢ひ猛に走り行く自動車の後】 【枯れたるガイジュの幹に叩きつけよ。】 【ああすべて卑猥なるもの】 【汝の非力なる人生を抹殺せよ。】 ◇。◇。◇。 【監獄裏の林】 ◇。◇。◇。 【監獄裏の林にいれば】 【テンチョウたかきにしばなけり。】 【いかんぞ我れの思うこと】 【ひとり叛きて歩める道を】 【寂しき友にも告げざらんや。】 【河原に冬の枯れ草もえ】 【重たき石を運ぶ囚人ら】 【みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。】 【暗鬱なる思想かな】 【我れの破れたる服を裂きすて】 【ケモノのごとくに悲しまむ。】 【ああ季節に遅く】 【上州の空の烈風に寒きは何ぞや。】 【まばらに残る林の中に】 【看守の居て】 【剣ヅカの低く鳴るを聴けり。】 【──郷土ボウケイシ──】 ◇。◇。◇。 【昨日にまさる恋しさの】 ◇。◇。◇。 【昨日にまさる恋しさの】 【湧きくる如く高まるを】 【忍びてこらえ何時までか】 【悩みに’いくるものならむ。】 【もとより’君はかぐわしく】 【あでに匂える花なれば】 【我が世に一つ残されし】 【セイシの果ての情熱の】 【恋さえそれと知らざらむ。】 【空しく君を望み見て】 【百たび胸を焦すより】 【死なば死ねかし’感情の】 【かくも苦しき日の暮れを】 【鉄路の道に迷い来て】 【破れむまでに嘆くかな】 【破れむまでに嘆くかな。】 【──朗吟調小曲──】 ◇。◇。◇。 【詩篇小解】 ◇。◇。◇。  漂泊者の歌(序詩)◇ 断崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く’人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。/巻頭に掲げて序詩となす。 ◇。◇。◇。  帰郷◇ 昭和四年。妻は二児を残して家を去り、杳として行方を知らず。我れ独りあとに残り、ソウロウとして父の居る上州の故郷に帰る。上野発七時十分、小山行き高崎廻り。夜汽車の暗爾たるシ-ャトウの影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。声最も悲しく、我が心すべて断腸せり。既にして家に帰れば、父の病い’とみに重く、バンケイ悉く蕭条たり。 ◇。◇。◇。  乃木坂倶楽部◇ 乃木坂倶楽部は麻布一連隊の付近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二児を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日コウボウし、懶惰最も極めたり。昼はベットにいねて寒さに悲しみ、夜は遅く起きて徘徊す。稀れにおとなう人あれども応えず、ドアに固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女ら、ひそかに我がコクを憫む如く、時に来りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日’辻潤’来たり、我が生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大いに笑い、共に酒を汲んで長嘆す。 ◇。◇。◇。  品川沖観艦式◇ 昭和四年一月、品川沖に観艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、観衆はみな散りたれども、灰色の悲しき軍艦ら、なお錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、帰港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の帰すべき港を知らず。暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。鬱然として怒りに耐えず、遠く沖に向かいて叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。 ◇。◇。◇。  珈琲店◇ 酔月◇ 酔月の如き珈琲店は、行くところの侘しき場末に実在すべし。我れの如き悲しき痴漢◇、老いて人生の家郷を知らず、酔うて巷路に徘徊するもの、いづこにまた有りや無しや。坂を登らんとほっして、我が心は常に渇きに耐えざるなり。 ◇。◇。◇。  新年◇ 新年来たり、新年去り、地球は百度廻転すれども、宇宙にあたらしきものあることなし。年年歳歳、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が欲情するものは過失にあらず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来たり、百度過失を新たにするも、我れはなお悲壮に耐え、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。 ◇。◇。◇。  ひ◇ 我が心の求めるものは、常に静かなる情緒なり。かくも優しく、美しく、静かに、静かに、燃えあがり、音楽の如く流れひろがり、意志の烈しき悩みを知るもの。火よ❢。◇ 汝の優しき音楽もて、我れの夕べの臥床の中に、眠りの恋歌を唄えよかし。我れの求めるものは情緒なり。 ◇。◇。◇。  国定ちゅうじの墓◇ 昭和五年の冬、父の病いを看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心’烈しき飢餓に耐えず。ひそかに家を脱して自転車に乗り、烈風の砂礫を突いて国定村に至る。ちゅうじの墓は、◇荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、くらき竹藪の影にふるえて、冬の日の天日’暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐えたり。我れここを低徊して、始めてさらに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して-しを作る。 ◇。◇。◇。  監獄裏の林◇ 前橋監獄は、利根川に望む崖上にあり。赤き煉瓦の長塁、夢の如くに遠く連なり、地平に落日’の影を曳きたり。中央に望楼ありて、悲しくヨモを眺望しつつ、常に囚人の監視にそなう。後ろに楢の林を負い、周囲みな平野の麦畠に囲まれたり。我れ少年の日は、常に麦笛を鳴らしてここを過ぎ、長き煉瓦の塀を廻りて、果なき憂愁にさびしみしが、崖を下りて河原に立てば、冬枯れの木立の中に、悲しき懲役の人々、看守に引かれて石を運び、利根川の浅き川瀬を速くせり。 ◇。◇。◇。  恋愛詩4篇◇ 「ルナパアクにて」:「ころせかし❢◇ ころせかし❢。」:「サブウェイにて」:「昨日にまさる恋しさの」:など凡て昭和五から七年の作。今は既に破き棄てたる、日記の儚きエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に独り’住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く/悔い多し。これもまた北極の長夜に見たる、侘しきオーロラの幻灯なるべし。 ◇。◇。◇。  郷土ボウケイシ(再録)◇ 郷土ボウケイシ五篇、うち「監獄裏の林」を除き、すべて前の詩集より再録す。「ハギ亭」:「小出新道」:「広瀬川」:など、みな我が故郷’上州’前橋市にあり。我れ少年の日より、常にその川辺を逍遥し、その街路を行き、そのコバタ亭の庭に遊べり。蒼茫として歳月過ぎ、広瀬川今も白く流れたれども、我が生の無為を救うべからず。今はた無恥の詩集を刊して、再度’世の笑いを招かんとす。稿してここに筆を終り、いかんぞ自ら懺死-せざらむ。 ◇。◇。◇。 【底本:「萩原朔太郎全集◇ 第二巻」筑摩書房】 【1976(昭和51)年3月25日初版発行】 【底本’の親本:「氷島」第一書房】 【1934(昭和9)年6月1日発行】 【入力:kompass】 【校正:今井忠夫】 【2003年12月15日作成】 【2018年12月3日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpsコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。