◇。◇。◇。 【家なき子(上《じょう》)】 【マロ】 【楠山正雄訳】 ◇。◇。◇。 【第1章】 【生い立ち】 ◇。◇。◇。  わたしは捨て子だった。  でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが泣けばきっと一人の女が来て、優しくだきしめてくれたからだ。  その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっして|ねどこ《寝床》にははいらなかった。冬の|あらし《嵐》がだんごのような雪をふきつけて窓ガラスを白くする|じぶん《時分》になると、この女の人は両手の間《あいだ》にわたしの足をおさえて、歌《/歌》を歌いながら暖めてくれた。その歌の節《フシ》も文句も、いまに忘れずにいる。  わたしが外へ出て雌牛の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを探しに来て、麻の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。  |ときどき《時々》わたしは遊び仲間とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、優しい|ことば《言葉》でなぐさめてくれるか、わたしの肩をもってくれた。  それやこれやで、わたしに物を言う調子、わたしを見る目つき、あまやかしてくれて、しかるにしても優しくしかる様子から見て、この女の人は|ほんとう《本当》の母親にちがいないと思っていた。  ところでそれがひょんな事情から、この女の人が、じつは養い親でしかなかったということがわかったのだ。  わたしの村、もっと正しく言えばわたしの育てられた村は─《─:》─というのが、わたしには父親や母親という者がないと同様に、自分の生まれた村というものがなかったのだから─《─:》─で、とにかくわたしが子どもの時代を過ごした村は、シャヴァノンという村で、それはフランスの中部地方でもいちばん|びんぼう《貧乏》な村の一つであった。  なにしろ土地がいたってやせていて、どうにもしようのない場所であった。どこを歩いてみても、すきくわの|はい《入》った田畑《タハタ》というものは少なくて、見わたすかぎりヒースや|えにしだ《エニシダ》のほか、ろくにしげるもののない草原で、そのあれ地を行きつくすと、がさがさした砂地の高原で、《:、》風にふきたわめられたやせ|木立ち《木立》が、所《ところ》どころひょろひょろと、いじけてよじくれた|えだ《枝》をのばしているありさまだった。  そんなわけで、木らしい木を見ようとすると、丘を見捨てて谷間へと下《-お》りて行かねばならぬ。その谷川にのぞんだ川べりにはちょっとした牧草もあり、空をつくような|かし《樫》の木や、ごつごつしたくりの木がしげっていた。  その谷川の早い瀬の末がロ《/ロ》アール川の支流の一つへ流れこんで行く、その岸の小さな家で、わたしは子どもの時代を送った。  八つの年まで、わたしはこの家で男の姿というものを見なかった。そのくせ、『おっかあ』《』/》と呼んでいた人はやもめではなかった。夫というのは石工であったが、この|へん《辺》のたいていの労働者と同様パ《/パ》リへ仕事に行っていて、わたしが物心ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。ただおりふしこの村へ帰って来る仲間の者に、便りをことづけては来た。 「バルブレンのおっかあ、こっちのも|たっしゃ《達者》だよ。相変わらず|かせ《稼》いでいる、よろしく言ってくれと言って、このお金を預けてよこした。数えてみてください」  これだけのことであった。おっかあも、それだけの便りで満足していた。ご亭主が|たっしゃ《達者》でいる、仕事もある、お金がもうかる─《─:》─と、それだけ聞いて、満足していた。  このご亭主のバルブレンがいつまでもパリへ行っているというので、おかみさんと仲が悪いのだと思ってはならない。こうやって留守にしているのは、なにも気まずいことがあるためではない。パリに滞在しているのは仕事に引き留められているためで、やがて年を取ればまた村へ帰って来て、たんまり|かせ《稼》いで来たお金で、おかみさんと気楽にくらすつもりであった。  十一月のある日のこと、もう日のくれに、見知らない一人の男がかきねの前に立ち止まった。そのときわたしは、門口《/門口》でそだを折っていた。中《ナカ》にはいろうともしないで、かきねの上からぬっと頭を出してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。  わたしは、「おはいんなさい」と言った。  男は門《カド》の戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。  こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を張ったように|どろ《泥》をかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。  話し声を聞いて、バルブレンのおっかあはか《駆》けだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。 「パリからことづかって来たが」と男は言った。  それはごくなんでもない|ことば《言葉》だったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳にたこのできるほど聞き慣れたものだったが、どうもそれが『ご亭主は|たっしゃ《達者》でいるよ。相変わらず|かせ《稼》いでいるよ』という、いつもの|ことば《言葉》とは、なんだかちがっていた。 「おやおや。ジェロームがどうか《か-》しましたね」  と、おっかあは両手をも《揉》みながら声を立てた。 「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご亭主は|けが《怪我》をしてね。だが気を落としなさんなよ。|けが《怪我》は|けが《怪我》だが命には別状がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院に|はい《入》っている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度国《今度’国》へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれと|たの《頼》まれたのさ。ところで、ゆっくりしては《は’》いられない。まだこれから三里(約十二キロ)も歩かなくてはならないし、もう|おそ《遅》くもなっているからね」  でもおっかあは、もっとくわしい話が開《聞》きたいので、ぜひ夕飯を食べて行くようにと言って|たの《頼》んだ。道は悪いし、森の中には|おおかみ《オオカミ》が出るといううわさもある。あしたの朝立《朝’立》つことにしたほうがいい。  男は承知してくれた。そこで炉のすみにすわりこんで、腹いっぱい食べながら、事件のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大|けが《怪我》をした。そのくせ、そこは|だれ《誰》も行く用事のない場所であったという証言があったので、建物の請負人は一文の賠償金もしはらわないというのである。 「ご亭主も気の|どく《毒》な。運が悪かったのよ」  と、男は言った。 「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種に、しこたませしめるずるい連中もあるのだが、おまえさんのご亭主ときては、一文《イチモン》にもならないのだからな」 「まったく運が悪い」と男はこの|ことば《言葉》をくり返しながら、|どろ《泥》でつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。 「なんでもこれは、請負人を相手どって裁判所へ持ち出さなければうそだと、|おれ《俺》は勧めておいたよ」  男は話のしまいに、こう言った。 「まあ。でも裁判なんということは、ずいぶんお金の要ることでしょう」 「そうだよ。だが勝てばいいさ」  バルブレンのおっかあは、パ《/パ》リまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶん|たいへん《大変》なことだった。道は遠いし、お金がかかる。  そのあくる朝、わたしは村へ行って|ぼう《坊》さんに相談した。|ぼう《坊》さんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それで|ぼう《坊》さんが代筆をして、バルブレンのはいっている慈恵病院の司祭にあてて、手紙を出すことにした。その返事は|二、三日《ニサンニチ》して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主が災難を受けた相手にかけ合うについて、入費のお金を送ってもらいたいというのであった。  それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金《’かね》を送れ金《-かね》を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金《-かね》がないなら、雌牛のルセットを売っても、ぜひ金《-かね》をこしらえろと言って来た。  |いなか《田舎》で百姓《ヒャクショウ》の仲間に|はい《入》ってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこの|ことば《言葉》に、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓《ヒャクショウ》にとって、雌牛のありがたさは、一《ひと》|とお《通》りのものではなかった。いかほど|びんぼう《貧乏》でも、家内が多くても、ともかくも雌牛が飼ってあるあいだは、飢えて死ぬことはないはずだ。  それにうちの雌牛は、なにより仲よしのお友だちであった。わたしたちが話をしたり、その背中をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、優しい目でじっと見た。つまりわたしたちはお|たが《互》いに愛し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。  けれども|いま《今》はその雌牛とも、わたしたちは別れなければならなかった。『雌牛を売る』それでなければ、もうご亭主を満足させることはできなかった。  そこで|ばくろう《バクロウ》(馬売買の商人)がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。乳も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気の|どく《毒》だから、引き取ってやるのだというのであった。  かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。 「後ろへ回って、たたき出せ」と|ばくろう《バクロウ》はわたしに言って、首の回りにかけていた|むち《鞭》をわたした。 「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあは|さけ《叫》んだ。  それでルセットの|はづな《端綱》(馬の口につけて引くつな)をつかまえながら、優しく言った。 「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」  ルセットはそれをこばむことができなかった。それで往来へ出ると、|ばくろう《バクロウ》はルセットを車の後ろにしばりつけた。馬がとことこか《駆》けだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。  わたしたちはうちの中に|はい《入》ったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。  もう乳もなければバターもない。朝は|一き《一切》れのパン、晩は塩をつけたじゃがいものごちそうであった。  雌牛を売ってから|四、五日《シゴニチ》すると、謝肉祭が来た。一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら焼きと揚げりんごのごちそうをこしらえてくれた。それでたくさんわ《’わ》たしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。  けれどそのときは揚げ物の衣がパン粉をとかす乳や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。  もうルセットもいない、乳もない、バターもない、これでは、謝肉祭もなにもないと、わたしはつまらなそうに独り言を言った。  ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を借りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳を一《いっ》ぱいもらい、もう一|けん《軒》からバターを一《ひと》かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土|なべ《鍋》にパン粉をあけていた。 「おや、パ《/パ》ン粉」とわたしはそばへ寄って言った。 「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご覧、ルミ、いい|かお《香》りだろう」  わたしはこのパン粉をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気がなかった。それにきょうが謝肉祭だということを思い出させて、おっかあを|ふゆかい《不愉快》にさせたくなかった。 「パン粉でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。 「パンさ」 「それからほかには」 「パンがゆ」 「それからまだあるだろう」 「だって‥《‥:》‥ぼく知らないや」 「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが謝肉祭で、どら焼きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」 「だって、おっかあ」 「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。この|はこ《箱》の中をご覧」  わたしはさっそく|ふた《蓋》をあけると、乳とバターと卵と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。  わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵を粉に混ぜて衣をし《こし》らえ、乳を少しずつ混ぜていた。  衣《コロモ》がすっかり練れると、土|なべ《鍋》のまま、熱灰《アツバイ》の上にのせた。それでどら焼きが焼け、揚げりんごが揚がるまでには、晩食のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、お|さら《皿》にかけた布を取ってみた。 「おまえ、衣《コロモ》に|かぜ《風邪》をひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」と|かの《彼》女は|さけ《叫》んだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。卵と乳が|ぷん《プン》とうまそうな|にお《匂》いを立てた。 「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」  とうとう明かりがついた。 「|まき《薪》を炉の中へお入れ」  |かの《彼》女がこの|ことば《言葉》を二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこの|ことば《言葉》の出るのを|いま《今》か|いま《今》かと待ちかまえていたのであった。さっそく赤い|ほのお《炎》がどんどん炉の中に燃え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。  そのときおっかあは、揚げ|なべ《鍋》を|くぎ《釘》から外して火の上にのせた。 「バターをお出し」  ナイフの先で|かの《彼》女はバターをくるみくらいの大きさに|一き《ひと切》れ切って|なべ《鍋》の中へ入《-い》れると、じりじりとけ出してあわを立てた。  もうしばらくこの|にお《匂》いもか《嗅》がなかった。まあ、そのバターのいい|にお《匂》いといったら。  わたしがそのじりじりこげるあまい音楽に|むちゅう《夢中》で聞きほれていたとき、裏庭でこつこつ人の歩く足音がした。  せっかくのときにだれが|じゃま《邪魔》に来たのだろう。きっとおとなりから|まき《薪》をもらいに来たのだ。  わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木の|さじ《匙》をはちに入れて、衣《コロモ》を|一さじ《一匙》、お|なべ《鍋》の中にあけていたのだもの。  すると|だれ《誰》か|つえ《杖》でことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。 「どなただね」とおっかあはふ《’ふ》り向きもしないでたずねた。  一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きな|つえ《杖》を片わきについているのを見つけた。 「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。 「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげ|なべ《鍋》を下に置いてさけんだ。 「まあジェローム、おまえさんだったの」  そのときおっかあはわたしの|うで《腕》を引っ張って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ連れて行った。 「おまえのとっつぁんだよ」 ◇。◇。◇。 【第2章】 【養父《ヨウフ》】 ◇。◇。◇。  おっかあはご亭主にだきついた。わたしもそのあとから同じことをしようとすると、|かれ《/彼》は|つえ《杖》をつき出してわたしを止めた。 「なんだ、こいつは‥《‥:》‥おめえいまなんとか言ったっけな」 「ええ、そう、でも‥《‥:》‥|ほんとう《本当》はそうではないけれど‥《‥:》‥そのわけは‥‥」 「ふん、|ほんとう《本当》なものか。|ほんとう《本当》なものか」  |かれ《彼》は|つえ《杖》をふり上げたままわたしのほうへ向かって来た。思わずわたしは後じさりをした。  なにをわたしがしたろう。なんの罪があるというのだ。わたしはただだきつこうとしたのだ。  わたしはおずおず|かれ《彼》の顔を見上げたが、|かれ《/彼》はおっかあのほうをふり向いて話をしていた。 「じゃあ感心に謝肉祭のお祝いをするのだな、まあけっこうよ。|おれ《俺》は腹が減っているのだ。晩飯はなんのごちそうだ」と|かれ《彼》は言った。 「どら焼きとりんごの揚げ物をこしらえているところですよ」 「そうらしいて。だが何里《ナンリ》も遠道をかけて来た者に、まさかどら焼きでごめんをこうむるつもりではあるまい」 「ほかになんにもないんですよ。なにしろおまえさんが帰るとは思わなかったからね」 「なんだ、なんにもない。夕飯にはなにもないのか」と|かれ《彼》は台所を見回した。 「バターがあるぞ」  |かれ《彼》は天井をあお向いて見た。いつも塩ぶたがかかっていたかぎが目に|はい《入》ったが、そこにはもう長らくなんにもかかってはいなかった。ただねぎとにんにくが|二、三本《ニ三本’》なわでしばってつるしてあるだけであった。 「ねぎがある」と|かれ《彼》は言って、大きな|つえ《杖》で|なわ《縄》をたたき落とした。「ねぎが|四、五本《シゴホン》にバターが少しあれば、けっこうなスープができるだろう。どら焼きなぞは下ろして、ねぎを|なべ《鍋》でいためろ」  どら焼きを|なべ《鍋》から出してしまえというのだ。  でも一言も言わずにバルブレンのおっかあはご亭主の言うとおりに、急いで仕事に取りかかった。ご亭主は炉のすみの|いす《椅子》に|こし《腰》をかけていた。  わたしは|かれ《彼》が|つえ《杖》の先で追い立てた場所から、そのまま動き得なかった。食卓に背中を向けたまま、わたしは|かれ《彼》の顔を見た。  |かれ《彼》は五十ばかりの意地悪らしい顔つきをした、ごつごつした様子の男であった。その頭は|けが《怪我》をしたため、《、/》少し右の肩のほうへ曲がっていた。かたわになったので、よけいこの男の人相を悪くした。  バルブレンのおっかあはまたお|なべ《鍋》を火の上にのせた。 「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」と|かれ《彼》は言いながら、バターの|はい《入》った|さら《皿》をつかんで、それをみんな|なべ《鍋》の中へあけてしまった。もうバターはなくなった‥《‥:》‥それで、もうどら焼きもなくなったのだ。  これがほかの場合だったら、こんな災難に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら焼きもりんごの揚げ物も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。 「ぼくのとっつぁん」──うっとりとわたしはこの|ことば《言葉》を心の中でくり返した。  いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から降って来たこの男を見ると、わたしは|ひじょう《非常》に|いや《嫌》だったし、こわらしかった(おそろしかった)。  わたしが|かれ《彼》にだきつこうとすると、|かれ《/彼》は|つえ《杖》でわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。 「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、|さら《皿》でもならべろ」と|かれ《彼》は言った。  わたしはあわててそのとおりにしようとして、危なく|たお《倒》れそこなっ《-っ》た。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれを|さら《皿》に入れた。  すると|かれ《彼》は炉ばたから立ち上がって、食卓の前に|こし《腰》をかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれが気味《キミ》が悪くって、食事が|のど《喉》に通らなかった。わたしも横目で|かれ《彼》を見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。 「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」と|かれ《彼》はふいにこうたずねた。 「きっとおなかがいいんですよ」 「しょうがねえやつだなあ。こればかりしか|はい《入》らないようじゃあ」  バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと働き回って、ご亭主のお給仕ばかりしていた。 「てめえ、腹は減らねえのか」 「ええ」 「うん、じゃあすぐとこへ|はい《入》ってね《寝》ろ。ね《寝》たらすぐね《寝》つけよ。早くしないとひどいぞ」  おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの警告を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。  たいていの|びんぼう《貧乏》人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋をかねていた。炉のそばには食事の道具が残らずあった。食卓もパンの|はこ《箱》も|なべ《鍋》も食器だなもあった。そうして、部屋の向こうの角《カド》が寝部屋であった。一方の角《カド》にバルブレンのおっかあの大きな寝台《ネダイ》があった。その向こうの角《カド》のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台《ネダイ》があって、赤い模様のカーテンがかかっていた。  わたしは急いでねまきに着かえて、|ねどこ《寝床》にもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、|ひじょう《非常》に|ふゆかい《不愉快》であった。  どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。|ほんとう《本当》にそうだったら、なぜ人をこんなにひどく|あつか《扱》うのだろう。  わたしは鼻を|かべ《壁》につけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐ|ねむ《眠》ろうと骨を折ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。  どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの寝台《ネダイ》のそばに寄って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。  わたしは|ほお《ホオ》の上に温かい息を感じた。 「てめえ、もう|ねむ《眠》ったのか」とするどい声が言った。  わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしい|ことば《言葉》が、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。 「|ねむ《眠》っているんですよ」とおっかあが言った。「あの子は|とこ《トコ》に|はい《入》るとすぐに目がくっつくのだから、|だいじょうぶ《大丈夫》なにを言っても聞こえやしませんよ」  わたしはむろん、「いいえ、|ねむ《眠》っていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだ|ねむ《眠》らずにいた。わたしが悪かった。 「それでおまえさん、裁判のほうはどうなったの」とおっかあが言った。 「だめよ。裁判所ではおれが足場の下にいたのが悪いと言うのだ。」そう言って|かれ《彼》はこぶしで食卓をごつんと打って、なんだか|わけ《訳》のわからないことを言って、しきりにののしっていた。 「裁判には負けるし、金《かね》はなくなるし、かたわにはなるし、|びんぼう《貧乏》がじろじろ面《ツラ》をねめつけて(にらみつけて)いる。それだけでもまだ足りねえつもりか、うちへ帰って来ればがきがいる。なぜおれが言ったとおりにしなかったのだ」 「でもできなかったもの」 「孤児院へ連れて行くことができなかったのか」 「だってあんな小さな子を捨てることはできないよ。自分の乳で育ててかわいくなっているのだもの」 「あいつはてめえの子じゃあねえのだ」 「そうさ。わたしもおまえさんの言うとおりにしようと思ったのだけれど、ちょうどそのとき、あの子が加減が悪くなったので」 「加減が悪く」 「ああ、だからどうにもあすこへ連れては行けなかったのだよ。死んだかもしれないからねえ」 「だがよくなってから、どうした」 「ええ、すぐにはよくならなかったしね、やっといいと思うと、また病気になったりしたものだから。かわいそうにそれはひどく|せき《咳》をして、聞いていられないようだった。うちのニコラぼうもそんなふうにして死んだのだからねえ。わたしがこの子を孤児院に送ればやっぱり死んだかもしれないよ」 「だが‥《‥:》‥あとでは」 「ああ、だんだんそのうちに時がたって、延び延びになってしまったのだよ」 「いったいいくつになったのだ」 「八《8》つさ」 「うん、そうか。じやあ、これからでもいいや。どうせもっと早く行くはずだったのだ。だが、いまじゃあ行くのもいやがるだろう」 「まあ、《、/》ジェローム、おまえさん、いけない‥《‥:》‥そんなことは《は’》しないでおくれ」 「いけない、なにがいけないのだ。いつまでもああしてうちに置けると思うか」  しばらく二人ともだまり返った。わたしは息もできなかった。|のど《喉》の中にかたまりができたようであった。  しばらくして.バルブレンのおっかあが言った。 「まあ、パ《/パ》リへ出て、おまえさんもずいぶん人が変わったねえ。おまえさん、行くまえにはそんなことは言わない人だったがねえ」 「そうだったかもしれない。だが、パ《/パ》リへ行っておれの人が変わったかしれないが、そこはおれを半殺しにもした。|おれ《俺》はもう働くことはできない。もう金《-かね》はない。牛は売ってしまった。おれたちの口をぬらすことさえおぼつかないのに、お|たが《互》いの子でもないがきを養うことができるか」 「あの子はわたしの子だよ」 「あいつはおれの子でもないが、|きさま《貴様》の子でもないぞ。それにぜんたい百姓の子どもじゃあない。|びんぼう《貧乏》人の子どもじゃあない。きゃしゃすぎて物もろくに食えないし、手足もあれじゃあ働けない」 「あの子は村でいちばん器量よしの子どもだよ」 「器量がよくないとは言いやしない。だが|じょうぶ《丈夫》な子ではないと言うのだ。あんなひょろひょろした肩をした|こぞう《小僧》が労働者になれると思うか。ありゃあ町《’町》の子どもだ。町の子どもを置く席はないのだ」 「いいえ、あの子はいい子ですよ。|りこう《利口》で、物がわかって、それで優しいのだから、あの子はわたしたちのために働いてくれますよ」 「だが、さし当たりは、おれたちがあいつのために働いてやらなければならない。それはまっぴらだ」 「もしかあの子の|ふた《二》親が引き取りに来たらどうします」 「あいつの|ふた《二》親だと。いったいあいつには|ふた《二》親があったのか。あればいままでに訪ねて来そうなものだ。あいつの|ふた《二》親が訪ねて来て、これまでの養育料をはらって行くなどと考えたのが、ずいぶん|ばか《馬鹿》げきっていた。気|ちが《違》いじみていた。あの子がレースのへりつきのやわらかい産着を着ていたからといって、|ふた《二》親があいつを訪ねに来ると思うことができるか。それに、もう死んでいるのだ。きっと」 「いいや、そんなことはない。いつか訪ねて来るかもしれない‥‥」 「女というやつはなかなか強情なものだなあ」 「でも訪ねて来たら」 「ふん、そうなりゃ孤児院へ差し向けてやる。だがもう話はたくさんだ。|おれ《俺》はあしたは村長さんの所へあいつを連れて行って相談する。今夜は《は’》これからフランスアの所へ行って来る。一時間ばかりしたら帰って来るからな」  そのあいだにわたしはさっそく寝台《ネダイ》の上で起き上がって、おっかあを呼んだ。 「ねえ、おっかあ」  |かの《彼》女はわたしの寝台《ネダイ》のほうへかけてやって来た。 「ぼくを孤児院へやるの」 「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」  |かの《彼》女はわたしにキッスをして、しっかりと|うで《腕》にだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、|ほお《ホオ》の上の|なみだ《涙》がかわいた。 「じゃあおまえ、|ねむ《眠》ってはいなかったのだね」と|かの《彼》女は優しくたずねた。 「ぼく、わざとしたんじゃないから」 「わたしは、おまえを|しか《叱》っているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」 「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって‥《‥:》‥そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」  このあとの|ことば《言葉》を、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この婦人がわたしの母親でないことを知ったのは情けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか得意でうれしかった。このわたしの心の中の矛盾はおのずと声に現れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。 「まあわたしはおまえに|ほんとう《本当》のことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまりわ《’わ》たしの子どもになりすぎたものだから、つい|ほんとう《本当》の母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、《、/》ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日パ《/パ》リのブルチュイー町の並木通りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、|赤んぼう《赤ん坊》の泣き声を聞いて、おまえをある庭の門口で拾って来たのだ。あの人は|だれ《誰》か人を呼ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木の|かげ《蔭》から出て来て、あわててに《逃》げ出したそうだよ。おまえを捨てた男が、|だれ《誰》か拾うか見届けていたとみえる。おまえがそのとき、|だれ《誰》か拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく泣くものだから、《、/》ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も困っていると、ほかの職人たちも寄って来て、みんなはおまえを警察へ届けることに相談を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒かっ《-っ》たにちがいない。けれど、それから警察へ連れて行って、暖かくしてあげてもまだ泣いていた。それで今度はおなかが減っているのだろうというので、近所のおかみさんを|たの《頼》んで乳を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。  やっとおなかがいっぱいになると、みんなは炉の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、|りっぱ《立派》な産着にくるまっていた。警部さんは、こりゃあ|りっぱ《立派》なうちの子を|ぬす《盗》んで捨てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き留めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ孤児院へやらなければなるまいが、こんな|りっぱ《立派》なしっかりした子どもだ、これを育てるのは|むず《難》かしくはない。両親もそのうちきっと探しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と署長さんがお言いなすった。この|ことば《言葉》にひかれて、《、/》ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどその|じぶん《時分》、わたしは同い年の|赤んぼう《赤ん坊》を持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」 「まあ、おっかあ」 「ああ、ああ、それで三月目《ミ月目》の末にわたしは自分の子どもを亡くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは相変わらずそれを忘れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに来《-こ》ないというので、もうおまえを孤児院へやると言って聞かないので困ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」 「まあ、ぼくを孤児院へなんかやらないでください」とわたしは|さけ《叫》んで、|かの《/彼》女にかじりついた。 「どうぞどうぞおっかあ、後生だから孤児院へやらないでください」 「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり苦労をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。まあ、わたしたちはせっせと働きましょう。おまえも働くのだよ」 「ええ、ええ、ぼくはしろということはなんでもきっとしますから、孤児院へだけは《は’》やらないでください」 「おお、おお、それはやりはしないから、その代わりすぐ|ねむ《眠》ると言って|やくそく《約束》をおし。あの人が帰って来て、おまえの起きているところを見るといけないからね」  おっかあはわたしにキッスして、|かべ《壁》のほうへわたしの顔を向けた。  わたしは|ねむ《眠》ろうと思ったけれども、あんまりひどく感動させられたので、静かに|ねむ《眠》りの国に|はい《入》ることができなかった。  じゃあ、あれほど優しいバルブレンのおっかあは、わたしの|ほんとう《本当》の母さんではなかったのか。するといったい|ほんとう《本当》の母さんは|だれ《誰》だろう。いまの母さんよりもっと優しい人かしら。どうしてそんなはずがありそうもない。  だが|ほんとう《本当》の父さんなら、あのバルブレンのように、こわい目でにらみつけたり、わたしに|つえ《杖》をふり上げたりしや《や-》しないだろうと思った‥‥。  あの男はわたしを孤児院へやろうとしている。母さんには|ほんとう《本当》にそれを引き止める力があるだろうか。  この村に二人、孤児院から来た子どもがあった。この子たちは、『孤児院の子』と呼ばれていた。首の回りに番号の|はい《入》った鉛の札をぶら下げていた。ひどいみなりをして、よごれくさっていた。ほかの子たちがみんなでからかって、石をぶつけたり、迷い犬を追って遊ぶように追い回したりした。迷い犬にだれも加勢する者がないのだ。  ああ、わたしはそういう子どものようになりたくない。首の回りに番号札を下げられたくない。わたしの歩いて行くあとから、『やいやい孤児院のがき、やいやい捨て子』と言ってののしられたくない。  それを考えただけでも、ぞっと寒気《寒け》がして、歯ががたがた鳴りだす。わたしは|ねむ《眠》ることができなかった。やがてバルブレンも、また帰って来るだろう。  でも幸せと、ずっと|おそ《遅》くまで|かれ《彼》は帰って来なかった。そのうちにわたしもとろろとねむ気がさして来た。 ◇。◇。◇。 【第3章】 【ヴィタリス親方の一座】 ◇。◇。◇。  その晩一晩、きっと孤児院へ連れて行かれた|ゆめ《夢》ばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの寝台《ネダイ》にね《寝》ているような気がしなかった。わたしは目が覚めるとさっそく寝台《ネダイ》にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。  バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしは|かれ《彼》がもう孤児院《’孤児院》へやる考えを捨てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置くことに決めたのであろう。  けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、|ぼうし《帽子》をかぶってついて来いと言った。  わたしは目つきで母さんに救いを求めてみた。|かの《彼》女もご亭主に気がつかないようにして、|いっしょ《一緒》に行けと目くばせした。わたしは従った。|かの《彼》女は行きがけにわたしの肩をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。  なにも言わずにわたしは|かれ《彼》について行った。  うちから村まではちょっと一時間の道であ《-あ》った。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。|かれ《彼》はびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。  どこへいったいわたしを連れて行くつもりであろう。  わたしは心の中でたびたびこの疑問をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくら|だいじょうぶ《大丈夫》だと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてに《逃》げ出そうかと考えた。  わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないように|はな《離》れていて、いざとなれば|ほり《堀》の中にでもと《跳》びこもうと思った。  はじめは|かれ《彼》も、あとからわたしがとことこついて来るのて《で》、安心していたらしかった。けれどもまもなく、|かれ《/彼》はわたしの心の中を見破ったらしく、いきなりわ《’わ》たしの|うで《腕》首をとらえた。  わたしはいやでも|いっしょ《一緒》にくっついて歩かなければならなかった。  そんなふうにして、わたしたちは村に|はい《入》った。すれちがう人がみんなふり返って目を丸くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行く|ていさい《体裁》であった。  わたしたちが村の居酒屋の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中に|はい《ハイ》れと言った。バルブレンはわたしの耳を引っ張って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとから|はい《入》って、ドアをぴしゃりと立てた。  わたしはほっとした。  そこは危険な場所とは思われなかった。それに先《セン》からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。  旅館御料理《旅館お料理》カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表《オモテ》のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである‥《‥:》‥  バルブレンはいま声をかけた亭主と、食卓に向かい合って|こし《腰》をかけた。わたしは炉ばたに|こし《腰》をかけてそこらを見回した。  わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした背《セイ》の高い老人がいた。|かれ《彼》は|きみょう《奇妙》な着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。  長い髪の毛をふっさりと肩まで垂らして、緑と赤の羽根でかざったねずみ色の高いフェルト帽をかぶっていた。|ひつじ《羊》の毛皮の毛のほうを中に返して、すっかり|からだ《体》に着こんでいた。その毛皮服には|そで《袖》はなかったが、肩の所に二つ大きな穴をあけて、そこから、もとは録色《緑色》だったはずのビロードの|そで《袖》をぬっと出していた。|ひつじ《羊》の毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。  |かれ《彼》は長ながと|いす《椅子》の上に横になって、下あごを左の手に支えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。  わたしは生きた人で、こんな静かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒の像のようであった。  老人の回りには三びきの犬が、固まってね《寝》ていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰色の雌犬が|一ぴき《一匹》。白いむく犬は巡査のかぶる古いかぶと帽をかぶって、皮のひもをあごの下に結えつけていた。  わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋の亭主は低い声でこそこそ話《’話》をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。  バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連れて行って、村長から孤児院に向かって、わたしをうちへ置く代わりに養育料《/養育料》が《を》請求してもらうつもりだと言った。  これだけを、やっとあの気の|どく《毒》なバルブレンのおっかあが夫に説いて承諾させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金《-かね》がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。  その老人はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。 「その子どもがおまえさんの|やっかい《厄介》者なのかね」 「そうだよ」 「それでおまえさんは孤児院が養育料をしはらうと思っているのかね」 「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金《-かね》を使わされた。お上からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」 「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」 「それはそうさ」 「それそのとおり。だからおまえさんが望んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」 「じゃあ孤児院へや《’や》ってしまうだけだ。こちらで養いたくないものを、なんでも養えという法律はないのだ」 「でもおまえさんは|はじ《始》めにあの子を養いますといって引き受けたのだから、その|やくそく《約束》は守らなければならない」 「ふん、|おれ《俺》はこの子を養いたくないのだ。だからどのみちどこへでも|やっかいばら《厄介払》いをするつもりでいる」 「さあ、そこで話だが、|やっかいばら《厄介払》いをするにも、手近な|しかた《仕方》があると思う。」老人はしばらく考えて、「おまけに少しは金《’かね》にもなる|しかた《仕方》がある」と言った。 「その|しかた《仕方》を教えてくれれば、|おれ《俺》は一《いっ》ぱい買うよ」 「じゃあさっそく一《いっ》ぱい買うさ。もう相談は決まったから」 「|だいじょうぶ《大丈夫》かえ」 「|だいじょうぶ《大丈夫》よ」  老人は立ち上がって、バルブレンの向こうに席をしめた。ふしぎなことには、《◇、》老人が立ち上がると、|ひつじ《羊》の毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。|たぶん《多分》、もう|一ぴき《一匹》犬を|うで《腕》の下にかかえているのだとわたしは思った。  この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人から目をはなすことができなかった。 「おまえさんはこの子のために|だれ《誰》か金《-かね》を出さない以上、自分のうちに置いて養っていることは|いや《嫌》だという、それにちがいないのだろう」 「それはそのとおりだ‥《‥:》‥そのわけは‥‥」 「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」 「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」 「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」 「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」 「よく見ているよ」 「ルミ、ここへ来い」  わたしは食卓に進み寄った。ひざはふるえていた。 「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人は言った。 「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。 「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」 「いやはや、こいつがいっそ|二つ頭《フタツアタマ》の化け物か、または一寸法師ででもあったなら‥‥」 「|だいじ《大事》にして孤児院にやりはしないだろう。香具師に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」 「仕事はできるよ」 「いや、あまり|じょうぶ《丈夫》ではないからなあ」 「|じょうぶ《丈夫》でないと、とんでもない話だ。‥《‥:》‥だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい‥‥」  バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。 「やせすぎている」と老人は言った。 「それから|うで《腕》を見ろ」とバルブレンは続けた。 「|うで《腕》も同様だ。──まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」 「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」  老人はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。  このまえ、|ばくろう《バクロウ》が来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛の|からだ《体》を手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連れて行った。  この老人もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。  不幸にもここにはおっかあはいなかった。|だれ《誰》もわたしの味方になってくれる者がなかった。  わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。 「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓仕事《ヒャクショウ仕事》にはたしかに向いてはいないようだ。試しに畑をやらしてごらん、どれほど続くかさ」 「十年は続くよ」 「なあにひと月も続くものか」 「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」  わたしは食卓の|はし《端》の、ちょうどバルブレンと老人の間に|すわ《座》っていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいように|こづ《小突》き回された。 「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人は最後に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借りるのだ。その借り賃に年《ネン》に二十《ニジュッ》フラン出すことにしよう」 「たった二十《ニジュッ》フラン」 「どうして高すぎると思うよ。それも前|ばら《払》いにするからね。|ほんとう《本当》の金貨を四枚にぎったうえに、|やっかいばら《厄介払》いができるのだからね」と老人は言った。 「だがこの子をうちに置けば、孤児院から毎月十《毎月ジュッ》フランずつくれるからな」 「まあくれてもせいぜい七フランか十《ジュッ》フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならな《な-》いからね」 「その代わり働きもするさ」 「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい捨て子を引き取るというのは、その養育料をはらってもらうためではない、働かせるためなのだ。それから金《-かね》を取り上げこそすれ、給金なしの下男下女に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに置くところなのだ」 「とにかく、毎月十《毎月ジュッ》フランはもらえるのだから」 「だが孤児院で、いや、そんならこの子はおまえさんには預けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは確かだ。おまえさんの苦労は《は’》ただ金《-かね》を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」  老人は|かく《隠》しを探って、なめし皮の財布を引き出した。その中から四枚、金貨をつかみ出して、食卓の上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音《おと》をさせた。 「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子の|ふた《二》親が出てくるかもしれない」 「それはかまわないじゃないか」 「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、初めっ《-っ》からだれが世話をするものか」 「それを思わなければ初めっ《-っ》からだれが世話をするものか」─《─:》─この|ことば《言葉》で、わたしはいよいよバルブレンが|きら《嫌》いになった。なんという悪い人間だろう。 「|なるほど《成程》、だがこの子の|ふた《二》親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちその|ふた《二》親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。|だれ《誰》もわたしを知らないのだから」と老人は言った。 「でもおまえさんがその|ふた《二》親を見つけ出したらどうする」 「|なるほど《成程》そういう場合には、わたしたちで利益を分けるのだね。ところで、ひとつ、|きば《気張》ってさしあたり三十《サンジュッ》フラン分けてあげようよ」 「四十《ヨンジュッ》フランにしてもらおう」 「いいや、この子の使い道はそこいらが相応な値段だ」 「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたい《’い》い足をしているし、|うで《腕》といえばこのとおり|りっぱ《立派》ないい|うで《腕》をしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」  そのとき老人はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを干《-ほ》した。 「つまりわたしの相手になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」 「|なるほど《成程》、それにはこの子の足はじゅうぶん|たっしゃ《達者》だから」 「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、は《跳》ね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座の役者になるのだ」 「その一座はどこにある」 「もうご推察あろうが、そのヴィタリス親方《親方’》はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」  こう言って|かれ《彼》は|ひつじ《羊》の毛皮服の|ふところ《懐》を開けて、左の|うで《腕》におさえていた|きみょう《奇妙》な動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像したように、犬ではなかった。  わたしはこの|きみょう《奇妙》な動物を生まれて初めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。  わたしはびっくりしてながめていた。  それは金筋をぬいつけた赤い服を着ていたが、|うで《腕》と足はむき出しのままであった。実際それは人間と同じ|うで《腕》と足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くも《’も》もも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわ《’わ》たしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡のようにぴかぴかと光った。 「いやあ、みっともない|さる《猿》だな」とバルブレンがさけんだ。  ああ、|さる《猿》か。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれが|さる《猿》であったのか。わたしはまだ|さる《猿》を見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、|さる《猿》だったのか。 「さあ、これが一座の花形で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにお|じぎ《辞儀》をしないか」  |さる《猿》は指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。 「さて」とヴィタリスは|ことば《言葉》を続けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席の貴賓諸君に一座のものをご紹介申しあげる光栄を有せられるでしょう」  このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくと《跳》び上がって、後足《後脚》で立ちながら、前足を胸の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査のかぶと帽が地べたについた。  敬礼がすむと|かれ《彼》は仲間のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足をさしのべて、みんなそばに寄るように合図をした。  白犬のすることをじっと見つめていた二|ひき《匹》の犬は、すぐに立ち上がって、お|たが《互》いに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳かに六歩前へ進み、また三足《ミ足’》あとへもどつて、代わりばんこにご臨席の貴賓諸君に向かってお|じぎ《辞儀》をした。  そのときヴィタリス親方が言った。 「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の頭《カシラ》ということです。いちばんかしこくって、わたしの命令を代わってほかのものに伝えます。その黒いむく毛の若いハイカラさんは、ゼルビノ侯ですが、これは優美という意味で、よく様子をご覧なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬はドルス夫人です。あの子はイギリス種《ダネ》で、名前はあの子の優しい気だてにちなんだものだ。こういう|りっぱ《立派》な芸人ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もその|ときどき《時々》の回り合わせさ。おおカピ‥‥」  カピと呼ばれた犬は前足を十文字に組んだ。 「カピ、あなた、ここへ来て、|ぎょうぎ《行儀》のいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人たちにいつもていねいな|ことば《言葉》を使っています─《─:》─さあ、この玉のような丸い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、|いま《今》は何時《ナンジ》だか教えてあげてください」  カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、|ひつじ《羊》の毛皮服の|ふところ《懐》を開け、その|かく《隠》しを探って大きな銀時計を取り出した。|かれ《彼》はしばらく時計《’時計》をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。 「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人に|なわと《縄跳》びおどりをお願いしてもらいましょうか」  カピはまた主人の|かく《隠》しを探って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐに|かれ《彼》の真向かいに座をしめた。カピが|なわ《縄》のはしをほうってやると、二|ひき《匹》の犬はひどく|まじめ《真面目》くさって、それを回し始めた。  つなの運動が規則正しくなったとき、ドルスは輪の中にと《跳》びこんで、優しい目で主人を見ながら軽快にとんだ。 「このとおりずいぶん|りこう《利口》です」と老人は言った。「それも比べるものができるとなおさら|りこう《’利口》が目立って見える。たとえばここにあれらと仲間になって、|ばか《馬鹿》の役を務める者があれば、いっそうそれらの値打ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲しいというのだ。あの子に|ばか《馬鹿》の役を務めてもらって、いよいよ犬たちの|りこう《利口》を目立たせるようにするのだ」 「へえ、この子が|ばか《馬鹿》を務めるのかね」とバルブレンが口を入れた。  老人は言った。「|ばか《馬鹿》の役を務めるには、それだけ|りこう《利口》な人間が入り|よう《用》なのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試してみることにします。この子がじゅうぶん|りこう《利口》な子なら、わたしと|いっしょ《一緒》にいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩まで同じ牧場《牧場’》で牛や|ひつじ《羊》の番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣いて|じだんだ《地団太》をふ《踏》むだろう。そうすればわたしは連れては行かない。それで孤児院に送られて、ひどく働かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」  わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらと|いっしょ《一緒》に旅をするのは、|ゆかい《愉快》だろう。だがバルブレンのおっかあは‥《‥:》‥おっかあに別れるのは《は’》つらいなあ‥《‥:》‥  でもそれを|いや《嫌》だと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院に送られなければならない。  わたしはほんとに情けなくなって、目にいっぱい|なみだ《涙》をうかべていた。するとヴィタリス老人が軽く|なみだ《涙》の流れ出した|ほお《ホオ》をつついた。 「|ははあ《ハハア》お|こぞう《小僧》さん、|大さわ《大騒》ぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい胸で思案をしているのだな。それであしたは‥‥」 「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ置いてください。どうぞ置いてください」とわたしは|さけ《叫》んだ。  カピが大きな声でほえたので、|じゃま《邪魔》されてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓のほうへと《跳》び上がった。例の|さる《猿》はみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み干そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。 「ジョリクールさん」とヴィタリスが厳しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえに|どろぼう《泥棒》です。あそこの|すみ《隅》に行って|かべ《壁》のほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶ《’ぶ》っておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手をしましょう」  |さる《猿》は息づまったような鳴き声を出して、すごすご|すみ《’隅》のほうへ行った。幸せな犬は得意な顔をして前足を主人に出した。 「さて」と老人は|ことば《言葉》をついで、「先刻の話にもどりましょう。ではこの子に三十《サンジュッ》フラン出すことにしよう」 「いや、四十《ヨンジュッ》フランだ」  そこでお《押》し問答が始まった。だが老人はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。 「よし、じゃあ裏へ行っていろ。だがに《逃》げるな。に《逃》げるとひどい目に会わせるから」  バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石に|こし《腰》をかけて考えこんでいた。  あの人たちはわたしのことを相談している。どうするつもりだろう。  心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏へ出て来た。  |かれ《彼》は一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連れて来たのだな。 「さあ帰るのだ」と|かれ《彼》は言った。  なに、うちへ帰る。──そうするとバルブレンのおっかあに別れないでもすむのかな。  わたしはそう言ってたずねたかったけれども、|かれ《/彼》がひどくきげんが悪そうなので|えんりょ《遠慮》した。  それで‥《‥:》‥だまってうちのほうへ歩いた。  けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴にわたしの耳をつかみながらこう言った。 「いいか|きさま《貴様》、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」 ◇。◇。◇。 【第4章】 【おっかあの家】 ◇。◇。◇。 「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」 「会わなかったよ」 「どうして会わなかったのさ」 「うん、|おれ《俺》はノートルダームで友だちに会った。外へ出るともう|おそ《遅》くなった。だからあしたまた行くことにした」  それではバルブレンは犬を連れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。  うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑っていたが、いまの|ことば《言葉》でその疑いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪ねるというのでは、きっとじいさんとの|やくそく《約束》はできなかったにちがいない。  バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩一晩じゅううちを|はな《離》れないので話す機会がなかった。  すごすご|ねどこ《’寝床》にもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。  けれどそのあくる日起《日’起》き上がると、おっかあの姿が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。 「おっかあ」 「ああ、それなら村へ行った。昼過ぎでなければ帰るものか」  おっかあはまえの晩、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。  なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしは|たいへん《大変》おどおどしだした。  バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積もるばかりであった。その目つきからに《逃》げるためにわたしは裏の野菜畑《野菜バタケ》へかけこんだ。  畑《ハタケ》といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物は残らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛を飼いながら野《/野》でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼んで|だいじ《大事》にしていた。  わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続いておいおい芽を出しかけている。  もう黄|ずいせん《水仙》もつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。  どんな花がさくだろう。  それを楽しみにして、わたしは毎日出《毎日’出》てみた。  それからまたわたしの|だいじ《大事》にしていた畑の一部には、|だれ《誰》かにもらっためずらしい野菜を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜を|いっしょ《一緒》にした味がするのであった。わたしはそ《’そ》っとこの野菜をじょうずに作って、おっかあを|おどろ《驚》かそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、|ないしょ《内緒》で料理をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用な子だろう』と感心させてやろう。  こんなことを思い思いこのときも、まだ芽が出ないかと思って、種のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンが|かんしゃく声《癇癪ごえ》で呼びたてているので、びっくりしてうちへ|はい《入》った。まあどうだろう。|おどろ《驚》いたことには、炉の前にヴィタリス老人と犬たちが立っているではないか。  すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連れて行くのだ。それをおっかあが|じゃま《邪魔》しないように村へ出してやったのだ。  もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人のほうへかけ寄った。 「ああ、ぼくを連れて行かないでください。後生ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣きだした。  すると老人は優しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」 「おっかあが‥‥」 「どうせ|きさま《’貴様》はここには置けないのだ」とバルブレンは|あらあら《荒々》しく言って、耳を引っ張った。 「このだんなについて行くか、孤児院へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」 「|いや《嫌》だ|いや《嫌》だ、おっかあ、おっかあ」 「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」 「この子は母親に別れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優しい心だ。いいことだ」 「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」 「まあ、話を決めよう」  そう言いながら、《◇、》老人は五フランの金貨を八枚《八枚’》テーブルの上にのせた。バルブレンはそれを|さら《皿》いこむようにして|かく《隠》しに入れた。 「この子の荷物は」と老人が言った。 「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青い|もめん《木綿》のハンケチで四|すみ《隅》をしばった包みをわたした。  中にはシャツが二枚と、麻のズボンが一着あるだけであった。 「それでは|やくそく《約束》がちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」 「こいつはほかにはなにもないのだ」 「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争っている|ひま《暇》がない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、|こぞう《小僧》さん、おまえの名はなんと言うんだっけ」 「ルミ」 「そうか、よしよし、ルミ。包みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」  わたしは哀訴するように両手を老人に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、《◇、》老人はわたしの|うで《腕》首をつかまえようとした。  わたしは行かなければならない。  ああ、このうちにもお別れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、|からだ《体》を半分そこへ残して行くようにわたしは思った。  |なみだ《涙》をいっぱい目にうかべてわたしは見回したが、手近には|だれ《誰》もわたしに加勢してくれる者がなかった。往来にも|だれ《誰》もいなかった。牧場にも|だれ《誰》もいなかった。 ◇。◇。◇。  わたしは呼び続けた。 「おっかあ、おっかあ」  けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣きの中に消えてしまった。  わたしは老人について行くほかはなかった。なにしろ|うで《腕》首をしっかりおさえられているのだから。 「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。  |かれ《彼》はうちの中へ|はい《入》った。  ああ、これでおしまいである。 「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人が言って。わたしのひじをおさえた。  わたしたちは|なら《並》んで歩いた。幸せと|かれ《彼》はそう早く歩かなかった。|たぶん《多分》わたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。  わたしたちは坂《’坂》を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。  幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上に来た。  老人はおさえた手を|ゆる《緩》めなかった。 「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。 「うん、そうだなあ」と|かれ《彼》は答えた。  |かれ《彼》はやっとわたしをはなしてくれた。  けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。  それですぐと、|ひつじ《羊》飼いの犬のように、一座の先頭から|はな《離》れてわたしのそばへ寄って来た。  わたしがに《逃》げ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。  わたしは草深い小山の上に登って|こし《腰》をかけると、犬も後ろについていた。  わたしは|なみだ《涙》に|くも《曇》った目で、バルブレンのおっかあのうちを探した。  下には谷があって、所《ところ》どころに森や牧場《牧場’》があった。それからはるか下《-した》にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかな|けむり《煙》が、そこの|けむ《煙》り出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。  気の迷いか、その|けむり《煙》はうちのかまどのそばでか《嗅》ぎ慣れた|かし《樫》の葉の|にお《匂》いがするようであった。  それは遠方でもあり、下のほうになっては《は’》いたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。  ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さな|はと《鳩》だと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がった|なし《梨》の木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして|大さわ《大騒》ぎをしてきずきかけた|ほりわり《掘割》が見えた。まあ、その水車にはずいぶん|ひま《暇》をかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしの|だいじ《大事》な畑が。  わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党のバルブレンだ。  もう一足往来《一足’往来》へ出れば、わたしの畑もなにもかも|かく《隠》れてしまうのだ。  ふと村《’村》からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたり|かく《隠》れたりしていた。  それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春の|ちょうちょう《蝶々》のように見えただけであった。  けれど目《’目》よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。確かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。 「さて出かけようか」と老人が言った。 「ああ、いいえ、後生ですからも少し」 「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もう|つか《疲》れてしまったのか」  わたしは答えなかった。ただながめていた。  やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早《足ばや》に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。  白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭に|はい《入》って行った。  わたしはすぐにと《跳》び上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピが|おどろ《驚》いてと《跳》びついて来た。  おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両|うで《腕》を広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。  |かの《彼》女はわたしを探しているのだ。  わたしは首を前に延ばして、ありったけの声でさけんだ。 「おっかあ、おっかあ」  けれどもその|さけ《叫》び声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。 「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。  わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来へ出て、きょろきょろしていた。  もっと大きな声でわたしは|さけ《叫》んだ。けれども、初めの声と同様にむだであった。  そのうち老人もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。|かれ《彼》もまもなく白いボンネットを見つけた。 「かわいそうに、この子は」と|かれ《彼》はそ《’そ》っと独り言を言った。 「おお、わたしを帰《-かえ》してください」と、わたしはいまの優しい|ことば《言葉》に乗って、泣き声を出した。  けれども|かれ《彼》はわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来へ出た。 「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、|かれ《/彼》は言った。  わたしはぬけ出そうとも《’も》がいたけれども、|かれ《/彼》はしっかりわたしをおさえていた。 「さあカピ、ゼルビノ」と、|かれ《/彼》は犬のほうを見ながら言った。  二|ひき《匹》の犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。  二足三足行《フタアシミアシ行》くと、わたしはふ《’ふ》り向いた。  わたしたちはもう坂《’坂》の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山がうすく青くかすんでいた。果てしもない空の中にわたしの目はあてどなく迷うのであった。 ◇。◇。◇。 【第5章】 【とちゅう】 ◇。◇。◇。  四十《ヨンジュッ》フラン出して子どもを買ったからといって、その人は鬼でもなければ、その子どもの肉を食べようとするのでもなかった。ヴィタリス老人はわたしを食べようという欲もなかったし、子どもを買ったが、その人は悪人ではなかった。  わたしはまもなくそれがわかった。  ちょうどロアール川とドルドーニュ川と、二つの谷を分かった山の頂上で、|かれ《/彼》は|ふたた《再》びわたしの手首をにぎった。その山を南へ下り始めて十五分も行ったころ、|かれ《/彼》は手をはなした。 「まああとからぽつぽつおいで。に《逃》げることは|むだ《無駄》だよ。カピとゼルビノがついているからな」  わたしたちはしばらくだまって歩いていた。  わたしはふとため息を一つした。 「|わし《儂》にはおまえの心持ちはわかっているよ」と老人は言った、《:、》「泣きたいだけお泣き。だがまあ、これがおまえのためにはいいことだということを考えるようにしてごらん。あの人たちはおまえの|ふた《二》親ではないのだ、おっかあはおまえに優しくはしてくれたろう。それでおまえも好《-す》いていたから、それでそんなに悲しく思うのだろう。けれどもあの人は、ご亭主がおまえをうちに置きたくないと言えば、それを止めることはできなかったのだ。それにあの男だって、なにもそんなに悪い男というのでもないかもしれない。あの男は|からだ《体》を悪くして、もうほかの仕事ができなくなっている。かたわの|からだ《体》では食べてゆくだけに骨が折れるのだ。そのうえおまえを養っていては、自分たちが飢えて死ななければならないと思っているのだ。そこでおまえにひとつ心得てもらいたいことがある。世の中は戦争のようなもので、|だれ《誰》でも自分の思うようにはゆかないものだということだ」  そうだ、《◇、》老人の言ったことは|ほんとう《本当》であった。貴い経験から出た訓言(教訓)であった。でもその訓言よりももっと力強い一つの考えしか、わたしはそのとき持っていなかった。それは『別れのつらさ』ということであった。  わたしはもう二度とこの世の中で、いちばん好きだった人に会うことができないのだ。こう思うとわたしは息苦しいように感じた。 「まあ、わたしの言った|ことば《言葉》をよく考えてごらん。おまえはわたしといれば不幸せなことはないよ」と老人は言った。「孤児院などへやられるよりはいくらましだかしれない。それで言っておくが、おまえはに《逃》げ出そうとしてもだめだよ。そんなことをすれば、あのとおりの広野原《ヒロ野原》だ。カピとゼルビノがすぐとおまえをつかまえるから」  こう言って|かれ《彼》は目の前のあ《荒》れた高原を指さした。そこにはやせこけた|えにしだ《エニシダ》が、風のまにまに波のようにうねっていた。  に《逃》げ出す──わたしはもうそんなことをしようとは思わなかった。に《逃》げていったいどこへわたしは行こう。  この背《セイ》の高い老人は、ともかく親切な主人であるらしい。  わたしは一息にこんなに歩いたことはなかった。ぐるりに見るものはあ《荒》れた土地と小山ばかりで、村を出たらば向こうはどんなに美しかろうと思ったほど、この世界は美しくはなかった。 ◇。◇。◇。  老人はジョリクールを肩の上に乗せたり、背嚢の中に入れたりして、しじゅう規則正しく、|大また《大股》に歩いていた。三びきの犬はあ《’あ》とからくっついて来た。  ときどき老人は|かれ《彼》らに優しい|ことば《言葉》をかけていた。フランス語で言うこともあったし、なんだかわからない|ことば《言葉》で言うこともあった。  |かれ《彼》も犬たちもくたびれた様子がなかった。だがわたしは|つか《疲》れた。足を引きずって、この新しい主人にくっついて歩くのが精いっぱいであった。けれども休ませてくれとは言いだし得なかった。 「おまえがくたびれるのは木の|くつ《靴》のせいだよ」と|かれ《彼》は言った。「いずれユッセルへ着いたら|くつ《靴》を買ってやろう」  この|ことば《言葉》はわたしに元気をつけてくれた。わたしはしじゅう|くつ《靴》が欲しいと思っていた。村長のむすこも、はたごやのむすこも|くつ《靴》を持っていた。それだから日曜というと|かれ《彼》らはお寺へ来て石のろうかをすべるように走った。それをわれわれほかの|いなか《田舎》の子どもは、木|ぐつ《靴》でがたがた、耳の遠くなるような音をさせたものだ。 「ユッセルまではまだ遠いんですか」 「|ははあ《ハハア》、本音をふいたな」とヴィタリスが笑いながら言った。「それでは|くつ《靴》が欲しいんだな。よしよし、わたしは|やくそく《約束》をしよう。それも大きな|くぎ《釘》を底に打ったやつをなあ。それからビロードの半ズボンとチョッキと|ぼうし《帽子》も買ってやる。それで|なみだ《涙》が引っこむことになるだろう。なあ、そうしてもらおうじゃないか。そしてあと六マイル(約四十キロ)歩いてくれるだろうなあ」  底に|くぎ《釘》を打った|くつ《靴》、わたしは得意でたまらなかった。|くつ《靴》をはくことさええらいことなのに、おまけに|くぎ《釘》を打ってある。わたしは悲しいことも忘れてしまった。  |くぎ《釘》を打った|くつ《靴》、ビロードの半ズボンに、チョッキに、|ぼうし《帽子》。  まあバルブレンのおっかあがわたしを見たらどんなにうれしがるだろう。どんなに得意になるだろう。  けれども、なるほど|くつ《靴》とビロードがこれから六マイル歩けばもらえるという|やくそく《約束》はいいが、わたしの足はそんな遠方まで行けそうにもなかった。  わたしたちが出かけたときに青あおと晴れていた空が、いつのまにか黒《-くろ》い雲に|かく《隠》れて、細かい雨がやがてぽつぽつ落ちて来た。  ヴィタリスはそっくり|ひつじ《羊》の毛皮服にくるまっているので、雨もしのげたし、|さる《猿》のジョリクールも、一《ひと》しずく雨がかかるとさっそく|かく《隠》れ家にに《逃》げこんだ。けれども犬とわたしはなんにもかぶるものがないので、まもなく骨まで通るほどぬれた。でも犬はぬれても|ときどき《時々》しずくをふり落とすくふうもあったが、わたしはそんなことはできなかった。下着までじくじくにぬれ通って、《、/》骨まで冷えきっていた。 「おまえ、じき|かぜ《風邪》をひくか」と主人は聞いた。 「知りません。|かぜ《風邪》をひいた覚えがないから」 「それはたのもしいな。だがこのうえぬれて歩いてもしようがないことだから、《、/》少しでも早くこの先の村へ行って休むとしよう」  ところがこの村には一|けん《軒》も宿屋というものはなかった。当たり前の家ではじ《’じ》いさんのこじきの、しかも子どもに三びきの犬まで引き連れて、ぬれねずみになった同勢をとめようという者はなかった。 「うちは宿屋じゃないよ」  こう言ってどこでも戸を立てきった。わたしたちは一|けん《軒》一|けん《軒》聞いて歩いて、一|けん《軒》一|けん《軒》断られた。  これから四マイル(約六キロ)ユッセルまで一休みもしないで行かなければならないのか。暗《くら》さは暗し、雨はいよいよ冷たく骨身に通った。ああ、バルブレンのおっかあのうちがこいしい。  やっとのことで一|けん《軒》の百姓家がいくらか親切があって、わたしたちを納屋にとめることを承知してくれた。でもね《寝》るだけはね《寝》ても、明かりをつけることはならないという言いわたしであった。 「おまえさん、マッチを出しなさい。あしたた《発》つとき返してあげるから」とその百姓家《ヒャクショウヤ》の主人はヴィタリス老人に言った。  それでもとにかく、風雨を防ぐ屋根だけはできたのであった。  老人は食料なしに旅をするような不注意な人ではなかった。|かれ《彼》は背中にしょっていた背嚢から一かたまりのパンを出して、四《4》きれにちぎった。  さてこのときわたしははじめて、|かれ《/彼》がどういうふうにして、仲間の規律を立てているかということを知った。さっきわれわれが一|けん《軒》一|けん《軒’》宿を探して歩いたとき、ゼルビノがある家に|はい《入》ったが、さっそくか《駆》け出して来たとき、パ《/パ》ンの切れを口にくわえていた。そのとき老人は《は’》ただ、 「よしよし、ゼルビノ‥《‥:》‥今夜は覚えていろ」とだけ言った。  わたしはもうゼルビノの|どろぼう《泥棒》をしたことは忘れて、ヴィタリスがパンを切る手先をぼんやり見ていた。ゼルビノはしかしひどくしょげていた。  ヴィタリスとわたしはとなり合ってジョリクールをまん中に置いて、二つある|わら《藁》のたばの上、かれ草のたばの上に|こし《腰》をかけて、三びきの犬はその前に|なら《並》んでいた。カピとドルスは主人の顔をじっと見つめているのに、ゼルビノは耳を立ててしっぽを足の間《あいだ》に入れて立っていた。  老人は命令するような調子で言った。「|どろぼう《泥棒》は仲間をはずれて、すみに行かなければならんぞ。夕食なしに|ねむ《眠》らなければならんぞ」  ゼルビノは席を去って、指《指’》さされたほうへすごすご出て行った。それでかれ草の積んである下にもぐりこんで、姿が見えなくなったが、その下で悲しそうにくんくん泣いている声が聞こえた。  老人はそれからわたしにパンを|一き《一切》れくれて、自分の分を食べながら、《、/》ジョリクールとカピとドルスに、小さく切って分けてやった。  どんなにわたしはバルブレンのおっかあのスープがこいしくなったろう。それにバターはなくっても、暖かい炉の火がどんなにいい心持ちであったろう。夜着《/夜着》の中に鼻をつっこんでねた小さな寝台《ネダイ》がこいしいな。  もうすっかりくたびれきって、足は木|ぐつ《靴》ですれて痛んだ。着物はぬれしょぼたれているので、冷たくって|からだ《体》がふるえた。夜中になっても|ねむ《眠》るどころではなかった。 「歯をがたがた言わせているね。おまえ寒いか」と老人が言った。 「ええ、《、/》少し」  わたしは|かれ《彼》が背嚢を開ける音《音’》を聞いた。 「わたしは着物もたんとないが、かわいたシャツにチョッキがある。これを着てまぐさの下にもぐっておいで。じきに暖かになって|ねむ《眠》られるよ」  でも老人が言ったようにそうじき暖かにはならなかった。わたしは長いあいだ|わら《藁》の|とこ《トコ》の上でごそごそしながら、苦しくって|ねむ《眠》られなかった。もうこれから先はいつもこんなふうにくらすのだろうか。ざあざあ雨の降る中を歩いて、寒さにふるえながら、物置きの中にね《寝》て、夕食にはたった|一き《一切》れの固パンを分けてもらうだけであろうか。スープもない。|だれ《誰》もかわいがってくれる者もない。だきしめてくれる者もない。バルブレンのおっかあももうないのだ。  わたしの心はまったく悲しかった。|なみだ《涙》が首を流れ落ちた。  そのときふと暖かい息が顔の上にかかるように思った。  わたしは手を延ばすと、カピのやわらかい毛が手にさわった。|かれ《彼》はそ《’そ》っと草の上を音のしないように歩いて、わたしの所へや《’や》って来たのだ。わたしの|にお《匂》いを優しくか《嗅》ぎ回る息が、わたしの|ほお《ホオ》にも髪の毛にもかかった。  この犬はなにをしようというのであろう。  やがて|かれ《彼》はわたしのすぐそばの|わら《藁》の上に転げて、それはごく静かにわたしの手をなめ始めた。  わたしもうれしくなって、|わら《藁》の|とこ《トコ》の上に半分起《半分’起》き返って、犬の首を両|うで《腕》にかかえて、その冷たい鼻にキッスした。|かれ《彼》はわずか息のつまったような泣き声を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に預けて、じつ《っ》とおとなしくしていた。  わたしは|つか《疲》れも悲しみも忘れた。息苦しい|のど《喉》がからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。 ◇。◇。◇。 【第6章】 【初舞台】 ◇。◇。◇。  そのあくる日は早く出発した。  空は青あおと晴れて、夜中の|から風《カラカゼ》がぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りにも《’も》つれていた。ときどきカピが後足《後脚》で立ち上がって、わたしの顔を見ては|二、三度続《ニサン度続》けてほえた。|かれ《彼》の心持ちはわたしにはわかっていた。 「元気を出せ、しっかり、しっかり」  こう言っているのであった。  |かれ《彼》は|りこう《利口》な犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の尾のふり方にはたいていの人の舌や口で言う以上の頓知と能弁がふくまれていた。わたしとカピの間には|ことば《言葉》は要らなかった。初めての日からお|たが《互》いの心持ちはわかっていた。  わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、初めて町を見るのはなにより楽しみであった。  でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の塔や古い建物などよりも、もっと気になるのは|くつ《靴》屋の店であった。  老人が|やくそく《約束》をした|くぎ《釘》を打った|くつ《靴》のある店は|どこ《何処》だろう。  わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人は市場《イチバ》の後ろの一|けん《軒》の店に|はい《入》った。店《みせ》の外に古い鉄砲だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、さ《錆》びた|かぎ《鍵》だのがつるしてあった。  わたしたちは三段ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな部屋に|はい《入》った。  |くぎ《釘》を打った|くつ《靴》なんぞを、どうしてこんな気味《キミ》の悪い所で売っているだろう。  けれども老人にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木|ぐつ《靴》の十倍も重たい、|くぎ《釘》を打った|くつ《靴》をはくことになった。うれしいな。  老人の情けはそれだけではなかった。|かれ《彼》はわたしに水色ビロードの上着と、毛織りのズボンと、フェルト|ぼうし《帽子》まで買ってくれた。|かれ《彼》の|やくそく《約束》しただけの品は残らずそろった。  まあ、麻の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それに|くつ《靴》は。|ぼうし《帽子》は。わたしはたしかに世界|じゅう《中》でいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。|ほんとう《本当》にこの老人は世界|じゅう《中》でいちばんいい人でいちばん情け深い人だと思われた。  もっともそのビロードは油じみていたし、毛織りのズボンはかなり破れていた。それにフェルト|ぼうし《帽子》のフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。  ところで宿屋に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは、《:、》老人がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。  わたしは丸い目をして|かれ《彼》の顔を見た。 「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」と|かれ《彼》は説明した。  わたしはいよいよびっくりしてしまった。 「わたしたちは芸人だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらの|いなか《田舎》の人間のようなふうをして歩いたら、|だれ《誰》が目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでも|ていさい《体裁》を作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」  こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その晩はもうイタリアの子どもになっていた。  ズボンはやっとひざまで届いた。老人はくつ下にひもをぬいつけて、フェルト|ぼうし《帽子》の上にはいっぱいに赤いリボンを結びつけた。それから毛糸の花でおかざりをした。  わたしはほかの人がどう思うかは知らないが、正直に言えば自分ながらなかなか|りっぱ《立派》になったと思った。親友のカピも同じ考えであったから、しばらくわたしの顔をじっと見て、満足したふうで前足を出した。  わたしはカピの賛成を得たのでうれしかった。それというのが、わたしが着物を着かえている最中、例のジョリクールめが、わたしのまん前にべったりすわって、大げさな身ぶりで、さんざんひとのするとおりのまねをして、《:、》すっかり仕度ができると、今度はおしりに手を当て、首をちぢめて、あざけるように笑ったので、一方にそういう実意のある賛成者のできたのがよけいにうれしかったのである。  いったい|さる《猿》が笑うか笑わないかということは、学問上の問題だそうだ。わたしは長いあいだジョリクールと仲よくくらしていたが、|かれ《/彼》はたしかに笑った。しかもどうかすると人を|ばか《馬鹿》にした笑い方をしたものだ。もちろん|かれ《彼》は人間のようには笑わなかった。けれどもなにかおもしろいことがあると、口を曲げて、目をくるくるやって、あのしっぽをす早く働かせる。そうしてま《真》っ黒な目はぴかぴか光って、火花がとび出すかと思われた。 「さあ仕度ができたら」と最後に|ぼうし《帽子》を頭にかぶると老人が言った。「わたしたちはいよいよ仕事にかからなければならない。あしたは市《イチ》の立つ日だから、おまえは初舞台を務めなければならない」  初舞台。初舞台とはどんなことだろう。  老人はそこで、この初舞台というのは、三びきの犬とジョリクールを相手に芝居をすることだと教えてくれた。 「でもぼく、どうして芝居をするのか知りません」と、わたしはおどおどしながらさけんだ。 「それだから、わたしが教えてあげようというのだよ。教わらなけりゃわかりゃしない。この動物どももいっしょうけんめい自分の役をけいこしたものだ。カピが後足《後脚》で立つのでも、ドルスが|なわと《縄跳》びの芸当をやるのでも、みんなけいこをして覚えたのだ。ずいぶん骨の折れたことではあったが、その代わりご覧、あのとおり|かしこ《賢》くなっている。おまえも、これからいろいろの役を覚えるためにはよほど勉強が要る。とにかく仕事にかかろう」  これまでわたしは仕事といえば、畑にくわを入れるとか、石を切るとか、木をかるとかいうほかにはないように思っていた。 「さてわたしたちのやる狂言は、『《『/》ジョリクール氏の家来、一名《1名》とんだあほうの取り|ちが《違》え』というのだ。それはこういう筋だ。ジョリクール氏はこれまで一人家来《ひとり家来》を使っていた。それはカピという名前で、《、/》ジョリクール氏はこの家来に満足していたのだが、年を取ったので|ひま《暇》を取ろうとする。それでカピは主人に|ひま《暇》を取るまえに、代わりの家来を見つける|やくそく《約束》をする。さてその後がまの家来というのは、犬ではなくって子どもなのだ。ルミと名乗る|いなか《田舎》の子どもなのだ」 「やあ、ぼくと同じ名前の‥‥」 「いや、同じ名前ではない、それがおまえなんだ。おまえはジョリクール氏の所へ奉公口を探しに|いなか《田舎》から出て来たのだ」 「お|さる《猿》に家来はないでしょう」 「そこが芝居だよ。さておまえはいきなり村からと《飛》び出して来た。それでおまえの新しい主人はおまえをあほうだと思う」 「おお、ぼく、そんなこといやです」 「人が笑いさえすれば、そんなことはどうでもいいじゃないか。さておまえは初めてこのだんなの所へ家来になってやって来た。そして食事のテーブル|ごしらえ《ゴシラエ》を言いつけられる。それ、ちょうどそこに、芝居に使うテーブルがある。さあ、仕度におかかり」  このテーブルの上には、お|さら《皿》に、コップに、ナイフが一本、フォークが一本、白いテーブルか《掛》けが一枚置《一枚’置》いてあった。  どうしてこれだけのものをならべようか。  わたしはそれを考えて、両手をつき出してテーブルによっかかって、ぽかんと口を開けたまま、なにから手をつけていいか困っていると、親方は両手を打って、腹をかかえて笑いだした。 「うまいうまい。それこそ本物だ」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。「わたしが先《セン》に使っていた子どもは狡猾そうな顔つきで、どうだ、あほうのまねはうまかろうと言わないばかりであった。おまえのはそれがいかにも自然でいい。どうしてすばらしいものだ」 「でもぼく、どうしていいのかわからないんです」 「それだからそんなにうまくやれるのだ。おまえに芝居がわかるとかえって、いま思っているようなことをわざとするようになるだろう。なんでもいまのどうしていいかわからずに困っている心持ちを忘れないようにしてやれば、いつも上出来だよ。つまり役の性根は、|さる《猿》と人間が、主人と家来と身分を取りかえたついでに、|ばか《馬鹿》を|りこう《利口》と取りかえて、とんだあほうの取り|ちが《違》え、これが芝居のおかしいところなのだ」  『ジョリクール氏の家来』は大芝居《オオ芝居》というのではなかったから、二十分より長くは続かなかった。ヴィタリスはわたしたちにたびたびそれをくり返させた。わたしは主人がずいぶん|しんぼう《辛抱》強いので|おどろ《驚》いた。これまで村でよく動物をしこむところを見たが、ひどくしかったり、ぶったりしてやっとしこむのであった。ずいぶんけいこは長くやったが、親方は一度も|おこ《怒》ったこともなければ、しかったこともなかった。 「さあ、もう一度やり直しだ」と|かれ《彼》は厳しい声で言って、いけないところを直した。「カピ、それはいけません。ジョリクール、気をつけないとしかりますぞ」  これがすべてであった。しかしそれでじゅうぶんであった。  わたしを教えながら|かれ《彼》は言った。「なんでもけいこには犬をお手本にするがいい。犬と|さる《猿》とを比べてごらん。ジョリクールは|なるほど《成程》はしっこいし、|ちえ《知恵》もあるけれども、注意もしないし、従順でもないのだ。|かれ《彼》は教えられたことはわけなく覚えるが、すぐそれを忘れてしまう。それに|かれ《彼》は言われたことをわざとしない。かえってあべこべなことをしたがる。それはこの動物の性質だ。だからわたしはあれに対してはおこらない。|さる《猿》は犬と同じ良心を持たない。あれには義務という|ことば《言葉》の意味がわかっていない。それが犬におとるところだ。わ《分》かったかね」 「ええ」 「おまえは|りこう《利口》で注意深い子だ。まあなんによらず|すなお《素直》に、自分のしなければならないことをいっしょうけんめいにするのだ。それを一生覚《一生’覚》えておいで」  こういう話をしているうち、わたしは勇気をふるい起こして、芝居のけいこのあいだなによりわたしをびっくりさせたことについて|かれ《彼》に質問した。どうして|かれ《彼》が犬や|さる《猿》やわたしに対してあんなに|しんぼう《辛抱》強くやれるのであろうか。  |かれ《彼》はにっこり笑った。「おまえは百姓《ヒャクショウ》たちの仲間にいて、手|あら《荒》く生き物を取り|あつか《扱》っては、言うことを聞かないと棒でぶつようなところばかり見てきたのだろう。だがそれは大きなまちがいだよ。手|あら《荒》く|あつか《扱》ったところでいっこう役に立たない。優しくしてやればたいていはうまくゆくものだ。だからわたしは動物たちに優しくするようにしている。むやみにぶてば|かれ《彼》らはおどおどするばかりだ。ものをこわがると|ちえ《知恵》がにぶる。それに教えるほうで|かんしゃく《癇癪》を起こしては、ついいつもの自分とはちがったものになる。それではいまおまえに感心されたような|しんぼう《辛抱》力は出なかったろう。他人を教えるものは自分を教えるものだということがこれでわかる。わたしが動物たちに教訓をあたえるのは、同時にわたしが|かれ《彼》らから教訓を受けることになるのだ。わたしはあれらの|ちえ《知恵》を進めてやったが、あれらはわたしの品性を作ってくれた」  わたしは笑った。それがわたしには|きみょう《奇妙》に思われた。でも|かれ《彼》は《は’》なお続けた。 「おまえはそれを|きみょう《奇妙》だと思うか。犬が人間に教訓を授けるのは|きみょう《奇妙》だろう。だがこれは|ほんとう《本当》だよ。  すると主人が犬をしこもうと思えば、自分のことをかえりみなければならない。その飼い犬を見れば主人の人がらもわかるものだ。悪人の飼っている犬はやはり悪ものだ。強盗の犬は|どろぼう《泥棒》をする。|ばか《馬鹿》な百姓《ヒャクショウ》が《の》飼い犬は|ばか《馬鹿》で、もののわからないものだ。親切な礼儀正しい人は、やはり気質のいい犬を飼っている」  わたしはあした|おお《大》ぜいの前に現れるということを思うと、胸がどきどきした。犬や|さる《猿》はまえからもう|何百ぺん《ナンビャッペン》となくやりつけているのだから、かえってわたしよりえらかった。わたしがうまく役をやらなかったら、親方はなんと言うだろう。見物はなんと言うだろう。  わたしはくよくよ思いながらうとうとねいった。その|ゆめ《夢》の中で、おおぜいの見物が、わたしがなんて|ばか《馬鹿》だろうと言って、腹をかかえて笑うところを見た。  あくる日になると、いよいよわたしは心配でおどおどしながら、芝居をするはずのさかり場まで行列を作って行った。  親方が先に立って行った。背《セイ》の高い|かれ《彼》は首をまっすぐに立て、胸を前へつき出して、おもしろそうに|ふえ《笛》でワルツをふきながら、手足で拍子をとって行った。その後ろにカピが続いた。イギリスの大将の軍服をまねた金モールでへりをとった赤い上着を着《き》、鳥の羽根でかざったかぶとをかぶったジョリクールがその背中にいばって乗っていた。  ゼルビノとドルスが、ほどよく|はな《離》れてそのあとに続いた。  わたしがしんがりを務めていた。わたしたちの行列は親方の指図どおり適当な間を|へだ《隔》てて進んだので、かなり人目に立つ行列になった。  なによりも親方のふくするどい|ふえ《笛》の音《ネ》にひかれて、みんなうちの中からか《駆》け出して来た。とちゅうの家の窓という窓はカーテンが引き上げられた。  子どもたちの群れがあとからかけてついて来た。やがて広場に着いた|じぶん《時分》には、わたしたちの行列に、はるか多い見物の行列がつながって、たいした人だかりであった。  わたしたちの芝居小屋はさっそくできあがった。四本の木に|なわ《縄》を結び回して、その長方形《’長方形》のま《真》ん中にわたしたちは陣取ったのである。  番組の第一は犬の演じるいろいろな芸当であった。わたしは犬がなにをしているかまるっきりわからなかった。わたしはもう心配で心配で自分の役を復習することにばかり気を取られていた。わたしが記憶していたことは、親方が|ふえ《笛》をそばへ置き、ヴァイオリンを取り上げて、犬のおどりに合わせてひいたことで、それはダンス曲であることもあれば、静かな悲しい調子の曲であることもあった。|なわ張《縄張》りの外に見物はぞろぞろ集まっている。わたしはこわごわ見回すと、数知れないひとみの光がわたしたちの上に集まっていた。  一番の芸当が終わると、カピが歯の間にブリキの|ぼん《盆》をくわえて、お客さまがたの間を|ぐるぐる《グルグル》回りを始めた。見物の中で銭《ゼニ》を入れない者があると、立ち止まって二本の前足をこのけちんぼうなお客の|かく《隠》しに当てて、三度ほえて、それから前足で|かく《隠》しを軽くたたいた。それを見るとみんな笑いだして、うれしがってときの声を上げた。  |じょうだん《冗談》や、嘲笑のささやきがそこここに起こった。 「どうも|りこう《利口》な犬じゃないか。あいつは金《’かね》を持っている人といない人を知っている」 「そら、ここに手をかけた」 「出すだろうよ」 「出すもんか」 「おじさんから遺産をもらったくせに、けちな男だなあ」  さてとうとう銀貨が一枚おく深い|かく《隠》しの中からほり出されて、|ぼん《盆》の中にはいることになった。そのあいだ親方は一言《一ゴン》もものは言わずに、カピの|ぼん《盆》を目で見送りながら、おもしろそうにヴァイオリンをひいた。まもなくカピが得意らしく|ぼん《盆》にいっぱい《い-》お金を入れて帰って来た。  いよいよ芝居の始まりである。 「さてだんなさまがたおよび|おく《奥》さまがたに申し上げます」  親方は、片手に弓、片手にヴァイオリンを持って、身ぶりをしながら口上を述べだした。 「これより『ジョリクール氏の家来。一名《1名》とんだあほうの取り|ちが《違》え』と題しまする|ゆかい《愉快》な喜劇をごらんにいれたてまつります。わたくしほどの芸人が、手前みそに狂言の功能をならべたり、一座の役者の|ちょうちん《提灯》持ちをして、自分から品を下げるようなことはいたしませぬ。ただ一言申《いちごん申》しますることは、どうぞよくよくお目止《目’止》められ、お耳止《耳’止》められ、お手拍子ご|かっさい《喝采》のご用意を願っておくことだけでございます。始まり」  親方は|ゆかい《愉快》な喜劇だと言ったが、じつはだんまりの身ぶり狂言にすぎなかった。それもそのはずで、立役者の二人まで、《、/》ジョリクールも、カピもひと言も口は《は’》きけなかったし、第三の役者のわたしも|ふた言《フタコト》とは言うことがなかった。  けれども見物に芝居をよくわからせるために、親方は芝居の進むにつれて、かどかどを音楽入りで説明した。  そこでたとえば勇ましい戦争の曲をひきながら、|かれ《/彼》はジョリクール大将が登場を知らせた。大将はインドの戦争でたびたび功名を現して、いまの高い地位にのぼったのである。これまで大将はカピという犬の家来を一人使《ひとり使》っていたが、出世していてお金が取れて、ぜいたくができるようになったので、人間の家来をかかえようと思っている。長いあいだ動物が人間の奴隷であったけれども、それがあべこべになるときが来たのである。  家来の来るのを待つあいだに、大将は葉巻きをふかしながらあちこちと歩き回る。見物の顔に|かれ《彼》が|たばこ《煙草》の|けむり《煙》をふっかけるふうといったら、見物《見もの》であった。なかなか来ないのでじれて、人間が|かんしゃく《癇癪》を起こすときのように目玉をくるくる回し始める。くちびるをかむ。|じだんだ《地団太》をふ《踏》む。三度目に|じだんだ《地団太》をふ《踏》んだときに、わたしがカピに連れられて舞台に現れることになる。  わたしが役を忘れていれば犬が教えてくれるはずになっていた。  やがてころ合いの|じぶん《時分》に、|かれ《/彼》は前足をわたしのは《ほ》うへ出して、大将がわたしを紹介した。  大将はわたしを見ると、がっかりしたふうで両手を上げた。なんだ、これがわざわざ連れて来た家来かい。それから|かれ《彼》は歩いて来て、わたしの顔を|ぶえんりょ《不遠慮》にながめた。そうして肩をそびやかしながら、わたしの回りを歩き回っていた。その様子がそれは|こっけい《滑稽》なので、|だれ《誰》もふき出さずには《は’》いられなかった。見物が|なるほど《成程》、この|さる《猿》はわたしをあほうだと思っているなと|なっとく《納得》する。そうして見物もやはりわたしをあほうだと思いこんでしまう。  芝居がまたいかにもわたしのあほうさの底が知れないようにできていた。することなすことに|さる《猿》はかしこかった。  いろいろとわたしを試験をしてみた末、大将は|かわいそう《可哀想》になって、とにかく朝飯を食べさせることにする。|かれ《彼》はもう朝飯の仕度のできているテーブルを指さして、わたしにすわれといって合図をした。 「大将の考えでは、この家来にまあなにか食べるものでも食べさしたら、これほどあほうでもなくなるだろうというのですが、さて、どんなものでしょうか」と、ここで親方が口上をはさんだ。  わたしは小さなテーブルに向かって|こし《腰》をかけた。テーブルの上には食器が|なら《並》んで、|さら《皿》の上にナプキンが置いてあった。このナプキンをわたしはどうすればいいのだろう。  カピがその使い方を手まねで教えてくれた。しばらくしげしげとながめたあとで、わたしはナプキンで鼻をかんだ。  そのとき大将が腹をかかえて大笑いをした。そうしてカピはわたしのあほうにあきれ返って、四つ足ででんぐり返しを打った。  わたしは《は’》やりそこなったことがわかったので、またナプキンをながめて、それをどうすればいいかと考えていた。  やがて思いついたことがあって、わたしはそれを丸く巻いてネクタイにした。大将がもっと笑った。カピがまたでんぐり返しを打った。  そのうちとうとう|がまん《我慢》がしきれなくなっ《-っ》て、大将がわたしを|いす《椅子》から引きずり下ろして、自分が代わりに|こし《腰》をかけて、わたしのためにならべられている朝飯を食べだした。  ああ、|かれ《/彼》のナプキンを|あつか《扱》うことのうまいこと。いかにも上品に軍服のボタンの穴にナプキンをはさんでひざの上に広げた。それからパンをさいて、お酒を飲む優美なしぐさといったらない。けれどいよいよ食事がすんで、|かれ《/彼》が小ようじを言いつけて、器用に歯をせせって(つついて)見せたとき、割れるほど大かっさいがほうぼうに起こって、芝居はめでたくまい納めた。 「なんというあほうな家来だろう。なんというかしこい|さる《猿》だろう」  宿屋に帰る道みち、親方はわたしをほめてくれた。わたしはもう|りっぱ《立派》な喜劇役者になって、主人からおほめの|ことば《言葉》をいただいて、得意になるほどになったのである。 ◇。◇。◇。 【第7章】 【読み書きのけいこ】 ◇。◇。◇。  ヴィタリス親方の小さな役者の一座は、どうしてなかなか|たっしゃ《達者》ぞろいにはちがいなかったが、その曲目はそうたくさんはなかったから、長く同じ町《’町》にいることはできなかった。  ユッセルに着いて三日目には、また旅に出ることになった。  今度は《は’》どこへ行くのだろう。  わたしはもう大胆になって、こう質問を親方に発してみた。 「おまえはこの|へん《辺》のことを知っているか」と、|かれ《/彼》はわたしの顔を見ながら言った。 「いいえ」 「じゃあなぜ、どこへ行くと言って聞くのだ」 「知りたいと思って」 「なにを知りたいのだ」  わたしはなんと答えていいかわからないので、だまっていた。 「おまえは本を読むことを知っているか」  |かれ《彼》はしばらく考え深そうにわたしの顔を見て、こうたずねた。 「いいえ」 「本にはこれからわたしたちが旅をして行く土地の名やむ《/む》かしあったいろいろなことが書いてある。一度もそこへ来たことがなくっても、本を読めばまえから知ることができる。これから道みち教えてあげよう。それはおもしろいお話を聞かせてもらうようなものだ」  わたしはまるっきりものを知らずに育った。もっともたったひと月村《月’村》の学校に行ったことがあった。けれどその月じゅうわたしは一度も本を手に持ったことはなかった。わたしがここに話をしている時代には、フランスに学校のあることを|じまん《自慢》にしない村がたくさんあった。よし学校の先生のいる所でも、その人はなんにも知らないか、さもなければなにかほかに仕事があって、預った子どもの世話をろくろくしない者が多かった。  わたしたちの村の学校の先生がやはりそれであった。それは先生がものを知らないというのではないが、わたしが学校に行っているひと月じゅう|かれ《/彼》はただの一課をすら教えなかった。|かれ《彼》はほかにすることがあった。その先生は《は’》商売が|くつ《靴》屋であった。いや|だれ《誰》もそこから皮の|くつ《靴》を買う者がなかったから、|ほんとう《本当》は木|ぐつ《靴》屋だと言ったほうがいい。|かれ《彼》は一日こしかけに|こし《腰》をかけて木|ぐつ《靴》にするけやきやくるみの木をけずっていた。そういうわけでわたしはなにも学校では教わらなかったし、|ABC《アベセ》をすら教わらなかった。 「本を読むってむずかしいことでしょうか」  わたしはしばらく考えながら歩いて、こう聞いた。 「頭のにぶい者には|むず《難》かしいが、それよりも習いたい気のない者にはもっとむずかしい。おまえの頭はにぶいかな」 「ぼくは知りません。けれども教えてくだされば習いたいと思います」 「よしよし、考えてみよう。まあ、ゆっくり教えてあげよう。たっぷり|ひま《暇》はあるからね」  たっぷり|ひま《暇》があるからゆっくりやろう。なぜすぐに始めないのだろう。わたしは本を読むことを習うのがどんなにむずかしいか知らなかった。もう本を開ければすぐに中に書いてあることがわかるように思っていた。  そのあくる日歩いて行くとちゅう、親方は|こし《腰》をかがめて、|ほこり《埃》をかぶった板きれを拾い上げた。 「は《ほ》ら、これがおまえの習う本だ」と|かれ《彼》は言った。  なにこの板きれが本だとは。わたしは《は’》|じょうだん《冗談》を言っているのだろうと思って、|かれ《/彼》の顔を見た。けれど|かれ《彼》はい《’い》っこうに|まじめ《真面目》な顔をしていた。わたしは木ぎれをじっと見た。  それは|うで《腕》ぐらい長さがあって、両手をならべたくらい|はば《幅》があった。そのうえには字も絵も書いてはなかった。  わたしは|からか《揶揄》われるような気がした。 「あすこ《こ’》の木の|かげ《蔭》へ行って休んでからにしよう。そこでどういうふうにわたしがこれを使って、本を読むことを教えるか、話してあげよう」と親方は言って、わたしのびっくりしたような顔を笑いながら見た。  わたしたちは木の|かげ《蔭》へ来ると、背嚢を地べたに下ろして、そろそろ|ひなぎく《ヒナギク》のさいている青草《アオクサ》の上にすわった。ジョリクールは|くさり《鎖》を解いてもらったので、さっそく木の上にかけ上がって、くるみを落とすときのように、こちらの|えだ《枝》からあちらの|えだ《枝》をゆすぶって|さわ《騒》いでいた。犬たちはくたびれて回りに丸くなっていた。  親方は|かく《隠》しからナイフを出して、いまの板きれの両側をけずって、同じ大きさの小板《コイタ》を十二本こしらえた。 「わたしはこの一本一本の板に一つずつの字をほってあげる」と|かれ《彼》はわたしの顔を見ながら言った。わたしは《は’》じっとかれから目を放さなかった。「おまえはこの字を形で覚えるのだ。それを一目見《ひと目見》てなんだということがわかれば、それをいろいろに組み合わせて|ことば《言葉》にするけいこをするのだ。|ことば《言葉》が読めるようになれば、本を習うことができるのだ」  やがてわたしの|かく《隠》しはその小さな木ぎれでいっぱいになった。それで|ABC《アベセ》の字を覚えるのに|ひま《暇》はかからなかったけれども、読むことを覚えるのは別の仕事であった。なかなか早くはいかないので、ときにはなぜこんなものを教わりたいと言いだしたかと思って、後悔した。でもこれは、わたしがなまけ者でもなく、負けおしみが強《-つよ》かったからである。  わたしに字を教えながら親方は、それを|いっしょ《一緒》にカピにも教えてみようかと思い立った。犬は時計から時間を探し出すことを覚えたくらいだから、文字を覚えられないことはなかった。それでカピとわたしは同級生になって、|いっしょ《一緒》にけいこを始めた。犬はもちろん口《’口》で言えないから、木ぎれが残らず草の上にまき散らされると、|かれ《/彼》は前足で、言われた文字をその中から拾い出して来《-こ》なければならなかった。  はじめはわたしもカピよりはずっと進歩が早かった。けれどわたしは理解こそ早かったが、物覚えは、犬のほうがよかった。犬は一度物《一度’物》を教わると、いつもそれを覚えて忘れることがなかった。わたしがまちがうと親方はこう言うのである。 「カピのは《ほ》うが先に読むことを覚えるよ、ルミ」  そう言うとカピはわかったらしく、得意になってしっぽをふった。  そこでわたしはくやしくなって気を入れて勉強した。それで犬がやっと自分の名前の四つの字を拾い出してつづることしかできないのに、わたしはとうとう本を読むことを覚えた。 「さて、おまえは|ことば《言葉》を読むことは覚えたが、どうだね、今度は譜を読むことを覚えては」と親方が言った。 「譜を読むことを覚えると、あなたのように歌が歌えますか」とわたしは聞いた。 「ああ。そうするとおまえもわたしのように歌が歌いたいと思うのかい」と親方が答えた。 「とてもそんなによくはできそうもないと思いますけれども、《、/》少しは歌いたいと思います」 「じゃあわたしが歌を歌うのを聞くのは好きかい」 「ええ、わたしは、なによりそれが好きです。それはうぐいすの歌よりずっと好きです。けれどもまるでうぐいすの歌とはちがいますね。あなたが歌っておいでになると、ぼくは歌のとおりに泣きたくなることもあるし、笑いたくなることもあります。|ばか《馬鹿》だと思わないでください。あなたが静かにさびしい歌をお歌いになると、わたしはまたバルブレンのおっかあの所へ帰ったような気がするのです。目をふさいで聞いていると、またうちにいるおっかあの姿が目にうかびますけれども、歌はイタリア語だからわかりません」  わたしはあお向いて|かれ《彼》を見た。|かれ《彼》の目には|なみだ《涙》が|あふ《溢》れていた。そのときわたしは|ことば《言葉》を切って、 「気にさわったのですか」とたずねた。  |かれ《彼》は声をふるわせながら言った。「いいや、気にさわるなんということはないよ。それどころかおまえは、わたしを遠い子どもだったむかしにもどしてくれた。そうだ、ルミや、わたしは歌を教えてあげよう。そうしておまえは情け深いたちだから、やはりその歌で人を泣かせることもできるし、人にほめられるようにもなるだろう」  |かれ《彼》は言いかけてふとやめた。わたしは|かれ《彼》がそのとき、そのうえに言うことを好まないらしいのがわかった。わたしには|かれ《彼》がそんなに悲しく思うわけがわからなかった。でもあとになって、それはある悲しい事情《’事情》から初めてわかった。いずれわ《’わ》たしの話の進んだとき、それを言うおりがあるである《ろ》う。  そのあくる日、|かれ《/彼》は小さく木を切って文字を作ったと同様に音譜をこしらえた。  音譜は|ABC《アベセ》より入りくんでいた。今度は習うのにもいっそう骨も折れたし、|たいくつ《退屈》でもあった。あれほど犬に対して|しんぼう《辛抱》のいい親方も、一度ならずわたしには|かんにん《堪忍》の緒を切ったこともあった。|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。 「畜生に対しては、かわいそうな、口のきけないものだと思って|がまん《我慢》するけれど、おまえではまったく気|ちが《違》いにさせられる」と、こう|かれ《彼》は言って、芝居のように両手を空に上げて、急にまた下に下ろして、はげしくももを打った。  自分がおもしろいと思うと、まねをしてはおもしろがっているジョリクールは、今度も主人の身ぶりをまねていた。毎日わたしのけいこのときに、|さる《猿》はいつもそばにいるので、わたしがつかえでもすると、そのたんびにがっかりした様子をして、|かれ《/彼》が両|うで《腕》を空に上げて、また下に下ろしては、ももを打つところを見ると、わたしはしょげずには《は’》いられなかった。 「ご覧、《、/》ジョリクールまでが、おまえを|ばか《馬鹿》にしている」と親方がさけんだ。  わたしが思い切った子なら、|さる《猿》が|ばか《馬鹿》にしているのは生徒ばかりではなく、先生までも|ばか《馬鹿》にしているのだと言ってやりたかった。けれども失礼だと思ったし、こわさもこわいので|えんりょ《遠慮》して、心のうちでそう思うだけで満足した。  とうとう何週間もけいこを続けて、わたしは親方が書いた紙から、曲を読むことができるようになった。もう親方も、両手を空に上げなかった。それどころかかえって、歌うたんびにほめてくれて、この調子でたゆまずやってゆけば、きっとえらい歌うたいになれると言ってくれた。  むろんこれだけのけいこが一日でできあがるはずはなかった。何週間のあいだ何か《カ》月のあいだ、わたしの|かく《隠》しはいつも小さな木ぎれで、いっぱいになっていた。  しかし、わたしの課業は学校にはいっている子どものそれのように、規則正しいものではなかった。親方が課業を授けてくれるのは、その|ひま《暇》な時間だけであった。  毎日決《毎日’決》まった道のりだけは歩いて行かなければならなかった。もっともその道のりは村と村との間が遠いか近いか、それによって長くもなり短くもなった。いくらかでも、収入のある機会を見つけしだい、そこで止まって芝居をうたなければならなかった。犬たちやジョリクール氏に役々の復習をもさせなければならなかった。朝飯も昼飯もてんでんに自分で用意しなければならなかった。読書なり音楽なりの仕事は、つまりそういうもののすんだあとのことであった。まあいちばんよく教えてもち《ら》ったのは、休憩の時間で、木の根かたや、小砂利の山の上や、または芝生なり、道ばたの草の上が、みんなわ《’わ》たしの木ぎれをならべる机が《の》代わりになった。  この教育法は|ふつう《普通》の子どもの受けるそれとは、《、/》少しも似たところがなかった。|ふつう《普通》の子どもなら、ただ勉強するほかに仕事はな《’な》いし、それでも|かれ《彼》らはしじゅうあたえられた宿題をやる時間がないといって、ぶつぶつ言うのである。  けれど、勉強に使う時間のあるなしよりも、もっと|たいせつ《大切》なものがあった。それはその仕事に専念するということであった。授かった課業を覚えるのは、覚えるために費される時間ではなくって、それは覚えたいと思う熱心であった。  幸いにわたしは、ぐるりに起こる出来事に心をうばわれることなしに、|むちゅう《夢中》に勉強のできるたちであった。もしその|じぶん《時分》わたしが、部屋の中に閉じこもって、両手で耳をふさいで、目を本にはりつけたようにしているのでなければ、勉強のできない生徒のようであったら、わたしになにができたろう、なにもできはしない。なぜというに、わたしには、閉じこもる部屋もなかった。往来に沿って前へ前へと進みながら、|ときどき《時々》もう|つまず《躓》いて|たお《倒》れそうになるほど痛い足の先を、見つめ見つめしてゆかなければならなかった。  だんだんわたしはおかげでいろんなことを覚えた。と同時に親方の授けてくれた課業以上に有益な長い旅行をした。わたしがバルブレンのおっかあの所にいた|じぶん《時分》には、ごくやせっぽちな子どもであった。みんながわたしを見て言った|ことば《言葉》で、その様子はよくわかる。「町の子どもだ」と、バルブレンは言ったし、「ひどくひょろひょろした手足の子だ」と親方は言った。  ところが親方のあとについて、広い青空の下に困難な生活を続けているあいだに、わたしの手足は強くなり、肺臓は発達し、皮膚は厚くなり、ちょうどかぶとをかぶったように寒《/寒》さをも暑さをもしのぐことができるようになった。  こうして、このつらいお弟子修業《弟子修行》のおかげで、わたしは少年時代に、たいていの困難に打ち勝ってゆく力を養うことのできたのは、あとで思えば|ひじょう《非常》な幸福であった。 ◇。◇。◇。 【第8章】 【山こえて谷こえて】 ◇。◇。◇。  わたしたちはフランスの中央の一部、たとえばローヴェルニュ、《、/》ル・ヴレー、《、/》ル・リヴァレー、《、/》ル・ケルシー、《、/》ル・ルーエルグ、《、/》レ・セヴェンネ、《、/》ル・ラングドックというような土地土地をめぐって歩いた。  わたしたちの流行はしごく簡単であった。どこでもかまわずまっすぐに出かけて行って、あまり|びんぼう《貧乏》でない町《街》だと見ると、まず行列を作る用意を始めて、犬たちに着物を着せかえてやり、ドルスの髪にくしを入れてやる。カピが老兵の役をやっているときは、目の上に包帯をしてやる。最後にいやがるジョリクールに大将の軍服を着せる。これがなによりいちばん|やっかい《厄介》な仕事であった。なぜというにこの|さる《猿》は、これが仕事にかかるまえぶれだということを知りすぎるほど知っていて、なんでも着物を着させまいとするために、それはおかしな芸当を考え出すのであった。そこでわたしは|しかた《仕方》がないからカピを加勢に呼んで来て、二人がかりでどうやらこうやらおさえつけて、言うことを聞かせるのであった。  さて一座残らずの仕度ができあがると、ヴィタリス親方は例の|ふえ《笛》でマーチをふきながら村の中へ|はい《入》って行く。  そこでわれわれのあとからついて来る群衆の数が相応になると、さっそく演芸を始めるが、ほんの|二、三人気《ニサンニン気》まぐれな冷やかしのお客だけだとみると、わざわざ足を止める値打ちもないので、かまわずずんずん進んで行く。  一つの町に|五、六日《ゴ六にち》も続けて滞留い《し》ているようなときには、カピがついていさえすれば、親方はわたしを一人手放《ひとり手放》して外へ出してくれた。親方はつまりわたしをカピに預けたのである。 「おまえは同じ年ごろの子どもがたいがい学校に行っている時代に、ひょんなことからフランスの国じゅうを歩く回り合わせになっているのだ」と親方はあるときわたしに言った。「だから学校へ行く代わりに、自分で目を開いて、よくものを見て覚えるのだ。見てわからないものがあったら、かまわずにわたしに質問するがいい。わたしだってなんでも知っているわけではないが、一|とお《通》りおまえの知りたい心を満足させるだけのことはできるだろう。わたしもいまのような人間でばかりはなかった。かなりむかしはいろいろほかの気のきいたことも知っていた」 「どんなことを」 「それはまたいつか話そうよ。ただまあ、むかしから犬や|さる《猿》の見世物師でもなかったことだけ知ってもらえばよい。なんでも人間は心がけしだいで、いちばん低い位置からどんなにも高い位置に上ることができる。これも覚えていてもらいたい。それでおまえが大きくなったとき、どうかまあ、気の|どく《毒》な旅の音楽師が自分を養い親の手から引きさらって行ったときには、つらくもこわくも思ったようなものも、つまりそれがよかったのだと思って、喜んでくれるときがあればいいと思うのだ。まあ、こうして境遇の変わるのが、つまりはおまえのために悪くはないかもしれないのだからな」  いったいこの親方はもとはなんであったろう、わたしは知りたいと思った。  さてわたしたちはだんだんめぐりめぐって行って、ローヴェルニュからケルシーの高原に|はい《入》った。これはおそろしくだだっ広くってあ《荒》れていた。小山が波のようにうねっていて、開《ひら》けた土地もなければ、大きな樹木もなかったし、人通りはごく少なかった。小川もなければ池もない。所《ところ》どころ水がか《枯》れきって、石ばかりの谷川が目に|はい《入》るだけであった。その原っぱのま《真》ん中にバスチード・ミュラーという小さな村があった。わたしたちはこの村のある宿屋の物置きに一夜を過ごした。 「そうだ、この村だったよ」とヴィタリス親方が言った。「しかもこの同じ宿屋だったかもしれないが、のちに何万という軍勢を率いる大将がここで生まれたのだ。初めは|うまや《厩》の|こぞう《小僧》から身を起こして、公爵が《に》なり、のちには王|さま《様》になった。名前をミュラーと言った。みんながその人を英雄と呼んで、この村をもその名前で呼ぶことになった。わたしはその男を知っていた。たびたび|いっしょ《一緒》に話をしたこともあった」  わたしもさすがに|ことば《言葉》をはさまずには《は’》いられなかった。 「|うまや《厩》の|こぞう《小僧》だったときにですか」 「いいや」と親方は笑いながら答えた。「もう王|さま《様》だった|じぶん《時分》にだよ。今度初《今度’初》めてわたしはこの地方にやって来たのだ。わたしはその男が王|さま《様》だったナポリの宮殿で知り合いになったのだ」 「あなたは王|さま《様》と知り合いなのですか」  わたしのこういった調子は少し|こっけい《滑稽》であったとみえて、親方は《は’》さも|ゆかい《愉快》そうに笑いだした。  わたしたちは|うまや《厩》の戸の前の|こし《腰》かけに|こし《腰》をかけて、昼間の太陽のぬくもりのまだ残っている|かべ《壁》に背中をおしつけていた。われわれの頭の上におっかぶさっている大きないちじくの木の中で夕ぜみが鳴いていた。母屋《母家》の屋根の上には、いま出たばかりの満月が静かに青空に上がっていた。その日は昼間こげるように暑かったので、それがいっそう心持ちよく思われた。 「おまえ、|とこ《トコ》に|はい《入》りたいか」と親方はたずねた。「それともミュラー王の話でもしてもらいたいと思うか」 「ああ、どうぞそのお話をしてください」  そこで親方はわたしと|こし《腰》かけの上にいるあいだ、長物語をしてくれた。親方が話をしているうちに、だんだん青白い月《’月》の光がななめにさしこんできた。わたしは|むちゅう《夢中》になって耳を立てた。両方の目をすえてじっと親方の顔を見ていた。  わたしはまえにこんなむかし物語などを聞いたことがなかった。|だれ《誰》がそんな話をして聞かせよう。バルブレンのおっかあはとても話すわけがない。|かの《彼》女はそんな話は少しも知らなかった。|かの《彼》女はシャヴァノンで生まれて、|たぶん《多分》はそこで死ぬのだろう。|かの《彼》女の心は目で見るかぎりをこえて先へは行かなかった。それもアンドゥーズ山《サン》の頂から見晴らす地平線上に限られていた。  わたしの親方は王|さま《様》に会ったことがある。その王|さま《様》は|かれ《彼》と話をした。いったいこの親方は若いときなんであったろう。それがどうしてこの年になって、いまのような身の上になったのだろう‥《‥:》‥  わたしの、活発に鋭敏に働く幼い想像と好奇心は、この一つのことにばかり働いた。 ◇。◇。◇。 【第9章】 【七里《シチリ》ぐつをはいた大男】 ◇。◇。◇。  南部地方の高原のかわききった土地を|はな《離》れてのち、わたしたちは、いつも青あおとした谷間の道を通って、旅を続けた。これはドルドーニュ川の谷で、わたしたちは毎日少《毎日’少》しずつこの谷を下りて行った。なにしろこの地方は土地が豊かで、住民も従って富貴《フウキ》であったから、わたしたちの興行の度数もしぜん多くなり、例のカピのお|ぼん《盆》の中へもなかなかたくさんのお金が投げこまれた。  ふと空中に、ふうわりとちょうど霧の中にくもの糸でつり下げられたように、橋が一つ、大きな川の上《’上》にかかっていた。川はその下にごくおだやかに流れていた─《─:》─これはキュブザックの橋で、川はドルドーニュ川であった。  あ《荒》れた町が一つ、そこには古いお|ほり《堀》もあり、岩屋もあり、塔もあった。修道院のあ《荒》れた|へい《塀》の中には、せみが雑木の中で、そこここに止まって鳴いていた─《─:》─これはセンテミリオン寺であった。  けれどそれもこれもみんなわ《’わ》たしの記憶の中でこんがらがって、ぼやけてしまっているが、そののちほ《’ほ》どなく、|ひじょう《非常》に強い印象をあたえた景色が現れた。それは今日《コンニチ》でもありありと、全体のうきぼりがさながら目の前に現れるくらいあざやかであった。  わたしたちはあるごく|びんぼう《貧乏》な村に一夜を明かして、あくる日夜の明けないうちから出発した。長いあいだわたしたちは、|ほこり《埃》っぽい道を歩いて来て、両側にはしじゅうぶどう畑ばかりを見て来たのが、ふと、それはあたかも目をさえぎっていた窓かけがぱらりと落ちたように、眼界が自由に開《ひら》けた。  大きな川が一つ、わたしたちのそのとき行き着いた丘のぐるりをゆるやかに流れていた。この川《’川》のはるか向こうに不規則にゆがんだ地平線までは、大都市の屋根や鐘楼が続いて散らばっていた。どれが家だろう。どれが|えんとつ《煙突》だろう。中でいちばん高い、いちばん細いのが、|五、六木《ゴ六本》、柱のように空につっ立って、そのてっぺんからま《真》っ黒な|けむり《煙》をふき出しては、風のなぶるままに、たなびいて、町の真上に黒いガスの雲をわかしていた。川の上《’上》には、ちょうど中ほどの河岸通《カシ通》りに沿って数知れない船が停泊して、林のように|なら《並》んだ帆柱や、帆|づな《綱》や、それにいろいろの色の旗を風にばたばた言わせながらおし合いへし合いしていた。がんがんひびく銅や鉄の音やつちの音《おと》、そういう物音の中に、河岸通《カシ通》りをからから走って行くたくさんの車の音が交じって聞こえた。 「これがボルドーだ」と親方がわたしに言った。  わたしのような子どもにとっては──その年までせいぜいクルーズの|びんぼう《貧乏》村か、道みち通って来たいくつかのちっぽけな町のほかに見たことのない子どもにとっては、これはおとぎ話の国であった。  なにを考えるともなく、わたしの足はしぜんと止まった。わたしは《は’》じっと立ち止まったまま、前のほうをながめたり、後ろのほうをながめたり、ただもうぼんやりそ《’そ》こらを見回していた。  しかし、ふとわたしの目は一点にとどまった。それは川の面《オモテ》を|ふさ《塞》いでいるおびただしい船であった。  つまりそれはなんだか|わけ《訳》のわからない、ごたごたした活動であったが、それが自分でもはっきりつかむことのできない、|ひじょう《非常》に強い興味をわたしの心にひき起こした。  |いくそう《幾艘》かの船は帆をいっぱいに張って、一方にかたむきながら、ゆうゆうと川を下って行くと、こちらからは反対に上って行った。島のように動かずに止まっているものもあれば、どうして動いているかわからないで、くるくる回っている船もあった。最後にもう一つ、帆柱もなければ、帆もなしに、ただ|えんとつ《煙突》の口から黒い|けむり《煙》のうずを空に巻きながら、黄ばんだ水の上に白いあわのあぜを作りながら、ずんずん走っているものもあった。 「ちょうどいまが満潮《マンチョウ》だ」と親方はこちらから問いかけもしないのに、わたしの|おどろ《驚》いた顔に答えて言った。 「長い航海から帰って来た船もある。ほら、ペンキがはげてさ《錆》びついたようになっているだろう。あすこへは港を|はな《離》れて行く船がある。川のま《真》ん中にいる船が満潮に|かじ《舵》を向けるようなふうに、いかりの上でくるくる回っている。|けむり《煙》の雲の中を走って行く船は引き船だ」  わたしにとってはなんという|ことば《言葉》であろう。なんという目新しい事実であろう。  わたしたちが、パ《/パ》スチードとボルドーを通じている橋の所へ来るまでに、親方はわたしが聞きたいと思った質問の百分の一に答えるだけの|ひま《暇》もなかった。  これまでわたしたちはけっしてとちゅうの町で長逗留をすることはなかった。なぜというに、しじゅう見物をかえる必要から、しぜん毎日興行《毎日’興行》の場所をも変えなければならなかった。それに『名高いヴィタリス親方の一座』の役者では、狂言の芸題をいろいろにかえてゆく自由がきかなかった。『ジョリクール氏の家来』『大将の死』『正義の勝利』『下剤をかけた病人』、《:、》そのほか|三、四種《サンヨン種》の芝居をやってしまえば、もうおしまいであった。それで一座の役者の芸は種切れであった。そこでまた場所を変えて、まだ見ない見物の前で、これらの狂言を、相変わらず、『下剤をかけた病人』か、『正義の勝利』をやらなければならなかった。  しかし、ボルドーは大都会である。見物は容易に入れかわったし、場所さえ変えると毎日|三、四回《サンヨ-ン回》の興行をすることができた。それでもカオールに行ったときのように、『いつでも同じことばかりだ』とどなられるようなことはなかった。  ボルドーを打ち上げてから、わたしたちはポーへ行かなければならなかった。その|とちゅう《途中》では大きな|さばく《砂漠》をこえなければならなかった。|さばく《砂漠》はボルドーの町の門からピレネーの連山まで続いていて、『ランド』という名で呼ばれていた。  もうわたしもおとぎ話にある若い|はつかねずみ《ハツカネズミ》のように、見るもの聞くものが驚嘆や恐怖の種になるというようなことはなかった。それでもわたしはこの旅行の初めから、親方を笑わせるような失敗を演じて、ポーに着くまで、そのためなぶられどおしになぶられるほかはなかった。  わたしたちは|七、八日《シチハチニチ》のちボルドーを出発した。ガロンヌ川沿岸の土地を回ったのち、ランゴンで川を|はな《離》れて、モン・ド・マルサンへ行く道をとった。その道はつま先下がりに下がっていった。もうぶどう畑もなければ、牧場もない。果樹園もない、ただ|まつ《松》と灌木の林があるだけであった。やがて人家もだんだん少なくなり、だんだんみ《’み》すぼらしくなった。とうとうわたしたちは大きな高原のま《真》ん中にいた。所《ところ》どころ高低はあっても、日の届くかぎり野原であった。畑地もなければ森もない、遠方から見るとただ一色のねずみ色の土地であった。道の両側がうす黒いこけや、しなびきった灌木や、いじけた|えにしだ《エニシダ》でおおわれていた。 「わたしたちはランドの中に来たのだ」と親方が言った。「この|さばく《砂漠》のまん中まで行くには二十里か二十五里(八十キロか百キロ)行かなければならない。しつ《っ》かり足に元気をつけるのだぞ」  元気をつけなければならないのは足だけではなかった。頭にも、胸にも、元気をつけなければならなかった。なぜといって、もう終わる時のないように広い|さばく《砂漠》の道を歩いて行くとき、|だれ《誰》でもば《ぼ》んやりして、わけのわからない悲しみと、がっかりしたような心持ちに胸がふさがるのであった。  そののちもわたしはたびたび海上の旅をしたが、いつも大洋のま《真》ん中で帆|かげ《影》一つ見えないとき、わたしはやはりこの無人の土地で感じたとおりの言いようもない悲しみを、また経験したことがあった。  大洋の中にいると同様に、わたしたちの日は遠い秋霧の中に消えている地平線まで届いていた。ひたすら広漠と単調が広がっている灰色の野のほかに、なにも目をさえぎるものがなかった。  わたしたちは歩き続けた。でも機械的に|ときどき《時々》ぐるりと見回すと、やはりいつまでも同じ場所に立ち止まったまま、《、/》少しも進んでいないように思われた。目に見える景色はいつでも同じことであった。相変わらずの灌木、相変わらずの|えにしだ《エニシダ》、相変わらずの|こけ《苔》であった。風がふくとやわらかなわらびの葉がなよなよと動いて、まるで波の走るように高く低く走った。  ずいぶん長いあいだをおいて、たまさか、わたしたちはちょいとした森を通りぬけることがあったが、その森は|ふつう《普通》の森のように、とちゅうの興《キ-ョウ》をそえるようなものではなかった。いつも|まつ《松》の木の森で、その|えだ《枝》は|こずえ《梢》まで風に打ち落とされていた。幹に長く、深い傷がえぐれていた。その赤い傷口からすきとおった|まつやに《松脂》の|なみだ《涙》が流れ出していた。風が傷口からふきこむと、いかにも悲しそうな音楽を奏して、この気の|どく《毒》な|まつ《松》がみずから痛みをうったえる声のように聞かれた。  わたしたちは朝から歩き続けていた。親方は夜までにはどこかと《泊》まれる村に着くはずだと言っていた。けれど夜になっても、その村らしいものは見えなかったし、人家に近いことを知らせる|けむり《煙》も上がらなかった。  わたしはくたびれたし、ねむたかった。わたしたちは前途は《は’》ただ原っぱを見るだけであった。  親方もやはりくたびれていた。|かれ《彼》は足を止めて道ばたに休もうとした。  わたしはそれよりも、左手にあった小山に登って、村の火が見えるかどうか見たいと思った。  わたしはカピを呼んだが、カピもやはりくたびれていたので、呼んでも聞こえないふりをしていた。これはいつでも言うことを聞きたくないときにカピのやることであった。 「おまえ、こわいのか」とヴィタリスは言った。  この質問がすぐにわたしを奮発さして、一人で行く気を起こさせた。  夜は《は’》すっかり垂れまくを下ろした。月もなかった。空の上には星の光がうすもやの中にちらちらしていた。歩いて行くと、そこらのさまざまな物がぼんやりした光の中で|きみょう《奇妙》な幽霊じみた形をしているように見えた。野生の|えにしだ《エニシダ》が、頭の上にぬっと高く延びて、まるでわたしのほうへ向かって来るように見えた。上へ登れば登るほどいばらや草むらはいよいよ深くなって、わたしの頭をこして、上でもつれ合っていた。|ときどき《時々》わたしはその中をくぐってぬ《抜》けて行かなければならなかった。  けれどわたしはぜひも頂上まで登らなければならないと決心した。でもやっとのこと登ってみれば、どちらを見ても明かりは見えなかった。ただもう|きみょう《奇妙》な物の形と、大きな樹木が、いまにもわたしをつかもうとするように|うで《腕》を延ばしているだけであった。  わたしは耳を立てて、犬の声か、雌牛のうなり声でも聞こえはしないかと思ったが、ただもうしんと静まり返っていた。  どうかして聞き取ろうと思うから、耳をすませて、自分の立てる息の音さえ|えんりょ《遠慮》をして、わたしはしばらくじっと立っていた。  ふとわたしはぞくぞく身ぶるいがしだした。このさびしい、人気《人け》のない荒野原の静けさが、わたしをおびやかしたのであった。なんにわたしはおびえたのであったか、|たぶん《多分》あまり静かなことが‥《‥:》‥夜が‥《‥:》‥とにかく言いようのない恐怖がわたしの心にのしかかるようにしたのであった。わたしの心臓は、まるでそこになにか危険がせまったようにどきついた。  わたしはこわごわ|あた《辺》りを見回した。するとそのとき、遠方に大きな姿をしたものが木の中で動いているのを見た。それと|いっしょ《一緒》にわたしは木の|えだ《枝》の|がさがさ《ガサガサ》いう音《音’》を聞いた。  わたしは無理に、それは自分の気の迷いだと思いこもうとした。きっとそれは木の|えだ《枝》か灌木の|かげ《蔭》かなんぞだったのだ。  けれど、そのとき風は、木の葉を動かすほどの軽い風もふいてはいなかった。はげしい風でふかれるか、|だれ《誰》かがさわらないかぎり動くはずはなかったのである。 「|だれ《誰》かしら」  いや、この自分のほうを目ざ《指》してやって来る大きな影法師が人間であるはずがなかった─《─:》─わたしのまだ知らないなにかの|けもの《獣》か、またはおそろしい大きな夜鳥か、大きな|ばけぐも《バケグモ》が木の上をと《跳》びこえて来るのだ。なんにしても確かなことは、この化け物はおそろしく長い足をしていて、|ばかばか《馬鹿馬鹿》しく早く飛んで来るということであった。  それを見るとわたしはあわてて、あとをも見ずに、足に任せて小山をか《駆》け下りて、ヴィタリスのいる所までに《逃》げようとした。  けれど|きみょう《奇妙》なことに、登るときだけに早くわたしの足が進まなかった。わたしはいばらや、雑草の|やぶ《藪》の中に転がって、二足《フタ足》ごとにひっかかれた。  ちくちくするいばらの中からは《這》い出して、わたしはふと後ろをふり向いてみた。怪物はいよいよ近くにせまっていた。もういまにも頭の上にと《跳》びかかりそうになっていた。  運よく野原はそういばらがなかったので、いままでよりは、早くかけだすことができた。  でもわたしがありったけの速力で、競争しても、その怪物はずんずん追いぬこうとしていた。もう後ろをふり返る必要はなかった。それがわたしのすぐ背中にせまっていることはわかっていた。  わたしは息もつけなかった。競争で|つか《疲》れきっていた。ただ|はあすう《ハアスウ》、|はあすう《ハアスウ》言っていた。しかし最後の大努力をやって、わたしは転げこむように親方の足もとにかけこんだ。三びきの犬はあわててはね起きて、大声でほえた。わたしはやっと二つの|ことば《言葉》をくり返した。 「化け物が、化け物が」  犬たちのけたたましいほ《吠》え声よりも高く、はちきれそうな大笑いの声を聞いた。それと同時に親方は両手でわたしの肩をおさえて、無理に顔を後ろにふり向けた。 「お|ばか《馬鹿》さん」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んで、まだ笑いやめなかった。「まあよく見なさい」  そういう|ことば《言葉》よりも、そのけたたましい笑い声《こえ》がわたしを正気に返らせた。わたしは片目ずつ開けてみた。そうして親方の指さすほうをながめた。  あれほどわたしをおどかした怪物はもう動かなくなって、じつ《っ》と往来に立ち止まっていた。  その姿を見ると、正直の話わ《/わ》たしはまたふるえだした。けれど今度はわたしも親方や犬たちのそばにいるのだ。草やぶのしげった中に独りぼっちいるのではなかった‥《‥:》‥わたしは思い切って目を上げて、じっとその姿を見つめた。  |けもの《獣》だろうか。  人だろうか。  人のようでもあって、胴はあるし、頭も両|うで《腕》もあった。  |けもの《獣》らしくもある。けれどもかぶっていた毛むくじゃらな身の皮と、それをのせているらしい二本《2本》の長細いすねは、それらしい。  夜は《は’》いよいよ暗かったが、この黒い影法師は星明かりにはっきりと見えた。  わたしはしばらく、それがなんだかまだわからずにいたのであったが、親方はやがてその影法師に向かって話をしかけた。 「まだ村にはよほど遠いでしょうか」と、|かれ《/彼》はていねいにたずねた。  話をしかけるところから見れば人間だったか。  だがそれは返事はしないで、ただ黙った。その笑い声は鳥の鳴き声めいていた。  すると|けもの《獣》かな。  主人はやはり問いを続けた。  こうなると、それが今度口《今度’口》をきいて返事をしたら、やはり人間にちがいなかった。  ところでわたしのびっくりしたことには、その怪物は、この近所には人家はないが、|ひつじ《羊》小屋は一|けん《軒》あるから、そこへ連れて行ってやろうと言った。  おやおや、口がきけるのに、なぜ|けも《獣》のような前足があるのだろう。  わたしに勇気があったら、その男のそばへ行って、どんなふうに前足ができているか見て来るところであったろうが、わたしはまだ少しこわかった。そこで背嚢をしょい上げてひと言も言わずに親方のあとについて行った。 「これでおまえ、正体がわかったろう」と親方は言って、道みち歩きながらも笑っていた。 「でもぼくはまだなんだかわかりません。じや《ゃ》あこの|へん《辺》には大男がいるのですか」 「そうさ。竹馬《タケウマ》に乗っていれば大男にも見えるさ」  そこで|かれ《彼》はわたしに説明してくれた。砂地や沼沢か《が》多いランド地方の人は、沼地を歩くとき水にぬれないように、竹馬《タケウマ》に乗って歩くというのであった。なんてわたしは|ばか《馬鹿》だったのであろう。 「これでこの|へん《辺》の人が、七里《シチリ》ぐつをはいた大男になって、子どもをこわがらせたわけがわかったろうね」 ◇。◇。◇。 【第10章】 【裁判所】 ◇。◇。◇。  ポー市には|ゆかい《愉快》な記憶がある。そこは冬ほ《/ほ》とんど風のふかない心持ちのいい休み場であった。  わたしたちはそこに冬じゅういた。金《かね》もずいぶんたくさん取れた。お客はたいてい子どもたちであったから、同じ演芸を何度も何度もくり返してやってもあきることがなかった。金持ちの子どもたちで、多くはイギリス人とアメリカ人の子どもであった。ぽちゃぽちゃとかわいらしく太った男の子、それに、大きな優しい、ドルスの目のような美しい目をした女の子たちであった。そういう子どもたちのおかげでわたしはアルバートだのハ《/ハ》ントリだのという菓子の味を覚えた。なぜというに子どもたちはいつでも|かく《隠》しにいっぱいお菓子をつめこんで来ては、《、/》ジョリクールと犬《/犬》とわ《/わ》たしに分けてくれたからであった。  けれども春が近くなるに従って、お客の数はだんだん少なくなった。芝居がすむと一人ずつまた二人ずつ、子どもたちはやって来て、《、/》ジョリクールとカ《/カ》ピとド《/ド》ルスに握手をして行った。みんなさようならを言いに来たのであった。そこでわたしたちもまたなつかしい冬の休息所を見捨てて、またもや果て知れない漂泊の旅に出て行かなければならなかった。それはいく週間と知らない長いあいだ、谷間をぬけ山をこえた。いつもピレネー連山のむらさき色のみねを横に見た。それはうずたかくもり上がった雲のかたまりのように見えていた。  さてある晩わ《/わ》たしたちは川に沿った豊かな平野の中にある大きな町に着いた。赤れんがのみっともない家が多かった。とんがった小砂利をしきつめた往来が、一日十二《イチニチ十二》マイル(約十九キロ)も歩いて来た旅行者の足をなやました。親方はわたしに、ここがツールーズの町だと言って、しばらくここに滞留するはずだと話した。  例によってそこに着いていちばん初めにすることは、あくる日の興行に|つごう《都合》のいい場所を探すことであった。  |つごう《都合》のいい場所はけっして少なくはなかったが、とりわけ植物園の近傍(近所)のきれいな芝生には、大きな樹木が気持ちのいいかげを作っていて、そこへ広い並木道がほうぼうから集まっていた。その並木道の一つで第一回の興行が《を》することにした。すると初日からもう見物の山を築いた。  ところで不幸なことに、わたしたちが仕度をしているあいだ、巡査が一人そばに立っていて、わたしたちの仕事を不快らしい顔で見ていた。その巡査はおそらく犬が|きら《嫌》いであったか、あるいはそんな所にわれわれの近寄ることを|ふつごう《不都合》と考えたのか、ひどく|ふきげん《不機嫌》でわ《/わ》たしたちを追いはらおうとした。  追いはらわれるままにわたしたちは|すなお《素直》に出て行けばよかったかもしれなかった。わたしたちは巡査にたてをつくほどの力はないのであったが、しかし親方はそうは思わなかった。  |かれ《彼》は《は’》たかが犬を連れて|いなか《田舎》を興行い《し》て回る見世物師の老人ではあったが、|ひじょう《非常》に気位が高《-たか》かったし、《:、》権利の思想をじゅうぶんに持っていた|かれ《彼》は、法律にも警察の規律にも背かないかぎりか《/か》えって警察から保護を受けなければならないはずだと考えた。  そこで巡査が立ちのいてくれと言うと、|かれ《/彼》はそれを拒絶した。  もっとも親方は|ひじょう《非常》にていねいであった。親方があまりはげしくおこらないとき、または他人をすこし愚弄(|ばか《馬鹿》にする)しかけるときするくせで、まったく|かれ《彼》はそのイタリア風の慇懃(|ばか《馬鹿》ていねい)を極端に用いていた。ただ聞いていると、|かれ《/彼》はなにか高貴な有力《/有力》な人物と応対しているように思われたかもしれなかった。 「権力を代表せられるところの閣下よ」と|かれ《彼》は言って、|ぼうし《帽子》をぬいでていねいに巡査にお|じぎ《辞儀》をした。「閣下は果たして、右の権力より発動しまするところのご命令をもって、《:、》われわれごときあわれむべき旅芸人が、公園において|いや《卑》しき技芸を演じますることを禁止せられようと言うのでございましょうか」  巡査の答えは、議論の必要はない、ただだまってわたしたちは服従すればいいというのであった。 「|なるほど《成程》」と親方は答えた。「わたくしはただあなたがいかなる権力によって、このご命令をお発しになったか、それさえ承知いたしますれば、さっそくおおせつけに服従いたしますことを、つつしんで誓言《セイゴン》いたしまする」  この日は巡査も背中を向けて行ってしまった。親方は|ぼうし《帽子》を手に持って|こし《腰》を曲げたまま、|にやにや《ニヤニヤ》しながら、旗を巻いて退く敵に向かって敬礼した。  けれどその翌日も、巡査はまたやって来た。そうして|わたし《私》たちの芝居小屋の囲いの|なわ《縄》をと《跳》びこえて、興行|なか《半》ばにかけこんで来た。 「この犬どもに口輪《クチワ》をはめんか」と、|かれ《/彼》は|あらあら《荒々》しく親方に向かって言った。 「犬に口輪《クチワ》をはめろとおっしゃるのでございますか」 「それは法律の命ずるところだ。|きさま《貴様》は知っているはずだ」  このときはちょうど『下剤をかけた病人』という芝居をやっている最中でツ《/ツ》ールーズでは初めての狂言なので、見物もいっしょうけんめいになっていた。  それで巡査の干渉に対して、見物が|こごと《小言》を言い始めた。 「|じゃま《邪魔》をするない」 「芝居をさせろよ、おまわりさん」  親方はそのときまず見物のさわぐのをとどめて、さて毛皮の|ぼうし《帽子》をぬぎ、そのかざりの羽根が地面の砂と、すれすれになるほど、三度まで大げさなお|じぎ《辞儀》を巡査に向かってした。 「権力を代表せられる令名高《令名’高》き閣下は、わたくしの一座の俳優どもに、口輪《クチワ》をはめろというご命令でございますか」  と|かれ《彼》はたずねた。 「そうだ。それもさっそくするのだ」 「なに、カピ、《、/》ゼルビノ、《、/》ドルスに口輪《クチワ》をはめろとおっしゃるか。」親方は巡査に向かって言うよりも、むしろ見物に対して聞こえよがしにさけんだ。「さてさてこれは皮肉なお考えですな。なぜと申せば、音に名高き大先生たるカピ君《ぎみ》が、鼻の先に口輪《クチワ》をかけておりましては、《:、》どうして不幸なるジョリクール氏が服すべき下剤の調合を命ずることができましょう。物《モノ》もあろうに口輪《クチワ》などとは、氏が医師たる職業がふさわしからぬ道具であります」  この演説が見物をいっせいに笑わした。子どもたちの黄色い声に親たちの|にご《濁》った声も交じった。親方は|かっさい《喝采》を受けると、いよいよ図に乗って弁じ続けた。 「さてま《”ま》たかの美しき看護婦ドルス嬢にいたしましても、ここに権力の残酷なる命令を実行いたしましたあかつきには、いかにしてあの巧妙なる弁舌をもって、病人に勧めてよくその苦痛を|和ぐ《ヤワグ》る下剤を服用させることができましょうや。賢明なる観客諸君のご判断をあおぎたてまつります」  見物人の拍手|かっさい《喝采》と笑い声で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に賛成して巡査を嘲弄した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ面をするのをおもしろがっていた。この|さる《猿》は『権力が代表せられる令名高《令名’高》き閣下』の真後ろに座をかまえて|こっけい《/滑稽》なしかめっ面をして見せていた。巡査は両|うで《腕》を組んで、それからまた放して、げんこつを|こし《腰》に当てて、頭を後ろに反らせていた。そのとおりを|さる《猿》はやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。  巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいだ|さる《猿》と人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。  群衆はおもしろがって金切り声《ごえ》を上げていた。 「|きさま《貴様》の飼い犬があ《’あ》すも口輪《クチワ》をしていなかったらす《/す》ぐ|きさま《貴様》を拘引する。それだけを言いわたしておく」 「さようなら閣下。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。  巡査が|大また《大股》に出て行くと、親方は|こし《腰》をほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかい面《づら》に敬礼していた。そして芝居は続けて演ぜられた。  わたしは親方が犬の口輪《クチワ》を買うかと思っていたけれども、|かれ《/彼》はまるでそんな様子はなかった。その晩は巡査とけんかをしたことについては一言《一ゴン》の話もなしに過ぎた。  わたしはとうとう|がまん《我慢》がしきれなくなっ《-っ》て、こちらからきりだした。 「あしたもしカピが芝居の最中に、口輪《クチワ》を食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて慣らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」 「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」 「でも巡査がやかましく言いますから」 「おまえは《はほ》んの|いなか《田舎》の子どもだな。百姓《ヒャクショウ》らしくおまえは巡査を|こわ《怖》がっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り計らって、巡査がわたしをつかまえることのできないようにするし、そのうえ犬が|ふゆかい《不愉快》な目に会わないようにしてやるつもりだ。それに見物も少しはうれしがるだろう。この巡査はおかげでわたしたちによけいな金もうけをさせてくれることになるだろう。おまけにあいつは、わたしがあいつのためにしくんでおいた芝居で道化役を演じることになるだろう。さてあしたは、おまえはあそこへジョリクールだけを連れて行くのだ。おまえは|なわ張《縄張》りをして、ハーブで|二、三回《ニ三回》ひくのだ。やがて|おお《大》ぜい見物が集まって来れば、巡査めさ《/さ》っそくやって来るだろう。そこへわたしは犬を連れて現れることにする。それから茶番が始まるのだ」  わたしはそのあくる日一人で行きたいことは少しもなかったけれども、親方の言うことには服従しなければならないと思った。  さてわたしはいつもの場所へ出かけて、囲いの|なわ《縄》を回してしまうと、さっそく曲をひき始めた。見物はぞろぞろほうぼうから集まって来て、|なわ張《縄張》りの外に群がった。  このごろではわたしもハープをひくことを覚えたし、なかなかじょうずに歌も歌った。とりわけわ《’わ》たしはナポリ小唄を覚えて、それがいつも大かっさいを博した。けれどもきょうだけは見物がわたしの歌をほめるために来たのでないことはわかっていた。  きのう巡査《’巡査》との争論を見物した人たちは残らず出て来たし、おまけに友だちまで引っ張って来た。いったいツールーズの土地でも巡査は|きら《嫌》われ者になっていた。それで公衆はあのイタリア人のじいさんがどんなふうにやるか。「閣下、いずれ明日」と言った捨てぜりふの意味がなんであったか、それを知りたがっていたのである。  それで見物の中には、わたしがジョリクールと二人だけなのを見て、わたしの歌っている最中口《最中’口》を入れて、イタリアのじいさんは来るのかと言ってたずねる者もあった。  わたしは|うなず《頷》いた。  親方は来ないで、先に巡査がやって来た。ジョリクールがま《真》っ先に|かれ《彼》を見つけた。  |かれ《彼》はさっそくげんこつを|こし《腰》の上に当てて、|こっけい《滑稽》ないばりくさった様子で、|大また《大股》に歩き回った。群衆は|かれ《彼》の道化芝居をおかしがって手をたたいた。  巡査はこわい目つきをしてわたしをにらみつけた。  いったいこの結末はどうなるだろう。わたしは少し心配になってきた。ヴィタリス親方がいてくれれば、巡査に答えることもできよう。巡査がわたしに立ちのけと命令したら、わたしはなんと言えばいいのだ。  巡査は|なわ張《縄張》りの外を行《往》ったり来たりしていた。それもわたしのそばを通るときには、なんだか肩ごしにわたしをにらみつけるようにした。それでいよいよわたしは気が気でなかった。  ジョリクールは事件の重大なことを理解しなかった。そこでおもしろ半分|なわ張《’縄張》りの中で巡査と|なら《並》んで歩きながら、その一挙一動を身ぶりおかしくまねていた。おまけにわたしのそばを通るときには、やはり巡査のするように首を曲げて、肩ごしににらみつけた。その様子がいかにも|こっけい《滑稽》なので、見物はなおのことどっと笑った。  わたしはあんまりやりすぎると思ったから、《、/》ジョリクールを呼び寄せた。けれども|かれ《彼》はとても言うことを聞くどころではなかった。わたしがつかまえようとすると、ちょろちょろに《逃》げ出して、す早く身をかわしては、相変わらずとことこ歩いていた。  どうしてそんなことになったかわからなかったが、たぶん巡査はあんまり腹を立てて気がちがったのであろう。なんでもわたしが|さる《猿》をけしかけているように思ったとみえて、いきなり|なわ張《縄張》りの中へと《跳》びこんで来た。  と思うまに|かれ《彼》はと《跳》びかかって来て、ただ一打ちでわたしを地べたの上にたたき|たお《倒》した。  わたしが目を開いて起き上がろうとすると、ヴィタリス老人はど《’ど》こからと《飛》び出して来たものか、もうそこに立っていた。|かれ《彼》はちょうど巡査の|うで《腕》をおさえたところであった。 「わたしはあなたがその子どもを打《ぶ》つことを止めます。なんという|ひきょう《卑怯》なまねをなさるのです」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。  しばらくのあいだ二人の人間はにらみ合って立っていた。  巡査はおこってむらさき色になっていた。  親方は|どうどう《堂々》とした様子であった、|かれ《/彼》は例の美しい|しらが《白髪》頭をまっすぐに上げて、その顔には憤慨と威圧の表情が《を》うかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。  けれども|かれ《彼》はどうして、そんなことはしなかった。|かれ《彼》は両|うで《腕》を広げて親方の|のど《喉》首をつかまえて、乱暴に前へおし出した。  ヴィタリス親方はよろよろとして|たお《倒》れかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査の|うで《腕》首を打った。  親方は|がんじょう《頑丈》な人ではあったが、なんといっても老人であった。巡査のほうは年も若いし、もっと|がんじょう《頑丈》であった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしは|はらはら《ハラハラ》していた。  けれども取っ組むまでにはならなかった。 「あなたはどうしようというのです」 「わたしと|いっしょ《一緒》に来い」と巡査は言った。「拘引するのだ」 「なぜあの子を打《ぶ》ったのです」と親方は質問した。 「よけいなことを言うな。ついて来い」  親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。 「宿屋へ帰っておいで」と|かれ《彼》は言った。「犬と|いっしょ《一緒》に待っておいで。あとで口上で言って寄こすから(ことずてをするから)」  |かれ《彼》はそのうえもうなにも言う機会がなかった。巡査は|かれ《彼》を引きずって行った。  こんなふうにして、親方が余興にしくんだ狂言はあっけなく結末がついた。  犬たちは初め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが呼び返すと、服従に慣らされているので、|かれ《/彼》らはわたしのほうへ|もど《戻》って来た。気をつけてみると|かれ《彼》らは口輪《クチワ》をはめていた。けれどもそれは|ふつう《普通》の|金あみ《金網》や金輪ではなくって、ただ細い絹糸《キヌイト》を|二、三本《ニサンホン》、鼻の回りに結びつけて、あごの下にふさを垂らしてあった。白いカピは赤い糸を結んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気の|どく《毒》な親方はこんなふうにして、いかめしい権力の命令を逆《/逆》に喜劇の種に利用しようとしていたのである。  群衆はさっそく散ってしまった。|二、三人ひま人《ニサンにん暇人》が残っていまの事件を論じ合っていた。 「あのじいさんがもっともだよ」 「いや、あの男がまちがっている」 「なんだって巡査は子どもを打《ぶ》ったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって口《’口》をききはしなかった」 「とんだ災難さ。巡査に反抗したことを証明すれば、あのじいさんは刑務所へやられるだろう、きっと」  わたしはがっかりして宿屋へ帰った。  わたしはこのころでは毎日だ《’だ》んだんと親方が好きになっていた。わたしたちは朝から晩まで|いっしょ《一緒》にく《暮》らしてきた。どうかすると夜から朝までも同じ|わら《藁》の|ねどこ《寝床》に|ねむ《眠》っていた。どんな父親だって、|かれ《/彼》がわたしに見せたような行《’ゆ》き届いた注意をその子どもに見せることはできなかった。|かれ《彼》はわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い流浪の旅のあいだに、|かれ《/彼》はこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、毛布を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでも|かれ《彼》はけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、|かれ《/彼》はいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほど|ときどき《時々》はわたしがいやなほど、ひどく乱暴に耳を引っ張ることもあったけれど、わたしに過失があれば、それも|しかた《仕方》がなかった。一言《一ゴン》で言えばわたしは|かれ《彼》を愛していたし、|かれ《/彼》はわたしを愛していた。  だからこの別れはわたしにはなによりつらいことであった。  いつまた|いっしょ《一緒》になれるだろうか。  いったいどのくらい牢屋へ入れておくつもりなのだろう。  そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。  ヴィタリス親方はいつも|からだ《体》に金《-かね》をつけている習慣であった。それが引っ張られて行くときに|なに《/何》もわたしに置いて行く|ひま《暇》がなかった。  わたしは|かく《隠》しに|五、六《ゴロク》スーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。  わたしはそれから二日のあいだ、宿屋から外へ出る気にもならずに、ぼんやりくらしてしまった。|さる《猿》も犬もやはりすっかりしょげきっていた。  やっとのことで三日目に一人の男が親方の手紙を届けて来た。その手紙によると、親方はこのつぎの土曜日に、警察権に反抗し、かつ巡査に手向かいをした科《トガ》で裁判を受けるはずになっていた。 「わたしが|かんしゃく《癇癪》を起こしたのは悪かった」と手紙に書いてあった。「とんだ災難を招いたがいまさらいたしかたもない。裁判所へ来てごらん、教訓になることがあるであろう」  こういって、それからなお|二、三《ニサン》の注意を書きそえて、自分に代わって犬や|さる《猿》たちをかわいがってくれるようにと書いてあった。  わたしが手紙を読んでいるあいだ、カピがわたしの両足の間に|はい《入》って、鼻を手紙にこすりつけて、くんくんやっていた。|かれ《彼》が尾をふる具合で、わたしは|かれ《彼》がこの手紙が主人から来たことを知っていると思った。この三日のあいだに|かれ《彼》が少しでもうれしそうな様子を見せたのはこれが初めてであった。  わたしは土曜日の朝早く裁判所に行って、いの一番に傍聴席に|はい《入》った。巡査とのけんかを目撃した人たちの多くがやはり来ていた。わたしは裁判所に出るのがなんだかこわかったので、大きなストーブのかげに|はい《入》って|かべ《壁》にくっついて、できるだけ小さく|からだ《体》をちぢめていた。  |どろぼう《泥棒》をして拘引された男や、けんかをしてつかまった男が初めに裁判を受けた。弁護人は無罪を言い張っていたけれど、それはみんな有罪を宣告された。  いちばんおしまいに親方が引き出された。|かれ《彼》は二人の憲兵の間にはさまって|こし《腰》かけにかけていた。  はじめに|かれ《彼》がなにを言ったか、人びとが|かれ《彼》になにをたずねたか、わたしは|ひじょう《非常》に興奮しきっていたのでよくわからなかった。  わたしはただじっと親方を見ていた。  |かれ《彼》は|しらが《白髪》頭を後ろに反らせて、まっすぐに立っていた。|かれ《彼》ははじて苦んでいるように見えた。裁判官は尋問を始めた。 「おまえは、おまえを拘引しようとした警官を何回も打ったことを承認するか」と、裁判官は言った。 「何回も打ちはいたしません、閣下」と親方は言った。「わたしはただ一度手《一度’手》を上げました。わたくしはいつもの演芸をいたしまする場所にまいりますと、ちょうど警官がわたくしの連れています子どもを地の上に打ちたおすところを見たのでございます」 「その子はおまえの子ではないだろう」 「はい、しかしわたくしの実子同様にかわいがっております。それで警官が|かれ《彼》を打ちますところを見て、わたしはかっととりのぼせまして、警官が打とうとする手をおさえました」 「おまえは警官を打ったろう」 「警官がわたくしに向かって手をあげましたから、わたくしはもはや警官としてではない、通常の人としてこれに向かって《た》のであります。まったく|いか《怒》りに乗じた結果であります」 「おまえぐらいの年輩で|いか《怒》りに乗ずるということはないはずだ」 「そうです。そういうはずはないのですが、人はおうおう不幸にして過失におちいりやすいのです」  巡査はそれから自分の言い分を申し立てた。それは打たれたことよりも、より多く自分が嘲弄(あざける)された事実についてであった。  親方の目はそのあいだ部屋の中を探すようであった。それはわたしがいるかどうか探しているのだということがわかっていたから、わたしは思い切って|かく《隠》れ場所からと《飛》び出して、おおぜいの中をおし分けながら、前へ出て、いちばん前の列の、|かれ《/彼》の席に近い所へ出た。|かれ《彼》のさびしい顔はわたしを見るとかがやきだした。わたしの目にも|なみだ《涙》が|あふ《溢》れ出した。  まもなく裁判は決まった。|かれ《彼》は二か月の禁固と、百フランの罰金に処せられることになった。  ああ、二か月の禁固。  ドアは開かれた。|なみだ《涙》にぬれた目の中からわたしは、|かれ《/彼》が憲兵のあとからついて行くのを見た。ドアはその後ろからばたんと閉ざされた。ああ、二か月の別れ。  どこへわたしは行こう。 ◇。◇。◇。 【第11章】 【船の上】 ◇。◇。◇。  わたしが重たい心で、赤い目をふきふき宿屋に帰ると、ちょうど亭主が庭に出ていた。  わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、|かれ《/彼》はわたしを引き止めた。 「どうだ、親方は」と|かれ《彼》は言った。 「有罪の宣告を受けました」 「どのくらい」 「二か月の禁固です」 「罰金はどのくらい」 「百フラン」 「二か月‥《‥:》‥百フラン」|かれ《彼》は|二、三度《ニサン度》くり返した。  わたしはずんずん行こうとした。すると|かれ《彼》はまた引き止めた。 「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」 「ぼくはわかりません」 「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬や|さる《猿》に食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」 「いいえ、ないのです」 「じゃあ、おまえはわたしが養ってくれると思っているのか」 「いいえ、わたしは|だれ《誰》の|やっかい《厄介》になろうとも思いません」  それはまったくであった。わたしは|だれ《誰》の|やっかい《厄介》にもなるつもりはなかった。 「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに借りがある」と|かれ《彼》は言った。「わたしは二か月のあいだ金《-かね》をはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」 「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」 「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」  しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。亭主の言うことはもっともであった。どうして|かれ《彼》がわたしの世話をしてくれよう。 「さあ、犬と|さる《猿》を連れて出て行ってくれ。親方の荷物は預かっておく。親方が刑務所から出て来れば、いずれここへ寄るだろうし、そのときこちらの始末もつけてもらおう」  この|ことば《言葉》から、ある考えがわたしの心にう《浮》かんだ。 「いずれそのときはお勘定をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを置いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも加えてはらえばいいでしょう」 「おやおや、おまえの親方は二日分《二日ブン》の食料ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで別な話だよ」 「わたしはいくらでも少なく食べますから」 「だが、犬もいれば|さる《猿》もいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこか|いなか《田舎》で仕事を見つけて、金《かね》をもらって歩けばいいのだ」 「でも親方が刑務所から出て来たときに、どうしてわたしを探すでしょう。きっとこちらへ訪ねて来るにちがいありません」 「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」 「それでも《’も》し手紙が届いたら」 「手紙は取っておいてやるよ」 「でもわたしが返事を出さなかったら‥‥」 「まあい《’い》つまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の猶予をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば承知しないから」  わたしはこの男と言い合うのは|むだ《無駄》だということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。  わたしは犬とジョリクールを連れに|うまや《厩》へ行った。それから肩にハープをしょって、宿を出た。  わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に口輪《クチワ》がはめてないのだから、巡査にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには金《-かね》がないといおうか、それはまったくであった。わたしは|かく《隠》しにたった十一スーしか持たなかった。それだけでは口輪《クチワ》を買うにも足りなかった。巡査がわたしを拘引するかもしれない。親方もわたしも二人とも刑務所に入《-い》れられたら、犬や|さる《猿》はどうなるだろう。わたしは自分の位置に責任を感じていた。  わたしが足早《足ばや》に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう|見ちが《見違》えようもなかった。|かれ《彼》らは腹が減っていた。  わたしの背嚢に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を引っ張って無理《/無理》に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、|かれ《/彼》はせっせと腹《’腹》をかいて見せた。  わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは朝飯を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と晩食を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方兼帯の昼食を食べて、満足しなければならなかった。  わたしたちは巡査に出っくわさないように、《、/》少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには金《-かね》が要るし、宿屋へとまれば宿銭を取られる。それに|ねむ《眠》る場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの暖かい季節ではわたしたちは野天に|ねむ《眠》ることができた。  さしせまっているのは食物だ。  一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き続けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちは|たの《頼》むような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を引っ張って、絶えずおなかをさすっていた。  とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にと《飛》びこんだ。  わたしは一斤半パンを切ってくれと言った。 「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても要りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの同勢にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、畜生にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」  おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの財布にはたっぷりすぎた。  パンは一斤五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのは|りこう《利口》なことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ以上を切らないようにていねいに|たの《頼》んだ。  わたしは両|うで《腕》にしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが髪の毛を引っ張ってうれしそうにくっくっと笑った。  わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。  ま《真》っ先に目に当たった道ばたの木の下でわ《/わ》たしはハープを幹によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろとう《鵜》の目|たか《’鷹》の目で、なんでもま《真》っ先に|一き《一切》れせしめようとねらっていた。  パンを同じ大きさに分けるのは|むず《難》かしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さなき《切》れに割って|一き《一切》れずつめいめいに分けた。  わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それで|かれ《彼》がすっかり満腹してしまったとき、わたしたちはやはり腹がすいていた。わたしは|かれ《彼》のぶんから三きれ取って背嚢の中に|かく《隠》して、あとで犬たちにやることにした。それからまだ少し残っていたので、わたしはそれを四《4》つにちぎって、てんでに|一き《一切》れずつ分けた。それが食後のお菓子であった。  このごちそうがけっして食後の卓上演説を必要とするほど|りっぱ《立派》なものではなかったのはもちろんであるが、《:、》わたしは食事がすんだところで、いまがちょうど仲間の者に二言三言《フタコトミコト》いいわたす機会だと感じた。わたしはしぜん|かれ《彼》らの首領ではあったが、この重大な場合に当たって、|かれ《/彼》らに死生をともにすることを望むだけの威望の足りないことを感じていた。  カピはおそらくわたしの意中を察したのであろう。それで|かれ《彼》はその大きな|りこう《利口》そうな目を、じつ《っ》とわたしの日《目》の上にすえて|すわ《座》っていた。 「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、《、/》ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを伝えなければならないのだよ。わたしたちはこれから二か月も親方に会うことができないのだよ」 「ワウ」とカピがほえた。 「これは親方のためにも困ったことだし、わたしたちのためにも困ったことなのだ。なぜといって、わたしたちはなにもかも親方に|たよ《頼》っていたのだから、それがいま親方がいなくなれば、わたしたちには|だいいち《第一》お金がないのだ」  この金《-かね》という|ことば《言葉》を言いだすと、カピはよく知っていて、後足《後脚》で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご臨席の貴賓諸君』から金《-かね》を集めて回るときにすることであった。 「ああ、おまえは芝居をやれというのだね。カピ」とわたしは言った。「それはいい考えだが、どこまでわたしたちにできるだろうか。そこが考えものだよ。うまくゆかない場合には、わたしたちはもうたった三スーしか持っていない。だからどうしても食べずにいるほかはない。そういうわけだから、ここは|たいせつ《大切》なときだと思って、おまえたちはみんなおとなしくぼくの言うことを聞いてくれなければだめだ。そうすればお|たが《互》いの力でなにかできるかもしれない。おまえたちはみんなしていっしょうけんめい、ぼくを助けてくれなければならない。わたしたちはお|たが《互》いに|たよ《頼》り合ってゆきたいと思うのだ」  こういったわたしの|ことば《言葉》が、残らず|かれ《彼》らにわかったろうとはわたしも言わないが、だいたいの趣意は飲みこめたらしかった。|かれ《彼》らは同じ考えになっては《は’》いた。|かれ《彼》らは親方のいなくなったについて、そこになにか大事件が起こったことを知っていた。それでその説明をわたしから聞こうとしていた。|かれ《彼》らがわたしの言って聞かせた残らずを理解しなかったとしても、すくなくともわたしが|かれ《彼》らの身の上を心配してやっていることには満足していた。それでおとなしくわたしの言うことに身を入れて聞いて、満足の意味を表していた。  いやお待ちなさい。|なるほど《成程》それも、犬の仲間だけのことで、《、/》ジョリクールには、いつまでもじっとしていることが望めなかった。|かれ《彼》は一分間と一つ事に心を向けていることができなかった。わたしの演説の初めの部分だけは|かれ《彼》も殊勝らしくたいへん興味を持って傾聴していたが、二十と|ことば《言葉》を言わないうちに、|かれ《/彼》は一本の木の上にと《跳》び上がって、わたしたちの頭の上の|えだ《枝》にぶら下がり、それからつぎの|えだ《枝》へととび回っていた。カピが同じやり方でわたしを侮辱したならば、わたしの自尊心はずいぶん傷つけられたにちがいなかった。けれどもジョリクールがどんなことをしようと、わたしはけっしておどろかなかった。|かれ《彼》はずいぶん頭の空っぽな、軽はずみなやつだった。  けれどそうはいうものの、《、/》少しはふざけたいのもかれとして無理はなかった。わたしだってやはり同じことをしたかったと思う。わたしもやはり|おもしろ半分木登《面白半分’木登》りをしてみたかった。けれどもわたしの現在の位置の重大なことが、わたしにそんな遊《’遊》びをさせなかった。  しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる青天井の下を見つけさえすればいいのだから、なにより、あしたの食べ物を買う銭《ゼニ》をいくらかでももうけることが、さし当たっての問題であった。  小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。  |びんぼう《貧乏》村らしくって、あまり|みい《実入》りの多いことは望めないが、村が小さければ巡査に出会うことも少なかろうと考えた。  わたしはさっそく一座の服装を整えて、できるだけ|りっぱ《立派》な行列を作りながら、村へ|はい《入》って行った。運悪くわたしたちはあの|ふえ《笛》がなかったし、そのうえヴィタリス親方の|りっぱ《立派》な|どうどう《堂々》とした風采がなかった。軍楽隊の隊長のような|りっぱ《立派》な様子で|かれ《彼》はいつも人目をひいていた。わたしには背《セイ》の高いという利益もないし、あの|りっぱ《立派》な|しらが《白髪》頭も持たなかった。それどころかわたしはちっぽけで、やせっぽちで、そのうえひどくやつれた心配そうな顔をしていたにちがいなかった。  行列の先に立って歩きながら、わたしは右左《ミギヒダリ》をきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう効果を村の人たちにあたえているか、見ようとした。ごくわずか──と情けないけれど言わなければならなかった。だれ一人あとからついて来る者もなかった。  ちょっとした広場のま《真》ん中に泉があって、木かげがこんもりしている所を見つけると、わたしはハープを下ろしてワルツを一曲ひき始めた。曲は|ゆかい《愉快》な調子であったし、わたしの指も軽く動いた。けれどもわたしの心は重かっ《-っ》た。  わたしはゼルビノとドルスに向かって、|いっしょ《一緒》にワルツをおどるように言いつけた。|かれ《彼》らはすぐ言うことを聞いて、拍子に合わせてくるくる回り始めた。  けれどもだれ一人出《一人’出》て来て見ようとする者もなかった。そのくせ家《’家》の戸口では|五、六人《ゴ六人》の女が編み物をしたり、おしゃべりをしているのを見た。  わたしはひき続けた。ゼルビノとドルスはおどり続けた。  一人ぐらい出て来る者があるだろう。一人来《ひとり’来》ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。  わたしはあくまでひき続けた。ゼルビノとドルスもくるくるじょうずに回っていた。けれども村の人たちはてんでこちらをふり向いて見ようともしなかった。  けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。  ふと一人、ごく小さい子が初めて、うちの中からちょこちょことか《駆》け出して、わたしたちのほうへや《’や》って来た。  きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、仲間が出て来るだろう。そうして見物ができれば、《、/》少しのお金が取れるであろう。  わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは静かにひいた。そうして少しでもそばへ引き寄せようとした。両手を延ばして、片足ずつよちよち上げて、|かれ《/彼》は歩いて来た。もう二足《フタ足》か三足《ミ足》で、子どもはわたしたちの所へ来る。ふと、そのしゅんかん母親はふ《’ふ》り向いた。きっと子どもの姿の見えないのを見て、びっくりするにちがいない。  でも|かの《彼》女はやっと子どもの|行くえ《行方》を見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで自分《/自分》のほうへ呼び返した。すると子どもはおとなしくふり返って母親のほうへ帰って行った。  きっとこの|へん《辺》の人は、ダンスも音楽も好かないのだ。きっとそんなことであった。  わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの好きな小唄を歌い始めた。わたしはこんなにいっしょうけんめいになったことはなかった。  二節目《二節め》の終わりになったとき、背広を着て、ラシャの|ぼうし《帽子》をかぶった男が目に|はい《入》った。その男はわたしのほうへ歩いて来るらしかった。  とうとうやって来たな。  わたしはそう思って、いよいよ|むちゅう《夢中》になって歌った。 「これこれ|こぞう《小僧》、ここでなにをしている」と、その男はどなった。  わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そは《ば》へ寄って来るその男をぼんやりながめた。 「なにをしているというのだ」 「はい、歌を歌っています」 「おまえはここで歌を歌う許可を得たか」 「いいえ」 「ふん、じや《ゃ》あ行け。行かないと拘引するぞ」 「でも、あなた‥‥」 「あなたとはなんだ、農林監察官を知らないか。出て行け、こじき|こぞう《小僧》め」  |ははあ《ハハア》、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、警官や監察官に反抗すると、どんな目に会うかわかっていた。わたしは|かれ《彼》に二度と命令をくり返させなかった。わたしは急いでわき道へに《逃》げだした。  こじき|こぞう《小僧》か、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。  五分とたたないうちに、わたしはこの人情のない、そのくせいやに監視の行き届いている村を|はな《離》れた。  犬たちは頭《カシラ》を垂れて、すごすごあとからついて来た。きっとつまらない目に会ったことを知っていた。  カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。|ときどき《時々》ふり向いては例の|りこう《利口》そうな目で、いったいどうしたのですと言いたそうに見えた。ほかのものが|かれ《彼》の位置に置かれたのだったら、きっとわたしにそれをたずねたであろうけれども、カピはそんな無作法をするには、あんまりよくしつけられていた。  |かれ《彼》はふに落ちないのを、いっしょうけんめい|がまん《我慢》しているふうを見せるだけで満足していた。  ずっと遠くこの村から|はな《離》れたとき、わたしは初めて|かれ《彼》らに(止まれ)という合図をした。それで三びきの犬はわたしの回りに輪を作った。そのま《真》ん中にはカピがじっとわたしに目をすえていた。  わたしは|かれ《彼》らがわからずにいることを、ここで説明してやらなければならなかった。「わたしたちは興行の許可を得ていないから、追い出されたのだよ」とわたしは言った。 「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を一《-ひと》ふりふってたずねた。 「だからわたしたちは今夜は《は’》どこか野天で|ねむ《眠》って、晩飯なしに歩くのだ」  晩飯という|ことば《言葉》に、みんないちどにほえた。わたしは|かれ《彼》らに三スーの銭を見せた。 「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの朝飯になにも残らない。きょうはとにかく少しでも食べたのだから、これはあしたまでとっておくほうがいいようだ。」こう言って、わたしは三スーをまた|かく《隠》しに入れた。  カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほど|すなお《素直》でなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶう|うな《唸》っていた。わたしはこわい目をして|かれ《彼》を見たが、効き目がなかった。 「カピ、《、/》ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは忠実なカピに言った。  カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二|ひき《匹》の犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというような|ことば《言葉》を犬に使うのは少し無理だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその仲間に通用する特別な|ことば《言葉》があった。犬だけで言えば、|かれ《/彼》らは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。|かれ《彼》らが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上をか《嗅》ぎ回ったりするところをご覧なさい。ふと|かれ《彼》らはとある草むらの前で立ち止まる。または|かべ《壁》の前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの理解しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。  カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間の|ことば《言葉》がわかっても、人間は|かれ《彼》らの|ことば《言葉》を理解しないのだ。わたしがた《’た》だ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い張ったようであった。カピは腹を立てて歯をむき出すと、《、/》少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるという|ことば《言葉》にも少し説明が要るが、ここではころりと横になることを言うのである。  そこで残ったのは今夜の宿の問題だけだ。  時候はよし、暖かい、いい天気であった。だから青天井の下に|ねむ《眠》ることはさしてむずかしいことではなかった。ただこの|へん《辺》に悪い|おおかみ《オオカミ》でもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。|おおかみ《オオカミ》よりもおそろしい農林監察官からさけることもさらに必要であった。  わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山の|はし《’端》に落ちかけた赤い夕日の最後の光が空から消えるころまで、宿を求めて歩き続けたが、まだ見つからなかった。  もう善悪なしに、どうでもと《’と》まらなければならなかった。やっと林《’林》の間に出た。そこここに大きな花|こう《崗》岩が転がっていた。この場所はずいぶんあ《荒》れたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花|こう《崗》岩の中に|はい《入》ってねむれば、しめっぽい夜風を防ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、|さる《猿》のジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外で|ねむ《眠》ったところで|かぜ《風邪》をひく気づかいもなかった。わたしは自分の|からだ《体》を|だいじ《大事》にしなければならなかった。わたしのしょっている責任は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの看病をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。  わたしたちは石の間《あいだ》にほら穴のような所を見つけた。そこには|まつ《松》の落ち葉がた《溜》まっていた。これで、上には風を防ぐ屋根があり、下にはし《敷》いてね《寝》る|ふとん《布団》ができた。これは|ひじょう《非常》に具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと努めた。ことわざにも言うではないか、『|ねむ《眠》るのは食べるのだ』と。  いよいよ横になるまえに、わたしはカピに張り番を|たの《頼》むと言った。するとこの忠実な犬はわたしたちと|いっしょ《一緒》に|まつ《松》葉の上で|ねむ《眠》ろうとはしないで、わたしの野営地の入口に、歩哨のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも案内なしに近づけないと思ったから、落ち着いて|ねむ《眠》ることができた。  でもこれだけは心配はなかったが、すぐには|ねむ《眠》りつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすり|ねむ《眠》っていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとで|からだ《体》をのばしていた。けれどもわたしの心配は|からだ《体》の|つか《疲》れよりも大きかった。  この旅行の第一日《第イチニチ》は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは腹が減ったし、|のど《喉》が|かわ《乾》いていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それに口輪《クチワ》はどうしよう。これから歌を歌う許可は、いったいどうしたらいいだろう。許してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが減って死んでしまうだろう。  こういうみじめな、あわれっぽい疑問を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。街道を車のとろとろと通る音もしない。目の届く限りは青白い空が広がっていた。わたしたちは独りぼっちであった。世の中から捨てられていた。  |なみだ《涙》は目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気の|どく《毒》なヴィタリスは。  わたしはうつぶしになって、顔を両手で|かく《隠》して、しくしく泣いていた。するとふと、かすかな息が髪の毛にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな舌が|なみだ《涙》にあふれたわたしの|ほお《ホオ》をな《舐》めた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの流浪の初めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。  両手でわたしは|かれ《彼》の首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。|かれ《彼》は|二、三度《ニサン度》おし殺したような悲《/悲》しそうな鼻声《鼻ゴエ》を出した。それがわたしと|いっしょ《一緒》に泣いてくれるもののように思われた。  わたしは|ねむ《眠》って目が覚めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の祈祷の|かね《鐘》が鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、|つか《疲》れた心と|からだ《体》をなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。  わたしたちは|かね《鐘》の音を目当てに歩き出した。そこには村があって、パ《/パ》ン屋もきっとあるに|そうい《相違》なかった。昼食も夕食もなしに|ねどこ《寝床》に|はい《入》れば、|だれ《誰》にだって空腹が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。  村に着くと、パ《/パ》ン屋がどこだと聞く必要もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に連れて行ってくれた。|にお《匂》いをか《嗅》ぎつけるわたしの感覚は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうな|にお《匂》いをか《嗅》ぎつけた。  一斤五スーするパンを三スーでは《は’》たんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで朝飯もあっけなくすんでしまった。  わたしたちは|きょう《今日》こそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか芝居に|つごう《都合》のいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、敵か味方か探ろうとした。  わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する機会をとらえるつもりであった。  わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふと|だれ《誰》か後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうす《’す》ぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一|けん《軒》の家にかけこんで、肉を一《ひと》きれ|ぬす《盗》みだしたのであった。|かれ《彼》は|えもの《獲物》を歯の間《あいだ》にくわえたまま、に《逃》げ出して来たのであった。 「|どろぼう《泥棒》、|どろぼう《泥棒》」とおばあさんは|さけ《叫》んだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」  おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも罪がある。いやすくなくともゼルビノの犯罪に責任があると感じた。そこでわたしはか《駆》け出した。もしおばあさんが|ぬす《盗》まれた肉の代価を請求じ《し》たら、なんと言うことができよう。どうして金《-かね》をはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと刑務所に入《-い》れられるだろう。  わたしがに《逃》げ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの例にならった。|かれ《彼》らはわたしの|かかと《踵》について走った。ジョリクールはわたしの肩に乗ったまま、落ちまいとしてしっかり首にかじりついた。  |だれ《誰》かほかの者もさけんでいた。待て、|どろぼう《泥棒》‥《‥:》‥そしてほかの人たちも仲間になって追っかけていた。けれどもわたしたちはどんどんかけた。恐怖がわたしたちの速力を進めた。わたしはドルスがこんなに早く走るのを見たことがなかった。|かの《彼》女の足はほとんど地べたについていなかった。横町《横丁》を曲がって、野原をつっ切って、まもなくわたしたちは追っ手をはるかぬ《抜》いてしまった。けれどもやはりどんどんかけ続けて、いよいよ息がつけなくなるまで止まらなかった。わたしたちは少なくとも三マイル(約五キロ)も走った。ふり返って見るともう|だれ《誰》も追っかけて来なかった。カピとドルスはやはりわたしのすぐ後《あと》について来た。ゼルビノは遠くに|はな《離》れていた。|たぶん《多分》ぬすんだ肉を食べるので手間を取ったのであろう。  わたしは|かれ《彼》を呼んだ。けれども|かれ《彼》はひどい刑罰に会うことを知りすぎるほど知っていた。そこでわたしのほうへは寄って来ないで、できるだけ早くか《駆》け出したのである。|かれ《彼》は飢えていた。それだから肉を|ぬす《盗》んだのだ。けれどもわたしはそれを口実として許すことはできなかった。|かれ《彼》は|ぬす《盗》みをした。わたしが仲間の間に規律を保とうとすれば、罪を犯したものは罰せられなければならない。それをしなかったら、つぎの村へ行って、今度はドルスが同じ事をするであろう。そうなるとカピまでが誘惑に負けないとは言えぬ。  わたしはゼルビノに対し、公然刑罰《公然’刑罰》を加えなければならなかった。けれどもそれをするためには|かれ《彼》をつかまえなければならなかった。それは|たやす《容易》いことではなかった。  わたしはカピのほうへ向いた。 「行ってゼルビノを探しておいで」とわたしは重おもしく言った。  |かれ《彼》はさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。|かれ《彼》の顔つきを見ていると、憲兵として|かれ《彼》はわたしの言いつけを果たすよりも、弁護人としてゼルビノをかばってやりたいように見えた。  わたしは|かれ《彼》が囚人を連れて帰って来るのを、べんべんと|こし《腰》かけて待つほかはなかった。気|ちが《違》いじみたかけっこをしたあとで、休息するのがうれしかった。わたしたちが休んだ所はちょうどこんもりした木かげと、両側に広びろと野原の開《-ひら》けた、堀割の岸であった。ツールーズを出て初めて、青あおした、すずしい|いなか《田舎》道に出たのだ。  一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが独りぼっち首をうなだれたまま帰って来た。 「ゼルビノはどうした」  カピはおどおどした様子で、平伏《平伏’》した。わたしは|かれ《彼》のかたっぽの耳から血の出ているのを見た。わたしはそれで様子をさとった。ゼルビノはこの憲兵に戦いをしかけてきたのである。わたしはカピがそうして、いやいやわたしの命令に従いながらも、ゼルビノとの格闘にわざと負けてやったことがわかった。そしてそのため自分もやはり|しか《叱》られるものと覚悟しているらしく思われた。  わたしは|かれ《彼》を|しか《叱》ることができなかった。わたしは|しかた《仕方》がないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしは|かれ《彼》がおそかれ早かれ後悔して帰って来て、刑罰を受けるだろうと思っていた。  わたしは一本の木の下に、手足をふ《踏》みのばして横になった。ジョリクールはしっかりと|うで《腕》にだいていた。それはこの|さる《猿》までがゼルビノと仲間になる気を起こすといけないと思ったからであった。ドルスとカピはわたしの足の下で|ねむ《眠》っていた。時間がたった。ゼルビノは出て来なかった。とうとうわたしもうとうとと|ねむ《眠》りこけた。  |四、五時間《シゴ時間》たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは|一き《一切》れのパンを食べてからもう久しい時間のたつことをわめきたてていた。それに二|ひき《匹》の犬とジョリクールの顔つきだけでも、|かれ《/彼》らの飢えきっていることはわかった。カピとドルスは情けない目つきをして、じっとわたしを見つめた。ジョリクールはしかめっ面をしていた。  でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。  わたしは|かれ《彼》を呼びたてたり、口ぶえをふいたりしたけれども|むだ《無駄》であった。|たぶん《多分》ごちそうをせしめたので、すっかり腹がふくれて、どこかのやぶの中に転がって、ゆっくり消化させているのであろう。  |やっかい《厄介》なことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま|行くえ《行方》知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、《、/》少しでも食べ物を買うお金をもうける機会がまるでなかった。  わたしたちの空腹はいよいよやりきれなくなってきた。犬たちは哀願するような目つきをたえずわたしに向けた。そしてジョリクールはおなかをさすって、おこって、きゃっきゃっとさけんでいた。  それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの|行くえ《行方》を探させた。けれども三十分たってから、やはりカピだけ独りぼんやり帰って来た。  どうしたらいいであろう。  ゼルビノは罪を犯したが、また|かれ《彼》の過失のためにわたしたちはこんなひどい目に会わされることになったのであるが、|かれ《/彼》をふり捨てることはできなかった。三びきの犬を満足に連れて帰らなかっ《-っ》たら、親方はなんと言うであろう。それになんといっても、わたしはあの|いたずら者《悪戯者》のゼルビノをかわいがっていた。  わたしは晩がたまで待つ決心をした。けれどなにもせずにいることはできるものではなかった。わたしたちはなにかしていればきっとこれほどひどい空腹がこたえないであろうと思った。  わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを忘れるかもしれない。  なにをしたらよかろう。  わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、軍隊が長い行軍で疲労しきると、楽隊がそれは|ゆかい《愉快》な曲を演奏する、それで兵隊の疲労を忘れさせるようにするというのであった。  そうだ。わたしがなにか|ゆかい《愉快》な曲をハープでひいたら、きっと空腹を忘れることができるかもしれない。わたしたちはみんなひどく弱りきっている。でもなにか|ゆかい《愉快》な曲をひいたら、かわいそうな二|ひき《匹》の犬たちも、《、/》ジョリクールと|いっしょ《一緒》におどりだして、時間が早く過ぎるかもしれない。  わたしは二本の木によせかけておいた楽器を取り上げて、堀割のほうに背中を向けながら、動物たちの列を作ってならばせ、ダンス曲をひき始めた。  初めのうちは、犬も|さる《猿》もダンスをする気にもなれないらしかった。|かれ《彼》らの欲望は食べ物のほかになかった。そのいじらしい様子を見ると、わたしの胸は痛んだ。けれどもかわいそうに、|かれ《/彼》らも空腹を忘れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその偉力を現してきた。|かれ《彼》らはおどりだした。わたしはひき続けた。 「うまい」──ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。  一|せき《隻》の遊船が堀割の中に止まっていた。その小舟《小船》を引っ張っている二|ひき《匹》の馬は、向こう岸に休んでいた。それは|きみょう《奇妙》な小舟《小船》であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。  それは堀割にう《浮》かんでいる|ふつう《普通》の船に比べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い甲板の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいな|ろうか《廊下》があって、つたの葉でおおわれていた。  そこには二人、人がいた。一人はまだ若い貴婦人で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けにね《寝》ているらしかった。 「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。  わたしは|かれ《彼》らを見つけて、一度は|たいへん《大変》びっくりしたが、落ち着くと、わたしは|ぼうし《帽子》を取って、|かれ《/彼》らの賞賛に感謝の意を表した。 「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、貴婦人は外国なまりのあるフランス語で言った。 「わたしは犬をしこんでいるのです。それに‥《‥:》‥自分の気晴らしにも」  子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。 「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき貴婦人はこちらを向いて言った。  なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。 「ダンスにしましょうか。喜劇にしましょうか」とわたしは聞いた。 「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。  けれども貴婦人は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。 「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。 「お客さまのお望みとございましたら、ダンスのあとでちがった番組をいろいろとりかえてごらんにいれましょう」  これはうちの親方の使う口上の一つであった。わたしはなるべく|かれ《彼》と同じようなしかつめらしい言い方でやろうと努めた。だがなおよく考えると、喜劇を所望してくれなかったことは結局ありがたかった。なぜといって、どうそれをやるかくふうがつかなかった。ゼルビノという役者が一枚足《一枚’足》りないばかりではない、芝居をするには衣装も道具もなかった。  とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第一節《第1節》をひいた。カピは前足でドルスの|こし《腰》をだいて、じょうずに拍子を取りながらおどり回った。つぎにジョリクールが一人でおどって、それからそれとわたしたちは順々に番組を進めていった。もう少しもくたびれたとは思わなかった。かわいそうな動物どもは、やがて昼飯の報酬の出ることを知って、いっしょうけんめいにやった。わたしもそのとおりであった。  するととつぜん、みんなが|いっしょ《一緒》になってダンスをしている最中に、ゼルビノがやぶのかげから出て来た。そして仲間がそのそばを通ると、|かれ《/彼》はずうずうしくもその仲間に割りこんで来た。  ハープをひきひき役者たちの監督をしながら、わたしはときどき子《’子》どものほうを見た。|かれ《彼》はわたしたちの演技に|ひじょう《非常》な|ゆかい《愉快》を感じているらしく見えたが、|からだ《体》を少しも動かさなかった。寝台《ネダイ》の上にあお向いたまま、ただ両手を動かして拍手|かっさい《喝采》した。半身不随なのかしら、板の上に張りつけられたように見えた。  いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、|いま《今》は子どもをはっきり見ることができた。|かれ《彼》は金茶色の髪の毛をしていた。顔色は青白くて、すきとおった皮膚のもとに額の青筋すら見えるほどであった。その顔つきには病人の子どもらしい、おとなしやかな、悲しそうな表情があった。 「|あなた《貴方》がたのお芝居のさじき料が《は》いかほどですね」と、貴婦人はたずねた。 「おなぐさみに相応《相応’》した代だけいただきます」 「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。|かれ《彼》はそのうえなにかわたしにわからない|ことば《言葉》でつけ加えていた。すると貴婦人は、 「アーサがお仲間の役者たちをそばで見たいと言うのですよ」と言った。  わたしはカピに目くは《ば》せをした。大喜びで|かれ《彼》は船の中へと《跳》びこんで行った。 「それから、ほかのは」とアーサと呼ばれたこの子どもは|さけ《叫》んだ。  ゼルビノとドルスがカピの例にならった。 「それからお|さる《猿》は」  ジョリクールもわけなくと《跳》びこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度船《一度’船》に乗ったら、きっとなにか貴婦人の気にいらないような悪さをするかもしれなかった。 「お|さる《猿》は気があらいの」と貴婦人はたずねた。 「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、失礼でもあるといけないと思います」 「おや、それではあなた、連れておいでなさい」  こう言って貴婦人は|かじ《舵》のほうに立っていた男に合図をした。この人は出て来て、|へさき《舳先》から岸に板をわたした。  肩にハープをかけて、《、/》ジョリクールを|うで《腕》にだ《’だ》いたまま、わたしは板をわたった。 「お|さる《猿》だ。お|さる《猿》だ」とアーサは|さけ《叫》んだ。その子どもを貴婦人はアーサと呼んでいた。  わたしは|かれ《彼》のそばへ寄って、|かれ《/彼》がジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。実際に|かれ《彼》は一枚の板に皮で|からだ《体》を結びつけられていた。 「あなた、お父さんはあるの」と貴婦人はたずねた。 「いえ、|いま《今》は独りぼっちです」 「いつまで」 「二か月のあいだ」 「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち置き去りにされるようなことになったの」 「そんな回り合わせになったのです」 「あなたの親方さんは|ふた《フタ》月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」 「いいえ、|おく《奥》さん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただ|い一座の《一座》のものと|いっしょ《一緒》に、そのあいだ食べてゆかれさえすればそれでいいんです」 「それで、どれだけお金が取れましたか」  わたしは答えようとして|ちゅうちょ《躊躇》した。わたしはこの美しい婦人の前では一種のおそれを感じたけれども、貴婦人は|ひじょう《非常》に親切に話しかけてくれたし、その声はいかにも優しかったから、わたしは|ほんとう《本当》のことを打ち明ける決心をした。またそれをしてならない理由はなにもなかった。  そこでわたしは貴婦人に向かって、ヴィタリスとわたしが別れたいちぶしじゅうを話した。ヴィタリス親方がわたしを保護するために、刑務所に連れて行かれたこと、それから親方がいなくなってから、金《かね》を取ることができなくなった次第を話した。  わたしが話をしているあいだ、アーサは犬と遊んでいたが、わたしの言った|ことば《言葉》はよく耳に止めていた。 「じゃあきみたち、みんなずいぶんおなかがすいているだろう」と|かれ《彼》は言った。  この|ことば《言葉》を動物たちはよく知っていて、犬は喜んでほえ始めるし、《、/》ジョリクールははげしくおなかをこすった。 「ああ、お母さま」とアーサがさけんだ。  貴婦人は聞き知らない|ことば《言葉》で、半分開《半分’開》けたドアのすきから頭を出しかけていた女中に、なにか二言三言《フタコトミコト》いった。まもなく女中は食物をのせたテーブルを運んで来た。 「おかけ」と貴婦人は言った。  わたしは言われるままにさっそく、ハープをわきへ置いて、テーブルの前の|いす《椅子》に|こし《腰》をかけた。犬たちはわたしの回りに列を作って|なら《並》んだ。ジョリクールはわたしのひざの上でおどっていた。 「きみの犬はパンを食べるの」とアーサはたずねた。 「パンを食べるどころですか」  わたしが|一き《一切》れずつ切ってやると、|かれ《/彼》らはむさぼるようにして見るまに平らげてしまった。 「それからお|さる《猿》は」とアーサは言った。  けれども、《、/》ジョリクールのことで気をもむ必要もなかった。わたしが犬にやっているあいだ、|かれ《/彼》は横合いから肉入りのパンを|一き《一切》れさらって、テーブルの下にもぐって、息のつまるほど|ほお《頬》ばっていた。  わたし自身もパンを食べた。ジョリクールのように|のど《喉》にはつ《詰》まらせなかったけれど、同じようにがつがつして、もっとたくさん|ほお《頬》ばった。 「かわいそうに、かわいそうに」と貴婦人は言った。  アーサはなにも言わなかったが、大きな目を見張ってわたしたちをながめていた。わたしたちのよく食べるのにびっくりしたのであろう。わたしたちはてんでんに腹をすかしきっていた。肉を|ぬす《盗》んで少しは腹にこたえのあるはずのゼルビノまでが、がつがつしていた。 「きみは|ぼく《僕》たちに会わなかったら、きょうの昼飯はどうするつもりだったの」とアーサがたずねた。 「なにを食べるか当《/当》てがなかったのです」 「じゃああしたは」 「|たぶん《多分》あしたはまた運よく、きょうのようなお客さまにどこかで会うだろうと思います」  アーサはわたしとの話を打ち切って、そのとき母親のほうにふり向いた。しばらくのあいだ|かれ《彼》らは外国語で話をしていた。|かれ《彼》はなにかを求めているらしかったが、それを母親は初めのうち承知したがらないように見えた。  するうち、ふと子どもはくるりと向き返った。|かれ《彼》の|からだ《体》は動かなかった。 「きみは|ぼく《僕》たちと|いっしょ《一緒》にいるのは|いや《嫌》ですか」と|かれ《彼》はたずねた。  わたしはすぐ返事はしないで、顔だけ見ていた。わたしはこのだしぬけの質問にめんくらわされていた。 「この子が|あなた《貴方》がたに|いっしょ《一緒》にいてくださればいいと言っているのですよ」と貴婦人がくり返した。 「この船にですか」 「そうですよ。この子は病気で、この板に|からだ《体》を結えつけていなければならないのです。それで昼間のうち少しでも|ゆかい《愉快》にくらせるように、こうして船こ《に》乗せて外へ出るのです。それで|あなた《貴方》がたの親方が監獄に|はい《入》っておいでのあいだ、よければここにわたしたちと|いっしょ《一緒》にいてください。あなたのその犬とお|さる《猿》が毎日芸《毎日’芸》をしてく《くれ》れば、アーサとわたしが見物になってあげる。あなたはハープをひいてくれるでしょう。それであなたはわたしたちに務めてくれることになるし、わたしたちはわたしたちで、|あなた《貴方》がたのお役に立つこともありましょう」  船《/船》の上で。わたしはまだ船の上でくらしたことがなかったが、それはわたしの久しい望みであった。なんといううれしいこと。わたしは幸福に心のくらむような感じがした。なんという親切な人たちだろう。わたしはなんと言っていいかわからなかった。  わたしは貴婦人の手を取ってキッスした。 「かわいそうに」と|かの《彼》女は優しく言った。  |かの《彼》女はわたしのハープを聞きたいと言った。そのくらい手軽ななぐさみですむことなら、わたしはどうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。  わたしは楽器を手に取って、船《/船》の|へさき《舳先》のほうへ行って、静かにひき始めた。  貴婦人はふとくちびるに小さな銀の呼子|ぶえ《笛》を当てて、するどい音《ネ》を出した。  わたしはなぜ貴婦人が|ふえ《笛》をふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。  自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの不安心らしい様子を見つけた。 「お母さまは馬を行かせるために、|ふえ《笛》をふいたんだよ」と|かれ《彼》は言った。  まったくそのとおりであった。馬に引かれた小舟《小船》は、そろそろと岸を|はな《離》れて、堀割の静かな波を切ってすべって行った。両側には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。 「ひきたまえな」とアーサが言った。  頭をちょっと動かして|かれ《彼》は母親にそばに来いという合図をした。|かれ《彼》は母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしは|かれ《彼》らのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。 ◇。◇。◇。 【第12章】 【最初の友だち】 ◇。◇。◇。  アーサの母親はイギリス人であった、名前をミリガン夫人と言った。後家さんで、アーサは一人っ子であった。少なくとも生きているただ一人の子どもだと考えられていた。なぜというに、|かの《/彼》女はふしぎな事情のもとに、長男をなくした。  その子は生まれて六月目《ムツキめ》に人にさらわれてしまった。それからどうしたかかいもく|行くえ《行方》がわからなかった。もっともその子がかどわかされたころ、ちょうどミリガン夫人はじゅうぶんの探索をすることのできない境遇であった。|かの《彼》女の夫は死にかかっていたし、なによりも|かの《彼》女自身がひどくわずらって、身の回りにどんなことが起こっているか、まるっきりわからずにいた。|かの《彼》女が意識を取り返したときには、夫は死んでいたし、赤子《赤児》はい《’い》なくなっていた。|かの《彼》女の実《ジツ》の弟に当たるジェイムズ・ミリガン氏はイギリスはもちろん、フランス、《、/》ベルギー、《、/》ドイツ、《、/》イタリアとほうぼうに子どもを探させたが、|結局行くえ《結局’行方》は知れなかった。そうなるとあとつぎの子どもがないので、この人がにいさんの財産を相続するつもりでいた。  ところがやはり、《、/》ジェイムズ・ミリガン氏は、にいさんからなにも相続することができなかった。なぜというに、夫人の夫の死後七か月目に、夫人の二番目のむすこのアーサが生まれたのであった。  けれどもお医者たちはこの病身な、ひよわな子どもの育つ見こみはないと言った。|かれ《彼》はいつ死ぬかもしれなかった。その子が死んだ場合には、《、/》ジェイムズ・ミリガン氏は財産を相続することになるであろう。  そう思って|かれ《彼》はあ《当》てにして待っていた。  けれども医者の予言はなかなか実現されなかった。アーサはなかなか死ななかった。もう二十度も追っかけ追っかけ、なんぎな病《病い》という病《病い》にかかって、それでも生きていた。そのたんびにこの子を生かしたものは母親の看護の力であった。  最後の病《病い》は腰疾《ヨウシツ》(こしの病気)であった。それにはしじゅう板《’板》にねかしておくがいいというので、板の上に|からだ《体》を結えつけて動けないようにした。けれどそれをそのままうちの中に閉じこめておけば、今度は気鬱と空気の悪いために死ぬかもしれない。  そこで|かの《彼》女は子どものためにきれいな、う《浮》いて動く家をこしらえてやって、フランスの国じゅうのいろいろな川を旅行しているのであった。その両岸の景色は、病人の子どもがねながら、ただ目を開いていさえすれば、目の前に動いて行くのであった。  もちろんこのイギリスの貴婦人とむすこについて、わたしはこれだけのことを残らず、初めての日に聞いたのではなかった。わたしは|ときどき《時々》|かの《彼》女といるあいだに少しずつ細かい話を聞いた。  わたしが初めの日に聞いたことは、ただこの船の名が白鳥号ということ、それからわたしが部屋と定められた船室がどんなものであるかということだけであった。  わたしは高さ七尺(約二メートル)、|はば三、四尺《幅サン四尺》(約0.9~1.2メートル)のかわいらしい船室を一つ当てがわれた。それはなんというふしぎな部屋におもわれたであろう。部屋のどこにもしみ一つついていなかった。  その船室に備えつけたたった一つの道具は、衣装戸だなであった。けれどなんという戸だなだろう。寝台《ネダイ》と|ふとん《布団》と|まくら《枕》と毛布とがその下から出て来た。そして寝台《ネダイ》についた引き出しには、はけや|くし《櫛》やいろいろなものが|はい《入》っていた。|いす《椅子》やテーブルというようなものも少なくとも|ふつう《普通》の形をしたものは《は’》なかったが、|かべ《壁》に板がぴったりついている、それを引き出すと四角なテーブルと|いす《椅子》になった。この小さな寝台《ネダイ》に|ねむ《眠》ることをどんなにわたしは喜んだであろう。生まれて初めてわたしはやわらかい|しき《敷》物を|はだ《肌》に当てた。バルブレンのおっかあのうちのは|ひじょう《非常》に固くって、いつもあらく|ほお《ホオ》をこすった。ヴィタリス老人とわたしはたいてい|しき《敷》物なしで|ねむ《眠》った。木賃宿にあるものは、みんなバルブレンのおっかあのうちのと同様にごりごりしていた。  わたしはあくる朝早く起きた。一座の連中《-れんじゅう》が一晩どんなふうに過ごしたか知りたかったからである。  見ると|かれ《彼》らは《は’》みんなまえの晩入れてやった所にいて、このきれいな小舟《小船》はもう何か《カ》月も|かれ《彼》らの家であったかのようによく|ねい《寝入》っていた。犬たちはわたしが近づくとはね起きたが、《、/》ジョリクールは片目を開いているくせに動かなかった。かえってラッパのような大いびきをかき始めた。  わたしはすぐにそのわけをさとった。ジョリクールは|たいへん《大変》おこりっぽかった。|かれ《彼》は一度腹《一度’腹》を立てると、長いあいだむくれていた。いまの場合は、ゆうべわたしが|かれ《彼》を船室に連れて行かなかったのをおもしろく思わなかったので、わざとふてねをして、|ふきげん《不機嫌》を示していたのであった。  わたしはなぜ|かれ《彼》を甲板の上に置いて行かなければならなかったか、そのわけを説明することができなかった。それで少なくとも外見だけでも、わたしは|かれ《彼》にすまなかったと感じているふうを見せるために、|かれ《/彼》を|うで《腕》にだいて、なでたりさすったりしてやった。  初めは|かれ《彼》もむくれたままでいたが、まもなく、気が変わりやすい性質だけに、なにかほかのことに考えが移って、手まねで、よし、外へ散歩に連れて行くなら、かんべんしてやろうという意を示した。  甲板を|そうじ《掃除》していた男が、気軽に板をわたしてくれたので、わたしは部下を連れて野原へ出た。  犬とかけっこしたり、《、/》ジョリクールをからかったり、|ほり《堀》をとんだり、木登りをしたりして遊んでいるうちに時間がたった。帰ってみると、馬ははこやなぎの木につながれて、すっかり仕度ができていて、小舟《小船》はいつでも出発するようになっていた。  わたしたちがみんな船の上に乗ってしまうと、まもなく船をつないだ大《-おお》づなは解かれて、船頭は|かじ《舵》を、御者は手|づな《綱》を取った。引きづなの滑車がぎいぎい鳴って、馬は引き船の道をカッパカッパ歩きだした。  これでも動いているかと思うは《ほ》ど静かに船は水の上をすべって行った。そこに聞こえるものは小鳥の歌と、船に当たる水の音、それから馬の首につけた|すず《鈴》のチャランチャランだけであった。  所《ところ》どころ水はこい緑色に見えてたいへん深いようであった。そうかと思うと水晶のようにすみきっていて、水の底できらきら光る小石だの、ビロードのような水草をすかして見ることができた。  わたしが水の中をじっとのぞきこんでいると、|だれ《誰》かがわたしの名前を呼んだ。それはアーサであった。|かれ《彼》は例の板に乗せられて運び出されていた。 「きみ、よくねられたかい、野原に|ねむ《眠》るよりも」と|かれ《彼》はたずねた。わたしは半分、ミリガン夫人にあいさつするように、ていねいによく|ねむ《眠》られたことを話した。 「犬は。」アーサが聞いた。  わたしは|かれ《彼》らを呼んだ。|かれ《彼》らはジョリクールと|いっしょ《一緒》にかけて来た。この|さる《猿》はいつも芝居をやらされると思うときするように、しかめっ面をしていた。  ミリガン夫人はむすこを日かげに置いて、自分もそのそばにすわった。 「それでは、あちらへ犬と|さる《猿》を連れて行ってください。わたしたちは課業がありますから」と|かの《彼》女は言った。  わたしは連中《-れんじゅう》を連れて|へさき《舳先》のほうへ退いた。  あの気の|どく《毒》な病人の子どもに、どんな課業ができるのだろう。  わたしは|かれ《彼》の母親が手に本を持って、むすこに課業を授けているのを見た。  |かれ《彼》はそれを覚えるのがなかなか困難であるらしく見えた。しじゅう母親は優しく責めていたが、同時になかなか手|ごわ《強》かった。 「いいえ」と|かの《彼》女は最後に言った。「アーサ、あなたはまるで覚えていません」 「ぼく、できません。お母さま、ぼく、ほんとにできないんです」と|かれ《彼》は泣くように、言った。「ぼく病気《/病気》なんです」 「あなたの頭は病気ではありません。アーサ、病人だからといって、だんだん|ばか《馬鹿》になるような子をわたしは好きません」  これはずいぶん残酷なようにわたしには思われた。けれど|かの《彼》女はあくまで優しい親切な調子で言った。 「なぜ、あなたはわたしにこんな情けない思いをさせるでしょう。あなたが習いたがらないのが、どんなにわたしには悲しいかわかるでしょう」 「ぼく、できません、お母さま、ぼくできないんです。」こう言って|かれ《彼》は泣きだした。  けれどもミリガン夫人は子どもの|なみだ《涙》に負かされはしなかった。そのくせ|かの《彼》女は|ひじょう《非常》に感動して、ますます悲しそうになっていた。 「わたしもけさあなたをルミや犬たちと遊ばせてあげたいのだけれど、すっかりお話を覚えるまでは遊ばせることはできません。」こう言って|かの《彼》女は本をアーサにわたして、一人置《一人’置》き去りにしたまま向こうへ行った。  わたしの立っていた所まで|かれ《彼》の泣き声が聞こえた。  あれほどまでに愛しているらしい母親がど《/ど》うしてこのかわいそうな子どもにこれほど厳格になれるのであろう。アーサの覚えられないのは病気のせいなのだ。|かの《彼》女は優しい|ことば《言葉’》一つかけないで|はい《い》ってしまうのであろうか。  しばらくたって|かの《彼》女は|もど《戻》って来た。 「もう一度二人《一度’二人》でやってみましょうね」と|かの《彼》女は優しく言った。  |かの《彼》女は子どものわきに|こし《腰》をかけて、本を手に取って、『|おおかみ《オオカミ》と小|ひつじ《羊》』というお話を読み始めた。アーサはその読み声について文句をくり返した。  三度初《三度’初》めからしまいまで読み返して、それから本をアーサに返して、あとは一人で習うように言いつけて、船《/船》の中に|はい《入》ってしまった。  わたしはアーサのくちびるの動くのを見た。  |かれ《彼》はたしかにいっしょうけんめい勉強していた。  けれどもま《’ま》もなく目を本から|はな《離》した。|かれ《彼》のくちびるは動かなくなった。|かれ《彼》の目はきょろきょろとあてもなく迷ったが、本にはもどって来なかった。  ふと|かれ《彼》の目はわたしの目を見つけた。  わたしは課業を続けてやるように|かれ《彼》に目くばせした。|かれ《彼》は注意を感謝するように微笑《微笑’》した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはり|かれ《彼》は考えを一つに集めることができなかった。|かれ《彼》の目は川のこちらの岸から向こう岸へと迷い始めた。ちょうどそのとき一羽のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。  アーサは頭を上げてその|行くえ《行方》を見送った。鳥が行ってしまうと、|かれ《/彼》はわたしのほうをながめた。 「ぼく、これが覚えられない」と|かれ《彼》は言った。「でもぼく、覚えたいんだ」  わたしは|かれ《彼》のそばへ行った。 「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。 「うん、むずかしい。‥《‥:》‥|たいへん《大変》むずかしいんだ」 「ぼくにはずいぶん易しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい覚えました」  |かれ《彼》はそれを信じないように微笑《微笑’》した。 「言ってみましょうか」 「できるもんか」 「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」  |かれ《彼》はまた本を取り上げた。わたしはその話を暗唱し始めた。わたしはほとんど完全に覚えていた。 「やあきみ、知っているの」 「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」 「どうして覚えたの」 「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向《見向き》したりなんぞせずに、聞いていたのです」  |かれ《彼》は顔を赤くした、そして目をそらした。 「ぼくもきみのようにやってみよう」と|かれ《彼》は言った。「けれど一々の|ことば《言葉》をどうしてそう覚えたか、言って聞かしてくれたまえ」  わたしはそれをどう説明していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。 「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「|ひつじ《羊》のことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくは|ひつじ《羊》のことを考えました。それから|ひつじ《羊》はなにをしているか考えます。『多くの|ひつじ《羊》は安全な|おり《檻》の中で住んでいました』《』/》というのだから、|ひつじ《羊》が|おり《檻》の中で安心して転がって|ねむ《眠》っているところが見えてきます。そういうふうに目にうかべると忘れません」 「そうだそうだ」と|かれ《彼》は言った。「ぼくは見えるよ。黒い|ひつじ《羊》だの、白い|ひつじ《羊》だの、|おり《檻》も、格子も見える」 「|ひつじ《羊》の番をするのはなんですか」 「犬さ」 「|ひつじ《羊》が|おり《檻》の中にいて番をしないですむとき、犬はなにをするでしょう」 「なんにも仕事はな《’な》い」 「では犬は|ねむ《眠》ってもいいでしょう。ですから、『犬は|ねむ《眠》っていました』《』/》と言うのです」 「そうだ。わけはない」 「ええ、わけはないのですとも、今度はほかのことに移ります。では犬と|いっしょ《一緒》に番をするのは|だれ《誰》です」 「|ひつじ《羊》飼いさ」 「その犬や|ひつじ《羊》飼いは、|ひつじ《羊》が|だいじょうぶ《大丈夫》だと思うとなにをしていたでしょう」 「犬は、|ねむ《眠》っていたのさ、|ひつじ《羊》飼いは、遠くのほうへ行って、ほかの|ひつじ《羊》飼いたちと|ふえ《笛》をふいて遊んでいた」 「あなたはそれが見えますか」 「ええ」 「どこにいます」 「にれの木の|かげ《蔭》に」 「一人ですか」 「いいえ、近所の|ひつじ《羊》飼いと|いっしょ《一緒》に」 「そらひ《/ひ》つじや|おり《/檻》や犬《/犬》やひ《/ひ》つじ飼いのことを考えてごらんなさい。それができれば、このお話の初めのほうは暗唱ができるでしょう」 「ええ」 「やってごらんなさい」 「多くの|ひつじ《羊》は安全な|おり《檻》の中におりましたから、犬はみな|ねむ《眠》っていました。|ひつじ《羊》飼いも大きな|にれ《楡》の木の|かげ《蔭》に、近所の|ひつじ《羊》飼いたちと|ふえ《笛》をふいて遊んでいました。──覚えていた、覚えていた、まちがいはなかった」  アーサは両手を打ってさけんだ。 「あともそういうふうにして覚えたらどうです」 「そうだな、きみと|いっしょ《一緒》にやればきっと覚えられる。ああ、お母さまがどんなに喜ぶだろう」  アーサはやがてお話残らずを心の目にうかべるようになった。わたしはできるだけ一々の細かい話を説明した。|かれ《彼》がすっかり興味を持ってきたときに、わたしたちは|いっしょ《一緒》に文句をさらった。そして十五分あとでは、|かれ《/彼》はすっかり卒業い《し》ていた。  やがて母親は出て来たが、わたしたちが|いっしょ《一緒》にいるので|ふきげん《不機嫌’》らしかった。|かの《彼》女はわたしたちが遊んでいたと思った。けれどアーサは|かの《彼》女に口をきかせるいとまをあたえなかった。 「ぼく、覚えました」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んだ。「ルミが教えてくれました」  ミリガン夫人は、びっくりしてわたしの顔を見た。けれど|かの《彼》女がわけを問うさきに、アーサは『|おおかみ《オオカミ》と小|ひつじ《羊》』のお話を暗唱しだした。わたしはミリガン夫人の顔を見た。|かの《彼》女の美しい顔は微笑にほころびた。そのうちわ《’わ》たしは|かの《彼》女の目に|なみだ《涙》がう《浮》かんだと思った。けれど|かの《彼》女はあわててむすこのほうをのぞきこんで、その|からだ《体》に両|うで《腕》をかけた。|かの《彼》女が泣いていたかどうか確かではなかった。 「|ことば《言葉》には意味がないのだから、目に見える事がらを考えなければいけないのです。ルミはぼくに|ふえ《笛》をふいている|ひつじ《羊》飼いだの、犬だの|ひつじ《羊》だの、それから|おおかみ《オオカミ》だのを考えさせてくれました。おまけに|ひつじ《羊》飼いのふいていた節まで聞こえるようになりました。お母さま、ぼく、歌を歌ってみましょうか」  こう言って|かれ《彼》は、イギリス語の悲しいような歌を歌った。  今度こそミリガン夫人は|ほんとう《本当》に泣いていた。なぜなら|かの《彼》女が席を立ったとき、わたしはアーサの|ほお《ホオ》が|かの《彼》女の|なみだ《涙》でぬれているのを見た。そのとき夫人はわたしのそばに寄って、わたしの手を自分の手の中におさえて、優しくしめつけた。 「あなたはいい子です」と|かの《彼》女は言った。  わたしがこのちょいとした出来事を長ながと書くにはわけがある。ゆうべまではわたしも|宿な《宿無》しの|こぞう《小僧》で、一座の犬や|さる《猿》たちを連れて、船《/船》のそばへやって来て、病人の子どもをなぐさめるだけの者であった。けれどこの課業のことから、わたしは犬や|さる《猿》から引きはなされて、病人の子どもの相手になり、ほとんど友だちになったのである。  もう一つ言っておかなければならないことがある。それはずっとあとで知ったことであるが、ミリガン夫人は実際このむすこの物覚えの悪いこと、もっと正しく言えばなにも物を覚えないことを知って、ふさぎきっていた。病人の子ではあっても、勉強はさせておきたいと夫人は思った。それには病気が長びくだろうから、いまのうち物《/物》を習う習慣をつけておいて、いつか回復したとき、むだになった時間を取り返すことができるようにしたいと考えたのであった。  ところがその日までも|かの《彼》女はそ《’そ》れが思うようにならないでいた。アーサはけっして勉強することを|いや《嫌》だとは言わなかったが、注意と熱心がまるでが《欠》けていた。書物を手にのせればいやとは言わずに受け取った。手は喜んでそれを受け取ろうとして開いたが、心はまるで開かなかった。ただもう機械のように動いて、しいて頭におしこまれた|ことば《言葉》を空《クウ》にくり返しているというだけであった。  そういうわけでむすこに失望した母親の心には、絶え間のない物思いがあった。  だから、アーサがいまたった半時間でお話を覚えて、一時をちがえず暗唱して聞かせるのを聞いたとき、|かの《/彼》女のうれしさというものはなかった。それはもっともな|わけ《訳》であった。  わたしはいま思い出しても、この船の上で、ミリガン夫人やアーサと過ごしたあの|じぶん《時分》が、《、/》少年時代でいちばん|ゆかい《愉快》なときであったと思う。  アーサはわたしに熱い友情を寄せていた。わたしのほうでもわざとでなしに、また気の|どく《毒》という同情からでなしに、しぜんと|かれ《彼》を兄弟のように思っていた。二人はけんか一つしたことはなかった。|かれ《彼》には|かれ《彼》のような身分にありがちな|いば《威張》ったところはみじんもなかった。わたしのほうも少しもひけめは感じなかった。またひけめを感じなければならないなどと思ったことすらなかった。  これはきっとわたしが子どもで、世の中を知らないためであったろう。しかしそれにはたしかに、ミリガン夫人の行《-ゆ》き届いた親切のおかげもあった。|かの《彼》女は《は’》たいてい自分の子どものようにしてわたしに話しかけた。  それにこの船の旅がわたしにはじつにおもしろかった。一時間と|たいくつ《退屈》したこともなければ、|つか《疲》れたと思うこともなかった。朝から晩までわたしの心はいつも充実しきっていた。  鉄道ができて以来、フランス南部地方の運河を見に来る人もなければ、知る人すらないようになったが、でもこれはやはりフランス名物の一つであった。  わたしたちはローラゲーのヴィーフランシュから、アヴィニオンヌまで行って、アヴィニオンヌからノールーズの岩まで行った。ノールーズにはこの運河の開鑿者であるリケの記念碑が、大西洋に注ぐ水と地中海《/地中海》に落ちる水とが分かれる分水嶺の頂に建てられてあった。  それからわたしたちは水車の町であるカステルノーダリを下って、中世の都会であったカルカッソンヌへ、《:、》それから貯水溝のめずらしいフスランヌの閘門(船を高低の差のある水面に上げたり下ろしたりするしかけのある水門)をぬけてベジエールに下った。  おもしろい所ではわたしたちはたいそうゆっくり船《’船》を進めた。けれど景色がつまらなくなると馬《/馬》は引き船の道を早足にとっとっとかけた。  いつどこでとまって、いつまでにどこまでへ着かなければならないということもなかった。毎日同《毎日’同》じ決まった食事の時間に露台の上に集まって、静かに両岸の景色をながめながら食事をした。日がしずむと船は止まった。日がのぼると船はまた動き出した。  雨でも降ると、わたしたちは船室の中に|はい《入》って、勢いよく燃えた火を取り巻いてすわる。病人の子どもが|かぜ《風邪》をひかないためであった。そういうとき、ミリガン夫人はわたしたちに本を読んで聞かせたり、画帳を見せたり、美しいお話をして聞かせたりした。  それから夜、晴れた日には、わたしには一つ役目があった。船が止まったときわたしはハープを|おか《丘》に持って下《-お》りて、《、/》少し遠く|はな《離》れた木の|かげ《蔭》に|こし《腰》をかける。それから木の|えだ《枝》のしげった中に|かく《隠》れて、いっしょうけんめいにひいたり、歌を歌ったりするのである。静かな晩など、アーサは、|だれ《誰》がひいているか見えないようにして、遠くの音楽を聞くことを好んだ。そこでわたしがアーサの好きな曲をひくと、|かれ《/彼》は「アンコール」(もっと)と声をかける。それでわたしは同じ曲を二度くり返してひくのである。  それはバルブレンのおっかあの炉ばたに育ち、ヴィタリス老人と|ほこり《埃》っぽい街道を流浪して歩いた|いなか《田舎》育ちの少年にとっては思《/思》いがけない美しい生活であった。  あの気の|どく《毒》な養母がこしらえてくれた塩《/塩》のじゃがいもと、ミリガン夫人の料理番のこしらえる|くだもの《/果物》入りのうまいお菓子やゼ《/ゼ》リーやク《/ク》リームやま《”ま》んじゅうと比べると、なんという|そうい《相違》であろう。  あのヴィタリス親方のあとからとぼとぼくっついて、沼のような道や、横なぐりの雨や、こげつくような太陽の中を歩き回るのと、この美しい小舟《小船》の旅と比べては、なんという|そうい《相違》であろう。  料理はうまかった。そうだ、まったくすばらしかった。腹も減らないし、くたびれもしないし、暑すぎもせず、寒すぎもしなかった。けれど|ほんとう《本当》に正直なことを言えば、わたしがいちばん深く感じたのは、この夫人と子どもの、めずらしい親切と愛情であった。  二度もわたしはわたしの愛していた人たちから引きはなされた。最初はなつかしいバルブレンのおっかあから、それからヴィタリス親方から、わたしは犬と|さる《猿》と|いっしょ《一緒》に空腹で、みじめなまま捨てられた。  そこへ美しい夫人がわたしと同じ年ごろの子どもを連れて現れた。わたしをむかえて、まるでわたしが兄弟ででもあるように|あつか《扱》ってくれた。  たびたびわたしはアーサが寝台《ネダイ》に結えつけられて、青い顔をして|ねむ《眠》っているところを見ると、わたしは|かれ《彼》をうらやんだ。健康と元気に満ちたわたしが、かえって病人の子どもをうらやんだ。  それはわたしがうらやむのは、この子を引き包んでいるぜいたくではなかった。美しい小舟《小船》ではなかった。それは|かれ《彼》の母親であった。ああ、どのくらいわ《’わ》たしは自分の母親を欲しがっているだろう。  |かれ《彼》の母はいつでも|かれ《彼》にキッスした。そして、|かれ《/彼》はいつでもしたいときに、両|うで《腕》に|かの《彼》女をだくことができた。その優しい夫人の手はたまたまわ《’わ》たしに向けられることもあっても、わたしからは思い切ってそれにさわり得ないのではないか。わたしは自分にキッスしてくれる母親、わたしがキッスすることのできる母親を持たないことを悲しいと思った。  あるいはいつかまたわたしもバルブレンのおっかあには会うことがあるかもしれない。それはどんなにかうれしいことであろう。でもわたしはもう|かの《彼》女を母親と呼ぶことはできない。なぜなら|かの《彼》女はわたしの|ほんとう《本当》の母親ではないのだから。  わたしは独りぼっちだった。わたしはいつでも独りぼっちでいなければならない‥《‥:》‥だれの子どもでもないのだ。  わたしはもうこの世の中は、そうなんでも思うようになる所でないことを知るだけに大きくなっていた。それでわたしは母親もないし、家族もないから、友だちでもあればどんなにうれしいだろうと思っていた。だからこの小舟《小船》に来て、わたしは幸福であった。|ほんとう《本当》に幸福であった。けれど、ああ、それは長く続けることはできなかった。わたしがまたむかしの生活に返る日はおいおいに近づいていた。 ◇。◇。◇。 【第13章】 【捨て子】 ◇。◇。◇。  旅の日数《ヒカズ》のたつのは早かった。親方が刑務所から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに従って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。  船《/船》の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれは《ば》ならないときがじき来るのだ。  これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう寝台《ネダイ》もなければ、クリームもない。お菓子もなけれは《ば》、テーブルを取り巻いた楽しい夜会もなくなるのだ。  でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人とアーサとに別れることであった。わたしはこの人たちの友情から|はな《離》れなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。  わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちと|いっしょ《一緒》にくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと別れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、愛し愛されたりするようなものであった。  このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛がわたしの心をくもらせた。  ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。  アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急に|さけ《叫》びだした。 「帰っちゃ|いや《嫌》だ、ルミ。行ってしまっては|いや《嫌》だ」  |かれ《彼》はすすり泣きをしていた。  わたしは|かれ《彼》に、自分がヴィタリス親方のものになっていること、|かれ《/彼》が金《-かね》を出して両親からわたしを借りていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。  わたしは両親のことを話した。けれどもそれが|ほんとう《本当》の父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分が捨て子であることを|はじ《恥》に思った─《─:》─往来で拾われた子どもだということを白状することを|はじ《恥》に思った。わたしは孤児院の子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中で捨て子であるということほど|いや《嫌》なことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン夫人やアーサに知られることを好まなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしを|きら《嫌》うようになるだろう。 「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言い続けた。 「わたしもルミをここへ止めておくことは|たいへん《大変》けっこうだと思うけれど」とミリガン夫人は答えた。「わたしたちはずいぶんあの子が好きなのだからね。でもこれには二つ|やっかい《厄介》なことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか‥‥」 「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」 「第二には」と、ミリガン夫人がかまわず続けた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」 「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言い張った。  ヴィタリスはいい親方であった。|かれ《彼》がわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしは|ひじょう《非常》に感謝していた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても比較にはならなかった。同時に親方に持つ尊敬と、ミリガン夫人とその病身《病身’》の子どもに対して持つ愛着とは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から愛していた。 「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人は続けた。 「この船にだって遊び半分では《は’》いられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯ではないでしょう」 「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら‥‥。」とわたしは言いかけた。 「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。 「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人が言った。「この子の親方の承諾を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもい《らう》ように|たの《頼》んでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ呼ぶことになるのだが、たぶん承知してくださることだろうと思うから、それで相談したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」  この最後の|ことば《言葉》で、わたしの美しい|ゆめ《夢》は破れた。  両親に相談する。そうしたら|かれ《彼》らはわたしが内証にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが捨て子だということを言いたてるだろう。  ああ捨て子。そうなればアーサもミリガン夫人もわたしを|きら《嫌》うようになるだろう。  まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。  わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。|かの《彼》女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、|かの《/彼》女は《は’》たずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒していると考えたらしく、|かの《/彼》女はそのうえしいては問わなかった。  幸いにじき|ねむ《眠》る時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋に一人閉《ひとり閉》じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来初《以来’初》めての|ふゆかい《不愉快》な晩であった。それはおそろしく|ふゆかい《不愉快》な、長い熱病をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。  たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなれば|かれ《彼》らはどうしたって|ほんとう《本当》のことは知らずにいよう。|かれ《彼》らは、わたしの捨て子だということを知らずにすむだろう。素性を知られることについてのわたしの羞恥と恐怖があまりひどかったので、もうアーサ母子《親子》と別れても、|しかた《仕方》がない。ヴィタリスがなんでも自分と|いっしょ《一緒》に来いと主張することを希望し始めたくらいであった。そうなれば少なくとも|かれ《彼》らはこののちわ《’わ》たしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。  それから三日たってミリガン夫人はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。|かれ《彼》は夫人の文意をよくくんで、向こうから来て|かの《彼》女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連れて、|かれ《/彼》に会いに停車場《停車ジョウ》まで行くことを許された。  その朝になると、犬たちはなにか変わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしは|ひじょう《非常》に興奮していた。|きょう《今日》こそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気があったら、親方に|たの《頼》んで捨て子だということをミリガン夫人に言ってもらわないように|たの《頼》むことができたであろう。けれどもわたしは|かれ《彼》に対してすら『捨て子』という|ことば《言葉》を口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、《、/》ジョリクールは上着の下に入れて、停車場《停車ジョウ》の片すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目に|はい《入》らなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。|かれ《彼》らは主人の|にお《匂》いをか《嗅》ぎつけた。  ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張りをゆるめていたので、|かれ《/彼》らはぬけ出したのであった。ほえながら|かれ《彼》らは前へとび出した。わたしは|かれ《彼》らが親方にと《跳》びかかるのを見た。ほかの二|ひき《匹》に比べてははげしくし《/し》かもしたたかにカピが、いきなり主人の|うで《腕》にと《跳》びかかった。ゼルビノとドルスがその足にと《跳》びかかった。  親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両|うで《腕》をわたしの|からだ《体》に投げかけた。初めて|かれ《彼》はわたしにキッスした。 「ああよく無事でいてくれた」と|かれ《彼》はたびたび言った。  親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優しくはなかった。わたしはそれに慣れていなかった。それでわたしは感動して、思わず|なみだ《涙》が目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしは|かれ《彼》の顔をながめた。刑務所にはいっているまに|かれ《彼》は|ひじょう《非常》に年を取った。背中も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気はなかった。 「ルミ、わたしは変わったろう。なあ」と|かれ《彼》は言った。「刑務所はけっして|ゆかい《愉快》な所ではなかった。それに苦労というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来れば|だいじょうぶ《大丈夫》だ。これからはよくなるだろう」  それから話の題を変えて|かれ《彼》は言い続けた。 「わたしの所へ手紙を寄こした|おく《奥》さんのことを話しておくれ。どうしてその|おく《奥》さんと知り合いになったのだ」  わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割をこいでいたミリガン夫人とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別れてミリガン夫人の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。  わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしは|かの《彼》女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。 「その|おく《奥》さんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルに|はい《入》ったときに|かれ《彼》は言った。 「ええ、ぼくがいま|おく《奥》さんの部屋に案内しましょう」とわたしは言った。 「それにはおよばないよ」と|かれ《彼》は答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちと|いっしょ《一緒》にわたしを待っておいで」  わたしは、いつでも|かれ《彼》に従順であったけれども、この場合は|かれ《彼》と|いっしょ《一緒》にミリガン夫人の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当《’正当》でもあり自然なことだと思っていた。けれども手まねで|かれ《彼》がわたしのくちびるに出かかっている|ことば《言葉》をおさえると、わたしはいやいや犬《’犬》や|さる《猿》と|いっしょ《一緒》に下に残っていなければならなかった。  どうして|かれ《彼》はミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好まなかったか。わたしはこの質問を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快な答えが得られずに考えこんでいたときに|かれ《彼》は|もど《戻》って来た。 「行って|おく《奥》さんに、さようならを言っておいで」と|かれ《彼》は|ことば《言葉’》短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分《10分》のうちにた《発》つのだから」  わたしはかみなりに打たれたような気がした。 「それ」と|かれ《彼》は言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」  |かれ《彼》はまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的にわたしは服従して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。 「あなたは|おく《奥》さんになんとお言いに‥‥。」二足三足行《フタ足ミ足’行》きかけてわたしは問いかけた。 「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要なのだ。従ってわたしはおまえに対するわたしの権利を捨てることはできませんと言ったのさ。行って来い。|いとまご《暇乞》いがすんだらすぐ帰れ‥‥」  わたしは自分が捨て子だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性を話したからだとばかり思っていた。  ミリガン夫人の部屋に|はい《入》ると、アーサが|なみだ《涙》を流している。そのそばに母の夫人が寄りそっているところを見た。 「ルミ、きみ行っては|いや《嫌》だよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」と|かれ《彼》はすすり泣きをした。  わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。 「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知してくださいませんでした」とミリガン夫人は、いかにも悲しそうな声で言った。 「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。 「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたが|だいじ《大事》で手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる‥《‥:》‥あの人はああいう身分の人のようではない、どうして|りっぱ《立派》な口のきき方をなさいました。お断りになる理由としてあの人の言われたのは─《─:》─そう、こうです、──わたしはあの子を愛している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授けている世間の修業《修行》は、あれにとって、|あなた《/貴方》がたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それは|ほんとう《本当》だ。|なるほど《成程》あなたはあれの|ちえ《知恵》を養ってはくださるだろう、だがあれの人格は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難ばかりです。あれはあなたの子には《は’》なれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから──とこうお言いになるのですよ」 「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサは|さけ《叫》んだ。 「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」 「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしは|さけ《叫》んだ。 「それはどういうわけです」 「いいえ、どうかよしてください」 「でもそのほかに|しかた《仕方》がないんですもの」 「ああ、どうぞよしてください」  ミリガン夫人が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた十分《10分》の時間以上をさようならを言うために費したであろう。 「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。  それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両|うで《腕》を|かれ《彼》の|からだ《体》に回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それから|かれ《彼》の弱い|うで《腕》からのがれて、わたしはふ《’ふ》り向いてミリガン夫人に手をさし延べた。 「かわいそうに」と、|かの《/彼》女はわたしの額《’額》にキッスしながらつぶやいた。  わたしは戸口へかけて行った。 「アーサ、わたしはいつまでもあなたを愛します」とわたしは言って、こみ上げて来る|なみだ《涙》を飲みこんだ。「|おく《奥》さん、わたしはけっしてけっしてあなたを忘れません」 「ルミ、《、/》ルミ‥‥。」とアーサがさけんだ。その後《あと》の|ことば《言葉》はもう聞こえなかった。  わたしは手早くドアを閉じて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスと|いっしょ《一緒》になっていた。 「さあ出かけよう」と|かれ《彼》は言った。  こうしてわたしは最初の友だちから別れた。 ◇。◇。◇。 【第14章】 【|ふぶき《吹雪》と|おおかみ《オオカミ》】 ◇。◇。◇。  またわたしは親方のあとについて痛《/痛》い肩にハープを結びつけたまま、雨が降っても、日が照りつけても、ちりや|どろ《泥》にまみれて、旅から旅へ毎日流浪《毎日’流浪》して歩かなければならなかった。広場であほうの役を演じて、笑ったり泣いたりして見せて、「ご臨席の貴賓諸君」のごきげんをとり結ばなければならなかった。  長い旅のあいだ再三《/再三》わたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村に|はい《入》ると、わたしはあのきれいな小舟《小船》の船室をどんなに思い出したろう。それに木賃宿の|ねどこ《寝床》のどんなに固いことであろう。(もう二度とアーサとも遊べないし、その母親の優しい声も聞くことはできない)それを考えるだけでもおそろしかった。  これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。  |かれ《彼》のわたしに対する様子はすっかり変わっていた。|かれ《彼》はわたしの主人というより以上のものであるように感じた。もうたびたび思い切って、|かれ《/彼》にだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは愛情を求めていた。けれどもわたしにはそれをする勇気がなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることを許さない人であった。  初めは《は’》恐怖がわたしを|かれ《彼》から遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば尊敬に似た感情が|かれ《彼》とわたしを|へだ《隔》てていた。  わたしがいよいよ村の家を出る|じぶん《時分》には、|ふつう《普通》の|びんぼう《貧乏》な階級の人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人から|かれ《彼》を区別することができずにいたが、ミリガン夫人と二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、|ちえ《知恵》も進んだ。よく気をつけて親方を見ると、態度でも様子でも、|かれ《/彼》には|ひじょう《非常》に高貴なところがあるように見えた。|かれ《彼》の様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。  そんなときわたしは、|ばか《馬鹿》な、親方は《は’》たかが犬や|さる《猿》の見世物師というだけだし、ミリガン夫人は貴婦人である、それが似かよったところがあるはずがないと思った。  だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことが確かになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に紳士になることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それは|りっぱ《立派》な紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな乱暴な人間でも、その威勢におされてしまうのであった。  だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言い得ずにしまった。それは向こうから優しい|ことば《言葉》でさそい出してくれるときでもそうであった。  セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン夫人のことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話の種になるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。 「おまえは好《-す》いていたのだね、あの|おく《奥》さんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩を忘れてはならないぞ」  そのあとで|かれ《彼》はいつも言い足した。 「だが|しかた《仕方》がなかったのだ」  こう言う親方の|ことば《言葉》を、初めは《は’》わたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人がそばへ置きたいという申し出を|こば《拒》んだことをさして言うのだとわかった。  親方が|しかた《仕方》がなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確かであった。そのうえこの|ことば《言葉》の中には後悔に似た心持ちがふくまれていたように思われた。|かれ《彼》はアーサのそばにわたしを残しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。  でもなぜ|かれ《彼》がミリガン夫人の申し出を承知することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔しているということがわかって、わたしは心の底に満足した。  もうこれでは親方も承知してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望の目標になった。  それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。  それはローヌ川《ガワ》を上って行くはずであった。そうして|わたし《私》たちはその川の岸に沿って歩いていた。  それで歩きながらわたしの目は両側《リョウガワ》を限っている丘や、豊饒な田畑《タハタ》よりも、よけい水の上に注《-そそ》がれていた。  わたしたちがアルルとか、《、/》タラスコンとか、《、/》アヴィニオン、《、/》モンテリマール、《、/》ヴァランス、《、/》ツールノン、《、/》ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場か橋《’橋》の上で、《:、》そこから川《’川》の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探した。遠方に半分、深い霧に|かく《隠》れてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。  でもそれはいつも白鳥号ではなかった。  |ときどき《時々》わたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの探す美しい船の模様を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でも|かれ《彼》らはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。  このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像されたから、もはやわたしの素性を告げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件は親方とミリガン夫人との間の相談でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしい|ゆめ《夢》でいろいろに事件を処理してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに置きたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利を捨てることを承知してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。  わたしたちは何週間もリヨンに滞在していた。そのあいだ|ひま《暇》さえあればいく度もわたしはローヌ川《川’》と、ソーヌ川の波止場に行ってみた。おかげでエーネー、《、/》チルジット、《、/》ラ・ギョッチエール、《、/》ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。  しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。  わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人に二度と会う希望を捨てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川《川’》に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ別れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想の結末であった。  いよいよいけなくなったことは、冬が|いま《今》や目近《間近》にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋かま《”ま》たは物置|き小屋《小屋》に|つか《疲》れきってたどり着くと、もう|はだ《肌》まで水がしみ通って、わたしたちはとても笑顔をうかべて|ねむ《眠》る元気はなかった。  ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれて骨までも|こお《凍》る思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつも情けない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。  親方の目的は少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ芝居《’芝居》をして回れるのはパリだけであった。わたしたちは《は’》もうごくわずかの金《-かね》しか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。  道みちの町や村でも、日和《ひより》の|つごう《都合》さえよければ、ちょっとした興行をやって、いくらかでも収入をかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。  シャチヨンをたってから、冷たい雨の降ったあとで、風は北に変わった。  もういく日かしめっぽい日が続いたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかり|かく《隠》れてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。  わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、|ひじょう《非常》に悪い天気で|五、六日逗留《ゴ六にち逗留》しても、《、/》少しは興行を続けて回る見こみがあった。「早く|とこ《トコ》におはいり」とその晩宿屋に着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くからた《発》つのだ‥《‥:》‥だが雪《’雪》に降りこめられてはたまらないなあ」  でも|かれ《彼》はすぐには|とこ《トコ》に|はい《入》らなかった。台所の炉のすみに|こし《腰》をかけて、寒さでひどく弱っているジョリクールを暖めていた。|さる《猿》は毛布にくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。  あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空はま《真》っ暗な雲が低く垂れて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風が|えんとつ《煙突》にふ《吹》き入って、危なくゆうべ灰の中にうずめた|ほだ火《ホダビ》をま《舞》い上げそうにした。  宿屋の亭主は親方の顔を見て、 「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどい|ふぶき《吹雪》になりますぜ」 「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大|ふぶき《吹雪》の来るまえにトルアまで行きたいと思っている」 「|六、七里《ロク七里》(約二十四~《から》二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」  でもかまわずわたしたちは出発した。  親方はジョリクールをしっかり|からだ《体》にだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は固いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイ《ィ》ジョンでわたしに|ひつじ《羊》の毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったり|からだ《体》にふきつけられていた。  わたしたちは口を開くのがひどく|ふゆかい《不愉快》だったので、だまりこんで歩きながら、《、/》少しでも暖まろうとして急いだ。  もう夜明けの時間をよほど過ぎていたが、空はまだま《真》っ暗であった。東のほうに白っぽい帯のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。  野景色を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。  往来にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、|むち《鞭》の鳴る音も聞こえなかった。  ふと北の空に青白い筋が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちは|きみょう《奇妙》ながあがあいうささやき声のような音《音’》を聞いた。それは|がん《鴈》か野《/野》の白鳥の|さけ《叫》び声であったろう。この気|ちが《違》いじみた鳥の群れは、わたしたちの頭の上を飛んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。|かれ《彼》らが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片が静かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。  わたしたちが通って行く道は喪中のようにしずんでさびしかった。あれきって陰気な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さな|ちょうちょう《蝶々》のように目の前にちらちらした。絶えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。  わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の降るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。  わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。  しかしまもなくそれが|ほんとう《本当》にわかった。しかもわたしにはけっして忘れることのできないものであった。  雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲の|ふところ《懐》が開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中を|ちょうちょう《蝶々》のようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい勢いで降って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。 「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。  わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならない|まえ《前》にわたしが見ておいたかぎりでは、一|けん《軒》もうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。  わたしたちの前には底知れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを包んでいる両側《両側’》の丘陵もやはり深い森であった。  雪はいよいよはげしく降ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけに|ひつじ《羊》の毛皮服を持ち上げて、《、/》ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。  犬たちももう先《サキ》に立ってかけることができなかった。|かれ《彼》らはわたしたちの|かかと《踵》について歩いて、早く休むうちを求めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。  道はい《’い》っこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ骨を折って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物が|こお《凍》りついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののない|あらし《嵐》にふきさらされていた。そのうち風はいくらか静まったが、雪のかたまりは《は’》ますます大きくなって、みるみる積もった  わたしは親方がなにか探し物をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、|かれ《/彼》はなにも言わなかった。なにを|かれ《彼》は見つけようとするのであろう。  わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が現れてきはしないかという望みをかけていた。  だが目の届く限り両側は雪にうずまった林であった。前はもう|二、三間《ニサンケン》(四~《から》五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。  わたしはこれまで暖かい台所の窓ガラスに雪の降るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠い|ゆめ《夢》の世界のように思われることであろう。  でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。|なるほど《成程》、わたしはぼんやりと、空き地の中に堀立小屋《掘っ立て小屋》のようなものを見た。  わたしたちはその小屋に通う道を探さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へ|はい《入》ることができた。  その小屋は丸太や|しば《柴》をつかねて造ったもので、屋根も木の|えだ《枝》のたばを積み重ねて、雪が間から流れこまないように固く|なわ《縄》でしめてあった。  犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上を|ほこり《埃》を立てて転げ回っていた。  わたしたちの満足も|かれ《彼》らにおとらず大きかった。 「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降ってもかまわないぞ」 「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは|大いば《大威張》りで言った。  わたしは戸口──というよりも小屋に出入する穴というほうが適当で、そこにはドアも窓もなかったが─《─:》─そこまで行って、わたしは上着と|ぼうし《帽子》の雪をはらった。せっかくのかわいた部屋をぬらすまいと思ったからである。  わたしたちの宿の構造はしごく簡単であった。備えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石が|いす《椅子》の代わりに置いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが|五、六枚《ゴロク枚》、かまどの形に積んであったことである。なによりもまず火を燃やさなければならぬ。  なによりも火がいちばんのごちそうだ。  さて|まき《薪》だが、このうちでそれを見つけることは困難ではなかった。  わたしたちはただ|かべ《壁》や屋根から|まき《薪》を引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。  まもなくた《焚》き火の赤い|ほのお《炎》がえんえんと立った。むろん小屋は|けむり《煙》でいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲しているのは火と熱であった。  わたしは両手をついて、腹ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻いて、首をのばして、ぬれた背中を火にかざしていた。  ジョリクールはやっと親方の上着の下から|のぞ《覗》くだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確かめて満足したらしく、急いで地べたにと《跳》び下りて、た《焚》き火の前のいちばん上等な場所を占領して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。  親方は用心深い、経験に積んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料を包んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足した。  情けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯に残しておくほうが確実だと考えたからであった。  わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それで|かれ《彼》らはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢に納められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、その|ひざがしら《膝頭》を引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。  背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめて|ねむ《眠》る決心をした。カピは灰の中に鼻をつっこんでいた。わたしも|かれ《彼》らの例にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、|ゆめ《夢》の国にでも遊んだほうが気が利いている。  わたしはどのくらい|ねむ《眠》ったか知らなかった。目が覚めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪は|ひじょう《非常》に深かった。無理に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。  何時《ナンジ》だろう。  わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例のカピが時間を示した大きな銀時計は売られてしまった。|かれ《彼》は罰金や裁判の費用をはらうためにありったけの金《-かね》を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。  時計を見ることができないとすれば、日の加減で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時《ナンジ》だか時間を推量《スイリョウ》するのが困難であった。  なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなり|こお《凍》らせてしまったように思われた。  わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼ぶ声が聞こえた。 「これから出て行けると思うかな」と|かれ《彼》はたずねた。 「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」 「そうか、わたしはこ《’こ》こにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、た《焚》き火もあるのだから」  それは|ほんとう《本当》であったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。 「どうせまた雪は降ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜は《は’》よけい寒くなる。今夜は《は’》ここでくらすほうが無事だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」  そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留するほかはない。胃ぶくろのひもを固くしめておく、それだけのことだ。  夕飯に親方が残りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残さず、がつがつして食べた。このつましい晩食がすんだとき、犬はまたさっきのように|あとねだ《後強請》りをするだろうと思っていたが、|かれ《/彼》らはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらい|かれ《彼》らが|りこう《利口》であるか知った。  親方がナイフをズボンの|かく《隠》しにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろの|にお《匂》いをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味で、もうなにも食物の残っていないことがわかった。それで|かれ《彼》はた《焚》き火の前の自分の席に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきは|あき《明》らかにどうも|しんぼう《辛抱》するほかはないよという意味を示していた。そこで|かれ《彼》はあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。 「もうなにもない。ねだってもだめだよ」|かれ《彼》はこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間の犬たちに会得さしていた。  |かれ《彼》の仲間はこの|ことば《言葉》を理解したらしく、これもやはりため息をつきながらた《焚》き火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっして|ほんとう《本当》にあきらめたため息ではなかった。おなかの減っているうえに、ゼルビノは|ひじょう《非常》に大食らいであった。だからこれは|かれ《彼》にとっては大きな犠牲であった。  雪がまたずんずん降りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高く|ふく《膨》れ上がって、しまいに、小さな若木や灌木がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片がなお暗い空からほ《/ほ》の明るい地の上にし《/し》きりなしに落ちていた。  わたしたちはいよいよここへ|ねむ《眠》るとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くね《寝》つくことであった。わたしは昼間火《昼ま火》でかわかしておいた毛皮服にくるまって|まくら《枕》の代わりにした。平ったい石に頭をのせて、た《焚》き火の前に横になった。 「おまえは|ねむ《眠》るがいい。」親方が言った。「わたしの|ねむ《眠》る番になればおまえを起こすから。この小屋では|けもの《獣》もなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心して|かぜ《風邪》をひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」  わたしはさっそく|ねむ《眠》った。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふ《更》けていた。た《焚》き火はまだ燃えていた。雪はもう降ってはいなかった。 「今度はわたしの|ねむ《眠》る番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん採っておいた|まき《薪》をくべればいい」  なるほど|かれ《彼》はた《焚》き火のわきに小|えだ《枝》をたくさん積み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいち|かべ《壁》から|まき《薪》をぬくたんびに音《/音》を立てて目を覚まさせられることを|いや《嫌》がった。それでわたしは|かれ《彼》のこしらえておいてくれた|まき《薪》の山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。  たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、情けないことに親方は、これがどんな意外な結果を生むかさとらなかった。  |かれ《彼》はいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、た《焚》き火の前に|からだ《体》をのばした。まもなくしだいに高く、|しだい《次第》に規則正しいいびきで、よくねいったことが知れた。  そのときわたしはそ《’そ》っと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。  草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。【日の届くかぎりどこも目がくらむような白色《白イロ》であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどく|こお《凍》っていた。すきまから|はい《入》る空気は氷のようであった。喪中にいるような静けさの中に、雪の表面の|こお《凍》りつく音がいく度となく聞こえた。 「ああ、この森の|おく《奥》で雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」  わたしはそ《’そ》っと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳は|かれ《彼》にとってなんでもなかった。|かれ《彼》はしばらく景色をながめたが、やがて|たいくつ《退屈》して外へ出て行こうとした。  わたしは|かれ《彼》に中にはいるように命令した。|ばか《馬鹿》な犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、暖かいた《焚》き火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。|かれ《彼》は不承不承にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ面をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを忘れない犬であった。  わたしは、ま《真》っ白な夜をながめながらまだ|二、三分《ニサンプン》そこに立っていた。それは美しい景色ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中に|はい《入》って、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。  とうとうわたしはまたた《焚》き火のそばへ帰って、|二、三本まき《ニ三本’薪》をたがいちがいに火の上に組み合わせて、|まくら《枕》の代わりにした石の上に|こし《腰》をかけた。  親方はおだやかに|ねむ《眠》っていた。犬たちとジョリクールもまた|ねむ《眠》っていた。|ほのお《炎》が火の中から上って、ぴかぴか火花を散らしながら屋根のほうまで巻き上がった。ぱちぱちいうた《焚》き火の|ほのお《炎》の音だけが夜の沈黙を破るただ一つの音であった。  長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知らずう《’う》とうとし始めた。わたしが外へ出て|まき《薪》をこしらえる仕事でもしていたら、日《目》を覚ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなく|ねむ《眠》くなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を覚ましているつもりになっていた。  ふとはげしいほ《吠》え声にわたしは目が覚めて、と《跳》び上がった。ま《真》っ暗であった。わたしはかなり長いあいだ|ねむ《眠》ったらしく、火はほとんど消えかかっていた。もう小屋《’小屋》の中に|ほのお《炎》が光ってはいなかった。  カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。 「どうした。どうした」と親方が目を覚ましてさけんだ。 「知りません」 「おまえは|ねむ《眠》っていたのだな。火も消えている」  カピは入口までか《駆》け出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、《、/》ウウ、ほえていた。 「どうした。どうしたというんだろう。」わたしは今度は自分にたずねた。  カピのほ《吠》え声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離から聞こえて来た。  わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの肩に手をのせて引き止めた。 「まあ|まき《薪》をくべなさい」|かれ《彼》は命令の調子で言った。  言いつけられたとおりにわたしがしていると、|かれ《/彼》は火の中から|一本小えだ《一本’小枝》を引き出して、火をふき消して、燃えている先を吹いた。  |かれ《彼》はその|たいまつ《松明》を手に持った。 「さあ、行って見て来よう」と|かれ《彼》は言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」  外へ出ようとすると、はげしいほ《吠》え声が聞こえた。カピは|こわ《怖》がって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。 「|おおかみ《オオカミ》だ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」  なにをわたしが言えよう。二|ひき《匹》の犬はわたしの|ねむ《眠》っているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがね《寝》つくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。  |おおかみ《オオカミ》が|かれ《彼》らをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、|かれ《/彼》の声にはその恐怖があった。 「|たいまつ《松明》をお持ち」と|かれ《彼》は言った。「あれらを助けに行かなければならない」  村でわたしはよく|おおかみ《オオカミ》のおそろしい話を開《聞》いていた。でもわたしは|ちゅうちょ《躊躇》することはできなかった。わたしは|たいまつ《松明》を取りにかけて帰って、また親方のあとに続いた。  けれども外には犬も見えなければ|おおかみ《オオカミ》も見えなかった。雪の上にただ二|ひき《匹》の犬の足あとがぽつぽつ残っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとやや|はな《離》れて雪の中でなにか|けもの《獣》が転がり回ったようなあとがあった。 「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時に|かれ《彼》はゼルビノとドルスを呼び寄せる呼び子をふいた。  けれどこれに答えるほ《吠》え声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙を破る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにか《駆》け出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖にたえない様子であった。いつもはあれほど従順で|ゆうかん《勇敢》なカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先は《は’》ただどんよりと暗かった。  もう一度親方《一度’親方》は呼び子をふいて、迷い犬を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。 「ああ、かわいそうなドルス。」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。 「|おおかみ《オオカミ》がつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」  そう、どうして──そう言われて、わたしは答える|ことば《言葉》がなかった。 「行って探して来《-こ》なければ」とわたしはしばらくして言った。  わたしは先に立って行こうとしたけれど、|かれ《/彼》はわたしを引き止めた。 「どこへ探しに行くつもりだ」と|かれ《彼》はたずねた。 「わかりません、ほうぼうを」 「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で‥‥」  それは|ほんとう《本当》であった。雪がわたしたちのひざの上まで積もっていた。わたしたちの二本の|たいまつ《松明》を|いっしょ《一緒》にしても、暗がりを照らすことはできなかった。 「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」と|かれ《彼》は言った。 「わたしたちは、むやみに進むことはならない。|おおかみ《オオカミ》はわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」  かわいそうな犬どもを、その運命のままに任せるということは、どんなに情けないことであったろう。  ──われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより困ったことは、それがわたしの責任だということであった。わたしは|ねむ《眠》りさえしなかったら、|かれ《/彼》らも出て行きはしなかった。  親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに続きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。  雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。  こうして|わたし《私》たちが、小屋に|はい《入》ると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいた|えだ《枝》は勢いよく燃え上がって、小屋《コヤ》のすみずみの暗い所まで照らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。|かれ《彼》の着ていた毛布はた《焚》き火の前にぬぎ捨ててあった。けれど|かれ《彼》は小屋の中にはいなかった。親方もわたしも呼んだ。けれど|かれ《彼》は出て来なかった。  親方の言うには、|かれ《/彼》の目を覚ましたときには、|さる《猿》はわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。燃えている|たいまつ《松明》を雪の積もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。  どこか|たば《束》ねた|まき《薪》のかげにでも|かく《隠》れているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく探し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。  わたしは親方の肩に上って、屋根に葺いてある|えだ《’枝》たばの中を探してみた。二度も三度も呼んでみた。けれどもなんの返事もなかった。  親方はぷりぷり|かんしゃく《’癇癪》を起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。  わたしは親方に、|おおかみ《オオカミ》が|かれ《彼》までも取って行ったのではないかとたずねた。 「いいや」と|かれ《彼》は言った。「|おおかみ《オオカミ》は小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへか|かく《隠》れたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっと|かぜ《風邪》をひくであろう。寒さがあれにはなにより効くのだから」 「じゃあどんどん探してみましょうよ」  わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。 「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。 「どのくらいで明けるでしょう」 「二時間か三時間だろう」  親方は両手で頭をおさえてた《焚》き火の前に|すわ《座》っていた。  わたしはそれを|じゃま《邪魔》する勇気がなかった、わたしは|かれ《彼》のわきにつっ立って、ただときどき火の中に|えだ《枝》をくべるだけであった。|一、二度かれ《イチ二度’彼》は立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。  わたしは|かれ《彼》がそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。  三時間はのろのろ過《’過》ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。  でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに従って、寒さはいよいよひどくなった。戸口から|はい《入》って来る風が骨まで|こお《凍》るようであった。  これでジョリクールを見つけたとしても、|かれ《/彼》は生きているだろうか。  見つけ出す希望がほんとにあるだろうか。  |きょう《今日》もまた雪が降りだ《出》さないともかぎらない。  でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気を予告するようであった。  すっかり明るくなって、樹木の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、棒をかかえて小屋を出た。  カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでか《駆》け出す仕度をしていた。  わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを探し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。|かれ《彼》はわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。  小屋のわきの大きな|かし《樫》の木のまたで、わたしたちはなにか黒《-くろ》い小さなもののうごめく姿を見つけた。  これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声に|おび《怯》えて、|かれ《/彼》はわたしたちが出ているまに、小屋《コヤ》の屋根によじ上った。そしてそこから一本の|かし《樫》の木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの呼ぶ声にも答えず、じっと|からだ《体》をかがめて|すわ《座》っていたのであった。  かわいそうな弱い動物。|かれ《彼》は|こご《凍》えてしまったにちがいない。  親方が|かれ《彼》を優しく呼んだ。|かれ《彼》は動かなかった。わたしたちは|かれ《彼》がもう死んでいると思った。  数分間親方《数分間’親方》は|かれ《彼》を続けさまに呼んだ。けれど|さる《猿》はもう生きているもののようではなかった。  わたしの心臓は後悔で痛んだ。どれほどひどく罰せられたことだろう。  わたしはつぐないをしなければならない。 「登ってつかまえて来《-き》ましょう」とわたしは言った。 「危ないよ」 「いいえ、|だいじょうぶ《大丈夫》です。わけなくできますよ」  それは|ほんとう《本当》ではなかった。それは危険でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難な仕事であった。  わたしはごく小さかった|じぶん《時分》から木登りをすることを習った。それでこの術には熟練していた。わたしはと《跳》び上がって、いちばん下の|えだ《枝》にと《跳》びついた。そして木の|えだ《枝》をすけて雪が落ちて日《目》の中に|はい《入》って来たが、でもどうやら木の幹をよじて、いちばんしっかりした|えだ《枝》に手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。  わたしは登りながら、優しくジョリクールに話しかけた。|かれ《彼》は動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。  わたしはほとんど手の届く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいと|かれ《彼》はほかの|えだ《枝》にと《跳》びついてしまった。  わたしはその|えだ《’枝》まで|かれ《彼》を追っかけたけれど、人間の情けなさ、子どもであっても、木登りは|さる《猿》にはかなわなかった。  これで|さる《猿》の足が雪でぬれていなかったら、とても|かれ《彼》をつかまえることはできそうもなかった。|かれ《彼》は足のぬれることを好まなかった。それでじきにわたしを|からか《揶揄》うのがいやになって、|えだ《枝》から|えだ《枝》へとと《跳》び下りて、まっすぐに主人の肩にと《跳》び下りた。そして上着の裏に|かく《隠》れた。  ジョリクールを見つけるのは|たいへん《大変》なことであったがそ《/そ》れだけではすまなかった。今度は犬を探さなければならなかった。  もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。  わたしたちは十間(約十八メートル)ばかり|かれ《彼》らの足あとをつけることができた。|かれ《彼》らは続いて小屋《コヤ》からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに続いた。  それからほかの|けもの《獣》の足あとが見えた。一方には|おおかみ《オオカミ》どもは犬にと《跳》びかかって、はげしく戦ったしるしが残っていた。こちらには|おおかみ《オオカミ》がえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。  かわいそうな二|ひき《匹》の犬は、わたしの|ねむ《眠》っているあいだに死にに行ったのであった。  でもわたしたちはできるだけ早く帰って、《、/》ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方が|さる《猿》の足と手を持って、|赤んぼう《赤ん坊》をおさえるようにして、た《焚》き火にかざすと、わたしは毛布を温めて、その中へ転がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。|かれ《彼》は湯たんぽと温かい飲み物を求めていた。  親方とわたしはた《焚》き火のそばにすわって、だまって|まき《薪》の燃えるのをながめた。 「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」  わたしたちは代わりばんこにこんな|ことば《言葉》をつぶやいた。初めに親方が、つぎにはわたしが。  あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。  わたしがしっかり見張りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。|おおかみ《オオカミ》はそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。  どうにかしていっそ親方がひどくわたしを|しか《叱》ってくれればよかった。|かれ《彼》がわたしを打ってくれればよかった。  けれど|かれ《彼》はなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。|かれ《彼》は火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。 ◇。◇。◇。 【第15章】 【ジョリクール氏】 ◇。◇。◇。  夜明けまえの予告はちがわなかった。  日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえの晩あれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。  たびたび親方はかけ物の下に手をやって、《、/》ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小|ざる《猿》はい《’い》っこうに温《あたた》まってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、|かれ《/彼》のがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。  |かれ《彼》の血管の中の血が|こお《凍》っていたのである。 「とにかく村《’村》へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐた《発》つことにしよう」  毛布はよく温《-あたた》まっていた。それで小|ざる《猿》はその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐ胸に当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。  小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。 「この小屋にはずいぶん高い宿代をはらった」  こう言った|かれ《彼》の声はふるえた。  |かれ《彼》は先に立って行った。わたしはその足あとに続いた。わたしたちが|二、三間《ニサンゲン》(四《4》~《から》六メートル)行くと、カピを呼んでやらなければならなかった。かわいそうな犬。|かれ《彼》は小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、仲間が|おおかみ《オオカミ》にとられて行った場所に向けていた。  大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その御者はもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは困難でもあり苦しかった。雪がわたしの|こし《腰》までついた。  たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびに|かれ《彼》は、小|ざる《猿》はまだふるえていると言った。  やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な宿屋にとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、同勢残《同勢’残》らずとめてくれそうな木賃宿を選んだ。  ところが今度は親方がきれいな看板のかかっている宿屋へ|はい《入》った。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光る赤銅《アカ》の|なべ《鍋》がかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが空腹な旅人にどんなにうまそうに|にお《匂》ったことであろう。  親方は例のもっとも『紳士』らしい態度を用いて、|ぼうし《帽子》を頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、宿屋の亭主にいい|ねどこ《寝床》と暖かい火を求めた。初めは《は’》宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子が|みごと《見事》に|かれ《彼》を圧迫した。|かれ《彼》は女中に言いつけて、わたしたちを一間《ヒトマ》へ通すようにした。 「早く|ねどこ《寝床》におはいり」と親方は女中が火をたいている最中わたし《しに》言った。わたしはびっくりして|かれ《彼》の顔を見た。なぜ|ねどこ《寝床》にはいるのだろう。わたしは|ねどこ《寝床》なんかに|はい《入》るよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。 「さあ早く」  でも親方がくり返した。  服従するよりほかに|しかた《仕方》がなかった。寝台《ネダイ》の上には鳥の毛の|ふとん《布団》があった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。 「少しでも温まるようにするのだ」と|かれ《彼》は言った。「おまえが温《暖》まれば温《暖》まるほどいいのだ」  わたしの考えでは、《、/》ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く温《暖》まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。  わたしがまだ毛の|ふとん《布団》にくるまってあったまろうと骨を折っているとき、親方はジョリクールを丸くして、まるで蒸し焼きにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。 「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。 「むれそうです」 「それでいい」|かれ《彼》は急いで寝台《ネダイ》のそばに来て、《、/》ジョリクールを|ねどこ《寝床》につっこんで、わたしの胸にくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小|ざる《猿》は、いつもなら自分の|きら《嫌》いなことをされると反抗するくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。|かれ《彼》は見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれども|かれ《彼》はもう冷たくはなかった。|かれ《彼》の|からだ《体》は焼けるようだった。  台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくした|ぶどう《葡萄》酒を一|ぱい《杯’》持って帰って来た。|かれ《彼》はジョリクールに二《ふた》さじ三《み》さじ飲ませようと試みたけれど、小|ざる《猿》は歯を食いしばっていた。|かれ《彼》はぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分を責めてくれるなと|たの《頼》むような顔をしていた。それから|かれ《彼》はかけ物の下から片|うで《腕》を出して、わたしたちのほうへさ《差》し延べた。  わたしは|かれ《彼》の思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう説明してくれた。  わたしがまだ来なかった|じぶん《時分》、《、/》ジョリクールは肺炎にかかったことがあった。それで|かれ《彼》の|うで《腕》に針をさして出血させなければならなかった。今度病気《今度’病気》になったのを知って|かれ《彼》はまた刺絡(血を出すこと)してもらって、先《セン》のようによくなりたいと思うのであった。  かわいそうな小|ざる《猿》。親方はこれだけの所作で深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということは|あき《明》らかであった。しかも|ひじょう《非常》に悪くって、あれほど好きな砂糖入りの|ぶどう《葡萄》酒すらも受けつけようとはしないのであった。 「ルミ、|ぶどう《葡萄》酒をお飲み。そして|とこ《トコ》に|はい《入》っておいで」と親方が言った。「わたしは医者を呼んで来る」  わたしもやはり砂糖入りの|ぶどう《葡萄》酒が好きだということを白状しなければならない。それにわたしはたいへん腹が減っていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息に|ぶどう《葡萄》酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。|からだ《体》の温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息がつ《詰》まりそうであった。  親方は遠くへは行かなかった。|かれ《彼》はまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた紳士──お医者を連れて来た。|さる《猿》だと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしが|とこ《トコ》の中に|はい《入》って、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの額《’額》が《に》手を当てて、すぐ「充血だ」と言った。  |かれ《彼》はよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。  うっかりしてまちがえられて、血でも取られては|たいへん《大変》だと思って、わたしは|さけ《叫》んだ。 「まあ、ぼくは病人ではありません」 「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」  わたしは少し毛布を上げて、《、/》ジョリクールを見せた。|かれ《彼》はその小さな手をわたしの首に巻きつけていた。 「病人はこれです」とわたしは言った。 「|さる《猿》か」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んで、|おこ《怒》った顔をして親方に向かった。「きみはこんな日に|さる《猿》をみ《見》せにわたしを連れ出したか」  親方はなかなか容易なことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいにし《”し》かも例の大《おお》ふうな様子で、医者を引き止めた。それから|かれ《彼》は事情を説明して、|ふぶき《吹雪》の中に閉じこめられたことや、|おおかみ《オオカミ》に|こわ《怖》がってジョリクールが|かし《樫》の木にと《跳》び上がったこと、そこで死ぬほど|こご《凍》えたことを話した。 「病人は《は’》たかが|さる《猿》にすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほど|だいじ《大事》な友だちであり、仲間でありますか。どうしてこれほどのふしぎな才能を持った動物をただの獣医やなどに任されるものではない。村の獣医というものは|ばか《馬鹿》であって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということは|だれ《誰》だって知っている。医師の標札の出ているドアの呼び|りん《鈴》をおせば、知識があり慈愛深い人にかならず会うことができる。|さる《猿》は動物ではあるが、博物学者に従えば、|かれ《/彼》らは|ひじょう《非常》に人類に近いので、病気などは人も|さる《猿》も同じように|あつか《扱》われると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人と|さる《猿》がどうちがうか、研究してみるのも興味のあることではないでしょうか」  こういうふうに説かれて、医者は行きかけていた戸口から|もど《戻》って来た。  ジョリクールは|たぶん《多分》このめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、また|うで《腕》をつき出した。 「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡していただくつもりでいます」  これで医者の足が止まった。 「|ひじょう《非常》におもしろい。なかなかおもしろい実験だ」と|かれ《彼》はつぶやいた。  一|とお《通》り診察《’診察》して、医者は|かわいそう《可哀想》なジョリクールが今度もやはり肺炎にかかっていることを告げた。医者は|さる《猿》の手を取って、その血管に少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと治ると思った。刺絡をすませて、医者はいろいろと薬剤にそえて注意をあたえた。わたしはもちろん|とこ《トコ》の中に|はい《入》ってはいなかった。親方の言いつけに従って、看護婦を務めていた。  かわいそうなジョリクール。|かれ《彼》は自分を看護してくれるのでわたしを好《-す》いていた。|かれ《彼》はわたしの顔を見てさびしく笑った。|かれ《彼》の顔つきは|ひじょう《非常》に優しかった。  いつもあれほど、せっかちで、|かんしゃく《癇癪》持ちで、|だれ《誰》にもいたずらばかりしていた|かれ《彼》が、それはもうおとなしく従順であった。  その後毎日、|かれ《/彼》はいかにわたしたちをなつかしがっているかを示そうと努めた。それはこれまでたびたび|かれ《彼》のいたずらの犠牲であったカピに対してすらそうであった。  肺炎の|ふつう《普通》の経過として、|かれ《/彼》はまもなく|せき《咳》をし始めた、この発作のたびごとに小さな|からだ《体》がはげ《げし》くふるえるので、|かれ《/彼》はひどくこれを苦しがった。  わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしは|かれ《彼》に麦菓子を買ってやった。けれどこれはよけい|かれ《彼》を悪くした。  |かれ《彼》のするどい本能で、|かれ《/彼》はまもなく|せき《咳》をするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。|かれ《彼》はそれをいいことにして、自分のたいへん好きな薬をもらうために、しじゅう|せき《咳》をした。それでこの薬は|かれ《彼》をよけい悪くした。  |かれ《彼》のこのくわだてをわたしが見破ると、もちろん麦菓子をやることをやめたが、|かれ《/彼》は弱らなかった。まず|かれ《彼》は哀願するような目つきでそれを求めた。それでくれないと見ると、|かれ《/彼》は|とこ《トコ》の上にすわって両手を胸の上に当てたまま、|からだ《体》をゆがめて、ありったけの力で|せき《咳》をした。|かれ《彼》の額《’額》の青筋がにょきんとと《飛》び出して、|なみだ《涙》が目から流れた。そして|のど《喉》のつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしく|せき《咳》こんだ。  わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、《、/》ジョリクールと|いっしょ《一緒》に宿屋に残っていた。ある朝かれが帰って来ると、宿の亭主がとどこおっている宿料を要求したことを話した。|かれ《彼》がわたしに金《-かね》の話をしたのはこれが初めてであった。|かれ《彼》がわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんの|ぐうぜん《偶然》にわたしの聞き出したことであって、そのほかには|かれ《彼》の|ふところ《懐》具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、《:、》今度こそ|かれ《彼》はもうわずか五十《ゴジュッ》スーしか|ふところ《懐》に残っていないことを話した。  こうなってただ一つ残った手だてとしては、今夜さっそく一興行《ひと興行》やるほかにないと|かれ《彼》は考えていた。  ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。  それができてもできなくても、どう少なく見積もってもすぐ四十《ヨンジュッ》フランという金をこしらえなければならないと|かれ《彼》は言った。ジョリクールの病気は治してやらなければならないし、部屋には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿にもはらわなければならない。いったん借りている物を返せば、あとはまた貸《’貸》してもくれるだろう。  この村で四十《ヨンジュッ》フラン。この寒空といい、こんなあわれ|ない《な》一座でなにができよう。  わたしが、《、/》ジョリクールと|いっしょ《一緒》に宿に待っているあいだに親方《/親方》がさかり場で一|けん《軒’》見世物小屋を見つけた。なにしろ野天で興行するなんということはこの寒さにできない相談であった。|かれ《彼》は広告のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、|二、三枚《ニサン枚》の板で|かれ《彼》は舞台をこしらえたりした。そして思い切って残りの五十《ゴジュッ》スーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二倍に使うくふうをした。  わたしたちの部屋の窓から見ていると、|かれ《/彼》は雪の中を行《往》ったり来たりしていた。わたしはどんな番組を|かれ《彼》が作るか、心配であった。  わたしはすぐにこの問題を解くことができた。というのは、そのとき村の広告屋が赤い|ぼうし《帽子》をかぶってやって来て、宿屋の前に止まった。|たいこ《太鼓》をそうぞうしくたたいたあとで、|かれ《/彼》はわれわれの番組を読み上げた。  その口上を聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさな|ふいちょう《吹聴》をした。なんでも世界でもっとも高名な芸人が出る──それはカピのことであった─《─:》─それから『希世《キセイ》の天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。  それはいいとして、この山勘口上で第一におもしろいことは、この興行に決《/決》まった入場料のなかったことであった。われわれは見物の義侠心《義侠心’》に信頼する。見物は残らず見て聞《/聞》いて|かっさい《/喝采》をしたあとで、いくらでもお志《志し》しだいにはらえばいいというのである。  これがわたしには|とっぴょうし《突拍子》もなくだいたんなやり方に思われた。|だれ《誰》がわたしたちを|かっさい《喝采》する者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが‥《‥:》‥わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんな音《ネ》が出るのだ。  |たいこ《太鼓》の音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうど|ひじょう《非常》に悪かった最中であったが、やはり起き上がろうとした。|たいこ《太鼓》の音とカピのほ《吠》え声を聞くと、芝居の始まる知らせであるということをさとったようであった。  わたしは無理に|かれ《彼》を|ねどこ《寝床》におしもどさなければならなかった。すると|かれ《彼》は例のイギリスの大将の軍服─《─:》─金筋の|はい《入》った赤い上着とズボン、それから羽根のついた|ぼうし《帽子》をくれという合図をした。|かれ《彼》は両手を合わせてひざをついて、わたしに|たの《頼》み始めた。いくら|たの《頼》んでも、なにもしてもらえないとみると、|かれ《/彼》はおこって見せた。それからとうとうしまいには|なみだ《涙》をこぼしていた。|かれ《彼》に向かって、今夜芝居《今夜’芝居》するなんという考えを捨てなければならないことを納得させるには、|たいへん《大変》な手数のかかることがわかっていた。それよりも|かく《隠》れて出て行くほうがいいとわたしは思った。  親方が帰って来ると、|かれ《/彼》はわたしにハープをしょったり、いろいろ興行に入り|よう《用》なものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求を始めた。|かれ《彼》は自分の希望を表すために苦しい声をしば《ぼ》り出したり、顔をしかめたり、|からだ《体》を曲げたりするよりいいことはなかった。|かれ《彼》の|ほお《ホオ》には|ほんとう《本当》に|なみだ《涙》が流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。 「おまえも芝居がしたいのか」と親方はたずねた。 「そうですとも」とジョリクールの|からだ《体》全体がさけんでいるように思われた。|かれ《彼》は自分がもう病人でないことを示すために、と《跳》び上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを連れ出せば、いよいよ|かれ《彼》を殺すほかはないことをよく知っていた。  わたしたちはもう出て行く時刻になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、《、/》ジョリクールを毛布の中にすっかりくるんだ。|かれ《彼》はまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。  雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜は《は’》しっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座の主な役者たちがい《’い》なくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、《:、》カピとわたしとでお|たが《互》いにいっしょうけんめいにやれるだけは《は’》やらなければならなかった。なにしろ四十《ヨンジュッ》フラン集《’集》めなければならなかった。  四十《ヨンジュッ》フラン。おそろしいことであった。できない相談であった。  親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがす《’す》べきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ芝居《’芝居》のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。  わたしたちがいよいよ芝居小屋に|はい《入》ったとき、広告屋は|たいこ《太鼓》をたたいて、最後にもう一度村《一度’村》の往来を|一めぐ《一巡》り|めぐ《巡》り歩いていた。  カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。  |たいこ《太鼓》の音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。|たいこ《太鼓》のあとからは子どもが|おお《大》ぜい調子を合わせてついて来た。|たいこ《太鼓》を打ちやめることなしに、広告屋は芝居小屋の入口にともっている二つの大きなかがり火のま《真》ん中に位置をしめた。こうなると見物は《は’》ただ、中に|はい《入》って場席を取れば、芝居は始められるのであった。  おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口の|たいこ《太鼓》は|ゆかい《愉快》そうにどんどん鳴り続けていた。村じゅうの子どもは残らず集まっているにちがいなかった。けれど四十《ヨンジュッ》フランの金《-かね》をくれるものは子どもではなかった、|ふところ《懐》の大きい、物おしみをしない紳士が来てくれなければならなかった。  とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくという|やっかい《厄介》な問題があるので、このうえ長くは待てなかった。  わたしはまずま《真》っ先に現れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けた|かっさい《喝采》はごく貧弱だった。わたしは自分を芸人だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡さがわたしをがっかりさせた。わたしが|かれ《彼》らを|ゆかい《愉快》にしえなかったとすると、|かれ《/彼》らはきっと|ふところ《懐》を開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮させ、|かれ《/彼》らを有頂天にさせようと願っていたことだろう‥《‥:》‥けれども見物席はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『希世《キセイ》の天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。  でもカピは評判がよかった。|かれ《彼》はいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行が割れるような|かっさい《喝采》で終わった。|かれ《彼》らは両手をたたいたばかりでなく、足拍子をふみ鳴らした。  いよいよ勝負の決まるときが来た。カピは|ぼうし《帽子》を口にくわえて、見物の中を|どうどうめぐ《堂々巡》りし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏でイスパニア舞踏をおどった。カピは四十《ヨンジュッ》フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度を示しながら、この問題がしじゅうわたしの胸を打った。  わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり続けた。|かれ《彼》はあわてなかった。一枚の銀貨ももらえないとみると、前足を上げてその人の|かく《隠》しをたたいた。  いよいよ|かれ《彼》が帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。  わたしはおどり続けた。そして二足三足《フタ足ミ足》カピのそばへ行きかけて、|ぼうし《帽子》がいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。  親方はやはり|みい《実入》りの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。 「紳士ならびに貴女がた。|じまん《自慢》ではございませんが、本夕《ホンセキ》はおかげさまをもちまして、番組どおりと《/と》どこおりなく演じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も燃えつきませんことゆえ、みなさまのお好みに任せ、今度は一番て《/て》まえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座のカピ丈《ジョウ》はもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を願いたてまつります」  親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだ|ほんとう《本当》に|かれ《彼》の歌うのを開《聞》いたことはなかった。いや、《、/》少なくともその晩歌ったように歌うのを開《聞》いたことがなかった。|かれ《彼》は二つの歌を選んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王の歌であった。  わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。|かれ《彼》の歌を聞いているうちに、目には|なみだ《涙》がいっぱいあふれたので、舞台のすみに引っこんでいた。  その|なみだ《涙》の霧の中から、わたしは、前列の|こし《腰》かけに|すわ《座》っていた若い|おく《奥》さんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋《今夜こや》に集まった百姓《ヒャクショウ》たちとちがっていることを見つけた。|かの《彼》女は若い美しい貴婦人で、その|りっぱ《立派》な毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。|かの《彼》女は|いっしょ《一緒》に子どもを連れていた。その子も|むちゅう《夢中》でカピに|かっさい《喝采》していた。|ひじょう《非常》によく似ているところを見れば、それは|かの《彼》女のむすこであった。  初めの歌がすむと、カピはまた|どうどうめぐ《堂々巡》りをした。ところがその|おく《奥》さんは|ぼうし《帽子》の中になにも入《-い》れなかったのを見て、わたしはびっくりした。  親方が第二の曲をすませたとき、|かの《/彼》女は手招きをしてわたしを呼んだ。 「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」と|かの《彼》女は言った。  わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにか|ぼうし《帽子》の中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピは|もど《戻》って来た。|かれ《彼》は二度目の|どうどうめぐ《堂々巡》りでま《’ま》えよりももっとわずか集めて来た。 「あの婦人がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。 「あなたにお話がしたいそうです」 「わたしはなにも話すことなんかない」 「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」 「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」  そうは言いながら、|かれ《/彼》は行くことにして、犬を連れて行った。わたしも|かれ《彼》らのあとに続いた。そのとき一人の僕(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布を持って来た。|かれ《彼》は婦人と子どものわきに立っていた。  親方は冷淡に婦人にあいさつをした。 「お|じゃま《邪魔》をしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝いを申し上げたいと思いました」  でも親方は一言《一ゴン》も言わずに、ただ頭を下げた。 「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術の天才にはまったく感動いたしました」  技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師が。わたしはあっけにとられた。 「わたしのような老いぼれになんの技術がありますものか」と|かれ《彼》は冷淡に答えた。 「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人はまた始めた。 「|なるほど《成程》あなたのような|まじめ《真面目》なかたの好奇心を満足させてあげましたことはなによりです」と|かれ《彼》は言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若い|じぶん《時分》にはわたしは‥《‥:》‥いや、ある大音楽家の下男でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚えたのですね。それだけのことです」  婦人は答えなかった。|かの《彼》女は親方の顔をまじまじと見た。|かれ《彼》も|つぎほ《接ぎ穂》のないような顔をしていた。 「さようなら、あなた」と|かの《彼》女は外国なまりで言って、「あなた」という|ことば《言葉》に力を入れた。 「さようなら。それからもう一度今夜味《一度’今夜’味》わわせていただいた、このうえない|ゆかい《愉快》に対してお礼を申し上げます。」こう言ってカピのほうをのぞいて、|ぼうし《帽子》に金貨を一枚落《一枚’落》とした。  わたしは親方が|かの《彼》女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、|かれ《/彼》はまるでそんなことはしなかった。そして|かの《彼》女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしは|かれ《彼》がそっとイタリア語で、ぶつぶ|こごと《つ小言》を言っているのを聞いた。 「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのとき|かれ《彼》は危なくわたしに|げんこ《ゲンコ》を一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂らした。 「一ルイ」と|かれ《彼》は|ゆめ《夢》からさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、《、/》ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘れていた。すぐ行ってやろう」  わたしはそうそうに切り上げて、宿へ帰った。  わたしはま《真》っ先に宿屋のはしごを上がって部屋へ|はい《入》った。火は消えてはいなかったが、もう|ほのお《炎》は立たなかった。  わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。  やがて|かれ《彼》が陸軍大将の軍服を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布の上に横になっているのを見た。|かれ《彼》は|ねむ《眠》っているように見えた。  わたしは|からだ《体》をかがめて、優しく|かれ《彼》の手を取って引き起こそうとした。  その手はもう冷たかった。  親方がそのとき部屋に|はい《入》って来た。  わたしは|かれ《彼》のほうを見た。 「ジョリクールが冷たいんですよ」とわたしは言った。  親方はそばへ来て、やはり|とこ《トコ》の上にのぞきこんだ。 「死んだのだ」と|かれ《彼》は言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人の所から無理に連れて来たのは悪かった。わたしは罰せられたのだ。ゼルビノ、《、/》ドルス、それから今度はジョリクール‥《‥:》‥だがこれだけでは|すむまいよ《スムマイヨ》」 ◇。◇。◇。 【第16章】 【パリ入り】 ◇。◇。◇。  まだパリからはよほど|はな《離》れていた。  わたしたちは雪でうずまった道をどこまでも歩いて行かなければならなかった。朝から晩まで北風に顔を打たれながら、とぼとぼ歩いて行かなければならなかった。  この長いさすらいの旅はどんなにつらかったろう。親方が先に立って歩く。続いてわたし、その後《あと》からカピがついて来た。こうして一列になって、わたしたちは何時間も、何時間も、ひと言も口をきかずに、寒さで血の気のなくなった顔をして、ぬれた足と空っぽな胃ぶくろをかかえて歩き続けた。とちゅうで行き会う人はふ《’ふ》り返って、わたしたちの姿が《を》見た。まさしく|かれ《彼》らは|きみょう《奇妙》に思ったらしかった。このじいさんは、子どもと犬をどこへ連れて行くのであろう。  沈黙はわたしにとって、つらくもあり悲しくも思われた。わたしはしきりと話をしたかったけれど、やっと口《’口》を切ると、親方はぷっつり手短に答えて、顔をふり向けもしなかった。うれしいことにカピはもっと人づき(人づき合い)がよかった。それでわたしが足を引きずり引きずり歩いて行くと、ときどき|かれ《彼》のぬくい舌が手にさわった。|かれ《彼》はあたかもお友だちのカピがここについていますよというように、優しくなめてくれた。そこでわたしもさすり返してやった。わたしたちはお|たが《互》いに心持ちを|さと《悟》り合った。お|たが《互》いに愛し合っていた。  わたしにとっては、これがなによりのたよりであったし、カピもそれをせめてものなぐさめとしているらしかった。物《もの》に感ずる心は犬の心も子どもの心もさしてちがいがなかった。  こうしてわたしがカピをかわいがってやると、カピもそれになぐさめられて、いくらかずつ仲間をなくした悲しみをまぎらしてゆくようであった。でも習慣の力はえらいもので、ときどき立ち止まっては、一座の仲間が後から来るのを待ちうけるふうであった。それは|かれ《彼》が以前一座《以前’一座》の部長であったとき、座員を前にやり過ごして、いちいち点呼する習慣があったからである。けれどそれもほんの数秒時間のことで、すぐ思い出すと、もう|だれ《誰》も後から来るはずがないと思ったらしく、すごすご後から追い着いて来て、ドルスもゼルビノも来ませんが、それでやはりちがってはいないのですというように親方をながめるのであった。その目つきには感情と|ちえ《知恵》があふれていて、見ていると、こちらも引き入れられるように思うのであった。  こんなことは、ちっとも旅行を|ゆかい《愉快》にするものではなかったが、わたしたちの気をまぎらす種《タネ》にはなった。  行く先ざきの野面《野づら》はま《真》っ白な雪でおおわれて、空には日の光も見えなかった。いつも青白い灰色の空であった。畑《ハタ》をうつ百姓《ヒャクショウ》のかげも見えなかった。馬のいななきも聞こえなければ、牛のうなりも聞こえなかった。ただ食に飢えた|からす《カラス》が、|こずえ《梢》の上で虫を探しあぐねて悲しそうに鳴いていた。村で戸を開けているうちはなくって、どこもしんと静まり返っていた。なにしろ寒気がひどいので、人間は炉のすみにちぢかまっているか、牛小屋や物置|き小屋《小屋》でこそこそ仕事をしていた。  でこぼこな、やたらにすべる道をまっしぐらにわたしたちは進んで行った。  夜は|うまや《厩》や|ひつじ《羊》小屋で|一き《一切》れのパン、晩飯にはじつに少ない|一き《一切》れのパンを食べて|ねむ《眠》った。その|一き《一切》れが昼飯と晩飯をかねていた。  |ひつじ《羊》小屋に明かすことのできるのは、中での楽しい晩であった。ちょうど雌|ひつじ《羊》が子どもに乳を飲ませる時節で、|ひつじ《羊》飼いのうちには、|ひつじ《羊》の乳を|かって《勝手》にしぼって飲むことを許してくれる者もあった。でもわたしたちは|ひつじ《羊》飼いに向かっていきなり、腹が減って死にそうだとも話しえなかったけれど、親方は例のうまい口調でそれとなしに、「この子どもはたいへん|ひつじ《羊》の乳が好きなのですよ。それというのが赤子の|じぶん《時分’》飲みつけていたものですから、それでよけい子どもの|じぶん《時分》が思い出されるとみえます」というように言うのであった。この作り話の効き目がいつもあるわけではなかったが、たまにそれが当たるといい一晩が過ごされた。そうだ、わたしはほんとに|ひつじ《羊》の乳を好《-す》いていた。だからこれがもらえると、そのあくる日はずっと、元気になったように感じた。  パリに近づくにしたがって、|いなか《田舎》道がだんだん美しくなくなるのが、|きみょう《奇妙》に思われた。もう雪も白くはないし、かがやいてもいなかった。わたしはどんなにかパリをふしぎな国のように言い聞かされていたことであろう。そしてなにか|とっぴょうし《’突拍子》もないことが始まると思っていた。それがなんであるか、はっきりとは知らなかった。わたしは黄金の木や、大理石の町や玉でかざったご殿《てん》がそこにもここにも建っていても、ちっとも|おどろ《驚》きはしなかったであろう。  われわれのような|びんぼう《貧乏》人がパリへ行って、いったいなにができるのであろう。わたしはしじゅうそれが気になりながら、それを親方に聞く勇気がなかった。|かれ《彼》はずいぶんしずみきって|ふきげん《不機嫌’》らしかった。  けれどある日とうとう|かれ《彼》のほうからわたしのほうへ近づいて来た。そして|かれ《彼》のわたしを見る目つきで、このごろしじゅう知りたいと思っていたことを知ることができそうだと感じた。  それはある大きな村から遠くない百姓家《ヒャクショウヤ》にとまった朝のことであった。その村はブアシー・セン・レージェという名であることは、往来の標柱でわかった。  さてわたしたちは日の出ごろ宿をたって、別荘の|へい《塀》に沿って、そのブアシー・セン・レージェの村を通りぬけて、とある坂の上にさしかかった。その坂《’坂》のてっぺんから見下ろすと、目の前には果てしもなく大きな町が開《-ひら》けて、いちめん|もうもう《濛々》と立ち上がった黒けむりの中に、所《ところ》どころ建物のかげが見えた。  わたしはいっしょうけんめい目を見張って、|けむり《煙》やかすみの中にぼやけている屋根や鐘楼《/鐘楼》や塔《/塔》などのごたごたした正体を見きわめようと努めていたとき、ちょうど親方がやって来た。ゆるゆると歩いて来ながら、いままでの話のあとを続けるというふうで、 「これからわたしたちの身の上も変わってくるよ。もう四時間もすればパリだから」と言った。 「へえ、ではあすこに遠く見えるのが、パ《/パ》リなんですか」とわたしは問うた。 「うん」  親方がそう言って指さしをしたとき、ちょうど日がかっとさして、ちらりと金色《コンジキ》にかがやく光が目に|はい《入》ったように思った。  まったくそのとおりであった。やがて黄金の木を見つけるであろう。 「わたしたちはパリへ行ったら別れようと思う」と|かれ《彼》はとつぜん言った。  すぐに空はまた暗くなった。黄金の木は見えなくなった。わたしは親方に目を向けた。|かれ《彼》もまたわたしを見た。わたしの青ざめた顔色とふるえるくちびるとは、わたしの心の中の|あらし《嵐》をはっきりと現していた。 「おまえ、心配しているとみえるね。悲しいか。わたしにはわかっているよ」 「別れるんですって。」わたしはやっとつぶやいた。 「ああそうだよ。別れなければね」  こう言った|かれ《彼》の調子がわたしの目に|なみだ《涙》をさそった。もう久しくわたしはこんな優しい|ことば《’言葉》を聞かなかった。 「ああ、あなたはじつにいい人です」とわたしは|さけ《叫》んだ。 「いや、いい子はおまえだよ。じつに親切ないい子だ。人間は一生にしみじみ人の親切を感ずるときがあるものだ。何事もよくいっているときには、|だれ《誰》が自分と|いっしょ《一緒》にいるか、ろくろく考えることなしに世の中を通って行く。けれど物事がちょいちょいうまくいかなくなり、悪いはめには落ちてくるし、とりわけ人間が年を取ってくると、|だれ《誰》かに|たよ《頼》りたくなるものだ。わたしがおまえに|たよ《頼》ると聞いたら、びっくりするかもしれないが、でもそれはまったくだよ。ただおまえがわたしの|ことば《言葉》を聞き、わたしをなぐさめてくれて、|なみだ《涙》を流してくれると、わたしはたまらないほどうれしい。わたしも不幸せな人間であったよ」  わたしはなんと言っていいかわからなかった。わたしはただ|かれ《彼》の手をさすった。 「しかも不幸なことには、わたしたちはお|たが《互》いのあいだがだんだん近づいてこようという|じぶん《時分》になって、別れなければならないのだ」 「でもあなたはわたしをたった一人パリへ捨てて行くのではないでしょう」とわたしはこわごわたずねた。 「いいや、けっしてそんなことはない。おまえはこの大きな町で自分一人なにができよう。わたしはおまえを捨てる権利がないのだ。それは覚えておいで。わたしはあの優しい|おく《奥》さんが、おまえを引き取って自分の子にして育てようというのを、聞かなかった。あの日からわたしはおまえのためにできるだけつくしてやる義務ができたのだ。だがわたしはいまの場合、なにもしてやることができない。それでわたしは別れるのがいちばんいいと考えたわけだ。それもほんのしばらくのあいだだ。わたしたちはこの時候の悪い|二、三《ニサン》か月だけも別れているほうがいいのだ。カピのほかみんないなくなってしまった一座では、パ《/パ》リにいてもなにができよう」  |かれ《彼》の名が出ると、かわいいカピはわたしたちのそばへやって来た。|かれ《彼》は前足を右の耳の所へ上げて、軍隊風《軍隊ふう》の敬礼をして、それを胸に置いて、あたかもわたしたちは|かれ《/彼》の誠実に信頼することができるというようであった。親方は犬の頭に優しく手を当てそれをおさえた。 「そうだよ。おまえは善良な忠実な友だちだ。けれど情けないことにはほかのものがいないでは、もうたいしたことはできないのだ」 「でもわたしのハープは‥‥」 「わたしもおまえのような子どもが二人あれば、うまくゆくのだ。けれど老人がたった一人、男の子を連れたのでは、ろくなことはない。わたしはまだ老いくちたというのでもない。まあいっそめくらになるか、足の骨でも折れてくれればいいのだ。だがまだわたしは人びとの足を止めさせ、目をつけさせるほど情けないありさまにもなってはいない。それにお上の救助を受けるようなはずかしいことはできない。そこでわたしはおまえを冬の終わりまで、ある親方の所へやろうと心を決めた。親方はおまえをほかの子どもたちの仲間に入れてくれるだろう。そこでおまえはハープをひけばいいのだ」 「そうしてあなたは」とわたしはたずねた。 「わたしはパリでは顔を知られている。たびたびこちらへは来ていたことがある。このまえおまえの村へ行ったときも、パ《/パ》リから行ったのだ。大道でハープやヴァイオリンをひくイタリアの子どもらにけいこをしてやる。わたしはただ広告をさえすれば欲しいだけの弟子は集まるのだ。そこでそのあいだにゼルビノとドルスの代わりになる犬を二|ひき《匹》しこもうと思う。それから春になってルミ、また|いっしょ《一緒》に出かけようよ。まあ当分は勇気と忍耐が必要だ。わたしたちはこれまでちょうど|つごう《都合》の悪い、間《あい》の時節ばかり通って来た。春になればだんだん境遇《’境遇》も楽になる。そこでわたしはおまえを連れて、ドイツとイギリスを回るつもりだ。そのうちおまえも大きくなるし、考えも進んでくる。わたしはおまえにたくさんのことを教えて、|りっぱ《立派》な人間にしてやる。わたしはそれをミリガン夫人と|やくそく《約束》した。おまえにイギリス語を教えだしたのもそのわけだ。おまえはフランス語とイタリア語を話すことができる。これはおまえの年ごろの子どもとしてはえらいことだ。おまえは|からだ《体》も|じょうぶ《丈夫》だし、どうしてこの先、運の開《-ひら》ける望みはじゅうぶんある」  たぶん親方がこう言ってわたしのために計画してくれたことは、みんないちばんいいことにちがいなかった。けれどそのときにはわたしはただ二つのことだけしか考えられなかった。  わたしたちは別れなければならない。そしてわたしは|よそ《他所》の親方の所へ行かなければならない。  流浪のあいだにわたしはいくたりかの親方に会ったが、いつもほうぼうからやとい入れて使っている子どもたちをひどく打ったりたたいたりする者が多かった。|かれ《彼》らは|ひじょう《非常》に残酷であった。ひどく口ぎたなかったり、いつも酔っぱらっていた。わたしはそういうおそろしい人間の一人に使われなければならないのであろうか。  それでも《’も》し運よく親切な親方に当たるとしても、これはまた一つの変化であった。初めが養母、それから親方、それからまた一人─《─:》─それはいつでもこうなのであろうか。わたしはいつまでもその人を愛して、その人と|いっしょ《一緒》にいることのできる相手を見つけることができないのであろうか。  だんだんわたしは親方に引きつけられるようになっていた。|かれ《彼》はほとんど父親というものはこんなものかとわたしに思わせた。  でもわたしは|ほんとう《本当》の父親を持つことがないのだ。うちを持つことがないのだ。この広い世界に、いつも独りぼっちなのだ。|だれ《誰》の子でもないのだ。  わたしにも言うことはあった。だが親方は「勇気を持て」とわたしに求めた。わたしはこのうえ|かれ《彼》に苦労を加えることを望まなかった。けれどつらいことであった。かれと別れるのはまったくつらいことであった。  |かれ《彼》も重ねてわたしに泣きつかれるのがうるさいと思ったように、かまわずどんどん歩きだした。わたしは引きずられるようにして後《あと》に続いた。  わたしはその後《あと》について行くと、まもなく橋《’橋》を|わた《渡》って川をこした。その橋はこのうえなく|きたな《汚》くって、|どろ《泥》が深く積もっていた。その上を黒い石炭くずのような雪がかぶさって、そこにふみこむとくるぶしまでずぶりと|はい《入》った。  橋のたもとからは、村続きでせまい宿場があった。村がつきると、また野原になって、野原には|こぎたな《小汚》い家が散らばっていた。往来には荷車がしじゅう行《往》ったり来たりしていた。わたしは、親方の右手に寄りそって歩いた。カピは後からついて来た。  いよいよ野原がおしまいになって、わたしたちは果てしのない長い町の中に|はい《入》った。両側には見わたすかぎり家が建てこんでいた。それもボルドーや、ツールーズや、リヨンなどに比べては、ずっと|びんぼう《貧乏》らしいあわれな小家《コイエ》ばかりであった。  雪がほうぼうにうず高く積み上げられていて、黒く固まったかたまりの上に、灰やくさった野菜や、いろいろのきたない廃物が投げ捨てられてあった。空気はいやな|にお《匂》いにむせるようであった。その中を荷車がごろごろ通って行くが、人びとはそれをうまくかわしかわし歩いていた。 「ここはどこです」とわたしは言った。 「パリだよ」  どこに大理石のうちがあるか。それから黄金の木が。そして|りっぱ《立派》に着かざった人たちが。これが見たい見たいと|あこが《憧》れていたパリであったか。わたしはこんな場所で、親方に別れて‥《‥:》‥カピに別れて、この冬じゅうく《暮》らさなければならなかったのか。 ◇。◇。◇。 【第17章】 【ルールシーヌ街《マチ》の親方】 ◇。◇。◇。  いま、わたしのぐるりを取り巻いているものは、気味《キミ》の悪いものばかりであったが、わたしはいっしょうけんめい好奇|のの《の》目を見張って新《”新》しい周囲を見回した。そのためにいまの身の上にさしせまった|だいじ《大事》のことは忘れるくらいであった。  パリの町の中に深く|はい《入》れば|はい《入》るほど、見るものごとにわたしの幼い夢想とだんだんへだたるようになった。|こお《凍》りついたみぞからは、なんともいえない|くさ《臭》い|いきれ《イキレ》が立っていた。雪と氷が|いっしょ《一緒》にとけて固まっ|たい《た》うす黒い|どろ《泥》が、荷車の輪にはねとばされて、そこらの小店《コミセ》のガラス戸に厚板のようにへばりついていた。確かにパリはボルドーにもおよばなかった。  これまで通って来た町に比べては、だいぶん|りっぱ《立派》な広い町で、いくらかきれいな店《’店》も|なら《並》んだ通《とお》りを長いこと歩いて、親方はついと右へ曲がると、急にみすぼらしい町に出た。高い黒い家の|なら《並》んだまん中に、例のいやな|にお《匂》いのするどぶがあった。たくさんある居酒屋の店先で、|おお《大》ぜいの男女ががやがや言いながら、お酒を飲んでいた。  町の角《カド》には、ルールシーヌ街《マチ》と書いた札が打ってあった。  親方は案内を知っているらしく|せま《/狭》い通《-とお》りにこみ合う往来の人の群れを分けて進んだ。わたしはそのそばに寄りそって歩いた。 「おい、気をつけて、わたしの姿を見失わないように」と親方が注意した。けれど|かれ《彼》の注意は必要がなかった。なぜといって、わたしは|かれ《彼》の後《あと》にくっついて歩いたうえ、おまけに|かれ《彼》の上着の|すそ《裾》をしっかりとおさえていたのであった。  わたしたちは大きな路地をつっ切って、もう一日じゅう日の光がけっしてもれたことのないような、きたならしい、じめじめした一|けん《軒》の家に|はい《入》った。それはこれまでわたしの見たかぎりのいちばんひどい家《’家》であった。 「ガロフォリさんはいるかね」と親方が、ランプの光で、ぼろをドアにぶら下げていた男にたずねた。 「知らねえや。上がって見て来い」とその男は|うな《唸》った。「はしごだんのいちは《ば》んてっぺんだ。それお《”お》まえの鼻っ先に見えてるじゃないか」 「ガロフォリというのは、ルミ、おまえに話した親方だよ。ここが住まいだ。」階段を上がりながら親方はこう言った。その階段は厚い|どろ《泥》がこちこちに積もって、ややもするとすべって足を取られそうになった。街といい、家といい、はしご段といい、いよいよわたしを安心させる性質のものではなかった。いったい今度の親方というのはどんな男であろう。  四階《4階》のてっぺんに上がって、ドアをたたくことなしに親方はすぐ前のドアをおし開けて、穀物倉のような大きな屋根裏の部屋に|はい《入》った。部屋のま《真》ん中はがらんとしていて、四方《シホウ》の|かべ《壁》にぐるりと寝台《ネダイ/》みんなで十二ならべてあった。一度は白《-しろ》かったことのある|かべ《壁》と天井が、いまでは|けむり《煙》とすすとちりでよごれきって、なんとも知れない色をしていた。|かべ《壁》の上には|すみ《炭》で人間の首だの、花や鳥だのが落書きしてあった。 「ガロフォリさん、いるのかい」と親方がたずねた。「あんまり暗くって|だれ《誰》も見えない。ヴィタリスだよ」  |かべ《壁》にかけた|うす暗《薄ぐら》いランプの明かりですかすと、部屋には|だれ《誰》もいないらしかった。すると弱いのろのろした声が、親方の|ことば《言葉》に答えた。 「ガロフォリさんは出かけましたよ。二時間ほどしなければ帰りませんよ」  こう言いながら十三ばかりの子どもが出て来た。わたしはその子の|きみょう《奇妙》な様子に|おどろ《驚》いた。いまでもそのとき見たとおりを目にうかべることができる。いわば胴体がなくって、足からすぐ首が生えているように見えた。その大きな頭は、まるでつり合いもなにもとれていなかった。そんなふうな|からだ《体》つきでけっして|りっぱ《立派》とは言えなかったが、その顔にはしかし|きみょう《奇妙》に人をひきつけるものがあった。悲しみと優しみの表情、そしてそれから‥《‥:》‥|たよ《頼》りなげな表情であった。|かれ《彼》の大きな目は同情をふくんで、相手の目をひきつけずにはおかないのであった。 「確かに二時間すれば帰って来るのかね」と親方がたずねた。 「確かですよ。もう昼飯の時間ですからね。ここで食べるのはガロフォリさんばかりですから」 「そうかい。もしそのまえに帰って来たら、ヴィタリスという人が来て、二時間たつとまた来ると言って帰ったと言ってください」 「かしこまりました」  わたしも親方について行こうとすると、|かれ《/彼》はわたしを止めた。 「おまえはここにおいで」と|かれ《彼》は言った。「少し休んでいるがいい」 「‥《‥:》‥‥‥」 「おお、わたしは帰って来るよ」と|かれ《彼》はわたしの心配そうな顔つきを見て安心させるようにまた言った。わたしは例の服従の習慣から、それを|いや《嫌》とは言えなかった。 「|きみ《君》はイタリア人かい」  親方の重い足音がもうはしご段の上に聞こえなくなったときに、イタリア語で子どもがたずねた。親方と|いっしょ《一緒》にいるあいだにわたしはイタリア語がぽつぽつわかっていたが、まだ自由には使えなかった。 「いいえ」と、わたしはフランス語で答えた。 「おやおや、つまらないなあ。きみがイタリアだといいんだがなあ」と|かれ《彼》は大きな目で見ながら、ほんとにつまらなそうに言った。 「きみはどこ」 「リュッカだよ。きみもそうだと、いろいろ聞きたいと思ったのだ」 「ぼくはフランス人です」 「そう、それはいいね」 「おや、きみはイタリア人よりも、フランス人のほうが好きなの」 「おお、そうじゃない。ぼくがそれはいいねと言ったのは、きみのことを考えて言ったのだ。だってきみがイタリア人だったら、きっとガロフォリ親方に使われにここへや《’や》って来たのだろうから、そうすると気の|どく《毒》だと思ってね」 「じゃあ、あの人悪《人’悪》い人なんですか」  子どもは答えなかった。けれどわたしにあたえた目つきは|ことば《言葉》よりも多くを語った。|かれ《彼》はこの話を続けるのを好まないように炉《/炉》のほうへ行った。炉の|たな《棚》の上に大きな|なべ《鍋》があった。わたしは火に当たろうと思ってそばへ寄ると、この|なべ《鍋》がなんだか変わった形をしているのに気がついた。|なべ《鍋》の|ふた《蓋》にはま《真》っす《直》ぐな管がつき出して、蒸気がぬけるようになっていた。その|ふた《蓋》はちょうつがいになっていて、一方には錠がかかっていた。 「なぜ錠ががかっているの」と、わたしはふしぎそうにたずねた。 「ぼくがスープを飲まないようにさ。ぼくは|なべ《鍋》の番を言いつかっているけれど、親方はぼくを信用しないのだ」  わたしはほほえまずには《は’》いられなかった。  すると|かれ《彼》は悲しそうに言った。 「きみは笑うね。ぼくが食いしんぼだと思うからだろう。でもきっときみがぼくの境遇だったら、ぼくと同じことをしたかもしれないよ。ぼくは|ぶた《豚》ではないけれど、腹が減っている。だから|なべ《鍋》の口からスープの|にお《匂》いがたてば、ますます腹が減ってくるのだ」 「ガロフォリさんはきみにじゅうぶん食べるものをくれないの」 「ああ、それが罰なんだ‥」 「まあ‥‥」 「そうだ。それにこれだけのことは話してもいい」と少年は続けた。「きみももしあの人を親方に持つんだったら、心得になることだからね。ぼくの名前はマチアと言うよ。ガロフォリはぼくのおじさんだ。ぼくの母さんはいるが、六人の子どもをかかえているし、たいへん|びんぼう《貧乏》でく《暮》らしがたたないでいる。ガロフォリが去年来《去年’来》たとき、ぼくを|いっしょ《一緒》に連れて帰ったのさ。いったいぼくよりはつぎの弟のレオナルドを連れて行きたかったのだ。レオナルドはぼくとちがって器量がいいのだからね。お金をもうけるには不器量ではだめだよ。ぶたれるか、ひどく悪口《悪くチ》を言われるだけだ。でもぼくの母さんはレオナルドが好きで手ばなさないから、やはりぼくが来ることになったのだ。ああ、うちを|はな《離》れて、親兄弟や、小ちゃな妹に別れるのはどんなにつらかったろう。  ガロフォリ親方はこのうちへ子どもをたくさん置いてあって、中には|えんとつそうじ《煙突掃除》もあれば、紙|くず《屑》拾いもある。働くだけの力のない者は町で歌を歌ったりこ《/こ》じきをしている。ガロフォリはぼくに二|ひき《匹’》小さな白い|はつかねずみ《ハツカネズミ》をくれて、それを往来で見世物に出させて、毎晩三十《毎晩サンジュッ》スー持って帰って来《-こ》なければならないと言いわたした。三十《サンジュッ》スーに一スーでも不足があれば、不足だけ|むち《鞭》でぶたれるのだ。きみ、三十《サンジュッ》スーもうけるにはずいぶん骨が折れる。けれどぶたれるのはもっとつらい。とりわけガロフォリが自分で手を下ろすときはよけい痛いのだ。それでぼくは金《’かね》を取るためいろんなことをしてみるが、よく不足なことがあった。たいていほかの子どもたちが夜帰って来て、決められた金《-かね》を持って来たとき、ぼくは自分の分に足りないとガ《/ガ》ロフォリは気|ちが《違》いのように|おこ《怒》った。もう一人仲間《ひとり’仲間》にやはり|はつかねずみ《ハツカネズミ》の見世物を出す子どもがある。このほうは四十《ヨンジュッ》スーと決められているのだが、毎晩きっとそれだけの金《-かね》を持って帰る。そんなときぼくはその子がどんなふうにして金《-かね》をもうけるか見たいと思って、|いっしょ《一緒》について行った‥‥」  |かれ《彼》は|ことば《言葉》を切った。 「それで」とわたしはたずねた。 「おお、見物の|おく《奥》さんた《’た》ちは決まってこう言うのだ。きれいな子のほうへおやりよ。みっともない子どものほうでなく、と。そのみっともない子どもというのはむろんぼくだった。そこでぼくはもうその子とは行かないことにした。ぶたれるのは痛いけれど、そんなことをし《”し》かも|おお《大》ぜいの人の前で言われるのはもっとつらい。きみは|だれ《誰》からも、おまえはみにくいと言われたことがないから知るまい。だがぼくは‥《‥:》‥さてとうとうガロフォリは、ぶってもたたいてもぼくには効き目がないのをみて、ほかの|しかた《仕方》を考えた。それは毎晩ぼくの晩飯の|いも《芋》を減らすのだ。|きさま《貴様》の皮はいくらひっぱたいても平気で固いが、胃ぶくろはひもじいだろうと言った。それはつ《’つ》らいが、でもぼくのねずみの見世物を見ている往来の人に向かって、どうか一スーください、くださらないと、今夜は《は’》お|いも《芋》が食べられませんとは言われない。人はそんなことを言ったって、なにもくれるものではないよ」 「じゃあ、どうするとくれるの」 「それはきみ、|だれ《誰》だって自分の心を満足させるためにくれるのだ。なんでもなく人に物をくれるものではないよ。その子どもがかわいらしくって、きれいであるか、あるいはその人たちの亡くした子どものことを思い出させるとかいうならくれる。子どもはおなかがすいているからかわいそうだと思って、くれる者はない。ああ、こんなことで長いあいだにぼくは世の中の人の心持ちがわかってきた。ねえ、きょうは寒いじゃないか」 「ああ、ひどい寒さだね」 「ぼくはこじきをしてから、だんだん太れないで青くなった」と少年は続いて言った。「ぼくはずいぶん青い顔をしている。それでぼくはたびたび人が、あの|びんぼう《貧乏》人の子どもは|いま《今》に飢えて死ぬだろうと言っているのを聞いた。だが苦しそうな顔つきは、楽しそうな顔つきではできないことをしてくれる。その代わり|ひじょう《非常》にひもじい目をこらえなければならない。とにかくおかげでだんだんぼくを気の|どく《毒》がる人が近所にできた。みんな、ぼくのもらいの少ないときにはパンやスープをめぐんでくれる。これはぼくのいちばんうれしいときで、ガロフォリにぶたれもしないし、晩飯に|いも《芋》がもらえなくっても、どこかでなにか昼飯にもらって食べて来るから苦しいこともなかった。けれどある日ガロフォリが、ぼくが水菓子屋にもらった一|さら《皿》のスープを飲んでいるところを見つけると、なぜぼくがうちで晩飯をもらわずに平気で出て行くか、そのわけを初めて知った。それからはぼくにうちで留守番させて、このスープの見張りを言いつけた。毎朝出《まい朝’出》て行くまえに肉と野菜を|なべ《鍋》に入れて、|ふた《蓋》に錠をかってしまう。そしてぼくのすることはそのに《煮》えた《立》つのを見るだけだ。ぼくはスープの|にお《匂》いをかいでいる。だがそれだけだ。スープの|にお《匂》いでは腹は張らない。どうしてよけい空腹になる。ぼくはずいぶん青いかい。ぼくはもう外へ出ないから、みんながそう言うのを聞かないし、ここには鏡もないのだからわからない」 「|きみ《君》はほかの人よりかよけい青いとは思えないよ」とわたしは言った。 「ああ、|きみ《君》はぼくを心配させまいと思ってそう言うのだ。けれどぼくはもっともっと青くなって、早く病気になるほうがうれしいのだ。ぼくは|ひじょう《非常》に悪くなりたいのだ」  わたしはあきれて、|かれ《/彼》の顔をながめた。 「|きみ《君》はわからないのだ」と|かれ《彼》はあわれむような微笑をふくんで言った。「ひどく加減が悪くなればみんなが世話をしてくれる。さもなければ死なせてくれる。ぼくを死なせてくれればなにもかもおしまいだ。もう腹を減らすこともないし、ぶたれることもないだろう。それにぼくたちは死ねば天にのぼって神様と|いっしょ《一緒》に住むことになるのだ。そうだ、そうなればぼくは天にのぼって、上から母さんや、クリスチーナを見下ろすことができる。神様に|たの《頼》んで妹を不幸せにしないようにしてもらうこともできる。だからぼくは病院へやられればうれしいと思うよ」  病院──というとわたしはむやみにおそろしい所だと思いこんでいた。わたしは|いなか《田舎》道を旅をして来たあいだ、どんなに気分が悪く思うときでも、病院へやられるかもしれないと思い出すといつでも力が出て、無理にも歩いたものだった。マチアのこういう|ことば《言葉》にわたしは|おどろ《驚》かずには《は’》いられなかった。 「ぼくはいまではずいぶん|からだ《体》の具合が悪くなっている。だがまだガロフォリの|じゃま《邪魔》になるほど悪くはなっていない」と、|かれ《/彼》は弱い、ひきずるような声で話を続けた。「でもぼくはだんだん弱くなってきたよ。ありがたいことにガロフォリはまるっきりぶつことをやめずにいる。八日まえにもぼくの頭をうんとひどくぶった。おかげでこのとおりは《腫》れ上がった。見たまえ、この大きなこぶを。あいつはきのうぼくに、これはできものだと言った。そう言ったあの人の様子はなんだか|まじめ《真面目》だった。おそろしく痛むのだ。夜になるとひどく目がくらんで|まくら《/枕》に頭をつけるとぼくは|うな《唸》ったり泣いたりする。それがほかの子どもの|じゃま《邪魔》になるのをガロフォリはひどく|きら《嫌》っている。だから二日か三日のうちにいよいよあの人もぼくを病院へやることに決めるだろうと思う。ぼくは先《セン》に慈恵病院にいたことがある。お医者さんは|かく《隠》しに安いお菓子をいつも入れているし、看護婦の尼さんた《’た》ちがそれは優しく話をしてくれるよ。こう言うんだ。ぼうや、舌をお出しとか、いい子だからねとかな《/な》んでもなにかしたいたんびに、『ああ、おしよ』と言ってくれる。それがうちにいる母さんと同じ調子なんだ。ぼくはどうも今度は病院へ行くほど悪くなっていると思う」  |かれ《彼》はそばへ寄って来て、大きな目でじっとわたしを見た。わたしは|かれ《彼》の前に真実をかくす理由はなかったが、しかし|かれ《彼》の大きなぎょろぎょろした目や、くぼんだ|ほお《ホオ》や、血の気のないくちびるがどんなにおそろしく見えるかということを、|かれ《/彼》に語ることを好まなかった。 「きみは病院へ行かなければならない。ずいぶん悪いと思うよ」 「いよいよかね」  |かれ《彼》は足を引きずりながらのろのろ食卓のほうへ行って、それをふき始めた。 「ガロフォリがまもなく帰って来る」と|かれ《彼》は言った。「ぼくたちはもう話をしてはいけない。もうこれだけぶたれているのだ。このうえよけいなぐられるのは損だからね。なにしろこのごろいただくげんこは先《セン》よりもずっと効くからね。人間はなんでも慣れっこになるなんて言うが、それはお人よしの言うことだよ」  びっこひきひき|かれ《/彼》は食卓の回りを回って、|さら《皿》や|さじ《匙を》ならべた。勘定すると二十枚|さら《皿》があった。そうするとガロフォリは二十人の子どもを使っているのだ。でも寝台《ネダイ》は十二しか見えなかったから、|かれ《/彼》らのある者は一つの寝台《ネダイ》に二人|ねむ《’眠》るのだ。それにとにかくなんという寝台《ネダイ》であろう。なんというかけ物であろう。かけ物の毛布は|うまや《厩》から、もう古くなって馬が着ても暖かくなくなったようなしろものを、持って来たにちがいない。 「どこでもこんなものかしら」と、わたしはあきれてたずねた。 「なにがさ」 「子どもを置く所は、どこでもこんなかしら」 「そりゃ知らないがね、きみはここへは来ないほうがいいよ」と、《、/》少年は言った。「どこかほかへ行くようにしたまえ」 「どこへ」 「ぼくは知らない。どこでもかまわない。ここよりはいいからねえ」  どこへといって、どこへわたしは行こう。──ぼんやり当てもなしに考えこんでいると、ドアがあいて、一人の子どもが部屋の中に|はい《入》って来た。|かれ《彼》は小わきにヴァイオリンをかかえて、手に大きな古材木《フル材木》を持っていた。わたしはガロフォリの炉にたかれている古材木《フル材木》の出所《出どころ》と値段もわかったように思った。 「その木をくれよ」とマチアは子どものほうへ寄って行った。けれど子どもは材木を後ろに|かく《隠》した。 「ううん」と|かれ《彼》は言った。 「|まき《薪》にするんだからおくれよ。するとスープがおいしくに《煮》えるから」 「きみはぼくがこれをスープをに《煮》るために持って来たと思うか。ぼくは|きょう《今日》たった三十六スーしかもらえなかった。だからこの材木をぶたれないおまじないにするのだ。これで四《4》スーの不足の代わりになるだろう」 「やっぱりやられるよ。なんの足しになるものか。順ぐりにやられるんだ」  マチアはそう機械的に言って、あたかもこの子どもも罰せられると思うのが|かれ《彼》に満足をあたえるもののようであった。わたしは|かれ《彼》の優しい悲《/悲》しそうな目のうちに、険しい目つきの表れたのを見て|おどろ《驚》いた。|だれ《誰》でも悪い人間と|いっしょ《一緒》にいると、いつかそれに似てくるということは、わたしがのちに知ったことであった。  一人一人子どもたちは帰って来た。てんでんに|はい《入》って来ると、ヴァイオリン、《、/》ハープ、|ふえ《笛》など自分の楽器を寝台《ネダイ》の上の|くぎ《釘》にかけた。音楽師でなく、ただ慣らした|けもの《獣》の見世物をやる者は、小ねずみや|ぶたねずみ《/ブタネズミ》を|かご《籠》の中に入れた。  それから重い足音がはしご段にひびいて、ねずみ色の外|とう《套》を着た小男が|はい《入》って来た。これがガロフォリであった。  |はい《入》って来る|しゅんかん《瞬間》、|かれ《/彼》はわたしに目をすえて、それは|いや《嫌》な目つきでにらめた。わたしはぞっとした。 「この子どもはなんだ」と、|かれ《/彼》は言った。  マチアはさっそくていねいにヴィタリス親方の口上を|かれ《彼》に伝えた。 「ああ、じゃあヴィタリスが来たのか」と|かれ《彼》が言った。「なんの用だろう」 「わたしはぞんじません」とマチアが答えた。 「|おれ《俺》は|きさま《貴様》に言っているのではない。この子どもに話しているのだ」 「親方がいずれ|もど《戻》って来て、用事を自分で申し上げるでしょう」と、わたしは答えた。 「|ははあ《ハハア》、この|こぞう《小僧》は|ことば《言葉》の値打ちを知っている。要らぬことは言わぬ。おまえはイタリア人ではないな」 「ええ、わたしはフランス人です」  ガロフォリが部屋に|はい《入》って来た|しゅんかん《瞬間》、二人の子どもがてんでんに|かれ《彼》の両わきに席をしめた。そして|かれ《彼》の|ことば《言葉》の終わるのを待っていた。やがて一人がそのフェルト帽をとって、ていねいに寝台《ネダイ》の上に置くと、もう一人は|いす《椅子》を持ち出して来た。|かれ《彼》らはこれを同じようなもったいらしさと、行儀よさをもって、寺小姓が和尚さんにかしずくようにしていた。ガロフォリが|こし《腰》をかけると、もう一人の子どもが|たばこ《煙草》をつ《詰》めたパイプを持って来た。すると第四《第4》の子どもがマッチに火をつけてさ《差》し出した。 「|いおうくさ《硫黄臭》いやい。がきめ」と|かれ《彼》は|さけ《叫》んで、マッチを炉の中に投げこんだ。  この罪人《ザイニ-ン》はあわてて過失をつぐなうために、もう一本のマッチをともして、しばらく燃やしてから主人にそれをささげた。けれどもガロフォリはそれを受け取ろうとはしなかった。 「だめだ。とんちきめ」と|かれ《彼》は言って、あらっぽく子どもをつきのけた。それから|かれ《彼》はもう一人の子どものほうを向いて、おせじ笑いをしながら言った。 「リカルド、おまえはいい子だ。マッチをすっておくれ」  この「いい子」はあわてて言いつけどおりにした。 「さて」とガロフォリは具合よく|いす《椅子》に納まって、パ《/パ》イプをふかしながら言った。 「お|こぞう《小僧》さんた《’た》ち、これから仕事だ。マチア、帳面だ」  こう言われるまでもなく、子どもたちはガロフォリの|まゆ《眉》の動き方一《方ひと》つにも心を配っていた。そのうえにガロフォリがわざわざ口《’口》に出して用向きを言いつけてくれるのは、|たいへん《大変》な好意であった。  ガロフォリはマチアの持って来た|あか《垢》じみた小さな帳面には目もくれなかった。初めの|いおうくさ《硫黄臭》いマッチをつけた子どもに、来いと合図をした。 「おまえにはきのう一スー貸してある。それをきょう持って来る|やくそく《約束》だったが、いくら持って来たな」  子どもは赤くなって、当惑を顔に表して、しばらくもじもじしていた。 「一《1》スー足りません」と|かれ《彼》はやっと言った。 「|はあ《ハア》、おまえは一スー足りないのかね。それでいいのだね」 「きのうの一スーではありません。|きょう《今日》一スー足りないのです」 「それで二スーになる。|おれ《俺》は|きさま《貴様》のようなやつを見たことがない」 「わたしが悪いんではないんです」 「言い訳をしなさんな。規則は知っているだろう。着物をぬぎなさい。きのうの分が二つ、きょうの分が二つ。合わせて四《4》つ。それから横着の罰に夕食の|いも《芋》はやらない。リカルド、いい子や。おまえはいい子だから、気晴らしをさせてやろう。|むち《鞭》をお取り」  二本目のマッチをつけた子どものリカルドが、|かべ《壁》から大きな結び目のある皮ひもの二本ついた、柄《エ》の短い|むち《鞭》を下ろした。そのあいだに二スー足りない子どもは上着のボタンをはずしていた。やがてシャツまでぬいで|からだ《体》を|こし《腰》まで現した。 「ちょっと待て」とガロフォリがいまいましい微笑を見せて言った。 「|たぶん《多分》|きさま《貴様》だけではあるまい。仲間のあるということはいつでも|ゆかい《愉快》なものだし、リカルドにたびたび手数をかけずにすむ」  子どもたちは親方の前に身動きもせずに立っていたが、|かれ《/彼》の残酷な|じょうだん《冗談》を開《聞》いて、みんな無理に笑わされた。 「いちばん笑ったやつはいちばん足りないやつだ」とガロフォリが言った。「きっとそれにちがいない。いちばん大きな声で笑ったのは|だれ《誰》だ」  みんなは例の大きな材木を持って、ま《真》っ先に帰って来た子どもを指さした。 「こら、|きさま《貴様》はいくら足りない」とガロフォリがせめた。 「わたしのせいではありません」 「わたしのせいではありませんなんかと言うやつは、一つおまけにぶってやろう。いくら足りないのだ」 「わたしは大きな材木を一本持《一本’持》って来ました。|りっぱ《立派》な材木です」 「それもなにかになる。だがパン屋へ行ってその棒でパンにかえてもらって来い。いくらにかえてくれるか。いくら足りないのだ。言ってみろ」 「わたしは三十六スー持って来ました」 「この悪者め、四《4》スー足りないぞ。それでいて、そんなしゃあしゃあした面《ツラ》をして、おれの前につっ立っている。シャツをぬげ。リカルドや、だんだんおもしろくなるよ」 「でも材木は」と子どもがさけんだ。 「晩飯の代わりに|きさま《貴様》にやるわ」  この残酷な|じょうだん《冗談》が罰せられないはずの子どもたちみんなを笑わせた。それからほかの子どもたちも一人一人勘定《一人一人’勘定》をすました。リカルドが|むち《鞭》を手に持って立っていると、とうとう五人までの犠牲者が一列に|かれ《彼》の前にならべられることになった。 「なあ、リカルド」とガロフォリが言った。「|おれ《俺》はこんなところを見るといつも気分が悪くなるから、見ているのは|いや《嫌》だ。だが音だけは聞ける。その音でおまえの|うで《腕》の力を聞き分けることができる。いっしょうけんめいにやれよ。みんな|きさま《貴様》たちのパンのために働くのだ」  |かれ《彼》は炉のほうへ|からだ《体》を向けた。それはあたかも|かれ《彼》がこういう懲罰を見ているにしのびないというようであった。  わたしは一人すみっこに立って、いきどおりとおそれにふるえていた。これがわたしの親方になろうとする男なのである。わたしもこの男に言いつけられた物を持って帰らなければ、やはりリカルドに背中を出さねばならなかった。ああ、わたしはマチアがあれほど平気で死ぬことを口にしているわけがわかった。  ぴしり、第一の|むち《鞭》がふるわれて、膚《肌》に当たったとき、もう|なみだ《涙》がわたしの目にあふれ出した。わたしのいることは忘れられていたと思っていたけれど、それは考えちがいで、ガロフォリは目のおくからわたしを見ていた。 「人情のある子どもがいる」と|かれ《彼》はわたしを指さした。「あの子は|きさま《貴様》らのような悪党ではない。|きさま《貴様》らは仲間が苦しんでいるところを見て笑っている。この小さな仲間を手本にしろ」  わたしは頭のてっぺんから足のつま先までふるえた。ああ、|かれ《/彼》らの仲間か‥‥。  第二の|むち《鞭》をくって犠牲はひいひい泣き声を立てた。三度目には引きさかれるような|さけ《叫》び声を上げた。ガロフォリが手を上げた。リカルドはふ《振》り上げた|むち《鞭》をひかえた。わたしはガロフォリがさすがに情けを見せるのだと思ったが、そうではなかった。 「|きさま《貴様》らの泣き声を聞くのはおれにはどのくらいつらいと思う」と|かれ《彼》は|ねこ《猫》なで声で犠牲に向かって言いかけた。「|むち《鞭》が|きさま《貴様》らの皮をさくたんびに|さけ《叫》び声がおれのはらわたをつき破るのだ。ちっとはおれの苦しい心も察して、気の|どく《毒》に思うがいい。だからこれから泣き声を立てるたんびによけいに一つ|むち《鞭》をくれることにするからそう思え。これも|きさま《貴様》らが悪いのだ。|きさま《貴様》らがおれに対してちっとでも情けや恩を知っているなら、だまっていろ。さあ、やれ、リカルド」  リカルドが|むち《鞭》をふり上げた。皮ひもは犠牲の背中でくるくる回った。 「おっかあ。おっかあ」とその子どもがさけんだ。  ありがたい。わたしはこのうえこのおそろしい呵責を見ずにすんだ。なぜといってこの|しゅんかん《瞬間》ドアがあいて、ヴィタリス親方が|はい《入》って来たからである。  人目《一目》で|かれ《彼》はなにもかも了解した。|かれ《彼》ははしご段を上がりながら|さけ《叫》び声を聞いたので、すぐリカルドのそばにかけ寄って、|むち《鞭》を手からうばった。それからガロフォリのほうへくるりと向いて、|うで《腕》組みをしたまま|かれ《彼》の前につっ立った。  これはいかにもとっさのあいだに起こったので、しばらくはガロフォリもぽかんとしていた。けれどもすぐ気を取り直しておだやかに言った。 「どうもおそろしいようじゃないか。なにね、あの子どもは気がちがっているのだ」 「はずかしくはないか。」ヴィタリスがさけんだ。 「それ見ろ、わたしもそういうことだ」とガロフォリがつぶやいた。 「よせ」とヴィタリス親方が命令した。「とぼけるなよ。おまえのことだ。子どもではない。こんな手向かいのできないかわいそう|ない《な》子どもらをいじめるというのは、なんという|ひきょう《卑怯》なやり方だ」 「この老いぼれめ。よけいな世話を焼くな」とガロフォリが急に調子を変えてさけんだ。 「警察ものだぞ」とヴィタリスが反抗した。 「なに、|きさま《貴様》、警察でおどすのか」とガロフォリがさけんだ。 「そうだ」と、わたしの親方は乱暴な相手の気勢にはちっともひるまないで答えた。 「|ははあ《ハハア》」と|かれ《彼》はあざ笑った。「そんなふうにおまえさんは言うのだな。よしよし、おれにも言うことがあるぞ。おまえのしたことはなにも警察に関係はないが、おまえさんに用のあるという人が世間にはあるのだ。おれがそれを言えば、おれが一度名前《一度’名前》を言えば‥《‥:》‥はてはずかしがって頭をすぼめるのは|だれ《誰》だろうなあ。世間が知りたがっているその名前を言い回っただけでも、|はじ《恥》になる人がどこかにいるぞ」  親方はだまっていた。|はじ《恥》だ。親方の|はじ《恥》だ。なんだろう。わたしはびっくりした。けれど考える|ひま《暇》のないうちに、|かれ《/彼》はわたしの手を引っ張った。 「さあ、行こう、ルミ」と|かれ《彼》は言った、そうして戸口までぐんぐんわ《’わ》たしを引っ張った。 「まあ、いいやな。」ガロフォリが今度は笑いながらさけんだ。「きみ、話があって来たんだろう」 「おまえなんぞに言うことはなにもない」  それなり、もうひと言も言わずに、わたしたちははしご段を下りた。|かれ《彼》はまだしっかりわたしの手をおさえていた。なんというほっとした心持ちで、わたしは|かれ《彼》について行ったろう。わたしは地獄の口からのがれた。わたしが思いどおりにやれば、親方の首に両手をかけて、強く強くだきしめたところであったろう。 (つづく) ◇。◇。◇。 【底本:「家なき子(上《じょう》)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂】 【1978(昭和53)年1月30日発行】 【※《◇》底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。】 【入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)】 【校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)】 【2004年4月29日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。