◇。◇。◇。 【家なき子(下《げ》)】 【マロ】 【楠山正雄訳】 ◇。◇。◇。 【第18章】 【ジャンチイイの石切り場】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》たちはやがて人通りの多い往来へ出たが、歩いているあいだ親方はひと言も言わなかった。まもなくある|せま《狭》い小路《コウジ》へ|はい《入》ると、|かれ《/彼》は往来の捨て石に|こし《腰》をかけて、たびたび額を手でなで上げた。それは困ったときによく|かれ《彼》のするくせであった。 「いよいよ慈善家の世話になるほうがよさそうだな」と|かれ《彼》は独り言のように言った。「だがさし当たりわ《’わ》たしたちは一銭の金《-かね》も、一か《欠》けのパンもなしに、パ《/パ》リのどぶの中に捨てられている‥《‥:》‥おまえお《’お》なかがすいたろう」と|かれ《彼》は|わたし《私》の顔を見上げながらたずねた。 「|わたし《私》はけさいただいた小さなパンだけで、あれからなにも食べませんでした」 「かわいそうにお《/お》まえは今夜も夕食なしにね《寝》ることになるのだ。しかもどこへね《寝》るあてもないのだ」 「じゃあ、あなたはガロフォリのうちにと《泊》まる|つも《積》りでしたか」 「|わたし《私》はおまえをあそこへと《泊》めるつもりだった。それであれが冬じゅうおまえを借りきる代わりに、二十《ニジュッ》フランぐらいは出そうから、それでわしもしばらくやってゆくつもりだった。けれどあの男があんなふうに子どもらをあつかう様子を見ては、おまえをあそこへは置いて行けなかった」 「ああ、あなたはほんとにいい人です」 「まあ、|たぶん《多分》この年を取って固くなった流浪人の心にも、まだいくらか若い時代の意気が残っているとみえる。この年を取った流浪人はせっかく狡猾に胸算用を立てても、まだ心の底に残っている若い血がわき立って、いっさいを引っくり返してしまうのだ‥《‥:》‥さてどこへ行こうか」と|かれ《彼》はつぶやいた。  もうだいぶ|おそ《遅》くなって、ひどく寒さが加わってきた。北風がふいてつらい晩が来ようとしていた。長いあいだ、親方は石の上に|すわ《座》っていた。カピと|わたし《私》はだまってその前に立って、なんとか決心のつくまで待っていた。とうとう|かれ《彼》は立ち上がった。 「どこへ行くんです」 「ジャンチイイ。そこでいつかね《寝》たことがある石切り場を見つけることにしよう。おまえつ《’つ》かれているかい」 「|ぼく《僕》はガロフォリの所で休みました」 「|わたし《私》は休まなかったので、どうもつらい。あまり無理はできないが、行かなければなるまい。さあ前へ進め、子どもたち」  これはいつも|わたし《私》たちが出発するとき、犬や|わたし《私》に向かって用いる|かれ《彼》の|上きげん《ジョウ機嫌》な合図であった。けれど今夜は《は’》それをいかにも悲しそうに言った。  いま|わたし《私》たちはパリの町の中をさまよい歩いていた。夜は暗かった。ちらちら風にまばたきながら、ガス灯がぼんやり往来を照らしていた。一足《ひと足》ごとに|わたし《私》たちは氷のは《張》った|しき《敷》石の上ですべった。親方がしじゅう|わたし《私》の手を引いていた。カピが|わたし《私》たちのあとからついて来た。しじゅうかわいそうな犬は立ち止まって、ふり返っては、はきだめの中を探して、なにか骨でもパンくずでも見つけようとした。ああ、ほんとにそれほど腹を減らしているのだ。けれどはきだめは雪が固くこおりついていて、探しても、むだであった。耳をだらりと下げたまま|かれ《彼》はとぼとぼと|わたし《私》たちに追い着いて来た。  大通りをぬけて、たくさんの小路小路を出ると、またたくさんの大通りがあった。|わたし《私》たちは歩いて歩いて歩き続けた。たまたま会う往来の人がびっくりして|わたし《私》たちをじろじろ見た。それは|わたし《私》たちの身なりのためであったか、|わたし《私》たちがとぼとぼ歩いて行くつかれきった様子が、|かれ《/彼》らの注意をひいたのであろうか。行き会う巡査もふり向いて|わたし《私》たちを見送った。  ひと言も口をきかずに親方は歩いた。|かれ《彼》の背中はほとんど二重《フタエ》に曲がっていたが、寒いわりに|かれ《彼》の手は|わたし《私》の手の中でかっかとしていた。|かれ《彼》はふるえていたように思われた。ときどき|かれ《彼》が立ち止まって、しばらく|わたし《私》の肩によりかかるようにするときには、|かれ《/彼》の|からだ《体》全体がふるえて、いまにもくずれるように感じた。いつもなら|わたし《私》は|かれ《彼》に問いかけることはしなかったが、今夜こそはしなければならないと感じた。それに|わたし《私》は、どれほど|かれ《彼》を愛しているかを語りたい燃えるような希望を、いや少なくとも、なにか|かれ《彼》のためにしてやりたい希望を持っていた。 「あなたはご病気なんでしょう」|かれ《彼》がまた立ち止まったとき、|わたし《私》は言った。 「どうもそうではないかと思うよ。とにかく|わたし《私》は|ひじょう《非常》に|つか《疲》れている。この寒さが|わたし《私》の年を取った|からだ《体》にはひどくこたえる。|わたし《私》はいい|ねどこ《寝床》と炉の前で夕飯を食べたい。だがそれは|ゆめ《夢》だ。さあ、前へ進め、子どもたち」  前へ進め。|わたし《私》たちは町を後《あと》にした。|わたし《私》たちは郊外へ出ていた。もう往来の人も巡査も街灯も見えない。ただ窓明かりがそこここにちらちらして、頭の上には黒ずんだ青空に|二、三点星《ニ三点’星》が光っているだけであった。いよいよはげしくあらくふきまくる風が着物を|からだ《体》に巻きつけた。幸いと向かい風ではなかったが、でも|わたし《私》の上着のそでは肩の所までぼろば《ぼ》ろに破れていたから、そのすきから風は|えんりょ《遠慮》なくふきこんで、《、/》骨まで通るような寒気が身にこたえた。  暗かったし、往来はしじゅうたがいちがいに入り組んでいたが、親方は案内を知っている人のようにずんずん歩いた。それで|わたし《私》も迷うことはないとしっかり信じて、ついて行った。するととつぜん|かれ《彼》は立ち止まった。 「おまえ、森が見えるかい」と|かれ《彼》はたずねた。 「そんなものは見えません」 「大きな黒いかたまりは見えないかい」  |わたし《私》は返事をするまえに四方を見回した。木も家も見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。 「|わたし《私》がおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。ほら、あちらを見てくれ」|かれ《彼》は右の手を前へさし延べた。|わたし《私》はそっけなくなにも見えないとは言いかねて、返事をしなかったので、|かれ《/彼》はまたよぼよぼ歩き出した。  |二、三分《ニサンプン》だまったまま過ぎた。そのとき|かれ《彼》はもう一度立ち止まっては、また森が見えないかとたずねた。ばくぜんとした恐怖に声をふるわせながら、|わたし《私》はなにも見えないと答えた。 「おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう一度よくご覧」 「|ほんとう《本当》です。森なんか見えません」 「広い道もないかい」 「なんにも見えません」 「道をまちがえたかな」  |わたし《私》はなにも言えなかった。なぜなら|わたし《私》はどこにいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわからなかったから。 「もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかったら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をまちがえたかもわからん」  |わたし《私》たちが道に迷ったことがわかると、もう|からだ《体》になんの力も残らないように思われた。親方は|わたし《私》の|うで《腕》を引っ張った。 「さあ」 「|ぼく《僕》はもう歩けません」 「いやはや、おまえは|わたし《私》がおまえをしょって行けると思うかい。|わたし《私》は|すわ《座》ったらもう二度と立ち上がることはできないし、そのまま寒さに|こご《凍》えて死んでしまうだろうと思うからだ」  |わたし《私》は|かれ《彼》について歩いた。 「道《みち》に深い車の輪のあとがついてはいないか」 「いいえ、なんにも」 「じゃあ引っ返さなきゃならない」  |わたし《私》たちは引っ返した。今度は風に向かうのである。それは|むち《鞭》のようにぴゅうと顔を打った。|わたし《私》の顔は火で焼かれるように思われた。 「車の輪のあとを見たら言っておくれ。左のほうへ分かれる道をとって行かなければならない」と親方は力なく言った。「それが見えたら言っておくれ。そこの四つ角に円い頭のような形の|いばら《茨》がある」  十五分ばかり|わたし《私》たちは風と争いながら歩み続けた。しんとした夜の沈黙の中で|わたし《私》たちの足音がか《/か》わいた固い土の上でさびしくひびいた。もうふみ出す力はほとんどなかったが、でも親方を引きずるようにしたのは|わたし《私》であった。どんなに|わたし《私》は左のほうを心配しては|なが《眺》めたろう。暗いかげの中で|わたし《私》はふと小さな赤い灯を見つけた。 「ほら、ご覧なさい、明かりが」と|わたし《私》は指さしながら言った。 「どこに」  親方は見た。その明かりはほんのわずかの距離にあったが、|かれ《/彼》にはなにも見えなかった。|わたし《私》は|かれ《彼》の視力がだめになったことを知った。 「その明かりがなにになろう」と|かれ《彼》は言った。「それは|だれ《誰》かの仕事場の机にともっているランプか、死にかかっている病人のまくらもとの灯だ。|わたし《私》たちはそこへ行って戸をたたくわけには《は’》いかない。遠く|いなか《田舎》へ出れば、夜になって宿を|たの《頼》むこともできよう。けれどこうパリの近くでは‥《‥:》‥この|へん《辺》で宿を|たの《頼》むことはできない。さあ」  二足三足行《フタ足ミ足’行》くと|わたし《私》は横へ|はい《入》る道を見つけたように思った。ちょうど|いばら《茨》のやぶらしく思われる黒いかたまりもあった。|わたし《私》は先へ急いで行くために親方の手を放した。往来には深いわだちのあとが残っていた。 「ほら、ここに輪のあとがある」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。 「手をお貸し。|わたし《私》たちは救われた」と親方が言った。「ご覧、今度は森が見えるだろう」  |わたし《私》はなにか黒《-くろ》いものが見えたので、森が見えるように思うと言った。 「五分のうちにそこまで行ける」と|かれ《彼》はつぶやいた。  |わたし《私》たちはとぼとぼ歩いた。けれどこの五分間が永遠のように思われた。 「車の輪のあとはどちらにあるね」 「右のほうにあります」 「石切り場の入口は左のほうだよ。|わたし《私》たちは気がつかずに通り過ぎてしまったにちがいない。あともどりするほうがいいだろう」 「輪のあとはどうしても左のほうにはついていません」 「では《は’》またあともどりだ」  もう一度わたしたちはあともどりをした。 「森が見えるか」 「ええ、左手に」 「それから車の輪のあとは」 「もうありません」 「|わたし《私》は目が見えなくなったかしらん」と親方は低い声で言って、両手を目に当てた。「森についてまっすぐにおいで。手を貸しておくれ」 「おや、|へい《塀》があります」 「いいや、それは石の山だよ」 「いいえ、確かに|へい《塀》です」  親方は、一足|はな《’離》れて、|ほんとう《本当》に|わたし《私》の言ったとおりであるか、試してみようとした。|かれ《彼》は両手をさし延べて|へい《塀》にさわった。 「そうだ、|へい《塀》だ」と|かれ《彼》はつぶやいた。「入口は|どこ《何処》だ。車の輪のあとのついた道を探してごらん」  |わたし《私》は地べたに身をかがめて、|へい《塀》の角《カド》の所まで残らずさわってみたが、入口はわからなかった。そこでまたヴィタリスの立っている所まで|もど《戻》って、今度は向こうの側をさわってみた。結果は同じことであった。入口もなければ門もなかった。 「なにもありません」と|わたし《私》は言った。  情けないことになった。疑いもなく親方は思い|ちが《違》いをしていた。|たぶん《多分》ここには石切り場などはないのだ。ヴィタリスはしばらく|ゆめ《夢》の中をたどっているように、ぼんやりつっ立っていた。カピは|がまん《我慢》ができなくなってほ《吠》え始めた。 「もっと先を見ましょうか」と|わたし《私》は聞いた。 「いや石切り場に|へい《塀》が建ったのだ」 「へいが建った」 「そうだ、入口をふさいでしまったのだ。中へ|はい《入》ることはできなくなったのだ」 「へえ、じゃあ」 「どうするって。もうわからなくなった。ここで死ぬのさ」 「まあ親方‥‥」 「そうだ。おまえは死にはしない。おまえはまだ若いのだから。さあ歩こう。まだ歩けるかい」 「おお、でもあなたは」 「いよいよ行けなくなったら、《◇、》老いぼれ馬のように|たお《倒》れるだけさ」 「どこへ行きましょう」 「パリへ|もど《戻》るのだ。巡査に出会ったら、警察へ連れて行ってもらうのだ。|わたし《私》はそれをしたくなかったが、おまえを|こご《凍》え死にさせることはできない。さあ、おいで、ルミ。さあ、前へ進め、子どもたち、元気を出せ」  |わたし《私》たちはもと来た道をまた引っ返した。何時《ナンジ》であったか|わたし《私》はまるでわからない。なんでも何時間も何時間も長い長いあいだそれはのろのろと歩いた。きっと十二時か一時にもなったろう。空は相変わらずどんよりしてす《/す》こしばかり星が出ていた。その出ていたすこしばかりの星もいつもよりはずっと小さいように思われて、風の勢いは強くなるばかりであった。往来の家は戸閉《戸じ》まりをしっかりしていた。そこに、夜着にくるまって|ねむ《眠》っている人たちも、|わたし《私》たちが外でどんなに寒い目に会っているか、知っていたら、|わたし《私》たちのためにそのドアを開けてくれたろうと思われた。  親方は《は’》ただのろのろ歩いた。息がだんだんあらくなって、長い道をかけた人のようにせいせい言っていた。|わたし《私》が話しかけると、|かれ《/彼》はだまっていてくれという合図をした。  |わたし《私》たちはもう野原をぬけて、|いま《今》は町に近づいていた。そこここの|へい《塀》と|へい《塀》との間にガス灯がちらちらしていた。親方は立ち止まったとき、|かれ《/彼》がいよいよ力のつきたことを|わたし《私》は知った。 「一|けん《軒》どこかのうちをたたきましょうか」と|わたし《私》はたずねた。 「いいや、入れてくれは《は’》しないよ。この|へん《辺》に住んでいるのは植木屋だ。朝早く市場《イチバ》へみんな出かけるのだ。この時刻にどうして起きてうちへ入れてくれるものか。さあ行こう」  しかし意地は張っても、|からだ《体》の力はまったくつ《尽》きていた。しばらくしてまた|かれ《彼》は立ち止まった。 「すこし休まなければ」と|かれ《彼》は力なく言った。「|わたし《私》はもう歩けない」  さくで大きな花園を囲った家があった。その門のそばの積みごえの山にかけてあるたくさんの|わら《藁》を、風が往来のさくの根かたにふきつけていた。 「|わたし《私》はここに|すわ《座》ろう」と親方が言った。 「でも|すわ《座》れば、今度立《今度’立》ち上がることができなくなるとおっしゃったでしょう」  |かれ《彼》は返事をしなかった。ただ|わたし《私》に手まねをして、門の前に|わら《藁》を積み上げるようにと言った。この|わら《藁》のしとねの上に|かれ《彼》は|すわ《座》るというよりばったり|たお《倒》れた。|かれ《彼》の歯はがたがた鳴って、全身がひどくふるえた。 「もっと|わら《藁》を持っておいで」と|かれ《彼》は言った。「わらをたくさんにして風を防ごう」  まったく風がひどかった。寒さばかりではなかった。|わたし《私》は集められるだけありったけの|わら《藁》を集めて親方のわきに|すわ《座》った。 「しっかり|わたし《私》にくっついておいで」と|かれ《彼》は言った。「カピをひざに乗せておやり。|からだ《体》のぬくみでおまえもいくらか温かくなるだろう」  親方ほどの経験を積んだ人がいまの場合こ《”こ》んなまねをすれば|こご《凍》えて死んでしまうことはわかりきっているのに、その危険を平気でおかすということは、もう正気ではなかつ《っ》た証拠であった。実際久《実際’久》しいあいだの心労と老年に、この最後の困苦が加わって、|かれ《/彼》はもう自分を支える力を失っていた。自分でもど《’ど》れほどひどくなっているか、|かれ《/彼》は知っていたろうか。|わたし《私》が|かれ《彼》のそばにぴったりはい寄ったときに、|かれ《/彼》は身をかがめて|わたし《私》にキッスした。これが|かれ《彼》が|わたし《私》にあたえた二度目のキッスであった。そしてああ、それが最後のキッスであった。  |わたし《私》は親方にすり寄ったと思うと、もう目がくっついたように思った。|わたし《私》は目を開けていようと努めたができなかった。|うで《腕》をつねっても、肉にはなんの感じもなかった。|わたし《私》がひざを立てたその間《あいだ》にもぐって、カピはもう|ねむ《眠》っていた。風は|わら《藁》のたばを木から|かれ《枯》葉をはらうように|わたし《私》たちの頭にふきつけた。往来には人ひとりいなかった。|わたし《私》たちのぐるりには死の沈黙があった。  この沈黙が|わたし《私》をおびえさせた。なにを|わたし《私》は|こわ《怖》がっているのだ。|わたし《私》はわからなかったが、とりとめもない恐怖がのしかかってきた。|わたし《私》はここで死にかけているように思った。そう思うとたいへん悲しくなった。  |わたし《私》はシャヴァノンを思い出した。かわいそうなバルブレンのおっかあを思い出した。|わたし《私》は|かの《彼》女をもう一度見《一度’見》ることなしに、|わたし《私》たちの小さな家や、|わたし《私》の小さな花畑を見ることなしに死ななければならないのだ‥‥。  するうち|わたし《私》はもう寒くはなくなった。|わたし《私》はいつか自分の小さな花畑に帰って来たように思った。太陽はかがやいていて、それはずいぶん暖かかった。|きくいも《キクイモ》が金の花びらを開いていた。小鳥がこずえの中や|かきね《垣根》の上で鳴いていた。そうだ、そうしてバルブレンのおっかあがさざ波を立てている小川へ出て、いま洗ったばかりの布を外へ干している。  |わたし《私》はシャヴァノンを|はな《離》れて、アーサとミリガン夫人と|いっしょ《一緒》に白鳥号に乗っている。  やがてまた目が閉じた。心が重たくなったように思った。そしてもうなにも覚えてはいなかった。 ◇。◇。◇。 【第19章】 【リーズ】 ◇。◇。◇。  目を覚ますと|わたし《私》は寝台《ネダイ》の上にいた。大きな炉のほのおが|わたし《私》の|ねむ《眠》っている部屋を照らした。|わたし《私》はついぞこの部屋を見たことがなかった。|わたし《私》を取り巻いて寝台《ネダイ》のそばに立っている人たちの顔も知らなかった。そこにねずみ色の背広を着て、木の|くつ《靴》をはいた男と、|三、四人《サンヨニン》の子どもがいた。その中でことに目についたのは六つばかりの小さな女の子で、それはすばらしく大きな目がいまにもものを言うかと思うように、いかにも生き生きとかがやいていた。  |わたし《私》はひじで起き上がった。みんながそばへ寄って来た。 「ヴィタリスは」と|わたし《私》はたずねた。 「あの子は父さんを探しているのだよ」と、子どもたちの中でいちばん総領らしいのが言った。 「あの人は父さんではありません。親方です」と|わたし《私》は言った。「どこへ行きました。カピはどこにいますか」  ヴィタリスが|ほんとう《本当》の父親であったなら、|たぶん《多分》この人たちも|えんりょ《遠慮》しいしいこの知らせを伝えたかもしれない。けれどその人はほんの親方というだけであったと知ると、|かれ《/彼》らはいきなり事実を打ち明けて聞かしてくれた。  みんなの話では、あの気の|どく《毒》な親方は死んだのであった。|わたし《私》たちが|つか《疲》れきって|たお《倒》れたその門の中に住んでいた植木屋が見つけたのであった。あくる朝早く、|かれ《/彼》の|むすこ《息子》が野菜や花を持って市場《イチバ》へ出かけようとするときに、|かれ《/彼》らは|わたし《私》たちが|いっしょ《一緒》に|しも《霜》の上に固まって、すこしばかりの|わら《藁》をかぶって|ねむ《眠》っていたのを見つけた。ヴィタリスはもう死んでいた。|わたし《私》も死ぬところであったのを、カピが胸の所へ|はい《入》って来て、|わたし《私》の心臓を温かにしていてくれたために、かすかな気息が残っていた。|かれ《彼》らは|わたし《私》たちをうちの中に運び入れて、子どもたちの一人の温かい寝台《ネダイ》の上にね《寝》かしてくれたのである。それから六時間ほど、まるで死んだようになってね《寝》ていたが、血のめぐりがついてくると、呼吸も強く出るようになった。そうしてとうとう目を覚ましたのであった。  |わたし《私》は|からだ《体》もたましいもまったくしびれきったようになっていたが、このときはもう|かれ《彼》らの話を聞いてわかるだけに覚めていたのであった。  ああ、ヴィタリスは死んでしまったのである。  この話をしてくれたのは、ねずみ色の背広を着た人であった。この人の話をしているあいだ、びっくりした目をして、じつ《っ》と|わたし《私》を見つめていた女の子は、ヴィタリスが死んだと聞いて、|わたし《私》がいかにもがっかりしたふうをしたのを見つけると、そこを立って父のそばへ行き、片手を父の|うで《腕》にかけ、片手で|わたし《私》のほうを指さしながらなにか話をした。話といっても、|ふつう《普通》の|ことば《言葉》でなく、ただ優しい、しおらしい嘆息の声のようなものであった。  それに|かの《彼》女の身ぶりと目つきとは、べつに|ことば《言葉》の助けを借りる必要のないほどじゅうぶんにものを言って、そこによけい自然な情愛がふくまれているようであった。  アーサと別れてこのかた、|わたし《私》はつい一度もこんなに取り|すが《縋》りたいような、親切のこもった、|ことば《言葉》に言えない情味を感じたことはなかった。それはちょうど、バルブレンのおっかあが、いつもキッスするまえに|わたし《私》をながめるときのような感じであった。ヴィタリスが死んで、|わたし《私》は世の中に置き去りにされたが、でももう独りぼっちではない、という気がした。|わたし《私》を愛してくれる者が、まだそばにいるような気持ちがした。 「ああ、そうだ、リーズの言うとおりだ。こりゃああの子も聞くのがつらいだろうが、やはり|ほんとう《本当》のことは言わねばならぬ。|わたし《私》たちが言わないでも、巡査が話すだろうから」  お父さんは|むすめ《娘》のほうへ向きながら言った。そうしてなお話を続けながら、警察に届けたことや、巡査がヴィタリスを運んで行ったことや、|わたし《私》を長男のアルキシーの寝台《ネダイ》にね《寝》かしたことなどを残らず話してくれた。この話のすむのを待ちかねて、 「それからカピは──。」と|わたし《私》は聞いた。 「なに、カピ」 「ええ。犬です」 「知らないよ。いなくなったよ」 「あの犬は|たんか《担架》について行ったよ」と子どもたちの一人が言った。「バンジャメン、おまえ見たかい」 「|ぼく《僕》よく知ってるよ」ともう一人の子が答えた。「あの犬は釣台のあとからついて行った。首を垂れてときどき|たんか《担架》にとび上がった。下にいろと言われると、犬はなんだかおそろしい声でうなったり、ほ《吠》えたりした」  かわいそうなカピ。役者であった|じぶん《時分》、あの犬は何度ゼルビノのお葬式を送るまねをしたであろう。それはどんなに|まじめ《真面目》くさった子どもでも、あの犬の悲しい様子を見ては笑わずには《は’》いられなかった。カピが泣けば泣くほど見物はよけい笑った。  植木屋と子どもたちは|わたし《私》を一人置《一人’置》いて出て行った。まったくどうしていいか、どうしようというのかわからずに、|わたし《私》は起き上がって、着物を着かえた。|わたし《私》のハープは|ねむ《眠》っていた寝台《ネダイ》のすそに置いてあった。|わたし《私》は肩に負い皮をかけて、家族のいる部屋へと出かけて行った。|わたし《私》はなんでも出かけて行かなければならない気がするが、さてどこへ行こうか。|ねどこ《寝床》にいるうちはそんなに弱っているとも思わなかったが、起きてみるともう立つことが苦しかった。|わたし《私》は|いす《椅子》にすがって、やっと転がらないょ《よ》うに、|からだ《体》を支えなければならなかった。うちの人たちは炉の前の食卓に向かって、キャベツのスープをすすっていた。その|にお《匂》いが|わたし《私》にとってはあんまりであった。|わたし《私》はゆうべなんにも食べなかったことをはげしく思い出した。|わたし《私》は気が遠くなるように思って、よろよろしながら炉ばたの|いす《椅子》にこしを落とした。 「おまえさん、気分がよくないか」と植木屋がたずねた。  |わたし《私》は|かれ《彼》に、どうも具合の悪いことを話した。そうしてしばらく火のそばへ置いてくれと|たの《頼》んだ。  でも|わたし《私》の欲していたのは火ではなかった。それは食物であった。|わたし《私》はうちの者がスープを吸うところをながめて、だんだん気が遠くなるように思えた。|わたし《私》がかまわずにやるなら一|ぱい《杯》くださいと言うところであったが、ヴィタリスは|わたし《私》に|こじき《乞食》はするなと教えた。|わたし《私》は|かれ《彼》らにおなかが減っているとは言いださなかった。なぜだろう。|わたし《私》はひもじゅうございますと言うよりは、なにも食べずに死んでしまうほうがよかった。  あの目に|きみょう《奇妙》な表情を持った女の子は─《─:》─名前をリーズと呼ばれていたが、|わたし《私》の向こうに|こし《腰》をかけていた。この子はなにも言わずに、じっと|わたし《私》のほうを見つめていたが、ふと食卓から立ち上がって、一|ぱい《杯》スープのはいっているお|さら《皿》を|わたし《私》の所へ持って来て、ひざの上に置いた。もうものを言うこともできなかったので、かすかに|わたし《私》は首をうなずかせて、お礼を言った。よし、|わたし《私》がものを言えたとしても、父親が口をきかせるひまをあたえなかった。 「おあがり」と|かれ《彼》は言った。「リーズが持って行ったのは、優しい心でし《’し》たのだからね。もっと欲しければまだあるよ」  もっと欲しいかと言うのか。一|ぱい《杯》のスープはみるみる吸われてしまった。|わたし《私》がスープを下に置くと、前に立ってながめていたリーズがかわいらしい満足のため息をした。それから|かの《彼》女は|わたし《私》の小|ざら《皿》を取って、また父の所へ一|ぱい《杯》入れてもらいに行った。いっぱいにしてもらうと、|かの《/彼》女はかわいらしい笑顔をしながら、また持って来た。それがあんまりかわいらしいので、腹は減っていても、|わたし《私》は小|ざら《皿》を取ることを忘れて、じっとその顔に見とれたくらいであった。二|はい《杯》目の小|ざら《皿》もさっそく初めのと同様になくなった。もう子どもたちもくちびるをゆがめて微笑するくらいではすまなくなった。みんなはいっぱい口を開けて笑いだしてしまった。 「どうもおまえ、なかなかいけるねえ。まったく」と|かの《彼》女の父親が言った。  |わたし《私》は|たいへん《大変》はずかしかった。けれどもそのうち|わたし《私》は食いしん|ぼう《坊》と思われるよりも|ほんとう《本当》の話を打ち明けてしたほうがいいと思ったので、じつはゆうべ晩飯《/晩飯》を食べなかったことを話した。 「それではお昼は」 「お昼もやはり食べません」 「では親方は」 「あの人も、やはりどちらも食べませんでした」 「ではあの人は寒さばかりでなく、飢《かつ》えて死んだのだ」  熱いスープが|わたし《私》に元気をつけてくれた。|わたし《私》は立ち上がって、出かけようとした。 「おまえさん、どうするのだ」と父親がたずねた。 「おいとまいたします」 「どこへ行く」 「わかりません」 「パリに|だれ《誰》か友だちか親類でもあるのかい」 「いいえ」 「宿は|どこ《何処》だね」 「宿はありません。ついきのうこの町へ来たばかりです」 「ではなにをしようというのだね」 「ハープをひいたり、歌を歌ったりして、すこしのお金をもらいます」 「パリでか《か-》い。おまえさん、それよりか|いなか《田舎》のご両親の所へ帰ったほうがいいだろう。ご両親はどこに住んでいなさる」 「|わたし《私》には両親がありません」 「あのひげの白いじいさんは、父さんではないというじゃないか」 「ええ、ほかにも父さんはありません」 「母さんは」 「母さんもありません」 「おじさんか、おばさんか、親類は」 「なにもありません」 「どこから来たのだね」 「親方は|わたし《私》を養母の夫の手から買ったのです。|あなた《貴方》がたは親切にしてくだすったし、|ぼく《僕》は心からありがたく思っています。ですからおいやでなければ、|わたし《私》は日曜日にここへ|もど《戻》って来て、|あなた《貴方》がたの|おど《踊》りに合わせてハープをひいてあげましょう」  こう言いながら|わたし《私》は戸口のほうへ行きかけたが、ほんの二足三足《フタ足ミ足》で、すぐあとから|わたし《私》について来たリーズが、|わたし《私》の手を取ってハープを指さした。 「あなた、いまひいてもらいたいの」と、|わたし《私》は|かの《彼》女に笑いかけながらたずねた。|かの《彼》女は|うなず《頷》いて手をたたいた。 「うん。ひいてやっておくれ」と|かの《彼》女の父親は言った。  |わたし《私》はハープをひく元気はなかったけれど、このかわいらしい女の子のためにいちばんかわいらしいワルツをひいてやらずには《は’》いられなかった。  はじめ|かの《彼》女は大きな美しい目をじっと|わたし《私》に向けて聞いていたが、やがて足で拍子を合わせ始めた。するうち、うれしそうに食堂の中を|おど《踊》り歩いた。|かの《彼》女の兄弟たちはその様子をだまってながめていた。|かの《彼》女の父親もうれしがっていた。ワルツがすむと、子どもはやって来て、|わたし《私》にかわいらしいお|じぎ《辞儀》をした。そして指でハープを打って「アンコール」(もう一つ)という心持ちを示した。  |わたし《私》はこの子のためには一日でもひいていてやりたかったが、父親はもうそれだけ|おど《踊》ればたくさんだと言った。そこでワルツや舞踏曲の代わりに、|わたし《私》はヴィタリスが教えてくれたナポリ小唄を歌った。リーズは|わたし《私》の向こうへ来て立って、あたかも歌の|ことば《言葉》をくり返しているようにくちびるを動かした。すると|かの《彼》女はくるりとふり向いて、泣きながら父親の|うで《腕》の中にと《跳》びこんだ。 「それで音楽はけっこう」と父親が言った。 「リーズは|ばか《馬鹿》じゃないか」とバンジャメンと呼ばれた兄弟があざけるように言った。「はじめは|おど《踊》りを|おど《踊》って、今度は泣くんだもの」 「あの子はあんたのように|ばか《馬鹿》ではないわ」と総領の姉が小さい妹をいたわるようにのぞきこみながら答えた。 「この子にはよくわかったのだよ‥‥」  リーズが父親のひざの上で泣いているあいだに|わたし《私》はまたハープを肩にかけて行きかけた。 「おまえさん、どこへ行く」と植木屋がたずねた。 「おいとまいたします」 「おまえさん、やはり芸人でやっていくつもりかい」 「でもほかにすることがありませんから」 「旅で|かせ《稼》ぐのはつらいだろう」 「だってうちがありませんから」 「それはそうだろうが、夜というものがあるからね」 「それは、|わたし《私》だって寝台《ネダイ》にね《寝》たいし、火にも当たりたいと思います」 「火に当たったり寝台《ネダイ》にね《寝》るには、それそうとう働かなければならないが、おまえはどうだね。このうちにいて働く気はないか。なかなか楽な仕事ではないが、それは朝もずいぶん早くから起きて、まる一日働《一日’働》かなければならないけれど、ただおまえがゆうべ出会ったような目にはけっして二度と出会う気づかいはなかろうよ。おまえは|ねどこ《寝床》も、食べ物も得られるし、自分で働いてそれを得たという満足もあろうというものだ。それでおまえが|わし《儂》が考えているようにいい子どもであるなら、同じうちの者にして、|いっしょ《一緒》にく《暮》らしてゆきたいとも思っているのだよ」  リーズがふり返って、|なみだ《涙》の中から|わたし《私》をながめてにっこりした。  |わたし《私》はいま聞いたことをほとんど信ずることができなかった。|わたし《私》はただ植木屋をながめていた。  するとリーズが、父親のひざからと《飛》んで来て、|わたし《私》の手を取った。 「うん、どうだね、おまえ」と父親がたずねた。  家族だ。|わたし《私》は家族を持つようになった。|わたし《私》は独りぼっちではなくなるのだ。いい|ゆめ《夢》よ。今度は消えずにいてくれ。  |わたし《私》が|四、五年いっしょ《シゴ年’一緒》にく《暮》らして、ほとんど父親のようであった人は死んだ。なつかしい、優しいカピは、|わたし《私》があれほど愛した仲間でもあり友だちでもあったカピは、いなくなった。|わたし《私》はなにもかもおしまいになったと思っていた。ところへこのいい人が|わたし《私》を自分の家族にしてやると言ってくれた。  |わたし《私》のために新しい生涯がまた始まるのだ。|かれ《彼》は|わたし《私》に食べ物と宿をあたえると言ったが、それよりももっと|わたし《私》にうれしかったのは、このうちの中の生活がやはり|わたし《私》のものになるということであった。この男の子たちは|わたし《私》の兄弟になるであろう。このかわいらしいリーズは|わたし《私》の妹になるであろう。|わたし《私》はもうみなし子ではなくなるであろう。|わたし《私》の子どもらしい|ゆめ《夢》の中で、いつか|わたし《私》も父親と母親を見つけるかもしれないと思ったこともあった。けれど兄弟や妹を持とうとは考えなかった。それが|わたし《私》にあたえられようとしているのだ。|わたし《私》はさっそくハープの負い皮を肩からはずした。 「おお、それでこの子の返事がわかった」とお父さんが笑いながら言った。「|わたし《私》はおまえの顔つきで、どんなにおまえが喜んでいるかわかる。もうなにも言うことは要らない。そのハープを|かべ《壁》におか《掛》け。いつかおまえがここにあきたら、またそれを下ろして好きなほうへ行くがよろしい。けれどおまえもつばめのように、と《飛》び出して行く季節を選ばなければならない。まあ、冬のさ中《なか》に出て行くのだけはおよし」  |わたし《私》の新しい家庭の場所はグラシエール、うちの名はアッケン家《ケ》、植木屋が商売で、ピエール・アッケンというのがお父さんで、《:、》アルキシーに、バンジャメンという二人の男の子、それから女の子はエチエネットに、うちじゅうでいちばん小さいリーズでこ《/こ》れが家族残らずであった。  リーズはおしであった。生まれつきのおしではなかったが、四度目の誕生日を|むか《迎》えるすこしまえに、病気でものを言う力を失った。この不幸は、でも幸せと|かの《彼》女の|ちえ《知恵》を損ないはしなかった。その反対に|かの《彼》女の|ちえ《知恵》はなみはずれた程度に発達した。|かの《彼》女はなんでもわかるらしかった。でもその愛らしくって、活発で優しい気質が、うちじゅうの者に好かれていた。それで病身の子どもにありがちのうちじゅうのきらわれ者になるようなことのないばかりか、《、/》リーズのいるために、うちじゅうがおもしろくく《暮》らしている。むかしは貴族の家の長子に生まれると福分を一人じめにすることができたが、今日《こんにち》の労働者の家庭では、総領はいちばん重い責任をしょわされる。母親が亡くなってから、エチエネットが家庭の母親であった。|かの《彼》女は早くから学校をやめさせられ、うちにいてお料理をこしらえたり、お裁縫をしたり、父親や兄弟たちのために家政を取らなければならなかった。|かれ《彼》らは《は’》みんな|かの《彼》女が|むすめ《娘》であり、姉であることを忘れきって、女中の仕事をするのばかり見慣れていた。いくらひどく使っても出て行く心配もなければ、不平を言う気づかいもない重宝な女中であった。|かの《彼》女が外へ出ることはめったになかったし、けっしておこったこともなかった。リーズを|うで《腕》にかかえてベンニーの手を引きながら、朝は暗いうちから起きて、父親の朝飯をこしらえ、夜は|おそ《遅》くまで|さら《皿》を洗ったりなどをしてからでなくては、とこに|はい《入》らなかったから、|かの《/彼》女はまるで子どもでいるひまがなかった。十四だというのに|かの《彼》女の顔は|きまじめ《生真面目》に|しず《沈》んでいた。それは年ごろの|むすめ《娘》の顔ではなかった。  |わたし《私》はハープを|かべ《壁》にかけてから、ゆうべ出会った出来事をぽつぽつ話しだした。石切り場に|ねむ《眠》ろうとして失敗して、それからあとの始末を一|とお《通》り話しかけて、やっと五分たつかたたないうちに、園《その》に向かっているドアを引っかく音が聞こえた。それから悲しそうにくんくん鳴く声がした。 「カピだ。カピだ。」|わたし《私》は|さけ《叫》んですぐとび上がった。  けれどもリーズが|わたし《私》より早かった。|かの《彼》女はもうか《駆》け出してドアを開けていた。  カピが|わたし《私》にと《跳》びかかって来た。|わたし《私》は|かれ《彼》を|うで《腕》にかかえた。小さな喜びのほ《吠》え声をたてて、全身をふるわせながら、|かれ《/彼》は|わたし《私》の顔をな《舐》めた。 「するとカピは‥‥。」と|わたし《私》はたずねた。|わたし《私》の問いはすぐに了解された。 「うん、むろんカピも|いっしょ《一緒》におくよ」とお父さんが言った。  カピは|わたし《私》たちの言っていることがわかったというように、地べたにと《跳》び下りて、前足を胸に置いてお|じぎ《辞儀》をした。それが子どもたち、とりわけリーズを笑わせた。で、よけい|かれ《彼》らを喜ばせるために、|わたし《私》はカピに、いつもの芸をすこしして見せろと望んだ。けれども|かれ《彼》は|わたし《私》の言いつけに従う気がなかった。|かれ《彼》は|わたし《私》のひざの上にとび上がって顔をな《舐》め始めた。  それからと《跳》び下りて、|わたし《私》の上着の|そで《袖》を引き始めた。 「あの犬は|わたし《私》を外へ連れ出そうというのです」 「おまえの親方の所へ行こうというのだよ」  親方を引き取って行った巡査は、|わたし《私》が暖まって正気《正気’》づいたら、聞きたいことがあると言ったそうだ。その巡査がいつ来るか、あやふやであった。  でも|わたし《私》は早く報告を聞きたいと思った。たぶん親方はみんなの思ったように死んではいないのだ。たぶん親方はまだ生きて帰れるのだ。  |わたし《私》の心配そうな顔を見て、お父さんは|わたし《私》を警察へ連れて行ってくれた。  警察へ行くと|わたし《私》は長ながと質問された。けれど|わたし《私》はいよいよ気の|どく《毒》な親方がまったく死んだという宣告を聞くまでは、なにも申し立てようとはしなかった。|わたし《私》は知っているだけのことは述べたが、それはほんのわずかのことであった。わたし自身については、せいぜい両親のないこと、親方が前金《マエキン》で養母の夫に金《-かね》をはらって|わたし《私》をやとったこと、それだけしか言えなかった。 「それでこれからは‥‥。」署長がたずねた。 「わたくしどもでこの子を引き取ろうと思います」と|わたし《私》の新しい友人が|ことば《言葉》をはさんだ。 「それをお許しくださいますならば」  署長は喜んで|わたし《私》を|かれ《彼》の手に委任すると言った。そのうえその親切な心がけをほめた。  自分のことはそれでいいとして、今度は親方のことを言わなければならなかった。でもまったくなんにも知らないのが事実であった。  ただ一つわからないことは、最後の興行のとき、どこかの夫人が天才だと言って|おどろ《驚》いたこと、それからガロフォリがむかしの名前をどうとか言いだして、|かれ《/彼》をおどしたことであった。  けれど親方があれほど|かく《隠》していたことを死《/死》んだのちにあばき立てることは《は’》いらない。でもそうは思いながら、事に慣れた警官の前で子どもが|かく《隠》しおおせるものではなかった。|かれ《彼》らはわけなくわなにかけて、|かく《隠》したいと思うことをずんずん言わせてしまうのである。|わたし《私》の場合がやはりそれであった。  署長はさっそく|わたし《私》から、ガロフォリについてなにもかもかぎ出してしまった。 「この子をガロフォリというやつの所へ連れて行くよりほかに|しかた《仕方》がない」と、|かれ《/彼》は部下の一人に言った。「一度この子の言うルールシーヌ街《マチ》へ連れて出れば、すぐその家《’家》を見つけるよ。|きみ《君》はこの子と|いっしょ《一緒》に行って、その男を尋問してくれたまえ」  |わたし《私》たち三人──巡査とお父さんと|わたし《私》は、|いっしょ《一緒》に出かけた。  署長が言ったように、|わたし《私》はわけなくその家《’家》を見つけた。|わたし《私》たちは四階《4階》へ上がって行った。マチアはもう見えなかった。警官の顔を見て、それから見覚えのある|わたし《私》を見つけると、ガロフォリは青くなって、ぎょっとしたようであった。けれどみんなの来たのは、ヴィタリスのことをたずねるためであったことがわかると、|かれ《/彼》はすぐに落ち着いた。 「やれやれ、じいさん、死にましたか」と|かれ《彼》は言った。 「おまえはその老人を知っているだろう」 「はい」 「じゃああの老人について知っていることを残らず話してくれ」 「なんでもないことでございます。あの男の名前はヴィタリスではございません。本名はカルロ・バルザニと申しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイタリアにおいででしたら、あの男についてご承知だったでしょう。それはほんの名前を言うだけで、どんな人物だということは残らずおわかりになったでしょう。カルロ・バルザニと言えばそのころでいちばん有名な歌うたいでした。|かれ《彼》はナポリ、《、/》ローマ、《、/》ミラノ、《、/》ヴェネチア、《、/》フィレンツェ、《、/》ロンドン、それからパリでも歌いました。どこの大劇場もたいした成功でした。やがてふとしたことから|かれ《彼》は|りっぱ《立派》な声が出なくなりました。もう歌うたいの中でいちばんえらい者でいることができなくなると、|かれ《/彼》は自分の偉大な名声に相応《相応’》しない下等な劇場に出て、歌を歌って、だんだん評判《’評判》をうすくすることをしませんでした。その代わり|かれ《彼》はまるっきり自分を世間の目からくらまして、全盛時代に|かれ《彼》を知っていた人びとから|かく《隠》れるようにしました。けれども|かれ《彼》も生きなければなりません。|かれ《彼》はいろいろの職業に手を出してみましたが、どれもうまくいきません。そこでとうとう犬を慣らして、大道の見世物師にまで落ちることになりました。けれどいくらなり下がってもやはり気位が高く、これが有名なカルロ・バルザニのなれの果てだということを世間に知られるくらいなら、はずかしがって死んだでしょう。|わたし《私》があの男の秘密を知ったのは、ほんの|ぐうぜん《偶然》のことでした」  これが長いあいだ心にかかっていた秘密の正体であった。  気の|どく《毒》なカルロ・バルザニ。なつかしいヴィタリス親方。 ◇。◇。◇。 【第20章】 【植木屋】 ◇。◇。◇。  そのあくる日ヴ《/ヴ》ィタリスをほうむらなければならなかった。アッケン氏は|わたし《私》をお葬式に連れて行く|やくそく《約束》をした。  けれどその日わたしは起き上がることができなかった。夜のうちに|ひじょう《非常》に具合が悪くなった。ひどい熱が出て、はげしい寒けを感じた。|わたし《私》の胸の中は、小さなジョリクールがあの晩木《晩’木》の上で過ごしたとき受けたと同様、焼きつくや《よ》うな熱気を感じた。  実際|わたし《’私》は胸にはげしい焮衝(焼きつくような感じ)を感じた。病気は肺炎であった。それはすなわちあの晩気の|どく《毒》な親方と|わたし《私》がこの家の門口に|こご《凍》えて|たお《倒》れたとき、寒気のために受けたものであった。  でもこの肺炎のおかげで、|わたし《私》はアッケン家の人たちの親切、とりわけてエチエネットの誠実をしみじみ知ったのであった。|びんぼう《貧乏》なうちではめったに医者を呼ぶということはないが、|わたし《私》の容態《容体》がいかにも重くって心配であったので、|わたし《私》のため特別に、習慣のためいつか当たり前になっていた規則を破ってくれた。呼ばれて来た医者は長い診察をしたり、細かい容態《容体》を聞いたりするまでもなく、いきなり病院へ送れと言い|わた《渡》した。  |なるほど《成程》これはいちばん簡単で、手数《テカズ》がかからなかった。でもこの父さんは承知しなかった。 「ですがこの子は|わたし《私》のうちの門口で|たお《倒》れたんですから、病院へはやらずに、やはり|わたし《私》どもが看病しなければなりません」と|かれ《彼》は言った。  医者はこの因縁論に対して、いろいろうまい|ことば《言葉》のかぎりをつくして説いたが、承知させることができなかった。|かれ《彼》は|わたし《私》をどうしても看病しなければならないと考えた。そしてまったく看病してくれた。  こうしてあり余る仕事のあるうえ、エチエネットにはまた一つ、看護婦の役が増えた。でもセン・ヴェンサン・ド・ポールの尼さんがするように、親切にし《”し》かも規則正しく看護してくれて、けっして|かんしゃく《癇癪》一つ起こさないし、なに一つ手落ちなしにしてくれた。|かの《彼》女が家事のためにどうしてもついていられないときには、リーズが代わってくれた。たびたび熱にうかされながら、|わたし《私》は寝台《ネダイ》のすそで不安心らしい大きな目を|わたし《私》に向けている|かの《彼》女を見た。熱にうかされながら|わたし《私》は|かの《彼》女を自分の守護天使であるように思って、天使に向かって話をするように、自分の望みや願いを|かの《彼》女に打ち明けた。このときから|わたし《私》は我知らず|かの《彼》女を、なにか後光に包まれた人間以上のものに思うようになり、それが白い大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれわれただの人間と同様にしていることを|ふしぎ《不思議》に思ったりした。  |わたし《私》の病気は長かったし、重かった。快《よ》くなってはたびたびあともどりをしたので、|ほんとう《本当》の両親でもいやきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはどこまでも|がまん《我慢》強く誠実をつくしてくれた。いく晩か|わたし《私》は肺臓が痛んで、息がつまるように思われて、|ねむ《眠》られないことがあった。それでアルキシーとバンジャメンが代わりばんこに、寝台《ネダイ》のそばにつききりについていてくれた。  ようようすこしずつ治りかけてきた。でも長い重病のあとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グラシエールの牧場が青くなり始めるまで待たなければならなかった。  そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになって、ビエーヴル川の岸のほうへ|わたし《私》を散歩に連れて行ってくれた。真昼の日ざかりに、|わたし《私》たちはうちを出て、カピを先に立てて、手を組みながらそろそろと歩いた。その年の春は暖かで、日和《ヒヨリ》がよかった。少なくとも|わたし《私》は暖かな心持ちのいい記憶を持っている。だから同じことであった。  この|へん《辺》はラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で、パ《/パ》リの人には|あま《余》り知られていなかった。この|へん《辺》に小さな谷があるということだけはぼんやり知られていたが、その谷に注ぐ川はビエーヴル川であるから、この谷はパリの郊外ではいちばんきたない陰気な所だと言いもし、信じられもしていた。だがそんなことは《は’》まるでなかった。|うわさ《噂》ほど悪い所ではなかった。ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジには自然のおもむきがあった。少なくとも|わたし《私》のいた|じぶん《時分》には、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を水が流れていた。その両岸には緑の牧場が、人家や庭のある小山のほうまでだんだん上りに続いていた。春は草が青あおとしげって、白い小ぎくが碧玉をしきつめたもうせんの上に白い星をちりばめていたし、《:、》芽出しやなぎやポプラの若木からはねっとりとやにが流れていた。そうしてうずらや、こまどりや、ひわやなんぞの鳥が、ここはまだ|いなか《田舎》で、町ではないというように歌を歌っていた。  これが|わたし《私》の見た小さな谷の景色であった─《─:》─その後ずいぶん変わったが──それでも|わたし《私》の受けた印象はあざやかに記憶に残っていて、ついきのうきょうのように思われる。|わたし《私》に絵がかけるなら、このポプラの林の一枚の葉をも残すことなしにえがき出したであろう─《─:》─また大きなやなぎの木を、頭の先の青くなった、とげのあるさんざしと|いっしょ《一緒》にかいたであろう。それはやなぎのか《枯》れたような幹の間に根を張っていた。また砲台の傾斜地を|わたし《私》たちはよく片足で楽にすべって下りた──それもかきたい。あの風車と|いっしょ《一緒》にうずらが丘の絵もかきたい─《─:》─セン・テレーヌ寺の庭に群がっていたせんたく女もえがきたい。それから川の水をよごれくさらせていた製革工場もかきたい──  もちろんこういう散歩のおり、リーズはものは言えなかったが、|きみょう《奇妙》なことに、|わたし《私》たちはなにも|ことば《言葉》の必要はなかった。|わたし《私》たちはおたがいにものを言うことなしに、了解し合っているように思われた。  そのうちに|わたし《私》にも、みんなと|いっしょ《一緒》に働けるだけ|じょうぶ《丈夫》になる日が来た。|わたし《私》はその仕事を始める日を待ちかねていた。それは|わたし《私》のためにこれだけつくしてくれた親切な友だちに、こちらからもなにかしてやりたいと思っていたからであった。|わたし《私》はこれまで仕事らしい仕事をしたことがなかった。長い流浪の旅はつらいものではあるが、どうでもこれだけ仕上げなければというように、|いっしょうけんめい《一生懸命’》張りこんでする仕事はなにもなかった。けれど今度こそ|わたし《私》は、じゅうぶんに働かなければならないと感じた。少なくともぐるりにいる人たちをお手本にして、元気を出さなければならないと思った。このごろはちょうど|においあらせいとう《ニオイアラセイトウ》がパリの市場《イチバ》に出始める季節であった。それには赤いのもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その色によって分けられて、いくつかのフレームに入《-い》れられてあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列に|なら《並》んでみごとであった。夕方フレームのふたをする|じぶん《時分》には、花から立つかおりが風にふくれていた。  |わたし《私》にあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの力に相応《相応’》したものであった。毎朝|しも《’霜》が消えると、|わたし《私》はガラスのフレームを開《あ》けなければならなかった。夜になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければならなかった。昼のうちは|わら《藁》の|おお《覆》いで日よけをしてやらなければならなかった。これは|むず《難》かしい仕事ではなかったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガラスを毎日二度《毎日’二度》ずつ動かさなければならなかった。  このあいだリーズは灌水に使う水上げ機械のそばに立っていた。そして皮のマスクで目をかくされた老馬のココットが、回しつかれて足が働かなくなると、|かの《/彼》女は小さな|むち《鞭》をふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこの機械が引き上げた|おけ《桶》を返す、もう一人の兄弟はお父さんの手伝いをする。こんなふうにしててんでに自分の仕事を持っていて、むだに時間を費すものはなかった  |わたし《私》は村で百姓の働くところを見たこともあるが、ついぞパリの近所の植木屋のような熱心《/熱心》なり勇気《/勇気》なり勤勉《/勤勉》なりをもって働いていると思ったことはなかった。実際ここではみんな|いっしょうけんめい《一生懸命》、朝は日の出まえから起き、晩は日がくれてあとまでいっぱいの時間を使いきってのちに寝台《ネダイ》に休むのである。|わたし《私》はまた土地を耕したことがあったが、勤労によって土地にまるで休憩をあたえないまでに耕作し続けるということを知らなかった。だからアッケンのお父さん《ん’》のうちは|わたし《私》にとっては|りっぱ《立派》な学校であった。  |わたし《私》はいつまでも温室のフレームばかりには使われていなかった、元気が回復してきたし、自分もなにか地の上にまいてみるということに満足を感じてきた。その種が芽を出すのを見るのが、いっそうの満足であった。これは|わたし《私》の仕事であった。|わたし《私》の財産、|わたし《私》の創造であった。だからよけい|わたし《私》に得意な感じを起こさせた。  それで自分がどういう仕事に適当しているかがわかった。|わたし《私》はそれをやってみせた。そのうえよけい|わたし《私》を|ゆかい《愉快》にしたことは、まったくこれでは骨折りのかいがあると感じ得たことであった。  この新しい生活はなかなか|わたし《私》には苦しかったが、しかしこれまでの浮浪人の生活と似ても似つかない労働の生活が案外早《案外’早》く|からだ《体》に慣れた。これまでのように自由気ままに旅をして、なんでも大道を前へ前へと進んで行くほかに苦労のなかったのに引きかえて、|いま《今》は花畑の囲いの中に閉じこめられて、朝から晩まであらっぽく働かなければならなかった。背中にはあせにぬれたシャツを着《き》、両手に如露を持って、ぬかるみの道の中を、素足で歩かなければならなかった。でもぐるりのほかの人たちも、同じようにあらっぽい労働をしていた。お父さんの如露は|わたし《私》のよりもずっと重かったし、そのシャツは|わたし《私》たちのそれよりも、もっとびっしょりあせにぬれていた。みんな平等であるということは、苦労の中の大きな楽しみであった。そのうえ|わたし《私》はもうまったく失ったと思ったものを回復した。それは家族の生活であった。|わたし《私》はもう独りぼっちではなかった。世の中に捨てられた子どもではなかった。|わたし《私》には自分の寝台《ネダイ》があった。|わたし《私》はみんなの集まる食卓に自分の席を持っていた。昼間ときどきアルキシーやバンジャメンが|わたし《私》に|げんこつ《拳骨》をみまうこともあったが、|わたし《私》はなんとも思わなかった。また|わたし《私》が打ち返しても、|かれ《/彼》らはなんとも思わなかった。そうして晩になれば、みんなスープを取り巻いて、また兄弟にも友だちにもなるのであった。  |ほんとう《本当》を言うと、|わたし《私》たちは働いてつかれるということはなかった。|わたし《私》たちにも休憩の時間も遊ぶ時間もあった。むろんそれは短かったが、短いだけよけい|ゆかい《愉快》であった。  日曜の午後には家についている|ぶどうだな《葡萄棚》の下にみんな集まった。|わたし《私》はその週のあいだか《掛》けっぱなしにしておいた例のハープを外して持って来る。そうして四人の兄弟姉妹に|おど《踊》りを|おど《踊》らせる。|だれ《誰》も|かれ《彼》もダンスを習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは一度ミルコロンヌで婚礼の舞踏会へ行って、コントルダンスの|しかた《仕方》だけ多少正確《多少’正確》に記憶していた。その記憶が|かれ《彼》らの手引きであった。|かれ《彼》らは|おど《踊》りつかれると、|わたし《私》に歌のおさらいをさせる。そうして|わたし《私》のナポリ小唄はいつも決まって、リーズの心を動かさないことはないのであった。  このおしまいの一節を歌うとき、|かの《/彼》女の目は|なみだ《涙》にぬれないことはなかった。  そのとき気をまぎらすために、|わたし《私》はカピと道化芝居をやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日であった。その日は|かれ《彼》にむかしのことを思い出させた。それで一|とお《通》り役目を終わると、|かれ《/彼》はいくらでもくり返してやりたがった。  二年はこんなふうにして過ぎた。お父さんは|わたし《私》をよくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシ《/シ》ャトードーやの花市場《花イチバ》へ連れて行ったり、よく花を分けてやる花作りの家に連れて行ったので、|わたし《私》もすこしずつパリがわかりかけてきた。そうしてそこは|わたし《私》が想像したように大理石や黄金の町ではなかったが、あのとき初めてシャラントンやムフタール区から|はい《入》って来たとき見て早飲《/早飲》みこみに思ったような|どろ《泥》まみれの町でもないことがわかった。|わたし《私》は記念碑を見た。その中へも|はい《入》ってみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、歩いてみた。銅像も見た。群衆の人波にもまれて、感心して立ち止まったこともあった。これで大都会というものがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼできてきた。  幸いに|わたし《私》の教育は《は’》ただ目で見る物から受けただけではなかった。パリの町中を散歩したりか《駆》け歩いたりするついでに、|ぐうぜん《偶然’》覚えるだけではなかった。このお父さんはいよいよ自前で植木屋を開業するまえに植物園の畑で働いていた。そこには学者たちがいて、|かれ《/彼》にしぜん、物を読んで覚えたいという好奇心を起こさせた。それでいく年《ねん》かのあいだた《貯》めた金《-かね》を書物を買うために使ったし、その本を読むために休みの時間を費した。けれど結婚して子どもができてからは、休みの時間がごくまれになった。なによりもその日その日のパンを|もう《儲》けなければならなかった。しぜん書物から|はな《離》れたが、捨てられたわけでもなく、売りはらわれたわけでもなかった。|わたし《私》が初めて|むか《迎》えた冬はたいへん長かったし、花畑の仕事はほとんど中止同様に、《、/》少なくとも何か月のあいだの仕事はひまであった。それで|わたし《私》たちは炉を囲んで、|いっしょ《一緒》にく《暮》らす晩などには、そういう古い本をたんすから引き出して、めいめいに分けて読んだ。それはたいてい植物学の本《本’》か植物の歴史のほかには、航海に関係した本であった。アルキシーとバンジャメンはお父さんの学問の趣味を受けついでいなかったから、せっかく本を開けても|三、四《サンヨン》ページもめくるとすぐ|いねむ《居眠》りを始めるのであった。|わたし《私》はしかしそんなに|ねむ《眠》くはなかったし、ずっと本が好きだったので、いよいよ|ねどこ《寝床》に|はい《入》らなければならない時間まで読んでいた。こうなるとヴィタリスの手ほどきをしてくれた利益が|むだ《無駄》にはならなかった。|わたし《私》はねながらそれを独り言に言って、|かれ《/彼》のことをありがたく思い出していた。  |わたし《私》がものを学びたいという望みは、はしなくお父さんに、自分もむかし本を買うために毎朝朝飯《毎朝’朝飯》のお金を二スー倹約《’倹約》したむかしを思い出させた。それでたんすの中にあった書物のほかの本までパリからわざわざ買って来てくれた。その書物の選び方はでたらめか、さもなければ表題のおもしろいものをつかみ出して来るにすぎなかったが、やはり書物は書物であった。これはそのじぶん秩序もなく、|わたし《私》の心に|はい《入》っては来たが、いつまでも消えることはなかった。それは|わたし《私》に利益を残した。いいところだけが残った。なんでも本を読むのは利益だということは、|ほんとう《本当》のことである。  リーズは本を読むことを知らなかったが、|わたし《私》が一時間でもひまがあれば、本と首っぴきをしているのを見て、なにがそんなにおもしろいのだろう、そのわけを知りたがっていた。初めのうちは|かの《彼》女も自分と遊ぶ|じゃま《邪魔》になるので、本を取り上げたが、《:、》それでもやはり|わたし《私》が本のほうへ心をひかれる様子を見て、今度は本を読んで聞かせてくれと言いだした。これが|わたし《私》たちのあいだの新しい結び目になった。いったいこの子の性質はいつも物わかりがよくって、つまらない遊びごとや|じょうだん《冗談》ごとには身の|はい《入》らないほうであったから、やがて|わたし《私》が読んで聞かせることに楽しみを感じもし、心の養いをえるようになった。  何時間も|わたし《私》たちはこうやって過ごした。|かの《彼》女は|わたし《私》の前に|すわ《座》って、本を読んでいる|わたし《私》から目をはなさずにいた。たびたび|わたし《私》は自分にわからない|ことば《言葉》なり句なりにぶつかると、ふとやめて|かの《彼》女の顔を見た。そういうとき|わたし《私》たちはかなりしばらく考え出すために休む。それを考えてもやはりわからないとき、|かの《/彼》女はあとをと言いたいような身ぶりをしてあとを読む合図をする。|わたし《私》は|かの《彼》女にまた絵をかくことを教えた。まあやっと図画とでもいうようなことを教えた。これは長いことかかったし、なかなかむずかしかったがどうやら目的を達しかけた。むろん|わたし《私》は|りっぱ《立派》な先生ではなかった。でも|わたし《私》たちは力を合わせて、やがて先生と生徒の美しい協力一致から、|ほんとう《本当》の天才以上のものができるようになった。|かの《彼》女はなにをかこうとしたか人にもわかるようなもののかけたとき、どんなにうれしがったであろう。アッケンのお父さんは|わたし《私》をだいて、笑いながら言った。 「そらね、|わたし《私》がおまえを引き取ったのはずいぶんいい|じょうだん《冗談》であった。リーズはいまにきっとおまえにお礼を言うよ」 「いまに」と|かれ《彼》が言ったのは、やがて|かの《彼》女が口がきけるようになってということであった。なぜならだれも|かの《彼》女が口がきけるようになろうとは思わなかったが、お医者たちは|いま《今》はだめでもいつか、なにかひょっとした機会で口がきけるようになるだろうと言った。  なるほど|かの《彼》女は|わたし《私》が歌を歌ってやると、やはりさびしそうな身ぶりで「いまにね」とそういう心持ちを現した。|かの《彼》女は自分にもハープをひくことを教えてくれと望んだ。もうさっそく|かの《彼》女の指はずんずん|わたし《私》のするとおりに動くことができた。もちろん|かの《彼》女は歌を歌うことを学ぶことはできなかった、これを|ひじょう《非常》に残念がっていた。たびたび|わたし《私》は|かの《彼》女の目に|なみだ《涙》が流れているのを見た。それが|かの《彼》女の心の苦しみを語っていた。でも優しい快活な性質からその苦しみはすぐに消えた。|かの《彼》女は目をふいて、しいて微笑をふくみながら、こう言うのであった。 「いまにね」  アッケンのお父さんには、養子のようにされ、子どもたちには兄弟のようにあつかわれながら、|わたし《私》は、またしても|わたし《私》の生活を引っくり返すような事件はもう起こらずに、いつまでもグラシエールにいられそうには思えなかった。それは|わたし《私》というものが、長く幸福にく《暮》らしてゆくことができないたちで、やっと落ち着いたと思うときには、それはきっとまた幸福からほうり出されるときであって、《:、》自分の望んでもいない出来事のためにまたもや変わった生活にとびこまなければならなくなるのであった。 ◇。◇。◇。 【第21章】 【一家の離散】 ◇。◇。◇。  このごろ|わたし《私》は一人でいるとき、よく考えては独り言を言った。 「おまえはこのごろあんまりよすぎるよ。これはどうも長続きしそうもない」  でもなぜ不幸が来《-こ》なければならないか、それをまえから予想することはできなかった。だがどのみち、それのやって来ることは疑うことのできない事実のように思われてきた。  そう思うと、|わたし《私》はたいへん心細かった。しかし、一方から見ると、その不幸をどうにかしてさけるように|いっしょうけんめい《一生懸命》になるので、しぜんにいいこともあった。なぜというに、|わたし《私》がこんなにたびたび不幸な目に会うのは、みんな自分の過失から来ると思って、反省するようになったからである。  でも|ほんとう《本当》は、|わたし《私》の過失ではなかった。それをそう思ったのは、自分の思い過ごしであったが、不幸が来るという考えはちっともまちがいではなかった。  |わたし《私》はまえに、お父さんが|においあらせいとう《ニオイアラセイトウ》の栽培をやっていたと言ったが、この花を作るのはわりあいに容易で、パ《/パ》リ近在の植木屋はこれで商売をする者が多かった。その草は短くって大きく、上から下までぎっしり花がついていて、|四、五月《シゴガツ》ごろになると、これが|さか《盛》んにパリの市場《イチバ》に持ち出されるのであった。ただこの花でむずかしいのは、芽生えのうちから葉の形で八重と一重《ヒトエ》を見分けて、一重《ヒトエ》を捨てて八重を残すことであった。この鑑別のできる植木屋さんはごくわずかで、その人たちが家の秘法にして他へもらさないことにしてあるので、植木屋仲間でも、特別にそういう人を|たの《頼》んで花を見分けてもらわなければならなかった。それで|たの《頼》まれた人はほうぼうの花畑を巡回して歩いて、いろいろと注意をあたえるのであった。これをレセンプラージュと言っていた。お父さんはパリではこの道にかけて熟練のほまれの高い一人であった。それでその季節にはほうぼうから|たの《頼》まれて、うちにいることが少なかった。そしてこの季節が、|わたし《私》たちと《/と》りわけエチエネットにとって、いちばん悪いときであった。なぜというと、お父さんは一|けん《軒》一|けん《軒’》回って歩くうちに、ほうぼうでお酒を飲ませられて、夜おそく帰る|じぶん《時分》には、まっかな顔をして、舌も回らないし、手足もぶるぶるふるえていた。  そんなとき、エチエネットは、どんなに|おそ《遅》くなっても、きっとね《寝》ずに待っていた。|わたし《私》がまだね《寝》いらずにいるか、または帰って来る足音で目を覚ましたときには、部屋の中から二人の話し声をはっきり聞いた。 「なぜおまえはね《寝》ないんだ」とお父さんは言った。 「お父さんがご用があるといけないと思って」 「なんだと。そんなことを言って、このおじょうさんの憲兵が、|わたし《私》を監視するつもりだろう」 「でも|わたし《私》が起きていなかったら、|だれ《誰》とお話しなさるおつもり」 「おまえ、|わたし《私》がまっすぐに歩けるか見てやろうと思っているんだな。よし、この行儀よく|なら《並》んだ|しき《敷》石を一つ一つふんで、子どもの寝部屋まで行けるかどうか、か《賭》けをしようか」  不器用な足音が台所じゅうをしばらくがたつかせると、やがてまた静かになった。 「リーズはご|きげん《機嫌》かい」とお父さんは言った。 「ええ。よくね《寝》ていますわ。どうかお静かに」 「|だいじょうぶ《大丈夫》さ。|わたし《私》はま《真》っす《直》ぐに歩いているのだ。なにしろおじょうさんた《’た》ちがやかましいから、お父さんもせいぜいまっすぐに歩かなくては《は’》ならぬ。リーズは、|わたし《私》が夕飯のときいなかったのを見て、なんとか言いはしなかったかい」 「リーズはお父さんの席を、なんだか見ていました」 「なんだ、|わし《儂》の席を見ていたと」 「ええ」 「何《なん》べんもかい。何《なん》べんぐらい見ていた」 「それはたびたび」 「それからどうしていたね」 「『お父さんはいらっしゃらないのね』と言いたいような目つきをしていました」 「じゃあリーズは、|わたし《私》がそこにいないのはなぜだとたずねたろう。そしておまえは、|わたし《私》がお友だちのうちに行っていると答えたろう」 「いいえ、なんにもたずねませんでした。|わたし《私》もなにも言いませんでした。あの子はでもお父さんの行っていらっしゃる所をようく知っていますよ」 「なに、あの子が知ってるって。あの子が‥《‥:》‥もう早くからね《寝》こんでいるかい」 「いいえ、つい十五分ほどまえね《寝》たばかりです。お父さんのお帰りを待ちかねていたようです」 「で、おまえはどう思っていたえ」 「|わたし《私》はリーズが、お父さんのお帰りのところを見なければいいと思っていました」  しばらく沈黙が続いた。 「エチエネット、おまえはいい子だ。あすは|わたし《私》はルイソーのうちへ行く。|わたし《私》はちかって夕飯にはきっと帰る。おまえが待っていてくれるのが気の|どく《毒》だし、リーズが心配しいしいね《寝》るのがかわいそうだから」  だが|やくそく《約束》も誓言《セイゴ-ン》もいっこう役には立たなかった。|かれ《彼》はちっとも早く帰ったことはなかった。一|ぱい《杯》でもお酒が|のど《喉》に|はい《入》ったら、もうめちゃめちゃであった。うちの中でこそ、リーズがご本尊だが、外の風に当たるともう忘れられてしまった。  でもこんなことはしじゅうではなかった。レセンプラージュの季節がすむと、もうお父さんは外へ出ようとも思わない。むろん一人で居酒屋へ行く人ではなかった。そんなむだな時間を持つ人ではなかった。  |においあらせいとう《ニオイアラセイトウ》の季節がすむと、今度はほかの花を作らなければならない。植木屋の花畑は|一年じゅう《一年中》むだに土地の遊んでいるひまはなかった。一つの花を売ってしまうとほかの花を売り出す仕度をしなければならなかった。セン・ピエールだの、セン・マリだの、セン・ルイだの、そういう年じゅうの祝い日《び》にはおびただしい花が町へ出る。ピエールだの、マリだの、ルイだのと呼ばれる名前の人たちの数はおびただしいもので、したがってそういう祝い日《び》には、花たばやら花びんを買って、名づけ親やお友だちにおくってお《/お》祝いをしなければならない人が限りなく多かった。  だから、この祝い日《び》の前夜には、パ《/パ》リの通りは花でいっぱいになる。|ふつう《普通》の店や市場《イチバ》だけではない。往来のすみずみ、家いえの石段、そのほかちょっとした店《’店》を開くことのできる場所にはきっと花を売っていた。  アッケンのお父さんは、|においあらせいとう《ニオイアラセイトウ》の季節がすむと、七月、八月の祝い日《び》の用意にせっせとかかっていた。とりわけ八月には、セン・マリ、《、/》セン・ルイの大祝日があるので、これを当てこんで何千本という|えぞぎく《エゾギク》、フクシア、|きょうちくとう《夾竹桃》などを温室や温床に|はい《入》りきらないほど|しこ《仕込》んでおいた。これらの花はどれも、ちょうどその当日に早すぎずおそすぎず花ざかりというふうに作らなければならないので、そこに|うで《腕》の要るのは言うまでもないことであった。|だれ《誰》だって、太陽と天気を自由にすることはできない。天気は人間にかまわずよすぎたり、悪すぎたりするのであった。アッケンのお父さんは、そういう|うで《腕》にかけては、確かなものであったから、花が当日におくれたり早すぎたりするなどという失敗はなかったが、それだけに|めんどう《面倒》な手数のかかることは|しかた《仕方》がなかった。  この話の当時には、花の出来はまったくすばらしいものであった。それはちょうど八月五日のことであったが、花はいまが見ごろであった。花畑の中の野天の下で、|えぞぎく《エゾギク》の花びらはいまにも口を開こうとしてふくれていた。  温室の温度と日光を弱めるために、わざわざ石灰乳をガラスのフレームにぬった温床の下で、フクシアや|きょうちくとう《夾竹桃》がさ《咲》きかけていた。うじゃうじゃと固まって草むらになっているものもあれば、頭から根元まで三角形につぼみのすずなりになったものもあった。どうして目の覚めるように美しかった。|ときどき《時々》お父さんはいかにも満足らしく、もみ手をしながら、うっとり|なが《眺》め入っていた。 「ことしは天気がいいなあ」  こう|かれ《彼》は|むすこ《息子》たちをふり返って言っていた。  |かれ《彼》はくちびるに微笑をたたえて、胸の中では、これだけ売ればいくらになるという勘定をしていた。  ここまでするには、みんなずいぶん骨を折った。一時間と休憩するひまなしに働いたし、日曜日でも休まなかった。でももう|とうげ《峠》はこ《越》したし、すっかり売り出しの準備ができあがったので、その|ほうび《褒美》として、八月五日の日曜日の夕方、|わたし《私》たち残らずうちそろってアルキュエイまで、お父さんの友人で、やはり植木屋仲間のうちへ《へ’》ごちそうを食べに行くことが決定されていた。カピも一行の一人になるはずであった。|わたし《私》たちは四時まで働くことにして、仕事がすんだところで、門に錠をかって、アルキュエイまで行くことになった。晩食は八時にできるはずであった。晩食がすんで|わたし《私》たちはすぐうちへ帰ることにした。|ねどこ《寝床》にはいるのが|おそ《遅》くならないように、月曜の朝にはいつでも働けるように、元気よく早くから起きられるようにしなければならなかった。それで四時《4時》|二、三分《ニサンプン》まえに|わたし《私》たちはみんな仕度ができた。 「さあ、みんな行こう」とお父さんが|ゆかい《愉快》らしく|さけ《叫》んだ。「|わたし《私》は門に|かぎ《鍵》をかけるから」 「来い、カピ」  リーズの手を取って、|わたし《私》は走りだ《出》した。カピはうれしそうには《跳》ねながら《ら’》ついて来た。また旅|かせ《稼》ぎに出るのだと思ったのかもしれない。この犬は旅がやはり好きであった。こうしてうちにいては、思うように|わたし《私》にかまってはもらえなかった。  |わたし《私》たちは日曜日の晴れ着を着て、ごちそうになりに行く仕度をしていたので、なかなかきれいであった。|わたし《私》たちが通るとふり返って見る人たちもあった。|わたし《私》は自分がどんなふうに見えるかわからなかったけれど、リーズは水色の服に、ねずみ色の|くつ《靴》をは《履》いて、このうえなく活発なかわいらしい|むすめ《娘》であった。  時間が知らないまにずんずん過ぎていった。  |わたし《私》たちは庭の|にわとこ《ニワトコ》の木の下でごちそうを食べていた。するとちょうどおしまいになりかけたとき、|わたし《私》たちの一人が、ずいぶん空が暗くなったと言いだした。雲がどんどん空の上に固まって出て来た。 「さあ、子どもたち、早くうちへ帰らなければいけない」とお父さんが言った。 「もう。」みんなは|いっしょ《一緒》に|さけ《叫》んだ。  リーズは口は《は’》きけなかったが、やはり帰るのは|いや《嫌》だという身ぶりをした。 「さあ行こう」とお父さんがまた言った。「風が出たらガラスのフレームは残らず引っくり返される」  これでもう|だれ《誰》も異議を申し立てなかった。|わたし《私》たちはみんなフレームの値打ちを知っていた。それが植木屋にどれほど|だいじ《大事》なものかわかっていた。風がうちのフレームをこわしたら、それこそ|たいへん《大変》なことであった。 「|わたし《私》はバンジャメンとアルキシーを連れて先へ急いで行く」とお父さんが言った。 「ルミはエチエネットと、リーズを連れてあとから来るがいい」  |かれ《彼》らはそのままかけだした。エチエネットと|わたし《私》はリーズを連れてそろそろ後からついて行った。|だれ《誰》ももう笑う者はなかった。空がだんだん暗くなった。|あらし《嵐》がどんどん来かけていた。砂けむりがうずを巻いて上がった。砂が目に|はい《入》るので、|わたし《私》たちは後ろ向きになって、両手で目をおさえなければならなかった。空にいなずまがひらめいて、はげしい|かみなり《雷》が鳴った。  エチエネットと|わたし《私》がリーズの手を引っ張った。|わたし《私》たちはもっと早く|かの《彼》女を引っ張ろうと試みたが、|かの《/彼》女は|わたし《私》たちと歩調を合わせることは困難であった。|あらし《嵐》の来るまえにうちへ帰れようか。お父さんとバンジャメンとアルキシーは|あらし《嵐》の起こるまえにうちに着いたろうか。|かれ《彼》らがガラスのフレームを閉めるひまさえあれば、風が下から|はい《入》って引っくり返すことはないであろう。  雷鳴がはげしくなった。雲がいよいよ深くなって、もうほとんど夜のように思われた。  風に雲のふきはらわれたとき、その深い銅色の底が見えた。雲はやがて雨になるであろう。  がらがら鳴り続ける雷鳴の中に、ふと、ごうっというひどい|ひび《響》きがした。一連隊の騎兵が|あらし《嵐》に追われてばらばらとか《駆》けてでも来るような音であった。  とつぜんばらばらと|ひょう《雹》が降って来た。はじめすこしばかり|わたし《私》たちの顔に当たったと思ううちに、石を投げるように降って来た。それで|わたし《私》たちはか《駆》け出して大きな門の下のトンネルに避難しなければならなかった。|ひょう《雹》の夕立ち。たちまち道はま《真》っ白に冬のようになった。|ひょう《雹》の大きさははとの卵ぐらいあった、落ちるときには耳の遠くなるような音を立てた。もうしじゅうガラスのこわれる音が聞こえた、|ひょう《雹》が屋根から往来へすべり落ちるとともに、屋根や|えんとつ《煙突》のかわらや石板やいろんなものがこわれて落ちた。 「ああ、これではガラスのフレームも」とエチエネットが|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》も同じ考えを持った。 「お父さんはたぶんま《間》に合ったでしょうね」 「|ひょう《雹》の降るまえに着いたにしても、ガラスに|むしろ《筵》をかぶせるひまはなかったでしょう。なにもかもこわれてしまったでしょうよ」 「|ひょう《雹》は所どころま《’ま》ばらに落ちるものだそうですよ」と、|わたし《私》はまだそれでも無理に希望をかけようとして言った。 「おお、それにはあんまりうちが近すぎます。もしうちの庭にここと同じだけ降ったら、父さんはお気の|どく《毒》なほど大損になってしまいます。父さんはこの花を売って、いくらお金を|もう《儲》けてどうするという細かい勘定をしていらしったのだからそ《/そ》れはずいぶんお金が要るようよ」  |わたし《私》はガラスのフレームが百枚千八百フランもすることを聞いていた。植木や種物を別にしても、|五、六百《ゴ六百》もあるフレームを|ひょう《雹》がこわしたらなんという災難であろう。どのくらいの損害であろう。  |わたし《私》はエチエネットにたずねてみたかったけれど、おたがいの話はまるで聞こえなかったし、|かの《/彼》女も話をする気がないらしかった。|かの《彼》女は絶望の表情で、自分のうちの焼け落ちるのを目の前に見ている人のように、|ひょう《雹》の降るのをながめていた。  おそろしい夕立ちはほんのわずか続いた。急にそれが始まったように、急にやんだ。たぶん|五、六分《ゴロップン》しか続かなかった、雲がパリのほうへ走って、|わたし《私》たちは避難所を出ることができた。|ひょう《雹》が往来に深く積もっていた。リーズは|うす《薄》い|くつ《靴》で、その上を歩くことができなかったから、|わたし《私》は背中に乗せてしょって行った。宴会へ行くときにあれほど晴れ晴れとしていた|かの《彼》女のかわいらしい顔は、|いま《今》は悲しみに|しず《沈》んで、|なみだ《涙》がほおを伝っていた。  まもなく|わたし《私》たちはうちに着いた。大きな門があいていて、|わたし《私》たちはすぐと花畑の中に|はい《入》った。  なんというありさまであろう。ガラスというガラスは粉|ごな《々》にこわれていた。花とガラスのかけらと|ひょう《雹》が|いっしょ《一緒》に固まって、あれほど美しかった花畑に降り積もっていた。なにもかもめちゃめちゃにこわされた。  お父さんはどこへ行ったのだろう。  |わたし《私》たちは|かれ《彼》を探した。やっと|かれ《彼》を大きな温室の中で発見した。その温室のガラス戸は残らずこわれていた。|かれ《彼》は地べたをうずめているガラスのかけらの中にいた(手車の上に|こし《腰》をかけてというよりは、がっかりして|こし《腰》をぬかしていた。アルキシーとバンジャメンはそのそばにだまって立っていた。 「ああ、子どもたち、かわいそうに」と、|かれ《/彼》は|わたし《私》たちがガラスのかけらの上をみしみし歩く音に気がついて、こう|さけ《叫》んだ。  |かれ《彼》はリーズをだいてすすり泣きを始めた。|かれ《彼》はなにもほかに言わなかった。なにを言うことができようぞ。これはおそろしい結果であった。しかもそのあとの結果はもっともっとおそろしかった。  |わたし《私》はま《間》もなくそれをエチエネットから聞いた。  十年まえ|かれ《彼》らの父親はこの花畑を買って、自分で家を建てた。|かれ《彼》に土地を売った男は植木屋として必要な材料を買う金《-かね》をもやはり|かれ《彼》に貸していた。その金額は十五年の年賦で、毎年|しはら《支払》うはずであった。その男はし《”し》かもこの植木屋が支払いの期限をおくらせて、おかげで土地も家も材料までも自分の手に取り返す機会ばかりをねらっていた。もちろんすでに受け取った十年分の支払い金額は、|ふところ《懐》に納めたうえのことであった。  これはその男にとっては相場をやるようなもので、|かれ《/彼》は十五年の期限のつきないまえにい《/い》つか植木屋が証文どおりにいかなくなるときの来ることを望んでいた。この相場はよし当たらないでも債権者《/債権者》のほうに損はなかった。万一当《万いち当》たればそれこそ債務者にはひどい危険であった。ところが|ひょう《雹》のおかげでその日はとうとう来たのだ。さてこれからは、どうなることやら。  |わたし《私》たちはそれを長く心配するひまはなかった。証文の期限が切れたあくる日──この金《-かね》はこの季節の花の売り上げで|しはら《支払》われるはずであったから─《─:》─全身ま《真》っ黒な服装をした一人の紳士がうちへ来て、印《イン》をおした紙を|わたし《私》た。これは執達吏であった。|かれ《彼》はたびたび来た。あまりたびたび来たので、しまいには|わたし《私》たちの名前を覚えるほどになった。 「ご|きげん《機嫌》よう、エチエネットさん。いよう、ルミ。いよう、アルキシー」  こんなことを言って、|かれ《/彼》は|わたし《私》たちに例の印《イン》をおした紙を、お友だちのような顔をしてにこにこしながら|わた《渡》した。 「みなさん、さよなら。また来ますよ」 「うるさいなあ」  お父さんはうちの中に落ち着いていなかった。いつも外に出ていた。|かれ《彼》はどこへ行くか、ついぞ話したことがなかった。たぶん弁護士を訪問するか、裁判所へ行ったのかもしれなかった。  裁判所というと|わたし《私》はおそろしかった。ヴィタリスも裁判所へ行った。そしてその結果はどうであったか。  そしてその結果をお父さんは待ちかねていた。冬の半分は過ぎた。温室を修理することも、ガラスのフレームを新しく買うこともできないので、|わたし《私》たちは野菜物《野菜モノ》や|おお《覆》いの要らない|じょうぶ《丈夫》な花を作っていた。これはたいした|もう《儲》けにはならなかったが、なにかの足しにはなった。これだって|わたし《私》たちの仕事であった。  ある晩お父さんはいつもよりよけい|しず《沈》んで帰って来た。 「子どもたち」と|かれ《彼》は言った。「もうみんなだめになったよ」  |かれ《彼》は子どもたちになにか|だいじ《大事》なことを言いわたそうとしているらしいので、|わたし《私》はさけて部屋を出ようとした。|かれ《彼》は手まねで|わたし《私》を引き止めた。 「ルミ、おまえもうちの人だ」と|かれ《彼》は悲しそうに言った。「おまえはなにかがよくわかるほどまだ大きくなってはいないが、|めんどう《面倒》の起こっていることは知っていよう。みんなお聞き、|わたし《私》はおまえたちと別れなければならない」  ほうぼうから一つの|さけ《叫》び声と苦しそうな泣き声が起こった。  リーズは父親の首に|うで《腕》を巻きつけた。|かれ《彼》は|かの《彼》女をしっかりとだきしめた。 「ああ、おまえたちと別れるのはまったくつらい」と|かれ《彼》は言った。「けれど裁判所から支払いをしろという命令を受けた。でも|わたし《私》は金《-かね》がないのだから、このうちにあるものは残らず売らなければならない。それでも足りないので、|わたし《私》は五年のあいだ懲役《’懲役》に行かねばならない。|わたし《私》は自分の金《-かね》ではらうことができないから、自分の|からだ《体》と自由でそれをはらわなければならない」  |わたし《私》たちはみんな泣きだした。 「そう、悲しいことだ」と|かれ《彼》は|おろおろ声《オロオロゴエ》で続けた。「けれど人は法律に向かってはなにもしえない。弁護士の言うところでは、むかしはどうしてこんなことではすまなかった。貸し主は借り手の|からだ《体》をいくつかに切り刻んで、貸し主のうちで欲しいと思う者がそれを分けて取る権利があったそうだ。|わたし《私》はただ五年のあいだ刑務所にいればいいのだからね。ただそのあいだにおまえたちはどうなるだろう。それが心配でたまらない」  悲しい沈黙が続いた。 「|わたし《私》が決めたとおりにするのがいちばんいいことなのだ」とお父さんは続けた。 「ルミ、おまえはいちばん学者なのだから、妹のカトリーヌの所へ手紙を書いて、事がらをくわしく述べて、すぐに来てくれるように|たの《頼》んでおくれ。カトリーヌ|おば《小母》さんは、なかなかもののわかった人だから、どうすればいちは《ば》んいいか、うまく決めてくれるだろう」  |わたし《私》が手紙を書くのはこれが初めてでなかなか骨が折れた。それは|ひじょう《非常》に痛ましいことであったが、|わたし《私》たちはまだひと筋の希望を持っていた。|わたし《私》たちはみんななにも知らない子どもであった。カトリーヌ|おば《小母》さんが来てくれるということ、|かの《/彼》女が実際家であるということは、なにごとをもよくしてくれるであろうといふ《う》希望を持たせた。  けれど|かの《彼》女は思ったほど早くは来てくれなかった。|四、五日《シゴニチ》ののちお父さんがちょうど友だちの一人を訪問に出かけようとすると、ぱったり巡査に出会った。|かれ《彼》は巡査たちとうちへ|もど《戻》って来た。|かれ《彼》は|ひじょう《非常》に青い顔をしていた。子どもたちにさようならを言いに来たのであった。 「おまえ、そんなに力を落としなさんな」と、|かれ《/彼》をつかまえに来た巡査の一人が言った。「借金のために牢にはいるのは、おまえが思うほどおそろしいものではない。向こうへ行けばなかなかいい人間がいるよ」  |わたし《私》は庭にいた二人の子どもを呼びに行った。帰ってみると、小さいリーズはすすり泣きをしてお父さんの両手にだ《抱》かれていた。巡査の一人が|こし《腰》をかがめて、お父さんの耳になにかささやいたが、なにを言ったか|わたし《私》には聞こえなかった。 「そうです。そうしなければなりませんね」とお父さんは言って、思い切ってリーズを下に置いた。でも|かの《彼》女は父親の手にからみついて|はな《離》れなかった。それから|かれ《彼》はエチエネット、《、/》アルキシー、《、/》バンジャメンと順々にキッスして、リーズをねえさんの手に預けた。  |わたし《私》はすこし|はな《離》れて立っていたが、|かれ《/彼》は|わたし《私》のほうへ寄って来て、ほかの者と同様に優しくキッスした。  これで巡査は|かれ《彼》を連れて行った。|わたし《私》たちはみんな台所のま《真》ん中に泣きながら立っていた。だれ一人ものを言う者はなかった。  カトリーヌ|おば《小母》さんは一時間おくれてやって来た。|わたし《私》たちはまだはげしく泣いていた。いちばん気丈なエチエネットすら今度の大波にはすっかり足をさらわれた。|わたし《私》たちの水先案内が海に落ちたので、あとの子どもたちはかじを失って、波のまにまにただようほかはなかった。  ところでカトリーヌ|おば《小母》さんはなかなかしっかりした婦人であった。もとはパリの街で乳母奉公《ウバ奉公》をして、十年のあいだに五か所も勤めた。世の中のすいもあまいもよく知っていた。|わたし《私》たちはまた|たよ《頼》りにする目標ができた。教育もなければ、資産もない|いなか《田舎》女として|かの《彼》女にふりかかった責任は重かった。|びんぼう《貧乏》になった一家の総領はまだ十六にならない。いちばん下はおしの|むすめ《娘》であった。  カトリーヌ|おば《小母》さんは、ある公証人のうちに乳母《ウバ》をしていたことがあるので、|かの《/彼》女はさっそくこの人を訪ねて相談をした。そこでこの人が助言して、|わたし《私》たちの運命を決めることになった。それから|かの《彼》女は監獄へ行って、お父さんの意見も聞いた。そんなことに一週間かかって、最後に|わたし《私》たちを集めて、取り決めた次第を言って聞かした。  リーズはモルヴァンの|かの《彼》女のうちへ行って養われることになった。アルキシーはセヴェンヌ山のヴァルスで鉱夫を勤めているおじの所へ行く。バンジャメンはセン・カンテンで植木屋をしているもう一人のおじの所へ行く。そしてエチエネットはシャラント県のエナンデ海岸にいるおばの所へ行くことになった。  |わたし《私》はこういう取り計らいをわきで聞きながら、自分の番になるのを待っていた。ところがカトリーヌ|おば《小母》さんはそれで話をやめてしまって、とうとう|わたし《私》のことは話が出ずにしまった。 「では|ぼく《僕》は‥‥。」と|わたし《私》は言った。 「だっておまえはこのうちの人ではないもの」 「|ぼく《僕》は|あなた《貴方》がたのために働きます」 「おまえさんはこのうちの人ではないよ」 「|わたし《私》がどんなに働けるか、《、/》アルキシーにでもバンジャメンにでもたずねてください。|わたし《私》は仕事が好きです」 「それからスープをこしらえるのも|うま《上手》いや」 「おばさん、あの子はうちの人です。そうです、うちの人です」という声がほうぼうから起こった。リーズが前へ出て来て、おばさんの前で手を合わせた。それは|ことば《言葉》で言う以上の意味を表していた。 「まあまあ、かわいそうに」と、カトリーヌ|おば《小母》さんは言った。「おまえがあの子を|いっしょ《一緒》に連れて行きたがっていることはわかっている。けれど世の中というものはいつも思うようにはならないものなのだよ。おまえは|わたし《私》のめいだから、おまえをうちへ連れて行って、おじさんにいやな顔をされても、|わたし《私》は『でも親類だから』と言って通してしまうつもりだ。ほかのセン・カンテンのおじさんにしても、ヴァルスのおじさんにしても、エナンデのおばさんにしても、そのとおりだろうよ。やっかいだと思っても、親類なら養ってくれるだろう。けれど他人ではそうはゆかない。一つうちの者だけでも、腹いっぱい食べるだけのパンは|むず《難》かしいのだからね」  |わたし《私》はもうなにも言うことがないように思った。|かの《彼》女の言ったことはもっともすぎることであった。|わたし《私》はうちの者ではなかった。|わたし《私》はなにも求めることもできない。なにも|たの《頼》むこともできない。それをすれば|こじき《乞食》になる。  でも|わたし《私》はみんなを好《-す》いていたし、みんなも|わたし《私》を好《-す》いていた。  みんな兄弟でもあり、姉妹でもあった。カトリーヌ|おば《小母》さんは決心したことはすぐ実行する性質であった。|わたし《私》たちにはあしたいよいよお別れをすることを言い|わた《渡》して|ねどこ《寝床》へ|はい《入》らせた。  |わたし《私》たちが部屋へ|はい《入》るか、|はい《入》らないうちに、みんなは|わたし《私》を取り巻いた。リーズは泣きながら|わたし《私》にからみついた。そのとき|わたし《私》は|かれ《彼》ら兄弟がおたがいに別れて行く悲しみをまえにひかえながら、|かれ《/彼》らの思っていてくれるのは|わたし《私》のことだということがわかった。|かれ《彼》らは|わたし《私》が独りぼっちだといって気の|どく《毒》がった。|わたし《私》はそのとき|ほんとう《本当》に|かれ《彼》らの兄弟であるように感じた。そこでふと一つの考えが心にう《浮》かんだ。 「聞いてください」と|わたし《私》は言った。「おばさんやおじさんがたが|わたし《私》にご用はなくっても、|あなた《/貴方》がたがどこまでも|わたし《私》をうちの者に思ってくださることはわかりました」 「そうだそうだ、|きみ《君》はいつまでも|ぼく《僕》たちの兄弟だ」と三人が|いっしょ《一緒》に|さけ《叫》んだ。  もの言えないリーズは|わたし《私》の手をしめつけて、あの大きな美しい目で見上げた。 「ねえ、|ぼく《僕》は兄弟です。だからその証拠を見せましょう」と、|わたし《私》は力を入れて言った。 「|きみ《君》はいったいどこに行くつもりだ」とバンジャメンが言った。 「ペルニュイの所に仕事があるのよ。|わたし《私》あした行って話をしてみましょうか」とエチエネットが聞いた。 「|ぼく《僕》は奉公はしたくありません。奉公するとパリにじっとしていなければならないし、そうすると二度ともう|あなた《貴方》がたに会うことができません。|ぼく《僕》はまた|ひつじ《羊》の毛皮服を着て、ハープを|くぎ《釘》からはずして、肩にかついで、セン・カンテンからヴァルスへ、ヴァルスからエナンデへ、エナンデからドルジーへと、|あなた《貴方》がたのこれから行く先ざきへたずねて行きましょう。|わたし《私》は|あなた《貴方》がたみなさんに、一人ひとり代わりばんこに会って、ほうぼうの便りを持って行きましょう。そうすれば|ぼく《僕》の仲立ちでみんな|いっしょ《一緒》に集まっているようなものです。|ぼく《僕》はいまでも歌だってダンスの節《フシ》だって忘れてはいません。自分がく《暮》らしてゆくだけのお金は取れます」  みんなの顔がかがやいた。|わたし《私》は|かれ《彼》らが|わたし《私》の考えを聞いてそんなにも喜んでくれたのでうれしかった。長いあいだ|わたし《私》たちは話をして、それからエチエネットは一人ひとり|ねどこ《’寝床》へ|はい《入》らせた。けれどその晩は|だれ《誰》もろくろく|ねむ《眠》る者はなかった。とりわけ|わたし《私》はひと晩|ねむ《’眠》れなかった。  あくる日夜が明けると、リーズは|わたし《私》を庭へ連れ出した。 「|ぼく《僕》に言いたいことがあるの」と|わたし《私》はたずねた。  |かの《彼》女は何度も|うなず《頷》いた。 「|わたし《私》たちが別れて行くのがいやなんでしょう。それは言うまでもない。あなたの顔でわかっている。|ぼく《僕》だってまったく悲しいんだ」  |かの《彼》女は手まねをして、なにか言いたいことがほかにあるという意味を示した。 「十五日たたないうちに、|ぼく《僕》はあなたの行くはずのドルジーへ訪ねて行きますよ」  |かの《彼》女は首をふった。 「|ぼく《僕》がドルジーへ行くのがいやなんですか」  |わたし《私》たちがおたがいに了解|しい《し》合うために、|わたし《私》はそのうえにいろいろ問いを重ねていった。|かの《彼》女は|うなず《頷》いたり、首をふったりして答えた。|かの《彼》女は|わたし《私》にドルジーへ来てはもらいたいが、しかしそれより先に兄《アニ》さんや姉《アネ》さんのほうへ行ってもらいたい意味を、指を三方《サンポウ》に向けてさとらせた。 「あなたは|ぼく《僕》がいちばん先にヴァルスへ行き、それからエナンデ、それからセン・カンテンというふうに行ってもらいたいのでしょう」  |かの《彼》女はにっこりして|うなず《頷》いた。|わたし《私》がわかったのがうれしそうであった。 「なぜさ」  こう聞くと、|かの《/彼》女はくちびると手を、とりわけ目を動かして、なぜそう望むか、そのわけを説明した。それは先に姉《アネ》さんや兄《アニ》さんたちの所へ行ってもらえば、ドルジーへ来るときにはほうぼうの便りを持って来てくれることができるからというのであった。  |かれ《彼》らは八時にた《発》たなければならなかった。カトリーヌ|おば《小母》さんはみんなを乗せる馬車を言いつけて、なにより先に刑務所へ行って、父親にさようならを言うこと、それからてんでに荷物を持って別々の汽車に乗るために、別々の停車場《停車ジョウ》に別れて行くという手順を決めた。  七時ごろ今度はエチエネットが|わたし《私》を庭へ連れ出した。 「ルミ、|わたし《私》あなたにほんのお形見をあげようと思うの」と|かの《彼》女は言った。「この小|ばこ《箱》を納めてください。|わたし《私》のおじさんがくれたものだから。中には糸と針とはさみが|はい《入》っています。旅をして歩くと、こういうものが入り用なのよ。なにしろ|わたし《私》がそばにいて、着物のほころびを直したり、ボタンをつけたりしてあげることができないのだからねえ。それで|わたし《私》のはさみを使うときには|わたし《私》たちみんなのことを思い出してください」  エチエネットが|わたし《私》と話をしているあいだ、アルキシーがそばをぶらついていた。|かの《彼》女が|わたし《私》を置いて、うちの中へ|はい《入》ると、|かれ《/彼》はやって来て、 「ねえ、ルミ」と|かれ《彼》は言いだした。「|ぼく《僕》は五フランの銀貨を二つ持っている。一つあげよう。|きみ《君》がもらってくれると、|ぼく《僕》はずいぶんうれしいんだ」  |わたし《私》たち五人のうちで、アルキシーはたいへん金《-かね》を|だいじ《大事》にする子であった。|わたし《私》たちはいつも|かれ《彼》の欲張りをからかっていた。|かれ《彼》は一《1》スー、二スーと貯金してしじゅう貯金の高《タカ》を勘定していた。|かれ《彼》は一《1》スーずつためては新しい十《ジュッ》スー、二十《ニジュッ》スーの銀貨とかえて|だいじ《大事》に持っていた。そういう|かれ《彼》の申し出は、|わたし《私》を心から感動させた。|わたし《私》は断りたかったけれど、|かれ《/彼》はきらきらする銀貨を|わたし《私》の手に無理ににぎらせた。|わたし《私》は|だいじ《大事》にしている宝が《を》分けてくれようという|かれ《彼》の友情が|ひじょう《非常》に強いものであることを知った。  バンジャメンも|わたし《私》を忘れはしなかった。|かれ《彼》はやはり|わたし《私》に|おく《贈》り物をしようと思った。|かれ《彼》は|わたし《私》にナイフをくれて、それと交換に、一《1》スー請求した。なぜなら、ナイフは友情を切るものだから。  時間はかまわずずんずんたっていった。いよいよ|わたし《私》たちの別れる時間が来た。  リーズは|ぼく《僕》のことをなんと思っているだろう。馬車がうちの前に近づいて来たときに、リーズがまた|わたし《私》に庭までついて来いという手まねをした。 「リーズ」と|かの《彼》女のおばさんが呼んだ。  |かの《彼》女はそ《’そ》れには返事をしないで急いでか《駆》け出して行った。|かの《彼》女は庭のすみに一本残《一本’残》っていた大きなベンガル|ばら《薔薇》の前に立ち止まって、一《ひと》えだ折った。それから|わたし《私》のほうを向いてその|えだ《枝》を二つにさいた。その両方に|ばら《薔薇》のつぼみが一つずつ開《ひら》きかけていた。  くちびるの|ことば《言葉》は目の|ことば《言葉》に比べては小さなものである。目つきに比べて、|ことば《言葉》のいかに冷たく、空虚であることよ。 「リーズ、《、/》リーズ」とおばさんが|さけ《叫》んだ。  荷物はもう馬車の中に積みこまれていた。  |わたし《私》はハープを下ろして、カピを呼んだ。|わたし《私》のむかしに返ったおなじみの姿を見ると、|かれ《/彼》はうれしがって、とび上がって、ほ《吠》え回った。|かれ《彼》は花畑の中に閉じこめられているよりも、広い大道の自由を愛した。  みんなは馬車に乗った。|わたし《私》はリーズをおばさんのひざに乗せてやった。|わたし《私》はそこに半分目《半分’目》がくらんだようになって立っていた。するとおばさんが優しく|わたし《私》をおしのけて、ドアを閉めた。 「さようなら」  馬事《馬車》は動きだした。  もやの中で|わたし《私》はリーズが窓ガラスによって、|わたし《私》に手をふっているのを見つけた。やがて馬車は町の角《カド》を曲がってしまった。見えるものはもう砂けむりだけであった。|わたし《私》はハープによりかかって、カピが足の下で|から《絡》み回るままに任せた。ぼんやり往来《’往来》に立ち止まって目の前にうず巻いているほこりをながめていた。た《発》って行ったあとのうちを閉めて|かぎ《鍵》を家主に|わたし《私》てくれることを|たの《頼》まれた隣家の人がそのとき|わたし《私》に声をかけた。 「おまえさん、そこで一日立《一日た》っているつもりかね」 「いいえ、もう行きます」 「どこへ行くつもりだ」 「どこへでも、足の向くほうへ」 「おまえさん、ここにいたければ」と、|かれ《/彼》はたぶん気の|どく《毒》に思っているらしく、こう言った。「|わたし《私》の所へ置いてあげよう。けれど給金ははらえないよ。おまえさんはまだ一人前ではないからなあ。いまにすこしはあげられるようになるかもしれない」  |わたし《私》は|かれ《彼》に感謝したが、「いいえ」と答えた。 「そうか。じゃあ|かって《勝手》におし。|わたし《私》はただおまえさんのためにと思っただけだ。さようなら。無事で」  |かれ《彼》は行ってしまった。馬車は遠くなった。うちは閉ざされた。  |わたし《私》はハープの|ひも《紐》を肩にかけた。カピはすぐ気がついて立ち上がった。 「さあ行こう、カピ」  |わたし《私》は二年のあいだ住み慣れて、いつまでもいようと思ったうちから目をそらして、はるかの前途を望んだ。  日はもう高く上っていた。空は青あおと晴れて──気候は暖かであった。気の|どく《毒》なヴィタリス老人と|わたし《私》が、|つか《疲》れきってこのさくのそばで|たお《倒》れた、あの寒い晩とは|たいへん《大変》なちがいであった。  こうしてこの二年間はほんの休息であった。|わたし《私》はまた自分の道を進まなければならなかった。けれどもこの休息が|わたし《私》にはずいぶん役に立った。それが|わたし《私》に力をあたえた。優しい友だちを作ってくれた。  |わたし《私》はもう世界で独りぼっちではなかった。この世の中に|わたし《私》は目的を持っていた。それは|わたし《私》を愛し、|わたし《私》が愛している人たちのために、役に立つこと、なぐさめになることであった。  新しい生涯が|わたし《私》の前に開《-ひら》けていた。  前へ。 ◇。◇。◇。 【第22章】 【前へ】 ◇。◇。◇。  前へ。世界は|わたし《私》の前に開かれた。北でも南でも東でも西でも、自分の行きたいままの方角へ|わたし《私》は向かって行くことができる。それはもう子どもは子どもでも、|わたし《私》は自分白身《自分自身》の主人であった。  いよいよ流浪の旅を始めるまえに、|わたし《私》はこの二年のあいだ父親のように優しくしてくれた人に会いたいと思った。カトリーヌ|おば《小母》さんは、みんなが|かれ《彼》に「さようなら」を言いに行くときに、|わたし《私》を|いっしょ《一緒》に連れて行くことを好まなかったが、|わたし《私》はせめて一人になったいまでは、行って|かれ《彼》に会うことができるし、会わなければならないと思った。借金のために刑務所に|はい《入》ったことはなくても、その話をこのごろしじゅうのように聞かされていたのでそ《/そ》の場所ははっきりわかっていた。|わたし《私》はよく知っているラ・マドレーヌ寺道をたどって行った。カトリーヌ|おば《小母》さんも、子どもたちも、お父さんに会えたのだから、|わたし《私》もきっと会うことが許されるであろう。|わたし《私》はお父さんの子どもも同様であったし、お父さんも|わたし《私》をかわいがっていた。  でも思い切って刑務所の中へ|はい《入》って行くのがちょっと|ちゅうちょ《躊躇》された。|だれ《誰》かが|わたし《私》をじっと監視しているように思われた。もう、一度そのドアの中へ、おそろしいドアの中へ閉めこまれたが最後、二度と出されることがないように思われた。  刑務所から出て来ることは容易でないと|わたし《私》は考えていた。しかしそこへ|はい《入》るのも容易でないことを知らなかった。さんざんひどい目に会って、|わたし《私》はそれを知った。  でも力も落とさず、それから引っ返してしまおうとも思わずに待っていたおかげで、|わたし《私》はやっと面会を許されることになった。かねて思っていたのとちがい、|わたし《私》は格子もさくもないそまつな応接室に通された。お父さんは出て来た。でも|くさり《鎖》などに結わえられてはいなかった。 「ああ、ルミや、|わたし《私》はおまえを待っていた」と、|わたし《私》が面会所にはいると|かれ《彼》は言った。 「|わたし《私》は、カトリーヌ|おば《小母》さんがおまえを|いっしょ《一緒》に連れて来なかったので、こごとを言ってやったよ」  |わたし《私》はこの|ことば《言葉》を聞くと、朝からしょげていたことも忘れて、すっかりうれしくなった。 「カトリーヌ|おば《小母》さんは、|ぼく《僕》を|いっしょ《一緒》に連れて来ようとしなかったのです」  |わたし《私》はうったえるように言った。 「いや、そういうわけでもなかったのだろう。なかなか思うとおりにはならないものだよ。ところでおまえがこれから一人でく《暮》らしを立ててゆこうとしていることも|わたし《私》はようく知っているのだがね。どうも|わたし《私》の妹婿のシュリオだって、おまえに仕事を見つけてやることはできないだろうしね。シュリオはニヴェルネ運河の水門守《水門モリ》をしているのだが、知ってのとおり植木職人の世話を水門守《水門モリ》にしてもらうのは無理だからね。それにしても、子どもたちの話では、おまえはまた旅芸人になると言っているそうだが、おまえもう、あの寒さと空腹で死にかけたことを忘れたのかえ」 「いいえ、忘れません」 「でも、あのときはまだしも、おまえは独りぼっちではなかった。|めんどう《面倒》を見る親方があった。それも|いま《今》はないし、おまえぐらいの年ごろで一人ぼっち|いなか《田舎》へ出るということは、いいことだとは思われない」 「カピも|いっしょ《一緒》です」  このときカピは自分の名を聞くと、いつものように、(はい、ここにおります、ご用ならお役に立ちましょう)というように一声ほ《’吠》えた。 「うん、カピはよい犬だ。しかしやっぱり犬は犬だからな。おまえはいったいどうしてく《暮》らしを立てるつもりなのだ」 「|わたし《私》が歌を歌ったり、カピが芝居をしたりして」 「しかしカピ一人ぼっちで、芝居は|でき《出来》やしないだろう」 「いえ、|わたし《私》はカピに芸をしこみます。そうだろう、ね、カピ。おまえ、なんでも|わたし《私》の望むものを習うだろう」  カピは前足で胸をたたいた。 「ルミ、おまえがよく考えたら、やはり職を見つけることにするだろうよ。もうおまえも一《-ひと》かどの職人だ。流浪するよりもそのほうがましだし、だいいち、あれはなまけ者のすることだ」 「ええ、もちろん|わたし《私》はなまけ者ではありません。|わたし《私》はお父さんと|いっしょ《一緒》にならできるだけ働きます。そしていつでもお父さんと|いっしょ《一緒》にいたいと思っています。でもほかの人のうちで働くのはいやなんです」  もちろん、たった一人、大道ぐらしを続けてゆくことの危険なことはよくわかっていた。それはさんざん、つらい経験もしている。そうだ、人びとが|わたし《私》のように流浪の生活を送って、あの犬たちが|おおかみ《オオカミ》に食べられた夜や、《、/》ジャンチイイの石切り場のあの晩のような目に会ったり、あれほどひもじいめをしたり、《:、》ヴィタリス親方が刑務所に入《-い》れられて、一《1》スーも|もう《儲》けることができず、村から村へと追い立てられたりしたようなことに出会ったら、|だれ《誰》だってあすはま《真》っ暗|やみ《闇》、現在さえも不安心でたまらないのが当たり前だ。危険な、みじめな、浮浪人の生活を|わたし《私》は自分が送ってきたことも忘れはしないのだ。だがいまそれをやめたら、|わたし《私》はいったいどうしていいかわからないではないか。それにもう一つ、旅に出るについて決心を固くするものがあった。いまさらよそのうちに奉公するよりも、|わたし《私》にはこの流浪の旅がずっと自由で気楽なばかりでなく、エチエネットや、アルキシーやバンジャメン、《:、》それからリーズとした|やくそく《約束》を果たすためにもこの旅行を思いとどまることはできなかったのだ。どうしてこのことはあの人たちを見捨てないかぎり、やめられないのだ。もっともエチエネットやアルキシーやバンジャメンからは、手紙が書けるので手続《手紙》も来ようが、リーズといえば、書くことも知らないのだから、ここであの子のことを|わたし《私》が忘れてしまえば、もう|かの《彼》女はなにもかも世界の様子がわからなくなってしまうのだ。 「では、お父さんは、お子さんた《’た》ちの便りを、|わたし《私》が持って来るのがおいやなのですか」と|わたし《私》はたずねてみた。 「|なるほど《成程》みんなの話では、おまえは子どもたちの所へ一人ひとり訪ねて行ってくれるということだが、それはありがたいが、といって、|わたし《私》たち自分の|こと《事》ばかり考えているわけにはゆかない。それよりかまずおまえのためを考えなければならないのだよ」 「では、|わたし《私》だってお父さんのおっしゃるとおりにして、自分の身の上の危険をおそれて、今度の計画をやめてしまえば、やはり自分の|こと《事》ばかり考えて、あなたのことも、それからリーズのことも考えなくてもいいということになりますよ」  お父さんはしばらく|わたし《私》の顔をながめていたが、急に|わたし《私》の両手を取った。 「まあ、よくおまえ、言っておくれだ。おまえは|ほんとう《本当》に真心がある」  |わたし《私》は|かれ《彼》の首に|うで《腕》をかけた。そのうち、さようならを言う時間が来た。しばらくのあいだ|かれ《彼》はだまって|わたし《私》をおさえていた。やがていきなり|かれ《彼》はチョッキの|かく《隠》しを探って、大きな銀時計を引き出した。 「さあ、おまえ、これをあげる」と|かれ《彼》は言った。「これを|わたし《私》の形見に持っていてもらいたい。たいした値打ちのものではない。値打ちがあれば|わたし《私》は|とう《トウ》に売ってしまったろう。時間も確かではない。いけなくなったらげんこでたたきこわしてもいい。でもこれが|わたし《私》の持っているありったけだ」  |わたし《私》はこんな|りっぱ《立派》な|おく《贈》り物を断ろうと思ったけれど、|かれ《/彼》はそれを|わたし《私》のにぎった手に無理におしこんだ。 「ああ、|わたし《私》は時間を知る必要はないのだ。時間はずいぶんゆっくりゆっくりたってゆく。それを勘定していたら、死んでしまう。さようなら、ルミや。いつでもいい子でいるように、覚えておいで」  |わたし《私》は|ひじょう《非常》に悲しかった。どんなにあの人は|わたし《私》に優しくしてくれたであろう。|わたし《私》は別れてのち長いあいだ刑務所のドアの回りをうろうろした。ぼんやり|わたし《私》はそのまま夜まででも立ち止まっていたかもしれなかったが、ふと|かく《隠》しにある固い丸いものが手にさわった。|わたし《私》の時計であった。  ありったけの|わたし《私》の悲しみはしばらくのあいだ忘れられた。|わたし《私》の時計だ。自分の時計で時間を知ることができるのだ。|わたし《私》は時間を見るために、それを引き出した。昼だ。それは昼であろうと、十時であろうと、十一時であろうと、たいしたことではなかった。でも|わたし《私》は昼であるということがたいそううれしかった。それがなぜだか言うのは|むず《難》かしい。けれどそういうわけであった。|わたし《私》の時計がそう知らせてくれる。なんということだ。|わたし《私》にとって時計は相談をしたり、話のできる親友であると思われた。 「時計君、何時だね」 「十二時ですよ、ルミさん」 「おやおや。ではあれをしたり、これをしたりするときだ。いいことをおまえは教えてくれた。おまえが言ってくれなければ、|ぼく《僕》は忘れるところだったよ」  |わたし《私》のうれしいのにまぎれて、カピがほとんど|わたし《私》と同様に喜んでいてくれることに気がつかなかった。|かれ《彼》は|わたし《私》のズボンのすそを引っ張って、たびたびほ《吠》えた。|かれ《彼》がほ《吠》え続けたとき|わたし《私》は初めて、|かれ《/彼》に注意を向けてやらなければならなかった。 「カピ、なんの用だい」と|わたし《私》はたずねた。|かれ《彼》は|わたし《私》の顔をながめた。けれど|わたし《私》は|かれ《彼》の意味が解けなかった。|かれ《彼》はしばらく待っていたが、やがて|わたし《私》の前に来て、時計を入れた|かく《隠》しの上に前足をのせて立った。|かれ《彼》はヴィタリス親方と|いっしょ《一緒》に働いていた|じぶん《時分》と同じように、《:、》「ご臨席の貴賓諸君」に時間を申し上げる用意をしていたのであった。  |わたし《私》は時計を|かれ《彼》に見せた。|かれ《彼》はしばらく思い出そうと努めるように、しっぽをふりながらそれを、ながめたが、やがて十二度《十二タビ》ほ《’吠》えた。|かれ《彼》は忘れてはいなかった。|わたし《私》たちはこの時計でお金を取ることができる。これは|わたし《私》があてにしていなかったことであった。  前へ進め、子どもたち。|わたし《私》は刑務所に最後の目をくれた。その|へい《塀》の後ろにはリーズの父親が閉じこめられているのだ。  それからずんずん進んで行った。なによりも|わたし《私》に入り用なものは、フランスの地図であった。河岸通りの本屋へ行けば、それの得られることを知っていたので、|わたし《私》は川のほうへ足を向けた。やっと|わたし《私》は十五スーで、ずいぶん黄色くなった地図を見つけた。  |わたし《私》はそれでパリを去ることができるのであった。すぐ|わたし《私》はそれをすることに決めた。|わたし《私》は二つの道の一つを選ばなければならなかった。|わたし《私》はフォンテンブローへの道を選んだ。リュウ・ムッフタールの通りへ来かかると、山のような記憶が群がって起こった。ガロフォリ、《、/》マチア、《、/》リカルド、錠前のかかったスープなべ、むち、ヴィタリス老人、あの気の|どく《毒》な善良な親方。|わたし《私》を|こじき《乞食》の親分へ貸すことをきらったために、死んだ人。  お寺のさくの前を通ると、子どもが一人|かべ《’壁》によっかかっているのを見た。その子はなんだか見覚えがあるように思った。  確かにそれはマチアであった。大きな頭の、大きな目の、優しい、いじけた目つきの子どものマチアであった。けれど|かれ《彼》はちっとも大きくはなっていなかった。|わたし《私》はよく見るためにそばへ寄った。ああそうだ、そうだ、マチアであった。  |かれ《彼》は|わたし《私》を覚えていた。|かれ《彼》の青ざめた顔はにっこり笑った。 「ああ、|きみ《君》だね」と|かれ《彼》は言った。「|きみ《君》は先《セン》に白いひげのおじいさんとガロフォリのうちへ来たね。ちょうど|ぼく《僕》が病院へ行こうとするまえだった。ああ、あれから|ぼく《僕》はどんなにこの頭でなやんだろう」 「ガロフォリはまだ|きみ《君》の親方なのかい」  |かれ《彼》は返事をするまえにそこらを見回して、それから声をひそめて言った。 「ガロフォリは刑務所にはいっているよ。オルランドーを打ち殺したので連れて行かれたのだ」  |わたし《私》はこの話を聞いてぎょっとした。でも|わたし《私》はガロフォリが刑務所に入《-い》れられたと聞いてうれしかった。初めて|わたし《私》は、あれほどおそろしいものに思いこんでいた刑務所が、これはなるほど役に立つものだと考えた。 「それでほかの子どもたちは」と|わたし《私》はたずねた。 「ああ、|ぼく《僕》は知らないよ。ガロフォリがつかまったときには、|ぼく《僕》はいなかった。|ぼく《僕》が病院から出て来ると、|ぼく《僕》は病気で、もうぶっても役に立たないと思って、あの人は|わたし《私》を手放したくなった。そこであの人は|わたし《私》を二年のあいだガッソーの曲馬団へ売った。前金《マエキン》で金《-かね》をはらってもらったのだ。|きみ《君》はガッソーの曲馬を知っているかい。知らない。うん、それはたいした曲馬団ではないけれど、やはり曲馬は曲馬さ。そこでは子どもを、かたわの子どもを使うのだ。それでガロフォリが|ぼく《僕》をガッソーへ売ったのだ。|ぼく《僕》はこのまえの月曜までそこにいたが、|ぼく《僕》の頭が|はこ《箱》の中にはいるには大きすぎるというので、追い出された。曲馬団を出ると|ぼく《僕》はガロフォリのうちへもどったが、うちはすっかり閉まっていた。近所の人に聞いて様子がすっかりわかった。ガロフォリが刑務所へ行ってしまうと、|ぼく《僕》はどこへ行っていいか、わからない」 「それに|ぼく《僕》は金《’かね》を持たない」と|かれ《彼》はつけ加えて言った。「|ぼく《僕》はきのうから|一き《一切》れのパンも食べない」  |わたし《私》も金持ちではなかったけれど、気の|どく《毒》なマチアにやるだけのものはあった。|わたし《私》がツールーズへんをいまのマチアのように飢えてうろうろしていた|じぶん《時分》、|一き《一切》れのパンでもくれる人があったら、|わたし《私》はどんなにその人の幸福をいのったであろう。 「|ぼく《僕》が帰って来るまで、ここに待っておいでよ」と|わたし《私》は言った。|わたし《私》は町の角《カド》のパン屋までかけて行って、まもなく一斤買って帰って、それを|かれ《彼》にあたえた。|かれ《彼》はがつがつして、見るまに食べてしまった。 「さて」と|わたし《私》は言った。「|きみ《君》はどうするつもりだ」 「|ぼく《僕》はわからない。|ぼく《僕》はヴァイオリンを売ろうかと思っていたところへ|きみ《君》が声をかけた。|ぼく《僕》はそれと別れるのがこんなにいやでなかったら、とうに売っていたろう。|ぼく《僕》のヴァイオリンは|ぼく《僕》の持っているありったけのもので、悲しいときにも、一人いられる場所が見つかると、自分一人でひいていた。そうすると空の中にいろんな美しいものが、|ゆめ《夢》の中で見るものよりももっと美しいものが見えるんだ」 「なぜ|きみ《君》は往来でヴァイオリンをひかないのだ」 「ひいてみたけれど、なにももらえなかった」  ヴァイオリンをひいて一文《一モン》ももらえないことを、どんなによく|わたし《私》も知っていたことであろう。 「|きみ《君》はいまなにをしているのだ」と|かれ《彼》はたずねた。  |わたし《私》はなぜかわからなかった。けれどそのときの勢いで、|こっけい《滑稽》な|ほら《ホラ》をふいてしまった。 「|ぼく《僕》は一座の親方だよ」と|わたし《私》は高慢らしく言った。  それは真実ではあったが、その真実はずっと|うそ《嘘》のほうに近かった。|わたし《私》の一座はたったカピ一人だけだった。 「おお、|きみ《君》はそんなら‥‥。」とマチアが言った。 「なんだい」 「|きみ《君》の一座に|ぼく《僕》を入れてくれないか」  |かれ《彼》をあざむくにしのびないので、|わたし《私》はにっこりしてカピを指さした。 「でも一座はこれだけだよ」と|わたし《私》は言った。 「ああ、なんでもかまうものか。|ぼく《僕》がもう一人の仲間になろう。まあどうか|ぼく《僕》を捨てないでくれたまえ。|ぼく《僕》は腹が減って死んでしまう」  腹が減って死ぬ。この|ことば《言葉》が|わたし《私》のはらわたの底にしみわたった。腹が減って死ぬということがどんなことだか、|わたし《私》は知っている。 「|ぼく《僕》はヴァイオリンをひくこともできるし、でんぐり返しをうつこともできる」と、マチアがせかせか息もつかずに言った。「|なわ《縄》の上で|おど《踊》りも|おど《踊》れるし、歌も歌える。なんでも|きみ《君》の好きなことをするよ。|きみ《君》の家来にもなる。言うことも聞く。金《かね》をくれとは言わない。食べ物だけあればいい。|ぼく《僕》がまずいことをしたらぶってもいい。それは|やくそく《約束》しておく。ただ|たの《頼》むことは頭をぶたないでくれたまえ。これも|やくそく《約束》しておいてもらわなければならない。なぜなら|ぼく《僕》の頭はガロフォリがひどくぶってから、すっかりやわらかくなっているのだ」  |わたし《私》は|かわいそう《可哀想》なマチアが、そんなことを言うのを聞くと、声を上げて泣きだしたくなった。どうして|わたし《私》は|かれ《彼》を連れて行くことをこばむことができよう。腹が減って死ぬというのか。でも、|わたし《私》と|いっしょ《一緒》でも、やはり腹が減って死ぬかもしれない場合がある─《─:》─|わたし《私》はそう|かれ《彼》に言ったが、|かれ《/彼》は聞き入れようともしなかった。 「ううん、ううん」と|かれ《彼》は言った。「二人いれば飢え死にはしない。一人が一人を助けるからね。持っている者が持っていない者にやれるのだ」  |わたし《私》はもう|ちゅうちょ《躊躇》しなかった。|わたし《私》がすこしでも持っていれば、|わたし《私》は|かれ《彼》を助けなければならない。 「うん、よし、それでわかった」と|わたし《私》は言った。  そう言うと、|かれ《/彼》は|わたし《私》の手をつかんで、心から感謝のキッスをした。 「|ぼく《僕》と|いっしょ《一緒》に来たまえ」と|わたし《私》は言った。「家来ではなく、仲間になろう」  ハープを肩にかけると、|わたし《私》は号令をかけた。 「前へ進め」  十五分たつと、|わたし《私》たちはパリを後《あと》に見捨てた。  |わたし《私》がこの道を通ってパリを出るのは、バルブレンのおっかあに会いたいためであった。どんなにたびたび|わたし《私》は|かの《彼》女に手紙を書いてやって、|かの《/彼》女を思っていること、ありったけの心をささげて|かの《彼》女を愛していることを、言ってやりたかったかしれなかったが、亭主のバルブレンがこわいので、|わたし《私》は思いとどまった。もしバルブレンが手紙をあてに|わたし《私》を見つけたら、つかまえてまたほかの男に売りわたすかもしれなかった。|かれ《彼》はおそらくそうする権利があった。|わたし《私》は好んでバルブレンの手に落ちる危険をおかすよりも、バルブレンのおっかあから恩知らずの子どもだと思われているほうがましだと思った。  でも手紙こそ書き得なかったが、こう自由の身になってみれば、|わたし《私》は行って会うこともできよう。|わたし《私》の一座にマチアも|はい《入》っているので、|わたし《私》はいよいよそうしようと心を決めた。なんだかそれがわけなくできそうに思われた。|わたし《私》は先に|かれ《彼》を一人出《ひとり’出》してやって、|かの《/彼》女が一人きりでいるか見せにやる。それから|わたし《私》が近所に来ていることを話して、会いに行っても|だいじょうぶ《大丈夫》か、それのわかるまで待っている。それでバルブレンがうちにいれば、マチアから|かの《彼》女にどこか安心な場所へ来るように|たの《頼》んで、そこで会うことができるのである。  |わたし《私》はこのくわだてを考えながら、だまって歩いた。マチアも|なら《並》んで歩いていた。|かれ《彼》もやはり深く考えこんでいるように思われた。  ふと思いついて、|わたし《私》は自分の財産をマチアに見せようと思った。カバンのふたを開けて、わ《わた》しは草の上に財産を広げた。中には三枚のもめんのシャツ、|くつ《靴》下が三足、ハンケチが五枚、みんな品のいい物と、《、/》少し使った|くつ《靴》が一足《イッソク》あった。  マチアは驚嘆していた。 「それから|きみ《君》はなにを持っている」と|わたし《私》はたずねた。 「|ぼく《僕》はヴァイオリンがあるだけだ」 「じゃあ分けてあげよう。|ぼく《僕》たちは仲間なんだから、|きみ《君》にはシャツ二枚と、|くつ《靴》下二足にハンケチを三枚あげよう。だがなんでも二人のあいだに仲よく分けるのがいいのだから、|きみ《君》は一時間ぼくのカバンを持ちたまえ。そのつぎの一時間は|ぼく《僕》が持つから」  マチアは品物を|もら《貰》うまいとした。けれど|わたし《私》はさっそく、自分でもひどく|ゆかい《愉快》な、命令のくせを出して、|かれ《/彼》に「おだまり」と命令した。  |わたし《私》はエチエネットの小|ばこ《箱》と、リーズの|ばら《薔薇》を入れた小さな|はこ《箱》をも広げた。マチアはその|はこ《箱》を開けて見たがったが、開けさせなかった。|わたし《私》はそのふたをいじることすら許さずに、カバンの中にまたしまいこんでしまった。 「|きみ《君》は|ぼく《僕》を喜ばせたいと思うなら」と|わたし《私》は言った。「けっして|はこ《箱》にさわってはいけない。‥《‥:》‥これはた《だ》いじな|おく《贈》り物だから」 「|ぼく《僕》はけっして開けないと|やくそく《約束》するよ」と|かれ《彼》は|まじめ《真面目》に言った。  |わたし《私》はまた|ひつじ《羊》の毛の服を着て、ハープを|かつ《担》いだが、そこに一つむずかしい問題があった。それは|わたし《私》のズボンであった。芸人が長いズボンをはくものではないように思われた。公衆の前へ現れるには、短いズボンをは《穿》いて、その上に|くつ《靴》下をかぶさるようには《履》いて、レースをつけて、色のついたリボンを結ぶものである。長いズボンは植木屋にはけっこうであろうが‥《‥:》‥|いま《今》は|わたし《私》は芸人であった。そうだ、|わたし《私》は半ズボンをはかなければならない。|わたし《私》はさっそくエチエネットの道具ばこからはさみを出した。  |わたし《私》がズボンのしまつをしているうち、ふと|わたし《私》は言った。 「|きみ《君》はどのくらいヴァイオリンをひくか、聞かせてもらいたいな」 「ああ、いいとも」  |かれ《彼》はひき始めた。そのあいだ|わたし《私》は思い切ってはさみの先をズボンのひざからすこし上の所へ当てた。|わたし《私》は布《きれ》を切り始めた。  けれどこれはチョッキと上着とおそろいにできた、ねずみ地《ヂ》のいいズボンであった。アッケンのお父さんがそれをこしらえてくれたとき、|わたし《私》はずいぶん得意であった。けれどいま、それを短くすることをいけないこととは思わない。かえって|りっぱ《立派》になると思っていた。初めは《は’》わたしもマチアのほうに気が|はい《入》らなかった。ズボンを切るのにいそがしかったが、まもなくはさみを動かす手をやめて、耳をそこへうばわれていた。マチアはほとんどヴィタリス親方ぐらいにうまくひいた。 「|だれ《誰》が|きみ《君》にヴァイオリンを教えたの」と|わたし《私》は手をたたきながら聞いた。 「|だれ《誰》も。|ぼく《僕》は一人で覚えた」 「|だれ《誰》か|きみ《君》に音楽のことを話して聞かした人があるかい」 「いいえ、|ぼく《僕》は耳に聞くとおりをひいている」 「|ぼく《僕》が教えてあげよう、|ぼく《僕》が」 「|きみ《君》はなんでも知っているの。では‥‥」 「そうさ、|ぼく《僕》はなんでも知っているはずだ。座長だもの」  |わたし《私》はマチアに、自分もやはり音楽家であることを見せようとした。|わたし《私》はハープをとり、|かれ《/彼》を感動させようと思って、名高い小唄を歌った。すると芸人どうしのするように|かれ《彼》は|わたし《私》におせじを言った。|かれ《彼》は|りっぱ《立派》な才能を持っていた。|わたし《私》たちはおたがいに尊敬し合った。|わたし《私》は背嚢のふたを閉めると、マチアが代わってそれを肩にのせた。  |わたし《私》たちはいちばんはじめの村に着いて興行をしなければならなかった。これがルミ一座の初おめみえの《’の》はずであった。 「|ぼく《僕》にその歌を教えてください」とマチアが言った。「|ぼく《僕》たちは|いっしょ《一緒》に歌おう。もうじきにヴァイオリンで合わせることができるから。するとずいぶんいいよ」  確かにそれはいいにちがいなかった。それでくれるものをたっぷりくれなかったら、「ご臨席の貴賓諸君」は、石のような心を持っているというものだ。  |わたし《私》たちが最初の村を通り過ぎると、大きな百姓家《ヒャクショウヤ》の門の前へ出た。中をのぞくと|おお《大》ぜいの人が晴れ着を着てめかしこんでいた。そのうちの|二、三人《ニサンニン》は襦珍《シュチン》(しゅすの織物)のリボンを結んだ花たばを持っていた。  ご婚礼であった。|わたし《私》はきっとこの人たちがちょっとした音楽と|おど《踊》りを好《-す》くかもしれないと思った。そこで背戸へ|はい《入》って、ま《真》っ先に出会った人に勧めてみた。その人は赤い顔をした、大きな、人のよさそうな男であった。|かれ《彼》は高い白|えり《襟》をつけて、プレンス・アルベール服を着ていた。|かれ《彼》は|わたし《私》の問いに答えないで、客のほうへ向きながら、口に二本の指を当てて、それはカピをおびえさせたほどの高い口ぶえをふいた。 「どうだね、みなさん、音楽は」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。「楽師がやって来ましたよ」 「おお、音楽音楽」と|いっしょ《一緒》の声が聞こえた。 「カドリールの列をお作り」  |おど《踊》り手はさっそく庭のま《真》ん中に集まった。マチアと|わたし《私》は荷馬車の中に陣取った。 「|きみ《君》はカドリールがひけるか」と心配して|わたし《私》はささやいた。 「ああ」  |かれ《彼》はヴァイオリンで|二、三節調子《ニサンセツ調子》を合わせた。運よく|わたし《私》はその節《フシ》を知っていた。|わたし《私》たちは助かった。マチアと|わたし《私》はまだ|いっしょ《一緒》にやったことはなかったが、まずくはやらなかった。もっともこの人たちはたいして音楽のいい悪いはかまわなかった。 「おまえたちのうち、コルネ(小ラッパ)のふける者があるかい」と赤い顔をした大男がたずねた。 「|ぼく《僕》がやれます」とマチアは言った。「でも楽器を持っていませんから」 「|わし《儂》が行って探して来る。ヴァイオリンもいいが、きいきい言うからなあ」  |わたし《私》はその日一日《ヒ-イチニチ》で、マチアがなんでもやれることがわかった。|わたし《私》たちは休みなしに晩までやった。それには|わたし《私》は平気であったが、かわいそうにマチアはひどく弱っていた。だんだん|わたし《私》は|かれ《彼》が青くなって、|たお《倒》れそうになるのを見た。でも|かれ《彼》は|いっしょうけんめい《一生懸命》ふき続けた。幸いに|かれ《彼》が気分が悪いことを見つけたのは、わたし一人ではなかった。花よめさんがやはりそれを見つけた。 「もうたくさんよ」と|かの《彼》女は言った。「あの小さい子は、|つか《疲》れき《切》っていますわ。さあ、みんな楽師たちにやるご祝儀をね」  |わたし《私》は|ぼうし《帽子》をカピに投げてやった。カピはそれを口で受け取った。 「どうかわたくしどもの召使いにお授けください」と|わたし《私》は言った。  |かれ《彼》らは|かっさい《喝采》した。そしてカピがお|じぎ《辞儀》をするふうを見て、うれしがっていた。|かれ《彼》らはたんまりくれた。花むこさまはいちばんおしまいに残ったが、五フランの銀貨を|ぼうし《帽子》に落としてくれた。|ぼうし《帽子》は金貨でいっぱいになった。なんという幸せだ。  |わたし《私》たちは夕食に招待された。そして物置きの中で|ねむ《眠》る場所をあたえてもらった。  あくる朝この親切な百姓家《ヒャクショウヤ》を出るとき、|わたし《私》たちには二十八フランの資本《元手》があった。 「マチア、これは|きみ《君》のおかげだよ」と|わたし《私》は勘定したあとで言った。「ぼく一人きりでは楽隊は務まらないからねえ」  二十八フランを|かく《隠》しに入れて、|わたし《私》たちは福々であった。コルベイユへ着くと、|わたし《私》はさし当たりな《/な》くてならないと思う品を二つ三つ買うことができた。第一はコルネ、これは古道具屋《フル道具屋》で三フランした。それから|くつ《靴》下に結ぶ赤リボン、最後にもう一つの背嚢であった。代わりばんこに重い背嚢をしょうよりも、てんでんが軽い背嚢をしじゅうしょっているほうが楽であった。 「|きみ《君》のような、人をぶたない親方はよすぎるくらいだ」とマチアがうれしそうに笑いながら言った。  |わたし《私》たちの|ふところ《懐》具合がよくなったので、|わたし《私》は少し《しで》も早く、バルブレンのおっかあの所に向かって行こうと決心した。|わたし《私》は|かの《彼》女に|おく《贈》り物を用意することができた。|わたし《私》はもう金持ちであった。なによりもかよりも、|かの《/彼》女を幸福にするものがあった。それはあのかわいそうなルセットの代わりになる雌牛をおくってやることだ。|わたし《私》が雌牛をやったら、どんなに|かの《彼》女はうれしがるだろう。どんなに|わたし《私》は得意だろう。シャヴァノンに着くまえに、|わたし《私》は雌牛を買う。そしてマチアがたづなをつけて、すぐとバルブレンのおっかあの背戸へ引いて行く。  マチアはこう言うだろう。「雌牛を持って来ましたよ」 「へえ、雌牛を」と|かの《彼》女は目を丸くするだろう。「まあおまえさんは人ちがいをしているんだよ」  こう言って|かの《彼》女は《は’》ため息をつくだろう。 「いいえ、ちがやしません」とマチアが答えるだろう。「あなたはシャヴァノン村のバルブレンのおばさんでしょう。そらお《/お》とぎ話の中にあるとおり、『王子さま』があなたの所へこれを|おく《贈》り物になさるのですよ」 「王子さまとは」  そこへ|わたし《私》が現れて、|かの《/彼》女をだき寄せる。それから|わたし《私》たちはおたがいにだき合ってから、どら焼きとりんごの揚げ物をこしらえて、三人で食べる。けれどバルブレンには《は’》やらない。ちょうどあの謝肉祭の日にあの男が帰って来て、|わたし《私》たちのフライなべを引っくり返して、自分のねぎのスープに、せっかくのバターを入れてしまったときのように意地悪くしてやる。なんというすばらしい|ゆめ《夢》だろう。でもそれを|ほんとう《本当》にするには、まず雌牛から買わなければならない。  いったい雌牛はどのくらいするだろう。|わたし《私》はまるっきり見当がつかない。きっとずいぶんするにちがいない。でもまだ‥《‥:》‥|わたし《私》はたいして大きな雌牛は欲しくなかった。なぜなら太っていればいるほど、雌牛は値段が高いから。それに大きければ大きいほど雌牛は食べ物がよけい要るだろう。|わたし《私》はせっかくの|おく《贈》り物が、バルブレンのおっかあのやっかいになってはならないと思う。さしあたり|だいじ《大事》なことは、雌牛の値段を知ることであった。いや、それよりも|わたし《私》の欲しいと思う種類の雌牛の値段を知ることであった。幸いに|わたし《私》たちはたびたび|おお《大》ぜいの百姓やばくろうに行く先の村むらで出会うので、それを知るのは|むず《難》かしくはなかった。|わたし《私》はその日宿屋で出会った初めの男にたずねてみた。  |かれ《彼》はげらげら笑いだした、食卓をどんとたたいた。それから|かれ《彼》は宿屋のおかみさんを呼んだ。 「この小さな楽師さんは、雌牛の価《ネ》が聞きたいというのだ。たいへん大きなやつでなくて、ごく|じょうぶ《丈夫》で、乳をたくさん出すのだそうだ」  みんなは笑った。でも|わたし《私》はなんとも思わなかった。 「そうです、いい乳を出して、あんまり食べ物を食べないのです」と|わたし《私》は言った。 「そうしてその雌牛はたづなに引かれて道を歩くことをいやがらないものでなくっては《は’》ね」  |かれ《彼》は一|とお《通》り笑ってしまうと、今度は|わたし《私》と話し合う気になって、事がらを|まじめ《真面目》にあつかい始めた。|かれ《彼》はちょうど注文の品を持っていた。それはうまい乳を──正銘のクリームを出すいい雌牛を持っていた─《─:》─しかもそれはほとんど物を食べなかった。五十エクー出せばその雌牛は|わたし《私》の手に|はい《入》るはずであった。初めこそこの男に話をさせるのが骨が折れたが、一度始《一度’始》めだすと今度はやめさせるのが困難であった。やっと|わたし《私》たちはその晩おそく、とにかくね《寝》に行くことができた。|わたし《私》はこの男から聞いたことを残らず|ゆめ《夢》に見ていた。  五十エクー──それは百五十《百ゴジュッ》フランであった。|わたし《私》はとてもそんな|ばくだい《莫大》な金《-かね》を持ってはいなかった。ことによって|わたし《私》たちの幸運がこの先続けば、一《1》スー一《1》スーとたくわえて百五十《百ゴジュッ》フランになることがあるかもしれない。けれどそれにはひまがかかった。そうとすれば|わたし《私》たちはなによりまずヴァルセへ行ってバンジャメンに会う。その道にできるだけほうぼうで演芸をして歩こう。それから帰り道に金《-かね》ができるかもしれないから、そのときシャヴァノンへ行って、王子さまの雌牛のおとぎ芝居を演じることにしよう。  |わたし《私》はマチアにこのくわだてを話した。|かれ《彼》はこれになんの異議をも唱えなかった。 「ヴァルセへ行こう」と|かれ《彼》は言った。「|ぼく《僕》もそういう所へは行って見たいよ」 ◇。◇。◇。 【第23章】 【煤煙の町】 ◇。◇。◇。  この旅行はほとんど三月《ミ月》かかったが、やっとヴァルセの村はずれにかかったときに、|わたし《私》たちは|むだ《無駄》に日をくらさなかったことを知った。|わたし《私》のなめし皮の財布にはもう百二十八フラン|はい《入》っていた。バルブレンのおっかあの雌牛を買うには、あとたった二十二フラン足りないだけであった。  マチアも|わたし《私》と同じくらい喜んでいた。|かれ《彼》はこれだけの金《-かね》を|もう《儲》けるために、自分も働いたことにたいへん得意であった。実際|かれ《’彼》の|てがら《手柄》は大きかった。|かれ《彼》なしには、カピと|わたし《私》だけで、とても百二十八フランなんという金高の集まりようはずがなかった。これだけあれば、ヴァルセからシャヴァノンまでの間に、あとの足りない二十二フランぐらいはわけなく得られよう。  |わたし《私》たちが、ヴァルセに着いたのは午後の三時であった。きらきらした太陽が晴れた空にかがやいていたが、だんだん町《’町》へ近くなればなるほど空気が黒ずんできた。天と地の間に煤煙の雲がうずを巻いていた。  |わたし《私》はアルキシーのおじさんがヴァルセの鉱山で働いていることは知っていたが、いったい町中《’町中》にいるのか、外に住んでいるのか知らなかった。ただ|かれ《彼》がツルイエールという鉱山で働いていることだけ知っていた。  町へ|はい《入》るとすぐ|わたし《私》はこの鉱山がどの|へん《辺》にあるかたずねた。そしてそれはリボンヌ川の左のがけの小さな谷で、その谷の名が鉱山の名になっていることを教えられた。この谷は町と同様|ふゆかい《’不愉快》であった。  鉱山の事務所へ行くと、|わたし《私》たちはアルキシーのおじさんのガスパールのいる所を教えられた。それは山から川へ続く曲がりくねった町の中で、鉱山からすこし|はな《離》れた所にあった。  |わたし《私》たちがその家《’家》に行き着くと、ドアによっかかって|二、三人《ニサンニン》、近所の人と話をしていた婦人が、坑夫のガスパールは六時でなければ帰らないと言った。 「おまえさん、なんの用なの」と|かの《彼》女は《は’》たずねた。 「|わたし《私》は|おいご《甥御》さんのアルキシー君に会いたいのです」 「ああ、おまえさん、ルミさんかえ」と|かの《彼》女は言った。「アルキシーがよくおまえさんのことを言っていたよ。あの子はおまえさんを待っていたよ。」こう言ってなお、「そこにいる人はだれ」と、マチアを指さした。 「|ぼく《僕》の友だちです」  この女はアルキシーのおばさんであった。|わたし《私》は|かの《彼》女が|わたし《私》たちをうちの中へ呼び入れて休ませてくれることと思った。|わたし《私》たちはずいぶんほこりをかぶってつかれていた。けれど|かの《彼》女はただ、六時にまた来ればアルキシーに会える、|いま《今》はちょうど鉱山へ行っているところだからと言っただけであった。  |わたし《私》はむ《向》こうから申し出されもしないことを、こちらから請求する勇気はなかった。  |わたし《私》たちはおばさんに礼を述べて、ともかくなにか食べ物を食べようと思って、パ《/パ》ン屋を探しに町へ行った。「|わたし《私》はマチアがさぞ、なんてことだ」と思っているだろうと考えて、こんな待遇を受けたのがきまり悪かった。こんなことなら、なんだってあんな遠い道をはるばるやって来たのであろう。  これではマチアが、|わたし《私》の友人に対してもおもしろくない感じを持つだろうと思われた。これではリーズのことを話しても、|わたし《私》と同じ興味で聞いてはくれないだろうと思った。でも|わたし《私》は|かれ《彼》が|ひじょう《非常》にリーズを好《-す》いてくれることを望んでいた。  おばさんが|わたし《私》たちにあたえた冷淡な待遇は、|わたし《私》たちにふたたびあのうちへ|もど《戻》る勇気を失わせたので、六時すこしまえにマチアとカピと|わたし《私》は、鉱山の入口に行って、アルキシーを待つことにした。  |わたし《私》たちはどの坑道から工夫《コウフ》たちが出て来るか教えてもらった。それで六時すこし過ぎに、|わたし《私》たちは坑道の暗いかげの中に、小さな明かりがぽつりぽつり見え始めて、それがだんだんに大きくなるのを見た。工夫《コウフ》たちは手に手にランプを持ちながら、一日の仕事をすまして、日光の中に出て来るのであった。|かれ《彼》らはひざがしらが痛むかのように、重い足どりでのろのろと出て来た。|わたし《私》はそののちに、地下の坑道のどん底まではしごを下りて行ったとき、それがどういうわけだかはじめてわかった。|かれ《彼》らの顔は|えんとつそうじ《煙突掃除》のようにま《真》っ黒であった。|かれ《彼》らの服と|ぼうし《帽子》は石炭のごみをいっぱいかぶっていた。やがてみんなは点灯所《点灯ショ》に|はい《入》って、ランプを|くぎ《釘》に引っかけた。  ずいぶん注意して見ていたのであるが、やはり向こうから見つけてかけ寄って来るまで、|わたし《私》たちはアルキシーを見つけなかった。もうすこしで|かれ《彼》を見つけることなしにやり過ごしてしまうところであった。  実際頭《実際’頭》から足までま《真》っ黒くろなこの少年に、あのひじの所で折れたきれいなシャツを着て、カラーの前を大きく開けて白《/白》い膚《肌》を見せながら、《:、》|いっしょ《一緒》に花畑の道をかけっこした|むかし《昔》なじみのアルキシーを見いだすことは困難であった。 「やあ、ルミだよ」と|かれ《彼》はそばに寄りそって歩いていた四十ばかりの男のほうを向いて|さけ《叫》んだ。その人はアッケンのお父さんと同じような、親切な快活な顔をしていた。二人が兄弟であることを思えば、それは|ふしぎ《不思議》ではなかった。|わたし《私》はすぐそれがガスパール|おじ《小父》さんであることを知った。 「|わたし《私》たちは長いあいだおまえさんを待っていたよ」と|かれ《彼》はにっこりしながら言った。 「パリからヴァルセまではずいぶんありましたよ」と|わたし《私》は笑い返しながら言った。 「おまけにおまえさんの足は短いからな」と|かれ《彼》は笑いながら言い返した。  カピもアルキシーを見ると、うれしがって|いっしょうけんめい《一生懸命》そのズボンのすそを引っ張って、お喜びのご|あいさつ《挨拶》をした。このあいだ|わたし《私》はガスパール|おじ《小父》さんに向かって、マチアが|わたし《私》の仲間であること、そして|かれ《彼》がだれよりもコルネをうまくふくことを話した。 「おお、カピ君もいるな」とガスパール|おじ《小父》さんが言った。「おまえ、あしたはゆっくり休んで行きなさい。ちょうど日曜日で、|わたし《私》たちにもいいごちそうだ。なんでもアルキシーの話ではあの犬は学校の先生と役者を|いっしょ《一緒》にしたよりもかしこいというじゃないか」  |わたし《私》はおばさんに対して気持ち悪く感じたと同じくらいこのガスパール|おじ《小父》さんに対しては気持ちよく感じた。 「さあ、子どもどうし話をおしよ」と|かれ《彼》は|ゆかい《愉快》そうに言った。「きっとおたがいにた《’た》んと話すことが積もっているにちがいない。|わたし《私》はこのコルネをそんなにじょうずにふく若い紳士とおしゃべりをしよう」  アルキシーは|わたし《私》の旅の話を聞きたがった。|わたし《私》は|かれ《彼》の仕事の様子を知りたがった。|わたし《私》たちはおたがいにたずね合うのがいそがしくって、てんでに相手の返事が待ちきれなかった。  うちに着くと、ガスパール|おじ《小父》さんは|わたし《私》たちを晩飯に招待してくれることになった。この招待《’招待》ほど|わたし《私》を|ゆかい《愉快》にしたものは《は’》なかった。なぜなら|わたし《私》たちはさっきのおばさんの待遇ぶりで、がっかりしきっていたから、たぶん門口で別れることになるだろうと、道みちも思っていたからであった。 「さあ、ルミさんとお友だちのおいでだよ。」おじさんはうちへ|はい《入》りかけながらどなった。  しばらくして|わたし《私》たちは夕食の食卓に|すわ《座》った。食事は長くはかからなかった。なぜなら金棒引きであるこのおばさんは、その晩ごくお軽少のごちそうしかしなかった。ひどい労働をする坑夫は、でもこごと一つ言わずに、このお軽少な夕食を食べていた。|かれ《彼》はなによりも平和を好む、事なかれ主義の男であった。|かれ《彼》はけっしてこごとを言わなかった。言うことがあれば、おとなしい、静かな調子で言った。だから夕食はじきにすんでしまった。  ガスパールおばさんは|わたし《私》に、今晩はアルキシーと|いっしょ《一緒》にいてもいいと言った。そしてマチアには|いっしょ《一緒》に行ってくれるなら、パ《/パ》ン焼き場に|ねどこ《寝床》をこしらえてあげると言った。  その晩それから続いてその夜中の大部分、アルキシーと|わたし《私》は話し明かした。アルキシーが|わたし《私》に話したいちいちが|きみょう《奇妙》に|わたし《私》を興奮させた。|わたし《私》はもとからいつか一度鉱山《一度’鉱山》の中に|はい《入》ってみたいと思っていた。  でもあくる日、|わたし《私》の希望をガスパール|おじ《小父》さんに話すと、|かれ《/彼》はたぶん連れて行くことはできまい、なんでも炭坑で働いている者のほかは、|よそ《他所》の人を入《-い》れないことになっているからと言った。 「だがおまえ、坑夫になりたいと思えばわけのないことだ」と|かれ《彼》は言った。「ほかの仕事に比べて悪いことは《は’》ないよ。大道で歌を歌うよりよっぽどいいぜ。アルキシーと|いっしょ《一緒》にいることもできるしな。なんならマチアさんにも仕事をこしらえてやる。だがコルネをふくほうではだめだよ」  |わたし《私》は、ヴァルセに長くいるつもりはなかった。自分の志すことはほかにあった。それでつい|わたし《私》の好奇心を満たすことなしに、この町を去ろうとしていたとき、ひょんな事情《’事情》から、|わたし《私》は坑夫のさらされているあらゆる危険を知るようになった。 ◇。◇。◇。 【第24章】 【運搬夫】 ◇。◇。◇。  ちょうど|わたし《私》たちがヴァルセをたとうとしたその日、大きな石炭のかけらが、アルキシーの手に落ちて、危なくその指をくだきかけた。|いく日《幾日》かのあいだ|かれ《彼》はその手に絶対の安静をあたえなければならなかった。ガスパール|おじ《小父》さんはがっかりしていた。なぜならもう|かれ《彼》の車をおしてくれる者はなかったし、|かれ《/彼》もしたがってうちにぶらぶらしていなければならなくなったからである。でもそれは|かれ《彼》にはひどく具合の悪いことであった。 「じゃあ|ぼく《僕》で代わりは務まりませんか」と|かれ《彼》が代わりの子どもをどこにも求めかねて、ぼんやりうちに帰って来たとき、|わたし《私》は言った。 「どうも車はおまえには重たすぎようと思うがね」と|かれ《彼》は言った。「でもやってみてくれようと言うなら、|わたし《私》は大助かりさ。なにしろほんの|五、六日使《ゴ六にち使》う子どもを探すというのはやっかいだよ」  この話をわきで聞いていたマチアが言った。 「じゃあ、|きみ《君》が鉱山に行っているうち、|ぼく《僕》はカピを連れて出かけて行って、雌牛のお金の足りない分《ぶん》を|もう《儲》けて来よう」  明るい野天の下で三月《ミ月》く《’暮》らしたあいだに、マチアはすっかり人が変わっていた。|かれ《彼》はもうお寺の|さく《柵》にもたれかかっていたあわれな青ざめた子どもではなかった。まして|わたし《私》が初めて屋根裏の部屋で会ったとき、スープなべの見張りをして、絶えず気の|どく《毒》な痛む頭を両手でおさえていた化け物のような子ではなかった。マチアはもうけっして頭痛がしなかった。けっしてみじめではなかったし、やせこけても、悲しそうでもなかった。美しい太陽と、さわやかな空気が|かれ《彼》に健康と元気をあたえた。旅をしながら|かれ《彼》はいつも|上きげん《ジョウ機嫌》に笑っていたし、なにを見てもそのいいところを見つけて、楽しがっていた。|かれ《彼》なしには|わたし《私》はどんなにさびしくなることであろう。  |わたし《私》たちはずいぶん性質がちがっていた。|たぶん《多分》それでかえって性《ショウ》が合うのかもしれなかった。|かれ《彼》は優しい、明るい気質を持っていた。すこしもものにめげない、いつも|きげん《機嫌》よく困難に打ちかってゆく気風があった。|わたし《私》には学校の先生のような|しんぼう気《辛抱ギ》がなかったから、|かれ《/彼》は物を読むことや音楽のけいこをするときにはよく|けんか《喧嘩》をしそうにした。|わたし《私》はずいぶん|かれ《彼》に対して無理を言ったが、一度も|かれ《彼》はおこった顔を見せなかった。  こういうわけで、|わたし《私》が鉱山に下りて行くあいだ、マチアとカピが町はずれへ出かけて、音楽と芝居の興行をして、それで|わたし《私》たちの財産を増やすという、|やくそく《約束》ができあがった。|わたし《私》はカピに向かってこの計画を言い聞かせると、|かれ《/彼》はよくわかったとみえて、さっそく賛成の意をほ《吠》えてみせた。  あくる日、ガスパール|おじ《小父》さんのあとにくっついて、|わたし《私》は深いま《真》っ暗な鉱山に下りて行った。|かれ《彼》は|わたし《私》にじゅうぶん気をつけるように言い聞かせたが、その警告の必要はなかった。もっとも昼の光を|はな《離》れて地の底へ|はい《入》って行くということには、ずいぶんの恐怖と心配がないではなかった。ぐんぐん坑道を下りて行ったとき、|わたし《私》は思わずふりあおいだ。すると、長い黒い|えんとつ《煙突》の先に見える昼の光が、白い玉のように、ま《真》っ暗な星のない空にぽっつりかがやいている月のように見えた。やがて大きな黒い|やみ《闇》が目の前に大きな口を開いた。下の坑道にはほかの坑夫がはしご段を下りながら、ランプをぶらぶらさ《提》げて行くのが見えた。|わたし《私》たちはガスパール|おじ《小父》さんが働いている二層目の小屋に着いた。車をおす役に使われているのは、ただ一人「先生」と呼ばれている人のほかは、残らず男の子であった。この人はもうかなりのおじいさんで、若い|じぶん《時分》には鉱山で大工の仕事をしていたが、あるとき過《あやま》って指をくだいてからは、手についた職を捨てなければならなかったのであった。  さて坑《コウ》に|はい《入》ってまもなく、|わたし《私》は坑夫というものが、どういう人間で、どんな生活をしているものだかよく知ることになった。 ◇。◇。◇。 【第25章】 【洪水】 ◇。◇。◇。  それはこういうことからであった。  運搬夫《運搬フ》になって、|四、五日《シゴニチ》してのち、|わたし《私》は車をレールの上でおしていると、おそろしいうなり声を聞いた。その声はほうぼうから起こった。  |わたし《私》の初めの感じはただおそろしいというだけであって、ただ助かりたいと思う心よりほかになにもなかったが、いつもものに|こわ《怖》がるといっては笑われていたのを思い出して、ついきまりが悪くなって立ち止まった。爆発だろうか、なんだろうか、ちっともわからなかった。  ふと何百というねずみが、一連隊の兵士の走るように、すぐそばをか《駆》け出して来た。すると地面と坑道の|かべ《壁》にずしんと当たる|きみょう《奇妙》な音が聞こえて、水の走る音がした。|わたし《私》はガスパール|おじ《小父》さんのほうへかけてもどった。 「水が鉱坑に|はい《入》って来たのです」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。 「|ばか《馬鹿》なことを言うな」 「まあ、お聞きなさい。あの音を」  そう言った|わたし《私》の様子には、ガスパール|おじ《小父》さんにいやでも仕事をやめて耳を立てさせるものがあった。物音はいよいよ高く、いよいよものすごくなってきた。 「|いっしょうけんめいか《一生懸命’駆》けろ。鉱坑に水が出た」と|かれ《彼》が|さけ《叫》んだ。 「先生、先生」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》たちは坑道をか《駆》け下りた。老人も|いっしょ《一緒》について来た。水がどんどん上がって来た。 「おまえさん先へおいでよ」とはしご段まで来ると老人は言った。  |わたし《私》たちはゆずり合っている場合ではなかった。ガスパール|おじ《小父》さんは先に立った。そのあとへ|わたし《私》も続いて、それから「先生」が上がった。はしご段のてっぺんに行き着くまえに大きな水がどっと上がって来てランプを消した。 「しっかり」とガスパール|おじ《小父》さんが|さけ《叫》んだ。|わたし《私》たちははしごの横木にかじりついた。でもだれか下にいる人がほうり出された《た-》らしかった、たきの勢いがどっどっとなだれのようにおして来た。  |わたし《私》たちは第一層《第’一層》にいた。水はもうここまで来ていた。ランプが消えていたので、明かりはなかった。 「いよいよだめかな」と「先生」は静かに言った。「おいのりを唱えよう、|こぞう《小僧》さん」  この|しゅんかん《瞬間》、|七、八人《シチ八人》のランプを持った坑夫が|わたし《私》たちの方角へかけて来て、はしご段に上がろうと骨を折っていた。  水はいまに規則正しい波になって、坑《コウ》の中を走っていた。気|ちが《違》いのような勢いでうずをわかせながら、材木をおし流して、羽のように軽くくるくる回した。 「通気竪坑に|はい《入》らなければだめだ。に《逃》げるならあすこだけだ。ランプを貸してくれ」と「先生」が言った。  いつもならだれもこの老人がなにか言っても、|からか《揶揄》う種《タネ》にはしても、|まじめ《真面目》に気を留《-と》める者はなかったであろうが、いちばん強い人間もそのときは精神を失っていた。それでしじゅう|ばか《馬鹿》にしてし《き》た老人の声に、|いま《今》はついて行こうとする気持ちになっていた。ランプが|かれ《彼》に|わた《渡》された。|かれ《彼》はそれを持って先に立ちながら、|いっしょ《一緒》に|わたし《私》を引っ張って行った。|かれ《彼》はだれよりもよく鉱坑のすみずみを知っていた。水はもう|わたし《私》の|こし《腰》までついていた。「先生」は|わたし《私》たちをいちばん近い竪坑に連れて行った。二人の坑夫はしかしそれは地獄へ落ちるようなものだと言って、|はい《入》るのをこばんだ。|かれ《彼》らは|ろうか《廊下》をずんずん歩いて行った。|わたし《私》たちはそれからもう二度と|かれ《彼》らを見なかった。  そのとき耳の遠くなるようなひどい物音が聞こえた。大津波のうなる音、木のめりめりさける音、圧搾された空気の爆発する音、すさまじいうなり声が|わたし《私》たちをおびえさせた。 「大洪水だ」と一人が|さけ《叫》んだ。 「世界の終わりだ」 「おお、神様お助けください」  人びとが絶望の|さけ《叫》び声を立てるのを聞きながら、「先生」は平気な、しかしみんなを傾聴させずにおかないような声で言った。 「しっかりしろ。みんな、ここにしばらくいるうちに、仕事をしなければならない。こんなふうにみんなごたごた固まっていても、|しかた《仕方》がない。ともかく|からだ《体》を落ち着ける穴をほらなければならない」  |かれ《彼》の|ことば《言葉》はみんなを落ち着かせた。てんでに手やランプの|かぎ《鍵》で土をほり始めた。この仕事は困難であった。なにしろ|わたし《私》たちが|かく《隠》れた竪坑はひどい傾斜になっていて、むやみとすべった。しかも足をふみはずせば下は一面の水で、もうおしまいであった。  でもどうやらやっと足だまりができた。|わたし《私》たちは足を止めて、おたがいの顔を見ることができた。みんなで七人、「先生」とガスパール|おじ《小父》さんに、三人の坑夫のパージュ、《、/》コンプルー、《、/》ベルグヌー、それからカロリーという車おしの|こぞう《小僧》、それに|わたし《私》であった。  鉱山の物音は同じはげしさで続いた。このおそろしいうなり声を説明する|ことば《言葉》はなかった。いよいよわれわれの最後のときが来たように思われた。恐怖に気がくるったようになって、|わたし《私》たちはおたがいに探るように相手の顔を見た。 「鉱山の悪霊が復|しゅう《讐》をしたのだ」と一人が|さけ《叫》んだ。 「上《ウエ》の川に穴があいて、水が|はい《入》って来たのでしょう」と|わたし《私》はこわごわ言ってみた。 「先生」はなにも言わなかった。|かれ《彼》はただ肩をそびやかした。それはあたかもそういうことはいずれ昼間|くわ《/桑》の木の|かげ《蔭》で、ねぎでも食べながら論じてみようというようであった。 「鉱山の悪霊なんというのは|ばか《馬鹿》な話だ」と|かれ《彼》は最後に言った。「鉱山に洪水が来ている。それは確かだ。だがその洪水《’洪水》がどうして起こったかここにいてはわからない‥‥」 「ふん、わからなければだまっていろ」とみんなが|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》たちはかわいた土の上にいて、水がもう寄せて来ないので、すっかり気が強くなり、|だれ《誰》も老人に耳をかたむけようとする者がなかった。さっき危険の場合に示した冷静沈着のおかげで、急に|かれ《彼》に加わった権威はもう失われていた。 「われわれはおぼれて死ぬことはないだろう」と|かれ《彼》はやがて静かに言った。「ランプの灯《ヒ》を見なさい。ずいぶん心細くなっているではないか」 「魔法使いみたいなことを言うな。なんのわけだ、言ってみろ」 「|おれ《俺》は魔法使いをやろうというのではない。だがおぼれて死ぬことはないだろう。おれたちは気室の中にいるのだ。その圧搾空気で水が上がって来ないのだ。出口のないこの竪坑はちょうど潜水鐘(潜水器)が潜水夫の役に立つと同じ|りくつ《’理屈》になっているのだ。空気が竪坑にたくわえられていて、それが水のさして来る力をせき止めているのだ。そこでおそろしいのは空気のくさることだ‥《‥:》‥水はもう一尺(約30センチ)も上がっては来ない。鉱山の中は水でいっぱいになっているにちがいない」 「マリウスはどうしたろう」 「鉱坑は水でいっぱいになっている」と言った「《:「》先生」の|ことば《言葉》で、パ《/パ》ージュは三層目で働いていた一人|むすこ《息子》のことを思い出した 「おお、マリウス、《、/》マリウス」と|かれ《彼》はまた|さけ《叫》んだ。  なんの返事もなかった。こだまも聞こえなかった。|かれ《彼》の声はわれわれのいる坑《コウ》の外には|とお《通》らなかった。マリウスは助かったろうか。百五十人がみんな|おぼ《溺》れたろうか。あまりといえばおそろしいことだ。百五十人は少なくとも坑《コウ》の中にはいっていた。そのうち|いく人竪坑《幾人’竪坑》に上がったろうか。|わたし《私》たちのようにに《逃》げ場を見つけたろうか。  うすぼんやりしたランプの光が心細く|わたし《私》たちの|せま《狭》い|おり《檻》を照らしていた。 ◇。◇。◇。 【第26章】 【生きた墓穴《墓あな》】 ◇。◇。◇。  |いま《今》や鉱坑の中には絶対の沈黙が支配していた。|わたし《私》たちの足もとにある水はごく静かに、さざ波も立てなかった。さらさらいう音もしなかった。鉱坑は水があふれていた。この破りがたい|しず《/沈》んだ重い沈黙が、初め水があふれ出したとき聞いたおそろしい|さけ《叫》び声よりも、もっと心持ちが悪かった。  |わたし《私》たちは生きながらうずめられて、地の下百尺(約30メートルだが、ここでは深いという意味)の墓の中にいるのであった。|わたし《私》たちはみんなこの場合の恐怖を感じていた。「先生」すらもぐんなりしていた。  とつぜん|わたし《私》たちは手に温かいしずくの落ちるのを感じた。それはカロリーであった‥《‥:》‥|かれ《彼》はだまって泣いていた。ふとそのとき引きさかれるような|さけ《叫》び声が聞こえた。 「マリウス。ああ、せがれのマリウス」  空気は息苦しく重かっ《-っ》た。|わたし《私》は息がつまるように感じた。耳の|はた《ハタ》にぶつぶついう音がした、|わたし《私》はおそろしかった。水も、|やみ《闇》も、死も、おそろしかった。沈黙が|わたし《私》を圧迫した。  |わたし《私》たちの避難所のでこぼこした、ぎざぎざな|かべ《壁》が、いまにも落ちて、その下におしつぶされるような気がしてこわかった。|わたし《私》はもう二度とリーズに会うことができないであろう。アーサにも、ミリガン夫人にも、それから好きなマチアにも。  みんなはあの小さいリーズに|わたし《私》の死んだことを了解させることができるであろうか。|かの《彼》女の兄たちや姉《アネ》さんからの便りをつい持って行ってやることができなかったことを了解させることができようか。それから気の|どく《毒》なバルブレンのおっかあは‥‥。 「どうもおれの考えでは、|だれ《誰》もおれたちを救う|くふう《工夫》はしていないらしい」とガスパール|おじ《小父》さんはとうとう沈黙を破って言った。「ちっとも音が聞こえない」 「おまえさん、仲間のことをどうしてそんなふうに考えられるかね」と「先生」は熱くなって|さけ《叫》んだ。「いつの鉱山の椿事でも、仲間がおたがいに助け合わないことはなかった。一人の坑夫のことだって、あの二十人百人の仲間がけっして見殺しにはしないじゃないか。おまえさん、それはよく知っているくせに」 「それはそうだよ」とガスパール|おじ《小父》さんがつぶやいた。 「思い|ちが《違》いをしてはいけないよ。みんなもこちらへ近寄ろうとして|いっしょうけんめい《一生懸命》やっているのだ。それには二つ|しかた《仕方》がある‥《‥:》‥一つはこのおれたちのいる下まで、トンネルをほるのだ。もう一つは水を干すのだ」  人びとはその仕事を仕上げるにどのくらいかかるかというとりとめのない議論を始めた。結局少《結局’少》なくともこの墓の中にこの後八日《あと八日》は|はい《入》っていなければならないことに意見が一致した。八日。|わたし《私》も坑夫が二十四日も穴の中に閉じこめられた話は聞いたが、でもそれは「話」であるが、このほうは真実であった。いよいよそれが、どういうことであるか、すっかりわかると、もう回りの人の話なんぞは耳に|はい《入》らなかった。|わたし《私》はぼんやりした。  また沈黙が続いた。みんなは考えに|しず《沈》んでいた。そんなふうにして、どのくらいいたか知らないが、ふと|さけ《叫》び声が聞こえた。 「ポンプが動いている」  これは|いっしょ《一緒》の声で言われた。いま|わたし《私》たちの耳に当たった音は、電流でさわられでもしたように感じた。|わたし《私》たちはみんな立ち上がった。ああ、われわれは救われよう。  カロリーは|わたし《私》の手を取って固くにぎりしめた。 「|きみ《君》はいい人だ」と|かれ《彼》は言った。 「いいや、|きみ《君》こそ」と|わたし《私》は答えた。  でも|かれ《彼》は|わたし《私》がいい人であることを|むちゅう《夢中》になって主張した。|かれ《彼》の様子は酒に酔っている人のようであった。またまったくそうであった。|かれ《彼》は希望に酔っていたのだ。  けれど|わたし《私》たちは空に美しい太陽をあおぎ、地に楽しく歌う小鳥の声を聞くまでに、長いつらい苦しみの日を送らなければならなかった。いったいもう一度日《一度’日》の目を見ることができるだろうか。そう思って苦しい不安の日をこの先送らなければならなかった。|わたし《私》たちはみんな|ひじょう《非常》にのどが|かわ《乾》いていた。パージュが水を取りに行こうとした。けれど「先生」はそのままにじっとしていろと言った。|かれ《彼》は|わたし《私》たちのせっかく積み上げた石炭の土手が|かれ《彼》の|からだ《体》の重みでくずれて、水の中に落ちるといけないと気づかったのであった。 「ルミのほうが身が軽い。あの子に長ぐつを貸しておやり。あの子なら、行って水を取って来られるだろう」と|かれ《彼》は言った。  カロリーの長ぐつが|わた《渡》された。|わたし《私》はそ《’そ》っと土手を下りることになった。 「ちょいとお待ち」と「先生」が言った。「手を貸してあげよう」 「おお、でも|だいじょうぶ《大丈夫》ですよ。先生」と|わたし《私》は答えた。「|ぼく《僕》は水に落ちても泳げますから」 「|わたし《私》の言うとおりにおし」と|かれ《彼》は言い張った。「さあ、手をお持ち」  |かれ《彼》はしかし|わたし《私》を助けようとしたはずみに足をふみはずしたか、足の下の石炭がくずれたか、つるり、傾斜の上をすべって、まっ逆さまに暗い水の中に落ちこんだ。|かれ《彼》が|わたし《私》に見せるつもりで持っていたランプは、続いて転がって見えなくなった。  たちまち|わたし《私》は暗黒の中に投げこまれた。そこにはたった一つの灯しかなかったのであった。みんなの中から同じ|さけ《叫》び声が起こった。幸いに|わたし《私》はもう水にとどく位置に下りていた。背中で土手をすべりながら、|わたし《私》は老人を探しに水の中に|はい《入》った。  ヴィタリス親方と流浪していたあいだに、|わたし《私》は泳ぐことも、水にはいることも覚えた。|わたし《私》は|おか《オカ》の上と同様、水の中でも楽に働けた。だがこのま《真》っ暗な穴の中で、どうして見当をつけよう。|わたし《私》は水に|はい《入》ったとき、それを少しも考えなかった。|わたし《私》はただ老人がおぼれたろうと、そればかり考えた。どこを|わたし《私》は見ればいいか、どちらのそばへ泳いで行けばいいか、|わたし《私》は困っていると、ふとしっかり肩をつかまえられたように感じた。|わたし《私》は水の中に引きこまれた、足を強くけって、|わたし《私》は水の面《オモテ》へ出た。手はまだ肩をつかんでいた。 「しっかりおしなさい、先生」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。「首を上に上げていれば助かりますよ」  助かると。どうして二人とも助かるどころではなかった。|わたし《私》はどちらへ泳いでいいかわからなかった。 「ねえ、|だれ《誰》か、声をかけてください」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。 「ルミ、どこだ」  こう言ったのはガスパール|おじ《小父》さんの声であった。 「ランプをつけてください」  ランプが暗|やみ《闇》の中から探り出されて、すぐに明かりがついた、|わたし《私》はただ手をのばせば土手にさわることができた。片手で石炭のかけらをつかんで、|わたし《私》は老人を引き上げた。もう、《、/》少しで危ないところであった。  |かれ《彼》はもうたくさんの水を飲んでいて、半分人事不省《半分’人事不省》であった。|わたし《私》は|かれ《彼》の頭をうまく水の上に上げてやったので、どうにか|かれ《彼》は上がって来た。仲間は|かれ《彼》の手を取って引き上げる。|わたし《私》は後からおし上げた。|わたし《私》はそのあとで今度は自分がはい上がった。  この|ふゆかい《不愉快》な出来事で、しばらく|わたし《私》たちの気を転じさせたが、それがすむとまた圧迫と絶望におそわれた。それとともに死が近づいたという考えがのしかかってきた。  |わたし《私》は|ひじょう《非常》に|ねむ《眠》くなった。この場所はね《寝》るのに|つごう《都合》のいい場所ではなかった。じきに水の中に転がり落ちそうであった。すると「先生」は|わたし《私》の危なっかしいのを見て、|かれ《/彼》の胸に|わたし《私》の頭をつけて、|わたし《私》の|からだ《体》を|うで《腕》でおさえてくれた。|かれ《彼》はたいしてしっかりおさえてはいなかったが、|わたし《私》が落ちないだけにはじゅうぶんであった。|わたし《私》はそこで母のひざに|ねむ《眠》る子どものように|ねむ《眠》った。  |わたし《私》が半分目《半分’目》が覚めて身動きすると、|かれ《/彼》はただき《’き》つくなった自分の|うで《腕》の位置を変えた。そして自分は動かずに|すわ《座》っていた。 「お休み、ぼうや」と|かれ《彼》は|わたし《私》の上にのぞきこんでささやいた。「こわいことはない。|わたし《私》がおさえていてあげるからな」  それで|わたし《私》は恐怖なしに|ねむ《眠》った。|かれ《彼》がけっして手をはなさないことを|わたし《私》はよく知っていた。 ◇。◇。◇。 【第27章】 【救助】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》たちは時間の観念がなくなった。そこに二日いたか、六日いたか、わからなかった。意見がまちまちであった。もう|だれ《誰》も救われることを考えてはいなかった。死ぬことばかりが心の中にあった。 「先生、おまえの言いたいことを言えよ」とベルグヌーが|さけ《叫》んだ。「おまえ水をかい出すにどのくらいかかるか、勘定していたじゃないか。だがとてもま《間》に合いそうもないぜ。おれたちは空腹か窒息で死ぬだろう」 「|しんぼう《辛抱》しろよ」と「先生」が答えた。「おれたちは食べ物なしにどれくらい生きられるか知っている。それでちゃんと勘定がしてあるのだ。|だいじょうぶ《大丈夫》、ま《間》に合うよ」  この|しゅんかん《瞬間》、大きなコンプルーが声を立ててすすり泣きを始めた。 「神様の罰《バチ》だ」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。「|おれ《俺》は後悔する。|おれ《俺》は後悔する。もしここから出られたら、|おれ《俺》は|いま《今》までした悪事のつぐないをすることをちかう。もし出られなかったら、おまえたち、|おれ《俺》のために神様におわびをしてくれ。おまえたちはあのヴィダルのおっかあの時計を|ぬす《盗》んで、五年の宣告を受けたリケを知っているか‥《‥:》‥だが|おれ《俺》がその|どろぼう《泥棒》だった。|ほんとう《本当》は|おれ《俺》がとったのだ。それは|おれ《俺》の寝台《ネダイ》の下にはいっている‥《‥:》‥おお‥‥」 「あいつを水の中に|ほう《抛》りこめ」とパージュとベルグヌーが|さけ《叫》んだ。 「じゃあ、おまえは良心に罪をしょわせたまま神様の前に出るつもりか」と先生が|さけ《叫》んだ。「あの男に懺悔させろ」 「|おれ《俺》は懺悔する、|おれ《俺》は懺悔する」と大力《タイリキ》のコンプルーが、子どもよりもっといくじなく泣いた。 「水の中に|ほう《抛》りこめ。水の中に|ほう《抛》りこめ」とパージュとベルグヌーが、「先生」の後ろに丸くなっていた罪人《ザイニ-ン》にと《跳》びかかって行きそうにした。 「おまえたち、この男を水の中に|ほう《抛》りこみたいなら、おれも|いっしょ《一緒》に|ほう《抛》りこめ」 「ううん、ううん。」やっと|かれ《彼》らは水の中に罪人《ザイニ-ン》をほうりこむだけはしないことにしたが、それには一つの条件がついた。罪人《ザイニ-ン》はすみっこにおしやられて、|だれ《誰》も口をきいてもいけないし、かまってもやるまいというのだった。 「そうだ、それが相当だ」と「先生」が言った。「それが公平な裁きだ」 「先生」の|ことば《言葉》はコンプルーに下された判決のように思われたので、それがすむと|わたし《私》たちはみんな|いっしょ《一緒》に、できるだけ遠く|はな《離》れて、この悪い事をした人間との間に空き地をこしらえた。数時間のあいだ、|かれ《/彼》は悲しみに打たれて、絶えずくちびるを動かしながら、こうつぶやいているように思われた。 「|おれ《俺》はくい改める。|おれ《俺》はくい改める」  やがてパージュとベルグヌーが|さけ《叫》びだした。 「もうおそいや、もうおそいや。|きさま《貴様》はいまこわくなったのでくい改めるのだ。|きさま《貴様》は一年まえにくい改めなければならなかったのだ」  |かれ《彼》は苦しそうに、ため息をついていた。けれどまだくり返していた。 「|おれ《俺》はくい改める。|おれ《俺》はくい改める」  |かれ《彼》はひどい熱にかかっていた。|かれ《彼》の全身はふるえて、歯はがたがた鳴っていた。 「|おれ《俺》はのどがかわいた」と|かれ《彼》は言った。「その長ぐつを貸してくれ」  もう長ぐつに水はなかった。|わたし《私》は立ち上がって取りに行こうとした。けれどそれを見つけたパージュが|わたし《私》を呼び止めた。同時にガスパール|おじ《小父》さんが|わたし《私》の手をおさえた。 「もうあいつにはかまわないと|やくそく《約束》したのだ」と|かれ《彼》は言った。  しばらくのあいだ、コンプルーは|のど《喉》がかわくと言い続けた。|わたし《私》たちがなにも飲み物をくれないとみて、|かれ《/彼》は自分で立ち上がって、水のほうへ行きかけた。 「あいつ石炭がらをくずしてしまうぞ」 「まあ、自由だけは許してやれ」と「先生」が言った。  |かれ《彼》は|わたし《私》がさっき背中で下へすべって行ったのを見ていた。それで自分もそのとおりをやろうとしたが、|わたし《私》の身が軽いのとちがって、|かれ《/彼》はなみはずれて重かった。それで後ろ向きになるやいなや、石炭の土手が足の下でくずれて、両足をのばし、両手は空《クウ》をつかんだまま、|かれ《/彼》はま《真》っ暗な穴の中に落ちこんだ。  水は|わたし《私》たちのいる所まではね上がった。|わたし《私》は下《-お》りて行くつもりでのぞきこんだが、ガスパール|おじ《小父》さんと「先生」が|わたし《私》の手を両方からおさえた。  半分死《半分’死》んだように、恐怖にふるえ《えな》がら、|わたし《私》は席にもどった。  時間が過ぎていった。元気よくものを言うのは「先生」だけであった。けれどそれも|わたし《私》たちの|しず《沈》んでいるのがとうとう|かれ《彼》の精神をも|しず《沈》ませた。|わたし《私》たちの空腹は|ひじょう《非常》なものであったから、しまいにはぐるりにある|くさ《腐》った木まで食べた。まるでけもののようであった。カロリーが中でもいちばん腹をすかした。|かれ《彼》は片っぽの長ぐつを切って、しじゅうなめし皮のきれをかんでいた。空腹がどんなどん底の|やみ《闇》にまで|わたし《私》たちを導くかということを見て、正直の話、|わたし《私》ははげしい恐怖を感じだした。ヴィタリス老人は、よく難船した人の話をした。ある話では、なにも食べ物のないはなれ島に漂着した船乗りが、船のボーイを食べてしまったこともある。|わたし《私》は仲間がこんなにひどい空腹に責められているのを見て、そういう運命が|わたし《私》の上にも向いて来やしないかとおそれた。「先生」と、ガスパール|おじ《小父》さんだけは|わたし《私》を食べようとは思えなかったが、パ《/パ》ージュとカロリーと、ベルグヌーは、とりわけベルグヌーは長ぐつの皮を食い切るあの大きな白い歯で、ずいぶんそんなことをしかねないと思った。  一度こんなこともあった。|わたし《私》が半分うとうとしていると、「先生」が|ゆめ《夢》を見ているように、ほとんどささやくような声で言っていることを聞いてびっくりした。|かれ《彼》は雲や風や太陽の話をしていた。するとパージュとベルグヌーが、とんきょうな様子で|かれ《彼》とおしゃべりを始めた。まるで相手の返事をするのをおたがいに待たないのであった。ガスパール|おじ《小父》さんは|かれ《彼》らの変な様子には気がつかないようであった。この人たちは気がちがったのではないかしら。それだとどうしよう。  ふと、|わたし《私》は明かりをつけようと思った。油を倹約するため、|わたし《私》たちはぜひ入り用なときだけ明かりをつけることにしていたのである。  明かりを見ると、はたして|かれ《彼》らはやっと意識をとりもどしたらしかった。|わたし《私》は|かれ《彼》らのために水を取りに行った。もういつかしら水はずんずん引いていた。  しばらくして|かれ《彼》らはまた|みょう《妙》なふうに話をしだした。わたし自身も心持ちがなんだかぼんやりとりとめなく乱れていた。いく時間も、あるいはいく日も、|わたし《私》たちはおたがいにとんきょうなふうでおしゃべりをし続けていた。そののちしばらくすると|わたし《私》たちは落ち着いた。で、ベルグヌーは、いよいよ死ぬなら、そのまえにわれわれは書置きを残して行こうと言った。  |わたし《私》たちはまたランプをつけた。ベルグヌーがみんなのために代筆した。そしててんでんがその紙に署名をした。|わたし《私》は犬とハープをマチアにやることにした。アルキシーにはリーズの所へ行って、|わたし《私》の代わりに|かの《彼》女にキッスをしてチョッキの|かく《隠》しにはいっている干からびた|ばら《薔薇》の花を送ってもらいたいという希望を書いた。ああ、なつかしいリーズ‥‥。  しばらくして|わたし《私》はまた土手をすべり下りた。すると水が著しく減っているのを見た。|わたし《私》は急いで仲間の所へかけ|もど《戻》って、もうはしご段の所まで泳いで行けること、それから救助に来た人たちにどの方角にに《逃》げていいか聞くことができると告げた。「先生」は|わたし《私》の行くことを止めた。けれど|わたし《私》は言い張った。 「行っといで、ルミ。おれの時計をやるぞ」とガスパール|おじ《小父》さんが|さけ《叫》んだ。  「先生」はしばらく考えて、|わたし《私》の手を取った。 「まあおまえの考えどおりやってごらん」と|かれ《彼》は言った。「おまえは勇気がある。|わたし《私》はおまえができそうもないことをやりかけているとは思うが、そのできそうもないことが案外成功《案外’成功》することは、これまでもないことではなかったのだから。ささ、おれたちにキッスをおし」  |わたし《私》は「先生」とガスパール|おじ《小父》さんにキッスをした。それから着物をぬぎ捨てて、水の中にと《跳》びこんだ。  と《跳》びこむまえに|わたし《私》は言った。 「みんなでしじゅう声を立てていてください。その声で見当をつけるから」  坑道の屋根の下の空き地が、自由に|からだ《体》の働けるだけ広かろうかと|わたし《私》はあやぶんでいた。これは疑問であった。少し泳いでみて、そっと行けば行かれることがわかった。ほうぼうの坑道の出会う場所のそう遠くないことを、|わたし《私》は知っていた。けれど|わたし《私》は用心しなければならなかった。一度道《いちど道》をまちがえると、それなり迷ってしまう危険があった。坑道の屋根や|かべ《壁》は道しるべにはならなかった。地べたにはレールというもっと確かな道しるべがあった。これについて行けば、たしかにはしご段を見つけることができた。しじゅう|わたし《私》は足を下《’下》へやって、鉄のレールにさわりながら、またそっと上へう《浮》き上がった。後ろには仲間の声が聞こえるし、足の下にはレールがあるので、|わたし《私》は道を迷わなかった。後ろの声がだんだん遠くなると、上のポンプの音が高くなった。|わたし《私》はぐんぐん進んで行った。ありがたい、もうまもなく日の光が見えるのだ。  坑道のま《真》ん中をまっすぐに行きながら、|わたし《私》はレールにさわるために、右のほうへ曲がらなければならなかった。すこし行ってから、また水をくぐって、レールにさわりに行った。そこにはレールがなかった。坑道の右左と行ったが、やはりレールはなかった‥‥。  |わたし《私》は道をまちがえたのだ。  仲間の声はかすかなつぶやきのように聞こえていた。|わたし《私》は深い息を吸いこんで、またと《跳》びこ《込》んだが、やはり成功しなかった。レールはなかった。  |わたし《私》はちがった層に|はい《入》ったのだ。知らないうち|わたし《私》は後もどりしたにちがいない。でもみんな呼ばなくなったのはどうしたのだろう。呼んでいるのかもしれないが、|わたし《私》には聞こえなかった。この冷たい、ま《真》っ暗な水の中で、どちらへどう向いていいか、|わたし《私》は迷った。  するととつぜんまた声が聞こえた。|わたし《私》はやっとどちらの道を曲がっていいかわかった。後《あと》へ十二ほどぬ《抜》き手を切って、|わたし《私》は右のほうへ曲がった。それから左へ曲がったが、|かべ《壁》だけしか見つからなかった。レールは|どこ《何処》だろう。|わたし《私》が正しい層へ出ていることは確かであった。  そのときふと|わたし《私》は、レールが津波のために持って行かれたことを確かめた。|わたし《私》はもう道しるべがなくなった。そういうわけでは、|わたし《私》のくわだてをとげるわけにはゆかない。  |わたし《私》はいやでも引っ返さなければならなかった。  |わたし《私》は急いで声をあてに避難所のほうへ泳ぎ帰った。だんだん近づくと、仲間の声が先《セン》よりもずっとしっかりして、力が|はい《入》っているように思われた。|わたし《私》はすぐ竪坑の入口に着いた。|わたし《私》はすぐ声をかけた。 「帰っておいで、帰っておいで」と「先生」が|さけ《叫》んだ。 「道がわからなかった」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。 「かまわないよ。もうトンネルができかけている。みんなこちらの声を聞いた。こちらでも向こうの声が聞こえる。じきに話ができるだろう」  |わたし《私》はすぐと|おか《オカ》に上がって耳を立てた。つるはしの音と、救助のために働いている人たちの呼び声がかすかに、しかし|ひじょう《非常》にはっきりと聞こえて来た。この|ゆかい《愉快》な興奮が過ぎると、|わたし《私》は|こご《凍》えていることを感じた。|わたし《私》に着せる暖かい着物が別にないので、みんなは|わたし《私》を石炭がらの中へ首までうずめた。そしてガスパール|おじ《小父》さんと「先生」が|わたし《私》を暖めるために、その上によけい高く積んだ。  もうまもなく救助の人たちがトンネルをぬけて、水について来ることを|わたし《私》たちは知った。けれどもこうなってから幽閉の最後の時間がこのうえなく苦しかった。つるはしの音はやまなかったし、ポンプはしじゅう動いていた。|ふしぎ《不思議》にだんだん救い出される時間が近づくほど、|わたし《私》たちはいくじがなくなった。|わたし《私》はふるえながら、石炭がらの中に横になっていたが、寒くはなかった。|わたし《私》たちは口をきくことができなかった。  とつぜん坑道の水の中に音がした。頭をふり向けて、|わたし《私》は大きな光がこちらにさすのを見た。技師は|おお《大》ぜいの人の先に立っていた。|かれ《彼》はいちばん先に上がって来た。|かれ《彼》はひと言も言わないうちに|わたし《私》をだいた。  もう|わたし《私》の正気は失われかけていた。ちょうどきわどいところであった。けれどまだ運ばれて行くという意識だけはあった。|わたし《私》は救助員たちが水をくぐって出て行ったあとで、毛布に包まれた。|わたし《私》は目を閉じた。  また目を開くと昼の光であった。|わたし《私》たちは大空の下に出たのだ。同時に|だれ《誰》かと《跳》びついて来た。それはカピであった。|わたし《私》が技師の|うで《腕》にだかれていると、ただ一《ひと》とびで|かれ《彼》はと《跳》びかかって来た。|かれ《彼》は|わたし《私》の顔を二度も三度もな《舐》めた。そのとき|わたし《私》の手を取る者があった。|わたし《私》はキッスを感じた。それからかすかな声でつぶやくのを聞いた。 「ルミ。おお、ルミ」  それはマチアであった。|わたし《私》は|かれ《彼》ににっこりしかけた。それからそこらを見回した。  おおぜいの人がまっすぐに、二列になって|なら《並》んでいた。それはだまり返った群集であった。|さけ《叫》び声を立てて、|わたし《私》たちを興奮させてはならないと言《言い》つけられたので、|かれ《/彼》らはだまっていたが、この顔つきはくちびるの代わりにものを言っていた。いちばん前の列に、なんだか白い法衣《衣》と錦襴のかざりが日《ヒ》にかがやいているのを|わたし《私》は見た。これは|ぼう《坊》さんた《’た》ちで、鉱山の口へ来て、|わたし《私》たちの救助のためにおいのりをしてくれたのであった。|わたし《私》たちが運び出されると、|かれ《/彼》らは砂の中にひざまでうずめて|すわ《座》っていた。  二十本の|うで《腕》が|わたし《私》を受け取ろうとしてさし延べられた。けれど技師は|わたし《私》を放さなかった。|かれ《彼》は|わたし《私》を事務所へ連れて行った。そこには|わたし《私》たちを|むか《迎》える寝台《ネダイ》ができていた。  二日ののち、|わたし《私》はマチアと、アルキシーと、カピを連れて、村の往来を歩いていた。そばへ来て、目に|なみだ《涙》をうかべながら、|わたし《私》の手をにぎる者もあった。顔をそむけて行く者もあった。そういう人たちは喪服をつけていた。|かれ《彼》らはこの親もない家もない子が救われたのに、なぜ|かれ《彼》らの父親や|むすこ《息子》が、まだ鉱山の中でいたましい死がいになって、暗い水の中をただよっているのであろうか、それを悲しく思っていたのであろう。 ◇。◇。◇。 【第28章】 【音楽の先生】 ◇。◇。◇。  坑《コウ》の中にいるあいだに、|わたし《私》はお友だちができた。あのおそろしい経験をおたがいにし合った仲間が一つに結ばれた。ガスパール|おじ《小父》さんと「先生」は、とりわけたいそう|わたし《私》が好きになった。  技師も災難をともにはしなかったが、自分が骨を折って危ういところを救い出した子どもということで、|わたし《私》に親しんだ。|かれ《彼》は|わたし《私》をそのうちへ招待した。|わたし《私》は|かれ《彼》の|むすめ《娘》に坑《コウ》の中で起こったことを残らず話してやらなければならなかった。  |だれ《誰》も|わたし《私》をヴァルセへ引き止めたがった。技師は、|わたし《私》が望むなら、事務所で仕事を見つけてやると言った。ガスパール|おじ《小父》さんも鉱山でしじゅうの仕事をこしらえようと言った。|かれ《彼》は|わたし《私》が坑《コウ》へ帰ることがごく自然なように思っているらしかった。|かれ《彼》自身はもうまもなく、毎日危険《毎日’危険》をおかすことに慣れた人の見せるようなむとんちゃくさで、また坑《コウ》へ|はい《入》って行った。でも|わたし《私》はもうそこへ帰って行く気はしなかった。鉱山は|ひじょう《非常》におもしろかった。それを見たということは|たいへんゆかい《大変’愉快》であったけれど、そこへ帰って行こうとは|ゆめ《夢》にも思わなかった。  それよりも|わたし《私》はいつも頭の上に大空を、それは雪をいっぱい持った大空でも、いただいていたかった。野外の生活が|わたし《私》にはずっと性《ショウ》に合っていた。そう言って|わたし《私》は|かれ《彼》らに話した。|だれ《誰》も|おどろ《驚》いていた。とりわけ「先生」が|おどろ《驚》いていた。カロリーはとちゅうで出会うと、|わたし《私》を「やあ、ひよっこ」と呼んだ。  みんなが|わたし《私》をヴァルセに止めたがって、いろいろ勧めているあいだ、マチアはひどくぼんやりして考えこむようになった。そのわけをたずねると、|かれ《/彼》はいつも、なになんでもないと打ち消していた。  いよいよ三日のうちにここを立つことを|わたし《私》が|かれ《彼》に話したとき、|かれ《/彼》は初めてこのごろ|ふさ《塞》いでいたわけを語った。 「ああ、|ぼく《僕》は|きみ《君》がここにこのまま残って、|ぼく《僕》を捨てるだろうと思ったから」と|かれ《彼》は言った。  |わたし《私》は|かれ《彼》をちょいと打った。それは|わたし《私》を疑わないように、訓戒してやるためであった。  マチアはいまではもう自分で自分の身を立てることができるようになっていた。|わたし《私》が鉱山にはいっていたあいだ、|かれ《/彼》は十八フラン|もう《儲》けた。|かれ《彼》はこのたいそうな金《-かね》を|わたし《私》にわたすとき、ひどく得意であった。なぜなら|わたし《私》たちが|まえ《前》から持っている百二十八フランに加えれば、残らずで百四十六フランになるからであった。例の「王子さまの雌牛」はもう四《4》フランあれば買えるのであった。  前へ進め、子どもたち。  荷物を背中へ結びつけて|わたし《私》たちは出発した。カピが喜んで、ほ《吠》えて、砂の中を転げていた。  マチアは、雌牛を買うまでにもう少しお金をこしらえようと言った。金《かね》が多いだけいい雌牛が買えるし、雌牛がよければ、よけいバルブレンのおっかあがうれしがるであろう。  パリからヴァルセに来るとちゅう、|わたし《私》はマチアに読書と、初歩の楽典を授け始めた。この課業を今度も続けてした。|わたし《私》もむろんいい先生ではなかったし、マチアもあまりいい生徒であるはずがなかった。この課業は成功ではなかった。たびたび|わたし《私》はおこって、ばたんと本を閉じながら、|かれ《/彼》に、「おまえは|ばか《馬鹿》だ」と言った。 「それは|ほんとう《本当》だよ」と|かれ《彼》はにこにこしながら言った。「|ぼく《僕》の頭はぶつとやわらかいそうだ。ガロフォリがそれを見つけたよ」  こう言われると、どうおこっていられよう。|わたし《私》は笑いだしてまた課業を続けた。けれどもほかのことはとにかく、音楽となると、初めから|かれ《彼》はびっくりするような進歩をした。おしまいにはもう|わたし《私》の手にお《負》えないことを白状しなければならなくなったほど、|かれ《/彼》は|むず《難》かしい質問を出して、|わたし《私》を当惑させた。でもこの白状は|わたし《私》をひどく|しょげ《悄気》さした。|わたし《私》は|ひじょう《非常》に高慢な先生であった。だから生徒の質問に答えることができないのが情けなかった。しかも|かれ《彼》はけっして|わたし《私》を容赦しはしなかった。 「|ぼく《僕》は|ほんとう《本当》の先生に教わろう」と|かれ《彼》は言った。「そうして|ぼく《僕》、質問を残らず聞いて来よう」 「なぜ、|きみ《君》は|ぼく《僕》が鉱山にいるうち、|ほんとう《本当》の先生から教えてもらわなかった」 「でも|ぼく《僕》はその先生に、|きみ《君》の金《-かね》からお礼を出さなければならなかったから」  |わたし《私》はマチアが、そんなふうに「|ほんとう《本当》の先生」などと言うのが|しゃく《癪》にさわっていた。けれど|わたし《私》の|ばか《馬鹿》な虚栄心は|かれ《彼》のいまの|ことば《言葉》を聞くと、すうと|けむり《煙》のように消えて行かなければならなかった。 「|きみ《君》は人がいいなあ」と|わたし《私》は言った。「|ぼく《僕》の金《-かね》は|きみ《君》の金《-かね》だ。やはり|きみ《君》が|もう《儲》けてくれたのだ。|きみ《君》のほうがたいてい|ぼく《僕》よりもよけい|もう《儲》けている。|きみ《君》は好きなだけけいこを受けるがいい。|ぼく《僕》も|いっしょ《一緒》に習うから」  さてその先生は、われわれの要求する「|ほんとう《本当》の先生」は、|いなか《田舎》にはいなかった。それは大きな町にだけいるような|りっぱ《立派》な芸術家であった。地図を開けてみて、このつぎの大きな町は、マンデであることがわかった。  |わたし《私》たちがマンデに着いたのは、もう夜であった。|つか《疲》れきっていたので、その晩はけいこには行かれないと決めた。|わたし《私》たちは宿屋のおかみさんに、この町にいい音楽の先生は《は’》いないかと聞いた。|かの《彼》女は|わたし《私》たちがこんな質問を出したので、ずいぶんびっくりしたと言った。|わたし《私》たちはエピナッソー氏を知っているべきはずであった。 「|ぼく《僕》たちは遠方から来たのです」と|わたし《私》は言った。 「ではずいぶん遠方から来たんですね、きっと」 「イタリアから」とマチアが答えた。  そう聞くと、|かの《/彼》女はもうおどろかなかった。なるは《ほ》どそんな遠方から来たのでは、エピナッソー先生のことを聞かなかったかもしれないと言った。 「その先生は《は’》|たいへん《大変》おいそがしいんですか」と|わたし《私》はたずねた。そういう名高い音楽家では、|わたし《私》たちのようなちっぽけな|こぞう《小僧’》二人に、たった一度のけいこなど|めんどう《面倒》くさがってしてくれまいと気づかった。 「ええ、ええ、おいそがしいですとも。おいそがしくなくってどうしましょう」 「あしたの朝、先生が会ってくださるでしょうか」 「それはお金さえ持って行けば、|だれ《誰》にでもお会いになりますよ‥《‥:》‥むろん」  |わたし《私》たちはもちろん、それはわかっていた。  その晩ね《’寝》に行くまえ、|わたし《私》たちはあしたこの有名な先生にたずねようと思っている質問の箇条を相談した。マチアは求めていた「|ほんとう《本当》の音楽の先生」を見つけたので、うれしがって|こおど《小躍》りしていた。  つぎの朝、|わたし《私》たちは──マチアはヴァイオリン、|わたし《私》はハープと、てんでんの楽器を持って、エピナッソー先生を訪ねて行くことにした。|わたし《私》たちはそういう有名な人を訪ねるのに犬を連れて行く法はないと思ったから、カピは置いて行くことにして、宿屋の馬小屋につないでおいた。  さて宿屋のおかみさんが、先生の住まいだと教えてくれたうちの前へ来たとき、|わたし《私》たちは、おやこれはまちがったと思った。なぜなら、そのうちの前には小さな真ちゅうの看板が二枚ぶら下がっていて、それがどうしたって音楽の先生の看板ではなかった。そのうちはどう見ても床屋の店のていさいであった。|わたし《私》たちは通りかかった一人の人に向かって、エピナッソー先生のうちを教えてくださいと|たの《頼》んだ。 「それそこだよ」とその男は言って、床屋の店を指さした。  だがつまり先生が床屋と同居していないはずもなかった。|わたし《私》たちは中へ|はい《入》った。店《みせ》ははっきり二つに仕切られていた。右のほうには|はけ《ハケ》だの、くしだの、クリームの|つぼ《壺》だの、理髪用の|いす《椅子》だのが置いてあった。左のほうの|かべ《壁》や|たな《棚》にはヴァイオリンだの、コルネだの、トロンボンだの、いろいろの楽器がかけてあった。 「エピナッソーさんはこちらですか」とマチアがたずねた。  小鳥のように、ちょこちょこした、気の利いた小男が、一人の男の顔をそっていたが、「|わたし《私》がエピナッソーだよ」と答えた。  |わたし《私》はマチアに目配せをして、床屋さんの音楽家なんか、こちらの求めている人ではない。こんな人に相談をしても、せっかくの金《-かね》が|むだ《無駄》になるだけだという意味を飲みこませようとしたが、|かれ《/彼》は知らん顔をして、もったいぶった様子で一つの|いす《椅子》に|こし《腰》をかけた。 「そのかたがそれたら、|ぼく《僕》の髪をか《刈》ってもらえますか」と|かれ《彼》はたずねた。 「ああ、よろしいとも。なんなら、顔もそってあげましょう」 「ありがとう」とマチアが答えた。|わたし《私》は|かれ《彼》のあつかましいのに、どぎもをぬかれた。|かれ《彼》は目のおくから|わたし《私》をのぞいて、「そんな困った顔をしないで見ておいで」という様子をした。  そのお客がすんでしまうと、エピナッソー氏は、タオルを|うで《腕》にかけて、マチアの髪をか《刈》る用意をした。 「ねえ、あなた」と、床屋さんが|かれ《彼》の首に布を巻きつけるあいだにマチアが言った。「音楽のことで友だちと|ぼく《僕》にわからないことがあるんです。なんでもあなたは名高い音楽家だと聞いていましたから、二人の争論をあなたにうかがったら、なんとか判断していただけるかと思うのです」 「なんですね、それは」  そこで|わたし《私》はマチアの考えていることがわかった。まず先に、|かれ《/彼》は|わたし《私》たちの質問にこの床屋さんの音楽家が答えることができるか試そうとした。いよいよできるようだったら、|かれ《/彼》は散髪の代で、音楽の講義を聞くつもりであった。  マチアは髪をか《刈》ってもらっているあいだ、いろいろ質問を発した。床屋さんの音楽家はひどくおもしろがって、|かれ《/彼》に向けられるいちいちの質問を、ずんずん|ゆかい《愉快》そうに答えた。  |わたし《私》たちが出かけようとしたとき、|かれ《/彼》はマチアに、ヴァイオリンで、なにかひいてごらんと言った。マチアは一曲ひいた。 「いやあ、それでも|きみ《君》は、音楽の調子がわからないと言うのかい」と床屋さんは手をたたきながら言った。そしてむかしから知り合って愛している子どもに対するようになつかしそうな目で、マチアを見た。 「これは|ふしぎ《不思議》だ」  マチアは楽器の中からクラリネットを選んで、それをふいた。それからコルネをふいた。 「いやあ、この子は神童だ」とエピナッソー氏は|おど《躍》り上がって喜んだ。「おまえさん、|わたし《私》の所にいれば、大音楽家にしてあげるよ。朝はお客の顔をそるけいこをする。あとは一日音楽《一日’音楽》をやることにする。|わたし《私》が床屋だから、音楽がわからないと思ってはいけない。|だれ《誰》だって毎日のく《暮》らしは立てなければならない」  |わたし《私》はマチアの顔を見た。なんと|かれ《彼》は答えるであろう。|わたし《私》は友だちをなくさなければならないか。|わたし《私》の仲間を、|わたし《私》の兄弟を失わなければならないか。 「マチア、よく|きみ《君》のためを考え|たま《給》えよ《’よ》」と|わたし《私》は言ったが、声はふるえていた。 「なに、友だちを捨てる」と、|かれ《/彼》は自分の|うで《腕》を|わたし《私》の|うで《腕》にかけながら|さけ《叫》んだ。「そんなことができるものか。でも先生、やはりあなたのご親切はありがたく思っていますよ」  エピナッソー氏はそれでもまだ勧めていた。そしていまに|かれ《彼》をパリの音楽学校へ出す方法を立てる、そうすれば|かれ《彼》は確かに|りっぱ《立派》な音楽家になると言った。 「なに、友だちを捨てる、それはどうしたってできません」 「そう、それでは」と床屋さんは残念そうに答えた。「|わたし《私》が一冊本《一冊ホン》をあげよう。わからないことはそれで知ることができる。」こう言って|かれ《彼》は一つの引き出しから、音楽の理論を書いた本を出した。その本は古ぼけて破れていた。けれどそんなことはかまうことではない。ペンを取って|こし《腰》をかけて、|かれ《/彼》はその第一《第イッ》ページにこう記した。 「|かれ《彼》が有名になったとき、なおマンデの床屋を記憶するであろうその子に|おく《贈》る」  マンデにはほかにも音楽の先生があるかどうか、|わたし《私》は知らないけれど、このエピナッソー氏がたった一人知《ひとり’知》っている人で、しかも一生忘《一生’忘》れることのできない人であった。 ◇。◇。◇。 【第29章】 【王子さまの雌牛】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》はマンデに着くまえにもむろんマチアを愛していたけれど、その町を去るときにはもっともっと|かれ《彼》を愛していた。|わたし《私》は床屋さんの前で|かれ《彼》が「なに、友だちを捨てる」と|さけ《叫》んだとき、どんな感じがしたか、|ことば《言葉》で語ることはできなかった。  |わたし《私》は|かれ《彼》の手をとって強くにぎりしめた。 「マチア、もう死ぬまで|はな《離》れないよ」と|わたし《私》は言った。 「|ぼく《僕》はとうからそれはわかっていた」と|かれ《彼》はあの大きな黒い目で、|わたし《私》ににこにこ笑いかけながら答えた。  なんでもユッセルで|さか《盛》んな家畜市《家畜イチ》があるということを聞いたので、|わたし《私》たちはそこへ行って、雌牛を買うことに決めた。それはシャヴァノンへ行く道であった。|わたし《私》たちは道みち通る町ごとに村ごとに音楽をやって、ユッセルに着いた|じぶん《時分》には、二百四十《二百ヨンジュッ》フランも金《-かね》が集まっていた。|わたし《私》たちはこれだけの金《-かね》をためるには、それこそできるだけの倹約をしなければならなかった。でもマチアはわたし同様雌牛《同様-めうし》を買うことに熱心であった。|かれ《彼》は白い牛を買いたがった。|わたし《私》はあのルセットのお形見に、茶色の牛をと思っていた。|わたし《私》たちはしかし、どちらにしても、ごくおとなしくって、乳をたくさん出す牛を買うことに意見が一致した。  |わたし《私》たちは二人とも、なにを目標に雌牛のよしあしを見分けるか知らなかったから、獣医の世話になることにした。|わたし《私》たちはよく牛を買うときに詐欺に会う話を聞いていた。そういう危険をおかしたくは《は’》なかった。獣医を|たの《頼》むことはよけいな費えではあろうけれど、どうもほかに|しかた《仕方》がなかった。ある人は、ごく安い値段で|一ぴき《一匹》買って帰ってみると、しっぽがにせものであったことがわかったという話も聞いた。またある人はごく|じょうぶ《丈夫》そうな、どこからみてもたくさん乳を出しそうな雌牛を買ったが、二十四時間にコップに二|はい《杯》の乳しか採れなかったという話もある。ばくろうのやるちょいとした手品で、雌牛は《は’》さもたくさん乳を出しそうに見せかけることができた。  マチアはにせもののしっぽだけならなにも心配することはないと言った。なぜなら売り手といよいよ相談を始めるまえに、ありったけの力で雌牛のしっぽに一つずつぶら下がってみればわかるのだからと言った。でもそれが|ほんとう《本当》のしっぽであったら、きっとおなかか頭をうんとひどくけとばされるだろうと言うと、|かれ《/彼》の空想はすこしよろめいた。  ユッセルに着いたのは|五、六年《ゴロク年》ぶりであった。あれはヴィタリス親方と|いっしょ《一緒》で、ここで初めて|くぎ《釘》で止めた|くつ《靴》を買ってくれたのであった。ああ、そのときここから出かけた六人のうち、残っているのは、たったカピと|わたし《私》だけであった。  |わたし《私》たちは町に着いて、あのときヴィタリスや犬とと《泊》まったことのある宿屋に荷物を預けて、すぐ獣医を探し始めた。やがて一人見《ひとり’見》つけたが、その人は、|わたし《私》たちが欲しいという雌牛の様子を話して、|いっしょ《一緒》に行って買ってくれるようにと言うと、それをひどくおもしろいことに思ったらしかった。 「でもぜんたいおまえたち子ども二人で、雌牛をなんにするのだね。お金は持っているのかい」と|かれ《彼》はたずねた。  |わたし《私》たちはそこで、どのくらい金《-かね》を持っているか、それをどうして|もう《儲》けたかということ、《:、》それから|わたし《私》が子どものとき世話になったシャヴァノン村のバルブレンのおっかあに|おく《贈》り物をしておどろかせるつもりだということを話した。|かれ《彼》はすると|ひじょう《非常》に親切らしい熱心を顔に見せて、あした七時に市場《イチバ》へ行って会おうと|やくそく《約束》した。それでお礼は《は’》と言って聞くと、|かれ《/彼》はまるっきりそんな物を受け取ることを|こば《拒》んだ。そして笑いながら|わたし《私》たちを送り出して、その時間にはきっと市場《イチバ》へ行くようにと言った。  そのあくる日夜明《日’夜明》けから町はごたごたにぎわっていた。|わたし《私》たちのと《泊》まっている部屋から、馬車や荷車が下の往来のごろごろした石の上をきしって行くのが聞こえた。雌牛はうなるし、|ひつじ《羊》は鳴く。百姓は家畜にどなりつけたり、てんでんに|じょうだん《冗談》を言い合ったりしていた。  |わたし《私》たちはいきなり頭から着物をひっかぶって、六時には市場《イチバ》に着いた。獣医が来るまえに、選り取っておこうと思ったからである。  なんという美しい雌牛であろう‥《‥:》‥いろんな色、いろんな形をしていた。太ったのもあれば、やせたのもあり、子牛を連れたのもあった。馬もいたし、大きな太った|ぶた《豚》は地べたに穴をほっていた。小さなぽちゃぽちゃした赤ん|ぼう《坊》の|ぶた《豚》は、いまにも生きながら皮をはがれでもするようにぶうぶう鳴いていた。  でも|わたし《私》たちは雌牛よりほかには目には|はい《入》らなかった。それはみんな落ち着いて、おとなしく草を食べていた。|かれ《彼》らはまぶたをばちばち動かすだけで、|わたし《私》たちがしつっこく検査するままに任せていた。一時間もかかって調べたのち、|わたし《私》たちは十七頭気《十七頭’気》にいったのを見つけた。その一つ一つにちがった特質があった。色の赤いのもあったし、白いのもあった。もちろんそんなことがいちいちマチアと|わたし《私》との間に議論をひき起こした。やがて獣医がやって来た。|わたし《私》たちは好きな雌牛を|かれ《彼》に見せた。 「|ぼく《僕》はこれがいいと思います」とマチアは白い雌牛を指さしながら言った。 「|ぼく《僕》はあのほうがいいと思います」と|わたし《私》は赤い雌牛を指さして言った。  獣医はしかしその両方の前を知らん顔で通り過ぎて、|わたし《私》たちのやりかけた争論を中止させた。そして第三の雌牛に向かった。この牛はほっそりしたすねをして、赤い胴に茶色の耳とほおをして、目は黒くふちをとって、口の回りに白い輪が|はい《入》っていた。 「これがおまえさんた《’た》ちのお望みの牛だ」と獣医が言った。  まったくこれはすばらしかった。マチアと|わたし《私》は、今度こそ|なるほど《成程》これがいちばんいいと思った。獣医はその雌牛の|はづな《端綱》(口《くち》につけて引く|つな《綱》)をおさえていたにぶい顔の百姓に、その雌牛の値段はいくらかとたずねた。 「三百フラン」とその男は答えた。  |わたし《私》たちのくちびるは下に下がった。ああ三百フラン。|わたし《私》は獣医に向かって、ほかの牛に移らなければという手まねをした。|かれ《彼》はまたかけ合ってみせるという合図をした。そのときはげしい談判が獣医と百姓の間に始まった。|わたし《私》たちのかけ合い人《にん》は百七十《百ナナジュッ》フランまで値切った。百姓は二百八十《二百ハチジュッ》フランまでまけた。この値段まで下げてくると、獣医は雌牛をもっと批評的に調べ始めた。この雌牛は足が弱かったし、首が短すぎたし、角《ツノ》が長すぎた。肺臓が小さくって、乳首《チチクビ》の形が悪かった。どうしてこれでは《は’》たんと乳《チチ》は出まい。  百姓は|わたし《私》たちが雌牛のことをそんなにくわしく批評するので、きっと世話もよく行き届くだろうから、二百五十《二百ゴジュッ》フランにまけてあげようと言った。  そうなると|わたし《私》たちは心配になり始めた。マチアも|わたし《私》も、ではろくでもない牛にちがいないと思った。 「もっとほかのを見ましょう」と|わたし《私》は獣医の手をおさえて言った。それを聞くと、百姓は十《ジュッ》フランまけた。それからだんだんにせり下げて、二百十《二ヒャクジュッ》フランまできて、そこで止まった。獣医は|わたし《私》のひじをついて、いま雌牛の悪口《悪くチ》を言ったのは、本気ではない。|ほんとう《本当》はすばらしい牛だという意をさとらせた。でも二百十《二ヒャクジュッ》フランは|わたし《私》たちにとってはたいした金《-かね》であった。  そのあいだにマチアは雌牛の後ろへ行って、そのしっぽから一本長《一本’長》い毛を引きぬいた。すると牛はおこって、|かれ《/彼》をけりつけた。これで|わたし《私》の考えが決まった。 「二百十《二ヒャクジュッ》フランで買おう。」|わたし《私》は事件が解決したと思って、そう言いながら牛の|はづな《端綱》を取ろうとした。 「おまえさん、|つな《綱》を持って来たか」と百姓は言った。「|わし《儂》は牛は売るが|はづな《端綱》は売らないぞ。」こう言って|かれ《彼》は、せっかくおなじみになったのだから、特別で|はづな《端綱》を六十《六ジュッ》スーで売ってやると言った。|はづな《端綱》は入り用であったから、もうあとそれで|わたし《私》の|ふところ《懐》には二十《ニジュッ》スーしか残らないと思いながら、六十《六ジュッ》スー出した。それで二百十三フランを数えて、それから手を出そうとした。 「おまえさん、|なわ《縄》を持っているか」と百姓は言った。「|わし《儂》は|はづな《端綱》は売っても、|なわ《縄》は売らないぞ」  それで最後の二十《ニジュッ》スーも消えてしまった。  これで雌牛はとうとう|わたし《私》たちの手にわたった。けれど|わたし《私》たちは牛に食べ物を買ってやるにも、自分が食べるにも、一《1》スーの金《-かね》ももう残らなかった。獣医にはていねいに世話になった礼を言って、手をにぎってさようならを言った。そして宿屋に帰ると、雌牛を|うまや《厩》につないだ。  |きょう《今日》は町に市場《イチバ》があるので、ひどくにぎわって、ほうぼうから人が集まってもいたから、マチアと|わたし《私》は別べつに出かけて、いくらお金ができるか、やってみることに相談を決めた。  その夕方、マチアは四《4》フラン。|わたし《私》は三フランと五十サンチーム持って帰った。七フラン五十サンチームのお金で、|わたし《私》たちはまたお金持ちになった。女中に|たの《頼》んで雌牛の乳をしぼってもらったので、夕食には牛乳があった。これほどうまいごちそうを、|わたし《私》たちは味わったことはなかった。|わたし《私》たちは乳のいいのにめちゃめちゃにのぼせ上がってしまって、食事がすむとさっそく|うまや《厩》へ出かけて、|わたし《私》たちの宝物をだいてやりに行った。雌牛はいかにも優しくしてもらったのがうれしいらしく、その返礼に|わたし《私》たちの顔をな《舐》めた。  |わたし《私》たちは雌牛をキッスしたり、雌牛からキッスされて感じる|ゆかい《愉快》さを人一倍感《人一倍’感》じるわけがあった。それにはマチアも|わたし《私》も、これまでけっして人からちやほやされすぎたことがなかったということを記憶してもらわなければならない。|わたし《私》たちの生まれ合わせは、ほかのあまやかされて育った子どもたちが、あんまり多いキッスに|へいこう《閉口》してそれをさけなければならないのとは、大ちがいであった。  そのあくる朝、|わたし《私》たちは太陽と|いっしょ《一緒》に起きて、シャヴァノン村に向かって出発した。|わたし《私》はマチアがあたえてくれた助力に、どれほど感謝していたであろう。|かれ《彼》なしには、|わたし《私》はけっしてこんな大金《’大金》をた《貯》めることはできなかった。|わたし《私》は|かれ《彼》に雌牛を引いて行く楽しみをあたえようと思った。そこで|かれ《彼》はたいへん得意らしく雌牛の|つな《綱》を引いて行くと、|わたし《私》はあとからついて行った。|かの《彼》女は|ひじょう《非常》に|りっぱ《立派》に見えた。それは大様にすこしゆれながら、自分で自分の値打ちを知っているけものらしく歩いていた。|わたし《私》は雌牛をくたびれさせないようにしたいと思ったので、その晩おそくシャヴァノンに着くことはよして、それよりもあしたの朝早く行く計画にした。ところがそのうちにこういうことが起こった。  |わたし《私》はその晩、むかし初めてヴィタリス親方とと《泊》まって、カピが悲しそうな|わたし《私》を見てそばへ来てねてくれた、あの村にと《泊》まることにした。  この村に|はい《入》るまえに|わたし《私》たちはきれいな青い草の生えた所に来た。荷物をほうり出して|わたし《私》たちはそこで休むことにした。|わたし《私》たちは雌牛をみぞの中に放してやった。初めは|なわ《縄》で引いていようと思ったが、この雌牛はたいへん|すなお《素直》で、草を食べることによく慣れているようであったので、|わたし《私》はしばらく|つな《綱》を牛の角に巻きつけて、そのそばに|こし《腰》をかけて晩飯を食べ始めた。もちろん|わたし《私》たちは雌牛よりずっとまえに食べてしまった。そこでさんざん雌牛を感心してながめたあとで、これからなにをしようというあてもないので、|わたし《私》たちはしばらく遊んでいた。それがすんでも牛はまだ食べていた。|わたし《私》がそばへ行くと、雌牛は草の中に固く首をつっこんでいて、まだ腹が減っているというようであった。 「すこし待ってやりたまえ」とマチアが言った。 「だってきみ、雌牛は一日だって食べているんだぜ」と|わたし《私》は答えた。 「まあ、しばらく待ってやりたまえ」  |わたし《私》たちはもう背嚢と楽器をしょったが、まだ牛はやめなかった。 「|ぼく《僕》は牛のためにコルネをふいてやる」と、じっとしていられないマチアが言った。「ガッソーの曲馬には、音楽の好きな雌牛がいたよ」  |かれ《彼》は|ゆかい《愉快》なマーチをふき始めた。  初めの音で、雌牛は頭を上げた。するととつぜん|わたし《私》が|かれ《彼》の角《ツノ》にと《跳》びかかって|つな《綱》をおさえるまもないうちに、|かの《/彼》女はとっとっとか《駆》け出した。|わたし《私》たちは|いっしょうけんめい《一生懸命》、止まれ、止まれと呼びながら、あとから追っかけた。|わたし《私》はカピに牛を止めるように声をかけた。だが|だれ《誰》でも万能ということはできない。牛飼い、馬飼いの犬なら鼻づらにと《跳》びついたであろうが、カピは牛の足にと《跳》びついた。  牛はとうとう|わたし《私》たちが通って来た最後の村までか《駆》けもどった。道はま《真》っす《直》ぐであったから、遠方でもその姿を見ることができた。おおぜいの人が通り道をふさいでつかまえようとしているのも見えた。|わたし《私》たちは牛を見失う気づかいはないと思ったので、すこし速力をゆるめた。こうなるとしなければならないことは、牛を止めてくれた人たちから、それを受け取ることであろう。  |わたし《私》たちがそこへ着いたとき、おおぜいの人間がもう集まっていた。そして|わたし《私》たと《ち》が考えていたように、すぐに牛を|わた《渡》してはくれないで、どうして牛を手に入れたか、どこから牛をとって来たかをたずねた。  |かれ《彼》らは|わたし《私》たちが牛を|ぬす《盗》んだこと、そして牛は持ち主の所へか《駆》けて帰ろうとしたのだということを主張い《し》た。|かれ《彼》らは|ほんとう《本当》のことがわかるまで、|わたし《私》たちは牢屋へ行かなければならないと宣告した。牢屋と言われたばかりで、|わたし《私》は青くなって、どもり始めた。おまけにさんざんか《駆》けて息が切れていたので、ひと言もものが言えなかった。そこへちょうど巡査がやって来た。二言三言で全体の事件が説明された。それを聞いてもいっこうはっきりしないことであったから、とにかく|かれ《彼》は雌牛を預かること、それが|わたし《私》たちのものだというあかしの立つまで、|わたし《私》たちを拘留することに決めた。村じゅうが行列を作って、|わたし《私》たちのあとに続いて、ちょうど警察署をかねていた町の役場《役場’》までつながった。やじうまが|わたし《私》たちをつついたり白い歯を見せたり、ありったけひどい名前で呼んだりした。巡査が保護してくれなかったら、|かれ《/彼》らはひどい大罪人でもあるように、|わたし《私》たちを私刑に行なったかもしれなかった。  役場を預かっている人で、典獄(刑務所の役人)と代理執行官をかねていた人は、|わたし《私》たちを牢に入《-い》れることを好まなかった。|わたし《私》はなんという親切な人だろうと思ったけれど、巡査はあくまで|わたし《私》たちを拘留しなけ《けれ》ばならないと言った。そこで典獄は二重になっているドアに、大きな|かぎ《鍵》をつっこんで、|わたし《私》たちを牢に入れてしまった。中へ|はい《入》ってはじめて、なぜ典獄が|わたし《私》たちを中へ入れることをおっくうがったかそのわけがわかった。|かれ《彼》はねぎをこの中へ干しておいた。それがどの|こしか《腰掛》けにも置いてあった。|かれ《彼》はそれをみんなすみっこに積み重ねた。|わたし《私》たちは|からだ《体》じゅう捜索《’捜索》されて、金《かね》もマッチもナイフも取り上げられた。それからその晩は閉じこめられることになった。 「|ぼく《僕》をぶってくれたまえ」と|わたし《私》たちだけになると、マチアが情けなさそうに言いだした。 「|ぼく《僕》の耳をぶつか、どうでも気のすむようにしてくれたまえ」 「|ぼく《僕》も雌牛のそばで、コルネをふかせるなんて、大きな|ばか《馬鹿》だった」と|わたし《私》も答えた。 「ああ、|ぼく《僕》はそれをずいぶん悪いことに思っている」|かれ《彼》は|おろおろ声《オロオロゴエ》で言った。「かわいそうな雌牛、王子さまの雌牛」と|かれ《彼》は泣き始めた。  そのとき|わたし《私》は|かれ《彼》に、これはそんなにむずかしいことではないわけを話してなぐさめようとした。 「|ぼく《僕》たちは雌牛を買ったあかしを立てればいいのだ。ユッセルの獣医の所へ使いをやればいい‥《‥:》‥あの人が証人になってくれる」 「でもそれを買った金《-かね》までも|ぬす《盗》んだものだと言われたら」と|かれ《彼》は言った。「|わたし《私》たちはそれを|もう《儲》けた証拠がない。運悪くゆくと、みんなはどこまでも罪人《ザイニ-ン》だと思うだろう」  これはまったくであった。  それにさしあたりだれか牛を養ってくれるだろうかと、マチアががっかりして言った。 「まあ、みんなが牛は養っていてくれるだろうよ」 「あしたたずねられたら、なんと言うつもりだ」とマチアが聞いた。 「|ほんとう《本当》のことを言うさ」 「そうなれば、あの人たちは|きみ《君》をバルブレンの手にわたすだろう。バルブレンのおっかあが一人きりだったら、あの人に向かって|わたし《私》たちの言うことがうそかどうか聞こうとする。そうなればも《’も》うあの人の不意を驚かすことができなくなる」 「おやおや」 「|きみ《君》はバルブレンのおっかあとは長いあいだ別れている。あの人がもう死んでしまって、いないとも限らない」  このおそろしい考えだけはついぞこれまで|わたし《私》も起こしたことがなかった。でもヴィタリス老人も死んだ‥《‥:》‥|わたし《私》は|かの《彼》女までも亡くしたかもわからない、という考えが、どうしてこれまで起こらなかったろう。 「なぜ|きみ《君》はそれを先に言わなかった」と|わたし《私》は言った。 「だって|つごう《都合》のいい|じぶん《時分》には、そんな考えは起こらなかったからさ。|ぼく《僕》は|きみ《君》の雌牛をバルブレンのおっかあに|おく《贈》るという考えでずいぶんうれしくなっていた。あの人がどんなに喜ぶだろうと思うと、死んでいるかもしれないなんていう考えはてんで起こらなかった」  こう何事につけても悪いは《ほ》うばかり見るのは、この暗い部屋のせいにちがいなかった。 「それから」とマチアはとび上がって、両|うで《腕》をふり上げながら言った。「バルブレンのおっかあが死んで、あのこわいバルブレンのほうが生きていて、そこへ|ぼく《僕》たちが行ったら、きっと雌牛を取り上げて自分のものにしてしまうだろう」  午後おそくなって、ドアが開かれ、白いひげを生やした老紳士が拘留所《拘留ショ》に|はい《入》って来た。 「こら悪党ども、このかたに答《お答》えするのだぞ」と|いっしょ《一緒》について来た典獄が言った。 「それでよろしい」と紳士は言った。この人は検事であった。「|わし《儂》は自分でこの子を尋問する」  こう言って|かれ《彼》は指で|わたし《私》をさし示した。 「|きみ《君》はもう一人の子を預かっていてもらいたい。そのほうはあとで調べるから」  |わたし《私》は検事と二人になった。じっと|わたし《私》の顔を見つめながら|かれ《彼》は、|わたし《私》が雌牛を|ぬす《盗》んだ|とが《咎》で告発されていることを告げた。  |わたし《私》は|かれ《彼》に雌牛をユッセルの市場《イチバ》で買ったことを話して、買うときに世話をしてくれた獣医の名前を言った。 「それは調べることにしよう」と|かれ《彼》は答えた。「さてな《’な》んの必要でその雌牛を買ったのだ」  |わたし《私》は、それを養母へ愛情のしるしとして|おく《贈》るつもりであったと言った。 「その女の名は」と|かれ《彼》はたずねた。 「シャヴァノン村のバルブレンのおかみさん」と|わたし《私》は答えた。 「ああ、|五、六年《ゴロク年》まえパリで災難に会った石工の家内だな。それも知っている。調べさせよう」 「まあでも‥‥」  |わたし《私》はすっかり困ってしまった。|わたし《私》の当惑を見つけて、検事は厳しく問いつめた。そこで|わたし《私》は、検事がもしバルブレンのおかみさんを調べることになると、せっかくの雌牛がちっとも不意ではなくなること、《:、》しかも不意の|おく《贈》り物でおどろかすというのが|わたし《私》たちの第一の目的であったことを告げた。  けれどこんなことでまごまごしている最中に、バルブレンのおっかあ《あ'》のま《”ま》だ生きていることを知って、|わたし《私》は大きな満足を感じた。そのうえ|わたし《私》に向けられた質問のあいだに亭主《/亭主》のバルブレンがすこしまえパリに帰ってしまったことをも知った。これは|わたし《私》を|ゆかい《愉快》にした。するうちにとうとうマチアがおそれていた質問が出て来た。  だがどうして雌牛を買うだけの金《-かね》を得たか。  |わたし《私》はパリからヴァルセまで、それからヴァルセからユッセルまで、一《1》スー一《1》スーとこれだけの金《-かね》を積みたてたことを説明した。 「でもおまえ、ヴァルセではなにをしていた」と|かれ《彼》はたずねた。  それから|わたし《私》は、いやでも|かれ《彼》に鉱山の椿事を話さなければならなかった。 「ではおまえたち二人のうち、どちらがルミだ」と|かれ《彼》は声を優しくしてたずねた。 「|ぼく《僕》です」と|わたし《私》は答えた。 「それが|ほんとう《本当》なら、おまえはその事件がどうして起こったか言ってみよ。|わたし《私》はその事件を残らず新聞で読んでいる。|わたし《私》をあざむくことはできないぞ。おまえがまったくルミであるか、ないか、|わたし《私》にはわかる。用心しなさい」  |わたし《私》は|かれ《彼》が|わたし《私》たちに対して|ひじょう《非常》に優しい心持ちになっていることを見ることができた。|わたし《私》は|かれ《彼》に鉱山での経験をくわしく語った。  話をしてしまうと、|わたし《私》はほとんど優しくなっていた|かれ《彼》の態度から、すぐにも|わたし《私》たちを放免してくれるかと思った。けれどもそうはしないで、|かれ《/彼》は|わたし《私》を一人心配《ひとり’心配》なまま部屋に残して出て行った。しばらくして|かれ《彼》は、マチアを連れて|もど《戻》って来た。 「|わたし《私》はユッセルへ、おまえの話の真偽を確かめさせにやる」と|かれ《彼》は言った。「幸いそれが真実なら、あしたは放免してやる」 「それから雌牛は」とマチアは心配そうにたずねた。 「おまえたちに返してやる」 「|ぼく《僕》の言うのはそうではないんです」とマチアが答えた。「|だれ《誰》か雌牛に食べ物をやっていますか。乳をしぼっていますか」 「まあ、心配しなさんな」と検事が言った。  マチアは満足して、にっこり笑った。 「ああ、では雌牛の乳をしぼったら、|ぼく《僕》たちも晩にすこしいただけないでしょうか」と|かれ《彼》はたずねた。 「それはいいとも」  |わたし《私》たち二人だけになると、|わたし《私》はマチアに、ほとんど自分たちが拘留されていることを忘れさせるほどのえらい報告をした。 「バルブレンのおっかあは生きているし、バルブレンはパリへ行っている」と|わたし《私》は言った。 「ああ、では『王子さまの雌牛』もいばって乗りこめるわけだね」  |かれ《彼》はうれしがって|おど《踊》りを|おど《踊》ったり、歌を歌いだした。|かれ《彼》の元気につりこまれて、|わたし《私》は|かれ《彼》の手をつかまえた。カピはそのときまですみっこに静かに考えこんで転がっていたが、はね上がって後足《後脚》で立ちながら、|わたし《私》たちの間に割りこんで来た。それからは三人|いっしょ《一緒》になってめちゃくちゃに|おど《踊》り回ったので、典獄なにが始まったかと思って、と《跳》びこんで来た。|たぶん《多分》ねぎが気になったのであろう。|かれ《彼》は|わたし《私》たちにやめろと言ったが、さっきまでの様子とはだいぶ変わっていた。その様子で|わたし《私》はもうたいしたことはないとさとった。そのうえもう一つの証拠には、しばらくたつと|かれ《彼》は大きな|はち《鉢》に牛乳を入れて持って来た。|わたし《私》たちの雌牛の乳である。しかもそれだけではなかった。|かれ《彼》は白パンの大きな切れと冷たい子牛の肉を持って来て、これは検事さんからの届け物だと言った。  どうして、こうなると牢屋もそんなに悪い所ではなかった。ただでごちそうを食べさせて、と《泊》めてくれるのだもの。 ◇。◇。◇。 【第30章】 【バルブレンのおっかあ】 ◇。◇。◇。  そのあくる朝早く、検事はあのわれわれのお友だちの獣医君と|いっしょ《一緒》にやって来た。獣医君はなんでも|わたし《私》たちが放免になるのを見届けたいといって、わざわざやって来てくれたのであった。  いよいよ|わたし《私》たちが出て行くときに、検事は一枚、お役所の印《イン》をお《押》した紙をくれた。 「そら、これをあげるからね」と|かれ《彼》は言った。「どうも手形も持たないで|いなか《田舎》を歩くなんというのはとんだ|ばか《馬鹿》な子どもたちだ。|わたし《私》は市長に|たの《頼》んで、おまえたちにこの旅行券を出してもらった。なんでもこれからは、これだけ見せればおまえたちは保護してもらえる。ではご|きげん《機嫌》よう、子どもたち」  |わたし《私》は|かれ《彼》と握手した。それから獣医君とも握手した。  |わたし《私》たちはみじめなざまで村へ|はい《入》ったが、今度はいばって出て行くのであった。雌牛の|つな《綱》を引きながら、首を高く上げて歩いて、戸口に立って|わたし《私》たちを見ている村のやつらを肩の上から見てやった。  |わたし《私》は雌牛をつかれさせたくなかったが、きょうはどうしてもシャヴァノンまで急いで行かなければならないので、|わたし《私》たちはせかせか歩き出した。もう晩がた近く、|わたし《私》たちはむかしのうちに着きかけていた。  マチアはどら焼きを食べたことがなかった。そこで|わたし《私》は着いたらさっそくこしらえて食べさせる|やくそく《約束》をして、とちゅうでバターを一ポンドと麦粉を二ポンドに、卵を十二買《十二’買》いこんだ。  |わたし《私》たちはいよいよ、初めてヴィタリス親方が、|わたし《私》を休ませてくれた場所に着いたので、|わたし《私》はあのときこれが見納めだと思ったその場所から、バルブレンのおっかあのうちをもう一度見下《一度’見下》ろすことができた。 「つなを持っていてくれたまえ」と|わたし《私》はマチアに言った。  一と《跳》びで|わたし《私》は|こしか《腰掛》けの上に乗った。谷の中の景色にはなにも変わったものはなかった。それはそっくり同じに見えた。けむりまで同じように|えんとつ《煙突》から上がっていた。そのけむりが|わたし《私》たちのほうへなびいて来ると、|かし《樫》の葉の|にお《匂》いがすっと鼻をかすめたように思われた。  |わたし《私》は|こしか《腰掛》けからと《跳》び下りて、マチアをだきしめた。カピが|わたし《私》にと《跳》びついて来た。|わたし《私》は二人を|いっしょ《一緒》にして、固く固くしめつけた。 「さあ、こうなれば少しでも早く行こうよ」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。 「情けないことだなあ」とマチアがため息をついた。「このけものさえ音楽が好きなら、どんなにもどうどうと、凱旋の曲を奏しながらはいって行けるのだけれど」  |わたし《私》たちが往来の曲がり角まで行くと、バルブレンのおっかあが小屋から出て来て、村の往来の方角へ向かって行くのを見つけた。どうしよう。|わたし《私》たちは|かの《彼》女にいきなり不意討ちを食わせるくわだてをしていた。|わたし《私》たちはなにかほかの|しかた《仕方》を考えなければならなくなった。ドアにはいつでも|かけ金《カケガネ》だけかかっていることを知っていたので、|わたし《私》たちは雌牛を牛小屋につないで、ずんずんうちの中に|はい《入》って行くことにした。小屋の中は|まき《薪》がいっぱいはいっていた。そこで|わたし《私》たちはそれをすみに積み上げて、ルセットの代わりに連れて来た雌牛を入れた。  それから|わたし《私》たちがうちの中にはいると、|わたし《私》はマチアに言った。 「じゃあ、それでは|ぼく《僕》はこの炉ばたに|こし《腰》をかけよう。するとはいって来て|ぼく《僕》のここにいるのを見つけるからね。門を開けるときりきりという音がするから、そのとき|きみ《君》はカピと|いっしょ《一緒》に|かく《隠》れたまえ」  |わたし《私》はむかしいつも冬の晩になると|すわ《座》ったその|いす《椅子》の上にかけた。|わたし《私》はできるだけ小さく見えるように、背中を丸くしていた。こうして少しでもあのバルブレンのおっかあのかわいいルミに近い様子を作ろうとした。|わたし《私》の|すわ《座》っている所から門はよく見えた。|わたし《私》は門のほうに気を取られて見ていた。  なにも変わってはいなかった。なにかが同じ場所にあった。|わたし《私》のこわした窓ガラスにはまだ小さな紙がはりつけてあった。それがすすと年代で黒茶けていた。  ふと|わたし《私》は白いボンネットを見つけた。門はきりきりと開いた。 「|きみ《君》、早く|かく《隠》れたまえ」と|わたし《私》はマチアに言った。  |わたし《私》は自分をよけい小さく小さくした。ドアが開いて、バルブレンのおっかあが|はい《入》って来た。|はい《入》ると、|かの《/彼》女は目を丸くして|わたし《私》を見た。 「どなたですえ」と|かの《彼》女はびっくりしてたずねた。  |わたし《私》は返事をしないで、|かの《/彼》女のほうを見た。|かの《彼》女は|わたし《私》を見返した。ふと|かの《彼》女はふるえだした。 「おやおや、おまえさん、ルミだね」と|かの《彼》女はつぶやいた。  |わたし《私》はとび上がって、|かの《/彼》女を両|うで《腕》でおさえた。 「おっかあ」 「おお、ぼうや、ぼうや。」これが|かの《彼》女の言ったすべてであった。|かの《彼》女は|わたし《私》の肩に頭をのせていた。  数分間たって、|わたし《私》たちはやっと感動をおさえることができた。|わたし《私》は|かの《彼》女の|なみだ《涙》をふいてやった。 「まあ、おまえ、なんて大きくおなりだろうねえ。」|うで《腕》いっぱいに|わたし《私》をおさえてみて|かの《彼》女はこう|さけ《叫》んだ。「おまえ、ずいぶん大きくおなりだし、|じょうぶ《丈夫》そうになったねえ。ええ、ルミ」  息をつめた鼻声《鼻ゴエ》で、マチアの寝台《ネダイ》の下にいることを思い出した|わたし《私》は、|かれ《/彼》を呼んだ。|かれ《彼》はのこのこは《這》い出して来た。 「マチアです」と|わたし《私》は言った。「|ぼく《僕》の兄弟のね」 「おお、ではおまえ、ご両親にお会いかえ」と|かの《彼》女は|さけ《叫》んだ。 「いいや、これは|ぼく《僕》の仲よしです。でも|ほんとう《本当》の兄弟同様なんです。それからこれがカピです」と|かの《彼》女がマチアとあいさつをすますと|わたし《私》はこうつけ加えた。「さあ、カピターノ、ご主人さまのお母さんにご|あいさつ《挨拶》しろ」  カピは後足《後脚》で立って、もったいらしくバルブレンのおっかあにお|じぎ《辞儀》をした。|かの《彼》女は腹をかかえて笑った。これで|かの《彼》女の|なみだ《涙》はすっかり消えてしまった。マチアは|わたし《私》に向かっていよいよ不意討ちにとりかかれという合図をした。 「さあ、行って庭がどんなふうになっているか見て来よう」と|わたし《私》は言った。 「|わたし《私》はおまえさんの花畑はそっくりそのままにしておいたよ」と|かの《彼》女は言った。「いつかおまえがまた帰って来るだろうと思ったからねえ」 「|ぼく《僕》の|きくいも《キクイモ》を食べましたか」 「ああ、おまえは|わたし《私》に不意討ちを食わせるつもりで、あれを植えたんだね。おまえはいつも人をびっくりさせることが好きだったから」  いよいよその|しゅんかん《瞬間》が来た。 「牛小屋はルセットがいなくなってから、そのままになっているの」と|わたし《私》はたずねた。 「いいえ。あすこにはこのごろ|まき《薪》が|はい《入》っているよ」  そう|かの《彼》女が言うころには、|わたし《私》たちはもう牛小屋に着いていた。|わたし《私》はドアをおし開けた。するとさっそくおなかの減っていた雌牛が「もう」と鳴きだした。 「雌牛だよ。まあ、牛小屋に雌牛がさ」とバルブレンのおっかあが|さけ《叫》んだ。  マチアと|わたし《私》はぷっとふき出した。 「これも不意討ちさ」と|わたし《私》が|さけ《叫》んだ。「でも|きくいも《キクイモ》よりかずっといいでしょう」  |かの《彼》女はぽかんとした顔をして、|わたし《私》をながめた。 「ええ、これが|おく《贈》り物ですよ。|ぼく《僕》はあの小さな迷子の子どもに、あれほど優しくしてくれたおっかあの所へ、空《から》っ手では帰れなかった。これがルセットの代わりです。マチアと|ぼく《僕》とで|もう《儲》けたお金でそれを買って来たのです」 「まあ、ねえ」と|かの《彼》女は|さけ《叫》んで、|わたし《私》たち二人にキッスした。  |かの《彼》女はいま|おく《贈》り物を検査するために、小屋の中へ|はい《入》って行った。一つ一つ見つけては、|かの《/彼》女は歓喜の|さけ《叫》び声を立てた。 「なんという|りっぱ《立派》な雌牛でしょうね」と|かの《彼》女は|さけ《叫》んだ。しばらくすると|かの《彼》女はとつぜんふり向いた。 「まあおまえ、いまではきっとたいしたお金持ちなんだね」 「お金持ちですとも」とマチアが笑った。「|ぼく《僕》たちは|かく《隠》しに五十八スー残っています」  |わたし《私》は乳おけを取りにうちへかけて行った。そしてうちの中にいるあいだにバターと卵と麦粉を食卓が《の》上にならべて、それから小屋《コヤ》までかけてもどった。乳おけに美しいあわの立つ乳が七分目《シチブンメ》まであふれているのを見たときに、どんなに|かの《彼》女は喜んだであろう。  それから|かの《彼》女は食卓の上にどら焼きをこしらえる仕度のできあがっているのを見ると、また大喜びをした。そのどら焼きを死ぬほど食べたがっている人がいるのだと|わたし《私》は言った。 「ではおまえさんた《’た》ちはバルブレンさんがパリへ行ったことを知っていたにちがいないね」と|かの《彼》女は言った。|わたし《私》はそこで、それを知ったわけを話した。 「どうしてあの人が行ったか、話してあげよう」と|かの《彼》女は意味ありげに|わたし《私》の顔をながめて言った。 「まあ先にどら焼きを食べようよ」と|わたし《私》は言った。「あの人のことは言わないことにしよう。|ぼく《僕》はあの人が四十《ヨンジュッ》フランで|ぼく《僕》を売ったことを忘れない。あの人がこわいんで、あの人がまた|ぼく《僕》を売るのがこわいんで、|ぼく《僕》はここへ様子を知らせることを|がまん《我慢》していたのだ」 「ああ、きっとそれはそうだと思うよ」と|かの《彼》女は言った。「でもバルブレンさんのことを悪くお言いでないよ」 「まあ、どら焼きを食べようよ」と|わたし《私》は|かの《彼》女にぶら下がりながら言った。  |わたし《私》たちはみんなでさっそく材料をこなし始めた。そしてまもなく、マチアと|わたし《私》はどら焼きに舌つづみをを打った。マチアはこんなうまいものを食べたことはないと言った。|わたし《私》たちが一|さら《皿》を平らげると、すぐにつぎの|さら《皿》にかかった。カピもおすそわけにあずかりに来た。バルブレンのおっかあは、犬にどら焼きをやるなんてもったいないと言ったが、|わたし《私》たちはカピが一座の主な役者で、そのうえ天才であることを説明して、なんによらず|だいじ《大事》にあつかっているのだと言い聞かした。  やがてマチアがあしたの朝使《朝’使》う|まき《薪》を取りに出て行ったあいだに、|かの《/彼》女はバルブレンがなぜパリへ行ったか話して聞かせた。 「おまえの家族の人たちがおまえを探しているのだよ」と|かの《彼》女はほとんど聞こえないほどの小声で言った。「バルブレンがパリへ出かけたのは、そのためなのだよ。あの人はおまえを探しているのだよ」 「|ぼく《僕》の家族」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。「おお、|わたし《私》にも家族があるのですか。話してください。残らず。ねえ、おっかあ。バルブレンのおっかあ」  このときふと|わたし《私》はこわくなってきた。|わたし《私》は自分の一家が|ほんとう《本当》に自分を探していることを信じなかった。バルブレンはまた|わたし《私》を売るために、|わたし《私》を探そうとしているのだ。今度こそ|わたし《私》は売られるものか。  こう言って|わたし《私》はバルブレンのおっかあにその心配を話した。けれど|かの《彼》女はそうではない、|わたし《私》の一家が|わたし《私》を探しているのだと言った。  それから|かの《彼》女はいつか一人の紳士がこのうちへやって来て、外国のなまりのある|ことば《言葉》で話をして、いく年《ねん》かまえパリで拾った赤子はどうしたかとバルブレンにたずねたことを話した。するとバルブレンはその人に、ぜんたいそれになんの用があるのだと言ったそうだ。この返事はいかにもバルブレンのしそうな返事であった。 「ほら、パ《/パ》ン焼き場から、台所で言っていることはなんでも聞こえるだろう」とバルブレンのおっかあが言った。「二人がおまえさんの話をしているとき|わたし《私》はむろん聞いていた。|わたし《私》はもっとそばに寄って、そこで|まき《薪》を折っていた。  『おや、|だれ《誰》かいますね』とその紳士はバルブレンに言ったよ。  『ええ、います。なあに家内ですよ』とあの人は答えた。すると、そのお客は『台所は|たいへん《大変》むし暑いからいっそ外へ出て話しましょう』と言った。二人は出かけて行って、三時間あとでバルブレンだけが一人で帰って来た。|わたし《私》はあの人からなにかを残らず聞き出そうとしたが、あの人がやっと言ったことは、さっきのお客がおまえを探していること、でもその人はおまえのお父さんではないこと、それから百フラン、お金をくれたことだけだった。|たぶん《多分》あの人はそののちもっともらったろう。そういうことがあるし、あの人がおまえさんを拾ったとき|りっぱ《立派》な着物をおまえさんが着ていたというから、おまえさん|ので《の》両親はきっとお金持ちにちがいないと思うのだよ。それからジェロームはパリへ行って来ると言ってね」と|かの《彼》女は続けた。「おまえさんを|やと《雇》い入れた音楽師を訪ねるためにね。あの音楽師がおまえさんを連れて行ったときの話では、ルールシーヌ街《マチ》のガロフォリという男にあてて手紙をやれば着くと言っていたそうだよ」 「それで、バルブレンさんが出かけてから、なにか便りがありましたか」と|わたし《私》はたずねた。 「いいえ、ひと言も」と|かの《彼》女は言った。「|わたし《私》はあの人が町のどこに住んでいるかも知らないよ」  ちょうどそこへマチアが|はい《入》って来た。|わたし《私》は興奮しながら、|かれ《/彼》に向かって、|わたし《私》にうちのあること、両親が|わたし《私》を探していることを話した。|かれ《彼》は|わたし《私》のために喜ぶとは言ったが、|わたし《私》だけの|ゆかい《愉快》と興奮を|とも《共》に分けて感じているとは見えなかった。 ◇。◇。◇。 【第31章】 【古い友だちと新しい友だち】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》はその晩すこししか|ねむ《眠》らなかった。バルブレンのおっかあは|わたし《私》に、パ《/パ》リへ向けてたつこと、そして着いたらすぐにバルブレンを見つけて、せっかく少しでも早く|わたし《私》を見つけようとしている両親も喜ばせてやることを勧めた。|わたし《私》は|かの《彼》女と|五、六日《ゴ六にち》ここに過ごしたいと望んでいたが、でも|かの《彼》女の言うことももっともだと思った。  |わたし《私》はしかし行くまえにリーズに会いに行かなければならない。それには運河に沿って行ってパリへ行けるのだから、してできないことはなかった。リーズのおじさんは水門の番人をしていて、河岸の小屋に住んでいるのだから、そこへと《泊》まって|かの《彼》女に会うことはできる。  |わたし《私》はその日一日バルブレンのおっかあとく《暮》らした。夕方|わたし《’私》たちは、いまに|わたし《私》がお金持ちになったら、|かの《/彼》女になにをしてやろうかということを話し合った。|かの《彼》女は欲しい物をなんでも持たなければならない。|わたし《私》にお金ができれば、どんな望みだってかなえてやれないということはないであろう。 「でもおまえが|びんぼう《貧乏》でいるあいだにくれた雌牛は、お金持ちになったときくれられるどんな物よりも|わたし《私》にはずっとうれしいだろうよ」と|かの《彼》女はほくほくしながら言った。  そのあくる日、好きなバルブレンのおっかあに優しいさようならを言ってから、|わたし《私》たちは運河の岸についで歩き出した。  マチアはたいへん考えこんでいた。そのわけを|わたし《私》は知っていた。|かれ《彼》は|わたし《私》にお金持ちの両親ができることを悲しがっていた。それが|わたし《私》たちの友情に変化を起こすとでも思ったらしかった。|わたし《私》は|かれ《彼》に、そうなれば学校へ行って、いちばんえらい先生について音楽を勉強することができるのだからと言ったが、|かれ《/彼》は悲しそうに頭をふった。|わたし《私》は|かれ《彼》が兄弟として|いっしょ《一緒》のうちに住むようになること、|わたし《私》の両親も|わたし《私》の友だちのことだからそっくりわたし同様に愛してくれるだろうと思ったということを話したが、まだ|かれ《彼》は首をふっていた。  しかしさしあたり|わたし《私》はまだそのお金持ちの両親の金《-かね》を使うまでにならないので、通りすがりの村むらで、食べ物を買うお金を取らなければならなかった。それにリーズに|おく《贈》り物を買ってやるお金も少しこしらえたかった。バルブレンのおっかあはあの雌牛を、|わたし《私》がお金持ちになってからなにをもらったよりもずっとありがたいと言ったが、《:、》きっときっとリーズもこの|おく《贈》り物と同じように考えるだろうと思った。|わたし《私》は|かの《彼》女に人形をやろうと思った。幸い人形《/人形》は雌牛のように高くはなかった。|わたし《私》たちが通ったつぎの村で、|わたし《私》は美しい髪の毛と、青い目をしたかわいらしい人形を|かの《彼》女のために買った。  運河の岸を歩きながら、|わたし《私》はたびたびミリガン夫人と、アーサと、それから|かれ《彼》らの美しい小舟《小船》のことを思い出していた。その小舟《小船》に運河の上で出会いはしないかと思っていたが、でも|わたし《私》たちはついにそれを見なかった。  とうとうある日の夕方、|わたし《私》たちはリーズの住んでいるうちを遠方から見る所まで来た。それは木のしげった中にあった。|きり《霧》でかすんだ中にあるらしかった。大きな炉の明かりに照らされた窓を見ることもできた。だんだんとそばに近づくに従って、赤みを持った光が、|わたし《私》たちの通り道に投げられた。|わたし《私》の心臓はとっとっと打った。|わたし《私》は|かれ《彼》らがそのうちの中で夕飯《夕めし》を食べている姿を見ることができた。ドアと窓は閉じられていたが、窓にはカーテンがなかったから、|わたし《私》は中をのぞきこんで、リーズがおばさんのそばに|すわ《座》っているところを見た。|わたし《私》はマチアとカピに静かにするように合図をして、それから肩からハープを下ろして、それを地べたの上に置いた。 「ああ、|なるほど《成程》」とマチアがささやいた。「セレナードをやるか。|なるほど《成程》うまい考えだ」  |わたし《私》は例のナポリ小唄の第一節をひいた。声でさとられてはいけないと思って歌は歌わなかった。|わたし《私》はひきながら、リーズのほうを見た。|かの《彼》女は急いで顔を上げたが、その目はかがやいていた。  それから|わたし《私》は歌い始めた。|かの《彼》女は|いす《椅子》からと《跳》び下りて、戸口へかけて来た。まもなく|かの《彼》女は|わたし《私》の|うで《腕》にだかれていた。  カトリーヌ|おば《小母》さんがそれから出て来て、|わたし《私》たちを夕飯《夕めし》に呼んでくれた。リーズは急いで食卓の上にお|さら《皿》を二つならべた。 「おいやでなければ」と|わたし《私》は言った。「もう一枚お|さら《皿》を出してください。|ぼく《僕》たちはもう一人かわいらしいお友だちを連れて来ました」  こう言って|わたし《私》は背嚢から人形を出して、リーズのおとなりの|いす《椅子》にのせた。そのときの|かの《彼》女の目つきを|わたし《私》はけっして忘れることはできない。 ◇。◇。◇。 【第32章】 【バルブレン】 ◇。◇。◇。  パリへ行くのを急ぎさえしなかったら、|わたし《私》はリーズの所にしばらく足を止めていたであろう。|わたし《私》たちはおたがいにあ《’あ》れほどたくさん言うことがあって、しかもおたがいの|ことば《言葉》ではずいぶんわずかしか言えなかった。|かの《彼》女は手まねでおじさんとおばさんがどんなに優しく自分にしてくれるか、船に乗るのがどんなにおもしろいかということを話した。|わたし《私》は|かの《彼》女にアルキシーの働いている鉱山で危なく死にかけたこと、|わたし《私》のうちの者が|わたし《私》を探していることを話した。それがためパリへも急いで行かなければならないし、エチエネットの所へ会いに行くことができなくなったことを話した。  もちろん話は、たいていお金持ちらしい|わたし《私》のうちのことであった。そうしてお金ができたときに、|わたし《私》のしようと思ういろいろなことであった。|わたし《私》は|かの《彼》女の父親と、兄《アニ》さんや姉《アネ》さんた《’た》ちをと《/と》りわけ|かの《彼》女を幸福にしてやりたいと思った。リーズはマチアとちがってそれを喜んでいた。|かの《彼》女はお金さえあれば、たいへん幸福になるにちがいないと信じきっていた。だって|かの《彼》女の父親は《は’》ただ借金を返すお金さえあったなら、あんな不幸な目に会わなかったにちがいないではないか。  |わたし《私》たちはみんなで──リーズとマチアと|わたし《私》と三人に、人形とカピまでお供に連れて、長い散歩をした。|わたし《私》はこの|五、六日ひじょう《ゴ六にち非常》に幸福であった。夕方まだあまりしめっぽくならないうちは家の前に、それから|きり《霧》が深くなってからは炉の前に|すわ《座》った。|わたし《私》はハープをひいて、マチアはヴァイオリンかコルネをやった。リーズはハープを好《-す》いていたので、|わたし《私》はたいへん得意になった。時間がたって、|わたし《私》たちが別々に|ねどこ《寝床》へ行かなければならないときになると、|わたし《私》は、|かの《/彼》女のためにナポリ小唄をひいて歌った。  でも|わたし《私》たちはまもなく別れて別の道を行かなければならなかった。|わたし《私》は|かの《彼》女にじき帰って来ると言った。|かの《彼》女に残した|わたし《私》の最後の|ことば《言葉》は、 「|ぼく《僕》は今度来《今度く》るとき、四頭引《4頭び》きの馬車で来て、リーズちゃんを連れて行くよ」というのであった。  そうして|かの《彼》女も|わたし《私》を信じきって、あたかも|むち《鞭》をふるって馬を追うような身ぶりをした。|かの《彼》女もまた|わたし《私》と同様に、|わたし《私》の富と|わたし《/私》の馬や馬車を目にうかべることができるのであった。  |わたし《私》はパリへ行くので|いっしょうけんめい《一生懸命》であったから、マチアのために食べ物を買うお金を集めるのに、ときどき足を止めるだけであった。もう雌牛を買うことも、人形を買うこともいらなかった。お金持ちの両親の所へお金を持って行ってやる必要もなかった。 「取れるだけは取って行こうよ」とマチアは言って、無理に|わたし《私》がハープを肩からはずさなければならないようにした。「だってパリへ行っても、すぐにバルブレンが見つかるかどうだかわからないからねえ。そうなると、|きみ《君》はあの晩、空腹で死にそうになったことを忘れていると言われても|しかた《仕方》がないよ」 「おお、|ぼく《僕》は忘れはしない」と|わたし《私》は軽く言った。「でもきっとあの人は見つかるよ。待っていたまえ」 「ああ、でもあの日、|きみ《君》が|ぼく《僕》を見つけたとき、お寺の|かべ《壁》にどんなふうによりかかっていたか、|ぼく《僕》は忘れない。ああ、|ぼく《僕》はパリで飢えて苦しむのだけはもうつくづくいやだよ」 「|ぼく《僕》の両親のうちへ行けば、その代わりにた《’た》んとごちそうが食べられるよ」と|わたし《私》は答えた。 「うん。まあ、なんでも、もう一《いっ》ぴき雌牛を買うつもりで働こうよ」とマチアは聞かなかった。  これはいかにももっともな忠告であったが、|わたし《私》はもうこれまでと同じに精神を打ちこんで歌を歌わなくなったことを白状しなければならない。バルブレンのおっかあのために雌牛を買い、またはリーズのために人形を買うお金を取るということは、まるっきりそれとはちがったことであった。 「|きみ《君》はお金持ちになったら、どんなになまけ者になるだろう」とマチアは言った。だんだんパリに近くなればなるほど、ますます|わたし《私》は|ゆかい《愉快》になった。そうしてマチアは《は’》ますます陰気になった。  |わたし《私》たちはどんなにしても別れないと言いきっているのに、どうしてまだ|かれ《彼》が悲しそうにしているのか、|わたし《私》はわからなかった。とうとう|わたし《私》たちはパリの大門に着いたとき、|かれ《/彼》はいまでもどんなにガロフォリを|こわ《怖》がっているか、もしあの男に会ったらまたつかまえられるにちがいないという話をした。 「|きみ《君》はバルブレンをどんなに|こわ《怖》がっていたか。それを思ったら、どんなに|ぼく《僕》がガロフォリを|こわ《怖》がっているかわかるだろう。あの男が牢屋から出ていればき《/き》っと|ぼく《僕》をつかまえるにちがいない。ああ、この情けない頭、かわいそうな頭《あたま》、あの男はどんなにそれをひどくぶったことだろう。そうすればあの男はきっと|ぼく《僕》たちを引き分けてしまう。むろんあの人は|きみ《君》をも子分にして使いたいであろうが、それを|きみ《君》には無理にも強いることができないが、ぽくに対してはそうする権利があるのだ。あの人は|ぼく《僕》のおじだからね」  |わたし《私》はガロフォリのことはなにも考えていなかった。  |わたし《私》はマチアと相談をして、バルブレンのおっかあがそこへ行けば、バルブレンを見つけるかもしれないと言ったいろいろの場所へ行くことにした。それから|わたし《私》はリュー・ムッフタールへ行こう。それからノートル・ダーム寺の前で|わたし《私》たちは会うことにしよう。  |わたし《私》たちはもう二度と会うことがないようなさわぎをして別れた。|わたし《私》はこちらの方角へ、マチアは向こうの方角へ向かった。|わたし《私》はバルブレンが先《セン》に住んでいた場所の名をいろいろ紙に書きつけておいた。それを一つ、一つ、訪ねて行った。ある木賃宿では、|かれ《/彼》は四年前そこにいたが、それからはいなくなったと言った。その宿屋の亭主は、あいつには一週間の宿料の貸しがあるから、あの悪党、どうかしてつかまえてやりたいと言っていた。  |わたし《私》はすっかり気落ちがしていた。もう|わたし《私》の訪ねる所は一か所しか残っていなかった。それはあの料理屋であった。そのう《’う》ちをやっている男は、もう長いあいだあの男の顔を見ないといったが、ちょうど食卓に|すわ《座》って食べていたお客の一人が声をかけて、うん、あの男なら、近ごろオテル・デュ・カンタルにと《泊》まっていたと言ってくれた。  オテル・デュ・カンタルへ行くまえに|わたし《私》はガロフォリのうちへ行って、あの男の様子を見てマチアになにかおみやげを持って帰りたいと思った。そこの裏庭へ行くと、初めて行ったときと同様、あのじいさんがドアの外へきたないぼろをぶら下げているのを見た。  じいさんは返事はしないで、|わたし《私》の顔を見て、それから|せき《咳》をし始めた。その様子で、|わたし《私》はガロフォリについてなんでも知っていることをよく向こうにわからせないうちは、この男からなにも聞き出すことができないことをさとった。 「おまえさん、あの人がまだ刑務所にはいっているというのではあるまい」と|わたし《私》は|さけ《叫》んだ。「だってあの人はもうよほどまえに出て来たはずではないか」 「ええ、あの人はまた三か月食らったのだよ」  ガロフォリがまた三か月刑務所にはいっている。マチアはほっと息をつくであろう。  |わたし《私》はできるだけ早く、このおそろしい路地をぬけ出して、オテル・デュ・カンタルへ急いで行った。|わたし《私》は希望と歓喜が胸にいっぱいたたみこまれて、もうすっかりバルブレンのことをよく思いたい気になっていた。バルブレンという男がいなかったなら、|わたし《私》は赤ん|ぼう《坊》のとき、寒さと飢えのために死んでいたかもしれなかった。|なるほど《成程》あの男は|わたし《私》をバルブレンのおっかあの手から|はな《離》して、|よそ《他所》の人の手に売り|わた《渡》したにはちがいなかった。でもあのときはあの人も|わたし《私》に対してべつに愛情もなかったし、|たぶん《多分》お金のためにいやいやそれをしたのかしれなかった。とにかく|わたし《私》が両親を見つけるまでになったのは、あの人のおかげであった。だからもう、あの人に対してけっして悪意を持ってはならないはずであった。  |わたし《私》はまもなくオテル・デュ・カンタルに着いた、オテル(旅館)というのは名ばかりのひどい木賃宿であった。 「バルブレンという人に会いたいのです。シャヴァノン村から来た人です」と|わたし《私》は写字机《写字ヅクエ》に向かっていたきたならしいばあさんに向かって言った。|かの《彼》女は、ひどいつんぼで、いま言ったことをもう一度《一度’》くり返してくれと言った。 「バルブレンという人を知っていますか」と|わたし《私》はどなった。  そうすると|かの《彼》女は大あわてにあわてて両手を空へ上げた。その勢いがえらかったので、ひざに乗っかっていた|ねこ《猫》が、びっくりしてと《跳》び下りた。 「おやおや、おやおや」と|かの《彼》女は|さけ《叫》んだ。「おまえさんが、あの人のたずねていなすった子どもかい」 「おお、あなた、知っているの」と|わたし《私》は|むちゅう《夢中》になって|さけ《叫》んだ。「ではバルブレンさんは」 「死にましたよ」と、|かの《/彼》女は簡潔に答えた。|わたし《私》はハープにひょろひょろとなった。 「なに、死んだ」と|わたし《私》は|かの《彼》女に聞こえるほどの大きな声で|さけ《叫》んだ。|わたし《私》はくらくらとした。|いま《今》はどうして両親を見つけよう。 「おまえさんがみんなの探していなさる子どもだね。そうだ、おまえさんにちがいない」とばあさんはまた言った。 「ええ、ええ、|ぼく《僕》がその子です。|ぼく《僕》のうちはどこです。わかりませんか」 「|わたし《私》はいま言っただけしか知りませんよ」 「バルブレンさんが、|わたし《私》の両親のことをなんとか言っていませんでしたか。おお、話してください」と|わたし《私》はせがむように言った。  |かの《彼》女は天に向かって、高く両|うで《腕》を上げた。 「ねえ、話してください。なんです。それは」  この|しゅんかん《瞬間》、女中のようなふうをした女が出て来た。オテル・デュ・カンタルの女主人は|かの《彼》女のほうへ向いた。 「|たいへん《大変》なことではないか。この子どもさんは、この若|だんな《旦那》は、バルブレンさんがあれほど言っていなすったご当人だとよ」 「でもバルブレンに|ぼく《僕》のうちのことをあなたに話しませんでしたか」と|わたし《私》はたずねた。 「それは聞きましたよ──百度もね。なんでも|たいへん《大変》、お金持ちのうちだそうですねえ、若|だんな《旦那》」 「それでどこに住んでいるのです。名前はなんというのです」 「それについてはバルブレンさんは、なにも話をしませんでしたよ。あの人は|きみょう《奇妙》な人でしたよ。あの人は自分一人でお礼を残らずもらうつもりでいたのですよ」 「なにか書き物を置いては行きませんでしたか」 「いいえ、ただあの人がシャヴァノン村から来たということを書いたものだけです。その紙でも見つけなかったら、あの人のおかみさんの所へ死んだ知らせを出すこともできないところでしたよ」 「まあ、あなたは知らせてやりましたか」 「むろん、どうしてさ」  |わたし《私》はこのばあさんから、なにも知ることができなかった。|わたし《私》はしょんぼり戸口のほうへ向かった。 「おまえさん、どこへ行きなさる」と|かの《彼》女はたずねた。 「友だちの所へ帰ります」 「|ははあ《ハハア》、お友だちがありますか。それはパリにいるの」 「|ぼく《僕》たちはけさ初めてパリへ来たんです」 「へえ、|あなた《/貴方》がたは、と《泊》まる所がなければ、まあこのうちへおいでなさいな。じゅうぶんお世話もするし、正直なうちですよ。そのおまえさんのおうちの人も、バルブレンさんから返事の来るのを待ちかねなすったら、きっとこのうちへ聞きに来るでしょう。そうすればおまえさんを見つけるはずだ。|わたし《私》の言うのはおまえさんのためですよ。お友だちはいくつになんなさる」 「|ぼく《僕》よりすこし小さいんです」 「まあ、考えてごらん。子どもが二人で、パ《/パ》リの町にうろうろしていたら、ろくなことはありはしないよ」  オテル・デュ・カンタルは、|わたし《私》もおよそ知っている限りでいちばんきたならしい宿屋の一つであった。|わたし《私》はかなりきたない宿屋をいくつか見ていた。  でもこのばあさんの言ってくれることは考え直す値打ちがあった。それに|わたし《私》たちは好ききらいをしてはいられなかった。|わたし《私》はまだ|りっぱ《立派》なパリ風の|やしき《屋敷》に住んでいる自分の家族を見つけなかった。|なるほど《成程》こうなると道みち集められるだけの金《-かね》を集めておきたい、とマチアの言ったのはもっともであった。|わたし《私》たちの|かく《隠》しに《に’》十七フランの金《-かね》がなかったらどうしよう。 「友だちと|わたし《私》とで部屋の代はいくらです」と|わたし《私》はたずねた。 「一日十スーです。たいしたことではないさ」 「|なるほど《成程》。じゃあ晩にまた来ます」 「早くお帰んなさいよ。パリは夜になると、子どもにはよくない場所だからね」と|かの《彼》女は後ろから声をかけた。  夜の|まく《幕》が下りた。街灯はともっていた。|わたし《私》は長いこと歩いてノートル・ダームのお寺へ行って、マチアに会うことにした。|わたし《私》は元気がすっかりなくなっていた。ひどくつかれて、そこらのものは残らず陰気に思われた。この光と音のあふれた大きなパリでは、|わたし《私》はまるっきり独りぼっちであることをしみじみ感じた。|わたし《私》はこんなふうでいつか自分の親類を見つけることができるであろうか。いつかほんとの父親と、ほんとの母親に会うことになるであろうか。  やがてお寺へ来たが、マチアを待ち合わせるにはまだ二時間早かった。|わたし《私》は今晩いつもよりよけいに|かれ《彼》の友情の必要を感じた。|わたし《私》はあんなに|ゆかい《愉快》な、あんなに親切な、あれほど友人としてたのもしい|かれ《彼》に会うことにただ一つの楽しい希望を持った。  七時すこしまえに|わたし《私》はあわただしいほ《吠》え声を聞いた。すると|かげ《蔭》からカピがとび出した。|かれ《彼》は|わたし《私》のひざにと《跳》びついて、やわらかいしめった舌でな《舐》めた。|わたし《私》は|かれ《彼》を両|うで《腕》にだきしめて、その冷たい鼻にキッスした。マチアがまもなく姿を現した。二言三言で|わたし《私》はバルブレンの死んだこと、自分の家族を見つける望みのなくなったことを告げた。  すると|かれ《彼》は|わたし《私》の欲していたありったけの同情を|わたし《私》に注いだ。|かれ《彼》はどうにかして|わたし《私》をなぐさめようと努力した。そして失望してはいけないと言った。|かれ《彼》は|いっしょ《一緒》になって、|まじめ《真面目》に両親を探し出すことのできるようにしようと、心からちかった。  |わたし《私》たちはオテル・デュ・カンタルへ帰った。 ◇。◇。◇。 【第33章】 【捜索】 ◇。◇。◇。  そのあくる朝バ《/バ》ルブレンのおっかあの所へ手紙を出して、不幸のおくやみを言って、|かの《/彼》女の夫の亡くなるまえに、なにか便りがあったかたずねてやった。  その返事に|かの《彼》女は、夫が病院から手紙を寄こして、もしよくならなかったら、ロンドンのリンカーン・スクエアで、グレッス・アンド・ガリーといううちへあてて手紙を出すように言って来たことを告げた。それは|わたし《私》を探している弁護士であった。なお|かれ《彼》は|かの《彼》女に向かって、自分が確かに死んだと決まるまでは、手をつけてはならないと|こと《言》づけて来たそうである。 「じゃあ|ぼく《僕》たちはロンドンへ行かなければならない」と|わたし《私》が手紙を読んでしまうとマチアが言った。この手紙は村の|ぼう《坊》さんが代筆をしたものであった。「その弁護士がイギリス人だというなら、|きみ《君》の両親もイギリス人であることがわかる」 「おお、|ぼく《僕》はそれよりもリーズやなんかと同じ国の人間でありたい。だが|ぼく《僕》がイギリス人なら、ミリガン夫人やアーサと同じことになるのだ」 「|ぼく《僕》は|きみ《君》がイタリア人であればよかったと思う」とマチアが言った。  それから数分間のうちに|わたし《私》たちの荷物はすっかり荷作りができて、|わたし《私》たちは出発した。  パリからボローニュまで道みち主な町で足を止めて、八日がかりでやっとボローニュに着いたとき、|ふところ《懐》には三十二フランあった。|わたし《私》たちはそのあくる日ロンドンへ行く貨物船に乗った。  なんというひどい航海であったろう、かわいそうに、マチアはもう二度と海へは出ないと言い切った。やっとのことで、テムズ川を船が上って行ったとき、|わたし《私》は|かれ《彼》に|たの《頼》むようにして、起き上がって外の|ふしぎ《不思議》な景色を見てくれといった。けれども|かれ《彼》は、今後も後生だから一人うっちゃっておいてくれと|たの《頼》んだ。  とうとう機関が運転を止めて、いかりづなは|おか《オカ》に投げられた。そして|わたし《私》たちはロンドンに上陸した。  |わたし《私》はイギリス語をごくわずかしか知らなかったが、マチアはガッソーの曲馬団で|いっしょ《一緒》に働いていたイギリス人から、たんと|ことば《言葉》を教わっていた。  上陸するとすぐ巡査に向かって、リンカーン・スクエアへ行く道を聞いた。それはなかなか遠いらしかった。たびたび|わたし《私》たちは道に迷ったと思った。けれどももう一度たずねてみて、やはり正しい方向に向かって歩いていることを知った。とうとう|わたし《私》たちはテンプル・バーに着いた。それから|二、三歩行《ニサンポ行》けばリンカーン・スクエアへ着くのであった。  いよいよグレッス・アンド・ガリー事務所の戸口に立ったとき、|わたし《私》はずいぶんはげしく心臓が鼓動した。それでしばらくマチアに気の静まるまで待ってもらわねばならなかった。マチアが書記に|わたし《私》の名前と用事を述べた。  |わたし《私》たちはすぐとこの事務所の主人であるグレッス氏の私室へ通された。幸いにこの紳士はフランス語を話すので、|わたし《私》は自身|かれ《’彼》と語ることができた。|かれ《彼》は|わたし《私》に向かってこれまでの細かいことをいちいちたずねた。|わたし《私》の答えはまさしく|わたし《私》が|かれ《彼》のたずねる少年であることを確かめさせたので、|かれ《/彼》は|わたし《私》に、ロンドンに住んでいる|わたし《私》の一家のあること、そしてさっそくそこへ|わたし《私》を送りつけてやるということを話した。 「|ぼく《僕》にはお父さんがあるんですか」と|わたし《私》は、やっと「お父さん」という|ことば《言葉》を口に出した。 「ええ、お父さんばかりではなく、お母さんも、男のご兄弟も、女のご姉妹《兄弟》もあります」と|かれ《彼》は答えた。 「へえ」  |かれ《彼》はベルをおした。書記が出て来ると、|かれ《/彼》はその人に|わたし《私》たちの世話をするように言いつけた。 「おお、忘れていました」とグレッス氏が言った。「あなたの名字はドリスコルで、あなたのお父上の名前は、《、/》ジョン・ドリスコル氏です」  グレッス氏の|みにく《醜》い顔は好ましくなかったが、|わたし《私》はそのときよほど|かれ《彼》にと《跳》びついてだきしめようと思った。しかし|かれ《彼》はその時間をあたえなかった。|かれ《彼》の手はすぐに戸口をさした。で、|わたし《私》たちは書記について外へ出た。 ◇。◇。◇。 【第34章】 【ドリスコル家】 ◇。◇。◇。  往来へ出ると、書記は辻馬車を呼んで、|わたし《私》たちに中へとびこめと言いつけた。|きみょう《奇妙》な形の馬車で、上からかぶさっている|ほろ《幌》の後ろについた|はこ《箱》に、御者が|こし《腰》をかけていた。あとでこれがハンサム馬車というものだということを知った。  マチアと|わたし《私》はカピを間にはさんですみっこにだき合っていた。書記が一人であとの席を占領していた。マチアは|かれ《彼》が御者に向かって、ベスナル・グリーンへ馬車をやれと言いつけているのを聞いた。御者はそこまで馬車をやることをあまり好まないように見えた。マチアと|わたし《私》は、きっとそこは遠方なせいであろうと思った。  |わたし《私》たち二人はグリーン(緑)というイギリス語がどういう意味だか知っていた。ベスナル・グリーンはきっと|わたし《私》の一家の住んでいる大きな公園の名前にちがいなかった。長いあいだ馬車はロンドンのにぎやかな町を走って行った。それはずいぶん長かったから、その|やしき《屋敷》はきっと町はずれにあるのだと思った。グリーンという|ことば《言葉》から考えると、それは|いなか《田舎》にあるにちがいないと思われた。でも馬車から見るあたりの景色はいっこうに|いなか《田舎》らしい様子にはならなかった。|わたし《私》たちはひどくごみごみした町へ|はい《入》った。ま《真》っ黒な|どろ《泥》が馬車の上にはね上がった。それから|わたし《私》たちはもっとひどい|びんぼう町《貧乏マチ》のは《ほ》うへ曲がって、ときどき御者も道がわからないのか、馬車を止めた。  とうとう|かれ《彼》はすっかり馬車を止めてしまった。ハンサムの小窓を中に、グレッス・アンド・ガリーの書記さんと、困りきった御者との間にお《押》し問答《問答’》が始まった。なんでもマチアが聞いたところでは、御者はもうとても道がわからないと言って、書記にどちらの方角へ行けばいいか、たずねているのであった。書記は自分もこんなどろぼう町へなんかこれまで来たことがなかったからわからないと答えた。|わたし《私》たちはこの「|どろぼう《泥棒》」という|ことば《言葉》が耳に止まった。すると書記はいくらか金《-かね》を御者にやって、|わたし《私》たちに馬車から下りろと言った。御者は|わた《渡》された賃金を見て、ぶつぶつ言っていたが、やがてくるりと方向を変えて馬車を走らせて行った。  |わたし《私》たちはいまイギリス人が「ジン酒の宮殿」と呼んでいる酒場の前の、ぬかるみの道に立った。案内の先生は《は’》いやな顔をしてそこらを見回して、それからその「ジン酒の宮殿」の回転ドアを開けて中へ|はい《入》った。|わたし《私》たちはあとに続いた。|わたし《私》たちはこの町でもいちばんひどい場所にいるのであったが、またこれほどぜいたくな酒場も見なかった。そこには金ぶちの|わく《枠》をはめた鏡がどこにもここにもはめてあって、ガラスの花燭台《ハナ燭台》と、銀のようにきらきら光る|りっぱ《立派》な帳場があった。けれどもそこにいっぱい集まっている人たちは、どれもよごれたぼろをかぶった人たちであった。  案内者《案内シャ》は例の|りっぱ《立派》な帳場の前についであった一|ぱい《杯》の酒をがぶ飲みにして、それから給仕の男に自分の行こうとする場所の方角を聞いた。確かに|かれ《彼》は求めた返事を得たらしく、また回転ドアをおして外へ出た。|わたし《私》たちはすぐあとについて出た。  通りはいよいよせまくなって、こちらのうちから向こうのうちへ物干しの|つな《綱》が下がって、きたならしいぼろがかけてあった。その戸口に|こし《腰》をかけていた女たちは、青い顔をして、よれよれな髪の毛が肩の上までだらしなくかかっていた。子どもたちはほとんど裸体で、たまたま|二、三人着《ニサンニン着》ているのも、ほんのぼろであった。路地には|ぶた《豚》が、たまり水にぴしゃぴしゃ鼻面をつけて、そこからは|くさ《腐》ったような|にお《匂》いが|ぷん《プン》と立った。  案内者《案内シャ》はふと立ち止まった。|かれ《彼》は道を失ったらしかった。けれどちょうどそのとき一人の巡査が出て来た。書記が|かれ《彼》に話すと、巡査は自分のあとからついて来いと言った‥《‥:》‥|わたし《私》たちは巡査について、もっと|せま《狭》い往来を歩いた。最後に|わたし《私》たちはある広場に立ち止まった。  そのま《真》ん中には小さな池があった。 「これがレッド・ライオン・コートだ」と巡査は言った。なぜ|わたし《私》たちはここで止まったのであろう。|わたし《私》の両親がこんな所に住んでいるものであろうか。巡査は一|けん《軒》の木小屋のドアをたたいた。案内人は|かれ《彼》に礼を言っていた。では|わたし《私》たちは着いたのだ。マチアは|わたし《私》の手を取って、優しくにぎりしめた。|わたし《私》も|かれ《彼》の手をにぎった。|わたし《私》たちはおたがいに了解し合った。|わたし《私》は|ゆめ《夢》の中をたどっているような気がしていると、ドアが開いて、|わたし《私》たちは勢いよく火の燃えている部屋に|はい《入》った。  その火の前の大きな竹の|いす《椅子》に、白いひげを生やした老人が|こし《腰》をかけていた。その頭にはすっぽり黒いずきんをかぶっていた。一つの机に向かい合って四十ばかりの男と、六つばかり年下の女が|こし《腰》をかけていた。|かの《彼》女はむかしはなかなか色が白《シロ》かったらしいなごりをとどめていたが、いまでは色つやもぬけて、様子はそわそわ落ち着かなかった。それから四人子どもがいた──男の子が二人、女の子が二人─《─:》─みんな女親に似てなかなか色白であった。いちばん上の男の子は十一ばかりで、いちばん下の女の子は三つになるかならないようであった。  |わたし《私》は書記がその人になんと言っていたのかわからなかった。ただドリスコルという名前が耳に止まった。それは|わたし《私》の名字だとさっき弁護士が言った。  みんなの目はマチアと|わたし《私》に向けられた。ただ赤ん|ぼう《坊》の女の子だけがカピに目をつけていた。 「どちらがルミだ」と主人はフランス語でたずねた。 「|ぼく《僕》です」と|わたし《私》は言って、一足前《一足’前》へ進んだ。 「では来て、お父さんにキッスをおし」  |わたし《私》はまえからこの|しゅんかん《瞬間》のことを|ゆめ《夢》のように考えては、きっともうそのときは幸福に胸がいっぱいになりながら、父親の|うで《腕》にと《跳》びついてゆくだろうと想像していた。けれど|いま《今》はまるでそんな感じは起こらなかった。でも|わたし《私》は進んで行って父親にキッスした。 「さあ」と|かれ《彼》は言った。「おまえのおじいさんも、お母さんも、弟や妹たちもいるよ」  |わたし《私》はまず母親の所へ行って、両|うで《腕》を|からだ《体》にかけた。|かの《彼》女は|わたし《私》にキッスをさせた。けれど|わたし《私》の愛情には報いてくれなかった。|かの《彼》女はただ|わたし《私》にわからないことを二言三言《フタコトミコト》いった。 「おじいさんと握手をおし」と父親が言った。「そっとおいでよ。中気なのだから」  |わたし《私》はまた弟たちや、女の姉妹《兄弟》と握手した。小さい子を|うで《腕》にだき上げようとしたが、|かの《/彼》女はすっかりカピに気を取られていて、|わたし《私》をおしのけた。|わたし《私》はむなしくそここことめぐって歩いて、しまいには自分に腹立たしくなった。  なぜやっとのことで自分のうちを見つけたのに、すこしもうれしく感じることができないのか。|わたし《私》は父親に母親に、兄弟に、祖父まである。|わたし《私》はこの|しゅんかん《瞬間》をどんなに望んでいたろう。|わたし《私》もほかの子どもと同様に、自分のものと呼んで愛し愛されるうちを持つことを考えて、その喜びに気がくるいそうになったことがあった‥《‥:》‥それがいま自分の一家を|ふしぎ《不思議》そうにながめるばかりで、心のうちにはなにも言うことがない。一言《イチゴン》の愛情の|ことば《言葉》が出て来ないのである。|わたし《私》はけものなのであろうか。|わたし《私》がもし両親をこんな|びんぼう《貧乏》な小屋でなく、|りっぱ《立派》な|ごてん《御殿》の中で見いだしたなら、もっと深い愛情が起こったであろうか。|わたし《私》はそれを考えてはずかしく思った。  そう思って|わたし《私》はまた母親のそばへ寄って、両|うで《腕》をかけてしたたか|かの《彼》女のくちびるにキッスした。まさしく|かの《彼》女はなんのつもりで、|わたし《私》がこんなことをするのかわからなかった。だから|わたし《私》のキッスを返そうとはしないで、きょときょとした様子で|わたし《私》の顔をながめた。それから夫、すなわち|わたし《私》の父親のほうへ向いて肩をそびやかした。そしてなにか|わたし《私》にわからないことを言うと、夫はふふんと笑った。|かの《彼》女の冷淡と、|わたし《私》の父親の嘲笑とが深く|わたし《私》の心を傷つけた。  |わたし《私》の愛情はそんなふうにして受け取らるべきものでないと|わたし《私》は思った。 「あれは|だれ《誰》だ」と父親はマチアを指さしながら聞いた。|わたし《私》は|かれ《彼》に向かってマチアがいちばん仲のいい友だちであって、ずいぶん世話になっていることを話した。 「よしよし」と父親は言った。「あの子もうちにと《泊》まって、|いなか《田舎》を見物するがよかろう」  |わたし《私》はマチアの代わりに答えようとしたが、|かれ《/彼》が先に口をきいた。 「それは|ぼく《僕》もけっこうです」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》の父親はなぜバルブレンが|いっしょ《一緒》に来ないかとたずねた。|わたし《私》は|かれ《彼》にバルブレンの死んだことを告げた。|かれ《彼》はそれを聞いて喜んでいるようであった。|かれ《彼》はそのとおりを母親にくり返して言うと、|かの《/彼》女もやはり喜んでいるようであった。どうしてこの二人は、バルブレンの死んだことを喜んでいるのか。 「おまえは、|わたし《私》たちが十三年もおまえをたずねなかったことを|ふしぎ《不思議》に思っているかもしれない」と父親が言った。「しかも急にまた思い出したように出かけて行って、おまえを赤ん|ぼう《坊》の|じぶん《時分’》拾った人を訪ねたのだからなあ」  |わたし《私》は|かれ《彼》に自分の|たいへん《大変》|おどろ《驚》いたこと、それからそれまでの様子をくわしく聞きたいことを話した。 「では炉ばたへおいで。残らず話してあげるから」  |わたし《私》は肩から背嚢を下ろして、勧められた|いす《椅子》に|こし《腰》をかけた。|わたし《私》がぬれて|どろ《泥》をかぶった足を炉にのばすと、祖父はうるさい古|ねこ《猫》が来たというように、つんと向こうを向いてしまった。 「おかまいでない」と父親は言った。「あのじいさんは|だれ《誰》も火の前に来ることをいやがるのだ。けれどおまえ、寒ければかまわないよ」  |わたし《私》はこんなふうに老人に対して口をきくのを聞いてびっくりした。|わたし《私》は|いす《椅子》の下に足を引っこめた。そのくらいな心づかいはしなければならな《ない》と|わたし《私》は考えた。 「おまえはこれから|わたし《私》の総領|むすこ《息子’》だ」と父親が言った。「母さんと結婚して一年たっておまえは生まれたのさ。|わたし《私》がいまの母さんと結婚するとき、そのまえからてっきり自分と結婚するものと思っていたある若い|むすめ《娘》がもう一人あった。それが結婚のできなかったくやしまぎれに、生まれて六月目《ム月目》のおまえを|ぬす《盗》み出して行った。|わたし《私》たちはほうぼうおまえを探したが、パ《/パ》リより遠くへはどうにも行けなかった。|わたし《私》たちはおまえが死んだものと思っていたが、つい三月《ミ月》まえ、この|ぬす《盗》んだ女が死んでね。死にぎわに|わたし《私》に悪事を白状したのだ。|わたし《私》はさっそくフランスへ出かけて行って、おまえが捨てられた地方の警察から、初めておまえがシャヴァノン村のバルブレンという石屋のうちに養われていることを聞いた。|わたし《私》はバルブレンを探して、今度その人からおまえがヴィタリスという旅の音楽師にやとわれて行ったこと、フランスの町じゅうを歩き回っていることを聞いた。|わたし《私》はいつまでもあちらに逗留してもいられないので、バルブレンにいくらかお金をやって、おまえを探すように|たの《頼》んだ。そうしてわかりしだいグレッス・アンド・ガリーへそう言って寄こすようにした。|わたし《私》はあのバルブレンにここの住まいを知らせておかなかったというわけは、|わたし《私》たちは冬のあいだだけロンドンにいるので、あとはずっとイギリスとスコットランドの地方を旅行して歩いているのだからね。|わたし《私》たちの商売は旅商人《旅アキンド》なのだよ。まあそんなふうにして、十三年目におまえが|わたし《私》たちの所へ帰って来たというわけだ。お《おま》えは|わたし《私》たちの|ことば《言葉》がわからないのだから、はじめはすこしきまりが悪いかもしれないが、じきにイギリス語を覚えて、兄弟たちと話ができるようになるだろう。それはもうわけなく慣れるよ」  そうだ、もちろん|わたし《私》は|かれ《彼》らに慣れなければならない。|かれ《彼》らは|わたし《私》の一家の者ではないか。それは|りっぱ《立派》な絹の産着で想像したところと、目の前の事実とはこのとおりちがっていた。でもそれがなんだ。愛情は富よりもはるかに貴《-たっと》い。|わたし《私》が|あこが《憧》れていたのは金《-かね》ではない、ただ愛情である。愛情が欲しかったのだ。家族が、うちが、欲しかったのだ。  |わたし《私》の父親がこの話をしているあいだに、|かれ《/彼》らは晩餐の食卓をこしらえた。焼き肉の大きな一節《ヒトフシ》に|ばれいしょ《馬鈴薯》をそえたものが、食卓のま《真》ん中に置かれた。 「おまえたち、腹が減っているか」と父親がマチアと|わたし《私》に向かってたずねた。マチアは白い歯を見せた。 「うん、机にお|すわ《座》り」  しかし席に着くまえに、|かれ《/彼》は祖父の竹の|ゆりいす《ユリ椅子》を食卓に向けた。それから自分の席をしめながら、|かれ《/彼》は焼き肉を切り始めた。背中を火に向けて、みんなに一つずつ、大きな切れと|いも《芋》を分けた。  |わたし《私》はいい境遇の中に育ったわけではないが、兄弟たちの食卓の行儀がひどく悪いことは目についた。|かれ《彼》らはたいてい指で肉をつかんで食べて、がつがつ食い欠いたり、父母の気がつかないようにしゃぶったりした。祖父にいたっては自分の前ばかりに気を取られて、自由の利く片手でしじゅう|さら《皿》から口へがつがつ運んでいた。そのふるえる指先から肉を落とすと、兄弟たちはどっと笑った。  |わたし《私》たちは食事がすんでから、その晩は炉ばたに集まってく《暮》らすことと思っていた。けれども父親は友だちが来るからと言って、|わたし《私》たちに|ねどこ《寝床》に行くことを命じた。マチアと|わたし《私》に手まねをして、|かれ《/彼》はろうそくを持って先に立ちながら、食事をした部屋の外にある|うまや《厩》へ連れて言った。その|うまや《厩》には荷台まで大きな屋台付馬車があった。|かれ《彼》はその一つのドアを開けると中に小さな寝台二《ネダイ二》つ重なって置いてあるのを見た。 「ほら、これがおまえたちの|ねどこ《寝床》だ」と|かれ《彼》は言った。「まあ、おやすみ」  これが|わたし《私》の家族からこの夜初めて|わたし《私》の受けた歓迎であった。 ◇。◇。◇。 【第35章】 【りっぱすぎる父母】 ◇。◇。◇。  父親はろうそくを置いて行ったが、車には外から錠をさした。|わたし《私》たちはいつものようにおしゃべりはしないで、できるだけ早く|ねどこ《寝床》の中へもぐった。 「おやすみ、ルミ」とマチアが言った。 「おやすみ」  マチアは|わたし《私》と同じように、もうなにもものを言いたがらなかった。|わたし《私》は|かれ《彼》がだまっていてくれるのがうれしかった。|わたし《私》たちはろうそくをふき消したが、とても|ねむ《眠》れそうには思えなかった。|わたし《私》はせま苦しい寝台《ネダイ》の中で、たびたび起き返っては、これまでの出来事を思いめぐらした。|わたし《私》は上の寝台《ネダイ》にいるマチアがやはり落ち着かずに、しじゅう|ねがえ《寝返》りばかりしている音を聞いた。|かれ《彼》もやはり|わたし《私》と同様、|ねむ《眠》ることができなかった。  |いく《幾》時間か過ぎた。だんだん夜がふけるに従って、とりとめもない恐怖が|わたし《私》を圧迫した。|わたし《私》は不安に感じたが、なぜ|わたし《私》が、そう感じたのかわからない。なにを|わたし《私》はおそれているのか。このロンドンの|びんぼう町《貧乏マチ》で馬車小屋の中にと《泊》まることがこわいのではない。これまでの流浪生活で、いく度わたしは今夜よりも、もっとたよりない夜を明かしたことがあったであろう。|わたし《私》は現在あらゆる危険から庇護されていることはわかっているのに、恐怖がいよいよ|つの《募》って、もう|ふる《震》えが出るまでになっている。  時間はだんだんたっていった。ふと|うまや《厩》の向こうの、往来に向かったドアの開く音がした。それから|五、六度間《ゴロクたびマ》を置いて規則正しいノックが聞こえた。やがて明かりが馬車の中にさしこんだ。|わたし《私》はびっくりしてあわててそこらを見回した。|わたし《私》の寝台《ネダイ》のわきに|ねむ《眠》っていたカピは、うなり声を立てて起き上がった。|わたし《私》はそのときその明かりが馬車の小窓から|はい《入》って来ることを知った。その小窓は|わたし《私》たちの寝台《ネダイ》の向こうについていたのを、さっきはカーテンがかかっていたのでとこに|はい《入》るとき気がつかなかったのであった。この窓の上部はマチアの寝台《ネダイ》に近く、下部は|わたし《私》の寝台《ネダイ》に近かった。カピがうちじゅうを起こしてはいけないと思って、|わたし《私》は|かれ《彼》の口に手を当てて、それから外をながめた。  すると父親が|うまや《厩》に|はい《入》って来て、静かに向こう側のドアを開けた。そして二人、肩に重い荷をせおった男を外から呼び入れて、やはり用心深い様子で、またドアを閉めた。それから|かれ《彼》はくちびるに指を当てて、|ちょうちん《提灯》を持った片手で|わたし《私》たちの|ねむ《眠》っている事に指さしをした。|わたし《私》はほとんどそんな心配は要りませんと言って、声をかけようとしたが、もうマチアがよく|ねむ《眠》っていると思ったから、それを起こすまいと思って、そっとだまっていた。  父親はそのとき二人の男に手伝って荷物の|ひも《紐》をほどかせて、やがて見えなくなったが、まもなく母親を連れて|もど《戻》って来た。|かれ《彼》のいないあいだに二人の男は荷物の封を開いた。中には|ぼうし《帽子》と下着と|くつ《靴》下に手ぶくろなどがあった。まさしくこの男たちは両親の所へ品物を売りに来た商人であった。父親はいちいち品物を手に取って、|ちょうちん《提灯》の明かりで調べて、それを母親にわたすと、母親は小さなはさみで、正札を切り取って、|かく《隠》しの中に入れた。これが|わたし《私》には|きみょう《奇妙》に思えたし、それとともに、売り買いをするのにこんな真夜中の時間を選んだということも|ふしぎ《不思議》であった。  母親が品物を調べているあいだに、父親は商人に小声で話をしていた。|わたし《私》がもうすこしイギリス語を知っていたら、たぶん|かれ《彼》の言った|ことば《言葉》がわかったであろうが、|わたし《私》の聞き得たかぎりでは、ポリスメン(巡査)ということだけであった。それはたびたびくり返して言ったので、そのため|わたし《私》の耳にも止まったのであった。  残らずの品物がていねいに書き留められたとき、両親と二人の男がうちの中に|はい《入》った。そして|わたし《私》たちの車はまた暗黒のうちに置かれた。|かれ《彼》らは確かに勘定をするために、うちの中に|はい《入》ったのであった。|わたし《私》は自分の見たことがごく当たり前のことであると信じようとしたが、いくらそう望んでも、そう信ずること《とが》できなかった。  なぜあの両親に会いに来た二人の男が、ほかのドアからはいって来なかったのであろうか。なぜ|かれ《彼》らはなにか戸の外で聞くもののあることをおそれるかのように、小声で巡査の話をしていたのであったか。なぜ母親は品物を買ったあとで、正札を切り取ったのであろうか。|わたし《私》はこの考えをとりのけることができなかった。しばらくして明かりがまた馬車の中へさしこんで来た。|わたし《私》は今度はつい我知らず外をながめた。|わたし《私》は自分では見てはならないと思っていたが、でも‥《‥:》‥|わたし《私》は見た。|わたし《私》は自分では知らずにいるほうがいいと思ったが、でも‥《‥:》‥|わたし《私》は知ってしまった。  父親と母親と二人だけであった。母親が手早く品物の荷作りをするまに、父親は|うまや《厩》のすみをは《掃》いた。|かれ《彼》がかわいた砂をもり上げたそばに、落としのドアがあった。|かれ《彼》はそれを引き上げた。そのときもう母親は荷物にすっかり|なわ《縄》をかけておいたので、父親はそれを受け取って、落としから下の穴へ下ろした。母親はそばで|ちょうちん《提灯》を見せていた。それから|かれ《彼》は落としのドアを閉めて、またその上に砂をは《掃》き寄せた。その砂の上に二人は|わら《藁》くずをまき散らして|うまや《/厩》の|ゆか《床》のほかの部分と同じようにした。そうしておいて|かれ《彼》らは出て行った。  |かれ《彼》らがそっとドアを閉めた|しゅんかん《瞬間》に、マチアが|ねどこ《寝床》の中で動いたこと、|まくら《枕》の上であお向けになったことを|わたし《私》は見たように思った。|かれ《彼》は見たかしら。|わたし《私》はそれを思い切って聞けなかった。頭から足のつま先まで|わたし《私》は冷や|あせ《汗》をかいてい《-い》た。|わたし《私》はこのありさまでまる一晩置《一晩’置》かれた。にわとりが夜明けを知らせた。そのときやっと|わたし《私》はまぶたをふさいだ。  そのあくる朝わたしたちの車の戸を開ける|かぎ《鍵》の音がしたので、|わたし《私》は目を覚ました。きっと父親がもう起きる時間だと言いに来たのであろうと思って、|わたし《私》は|かれ《彼》を見ないように目を閉じた。 「|きみ《君》の弟だったよ」とマチアが言った。「ドアの|かぎ《鍵》を開けて出て行ったよ」  |わたし《私》たちは着物を着た。マチアは|わたし《私》によく|ねむ《眠》れたかとも聞かなかった。|わたし《私》も|かれ《彼》に質問しなかった。一度|かれ《’彼》が|わたし《私》のほうを見たように思ったから、|わたし《私》は目をそらせた。  |わたし《私》たちは台所まで行った。けれども父親も母親もそこにはいなかった。祖父は例の大きな|いす《椅子》に|こし《腰》をかけて、もうゆうべから|すわ《座》ったなりいるように、火の前にがんばっていた。そうしていちばん上の妹のアンニーというのが、食卓をふ《拭》いていた、いちばん上の弟のアレンが部屋をは《掃》いていた。|わたし《私》は|かれ《彼》らのそばへ寄って「おはよう」と言ったが、|かれ《/彼》らは|わたし《私》には目もくれないで、仕事を続けていた。  |わたし《私》は祖父のほうへ行ったが、|かれ《/彼》は|わたし《私》を見てそばへは寄せつけなかった。そうして|まえ《前》の晩のように|わたし《私》のほうに|つば《唾》をはきかけた。それで|わたし《私》は行きかけて立ち止まった。 「聞いてくれたまえよ」と|わたし《私》はマチアに言った。「いつ、父さんや母さんは出て来るのだか」  マチアは|わたし《私》の言ったとおりにした。すると祖父は|わたし《私》たちの一人がイギリス語を話したので、すこし|きげん《機嫌》を直したように見えた。 「なんだと言うのだね」と|わたし《私》は言った。 「|きみ《君》の父さんは一日よそへ出て帰らない。母さんは|ねむ《眠》っている。それで出たければ外へ|ぼく《僕》たちが出てもいいというのだ」 「たったそれだけしか言わないの」と|わたし《私》はこの翻訳がたいへん簡単すぎると思って言った。  マチアはまごついたようであった。 「そのほかの|ことば《言葉》はよくわかったか、どうだか知らない」と|かれ《彼》は言った。 「ではわかったと思うだけ言いたまえ」 「なんでもあの人は、|ぼく《僕》たちも町でなにか商売でもして、一|もう《儲》けして来るがいい。ただ飯を食われては《は’》やりきれない、というようなことを言っていたと思う」  祖父は|かれ《彼》の言ったことを、マチアが説明して聞かしているとさとったものらしく、中気でないほうの手でなにかを|かく《隠》しにおしこもうとするような身ぶりをして、それから目配せをして見せた。 「出かけよう」と|わたし《私》はすぐに言った。  |二、三時間《ニサン時間》のあいだ|わたし《私》たちはそこらを歩き回ったが、道《みち》に迷ってはいけないと思って遠くへは行かなかった。ベスナル・グリーンは夜見るよりも昼見るとさらにひどい所であった。マチアと|わたし《私》は、ほとんど口をき《利》かなかった。ときどき|かれ《彼》は|わたし《私》の手をにぎりしめた。  |わたし《私》たちがうちへ帰ったとき、母親はまだ部屋から出て来なかった。開け放したドアのすきから|わたし《私》は|かの《彼》女が机の上につっぷしているのを見た。|かの《彼》女は病気なのだと思ったが、|わたし《私》は話をすることができないから、代わりにキッスしようと思って、そばへかけて行った。  すると|かの《彼》女はふらふらする頭を持ち上げて、|わたし《私》のほうをながめたが、顔は見なかった。|かの《彼》女の熱い息の中には、ぷんとジン酒の|にお《匂》いがした。|わたし《私》は後ずさりをした。|かの《彼》女の頭はまた下がって、机の上にぐったりとなった。 「ジンに当たったのだよ」と祖父は言って、歯をむき出した。  |わたし《私》はそのほうは見向きもせずにじっと立ちど《止》まった。|からだ《体》が石になったように感じた。どのくらいそうして立っていたか知らなかった。ふと|わたし《私》はマチアのほうを向いた。|かれ《彼》は両眼《両ガン》に|なみだ《涙》をいっぱいうかべて、|わたし《私》を見ていた。|わたし《私》は|かれ《彼》に合図をして、また二人でうちを出た。  長いあいだ|わたし《私》たちはおたがいの手を組み合って|なら《並》んで歩きながら、何も言わずに、どこへ行こうという当てもなしに、まっすぐに歩いた。 「ルミ、|きみ《君》はどこへ行くつもりだ」と|かれ《彼》はとうとう心配そうにたずねた。 「|ぼく《僕》は知らない。どこかへ《へ’》とだけしか言えない。マチア、|ぼく《僕》は|きみ《君》と話がしたい。だがこの人ごみの中では話もできない」  |わたし《私》たちはそのとき、いつか広い町へ出ていた。そのはずれには公園があった。|わたし《私》たちはそこまでかけて行って、|こしか《腰掛》けに|こし《腰》をかけた。 「ねえ、マチア、|ぼく《僕》がどんなに|きみ《君》を愛しているか、知ってるだろう。だから今度ぼくがうちの人たちに会いに来るとき、|いっしょ《一緒》に|きみ《君》に来てもらったのは、|きみ《君》のためを思ったことだったのだ。|きみ《君》は|ぼく《僕》がなにを|たの《頼》んでも、|ぼく《僕》の友情を疑いはしないだろうねえ」と|わたし《私》は言った。 「|ばか《馬鹿》なことを言いたまえ」と|かれ《彼》は無理に笑って言った。 「|きみ《君》は|ぼく《僕》を泣きださせまい《いと》思って、そんなふうに笑うのだね」と|わたし《私》は答えた。「|ぼく《僕》は|きみ《君》と|いっしょ《一緒》にいるときに、泣けないなら、いつ泣くことができよう。でも‥《‥:》‥おお‥《‥:》‥マチア、《、/》マチア」  |わたし《私》は両|うで《腕》をなつかしいマチアの首にかけて、ほろほろ|なみだ《涙》をこぼした。|わたし《私》はこんなに情けなく思ったことはなかった。|わたし《私》がこの広い世界に独りぼっちであった|じぶん《時分》、かえって|わたし《私》はこの|しゅんかん《瞬間》ほどに不幸だとは感じなかった。|わたし《私》はすすり泣きをしてしまったあとで、やっと気を落ち着けることができた。|わたし《私》がマチアを公園に連れて来たのは、|かれ《/彼》のあわれみを求めるためではなかった。それは|わたし《私》のためではなかった。|かれ《彼》のためであった。 「マチア」と|わたし《私》は思い切って言った。「|きみ《君》はフランスへ帰らなければならないよ」 「|きみ《君》を捨てて、どうして」 「|ぼく《僕》は|きみ《君》がそう答えるだら《ろ》うと思っていた。それを聞いて|ぼく《僕》はうれしい。ああ、|きみ《君》が|ぼく《僕》と|いっしょ《一緒》にいたいというのは、まったくうれしい。けれどマチア、|きみ《君》はすぐにフランスへ帰らなければならないよ」 「なぜさ、そのわけを言いたまえ」 「だって‥《‥:》‥ねえ、マチア、|こわ《怖》がってはいけないよ。|きみ《君》はゆうべ|ねむ《眠》ったかい。|きみ《君》は見たかい」 「|ぼく《僕》は|ねむ《眠》らなかったよ」と|かれ《彼》は答えた。 「すると|きみ《君》は見た‥‥」 「ああ残らず」 「そうして|きみ《君》はそのわけがわかったか」 「あの品物が、代をはらったものでないことはわかるよ。だって、|きみ《君》のお父さんは、あの男たちに母屋《母家》のドアをたたかないで、|うまや《厩》のドアをたたいたというのでおこっていた。するとあの二人は巡査が見張りをしているからと言っていたもの」 「それで|きみ《君》は行かなければならないことがよくわかったろう」と|わたし《私》は言った。 「|ぼく《僕》が行かなければならないなら、|きみ《君》だって行かなければならない。それは|ぼく《僕》にだって、|きみ《君》にだって、いいはずがないもの」「《:「》パリでガロフォリに会ったとして、あの人が無理に|きみ《君》を連れ帰ろうとしたら、|きみ《君》はきっと、|ぼく《僕》に一人で別れて行ってくれと言うと思うよ。|ぼく《僕》はただ|きみ《君》が自分でもするだろうと思うことをするだけだ」  |かれ《彼》は答えなかった。 「|きみ《君》はフランスへ帰らなければいけない」と|わたし《私》は言い張った。「リーズの所へ行って|ぼく《僕》が|やくそく《約束》したことも、あの子の父親のためにしてやることも、みんなできなくなったわけを話してくれたまえ。|ぼく《僕》はあの子に、なによりも|ぼく《僕》のすることはあの人の借金をはらってやることだと言った。|きみ《君》はあの子にそれのできなくなったわけを話してくれたまえ。それからバルブレンのおっかあの所へも行ってくれたまえ。ただうちの人たちは思ったほど金持ちではなかったとだけ言ってくれたまえ。金《かね》のないということはなにもはずかしいことではないのだから。でもそのほかのことは言わないでくれたまえ」 「|きみ《君》が|ぼく《僕》に行けと言うのは、あの人たちが|びんぼう《貧乏》だからというのではない。だから|ぼく《僕》は行かない」とマチアは強情に答えた。「|ぼく《僕》はゆうべ見たところでそれがなんだかわかった。|きみ《君》は|ぼく《僕》の身の上を案じているのだ」 「マチア、それを言わないでくれ」 「|きみ《君》はいつか、|ぼく《僕》までが代のはらってない品物の正札を切り取るようなことになるといけないと心配しているのだ」 「マチア、《、/》マチア、よしたまえ」 「ねえ、|きみ《君》が|ぼく《僕》のために心配するなら、|ぼく《僕》は|きみ《君》のために心配する。|ぼく《僕》たち二人で出かけよう」 「それはとてもできない。|ぼく《僕》の両親は|きみ《君》にとってはなんでもないが、|ぼく《僕》には父親と母親だ。|ぼく《僕》はあの人たちと|いっしょ《一緒》にいなければならない。あれは|ぼく《僕》の家族なのだから」 「|きみ《君》の家族だって。あの|どろぼう《泥棒》をする男が、|きみ《君》の父親だって。あの飲んだくれ女が、|きみ《君》の母親だって」 「マチア、それまで言わずにいてくれ」と|わたし《私》は|こしか《腰掛》けからとび上がって|さけ《叫》んだ。「|きみ《君》は|ぼく《僕》の父親や母親のことをそんなふうに言っているが、|ぼく《僕》はやはりあの人たちを尊敬しなければならない。愛さなければならない」 「そうだ。それが|きみ《君》のうちの人なら、そうしなければ。だが‥《‥:》‥あの人たちは」 「|きみ《君》、あんなにたくさん証拠《’証拠》のあるのを忘れたかい」 「なにがさ、|きみ《君》は父さんにも母さんにも似てはいない。あの子どもたちはみんな色が白いが、|きみ《君》は黒い。それにぜんたいどうしてあの人たちが子どもを探すためにそんなにたくさんの金《-かね》が使えたろうか。そういういろいろのことを集めてみると、|ぼく《僕》の考えでは、|きみ《君》はドリスコル家の人ではない。|きみ《君》はバルブレンのおっかあの所へ手紙をやって、|きみ《君》が拾われたときの産着がどんなふうであったか、たずねてみたらどうだ。それから|きみ《君》がお父さんといま呼んでいるあの人に子どもが|ぬす《盗》まれたとき着ていた着物のくわしいことを聞かせてもらいたまえ。それまでは|ぼく《僕》は動かないよ」 「でももし|きみ《君》の気の|どく《毒》な頭が、そのために一つ食らったらどうする」 「なあに友だちのためならぶ《’ぶ》たれても、そんなにつらくはないよ」と|かれ《彼》は笑いながら言った。 ◇。◇。◇。 【第36章】 【カピの罪】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》たちは晩までレッド・ライオン・コートへ帰らなかった。父親と母親は|わたし《私》たちのいなかったことをなにも言わなかった。夕飯《夕めし》のあとで父親は二脚の|いす《椅子》を炉のそばへ引き寄せた。すると祖父からぐずぐず言われた。それから|かれ《彼》は、|わたし《私》たちがフランスにいたころ、食べるだけのお金が取れていたか、|わたし《私》から聞き出そうとした。 「|ぼく《僕》たちは食べるだけのものを取っただけではありません。雌牛を一頭買《一頭’買》うだけのお金を取ったのです」とマチアはきっぱりと言った。そのついでに|かれ《彼》はその雌牛でどういうことが起こったか話した。 「おまえたちはなかなか|りこう《利口》な|こぞう《小僧》だ」と父親が言った。「どのくらいできるかやっておみせ」  |わたし《私》はハープを取って一曲ひいたが、ナポリ小唄ではなかった。マチアはヴァイオリンで一曲、コルネで一曲やった。中でコルネのソロが、ぐるりへ輪《/輪》になって集まった子どもたちからいちばん|かっさい《’喝采》を受けた。 「それからカピ、あれもなにかできるか」と父親がたずねた。「あれも自分の食いしろを|かせ《稼》ぎ出さなければならん」  |わたし《私》はカピの芸にはひどく|じまん《自慢》であったから、|かれ《/彼》にありったけの芸をやらした。例によって|かれ《彼》は大成功をした。 「おや、この犬は|りっぱ《立派》な金|もう《儲》けになるぞ」と父親が|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》はこの賞賛で|たいへん《大変》うれしくなって、カピに教えれば、教えたいと思うことはなんでも覚えることを|かれ《彼》に話した。父親は|わたし《私》の言ったことをイギリス語に翻訳した。そのうえ|わたし《私》の言ったほかになにかつけ加えて言ったらしく、みんなを笑わせた。祖父はたびたび目をぱちくりやって、「どうもえらい犬だ」と言った。 「だから|わたし《私》はマチアにも、|いっしょ《一緒》にこのうちにいてくれるかと言いだしたわけさ」と父親が言った。 「|ぼく《僕》はルミといつまでもいたいのです」とマチアが答えた。 「|なるほど《成程》。それでは|わたし《私》から申し出すことがあるが」と父親が言った。「|わたし《私》たちは金持ちではないから、みんなが|いっしょ《一緒》に働いているのだ。夏になると|わたし《私》たちは|いなか《田舎》を旅をして回って、子どもらは、向こうから買いに来てくれない人たちの所へ品物を持って売りに行くのだ。けれども冬になると、たんとすることがな《無》くなるのだ。ところでおまえとルミにはこれから町へ出て音楽をやってもらおう。クリスマスが近いんだから、すこしは金《’かね》ができるだろう。そこでネッドとアレンがカピを連れて行って、芸をやって笑わせるのだ。そういうふうなことにすれば、うまく仕事がふり分けられるというものだ」 「カピは|ぼく《僕》とでなければ働きません」と|わたし《私》はあわてて言った。|わたし《私》はこの犬と別れることは|がまん《我慢》できなかった。 「なあにあれはアレンや、ネッドとじきに仕事をすることを覚えるよ」と父親が言った。「そういうふうにしてよけい金《-かね》を取るようにするのだ」 「おお、|ぼく《僕》たちもカピと|いっしょ《一緒》のほうがよけい金《-かね》が取れるのです」と|わたし《私》は言い張った。 「もういい」と父親が手短に言った。「|わたし《私》がこうと言えばきっとそうするのだ。口返答をするな」  |わたし《私》はもうそのうえ言わなかった。その晩とこに|はい《入》ると、マチアが|わたし《私》の耳にささやいた。 「さあ、あしたはいよいよバルブレンのおっかあの所へ手紙をやるのだよ」  こう言って|かれ《彼》は寝台《ネダイ》にとび上がった。  しかし、そのあくる朝わ《/わ》たしは、カピにいやでも因果を言いふくめなければならなかった。|わたし《私》は|かれ《彼》を|うで《腕》にだいて、その冷たい鼻に優しくキッスしながら、これからしなくてはならないことを言って聞かした。かわいそうな犬よ。どんなに|かれ《彼》は|わたし《私》の顔をながめたか、どんなに耳を立てていたか、|わたし《私》はそれからアレンの手に|ひも《紐》を|わたし《私》て、犬は二人の子どもにおとなしく、しかしがっかりした様子でついて行った。  父親はマチアと|わたし《私》をロンドンの町中へ連れて行った。きれいな家や、白い|しき《敷》石道のある|りっぱ《立派》な往来があった。ガラスのようにぴかぴか光る馬車がすばらしい馬に引かれて、その上に粉をふりかけた|かつら《鬘》をかぶった大きな太った御者が乗っていた。  |わたし《私》たちがレッド・ライオン・コートへもどったのは、もうおそかった。ウェストエンドからベスナル・グリーンまでの距離はかなり遠いのである。|わたし《私》はまたカピを見てどんなにうれしく思ったろう。|かれ《彼》はどろまみれになっていたが、上|きげん《機嫌》であった。|わたし《私》はあんまりうれしかったから、かわいた|わら《藁》で|かれ《彼》の|からだ《体》をよくかいてやったうえ、|わたし《私》の|ひつじ《羊》の毛皮にくるんで、《:、》|いっしょ《一緒》に|とこ《トコ》の中に入れてね《寝》かしてやった。  こんなふうにして|五、六日過《ゴ六にち過》ぎていった。マチアと|わたし《私》は別な道を行くと、カピとネッドとアレンがほかの方角へ行った。  するとある日の夕方、父親が「あしたはおまえたちがカピを連れて行ってもいい、二人の子どもにはうちで少しさせることがあるから」と言った。マチアと|わたし《私》は|ひじょう《非常》に喜んで、|いっしょうけんめい《一生懸命》やってた《/た》くさんの金《-かね》を取って帰れば、これからはしじゅう|わたし《私》たちに犬をつけて出すようになるだろうというもくろみを立てた。ぜひともカピを返してもらわなければならない。|わたし《私》たち三人は一人だって欠けてはならないのだ。  |わたし《私》たちは朝早くカピをごしごし洗ってやって、くしを入れてやって、それから出かけた。  運悪く|わたし《私》たちのもくろみどおりには運ばないで、深い|きり《霧》がまる二日のあいだロンドンに垂れこめていた。その|きり《霧》の深いといっては、つい二足三足前《フタ足ミ足’前》がやっと見えるくらいであった。この|きり《霧》のまくの中でたまたま|わたし《私》たちのやっている音楽に耳を止めている人も、もうすぐそばのカピの姿を見なかった。これは|わたし《私》たちの仕事にはじつにやっかいなことであった。でもこの|きり《霧》のおかげを、もう|二、三分《ニサンプン》あとでは、どれほどこうむらなければならないことであったか、それだけはまるで考えもつかなかった。  |わたし《私》たちはいちばん人通りの多い町の一つを通って行くと、ふとカピが|いっしょ《一緒》にいないことを発見した。この犬はいつだって、|わたし《私》たちのあとにぴったりついて来るのであったから、これはめずらしいことであった。|わたし《私》はあとから追いつけるように|かれ《彼》を待っていた。ある暗い路地口に立って、なにしろわずかの距離しか見えなかったから、そっと口ぶえをふいた。|わたし《私》は|かれ《彼》が|ぬす《盗》まれたのではないかと心配し始めたとき、|かれ《/彼》は口に毛糸の|くつ《靴》下を一足《イッソク》くわえてか《駆》けてやって来た。前足を|わたし《私》に向けて|かれ《彼》は一声ほ《’吠》えながらその|くつ《靴》下をささげた。|かれ《彼》はもっともむずかしい芸の一つをやりとげたときと同様に、得意らしく|わたし《私》の賞賛を求めていた。これはほんの|二、三秒《ニサン秒》の出来事であった。|わたし《私》は開いた口がふさがらなかった、するとマチアは片手で|くつ《靴》下をつかんで、片手で|わたし《私》を路地口から引っ張った。 「早く歩きたまえ。だが、か《駆》けてはいけない」と|かれ《彼》はささやいた。  |かれ《彼》はしばらくして|わたし《私》に言うには、|しき《敷》石の上で|かれ《彼》のわきをか《駆》けて通った男があって、「|どろぼう《泥棒》はどこへ行った、つかまえてやるぞ」と言いながら行ったというのである。|わたし《私》たちは路地の向こうの出口から出て行った。 「|きり《霧》が深くなかったら、|ぼく《僕》たちは危なく|どろぼう《泥棒》の罪で拘引されるところだったよ」とマチアは言った。しばらくのあいだ、|わたし《私》はほとんど息をつめて立っていた。うちの人たちは|わたし《私》の正直なカピに|どろぼう《泥棒》を働かせたのだ。 「カピをしっかりおさえていたまえ」と|わたし《私》は言った。「うちへ帰ろう」  |わたし《私》たちは急いで歩いた。  父親と母親は机の前に|こし《腰》をかけて、せっせと品物をしまいこんでいた。  |わたし《私》はいきなり|くつ《靴》下をほうり出した。アレンとネッドはぷっとふきだした。 「さあ、これが|くつ《靴》下です」と|わたし《私》は言った。「|あなた《貴方》がたは|ぼく《僕》の犬を|どろぼう《泥棒》にしましたね。|ぼく《僕》は人のなぐさみに使うために犬を連れて行ったのだと思っていました」  |わたし《私》はふるえていて、ほとんど口がきけなかった。でもこのときは《ほ》どしっかりした決心をしたことはなかった。 「うん、なぐさみのほかに使ったら」と父親は反問した。「おまえ、どうするつもりだ。聞きたいものだね」 「|ぼく《僕》はカピの首に|なわ《縄》を巻きつけて、これほどかわいい犬ですけれど、|ぼく《僕》はあいつを水に|しず《沈》めてしまいます。|わたし《私》は自分が|どろぼう《泥棒》にされたくないと同様、カピを|どろぼう《泥棒》にはしてもらいたくないのです。いつか|わたし《私》が|どろぼう《泥棒》にならなければならないようなことがあれば、|わたし《私》は犬と|いっしょ《一緒》にすぐ水に|しず《沈》んでしまいます」  父親は|わたし《私》の顔をしげしげと見ていた。|わたし《私》は|かれ《彼》がよっぽど|わたし《私》を打とうとしかけたと思った。|かれ《彼》の目は光った。でも|わたし《私》はたじろがなかった。 「おお、ではよしよし」と|かれ《彼》は思い返して言った。「またそういうことのないように、おまえ、これからは自分でカピを連れて歩くがいい」 ◇。◇。◇。 【第37章】 【ごまかし】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》は二人の子どもに|げんこつ《拳骨》を見せていた。|わたし《私》は|かれ《彼》らにものを言うことはできなかったが、でも|かれ《彼》らは|わたし《私》の様子で、このうえ|わたし《私》の犬をどうにかすれば、|わたし《私》にひどい目に会うであろうと思った。|わたし《私》はカピを保護するためには、|かれ《/彼》ら二人と戦うつも《-も》りでいた。  その日からうちじゅうの者は残らず、大っぴらで|わたし《私》に対して憎悪を見せ始めた。祖父は|わたし《私》がそばに寄ると、腹立たしそうに|つば《唾》をは《吐》いてばかりいた。男の子と上《ウエ》の妹は|かれ《彼》らにできそうなあらゆるいたずらをした。父親と母親は|わたし《私》を無視して、いてもいない者のようにあつかった。そのくせ毎晩わたしから金《-かね》を取り立てることは忘れなかった。  こうして|わたし《私》がイギリスへ上陸したとき、あれほどの愛情を感じていた全家族は|わたし《私》に背中を向けた。たった一人赤《一人’赤》ん|ぼう《坊》のケートが、|わたし《私》のかまうことを許した。でもそれすら、|かく《隠》しに|かの《彼》女のためのキャンデーか、みかんの一つ持ち合わせないときには、冷淡にそっぽを向いてしまった。  |わたし《私》ははじめマチアの言ったことを耳に入れようとはしなかったが、だんだんすこしずつ、|わたし《私》はまったくこのうちの者ではないのではないかと疑い始めた。|わたし《私》は|かれ《彼》らに対してこれほどひどくされるようなことはなにもしなかった。  マチアは|わたし《私》がそんなにがっかりしているのを見て、独り言のように言った。 「|ぼく《僕》はバルブレンのおっかあから、早くどんな着物を|きみ《君》が着ていたか言って寄こすといいと思うがなあ」  とうとうや《’や》っとのことで、手紙が来た。例のとおりお寺の|ぼう《坊》さんが代筆をしてくれた。それにはこうあった。 「小さいルミよ。お手紙を読んで|おどろ《驚》きもし、悲しみもしました。バルブレンの話と、あなたが拾われたとき着ていた着物から、あなたがよほどお金持ちのうちに生まれたことと|わたし《私》は思っていました。その着物はそのままそっくり、しまってありますから、いちいち言うことはわけのないことです。あなたはフランスの赤子のように、おくるみにくるまってはいませんでした。イギリスの子どものように、長い上着と下着を着ていました。白いフランネルの上着にたいそうしなやかな麻の服を重ね、白い絹でふちを取って、美しい白の縫箔をしたカシミアの外とうを着ていました。またかわいらしいレースのボンネットをかむり、それから小さい絹の|ばら《薔薇》の花のついた白い毛糸の|くつ《靴》下をは《履》いていました。それにはどれも印はありませんが、膚《肌》につけていたフランネルの上着には印がありました。でもその印はていねいに切り取られていました。さて、ルミ、あなたにご返事のできることはこれだけですよ。|やくそく《約束》をしなすった|りっぱ《立派》な|おく《贈》り物のできないことを苦にやむことはありません。あなたの貯金で買ってくれた雌牛は、|わたし《私》にとっては世界|じゅう《中》の|おく《贈》り物残《物’残》らずもらったと同様です。喜んでください。雌牛もたいそう|じょうぶ《丈夫》で、相変わらずいい乳を出しますから。このごろではごく気楽にく《暮》らしています。その雌牛を見るたんびにあなたとあなたのお友だちのマチアのことを思い出さないことはありません。|ときどき《時々》はお便りを寄こしてください。あなたはほんとに優しい、いい子です。どうかせっかくうちを見つけたのだから、おうちのみなさんがあなたをかわいがるようにと、そればかり望んでいます。ではご|きげん《機嫌》よろしゅう。 あ《 あ》なたの養母  バルブレンの後家より」  なつかしいバルブレンのおっかあ。|かの《彼》女は自分が|わたし《私》を愛したようにだれも|わたし《私》を愛さなくてはならないと思っているのだ。 「あの人はいい人だ」とマチアは言った。「じつにいい人だ。|ぼく《僕》のことも思っていてくれる。さあ、これでドリスコルさんがどう言うか、見たいものだ」 「父さんは品物の細かいことは忘れているかもしれない」 「どうして子どもがかどわかされたとき着ていた着物を、親が忘れるものか。だってまたそれを見つけるのは着物が手がが《か》りだもの」 「とにかくなんと言うか、聞いて、それから考えることにしよう」  |わたし《私》が|ぬす《盗》まれたとき、どんな着物を着ていたか、これを父親にたずねるのは容易なことではなかった。なんの下心《下心’》なしに|ぐうぜん《偶然》この質問を発するなら、それはいたって簡単なことであろう。ところが事情がそういうわけでは、|わたし《私》は|おくびょう《臆病》にならずには《は’》いられなかった。  さてある日、冷たい|みぞれ《霙》が降って、いつもより早くうちへ引き上げて来たとき、|わたし《私》は両|うで《腕》に勇気をこめて、長らく心にかかっている問題の口を切った。  |わたし《私》の質問を受けると、父親はじっと|わたし《私》の顔を見つめた。けれど|わたし《私》はこの場合できそうに思っていた以上だいたんに、|かれ《/彼》の顔を見返した。すると|かれ《彼》はにっこりした。その微笑にはどことなくとげとげしい|ざんこく《残酷》な様子が見えたが、でも微笑は微笑であった。 「おまえが|ぬす《盗》まれて行ったとき」と|かれ《彼》はそろそろと話しだした。「おまえはフランネルの服と麻の服と、レースのボンネットに、白い毛糸の|くつ《靴》下と、それから白い縫箔のあるカシミアの外とうを着ていた。その着物のうち二枚までは、F《エフ》・D《ディー》、すなわちフランシス・ドリスコルの頭字《カシラ字》がついていたが、それはおまえを|ぬす《盗》んだ女が切り取ってしまったそうだ。そのわけは、そうすれば手がかりがないと思ったからだ。なんならおまえの洗礼証書をしまっておいたから、それを見せてあげよう」  |かれ《彼》は引き出しを探って、すぐと一枚の大きな紙を出して、|わたし《私》に手わたしをした。 「よかったらマチアに翻訳させください」と|わたし《私》は最後の勇気をふるって言った。 「いいとも」  マチアがそれをできるだけよく翻訳した。それで見ると、|わたし《私》は八月二日の木曜日に生まれたらしい。そしてジョン・ドリスコルおよびその妻マーガレット・グランデの|むすこ《息子》であった。  この上の証拠をどうして求めることができようか。 「これはみんなもっともらしい」とその晩車《晩’車》の中に帰ると、マチアは言った。「でもどうして旅商人《旅アキンド》風情が、その子どもにレースのボンネットや、縫箔の外とうを着せるだけの金《-かね》があったろう。旅商人《旅アキンド》というものは、そんなに金のあるものではないさ」 「旅商人《旅アキンド》だから、そんな品物をたやすく手に入れることができたのだろう」  マチアは口ぶえをふきふき首をふっていた。それからまた小声で言った。 「|きみ《君》はあのドリスコルの子どもではないが、ドリスコルが|ぬす《盗》んで来た子どもなのだ」  |わたし《私》はこれに答えようとしたが、|かれ《/彼》はもうずんずん寝台《ネダイ》の上には《這》い上がっていた。 ◇。◇。◇。 【第38章】 【アーサのおじさん──ジェイムズ・ミリガン氏】 ◇。◇。◇。  |わたし《私》がマチアの位置であったなら、おそらく|かれ《彼》と同様な想像をしたかもしれなかったが自分《/自分》の位置として|わたし《私》はそんな考えを持つのはまちがっていると感じた。ドリスコル氏が|わたし《私》の父親だということは、もはや疑う余地なく証明された。|わたし《私》はそれをマチアと同じ立場からながめることができなかった。|かれ《彼》は疑い得る‥《‥:》‥けれど|わたし《私》は疑《-うたぐ》ってはならない。|かれ《彼》がなんでも自分の思うことを、|わたし《私》に信じさせようと努めると、|わたし《私》は|かれ《彼》にだまっていろと言い聞かせた。けれども|かれ《彼》はなかなか頑強で、その強情にいつも打ち勝つことは困難であった。 「なぜ|きみ《君》だけ色が黒くって、うちのほかの人たちは色が白いのだ」と|かれ《彼》はくり返して、その点を問いつめようとした。 「どうして|びんぼう《貧乏》人がやわらかなレースや、縫箔を赤ん|ぼう《坊》に着せることができたか。」これがもう一つたびたびく《繰》り返される質問であった。すると|わたし《私》はこちらから逆に反問して、わずかにこれに答えることができた。あの人たちにとって|わたし《私》が子でないならば、なぜ|ぼく《僕》を捜索したか。なぜバルブレンや、グレッス・アンド・ガリーに金《-かね》をやったか。  マチアは|わたし《私》の反問に返事ができなかったけれども、|かれ《/彼》はけっして承服しようとはしなかった。 「|ぼく《僕》らは二人でフランスへ帰るのがいいと思う」と|かれ《彼》は勧めた。 「そんなことができるものか」 「|きみ《君》は一家と|いっしょ《一緒》にいるのが義務だと言うのかい。でもこれが|きみ《君》の一家だろうか」  こういうお《押》し問答の結果は、一つしかなかった。それは|わたし《私》を|いま《今》までよりもよけい不幸にしただけであった。疑うということはどんなにおそろしいことであろう。でもいくら疑うまいと思っても|わたし《私》は疑った。|わたし《私》が自分にはうちがないと思って、あれほど悲しがって泣いていた|じぶん《時分》、こうしてうちができた今日かえってこれほどの失望におちいろうとは|だれ《誰》が思ったろう。どうしたら|わたし《私》は|ほんとう《本当》のことがわかるだろう。そう考えて、いよいよ胸にせまってくるとき、|わたし《私》は歌を歌って、|おど《踊》りを|おど《踊》って、笑って、しかめっ面でもするほかはなかった。  ある日曜日のことであった。父親はきょうは用があるからうちにいろと|わたし《私》に言い|わた《渡》した。|かれ《彼》はマチアだけを一人外《一人’外》へ出した。ほかの者もみんな出て行った。祖父だけが一人、二階に残っていた。|わたし《私》は父親と一時間ばかりいたが、やがてドアをたたく音がして、いつもうちへ父親を訪ねて来る人とは、まるでちがった紳士が|はい《入》って来た。|かれ《彼》は五十才ぐらいの年輩で、流行の粋《スイ》を集めた身なりをしていた。犬のようなま《真》っ白なとんがった歯をして、笑うときにはそれをかみしめようとでもするようにくちびるをあとへ引っこめた。|かれ《彼》はしじゅう|わたし《私》のほうをふり向いてみながら、イギリス語で|わたし《私》の父に話しかけた。  それからしばらくして、|かれ《/彼》はほとんどなまりのないフランス語で話し始めた。 「これが|きみ《君》の話をした子どもか」と|かれ《彼》は言った。「なかなか|じょうぶ《丈夫》そうだね」 「|だんな《旦那》にご|あいさつ《挨拶》しろ」と父親が|わたし《私》に言った。 「ええ、|ぼく《僕》はごく|じょうぶ《丈夫》です」  こう|わたし《私》はびっくりして答えた。 「おまえは病気になったことはなかったか」 「一度肺炎《一度’肺炎》をやりました」 「|はあ《ハア》、それはいつだね」 「三年まえです。|ぼく《僕》は一晩寒《一晩’寒》い中でね《寝》ました。|いっしょ《一緒》にいた親方は|こご《凍》えて死にましたし、|ぼく《僕》は肺炎になりました」 「それから|からだ《体》の具合はなんともないか」 「ええ」 「|つか《疲》れることはないか、|ねあせ《寝汗》は出ないか」 「ええ。|つか《疲》れるのはたくさん歩いたからです。けれどほかに具合の悪いところはありません」  |かれ《彼》はそばへ寄って|わたし《私》の|うで《腕》にさわった。それから頭を心臓にすりつけた。今度は背中と胸にさわって、大きく息をしろと言った。|かれ《彼》はまた|せき《咳》をしろとも言った。それがすむと、|かれ《/彼》は長いあいだ|わたし《私》の顔を見た。そのとき|わたし《私》は|かれ《彼》がかみつこうとするのだと思ったほど、|かれ《/彼》の歯はおそろしい笑い顔のうちに光った。しばらくして|かれ《彼》は父親と|いっしょ《一緒》に出て行った。  これはなんのわけだろう。あの人は|わたし《私》を|やと《雇》い入れるつもりなのかしら。|わたし《私》はマチアともカピとも別れなければならないのかしら。|いや《嫌》だ。|わたし《私》は|だれ《誰》の家来にもなりたくない。まして初めっ《-っ》からきらっているあんな人の所へなんか行くものか。  父親は帰って来て、「行きたければ外へ出てもいい」と|わたし《私》に言った。|わたし《私》は例の|うまや《厩》の車の中へ|はい《入》って行った。するとそこにマチアがいたので、どんなにびっくりしたろう。|かれ《彼》はそのとき指をくちびるに当てた。 「|うまや《厩》のドアを開けたまえ」と|かれ《彼》は小声で言った。「|ぼく《僕》はそっとあとから出て行くからね。|ぼく《僕》がここにいたことを知られてはいけない」  |わたし《私》はけむに巻かれて、言われるとおりにした。 「|きみ《君》はいま父さんの所へ来た人が|だれ《誰》だか、知ってるかい」と|かれ《彼》は往来へ出ると、目の色を変えてたずねた。「あれがジェイムズ・ミリガン氏だよ。|きみ《君》の友だちのおじさんだよ」  |わたし《私》は|しき《敷》石道のま《真》ん中に行って、ぽかんと|かれ《彼》の顔をながめた。|かれ《彼》は|わたし《私》の|うで《腕》をつかまえてあとから引っ張った。 「|ぼく《僕》は一人ぼっちで出かける気にならなかった」と|かれ《彼》は続けた。「だから|ねむ《眠》るつもりであすこへ|はい《入》った。だが|ぼく《僕》は|ねむ《眠》れずにいた。するうち|きみ《君》の父さんと一人の紳士が|うまや《厩》の中へ|はい《入》って来た。その人たちの言うことを残らず|ぼく《僕》は聞いたのだ。はじめは|ぼく《僕》も聞く耳を立てるつもりではなかったが、のちにはそれをしずにいられないようになった。  『どうして、岩のように|じょうぶ《丈夫》だ』とその紳士が言った。『十人に九人《9人》までは死ぬものだが、あれは肺炎の危険を通りこして来た』  『|おいご《甥御》さんはどうですね』と|きみ《君》の父さんがたずねた。  『だんだんよくなるよ。三月《ミ月》まえも医者がまたさじを投げた。だが母親がまた救った。いや、あれは|ふしぎ《不思議》な母親だよ。ミリガン夫人という女は』  |ぼく《僕》がこの名前を聞いたとき、どうして窓に耳をくっつけずには《は’》いられたと思うか。  『では|おいご《甥御》さんがよくなるのでは、あなたの仕事はむだですね』と|きみ《君》の父さんが|ことば《言葉》を続けた。  『さしあたりはまずね』ともう一人が答えた。『だがアーサがこのうえ生きようとは思えない。それができれば奇跡というものだ。|おれ《俺》は奇跡を心配しない。あれが死ねば、あの財産の相続人はおれのほかにはないのだ』  『ご心配なさいますな。|わたし《私》が見ています』とドリスコルさんが言った。  『ああ、おまえに任せておくよ』とミリガン氏が答えた」  これがマチアの話すところであった。  マチアのこの話を聞きながら、|わたし《私》の初めの考えは、父親にすぐたずねてみることであったが、立ち聞きをされたことを知らせるのは、かしこい|しかた《仕方》ではなかった。ミリガン氏は父親と打ち合わせる仕事があるとすれば、|たぶん《多分》またうちへ来るだろう。このつぎは向こうで顔を知らないマチアが、あとをつけることもできる。  それから|二、三日《ニサンニチ》ののち、マチアはぐうせん往来で、以前ガ《/ガ》ッソーの曲馬団で知り合いになったイギリス人のボブに出会った。|わたし《私》はとちゅうで|かれ《彼》がマチアにあいさつするところを見て、|ひじょう《非常》に仲のいいことがわかった。  |かれ《彼》はまたすぐとカピや|わたし《私》が好きになった。その日から|わたし《私》たちはこの国に一人、しっかりした友だちができた。|かれ《彼》はその経験と|ちえ《知恵》で、のちに困難におちいった場合、|わたし《私》たちの|ひじょう《非常》な力になったのであった。 ◇。◇。◇。 【第39章】 【マチアの心配】 ◇。◇。◇。  春の来るのはおそかったが、とうとう一家がロンドンを去る日が来た。馬車がぬりかえられて、商品が積みこまれた。そこには|ぼうし《帽子》、肩かけ、ハンケチ、《、/》シャツ、膚着《肌着》、耳輪、かみそり、せっけん、おしろい、クリーム、なんということなしにいろいろなものが積まれた。  馬車はもういっぱいになった。馬が買われた。どこからどうして買ったか、|わたし《私》は知らなかったが、いつのまにか馬が来ていた。それでいっさい出発の用意ができた。  |わたし《私》たちは、いったい祖父と|いっしょ《一緒》にうちに残るのか、一家とともに出かけるのか、知らずにいた。けれど父親は|わたし《私》たちが音楽でなかなかいい金《-かね》を取るのを見て、まえの晩|わたし《’私》たちに|かれ《彼》について行って音楽をやれと言い|わた《渡》した。 「ねえ、フランスへ帰ろうよ」とマチアは勧めた。「いまがいい|しおどき《潮時》だ」 「なぜイギリスを旅行して歩いてはいけないのだ」 「なぜならここにいると、きっとなにか始まるにちがいないから。それにフランスへ行けば、ミリガン夫人とアーサを見つけるかもしれない。アーサが加減が悪いのだと、夫人はきっと船に乗せて来るだろう。もうだんだん夏になってくるから」  でも|わたし《私》は|かれ《彼》に、どうしてもこのままいなければならないと言った。  その日わたしたちは出発した。その午後|かれ《’彼》らがごくわずかの値打ちしかない品物を売るところを見た。|わたし《私》たちはある大きな村に着くと、馬車は広場に引き出されていた。その馬車の横側は低くなっていて、買い手の欲をそそるように美しく品物が|なら《並》んでいた。 「値段を見てください。値段を見てください」と父親は|さけ《叫》んだ。「こんな値段はどこへ行ったってあるものじゃありません。まるで売るんじゃない。ただあげるのだ。さあさあ」 「あいつは|どろぼう《泥棒》して来たにちがいない」  品物の値段づけを見た往来の人がちょいちょいこう言っているのを|わたし《私》は聞いた。|かれ《彼》らがもしそのとき、そばで|わたし《私》がきまり悪そうな顔をしているのを見たら、いよいよ推察の当たっていることを知ったであろう。  |かれ《彼》らはしかし|わたし《私》に気がつかなかったとしても、マチアは気がついていた。 「いつまで|きみ《君》はこれを|しんぼう《辛抱》していられるのだ」と|かれ《彼》は言った。  |わたし《私》はだまっていた。 「フランスへ帰ろうよ」と|かれ《彼》はまた勧めた。「なにか起こる。もうすぐになにか起こると|ぼく《僕》は思う。おそかれ早《ハヤ》かれ、ドリスコルさんが、こう品物を安売りするところを見れば、巡査がやって来るのはわかっている。そうなればどうする」 「おお、マチア‥‥」 「|きみ《君》が目をふさいでいれば、|ぼく《僕》はいよいよ大きく目をあいていなければならない。|ぼく《僕》たちは二人ともつかまえられる。なにもしなくっても、どうしてその証拠を見せることができよう。|ぼく《僕》たちは現にあの人がこの品物を売って得た金《-かね》で、三度のものを食べているのではないか」  |わたし《私》はついにそこまでは考えなかった。こう言われて、いきなり顔をまっこうからなぐりつけられたように思った。 「でも|ぼく《僕》たちは|ぼく《僕》たちで自分の食べ物を買う金《-かね》は取っている」と、|わたし《私》はどもりながら弁護しようとした。 「それはそうだ。けれど|ぼく《僕》たちは|どろぼう《泥棒》と|いっしょ《一緒》に住まっていた」と、マチアはこれまでよりはいっそう思い切った調子で答えた。「それでも《’も》し、ぽくたちが牢屋へやられればもう、|きみ《君》の|ほんとう《本当》のうちの人を探すこともできなくなるだろう。それにミリガン夫人にも、あのジェイムズ・ミリガンに気をつけるように言ってやりたい。あの人がアーサにどんなことをしかねないか、|きみ《君》は考えないのだ。まあ行けるうちに少し《しで》も早く行こうじゃないか」 「まあもう|二、三日考《ニサンニチ考》えさしてくれたまえ」と|わたし《私》は言った。 「では早くしたまえ。大男退治のジャックは肉の|にお《匂》いをかいだ─《─:》─|ぼく《僕》は危険の|にお《匂》いをか《嗅》ぎつけている」  こんなふうにして煮えきれずにいるうちに、とうとう|ぐうぜん《偶然》の事情が、|わたし《私》に思い切ってできなかったことをさせることになった。それは《は’》こうであった。  |わたし《私》たちがロンドンを立ってから数週間あとであった。父親は競馬のあるはずの町で、屋台店《屋台ミセ》の車を立てようとしていた。マチアと|わたし《私》は商売のほうになにも用がないので、町からかなりへだたっていた競馬場を見に行った。  イギリスの競馬場のぐるりには、たいてい市場《イチバ》が立つことになっていた。いろいろ種類のちがう香具師や、音楽師や、屋台店《屋台ミセ》が|二、三日《ニサンニチ》まえから出ていた。  |わたし《私》たちはあるテント張《ハ》り小屋で、たき火の上に鉄びんがかかっている所を通り過ぎると、曲馬団でマチアの友だちであったボブを見つけた。|かれ《彼》はまた|わたし《私》たちを見つけたので、たいそう喜んでいた。|かれ《彼》は二人の友だちと|いっしょ《一緒》に競馬場へ来て、力持ちの見世物を出そうとしているところであった。そのためある音楽師を|二、三人《ニサンニン》やくそくしたが、まぎわになってだめになったので、あしたの興行は失敗になるのではないかと心配していたところであった。|かれ《彼》の仕事にはにぎやかな人寄せの音楽がなければならなかった。  |わたし《私》たちはそこで|かれ《彼》の手伝いをしてやろうということになった。一座ができて、|わたし《私》たち五人の間に利益を分けることになった。そのうえカピにもいくらかやることにした。ボブはカピが演芸の合い間に芸をして見せてくれることを望んでいた。|わたし《私》たちは|やくそく《約束》ができて、あくる日決めた時間に来ることを申し合わせた。  |わたし《私》が帰ってこのもくろみを父に話すと、|かれ《/彼》はカピはこちらで入用《入り用》だから、あれはやられないと言った。|わたし《私》は|かれ《彼》らがまた人の犬をなにか悪事に使うのではないかと疑った。|わたし《私》の目つきから、父はもう|わたし《私》の心中《シンチュウ》を推察した。 「ああ、いや、なんでもないことだよ」と|かれ《彼》は言った。「カピは|りっぱ《立派》な番犬だ。あれは馬車のわきへ置かなければならん。きっと|おお《大》ぜい回りへた《’た》かって来るだろうから、品物をかすめられてはならない。おまえたち二人だけで行って、友だちのボブさんと一|かせ《稼》ぎやって来るがいい。|たぶん《多分》おまえのほうは夜おそくまですむまいと思うから、そのときは『大《おお》がしの宿屋』で待ち合わせることにしよう。あしたはまた先へたって行くのだから」  |わたし《私》たちはそのまえの晩『大《おお》がしの宿屋』で夜を明かした。それは一マイル(約1.6キロ)|はな《離》れたさびしい街道《’街道》にあった。その店はなにか気の許せない顔つきをした夫婦がやっていた。その店を見つけるのはごくわけのないことであった。それはま《真》っす《直》ぐな道であった。ただいやなことは、一日つかれたあとで、かなりな道のりを歩いて行かなければならないことであった。でも父親がこう言えば、|わたし《私》は服従しなければならなかった。それで|わたし《私》は宿屋で会うことを|やくそく《約束》した。  そのあくる日、カピを馬車に結わえつけて番犬において、|わたし《私》はマチアと競馬場へ急いで行った。  |わたし《私》たちは行くとさっそく、音楽を始めて、夜まで続けた。|わたし《私》の指は何千という針でさされたように、ちくちく痛んだし、かわいそうなマチアはあんまりいつまでもコルネをふいて、ほとんど息が出なくなった。  もう夜中を過ぎていた。いよいよおしまいの一番をやるときに、|かれ《/彼》らが演芸に使っていた大きな鉄の棒がマチアの足に落ちた。|わたし《私》は|かれ《彼》の骨がくじけたかと思ったが、運よくそれはひどくぶっただけであった。骨はすこしもくじけなかったが、やはり歩くことはできなかった。  そこで|かれ《彼》はその晩ボブと|いっしょ《一緒》にと《泊》まることになった。|わたし《私》はあくる日ドリスコルの一家の行く先を知らなければならないので、一人「大《おお》がしの宿屋」へ行くことにした。その宿屋へ|わたし《私》が着いたときは、|まっくら《真っ暗》であった。馬車があるかと思って見回したが、どこにもそれらしいものは見えなかった。二つ三つあわれな荷車のほかに、目に|はい《入》ったものは大きな|おり《檻》だけで、そのそばへ寄ると野獣のほ《吠》え声がした。ドリスコル一家の財産であるあのごてごてと美しくぬりたてた馬車はなかった。|わたし《私》は宿屋のドアをたたいた。亭主はドアを開けて、ランプの明かりをまともに|わたし《私》の顔にさし向けた。|かれ《彼》は|わたし《私》を見覚えていたが、中へ入れてはくれないで、両親はもうルイスへ向けて立ったから、急いであとを追っかけろと言って、もうすこしでもぐずぐずしては《は’》いられないとせきたてた。それでぴしゃりとドアを立てきってしまった。  |わたし《私》はイギリスに来てから、かなりうまくイギリス語を使うことを覚えた。|わたし《私》は|かれ《彼》の言ったことが、はっきりわかったが、ぜんたいそのルイスがどこらに当たるのか、まるっきり知らなかった。よしその方角を教わったにしても、|わたし《私》は行くことはできなかった。マチアを置いて行くことはできなかった。  |わたし《私》は痛い足をいやいや引きずって競馬場に帰りかけた。やっと苦しい一時間ののち、|わたし《私》はボブの車の中でマチアと|なら《並》んで|ねむ《眠》っていた。  あくる朝ボ《/ボ》ブはルイスへ行く道を教えてくれたので、|わたし《私》は出発する用意をしていた。|わたし《私》は|かれ《彼》が朝飯《アサハン》のお湯をわかすところを見ながら、ふと目を火から|はな《離》して外をながめると、カピが一人の巡査に引っ張られて、こちらへやって来るのであった。どうしたということであろう。  カピが|わたし《私》を見つけた|しゅんかん《瞬間》、|かれ《/彼》は|ひも《紐》をぐいと引っ張った。そして巡査の手からのがれて|わたし《私》のほうへと《’と》んで来て、|うで《腕》の中にだきついた。 「これはおまえの犬か」と巡査がたずねた。 「そうです」 「では|いっしょ《一緒》に来い。おまえを拘引する」  |かれ《彼》はこう言って、|わたし《私》の|えり《襟》をつかんだ。 「この子を拘引するって、どういうわけです」とボブが火のそばからとんで来て|さけ《叫》んだ。 「これはおまえの兄弟か」 「いいえ、友だちです」 「そうか。ゆうべ、おとなと子どもが二人、セント・ジョージ寺へ|どろぼう《泥棒》に|はい《入》った。|かれ《彼》らははしごをかけて、窓から|はい《入》った。この犬がそこにいて番をしていた。ところが犯行中おどろかされて、あわてて窓からに《逃》げ出したが、犬を寺へ置いて行った。この犬を手がかりにして、|どろぼう《泥棒》は確かに見つかると思っていた。ここに一人いた。今度はそのおやじだが、そいつはどこにいる」  |わたし《私》はひと言も言うことができなかった。この話を聞いていたマチアは、車の中から出て来て、びっこをひきひき|わたし《私》のそばに寄った。ボブは巡査に、この子が罪人《ザイニ-ン》であるはずがない、なぜならゆうべ一時まで|いっしょ《一緒》にいたし、それから「大《おお》がしの宿屋」へ行って、そこの主人と話をして、すぐここへ帰って来たのだからと言った。 「寺へ|はい《入》ったのは一時十五分過《一時’十五分過》ぎだった」と巡査が言った。「するとこの子がここを出たのは一時だから、それから仲間に会って、寺へ行ったにちがいない」 「ここから町までは十五分以上かかります」とボブが言った。 「なに、か《駆》ければ行けるさ」と巡査が答えた。「それに、こいつが一時にここを出たという確かな証拠があるか」 「|わたし《私》が証人です。|わたし《私》はちかいます」とボブが|さけ《叫》んだ。  巡査は肩をそびやかした。 「まあ子どもが判事の前へ出て、自分で陳述するがいい」と|かれ《彼》は言った。  |わたし《私》が引かれて行くときに、マチアは|わたし《私》の首に|うで《腕》をかけた。それはあたかも、|わたし《私》をだこうとしたもののようであったが、マチアにはほかの考えがあった。 「しっかりしたまえ」と|かれ《彼》はささやいた。「|ぼく《僕》たちは|きみ《君》を見捨てはしないよ」 「カピを見てやってくれたまえ」と|わたし《私》はフランス語で言った。けれど巡査は|ことば《言葉》を知っていた。 「おお、どうして」と|かれ《彼》は言った。「この犬は|わし《儂》が預かる。この犬のおかげで|きさま《貴様》を見つけたのだ。もう一人もこれで見つかるかもしれない」  巡査に手錠をかわれて、|わたし《私》は|おお《大》ぜいの目の前を通って行かなければならなかった。けれどこの人たちは|わたし《私》がまえにつかまったときの、フランスの百姓のように、|はずかし《辱》めたりののしったりはしなかった。この人たちはたいてい巡査に敵意を持っていた。|かれ《彼》らはジプシー族や浮浪者であった。どれも|宿な《宿無》しの浮浪人であった。  今度拘引《今度’拘引》された留置場にはねぎが転がしてはなかった。これこそ|ほんとう《本当》の牢屋で、窓には鉄の棒がはめてあって、それを見ただけで、もうどうでもに《逃》げ出したいという気を起こさせた。部屋にはたった一つの|こしか《腰掛》けと、ハンモックがあるだけであった。|わたし《私》は|こしか《腰掛》けにぐったり|たお《倒》れて、頭を両手にうずめたまま、長いあいだじっとしていた。マチアとボブは、よし、ほかの仲間の加勢を|たの《頼》んでも、とてもここから|わたし《私》を救い出すことはできそうもなかった。|わたし《私》は立ち上がって窓の所へ行った。鉄の格子は|がんじょう《頑丈》で、目が細かかった。|かべ《壁》は三尺《サンシャク》(約一メートル)も厚みがあった。下の|ゆか《床》は大きな石がしきつめてあった。ドアは厚い鉄板をかぶせてあった。どうしてにげるどころではなかった。  |わたし《私》はカピがお寺にいたという事実に対して、自分の無罪を証拠だてることができるであろうか。マチアとボブとは、|わたし《私》が現場《ゲンジョウ》にいなかったという証人になって、|わたし《私》を助けることができようか。|かれ《彼》らがこれを証明することさえできたら、あのあわれな犬が、|わたし《私》のために|つごう《都合》悪く提供した無言の証明があるにかかわらず、放免になるかもしれない。看守が食べ物を持って来たとき、|わたし《私》は判事の前へ出るのは、手間がとれようかと聞いた。|わたし《私》はそのときまで、イギリスでは、拘引されたあくる日、裁判所へ呼ばれるということを知らなかった。親切な人間らしい看守は、きっとそれはあしただろうと言った。  |わたし《私》は囚人が差し入れの食べ物の中に、よく友だちからの内証《内緒》の|こと《言》づけを見つけるという話を聞いていた。|わたし《私》は食べ物に手がつかなかったが、ふと思いついて、パ《/パ》ンを割り始めた。|わたし《私》は中《ナカ》になにも見つけなかった。パンと|いっしょ《一緒》についていたじゃがいもをも粉|ごな《々》にくずしてみたが、ごくちっぽけな紙きれをも見つけなかった。  |わたし《私》はその晩|ねむ《’眠》られなかった。つぎの朝看守《朝’看守》は水の|はい《入》ったかめと|金だらい《金盥》を持って、|わたし《私》の部屋に|はい《入》って来た。|かれ《彼》は顔を洗いたければ洗えと言って、これから判事の前へ出るのだから、身なりをきれいにすることは損にはならないと言った。しばらくしてまた看守はやって来て、あとについて来いと言った。|わたし《私》たちはいくつか|ろうか《廊下》を通って、小さなドアの前へ来ると、|かれ《/彼》はそのドアを開けた。 「おはいり」と|かれ《彼》は言った。  |わたし《私》の|はい《入》った部屋は|たいへん《大変》せま苦しかった。おおぜいのわやわやい《言》うつぶやきをも聞いた。|わたし《私》のこめかみはぴくぴく波《’波》を打って、ほとんど立っていることができないくらいであったが、そこらの様子を見ることはできた。  部屋は大きな窓と、高い天井があって、|りっぱ《立派》な構えであった。判事は高い台の上に|こし《腰》をかけていた。その前のすぐ下には、ほかの三人の裁判官が|こし《腰》をかけていた。そのそばに|わたし《私》は法服を着て、|かつら《鬘》をかぶった紳士と|いっしょ《一緒》に|なら《並》んだ。これが|わたし《私》の弁護士であることを知って、|わたし《私》は|おどろ《驚》いた。どうして弁護士ができたろう。どこからこの人はやって来たのだろう。  証人の席には、ボブと二人の仲間、「大《おお》がしの宿屋」の亭主、それから|わたし《私》の知らない|二、三人《ニサンニン》の人がいた。それから向こう側には|五、六人《ゴ六人》の人の中に、|わたし《私》を拘引した巡査を見つけた。検事は二言三言で、罪状を陳述した。セント・ジョージ寺で窃盗事件があった。|どろぼう《泥棒》はおとなと子どもで、はしごを登って|はい《入》るために、窓をこわした。|かれ《彼》らは外へ張り番の犬を置いた。一時十五分過《一時’十五分過》ぎにおそい通行人が寺の明かりを見つけて、すぐに寺男を起こした、《:、》|五、六人《ゴ六人》、人が寺へかけつけると、犬ははげしくほ《吠》えて、|どろぼう《泥棒》は犬をあとに残したまま、窓からにげた。犬の|ちえ《知恵》はおどろくべきものであった。つぎの朝その犬を巡査が競馬場へ連れて行った。そこで|かれ《彼》はすぐと主人を認識した。それはすなわち現に囚人席にいる子どもにほかならなかった。なお一人の共犯者に対しては、追跡中であるからほどなく捕縛の手続きをするはずである。  |わたし《私》のために言われたことはいたってわずかであった。|わたし《私》の友人たちは|わたし《私》が現場《ゲンジョウ》にいなかったという証言をしたけれども、検事は、いや、寺へ行って共犯者に出会って、それから「大《おお》がしの宿屋」へかけて行く時間はじゅうぶんあったと言った。|わたし《私》はそれからどうして犬が一時十五分《一時’十五分》ごろ寺にいたか、その理由を述べろと言われた。|わたし《私》は犬はま《-ま》る一日自分《一日’自分》のそばにいなかったのだから、それをなんとも言うことはできないし、|わたし《私》はなにも知らないと申し立てた。  |わたし《私》の弁護士は、犬がその日のうちに寺に迷いこんで、寺男が戸を閉めたとき、中へ閉めこまれたものであるということを証拠立《証拠だ》てようと努めた。|かれ《彼》は|わたし《私》のためにできるだけのことをしてくれたが、その弁護は力が弱かった。  そのとき判事はしばらく|わたし《私》を郡立刑務所へ送っておいて、いずれ巡回裁判の回って来るまで待つことにしようと言い|わた《渡》した。  巡回裁判。|わたし《私》は|こしか《腰掛》けに|たお《倒》れた。おお、なぜ|わたし《私》はマチアの言うことを聞かなかったのであろう。 ◇。◇。◇。 【第40章】 【ボブ】 ◇。◇。◇。  判事が子どもを連れて寺へ|はい《入》った|どろぼう《泥棒》の捕縛を待つために、|わたし《私》はとうとう放免されなかった。|かれ《彼》らはそのときになって、|わたし《私》がその男の共犯者であるかどうか初めて決めようと言うのである。  |かれ《彼》らはただいま追跡中であると検事が言った。そうすると、|わたし《私》はその男と|なら《並》んで、囚人席に入《-い》れられて、巡回裁判官の前に出る恥辱と苦痛をしのばなければならないのであろう。  その晩日《晩’日》のくれかかるまえ、|わたし《私》ははっきりとコルネの音を聞いた。マチアが来ているのだ。なつかしいマチアよ。|かれ《彼》はじきそばに来て、|わたし《私》のことを思っていることを知らそうとしたのであった。|かれ《彼》はまさしく窓の外の往来にいるのであった。|わたし《私》は足音と|おお《大》ぜいのぶつぶつ言う声を聞いた。マチアとボブが、きっと演芸を始めているのであった。  ふと|わたし《私》はよくとおる声で、「あした夜明けに」とフランス語で言う声を聞いた。|わたし《私》はそれがなんのことだか確かにはわからなかった。とにかくあしたの夜明けにはしっかり気を張っていなければならなかった。  暗くなるとさっそく|わたし《私》はハンモックに|はい《入》った。たいへん|つか《疲》れてはいたけれど、|ねこ《寝込》むにはなかなか手間がとれた。そのうちやっとぐっすり|ねこ《寝込》んだ。目が覚めるともう夜中であった。星は暗い空にかがやいて、沈黙がすべてを支配していた。時計《トケイ》は三時を打った。|わたし《私》はこれで一時間、これで十五分と勘定していた。|かべ《壁》によりかかりながら、じっと目を窓に向けて、星が一つ一つ消えてゆくのをながめた。遠方には鶏《鳥》が|とき《時》を作る声が聞こえた。もう明け方であった。  |わたし《私》はごく静かに窓を開けた。なにがそこにあったか。相変わらず鉄の格子と、高い|かべ《壁》が前にあった。|わたし《私》は出ることができない。けれど|ばか《馬鹿》げた考えではあっても、|わたし《私》は自由になることを待ちもうけていた。  朝の風が耳がちぎれるように寒かっ《-っ》たけれど、|わたし《私》は窓のそばに立ち止まって、なにを見るということなしに見て、なにを聞くということなしに耳を立てた。  大きな白い雲が空にう《浮》かんだ。夜明けであった。|わたし《私》の心臓ははげしく鼓動した。  すると|かべ《壁》をがりがり引っかく音が聞こえた。でも足音をすこしも聞かなかった。|わたし《私》は耳をす《澄》ませた。引っかく音が続いた。ぬっと人の頭が|かべ《壁》の上に現れた。うす暗い光の中に|わたし《私》はボブを見つけた。  |かれ《彼》は鉄格子に顔をおしつけて、|わたし《私》を見た。 「静かに」と|かれ《彼》はそ《’そ》っと言った。  |かれ《彼》は|わたし《私》に窓からどけという合図をした。|ふしぎ《不思議》に思いながら、|わたし《私》は服従した。|かれ《彼》は豆鉄砲を口に当ててふいた。かわいらしい鉄砲玉が空をまって、|わたし《私》の足もとに落ちた。ボブの頭が消えた。  |わたし《私》は弾丸をわしづかみにつかんだ。それはうすい紙を|まめ《豆》のように小さい玉に丸めたものであった。明かりがあんまり暗いので、なにが書いてあるか見えなかった。夜の明けるまで待たなければならなかった。|わたし《私》はそ《’そ》っと窓を閉めて、小さな紙玉を手に持ったまま、またハンモックに転がった。光の来ることのどんなにおそいことぞ。やっと|わたし《私》はその紙に書いてある文字を読むことができた。それにはこうあった。 「あした|きみ《君》は汽車に乗せられて、郡立刑務所へ送られるはずだ。巡査が一人ついて行くことになっている。|きみ《君》は汽車の戸口に近い所にいたまえ。よく勘定していたまえ、四十五分目に汽車は連結点の近くで速力をゆるめる。そのときドアを開けてとびだしたまえ。左手の小山《コヤマ》を登れば、われわれはそこに待っている。しつ《っ》かりやれ。なによりもうまく前へとんで、足を下に着くことだ」  助かった。|わたし《私》は巡回裁判の前に出ないですむ。ありがたい、マチア。それから、ボブ。マチアに加勢してくれるボブはずいぶんいい人だ。かわいそうにマチア一人では、とてもこれだけできやしない。  |わたし《私》は書きつけを二度読《二度’読》み直した。汽車が出てから四十五分‥《‥:》‥左手の小山《コヤマ》‥《‥:》‥汽車からと《跳》び下りるのは|けんのん《剣呑》な仕事だ。でもそれをやり損なって死んでも、したほうがいい。|どろぼう《泥棒》の宣告を受けて死ぬより|まし《マシ》だ。  |わたし《私》はまたもう一度書《一度’書》きつけを読んでから、それをくちゃくちゃにかんでしまった。  そのあくる日の午後、巡査は監房に|はい《入》って来て、すぐついて来いと言った。|かれ《彼》は五十以上の男であった。|わたし《私》は|かれ《彼》がたいしてはしっこそうでないのを見て、まずよしと思った。  事件はボブが言ったように進んで行った。汽車は走り出した。|わたし《私》は汽車の戸口に席をしめた。巡査は|わたし《私》の前に|こし《腰》をかけた。車室の中は|わたし《私》たちだけであった。 「おまえはイギリス語がわかるか」と巡査はたずねた。 「あまり早く言われなければわかります」と|わたし《私》は答えた。 「そうか。よし。それでは少しおまえに相談がある」と|かれ《彼》は言った。「法律をあなどらないようにしろ。まあどういうしだいの事件だか、話してごらん。おまえに五シルリングやる。牢の中で金《-かね》を持っていればよけい気楽だ」  |わたし《私》はなにも白状することがないと言おうとしたが、そう言うと巡査をおこらせるだろうと思って、なにも言わなかった。 「まあ、よく考えてごらん」と|かれ《彼》は続けた。「で、刑務所へ行っても、向こうで、いちばん先に来た者に言わないで、|わたし《私》の所へそう言ってお寄こし。おまえのことを心配している人間のあることは、|つごう《都合》のいいことだし、|わたし《私》は喜んでおまえの加勢をしてやる」  |わたし《私》は|うなず《頷》いた。 「ドルフィンさんと言ってお聞き。おまえ、名前を覚えたろうなあ」 「ええ」  |わたし《私》はドアによりかかっていた。窓はあいていて、風がふきこんだ。巡査は|あま《余》り風が|はい《入》ると言って、|こしか《腰掛》けのまん中へ席を移した。|わたし《私》の左の手がそっと外へ回ってハンドルを回した。右の手で|わたし《私》はドアをつかんだ。数分間たった。汽笛が鳴って速力がゆるんだ。  いよいよ|だいじ《大事》な|しゅんかん《瞬間》が来た。|わたし《私》は急《せ》いてドアをおし開けて、できるだけ遠くへとんだ。運よく前へ出していた|わたし《私》の手が草にさわった。でも震動はずいぶんひどかったから、|わたし《私》は人事不省で地べたに転がった。|わたし《私》が正気に返ったとき、|わたし《私》はまだ汽車の中にいると思った。|わたし《私》はまだ運ばれているように感じたのであった。そこらを見回して、|わたし《私》は馬車の中に転がっていることを知った。|きみょう《奇妙》だ。|わたし《私》のほおはしめっていた。やわらかな温かい舌が、|わたし《私》をな《舐》めていた。少しふり向くと、|一ぴき《一匹》の黄色い、みっともない犬が|わたし《私》の顔をのぞきこんでいた。マチアが|わたし《私》のそばにひざをついていた。 「|きみ《君》は助かったよ」と|かれ《彼》は言って、犬をおしのけた。 「|ぼく《僕》はどこにいるんだ」 「|きみ《君》は馬車の中だよ。ボブが御者をしている」 「どうだな」とボブが御者台から声をかけた。「手足が動かせるか」  |わたし《私》は手足をのばして、|かれ《/彼》の言うとおりにした。 「よし」とマチアは言った。「どこもくじきやしない」 「どうしたんだ」 「|きみ《君》は|ぼく《僕》らの言ったとおりに、汽車からと《跳》び下りた。だが震動で目が回って、みぞの中に転がりこんだ。|きみ《君》がいつまでも来ないから、ボブが馬車を下りて、小山《コヤマ》をか《駆》け下りて、|きみ《君》を|うで《腕》にひっかかえて帰って来た。|ぼく《僕》らは|きみ《君》が死んだと思ったよ。まったく心配したよ」  |わたし《私》は|かれ《彼》の手をさすった。 「それから巡査は」と|わたし《私》は聞いた。 「汽車はあのまま進んだ。止まらなかった」  |わたし《私》の目はまた、そばで|わたし《私》をながめている、みにくい黄色い犬の上に落ちた。  それはカピに似ていた。でもカピは白《シロ》かった。 「なんだね、この犬は」と|わたし《私》はたずねた。  マチアが答える間もないうちに、そのみっともない小さな動物は|わたし《私》の上にと《跳》びかかった。はげしくな《舐》め回して、くんくん鳴いていた。 「カピだよ。絵|の具《具》で染めたのだよ」とマチアが笑いながら|さけ《叫》んだ。 「染めた、どうして」 「だって見つからないようにさ」  ボブとマチアが馬車の中にうまく|わたし《私》をかくすようにくふうしてくれているあいだに、|わたし《私》は、いったいこれからどこへ行くのだとたずねた。 「リツル・ハンプトンへ」とマチアが言った。「そこへ行けば、ボブのにいさんが船を持っていて、ノルマンデーからバターと卵を運んで、フランスの海岸を回っているのだ。|ぼく《僕》らはなにからなにまでボブの世話になった。|ぼく《僕》のようなちっぽけな者が、一人でなにができよう。汽車からと《跳》び下りるくふうもボブが考えたのだ」 「それからカピは。カピをうまく取り返したのは|だれ《誰》だ」 「|ぼく《僕》だよ。だが、|ぼく《僕》らが犬を交番から取りもどしたあとで、見つからないように黄色く絵|の具《具》をぬったのはボブだった。判事はあの巡査を気が利いていると言った。だがカピを連れて行かれるのは、あんまり気が利いたと言えない。もっともカピは|ぼく《僕》の|にお《匂》いをか《嗅》ぎつけて、ほとんど一人で出て来た。ボブは犬|どろぼう《泥棒》の術を知っているのだ」 「それから|きみ《君》の足は」 「よくなったよ。たいていよくなったよ。じつは|ぼく《僕》は足のことを考えているひまがなかった」  夜になりかかっていた。|わたし《私》たちはまだ長い道を行かなければならなかった。 「|きみ《君》はこわいか」と|わたし《私》がだまって転がっていると、マチアがたずねた。 「いや、こわくはない」と|わたし《私》は答えた。「だって|ぼく《僕》はつかまるとは思わないから。でもに《逃》げ出すということが罪になりやしないかと思うのだ。それが気になるのだ」 「ボブも|ぼく《僕》も、|きみ《君》を巡回裁判に出すぐらいなら、なにをしてもいいと思ったからな」  あれから、汽車が止まったところで、巡査がさっそく捜索にかかることは確かなので、|わたし《私》たちは|いっしょうけんめい《一生懸命’》馬を走らせた。|わたし《私》たちの通って行く村は、|ひじょう《非常》に静かであった。明かりがただ二つ三つ窓に見えた。マチアと|わたし《私》は毛布の下に|もぐ《潜》った。しばらくのあいだ寒い風がふいていた。くちびるに舌を当てると、塩からい味がした。ああ、|わたし《私》たちは海に近づいていた。  まもなく|わたし《私》たちは、ときどき明かりのちらちらするのを見つけた。それが灯台であった。ふとボブは馬を止めて、馬車からとび下りながら、|わたし《私》たちに待っていろと言った。|かれ《彼》は兄弟の所へ行って、|わたし《私》たちをその船に乗せて、安全に向こう岸までわたれるか、様子を聞きに行ったのであった。  ボブは|ひじょう《非常》に遠くへ行ったらしかった。|わたし《私》は口をきかなかった。すぐ間近の岸に、波のくだける音が聞こえた。マチアはふるえていた。|わたし《私》もふるえていた。 「寒いね」と|かれ《彼》はささやいた。|わたし《私》たちをふるえさせるのは寒さのためだけであったろうか。  やがて往来に足音がした。ボブは帰って来た。|わたし《私》の運命が決められた。胴服《胴フク》を着て油じみた|ぼうし《帽子》をかぶった|ぶこつ《/無骨》な顔つきの船乗りが、ボブと|いっしょ《一緒》に来た。 「これが|ぼく《僕》の兄貴だ」とボブが言った。「|きみ《君》たちを船に乗せて行ってくれるはずだ。そこで|ぼく《僕》はここでお別れとしよう。|だれ《誰》も|ぼく《僕》が|きみ《君》をここへ連れて来たことを知るはずがないよ」  |わたし《私》はボブに礼を言おうとしたが、|かれ《/彼》は手短に打ち切った。|わたし《私》は|かれ《彼》の手をにぎった。 「それは言いっこなしだ」と|かれ《彼》は軽く言った。「|きみ《君》たち二人は、このあいだの晩ぼくを助けてくれた。いいことをすればいい報いがあるさ。それで|ぼく《僕》もマチアの友だちを助けてあげることができたのだから、自分でも|ゆかい《愉快》だ」  |わたし《私》たちはボブの兄弟のあとについて、いくつか折れ曲がった静かな通《-とお》りを通って、波止場に着いた。|かれ《彼》はひと言も口をきくことなしに、|一そう《一艘》の小さい帆船を指さした。|二、三分《ニサンプン》で|わたし《私》たちは甲板の上にいた。|かれ《彼》は|わたし《私》たちに下の小さな船室に|はい《入》れと《-と》言った。 「二時間すれば船を出す」と|かれ《彼》は言った。「そこに|はい《入》って、音のしないようにしておいで」  でも|わたし《私》たちはもう|ふる《震》えてはいなかった。|わたし《私》たちはま《真》っ暗な中で肩をならべて|すわ《座》っていた。 ◇。◇。◇。 【第41章】 【白鳥号】 ◇。◇。◇。  ボブの兄弟が立ち去ったあと、しばらくのあいだ|わたし《私》たちは、ただ風の音と、キールにぶつかる波の音を聞くだけであった。やがて足音が上の甲板に聞こえて、滑車が回りだした。帆が上げられて、やがて急に一方にかしいだ。動き始めたと思うまもなく、船はあらい海の上へぐんぐんすべり出した。 「マチア、気の|どく《毒》だね」と|わたし《私》は|かれ《彼》の手を取った。 「かまわないよ。助かったのだから」と|かれ《彼》は言った。「船に酔ったってなんだ」  そのあくる日、|わたし《私》は船室と甲板の間に時間を過ごした。マチアは一人うっちゃっておいてもらいたがった。とうとう船長が、あれがバルフルールだと指さしてくれたとき、|わたし《私》は急いで船室に下りて、|かれ《/彼》にいい知らせを伝えようとした。  もう、バルフルールに着いたときは、夕方おそくなっていたので、ボブの兄弟は|わたし《私》たちによければ今夜一晩船《/今夜’一晩’船》の中でね《寝》て行ってもいいと言った。 「おまえさんがまたイギリスへ帰りたいと思うときには」とそのあくる朝、|わたし《私》たちがさようならを言って、|かれ《/彼》の骨折りを感謝すると、こう言った。「エクリップス号は毎火曜日ここから出帆するのだから、覚えておいで」  これはうれしい好意であったが、マチアにも|わたし《私》にも、てんでん、この海を二度と|わた《渡》りたくない‥《‥:》‥ともかくも、ここしばらくは|わた《渡》りたくないわけがあった。  運よく|わたし《私》たちの|かく《隠》しには、ボブの興行を手伝って|もう《儲》けたお金があった。みんなで二十七フランと五十サンチームあった。マチアはボブに二十七フランを、|わたし《私》たちの逃亡のために骨を折ってくれた礼にやりたいと思ったが、|かれ《/彼》は一《1》スーの金《-かね》も受け取らなかった。 「さてどちらへ出かけよう。」|わたし《私》はフランスへ上陸するとこう言った。 「運河について行くさ」とマチアはすぐに答えた。「|ぼく《僕》は考えがあるのだ。|ぼく《僕》はきっと白鳥号がこの夏は運河に出ていると思うよ。アーサが悪いのだからね。|ぼく《僕》はきっと見つかるはずだと思うよ」と|かれ《彼》は言い足した。 「でもリーズやほかの人たちは」と|わたし《私》は言った。 「|ぼく《僕》たちはミリガン夫人を探しながら、あの人たちにも会える。運河をのぼって行きながらとちゅう止まってリーズをたずねることができる」  |わたし《私》たちは持って来た地図で、いちばん近い川を探すと、それはセーヌ川であることがわかった。 「|ぼく《僕》たちはセーヌ川をのぼって行って、とちゅう岸で会う船頭に片っぱしから白鳥号を見たかたずねようじやないか。|きみ《君》の話では、その船はだいぶなみの船とはちがうようだから、見れば覚えているだろうよ」  これからおそらく続くかもしれない長い旅路にたつまえに、|わたし《私》はカピの|からだ《体》を洗ってやるため、やわらかい石|ケン《鹸》を買った。|わたし《私》にとっては、黄色いカピは、カピではなかった。|わたし《私》たちは代わりばんこにカピをつかまえては、|かれ《/彼》がいやになるまでよく洗ってやった。でもボブの絵|の具《具》は上等な絵|の具《具》で、洗ってやってもやはり黄色かった。だがいくらか青みをもってはきた。それで|かれ《彼》をもとの色に返すまでには、ずいぶんたびたび石|ケン《鹸》浴をやった。幸いノルマンデーは小川の多い地方であったから、毎日わたしたちは根気よく行水をつかってやった。  |わたし《私》たちはある朝小山《朝’小山》の上に着いた。|わたし《私》たちの前途に当たって、セーヌ川が大きな曲線を作って流れているのを見た。それから進んで行って、|わたし《私》たちは会う人ごとにたずね始めた。あの|ろうか《廊下》のついた美しい船の白鳥号を見たことはないか─《─:》─|だれ《誰》もそれを見た者はなかった。きっと夜のうちに通ってしまったのかもしれなかった。|わたし《私》たちはそれからルーアンへ行った。そこでもまた同じ問いをくり返したが、やはりいい結果は得られなかった。でも|わたし《私》たちは失望しないで、一人ひとりたずねながらずんずん進んだ。  行く道みち食べ物を買う金《-かね》を取るために、足を止めなければならなかったから、やがてパリの郊外へ着くまでは五日間かかった。  幸いシャラントンに着くと、まもなくどの方角に向かっていいか見当がついた。さっそく例の|だいじ《大事》な質問を出すと、初めて|わたし《私》たちは待ちもうけていた返答を受け取った。白鳥号《ハクチョウ号》に似た大きな遊山船が、この道を通ったが、左のほうへ曲がって、セーヌ川をずんずん上って行った、というのであった。  |わたし《私》たちは岸の近くに下《-お》りてみた。マチアは船頭たちの中で舞踏曲をやることになったので、|たいへん《大変》はしゃぎきっていた。とつぜんダンスをやめて、ヴァイオリンを持って、マチアは気|ちが《違》いのように凱旋マーチをひいた。|かれ《彼》がひいているまに、|わたし《私》はその船を見たという男によくたずねた。疑いもなくそれは白鳥号であった。なんでもそれはふた月ほどまえ、シャラントンを通って行った。  ふた月か。なんという遠い話であろう。だがなにを|ちゅうちょ《躊躇》することがあろう。|わたし《私》たちにも足がある。向こうも二|ひき《匹》のいい馬の足がある。でもいつか追い着くであろう。ひまのかかるのはかまったことではない。なにより|だいじ《大事》な、しかも|ふしぎ《不思議》なことは、白鳥号《ハクチョウ号》がとうとう見つかったということであった。 「ねえ、まちがってはいなかった」とマチアが|さけ《叫》んだ。  |わたし《私》に勇気があれば、マチアに向かって、|わたし《私》が|ひじょう《非常》に大きな希望を持っていることを打ち明けたかもしれない。けれど|わたし《私》は自分の心を自分自身にすら細かく解剖することができなかった。|わたし《私》たちはもういちいち立ち止まって人に聞く必要はなかった。白鳥号《ハクチョウ号》が|わたし《私》たちの先に立って進んで行く。|わたし《私》たちはただセーヌ川について行けばいいのだ。|わたし《私》たちは道みちリーズのいる近所を通りかけていた。|わたし《私》は|かの《彼》女がその家《’家》のそばの岸を船の通るとき、見ていなかったろうかと疑った。  夜になっても、|わたし《私》たちはけっしてつかれたとは言わなかった。そしてあくる朝は早くから出かける仕度をしていた。 「|ぼく《僕》を起こしてくれたまえ」と|ねむ《眠》ることの好きなマチアは言った。  それで|わたし《私》が起こすと、|かれ《/彼》はすぐにとび起きた。  倹約するために|わたし《私》たちは荒物屋で買ったゆで卵と、パ《/パ》ンを食べた。でもマチアはうまいものはたいへん好んでいた。 「どうかミリガン夫人が、そのタルトをうまくこしらえる料理番をまだ使っているといいなあ」と|かれ《彼》は言った。「あんずのタルトはきっとおいしいにちがいない」 「|きみ《君》はそれを食べたことがあるかい」 「|ぼく《僕》はりんごのタルトを食べたことはあるが、あんずのタルトは知らない。見たことはあるよ。あの黄色いジャムの上にいっぱいくっついている、白い小さなものは《は’》なんだね」 「はたんきょうさ」 「|へええ《ヘエエ》。」こう言ってマチアはまるでタルトを一口にうのみにしたように口を開いた。  水門にかかって、|わたし《私》たちは白鳥号の便りを聞いた。|だれ《誰》もあの美しい小舟《小船》を見たし、あの親切なイギリスの婦人と、甲板の上のソファに|ねむ《眠》っている子どものことを話していた。  |わたし《私》たちはリーズの家の近くに来た。もう二日、それから一日、それからあとたった|二、三時間《ニサン時間》というふうに近くなってきた。やがてその家《’家》が見えてきた。|わたし《私》たちはもう歩いては《は’》いられない。か《駆》け出した。どこへ|わたし《私》たちが行くかわかっているらしいカピは、先に立って勢いよく走った。|かれ《彼》は|わたし《私》たちの来たことをリーズに知らせようとしたのであった。|かの《彼》女は|わたし《私》たちを|むか《迎》えに来るだろう。  けれども|わたし《私》たちがその家《’家》に着いたとき、戸口には知らない女の人が一人立《一人た》っているだけであった。 「シュリオのおかみさんはどうしました」と|わたし《私》はたずねた。  しばらくのあいだ|かの《彼》女は、|ばか《馬鹿》なことを聞くよ、と言わないばかりに、|わたし《私》たちの顔をながめた。 「あの人はもうここにはいませんよ」とやっと|かの《彼》女は言った。「エジプトに行っていますよ」 「なにエジプトへ」  マチアと|わたし《私》はあきれて顔を見合わせた。|わたし《私》たちは|ほんとう《本当》にエジプトのある位置をよくは知らなかったが、それはぼんやりごくごく遠い海をこえて向こうのほうだと思っていた。 「それからリーズはどうしたでしょう。知っていますか」 「ああ、小さなおしの|むすめ《娘》だね。そう、あの子は知っているよ。あの子はイギリスの|おく《奥》さんと船に乗って行きましたよ」 「へえ、リーズが白鳥号に」  |ゆめ《夢》を見ているのではないか。マチアと|わたし《私》はまた顔を見合った。 「おまえさん、ルミさんかい」とそのとき女は《は’》たずねた。 「ええ」 「まあ、シュリオさんは、水で死にましたよ‥‥」 「ええ、水で死んだ」 「そう、あの人は水門に落ちて、|くぎ《釘》にひっかかって死んだのだ。それから気の|どく《毒》なおかみさんはどうしていいかわからずにいた。するとあの人が先《セン》にお|よめ《嫁》に来るまえに奉公していた|おく《奥》さんが、エジプトへ行くというので、その|おく《奥》さんに|たの《頼》んで子どもの乳母《ウバ》にしてもらった。そうなるとリーズはどうしていいかわからずに困っていたところへ、イギリスの|おく《奥》さんと病身の子どもが船に乗って運河を下りて来た。その|おく《奥》さんと話をしているうち、|おく《奥》さんはいつも独りぼっちで|たいくつ《退屈》している|むすこ《息子》さんの|遊び《アソビ》相手を探しているところなので、リーズをもらって行って、教育してみようと言ったのさ。|おく《奥》さんの言うのには、この子を医者にみせたら、おしが治っていつか口《’口》がきけるようになろうということだからと言った。それでいよいよた《発》って行くときに、リーズがおばさんに、もしおまえさんがここへ訪ねて来たら、こうこう言ってくれという|こと《言》づけを|たの《頼》んで行ったそうだ。それだけですよ」  |わたし《私》はなんと言おうか、|ことば《言葉》の出ないほど|おどろ《驚》いた。でもマチアは|わたし《私》のようにぼんやりはしなかった。 「そのイギリスの|おく《奥》さんはどこへ行ったでしょう」 「スイスへね。リーズは|わたし《私》の所に向けて、おまえさんにあげるあて名を書いて寄こすはずだったが、まだ手紙は受け取らないよ」 ◇。◇。◇。 【第42章】 【生きた証拠】 ◇。◇。◇。 「さあ、進め、子どもたち。」婦人に礼を言ってしまうと、マチアがこう|さけ《叫》んだ。 「こうなると|ぼく《僕》たちがあとを追うのは、アーサとミリガン夫人だけではなく、リーズまで|いっしょ《一緒》なのだ。なんという幸せだ。どういう回り合わせになるか、わかったものではないなあ」  |わたし《私》たちはそれからまた白鳥号探索の旅を続けた。ただ夜とまって、|ときどき《時々》すこしの金《-かね》を取るだけに足を止めた。 「スイスからはイタリアへ出るのだ」とマチアが感情をこめて言った。「もしミリガン夫人を追いかけて行くうちに、ルッカまで出たら、|ぼく《僕》の小さいクリスチーナがどんなにうれしがるだろうな」  気の|どく《毒》なマチア、|かれ《/彼》は|わたし《私》のために、|わたし《私》の愛する人たちを探すことに骨を折っている。しかも|わたし《私》は|かれ《彼》を小さな妹に会わせるためにはすこしも骨を折ってはいないのだ。  リヨンで、|わたし《私》たちは、白鳥号《ハクチョウ号》の便りを聞いた。それはほんの六週間わたしたち《ち’》より|まえ《前》にそこを通ったのであった。それではいよいよスイスまで行かないうちに追い着くかもしれないと思った。そのときはまだ、ローヌ川からジュネーヴの湖水までは船が通らないことを知らなかった。|わたし《私》たちはミリガン夫人がまっすぐに船でスイスへ行ったものと思っていた。  するとそのつぎの町でふと白鳥号の姿を遠くに見つけたとき、どんなに|わたし《私》はびっくりしたであろう。|わたし《私》たちは河岸《カシ》についてか《駆》け出した。どうしたということだ。小舟《小船》の上はどこもここも閉めきってあった。|ろうか《廊下》の上に花もなかった。アーサはどうかしたのかしらん。|わたし《私》たちはおたがいに同じような|しず《沈》みきった顔を見合わせながら立ち止まった。  するとそのとき船を預かっていた男が|わたし《私》たちに、イギリスの|おく《奥》さんは病人の子どもと、おしの小|むすめ《娘》を連れてスイスへ出かけたと言った。|かれ《彼》らは一人女中《ひとり’女中》を連れて、馬車に乗って行った。あとの家来は荷物を運びながら、続いて行った。  これだけ聞いて、|わたし《私》たちはまた息が出た。 「それで|おく《奥》さんはどちらに行かれたのでしょう」とマチアがたずねた。 「|おく《奥》さんはヴヴェーに別荘を持っておいでだ。だがどの|へん《辺》だかわからない。なんでも夏はそこへ行ってく《暮》らすことになっているのだ」  |わたし《私》たちはヴヴェーに向かって出発した。もう向こうはずんずん歩いて行く旅ではない、足を止めているのだから、ヴヴェーへ行って探せば、きっとわかる。  こうして|わたし《私》たちがヴヴェーに着いたときには、|かく《隠》しに三スーの金《-かね》と、|かかと《踵》をすり切った長ぐつだけが残った。でもヴヴェーは思ったように小さな村ではなかった。それはかなりな町で、ミリガン夫人はとか、病人の子どもとお《’お》しの|むすめ《娘》を連れたイギリスの|おく《奥》さんはとか言ってたずねたところで、いっこう|ばか《馬鹿》げていることがわかった。ヴヴェーにはずいぶんたくさんのイギリス人がいた。その場所はほとんどロンドン近くの遊山場《遊山バ》によく似ていた。いちばんいい|しかた《仕方》は、あの人たちが住んでいそうな家を一|けん《軒》一|けん《軒’》探して歩くことである。そしてそれはたいしてむずかしいことではないであろう。|わたし《私》たちはただ町まちで音楽をやって歩けばいいのだ。  それで毎日根《毎日こん》よくほうぼうへ出かけて、演芸をやって歩いた。けれどまだミリガン夫人の手がかりはなかった。  |わたし《私》たちは湖水から山へ、山から湖水へ、右左を見て、しじゅう往来の人の顔つきをのぞいたり、|ことば《言葉》を聞いて、返事をしてくれそうな人にたずねて歩いた。ある人は|わたし《私》たちを山の中腹に造りかけた別荘へ行かせた。また一人は、その人たちは湖水のそばに住んでいると断言した。なるほど山の別荘に住んでいるのもイギリスの|おく《奥》さんであった。湖水のそばに家を持っていたのもイギリスの|おく《奥》さんであったが、|わたし《私》たちのたずねるミリガン夫人ではなかった。  ある日の午後、|わたし《私》たちは例のとおり往来のま《真》ん中で音楽をやっていた。そこに大きな鉄の門のある家があった。母屋《母家》は園《-その》のおくに引っこんで建っていた。前には石の|かべ《壁》があった。|わたし《私》はありったけの高い声で歌を歌っていた。例のナポリの小唄の第一節《第’一節》を歌って第二節にかかろうとしていたとき、か細い|きみょう《奇妙》な声で歌う声がした。|だれ《誰》だろう。なんという|ふしぎ《不思議》な声だろう。 「アーサじゃないかしら」とマチアが聞いた。 「いいや、アーサではない。|ぼく《僕》はこれまであんな声を聞いたことがなかった」  けれどそのうちカピがくんくん言い始めた。はげしい歓喜の表情のありったけを見せて、|かべ《壁》に向かってと《跳》びかかっていた。 「|だれ《誰》が歌を歌っているのだ」と、|わたし《私》はもう自分をおさえることができなくなって|さけ《叫》んだ。 「ルミ」と、そのときその|きみょう《奇妙》な《な-》か細い声が|さけ《叫》んだ。いまの|わたし《私》の|ことば《言葉》に返事をする代わりに、|わたし《私》の名前を呼んだのだ。  マチアと|わたし《私》は|かみなり《雷》に打たれたようにおたがいに顔を見合わせた。|わたし《私》たちがあっけにとられて、てんでんの顔を見合ったまま立っていると、|かべ《壁》の向こうにハンケチが一枚ひらひらしているのが見えた。|わたし《私》たちはそこへか《駆》け出して行った。|わたし《私》たちは、園《-その》の向こう側を取り巻いている|かきね《垣根》のそばまで行ってみて、初めてハンケチをふっている人を見つけた。 「リーズだ」  とうとう|わたし《私》たちは|かの《彼》女を見つけた。もう遠くない所にミリガン夫人も、アーサもいるにちがいなかった。 「でもだれが歌を歌ったのだろう」  これがマチアも|わたし《私》も、やっと|ことば《言葉》が出るといきなり持ち出した質問であった。 「|わたし《私》よ」とリーズが答えた。  リーズが歌っていた。リーズが話しかけていた。  医者は、いつかリーズが|かの《彼》女の|ことば《言葉》を取り返すだろう、それは|たぶん《多分》はげしい感動の場合だと言っていたが、|わたし《私》はそんなことができるはずがないと思っていた。でも目の前に奇跡は行われた。そしてそれは|わたし《私》が|かの《彼》女の所に来て、いつも歌い慣れたナポリ小唄を歌うのを聞いて、はげしい感動を起こした|しゅんかん《瞬間》に、|かの《/彼》女がその声を回復したことがわかった。|わたし《私》はそう思って、深く心を打たれたあまり、両手を延ばして|からだ《体》をまっすぐにした。 「ミリガン夫人はどこにいるの」と|わたし《私》はたずねた。「それからアーサは」  リーズはくちびるを動かしたが、ほんの聞き取れない音を出しただけで、じれったくなって、いつもの手まねの|ことば《言葉》になった。|かの《彼》女はまだ|ことば《言葉》を|ほんとう《本当》に出すだけに器用に舌が働かなかった。  |かの《彼》女はそのとき園《-その》を指さした。そこにアーサが病人用の|ねいす《寝椅子》にね《寝》ているのを見た。そのそばに母の夫人がいた。そしてもう一つこちらには‥《‥:》‥ジェイムズ・ミリガン氏がいた。  こわくなって、実際戦慄《実際’戦慄》して、|わたし《私》は|かきね《垣根》の後ろにはいこんだ。リーズは|わたし《私》がなぜそんなことをするか、|ふしぎ《不思議》に思ったにちがいない。そのとき|わたし《私》は手まねをして、|かの《/彼》女に向こうへ行かせた。 「おいで、リーズ。それでないと|ぼく《僕》が、災難に会うから」と|わたし《私》は言った。「あした九時にここへおいで。一人でだよ。そのとき話してあげるから」  |かの《彼》女はしばらく|ちゅうちょ《躊躇》したが、やがて園《-その》へ|はい《入》って行った。 「|ぼく《僕》たちはミリガン夫人に話をするのをあしたまで待っていてはいけない」とマチアが言った。「こう言ううちもあの悪おじさんがアーサを殺しかねない。あの人はまだ|ぼく《僕》の顔は知らないのだから、|ぼく《僕》はすぐにミリガン夫人に会いに行って話をする」  マチアの言うところに道理があったので、|わたし《私》は|かれ《彼》を出してやった。|わたし《私》はしばらくのあいだ、《、/》少し|はな《離》れた大きな|くり《栗》の木の|かげ《蔭》に待っていることにした。  |わたし《私》は長いあいだマチアを待った。十何度も、|わたし《私》は|かれ《彼》を出してやったのが、失敗ではなかったかと疑った。  やっとのことで、|わたし《私》は|かれ《彼》がミリガン夫人を連れて|もど《戻》って来るのを見た。|わたし《私》はあわてて夫人のほうへか《駆》けて行って、|わたし《私》に差し出された手をつかんで、その上に|からだ《体》をかがめた。しかし|かの《彼》女は両|うで《腕》を|わたし《私》の|からだ《体》に回して、こごみながら優しく|わたし《私》の額《ヒタイ》にキッスした。 「まあ、どうおしだえ」と夫人はつぶやいた。  夫人は美しい白い指で、|わたし《私》の額髪をなでて、長いあいだ|わたし《私》の顔を見た。 「そうだそうだ」と|かの《彼》女は優しく独り言をささやいた。  |わたし《私》は|あま《余》り幸福で、ひと言もものが言えなかった。 「マチアと|わたし《私》は長いあいだお話をしましたよ」と|かの《彼》女は言った。「でも|わたし《私》はあなたがどうしてドリスコルのうちへ行くようになったか、あなたの口から聞きたいと思うのですよ」  |わたし《私》は|かの《彼》女に問われるままに答えた。そして|かの《彼》女は、そのあいだときどき口をはさんで、所《ところ》どころ要点を確かめるだけであった。|わたし《私》はこれほどの熱心をもって話を聞いてもらったことがなかった。|かの《彼》女の目はすこしも|わたし《私》から|はな《離》れなかった。  |わたし《私》が話をしてしまったとき、|かの《/彼》女はしばらくだまって、|わたし《私》の顔を見つめていた。最後に|かの《彼》女は言った。 「これはなかなか重大なことだから、よく考えなければならない。けれどいまからあなたはアーサのお友だち‥‥」  こう言って|かの《彼》女はすこし|ちゅうちょ《躊躇》しながら、「兄弟だと思ってください。二時間たったら、ザルプというホテルへ来てください。さしあたりそこに待っていてくれれば、|だれ《誰》か人を寄こしてそちらへ案内させますから。ではしばらくごめんなさいよ」  ふたたび夫人は|わたし《私》にキッスした。そしてマチアと握手をして、足早に歩いて行った。 「|きみ《君》はミリガン夫人になにを話したのだ」と|わたし《私》はマチアに質問した。 「あの人がいま|きみ《君》に言っただけのことさ。それからまだいろいろなことをね」と|かれ《彼》は答えた。 「ああ、あの人は親切な|おく《奥》さんだね。|りっぱ《立派》な|おく《奥》さんだね」 「アーサにも会ったかい」 「ほんの遠方から。でも|りっぱ《立派》な子どもだということはよくわかった」  |わたし《私》はまだマチアに質問し続けた。けれども|かれ《彼》は、何事もぼんやりとしか答えなかった。  |わたし《私》たちは相変わらずぼろぼろの旅仕度であったが、ホテルでは黒の礼服に白のネクタイをした給仕に案内をされた。|かれ《彼》は|わたし《私》たちを居間へ連れて行った。|わたし《私》たちの寝部屋を|わたし《私》はどんなに美しいと思ったろう。そこには白い寝台《ネダイ》が|なら《並》んでいた。窓は湖水を見晴らす露台に向かって開いていた。給仕は「夕食にはなんでもお好みのものを」と言った。そうして、よければ露台へ食卓を出そうかとも言った。 「タルトがありますか」とマチアがたずねた。 「へえ、大黄のタルトでも、いちごのタルトでも、すぐりの実のタルトでも」 「よし。ではそのタルトをぜひ出してください」 「三種ともみんな出しますか」 「むろん」 「それからお食事は。肉はなんにいたしましょう。野菜は‥‥」  いちいちの口上にマチアは目を丸くした。でも|かれ《彼》はいっこう閉口したふうを見せなかった。 「なんでもいいように見計らってください」と|かれ《彼》は冷淡に答えた。  給仕はもったいぶって部屋を出て行った。  そのあくる日ミ《/ミ》リガン夫人は、|わたし《私》たちに会いに来た。|かの《彼》女は洋服屋とシャツ屋を連れて来た。|わたし《私》たちの服とシャツの寸法を計らせた。ミリガン夫人は、リーズがまだ話をしようと努めていることを話して、医者はもうじき治ると言っていると言った。それから一時間|わたし《’私》たちの所にいて、また|わたし《私》に優しくキッスし、マチアと固い握手をして、出て行った。  四日続けて|かの《彼》女は来た。そのたんびにだんだん優しくも、愛情深《愛情ぶか》くもなっていったが、やはりいくらか|ひか《控》え目にするところがあった。五日目に、|わたし《私》が白鳥号でおなじみになった女中が夫人の代わりに来て、ミリガン夫人が|わたし《私》たちを待ち受けている、もうお|むか《迎》えの馬車がホテルの門口に来ていると言った。マチアはさっそく一頭引《一頭び》きの馬車の上に、むかしから乗りつけている人のように乗りこんだ。カピもいっこうきまり悪そうなふうもなく中へと《跳》びこんで、ビロードのしとねの上にゆうゆうと上がりこんだ。  馬車の道はわずかであった。あまりわずかすぎたと思った。|わたし《私》は|ゆめ《夢》の中を歩いている人のように、|ばか《馬鹿》げた考えで頭の中がいっぱいであった。いや、すくなくとも|わたし《私》の考えたことは|ばか《馬鹿》げていたらしかった。|わたし《私》たちは客間に通された。ミリガン夫人と、アーサと、リーズがそこにいた。アーサは手を差し延べた。|わたし《私》は|かれ《彼》のほうへか《駆》け出して行って、それからリーズにキッスした。ミリガン夫人は|わたし《私》にキッスした。「やっとのことで」と|かの《彼》女は言った。「あなたのものであるはずの位置に、あなたを置くことができるようになりました」  |わたし《私》はこう言われた|ことば《言葉》の意味を話してもらおうと思って、|かの《/彼》女の顔を見た。|かの《彼》女はドアのほうへ寄って、それを開けた。そのときこそ|ほんとう《本当》にびっくりするものが現れた。バルブレンのおっかあが|はい《入》って来た。その手には赤ん|ぼう《坊》の着物、同じカシミアの外とう、レースのボンネット、毛糸の|くつ《靴》などをかかえていた。|かの《彼》女がこれらの品物を机に置くか置かないうちに、|わたし《私》は|かの《彼》女をだきしめた。|わたし《私》が|かの《彼》女にあまえているあいだに、ミリガン夫人は召使いに何か言いつけた。そのときほんの、「ジェイムズ・ミリガン」という名を聞いただけであったが、|わたし《私》は青くなった。 「あなたはなにも|こわ《怖》がることはないのよ」とミリガン夫人は優しく言った。「ここへおいで。あなたの手を|わたし《私》の手にお置きなさい」  ジェイムズ・ミリガン氏は例の白いとんがった歯をむき出して、にこにこしながらはいって来た。ところが|わたし《私》の顔を見ると、微笑がものすごい渋面になった。ミリガン夫人は|かれ《彼》にものを言うひまをあたえなかった。 「あなたにおいでを願いましたのは」と、ミリガン夫人はやや声をふるわせながら言った。「長男がやっと見つかりましたので、あなたにお引き合わせしたいとぞんじまして。」こう言って|かの《彼》女は|わたし《私》の手をにぎりしめた。 「でもあなたはもうこの子にはお会いくださいましたそうですね。この子を|ぬす《盗》んだ男の家で、この子にお会いになって、|からだ《体》の具合をお調べになったそうですね」 「それはなんのことです」とジェイムズ・ミリガン氏が反問した。 「なんでもお寺へ盗賊に|はい《入》ったその男が、残らず白状いたしましたそうです。その男はどういうふうにしてわたくしの赤ん|ぼう《坊》を|ぬす《盗》み出して、パ《/パ》リへ連れて行き、そこへ捨てたか、その一部始終を述べました。これがわたくしの子どもの着ておりました着物でございます。わたくしの子どもを育ててくれましたのは、この正直なおばあさんでございました。この手続をお読みになりたいとおぼしめしませんか。この着物を調べてごらんになりたいとおぼしめしませんか」  ジェイムズ・ミリガン氏は|わたし《私》にと《跳》びかかって、しめ殺してでもやりたいような顔をしたが、やがてくるりと|かかと《踵》をふり向けた。そして|しきい《敷居》際で|かれ《彼》はふり返って言った。 「いずれ法廷《’法廷》が、この子どもの作り話をどう聞くか、見てみましょうよ」  |わたし《私》の母、もう|いま《今》はそう呼んでもいいが、─《─:》─母はそのとき静かに答えた。 「あなたが法廷へこの事件をお持ち出しになるのはご随意です。わたくしはあなたが夫のご兄弟でいらっしゃるために、わざとそれをさしひかえたのでございます」  ドアは閉まった。そのとき、生まれて初めて|わたし《私》は、母を、|かの《/彼》女が|わたし《私》にキッスしたようにキッスし返した。 「きみ、お母さんに、|ぼく《僕》が秘密をよく守ったことを話してくれたまえ」とマチアが|わたし《私》のそばに寄って来てこう言った。 「では|きみ《君》は残らず知っていたのか」 「|わたし《私》はマチアさんにそれをそっくり言わずにいるように|たの《頼》んでおいたのです」と|わたし《私》の母が言った。「それはあなたが|わたし《私》の子だということはわかっていたけれど、|わたし《私》も確かな証拠をにぎりたかったから、バルブレンのおっかさんに、着物を持ってここまで来てもらったのです。こんなにしたうえで、つまりそれがまちがいだということになったら、どんなにつらい思いをするかしれないからね。|わたし《私》たちはこれだけの証拠のあるうえは、もう二度と別れることはないのよ。あなたはこれからずっとあなたの母さんや弟と|いっしょ《一緒》にく《暮》らすのです。」こう言ってマチアとリーズを指さしながら、「それから」と言いそえた。「あなたが貧しかったときおまえの愛したこの人たちもね」 ◇。◇。◇。 【第43章】 【家庭で】 ◇。◇。◇。  いく年《ねん》か、それはずいぶん長い月日が短く過ぎた。そのあいだしじゅう楽しい幸福な日が続いた。|わたし《私》はいまでは、|わたし《私》の先祖からの|やしき《屋敷》であるイギリスのミリガン・パークに住んでいる。  うちのない子、よるべのない子、この世の中に捨てられ、忘れられて、運命のもてあそぶままに西に東にただよって、《:、》広い大海のま《真》ん中に、目標になる灯台もなく、避難の港もなかったみなし子が、いまでは自分が愛し愛される母親や兄弟があるだけではない、《:、》その国で名誉のある先祖の名跡をついで、|ばくだい《莫大》な財産を相続する身の上になったのである。  夜な夜な、物置きや|うまや《厩》の中、または青空の下の木の|かげ《蔭》に|ねむ《眠》ったあわれな子どもが、|いま《今》は歴史に由緒の深い古城の主人であった。  |わたし《私》が汽車からと《跳》び下りて、押送の巡査の手からのがれて船に乗った、あの海岸から西へ二十里(約八十キロ)へだたった所に、|わたし《私》の美しい城はあった。  このミリガン・パークの本邸に、|わたし《私》は母と、弟と、妻と、自分とで、家庭を作っていた。  半年前から|わたし《私》は城内の文庫にこもって、|わたし《私》の長い少年時代の思い出を、せっせと書きつづっていた。|わたし《私》たちはちょうど長男のマチアのために洗礼式を上げようとしている。今夜|わたし《’私》の|やしき《屋敷》には貧窮であった時代の友だちが集まって、|いっしょ《一緒》に洗礼式を祝おうとしている、《:、》わたしの書きつづった少年時代の思い出は一冊の本にできあがっていた。今夜集《今夜’集》まる人たちに一冊ずつ分けるつもりである。  これだけ|わたし《私》のむかしの友だちの集まるということが、|わたし《私》の妻をおどろかした。|かの《彼》女はこの一夜に、父親と、姉と、兄と、おばさんに会うはずであった。ただ母と弟にはまだ内証《内緒》にしてあった。もう一人この席に|だいじ《大事》な人が欠けていた。それはあの気の|どく《毒》なヴィタリス親方。  親方の生きているあいだには、|わたし《私》はなにもこの人のためにしてやることができなかった。でも|わたし《私》は母に|たの《頼》んで、この人のために大理石の墓を築かせた。その墓の上にはカルロ・バルザニの半身像をすえさせた。その半身像の複製はこうして書いている|わたし《私》の卓上にあった。「思い出の記」を書いている間も、|わたし《私》はたびたび目を上げてこの半身像をながめた。|わたし《私》の目はわけなくこの像にひきつけられた。|わたし《私》はこの人をけっして忘れることができない。なつかしいヴィタリス親方を忘れることはできない。  そう思っているとき、母が弟の|うで《腕》にもたれかかって出て来た。弟のアーサはもうすっかりおとなになって、|からだ《体》も|じょうぶ《丈夫》になって、いまでは|りっぱ《立派》に母をだきかかえする人になっていた。母の後ろからすこし|はな《離》れて、フランスの百姓女のようなふうをした婦人が、白いむつき(おむつ)に包まれた赤子をだいてついて来た。これこそむかしのバルブレンのおっかあで、だいている子どもは、|わたし《私》の|むすこ《息子》のマチアであった。  アーサがそのとき「タイムズ」新聞を一枚持《一枚’持》って来て、ウィーンの通信記事を読めといって見せてくれた。それを見ると、|いま《今》は大音楽家になったマチアが、演奏会を一|とお《通》りすませたところで、《:、》とりわけウィーンでの大成功が|かれ《彼》をせつに引き止めているにかかわらず、あるやむにやまれない|やくそく《約束》を果たすため、ただちにイギリスに向かって出発の途に着いたと書いてあった。|わたし《私》はそのうえ新聞記事をくどくどと読む必要がなかった。いまでこそ世間は|かれ《彼》を、ヴァイオリンのショパンだといってほめそやすが、|わたし《私》はとうから|かれ《彼》のめざましい成長発達を予期していた。|わたし《私》と弟と|かれ《彼》と三人、同じ教師について勉強していた|じぶん《時分》、マチアは、ギリシャ語やラテン語こそいっこう進歩はしなかったが、音楽ではずんずん先生を凌駕(しのぐ)していた。こうなると、マンデの床屋さん兼業の音楽家エ《/エ》ピナッソー先生の予言が|なるほど《成程》とうなずかれた。  そのとき、配達夫《配達フ》が一通の電報を配達して来た。その文言にはこうあった。 「海上はなはだあらく、ひどくなやまされた。とちゅうパリに一泊《1泊》。妹クリスチーナを同伴四時《同伴/4時》に行く。出|むか《迎》えの馬車を|たの《頼》む。マチア」  クリスチーナの名が出たので、|わたし《私》はアーサの顔を見た。すると|かれ《彼》はきまり悪そうに目をそらせた。アーサがマチアの妹のクリスチーナを愛していることは|わたし《私》にはわかっていた。そしていつか、それがいますぐというのではなくとも、母がこの結婚を承知することはわかっていた。子どもの誕生のお祝いばかりですむものではない。母《母’》は|わたし《私》の結婚にも反対しなかった。いまにそうするのが、つまりアーサのためだとわかれば、これにも反対するはずがなかった。  リーズ、|わたし《私》の美しい美しいリーズが|ろうか《廊下》を通って出て来て、|わたし《私》の母の頭に手をかけた。 「ねえ、お母さま」と|かの《彼》女は言った。「あなたはうまくたくらみにかかっておいでなのですわ。それであなたに不意討ちを食わせて、|おどろ《驚》かそうというのでしょう。  それもおもしろいでしょう。でも|わたし《私》はちっとも|おどろ《驚》きませんわ」 「おい、リーズ、そんなことを言っているうちに、だしぬけを食ってびっくりするなよ」と|わたし《私》は言った。そのとき外でがらがらと馬車の止まった音がした。  一人、一人、お客が着くと、|わたし《私》とリーズは広間へ出て|むか《迎》えた。アッケン氏、カトリーヌ|おば《小母》さん、エチエネット、それからたったいま植物採集の旅から帰ったばかりの有名な植物学者バ《/バ》ンジャメン・アッケンの胴色に焼けた顔が現れた。それから青年が一人、《◇、》老人が一人やって来た。今度の旅行は|かれ《彼》らにとって二重の興味があった。というわけは、この人たちは|わたし《私》どもの招待をすませると、ウェールズまで鉱山見物に出かけるはずになっていた。この青年のほうは鉱山の視察をとげて、国にたんとみやげ話を持って帰って、|かれ《/彼》がいまツ《/ツ》ルイエールの鉱山でしめている重い位置にい《/い》っそうの箔をつけようというのであったし、《:、》老人のほうはこのごろヴァルセの町で鉱石収集をやって町《/町》で重んぜられているので、今度の調査の結果い《/い》っそう重大な発見をとげて帰ろうとするのであった。この老人と青年というのは、言うまでもなく、ヴァルセ鉱山で働いていた「先生」と、アルキシーとであった。  リーズと|わたし《私》が来賓にあいさつをしていると、またがらがらと四輪馬車《ヨリン馬車》が着いて、アーサとクリスチーナとマチアが中から出て来た。すぐそのあとに続いて、一両の二輪馬車が着いた。気の利いた顔つきの男が御者をして、これと背中合わせに一人、ぼろぼろの服を着た船乗りが乗っていた。たづなをひかえて御者をしているのは、このごろ金《-かね》のできたボブで、|いっしょ《一緒》に乗って来たのは、あのとき|わたし《私》をイギリスの海岸からにがしてくれたボブの兄であった。  さて洗礼式がすむと、マチアは|わたし《私》を窓際まで連れ出した。 「|わたし《私》たちはこれまで、知らない|よそ《他所》の人のためにばかり音楽をやっていた。さあこの記念の席上で|わたし《私》たちの愛する人びとのために音楽をやろうじやないか」と|かれ《彼》は言った。 「おい、マチア、|きみ《君》は音楽のほかに楽しみのない男だね」と|わたし《私》は笑いながら言った。「|きみ《君》の音楽のおかげで雌牛をおどろかして、ひどい目に会ったっけなあ」  マチアは歯をむき出して笑った。  ビロードで側を張った|りっぱ《立派》な|はこ《箱》から、売ったら二フランとはふめまいと思う古ぼけたヴァイオリンをマチアは取り出した。|わたし《私》もふくろの中から、むかしのハープを取り出した。雨に洗われて、もとのぬり色ももう見分けることができなくなっていた。 「|きみ《君》は好きなナポリ小唄を歌いたまえ」とマチアが言った。 「うん、この歌のおかげで、リーズは口がきけるようになったのだからなあ」  こう|わたし《私》は言って、にっこりしながら、そばに立っていた妻をふり向いた。  来賓は|わたし《私》たちのぐるりを取り巻いた。  ふと|一ぴき《一匹》の犬がと《飛》び出して来た。  大好きなカピのじいさん、この犬はもうたいへん年を取って、耳が遠くなっていたが、視力はまだなかなかしっかりしていた。ね《寝》ていた暖かいしとねの上から、|むかし《昔》なじみのハープを見つけると、「演芸」が始まると思ってはね起きて来た。歯ぐきの間には下ざらを一枚くわえていた。|かれ《彼》は「ご臨席の来賓諸君」の間を|どうどうめぐ《堂々巡》りするつもりでいた。  |かれ《彼》はむかしのように、後足《後脚》で立って歩こうとした。けれどもうそれだけの力がないので、|まじめ《真面目》くさってぺったり|すわ《座》ったまま、前足で胸を打って、来賓にご|あいさつ《挨拶》をした。  |わたし《私》たちの歌がおしまいになると、カピは|いっしょうけんめい《一生懸命’》立ち上がって、「|どうどうめぐ《堂々巡》り」を始めた。みんなが下ざらにいくらかずつほうりこむと、カピはほくほくしてそれを|わたし《私》の所へ持って帰った。これこそ|かれ《彼》がこれまで集めたいちばんの金高であった。中《ナカ》には金貨と銀貨ばかり──百七十《百ナナジュッ》フラン|はい《入》っていた。  |わたし《私》はむかししたように、|かれ《/彼》の冷たい鼻にキッスした。するうち、子どもの時代の困窮が思い出して、ふとある考えがう《浮》かんだ。|わたし《私》はそこで来賓に向かって、この金《-かね》はさっそくあわれな大道音楽師のために救護所設立の第一回寄付金《第一回’寄付金》としたいと宣言した。そのあとの寄付は|わたし《私》と母とですることにする。 「|おく《奥》さん」とそのときマチアが|わたし《私》の母の手にキッスしながら言った。「|わたし《私》にもその慈善事業のお手伝いをさせてください。ロンドンで開くはずの|わたし《私》の演奏会第一夜《演奏会第イチヤ》の収入は、どうぞカピの|さら《皿》の中へ入れさせてください」  こう言うと、カピも「賛成」というように、一声高《ひと声’高》くウ《/ウ》ーとほ《吠》えた。 (おわり) ◇。◇。◇。 【底本:「家なき子(下《げ》)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂】 【1978(昭和53)年1月30日発行】 【※《◇》底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。】 【入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)】 【校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)】 【2004年4月29日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。