【いたずら小僧日記】 【佐々木邦】 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺は昨日で満十一になった。誕生日のお祝に何を上げようかとお母さんが言うから、俺は日記帳が欲しいと答えた。するとお母さんは早速上等のを一冊買って呉れた。姉さん達は三人とも日記をつけているから、俺だってつけなくちゃ幅が利かない。  物は初めが大事だそうだ。初めて逢った時’嫌だと思った人は-いつまでも嫌だとは、お花姉さんの-しょっちゅう言う事だ。それで俺もこの初めを巧くやる積りで、色々と考えて見たが、どうも面白い事が書けない。すべて物には始めがある。正月は明けましてで始まり、演説は満堂の紳士淑女諸君で始まり、手紙は拝啓のぶればで始まる。しかし日記は何で始まるものか、始からして分らないのだから、-てんで見当がつかない。弱っちまう。  お花姉さんのには-どんな事が書いてあるか知ら、一つお手本を拝見してやろうといい所に気がついて、俺はこっそりと姉さんの部屋へ上って行った。-いつも机の引出しにいれとくのは承知しているが、鍵がかってあるので、合うヤツを探すのにオオホネを折った。  実際鍵をかけて置く筈だ。俺の悪くチがだいぶ書いてある。第一太郎太郎と呼捨てに書いとくのが気に食わない。「太郎のオシャベリがみんな喋ってしまった」などは頗る厳しい。どっちがお喋りだ。兎に角処分は追ってあとの事として、帰って来ないうちにと、俺は一生懸命で丁寧に一頁写し取った。  日が暮れると間もなく、富田さんがやって来た。富田さんは毎晩のように遊びに来る。肥り返って頑丈づくりの男だ。顔は頗る不器用でご丁寧にオトコ鰥と来ているが、お金は大層あるそうだ。お島のいう所に依るとだいぶお花姉さんに参っているそうだが、トランプで参ったかピンポンで参ったか、その辺までは詳しく訊いて見なかった。  俺が例の日記帳を抱えて、得意然と客間へ入って行くと、富田さんは例の赤ら顔をテカテカさせて、 「やあ、太郎さん、どうだね」  と言って、キャンデーを呉れた。俺はこの人は-そんなに嫌いでもない。君の持っているのはそれはなにかねと訊くから、これは日記帳です、まだ買いたての貰いたての写したてのホヤホヤですと答えた。するとなお拝見致したそうにしているから、お目にかけてやった。 「ふーむ、こりゃゴウギだ。金縁だね」  と富田さんは仔細らしく俺の日記帳を見ている。姉さんのお気にいろうと思って、俺にまで-こんなに御愛嬌を振撒くのだろうが、ゴウギだの豪勢だのという下町言葉を使っては、気位ばかり妙に高いお花姉さんに好かれる筈がない。それでも富田さんが、 「花子さん、これから私が太郎さんの日記を朗読致しますから、歌子さんもご謹聴なさい」  といって椅子を離れた時には、お花姉さんもお歌姉さんも、-どうぞといったように頷いた。俺も面白かろうと思って、別段故障を申立てなかったが、いま考えて見るとあの時故障を申立てると宜かった。トウトウ大変な事になってしまった。富田さんは委細頓着なく、エヘンと気どった咳払をして、早速読みにかかった。 「富田さんなんか-もう-こなければいい。日曜の晩にも来て本当に-うるさかった。私-どうしてもあの人は嫌い。お金があるってお母さんは仰有るけれど財産ばかりが人間の全てじゃない。誰が好き好んで若い身空を-あんなところへ-ゆくものですか。お母さんだって若い時の覚えもありましょうに、本当に少しは私の身になって考えて呉れても宜さそうなものだ。-あんな鬼のような手をして不恰好なってありゃしない。家作がナンケンあるの地所を幾ら持っているのって外、何一つ碌な口も利けない芸無しの癖に。年甲斐もなくまああの赤いネクタイは何でしょう。本当にいけ好かない気障な人だ。第一趣味が低いわ。低い所じゃない/まるでゼロだわ。-このあいだも帰りがけに私を捕まえて失礼なキッスをしようとしたり‥‥あんなヤツにキッスされる位なら、私は伊勢海老にキッスして貰うほうがいい。同じ人間で斯うも違うものか知ら。ああ清水さん! 清水さんはいきどおっていなさるのか知ら。此間も妙に何か嫌味をおいいだったが、どうして世の中は恁うしたものだろう。男らしい男が貧乏で、富田さんなんかが金持なんだから、本当に人を馬鹿にしている。もし清水さんが富田さんで、富田さんが清水さんだったら‥‥おや然うじゃない。清水さんが富田さんで、富田さんが清水さん──じゃ矢っ張り都合が悪い。ああ何だか分らなくなっちまった」  お花さんは日記帳を取返そうとして頻りに焦ったが、富田さんはズングリだけれどお花さんよりはセイが高い。それにその度に渡すまいと背伸びをして手を高く揚げるから仕方がない。トウトウ読んでしまった。そして果たせる哉、本当に伊勢鰕のように真赤な顔になった。俺は困ったと思うと、富田さんが-いきなり俺の手を捕まえたのには吃驚した。 「太郎さん、これは君の悪戯だろうね」 「いいえ、僕じゃないんですよ。お花姉さんの日記を僕が写したんですよ」  と俺は嘘をついちゃ悪いと思って、事実ありのままを答えた。これで富田さんがワシントンのお父さんくらい物の道理の分った人だと、早速俺を抱き上げて、私は大馬鹿三太郎と書かれても一つの嘘を言わぬ我が親愛なる太郎さんを持つ事を好むとか何とかと直訳的の事を言って、大いに喜ぶのだろうに、不幸にして向こうがその人でなく、当方もワシントンでないのであって見ると、今更何とも苦情の言いようがない。俺も嘘をつけばよかった。富田さんは見るマにガンショクを変えて、なにか言いたそうに口をモグモグさせたが、グーイと喉を鳴らしただけで一言もなく、さっさと出て行ってしまった。戸がこわれやしないかと思われるくらい大きな音がした。俺は何だか気の毒でならなかった。  富田さんが門あたり迄行った頃、「太郎さん本当にお前は!」とお花姉さんは-いきなり俺の首っ玉に-しがみついた。俺は実際さっきから既に恐縮していた矢先だから、心臓が脳天へ登ったような心持がした。そして斯う事が面倒になっては又-どんな目に遇わされるかも知れないと思って、手早く振りもぎって、一目散に自分の部屋に逃込んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日はうちの者はみんな御機嫌が悪い。俺の顔を見ると白い眼をする。お島の話しによると、俺のお蔭で-あらまし出来かけていた下話しが-まるきり毀れてしまったのだそうだ。言葉を換えて言えば、俺の為めにお花姉さんは富田さんのところへお嫁に行けなくなったのだそうだ。果して然らば-ほんとに願ったり叶ったりじゃないか。姉さんは頓首再拝して俺にお礼を言って然るべき筈だ。然るに-これは又何たる矛盾な仕打だろう。無暗矢鱈とツンツンして、今にも食い付きそうに俺を睨める。本当に恩を知らぬやり方というものだ。俺は-もう決して清水さんのところへなんか使いに行ってやらないからいいや。  -こんな時に家にいたってちっとも面白くない。然うかといって長男であって見れば、家を逃げ出して電車の車掌になる訳にも行かないから、俺は釣竿を担いで川へ出掛けたけれども、いま考えて見ると実際’釣りになんか行かないほうが宜かった。俺は-いつでも後で後悔する。尤も牧師さんも人間は後悔するようでなくてはいけぬというから、これで-いいのかも知れぬ。それは兎に角俺は川へ落ちて/もう少しで死ぬ所だった。これというのも尽く姉さん達が悪い。俺は家にじっとしていたかったのだけれど、姉さん達が苛めっ子見たいに白い眼ばかりして、出て行けがしにするものだから、俺は嫌だったが押して出掛けたのだ。誰が物数奇に落ちたくて川へ落ちるもんか。落ちたのは-どうにも俺の過ちだ。しかしその過ちの元は全く姉さん達にある。  余り天気がいいので魚は些っとも餌につかない。俺は退屈だったから、ワッフルを食べ、ビスケットを’食い、林檎まで平げて、-もう好い加減にして切上げようとしていると、浮が頻りに動く。竿が絞れる程グイグイ引く。占めたと思って竿を揚げる拍子に、余り前へ乗出したもので、-つい川の中へのめり込んでしまった。決して落ちたくて落ちたんじゃない。  気がついた時には、俺は藁火のそばに-おおぜいに取巻かれていた。大方俺が死んだと思って火葬にする積りだったのだろう。気の早い奴等だ。もし骨になってから正気に返ったら-どうする積りなんだろう。本当に危ない所だった。油断も隙もなりゃしない。  水車の叔父さんに負ぶさって、家に着いたのは-もうトボトボ頃であった。お母さんは俺を抱き締めて涙を流した。-まるで十年も別れていたようである。姉さん達も太郎太郎って’恰も太郎の歳の市が始まったような騒ぎをいれる。殊にお花姉さんは身に覚えがあるから親切なもので、上等のビスケットを俺の枕元へ持って来てくれた。皆の御機嫌は既に-がらっと変っている。して見るとたまには川に落ちるのも、大阪の伯父さんの言葉を借りていえば、川にはまるのも、満更損じゃないと思う。それは兎に角、無暗と俺にケットを巻付けて、写真を撮るのじゃあるまいし、じっとしておいで、じっとしておいでというのには尠からず弱った。熱苦しくて仕様がない。水で冷えたのだから折返して温めさえすれば直ると思っているのだろう。ドクトル森川にも似合わぬ単純な考えである。  俺は余り苦しいから、そっと部屋を脱出して、客間へ入ったけれども、見つかると又叱られるから、窓掛の後ろにかくれていたが、-そのうちに大層身体がだるくなり、次いで睡くなった。  何だか話し声がすると思って目が覚めた時には、-もう明かりが点いていた。俺の直ぐ前の長椅子に誰か二人’腰を下ろしている。腰を下ろしているばかりじゃない、どうやら凭れ合っているようだ。一人はお春姉さんに相違ない。香水の匂いで分る。お春姉さんのは何時もバイオレットだ。お春姉さんの御相手なら、いま一人はあのハイカラ筍に決まっている。森川さんはさっき俺に薬を盛ってくれて、まだ愚図愚図していたと見える。二階でピアノを弾いてるのはあれはお歌姉さんだろう。いやお歌姉さんにしては少々うま過ぎる。今夜は富田さんが-こないから、お花姉さんもお二階なのだろうなどと思っていると、 「ねえ、春子さん、たった半年の事だから、あなたも機嫌好く待って下さい、ね。秋になれば下条さんの病院で若手が一人要る。-もう-あらかた約束が出来ていますから、然うなれば患者も今よりはずっと殖えます。もう僅か半年、六か月です。ね、待って下さい。春子さん」  確かにドクトルの声だけれど、一体何を待つのだろう。 「そりゃ貴方さえ-そのつもりでシッカリしていて下さるなら、私は何年でもお待ち申しますわ」  とお春姉さんが答えた。そして二人は何かクスクス笑い出した。何が-そんなに可笑しいのだ。こっちのほうが余っ程可笑しいけれど、なお息を殺して聴いていると、 「けれどもね、春子さん、これはごく秘密にして置きましょうねえ。秘密は最良の政略です」 「むろん私も-そのつもりよ」  とお春さんが答えたか答えないに、誰かオモテから戸をコツコツと叩いた。すると姉さんは電気にでも打たれたように飛立ち、森川さんも人真似コ真似で、ボールのように飛上って、二人はテーブルを隔てて-ちゃんと向き合いに坐って、「お入りなさい」どうも色々な芸当をする奴等だ。  殆んどそれと同時に’戸が開いて、-おおぜいドヤドヤ入って来た。お母さんが先立になって、これは失礼、太郎は此処へは参りませんでしたかと訊く。森川さんは「はい、一向」と答えた。はい一向もないものだ。俺はさっきからつい半間とは離れぬところにいるんだぞ。今日は俺が死にかけたので、只今見舞ニンが罷越したのであるが、肝腎カナメのご当人の姿が見えないので、お母さんが探しに来たのである。はい一向もないものだ。で、此上ご心配をかけては済まないと思ったから、俺は窓掛けの中から躍出て、-いきなり其処に四つん這いになって、ウーウと一つ唸ってくれた。 「ああ太郎、お前はまあ-どうおしなのだねえ」  とお母さんは-さも呆れ返った如く、ねえを引っ張って、テンテコを舞いかける。 「まあ太郎さん、お前はさっきから此の中にいたのかい」  とお春姉さんはお自慢のオオ眼玉を睜る。 「ええ、いましたよ、十六世紀頃から此処にいました。ねえ、姉さん、秘密は最良の政略ですねえ。半歳は6か月で御座いますねえ。ヘッヘヘヘヘ」  と俺は一歩進んであかんべいをして呉れた。  お春さんは顔を赤くして俺を捕まえた。そして、 「さあアチラへいらっしゃい。お母さんに御心配をかけて」  と万事お母さんにかずけて、俺を捲く料簡と見えた。 「行きますよ行きますよ。-そんなに酷い事をしなくたって行きますよ。けれども姉さん、姉さんと森川さんは‥‥」  女というものは聞き分けがないから困ってしまう。姉さんは矢庭に俺の口へ手を当てがって、引摺り出して戸を閉めてしまった。  俺は再びケット巻きにされて身動きも叶わぬ。今度はお島が番人をしているから-とても逃げる訳に行かない。いけませんよとお島が泣きそうになるのにも構わず、俺は乗出して此日記をつけた。いくら乗出しても今度は川へ落ち-っこない。-そのうちにお島は死にかけた魚のように欠伸ばかりしている。それが追々俺に伝染して、俺もだいぶ睡くなった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  二週間というもの日記どころでなかった。川に落ちて水を飲んだ上に、汗の出花を冷えたのが悪かったそうだ。森川さんは、日に二ヘンも見に来て呉れる。親切な人だ。此間あかんべいなんかしなければよかった。しかしお春は太いアマだ。今朝お花姉さんに、これからは支度が忙しいから太郎が当分寝ていて呉れればいいなんて言っていた。なんの支度か知らないが、一体何処を押せば-そんなネが出るのだろう。呆れたもんだ。俺は丈夫の時にはイチニチに3度も郵便を出しに行ってやった。尤も途中で手紙を失くした事がサンヨンヘンあるけれど、それだって俺はモグラモチのように黙っていたから分り-っこない。其を木の端かなんぞのように、ひと月も寝ていればいいなんて何事だろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は大変心持が好くて起きたい位だった。お島が朝御飯を運んで来た時、俺はそっとトコを脱出して、戸のうしろにかくれていた。お母さんの黒い肩掛を頭から被って、戸が-あくか-あかないに、俺はお島の足に囓り付いた。お島め俺をポチかなんかと思って、お膳を抛り出して、ご丁寧に悲鳴を揚げた。馬鹿な奴だ。ウチジュウの人が井戸がえでも始まったように寄って集まって来た。茶碗も何も粉微塵になってしまった。考えのないって程のあったものだ。斯うした-そそっかしい女じゃないと思った。それでもお島は何とも言われやしない。俺ばかり叱られた。もう俺は決心した。-よくなり次第’家を遁出して電車の車掌になる。-こんな間尺に合わない事はない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日からは起きてもいい事になった。しかし歩いちゃいけないんだ。俺はケット巻きにされて腕椅子の上に坐っていたが、おびんずるさまのようで始末におえない。退屈で仕方がない。寝ているよりか大儀なものだ。喉が乾いたから湯を一杯持って来いとお島を追払って、俺は歌さんの部屋へ行った。引出しの中に写真が沢山あった。  トミ子さんが来ているので皆は客間にいる。お島は俺を探しに来たが、俺が戸棚の中に匿れたのを知らないから、「おや、此処にもいなさらぬ」と嘘を言って行ってしまった。あとは俺の天下である。  写真は沢山あった。俺の事を悪戯だの腕白だのというが、姉さん達こそお転婆だ。写真の裏に色々の落書きがしてある。中には俺の読めないのもあるが、「自惚れかがみ」というのは鬚をピンと跳ねさせて鼻眼鏡を掛けている。「これでも申込んだのよ」というのがある。不味い顔をしている。「驢馬の肖像」は耳だけ人並みで全く驢馬がフロックコートを着たようだ。「なんという’口だろう」クンは口が馬鹿に大きい。「珍世界」というのは荒彫りの仁王のように怖い顔だ。そのた色々あったが、一々書いていた日にはヨが明けてしまう。兎に角俺は大きくなっても、決して女の子に写真をやるまい。ケダモノ呼ばわりにされたり鉛筆をナドラれたりして堪るものか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は久しぶりで階下へおりて、皆と一緒に食事をした。 「太郎さん、お前は何を-そんなにポケットに入れて置くの? 大変膨らんでるじゃないか。まるでツウの懐のようだよ」  とお歌さんが言った、ツウというのは、毎日のように此界隈を歩く気違いの乞食で、茶碗の欠片でも下駄の棄てたのでも、何でもかんでも手当り次第に拾って懐へいれる。其れが病気なのだそうだ。そして「ツウは馬鹿だよ」と’妙なふしで謡って歩く。桶屋の飲んだくれ親爺はあの乞食は乞食でも愛嬌があると言って褒めていた。それは兎に角俺はドキッとしたが、 「ええ、色んな大事の物が入ってるんです」  歌さんは笑いながら、 「私は又太郎さんが逃げるシタクをしているのだと思った。ご本や着物をポケットに入れて」  俺は黙って笑っていた。みんなも笑っている。危ない所だった。  昼頃スキを見て俺は家を脱出した。そして例の写真の本尊達を一々訪問して歩いた。一番初っ端に行ったのは「自惚れかがみ」クンの家であった。先生ミセにシャチ構えていた。俺は大人になっても-あんな鬚ははやしたくないと思った。いくらカイザル鬚がコレラ病のように流行ったって、あれではちっとカイザリ過ぎる。それも太いのなら兎も角だが、細いのがゴロッポン/ピンと蜻蛉返りをしているのは決してみっともいいものでない。 「や、太郎さんか、よく来たね。もう-さっぱり-よいかね。うむ、それは好かった」  とカイザルマネは一人で喋っている。俺はちょっとのあいだ話をした。 「姉さん達は-どうですか。此頃は店のほうが忙しいもんで、大変御無沙汰しちまった。歌子さんは-やっぱりピアノですか」  とこっちで返辞もしないのに能く喋るヤツだ。歌さんがピアノで堪るものか。歌さんは俺の姉さんだなどと思っていると、先生新しい襟飾りを出して来て俺に呉れた。俺は引きかえにポケットから写真を引張り出して渡した。姉さん達の悪戯で、鬚は鉛筆で二倍も引伸されている。 「其写真はあなたに似ていますね」  というと、見るマに天気模様が変って、 「太郎さん、これは君の悪戯だろう。誰が-こんな事をした?」  と今にも噛付きそうな顔をした。 「多分神さまがしたんでしょうよ」  と俺は梟のように馬鹿面をして答えた。そして今にも雷が落ちそうだったから、一目散におっパシって来た。  次に行ったのは雑貨店である。此処にも若旦那がいる。頭の毛の赤い、ホオに赤痣のある人だ。あれでもクラブ白粉の広告に出る積りで運動をしているって、トミ子さんが言っていた。 「御機嫌好う」 「やあ、太郎さん、御機嫌好う。能く来たね。君は干葡萄が好きだったね、さあお食り」  と俺に干葡萄をひと掴み呉れて、親の仇にでも会ったように喜んでいる。美しい姉さんが三人もあると、何処へ行っても評判がいい。俺は帳場に坐って葡萄を食べた。そして-もう好い頃だと思って、写真を出して、藪睨みのようにして一心に眺めながら、 「どうも此写真はあなたに似ていますよ」  と顔を見比べてやった。 「どうれ」  と赤旦那は森川さん所の書生のような返辞をして手を出した。「手を出す心は乞食の心」と俺が言うと、-やっこさん本気にして手を引っ込めたから、俺は又「引っ込む心は河童の心」と大きな声を出した。店の者はみんな笑っていた。 「冗談は-よして早く見せ給え」  と止せばいいのに痣旦那は頻りに見たがるから、余り焦らして虫でも出ると悪いと思って、俺は写真を渡してやった。これも姉さん達の悪戯で、痣が沢山拵えてある。頭の毛は赤いインキで塗ってある。裏には「これでも申込んだのよ」と書いてある。赤旦那が青旦那に変色した頃は、俺は干葡萄をもうひと掴み貰って、外へ出て躍っていた。  片岡さんは弁護士である。事務所は新町にある。この人は度々’家へ来るから俺は能く知っている。恐ろしく声の太い人だ。事務所に入った時には何だか、胸がドキドキした。大方気後れがしたのであろう。しかし道順だから是非寄らねばならぬ。 「コンニチは、今日は-どんな見世物が御座いますか」 「なんじゃ。やあ、太郎さんか」  とバリストルは新聞を置いて、俺を見下ろした。荒彫りの仁王を微笑ませるのも偏えにお春姉さんの威光である。 「あの、お春姉さんが斯うおっしゃいましたよ。あのなんですって、今日片岡さんの事務所へ行くと、-こんなケダモノが見られますって」  俺は「珍世界」の写真をテーブルの上に置いたが、もう少しでドヤされる所だった。珍世界だけあって事が荒い。片岡さんは訴えるとか何とか言っていきどおっていた。  まだほうぼうへ行ったのだけれど、其を一々書くと夜中までかかる。また鮒のように欠伸が出始めたから、これでお仕舞にしよう。夕飯までに写真をみんな配って帰って来た。御飯の時に姉さん達は次の週に舞踏会をしたいって、三人がかりでお母さんをセビっていた。しかし招待状を出しても男は一人も来ないだろう。-こなくたって構わない。俺が一人で御馳走を食べてやる。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お母さんのお許しが出て、土曜日に舞踏会をするので、姉さん達は蜜蜂のように忙しい。俺も大層大人しい。疲れる位お手伝いをしてやっても、邪魔になって仕様がないそうだから、俺は椅子に坐って見物していると、頻りにベルが鳴った。-やけに鳴らす。一体誰が来たのだろうと思って飛んで行くと、田舎の伯母さんが来たのだ。伯母さんはネンに二度ずつ来て、一週間くらい泊って帰る。花さんは顔をしかめて、 「仕様のない伯母さんねえ、-いつでも困る時に来るのだもの」 「又一週間は御逗留でしょう。すれば屹度舞踏会にも出なさるわ。あの昔の着物を着て」 「困るわねえ」  と三人がかりで困っている。  伯母さんは金持だけれど、昔者だそうだ。あの顔はただ-いま動物と共にノアの箱船から出たばかりで御座いという顔だそうだ。日曜学校で教わった時に、動物はみんなみんな二匹ずつ出て来たと聞いたが、伯母さんは老嬢だから一人で出て来たに相違ない。何しろ姉さん達が頻りに困っているものだから、俺も困った人が来たと思って、大いに困っていた。  お茶が済んで伯母さんは一人で二階にいた。俺は御機嫌うかがいに行って、暫く話しの末、用談に取りかかった。 「伯母さん、伯母さんは姉さん達が可愛う御座いますか、憎う御座いますか」 「何を言うのだねえ、お前は。姉さん達やお前が可愛いばかりにトウ遠しい所を恁うして来たのじゃないか」 「本当ですか?」 「お前は余っ程-おかしな事を訊く子だね」 「それじゃ本当に可愛いなら、伯母さんはこれから直ぐに帰って下さい。姉さん達は舞踏会があるので、伯母さんがいちゃ困るんですって、お友達にキマリが悪いのですって」  となお俺は得心の行くように詳しく話してやった。  俺は伯母さんが-あんなに憤るだろうとは思わなかった。伯母さんは火のようになって、直様鞄を抱えて、’下へ下りた。そして車屋を呼んで来て下さいと言った。お父さんもお母さんも吃驚して、頻りにお止め申した。姉さん達も泣き声になって止めた。しかし伯母さんは返事もしない。一国だから言出したら決してあとへは退かぬ。お歌さんは手を払いのけられた。 「もうお前の家の敷居は-どんな事があっても跨ぎません。恩知らずの家へは、もうもうもう二度と再び来ませんから」  と伯母さんは蝙蝠傘で土を叩きながら、牛のような事をいって、鞄を抱えたなりで、さっさと行ってしまった。 「どうしたのだろう」  とお父さんが言った。 「どうしたのでしょうか」  とお母さんがお父さんの顔を見た。 「本当にどうなすったんでしょうねえ」  と姉さん達も口を出した。そして皆な暫く顔を見合せていた。「本当にどうなすったんでしょうね」もないものだ。俺はなかなか骨を折った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  待ちに待った舞踏会の晩が来た。お島は俺に余所ゆきの着物を着せて、ヨコナゼをしないようにと言ったから、一つ擲ってやった。新しい襟飾りを付けて、新しい手袋を嵌めて、新しいハンケチを持って、なんもかも新しずくめだ。姉さん達は会の心得を三十分も説教して、もしお行儀が悪いなら直ぐにトコに入れてしまうといって脅かした。広間へ行った時には、靴がギュウギュウ鳴って-やかましい位だった。明かりが沢山ついている。其処此処に綺麗な花が飾ってある。ピアノをひく人も来ていた。俺はアイスクリーム、菓子、蜜柑、ジェリー、サイダ、サンドイッチなどの事を考えたら涎が出た。これは決して俺が食いしん坊だからじゃない。誰だって風邪をひけば咳が出る。悲しい事を考えれば涙が出る。甘い物の事を想えば涎が出る。当たり前の話だ。賤しいなんて言えば酷い目に会わしてやる。姉さん達は白い着物を着て、-いつもより何倍美しいか知れない。頭に花を挿している。俺の耳を引張ったりしそうには見えない。  -そのうちにお客様が見え始めた。知合の婦人連はあらかた集まった。時計が九時を打った。しかし男の客は一向姿を見せない。森川さんが一人来たばかりだ。俺は胸に覚えがあるから、少々’足が慄えて来た。  ピアノシュは幾度もピアノを弾いた。婦人連は仕方なしに、婦人同志で組んで躍った。が、女ばかりじゃつまらないと見えてじきに罷めた。時計が九時半を報じた。俺は益々慄えて来た。しかし黙っていると怪しまれるから、 「きっと電車が停電したのでしょうよ。それから-あすこで道普請をしていますから’車が通らないのでしょうよ」  お客様はコソコソ’話を始めた。姉さん達は額を鳩めて弱っていると、出し抜けにベルが鳴った。愈々来たか、やれやれと皆が急に元気づくと、何の事だ馬鹿馬鹿しい。お島が澄まして名刺を持って入って来た。大方お断りの挨拶だろうと思っていると、さあ大変、猫がとうとうフクロから飛び出した。先日の写真が戻って来たのだ。  引続いてベルが十二’三度も鳴った。お島は其都度お得意になって写真を持って来る。最後に男の人が二人来た。この人々の写真の裏には「まあ好い口付だこと」「洋服屋の看板」と書いてあった。しかし先生方は楽書をごくお目出度く文字通りに解釈して、のこのこやって来たのだ。  男三人は女五人を相手に、代る代るランサースを躍った。雪子さんは-しょっちゅうクスクス笑っていた。お歌さんは泣きそうな顔をした。やがて皆んなテーブルに着いたが、なんだか奥歯に物が挟まっているようなかたちであった。俺は余り気の毒だったから、五杯目のアイスクリームは喉へ通らなかった。  お客様が帰ってから、お春さんは-もう世間へ顔出しが出来ぬ、-こんな悪戯をした者が知れたらただ-は置かないと言った。すると森川さんが俺の顔をジロジロ眺めて、 「太郎さんが知っているだろう」  と言った。俺が知っているものか。 「いいえ、僕知っているもんですか。ポチですよ。ポチが悪いのです。僕が此間ポチに写真を食べさせたら、ポチが咥えて-おもてへ持って行ったんです。きっと何処かへ落して来たんです。本当に困るヤツだ」 「それじゃお前が写真を出したんだね」  とお春姉さんが恐ろしい権幕をした。再び言う、猫は袋から飛び出した。俺は命がけでトコの中へ潜り込んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺は今度遠くの学校へやられるのだ。三月の休みまでは帰って来られないんだ。けれども家にいて姉さん達に苛められるよりか-よっぽどましだと思う。学校には俺くらいの子供も-おおぜいいるそうだ。広告には「土地高燥にして空気新鮮遠く都会の雑沓を離れ、児童の勉学並びに健康に適す。汽車並に電車の便あり」と温泉バの案内見たような事が書いてあった。なお幼年生の為めには特別の設備ありとしてあるから、満更の学校でもなかろうとお父さんが言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  家を出る時は悪いものだ。お母さんや姉さん達が玄関まで送ってくれた。 「能く先生の仰有る事を聴いて、風邪をひかないようにね」  とお母さんに外れたボタンをはめて貰った時には、俺は喉へ団子が閊えたような心持がして、黙ってお辞儀をした。車が-よっぽど行ってから振返って見たら、皆んなはまだ立っていた。お島はハンカチを振っていた。  お父さんは学校まで送って来て、校長さんに色々と頼んだ。腕白モノで困るなんて言った。しかし校長さんは子供は活溌に限る、少し腕白な位がいいのですと言っていた。なかなか話せるヤツだ。  今夜は始めて寄宿舎で寝るのだ。持って来た菓子を皆で食べた。皆んな俺よりも大きい。菓子を食べるのが早いのには驚いちまった。  家では今頃は姉さん達があの部屋で話しをしているのだろう。お母さんは-もうお休みかしら。お島は世話が焼けないって喜んでいるだろう。屹度手紙を下さいと言ったが、明日にしよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺はセイが低いものだから、食事の時には椅子の上にウェブスターを置いて、其上に腰を掛ける。俺は奥さんの直ぐ隣りに坐る。今朝奥さんがちょっと立った時に、俺は手早く椅子を退けてやった。すると奥さんは椅子があると思って腰を下ろして、匙を持ったまま尻餅を搗いた。幸い人間だったから宜かったが、もし瀬戸物だったら壊れてしまったろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺は地理を習い始めた。先生が地球が円いというけれど、俺にはどうも然う思えない。教場に地球がある。これは全く円い。しかしあれはムクかガランドか分らないから、-そのうちに穴を明けて見よう。俺はガランドとして置く。  なお算術を教わる。これは奥さんが先生だ。-おかしな事が書いてある本だ。太郎が五つ凧を持っている、二郎は十持っている、三郎は十五持っている。三人のを合せると三十になるのは異存ないけれど、十五は嘘に極っている。凧屋じゃあるまいし、十の十五のって持っている子があるものか。  校長と奥さんの他に先生がもう一人いる。お花姉さんよりも少し年が寄っていて、名を大内さんという。俺はこの先生が好きだけれども、善ちゃんは彼はオールドメイドだと言った。オールドメイドだって構わない。俺は自分が家に居た頃の話をして聞かせたら、大層同情してくれた。そして寂しい時には-いつでも遊びに入らっしゃいと言った。-そのうちに遊びに行こう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  ホームシックは悲しいものだ。昨夜は色々の事を思い出して半時間ばかり寝つかれなかった。お島の事を考えたら、-ふとお島の従兄だというあの藪睨みの顔が目の前に浮んだ。藪睨みなんて、調法なものだ。あれなら右の目で本を見て、左の目でよそ見が出来るから、校長に捕まり-っこない。俺も藪睨みに生れて来ればよかった。  どうも皆は乱暴で仕方がない。俺を蒲団蒸しにしたり、雪団子にしたり、酷い事をする。お島が見ていたら屹度泣くだろう。あの絹ハンカチは取られてしまった。ミットは屋根へ上ってしまった。尤もこれは俺が猫の頭へ無理に篏めたら、猫が屋根へ行って置いて来たのだ。  けれどもこれからは善ちゃんがコッチ組になってくれる。苛めた者があったら直ぐに言付けろと言うから大いに心丈夫だ。善ちゃんは一番大きくて一番つよい。寄宿舎のモニトルだ。渾名でも何でもこの子が付ける。小使いの金さんはあれは生存競争に落伍した落胆の顔だそうだ。校長は少くとも日清戦争時代の人間で、コンニチの時勢には気の毒ながら少々後れているのだそうだ。それじゃ-やっぱりノアの方船から出たのかと聞いたら、善ちゃんにはノアの方船が分らなかった。大内さんは失恋で、少しヒステリーのキミだそうだ。奥さん──は新時代の婦人で、熱心なサッフラジェット(女権論者)だそうだ。サッフラジェットってなんだと訊いたら、何でも大変六ヶ敷い事で子供には話しても分らないと言った。そして其主張には半面の真理があるそうだ。半面の真理ってのは-どんなものかと訊いたら、然う一々訊くものじゃないと言った。兎に角奥さんはラテンもなかなか達者で校長さんよりも豪いそうだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は応接間の絨毯を台なしにして、校長に叱られた。俺は猫の首にインキ瓶を結い付けたばかりで、三日間の禁足になってしまった。今にあの猫を叩き殺してしまうからいい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  金曜日は悪い日だとお島が能く言ったが、全く然うである。金曜日というと屹度お目玉を頂戴するような事が起る。今日は大変な事が起った。  二時間目は歴史だった。ベルが鳴って皆が教場に入っても、マムミーは出て来ない。マムミーは校長の渾名である。エジプトのマムミーに顔が似ているというので先日からマムミーマムミーと呼んでいる。俺は-どうしたのだろうと思って、見に行こうとすると、皆はよせよせ忘れているんだ、とガヤガヤ話しをしている。馬鹿な奴だ。一体お前さん達は何しに学校へ来ている。貴重の時間を空費して嬉しいのか。  俺はそっと校長の部屋へ行って見た。来ない筈だ。マムミーはストーブの側で椅子に凭れて、心持好さそうに居眠りをしている。恁うなると校長も他愛ないものだ。俺が近くへ行っても知らずにいる。-そのうちに首がコックリと下がった。その拍子に頭の毛がちょっとばかり辷った。俺は吃驚して逃げて来た。 「おい、大変だぜ。校長さんの頭の毛が辷ったぜ」 「なあにあれはカツラを被ってるんだ。何をしている?」 「大丈夫だ。能く寝ている」  と俺は料簡があるから直ぐに又引返した。然うかそんな物を被っているのか、道理でトシの割に頭の毛が濃いと思っていた。  -もう目が覚めていやしないかと思って、内々心配して行ったら、校長先生は相変らず白河夜船でいた。俺が直ぐ足元まで行っても平然として鼾をかいている。カツラに手をかけても泰然として眠っている。カツラを取外しても自若として舟を漕いでいる。此の按排では一つ位ぶん殴っても平気の平左衛門だろう。校長の頭は丸薬鑵’だ。-いつか従兄がアフリカから土産に持って来たダチョウの卵に能く似ていた。  俺はカツラを被って’大威張りで教場へ行った。皆は拍手喝采をした。丸で東郷大将が帰って来たような騒ぎだった。 「大変だぞ」 「おこられるぞ」 「退校だぞ」 「酷い事をした」  と皆は更に感嘆して、 「見せろ見せろ、-どんなものだ」  俺はカツラを脱いだ。皆は代わり番こに被って嬉しがっている。中にはちょっと被って、エヘンと咳払をした奴もあった。カツラが俺の手に戻ると、皆は俺を講壇に立たせて、「どうだ、君一つ講義をやれ。校長代理だ。」其処で俺はカツラを被って、両手を後ろへ出した。これは上着の尻尾の真似である。そしてガイイチガイして、 「若き紳士諸君、コンニチは諸君の注意を生物界に喚びたいと思います。生物の種類形態は-ほんとに千差万別色々様々で御座いまして、象は蚤よりも大きく、蚤は象よりも小い。此処が即ち造化の妙でありまして、万一蚤が象より大きかったらば、-なんの現象が起るでありましょうか。夜分-そんな巨大の動物が吾人の脊中を這い回ったらば‥‥」  この時善ちゃんは-もう罷めろ、カツラを返して来いと言った。で、俺も講壇から下りようとすると、 「来た来た」  と皆が騒ぎ始めた。俺は直ぐにストーブの中へカツラを焼べてしまった。そして蓋をするかしないに、戸があいて校長が顔を出した。頭が丸薬鑵だからお見それ申すような顔であった。  俺は直ぐに校長室へ連れて行かれた。色々と調べられたが、俺は膿んだとも潰れたとも言わなかった。-そのうちに校長は嚏を始めた。 「一体なんの為めに学校へ、ハクシン、学校へ来ている、ヘキスン、御覧なさい、私はお前さんの為に風邪を引いてしまった。ハアクション」 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は学校はお休みだ。校長は寝ている。頭から風邪を引き込んだのだそうだ。それでなくても一校の校長たるものが、ダチョウの卵を被って教鞭を執る訳に行くまい。  さくや/町へ電報を打ったから、カツラは今日中に新しいのが来るそうだ。俺は屹度退校になるだろう。もう覚悟をしている。本当に俺は運が悪い。 ◇。◇。◇。◇。◇。  家から手紙が来た。なんにも知らないと見えて、大層俺を褒めている。此間の手紙は学校の作文を其侭清書して出したんだ。俺に-あんな巧い事が書けるものか。「先生ご夫婦は両親の如く慈しみ下されそろ」なんて俺が言うものか。けれども家では俺の頭から出たものと信じているらしい。なお能く先生方の言う事を聞き、勉強を専一にし、寒いから風邪をひかぬようにしろ。そして試験休みには帰省を待っているとしてあった。試験休みまで待っていなくとも、俺はもうじきに退校になるんだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺は実際学校が嫌になった。斯ういうところに長居をすると碌な事を覚えない。善ちゃんは紙を丸めて人の頭に-ぶっつけて知らん顔をしている法を教えてくれた。仙ちゃんは試験の時勉強しないで及第する術を伝授してくれた。ボールを拾いに行くふりをして隣屋敷の金柑を盗む事も覚え、算術の嫌な時頭痛がする事も習った。俺は-そんな事をしたくないが、皆がするから仕方がない。何でも人並にしてとお母さんがくれぐれも言い含めて寄越した。  昨日は書取の時間に奥さんの顔を書いていたら、石盤を取上げられた。取上げられたばかりでなく立たされた。立たして置いて奥さんは新聞紙で帽子を拵えて俺の頭に被せた。いくら見せしめの為めだってあんまり人を馬鹿にしている。「これでもカツラよりかマシだ」と言ったら、奥さんは火のようになって怒った。あのカツラ事件から俺を目のカタキのように思っているらしい。俺が焼棄てたればこそ、校長はあんな新しいヤツを買ったのじゃないか。その恩も忘れてただ-訳も分らずにがみがみ言っている。馬鹿な女だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は大内さんの部屋へ遊びに行った。大内さんは親切な方だ。「さあ、こっちへお入りなさい。遠慮しないでね、家にいる積りで何でもしてお遊びなさい」と云ったから、俺は-いきなり鯱立ちをしてやった。  何でも大内さんは余り幸せでないらしい。俺が入って行った時涙を出していた。多分泣いていたのだろう。それとも栄太楼の玉垂れでも食べていたのか知れない。食べるといえば奥さんは能く間食いをする人だ。-あんなに食べ通しに食べるから、-あんなに太ってるのだろう。  大内さんは色々の事を聞く人だ。殊に姉さん達の事を尋ねるから、俺は色々な悪くチを言ってやった。 「それじゃ大きい姉さんはジキにご婚礼なさるんですね」 「ええ-そうですよ。春子姉さんだって森川さんがもう少し病人が出来るとお嫁に行くんです。けれど、先生、先生は何故ご婚礼なさらないんです。皆ながオールドメイドだって言ってますよ」  大内さんは、「オホホ」と笑った。「そしてまあ面白い事を仰有る太郎さんね」と誤魔化してしまった。俺はアマナットをひと掴み貰って帰って来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は学校に文学会があった。文学会のお蔭で俺はいよいよ退校に決まってしまった。明日は一番汽車で家に帰れる。  村の人が-おおぜい傍聴に来た。校長はフロックを着て司会者になる。奥さんは自慢のバイオリンを-ひく。大内さんは生徒のお世話を焼く。生徒は代り代りに文章を読んだり、演説をしたり、-しを暗誦したりする。俺は演説をした。  三日ばかり前に奥さんが演説の下書をしてくれた。題は学校というのである。 「学校! 一生のうちで一番楽しいのは学校生活でありましょう。子供を学校にやる事の出来る両親は神に感謝致さねばなりません。往来で遊んでいる貧乏人の子は如何に学生を羨むでしょうか、わたくしども生徒たる者は若い時に勉強しなければなりません。折角親が与えてくれた特権を能く用いないならなんにもなりません。我が国の偉大な事は教育に由るのであります。そのうちでも大学の支度をする寄宿舎学校が国のモトイになるのであります」  たった此れだけである。けれども俺は俺の思うとおり書直して置いた。演壇に上ってお辞儀をした時には何だか変だったが、向こうのほうに立っていた大内さんが直ぐ始めろというような目くばせをしたから、俺は大きな声を出して、次の通りに喋った。 「学校! 恐ろしい所は学校です。なんにも知らないで子供を学校にやる両親は可哀想です。お気の毒です。往来で遊んでいる貧乏人の子のほうがいいんです。朝から晩まで遊べますから仕合せです。殊に寄宿は感服致しません。お豆腐ばかり食べさせます。それよりもなおいけない事があります。即ち私は、一日おきに罰則になります。それで何も悪い事はしないのです。私が大人になって先生になるなら、奥さんのような意地悪は致しません。学校はジツにいかん所だと思います」  皆は手を叩いた。校長さんも奥さんも感心に笑っていた。俺は何だか嬉しかった。会が済んだ後で、奥さんがちょっとというから俺はついて行った。演説の御褒美を上げるから此処にお入りなさいと言って、にやにや笑っている。にやにやではあるが、兎に角笑っているのだから大した事はあるまいと思って俺は入って行った。俺は此処で晩飯の時まで算術をやるのだそうだ。問題をトオばかり当てがって、奥さんは鍵をかって出て行ってしまった。  俺は問題を一つ半ばかりやったら嫌になった。三時と四時のあいだで時計の針の重なる所を知りたけりゃ、時計を回して見れば分るじゃないか、何も俺に聞くには当らない話だ。光線が太陽から地球迄届く時間を知っていれば豪いようだが、いま飛んだ跳ね炭の火の行方が分らずに、火事にはなりはしまいかと心配するようでは馬鹿げている。俺だって時計の針ぐらいは分るのだけれども、寒くて手が悴んで石筆が持てないから仕方がない。  ストーブを見たら、灰の中に猫の眼のような火が二つ光っていた。俺は早速机の上にあった本を破ってくべて見た。なかなか燃え立たない。くすぶって目が痛い。俺は腹が立ったからどしどしとくべた。くべればくべる程咳が出て仕様がない。  其のうちにこれはしまったと気が付いた。昨日俺は何もする事がなかったから、此ストーブの煙突に土を詰めて置いた。これでは燻ぶる筈だと思って消そうとしたが容易に消えない。俺は噎せ返って、余り苦しかったから、大きな声を出した。  すると皆が駆け付けたが、奥さんが錠を下ろし-っぱなしにして買物に行ってしまったから、あかる訳がない。俺はなお大きな声を出して、「火事だ火事だあ、助けてくれい」と呶鳴った。窓があくならとっくに飛び下りるのだが、生憎凍りついていて動きもしない。俺は本当に死ぬかと思ったから、益々大声を立てた。すると、 「太郎さん、太郎さん、窓のガラスを壊して出なさい。構いませんから早く壊して」  と大内さんの呼ぶ声が聞こえた。俺は椅子を振り廻して、ガラスを一枚残らず滅茶苦茶に砕いてから外へ飛び出した。右の掌にガラスの欠片が立っていた。  間もなく校長と奥さんが帰って来た。大内さんから話を聞いて早速俺を呼出した。 「太郎さん」  と校長は怖い顔をした。校長は呼付けて叱る時には、何時も先ず「太郎さん」と一応名前を呼んで置いて、眼鏡を外してハンケチを出して、ガラス玉を拭きながら-そろそろと小言を繰り出す。 「お父さんのところへ書付をやるから-そう思いなさい。あれは一週間’人をいれなければ直らない。一枚壊せば充分出られるじゃありませんか。承知していて乱暴する。それから何故ストーブを叩き壊した」  俺は黙っていた。叱られる時は何時も黙っている。すると奥さんが口を出した。 「あなた、書付と一緒にイッソもう断ってしまうほうがいいじゃありませんか。此んなでは、月謝を五人前貰っても合いませんよ。此上何を仕出かすか知れたものじゃない。明日’金さんに送らしてやればいいでしょう。ねえ、あなた、-そうなさい。とても駄目ですから」  校長は随分威張っているが、「ねえあなた」には頭が上らない。「ねえあなた」の言う事なら大抵の事はする。汽車道へ行って寝ていろといわれれば寝ているかも知れない。それで大内さんがお詫をしてくれたけれど、とうとう俺を断ってしまった。俺は明日の一番で小使いの金さんに送って行って貰うのだ。家へ帰ったら大いに大人しくしよう。全く俺が善くないようだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  ホウコウにやられると困るから大いに大人しくしよう。お島に聞いたら、あれは脅かしだと言ったが、お父さんはだいぶ怒ってるようだ。俺見たいな者はじっとして坐っていれば-いい。少し身体を動かして何かするとそれが直ぐ悪戯になる。厄介な生まれつきだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺のいない後で、教会の牧師がかわった。今度の牧師は若い。二十七だという。眼鏡を掛けて、カオの青白い、ひょろりとした男で、甘い’菓子と若い女の子が好きらしい。今日は夕飯によばれて来た。花子姉さんと話しをしながら俺の頭を撫でた。失敬な事をする。赤ん坊じゃあるまいし。多分花さんを思っているのだろうけれど、花さんは清水さんのほか-この世に男はないと信じている。今日も俺は清水さんのところへ手紙を持って行ってやった。此の使い賃が十銭。それから清水さんの返事を持って来てやった。こっちは二十銭だった代りに、誰にも手紙の事は話してはいけぬと断わられた。花さんは庭で俺を待っていた。生憎’歌さんがそばにいる。俺が隠しの手紙を握ったなり近くへ寄って行ったら、花さんは、 「おや、太郎さん、お前何処へ行って来たの」  と花さんが言った。何処へ行ったのもないものだ。 「ああ寒くなって来た。家へ入りましょうかね」  と又花さんが言った。玄関のところで花さんは歌さんを先に上らせて置いて、俺の隠しから手紙を取った。その手早いのには俺も吃驚したくらいだ。そして「あら、歌さんの肩に松葉がついててよ」と言いながら、二人で二階へ上って行った。有り難いとも言いはしない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨夜は退屈だったから、一つお島をおどかしてやる積りで、お花姉さんの外套を取りに行った。俺は居るかと思って、そっと入ったが居なかった。早速頭から引っ被って、丁度手の当ったところに隠しがあったから突っ込んで見たら手紙があった。清水さんの手紙だ。斯う書いてある。 「それでは今晩九時と決めましょう。庭の木戸でお待ち下さい。九時ですよ。間違いのないようにね。馬車はこっちから用意して行きます」  俺は実際驚いた。お花姉さんは清水さんと逃げる積りだ。九時といえば-もうマがない。俺は-いきなり駆け下りて外へ出た。事によるともう逃げてしまったかも知れない。  俺が隣りの天水桶の後ろに踞んでいると、馬車が一台そろそろやって来た。此れだなと思うと、今度は姉さんが裏のほうから出て来た。外套も着ていなければ、鞄も持っていない。家にいる時の-なりをしている。俺が姉さんのほうに気を取られているうちに、清水さんは馬車から下りていた。二人は少しも口を利かぬ。花さんが先に乗って、清水さんは後から入ったようだった。そして最早大丈夫だろうと思って俺が立った時、馬車は動き出した。  俺は直ぐに家へ引返した。丁度お島が探していた所で、俺は直ぐにトコの中へ追込められた。そしてお花姉さんは最早-よっぽど行ったろう、あの馬はいいようだったなどと考えながら寝た。  ところが今朝起きて朝飯を食べにおりて行くと、お花姉さんが澄まして-いつもの席に坐っていたのには吃驚した。すると逃げたのは夢かしらと思って、隠しを探って見たら、昨夜取った手紙が手に触った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃は大人しくなったので少しも叱られない、けれども毎日退屈で困る。お父さんも可愛がってくれる。昨日は松旭斎テンイチという奇術師の手品を見物に連れて行って貰った。  今夜は竹子さんと女学’生が二人遊びに来た。歌さんの学校友達だそうだ。俺は皆に手品の真似をして見せようと思って、台所から玉子をトオばかり持って来た。竹子さんと一緒に来た男が一人ある。洋行帰りのハイカラで、牛乳配達のように綺麗に頭を分けている。頭も気に入ったがこの男の帽子も気に入った。山高の低いヤツで、此頃流行りの形だ。手品師も丁度こんな帽子を使ったと覚えている。それで俺は其帽子を外して-そのうちに卵を入れた。そして客間の隅のほうへ小い机を持ち出して、其上に色々と道具を列べた。此れでフロックコートを着ていれば立派な奇術師である。 「皆さん──諸君、此れから面白い手品を御覧に入れます。入場料は一人十銭です」  皆は笑った。ハイカラは立って俺のほうへ歩いて来た。俺は帽子が露見したのかと思って心配したら、-そうではなかった。にこにこ笑いながら蟇口を出して、俺に五十銭銀貨を一つくれた。そして、 「坊ちゃん、今日は初日だから割引がありましょう、それで六人前ですよ」  と笑いながら席に戻った。お歌さんも矢張笑っている。俺はお歌さんが止めやしないかと思って最初から心配していた。お歌さんが止めたら、あんな事になりはしなかったろう。 「諸君、最初に御覧に入れますのは、ハンケチの手品で御座います。どなたでも宜しゅう御座いますから、ハンケチを一つ拝借願います」  と俺は天一の弟子の通りに真似をした。するとハイカラは絹のハンケチを貸してくれた。 「もう一つお願いが御座います。今度はマッチで御座います。どなたかお持ち合わせは御座いませんか」  ハイカラは蝋マッチを貸してくれた。 「さて、只今此ハンケチに火をつけて焼いてしまいます。その焼いた灰をこの引出しに入れて、私が三度手を叩きますと、元の通りになります。首尾能く行ったら-どうぞご喝采を願います」  すると竹子さんが手を叩いた。ハイカラは黙っていた。俺は委細構わずハンケチを燃やし始めたが、余り香水が沢山附いているせいか、燃えが悪い。けれども兎に角半焼きぐらいになったから、俺は机の引出しへ抛り込んだ。 「私が3つ’手拍子を打つと、ハンケチが元の通りになります」  俺はすぐに手拍子を打とうと思ったが、まだ煙が出ているから見合せた。けれども黙っているのも変だから、 「首尾能く参りましたらば、ご喝采を願います」  と言って、又見たが、矢張り元の通りだ。これは事によると首尾能く行かないと思ったけれど、黙っているのは可笑しいから又、 「もし首尾能く参りましたらば、お手拍子を願います」  と言って見た。幾度言って見ても駄目だ。ハンケチは平気でいる。すると皆がクスクス笑い出した。そして竹子さんが手を叩いたら皆も真似をした。ハイカラも仕方がなしに手を叩いた。俺は本当にきまりが悪るかった。 「今のはハンケチの燃えが悪るかったから、巧く参りません、そのかわりに今度は玉子の芸当を御覧に入れます」  俺は帽子から卵を出そうと思って手を入れて見たら吃驚した。湯呑や茶碗を一緒に入れて、ジャランジャランいわせて来たものだから、皆な壊れていた。此れでは手品も出来ないと思って困っていると、歌さんが俺のほうへ歩いて来た。 「太郎さん、お前、それは誰の帽子です」 「あの‥‥」  とハイカラのほうを見たら、ハイカラは-もうそばに来ていた。俺は仕方がないから、玉子も茶碗も机の上にぶっちゃけて、帽子をハイカラに差出した。それを受取る’時に、ハイカラの顔は3尺ばかり長くなった。今にも食い付きそうな権幕だったから俺は一目散に逃げて来た。  歌さんは随分’困ったろう。それよりもあのハイカラはなお困ったろう。なんぼ夜だって、フロックコートを着ていて帽子を被らなくちゃ電車にも乗れまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は昨夜の事で叱られやしないかと思って心配で仕様がなかった。けれどもお父さんもお母さんもなんとも言わなかった。俺の代わりに歌さんが大変怒られたそうだ。最早俺は叱らないんだろう。叱らないで置いて出し抜けにホウコウにやる積りかも知れない。歌さんは俺の顔を見ると白い眼をしてばかりいる。もう郵便を出しにもチョコレートを買いに行ってもやらないからいいや。  今夜は舌が痛くて堪らない。晩飯にはお湯ばかり飲んでいた。お昼過ぎに外で又手品をして遊んだ時、六公と俺と喧嘩になった。俺が刀を呑んで見せると言ったら、六公の野郎めそんな事が出来るもんかと馬鹿にした。俺は腹が立ったから、 「出来るとも、出来なくてどうするんだ。さあ’刀を持って来て見ろ、屹度呑んで見せるから」 「よし、それじゃ持って来るぞ」 「持って来い、直ぐ持って来い」 「よし」  すると忠公も向こう組で、六公に加勢をして、 「それじゃこのナイフを呑め。刀が呑める位ならナイフは呑めるだろう」  と余計な事を言いやがった。俺は此んな奴等に負けちゃ悔しいから、 「いいとも、呑んで見せる」  と言って、忠公のナイフを-ひったくった。此処までは良かったが、忠公のはナイフである、小いのなら訳はないが、ナイフは大きいから困った。口へ入れたなり動きが取れない。俺がしまいにナイフを抛り出して、つうつうと血のつばきを吐いたら、二人は「ざまあ見やがれ」と言って逃げ出した。そして遠くのほうへ行ってから、「おいらのせいじゃなあいぞ、三年烏のせいだあ」なんて言いやがった。卑怯な奴等だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は昼前花さんがお父さんとお母さんに叱られ、昼過ぎは俺が花さんに叱られた。世の中は上から下へと順繰りに叱りこしているようなものだ。俺は誰も叱る者がないから、ポチの頭をうんとぶってやった。お母さんが俺の服の綻を繕ったら清水さんの手紙が出た。これがお花さんが呼付けられた元で、姉さんの手紙を盗んだというのが俺の花さんに怒られた理由である。俺がポチをぶったのには何の意味もない。ただ-ポチが其処にいたから悪い。  お花姉さんは近いうちに清水さんとご婚礼をするのだそうだ。そうなれば俺は一緒に行ってもいいんだって。そして俺にいい部屋を当てがって、何でも買ってくれるという約束をした。新婚旅行にも連れて行くそうだ。それだから俺は大人しくしよう。イチニチに3度でも四度でも手紙を持って行ってやろう。そして’姉さんが髪を染める事なんかは清水さんに黙っていてやろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんとお春さんも、-もうじきに結婚するんだそうだ。どうも結婚が流行る。そしてお歌さんだって今年じゅうには片付くんだから、お父さんもなかなか大抵じゃないって、お島が言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  凧を拵えようと思うけれど、骨がなくて弱っている所へ桶屋の親父が来た。竹を少し呉れと言ったら、いくらでも上げると言った。けれども桶屋の竹は皮ばかりで身が無いから、戴いても凧の骨には使えない。すると明日上等のを持って来てやろうと言ったが、このジジイは酒呑みで、ちゃらっぽこを言ってばかりいるから当てにはならない。 「爺さん、此間直した風呂桶が-もう洩り始めたよ。お前酔っぱらっていていい加減な事をして行ったのだろう」  とお島が詰った。 「なあに’水ぐらい洩ったってかまやしない。人さえ洩らなけりゃ大事あるまい」  とジジイは泰然たる返事をして、風呂場を見に行った。俺は錐で揉んだ穴を見つけられると困るから、直ぐ二階へ上って本を読み始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は早く起きて凧を拵えた。どうしても竹が手に入らなかったから、お父さんの絹張の蝙蝠傘を壊して鯨骨を二本頂戴した。絹もただ-棄てては勿体ないと思って、尻尾に使った。  朝飯が済んでから俺は凧を持って出掛けた。俺のタコは皆のよりか大きいけれど糸目の工合が悪いと見えて、面くらって仕様がない。この子は凧を揚げるのか引摺るのかと何処かの生意気な奴が言った。一番始めには郵便屋の頭の上に落ち、其次には馬の鼻の頭に落ちた。郵便屋は怒ったばかりだったから宜かったが、馬は解らずやだもんだから、驚いて暴れ出した。可哀そうに乗ってた人は振り落されて気絶した。事によるとあのまま死ぬかも知れないが大抵生き返るだろう。もし生き返ったら、此れからは凧を揚げている所を馬に乗って通らないように気を付けるがいい。  もう往来で凧を揚げるなと断られたから、俺達は教会の後ろ手の空き地へ行った。暫くは工合が善かったが、しまいには俺のタコが木にからまってしまった。いくら引っ張って見ても取れようとしない。俺は木登りは上手だけれど、登るとお母さんに叱られるから、忠公に頼んだ。忠公は始めは怖がってたが、「貴様は男だろう」と言ったら仕方なしに登って取ってくれた。俺は凧を取ってくれと頼んだけれど、落ちて足を挫けとは願わなかった。本当に厄介な奴だ。余計な事をする。取って来たら十銭やる約束だったけれど、最早やらないから-いい。  森川さんが家へ寄って、隣の忠公は-よっぽど悪い、悪くすると跛になるかも知れないと言った。俺は気の毒だから見舞に行こうとしたが、忠公のお母さんは俺の顔を見るのも嫌なんだそうだ。そして忠公の足が直り次第何処かもっと危なくない所へ越してしまうと言って怒っているそうだ。  お母さんは夕方まで隣りへ行っていたが、夜は早くお休みになった。頭痛がして気分が悪くなったのだそうだ。隣りの忠公が、足を怪我したのに、うちのお母さんが頭痛を病むとは奇妙な事だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は一日’外へ出てはならぬと言われたから、大人しく本を読んでいた。するとお父さんが-いきなり上って来て、俺の首っ玉を捕まえて、蔵へ連れて行って表から鍵をかけてしまった。大人しく勉強しているものを、非道い事をする。  お島がお昼を持って来た時に聞いて見たら、俺は忠公の-よくなるまで蔵の中にいるのだそうだ。忠公は-いつ良くなるだろう。屹度いつまでも俺を此処に入れて置こうと思って、-いつまでも癒らないでいるだろう。-あんな悪い友達を持つと本当に困ってしまう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は素敵に凧が好く揚った。風が強いから有りったけたまを出したので、うっかりすると引摺られそうだ。揚らなくても骨が折れるけれど、斯う好く揚られると持っているのに却って骨が折れる。  お昼には帰らなかったから、腹がへって堪らない。そうかと言って此んなに張りのあるヤツを下ろすのも残念だ。斯ういう時には忠公がいると-いいんだけれど仕方がない。木か何かに縛りつけて置いて家へ帰ろうと思って-そこいらを見廻した。  五六歳の可愛らしい女の子が俺の凧を一心に見ている。何処の子だろう。教会の爺さんの子か知ら。いま考えて見ると-この子は悪い所にいあわせたもんだ。俺はこの子を賺して凧糸を其胸へ巻きつけた。そして僕の帰って来るまでこの木に掴まってるんだよと言って、家へ帰って来た。  お島にビスケットを貰って教会の裏へ引返すと、女の子は見えない。けれども天を見れば凧は元の通りに揚っている。これは可笑しいと思って糸の在り処をたよりに教会の表側へ廻って見ると、俺は吃驚してしまった。糸が塔に絡まって女の子は屋根に下がっている。もし糸が切れようものなら確かに敷石の上に落ちる。もし糸が解れようものならあの子はきっと天へ上がってしまう。俺は大声たてて人を呼んだ。  教会の婆さんが飛び出して来て、腰を抜かした。後で聞いたら、此婆さんは子供が宙にぶら下がっているのを見て、いよいよ天国が来たのだと思ったんだそうだ。そのうちに五六人駆け着けて来て、子供は何事もなく助かったが、俺のタコはまだ上っているだろう。あの塔の頂上まではとても取りに行かれないから、諦めなければならない。事によると今頃は塔を引摺りながら天まで上って行ったかも知れない。兎に角あの凧は惜しい事をしてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は日曜日で、お歌さんと一緒に教会へ行った。牧師さんの説教でも聞いたら大人しいいい子になれるだろうと思って、お母さんに-そう話したら、お母さんは大層喜んだ。けれどもお母さんは今日はお客があるからというので、お歌さんに連れて行って貰うことになったのだ。  牧師は馬鹿に長い説教をした。俺は眠くなってしまった。大人でも居眠りした者があった位だ。もうよせば-いいにと思っても人の心のうちが分るような男じゃないから平気でやっている。 「終りに臨みまして‥‥」と言ったから-もう大丈夫だと思ったけれど、喜びゾンをさせやがった。どうしても-よさない。「どうぞ皆さん‥‥」なんて言って「第一に」と又初めから芸当のやり直しをしている。最早ケンカだ。勝手にするがいいと思って、落した讃美歌を取る積りで屈むと、隠しに入ってた玩具のピストルが落ちた。落ちたばかりなら-いいけれどパチッと破裂したから、困ってしまった。皆が俺のほうを見て怖い顔をした。お歌さんは真赤になって、じっとしていらっしゃいと言った。俺は自分の隠しの中へ消え込みたいくらい決まりが悪るかった。  ピストルを拾いたいけれど、お歌さんが番をしているから手を出すことが出来ない。そうかと言って膝の上へ両手を置いてるのも角力取のようで可笑しいから、俺はズボンの隠しに突っ込んだ。何かある。ああこれは昨夜お客さんに戴いたオルゴールだなと気がついた時には、最早「一つとや」を歌い出した。俺は-どうすることも出来ない。いくら握っても「お飾り立てたり松かざりい松かざりい」をやっている。お歌さんは俺を引っ張って外へ連れ出した。けれども外へ出た時には最早鳴き止んでいた。意地の悪い玩具だ。 「太郎さん、本当にお前には仕様がないねえ」  と姉さんは泣きそうな顔をした。俺だって本当に仕様がなかった。何故俺は斯う運が悪いのだろう。折角たまに教会へ出れば二度と顔出しの出来ないような事が起る。そして皆んながあの子は善くない善くないと言う。何処まで損な生まれつきだか知れやしない。此の按排じゃ、しまいには雷にでも打たれて死ぬのだろう。自分で骨を折って大人しくしても、運が悪いのだから仕方がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  大阪の伯父さんが此頃’家に泊っている。此伯父さんは-もういい年寄だ。そして可笑しな人だ。頭の毛なんか少しもない。校長さんのよりもまだひどい。けれども笑ったりしちゃいけないよ/伯父さんは金持で独り者だから、もし気に入れば俺に財産を譲るかも知れないんだそうだ。かも知れないは心細いが、全く当てのないよりかましだと思う。俺はこれから大人しくする積りでいた所だから丁度いい。  伯父さんはツンボである。つんぼもつんぼも金つんぼだ。ただ-話をしたって通じない。お前は馬鹿だよと言っても笑っている。ラッパのようなものを耳に当てがって、大きな声を出さなければ聞えない。先生が耳の事を話した時、耳の中には鼓膜という太鼓があって、それを叩くと声でも音でも聞えるのだと言った。して見ると伯父さんには此太鼓が無いんだろう。太鼓が無いからラッパで間に合わせるんだろう。  一つ伯父さんの御機嫌を伺う積りで行って見た。伯父さんは眼鏡越しに俺の顔を見て、 「どうだい、ボンボン」  と言った。ボンボンなんて可笑しいや。坊とか太郎とか呼ぶがいい。時計じゃあるまいし。俺はラッパを借りて、伯父さんの耳へ斯う吹き込んだ。「伯父さんはケチですか。」俺の声が余り大きかったので、伯父さんは吃驚した。 「そんな大きな声を出しなはらいでも聞えまっせ」 「伯父さんはケチンボですか」 「なんだ?」 「歌さんがね、斯ういいましたよ、あのなんですって、伯父さんは大変ケチだって、そして煮ても焼いても食えないんですって、本当ですか」 「何だ。そんな事を言ってまっか。ひどいヤツやな。そんなら、土産を持って来たけれどやるまい。ほんとにひどいヤツやな」 「伯父さん、僕買いたいものがあるんですが、お金を少しくれませんか」  伯父さんは返事もしないで、ただ-鼻をクシンクシンいわせていた。そして穴のあく程俺の顔を見詰めていた。俺を何か顕微鏡の中にいる虫だとでも思っているらしい。  此れは-おこらしたと思ったから、今度は慰める積りで斯う話しかけた。 「けれどもねえ、伯父さん。あなたがケチのほうがいいんですってお母さんが申しましたよ。けちならけち程余計にお金を残すから、そのほうが-つまり-いいんですって」  けれども伯父さんはなお怒った。いくら慰めても賺しても聞き分けがないから困った。丁度猫の脊中を逆さまに撫でるようなもので、撫でれば撫でる程むずかるから、俺は好い加減にして出て来た。  一遊び遊んで帰ると、お母さんとお歌さんは俺を捕まえて色々の事を聞いた。むろん俺は当らず障らずの返事をして置いた。 「決して伯父さんに逆っちゃいけませんよ。もともと変人なのに耄碌して愚に帰ってるから直ぐ気に掛けなさる。もうお前は行かないほうがいいよ。いま休んでいられるから、お前は外へ行ってお遊び、起きると又うるさいから」  とお母さんが言った。それで俺はお母さんの言うことを聞いて外へ出た。暫くはドカタの道普請を見物していたが、急に伯父さんの顔が見たくなった。-ああいう顔の人が寝たら-どういう顔になるだろうと思ったら、ドカタの喧嘩なんかつまらなくなった。  俺は早速引返した。叱られると困るから庭へ廻って、窓から覗いて見た。窓の上に金縁の眼鏡が置いてあった。伯父さんのだ。俺はなにごころなく取って掛けて見たが、ボオッとしている。掛けたり外したりしている所へポチが走って来た。犬に眼鏡をかけさせたら-どんな顔になるだろうと思って掛けてやった。少しも似合わない。するとポチは隣の猫を見て追いかけて行った。俺もついて行ったが、ポチは垣根を-くぐって隣りの庭へ入ってしまった。俺は困るから頻りに口笛を吹いた。直ぐに帰っては来たが、眼鏡は最早掛けていない。多分落して来たんだろう。取りに行きたくても、此間忠公を泣かせてから、隣の小父さんはピストルに玉を込めて待っているそうだから行かれやしない。犬なんて厄介なものだ。何でも物が只で買えると思っている。勿体ないという事を知らない、とうとう金縁の眼鏡は失くしてしまった。  此んな事とは知らずに伯父さんは能く寝ている。極めて平和的に寝ている。勿論戦争的に寝るヤツもあるまい。口を-あいている。喉は汽車が-ゆっくりと走る時のような音を立てている。頭は赤バナナのハンケチで丁寧に包んである。水引は掛けてなかった。  -あすこまで俺の釣竿が届くかしらと思ったのが、そもそも非常な誘惑であった。そして其の釣竿が届いたのが飛んだ災難の元になった。俺は伯父さんを魚屋の店に吊してある鮟鱇と見立て、冗談半分に釣る積りで、口の辺りにハリを下ろした。遠くでやる仕事だから、どうせ巧くは行かない。ハリは鼻へ触ったり、ホオへ止ったりしたが、其内に間違って口に入った。その時伯父さんは止せばよいのにクサメをして’口を堅く閉じてしまった。俺はごく軽く引っ張って見たが、伯父さんは尻尾を踏まれた犬のような声を出した。人が来ると困るから、大急ぎで力一杯に引いたら、伯父さんは椅子から転がり落ちた。何でもウチジュウに響くような叫び声がした。俺は釣竿を抛り出して物置に隠れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺は三日’蔵の中へいれられて今日漸く堪忍して貰った。伯父さんはまだ寝ている。全く俺が悪るかった。本当に気の毒でならない。  お島に頼んで隣りの庭へ眼鏡拾いに行って貰った。枠はあったが、玉は見当らなかったそうだ。仕方がないから俺はお春さんの近眼鏡を壊して、伯父さんのへ玉を嵌めて置いた。此れから本当に大人しくしよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  伯父さんは日増に-よくなって、今日から起きた。お父さんと話しをしている。伯父さんは大変俺を怒っているというから会う訳には行かない。俺は戸口で話しだけ聞いていた。 「曇っているのでしょう。どれ、拭いて上げましょうか」  これはお父さんの声だ。 「いいや、いま拭うたばかりよ。あの坊主の為めに目まで痛めてしもうた。今迄此眼鏡がキチンと目に合っていたんだけれども」 「見えませんかな」 「ちょっとも見えんようになってしもうた」  俺は可笑しくなったが、我慢して聞いていた。二人は暫く無言でいた。 「身体を悪くしてしもうて、目まで見えないようにしてしもうて、ちょっと来たばかりに、わしのほうでも仰山な損だ。お前のほうでも何万円やらの損だ」  といって伯父さんは笑った。お父さんは黙っていた。 「ああいう根性じゃ碌なもんにならんぜ。-かねを持たせると却ってならん。お前も気をつけんといけんなあ」  俺は本当に残念である。全く大きい魚を釣り落したのだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公’の家の厩で見世物ごっこをして遊んだ。一人前五銭ずつ入場料を取って六十五セン儲けた。男の子が十人、女の子が三人入った。オンブは只だ。このカネは義勇艦隊に寄附する積りである。忠公が猿になって、六公が熊になって、俺は化け物になった。そのほか色々余興があった。  俺は先ず散髪屋へ行って、クリクリ坊主にして貰い、忠公に顔と手を赤インキで塗って貰った。そして伯父さんの入歯を頬張った。鏡を見た時には俺じゃないと思ったくらい怖い顔だった。金歯が光っている。悪い事には水を飲みに行って、入歯を井戸の中へ落してしまった。代りが出来て来るまでに伯父さんは餓えじんでしまうかも知れない。  六公は驢馬を持っている。此驢馬を象の子に仕立てて、俺が其上で芸当をした。忠公のお母さんの肩掛を着せたら、少しは象らしくなったが、牙がなくてはどうも不味い。それで何かのやくに立つだろうと思って持って来た伯父さんのラッパを咥えさせた。けれども驢馬なんてものは考えがないから、しまいにはラッパを噛砕いてしまった。  こんな訳で伯父さんは今日からホテルへ引越して行った。あんな小僧は-もう甥ともなんとも思わないといったそうだ。俺だってとうからあんなシミッタレを伯父さんだなんて思ってやしない。けれどもお島が内緒で話した所によると、俺は悪戯をした為めに大変な損をしたそうだ。伯父さんは俺に譲る積りの財産を-すっかり養老院へ寄附する事に決めてしまった。年寄は年寄の贔屓をするに決っている。-あらかたこんな事になるだろうと覚悟していた。  財産なんか無くても-いい。俺はちっとも困らない。お父さんは金持だ。皆が-そういっている。俺は毎日好きな事をして遊んでいれば、それで何も不足はいわない。ただ-もう少し皆が叱らないと-いいんだが、これは何とも仕方がない。隣の忠公なんかも随分叱られる。  けれども断って置くが、俺は決して悪い料簡で伯父さんに悪戯をしたんじゃない。あのハゲ頭へ干した芋がらを蝋付けにしたのも別段火傷をさせる積りでやった仕事じゃない。チャンチャン坊主に見えるかどうかと思ったばかりだ。靴が片足無くなったって、アれは南京鼠を飼う時の用心にしまって置いたばかりだ。  歌さんもお島も伯父さんは世話が焼けて、キボネが折れて困る、ちょっと話しをすると声を枯らしてしまうって、弱っていたんだ。俺は伯父さんと話しをするのが好きだった。電話をかけるようにラッパへ大きな声を吹き込んで尋ねる事は何でも話してやった。年寄の癖に無暗に人のいう事を聞きたがるから悪い。お歌は俺の事をなんというかと尋ねられれば、どうしたって、困る厄介ジイやで、話しをすると声が悪るくなるから成るたけ寄付かないようにしていますと答えるほかはない。それからお父さんは伯父さんから手紙が来た時又面倒なやかましやがお出でになるんだなといった事、けれどもお母さんはあのツンボは滞在中のゾウヨウを払うから、伯母さんよりか始末が-いいといった事、あんな顔をしているけれども、若い時には手に負えぬ道楽者だった事、地獄まで-かねを負ぶって行く積りらしい事、なにから何まで-ほじって聞くから、正直に答えなければならなかった。嘘は泥棒の始まりだから本当に困ってしまう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんはお昼にジンボウさんをお招き申した。何でもナントカ町の地所をこの人に買わせるんだって、お母さんと話していた。今日はコックが馬鹿に意地が悪い。此男は普段は正直だが、ごく悪い癖で、なにか御馳走のある時というと、決まって根性が悪くなる。俺なんかそばへも寄せ付けない。  なんにも欲しかないが、向こうで-ああ用心すると、こっちでも何かつまんでやり度くなる。お前は豪いよといわれると、なんだか豪いような心持になる。何か取りそうだなというような目付きをされると、一つ取ってやろうかなという気になる。今日の事なども-つまりコックが悪いんだ。  苺を一摘み分捕って、俺はテーブルの下にかくれた。テーブル掛が下まで垂れているから見つかる気遣いはない。安心して苺を平げていると、お父さんとお母さんがジンボウさん夫婦を案内して来て、直ぐに席に着いた。ジンボウさんが感謝を捧げて、四人はソップを飲み始めた。俺は弱ってしまった。イッソ皆が戸を明けたとき逃げればよかったに、斯うなっては動きが取れない。  四人は色々話しをしながらナイフとホークをかちかちいわせている。行儀の悪いヤツだ。あまり音をさせるものでないと、お母さんは-しょっちゅういっている。俺は時々ジンボウさんの靴を引掻いてやる。そのたび毎にジンボウさんがぴくりぴくりと身体を動かすから面白い。 「もう電車の出来るのは目に見えていますから、ご自分でお住いにならなくても、買って置いてご損はない所です」  買って置いてご損のない所を売って置けば、確かにご損がある。お父さんはジンボウさんを巧く騙す積りらしい。俺も賛成である。 「地所は豪く気に入りましたが、どうも近所が騒々しくてな。水道はありますか」  水道はどうか知らないが、俺は靴をツメってやった。 「水道はつい隣りまで来ています。それに電車の便が大きゅう御座いますよ」  お父さんは電車の一点張だ。俺は又ツメってやった。 「お家では犬をお飼いですか」 「犬ですか、はい、一疋居りますよ。犬がお好きですか」 「いや、犬が豪い嫌いでしてね、それも此頃まではサヨウでもなかったのですが、或所で見て貰いましたらば、あなたにはケンナンのソウがあると申されましてね、それから犬が-さっぱり嫌いになりました。恐水病は恐ろしい病気ですからな」  俺は-もう少しで笑う所だった。 「お家の犬は座敷へは上がりませんかね」  今度はジンボウさんの奥さんだ。 「はい、ごく行儀のいい犬でしてね、決して家へは上がりません」  地所の話しをしているのだか、犬の事を研究しているのだか、さっぱり分らない。俺はもうトオ勘定するうちに坪十八円で買わないなら、ジンボウさんの脛をツメる決心をした。 「地所は気に入りました‥‥」  地所の気に入ったのは最早分っている。此畜生いよいよ買わないな。俺はうんとツメってやった。  ジンボウさんは椅子から転げ落ちた。医者を呼べ、医者を呼べと怒鳴る。家の悪戯小僧の仕事ですとお父さんは言訳しても、早くしないと恐水病になる、恐水病になると強情を張る。本当に年寄は聞分けがない。とうとう二人は御飯を食べかけたまま、怒って帰ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  一体お歌さんは俺を何と思ってるのだろう。俺の耳は引張る為めに付いてはしない。自分の顔が白粉をつける為めに出来てると誤解しているもんだから、なにかというと俺の耳を引張るのだろう。  蔦子さんがお喋舌だって構わないじゃないか。俺が何も嘘を言った訳じゃあるまいし。それならご縁談の事は決して蔦子さんに話すなと予め断って置けば、俺だって手加減がある。-いきなり来て、太郎さんはあんまりだなんて、もし耳が取れたら-どうする。鳥やサカナのようになってしまっちゃ見っともないじゃないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃’歌さんのところへ遊びに来出した男がある。名を井上さんという。昨夜も来た。俺が客間へ入って行ったら二人で話をしていた。俺はこの人の顔が能く見たいから、そばへ寄って覗いてやった。すると歌さんは-あちらへお行きというような目付きをした。目付きはしたが、口には出さないと承知しているから、俺は見て見ないふうをしていた。目付き位で動くような俺じゃない。 「どうだね、大将」  と井上さんがいった。 「僕は大将じゃない。子供ですよ」  といってくれた。すると井上さんは大笑いをした。笑った顔がぐらぐら動いた時に、きらきらと何か光った。これが不思議だから俺はこの人の顔を能く見たいのである。 「あっ、いま光った物はなんですか。歌さんのように金歯を入れているんですか」 「面白い坊ちゃんですね」  と俺の質問には答えない。そして今度は笑わなかったから、何も光らなかった。 「あなたの顔こそ面白い。なんですね、どうしたんです、あなたの片っぽの眼はちっとも動かないじゃありませんか。ガラスですか」  すると歌さんが怒った。 「なんですね、太郎さん。失礼な。-あちらへ-行ってらっしゃい。言う事を聞かないとお母さんに申し上げますよ」  俺は拠なく出て来たが、どうも不思議で仕方がないから、暫くしてから又引返した。そして又じっと見ていたら、歌さんが、 「太郎さん、-あちらへ-行ってね、お島にお菓子とレモンを持って来るようにいって下さい。直ぐに持って来るようにいってね」  とごく優しくいった。今度は騙して追払う積りなんだろう。そんな事をしたって、俺は直ぐに帰って来る。あの目の動かない訳が分るまでは今夜は寝ない積りだ。  お島に用を言付けて俺は直ぐに戻って来た。見れば見る程奇妙でならない。右の眼は瞬きするが、左のほうは決して動かない。サカナの眼見たように何時もあいている。俺も真似をして、片っぽうの目だけで瞬きして見たが、どうも巧く行かない。歌さんも困ったのだろう、なにか御用を拵えてちょっと出て又直ぐ帰って来て、 「太郎さん。お母さんが呼んでいらっしゃるから-あっちへお出でなさい」  といった。それで俺は残念だったが、お母さんの許へ行ったら、お母さんは、 「太郎さん、お客さまの顔をじっと見てるのは失礼ですよ」 「けれどもお母さん、あの方の目は-どうしたんでしょうね。何故片方ばかり動くんでしょうか」 「もう九時ですよ。寝る時間です」  俺は寝る時間なんか、尋ねていやしない。大人というものは随分勝手なものだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  小い子供ぐらい厄介なものはあるまい。俺の家へこの間親類からお客さんが来た。キイちゃんという女の子と其お母さんとである。このキイちゃんのお蔭で俺は遠眼鏡と空気銃を損してしまった。  キイちゃんはまだ7つか8つで、泣き虫だ。ちょっと頭の毛を引っ張っても直ぐに泣く。殺してしまうといってナイフを見せても泣く。泣いてばかりいる。斯ういう厄介者のおもりをさせて、首尾能く勤まれば遠眼鏡を買ってくれるなんていっても出来ない相談だ。泣く子と地頭にゃ勝たれないというじゃないか。  キイちゃんは人形を持っていた。大きな人形で、腹の辺りを圧えると泣く。持主の真似をして泣くのだろう。どういう仕掛で泣くのかと思って、俺は腹を裂いて見た。人形は其れなり泣かなくなったが、キイちゃんが泣いて仕様がない。縛ってしまうよと賺しても泣く。河の中へ抛り込んでしまうぞとおどかしても泣く。とうとうお母さんが聞きつけて来て、キイちゃんに謝った。そして俺の貯金で新しい人形を買ってやる事にした。俺は七面鳥を打つ積りで、あの-かねで空気銃を買う気でいたんだ。  キイちゃんは飯事をしようといい出した。けれども俺は-もう愛想が尽きたから、嫌だといって断った。断っても聞分けがないから仕方がない。俺が旦那様になって、キイちゃんが奥さんになった。この子は子供のくせに小癪である。「旦那様お召し替えをなさいませんか」なんて、俺の古い服を持って来たり、「今晩は何時にお帰りですか」なんて、何処へ行くともいわないのに聞く。余りうるさいから、俺は-もう飯事を辞めて、外へ遊びに行こうといい出した。すると感心に承知したから、俺はキイちゃんと門の所で遊んだ。  其のうちに忠公がやって来て、 「女と遊んで嬉しがっていやがら」  と冷やかした。俺は決して嬉しがっているもんか、弱り切っているんだ。その証拠には此子をどんな目に遭わせてもいいと言った。忠公も仲間になって、暫く遊んでいたが、しまいにはアイツが悪い事を発起した。  キイちゃんに洗礼を授けてやろう、君が牧師になれと言うのだ。俺も賛成だが、又泣くと困るから一応意向を探って見ると、洗礼を志望している。それで忠公と二人で河へ連れて行った。  俺はハンケチに水を湿して、父と子と聖霊の名に依って、三度’頭から水を掛けてやった。すると忠公は何処まで悪いヤツだか知れない。頭だけじゃ救われない、浸礼教会なんかじゃ水の中へ潜らせると言い出した。それも-そうだと思う。折角洗礼を授けてやっても救われなくちゃなんにもならない。キイちゃんは泣き出したけれども、忠公と二人がかりで、帯で縛って、三度’川の中へ浸けてやった。  あんないい着物を着ているから悪いんだ。それに言う事を聞かないで暴れたものだから余計に水を飲んだようだ。風邪なんかひいてくれと頼みもしないのに、本当に困る子だ。俺は其晩お父さんに鞭で散々にぶたれた。  キイちゃんのお蔭で空気銃は買えなくなる。遠眼鏡はフイになる。背中はまだぴりぴりする。本当に非道い目にあった。それで忠公は少しも叱られやしない。何処までも運のいい野郎だ。最早アイツとは遊ばないようにしよう。もしアイツの家へ女の子がお客に来たら、今度は俺が打ち殺してやるからいい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  このニサン週間ばかりは日記もつけなかった。俺だって忙しい時には随分やくに立つ。お花さんと清水さんとのご婚礼はいよいよ明日になった。今日なんかほうぼうへお使いに行くので目が回るようだった。清水さんのところへばかりも三度行ったので、足が棒のようになった。それで明日は早く起きなけりゃならないから堪らない。今から直ぐ寝るんだから-いいけれど、実際草臥れてしまった。出来る事なら足だけを取外して休みたい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今朝は早く起きた。うちの人は皆忙しいものだから、俺の起きたのも知らん顔している。あれでお使いでもあれば直ぐに「おや太郎さん」なんて言うんだろう。現金な奴等だ。お島さえ「此処にパンとバターを置きますから、御独りで朝御飯を済ませて下さい、忙しくて仕様がありません」と言って、何処かへ行ってしまった。姉さんがご婚礼するのに弟がパンとバターだけで朝飯を食うなんて法はあるまい。俺はナガテーブルの据えてある部屋へ行って、色々御馳走を食べてやった。シェリイの瓶をひっくり返してテーブル掛けを台なしにしたが、幸い誰も見ていなかった。  結婚式は十一時に教会でやるんだ。ウチジュウが-すっかり片付いて仕舞って、俺は何処にいていいのだか分らない。するとお島が又出て来て、服を着替えさせてくれた。俺は胸のボタン穴に花を挿して、新しいハンケチを隠しに突っ込み、右の手に白い手袋を持って、漆のように光った靴を踏み鳴らしながら、別間に入って行った。  清水さんが-もう来ていた。安楽椅子に腰を下ろして泰然としている。けれどもアれは泰然の出来損いだ。形は落着いても心が天井を匍い廻っているから、いくら澄ましても、チョチちょち旦那様といったようなスタイルになってしまう。俺がそばへ行ってお島に教わった通りに挨拶したら、-いつもになく丁寧に答礼をした。いよいよコイツが俺の兄さんになるんだな。  支度が出来てお花さんが下りて来た時には綺麗だと思った。目の覚めるようなシロジュスの服を着て、白いカオカケのうちに薔薇色のホオが透き通るように見えた。お春さんも美しかった。今日はお花さんのお扶けをする役なんだ。  清水さんは帽子を被っていながら帽子を探したり、お花さんの裾を踏んで謝ったり、右の手に左の手袋が篏まらなかったりした。随分そそっかしい人だ。俺はそれがあんまり可笑しかったので、つい自分の帽子を忘れて来てしまった。  牧師は矢張り例のオサシであった。俺は清水さんの後ろに坐って、背中にハンケチをピンで附けてやったが、清水さんは一向知らないでいる。相変らずチョチちょち旦那さまを決め込んでいる。式が始まっても矢張りハンケチを負ぶっている。俺は誰かさんの背中は重たかろうと思って気の毒でならなかったが、そのうちに森川さんが気がついて取ってやった。お父さんは俺の顔を睨めた。  家へ帰ってから皆んなは食堂に入った。俺は頻りにお菓子を食べていたが、皆は葡萄酒ばかり飲んでいる。さっきシェリイを零したところは-どうなったかと思って見たらナプキンが置いてあった。 「太郎さん、姉さんの健康を祝しなさい」  と何処の人だか俺に葡萄酒を注した。俺はコップを高く捧げて、 「お花姉さんの幸せを祈ります。そして-もし子供が出来たなら、其子が私のように耳をぶたれたり頭の毛を引っ張られたりしないように祈ります」  と言って飲んでやった。喉が熱くて咳が出た。それから俺はだいぶ飲んだ。何でもゴロクハイは飲んだと覚えている。  お母さんが起してくれた時、俺はテーブルの下に寝ていた。辺りは森閑としていた。-もうお客はみんな帰ったんだろう。 「お母さん、大変ひどい地震があったでしょう」  と言ったら、お母さんは、 「いいえ」  と答えた。なんでも身体が無暗に揺れて、テーブルも壁もぐるぐる廻ったようだった。 「姉さんは-どうしました。私を待ってましょう」 「姉さん達は-もうさっき立ちました。最早-よっぽど行ったでしょうよ」  俺は酒を飲んだお蔭で馬鹿を見てしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  この間から学校へかよっている。俺は作文と習字が上手になりたい。先生は俺をハシッコイといって褒めた。勉強すれば大臣になれるかも知れないと言ったが、当てにはならない。けどもなかなか勉強する時間なんかありゃしない。教場に出ても-よっぽど気を付けていないと飛んだ目にあう。第一何処から紙の噛んだ奴が飛んで来るか知れぬ。何時電信が掛かって来るか分らぬ。どういう間違いで先生が机の中の南京豆や林檎を見付けないとも限らぬ。此んな事に心を配るから本を見る時間が少くて困る。けれども寄宿舎に較べればどんなにいいか知れない。  俺が学校へ行っている間は家は天国のようだとお歌さんが言った。生意気な奴だ。それじゃ天の使いはいるかとやり込めたら、此処に一人いると自分の胸を指さした。人を馬鹿にしている。弟の耳を引張ったりする天の使いがあって堪るものか。女というものは何故こんなに自惚れが強いんだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お歌さんのほうの会でバザアを開いたから、手伝いに行ってやった。初めの日は大変成功して、俺は皆に褒められた。俺は胸に赤リボンの蝶を附けて得意がっていた。これは販売係の印である。五銭の葉巻を二十銭に売った。お歌さんが勘定して見たら、-このほうだけで六十本売れていた。  二日目も可なり景気が好かった。日が暮れてから皆んな倶楽部の二階でお茶を飲んだ。むろん俺も出席した。俺は会員じゃないけれど、福引券を三枚貰っている。それでお茶なんか-どうでも-いいから早く福引を始めればいいと思っていた。  あんまり退屈だったから、俺は隣りにいた奥さんに斯う話しかけた。 「面白い物を見せて上げましょうか」 「なんです。坊ちゃん」  と聞くから斯う説明してやった。 「なんでも黒い物です。吃驚なさらなければ見せて上げます」 「なんですか是非拝見致しましょう」  と今度は右隣にいた令嬢が口を出した。俺は-もう可かろうと思って、隠しの中からさっき捕えて置いた小鼠を出してテーブルの上に置いた。俺が手を放すか放さぬうちに鼠は奥さんに飛付いた。奥さんがキャッといって払い落したら、今度はテーブルの上を向こうの’端まで走って行った。  高が小鼠一疋じゃないか。泣いたり、哮えたり、気を失ったり、テーブルをひっくり返したり、ご丁寧にランプまでこわして騒ぎをいれるには当らない事だ。お春さんは着物を少し破き、お歌さんは手を火傷した。きっと此れから当分は俺と口を利かないだろう。他の人達も俺を恨むだろう。けれども俺は返す返すも言って置く──タカが小鼠一疋じゃないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺を叱る時にお父さんは-いつでも斯う言う。 「俺は子供を叱りたくないが、仕方なしに叱るのだ。叱られるお前よりか叱る俺のほうが幾ら苦しいか知れない。ちっと気をつけて叱らせないようにしろ」  先生も昨日斯う言った。 「私はお前さんを罰したくはない。けれどもお前さんが可愛い。どうかしてお前さんをいい人間にしてやりたいと思うから、仕方なしに罰するのです。愛の鞭です」  この筆法で行くと-つまり怒りたくはないけれども怒るというのだ。俺だって-そうだ。ちっとも叱られたか無いが、仕方なしに叱られる。少しは気をつけて叱らないようにするがいい。叱るのは向こうの事で、叱られるのはこっちの分だ。られるほうで気を付けても、りつけるほうで辞めなくちゃ何処まで行ったって果しがない。矢とマトとはドッチが先に出来たと思う。弓のほうで矢を棄てもしないで、ただ-気をつけろ、いられるなと注文するのは理窟に合っていない。  俺が今にお父さんとなったら、決して子供を叱るまい。追試でかしたのなら-どんな事でも決して罰しまい。イチニチに3度ずつお菓子を呉れよう。そして’姉さんなんかとは口も利かせまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨日は四月一日だった。四月馬鹿の日とはこの日である。この日は嘘をついて人を騙しても構わない日である。正月からクリスマスよりもこの日が待遠しかった。去年は余り世間の事が分らなかったので、四月一日にはだいぶ-おおぜいに担がれた。そのかわり昨日は色々の事をしてやった。  俺は考えがあるからまだ夜の明けないうちに起きた。先ず一番始めに駆け付けた所は火の見梯子だった。大人というものは智慧が足りない。世界は大人ばかりの世界だと誤解しているから、此梯子なんかも馬鹿に大きく拵えてある。俺は登るのになかなか骨を折った。  東の空が心持ばかり明るい。静かなもんだ。自分の鼻息だけが、無暗に高く聞える。人間はまだみんな寝ているんだろう。家も木も往来もボンヤリと見える。此奴らも寝ているんだろう。ガス灯さえ淋しそうに黄色く光っている。誰も俺がこんな高い所にいるとは思うまい。お神楽の素戔嗚命が着そうなインバネスというものを着て威張って歩く野郎も、阿呆鳥の羽を首輪にして得意がっているトンチキも、俺が此れから火事の真似をしようとは夢にも知るまい。俺はなんだか嬉しくなった。  静かだから半鐘が能く響く。一つ打ってその響きが消えた頃又一つ打つ。トオばかりやって見たが、ゲ界が平気で寝ている。まさかみんな死んでるのじゃあるまい。それにしても余り静かだ。  一つばんでは安心しているから、今度はすりばんにした。無暗矢鱈と叩いた。すると何となくほうぼうが騒がしくなったような気がしたから、俺は一先ず下りた。 「何処ですか」 「見えますか」  蟻のように集まって来た人は皆同じような事を言っている。朝起きたら必ず「お早う」と挨拶するものだ。それが出来なければ人間じゃないってお母さんが言った。して見るとこの連中はみんな人間ではないだろう。  俺は捕まると困るから帰って来た。道で鶴子さんに遇った。俺と少し話しをしたが、何を言ってるのか、通じなかった。火事で慌てて入歯を忘れて飛び出したんだろう。それから山田さんにも遇った。山田さんは頭に新聞紙を巻いていた。 「火事は何処ですか」  と聞くから、 「直ぐ此の向こうです」  と答えた。山田さんは有難うともいわないで駆けて行った。俺も少し寒くなったから大急ぎでおっパシって来た。  朝御飯の時にお歌さんが大きな饅頭をくれた。朝っぱらから菓子をくれるなんてお歌さんにしては珍らしい。何処かに葬式でもあったのだろうと思って、一口喰ったら驚いた。わたで拵えたんだ。これはうまく担がれたと気が付いたら、お歌さんは「四月馬鹿、かかった掛った」と笑った。お春さんも笑った。お島は初めから笑っていた。畜生め。  俺は学校へ行く積りで家を出たが、あんまり忌々しいから、郵便局へ行って電報を打ってやった。 「ハルコ/ビョウキ、キテクレ」  森川さんは車で駆けつけるだろう。尤もお春さんが丈夫でも1日おきには大抵来る。  それから俺は花屋へ行った。此の花屋はつい先だって越して来たてのホヤホヤだからむろん俺の顔を知らない。俺は此間井上さんが遊びに来たまえといって呉れた名刺を出して、上等の花を五円ばかり束にして、お春さんのところへ持って行けと誂えた。家へ行く道をチャンと教えたから間違いっこない。  学校のほうへブラブラ歩いて行ったら、岡本さんのキヨノさんに遇った。多分女学校へ行くのだろう。まだ少し時間があるから、一つ担いでやる積りでついて行ったが、どうして騙していいかちょっと見当がつかない。けれども一旦思立った事を中途で辞めると豪くなれないそうだから、俺はなおついて行った。すると-そのうちにキヨノさんがレースのハンケチを落した。俺は早速拾い取って呼びかけた。 「キヨノさん、ハンケチが落ちましたよ」 「今日は四月のついたちですよ」  と返事をしただけで、キヨノさんは振り返りもしない。 「本当ですよ。キヨノさん。御覧なさい」  今度は返事もしないでズンズン行く。 「キヨノさん、キヨノさん」 「学校が晩くなりますよ」  とキヨノさんはとうとう駆けて行ってしまった。俺は仕方がないからハンケチを貰って置いた。  -もう学校は晩かろう、遅刻して小言を言われるのも面目ないから、今日は休む事に決めて、俺は田圃のほうへ遊びに行った。田圃のほうが学校よりも-よっぽど景色がいい。俺は草の上に坐って弁当を開けた。今日は玉子焼きかと思ったらパンだった。道理で少し軽いと思った。それではバターか、ジャムか、と思って破って見たら、オガクズが入っていた。俺はお島を撲り付けてやる積りで直ぐに家へ帰った。  皆に見つかると悪いから俺は自分の部屋へ駆け上がった。三時までは戸棚の中にでもかくれようかと考えていたら、お島が入って来た。俺は-いきなり齧り付いた。女と喧嘩する時には毛を引張るに限る。俺はとうとうお島を転ばして、あやまらせた。そして内所でビスケットを持ってこさせ、なお三時まで俺の帰ったのを黙っている約束をさせた。もし俺がオガクズなんか食べて病気になったら-どうする積りなんだろう。冗談にも程がある。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お春さんもお歌さんも俺と口を利かない。今日はお歌さんは自分で郵便を出しに行った。それ見ろ直ぐに-そんなに不便じゃないか。  もうお前のような者は弟と思わないって言いやがった。俺だってお歌さんなんか姉さんと思ってやるものか。  森川さんとお父さんと此んな事を話していた。 「あれは一種の病気ですよ。何か悪戯をして見たい病気なんです」 「いくら医者でも-そういう病気はちと手に余りますな」  いくら医者でもが聞いて呆れる。ハイカラ筍のくせに。 「催眠術では-どうかなりませんかね。随分色々な癖が直るそうですが」 「-そう、かかれば幾分か利きましょうが、かかりませんな。まだ注意を集注する力がありませんから」  生意気な事を言う。 「まあ足でも切って外へ出さないようにするのが一番近道でしょうよ。ハッハハハハ」  お春さんもそばにいて笑ったようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんとお母さんがお花さんのところへお客に行く。俺とお春さんとお歌さんとお島とそれから奉公人が留守番をするのである。留守中は殊に大人しくするようにお母さんが頼んだから、俺はキチンと学校に通い、稽古が済んだら釣竿のように真っ直ぐに家へ帰り、姉さん達に世話を焼かせないという約束をした。もしこれから一週間別段悪戯をしないなら、お父さんは俺に40円の小馬を買ってくれる筈だ。自転車を十台貰うよりもあの小馬一疋が欲しい。四十円じゃただ-見たいなもんだって、あの馬喰が言ってから、俺は毎晩あの馬の夢を見る。昼間でも時には人の顔が長く見える位だ。  一週間ぐらいは少し辛抱すれば大人しく出来る、訳はないとお島が言った。けれどもお島は女で、男の子だった試しがないから、訳がないか訳があるか分る訳がない。当てになるものか。しかし兎に角大人しくしよう。首尾能く行けばあの馬が手に入るのだから嬉しいや。そしたら馬に乗って学校へ通おう。-そうなれば決して休まない。お花さんの許へも馬に乗って遊びに行こう。明日からは日記も毎日丁寧につけよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お父さんとお母さんは今朝立った。俺は今日イチニチかなり大人しくした。  お母さんの鏡を壊したが、これはほんの過ちである。俺と忠公と部屋の中でボールをして遊んだ。ボールが能く弾まないから、お春さんのゴムグツを削ってくっ付けた。すると馬鹿馬鹿しく弾んで、つい鏡に-ぶつかったんだ。それが又跳ね返って香水の瓶をひっくり返したんだ。  床の間の天井に鼠が巣を作っている。お母さんは此れを大層気にしていた。俺は留守のうちに退治して置いてやろうと思って、天井へ登った。天井は湯殿の垂木を匍って行けば訳なく入られる。いつか大工さんが来た時見て置いた。  鼠の巣は取ったが、俺は踏み外して床の間へ落ちた。別段怪我はなかったけれど、お父さんの盆栽を折ってしまった。これは縁日へ行って買って来てやるから構わない。少し腰を痛めたから、-それからはなんにもしなかった。第イチニチは先ず成功だろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  朝は馬喰の所へ寄って、あの馬を大事にするように頼んだ。ちょっと乗って御覧なさいと言うから俺は鞄を抛り出して、アッチコッチと乗り廻した。道で先生に会ったのには弱った。それから馬喰の子と牛ごっこをして遊んだ。あの子が牛になって、俺が牛方になった。もし馬喰が知らないでいたら、あの子は可哀そうに首が締って死んだかも知れない。けれども俺のとがじゃない。向こうが無暗に引張るから悪い。俺はただ/縄の端を堅く握っていたばかりだ。  もうあなたは学校へ行ったら宜かろうと言うから俺は学校へ行った。たった三時間後れたばかりだ。  三時に家へ帰ったが、家で遊んで又何か壊すと悪いから、俺は釣りに出掛けた。いつかぶくぶくしそこなった水車のそばへ針を下ろしたが、ハヤが二匹とれたばかりだ。退屈だから俺は持って来たパンやビスケットやワッフルを食べていた。そして-もう帰ろうと思っていると、ウキンボが急に沈んだ。どうせ又カワグサか何かに引っ掛かったのだろうと思ったが、竿まで動いているから、引っ張って見ると、釣れた、釣れた、鰻が釣れた。話にすれば/鰐ぐらいな鰻だ。俺はオオ威張りで帰って来た。  道で何処かの爺さんが、 「坊ちゃん、漁があったかな」  と聞いたから、俺は鰻を見せてやった。 「やっ、これは大きなもんだ。大手柄だ」  と感心している。俺は内心得意だったけれど、 「なあにちっとも駄目ですよ」  と止せば-いいのにちょっと謙遜して見た。謙遜したものだから-もう話しが済んだと思って、ジジイは行ってしまった。もっと賞めさせるのだったに惜しい事をした。  夕御飯のあとお歌さんは客間に入った。女学校の先生が遊びに来たんだ。この先生は男の癖にチョクチョクお歌さんのところへ訪ねて来る。殊にイレメの井上さんが-こなくなってからは、足繁く遊びに来るようになった。  台所でジャムを占領して、二階へ上ろうとすると、客間のうちで汽車の破裂したような音がした。お歌さんがゴム鞠のように玄関へ跳ね出した。先生はピアノのそばに倒れている。お島もコックも駆け付けた。  何時の間にか森川さんが出て来て先生を色々と介抱した。一体何が起ったのか俺にはとんと分らない。お歌さんはまだ蝋のように白い顔をして慄えながら俺を睨んでいる。又俺のせいにする積りだな。何か悪い事があると直ぐに俺のほうへ持って来る。どうも好くない癖だ。  お歌さんがピアノを弾こうとしたら、ピアノの上に大きな蛇がいたんだそうだ。臆病者は独りで吃驚したので足らないでそばに立っていた先生に突当ったんだそうだ。 「何故こんな悪戯をします。太郎さん」  と森川さんが叱った。-もう-うちの人になった積りである。 「僕はなんにもしやしません」 「なんにもしない? それじゃピアノの上に蛇を置いたのは誰です」  俺は可笑しかった。盲腸炎が分るくせに蛇と鰻の見分けが付かないなんて随分頓馬な野郎である。 「あれは鰻です」 「鰻? 鰻ですか。フフフフフ、いや、鰻でも悪い。ピアノは鰻を置くところじゃない。あんなに脅かして-もし病気になったら-どうします」  なんだ、もうちっと病人があればいいと-しょっちゅう言っているくせに。  お春さんも森川の加勢をして、俺の事を-しょうもコリもない悪戯小僧だと言った。お島まで、お母さんが留守だもんだから、向こう組になりやがった。そして何でも蚊でも俺が悪いのにしてしまった。  -そうで御座いますよ。どうせ僕が悪いんですよ。姉さんが鰻を蛇と間違えても、先生を気絶させても、みんな僕が悪いんですよ。俺は-もう本当に家にいるのが嫌になった。  馬は-あらかた駄目になるだろう。念の為めにお島に聞いて見たら、無論駄目だそうだ。昨日折っぴしょった盆栽だけでも四五十円の損だと言った。よし、俺は最早大人しくなんかしまい。馬なんか世話が焼けて困るだろう。無いほうがいい。そのかわり明日からうんと悪戯をしてやる。 ◇。◇。◇。◇。◇。  昨日は一日’釣りに行っていた。夕方’家へ帰ると、歌さんが又怖い顔をした。 「何処へ行って遊んでたの?」 「学校から帰ってからお友達のところへ行ったの」 「嘘をおっしゃい。小使さんが何故来ないかって聞きに来ましたよ」  俺は仕方がないから黙っていた。 「本当にションない子だね」  本当にションない子だねと言われれば其れでいいんだ。大人というものはこのオハコを言いたがって、色々と罪を数え立てるもんだ。すべて小言は「本当にションない子だね」に到着する道筋と見たら大きな間違いはなかろう。  晩は賑やかなものだった。お歌さんが淋しがって-おおぜいお友達をよんだんだ。俺は言い聞かされていたから-しょっちゅう大人しくしていたが、ちょっと足を出したらお島が躓いて、盆と茶碗を抛り出した。あんな-そそっかしい女を置くと、どんなに損だか知れやしない。  夜の二時頃に大変な騒ぎが起った。泥棒が入ったといって、お歌さんが喚いた。俺もお春さんも続いて下へ降りた。お島は隣の家へ駆け付けた。 「ピストルを持っているから、うっかり上ると危ないですよ」  とコックが言った。 「なあに大丈夫です。-もう巡査が来ますから」  と隣りの書生が木刀を握って武者震いをした。お歌さんは俺の手を掴まえている。捕まえているのか捕まっているのか分らない。 「何処の部屋です。あなたの部屋ですか」 「いいえ、お歌さんのお部屋よ」 「私のネダイの下にいましたわ」  すると忠公が巡査をつれて来た。巡査は書生とコックを連れて二階へ上った。  此れから先は書くも馬鹿馬鹿しい。巡査はお父さんの長靴を提げ、書生はお父さんのフル外套を持って下りて来た。忠公が余り笑ったものだから、皆が又俺の悪戯に決めてしまった。 「此子を連れて行って下さい、毎日斯ういう悪戯をして仕様が御座いません」  なんて、お歌さんが巡査に頼んだ。お春さんとコックは頻りに巡査に謝った。俺は本当に気の毒でならなかった。ところへ、 「水野君だいぶ待ったぜ、-どうしたんだ」  と、もう一人巡査が入って来た時には俺は本当に悪い事をしたと思った。忠公は笑ってばかりいやがって、いかんヤツだ。  それで姉さん達は今日お父さんに電報を打った。-とても一週間なんてお留守番はしきれない。此上何をするか知れないから、直ぐ帰るようにと言ってやったんだ。とうとう馬は駄目になってしまった。何を約束したって、まだ貰った試しがない。何故俺はこんなに運が悪いのだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  十日ばかり前の事であった。忠公が南京鼠を呉れる約束をして置いてなかなか持って来ないから催促してやった。すると忠公はまだ子が生れないからやれない。そのかわりに他の物なら何でも上げると言訳した。俺は南京鼠なら欲しいが、他の物は貰いたくない。 「それじゃ俺のいう事を何でもするか。何でもすれば勘弁してやる」 「なんでもする。するけれどイツか見たいに汽車の線路へ油を引くのは嫌だな」 「なあにそんな事じゃない。訳もない事だ」  俺の家から十町ばかり行くと、テン岳寺というお寺がある。このジナイに義士の墓がある。その墓の入口には『ギシハカ』という大きな看板が出ている。赤地に白で書いたもんだ。俺は元から此の『ギシハカ』のハの字に濁りを打ちたいと思っていた。それで早速此仕事を忠公に言い付けた。 「白墨でもいいかい」 「白墨じゃ直ぐ消えてしまう。ペンキでなくちゃ」 「ペンキなんか無いじゃないか」 「ペンキは学校にある。此間から塀を塗り替えているから少し持って来ればいい」 「筆がない」  此野郎仕事が厭なもんで、なんでも無い無いと言う。 「筆は俺が持っている。お父さんの大きいのがある」  あの門には番人がある。それに毎日参詣人が多い。忠公は捕まるだろうと思っていたら、夕方になって成功して帰って来た。俺は此れには少し驚いた。  今日の新聞に此んな事が出ていた。 「一週間ばかり前にテン岳寺の境内を通り抜けたら、義士の墓の門札が、ナニビトの戯れか『ぎしばか』としてあった。其時は笑って過ぎたが、今日通ったら、門札は依然『ぎしばか』でいる。トの名刹を預っている当局者は此れでは余り無責任ではなかろうか。(世話焼きせい)」  無責任て一体なんの事だろう。あれはペンキだからなかなか取れやしない。新聞というものは当局者という字と無責任という字を無暗と一緒に使いたがるものだ。丁度ギュウに葱、柳に蹴鞠、ヤソにお多福、森川さんにお春さんというように、当局者と無責任を離しても離れないものと心得てるのだろう。無責任な奴だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  此頃はお父さんが大変心配している。毎日夕方になると小い新聞の来るのを待ち焦れて、其を見ては又下がったと言う。何でもカネボウが下がったのだそうだ。カネボウって何かと聞いたら、お島は株の事だといった。そんなら株ってなんだと聞いたら、お島にも分らなかった。お島は知ったか振りをする女だけれど実際はなんにも知らないんだ。此間も太陽は地球よりも大きいなんて俺と議論をした。お歌さんまで向こうの加勢をしたから俺は腹を立てて、しまいには喧嘩になってしまった。するとお春さんが太郎さんが泣くといけないから、地球が大きいにして置きなさいと言った。もしお春さんが-ああ言わなかろうものなら、人間は死んでしまわなければならない。太陽よりも小い地球に此んなに-おおぜい生きていられるものか。  それは兎に角、お父さんは此頃は忙しいから、俺の事なんか構っていられない。それで俺は-ほんとに安心している。掛け軸に悪戯書きしても、雑誌の絵を切抜いても、知らん顔をしている。なおカネボウでも株でもどしどし下がればいいと思う。  それにお春さんは着物の支度が忙しいので滅多に出て来ない。ただ-お歌さんだけが厄介者だ。何を壊してもお母さんに言付ければ直ると思っている。馬鹿で仕方がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんの家へお春さんの御用で行った。幾度往っても森川さんは俺になんにも触らせない。危ない薬があるから手をつけてはいけないと言う。けれども聴診器だけは貸して貰って書生を診察してやった。あの書生の胸はごうごういっている。妙な奴だ。そのうちに急病人が出来たというので、森川さんは書生を連れて出て行った。僕が帰るまで此椅子に坐ってじっとしているんだよと言ったから、俺は其通りにしていた。しまいには首が取れやしないかと思う程欠伸が出た。  やっと帰って来たなと思ったら、-そうじゃなかった。何処かの女中がお薬を戴きに上がったんだ。俺は何の薬が良いか知らないが、赤いヤツが滅法に綺麗だったから、その赤いのを-ついでやった。  すばらしい皮の箱があったから、大方宝石だろうと思って開けて見たら、大きなメスだった。光芒電閃/春なお-寒く光っている。さぞ能く切れるだろう。何か切って見よう。桜の木を切ったって嘘さえ-つかなければいいんだ。  ところへ又誰かやって来た。能く人の来る家だ。今度は十歳ばかりの女の子が手にトゲを刺して抜いて貰いに来たんだ。今に先生が帰るからお待ちなさいと言ったけれど、痛がってばかりいるから、俺も見るに見兼ねて療治にかかった。  ちょっとメスのさきが触ると身体を動かす。動かないようにと言っても、子供だから聞分けがない。動くと切りますよって驚かしたら、泣き出してなお動いた。早く家へ帰ってお母さんに繃帯して貰いなさいと言っている所へ先生が帰って来た。俺は困っていた所だったから早速森川さんに引渡した。  森川さんは怖い顔をした。その他に誰か来たかと聞くからお薬取りが来たと答えた。どんな人だったと言うから此んな人だったと言った。瓶は何処にあると言ったって、持って帰ったから有りゃしない。それじゃなんの薬をやったかと言うからあの赤いヤツだと答えた。「それは大変だ。間宮、お前早く行って来てくれ。」書生は火事でも始まったように飛んで行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お花さんが遊びに来た。家へふた晩泊って帰るんだそうだ。もし俺が大人しければ、一緒に連れて行って呉れる約束だ。お春は嫌な奴だ。お花さんが、 「太郎さんは-もう大人しくなったろうね。それとも相変らずかね」  と言ったら、お春は、 「ええ、大人しくなりましたとも、大人しくて大人しくて困る位ですよ」  と妙にフシを付けて言いやがった。  一体皆が俺の事を悪い悪いというワケが分らない。誰だって間違いをする。私共は神様じゃないから間違いの無い訳には行きませんて牧師さえ言っている。例えばお父さんの杖を折ったのは間違いである。その間違いを直す為めに蝙蝠傘のエを切ったばかりである。けれども巧く継げなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  学校の帰りがけに森川さんのほうへ廻った。昼過ぎは-あらかた不在だろうと思って行ったら、果して留守だった。どうせ書生はいるだろうと思っていたが、コイツもいない。下女は頻りと洗濯をしていた。俺は早速薬室へかよった。  サナダムシはどれくらい長いものかと思って、瓶の中から出して見た。三上山の百足じゃないが、全く長いものだ。部屋を一回り取巻いてもまだ余ってる。絨毯が台なしになった。  骸骨を下ろそうとしたが、なかなか出ないで困っている所へ何処かの小僧がやって来た。歯が痛いって泣き顔をしている。直ぐ直してやるから少し手伝えと言って、二人がかりで骸骨を診察室の真ん中へ持ち出した。そして歯は-いつから痛いかと聞いたら、昨日からだと言う。俺はコロロホルムを取って来て、此瓶を嗅いで見ろと言った。奴さん一生懸命に嗅いでいる。少しハンケチへ附けて行けと言っても返事をしない。もう虫歯が直ったのだろう。安心して椅子の上で寝ている。余りコロロホルムの匂いがして嫌な心持だから、俺は帰って来た。  夜になってから森川さんが怒って来た。病家廻りをして帰って見ると小僧と下女が倒れていたそうだ。下女のほうは骸骨を見て気を失ったのだそうだ。-そうだろう、棚にあるべき筈の骸骨が部屋の真ん中で椅子に坐っていれば誰だって吃驚すらあ。  営業上の妨害になるから-もう決して俺を寄越してくれるなと断って行った。お春さんが止めても怒っているから承知しない。ぷりぷりして帰って行った。森川さんは短気な人だ。  俺は無論’皆に叱られた。お花さんは-とても俺を連れて行ってくれまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  森川さんはお春さんとの婚約を取消した。姉さんは最早ご婚礼の支度を-あらかた済ましているから、今更此んな事になっては大変に損である。此れから新たに結婚の相手を捜し出すまでには或は着物も帽子も流行りに後れてしまうかも知れない。俺は黙っちゃいられない。殊に俺が此事件の元になっていて見ると、斯うノンベングラリンとしてはいられない。  事の起こりはたった猫一疋である。猫一疋の事で結婚しない前から離縁するなんて法はあるまい。誰がなんと言っても森川さんが悪いに極っている。  忠公と二人で森川さんの電気の機械をいじった。俺はなんとも無かったが、忠公は電流とかに触れて気絶した。すると森川さんは医者の家で人が-そう度々気絶しては商売に係ると言って怒った。丁度俺が森川さんの職業の邪魔をするという態度だ。俺はちっとも悪くない。悪いのはエジソンだ。誰も頼みもしないのに此んな危ない機械なんか発明したもんだから、忠公は3日もトコの中で苦しがった。それを恰も俺の咎のように言うのは聊かお門違いである。  森川さんの薬室には鼠が出て困る。現に書生の間宮が何か鼠退治の法はないかと言って、俺のごコーケンを仰いだくらいである。目に見られぬバクテリヤを征伐する癖に、あんな大きい鼠の仕末が出来ないとは余程ホコトンな野郎だ。  俺は忠公’の家の三毛を借りて森川さんのところへ行った。此猫は雌で鼻黒だから鼠を捕るのが上手だ。此のあいだなんか近所のニワトリさえ取った。最早薬室へは入らない約束だから、俺は猫を抱えて窓の所に立っていた。うちには誰もいないが鼠もいない。それで俺は三十分ばかりも待っていた。すると鼠が一疋見えたから、窓を明けて猫を入れてやった。  鼠が棚へ上ったものだから、猫も棚へ飛上って薬瓶をひっくり返した。薬室は散々になったけれども、薬室よりも散々な目に遇ったのは猫である。硫酸を浴びたものだから、苦しがって鳴きながら部屋中跳ね廻った。此物音に驚いて、森川さんは薬室の戸を明けた。猫は森川さんの顔に飛付いた。  翌朝森川さんはお父さんに会いに来た。顔は硫酸で火傷したので、三つ四つ膏薬を貼ってある。鼻は二倍程大きく膨れ上がっている。お春さんは笑い出した。むろん俺も笑った。けれども姉さんは転げるくらい笑った。森川さんはちっとも笑わない。顔が突張って笑えないんだろう。何かお父さんと話しをしてぷりぷりして帰って行った。  うちの者は皆んな俺を叱った。お春さんは其日から金魚のように何も食べないで生きている。お歌さんは寄ると触ると俺の耳を撲る。梅がえの手水鉢じゃあるまいし、俺を叩いたって森川さんが帰って来るものか。けれどもこれはひとつの悲むべき間違いにほかならない。ただ-鼠を取ってやろう、お医者さんの家にペストの子が威張って居ては不見識だと思って、全くの親切ゴコロからした事で、決してお春姉さんを一生オールドメードにしようなどという料簡から出たのではない。もしこれが悪いというなら、世の中に一つとして-いい事はあるまいと思う。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日はお春さんが又泣いた。お歌さんのお友達が二人も遊びに来て、止せばいいのに、森川さんがトミ子さんの家へ昨日も一昨日も遊びに行ったと喋った。女というものはヒヨッコのように人の顔を見るとお喋舌をしないじゃいられないと見える。  晩飯を食べながらお春さんの事を考えたら気の毒になって、六杯しか喉へ通らなかった。一つ森川さんの家へ談判に出掛けようと思ったが、間宮の野郎が玄関払いを喰わせるに決まっていると気が付いた。けれども兎に角お島に断って、俺は家を出た。  俺は料簡があるから大急ぎで歩いた。そして十分間の後にはトミ子さんの家のベルを破れるくらい鳴らしていた。  下女が出て来て俺の顔を見て笑った。失敬な奴だ。けれども今日は此んな女に構っていられないから、トミ子さんに用があると言った。 「おや、太郎さんですか」  とトミ子さんが驚いた。-そんなに驚くには当るまい。北極探検から帰って来たのじゃあるまいし。 「森川さんはいませんか」 「-そうね‥‥今晩はまだお見えになりませんよ」  と曖昧な返事をする。 「いなけりゃいなくても-いいんですが、僕は森川さんを裁判所へ訴える積りですから、-そう言って置いて下さい。猫が薬瓶をひっくり返したくらいで、ご婚礼をしないなんて法があるもんか。それは姉さんの笑ったのは無論’姉さんが悪い。悪いけれどもあの子はヒステリーですよ。ヒステリーは何でも笑います。もし姉さんが死んだら-どうしますか。-ああなんにも食べずにいればきっと死にます。僕は森川さんに決闘を申込む。ナイフも持って来た。それから僕に黙っていてくれろって頼んだ事もみんなみんな新聞へ出してやります。お春さんだって‥‥」  -いきなりうしろから俺を捕まえて、俺の口を塞いだ者がある。おやッと思う間もなく俺は抱き上げられた。 「太郎さん、謝る。喧嘩は-もう辞めにしよう」  森川さんの声だ。森川さんは俺を抱いた侭、トミ子さんに挨拶して外へ出た。 「太郎さん、もう仲良しになろうね。僕が此れから行くから’姉さんのところへ連れて行ってくれ給え」  ミチミチ森川さんは色々の事を俺に聞いた。お春さんは本当になんにも食べないかの、顔色は悪いかの、お父さんは怒っているかの、お母さんは何と言ったのとその他なお一ダースくらい質問をするので、俺は煩くてならなかった。  家へ帰ってから、俺は森川さんを客間に通した。子供のように大人しく俺の言う事を聞く。 「此椅子に坐って、右の手をテーブルの上に乗せていて下さい。直ぐに姉さんを呼んで来ますから」  森川さんは写真を写す気になって俺の言った通りにしている。-いつも斯うだといい男である。俺は早速お春さんの部屋へ駆け上がった。 「姉さん、姉さん、ちょっとシタまで来て下さいな」  お春さんは返事もしない。俯向いている。 「姉さん、いい物があるんですよ。姉さんのお好きな物が」 「いいから斯うして置いて頂戴、姉さんはなんにも見るのも聞くのも嫌なんですから」 「けれども姉さんが一番好きなものだったら-どうします。行かなけりゃ’損ですよ」 「チョコレートなんか’欲しかありません」 「そんなものじゃありません。生きてる‥‥」  戸を叩く音がした。森川さんは待ちこたえられなくって、上って来たんだ。これからあとの事は余り気の毒だから書くまい。第一森川さんの見識に関する。兎も角森川さんは取消の再取消をして、あの鼻が癒り次第お春さんと華燭の典を挙げ、琴瑟合奏とかいう音楽会を開くのだそうだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  お歌さんのところへは先生が相変らず遊びに来る。あれは文法の教師で、もう四年もお歌さんの学校にいるのだそうだ。毎日此れはパスト、プアアヘクトで御座る。此れはプレゼント、プアアヘクトで御座るなんて言ってたら、随分倦きるだろう。それで退屈だからお歌さんのところへ遊びに来るのだろうと察してはいたが、俺はどうもこの人を好かない。  並の人ならあの鰻で気絶してからは来なくなるのが当たり前だ。井上さんなんか俺が眼をつっついて見てからは死んだか生きたかさえ分らなくなってしまった。然るに此教師は全く-しょうもコリもない奴である。杖を隠しても平気で来る。今日は買いたての麦藁帽子を隠してやった。お父さんまで出て来て俺を責めたけれど俺は亀の子のように黙っていた。今頃は忠公があの帽子の中へ生れたての南京鼠を入れているだろう。親と離れるようになれば俺が2匹’貰う約束だ。 ◇。◇。◇。◇。◇。  風邪をひいて十日ばかり寝た。ただ-の風邪でないから-こんなに長くかかったのだ。忠公が悪い。忠公と釣りに行ったら忠公は游ごうじゃないかと言い出した。俺は泳ぎを知らない。だから「五月から游ぐヤツは馬鹿だ。病気になるぞ」と言って誤魔化した。けれども忠公はきかない。「5月だって六月だって游ぎたくなれば何時でも游ぐ、戦争の時にはカンのうちでも游がなくっちゃならない」と言った。俺は忠公の理窟のほうがいいと思って、仕方がないから浅い所で游いだ。忠公は何とも無かったが、俺は風邪をひいてしまった。一体なら発起人の忠公が大病になる筈だのに、拠なくて游いだ俺のほうがこんな目にあうなんて本当に馬鹿げている。世の中には斯ういう理窟の間違った事が随分多い。  今日はいよいよお春さんと森川さんの結婚式だ。お花さんの時には色々お手伝いをしてやったが、今度は病気になったので仕方がない。せめて式と御馳走とだけには出てやろう。少し喉が変だけれど、我慢すれば-あらかたの物は食べられる、などと思いながら寝ていると、森川さんとお春さんの話し声が聞える。 「もう-すっかり-いんですよ。いいけれども、なにか薬を当てがってもう一日寝かして置きましょう。又何をするか知れませんから-そのほうが安全です。-ああいう子はトコの中へ入れて置きさえすれば間違いないです」 「そうね、あなたから巧く言って置いて下さい、そうすれば私も安心ですから。けれどちっと可哀想ね」 「なあに些とも可哀想な事はない。お菓子でもやっとけばいいです」  俺は驚いてしまった。なんという恩を知らない奴等だろう。アれ程俺の世話になっていながら。人は見かけによらないもんだ。此れからは人を見たら泥棒と思うほうが、トコの中に入っているよりか間違いなかろう。お春まで一緒になって、俺を寝かして置く積りでいる。薬なんか持って来ても飲むもんか。俺のほうにも料簡がある。俺は無理に結婚式へ行ってやるから-いい。  本当に寝かして置く積りと見えて、着物を出してくれないから、俺は寝巻の上に敷布を被った。下には-おおぜい人が詰めかけているから-こんなナリをして行けば直ぐに捉まる。それで仕方なしに窓から出て、トイを伝って下りて、教会へ駆けて行った。門番のジジイが庭掃除をしていたが、スキを覗って俺は会堂に飛込んだ。まだ誰も来ていない。最早占めたもんだと思った。  説教壇のうしろに椅子が沢山列べてある。花もだいぶ置いてある。俺は椅子の下へ潜り込んだ。随分窮屈だったが、俺は息を殺して辛抱した。待って待って足が痺れ出してから、人が来始めた。-おおぜいのようだが、敷布を被っているから顔は見られない。ただ-がやがやと声だけ聞える。そのうちにオルガンが鳴って、牧師が出て来て、いよいよ結婚式が始まった。俺は足が利かなくなった。  讃美歌が済み、祈りが済み、牧師があれを読み出した時には嬉しかった。アれはなんというものか知らないが、アれの為めに俺は三時間余りも椅子の下に屈んでいたんだ。 「来会の諸君、我等が此処に集まれるは神のミマエにおいて、この男子女子をして神聖なる結婚の式を挙げしめんが為なり。-そもそも婚姻の事たる太古人まだ罪を犯さざりし時より神の制定し給えるものにて、シュ-イエスはガリラヤのカナに催されしこの縁に連なり、最初の奇蹟を以て此れを祝し給い、パウロは此れをキリストと其教会の一体なるになぞらえ、又汝ら婚姻の事を凡て貴べと教えたり。いま此二人神聖なる誓約を立て、婚姻の式を挙げんとす。諸君のうち此結婚に付き-もし道にかなわざる所ありと知る者あらば、此処において直ちに明言すべし‥‥」  身体中を耳にしていた俺は、此時に椅子を跳ねのけて踊り出た。そして斯う言った。 「道にかないません。僕は明言する。此の結婚には反対です」  満堂の諸君は大騒ぎをした。女のうちには泣き声を立てたものさえあった。多分俺を白熊かなんかと思ったんだろう。お春さんは森川さんの手を握って青くなっている。大方森川さんが逃げるだろうと心配したらしい。お父さんもお母さんもお花さんも、又伯母さんも-ただ俺の顔を睨んで黙っている。牧師は俺と森川さんを見較べて呆れている。 「弟が病気でもないのに薬をくれる。そして結婚式に出すまいとする。そんな事をするお医者は僕の兄さんになれません。僕は此結婚はいけないと思います。どうかヤメにして下さい。僕は明言します」  皆は笑った。うちの人だけは相変らず石のように黙っている。お父さんが立ちかけた時森川さんがひと足進んで斯う言った。小い声で言った。 「太郎さん、おりてください。謝る。謝るからこっちへ来て下さい。君にはとても敵わない。謝る。もう決してしないから、さあ、太郎さん、こっちへ来て下さい」 「そんならいい。牧師さん、結婚式をやって下さい。僕は寝巻ですから此処で待ってましょう」  と言って俺は又椅子の下へ這い込んだ。残りの儀式は壮麗なものだったが時々アッチコッチで来会者がくすくす笑った。馬鹿な奴だ。教会は笑う所じゃない。俺は悪い悪いと言われるけれど、まだ教会で笑ったり、ヒソヒソバナシをした事はない。  式が終ってから俺は皆と一緒に家へ帰った。お父さんもお母さんも別に何とも言わなかった。今日だけは俺のほうに理窟があるからだろう。清水さんとお花さんは俺を間に坐らせて、何でも俺に食べさせてくれた。 「太郎さんは相変らずだ事ねえ」  とお花さんがげらげら笑った。お春さんもにやにや笑った。自分達が相変ったもんだから、人まで相変るもんだと思っている。 ◇。◇。◇。◇。◇。  伯母さんは-いつか怒ったけれども、御機嫌が直ったと見えてお春さんの結婚式に来た。年寄なんて子供見たような者だそうだ。来たばかりじゃない。お春さんに上等の指輪をくれた。伯母さんの名もお春さんで、お春さんの名もお春さんだ。姉さんは伯母さんの名を貰って春とつけたのだ。それで姉さんはご婚礼のお祝に春という字の刻んである指輪を戴いたんだ。世の中は何が幸せになるか知れない。俺も春之助と名をつけて貰うとよかった。ハチマン太郎も安藤太郎も俺になんにもくれやしない。太郎なんて全く割の悪い名前だ。  伯母さんは色々の事をきく人だ。年を取って愚に返っているのだろう。大阪の伯父さんは何故腹を立てたときくのには弱った。何でも能くは知らないが驢馬がラッパを井戸へ落したり、ポチが眼鏡を食べたりしたんだと誤魔化してやった。 「姉さんはどうだえ、指輪が気に入ったようかい」 「あの、斯う言ってましたよ。どうせ伯母さんが拵えたんだから流行りには後れているって。けれども石と地金は-いいんですってね、ですから拵え直して貰うんですって」 「-そうかい、そんな事を言うのかい。此節の娘は生意気で困る」  伯母さんは別に怒りもしなかった。大阪の伯父さんよりも-よっぽど御し易い。 「伯母さんは-もう十年も頑張るんですか」 「何だえ、太郎さん」 「姉さん達が言ってましたよ。あの分ではまだ当分片付かないって、十年くらいは頑張ってるだろうって。本当に-そうですか。沢庵でも何でもぼりぼり噛むんですか、年寄の癖に?」  丁度お母さんが入って来たから俺は出て来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。  牧師が来た。あの牧師は-おかしなヤツだなあ。此年になってあの教会で結婚した者は清水さんと森川さんばかりじゃない。まだ二三人あったと覚えているが、随分妙ちきりんなヤツじゃないか、ヒトばかり結婚させて、自分はちっとも結婚しない。どういう訳だと訊いて見たら、牧師は独身に限る、独身でなければ牧師の天職は完全に果たせないと答えた。馬鹿に六ヶ敷い事をいう。けれども俺は/なるほど-そうですねと賛成して置いた。なるほど-そうだろう。もしあの牧師が結婚する段になると儀式を司る人が無くなる。天一でなけりゃ一人で新郎になったり牧師になったり出来っこない。これでアイツは独身でいるんだな。  ときどき日曜学校へでもお出でなさいと言うから、此次の日曜に行く約束をした。今度はピストルなんか持って行くまい。-そのうちに俺が隠しからドロップを出して食べたら、君はドロップが好きかと尋ねた。俺はドロップが大好きで、これはお歌さんのお手紙を持って行った駄賃で買ったんだと答えた。すると何処へ手紙を持って行ったのかと訊くから、家へ遊びに来る文法の先生のところへ持って行ったと答えた。 「-そうですか、幾度も持って行きましたか」  と今度は度数まで訊く。能く訊きたがるヤツだ。一体牧師は教える役じゃないか。 「ええ毎日のように持って行きますよ」  と俺は嘘をついてやった。 「それじゃ其先生という方は毎晩遊びに参りますか」  と牧師はまだ訊いている。 「ええ毎晩来ますとも。あの人が来るものだから、姉さんは此頃教会へ出ないんですよ」  と今度は少し本当の事を言ってやった。そしたら牧師はドロップでも買い給えと言って俺に五十銭銀貨をくれた。なかなか感心な野郎である。そして此れから家へ帰って説教の支度をしなければならぬ。日曜には姉さんと一緒に教会へ来たまえと云って、青い顔をして帰って行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公と六公とキヨが遊びに来た。雨が降って外へ出られないから、俺たちはお父さんの書斎で五目列べやハサミ将棋をして大人しく遊んだ。しまいにキヨが財産差押ごっこをしようといい出した。財産差押ごっことはどんなごっこかときいたら、大変面白いと言う。それじゃやろうと言ったら、紙はあるかと聞く。 「半紙でもいいか」 「半紙で上等だ」  俺はお父さんの机の引出しを引張り出して探したが無い。するとキヨは郵便切手を見つけて、 「こっちがいい、ハンシじゃ切らなけりゃならないから面倒だ」  と言った。どうするかと思って見ていると、キヨはお父さんの机といわず本箱といわずガクや表具にまで一枚ずつ切手を貼ってしまった。 「此んなに切手を貼ると郵便屋が持って行きやしまいか」 「大丈夫だよ。郵便箱へ入れさえしなければ大丈夫だ」  それも-そうだと思った。本箱なんか大きくて郵便箱に入り-っこないから安心だ。けれどもお父さんが帰って怒りはしまいかと思ったら心配になって来た。 「俺は嫌だぜ。お父さんが帰って来て怒ると困る」 「怒るもんか、ただ-吃驚するばかりだよ。僕んところのお父さんなんか随分吃驚したぜ。そして-もう仕方がないって言った」 「矢張り君が貼って置いたのかい」 「僕じゃない。何処かの人が来て貼ったんだよ。それから僕の家は貧乏になってしまった」  なんだか信用出来ない話だけれど、俺はお父さんをおどかす積りで心待ちに待っていた。けれどもお父さんは驚かないで、-いきなりと怒ってしまった。そして「少しも碌な真似はしない」と言って、俺は折鞄でどやしつけられた。キヨは嘘つきだ。あんな奴は今に泥棒になるだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  明日から曲馬がかかる。今日は広告を見てばかりいた。曲馬と動物園を一緒にしたようなもので、色々珍しいケダモノが来るんだ。俺も-よっぽど学問が出来るようになったと見えて曲馬の広告が半分ぐらい読める。知らない字は友達に聞いたから、今日イチニチでだいぶ新しい字を覚えた。学校でもトクホンなんか辞めて曲馬の広告を読ませればいい。児童に博物学を-おしうるの一助ともなるから、教師並びに父兄は児童にイチニチの休みを与えるように希望するとあった。本当に-いい事を希望している。  算術の時間に先生が、答えは出来ましたかと言って俺の石盤を取って見た。そしてキミには罰点を十点やると言った。俺の石盤には何時の間にか大きな象が書いてあったんだ。算術をやる積りで、曲馬の事を考えて居たのと見える。 ◇。◇。◇。◇。◇。  忠公と曲馬を見に行った。あんまりハヤすぎたので、動物のほうを見物に廻った。パンに唐辛子を入れて猿に喰わせたら、クサメをして可笑しかった。もう少しやろうとしていると、番人が来て大変怒ったから、俺達は象のほうへ行った。  象というヤツは’妙なものだ。顔の割合に目が馬鹿に細い。猿が人間の親類なら、象は鯨の兄弟分だろう。俺は大きなパンを一つくれた。これにも唐辛子が仕込んである。うまそうに食べているから、もう一つやろうと思って、そばへ寄ると、象は恩を知らないから困る。-いきなり俺を鼻で捲いて抛り出した。幸い羊が並んでいる上に落ちたので怪我はなかったが、羊は尻餅を搗いたきりになってしまった。 「怪我をしても知らないぞ」  と番人が睨めつけた、曲馬の親方も出て来て、 「危ない危ない、怪我はなかったか、運のいい小僧さんだ。ヨナのようだ」  と言った。ヨナは鯨に呑まれたんだ。象に投げられたんじゃない。此親方は聖書の智識に暗いと見える。可哀そうなものだ。  麒麟というヤツはなんだってあんな長い首を着けているんだろう。アイツに洋服を着せたら、随分ハイカラになるだろうなんて思っているうちに、忠公が鸚鵡に手を突付かれた。 「何故そんな危ない事をするんだ、怪我をしても知らないよ」と叱ってやった。忠公が怪我をすれば直ぐ俺のせいになってしまう。  曲馬は上手なもんだ。あの馬は何故-ああ能く言う事を聞くのだろう。-よっぽど稽古しなくちゃあの女のように輪の内を脱けられまい。丁度俺ぐらいの年恰好の子が親爺の頭の上で鯱立ちをしたっけ。あれくらいの事なら俺にも出来るだろう。うちのお父さんも曲馬師になれば-いいんだのになあ。けれどもそんな野心がないから仕様がない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日も俺は曲馬を見に行って、いよいよ決心した。俺は曲馬師になろう。家にいて叱られるよりか、ああいう曲芸をして褒められるほうがいい。それで俺は斯ういう計画を立てて、これから逃げる積りである。今夜の二時に曲馬の人達は出発する。どれでもいいからあの車にそっと乗り込めばいいんだ。そして-よっぽど行ってから、親方に頼んで弟子にして貰おう。一週間も習えば屹度上手になれる。すると俺が真赤な着物を着てあの馬の上で縄飛だの逆立だのする。見物人が手を叩くだろう。いま鳴ったのが十一時だな。十二、十三じゃない、十二、イチ、二、とまだ三時間ある。早く行って待ってるほうが間違いない。俺が居なくなったら、お母さんは吃驚するだろうけれどもこれも立身出世の為めとあって見れば拠ない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  曲馬の人達は出発の支度をしていた。車が沢山ならべてある。まだ荷物は何も積んでない。俺は隙’を見て、荷車の上の大きな箱の中へ入って、頭から風呂敷を被っていた。もう此れで弟子になれる積りで安心していた。  俺は多分間もなく眠ったのと見える。目が覚めた時には車が動いていた。余り車がガタピシするので目が覚めたんだろう。外を見れば星が光っている。ああもう此れでお母さんにも姉さんにもお別れかと思ったら少し悲しくなった。身体は動くし、車の音はするし、馬方が-やけに馬を叱るもんだから、なかなか寝られやしない。少しうとうとすると直ぐに目が覚めてしまう。そのうちに明るくなって来た。  一体これは何の箱だろうと思って見廻すと、俺は吃驚してしまった。3尺ばかり向こうに獅子がいた。而も俺の顔をシゲシゲと見守っている。やはり曲馬で見た時のように寝’転んで、前足の上に顎を乗せている。夜は-もう明けた。  俺はどうしようかと思った。俺が少し身体を動かすと、獅子は唸る。こっちでじっとしていれば、向こうでも黙って俺の顔を見ている。ときどき瞬きをする。今に屹度食いつくだろう。  俺は獅子にお辞儀をした。すると獅子は又唸った。仕方がないから又じっとしている。じっとしていれば矢張り黙って俺の顔を眺めている。イツ掛って来るかも知れない。本当にキミがわるい。  俺は目を瞑って、シュの祈りをした。獅子は矢張り元の姿勢である。俺は主の祈りを五、六度した。おやッと思って目を開いて見ると、獅子は俺の額を甞めていた。  気がついた時には、俺は草原へ寝ていた。-おおぜいが俺を取巻いている。俺の顔へ水を吹いていたんだ。 「あッ、喰われなかった」 「もう少しで喰われる所だったよ」  と馬方が言った。 「どうしてまあ/あん中へ入ったんだ」  と親方が感心した。それから俺は弟子になりたくて、箱の中に匿れていた事を話した。皆は大笑いをして、早くお母さんのところへ帰れと言った。 「危ない事だった。あの獅子は病気だから、昨夜あのハコに入れかえたのだ。病気でなけりゃ、お前さんは喰われてしまったろう。危ない。ヨナのような小僧さんだ」  ヨナは獅子の箱へ入りやしない。獅子の穴へ入ったのはダニエルだ。親方は何でもヨナにしてしまう。そして弟子にしてくれそうもない。それに俺は-もう家へ帰りたくなっていた所だったから、一人の子分に送って来て貰った。  俺は夕方’家へ着いた。長道をしたので、足に豆が出来ていた。うちの者はみんな喜んで俺を迎えてくれた。丁度放蕩息子が旅から帰ったようだった。  やっぱり家にいるほうがいい。お島に聞いたらお母さんは一日泣いていたそうだ。伯母さんのところへ電報を打つやら、四方八方に人を出して大騒ぎをしたそうだ。俺は-もう決して逃げたりしまい。お父さんは俺を送って来た人にお金をやってお礼をした。もう決して曲馬師にはなるまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  もうじきに暑中休みになる。忠公はナツジュウは避暑に行くんだそうだ。休みになって毎日俺と遊ぶとしまいにはどんな怪我をするかも知れないから成るだけ早く海岸へ行くんだと言った。アイツのお母さんは本当に分らずやだ。そんなに悪まれ口を利くと人に可愛がられないよ。  うちの太郎ばかり悪いんじゃないって、お母さんは言っている。忠公だって随分悪たれる。それだけれど、お母さんは人がいいから、言いたい事も黙っているんだそうだ。けれど俺は忠公と一番気が合うんだ。喧嘩する事もあるが、直ぐに仲が善くなってしまう。子供のほうが仲が善くて、お母さん同志が睨み合うなんて随分可笑しな話だ。忠公は俺に蛇の卵をくれた。五つ取って来て、俺に二つ寄越した。忠公は蝮になると保証したが、俺は青大将だろうと思っている。蝮なら占めたもんだ。なんになるか分らないから、客間のストーブの中へ隠してある。ニサン度ずつ見に行くのだが、今日は遊びに屈託していて、一遍も行って見ない。事によると孵ってるかも知れない。今日はだいぶ暑かった。  文法の先生は困るヤツだ。さっきからヘビの卵のそばに陣取って、お歌さんと話しをしている。幾度見に行っても動かない。裏の池では蛙が頻りに鳴いているが、いくら蛙が鳴いても帰りそうにない。 「竹刀を取られる所が面白いでしょう。『そら、そこで竹刀を取られたんだあね』という所が面白いでしょう」 「そこで小手も取られたんだあねですか」  と二人は-さも可笑しそうに笑っている。ちっとも面白いもんか。仕様のないヤツだ。  俺は-もう構わないと思って、つかつかと客間に入って行った。そして黙って立っていてやった。斯うでもしたら、ストーブのところをどくだろうと思ったのだが、平気で話しを続けている。何故斯う公徳心がないんだろう。本当に嫌になってしまう。  すると玄関のベルが鳴った。誰かと思って行こうとすると、姉さんは太郎さんちょっとと俺を呼止めて、斯う内命を下した。 「トミ子さんだったら留守だと言って下さいよ。早く行って御覧」  玄関にはトミ子さんがお友達を二人’連れて来ていた。姉さんはときくから、 「姉さんはお留守ですから駄目ですよ。トミ子さんなら-どうしてもお留守なんです。断りますよ。先生とお話しがあって大変忙しいんだから仕様がありません」  と断ってやった。トミ子さんは「それなら宜しく」とも言わないで友達の手を引っ張って帰って行ってしまった。  お歌さんはキチガイのようになって俺の耳を引張った。トミ子さんは評判のお喋舌だから、明日学校へ行って何と言うか知れないそうだ。先生はお歌さんの御機嫌が変ったものだから、間もなくお-いとまをした。又帽子がなくなって困っていたっけ。俺の南京鼠は巣が広くなって喜んでいる。  あの教師は-よっぽど運の悪いヤツだ。俺の家へ来て非道い目に遇い続けだ。気絶をさせられたり、杖を折られたり、帽子を忠公に持って行かれたり、どうも散々な事ばかりだ。それでも-しょうもコリもなくやって来る。本当に無神経な男だ。それだから又帽子を取られたんだあね。それだから蝙蝠傘を破かれても知らないでいるんだあね。  この間から百合子さんと百合子さんのお母さんが俺の家に泊っている。俺が悪戯をしやしまいかと思ってお母さんもお歌さんも気をつけているが、俺は百合子さんと仲良しだから決して悪い事はしない、百合子さんは俺よりか二つ年が上だ。歌さんも綺麗だが、百合子さんはまだ子供だから可愛らしい。  俺はお島に斯う言った。 「どうしたんだろうね、お島、百合子さんが僕の部屋へ入って来ると僕は胸がどきどきするくらい嬉しいんだよ。けれども出て行ったあとは何だか淋しいんだよ」  お島はくすくす笑い出した。 「何が可笑しいんだ」  と聞いてもなお笑う。笑うと撲るぞと言ってもまだ笑う。馬鹿な奴だ。そして笑いながら斯う言った。 「それは坊ちゃんが百合子さんをラブしているからですよ」 「-そうか知らん」 「-そうで御座いますとも。ラブしているもんで、百合子さんが来ると胸がどきどきするんですわ」  と又笑いやがった。俺は事によると-そうかも知れないと思った。するとお島は何処までも悪いヤツだ。 「坊ちゃん、あなた花を買って来て百合子さんに上げて御覧なさい。百合子さんがそれを受け取って顔を赤くすれば向こうでもあなたをラブしているんです」 「もし赤くしなかったらどうだろう」 「それなら坊ちゃんが失恋よ」  俺は-あらかた失恋になるだろうと思った。けれどもお島があんまり勧めるもんだから物は試しだと思って花をやる気になった。そしてお島は黙っている約束をした。もし喋ろうもんなら、此間あの藪睨みにお金をやった事をばらしてやる。  俺は早速奮発して五十銭の花を買って来て、百合子さんにやった。「アリガトよ」といったきりで百合子さんは平気な顔をしている。それ見ろ。俺はトウトウ失恋になってしまった。-もう此んな薄情なヤツとは遊ばないからいいや。お島のお蔭で五十銭棒に振ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日は煙突に火薬を詰めて破裂させた。その為めに座敷の道具がだいぶ壊れた。お父さんもお母さんも俺を叱るけれど、実際俺が悪いか-どうか、少し訳の分る人に判断をして貰いたい。  六公’の家へ遊びに行ったら、六公は素敵に立派なアルバムを見せた。何処で買ったときいたら、去年のクリスマスに貰ったんだそうだ。それもサンタ・クロウスに貰ったというから珍らしいや。  去年のクリスマスに俺はおとうさんからもお母さんからも色々贈り物を戴いた。けれどもサンタ・クロウスは俺に何もくれなかった。サンタジジは俺の家へ寄るのを忘れたのだろうか。六公’の家へ来て俺の家へ寄らない筈はない。アイツの家と俺の家は物の三町と離れていない。そればかりでなく忠公は確かにサンタ・クロウスを見たと言った。尤もアイツは大人しくないから何も貰わなかった。サンタ・クロウスは俺の家へも来たに相違ない。来たんだけれど、煙突が狭くて入れなかったのに決まっている。アれでは全く子供でもハイれやしない。  それでクリスマスにはまだ半年もマがあるけれど、今からシタクをして置くほうがいいと思って、俺は煙突を壊したのだ。もしこれが悪いと言うなら、クリスマスの支度をするのはみんな悪かろう。斯ういう理窟も知らないで、ただ-頭から叱ればいいと思っている。それよりか早く左官屋を呼んで来て、一間四方’ぐらいの煙突を-こしらえればいいんだ。手を火傷したり叱られたり本当に馬鹿馬鹿しい。 ◇。◇。◇。◇。◇。  朝から頭痛がして喉が苦しくて困った。それで学校は休む事にした。多分ジフテリヤだろうとお母さんはお薬をくれた。少し様子を見て-もし悪いようなら森川さんを呼ぶ積りだった。けれども九時頃には-すっかり直ってしまったから俺は遊びに出掛けた。  忠公を誘ったら、お母さんが出て来て、怖い顔をしながら、忠坊は頭痛がして喉が苦しくって寝ていると言った。まるで俺の咎のようだ。それにしても忠公は仕様のないヤツだ。もう九時過ぎている。約束を守らないと信用がなくなるぞ。  それで仕方がないから俺はお春さんの家へ行った。遊びにお出で位の事を言ってもバチは当るまいに、お春さんも森川さんもよくよくな人だ。恐らくは天地が崩れてもそんな事は言わない積りなのだろう。  けれども思ったよりお春さんは-よくしてくれた。お菓子でも何でもドシドシ出してくれる。けれどもどうしたのか、姉さんは森川さんと余り口を利かない。変だと思って、後で間宮君に尋いて見ると、今朝先生と奥さんが衝突したんだそうだ。 「着物の事で奥さんが怒ったのです」 「-そうだろう、きっと-そうだ」 「きっと-そうだって、太郎さん能く知ってますね」 「あの子は着物が気に入らないと直ぐ怒るんです。家にいた時から-そうです」  と俺は大人らしく呑み込んだ返事をしてやった。此書生は勉強家だけあって、頗る精密な研究的態度を持って、森川さんとお春さんを監視しているようだ。  大きなナリをして子供らしい奴等だ。それでお春さんは-あんなに俺を-よくしたんだな。可愛がられるのもいいが、面当てに可愛がられるんじゃ一向ありがたくもなんともない。 ◇。◇。◇。◇。◇。  俺はこの夏もう少しで死にそうな目に遇った。目に遇ったと言うと、人がしたように聞えるが、矢張り自分で仕出かした事で、今度だけは誰にもかずける事が出来ない。もし俺があの時あの侭死んでしまったら、お母さんはどんなに歎いたろう。それを思い出すと今でも涙がこぼれる。  夏じゅうはお父さんとお母さんに連れられて旅行をした。お母さんは大きい姉さん二人を片付けるのと、お歌さんの縁談とで、くさくさしている上に、俺が獅子と逃げたり、風船へ乗って行方知れずになったりして、余計な苦労を掛けたものだから、少し健康を傷めた。それでお父さんが夏じゅう旅行をしたら宜かろう、俺が連れて行くと申出た。至極結構な思いつきだと言って俺が賛成したけれど、賛成のしぞんをした。お歌さんと俺が留守居をするのだそうだ。人を馬鹿にしている。  けれども世の中はよく言う通り何が幸せになるものだか分らない。お歌さんは俺と一緒じゃ-とてもお留守番は引受けられませんと御免蒙った。これはもっともである。姉さんは一度で懲り懲りしている。けれども斯うお出でになるとは思いがけなかった。それでだんだん話しがうまくなって来たと喜びながら、俺は庭で鯱立ちをしていた。すると其処へポチが駆けて来て俺の頭を甞めた。友達だと思っていやがる。 「ポチ、ポチ、大人しくしろよ。お前も一緒にナイヤガラへ連れて行ってやるぞ」  ポチは嬉しそうに尻尾を振った。犬の癖に人間の言葉が分るなんて生意気だから一つ頭をぶってくれた。  出発の日は7月の何日だったか忘れてしまったが、なんでも夜の明けないうちであった。森川さんとお春さんが停車ジョウまで見送りに出ていた。うちからはお歌さんとお島が来た。皆なお父さんとお母さんには御機嫌善く行って来いと挨拶して、俺には大人しく行って来いと言った。俺なんか御機嫌が悪くても-いいと思って居るんだろう。それだからあんな危ない目に遇ったのだ。 「太郎さん、-そう停車ジョウ毎におりちゃ困るじゃないかね。危なくてちっとも目が離せません」 「いえ、ポチがどうなったかと思って見に行ったんですよ。早く夜が明けなくちゃ暗くて見えやしない」 「ポチをどうしたと言うの」 「ポチを連れて来たんですよ」 「連れて? 何処に入れてあるんです?」 「一番後ろの車へ-ゆわえてあるんですよ」  お母さんは顔色をかえて、 「あなた、大変ですよ、汽車を止めて下さい」  とお父さんに頼んだ。 「何だ。どうしたんだ」 「早くベルを鳴らして下さい、早くしないと死んで仕舞いますよ」  俺は非常報知機の紐をうんと引張った。汽車は今迄全速力で走っていたが恐ろしい音を立てて急に止った。乗客はみんな青くなった。何か椿事が起ったと思ったのだろう。  お母さんは車掌に頼んで一番後ろの車を見て貰った。けれども汽車を止めるには及ばなかったのだ。ポチは-もういやしない。俺が車の心棒に結び付けた細縄の端には犬の耳が片方ついていたばかりだ。ポチには-ほんとに気の毒である。一緒に見物をさせてやりたいばかりに飛んだ事をしてしまった。 「あんな大人しい犬はなかったのに」  とお母さんが泣きそうになった。 「お前のような馬鹿はない」  とお父さんが俺を叱った。車掌は俺を食いそうな顔をしやがった。  俺が車の中をアッチコッチ遊んで歩くものだから、お母さんは一日心配していた。それで日が暮れると直ぐに、俺はネダイへ押し込められてしまった。けれどもなかなか寝られやしない。  俺の隣のネダイにいる奴が鼾をかいてやかましくて仕方がない。お前一人の寝台車じゃないんだから大人しくしなくっちゃいけないよ。静かにしないと酷いよ。なんと言っても平気でゴオゴオいっている。公徳心のないヤツだ。  俺はあんまり腹が立ったから、そっと起き出して、ソイツの足をピンでつっついてやった。突いた時だけは大人しくするが、少し経つと又直ぐに始める。それで俺は五、六度寝たり起きたりした。すると終には痛い痛いと大きな声を出した。鼾だけでも随分迷惑しているのに、泣くなんて本当に聞分けのないヤツだ。けれども其からは懲りたと見えてゴオゴオいわなくなった。  -そのうちに俺は喉が渇いた。水を持って来いといえば係りの男が持って来るだろうけれど、人を呼んだりしては人の安眠の妨害になると思って、俺はそっと起きて水を飲みに行った。  鼠のように静かに帰って来て、トコに這込むと、キャアッという叫び声と共に俺はネダイから突き落された。「あれえ、誰か来てくださいッ。」係の人が駆け付けて-いきなり俺の胸倉を捕まえた。そしてマエウシロに無暗と小突き廻す。俺を埃の着いた外套と間違えたんだろう。俺のネダイには何処かの奥さんが泣いている。この騒ぎで車中の人はみんなみんな目を覚ました。お父さんとお母さんは頻りに此奥さんにお詫をした。奥さんは俺を子供じゃないと思ったのだそうだ。俺もあの奥さんのネダイじゃないと思ったんだ。  お母さんは旅行にコないとよかったなどとお父さんに言っていた。けれども其翌日俺達はナイヤガラに着いてしまったから仕方がない。あんな目にあう位なら俺も本当に旅行になんか行かないとよかった。  滝は大きなものである。数マイル離れてもその響きが遠くで雷の鳴るように聞える。滝のところには-しょっちゅう虹が吹いているから頗る奇観である。虹のほかにも此近辺には見るものが多い。滝には4面ある。即ち外側、ウチガワ、内側は水のうしろを-くぐって見物出来る。それからなおカナダ側とアメリカ側がある。地理書にはこの滝の光景が出ているけれども、其雄大壮厳の趣は-とてもペンやインキで伝え難い。もし天一のような奇術師がこの滝を大きなガラス玉に入れて世界中を見世物興行して歩くなら、さぞ受ける事だろう。子供が地理や地文を覚えるのに幾らの助けになるか知れやしない。けれども馬車屋の法外なのには誰も驚く。お父さんは滝よりも馬車賃の高いのに一驚を喫したと言った。尤も見世物には馬車なんかつれて行かなくてもいい。滝だけを其侭缶詰か何かにして持って行けば仔細なかろう。  俺の着いた日にはフランスの軽業師がこの滝の上で綱渡りをする所だった。お母さんはあれは気違いだと言ったが、一向キ印らしくもない。見た所大人しそうな人である。俺とお父さんは其芸当を見物に行く。けれどもお母さんは労れてはいるし、そんな危ない物は見るのも嫌いだから、俺をお父さんに預け、片時も目を離してくれるなと頼んで、ご自分だけ宿屋に引取った。  フランス人はこの滝の上を綱で渡るという。両手に英米の国旗を持っている。落ちれば大変だ。全くイノチがけの仕事である。けれどもあの男は落ちやしまい。落ちた所でそのまま死にはしまい。きっと鯉になるだろう。鯉になって今度はナイヤガラの滝に登るだろう、などと思っていた。  見物人はヤンヤと喝采している。フランス人はアれ此れと支度に手間取った末、斯う申し出た。誰か私に負ぶさって行くものはないか。大丈夫だ。首尾よく行けばその人の名誉は全世界に轟く。万一間違いがあれば五百円罰金として進呈する。行く人はないか──さてこれは考えものだと俺は思った。  あの軽業師と一緒に向こうまで行けば全く名声を四海に轟かす事が出来る。首尾能く行けば太郎石鹸、太郎ムスク、太郎カラ──などが出来て、俺は随分持て囃されるだろう。万一間違いがあったにしても五百円進呈すると言うんだから、大した損はない。幸いお父さんは思いがけない友達に会ったので、俺のほうはお留守にして、頻りに話しをしている。俺は連れて行ってくれと軽業師に頼んだ。  すると軽業師は大層俺を賞めて、旗を持たせてくれた。「目を-つぶってるんですよ。しっかりとね。何もかも私に任せて安心してればいい。家で蒲団の上に寝ている気でいればいい。下に滝があるなんて思っちゃいけない。宜うがすかね」  悪い時には悪いもので、巡査がやって来て俺を掴まえた。 「滅法界もない。両親は何処にいます」  多分お父さんを小児虐待の罪に問う積りらしかった。するとお父さんは飛んで来て、フランス人を怒鳴りつけた。もし巡査が止めなかったら、或はぶん殴ったかも知れない。俺は本当に損をしてしまった。  ナイヤガラにいる間は-もう一秒時も俺のそばを離れられない、これでは苦労を求めに旅行をしたようなものだとお母さんが愚痴を零した。お母さんは膠のように俺に-くっついている。少しも目を離さない。俺は本当に弱ってしまった。  翌日は歌さんへのお土産を買ったりして、俺達は山羊の島を見に行った。名は山羊の島でも、山羊なんか一疋もいやしない。けれども此辺の流れの急なのには実に一驚を喫した。見ていても目が眩むようだ。早くハヤくと水と水とが押合う為めか、水面に一種の燐光が漂って物凄い。急に寒くなった。お母さんは俺をギュッと捕まえている。幾ら無鉄砲でも、此んな所へ飛び込むものか。飛び込みはしないが、水の速さを計る為めに、ハンカチを放り込んで見た。  ところへ何処かの奥さんが来て、お母さんと話しを始めた。やはり見物に来たんだ。御大層ななりをしている。狆をだいている。此狆の胸掛けは百合子さんのリボンと同じ物だと思いながら、俺は狆の目を突っついてやった。 「笑いませんか」  と奥さんが振返った。チンは嚏をするかも知れないが、笑って堪るものか。 「坊ちゃん、狆がお好きですかね。少し抱いてやって下さい。私は手が疲れました」  と奥さんが俺に狆を抱かせてくれたから、俺は直ぐに水の中へ抛り込んでやった。  奥さんはキチガイのようになって泣いた。子のようにしていた者を殺されたと言って、今にも狆の後を追って飛込もうとする。無分別な人だ。お父さんが抱き止めるようにして、お母さんがお詫をして漸く騙した。泣き顔して帰って行ったが、あれは屹度ヒステリーになったろう。水は一秒に一マイルは確かに走る。狆のお蔭で此事実を発見した。すべて科学は犠牲によって進歩発達するものだと先生が言っているじゃないか。  宿屋へ帰ってお昼を食べた。あの宿屋では何故こんな魚を出したんだろう。俺が死にそうな目に遇ったのは-つまり宿屋の咎だ。それをお父さんが、これは珍らしい魚だ、この辺でなければとれない名物だと言ったのも可なり悪い。俺は御飯を食べながら魚を釣りに行く決心をしてしまった。  食事が済んでからお母さんは昼寝をなさる。そのあいだ大人しく此処で本を見ているようにと言付けられたから、俺は素直に本を読み始めた。空は青い。日は能く照っている。家にいるのは勿体ない。俺は大きな声で読んでもお母さんはすやすや眠ってたから、-もう宜かろうと思って、窓から廊下へ出、廊下から外へ飛下りた。途中で釣の道具を買い揃えて、俺は-なるべく水の静かな所に陣取って、釣りを始めた。ニサン箇所試したが、流れが早いからなんにも釣れない。それで俺はだんだん上のほうへ行った。水車のあるところで鈎を下ろしていると、小いボートが岸にあるのに気が付いた。誰も見ていないから、俺はこのボートを借りて、向こう岸へ行こうとした。  が少し漕ぎ出すと、俺は釣竿を流してしまった。これは困ったと思うマに流れの力が強いものだから俺はオールを取られてしまった。同時に船はどんどん流され始めた。それが追々早くなって、さっきの狆の赤リボンを思い出した時には、白状するが、俺は泣き出した。今度は科学どころの沙汰でない。そしてお母さんのそばで大人しく本を見ていれば宜かったと思ったけれど、もう晩い。  ボートは廻りながら流れる。岸では人が-おおぜいで大声を揚げて騒いでいる。けれども俺は急流の真ん中にいるのだから、-どうしたくてもしてくれようがない。-そのうちに俺は眉間が痛くなって、目を瞑った。これからはきっと親のいう事を聞くから助けてくれるようにと祈りをした。そしてもう直ぐに滝だろうと思って舟の中に突っ伏して泣いた。  大きな音がして、俺の身体が前にのめった時、俺は最早死んだ積りでいた。けれども岸で人の呼ぶ声がするので、起きて見た。舟は止っている。岩の上に乗上げて壊れている。 「しっかりつかまっていろよオ」 「岩につかまっていろよオ」  岸には人が一杯だ。けれどもどうする事も出来ない。ただ-しっかりしろ、しっかりしろと言う。  日は-もう間もなく暮れるだろう。  学校で習ったトクホンに斯ういう物語が出ている。或る河へ赤ん坊が滑り落ちて流れて行く。母はキチガイのようになって、助けを呼びながら、岸伝いに追い駆けて行く。岸には-おおぜいの人が測量をしていたのだけれど、ただ-あれあれと言うだけで、誰一人’助けに行く者がない。行かないんじゃない。行けないんだ。その川は非常に急流だから、命を棄ててかからなけりゃ、とても飛込めないんだ。赤ん坊は見す見す見殺しになる所だった。ところが命を棄てる気で飛込んだ青年がある。彼は若い測量師である。命を投げ出してやる仕事に失敗はない。彼は美事に赤ん坊を助けた。此若き測量師とは後日アメリカの大統領になったジョージ・ワシントンである。同僚の測量師は川へ飛込まなかった罰で、ワシントンが大統領になった頃には多分ドカタか何かになっていたろう。  あの時飛込みもしないで岸に騒いでいた奴はドカタになればいいんだ。もしあのとき命を捨てる気で泳いで来ればソイツは屹度大統領になれたろう。惜しい事にはワシントン程度胸の据わった奴は一人もいなかった。  それは兎に角其時は俺は悲しかった。お母さんが見える。お父さんもいる。お母さんは頻りにハンケチを振っている。俺は泣いた。お母さん堪忍して下さい、みんな僕が悪いんです、堪忍して下さい、と俺は泣いた。泣いたって-とても助からない事は承知していた。ただ-堪忍して貰って死のうと思ったんだ。お母さんは-やっぱりハンケチを振っている。お父さんは見えなくなった。 「たすけに行くぞう」 「しっかりつかまってろう。待っていろう」  何でどうしたのか、皆は向こう岸まで凧糸を射た。すると向こう岸の人が其を手繰る。凧糸に太い綱を結んで、又手繰る。とうとう俺の頭の上から両岸へ掛けて、綱の一本橋が出来た。 「じっとしていろう、直ぐに行くぞう」  俺は訳もなく助けられた。フランスの軽業師が綱を渡って来て、俺を紐オブイにした。 「安心して何もかも私に委せるんですよ。目を瞑って、じっとしてね」  と言った。俺は岸に着くまでは何があったか、少しも知らなかった。ただ-目がめり込みはしないかと案じられる位しっかり目を瞑っていた。それで皆が「万歳万歳」と喝采した時には、いま考えて見ると-もう岸に着いていたんだ。  何とも言えない騒ぎであった。俺はお母さんの手につかまって、わいわい泣いた。お父さんは二十年前に分れた弟に逢ったように、軽業師の手を取って嬉しがっている。見物人は芝居でも見るように感嘆している。俺達はひと先ず宿屋に帰った。  お父さんは軽業師に五百円の小切手をやった。そしてお母さんと二人がかりで、色々と俺に言い聞かせた。あの危ない所から遁れたのに、其晩早々叱るなんてあんまり恩を知らない仕打だと思う。俺だってあんな事になる積りでしたのじゃない。ただ-魚を釣って来てお父さんを喜ばせる積りで出掛けたんだ。宿屋であんな魚を出したのと、お父さんがそれを褒めたのと、あんな所へボートを置いた奴が悪いんだから、俺は叱られたって何とも思いはしない。ただ-新しいナイフを落してしまったのが残念だった。  翌日俺達はナイヤガラを去った。もうもう此んな所へは決してこないとお母さんが言った。俺達は田舎の親戚へ廻って、其処で夏じゅう暮らした。-そのうちに色々な事があったけれど、-もう日記帳の紙がなくなったから、それは新しいのを貰ってから書く事にしよう。お歌さんは相変らず俺の耳を引張る。けれども間もなく銀行の人と結婚するから構わない。お島も相変らず-そそっかしい。粗相をすると何時でも俺にかずける。此んな事は気にはかけないが、大臣にならないうちに学校を退校されそうだ。此ればかりが心配でならない。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「佐々木邦全集1◇ いたずら小僧日記◇ 珍太郎日記◇ 親鳥子鳥」講談社】 【   1974(昭和49)年10月10日第イッサツ】 【   1975(昭和50)年11月4日第3サツ】 【入力:特定非営利活動法人はるかぜ】 【校正:芝裕久】 【2020年4月28日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpsコロン//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。