◇。◇。◇。 【家なき子(じょう)】 【マロ】 【楠山正雄訳】 ◇。◇。◇。 【第1章】 【生い立ち】 ◇。◇。◇。  わたしは捨て子だった。  でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが泣けばきっと一人の女が来て、優しくだきしめてくれたからだ。  その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっして寝床にははいらなかった。冬の嵐がだんごのような雪をふきつけて窓ガラスを白くする時分になると、この女の人は両手のあいだにわたしの足をおさえて、/歌を歌いながら暖めてくれた。その歌のフシも文句も、いまに忘れずにいる。  わたしが外へ出て雌牛の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを探しに来て、麻の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。  時々わたしは遊び仲間とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、優しい言葉でなぐさめてくれるか、わたしの肩をもってくれた。  それやこれやで、わたしに物を言う調子、わたしを見る目つき、あまやかしてくれて、しかるにしても優しくしかる様子から見て、この女の人は本当の母親にちがいないと思っていた。  ところでそれがひょんな事情から、この女の人が、じつは養い親でしかなかったということがわかったのだ。  わたしの村、もっと正しく言えばわたしの育てられた村は─:─というのが、わたしには父親や母親という者がないと同様に、自分の生まれた村というものがなかったのだから─:─で、とにかくわたしが子どもの時代を過ごした村は、シャヴァノンという村で、それはフランスの中部地方でもいちばん貧乏な村の一つであった。  なにしろ土地がいたってやせていて、どうにもしようのない場所であった。どこを歩いてみても、すきくわの入ったタハタというものは少なくて、見わたすかぎりヒースやエニシダのほか、ろくにしげるもののない草原で、そのあれ地を行きつくすと、がさがさした砂地の高原で:、風にふきたわめられたやせ木立が、ところどころひょろひょろと、いじけてよじくれた枝をのばしているありさまだった。  そんなわけで、木らしい木を見ようとすると、丘を見捨てて谷間へと-おりて行かねばならぬ。その谷川にのぞんだ川べりにはちょっとした牧草もあり、空をつくような樫の木や、ごつごつしたくりの木がしげっていた。  その谷川の早い瀬の末が/ロアール川の支流の一つへ流れこんで行く、その岸の小さな家で、わたしは子どもの時代を送った。  八つの年まで、わたしはこの家で男の姿というものを見なかった。そのくせ、『おっかあ』/と呼んでいた人はやもめではなかった。夫というのは石工であったが、この辺のたいていの労働者と同様/パリへ仕事に行っていて、わたしが物心ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。ただおりふしこの村へ帰って来る仲間の者に、便りをことづけては来た。 「バルブレンのおっかあ、こっちのも達者だよ。相変わらず稼いでいる、よろしく言ってくれと言って、このお金を預けてよこした。数えてみてください」  これだけのことであった。おっかあも、それだけの便りで満足していた。ご亭主が達者でいる、仕事もある、お金がもうかる─:─と、それだけ聞いて、満足していた。  このご亭主のバルブレンがいつまでもパリへ行っているというので、おかみさんと仲が悪いのだと思ってはならない。こうやって留守にしているのは、なにも気まずいことがあるためではない。パリに滞在しているのは仕事に引き留められているためで、やがて年を取ればまた村へ帰って来て、たんまり稼いで来たお金で、おかみさんと気楽にくらすつもりであった。  十一月のある日のこと、もう日のくれに、見知らない一人の男がかきねの前に立ち止まった。そのときわたしは、/門口でそだを折っていた。ナカにはいろうともしないで、かきねの上からぬっと頭を出してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。  わたしは、「おはいんなさい」と言った。  男はカドの戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。  こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を張ったように泥をかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。  話し声を聞いて、バルブレンのおっかあは駆けだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。 「パリからことづかって来たが」と男は言った。  それはごくなんでもない言葉だったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳にたこのできるほど聞き慣れたものだったが、どうもそれが『ご亭主は達者でいるよ。相変わらず稼いでいるよ』という、いつもの言葉とは、なんだかちがっていた。 「おやおや。ジェロームがどうか-しましたね」  と、おっかあは両手を揉みながら声を立てた。 「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご亭主は怪我をしてね。だが気を落としなさんなよ。怪我は怪我だが命には別状がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院に入っている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度’国へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれと頼まれたのさ。ところで、ゆっくりしては’いられない。まだこれから三里(約十二キロ)も歩かなくてはならないし、もう遅くもなっているからね」  でもおっかあは、もっとくわしい話が聞きたいので、ぜひ夕飯を食べて行くようにと言って頼んだ。道は悪いし、森の中にはオオカミが出るといううわさもある。あしたの朝’立つことにしたほうがいい。  男は承知してくれた。そこで炉のすみにすわりこんで、腹いっぱい食べながら、事件のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大怪我をした。そのくせ、そこは誰も行く用事のない場所であったという証言があったので、建物の請負人は一文の賠償金もしはらわないというのである。 「ご亭主も気の毒な。運が悪かったのよ」  と、男は言った。 「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種に、しこたませしめるずるい連中もあるのだが、おまえさんのご亭主ときては、イチモンにもならないのだからな」 「まったく運が悪い」と男はこの言葉をくり返しながら、泥でつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。 「なんでもこれは、請負人を相手どって裁判所へ持ち出さなければうそだと、俺は勧めておいたよ」  男は話のしまいに、こう言った。 「まあ。でも裁判なんということは、ずいぶんお金の要ることでしょう」 「そうだよ。だが勝てばいいさ」  バルブレンのおっかあは、/パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶん大変なことだった。道は遠いし、お金がかかる。  そのあくる朝、わたしは村へ行って坊さんに相談した。坊さんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それで坊さんが代筆をして、バルブレンのはいっている慈恵病院の司祭にあてて、手紙を出すことにした。その返事はニサンニチして着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主が災難を受けた相手にかけ合うについて、入費のお金を送ってもらいたいというのであった。  それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと’かねを送れ-かねを送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう-かねがないなら、雌牛のルセットを売っても、ぜひ-かねをこしらえろと言って来た。  田舎でヒャクショウの仲間に入ってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこの言葉に、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。ヒャクショウにとって、雌牛のありがたさは、ひと通りのものではなかった。いかほど貧乏でも、家内が多くても、ともかくも雌牛が飼ってあるあいだは、飢えて死ぬことはないはずだ。  それにうちの雌牛は、なにより仲よしのお友だちであった。わたしたちが話をしたり、その背中をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、優しい目でじっと見た。つまりわたしたちはお互いに愛し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。  けれども今はその雌牛とも、わたしたちは別れなければならなかった。『雌牛を売る』それでなければ、もうご亭主を満足させることはできなかった。  そこでバクロウ(馬売買の商人)がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。乳も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気の毒だから、引き取ってやるのだというのであった。  かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。 「後ろへ回って、たたき出せ」とバクロウはわたしに言って、首の回りにかけていた鞭をわたした。 「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあは叫んだ。  それでルセットの端綱(馬の口につけて引くつな)をつかまえながら、優しく言った。 「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」  ルセットはそれをこばむことができなかった。それで往来へ出ると、バクロウはルセットを車の後ろにしばりつけた。馬がとことこ駆けだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。  わたしたちはうちの中に入ったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。  もう乳もなければバターもない。朝は一切れのパン、晩は塩をつけたじゃがいものごちそうであった。  雌牛を売ってからシゴニチすると、謝肉祭が来た。一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら焼きと揚げりんごのごちそうをこしらえてくれた。それでたくさん’わたしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。  けれどそのときは揚げ物の衣がパン粉をとかす乳や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。  もうルセットもいない、乳もない、バターもない、これでは、謝肉祭もなにもないと、わたしはつまらなそうに独り言を言った。  ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を借りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳をいっぱいもらい、もう一軒からバターをひとかたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土鍋にパン粉をあけていた。 「おや、/パン粉」とわたしはそばへ寄って言った。 「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご覧、ルミ、いい香りだろう」  わたしはこのパン粉をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気がなかった。それにきょうが謝肉祭だということを思い出させて、おっかあを不愉快にさせたくなかった。 「パン粉でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。 「パンさ」 「それからほかには」 「パンがゆ」 「それからまだあるだろう」 「だって‥:‥ぼく知らないや」 「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが謝肉祭で、どら焼きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」 「だって、おっかあ」 「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。この箱の中をご覧」  わたしはさっそく蓋をあけると、乳とバターと卵と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。  わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵を粉に混ぜて衣をこしらえ、乳を少しずつ混ぜていた。  コロモがすっかり練れると、土鍋のまま、アツバイの上にのせた。それでどら焼きが焼け、揚げりんごが揚がるまでには、晩食のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、お皿にかけた布を取ってみた。 「おまえ、コロモに風邪をひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」と彼女は叫んだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。卵と乳がプンとうまそうな匂いを立てた。 「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」  とうとう明かりがついた。 「薪を炉の中へお入れ」  彼女がこの言葉を二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこの言葉の出るのを今か今かと待ちかまえていたのであった。さっそく赤い炎がどんどん炉の中に燃え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。  そのときおっかあは、揚げ鍋を釘から外して火の上にのせた。 「バターをお出し」  ナイフの先で彼女はバターをくるみくらいの大きさにひと切れ切って鍋の中へ-いれると、じりじりとけ出してあわを立てた。  もうしばらくこの匂いも嗅がなかった。まあ、そのバターのいい匂いといったら。  わたしがそのじりじりこげるあまい音楽に夢中で聞きほれていたとき、裏庭でこつこつ人の歩く足音がした。  せっかくのときにだれが邪魔に来たのだろう。きっとおとなりから薪をもらいに来たのだ。  わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木の匙をはちに入れて、コロモを一匙、お鍋の中にあけていたのだもの。  すると誰か杖でことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。 「どなただね」とおっかあは’ふり向きもしないでたずねた。  一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きな杖を片わきについているのを見つけた。 「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。 「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげ鍋を下に置いてさけんだ。 「まあジェローム、おまえさんだったの」  そのときおっかあはわたしの腕を引っ張って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ連れて行った。 「おまえのとっつぁんだよ」 ◇。◇。◇。 【第2章】 【ヨウフ】 ◇。◇。◇。  おっかあはご亭主にだきついた。わたしもそのあとから同じことをしようとすると、/彼は杖をつき出してわたしを止めた。 「なんだ、こいつは‥:‥おめえいまなんとか言ったっけな」 「ええ、そう、でも‥:‥本当はそうではないけれど‥:‥そのわけは‥‥」 「ふん、本当なものか。本当なものか」  彼は杖をふり上げたままわたしのほうへ向かって来た。思わずわたしは後じさりをした。  なにをわたしがしたろう。なんの罪があるというのだ。わたしはただだきつこうとしたのだ。  わたしはおずおず彼の顔を見上げたが、/彼はおっかあのほうをふり向いて話をしていた。 「じゃあ感心に謝肉祭のお祝いをするのだな、まあけっこうよ。俺は腹が減っているのだ。晩飯はなんのごちそうだ」と彼は言った。 「どら焼きとりんごの揚げ物をこしらえているところですよ」 「そうらしいて。だがナンリも遠道をかけて来た者に、まさかどら焼きでごめんをこうむるつもりではあるまい」 「ほかになんにもないんですよ。なにしろおまえさんが帰るとは思わなかったからね」 「なんだ、なんにもない。夕飯にはなにもないのか」と彼は台所を見回した。 「バターがあるぞ」  彼は天井をあお向いて見た。いつも塩ぶたがかかっていたかぎが目に入ったが、そこにはもう長らくなんにもかかってはいなかった。ただねぎとにんにくがニ三本’なわでしばってつるしてあるだけであった。 「ねぎがある」と彼は言って、大きな杖で縄をたたき落とした。「ねぎがシゴホンにバターが少しあれば、けっこうなスープができるだろう。どら焼きなぞは下ろして、ねぎを鍋でいためろ」  どら焼きを鍋から出してしまえというのだ。  でも一言も言わずにバルブレンのおっかあはご亭主の言うとおりに、急いで仕事に取りかかった。ご亭主は炉のすみの椅子に腰をかけていた。  わたしは彼が杖の先で追い立てた場所から、そのまま動き得なかった。食卓に背中を向けたまま、わたしは彼の顔を見た。  彼は五十ばかりの意地悪らしい顔つきをした、ごつごつした様子の男であった。その頭は怪我をしたため、/少し右の肩のほうへ曲がっていた。かたわになったので、よけいこの男の人相を悪くした。  バルブレンのおっかあはまたお鍋を火の上にのせた。 「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」と彼は言いながら、バターの入った皿をつかんで、それをみんな鍋の中へあけてしまった。もうバターはなくなった‥:‥それで、もうどら焼きもなくなったのだ。  これがほかの場合だったら、こんな災難に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら焼きもりんごの揚げ物も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。 「ぼくのとっつぁん」──うっとりとわたしはこの言葉を心の中でくり返した。  いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から降って来たこの男を見ると、わたしは非常に嫌だったし、こわらしかった(おそろしかった)。  わたしが彼にだきつこうとすると、/彼は杖でわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。 「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、皿でもならべろ」と彼は言った。  わたしはあわててそのとおりにしようとして、危なく倒れそこな-った。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれを皿に入れた。  すると彼は炉ばたから立ち上がって、食卓の前に腰をかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれがキミが悪くって、食事が喉に通らなかった。わたしも横目で彼を見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。 「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」と彼はふいにこうたずねた。 「きっとおなかがいいんですよ」 「しょうがねえやつだなあ。こればかりしか入らないようじゃあ」  バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと働き回って、ご亭主のお給仕ばかりしていた。 「てめえ、腹は減らねえのか」 「ええ」 「うん、じゃあすぐとこへ入って寝ろ。寝たらすぐ寝つけよ。早くしないとひどいぞ」  おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの警告を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。  たいていの貧乏人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋をかねていた。炉のそばには食事の道具が残らずあった。食卓もパンの箱も鍋も食器だなもあった。そうして、部屋の向こうのカドが寝部屋であった。一方のカドにバルブレンのおっかあの大きなネダイがあった。その向こうのカドのくぼんだおし入れのような所にわたしのネダイがあって、赤い模様のカーテンがかかっていた。  わたしは急いでねまきに着かえて、寝床にもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、非常に不愉快であった。  どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。本当にそうだったら、なぜ人をこんなにひどく扱うのだろう。  わたしは鼻を壁につけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐ眠ろうと骨を折ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。  どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしのネダイのそばに寄って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。  わたしはホオの上に温かい息を感じた。 「てめえ、もう眠ったのか」とするどい声が言った。  わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしい言葉が、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。 「眠っているんですよ」とおっかあが言った。「あの子はトコに入るとすぐに目がくっつくのだから、大丈夫なにを言っても聞こえやしませんよ」  わたしはむろん、「いいえ、眠っていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだ眠らずにいた。わたしが悪かった。 「それでおまえさん、裁判のほうはどうなったの」とおっかあが言った。 「だめよ。裁判所ではおれが足場の下にいたのが悪いと言うのだ。」そう言って彼はこぶしで食卓をごつんと打って、なんだか訳のわからないことを言って、しきりにののしっていた。 「裁判には負けるし、かねはなくなるし、かたわにはなるし、貧乏がじろじろツラをねめつけて(にらみつけて)いる。それだけでもまだ足りねえつもりか、うちへ帰って来ればがきがいる。なぜおれが言ったとおりにしなかったのだ」 「でもできなかったもの」 「孤児院へ連れて行くことができなかったのか」 「だってあんな小さな子を捨てることはできないよ。自分の乳で育ててかわいくなっているのだもの」 「あいつはてめえの子じゃあねえのだ」 「そうさ。わたしもおまえさんの言うとおりにしようと思ったのだけれど、ちょうどそのとき、あの子が加減が悪くなったので」 「加減が悪く」 「ああ、だからどうにもあすこへ連れては行けなかったのだよ。死んだかもしれないからねえ」 「だがよくなってから、どうした」 「ええ、すぐにはよくならなかったしね、やっといいと思うと、また病気になったりしたものだから。かわいそうにそれはひどく咳をして、聞いていられないようだった。うちのニコラぼうもそんなふうにして死んだのだからねえ。わたしがこの子を孤児院に送ればやっぱり死んだかもしれないよ」 「だが‥:‥あとでは」 「ああ、だんだんそのうちに時がたって、延び延びになってしまったのだよ」 「いったいいくつになったのだ」 「8つさ」 「うん、そうか。じやあ、これからでもいいや。どうせもっと早く行くはずだったのだ。だが、いまじゃあ行くのもいやがるだろう」 「まあ、/ジェローム、おまえさん、いけない‥:‥そんなことは’しないでおくれ」 「いけない、なにがいけないのだ。いつまでもああしてうちに置けると思うか」  しばらく二人ともだまり返った。わたしは息もできなかった。喉の中にかたまりができたようであった。  しばらくして.バルブレンのおっかあが言った。 「まあ、/パリへ出て、おまえさんもずいぶん人が変わったねえ。おまえさん、行くまえにはそんなことは言わない人だったがねえ」 「そうだったかもしれない。だが、/パリへ行っておれの人が変わったかしれないが、そこはおれを半殺しにもした。俺はもう働くことはできない。もう-かねはない。牛は売ってしまった。おれたちの口をぬらすことさえおぼつかないのに、お互いの子でもないがきを養うことができるか」 「あの子はわたしの子だよ」 「あいつはおれの子でもないが、貴様の子でもないぞ。それにぜんたい百姓の子どもじゃあない。貧乏人の子どもじゃあない。きゃしゃすぎて物もろくに食えないし、手足もあれじゃあ働けない」 「あの子は村でいちばん器量よしの子どもだよ」 「器量がよくないとは言いやしない。だが丈夫な子ではないと言うのだ。あんなひょろひょろした肩をした小僧が労働者になれると思うか。ありゃあ’町の子どもだ。町の子どもを置く席はないのだ」 「いいえ、あの子はいい子ですよ。利口で、物がわかって、それで優しいのだから、あの子はわたしたちのために働いてくれますよ」 「だが、さし当たりは、おれたちがあいつのために働いてやらなければならない。それはまっぴらだ」 「もしかあの子の二親が引き取りに来たらどうします」 「あいつの二親だと。いったいあいつには二親があったのか。あればいままでに訪ねて来そうなものだ。あいつの二親が訪ねて来て、これまでの養育料をはらって行くなどと考えたのが、ずいぶん馬鹿げきっていた。気違いじみていた。あの子がレースのへりつきのやわらかい産着を着ていたからといって、二親があいつを訪ねに来ると思うことができるか。それに、もう死んでいるのだ。きっと」 「いいや、そんなことはない。いつか訪ねて来るかもしれない‥‥」 「女というやつはなかなか強情なものだなあ」 「でも訪ねて来たら」 「ふん、そうなりゃ孤児院へ差し向けてやる。だがもう話はたくさんだ。俺はあしたは村長さんの所へあいつを連れて行って相談する。今夜は’これからフランスアの所へ行って来る。一時間ばかりしたら帰って来るからな」  そのあいだにわたしはさっそくネダイの上で起き上がって、おっかあを呼んだ。 「ねえ、おっかあ」  彼女はわたしのネダイのほうへかけてやって来た。 「ぼくを孤児院へやるの」 「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」  彼女はわたしにキッスをして、しっかりと腕にだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、ホオの上の涙がかわいた。 「じゃあおまえ、眠ってはいなかったのだね」と彼女は優しくたずねた。 「ぼく、わざとしたんじゃないから」 「わたしは、おまえを叱っているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」 「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって‥:‥そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」  このあとの言葉を、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この婦人がわたしの母親でないことを知ったのは情けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか得意でうれしかった。このわたしの心の中の矛盾はおのずと声に現れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。 「まあわたしはおまえに本当のことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまり’わたしの子どもになりすぎたものだから、つい本当の母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、/ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日/パリのブルチュイー町の並木通りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、赤ん坊の泣き声を聞いて、おまえをある庭の門口で拾って来たのだ。あの人は誰か人を呼ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木の蔭から出て来て、あわてて逃げ出したそうだよ。おまえを捨てた男が、誰か拾うか見届けていたとみえる。おまえがそのとき、誰か拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく泣くものだから、/ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も困っていると、ほかの職人たちも寄って来て、みんなはおまえを警察へ届けることに相談を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒か-ったにちがいない。けれど、それから警察へ連れて行って、暖かくしてあげてもまだ泣いていた。それで今度はおなかが減っているのだろうというので、近所のおかみさんを頼んで乳を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。  やっとおなかがいっぱいになると、みんなは炉の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、立派な産着にくるまっていた。警部さんは、こりゃあ立派なうちの子を盗んで捨てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き留めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ孤児院へやらなければなるまいが、こんな立派なしっかりした子どもだ、これを育てるのは難かしくはない。両親もそのうちきっと探しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と署長さんがお言いなすった。この言葉にひかれて、/ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどその時分、わたしは同い年の赤ん坊を持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」 「まあ、おっかあ」 「ああ、ああ、それでミ月目の末にわたしは自分の子どもを亡くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは相変わらずそれを忘れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに-こないというので、もうおまえを孤児院へやると言って聞かないので困ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」 「まあ、ぼくを孤児院へなんかやらないでください」とわたしは叫んで、/彼女にかじりついた。 「どうぞどうぞおっかあ、後生だから孤児院へやらないでください」 「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり苦労をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。まあ、わたしたちはせっせと働きましょう。おまえも働くのだよ」 「ええ、ええ、ぼくはしろということはなんでもきっとしますから、孤児院へだけは’やらないでください」 「おお、おお、それはやりはしないから、その代わりすぐ眠ると言って約束をおし。あの人が帰って来て、おまえの起きているところを見るといけないからね」  おっかあはわたしにキッスして、壁のほうへわたしの顔を向けた。  わたしは眠ろうと思ったけれども、あんまりひどく感動させられたので、静かに眠りの国に入ることができなかった。  じゃあ、あれほど優しいバルブレンのおっかあは、わたしの本当の母さんではなかったのか。するといったい本当の母さんは誰だろう。いまの母さんよりもっと優しい人かしら。どうしてそんなはずがありそうもない。  だが本当の父さんなら、あのバルブレンのように、こわい目でにらみつけたり、わたしに杖をふり上げたりしや-しないだろうと思った‥‥。  あの男はわたしを孤児院へやろうとしている。母さんには本当にそれを引き止める力があるだろうか。  この村に二人、孤児院から来た子どもがあった。この子たちは、『孤児院の子』と呼ばれていた。首の回りに番号の入った鉛の札をぶら下げていた。ひどいみなりをして、よごれくさっていた。ほかの子たちがみんなでからかって、石をぶつけたり、迷い犬を追って遊ぶように追い回したりした。迷い犬にだれも加勢する者がないのだ。  ああ、わたしはそういう子どものようになりたくない。首の回りに番号札を下げられたくない。わたしの歩いて行くあとから、『やいやい孤児院のがき、やいやい捨て子』と言ってののしられたくない。  それを考えただけでも、ぞっと寒けがして、歯ががたがた鳴りだす。わたしは眠ることができなかった。やがてバルブレンも、また帰って来るだろう。  でも幸せと、ずっと遅くまで彼は帰って来なかった。そのうちにわたしもとろろとねむ気がさして来た。 ◇。◇。◇。 【第3章】 【ヴィタリス親方の一座】 ◇。◇。◇。  その晩一晩、きっと孤児院へ連れて行かれた夢ばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつものネダイに寝ているような気がしなかった。わたしは目が覚めるとさっそくネダイにさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。  バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしは彼がもう’孤児院へやる考えを捨てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置くことに決めたのであろう。  けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、帽子をかぶってついて来いと言った。  わたしは目つきで母さんに救いを求めてみた。彼女もご亭主に気がつかないようにして、一緒に行けと目くばせした。わたしは従った。彼女は行きがけにわたしの肩をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。  なにも言わずにわたしは彼について行った。  うちから村まではちょっと一時間の道で-あった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。彼はびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。  どこへいったいわたしを連れて行くつもりであろう。  わたしは心の中でたびたびこの疑問をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくら大丈夫だと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうして逃げ出そうかと考えた。  わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないように離れていて、いざとなれば堀の中にでも跳びこもうと思った。  はじめは彼も、あとからわたしがとことこついて来るので、安心していたらしかった。けれどもまもなく、/彼はわたしの心の中を見破ったらしく、いきなり’わたしの腕首をとらえた。  わたしはいやでも一緒にくっついて歩かなければならなかった。  そんなふうにして、わたしたちは村に入った。すれちがう人がみんなふり返って目を丸くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行く体裁であった。  わたしたちが村の居酒屋の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にハイれと言った。バルブレンはわたしの耳を引っ張って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとから入って、ドアをぴしゃりと立てた。  わたしはほっとした。  そこは危険な場所とは思われなかった。それにセンからわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。  旅館お料理カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。オモテのガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである‥:‥  バルブレンはいま声をかけた亭主と、食卓に向かい合って腰をかけた。わたしは炉ばたに腰をかけてそこらを見回した。  わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やしたセイの高い老人がいた。彼は奇妙な着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。  長い髪の毛をふっさりと肩まで垂らして、緑と赤の羽根でかざったねずみ色の高いフェルト帽をかぶっていた。羊の毛皮の毛のほうを中に返して、すっかり体に着こんでいた。その毛皮服には袖はなかったが、肩の所に二つ大きな穴をあけて、そこから、もとは緑色だったはずのビロードの袖をぬっと出していた。羊の毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。  彼は長ながと椅子の上に横になって、下あごを左の手に支えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。  わたしは生きた人で、こんな静かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒の像のようであった。  老人の回りには三びきの犬が、固まって寝ていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰色の雌犬が一匹。白いむく犬は巡査のかぶる古いかぶと帽をかぶって、皮のひもをあごの下に結えつけていた。  わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋の亭主は低い声でこそこそ’話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。  バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連れて行って、村長から孤児院に向かって、わたしをうちへ置く代わりに/養育料を請求してもらうつもりだと言った。  これだけを、やっとあの気の毒なバルブレンのおっかあが夫に説いて承諾させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも-かねがもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。  その老人はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。 「その子どもがおまえさんの厄介者なのかね」 「そうだよ」 「それでおまえさんは孤児院が養育料をしはらうと思っているのかね」 「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん-かねを使わされた。お上からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」 「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」 「それはそうさ」 「それそのとおり。だからおまえさんが望んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」 「じゃあ孤児院へ’やってしまうだけだ。こちらで養いたくないものを、なんでも養えという法律はないのだ」 「でもおまえさんは始めにあの子を養いますといって引き受けたのだから、その約束は守らなければならない」 「ふん、俺はこの子を養いたくないのだ。だからどのみちどこへでも厄介払いをするつもりでいる」 「さあ、そこで話だが、厄介払いをするにも、手近な仕方があると思う。」老人はしばらく考えて、「おまけに少しは’かねにもなる仕方がある」と言った。 「その仕方を教えてくれれば、俺はいっぱい買うよ」 「じゃあさっそくいっぱい買うさ。もう相談は決まったから」 「大丈夫かえ」 「大丈夫よ」  老人は立ち上がって、バルブレンの向こうに席をしめた。ふしぎなことには◇、老人が立ち上がると、羊の毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。多分、もう一匹犬を腕の下にかかえているのだとわたしは思った。  この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人から目をはなすことができなかった。 「おまえさんはこの子のために誰か-かねを出さない以上、自分のうちに置いて養っていることは嫌だという、それにちがいないのだろう」 「それはそのとおりだ‥:‥そのわけは‥‥」 「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」 「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」 「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」 「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」 「よく見ているよ」 「ルミ、ここへ来い」  わたしは食卓に進み寄った。ひざはふるえていた。 「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人は言った。 「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。 「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」 「いやはや、こいつがいっそフタツアタマの化け物か、または一寸法師ででもあったなら‥‥」 「大事にして孤児院にやりはしないだろう。香具師に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」 「仕事はできるよ」 「いや、あまり丈夫ではないからなあ」 「丈夫でないと、とんでもない話だ。‥:‥だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい‥‥」  バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。 「やせすぎている」と老人は言った。 「それから腕を見ろ」とバルブレンは続けた。 「腕も同様だ。──まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」 「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」  老人はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。  このまえ、バクロウが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛の体を手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連れて行った。  この老人もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。  不幸にもここにはおっかあはいなかった。誰もわたしの味方になってくれる者がなかった。  わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。 「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。ヒャクショウ仕事にはたしかに向いてはいないようだ。試しに畑をやらしてごらん、どれほど続くかさ」 「十年は続くよ」 「なあにひと月も続くものか」 「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」  わたしは食卓の端の、ちょうどバルブレンと老人の間に座っていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいように小突き回された。 「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人は最後に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借りるのだ。その借り賃にネンにニジュッフラン出すことにしよう」 「たったニジュッフラン」 「どうして高すぎると思うよ。それも前払いにするからね。本当の金貨を四枚にぎったうえに、厄介払いができるのだからね」と老人は言った。 「だがこの子をうちに置けば、孤児院から毎月ジュッフランずつくれるからな」 「まあくれてもせいぜい七フランかジュッフランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならな-いからね」 「その代わり働きもするさ」 「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい捨て子を引き取るというのは、その養育料をはらってもらうためではない、働かせるためなのだ。それから-かねを取り上げこそすれ、給金なしの下男下女に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに置くところなのだ」 「とにかく、毎月ジュッフランはもらえるのだから」 「だが孤児院で、いや、そんならこの子はおまえさんには預けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは確かだ。おまえさんの苦労は’ただ-かねを受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」  老人は隠しを探って、なめし皮の財布を引き出した。その中から四枚、金貨をつかみ出して、食卓の上にならべ、わざとらしくチャラチャラおとをさせた。 「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子の二親が出てくるかもしれない」 「それはかまわないじゃないか」 「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、初め-っからだれが世話をするものか」 「それを思わなければ初め-っからだれが世話をするものか」─:─この言葉で、わたしはいよいよバルブレンが嫌いになった。なんという悪い人間だろう。 「成程、だがこの子の二親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちその二親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。誰もわたしを知らないのだから」と老人は言った。 「でもおまえさんがその二親を見つけ出したらどうする」 「成程そういう場合には、わたしたちで利益を分けるのだね。ところで、ひとつ、気張ってさしあたりサンジュッフラン分けてあげようよ」 「ヨンジュッフランにしてもらおう」 「いいや、この子の使い道はそこいらが相応な値段だ」 「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりした’いい足をしているし、腕といえばこのとおり立派ないい腕をしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」  そのとき老人はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを-ほした。 「つまりわたしの相手になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」 「成程、それにはこの子の足はじゅうぶん達者だから」 「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、跳ね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座の役者になるのだ」 「その一座はどこにある」 「もうご推察あろうが、そのヴィタリス親方’はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」  こう言って彼は羊の毛皮服の懐を開けて、左の腕におさえていた奇妙な動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像したように、犬ではなかった。  わたしはこの奇妙な動物を生まれて初めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。  わたしはびっくりしてながめていた。  それは金筋をぬいつけた赤い服を着ていたが、腕と足はむき出しのままであった。実際それは人間と同じ腕と足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白く’ももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけ’わたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡のようにぴかぴかと光った。 「いやあ、みっともない猿だな」とバルブレンがさけんだ。  ああ、猿か。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれが猿であったのか。わたしはまだ猿を見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、猿だったのか。 「さあ、これが一座の花形で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにお辞儀をしないか」  猿は指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。 「さて」とヴィタリスは言葉を続けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席の貴賓諸君に一座のものをご紹介申しあげる光栄を有せられるでしょう」  このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそく跳び上がって、後脚で立ちながら、前足を胸の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査のかぶと帽が地べたについた。  敬礼がすむと彼は仲間のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足をさしのべて、みんなそばに寄るように合図をした。  白犬のすることをじっと見つめていた二匹の犬は、すぐに立ち上がって、お互いに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳かに六歩前へ進み、またミ足’あとへもどつて、代わりばんこにご臨席の貴賓諸君に向かってお辞儀をした。  そのときヴィタリス親方が言った。 「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中のカシラということです。いちばんかしこくって、わたしの命令を代わってほかのものに伝えます。その黒いむく毛の若いハイカラさんは、ゼルビノ侯ですが、これは優美という意味で、よく様子をご覧なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬はドルス夫人です。あの子はイギリスダネで、名前はあの子の優しい気だてにちなんだものだ。こういう立派な芸人ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もその時々の回り合わせさ。おおカピ‥‥」  カピと呼ばれた犬は前足を十文字に組んだ。 「カピ、あなた、ここへ来て、行儀のいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人たちにいつもていねいな言葉を使っています─:─さあ、この玉のような丸い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、今はナンジだか教えてあげてください」  カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、羊の毛皮服の懐を開け、その隠しを探って大きな銀時計を取り出した。彼はしばらく’時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。 「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人に縄跳びおどりをお願いしてもらいましょうか」  カピはまた主人の隠しを探って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐに彼の真向かいに座をしめた。カピが縄のはしをほうってやると、二匹の犬はひどく真面目くさって、それを回し始めた。  つなの運動が規則正しくなったとき、ドルスは輪の中に跳びこんで、優しい目で主人を見ながら軽快にとんだ。 「このとおりずいぶん利口です」と老人は言った。「それも比べるものができるとなおさら’利口が目立って見える。たとえばここにあれらと仲間になって、馬鹿の役を務める者があれば、いっそうそれらの値打ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲しいというのだ。あの子に馬鹿の役を務めてもらって、いよいよ犬たちの利口を目立たせるようにするのだ」 「へえ、この子が馬鹿を務めるのかね」とバルブレンが口を入れた。  老人は言った。「馬鹿の役を務めるには、それだけ利口な人間が入り用なのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試してみることにします。この子がじゅうぶん利口な子なら、わたしと一緒にいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩まで同じ牧場’で牛や羊の番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣いて地団太を踏むだろう。そうすればわたしは連れては行かない。それで孤児院に送られて、ひどく働かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」  わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらと一緒に旅をするのは、愉快だろう。だがバルブレンのおっかあは‥:‥おっかあに別れるのは’つらいなあ‥:‥  でもそれを嫌だと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院に送られなければならない。  わたしはほんとに情けなくなって、目にいっぱい涙をうかべていた。するとヴィタリス老人が軽く涙の流れ出したホオをつついた。 「ハハアお小僧さん、大騒ぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい胸で思案をしているのだな。それであしたは‥‥」 「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ置いてください。どうぞ置いてください」とわたしは叫んだ。  カピが大きな声でほえたので、邪魔されてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓のほうへ跳び上がった。例の猿はみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み干そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。 「ジョリクールさん」とヴィタリスが厳しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえに泥棒です。あそこの隅に行って壁のほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたら’ぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手をしましょう」  猿は息づまったような鳴き声を出して、すごすご’隅のほうへ行った。幸せな犬は得意な顔をして前足を主人に出した。 「さて」と老人は言葉をついで、「先刻の話にもどりましょう。ではこの子にサンジュッフラン出すことにしよう」 「いや、ヨンジュッフランだ」  そこで押し問答が始まった。だが老人はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。 「よし、じゃあ裏へ行っていろ。だが逃げるな。逃げるとひどい目に会わせるから」  バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石に腰をかけて考えこんでいた。  あの人たちはわたしのことを相談している。どうするつもりだろう。  心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏へ出て来た。  彼は一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連れて来たのだな。 「さあ帰るのだ」と彼は言った。  なに、うちへ帰る。──そうするとバルブレンのおっかあに別れないでもすむのかな。  わたしはそう言ってたずねたかったけれども、/彼がひどくきげんが悪そうなので遠慮した。  それで‥:‥だまってうちのほうへ歩いた。  けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴にわたしの耳をつかみながらこう言った。 「いいか貴様、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」 ◇。◇。◇。 【第4章】 【おっかあの家】 ◇。◇。◇。 「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」 「会わなかったよ」 「どうして会わなかったのさ」 「うん、俺はノートルダームで友だちに会った。外へ出るともう遅くなった。だからあしたまた行くことにした」  それではバルブレンは犬を連れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。  うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑っていたが、いまの言葉でその疑いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪ねるというのでは、きっとじいさんとの約束はできなかったにちがいない。  バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩一晩じゅううちを離れないので話す機会がなかった。  すごすご’寝床にもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。  けれどそのあくる日’起き上がると、おっかあの姿が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。 「おっかあ」 「ああ、それなら村へ行った。昼過ぎでなければ帰るものか」  おっかあはまえの晩、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。  なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしは大変おどおどしだした。  バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積もるばかりであった。その目つきから逃げるためにわたしは裏の野菜バタケへかけこんだ。  ハタケといってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物は残らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛を飼いながら/野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼んで大事にしていた。  わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続いておいおい芽を出しかけている。  もう黄水仙もつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。  どんな花がさくだろう。  それを楽しみにして、わたしは毎日’出てみた。  それからまたわたしの大事にしていた畑の一部には、誰かにもらっためずらしい野菜を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜を一緒にした味がするのであった。わたしは’そっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあを驚かそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、内緒で料理をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用な子だろう』と感心させてやろう。  こんなことを思い思いこのときも、まだ芽が出ないかと思って、種のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンが癇癪ごえで呼びたてているので、びっくりしてうちへ入った。まあどうだろう。驚いたことには、炉の前にヴィタリス老人と犬たちが立っているではないか。  すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連れて行くのだ。それをおっかあが邪魔しないように村へ出してやったのだ。  もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人のほうへかけ寄った。 「ああ、ぼくを連れて行かないでください。後生ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣きだした。  すると老人は優しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」 「おっかあが‥‥」 「どうせ’貴様はここには置けないのだ」とバルブレンは荒々しく言って、耳を引っ張った。 「このだんなについて行くか、孤児院へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」 「嫌だ嫌だ、おっかあ、おっかあ」 「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」 「この子は母親に別れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優しい心だ。いいことだ」 「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」 「まあ、話を決めよう」  そう言いながら◇、老人は五フランの金貨を八枚’テーブルの上にのせた。バルブレンはそれを皿いこむようにして隠しに入れた。 「この子の荷物は」と老人が言った。 「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青い木綿のハンケチで四隅をしばった包みをわたした。  中にはシャツが二枚と、麻のズボンが一着あるだけであった。 「それでは約束がちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」 「こいつはほかにはなにもないのだ」 「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争っている暇がない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、小僧さん、おまえの名はなんと言うんだっけ」 「ルミ」 「そうか、よしよし、ルミ。包みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」  わたしは哀訴するように両手を老人に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも◇、老人はわたしの腕首をつかまえようとした。  わたしは行かなければならない。  ああ、このうちにもお別れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、体を半分そこへ残して行くようにわたしは思った。  涙をいっぱい目にうかべてわたしは見回したが、手近には誰もわたしに加勢してくれる者がなかった。往来にも誰もいなかった。牧場にも誰もいなかった。 ◇。◇。◇。  わたしは呼び続けた。 「おっかあ、おっかあ」  けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣きの中に消えてしまった。  わたしは老人について行くほかはなかった。なにしろ腕首をしっかりおさえられているのだから。 「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。  彼はうちの中へ入った。  ああ、これでおしまいである。 「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人が言って。わたしのひじをおさえた。  わたしたちは並んで歩いた。幸せと彼はそう早く歩かなかった。多分わたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。  わたしたちは’坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。  幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上に来た。  老人はおさえた手を緩めなかった。 「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。 「うん、そうだなあ」と彼は答えた。  彼はやっとわたしをはなしてくれた。  けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。  それですぐと、羊飼いの犬のように、一座の先頭から離れてわたしのそばへ寄って来た。  わたしが逃げ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。  わたしは草深い小山の上に登って腰をかけると、犬も後ろについていた。  わたしは涙に曇った目で、バルブレンのおっかあのうちを探した。  下には谷があって、ところどころに森や牧場’があった。それからはるか-したにいままでいたうちが見えた。黄色いささやかな煙が、そこの煙り出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。  気の迷いか、その煙はうちのかまどのそばで嗅ぎ慣れた樫の葉の匂いがするようであった。  それは遠方でもあり、下のほうになっては’いたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。  ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さな鳩だと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がった梨の木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大騒ぎをしてきずきかけた掘割が見えた。まあ、その水車にはずいぶん暇をかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしの大事な畑が。  わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党のバルブレンだ。  もう一足’往来へ出れば、わたしの畑もなにもかも隠れてしまうのだ。  ふと’村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたり隠れたりしていた。  それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春の蝶々のように見えただけであった。  けれど’目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。確かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。 「さて出かけようか」と老人が言った。 「ああ、いいえ、後生ですからも少し」 「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もう疲れてしまったのか」  わたしは答えなかった。ただながめていた。  やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足ばやに、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。  白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭に入って行った。  わたしはすぐに跳び上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピが驚いて跳びついて来た。  おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両腕を広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。  彼女はわたしを探しているのだ。  わたしは首を前に延ばして、ありったけの声でさけんだ。 「おっかあ、おっかあ」  けれどもその叫び声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。 「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。  わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来へ出て、きょろきょろしていた。  もっと大きな声でわたしは叫んだ。けれども、初めの声と同様にむだであった。  そのうち老人もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。彼もまもなく白いボンネットを見つけた。 「かわいそうに、この子は」と彼は’そっと独り言を言った。 「おお、わたしを-かえしてください」と、わたしはいまの優しい言葉に乗って、泣き声を出した。  けれども彼はわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来へ出た。 「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、/彼は言った。  わたしはぬけ出そうと’もがいたけれども、/彼はしっかりわたしをおさえていた。 「さあカピ、ゼルビノ」と、/彼は犬のほうを見ながら言った。  二匹の犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。  フタアシミアシ行くと、わたしは’ふり向いた。  わたしたちはもう’坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山がうすく青くかすんでいた。果てしもない空の中にわたしの目はあてどなく迷うのであった。 ◇。◇。◇。 【第5章】 【とちゅう】 ◇。◇。◇。  ヨンジュッフラン出して子どもを買ったからといって、その人は鬼でもなければ、その子どもの肉を食べようとするのでもなかった。ヴィタリス老人はわたしを食べようという欲もなかったし、子どもを買ったが、その人は悪人ではなかった。  わたしはまもなくそれがわかった。  ちょうどロアール川とドルドーニュ川と、二つの谷を分かった山の頂上で、/彼は再びわたしの手首をにぎった。その山を南へ下り始めて十五分も行ったころ、/彼は手をはなした。 「まああとからぽつぽつおいで。逃げることは無駄だよ。カピとゼルビノがついているからな」  わたしたちはしばらくだまって歩いていた。  わたしはふとため息を一つした。 「儂にはおまえの心持ちはわかっているよ」と老人は言った:、「泣きたいだけお泣き。だがまあ、これがおまえのためにはいいことだということを考えるようにしてごらん。あの人たちはおまえの二親ではないのだ、おっかあはおまえに優しくはしてくれたろう。それでおまえも-すいていたから、それでそんなに悲しく思うのだろう。けれどもあの人は、ご亭主がおまえをうちに置きたくないと言えば、それを止めることはできなかったのだ。それにあの男だって、なにもそんなに悪い男というのでもないかもしれない。あの男は体を悪くして、もうほかの仕事ができなくなっている。かたわの体では食べてゆくだけに骨が折れるのだ。そのうえおまえを養っていては、自分たちが飢えて死ななければならないと思っているのだ。そこでおまえにひとつ心得てもらいたいことがある。世の中は戦争のようなもので、誰でも自分の思うようにはゆかないものだということだ」  そうだ◇、老人の言ったことは本当であった。貴い経験から出た訓言(教訓)であった。でもその訓言よりももっと力強い一つの考えしか、わたしはそのとき持っていなかった。それは『別れのつらさ』ということであった。  わたしはもう二度とこの世の中で、いちばん好きだった人に会うことができないのだ。こう思うとわたしは息苦しいように感じた。 「まあ、わたしの言った言葉をよく考えてごらん。おまえはわたしといれば不幸せなことはないよ」と老人は言った。「孤児院などへやられるよりはいくらましだかしれない。それで言っておくが、おまえは逃げ出そうとしてもだめだよ。そんなことをすれば、あのとおりのヒロ野原だ。カピとゼルビノがすぐとおまえをつかまえるから」  こう言って彼は目の前の荒れた高原を指さした。そこにはやせこけたエニシダが、風のまにまに波のようにうねっていた。  逃げ出す──わたしはもうそんなことをしようとは思わなかった。逃げていったいどこへわたしは行こう。  このセイの高い老人は、ともかく親切な主人であるらしい。  わたしは一息にこんなに歩いたことはなかった。ぐるりに見るものは荒れた土地と小山ばかりで、村を出たらば向こうはどんなに美しかろうと思ったほど、この世界は美しくはなかった。 ◇。◇。◇。  老人はジョリクールを肩の上に乗せたり、背嚢の中に入れたりして、しじゅう規則正しく、大股に歩いていた。三びきの犬は’あとからくっついて来た。  ときどき老人は彼らに優しい言葉をかけていた。フランス語で言うこともあったし、なんだかわからない言葉で言うこともあった。  彼も犬たちもくたびれた様子がなかった。だがわたしは疲れた。足を引きずって、この新しい主人にくっついて歩くのが精いっぱいであった。けれども休ませてくれとは言いだし得なかった。 「おまえがくたびれるのは木の靴のせいだよ」と彼は言った。「いずれユッセルへ着いたら靴を買ってやろう」  この言葉はわたしに元気をつけてくれた。わたしはしじゅう靴が欲しいと思っていた。村長のむすこも、はたごやのむすこも靴を持っていた。それだから日曜というと彼らはお寺へ来て石のろうかをすべるように走った。それをわれわれほかの田舎の子どもは、木靴でがたがた、耳の遠くなるような音をさせたものだ。 「ユッセルまではまだ遠いんですか」 「ハハア、本音をふいたな」とヴィタリスが笑いながら言った。「それでは靴が欲しいんだな。よしよし、わたしは約束をしよう。それも大きな釘を底に打ったやつをなあ。それからビロードの半ズボンとチョッキと帽子も買ってやる。それで涙が引っこむことになるだろう。なあ、そうしてもらおうじゃないか。そしてあと六マイル(約四十キロ)歩いてくれるだろうなあ」  底に釘を打った靴、わたしは得意でたまらなかった。靴をはくことさええらいことなのに、おまけに釘を打ってある。わたしは悲しいことも忘れてしまった。  釘を打った靴、ビロードの半ズボンに、チョッキに、帽子。  まあバルブレンのおっかあがわたしを見たらどんなにうれしがるだろう。どんなに得意になるだろう。  けれども、なるほど靴とビロードがこれから六マイル歩けばもらえるという約束はいいが、わたしの足はそんな遠方まで行けそうにもなかった。  わたしたちが出かけたときに青あおと晴れていた空が、いつのまにか-くろい雲に隠れて、細かい雨がやがてぽつぽつ落ちて来た。  ヴィタリスはそっくり羊の毛皮服にくるまっているので、雨もしのげたし、猿のジョリクールも、ひとしずく雨がかかるとさっそく隠れ家に逃げこんだ。けれども犬とわたしはなんにもかぶるものがないので、まもなく骨まで通るほどぬれた。でも犬はぬれても時々しずくをふり落とすくふうもあったが、わたしはそんなことはできなかった。下着までじくじくにぬれ通って、/骨まで冷えきっていた。 「おまえ、じき風邪をひくか」と主人は聞いた。 「知りません。風邪をひいた覚えがないから」 「それはたのもしいな。だがこのうえぬれて歩いてもしようがないことだから、/少しでも早くこの先の村へ行って休むとしよう」  ところがこの村には一軒も宿屋というものはなかった。当たり前の家では’じいさんのこじきの、しかも子どもに三びきの犬まで引き連れて、ぬれねずみになった同勢をとめようという者はなかった。 「うちは宿屋じゃないよ」  こう言ってどこでも戸を立てきった。わたしたちは一軒一軒聞いて歩いて、一軒一軒断られた。  これから四マイル(約六キロ)ユッセルまで一休みもしないで行かなければならないのか。くらさは暗し、雨はいよいよ冷たく骨身に通った。ああ、バルブレンのおっかあのうちがこいしい。  やっとのことで一軒の百姓家がいくらか親切があって、わたしたちを納屋にとめることを承知してくれた。でも寝るだけは寝ても、明かりをつけることはならないという言いわたしであった。 「おまえさん、マッチを出しなさい。あした発つとき返してあげるから」とそのヒャクショウヤの主人はヴィタリス老人に言った。  それでもとにかく、風雨を防ぐ屋根だけはできたのであった。  老人は食料なしに旅をするような不注意な人ではなかった。彼は背中にしょっていた背嚢から一かたまりのパンを出して、4きれにちぎった。  さてこのときわたしははじめて、/彼がどういうふうにして、仲間の規律を立てているかということを知った。さっきわれわれが一軒一軒’宿を探して歩いたとき、ゼルビノがある家に入ったが、さっそく駆け出して来たとき、/パンの切れを口にくわえていた。そのとき老人は’ただ、 「よしよし、ゼルビノ‥:‥今夜は覚えていろ」とだけ言った。  わたしはもうゼルビノの泥棒をしたことは忘れて、ヴィタリスがパンを切る手先をぼんやり見ていた。ゼルビノはしかしひどくしょげていた。  ヴィタリスとわたしはとなり合ってジョリクールをまん中に置いて、二つある藁のたばの上、かれ草のたばの上に腰をかけて、三びきの犬はその前に並んでいた。カピとドルスは主人の顔をじっと見つめているのに、ゼルビノは耳を立ててしっぽを足のあいだに入れて立っていた。  老人は命令するような調子で言った。「泥棒は仲間をはずれて、すみに行かなければならんぞ。夕食なしに眠らなければならんぞ」  ゼルビノは席を去って、指’さされたほうへすごすご出て行った。それでかれ草の積んである下にもぐりこんで、姿が見えなくなったが、その下で悲しそうにくんくん泣いている声が聞こえた。  老人はそれからわたしにパンを一切れくれて、自分の分を食べながら、/ジョリクールとカピとドルスに、小さく切って分けてやった。  どんなにわたしはバルブレンのおっかあのスープがこいしくなったろう。それにバターはなくっても、暖かい炉の火がどんなにいい心持ちであったろう。/夜着の中に鼻をつっこんでねた小さなネダイがこいしいな。  もうすっかりくたびれきって、足は木靴ですれて痛んだ。着物はぬれしょぼたれているので、冷たくって体がふるえた。夜中になっても眠るどころではなかった。 「歯をがたがた言わせているね。おまえ寒いか」と老人が言った。 「ええ、/少し」  わたしは彼が背嚢を開ける音’を聞いた。 「わたしは着物もたんとないが、かわいたシャツにチョッキがある。これを着てまぐさの下にもぐっておいで。じきに暖かになって眠られるよ」  でも老人が言ったようにそうじき暖かにはならなかった。わたしは長いあいだ藁のトコの上でごそごそしながら、苦しくって眠られなかった。もうこれから先はいつもこんなふうにくらすのだろうか。ざあざあ雨の降る中を歩いて、寒さにふるえながら、物置きの中に寝て、夕食にはたった一切れの固パンを分けてもらうだけであろうか。スープもない。誰もかわいがってくれる者もない。だきしめてくれる者もない。バルブレンのおっかあももうないのだ。  わたしの心はまったく悲しかった。涙が首を流れ落ちた。  そのときふと暖かい息が顔の上にかかるように思った。  わたしは手を延ばすと、カピのやわらかい毛が手にさわった。彼は’そっと草の上を音のしないように歩いて、わたしの所へ’やって来たのだ。わたしの匂いを優しく嗅ぎ回る息が、わたしのホオにも髪の毛にもかかった。  この犬はなにをしようというのであろう。  やがて彼はわたしのすぐそばの藁の上に転げて、それはごく静かにわたしの手をなめ始めた。  わたしもうれしくなって、藁のトコの上に半分’起き返って、犬の首を両腕にかかえて、その冷たい鼻にキッスした。彼はわずか息のつまったような泣き声を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に預けて、じっとおとなしくしていた。  わたしは疲れも悲しみも忘れた。息苦しい喉がからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。 ◇。◇。◇。 【第6章】 【初舞台】 ◇。◇。◇。  そのあくる日は早く出発した。  空は青あおと晴れて、夜中のカラカゼがぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りに’もつれていた。ときどきカピが後脚で立ち上がって、わたしの顔を見てはニサン度続けてほえた。彼の心持ちはわたしにはわかっていた。 「元気を出せ、しっかり、しっかり」  こう言っているのであった。  彼は利口な犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の尾のふり方にはたいていの人の舌や口で言う以上の頓知と能弁がふくまれていた。わたしとカピの間には言葉は要らなかった。初めての日からお互いの心持ちはわかっていた。  わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、初めて町を見るのはなにより楽しみであった。  でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の塔や古い建物などよりも、もっと気になるのは靴屋の店であった。  老人が約束をした釘を打った靴のある店は何処だろう。  わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人はイチバの後ろの一軒の店に入った。みせの外に古い鉄砲だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、錆びた鍵だのがつるしてあった。  わたしたちは三段ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな部屋に入った。  釘を打った靴なんぞを、どうしてこんなキミの悪い所で売っているだろう。  けれども老人にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木靴の十倍も重たい、釘を打った靴をはくことになった。うれしいな。  老人の情けはそれだけではなかった。彼はわたしに水色ビロードの上着と、毛織りのズボンと、フェルト帽子まで買ってくれた。彼の約束しただけの品は残らずそろった。  まあ、麻の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それに靴は。帽子は。わたしはたしかに世界中でいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。本当にこの老人は世界中でいちばんいい人でいちばん情け深い人だと思われた。  もっともそのビロードは油じみていたし、毛織りのズボンはかなり破れていた。それにフェルト帽子のフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。  ところで宿屋に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは:、老人がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。  わたしは丸い目をして彼の顔を見た。 「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」と彼は説明した。  わたしはいよいよびっくりしてしまった。 「わたしたちは芸人だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらの田舎の人間のようなふうをして歩いたら、誰が目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでも体裁を作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」  こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その晩はもうイタリアの子どもになっていた。  ズボンはやっとひざまで届いた。老人はくつ下にひもをぬいつけて、フェルト帽子の上にはいっぱいに赤いリボンを結びつけた。それから毛糸の花でおかざりをした。  わたしはほかの人がどう思うかは知らないが、正直に言えば自分ながらなかなか立派になったと思った。親友のカピも同じ考えであったから、しばらくわたしの顔をじっと見て、満足したふうで前足を出した。  わたしはカピの賛成を得たのでうれしかった。それというのが、わたしが着物を着かえている最中、例のジョリクールめが、わたしのまん前にべったりすわって、大げさな身ぶりで、さんざんひとのするとおりのまねをして:、すっかり仕度ができると、今度はおしりに手を当て、首をちぢめて、あざけるように笑ったので、一方にそういう実意のある賛成者のできたのがよけいにうれしかったのである。  いったい猿が笑うか笑わないかということは、学問上の問題だそうだ。わたしは長いあいだジョリクールと仲よくくらしていたが、/彼はたしかに笑った。しかもどうかすると人を馬鹿にした笑い方をしたものだ。もちろん彼は人間のようには笑わなかった。けれどもなにかおもしろいことがあると、口を曲げて、目をくるくるやって、あのしっぽをす早く働かせる。そうして真っ黒な目はぴかぴか光って、火花がとび出すかと思われた。 「さあ仕度ができたら」と最後に帽子を頭にかぶると老人が言った。「わたしたちはいよいよ仕事にかからなければならない。あしたはイチの立つ日だから、おまえは初舞台を務めなければならない」  初舞台。初舞台とはどんなことだろう。  老人はそこで、この初舞台というのは、三びきの犬とジョリクールを相手に芝居をすることだと教えてくれた。 「でもぼく、どうして芝居をするのか知りません」と、わたしはおどおどしながらさけんだ。 「それだから、わたしが教えてあげようというのだよ。教わらなけりゃわかりゃしない。この動物どももいっしょうけんめい自分の役をけいこしたものだ。カピが後脚で立つのでも、ドルスが縄跳びの芸当をやるのでも、みんなけいこをして覚えたのだ。ずいぶん骨の折れたことではあったが、その代わりご覧、あのとおり賢くなっている。おまえも、これからいろいろの役を覚えるためにはよほど勉強が要る。とにかく仕事にかかろう」  これまでわたしは仕事といえば、畑にくわを入れるとか、石を切るとか、木をかるとかいうほかにはないように思っていた。 「さてわたしたちのやる狂言は、『/ジョリクール氏の家来、1名とんだあほうの取り違え』というのだ。それはこういう筋だ。ジョリクール氏はこれまでひとり家来を使っていた。それはカピという名前で、/ジョリクール氏はこの家来に満足していたのだが、年を取ったので暇を取ろうとする。それでカピは主人に暇を取るまえに、代わりの家来を見つける約束をする。さてその後がまの家来というのは、犬ではなくって子どもなのだ。ルミと名乗る田舎の子どもなのだ」 「やあ、ぼくと同じ名前の‥‥」 「いや、同じ名前ではない、それがおまえなんだ。おまえはジョリクール氏の所へ奉公口を探しに田舎から出て来たのだ」 「お猿に家来はないでしょう」 「そこが芝居だよ。さておまえはいきなり村から飛び出して来た。それでおまえの新しい主人はおまえをあほうだと思う」 「おお、ぼく、そんなこといやです」 「人が笑いさえすれば、そんなことはどうでもいいじゃないか。さておまえは初めてこのだんなの所へ家来になってやって来た。そして食事のテーブルゴシラエを言いつけられる。それ、ちょうどそこに、芝居に使うテーブルがある。さあ、仕度におかかり」  このテーブルの上には、お皿に、コップに、ナイフが一本、フォークが一本、白いテーブル掛けが一枚’置いてあった。  どうしてこれだけのものをならべようか。  わたしはそれを考えて、両手をつき出してテーブルによっかかって、ぽかんと口を開けたまま、なにから手をつけていいか困っていると、親方は両手を打って、腹をかかえて笑いだした。 「うまいうまい。それこそ本物だ」と彼は叫んだ。「わたしがセンに使っていた子どもは狡猾そうな顔つきで、どうだ、あほうのまねはうまかろうと言わないばかりであった。おまえのはそれがいかにも自然でいい。どうしてすばらしいものだ」 「でもぼく、どうしていいのかわからないんです」 「それだからそんなにうまくやれるのだ。おまえに芝居がわかるとかえって、いま思っているようなことをわざとするようになるだろう。なんでもいまのどうしていいかわからずに困っている心持ちを忘れないようにしてやれば、いつも上出来だよ。つまり役の性根は、猿と人間が、主人と家来と身分を取りかえたついでに、馬鹿を利口と取りかえて、とんだあほうの取り違え、これが芝居のおかしいところなのだ」  『ジョリクール氏の家来』はオオ芝居というのではなかったから、二十分より長くは続かなかった。ヴィタリスはわたしたちにたびたびそれをくり返させた。わたしは主人がずいぶん辛抱強いので驚いた。これまで村でよく動物をしこむところを見たが、ひどくしかったり、ぶったりしてやっとしこむのであった。ずいぶんけいこは長くやったが、親方は一度も怒ったこともなければ、しかったこともなかった。 「さあ、もう一度やり直しだ」と彼は厳しい声で言って、いけないところを直した。「カピ、それはいけません。ジョリクール、気をつけないとしかりますぞ」  これがすべてであった。しかしそれでじゅうぶんであった。  わたしを教えながら彼は言った。「なんでもけいこには犬をお手本にするがいい。犬と猿とを比べてごらん。ジョリクールは成程はしっこいし、知恵もあるけれども、注意もしないし、従順でもないのだ。彼は教えられたことはわけなく覚えるが、すぐそれを忘れてしまう。それに彼は言われたことをわざとしない。かえってあべこべなことをしたがる。それはこの動物の性質だ。だからわたしはあれに対してはおこらない。猿は犬と同じ良心を持たない。あれには義務という言葉の意味がわかっていない。それが犬におとるところだ。分かったかね」 「ええ」 「おまえは利口で注意深い子だ。まあなんによらず素直に、自分のしなければならないことをいっしょうけんめいにするのだ。それを一生’覚えておいで」  こういう話をしているうち、わたしは勇気をふるい起こして、芝居のけいこのあいだなによりわたしをびっくりさせたことについて彼に質問した。どうして彼が犬や猿やわたしに対してあんなに辛抱強くやれるのであろうか。  彼はにっこり笑った。「おまえはヒャクショウたちの仲間にいて、手荒く生き物を取り扱っては、言うことを聞かないと棒でぶつようなところばかり見てきたのだろう。だがそれは大きなまちがいだよ。手荒く扱ったところでいっこう役に立たない。優しくしてやればたいていはうまくゆくものだ。だからわたしは動物たちに優しくするようにしている。むやみにぶてば彼らはおどおどするばかりだ。ものをこわがると知恵がにぶる。それに教えるほうで癇癪を起こしては、ついいつもの自分とはちがったものになる。それではいまおまえに感心されたような辛抱力は出なかったろう。他人を教えるものは自分を教えるものだということがこれでわかる。わたしが動物たちに教訓をあたえるのは、同時にわたしが彼らから教訓を受けることになるのだ。わたしはあれらの知恵を進めてやったが、あれらはわたしの品性を作ってくれた」  わたしは笑った。それがわたしには奇妙に思われた。でも彼は’なお続けた。 「おまえはそれを奇妙だと思うか。犬が人間に教訓を授けるのは奇妙だろう。だがこれは本当だよ。  すると主人が犬をしこもうと思えば、自分のことをかえりみなければならない。その飼い犬を見れば主人の人がらもわかるものだ。悪人の飼っている犬はやはり悪ものだ。強盗の犬は泥棒をする。馬鹿なヒャクショウの飼い犬は馬鹿で、もののわからないものだ。親切な礼儀正しい人は、やはり気質のいい犬を飼っている」  わたしはあした大ぜいの前に現れるということを思うと、胸がどきどきした。犬や猿はまえからもうナンビャッペンとなくやりつけているのだから、かえってわたしよりえらかった。わたしがうまく役をやらなかったら、親方はなんと言うだろう。見物はなんと言うだろう。  わたしはくよくよ思いながらうとうとねいった。その夢の中で、おおぜいの見物が、わたしがなんて馬鹿だろうと言って、腹をかかえて笑うところを見た。  あくる日になると、いよいよわたしは心配でおどおどしながら、芝居をするはずのさかり場まで行列を作って行った。  親方が先に立って行った。セイの高い彼は首をまっすぐに立て、胸を前へつき出して、おもしろそうに笛でワルツをふきながら、手足で拍子をとって行った。その後ろにカピが続いた。イギリスの大将の軍服をまねた金モールでへりをとった赤い上着をき、鳥の羽根でかざったかぶとをかぶったジョリクールがその背中にいばって乗っていた。  ゼルビノとドルスが、ほどよく離れてそのあとに続いた。  わたしがしんがりを務めていた。わたしたちの行列は親方の指図どおり適当な間を隔てて進んだので、かなり人目に立つ行列になった。  なによりも親方のふくするどい笛のネにひかれて、みんなうちの中から駆け出して来た。とちゅうの家の窓という窓はカーテンが引き上げられた。  子どもたちの群れがあとからかけてついて来た。やがて広場に着いた時分には、わたしたちの行列に、はるか多い見物の行列がつながって、たいした人だかりであった。  わたしたちの芝居小屋はさっそくできあがった。四本の木に縄を結び回して、その’長方形の真ん中にわたしたちは陣取ったのである。  番組の第一は犬の演じるいろいろな芸当であった。わたしは犬がなにをしているかまるっきりわからなかった。わたしはもう心配で心配で自分の役を復習することにばかり気を取られていた。わたしが記憶していたことは、親方が笛をそばへ置き、ヴァイオリンを取り上げて、犬のおどりに合わせてひいたことで、それはダンス曲であることもあれば、静かな悲しい調子の曲であることもあった。縄張りの外に見物はぞろぞろ集まっている。わたしはこわごわ見回すと、数知れないひとみの光がわたしたちの上に集まっていた。  一番の芸当が終わると、カピが歯の間にブリキの盆をくわえて、お客さまがたの間をグルグル回りを始めた。見物の中でゼニを入れない者があると、立ち止まって二本の前足をこのけちんぼうなお客の隠しに当てて、三度ほえて、それから前足で隠しを軽くたたいた。それを見るとみんな笑いだして、うれしがってときの声を上げた。  冗談や、嘲笑のささやきがそこここに起こった。 「どうも利口な犬じゃないか。あいつは’かねを持っている人といない人を知っている」 「そら、ここに手をかけた」 「出すだろうよ」 「出すもんか」 「おじさんから遺産をもらったくせに、けちな男だなあ」  さてとうとう銀貨が一枚おく深い隠しの中からほり出されて、盆の中にはいることになった。そのあいだ親方は一ゴンもものは言わずに、カピの盆を目で見送りながら、おもしろそうにヴァイオリンをひいた。まもなくカピが得意らしく盆にいっぱい-お金を入れて帰って来た。  いよいよ芝居の始まりである。 「さてだんなさまがたおよび奥さまがたに申し上げます」  親方は、片手に弓、片手にヴァイオリンを持って、身ぶりをしながら口上を述べだした。 「これより『ジョリクール氏の家来。1名とんだあほうの取り違え』と題しまする愉快な喜劇をごらんにいれたてまつります。わたくしほどの芸人が、手前みそに狂言の功能をならべたり、一座の役者の提灯持ちをして、自分から品を下げるようなことはいたしませぬ。ただいちごん申しますることは、どうぞよくよくお目’止められ、お耳’止められ、お手拍子ご喝采のご用意を願っておくことだけでございます。始まり」  親方は愉快な喜劇だと言ったが、じつはだんまりの身ぶり狂言にすぎなかった。それもそのはずで、立役者の二人まで、/ジョリクールも、カピもひと言も口は’きけなかったし、第三の役者のわたしもフタコトとは言うことがなかった。  けれども見物に芝居をよくわからせるために、親方は芝居の進むにつれて、かどかどを音楽入りで説明した。  そこでたとえば勇ましい戦争の曲をひきながら、/彼はジョリクール大将が登場を知らせた。大将はインドの戦争でたびたび功名を現して、いまの高い地位にのぼったのである。これまで大将はカピという犬の家来をひとり使っていたが、出世していてお金が取れて、ぜいたくができるようになったので、人間の家来をかかえようと思っている。長いあいだ動物が人間の奴隷であったけれども、それがあべこべになるときが来たのである。  家来の来るのを待つあいだに、大将は葉巻きをふかしながらあちこちと歩き回る。見物の顔に彼が煙草の煙をふっかけるふうといったら、見ものであった。なかなか来ないのでじれて、人間が癇癪を起こすときのように目玉をくるくる回し始める。くちびるをかむ。地団太を踏む。三度目に地団太を踏んだときに、わたしがカピに連れられて舞台に現れることになる。  わたしが役を忘れていれば犬が教えてくれるはずになっていた。  やがてころ合いの時分に、/彼は前足をわたしのほうへ出して、大将がわたしを紹介した。  大将はわたしを見ると、がっかりしたふうで両手を上げた。なんだ、これがわざわざ連れて来た家来かい。それから彼は歩いて来て、わたしの顔を不遠慮にながめた。そうして肩をそびやかしながら、わたしの回りを歩き回っていた。その様子がそれは滑稽なので、誰もふき出さずには’いられなかった。見物が成程、この猿はわたしをあほうだと思っているなと納得する。そうして見物もやはりわたしをあほうだと思いこんでしまう。  芝居がまたいかにもわたしのあほうさの底が知れないようにできていた。することなすことに猿はかしこかった。  いろいろとわたしを試験をしてみた末、大将は可哀想になって、とにかく朝飯を食べさせることにする。彼はもう朝飯の仕度のできているテーブルを指さして、わたしにすわれといって合図をした。 「大将の考えでは、この家来にまあなにか食べるものでも食べさしたら、これほどあほうでもなくなるだろうというのですが、さて、どんなものでしょうか」と、ここで親方が口上をはさんだ。  わたしは小さなテーブルに向かって腰をかけた。テーブルの上には食器が並んで、皿の上にナプキンが置いてあった。このナプキンをわたしはどうすればいいのだろう。  カピがその使い方を手まねで教えてくれた。しばらくしげしげとながめたあとで、わたしはナプキンで鼻をかんだ。  そのとき大将が腹をかかえて大笑いをした。そうしてカピはわたしのあほうにあきれ返って、四つ足ででんぐり返しを打った。  わたしは’やりそこなったことがわかったので、またナプキンをながめて、それをどうすればいいかと考えていた。  やがて思いついたことがあって、わたしはそれを丸く巻いてネクタイにした。大将がもっと笑った。カピがまたでんぐり返しを打った。  そのうちとうとう我慢がしきれなくな-って、大将がわたしを椅子から引きずり下ろして、自分が代わりに腰をかけて、わたしのためにならべられている朝飯を食べだした。  ああ、/彼のナプキンを扱うことのうまいこと。いかにも上品に軍服のボタンの穴にナプキンをはさんでひざの上に広げた。それからパンをさいて、お酒を飲む優美なしぐさといったらない。けれどいよいよ食事がすんで、/彼が小ようじを言いつけて、器用に歯をせせって(つついて)見せたとき、割れるほど大かっさいがほうぼうに起こって、芝居はめでたくまい納めた。 「なんというあほうな家来だろう。なんというかしこい猿だろう」  宿屋に帰る道みち、親方はわたしをほめてくれた。わたしはもう立派な喜劇役者になって、主人からおほめの言葉をいただいて、得意になるほどになったのである。 ◇。◇。◇。 【第7章】 【読み書きのけいこ】 ◇。◇。◇。  ヴィタリス親方の小さな役者の一座は、どうしてなかなか達者ぞろいにはちがいなかったが、その曲目はそうたくさんはなかったから、長く同じ’町にいることはできなかった。  ユッセルに着いて三日目には、また旅に出ることになった。  今度は’どこへ行くのだろう。  わたしはもう大胆になって、こう質問を親方に発してみた。 「おまえはこの辺のことを知っているか」と、/彼はわたしの顔を見ながら言った。 「いいえ」 「じゃあなぜ、どこへ行くと言って聞くのだ」 「知りたいと思って」 「なにを知りたいのだ」  わたしはなんと答えていいかわからないので、だまっていた。 「おまえは本を読むことを知っているか」  彼はしばらく考え深そうにわたしの顔を見て、こうたずねた。 「いいえ」 「本にはこれからわたしたちが旅をして行く土地の名や/むかしあったいろいろなことが書いてある。一度もそこへ来たことがなくっても、本を読めばまえから知ることができる。これから道みち教えてあげよう。それはおもしろいお話を聞かせてもらうようなものだ」  わたしはまるっきりものを知らずに育った。もっともたったひと月’村の学校に行ったことがあった。けれどその月じゅうわたしは一度も本を手に持ったことはなかった。わたしがここに話をしている時代には、フランスに学校のあることを自慢にしない村がたくさんあった。よし学校の先生のいる所でも、その人はなんにも知らないか、さもなければなにかほかに仕事があって、預った子どもの世話をろくろくしない者が多かった。  わたしたちの村の学校の先生がやはりそれであった。それは先生がものを知らないというのではないが、わたしが学校に行っているひと月じゅう/彼はただの一課をすら教えなかった。彼はほかにすることがあった。その先生は’商売が靴屋であった。いや誰もそこから皮の靴を買う者がなかったから、本当は木靴屋だと言ったほうがいい。彼は一日こしかけに腰をかけて木靴にするけやきやくるみの木をけずっていた。そういうわけでわたしはなにも学校では教わらなかったし、アベセをすら教わらなかった。 「本を読むってむずかしいことでしょうか」  わたしはしばらく考えながら歩いて、こう聞いた。 「頭のにぶい者には難かしいが、それよりも習いたい気のない者にはもっとむずかしい。おまえの頭はにぶいかな」 「ぼくは知りません。けれども教えてくだされば習いたいと思います」 「よしよし、考えてみよう。まあ、ゆっくり教えてあげよう。たっぷり暇はあるからね」  たっぷり暇があるからゆっくりやろう。なぜすぐに始めないのだろう。わたしは本を読むことを習うのがどんなにむずかしいか知らなかった。もう本を開ければすぐに中に書いてあることがわかるように思っていた。  そのあくる日歩いて行くとちゅう、親方は腰をかがめて、埃をかぶった板きれを拾い上げた。 「ほら、これがおまえの習う本だ」と彼は言った。  なにこの板きれが本だとは。わたしは’冗談を言っているのだろうと思って、/彼の顔を見た。けれど彼は’いっこうに真面目な顔をしていた。わたしは木ぎれをじっと見た。  それは腕ぐらい長さがあって、両手をならべたくらい幅があった。そのうえには字も絵も書いてはなかった。  わたしは揶揄われるような気がした。 「あすこ’の木の蔭へ行って休んでからにしよう。そこでどういうふうにわたしがこれを使って、本を読むことを教えるか、話してあげよう」と親方は言って、わたしのびっくりしたような顔を笑いながら見た。  わたしたちは木の蔭へ来ると、背嚢を地べたに下ろして、そろそろヒナギクのさいているアオクサの上にすわった。ジョリクールは鎖を解いてもらったので、さっそく木の上にかけ上がって、くるみを落とすときのように、こちらの枝からあちらの枝をゆすぶって騒いでいた。犬たちはくたびれて回りに丸くなっていた。  親方は隠しからナイフを出して、いまの板きれの両側をけずって、同じ大きさのコイタを十二本こしらえた。 「わたしはこの一本一本の板に一つずつの字をほってあげる」と彼はわたしの顔を見ながら言った。わたしは’じっとかれから目を放さなかった。「おまえはこの字を形で覚えるのだ。それをひと目見てなんだということがわかれば、それをいろいろに組み合わせて言葉にするけいこをするのだ。言葉が読めるようになれば、本を習うことができるのだ」  やがてわたしの隠しはその小さな木ぎれでいっぱいになった。それでアベセの字を覚えるのに暇はかからなかったけれども、読むことを覚えるのは別の仕事であった。なかなか早くはいかないので、ときにはなぜこんなものを教わりたいと言いだしたかと思って、後悔した。でもこれは、わたしがなまけ者でもなく、負けおしみが-つよかったからである。  わたしに字を教えながら親方は、それを一緒にカピにも教えてみようかと思い立った。犬は時計から時間を探し出すことを覚えたくらいだから、文字を覚えられないことはなかった。それでカピとわたしは同級生になって、一緒にけいこを始めた。犬はもちろん’口で言えないから、木ぎれが残らず草の上にまき散らされると、/彼は前足で、言われた文字をその中から拾い出して-こなければならなかった。  はじめはわたしもカピよりはずっと進歩が早かった。けれどわたしは理解こそ早かったが、物覚えは、犬のほうがよかった。犬は一度’物を教わると、いつもそれを覚えて忘れることがなかった。わたしがまちがうと親方はこう言うのである。 「カピのほうが先に読むことを覚えるよ、ルミ」  そう言うとカピはわかったらしく、得意になってしっぽをふった。  そこでわたしはくやしくなって気を入れて勉強した。それで犬がやっと自分の名前の四つの字を拾い出してつづることしかできないのに、わたしはとうとう本を読むことを覚えた。 「さて、おまえは言葉を読むことは覚えたが、どうだね、今度は譜を読むことを覚えては」と親方が言った。 「譜を読むことを覚えると、あなたのように歌が歌えますか」とわたしは聞いた。 「ああ。そうするとおまえもわたしのように歌が歌いたいと思うのかい」と親方が答えた。 「とてもそんなによくはできそうもないと思いますけれども、/少しは歌いたいと思います」 「じゃあわたしが歌を歌うのを聞くのは好きかい」 「ええ、わたしは、なによりそれが好きです。それはうぐいすの歌よりずっと好きです。けれどもまるでうぐいすの歌とはちがいますね。あなたが歌っておいでになると、ぼくは歌のとおりに泣きたくなることもあるし、笑いたくなることもあります。馬鹿だと思わないでください。あなたが静かにさびしい歌をお歌いになると、わたしはまたバルブレンのおっかあの所へ帰ったような気がするのです。目をふさいで聞いていると、またうちにいるおっかあの姿が目にうかびますけれども、歌はイタリア語だからわかりません」  わたしはあお向いて彼を見た。彼の目には涙が溢れていた。そのときわたしは言葉を切って、 「気にさわったのですか」とたずねた。  彼は声をふるわせながら言った。「いいや、気にさわるなんということはないよ。それどころかおまえは、わたしを遠い子どもだったむかしにもどしてくれた。そうだ、ルミや、わたしは歌を教えてあげよう。そうしておまえは情け深いたちだから、やはりその歌で人を泣かせることもできるし、人にほめられるようにもなるだろう」  彼は言いかけてふとやめた。わたしは彼がそのとき、そのうえに言うことを好まないらしいのがわかった。わたしには彼がそんなに悲しく思うわけがわからなかった。でもあとになって、それはある悲しい’事情から初めてわかった。いずれ’わたしの話の進んだとき、それを言うおりがあるであろう。  そのあくる日、/彼は小さく木を切って文字を作ったと同様に音譜をこしらえた。  音譜はアベセより入りくんでいた。今度は習うのにもいっそう骨も折れたし、退屈でもあった。あれほど犬に対して辛抱のいい親方も、一度ならずわたしには堪忍の緒を切ったこともあった。彼は叫んだ。 「畜生に対しては、かわいそうな、口のきけないものだと思って我慢するけれど、おまえではまったく気違いにさせられる」と、こう彼は言って、芝居のように両手を空に上げて、急にまた下に下ろして、はげしくももを打った。  自分がおもしろいと思うと、まねをしてはおもしろがっているジョリクールは、今度も主人の身ぶりをまねていた。毎日わたしのけいこのときに、猿はいつもそばにいるので、わたしがつかえでもすると、そのたんびにがっかりした様子をして、/彼が両腕を空に上げて、また下に下ろしては、ももを打つところを見ると、わたしはしょげずには’いられなかった。 「ご覧、/ジョリクールまでが、おまえを馬鹿にしている」と親方がさけんだ。  わたしが思い切った子なら、猿が馬鹿にしているのは生徒ばかりではなく、先生までも馬鹿にしているのだと言ってやりたかった。けれども失礼だと思ったし、こわさもこわいので遠慮して、心のうちでそう思うだけで満足した。  とうとう何週間もけいこを続けて、わたしは親方が書いた紙から、曲を読むことができるようになった。もう親方も、両手を空に上げなかった。それどころかかえって、歌うたんびにほめてくれて、この調子でたゆまずやってゆけば、きっとえらい歌うたいになれると言ってくれた。  むろんこれだけのけいこが一日でできあがるはずはなかった。何週間のあいだ何カ月のあいだ、わたしの隠しはいつも小さな木ぎれで、いっぱいになっていた。  しかし、わたしの課業は学校にはいっている子どものそれのように、規則正しいものではなかった。親方が課業を授けてくれるのは、その暇な時間だけであった。  毎日’決まった道のりだけは歩いて行かなければならなかった。もっともその道のりは村と村との間が遠いか近いか、それによって長くもなり短くもなった。いくらかでも、収入のある機会を見つけしだい、そこで止まって芝居をうたなければならなかった。犬たちやジョリクール氏に役々の復習をもさせなければならなかった。朝飯も昼飯もてんでんに自分で用意しなければならなかった。読書なり音楽なりの仕事は、つまりそういうもののすんだあとのことであった。まあいちばんよく教えてもらったのは、休憩の時間で、木の根かたや、小砂利の山の上や、または芝生なり、道ばたの草の上が、みんな’わたしの木ぎれをならべる机の代わりになった。  この教育法は普通の子どもの受けるそれとは、/少しも似たところがなかった。普通の子どもなら、ただ勉強するほかに仕事は’ないし、それでも彼らはしじゅうあたえられた宿題をやる時間がないといって、ぶつぶつ言うのである。  けれど、勉強に使う時間のあるなしよりも、もっと大切なものがあった。それはその仕事に専念するということであった。授かった課業を覚えるのは、覚えるために費される時間ではなくって、それは覚えたいと思う熱心であった。  幸いにわたしは、ぐるりに起こる出来事に心をうばわれることなしに、夢中に勉強のできるたちであった。もしその時分わたしが、部屋の中に閉じこもって、両手で耳をふさいで、目を本にはりつけたようにしているのでなければ、勉強のできない生徒のようであったら、わたしになにができたろう、なにもできはしない。なぜというに、わたしには、閉じこもる部屋もなかった。往来に沿って前へ前へと進みながら、時々もう躓いて倒れそうになるほど痛い足の先を、見つめ見つめしてゆかなければならなかった。  だんだんわたしはおかげでいろんなことを覚えた。と同時に親方の授けてくれた課業以上に有益な長い旅行をした。わたしがバルブレンのおっかあの所にいた時分には、ごくやせっぽちな子どもであった。みんながわたしを見て言った言葉で、その様子はよくわかる。「町の子どもだ」と、バルブレンは言ったし、「ひどくひょろひょろした手足の子だ」と親方は言った。  ところが親方のあとについて、広い青空の下に困難な生活を続けているあいだに、わたしの手足は強くなり、肺臓は発達し、皮膚は厚くなり、ちょうどかぶとをかぶったように/寒さをも暑さをもしのぐことができるようになった。  こうして、このつらいお弟子修行のおかげで、わたしは少年時代に、たいていの困難に打ち勝ってゆく力を養うことのできたのは、あとで思えば非常な幸福であった。 ◇。◇。◇。 【第8章】 【山こえて谷こえて】 ◇。◇。◇。  わたしたちはフランスの中央の一部、たとえばローヴェルニュ、/ル・ヴレー、/ル・リヴァレー、/ル・ケルシー、/ル・ルーエルグ、/レ・セヴェンネ、/ル・ラングドックというような土地土地をめぐって歩いた。  わたしたちの流行はしごく簡単であった。どこでもかまわずまっすぐに出かけて行って、あまり貧乏でない街だと見ると、まず行列を作る用意を始めて、犬たちに着物を着せかえてやり、ドルスの髪にくしを入れてやる。カピが老兵の役をやっているときは、目の上に包帯をしてやる。最後にいやがるジョリクールに大将の軍服を着せる。これがなによりいちばん厄介な仕事であった。なぜというにこの猿は、これが仕事にかかるまえぶれだということを知りすぎるほど知っていて、なんでも着物を着させまいとするために、それはおかしな芸当を考え出すのであった。そこでわたしは仕方がないからカピを加勢に呼んで来て、二人がかりでどうやらこうやらおさえつけて、言うことを聞かせるのであった。  さて一座残らずの仕度ができあがると、ヴィタリス親方は例の笛でマーチをふきながら村の中へ入って行く。  そこでわれわれのあとからついて来る群衆の数が相応になると、さっそく演芸を始めるが、ほんのニサンニン気まぐれな冷やかしのお客だけだとみると、わざわざ足を止める値打ちもないので、かまわずずんずん進んで行く。  一つの町にゴ六にちも続けて滞留しているようなときには、カピがついていさえすれば、親方はわたしをひとり手放して外へ出してくれた。親方はつまりわたしをカピに預けたのである。 「おまえは同じ年ごろの子どもがたいがい学校に行っている時代に、ひょんなことからフランスの国じゅうを歩く回り合わせになっているのだ」と親方はあるときわたしに言った。「だから学校へ行く代わりに、自分で目を開いて、よくものを見て覚えるのだ。見てわからないものがあったら、かまわずにわたしに質問するがいい。わたしだってなんでも知っているわけではないが、一通りおまえの知りたい心を満足させるだけのことはできるだろう。わたしもいまのような人間でばかりはなかった。かなりむかしはいろいろほかの気のきいたことも知っていた」 「どんなことを」 「それはまたいつか話そうよ。ただまあ、むかしから犬や猿の見世物師でもなかったことだけ知ってもらえばよい。なんでも人間は心がけしだいで、いちばん低い位置からどんなにも高い位置に上ることができる。これも覚えていてもらいたい。それでおまえが大きくなったとき、どうかまあ、気の毒な旅の音楽師が自分を養い親の手から引きさらって行ったときには、つらくもこわくも思ったようなものも、つまりそれがよかったのだと思って、喜んでくれるときがあればいいと思うのだ。まあ、こうして境遇の変わるのが、つまりはおまえのために悪くはないかもしれないのだからな」  いったいこの親方はもとはなんであったろう、わたしは知りたいと思った。  さてわたしたちはだんだんめぐりめぐって行って、ローヴェルニュからケルシーの高原に入った。これはおそろしくだだっ広くって荒れていた。小山が波のようにうねっていて、ひらけた土地もなければ、大きな樹木もなかったし、人通りはごく少なかった。小川もなければ池もない。ところどころ水が枯れきって、石ばかりの谷川が目に入るだけであった。その原っぱの真ん中にバスチード・ミュラーという小さな村があった。わたしたちはこの村のある宿屋の物置きに一夜を過ごした。 「そうだ、この村だったよ」とヴィタリス親方が言った。「しかもこの同じ宿屋だったかもしれないが、のちに何万という軍勢を率いる大将がここで生まれたのだ。初めは厩の小僧から身を起こして、公爵になり、のちには王様になった。名前をミュラーと言った。みんながその人を英雄と呼んで、この村をもその名前で呼ぶことになった。わたしはその男を知っていた。たびたび一緒に話をしたこともあった」  わたしもさすがに言葉をはさまずには’いられなかった。 「厩の小僧だったときにですか」 「いいや」と親方は笑いながら答えた。「もう王様だった時分にだよ。今度’初めてわたしはこの地方にやって来たのだ。わたしはその男が王様だったナポリの宮殿で知り合いになったのだ」 「あなたは王様と知り合いなのですか」  わたしのこういった調子は少し滑稽であったとみえて、親方は’さも愉快そうに笑いだした。  わたしたちは厩の戸の前の腰かけに腰をかけて、昼間の太陽のぬくもりのまだ残っている壁に背中をおしつけていた。われわれの頭の上におっかぶさっている大きないちじくの木の中で夕ぜみが鳴いていた。母家の屋根の上には、いま出たばかりの満月が静かに青空に上がっていた。その日は昼間こげるように暑かったので、それがいっそう心持ちよく思われた。 「おまえ、トコに入りたいか」と親方はたずねた。「それともミュラー王の話でもしてもらいたいと思うか」 「ああ、どうぞそのお話をしてください」  そこで親方はわたしと腰かけの上にいるあいだ、長物語をしてくれた。親方が話をしているうちに、だんだん青白い’月の光がななめにさしこんできた。わたしは夢中になって耳を立てた。両方の目をすえてじっと親方の顔を見ていた。  わたしはまえにこんなむかし物語などを聞いたことがなかった。誰がそんな話をして聞かせよう。バルブレンのおっかあはとても話すわけがない。彼女はそんな話は少しも知らなかった。彼女はシャヴァノンで生まれて、多分はそこで死ぬのだろう。彼女の心は目で見るかぎりをこえて先へは行かなかった。それもアンドゥーズサンの頂から見晴らす地平線上に限られていた。  わたしの親方は王様に会ったことがある。その王様は彼と話をした。いったいこの親方は若いときなんであったろう。それがどうしてこの年になって、いまのような身の上になったのだろう‥:‥  わたしの、活発に鋭敏に働く幼い想像と好奇心は、この一つのことにばかり働いた。 ◇。◇。◇。 【第9章】 【シチリぐつをはいた大男】 ◇。◇。◇。  南部地方の高原のかわききった土地を離れてのち、わたしたちは、いつも青あおとした谷間の道を通って、旅を続けた。これはドルドーニュ川の谷で、わたしたちは毎日’少しずつこの谷を下りて行った。なにしろこの地方は土地が豊かで、住民も従ってフウキであったから、わたしたちの興行の度数もしぜん多くなり、例のカピのお盆の中へもなかなかたくさんのお金が投げこまれた。  ふと空中に、ふうわりとちょうど霧の中にくもの糸でつり下げられたように、橋が一つ、大きな川の’上にかかっていた。川はその下にごくおだやかに流れていた─:─これはキュブザックの橋で、川はドルドーニュ川であった。  荒れた町が一つ、そこには古いお堀もあり、岩屋もあり、塔もあった。修道院の荒れた塀の中には、せみが雑木の中で、そこここに止まって鳴いていた─:─これはセンテミリオン寺であった。  けれどそれもこれもみんな’わたしの記憶の中でこんがらがって、ぼやけてしまっているが、そののち’ほどなく、非常に強い印象をあたえた景色が現れた。それはコンニチでもありありと、全体のうきぼりがさながら目の前に現れるくらいあざやかであった。  わたしたちはあるごく貧乏な村に一夜を明かして、あくる日夜の明けないうちから出発した。長いあいだわたしたちは、埃っぽい道を歩いて来て、両側にはしじゅうぶどう畑ばかりを見て来たのが、ふと、それはあたかも目をさえぎっていた窓かけがぱらりと落ちたように、眼界が自由にひらけた。  大きな川が一つ、わたしたちのそのとき行き着いた丘のぐるりをゆるやかに流れていた。この’川のはるか向こうに不規則にゆがんだ地平線までは、大都市の屋根や鐘楼が続いて散らばっていた。どれが家だろう。どれが煙突だろう。中でいちばん高い、いちばん細いのが、ゴ六本、柱のように空につっ立って、そのてっぺんから真っ黒な煙をふき出しては、風のなぶるままに、たなびいて、町の真上に黒いガスの雲をわかしていた。川の’上には、ちょうど中ほどのカシ通りに沿って数知れない船が停泊して、林のように並んだ帆柱や、帆綱や、それにいろいろの色の旗を風にばたばた言わせながらおし合いへし合いしていた。がんがんひびく銅や鉄の音やつちのおと、そういう物音の中に、カシ通りをからから走って行くたくさんの車の音が交じって聞こえた。 「これがボルドーだ」と親方がわたしに言った。  わたしのような子どもにとっては──その年までせいぜいクルーズの貧乏村か、道みち通って来たいくつかのちっぽけな町のほかに見たことのない子どもにとっては、これはおとぎ話の国であった。  なにを考えるともなく、わたしの足はしぜんと止まった。わたしは’じっと立ち止まったまま、前のほうをながめたり、後ろのほうをながめたり、ただもうぼんやり’そこらを見回していた。  しかし、ふとわたしの目は一点にとどまった。それは川のオモテを塞いでいるおびただしい船であった。  つまりそれはなんだか訳のわからない、ごたごたした活動であったが、それが自分でもはっきりつかむことのできない、非常に強い興味をわたしの心にひき起こした。  幾艘かの船は帆をいっぱいに張って、一方にかたむきながら、ゆうゆうと川を下って行くと、こちらからは反対に上って行った。島のように動かずに止まっているものもあれば、どうして動いているかわからないで、くるくる回っている船もあった。最後にもう一つ、帆柱もなければ、帆もなしに、ただ煙突の口から黒い煙のうずを空に巻きながら、黄ばんだ水の上に白いあわのあぜを作りながら、ずんずん走っているものもあった。 「ちょうどいまがマンチョウだ」と親方はこちらから問いかけもしないのに、わたしの驚いた顔に答えて言った。 「長い航海から帰って来た船もある。ほら、ペンキがはげて錆びついたようになっているだろう。あすこへは港を離れて行く船がある。川の真ん中にいる船が満潮に舵を向けるようなふうに、いかりの上でくるくる回っている。煙の雲の中を走って行く船は引き船だ」  わたしにとってはなんという言葉であろう。なんという目新しい事実であろう。  わたしたちが、/パスチードとボルドーを通じている橋の所へ来るまでに、親方はわたしが聞きたいと思った質問の百分の一に答えるだけの暇もなかった。  これまでわたしたちはけっしてとちゅうの町で長逗留をすることはなかった。なぜというに、しじゅう見物をかえる必要から、しぜん毎日’興行の場所をも変えなければならなかった。それに『名高いヴィタリス親方の一座』の役者では、狂言の芸題をいろいろにかえてゆく自由がきかなかった。『ジョリクール氏の家来』『大将の死』『正義の勝利』『下剤をかけた病人』:、そのほかサンヨン種の芝居をやってしまえば、もうおしまいであった。それで一座の役者の芸は種切れであった。そこでまた場所を変えて、まだ見ない見物の前で、これらの狂言を、相変わらず、『下剤をかけた病人』か、『正義の勝利』をやらなければならなかった。  しかし、ボルドーは大都会である。見物は容易に入れかわったし、場所さえ変えると毎日サンヨ-ン回の興行をすることができた。それでもカオールに行ったときのように、『いつでも同じことばかりだ』とどなられるようなことはなかった。  ボルドーを打ち上げてから、わたしたちはポーへ行かなければならなかった。その途中では大きな砂漠をこえなければならなかった。砂漠はボルドーの町の門からピレネーの連山まで続いていて、『ランド』という名で呼ばれていた。  もうわたしもおとぎ話にある若いハツカネズミのように、見るもの聞くものが驚嘆や恐怖の種になるというようなことはなかった。それでもわたしはこの旅行の初めから、親方を笑わせるような失敗を演じて、ポーに着くまで、そのためなぶられどおしになぶられるほかはなかった。  わたしたちはシチハチニチのちボルドーを出発した。ガロンヌ川沿岸の土地を回ったのち、ランゴンで川を離れて、モン・ド・マルサンへ行く道をとった。その道はつま先下がりに下がっていった。もうぶどう畑もなければ、牧場もない。果樹園もない、ただ松と灌木の林があるだけであった。やがて人家もだんだん少なくなり、だんだん’みすぼらしくなった。とうとうわたしたちは大きな高原の真ん中にいた。ところどころ高低はあっても、日の届くかぎり野原であった。畑地もなければ森もない、遠方から見るとただ一色のねずみ色の土地であった。道の両側がうす黒いこけや、しなびきった灌木や、いじけたエニシダでおおわれていた。 「わたしたちはランドの中に来たのだ」と親方が言った。「この砂漠のまん中まで行くには二十里か二十五里(八十キロか百キロ)行かなければならない。しっかり足に元気をつけるのだぞ」  元気をつけなければならないのは足だけではなかった。頭にも、胸にも、元気をつけなければならなかった。なぜといって、もう終わる時のないように広い砂漠の道を歩いて行くとき、誰でもぼんやりして、わけのわからない悲しみと、がっかりしたような心持ちに胸がふさがるのであった。  そののちもわたしはたびたび海上の旅をしたが、いつも大洋の真ん中で帆影一つ見えないとき、わたしはやはりこの無人の土地で感じたとおりの言いようもない悲しみを、また経験したことがあった。  大洋の中にいると同様に、わたしたちの日は遠い秋霧の中に消えている地平線まで届いていた。ひたすら広漠と単調が広がっている灰色の野のほかに、なにも目をさえぎるものがなかった。  わたしたちは歩き続けた。でも機械的に時々ぐるりと見回すと、やはりいつまでも同じ場所に立ち止まったまま、/少しも進んでいないように思われた。目に見える景色はいつでも同じことであった。相変わらずの灌木、相変わらずのエニシダ、相変わらずの苔であった。風がふくとやわらかなわらびの葉がなよなよと動いて、まるで波の走るように高く低く走った。  ずいぶん長いあいだをおいて、たまさか、わたしたちはちょいとした森を通りぬけることがあったが、その森は普通の森のように、とちゅうのキ-ョウをそえるようなものではなかった。いつも松の木の森で、その枝は梢まで風に打ち落とされていた。幹に長く、深い傷がえぐれていた。その赤い傷口からすきとおった松脂の涙が流れ出していた。風が傷口からふきこむと、いかにも悲しそうな音楽を奏して、この気の毒な松がみずから痛みをうったえる声のように聞かれた。  わたしたちは朝から歩き続けていた。親方は夜までにはどこか泊まれる村に着くはずだと言っていた。けれど夜になっても、その村らしいものは見えなかったし、人家に近いことを知らせる煙も上がらなかった。  わたしはくたびれたし、ねむたかった。わたしたちは前途は’ただ原っぱを見るだけであった。  親方もやはりくたびれていた。彼は足を止めて道ばたに休もうとした。  わたしはそれよりも、左手にあった小山に登って、村の火が見えるかどうか見たいと思った。  わたしはカピを呼んだが、カピもやはりくたびれていたので、呼んでも聞こえないふりをしていた。これはいつでも言うことを聞きたくないときにカピのやることであった。 「おまえ、こわいのか」とヴィタリスは言った。  この質問がすぐにわたしを奮発さして、一人で行く気を起こさせた。  夜は’すっかり垂れまくを下ろした。月もなかった。空の上には星の光がうすもやの中にちらちらしていた。歩いて行くと、そこらのさまざまな物がぼんやりした光の中で奇妙な幽霊じみた形をしているように見えた。野生のエニシダが、頭の上にぬっと高く延びて、まるでわたしのほうへ向かって来るように見えた。上へ登れば登るほどいばらや草むらはいよいよ深くなって、わたしの頭をこして、上でもつれ合っていた。時々わたしはその中をくぐって抜けて行かなければならなかった。  けれどわたしはぜひも頂上まで登らなければならないと決心した。でもやっとのこと登ってみれば、どちらを見ても明かりは見えなかった。ただもう奇妙な物の形と、大きな樹木が、いまにもわたしをつかもうとするように腕を延ばしているだけであった。  わたしは耳を立てて、犬の声か、雌牛のうなり声でも聞こえはしないかと思ったが、ただもうしんと静まり返っていた。  どうかして聞き取ろうと思うから、耳をすませて、自分の立てる息の音さえ遠慮をして、わたしはしばらくじっと立っていた。  ふとわたしはぞくぞく身ぶるいがしだした。このさびしい、人けのない荒野原の静けさが、わたしをおびやかしたのであった。なんにわたしはおびえたのであったか、多分あまり静かなことが‥:‥夜が‥:‥とにかく言いようのない恐怖がわたしの心にのしかかるようにしたのであった。わたしの心臓は、まるでそこになにか危険がせまったようにどきついた。  わたしはこわごわ辺りを見回した。するとそのとき、遠方に大きな姿をしたものが木の中で動いているのを見た。それと一緒にわたしは木の枝のガサガサいう音’を聞いた。  わたしは無理に、それは自分の気の迷いだと思いこもうとした。きっとそれは木の枝か灌木の蔭かなんぞだったのだ。  けれど、そのとき風は、木の葉を動かすほどの軽い風もふいてはいなかった。はげしい風でふかれるか、誰かがさわらないかぎり動くはずはなかったのである。 「誰かしら」  いや、この自分のほうを目指してやって来る大きな影法師が人間であるはずがなかった─:─わたしのまだ知らないなにかの獣か、またはおそろしい大きな夜鳥か、大きなバケグモが木の上を跳びこえて来るのだ。なんにしても確かなことは、この化け物はおそろしく長い足をしていて、馬鹿馬鹿しく早く飛んで来るということであった。  それを見るとわたしはあわてて、あとをも見ずに、足に任せて小山を駆け下りて、ヴィタリスのいる所まで逃げようとした。  けれど奇妙なことに、登るときだけに早くわたしの足が進まなかった。わたしはいばらや、雑草の藪の中に転がって、フタ足ごとにひっかかれた。  ちくちくするいばらの中から這い出して、わたしはふと後ろをふり向いてみた。怪物はいよいよ近くにせまっていた。もういまにも頭の上に跳びかかりそうになっていた。  運よく野原はそういばらがなかったので、いままでよりは、早くかけだすことができた。  でもわたしがありったけの速力で、競争しても、その怪物はずんずん追いぬこうとしていた。もう後ろをふり返る必要はなかった。それがわたしのすぐ背中にせまっていることはわかっていた。  わたしは息もつけなかった。競争で疲れきっていた。ただハアスウ、ハアスウ言っていた。しかし最後の大努力をやって、わたしは転げこむように親方の足もとにかけこんだ。三びきの犬はあわててはね起きて、大声でほえた。わたしはやっと二つの言葉をくり返した。 「化け物が、化け物が」  犬たちのけたたましい吠え声よりも高く、はちきれそうな大笑いの声を聞いた。それと同時に親方は両手でわたしの肩をおさえて、無理に顔を後ろにふり向けた。 「お馬鹿さん」と彼は叫んで、まだ笑いやめなかった。「まあよく見なさい」  そういう言葉よりも、そのけたたましい笑いこえがわたしを正気に返らせた。わたしは片目ずつ開けてみた。そうして親方の指さすほうをながめた。  あれほどわたしをおどかした怪物はもう動かなくなって、じっと往来に立ち止まっていた。  その姿を見ると、正直の話/わたしはまたふるえだした。けれど今度はわたしも親方や犬たちのそばにいるのだ。草やぶのしげった中に独りぼっちいるのではなかった‥:‥わたしは思い切って目を上げて、じっとその姿を見つめた。  獣だろうか。  人だろうか。  人のようでもあって、胴はあるし、頭も両腕もあった。  獣らしくもある。けれどもかぶっていた毛むくじゃらな身の皮と、それをのせているらしい2本の長細いすねは、それらしい。  夜は’いよいよ暗かったが、この黒い影法師は星明かりにはっきりと見えた。  わたしはしばらく、それがなんだかまだわからずにいたのであったが、親方はやがてその影法師に向かって話をしかけた。 「まだ村にはよほど遠いでしょうか」と、/彼はていねいにたずねた。  話をしかけるところから見れば人間だったか。  だがそれは返事はしないで、ただ黙った。その笑い声は鳥の鳴き声めいていた。  すると獣かな。  主人はやはり問いを続けた。  こうなると、それが今度’口をきいて返事をしたら、やはり人間にちがいなかった。  ところでわたしのびっくりしたことには、その怪物は、この近所には人家はないが、羊小屋は一軒あるから、そこへ連れて行ってやろうと言った。  おやおや、口がきけるのに、なぜ獣のような前足があるのだろう。  わたしに勇気があったら、その男のそばへ行って、どんなふうに前足ができているか見て来るところであったろうが、わたしはまだ少しこわかった。そこで背嚢をしょい上げてひと言も言わずに親方のあとについて行った。 「これでおまえ、正体がわかったろう」と親方は言って、道みち歩きながらも笑っていた。 「でもぼくはまだなんだかわかりません。じゃあこの辺には大男がいるのですか」 「そうさ。タケウマに乗っていれば大男にも見えるさ」  そこで彼はわたしに説明してくれた。砂地や沼沢が多いランド地方の人は、沼地を歩くとき水にぬれないように、タケウマに乗って歩くというのであった。なんてわたしは馬鹿だったのであろう。 「これでこの辺の人が、シチリぐつをはいた大男になって、子どもをこわがらせたわけがわかったろうね」 ◇。◇。◇。 【第10章】 【裁判所】 ◇。◇。◇。  ポー市には愉快な記憶がある。そこは冬/ほとんど風のふかない心持ちのいい休み場であった。  わたしたちはそこに冬じゅういた。かねもずいぶんたくさん取れた。お客はたいてい子どもたちであったから、同じ演芸を何度も何度もくり返してやってもあきることがなかった。金持ちの子どもたちで、多くはイギリス人とアメリカ人の子どもであった。ぽちゃぽちゃとかわいらしく太った男の子、それに、大きな優しい、ドルスの目のような美しい目をした女の子たちであった。そういう子どもたちのおかげでわたしはアルバートだの/ハントリだのという菓子の味を覚えた。なぜというに子どもたちはいつでも隠しにいっぱいお菓子をつめこんで来ては、/ジョリクールと/犬と/わたしに分けてくれたからであった。  けれども春が近くなるに従って、お客の数はだんだん少なくなった。芝居がすむと一人ずつまた二人ずつ、子どもたちはやって来て、/ジョリクールと/カピと/ドルスに握手をして行った。みんなさようならを言いに来たのであった。そこでわたしたちもまたなつかしい冬の休息所を見捨てて、またもや果て知れない漂泊の旅に出て行かなければならなかった。それはいく週間と知らない長いあいだ、谷間をぬけ山をこえた。いつもピレネー連山のむらさき色のみねを横に見た。それはうずたかくもり上がった雲のかたまりのように見えていた。  さてある晩/わたしたちは川に沿った豊かな平野の中にある大きな町に着いた。赤れんがのみっともない家が多かった。とんがった小砂利をしきつめた往来が、イチニチ十二マイル(約十九キロ)も歩いて来た旅行者の足をなやました。親方はわたしに、ここがツールーズの町だと言って、しばらくここに滞留するはずだと話した。  例によってそこに着いていちばん初めにすることは、あくる日の興行に都合のいい場所を探すことであった。  都合のいい場所はけっして少なくはなかったが、とりわけ植物園の近傍(近所)のきれいな芝生には、大きな樹木が気持ちのいいかげを作っていて、そこへ広い並木道がほうぼうから集まっていた。その並木道の一つで第一回の興行をすることにした。すると初日からもう見物の山を築いた。  ところで不幸なことに、わたしたちが仕度をしているあいだ、巡査が一人そばに立っていて、わたしたちの仕事を不快らしい顔で見ていた。その巡査はおそらく犬が嫌いであったか、あるいはそんな所にわれわれの近寄ることを不都合と考えたのか、ひどく不機嫌で/わたしたちを追いはらおうとした。  追いはらわれるままにわたしたちは素直に出て行けばよかったかもしれなかった。わたしたちは巡査にたてをつくほどの力はないのであったが、しかし親方はそうは思わなかった。  彼は’たかが犬を連れて田舎を興行して回る見世物師の老人ではあったが、非常に気位が-たかかったし:、権利の思想をじゅうぶんに持っていた彼は、法律にも警察の規律にも背かないかぎり/かえって警察から保護を受けなければならないはずだと考えた。  そこで巡査が立ちのいてくれと言うと、/彼はそれを拒絶した。  もっとも親方は非常にていねいであった。親方があまりはげしくおこらないとき、または他人をすこし愚弄(馬鹿にする)しかけるときするくせで、まったく彼はそのイタリア風の慇懃(馬鹿ていねい)を極端に用いていた。ただ聞いていると、/彼はなにか高貴な/有力な人物と応対しているように思われたかもしれなかった。 「権力を代表せられるところの閣下よ」と彼は言って、帽子をぬいでていねいに巡査にお辞儀をした。「閣下は果たして、右の権力より発動しまするところのご命令をもって:、われわれごときあわれむべき旅芸人が、公園において卑しき技芸を演じますることを禁止せられようと言うのでございましょうか」  巡査の答えは、議論の必要はない、ただだまってわたしたちは服従すればいいというのであった。 「成程」と親方は答えた。「わたくしはただあなたがいかなる権力によって、このご命令をお発しになったか、それさえ承知いたしますれば、さっそくおおせつけに服従いたしますことを、つつしんでセイゴンいたしまする」  この日は巡査も背中を向けて行ってしまった。親方は帽子を手に持って腰を曲げたまま、ニヤニヤしながら、旗を巻いて退く敵に向かって敬礼した。  けれどその翌日も、巡査はまたやって来た。そうして私たちの芝居小屋の囲いの縄を跳びこえて、興行半ばにかけこんで来た。 「この犬どもにクチワをはめんか」と、/彼は荒々しく親方に向かって言った。 「犬にクチワをはめろとおっしゃるのでございますか」 「それは法律の命ずるところだ。貴様は知っているはずだ」  このときはちょうど『下剤をかけた病人』という芝居をやっている最中で/ツールーズでは初めての狂言なので、見物もいっしょうけんめいになっていた。  それで巡査の干渉に対して、見物が小言を言い始めた。 「邪魔をするない」 「芝居をさせろよ、おまわりさん」  親方はそのときまず見物のさわぐのをとどめて、さて毛皮の帽子をぬぎ、そのかざりの羽根が地面の砂と、すれすれになるほど、三度まで大げさなお辞儀を巡査に向かってした。 「権力を代表せられる令名’高き閣下は、わたくしの一座の俳優どもに、クチワをはめろというご命令でございますか」  と彼はたずねた。 「そうだ。それもさっそくするのだ」 「なに、カピ、/ゼルビノ、/ドルスにクチワをはめろとおっしゃるか。」親方は巡査に向かって言うよりも、むしろ見物に対して聞こえよがしにさけんだ。「さてさてこれは皮肉なお考えですな。なぜと申せば、音に名高き大先生たるカピぎみが、鼻の先にクチワをかけておりましては:、どうして不幸なるジョリクール氏が服すべき下剤の調合を命ずることができましょう。モノもあろうにクチワなどとは、氏が医師たる職業がふさわしからぬ道具であります」  この演説が見物をいっせいに笑わした。子どもたちの黄色い声に親たちの濁った声も交じった。親方は喝采を受けると、いよいよ図に乗って弁じ続けた。 「さて”またかの美しき看護婦ドルス嬢にいたしましても、ここに権力の残酷なる命令を実行いたしましたあかつきには、いかにしてあの巧妙なる弁舌をもって、病人に勧めてよくその苦痛をヤワグる下剤を服用させることができましょうや。賢明なる観客諸君のご判断をあおぎたてまつります」  見物人の拍手喝采と笑い声で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に賛成して巡査を嘲弄した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ面をするのをおもしろがっていた。この猿は『権力が代表せられる令名’高き閣下』の真後ろに座をかまえて/滑稽なしかめっ面をして見せていた。巡査は両腕を組んで、それからまた放して、げんこつを腰に当てて、頭を後ろに反らせていた。そのとおりを猿はやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。  巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいだ猿と人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。  群衆はおもしろがって金切りごえを上げていた。 「貴様の飼い犬が’あすもクチワをしていなかったら/すぐ貴様を拘引する。それだけを言いわたしておく」 「さようなら閣下。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。  巡査が大股に出て行くと、親方は腰をほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかいづらに敬礼していた。そして芝居は続けて演ぜられた。  わたしは親方が犬のクチワを買うかと思っていたけれども、/彼はまるでそんな様子はなかった。その晩は巡査とけんかをしたことについては一ゴンの話もなしに過ぎた。  わたしはとうとう我慢がしきれなくな-って、こちらからきりだした。 「あしたもしカピが芝居の最中に、クチワを食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて慣らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」 「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」 「でも巡査がやかましく言いますから」 「おまえはほんの田舎の子どもだな。ヒャクショウらしくおまえは巡査を怖がっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り計らって、巡査がわたしをつかまえることのできないようにするし、そのうえ犬が不愉快な目に会わないようにしてやるつもりだ。それに見物も少しはうれしがるだろう。この巡査はおかげでわたしたちによけいな金もうけをさせてくれることになるだろう。おまけにあいつは、わたしがあいつのためにしくんでおいた芝居で道化役を演じることになるだろう。さてあしたは、おまえはあそこへジョリクールだけを連れて行くのだ。おまえは縄張りをして、ハーブでニ三回ひくのだ。やがて大ぜい見物が集まって来れば、巡査め/さっそくやって来るだろう。そこへわたしは犬を連れて現れることにする。それから茶番が始まるのだ」  わたしはそのあくる日一人で行きたいことは少しもなかったけれども、親方の言うことには服従しなければならないと思った。  さてわたしはいつもの場所へ出かけて、囲いの縄を回してしまうと、さっそく曲をひき始めた。見物はぞろぞろほうぼうから集まって来て、縄張りの外に群がった。  このごろではわたしもハープをひくことを覚えたし、なかなかじょうずに歌も歌った。とりわけ’わたしはナポリ小唄を覚えて、それがいつも大かっさいを博した。けれどもきょうだけは見物がわたしの歌をほめるために来たのでないことはわかっていた。  きのう’巡査との争論を見物した人たちは残らず出て来たし、おまけに友だちまで引っ張って来た。いったいツールーズの土地でも巡査は嫌われ者になっていた。それで公衆はあのイタリア人のじいさんがどんなふうにやるか。「閣下、いずれ明日」と言った捨てぜりふの意味がなんであったか、それを知りたがっていたのである。  それで見物の中には、わたしがジョリクールと二人だけなのを見て、わたしの歌っている最中’口を入れて、イタリアのじいさんは来るのかと言ってたずねる者もあった。  わたしは頷いた。  親方は来ないで、先に巡査がやって来た。ジョリクールが真っ先に彼を見つけた。  彼はさっそくげんこつを腰の上に当てて、滑稽ないばりくさった様子で、大股に歩き回った。群衆は彼の道化芝居をおかしがって手をたたいた。  巡査はこわい目つきをしてわたしをにらみつけた。  いったいこの結末はどうなるだろう。わたしは少し心配になってきた。ヴィタリス親方がいてくれれば、巡査に答えることもできよう。巡査がわたしに立ちのけと命令したら、わたしはなんと言えばいいのだ。  巡査は縄張りの外を往ったり来たりしていた。それもわたしのそばを通るときには、なんだか肩ごしにわたしをにらみつけるようにした。それでいよいよわたしは気が気でなかった。  ジョリクールは事件の重大なことを理解しなかった。そこでおもしろ半分’縄張りの中で巡査と並んで歩きながら、その一挙一動を身ぶりおかしくまねていた。おまけにわたしのそばを通るときには、やはり巡査のするように首を曲げて、肩ごしににらみつけた。その様子がいかにも滑稽なので、見物はなおのことどっと笑った。  わたしはあんまりやりすぎると思ったから、/ジョリクールを呼び寄せた。けれども彼はとても言うことを聞くどころではなかった。わたしがつかまえようとすると、ちょろちょろ逃げ出して、す早く身をかわしては、相変わらずとことこ歩いていた。  どうしてそんなことになったかわからなかったが、たぶん巡査はあんまり腹を立てて気がちがったのであろう。なんでもわたしが猿をけしかけているように思ったとみえて、いきなり縄張りの中へ跳びこんで来た。  と思うまに彼は跳びかかって来て、ただ一打ちでわたしを地べたの上にたたき倒した。  わたしが目を開いて起き上がろうとすると、ヴィタリス老人は’どこから飛び出して来たものか、もうそこに立っていた。彼はちょうど巡査の腕をおさえたところであった。 「わたしはあなたがその子どもをぶつことを止めます。なんという卑怯なまねをなさるのです」と彼は叫んだ。  しばらくのあいだ二人の人間はにらみ合って立っていた。  巡査はおこってむらさき色になっていた。  親方は堂々とした様子であった、/彼は例の美しい白髪頭をまっすぐに上げて、その顔には憤慨と威圧の表情をうかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。  けれども彼はどうして、そんなことはしなかった。彼は両腕を広げて親方の喉首をつかまえて、乱暴に前へおし出した。  ヴィタリス親方はよろよろとして倒れかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査の腕首を打った。  親方は頑丈な人ではあったが、なんといっても老人であった。巡査のほうは年も若いし、もっと頑丈であった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしはハラハラしていた。  けれども取っ組むまでにはならなかった。 「あなたはどうしようというのです」 「わたしと一緒に来い」と巡査は言った。「拘引するのだ」 「なぜあの子をぶったのです」と親方は質問した。 「よけいなことを言うな。ついて来い」  親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。 「宿屋へ帰っておいで」と彼は言った。「犬と一緒に待っておいで。あとで口上で言って寄こすから(ことずてをするから)」  彼はそのうえもうなにも言う機会がなかった。巡査は彼を引きずって行った。  こんなふうにして、親方が余興にしくんだ狂言はあっけなく結末がついた。  犬たちは初め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが呼び返すと、服従に慣らされているので、/彼らはわたしのほうへ戻って来た。気をつけてみると彼らはクチワをはめていた。けれどもそれは普通の金網や金輪ではなくって、ただ細いキヌイトをニサンホン、鼻の回りに結びつけて、あごの下にふさを垂らしてあった。白いカピは赤い糸を結んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気の毒な親方はこんなふうにして、いかめしい権力の命令を/逆に喜劇の種に利用しようとしていたのである。  群衆はさっそく散ってしまった。ニサンにん暇人が残っていまの事件を論じ合っていた。 「あのじいさんがもっともだよ」 「いや、あの男がまちがっている」 「なんだって巡査は子どもをぶったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって’口をききはしなかった」 「とんだ災難さ。巡査に反抗したことを証明すれば、あのじいさんは刑務所へやられるだろう、きっと」  わたしはがっかりして宿屋へ帰った。  わたしはこのころでは毎日’だんだんと親方が好きになっていた。わたしたちは朝から晩まで一緒に暮らしてきた。どうかすると夜から朝までも同じ藁の寝床に眠っていた。どんな父親だって、/彼がわたしに見せたような’ゆき届いた注意をその子どもに見せることはできなかった。彼はわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い流浪の旅のあいだに、/彼はこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、毛布を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでも彼はけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、/彼はいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほど時々はわたしがいやなほど、ひどく乱暴に耳を引っ張ることもあったけれど、わたしに過失があれば、それも仕方がなかった。一ゴンで言えばわたしは彼を愛していたし、/彼はわたしを愛していた。  だからこの別れはわたしにはなによりつらいことであった。  いつまた一緒になれるだろうか。  いったいどのくらい牢屋へ入れておくつもりなのだろう。  そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。  ヴィタリス親方はいつも体に-かねをつけている習慣であった。それが引っ張られて行くときに/何もわたしに置いて行く暇がなかった。  わたしは隠しにゴロクスーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。  わたしはそれから二日のあいだ、宿屋から外へ出る気にもならずに、ぼんやりくらしてしまった。猿も犬もやはりすっかりしょげきっていた。  やっとのことで三日目に一人の男が親方の手紙を届けて来た。その手紙によると、親方はこのつぎの土曜日に、警察権に反抗し、かつ巡査に手向かいをしたトガで裁判を受けるはずになっていた。 「わたしが癇癪を起こしたのは悪かった」と手紙に書いてあった。「とんだ災難を招いたがいまさらいたしかたもない。裁判所へ来てごらん、教訓になることがあるであろう」  こういって、それからなおニサンの注意を書きそえて、自分に代わって犬や猿たちをかわいがってくれるようにと書いてあった。  わたしが手紙を読んでいるあいだ、カピがわたしの両足の間に入って、鼻を手紙にこすりつけて、くんくんやっていた。彼が尾をふる具合で、わたしは彼がこの手紙が主人から来たことを知っていると思った。この三日のあいだに彼が少しでもうれしそうな様子を見せたのはこれが初めてであった。  わたしは土曜日の朝早く裁判所に行って、いの一番に傍聴席に入った。巡査とのけんかを目撃した人たちの多くがやはり来ていた。わたしは裁判所に出るのがなんだかこわかったので、大きなストーブのかげに入って壁にくっついて、できるだけ小さく体をちぢめていた。  泥棒をして拘引された男や、けんかをしてつかまった男が初めに裁判を受けた。弁護人は無罪を言い張っていたけれど、それはみんな有罪を宣告された。  いちばんおしまいに親方が引き出された。彼は二人の憲兵の間にはさまって腰かけにかけていた。  はじめに彼がなにを言ったか、人びとが彼になにをたずねたか、わたしは非常に興奮しきっていたのでよくわからなかった。  わたしはただじっと親方を見ていた。  彼は白髪頭を後ろに反らせて、まっすぐに立っていた。彼ははじて苦んでいるように見えた。裁判官は尋問を始めた。 「おまえは、おまえを拘引しようとした警官を何回も打ったことを承認するか」と、裁判官は言った。 「何回も打ちはいたしません、閣下」と親方は言った。「わたしはただ一度’手を上げました。わたくしはいつもの演芸をいたしまする場所にまいりますと、ちょうど警官がわたくしの連れています子どもを地の上に打ちたおすところを見たのでございます」 「その子はおまえの子ではないだろう」 「はい、しかしわたくしの実子同様にかわいがっております。それで警官が彼を打ちますところを見て、わたしはかっととりのぼせまして、警官が打とうとする手をおさえました」 「おまえは警官を打ったろう」 「警官がわたくしに向かって手をあげましたから、わたくしはもはや警官としてではない、通常の人としてこれに向かったのであります。まったく怒りに乗じた結果であります」 「おまえぐらいの年輩で怒りに乗ずるということはないはずだ」 「そうです。そういうはずはないのですが、人はおうおう不幸にして過失におちいりやすいのです」  巡査はそれから自分の言い分を申し立てた。それは打たれたことよりも、より多く自分が嘲弄(あざける)された事実についてであった。  親方の目はそのあいだ部屋の中を探すようであった。それはわたしがいるかどうか探しているのだということがわかっていたから、わたしは思い切って隠れ場所から飛び出して、おおぜいの中をおし分けながら、前へ出て、いちばん前の列の、/彼の席に近い所へ出た。彼のさびしい顔はわたしを見るとかがやきだした。わたしの目にも涙が溢れ出した。  まもなく裁判は決まった。彼は二か月の禁固と、百フランの罰金に処せられることになった。  ああ、二か月の禁固。  ドアは開かれた。涙にぬれた目の中からわたしは、/彼が憲兵のあとからついて行くのを見た。ドアはその後ろからばたんと閉ざされた。ああ、二か月の別れ。  どこへわたしは行こう。 ◇。◇。◇。 【第11章】 【船の上】 ◇。◇。◇。  わたしが重たい心で、赤い目をふきふき宿屋に帰ると、ちょうど亭主が庭に出ていた。  わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、/彼はわたしを引き止めた。 「どうだ、親方は」と彼は言った。 「有罪の宣告を受けました」 「どのくらい」 「二か月の禁固です」 「罰金はどのくらい」 「百フラン」 「二か月‥:‥百フラン」彼はニサン度くり返した。  わたしはずんずん行こうとした。すると彼はまた引き止めた。 「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」 「ぼくはわかりません」 「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬や猿に食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」 「いいえ、ないのです」 「じゃあ、おまえはわたしが養ってくれると思っているのか」 「いいえ、わたしは誰の厄介になろうとも思いません」  それはまったくであった。わたしは誰の厄介にもなるつもりはなかった。 「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに借りがある」と彼は言った。「わたしは二か月のあいだ-かねをはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」 「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」 「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」  しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。亭主の言うことはもっともであった。どうして彼がわたしの世話をしてくれよう。 「さあ、犬と猿を連れて出て行ってくれ。親方の荷物は預かっておく。親方が刑務所から出て来れば、いずれここへ寄るだろうし、そのときこちらの始末もつけてもらおう」  この言葉から、ある考えがわたしの心に浮かんだ。 「いずれそのときはお勘定をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを置いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも加えてはらえばいいでしょう」 「おやおや、おまえの親方は二日ブンの食料ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで別な話だよ」 「わたしはいくらでも少なく食べますから」 「だが、犬もいれば猿もいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこか田舎で仕事を見つけて、かねをもらって歩けばいいのだ」 「でも親方が刑務所から出て来たときに、どうしてわたしを探すでしょう。きっとこちらへ訪ねて来るにちがいありません」 「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」 「それで’もし手紙が届いたら」 「手紙は取っておいてやるよ」 「でもわたしが返事を出さなかったら‥‥」 「まあ’いつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の猶予をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば承知しないから」  わたしはこの男と言い合うのは無駄だということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。  わたしは犬とジョリクールを連れに厩へ行った。それから肩にハープをしょって、宿を出た。  わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬にクチワがはめてないのだから、巡査にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには-かねがないといおうか、それはまったくであった。わたしは隠しにたった十一スーしか持たなかった。それだけではクチワを買うにも足りなかった。巡査がわたしを拘引するかもしれない。親方もわたしも二人とも刑務所に-いれられたら、犬や猿はどうなるだろう。わたしは自分の位置に責任を感じていた。  わたしが足ばやに歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見違えようもなかった。彼らは腹が減っていた。  わたしの背嚢に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を引っ張って/無理に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、/彼はせっせと’腹をかいて見せた。  わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは朝飯を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と晩食を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方兼帯の昼食を食べて、満足しなければならなかった。  わたしたちは巡査に出っくわさないように、/少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには-かねが要るし、宿屋へとまれば宿銭を取られる。それに眠る場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの暖かい季節ではわたしたちは野天に眠ることができた。  さしせまっているのは食物だ。  一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き続けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちは頼むような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を引っ張って、絶えずおなかをさすっていた。  とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋に飛びこんだ。  わたしは一斤半パンを切ってくれと言った。 「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても要りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの同勢にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、畜生にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」  おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの財布にはたっぷりすぎた。  パンは一斤五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのは利口なことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ以上を切らないようにていねいに頼んだ。  わたしは両腕にしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが髪の毛を引っ張ってうれしそうにくっくっと笑った。  わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。  真っ先に目に当たった道ばたの木の下で/わたしはハープを幹によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろと鵜の目’鷹の目で、なんでも真っ先に一切れせしめようとねらっていた。  パンを同じ大きさに分けるのは難かしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さな切れに割って一切れずつめいめいに分けた。  わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それで彼がすっかり満腹してしまったとき、わたしたちはやはり腹がすいていた。わたしは彼のぶんから三きれ取って背嚢の中に隠して、あとで犬たちにやることにした。それからまだ少し残っていたので、わたしはそれを4つにちぎって、てんでに一切れずつ分けた。それが食後のお菓子であった。  このごちそうがけっして食後の卓上演説を必要とするほど立派なものではなかったのはもちろんであるが:、わたしは食事がすんだところで、いまがちょうど仲間の者にフタコトミコトいいわたす機会だと感じた。わたしはしぜん彼らの首領ではあったが、この重大な場合に当たって、/彼らに死生をともにすることを望むだけの威望の足りないことを感じていた。  カピはおそらくわたしの意中を察したのであろう。それで彼はその大きな利口そうな目を、じっとわたしの目の上にすえて座っていた。 「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、/ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを伝えなければならないのだよ。わたしたちはこれから二か月も親方に会うことができないのだよ」 「ワウ」とカピがほえた。 「これは親方のためにも困ったことだし、わたしたちのためにも困ったことなのだ。なぜといって、わたしたちはなにもかも親方に頼っていたのだから、それがいま親方がいなくなれば、わたしたちには第一お金がないのだ」  この-かねという言葉を言いだすと、カピはよく知っていて、後脚で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご臨席の貴賓諸君』から-かねを集めて回るときにすることであった。 「ああ、おまえは芝居をやれというのだね。カピ」とわたしは言った。「それはいい考えだが、どこまでわたしたちにできるだろうか。そこが考えものだよ。うまくゆかない場合には、わたしたちはもうたった三スーしか持っていない。だからどうしても食べずにいるほかはない。そういうわけだから、ここは大切なときだと思って、おまえたちはみんなおとなしくぼくの言うことを聞いてくれなければだめだ。そうすればお互いの力でなにかできるかもしれない。おまえたちはみんなしていっしょうけんめい、ぼくを助けてくれなければならない。わたしたちはお互いに頼り合ってゆきたいと思うのだ」  こういったわたしの言葉が、残らず彼らにわかったろうとはわたしも言わないが、だいたいの趣意は飲みこめたらしかった。彼らは同じ考えになっては’いた。彼らは親方のいなくなったについて、そこになにか大事件が起こったことを知っていた。それでその説明をわたしから聞こうとしていた。彼らがわたしの言って聞かせた残らずを理解しなかったとしても、すくなくともわたしが彼らの身の上を心配してやっていることには満足していた。それでおとなしくわたしの言うことに身を入れて聞いて、満足の意味を表していた。  いやお待ちなさい。成程それも、犬の仲間だけのことで、/ジョリクールには、いつまでもじっとしていることが望めなかった。彼は一分間と一つ事に心を向けていることができなかった。わたしの演説の初めの部分だけは彼も殊勝らしくたいへん興味を持って傾聴していたが、二十と言葉を言わないうちに、/彼は一本の木の上に跳び上がって、わたしたちの頭の上の枝にぶら下がり、それからつぎの枝へととび回っていた。カピが同じやり方でわたしを侮辱したならば、わたしの自尊心はずいぶん傷つけられたにちがいなかった。けれどもジョリクールがどんなことをしようと、わたしはけっしておどろかなかった。彼はずいぶん頭の空っぽな、軽はずみなやつだった。  けれどそうはいうものの、/少しはふざけたいのもかれとして無理はなかった。わたしだってやはり同じことをしたかったと思う。わたしもやはり面白半分’木登りをしてみたかった。けれどもわたしの現在の位置の重大なことが、わたしにそんな’遊びをさせなかった。  しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる青天井の下を見つけさえすればいいのだから、なにより、あしたの食べ物を買うゼニをいくらかでももうけることが、さし当たっての問題であった。  小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。  貧乏村らしくって、あまり実入りの多いことは望めないが、村が小さければ巡査に出会うことも少なかろうと考えた。  わたしはさっそく一座の服装を整えて、できるだけ立派な行列を作りながら、村へ入って行った。運悪くわたしたちはあの笛がなかったし、そのうえヴィタリス親方の立派な堂々とした風采がなかった。軍楽隊の隊長のような立派な様子で彼はいつも人目をひいていた。わたしにはセイの高いという利益もないし、あの立派な白髪頭も持たなかった。それどころかわたしはちっぽけで、やせっぽちで、そのうえひどくやつれた心配そうな顔をしていたにちがいなかった。  行列の先に立って歩きながら、わたしはミギヒダリをきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう効果を村の人たちにあたえているか、見ようとした。ごくわずか──と情けないけれど言わなければならなかった。だれ一人あとからついて来る者もなかった。  ちょっとした広場の真ん中に泉があって、木かげがこんもりしている所を見つけると、わたしはハープを下ろしてワルツを一曲ひき始めた。曲は愉快な調子であったし、わたしの指も軽く動いた。けれどもわたしの心は重か-った。  わたしはゼルビノとドルスに向かって、一緒にワルツをおどるように言いつけた。彼らはすぐ言うことを聞いて、拍子に合わせてくるくる回り始めた。  けれどもだれ一人’出て来て見ようとする者もなかった。そのくせ’家の戸口ではゴ六人の女が編み物をしたり、おしゃべりをしているのを見た。  わたしはひき続けた。ゼルビノとドルスはおどり続けた。  一人ぐらい出て来る者があるだろう。ひとり’来ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。  わたしはあくまでひき続けた。ゼルビノとドルスもくるくるじょうずに回っていた。けれども村の人たちはてんでこちらをふり向いて見ようともしなかった。  けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。  ふと一人、ごく小さい子が初めて、うちの中からちょこちょこと駆け出して、わたしたちのほうへ’やって来た。  きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、仲間が出て来るだろう。そうして見物ができれば、/少しのお金が取れるであろう。  わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは静かにひいた。そうして少しでもそばへ引き寄せようとした。両手を延ばして、片足ずつよちよち上げて、/彼は歩いて来た。もうフタ足かミ足で、子どもはわたしたちの所へ来る。ふと、そのしゅんかん母親は’ふり向いた。きっと子どもの姿の見えないのを見て、びっくりするにちがいない。  でも彼女はやっと子どもの行方を見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで/自分のほうへ呼び返した。すると子どもはおとなしくふり返って母親のほうへ帰って行った。  きっとこの辺の人は、ダンスも音楽も好かないのだ。きっとそんなことであった。  わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの好きな小唄を歌い始めた。わたしはこんなにいっしょうけんめいになったことはなかった。  二節めの終わりになったとき、背広を着て、ラシャの帽子をかぶった男が目に入った。その男はわたしのほうへ歩いて来るらしかった。  とうとうやって来たな。  わたしはそう思って、いよいよ夢中になって歌った。 「これこれ小僧、ここでなにをしている」と、その男はどなった。  わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そばへ寄って来るその男をぼんやりながめた。 「なにをしているというのだ」 「はい、歌を歌っています」 「おまえはここで歌を歌う許可を得たか」 「いいえ」 「ふん、じゃあ行け。行かないと拘引するぞ」 「でも、あなた‥‥」 「あなたとはなんだ、農林監察官を知らないか。出て行け、こじき小僧め」  ハハア、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、警官や監察官に反抗すると、どんな目に会うかわかっていた。わたしは彼に二度と命令をくり返させなかった。わたしは急いでわき道へ逃げだした。  こじき小僧か、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。  五分とたたないうちに、わたしはこの人情のない、そのくせいやに監視の行き届いている村を離れた。  犬たちはカシラを垂れて、すごすごあとからついて来た。きっとつまらない目に会ったことを知っていた。  カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。時々ふり向いては例の利口そうな目で、いったいどうしたのですと言いたそうに見えた。ほかのものが彼の位置に置かれたのだったら、きっとわたしにそれをたずねたであろうけれども、カピはそんな無作法をするには、あんまりよくしつけられていた。  彼はふに落ちないのを、いっしょうけんめい我慢しているふうを見せるだけで満足していた。  ずっと遠くこの村から離れたとき、わたしは初めて彼らに(止まれ)という合図をした。それで三びきの犬はわたしの回りに輪を作った。その真ん中にはカピがじっとわたしに目をすえていた。  わたしは彼らがわからずにいることを、ここで説明してやらなければならなかった。「わたしたちは興行の許可を得ていないから、追い出されたのだよ」とわたしは言った。 「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を-ひとふりふってたずねた。 「だからわたしたちは今夜は’どこか野天で眠って、晩飯なしに歩くのだ」  晩飯という言葉に、みんないちどにほえた。わたしは彼らに三スーの銭を見せた。 「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの朝飯になにも残らない。きょうはとにかく少しでも食べたのだから、これはあしたまでとっておくほうがいいようだ。」こう言って、わたしは三スーをまた隠しに入れた。  カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほど素直でなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶう唸っていた。わたしはこわい目をして彼を見たが、効き目がなかった。 「カピ、/ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは忠実なカピに言った。  カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二匹の犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというような言葉を犬に使うのは少し無理だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその仲間に通用する特別な言葉があった。犬だけで言えば、/彼らは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。彼らが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上を嗅ぎ回ったりするところをご覧なさい。ふと彼らはとある草むらの前で立ち止まる。または壁の前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの理解しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。  カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間の言葉がわかっても、人間は彼らの言葉を理解しないのだ。わたしが’ただ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い張ったようであった。カピは腹を立てて歯をむき出すと、/少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるという言葉にも少し説明が要るが、ここではころりと横になることを言うのである。  そこで残ったのは今夜の宿の問題だけだ。  時候はよし、暖かい、いい天気であった。だから青天井の下に眠ることはさしてむずかしいことではなかった。ただこの辺に悪いオオカミでもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。オオカミよりもおそろしい農林監察官からさけることもさらに必要であった。  わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山の’端に落ちかけた赤い夕日の最後の光が空から消えるころまで、宿を求めて歩き続けたが、まだ見つからなかった。  もう善悪なしに、どうでも’とまらなければならなかった。やっと’林の間に出た。そこここに大きな花崗岩が転がっていた。この場所はずいぶん荒れたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花崗岩の中に入ってねむれば、しめっぽい夜風を防ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、猿のジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外で眠ったところで風邪をひく気づかいもなかった。わたしは自分の体を大事にしなければならなかった。わたしのしょっている責任は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの看病をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。  わたしたちは石のあいだにほら穴のような所を見つけた。そこには松の落ち葉が溜まっていた。これで、上には風を防ぐ屋根があり、下には敷いて寝る布団ができた。これは非常に具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと努めた。ことわざにも言うではないか、『眠るのは食べるのだ』と。  いよいよ横になるまえに、わたしはカピに張り番を頼むと言った。するとこの忠実な犬はわたしたちと一緒に松葉の上で眠ろうとはしないで、わたしの野営地の入口に、歩哨のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも案内なしに近づけないと思ったから、落ち着いて眠ることができた。  でもこれだけは心配はなかったが、すぐには眠りつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすり眠っていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとで体をのばしていた。けれどもわたしの心配は体の疲れよりも大きかった。  この旅行の第イチニチは悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは腹が減ったし、喉が乾いていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それにクチワはどうしよう。これから歌を歌う許可は、いったいどうしたらいいだろう。許してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが減って死んでしまうだろう。  こういうみじめな、あわれっぽい疑問を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。街道を車のとろとろと通る音もしない。目の届く限りは青白い空が広がっていた。わたしたちは独りぼっちであった。世の中から捨てられていた。  涙は目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気の毒なヴィタリスは。  わたしはうつぶしになって、顔を両手で隠して、しくしく泣いていた。するとふと、かすかな息が髪の毛にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな舌が涙にあふれたわたしのホオを舐めた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの流浪の初めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。  両手でわたしは彼の首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。彼はニサン度おし殺したような/悲しそうな鼻ゴエを出した。それがわたしと一緒に泣いてくれるもののように思われた。  わたしは眠って目が覚めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の祈祷の鐘が鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、疲れた心と体をなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。  わたしたちは鐘の音を目当てに歩き出した。そこには村があって、/パン屋もきっとあるに相違なかった。昼食も夕食もなしに寝床に入れば、誰にだって空腹が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。  村に着くと、/パン屋がどこだと聞く必要もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に連れて行ってくれた。匂いを嗅ぎつけるわたしの感覚は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうな匂いを嗅ぎつけた。  一斤五スーするパンを三スーでは’たんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで朝飯もあっけなくすんでしまった。  わたしたちは今日こそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか芝居に都合のいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、敵か味方か探ろうとした。  わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する機会をとらえるつもりであった。  わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふと誰か後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もう’すぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一軒の家にかけこんで、肉をひときれ盗みだしたのであった。彼は獲物を歯のあいだにくわえたまま、逃げ出して来たのであった。 「泥棒、泥棒」とおばあさんは叫んだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」  おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも罪がある。いやすくなくともゼルビノの犯罪に責任があると感じた。そこでわたしは駆け出した。もしおばあさんが盗まれた肉の代価を請求したら、なんと言うことができよう。どうして-かねをはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと刑務所に-いれられるだろう。  わたしが逃げ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの例にならった。彼らはわたしの踵について走った。ジョリクールはわたしの肩に乗ったまま、落ちまいとしてしっかり首にかじりついた。  誰かほかの者もさけんでいた。待て、泥棒‥:‥そしてほかの人たちも仲間になって追っかけていた。けれどもわたしたちはどんどんかけた。恐怖がわたしたちの速力を進めた。わたしはドルスがこんなに早く走るのを見たことがなかった。彼女の足はほとんど地べたについていなかった。横丁を曲がって、野原をつっ切って、まもなくわたしたちは追っ手をはるか抜いてしまった。けれどもやはりどんどんかけ続けて、いよいよ息がつけなくなるまで止まらなかった。わたしたちは少なくとも三マイル(約五キロ)も走った。ふり返って見るともう誰も追っかけて来なかった。カピとドルスはやはりわたしのすぐあとについて来た。ゼルビノは遠くに離れていた。多分ぬすんだ肉を食べるので手間を取ったのであろう。  わたしは彼を呼んだ。けれども彼はひどい刑罰に会うことを知りすぎるほど知っていた。そこでわたしのほうへは寄って来ないで、できるだけ早く駆け出したのである。彼は飢えていた。それだから肉を盗んだのだ。けれどもわたしはそれを口実として許すことはできなかった。彼は盗みをした。わたしが仲間の間に規律を保とうとすれば、罪を犯したものは罰せられなければならない。それをしなかったら、つぎの村へ行って、今度はドルスが同じ事をするであろう。そうなるとカピまでが誘惑に負けないとは言えぬ。  わたしはゼルビノに対し、公然’刑罰を加えなければならなかった。けれどもそれをするためには彼をつかまえなければならなかった。それは容易いことではなかった。  わたしはカピのほうへ向いた。 「行ってゼルビノを探しておいで」とわたしは重おもしく言った。  彼はさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。彼の顔つきを見ていると、憲兵として彼はわたしの言いつけを果たすよりも、弁護人としてゼルビノをかばってやりたいように見えた。  わたしは彼が囚人を連れて帰って来るのを、べんべんと腰かけて待つほかはなかった。気違いじみたかけっこをしたあとで、休息するのがうれしかった。わたしたちが休んだ所はちょうどこんもりした木かげと、両側に広びろと野原の-ひらけた、堀割の岸であった。ツールーズを出て初めて、青あおした、すずしい田舎道に出たのだ。  一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが独りぼっち首をうなだれたまま帰って来た。 「ゼルビノはどうした」  カピはおどおどした様子で、平伏’した。わたしは彼のかたっぽの耳から血の出ているのを見た。わたしはそれで様子をさとった。ゼルビノはこの憲兵に戦いをしかけてきたのである。わたしはカピがそうして、いやいやわたしの命令に従いながらも、ゼルビノとの格闘にわざと負けてやったことがわかった。そしてそのため自分もやはり叱られるものと覚悟しているらしく思われた。  わたしは彼を叱ることができなかった。わたしは仕方がないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしは彼がおそかれ早かれ後悔して帰って来て、刑罰を受けるだろうと思っていた。  わたしは一本の木の下に、手足を踏みのばして横になった。ジョリクールはしっかりと腕にだいていた。それはこの猿までがゼルビノと仲間になる気を起こすといけないと思ったからであった。ドルスとカピはわたしの足の下で眠っていた。時間がたった。ゼルビノは出て来なかった。とうとうわたしもうとうとと眠りこけた。  シゴ時間たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは一切れのパンを食べてからもう久しい時間のたつことをわめきたてていた。それに二匹の犬とジョリクールの顔つきだけでも、/彼らの飢えきっていることはわかった。カピとドルスは情けない目つきをして、じっとわたしを見つめた。ジョリクールはしかめっ面をしていた。  でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。  わたしは彼を呼びたてたり、口ぶえをふいたりしたけれども無駄であった。多分ごちそうをせしめたので、すっかり腹がふくれて、どこかのやぶの中に転がって、ゆっくり消化させているのであろう。  厄介なことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま行方知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、/少しでも食べ物を買うお金をもうける機会がまるでなかった。  わたしたちの空腹はいよいよやりきれなくなってきた。犬たちは哀願するような目つきをたえずわたしに向けた。そしてジョリクールはおなかをさすって、おこって、きゃっきゃっとさけんでいた。  それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの行方を探させた。けれども三十分たってから、やはりカピだけ独りぼんやり帰って来た。  どうしたらいいであろう。  ゼルビノは罪を犯したが、また彼の過失のためにわたしたちはこんなひどい目に会わされることになったのであるが、/彼をふり捨てることはできなかった。三びきの犬を満足に連れて帰らなか-ったら、親方はなんと言うであろう。それになんといっても、わたしはあの悪戯者のゼルビノをかわいがっていた。  わたしは晩がたまで待つ決心をした。けれどなにもせずにいることはできるものではなかった。わたしたちはなにかしていればきっとこれほどひどい空腹がこたえないであろうと思った。  わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを忘れるかもしれない。  なにをしたらよかろう。  わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、軍隊が長い行軍で疲労しきると、楽隊がそれは愉快な曲を演奏する、それで兵隊の疲労を忘れさせるようにするというのであった。  そうだ。わたしがなにか愉快な曲をハープでひいたら、きっと空腹を忘れることができるかもしれない。わたしたちはみんなひどく弱りきっている。でもなにか愉快な曲をひいたら、かわいそうな二匹の犬たちも、/ジョリクールと一緒におどりだして、時間が早く過ぎるかもしれない。  わたしは二本の木によせかけておいた楽器を取り上げて、堀割のほうに背中を向けながら、動物たちの列を作ってならばせ、ダンス曲をひき始めた。  初めのうちは、犬も猿もダンスをする気にもなれないらしかった。彼らの欲望は食べ物のほかになかった。そのいじらしい様子を見ると、わたしの胸は痛んだ。けれどもかわいそうに、/彼らも空腹を忘れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその偉力を現してきた。彼らはおどりだした。わたしはひき続けた。 「うまい」──ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。  一隻の遊船が堀割の中に止まっていた。その小船を引っ張っている二匹の馬は、向こう岸に休んでいた。それは奇妙な小船であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。  それは堀割に浮かんでいる普通の船に比べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い甲板の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいな廊下があって、つたの葉でおおわれていた。  そこには二人、人がいた。一人はまだ若い貴婦人で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けに寝ているらしかった。 「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。  わたしは彼らを見つけて、一度は大変びっくりしたが、落ち着くと、わたしは帽子を取って、/彼らの賞賛に感謝の意を表した。 「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、貴婦人は外国なまりのあるフランス語で言った。 「わたしは犬をしこんでいるのです。それに‥:‥自分の気晴らしにも」  子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。 「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき貴婦人はこちらを向いて言った。  なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。 「ダンスにしましょうか。喜劇にしましょうか」とわたしは聞いた。 「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。  けれども貴婦人は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。 「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。 「お客さまのお望みとございましたら、ダンスのあとでちがった番組をいろいろとりかえてごらんにいれましょう」  これはうちの親方の使う口上の一つであった。わたしはなるべく彼と同じようなしかつめらしい言い方でやろうと努めた。だがなおよく考えると、喜劇を所望してくれなかったことは結局ありがたかった。なぜといって、どうそれをやるかくふうがつかなかった。ゼルビノという役者が一枚’足りないばかりではない、芝居をするには衣装も道具もなかった。  とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第1節をひいた。カピは前足でドルスの腰をだいて、じょうずに拍子を取りながらおどり回った。つぎにジョリクールが一人でおどって、それからそれとわたしたちは順々に番組を進めていった。もう少しもくたびれたとは思わなかった。かわいそうな動物どもは、やがて昼飯の報酬の出ることを知って、いっしょうけんめいにやった。わたしもそのとおりであった。  するととつぜん、みんなが一緒になってダンスをしている最中に、ゼルビノがやぶのかげから出て来た。そして仲間がそのそばを通ると、/彼はずうずうしくもその仲間に割りこんで来た。  ハープをひきひき役者たちの監督をしながら、わたしはときどき’子どものほうを見た。彼はわたしたちの演技に非常な愉快を感じているらしく見えたが、体を少しも動かさなかった。ネダイの上にあお向いたまま、ただ両手を動かして拍手喝采した。半身不随なのかしら、板の上に張りつけられたように見えた。  いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、今は子どもをはっきり見ることができた。彼は金茶色の髪の毛をしていた。顔色は青白くて、すきとおった皮膚のもとに額の青筋すら見えるほどであった。その顔つきには病人の子どもらしい、おとなしやかな、悲しそうな表情があった。 「貴方がたのお芝居のさじき料はいかほどですね」と、貴婦人はたずねた。 「おなぐさみに相応’した代だけいただきます」 「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。彼はそのうえなにかわたしにわからない言葉でつけ加えていた。すると貴婦人は、 「アーサがお仲間の役者たちをそばで見たいと言うのですよ」と言った。  わたしはカピに目くばせをした。大喜びで彼は船の中へ跳びこんで行った。 「それから、ほかのは」とアーサと呼ばれたこの子どもは叫んだ。  ゼルビノとドルスがカピの例にならった。 「それからお猿は」  ジョリクールもわけなく跳びこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度’船に乗ったら、きっとなにか貴婦人の気にいらないような悪さをするかもしれなかった。 「お猿は気があらいの」と貴婦人はたずねた。 「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、失礼でもあるといけないと思います」 「おや、それではあなた、連れておいでなさい」  こう言って貴婦人は舵のほうに立っていた男に合図をした。この人は出て来て、舳先から岸に板をわたした。  肩にハープをかけて、/ジョリクールを腕に’だいたまま、わたしは板をわたった。 「お猿だ。お猿だ」とアーサは叫んだ。その子どもを貴婦人はアーサと呼んでいた。  わたしは彼のそばへ寄って、/彼がジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。実際に彼は一枚の板に皮で体を結びつけられていた。 「あなた、お父さんはあるの」と貴婦人はたずねた。 「いえ、今は独りぼっちです」 「いつまで」 「二か月のあいだ」 「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち置き去りにされるようなことになったの」 「そんな回り合わせになったのです」 「あなたの親方さんはフタ月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」 「いいえ、奥さん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただ一座のものと一緒に、そのあいだ食べてゆかれさえすればそれでいいんです」 「それで、どれだけお金が取れましたか」  わたしは答えようとして躊躇した。わたしはこの美しい婦人の前では一種のおそれを感じたけれども、貴婦人は非常に親切に話しかけてくれたし、その声はいかにも優しかったから、わたしは本当のことを打ち明ける決心をした。またそれをしてならない理由はなにもなかった。  そこでわたしは貴婦人に向かって、ヴィタリスとわたしが別れたいちぶしじゅうを話した。ヴィタリス親方がわたしを保護するために、刑務所に連れて行かれたこと、それから親方がいなくなってから、かねを取ることができなくなった次第を話した。  わたしが話をしているあいだ、アーサは犬と遊んでいたが、わたしの言った言葉はよく耳に止めていた。 「じゃあきみたち、みんなずいぶんおなかがすいているだろう」と彼は言った。  この言葉を動物たちはよく知っていて、犬は喜んでほえ始めるし、/ジョリクールははげしくおなかをこすった。 「ああ、お母さま」とアーサがさけんだ。  貴婦人は聞き知らない言葉で、半分’開けたドアのすきから頭を出しかけていた女中に、なにかフタコトミコトいった。まもなく女中は食物をのせたテーブルを運んで来た。 「おかけ」と貴婦人は言った。  わたしは言われるままにさっそく、ハープをわきへ置いて、テーブルの前の椅子に腰をかけた。犬たちはわたしの回りに列を作って並んだ。ジョリクールはわたしのひざの上でおどっていた。 「きみの犬はパンを食べるの」とアーサはたずねた。 「パンを食べるどころですか」  わたしが一切れずつ切ってやると、/彼らはむさぼるようにして見るまに平らげてしまった。 「それからお猿は」とアーサは言った。  けれども、/ジョリクールのことで気をもむ必要もなかった。わたしが犬にやっているあいだ、/彼は横合いから肉入りのパンを一切れさらって、テーブルの下にもぐって、息のつまるほど頬ばっていた。  わたし自身もパンを食べた。ジョリクールのように喉には詰まらせなかったけれど、同じようにがつがつして、もっとたくさん頬ばった。 「かわいそうに、かわいそうに」と貴婦人は言った。  アーサはなにも言わなかったが、大きな目を見張ってわたしたちをながめていた。わたしたちのよく食べるのにびっくりしたのであろう。わたしたちはてんでんに腹をすかしきっていた。肉を盗んで少しは腹にこたえのあるはずのゼルビノまでが、がつがつしていた。 「きみは僕たちに会わなかったら、きょうの昼飯はどうするつもりだったの」とアーサがたずねた。 「なにを食べるか/当てがなかったのです」 「じゃああしたは」 「多分あしたはまた運よく、きょうのようなお客さまにどこかで会うだろうと思います」  アーサはわたしとの話を打ち切って、そのとき母親のほうにふり向いた。しばらくのあいだ彼らは外国語で話をしていた。彼はなにかを求めているらしかったが、それを母親は初めのうち承知したがらないように見えた。  するうち、ふと子どもはくるりと向き返った。彼の体は動かなかった。 「きみは僕たちと一緒にいるのは嫌ですか」と彼はたずねた。  わたしはすぐ返事はしないで、顔だけ見ていた。わたしはこのだしぬけの質問にめんくらわされていた。 「この子が貴方がたに一緒にいてくださればいいと言っているのですよ」と貴婦人がくり返した。 「この船にですか」 「そうですよ。この子は病気で、この板に体を結えつけていなければならないのです。それで昼間のうち少しでも愉快にくらせるように、こうして船に乗せて外へ出るのです。それで貴方がたの親方が監獄に入っておいでのあいだ、よければここにわたしたちと一緒にいてください。あなたのその犬とお猿が毎日’芸をしてくれれば、アーサとわたしが見物になってあげる。あなたはハープをひいてくれるでしょう。それであなたはわたしたちに務めてくれることになるし、わたしたちはわたしたちで、貴方がたのお役に立つこともありましょう」  /船の上で。わたしはまだ船の上でくらしたことがなかったが、それはわたしの久しい望みであった。なんといううれしいこと。わたしは幸福に心のくらむような感じがした。なんという親切な人たちだろう。わたしはなんと言っていいかわからなかった。  わたしは貴婦人の手を取ってキッスした。 「かわいそうに」と彼女は優しく言った。  彼女はわたしのハープを聞きたいと言った。そのくらい手軽ななぐさみですむことなら、わたしはどうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。  わたしは楽器を手に取って、/船の舳先のほうへ行って、静かにひき始めた。  貴婦人はふとくちびるに小さな銀の呼子笛を当てて、するどいネを出した。  わたしはなぜ貴婦人が笛をふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。  自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの不安心らしい様子を見つけた。 「お母さまは馬を行かせるために、笛をふいたんだよ」と彼は言った。  まったくそのとおりであった。馬に引かれた小船は、そろそろと岸を離れて、堀割の静かな波を切ってすべって行った。両側には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。 「ひきたまえな」とアーサが言った。  頭をちょっと動かして彼は母親にそばに来いという合図をした。彼は母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしは彼らのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。 ◇。◇。◇。 【第12章】 【最初の友だち】 ◇。◇。◇。  アーサの母親はイギリス人であった、名前をミリガン夫人と言った。後家さんで、アーサは一人っ子であった。少なくとも生きているただ一人の子どもだと考えられていた。なぜというに、/彼女はふしぎな事情のもとに、長男をなくした。  その子は生まれてムツキめに人にさらわれてしまった。それからどうしたかかいもく行方がわからなかった。もっともその子がかどわかされたころ、ちょうどミリガン夫人はじゅうぶんの探索をすることのできない境遇であった。彼女の夫は死にかかっていたし、なによりも彼女自身がひどくわずらって、身の回りにどんなことが起こっているか、まるっきりわからずにいた。彼女が意識を取り返したときには、夫は死んでいたし、赤児は’いなくなっていた。彼女のジツの弟に当たるジェイムズ・ミリガン氏はイギリスはもちろん、フランス、/ベルギー、/ドイツ、/イタリアとほうぼうに子どもを探させたが、結局’行方は知れなかった。そうなるとあとつぎの子どもがないので、この人がにいさんの財産を相続するつもりでいた。  ところがやはり、/ジェイムズ・ミリガン氏は、にいさんからなにも相続することができなかった。なぜというに、夫人の夫の死後七か月目に、夫人の二番目のむすこのアーサが生まれたのであった。  けれどもお医者たちはこの病身な、ひよわな子どもの育つ見こみはないと言った。彼はいつ死ぬかもしれなかった。その子が死んだ場合には、/ジェイムズ・ミリガン氏は財産を相続することになるであろう。  そう思って彼は当てにして待っていた。  けれども医者の予言はなかなか実現されなかった。アーサはなかなか死ななかった。もう二十度も追っかけ追っかけ、なんぎな病いという病いにかかって、それでも生きていた。そのたんびにこの子を生かしたものは母親の看護の力であった。  最後の病いはヨウシツ(こしの病気)であった。それにはしじゅう’板にねかしておくがいいというので、板の上に体を結えつけて動けないようにした。けれどそれをそのままうちの中に閉じこめておけば、今度は気鬱と空気の悪いために死ぬかもしれない。  そこで彼女は子どものためにきれいな、浮いて動く家をこしらえてやって、フランスの国じゅうのいろいろな川を旅行しているのであった。その両岸の景色は、病人の子どもがねながら、ただ目を開いていさえすれば、目の前に動いて行くのであった。  もちろんこのイギリスの貴婦人とむすこについて、わたしはこれだけのことを残らず、初めての日に聞いたのではなかった。わたしは時々彼女といるあいだに少しずつ細かい話を聞いた。  わたしが初めの日に聞いたことは、ただこの船の名が白鳥号ということ、それからわたしが部屋と定められた船室がどんなものであるかということだけであった。  わたしは高さ七尺(約二メートル)、幅サン四尺(約0.9~1.2メートル)のかわいらしい船室を一つ当てがわれた。それはなんというふしぎな部屋におもわれたであろう。部屋のどこにもしみ一つついていなかった。  その船室に備えつけたたった一つの道具は、衣装戸だなであった。けれどなんという戸だなだろう。ネダイと布団と枕と毛布とがその下から出て来た。そしてネダイについた引き出しには、はけや櫛やいろいろなものが入っていた。椅子やテーブルというようなものも少なくとも普通の形をしたものは’なかったが、壁に板がぴったりついている、それを引き出すと四角なテーブルと椅子になった。この小さなネダイに眠ることをどんなにわたしは喜んだであろう。生まれて初めてわたしはやわらかい敷物を肌に当てた。バルブレンのおっかあのうちのは非常に固くって、いつもあらくホオをこすった。ヴィタリス老人とわたしはたいてい敷物なしで眠った。木賃宿にあるものは、みんなバルブレンのおっかあのうちのと同様にごりごりしていた。  わたしはあくる朝早く起きた。一座の-れんじゅうが一晩どんなふうに過ごしたか知りたかったからである。  見ると彼らは’みんなまえの晩入れてやった所にいて、このきれいな小船はもう何カ月も彼らの家であったかのようによく寝入っていた。犬たちはわたしが近づくとはね起きたが、/ジョリクールは片目を開いているくせに動かなかった。かえってラッパのような大いびきをかき始めた。  わたしはすぐにそのわけをさとった。ジョリクールは大変おこりっぽかった。彼は一度’腹を立てると、長いあいだむくれていた。いまの場合は、ゆうべわたしが彼を船室に連れて行かなかったのをおもしろく思わなかったので、わざとふてねをして、不機嫌を示していたのであった。  わたしはなぜ彼を甲板の上に置いて行かなければならなかったか、そのわけを説明することができなかった。それで少なくとも外見だけでも、わたしは彼にすまなかったと感じているふうを見せるために、/彼を腕にだいて、なでたりさすったりしてやった。  初めは彼もむくれたままでいたが、まもなく、気が変わりやすい性質だけに、なにかほかのことに考えが移って、手まねで、よし、外へ散歩に連れて行くなら、かんべんしてやろうという意を示した。  甲板を掃除していた男が、気軽に板をわたしてくれたので、わたしは部下を連れて野原へ出た。  犬とかけっこしたり、/ジョリクールをからかったり、堀をとんだり、木登りをしたりして遊んでいるうちに時間がたった。帰ってみると、馬ははこやなぎの木につながれて、すっかり仕度ができていて、小船はいつでも出発するようになっていた。  わたしたちがみんな船の上に乗ってしまうと、まもなく船をつないだ-おおづなは解かれて、船頭は舵を、御者は手綱を取った。引きづなの滑車がぎいぎい鳴って、馬は引き船の道をカッパカッパ歩きだした。  これでも動いているかと思うほど静かに船は水の上をすべって行った。そこに聞こえるものは小鳥の歌と、船に当たる水の音、それから馬の首につけた鈴のチャランチャランだけであった。  ところどころ水はこい緑色に見えてたいへん深いようであった。そうかと思うと水晶のようにすみきっていて、水の底できらきら光る小石だの、ビロードのような水草をすかして見ることができた。  わたしが水の中をじっとのぞきこんでいると、誰かがわたしの名前を呼んだ。それはアーサであった。彼は例の板に乗せられて運び出されていた。 「きみ、よくねられたかい、野原に眠るよりも」と彼はたずねた。わたしは半分、ミリガン夫人にあいさつするように、ていねいによく眠られたことを話した。 「犬は。」アーサが聞いた。  わたしは彼らを呼んだ。彼らはジョリクールと一緒にかけて来た。この猿はいつも芝居をやらされると思うときするように、しかめっ面をしていた。  ミリガン夫人はむすこを日かげに置いて、自分もそのそばにすわった。 「それでは、あちらへ犬と猿を連れて行ってください。わたしたちは課業がありますから」と彼女は言った。  わたしは-れんじゅうを連れて舳先のほうへ退いた。  あの気の毒な病人の子どもに、どんな課業ができるのだろう。  わたしは彼の母親が手に本を持って、むすこに課業を授けているのを見た。  彼はそれを覚えるのがなかなか困難であるらしく見えた。しじゅう母親は優しく責めていたが、同時になかなか手強かった。 「いいえ」と彼女は最後に言った。「アーサ、あなたはまるで覚えていません」 「ぼく、できません。お母さま、ぼく、ほんとにできないんです」と彼は泣くように、言った。「ぼく/病気なんです」 「あなたの頭は病気ではありません。アーサ、病人だからといって、だんだん馬鹿になるような子をわたしは好きません」  これはずいぶん残酷なようにわたしには思われた。けれど彼女はあくまで優しい親切な調子で言った。 「なぜ、あなたはわたしにこんな情けない思いをさせるでしょう。あなたが習いたがらないのが、どんなにわたしには悲しいかわかるでしょう」 「ぼく、できません、お母さま、ぼくできないんです。」こう言って彼は泣きだした。  けれどもミリガン夫人は子どもの涙に負かされはしなかった。そのくせ彼女は非常に感動して、ますます悲しそうになっていた。 「わたしもけさあなたをルミや犬たちと遊ばせてあげたいのだけれど、すっかりお話を覚えるまでは遊ばせることはできません。」こう言って彼女は本をアーサにわたして、一人’置き去りにしたまま向こうへ行った。  わたしの立っていた所まで彼の泣き声が聞こえた。  あれほどまでに愛しているらしい母親が/どうしてこのかわいそうな子どもにこれほど厳格になれるのであろう。アーサの覚えられないのは病気のせいなのだ。彼女は優しい言葉’一つかけないでいってしまうのであろうか。  しばらくたって彼女は戻って来た。 「もう一度’二人でやってみましょうね」と彼女は優しく言った。  彼女は子どものわきに腰をかけて、本を手に取って、『オオカミと小羊』というお話を読み始めた。アーサはその読み声について文句をくり返した。  三度’初めからしまいまで読み返して、それから本をアーサに返して、あとは一人で習うように言いつけて、/船の中に入ってしまった。  わたしはアーサのくちびるの動くのを見た。  彼はたしかにいっしょうけんめい勉強していた。  けれども’まもなく目を本から離した。彼のくちびるは動かなくなった。彼の目はきょろきょろとあてもなく迷ったが、本にはもどって来なかった。  ふと彼の目はわたしの目を見つけた。  わたしは課業を続けてやるように彼に目くばせした。彼は注意を感謝するように微笑’した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはり彼は考えを一つに集めることができなかった。彼の目は川のこちらの岸から向こう岸へと迷い始めた。ちょうどそのとき一羽のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。  アーサは頭を上げてその行方を見送った。鳥が行ってしまうと、/彼はわたしのほうをながめた。 「ぼく、これが覚えられない」と彼は言った。「でもぼく、覚えたいんだ」  わたしは彼のそばへ行った。 「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。 「うん、むずかしい。‥:‥大変むずかしいんだ」 「ぼくにはずいぶん易しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい覚えました」  彼はそれを信じないように微笑’した。 「言ってみましょうか」 「できるもんか」 「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」  彼はまた本を取り上げた。わたしはその話を暗唱し始めた。わたしはほとんど完全に覚えていた。 「やあきみ、知っているの」 「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」 「どうして覚えたの」 「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向きしたりなんぞせずに、聞いていたのです」  彼は顔を赤くした、そして目をそらした。 「ぼくもきみのようにやってみよう」と彼は言った。「けれど一々の言葉をどうしてそう覚えたか、言って聞かしてくれたまえ」  わたしはそれをどう説明していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。 「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「羊のことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくは羊のことを考えました。それから羊はなにをしているか考えます。『多くの羊は安全な檻の中で住んでいました』/というのだから、羊が檻の中で安心して転がって眠っているところが見えてきます。そういうふうに目にうかべると忘れません」 「そうだそうだ」と彼は言った。「ぼくは見えるよ。黒い羊だの、白い羊だの、檻も、格子も見える」 「羊の番をするのはなんですか」 「犬さ」 「羊が檻の中にいて番をしないですむとき、犬はなにをするでしょう」 「なんにも仕事は’ない」 「では犬は眠ってもいいでしょう。ですから、『犬は眠っていました』/と言うのです」 「そうだ。わけはない」 「ええ、わけはないのですとも、今度はほかのことに移ります。では犬と一緒に番をするのは誰です」 「羊飼いさ」 「その犬や羊飼いは、羊が大丈夫だと思うとなにをしていたでしょう」 「犬は、眠っていたのさ、羊飼いは、遠くのほうへ行って、ほかの羊飼いたちと笛をふいて遊んでいた」 「あなたはそれが見えますか」 「ええ」 「どこにいます」 「にれの木の蔭に」 「一人ですか」 「いいえ、近所の羊飼いと一緒に」 「そら/ひつじや/檻や/犬や/ひつじ飼いのことを考えてごらんなさい。それができれば、このお話の初めのほうは暗唱ができるでしょう」 「ええ」 「やってごらんなさい」 「多くの羊は安全な檻の中におりましたから、犬はみな眠っていました。羊飼いも大きな楡の木の蔭に、近所の羊飼いたちと笛をふいて遊んでいました。──覚えていた、覚えていた、まちがいはなかった」  アーサは両手を打ってさけんだ。 「あともそういうふうにして覚えたらどうです」 「そうだな、きみと一緒にやればきっと覚えられる。ああ、お母さまがどんなに喜ぶだろう」  アーサはやがてお話残らずを心の目にうかべるようになった。わたしはできるだけ一々の細かい話を説明した。彼がすっかり興味を持ってきたときに、わたしたちは一緒に文句をさらった。そして十五分あとでは、/彼はすっかり卒業していた。  やがて母親は出て来たが、わたしたちが一緒にいるので不機嫌’らしかった。彼女はわたしたちが遊んでいたと思った。けれどアーサは彼女に口をきかせるいとまをあたえなかった。 「ぼく、覚えました」と彼は叫んだ。「ルミが教えてくれました」  ミリガン夫人は、びっくりしてわたしの顔を見た。けれど彼女がわけを問うさきに、アーサは『オオカミと小羊』のお話を暗唱しだした。わたしはミリガン夫人の顔を見た。彼女の美しい顔は微笑にほころびた。そのうち’わたしは彼女の目に涙が浮かんだと思った。けれど彼女はあわててむすこのほうをのぞきこんで、その体に両腕をかけた。彼女が泣いていたかどうか確かではなかった。 「言葉には意味がないのだから、目に見える事がらを考えなければいけないのです。ルミはぼくに笛をふいている羊飼いだの、犬だの羊だの、それからオオカミだのを考えさせてくれました。おまけに羊飼いのふいていた節まで聞こえるようになりました。お母さま、ぼく、歌を歌ってみましょうか」  こう言って彼は、イギリス語の悲しいような歌を歌った。  今度こそミリガン夫人は本当に泣いていた。なぜなら彼女が席を立ったとき、わたしはアーサのホオが彼女の涙でぬれているのを見た。そのとき夫人はわたしのそばに寄って、わたしの手を自分の手の中におさえて、優しくしめつけた。 「あなたはいい子です」と彼女は言った。  わたしがこのちょいとした出来事を長ながと書くにはわけがある。ゆうべまではわたしも宿無しの小僧で、一座の犬や猿たちを連れて、/船のそばへやって来て、病人の子どもをなぐさめるだけの者であった。けれどこの課業のことから、わたしは犬や猿から引きはなされて、病人の子どもの相手になり、ほとんど友だちになったのである。  もう一つ言っておかなければならないことがある。それはずっとあとで知ったことであるが、ミリガン夫人は実際このむすこの物覚えの悪いこと、もっと正しく言えばなにも物を覚えないことを知って、ふさぎきっていた。病人の子ではあっても、勉強はさせておきたいと夫人は思った。それには病気が長びくだろうから、いまのうち/物を習う習慣をつけておいて、いつか回復したとき、むだになった時間を取り返すことができるようにしたいと考えたのであった。  ところがその日までも彼女は’それが思うようにならないでいた。アーサはけっして勉強することを嫌だとは言わなかったが、注意と熱心がまるで欠けていた。書物を手にのせればいやとは言わずに受け取った。手は喜んでそれを受け取ろうとして開いたが、心はまるで開かなかった。ただもう機械のように動いて、しいて頭におしこまれた言葉をクウにくり返しているというだけであった。  そういうわけでむすこに失望した母親の心には、絶え間のない物思いがあった。  だから、アーサがいまたった半時間でお話を覚えて、一時をちがえず暗唱して聞かせるのを聞いたとき、/彼女のうれしさというものはなかった。それはもっともな訳であった。  わたしはいま思い出しても、この船の上で、ミリガン夫人やアーサと過ごしたあの時分が、/少年時代でいちばん愉快なときであったと思う。  アーサはわたしに熱い友情を寄せていた。わたしのほうでもわざとでなしに、また気の毒という同情からでなしに、しぜんと彼を兄弟のように思っていた。二人はけんか一つしたことはなかった。彼には彼のような身分にありがちな威張ったところはみじんもなかった。わたしのほうも少しもひけめは感じなかった。またひけめを感じなければならないなどと思ったことすらなかった。  これはきっとわたしが子どもで、世の中を知らないためであったろう。しかしそれにはたしかに、ミリガン夫人の-ゆき届いた親切のおかげもあった。彼女は’たいてい自分の子どものようにしてわたしに話しかけた。  それにこの船の旅がわたしにはじつにおもしろかった。一時間と退屈したこともなければ、疲れたと思うこともなかった。朝から晩までわたしの心はいつも充実しきっていた。  鉄道ができて以来、フランス南部地方の運河を見に来る人もなければ、知る人すらないようになったが、でもこれはやはりフランス名物の一つであった。  わたしたちはローラゲーのヴィーフランシュから、アヴィニオンヌまで行って、アヴィニオンヌからノールーズの岩まで行った。ノールーズにはこの運河の開鑿者であるリケの記念碑が、大西洋に注ぐ水と/地中海に落ちる水とが分かれる分水嶺の頂に建てられてあった。  それからわたしたちは水車の町であるカステルノーダリを下って、中世の都会であったカルカッソンヌへ:、それから貯水溝のめずらしいフスランヌの閘門(船を高低の差のある水面に上げたり下ろしたりするしかけのある水門)をぬけてベジエールに下った。  おもしろい所ではわたしたちはたいそうゆっくり’船を進めた。けれど景色がつまらなくなると/馬は引き船の道を早足にとっとっとかけた。  いつどこでとまって、いつまでにどこまでへ着かなければならないということもなかった。毎日’同じ決まった食事の時間に露台の上に集まって、静かに両岸の景色をながめながら食事をした。日がしずむと船は止まった。日がのぼると船はまた動き出した。  雨でも降ると、わたしたちは船室の中に入って、勢いよく燃えた火を取り巻いてすわる。病人の子どもが風邪をひかないためであった。そういうとき、ミリガン夫人はわたしたちに本を読んで聞かせたり、画帳を見せたり、美しいお話をして聞かせたりした。  それから夜、晴れた日には、わたしには一つ役目があった。船が止まったときわたしはハープを丘に持って-おりて、/少し遠く離れた木の蔭に腰をかける。それから木の枝のしげった中に隠れて、いっしょうけんめいにひいたり、歌を歌ったりするのである。静かな晩など、アーサは、誰がひいているか見えないようにして、遠くの音楽を聞くことを好んだ。そこでわたしがアーサの好きな曲をひくと、/彼は「アンコール」(もっと)と声をかける。それでわたしは同じ曲を二度くり返してひくのである。  それはバルブレンのおっかあの炉ばたに育ち、ヴィタリス老人と埃っぽい街道を流浪して歩いた田舎育ちの少年にとっては/思いがけない美しい生活であった。  あの気の毒な養母がこしらえてくれた/塩のじゃがいもと、ミリガン夫人の料理番のこしらえる/果物入りのうまいお菓子や/ゼリーや/クリームや”まんじゅうと比べると、なんという相違であろう。  あのヴィタリス親方のあとからとぼとぼくっついて、沼のような道や、横なぐりの雨や、こげつくような太陽の中を歩き回るのと、この美しい小船の旅と比べては、なんという相違であろう。  料理はうまかった。そうだ、まったくすばらしかった。腹も減らないし、くたびれもしないし、暑すぎもせず、寒すぎもしなかった。けれど本当に正直なことを言えば、わたしがいちばん深く感じたのは、この夫人と子どもの、めずらしい親切と愛情であった。  二度もわたしはわたしの愛していた人たちから引きはなされた。最初はなつかしいバルブレンのおっかあから、それからヴィタリス親方から、わたしは犬と猿と一緒に空腹で、みじめなまま捨てられた。  そこへ美しい夫人がわたしと同じ年ごろの子どもを連れて現れた。わたしをむかえて、まるでわたしが兄弟ででもあるように扱ってくれた。  たびたびわたしはアーサがネダイに結えつけられて、青い顔をして眠っているところを見ると、わたしは彼をうらやんだ。健康と元気に満ちたわたしが、かえって病人の子どもをうらやんだ。  それはわたしがうらやむのは、この子を引き包んでいるぜいたくではなかった。美しい小船ではなかった。それは彼の母親であった。ああ、どのくらい’わたしは自分の母親を欲しがっているだろう。  彼の母はいつでも彼にキッスした。そして、/彼はいつでもしたいときに、両腕に彼女をだくことができた。その優しい夫人の手はたまたま’わたしに向けられることもあっても、わたしからは思い切ってそれにさわり得ないのではないか。わたしは自分にキッスしてくれる母親、わたしがキッスすることのできる母親を持たないことを悲しいと思った。  あるいはいつかまたわたしもバルブレンのおっかあには会うことがあるかもしれない。それはどんなにかうれしいことであろう。でもわたしはもう彼女を母親と呼ぶことはできない。なぜなら彼女はわたしの本当の母親ではないのだから。  わたしは独りぼっちだった。わたしはいつでも独りぼっちでいなければならない‥:‥だれの子どもでもないのだ。  わたしはもうこの世の中は、そうなんでも思うようになる所でないことを知るだけに大きくなっていた。それでわたしは母親もないし、家族もないから、友だちでもあればどんなにうれしいだろうと思っていた。だからこの小船に来て、わたしは幸福であった。本当に幸福であった。けれど、ああ、それは長く続けることはできなかった。わたしがまたむかしの生活に返る日はおいおいに近づいていた。 ◇。◇。◇。 【第13章】 【捨て子】 ◇。◇。◇。  旅のヒカズのたつのは早かった。親方が刑務所から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに従って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。  /船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなければならないときがじき来るのだ。  これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもうネダイもなければ、クリームもない。お菓子もなければ、テーブルを取り巻いた楽しい夜会もなくなるのだ。  でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人とアーサとに別れることであった。わたしはこの人たちの友情から離れなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。  わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちと一緒にくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと別れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、愛し愛されたりするようなものであった。  このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛がわたしの心をくもらせた。  ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。  アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急に叫びだした。 「帰っちゃ嫌だ、ルミ。行ってしまっては嫌だ」  彼はすすり泣きをしていた。  わたしは彼に、自分がヴィタリス親方のものになっていること、/彼が-かねを出して両親からわたしを借りていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。  わたしは両親のことを話した。けれどもそれが本当の父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分が捨て子であることを恥に思った─:─往来で拾われた子どもだということを白状することを恥に思った。わたしは孤児院の子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中で捨て子であるということほど嫌なことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン夫人やアーサに知られることを好まなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしを嫌うようになるだろう。 「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言い続けた。 「わたしもルミをここへ止めておくことは大変けっこうだと思うけれど」とミリガン夫人は答えた。「わたしたちはずいぶんあの子が好きなのだからね。でもこれには二つ厄介なことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか‥‥」 「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」 「第二には」と、ミリガン夫人がかまわず続けた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」 「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言い張った。  ヴィタリスはいい親方であった。彼がわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしは非常に感謝していた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても比較にはならなかった。同時に親方に持つ尊敬と、ミリガン夫人とその病身’の子どもに対して持つ愛着とは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から愛していた。 「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人は続けた。 「この船にだって遊び半分では’いられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯ではないでしょう」 「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら‥‥。」とわたしは言いかけた。 「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。 「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人が言った。「この子の親方の承諾を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもらうように頼んでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ呼ぶことになるのだが、たぶん承知してくださることだろうと思うから、それで相談したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」  この最後の言葉で、わたしの美しい夢は破れた。  両親に相談する。そうしたら彼らはわたしが内証にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが捨て子だということを言いたてるだろう。  ああ捨て子。そうなればアーサもミリガン夫人もわたしを嫌うようになるだろう。  まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。  わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。彼女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、/彼女は’たずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒していると考えたらしく、/彼女はそのうえしいては問わなかった。  幸いにじき眠る時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋にひとり閉じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来’初めての不愉快な晩であった。それはおそろしく不愉快な、長い熱病をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。  たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなれば彼らはどうしたって本当のことは知らずにいよう。彼らは、わたしの捨て子だということを知らずにすむだろう。素性を知られることについてのわたしの羞恥と恐怖があまりひどかったので、もうアーサ親子と別れても、仕方がない。ヴィタリスがなんでも自分と一緒に来いと主張することを希望し始めたくらいであった。そうなれば少なくとも彼らはこののち’わたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。  それから三日たってミリガン夫人はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。彼は夫人の文意をよくくんで、向こうから来て彼女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連れて、/彼に会いに停車ジョウまで行くことを許された。  その朝になると、犬たちはなにか変わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしは非常に興奮していた。今日こそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気があったら、親方に頼んで捨て子だということをミリガン夫人に言ってもらわないように頼むことができたであろう。けれどもわたしは彼に対してすら『捨て子』という言葉を口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、/ジョリクールは上着の下に入れて、停車ジョウの片すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目に入らなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。彼らは主人の匂いを嗅ぎつけた。  ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張りをゆるめていたので、/彼らはぬけ出したのであった。ほえながら彼らは前へとび出した。わたしは彼らが親方に跳びかかるのを見た。ほかの二匹に比べてははげしく/しかもしたたかにカピが、いきなり主人の腕に跳びかかった。ゼルビノとドルスがその足に跳びかかった。  親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両腕をわたしの体に投げかけた。初めて彼はわたしにキッスした。 「ああよく無事でいてくれた」と彼はたびたび言った。  親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優しくはなかった。わたしはそれに慣れていなかった。それでわたしは感動して、思わず涙が目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしは彼の顔をながめた。刑務所にはいっているまに彼は非常に年を取った。背中も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気はなかった。 「ルミ、わたしは変わったろう。なあ」と彼は言った。「刑務所はけっして愉快な所ではなかった。それに苦労というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来れば大丈夫だ。これからはよくなるだろう」  それから話の題を変えて彼は言い続けた。 「わたしの所へ手紙を寄こした奥さんのことを話しておくれ。どうしてその奥さんと知り合いになったのだ」  わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割をこいでいたミリガン夫人とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別れてミリガン夫人の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。  わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしは彼女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。 「その奥さんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルに入ったときに彼は言った。 「ええ、ぼくがいま奥さんの部屋に案内しましょう」とわたしは言った。 「それにはおよばないよ」と彼は答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちと一緒にわたしを待っておいで」  わたしは、いつでも彼に従順であったけれども、この場合は彼と一緒にミリガン夫人の部屋に行くことが、わたしとしてむろん’正当でもあり自然なことだと思っていた。けれども手まねで彼がわたしのくちびるに出かかっている言葉をおさえると、わたしはいやいや’犬や猿と一緒に下に残っていなければならなかった。  どうして彼はミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好まなかったか。わたしはこの質問を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快な答えが得られずに考えこんでいたときに彼は戻って来た。 「行って奥さんに、さようならを言っておいで」と彼は言葉’短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと10分のうちに発つのだから」  わたしはかみなりに打たれたような気がした。 「それ」と彼は言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」  彼はまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的にわたしは服従して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。 「あなたは奥さんになんとお言いに‥‥。」フタ足ミ足’行きかけてわたしは問いかけた。 「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要なのだ。従ってわたしはおまえに対するわたしの権利を捨てることはできませんと言ったのさ。行って来い。暇乞いがすんだらすぐ帰れ‥‥」  わたしは自分が捨て子だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性を話したからだとばかり思っていた。  ミリガン夫人の部屋に入ると、アーサが涙を流している。そのそばに母の夫人が寄りそっているところを見た。 「ルミ、きみ行っては嫌だよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」と彼はすすり泣きをした。  わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。 「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知してくださいませんでした」とミリガン夫人は、いかにも悲しそうな声で言った。 「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。 「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたが大事で手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる‥:‥あの人はああいう身分の人のようではない、どうして立派な口のきき方をなさいました。お断りになる理由としてあの人の言われたのは─:─そう、こうです、──わたしはあの子を愛している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授けている世間の修行は、あれにとって、/貴方がたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それは本当だ。成程あなたはあれの知恵を養ってはくださるだろう、だがあれの人格は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難ばかりです。あれはあなたの子には’なれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから──とこうお言いになるのですよ」 「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサは叫んだ。 「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」 「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしは叫んだ。 「それはどういうわけです」 「いいえ、どうかよしてください」 「でもそのほかに仕方がないんですもの」 「ああ、どうぞよしてください」  ミリガン夫人が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた10分の時間以上をさようならを言うために費したであろう。 「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。  それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両腕を彼の体に回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それから彼の弱い腕からのがれて、わたしは’ふり向いてミリガン夫人に手をさし延べた。 「かわいそうに」と、/彼女はわたしの’額にキッスしながらつぶやいた。  わたしは戸口へかけて行った。 「アーサ、わたしはいつまでもあなたを愛します」とわたしは言って、こみ上げて来る涙を飲みこんだ。「奥さん、わたしはけっしてけっしてあなたを忘れません」 「ルミ、/ルミ‥‥。」とアーサがさけんだ。そのあとの言葉はもう聞こえなかった。  わたしは手早くドアを閉じて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスと一緒になっていた。 「さあ出かけよう」と彼は言った。  こうしてわたしは最初の友だちから別れた。 ◇。◇。◇。 【第14章】 【吹雪とオオカミ】 ◇。◇。◇。  またわたしは親方のあとについて/痛い肩にハープを結びつけたまま、雨が降っても、日が照りつけても、ちりや泥にまみれて、旅から旅へ毎日’流浪して歩かなければならなかった。広場であほうの役を演じて、笑ったり泣いたりして見せて、「ご臨席の貴賓諸君」のごきげんをとり結ばなければならなかった。  長い旅のあいだ/再三わたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村に入ると、わたしはあのきれいな小船の船室をどんなに思い出したろう。それに木賃宿の寝床のどんなに固いことであろう。(もう二度とアーサとも遊べないし、その母親の優しい声も聞くことはできない)それを考えるだけでもおそろしかった。  これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。  彼のわたしに対する様子はすっかり変わっていた。彼はわたしの主人というより以上のものであるように感じた。もうたびたび思い切って、/彼にだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは愛情を求めていた。けれどもわたしにはそれをする勇気がなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることを許さない人であった。  初めは’恐怖がわたしを彼から遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば尊敬に似た感情が彼とわたしを隔てていた。  わたしがいよいよ村の家を出る時分には、普通の貧乏な階級の人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人から彼を区別することができずにいたが、ミリガン夫人と二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、知恵も進んだ。よく気をつけて親方を見ると、態度でも様子でも、/彼には非常に高貴なところがあるように見えた。彼の様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。  そんなときわたしは、馬鹿な、親方は’たかが犬や猿の見世物師というだけだし、ミリガン夫人は貴婦人である、それが似かよったところがあるはずがないと思った。  だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことが確かになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に紳士になることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それは立派な紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな乱暴な人間でも、その威勢におされてしまうのであった。  だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言い得ずにしまった。それは向こうから優しい言葉でさそい出してくれるときでもそうであった。  セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン夫人のことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話の種になるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。 「おまえは-すいていたのだね、あの奥さんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩を忘れてはならないぞ」  そのあとで彼はいつも言い足した。 「だが仕方がなかったのだ」  こう言う親方の言葉を、初めは’わたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人がそばへ置きたいという申し出を拒んだことをさして言うのだとわかった。  親方が仕方がなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確かであった。そのうえこの言葉の中には後悔に似た心持ちがふくまれていたように思われた。彼はアーサのそばにわたしを残しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。  でもなぜ彼がミリガン夫人の申し出を承知することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔しているということがわかって、わたしは心の底に満足した。  もうこれでは親方も承知してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望の目標になった。  それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。  それはローヌガワを上って行くはずであった。そうして私たちはその川の岸に沿って歩いていた。  それで歩きながらわたしの目はリョウガワを限っている丘や、豊饒なタハタよりも、よけい水の上に-そそがれていた。  わたしたちがアルルとか、/タラスコンとか、/アヴィニオン、/モンテリマール、/ヴァランス、/ツールノン、/ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場か’橋の上で:、そこから’川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探した。遠方に半分、深い霧に隠れてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。  でもそれはいつも白鳥号ではなかった。  時々わたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの探す美しい船の模様を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でも彼らはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。  このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像されたから、もはやわたしの素性を告げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件は親方とミリガン夫人との間の相談でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしい夢でいろいろに事件を処理してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに置きたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利を捨てることを承知してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。  わたしたちは何週間もリヨンに滞在していた。そのあいだ暇さえあればいく度もわたしはローヌ川’と、ソーヌ川の波止場に行ってみた。おかげでエーネー、/チルジット、/ラ・ギョッチエール、/ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。  しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。  わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人に二度と会う希望を捨てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川’に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ別れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想の結末であった。  いよいよいけなくなったことは、冬が今や間近にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋か”または物置小屋に疲れきってたどり着くと、もう肌まで水がしみ通って、わたしたちはとても笑顔をうかべて眠る元気はなかった。  ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれて骨までも凍る思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつも情けない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。  親方の目的は少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ’芝居をして回れるのはパリだけであった。わたしたちは’もうごくわずかの-かねしか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。  道みちの町や村でも、ひよりの都合さえよければ、ちょっとした興行をやって、いくらかでも収入をかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。  シャチヨンをたってから、冷たい雨の降ったあとで、風は北に変わった。  もういく日かしめっぽい日が続いたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかり隠れてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。  わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、非常に悪い天気でゴ六にち逗留しても、/少しは興行を続けて回る見こみがあった。「早くトコにおはいり」とその晩宿屋に着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くから発つのだ‥:‥だが’雪に降りこめられてはたまらないなあ」  でも彼はすぐにはトコに入らなかった。台所の炉のすみに腰をかけて、寒さでひどく弱っているジョリクールを暖めていた。猿は毛布にくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。  あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空は真っ暗な雲が低く垂れて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風が煙突に吹き入って、危なくゆうべ灰の中にうずめたホダビを舞い上げそうにした。  宿屋の亭主は親方の顔を見て、 「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどい吹雪になりますぜ」 「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大吹雪の来るまえにトルアまで行きたいと思っている」 「ロク七里(約二十四から二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」  でもかまわずわたしたちは出発した。  親方はジョリクールをしっかり体にだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は固いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はディジョンでわたしに羊の毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったり体にふきつけられていた。  わたしたちは口を開くのがひどく不愉快だったので、だまりこんで歩きながら、/少しでも暖まろうとして急いだ。  もう夜明けの時間をよほど過ぎていたが、空はまだ真っ暗であった。東のほうに白っぽい帯のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。  野景色を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。  往来にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、鞭の鳴る音も聞こえなかった。  ふと北の空に青白い筋が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちは奇妙ながあがあいうささやき声のような音’を聞いた。それは鴈か/野の白鳥の叫び声であったろう。この気違いじみた鳥の群れは、わたしたちの頭の上を飛んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。彼らが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片が静かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。  わたしたちが通って行く道は喪中のようにしずんでさびしかった。あれきって陰気な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さな蝶々のように目の前にちらちらした。絶えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。  わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の降るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。  わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。  しかしまもなくそれが本当にわかった。しかもわたしにはけっして忘れることのできないものであった。  雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲の懐が開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中を蝶々のようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい勢いで降って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。 「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。  わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならない前にわたしが見ておいたかぎりでは、一軒もうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。  わたしたちの前には底知れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを包んでいる両側’の丘陵もやはり深い森であった。  雪はいよいよはげしく降ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけに羊の毛皮服を持ち上げて、/ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。  犬たちももうサキに立ってかけることができなかった。彼らはわたしたちの踵について歩いて、早く休むうちを求めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。  道は’いっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ骨を折って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物が凍りついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののない嵐にふきさらされていた。そのうち風はいくらか静まったが、雪のかたまりは’ますます大きくなって、みるみる積もった  わたしは親方がなにか探し物をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、/彼はなにも言わなかった。なにを彼は見つけようとするのであろう。  わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が現れてきはしないかという望みをかけていた。  だが目の届く限り両側は雪にうずまった林であった。前はもうニサンケン(四から五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。  わたしはこれまで暖かい台所の窓ガラスに雪の降るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠い夢の世界のように思われることであろう。  でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。成程、わたしはぼんやりと、空き地の中に掘っ立て小屋のようなものを見た。  わたしたちはその小屋に通う道を探さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へ入ることができた。  その小屋は丸太や柴をつかねて造ったもので、屋根も木の枝のたばを積み重ねて、雪が間から流れこまないように固く縄でしめてあった。  犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上を埃を立てて転げ回っていた。  わたしたちの満足も彼らにおとらず大きかった。 「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降ってもかまわないぞ」 「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大威張りで言った。  わたしは戸口──というよりも小屋に出入する穴というほうが適当で、そこにはドアも窓もなかったが─:─そこまで行って、わたしは上着と帽子の雪をはらった。せっかくのかわいた部屋をぬらすまいと思ったからである。  わたしたちの宿の構造はしごく簡単であった。備えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石が椅子の代わりに置いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんががゴロク枚、かまどの形に積んであったことである。なによりもまず火を燃やさなければならぬ。  なによりも火がいちばんのごちそうだ。  さて薪だが、このうちでそれを見つけることは困難ではなかった。  わたしたちはただ壁や屋根から薪を引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。  まもなく焚き火の赤い炎がえんえんと立った。むろん小屋は煙でいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲しているのは火と熱であった。  わたしは両手をついて、腹ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻いて、首をのばして、ぬれた背中を火にかざしていた。  ジョリクールはやっと親方の上着の下から覗くだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確かめて満足したらしく、急いで地べたに跳び下りて、焚き火の前のいちばん上等な場所を占領して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。  親方は用心深い、経験に積んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料を包んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足した。  情けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯に残しておくほうが確実だと考えたからであった。  わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それで彼らはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢に納められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、その膝頭を引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。  背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめて眠る決心をした。カピは灰の中に鼻をつっこんでいた。わたしも彼らの例にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、夢の国にでも遊んだほうが気が利いている。  わたしはどのくらい眠ったか知らなかった。目が覚めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪は非常に深かった。無理に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。  ナンジだろう。  わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例のカピが時間を示した大きな銀時計は売られてしまった。彼は罰金や裁判の費用をはらうためにありったけの-かねを使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。  時計を見ることができないとすれば、日の加減で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、ナンジだか時間をスイリョウするのが困難であった。  なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなり凍らせてしまったように思われた。  わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼ぶ声が聞こえた。 「これから出て行けると思うかな」と彼はたずねた。 「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」 「そうか、わたしは’ここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、焚き火もあるのだから」  それは本当であったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。 「どうせまた雪は降ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜は’よけい寒くなる。今夜は’ここでくらすほうが無事だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」  そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留するほかはない。胃ぶくろのひもを固くしめておく、それだけのことだ。  夕飯に親方が残りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残さず、がつがつして食べた。このつましい晩食がすんだとき、犬はまたさっきのように後強請りをするだろうと思っていたが、/彼らはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらい彼らが利口であるか知った。  親方がナイフをズボンの隠しにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろの匂いをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味で、もうなにも食物の残っていないことがわかった。それで彼は焚き火の前の自分の席に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきは明らかにどうも辛抱するほかはないよという意味を示していた。そこで彼はあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。 「もうなにもない。ねだってもだめだよ」彼はこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間の犬たちに会得さしていた。  彼の仲間はこの言葉を理解したらしく、これもやはりため息をつきながら焚き火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっして本当にあきらめたため息ではなかった。おなかの減っているうえに、ゼルビノは非常に大食らいであった。だからこれは彼にとっては大きな犠牲であった。  雪がまたずんずん降りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高く膨れ上がって、しまいに、小さな若木や灌木がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片がなお暗い空から/ほの明るい地の上に/しきりなしに落ちていた。  わたしたちはいよいよここへ眠るとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早く寝つくことであった。わたしは昼ま火でかわかしておいた毛皮服にくるまって枕の代わりにした。平ったい石に頭をのせて、焚き火の前に横になった。 「おまえは眠るがいい。」親方が言った。「わたしの眠る番になればおまえを起こすから。この小屋では獣もなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心して風邪をひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」  わたしはさっそく眠った。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶ更けていた。焚き火はまだ燃えていた。雪はもう降ってはいなかった。 「今度はわたしの眠る番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん採っておいた薪をくべればいい」  なるほど彼は焚き火のわきに小枝をたくさん積み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいち壁から薪をぬくたんびに/音を立てて目を覚まさせられることを嫌がった。それでわたしは彼のこしらえておいてくれた薪の山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。  たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、情けないことに親方は、これがどんな意外な結果を生むかさとらなかった。  彼はいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、焚き火の前に体をのばした。まもなくしだいに高く、次第に規則正しいいびきで、よくねいったことが知れた。  そのときわたしは’そっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。  草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。【日の届くかぎりどこも目がくらむような白イロであった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどく凍っていた。すきまから入る空気は氷のようであった。喪中にいるような静けさの中に、雪の表面の凍りつく音がいく度となく聞こえた。 「ああ、この森の奥で雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」  わたしは’そっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳は彼にとってなんでもなかった。彼はしばらく景色をながめたが、やがて退屈して外へ出て行こうとした。  わたしは彼に中にはいるように命令した。馬鹿な犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、暖かい焚き火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。彼は不承不承にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ面をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを忘れない犬であった。  わたしは、真っ白な夜をながめながらまだニサンプンそこに立っていた。それは美しい景色ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中に入って、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。  とうとうわたしはまた焚き火のそばへ帰って、ニ三本’薪をたがいちがいに火の上に組み合わせて、枕の代わりにした石の上に腰をかけた。  親方はおだやかに眠っていた。犬たちとジョリクールもまた眠っていた。炎が火の中から上って、ぴかぴか火花を散らしながら屋根のほうまで巻き上がった。ぱちぱちいう焚き火の炎の音だけが夜の沈黙を破るただ一つの音であった。  長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知らず’うとうとし始めた。わたしが外へ出て薪をこしらえる仕事でもしていたら、目を覚ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなく眠くなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を覚ましているつもりになっていた。  ふとはげしい吠え声にわたしは目が覚めて、跳び上がった。真っ暗であった。わたしはかなり長いあいだ眠ったらしく、火はほとんど消えかかっていた。もう’小屋の中に炎が光ってはいなかった。  カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。 「どうした。どうした」と親方が目を覚ましてさけんだ。 「知りません」 「おまえは眠っていたのだな。火も消えている」  カピは入口まで駆け出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、/ウウ、ほえていた。 「どうした。どうしたというんだろう。」わたしは今度は自分にたずねた。  カピの吠え声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離から聞こえて来た。  わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの肩に手をのせて引き止めた。 「まあ薪をくべなさい」彼は命令の調子で言った。  言いつけられたとおりにわたしがしていると、/彼は火の中から一本’小枝を引き出して、火をふき消して、燃えている先を吹いた。  彼はその松明を手に持った。 「さあ、行って見て来よう」と彼は言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」  外へ出ようとすると、はげしい吠え声が聞こえた。カピは怖がって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。 「オオカミだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」  なにをわたしが言えよう。二匹の犬はわたしの眠っているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしが寝つくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。  オオカミが彼らをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、/彼の声にはその恐怖があった。 「松明をお持ち」と彼は言った。「あれらを助けに行かなければならない」  村でわたしはよくオオカミのおそろしい話を聞いていた。でもわたしは躊躇することはできなかった。わたしは松明を取りにかけて帰って、また親方のあとに続いた。  けれども外には犬も見えなければオオカミも見えなかった。雪の上にただ二匹の犬の足あとがぽつぽつ残っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとやや離れて雪の中でなにか獣が転がり回ったようなあとがあった。 「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時に彼はゼルビノとドルスを呼び寄せる呼び子をふいた。  けれどこれに答える吠え声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙を破る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりに駆け出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖にたえない様子であった。いつもはあれほど従順で勇敢なカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先は’ただどんよりと暗かった。  もう一度’親方は呼び子をふいて、迷い犬を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。 「ああ、かわいそうなドルス。」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。 「オオカミがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」  そう、どうして──そう言われて、わたしは答える言葉がなかった。 「行って探して-こなければ」とわたしはしばらくして言った。  わたしは先に立って行こうとしたけれど、/彼はわたしを引き止めた。 「どこへ探しに行くつもりだ」と彼はたずねた。 「わかりません、ほうぼうを」 「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で‥‥」  それは本当であった。雪がわたしたちのひざの上まで積もっていた。わたしたちの二本の松明を一緒にしても、暗がりを照らすことはできなかった。 「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」と彼は言った。 「わたしたちは、むやみに進むことはならない。オオカミはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」  かわいそうな犬どもを、その運命のままに任せるということは、どんなに情けないことであったろう。  ──われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより困ったことは、それがわたしの責任だということであった。わたしは眠りさえしなかったら、/彼らも出て行きはしなかった。  親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに続きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。  雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。  こうして私たちが、小屋に入ると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいた枝は勢いよく燃え上がって、コヤのすみずみの暗い所まで照らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。彼の着ていた毛布は焚き火の前にぬぎ捨ててあった。けれど彼は小屋の中にはいなかった。親方もわたしも呼んだ。けれど彼は出て来なかった。  親方の言うには、/彼の目を覚ましたときには、猿はわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。燃えている松明を雪の積もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。  どこか束ねた薪のかげにでも隠れているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく探し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。  わたしは親方の肩に上って、屋根に葺いてある’枝たばの中を探してみた。二度も三度も呼んでみた。けれどもなんの返事もなかった。  親方はぷりぷり’癇癪を起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。  わたしは親方に、オオカミが彼までも取って行ったのではないかとたずねた。 「いいや」と彼は言った。「オオカミは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへか隠れたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっと風邪をひくであろう。寒さがあれにはなにより効くのだから」 「じゃあどんどん探してみましょうよ」  わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。 「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。 「どのくらいで明けるでしょう」 「二時間か三時間だろう」  親方は両手で頭をおさえて焚き火の前に座っていた。  わたしはそれを邪魔する勇気がなかった、わたしは彼のわきにつっ立って、ただときどき火の中に枝をくべるだけであった。イチ二度’彼は立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。  わたしは彼がそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。  三時間はのろのろ’過ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。  でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに従って、寒さはいよいよひどくなった。戸口から入って来る風が骨まで凍るようであった。  これでジョリクールを見つけたとしても、/彼は生きているだろうか。  見つけ出す希望がほんとにあるだろうか。  今日もまた雪が降り出さないともかぎらない。  でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気を予告するようであった。  すっかり明るくなって、樹木の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、棒をかかえて小屋を出た。  カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいで駆け出す仕度をしていた。  わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを探し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。彼はわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。  小屋のわきの大きな樫の木のまたで、わたしたちはなにか-くろい小さなもののうごめく姿を見つけた。  これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声に怯えて、/彼はわたしたちが出ているまに、コヤの屋根によじ上った。そしてそこから一本の樫の木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの呼ぶ声にも答えず、じっと体をかがめて座っていたのであった。  かわいそうな弱い動物。彼は凍えてしまったにちがいない。  親方が彼を優しく呼んだ。彼は動かなかった。わたしたちは彼がもう死んでいると思った。  数分間’親方は彼を続けさまに呼んだ。けれど猿はもう生きているもののようではなかった。  わたしの心臓は後悔で痛んだ。どれほどひどく罰せられたことだろう。  わたしはつぐないをしなければならない。 「登ってつかまえて-きましょう」とわたしは言った。 「危ないよ」 「いいえ、大丈夫です。わけなくできますよ」  それは本当ではなかった。それは危険でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難な仕事であった。  わたしはごく小さかった時分から木登りをすることを習った。それでこの術には熟練していた。わたしは跳び上がって、いちばん下の枝に跳びついた。そして木の枝をすけて雪が落ちて目の中に入って来たが、でもどうやら木の幹をよじて、いちばんしっかりした枝に手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。  わたしは登りながら、優しくジョリクールに話しかけた。彼は動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。  わたしはほとんど手の届く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいと彼はほかの枝に跳びついてしまった。  わたしはその’枝まで彼を追っかけたけれど、人間の情けなさ、子どもであっても、木登りは猿にはかなわなかった。  これで猿の足が雪でぬれていなかったら、とても彼をつかまえることはできそうもなかった。彼は足のぬれることを好まなかった。それでじきにわたしを揶揄うのがいやになって、枝から枝へと跳び下りて、まっすぐに主人の肩に跳び下りた。そして上着の裏に隠れた。  ジョリクールを見つけるのは大変なことであったが/それだけではすまなかった。今度は犬を探さなければならなかった。  もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。  わたしたちは十間(約十八メートル)ばかり彼らの足あとをつけることができた。彼らは続いてコヤからぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに続いた。  それからほかの獣の足あとが見えた。一方にはオオカミどもは犬に跳びかかって、はげしく戦ったしるしが残っていた。こちらにはオオカミがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。  かわいそうな二匹の犬は、わたしの眠っているあいだに死にに行ったのであった。  でもわたしたちはできるだけ早く帰って、/ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方が猿の足と手を持って、赤ん坊をおさえるようにして、焚き火にかざすと、わたしは毛布を温めて、その中へ転がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。彼は湯たんぽと温かい飲み物を求めていた。  親方とわたしは焚き火のそばにすわって、だまって薪の燃えるのをながめた。 「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」  わたしたちは代わりばんこにこんな言葉をつぶやいた。初めに親方が、つぎにはわたしが。  あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。  わたしがしっかり見張りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。オオカミはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。  どうにかしていっそ親方がひどくわたしを叱ってくれればよかった。彼がわたしを打ってくれればよかった。  けれど彼はなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。彼は火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。 ◇。◇。◇。 【第15章】 【ジョリクール氏】 ◇。◇。◇。  夜明けまえの予告はちがわなかった。  日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえの晩あれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。  たびたび親方はかけ物の下に手をやって、/ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小猿は’いっこうにあたたまってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、/彼のがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。  彼の血管の中の血が凍っていたのである。 「とにかく’村へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐ発つことにしよう」  毛布はよく-あたたまっていた。それで小猿はその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐ胸に当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。  小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。 「この小屋にはずいぶん高い宿代をはらった」  こう言った彼の声はふるえた。  彼は先に立って行った。わたしはその足あとに続いた。わたしたちがニサンゲン(4から六メートル)行くと、カピを呼んでやらなければならなかった。かわいそうな犬。彼は小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、仲間がオオカミにとられて行った場所に向けていた。  大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その御者はもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは困難でもあり苦しかった。雪がわたしの腰までついた。  たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびに彼は、小猿はまだふるえていると言った。  やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な宿屋にとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、同勢’残らずとめてくれそうな木賃宿を選んだ。  ところが今度は親方がきれいな看板のかかっている宿屋へ入った。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光るアカの鍋がかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが空腹な旅人にどんなにうまそうに匂ったことであろう。  親方は例のもっとも『紳士』らしい態度を用いて、帽子を頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、宿屋の亭主にいい寝床と暖かい火を求めた。初めは’宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子が見事に彼を圧迫した。彼は女中に言いつけて、わたしたちをヒトマへ通すようにした。 「早く寝床におはいり」と親方は女中が火をたいている最中わたしに言った。わたしはびっくりして彼の顔を見た。なぜ寝床にはいるのだろう。わたしは寝床なんかに入るよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。 「さあ早く」  でも親方がくり返した。  服従するよりほかに仕方がなかった。ネダイの上には鳥の毛の布団があった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。 「少しでも温まるようにするのだ」と彼は言った。「おまえが暖まれば暖まるほどいいのだ」  わたしの考えでは、/ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く暖まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。  わたしがまだ毛の布団にくるまってあったまろうと骨を折っているとき、親方はジョリクールを丸くして、まるで蒸し焼きにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。 「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。 「むれそうです」 「それでいい」彼は急いでネダイのそばに来て、/ジョリクールを寝床につっこんで、わたしの胸にくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小猿は、いつもなら自分の嫌いなことをされると反抗するくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。彼は見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれども彼はもう冷たくはなかった。彼の体は焼けるようだった。  台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくした葡萄酒を一杯’持って帰って来た。彼はジョリクールにふたさじみさじ飲ませようと試みたけれど、小猿は歯を食いしばっていた。彼はぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分を責めてくれるなと頼むような顔をしていた。それから彼はかけ物の下から片腕を出して、わたしたちのほうへ差し延べた。  わたしは彼の思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう説明してくれた。  わたしがまだ来なかった時分、/ジョリクールは肺炎にかかったことがあった。それで彼の腕に針をさして出血させなければならなかった。今度’病気になったのを知って彼はまた刺絡(血を出すこと)してもらって、センのようによくなりたいと思うのであった。  かわいそうな小猿。親方はこれだけの所作で深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということは明らかであった。しかも非常に悪くって、あれほど好きな砂糖入りの葡萄酒すらも受けつけようとはしないのであった。 「ルミ、葡萄酒をお飲み。そしてトコに入っておいで」と親方が言った。「わたしは医者を呼んで来る」  わたしもやはり砂糖入りの葡萄酒が好きだということを白状しなければならない。それにわたしはたいへん腹が減っていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息に葡萄酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。体の温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息が詰まりそうであった。  親方は遠くへは行かなかった。彼はまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた紳士──お医者を連れて来た。猿だと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしがトコの中に入って、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの’額に手を当てて、すぐ「充血だ」と言った。  彼はよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。  うっかりしてまちがえられて、血でも取られては大変だと思って、わたしは叫んだ。 「まあ、ぼくは病人ではありません」 「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」  わたしは少し毛布を上げて、/ジョリクールを見せた。彼はその小さな手をわたしの首に巻きつけていた。 「病人はこれです」とわたしは言った。 「猿か」と彼は叫んで、怒った顔をして親方に向かった。「きみはこんな日に猿を見せにわたしを連れ出したか」  親方はなかなか容易なことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいに”しかも例のおおふうな様子で、医者を引き止めた。それから彼は事情を説明して、吹雪の中に閉じこめられたことや、オオカミに怖がってジョリクールが樫の木に跳び上がったこと、そこで死ぬほど凍えたことを話した。 「病人は’たかが猿にすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほど大事な友だちであり、仲間でありますか。どうしてこれほどのふしぎな才能を持った動物をただの獣医やなどに任されるものではない。村の獣医というものは馬鹿であって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということは誰だって知っている。医師の標札の出ているドアの呼び鈴をおせば、知識があり慈愛深い人にかならず会うことができる。猿は動物ではあるが、博物学者に従えば、/彼らは非常に人類に近いので、病気などは人も猿も同じように扱われると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人と猿がどうちがうか、研究してみるのも興味のあることではないでしょうか」  こういうふうに説かれて、医者は行きかけていた戸口から戻って来た。  ジョリクールは多分このめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、また腕をつき出した。 「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡していただくつもりでいます」  これで医者の足が止まった。 「非常におもしろい。なかなかおもしろい実験だ」と彼はつぶやいた。  一通り’診察して、医者は可哀想なジョリクールが今度もやはり肺炎にかかっていることを告げた。医者は猿の手を取って、その血管に少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと治ると思った。刺絡をすませて、医者はいろいろと薬剤にそえて注意をあたえた。わたしはもちろんトコの中に入ってはいなかった。親方の言いつけに従って、看護婦を務めていた。  かわいそうなジョリクール。彼は自分を看護してくれるのでわたしを-すいていた。彼はわたしの顔を見てさびしく笑った。彼の顔つきは非常に優しかった。  いつもあれほど、せっかちで、癇癪持ちで、誰にもいたずらばかりしていた彼が、それはもうおとなしく従順であった。  その後毎日、/彼はいかにわたしたちをなつかしがっているかを示そうと努めた。それはこれまでたびたび彼のいたずらの犠牲であったカピに対してすらそうであった。  肺炎の普通の経過として、/彼はまもなく咳をし始めた、この発作のたびごとに小さな体がはげしくふるえるので、/彼はひどくこれを苦しがった。  わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしは彼に麦菓子を買ってやった。けれどこれはよけい彼を悪くした。  彼のするどい本能で、/彼はまもなく咳をするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。彼はそれをいいことにして、自分のたいへん好きな薬をもらうために、しじゅう咳をした。それでこの薬は彼をよけい悪くした。  彼のこのくわだてをわたしが見破ると、もちろん麦菓子をやることをやめたが、/彼は弱らなかった。まず彼は哀願するような目つきでそれを求めた。それでくれないと見ると、/彼はトコの上にすわって両手を胸の上に当てたまま、体をゆがめて、ありったけの力で咳をした。彼の’額の青筋がにょきんと飛び出して、涙が目から流れた。そして喉のつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしく咳こんだ。  わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、/ジョリクールと一緒に宿屋に残っていた。ある朝かれが帰って来ると、宿の亭主がとどこおっている宿料を要求したことを話した。彼がわたしに-かねの話をしたのはこれが初めてであった。彼がわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんの偶然にわたしの聞き出したことであって、そのほかには彼の懐具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが:、今度こそ彼はもうわずかゴジュッスーしか懐に残っていないことを話した。  こうなってただ一つ残った手だてとしては、今夜さっそくひと興行やるほかにないと彼は考えていた。  ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。  それができてもできなくても、どう少なく見積もってもすぐヨンジュッフランという金をこしらえなければならないと彼は言った。ジョリクールの病気は治してやらなければならないし、部屋には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿にもはらわなければならない。いったん借りている物を返せば、あとはまた’貸してもくれるだろう。  この村でヨンジュッフラン。この寒空といい、こんなあわれな一座でなにができよう。  わたしが、/ジョリクールと一緒に宿に待っているあいだに/親方がさかり場で一軒’見世物小屋を見つけた。なにしろ野天で興行するなんということはこの寒さにできない相談であった。彼は広告のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、ニサン枚の板で彼は舞台をこしらえたりした。そして思い切って残りのゴジュッスーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二倍に使うくふうをした。  わたしたちの部屋の窓から見ていると、/彼は雪の中を往ったり来たりしていた。わたしはどんな番組を彼が作るか、心配であった。  わたしはすぐにこの問題を解くことができた。というのは、そのとき村の広告屋が赤い帽子をかぶってやって来て、宿屋の前に止まった。太鼓をそうぞうしくたたいたあとで、/彼はわれわれの番組を読み上げた。  その口上を聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさな吹聴をした。なんでも世界でもっとも高名な芸人が出る──それはカピのことであった─:─それから『キセイの天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。  それはいいとして、この山勘口上で第一におもしろいことは、この興行に/決まった入場料のなかったことであった。われわれは見物の義侠心’に信頼する。見物は残らず見て/聞いて/喝采をしたあとで、いくらでもお志ししだいにはらえばいいというのである。  これがわたしには突拍子もなくだいたんなやり方に思われた。誰がわたしたちを喝采する者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが‥:‥わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんなネが出るのだ。  太鼓の音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうど非常に悪かった最中であったが、やはり起き上がろうとした。太鼓の音とカピの吠え声を聞くと、芝居の始まる知らせであるということをさとったようであった。  わたしは無理に彼を寝床におしもどさなければならなかった。すると彼は例のイギリスの大将の軍服─:─金筋の入った赤い上着とズボン、それから羽根のついた帽子をくれという合図をした。彼は両手を合わせてひざをついて、わたしに頼み始めた。いくら頼んでも、なにもしてもらえないとみると、/彼はおこって見せた。それからとうとうしまいには涙をこぼしていた。彼に向かって、今夜’芝居するなんという考えを捨てなければならないことを納得させるには、大変な手数のかかることがわかっていた。それよりも隠れて出て行くほうがいいとわたしは思った。  親方が帰って来ると、/彼はわたしにハープをしょったり、いろいろ興行に入り用なものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求を始めた。彼は自分の希望を表すために苦しい声をしぼり出したり、顔をしかめたり、体を曲げたりするよりいいことはなかった。彼のホオには本当に涙が流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。 「おまえも芝居がしたいのか」と親方はたずねた。 「そうですとも」とジョリクールの体全体がさけんでいるように思われた。彼は自分がもう病人でないことを示すために、跳び上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを連れ出せば、いよいよ彼を殺すほかはないことをよく知っていた。  わたしたちはもう出て行く時刻になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、/ジョリクールを毛布の中にすっかりくるんだ。彼はまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。  雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜は’しっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座の主な役者たちが’いなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが:、カピとわたしとでお互いにいっしょうけんめいにやれるだけは’やらなければならなかった。なにしろヨンジュッフラン’集めなければならなかった。  ヨンジュッフラン。おそろしいことであった。できない相談であった。  親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちが’すべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ’芝居のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。  わたしたちがいよいよ芝居小屋に入ったとき、広告屋は太鼓をたたいて、最後にもう一度’村の往来を一巡り巡り歩いていた。  カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。  太鼓の音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。太鼓のあとからは子どもが大ぜい調子を合わせてついて来た。太鼓を打ちやめることなしに、広告屋は芝居小屋の入口にともっている二つの大きなかがり火の真ん中に位置をしめた。こうなると見物は’ただ、中に入って場席を取れば、芝居は始められるのであった。  おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口の太鼓は愉快そうにどんどん鳴り続けていた。村じゅうの子どもは残らず集まっているにちがいなかった。けれどヨンジュッフランの-かねをくれるものは子どもではなかった、懐の大きい、物おしみをしない紳士が来てくれなければならなかった。  とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくという厄介な問題があるので、このうえ長くは待てなかった。  わたしはまず真っ先に現れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けた喝采はごく貧弱だった。わたしは自分を芸人だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡さがわたしをがっかりさせた。わたしが彼らを愉快にしえなかったとすると、/彼らはきっと懐を開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮させ、/彼らを有頂天にさせようと願っていたことだろう‥:‥けれども見物席はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『キセイの天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。  でもカピは評判がよかった。彼はいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行が割れるような喝采で終わった。彼らは両手をたたいたばかりでなく、足拍子をふみ鳴らした。  いよいよ勝負の決まるときが来た。カピは帽子を口にくわえて、見物の中を堂々巡りし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏でイスパニア舞踏をおどった。カピはヨンジュッフラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度を示しながら、この問題がしじゅうわたしの胸を打った。  わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり続けた。彼はあわてなかった。一枚の銀貨ももらえないとみると、前足を上げてその人の隠しをたたいた。  いよいよ彼が帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。  わたしはおどり続けた。そしてフタ足ミ足カピのそばへ行きかけて、帽子がいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。  親方はやはり実入りの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。 「紳士ならびに貴女がた。自慢ではございませんが、ホンセキはおかげさまをもちまして、番組どおり/とどこおりなく演じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も燃えつきませんことゆえ、みなさまのお好みに任せ、今度は一番/てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座のカピジョウはもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を願いたてまつります」  親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだ本当に彼の歌うのを聞いたことはなかった。いや、/少なくともその晩歌ったように歌うのを聞いたことがなかった。彼は二つの歌を選んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王の歌であった。  わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。彼の歌を聞いているうちに、目には涙がいっぱいあふれたので、舞台のすみに引っこんでいた。  その涙の霧の中から、わたしは、前列の腰かけに座っていた若い奥さんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜こやに集まったヒャクショウたちとちがっていることを見つけた。彼女は若い美しい貴婦人で、その立派な毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。彼女は一緒に子どもを連れていた。その子も夢中でカピに喝采していた。非常によく似ているところを見れば、それは彼女のむすこであった。  初めの歌がすむと、カピはまた堂々巡りをした。ところがその奥さんは帽子の中になにも-いれなかったのを見て、わたしはびっくりした。  親方が第二の曲をすませたとき、/彼女は手招きをしてわたしを呼んだ。 「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」と彼女は言った。  わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにか帽子の中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピは戻って来た。彼は二度目の堂々巡りで’まえよりももっとわずか集めて来た。 「あの婦人がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。 「あなたにお話がしたいそうです」 「わたしはなにも話すことなんかない」 「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」 「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」  そうは言いながら、/彼は行くことにして、犬を連れて行った。わたしも彼らのあとに続いた。そのとき一人の僕(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布を持って来た。彼は婦人と子どものわきに立っていた。  親方は冷淡に婦人にあいさつをした。 「お邪魔をしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝いを申し上げたいと思いました」  でも親方は一ゴンも言わずに、ただ頭を下げた。 「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術の天才にはまったく感動いたしました」  技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師が。わたしはあっけにとられた。 「わたしのような老いぼれになんの技術がありますものか」と彼は冷淡に答えた。 「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人はまた始めた。 「成程あなたのような真面目なかたの好奇心を満足させてあげましたことはなによりです」と彼は言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若い時分にはわたしは‥:‥いや、ある大音楽家の下男でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚えたのですね。それだけのことです」  婦人は答えなかった。彼女は親方の顔をまじまじと見た。彼も接ぎ穂のないような顔をしていた。 「さようなら、あなた」と彼女は外国なまりで言って、「あなた」という言葉に力を入れた。 「さようなら。それからもう一度’今夜’味わわせていただいた、このうえない愉快に対してお礼を申し上げます。」こう言ってカピのほうをのぞいて、帽子に金貨を一枚’落とした。  わたしは親方が彼女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、/彼はまるでそんなことはしなかった。そして彼女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしは彼がそっとイタリア語で、ぶつぶつ小言を言っているのを聞いた。 「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのとき彼は危なくわたしにゲンコを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂らした。 「一ルイ」と彼は夢からさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、/ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘れていた。すぐ行ってやろう」  わたしはそうそうに切り上げて、宿へ帰った。  わたしは真っ先に宿屋のはしごを上がって部屋へ入った。火は消えてはいなかったが、もう炎は立たなかった。  わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。  やがて彼が陸軍大将の軍服を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布の上に横になっているのを見た。彼は眠っているように見えた。  わたしは体をかがめて、優しく彼の手を取って引き起こそうとした。  その手はもう冷たかった。  親方がそのとき部屋に入って来た。  わたしは彼のほうを見た。 「ジョリクールが冷たいんですよ」とわたしは言った。  親方はそばへ来て、やはりトコの上にのぞきこんだ。 「死んだのだ」と彼は言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人の所から無理に連れて来たのは悪かった。わたしは罰せられたのだ。ゼルビノ、/ドルス、それから今度はジョリクール‥:‥だがこれだけではスムマイヨ」 ◇。◇。◇。 【第16章】 【パリ入り】 ◇。◇。◇。  まだパリからはよほど離れていた。  わたしたちは雪でうずまった道をどこまでも歩いて行かなければならなかった。朝から晩まで北風に顔を打たれながら、とぼとぼ歩いて行かなければならなかった。  この長いさすらいの旅はどんなにつらかったろう。親方が先に立って歩く。続いてわたし、そのあとからカピがついて来た。こうして一列になって、わたしたちは何時間も、何時間も、ひと言も口をきかずに、寒さで血の気のなくなった顔をして、ぬれた足と空っぽな胃ぶくろをかかえて歩き続けた。とちゅうで行き会う人は’ふり返って、わたしたちの姿を見た。まさしく彼らは奇妙に思ったらしかった。このじいさんは、子どもと犬をどこへ連れて行くのであろう。  沈黙はわたしにとって、つらくもあり悲しくも思われた。わたしはしきりと話をしたかったけれど、やっと’口を切ると、親方はぷっつり手短に答えて、顔をふり向けもしなかった。うれしいことにカピはもっと人づき(人づき合い)がよかった。それでわたしが足を引きずり引きずり歩いて行くと、ときどき彼のぬくい舌が手にさわった。彼はあたかもお友だちのカピがここについていますよというように、優しくなめてくれた。そこでわたしもさすり返してやった。わたしたちはお互いに心持ちを悟り合った。お互いに愛し合っていた。  わたしにとっては、これがなによりのたよりであったし、カピもそれをせめてものなぐさめとしているらしかった。ものに感ずる心は犬の心も子どもの心もさしてちがいがなかった。  こうしてわたしがカピをかわいがってやると、カピもそれになぐさめられて、いくらかずつ仲間をなくした悲しみをまぎらしてゆくようであった。でも習慣の力はえらいもので、ときどき立ち止まっては、一座の仲間が後から来るのを待ちうけるふうであった。それは彼が以前’一座の部長であったとき、座員を前にやり過ごして、いちいち点呼する習慣があったからである。けれどそれもほんの数秒時間のことで、すぐ思い出すと、もう誰も後から来るはずがないと思ったらしく、すごすご後から追い着いて来て、ドルスもゼルビノも来ませんが、それでやはりちがってはいないのですというように親方をながめるのであった。その目つきには感情と知恵があふれていて、見ていると、こちらも引き入れられるように思うのであった。  こんなことは、ちっとも旅行を愉快にするものではなかったが、わたしたちの気をまぎらすタネにはなった。  行く先ざきの野づらは真っ白な雪でおおわれて、空には日の光も見えなかった。いつも青白い灰色の空であった。ハタをうつヒャクショウのかげも見えなかった。馬のいななきも聞こえなければ、牛のうなりも聞こえなかった。ただ食に飢えたカラスが、梢の上で虫を探しあぐねて悲しそうに鳴いていた。村で戸を開けているうちはなくって、どこもしんと静まり返っていた。なにしろ寒気がひどいので、人間は炉のすみにちぢかまっているか、牛小屋や物置小屋でこそこそ仕事をしていた。  でこぼこな、やたらにすべる道をまっしぐらにわたしたちは進んで行った。  夜は厩や羊小屋で一切れのパン、晩飯にはじつに少ない一切れのパンを食べて眠った。その一切れが昼飯と晩飯をかねていた。  羊小屋に明かすことのできるのは、中での楽しい晩であった。ちょうど雌羊が子どもに乳を飲ませる時節で、羊飼いのうちには、羊の乳を勝手にしぼって飲むことを許してくれる者もあった。でもわたしたちは羊飼いに向かっていきなり、腹が減って死にそうだとも話しえなかったけれど、親方は例のうまい口調でそれとなしに、「この子どもはたいへん羊の乳が好きなのですよ。それというのが赤子の時分’飲みつけていたものですから、それでよけい子どもの時分が思い出されるとみえます」というように言うのであった。この作り話の効き目がいつもあるわけではなかったが、たまにそれが当たるといい一晩が過ごされた。そうだ、わたしはほんとに羊の乳を-すいていた。だからこれがもらえると、そのあくる日はずっと、元気になったように感じた。  パリに近づくにしたがって、田舎道がだんだん美しくなくなるのが、奇妙に思われた。もう雪も白くはないし、かがやいてもいなかった。わたしはどんなにかパリをふしぎな国のように言い聞かされていたことであろう。そしてなにか’突拍子もないことが始まると思っていた。それがなんであるか、はっきりとは知らなかった。わたしは黄金の木や、大理石の町や玉でかざったごてんがそこにもここにも建っていても、ちっとも驚きはしなかったであろう。  われわれのような貧乏人がパリへ行って、いったいなにができるのであろう。わたしはしじゅうそれが気になりながら、それを親方に聞く勇気がなかった。彼はずいぶんしずみきって不機嫌’らしかった。  けれどある日とうとう彼のほうからわたしのほうへ近づいて来た。そして彼のわたしを見る目つきで、このごろしじゅう知りたいと思っていたことを知ることができそうだと感じた。  それはある大きな村から遠くないヒャクショウヤにとまった朝のことであった。その村はブアシー・セン・レージェという名であることは、往来の標柱でわかった。  さてわたしたちは日の出ごろ宿をたって、別荘の塀に沿って、そのブアシー・セン・レージェの村を通りぬけて、とある坂の上にさしかかった。その’坂のてっぺんから見下ろすと、目の前には果てしもなく大きな町が-ひらけて、いちめん濛々と立ち上がった黒けむりの中に、ところどころ建物のかげが見えた。  わたしはいっしょうけんめい目を見張って、煙やかすみの中にぼやけている屋根や/鐘楼や/塔などのごたごたした正体を見きわめようと努めていたとき、ちょうど親方がやって来た。ゆるゆると歩いて来ながら、いままでの話のあとを続けるというふうで、 「これからわたしたちの身の上も変わってくるよ。もう四時間もすればパリだから」と言った。 「へえ、ではあすこに遠く見えるのが、/パリなんですか」とわたしは問うた。 「うん」  親方がそう言って指さしをしたとき、ちょうど日がかっとさして、ちらりとコンジキにかがやく光が目に入ったように思った。  まったくそのとおりであった。やがて黄金の木を見つけるであろう。 「わたしたちはパリへ行ったら別れようと思う」と彼はとつぜん言った。  すぐに空はまた暗くなった。黄金の木は見えなくなった。わたしは親方に目を向けた。彼もまたわたしを見た。わたしの青ざめた顔色とふるえるくちびるとは、わたしの心の中の嵐をはっきりと現していた。 「おまえ、心配しているとみえるね。悲しいか。わたしにはわかっているよ」 「別れるんですって。」わたしはやっとつぶやいた。 「ああそうだよ。別れなければね」  こう言った彼の調子がわたしの目に涙をさそった。もう久しくわたしはこんな優しい’言葉を聞かなかった。 「ああ、あなたはじつにいい人です」とわたしは叫んだ。 「いや、いい子はおまえだよ。じつに親切ないい子だ。人間は一生にしみじみ人の親切を感ずるときがあるものだ。何事もよくいっているときには、誰が自分と一緒にいるか、ろくろく考えることなしに世の中を通って行く。けれど物事がちょいちょいうまくいかなくなり、悪いはめには落ちてくるし、とりわけ人間が年を取ってくると、誰かに頼りたくなるものだ。わたしがおまえに頼ると聞いたら、びっくりするかもしれないが、でもそれはまったくだよ。ただおまえがわたしの言葉を聞き、わたしをなぐさめてくれて、涙を流してくれると、わたしはたまらないほどうれしい。わたしも不幸せな人間であったよ」  わたしはなんと言っていいかわからなかった。わたしはただ彼の手をさすった。 「しかも不幸なことには、わたしたちはお互いのあいだがだんだん近づいてこようという時分になって、別れなければならないのだ」 「でもあなたはわたしをたった一人パリへ捨てて行くのではないでしょう」とわたしはこわごわたずねた。 「いいや、けっしてそんなことはない。おまえはこの大きな町で自分一人なにができよう。わたしはおまえを捨てる権利がないのだ。それは覚えておいで。わたしはあの優しい奥さんが、おまえを引き取って自分の子にして育てようというのを、聞かなかった。あの日からわたしはおまえのためにできるだけつくしてやる義務ができたのだ。だがわたしはいまの場合、なにもしてやることができない。それでわたしは別れるのがいちばんいいと考えたわけだ。それもほんのしばらくのあいだだ。わたしたちはこの時候の悪いニサンか月だけも別れているほうがいいのだ。カピのほかみんないなくなってしまった一座では、/パリにいてもなにができよう」  彼の名が出ると、かわいいカピはわたしたちのそばへやって来た。彼は前足を右の耳の所へ上げて、軍隊ふうの敬礼をして、それを胸に置いて、あたかもわたしたちは/彼の誠実に信頼することができるというようであった。親方は犬の頭に優しく手を当てそれをおさえた。 「そうだよ。おまえは善良な忠実な友だちだ。けれど情けないことにはほかのものがいないでは、もうたいしたことはできないのだ」 「でもわたしのハープは‥‥」 「わたしもおまえのような子どもが二人あれば、うまくゆくのだ。けれど老人がたった一人、男の子を連れたのでは、ろくなことはない。わたしはまだ老いくちたというのでもない。まあいっそめくらになるか、足の骨でも折れてくれればいいのだ。だがまだわたしは人びとの足を止めさせ、目をつけさせるほど情けないありさまにもなってはいない。それにお上の救助を受けるようなはずかしいことはできない。そこでわたしはおまえを冬の終わりまで、ある親方の所へやろうと心を決めた。親方はおまえをほかの子どもたちの仲間に入れてくれるだろう。そこでおまえはハープをひけばいいのだ」 「そうしてあなたは」とわたしはたずねた。 「わたしはパリでは顔を知られている。たびたびこちらへは来ていたことがある。このまえおまえの村へ行ったときも、/パリから行ったのだ。大道でハープやヴァイオリンをひくイタリアの子どもらにけいこをしてやる。わたしはただ広告をさえすれば欲しいだけの弟子は集まるのだ。そこでそのあいだにゼルビノとドルスの代わりになる犬を二匹しこもうと思う。それから春になってルミ、また一緒に出かけようよ。まあ当分は勇気と忍耐が必要だ。わたしたちはこれまでちょうど都合の悪い、あいの時節ばかり通って来た。春になればだんだん’境遇も楽になる。そこでわたしはおまえを連れて、ドイツとイギリスを回るつもりだ。そのうちおまえも大きくなるし、考えも進んでくる。わたしはおまえにたくさんのことを教えて、立派な人間にしてやる。わたしはそれをミリガン夫人と約束した。おまえにイギリス語を教えだしたのもそのわけだ。おまえはフランス語とイタリア語を話すことができる。これはおまえの年ごろの子どもとしてはえらいことだ。おまえは体も丈夫だし、どうしてこの先、運の-ひらける望みはじゅうぶんある」  たぶん親方がこう言ってわたしのために計画してくれたことは、みんないちばんいいことにちがいなかった。けれどそのときにはわたしはただ二つのことだけしか考えられなかった。  わたしたちは別れなければならない。そしてわたしは他所の親方の所へ行かなければならない。  流浪のあいだにわたしはいくたりかの親方に会ったが、いつもほうぼうからやとい入れて使っている子どもたちをひどく打ったりたたいたりする者が多かった。彼らは非常に残酷であった。ひどく口ぎたなかったり、いつも酔っぱらっていた。わたしはそういうおそろしい人間の一人に使われなければならないのであろうか。  それで’もし運よく親切な親方に当たるとしても、これはまた一つの変化であった。初めが養母、それから親方、それからまた一人─:─それはいつでもこうなのであろうか。わたしはいつまでもその人を愛して、その人と一緒にいることのできる相手を見つけることができないのであろうか。  だんだんわたしは親方に引きつけられるようになっていた。彼はほとんど父親というものはこんなものかとわたしに思わせた。  でもわたしは本当の父親を持つことがないのだ。うちを持つことがないのだ。この広い世界に、いつも独りぼっちなのだ。誰の子でもないのだ。  わたしにも言うことはあった。だが親方は「勇気を持て」とわたしに求めた。わたしはこのうえ彼に苦労を加えることを望まなかった。けれどつらいことであった。かれと別れるのはまったくつらいことであった。  彼も重ねてわたしに泣きつかれるのがうるさいと思ったように、かまわずどんどん歩きだした。わたしは引きずられるようにしてあとに続いた。  わたしはそのあとについて行くと、まもなく’橋を渡って川をこした。その橋はこのうえなく汚くって、泥が深く積もっていた。その上を黒い石炭くずのような雪がかぶさって、そこにふみこむとくるぶしまでずぶりと入った。  橋のたもとからは、村続きでせまい宿場があった。村がつきると、また野原になって、野原には小汚い家が散らばっていた。往来には荷車がしじゅう往ったり来たりしていた。わたしは、親方の右手に寄りそって歩いた。カピは後からついて来た。  いよいよ野原がおしまいになって、わたしたちは果てしのない長い町の中に入った。両側には見わたすかぎり家が建てこんでいた。それもボルドーや、ツールーズや、リヨンなどに比べては、ずっと貧乏らしいあわれなコイエばかりであった。  雪がほうぼうにうず高く積み上げられていて、黒く固まったかたまりの上に、灰やくさった野菜や、いろいろのきたない廃物が投げ捨てられてあった。空気はいやな匂いにむせるようであった。その中を荷車がごろごろ通って行くが、人びとはそれをうまくかわしかわし歩いていた。 「ここはどこです」とわたしは言った。 「パリだよ」  どこに大理石のうちがあるか。それから黄金の木が。そして立派に着かざった人たちが。これが見たい見たいと憧れていたパリであったか。わたしはこんな場所で、親方に別れて‥:‥カピに別れて、この冬じゅう暮らさなければならなかったのか。 ◇。◇。◇。 【第17章】 【ルールシーヌマチの親方】 ◇。◇。◇。  いま、わたしのぐるりを取り巻いているものは、キミの悪いものばかりであったが、わたしはいっしょうけんめい好奇の目を見張って”新しい周囲を見回した。そのためにいまの身の上にさしせまった大事のことは忘れるくらいであった。  パリの町の中に深く入れば入るほど、見るものごとにわたしの幼い夢想とだんだんへだたるようになった。凍りついたみぞからは、なんともいえない臭いイキレが立っていた。雪と氷が一緒にとけて固まったうす黒い泥が、荷車の輪にはねとばされて、そこらのコミセのガラス戸に厚板のようにへばりついていた。確かにパリはボルドーにもおよばなかった。  これまで通って来た町に比べては、だいぶん立派な広い町で、いくらかきれいな’店も並んだとおりを長いこと歩いて、親方はついと右へ曲がると、急にみすぼらしい町に出た。高い黒い家の並んだまん中に、例のいやな匂いのするどぶがあった。たくさんある居酒屋の店先で、大ぜいの男女ががやがや言いながら、お酒を飲んでいた。  町のカドには、ルールシーヌマチと書いた札が打ってあった。  親方は案内を知っているらしく/狭い-とおりにこみ合う往来の人の群れを分けて進んだ。わたしはそのそばに寄りそって歩いた。 「おい、気をつけて、わたしの姿を見失わないように」と親方が注意した。けれど彼の注意は必要がなかった。なぜといって、わたしは彼のあとにくっついて歩いたうえ、おまけに彼の上着の裾をしっかりとおさえていたのであった。  わたしたちは大きな路地をつっ切って、もう一日じゅう日の光がけっしてもれたことのないような、きたならしい、じめじめした一軒の家に入った。それはこれまでわたしの見たかぎりのいちばんひどい’家であった。 「ガロフォリさんはいるかね」と親方が、ランプの光で、ぼろをドアにぶら下げていた男にたずねた。 「知らねえや。上がって見て来い」とその男は唸った。「はしごだんのいちばんてっぺんだ。それ”おまえの鼻っ先に見えてるじゃないか」 「ガロフォリというのは、ルミ、おまえに話した親方だよ。ここが住まいだ。」階段を上がりながら親方はこう言った。その階段は厚い泥がこちこちに積もって、ややもするとすべって足を取られそうになった。街といい、家といい、はしご段といい、いよいよわたしを安心させる性質のものではなかった。いったい今度の親方というのはどんな男であろう。  4階のてっぺんに上がって、ドアをたたくことなしに親方はすぐ前のドアをおし開けて、穀物倉のような大きな屋根裏の部屋に入った。部屋の真ん中はがらんとしていて、シホウの壁にぐるりとネダイ/みんなで十二ならべてあった。一度は-しろかったことのある壁と天井が、いまでは煙とすすとちりでよごれきって、なんとも知れない色をしていた。壁の上には炭で人間の首だの、花や鳥だのが落書きしてあった。 「ガロフォリさん、いるのかい」と親方がたずねた。「あんまり暗くって誰も見えない。ヴィタリスだよ」  壁にかけた薄ぐらいランプの明かりですかすと、部屋には誰もいないらしかった。すると弱いのろのろした声が、親方の言葉に答えた。 「ガロフォリさんは出かけましたよ。二時間ほどしなければ帰りませんよ」  こう言いながら十三ばかりの子どもが出て来た。わたしはその子の奇妙な様子に驚いた。いまでもそのとき見たとおりを目にうかべることができる。いわば胴体がなくって、足からすぐ首が生えているように見えた。その大きな頭は、まるでつり合いもなにもとれていなかった。そんなふうな体つきでけっして立派とは言えなかったが、その顔にはしかし奇妙に人をひきつけるものがあった。悲しみと優しみの表情、そしてそれから‥:‥頼りなげな表情であった。彼の大きな目は同情をふくんで、相手の目をひきつけずにはおかないのであった。 「確かに二時間すれば帰って来るのかね」と親方がたずねた。 「確かですよ。もう昼飯の時間ですからね。ここで食べるのはガロフォリさんばかりですから」 「そうかい。もしそのまえに帰って来たら、ヴィタリスという人が来て、二時間たつとまた来ると言って帰ったと言ってください」 「かしこまりました」  わたしも親方について行こうとすると、/彼はわたしを止めた。 「おまえはここにおいで」と彼は言った。「少し休んでいるがいい」 「‥:‥‥‥」 「おお、わたしは帰って来るよ」と彼はわたしの心配そうな顔つきを見て安心させるようにまた言った。わたしは例の服従の習慣から、それを嫌とは言えなかった。 「君はイタリア人かい」  親方の重い足音がもうはしご段の上に聞こえなくなったときに、イタリア語で子どもがたずねた。親方と一緒にいるあいだにわたしはイタリア語がぽつぽつわかっていたが、まだ自由には使えなかった。 「いいえ」と、わたしはフランス語で答えた。 「おやおや、つまらないなあ。きみがイタリアだといいんだがなあ」と彼は大きな目で見ながら、ほんとにつまらなそうに言った。 「きみはどこ」 「リュッカだよ。きみもそうだと、いろいろ聞きたいと思ったのだ」 「ぼくはフランス人です」 「そう、それはいいね」 「おや、きみはイタリア人よりも、フランス人のほうが好きなの」 「おお、そうじゃない。ぼくがそれはいいねと言ったのは、きみのことを考えて言ったのだ。だってきみがイタリア人だったら、きっとガロフォリ親方に使われにここへ’やって来たのだろうから、そうすると気の毒だと思ってね」 「じゃあ、あの人’悪い人なんですか」  子どもは答えなかった。けれどわたしにあたえた目つきは言葉よりも多くを語った。彼はこの話を続けるのを好まないように/炉のほうへ行った。炉の棚の上に大きな鍋があった。わたしは火に当たろうと思ってそばへ寄ると、この鍋がなんだか変わった形をしているのに気がついた。鍋の蓋には真っ直ぐな管がつき出して、蒸気がぬけるようになっていた。その蓋はちょうつがいになっていて、一方には錠がかかっていた。 「なぜ錠ががかっているの」と、わたしはふしぎそうにたずねた。 「ぼくがスープを飲まないようにさ。ぼくは鍋の番を言いつかっているけれど、親方はぼくを信用しないのだ」  わたしはほほえまずには’いられなかった。  すると彼は悲しそうに言った。 「きみは笑うね。ぼくが食いしんぼだと思うからだろう。でもきっときみがぼくの境遇だったら、ぼくと同じことをしたかもしれないよ。ぼくは豚ではないけれど、腹が減っている。だから鍋の口からスープの匂いがたてば、ますます腹が減ってくるのだ」 「ガロフォリさんはきみにじゅうぶん食べるものをくれないの」 「ああ、それが罰なんだ‥」 「まあ‥‥」 「そうだ。それにこれだけのことは話してもいい」と少年は続けた。「きみももしあの人を親方に持つんだったら、心得になることだからね。ぼくの名前はマチアと言うよ。ガロフォリはぼくのおじさんだ。ぼくの母さんはいるが、六人の子どもをかかえているし、たいへん貧乏で暮らしがたたないでいる。ガロフォリが去年’来たとき、ぼくを一緒に連れて帰ったのさ。いったいぼくよりはつぎの弟のレオナルドを連れて行きたかったのだ。レオナルドはぼくとちがって器量がいいのだからね。お金をもうけるには不器量ではだめだよ。ぶたれるか、ひどく悪くチを言われるだけだ。でもぼくの母さんはレオナルドが好きで手ばなさないから、やはりぼくが来ることになったのだ。ああ、うちを離れて、親兄弟や、小ちゃな妹に別れるのはどんなにつらかったろう。  ガロフォリ親方はこのうちへ子どもをたくさん置いてあって、中には煙突掃除もあれば、紙屑拾いもある。働くだけの力のない者は町で歌を歌ったり/こじきをしている。ガロフォリはぼくに二匹’小さな白いハツカネズミをくれて、それを往来で見世物に出させて、毎晩サンジュッスー持って帰って-こなければならないと言いわたした。サンジュッスーに一スーでも不足があれば、不足だけ鞭でぶたれるのだ。きみ、サンジュッスーもうけるにはずいぶん骨が折れる。けれどぶたれるのはもっとつらい。とりわけガロフォリが自分で手を下ろすときはよけい痛いのだ。それでぼくは’かねを取るためいろんなことをしてみるが、よく不足なことがあった。たいていほかの子どもたちが夜帰って来て、決められた-かねを持って来たとき、ぼくは自分の分に足りないと/ガロフォリは気違いのように怒った。もうひとり’仲間にやはりハツカネズミの見世物を出す子どもがある。このほうはヨンジュッスーと決められているのだが、毎晩きっとそれだけの-かねを持って帰る。そんなときぼくはその子がどんなふうにして-かねをもうけるか見たいと思って、一緒について行った‥‥」  彼は言葉を切った。 「それで」とわたしはたずねた。 「おお、見物の奥さん’たちは決まってこう言うのだ。きれいな子のほうへおやりよ。みっともない子どものほうでなく、と。そのみっともない子どもというのはむろんぼくだった。そこでぼくはもうその子とは行かないことにした。ぶたれるのは痛いけれど、そんなことを”しかも大ぜいの人の前で言われるのはもっとつらい。きみは誰からも、おまえはみにくいと言われたことがないから知るまい。だがぼくは‥:‥さてとうとうガロフォリは、ぶってもたたいてもぼくには効き目がないのをみて、ほかの仕方を考えた。それは毎晩ぼくの晩飯の芋を減らすのだ。貴様の皮はいくらひっぱたいても平気で固いが、胃ぶくろはひもじいだろうと言った。それは’つらいが、でもぼくのねずみの見世物を見ている往来の人に向かって、どうか一スーください、くださらないと、今夜は’お芋が食べられませんとは言われない。人はそんなことを言ったって、なにもくれるものではないよ」 「じゃあ、どうするとくれるの」 「それはきみ、誰だって自分の心を満足させるためにくれるのだ。なんでもなく人に物をくれるものではないよ。その子どもがかわいらしくって、きれいであるか、あるいはその人たちの亡くした子どものことを思い出させるとかいうならくれる。子どもはおなかがすいているからかわいそうだと思って、くれる者はない。ああ、こんなことで長いあいだにぼくは世の中の人の心持ちがわかってきた。ねえ、きょうは寒いじゃないか」 「ああ、ひどい寒さだね」 「ぼくはこじきをしてから、だんだん太れないで青くなった」と少年は続いて言った。「ぼくはずいぶん青い顔をしている。それでぼくはたびたび人が、あの貧乏人の子どもは今に飢えて死ぬだろうと言っているのを聞いた。だが苦しそうな顔つきは、楽しそうな顔つきではできないことをしてくれる。その代わり非常にひもじい目をこらえなければならない。とにかくおかげでだんだんぼくを気の毒がる人が近所にできた。みんな、ぼくのもらいの少ないときにはパンやスープをめぐんでくれる。これはぼくのいちばんうれしいときで、ガロフォリにぶたれもしないし、晩飯に芋がもらえなくっても、どこかでなにか昼飯にもらって食べて来るから苦しいこともなかった。けれどある日ガロフォリが、ぼくが水菓子屋にもらった一皿のスープを飲んでいるところを見つけると、なぜぼくがうちで晩飯をもらわずに平気で出て行くか、そのわけを初めて知った。それからはぼくにうちで留守番させて、このスープの見張りを言いつけた。まい朝’出て行くまえに肉と野菜を鍋に入れて、蓋に錠をかってしまう。そしてぼくのすることはその煮え立つのを見るだけだ。ぼくはスープの匂いをかいでいる。だがそれだけだ。スープの匂いでは腹は張らない。どうしてよけい空腹になる。ぼくはずいぶん青いかい。ぼくはもう外へ出ないから、みんながそう言うのを聞かないし、ここには鏡もないのだからわからない」 「君はほかの人よりかよけい青いとは思えないよ」とわたしは言った。 「ああ、君はぼくを心配させまいと思ってそう言うのだ。けれどぼくはもっともっと青くなって、早く病気になるほうがうれしいのだ。ぼくは非常に悪くなりたいのだ」  わたしはあきれて、/彼の顔をながめた。 「君はわからないのだ」と彼はあわれむような微笑をふくんで言った。「ひどく加減が悪くなればみんなが世話をしてくれる。さもなければ死なせてくれる。ぼくを死なせてくれればなにもかもおしまいだ。もう腹を減らすこともないし、ぶたれることもないだろう。それにぼくたちは死ねば天にのぼって神様と一緒に住むことになるのだ。そうだ、そうなればぼくは天にのぼって、上から母さんや、クリスチーナを見下ろすことができる。神様に頼んで妹を不幸せにしないようにしてもらうこともできる。だからぼくは病院へやられればうれしいと思うよ」  病院──というとわたしはむやみにおそろしい所だと思いこんでいた。わたしは田舎道を旅をして来たあいだ、どんなに気分が悪く思うときでも、病院へやられるかもしれないと思い出すといつでも力が出て、無理にも歩いたものだった。マチアのこういう言葉にわたしは驚かずには’いられなかった。 「ぼくはいまではずいぶん体の具合が悪くなっている。だがまだガロフォリの邪魔になるほど悪くはなっていない」と、/彼は弱い、ひきずるような声で話を続けた。「でもぼくはだんだん弱くなってきたよ。ありがたいことにガロフォリはまるっきりぶつことをやめずにいる。八日まえにもぼくの頭をうんとひどくぶった。おかげでこのとおり腫れ上がった。見たまえ、この大きなこぶを。あいつはきのうぼくに、これはできものだと言った。そう言ったあの人の様子はなんだか真面目だった。おそろしく痛むのだ。夜になるとひどく目がくらんで/枕に頭をつけるとぼくは唸ったり泣いたりする。それがほかの子どもの邪魔になるのをガロフォリはひどく嫌っている。だから二日か三日のうちにいよいよあの人もぼくを病院へやることに決めるだろうと思う。ぼくはセンに慈恵病院にいたことがある。お医者さんは隠しに安いお菓子をいつも入れているし、看護婦の尼さん’たちがそれは優しく話をしてくれるよ。こう言うんだ。ぼうや、舌をお出しとか、いい子だからねとか/なんでもなにかしたいたんびに、『ああ、おしよ』と言ってくれる。それがうちにいる母さんと同じ調子なんだ。ぼくはどうも今度は病院へ行くほど悪くなっていると思う」  彼はそばへ寄って来て、大きな目でじっとわたしを見た。わたしは彼の前に真実をかくす理由はなかったが、しかし彼の大きなぎょろぎょろした目や、くぼんだホオや、血の気のないくちびるがどんなにおそろしく見えるかということを、/彼に語ることを好まなかった。 「きみは病院へ行かなければならない。ずいぶん悪いと思うよ」 「いよいよかね」  彼は足を引きずりながらのろのろ食卓のほうへ行って、それをふき始めた。 「ガロフォリがまもなく帰って来る」と彼は言った。「ぼくたちはもう話をしてはいけない。もうこれだけぶたれているのだ。このうえよけいなぐられるのは損だからね。なにしろこのごろいただくげんこはセンよりもずっと効くからね。人間はなんでも慣れっこになるなんて言うが、それはお人よしの言うことだよ」  びっこひきひき/彼は食卓の回りを回って、皿や匙をならべた。勘定すると二十枚皿があった。そうするとガロフォリは二十人の子どもを使っているのだ。でもネダイは十二しか見えなかったから、/彼らのある者は一つのネダイに二人’眠るのだ。それにとにかくなんというネダイであろう。なんというかけ物であろう。かけ物の毛布は厩から、もう古くなって馬が着ても暖かくなくなったようなしろものを、持って来たにちがいない。 「どこでもこんなものかしら」と、わたしはあきれてたずねた。 「なにがさ」 「子どもを置く所は、どこでもこんなかしら」 「そりゃ知らないがね、きみはここへは来ないほうがいいよ」と、/少年は言った。「どこかほかへ行くようにしたまえ」 「どこへ」 「ぼくは知らない。どこでもかまわない。ここよりはいいからねえ」  どこへといって、どこへわたしは行こう。──ぼんやり当てもなしに考えこんでいると、ドアがあいて、一人の子どもが部屋の中に入って来た。彼は小わきにヴァイオリンをかかえて、手に大きなフル材木を持っていた。わたしはガロフォリの炉にたかれているフル材木の出どころと値段もわかったように思った。 「その木をくれよ」とマチアは子どものほうへ寄って行った。けれど子どもは材木を後ろに隠した。 「ううん」と彼は言った。 「薪にするんだからおくれよ。するとスープがおいしく煮えるから」 「きみはぼくがこれをスープを煮るために持って来たと思うか。ぼくは今日たった三十六スーしかもらえなかった。だからこの材木をぶたれないおまじないにするのだ。これで4スーの不足の代わりになるだろう」 「やっぱりやられるよ。なんの足しになるものか。順ぐりにやられるんだ」  マチアはそう機械的に言って、あたかもこの子どもも罰せられると思うのが彼に満足をあたえるもののようであった。わたしは彼の優しい/悲しそうな目のうちに、険しい目つきの表れたのを見て驚いた。誰でも悪い人間と一緒にいると、いつかそれに似てくるということは、わたしがのちに知ったことであった。  一人一人子どもたちは帰って来た。てんでんに入って来ると、ヴァイオリン、/ハープ、笛など自分の楽器をネダイの上の釘にかけた。音楽師でなく、ただ慣らした獣の見世物をやる者は、小ねずみや/ブタネズミを籠の中に入れた。  それから重い足音がはしご段にひびいて、ねずみ色の外套を着た小男が入って来た。これがガロフォリであった。  入って来る瞬間、/彼はわたしに目をすえて、それは嫌な目つきでにらめた。わたしはぞっとした。 「この子どもはなんだ」と、/彼は言った。  マチアはさっそくていねいにヴィタリス親方の口上を彼に伝えた。 「ああ、じゃあヴィタリスが来たのか」と彼が言った。「なんの用だろう」 「わたしはぞんじません」とマチアが答えた。 「俺は貴様に言っているのではない。この子どもに話しているのだ」 「親方がいずれ戻って来て、用事を自分で申し上げるでしょう」と、わたしは答えた。 「ハハア、この小僧は言葉の値打ちを知っている。要らぬことは言わぬ。おまえはイタリア人ではないな」 「ええ、わたしはフランス人です」  ガロフォリが部屋に入って来た瞬間、二人の子どもがてんでんに彼の両わきに席をしめた。そして彼の言葉の終わるのを待っていた。やがて一人がそのフェルト帽をとって、ていねいにネダイの上に置くと、もう一人は椅子を持ち出して来た。彼らはこれを同じようなもったいらしさと、行儀よさをもって、寺小姓が和尚さんにかしずくようにしていた。ガロフォリが腰をかけると、もう一人の子どもが煙草を詰めたパイプを持って来た。すると第4の子どもがマッチに火をつけて差し出した。 「硫黄臭いやい。がきめ」と彼は叫んで、マッチを炉の中に投げこんだ。  このザイニ-ンはあわてて過失をつぐなうために、もう一本のマッチをともして、しばらく燃やしてから主人にそれをささげた。けれどもガロフォリはそれを受け取ろうとはしなかった。 「だめだ。とんちきめ」と彼は言って、あらっぽく子どもをつきのけた。それから彼はもう一人の子どものほうを向いて、おせじ笑いをしながら言った。 「リカルド、おまえはいい子だ。マッチをすっておくれ」  この「いい子」はあわてて言いつけどおりにした。 「さて」とガロフォリは具合よく椅子に納まって、/パイプをふかしながら言った。 「お小僧さん’たち、これから仕事だ。マチア、帳面だ」  こう言われるまでもなく、子どもたちはガロフォリの眉の動き方ひとつにも心を配っていた。そのうえにガロフォリがわざわざ’口に出して用向きを言いつけてくれるのは、大変な好意であった。  ガロフォリはマチアの持って来た垢じみた小さな帳面には目もくれなかった。初めの硫黄臭いマッチをつけた子どもに、来いと合図をした。 「おまえにはきのう一スー貸してある。それをきょう持って来る約束だったが、いくら持って来たな」  子どもは赤くなって、当惑を顔に表して、しばらくもじもじしていた。 「1スー足りません」と彼はやっと言った。 「ハア、おまえは一スー足りないのかね。それでいいのだね」 「きのうの一スーではありません。今日一スー足りないのです」 「それで二スーになる。俺は貴様のようなやつを見たことがない」 「わたしが悪いんではないんです」 「言い訳をしなさんな。規則は知っているだろう。着物をぬぎなさい。きのうの分が二つ、きょうの分が二つ。合わせて4つ。それから横着の罰に夕食の芋はやらない。リカルド、いい子や。おまえはいい子だから、気晴らしをさせてやろう。鞭をお取り」  二本目のマッチをつけた子どものリカルドが、壁から大きな結び目のある皮ひもの二本ついた、エの短い鞭を下ろした。そのあいだに二スー足りない子どもは上着のボタンをはずしていた。やがてシャツまでぬいで体を腰まで現した。 「ちょっと待て」とガロフォリがいまいましい微笑を見せて言った。 「多分貴様だけではあるまい。仲間のあるということはいつでも愉快なものだし、リカルドにたびたび手数をかけずにすむ」  子どもたちは親方の前に身動きもせずに立っていたが、/彼の残酷な冗談を聞いて、みんな無理に笑わされた。 「いちばん笑ったやつはいちばん足りないやつだ」とガロフォリが言った。「きっとそれにちがいない。いちばん大きな声で笑ったのは誰だ」  みんなは例の大きな材木を持って、真っ先に帰って来た子どもを指さした。 「こら、貴様はいくら足りない」とガロフォリがせめた。 「わたしのせいではありません」 「わたしのせいではありませんなんかと言うやつは、一つおまけにぶってやろう。いくら足りないのだ」 「わたしは大きな材木を一本’持って来ました。立派な材木です」 「それもなにかになる。だがパン屋へ行ってその棒でパンにかえてもらって来い。いくらにかえてくれるか。いくら足りないのだ。言ってみろ」 「わたしは三十六スー持って来ました」 「この悪者め、4スー足りないぞ。それでいて、そんなしゃあしゃあしたツラをして、おれの前につっ立っている。シャツをぬげ。リカルドや、だんだんおもしろくなるよ」 「でも材木は」と子どもがさけんだ。 「晩飯の代わりに貴様にやるわ」  この残酷な冗談が罰せられないはずの子どもたちみんなを笑わせた。それからほかの子どもたちも一人一人’勘定をすました。リカルドが鞭を手に持って立っていると、とうとう五人までの犠牲者が一列に彼の前にならべられることになった。 「なあ、リカルド」とガロフォリが言った。「俺はこんなところを見るといつも気分が悪くなるから、見ているのは嫌だ。だが音だけは聞ける。その音でおまえの腕の力を聞き分けることができる。いっしょうけんめいにやれよ。みんな貴様たちのパンのために働くのだ」  彼は炉のほうへ体を向けた。それはあたかも彼がこういう懲罰を見ているにしのびないというようであった。  わたしは一人すみっこに立って、いきどおりとおそれにふるえていた。これがわたしの親方になろうとする男なのである。わたしもこの男に言いつけられた物を持って帰らなければ、やはりリカルドに背中を出さねばならなかった。ああ、わたしはマチアがあれほど平気で死ぬことを口にしているわけがわかった。  ぴしり、第一の鞭がふるわれて、肌に当たったとき、もう涙がわたしの目にあふれ出した。わたしのいることは忘れられていたと思っていたけれど、それは考えちがいで、ガロフォリは目のおくからわたしを見ていた。 「人情のある子どもがいる」と彼はわたしを指さした。「あの子は貴様らのような悪党ではない。貴様らは仲間が苦しんでいるところを見て笑っている。この小さな仲間を手本にしろ」  わたしは頭のてっぺんから足のつま先までふるえた。ああ、/彼らの仲間か‥‥。  第二の鞭をくって犠牲はひいひい泣き声を立てた。三度目には引きさかれるような叫び声を上げた。ガロフォリが手を上げた。リカルドは振り上げた鞭をひかえた。わたしはガロフォリがさすがに情けを見せるのだと思ったが、そうではなかった。 「貴様らの泣き声を聞くのはおれにはどのくらいつらいと思う」と彼は猫なで声で犠牲に向かって言いかけた。「鞭が貴様らの皮をさくたんびに叫び声がおれのはらわたをつき破るのだ。ちっとはおれの苦しい心も察して、気の毒に思うがいい。だからこれから泣き声を立てるたんびによけいに一つ鞭をくれることにするからそう思え。これも貴様らが悪いのだ。貴様らがおれに対してちっとでも情けや恩を知っているなら、だまっていろ。さあ、やれ、リカルド」  リカルドが鞭をふり上げた。皮ひもは犠牲の背中でくるくる回った。 「おっかあ。おっかあ」とその子どもがさけんだ。  ありがたい。わたしはこのうえこのおそろしい呵責を見ずにすんだ。なぜといってこの瞬間ドアがあいて、ヴィタリス親方が入って来たからである。  一目で彼はなにもかも了解した。彼ははしご段を上がりながら叫び声を聞いたので、すぐリカルドのそばにかけ寄って、鞭を手からうばった。それからガロフォリのほうへくるりと向いて、腕組みをしたまま彼の前につっ立った。  これはいかにもとっさのあいだに起こったので、しばらくはガロフォリもぽかんとしていた。けれどもすぐ気を取り直しておだやかに言った。 「どうもおそろしいようじゃないか。なにね、あの子どもは気がちがっているのだ」 「はずかしくはないか。」ヴィタリスがさけんだ。 「それ見ろ、わたしもそういうことだ」とガロフォリがつぶやいた。 「よせ」とヴィタリス親方が命令した。「とぼけるなよ。おまえのことだ。子どもではない。こんな手向かいのできないかわいそうな子どもらをいじめるというのは、なんという卑怯なやり方だ」 「この老いぼれめ。よけいな世話を焼くな」とガロフォリが急に調子を変えてさけんだ。 「警察ものだぞ」とヴィタリスが反抗した。 「なに、貴様、警察でおどすのか」とガロフォリがさけんだ。 「そうだ」と、わたしの親方は乱暴な相手の気勢にはちっともひるまないで答えた。 「ハハア」と彼はあざ笑った。「そんなふうにおまえさんは言うのだな。よしよし、おれにも言うことがあるぞ。おまえのしたことはなにも警察に関係はないが、おまえさんに用のあるという人が世間にはあるのだ。おれがそれを言えば、おれが一度’名前を言えば‥:‥はてはずかしがって頭をすぼめるのは誰だろうなあ。世間が知りたがっているその名前を言い回っただけでも、恥になる人がどこかにいるぞ」  親方はだまっていた。恥だ。親方の恥だ。なんだろう。わたしはびっくりした。けれど考える暇のないうちに、/彼はわたしの手を引っ張った。 「さあ、行こう、ルミ」と彼は言った、そうして戸口までぐんぐん’わたしを引っ張った。 「まあ、いいやな。」ガロフォリが今度は笑いながらさけんだ。「きみ、話があって来たんだろう」 「おまえなんぞに言うことはなにもない」  それなり、もうひと言も言わずに、わたしたちははしご段を下りた。彼はまだしっかりわたしの手をおさえていた。なんというほっとした心持ちで、わたしは彼について行ったろう。わたしは地獄の口からのがれた。わたしが思いどおりにやれば、親方の首に両手をかけて、強く強くだきしめたところであったろう。 (つづく) ◇。◇。◇。 【底本:「家なき子(じょう)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂】 【1978(昭和53)年1月30日発行】 【◇底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。】 【入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)】 【校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)】 【2004年4月29日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。