【ジャン・クリストフ】 【第二巻《ダイニカン/》 朝】 【ロマン・ローラン】 【豊島与志雄訳】 【第一章】 【ジャン・ミシェルの死】  三か年過ぎ去った。クリストフは十一歳になりかけている。彼はなおつづけて音楽の教育を受けている。フロリアン・ホルツェルについて和声《ハーモニー》を学んでいる。これはサン・マルタンのオルガニストで、祖父の友人であったが、いたって学者で、クリストフが最も好んでいる和音、やさしく耳と心とをなでてくれて、それを聞けばかすかな戦慄が背筋《セスジ》に走るのを禁じえない種々の和声《ハーモニー》は、いけないもので禁じられてるものだと教えてくれる。クリストフがその理由を尋ねると、規則で禁じられてるからという以外には、彼はなんとも答えない。クリストフは生来わがままな子だから、そういうものがなおさら好きになる。人に崇拝されてる大音楽家の作品中にその実例を見出すのを喜びとして、それを祖父か教師かのところへもってゆく。すると祖父は、大音楽家の作品中ではかえってりっぱになるのであって、ベートーヴェンやバッハなら何をしても構わないと答える。教師の方《ほう》はそれほど妥協的でないから、機嫌を悪くして、それは彼らの作品のうちのいいものではないと苦々しく言う。  クリストフは音楽会や劇場に|はい《入》ることができる。どの楽器でも鳴らすことを覚えている。すでにヴァイオリンにかけてはりっぱな腕前をもっている。父は管弦楽隊中の一席を彼に与えてもらおうと考えついた。クリストフはりっぱにその役目を勤めたので、数か月の見習の後《のち》、宮廷音楽団の第二ヴァイオリニストに公然と任命された。かくて彼は自活し始めてゆく。それも早過ぎるわけではない。なぜなら、家の事情はますます悪くなっているから。|メルキオル《メルキオる》の放縦はいっそうはなはだしくなっていたし、祖父は年《-とし》をとっていた。  クリストフは悲しい情況をよく承知している。彼はもう大人じみた真面目な心配そうな様子をしている。彼は職務にほとんど興味を見出《見い出》していないけれども、また晩には奏楽席で眠くなることもあるけれど、勇気を出してやってのけている。芝居からはもはや、昔の小さい時のような感興を与えられない。まだ小さかった時──四年以前──彼の最上の望みは、今のその席を占めることであった。ところが今では、ひかせられる音楽の大部分は嫌いである。まだそれらの音楽にたいする批評をまとめあげるほどではないが、しかし心の底では、馬鹿らしいものだと思っている。そして偶然りっぱなものが演奏される時には、人々の愚直な演奏に不満を覚《おぼ》ゆる。彼が最も好きな作品も、ついには管弦楽団の仲間の人たちに似寄《似通》ってくる。彼らは、幕が降《-お》りて、吹き立てたり引っかき回したりすることを終えると、一時間体操でもしたかのように、微笑しながら汗を拭いて、つまらないことを平然と語り合うのである。彼はまた、昔の恋人を、素足の金髪の歌女《+ウタイメ》を、すぐ眼の前に見かける。幕間に食堂でしばしば出会う。彼女は以前彼から想われたことを知っていて、喜んで抱擁してくれる。けれど彼は少しも嬉しくない。その臙脂や、香りや、太い腕や、貪食やで、厭になっている。今ではたいへん嫌いになっている。  大公爵はその常任ピアニストを忘れてはいなかった。といって、この肩書にたいして与えられる僅少な給料が、正確に支払われたというのではない──毎度それを請求しなければならなかった──しかし、時々、宮邸に著名な賓客がある時や、また単に、大公爵夫妻が演奏を聞きたいと思いつく時に、クリストフは宮邸に伺候するようにとの命令を受けた。たいてい晩のことで、クリストフが一人きりでいたいと思う時刻だった。彼は万事を投げ出して大急ぎで行かなければならなかった。時とすると、晩餐がまだ済んでいないので、控室に待たされることもあった。従僕らは彼を見慣れていて、親《した》しげに話しかけた。それから彼は、鏡と燈火がいっぱいの客間に案内された。そこで彼は、様子ぶった人々から、癪にさわるほどじろじろ眺められた。大公爵夫妻の手に接吻しに行くために、蝋引きしすぎたその室《部屋》を横ぎらなければならなかった。彼は大きくなればなるほどますます無作法になっていた。なぜなら、自分が滑稽なような気がして、自尊心が傷つけられるのだったから。  それから彼はピアノについた。そして馬鹿者《馬鹿モノ》ども──そう彼は賓客らを判断していた──のために演奏しなければならなかった。そして時々、周囲の人々の無関心さに不快を感じて、楽曲の真中《まんなか》でぴたりとやめたいほどだった。まわりに空気が不足していた。窒息するかと思われた。演奏が済むと、うるさくお世辞を言われ、一人一人《一人ひとり》に紹介された。大公爵の動物園の中の珍しい動物のように人々から見做されてる、と彼は考え、賛辞は自分へよりもむしろ大公爵へ向けられてる、と考えていた。自分がいかにも卑しめられたような気がし、病的なほど邪推深《邪推ぶか》くなって、それを態度に示し得ないだけになおさら苦しんだ。ちょっとした他人《-タニン》の挙動にも、侮辱を見てとった。客間の隅で笑ってる者があれば、自分についてだと考えた。そして嘲られてるのは、自分の様子か、服装か、顔付か、足か、手か、いずれともわからなかった。すべてが屈辱の種《-たね》となった。話しかけられなくても、話しかけられても、子供みたいにボンボンをもらっても、みな屈辱を感じた。とくに、大公爵が大様な無頓着《無トンチャク》さで、彼の手に金貨を握らして帰《かえ》してやる時に、彼はひどく屈辱を受けた。貧乏なのが、貧乏らしく取扱われるのが、悲しかった。ある晩、家へ帰る途中、もらって来た金《カネ》を非常に重苦しく感じて、通りがかりにある穴倉の風窓へそれを投げ込んでしまった。けれどもすぐ後《あと》で、賤しい真似をしてそれをまた拾い取らなければならなかった。なぜなら、家では肉屋に数か月分の借りがあったから。  家の人々は彼のそういう自尊心の苦しみにほとんど気づかなかった。彼らは彼にたいする大公爵の愛顧に歎喜していた。人のいいルイザは、宮廷における貴顕社会の夜会に出ることが、息子にとってはこの上もなく晴れやかなことだと思っていた。|メルキオル《メルキオる》は、それを友人ら相手にたえず自慢話の種《-たね》としていた。しかし最も嬉しがっているのは祖父だった。独立独歩と、不平家《不平か》気質《キシツ》と、偉大にたいする軽蔑とを、彼はよく装っていたけれども、しかも富や、権勢や、名誉や、社会的優越にたいして、質朴な賛嘆の情をもっていた。彼が無類《-むるい》の誇りとなすところのものは、そういう優越を有してる人々に孫が近づくのを見ることだった。あたかもその光栄が自分の上にも光被してくるかのように楽しんでいた。そしていくら平然と構えていようとしても、顔が輝いていた。クリストフが宮邸へ行った晩には、いつもジャン・ミシェル老人は、なんらかの口実を設けてルイザのところに留《とどま》っていた。子供らしくやきもきしながら、孫の帰りを待っていた。そしてクリストフがもどってくると、何気ないふうでまず彼に言葉をかけた。つまらない問いのこともあった。 「どうだい、今夜はうまくいったかい。」  あるいは、わざとらしい遠回しの言葉のこともあった。 「さあクリストフ坊やのお帰りだ、何か珍しいことを話してくれるだろう。」  あるいは、おだてるためのうまいお世辞のこともあった。 「家《イエ》の若様、おめでとう!」  しかしクリストフは、むっとして苛立っていて、ごく冷やかに「今晩は!」と一言《-ひとこと》挨拶を返すばかりで、隅の方《ほう》へ行って口をとがらすのであった。老人はしつこく言い寄って、いっそう明《あか》らさまな問いをかけたが、子供はただ|はい《ハイ》とかいいえとか答えるばかりだった。他の者もいっしょになって、種々こまかなことを尋ねだした。クリストフはますます顔をしかめた。むり強《+じ》いに返事をさせなければならなかった。しまいには、ジャン・ミシェルはじれて腹をたてて、侮辱的な言葉を発した。クリストフはあまり敬意のこもらない言葉で言い返した。そしてついには露骨な反感となった。老人は扉をばたりとしめて帰って行《-い》った。かくてクリストフは、それらあわれな人々の喜びをそこなってしまうのだった。彼らには彼の不機嫌なわけが少しもわからなかった。彼らは従僕的な魂の者であるとはいえ、それは彼らの罪ではなかった。自分らと異なった気質《キシツ》の者もいるということを彼らは思いもつかなかった。  クリストフは自分自身のうちに沈潜していった。そして家の者らを批判しなくても、自分と彼らとを隔つる溝渠《+ミゾ》を感じていた。彼は確かにそれを誇張して見ていたであろう。たとい思想は異なっていても、彼がもしうち明けて話すことができたら、おそらく彼らから理解せられたかもしれない。しかしながら、親と子とが最もやさしい愛情をたがいにもってる時でさえも、両者の間の絶対の親和ほどむずかしいものはない。一方では、敬意があるので、心の中をうち明けようという勇気がくじかれる。他方では、年齢と経験とにおいて優ってるというしばしば誤った考えがあるので、大人の感情と時としては同じくらいに興味深くそしてたいていはより多く真摯である子供の感情を、十分《充分》の真面目さで見ないようになる。  クリストフが家で見かける来客や、耳にする会話などは、なおいっそう彼と家の者との間を遠ざけた。  |メルキオル《メルキオる》の友人らがよくやって来た。多くは管弦楽の楽員らで、酒飲みで独身者だった。悪い人々ではなかったが、野卑な人々だった。その笑声《笑い声》や足音で室《部屋》が揺れるかと思われた。音楽を愛していたが、たまらないほどの愚昧さで音楽のことを語っていた。その感激の露骨な卑しさは、子供の感情の純潔さをひどく傷つけた。彼らがそうして彼の好きな作品をほめると、彼は自分が凌辱されたような気がした。彼は堅くなり、蒼くなり、冷酷な様子をし、音楽に興味をもたないふうを装った。できるならば音楽を嫌いたいほどだった。|メルキオル《メルキオる》は彼のことをいつもこういうふうに言っていた。 「此奴《+コイツ》には心がない。何《なん》にも感じない。だれの気質《キシツ》を受けたのかな。」  時とすると彼らは、ドイツ歌謡をいっしょに歌い出した。四部合唱《シブ合唱》の──四脚の──唄で、彼らにそっくり似寄《似通》っていて、馬鹿げた崇厳さと平板な和声《ハーモニー》とをもって重々しく進んでいった。そういう時クリストフは、いちばん遠い室《部屋》に逃げ込んで、壁に向かってののしっていた。  祖父もまた友人をもっていた。オルガニスト、家具商、時計商、バスひきなど、饒舌《-じょうぜつ》な老人たちで、いつも同じ冗談をくり返し、文芸や、政治や、あるいは土地の者の血統などについて、尽きることのない議論を戦わした──それも、話し合ってる話題の興味より、むしろしゃべることが嬉しく、話し相手を見出《見い出》したことが嬉しくて。  ルイザの方《ほう》は、ただ数人の近所の女たちに会うきりだった。彼女らは界隈の噂話をしていった。またまれには、ある「親切な奥様」に会うこともあった。その婦人は、彼女に同情してるという口実のもとに、次の晩餐会の手伝《手伝い》を約束しに来たり、子供らの宗教教育に勝手な干渉をしたりした。  すべての訪問客のうちで、テオドル伯父ほどクリストフに厭なものはなかった。それは祖父の義理の子で、ジャン・ミシェルの最初の妻であるクララという祖母《-そぼ》が、初めの結婚に設けた子であった。彼はアフリカや極東と取引をしてる商館に|はい《入》っていた。新しいドイツ人《-じん》の一つの型《タイプ》を具えていた。そういう型《タイプ》のドイツ人《-じん》らは、民族性たる古い理想主義を嘲って、それを脱却するようなふうを装い、また戦勝に酔って、力と成功とにたいし、自分らがそれをもちつけないことを示す一種の崇拝心《崇拝しん》をいだいている。けれども、一国民の古来の性質を一挙に変化せしむることは困難であるから、押えつけられた理想主義は、言葉や、態度や、精神上の習慣や、家庭生活の些細な行為に引用せられるゲーテの言葉などのうちに、たえず現われ出していた。良心と功利との独得な混合であり、古いドイツ中流社会の主義の正直さと、新しい雇用店員階級の卑しさとを、たがいに一致させんための不思議な努力であった。この混合こそ、かなり嫌悪すべき偽善の匂いをもたざるをえないものであった──なぜなら、それはドイツの力と貪婪と利益とをもって、あらゆる権利と正義《-せいぎ》と真理《-シンリ》との象徴だとするにいたったから。  クリストフの公正な心はそれに深く傷つけられた。伯父が正当であるかどうかを彼は判断することができなかったけれども、伯父を忌み嫌い、伯父のうちに敵《-テキ》があるのを感じていた。祖父もやはり伯父の意見を好まないで、それらの理論にたいして反感をいだいていた。しかし彼は議論になると、テオドルの快弁にすぐ言い伏せられた。老人の寛大な純朴さを嘲弄するのは、テオドルにとっては容易なことだった。ジャン・ミシェルもついには、自分の人の善さが恥ずかしくなった。そして人が考えてるほど時代おくれでないことを示すために、テオドルと同じようなしゃべり方をしようと努めた。けれども口の中でうまく調子がとれなくて、自分でも当惑していた。そのうえどういう考え方《-かた》をしていても、いつもテオドルに威圧されていた。老人はたくみな処世術にたいして尊敬を感じていて、自分にまったくできないことだと知ってるだけに、いっそうそれを羨んでいた。孫のうち一人くらいはそういう地位に立たしてやりたいと夢想していた。|メルキオル《メルキオる》もまた、ロドルフをその伯父と同じ道に進ませるつもりだった。それで家じゅうの者は皆《-ミンナ》、種々な世話を期待して、その金持ちの親戚につとめて媚《-こび》を呈していた。向うでは、自分がなくてならない者であることを見て取り、それに乗じて優者らしく振舞っていた。彼は万事に干渉し、万事におのれの意見をもち出して、芸術や芸術家にたいする頭《-あたま》ごなしの軽蔑を隠さなかった。否《いな》むしろそれを看板にして、この音楽家ばかりの親戚の一家を侮辱して喜んでいた。各人《カクジン》について悪い冗談ばかり言っていた。それをまた人々は卑屈にも笑い興じていた。  とくにクリストフは、伯父の嘲弄の的《+マト》となっていた。そして彼は我慢強くなかった。厭な様子をして、黙って歯をくいしばった。伯父はそのむっと口をつぐんでるのを面白がった。ところがある日、食事の時テオドルから法外にいじめられると、クリストフは我《吾》を忘れて、彼の顔に唾を吐きかけた。それはたいへんなことだった。異常な侮辱だった。伯父は初めはっとして黙った。次に口を開《-ひら》いて悪罵を浴《あび》せかけた。クリストフは自分の仕業にぞっとして、椅子の上に堅くなり、雨と降ってくる拳固を受けても感じなかった。しかし伯父の前に引据えて跪かせようとされた時、彼は暴れだし、母をはねのけ、家の外《-そと》に逃げ出した。息がつけなくなってからようやく野《-の》の中に立止《立ち止ま》った。遠くに自分を呼ぶ声が聞えていた。相手を河に投込《投げ込》むことができないとすれば、自分でそこに飛び込んだがましかもしれない、と彼は考えてみた。野《-の》の中で彼は夜を明した。黎明のころ、祖父の家へ行って戸をたたいた。老人はクリストフが見えなくなったことを非常に心配していたので──その夜一睡もしていなかった──彼を叱るだけの勇気もなかった。彼はクリストフを家に連れて行《-い》った。家の者もわざとなんとも言わなかった。彼がまだやはり激昂《ゲッコウ》状態にあるのがわかったのである。そして彼を大目に見てやらなければならなかった。なぜなら彼は宮廷の晩の演奏に出ていてくれたから。しかし|メルキオル《メルキオる》は、皆《-ミンナ》の恥になるようなつまらない奴《-やつ》らにも、みごとな生活やりっぱな態度の見本を示してやろうと、いかに骨を折ってるかということを、ぐずぐず訴えて──それもとくにだれに向かって言うのでもないようなふうを装って──数週間の間、クリストフを厭がらした。そして伯父のテオドルは、往来でクリストフに出会うと顔をそむけ鼻をつまんで、深い嫌悪の情をありったけ見せつけた。  彼は家の者から同感されることが少なかったので、できるだけ家にじっとしていなかった。皆《-ミンナ》が自分に押しつけようとするたえざる拘束に苦しんでいた。その理由を議論することも許されないで、ただ尊敬しなければならないような、人間や事物があまりたくさんあった。しかもクリストフは尊敬心《尊敬しん》をもっていなかった。人々が彼を訓練してドイツの善良な市民に育てあげようとすればするほど、ますます彼は束縛を脱したがった。彼の楽しみとするところは、退屈な容態ぶった我慢できない音楽会を、劇場の奏楽席やまたは宮廷で過ごした後《あと》、子馬のように草の中に転がったり、新しいズボンのまま芝生の斜面を滑り降《-お》りたり、近所の悪戯児《+イタズラッコ》らと石合戦をしたりすることだった。けれどそうしばしばやるわけではなかった。それも叱られたり殴られたりするのが恐いから控えていたのではなくて、仲間がないからであった。彼は他の子供らと調子よく交わることができなかった。街頭の浮浪少年らさえ彼といっしょに遊ぶことを好まなかった。なぜなら彼は、遊びにも本気になりすぎて、あまりひどく打ち回ったからである。そして彼は同じ年|ごろ《頃》の子供たちから離れて、一人|黙然《モく念》としがちになっていた。彼は遊戯の下手《-へた》なのが恥ずかしくて、皆《-ミンナ》の仲間に|はい《入》るだけの元気もなかった。そして面白くないようなふうを装いながらも、人から誘ってもらいたくてたまらなかった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼は憂鬱な気持になって、冷淡な様子で遠ざかっていた。  彼の慰安は、叔父のゴットフリートが土地にいる時、いっしょに歩き回ることだった。彼はますます叔父に接近していって、その何物にもとらわれない気質《キシツ》に同感していた。どこにもつなぎ止《-と》められないで勝手に放浪することのうちに、ゴットフリートが見出《見い出》していた喜びを、今では彼もよく理解していた。しばしば彼らはいっしょに、夕方、野《-の》の中を、あてもなく、ただまっすぐに歩いて行った。そしてゴットフリートはいつも時間を忘れていたから、よく遅くもどって来ては叱られた。皆《-ミンナ》が眠ってる間に、夜分にそっとぬけ出すのも、また楽しみだった。ゴットフリートはそれを悪いと知っていたが、クリストフはむりに強請《+セガ》んだ。ゴットフリートもその楽しみを制することができなかった。夜半《ヤハン》のころ、彼は家の前にやって来て、約束どおりの口笛を吹いた。クリストフは着物を着たまま寝ていた。寝床から滑りぬけ、靴を手に取った。息を凝らしながら、野蛮人のような狡猾さで四《よ》つ這《+ば》いになって、往来に向かってる台所の窓のところまでやって行《-い》った。そこにあるテーブルの上に上《-のぼ》った。向《むこ》うからゴットフリートが、彼を肩に受け取った。そして二人は、小学校の子供のように喜びながら、出かけてゆくのだった。  時とすると彼らは、ゼレミーを捜しに行くこともあった。ゼレミーは漁夫で、ゴットフリートと仲良しだった。三人は月の光《-ひかり》を頼りに、その小舟に乗って走った。櫂からしたたる水は、ささやかな琶音《アルペジオ》や半音階を奏した。乳色の靄が河の面《+オモ》に揺れていた。星がふるえていた。鶏が両岸で鳴きかわしていた。時とすると、月の光《-ひかり》に欺かれて地《-ち》から舞い上《-あ》がった雲雀の顫律《トリロ》が、空《-そら》の深みに聞えることもあった。皆黙っていた。やがてゴットフリートはある歌の節《+フシ》をごく低く歌った。ゼレミーは動物の生活の不思議な話をきかした。簡単な謎のような調子で言われるので、なおその話が不思議に思われた。月は森の後ろに隠れてしまった。一同は丘陵の仄暗い段々に沿って進んだ。空《-そら》と水との闇が溶け合っていた。河には波の襞もなかった。あらゆる物音が消え去っていた。舟は夜の中を滑っていった。いや、滑っているのか、浮かんでいるのか、じっと動かないでいるのか?……葦は絹ずれのそよぎで開《-ひら》いていった。音もなく岸についた。地《-ち》に降《-お》りて、歩いて帰った。夜明けにしかもどらないこともあった。いつも河の縁《ふち》をたどった。麦穂のような緑色や宝石のような青色をした白銀魚《白銀ウオ》の群《群れ》が、黎明の光《-ひかり》にうごめいていた。パンを投げてやると、むさぼるように飛びついてきて、メデューサの頭《-あたま》の蛇みたいに動き回った。パンが沈むに従って、そのまわりに降《-お》りていって、螺旋状に回り、次には、光線のようにすっと消えてしまった。河は薔薇色と葵色との反映に染められていた。小鳥は次から次へと眼をさましてきた。彼は急いで帰っていった。出かける時と同じように用心をして、空気の重苦しい室《部屋》にもどり、寝床に|はい《入》った。クリストフは眠気がさして、野《-の》の匂いの沁みたさわやかな身体のまま、すぐに眠るのだった。  かくて万事うまくいった。だれにも少しも気づかれなかった。ところがある日、弟のエルンストが、クリストフの抜け出すことを言いつけてしまった。それ以来、抜け出すことを禁ぜられ、監視された。それでも彼はやはり抜け出していた。他のどんな連中よりも、小行商人《しょう行商にん》とその友人らとの方《ほう》が好きであった。家の者らは外聞にかかわると思った。|メルキオル《メルキオる》は彼に下賤な趣味があるのだと言っていた。ジャン・ミシェル老人は彼がゴットフリートを慕ってるのを妬んでいた。そして、優良な社会に接し高貴な方々《-かたがた》に仕えるの名誉をもってるのに、そういう卑しい人々と交わって喜ぶほど身を落すのはよくないと、いろいろ説いてきかした。クリストフには気品がないのだと人々は思っていた。  |メルキオル《メルキオる》の放縦と遊惰とにつれて家計の困難はつのってきたけれど、ジャン・ミシェルがいる間は、どうかこうか生活してゆけた。ただ彼一人が、|メルキオル《メルキオる》に多少の威力をもっていて、ある程度までその堕落を引止めていた。また彼が受けてる世間の尊敬は、酔漢《+ヨイドレ》の不品行を他人《-タニン》に忘れさせるのに役だたないではなかった。また彼は一家の貧しい暮しを助けてくれた。彼は前音楽長として受けていたわずかな年金のほかに、なお音楽を教えたりピアノの調律をしたりして、いくらかの金額を手に入《-い》れていた。そしてその大部分を嫁のルイザに与えた。彼女は自分の困窮を、いくら彼の眼に入《い》れまいとしても隠しきれなかった。老人が自分たちのために不自由をしてるかと思うと、彼女はやるせなかった。老人はいつも豊かな生活になれていて、欲望が強《つよ》かっただけに、そう思われるのも無理はなかった。が時とすると、その犠牲《-ギセイ》の金《カネ》でも十分《充分》でないことがあった。ジャン・ミシェルはさし迫った負債を払ってやるために、大事な道具や書物や記念品などを、秘密に売り払わなければならなかった。|メルキオル《メルキオる》は父がひそかにルイザへ補助を与えてるのに気づいていた。そしてしばしば、なんと拒まれてもそれに手をつけることが多かった。ところが老人はふとそれを知って──苦労をつつみ隠してるルイザの口からではなく、孫の一人の口から──聞き知って恐ろしく立腹した。そして二人の間には、ぞっとするような光景が演ぜられた。二人ともなみはずれて気荒かった。すぐにひどい言葉を言い合いおどし合った。今にも殴り合いが始まるかと思われた。しかし憤怒《フンヌ》の最中《-さいちゅう》にも、押《押さ》うべからざる尊敬の念が常に|メルキオル《メルキオる》を制していた。そして酔っ払ってはいたが、父から浴《あび》せられる侮辱的なののしりや叱責のもとに、ついに頭《こうべ》を垂れてしまった。それでもやはり、またせしめてやろうと次の機会をねらうのであった。ジャン・ミシェルは将来のことを考えながら、きたるべき悲しいことどもをはっきりと感じた。 「かわいそうな子供たち、」と彼はルイザに言っていた、「もしわしがいなくなったら、皆《-ミンナ》どうなるだろう。……でも幸いとわしは、」とつけ加えながらクリストフの頭《-あたま》をなでた、「この子がどうにかやってくれるようになるまでは、まだ達者でおられるだろう。」  しかし彼は見当違いしていた。彼はもう生涯の終りに達していた。そしてまただれもそれに気づかなかった。彼は八十歳を過ぎてるのに、髪の毛もそろっており、まだ灰色の毛の交《-まじ》った白い頭髪はふさふさとして、濃い頤髯《+アゴヒゲ》には真黒な毛筋も見えていた。歯は十枚ばかりしか残っていなかったが、それで強く噛みしめることができた。食卓についた様子を見ると心強かった。頑健な食欲をもっていた。|メルキオル《メルキオる》には飲酒を非難していたが、自分は盛んに飲んでいた。モーゼルの白葡萄酒をとくに好んでいた。そのうえ、葡萄酒も、ビールも、林檎酒も、すべて神の創り出した逸品ならなんでも、それを賞美する術《+スベ》を心得ていた。そして杯《さかずき》の中に理性を置き忘れるほど思慮に乏《とぼ》しくなかった。適度にとどめていた。とはいえその適度というのがまた多量で、もっと弱い理性ならその杯《さかずき》の中に溺れるだろうということも、真実だった。彼は足が丈夫で、眼がよく、疲労を知らない活動力を具えていた。六時にはもう起き上《-あ》がって、細心に身仕舞《身じまい》をしていた。礼儀に注意し体面を重んじていたからである。家の中に一人で暮していて、みずから万事をやってのけ、嫁に手出しされることをも許さなかった。室《部屋》をかたづけ、コーヒーの支度をし、ボタンをつけ直し、釘を打ち、糊張りをし、修繕をした。シャツ一枚になって、家の中を上下に往き来し、アリアに歌劇《オペラ》の身振りを伴わせて、響きわたる好きな低音《バス》で、しきりなしに歌っていた。──その後《あと》で、彼は出かけた、どんな天気にも。自分の用件を一つも忘れず果しに行《-い》った。しかし時間を守ることはいたって少なかった。知人と議論をしたり、顔を見覚えてる近所の女に冗談を言つ《っ》たりしてるのが、街路の方々《ほうぼう》で見られる。愛くるしい若い女と古い友人とを、彼は好きだったのである。そういうふうにして道で手間取って、決して時間を頭《-あたま》においていなかった。けれども食事の時間を通り過すことはなかった。人の家に押しかけて行って、どこででも食事をした。自宅にもどるのは、長く孫たちの顔を眺めた後《あと》、晩に、夜になってからだった。寝床に|はい《入》ると、眼を閉じる前に、古い聖書の一《イッ》ページを寝ながら読んだ。そして夜中に──一二時間《イチニじかん》以上は眠りつづけることができなくなっていたから──起き上《-あ》がって、時おり買い求めた歴史や神学や文学や科学などの古本を、どれか一冊取上げた。そして手当たりしだいに、面白かろうと、退屈しようと、よくわからなかろうと構わずに、一語もぬかさず、いくページかを読むのであった……また眠気がさしてくるまでは。日曜日には、教会の礼拝式に行き、子供らと散歩をし、球《+マリ》遊びをした。──かつて病気にかかったことがなかった。ただ足指《あしゆび》に少し神経痛の気味《キミ》があって、聖書を読んでる最中《-さいちゅう》に、夜を呪うことがあるばかりだった。その調子でゆくと、百年くらいは生き存えられそうに思われた。また彼自身も、百歳を越せないという理由を少しも認めていなかった。百歳で死ぬだろうと人に予言されると、天意による恩恵には制限を付すべきものではないと、世に名高いあの高齢者と同様なことを考えていた。彼が老いてゆくのを認められるのはただ、ますます涙もろくなることと、日《ひ》に日《ひ》に怒《おこ》りっぽくなることばかりだった。ちょっとした我慢がしきれずに、狂気《キチガイ》じみた憤怒《フンヌ》の発作を起こした。その赭《+赤》ら顔と短い頸《+クビ》とが真赤になった。恐ろしく口ごもって、息がつけないで言いやめなければならなかった。旧友でありまたかかりつけである医者が、自分で用心をするように彼に注意し、憤怒《フンヌ》と食欲とをともに節するように注意を与えていた。しかし彼は老人の癖として頑固で、ますます不節制をして虚勢を張っていた。医学と医師とを嘲っていた。死をひどく軽蔑してるふうを装って、少しも死を恐れていないと言い切るためには、長々と弁じたててやめなかった。  ごく暑い夏のある日、たくさん酒を飲んでおまけに議論をした後《あと》、彼は家に帰って、庭で働きだした。彼は地《-ち》を耕すのが好きだった。帽子もかぶらず、日《ひ》の照る中で、まだ議論のために激昂《ゲッコウ》したまま、疳癪まぎれに耘《+うな》っていた。クリストフは書物を手にして、青葉棚《アオバダな》の下《-した》にすわっていた。しかし彼はほとんど読んでいなかった。蟋蟀の眠くなるような鳴声に耳を貸しながら、夢想に耽っていた。そしてなんの気もなく、祖父の動作を見守っていた。老人はクリストフの方《ほう》に背中を向けていた。背をかがめて、雑草を取っていた。すると突然、すっくと立上り、両腕を空《+クウ》に打振《打ち振》り、それから一塊《ヒトカたまり》の物質のように、地面へ俯向けにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。クリストフはちょっと笑いたくなった。ところがなお見ると、老人は身動きもしなかった。彼は呼びかけ、そばに駆けつけ、力の限りゆすぶった。恐ろしくなった。そこにかがんで、地面にぴったりついてるその大きな頭《-あたま》を、両手でもち上げようとした。頭《-あたま》は非常に重かったし、彼はぶるぶる震えていたので、やっとのことで少し動かせるばかりだった。けれども、血のにじんだ真白な引きつけてる眼を見た時、彼は恐ろしさのあまりぞっと寒くなった。鋭い叫び声をたてて頭《-あたま》を取落《取り落と》した。駭然《+蓋然》と立上《立ち上》がって、その場を逃げ、表《-おもて》に駆けだした。叫びまた泣いていた。往来を通りかかった一人の男が、彼を引止めた。彼は口もきけなかった。家の方《ほう》を指し示した。男は家に|はい《入》っていった。彼もその後《あと》についていった。近所の人々も、彼の叫び声を聞いてやって来た。間もなく庭は人でいっぱいになった。彼らは花をふみにじり、老人のまわりに頭《-あたま》をつき出して、皆一度に口をきいていた。二三《ニサン》の人々が老人を地面からもち上げた。クリストフは入口に立止《立ち止ま》り、壁の方《ほう》を向き、両手で顔を隠していた。見るのが恐かった。しかし見ないでもおれなかった。人々の列がそばを通りかかった時、彼は指の間から、力なくぐったりしてる老人の大きな身体を見た。片方の腕が地面に引きずっていた。頭《-あたま》は運んでる人の膝にくっついて、一足《ひとあし》ごとに揺れていた。顔はふくれあがり、泥まみれになり、血がにじんで、口を開《-ひら》き、恐ろしい眼をしていた。彼はふたたび喚きたて、逃げ出した。何かに追っかけられてるかのように、母の家まで一散に駆けていった。恐ろしい叫び声をあげて、台所に飛び込んだ。ルイザは野菜を清めていた。彼は彼女に飛びつき、自棄《+ヤケ》に抱《-だ》きしめて、助けに来てくれるようにたのんだ。すすり泣きのために顔がひきつって、口もろくにきけなかった。しかし最初の一言《-ひとこと》で彼女は了解した。顔色を失い、手の物を取り落し、なんとも言わないで、家の外《-そと》へ駆け出していった。  クリストフは一人《ひとり》残って、戸棚にとりすがっていた。彼はまだ泣きつづけていた。弟どもは遊びに耽っていた。彼にはどういうことが起こったのかはっきりわからなかった。祖父のことを考えてはいなかった。先刻見た恐ろしいありさまのことを考えていた。そしてまた無理やりに、それらのさまをふたたび見せられはす《ス》まいか、あの処《ところ》へ連れもどされはすまいかと、びくびくしていた。  そして、夕方になって、他の子供たちが、家の中であらゆる悪戯《+いたずら》をして倦《+あ》いてしまい、退屈で腹がすいたと駄々をこねだしたころ、果して、ルイザはあわただしくもどって来、子供らの手を取り、祖父の家へ連れて行《-い》った。彼女はごく早く歩いた。エルンストとロドルフとは、いつもの癖でぐずぐず言おうとした。しかしルイザは黙ってるようにと言いつけた。その言葉の調子に、彼らは黙ってしまった。本能的に恐怖を感じた。家に|はい《入》りかけた時、彼らは泣き出した。まだすっかり夜にはなっていなかった。夕日の名残りの光《-ひかり》が、扉の押《押し》ボタンや、鏡や、|ほの《仄》暗い広間の壁にかかってるヴァイオリンなどに、異様な反映を見せて、家の中を照らしていた。しかし祖父の室《部屋》には、蝋燭が一本|とも《灯》してあった。その揺《ゆら》めく炎は、消えかかった蒼白い明るみとぶつかって、室《部屋》の重々しい薄闇をいっそう沈鬱になしていた。|メルキオル《メルキオる》が窓のそばにすわって、声をたてて泣いていた。医者が寝台の上に身をかがめていたから、そこに寝てる者の姿は見えなかった。クリストフの胸は張り裂けるばかりに動悸していた。ルイザは子供たちを、寝台の足下《-あしもと》に跪かした。クリストフは思い切って覗いてみた。その午後の光景を見た後《#あと》のこととて、いかにも恐ろしい何かを期待していたので、一目《ひとめ》見ると、むしろ心が休まったほどだった。祖父はじっとしていて、眠ってるように思われた。クリストフはちょっと、祖父が回復したのだという気がした。しかしその押しつけられたような息遣いを聞いた時、なおよく眺めて、倒れた傷跡が大きな紫色の痣になってる脹れた顔を見た時、そこにいる人は死にかかってるのだとわかった時、彼はふるえだした。そして、祖父の回復を念ずるルイザの祈祷をいっしょにくり返しながら、彼は心の底で、もし祖父がなおらないものなら、もう死んでしまっていてくれるようにと祈った。これから起こるべき事柄を怖じ恐れていた。  老人は倒れた瞬間からすでにもはや意識を失っていた。ただ一時《いっとき》、ちょうど自分の容態がわかるだけの意識を回復した──それは痛ましいことだった。牧師が来ていて、彼のために最後の祈祷を誦していた。老人は枕の上に助け起こされた。重々しく眼を開《-ひら》いた。その眼ももはや意のままにならないらしかった。騒がしい呼吸をし、訳《-わけ》がわからずに人々の顔や燈火を眺めた。そして突然、口を開《-ひら》いた。名状しがたい恐怖の色が顔付に現われていた。 「それじゃ……」と彼は口ごもった、「それじゃ、わしは死ぬのか!」  その声の恐ろしい調子が、クリストフの心を貫いた。その声はもう永久《えいきゅう》に彼の記憶から消えないものとなったのである。老人はそれ以上口をきかなかった。幼児のように呻いていた。それからふたたび麻痺の状態に陥った。しかし呼吸はなおいっそう困難になっていた。彼はぶつぶつ言い、両手を動かし、死の眠りと争ってるようだった。半ば意識を失いながら、一度彼は呼んだ。 「お母さん!」  なんと悲痛な光景ぞ! クリストフのような子供ならいざ知らず、この老人が、臨終の苦しみにおいて自分の母を呼びかけるそのつぶやき──母、そのことを彼は日ごろかつて口にしたこともなかったのである。終焉の恐怖の中における窮極のしかも無益なる避難所!……彼は一瞬間《イッシュンカン》落着いたように見えた。なお意識の閃きを示した。瞳があてもなく揺いでるように思われるその重い眼が、恐さにぞっとしてる子供に出会った。眼は輝いた。老人は微笑もうと努め、口をきこうと努めた。ルイザはクリストフを抱《-だ》いて、寝台に近づけた。ジャン・ミシェルは唇を動かした。そしてクリストフの頭《-あたま》をなでようとした。しかしすぐにまた昏迷に陥った。それが最後であった。  人々は子供たちを次の室《部屋》へ追いやった。しかしあまり用が多くて彼らに構っておれなかった。クリストフは恐さにひかれて、半開きの扉の入口から、老人の悲壮な顔を偸見《+ヌスミミ》ていた。枕の上に仰向《+アオムケ》に投げ出されて、首のまわりをしめつけてくる獰猛な圧縮に息をつまらしてる顔……刻々に落ちくぼんでゆく顔貌……ポンプにでも吸われるように、全存在が空虚のうちに沈み込んでゆく様……そして忌わしい臨終のあえぎ、水面で破《+さ》ける泡にも似たその機械的な呼吸、魂がもはやなくなっても、なお頑固に生きんとつとめる肉体の最後の息吹き。──それから、頭《-あたま》は枕から滑り落ちた。そしてすべてがひっそりとなった。  数分の後《のち》、嗚咽と祈祷と死の混雑との中に、子供が真蒼《+マッサオ》な顔をし、口を引きつらし、眼を見張り、扉のハンドルを痙攣的に握りしめてるのを、ルイザは見つけた。彼女は走り寄った。彼はその腕の中で、神経の発作に襲われた。家に連れて行かれた。意識を失った。寝床の中で気がついた。ちょっとの間|一人《ひとり》置きざりにされていたので、恐怖のあまり声をたてた。新たに発作が起こった。また気を失った。その夜と翌日いっぱいとは、熱に浮かされたまま過ごした。それから心が落着いて、二日目の夜は、深い眠りに落ち、次の日の昼ごろまで眠りつづけた。室《部屋》の中をだれか歩いてるような気がし、母が寝床の上に身をかがめて自分を抱《-だ》いてくれてるような気がした。遠い静かな鐘の音が聞えるように思った。しかし身を動かしたくなかった。夢の中にいるようだった。  彼が眼を開《-ひら》いた時、叔父のゴットフリートが寝台の足下《-あしもと》に腰掛けていた。クリストフはぐったりしていて、何《なん》にも覚えていなかった。次に記憶が蘇ってきて、泣き始めた。ゴットフリートは立上《立ち上》がり、彼を抱擁した。 「どうした、坊や、どうした?」と彼はやさしく言っていた。 「ああ、叔父さん、叔父さん!」と子供は彼にすがりついて泣声《泣き声》でうなった。 「お泣きよ、」とゴットフリートは言った、「お泣きよ!」  彼も泣いていた。  クリストフは少し心が静まると、眼を拭いて、ゴットフリートを眺めた。ゴットフリートは彼が何か尋ねたがってるのを覚った。 「いや、」と彼は子供の口に指をあてながら言った、「口をきくもんじゃない。泣くのはいい、口をきくのはいけない。」  子供は承知しなかった。 「無駄だよ。」 「ただ一事《+ヒトコト》、たった一つ……。」 「なんだい?」  クリストフは躊躇した。 「ああ、叔父さん、」と彼は尋ねた、「あの人は今どこにいるの?」  ゴットフリートは答えた。 「神様といっしょにおられるよ。」  しかしそれはクリストフが尋ねてることではなかった。 「いいえ、それじゃないよ。どこにいるのさ、あの人は?」 (肉体の意味であった。)  彼は震え声でつづけて言った。 「あの人はまだ家の中にいるの?」 「けさあの人を葬《ほうむ》ったよ。」とゴットフリートは言った。「鐘の音を聞かなかったかい?」  クリストフは安堵した。が次に、あの大事な祖父にもう二度と会えないかと考えると、また切なげに涙を流した。 「かわいそうに!」とゴットフリートはくり返して言いながら、憐れ深《ぶか》く子供を眺めた。  クリストフはゴットフリートが慰めてくれるのを待っていた。しかしゴットフリートは無駄だと知って慰めようともしなかった。 「叔父さん、」と子供は尋ねた、「叔父さんは、あれが恐くはないのかい?」 (彼はどんなにか、ゴットフリートが恐がらないことを望んでいたろう、そしてその秘訣を教えてもらいたかったことだろう!)  しかしゴットフリートは気がかりな様子になった。 「しッ!」……と彼は声を変えて言った。 「どうして恐くないことがあるものか。」と彼はちょっとたって言った。「だが仕方はない。そうしたものだ。逆らってはいけない。」  クリストフは反抗的に頭《-あたま》を振った。 「逆らってはいけないのだ。」とゴットフリートはくり返した。「天できめられたことだ。その思召を大事にしなければいけない。」 「僕《-ぼく》は大嫌いだ!」とクリストフは憎々しげに叫んで、天に拳《+コブシ》をさし向けた。  ゴットフリートは狼狽して、彼を黙らした。クリストフ自身も、今《いま》自分の言ったことが恐ろしくなって、ゴットフリートといっしょに祈り始めた。しかし彼の心は沸きたっていた。そして卑下と忍従との言葉をくり返しながらも、一方心《一方こころ》の底にあるものは、呪うべき事柄とそれを創り出した恐るべき「者《もの》」とにたいする、嫌悪と激しい反抗との感情のみであった。  新しく掘り返されて、底にはあわれなジャン・ミシェル老人が放置されてる土の上を、昼は過ぎ去り、雨夜は過ぎてゆく。その当座|メルキオル《メルキオる》は、いたく嘆き叫びすすり泣いた。しかし一週間も過ぎないうちに、彼の心からの大笑いをクリストフは耳にした。故人の名前を面前で言われると、彼の顔は伸びて悲しい様子になる。しかしすぐその後《あと》で、彼はまた活発に話しだし身振りをやりだす。彼はほんとうに心を痛めている、しかし悲しい感銘の中にとどまっていることができないのである。  消極的で忍従的なルイザは、何事をも受けいれると同様に、その不幸をも受けいれた。彼女は日ごとの祈祷に添えて、も一つ祈祷をしている。几帳面に墓地へ行き、あたかも家事の一部ででもあるかのように、墓の世話をしている。  ゴットフリートは、老人が眠ってる小さな四角《しかく》な地面にたいして、非常にやさしい注意を向けている。その地《-ち》へもどって来る時には、何か記念になる物や、自分の手でこしらえた十字架や、ジャン・ミシェルが好んでいた花などをもって来る。決してそれを欠かすことがなく、しかも人知れずするのである。  ルイザは時々、クリストフを墓参《墓参り》に連れてゆく。花や木の無気味な飾りに覆われてるその肥えた土地、さらさらした糸杉の香気に交って日向《-ひなた》に漂ってる重々しい匂いが、クリストフはひどく嫌いである。しかしその嫌悪の情を口には出さない。卑怯のようでもあり不信のようでもあって、気がとがめるからである。彼はたいへん不幸である。祖父の死がたえずつきまとっている。彼はずっと以前から、死とはどんなものであるか知っていたし、それを考えては恐がっていた。しかしまだかつて実際に見たことはなかったのである。だれでも初めて死を見る者は、まだ死をも生《-せい》をも、少しも知っていなかったことに気づく。すべては一挙に揺り動かされる。理性もなんの役にもたたない。生きてると信じていたのに、多少人生の経験があると信じていたのに、実は何《なん》にも知っていなかったことがわかり、何《なん》にも見ていなかったことがわかる。今まで幻のヴェールに、精神が織り出して眼を覆い、現実の恐ろしい相貌を見えなくする幻のヴェールに、すっかり包まれて生きていたのである。頭《-あたま》にもってた苦悩の観念と、実際血まみれになって苦しむ者との間には、なんらの連結もありはしない。死の考えと、もがき死んでゆく肉と霊との痙攣との間には、なんらの連結もありはしない。人間のあらゆる言葉、人間のあらゆる知恵は、ぎごちない自動人形の芝居にすぎない、現実の痛ましい感銘に比べては。──泥と血とで成った惨めな人間、いたずらな努力を尽して生命《イノチ》を取り止《と》めようとしても、生命《イノチ》は刻々に腐爛してゆく。  クリストフはそのことを、夜昼となく考えていた。臨終の苦悶の記憶に追っかけられ通《どお》しだった。恐ろしい呼吸の音が耳には聞えていた。自然がすべて変わってしまった。氷のような靄が自然を覆ってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。その破壊の「力」の拳《+コブシ》の下《-した》にあって、どうにも仕方がないことが、わかっていた。しかしそういう考えは、彼を圧倒するどころか、かえって憤激と憎悪とに燃えたたした。彼は少しも諦め顔をしなかった。不可能に向かってまっしぐらに突進していった。額《-ひたい》を傷つけようと、自分の方《ほう》が弱いとわかろうと、さらに意に介しないで、苦悩にたいし反抗することを少しもやめなかった。それ以来彼の生涯は、許すべからざる「運命」の獰猛さにたいするたえざる争闘となった。  彼の心に纏綿してくる考えは、ちょうど生活の困苦のためにそらされた。ジャン・ミシェル一人で引止めていた一家の零落は、彼がいなくなるとすぐにさし迫ってきた。クラフト一家の者は、彼の死とともに、生活のたよりを大半失ってしまった。貧苦が家に|はい《入》ってきた。  |メルキオル《メルキオる》がそれをなおひどくした。彼は縛られてた唯一の監督から解放されると、いっそうよく働くどころか、まったく不品行に身を任してしまった。ほとんど毎夜のように、酔っ払ってもどって来、稼いだものを少しももち帰らなかった。それに稽古口もおおかた失っていた。ある時、まったく泥酔の姿をある女弟子の家に|現わ《現》した。その破廉恥な行ないの結果、どの家からも追い払われた。管弦楽団の間では、父親の追懐にたいする敬意からようやく許されていた。しかしルイザは、今にもふしだらをして免職になりはす《ス》まいかと、びくびくしていた。すでにもう彼は、芝居の終るころようやく奏楽席にやって来た晩なんかは、解職すると言っておどかされていた。二三度《ニサンど》は、やって来ることをまったく忘れたことさえあった。それからまた、無茶なことを言ったりしたりしたくてたまらなくなる馬鹿げた興奮の場合には、どんなことでもやりかねなかった。ある晩なんかは、ワルキューレのある幕の最中《-さいちゅう》に、自分のヴァイオリン大協奏曲《大コンセルト》をひきたいと考えついた。それを止《や》めさせるのに皆《-ミンナ》で大骨折《オオ骨折り》をしたほどだった。また、開演中に、舞台の上や自分の頭《-あたま》の中に展開する面白い光景に魅せられて、突然大笑いをすることもあった。そして彼は一同の慰み物になっていた。そしてその滑稽のゆえに、多くのことを大目に見過ごしてもらっていた。しかしそう寛大に見られるのは、厳酷な取扱いを受けるのよりもなおいけないことだった。クリストフにはそれが恥しくてたまらなかった。  子供は今や管弦楽団の第一ヴァイオリニストとなっていた。|メルキオル《メルキオる》が浮々《ウキウキ》した気分でいる時には、それを監視したり、時によっては補助してやったり、あるいは無理に黙らしたりすることに、気を配っていた。それは楽なことではなかった。そしていちばんいいのは、まったく父に注意を向けないことだった。そうでないと、酔っ払いは自分が見られてるなと感ずるとすぐに、しかめ顔をしたり、あるいは話をやりだした。クリストフは、父が何かひどいことをやるのが見えやすまいかとびくびくしながら、眼をそらした。彼は自分の職務に我《吾》を忘れようとつとめた。しかし|メルキオル《メルキオる》の無駄口やその隣りの人々の笑い声やを、聞かないわけにはゆかなかった。眼には涙が出て来た。善良な楽手《ガクシュ》たちは、それに気づいて、彼を気の毒に思った。彼らは笑い声を押えた。クリストフに隠れて父親の噂をするようにした。しかしクリストフは彼らの憐れみを感知していた。自分が出て行くとすぐに嘲弄が始まるのを、|メルキオル《メルキオる》が町《-まち》じゅうの笑草《笑い草》になってるのを、彼は知っていた。どうにもしようがなかった。それが苦しみの種《タネ》であった。芝居がはねると、彼は父を家に連れて帰った。父に腕を貸し、その駄弁を聞いてやり、その危《危う》い足取りを人に知らせまいと努めた。しかし他人《-タニン》はだれが彼に欺かれる者があったろう? そしてまた、いかほど努力しても、首尾よく|メルキオル《メルキオる》を家まで連れてゆけることは滅多になかった。街路の曲り角《-かど》まで来ると、|メルキオル《メルキオる》は友だちと急な面会の約束があると言いだした。なんと説いても、その約束をまげさせることはできなかった。それにまたクリストフは、ひどい親子争いをして、近所の人に窓から見られるようなことになりたくなかったので、用心してあまり言い張りもしなかった。  生活の金《カネ》はすべてそちらに取られていた。|メルキオル《メルキオる》は自分で儲けただけを飲んでしまうのでは満足しなかった。妻や子が非常に骨折って得たものまで飲んでしまった。ルイザは泣いてばかりいた。家の中に彼女の物とては何《なん》にもないし、彼女は一文《-いちもん》なしで結婚して来たのだと、昔のことを夫からきびしく言われてから、もう抵抗するだけの元気もなかった。クリストフは逆らってやった。すると|メルキオル《メルキオる》は彼を殴りつけ、悪戯《+いたずら》っ児扱いにし、その手から金《カネ》を奪い取った。子供はもう十|二三歳《ニサンさい》で、身体は頑丈で、折檻されると怒鳴り出した。けれどもまだ反抗するのが恐かった。取られるままになっていた。ルイザと彼と、二人の唯一の手段は、金《カネ》を隠すことだった。しかし|メルキオル《メルキオる》は、二人が不在な時に、その隠し場所を見つけるのに不思議なほど巧みだった。  間もなく、彼はもうそれでもあきたらなくなった。彼は父から受け継いだ品物を売った。書物や、寝台や、家具や、音楽家の肖像などが、家から出てゆくのを、クリストフは悲しげに眺めた。彼はなんとも言うことができなかった。しかし、ある日|メルキオル《メルキオる》が、祖父の贈物の古《#フル》ピアノにひどくつき当たり、膝をなでながら怒りに任してののしり、家の中が動けないほどいっぱいになってると言い、こんな古道具はすっかり厄介払をしてやると言った時、クリストフは高い叫び声をあげた。祖父の家を、クリストフが幼年時代の最も美しい時間を過ごしたその大事な家を、売り払ってしまうために、祖父の道具をすっかりもち込んで来てからは、どの室《部屋》もいっぱいふさがってるというのは、ほんとうだった。またその古《フル》ピアノは、もうたいした価値もなくなっており、音は震えるようになっていて、久しい以前からクリストフはそれを捨て、大公爵から賜わった新しいりっぱなピアノをばかりひいているというのも、ほんとうだった。しかしその古《#フル》ピアノは、いかに古くいかに不具であろうとも、クリストフにとっては最良の友であった。それは音楽の無辺際《-むへんざい》な世界を子供に開《-ひら》き示してくれた。その艶《-つや》やかな黄色い鍵盤《キイ》の上で、子供は音響の王国を発見した。それは祖父の手になったもので、祖父は孫のために数か月かかってそれを修理したのだった。それは聖《+きよ》い品《シナ》であった。それゆえクリストフは、だれにもそれを売るの権利はないと抗弁した。|メルキオル《メルキオる》は黙れという命令を様子で知らした。クリストフは、そのピアノは自分のもので人に手を触れさせるものかと、ますます強く喚きたてた。彼はひどい折檻を受けることと期待していた。しかし|メルキオル《メルキオる》は、厭な笑顔で彼を眺め、そして口をつぐんだ。  翌日になると、クリストフはそのことを忘れていた。疲れてはいたがかなり上機嫌で家に帰って来た。ところが弟たちの狡猾な眼付に気をひかれた。二人とも書物を読み耽ってるふうを装っていた。彼の様子を見守り彼の一挙一動を窺いながらも、彼に見られるとまた書物に眼を伏せた。きっと何か悪戯《+いたずら》をされたに違いないと彼は思った。しかしそんなことに慣れていた。悪戯《いたずら》を見つけたらいつものとおり殴りつけてやろうときめていたので、別に心を動かさなかった。それであえて穿鑿しようともしなかった。そして父と話しだした。父は暖炉の隅にすわっていて、柄《-がら》にもなく興味あるふうを見せながら、その日のことを尋ねだした。彼は話してるうち、|メルキオル《メルキオる》が二人の子供とひそかに目配せしてるのを認めた。彼は心にはっとした。自分の室《部屋》に駆け込んだ。……ピアノの場所が空《+から》になっていた。彼は悲しみの叫び声をあげた。向《むこ》うの室《部屋》に弟たちの忍び笑いが聞えた。顔にかっと血が上《-のぼ》った。彼は彼らの方《ほう》へ飛んでいった。そして叫んだ。 「僕《-ぼく》のピアノを!」  |メルキオル《メルキオる》はのんきなしかもまごついた様子で顔を上げた。それで子供たちはどっと笑った。|メルキオル《メルキオる》自身も、クリストフのあわれな顔付を見ると、我慢ができないで、横を向いてふきだした。クリストフは自分が何をしてるかみずから知らなかった。狂人のように父に飛びかかった。|メルキオル《メルキオる》は肱掛椅子に反り返っていたので、身をかわす隙《+スキ》がなかった。子供はその喉元をつかんで叫んだ。 「泥坊!」  それはただ一瞬の間《マ》だった。|メルキオル《メルキオる》は身を揺《ゆす》って、猛然としがみついてたクリストフを、床《-ゆか》の上に投げ飛ばした。子供の頭《-あたま》は暖炉の薪台にぶつかった。クリストフはまた膝頭で起き上がり、頭《-あたま》を振り立て、息づまった声でくり返し叫びつづけた。 「泥坊! お母さんやぼくのものを盗む泥坊め!……お祖父さんのものを売る泥坊め!」  |メルキオル《メルキオる》はつっ立って、クリストフの頭《-あたま》の上に拳《こぶし》をふり上げた。クリストフは憎悪の眼でいどみかかり、忿怒《+フンヌ》のあまり身を震わしていた。|メルキオル《メルキオる》もまた震えだした。それから腰を降ろして、両手に顔を隠した。二人の子供は、鋭い叫び声をたてて逃げてしまっていた。騒動につづいて沈黙が落ちてきた。|メルキオル《メルキオる》は訳《-わけ》のわからぬことをぶつぶつ言っていた。クリストフは壁にぴったり身を寄せ、歯をくいしばりながら、じっと父をにらみつけてやめなかった。|メルキオル《メルキオる》はみずから自分をとがめ始めた。 「俺は泥坊だ! 家の者から剥ぎ取る。子供たちからは軽蔑される。いっそ死んだ方《ほう》がましだ。」  彼が愚痴を言い終えた時、クリストフは身動きもしないで、きびしい声で尋ねた。 「ピアノはどこにあるんだい?」 「ウォルムゼルのところだ。」と|メルキオル《メルキオる》は彼の方《ほう》を見ることもできずに言った。  クリストフは一歩進んで言った。 「金《カネ》は?」  |メルキオル《メルキオる》はすっかり気圧されて、ポケットから金《カネ》を取出し、それを息子に渡した。クリストフは扉の方《ほう》へ進んでいった。|メルキオル《メルキオる》は彼を呼んだ。 「クリストフ!」  クリストフは立止《立ち止》まった。|メルキオル《メルキオる》は震え声で言った。 「クリストフ……おれを蔑むなよ!」  クリストフは彼の首に飛びついて、すすり泣いた。 「お父さん、お父さん、蔑みはしません。ぼくは悲しいや!」  二人とも声高《-こえたか》く泣いた。|メルキオル《メルキオる》は嘆いた。 「おれの罪じゃないんだ。これでもおれは悪人じゃない。そうだろう、クリストフ。ねえ、これでもおれは悪人じゃないんだ。」  彼はもう酒を飲まないと誓った。クリストフは疑わしい様子で頭《-あたま》を振った。すると|メルキオル《メルキオる》は、金《カネ》が手にあると我慢ができないのだと自認した。クリストフは考えた、そして言った。 「そんなら、お父さん、こうしたら……。」  彼は言いよどんだ。 「どうするんだい?」 「気の毒で……。」 「だれに?」と|メルキオル《メルキオる》は質樸に尋ねた。 「お父さんに。」  |メルキオル《メルキオる》は顔をしかめた。そして言った。 「かまやしないよ。」  クリストフは説明してやった、家の金《カネ》はことごとく、|メルキオル《メルキオる》の給料もみな、他人《-タニン》に委託しておいて、毎日かもしくは毎週かに、必要なだけを|メルキオル《メルキオる》に渡してもらうようにしたらいいだろうと。すると、|メルキオル《メルキオる》は卑下した気持になっていたので──彼は酒に飢えきってはいなかった──申出での条件をさらにひどくして、自分が受けてる給料を自分の代理としてクリストフに正規に支払ってもらうように、今ただちに大公爵へ手紙を書こうと言い出した。クリストフは父の屈辱が恥ずかしくてそれを拒んだ。しかし|メルキオル《メルキオる》は、犠牲《-ギセイ》になりたくてたまらないで、頑として手紙を書いてしまった。彼は自分の寛仁大度な行ないにみずから感動していた。クリストフは手紙を手に取ることを拒んだ。ルイザもちょうどもどって来て、事の様子を知り、夫にそんな侮辱を与えなければならないなら、むしろ乞食にでもなった方《ほう》がいいと言い出した。彼に信頼してると言い添え、彼は皆《-ミンナ》を愛してるので、行ないを改めるに違いないと言い添えた。しまいには皆感動《みな感動》して抱《-だ》き合った。そして|メルキオル《メルキオる》の手紙は、テーブルの上に忘れられ、戸棚の下《-した》に落ち込んでいって、そのままだれの眼にもつかなかった。  しかし数日の後《のち》、ルイザは室《部屋》を片づけながらその手紙を見つけた。ところがその時彼女は、|メルキオル《メルキオる》がまた不身持《不身持ち》になってたので、非常に不仕合せだった。それで手紙を引裂かないで、取っておいた。それから数か月の間、苦しみを忍びながら、その手紙を使うという考えをいつも押えつけて、そのまま保存しておいた。けれどもある日、|メルキオル《メルキオる》がクリストフを殴ってその金《カネ》を奪い取るところを、また見かけた時、もう我慢ができなかった。そして泣いてる子供といっしょに、手紙を取りに行き、それを子供に渡して言った。 「行っておいで!」  クリストフはまだ躊躇した。けれども、家に残ってるわずかなものまですっかり消費しつくされまいとすれば、もはや他に方法はないと覚った。彼は宮邸へ出かけた。二十分ほどの道を行くのに一時間近くかかった。自分のしてることが恥ずかしくてたまらなかった。この数年間の孤立のうちにつのっていた彼の高慢心は、父の不品行を公然と認定するという考えに、血をしぼるほど切なかった。妙なしかも自然な矛盾ではあったが、彼はその不品行がすべての人にわかってるということを知ってながら、しかも執拗にそうでないと信じたがり、何《なん》にも気づかないふうを装っていた。それを認めるよりもむしろ自分を粉微塵にされたかった。そして今や、自分から進んで!……彼は幾度となく引返そうとした。宮邸に着こうとするとまた足を返しながら、二三度町《ニサン度まち》を歩き回った。しかし自分一人の問題ではなかった。母にも弟どもにも関係のあることだった。父が皆《-ミンナ》を見捨てた以上は、皆《-ミンナ》を助けてゆくのは長男たる彼の役目であった。もはや躊躇したり高ぶったりすべきではなかった。恥辱を飲み下さなければならなかった。彼は宮邸へ|はい《入》った。階段の途中でまた逃げ出したくなった。踏段の上にかがんだ。それから上の板の間で、扉のボタンに手をかけて、しばらくじっとしていたが、だれかやって来たのではいらざるをえなかった。  事務所では皆彼を知っていた。彼は劇場監理官ハンメル・ランクバッハ男爵閣下に申上《申し上》げたいことがあると言った。白チョッキをつけ赤い襟飾をした、若い、脂ぎった、頭《-あたま》の禿げた、つやつやした顔色の役人が、彼の手を親しく握りしめて、前日の歌劇《オペラ》のことを話しだした。クリストフは用件をくり返した。役人は答えて、閣下はただいま多忙であるが、クリストフが何か請願書を差出すのなら、ちょうど署名を願いにもってゆく他の書類といっしょに、それを渡してあげようと言った。クリストフは手紙を差出した。役人はそれを一覧して、驚きの声をたてた。 「ああ、なるほど!」と彼は快活に言った。「いい考えだ。もうとっくにこの考えを起こしてなけりゃいけなかったんだ。こんないいやり方《-かた》は彼奴《アイツ》には初めてだ。ああ、あの年甲斐もない酔いどれに、どうしてこんな決心ができたのかな。」  彼はぴたりと言い止《や》めた。クリストフが彼の手からその書面を引ったくったのである。クリストフは憤りに顔色を変えて叫んだ。 「許せない……僕《-ぼく》を侮辱するのは許せない!」  役人は呆気にとられた。 「なあにクリストフさん、」と彼はつとめて言った、「だれがお前を侮辱しようと思うものかね。私は皆《-ミンナ》が考えてることを言ったばかりだ。お前さんだってそう考えてるだろう。」 「いいや!」とクリストフは腹だたしげに叫んだ。 「なに、お前さんはそう考えないって? 酒飲みだとは考えないって?」 「そんなことはない。」とクリストフは言った。  彼は足をふみ鳴らしていた。  役人は肩を聳《+そびや》かした。 「そんなら、どうしてこんな手紙を書いたんだい。」 「どうしてって……」とクリストフは言った──(もうどう言っていいかわからなかった)、「それは、僕《-ぼく》が毎月、自分の給料を取りに来るから、いっしょにお父さんのももらっていかれる。二人ともやって来るのは無駄だ……お父さんはたいへん忙しいんだ。」  彼はその説明の馬鹿らしさにみずから顔《カオ》を赤らめた。役人は皮肉と憐憫との交《-まじ》った様子で彼を眺めていた。クリストフは書面を手の中にもみくちゃにして、出て行こうとするふうをした。役人は立上《立ち上》がって、その腕をとらえた。 「ちょっとお待ち、」と彼は言った、「私が取計《+取り計ら》ってやるから。」  彼は長官の室《部屋》へ通《-とお》った。クリストフは他の役人らにじろじろ見られながら待っていた。どうしたらよいか、自分でもわからなかった。返辞を伝えられないうちに逃げ出そうかと考えた。そしていよいよそう心をきめかけたが、その時扉が開《-ひら》いた。 「閣下が御面会くださるよ。」とその世話好《-世話ず》きな役人は彼に言った。  クリストフははいって行かなければならなかった。  ハンメル・ランクバック男爵閣下は、頬髯《+ホオヒゲ》と口髭とをはやし、頤鬚を剃《+そ》ってる、さっぱりとした小さな老人であった。クリストフがもじもじして礼をするのにうなずきの礼も返さず、書きつづけてる手をも休めないで、金縁の眼鏡越しに眺めた。 「では、」とちょっと間《マ》をおいて彼は言った、「君は願うんだね、クラフト君……。」 「閣下、」とクリストフはあわてて言った、「どうかご免ください。私はよく考えてみました。もう何《なん》にもお願いしません。」  老人はそのにわかの撤回について説明を求めようとはしなかった。彼はクリストフをさらに注意深く眺め、咳払いをし、そして言った。 「クラフト君、君が手にもってる手紙を、わしに渡してごらん。」  クリストフは、知らず知らず拳《+コブシ》の中に握りつづけていた書面を、監理官がじっと見つめてるのに、気がついた。 「もうよろしいんです、閣下。」と彼はつぶやいた。「もうそれには及びません。」 「さあ渡してごらん。」と老人はその言葉を聞かなかったかのように平然と言った。  クリストフはなんの気もなく皺くちゃの手紙を渡した。しかしこんがらかった言葉をやたらに言いたてながら、手紙を返してもらおうとしてなお手を差出していた。閣下は丁寧に紙を広げ、それを読み、クリストフを眺め、やたらに弁解するままにさしておいたが、それから彼の言葉をさえぎり、意地悪そうな色をちらと眼に浮べて言った。 「よろしい、クラフト君。願いは聴き届けてやる。」  彼は片手で隙《+イトマ》を命じて、また書き物にとりかかった。  クリストフは狼狽して出て行った。 「クリストフさん、気を悪くしてはいけないよ。」とふたたび彼が事務所を通りぬける時に役人が親《した》しげに言った。クリストフは眼をあげる元気もなく、引止められて握手をされるままになっていた。  彼は宮邸の外《-そと》に出た。恥ずかしさに縮み上《-あ》がっていた。言われたことが残らず頭《-あたま》に浮かんできた。そして、自分を立ててくれ自分を気の毒に思ってくれる人々の憐憫の中に、侮辱的な皮肉が感ぜられるような気がした。彼は家に帰った。ルイザから問いかけられても、今なして来た事柄について彼女を恨んでるかのように、ただむっとした二三言《ニサンこと》でようやく答えるきりだった。父のことを考えると、後悔の念に胸が張りさけそうだった。すっかり父にうち明けて、その許しを乞いたかった。|メルキオル《メルキオる》はそこにいなかった。クリストフは眠りもしないで、真夜中まで彼を待っていた。父のことを考えれば考えるほど、ますます後悔の念は高まってきた。彼は父を理想化していた。家の者らに裏切られた、弱い、善良な、不幸な人間だと、頭《-あたま》に描《えが》いていた。父の足音が階段に聞こえると、出迎えてその両腕の中に身を投げ出すために、寝床から飛び起きて走っていった。しかし|メルキオル《メルキオる》はいかにも厭な泥酔の様子でもどって来たので、クリストフは近寄るだけの勇気もなかった。そして自分の空《+クウ》な考えを苦々しく嘲りながら、また寝に行《-い》った。  数日の後《のち》、その出来事を知ると、|メルキオル《メルキオる》は恐ろしい忿怒《+フンヌ》にとらわれた。そしていかにクリストフが願っても聞き入れないで、宮邸に怒鳴り込んでいった。しかしすっかりしょげきってもどって来、どういうことがあったか一言《-ひとこと》もいわなかった。彼はひどい取扱いを受けたのだった。どの口でそんなことが言えるか──息子の技倆《-ギリョウ》を考えてやればこそ給料を元どおり与えてるのであって、将来わずかな不品行の噂でもあれば給料は全部取り上げてしまうと、言われたのだった。で彼はその日からただちに自分の地位を是認し、みずから進んで犠牲《-ギセイ》となってることを自慢にさえした。そういう父の様子を見て、クリストフはたいへん安堵した。  それにもかかわらず|メルキオル《メルキオる》は、妻や子供らのために剥ぎ取られてしまい、生涯彼らのために痩せ衰え、今や万事に不自由しても顧みられないなどと、よそへ行って嘆かずにはおかなかった。あるいはまたクリストフから金《カネ》を引出《-引き出》そうとつとめて、あらゆる阿諛や策略を用いた。それを見るとクリストフは、心にもなく笑いだしたくなるほどだった。そしてクリストフがしっかりしてるので、|メルキオル《メルキオる》は言い張りはしなかった。自分を判断してるその十四歳の少年の厳格な眼の前に出ると、不思議に気圧されるのを感じた。悪い手段をめぐらしてひそかに意趣晴《意趣ばら》しをした。酒場へ行って飲んだり食ったりした。金《カネ》は少しも払わないで、息子が借りをみな払ってくれるのだと言った。クリストフは世間の悪評をつのらしはすまいかと気遣《きづか》って、別に抗議をもち出さなかった。そしてルイザとともに、財布の底をはたいて|メルキオル《メルキオる》の借りを払っていた。──ついに|メルキオル《メルキオる》は、給料を手にしなくなってからは、ヴァィオリニストの職務をますます等閑《+ナオザリ》にするようになった。そして欠勤があまり激しくなったので、クリストフの懇願にもかかわらず、しまいには追い払われてしまった。それで子供は、父と弟どもなど全家《ゼンカ》を、一人で支持してゆかなければならなくなった。  かくてクリストフは、十四歳にして家長となった。  彼は決然としてその重い役目を引受けた。彼は自尊心から、他人《-タニン》の恵みに与ることを拒んだ。独力できりぬけてゆこうと決心した。母が恥ずかしい施与を受けたり求めたりしてるのを見て、彼は幼いころから非常に心を痛めていた。人のいい母が、保護者のもとから何かの恵みを受けて、得意然と家にもどって来ると、いつもそれが争論の種《-たね》となった。彼女はそれを少しも悪いことだとは思わなかったし、またその金《カネ》で、少しでもクリストフの骨折りを省くことができ、粗末な夕食に一皿多く加えることができるのを、喜びとしていた。しかしクリストフは顔を曇らした。その晩じゅう口をきかなかった。そういうふうにして得られた食物へは、理由も言わないで手をつけることを拒んだ。ルイザは気をもんだ。下手《+シタデ》に息子を説きすすめて食べさせようとした。彼は強情を張った。彼女はついにいらだってきて、不愉快なことを口にのぼせた。彼もそれに言い返してやった。それから彼はナプキンを食卓の上に投げすてて出て行った。父は肩をそびやかして、彼を生意気な奴《ヤツ》だと言った。弟らは彼を嘲って、彼の分《ぶん》をも食べてしまった。  それでもやはり生活の道を見つけなければならなかった。彼の管弦楽団員としての手当ではもう足りなくなった。彼は弟子を取った。彼の技倆《-ギリョウ》、彼の好評、とくに大公爵の保護は、上流市民のうちに多くの得意を彼に得さした。毎朝九時から、彼は令嬢らにピアノを教えた。多くは彼よりも年上であって、その嬌態で彼を怯えさせ、その拙劣なひき方で彼を失望さした。彼女らは音楽においてはまったくの馬鹿であったが、その代《-か》わりに、滑稽なことにたいする敏感を皆多少なりと具えていた。その嘲笑的な眼は、クリストフの無作法を一つも見逃さなかった。彼にとってはそれが非常につらかった。彼女らのそばに、自分の椅子の縁《ふち》に腰を掛け、赤い顔をして容態ぶり、憤りながら身動きもできず、馬鹿なことを言うまいと努力し、自分の声音を気遣い、厳格な様子をしようと努め、じろじろ横目で見られてるのを感じて、ついにすっかり平静さを取り失い、意見を述べてる最中《-さいちゅう》にまごつき、おかしな様子をしはすまいかと心配し、おかしな様子を見せてしまい、すっかり腹をたてて激しく叱りつけた。しかし弟子たちにとっては、その仕返しをするのは訳《-わけ》もないことだった。そしてかならず仕返しをしないではおかなかった。一種妙な眼付で眺めて彼を困らした。ごく簡単な問いをかけて彼を眼の中まで真赤にならした。あるいはまたちょっとした用を──何かの上に置き忘れた物を取って来るというようなことを──彼に頼んだ。それは彼にとって最もつらいことだった。無器用な挙動を、へまな足付を、硬《+こわ》ばった腕を、当惑してしゃちこばった身体を、容赦もなく窺ってる意地悪い眼からじっと見られながら、室《部屋》の中を歩いてゆかなければならなかった。  そういう稽古からつづいて、劇場の試演へかけつけなければならなかった。昼食をする隙《-ひま》がないこともしばしばだった。ポケットにパンと豚肉とを入《-い》れておいて、それを幕間に食べた。時には、音楽長トビアス・プァイフェルの代《-か》わりをした。音楽長は彼に目をつけていて、自分の代《-か》わりに時々管弦楽の下稽古《シタゲイコ》の指揮をやらして練習さした。また彼は自分の腕をもみがきつづけてゆかなければならなかった。午後にはまた他にピアノを教えに行くところがあって、開演の時間までいっぱいだった。晩には幾度も、芝居が終ってから、宮邸で彼の音楽を聞きたいという仰せがあった。そこで彼は一二時間《イチニじかん》演奏しなければならなかった。大公爵夫人は音楽通《音楽ツウ》だと自称していた。彼女はいいのも悪いのもごっちゃにして、ただやたらに音楽が好きだった。即興的な愚作とりっぱな傑作とを並べ合したおかしな番組を、クリストフにひかせた。しかし彼女のいちばんの楽しみは、クリストフに即座に作曲させることだった。いつも厭味たらしい感傷的な主題《テーマ》を与えた。  クリストフは十二時ごろ宮邸を出た。疲れ果て、手はほてり、頭《-あたま》はのぼせ、腹は空《+す》いていた。汗まみれになっていた。外《-そと》には雪が降っていたり、冷たい霧がかけていた。家へ着くまでには、町《-まち》の半分以上も通らねばならなかった。歯をがたがた震わせながら、眠くてたまらなくなりながら、歩いて行った。それにまた、一着きりの夜会服を泥濘《デイネイ》でよごさないように注意しなければならなかった。  彼は自分の寝室にもどっても、その室《#部屋》はいつも弟どもといっしょだった。そして、息づまるような匂いのするその屋根裏の室《部屋》で、ようやく苦難の首枷をはずすことが許される瞬間ほど、彼はおのれの生活の嫌悪と絶望とに、孤独の感情に、ひどく圧倒されることはかつてなかった。服をぬぐだけの元気もあるかないくらいだった。ただ幸いにも、枕に頭《-あたま》をつけるが早いか、重い眠りに圧倒されて、自分の苦労を忘れるのだった。  けれども、夏は黎明のころから、冬はもっと前から、起き上がらなければならなかった。彼は自分のために勉強したかった。五時から八時までの間が、唯一の自由な時間だった。それでもなお、御用の仕事にその一部を費さねばならなかった。宮廷音楽員の肩書と大公爵の愛顧とは、宮廷の祝祭のための音楽を彼に作らせるのだった。  かくて、彼は生活の源泉まで毒されてしまった。夢想することさえも自由ではなかった。しかし普通の例にもれず、束縛はその夢想をいっそう強烈にした。何物も行動を妨げるものがない時には、魂はそれだけ活動の理由を失うものである。クリストフは、厄介事と平凡な職務との牢獄のうちに、しだいに狭く圧縮さるればさるるほど、ますます彼の反抗的な心はおのれの独立を感ずるのであった。なんら拘束のない生活をしていたら、彼はおそらくその時おりの成行きに身を任したであろう。日《ひ》に一二時間《イチニじかん》しか自由を得なかったので、彼の力はあたかも岩の間の急湍《+キュウタン》のように、それへ飛びかかっていった。厳密な範囲内に努力を集中することは、芸術にとってはいい規律である。この意味において、悲惨はただに思想の主人たるばかりではなく、形式《-けいしき》の主人であるともいうことができる。悲惨は肉体へと同じく精神へも、節制を教える。時間が制限され言葉が限定されてる時には、人は余分のことを少しも言わず、物の精髄をしか考えない習慣になる。かくて、生きるための時間が少ないだけに、倍加した生き方《-かた》をする。  そういうことがクリストフの上に起こった。彼は束縛のもとにあって、自由の価値を十分《-じゅうぶん》に知った。そして無益な行ないや言葉によって少しも貴重な時間を浪費しなかった。真面目ではあるがしかし無選択な思想のおもむくがままに、ごたごたと饒多《+ジョウタ》に書きちらす癖のある、彼の生来の傾向は、なるべくわずかな時間になるべく多く仕上げるのを余儀なくされることに、その矯正物《+矯正ブツ》を見出《見い出》した。何物も──教師の教えも傑作の模範も、それほど多くの影響を彼の芸術的精神的発達に及ぼしたものはなかった。彼はようやく性格の形造られる年|ごろ《頃》に、音楽は各音が一つの意味を有する精確な言語であると、考えるの習慣を得た。そして、ただ語るだけで何の意味をも言わない音楽家を忌み嫌った。  けれども、彼が書く音楽はまだ、彼自身を完全に表現するにはなかなかいたらなかった。なぜなら、彼はまだとうてい自己を完全に見出《見い出》してはいなかったから。教育が第二の天性として子供に押しつける、覚ええた堆い感情を通して、彼は自己を捜し求めていた。あたかも雷電の一撃が覆いかぶさってる雲霧を払って空《-そら》を清めるがように、個性をその借物の衣から脱却せしむるあの青春の熱情を、彼はまだ感じたことがなかったので、真の自己というものについては、ただいくらかの直覚を有するにすぎなかった。|ほの《仄》暗いしかも力強い予感が、自己と関係のない旧物に、彼のうちで入《-い》り交じっていた。彼はそれらの旧物から脱しえなかった。そしてそれらの虚偽にいらだった。自分の書いてるものが、考えてることよりいかに劣ってるかを見て、憂苦に沈んだ。彼は苦々しくおのれを疑ってみた。しかしその愚かしい失敗で諦めることはできなかった。もっとよくやり、偉大なものを書こうと、奮激した。そしてやはり失敗した。ちょっと感興が起こった後《あと》に、書いてる間に、書いたものがまったく無価値なのに気づいた。彼はそれを引裂き、焼き捨てた。そしてさらに恥ずかしいことには、式典用の自分の公《+オおやケ》の曲が廃滅できずにそのまま残ってるのを、見なければならなかった。それは最も凡庸なものばかりで──大公爵の誕生日のために作った、大鷹という協奏曲《コンセルト》、大公爵令嬢アデライドの結婚のおりに書いた、パラスの婚礼という交声曲《カンタータ》──多くの費用をかけ豪華版として刊行され、彼の愚鈍さを長く後世に伝えるものだった。彼は後世を信じていたのである。彼はその恥辱に泣きたいほどだった。  熱烈なる年月! なんらの猶予もなく、なんらの怠慢もない。何物もその熱狂的な勉励をさえぎらない。遊戯もなく、友もない。どうして友と遊んでなどいられよう。午後、他の子供らが遊んでる時にも、少年クリストフは額《-ひたい》に皺を寄せて注意を凝らしながら、埃深い薄暗い劇場の広間に、奏楽席の譜面台に向かってすわっている。晩、他の子供らが寝ている時にも、彼は椅子にがっくりとすわり、疲労に感覚を失いながら、なおそこに起きている。  彼は弟どもともなんらの親しみももたなかった。エルンストは十二歳になっていた。性《+タチ》の悪い厚かましい無頼な少年で、同じような不良の徒と終日遊び暮していた。そしてその仲間の、嘆かわしい様子にばかりでなく、恥ずべき習癖にも染んでいた。正直なクリストフは、ある日、思いも及ばない恥ずかしいことを彼がやってるのを見かけて、嫌悪の眉をひそめた。も一人の弟ロドルフは、テオドル伯父の気に入《-い》りで、商業をやることになっていた。彼は行ないもよく、静かだったが、陰険であった。クリストフよりずっとすぐれてると信じていた。クリストフが稼いだパンを食べるのは当然だと考えていながら、家におけるクリストフの権力を認めなかった。彼にたいするテオドルと|メルキオル《メルキオる》との反感に味方して、二人が言うおかしな悪口をくり返し言っていた。二人の弟はどちらも音楽を好まなかった。ロドルフは模倣心《模倣シン》から、伯父のように音楽を軽蔑するふうをしていた。家長の役目を真面目にやってるクリストフから、いつも監視され訓戒されるのに困って、二人の弟は反抗を試みることがあった。しかしクリストフはたくましい拳固を持っていたし、自分の権利を自覚していた。弟どもを服従さしてしまった。それでも彼らはやはり、彼に勝手なことをしてやめなかった。彼の信じやすい性質につけ込んで、罠を張ると、彼はきっとそれにかかった。彼らは金《カネ》を欺き取り、厚かましい嘘をつき、そして陰《かげ》では彼を嘲った。人のいいクリストフは、いつも陥れられてばかりいた。彼は人から愛されたい強い要求をもっていたので、一言《-ひとこと》やさしいことを言われると、もうすっかり恨みを忘れてしまった。わずかな愛情を得るためには、なんでも許してやったに違いない。しかしある時、彼らは虚偽の愛情で彼を抱擁し、涙を流すほど彼を感動さしておいて、それに乗じて、かねてほしがっていた大公爵からの贈物の金時計を奪い取ってしまい、その後《あと》で彼の馬鹿さ加減を笑ったが、彼はその笑声《笑い声》を聞いてから、信頼の念はひどく動揺した。彼は弟どもを軽蔑していたが、それでもやはり、人を信じ人を愛する不可抗な性癖から、つづいて欺かれてばかりいた。彼はみずからその性癖を知り、自分自身にたいして腹をたてていて、弟どもがまたも自分を玩具にしてるのを発見すると、ひどく殴り飛ばしてやった。けれどもその後《あと》で、彼らから面白がって釣針を投げられると、ふたたびそれにすぐ引っかかるのだった。  なおそれにもまさった苦しみが彼にはあった。父が自分のことを悪く言ってるのを、おせっかいな近所の人々から聞かされた。|メルキオル《メルキオる》は初め息子の成功に得意然としていたが、後《あと》には恥ずべき弱点を暴露して、それを嫉妬するようになった。彼は息子の成功をくじこうとした。それは嘆くも愚かなことだった。ただ軽侮の念から肩をそびやかすのほかはなかった。腹もたてられなかった。なぜなら|メルキオル《メルキオる》は、自分のやってることに自覚がなかったし、失意のためにひねくれていたから。クリストフは黙っていた。もし口をきいたらあまりひどいことを言うようになるだろうと恐れていた。しかし心では恨めしくてたまらなかった。  悲しい寄合い、夕《#ユウベ》、ランプを取り囲み、汚点《シミ》のついた布卓《テーブルクロス》の上で、つまらない世間話や貪り食う頤《顎》の音の間でする、一家そろうての夕食! しかも彼はそれらの人々を、軽侮し憐れみながらも、やはり愛せずにはいられないのである。そして彼はただ、善良な母親とだけ、たがいの愛情の覊《+キズナ》を感じていた。しかしルイザは、彼と同様にいつも疲れは《果》てていた。晩には、もう気力もつきはてて、ほとんど口もきかず、食事を済《済ま》すと、靴下を繕いながら、椅子にかけたまま居眠りをした。そのうえ彼女は、いかにも人がよくて、夫と三人の子供との間に、少しも愛情の差をおいていないらしかった。皆《-ミンナ》を一様に愛していた。クリストフは彼女を、自分が非常に求めてる腹心の人とするわけにゆかなかった。  彼はただ自分の心のうちに閉じこもった。いく日間《にちかん》も口をきかないで、黙々たる一種の憤激をもって、単調な骨の折れる務めを尽した。敏感な身体の組織が、あらゆる破壊的誘因に巻き込まれて、将来全生涯の間変形されやすい、危急な年齢にある少年にとっては、そういう生活法はいたって危険なものだった。クリストフの健康は、それにはなはだしく害された。彼は父祖から、堅固な骨格と、弱点のない健《+すこや》かな肉体とを、受け継いではいた。けれども、過度の疲労と早熟な憂慮とのために、苦痛のはいり込みうる割目をこしらえられると、その強健な身体も、苦痛に多くの糧を与えるのみであった。ごく早くから、神経の不調がきざしていた。まだ幼いころから、何かの障害を感ずると、気絶や痙攣や嘔吐を起こした。七八歳《シチハッサイ》のころ、ちょうど音楽会に出始めた時分には、睡眠が落着いて得られなかった。眠りながら、話したり叫んだり笑ったり泣いたりした。そういう病的な傾向は、強い懸念事があるごとにくり返された。やがては、激しい頭痛が起こって、あるいは頸窩《+ボンノクボ》や頭《-あたま》の両側《リョうがワ》がぴんぴん痛み、あるいは鉛の兜をかぶったような気持になった。よく眼をなやんだ。時には、針先を眼孔にさし込まれたような感じがした。また眼がちらついて書物を読めなくなり、幾分間も読みやめなければならなかった。不足なあるいは不健康な食物と、食事の不規則とは、頑健な胃をいためてしまった。内臓の痛みに悩まされ、身体を衰弱させる下痢に悩まされた。しかし彼を最も苦しめたのは、心臓であった。彼の心臓は狂ったように不整であった。あるいは、今にも張り裂けるかと思われるばかりに、胸の中で激しく躍った。あるいは、かろうじて鼓動してるだけで、今にも止まってしまうかと思われた。夜は、体温が恐ろしく上下した。高熱の状態と貧血の状態とが、急激に移り変わった。身体が焼けるようになり、寒さに震え、悶え苦しみ、喉がひきつり、首に塊《+かたま》りができて呼吸を妨げた。──もとより彼の想像はおびえた。彼は自分の感ずることをことごとく家の者に語りえなかった。しかし一人でたえずそれを分析し、それに注意して、苦悩をますます大きくなし、また新しく作りだしていた。自分の知ってるあらゆる病気を、次から次へとわが身にあてはめた。盲目になりかけてるのだとも思った。歩きながら時々|眩暈《+めまい》に襲われたので、突然倒れて死ぬのではないかと恐れた。──中途にしてやむ、若くして夭折する、そういう恐ろしい心配が、いつも彼を悩まし、彼を圧迫し、彼につきまとっていた。ああ、どうせ死ななければならないものであるとしても、少なくとも、今はいやだ、勝利者とならないうちはいやだ!……  勝利……。みずからそれと知らずに、彼がたえず燃やしたてられてる、その固定観念! あらゆる嫌悪、あらゆる労苦、生活の腐爛せる沼沢の中において、彼を支持している、その固定観念! 将来いかなるものになるかという、すでにいかなるものになってるかという、おぼろなしかも力強い意識!……彼は現在なんであるか? 管弦楽においてヴァイオリンをひき、凡庸な協奏曲《コンセルト》を書いている、病弱な神経質な一少年にすぎないのか?──否《いな》。そういう少年の域をはるかに脱しているのだ。それは表皮にすぎない、一時《-いちじ》の顔貌にすぎない。それは彼の本体ではない。彼の深い本体と、彼の顔や思想の現形との間には、なんらの関係も存しない。彼自身よくそれを知っている。鏡で見る姿を、おのれだとは認めていない。大きな赤ら顔、つき出た眉、くぼんだ小さな眼、小鼻がふくれ先が太い短い鼻、重々しい頤《顎》、むっつりした口、そういう醜く賤しい面貌は、彼自身にとっては他人《-タニン》である。彼はまた自分の作品中にはなおさらおのれを認めていない。彼は自分を判断し、現在自分が作ってるものの無価値と、現在の自分の無価値とを、よく知っている。けれども彼は、将来いかなるものになるか、将来いかなるものを作るか、それに確信をもっている。彼は時おりその確信を、高慢から出る虚妄として、みずからとがめる。そしてみずから罰せんがために、苦々しくおのれを卑下しおのれを苛責《+カシャク》して、喜びとする。しかし確信は存続し、何物からも動かされない。いかなることをなし、いかなることを考えようとも、そのいずれの思想も行為も作品も、完全におのれを含有しおのれを表現してはいない。彼はそれを知っている。彼は不思議な感情をいだいている。自分の最も多くは、現在あるがままの自分ではなくて、明日あるだろうところの自分であると。……きっとなってみせる!……彼はそういう信念に燃えたち、そういう光明に酔っている。ああ、今日《こんにち》によって中途に引止められさえしなければ! 今日《こんにち》によって足下《-あしもと》にたえず張られてる陰険な罠へ陥って蹉跌することさえないならば!  かくて彼は、日々《+ニチニチ》の波を分けておのれの小舟を進めながら、側目《+ワキメ》もふらず、じっと舵を握りしめ、目的の方《ほう》へ眼を見据えている。饒舌《-じょうぜつ》な楽員らの中に交って管弦楽団の席にいる時にも、家の者にとり巻かれて食卓についている時にも、高貴な愚人たちの慰みのために楽曲のいかんに構わず演奏しながら宮邸にいる時にも、彼が生きているのは、このおぼつかなき未来の中にである、一原子のために永久《えいきゅう》に崩壊されるやもしれない──それは構うところでない──この未来の中に、そこにこそ彼は生きているのである。  彼は屋根裏の室《部屋》で、ただ一人、自分の古いピアノに向かっている。夜になろうとしている。消えかかった昼の光《-ひかり》が、楽譜帳の上に流れている。光《-ひかり》の最後の一滴があるまでは、彼は眼を痛めながら読んでいる。消え去った偉大な心の愛が、黙々たるそれらのページから発散して、やさしく彼のうちに沁み通《とお》ってくる。彼の眼には涙があふれる。なつかしいだれかが後ろに立っていて、その息で頬《+ホオ》をなでられ、今にも両腕で首を抱《-だ》かれる、かと思われる。彼は身を震わしてふり返る。自分一人きりでないことを、感じまた知っている。愛し愛されてる一つの魂が、すぐそばにそこにいる。それをとらええないで、彼は嘆息する。それでも、その憂苦の影は、彼の恍惚《-コウコツ》たる情に交じって、ある秘めやかな快さをなおもっている。悲しみさえも今は晴れやかである。愛する楽匠らのことを、消え去った天才らのことを、彼は考える。彼らの魂は、それらの音楽の中にふたたび蘇ってくる。愛で心がいっぱいになりながら、彼は超人間的な幸福を夢みる。それはこの光栄に満ちた畏友らのもっていたものに違いない、彼らの幸福の一反映《イチ反映》ですらなおかくも燃えたっているのを見れば。彼らのようになろうと彼は夢想し、そういう愛を放射しようと夢想する。その愛の数条のかすかな光《-ひかり》は、聖《+きよ》き微笑みで彼の惨めさを照らしてくれる。こんどは自分が神となり、喜びの祠となり、生命《イノチ》の太陽となるのだ!……  ああ、もし彼が他日、愛するそれらの楽匠らと等しくなるならば、希求してるその輝く幸福に到達するならば、すべては幻にすぎなかったことがわかるであろう。 【第二章】 【オットー】  ある日曜日に、クリストフは楽長から、小さな別荘で催される午餐へ招待を受けた。その別荘はトビアス・プァイフェルの所有で、町《-まち》から一時間ばかりの距離にあった。クリストフはライン河《川》の船《-ふね》に乗った。甲板で彼は、同じ年|ごろ《頃》の少年から慇懃に席を譲られて、そのそばに腰をおろした。彼は別にそれを気にも止《-と》めなかった。しかし間もなく、隣席の少年からたえず観察されてるのを感じて、彼も向《むこ》うの顔を見てやった。薔薇色の豊頬をした金髪の少年で、頭髪を横の方《ほう》できれいに分け、唇のあたりには産毛の影が見えていた。一個の紳士らしく見せかけようとつとめていたが、大きな坊ちゃんらしい誠実な顔付をしていた。とくに念を入れた服装《+身なり》をしていて、フランネルの服、派手な手袋、白の半靴《+ハングツ》、薄青の襟飾を結《+ゆわ》えていた。手には小さな鞭をもっていた。そして牝鶏《+メンドリ》のように首をつんとさして、ふり向きもせず横目で、クリストフをじろじろ眺めていた。やがてクリストフの方《ほう》から眺められると、耳まで真赤になり、ポケットから新聞を引出し、もったいらしく読み耽ってるふりをした。しかし数分たつと、クリストフの帽子が落ちたのを、急いで拾い上げてやった。クリストフはあまり丁寧にされるのに驚いて、ふたたびその少年を眺めた。少年はまた真赤になった。クリストフは冷やかに礼を述べた。なぜなら彼は、そういうわざとらしい親切を好まなかったし、人からかまわれるのが嫌いだったから。けれども、内心嬉しくないでもなかった。  間もなく彼はそのことから心をそらした。注意は景色の方《ほう》に奪われた。彼は長い間町から外《-そと》へ出ることができないでいた。で彼は今、顔を吹く風や、船《-ふね》に当たる波の音《おと》や、広い水の面《おもて》を、貪るように眺めた。また両岸の移り変わる光景を眺めた。灰色の平たい渚、半ば水に浸った柳の茂み、ゴチック式の塔や黒煙を吐く工場の煙筒などがそびえた都市、茶褐色の葡萄の蔓、伝説のある岩石。そして彼がだれはばからずうち喜んでいたので、隣席の少年は、声をつまらしながらおずおずと、うまく修復され蔦にからまれてる眼前の廃虚について、それぞれ歴史的の細かな事柄を説明しだした。その様子はあたかも自分自身に向かって述べてるかのようだった。クリストフは興味を覚えて、種々と尋ねた。少年は自分の知識を示すのが嬉しくて、急いで答えた。そして口をきくたびごとに、「宮廷ヴァイオリニストさん」とクリストフを呼びながら話しかけた。 「ではぼくをご存じですか。」とクリストフは尋ねた。 「ええ知ってますとも。」と少年は無邪気な感嘆の調子で言った。クリストフの虚栄心はそれにそそられた。  二人は話し合った。少年はしばしばクリストフを音楽会で見たことがあった。そして種々噂を聞いては心を動かしていた。彼はそれをクリストフには言わなかった。しかしクリストフはそれを感じて、快い驚きを覚えた。そういう感動した尊敬の調子で話しかけられるのに慣れていなかったのである。彼はなおつづけて、途中の土地の歴史について尋ねた。少年は覚えたてのあらゆる知識を述べたてた。クリストフはその知識に感心した。しかしそんなのはただ会話の口実にすぎなかった。二人がどちらも興味を覚えていたのは、たがいに知り合いになるということだった。彼らは率直にその問題に触れはしなかった。まず問いをかけては遠回しに探り合った。がついに彼らは心を決した。そしてクリストフは、この新しい友はオットー・ディーネルという名前で、町《-まち》の豪商の息子であることを知った。もとより彼らは共通の知人をももっていた。そしてしだいに彼らの舌はほどけてきた。彼らは元気よく話しだした。そのうちに、船《-ふね》はクリストフが降《-お》りるべき町《-まち》へ着いた。オットーもそこで降《-お》りた。その偶然の一致が彼らには不思議に思われた。午餐の時間が来るまでいっしょに少し歩こう、とクリストフは言い出した。彼らは野《-の》を横ぎって進んでいった。クリストフは幼い時からの知り合いででもあるかのように、親しくオットーの腕を取り、自分の将来の抱負を語った。彼は同じ年|ごろ《頃》の少年と交わることが非常に少なかったので、今、教育もあり育ちもりっぱで、自分に同情をもってる、その少年といっしょにいることに、言い知れぬ喜びを感じていた。  時間は過ぎていった。クリストフはそれに気づかなかった。ディーネルは若い音楽家から信頼の念を示されてるのに得意になって、彼の午餐の時間がすでに来てるのを注意しかねていた。がついにそれを思い出させなければならないと考えた。しかしちょうど林の中の坂道にさしかかっていた時で、まず頂まで行かなければいけないとクリストフは答えた。そして二人が頂までやってゆくと、クリストフは草の上にねそべって、そこに一日《-いちにち》を過ごそうとでも思ってるようだった。十|五六分《ゴロッぷん》もたってからディーネルは、クリストフが身を動かそうともしそうにないのを見て、またおずおずと言ってみた。 「午餐は?」  クリストフは頭《-あたま》の下《-した》に両手をやり長々と寝転んだまま、平然と言った。 「いいさ!」  それから彼はオットーの方《ほう》を眺め、そのびっくりした顔付を見、そして笑いだした。 「ここは実に気持がいい。」と彼は説明した。「僕《-ぼく》は行かないよ。待ちぼうけさしてやるさ。」  彼は半ば身を起こした。 「君は急ぐのかい。そうじゃないだろう。どうだい、こうしようじゃないか。いっしょに食事をしよう。僕《-ぼく》が料理屋を一軒知ってる。」  ディーネルは定めし異議をもち出したかったろう。だれかに待たれてるからではないが、不意の決心がつきにくかったからである。彼はいったい几帳面なたちで、前からちゃんと予定を作っておく方《ほう》だった。しかしクリストフは、ほとんど拒むことを許さないような調子で尋ねたのだった。でディーネルはそれに引きずり込まれてしまった。二人はまた話しだした。  料理屋へ|はい《入》ると、彼らの熱情は消えた。どちらが昼食をおごるかという重大な問題に、二人とも気をもんだ。どちらも、自分が昼食をおごって体面を見せようと、ひそかに考えていた、ディーネルは金持ちだからという理由で、クリストフは貧乏だからという理由で。彼らはその考えを露わには示さなかった。しかしディーネルは献立を注文しながらわざと主人公らしい調子を使って、自分の権利を肯定しようとつとめた。クリストフはその心持を覚って、他のこった料理を注文しながら、上手《うわて》に出た。彼はだれにも劣らず懐ぐあいのよいことを示そうとした。ディーネルはまた新たに策をめぐらして、葡萄酒を選《えら》む役目を受持とうとした。クリストフはそれをじろりとにらみつけて、その料理屋にある最も高価な地産葡萄酒を一瓶、もって来さした。  りっぱな食事に臨むと、彼らは気がひけた。もう話すこともなかった。窮屈そうなぎごちない様子で、こそこそ食べていた。するとにわかに、たがいに他人《-タニン》同士の間であることに気づいて、警戒し合った。会話を活気だたせようとつとめても、なんの甲斐もなく、じきに言葉が途絶えてしまった。初めの三十分ばかりは退屈でたまらなかった。が幸いにも、やがて食事の効果が現われてきた。二人の客はいくらか親《した》しげに顔を見合わすようになった。とくにクリストフは、そういう御馳走に慣れていなかったので、妙に饒舌《-じょうぜつ》になった。彼は生活の困難を語った。オットーも心を開《-ひら》いて、自分もまた幸福ではないとうち明けた。彼は弱くて臆病で、友人らに乗ぜられがちだった。彼らは彼を嘲り、皆《-ミンナ》の共通な態度を難ずることを彼に許さず、意地悪く彼をからかってばかりいた。──クリストフは拳《+コブシ》を握りしめて、自分の前で彼らがそんなことをしたら、思い知らしてやると言った。──オットーもまた家の者から理解されていなかった。クリストフもそういう不幸を知りつくしていた。そして二人はたがいの不運を憐れみ合った。ディーネルの両親は、彼を商人にして父の後《あと》を継がせるつもりだった。しかし彼は詩人になることを望んでいた。たといシルレルのように町《-まち》から逃げ出して、困苦と戦わなければならないとしても、詩人になるつもりだった。(それにもとより、父の財産はすっかり彼のものとなるはずだったし、その財産も僅少なものではなかった。)彼は顔を赤らめながら、生《-セイ》の悲しみを歌った詩《 し》を書いたことがあると告白した。しかしクリストフがいかに願っても、それを誦する気にはなりかねた。けれどもついに、感動のあまりむちゃくちゃな口調でその二三《ニサン》句を聞かした。クリストフはそれを崇高なものだと思った。彼らはたがいの計画を言いかわした。将来は正劇《ドラマ》や歌曲集《リーデルクライス》などを書くことにした。彼らはたがいに賛嘆しあった。クリストフの音楽上の名声、その他彼の力、彼のやり方《-かた》の豪胆さなどを、オットーは感嘆した。そしてクリストフは、オットーの優美さ、その態度の上品さ──すべてがこの世においては相対的である──またその博識などを、深く感じた。その知識こそ、彼に欠けてるもので、彼が渇望してるものであった。  食事のためにぼんやりして、食卓に両肱をつき、しみじみとした眼をしながら、二人はたがいに語りまた聞いていた。午後は過ぎていった。出かけなければならなかった。オットーは最後にも一度勇気を出して、勘定書を取ろうとした。しかしクリストフから荒い一瞥を受けると、そのまますくんでしまって、我《ガ》を通す望みも失った。クリストフはただ一つ心配なことがあった。持合《持ち合わ》せ以上の金額を請求されはすまいかということだった。もしそうなったら、オットーにうち明けるよりもむしろ、時計でも渡してしまうつもりだった。しかしそれまでにしないでもよかった。一月分《ひと月分》の金《カネ》を大方その食事に費やしてしまっただけで済んだ。  二人はまた丘を降《-お》りていった。夕《+ユウベ》の影が樅の林に広がり始めていた。林の梢はまだ薔薇色の光《-ひかり》の中に浮出していて、津波のような音をたてながら厳かに波動していた。一面に散り敷いた菫色の針葉《シンよう》が、足音を和らげた。二人とも黙っていた。クリストフは不思議なやさしい悶えが心にしみ通るのを感じた。幸福であった。口をききたかった。悩みの情に胸苦しかった。彼はちょっと立止《立ち止》まった。オットーも同じく立止《立ち止》まった。すべてがひっそりしていた。蠅の群《群れ》がごく高く光《-ひかり》の中に飛び回っていた。枯枝が一本落ちた。クリストフはオットーの手を握り、震える声で尋ねた。 「僕《-ぼく》の友だちになってくれない?」  オットーはつぶやいた。 「ああ。」  彼らはたがいに手を握りしめた。胸は動悸していた。顔を見合わすこともかろうじてであった。  やがて彼らはまた歩き出した。二三歩《ニサンぽ》離れて歩いた。林の縁《ふち》まで一言《-ひとこと》ももう言わなかった。彼らは自分自身と自分の不思議な感動とを恐れていた。足を早め、立止《立ち止》まりもせず、ついに木立の影から出てしまった。そこで彼らはほっと安心して、また手を取り合った。朗らかな夕暮に眺め入《い》って、切れ切《#ぎ》れの言葉で話した。  船《-ふね》に乗ると、舳先の方《ほう》に、明るい影の中にすわって、なんでもない事柄を話そうとつとめた。しかし口にする言葉を耳には聞いていなかった。快い懶さに浸されていた。話をする必要も、手を取り合う必要も、またたがいに見合わす必要さえも、感じなかった。たがいに接近していたのである。  船《-ふね》がつく間|ぎわ《際》に、彼らは次の日曜にまた会おうと約束した。クリストフはオットーを門口まで送って行《-い》った。ガスの光《-ひかり》で、たがいにおずおずと微笑んで、心をこめたさよならをつぶやき合った。別れるとほっとした。それほど彼らは、数時間の緊張した感情に、気疲れがしていたし、沈黙を破《やぶ》ろうとしてちょっとした言葉を発する骨折りに、気疲れがしていた。  クリストフは夜の中を一人でもどって行《-い》った。「一人の友をもってる、一人の友をもってる!」と彼の心は歌っていた。何《なん》にも眼にはいらなかった。何《なん》にも耳に聞えなかった。他のことは何《なん》にも考えていなかった。  家に帰るや否や、すぐに眠気がさしてきて、寝入ってしまった。しかしある固定観念に呼びさまされるかのように、夜中に二三度《ニサンど》眼をさました。そして「一人の友をもってる」とくり返しては、またすぐに眠りに入った。  朝になると、すべてが夢のように彼には思われた。それが現実のことであるとみずから確かめるために、前日のことをごく些細な点まで思い起こそうとした。音楽を教えてる間にも、なおその方《ほう》にばかり気がひかれた。午後になってからも、管弦楽の試演の間非常にぼんやりしていたので、そこを出る時にはもう何をひいたのか覚えていなかった。  家に帰ってみると、手紙が待ちうけていた。どこから来た手紙なのか考える要《用》はなかった。自分の室《部屋》にかけ込み、そこにとじこもって手紙を読んだ。水色の紙に、見分けにくい長めの丹念な手跡で書かれて、ごく几帳面な署名がついていた。  親愛なるクリストフ君──わが畏敬せる友、と呼んでよろしいでしょうか。  ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう! ただ、あの食事に君がたいへん金《カネ》を費やされたことを、気にしているだけです。なんという素敵な一日《-いちにち》だったでしょう! あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。僕《-ぼく》たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう! 宮廷音楽長の午餐に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕《-ぼく》は希望しています。僕《-ぼく》のために困るようなことになられたら、僕《-ぼく》はどんなにか心苦しいでしょう!  親愛なるクリストフ君、僕《#ボク》は永遠に君の忠実なる僕《+しもべ》にして友であります。 【オットー・ディーネル】  二伸──日曜には、どうぞ僕《-ぼく》の家へ誘いには来ないでください。もしおさしつかえなかったら、シュロスガルテン(御殿の園《ソノ》)でお会いできれば仕合せです。  クリストフは眼に涙を浮かべてその手紙を読んだ。彼は手紙に唇をあてた。大声に笑いだした。寝台の上に筋斗《+トンボガエリ》をした。それからテーブルに駆けつけ、ペンを取って、すぐに返事を書こうとした。一分《-いっぷん》も待っておれなかった。しかし彼は書き慣れていなかった。心に満ちあふれてることをどう書き|現わ《現》していいかわからなかった。ペンで紙を裂き、インキで指を真黒にした。じれて足を踏みならした。ついには、言葉をむりにしぼり出し、五六《ゴロク》枚下書きした後《あと》に、四方八方に曲りくねった無格好《不格好》な字で、ひどい綴りの誤りをしながら、手紙を書くことができた。  わが魂よ! 僕《-ぼく》が君を愛してるのに、どうして感謝などと言うのか? 君を知る前ぼくはどんなに悲しく一人ぽっちだったか、君に言ったじゃないか。君の友情はぼくの最大の幸福なんだ。昨日、ぼくは嬉しかった、ほんとに嬉しかった! 生まれて初めてのことだ。ぼくは君の手紙を読みながら、嬉し泣きに泣いた。そうだ、疑っちゃいけない、ぼくたちを近づけたのは運命だ。運命は大事をなしとげるために、ぼくたちが友だちになることを望んだのだ。友だち! なんという愉快な言葉だろう! とうとうぼくも一人の友をもつこととなったのか。ああ、君はもうぼくを捨てやしないだろうね。誠実でいてくれるだろうね。いつまでも、いつまでもだ!……いっしょに生長し、いっしょに勉強し、ぼくはぼくの音楽上の感興を、頭《-あたま》に浮かぶ奇怪な事柄を、君は君の知力と驚くべき知識を、二人で共有のものにするのは、どんなに愉快なことだろう! 君は実に種々なことを知ってる。ぼくは君のように頭《-あたま》のいい者を見たことがない。ぼくは時々心配になる。ぼくは君の友情を受《う》くるに足りない者のような気がする。君はいかにも高尚で、ちゃんとでき上《-あ》がっている。ぼくのような粗雑な者を愛してくれることを、ぼくはどんなに君に感謝してるだろう!……いやちがった。今言ったばかりだった。感謝なんてことを決して言ってはいけないんだ。友誼においては、恩を受《う》くる者も施す者もないんだ。ぼくは恩なんか甘受しない! ぼくたちはたがいに愛してるから、同等の者なんだ。君に会うのが待ち遠しくてたまらない。ぼくは君の家に誘いには行くまい、君がそれを好まないから。──だが、ほんとうを言えば、そういう用心をするわけがぼくにはわからない。──しかし君はぼくより賢い。たしかに何か理由があるんだろう……。  ただ一言《-ひとこと》いっておくが、これからはもう金《カネ》のことを言ってはいけない。ぼくは金《カネ》が嫌いなんだ、言葉も実物も。ぼくは金持ちではないったって、友に御馳走をするのに困るほどじゃない。そして、自分の持ってるものをすっかり友のためにささげるのが、ぼくの楽しみなんだ。君もそうするだろう。もしぼくに必要があったら、君は君の財産全部をぼくにくれてしまうだろうね。──しかしそんなことには決してなるまい。ぼくは丈夫な拳固と強い頭《-あたま》とをもってる。食べるだけのパンは常に得られるだろう。──日曜日にね!─―ああ、一週間会えないのか! そして二日前にはぼくは君を少しも知らなかったんだね。どうしてぼくはこんなに長く君なしに生きていられたんだろう?  楽長の奴《ヤツ》、ぼくに苦情を言おうとしたよ。だが、ぼくはもちろんだが、君もそれを気にかけちゃいけない。ぼくにとって他人《-タニン》がなんだ! 他人《-タニン》がぼくのことをどう考えようと、将来どう考えることがあろうと、それをぼくは軽蔑しきってる。ぼくにとって大事なのは君ばかりだ。ぼくをよく愛してくれ、ぼくが君を愛するように君もぼくを愛してくれ! ぼくがどんなに君を愛してるか、言うこともできない。ぼくは爪先から眼の奥まで、すっかり君のものだ、君のもの、君のものだ。永久《えいきゅう》に君のものなんだ! 【クリストフ】  クリストフはその週の間、待ち遠しさに苦しんだ。彼はいつもの道を通らないで、長い回り道をし、オットーの家のある方面を彷徨した──彼に会おうと考えてるのではなかったが、しかし彼の家が見えると、それでもう感動しきって蒼くなったり赤くなったりした。木曜日にはもうたまらなくなって、初めのよりもっと熱烈な第二の手紙を送った。オットーは感傷的な返事をよこした。  ついに日曜日が来た。オットーは会合の時間を正確に守った。しかしクリストフは、一時間も前から遊歩場《遊歩じょう》で待ちながら、|いらいら《イライラ》していた。オットーの姿が見えないので苦しみ始めた。病気ではあるまいかと気をもんだ。なぜなら、オットーが自分との約を違《たが》えようとは少しも思わなかったから。彼はごく低くくり返した、「ああどうか、彼が来るように!」そして彼は細杖《+ホソヅエ》で、道の小石をたたいた。三度たたいて当たらなかったらオットーは来ない、しかしうまく当たったらオットーがすぐに現われるのだ、と考えていた。そしてごく念を入《-い》れてやったにもかかわらず、また容易なことではあったけれども、三度ともはずしてしまった。ところがちょうどその時、オットーの姿が眼に|はい《入》った。オットーはいつもの静かな落着いた歩き方《-かた》でやって来た。彼はごく感動してる時でも常にきちんとしていたのである。クリストフは彼のそばに駆け寄り、乾ききった喉で今日《こんにち》はと言った。オットーも今日《こんにち》はと答えた。それから、天気がたいへんいいこと、また時間はちょうど十時|五六分《ゴロッぷん》、さもなければ、御殿の時計はいつも後れているので、十時十分くらいだろうということ、そんなこと以外にはもう何も言うべきことが見当たらなかった。  彼らは停車場《停車じょう》へ行き、町《-まち》の人々の遠足地となってる次の停車場《停車じょう》まで汽車に乗った。途中彼らは数言《スーコト》しか話ができなかった。能弁な眼付でそれを補おうとつとめたが、それもうまくゆかなかった。どんなに親しい友人同士であるかたがいに言いたく思いながら駄目だった。彼らの眼はまったく何《なん》にも語らなかった。たがいに喜劇を演じていた。クリストフはそれに気づくと恥しくなった。一時間前に心を満たしていたあらゆることを、言うこともできなければ感ずることさえできなくなったのは、どういう訳《-わけ》だかみずからわからなかった。オットーの方《ほう》は、それほど生真面目になっていなかったし、またいっそうの自尊心をもって内省していたから、その間《+マ》の悪さを同様にはっきりとは意識しなかったであろうが、しかし同じような失望を感じていた。事実をいえば、この二人の少年は、一週間前からたがいに相手のいないところで、感情を非常に高調していたので、現実のうちにそれを維持することができないで、たがいに顔を合わせると、最初の印象は必然に失望的なものとなってしまったのである。それを一掃しなければならなかった。しかし彼らはきっぱりとそう是認することができなかった。  彼らは重苦しい気づまりが覆いかぶさってくるのを払《ハラ》いのけることができないで、終日田舎を歩き回った。ちょうど祭りの日で、飲食店や林の中は散歩者でいっぱいだった──小市民の連中が、方々《ほうぼう》で騒いだり食べたりしていた。それを見て彼らの不機嫌さはなおつのった。そういううるさい連中のために、この前の散歩の時のように心を明け放《-ハナ》しにすることができないのだと、彼らは考えていた。それでもたがいに話をした。話の種《-たね》を見つけるのにたいへん苦しんだ。何《なん》にも話し合うことがないと気づくのを恐れていた。オットーは学校で得た知識を並べたてた。クリストフは音楽上の作品やヴァイオリンのひき方について、専門的な説明をやりだした。彼らはたがいに退屈し合っていた。たがいに話を聞きながら退屈しきっていた。そして話がとぎれるのを心配しながらやたらに話しつづけた。沈黙の淵が開《-あ》けるとぞっとしたからである。オットーは泣きたかった。クリストフはオットーを置きざりにして逃げ出そうとまでした。それほど彼は恥ずかしかったし退屈だった。  ふたたび汽車に乗る一時間ばかり前に、ようやく彼らの心は解《-と》けたのだった。林の奥で犬が吠えていた。勝手に獲物を追いたてていた。クリストフはその通り道に隠れて追われてる獣を見ようと言い出した。二人は茂みの中に駆け込んだ。犬は遠のいたり近寄ったりした。二人は右へ行ったり、左へ行ったり、進んだり、後《あと》に引返したりした。吠声はますます激しくなった。犬はいらだちのあまり息もつまるばかりに、屠殺の叫び声をあげていた。犬は二人の方《ほう》へ近寄ってきた。クリストフとオットーとは、小道の轍の中に、枯葉の上に身を伏せ、息をこらして待ち受けた。吠声は止んだ。犬は獲物の足跡を見失ったのである。遠くでも一度吠えるのが聞えた。それから林の中はひっそりとしてしまった。物音一つ聞えなかった。ただ、昆虫や青虫など、たえず森をかじって破壊する無数の生物の、神秘な蠢動の音が聞えるばかりだった──決してやむことのない規則正しい死の息吹きである。二人の少年は耳を傾けた、身動きもしなかった。ついにがっかりして起き上がりながら、「もうおしまいだ、来やすまい、」と言おうとした。がちょうどその時、一匹の小兎が茂みから飛び出して、彼らの方《ほう》へまっすぐにやって来た。二人は同時にそれを見つけて、喜びの声をあげた。兎は飛び上《-あ》がって、横の方《ほう》へ躍り込んだ。立木の中にまっさかさまに飛び込んでゆくのが見えた。すれ合う木の葉の戦ぎが、水面《-みなも》の船跡のように消えていった。二人は声をたてたのを後悔したが、その出来事で心が愉快になった。兎のあわてた飛び方を考えながら、大笑いをした。クリストフはおかしな様子でその真似をした。オットーも同じくやった。それから二人は追っかけっこをした。オットーは兎になり、クリストフは犬になった。垣根をつきぬけたり溝を飛び越したりして、林や牧場を駆け降《-お》りた。麦畑の真中《まんなか》に飛び込んで、百姓に怒鳴りつけられた。二人はなおやめなかった。クリストフは実にうまく犬の嗄《+しわが》れた吠声を真似たので、オットーはおかしさのあまり涙を出して笑った。ついには、狂人のように叫びながら斜面を転げ降《-お》りた。もはや声も出なくなると、そこにすわって、笑ってる眼で顔を見合った。今はもうまったく幸福で、みずから満足しきっていた。もはやえらい友人のようなふうをしようとしなかったからである。あるがままの心を率直にさらけ出していた。二人の子供になりきっていた。  彼らは別に意味もない唄を歌いながら、腕を組み合わして帰って行《-い》った。けれども、町《-まち》にもどりかけると、またそれぞれ様子ぶる方《ほう》がいいように考えた。そして林の出《デ》はずれの木に、二人の頭字《イニシャル》を組み合わして彫りつけた。しかしその感傷的な気分は、上機嫌な心にうち負けた。帰りの汽車の中では、顔を見合わすたびに大笑いをした。たがいに別れる時には、すばらしく愉快な一日《-いちにち》を過ごしたと思い込んでいた。そして一人一人《一人ひとり》になるや否や、すぐにその確信は肯定された。  彼らは蜜蜂の仕事よりもさらに気長い巧妙な建設の仕事をふたたび始めた。というのは、平凡な回想のいくつかの断片で、彼ら自身と彼らの友情との霊妙な面影を作り上げることができたのである。一週間の間たがいに理想化した後《あと》で、日曜日に会っていた。そして事実と彼らの幻との間には不均衡があったにもかかわらず、彼らは少しもそれに気づかないようになった。  彼らは友だちであることを誇りとしていた。反対な性格のためにかえって近づけられていた。クリストフはオットーほど美しい者を知らなかった。その繊細な手、綺麗な髪、生々しい顔色、控目な言葉、丁寧な態度、細かく注意のゆき届いた服装、そういうものが彼の心を喜ばした。オットーはまた、クリストフの満ちあふれた力と独立的な気性とに、すっかり心服した。あらゆる権威にたいして敬虔な尊敬をささげる古来の因襲に染《そ》んでいた彼は、あらゆる既成の範例にたいして生まれつき敬意を欠いでいる友と交わるのに、恐れの念の交じった喜びを感じた。町《-まち》じゅうのあらゆる名望家《-メイボウカ》をけなしつけるのを聞き、無作法にも大公爵の真似をする言葉を聞くと、彼は快い恐れからかすかな戦慄を感じた。クリストフはそういうふうにして自分が友の上に及ぼしてる幻惑に気づいた。そして攻撃的な気分をさらに誇大してみせた。あたかも老革命家のように、社会の約束と国家の法則とをくつがえす言葉を発した。オットーは眉をしかめまた歓喜して、それに耳を傾けた。そして調子を合わせようとこわごわながらつとめた。しかし、だれかに聞かれやすまいかと用心深くあたりを見回すのであった。  二人でいっしょに散歩していると、クリストフは禁札を見るごとにかならずその畑の柵を飛び越して|はい《入》った。あるいは所有地の壁越しに果物をつ《摘》み取った。オットーは人に見つかりはすまいかと心配した。しかしそういう心遣いは彼にとって特別な喜びだった。夕方家《夕方いえ》に帰ると、自分が勇者であるような気がした。彼はこわごわクリストフを賛美していた。彼の服従的な本能は、他人《-タニン》の意思に従うのみである友情のうちに、自己満足を見出《見い出》していた。クリストフはかつて彼に決心する骨折りをかけなかった。彼は自分で万事をきめ、一日《-いちにち》をどうして暮すかを決定し、なお一生をどういうふうに使うかを決定し、あたかも自分の未来にたいするがようにオットーの未来にたいして、議論を許さない断然たる計画をたてた。オットーはいつも賛成していた。時には、クリストフが彼の財産を勝手に処置して、自分の発明になる劇場をやがて建てるのだと言うのを聞くと、多少の反発心が起こることもあった。しかし抗弁しなかった。友の圧倒的な調子に気圧されていたし、また、商業評議員オスカル・ディーネル氏が蓄積した金《カネ》は、それ以上に高尚な使い道を見出すことはできないという友の確信に、説き伏せられてしまっていた。クリストフにはオットーの意思を虐げるつもりは少しもなかった。彼は本能的な専制者《-せんせいしゃ》であって、友に自分と異なった考えがあろうとは想像だもしなかった。もしオットーが彼と違った志望を発表したら、彼は躊躇なく自分一己の嗜好は犠牲《-ギセイ》にして顧みなかったろう。それ以上の犠牲《-ギセイ》をも辞さなかったろう。彼はオットーのために身を投げ出したくてたまらなかった。自分の友情が試練に会うべき機会を非常に待ち望んでいた。散歩中に何か危険に出会って、その前に突進してゆくことをねがっていた。オットーのためになら喜んで死にたかった。けれどもまずそれまでは、気がかりな注意でオットーを守ってやり、歩きにくいところでは娘の子にでもするように手を貸してやり、疲れやしないかと気遣《きづか》い、暑がってやしないかと気遣《きづか》い、寒がってやしないかと気遣《きづか》った。木影《木陰》にすわる時には、自分の上着をぬいでその肩に着せてやった。歩く時にはそのマントを持ってやった。オットー自身をも負ってやりたかった。恋人のように彼の身を見守っていた。そして実際をいえば、クリストフは彼に恋していた。  恋とはいかなるものであるか彼はまだ知らなかったので、オットーに恋してることをみずから気づかなかった。しかし彼らは時々、いっしょにいると妙な不安の情にとらえられた──樅の林の中で初めて親しく交わったあの日、彼の胸をしめつけた感情と同じもの──激しい感動が顔に上《-のぼ》ってきて、頬《+ホオ》が真赤になった。彼は恐れた。二人の少年は、本能的に同じ思いをして、おずおずとたがいに避《-さ》け合い、たがいに逃げ合い、後《あと》になり先になりして途中でぐずぐずした。藪の中に桑の実《み》を捜してるようなふりをした。そして彼らは何が不安なのか知らなかった。  とくに手紙の中で、二人のそういう感情は高まっていた。手紙の中では事実から裏切られる恐れがなかった。何物も彼らの幻影をそこなうものはなかったし、彼らを気後れさせるものはなかった。今では一週に二三度《ニサンど》、熱烈な叙情味の文体で手紙を書き合っていた。現実の出来事を語ることはほとんどなかった。突然に感激と絶望との間を移り変わる黙示録的な調子で、重大な問題をこねまわしていた。彼らはたがいに、「わが幸福、わが希望、わが愛人、わが身自身、」などと呼んでいた。 「魂」という言葉を恐ろしく使いちらした。宿命《-しゅくめい》の悲しさを悲壮な色でいろどっていた。友の生涯に運命の変転を投げ入れて心痛していた。 「わが愛よ、ぼくは君に心配をかけるのがつらい。」とクリストフは書き送った。「君が苦しむのはぼくにはたえられない。苦しんではいけない、ぼくはそれを欲しない。(彼は紙が破《-やぶ》けるほどの太い傍線を右の言葉にほどこした。)君が苦しむなら、ぼくはどこに生きる力を見出《見い出》せよう! ぼくの幸福は君のうちにしかない。どうか仕合せであってくれ! 苦しみは皆《-ミンナ》ぼくが喜んで荷《+にな》ってやる。ぼくのことを考えてくれ。ぼくを愛してくれ。ぼくは愛してもらいたいんだ。ぼくを生かす熱は君の愛から来るんだ。ああ、ぼくがどんなに震えてるか君が知ってくれたら! ぼくの心の中は冬で、鋭い寒風が吹いている。ぼくは君の魂を抱《-だ》きしめるのだ。」 「ぼくの考えは君の考えにくちづけしている。」とオットーは返事を書いた。 「ぼくは君の頭《-あたま》を両手に抱《-だ》きしめている。」とクリストフは答えかえした。「ぼくが唇でしなかったことを、唇でしないだろうことを、ぼくは全身でする。かくも愛してると君を抱擁する。察してくれ。」  オットーは疑うようなふうを装った。 「ぼくが君を愛してるほど、君はぼくを深く愛してるかしら?」 「ああ!」とクリストフは叫んだ、「同じほどなもんか、十倍も、百倍も、千倍もだ! なに、君はそう感じないのか? ぼくはどんなことをしたら君の心を動かせるのか。」 「ぼくたちの友情はなんという美しいものだろう?」とオットーは感嘆した。「歴史のうちにもこれほどの友情があろうか? 夢のようにやさしく麗《うる》わしい。ただこれが過ぎ去ることのないように! もし君がぼくを愛しなくなるようなことがあったら!」 「わが愛人よ、なんと君は馬鹿だろう。」とクリストフは答えてやった。「いや許してくれ。しかし君の苦労性な弱気さにぼくは腹がたってくる。ぼくが君を愛しなくなったらなどと、どうして尋ねるんだ! ぼくにとっては、生きることがすなわち君を愛することなんだ。いや死でさえもぼくの愛をどうすることもできない。もし君自身、ぼくの愛を壊そうと思っても、どうにもできまい。君がぼくを裏切っても、ぼくの心を引裂いても、ぼくは君から鼓吹されるこの愛について、君を祝福しながら死んでゆくだろう。だからもうこれ限り、そんな弱々しい不安の念でみずから心配しまたぼくを苦しめることを、どうかやめてくれ!」  しかし一週間もたつと、彼の方《ほう》からこんなことを書き送った。 「もうまる三日、君の口から出るなんらの言葉にも接しないでいる。ぼくはぞっとする。君はぼくのことを忘れてるんじゃないかしら? そう思うと全身の血が冷えきってしまう。……そうだ、それに違いない。先日もぼくは、ぼくにたいする君の冷淡さに気づいた。君はもうぼくを愛しないんだ! ぼくから離れようと考えてるんだ!……いいか、もし君がぼくを忘れたら、もしぼくを裏切るようなことがあったら、ぼくは君を犬のように打ち殺してしまってやる!」 「わが心よ、君はぼくを迫害するのか!」とオットーは悲嘆した。「君はぼくに涙を流させる。ぼくはこんな目に会う覚えは少しもない。しかしなんでも君の言うままになろう。君はぼくにたいしてあらゆる権利をもっている。もし君がぼくの魂を破壊するにしても、ぼくの魂の一片は、君を愛するために永く生きているだろう!」 「天の神よ!」とクリストフは叫んだ、「ぼくは友を泣かした!……ぼくをののしってくれ、ぼくを殴ってくれ、ぼくを踏みにじってくれ! ぼくは惨めな人間だ。ぼくは君の愛に価しない!」  二人は、なんでもない他人《-タニン》に書き送る手紙と自分たちの手紙とを区別するために、宛名の書き方《-かた》に特別なくふうをこらしていたし、また切手をはるにも、封筒の下部の右の隅に、逆さに斜めにはりつけることにしていた。そういう子供らしい秘密は、彼らにとって、愛の楽しい神秘の魅力をそなえていた。  ある日出稽古からの帰り道に、クリストフはオットーが同じ年|ごろ《頃》の少年と連れだってるのを、次の街路に見かけた。彼らはいっしょに親しく談笑していた。クリストフは蒼くなって、彼らが街路の曲り角《-かど》に見えなくなるまで、その後《あと》を見送った。彼らは少しもクリストフの姿に気づかなかった。クリストフは家に帰った。一片の雪が太陽の面《おもて》をかすめたようなものだった。すべてが薄暗くなった。  次の日曜に会った時、クリストフは初めなんとも言わなかった。しかし三十分ばかり散歩した後《あと》に、彼はしぼるような声で言った。 「水曜日に、君をクロイツ街で見かけたよ。」 「そう!」とオットーは言った。  そして彼は赤くなった。  クリストフはつづけて言った。 「君は一人じゃなかったね。」 「ああ、」とオットーは言った、「いっしょだった。」  クリストフは唾をのみ込み、平気を装った調子で尋ねた。 「あれはだれだい?」 「従弟のフランツだ。」 「そうか。」とクリストフは言った。  それからちょっと後《あと》にまた言った。 「君は従弟のことをぼくに話したことがなかったね。」 「ラインバッハに住んでるんだ。」 「たびたび会うのかい。」 「時々こっちへやって来るよ。」 「そして君も、向《向こ》うへ行くのかい。」 「時々だ。」 「そうか。」とクリストフはまた言った。  オットーは話題を変えてもかまわなかったので、嘴で木をつついてる一匹の小鳥をさし示した。二人は他のことを話した。十分《ジュップン》ばかりしてから、クリストフはまた突然言い出した。 「君たちは気が合うのかい?」 「だれと?」とオットーは尋ねた。 (だれとだか彼にはよくわかっていた。) 「従弟とさ。」 「ああ合うよ。どうして?」 「いやなんでもないんだ。」  オットーはいつも悪い冗談でからかわれるので、従弟をあまり好まなかった。しかし妙な意地悪な本能から、やがてこうつけ加えて言った。 「たいへんやさしいよ。」 「だれが?」とクリストフは尋ねた。 (だれがだか彼にはよくわかっていた。) 「フランツさ。」  オットーはクリストフの言葉を待った。しかしクリストフは聞こえなかったようなふりをしていた。榛の枝を杖に切っていた。オットーはまた言った。 「面白い奴《ヤツ》だよ。いつでもいろんな話を知ってるよ。」  クリストフは平然と口笛を吹いた。  オットーはますます言いつのった。 「そして実に頭《-あたま》がよくて……上品で……。」  クリストフは肩をそびやかした。こう言うがようだった。 「そんな奴《ヤツ》がおれに何の関係があるんだ?」  そしてオットーが気を悪くして、なお言いつづけようとした時、クリストフは荒々しくその言葉をさえぎって、向《むこ》うのある地点まで駆けっこを強いた。  彼らはその午後じゅう、もはやこの問題に触れなかった。しかし、二人の間には珍しいことであるが、とくにクリストフにおいては珍しいことであるが、馬鹿丁寧さを装って、冷やかに争っていた。クリストフの喉には言葉がまだつまっていた。ついに彼は我慢ができなくなって、五歩ばかり後《あと》からついてくるオットーの方《ほう》へ、途中でふり向いて、激しく彼の手を取り、一度に言ってのけた。 「オットー、いいかね、ぼくは君がフランツとそんなに仲よくするのを好まないんだ。なぜって……それは、君がぼくの友だからだ。君がだれかをぼくよりいっそう愛するのを、ぼくは好まないんだ。ぼくは厭なんだ。ねえ、君はぼくのすべてなんだ。そんな……できないはずだ、いけないはずだ。もし君がぼくのものでなくなったら、ぼくはもう死ぬよりほかないだろう。ぼくはどんなことをするかわからない。自殺するかもしれない。君を殺すかもしれない。いや、勘弁してくれ!……」  彼の眼からは涙がほとばしっていた。  オットーは、その脅《+おびや》かすように唸ってる苦しみの真面目さに、感動しまた恐れて、急いで誓った、クリストフほど深くはだれも愛してはいないし、また将来決して愛しはしない、フランツは自分にとってなんでもない、もしクリストフがそう望むならもう決してフランツに会いもすまいと。クリストフはそれらの言葉を飲み込んで、心がまた生き返ってきた。笑みを浮べ、激しい息をついた。彼はオットーに真心から感謝した。自分の乱暴を恥じた。しかし非常に重苦しい胸は和らいだ。二人は向き合って、手を取り合いながらじっとつっ立って、たがいに顔を見合った。たいへん嬉しく、またたがいの身をはじらっていた。彼らは黙って帰りかけた。それからまた話しだして、ふたたび快活な気分になった。かつて知らなかったほどひしといっしょに結び合わされたのを感じていた。  しかしこの種《しゅ》のことは、それが最後のものではなかった。今やオットーはクリストフにたいする自分の力を感じたので、それをみだりに使おうとした。彼は急所を心得ていて、そこを突《突っ》つきたくてたまらなかった。しかしそれは、クリストフの忿怒《+フンヌ》を面白がってるからではなかった。否反対《いな反対》に、彼はその忿怒《フンヌ》を恐れていた。それでも彼はクリストフを苦しめて、自分の力を確かめるのだった。彼は意地悪くはなかったが、女の子のような心をもっていた。  で彼は約束にもかかわらず、フランツや他の友だちと腕を組合わしてるところを、なおつづいて見せつけた。彼らはいっしょに大騒ぎをし、彼はわざとらしく笑っていた。クリストフが苦情をもち出すと、彼はそれを嘲笑って、本気にとるような様子を見せなかった。そしてついに、クリストフが眼の色を変え、憤りに唇を震わすのを見ると、彼もまた調子を変え、心配そうな様子をし、もう二度としないと約束した。けれども翌日にはまたそれを始めた。クリストフは激しい手紙を書いて、彼にこう呼びかけた。 「下司野郎、もう貴様のことなんか聞くもんか。もう赤の他人《-タニン》だ。どっかへ行っちまえ、貴様のような犬どもは!」  しかし、オットーが涙っぽい一言《-ひとこと》を書き送るか、あるいは一度実際やったように、永久《えいきゅう》に変わらない心を象徴する一輪の花を送るかすれば、それだけでクリストフの心は後悔の念に解《-と》け、次のような手紙を書くのだった。 「わが天使よ、ぼくは狂人だ。ぼくの愚蒙《+グモウ》を忘れてくれ。君は最もりっぱな人だ。君の小指一本だけでも、この馬鹿なクリストフ全体より優っている。君は賢いやさしい愛情の宝をもっている。ぼくは涙を浮べて君の花にくちづけする。花はここに、ぼくの心臓の上にある。ぼくはそれを、拳《+コブシ》を固めて肌の中に押しこむのだ。それでぼくは自分の血を流したい、君の麗《うる》わしい温情とぼくの恥ずかしい愚かさとを、いっそう強く感ずるようにと!……」  けれども彼らはたがいに倦《+あ》き始めていた。小さな諍いは友情を維持するものだというのは、誤りである。クリストフは非道な態度をとるようにオットーから仕向けられるのを恨んでいた。彼はよく反省しようとつとめ、自分の専横をみずからとがめた。彼の誠実な激越な性質は、初めて愛を味わうと、それに自分の全部を与えるとともに、また向《むこ》うからも全部を与えてもらいたかった。彼は友情を分《わか》つことを許さなかった。友にすべてをささげるの覚悟でいた彼は、友の方《ほう》でも自分にすべてをささげるのが、正当でまた必然のことでさえあると考えていた。しかし彼は、世の中は自分のような一徹な性質をもととして建てられてるものでないと感じ始め、事物にその与ええないものを要求してるのだと感じ始めた。そこで、彼はみずからに打ち勝とうとつとめた。彼はきびしくおのれをとがめ、みずから利己主義者であるとし、友の愛情を独占するの権利はない者であるとした。彼は真剣な努力をして、たとい自分はいかにつらかろうとも、友をまったく自由にさせようとした。謙譲な精神からわざとつとめて、フランツを疎んじないようにオットーに勧めた。オットーが自分より他の者と交わって喜んでるのを見るのが嬉しいと、思ってるらしい様子を装った。しかしオットーはそんなことに騙されはしなかったが、意地悪な心から彼の言葉どおりを行なった。すると彼は顔を曇らせないではおれなかった。そしてにわかにまた怒《-いか》りたった。  厳密にいえば、もしオットーが彼より他の友だちの方《ほう》を好むとしても、それを彼は許しえたであろう。しかし彼がオットーに見逃してやることのできなかったことは、その不真実であった。オットーは偽瞞家《+欺瞞家》でも虚構家《-キョコウカ》でもなかったが、あたかも吃者《+ドモリ》が言葉を発するのに困難を感ずるように、真実を言うのに天性的の困難を感じていた。彼が言うことは決して、全然ほんとうでもなければ全然偽りでもなかった。自分の感情をきまり悪《わる》がっていたのかあるいはよくわかっていなかったのか、とにかく彼は、まったくはっきりと口をきくことはまれであった。彼の答えはいつも曖昧だった。彼は何事についても、隠しだてをしたりごまかしたりして、クリストフを怒《おこ》らせた。錯誤を指摘されると、彼はそれを自認するどころか、頑固に否定して、馬鹿げた作りごとばかり並べたてた。ある日クリストフは、むかっ腹《ぱら》をたてて彼の頬《+ホオ》を殴りつけた。そして彼は、もうこれが二人の友情の終りであると思い、オットーは決して自分を許してくれないだろうと思った。しかしオットーは、しばらくむっつりしていた後《あと》に、何事も起こらなかったかのようにまた彼のもとにもどって来た。クリストフの乱暴を少しも恨んではいなかった。おそらくそれを面白がってるのかもしれなかった。そしてまた一方では、クリストフがいつも瞞《+だま》されやすくて、どんな偽りの餌をも口いっぱいに飲み込んでしまうのを、好ましく思ってはいなかった。そのために多少クリストフを軽蔑して、自分の方《ほう》がすぐれてると信じていた。クリストフの方《ほう》では、オットーが少しの反抗もしないで自分の酷遇を受けるのに、不満を覚えていた。  彼らはもはや初めのころのような眼ではたがいに眺めなかった。二人のたがいの欠点が明るみにもち出されていた。オットーはクリストフの独立|不覊《+フキ》を以前ほど面白く思わなかった。クリストフは散歩中厄介な道連れだった。彼は少しも世間体をはばからなかった。勝手な真似をして、上着をぬぎ、胴衣の胸をはだけ、襟を半ば開《-ひら》き、シャツの袖をまくり、杖の先に帽子をつっかけ、身体を風にさらした。歩きながら腕を打ち振り、口笛を吹き、大声に歌った。真赤な顔をし、汗を流し、埃にまみれていた。市場《イチバ》もどりの百姓のような様子だった。貴族的なオットーは、彼と連立ってるところを人に見られるのが、たまらなく恥ずかしかった。街道をやってくる馬車を見かけると、十歩ばかり彼の後《あと》におくれるようにして、一人で散歩してるふうを装った。  帰りに、料理屋か汽車の中などで、クリストフが話を始める時にも、オットーはやはり当惑するのだった。クリストフは騒々しく話しだし、頭《-あたま》に浮かぶことはなんでも言ってのけ、オットーを厭になるほどなれなれしく取扱った。だれでも知ってる名高い人々について、あるいは少ししか離れていない向うにすわってる人々の風采についてさえ、最も好意を欠いた意見を高言し、または自分の健康や家庭生活のごく内密な詳細にまで、話を進めていった。オットーがいくら眼配《メクバ》せをしたり、まごついた合図をしたりしても、甲斐がなかった。クリストフはそれに気づく様子もなく、一人でいるのと同じように、少しも遠慮をしなかった。オットーは近くの人々が顔に微笑を浮べてるのを見てとった。穴にでもはいりたいような気がした。彼はクリストフを粗野な男だと考えた。どうしてクリストフに心を奪われたのかみずからわからなかった。  最もひどいことは、クリストフが、あらゆる生籬《+生垣》や柵や塀や壁や通行止や罰金制札や各種の禁示《フェルボート》など──すべて彼の自由を制限せんとし、彼の自由に対抗して神聖なる所有権を保証せんとするもの、そういう何物にたいしても、やはり同じように|はばかり《ハバカリ》なく振舞うことだった。オットーはたえずびくびくしていた。いくら注意しても役にたたなかった。クリストフはますます悪いことをしては威張ってた。  ある日クリストフは、オットーを後ろに従えて、ガラス瓶《-ビン》の破片を植えた壁をも乗り越して、あるいはそんな壁があるのでなおそうしたのかもしれないが、私有林の中にはいり込んだ。そしてわが家のように勝手に歩き回ってると、番人とばったり出会った。番人は二人をののしりちらし、訴えるぞと言ってしばらくおどかした後《あと》、最もひどい取扱いで外《-そと》に追い出してしまった。オットーはその憂目《憂き目》に会ってる間しょげきっていた。すでに牢屋に|はい《入》ってるような心地がし、涙ぐみながら、自分はただうっかりはいり込んだのであって、どこへ行くかも知らずにクリストフの後《あと》について来たばかりだと、愚痴っぽく言いたてていた。そしてついに助かったのを知ると、面白がるどころか、同伴者に向かって苦々しい非難を向けた。クリストフが自分を陥れたのだと不平を並べた。クリストフはそれをにらみつけて、「卑怯者《卑怯モノ》」と呼んだ。彼らは激しい言葉を言い合った。オットーはもし一人で帰れたらクリストフと別れてしまったかもしれない。しかしクリストフの後《あと》について行かなければならなかった。それでも二人とも、いっしょに連立ってることを知らないふりをしていた。  雷雨になりかけていた。彼らは怒っていたので、雷雨の来るのが眼にはいらなかった。焼けるような野原は蟲《虫》の声に騒々しかった。と突然、すべてがひっそりとなった。彼らは数分たってからようやくその静寂《セイジャク》に気づいた。鳴動が聞こえていた。彼らは見上げた。空《-そら》はものすごかった。重々しい鉛色の大きな雲がいっぱいになっていた。雲は騎兵が駆けるようにして四方《シホウ》から集まっていた。ある深淵に吸い込まれるかのように、眼の見えない一点に向かって駆け寄ってるかと思われた。オットーは気をもんだが、あえてクリストフにその心配をうち明けなかった。クリストフは何《なん》にも気づかないふうをして、意地悪く面白がっていた。それでも二人は、無言のままたがいに近寄っていた。野《-の》の中には他にだれもいなかった。そよとの風もなかった。ただ熱っぽい戦ぎが、樹々《+キギ》の小さな葉を時々震わすばかりだった。するとにわかに一陣の旋風が埃を巻き上げ、樹木を吹きまげ、恐ろしく二人に吹きつけた。そしてまた、前よりもいっそう凄い静寂《セイジャク》が落ちて来た。オットーは思い切って、震え声で口を切った。 「夕立だ。帰らなきゃいけない。」  クリストフは言った。 「帰ろう。」  しかしもう遅かった。眼が眩むような猛烈な一条の光《-ひかり》がほとばしり、空が唸り、雲の丸天井がとどろいた。たちまちのうちに二人は、暴風雨にとりまかれ、電光におびえ、雷鳴に耳を聾し、全身ずぶ濡れになった。平坦な野《-の》のまんなかで、どちらの人家《ジンカ》へも三十分以上の距離があった、水の渦巻きの中に、ほのかな明るみの中に、雷電の巨大な光《-ひかり》が真赤にほとばしっていた。彼らは走りたかった。しかし雨のために服がこわばりついて、思うように歩くことさえできなかった。靴はぶくぶくしていた。全身に水が流れていた。息もつけないほどだった。オットーは歯をうち震わし、狂気《キチガイ》のように猛りたっていた。彼はクリストフに気を悪くするようなことを言いたてた。立ち止まりたがった。歩くのは危険だと言い張った。道にすわってしまう、畑のまんなかに地面に寝転んでやる、などと言っておどかした。クリストフは返辞をしなかった。彼はなお歩きつづけながら、風と雨と電光とに眼も眩《くら》み、響きに驚き、やはり多少不安になっていたが、それをうち明けないで我慢していた。  そしてにわかにからりとなった。雷雨はやって来たのと同じようにふいに通り過ぎてしまった。しかし彼らは二人ともあわれな様子になっていた。実際をいえば、クリストフは平素からだらしなかったので、少し服装が乱れたとてほとんど様子が変わらなかった。しかしオットーは、いつも服装をきちんと整えていたしそれに気を配っていたので、ひどいありさまだった。着物のまま風呂から出て来たかのようだった。クリストフは彼の方《ほう》をふり向いて、その様子を見ながら、笑いがこみ上げてくるのを押えることができなかった。オットーは腹をたてる力もないほどがっかりしていた。クリストフはそれがかわいそうになって、快活に話しかけた。オットーは恐ろしい一瞥でそれに答えた。クリストフは彼を一軒の百姓家《百姓や》に連れ込んだ。彼らは盛んな火の前で身を乾かし、熱い葡萄酒を飲んだ。クリストフはその出来事を面白がっていた。しかしそれはオットーの趣味には合わなかった。彼はふたたび野《-の》を歩いてる間、陰鬱に黙り込んでいた。二人は口をとがらしながら帰って行き、別れる時にもたがいに手を差出さなかった。  その暴挙の後《のち》、彼らは引きつづいて一週間以上会わなかった。彼らはたがいにきびしく批判し合った。しかし日曜の散歩を一度よして、みずからおのれを懲《+こら》してしまうと、非常に退屈になって、恨みを忘れた。クリストフは例のとおり自分の方《ほう》から申し出た。オットーはそれを承知してやった。そして彼らは仲直りをした。  二人は気が合わないにもかかわらず、たがいに捨て去ることができなかった。彼らは多くの欠点をもっていたし、二人とも利己主義だった。しかしその利己心は無邪気なものであって、それを厭なものたらしむる成年期の打算をもたなかった。それは自覚しない利己心だった。ほとんど愛すべきものであって、彼らが真面目に愛し合うことを妨げなかった。彼らは非常に愛と献身とを欲していた。少年オットーは、自分を主人公にしたおおげさな献身の物語を考えながら、枕の上で涙を流した。悲壮な出来事を想像し出して、その中で彼は、強い勇ましい大胆な者となり、想像的な敬慕の対象たるクリストフを保護してやった。クリストフの方《ほう》では、麗《うる》わしいものや珍しいものを見聞きするたびごとに、「オットーがいたら!」と考えざるをえなかった。自分の全生活に友の面影を立ち交じらしていた。その面影は姿を変えて、非常なやさしみを帯びてき、彼はその実物を知ってるにもかかわらず、酔わされるような心地になった。オットーのある言葉をずっと後《あと》に思い出し、それを美化しては、情熱に駆られて身を震わした。二人はたがいに真似し合っていた。オットーは、クリストフの態度や身振りや手跡を真似た。クリストフは、影法師たる彼が、自分の言った一語一語をくり返し、自分の思想を新しい思想ででもあるかのようにもち出してくるのを、不快に思った。しかし彼は、自分もまたオットーの真似をしてることに気づかなかった。オットーの服の着方、歩き方《-かた》、ある言葉の言い方《-かた》、などを彼は見習った。それは一種の魅惑であった。二人はたがいに感染し合い、愛情に満ち満ちた心をいだいていた。その愛情は泉の水のように四方《シホウ》へあふれていた。友がその原因だと、彼らはおのおの想像していた。彼らはそれが青春期の覚醒であるとは知らなかった。  クリストフは人を疑えない性質だったので、物を書いた紙片をそのままにしておいた。けれども本能的な羞恥から、オットーに書き送る手紙の下書きとオットーからの返辞とは、ちゃんとしまっておいた。鍵はかけないで、楽譜帳の中に|はさ《挟》んでおいた。そうしておけばだれにも捜し出されはすまいと安心していた。彼は弟たちの意地悪を予期していなかった。  彼は少し前から、弟たちが彼の方《ほう》を眺めながら笑ったりささやき合ったりしてるのを、よく見かけた。彼らは切れ切《#ぎ》れの文句を耳にささやき合っては、身をねじっておかしがっていた。クリストフにはその言葉が聞きとれなかった。そのうえ、彼らにたいするいつもの策略から彼は、彼らが言ったりしたりすることにはまったくの無関心を装っていた。ところが二三《ニサン》の言葉が彼の注意を呼び起こした。身に覚えのある言葉のようだった。やがて、弟たちに手紙を読まれたことがもう疑えなくなった。そしてエルンストとロドルフとが、真面目くさった道化た様子で、「わが親愛なる魂よ、」と呼び合ってるところを、詰問してみたが、何《なん》にも聞き出しえなかった。悪賢い子供たちは、なんのことだかわからないようなふうをして、勝手な呼び方《-かた》をしてもかまうものかと言った。手紙はそっくり元の場所にあったので、クリストフはそのうえ追究しなかった。  それから少し後《あと》に、彼はエルンストが盗みをしてる現場を押えた。この小さな曲者は、ルイザが金《カネ》をしまってる箪笥の抽出《+引き出し》の中を捜していたのである。クリストフは彼をひどく突《突っ》つきまわし、その機に乗じて、胸にあることをすっかり言ってやった。好意を欠いた言葉で、エルンストの悪事の数々を長たらしく並べたてた。エルンストはその訓誡を悪意にとった。クリストフから叱られる訳《-わけ》はないと傲然と答えかえした。そして兄とオットーとの友情を、それとなくほのめかしてやった。クリストフにはわからなかった。しかし争論の中にオットーの名前がもち出されるのを聞いた時、彼はエルンストにその説明を迫った。子供は冷笑した。それから、クリストフが真蒼《+マッサオ》になって怒《おこ》るのを見ると、彼は恐がって、もう口をきこうともしなかった。クリストフはこういうふうでは何《なん》にも聞き出しえないのを覚った。彼は肩をそびやかしながらそこにすわり、深い軽蔑の様子を見せた。エルンストは気色を損じて、また鉄面皮な言葉を言い出した。彼は兄の心を傷つけてやろうとつとめ、ますます下賤なことを述べたてた。クリストフはたけりたつまいと一生懸命に我慢した。がついに悪口の意味がわかると、かっと逆《+のぼ》せてしまった。椅子から飛び上《-あ》がった。エルンストは声をたてる隙《-ひま》もなかった。クリストフは彼の上に飛びかかり、室《部屋》のまんなかで彼と組打をし、床《-ゆか》に彼の頭《-あたま》をたたきつけた。被害者の恐ろしい叫び声をきいて、ルイザも、|メルキオル《メルキオる》も、家じゅうの者が駆けつけて来た。ひどい目に会ってるエルンストを、皆《-ミンナ》で助け出した。クリストフは放《-ハナ》そうとしなかった。放《-ハナ》させるには殴りつけなければならなかった。皆《-ミンナ》は彼を野獣だと呼んだ。彼は実際野獣のような様子をしていた。眼をむき出し、歯ぎしりをし、ふたたびエルンストに飛びかかろうとばかり考えていた。どうしたのかと尋ねられると、彼の狂暴はますますつのった。エルンストを殺してやると怒鳴った。エルンストも訳《-わけ》を話すことを拒んだ。  クリストフは食べることも眠ることもできなかった。彼は寝床の中で震え泣いた。彼が苦しんでるのは、ただオットーのためばかりではなかった。彼のうちに一つの革命が起こっていた。エルンストには、兄に与えた苦悶がどんなものであるか、ほとんど思いもつかなかった。クリストフはまったく清教徒《ピューリタン》的な一徹の心をそなえていた。その心は人生の汚辱を許すことができなかったし、それをしだいに見出《見い出》してゆくごとに恐怖していた。十五歳になりながら、自由な生活をし強い本能をもっていたにもかかわらず、彼はまだ不思議なほど無邪気だった。生来の純潔さと休みなき勤労とのために、庇護されていた。ところが弟の言葉は、彼に深淵を開《-ひら》いてみせた。彼は自分の身にそういう醜汚《シューオ》をかつて想像だもしなかった。そして今、その観念が心のうちに|はい《入》ってくると、愛し愛される喜びがすべて害されてしまった。オットーにたいする自分の友情ばかりでなく、あらゆる友情が毒されてしまった。  さらにひどいことには、ある厭味なあてつけの言葉を聞いてからは、自分がこの小さな町《-まち》の不健全な好奇心の的《まと》になってると、おそらく誤解ではあったろうが、彼は思い込んでしまった。とくに、それからしばらくたって、オットーとの散歩について|メルキオル《メルキオる》から注意を受けた。おそらく|メルキオル《メルキオる》は、悪意に解釈していたのではなかったろう。しかしクリストフは、前からのことが頭《-あたま》にあったので、いかなる言葉のうちにも疑念がこめられてるのを認めた。そしてほとんど自分が悪いとさえ考えていた。オットーも、同時に、同じような危機を通《とお》っていた。  彼らはなお、人知れず逢っていた。しかし以前のような打ち解《-と》けた談話をすることはもうできなくなった。彼らの隔てない間柄は変わってしまった。二人の少年は、きわめて|はばかり《ハバカリ》がちな愛情で愛し合っていたので、かつて親しい接吻を交わしたこともなく、たがいに会ったり夢想をわかち合ったりすることを、無上の幸福だと思っていたのであるが、今や不正直な人々の邪推によって身を汚《けが》されるのを感じた。そして最も潔白な行動のうちにも、眼付や握手のうちにも、罪悪を見出すようになった。彼らは顔を赤らめ、よからぬ考えをいだいた。彼らの関係はた《耐》え|がた《難》いものとなった。  あらわにそれと言わずに、彼らはしだいに会うことが少なくなった。彼らはつとめて手紙を書いた。しかし言葉の使い方《-かた》に用心した。手紙は冷やかな無味なものになった。彼らはがっかりした。クリストフは仕事を口実にし、オットーは多忙を口実にして、音信をやめた。間もなく、オットーは大学に|はい《入》るために出発した。数か月間二人の生活を輝かした友情は、まったく暗闇になった。  そしてまた、この愛情が先触にすぎなかったも一つの新しい愛は、クリストフの心を奪い、そこにあるあらゆる他の光《-ひかり》を薄《-うす》らがせてしまった。 【第三章】 【ミンナ】  それらのことから四五《シゴ》か月前に、枢密顧問官シュテファン・フォン・ケリッヒの未亡人となって間《マ》もないヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、亡夫の職務のため今までとどまっていたベルリンを去って、生まれ故郷であるライン河畔の小さな町《-まち》に、娘とともに移り住んだ。彼女は町《-まち》に、古い伝来の家をもっていたが、その家についてる大きな庭は、ほとんど公園かと思われるほどで、丘に沿って低くなってゆき、クリストフの家から遠くないところで、ライン河《川》まで達していた。クリストフが家の屋根裏の室《部屋》から眺めると、壁の外《-そと》に垂れてる重々しい木の枝や、苔生した瓦屋根の真赤な高い頂などが見えた。ほとんど人通りもない小さな坂道が、庭の右に沿って通じていた。そこの標石《標イシ》の上によじ上《-のぼ》ると、壁越しに覗き込まれた。クリストフもそれをやってみないではおかなかった。覗いてみると、草の生え込んだ径《道》や、荒れた牧場のような芝生や、乱雑にこんがらかってる木立や、いつも雨戸が閉め切ってある家の白い正面などが、見られた。年《ねん》に一二《イチニ》回、植木屋が見回りに来て、家に風を通した。しかしその後《あと》で庭はまた自然のままになって、すべてが静寂《セイジャク》にとざされるのであった。  その静寂《セイジャク》にクリストフは心打たれた。彼はしばしばその眺め場所に人知れず上《-のぼ》った。大きくなるにしたがって、眼が、次には鼻が、次には口が、壁の頂までとどくようになった。今では、爪先で伸び上がると、両腕を壁越しに差出すことができた。そういう姿勢は楽ではなかったが、彼は長くそのままの姿で、壁に頤《顎》をのせ、じっと眺めまた聴いていた。夕《+ユウベ》の光《-ひかり》は芝生の上に穏《おだや》かな金色の波を注《-そそ》ぎかけ、その波は樅の木立の影では、青みがかった反映に輝いていた。彼は街路をやって来る人の足音が聞えるまで、|われ《吾》を忘れてそこにぼんやりしていた。夜分には、庭のまわりに種々な香りが漂っていた、春はリラの香り、夏はアカシアの香り、秋には枯葉の香りが。クリストフは晩に宮邸から帰ってくる時、どんなに疲れていても、かならずその門のそばに立ち止まって、その快い空気を吸った。そして息臭《息くさ》い自分の室《部屋》にもどるのが厭になった。彼はまた幾度も、ケリッヒ家《け》の表門の前の、舗石《敷石》に草のはえてる小さな広場で、遊んだ──遊ぶ時には──ことがあった。門の左右には、マロニエの老樹が一本ずつ立っていた。祖父もその根本《-ねもと》にやって来て、パイプを吹かしながらすわった。そして子供たちには、木の実《み》が弾丸《タマ》や玩具となった。  ある朝、彼はその路次を通りかかって、いつものとおり標石《標イシ》によじ上《-のぼ》った。ぼんやり眺めた。そしてまた降《-お》りようとした時、何か事変わった感じを受けた。彼は家の方《ほう》へ眼を向けた。窓は皆開かれていた。日《ひ》の光《-ひかり》が家の中までさし込んでいた。人の姿は見えなかったが、その古い住宅は十五年間の眠りから覚めて微笑んでるように思われた。クリストフは変な気持になりながら家に帰った。  食事の時に父は、近所の噂の種《-たね》となってることを話した。驚くほどたくさんの荷物をもって、ケリッヒ夫人と娘とがやって来た、ということだった。あのマロニエのあたりは、馬車の荷降ろしを見に来た好奇者《+物好き》でいっぱいだったそうである。クリストフの限られた狭い生活のうちにあっては、その話は重大な出来事だったので、彼はそれがたいへん気にかかった。そして仕事に出かけながらも、父の例のおおげさな話に従って、その不思議な家の主人公たちを想像してみようとした。それから仕事に心を奪われて、すっかり忘れてしまった。けれどもその夕方、家にもどる間|ぎわ《際》に、すべてのことがまた頭《-あたま》に浮かんだ。すると好奇心に駆られて、例の眺め場所に上《-のぼ》り、壁の中がどういうふうになってるか覗いてみた。ところが眼に|はい《入》るものはただ、静かな庭径《庭みち》ばかりで、そこにはじっと動かない木立が、太陽の名残の光《-ひかり》のうちに眠ってるがようだった。しばらくすると彼は、好奇心の的《まと》をすっかり忘れてしまって、しみじみとした静けさのうちに浸っていった。その妙な位置は──標石《標イシ》の頂上に不安定に身を保《たも》って立つのであるが──彼の夢想には上乗の場所であった。空気のよく通わない薄暗いきたない路次から出ると、その日向《-ひなた》の庭は夢幻《-ムゲン》的な輝きを帯びてるようだった。彼の精神はそのなごやかな場所のうちに漂っていった。種々の音楽が歌っていた。彼はその音楽のうちにうとうととした……。  かくて彼は、眼も口も開《-ひら》きながら夢想していた。そしてどれくらいの間夢想してたかみずから知らなかった。なぜなら、何《なん》にも眼にはいらなかったから。と突然、彼は駭然《+蓋然》とした。前方に、径《道》の曲り角《-かど》のところに、二人の女が立って、こちらを眺めていた。一人は──黒服の若い婦人で、ほっそりとした不揃いな顔立《顔立ち》をし、灰色がかった金髪をもち、背が高く、優美で、取り澄《澄ま》さない自然の首つきをしていたが──親切そうな揶揄《-ヤユ》的な眼で彼を見守っていた。も一人の方《ほう》は──十五歳ばかりの娘で、同じく喪服ずくめであったが――放笑《+吹き出》したくてたまらながってるような子供らしい顔付をしていた。ふり返りもしないでただ黙ってるようにと合図をしてる母親の少し後ろの方《ほう》で、両手のうちに口を隠して、笑いを押えるのに一生懸命骨折ってるがようだった。色白な桃色の丸い顔をした小娘だった。心持ち太い小さな鼻、心持太い小さな口、ふっくらした小さな頤《顎》、細やかな眉毛、清らかな眼、豊かな金髪。その髪は網代に編まれて、頭《-あたま》のまわりにくるりと巻きつけられ、丸い首筋と艶《-つや》のいい白い額《-ひたい》とを|現わ《現》していた。──クラナハの絵にあるようなかわいらしい顔だった。  クリストフはその出現にびっくりした。逃げ出すこともできずに、その場に釘付けになった。そして若い婦人が、そのやさしい揶揄《+カラカ》うような微笑を浮べながら、二三歩《ニサンぽ》進んでくるのを見た時、彼は初めて身を動かして、壁土をいっしょにはね落しながら、標石《標イシ》から飛び──転げ落ちた。「坊ちゃん」となれなれしく呼びかける親切な声と、小鳥の声のように晴々した澄みきった子供らしい笑い声とが、耳に聞えた。彼は四《よ》つ這《+ば》いになって路次の中に身を潜めた。そして間《マ》もなく狼狽の情が和らぐと、あたかもだれかに追っかけられるのを恐がったかのように、足に任して逃げ出した。彼は恥ずかしかった。その恥ずかしさは、家に帰って自分の室《部屋》で一人になると、また激しく彼を襲ってきた。それ以来彼は、だれかに待伏せされてはす《ス》まいかという妙な恐れを感じて、もうその路次が通れなくなった。その家のそばを通らなければならない時には、壁に身を寄せ、頭《-あたま》を下げ、ふり向きもしないでほとんど駆けぬけた。それと同時に、あのやさしい二つの顔のことを考えやめなかった。足音を聞かれないように靴をぬいで、屋根裏の室《部屋》に上《-のぼ》っていった。そして種々くふうをしてはその軒窓《ノキマド》から、ケリッヒ家《#け》の家と庭との方《ほう》を眺めた。そのくせ彼は、木立の梢と屋根の煙筒しか見えないことをよく知っていた。  それから一か月後に彼は、宮廷音楽団が毎週催す定期演奏会で自作のピアノ協奏曲《コンセルト》を一つひいた。その曲の終楽章《シュウ楽章》の中ほどまでひいた時、彼は偶然、前面の桟敷に、自分の方《ほう》を眺めてるケリッヒ夫人と娘とを認めた。あまりに意外だったので、茫然としてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲《コンセルト》の終りまで機械的にひきつづけた。演奏が終ると、彼はその方《ほう》を見まいとはしていたが、ケリッヒ夫人と令嬢とが見てくれと言わんばかりにややおおげさに拍手してるのが、眼に|はい《入》った。彼は急いで舞台を離れた。劇場から出ようとする時、廊下で、立並んでる人々に隔てられて、自分が通るのを待ち受けてるらしいケリッヒ夫人の姿を、彼は認めた。彼は夫人を見ないわけにはいかなかった。けれども目につかないふうを装った。そして後《あと》に引返しながら劇場の通用門からあわてて出て行った。その後《あと》で、彼はそれをみずからとがめた。なぜなら、ケリッヒ夫人がなんらの悪意もいだいてないことをよく承知していたから。しかし、またそんな場合になったら、自分はやはり同じようなことをするだろうと、みずから知っていた。彼は往来で夫人に会うのを恐れた。夫人に似た姿を遠くに見かけると、彼は道をそらすのであった。  夫人の方《ほう》から彼を追っかけて来た。  ある朝、彼が昼食のために家へ帰ると、ルイザは得意になって、仕着せをつけた従僕が彼あての手紙を届けてきたと話した。そして黒枠のついた大きな封筒を彼に渡した。裏にはケリッヒ家《け》の紋章が印刻してあった。クリストフはそれを開《-ひら》いて、震えながら読んだ──まさしく次のとおりに。 ヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、宮廷音楽員クリストフ・クラフト氏に、本日五時半、自宅にて御茶を差上《差し上》げたく、御招待致します。 「ぼくは行かない。」とクリストフは言いきった。 「なんです!」とルイザは叫んだ。「行くと言っておいたよ。」  クリストフは母に言い逆らった。自分の関係もないことにおせっかいするのを彼女に非難した。 「下男の人が返事を待っていたんだよ。今日《-きょう》はちょうどお前は暇だと、私は言っておいた。その時間には、お前は何も用がないでしょう。」  クリストフはいたずらに怒《-いか》りたって、行かないと言い張ったが、しかしもうこうなっては遁れるわけにはゆかなかった。招待の時間が来ると、顔をしかめながら身支度をした。しかし心の底では、偶然の機会で自分のひねくれた考えを枉げなければならないのを、別に厭だとも思ってはいなかった。  ケリッヒ夫人は、庭の壁の上から髪の乱れた頭《-あたま》をつき出していたあの粗野な少年を、演奏会のピアニストだと難なく見てとった。彼女は近くの人たちに聞きただした。そしてクリストフの健気な苦しい生活を知って、彼に同情を寄せ、彼と話をしてみたい好奇心を起こしたのである。  クリストフはおかしなフロックを着飾り、田舎牧師のような様子になって、ひどくおずおずしながら夫人の家へやって来た。初めて見られたあの日には、夫人たちは自分の顔立《顔立ち》を見分けるだけの隙《-ひま》をもたなかったろうと、彼はしいて思い込もうとした。足音もしないような絨氈《+絨毯》をしきつめた長い廊下を通《とお》って、ある室《部屋》の中に召使から案内された。室《部屋》のガラス戸は庭に向いていた。その日は冷たい小雨が降っていた。暖炉には盛んな火が燃えていた。霧に包まれた木立の濡れた姿が窓越しにほの見えていたが、その窓のそばに、二人の婦人はすわっていた。ケリッヒ夫人は膝に編物をのせ、娘は膝に書物をひらいて読んでいた。そこへクリストフははいって行《-い》った。二人は彼の姿を見て、ちらと人の悪い眼配《メクバ》せをした。 「あのことを知ってるんだな、」とクリストフは当惑しながら考えた。  彼は一生懸命で無格好《不格好》なお辞儀をした。  ケリッヒ夫人は快活な微笑を浮べて、彼に手を差出した。 「今日《こんにち》は。」と彼女は言った。「お目にかかって嬉しゅう存じます。音楽会であなたの演奏をお聞きしてから、それがどんなに楽しかったか申上《申し上》げたいと思っておりましたの。そしてそれを申上《申し上》げるには、あなたをお招きするほかに道がなかったのですもの。そういうことをしましたのを、お許しくださいましょうね。」  それらの親切で平凡な言葉のうちには、皮肉な鉾先が少し隠されてはいたけれども、たいへん慇懃な調子がこもっていたので、クリストフは安堵の念を覚えた。 「あのことを知らないんだな、」と彼はほっとして考えた。  ケリッヒ夫人は娘をさし示した。娘は書物を閉じて、クリストフを|もの《物》珍しそうに眺めていた。 「娘のミンナでございます、」と彼女は言った、「たいへんお目にかかりたがっていました。」 「でもお母様、」とミンナは言った、「初めてお目にかかったんではありませんわ。」  そして彼女は放笑《+吹き出》した。 「あのことを知られたんだな、」とクリストフはがっかりして考えた。 「ほんとに、」ケリッヒ夫人も笑いながら言った、「私どもが着きました日に、お訪ねくださいましたね。」  その言葉をきいて、娘はますます笑った。そしてクリストフがいかにもものあわれな様子をしたので、ミンナはそれを見ると、なお激しく笑った。まるで狂人笑いだった。あまり笑って涙を流していた。ケリッヒ夫人はそれをやめさせようとしたが、自分でも笑いを押えることができなかった。クリストフは当惑していたが、それでも笑いに感染してしまった。彼女らの上機嫌は押えることのできないもので、それを怒《おこ》るわけにはゆかなかった。しかしミンナが息をつきながら、壁の上でいったい何をしていたのかと彼に尋ねた時、彼はまったく度を失ってしまった。彼女は彼の困惑を面白がった。  彼はすっかりまごついて口ごもった。ケリッヒ夫人は彼を助けて、お茶を出しながら話頭を転じてくれた。  夫人は親《した》しげに日常のことを彼に尋ねた。しかし彼は心が落着いていなかった。どうすわっていいかもわからないし、引っくり返りそうな茶碗をどうもっていいかもわからなかった。水や牛乳や砂糖や菓子を出されるたびごとに、急いで立ち上《-あ》がって、丁寧にお辞儀をしなければならないような気がした。しかも、フロックやカラーや襟飾りなどの中に、しめつけられ堅くなって、甲羅の中にでも|はい《入》ったようで、右にも左にもふり向くだけの元気がなく、また実際ふり向くことができず、ケリッヒ夫人のやたらな質問や、その繁多な作法に、すっかりおびえてしまい、ミンナの視線が、自分の顔立《顔立ち》や手や動作や着物に、じっと注《そそ》がれてるのを感じて、すくんでしまっていた。さらに彼女らは──ケリッヒ夫人はそのくだくだしい言葉で──ミンナは面白半分に媚《-こび》を含んだ流し目を使って──彼を気楽にさせようとしていっそう彼をどぎまぎさせた。  ついに彼女らは、お辞儀と単語をしか彼から引出しえないので、諦めてしまった。ケリッヒ夫人は一人で会話を引受けていたが、それにも倦《+あ》きて、ピアノについてくれとたのんだ。彼は音楽会の聴衆にたいするよりもいっそうはにかみながら、モーツァルトのアダジオをひいた。しかし彼のはにかみや、二人の婦人のそばで彼の心が感じ始めていた不安や、彼の胸を満《みた》して彼を同時に嬉しくまた悲しくなしていた純朴な情緒などは、その曲に含まれてる情愛と初心《-うぶ》な羞恥とに調子を合わして、その曲に青春の魅力を添えた。ケリッヒ夫人は心を動かされた。社交界の人々にありがちな誇張した賛辞で、感動した由を述べた。それでも彼女は、不真面目に言ってるのではなかった。そしてその過度の賞賛も、やさしい婦人の口から出ると快いものであった。人の悪いミンナは黙っていた。その少年を、口をきく時にはあんなにへまであるが、かくも雄弁な指をもってるその少年を、驚いて眺めていた。クリストフは彼女らの好感を感じて、元気になってきた。彼はなおひきつづけた。それから、半ばミンナの方《ほう》へふり向いて、きまり悪《わる》げな微笑を浮べ、眼を伏せたまま、おずおず言った。 「あの壁の上で、こんなものを作っていたんです。」  彼は小曲を弾《-ひ》いた。実際その中には、庭を眺めながらあの好きな場所にいる時、頭《-あたま》に浮かんできた楽想が、展開されていた。しかし事実をいえば、その楽想が浮かんだのは、ミンナとケリッヒ夫人とを見た夕《ユウベ》──(彼はどういうわけかむりにそうだと思い込もうとしていたが)──ではなくて、それ以前の幾多の夕《ユウベ》にであった。そしてこのアンダンテ・コン・モトの静かな揺ぎのうちには、夕日の平和の中にある大木の厳かな仮睡や小鳥の歌などの、朗らかな印象が見出《見い出》せるのであった。  二人の聴き手は、恍惚《ウットリ》として耳を傾けていた。彼がひき終ると、ケリッヒ夫人は立ち上《-あ》がって、例の活発さで彼の手を取り、心から熱く感謝した。ミンナは手をたたいて、「すばらしいもの」と叫び、そんな「気高い」作を彼がもっと作るために、勝手に製作できるように、壁に梯子をかけさせようと言い出した。ケリッヒ夫人は、途方もないミンナの言うことなんか本気で聞いてはいけないと、クリストフに言った。そして、庭が好きなら、来たいだけ幾度でも来るようにと願った。そして挨拶に来るのが厭なら、それにも及ばないと言い添えた。 「挨拶にいらっしゃるには及びませんわ。」とミンナはわざわざくり返して言った。「ただ、もし来てくださらないと、覚えていらっしゃいよ!」  彼女はかわいいおどかしの様子で指先を動かした。  ミンナはクリストフに来てもらいたいとも、または自分にたいして礼儀を守ってもらいたいとも、別に望んではいなかった。しかし彼にちょっと影響を与えるのが気持よかった。そういうことを彼女は本能的に面白いと思っていた。  クリストフは嬉しくて真赤になった。ケリッヒ夫人は、彼にその母のことや、昔知っていた祖父のことなどを、巧妙に話しかけて、ついに彼の心を奪ってしまった。二人の婦人の懇篤な温情は、彼の身にしみ込んだ。彼はそのうちとけた好意を、その社交的な愛想を、真面目なものだと信じたい心から、誇大して感じた。そして無邪気な隔てなさをもって、自分の抱負や惨めな境遇を語りだした。もはや時間の過ぎるのも気づかなかった。そして召使が食事を知らせに来た時、驚いて飛び上《-あ》がった。けれども、今後仲のいい友だちになるのだから、いやすでになってるのだから、いっしょに食事をしてゆくようにと、ケリッヒ夫人に言われた時、彼の恐縮は幸福に変わった。彼の食席は母と娘との間に設けられた。ピアノよりも食卓の腕前の方《ほう》がずっとまずいと、一同から判断された。この方面の彼の教養はひどく閑却されていた。食卓では、飲食が肝心なことで、作法なんかは重大なことではないと、信じてる傾きがあった。それできれい好《ズ》き《キ》なミンナは、むっとしたしかめ顔で彼を眺めていた。  食事の後《あと》には彼はすぐ辞し去ることと、皆《-ミンナ》は予期していた。しかし彼は二人の後《あと》について、小さな客間にいり、いっしょにすわり込んで、帰ることは頭《-あたま》に浮べてもいなかった。ミンナは欠伸をかみつぶして、母の方《ほう》に合図をした。彼はそれに気づかなかった。幸福に酔ってしまって、皆《-ミンナ》も自分と同じ心地だと──なぜなら、ミンナは彼を眺めながら、やはりいつもの癖で流し目を使っていたから──考えていたし、また、一度すわり込むともう、どういうふうに立上《立ち上》がって暇《+イトマ》を告げていいものかわからなかった。もしケリッヒ夫人が、遠慮のないしかもやさしいとりなしで、彼を帰らしてやらなかったら、彼は夜通しそこに留《とどま》っていたかもしれなかった。  彼は帰ってゆきながら、ケリッヒ夫人の褐色の眼とミンナの青い眼との、やさしみのある光《-ひかり》を心にいだいていた。手の上には、花のように繊麗な指先の、こまやかな接触を感じていた。そしていまだかつて嗅いだことのない美妙な香りに、包み込まれ、恍惚《+ウットリ》となり、ほとんど気を失いかけていた。  次の日に、約束のとおり、彼はミンナにピアノを教えに来た。それ以来彼は、稽古を口実にして、きまって一週に二回ずつ、午前中にやって来た。そして音楽をひいたり話をしたりして、夕方もどることもしばしばだった。  ケリッヒ夫人は快く彼に会っていた。彼女は怜悧な親切な女であった。夫を失った時は三十五歳だった。そして身も心も若かったが、深くはいり込んでいた社交界から惜気《+惜しげ》もなく退いてしまった。おそらく彼女は、そこで非常に面白い目に会ってきたし、また、味わいつくしておいてなお味わうことはできないという健全な考えをいだいていたので、たやすく隠退することができたのであろう。彼女はケリッヒ氏の追想に愛着していた。けれども、いっしょに生活していた間、愛に似た感情を彼にたいしていだいたことがあるのではなかった。彼女には善良な友情だけで十分《充分》だった。彼女は冷静な官能とやさしい精神とをもっていた。  彼女は娘の教育に一身をささげていた。愛し愛されようという妬み深《ぶか》い女の要求が、ただその子供をのみ対象とするようになると、母親というものは往々過激な病的なところを帯びてくるものであるが、ケリッヒ夫人が愛についてもっていた節度は、それをよく軽減していた。彼女はミンナを愛撫していたが、しかし明確な判断をミンナにくだして、その欠点を一つも見落そうとしなかったし、実際以上の幻をかけようなどとはさらにしなかった。明敏で賢い彼女は、的確な眼をもっていて、人の弱点や滑稽な点を一目《ひとめ》に見てとることができた。悪意は少しもなかったが、それを見てとるのを愉快がっていた。彼女は嘲弄的な気質《キシツ》と寛大な気質《キシツ》とをともに具えていたのである。そして人を揶揄《-ヤユ》しながらも、人の世話をするのが好きだった。  少年のクリストフは、彼女の親切と批評的精神とに活動の機会を与えた。彼女がこの小都会《しょう都会》へやって来た初めのうちは、大喪のために社会から遠ざかっていたので、クリストフが気晴らしの種《-たね》となった。第一には彼のすぐれた技倆《-ギリョウ》からであった。彼女は音楽家ではなかったけれども、音楽を愛していた。音楽に肉体的のまた精神的の安楽を見出《見い出》し、その安楽のうちで彼女の思念は、快い憂愁の中に懶く浸り込んでゆくのだった。暖炉のそばにすわり──クリストフが演奏してる間──編物を手にし、ぼんやり微笑みながら、機械的に編物の指を働かせることに、また、過去のあるいは悲しいあるいは楽しい面影の間に漂っている、自分の夢想の定かならぬ揺《揺ら》めきに、黙々たる愉悦を味わった。  しかし彼女は音楽よりも、その音楽家の方《ほう》にいっそう興味を覚えていた。彼女はかなり怜悧で、たといクリストフの真の独創の才を見分けることはできなかったにしろ、その稀有な天稟を感ずることができた。彼のうちにその不思議な炎がきざしてるのを見て、それが燃え出す様子を見守ることに、好奇な快さを感じた。また彼の精神上の長所、すなわちその方正、その勇気、子供としては感嘆すべき一種の堅忍などを、彼女はすぐに見てとった。それでも彼女はやはり、精緻な嘲弄的な眼のいつもの鋭敏さで、彼を眺めてやめなかった。彼の無器用さ、醜さ、ちょっとした滑稽なことなどを、面白がっていた。まったく彼を真面目には考えてなかった(彼女はたいていなことを真面目には考えないのであった)。そのうえ彼女は、クリストフのおかしな客気や、乱暴や、架空的な気分などを見て、彼があまり平衡のとれた人間ではないと思っていた。りっぱな人たちでありいい音楽家でありながら、皆多少|狂気《+キチガイ》じみたところのあるクラフト家《#け》の一人を、彼女は彼のうちに認めていた。  その軽い皮肉は、クリストフの眼にとまらなかった。彼はケリッヒ夫人の親切のみを感じた。彼は人から親切にされることにはあまり慣れていなかった。宮邸における職務上、日々《-ヒビ》社交界に接触はしていたけれども、あわれなクリストフはいまだに訓練も教育もない荒くれた子供のままだった。利己的な宮廷の人々は、彼の才能を利用することばかり考えて、世話をしてやろうとは少しも考えていなかった。彼は宮邸へやって来、ピアノにつき、演奏し、そして帰ってゆくきりで、口先ばかりのお世辞を言われる以外には、だれからも話しかけられもしなかった。祖父が死んで以来、家でも外《-そと》でも、だれ一人として、彼が物を学び世に処し一人前の男になろうとするのを、助けてやろうと考える者もなかった。彼は自分の無知と粗雑な身ごなしとを苦にしていた。血水を流して一人で修養していた。しかしうまくゆかなかった。書物、談話、実例、すべてが不足していた。自分の悩みを友にでも打明けるべきだったが、それを決行することもできなかった。オットーにさえもそれをしかねた。なぜなら、彼が少し言い出してみると、オットーは軽蔑するような優越的な調子になって、それが彼には赤熱した鉄で焼かれるような気がしたのである。  そして今、ケリッヒ夫人といっしょにいると、すべてが気楽にいった。彼女の方《#ほう》から、彼が尋ねる──(クリストフの自負心にとっては尋ねるのが非常につらかった)──のを待つまでもなく、していけないことを穏《おだや》かに示してくれ、なすべきことを知らしてくれ、服のつけ方や、食べ方《-かた》や、歩き方《-かた》や、話し方《-かた》などを、いろいろ注意してくれ、習慣や趣味や言葉の誤りを、一つもそのままに捨てておかなかった。彼はそれに気を悪くすることができなかった。それほど彼女の手は、少年の疑り深い自尊心を繰縦《操縦》するのに、軽妙で用心深かった。彼女はまた、それとなく彼に文学上の教育を施してやった。彼の不思議なほどの無学に、驚いてるような様子は見せなかった。けれども、いかなる機会をものがさないで、しかも単純に穏《おだや》かに、クリストフが間違えるのは当然ででもあるかのように、その誤謬を指摘した。衒学的な教え方《-かた》で彼の気を害することなく、ただ晩にいっしょになるようなおりに、歴史の面白い部分や、あるいはドイツや外国の詩人のいい詩《 し》などを、ミンナに読ましたり彼に読ましたりして、時間を過ごすようにした。彼女は彼を自分の家の子供同様に取扱った。それにはいくらか、保護者的ななれなれしい調子がこもってもいたが、彼は少しも気づかなかった。彼女は彼の服装の世話までして、服を新しく縫い直してやり、毛の襟巻を編んでやり、こまごました化粧道具を与え、しかも彼にそれらの世話や贈物を少しもきまり悪く感じさせなかったほど、愛想よくしてやった。すべて親切な婦人は、自分の手に託された子供にたいしては、別に深い感情を感じないでも、ただ本能的に、細かな注意を向けほとんど母親らしい世話をしてやるものであるが、ケリッヒ夫人も要するに、彼にたいしてそうだったのである。しかしクリストフは、それらの愛情がとくに自分の身に向けられてるものであると信じて、感謝の念にたえなかった。彼はよく突然ののぼせきった感激に駆られた。ケリッヒ夫人はそれを多少滑稽にも思ったが、それでも快い感じを受けないではなかった。  ミンナとの関係はまったく違っていた。クリストフは、前日の思い出と娘のやさしい眼付とになお心酔いながら、初めて稽古を授けるために、ふたたび彼女に会った時、わずか前に見たのとは全然異なった娘を見出《見い出》して、非常に驚かされた。彼女は彼の言うことに耳も傾けず、ほとんど彼の顔を眺めもしなかった。そして彼女が彼の方《ほう》へ眼を上げた時、彼はその中にきわめて冷酷な色を見てとって、ぞっと心を打たれた。彼はなんで彼女の機嫌を害したか知ろうとして、長い間苦しんだ。しかし彼は少しも彼女の機嫌を害したのではなかった。ミンナの感情は、昨日も今日も同じようで、彼にたいしてよくも悪くもなかった。ミンナは昨日と同じように今日も、彼にたいしてまったく無関心だった。たとい最初には、つとめて笑顔をして彼を迎えたとはいえ、それは小娘の本能的な嬌態からだった。小娘というものは、退屈してる時にやってくる者ならだれにでも、どんな不愉快な者にでも、自分の眼の力をためしてみて面白がるものである。しかしもう翌日からミンナは、あまりにたやすく征服できる彼に、なんらの興味ももってはいなかった。彼女はクリストフをきびしく観察してしまった。ピアノをひくことは上手《-じょうず》だが、きたならしい手をもっていて、食卓ではたまらないフォークの持ち方をしたり、ナイフで魚肉を切ったりする、躾の悪い醜い少年だと、彼を判断していた。それで彼を少しも面白く思っていなかった。彼からピアノを教わりたくはあった。彼と遊ぶこともまあ承知していた。なぜなら、当時他に友だちがなかったし、また、もう子供ではないと自分で言ってる癖に、満ちあふれてくる快活な気分を放散したくてたまらないことが、時々急に起こってくるからだった。しかもその快活な気分は、母親におけると同じく、最近の喪に阻まれたためさらにつのっていたのである。しかし彼女はもう、家畜ほどにもクリストフを気にかけていなかった。そしてひどく冷淡な日《ひ》にも、彼にやさしい眼付をすることがまだあったとはいえ、それはまったくうっかりしてるからであって、また他のことを考えてるからであって──もしくは単に、そういう習慣を失わないためにであった。そんなふうに彼女から眺められると、クリストフの心は躍った。けれども彼女の眼には、ほとんど彼の姿が映じてはいなかった。彼女は勝手な物語を考えていたのである。ちょうどこの若い女性は、甘い快い夢想でみずからおのれの官能を喜ばすような年齢に達していた。彼女は未経験だという点だけで潔白な好奇心と、非常な興味とをもって、たえず恋愛のことを考えていた。それにまた彼女は、育ちのいい令嬢として、ただ結婚の形式《-けいしき》においてしか恋愛を想像してはいなかった。彼女の理想は、まだなかなか形が定まっていなかった。あるいは将校と結婚することを夢み、あるいはシルレルのように崇高謹厳な詩人と結婚することを夢みた。考えがたがいにうちくずし合った。そして最終に浮かんだ考えは、いつも同じ真面目さと同じ確信とで迎えられた。けれどもどの考えも、何か有利な現実に出会ったら、すぐに地位を譲るようなものばかりだった。若い空想的な娘らの前に、その夢ほど理想的でなくともより確実な一《ひとつ》の姿が立現《立ち現》われて来る時には、彼女らは驚くべき平然さをもって、おのれの夢想を忘れてしまうものである。  要するに、ミンナは感傷的だが冷静であった。貴族的な名前とそれから来る矜《+ほこ》りの念とにもかかわらず、彼女は青春の妙齢に達すると、ドイツの小家庭《ショー家庭》の主婦らしい魂をもっていた。  クリストフはもとより、婦人の心の複雑な──実際よりも外見の方《ほう》がいっそう複雑な──構造を、少しも了解していなかった。二人の美しい女友だちのやり方《-かた》に、しばしば面食《+メンクラ》った。しかし彼女らを愛するのが非常に嬉しかったので、多少自分を不安になし悲しませる彼女らの様子もみな許してやって、こちらと同じように向《むこ》うからも愛されてると思い込もうとした。情けある一言《-ひとこと》や一瞥に、彼は夢中になって喜んだ。時には涙を流すほど心が転倒することもあった。  静かな小さい客間の中で、ランプの光《-ひかり》で裁縫をしてるケリッヒ夫人から数歩《スウほ》のところに、テーブルの前にすわっていると──(ミンナはそのテーブルの向う側《-がわ》で、書物を読んでいた。二人は話もしなかった。庭に向かってる半開きの扉から、小径《+小道》の砂が月光に輝いてるのが見えていた。軽いささやきが木々の梢から伝わっていた……)──彼は心からしみじみと幸福を感じた。と突然、わけもなく、彼は椅子から飛び上《-あ》がって、ケリッヒ夫人の膝に身を投げ、その手を、針をもってる時ももってない時もあったが、その手をとってやたらに接吻しながら、口や頬《+ホオ》や眼を押しあててすすり泣くのであった。ミンナは書物から眼を上げ、軽く肩をそびやかして、かわいらしく口をとがらした。ケリッヒ夫人は、自分の足下《-あしもと》に転がっている大子供《大きな子供》を微笑みながらうち眺め、自由な片方の手でやさしく彼の頭《-あたま》をなでてやり、情けのあるまた皮肉な美しい声で言うのであった。 「まあ、お馬鹿さんね、どうしました?」  ああいかに楽しいことであるか、その声、その平和、その静寂《セイジャク》、叫びも衝突も乱暴もないその柔《柔らか》い空気、辛《-つら》い生活のさ中《なか》のオーシス、そして──事物や人々を金色の反映で染める霊妙な光輝──力と苦悩と愛との急湍《+キュウタン》たる、ゲーテやシルレルやシェークスピアなど、神のごとき詩人の作を読みながら浮かび出す、その玄妙なる世界の霊妙な光輝……。  ミンナは書物の上に頭《-あたま》を傾げ、文章に熱して軽く顔を染め、さわやかな声で読んでいた。勇士や王の言葉を読む時には、声を少し濁らして重々しい調子をしようとしていた。時とすると、ケリッヒ夫人みずから書物を手にとって、彼女本来のやさしい理知的な風情を、悲壮な物語に添えることもあった。しかし多くは、人の読むのに耳を傾けながら、肱掛椅子に仰向《+アオムケ》によりかかり、いつまでもできあがらない仕事を膝の上にのせ、自分自身の考えに微笑んでいた──なぜなら、どんな書物であろうと、その奥底に彼女が見出すところのものは、いつも彼女自身の面影であった。  クリストフもまた朗読しようとした。しかしそれを諦めなければならなかった。彼は口ごもり、言葉にまごつき、句読点を飛び越し、何《なん》にもわからない様子であったが、しかも非常に感動していて、悲愴な部分になると、涙が出て来るのを感じて、読みやめなければならなかった。すると癇癪を起こして、書物をテーブルの上に投げつけた。二人の女はそれを見て笑った。……いかに彼は彼女らを愛していたろう! 彼はどこへ行っても、彼女らの面影を忘れなかった。その面影はシェークスピアやゲーテなどの面影と混同していた。ほとんどどれがどれであるか区別がつかなかった。彼の魂の底まで情に激した戦慄を呼び起こす美妙な詩人の言葉は、初めてそれを彼に聞かしてくれた懐しい口《クチ》と、もはや彼にとっては別々のものではなかった。その後二十年もたった後《#あと》でさえ、エグモントやロメオをふたたび読んだり、あるいはその芝居を見たりする時、ある句にさしかかると、かかる静かな晩の思い出が、かかる楽しい夢の思い出が、そしてケリッヒ夫人やミンナの懐しい顔が、かならずや彼の頭《-あたま》に浮かんでくるであろう。  彼女らの姿をうち眺めながら、彼はいく時間も過ごした、晩、彼女らが書物を読んでる時にも──夜、彼が自分の寝床の中で、眠れないで眼を開《-ひら》いて、夢想に耽ってる時にも──昼間、彼が奏楽席の譜面台につき、半ば眼瞼《目蓋》を閉じて機械的に演奏しながら、夢想に耽ってる時にも。彼は二人のどちらにも、最も潔《+きよ》い愛情をいだいていた。そして恋愛の何物であるかを知らなかったので、自分は恋してるのだと思っていた。しかし彼は、母親の方《ほう》に恋してるのか娘の方《ほう》に恋してるのか、それがみずからよくわからなかった。真面目に考えてみても、どちらを選んでいいかわからなかった。それでも、どうしても決定しなければいけないらしかったので、ケリッヒ夫人の方《ほう》に心を傾けてみた。そして実際、その決心をするや否や、自分が恋しているのは彼女をであることがわかった。彼女の怜悧な眼、半ば開《-ひら》いた口の無心な微笑み、細やかな滑らかな髪を横の方《ほう》で分けているその若々しい麗《うる》わしい額《-ひたい》、軽い咳を交える多少曇った声音、母性的なやさしい手、優雅な動作、知りがたいその魂、それらを彼は恋していたのである。彼女がそばにすわって、わからない書物の一節を親切に説明してくれる時、彼は幸福のあまり身を震わした。彼女はクリストフの肩に手を置いていた。その指の温《温か》みを彼は感じ、自分の頬《+ホオ》にかかる彼女の息を、彼女の身体の快い香りを、彼は感じた。恍惚《ウットリ》として耳を傾けながら、もはや書物のことは考えもせず、何《なん》にも了解しなかった。彼女はそれに気づいた。今言ったことをくり返さした。彼は黙っていた。彼女は笑いながら怒って、彼の顔を書物に押しつけ、そんなふうではいつまでたっても小さな驢馬だと言った。彼はそれに答え返して、彼女の小さな驢馬でさえあるならば、彼女から追い出されさえしなければ、驢馬でもかまわないと言った。彼女はわざわざ小言をいってみた。それから、彼はごく馬鹿な賤しい小さな驢馬ではあるけれども、たといなんの役にもたたなくとも、せめてただおとなしくさえしていれば、家に置いてやることは──そしてまたかわいがってやることをも──承知すると言った。二人とも笑っていた。彼は喜びの中《なか》に浸っていた。  ケリッヒ夫人に恋してることがわかって以来、クリストフはミンナから離れていった。人を軽蔑した彼女の冷淡さに憤り始めた。そして、彼女としばしば会っていたので、しだいに遠慮しなくなってきたから、彼はもう自分の不機嫌さを隠さなかった。彼女は好んで彼につっかかり、彼はそれにきびしく応答した。彼らはいつも不快なことを言い合った。ケリッヒ夫人はそれをただ笑うばかりだった。クリストフはその言葉争いに勝目がなかったから、時には憤然として出て行って、ミンナを大嫌いだと考えることもあった。そしてまたその家へもどって行くのも、ただケリッヒ夫人がいるからだと思い込んでいた。  彼は引きつづいてミンナにピアノを教えていた。一週に二回、朝九時から十時まで、音階と練習とを監督してやった。二人のいる室《部屋》はミンナの研究室《スチューディオ》だった。不思議な勉強室で、この少女の頭脳の奇妙な乱雑さを、おかしなほど忠実に反映していた。  テーブルの上には、猫の音楽家ら──一《ひと》そろいの管弦楽団──の、あるいはヴァイオリンをひいてるのもあれば、あるいはチェロをひいてるのもある、小さな像が置いてあって、そのほか懐中鏡、化粧道具、文房具、なども整然と並べてあった。棚の上には、しかめ顔をしたベートーヴェンや、大黒帽をかぶったワグネルや、ベルヴェデールのアポロンなど、音楽家らのごく小さな胸像がのっていた。暖炉の上には、葦のパイプをくゆらしてる蛙のそばに、紙の扇があって、その扇面にはバイロイトの劇場が描いてあった。二段になってる書棚には、リュープケ、モムゼン、シルレル、ジュール・ヴェルヌ、モンテーニュ、などの著書と、家なき子とがあった。壁には、シクスティーヌの聖母とヘルコメルの絵との大きな写真がかかっていて、青と緑とのリボンで縁取ってあった。また、銀の薊のついた額縁に|はい《入》ってるスウィスの旅館の景色もあった。とくに、室《部屋》の隅々まで方々《ほうぼう》に、将校やテナー歌手や楽長や友だちなどの写真がごっちゃにかかっていた──捧呈の文句がついていて、ほとんどどれにも、詩《 し》が、少なくともドイツで詩《 し》と称せられてる句が、書き入れてあった。室《部屋》のまんなかには、大理石の台《-ダイ》の上に、髯をはやしたブラームスの胸像が厳かに控えていた。そしてピアノの上には、絹綿ビロードの小猿と方舞《コチョン》の記念品とが、糸の先にぶらさがっていた。  ミンナはまだ寝腫《+ネハレ》っぽい眼をし、不機嫌らしい様子をして、遅く出て来るのだった。クリストフに型ばかりに手を差出し、冷やかに挨拶をし、黙って真面目にしかつめらしく、ピアノのところへ行ってすわった。一人きりの時には、しきりなしに音階をひいて喜んだ。そうしてると、半睡《ハンスイ》の状態や、みずから語ってる夢などを、心地よく長引かすことができるのだった。しかしクリストフは、むずかしい練習にしいて彼女の注意を向けさした。それで彼女は意趣返しに、できるだけ拙くひこうとくふうすることもあった。彼女はかなりの音楽家だったが音楽を好んでいなかった──多くのドイツ婦人のように。しかしまたその例にもれず、音楽を好まなければならないと思っていた。そしてかなり本気に稽古を受けていた。しかし時々は、教師を怒らすために、意固地な真似をするのだった。そのうえに、冷淡無関心な学び方で、いっそう教師を怒《おこ》らした。最もいけないのは、ある表情的な楽節の中に魂をうち込まなければならないと彼女が考えてる時であった。そういう時彼女は感傷的になっていたが、何《なん》にもほんとうに感じてはいなかった。  少年クリストフは、彼女のそばにすわって、さほど丁寧でなかった。決してお世辞を言わなかった、お世辞を言うどころではなかった。彼女はそれに恨みをいだいて、彼から注意を受けるとかならず口答えをした。彼が言うことにはなんでも逆らった。自分が間違えた時でも、書いてあるとおりにひいたんだと強情を張った。彼はいらだった。そして二人は無作法な言葉を言い合った。彼女は鍵盤《キイ》に眼を伏せながら、クリストフの様子を窺い、その憤りを面白がった。退屈をまぎらすために、いろんな馬鹿な策略を考えついて、稽古の邪魔をしクリストフをいじめようとばかりした。気をもませるために息づまった真似をした。またはやたらに咳き込んだり、あるいは女中に大事なことを言い忘れてるなどと言った。クリストフはそれを狂言だと知っていた。ミンナはクリストフにそう知られてることを知っていた。そして彼女はそれを面白がった。なぜなら、クリストフは自分の思ってることを彼女にそう言うことができなかったから。  ある日、彼女はそういう気晴らしをまた始めて、切なそうに咳をつづけ、顔をハンケチに埋め、あたかも息がつまりかけてるようなふうをした。そしていらだってるクリストフを横目で窺っていた。その時彼女は、ハンケチを落してクリストフに拾わしてやろうと、うまいことを考えついた。クリストフはこの上もなく無愛想な様子で拾ってやった。彼女は貴婦人ぶった「ありがとう!」の一言《-ひとこと》をそれに報いた。彼はも少しで怒鳴り出そうとした。  彼女はその戯れをたいへん面白いと考えて、なおくり返そうとした。そして翌日それをやった。クリストフは動かなかった。憤りにむかむかしていた。彼女はちょっと待ったが、それから不満な調子で言った。 「ハンケチを拾ってくださいませんの?」  クリストフはもう我慢しきれなかった。 「私はあなたの召使じゃありません。」と彼はぞんざいに叫んだ。「自分でお拾いなさい。」  ミンナは息がつまった。にわかに腰掛から立ち上《-あ》がった。腰掛は倒れた。 「あんまりだわ。」と彼女は言いながら、腹だたしく鍵盤《キイ》をたたいた。そしてひどい勢で室《部屋》から出て行った。  クリストフは彼女を待った。彼女はもどって来なかった。彼は自分の行ないが恥ずかしかった。無頼漢みたいなことをしたと感じた。で彼は進退きわまった。彼女からはあまりに厚かましい嘲弄を受けていたのである。彼はミンナが母親に訴えはすまいかと恐れた、ケリッヒ夫人の心が変わってしまいはすまいかと恐れた。彼はどうしていいかわからなかった。自分の乱暴を後悔はしていたが、許しを乞う気にはどうしてもなれなかった。  翌日彼は、ミンナが稽古を受けることを拒むかもしれないと考えてはいたけれど、とにかくまたやって来た。しかしミンナは、高慢な心からだれにも言いつけなかったし、もとより多少良心にやましい点がないでもなかったので、普通より五分《-ごふん》ばかり長く待たしただけで、そこに出て来た。そして、クリストフのことなんか眼中にないかのように、ふり向きもせず、一言《-ひとこと》もいわず、まっすぐにつんとして、ピアノの前に行ってすわった。それでもやはり、彼から稽古を受けたし、なお引きつづいて彼から学んだ。というのは、クリストフが音楽に通じてることをよく知っていたし、また、自分がなろうと考えてるもの、すなわち生まれのよいりっぱな教育のある令嬢──それになろうとするには、ピアノをよく覚えなければならないということを、よく知っていたからである。  けれども、彼女はいかに退屈してたことだろう! 彼らは二人とも、いかに退屈してたことだろう!  霧深い三月のある朝、細かな雪が羽毛のように灰色の空中に飛び舞っていた時、二人は研究室《スチューディオ》にいた。室内は|ほの《仄》暗かった。ミンナは音符を一つ間違えて、いつものとおり言い争い、「そう書いてある」と言い張った。彼女が嘘を言ってることはよくわかっていたけれども、クリストフは楽譜の上に身をかがめ、問題の楽節をまぢかに見ようとした。彼女は譜面台の上に片手を置いていて、それをのけようともしなかった。彼の口はその手のそばに近づいた。彼は音譜を読もうとしたが読めなかった。他の物を見ていたのである──花弁のようなしなやかな透き通《-とお》った物を。そして突然──(どんなことが頭《-あたま》に浮かんだかみずから知らなかったが)彼は力いっぱいに、その愛くるしい手に唇を押しあてた。  二人ともそれにびっくりした。彼は後ろに飛びのき、彼女は手を引込めた──二人とも真赤になりながら。二人は一言《-ひとこと》も交わさなかった。顔を見合しもしなかった。当惑してちょっと黙っていた後《あと》、彼女はまたピアノをひき始めた。胸が押えつけられてるように軽く喘いでいた。やたらに音符を間違えた。彼はその間違いに気づかなかった。彼女よりいっそう心乱れていた。|顳顬《+コメカミ》がぴんぴんして、何《なん》にも耳にはいらなかった。そしてただ沈黙を破るために、息づまった声で、むちゃくちゃに意見を述べた。もう取り返しのつかないほどミンナから悪く思われたことと、彼は考えていた。自分の行ないに困惑してしまい、馬鹿な下等な行ないだと思っていた。稽古の時間が終ると、顔も見ないでミンナと別れ、挨拶することさえ忘れてしまった。しかし彼女は悪く思っていなかった。もうクリストフを育ちが悪いとも思っていなかった。非常にひき違いをしたというのも、それは、驚いたそして──初めて──同情のこもった好奇心をもって、なお横目で彼の様子を窺ってやめなかったからである。  一人になると彼女は、いつものように母のところへ行くことをしないで、自分の居間にとじこもり、その異常な出来事を考えてみた。彼女は鏡の前に肱をついていた。自分の眼がやさしくって輝いてるような気がした。考えに耽って軽く唇を噛んだ。自分のかわいい顔を嬉しく見入りながら、先刻の光景を描《えが》き出して、真赤になり、微笑んだ。食卓についた時には、元気で快活だった。それから外出を断《-ことわ》って、午後の一部を客間で過ごした。手には編物をもっていたが、十針も正しく編むことはできなかった。しかしそんなことはどうでもかまわなかった。室《部屋》の片隅に、母の方《ほう》へ背を向けて、彼女は微笑んでいた。あるいは突然はね出したくなって、大声に歌いながら室《部屋》の中を飛び回った。ケリッヒ夫人はびっくりして、気違いだと呼んだ。ミンナは身をねじって笑いながら、彼女の首に飛びつき、彼女の息がつまるほど強く抱《-だ》きしめた。  その晩彼女は、自分の居間に退いてからも、長く床《とこ》にはいらなかった。鏡の中ばかり覗き込んで、思い出そうとしたが、終日同じことばかり考えていたので、もう何《なん》にも考えられなかった。彼女は静かに着物をぬ《脱》いだ。たえずぬぐ手を休めては、寝台の上にすわり、クリストフの面影を思い出そうとした。彼女に現われたのは、幻のクリストフだった。そして今はもう、クリストフがさほど醜くも見えなかった。彼女は床《とこ》について、燈火を消した。十分《ジュップン》ばかりすると、その朝の光景が突然頭に浮かんだ。彼女は笑いだした。母親は禁じておいたのにもかかわらず床《とこ》の中で書物を読んでることと思って、静かに起き上がり、扉を開《-ひら》いた。見ると、ミンナは静かに寝ていたが、夜燈《ヤトウ》のほのかな光《-ひかり》の中に大きく眼を見開いていた。 「どうしたんです?」と彼女は尋ねた、「何が面白いの?」 「何《なん》にも。」とミンナは真面目に答えた。「考えてるの。」 「一人っきりでおかしがるなんて、ずいぶん気楽な人ですね。だけどもう、眠らなければいけませんよ。」 「はい、お母様。」と従順なミンナは答えた。  しかし心の中では、「あっちへ行《い》らっしゃい、あっちへ行《い》らっしゃいよ!」とぶつぶつ言っていた。するとついに、扉がまた閉まって自分の夢想を味わいつづけることができた。彼女は懶い無我の境《きょう》に|はい《入》っていった。眠りかけると、嬉しくって飛び上《-あ》がった。 「私を愛してるわ。……嬉しいこと! 愛してくれるなんて、なんとやさしい人だろう!……私、ほんとに好きだわ!」  彼女は枕を抱《-だ》きしめた。そしてすっかり寝入った。  二人がまた初めていっしょになった時、クリストフはミンナの愛想よいのに驚かされた。彼女は彼に挨拶をし、ごくやさしい声で、機嫌はどうかと尋ねた。おとなしい慎ましい様子でピアノについた。まったく従順な天使だった。意地悪な生徒らしい悪戯《+いたずら》を、もう少しもしなかった。クリストフの意見にかしこまって耳を傾け、それが正しいことを認め、一つ間違いをしても、みずから自責の声をたてて、それを直そうとつとめた。クリストフには少しも訳《-わけ》がわからなかった。彼女はわずかな間に、驚くべき進歩をした。ただにひくのが上手《-じょうず》になったばかりでなく、音楽が好きになっていた。彼は少しもお世辞の言えない性質だったが、讃めないわけにはゆかなかった。彼女は嬉しくて顔を赤らめ、感謝に濡《+うる》んだ眼付を見せた。彼女は彼のために、化粧に気を配り始めた。美妙な色合のリボンをつけた。クリストフに向かって、微笑みかけたりなよなよしい眼付をした。クリストフはそれを不愉快に感じ、腹をたて、心の底までむかむかした。今は彼女の方《ほう》から話しかけようとつとめていた。しかしその会話には少しも子供らしい点がなかった。真面目くさった口をきいて、ちょっと容態ぶった衒学的な調子で詩人の句を引用した。彼はほとんど答えもしなかった。気持が悪かった。今まで知らなかったその新しいミンナに、彼は不思議な気がし、また不安を覚えた。  彼女はいつも彼の様子を窺っていた。彼女は待っていた……何を?……彼女みずからはっきり知っていたろうか?……彼女は彼がふたたびするのを待っていたのである。──が彼はよく注意して避《-さ》けていた。田舎者のような仕業だと思い込んでいた。もう少しもそれを考えていないらしくも思われた。彼女はじれだした。ある日彼が、その危険なかわいらしい手を敬遠して、少し離れて平然とすわっていた時、彼女は焦燥の念にとらえられた。そして自分でも考えてみる暇がないほど素早く、彼の唇に自分の手を押しあてた。彼は狼狽し、次に憤りつつ恥ずかしかった。それでもやはり、その手に接吻し、しかもごく熱烈に接吻した。が彼女のそういう無邪気な厚かましさに腹だった。彼はミンナをそこに置きざりにして立去ろうとまでした。  しかし彼はもうそれができなかった。とらえられていた。騒然たる種々の考えが胸中に乱れていた。何《なん》にもよくわからなかった。谷間から立ち上《-のぼ》る靄のように、それらの考えは心の底から湧き上《-あ》がっていた。彼はその恋愛の狭霧の中を、めくら滅法にあちらこちら彷徨った。そしていかに努力しても、あるおぼろな固定観念のまわりを、あたかも虫にたいする炎のような、恐るべき魅惑的な、未知の「欲望」のまわりを、ただぐるぐる回るばかりだった。それは「自然」の盲目な力のにわかの沸騰であった。  二人は期待の時期を通《とお》っていた。二人ともたがいに窺い、たがいに欲求し、たがいに恐れていた。彼らは不安だった。それでもやはりちょっとした敵意や不平顔をつづけた。しかしもう彼らの間には、なれなれしい様子はなくなっていた。たがいに黙っていた。各自沈黙のうちに、おのれの恋愛を建設するのに忙《イソが》しかった。  愛には不思議な溯及《+ソキュウ》的な作用がある。クリストフはミンナを愛してると知った瞬間に、同じくまた、前から常にミンナを愛しているのだと知った。三か月以前から、彼らはほとんど毎日のように顔を合わせていたが、彼はその愛を夢にも気づかなかった。しかし今や彼女を愛しているので、過去未来|永久《えいきゅう》に彼女を愛してるのだと、どうしてもならざるをえなかった。  だれを愛してるかをついに発見したのは、彼にとっては安心だった。彼は実に久しい以前から、だれをとも知らずに愛していたのである。彼の安堵はあたかも、全身的な漠然とした不安な病気に悩んでる病人が、その病気がしだいにはっきりしてきて、一局部に限られた鋭い苦痛となるのを見るようなものだった。一定の対象のない恋愛くらい破壊的なものはない。それはあらゆる力を腐蝕し溶解する。しかしはっきりわかってる情熱は、精神を極度に緊張させる。それは人を疲らせるものではある。けれど少なくとも人はその理由を知っている。何物でも空虚よりはまだましである。  クリストフは、ミンナが自分にたいして無関心ではないと信ずべきりっぱな理由を与えられてはいたけれども、やはり気をもまないではおられなくて、彼女から軽蔑されてるように考えていた。彼らはたがいに相手についての明確な観念を得たことがなかった。しかしこの時ほど、その観念が不確かなことはなかった。それは奇怪な想像のごたごたした連続であって、どうしても全体としてのまとまりがつかなかった。極端から極端へ移り変わって、実際にない欠点や美点をたがいに与え合っていた。離れてると美点を想像し合い、いっしょになってると欠点を想像し合った。いずれの場合においても、彼らはまさしく同じように思い違いをしていた。  みずから何を欲求してるのか彼らは知らなかった。クリストフの方《ほう》では、その恋愛は、専横な絶対的な愛情の渇望となって現われていた。彼はその渇望に、幼年時代からすでにさいなまれていて、他人《-タニン》にもそれを求め、否応なしにそれを他人《-タニン》へも押しつけようとしていた。時とすると、自己および他人《-タニン》の──おそらく他人《-タニン》の方《ほう》がおもだったろうが──全部の献身を求むる専制的なその欲求に、獣的な|ほの《仄》暗い欲望の発作が交っていた。彼はその発作に眩惑したが、それがなんであるかをよく了解していなかった。ミンナの方《ほう》は、とくに好奇心に富んでいて、物語《ローマンス》の主人公となるのが嬉しく、その物語《ローマンス》から、自尊心と感傷性とのありとあらゆる快楽を引出《-引き出》そうとしていた。自分の感じてることについて、心から自分を欺いていた。かくて彼らの恋愛の大部分は、まったく書物から来たものであった。彼らは書物で読んだ小説を思い出して、実際にもってもしない感情をたがいに想像し合っていた。  けれども、それらの小さな虚偽や、それらの小さな利己心などが、恋愛の聖《+きよ》い光輝の前に消え失せる時期は、来かかっていた。ある日、ある時、永遠なる数瞬間《-スウシュンカン》……。しかもきわめて不意に!……  ある夕方、彼らは二人きりで話をしていた。客間の中は暗くなりかかっていた。二人の会話は真面目な色合を帯びていた。無窮だの生《セイ》だの死だのについて話していた。彼らの小さな熱情をはめこむには、あまりに大きすぎる額縁だった。ミンナは自分の孤独を嘆いた。それにたいするクリストフの答えはおのずから、彼女は自分で言ってるほど孤独ではないということだった。 「いいえ、」と彼女は小さな頭《-あたま》を振りながら言った、「みんな口先ばかりだわ。だれでも各自《+メイメイ》自分のためにばかり生きていて、人をかまってくれる者はいないし、人を愛してくれる者はいないことよ。」  ちょっと沈黙がつづいた。 「では私は?」とクリストフは突然、感情のあまり蒼くなって言った。  一徹な娘はいきなり飛び上《-あ》がって、彼の手をとった。  扉が開《-ひら》いた。二人は飛びのいた。ケリッヒ夫人がはいって来た。クリストフは書物に顔を伏せて、逆さのまま読み耽った。ミンナは編物にかがみ込んで、針で指をつっ突いてばかりいた。  その晩じゅう、彼らはもう二人きりにならなかった。二人きりになるのを恐れていた。ケリッヒ夫人は立上《立ち上》がって、隣りの室《部屋》に何か捜しに行こうとした。ミンナは平素あまり人《ひと》の気を迎える性質ではなかったが、その時は彼女の代《-か》わりにそれを取りに駆けて行《-い》った。クリストフはその不在に乗じて、彼女へは挨拶もせずに帰って行《-い》った。  翌日、彼らはまた会った。途切れた話の続きをやりたくてたまらなかった。しかしそれはうまくゆかなかった。とはいえ事情は好都合だった。ケリッヒ夫人といっしょに散歩に出かけた。勝手に話のできる機会はいくらもあった。しかしクリストフは口をきくことができなかった。それが非常につらかったので、途中ではできるだけミンナから離れていた。ミンナはその失礼に気づかないふりをしていた。しかし癪にさわって、明《あか》らさまに見せつけてやった。クリストフがついに思いきって何か言おうとした時、彼女は冷《冷や》かな様子でそれを聞いた。彼はその文句をしまいまで言い切るのもやっとのことだった。散歩は終りかけていた。時間は過ぎていった。そして彼はその機を利用できなかったのが残念でたまらなかった。  一週間過ぎた。彼らは相互の感情を考え違いしてると思った。先日の夕方のことは、夢ではなかつたかと疑った。ミンナはクリストフに恨みを含んでいた。クリストフはミンナ一人に出会うのを怖れていた。彼らはいつになくますます冷淡になっていた。  ついにある日が来た。──午前中と午後少し雨が降った。彼らは家の中に閉じこもり、言葉もかわさず、書物を読んだり、欠伸をしたり、窓から外《-そと》を眺めたりした。退屈でくさくさしていた。四時ごろ空が晴れた。二人は庭に飛び出した。高壇《テラース》の手摺に肱をついて、河の方《ほう》へ低くなってる芝生の斜面を眼の下《-した》に眺めた。地面は湯気をたてて、生温《+ナマアタタカ》い水蒸気が日向《-ひなた》に立ち上《-のぼ》っていた。雨の雫が草の上に閃いていた。濡れた地面の匂いと花の香りとが、いっしょに交っていた。彼らのまわりには、金色の蜂が羽音をたてて飛んでいた。彼らは相並んだまま、たがいに見向きもしなかった。思い切って沈黙を破ることができなかった。一匹の蜂が、雨に重くなってる一房の藤の花にうっかりとまって、ぱっと水を浴びた。二人は一度に笑いだした。するとすぐに、もうたがいに気を悪くしてるのでないことを感じ、仲のいい友だちであることを感じた。けれどもやはり顔を見合わせなかった。  突然、振向《振り向》きもしないで、彼女は彼の手をとり、そして言った。 「いらっしゃいよ。」  彼女は彼を引っぱりながら、小さな木立の迷宮の方《ほう》へ駆けていった。両側《リョうがワ》に黄楊の植わってる小径《+小道》が縦横《ジュウオウ》に通じていて、林のまんなかが小高くなっていた。二人はその坂を上《-のぼ》っていった。湿った地面に足が滑った。雨に濡れた木の枝が二人の頭《-あたま》の上で揺れた。頂上に着きかけると、彼女は立止《立ち止》まって息をついた。 「待ってちょうだい……待ってちょうだい……。」と彼女は息切れを鎮めようとしながら低く言った。  彼は彼女を眺めた。彼女は他の方《ほう》を向いていた。半ば口《くち》を開《-ひら》いて息をはずませながら、微笑んでいた。その手はクリストフの手の中にひきつっていた。彼らは握りしめた掌とうち震う指とに、血が脈打つのを感じた。あたりはひっそりとしていた。木々の金緑《キンリョク》の若芽が、日《ひ》の光に顫《+ふる》えていた。小さな雫が、銀の音色をして木の葉から滴っていた。そして空《-そら》には、燕の鋭い声が過ぎていった。  彼女は彼の方《ほう》へふり向いた。一閃の光《-ひかり》だった。彼女は彼の首に飛びつき、彼は彼女の腕の中に身を投じた。 「ミンナ、ミンナ、恋しい……!」 「あなたを愛しててよ、クリストフ、愛しててよ!」  彼らは濡れた木の腰掛にすわった。恋しさに、甘く深いやたらな恋しさに、しみ通《とお》っていた。他のことはすべて消えてしまった。もはや利己心もなく、見栄もなく、下心もなかった。魂のあらゆる曇りは、その愛の息吹きに吹き払われてしまった。「愛する、愛する、」──笑みを含み涙に濡れた彼らの眼がそう言っていた。この冷淡な婀娜な少女、この傲慢な少年、彼らはたがいに身をささげ苦しみ、たがいのために死にたいという、欲求に駆られていた。彼らはもはや自分がわからなかった。もはや平素の自分自身ではなかった。すべてが変わっていた。彼らの心も顔立《顔立ち》も眼も、痛切な温情と愛情とに輝いていた。純潔の、無我の、絶対的献身の、瞬間であって、もはや生涯にふたたび来ることのない瞬間であった。  夢中のささやきの後《のち》、永久《えいきゅう》にたがいに相手のものであるという熱烈な誓いの後《のち》、とりとめもない歓喜の言葉とくちづけの後《のち》、彼らはもう遅くなってるのに気づいた。そして手をとり合って駆けもどりながら、狭い小径《+小道》につまずき倒れるのも恐れず、木にぶっつかるのもかまわず、何《なん》にも感ぜず、ただ喜びの情に眼眩み心酔《/こころ酔》っていた。  彼女と別れてから、彼は家に帰らなかった。帰っても眠れなかったろう。彼は町《-まち》の外《-そと》に出て、野《-の》を横切って歩いた。夜中を当《+あて》もなく歩き回った。空気はさわやかで、野《-の》は暗く寂しかった。梟が寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄畑《-ぶどうばたけ》の中にある丘に上《-のぼ》った。町の小さな灯《+ヒ》が平野《-ヘイヤ》の中に震えていて、星が暗い空《-そら》に震えていた。彼は路傍の土壁《つちかべ》に腰掛けた。にわかに涙がほとばしった。なぜだかみずからわからなかった。彼はあまりにも幸福だった。その過度の喜びは、悲しみと嬉しさとでできていた。その中に彼は、自分の幸福にたいする感謝を、|仕合わ《幸》せでない人々にたいする憐れみを、事物の無常さから来る|もの《物》悲しい甘い感情を、生きることの酣酔《+カンスイ》を、交えていた。彼は楽しく涙を流した。涙のうちに眠っていった。眼を覚すと、ほのかな曙になっていた。白い霧が河の上にたなびき、町《-まち》を包んでいた。そこにはミンナが、幸福の笑みに心を輝かしながら、疲れに負けて眠っていた。  朝のうちから彼らは首尾よく庭で会うことができて、たがいに愛してるとまた言い交わした。しかしもうそれは、前日のような聖《きよ》い無我の心地ではなかった。彼女は多少恋人らしい芝居をしていた。彼の方《ほう》は、彼女よりも誠実ではあったが、やはりある役割をつとめていた。彼らは将来の生活を話し合った。彼は自分の貧困やつまらぬ身分を嘆いた。破女《彼女》は鷹揚なふりをして、みずからその鷹揚さを楽しんだ。金銭には無頓着《無トンチャク》だと自分で考えていた。そして実際|無頓着《無トンチャク》だった。金《#カネ》に不自由をしたことがないので、金銭というものをほんとうによくは知っていなかったのである。彼は大芸術家になると誓った。彼女はそれをあたかも小説のように面白い美しいことだと思った。彼女は真《しん》の恋人のように振舞うのを義務だと信じた。詩《 し》を読んで感傷的になった。彼もその気分に感染した。彼は自分の服装《+身なり》に心を配りだした。滑稽だった。口のきき方にも注意しだした。気障だった。ケリッヒ夫人は笑いながら彼を見守って、どうしてそんな馬鹿げたふりをするようになったか怪しんでいた。  しかし二人には、え《エ》もいえぬ詩的な瞬間があった。やや蒼《あお》ざめた日々《-ヒビ》のさなかに、霧を通して日《#ひ》の光《-ひかり》がさすように、その瞬間が突然輝き出すのであった。それはある眼付や身振りや言葉の瞬間で、なんの意味もないものではあるが、二人を幸福のうちに包み込むのだった。晩に薄暗い階段のところでかわす「さよなら」、薄暗がりでたがいに求め合いたがいに察し合う眼付、触れ合う手の戦き、声の震え、すべてつまらないことばかりだった。しかし夜になって、時計の鳴る音にも眼を覚ますような軽い眠りに入っている時、小川のささやきのように「私は愛されてる」と心が歌っている時、二人にはそれらの思い出が浮かんでくるのであった。  二人は事物の魅力を見出《見い出》した。春は無上の楽しさをもって微笑んでいた。彼らが今まで知らなかったほどの、輝きが空《-そら》にはあり、やさしみが空気にはこもっていた。町《-まち》じゅうが、赤い屋根も、白い壁も、凸凹《-でこぼこ》の舗石《敷石》も、親しい魅力を帯びて、クリストフはそれに心を動かされた。夜、人の寝静まっている時、ミンナは寝床から起き上がり、半ば眠り心地で心を躍らせながら、長く窓にもたれていた。午後、彼がいない時には、彼女はブランコに腰をかけ、書物を膝に置き、眼を半ば閉じ、快い懶さにうっとりとし、身も心も春の空気中に漂うような心地がして、夢想に耽っていた。今や彼女はいく時間もピアノについていて、他人《-タニン》の目にはたまらないほどの気長さで和音や楽節をくり返してひき、それに感動して顔色を失い冷たくなっていた。シューマンの音楽を聞くと涙を流した。万人にたいする憐れみと親切とで心がいっぱいになってる気がしていた。そして彼もまた彼女と同じ心地であった。二人は貧しい者に出会うと、ひそかに施与をして、同情にたえない眼付をたがいにかわした。親切にしてやるのが嬉しかった。  ほんとうをいえば、彼らは間歇的にしか親切ではなかったのである。ミンナは、母の子供のおりから家で働いている老婢フリーダの献身的な卑しい生涯が、いかにあわれなものであるか、突然気がついた。そして彼女のところへ駆けて行って首に抱《-だ》きついた。台所でシャツを繕っていた老婢は非常にびっくりした。それでもミンナはやはり、二三時間《ニサンじかん》もたてば、呼鈴を鳴らしたのにフリーダがすぐにやって来なかったからと言って、荒々しい言葉を使った。またクリストフの方《ほう》も、あらゆる人間にたいする愛情で胸をせつなくし、一匹の虫をも踏み潰さないようにとよけて通《とお》っていたのに、自家《-ジカ》の者たちにたいしては冷淡きわまっていた。奇怪な反動ではあるが、あらゆる他人《-タニン》にたいして情け深くなればなるほど、それだけ家の者にたいしてはいっそう冷酷になっていった。家の者のことはろくに考えもせず、無作法な口のきき方をし、厭な眼付で眺めていた。二人にとっては、その親切はあまりに満ち満ちた愛情の結果にすぎなかった。その愛情は発作的にあふれ出して、だれでもぶっつかった者に利を与えるのだった。そしてその発作を除いては、二人は平素よりもいっそう利己的になっていた。二人の頭《-あたま》はただ一つの考えに満《みた》されていて、すべてがそこに帰着するからであった。  この少女の面影は、クリストフの生活のうちに、いかに大《ダイ》なる場所を占めていたことだろう! 庭に彼女の姿を捜し求めて、小さな白い長衣《ナガギヌ》を遠くに見出す時──劇場で、まだ空《-あ》いている彼女ら二人の席から数歩《スウほ》のところにすわっていて、桟敷の扉が開《-ひら》くのを聞き、よく知りぬいているあでやかな声を耳にする時──まったく無関係な話の中に、ふとケリッヒというなつかしい名前が出てくる時、彼はいかに感動したことであろう! 彼は蒼くなりまた赤くなった。しばらくの間は何《なん》にも聞こえも見えもしなかった。その後《あと》ではすぐに、血の激流が全身に湧き上がり、言い知れぬ力が躍りたってくるのであった。  この無邪気な肉感的なドイツの少女は、不思議な遊戯を心得ていた。彼女は麦粉を敷いた上に指輪をのせた。二人は代わる代わる、鼻に粉がつかないようにして、その指輪を歯でくわえ上げるのだった。あるいは、彼女はビスケットに糸を通した。そして二人は糸の両端《リょー端》を口にくわえ、糸を食べながら、できるだけ早くビスケットに噛みつくのだった。二人の顔は近寄り、息は交じり、唇は触れ合った。二人はわざとらしく笑っていた。手は冷たくなっていた。クリストフは、向うに噛みついてやり、痛い目に会わしてやりたかった。が突然彼は後ろに飛び退《+さが》った。彼女は強《-し》いて笑いつづけた。二人はたがいに顔をそむけ、なんでもないふうを装っていたが、でもそっと眼を見合っていた。  それらの怪しい遊びは、二人にとって不安な魅力をもっていた。クリストフはそれを恐れて、ケリッヒ夫人かだれかがいっしょにいる窮屈な集まりの方《ほう》を好んだ。どんな邪魔な人がいようと、二人の恋の心の対話を妨げることはできなかった。拘束はかえってその対話を、いっそう熱烈なものとしいっそう楽しいものとした。そういう時には、すべてが二人の間では限りなく価値あるものとなった。一つの言葉、一つの唇の皺、一つの目くばせ、それだけでもう、日常生活の凡俗なヴェールの下から、二人の内部生活の豊富な鮮《鮮や》かな宝を輝き出させるに十分《充分》だった。彼らだけがその宝を見ることができた。少なくとも彼らはそう信じて、二人だけの小さな秘密に嬉しくて、たがいに微笑みかわした。彼らの言葉を聞いても、つまらない事柄についての客間話以外には、そこに何《なん》にも見てとられなかった。しかし彼らにとっては、それは恋のつきせぬ歌であった。たがいの顔付や声の最もとらえがたい色合いをも、彼らはよく読みとって、あたかも開《-ひら》いた書物の中で読むがようだった。また眼をつぶっていても読みとれたろう。相手の心の響きを聞くには、自分の心に耳を傾けさえすればよかったからである。彼らは、人生と幸福と自分たち自身とに、満ちあふれる信頼の念をいだいていた。彼らの希望には限界がなかった。彼らは愛し愛されて、幸福であり、なんらの陰影も知らず、疑念も知らず、未来にたいする心配も知らなかった。ああそれらの春の日のみが有する晴朗さよ! 空《-そら》には一片の雲もない。何物にも弱められないほどの清新な信念。何物にも汲み尽されないほどの豊富な喜悦。彼らは生きているのか? 夢みているのか? 確かに彼らは夢みているのだ。実生活と彼らの夢との間にはなんらの共通点も存しない。なんらの共通点も……ただ、その幻惑的な時期において、彼ら自身が一《ひとつ》の夢にすぎないということ以外には。彼らの存在は恋の息吹きに融け去ってしまったのである。  ケリッヒ夫人は間もなく、二人の子供の素振《そぶ》りに気づいた。二人は巧みにやってるつもりだったが、実はごく拙劣だった。ある日、ミンナが不都合なほどクリストフに近寄って話していると、不意に母がはいって来た。扉の音を聞いて、二人はへたにまごつき、あわてて飛び退《+の》いた。がその時からミンナは、感づかれたのではないかと思った。しかしケリッヒ夫人は何《なん》にも気づかないふりをしていた。ミンナはかえって残念なくらいだった。彼女は母と争いたかった。それの方《ほう》がいっそう小説的だったろうから。  母は彼女に争う機会をなかなか与えようとしなかった。そのことについて気をもむにはあまりに聡明だった。しかしミンナの前で、クリストフのことを皮肉な調子で話して、そのおかしな点を容赦もなく嘲った。数言《スーコト》でクリストフを冷評し去った。彼女は他意あってそうするのではなくて、自分の物を護りたいという女にありがちな浅はかな性質から、本能的に行なっていたのである。ミンナはそれに逆らい、不平顔をし、粗暴な言葉を使い、母の観察は嘘だと頑固に否定しようとしたが、無駄であった。その観察はあまりに確かすぎていた。そしてケリッヒ夫人は、図星をさす残酷な技能をもっていた。クリストフの靴の大きいこと、服の醜いこと、埃をよく払ってない帽子、田舎訛りの発音、可笑しなお辞儀の仕方、高声《タカゴエ》の賤しさ、すべてミンナの自尊心を傷つけるようなことを一つも言い忘れなかった。だがそれは事のついでにもち出される意見にすぎなかった。決して非難の形をとって現われて来はしなかった。ミンナがいらだって、威丈高に答え返そうとすると、ケリッヒ夫人は事もなげに、もう他のことを言っていた。しかしその刺は残っていて、ミンナはそれに傷つけられた。  ミンナは以前ほど寛大な眼ではクリストフを眺めなくなった。彼はそれを漠然と感じて不安そうに尋ねた。 「どうして私をそんなに見るんです?」  彼女は答えた。 「なんでもないわ。」  しかしすぐその後《あと》で彼女は、彼がはしゃいでいると、あまり騒々しく笑うと言ってきびしく非難した。彼は驚いた。笑うのにも彼女に気がねをしなければならないとは思いもよらないことだった。彼の喜びはすべて害された。──あるいはまた、彼がすっかり我《吾》を忘れて夢中にしゃべっていると、彼女は他に心を向けてるような様子でその話をやめさせ、彼の服装についてあまりありがたくない注意をしたり、または攻撃的な物知り顔で、彼の下品な言葉使いを指摘したりした。彼はもう口をききたくなく、時には機嫌を損ずることもあった。がその次には、自分をいらだたせるそういうやり方《-かた》も、ミンナが自分に愛情をいだいてる証拠であると思い込むのだった。そして彼女の方《ほう》でもそう思い込んでいた。彼は殊勝にも彼女の注意に従って欠点を直そうとした。彼女はあまり満足しなかった。なぜなら彼はどうもうまく欠点を直せなかったから。  しかし彼は彼女のうちに起こってる変化に気づくだけの暇がなかった。復活祭が来た。ミンナは母とともに、ワイマールの方《ほう》の親戚の家へ、ちょっと旅をしなければならなかった。  別れる前の最後の一週間には、彼らは最初のころのような親しみをまた見出《見い出》した。わずかな短気な振舞を除けば、ミンナはこれまでになくやさしかった。出発の前日、彼らは長い間庭を散歩した。彼女はクリストフを阿亭《+アズマヤ》の奥に連れ込んで、一房の髪の毛を入《-い》れて置いた香袋《+コウブクロ》を、彼の首にかけてやった。彼らは永遠の誓いをまたくり返し、毎日手紙を書こうと約束した。空《-そら》の星を一つ選んで、毎晩二人とも同じ時刻にそれを見ようと誓った。  悲しい日が来た。夜中に彼は幾度となく、「明日彼女はどこにいるだろう?」と考えたのであったが、今はこう考えた、「今日だ。今朝はまだ彼女はここにいるが、今晩は……。」彼は八時にもならない前から彼女の家へ行った。彼女は起きていなかった。彼は庭を歩き回ろうとした。がそれもできないで、またもどってきた。廊下は旅行カバンや荷物包みでいっぱいだった。彼はある室《部屋》の片隅にすわって、扉の音や床板《床イタ》のきしる音を窺い、頭《-あたま》の上の二階でする足音の主《-ぬし》を聞き分けていた。ケリッヒ夫人が通りかかって、軽い微笑を浮かべ、立止《立ち止》まりもしないで、ひやかし気味にお早《ハヨ》うと言った。ついにミンナが出て来た。蒼《あお》ざめた顔《かお》をして、眼をはらしていた。昨夜は、彼と同じに眠れなかったのである。彼女は忙しそうに召使らに用を言いつけていた。老婢フリーダに口をききつづけながら、クリストフに手を差出した。もう出発の用意ができていた。ケリッヒ夫人もまたやって来た。彼女らはいっしょに、帽子のボール箱について相談し合った。ミンナはクリストフになんらの注意も払っていないらしかった。クリストフは忘れられて悲しそうに、ピアノのそばにじっとしていた。ミンナは母とともに出て行った。それからまたはいって来た。入口でなお、ケリッヒ夫人に何やら叫んだ。彼女は扉を閉めた。二人きりになった。彼女は彼のところへ走り寄り、彼の手をとり、雨戸をしめきった隣りの小客間《ショー客間》へ引き込んだ。そして彼女は、にわかにクリストフの顔へ自分の顔を近寄せ、力いっぱいに彼を激しく抱擁した。彼女は泣きながら尋ねた。 「約束してちょうだい、約束してちょうだい、いつまでも私を愛してくださるの?」  二人は低くすすり泣いた。人に聞かれないように、痙攣的な努力をした。足音が近づいて来るので、たがいに離れた。ミンナは眼を拭きながら、召使らにたいして高慢ちきな様子にかえった。しかしその声は震えていた。  彼はうまく、彼女の落したハンケチを盗み取った。よごれた、皺くちゃの、涙にぬれた、小さなハンケチだった。  彼は二人の女友だちと同じ馬車に乗って、停車場《停車じょう》までついていった。二人の子供は、たがいに向き合ってすわりながら、涙にむせかえるのを恐れて、ろくに顔も見合わしえなかった。彼らの手は、たがいにそっと探り合って、痛いほどひしと握りしめた。ケリッヒ夫人はずるいお人よしの様子で二人の素振《そぶ》りを見守っていた、そして何《なん》にも気づかないふりをしていた。  ついにその時刻となった。クリストフは列車の入口近くに立っていたが、列車が動き出すと、それと並んで走り出し、前方に眼もくれず、駅員らをつきとばし、ミンナと眼を見合《見合わ》していたが、ついに列車から追い抜かれてしまった。それでもやはり走りつづけて、何《なん》にも見えなくなるまでは止まらなかった。見えなくなると、息を切らして立止《立ち止》まった。顧みると、プラットフォームにたたずんで他人《-タニン》の間に交じっていた。彼は家にもどった。幸いに家の者は出かけていた。その朝じゅう、彼は泣いた。  彼は初めて、別れていることの恐ろしい苦しみを知った。恋するあらゆる心にとってはた《耐》え|がた《難》い苦痛である。世の中は空しく、生活は空しく、すべてが空しい。もはや呼吸もできない。死ぬほどの悩みである。ことに、恋人の身にまつわった具体的な事物がなお周囲に残存している時、周囲の事物がたえず恋人の姿を描《えが》き出させる時、いっしょに暮した親しい背景の中に一人《ひとり》残っている時、その同じ場所に消え去った幸福を蘇らせようとあせる時、それはあたかも、足下《-あしもと》に深淵が開《ひら》けたようなものである。身をかがめて覗き込み、眩暈《+めまい》を感じ、まさに落ち込まんとし、そして実際落ち込んでしまう。まのあたり死《/死》を見るような心地である。そしてまさしく死を見てるのである。恋人の不在は、死の仮面の一つにすぎない。自分の心の最も大事な部分が消え失せるのを、生きながら見るのである。生命《イノチ》は消えてゆく。真暗な穴である。虚無である。  クリストフはなつかしい場所をいちいち見に行って、なおさら苦しんだ。ケリッヒ夫人は彼に庭の鍵を渡して、留守中にもそこを散歩できるようにしてやった。彼は別れたその日に庭へまたもどっていって、悩ましい思いに息もつけないほどだった。彼はやって来る途中、出発してしまった恋人の多少の面影を、また庭に見出《見い出》せるだろうと思っていた。実際来てみると、多少どころではなかった。彼女の面影は芝生の上いたるところに漂っていた。径《道》の曲り角《-かど》ごとに、彼女の姿が今にも眼の前に出て来そうだった。出て来ないことはよく承知していたが、しかしみずから苦しんでその反対を信じようとした。迷宮の林の中の小径《+小道》、藤のからまった高壇《テラース》、阿亭《+アズマヤ》の中の腰掛など、恋しい思い出の跡を求めてはみずから苦しんだ。彼は執念深くくり返した。「一週間前は……三日前は……昨日は、そうだった。昨日彼女はここにいた。……今朝ほども……。」彼はそういう考えでみずから心を痛め、ついには息がせつなく死ぬほどになって、考えやめなければならなかった。──彼の悲しみには、多くの麗《うる》わしい時を利用もせず無駄に過ごしたという、自己憤懣の念が交じっていた。幾多の瞬間、幾多の時間、彼女に会い彼女の香りを吸い彼女の存在でおのれを養うという限りない幸福を、彼は楽しんできたのであった。しかも彼はその幸福の価をほんとうには知っていなかった。わずかな瞬間をも皆味わいつくすことをしないで、うかうか時《トキ》を過ごしてしまった。そして今や……。今となってはもう遅すぎた。……取り返しがつかない。取り返しがつかないのだ!  彼は家にもどった。家の者が厭に思えて仕方がなかった。彼らの顔付、彼らの身振《身振り》、彼らのくだらない会話が、我慢できなかった。それらは前日と変わりなく、以前と変わりなく、彼女がいたころと少しの変わりもなかった。彼らはいつもの生活をつづけていて、かくも大きな不幸が近くに起こったことを知らないがようだった。また町《-まち》じゅうの者も一人として何《なん》にも気づいていなかった。人々は笑いながら、騒々しく、忙しそうに、仕事に赴いていた。蟋蟀は歌っており、空《-そら》は輝いていた。彼はすべての者を憎んだ。世の中の利己的なのに圧倒される気がした。しかし彼は、彼一人で、世の中全体よりもいっそう利己的だった。彼にとっては、もはや何物も価値をもたなかった。彼はもはや好意をもたなかった。彼はもはやだれをも愛しなかった。  彼はいたましい日々《-ヒビ》を過ごした。自働人形のようなふうで仕事にとりかかった。しかしもう生きてゆく元気がなかった。  ある晩、彼が黙々としてうちしおれながら、家の者といっしょに食卓についている時に、郵便|配達夫《配達フ》が戸をたたいて、彼に一封《イップー》の手紙を渡した。彼はその手跡をも見ない前に、心にそれと思い当たった。四組の眼が、厚かましい好奇心をもって彼を見つめながら、いつもの退屈さから免れるような気晴らしの種《-たね》をひたすら期待して、彼がその手紙を読むのを待っていた。彼は手紙を皿の横に置き、なんのことだかよくわかってるというような平気な顔をして、わざと開封もしなかった。しかし弟どもはじれだして、それを信ぜず、なおじろじろ見ていた。それで彼は食事が済むまで苦しめられた。食事が済んでから彼はようやく、自由に室《部屋》の中へ閉じこもることができた。胸が高く動悸していたので、手紙を開《-ひら》きながら危《危う》くそれを引裂こうとした。これからどういうことを読むかびくびくしていた。しかし初めの数語《スー語》に眼を通すや否や、喜びの情が身にしみ渡った。  それはきわめて愛情のこもった文句だった。ミンナが内密に書いてよこしたものであった。「懐しいクリスさま」と彼を呼んでいた。たいそう泣いたこと、毎晩あの星を眺めてること、フランクフルトに来ていること、大きな都会でりっぱな店があるけれども、何《なん》にも気が向かないこと、なぜなら彼のことしか考えていないからということ、などがいろいろ書いてあった。彼女にいつまでも忠実であって、彼女の不在中はだれにも会わずに、ただ彼女のことばかりを考えるようにすると、彼が先に誓ったことについて、念が押してあった。留守中たえず勉強して、名高い人になり、自分をもまた有名にしてほしいと、願ってあった。終りに、出発の朝別れを告げ合ったあの小客間《ショー客間》を、覚えているかどうかと、尋ねてあった。いつか朝、そこへまた行ってくれと、頼んであった。自分の心はまだそこにあること、別れを告げたあの時と同じようにしているということ、などが確言してあった。「永久《えいきゅう》にあなたの私、永久《えいきゅう》に!」と終りを結んであった。そして二伸の添え書きがあって、みっともないフェルト帽をよして、麦稈《+ムギカラ》帽を買うようにと、勧めてあった。──「ここでは、りっぱな人たちは皆《-ミンナ》それをかぶっていますのよ──広い青のリボンのついた荒い麦稈《ムギカラ》帽ですわ。」  クリストフは三四度《サンヨンど》くり返し手紙を読んで、それで初めてよく意味がわかった。彼はぼーっとして、もう嬉しがるだけの元気もなかった。しきりに手紙を読み返したりくちづけしたりしながら、にわかに疲労を感じて床《とこ》に|はい《入》った。手紙を枕の下《-した》に置いて、たえず手で探っては、そこに手紙があることを確かめた。え《エ》もいえぬ楽しさが彼のうちに広がっていった。彼は翌日まで一息に眠った。  彼の生活はいくらかたえやすくなった。ミンナの真実な思いが身のまわりに漂っていた。彼は返事を書きかけた。しかし彼には自由に書くだけの権利がなかった。思ってることを隠さなければならなかった。それは苦しいまた困難なことだった。いつもおかしい使い方《-かた》をしてる儀式ばった丁寧な文句の下《-した》に、恋の心を覆い隠そうとしたが、それもきわめてまずかった。  彼は手紙を出してから、ミンナの返事を待った。もはやその期待の念のうちにばかり生きていた。辛抱するために散歩や読書を試みた。しかしミンナのことばかり考えていて、ほとんど病的な執拗さで彼女の名をくり返し言っていた。偶像にでもたいするようにその名を愛していたので、どこへ行くにも、ミンナという名が出てるレッシングの一巻《イッカン》をポケットに入《-い》れていた。そして毎日、劇場から出ると、長い回り道をして、ミンナという恋しい三文字《サンモじ》のついた看板が出てる小間物屋の店先を通《とお》った。  自分を名高い女にするために勉強してくれと彼女から切願されたので、彼はうっかりしてるのがやましかった。そういう要求の無邪気な虚栄心は、信頼のしるしとして彼の心を打った。彼はその求めに応ずるために、ただに彼女に捧呈するばかりでなく真に献《+ささ》げきった一つの作品を、書いてみようと決心した。それで当分のうち他のことはいっさいできなかった。そしてその作品の構図を思いつくや否や、楽想は湧然として湧いてきた。数か月来貯水池にたまっていた水量が、堤防を破って一挙に流れ出すのにも似ていた。彼は一週間の間自分の室《部屋》を出なかった。ルイザは戸口のところに食事を置いていった。彼女をも室《部屋》にはいらせなかったのである。  彼はクラリネットと弦楽器とのための五重奏曲《カンテット》を一つ書いた。第一部は、青春の希望と欲望との詩《 し》であった。最後の部は恋の諧謔であって、クリストフの多少荒くれた気質《キシツ》がその中にほとばしっていた。しかしこの全曲は、次の曲たるラルゲットのために書かれたものであった。そこでクリストフは、熱烈|素純《ソジュン》な少女の魂を描《えが》いた。それはミンナの肖《+姿》であったし、また肖《姿》であるべきだった。だれも彼女の面影をそこに認めなかったかもしれないし、彼女自身も認めなかったかもしれないが、しかし|たいせつ《大切》なことは、彼がそれを完全に認めてることだった。恋人の一身をすっかりわが物にしたということを空想|裡《+リ》に感じて、彼は喜びの戦慄を覚えた。どんな仕事も、これほどたやすくまた嬉しいものはなかった。恋人の不在のために心にたまってる愛情を、一挙に放散させることであった。そしてまた同時に、芸術的製作への専心と、情熱を美しい明らかな形式《-けいしき》のうちに統御し集注するための必要な努力とは、精神の健康と全能力の平衡とを彼に与えて、肉体的快感をも彼のうちによび起こした。あらゆる芸術家が知っている最上の享楽である。創作してる間、芸術家は欲望と苦悩との軛を脱して、かえってその主人となる。彼を喜ばせるすべてのもの、彼を苦しませるすべてのもの、それらも皆自分の意志のままになるがように思われる。しかしそれも束の間である。なぜならその後《あと》では、現実の繋鎖《+ケイサ》がいっそう重く感じられてくるから。  クリストフは製作に従事してる間、ミンナがいないことをほとんど思う暇もなかった。彼は彼女といっしょに生きていた。ミンナはもはやミンナの中にはなく、すっかり彼のうちにあった。しかし仕事を終えてしまうと、彼はまた孤独を感じ、前よりもいっそうの孤独を感じ、いっそうがっかりしていた。ミンナに手紙を書いたのは二週間前であること、彼女からは返事も来なかったこと、などが思い出された。  彼はふたたび手紙を書いた。そしてこんどは最初の手紙に強《-し》いて守ったような遠慮を、どうしてもすっかり守ることができなかった。彼を忘れてしまったことを、冗談の調子で──なぜなら自分でもそれを信じていなかったから──ミンナに責めた。彼女の無精をからかって、やさしい揶揄《-ヤユ》をしてみた。非常にもったいぶって自分の仕事のことをほのめかした。彼女の好奇心を刺激したかったし、また、もどって来たらふいに喜ばしてやりたかったのである。買い求めた帽子のことを細かに述べた。その小さな専制者《-せんせいしゃ》の命令に服従するために──彼は彼女の言うことをそっくり文字どおりに解釈していたのである──もう少しも家から出かけないで、いっさいの招待を断わるために仮病をつかってると、言ってやった。熱情のあまり、招かれた宮邸の夜会へも行かないで、大公爵の機嫌を損じてるということだけは、書き添えなかった。手紙は楽しい明け放《-ハナ》しの調子で、恋人同志にとって嬉しい小さな内密事《+内緒ごと》で満ちていた。その内密事《内緒ごと》を解く鍵をもってるのはミンナ一人だと、彼は思っていた。用心して恋愛の言葉をすっかり友情の言葉で置き代えたので、ごく上手《-じょうず》にいったと考えた。  手紙を書き終えると、彼は一時《-いちじ》の慰謝を感じた。第一には、手紙を書きながら不在のミンナと話をしてる気になったからであるし、次には、ミンナがすぐに返事をくれることと信じていたからである。で彼は、自分の手紙がミンナのもとへ届き、その返事が自分のもとへ届くには、三日ばかりかかると思っていたので、その間《あいだ》はごく気長に落着いていた。しかし四日目も過ぎてしまうと、もう生きていられないような気にふたたびなりだした。いくらか元気があり、物に興味を覚えるのは、ただ郵便が来る間|ぎわ《際》の時間だけだった。そういう時彼は、待ちかねて足をふみ鳴《鳴ら》していた。彼は迷信家になって、ちょっとしたしるし──暖炉の火のはじく音や、偶然に言われた言葉など──の中に、手紙が来るという信念を捜し求めた。その時刻が一度過ぎ去ると、また悄然としてしまった。もう仕事もしなければ、散歩もしなかった。生存の唯一の目的は、次の郵便|配達夫《配達フ》を待つことであった。そしてそれまで我慢して待つのに、ありったけの元気を費やした。しかし晩となって、もうその日は希望がなくなると、すっかり落胆しつくした。翌日までは生きておれそうにも思えなかった。いく時間もじっとして、テーブルの前にすわり、口もきかず、考えもせず、寝るだけの力もなかったが、しまいには、わずかに残ってる意志でようやく床《とこ》に|はい《入》るのだった。そして重苦しい眠りに入《-ハイ》り、馬鹿げた夢ばかりみて、その夜がいつまでも終らないもののように考えられた。  そういうたえざる期待は、ついにほんとうの病気になりかけた。そのためにクリストフは、手紙を受取りながら自分に隠してるのではないかと、父を疑い、弟どもを疑い、郵便|配達夫《配達フ》をさえ疑うようになった。彼は不安の念にさいなまれた。ミンナの信実については一瞬も疑わなかった。もしほんとうに手紙をよこさなかったのなら、きっと彼女は病気であり、死にかかっており、おそらく死んでるのかもしれなかった。彼はすぐさまペンを取上げ、三番目の手紙を書いた。胸がはり裂けるような文句で、もうこんどは、自分の感情にも綴字《+綴り字》にも気をつけようと思わなかった。郵便の時刻が迫っていた。やたらに塗り消したり、ページを裏返しながら書き散らしたり、封筒を封じながらよごしたりした。それでもかまわなかった。次の郵便の時間を待てなかった。彼は手紙を出しに郵便局へ駆けて行《-い》った。それからた《耐》え|がた《難》い煩悶のうちに返事を待った。翌晩、ミンナの姿をはっきり幻に見た。彼女は病気で、彼を呼んでいた。彼は起き上がり、彼女のところへ出かけて行こうとした。しかしどこへ? どこへ行ったら彼女に会えるのか?  四日目の朝、ミンナの手紙が届いた──半ページほどの──冷淡な取り澄《澄ま》した手紙が。彼がどうしてそんな馬鹿げた懸念を起こしたのか訳《-わけ》がわからないこと、自分は丈夫でいること、手紙を書く暇がないこと、以来はあまり興奮しないように、そして音信をよしてほしいということ、などが書いてあった。  クリストフは駭然《+蓋然》とした。彼はミンナの誠実を疑ってみなかった。彼は自分自身をとがめた。軽卒な馬鹿げた手紙を書き送ったので、ミンナが怒るのはもっともだと考えた。自分を馬鹿者《馬鹿モノ》だと思い、拳《+コブシ》を固めて自分の頭《-あたま》を打った。しかしなんとしても無駄であった。自分が向《向こ》うを愛してるほど深くミンナは自分を愛してはいないと、感じないわけにはゆかなかった。  その後《-ご》の日々《-ヒビ》は、言葉にも述べられないほど陰惨なものだった。虚無は、これを述べることができないものである。なお生存してゆける唯一の楽しみ、すなわちミンナへ手紙を書くこと、それも禁じられてしまったので、クリストフはもはや機械的に生きてるのみだった。そして唯一の生甲斐のある仕事は、晩寝る時に、ミンナが帰って来るまでの数多い日数の一つを、あたかも小学生徒のように、自分の暦の上に塗り消すことであった。  帰宅の日限は過ぎてしまった。もう一週間も前から彼女らは帰って来ていなければならないはずだった。クリストフの落胆は、ついで激しいいらだちとなった。ミンナは出発のおり、帰ってくる日と時間とを前から知らせると約束していた。彼はたえず、彼女らを迎えに行こうと待ちかまえていた。そしてかく帰りが遅れる理由を、種々思い迷った。  ある晩、隣りに住んでる人で、祖父の友であった家具商のフィシェルがいつもよくやるように、晩食後やって来て、|メルキオル《メルキオる》相手にパイプをふかしたり無駄話をしたりした。クリストフは配達夫《配達フ》の通るのを空しく待受けたあとで、憂いに沈みながらまた自分の室《部屋》に上《-のぼ》ってゆこうとした。その時、ふと聞いた一言《-ひとこと》に彼は震え上《-あ》がった。翌朝《-ヨクアサ》早くケリッヒ家《け》へ行って窓掛《窓掛け》をつけなければならないと、フィシェルは言っていた。クリストフははっとして尋ねた。 「そんなら帰って来たんですか。」 「とぼけちゃいけない。お前だってよく知ってるじゃないか。」と老フィシェルはひやかし気味に言った。「だいぶ前のことだ。一昨日帰って来てらあね。」  クリストフはもうそのうえ何《なん》にも耳にはいらなかった。彼は室《部屋》から出て、出かける支度をした。母は先ほどからそっと彼の様子を窺っていたが、廊下までついて来て、どこへ行くのかとおずおず尋ねた。彼は返辞もしないで出て行った。彼は苦しんでいた。  彼はケリッヒ家《け》に駆け込んだ。夜の九時だった。彼女らは二人とも客間にいた。彼の姿を見ても別に驚いた様子はなかった。静かに今晩はと言った。ミンナは手紙を書いていたが、テーブルの上から彼に手を差出し、なお書きつづけながら、気乗りのしない様子で彼の消息を尋ねた。そのうえ、自分の失礼を詫び、彼の言葉に耳傾けてるふうをしていた。しかしちょっと彼の言葉をさえぎっては母に何か尋ねたりした。彼はその留守の間どんなに苦しんだか、それについて痛切な言葉を用意していた。けれどようやく数語《スー語》をつぶやきえたばかりだった。だれも気を入《-い》れて聞いてくれず、彼は言いつづけるだけの元気もなかった。自分の言葉が妙に空響《カラヒび》きがした。  ミンナは手紙を終えると、編物を取り上げ、彼から数歩《スウほ》のところにすわって、旅の話を始めた。楽しく過ごした数週間、馬上《バジョー》の散歩のこと、別荘生活のこと、面白い交際社会のこと、などを話した。しだいに調子に乗って、クリストフの知らない出来事や人々の上に話を向け、母と彼女とはその追憶に笑いだした。クリストフはその話の中で、まったく圏外にいる心地がした。どういう顔付をしていいかもわからず、当惑したような様子で笑っていた。ミンナの顔から眼を離さず、恵みの一瞥を懇願していた。しかし彼女が彼を見る時──それもまれにであって、彼よりもむしろ母の方《ほう》に話しかけていたが──彼女の眼はその声と同じく、愛嬌はあるが心がこもっていなかった。彼女は母がいるので用心したのであろうか? 彼は彼女と二人きりで話がしたかった。しかしケリッヒ夫人は片時も彼らから離れなかった。彼は自分のことに話を向けようと試みた。自分の仕事や抱負のことを話した。ミンナが自分から逃げようとしてることを彼は感じた。そして彼女の心を引きつけようと努めた。実際彼女は、非常に注意して彼の言葉に耳傾けてるらしかった。彼の話に種々の感嘆詞《感嘆シ》を插《+挟》んだ。それはいつもうまくあてはまるとは言えなかったが、しかしその調子には心惹かれてるさまが現われていた。けれども、彼がそのあでやかな微笑みに心酔って、また希望をいだき始めた時、ミンナが小さな手を口にあてて欠伸をするのが眼にとまった。彼はぴたりと話をやめた。彼女は気がついて、疲れを口実に愛想よく言い訳《-わけ》をした。彼はまだ引止められることと思いながら立上《立ち上》がった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼はぐずぐず挨拶を長引かし、明日また来るように言われるのを待った。がそれも問題にはならなかった。彼は帰って行かなければならなかった。ミンナは送っても来なかった。彼女は手を差出した──無関心な手を。それは彼の手の中に冷やかに託された。そして彼は客間の中で彼女と別れた。  彼は心おびえながら家にもどった。二か月以前のミンナは、彼のなつかしいミンナは、もう何一つ残っていなかった。何事が起こったのか? 彼女はどうなったのか? このあわれな少年は、生きた魂の、それも大部分は個々の魂ではなくて、たえず相次ぎ消え失せる一団の魂であるが、そういう生きた魂の不断の変化を、全部の消滅を、根本的の更新を、まだかつて経験したことがなかったので、彼にとっては、単純な事実もあまりに残酷であって、それを信じようと心をきめることができなかった。彼は恐れてその考えをしりぞけ、自分の方《ほう》で見当違いをしたのであって、ミンナはやはり同じミンナであると、むりにも思い込もうとした。翌朝《-ヨクアサ》また彼女のところへ行って、ぜひとも話そうと、彼は決心した。  彼は眠らなかった。夜じゅう、柱時計の打《-う》つ音を一々数えた。ごく早朝から出かけて、ケリッヒ家《け》のまわりを彷徨った。できるだけ早く中に|はい《入》って行《-い》った。まず眼についたのは、ミンナではなくて、ケリッヒ夫人であった。活動的で早起きの彼女は、ヴェランダの下《-した》の植木鉢に水差で水をやっていた。クリストフの姿を見つけると、嘲り気味の叫びをあげた。 「あら、」と彼女は言った、「あなたでしたか!……ちょうどいい時でした、あなたにお話したいことがあります。待ってください、待ってください……。」  彼女はちょっと家の中に|はい《入》り、水差を置いて手を拭き、またやって来て、不幸の迫ってるのを感じてるクリストフの狼狽した顔を見ながら、ちょっと微笑を浮かべた。 「庭へまいりましょう、」と彼女は言った、「あちらの方《ほう》が静かですから。」  自分の愛に満ちている庭の中へと、彼はケリッヒ夫人の後《あと》について行《-い》った。彼女は少年の当惑を面白がりながら、なかなか急には話そうとしなかった。 「あすこへすわりましょう。」とついに彼女は言った。  出発の前日ミンナが彼に唇を差出したあの腰掛の上に、二人はすわった。 「なんの話だかあなたにはおわかりでしょうね。」とケリッヒ夫人は言いながら、真面目な様子になって、彼をすっかり惑乱さしてしまった。「私は決してそうだとは信じられませんでした、クリストフさん。私はあなたを真面目な人だと思っていました。あなたをすっかり信用していました。それをよいことにして私の娘を引きくずそうとなさろうとは、考えもしませんでした。娘はあなたの保護のもとにありました。あなたは、娘に敬意をもち、私に敬意をもち、あなた自身にたいしても敬意をもたれるはずだったのです。」  その調子には軽い皮肉が交じっていた──ケリッヒ夫人はその子供たちの愛を少しも重大には考えていなかったのである──しかしクリストフはその皮肉を感じなかった。そして何事をも悲痛に解《-かい》していたように、彼女の非難をも悲痛に解《-かい》して、心を刺された。 「でも奥さん……でも奥さん……(彼は眼に涙を浮かべて口ごもった)……私はあなたの信用につけこんだのではありません。……どうかそんなことは考えないでください。……私は不正直な者ではありません、誓います。……私はミンナさんを愛しています、心から愛しています。ええ、結婚したいんです。」  ケリッヒ夫人は微笑んだ。 「いけませんよ、お気の毒ですが、(彼女は親切らしく言ったが、ついに彼にもわかりかけたほどほんとうは人を馬鹿にしたものだった)そんなことができるものですか。子供の冗談でしょうよ。」 「なぜです? なぜですか?」と彼は尋ねた。  彼は彼女が真面目に言ってるのではないと思い、前よりやさしくなったその声にほとんど安心して、彼女の手をとった。彼女はなお微笑みつづけて言った。 「でもねえ。」  彼はせがんだ。彼女は皮肉な控目で──(彼女はまったく彼の言うことを真面目にはとっていなかった)──彼に財産がないことや、ミンナの趣味が違ってることなどを言った。彼は言い逆らって、それはなんでもないことで、自分は金持ちにも有名にもなろうし、名誉や金《#カネ》や、ミンナの欲するものはなんでも手に入《い》れようと言い張った。ケリッヒ夫人は疑わしい様子を見せた。彼女はその自負《+ウヌボレ》を面白がっていた。そしてただ首を振《-ふ》って打消した。彼はなおも強情を張り通した。 「いいえ、クリストフさん、」と彼女はきっぱりした調子で言った、「いいえ、議論の余地はありません。そんなことができるものですか。ただ財産のことばかりではありません。いろんなことですよ。……身分も……。」  彼女は言ってしまうに及ばなかった。それは彼の骨の髄までさし通す針であった。彼の眼は開《ひら》けた。彼はやさしい微笑の皮肉さを見た。親切な眼付の冷たさを見た。実子のような愛情で自分が慕ってるこの婦人、母親のような態度で自分に接してくれてるらしいこの婦人、それと自分とを隔ててるすべてのものを、にわかに彼は了解した。彼女の愛情のうちにある庇護と軽蔑とのすべてを、彼は感じた。彼は真蒼《+マッサオ》になって立上《立ち上》がった。ケリッヒ夫人はなお愛撫の声で、話しつづけていた。しかしもう万事が終っていた。彼の耳には、彼女の言葉も音楽のようには響かなくなった。その一語一語の下《-した》に、その優雅な魂の無情さが見抜かれた。彼は一言《-ひとこと》も答えることができなかった。彼は立去った。まわりのものが皆《-ミンナ》ぐるぐる回った。  彼は自分の室《部屋》にもどると、寝台の上に身を投げだした。幼かったころのように、憤りと傲慢な反抗心とのあまりに痙攣《/痙攣》を起こした。喚き声を人に聞かれないように、枕に噛みつき、口にハンケチを押し込んだ。彼はケリッヒ夫人を憎んだ。ミンナを憎んだ。猛然として彼女ら二人を蔑んだ。横顔を打たれたような気がした。恥ずかしさと口惜《+くや》しさとに身を震わした。返報をし直接行動をしなければならなかった。復讐ができなければ生命《イノチ》をも投げ出したかった。  彼は起き上《-あ》がって、馬鹿に乱暴な手紙を書いた。 【  奥様】  あなたが自分でおっしゃったように、私を思い違いしていられたかどうか、それは私の知るところでありません。しかし私の知ってることは、私があなたをひどく思い違いしていたということです。私はあなた方《#がた》を自分の味方だと信じていました。あなたは自分でそうおっしゃっていらしたし、またそういう様子をしていらした。そして私は、自分の生命《イノチ》よりもいっそうあなたを愛していました。ところがそんなことは皆嘘であって、私にたいするあなたの愛情は欺瞞にすぎなかったことを、私は今《いま》覚りました。あなたは私を弄んでいらした。私はあなたの慰みになり、あなたの気晴らしになり、音楽をひいてあげましたし──あなたの召使でありました。しかし今は、あなたの召使ではありません。だれの召使でもありません!  私にはあなたの令嬢を愛するの権利がないということを、あなたはきびしく私に覚らしてくださいました。しかし世に何物も、愛する者を愛する私の心を、妨げることはできません。私はあなたと同じ階級には属していないとしましても、あなたと同じく貴族であります。人間を貴《とうと》くするものは心です。私は伯爵ではないにしても、多くの伯爵以上の名誉を、おそらく自分のうちにもっています。従僕にしろ伯爵にしろ、私を侮辱する時には、私はそれを軽蔑します。魂の貴さを具えないなら、たとい貴族だと自称しても、私はそれを泥土《+ドロツチ》のように軽蔑します。  さようなら! あなたは私を見誤りました。あなたは私を欺きました。私はあなたを蔑みます。 あなたの意に反してミンナ嬢を愛し、死ぬまでミンナ嬢を愛する者。──彼女は彼のものであり、何物も彼より彼女を奪うことをえません。  彼はその手紙を郵便箱に投げ込むや否や、すぐに自分のしたことが恐ろしくなった。もうそれを考えまいとした。しかしある文句が記憶に浮かんできた。ケリッヒ夫人がその乱暴きわまる文句を読むことを考えると、冷たい汗が流れた。最初のうちは絶望そのもののために気が張っていた。しかし翌日になると、手紙は自分をまったくミンナから引離してしまうほかには、なんらの結果ももたらさないだろうということを、彼は覚った。それは最大の不幸のように思われた。ケリッヒ夫人は自分の癇癪をよく知っているから、これも真面目にとらないで、ただきびしく叱るだけにしてくれて、そのうえ──ひょっとしたら──自分の熱情の真摯なのにおそらく心を動かしはす《ス》まいか、などと彼はなお希《願》った。ただ一言《-ひとこと》いってさえくれれば、彼女の足下《-あしもと》に身を投げだすつもりだった。彼はその一言《-ひとこと》を五日間待った。やがて手紙が来た。彼女は次のように言ってよこした。 【  親愛なるお方】 【あなたの御意見によれば、私どもの間には誤解がありますそうですから、最も賢い方法は、もちろん、それを長引かせないことであります。あなたにとって苦痛となった御交際《ご交際》を、このうえあなたに求めるのは、私には心苦しく思われます。それですから、このさい御交際《ご交際》を絶つ方《ほう》が、自然なことだと御承知ください。この後《のち》、御希望どおりあなたを評価しうるような友だちに、御不自由《ご不自由》なさらないことを希望いたします。私はあなたの未来を疑いません。そして音楽家としての御進歩《ご進歩》を、かげながら心から注目いたしましょう。敬白】 【ヨゼファ・フォン・ケリッヒ】  最も辛辣な叱責も、これほど残忍ではなかったろう。クリストフはもう手段がないのを覚った。不当な非難には答えることができる、しかしかかる丁寧な無関心さの空虚にたいしては、どうすることができよう? 彼は狂わしくなった。もうミンナには会えないだろう、もう永久《えいきゅう》に会えないだろう、と彼は考えた。そしてそれをたえ忍ぶことができなかった。いかに大《ダイ》なる自尊心も、少しの恋愛に比べては、実にわずかなものであると感じた。彼はあらゆる品位を忘れて卑劣になり、新たに|いく《幾》本も手紙を書いて、宥恕を嘆願した。それらの手紙は、最初の怒った手紙にも劣らず、やはり馬鹿げたものであった。なんの返事も来なかった。──そして万事終った。  彼は危《危う》く死のうとした。身を殺すことを考えた。人を殺すことを考えた。少なくともそう考えてると想像した。燃え上がるような欲望を感じた。時として少年の心を噛みさいなむ愛憎の発作は、いかに激しいか想像以上である。それはクリストフの幼年時代の最も恐ろしい危機であった。この危機のために、彼の幼年時代は終りを告げた。彼の意志は鍛練された。しかしも少しで、彼の意志は永久《えいきゅう》に破壊されるところだった。  彼はもう生きてることができなかった。いく時間も窓にもたれ、中庭の舗石《敷石》を眺めながら、幼いころのように、生《-セイ》の苦しみを|のが《逃》れる道が一つあることを、思い耽っていた。そこに、眼前に、直接に、慰謝があった。……直接に? それをだれが知ろう? おそらく、残虐な苦悶の数時間──数世紀──の後《あと》かもしれない。……しかし彼の幼い絶望はきわめて深いものだったので、彼はそういう考えの眩暈《+めまい》のうちに滑り込んでいった。  ルイザは彼が苦しんでいるのを見た。彼女は彼のうちに何が起こったか正確に察することはできなかったけれども、本能的に危険を覚った。彼女は息子に近づいて、慰めてやるためにその苦しみの種《-たね》を知ろうとした。しかしあわれな彼女は、クリストフと親しく話し合う習慣を失っていた。もう長年の間、彼は自分の考えを心に秘めていた。そして彼女は生活の物質的な心配に没頭しすぎていて、彼の心中《しんちゅう》を推察しようとつとめる暇がなかった。で今《いま》彼を助けてやろうと思っても、どうしていいかわからなかった。思い悩んでただ彼の周囲を彷徨った。彼の慰めとなるような言葉を見出《見い出》そうと願いながら、彼をいらだたせることを恐れて口もきけなかった。そんなに用心しながらも、彼女のあらゆる素振《そぶり》は、そばにいることさえも、彼のいらだちの種《-たね》となった。なぜなら、彼女はあまり気がきいていなかったし、彼はあまり寛大でなかったから。それでも彼は彼女を愛していた、彼らはたがいに愛し合っていた。しかしながら、たがいに愛し慈しんでる人々の間をも遠ざけるには、ごく些細なことで足りる。激しすぎる口のきき方、へまな身ぶり、ただちょっとしかめる眼や鼻、一種の食べ方《-かた》や歩き方《-かた》や笑い方《-かた》、いちいちそれと言えないくらいの肉体的|不快事《不快ジ》……。それはなんでもないことだと考えられている。けれども大したことである。ただそれだけのために往々、ごく親しくしてる母と子とが、兄と弟とが、友と友とが、たがいに永く他人《-タニン》となってしまうことがある。  でクリストフは、自分が通《-とお》っている危機にたいする一《ひとつ》の支持を、母の愛情のうちに見出《見い出》せなかった。そのうえ、他《#ほか》を顧る暇のない利己的な情熱にとっては、他人《-タニン》の情愛がどれだけの価値をもっていよう?  ある夜、家の者は皆眠っていたが、彼は一人室《ひとり部屋》の中にすわって、何《なん》にも考えもせず、身動きもせず、危険な考えの中に膠着していた。その時、ひっそりした小さな街路に足音が響いて、そして戸をたたく音に、彼ははっと我《吾》に返った。はっきりしないささやきの声が聞えた。彼はその晩父がもどっていなかったことを思い出し、往来のまんなかに寝てるところを見つけられた先週のように、やはり酔っ払った父が連れて来られたのだと、腹だたしく考えた。|メルキオル《メルキオる》はもう少しも行ないを慎んでいなかったのである。彼はますます身をもちくずしていた。そして他の者なら死んでしまってるかもしれないほどの放埒と不摂生にも、彼の頑強な健康は害されないらしかった。彼はやたらに大食し、ぶっ倒れるまでに暴飲し、冷たい雨に打たれながらいく晩も外《-そと》で明かし、喧嘩をしては殴り倒され、しかも翌日になると、いつもの調子になって陽気に騒ぎたて、周囲の者も皆自分と同じように快活になることを求めていた。  ルイザはもう起き上《-あ》がっていて、急いで戸を開《-ひら》きに行《-い》った。クリストフは身動きもせず、耳をふさいで、|メルキオル《メルキオる》の泥酔した声や、近所の人たちの嘲笑的な言葉を聞くまいとした……。  突然彼は、言いがたい懸念にとらえられた。恐ろしいことになりそうだった。……とすぐに、悲痛な叫び声がした。彼は頭《-あたま》を上げた。戸口に飛んでいった……。  一群の人々が、角燈《カくとウ》の震える光《-ひかり》に輝らされた薄暗い廊下で、ひそひそ話し合っていたが、そのまんなかに、水の滴ってる身体が、昔祖父の身体のように、じっと担架の上に横たわっていた。ルイザはその首にすがりついてすすり泣いていた。水車小屋の川にはまって溺れてる|メルキオル《メルキオる》が見出《見い出》されたのだった。  クリストフは声をたてた。他の世界はすべて消え失せ、他の心痛はすべて吹き払われてしまった。彼はルイザの横に、父の死体の上に身を投げた。そして二人はいっしょに泣いた。  寝台のそばにすわり、今は厳格荘厳な表情をしてる|メルキオル《メルキオる》の最後の眠りを見守りながら、彼は死者の陰闇《+インアン》な安らかさが心にしみ込むのを感じた。幼い情熱は、あたかも発作の熱のように、消散してしまった。墳墓の冷やかな息吹きが、すべてを吹き去ってしまった。ミンナも、彼の矜《+ほこ》りも、彼の恋愛も、ああ、いかにくだらないものであったか! この現実、唯一の現実、死、それに比べては、すべてはいかにつまらないものであったか! ついにはかくなり果てるのならば、あんなに苦しみ、あんなに欲求し、あんなにいらだったのも、なんの甲斐があったろう。  彼は眠ってる父を眺めた。しみじみと限りない憐れみを感じた。父の親切や情愛の些細な行ないまで思い出した。|メルキオル《メルキオる》は多くの欠点をそなえてはいたが、悪人ではなかった。彼のうちには多くの善良さがあった。彼は家庭の者を愛していた。彼は正直であった。クラフト家《け》通有の一徹な誠実さは、道徳と名誉との問題においてはなんら非難の余地がなかったし、社会の多くの人が罪とも認めないほどのごくわずかな道徳上の汚行《オコウ》をも決して仮借しなかったのであるが、彼もそれを多少そなえていた。彼は勇敢だった。いかなる危険な場合にあっても、一種の楽しみをもって身をさらしていた。彼は自分のために散財してはいたが、また他人《-タニン》のためにも散財していた。人が悲しんでるのをたえることができなかった。途中で出会う貧しい人々にたいしては、自分の物を──また他人《-タニン》の物を──喜んでほどこしていた。それらのあらゆる父の美点が、今《いま》クリストフに見えてきた。彼はそれを誇張して眺めた。父を見誤ってたような心地がした。十分《-じゅうぶん》に父を愛していなかったことを、自らとがめた。生活にうち負かされた父の姿が、眼に映った。流れのままに押し流され、闘うにはあまりに弱く、そして空しく失った生涯を嘆いている、その不幸な魂の声を、彼は耳に聞くような気がした。以前彼の胸をえぐる調子で言われた、あのいたわしい願いの言葉が聞えてきた。 「クリストフ、おれを馬鹿にするなよ!」  そして彼は後悔の念にたえなかった。寝台の上に身を投げて、泣きながら死者の顔にくちづけした。彼は昔のようにくり返し言った。 「私のお父さん、私は馬鹿にしやしません。あなたを愛しています。許してください!」  しかし訴える声は静まらないで、苦しげに言いつづけた。 「おれを馬鹿にするなよ! おれを馬鹿にするなよ!……」  そして突然クリストフは、死者の寝床に横たわってる自分自身を見た。それらの恐ろしい言葉が自分の口から出るのを聞いた。空しく失われた償いがたい生涯の絶望の念が、自分の心に重くのしかかってくるのを感じた。そして彼は駭然《+蓋然》として考えた。「ああ、かくなり果てるよりもむしろ、あらゆる苦悶、あらゆる悲惨の方《ほう》が!」……いかほど彼はそうなり果てようとしたことだろう。卑怯にも苦しみを|のが《逃》れるために、生命《イノチ》を断つの誘惑に危《危う》く従おうとしたではないか。あたかも、あらゆる苦しみ、あらゆる裏切りは、おのれを裏切りおのれの信念を否定し死しておのれを蔑むという最大の苦悶と罪悪とに比べても、なお子供らしい心痛ではないとでも思っていたかのように!  人生は容赦なき不断の争闘であって、一個の人間たる名に恥ずかしからぬ者となることを欲する者は、眼に見えない数多の敵軍、自然の害力や、濁れる欲望や、暗い思考など、すべて人を欺いて卑しくなし滅びさせようとするところのものと、たえず闘わなければならないということを、彼は知った。自分はまさに罠にかかるところであったということを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとの欺瞞であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであるということを、彼は知った。そして、清教徒《ピューリタン》たるこの十五歳の少年は、おのれの神の声を聞いた。 「往け、往け、決して休むことなく。」 「しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか。」 「死すべき汝は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ──一個の人間に。」 【底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店】 【  1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行】 【入力:tatsuki】 【校正:伊藤|時也《トキヤ》】 【2008年1月27日作成】 【2009年2月13日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 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