【いたずら小僧日記】 【佐々木邦】 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は昨日で満十一になった。誕生日のお祝に何を上げようかとお母さんが言うから、乃公《俺》は日記帳が欲しいと答えた。するとお母さんは早速上等のを一冊買って呉れた。姉さん達は三人共《三人とも》日記をつけているから、乃公《俺》だってつけなくちゃ幅が利かない。  物は最初《初め》が大切《大事》だそうだ。初めて逢った時可厭《時’嫌》だと思った人は何時《-いつ》までも可厭《嫌》だとは、お花姉さんの始終《-しょっちゅう》言う事だ。それで乃公《俺》も此最初《この初め》を巧くやる積りで、色々と考えて見たが、どうも面白い事が書けない。すべて物には始めがある。正月は明けましてで始まり、演説は満堂の紳士淑女諸君で始まり、手紙は拝啓陳者《拝啓のぶれば》で始まる。しかし日記は何で始まるものか、始からして分らないのだから、全然《-てんで》見当がつかない。弱っちまう。  お花姉さんのには什麽《-どんな》事が書いてあるか知ら、一つお手本を拝見してやろうと好《い》い所に気がついて、乃公《俺》は窃《こっそり》と姉さんの室《部屋》へ上《=のぼ》って行《=い》った。平常《-いつも》机の引出《引出し》に入《い》れとくのは承知しているが、鍵がかってあるので、合う奴《ヤツ》を探すのに大骨《オオホネ》を折った。  実際鍵をかけて置く筈だ。乃公《俺》の悪口《悪くチ》が大分書《だいぶ書》いてある。第一太郎太郎と呼捨てに書いとくのが気に食わない。「太郎のオシャベリが皆喋《みんな喋》って了《+しま》った」等《など》は頗る厳しい。どっちがお喋りだ。兎に角処分は追って後《あと》の事として、帰って来ない中《+うち》にと、乃公《俺》は一生懸命で丁寧に一頁写し取った。  日が暮れると間もなく、富田さんがやって来た。富田さんは毎晩のように遊びに来る。肥り返って岩畳骨格《頑丈づくり》の男だ。顔は頗る不器用で御丁寧《ご丁寧》に鰥《オトコ鰥》と来ているが、お金は大層あるそうだ。お島のいう所に依ると大分《だいぶ》お花姉さんに参っているそうだが、トランプで参ったかピンポンで参ったか、其辺《その辺》までは詳しく訊いて見なかった。  乃公《俺》が例の日記帳を抱えて、得意然と客間へ入って行くと、富田さんは例の赤ら顔をテカテカさせて、 「やあ、太郎さん、どうだね」  と言って、キャンデーを呉れた。乃公《俺》は此人《この人》は那麽《-そんな》に嫌いでもない。君の持っているのは其《+それ》は何《なに》かねと訊くから、是《これ》は日記帳です、未《ま》だ買いたての貰いたての写したてのホヤホヤですと答えた。すると尚《な》お拝見致したそうにしているから、お目にかけてやった。 「ふーむ、是《こり》や《ゃ》豪気《+ゴウギ》だ。金縁だね」  と富田さんは仔細らしく乃公《俺》の日記帳を見ている。姉さんのお気に入《い》ろうと思って、乃公《俺》にまで恁麽《-こんな》に御愛嬌を振撒くのだろうが、豪気《ゴウギ》だの豪勢だのという下町《=したまち》言葉を使っては、気位ばかり妙に高いお花姉さんに好かれる筈がない。それでも富田さんが、 「花子さん、これから私が太郎さんの日記を朗読致しますから、歌子さんも御謹聴《ご謹聴》なさい」  といって椅子を離れた時には、お花姉さんもお歌姉さんも、何卒《-どうぞ》といったように頷いた。乃公《俺》も面白かろうと思って、別段故障を申立てなかったが、今《いま》考えて見ると彼《+あ》の時故障を申立てると宜かった。トウトウ大変な事になって了《+しま》った。富田さんは委細頓着なく、エヘンと気取《気ど》った咳払をして、早速読みにかかった。 「富田さんなんか最早《-もう》来《-こ》なければ宜《+い》い。日曜の晩にも来て真正《本当》に煩《-うる》さかった。私|如何《-どう》しても彼《+あ》の人は嫌い。お金があるってお母さんは仰有るけれど財産ばかりが人間の全体《全て》じゃない。誰が好き好んで若い身空を那麽《-あんな》ところへ嫁《-ゆ》くものですか。お母さんだって若い時の記憶《覚え》もありましょうに、真正《本当》に少しは私の身になって考えて呉れても宜さそうなものだ。那麽《-あんな》鬼のような手をして不恰好なってありゃしない。家作が何軒《ナンケン》あるの地所を何程《幾ら》持っているのって外、何一つ碌な口も利けない芸無しの癖に。年甲斐もなくまあ彼《+あ》の赤いネクタイは何でしょう。本当に生好《いけ好》かない気障な人だ。第一趣味が低いわ。低い所じゃない全然《/まるで》零《ゼロ》だわ。此間《-このあいだ》も帰りがけに私を捉《捕ま》えて失礼な接吻《キッス》をしようとしたり‥‥那麽奴《あんなヤツ》に接吻《キッス》される位なら、私は伊勢鰕《伊勢海老》に接吻《キッス》して貰う方《ほう》がいい。同じ人間で斯うも違うものか知ら。ああ清水《=シミズ》さん! 清水《=シミズ》さんは憤《いきどお》っていなさるのか知ら。此間も妙に何か嫌味をお言《い》いだったが、どうして世の中は恁うしたものだろう。男らしい男が貧乏で、富田さんなんかが金持なんだから、真正《本当》に人を馬鹿にしている。若《も》し清水《=シミズ》さんが富田さんで、富田さんが清水《=シミズ》さんだったら‥‥おや然うじゃない。清水《=シミズ》さんが富田さんで、富田さんが清水《=シミズ》さん──じゃ矢っ張り都合が悪い。ああ何だか分らなくなっちまった」  お花さんは日記帳を取返そうとして頻りに焦燥《焦》ったが、富田さんは矮小《+ズングリ》だけれどお花さんよりは丈《+セイ》が高い。それに其度《その度》に渡すまいと丈伸《背伸び》をして手を高く揚げるから仕方がない。トウトウ読んで了《+しま》った。そして果《果た》せる哉、本統《本当》に伊勢鰕のように真赤な顔になった。乃公《俺》は困ったと思うと、富田さんが突然《-いきなり》乃公《俺》の手を捉《捕ま》えたのには喫驚《吃驚》した。 「太郎さん、是《これ》は君の悪戯だろうね」 「いいえ、僕じゃないんですよ。お花姉さんの日記を僕が写したんですよ」  と乃公《俺》は嘘を吐《+つ》いちゃ悪いと思って、事実ありのままを答えた。これで富田さんがワシントンのお父さん位物《くらい物》の道理《=どうり》の分った人だと、早速|乃公《俺》を抱《=だ》き上げて、私は大馬鹿三太郎と書かれても一つの嘘を言わぬ我が親愛なる太郎さんを持つ事を好むとか何とかと直訳的の事を言って、大《#大い》に喜ぶのだろうに、不幸にして先方《向こう》が其人《その人》でなく、当方もワシントンでないのであって見ると、今更何とも苦情の言いようがない。乃公《俺》も嘘を吐《つ》けばよかった。富田さんは見る間《マ》に顔色《+ガンショク》を変えて、何《なに》か言いたそうに口をモグモグさせたが、グーイと喉を鳴らしただけで一言《=ひとこと》もなく、さっさと出て行って了《+しま》った。戸が毀《+こわ》れやしないかと思われる位大《くらい大》きな音がした。乃公《俺》は何だか気の毒でならなかった。  富田さんが門あたり迄行った頃、「太郎さん本当にお前は!」とお花姉さんは突然《-いきなり》乃公《俺》の首筋《首っ玉》に獅噛付《-しがみつ》いた。乃公《俺》は実際|先刻《+さっき》から既に恐縮していた矢先だから、心臓が脳天へ登ったような心持がした。そして斯う事が面倒になっては又|什麽《-どんな》目に遇わされるかも知れないと思って、手早く振切《振りもぎ》って、一目散に自分の室《部屋》に逃込んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は家《うち》の者は皆《みんな》御機嫌が悪い。乃公《俺》の顔を見ると白い眼をする。お島の談話《話し》によると、乃公《俺》のお蔭で大略《-あらまし》出来かけていた下話《下話し》が全然《-まるきり》毀れて了《+しま》ったのだそうだ。言葉を換えて言えば、乃公《俺》の為めにお花姉さんは富田さんの許《ところ》へお嫁に行けなくなったのだそうだ。果して然らば真《-ほんと》に願ったり叶ったりじゃないか。姉さんは頓首再拝して乃公《俺》にお礼を言って然る可《べ》き筈だ。然るに是《-これ》は又何たる矛盾な仕打だろう。無暗矢鱈とツンツンして、今にも食い付きそうに乃公《俺》を睨める。真正《本当》に恩を知らぬ行為《やり方》というものだ。乃公《俺》は最早《-もう》決して清水《=シミズ》さんの許《ところ》へなんか使《使い》に行ってやらないからいいや。  恁麽《-こんな》時に家にいたって些《+ちっ》とも面白くない。然うかといって長男であって見れば、家を逃出《逃げ出》して電車の車掌になる訳にも行かないから、乃公《俺》は釣竿を担《=かつ》いで川へ出掛けたけれども、今《いま》考えて見ると実際釣魚《実際’釣り》になんか行かない方《ほう》が宜かった。乃公《俺》は何時《-いつ》でも後で後悔する。尤も牧師さんも人間は後悔するようでなくてはいけぬというから、是《これ》で善《-い》いのかも知れぬ。其《+それ》は兎に角|乃公《俺》は川へ落ちて尚少《/もう少》しで死ぬ所だった。これというのも自一至十《尽く》姉さん達が悪い。乃公《俺》は家に凝《+じ》っとしていたかったのだけれど、姉さん達が苛めっ子見たいに白い眼ばかりして、出て行けがしにするものだから、乃公《俺》は可厭《嫌》だったが押して出掛けたのだ。何人《誰》が物数奇に落ちたくて川へ落ちるもんか。落ちたのは如何《-どう》にも乃公《俺》の過失《過ち》だ。しかし其過失《その過ち》の原因《元》は全く姉さん達にある。  余り天気が好《い》いので魚は些っとも餌につかない。乃公《俺》は退屈だったから、ワッフルを喰《食》べ、ビスケットを食《’食》い、林檎まで平げて、最早《-もう》好い加減にして切上げようとしていると、浮が頻りに動く。竿が絞れる程グイグイ引く。占めたと思って竿を揚げる拍子に、余り前へ乗出したもので、不覚《-つい》川の中へ踣込《のめり込》んで了《+しま》った。決して落ちたくて落ちたんじゃない。  気がついた時には、乃公《俺》は藁火の傍《そば》に大勢《-おおぜい》に取巻かれていた。大方|乃公《俺》が死んだと思って火葬にする積りだったのだろう。気の早い奴等だ。若《も》し骨になってから正気に返ったら奈何《-どう》する積りなんだろう。真正《本当》に危《危な》い所だった。油断も隙もなりゃしない。  水車の叔父さんに背負《負ぶ》さって、家に着いたのは最早《-もう》トボトボ頃であった。お母さんは乃公《俺》を抱占《抱き締》めて涙を流した。宛然《-まるで》十年も別れていたようである。姉さん達も太郎太郎って恰《’恰》も太郎の歳の市が始《始ま》ったような騒動《騒ぎ》を入《い》れる。殊にお花姉さんは身に覚えがあるから親切なもので、上等のビスケットを乃公《俺》の枕元へ持って来てくれた。皆の御機嫌は既に全然《-がらっと》変っている。して見ると時《たま》には川に落ちるのも、大阪の伯父さんの言葉を借りていえば、川に陥《はま》るのも、満更損じゃないと思う。それは兎に角、無暗と乃公《俺》に毛布《ケット》を巻付けて、写真を撮るのじゃあるまいし、凝《+じ》っとしてお居《い》で、凝《じ》っとしてお居《い》でというのには尠からず弱った。熱苦しくて仕様がない。水で冷えたのだから折返して温めさえすれば直ると思っているのだろう。ドクトル森川にも似合わぬ単純な思想《考え》である。  乃公《俺》は余り苦しいから、窃《そっ》と室《部屋》を脱出して、客間へ入ったけれども、見つかると又叱られるから、窓掛の後《後ろ》に匿《+かく》れていたが、其中《-そのうち》に大層身体が疲《だ》るくなり、次いで睡くなった。  何だか話声《話し声》がすると思って目が覚めた時には、最早《-もう》燈火《明かり》が点いていた。乃公《俺》の直ぐ前の長椅子に何人《誰》か二人腰《二人’腰》を下《下ろ》している。腰を下《下ろ》しているばかりじゃない、何《ど》うやら凭れ合っているようだ。一人はお春姉さんに相違ない。香水の香《#匂い》で分る。お春姉さんのは何時もバイオレットだ。お春姉さんの御相手なら、今《いま》一人は彼《+あ》のハイカラ筍に極《決ま》っている。森川さんは先刻《+さっき》乃公《俺》に薬を盛ってくれて、未《ま》だ愚図愚図していたと見える。二階でピアノを弾《=ひ》いてるのは彼《+あれ》はお歌姉さんだろう。いやお歌姉さんにしては少々巧過《少々うま過》ぎる。今夜は富田さんが来《-こ》ないから、お花姉さんもお二階なのだろうなどと思っていると、 「ねえ、春子さん、たった半年の事だから、あなたも機嫌好く待って下さい、ね。秋になれば下条さんの病院で若手が一人要る。最早《-もう》概略《-あらかた》約束が出来ていますから、然うなれば患者も今よりは豊《ずっ》と殖えます。もう僅か半年、六箇月《六か月》です。ね、待って下さい。春子さん」  確かにドクトルの声だけれど、一体何を待つのだろう。 「そりゃ貴下《貴方》さえ其積《-そのつも》りで確乎《+シッカリ》していて下さるなら、私は何年でもお待ち申しますわ」  とお春姉さんが答えた。そして二人は何かクスクス笑い出した。何が那麽《-そんな》に可笑しいのだ。此方《+こっち》の方《ほう》が余っ程可笑しいけれど、尚《な》お息を殺して聴いていると、 「けれどもね、春子さん、是《これ》は極《ご》く秘密にして置きましょうねえ。秘密は最良の政略です」 「無論私《むろん私》も其積《-そのつも》りよ」  とお春さんが答えたか答えないに、何人《誰》か表《オモテ》から戸をコツコツと叩いた。すると姉さんは電気にでも打たれたように飛立ち、森川さんも人真似子真似《人真似コ真似》で、ボールのように飛上って、二人はテーブルを距《隔》てて端然《-ちゃん》と向合《向き合い》に坐って、「お入《=ハイ》りなさい」どうも種々《色々》な芸当をする奴等だ。  殆んど其《それ》と同時に戸《’戸》が開いて、大勢《-おおぜい》ドヤドヤ入って来た。お母さんが先立になって、これは失礼、太郎は此処へは参りませんでしたかと訊く。森川さんは「はい、一向」と答えた。はい一向もないものだ。乃公《俺》は先刻《+さっき》から僅《+つい》半間《=ハンマ》とは離れぬ処《ところ》にいるんだぞ。今日は乃公《俺》が死にかけたので、只今|見舞人《見舞ニン》が罷越したのであるが、肝腎|要目《+カナメ》の御当人《ご当人》の姿が見えないので、お母さんが探しに来たのである。はい一向もないものだ。で、此上御心配《此上ご心配》をかけては済まないと思ったから、乃公《俺》は窓掛けの中から躍出て、突然《-いきなり》其処に四《=よ》つん這《這い》になって、ウーウと一つ唸ってくれた。 「ああ太郎、お前はまあ奈何《-どう》おしなのだねえ」  とお母さんは然《-さ》も呆れ返った如く、ねえを引張《引っ張》って、天手古《+テンテコ》を舞いかける。 「まあ太郎さん、お前は先刻《+さっき》から此の中にいたのかい」  とお春姉さんはお自慢の大眼玉《オオ眼玉》を睜る。 「ええ、いましたよ、十六世紀頃から此処にいました。ねえ、姉さん、秘密は最良の政略ですねえ。半歳は六《6》ヵ《か》月で厶《御座》いますねえ。ヘッヘヘヘヘ」  と乃公《俺》は一歩進んで|赤ん眼《あかんべい》をして呉れた。  お春さんは顔を赤くして乃公《俺》を捉《捕ま》えた。そして、 「さあ彼方《アチラ》へ行《い》らっしゃい。お母さんに御心配《=ご心配》をかけて」  と万事お母さんに託《かず》けて、乃公《俺》を捲く料簡と見えた。 「行きますよ行きますよ。其様《-そんな》に酷い事をしなくたって行きますよ。けれども姉さん、姉さんと森川さんは‥‥」  女というものは理性《聞き分け》がないから困って了《+しま》う。姉さんは矢庭に乃公《俺》の口へ手を当《当て》がって、引摺り出して戸を閉めて了《+しま》った。  乃公《俺》は再び毛布《ケット》巻きにされて身動きも叶わぬ。今度はお島が番人をしているから到底《-とても》逃げる訳に行かない。可《+い》けませんよとお島が泣きそうになるのにも構わず、乃公《俺》は乗出して此日記をつけた。いくら乗出しても今度は川へ落ちっ《-っ》こない。其間《-そのうち》にお島は死にかけた魚のように欠伸ばかりしている。それが追々|乃公《俺》に伝染して、乃公《俺》も大分《だいぶ》睡くなった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  二週間というもの日記どころでなかった。川に落ちて水を飲んだ上に、汗の出花を冷えたのが悪かったそうだ。森川さんは、日に二遍《二ヘン》も見に来て呉れる。親切な人だ。此間|赤ん眼《あかんべい》なんかしなければよかった。しかしお春は太い女《+アマ》だ。今朝お花姉さんに、これからは支度が忙しいから太郎が当分寝ていて呉れればいいなんて言っていた。何《#なん》の支度か知らないが、一体何処を押せば那麽《-そんな》音《+ネ》が出るのだろう。呆れたもんだ。乃公《俺》は丈夫の時には一日《イチニチ》に三度《3度》も郵便を出しに行ってやった。尤も途中で手紙を失くした事が三四遍《サンヨンヘン》あるけれど、其《+それ》だって乃公《俺》は土鼠《+モグラモチ》のように黙っていたから分りっ《-っ》こない。其を木の端か何《#なん》ぞのように、一月《ひと月》も寝ていればいいなんて何事だろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は大変心持が好くて起きたい位だった。お島が朝御飯を運んで来た時、乃公《俺》は窃《そっ》と床《トコ》を脱出して、戸の後《+うしろ》に匿《+かく》れていた。お母さんの黒い肩掛を頭から被《=かぶ》って、戸が開《-あ》くか開《-あ》かないに、乃公《俺》はお島の足に囓り付いた。お島め乃公《俺》をポチか何《なん》かと思って、お膳を投出《抛り出》して、御丁寧《ご丁寧》に悲鳴を揚げた。馬鹿な奴だ。家中《+ウチジュウ》の人が井戸|浚《がえ》でも始《始ま》ったように寄って集《集ま》って来た。茶碗も何も粉微塵になって了《+しま》った。考えのないって程のあったものだ。斯うした麁相《-そそっ》かしい女じゃないと思った。それでもお島は何とも言われやしない。乃公《俺》ばかり叱られた。もう乃公《俺》は決心した。快《-よ》くなり次第家《次第’家》を遁出して電車の車掌になる。恁麽《-こんな》間尺に合わない事はない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日からは起きても宜《+い》い事になった。しかし歩いちゃいけないんだ。乃公《俺》は毛布巻《ケット巻き》にされて腕椅子の上に坐っていたが、おびんずる様《さま》のようで始末に了《+お》えない。退屈で仕方がない。臥《寝》ているよりか大儀なものだ。喉が乾いたから湯を一杯持って来いとお島を追払って、乃公《俺》は歌さんの室《部屋》へ行った。引出《引出し》の中に写真が沢山あった。  富子《トミ子》さんが来ているので皆は客間にいる。お島は乃公《俺》を探しに来たが、乃公《俺》が戸棚の中に匿れたのを知らないから、「おや、此処にもいなさらぬ」と嘘を言って行って了《+しま》った。後《あと》は乃公《俺》の天下である。  写真は沢山あった。乃公《俺》の事を悪戯だの腕白だのというが、姉さん達こそお転婆だ。写真の裏に種々《色々》の楽書《落書き》がしてある。中には乃公《俺》の読めないのもあるが、「自惚《自惚れ》かがみ」というのは鬚をピンと跳ねさせて鼻眼鏡を掛けている。「これでも申込んだのよ」というのがある。拙《不味》い顔をしている。「驢馬の肖像」は耳丈《耳だ》け人並《人並み》で全く驢馬がフロックコートを着たようだ。「何《なん》という口《’口》だろう」君《クン》は口が馬鹿に大《大き》い。「珍世界」というのは荒刻《荒彫り》の仁王のように怖い顔だ。其他種々《そのた色々》あったが、一々書いていた日には夜《ヨ》が明けて了《+しま》う。兎に角乃公《角俺》は大きくなっても、決して女の子に写真をやるまい。獣呼《ケダモノ呼ば》わりにされたり鉛筆を|塗ら《ナドラ》れたりして堪るものか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は久しぶりで階下へ下《#お》りて、皆と一緒に食事をした。 「太郎さん、お前は何を那麽《-そんな》にポケットに入れて置くの? 大変膨らんでるじゃないか。宛然通《まるでツウ》の懐中《懐》のようだよ」  とお歌さんが言った、通《ツウ》というのは、毎日のように此界隈を歩く狂人《気違い》の乞食で、茶碗の断片《欠片》でも下駄の棄てたのでも、何でも彼《+かん》でも手当り次第に拾って懐へ入《い》れる。其れが病気なのだそうだ。そして「通《ツウ》は馬鹿だよ」と妙《’妙》な調《ふし》で謡って歩く。桶屋の酒飲《飲んだくれ》親爺は彼《+あ》の乞食は乞食でも愛嬌があると言って褒めていた。其《それ》は兎に角|乃公《俺》は動悸《+ドキッ》としたが、 「ええ、色んな大切《大事》の物が入ってるんです」  歌さんは笑いながら、 「私は又太郎さんが逃げる支度《シタク》をしているのだと思った。御本《ご本》や着物をポケットに入れて」  乃公《俺》は黙って笑っていた。皆《みんな》も笑っている。危《危な》い所だった。  昼頃隙《昼頃スキ》を見て乃公《俺》は家を脱出した。そして例の写真の本尊達を一々訪問して歩いた。一番|最初《初っ端》に行《=い》ったのは「自惚《自惚れ》かがみ」君《クン》の家であった。先生店《先生ミセ》に鯱構《シャチ構》えていた。乃公《俺》は大人になっても那麽《-あんな》鬚は生《はや》したくないと思った。いくらカイザル鬚がコレラ病のように流行ったって、彼《+あれ》では些《+ち》っとカイザリ過ぎる。其《それ》も太いのなら兎も角だが、細いのが五六本《ゴロッポン/》ピンと蜻蛉返りをしているのは決して見《みっ》とも好《い》いものでない。 「や、太郎さんか、よく来たね。もう全然《-さっぱり》快《-よ》いかね。うむ、其《それ》は好かった」  と掻猿真似《+カイザルマネ》は一人で喋っている。乃公《俺》は一寸《+ちょっと》の間話《あいだ話》をした。 「姉さん達は如何《-どう》ですか。此頃は店の方《ほう》が忙しいもんで、大変御無沙汰しちまった。歌子さんは矢張《-やっぱ》りピアノですか」  と此方《+こっち》で返辞もしないのに能く喋る奴《ヤツ》だ。歌さんがピアノで堪るものか。歌さんは乃公《俺》の姉さんだ等《など》と思っていると、先生新しい襟飾《襟飾り》を出して来て乃公《俺》に呉れた。乃公《俺》は引きかえにポケットから写真を引張り出して渡した。姉さん達の悪戯で、鬚は鉛筆で二倍も引伸されている。 「其写真はあなたに似ていますね」  というと、見る間《マ》に天気模様が変って、 「太郎さん、是《これ》は君の悪戯だろう。何人《誰》が恁麽《-こんな》事をした?」  と今にも噛付きそうな顔をした。 「多分神さまが為《し》たんでしょうよ」  と乃公《俺》は梟のように馬鹿面をして答えた。そして今にも雷《=カミナリ》が落ちそうだったから、一目散におっ走《パシ》って来た。  次に行《=い》ったのは雑貨店である。此処にも若旦那がいる。頭の毛の赤い、頬《ホオ》に赤痣のある人だ。彼《+あれ》でもクラブ白粉の広告に出る積りで運動をしているって、富子《トミ子》さんが言っていた。 「御機嫌好う」 「やあ、太郎さん、御機嫌好う。能く来たね。君は干葡萄が好きだったね、さあお食り」  と乃公《俺》に干葡萄を一掴《ひと掴》み呉れて、親の仇にでも会ったように喜んでいる。美しい姉さんが三人もあると、何処へ行っても評判が好《い》い。乃公《俺》は帳場に坐って葡萄を喰《食》べた。そして最早《-もう》好い頃だと思って、写真を出して、藪睨みのようにして一心に眺めながら、 「何《ど》うも此写真はあなたに似ていますよ」  と顔を見比べてやった。 「どうれ」  と赤旦那は森川さん所の書生のような返辞をして手を出した。「手を出す心は乞食の心」と乃公《俺》が言うと、奴《-やっこ》さん本気にして手を引込《引っ込》めたから、乃公《俺》は又「引込《引っ込》む心は河童の心」と大きな声を出した。店の者は皆《みんな》笑っていた。 「冗談は止《-よ》して早く見せ給え」  と止せばいいのに痣旦那は頻りに見たがるから、余り焦らして虫でも出ると悪いと思って、乃公《俺》は写真を渡してやった。是《これ》も姉さん達の悪戯で、痣が沢山拵えてある。頭の毛は赤いインキで塗ってある。裏面《裏》には「是《これ》でも申込んだのよ」と書いてある。赤旦那が青旦那に変色した頃は、乃公《俺》は干葡萄をもう一掴《ひと掴》み貰って、外へ出て躍っていた。  片岡さんは弁護士である。事務所は新町にある。此人《この人》は度々家《度々’家》へ来るから乃公《俺》は能く知っている。恐ろしく声の太い人だ。事務所に入った時には何だか、胸がドキドキした。大方|気怯《気後》れがしたのであろう。しかし道順だから是非寄らねばならぬ。 「今日《+コンニチ》は、今日は什麽《-どんな》見世物が厶《御座》いますか」 「何《なん》じゃ。やあ、太郎さんか」  とバリストルは新聞を置いて、乃公《俺》を見下《見下ろ》した。荒刻《荒彫り》の仁王を微笑ませるのも偏えにお春姉さんの威光である。 「あの、お春姉さんが斯う仰有《おっしゃ》いましたよ。彼《+あ》の何《なん》ですって、今日片岡さんの事務所へ行くと、恁麽《-こんな》怪物《+ケダモノ》が見られますって」  乃公《俺》は「珍世界」の写真を三脚机《テーブル》の上に置いたが、もう少しで搏《+ドヤ》される所だった。珍世界だけあって事が荒い。片岡さんは訴えるとか何とか言って憤《いきどお》っていた。  未《ま》だ方々《ほうぼう》へ行ったのだけれど、其を一々書くと夜半《夜中》までかかる。又鮒《また鮒》のように叭《欠伸》が出始めたから、是《これ》でお仕舞にしよう。夕飯までに写真を皆《みんな》配って帰って来た。御飯の時に姉さん達は次の週に舞踏会をしたいって、三人がかりでお母さんを強請《+セビ》っていた。しかし招待状を出しても男は一人も来ないだろう。来《-こ》なくたって構わない。乃公《俺》が一人で御馳走を喰《食》べてやる。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お母さんの御許可《お許し》が出て、土曜日に舞踏会をするので、姉さん達は蜜蜂のように忙しい。乃公《俺》も大層|音な《大人》しい。疲れる位お手伝《手伝い》をしてやっても、邪魔になって仕様がないそうだから、乃公《俺》は椅子に坐って見物していると、頻りに呼鈴《ベル》が鳴った。無暗《-やけ》に鳴らす。一体誰が来たのだろうと思って飛んで行くと、田舎の伯母さんが来たのだ。伯母さんは年《ネン》に二度ずつ来て、一週間位泊《一週間くらい泊》って帰る。花さんは顔を皺《しか》めて、 「仕様のない伯母さんねえ、何時《-いつ》でも困る時に来るのだもの」 「又一週間は御逗留でしょう。すれば屹度舞踏会にも出なさるわ。彼《+あ》の昔の着物を着て」 「困るわねえ」  と三人がかりで困っている。  伯母さんは金持だけれど、|昔し者《昔者》だそうだ。彼《+あ》の顔は唯《ただ-》今《いま》動物と共にノアの箱船から出たばかりで厶《御座》いという顔だそうだ。日曜学校で教わった時に、動物は皆《みんな》二疋《みんな二匹》ずつ出て来たと聞いたが、伯母さんは老嬢だから一人で出て来たに相違ない。何しろ姉さん達が頻りに困っているものだから、乃公《俺》も困った人が来たと思って、大《大い》に困っていた。  お茶が済んで伯母さんは一人で二階にいた。乃公《俺》は御機嫌うかがいに行って、少時《暫く》談話《話し》の末、用談に取《取り》かかった。 「伯母さん、伯母さんは姉さん達が可愛う厶《御座》いますか、憎《=にく》う厶《御座》いますか」 「何を言うのだねえ、お前は。姉さん達やお前が可愛いばかりに遠々《トウ遠》しい処《所》を恁うして来たのじゃないか」 「真正《本当》ですか?」 「お前は余っ程|可笑《-おかし》な事を訊く子だね」 「其《それ》じゃ真正《本当》に可愛いなら、伯母さんは是《これ》から直ぐに帰って下さい。姉さん達は舞踏会があるので、伯母さんがいちゃ困るんですって、お友達に外聞《+キマリ》が悪いのですって」  と尚《な》お乃公《俺》は得心の行くように詳しく話してやった。  乃公《俺》は伯母さんが那麽《-あんな》に憤るだろうとは思わなかった。伯母さんは火のようになって、直様鞄を抱えて、階下《’下》へ下りた。そして車屋を呼んで来て下さいと言った。お父さんもお母さんも吃驚して、頻りにお止め申した。姉さん達も泣声《泣き声》になって止《=と》めた。しかし伯母さんは返事もしない。一国だから言出したら決して後《あと》へは退かぬ。お歌さんは手を払い除《の》けられた。 「もうお前の家の敷居は什麽《-どんな》事があっても跨ぎません。恩知らずの家へは、もうもうもう二度と再び来ませんから」  と伯母さんは蝙蝠傘で土を叩きながら、牛のような事をいって、鞄を抱えたなりで、さっさと行って了《+しま》った。 「どうしたのだろう」  とお父さんが言った。 「どうしたのでしょうか」  とお母さんがお父さんの顔を見た。 「真正《本当》にどうなすったんでしょうねえ」  と姉さん達も口を出した。そして皆な少時《暫く》顔を見合せていた。「真正《本当》にどうなすったんでしょうね」もないものだ。乃公《俺》はなかなか骨を折った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  待ちに待った舞踏会の晩が来た。お島は乃公《俺》に他所行《余所ゆき》の洋服《着物》を着せて、|横撫ぜ《ヨコナゼ》をしないようにと言ったから、一つ擲《=なぐ》ってやった。新しい襟飾《襟飾り》を付けて、新しい手袋を穿《嵌》めて、新しいハンケチを持って、何《なん》も彼《か》も新しずくめだ。姉さん達は会の心得を三十分も説教して、若《も》しお行儀が悪いなら直ぐに床《トコ》に入れて了《+しま》うといって脅かした。広間へ行った時には、靴がギュウギュウ鳴って弥喧《-やかま》しい位だった。燈火《明かり》が沢山ついている。其処此処に綺麗な花が飾ってある。ピアノを弾《ひ》く人も来ていた。乃公《俺》はアイスクリーム、菓子、蜜柑、ジェリー、サイダ、サンドイッチ等《など》の事を考えたら涎が出た。是《これ》は決して乃公《俺》が食辛抱《食いしん坊》だからじゃない。何人《誰》だって風邪をひけば咳が出る。悲しい事を考えれば涙が出る。甘い物の事を想えば涎が出る。当然《当たり前》の話だ。賤しいなんて言えば酷い目に会わしてやる。姉さん達は白い着物を着て、平常《-いつも》より何倍美しいか知れない。頭に花を揷《挿》している。乃公《俺》の耳を引張ったりしそうには見えない。  其中《-そのうち》にお客様が見え始めた。知合の婦人連は大概集《あらかた集ま》った。時計が九時を打った。しかし男の客は一向姿を見せない。森川さんが一人来たばかりだ。乃公《俺》は胸に覚えがあるから、少々足《少々’足》が慄えて来た。  ピアノ手《+シュ》は幾度もピアノを弾《=ひ》いた。婦人連は仕方なしに、婦人同志で組んで躍った。が、女ばかりじゃつまらないと見えて直《じ》きに罷めた。時計が九時半を報じた。乃公《俺》は益々慄えて来た。しかし黙っていると怪しまれるから、 「きっと電車が停電したのでしょうよ。それから彼処《-あすこ》で道普請をしていますから車《’車》が通らないのでしょうよ」  お客様はコソコソ話《’話》を始めた。姉さん達は額を鳩めて弱っていると、突然《出し抜け》に呼鈴《ベル》が鳴った。愈々来たか、やれやれと皆が急に元気づくと、何の事だ馬鹿馬鹿しい。お島が澄まして名刺を持って入って来た。大方お断りの挨拶だろうと思っていると、さあ大変、猫がとうとう袋《フクロ》から飛出《飛び出》した。先日の写真が戻って来たのだ。  引続いて呼鈴《ベル》が十二三度《十二’三度》も鳴った。お島は其都度お得意になって写真を持って来る。最後に男の人が二人来た。此人《この人》々の写真の裏には「まあ好い口付だこと」「洋服屋の看板」と書いてあった。しかし先生方は楽書を極《ご》くお目出度《目出度く》文字通りに解釈して、のこのこやって来たのだ。  男三人は女五人を相手に、代る代るランサースを躍った。雪子さんは始終《-しょっちゅう》クスクス笑っていた。お歌さんは泣きそうな顔をした。やがて一同食卓《皆んなテーブル》に着いたが、何《なん》だか奥歯に物が挾《挟ま》っているような風《かたち》であった。乃公《俺》は余り気の毒だったから、五杯目のアイスクリームは喉へ通らなかった。  お客様が帰ってから、お春さんは最早《-もう》世間へ顔出しが出来ぬ、恁麽《-こんな》悪戯をした者が知れたら唯《ただ-》は置かないと言った。すると森川さんが乃公《俺》の顔をジロジロ眺めて、 「太郎さんが知っているだろう」  と言った。乃公《俺》が知っているものか。 「いいえ、僕知っているもんですか。ポチですよ。ポチが悪いのです。僕が此間ポチに写真を喰《食》べさせたら、ポチが啣《咥》えて表《-おもて》へ持って行《=い》ったんです。きっと何処《何処か》へ落して来たんです。真正《本当》に困る奴《ヤツ》だ」 「それじゃお前が写真を出したんだね」  とお春姉さんが恐ろしい権幕をした。再び言う、猫は袋から飛出《飛び出》した。乃公《俺》は命がけで床《トコ》の中へ潜り込んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は今度遠くの学校へやられるのだ。三月の休暇《休み》までは帰って来られないんだ。けれども家にいて姉さん達に苛められるよりか余程《-よっぽど》得《+まし》だと思う。学校には乃公位《俺くらい》の子供も大勢《-おおぜい》いるそうだ。広告には「土地高燥にして空気新鮮遠く都会の雑沓を離れ、児童の勉学並《勉学並び》に健康に適す。汽車並に電車の便《=びん》あり」と温泉場《温泉バ》の案内見たような事が書いてあった。尚《な》お幼年生の為めには特別の設備ありとしてあるから、満更の学校でもなかろうとお父さんが言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  家を出る時は悪いものだ。お母さんや姉さん達が玄関まで送ってくれた。 「能く先生の仰有る事を聴いて、風邪をひかないようにね」  とお母さんに外れた鈕《ボタン》をはめて貰った時には、乃公《俺》は喉へ団子が閊えたような心持がして、黙ってお辞儀をした。車が余程《-よっぽど》行ってから振返って見たら、皆《皆んな》は未《ま》だ立っていた。お島はハンカチを振《=ふ》っていた。  お父さんは学校まで送って来て、校長さんに種々《色々》と頼んだ。腕白者《腕白モノ》で困るなんて言った。しかし校長さんは子供は活溌に限る、少し腕白な位が好《い》いのですと言っていた。なかなか話せる奴《ヤツ》だ。  今夜は始めて寄宿舎で寝るのだ。持って来た菓子を皆で喰《食》べた。皆乃公《皆んな俺》よりも大きい。菓子を喰《食》べるのが早いのには驚いちまった。  家では今頃は姉さん達が彼《+あ》の室《部屋》で談話《話し》をしているのだろう。お母さんは最早《-もう》お休みかしら。お島は世話が焼けないって喜んでいるだろう。屹度手紙を下さいと言ったが、明日にしよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は丈《+セイ》が低いものだから、食事の時には椅子の上にウェブスターを置いて、其上に腰を掛ける。乃公《俺》は奥さんの直ぐ隣席《隣り》に坐る。今朝奥さんが一寸《+ちょっと》立った時に、乃公《俺》は手早く椅子を退《=ど》けてやった。すると奥さんは椅子があると思って腰を下《下ろ》して、匙を持ったまま尻餅を搗いた。幸い人間だったから宜かったが、若《も》し瀬戸物だったら壊れて了《+しま》ったろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は地理を習い始めた。先生が地球が円いというけれど、乃公《俺》には何《ど》うも然う思えない。教場に地球がある。是《これ》は全く円い。しかし彼《+あれ》は全《+ムク》か空虚《+ガランド》か分らないから、近日《-そのうち》に穴を明けて見よう。乃公《俺》は空虚《ガランド》として置く。  尚《な》お算術を教わる。是《これ》は奥さんが先生だ。可笑《-おかし》な事が書いてある本だ。太郎が五つ凧を持っている、二郎は十持っている、三郎は十五持っている。三人のを合せると三十になるのは異存ないけれど、十五は嘘に極っている。凧屋じゃあるまいし、十の十五のって持っている子があるものか。  校長と奥さんの外《他》に先生がもう一人いる。お花姉さんよりも少し年が寄っていて、名を大内さんという。乃公《俺》は此先生《この先生》が好きだけれども、善ちゃんは彼は老嬢《オールドメイド》だと言った。老嬢《オールドメイド》だって構わない。乃公《俺》は自分が家に居た頃の話をして聞かせたら、大層同情してくれた。そして寂しい時には何時《-いつ》でも遊びに入らっしゃいと言った。其中《-そのうち》に遊びに行こう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  家郷病《ホームシック》は悲しいものだ。昨夜は種々《色々》の事を思出《思い出》して半時間ばかり寝つかれなかった。お島の事を考えたら、不図《-ふと》お島の従兄だという彼《+あ》の藪睨みの顔が目の前に浮んだ。藪睨みなんて、調法なものだ。あれなら右の目で本を見て、左の目で外見《よそ見》が出来るから、校長に捉《捕ま》りっ《-っ》こない。乃公《俺》も藪睨みに生れて来ればよかった。  どうも皆は乱暴で仕方がない。乃公《俺》を蒲団蒸しにしたり、雪団子にしたり、酷い事をする。お島が見ていたら屹度泣くだろう。彼《+あ》の絹ハンカチは取られて了《+しま》った。ミットは屋根へ上《=のぼ》って了《+しま》った。尤も是《これ》は乃公《俺》が猫の頭へ無理に篏めたら、猫が屋根へ行って置いて来たのだ。  けれども是《これ》からは善ちゃんが此方組《コッチ組》になってくれる。苛めた者があったら直ぐに言付けろと言うから大《大い》に心丈夫だ。善ちゃんは一番大きくて一番強《一番つよ》い。寄宿舎のモニトルだ。綽名《渾名》でも何でも此子《この子》が付ける。小|使《使い》の金さんは彼《+あれ》は生存競争に落伍した落胆の顔だそうだ。校長は少くとも日清戦争時代の人間で、今日《+コンニチ》の時勢には気の毒ながら少々後れているのだそうだ。それじゃ矢張《-やっぱ》りノアの方船から出たのかと聞いたら、善ちゃんにはノアの方船が分らなかった。大内さんは失恋で、少しヒステリーの気味《キミ》だそうだ。奥さん──は新時代の婦人で、熱心なサッフラジェット(女権論者)だそうだ。女権論者《サッフラジェット》って何《#なん》だと訊いたら、何でも大変六ヶ敷い事で子供には話しても分らないと言った。そして其主張には半面の真理があるそうだ。半面の真理ってのは什麽《-どんな》ものかと訊いたら、然う一々訊くものじゃないと言った。兎に角奥さんは拉典《ラテン》もなかなか達者で校長さんよりも豪いそうだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は応接間の絨毯を台なしにして、校長に叱られた。乃公《俺》は猫の頚《首》にインキ瓶《=ビン》を結い付けたばかりで、三日間の禁足になって了《+しま》った。今に彼《あ》の猫を打殺《叩き殺》して了《+しま》うからいい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金曜日は悪い日だとお島が能く言ったが、全く然うである。金曜日というと屹度お目玉を頂戴するような事が起る。今日は大変な事が起った。  二時間目は歴史だった。鈴《ベル》が鳴って皆が教場に入っても、木乃伊《マムミー》は出て来ない。木乃伊《マムミー》は校長の綽名《渾名》である。埃及《エジプト》の木乃伊《#マムミー》に顔が似ているというので先日から木乃伊木乃伊《#マムミーマムミー》と呼んでいる。乃公《俺》は如何《-どう》したのだろうと思って、見に行こうとすると、皆は止《よ》せ止《よ》せ忘れているんだ、とガヤガヤ談話《話し》をしている。馬鹿な奴だ。一体お前さん達は何しに学校へ来ている。貴重の時間を空費して嬉しいのか。  乃公《俺》は窃《そっ》と校長の室《部屋》へ行って見た。来ない筈だ。木乃伊《マムミー》はストーブの側《=そば》で椅子に凭れて、心持好さそうに居睡《居眠り》をしている。恁うなると校長も他愛ないものだ。乃公《俺》が近傍《近く》へ行っても知らずにいる。其中《-そのうち》に首がコックリと下《下が》った。其拍子《その拍子》に頭の毛が一寸《+ちょっと》ばかり辷った。乃公《俺》は喫驚《吃驚》して逃げて来た。 「おい、大変だぜ。校長さんの頭の毛が辷ったぜ」 「なあに彼《+あれ》は仮髪《+カツラ》を被《=かぶ》ってるんだ。何をしている?」 「大丈夫だ。能く寝ている」  と乃公《俺》は量見《料簡》があるから直ぐに又引返した。然うか那麽物《そんな物》を被《=かぶ》っているのか、道理《=どうり》で年《トシ》の割に頭の毛が濃いと思っていた。  最早《-もう》目が覚めていやしないかと思って、内々《=ないない》心配して行《=い》ったら、校長先生は相変らず白河夜船でいた。乃公《俺》が直ぐ足元まで行《=い》っても平然として鼾をかいている。仮髪《カツラ》に手をかけても泰然として眠っている。仮髪《カツラ》を取外しても自若として舟を漕いでいる。此の按排では一つ位|打擲《ぶん殴》っても平気の平左衛門だろう。校長の頭顱《頭》は丸薬鑵《丸薬鑵’》だ。日外《-いつか》従兄が亜弗利加《アフリカ》から土産に持って来た鴕鳥《ダチョウ》の卵に能く似ていた。  乃公《俺》は仮髪《カツラ》を被《=かぶ》って大威張《’大威張り》で教場へ行った。皆は拍手《=ハクシュ》喝采をした。丸で東郷大将が帰って来たような騒ぎだった。 「大変だぞ」 「怒《おこ》られるぞ」 「退校だぞ」 「酷い事をした」  と皆は更に感嘆して、 「見せろ見せろ、什麽《-どんな》ものだ」  乃公《俺》は仮髪《+カツラ》を脱いだ。皆は交代番《代わり番》こに被《=かぶ》って嬉しがっている。中には一寸《+ちょっと》被《=かぶ》って、エヘンと咳払をした奴もあった。仮髪《カツラ》が乃公《俺》の手に戻ると、皆は乃公《俺》を講壇に立たせて、「どうだ、君一つ講義をやれ。校長代理だ。」其処で乃公《俺》は仮髪《カツラ》を被《=かぶ》って、両手を後ろへ出した。これは上着の尻尾の真似である。そして咳一咳《ガイイチガイ》して、 「若き紳士諸君、今日《+コンニチ》は諸君の注意を生物界に喚びたいと思います。生物の種類形態は真《-ほんと》に千差万別|種々《色々》様々《=さまざま》で厶《御座》いまして、象は蚤よりも大きく、蚤は象よりも小い。此処が即ち造化の妙でありまして、万一蚤が象より大きかったらば、如何《-なん》の現象が起るでありましょうか。夜分|那麽《-そんな》巨大の動物が吾人の脊中を這廻《這い回》ったらば‥‥」  此時《この時》善ちゃんは最早《-もう》罷めろ、仮髪《+カツラ》を返して来いと言った。で、乃公《俺》も講壇から下りようとすると、 「来た来た」  と皆が騒ぎ始めた。乃公《俺》は直ぐにストーブの中へ仮髪《カツラ》を焼べて了《+しま》った。そして蓋をするかしないに、戸が明《あ》いて校長が顔を出した。頭が丸薬鑵だからお見外《見そ》れ申すような顔であった。  乃公《俺》は直ぐに校長室へ連れて行かれた。色々と調べられたが、乃公《俺》は膿んだとも潰れたとも言わなかった。其中《-そのうち》に校長は嚏を始めた。 「一体何《一体なん》の為めに学校へ、ハクシン、学校へ来ている、ヘキスン、御覧なさい、私はお前さんの為に風邪を引いて了《+しま》った。ハアクション」 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は学校はお休みだ。校長は寝ている。頭から風邪を引《引き》込んだのだそうだ。其《+それ》でなくても一校の校長たるものが、鴕鳥《ダチョウ》の卵を被《=かぶ》って教鞭を執る訳に行くまい。  昨夜町《さくや/町》へ電報を打ったから、仮髪《カツラ》は今日中に新しいのが来るそうだ。乃公《俺》は屹度退校になるだろう。もう覚悟をしている。真正《本当》に乃公《俺》は運が悪い。 ◇。◇。◇。◇。◇。  家から手紙が来た。何《な》んにも知らないと見えて、大層|乃公《俺》を褒めている。此間の手紙は学校の作文を其侭清書して出したんだ。乃公《俺》に彼様《-あん》な巧い事が書けるものか。「先生|御夫婦《ご夫婦》は両親の如く慈しみ被下候《下されそろ》」なんて乃公《俺》が言うものか。けれども家では乃公《俺》の頭脳《頭》から出たものと信じているらしい。尚《な》お能く先生方の言う事を聞き、勉強を専一にし、寒いから風邪をひかぬようにしろ。そして試験|休暇《休み》には帰省を待っているとしてあった。試験|休暇《休み》まで待っていなくとも、乃公《俺》はもう直《じ》きに退校になるんだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は実際学校が可厭《嫌》になった。斯ういう処《ところ》に長居をすると碌な事を覚えない。善ちゃんは紙を丸めて人の頭に打付《-ぶっつ》けて知らん顔をしている法を教えてくれた。仙ちゃんは試験の時勉強しないで及第する術を伝授してくれた。ボールを拾いに行く風《ふり》をして隣屋敷の金柑を盗む事も覚え、算術の可厭《嫌》な時頭痛がする事も習った。乃公《俺》は其様《-そん》な事をしたくないが、皆がするから仕方がない。何でも人並にしてとお母さんがくれぐれも言い含めて寄越した。  昨日は書取の時間に奥さんの顔を書いていたら、石盤を取上げられた。取上げられたばかりでなく立たされた。立たして置いて奥さんは新聞紙で帽子を拵えて乃公《俺》の頭に被せた。いくら見せしめの為めだって余《+あんま》り人を馬鹿にしている。「これでも仮髪《カツラ》よりか優《+マシ》だ」と言ったら、奥さんは火のようになって怒った。彼《+あ》の仮髪《カツラ》事件から乃公《俺》を目の仇敵《+カタキ》のように思っているらしい。乃公《俺》が焼棄てたればこそ、校長は彼《+あ》んな新しい奴《ヤツ》を買ったのじゃないか。その恩も忘れて唯《ただ-》訳も分らずにがみがみ言っている。馬鹿な女だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は大内さんの室《部屋》へ遊びに行《=い》った。大内さんは親切な方《=かた》だ。「さあ、此方《+こっち》へお入《=ハイ》りなさい。遠慮しないでね、家にいる積りで何でもしてお遊びなさい」と云ったから、乃公《俺》は突然《-いきなり》鯱鉾立《鯱立ち》をしてやった。  何でも大内さんは余り幸福《幸せ》でないらしい。乃公《俺》が入って行《=い》った時涙を出していた。多分泣いていたのだろう。それとも栄太楼の玉垂《玉垂れ》でも喰《食》べていたのか知れない。喰《食》べるといえば奥さんは能く間食《間食い》をする人だ。彼様《-あんな》に喰《食》べ通しに喰《食》べるから、彼様《-あんな》に太ってるのだろう。  大内さんは種々《色々》の事を聞く人だ。殊に姉さん達の事を尋ねるから、乃公《俺》は種々《色々》な悪口《悪くチ》を言ってやった。 「それじゃ大きい姉さんは直《ジキ》に御婚礼《ご婚礼》なさるんですね」 「ええ左様《-そう》ですよ。春子姉さんだって森川さんがもう少し病人が出来るとお嫁に行くんです。けれど、先生、先生は何故|御婚礼《ご婚礼》なさらないんです。皆なが老嬢《オールドメイド》だって言ってますよ」  大内さんは、「オホホ」と笑った。「そしてまあ面白い事を仰有る太郎さんね」と誤魔化してしまった。乃公《俺》は甘納豆《+アマナット》を一掴《ひと掴》み貰って帰って来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は学校に文学会があった。文学会のお蔭で乃公《俺》はいよいよ退校に定《決ま》ってしまった。明日は一番汽車で家に帰れる。  村の人が大勢《-おおぜい》傍聴に来た。校長はフロックを着て司会者になる。奥さんは自慢のバイオリンを弾《-ひ》く。大内さんは生徒のお世話を焼く。生徒は代り代りに文章を読んだり、演説をしたり、詩《-し》を暗誦したりする。乃公《俺》は演説をした。  三日ばかり前に奥さんが演説の下書をしてくれた。題は学校というのである。 「学校! 一生の中《+うち》で一番楽しいのは学校生活でありましょう。子供を学校にやる事の出来る両親は神に感謝致さねばなりません。往来で遊んでいる貧乏人の子は如何《=いか》に学生を羨むでしょうか、私共生徒《わたくしども生徒》たる者は若い時に勉強しなければなりません。折角親が与えてくれた特権を能く用いないなら何《なん》にもなりません。我が国の偉大な事は教育に由るのであります。その中《+うち》でも大学の支度をする寄宿舎学校が国の基《+モトイ》になるのであります」  たった此丈《此れだ》けである。けれども乃公《俺》は乃公《俺》の思う通《とお》り書直して置いた。演壇に上《=のぼ》ってお辞儀をした時には何だか変だったが、向《向こ》うの方《ほう》に立っていた大内さんが直ぐ始めろというような目くばせをしたから、乃公《俺》は大きな声を出して、次の通りに喋った。 「学校! 恐《恐ろ》しい所は学校です。何《+なんに》も知らないで子供を学校にやる両親は可哀想です。お気の毒です。往来で遊んでいる貧乏人の子の方《ほう》が好《い》いんです。朝から晩まで遊べますから仕合せです。殊に寄宿は感服致しません。お豆腐ばかり喰《食》べさせます。それよりも尚《な》おいけない事があります。即ち私は、一日|隔《お》きに罰則になります。それで何も悪い事はしないのです。私が大人になって先生になるなら、奥さんのような意地悪は致しません。学校は実《ジツ》にいかん処《所》だと思います」  皆は手を叩いた。校長さんも奥さんも感心に笑っていた。乃公《俺》は何だか嬉しかった。会が済んだ後で、奥さんが一寸《+ちょっと》というから乃公《俺》は尾《+つ》いて行《=い》った。演説の御褒美を上げるから此室《此処》にお入《=ハイ》りなさいと言って、にやにや笑っている。にやにやではあるが、兎に角笑っているのだから大した事はあるまいと思って乃公《俺》は入って行《=い》った。乃公《俺》は此処で晩飯の時まで算術をやるのだそうだ。問題を十《トオ》ばかり当てがって、奥さんは鍵をかって出て行ってしまった。  乃公《俺》は問題を一つ半ばかりやったら可厭《嫌》になった。三時と四時の間《あいだ》で時計の針の重なる処《所》を知りたけりゃ、時計を廻転《回》して見れば分るじゃないか、何も乃公《俺》に聞くには当らない話だ。光線が太陽から地球迄届く時間を知っていれば豪いようだが、今《いま》飛んだ跳ね炭の火の行方が分らずに、火事にはなりはしまいかと心配するようでは馬鹿気《馬鹿げ》ている。乃公《俺》だって時計の針ぐらいは分るのだけれども、寒くて手が亀屈《悴ん》で石筆が持てないから仕方がない。  ストーブを見たら、灰の中に猫の眼のような火が二つ光っていた。乃公《俺》は早速机の上にあった本を破ってくべて見た。なかなか燃え立たない。燻《+くすぶ》って目が痛い。乃公《俺》は腹が立ったからどしどしとくべた。くべればくべる程咳が出て仕様がない。  其の中《+うち》に此《これ》はしまったと気が付いた。昨日|乃公《俺》は何もする事がなかったから、此ストーブの煙筒《煙突》に土を填《詰》めて置いた。これでは燻ぶる筈だと思って消そうとしたが容易に消えない。乃公《俺》は噎せ返って、余り苦しかったから、大きな声を出した。  すると皆が馳《駆》け付けたが、奥さんが錠を下《下ろ》しっ《-っ》ぱなしにして買物に行ってしまったから、開《あか》る訳がない。乃公《俺》は尚《な》お大きな声を出して、「火事だ火事だあ、助けてくれい」と呶鳴った。窓が開《あ》くなら疾《+とっ》くに飛び下りるのだが、生憎凍りついていて動きもしない。乃公《俺》は本当に死ぬかと思ったから、益々大声を立てた。すると、 「太郎さん、太郎さん、窓の硝子《ガラス》を壊して出なさい。構いませんから早く壊して」  と大内さんの呼ぶ声が聞《聞こ》えた。乃公《俺》は椅子を振り廻して、硝子《ガラス》を一枚残らず滅茶苦茶に砕いてから外《外》へ飛出《飛び出》した。右の掌に二箇所硝子《ガラス》の片《欠片》が立っていた。  間もなく校長と奥さんが帰って来た。大内さんから話を聞いて早速|乃公《俺》を呼出した。 「太郎さん」  と校長は怖い顔をした。校長は呼付けて叱る時には、何時も先ず「太郎さん」と一応名前を呼んで置いて、眼鏡を外してハンケチを出して、硝子玉《ガラス玉》を拭きながら徐々《-そろそろ》と小言を繰り出す。 「お父さんの許《ところ》へ書付をやるから左様《-そう》思いなさい。彼《+あれ》は一週間人《一週間’人》を入《い》れなければ直らない。一枚壊せば充分出られるじゃありませんか。承知していて乱暴する。それから何故ストーブを叩き壊した」  乃公《俺》は黙っていた。叱られる時は何時も黙っている。すると奥さんが口を出した。 「あなた、書付と一緒に一層最早《+イッソもう》断《=ことわ》ってしまう方《ほう》が宜《+い》いじゃありませんか。此んなでは、月謝を五人前貰っても合いませんよ。此上何を仕出来《仕出か》すか知れたものじゃない。明日金《明日’金》さんに送らしてやればいいでしょう。ねえ、あなた、左様《-そう》なさい。とても駄目ですから」  校長は随分威張っているが、「ねえあなた」には頭が上らない。「ねえあなた」の言う事なら大抵の事はする。汽車道へ行って寝ていろといわれれば寝ているかも知れない。それで大内さんがお詫をしてくれたけれど、とうとう乃公《俺》を断《=ことわ》ってしまった。乃公《俺》は明日の一番で小|使《使い》の金さんに送って行って貰うのだ。家へ帰ったら大《大い》に|音な《大人》しくしよう。全く乃公《俺》が善くないようだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  奉公《ホウコウ》にやられると困るから大《大い》に|音な《大人》しくしよう。お島に聞いたら、あれは嚇《脅か》しだと言ったが、お父さんは大分《だいぶ》怒ってるようだ。乃公《俺》見たいな者は凝《+じ》っとして坐っていれば宜《-い》い。一寸《少し》身体を動かして何かするとそれが直ぐ悪戯になる。厄介な生来《生まれつき》だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》のいない後で、教会の牧師が更《かわ》った。今度の牧師は若い。二十七だという。眼鏡を掛けて、顔色《+カオ》の青白い、ひょろりとした男で、甘い菓子《’菓子》と若い女の子が好きらしい。今日は夕飯に招《+よ》ばれて来た。花子姉さんと談話《話し》をしながら乃公《俺》の頭を撫でた。失敬な事をする。赤ん坊じゃあるまいし。多分花さんを思っているのだろうけれど、花さんは清水《=シミズ》さんの外此世《ほか-この世》に男はないと信じている。今日も乃公《俺》は清水《=シミズ》さんの許《ところ》へ手紙を持って行ってやった。此の使い賃が十銭。それから清水《=シミズ》さんの返事を持って来てやった。此方《こっち》は二十銭だった代りに、何人《誰》にも手紙の事は話してはいけぬと断わられた。花さんは庭で乃公《俺》を待っていた。生憎歌《生憎’歌》さんが傍《そば》にいる。乃公《俺》が衣嚢《隠し》の手紙を握ったなり近くへ寄って行《=い》ったら、花さんは、 「おや、太郎さん、お前何処へ行って来たの」  と花さんが言った。何処へ行ったのもないものだ。 「ああ寒くなって来た。家へ入りましょうかね」  と又花さんが言った。玄関の処《ところ》で花さんは歌さんを先に上らせて置いて、乃公《俺》の衣嚢《隠し》から手紙を取った。その手早いのには乃公《俺》も喫驚《吃驚》したくらいだ。そして「あら、歌さんの肩に松葉がついててよ」と言いながら、二人で二階へ上《=のぼ》って行《=い》った。難有《有り難》いとも言いはしない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨夜は退屈だったから、一つお島を驚《おど》かしてやる積りで、お花姉さんの外套を取りに行《=い》った。乃公《俺》は居るかと思って、そっと入ったが居なかった。早速頭から引被《引っ被》って、丁度手の当った処《ところ》に衣嚢《隠し》があったから突込《突っ込》んで見たら手紙があった。清水《=シミズ》さんの手紙だ。斯う書いてある。 「それでは今晩九時と決めましょう。庭の木戸でお待ち被下《下さ》い。九時ですよ。間違《間違い》のないようにね。馬車は此方《+こっち》から用意して行きます」  乃公《俺》は実際驚いた。お花姉さんは清水《=シミズ》さんと逃げる積りだ。九時といえば最早《-もう》間《マ》がない。乃公《俺》は突然《-いきなり》馳《駆》け下りて外へ出た。事によるともう逃げてしまったかも知れない。  乃公《俺》が隣家《隣り》の天水桶の後《後ろ》に踞んでいると、馬車が一台そろそろやって来た。此れだなと思うと、今度は姉さんが裏の方《ほう》から出て来た。外套も着ていなければ、鞄も持っていない。家にいる時の風体《-なり》をしている。乃公《俺》が姉さんの方《ほう》に気を取られている中《+うち》に、清水《=シミズ》さんは馬車から下りていた。二人は少しも口を利かぬ。花さんが先に乗って、清水《=シミズ》さんは後から入ったようだった。そして最早大丈夫だろうと思って乃公《俺》が立った時、馬車は動き出した。  乃公《俺》は直ぐに家へ引返した。丁度お島が探していた所で、乃公《俺》は直ぐに床《トコ》の中へ追込められた。そしてお花姉さんは最早|余程《-よっぽど》行ったろう、彼《+あ》の馬は良《い》いようだったなどと考えながら寝た。  ところが今朝起きて朝飯を喰《食》べに下《お》りて行くと、お花姉さんが澄まして常例《-いつも》の席に坐っていたのには喫驚《吃驚》した。すると逃げたのは夢かしらと思って、衣嚢《隠し》を探って見たら、昨夜取った手紙が手に触った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃は|音な《大人》しくなったので少しも叱られない、けれども毎日退屈で困る。お父さんも可愛がってくれる。昨日は松旭斎天一《松旭斎テンイチ》という奇術師の手品を見物に連れて行って貰った。  今夜は竹子さんと女学生《女学’生》が二人遊びに来た。歌さんの学校友達だそうだ。乃公《俺》は皆に手品の真似をして見せようと思って、台所から玉子を十《トオ》ばかり持って来た。竹子さんと一緒に来た男が一人ある。洋行帰りのハイカラで、牛乳配達のように綺麗に頭髪《頭》を分けている。頭も気に入ったが此男《この男》の帽子も気に入った。山高の低い奴《ヤツ》で、此頃|流行《流行り》の形だ。手品師も丁度|此《こ》んな帽子を使ったと覚えている。それで乃公《俺》は其帽子を外して其中《-そのうち》に卵を入《=い》れた。そして客間の隅の方《ほう》へ小い机を持ち出して、其上に色々と道具を列べた。此れでフロックコートを着ていれば立派な奇術師である。 「皆様《皆さん》──諸君、此れから面白い手品を御覧に入《=い》れます。入場料は一人十銭です」  皆は笑った。ハイカラは立って乃公《俺》の方《ほう》へ歩いて来た。乃公《俺》は帽子が露見したのかと思って心配したら、左様《-そう》ではなかった。にこにこ笑いながら蟇口を出して、乃公《俺》に五十銭銀貨を一個《一つ》くれた。そして、 「坊ちゃん、今日は初日だから割引がありましょう、それで六人前ですよ」  と笑いながら席に戻った。お歌さんも矢張笑っている。乃公《俺》はお歌さんが止めやしないかと思って最初から心配していた。お歌さんが止めたら、彼《+あ》んな事になりはしなかったろう。 「諸君、最初に御覧に入《=い》れますのは、ハンケチの手品で厶《御座》います。どなたでも宜敷《宜しゅ》う厶《御座》いますから、ハンケチを一つ拝借願います」  と乃公《俺》は天一の弟子の通りに真似をした。するとハイカラは絹のハンケチを貸してくれた。 「もう一つお願いが厶《御座》います。今度は燐寸《マッチ》で厶《御座》います。どなたかお持合《持ち合わ》せは厶《御座》いませんか」  ハイカラは蝋燐寸《蝋マッチ》を貸してくれた。 「さて、只今此ハンケチに火をつけて焼いてしまいます。その焼いた灰を此引出《この引出し》に入れて、私が三度手を叩きますと、以前《元》の通りになります。首尾能く行ったら何卒《-どうぞ》御喝采《ご喝采》を願います」  すると竹子さんが手を叩いた。ハイカラは黙っていた。乃公《俺》は委細構わずハンケチを燃《#燃や》し始めたが、余り香水が沢山附いている故《+せい》か、燃えが悪い。けれども兎に角|半焼《半焼き》ぐらいになったから、乃公《俺》は机の引出《引出し》へ投《抛》り込んだ。 「私が三《3》つ手拍子《’手拍子》を打つと、ハンケチが以前《元》の通りになります」  乃公《俺》は直《すぐ》に手拍子を打とうと思ったが、未《ま》だ煙が出ているから見合せた。けれども黙っているのも変だから、 「首尾能く参りましたらば、御喝采《ご喝采》を願います」  と言って、又見たが、矢張り旧《元》の通りだ。此《これ》は事によると首尾能く行かないと思ったけれど、黙っているのは可笑しいから又、 「若《も》し首尾能く参りましたらば、お手拍子を願います」  と言って見た。幾度言って見ても駄目だ。ハンケチは平気でいる。すると皆がクスクス笑い出した。そして竹子さんが手を叩いたら皆も真似をした。ハイカラも仕方がなしに手を叩いた。乃公《俺》は真正《本当》にきまりが悪るかった。 「今のはハンケチの燃えが悪るかったから、巧く参りません、その代《かわ》りに今度は玉子の芸当を御覧に入《=い》れます」  乃公《俺》は帽子から卵を出そうと思って手を入《=い》れて見たら喫驚《吃驚》した。湯呑や茶碗を一緒に入れて、ジャランジャランいわせて来たものだから、皆な壊れていた。此れでは手品も出来ないと思って困っていると、歌さんが乃公《俺》の方《ほう》へ歩いて来た。 「太郎さん、お前、それは何人《誰》の帽子です」 「彼《+あ》の‥‥」  とハイカラの方《ほう》を見たら、ハイカラは最早《-もう》傍《+そば》に来ていた。乃公《俺》は仕方がないから、玉子も茶碗も机の上に打明《ぶっちゃ》けて、帽子をハイカラに差出した。それを受取る時《’時》に、ハイカラの顔は三尺《3尺》ばかり長くなった。今にも食い付きそうな権幕だったから乃公《俺》は一目散に逃げて来た。  歌さんは随分困《随分’困》ったろう。それよりも彼《+あ》のハイカラは尚《な》お困ったろう。何《な》んぼ夜だって、フロックコートを着ていて帽子を被らなくちゃ電車にも乗れまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は昨夜の事で叱られやしないかと思って心配で仕様がなかった。けれどもお父さんもお母さんも何《なん》とも言わなかった。乃公《俺》の代《代わ》りに歌さんが大変怒られたそうだ。最早|乃公《俺》は叱らないんだろう。叱らないで置いて突然《出し抜け》に奉公《ホウコウ》にやる積りかも知れない。歌さんは乃公《俺》の顔を見ると白い眼をしてばかりいる。もう郵便を出しにもチョコレートを買いに行ってもやらないからいいや。  今夜は舌が痛くて堪らない。晩飯にはお湯ばかり飲んでいた。お昼過《昼過ぎ》に外で又手品をして遊んだ時、六公と乃公《俺》と喧嘩になった。乃公《俺》が刀を呑んで見せると言ったら、六公の野郎め其《そ》んな事が出来るもんかと馬鹿にした。乃公《俺》は腹が立ったから、 「出来るとも、出来なくてどうするんだ。さあ刀《’刀》を持って来て見ろ、屹度呑んで見せるから」 「よし、それじゃ持って来るぞ」 「持って来い、直ぐ持って来い」 「よし」  すると忠公も先方組《向こう組》で、六公に加勢をして、 「それじゃ此小刀《このナイフ》を呑め。刀が呑める位なら小刀《ナイフ》は呑めるだろう」  と余計な事を言《言い》やがった。乃公《俺》は此んな奴等に負けちゃ口惜《悔》しいから、 「いいとも、呑んで見せる」  と言って、忠公の小刀《ナイフ》を奪取《-ひったく》った。此処までは良かったが、忠公のは生憎水兵小刀《ナイフ》である、小いのなら訳はないが、水兵小刀《ナイフ》は大きいから困った。口へ入れたなり動きが取れない。乃公《俺》が終《しまい》に小刀《ナイフ》を投《抛》り出して、つうつうと血の唾《+つばき》を吐いたら、二人は「ざまあ見やがれ」と言って逃げ出した。そして遠くの方《ほう》へ行ってから、「おいらの所為《+せい》じゃなあいぞ、三年烏の所為《せい》だあ」なんて言《言い》やがった。卑怯な奴等だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は午前《昼前》花さんがお父さんとお母さんに叱られ、午後《昼過ぎ》は乃公《俺》が花さんに叱られた。世の中は上から下へと順繰りに叱りこしているようなものだ。乃公《俺》は何人《誰》も叱る者がないから、ポチの頭をうんと撲《+ぶ》ってやった。お母さんが乃公《俺》の服の綻を繕ったら清水《=シミズ》さんの手紙が出た。これがお花さんが呼付けられた原因《元》で、姉さんの手紙を盗んだというのが乃公《俺》の花さんに怒られた理由である。乃公《俺》がポチを撲《+ぶ》ったのには何の意味もない。唯《ただ-》ポチが其処にいたから悪い。  お花姉さんは近い中《+うち》に清水《=シミズ》さんと御婚礼《ご婚礼》をするのだそうだ。そうなれば乃公《俺》は一緒に行ってもいいんだって。そして乃公《俺》に良《い》い室《部屋》を当てがって、何でも買ってくれるという約束をした。新婚旅行にも連れて行くそうだ。それだから乃公《俺》は|音な《大人》しくしよう。一日《イチニチ》に三度《3度》でも四度でも手紙を持って行ってやろう。そして姉《’姉》さんが頭髪《髪》を染める事なんかは清水《=シミズ》さんに黙っていてやろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんとお春さんも、最早《-もう》直《+じき》に結婚するんだそうだ。どうも結婚が流行る。そしてお歌さんだって今年中《今年じゅう》には片付くんだから、お父さんもなかなか大抵じゃないって、お島が言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  凧を拵えようと思うけれど、骨がなくて弱っている所へ桶屋の老爺《親父》が来た。竹を少し呉れと言ったら、いくらでも上げると言った。けれども桶屋の竹は皮ばかりで身が無いから、戴いても凧の骨には使えない。すると明日上等のを持って来てやろうと言ったが、此老爺《このジジイ》は酒呑みで、ちゃらっぽこを言ってばかりいるから当《当て》にはならない。 「老爺《爺》さん、此間直した風呂桶が最早《-もう》洩り始めたよ。お前酔っぱらっていて好《い》い加減な事をして行《=い》ったのだろう」  とお島が詰った。 「なあに水《’水》ぐらい洩ったって構《かま》やしない。人さえ洩らなけりゃ大事あるまい」  と老爺《+ジジイ》は泰然たる返答《返事》をして、風呂場を見に行《=い》った。乃公《俺》は錐で揉んだ穴を見つけられると困るから、直ぐ二階へ上《=のぼ》って本を読み始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は早く起きて凧を拵えた。どうしても竹が手に入らなかったから、お父さんの絹張の蝙蝠傘を壊して鯨骨を二本頂戴した。絹も唯《ただ-》棄てては勿体ないと思って、尻尾に使った。  朝飯が済んでから乃公《俺》は凧を持って出掛けた。乃公《俺》の凧《タコ》は皆のよりか大きいけれど糸目の工合が悪いと見えて、面《=めん》くらって仕様がない。此《こ》の子は凧を揚げるのか引摺るのかと何処かの生意気な奴が言った。一番始めには郵便屋の頭の上に落ち、其次には馬の鼻の頭に落ちた。郵便屋は怒ったばかりだったから宜かったが、馬は解らずやだもんだから、驚いて暴れ出した。可哀そうに乗ってた人は振り落されて気絶した。事によると彼《+あ》の侭死《まま死》ぬかも知れないが大抵生き返るだろう。若《も》し生き返ったら、此れからは凧を揚げている処《所》を馬に乗って通らないように気を付けるが宜《+い》い。  もう往来で凧を揚げるなと断られたから、乃公《俺達》は教会の後手《後ろ手》の空地《空き地》へ行った。暫時《暫く》は工合が善かったが、終《しまい》には乃公《俺》の凧《タコ》が木に絡《からま》ってしまった。いくら引張《引っ張》って見ても取れ様《よう》としない。乃公《俺》は木登りは上手《=じょうず》だけれど、登るとお母さんに叱られるから、忠公に頼んだ。忠公は始めは怖がってたが、「貴様は男だろう」と言ったら仕方なしに登って取ってくれた。乃公《俺》は凧を取ってくれと頼んだけれど、落ちて足を挫けとは願わなかった。真正《本当》に厄介な奴だ。余計な事をする。取って来たら十銭やる約束だったけれど、最早やらないから宜《-い》い。  森川さんが家へ寄って、隣の忠公は余程《-よっぽど》悪い、悪くすると跋足《跛》になるかも知れないと言った。乃公《俺》は気の毒だから見舞に行こうとしたが、忠公のお母さんは乃公《俺》の顔を見るのも可厭《嫌》なんだそうだ。そして忠公の足が直り次第何処かもっと危《危な》くない処《#所》へ越してしまうと言って怒っているそうだ。  お母さんは夕方まで隣家《隣り》へ行っていたが、夜は早くお休みになった。頭痛がして気分が悪くなったのだそうだ。隣家《隣り》の忠公が、足を怪我したのに、家《うち》のお母さんが頭痛を病むとは奇妙な事だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は一日外《一日’外》へ出てはならぬと言われたから、|音な《大人》しく本を読んでいた。するとお父さんが突然《-いきなり》上って来て、乃公《俺》の首筋《首っ玉》を捉《捕ま》えて、蔵へ連れて行って表から鍵をかけてしまった。|音な《大人》しく勉強しているものを、非道い事をする。  お島がお昼を持って来た時に聞いて見たら、乃公《俺》は忠公の快《-よ》くなるまで蔵の中にいるのだそうだ。忠公は何時快《-いつ良》くなるだろう。屹度何時《屹度いつ》までも乃公《俺》を此処に入れて置こうと思って、何時《-いつ》までも癒らないでいるだろう。彼様《-あん》な悪い友達を持つと本当に困ってしまう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は素敵に凧が好く揚った。風が強いから有りったけたまを出したので、うっかりすると引摺られそうだ。揚らなくても骨が折れるけれど、斯う好く揚られると持っているのに却って骨が折れる。  お昼には帰らなかったから、腹がへって堪らない。そうかと言って此んなに張りのある奴《ヤツ》を下《下ろ》すのも残念だ。斯ういう時には忠公がいると宜《-い》いんだけれど仕方がない。木か何かに縛りつけて置いて家へ帰ろうと思って周囲《-そこいら》を見廻した。  五六歳の可愛らしい女の子が乃公《俺》の凧を一心に見ている。何処の子だろう。教会の老爺《爺》さんの子か知ら。今《いま》考えて見ると此《-こ》の子は悪い処《所》にいあわせたもんだ。乃公《俺》は此子《この子》を賺《=すか》して凧糸を其胸へ巻きつけた。そして僕の帰って来るまで此木《この木》に捉《掴ま》ってるんだよと言って、家へ帰って来た。  お島にビスケットを貰って教会の裏へ引返すと、女の子は見えない。けれども天を見れば凧は旧《元》の通りに揚っている。此《これ》は可笑しいと思って糸の所在《在り処》をたよりに教会の表側へ廻って見ると、乃公《俺》は喫驚《吃驚》してしまった。糸が塔に絡まって女の子は屋根に下《下が》っている。若《も》し糸が切れようものなら確かに敷石の上に落ちる。若《も》し糸が解れようものなら彼《+あ》の子はきっと天へ昇《上が》ってしまう。乃公《俺》は大声立《大声た》てて人を呼んだ。  教会の婆さんが飛出《飛び出》して来て、腰を抜かした。後で聞いたら、此婆さんは子供が宙にぶら下《下が》っているのを見て、いよいよ天国が来たのだと思ったんだそうだ。その中《+うち》に五六人馳《五六人駆》け着けて来て、子供は何事もなく助かったが、乃公《俺》の凧《タコ》は未《ま》だ上っているだろう。彼《+あ》の塔の頂上まではとても取りに行かれないから、断念《諦》めなければならない。事によると今頃は塔を引摺りながら天まで上って行《=い》ったかも知れない。兎に角|彼《+あ》の凧は惜しい事をしてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は日曜日で、お歌さんと一緒に教会へ行った。牧師さんの説教でも聞いたら|音な《大人》しい善《+い》い子になれるだろうと思って、お母さんに左様《-そう》話したら、お母さんは大層喜んだ。けれどもお母さんは今日はお客があるからというので、お歌さんに連れて行って貰うことになったのだ。  牧師は馬鹿に長い説教をした。乃公《俺》は眠くなってしまった。大人でも居睡《居眠》りした者があった位だ。もう止《よ》せば宜《-い》いにと思っても人の心の中《+うち》が分るような男じゃないから平気でやっている。 「終りに臨みまして‥‥」と言ったから最早《-もう》大丈夫だと思ったけれど、喜び損《ゾン》をさせやがった。どうしても止《-よ》さない。「どうぞ皆さん‥‥」なんて言って「第一に」と又|最初《初め》から芸当のやり直しをしている。最早喧嘩《最早ケンカ》だ。勝手にするがいいと思って、落した讃美歌を取る積りで踞《屈》むと、衣嚢《隠し》に入ってた玩具《=オモチャ》のピストルが落ちた。落ちたばかりなら宜《-い》いけれどパチッと破裂したから、困ってしまった。皆が乃公《俺》の方《ほう》を見て怖い顔をした。お歌さんは真赤になって、凝《+じ》っとしていらっしゃいと言った。乃公《俺》は自分の衣嚢《隠し》の中へ消え込みたい位《くらい》体裁《決まり》が悪るかった。  ピストルを拾いたいけれど、お歌さんが番をしているから手を出すことが出来ない。そうかと言って膝の上へ両手を置いてるのも角力取のようで可笑しいから、乃公《俺》はズボンの衣嚢《隠し》に突込《突っ込》んだ。何かある。ああ此《これ》は昨夜お客さんに戴いた自動奏楽機《オルゴール》だなと気がついた時には、最早「一つとや」を歌い出した。乃公《俺》は如何《-どう》することも出来ない。いくら握っても「お飾り立てたり松かざりい松かざりい」をやっている。お歌さんは乃公《俺》を引張《引っ張》って外へ連れ出した。けれども外へ出た時には最早鳴き止んでいた。意地の悪い玩具《=オモチャ》だ。 「太郎さん、真正《本当》にお前には仕様がないねえ」  と姉さんは泣きそうな顔をした。乃公《俺》だって真正《本当》に仕様がなかった。何故|乃公《俺》は斯う運が悪いのだろう。折角|稀《たま》に教会へ出れば二度と顔出しの出来ないような事が起る。そして皆《皆んな》が彼《+あ》の子は善くない善くないと言う。何処まで損な生来《生まれつき》だか知れやしない。此の按排じゃ、竟《しまい》には雷《=カミナリ》にでも打たれて死ぬのだろう。自分で骨を折って|音な《大人》しくしても、運が悪いのだから仕方がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  大阪の伯父さんが此頃家《此頃’家》に泊っている。此伯父さんは最早《-もう》いい年寄だ。そして可笑しな人だ。頭の毛なんか少しもない。校長さんのよりも未《ま》だひどい。けれども笑ったりしちゃいけないよ伯父《/伯父》さんは金持で独身者《独り者》だから、若《も》し気に入れば乃公《俺》に財産を譲るかも知れないんだそうだ。かも知れないは心細いが、全く当《当て》のないよりか得《+まし》だと思う。乃公《俺》は此《これ》から|音な《大人》しくする積りでいた所だから丁度いい。  伯父さんは聾耳《+ツンボ》である。つんぼもつんぼも金つんぼだ。唯《ただ-》話をしたって通じない。お前は馬鹿だよと言っても笑っている。喇叭《ラッパ》のようなものを耳に当てがって、大きな声を出さなければ聞えない。先生が耳の事を話した時、耳の中には鼓膜という太鼓があって、それを叩くと声でも音でも聞えるのだと言った。して見ると伯父さんには此太鼓が無いんだろう。太鼓が無いから喇叭《ラッパ》で間に合わせるんだろう。  一つ伯父さんの御機嫌を伺う積りで行《=い》って見た。伯父さんは眼鏡越しに乃公《俺》の顔を見て、 「どうだい、ボンボン」  と言った。ボンボンなんて可笑しいや。坊とか太郎とか呼ぶがいい。時計じゃあるまいし。乃公《俺》は喇叭《ラッパ》を借りて、伯父さんの耳へ斯う吹き込んだ。「伯父さんは吝嗇《+ケチ》ですか。」乃公《俺》の声が余り大きかったので、伯父さんは喫驚《吃驚》した。 「そんな大きな声を出《=だ》しなはらいでも聞えまっせ」 「伯父さんは吝嗇漢《+ケチンボ》ですか」 「何《な》んだ?」 「歌さんがね、斯ういいましたよ、彼《あ》の何《なん》ですって、伯父さんは大変|吝嗇《ケチ》だって、そして煮ても焼いても食えないんですって、真正《本当》ですか」 「何だ。そんな事を言ってまっか。ひどい奴《ヤツ》やな。そんなら、土産を持って来たけれどやるまい。真《ほんと》にひどい奴《ヤツ》やな」 「伯父さん、僕買いたいものがあるんですが、お金を少しくれませんか」  伯父さんは返事もしないで、唯《ただ-》鼻をクシンクシンいわせていた。そして穴の明《あ》く程|乃公《俺》の顔を見詰めていた。乃公《俺》を何か顕微鏡の中にいる虫だとでも思っているらしい。  此れは怒《-おこ》らしたと思ったから、今度は慰める積りで斯う話しかけた。 「けれどもねえ、伯父さん。あなたが吝嗇《ケチ》の方《ほう》が善《+い》いんですってお母さんが申しましたよ。けちならけち程余計にお金を残すから、その方《ほう》が畢竟《-つまり》善《-い》いんですって」  けれども伯父さんは尚《な》お怒った。いくら慰めても賺《=すか》しても聞き分けがないから困った。丁度猫の脊中を逆《逆さま》に撫でるようなもので、撫でれば撫でる程むずかるから、乃公《俺》は好い加減にして出て来た。  一遊び遊んで帰ると、お母さんとお歌さんは乃公《俺》を捉《捕ま》えて種々《色々》の事を聞いた。無論乃公《むろん俺》は当らず障らずの返事をして置いた。 「決して伯父さんに逆っちゃいけませんよ。もともと変人なのに老耄《耄碌》して愚に帰ってるから直ぐ気に掛けなさる。もうお前は行かない方《ほう》がいいよ。今《いま》休んでいられるから、お前は外へ行ってお遊び、起きると又うるさいから」  とお母さんが言った。それで乃公《俺》はお母さんの言うことを聞いて外へ出た。暫時《暫く》は土方《+ドカタ》の道普請を見物していたが、急に伯父さんの顔が見たくなった。彼様《-ああ》いう顔の人が寝たら如何《-どう》いう顔になるだろうと思ったら、土方《ドカタ》の喧嘩なんかつまらなくなった。  乃公《俺》は早速引返した。叱られると困るから庭へ廻って、窓から覗いて見た。窓の上に金縁の眼鏡が置いてあった。伯父さんのだ。乃公《俺》は何心《なにごころ》なく取って掛けて見たが、ボオッとしている。掛けたり外したりしている処《所》へポチが走って来た。犬に眼鏡をかけさせたら如何《-どん》な顔になるだろうと思って掛けてやった。少しも似合わない。するとポチは隣の猫を見て追駆《追いか》けて行《=い》った。乃公《俺》も尾《つ》いて行《=い》ったが、ポチは垣根を潜《-くぐ》って隣家《隣り》の庭へ入ってしまった。乃公《俺》は困るから頻りに口笛を吹いた。直ぐに帰っては来たが、眼鏡は最早掛けていない。多分落して来たんだろう。取りに行きたくても、此間忠公を泣かせてから、隣の小父さんはピストルに玉を込めて待っているそうだから行かれやしない。犬なんて厄介なものだ。何でも物が唯《只》で買えると思っている。勿体ないという事を知らない、とうとう金縁の眼鏡は失《失く》してしまった。  此んな事とは知らずに伯父さんは能く寝ている。極めて平和的に寝ている。勿論戦争的に寝る奴《ヤツ》もあるまい。口を開《-あ》いている。喉は汽車が徐々《-ゆっくり》と走る時のような音を立てている。頭は赤バナナのハンケチで丁寧に包んである。水引は掛けてなかった。  彼処《-あすこ》まで乃公《俺》の釣竿が届くかしらと思ったのが、そもそも非常な誘惑であった。そして其の釣竿が届いたのが飛んだ災難の原因《元》になった。乃公《俺》は伯父さんを魚屋の店に吊してある鮟鱇と見立て、冗談半分に釣る積りで、口の辺《辺り》に鉤《ハリ》を下《下ろ》した。遠くでやる仕事だから、どうせ巧くは行かない。鉤《ハリ》は鼻へ触ったり、頬《ホオ》へ止ったりしたが、其内に間違って口に入った。その時伯父さんは止せばよいのに嚏《+クサメ》をして口《’口》を堅く閉じてしまった。乃公《俺》は極《ご》く軽く引張《引っ張》って見たが、伯父さんは尻尾を踏まれた犬のような声を出した。人が来ると困るから、大急ぎで力一杯に引いたら、伯父さんは椅子から転がり落ちた。何でも家中《ウチジュウ》に響くような叫声《叫び声》がした。乃公《俺》は釣竿を投《抛》り出して物置に隠れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は三日蔵《三日’蔵》の中へ入《い》れられて今日漸く堪忍して貰った。伯父さんは未《ま》だ寝ている。全く乃公《俺》が悪るかった。真正《本当》に気の毒でならない。  お島に頼んで隣家《隣り》の庭へ眼鏡拾いに行って貰った。枠はあったが、玉は見当らなかったそうだ。仕方がないから乃公《俺》はお春さんの近眼鏡を壊して、伯父さんのへ玉を嵌めて置いた。此れから真正《本当》に|音な《大人》しくしよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  伯父さんは日増に快《-よ》くなって、今日から起きた。お父さんと談話《話し》をしている。伯父さんは大変|乃公《俺》を怒っているというから会う訳には行かない。乃公《俺》は戸口で談話《話し》だけ聞いていた。 「曇っているのでしょう。どれ、拭いて上げましょうか」  此《これ》はお父さんの声だ。 「いいや、今《いま》拭うたばかりよ。彼《+あ》の坊主の為めに目まで痛めてしもうた。今迄此眼鏡がキチンと目に合っていたんだけれども」 「見えませんかな」 「一寸《+ちょっと》も見えんようになってしもうた」  乃公《俺》は可笑しくなったが、我慢して聞いていた。二人は暫く無言でいた。 「身体を悪くしてしもうて、目まで見えないようにしてしもうて、一寸《+ちょっと》来たばかりに、わしの方《ほう》でも仰山な損だ。お前の方《ほう》でも何万円やらの損だ」  といって伯父さんは笑った。お父さんは黙っていた。 「ああいう根性じゃ碌なもんにならんぜ。金《-かね》を持たせると却ってならん。お前も気をつけんといけんなあ」  乃公《俺》は真正《本当》に残念である。全く大きい魚を釣り落したのだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公《忠公’》の家の厩で見世物ごっこをして遊んだ。一人前五銭ずつ入場料を取って六十五|銭儲《セン儲》けた。男の子が十人、女の子が三人入った。背負子《+オンブ》は只だ。此金《このカネ》は義勇艦隊に寄附する積りである。忠公が猿になって、六公が熊になって、乃公《俺》は怪物《化け物》になった。その外種々《ほか色々》余興があった。  乃公《俺》は先ず散髪屋へ行って、クリクリ坊主にして貰い、忠公に顔と手を赤インキで塗って貰った。そして伯父さんの入歯を頬張った。鏡を見た時には乃公《俺》じゃないと思ったくらい怖い顔だった。金歯が光っている。悪い事には水を飲みに行って、入歯を井戸の中へ落してしまった。代りが出来て来るまでに伯父さんは餓《=う》え死《じ》んでしまうかも知れない。  六公は驢馬を持っている。此驢馬を象の子に仕立てて、乃公《俺》が其上で芸当をした。忠公のお母さんの肩掛を着せたら、少しは象らしくなったが、牙がなくては何《ど》うも拙《不味》い。それで何かの益《やく》に立つだろうと思って持って来た伯父さんの喇叭《ラッパ》を啣《咥》えさせた。けれども驢馬なんてものは考えがないから、終《しまい》にはラッパを噛砕いてしまった。  こんな事情《訳》で伯父さんは今日からホテルへ引越して行《=い》った。彼《+あ》んな小僧は最早《-もう》甥とも何《なん》とも思わないといったそうだ。乃公《俺》だって疾《+と》うから彼《+あ》んな守銭奴《+シミッタレ》を伯父さんだなんて思ってやしない。けれどもお島が内証《内緒》で話した所によると、乃公《俺》は悪戯をした為めに大変な損をしたそうだ。伯父さんは乃公《俺》に譲る積りの財産を悉皆《-すっかり》養老院へ寄附する事に決めてしまった。年寄は年寄の贔屓をするに決っている。大概《-あらかた》こんな事になるだろうと覚悟していた。  財産なんか無くても宜《-い》い。乃公《俺》は些《+ちっ》とも困らない。お父さんは金持だ。皆が左様《-そう》いっている。乃公《俺》は毎日好《=毎日す》きな事をして遊んでいれば、それで何も不足はいわない。唯《ただ-》もう少し皆が叱らないと宜《-い》いんだが、此《これ》は何とも仕方がない。隣の忠公なんかも随分叱られる。  けれども断《=ことわ》って置くが、乃公《俺》は決して悪い量見《料簡》で伯父さんに悪戯をしたんじゃない。彼《+あ》の禿頭《ハゲ頭》へ干した芋茎《芋がら》を蝋付けにしたのも別段火傷をさせる積りでやった仕事じゃない。チャンチャン坊主に見えるか何《ど》うかと思ったばかりだ。靴が片足無くなったって、彼《ア》れは南京鼠を飼う時の用心に蔵《+しま》って置いたばかりだ。  歌さんもお島も伯父さんは世話が焼けて、気骨《キボネ》が折れて困る、一寸《+ちょっと》談話《話し》をすると声を枯らしてしまうって、弱っていたんだ。乃公《俺》は伯父さんと談話《話し》をするのが好きだった。電話をかけるように喇叭《ラッパ》へ大きな声を吹き込んで尋ねる事は何でも話してやった。年寄の癖に無暗に人のいう事を聞きたがるから悪い。お歌は乃公《俺》の事を何《なん》というかと尋ねられれば、どうしたって、困る厄介老爺《厄介ジイ》やで、談話《話し》をすると声が悪るくなるから成るたけ寄付かないようにしていますと答える外《ほか》はない。それからお父さんは伯父さんから手紙が来た時又面倒な八釜《やかま》しやが御出《お出で》になるんだなといった事、けれどもお母さんは彼《+あ》の聾耳《+ツンボ》は滞在中の雑用《+ゾウヨウ》を払うから、伯母さんよりか始末が善《-い》いといった事、彼《あ》んな顔をしているけれども、若い時には手に負えぬ道楽者だった事、地獄まで金《-かね》を背負《負ぶ》って行く積りらしい事、何《#なに》から何まで掘《-ほじ》って聞くから、正直に答えなければならなかった。嘘は泥棒の始まりだから真正《本当》に困ってしまう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんはお昼に神保《+ジンボウ》さんをお招き申した。何でも|何とか町《ナントカ町》の地所を此人《この人》に買わせるんだって、お母さんと談話《話》していた。今日は料理人《コック》が馬鹿に意地が悪い。此男は平常《普段》は正直だが、極《ご》く悪い癖で、何《なに》か御馳走のある時というと、定《決ま》って根性が悪くなる。乃公《俺》なんか傍《そば》へも寄せ付けない。  何《+なんに》も欲しかないが、先方《向こう》で彼様《-ああ》用心すると、此方《+こっち》でも何か摘《+つま》んでやり度くなる。お前は豪いよといわれると、何《なん》だか豪いような心持になる。何か取りそうだなというような目付《目付き》をされると、一つ取ってやろうかなという気になる。今日の事等《事など》も畢竟《-つまり》料理人《コック》が悪いんだ。  苺を一摘み分捕って、乃公《俺》は食卓《テーブル》の下に匿《+かく》れた。テーブル掛が下まで垂れているから見つかる気遣いはない。安心して苺を平げていると、お父さんとお母さんが神保《ジンボウ》さん夫婦を案内して来て、直ぐに席に着いた。神保《ジンボウ》さんが感謝を捧げて、四人はソップを飲み始めた。乃公《俺》は弱ってしまった。一層《+イッソ》皆が戸を明けた時逃《とき逃》げればよかったに、斯うなっては動きが取れない。  四人は種々《色々》談話《話し》をしながら小刀《ナイフ》とホークをかちかちいわせている。行儀の悪い奴《ヤツ》だ。あまり音をさせるものでないと、お母さんは始終《-しょっちゅう》いっている。乃公《俺》は時々|神保《ジンボウ》さんの靴を引掻いてやる。其度毎《そのたび毎》に神保《ジンボウ》さんがぴくりぴくりと身体を動かすから面白い。 「もう電車の出来るのは目に見えていますから、御自分《ご自分》でお住いにならなくても、買って置いて御損《ご損》はない所です」  買って置いて御損《ご損》のない所を売って置けば、確かに御損《ご損》がある。お父さんは神保《ジンボウ》さんを巧く欺《騙》す積りらしい。乃公《俺》も賛成である。 「地所は豪く気に入《=い》りましたが、どうも近所が騒々しくてな。水道はありますか」  水道は何《ど》うか知らないが、乃公《俺》は靴を抓《+ツメ》ってやった。 「水道はつい隣家《隣り》まで来ています。それに電車の便《=びん》が大きゅう厶《御座》いますよ」  お父さんは電車の一点張だ。乃公《俺》は又抓《又ツメ》ってやった。 「お家では犬をお飼いですか」 「犬ですか、はい、一疋居りますよ。犬がお好きですか」 「いや、犬が豪い嫌いでしてね、それも此頃までは左様《+サヨウ》でもなかったのですが、或所で見て貰いましたらば、あなたには犬難《ケンナン》の相《ソウ》があると申されましてね、それから犬が全然《-さっぱり》嫌いになりました。恐水病は恐ろしい病気ですからな」  乃公《俺》は最早《-もう》少しで笑う所だった。 「お家の犬は座敷へは上《上が》りませんかね」  今度は神保《ジンボウ》さんの奥さんだ。 「はい、極《ご》く行儀のいい犬でしてね、決して家へは上《上が》りません」  地所の談話《話し》をしているのだか、犬の事を研究しているのだか、さっぱり分らない。乃公《俺》はもう十勘定《トオ勘定》する中《+うち》に坪十八円で買わないなら、神保《ジンボウ》さんの脛を抓《+ツメ》る決心をした。 「地所は気に入《=い》りました‥‥」  地所の気に入ったのは最早分っている。此畜生いよいよ買わないな。乃公《俺》はうんと抓《+ツメ》ってやった。  神保《ジンボウ》さんは椅子から転げ落ちた。医師《医者》を呼べ、医師《医者》を呼べと怒鳴る。家の悪戯小僧の仕事ですとお父さんは言訳しても、早くしないと恐水病になる、恐水病になると剛情《強情》を張る。真正《本当》に年寄は聞分けがない。とうとう二人は御飯を喰《食》べかけたまま、怒って帰ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  一体お歌さんは乃公《俺》を何と思ってるのだろう。乃公《俺》の耳は引張る為めに付いてはしない。自分の顔が|お白粉《白粉》をつける為めに出来てると誤解しているもんだから、何《なに》かというと乃公《俺》の耳を引張るのだろう。  蔦子さんがお喋舌だって構わないじゃないか。乃公《俺》が何も嘘を言った訳じゃあるまいし。それなら御縁談《ご縁談》の事は決して蔦子さんに話すなと予め断《=ことわ》って置けば、乃公《俺》だって手加減がある。突然《-いきなり》来て、太郎さんは余《+あんま》りだなんて、若《も》し耳が取れたら如何《-どう》する。鳥や魚《サカナ》のようになってしまっちゃ見っともないじゃないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃歌《此頃’歌》さんの許《ところ》へ遊びに来出した男がある。名を井上さんという。昨夜も来た。乃公《俺》が客間へ入って行《=い》ったら二人で話をしていた。乃公《俺》は此人《この人》の顔が能く見たいから、傍《そば》へ寄って覘《覗》いてやった。すると歌さんは彼方《-あちら》へお行きというような目付《目付き》をした。目付《目付き》はしたが、口には出さないと承知しているから、乃公《俺》は見て見ない風《ふう》をしていた。目付《目付き》位で動くような乃公《俺》じゃない。 「どうだね、大将」  と井上さんがいった。 「僕は大将じゃない。子供ですよ」  といってくれた。すると井上さんは大笑いをした。笑った顔がぐらぐら動いた時に、きらきらと何か光った。此《#これ》が不思議だから乃公《俺》は此人《この人》の顔を能く見たいのである。 「あっ、今《いま》光った物は何《な》んですか。歌さんのように金歯を入《=い》れているんですか」 「面白い坊ちゃんですね」  と乃公《俺》の質問には答えない。そして今度は笑わなかったから、何も光らなかった。 「あなたの顔こそ面白い。何《な》んですね、何《ど》うしたんです、あなたの片方《片っぽ》の眼は些《+ちっ》とも動かないじゃありませんか。硝子《ガラス》ですか」  すると歌さんが怒った。 「何《なん》ですね、太郎さん。失礼な。彼方《-あちら》へ行《-行》ってらっしゃい。言う事を聞かないとお母さんに申上《申し上》げますよ」  乃公《俺》は拠なく出て来たが、どうも不思議で仕方がないから、少時《暫く》してから又引返した。そして又|凝《+じ》っと見ていたら、歌さんが、 「太郎さん、彼方《-あちら》へ行《-行》ってね、お島にお菓子とレモンを持って来るようにいって下さい。直ぐに持って来るようにいってね」  と極《ご》く優しくいった。今度は賺《騙》して追払う積りなんだろう。そんな事をしたって、乃公《俺》は直ぐに帰って来る。彼《あ》の目の動かない訳が分るまでは今夜は寝ない積りだ。  お島に用を言付けて乃公《俺》は直ぐに戻って来た。見れば見る程奇妙でならない。右の眼は瞬きするが、左の方《ほう》は決して動かない。魚《サカナ》の眼見たように何時も明《あ》いている。乃公《俺》も真似をして、片方《片っぽう》の目だけで瞬きして見たが、どうも巧く行かない。歌さんも困ったのだろう、何《なに》か御用を拵えて一寸《+ちょっと》出て又直ぐ帰って来て、 「太郎さん。お母さんが呼んでいらっしゃるから彼方《-あっち》へお出でなさい」  といった。それで乃公《俺》は残念だったが、お母さんの許へ行ったら、お母さんは、 「太郎さん、お客さまの顔を凝《じ》っと見てるのは失礼ですよ」 「けれどもお母さん、彼《+あ》の方《=かた》の目は如何《-どう》したんでしょうね。何故片方ばかり動くんでしょうか」 「もう九時ですよ。寝る時間です」  乃公《俺》は寝る時間なんか、尋ねていやしない。大人というものは随分勝手なものだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  小い子供ぐらい厄介なものはあるまい。乃公《俺》の家へ此間《この間》親類からお客さんが来た。菊《キイ》ちゃんという女の子と其お母さんとである。此《この》菊《キイ》ちゃんのお蔭で乃公《俺》は遠眼鏡《=とおめがね》と空気銃を損してしまった。  菊《キイ》ちゃんは未《ま》だ七《7》つか八《8》つで、泣き虫だ。一寸《+ちょっと》頭の毛を引張《引っ張》っても直ぐに泣く。殺してしまうといって小刀《ナイフ》を見せても泣く。泣いてばかりいる。斯ういう厄介者のお守《+もり》をさせて、首尾能く勤まれば遠眼鏡《=とおめがね》を買ってくれるなんていっても出来ない相談だ。泣く子と地頭《=ジトウ》にゃ勝たれないというじゃないか。  菊《キイ》ちゃんは人形を持っていた。大きな人形で、腹の辺《辺り》を圧えると泣く。持主の真似をして泣くのだろう。どういう仕掛で泣くのかと思って、乃公《俺》は腹を裂いて見た。人形は其れなり泣かなくなったが、菊《キイ》ちゃんが泣いて仕様がない。縛ってしまうよと賺《=すか》しても泣く。河の中へ投《抛》り込んでしまうぞと驚《おど》かしても泣く。とうとうお母さんが聞きつけて来て、菊《キイ》ちゃんに謝った。そして乃公《俺》の貯金で新しい人形を買ってやる事にした。乃公《俺》は七面鳥を打つ積りで、彼《+あ》の金《-かね》で空気銃を買う気でいたんだ。  菊《キイ》ちゃんは飯事をしようといい出した。けれども乃公《俺》は最早《-もう》愛想が尽きたから、可厭《嫌》だといって断《=ことわ》った。断《=ことわ》っても聞分けがないから仕方がない。乃公《俺》が旦那様になって、菊《キイ》ちゃんが奥さんになった。此子《この子》は子供のくせに生意気《小癪》である。「旦那様お召替《召し替え》をなさいませんか」なんて、乃公《俺》の古い服を持って来たり、「今晩は何時《=なんじ》にお帰りですか」なんて、何処へ行くともいわないのに聞く。余り煩《うるさ》いから、乃公《俺》は最早《-もう》飯事を止《辞》めて、外へ遊びに行こうといい出した。すると感心に承知したから、乃公《俺》は菊《キイ》ちゃんと門の所で遊んだ。  其の中《+うち》に忠公がやって来て、 「女と遊んで嬉しがっていやがら」  と冷評《冷やか》した。乃公《俺》は決して嬉しがっているもんか、弱り切っているんだ。その証拠には此子を何《ど》んな目に遭わせても可《+い》いと言った。忠公も仲間になって、暫時《暫く》遊んでいたが、終《しまい》には彼奴《アイツ》が悪い事を発起した。  菊《キイ》ちゃんに洗礼を授けてやろう、君が牧師になれと言うのだ。乃公《俺》も賛成だが、又泣くと困るから一応意向を探って見ると、洗礼を志望している。それで忠公と二人で河へ連れて行《=い》った。  乃公《俺》はハンケチに水を湿して、父と子と聖霊の名に依って、三度頭《三度’頭》から水を掛けてやった。すると忠公は何処まで悪い奴《ヤツ》だか知れない。頭だけじゃ救われない、浸礼教会なんかじゃ水の中へ潜らせると言い出した。其《+それ》も左様《-そう》だと思う。折角洗礼を授けてやっても救われなくちゃ何《なん》にもならない。菊《キイ》ちゃんは泣き出したけれども、忠公と二人がかりで、帯で縛って、三度河《三度’川》の中へ浸けてやった。  彼《+あ》んな良《い》い着物を着ているから悪いんだ。それに言う事を聞かないで暴れたものだから余計に水を飲んだようだ。風邪なんかひいてくれと頼みもしないのに、真正《本当》に困る子だ。乃公《俺》は其晩お父さんに鞭で散々に打《+ぶ》たれた。  菊《キイ》ちゃんのお蔭で空気銃は買えなくなる。遠眼鏡《=とおめがね》は破約《+フイ》になる。背中は未《ま》だぴりぴりする。真正《本当》に非道い目にあった。それで忠公は少しも叱られやしない。何処までも運の好《い》い野郎だ。最早|彼奴《アイツ》とは遊ばないようにしよう。若《も》し彼奴《アイツ》の家へ女の子がお客に来たら、今度は乃公《俺》が打ち殺してやるから宜《+い》い。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此《この》二三《ニサン》週間ばかりは日記もつけなかった。乃公《俺》だって忙しい時には随分|益《やく》に立つ。お花さんと清水《=シミズ》さんとの御婚礼《ご婚礼》はいよいよ明日になった。今日なんか方々《ほうぼう》へお使いに行くので目が廻《回》るようだった。清水《=シミズ》さんの処《ところ》へばかりも三度行ったので、足が棒のようになった。それで明日は早く起きなけりゃならないから堪らない。今から直ぐ寝るんだから宜《-い》いけれど、実際草臥れてしまった。出来る事なら足だけを取外して休みたい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は早く起きた。家《うち》の人は皆忙しいものだから、乃公《俺》の起きたのも知らん顔している。あれでお使いでもあれば直ぐに「おや太郎さん」なんて言うんだろう。現金な奴等だ。お島さえ「此処にパンとバターを置きますから、御独りで朝御飯を済ませて下さい、忙しくて仕様がありません」と言って、何処かへ行ってしまった。姉さんが御婚礼《ご婚礼》するのに弟がパンとバター丈《+だけ》で朝飯を食うなんて法はあるまい。乃公《俺》は長《ナガ》テーブルの据えてある室《部屋》へ行って、色々御馳走を喰《食》べてやった。シェリイの瓶《=ビン》を転覆《ひっくり返》してテーブル掛けを台なしにしたが、幸い何人《誰》も見ていなかった。  結婚式は十一時に教会でやるんだ。家中《+ウチジュウ》が悉皆《-すっかり》片付いて仕舞って、乃公《俺》は何処にいて宜《+い》いのだか分らない。するとお島が又出て来て、服を着替えさせてくれた。乃公《俺》は胸の釦穴《ボタン穴》に花を揷《挿》して、新しいハンケチを衣嚢《隠し》に突込《突っ込》み、右の手に白い手袋を持って、漆のように光った靴を踏み鳴らしながら、別間に入って行《=い》った。  清水《=シミズ》さんが最早《-もう》来ていた。安楽椅子に腰を下《下ろ》して泰然としている。けれども彼《ア》れは泰然の出来損いだ。形は落着いても心が天井を匍い廻っているから、いくら澄ましても、|ちょち、ちょち旦那《チョチちょち旦那》様といったような態《スタイル》になってしまう。乃公《俺》が傍《そば》へ行ってお島に教わった通りに挨拶したら、平常《-いつも》になく丁寧に答礼をした。いよいよ此奴《コイツ》が乃公《俺》の兄さんになるんだな。  支度が出来てお花さんが下りて来た時には綺麗だと思った。目の覚めるような白繻子《+シロジュス》の服を着て、白い面帕《+カオカケ》の中《+うち》に薔薇色の頬《ホオ》が透き通るように見えた。お春さんも美しかった。今日はお花さんのお扶けをする役なんだ。  清水《=シミズ》さんは帽子を被《=かぶ》っていながら帽子を探したり、お花さんの裾を踏んで謝ったり、右の手に左の手袋が篏まらなかったりした。随分そそっかしい人だ。乃公《俺》はそれが余《+あんま》り可笑しかったので、つい自分の帽子を忘れて来てしまった。  牧師は矢張り例の長氏《+オサシ》であった。乃公《俺》は清水《=シミズ》さんの後《後ろ》に坐って、背中にハンケチを留針《ピン》で附けてやったが、清水《=シミズ》さんは一向知らないでいる。相変らず|ちょち、ちょち旦那《チョチちょち旦那》さまを定《決》め込んでいる。式が始まっても矢張りハンケチを背負《負ぶ》っている。乃公《俺》は誰かさんの背中は重たかろうと思って気の毒でならなかったが、その中《+うち》に森川さんが気がついて取ってやった。お父さんは乃公《俺》の顔を睨めた。  家へ帰ってから一同《皆んな》は食堂に入《=ハイ》った。乃公《俺》は頻りにお菓子を喰《食》べていたが、皆は葡萄酒ばかり飲んでいる。先刻《+さっき》シェリイを零した処《ところ》は如何《-どう》なったかと思って見たらナプキンが置いてあった。 「太郎さん、姉さんの健康を祝しなさい」  と何処の人だか乃公《俺》に葡萄酒を注した。乃公《俺》はコップを高く捧げて、 「お花姉さんの幸福《幸せ》を祈ります。そして若《-も》し子供が出来たなら、其子が私のように耳を打《+ぶ》たれたり頭の毛を引張《引っ張》られたりしないように祈ります」  と言って飲んでやった。喉が熱くて咳が出た。それから乃公《俺》は大分《だいぶ》飲んだ。何でも五六杯《ゴロクハイ》は飲んだと覚えている。  お母さんが起してくれた時、乃公《俺》はテーブルの下に寝ていた。周囲《辺り》は森閑としていた。最早《-もう》お客は皆《みんな》帰ったんだろう。 「お母さん、大変|激《ひど》い地震があったでしょう」  と言ったら、お母さんは、 「いいえ」  と答えた。何《な》んでも身体が無暗に揺れて、テーブルも壁もぐるぐる廻ったようだった。 「姉さんは如何《-どう》しました。私を待ってましょう」 「姉さん達は最早《-もう》先刻《+さっき》立ちました。最早|余程《-よっぽど》行ったでしょうよ」  乃公《俺》は酒を飲んだお蔭で馬鹿を見てしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此間《この間》から学校へ通《かよ》っている。乃公《俺》は作文と習字が上手《=じょうず》になりたい。先生は乃公《俺》を敏捷《+ハシッコイ》といって褒めた。勉強すれば大臣になれるかも知れないと言ったが、当《当て》にはならない。けどもなかなか勉強する時間なんかありゃしない。教場に出ても余程《-よっぽど》気を付けていないと飛んだ目に遇《あ》う。第一何処から紙の噛んだ奴が飛んで来るか知れぬ。何時電信が掛かって来るか分らぬ。どういう間違《間違い》で先生が机の中の南京豆や林檎を見付けないとも限らぬ。此んな事に心を配るから書物《本》を見る時間が少くて困る。けれども寄宿舎に較べれば何《ど》んなに良《い》いか知れない。  乃公《俺》が学校へ行っている間《=あいだ》は家は天国のようだとお歌さんが言った。生意気な奴だ。それじゃ天の使《使い》はいるかと槍込《やり込》めたら、此処に一人いると自分の胸を指さした。人を馬鹿にしている。弟の耳を引張ったりする天の使《使い》があって堪るものか。婦女《女》というものは何故斯《何故こ》んなに己惚《自惚れ》が強いんだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お歌さんの方《ほう》の会で慈善市《バザア》を開《=ひら》いたから、手伝いに行ってやった。初めの日は大変成功して、乃公《俺》は皆に褒められた。乃公《俺》は胸に赤リボンの蝶を附けて得意がっていた。これは販売係の記章《印》である。五銭の葉巻を二十銭に売った。お歌さんが勘定して見たら、此方《-このほう》だけで六十本売れていた。  二日目も可なり景気が好かった。日が暮れてから会員一同《皆んな》倶楽部の二階でお茶を飲んだ。無論乃公《むろん俺》も出席した。乃公《俺》は会員じゃないけれど、福引券を三枚貰っている。それでお茶なんか如何《-どう》でも宜《-い》いから早く福引を始めれば宜《+い》いと思っていた。  余《+あんま》り退屈だったから、乃公《俺》は隣席《隣り》にいた奥様《奥さん》に斯う話しかけた。 「面白い物を見せて上げましょうか」 「何《なん》です。坊ちゃん」  と聞くから斯う説明してやった。 「何《なん》でも黒い物です。喫驚《吃驚》なさらなければ見せて上げます」 「何《なん》ですか是非拝見致しましょう」  と今度は右隣にいた令嬢が口を出した。乃公《俺》は最早《-もう》可かろうと思って、衣嚢《隠し》の中から先刻《+さっき》捕えて置いた小鼠を出してテーブルの上に置いた。乃公《俺》が手を放すか放さぬ中《+うち》に鼠は奥様《奥さん》に飛付いた。奥様《奥さん》がキャッといって払い落したら、今度はテーブルの上を向《向こ》うの端《’端》まで走って行《=い》った。  高が小鼠一疋じゃないか。泣いたり、哮えたり、気を失ったり、テーブルを転覆《ひっくり返》したり、御丁寧《ご丁寧》にランプまで砕《こわ》して騒ぎを入《い》れるには当らない事だ。お春さんは衣服《着物》を少し破き、お歌さんは手を火傷した。きっと此れから当分は乃公《俺》と口を利かないだろう。他の人達も乃公《俺》を恨むだろう。けれども乃公《俺》は返す返すも言って置く──高《タカ》が小鼠一疋じゃないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》を叱る時にお父さんは何時《-いつ》でも斯う言う。 「乃公《俺》は子供を叱りたくないが、仕方なしに叱るのだ。叱られるお前よりか叱る乃公《俺》の方《ほう》が何程《幾ら》苦しいか知れない。ちっと気をつけて叱らせないようにしろ」  先生も昨日斯う言った。 「私はお前さんを罰したくはない。けれどもお前さんが可愛い。どうかしてお前さんを善《+い》い人間にしてやりたいと思うから、仕方なしに罰するのです。愛の鞭です」  此筆法《この筆法》で行くと畢竟《-つまり》怒りたくはないけれども怒るというのだ。乃公《俺》だって左様《-そう》だ。ちっとも叱られたか無いが、仕方なしに叱られる。少しは気をつけて叱らないようにするが宜《+い》い。叱るのは向《向こう》の事で、叱られるのは此方《+こっち》の分《=ぶん》だ。られる方《ほう》で気を付けても、りつける方《ほう》で止《辞》めなくちゃ何処まで行《=い》ったって果しがない。矢と的《マト》とは何方《+ドッチ》が先に出来たと思う。弓の方《ほう》で矢を棄てもしないで、唯《ただ-》気をつけろ、射《い》られるなと注文するのは理窟に合っていない。  乃公《俺》が今にお父さんとなったら、決して子供を叱るまい。無意仕出来《追試でか》したのなら何様《-どん》な事でも決して罰しまい。一日《イチニチ》に三度《3度》ずつお菓子を呉れよう。そして姉《’姉》さんなんかとは口も利かせまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨日は四月一日だった。四月馬鹿の日とは此日《この日》である。此日《この日》は嘘をついて人を欺《騙》しても構わない日である。正月からクリスマスよりも此日《この日》が待遠しかった。去年は余り世間の事が分らなかったので、四月一日には大分大勢《だいぶ-おおぜい》に担がれた。その代《かわ》り昨日は種々《色々》の事をしてやった。  乃公《俺》は考えがあるから未《ま》だ夜の明けない中《+うち》に起きた。先ず一番始めに馳付《駆け付》けた処《所》は火の見梯子だった。大人というものは智慧が足りない。世界は大人ばかりの世界だと誤解しているから、此梯子なんかも馬鹿に大きく拵えてある。乃公《俺》は登るのになかなか骨を折った。  東の空が心持ばかり明るい。静かなもんだ。自分の鼻息だけが、無暗に高く聞える。人間は未《ま》だ皆《みんな》寝ているんだろう。家も木も往来もボンヤリと見える。此奴等《此奴ら》も寝ているんだろう。瓦斯燈《ガス灯》さえ淋しそうに黄色く光っている。何人《誰》も乃公《俺》が此《こん》な高い処《所》にいるとは思うまい。お神楽の素盞鳴命《素戔嗚命》が着そうなインバネスというものを着て威張って歩く野郎も、阿呆鳥の羽を首輪にして得意がっている頓痴奇《+トンチキ》も、乃公《俺》が此れから火事の真似をしようとは夢にも知るまい。乃公《俺》は何《な》んだか嬉しくなった。  静かだから半鐘が能く響く。一つ打って其響《その響き》が消えた頃又一つ打つ。十《トオ》ばかりやって見たが、下界《ゲ界》が平気で寝ている。まさか皆《みんな》死んでるのじゃあるまい。それにしても余り静かだ。  一つ鐘《ばん》では安心しているから、今度はすり鐘《ばん》にした。無暗矢鱈と叩いた。すると何となく方々《ほうぼう》が騒がしくなったような気がしたから、乃公《俺》は一先ず下りた。 「何処ですか」 「見えますか」  蟻のように集《集ま》って来た人は皆同じような事を言っている。朝起きたら必ず「お早う」と挨拶するものだ。それが出来なければ人間じゃないってお母さんが言った。して見ると此連中《この連中》は皆人間《みんな人間》ではないだろう。  乃公《俺》は捉《捕ま》ると困るから帰って来た。道で鶴子さんに遇った。乃公《俺》と少し談話《話し》をしたが、何を言ってるのか、通じなかった。火事で慌てて入歯を忘れて飛出《飛び出》したんだろう。それから山田さんにも遇った。山田さんは頭に新聞紙を巻いていた。 「火事は何処ですか」  と聞くから、 「直ぐ此の向《向こ》うです」  と答えた。山田さんは難有《有難う》ともいわないで馳《駆》けて行《=い》った。乃公《俺》も少し寒くなったから大急ぎでおっ走《パシ》って来た。  朝御飯の時にお歌さんが大きな饅頭をくれた。朝っぱらから菓子をくれるなんてお歌さんにしては珍らしい。何処かに葬式でもあったのだろうと思って、一口喰ったら驚いた。綿《わた》で拵えたんだ。此《これ》は甘《うま》く担がれたと気が付いたら、お歌さんは「四月馬鹿、かかった掛った」と笑った。お春さんも笑った。お島は初めから笑っていた。畜生め。  乃公《俺》は学校へ行く積りで家を出たが、余《+あんま》り忌々しいから、郵便局へ行って電報を打ってやった。 「ハルコビ《/ビ》ヨ《ョ》ウキ、キテクレ」  森川さんは車で馳《駆》けつけるだろう。尤もお春さんが丈夫でも一日置《1日お》きには大抵来る。  それから乃公《俺》は花屋へ行った。此の花屋は極先達《つい先だって》越して来たてのホヤホヤだから無論乃公《むろん俺》の顔を知らない。乃公《俺》は此間井上さんが遊びに来たまえといって呉れた名刺を出して、上等の花を五円ばかり束にして、お春さんの許《ところ》へ持って行けと誂えた。家へ行く道をチャンと教えたから間違いっこない。  学校の方《ほう》へブラブラ歩いて行ったら、岡本さんの清野《キヨノ》さんに遇った。多分女学校へ行くのだろう。未《ま》だ少し時間があるから、一つ担《=かつ》いでやる積りで尾《つ》いて行《=い》ったが、どうして欺《騙》していいか一寸《+ちょっと》見当がつかない。けれども一旦思立った事を中途で止《辞》めると豪くなれないそうだから、乃公《俺》は尚《な》お尾《+つ》いて行《=い》った。すると其中《-そのうち》に清野《キヨノ》さんがレースのハンケチを落した。乃公《俺》は早速拾い取って呼びかけた。 「清野《キヨノ》さん、ハンケチが落ちましたよ」 「今日は四月の一日《ついたち》ですよ」  と返事をしただけで、清野《キヨノ》さんは振り返りもしない。 「真正《本当》ですよ。清野《キヨノ》さん。御覧なさい」  今度は返事もしないでズンズン行く。 「清野《キヨノ》さん、清野《キヨノ》さん」 「学校が晩くなりますよ」  と清野《キヨノ》さんはとうとう馳《駆》けて行ってしまった。乃公《俺》は仕方がないからハンケチを貰って置いた。  最早《-もう》学校は晩かろう、遅刻して小言を言われるのも面目ないから、今日は休む事に定《決》めて、乃公《俺》は田圃の方《ほう》へ遊びに行《=い》った。田圃の方《ほう》が学校よりも余程《-よっぽど》景色が好《い》い。乃公《俺》は草の上に坐って弁当を開《=あ》けた。今日は玉子焼《玉子焼き》かと思ったらパンだった。道理《=どうり》で少し軽いと思った。それではバターか、ジャムか、と思って破って見たら、鋸屑《オガクズ》が入っていた。乃公《俺》はお島を撲り付けてやる積りで直ぐに家へ帰った。  皆に見つかると悪いから乃公《俺》は自分の室《部屋》へ駆け上がった。三時までは戸棚の中にでも匿《+かく》れようかと考えていたら、お島が入って来た。乃公《俺》は突然《-いきなり》搦《齧》り付いた。婦人《女》と喧嘩する時には髪《毛》を引張るに限る。乃公《俺》はとうとうお島を転ばして、あやまらせた。そして内所でビスケットを持って来《こ》させ、尚《な》お三時まで乃公《俺》の帰ったのを黙っている約束をさせた。若《も》し乃公《俺》が鋸屑《オガクズ》なんか食べて病気になったら如何《-どう》する積りなんだろう。悪戯《冗談》にも程がある。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お春さんもお歌さんも乃公《俺》と口を利かない。今日はお歌さんは自分で郵便を出しに行《=い》った。それ見ろ直ぐに其様《-そんな》に不便じゃないか。  もうお前のような者は弟と思わないって言《言い》やがった。乃公《俺》だってお歌さんなんか姉さんと思ってやるものか。  森川さんとお父さんと此んな事を話していた。 「彼《+あ》れは一種の病気ですよ。何か悪戯をして見たい病気なんです」 「いくら医者でも左様《-そう》いう病気は些《+ち》と手に余りますな」  いくら医者でもが聞いて呆れる。ハイカラ筍のくせに。 「催眠術では如何《-どう》かなりませんかね。随分|種々《色々》な癖が直るそうですが」 「左様《-そう》、かかれば幾分か利きましょうが、かかりませんな。未《ま》だ注意を集注する力がありませんから」  生意気な事を言う。 「まあ足でも切って外へ出さないようにするのが一番近道でしょうよ。ハッハハハハ」  お春さんも傍《+そば》にいて笑ったようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんとお母さんがお花さんの許《ところ》へお客に行く。乃公《俺》とお春さんとお歌さんとお島とそれから奉公人が留守番をするのである。留守中は殊に|音な《大人》しくするようにお母さんが頼んだから、乃公《俺》はキチンと学校に通《=かよ》い、稽古が済んだら釣竿のように真直《真っ直ぐ》に家へ帰り、姉さん達に世話を焼かせないという約束をした。若《も》し此《これ》から一週間別段悪戯をしないなら、お父さんは乃公《俺》に四十円《40円》の小馬を買ってくれる筈だ。自転車を十台貰うよりも彼《+あ》の小馬一疋が欲しい。四十円じゃ唯《ただ-》見たいなもんだって、彼《あ》の馬喰が言ってから、乃公《俺》は毎晩|彼《+あ》の馬の夢を見る。昼間でも時には人の顔が長く見える位だ。  一週間ぐらいは少し辛抱すれば|音な《大人》しく出来る、訳はないとお島が言った。けれどもお島は女で、男の子だった経験《試し》がないから、訳がないか訳があるか分る訳がない。当《当て》になるものか。しかし兎に角|音な《大人》しくしよう。首尾能く行けば彼《+あ》の馬が手に入るのだから嬉しいや。そしたら馬に乗って学校へ通おう。左様《-そう》なれば決して休まない。お花さんの許へも馬に乗って遊びに行こう。明日からは日記も毎日丁寧に付《つ》けよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんとお母さんは今朝立った。乃公《俺》は今日一日可《今日イチニチか》なり|音な《大人》しくした。  お母さんの鏡を壊したが、此《これ》は真《ほん》の過失《過ち》である。乃公《俺》と忠公と室《部屋》の中でボールをして遊んだ。ボールが能く反《弾》まないから、お春さんのゴム靴《グツ》を削ってくっ付けた。すると馬鹿馬鹿しく反《弾》んで、つい鏡に打付《-ぶつ》かったんだ。それが又跳ね返って香水の瓶《=ビン》を転覆《ひっくり返》したんだ。  床《=トコ》の間《=マ》の天井に鼠が巣を造《作》っている。お母さんは此れを大層気にしていた。乃公《俺》は留守の中《+うち》に退治して置いてやろうと思って、天井へ登った。天井は湯殿の垂木を匍って行けば訳なく入られる。いつか大工さんが来た時見て置いた。  鼠の巣は取ったが、乃公《俺》は踏み外して床《=トコ》の間《=マ》へ落ちた。別段怪我はなかったけれど、お父さんの盆栽を折ってしまった。此《これ》は縁日へ行って買って来てやるから構わない。少し腰を痛めたから、其後《-それから》は何《なん》にもしなかった。第一日《第イチニチ》は充《先》ず成功だろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  朝は馬喰の所へ寄って、彼《+あ》の馬を大切《大事》にするように頼んだ。一寸《+ちょっと》乗って御覧なさいと言うから乃公《俺》は鞄を投《抛》り出して、彼方此方《+アッチコッチ》と乗り廻した。道で先生に会ったのには弱った。それから馬喰の子と牛ごっこをして遊んだ。彼《+あ》の子が牛になって、乃公《俺》が牛方になった。若《も》し馬喰が知らないでいたら、彼《あ》の子は可哀そうに首が締って死んだかも知れない。けれども乃公《俺》の罪《とが》じゃない。先方《向こう》が無暗に引張るから悪い。乃公《俺》は唯縄《ただ/縄》の端を堅く握っていたばかりだ。  もうあなたは学校へ行ったら宜かろうと言うから乃公《俺》は学校へ行った。たった三時間後れたばかりだ。  三時に家へ帰ったが、家で遊んで又何か壊すと悪いから、乃公《俺》は釣魚《釣り》に出掛けた。いつかぶくぶくしそこなった水車の傍《そば》へ針を下《下ろ》したが、鰷《ハヤ》が二尾漁《二匹と》れたばかりだ。退屈だから乃公《俺》は持って来たパンやビスケットやワッフルを喰《食》べていた。そして最早《-もう》帰ろうと思っていると、浮標《+ウキンボ》が急に沈んだ。どうせ又|河草《+カワグサ》か何かに引掛《引っ掛か》ったのだろうと思ったが、竿まで動いているから、引張《引っ張》って見ると、釣れた、釣れた、鰻が釣れた。話にすれば鰐《/鰐》ぐらいな鰻だ。乃公《俺》は大威張《オオ威張》りで帰って来た。  道で何処かの老爺《爺》さんが、 「坊ちゃん、漁があったかな」  と聞いたから、乃公《俺》は鰻を見せてやった。 「やっ、これは大きなもんだ。大手柄だ」  と感心している。乃公《俺》は内心得意だったけれど、 「なあに些《+ち》っとも駄目ですよ」  と止せば宜《-い》いのに一寸《+ちょっと》謙遜して見た。謙遜したものだから最早《-もう》談話《話し》が済んだと思って、老爺《ジジイ》は行《=い》ってしまった。もっと賞めさせるのだったに惜しい事をした。  夕御飯の後《あと》お歌さんは客間に入った。女学校の先生が遊びに来たんだ。此先生《この先生》は男の癖にチョクチョクお歌さんの許《ところ》へ訪ねて来る。殊に義眼《+イレメ》の井上さんが来《-こ》なくなってからは、足繁く遊びに来るようになった。  台所でジャムを占領して、二階へ上《=のぼ》ろうとすると、客間の中《+うち》で汽車の破裂したような音がした。お歌さんがゴム鞠のように玄関へ跳ね出した。先生はピアノの傍《そば》に倒れている。お島も料理人《コック》も馳《駆》け付けた。  何時《=いつ》の間《=マ》にか森川さんが出て来て先生を種々《色々》と介抱した。一体何が起ったのか乃公《俺》にはとんと分らない。お歌さんは未《ま》だ蝋のように白い顔をして慄えながら乃公《俺》を睨んでいる。又|乃公《俺》の所為《+せい》にする積りだな。何か悪い事があると直ぐに乃公《俺》の方《ほう》へ持って来る。どうも好くない癖だ。  お歌さんがピアノを弾こうとしたら、ピアノの上に大きな蛇がいたんだそうだ。臆病者は独りで喫驚《吃驚》したので足らないで傍《そば》に立っていた先生に突当ったんだそうだ。 「何故こんな悪戯をします。太郎さん」  と森川さんが叱った。最早家《-もう-うち》の人になった積りである。 「僕は何《+なんに》もしやしません」 「何《+なんに》もしない? それじゃピアノの上に蛇を置いたのは誰です」  乃公《俺》は可笑しかった。盲腸炎が分るくせに蛇と鰻の見分《見分け》が付かないなんて随分|鈍馬《頓馬》な野郎である。 「彼《+あれ》は鰻です」 「鰻? 鰻ですか。フフフフフ、いや、鰻でも悪い。ピアノは鰻を置く処《ところ》じゃない。彼《+あ》んなに嚇《脅か》して若《-も》し病気になったら如何《-どう》します」  何《な》んだ、もう些《+ちっ》と病人があればいいと始終《-しょっちゅう》言っているくせに。  お春さんも森川の加勢をして、乃公《俺》の事を性《-しょう》も懲《+コリ》もない悪戯小僧だと言った。お島まで、お母さんが留守だもんだから、向《向こ》う組になりやがった。そして何でも蚊でも乃公《俺》が悪いのにしてしまった。  左様《-そう》で厶《御座》いますよ。どうせ僕が悪いんですよ。姉さんが鰻を蛇と間違えても、先生を気絶させても、皆《みんな》僕が悪いんですよ。乃公《俺》は最早《-もう》真正《本当》に家にいるのが可厭《嫌》になった。  馬は大概《-あらかた》駄目になるだろう。念の為めにお島に聞いて見たら、無論駄目だそうだ。昨日折っぴしょった盆栽だけでも四五十円の損だと言った。よし、乃公《俺》は最早|音な《大人》しくなんかしまい。馬なんか世話が焼けて困るだろう。無い方《ほう》がいい。その代《かわ》り明日からうんと悪戯をしてやる。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨日は一日釣魚《一日’釣り》に行《=い》っていた。夕方家《夕方’家》へ帰ると、歌さんが又怖い顔をした。 「何処へ行って遊んでたの?」 「学校から帰ってからお友達の許《ところ》へ行ったの」 「嘘を仰有《おっしゃ》い。小使さんが何故来ないかって聞きに来ましたよ」  乃公《俺》は仕方がないから黙っていた。 「真正《本当》に仕様《+ション》ない子だね」  真正《本当》に仕様《+ション》ない子だねと言われれば其れでいいんだ。大人というものは此十八番《このオハコ》を言いたがって、種々《色々》と罪を数え立てるもんだ。すべて小言は「真正《本当》に仕様《+ション》ない子だね」に到着する道筋と見たら大きな間違《間違い》はなかろう。  晩は賑《賑やか》なものだった。お歌さんが淋しがって大勢《-おおぜい》お友達を招《+よ》んだんだ。乃公《俺》は言い聞かされていたから始終《-しょっちゅう》|音な《大人》しくしていたが、一寸《+ちょっと》足を出したらお島が躓いて、盆と茶碗を投《抛》り出した。彼《+あ》んな軽率《-そそっか》しい女を置くと、何《ど》んなに損だか知れやしない。  夜の二時頃に大変な騒動《騒ぎ》が起った。盗賊《泥棒》が入ったといって、お歌さんが喚いた。乃公《俺》もお春さんも続いて下へ降《=お》りた。お島は隣の家へ馳付《駆け付》けた。 「ピストルを持っているから、うっかり上《=のぼ》ると危《危な》いですよ」  と料理人《コック》が言った。 「なあに大丈夫です。最早《-もう》巡査が来ますから」  と隣家《隣り》の書生が木刀を握って武者慄《武者震》いをした。お歌さんは乃公《俺》の手を捉《掴ま》えている。捉《捕ま》えているのか捉《捕ま》っているのか分らない。 「何処の室《部屋》です。あなたの室《部屋》ですか」 「いいえ、お歌さんのお室《部屋》よ」 「私の寝台《+ネダイ》の下にいましたわ」  すると忠公が巡査をつれて来た。巡査は書生と料理人《コック》を連れて二階へ上《=のぼ》った。  此れから先は書くも馬鹿馬鹿しい。巡査はお父さんの長靴《=ナガグツ》を提げ、書生はお父さんの古外套《フル外套》を持って下りて来た。忠公が余り笑ったものだから、皆が又|乃公《俺》の悪戯に決めてしまった。 「此子を連れて行って被下《下さい》、毎日斯ういう悪戯をして仕様が厶《御座》いません」  なんて、お歌さんが巡査に頼んだ。お春さんと料理人《コック》は頻りに巡査に謝った。乃公《俺》は真正《本当》に気の毒でならなかった。ところへ、 「水野君|大分《だいぶ》待ったぜ、如何《-どう》したんだ」  と、もう一人巡査が入って来た時には乃公《俺》は真正《本当》に悪い事をしたと思った。忠公は笑ってばかりいやがって、いかん奴《ヤツ》だ。  それで姉さん達は今日お父さんに電報を打った。到底《-とても》一週間なんてお留守番はしきれない。此上何をするか知れないから、直ぐ帰るようにと言ってやったんだ。とうとう馬は駄目になってしまった。何を約束したって、未《ま》だ貰った経験《試し》がない。何故|乃公《俺》はこんなに運が悪いのだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  十日ばかり前の事であった。忠公が南京鼠を呉れる約束をして置いてなかなか持って来ないから催促してやった。すると忠公は未《ま》だ子が生れないからやれない。その代《かわ》りに他の物なら何でも上げると言訳した。乃公《俺》は南京鼠なら欲しいが、他の物は貰いたくない。 「それじゃ乃公《俺》のいう事を何でもするか。何でもすれば勘弁してやる」 「何《なん》でもする。するけれど何時《+イツ》か見たいに汽車の線路へ油を塗《引》くのは可厭《嫌》だな」 「なあに其《そ》んな事じゃない。訳もない事だ」  乃公《俺》の家から十町ばかり行くと、天岳寺《テン岳寺》というお寺がある。此寺内《このジナイ》に義士の墓がある。その墓の入口には『|ぎしはか《ギシハカ》』という大きな看板が出ている。赤地に白で書いたもんだ。乃公《俺》は以前《元》から此の『|ぎしはか《ギシハカ》』のは《ハ》の字に濁点《濁り》を打ちたいと思っていた。それで早速此仕事を忠公に命《+言》い付けた。 「白墨でもいいかい」 「白墨じゃ直ぐ消えてしまう。ペンキでなくちゃ」 「ペンキなんか無いじゃないか」 「ペンキは学校にある。此間から塀を塗り替えているから少し持って来ればいい」 「筆がない」  此野郎仕事が厭なもんで、何《な》んでも無い無いと言う。 「筆は乃公《俺》が持っている。お父さんの大きいのがある」  彼《+あ》の門には番人がある。それに毎日参詣人が多い。忠公は屹度捕《捕ま》るだろうと思っていたら、夕方になって成功して帰って来た。乃公《俺》は此れには少し驚いた。  今日の新聞に此んな事が出ていた。 「一週間ばかり前に天岳寺《テン岳寺》の境内を通抜《通り抜》けたら、義士の墓の門札が、何人《+ナニビト》の悪戯《戯れ》か『ぎしばか』としてあった。其時は笑って過ぎたが、今日|通《=とお》ったら、門札は依然『ぎしばか』でいる。都《ト》の名寺《名刹》を預っている当局者は此れでは余り無責任ではなかろうか。(世話焼生《世話焼きせい》)」  無責任て一体何《一体なん》の事だろう。彼《+あれ》はペンキだからなかなか取れやしない。新聞というものは当局者という字と無責任という字を無暗と一緒に使いたがるものだ。丁度|牛肉《+ギュウ》に葱、柳に蹴鞠、ヤソにお太福《多福》、森川さんにお春さんというように、当局者と無責任を離しても離れないものと心得てるのだろう。無責任な奴だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃はお父さんが大変心配している。毎日夕方になると小い新聞の来るのを待ち焦れて、其を見ては又下《又下が》ったと言う。何でも金棒《+カネボウ》が下《下が》ったのだそうだ。金棒《カネボウ》って何かと聞いたら、お島は株の事だといった。そんなら株って何《なん》だと聞いたら、お島にも分らなかった。お島は知ったか振りをする女だけれど実際は何《なん》にも知らないんだ。此間も太陽は地球よりも大きいなんて乃公《俺》と議論をした。お歌さんまで先方《向こう》の加勢をしたから乃公《俺》は腹を立てて、竟《しまい》には喧嘩になってしまった。するとお春さんが太郎さんが泣くといけないから、地球が大きいにして置きなさいと言った。若《も》しお春さんが彼様《-ああ》言わなかろうものなら、人間は死んでしまわなければならない。太陽よりも小い地球に此んなに大勢《-おおぜい》生きていられるものか。  それは兎に角、お父さんは此頃は忙しいから、乃公《俺》の事なんか構っていられない。それで乃公《俺》は真《-ほんと》に安心している。書軸《掛け軸》に悪戯書《悪戯書き》しても、雑誌の絵を切抜いても、知らん顔をしている。尚《な》お金棒《カネボウ》でも株でもどしどし下《下が》ればいいと思う。  それにお春さんは着物の支度が忙しいので滅多に出て来ない。唯《ただ-》お歌さんだけが厄介者だ。何を壊してもお母さんに言付ければ直ると思っている。馬鹿で仕方がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんの家へお春さんの御用で行《=い》った。幾度往っても森川さんは乃公《俺》に何《+なんに》も触らせない。危《危な》い薬があるから手をつけてはいけないと言う。けれども聴診器だけは貸して貰って書生を診察してやった。彼《+あ》の書生の胸はごうごういっている。妙な奴だ。その中《+うち》に急病人が出来たというので、森川さんは書生を連れて出て行った。僕が帰るまで此椅子に坐って凝《+じ》っとしているんだよと言ったから、乃公《俺》は其通りにしていた。終《しまい》には首が取れやしないかと思う程欠伸が出た。  やっと帰って来たなと思ったら、左様《-そう》じゃなかった。何処かの女中がお薬を戴きに上《上が》ったんだ。乃公《俺》は何の薬が宜《良》いか知らないが、赤い奴《ヤツ》が減法《滅法》に綺麗だったから、その赤いのを注《-つ》いでやった。  すばらしい皮の箱があったから、大方宝石だろうと思って開けて見たら、大きな医刀《メス》だった。光芒電閃|春尚お《/春なお-》寒く光っている。さぞ能く切れるだろう。何か切って見よう。桜の木を切ったって嘘さえ吐《-つ》かなければ宜《+い》いんだ。  ところへ又|何人《誰》かやって来た。能く人の来る家だ。今度は十歳ばかりの女の子が手に刺《トゲ》を通《刺》して抜いて貰いに来たんだ。今に先生が帰るからお待ちなさいと言ったけれど、痛がってばかりいるから、乃公《俺》も見るに見兼ねて療治にかかった。  一寸医刀《ちょっとメス》の端《さき》が尖《触》ると身体を動かす。動かないようにと言っても、子供だから聞分けがない。動くと切りますよって驚かしたら、泣き出して尚《な》お動いた。早く家へ帰ってお母さんに繃帯して貰いなさいと言っている所へ先生が帰って来た。乃公《俺》は困っていた所だったから早速森川さんに引渡した。  森川さんは怖い顔をした。その他《=ほか》に何人《誰》か来たかと聞くからお薬取りが来たと答えた。どんな人だったと言うから此んな人だったと言った。瓶《=ビン》は何処にあると言ったって、持って帰ったから有りゃしない。それじゃ何《なん》の薬をやったかと言うから彼《あ》の赤い奴《ヤツ》だと答えた。「それは大変だ。間宮、お前早く行って来てくれ。」書生は火事でも始《始ま》った様《よう》に飛んで行《=い》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お花さんが遊びに来た。家へ二晩泊《ふた晩泊》って帰るんだそうだ。若《も》し乃公《俺》が|音な《大人》しければ、一緒に連れて行って呉れる約束だ。お春は可厭《嫌》な奴だ。お花さんが、 「太郎さんは最早《-もう》|音な《大人》しくなったろうね。それとも相変らずかね」  と言ったら、お春は、 「ええ、|音な《大人》しくなりましたとも、|音な《大人》しくて|音な《大人》しくて困る位ですよ」  と妙に節《+フシ》を付けて言《言い》やがった。  一体皆が乃公《俺》の事を悪い悪いという理由《+ワケ》が分らない。何人《誰》だって過失《間違い》をする。私共は神様じゃないから過失《間違い》の無い訳には行きませんて牧師さえ言っている。例えばお父さんの杖を折ったのは過失《間違い》である。その過失《間違い》を直す為めに蝙蝠傘の柄《エ》を切ったばかりである。けれども巧く継げなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  学校の帰りがけに森川さんの方《ほう》へ廻った。午後《昼過ぎ》は大概《-あらかた》不在だろうと思って行《=い》ったら、果して留守だった。どうせ書生はいるだろうと思っていたが、此奴《コイツ》もいない。下女は頻りと洗濯をしていた。乃公《俺》は早速薬室へ通《かよ》った。  絛虫《+サナダムシ》は何《ど》れ位《くらい》長いものかと思って、瓶《=ビン》の中から出して見た。三上山の百足じゃないが、全く長いものだ。室《部屋》を一周回《一回り》取巻いても未《ま》だ余ってる。絨毯が台なしになった。  骸骨を下《下ろ》そうとしたが、なかなか出ないで困っている所へ何処かの小僧がやって来た。歯が痛いって泣き顔をしている。直ぐ直してやるから少し手伝えと言って、二人がかりで骸骨を診察室の真中《真ん中》へ持ち出した。そして歯は何時《-いつ》から痛いかと聞いたら、昨日からだと言う。乃公《俺》はコロロホルムを取って来て、此瓶を嗅いで見ろと言った。奴《=やっこ》さん一生懸命に嗅いでいる。少しハンケチへ附けて行けと言っても返事をしない。もう虫歯が直ったのだろう。安心して椅子の上で寝ている。余りコロロホルムの臭《匂い》がして可厭《嫌》な心持だから、乃公《俺》は帰って来た。  夜になってから森川さんが怒って来た。病家廻りをして帰って見ると小僧と下女が倒れていたそうだ。下女の方《ほう》は骸骨を見て気を失ったのだそうだ。左様《-そう》だろう、棚にある可《べ》き筈の骸骨が室《部屋》の真中《真ん中》で椅子に坐っていれば何人《誰》だって吃驚すらあ。  営業上の妨害になるから最早《-もう》決して乃公《俺》を寄越してくれるなと断《=ことわ》って行《=い》った。お春さんが止《=と》めても怒っているから承知しない。ぷりぷりして帰って行《=い》った。森川さんは短気な人だ。  乃公《俺》は無論皆《無論’皆》に叱られた。お花さんは到底《-とて》も乃公《俺》を連れて行ってくれまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんはお春さんとの婚約を取消した。姉さんは最早|御婚礼《ご婚礼》の支度を大概《-あらかた》済ましているから、今更此んな事になっては大変に損である。此れから新《新た》に結婚の相手を捜し出すまでには或は着物も帽子も流行《流行り》に後れてしまうかも知れない。乃公《俺》は黙っちゃいられない。殊に乃公《俺》が此事件の原因《元》になっていて見ると、斯う雲煙過眼《+ノンベングラリン》としてはいられない。  事の起因《起こり》は唯《+たった》猫一疋である。猫一疋の事で結婚しない前から離縁するなんて法はあるまい。何人《誰》が何《#なん》と言っても森川さんが悪いに極っている。  忠公と二人で森川さんの電気の機械を弄《いじ》った。乃公《俺》は何《な》んとも無かったが、忠公は電流とかに触れて気絶した。すると森川さんは医師《医者》の家で人が左様《-そう》度々気絶しては商売に係ると言って怒った。丁度|乃公《俺》が森川さんの職業の邪魔をするという態度だ。乃公《俺》は些《+ちっ》とも悪くない。悪いのはエジソンだ。何人《誰》も頼みもしないのに此んな危《危な》い機械なんか発明したもんだから、忠公は三日《3日》も床《トコ》の中で苦しがった。それを恰も乃公《俺》の罪科《咎》のように言うのは聊かお門違いである。  森川さんの薬室には鼠が出て困る。現に書生の間宮が何か鼠退治の法はないかと言って、乃公《俺》の御高見《ごコーケン》を仰いだくらいである。目に見られぬバクテリヤを征伐する癖に、彼《+あ》んな大きい鼠の仕末が出来ないとは余程|矛盾《+ホコトン》な野郎だ。  乃公《俺》は忠公《忠公’》の家の三毛を借りて森川さんの許《ところ》へ行った。此猫は雌で鼻黒だから鼠を捕るのが上手《=ジョウズ》だ。此の間《あいだ》なんか近所の鶏《ニワトリ》さえ取った。最早薬室へは入らない約束だから、乃公《俺》は猫を抱えて窓の所に立っていた。内《うち》には何人《誰》もいないが鼠もいない。それで乃公《俺》は三十分ばかりも待っていた。すると鼠が一疋見えたから、窓を明けて猫を入《=い》れてやった。  鼠が棚へ上《=のぼ》ったものだから、猫も棚へ飛上って薬瓶《=クスリ瓶》を転覆《ひっくり返》した。薬室は散々になったけれども、薬室よりも散々な目に遇ったのは猫である。硫酸を浴びたものだから、苦しがって鳴きながら室中跳《部屋中跳》ね廻った。此物音に驚いて、森川さんは薬室の戸を明けた。猫は森川さんの顔に飛付いた。  翌朝《=ヨクアサ》森川さんはお父さんに会いに来た。顔は硫酸で火傷したので、三《=みっ》つ四《=よっ》つ膏薬を貼ってある。鼻は二倍程大きく脹《膨》れ上《上が》っている。お春さんは笑い出した。無論乃公《むろん俺》も笑った。けれども姉さんは転げるくらい笑った。森川さんは些《+ちっ》とも笑わない。顔が突張って笑えないんだろう。何かお父さんと談話《話し》をしてぷりぷりして帰って行《=い》った。  家《うち》の者は皆乃公《皆んな俺》を叱った。お春さんは其日から金魚のように何も喰《食》べないで生きている。お歌さんは寄ると触ると乃公《俺》の耳を撲る。梅が枝《え》の手洗鉢《手水鉢》じゃあるまいし、乃公《俺》を叩いたって森川さんが帰って来るものか。けれども此《これ》は一《ひとつ》の悲む可《+べ》き過失《間違い》に外《ほか》ならない。唯《ただ-》鼠を取ってやろう、お医者さんの家にペストの子が威張って居ては不見識だと思って、全くの親切心《親切ゴコロ》からした事で、決してお春姉さんを一生|老嬢《オールドメード》にしよう等《など》という量見《料簡》から出たのではない。若《も》し此《これ》が悪いというなら、世の中に一《一つ》として善《-い》い事はあるまいと思う。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日はお春さんが又泣いた。お歌さんのお友達が二人も遊びに来て、止せばいいのに、森川さんが富子《トミ子》さんの家へ昨日も一昨日も遊びに行《=い》ったと喋った。女というものは雛《ヒヨッコ》のように人の顔を見るとお喋舌をしないじゃいられないと見える。  晩飯を喰《食》べながらお春さんの事を考えたら気の毒になって、六杯しか喉へ通らなかった。一つ森川さんの家へ談判に出掛けようと思ったが、間宮の野郎が玄関払いを喰わせるに定《決ま》っていると気が付いた。けれども兎に角お島に断《=ことわ》って、乃公《俺》は家を出た。  乃公《俺》は量見《料簡》があるから大急ぎで歩いた。そして十分間の後《=のち》には富子《トミ子》さんの家の呼鈴《ベル》を破れるくらい鳴らしていた。  下女が出て来て乃公《俺》の顔を見て笑った。失敬な奴だ。けれども今日は此んな女に係《構》っていられないから、富子《トミ子》さんに用があると言った。 「おや、太郎さんですか」  と富子《トミ子》さんが驚いた。其様《-そんな》に驚くには当るまい。北極探検から帰って来たのじゃあるまいし。 「森川さんはいませんか」 「左様《-そう》ね‥‥今晩は未《ま》だお見えになりませんよ」  と曖昧な返事をする。 「いなけりゃいなくても宜《-い》いんですが、僕は森川さんを裁判所へ訴える積りですから、左様《-そう》言って置いて被下《下さい》。猫が薬瓶《=クスリ瓶》を転覆《ひっくり返》したくらいで、御婚礼《ご婚礼》をしないなんて法があるもんか。それは姉さんの笑ったのは無論姉《無論’姉》さんが悪い。悪いけれども彼《+あ》の子はヒステリーですよ。ヒステリーは何でも笑います。若《も》し姉さんが死んだら如何《-どう》しますか。彼様《-ああ》何《+なんに》も喰《食》べずにいれば屹度死《きっと死》にます。僕は森川さんに決闘を申込む。小刀《ナイフ》も持って来た。それから僕に黙っていてくれろって頼んだ事も皆《みんな》新聞《みんな新聞》へ出してやります。お春さんだって‥‥」  突然《-いきなり》背後《+うしろ》から乃公《俺》を捉《捕ま》えて、乃公《俺》の口を塞いだ者がある。おやッと思う間もなく乃公《俺》は抱き上げられた。 「太郎さん、謝る。喧嘩は最早止《-もう辞》めにしよう」  森川さんの声だ。森川さんは乃公《俺》を抱《=だ》いた侭、富子《トミ子》さんに挨拶して外へ出た。 「太郎さん、もう仲善《仲良し》になろうね。僕が此れから行くから姉《’姉》さんの許《ところ》へ連れて行ってくれ給え」  道々《ミチミチ》森川さんは種々《色々》の事を乃公《俺》に聞いた。お春さんは真正《本当》に何《+なんに》も喰《食》べないかの、顔色は悪いかの、お父さんは怒っているかの、お母さんは何と言ったのと其外尚《その他な》お一ダースくらい質問をするので、乃公《俺》は煩くてならなかった。  家へ帰ってから、乃公《俺》は森川さんを客間に通した。子供のように|音な《大人》しく乃公《俺》の言う事を聞く。 「此椅子に坐って、右の手をテーブルの上に乗せていて被下《下さい》。直ぐに姉さんを呼んで来ますから」  森川さんは写真を写す気になって乃公《俺》の言った通りにしている。平常《-いつも》斯うだと好《い》い男である。乃公《俺》は早速お春さんの室《部屋》へ馳《駆》け上《上が》った。 「姉さん、姉さん、一寸下《+ちょっとシタ》まで来て下さいな」  お春さんは返事もしない。俯向いている。 「姉さん、いい物があるんですよ。姉さんのお好きな物が」 「いいから斯うして置いて頂戴、姉さんは何《な》んにも見るのも聞くのも可厭《嫌》なんですから」 「けれども姉さんが一番好きなものだったら如何《-どう》します。行かなけりゃ損《’損》ですよ」 「チョコレートなんか欲《’欲》しかありません」 「そんなものじゃありません。生きてる‥‥」  戸を叩く音がした。森川さんは待ち耐《こた》えられなくって、上って来たんだ。これから後《あと》の事は余り気の毒だから書くまい。第一森川さんの見識に関する。兎も角森川さんは取消の再取消をして、彼《あ》の鼻が癒り次第お春さんと華燭の典を挙げ、琴瑟合奏とかいう音楽会を開くのだそうだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お歌さんの許《ところ》へは先生が相変らず遊びに来る。あれは文法の教師で、もう四年もお歌さんの学校にいるのだそうだ。毎日此れはパスト、プアアヘクトで厶《御座》る。此れはプレゼント、プアアヘクトで厶《御座》るなんて言ってたら、随分倦きるだろう。それで退屈だからお歌さんの許《ところ》へ遊びに来るのだろうと察してはいたが、乃公《俺》は何《ど》うも此人《この人》を好かない。  普通《並》の人なら彼《+あ》の鰻で気絶してからは来なくなるのが当然《当たり前》だ。井上さんなんか乃公《俺》が眼を突《つっつ》いて見てからは死んだか生きたかさえ分らなくなってしまった。然るに此教師は全く性《-しょう》も懲《+コリ》もない奴である。杖を匿《隠》しても平気で来る。今日は新調《買いたて》の麦藁帽子を匿《隠》してやった。お父さんまで出て来て乃公《俺》を責めたけれど乃公《俺》は亀の子のように黙っていた。今頃は忠公が彼《あ》の帽子の中へ生れたての南京鼠を入《=い》れているだろう。親と離れるようになれば乃公《俺》が二疋貰《2匹’貰》う約束だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  風邪をひいて十日ばかり寝た。唯《ただ-》の風邪でないから此様《-こん》なに長くかかったのだ。忠公が悪い。忠公と釣魚《釣り》に行《=い》ったら忠公は游ごうじゃないかと言い出した。乃公《俺》は游泳《泳ぎ》を知らない。だから「五月から游ぐ奴《ヤツ》は馬鹿だ。病気になるぞ」と言って誤魔化した。けれども忠公は肯《き》かない。「五月《5月》だって六月だって游ぎたくなれば何時《=いつ》でも游ぐ、戦争の時には寒《カン》の中《+うち》でも游がなくっちゃならない」と言った。乃公《俺》は忠公の理窟の方《#ほう》が善《+い》いと思って、仕方がないから浅い処《所》で游いだ。忠公は何とも無かったが、乃公《俺》は風邪をひいてしまった。一体なら発起人の忠公が大病になる筈だのに、拠なくて游いだ乃公《俺》の方《ほう》が此《こ》んな目に遇《あ》うなんて真正《本当》に馬鹿げている。世の中には斯ういう理窟の間違った事が随分多い。  今日はいよいよお春さんと森川さんの結婚式だ。お花さんの時には種々《色々》お手伝《手伝い》をしてやったが、今度は病気になったので仕方がない。せめて式と御馳走とだけには出てやろう。少し喉が変だけれど、我慢すれば大概《-あらかた》の物は喰《食》べられる、等《など》と思いながら寝ていると、森川さんとお春さんの話し声が聞える。 「もう全然《-すっかり》快《-い》んですよ。いいけれども、何《なに》か薬を当てがってもう一日寝かして置きましょう。又何をするか知れませんから其方《-そのほう》が安全です。彼様《-ああ》いう子は床《トコ》の中へ入れて置きさえすれば間違《間違い》ないです」 「そうね、あなたから巧く言って置いて被下《下さい》、そうすれば私も安心ですから。けれど些《+ちっ》と可哀想ね」 「なあに些とも可哀想な事はない。お菓子でもやっとけば宜《+い》いです」  乃公《俺》は驚いてしまった。何《なん》という恩を知らない奴等だろう。彼《ア》れ程乃公《程俺》の世話になっていながら。人は見かけによらないもんだ。此れからは人を見たら泥棒と思う方《ほう》が、床《トコ》の中に入っているよりか間違《間違い》なかろう。お春まで一緒になって、乃公《俺》を寝かして置く積りでいる。薬なんか持って来ても飲むもんか。乃公《俺》の方《ほう》にも量見《料簡》がある。乃公《俺》は無理に結婚式へ行ってやるから宜《-い》い。  真正《本当》に寝かして置く積りと見えて、着物を出してくれないから、乃公《俺》は寝衣《寝巻》の上に敷布を被《=かぶ》った。下には大勢人《-おおぜい人》が詰めかけているから此様《-こん》な風体《+ナリ》をして行けば直ぐに捉まる。それで仕方なしに窓から出て、樋《+トイ》を伝って下りて、教会へ馳《駆》けて行《=い》った。門番の老爺《ジジイ》が庭掃除をしていたが、隙《スキ》を覗って乃公《俺》は会堂に飛込んだ。未《ま》だ何人《誰》も来ていない。最早占めたもんだと思った。  説教壇の後《+うしろ》に椅子が沢山列べてある。花も大分《だいぶ》置いてある。乃公《俺》は椅子の下へ潜り込んだ。随分窮屈だったが、乃公《俺》は息を殺して辛抱した。待って待って足が痺れ出してから、人が来始めた。大勢《-おおぜい》のようだが、敷布を被《=かぶ》っているから顔は見られない。唯《ただ-》がやがやと声丈《声だ》け聞える。その中《+うち》にオルガンが鳴って、牧師が出て来て、いよいよ結婚式が始まった。乃公《俺》は足が利かなくなった。  讃美歌が済み、祈祷《祈り》が済み、牧師が彼《+あ》れを読み出した時には嬉しかった。彼《ア》れは何《なん》というものか知らないが、彼《ア》れの為めに乃公《俺》は三|時間余《時間余り》も椅子の下に踞《屈》んでいたんだ。 「来会の諸君、我等が此処に集まれるは神の聖前《+ミマエ》に於《おい》て、此男子《この男子》女子をして神聖なる結婚の式を挙げしめんが為なり。抑々《-そもそも》婚姻の事たる太古人|未《ま》だ罪を犯さざりし時より神の制定し給えるものにて、主《シュ-イ》エスはガリラヤのカナに催されし婚筵《この縁》に列《連な》り、最初の奇蹟を以て之《此れ》を祝し給い、パウロは之《此れ》をキリストと其教会の一体なるに比《なぞら》え、又|汝曹《汝ら》婚姻の事を凡て貴べと教えたり。今《いま》此二人神聖なる誓約を立て、婚姻の式を挙げんとす。諸君のうち此結婚に付き若《-も》し道に合《+かな》わざる所ありと知る者あらば、此処に於《おい》て直ちに明言すべし‥‥」  身体中を耳にしていた乃公《俺》は、此時に椅子を跳ね退《の》けて踊り出た。そして斯う言った。 「道に合《+かな》いません。僕は明言する。此の結婚には反対です」  満堂の諸君は大騒ぎをした。女の中《+うち》には泣き声を立てたものさえあった。多分|乃公《俺》を白熊か何《なん》かと思ったんだろう。お春さんは森川さんの手を握って青くなっている。大方森川さんが逃げるだろうと心配したらしい。お父さんもお母さんもお花さんも、又伯母さんも唯乃公《-ただ俺》の顔を睨んで黙っている。牧師は乃公《俺》と森川さんを見較べて呆れている。 「弟が病気でもないのに薬をくれる。そして結婚式に出すまいとする。そんな事をするお医者は僕の兄さんになれません。僕は此結婚はいけないと思います。どうか中止《+ヤメ》にして被下《下さい》。僕は明言します」  皆は笑った。家《うち》の人だけは相変らず石のように黙っている。お父さんが立ちかけた時森川さんが一足《ひと足》進んで斯う言った。小い声で言った。 「太郎さん、下《お》りてください。謝る。謝るから此方《+こっち》へ来て被下《下さい》。君にはとても敵わない。謝る。もう決してしないから、さあ、太郎さん、此方《こっち》へ来て被下《下さい》」 「そんならいい。牧師さん、結婚式をやって被下《下さい》。僕は寝衣《寝巻》ですから此処で待ってましょう」  と言って乃公《俺》は又椅子の下へ這込《這い込》んだ。残余《残り》の儀式は壮麗なものだったが時々|彼方此方《+アッチコッチ》で来会者がくすくす笑った。馬鹿な奴だ。教会は笑う処《所》じゃない。乃公《俺》は悪い悪いと言われるけれど、未《ま》だ教会で笑ったり、|ひそひそ談話《ヒソヒソバナシ》をした事はない。  式が終ってから乃公《俺》は皆と一緒に家へ帰った。お父さんもお母さんも別に何とも言わなかった。今日丈《今日だ》けは乃公《俺》の方《ほう》に理窟があるからだろう。清水《=シミズ》さんとお花さんは乃公《俺》を間に坐らせて、何でも乃公《俺》に喰《食》べさせてくれた。 「太郎さんは相変らずだ事ねえ」  とお花さんがげらげら笑った。お春さんもにやにや笑った。自分達が相変ったもんだから、人まで相変るもんだと思っている。 ◇。◇。◇。◇。◇。  伯母さんは先頃《-いつか》怒ったけれども、御機嫌が直ったと見えてお春さんの結婚式に来た。年寄なんて子供見たような者だそうだ。来たばかりじゃない。お春さんに上等の指輪をくれた。伯母さんの名もお春さんで、お春さんの名もお春さんだ。姉さんは伯母さんの名を貰って春とつけたのだ。それで姉さんは御婚礼《ご婚礼》のお祝に春という字の刻んである指輪を戴いたんだ。世の中は何が幸福《幸せ》になるか知れない。乃公《俺》も春之助と名をつけて貰うとよかった。八幡《ハチマン》太郎も安藤太郎も乃公《俺》に何《+なんに》もくれやしない。太郎なんて全く割の悪い名前だ。  伯母さんは種々《色々》の事を尋《+き》く人だ。年を取って愚に返っているのだろう。大阪の伯父さんは何故腹を立てたと尋《+き》くのには弱った。何でも能くは知らないが驢馬が喇叭《ラッパ》を井戸へ落したり、ポチが眼鏡を喰《食》べたりしたんだと誤魔化してやった。 「姉さんは何《ど》うだえ、指輪が気に入ったようかい」 「あの、斯う言ってましたよ。どうせ伯母さんが拵えたんだから流行《流行り》には後れているって。けれども石と地金は良質《-いいん》ですってね、ですから拵え直して貰うんですって」 「左様《-そう》かい、そんな事を言うのかい。此節の娘は生意気で困る」  伯母さんは別に怒りもしなかった。大阪の伯父さんよりも余程《-よっぽど》御し易い。 「伯母さんは最早《-もう》十年も岩張《頑張》るんですか」 「何だえ、太郎さん」 「姉さん達が言ってましたよ。彼《+あ》の分では未《ま》だ当分片付かないって、十年くらいは岩張《頑張》ってるだろうって。真正《本当》に左様《-そう》ですか。沢庵でも何でもぼりぼり噛むんですか、年寄の癖に?」  丁度お母さんが入って来たから乃公《俺》は出て来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。  牧師が来た。彼《+あ》の牧師は可笑《-おかし》な奴《ヤツ》だなあ。此年になって彼《あ》の教会で結婚した者は清水《=シミズ》さんと森川さんばかりじゃない。未《ま》だ二三人あったと覚えているが、随分|妙智麒麟《妙ちきりん》な奴《ヤツ》じゃないか、他人《+ヒト》ばかり結婚させて、自分は些《+ち》っとも結婚しない。何《ど》ういう訳だと訊いて見たら、牧師は独身に限る、独身でなければ牧師の天職は完全に果《果た》せないと答えた。馬鹿に六ヶ敷い事をいう。けれども乃公《俺》は成程左様《/なるほど-そう》ですねと賛成して置いた。成程左様《なるほど-そう》だろう。若《も》し彼《あ》の牧師が結婚する段になると儀式を司る人が無くなる。天一でなけりゃ一人で新郎になったり牧師になったり出来っこない。これで彼奴《アイツ》は独身でいるんだな。  時々日曜《ときどき日曜》学校へでも御出《お出》でなさいと言うから、此次の日曜に行く約束をした。今度はピストルなんか持って行くまい。其中《-そのうち》に乃公《俺》が衣嚢《隠し》からドロップを出して喰《食》べたら、君はドロップが好きかと尋ねた。乃公《俺》はドロップが大好きで、此《これ》はお歌さんのお手紙を持って行《=い》った駄賃で買ったんだと答えた。すると何処へ手紙を持って行《=い》ったのかと訊くから、家へ遊びに来る文法の先生の許《ところ》へ持って行《=い》ったと答えた。 「左様《-そう》ですか、幾度も持って行きましたか」  と今度は度数まで訊く。能く訊きたがる奴《ヤツ》だ。一体牧師は教える役じゃないか。 「ええ毎日のように持って行きますよ」  と乃公《俺》は嘘を吐《+つ》いてやった。 「それじゃ其先生という方《=かた》は毎晩遊びに参りますか」  と牧師は未《ま》だ訊いている。 「ええ毎晩来ますとも。彼《あ》の人が来るものだから、姉さんは此頃教会へ出ないんですよ」  と今度は少し真実《本当》の事を言ってやった。そしたら牧師はドロップでも買い給えと言って乃公《俺》に五十銭銀貨をくれた。なかなか感心な野郎である。そして此れから家へ帰って説教の支度をしなければならぬ。日曜には姉さんと一緒に教会へ来たまえと云って、青い顔をして帰って行《=い》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公と六公と清《キヨ》が遊びに来た。雨が降って外へ出られないから、乃公達《俺たち》はお父さんの書斎で五目列べや|挾み《ハサミ》将棋をして|音な《大人》しく遊んだ。終《しまい》に清《キヨ》が財産差押ごっこをしようといい出した。財産差押ごっことは何《ど》んなごっこかと尋《+き》いたら、大変面白いと言う。それじゃやろうと言ったら、紙はあるかと聞く。 「半紙でもいいか」 「半紙で上等だ」  乃公《俺》はお父さんの机の引出《引出し》を引張り出して探したが無い。すると清《キヨ》は郵便切手を見つけて、 「此方《+こっち》がいい、半紙《ハンシ》じゃ切らなけりゃならないから面倒だ」  と言った。どうするかと思って見ていると、清《キヨ》はお父さんの机といわず本箱といわず額《ガク》や表具にまで一枚ずつ切手を貼ってしまった。 「此んなに切手を貼ると郵便屋が持って行きやしまいか」 「大丈夫だよ。郵便箱へ入れさえしなければ大丈夫だ」  それも左様《-そう》だと思った。本箱なんか大きくて郵便箱に入りっ《-っ》こないから安心だ。けれどもお父さんが帰って怒りはしまいかと思ったら心配になって来た。 「乃公《俺》は可厭《嫌》だぜ。お父さんが帰って来て怒ると困る」 「怒るもんか、唯喫驚《ただ-吃驚》するばかりだよ。僕ん家《+ところ》のお父さんなんか随分|喫驚《吃驚》したぜ。そして最早《-もう》仕方がないって言った」 「矢張り君が貼って置いたのかい」 「僕じゃない。何処かの人が来て貼ったんだよ。それから僕の家は貧乏になってしまった」  何《な》んだか信用出来ない話だけれど、乃公《俺》はお父さんを驚《おど》かす積りで心待ちに待っていた。けれどもお父さんは驚かないで、直接《-いきなり》と怒ってしまった。そして「少しも碌な真似はしない」と言って、乃公《俺》は折鞄でどやしつけられた。清《キヨ》は嘘吐《嘘つ》きだ。彼《+あ》んな奴は今に泥棒になるだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  明日から曲馬がかかる。今日は広告を見てばかりいた。曲馬と動物園を一緒にしたようなもので、種々《色々》珍しい獣《+ケダモノ》が来るんだ。乃公《俺》も余程《-よっぽど》学問が出来るようになったと見えて曲馬の広告が半分ぐらい読める。知らない字は友達に聞いたから、今日一日《今日イチニチ》で大分《だいぶ》新しい字を覚えた。学校でも読本《トクホン》なんか止《辞》めて曲馬の広告を読ませればいい。児童に博物学を教《-おし》うるの一助ともなるから、教師並《教師並び》に父兄は児童に一日《イチニチ》の休暇《休み》を与えるように希望するとあった。真正《本当》に善《-い》い事を希望している。  算術の時間に先生が、答《答え》は出来ましたかと言って乃公《俺》の石盤を取って見た。そして君《キミ》には罰点を十点やると言った。乃公《俺》の石盤には何時《=いつ》の間《=マ》にか大きな象が書いてあったんだ。算術をやる積りで、曲馬の事を考えて居たのと見える。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公と曲馬を見に行《=い》った。余《+あんま》り早過《ハヤす》ぎたので、動物の方《ほう》を見物に廻った。パンに唐辛《唐辛子》を入《=い》れて猿に喰わせたら、嚏《+クサメ》をして可笑しかった。もう少しやろうとしていると、番人が来て大変怒ったから、乃公《俺達》は象の方《ほう》へ行った。  象という奴《ヤツ》は妙《’妙》なものだ。顔の割合に目が馬鹿に細い。猿が人間の親類なら、象は鯨の兄弟分だろう。乃公《俺》は大きなパンを一個《一つ》くれた。此《これ》にも唐辛《唐辛子》が仕込んである。甘《うま》そうに喰《食》べているから、もう一つやろうと思って、傍《そば》へ寄ると、象は恩を知らないから困る。突然《-いきなり》乃公《俺》を鼻で捲いて投《抛》り出した。幸い羊が並んでいる上に落ちたので怪我はなかったが、羊は尻餅を搗いたきりになってしまった。 「怪我をしても知らないぞ」  と番人が睨めつけた、曲馬の親方も出て来て、 「危《危な》い危《危な》い、怪我はなかったか、運の好《い》い小僧さんだ。ヨナのようだ」  と言った。ヨナは鯨に呑まれたんだ。象に投げられたんじゃない。此親方は聖書の智識に暗いと見える。可哀そうなものだ。  麒麟という奴《ヤツ》は何《なん》だって彼《+あ》んな長い首を着けているんだろう。彼奴《アイツ》に洋服を着せたら、随分ハイカラになるだろうなんて思っている中《+うち》に、忠公が鸚鵡に手を突付かれた。 「何故そんな危《危な》い事をするんだ、怪我をしても知らないよ」と叱ってやった。忠公が怪我をすれば直ぐ乃公《俺》の所為《+せい》になってしまう。  曲馬は上手《=じょうず》なもんだ。彼《+あ》の馬は何故|彼様《-ああ》能く言う事を聞くのだろう。余程《-よっぽど》稽古しなくちゃ彼《+あ》の女のように輪の内を脱けられまい。丁度|乃公《俺》ぐらいの年恰好の子が親爺の頭の上で鯱鋒立《鯱立ち》をしたっけ。彼《+あ》れくらいの事なら乃公《俺》にも出来るだろう。家《うち》のお父さんも曲馬師になれば宜《-い》いんだのになあ。けれども其《そ》んな野心がないから仕様がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日も乃公《俺》は曲馬を見に行って、いよいよ決心した。乃公《俺》は曲馬師になろう。家にいて叱られるよりか、ああいう曲芸をして褒められる方《ほう》がいい。それで乃公《俺》は斯ういう計画を立てて、此《これ》から逃《逃げ》る積りである。今夜の二時に曲馬の人達は出発する。どれでも宜《+い》いから彼《+あ》の車にそっと乗り込めばいいんだ。そして余程《-よっぽど》行ってから、親方に頼んで弟子にして貰おう。一週間も習えば屹度|上手《=じょうず》になれる。すると乃公《俺》が真赤な着物を着て彼《あ》の馬の上で縄飛だの逆立だのする。見物人が手を叩くだろう。今《いま》鳴ったのが十一時だな。十二、十三じゃない、十二、一《イチ》、二、と未《ま》だ三時間ある。早く行って待ってる方《ほう》が間違《間違い》ない。乃公《俺》が居なくなったら、お母さんは喫驚《吃驚》するだろうけれども此《これ》も立身出世の為めとあって見れば拠ない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  曲馬の人達は出発の支度をしていた。車が沢山並《沢山なら》べてある。未《ま》だ荷物は何も積んでない。乃公《俺》は隙《隙’》を見て、荷車の上の大きな箱の中へ入って、頭から風呂敷を被《=かぶ》っていた。もう此れで弟子になれる積りで安心していた。  乃公《俺》は多分間もなく眠ったのと見える。目が覚めた時には車が動いていた。余り車がガタピシするので目が覚めたんだろう。外を見れば星が光っている。ああもう此れでお母さんにも姉さんにもお別れかと思ったら少し悲しくなった。身体は動くし、車の音はするし、馬方が無暗《-やけ》に馬を叱るもんだから、なかなか寝られやしない。少しうとうとすると直ぐに目が覚めてしまう。その中《+うち》に明るくなって来た。  一体此《一体これ》は何の箱だろうと思って見廻すと、乃公《俺》は喫驚《吃驚》してしまった。三尺《3尺》ばかり向《向こ》うに獅子がいた。而も乃公《俺》の顔をシゲシゲと見守っている。やはり曲馬で見た時のように寝転《寝’転》んで、前足の上に腮《顎》を乗せている。夜は最早《-もう》明けた。  乃公《俺》は何《ど》うしようかと思った。乃公《俺》が少し身体を動かすと、獅子は唸る。此方《+こっち》で凝《+じ》っとしていれば、先方《向こう》でも黙って乃公《俺》の顔を見ている。時々《ときどき》瞬きをする。今に屹度食付《屹度食いつ》くだろう。  乃公《俺》は獅子にお辞儀をした。すると獅子は又唸った。仕方がないから又|凝《+じ》っとしている。凝《じ》っとしていれば矢張り黙って乃公《俺》の顔を眺めている。何時《+イツ》掛って来るかも知れない。真正《本当》に気味《キミ》が悪《わる》い。  乃公《俺》は目を瞑って、主《+シュ》の祈りをした。獅子は矢張り旧《元》の姿勢である。乃公《俺》は主《=シュ》の祈りを五六度《五、六度》した。おやッと思って目を開《=ひら》いて見ると、獅子は乃公《俺》の額《=ヒタい》を甞めていた。  気がついた時には、乃公《俺》は草原へ寝ていた。大勢《-おおぜい》が乃公《俺》を取巻いている。乃公《俺》の顔へ水を吹いていたんだ。 「あッ、喰われなかった」 「もう少しで喰われる所だったよ」  と馬方が言った。 「どうしてまあ彼《/あ》ん中へ入ったんだ」  と親方が感心した。それから乃公《俺》は弟子になりたくて、箱の中に匿れていた事を話した。皆は大笑いをして、早くお母さんの許《ところ》へ帰れと言った。 「危《危な》い事だった。彼《あ》の獅子は病気だから、昨夜彼《昨夜あ》の箱《ハコ》に入れ更《か》えたのだ。病気でなけりゃ、お前さんは喰われてしまったろう。危《危な》い。ヨナのような小僧さんだ」  ヨナは獅子の箱へ入りやしない。獅子の穴へ入ったのはダニエルだ。親方は何でもヨナにしてしまう。そして弟子にしてくれそうもない。それに乃公《俺》は最早家《-もう家》へ帰りたくなっていた所だったから、一人の子分に送って来て貰った。  乃公《俺》は夕方家《夕方’家》へ着いた。長道をしたので、足に豆が出来ていた。家《うち》の者は皆《みんな》喜んで乃公《俺》を迎えてくれた。丁度放蕩息子が旅から帰ったようだった。  やっぱり家にいる方《ほう》がいい。お島に聞いたらお母さんは一日泣いていたそうだ。伯母さんの許《ところ》へ電報を打つやら、四方八方に人を出して大騒ぎをしたそうだ。乃公《俺》は最早《-もう》決して逃げたりしまい。お父さんは乃公《俺》を送って来た人にお金をやってお礼をした。もう決して曲馬師にはなるまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  もう直《じ》きに暑中|休暇《休み》になる。忠公は夏中《ナツジュウ》は避暑に行くんだそうだ。休暇《休み》になって毎日|乃公《俺》と遊ぶと終《しまい》には何《ど》んな怪我をするかも知れないから成る丈《だ》け早く海岸へ行くんだと言った。彼奴《アイツ》のお母さんは真正《本当》に分らずやだ。そんなに悪まれ口を利くと人に可愛がられないよ。  家《うち》の太郎ばかり悪いんじゃないって、お母さんは言っている。忠公だって随分|悪《=あく》たれる。それだけれど、お母さんは人が好《い》いから、言いたい事も黙っているんだそうだ。けれど乃公《俺》は忠公と一番気が合うんだ。喧嘩する事もあるが、直ぐに仲が善くなってしまう。子供の方《ほう》が仲が善くて、お母さん同志が睨み合うなんて随分可笑しな話だ。忠公は乃公《俺》に蛇の卵をくれた。五つ取って来て、乃公《俺》に二つ寄越した。忠公は蝮になると保証したが、乃公《俺》は青大将だろうと思っている。蝮なら占めたもんだ。何《+なん》になるか分らないから、客間のストーブの中へ匿《隠》してある。毎日二三度《ニサン度》ずつ見に行くのだが、今日は遊びに屈託していて、一遍も行って見ない。事によると孵ってるかも知れない。今日は大分《だいぶ》暑かった。  文法の先生は困る奴《ヤツ》だ。先刻《+さっき》から蛇《ヘビ》の卵の傍《+そば》に陣取って、お歌さんと談話《話し》をしている。幾度見に行っても動かない。裏の池では蛙が頻りに鳴いているが、いくら蛙が鳴いても帰りそうにない。 「竹刀を取られる所が面白いでしょう。『そら、そこで竹刀を取られたんだあね』という所が面白いでしょう」 「そこで小手も取られたんだあねですか」  と二人は然《-さ》も可笑しそうに笑っている。些《+ちっ》とも面白いもんか。仕様のない奴《ヤツ》だ。  乃公《俺》は最早《-もう》構わないと思って、つかつかと客間に入って行《=い》った。そして黙って立っていてやった。斯うでもしたら、ストーブの処《ところ》を退《ど》くだろうと思ったのだが、平気で談話《話し》を続けている。何故斯う公徳心がないんだろう。真正《本当》に可厭《嫌》になってしまう。  すると玄関の呼鈴《ベル》が鳴った。何人《誰》かと思って行こうとすると、姉さんは太郎さん一寸《+ちょっと》と乃公《俺》を呼止めて、斯う内命を下した。 「富子《トミ子》さんだったら留守だと言って被下《下さい》よ。早く行って御覧」  玄関には富子《トミ子》さんがお友達を二人連《二人’連》れて来ていた。姉さんはと尋《+き》くから、 「姉さんはお留守ですから駄目ですよ。富子《トミ子》さんなら如何《-どう》してもお留守なんです。断りますよ。先生とお談話《話し》があって大変忙しいんだから仕様がありません」  と断《=ことわ》ってやった。富子《トミ子》さんは「それなら宜敷《宜しく》」とも言わないで友達の手を引張《引っ張》って帰って行ってしまった。  お歌さんは狂気《+キチガイ》のようになって乃公《俺》の耳を引張った。富子《トミ子》さんは評判のお喋舌だから、明日学校へ行って何と言うか知れないそうだ。先生はお歌さんの御機嫌が変ったものだから、間もなくお暇《-いとま》をした。又帽子がなくなって困っていたっけ。乃公《俺》の南京鼠は巣が広くなって喜んでいる。  彼《あ》の教師は余程《-よっぽど》運の悪い奴《ヤツ》だ。乃公《俺》の家へ来て非道い目に遇い続けだ。気絶をさせられたり、杖を折られたり、帽子を忠公に持って行かれたり、どうも散々な事ばかりだ。それでも性《-しょう》も懲《+コリ》もなくやって来る。真正《本当》に無神経な男だ。それだから又帽子を取られたんだあね。それだから蝙蝠傘を破かれても知らないでいるんだあね。  此間《この間》から百合子さんと百合子さんのお母さんが乃公《俺》の家に泊っている。乃公《俺》が悪戯をしやしまいかと思ってお母さんもお歌さんも気をつけているが、乃公《俺》は百合子さんと仲善《仲良し》だから決して悪い事はしない、百合子さんは乃公《俺》よりか二つ年が上だ。歌さんも綺麗だが、百合子さんは未《ま》だ子供だから可愛らしい。  乃公《俺》はお島に斯う言った。 「どうしたんだろうね、お島、百合子さんが僕の室《部屋》へ入って来ると僕は胸がどきどきするくらい嬉しいんだよ。けれども出て行った後《あと》は何だか淋《=さみ》しいんだよ」  お島はくすくす笑い出した。 「何が可笑しいんだ」  と聞いても尚《な》お笑う。笑うと撲るぞと言っても未《ま》だ笑う。馬鹿な奴だ。そして笑いながら斯う言った。 「それは坊ちゃんが百合子さんを恋《ラブ》しているからですよ」 「左様《-そう》か知らん」 「左様《-そう》で厶《御座》いますとも。恋《ラブ》しているもんで、百合子さんが来ると胸がどきどきするんですわ」  と又笑《又笑い》やがった。乃公《俺》は事によると左様《-そう》かも知れないと思った。するとお島は何処までも悪い奴《ヤツ》だ。 「坊ちゃん、あなた花を買って来て百合子さんに上げて御覧なさい。百合子さんがそれを受取《受け取っ》て顔を赤くすれば先方《向こう》でもあなたを恋《ラブ》しているんです」 「若《も》し赤くしなかったら何《ど》うだろう」 「それなら坊ちゃんが失恋よ」  乃公《俺》は大概《-あらかた》失恋になるだろうと思った。けれどもお島が余《+あんま》り勧めるもんだから物は試しだと思って花をやる気になった。そしてお島は黙っている約束をした。若《も》し喋ろうもんなら、此間|彼《+あ》の藪睨みにお金をやった事を曝《ば》らしてやる。  乃公《俺》は早速奮発して五十銭の花を買って来て、百合子さんにやった。「難有《+アリガト》よ」といったきりで百合子さんは平気な顔をしている。それ見ろ。乃公《俺》はトウトウ失恋になってしまった。最早《-もう》此んな薄情な奴《ヤツ》とは遊ばないからいいや。お島のお蔭で五十銭棒に振ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は煙突に火薬を填《詰》めて破裂させた。その為めに座敷の道具が大分《だいぶ》壊れた。お父さんもお母さんも乃公《俺》を叱るけれど、実際|乃公《俺》が悪いか如何《-どう》か、少し道理《訳》の分る人に判断をして貰いたい。  六公《六公’》の家へ遊びに行《=い》ったら、六公は素敵に立派な絵葉書帳《アルバム》を見せた。何処で買ったと尋《+き》いたら、去年のクリスマスに貰ったんだそうだ。それもサンタ・クロウスに貰ったというから珍らしいや。  去年のクリスマスに乃公《俺》はお父《とう》さんからもお母さんからも種々贈物《色々贈り物》を戴いた。けれどもサンタ・クロウスは乃公《俺》に何もくれなかった。サンタ老爺《+ジジ》は乃公《俺》の家へ寄るのを忘れたのだろうか。六公《六公’》の家へ来て乃公《俺》の家へ寄らない筈はない。彼奴《アイツ》の家と乃公《俺》の家は物の三町と離れていない。そればかりでなく忠公は確かにサンタ・クロウスを見たと言った。尤も彼奴《アイツ》は|音な《大人》しくないから何も貰わなかった。サンタ・クロウスは乃公《俺》の家へも来たに相違ない。来たんだけれど、煙突が狭くて入《=ハイ》れなかったのに定《決ま》っている。彼《ア》れでは全く子供でも入《ハイ》れやしない。  それでクリスマスには未《ま》だ半年も間《マ》があるけれど、今から支度《シタク》をして置く方《ほう》がいいと思って、乃公《俺》は煙突を壊したのだ。若《も》し此《これ》が悪いと言うなら、クリスマスの支度をするのは皆《みんな》悪かろう。斯ういう理窟も知らないで、唯《ただ-》頭から叱ればいいと思っている。それよりか早く左官屋を呼んで来て、一間四方《一間四方’》ぐらいの煙突を拵《-こしら》えればいいんだ。手を火傷したり叱られたり真正《本当》に馬鹿馬鹿しい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  朝から頭痛がして喉が苦しくて困った。それで学校は休む事にした。多分ジフテリヤだろうとお母さんはお薬をくれた。少し様子を見て若《-も》し悪いようなら森川さんを呼ぶ積りだった。けれども九時頃には全然《-すっかり》直ってしまったから乃公《俺》は遊びに出掛けた。  忠公を誘ったら、お母さんが出て来て、怖い顔をしながら、忠坊は頭痛がして喉が苦しくって寝ていると言った。まるで乃公《俺》の所為《咎》のようだ。それにしても忠公は仕様のない奴《ヤツ》だ。もう九時過ぎている。約束を守らないと信用がなくなるぞ。  それで仕方がないから乃公《俺》はお春さんの家へ行った。遊びにお出で位の事を言っても罰《バチ》は当るまいに、お春さんも森川さんもよくよくな人だ。恐らくは天地が崩れても其《そ》んな事は言わない積りなのだろう。  けれども思ったよりお春さんは好遇《-よく》してくれた。お菓子でも何でもドシドシ出してくれる。けれども何《ど》うしたのか、姉さんは森川さんと余り口を利かない。変だと思って、後で間宮君に尋いて見ると、今朝先生と奥さんが衝突したんだそうだ。 「着物の事で奥さんが怒ったのです」 「左様《-そう》だろう、きっと左様《-そう》だ」 「きっと左様《-そう》だって、太郎さん能く知ってますね」 「彼《+あ》の子は着物が気に入らないと直ぐ怒るんです。家にいた時から左様《-そう》です」  と乃公《俺》は大人らしく呑み込んだ返事をしてやった。此書生は勉強家だけあって、頗る精密な研究的態度を持って、森川さんとお春さんを監視しているようだ。  大きな体躯《+ナリ》をして子供らしい奴等だ。それでお春さんは彼様《-あんな》に乃公《俺》を好遇《-よく》したんだな。可愛がられるのもいいが、面当てに可愛がられるんじゃ一向ありがたくも何《なん》ともない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  乃公《俺》は此夏《この夏》もう少しで死にそうな目に遇った。目に遇ったと言うと、人がしたように聞えるが、矢張り自分で仕出来《仕出か》した事で、今度丈《今度だ》けは何人《誰》にもかずける事が出来ない。若《も》し乃公《俺》が彼《+あ》の時|彼《+あ》の侭死んでしまったら、お母さんは何《ど》んなに歎いたろう。それを思い出すと今でも涙が溢《こぼ》れる。  夏中《夏じゅう》はお父さんとお母さんに連れられて旅行をした。お母さんは大きい姉さん二人を片付けるのと、お歌さんの縁談とで、くさくさしている上に、乃公《俺》が獅子と逃げたり、風船へ乗って行方知れずになったりして、余計な苦労を掛けたものだから、少し健康を傷めた。それでお父さんが夏中《夏じゅう》旅行をしたら宜かろう、乃公《俺》が連れて行くと申出た。至極結構な思付《思いつき》だと言って乃公《俺》が賛成したけれど、賛成の為損《しぞん》をした。お歌さんと乃公《俺》が留守居をするのだそうだ。人を馬鹿にしている。  けれども世の中はよく言う通り何が幸福《幸せ》になるものだか分らない。お歌さんは乃公《俺》と一緒じゃ到底《-とても》お留守番は引受けられませんと御免蒙った。此《これ》は道理《+もっとも》である。姉さんは一度で懲り懲りしている。けれども斯うお出《出で》になるとは思掛《思いが》けなかった。それでだんだん談話《話し》が甘《うま》くなって来たと喜びながら、乃公《俺》は庭で鯱鋒立《鯱立ち》をしていた。すると其処へポチが馳《駆》けて来て乃公《俺》の頭を甞めた。友達だと思っていやがる。 「ポチ、ポチ、|音な《大人》しくしろよ。お前も一緒にナイヤガラへ連れて行ってやるぞ」  ポチは嬉しそうに尻尾を振った。犬の癖に人間の言葉が分るなんて生意気だから一つ頭を撲《+ぶ》ってくれた。  出発の日は七月《7月》の何日だったか忘れてしまったが、何《#な》んでも夜の明けない中《+うち》であった。森川さんとお春さんが停車場《停車ジョウ》まで見送りに出ていた。家《うち》からはお歌さんとお島が来た。皆なお父さんとお母さんには御機嫌善く行って来いと挨拶して、乃公《俺》には|音な《大人》しく行って来いと言った。乃公《俺》なんか御機嫌が悪くても善《-い》いと思って居るんだろう。それだから彼《+あ》んな危《危な》い目に遇ったのだ。 「太郎さん、左様《-そう》停車場《停車ジョウ》毎に下《お》りちゃ困るじゃないかね。危《危な》くて些《+ちっ》とも目が離せません」 「いえ、ポチが何《ど》うなったかと思って見に行《=い》ったんですよ。早く夜が明けなくちゃ暗くて見えやしない」 「ポチを何《ど》うしたと言うの」 「ポチを連れて来たんですよ」 「連れて? 何処に入れてあるんです?」 「一番後《一番後ろ》の車へ結《-ゆわ》えてあるんですよ」  お母さんは顔色をかえて、 「あなた、大変ですよ、汽車を止《=と》めて被下《下さい》」  とお父さんに頼んだ。 「何だ。何《ど》うしたんだ」 「早く鈴《ベル》を鳴らして被下《下さい》、早くしないと死んで仕舞《=しま》いますよ」  乃公《俺》は非常報知機の紐をうんと引張った。汽車は今迄全速力で走っていたが恐ろしい音を立てて急に止った。乗客は皆《みんな》青くなった。何か椿事が起ったと思ったのだろう。  お母さんは車掌に頼んで一番後《一番後ろ》の車を見て貰った。けれども汽車を止《=と》めるには及ばなかったのだ。ポチは最早《-もう》いやしない。乃公《俺》が車の心棒に結び付けた細縄の端《=ハシ》には犬の耳が片方付《片方つ》いていたばかりだ。ポチには真《-ほんと》に気の毒である。一緒に見物をさせてやりたいばかりに飛んだ事をしてしまった。 「あんな|音な《大人》しい犬はなかったのに」  とお母さんが泣きそうになった。 「お前のような馬鹿はない」  とお父さんが乃公《俺》を叱った。車掌は乃公《俺》を食いそうな顔をしやがった。  乃公《俺》が車の中を彼方此方《+アッチコッチ》遊んで歩くものだから、お母さんは一日心配していた。それで日が暮れると直ぐに、乃公《俺》は寝台《+ネダイ》へ押し込められてしまった。けれどもなかなか眠《寝》られやしない。  乃公《俺》の隣の寝台《ネダイ》にいる奴が鼾をかいて八釜《やかま》しくて仕方がない。お前一人の寝台車じゃないんだから|音な《大人》しくしなくっちゃいけないよ。静かにしないと酷いよ。何《なん》と言っても平気でゴオゴオいっている。公徳心のない奴《ヤツ》だ。  乃公《俺》は余《+あんま》り腹が立ったから、そっと起き出して、其奴《ソイツ》の足を留針《ピン》で突《つっつ》いてやった。突いた時丈《時だ》けは|音な《大人》しくするが、少し経つと又直ぐに始める。それで乃公《俺》は五六度臥《五、六度寝》たり起きたりした。すると終には痛い痛いと大きな声を出した。鼾丈《鼾だ》けでも随分迷惑しているのに、泣くなんて真正《本当》に聞分けのない奴《ヤツ》だ。けれども其からは懲りたと見えてゴオゴオいわなくなった。  其中《-そのうち》に乃公《俺》は喉が渇いた。水を持って来いといえば係りの男が持って来るだろうけれど、人を呼んだりしては他所《人》の安眠の妨害になると思って、乃公《俺》はそっと起きて水を飲みに行《=い》った。  鼠のように静かに帰って来て、床《トコ》に這込むと、キャアッという叫声《叫び声》と共に乃公《俺》は寝台《ネダイ》から突き落された。「あれえ、何人《誰》か来てくださいッ。」係の人が馳《駆》け付けて突然《-いきなり》乃公《俺》の胸倉を捉《捕ま》えた。そして前後《+マエウシロ》に無暗と小突き廻す。乃公《俺》を埃の着いた外套と間違えたんだろう。乃公《俺》の寝台《ネダイ》には何処かの奥さんが泣いている。此騒動《この騒ぎ》で車中の人は皆《みんな》目《みんな目》を覚ました。お父さんとお母さんは頻りに此奥さんにお詫をした。奥さんは乃公《俺》を子供じゃないと思ったのだそうだ。乃公《俺》も彼《+あ》の奥さんの寝台《ネダイ》じゃないと思ったんだ。  お母さんは旅行に来《コ》ないとよかった等《など》とお父さんに言っていた。けれども其翌日|乃公《俺達》はナイヤガラに着いてしまったから仕方がない。彼《+あ》んな目に遇《あ》う位なら乃公《俺》も真正《本当》に旅行になんか行かないとよかった。  滝は大きなものである。数哩《数マイル》離れても其響《その響き》が遠くで雷《=カミナリ》の鳴るように聞える。瀑布《滝》の処《ところ》には始終《-しょっちゅう》虹が吹いているから頗る奇観である。虹の外《ほか》にも此近辺には見るものが多い。瀑布《滝》には四面《4面》ある。即ち外側、内側《#ウチガワ》、内側は水の背後《+うしろ》を潜《-くぐ》って見物出来る。それから尚《な》おカナダ側とアメリカ側がある。地理書には此瀑布《この滝》の光景が出ているけれども、其雄大壮厳の趣は到底《-とても》ペンやインキで伝え難い。若《も》し天一のような奇術師が此瀑布《この滝》を大きな硝子玉《ガラス玉》に入れて世界中を見世物興行して歩くなら、さぞ受ける事だろう。子供が地理や地文を覚えるのに何程《幾ら》の助けになるか知れやしない。けれども馬車屋の法外なのには何人《誰》も驚く。お父さんは瀑布《滝》よりも馬車賃の高いのに一驚を喫したと言った。尤も見世物には馬車なんか連《つ》れて行かなくてもいい。瀑布《滝》だけを其侭|罐詰《缶詰》か何かにして持って行けば仔細なかろう。  乃公《俺》の着いた日には仏蘭西《フランス》の軽業師が此瀑布《この滝》の上で綱渡りをする所だった。お母さんは彼《+あれ》は狂人《気違い》だと言ったが、一向キ印らしくもない。見た所|音な《大人》しそうな人である。乃公《俺》とお父さんは其芸当を見物に行く。けれどもお母さんは労れてはいるし、そんな危《危な》い物は見るのも嫌いだから、乃公《俺》をお父さんに預け、片時も目を離してくれるなと頼んで、御自分《ご自分》だけ宿屋に引取った。  仏蘭西《フランス》人は此瀑布《この滝》の上を綱で渡るという。両手に英米の国旗を持っている。落ちれば大変だ。全く生命《イノチ》がけの仕事である。けれども彼《+あ》の男は落ちやしまい。落ちた所で其侭死《そのまま死》にはしまい。きっと鯉になるだろう。鯉になって今度はナイヤガラの瀑布《滝》に登るだろう、等《など》と思っていた。  見物人はヤンヤと喝采している。フランス人は彼《ア》れ此れと支度に手間取った末、斯う申し出た。何人《誰》か私に背負《負ぶ》さって行くものはないか。大丈夫だ。首尾よく行けば其人《その人》の名誉は全世界に轟く。万一|間違《間違い》があれば五百円罰金として進呈する。行く人はないか──さて此《これ》は考えものだと乃公《俺》は思った。  彼《+あ》の軽業師と一緒に対岸《向こう》まで行けば全く名声を四海に轟かす事が出来る。首尾能く行けば太郎石鹸、太郎ムスク、太郎カラ──等《など》が出来て、乃公《俺》は随分持て囃されるだろう。万一|間違《間違い》があったにしても五百円進呈すると言うんだから、大した損はない。幸いお父さんは思掛《思いが》けない友達に会ったので、乃公《俺》の方《ほう》はお留守にして、頻りに談話《話し》をしている。乃公《俺》は連れて行ってくれと軽業師に頼んだ。  すると軽業師は大層乃公《大層俺》を賞めて、旗を持たせてくれた。「目を瞑《-つぶ》ってるんですよ。しっかりとね。何もかも私に委《任》せて安心してればいい。家で蒲団の上に寝ている気でいればいい。下に滝があるなんて思っちゃいけない。宜うがすかね」  悪い時には悪いもので、巡査がやって来て乃公《俺》を捉《掴ま》えた。 「滅法界もない。両親は何処にいます」  多分お父さんを小児虐待の罪に問う積りらしかった。するとお父さんは飛んで来て、仏蘭西《フランス》人を怒鳴りつけた。若《も》し巡査が止めなかったら、或は打撲《ぶん殴》ったかも知れない。乃公《俺》は真正《本当》に損をしてしまった。  ナイヤガラにいる間《=あいだ》は最早《-もう》一秒時も乃公《俺》の傍《そば》を離れられない、此《これ》では苦労を求めに旅行をしたようなものだとお母さんが愚痴を零した。お母さんは膠のように乃公《俺》に粘着《-くっつ》いている。少しも目を離さない。乃公《俺》は真正《本当》に弱ってしまった。  翌日は歌さんへのお土産を買ったりして、乃公《俺達》は山羊の島を見に行《=い》った。名は山羊の島でも、山羊なんか一疋もいやしない。けれども此辺の流《流れ》の急なのには実に一驚を喫した。見ていても目が眩むようだ。早く早《#ハヤ》くと水と水とが押合う為めか、水面《=みなも》に一種の燐光が漂って物凄い。急に寒くなった。お母さんは乃公《俺》を確乎《+ギュッ》と捉《捕ま》えている。何程《幾ら》無鉄砲でも、此んな処《所》へ飛び込むものか。飛び込みはしないが、水の速力《速さ》を計る為めに、ハンカチを投込《放り込》んで見た。  ところへ何処かの奥さんが来て、お母さんと談話《話し》を始めた。やはり見物に来たんだ。御大層な風《なり》をしている。狆を抱《だ》いている。此狆の胸掛《胸掛け》は百合子さんのリボンと同じ品質《物》だと思いながら、乃公《俺》は狆の目を突付《突っつ》いてやった。 「笑いませんか」  と奥さんが振返った。チンは嚏をするかも知れないが、笑って堪るものか。 「坊ちゃん、狆がお好きですかね。少し抱いてやって被下《下さい》。私は手が疲れました」  と奥さんが乃公《俺》に狆を抱《=だ》かせてくれたから、乃公《俺》は直ぐに水の中へ投《抛》り込んでやった。  奥さんは狂気《+キチガイ》のようになって泣いた。子のようにしていた者を殺されたと言って、今にも狆の後を追って飛込もうとする。無分別な人だ。お父さんが抱《=だ》き止めるようにして、お母さんがお詫をして漸く賺《騙》した。泣き顔して帰って行《=い》ったが、彼《+あ》れは屹度ヒステリーになったろう。水は一秒に一哩《一マイル》は確かに走る。狆のお蔭で此事実を発見した。すべて科学は犠牲によって進歩発達するものだと先生が言っているじゃないか。  宿屋へ帰ってお昼を喰《食》べた。彼《あ》の宿屋では何故彼《何故こ》んな魚を出したんだろう。乃公《俺》が死にそうな目に遇ったのは畢竟《-つまり》宿屋の罪科《咎》だ。それをお父さんが、此《#これ》は珍らしい魚だ、此辺《この辺》でなければ漁《+と》れない名物だと言ったのも可なり悪い。乃公《俺》は御飯を喰《食》べながら魚を釣りに行く決心をしてしまった。  食事が済んでからお母さんは昼寝をなさる。その|間音な《あいだ大人》しく此処で書物《本》を見ているようにと言付けられたから、乃公《俺》は従順《素直》に書物《本》を読み始めた。空は青い。日は能く照っている。家にいるのは勿体ない。乃公《俺》は大きな声で読んでもお母さんはすやすや眠ってたから、最早《-もう》宜かろうと思って、窓から廊下へ出、廊下から外へ飛下りた。途中で釣の道具を買調《買い揃》えて、乃公《俺》は可成《-なるべく》水の静かな処《所》に陣取って、釣魚《釣り》を始めた。二三箇所試《ニサン箇所試》したが、流《流れ》が早いから何《+なんに》も釣れない。それで乃公《俺》はだんだん上の方《ほう》へ行った。水車のある処《ところ》で鈎を下《下ろ》していると、小い端艇《ボート》が岸にあるのに気が付いた。誰も見ていないから、乃公《俺》は此端艇《このボート》を借りて、対岸《向こう岸》へ行こうとした。  が少し漕出《漕ぎ出》すと、乃公《俺》は釣竿を流してしまった。これは困ったと思う間《マ》に流《流れ》の力が強いものだから乃公《俺》は艪《オール》を取られてしまった。同時に船はどんどん流され始めた。それが追々早くなって、先刻《+さっき》の狆の赤リボンを思出《思い出》した時には、白状するが、乃公《俺》は泣き出した。今度は科学どころの沙汰でない。そしてお母さんの傍《そば》で|音な《大人》しく書物《本》を見ていれば宜かったと思ったけれど、もう晩い。  端艇《ボート》は廻りながら流れる。岸では人が大勢《-おおぜい》で大声を揚げて騒いでいる。けれども乃公《俺》は急流の真中《真ん中》にいるのだから、如何《-どう》したくてもしてくれようがない。其中《-そのうち》に乃公《俺》は眉間が痛くなって、目を瞑った。此《これ》からは屹度親《きっと親》のいう事を聞くから助けてくれるようにと祈祷《祈り》をした。そしてもう直ぐに瀑布《滝》だろうと思って舟の中に突俯《突っ伏》して泣いた。  大きな音がして、乃公《俺》の身体が前にのめった時、乃公《俺》は最早死んだ積りでいた。けれども岸で人の呼ぶ声がするので、起きて見た。舟は止っている。岩の上に乗上げて壊れている。 「しっかりつかまっていろよオ」 「岩につかまっていろよオ」  岸には人が一杯だ。けれども何《ど》うする事も出来ない。唯《ただ-》しっかりしろ、しっかりしろと言う。  日は最早《-もう》間もなく暮れるだろう。  学校で習った読本《トクホン》に斯ういう物語が出ている。或る河へ赤ん坊が滑り落ちて流れて行く。母は狂気《+キチガイ》のようになって、助力《助け》を呼びながら、岸伝いに追馳《追い駆》けて行く。岸には大勢《-おおぜい》の人が測量をしていたのだけれど、唯《ただ-》あれあれと言うだけで、誰一人助《誰一人’助》けに行く者がない。行かないんじゃない。行けないんだ。其河《その川》は非常に急流だから、生命《命》を棄ててかからなけりゃ、とても飛込めないんだ。赤ん坊は見す見す見殺《見殺し》になる所だった。ところが生命《命》を棄てる気で飛込んだ青年がある。彼は若い測量師である。生命《命》を投げ出してやる仕事に失敗はない。彼は美事に赤ん坊を助けた。此若き測量師とは後日アメリカの大統領になったジョージ・ワシントンである。同僚の測量師は川へ飛込まなかった罰《=バチ》で、ワシントンが大統領になった頃には多分|土方《+ドカタ》か何かになっていたろう。  彼《+あ》の時飛込みもしないで岸に騒いでいた奴は土方《ドカタ》になればいいんだ。若《も》し彼《あ》の時生命《とき命》を棄《捨て》る気で泳いで来れば其奴《ソイツ》は屹度大統領になれたろう。惜しい事にはワシントン程度胸の据《据わ》った奴は一人もいなかった。  それは兎に角其時は乃公《俺》は悲しかった。お母さんが見える。お父さんもいる。お母さんは頻りにハンケチを振《=ふ》っている。乃公《俺》は泣いた。お母さん堪忍して下さい、皆《みんな》僕が悪いんです、堪忍して下さい、と乃公《俺》は泣いた。泣いたって到底《-とても》助からない事は承知していた。唯《ただ-》堪忍して貰って死のうと思ったんだ。お母さんは矢張《-やっぱ》りハンケチを振《=ふ》っている。お父さんは見えなくなった。 「たすけに行くぞう」 「しっかりつかまってろう。待っていろう」  何で何《#ど》うしたのか、皆は対岸《向こう岸》まで凧糸を射た。すると対岸《向こう岸》の人が其を手繰る。凧糸に太い綱を結んで、又手繰る。とうとう乃公《俺》の頭の上から両岸へ掛けて、綱の一本橋が出来た。 「じっとしていろう、直ぐに行くぞう」  乃公《俺》は訳もなく助けられた。フランスの軽業師が綱を渡って来て、乃公《俺》を紐背負《紐オブイ》にした。 「安心して何もかも私に委せるんですよ。目を瞑って、凝《+じ》っとしてね」  と言った。乃公《俺》は岸に着くまでは何があったか、少しも知らなかった。唯《ただ-》目がめり込みはしないかと案じられる位確乎目《位しっかり目》を瞑っていた。それで皆が「万歳万歳」と喝采した時には、今《いま》考えて見ると最早《-もう》岸に着いていたんだ。  何とも言えない騒ぎであった。乃公《俺》はお母さんの手につかまって、わいわい泣いた。お父さんは二十年前に分れた弟に逢ったように、軽業師の手を取って嬉しがっている。見物人は芝居でも見るように感嘆している。乃公《俺達》は一《ひ》と先ず宿屋に帰った。  お父さんは軽業師に五百円の小切手をやった。そしてお母さんと二人がかりで、種々《色々》と乃公《俺》に言い聞かせた。彼《あ》の危《危な》い処《所》から遁れたのに、其晩早々叱るなんて余《+あんま》り恩を知らない仕打だと思う。乃公《俺》だって彼《+あ》んな事になる積りでしたのじゃない。唯《ただ-》魚を釣って来てお父さんを喜ばせる積りで出掛けたんだ。宿屋で彼《あ》んな魚を出したのと、お父さんが其《+それ》を褒めたのと、彼《あ》んな処《所》へボートを置いた奴が悪いんだから、乃公《俺》は叱られたって何とも思いはしない。唯《ただ-》新しい小刀《ナイフ》を落してしまったのが残念だった。  翌日乃公達《翌日俺達》はナイヤガラを去った。もうもう此んな処《所》へは決して来《こ》ないとお母さんが言った。乃公達《俺達》は田舎の親戚へ廻って、其処で夏中暮《夏じゅう暮ら》した。其間《-そのうち》に様々《色々》な事があったけれど、最早《-もう》日記帳の紙がなくなったから、それは新しいのを貰ってから書く事にしよう。お歌さんは相変らず乃公《俺》の耳を引張る。けれども間もなく銀行の人と結婚するから構わない。お島も相変らず軽率《-そそっか》しい。過失《粗相》をすると何時《=いつ》でも乃公《俺》にかずける。此んな事は気にはかけないが、大臣にならない中《+うち》に学校を退校されそうだ。此ればかりが心配でならない。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「佐々木邦全集1◇ いたずら小僧日記◇ 珍太郎日記◇ 親鳥子鳥」講談社】 【   1974(昭和49)年10月10日第|1刷《イッサツ》】 【   1975(昭和50)年11月4日第3刷《サツ》】 【入力:特定非営利活動法人はるかぜ】 【校正:芝裕久】 【2020年4月28日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https:《コロン》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。