ジャン・クリストフ JEAN CHRISTOPHE 第三巻 青年 ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)囁《ささや》き |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)女|弟子《でし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「需+頁」、第3水準1-94-6] -------------------------------------------------------      一 オイレル家  家は沈黙のうちに沈んでいた。父の死去以来すべてが死んでるかと思われた。メルキオルの騒々しい声が消えてしまった今では、朝から晩まで聞こえるものはただ、河の退屈な囁《ささや》きばかりであった。  クリストフは執拗《しつよう》に仕事のうちに没頭していた。幸福になろうとしたことをみずから罰しながら、黙然として憤っていた。哀悼の言葉にもやさしい言葉にも返辞をしないで、傲然《ごうぜん》と構え込んでいた。日々の業務に専心し、冷やかな注意で稽古《けいこ》を授けた。彼の不幸を知ってる女|弟子《でし》たちは、彼の平然さに気を悪くした。けれども苦しみを多少経験したことのある年上の人たちは、そういう外見上の冷淡さが、少年においてはいかなる苦悶《くもん》を隠してることがあるかを、よく知っていた。そして彼を憐《あわ》れんだ。しかし彼は彼らの同情をありがたいとも思わなかった。また音楽さえも、彼になんらの慰謝をも与えなかった。別に喜びの情をも感じないで、義務のようにして音楽をひいていた。あたかも彼は、もはや何事にも興味をもたないことに、もしくはそう思い込むことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出してるかのようだった。  二人の弟は、喪中の家の沈黙に慴《おび》えて、急に外へ逃げ出してしまった。ロドルフはテオドル伯父《おじ》の商館にはいって、伯父の家に住んだ。エルンストの方は、二、三の職についてみた後、マインツとケルンとの間を往復してるライン河の船に乗り込んで、金のほしい時ばかりしか顔を見せなかった。それでクリストフは母と二人きりで、広すぎる家に残ることになった。そして収入の道もわずかだったし、父の死後にわかった若干の負債をも払わなければならなかったので、つらくはあったがついに決心して、もっと質素な安い住居を捜そうとした。  二人は小さな住居を見出した――市場通りのある家の三階で、二、三の室があった。そのあたりは騒々しく、町のまん中になっていて、河や樹木や、あらゆる親しい場所から、だいぶ隔っていた。しかし感情よりも理性に従わなければならなかった。そしてクリストフは、苦しみたいという悲痛な欲求を満たすのにいい機会を得た。そのうえ、家主《いえぬし》のオイレル老書記は、祖父の友人で、クリストフ一家の者を知っていた。ルイザは、がらんとした家の中にしょんぼりしていて、自分の愛した人々のことを覚えていてくれる者をたまらなく懐《なつか》しがっていたので、右の一事ですぐそこに住もうと心をきめた。  二人は引越しの仕度《したく》をした。永久に去ろうとする悲しいまた懐しい家庭で過す最後の日々の苦《にが》い憂愁を、彼らはしみじみと味わった。心の悲しみを言いかわすこともほとんどできかねた。それを口に出すことが、恥ずかしかったしまた恐ろしかった。どちらも、心弱さを見せてはいけないと考えていた。雨戸を半ば閉めた侘《わび》しい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのも憚《はばか》り、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。食事が済むとすぐ別々になった。クリストフはまた仕事に出かけていった。しかしちょっとでも隙《ひま》があると、家にもどって来て、ひそかにはいってゆき、自分の室か屋根裏かに、爪先《つまさき》立って上っていった。そして扉《とびら》を閉め、古い鞄《かばん》の上や窓縁の上など、片隅《かたすみ》にすわって、そのままじっと何にも考えないで、少しの足音にも震えるような古い家のそれともない物音に、心を浸すのであった。彼の心もその家のように震えていた。家の内外の空気の流れ、床板の軋《きし》り、聞きなれたかすかな物音、それらを気懸《きがか》りそうに窺《うかが》った。どれにも皆聞き覚えがあった。彼はぼんやり意識を忘れて、頭には過去の面影が立ち乱れていた。サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然《ぼうぜん》としていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。  階下《した》には、ルイザの足音が静かに行ったり来たりしていた。幾時間もその足音の聞えないことがあった。彼女は何の物音もたてなかった。クリストフは耳をそばだてた。大きな災いの後には長く不安が残るが、やはり彼も多少不安な気持で、階下に降りて行った。扉を少し開いてみると、ルイザはこちらに背を向けていた。戸棚《とだな》の前にすわって、まわりに種々な物を取り散らしていた。襤褸《ぼろ》や、古着や、半端な物や、形見の品などで、片付けると言っては取り出してるのだった。彼女には片付ける力も失《う》せていた。ひとつひとつの物が皆何かの思い出の種となった。それをひっくり返しうち眺め、夢想にふけっていた。品物は手から滑《すべ》り落ちることが多かった。彼女はそのまま幾時間もじっとしていて、両腕を垂れ、椅子《いす》の上にぐったりして、悲しい考えにぼんやり我れを忘れていた。  憐れなルイザは、今や過去の最も楽しい日に生きてるのだった――その悲しい過去の。彼女は過去において喜びを得たことはきわめてまれであった。しかし苦しむことにいつも慣れきっていたので、わずかな親切を受けても、それにたいする感謝の念を長く心にもっていたし、生涯《しょうがい》のうちに時たま輝いた仄《ほの》かな光は、彼女の心を輝かすのに十分だった。メルキオルのひどい仕打も皆忘れてしまって、いいこときり覚えてはいなかった。結婚の事柄は、生涯の最も大きな物語となっていた。メルキオルの方は出来心から落ち込んだのであって、すぐに後悔したとはいえ、彼女の方では心を籠《こ》めてのことだった。自分が向うを愛してると同じに、自分も向うから愛せられてると思っていた。そしてメルキオルにたいして、しみじみとした感謝の念をいだいていた。その後メルキオルの心がどうなったかは、了解しようともつとめなかった。彼女はあるがままの現実を見ることができなくて、ただあるがままに現実を堪え忍ぶことだけを知っていた。生活のために生活を理解する必要を持たない謙虚な善良な婦人として。自分で説明のつかない事柄は、神にその説明を任していた。メルキオルやその他の人々から受けるあらゆる不正はすべて、妙な信仰の心から、その責任を神に転嫁さして、自分の受ける善ばかりを彼らには帰していた。それゆえその悲惨な生存も、彼女にはなんら苦《にが》い思い出を残してはいなかった。それらの欠乏と疲労との年月からは、ただ自分の身が磨《す》りへらされた――虚弱な者よ――とばかり感じていた。そしてもうメルキオルがいない今となっては、二人の息子《むすこ》が家庭から逃げ出してしまった今となっては、も一人の息子も彼女の手を離れ得るらしい今となっては、働く勇気をすべて失ってしまっていた。疲れはててぼんやりし、意力も鈍りきっていた。働きづめの人々が、生活の峠を越して、不意の打撃から働く理由をすべて奪われてしまうと、往々神経衰弱の危機に襲われるものであるが、彼女もそういう危機にさしかかっていた。彼女はもはやあらゆる元気を失っていて、編みかけの靴下を仕上げることもできず、かき回した引き出しを片付けることもできず、窓を閉《し》めに立上ることもできないほどだった。じっとすわり込んで、ぼんやりし、がっかりしていた――ただ思い出にふけるばかりで。彼女は自分の衰頽《すいたい》に気づいていた。それを恥じていた。そして息子《むすこ》にそれを隠そうとつとめた。クリストフは利己的に自分の苦しみにばかり没頭して、何にも気づかなかった。もちろん彼は、そのころ母が口をきくにも、ちょっとしたことをするにも、非常にぐずぐずしているのにたいして、ひそかにじれてはいた。しかし、母のいつもの活発な様子がいかに変っていたにせよ、それを気にかけてはいなかった。  がその日、彼は母のところへふいにやって行って、母の様子に初めて驚いた。彼女は襤褸《ぼろ》を床《ゆか》に取り散らし、足下に積み、両手にいっぱい握り、膝《ひざ》の上に広げて、その中にじっとしていた。首をさし出し、頭を前に傾け、硬《こわ》ばった顔をしていた。彼がはいって来る足音を聞いて、ぞっと身を震わした。その白い頬《ほお》に一|抹《まつ》の赤味が上った。本能的な動作で、もってる品物を隠そうとした。そして当惑したような微笑を浮かべてつぶやいた。 「こんなに、片付け物を……。」  過去の遺物のうちにつなぎ止められてるその憐《あわ》れな魂を、彼は痛切に感じた。そして惻隠《そくいん》の情に打たれた。けれども多少とがめるような荒い口調で、ぼんやりしてる彼女を呼びさまそうとした。 「さあ、お母《かあ》さん、こんな閉め切った室の中で、この埃《ほこり》の中にじっとしてちゃいけません。身体に毒です。元気を出して、すぐ片付けてしまわなけりゃいけません。」 「そうだね。」と彼女はおとなしく言った。  彼女は引き出しに品物をしまうため立上ろうとした。しかしすぐに、がっかりしたようにもってた物を取り落として、またすわり込んでしまった。 「ああ、私にゃできない、できない。」と彼女は嘆息した。「いつまでたっても片付けきれないよ。」  彼はびっくりした。彼女の方へ身をかがめて、両手でその額を撫《な》でてやった。 「ねえ、お母さん、どうしたんです!」と彼は言った。「手伝いましょうか。病気ですか。」  彼女は答えなかった。心の中ですすり泣いていた。彼は彼女の両手を取り、その前にひざまずき、室内の薄暗がりの中で彼女の顔をよく見ようとした。 「お母さん!」と彼は心配して言った。  ルイザは彼の肩に額をもたせ、我れを忘れて涙にむせんだ。 「お前、」と彼女は彼に身を寄せながらくり返し言った、「お前……私を見捨てやしないでしょうね。約束しておくれ。私を見捨てやしないでしょうね。」  彼は愛憐《あいれん》の情に胸がいっぱいになった。 「ええ、お母さん、見捨てやしません。どうしてそんなことを考えるんです。」 「私はほんとに不幸なのだよ! 皆《みんな》私を捨ててしまった、皆《みんな》……。」  彼女は周囲の品物を示した。彼女が言ってるのは、品物のことだか、息子《むすこ》たちのことだか、死んだ人たちのことだか、どれともわからなかった。 「お前は私といっしょにいてくれるでしょうね。私を捨てやしないでしょうね。……お前にまで行かれてしまったら、私はどうなるでしょう?」 「私は行きやしません。いっしょに暮しましょう。もう泣いちゃいけません。私は誓います。」  彼女は泣きやむことができずに、なお泣きつづけた。彼は自分のハンケチでその眼を拭《ふ》いてやった。 「どうしたんです、お母さん。苦しいんですか。」 「私にも、どうしたんだか、私にもわからないよ。」  彼女はつとめて落着こうとし、微笑《ほほえ》もうとした。 「いくら考えたって私は駄目《だめ》なんだよ。ちょっとしたことにまた涙が出て来るからね。……そらねえ、また涙が出て来たよ。……堪忍しておくれ。私は馬鹿になってしまった。年を取ってしまった。もう元気がない。もう何にも面白くない。もうなんの役にもたたなくなった。こんな物といっしょに埋めてもらいたいんだよ……。」  彼は彼女を子供のように胸に抱きしめてやった。 「心配してはいけません。気をお休めなさい。もう考えないでください……。」  彼女はしだいに気が和らいできた。 「馬鹿げてるね、私は恥ずかしいよ……。でも、私はどうしたんだろう、どうしたんだろうねえ。」  この働き者の老婆《ろうば》は、どうして自分の力がにわかに折れくじけてしまったか、それを理解することができなかった。そしてただ恥ずかしい思いをした。彼はそれに気づかないふりを装った。 「少しくたびれたんですよ、お母さん。」と彼はつとめて平気な調子で言った。「なんでもないことでしょう。今によくなります……。」  しかし彼も心配になった。幼い時から彼は、あらゆる艱難《かんなん》に黙って堪えてゆく雄々しい忍従的な彼女の姿を、いつも見慣れていた。そして今のその悄沈《しょうちん》したさまが、彼には心配だった。  彼は彼女に手伝って、床《ゆか》の上に散らかってる品物を片付けた。時々彼女は、ある品に心止めてぐずついた。しかし彼はそれを彼女の手から静かに取上げた。彼女はなされるままになっていた。  それ以来彼は、前よりもつとめて母といっしょにいるようにした。仕事を終えると、自分の室に閉じこもらないで、彼女のところへ行った。彼女がいかほど孤独であるかを、また孤独に堪えるほど十分強くないことを、彼は感じていた。彼女をそのまま一人で置くのは危険だった。  夕方には、往来に面した窓を開《あ》けて、そこで彼は彼女のそばにすわった。野の景色《けしき》が次第に見えなくなっていった。人々は家に帰りかけていた。小さな燈火が遠くの家々にともっていた。二人は幾度となくそれらのさまを見たことがあった。しかしもう間もなく、それも見られなくなるのだった。二人は途切れがちの言葉をかわした。前からわかってる知れきった夕の些細《ささい》な出来事を、いつも新しい興味で、たがいに話し合った。長く黙り込んでることもあった。あるいはまたルイザは、頭に浮かんでくる思い出を、きれぎれの話を、なぜともなく持出すこともあった。自分を愛してくれる心がそばにあることを感ずると、彼女の舌は少し解けてきた。つとめて話をしようとした。でもそれはむずかしかった。彼女は家の者からわきに離れてる習慣がついていたのである。自分がいっしょに話をするには、息子《むすこ》たちや夫はあまりに怜悧《れいり》すぎると思っていた。皆の話に口を出しかねていた。それでクリストフの孝心深い親切は、彼女にとっては新しいことで、この上もなくうれしいことだった。しかしまたそれに気おくれがした。容易に言葉が出て来なかった。考えをはっきり言いかねた。文句を途中で言いさして、曖昧《あいまい》のままにした。時とすると、自分で言ってる事柄を恥ずかしがることもあった。息子の顔をながめて話の中途で口をつぐんだ。しかし彼は彼女の手を握りしめてやった。彼女は安心を覚えた。彼はその子供らしいまた母親たる魂にたいして、愛情と憐憫《れんびん》とをしみじみ感じた。幼い時彼はその魂の中に身を縮めていたのであるが、今では向うから彼に支持を求めていた。そして彼以外にはだれにも興味のないその些細《ささい》な無駄話や、常に平凡で喜びもなかったがルイザには限りない価があるように思われた生活の、つまらないそれらの思い出話などに、彼はもの悲しい楽しみを覚えた。また時には、彼女の言葉をさえぎろうとすることもあった。それらの思い出がなおいっそう彼女を悲しませはすまいかと恐れた。そして彼女に寝るように勧めた。彼女は彼の意をさとって、感謝の眼つきで彼に言った。 「いいえ、この方が私には気持がいいんだよ。も少しこうしていましょう。」  二人は夜が更《ふ》けてあたりが寝静まるまで、そのままじっとしていた。それからお寝《やす》みなさいと挨拶《あいさつ》をかわした、彼女は苦しみの荷の一部を肩から降ろしていくらかほっとしながら、そして彼は自分に新しい荷が加わったことを多少悲しく思いながら。  移転の日が迫ってきた。その前日、二人はいつもより長い間、室に燈火もつけずにじっとしていた。たがいに言葉もかわさなかった。時々ルイザは溜息《ためいき》をついた、「ああ、ああ!」クリストフは翌日の引越の種々な細かい事物にばかり注意を向けようとつとめた。彼女は寝ようとしなかった。彼はやさしく彼女を無理に寝さした。しかし彼自身も、自分の室に上っていってから、長く寝床にはいらなかった。窓からのぞき出して、闇《やみ》の中を透しながめ、家の下にある河の真暗《まっくら》な流れを、最後にも一度見ようとした。ミンナの庭に立ち並んだ大木の間に、風の吹き過ぎる音が聞えていた。空は真暗だった。街路には通る人もなかった。冷たい雨が落ち始めていた。風見《かざみ》がきしっていた。隣りの家で子供が泣いていた。夜は重苦しい悲しみで地上にのしかかっていた。時計の時間の単調な音や、三十分と十五分との粗雑な音が、屋根の雨音に点綴《てんてい》されてる陰鬱《いんうつ》な沈黙の中に、相次いで落ちていた。  クリストフが心凍えて、ついに寝ようと思った時、下の窓の閉まる音が聞えた。そして彼は寝床の中で、過去に執着するのは貧しい人々にとっては酷《むご》たらしいことであると考えた。なぜなら、貧しい人々には、富める人々のように過去をもつの権利がないから。彼らは一軒の家をも、おのれの思い出を匿《かくま》うべき一隅の場所をも、もってはいない。彼らの喜び、彼らの苦しみ、彼らの日々はすべて、風のまにまに吹き散らされている。  翌日、二人は激しい雨を冒して、見すぼらしい道具を新しい住居へ運んでいった。老家具商のフィシェルは、荷車と小馬とを貸してくれた。自分でもやって来て手伝ってくれた。しかし二人は道具をすべてもって行くことができなかった。こんどの住居は前のよりはるかに狭かったからである。最も古い最も不用な品々は置いてゆくように、クリストフは母に決心させなければならなかった。それは容易ではなかった。ごくつまらない物も彼女にとっては大事だった。跛足のテーブルも、こわれた椅子《いす》も、何物をも彼女は犠牲にしたくなかった。フィシェルも祖父と古くから親しくしていたので押しがきくところから、クリストフと口をそろえて、小言を言わなければならなかった。そして元来人がよく、また彼女の苦しみがよくわかっていたから、それらの大事なこわれ物の若干は、彼女がまた取りに来ることのできる日まで保管しておいてやると、約束しなければならなかった。すると彼女はようやく、胸が張り裂けるような思いをしながら、それを手離すことに承知した。  二人の弟には、前もって引越のことを知らしておいた。しかしエルンストは前日、来られないと言いに来た。ロドルフは午《ひる》ごろちょっと姿を見せただけだった。道具が馬車に積まれるのをながめ、少しばかり世話をやいて、忙しそうに帰って行った。  一同は泥濘《ねかるみ》の街路を進みだした。ねちねちした舗石の上にすべりがちな馬を、クリストフは手綱でとらえていた。ルイザは息子《むすこ》と並んで歩きながら、彼を雨にあてまいとした。その次には、湿っぽい部屋《へや》の中に身を落ちつける侘《わ》びしい仕事があった。低い空の蒼白《あおじろ》い反映のために、部屋はいっそう陰鬱になっていた。家主一家の者が種々注意してくれなかったら、二人は重くのしかかってくる落胆の情に抵抗することができなかったろう。馬車は帰ってしまい、道具は室の中にごたごた積み重ねてあり、夜になりかかってはいるしするので、クリストフとルイザとは、一人は箱の上に、一人は袋の上に、疲れはててがっかりして腰を降ろしていたが、その時階段に、小さな空咳《からせき》が聞こえた。扉《とびら》をたたく音がした。オイレル老人がはいって来た。親愛なる借家人たちの邪魔をするのをていねいに詫《わ》びて、それから、よくやって来てくれたその最初の晩を祝うために、家の者といっしょに親しく晩餐《ばんさん》を共にしてほしいと言い添えた。ルイザは悲しみに沈んでいて、断りたいと思った。クリストフもまた、その内輪の会合にあまり気が進まなかった。しかし老人はたって勧めた。でクリストフは、新しい家の最初の晩を悲しい考えにふけってばかり過ごすのは、母にとってよくないと考えて、彼女に無理に承諾さした。  二人は階下《した》に降りて行った。そこには一家の者が皆集まっていた。老人、その娘、婿のフォーゲル、クリストフより少し年下の男女の二人の孫。皆彼らを取り巻いて、よく来てくれたと言い、疲れてやしないかと尋ね、部屋《へや》は気に入ったか、用はないか、などと種々なことを尋ねた。そして皆が一度に口をきくので、クリストフはまごついてしまって、何が何やらわからなかった。もうスープが出ていた。彼らは食卓についた。しかし騒々しい話はなおつづいた。オイレルの娘のアマリアは、その近所の特別な事柄、町内の地形、自分の家の習慣や特徴、牛乳屋が通る時刻、彼女が起き上る時刻、種々な用達人や支払いの値段、などをすぐルイザに知らせ始めた。すっかり説明しつくしてしまわないうちは、彼女を許さなかった。ルイザはうとうとしながら、それらの説明に気を向けてるふうを示そうとつとめた。しかし彼女がしいて口に出す言葉は、何にも了解していないことを示すものばかりで、そのためアマリアは苛立《いらだ》った声をたてて、なおいっそうくどくどとしゃべってきかした。老書記のオイレルは、音楽家生活の困難なことをクリストフに説明していた。アマリアの娘のローザは、クリストフの一方に並んですわっていたが、食事の初めからのべつに、息をつく隙《ひま》もないほどべらべらしゃべっていた。文句の途中で息を切らしながら、すぐにまたしゃべりだした。フォーゲルは陰気な顔をして、食物の不平を言っていた。そしてこの問題が、激しい議論の種となった。アマリアもオイレルも娘も、話をやめてその議論に加わった。シチューの中に塩が多すぎるか足りないかということについて、はてしない争論がもち上った。皆たがいに尋ね合ったが、同じ意見は一つもなかった。各自に隣りの者の味覚を軽蔑《けいべつ》して、自分の味覚だけが正当で健全であると思っていた。「最後の審判」の日までもその議論はつづくかと思われた。  しかしついに、天気の悪さをいっしょに嘆くことに、皆折合いがついた。彼らはルイザとクリストフとの苦しみを親切に気の毒がってくれ、クリストフが感動したほどやさしい言葉で、二人の勇気ある行いを誉《ほ》めてくれた。ただにその借家人たちの不幸ばかりではなく、自分たちの不幸や、友人やすべての知人らの不幸をも、満足げにもち出した。そして善人は常に不幸で利己主義者や不正直な者らにしか喜びはないものだということに、彼らの意見は一致した。その結論としては、生活は悲しいものだということ、生活はなんの役にもたたないということ、苦しむために生きるよりも、もとより神の思召には適《かな》わないが、死んだ方がずっとましであるということ、などであった。そういう考えは、クリストフの現在の悲観説に近いものだったので、彼はその家主たちにいっそう敬意をいだいて、その些細《ささい》な欠点には眼をつぶってやった。  彼と母とは、散らかった室にまた上ってゆくと、悲しいがっかりした気持を覚えたが、しかし前ほど孤独な気はしなかった。そしてクリストフは、疲労と町内の騒々しさとに眠られないで、夜のうちに眼を開きながら、壁を震わす重い馬車の響きや、下の階に眠ってる一家の者の寝息などを聞きつつ、一方では、自分と同じように苦しんでいて、自分を理解しているらしく、また自分も向うを理解できるように思われる、それらの善良な――実を言えば多少煩わしい――人々の間にあって、幸福ではないまでも、前ほど不幸ではないだろうと、しいて思い込もうとした。  しかし彼は、ついにうとうとしたかと思うと、夜明けごろから不快にも眼をさまさせられた。議論を始めた隣りの人たちの声が響いたし、中庭や階段をやたらに水を注いで洗うために、猛烈に動かされているポンプのきしる音が、響いたからであった。  ユスツス・オイレルは、背のかがんだ小さな老人で、落着きのない陰気な眼をし、皺《しわ》寄ったでこぼこの赤ら顔で、頤《あご》は歯がぬけ、手入れの届かない髯《ひげ》を絶えず手でしごいていた。ごく善人で、かなり廉直で、きわめて道徳家だったので、クリストフの祖父とはよく気が合っていた。祖父に似てるとさえ言われていた。実際、彼は祖父と同時代に属すべき人で、同じ主義のもとに育てられた人だった。しかし彼には、ジャン・ミシェルのような強い肉体的活力が欠けていた。すなわち、多くの点において彼と同じような考えをいだきながら、根本においてはほとんど彼に似寄っていなかった。なぜなら、人間を作るところのものは、思想よりもむしろ体質の方が重《おも》であるから。理知によって人間の間には、いかなる人為的なあるいは実際的な区別がたてられようとも、人類の最も大なる区別は、健康な人とそうでない人とである。オイレル老人はその前者には属しなかった。彼は祖父のように道徳を説いていた。しかし彼の道徳は、祖父の道徳とは同じものではなかった。彼の道徳は、祖父のような強健な胃と肺と快活さとをそなえていなかった。彼のうちにある、また彼の家族のうちにあるすべては、もっと貧弱狭小な設計の上に立てられていた。四十年間役人をし、今では隠退していた彼は、閑散の非哀を苦しんでいた。晩年のために内部生活の源泉をたいせつにしなかった老人らにとっては、この無為閑散ということが非常に重苦しくなるものである。先天的あるいは後天的なあらゆる習慣は、職業柄のあらゆる習慣は、オイレル老人にある小心さと悲しみとを与えていた。そしてそれはまた、おのおのの子供のうちにも幾分か存していた。  婿のフォーゲルは、司法局の役人で、五十歳ばかりだった。背が高く、強壮で、頭がすっかり禿《は》げ、金縁眼鏡で顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》をはさみつけ、かなりの容貌《ようぼう》だった。彼はみずから病気だと思っていた。そして実際、みずから思ってるような病気は明かに一つももってはいなかったが、つまらない職務のために精神はとがり、坐居《ざきょ》生活のために身体はやや衰退して、病気には違いなかった。もとよりごく勤勉で、価値のない男でもなく、多少の教養をもそなえてはいたが、不条理な近代生活の犠牲者であって、役所の椅子《いす》に縛りつけられた多くの役人と同じく、憂鬱病《ヒポコンデリー》の悪魔に苦しめられていた。ゲーテが、自分では注意してよく避けながらも、それを憐《あわ》れんで、「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者[#「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者」に傍点]」と呼んでいた、あの不幸な人間の一人であった。  アマリアはどちらとも異っていた。強健で、騒々しく、活発で、夫の愚痴をきいても少しも気の毒と思わなかった。夫を荒々しく励ましていた。しかし常にいっしょに住んでいると、いかなる力もくじけるものである。一つの家庭において、二人のいずれかが神経衰弱だと、数年後には、二人とも神経衰弱になってることがしばしばである。アマリアはフォーゲルに強い言葉をかけはしたが、すぐその後では、彼よりもなおひどくみずから嘆くようになった。荒々しい素振りから悲嘆へと急激に移っていって、少しも夫のためにはならなかった。些細《ささい》なことにも騒々しく騒ぎたてながら、かえって彼の病を募らした。そしてついには、わずかな愚痴にもそういう大|袈裟《げさ》な反響を返されるのにおびえきってる不幸なフォーゲルを、すっかり圧倒してしまったばかりでなく、また自分自身をも圧倒してしまった。こんどは自分から、自分の丈夫な健康状態や、父や娘や息子の丈夫な健康状態などについて、理由もないのに嘆くようになった。それが一種の病癖となった。そして何度も口に上せるために、しまいにはそれをほんとうと思い込んだ。ちょっとした風邪《かぜ》をも大袈裟に考えた。すべてが不安の種となった。丈夫に暮してると、後《あと》で病気になりはすまいかと考えて気をもんだ。そういうふうにして、生活は絶えざる杞憂《きゆう》のうちに過ぎていった。けれども、そのためにだれも加減が悪くなる者はなかった。その絶え間もない嘆きの習慣が、皆の健康を維持するのに役だってるがようだった。だれも皆平素のとおり、食い眠り働いていた。一家の生活はそのために弛緩《しかん》してはいなかった。アマリアの活動的な性質は、朝から晩まで、家の上から下まで、始終動き回っても満足しなかった。まわりの者まで皆精を出さなければ承知しなかった。そして家具を動かしたり、敷石を洗ったり、床石をみがいたりして、声や足音が立ち乱れ、たえず忙しく騒々しかった。  二人の子供は、だれにも安閑としてることを許さないその騒ぎ好きな権力のもとに圧伏されて、それに服従するのが自然だと思ってるらしかった。男の子のレオンハルトは、なんとなくきれいな顔つきで、几帳面《きちょうめん》な様子をしていた。少女のローザは、金髪で、青い静かなやさしいかなり美しい眼をもっていて、こまやかな顔色の鮮《あざや》かさと気質《きだて》のよさそうな様子とのために、かわいらしく見えるはずだったが、ただ、鼻が少しいかつくて据《すわ》りぐあいが悪く、顔つきに重苦しい感じを与え、彼女を馬鹿《ばか》者らしく見せていた。バールの美術館にあるホルバインの描いた若い娘――マイエル町長の娘――すわって、眼を伏せ、膝《ひざ》に両手を置き、蒼白い髪を解いて両肩に垂れて、無格好な鼻を当惑してるような様子でいる、あの娘を、ローザは思い起こさせるのであった。しかし彼女は、自分の鼻をほとんど気にしていなかった。それくらいのことは、彼女の倦《う》むことのない饒舌《じょうぜつ》を少しも妨げなかった。種々なことをしゃべりたてるその鋭い声――すっかり言ってしまう隙《ひま》がないかのようにいつも息を切らして、いつも興奮して熱中しきってる声が、たえず聞こえていた。母や父や祖父から、腹だちまぎれの怒鳴り声を浴びせられても、なお彼女はやめなかった。それにまた彼らが腹だつのも、彼女がいつもしゃべってばかりいるからというよりむしろ、自分らに口をきく隙を与えないからであった。それらの善良で誠実で親切な――正直な人間の精髄ともいうべき――りっぱな人々は、ほとんどすべての美徳をもってはいたが、しかし人生の美趣をなすところの一つの美徳が、彼らには欠けていた、すなわち寡黙の美徳が。  クリストフは隠忍な気分になっていた。彼の我慢のない怒りっぽい気質は、苦悶《くもん》のために和らげられていた。彼はみやびな魂の残忍な冷酷さを経験したので、優美な点もなくひどく退屈な者ではあるが、しかし人生について厳粛な観念をいだいている善良な人々の価値を、いっそうよく感ずるようになっていた。彼らは喜びもなく生活しているので、弱点のない生活をしているように彼には思われた。彼はそういう人々をりっぱな人だときめていたし、自分の気に入るに違いないときめていたので、ドイツ人の気質として、彼らが実際自分の気に入ってるのだと思い込もうとつとめた。しかしそれはうまくゆかなかった。注目するのが不愉快なようなものは、自分の判断の適宜な安静と自分の生活の愉悦とを乱されるのを恐れて、いっさい見ることを欲せずまた見もしないという、ゲルマン風な阿諛《あゆ》的理想主義が、彼には欠けていた。彼は他人を愛する時、なんらの制限もなくすっかり愛しきろうとしたので、かえって最もよく相手の欠点を感ずるのであった。それは一種の無意識的な公明さであり、やむにやまれぬ真実の欲求であって、そのために彼は、最も親愛なる人にたいして、ますます洞察《どうさつ》的になりますます気むずかしくなるのだった。かくて彼は家主一家の人々の欠点にたいして、ひそかな憤懣《ふんまん》をやがて感ずるにいたった。彼らの方では、少しも自分の欠点を隠そうとはしなかった。厭《いや》なところをすっかりさらけ出していた。そして最もよいところは彼らの内部に隠れていた。クリストフも実際そう考えて、そして自分の不正をみずからとがめながら、最初の印象を脱し去ろうと試み、彼らが大事に隠している長所を見出してやろうと試みた。  彼はユスツス・オイレル老人と話をすることにつとめた。老人も話が好きだった。彼は祖父がこの老人を愛して激賞していたことを覚えてるので、老人にたいしてひそかな同情を感じていた。好人物のジャン・ミシェルは、クリストフよりもなおいっそう、友人の上に幻を築き上げる幸福な能力をもっていたのである。クリストフもそのことに気づいていた。彼は祖父にたいするオイレルの思い出を知ろうとつとめたが無駄であった。彼がオイレルから引き出し得るものは、ジャン・ミシェルのかなりおかしな色|褪《あ》せた面影と、なんの面白みもない断片的な会話の文句ばかりだった。オイレルの話はいつもきまってこういう言葉で始められた。 「あの気の毒なお前のお祖父《じい》さんに私がいつも言ってたとおり……。」  オイレルは自分で言ったことより以外には、何にも耳に止めていなかった。  恐らくジャン・ミシェルの方でも、同じような聴《き》き方をしていたであろう。多くの友誼《ゆうぎ》は、他人相手に自分のことを語るための、相互|阿諛《あゆ》の結合にすぎない。しかし少なくともジャン・ミシェルは、冗弁の楽しみにあれほど無邪気にふけってはいたが、やたらに注ぎかける同情心をももっていた。彼は何にでも興味をもった。新時代の驚くべき発明を目撃したり、その思想に関係したりするために、もう十五年とは生き延びられないことを残念がっていた。彼は生活の最も大切な長所をそなえていた、すなわち、長い年月にも少しも衰えないで毎朝また蘇《よみがえ》ってくる新鮮な好奇心を。ただその天性を利用するだけの十分な才能をもっていなかった。しかしそういう天性を彼はうらやむに相違ないような才人が、世にはいかに多いことだろう! 多くの人は、二十歳か三十歳で死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映にすぎなくなる。彼らの残りの生涯《しょうがい》は、自己|真似《まね》をすることのうちに過ぎてゆき、昔生存[#「生存」に傍点]していたころに言い為《な》し考えあるいは愛したところのことを、日ごとにますます機械的な渋滞的なやり方でくり返してゆくことのうちに、流れ去ってゆくのである。  オイレル老人が生存[#「生存」に傍点]したのはずっと以前のことであったし、またきわめてわずかしか生存[#「生存」に傍点]しなかったので、貧弱なものしか残ってはいなかった。彼は昔の職業と家庭生活とに関すること以外には、何にも知らなかったし、また知ろうともしなかった。あらゆることについて、青年時代から変らない既成観念をいだいていた。彼は芸術に通じてると自称していた。しかしある定評のある名前を知ってるだけで満足し、それについていつも誇張したきまり文句をくり返していた。その他は皆つまらない無きに等しいものばかりだった。近代の芸術家のことを言われると、耳を貸しもしないで他のことを話した。彼は音楽が大好きであるとみずから言い、クリストフに演奏を頼んだ。しかしクリストフが、一、二度その願いをいれてひき始めると、老人は娘を相手に声高く話し出した。あたかも音楽は、音楽以外のものにたいする彼の興味を募らしてるがようだった。クリストフは嚇《かっ》として、曲の半ばで立ち上った。だれもそれを気にかけなかった。ただある古い曲調――三、四の――あるものはきわめて麗わしく、あるものはきわめて醜劣であったが、いずれも皆等しく定評のある曲調、それだけがとくに、比較的沈黙を受け、絶対に喝采《かっさい》を受けた。初めの音律からもう老人は、恍惚《こうこつ》となり、眼に涙を浮かべた。それは現在味わってる愉悦よりもむしろ、昔味わった愉悦のためであった。それらの曲調のあるもの、たとえばベートーヴェンのアデライド[#「アデライド」に傍点]のごときは、クリストフにとっても親愛なものではあったが、彼はついにそれらを忌みきらうようになった。老人はよくそれらの最初の小節を低吟して、「これこそ音楽だ」と断言し、「旋律《メロディー》のない近代の安音楽」との軽蔑《けいべつ》的な比較をもち出した。――まさしく彼は音楽を少しも知ってはいなかった。  婿の方はも少し教養があって、芸術界の気運にも通じていた。しかしそれだけにかえって悪かった。なぜなら、自分の判断にいつも誹謗《ひぼう》的精神を加えていたから。それでも趣味や知力が欠けてるのではなかった。ただ近代のものを賞賛する決心がつかなかったのである。もしモーツァルトやベートーヴェンが彼と同時代の人であったら、やはり彼らをも非難したろうし、もしワグナーやリヒアルト・シュトラウスが彼より一世紀も前に死んでいたら、彼らの価値を認めたことであろう。彼の憂鬱《ゆううつ》な性質は、現在自分の生存中に生きてる偉人があるということを、受けいれ得なかった。そう考えることは不愉快だった。彼は自分の失敗の生涯のために非常に気むずかしくなっていたので、生涯はだれにとっても失敗なものであるし、失敗であらざるを得ないものであって、その反対を信ずる者は、もしくは反対だと主張する者は、馬鹿か道化か、二つのうちの一つだということを、執拗《しつよう》に思い込んでいた。  それで彼は、名高い新人らのことを、苦々《にがにが》しい皮肉な調子でしか話さなかった。そして彼は愚鈍ではなかったので、新人らの弱い滑稽《こっけい》な一面を、一目で見てとることができた。新しい名前を聞くたびに、彼は軽悔の色を浮べた。その人について何にも知らない前からその人を非難しようとしていた――なぜなら知らない人であるから。クリストフに対していくらか同情をもっていたのも、この人間ぎらいな少年が彼と同様に人生はいけないものだと考えてると思ったからであるし、そのうえこの少年に天才がないと思ってたからである。くよくよしてる不平満々たる小人の魂を最もよく相近づけるものは、おたがいの無力を認むることである。それからまた、健全な人々に健康の趣味を最もよく与えるものは、自分が幸福でないから他人の幸福を否定しようとする凡庸《ぼんよう》人や病人の愚かな悲観主義に接することである。クリストフはそれを経験した。それらの陰気な悲観思想は元来彼には親しいものだった。しかし彼が驚いたのは、それをフォーゲルの口から聞くことであり、また自分がもはやそれに染んでいないことだった。それらの思想は彼に反対なものとなっていた。彼はそれらの思想に気色を損じた。  彼はアマリアの挙措にはなおいっそう反感をいだいた。その善良な婦人は要するに、クリストフの理論を義務に適用してるばかりだった。彼女は何事についても義務という言葉を口にした。彼女は絶え間なく働いていて、他人にも同じように働いてもらいたがっていた。そういう勤勉の目的は、他人および彼女自身をいっそう幸福ならしむるということではなかった。否むしろ反対だった。その主要な目的は、皆の迷惑となることであり、生活を神聖化するために生活をできるだけ不愉快になすことである、とも言えるほどだった。多くの婦人にあっては他のあらゆる道徳的社会的義務ともなり得る、家庭的の聖《きよ》い務めを、その神聖なる掟《おきて》を、一瞬間たりとも彼女を止めさせ得るものは何もなかった。同じ日に、同じ時間に、床板をみがき、敷石を洗い、扉《とびら》のボタンを光らせ、力いっぱいに敷物をたたき、椅子《いす》やテーブルや戸棚《とだな》を動かすことを、もしなさなかったら、取り返しのつかないことになったと彼女は思うかもしれなかった。彼女はそういう働きを誇りとしていた。あたかもそれが名誉にでも関することのようだった。けれどもいったい、多くの婦人が自分の名誉ということを考えたり護《まも》ったりするのは、これと同じような形式でやってるのではあるまいか。彼女らの名誉というものは、いつも光らしておかなければならない家具みたいなもので、よくみがき込んだ冷たい堅い――そしてすべりやすい床板なのである。  自分の職責を尽してしまっても、フォーゲル夫人はさらに愛想よくなりはしなかった。彼女は神から課せられた義務ででもあるように、家庭内のつまらない事柄に熱中していた。自分と同様に働かず、休息をして、仕事の間に生活を多少楽しむ婦人を、彼女は軽蔑《けいべつ》していた。そして、仕事をしながら時々腰をおろして夢想するルイザを、その室の中にまで追っかけてきた。ルイザは溜息《ためいき》をもらしたが、しかしきまり悪そうな笑顔をして服従した。幸いにもクリストフはそのことを少しも知らなかった。アマリアはクリストフが出かけるのを待って、彼らの部屋へ闖入《ちんにゅう》してくるのだった。今まで彼女は、直接に彼を攻撃しはしなかった。そうされたら彼は我慢できなかったろう。彼は彼女にたいして内に敵意を潜めてるような状態にある自分を感じた。彼が最も許しがたく思ったことは、彼女の騒々しいことだった。彼はそれに困りきった。自分の室――中庭に面した天井の低い小さな室――に閉じこもり、空気の流通が悪いにもかかわらず窓を密閉して、家の中の騒動を聞くまいとしたが、どうしてもそれから耳をふさぐことができなかった。知らず知らずに、苛立《いらだ》った注意をもって、下のわずかな物音にも聞き耳をたてていた。そして、ちょっと静かになった後、恐ろしい人声が壁や床を貫いてふたたび高まってくる時、彼は激怒に駆られた。怒鳴りつけ、足を踏みならし、壁越しに彼女をさんざんののしった。しかし皆騒ぎ回ってるので、それに気づきもしなかった。彼は作曲してるのだと思われていた。が彼はフォーゲル夫人を罵倒《ばとう》しぬいていた。尊意も敬意も消し飛んだ。そういう時彼には、最もふしだらな女でもただ黙ってさえいてくれるならば、いかに正直で美徳があろうとあまりに騒ぎたてる女よりも、はるかにましだと思われるのであった。  喧騒《けんそう》にたいするそういう憎悪は、彼をレオンハルトに近づかせた。この少年だけがただ一人、家じゅうの混雑の中にあって、いつもじっと落着いていて、場合によって声を高めるようなことがなかった。言葉を選んで、少しも急がず、控え目な正しい口のきき方をしていた。性急なアマリアには、彼が言い終えるのを待つだけの忍耐がなかった。皆の者が、彼の悠長《ゆうちょう》さに怒鳴り声をたてた。それでも彼は平気だった。どんなことがあろうと、彼の平静さと敬意のこもった謙譲さとは変化しなかった。クリストフはレオンハルトが宗教生活にはいるつもりだと聞いていた。そのために彼の好奇心はひどく動かされていた。  クリストフは当時、宗教にたいしては、かなり門外漢の状態にあった。彼は自分でもどういう心持にあるか知らなかった。それを真面目《まじめ》に考えるだけの隙《ひま》がなかった。彼は十分の教養がなく、かつ困難な生活にあまり頭を奪われていたので、自分の心を分析してみることができず、思想を整理することができなかった。そして激しい性質だったので、自分の心に一致しようがしまいがそんなことはいっこう平気で、極端から極端へと移りゆき、全的信仰から絶対的否定へと移り変った。幸福な時には、ほとんど神のことは考えなかった、しかしかなり神を信ずる気持になっていた。不幸な時には、神のことを考えた、しかしほとんど神を信じていなかった。神が不幸や不正を許すとは、あり得べからざることのように考えられた。それに元来彼は、そういうむずかしい事柄をあまり念頭においていなかった。根本においては、彼はひどく宗教的だったから、神のことを多く考えなかった。彼は神のうちに生きていた。神を信ずる必要がなかった。神を信ずるのは、弱い者や衰えた者など、貧血的な生活者にとってはよいことである。植物が太陽にあこがれるように、彼らは神にあこがれる。瀕死《ひんし》の者は生命にとりすがる。しかし、自分のうちに太陽と生命とを有する者は、なんで自分以外のところにそれらを求めに行く要があろう?  クリストフはもしただ一人で生きていたら、おそらくそれらの問題に頭を向けることがなかったであろう。しかし社会的生活の義理として、彼はそれらの幼稚な閑問題に考慮を向けざるを得なかった。社会においては、それらの問題は不均衡なほど大きな地位を占めていて、人は歩々にそれにぶっつかり、いずれか心を定めなければならないのである。力と愛とにあふれてる健全な豊饒《ほうじょう》な魂にとっても、神が存在するか否かを懸念《けねん》することより、もっと緊急な沢山《たくさん》の仕事があたかもないかのようである。……神を信ずることだけが唯一の問題であるならばまだ分る。とはいえ、ある大きさのある形のある色のそしてある種類の、何か一つの[#「何か一つの」に傍点]神を信じなければいけない。このことについても、クリストフは考えてはいなかった。彼の思想の中では、キリストもほとんどなんらの地位をも占めていなかった。それは、彼がキリストを少しも愛していないからではなかった。キリストのことを考えたらそれを愛したに違いなかった。しかし彼はキリストのことを考えたことがなかった。時にはそれをみずからとがめ、心苦しく思った。どうしてキリストにもっと興味を見出せないのか、自分でも分らなかった。それでも彼は教義を実行していた。家の者は皆教義を実行していた。祖父はよく聖書《バイブル》を読んでいた。クリストフ自身も几帳面《きちょうめん》にミサに出かけていた。彼はオルガン手だったからいくらかミサに手伝ってもいた。そして模範的な良心をもってその役目に勉励していた。しかし彼は教会堂から出ると、その間何を考えていたかはっきり言い得なかったであろう。彼は自分の思想を定めるために経典を読み始めた。そしてその中に面白みを見出し、愉快をさえも見出した。しかしそれは、だれも神聖な書物とは言いそうもないような、本質的には他の書物と少しも異るところのないある面白い珍しい書物の中から、くみとって来るのに似ていた。ほんとうを言えば、彼はキリストにたいして同感をもっていたとするも、ベートーヴェンにたいしてはさらに多く同感をもっていた。サン・フロリアン会堂の大オルガンについて、日曜の祭式の伴奏をやっている時、彼はミサによりもむしろ大オルガンの方に多く気をとられていたし、聖歌隊がメンデルスゾーンを奏してる時よりもバッハを奏してる時の方が、はるかに宗教的気分になっていた。ある種の式典は彼に激しい信仰心を起こさした。しかしその時、彼が愛していたのは神であったろうか、あるいは、不注意な一牧師がある日彼に言ったように、ただ音楽ばかりであったろうか? この牧師の冗談は彼を困惑せしめたが、牧師自身はそれを夢にも知らなかったのである。他の者だったら、そんな冗談には気も止めず、そのために生活態度を変えようとはしなかったろう――(自分が何を考えてるか知らないで平然としてるような者が、世にはいかに多いことだろう!)――しかしクリストフは、厄介にも真摯《しんし》を欲していたく悩んでいた。そのため彼はあらゆることにたいして慎重になっていた。一度慎重になれば、常にそうならざるを得なかった。彼は苦しんだ。自分が二心をもって動いてるように思われた。いったい信じているのか、もしくは信じていないのか?……この問題を一人で解決するには、彼は実際的にもまた精神的にも――(知識と隙《ひま》とを要するので)――その方法をもたなかった。それでも問題は解決せなければならなかった。さもなくば彼は局外者となるかもしくは偽善者となるかの外はなかった。しかも彼は両者のいずれにもなることはできなかった。  彼は周囲の人々をおずおず観察してみた。だれも皆各自に確信あるらしい様子をしていた。クリストフは彼らのその理由を知りたくてたまらなかった。しかし駄目《だめ》だった。だれも彼に明確な答えを与えてくれなかった。いつも顧みて他のことをばかり論じた。ある者は彼を傲慢《ごうまん》だとし、そういうことは論ずべきものではなく、彼よりも賢いすぐれた多くの人々が議論なしに信仰しているし、彼はただそういう人々と同じようにすればよいと言った。または、そういう問いをかけられることは、あたかも自分自身が侮辱されることででもあるかのように、気色を損じた様子をする者もあった。けれどもこういう人たちは、自分の事柄にたいして最も確信をいだいてる者では恐らくなかったろう。またある者らは、肩をそびやかして微笑《ほほえ》みながら言った、「なあに、信仰は別に害になるもんじゃない。」そして彼らの微笑は言った、「そしていかにも便利だよ!……」そういう者どもをクリストフは心から軽蔑《けいべつ》した。  彼は自分の不安を牧師に打ち明けようとしたことがあった。しかしそのためにかえって勇気がくじけてしまった。彼は真面目《まじめ》に牧師と議論することができなかった。向うはいかにも愛想がよかったけれども、クリストフと彼との間には実際的に平等さがないことを、ていねいに感じさしてくれた。彼の優越は論ずるまでもなく分りきったことで、一種の無作法さをもってしなければ彼が押しつけた範囲から議論は出ることができないと、前もって定まっているかのようだった。敵の竹刀《しない》を交《か》わすだけの稽古《けいこ》試合だった。クリストフが思い切って範囲を踏み越え、一廉《ひとかど》の男にとっては答えるのも面白くないような質問をかけると、彼はただ庇護《ひご》するような微笑を見せ、ラテン語の句をもち出し、神様が解き明かしてくださるように祈りに祈れと、父親めいたとがめ方をした。――クリストフは、そのていねいな優越の調子に屈辱と不快とを感じながら、話をやめてしまった。当不当にかかわらず、いかなることがあろうと、ふたたび牧師なんかの助けを借るまいと思った。理知と聖職者の肩書とによって自分より向うがすぐれてることは、彼もよく是認していた。しかし一度議論する場合には、もはや優越も低劣も肩書も年齢も名前もないはずである。ただ真理だけが肝心であって、真理の前には万人が平等である。  それで彼は、信仰してる同年配の少年を見出してうれしかった。彼自身も信じたいとばかり思っていた。そしてレオンハルトからそのりっぱな理由を与えてもらいたいと希《こいねが》った。彼の方から話をしかけた。レオンハルトはいつもの静かな調子で答えて、別に熱心さを示さなかった。彼は何事にも熱心さを見せなかったのである。家の中では絶えずアマリアか老人かに邪魔されてまとまった話ができないので、クリストフは夕方食後に散歩をしようと申し出した。レオンハルトは礼儀深いので断りかねた。しかし気は進まなかった。なぜなら、彼の怠惰な性質は、歩行や、会話や、すべて努力を要するようなことを、恐れていたからである。  クリストフは話を始めるのに困った。なんでもない事柄についてへまな二、三句を発した後、彼は少し乱暴なほど突然に、心にかかっていた問題に飛込んでいった。ほんとうに牧師になる気か、牧師になるのはうれしいのか、とレオンハルトに尋ねた。レオンハルトはまごついて、彼に不安そうな眼つきを向けた。しかし彼になんらの敵意もないことを見てとると、安心した。 「そうです。」と彼は答えた。「そうでなくてどうしてなれましょう!」 「ああ、」とクリストフは言った、「君はほんとに幸福だね!」  レオンハルトはクリストフの声のうちに、羨望《せんぼう》の気味がこもってるのを感じた。そして心地よくおだてられた。彼はすぐに態度を変え、胸衿《きょうきん》を開き、その顔は輝いた。 「そうです、」と彼は言った、「僕は幸福です。」  彼は晴れやかになっていた。 「どうしてそんなふうになったんだい?」とクリストフは尋ねた。  レオンハルトは答える前に、サン・マルタン修道院の歩廊の静かな腰掛に、腰をおろそうと言い出した。そこからは、アカシアの植わった小さな広場の一|隅《ぐう》が見え、なお向うには夕靄《ゆうもや》に浸った野が見えていた。ライン河は丘の麓《ふもと》を流れていた。荒れ果てた古い墓地が、墓石は皆雑草の波に覆《おお》われて、閉《し》め切った鉄門の後ろに彼らのそばに眠っていた。  レオンハルトは語りだした。人生をのがれることは、永久の避難所たるべき隠れ家を見出すことは、いかに楽しいことであるかを、満足の色に眼を輝かしながら説いた。クリストフはまだ最近の心の傷が生々しくて、この休息と忘却との欲望を激しく感じていた。しかしそれには愛惜の念も交っていた。彼は溜息《ためいき》をついて尋ねた。 「それでも、まったく人生を見捨ててしまうことを、君はなんとも思わないのかい?」 「おう、何が惜しいことがあるもんですか。」と相手は静かに言った。「人生は悲しい醜いものではありませんか。」 「美しいものもまたあるよ。」とクリストフは麗わしい夕暮をながめながら言った。 「美しいものもいくらかありはしますが、それは非常に少ないんです。」 「非常に少ないったって、僕にはそれで沢山《たくさん》なんだが。」 「ああそれは分別くさい考えにすぎません。一面から見れば、少しの善と多くの悪とがあります。また他面から見れば、地上には善も悪もないんです。そしてこの世の後には、無限の幸福があります。なんで躊躇《ちゅうちょ》することがありましょう。」  クリストフはそういう数理的な考えをあまり好まなかった。そんな打算的な生涯《しょうがい》はきわめて貧弱に思われた。けれども、そこにこそ知恵が存するのだと思い込もうとつとめた。 「そんなふうでは、」と彼は少し皮肉を交えて尋ねた、「一時の楽しみに誘惑される恐れはないだろうね。」 「あるもんですか! それは一時のことにすぎないが、そのあとには永遠があるということが、わかってますからね。」 「じゃあ君は、その永遠というものを確信してるのかい?」 「もちろんです。」  クリストフはいろいろ尋ねた。彼は欲求と希望とに震えていた。もしレオンハルトが神を信ずべき不可抗の証拠を示してくれるとするならば! いかに熱心に彼は、神の道に従うために、あらゆる他の世界をみずから捨て去ることだろう。  レオンハルトは使徒の役目をするのを得意に感じていたし、そのうえ、クリストフの疑惑は形式にたいするものにすぎなくて、理論にはすぐに屈するだけの鑑識をそなえたものであると信じていたから、まず最初に、経典や福音書の権威や奇跡や伝統などの力を借りて説いた。しかし、クリストフがしばらくその言葉に耳を傾けた後、それは問いをもって問いに答えることであって、自分が求めてるのは、ちょうど自分の疑惑の対象となってるところのものを示してもらいたいのではなく、疑惑を解く方法を示してもらいたいのであると言って、彼の言葉をさえぎると、彼は顔色を曇らし始めた。クリストフは思ったよりいっそう不健全であり、理性によってしか説服されまいと自負してることを、レオンハルトは認めざるを得なかった。けれども彼はなお、クリストフが唯我独尊主義者の真似《まね》をしている――(彼は本心から唯我独尊主義者たり得る者があろうとは想像だもしなかった)――のだと考えた。で彼は落胆もせず、最近に得た学問を鼻にかけて、学校で習い覚えた知識に頼った。そして命令よりもいっそうおごそかな調子で、神と不滅なる魂との存在の形而《けいじ》上学的証拠を、ごたごたと並べたてた。クリストフは気を張りつめ、額に皺《しわ》を寄せて一生懸命になり、黙って考えつめていた。彼はレオンハルトに言葉をくり返させては、その意味を理解し、それを心にかみしめ、その理路をたどろうと、はなはだしく骨折った。次に彼はにわかに癇癪《かんしゃく》を起こして、人を馬鹿《ばか》にしてると言いきり、そんなことは頭の遊戯であって、言葉をこしらえだし次にその言葉を実物だと考えて面白がってる話し上手《じょうず》な奴《やつ》どもの冗談だと、言い放った。レオンハルトは気を悪くして、そういうことを述べる人たちのりっぱな信仰を保証した。クリストフは肩をそびやかして、もし奴らが道化者でないとすれば三文文学者だと、ののしりながら言った。そして他の証拠を要求した。  レオンハルトはクリストフが回復の道ないほど不健全であることを認めて、あきれ返ってしまうと、もう彼にたいする興味を失った。不信仰者と議論をして時間をつぶすな――少なくとも彼らが信じまいとつとめてる時には、と言われた言葉を思い出した。そんな議論は、相手の利益にもならないうえに、自分の心を乱す恐れがある。不幸な者どもは、これを神の意志のままに打捨てておく方がいい。もし神に思召しがあったら、彼らを啓発してくださるだろう。もし神に思召しがなかったら、だれがあえて神の意志にそむくことをなし得よう? それでレオンハルトは、議論を長くつづけようとは固執しなかった。そしてただ、当分のうちは仕方がない、いくら論じても、道を見まいと決心してる者にはそれを示すことはできない、祈らなければいけない、御恵みにすがらなければいけない、と静かに言うだけで満足した。神の恵みなしには何事もできはしない。御恵みを望まなければいけない。信ずるためには欲しなければいけない。  欲する? とクリストフは苦々しく考えた。それならば神は存在するだろう、なぜなら神が存在することを自分が欲するのだから。それならばもう死は存しないだろう、なぜなら死を否定するのが自分にうれしいから。……嗚呼《ああ》!……真理を見る心要のない人々、自分の欲するとおりの形に真理を見ることができ、自分の気に入る幻をこしらえることができ、その中に甘く眠ることができる人々、彼らにとっては人生はいかに気楽であることだろう! しかしクリストフは、決してそういう寝床には眠れないに違いなかった……。  レオンハルトはなおつづけて話した。好きな話題に話をもどして、観照的生活の魅力を説いた。そしてこの危険のない境地になると、もう彼の言葉は尽きなかった。彼が意外にも憎悪の調子で述べたてる世の喧騒《けんそう》(彼はほとんどクリストフと同じくらい喧騒をにくんでいた)から遠く離れ、暴戻《ぼうれい》から遠ざかり、嘲笑《ちょうしょう》から遠ざかり、毎日人の苦しむ種々の惨《みじ》めな事柄から遠ざかり、世俗を超脱して、信仰のあたたかい確実な寝床から、もはや自分に関係のない遠い世間の不幸を、平和にうちながめるという、神に委《ゆだ》ねた生活の楽しみを、彼はその単調な声を喜びに震わしつつ語った。クリストフはその言葉に耳を傾けながら、そういう信仰の利己的なのを看破した。レオンハルトはそれに気づきかけて、急いで言い訳をした。観照的生活は怠惰な生活ではないと。否実際、人は行為よりも祈祷《きとう》によってさらに多く行動するものである。祈祷がなかったら、世の中はどうなるであろう? 人は他人のために罪を贖《あがな》い、他人の罪過を身に荷《にな》い、おのれの価値を他人に与え、世のために神の前を取りなしてやるのである。  クリストフは黙って耳を傾けてるうちに、反感が募ってきた。彼はレオンハルトのうちに、その脱却の偽善を感じた。元来彼は、信仰するすべての人に偽善があると見なすほど不正ではなかった。かく人生を捨て去ることは、ある少数の人々にあっては、生活の不可能、悲痛な絶望、死にたいする訴え、などであるということを、――さらに少数の人々にあっては、熱烈な恍惚《こうこつ》の感……(それもどれだけつづくか分らないが)……であるということを、彼はよく知っていた。しかし大多数の人々にあっては、他人の幸福や真理などよりもむしろ自分一身の静安に多く気をとられてる魂の、冷やかな理屈であることがあまりに多いではないか。もし誠実な心にしてそれに気づいたならば、そういうふうに理想を冒涜《ぼうとく》することをどんなにか苦しむに違いない!……  レオンハルトは今や※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》として、自分の聖なる棲木《とまりぎ》の上から見おろした世界の美と調和とを述べたてていた。下界においては、すべてが陰鬱《いんうつ》で不正で苦痛だったが、上界から見おろすと、すべてが明るく輝かしく整然としてるようになった。世界はまったく調子の整った時計の箱に似ていた……。  クリストフはもう散漫な耳でしか聴《き》いていなかった。彼は考えた、「この男は信じてるのか、もしくは、信じてると自分で思ってるのか?」けれども彼自身の信仰は、信仰にたいする熱烈な欲求は、そのために少しも揺がなかった。レオンハルトのような一愚人の凡庸《ぼんよう》な魂と貧弱な理屈とから、害せられるようなものではなかった……。  夜は町の上に落ちかかっていた。二人がすわってる腰掛は闇《やみ》に包まれていた。星は輝き、白い霧が河から立上り、蟋蟀《こおろぎ》が墓地の木陰に鳴いていた。鐘が鳴りだした。最初に最も鋭い鐘の音がただ一つ、訴える小鳥の声のように天に向って響いた。次に三度音程下の第二の鐘の音が、その訴えに響きを合した。最後に五度音程下の最も荘重な鐘の音が、前の二つに答えるかのように響いた。三つの響きが交り合った。塔の下にいると、大きな蜂《はち》の巣の響きのように思われた。空気も人の心もうち震えた。クリストフは息を凝らしながら、音楽家の音楽も、無数の生物のうなってるこの音楽の太洋に比すれば、いかに貧弱なものであるかと考えた。人知によって馴養《じゅんよう》され類別され冷やかに定列された世界の傍《かたわ》らにもち出すと、それは粗野な動物界であり、自由な音響の世界である。クリストフはその岸も際限もない広茫《こうぼう》たる鳴り響く海原のうちに迷い込んだ。  そして力強いその呟《つぶや》きが黙した時、その余響が空中に消え去った時、彼は我れに返った。彼は驚いてあたりを見回した。……もう何にも分らなかった。周囲も心のうちも、すべてが変っていた。もはや神もなかった……。  信仰と同じく、信仰の喪失もまた、神恵の一撃、突然の光明、であることが多い。理性はなんの役にもたたない。ちょっとしたことで足りる、一言で、一つの沈黙で、鐘の一声で。人は漫歩し、夢想し、何物をも期待していない。とにわかにすべてが崩壊する。人は廃墟《はいきょ》にとり巻かれたおのれを見る。一人ぽっちである。もはや信じていない。  クリストフは駭然《がいぜん》として、なぜであるか、どうしてこんなことが起こったのか、了解することができなかった。春になって河の氷解するのにも似ていた……。  レオンハルトの声は、蟋蟀《こおろぎ》の声よりもさらに単調に、響きつづけていた。クリストフはもはやそれに耳を貸さなかった。すっかり夜になっていた。レオンハルトは言いやめた。クリストフがじっとしてるのに驚き、おそくなったのを心配して、帰ろうと言いだした。クリストフは答えなかった。レオンハルトはその腕をとらえた。クリストフは身を震わし、昏迷《こんめい》した眼でレオンハルトをながめた。 「クリストフさん、帰らなけりゃいけません。」とレオンハルトは言った。 「悪魔にでも行っちまえ!」とクリストフは激しく叫んだ。 「え、クリストフさん、僕が何かしましたか?」とレオンハルトはびっくりしてこわごわ尋ねた。  クリストフは正気に返った。 「そうだ、君の言うのはもっともだよ。」と彼はずっと穏かな調子で言った。「僕は自分でわからずに言ったんだ。神に行くがいい、神に行くがいい!」  彼は一人そこに残った。心は荒廃の極に達していた。 「嗚呼《ああ》、嗚呼!」と彼は両手を握りしめ、真暗《まっくら》な空の方を熱心にふり仰いで叫んだ。「もう信じないのは、どうしたことなのか。もう信ずることができないのは、どうしたことなのか。自分のうちに何か起こったのか?」  彼の信仰の破滅と、さっきレオンハルトとかわした会話との間には、あまりに大なる懸隔があった。彼の精神的決意のうちに近ごろ起こっていた動揺の原因は、アマリアの煩わしさや家主一家の者のおかしな様子などではなかったのと同じく、彼の信仰破滅の原因は、レオンハルトとの会話でないことは明らかだった。そういうのは口実にすぎなかった。惑乱は外部から来たのではなかった。惑乱は彼のうちにあった。見知らぬ怪物が心のうちに動き回ってるのを、彼は感じていた。そして自分の思想を内省して、自分の悪を真正面に見るだけの勇気がなかった。……悪? それは一つの悪だろうか? 倦怠《けんたい》、陶酔、快い苦悶《くもん》が、彼のうちにしみ込んでいた。もはや自分が自分のものではなかった。昨日まで信じていた堅忍主義のうちに堅く閉じこもろうとしても、駄目《だめ》であった。すべてが一挙に動揺した。彼はにわかに感じた、燃ゆるような野蛮な際限ない広い世界を……神よりも広大である世界を!……  そういうのは一瞬間のことにすぎなかった。しかし彼のこれまでの生活の均衡は、そのために以後はすっかり破られてしまった。  全家族のうちで、クリストフがなんらの注意をも払わなかった者は、ただ一人きりだった。それは娘のローザだった。彼女は少しも美しくなかった。そしてクリストフは、自分ではなかなか美しいどころではなかったが、他人の容貌《ようぼう》については非常にやかましかった。彼は青年の落ちつき払った残忍さをもっていて、女がもし醜い時には――少なくとも、人に愛情を起こさせるべき年齢を過ぎていず、真面目《まじめ》な穏かなほとんど宗教的な感情をもつまでに達していない時には、そういう醜い女は、彼にとっては存在しないも同じだった。そのうえローザは、怜悧《れいり》でないでもなかったが、これといって特別の才能をそなえてはいなかった。そしてまた、クリストフを逃げ回らせるほどの饒舌《じょうぜつ》な習慣で毒されていた。それでクリストフは、彼女のうちになんにも知るに足るべきものはないと判断して、あえて知ろうともしなかった。たかだか彼女の方へちょっと眼を向けるくらいのことだった。  けれども彼女は、多くの若い娘たちよりもましであった。クリストフがあれほど愛したミンナよりも確かにまさっていた。媚態《びたい》もなく虚栄心もない善良な少女で、クリストフがやって来たころまでは、自分が醜いということに気づきもせず、それを気にしてもいなかった。なぜなら、周囲の人たちも彼女の不器量を気にしていなかったから。祖父や母が、しかる時にそれを言いたてることがあっても、彼女はただ笑うばかりだった。彼女はそれを信じていなかったし、あるいはそれを大したことだとも思っていなかった。そして祖父や母の方も同じだった。彼女と同じくらいに醜い女やもっと醜い多くの女も、自分を愛してくれる男を見出していたではないか! ドイツ人は、肉体上の欠点にたいしては幸福な寛容さをもっている。彼らはそれを見ないでいられる。あらゆる顔だちと人間美の最も有名な模範的顔だちとの間に、意外な関係を発見するところの勝手な想像力によって、欠点を美化することさえもできる。オイレル老人をして、自分の孫娘はリュドヴィジのジュノーに似た鼻をもってると断言させるには、彼に多く説きたてるの要はなかったろう。ただ幸いにも、彼はきわめて小言家《こごとや》でお世辞を言わなかったまでである。そしてローザも、自分の鼻の格好には無頓着《むとんじゃく》で、素敵な家庭的義務を典例に従って履行することばかりを、自ら誇りとしていた。人から教え込まれるすべてのことを、福音書の言葉のように受けいれていた。家から出かけることはほとんどなかったので、比較の対象をあまりもたなかったし、家の者たちを率直に感嘆し、彼らの言うことを信じきっていた。腹蔵のない信頼的な満足しやすい性質だったから、家の中の憂鬱《ゆううつ》な気分に調子を合わせようとつとめ、耳にする悲観的な言葉を従順にくり返していた。彼女は最も献身的な心をもっていて、常に他人のことを考えて、他人を喜ばせようとつとめ、他人の心配を分ち取り、その欲望を推察し、ただ愛したがっていて、報酬を求むる念はなかった。家の者たちは、皆善人ではあり彼女を愛してはいたが、自然に彼女のそういう性質につけ込んでいた。人は常に、自分に身をささげてる者の愛情を濫用しがちなものである。家の者たちは彼女の世話を信じきっていたから、それを彼女に少しもありがたいと思わなかった。彼女から何をしてもらっても、さらにそれ以上を期待した。彼女は無器用だった。疎忽《そこつ》であり、性急であり、唐突なお転婆《てんば》な動作をし、むやみに愛情に駆られ、いつも家の中の災難となった。コップをこわし、水差をひっくり返し、扉《とびら》を激しく閉《し》め、あらゆることで家じゅうの怒りを招いた。たえずひどい目にあって、片隅《かたすみ》へ行っては泣いた。しかしその涙はすぐにやんだ。彼女はまたにこにこした様子になり、おしゃべりを始め、だれにたいしても恨みの影さえいだいていなかった。  クリストフの到来は、彼女の生活じゅうの大事件であった。彼の噂《うわさ》はしばしば聞いていた。クリストフは町の世間話の中に一地位を占めていた。そういうことは、地方の小さな評判の一形式であった。彼の名前は、オイレル家の話の中にもしばしば出てきた。ことにジャン・ミシェル老人がまだ生きてたうちはそうだった。老人は自分の孫を自慢にして、知人の家を回り歩いてはほめたてていた。ローザはまた一、二度、その若い音楽家を音楽会で見たことがあった。彼が自分の家に来て住むことを知ると、彼女は手をたたいた。その不謹慎な態度をきびしくしかられて、まったく当惑した。別に悪いことだとは思っていなかった。彼女のような平板な生活をしていると、新しい借家人が来ることは望外の気晴しだった。いよいよクリストフがやって来るという数日の間、彼女は待ち焦れて苛《い》ら苛《い》らしていた。家が彼の気に入らなくはないだろうかと心配して、できるだけ彼の部屋をきれいにしようと骨折った。移転の朝になると、歓迎のしるしとして、暖炉の上に小さな花束をもって来さえした。けれども自分の身については、見栄をよくしようとは少しも気を配らなかった。クリストフは最初にちらりと見ただけで、醜い無様《ぶざま》な娘だと判断してしまった。彼女の方では彼にそのような判断は下さなかった。だがむしろそのような判断を下すべき理由は十分あったに違いない。なぜならクリストフは、疲れはて、忙しく働き、服装《みなり》にも注意しないでいて、平素よりいっそう醜くなっていたから。しかしだれのことをも少しも悪く思えないローザは、自分の祖父や父や母を完全にきれいだと見なしていたローザは、予期どおりの姿でクリストフを見てしまって、心から彼に感嘆した。食卓で彼の隣にすわると、非常に気恥ずかしかった。そして不幸にも、その気恥ずかしさは饒舌《じょうぜつ》となって現われた。そのためにクリストフの同情は一挙にぶちこわされた。彼女はそれに気づかないで、その第一夜は、輝かしい思い出となって頭に残った。新しく来た借家人たちがその部屋《へや》へ上った後、彼女は自分の室にただ一人で、彼らの歩き回る足音を頭の上に聞いた。その足音は彼女のうちに愉快な響きを伝えた。家じゅうが蘇《よみがえ》ったように思われた。  翌日、彼女は初めて、不安げに注意しながら自分の姿を鏡に映してみた。そして自分の不幸の大いさをまだはっきり知りはしなかったが、それでも不幸を予感し始めた。自分の顔だちを一々判断しようとつとめたが、どうもうまく分らなかった。悲しい懸念にとらえられた。深い溜息をついて、装いを少し変えてみた。それでもますます醜くなるばかりだった。そのうえ生憎《あいにく》な考えをいだいて、種々な世話でクリストフをうるさがらした。新しい知人たちにたえず会い、用をしてやろうという、単純な希望に駆られて、始終階段を上り降りし、そのたびごとに不用な品物をもって来、しつこく手伝いをしたがり、そして常に笑いしゃべり叫んでいた。ただ母親の苛立《いらだ》った声に呼び立てられる時だけ、彼女はその熱心と話とを中止した。クリストフは厭《いや》な顔つきをしていた。もしつとめて我慢しなかったら、幾度となく癇癪《かんしゃく》を起こすところだった。彼は二日間辛抱した。三日目には扉《とびら》に錠をおろした。ローザは扉をたたき、呼び声をたて、それと悟り、当惑して降りてゆき、そしてもう二度と始めなかった。彼は彼女に会った時、急ぎの仕事にとりかかっていて隙《ひま》がないのだと説明した。彼女はつつましく詫《わ》びを述べた。彼女は自分の無邪気なやり口の不成功をみずからごまかすことができなかった。それは目的とはまったく背馳《はいち》していて、かえってクリストフを遠ざけていた。クリストフはもはやその不機嫌《ふきげん》さを隠そうとしなかった。彼女が口をきいてる時に耳を貸そうともせず、我慢しきれない様子を隠しもしなかった。彼女は自分の饒舌《じょうぜつ》が彼を苛立《いらだ》たせてるのを感じた。そしてつとめて晩は少しの間黙ってることができた。しかし彼女の力には及ばなかった。またもやにわかにさえずりだした。クリストフはその話の中途で、彼女を置きざりにして出て行った。彼女はそれを彼に恨まなかった。自分自身を恨めしく思った。自分は馬鹿で面白くない滑稽《こっけい》な者だと判断した。あらゆる欠点が非常に大きく思われて、それを押し伏せたかった。しかし最初の試みに失敗してから勇気がくじけ、どうしても成功すまいと考え、それだけの力がないと考えた。それでもふたたびつとめてみた。  しかし彼女は、自分でどうにもできない欠点をもっていた。容貌《ようぼう》の醜さにたいして施す術《すべ》があろうか? 彼女はもはやそれを疑い得なかった。ある日鏡で自分の顔を見てると、自分の不運の確実さが突然分ってきた。それは雷に打たれたようなものだった。もとより彼女は悪い点をもなお誇張して考え、自分の鼻を実際よりは十倍も大きく見た。鼻が顔全体を占めてるかと思った。もう人前に顔出しもしかねた。死にたいほどだった。しかし青春は非常な希望の力をもってるもので、そういう落胆の発作は長くつづきはしない。彼女はそのあとで、思い違いをしたのだと想像した。その想像をほんとうだと信じようとつとめ、そして時には、自分の鼻はまったく人並でかなり格好もよいと、思うまでになった。すると彼女は本能から、ある子供らしい策略を、あまり額を現わさず顔の不均衡をさまで見せつけないような髪の結い方を、しかもきわめて無器用に思いついた。それには少しも嬌態《きょうたい》を装う考えは交っていなかった。浮気心は少しも頭に浮かんでいなかったし、もし浮かんだにしろそれは知らず知らずにであった。彼女の求めるところはわずかなものだった。少しの友情きりだった。そしてその少しのものをも、クリストフは彼女に与えたく思っていないらしかった。二人が顔を合せる時、今日はとか今晩はとかいう親しい言葉を、彼が親切にかけてやりさえしたら、ローザはどんなにか幸福に思ったろう。しかしクリストフの眼つきは、平素からいかにもきびしく冷やかだった。彼女はそれにぞっとした。彼は彼女に何にも不愉快なことさえ言わなかった。彼女はそういう残忍な沈黙よりも、叱責《しっせき》の方をまだ好んだであろう。  夕方、クリストフはピアノについて演奏した。なるべく物音に煩わされないように、家の一番上の狭い屋根裏の室にこもっていた。ローザは下から、それを聴《き》いて感動した。彼女は少しも教養のない粗悪な趣味をもってはいたが、音楽を好んでいた。彼女は母がそばにいる間は、室の片隅にとどまって、仕事の上にかがみ込み、それに夢中になってるらしかった。しかし彼女の魂は、上から響いてくる音律に引きつけられていた。幸いにも、アマリアが近所に用があって出かけると、ローザはすぐに飛び上り、仕事を投げすて、心を踊らせながら、屋根室の入口まで上っていった。息を凝らして、扉《とびら》に耳をあてがった。そのままじっとしていたが、ついにアマリアがもどってきた。彼女は音をたてまいと用心しながら、爪先《つまさき》立って降りていった。しかしきわめて無器用だったし、いつも急いでいたので、階段から転げ落ちそうになることがたびたびだった。それからある時は、身体を前方につき出し、頬《ほお》を錠前にくっつけて、耳を傾けていると、平均を取り失って、額を扉にぶっつけた。彼女は非常にあわてて息を切らした。ピアノの音はぴたりと止った。彼女は逃げ出すだけの力もなかった。ようやく立上ると、扉が開《あ》いた。クリストフは彼女の姿を見、怒気を含んだ一|瞥《べつ》を投げて、それから、なんとも言わずに荒々しくそばを離れ、怒って降りてゆき、外に飛び出した。食事の時になってもどって来たが、許しを願ってる彼女の悲しい眼つきにはなんらの注意も払わず、あたかも彼女がそこにいないかのようなふうをした。そして数週間、彼はまったく演奏をやめた。ローザは人知れずしきりに涙を流した。だれもそれに気づかなかった。だれも彼女に注意を向けていなかった。彼女は熱心に神に祈った。……なんのために? それは彼女にもよくわからなかった。ただ自分の悲しみをうち明けたかった。彼女はクリストフにきらわれてると信じていた。それでもやはり、彼女は希望をつないでいた。クリストフが多少の同情を示す様子を見せてやり、彼女の言葉に耳を傾けるふうをしてやり、いつもより少し親しく握手してやったら、それで十分だったのであるが……。  しかるに、家の者らの不謹慎な数語を聞くと、彼女はあられもない方面へ想像を走らしてしまった。  家じゅうの者は皆クリストフに同情を寄せていた。真面目《まじめ》で孤独で、自分の義務にたいしてりっぱな考えをいだいている、十六歳のえらい少年は、皆に一種の尊敬の念を起こさした。彼の発作的な不機嫌《ふきげん》や、執拗《しつよう》な沈黙や、陰気な様子や、乱暴な振舞などは、このような家にあっては少しも人を驚かすものではなかった。また彼が、夕方幾時間もぼんやりして、屋根室の窓ぎわにもたれ、中庭をのぞき込み、夜になるまでじっとしていても、芸術家というものは皆のらくら者だと考えてるフォーゲル夫人でさえ、思う存分に攻勢的なやり方では、それを彼にとがめ得なかった。なぜなら、彼がその他の時間は稽古《けいこ》を授けるのに身を疲らしてることを、彼女はよく知っていたから。そしてだれも口には言わないがだれも皆知っている、あるひそかな考えから、彼女は彼を――皆もそうだったが――いたわっていた。  ローザは、クリストフと話してる時に、親たちが眼を見合したり意味ありげな囁《ささや》きをかわしたりするのに気がついた。初め彼女はそれに気を留めなかった。それから気にかかって心ひかれた。彼らの言ってることが知りたくてたまらなかった。しかしあえて尋ねることもしかねた。  ある夕方彼女は、洗濯《せんたく》物をかわかすため木の間に張ってある綱を解くために、庭の腰掛に上っていたが、クリストフの肩につかまって地面に飛び降りようとした。ちょうどその時、彼女の眼は祖父と父との眼に出会った。彼らは家の壁に背中をつけて、パイプを吹かしながら腰掛けていた。彼らはたがいに眼配せをし合った。そしてユスツス・オイレルはフォーゲルに言った。 「似合いの夫婦になるだろう。」  ところが、娘が聞いてるのを認めたフォーゲルに肱《ひじ》でつっ突かれたので、彼はかなり遠くまで聞えるように大声で「へむ! へむ!」と言って、ごく巧みに――(と少なくとも彼は考えたが)――前の言葉をごまかしてしまった。クリストフは背を向けていたから、何にも気づかなかった。しかしローザは心が転倒して、飛び降りかかってるのを忘れ、足をくじいた。もしクリストフが、相変らずの無器用さを小声でののしりながらも、つかまえてやらなかったら、彼女はころんでたかも知れなかった。彼女はひどく足を痛めたが、少しもそんな様子は見せず、ほとんどそれを気にもせず、今聞いたことばかりを考えていた。彼女は自分の室へ逃げていった。一歩を運ぶのも苦しかったが、人に気づかれまいとして気を張りつめた。彼女はうれしい胸騒ぎに満たされていた。寝床のそばの椅子《いす》に身を落として、蒲団《ふとん》の中に顔を隠した。顔は燃えるようだった。眼には涙を浮かべながら笑っていた。恥ずかしかった。穴にでもはいりたかった。考えをまとめることができなかった。顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》がぴんぴんして、踝《くるぶし》が激しく痛み、失神し発熱してるような状態だった。ぼんやり外の物音を聞き、往来で遊んでる子供の叫び声を聞いていた。そして祖父の言葉がまだ耳に響いていた。彼女は低く笑い、真赤《まっか》になり、顔を羽蒲団に埋め、祈り、感謝し、欲求し、気づかい――恋していた。  彼女は母に呼ばれた。立上ろうとした。一歩踏み出すと、堪えがたい苦痛を感じて、卒倒しそうだった。眩暈《めまい》がしていた。死ぬのではないかと思った。死んでしまいたかった。と同時に、全身の力をあげて生きたく、前途に見えてる幸福のために生きたかった。ついに母がやって来た。やがて家じゅうの者が心痛しだした。彼女は例のとおりしかられ、包帯をされ、寝かされ、肉体の苦痛と内心の喜びとに浮かされて惘然《ぼうぜん》となった。楽しき夜……そのなつかしい一夜の些細《ささい》な思い出まで皆、彼女には聖《きよ》められたものとなった。彼女はクリストフのことを考えてはいなかった。何を考えてるかみずから知らなかった。幸福であった。  クリストフはその出来事に多少責任があると思ったので、翌日、容態を尋ねに来た。そして初めてやさしい様子を彼女に示した。彼女はしみじみとそれを感謝し、怪我《けが》をありがたがった。生涯そんな喜びが得らるるなら、生涯苦しんでもいいと希った。――彼女は身動きもしないで数日間寝ていなければならなかった。その間祖父の言葉をくり返し、それを考え回して過した。なぜなら疑問が出て来たから。 「……になるだろう、」と祖父は言ったのかしら? 「……になれるだろうが、」と言ったのかしら?  あるいはまたそんなことは何にも言わなかったのかもしれない。――いや、祖父は確かに言った。  彼女はそれに確信があった。……では彼らは、彼女が醜いことを、クリストフが彼女に我慢しかねてることを、知らなかったのか?……しかし希望をかけるのはうれしいことだった。おそらく自分が思い違いしたんだろう、自分で思ってるほど醜くはないんだろうと、彼女は信ずるにいたった。彼女は椅子《いす》の上に身を起こして、正面にかかってる鏡を見てみた。もうどう考えていいかわからなかった。要するに、祖父と父とは彼女よりもすぐれた批判者だった。自分のことは自分で批判できないものだ。……ああ、もしそうだったら……もしかして……自分でも気がつかずに……もしきれいだったとしたら!……またおそらく、クリストフの素気ない感情を誇張して考えてるのかもしれなかった。だがもちろん、その冷淡な少年は、事変の翌日、同情の様子を彼女に示したあとは、もはや彼女のことを気にかけなかった。容態を見に行くことも忘れた。しかしローザは彼を許してやった。彼は種々なことに忙しいのだ。どうしてこちらのことを考えられよう。芸術家を他の人々と同じように批判してはいけないのだ。  けれども、彼女はいかにあきらめても、彼がそばを通りかかると、心を踊らしながら同情の言葉を待たずにはいられなかった。ただ一言、ただ一|瞥《べつ》……その他のことは想像でこしらえ出せるのだった。恋の初めは、ごくわずかな養分をしか必要としない。たがいに顔を合せ、たがいにすれちがうだけで、十分である。そういうころには、ほとんど一人で恋愛を創《つく》り出すに足りるほどの空想力が、魂から流れだす。些細《ささい》なことで魂は恍惚《こうこつ》の境にはいってゆく。後にそういう恍惚さを魂がほとんど見出さなくなるのは、次第に満足してゆき、ついに欲求の対象を所有してゆくに従って、ますます要求深くなる時のことである。――だれもまったく気づかなかったが、ローザはいろんなものでみずからこしらえ上げた物語《ローマンス》の中にばかり生きていた。クリストフは人知れず彼女を愛している、けれどあえてそれをうち明け得ないでいる、それは気恥ずかしいからであり、あるいはまた、この感傷的な馬鹿娘の想像に気に入るような、ある小説的な架空的な馬鹿げた理由からである。そういうことについて、彼女はまったく荒唐|無稽《むけい》なつきない話を作りだしていた。馬鹿な作り話だとは自分でも知っていたが、しかしそう認めたくなかった。幾日もの間、仕事の上にかがみ込みながら、みずから自分をだまかしては喜んでいた。そのためにしゃべることを忘れてしまった。彼女の言葉の波は彼女のうちに潜んでしまって、あたかも河が突然地面の下に流れ込んだようなものだった。しかしその補いはついていた。無言の話の、会話の、なんという耽溺《たんでき》だったろう! 時としては、書物を読む時その文字の意味を理解するために、一音一音口の中で言ってみなければ承知しない人のように、彼女の唇《くちびる》の動くのが見えることもあった。  そういう夢から覚《さ》めると、彼女はうれしくもありまた悲しくもあった。実際の事情は、今自分が心の中で語ったとおりではないことを、彼女はよく知っていた。しかし幸福の反映がまだ彼女のうちに残っていた。そして彼女はまたいっそう頼もしい心地《ここち》で生活しだした。クリストフを得られないと絶望してはいなかった。  彼女はそれとはっきりした心でではなかったが、クリストフを得ようと企てた。この無器用な小娘は、強い愛情が与えてくれる確実な本能をもって、一挙に、友の心をとらえ得る道を見出すことができた。彼女は直接彼に向うことをしなかった。怪我がなおって、ふたたび家の中を駆け回れるようになると、彼女はルイザに近づいた。ごくわずかな口実ででもよかった。ちょっとした用をやたらに見つけてはルイザを助けてやった。出かける時には、かならず何か使いを頼ませた。代りに市場へ行ってやり、用達人らと談判してやり、中庭のポンプで水をくんできてやり、家庭内の仕事の一部まで引受けて、敷石を洗い床板をみがいてやった。ルイザが断ってもきかなかった。ルイザは自分一人で仕事をさしてもらえないのを当惑したが、しかし非常に疲れきっていて、助けに来てくれるのに反対するだけの力がなかった。クリストフは終日不在だった。ルイザは一人ぽっちの寂しさを感じていた。そしてこの親切な騒々しい娘といっしょにいるのは、彼女のためによかった。ローザは彼女の許《もと》に腰をすえてしまった。自分の仕事までもってきた。そして二人は話しだした。娘は下らない策をめぐらして、話をクリストフの上に向けようとつとめた。彼の噂《うわさ》をきくと、ただ彼の名前をきくだけでも、彼女はうれしくなった。両手は震え、眼をあげるのを避けた。ルイザはかわいいクリストフのことを話すのがうれしくて、彼が子供のおりのつまらない大しておかしくもない話を、いろいろ語ってきかした。しかしローザからつまらない話だと思われる心配はなかった。子供らしい馬鹿げたことやかわいらしいことをしてるクリストフの子供の姿を眼の前に描きだすことは、ローザにとっては得も言えぬ喜びであり感激であった。あらゆる女の心のうちにある母性的の愛情は、も一つの他の愛情と、彼女のうちで楽しく交り合った。彼女は心からうれしげに笑い、また眼をうるましていた。ルイザは彼女が示してくれる興味に心ひかれた。娘の心の中に起こってる事柄をそれとなく推察したが、それを様子には少しも現わさなかった。けれどそれを楽しみに思っていた。なぜなら、家じゅうで彼女ただ一人が、この娘の心の価値を知っていたから。時とすると、彼女は話をやめて、娘の顔をながめた。ローザはその無言にびっくりして、仕事から眼をあげた。ルイザは微笑《ほほえ》みかけていた。ローザは突然情熱に駆られて彼女の腕の中に身を投げ、彼女の胸に顔を隠した。それからまた二人は、前のように仕事を始め話を始めた。  夕方、クリストフが帰ってくると、ルイザはローザの世話をありがたく思っており、また自分が立てているちょっとしたある計画に従って、いつもその隣の娘をほめたててやめなかった。クリストフはローザの親切に心を動かされた。彼女が母によく尽してくれたことを見てとった。母の顔はいつもより晴やかになっていた。彼は心をこめてローザに礼を言った。ローザは言葉を言いよどんで、胸騒ぎを隠すために逃げ出した。そういう彼女の方がしゃべりたてる彼女よりも、はるかに悧口《りこう》ではるかに同情が寄せられるように、クリストフには思われた。彼は以前よりも偏見の少ない眼で彼女をながめた。そして思いもかけない美点を彼女のうちに見出した驚きを、少しも隠さなかった。ローザはそれに気づいた。彼女は彼の同情が増してきたのを認め、その同情は愛の方へ進んでいることと考えた。彼女はますます夢想にふけっていった。一身を挙《あ》げて願うことはついにはかならずかなうものだと、青春期の美しい推測で信じかけていた。――そのうえ、彼女の願いにはなんの不当な点があったろうか? 彼女の親切や身をささげたいとのやさしい要求にたいして、クリストフは他人よりもいっそう敏感なるべきはずではなかったろうか?  しかしクリストフは彼女のことを想《おも》ってはいなかった。彼は彼女を尊重してはいたが、しかし彼女は彼の頭の中になんらの地位をも占めていなかった。彼はそのころ、他の多くのことで頭を満たしていた。クリストフはもはや単なるクリストフではなかった。彼はもはや自分自身がわからなかった。恐るべき働きが彼のうちになされつつあって、彼の存在の根柢までもくつがえしかけていた。  クリストフは極度の倦怠《けんたい》と不安とを感じていた。訳もないのに気がくじけ、頭が重く、耳や目やすべての感覚が、酔ったようになってがんがん響いた。何物にも精神を集注することができなかった。精神はそれからそれへと飛び回って、疲憊《ひはい》しつくさんとする焦燥のうちに漂っていた。たえず形象が眼にちらついて、眩暈《めまい》がしていた。彼は初めそれを、過度の疲労と春の日の憔悴《しょうすい》とのせいにした。しかし春が過ぎても、不快は募るばかりだった。  それは、優雅な手でばかり事物に触れることをする詩人らが、青春期の不安、若い天使の悶《もだ》え、年少の肉と心との中における愛欲の眼覚《めざ》め、と名づける所のものであった。しかしそれはあたかも、各局部で亀裂《きれつ》し死滅しまた蘇《よみがえ》る全存在のこの恐るべき危機を、あたかも、信仰も思想も行為も全生命もすべてが、苦悶《くもん》と喜悦との痙攣《けいれん》の中で将《まさ》に絶滅せられ鍛え直されんとしてるかと思われるこの大革命を、児戯に等しいものだと見なし得るかのような名づけ方である。  彼の身体も魂も発酵しきっていた。彼は好奇心と嫌悪《けんお》の情との交り合った気持でそれをながめるだけで、それとたたかうだけの力はなかった。彼は自分のうちに何が起こってるか少しも了解しなかった。彼の全存在はばらばらになっていた。圧倒してくる懶《ものう》さのうちに日々を過した。働くことは一つの苦痛となった。夜は、重苦しい切れ切れの眠りをし、恐ろしい夢をみ、欲望に駆られた。獣的な魂が彼のうちにあばれていた。熱く燃えたち、汗に浸って、彼はおのれを嫌忌の情でながめた。狂気じみた淫《みだ》らな考えを振り落そうとつとめた。狂人になったのではないかしらとみずから尋ねてみた。  昼間もそういう獣的な考えからのがれることができなかった。魂のどん底に沈み込むような気がした。すがりつくべき何物もなかった。渾沌《こんとん》を防ぎとどむべきなんらの防壁もなかった。あらゆる武器は、彼の四方をおごそかにとり巻いていた城壁は、神も芸術も傲慢《ごうまん》も道徳も、皆次々に崩壊してゆき、彼から剥離《はくり》していった。裸体で、縛《いまし》められ、寝かされ、身動きもできないでいる自分を、蛆虫《うじむし》のたかってる死骸《しがい》のような自分を、彼は見出した。彼はむらむらと反発心を覚えた。自分の意志はどうなったのか? 彼はいたずらにそれを呼びかけるだけだった。夢みてると知りながら眼覚めようと欲する、睡眠中の努力にも似ていた。ただ鉛の塊《かたまり》のように夢から夢へと転がりゆくの外はなかった。ついには、争わない方がまだしも楽であることを知った。無感覚な宿命観をもって、彼は争うのをあきらめた。  規則的な生命の波が中断されたかのようだった。あるいは、その波は地下の裂け目に流れ込み、あるいは猛然とほとばしり出て来た。日々の連鎖が断たれてしまった。時間の平坦《へいたん》な野の中央に、ぽかりと多くの穴が口を開いて、その中に自分の全存在が埋没していった。クリストフはその光景を、自分に無関係なことのようにながめた。すべての物が、またすべての人が――そして彼自身も――彼には見知らぬもののようになっていた。彼はやはり仕事に出かけ務めを果したが、それも自働人形的だった。生命の機関がたえず今にも止るかと思われた。車輪の動きが狂っていた。母や家主一家の者といっしょに食卓についてる時にも、楽員らと聴衆との間で管弦楽団の席についてる時にも、突然彼の脳の中に空虚がうがたれた。彼は惘然《ぼうぜん》として、あたりの渋め顔をながめた。そして訳がわからなかった。彼はみずから尋ねた。 「どんな関係があるのか、この人たちと……?」  彼はあえて言い得なかった、「私との間に?」とは。  彼はもはや自分が存在してるかどうかも知らなかったのである。口をきくと、自分の声は別の身体から出てるように思われた。身体を動かすと、その自分の身振りを見るのは、遠くから、高くから――塔の頂からであった。彼は昏迷《こんめい》した様子で額に手を当てた。とんでもないことをしでかしそうだった。  最も人目の多い時に、いっそう自制しなければならない時に、ことにそんなことが起こった。たとえば、官邸へ行ってる晩だの、公衆の前で演奏してる時だのに。何か渋面をしたり、途方もないことを言ったり、大公爵の鼻を引っ張ったり、あるいは貴婦人の尻《しり》を蹴《け》ったり、そんなことを突然したくてたまらなくなった。ある晩なんかは、管弦楽を指揮しながら、公衆の前で裸体になりたい妄念《もうねん》とたたかいつづけたこともあった。その考えをしりぞけようとつとめる片側から、その考えにまた襲われた。それに負けないためには全力を尽さなければならなかった。その馬鹿げた争いを済ますと、汗にまみれ、頭が空《から》っぽになっていた。まったく狂気になっていた。ある一事をしてはいけないと考えただけで、もうその一事が、固定観念のような激しい執拗《しつよう》さでのしかかってきた。  かくて、狂わんばかりの力と空虚の中への墜落との連続のうちに、彼の生活は過ぎていった。砂漠《さばく》中の狂風だった。その風はどこから来たのか。その狂妄はなんであったか。彼の四|肢《し》と頭脳とをねじ曲げるそれらの欲望は、いかなる深淵《しんえん》から出て来たのか。狂暴な手で引き絞られた弓にも彼は似ていたが、しかもその手はこわれるまで弓を引き絞り――人に知られぬいかなる標的へ向ってか?――次にはそれを一片の枯木のように投げ捨てようとしていた。何者の餌食《えじき》と彼はなっていたのか。それらのことを彼は考究する勇気がなかった。彼は打ち負かされ恥ずかしめられたのを感じたが、自分の敗亡を正視するのを避けた。彼は疲れておりまた卑怯《ひきょう》であった。昔彼が軽蔑《けいべつ》していた人々、自分に快くない真実を見ることを欲しない人々、彼らを彼は今になって理解した。空費してる時間、投げ出してる仕事、駄目《だめ》になってる未来、そういうことをこの虚無の間にふと思い起こすと、恐ろしくて慄然《りつぜん》とした。しかし少しも反抗しなかった。彼の卑怯《ひきょう》な態度は、虚無の自棄的な肯定のうちに弁解を見出していた。水の流れに浮ぶ漂流物のように虚無のうちに身を任せることに、彼は苦《にが》い快楽を味わっていた。たたかってもなんの役にたとう? 美も善も神も生命も、いかなる種類の存在も、何もなかった。歩いていると往来の中で、にわかに地面がなくなった。土地も空気も光も彼自身も、もはやなかった。何物もなかった。頭に引きずられて前のめりになった。転倒する間ぎわになってようやく自分を引留めることができた。突然雷に打たれて倒れかけてると思っていた。もう死んでしまったとも考えていた……。  クリストフは皮膚が更《あらたま》りつつあった。クリストフは魂が更りつつあった。そして、幼年時代の消耗し凋《しぼ》みはてた魂が剥落《はくらく》するのを見ながらも、より若くより力強い新しい魂が生じてくるのを、彼は夢にも知らなかった。生涯中には人の身体が変化するごとく、人の魂も変化する。その変形は、かならずしも月日につれて徐々になされるとはかぎらない。すべてが一挙に更新する危機の時間がある。古い殻は剥落する。そういう苦悩のおりには、人は万事終ったと信ずる。しかもすべてはこれから始まろうとしているのである。一つの生命が亡びてゆく。がも一つの生命はすでに生れている。  ある夜、彼は蝋燭《ろうそく》をともし、テーブルに肱《ひじ》をつき、一人で室の中にいた、窓に背中を向けていた。仕事をしてはいなかった。もう数週間前から彼は仕事ができなかった。頭の中にはあらゆるものが渦巻《うずま》いていた。宗教、道徳、芸術、全生命、すべてを彼は一時に吟味していた。かくあらゆるものに思想を分散させるのに、なんらの秩序もなくなんらの様式もなかった。祖父の異様な蔵書やフォーゲルの蔵書の中から、神学や科学や哲学などの、しかも多くは半端《はんぱ》になってる書物を、手当り次第に引出してきては読みふけった。すべてを知ろうとして実は何一つ理解しなかった。そして一冊も読み終らず、読書最中に、枝葉《しよう》の事柄や果しない空想に迷い込んでは、深い倦怠と悲哀とを心に残された。  その夜も彼は、頽廃《たいはい》的な茫然《ぼうぜん》さのうちに浸っていた。家じゅうは寝静まっていた。窓が開《あ》いていた。そよとの風も中庭から吹き込まなかった。密雲が空を閉ざしていた。クリストフは燭台《しょくだい》の底に蝋燭の燃えつきるのを、呆然《ぼうぜん》としてながめていた。彼は寝ることができなかった。何にも考えてはいなかった。その虚無の境地が一刻ごとに深くなってゆくのを感じた。自分を吸い込んでゆく深淵を見まいとつとめた。それでもやはりその縁に身をかがめてのぞき込んだ。空虚の中に、渾沌《こんとん》たるものが動き、闇《やみ》が揺めいていた。ある苦悶が彼に沁《し》み通り、背中はおののき、皮膚は総毛だった。彼は倒れないようにテーブルにしがみついた。言葉につくせぬものを、一つの奇跡を、一つの神を、彼は待ち焦れていた……。  にわかに、中庭の中に、彼の背後に、みなぎりたつ水が、重い大きなまっすぐな雨が、水門の開けたかのように降りだした。じっとたたえていた空気がうち震えた。かわいた堅い地面が鐘のように鳴った。獣のようにほてった熱い大地の巨大な香《かお》りが、花や果実や愛欲の肉体などの匂《にお》いが、熱狂と愉悦と痙攣《けいれん》の中に立ちのぼった。クリストフは幻覚に襲われ、一身を挙げて緊張していたが、臓腑《ぞうふ》までぞっと震え上った。……ヴェールは裂けた。眩惑《げんわく》すべき光景だった。電光の閃《ひら》めきに、彼は見てとった、闇夜《あんや》の底に、彼は見てとった――おのれこそその神であった。その神は彼自身のうちにあった。神は室の天井を破り、家の壁を破っていた。存在の制限を破壊していた。空を、宇宙を、虚無を、満たしていた。世界は神のうちに、急湍《きゅうたん》のように躍《おど》りたっていた。その崩壊の恐怖と歓喜とのうちに、クリストフもまた、自然の法則を藁屑《わらくず》のように粉砕する旋風に運ばれて、落ちていった。彼は息を失っていた。神の中へのその墜落に酔っていた。……深淵にして神! 深潭《しんたん》にして神! 存在の火炉! 生命の※[#「風にょう+炎」、第4水準2-92-35]風《ひょうふう》! 生の激越のための――目的も制軛《せいやく》も理由もなき――生の狂乱!  危機が消え去った時、彼はもう長らく知らなかったほどの深い眠りに陥った。翌日、眼が覚《さ》めると眩暈《めまい》がしていた。飲酒のあとのように疲憊《ひはい》していた。しかし心の底には、前夜彼を圧倒した陰惨強力な光明の反映が残っていた。彼はその光明をふたたび輝かせようとした。駄目《だめ》であった。彼が追求すればするほど、光明は彼からますます逃げていった。それ以来彼は全精力をたえず張りつめて、あの一瞬の幻影を蘇《よみがえ》らせようと努力した。無益な試みであった。大歓喜は意志の命令には少しも応じなかった。  けれども、その神秘な眩迷《げんめい》の発作はそれきりではなかった。また幾度も起こった。ただ最初ほどの強烈さはもうもたなかった。そしていつも、クリストフが最も予期しない瞬間に、しかもきわめて短い急激な瞬間――眼をあげあるいは腕を差出すくらいの時間――に起こったので、これだと考える隙《ひま》もないうちに幻影は過ぎ去ってしまった。そして彼はあとで、夢をみたのではないかとみずから訝《いぶか》った。闇夜を光被する燃えたつ流星のあとに、通っても見分けがたいほどの、光った塵埃《じんあい》が、ほのかな細かい光りが、やって来たようなものであった。しかしそれはますます頻繁《ひんぱん》に現われてきた。ついにはクリストフを、不断の淡い夢のような光輪で取り巻いて、そこに彼の精神を溶かし込んでしまった。その半ば幻覚の状態から彼の心を転じさせるようなものは、すべて彼を苛立《いらだ》たせた。仕事の不可能、それをも彼はもう考えなかった。あらゆる人との交わりにたいして、彼は嫌悪《けんお》の念をいだいた。そして最も親密な人々との交わりにたいして、母との交わりにさえたいして、さらにはなはだしかった。なぜならそういう人々は、彼の魂に関与する権利をことに多く持ってると自認していたから。  彼は家居を避け、終日外で過す習慣がつき、夜になってしか帰って来なかった。彼は野の静寂を求めて、そこで狂乱者のように飽くまでも自分の固定観念の纏綿《てんめん》に身を任した。――しかし、物を洗い清める外気の中では、大地に接触しては、その纏綿は弛緩《しかん》し、それらの観念は妖鬼《ようき》的性質を失った。彼の精神|激昂《げきこう》は少しも減退せずむしろ募っていったが、しかしそれはもはや精神の危険な眩迷《げんめい》でなく、力に狂った身と魂の、全存在の、健全な陶酔であった。  彼はかつて見たこともないかのように新たに世界を見出した。それは新たな幼年時代だった。ある魔法の言葉で「開けよ、セサーミ」の合言葉を言われたかのようだった。自然は歓喜に燃えたっていた。太陽は沸きたっていた。液体の空が、透明の河が、流れていた。大地は逸楽のあまりあえぎ煙っていた。草も木も昆虫《こんちゅう》も、多数の生物は、空中に渦巻《うずま》きのぼる生命の大火炎のひらめく言葉であった。すべてが喜びに叫んでいた。  そしてこの喜びが、彼のものであった。この力が、彼のものであった。彼は他の事物とおのれとを少しも区別しなかった。その時までは、激しい喜ばしい好奇心をもって自然をながめていた幸福な幼年時代でさえ、生物は、自分となんらの関係もなく理解することもできない、あるいは恐ろしいあるいはおかしなとざされた小世界のように、彼には思われていた。彼らが感じており生きておることさえ、彼には確かにわかっていたろうか。それは実に不思議な機関《からくり》であった。クリストフは時として、幼年の無意識的な残忍さをもって、不幸な昆虫の四|肢《し》をもぎ取ることさえあった、しかもそれが苦しがることは少しも考えずに――そのおかしな※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きを見る楽しみのために。一匹の不幸な蠅《はえ》をいじめていると、平素はあんなに穏かだった叔父《おじ》のゴットフリートもさすがに怒って、彼の手からそれを奪い取ったこともあった。その時彼は初め笑おうとした。それから叔父の興奮に感動して涙にむせんだ。その犠牲者も自分と同様に実際生存しているのであって、自分は罪を犯したのであるということを、彼は了解し始めた。しかし、その後彼は動物をいじめなかったとはいえ、動物になんら同情を寄せてるのではなかった。そのそばを通っても、彼らの小さな機体の中に行われてることを感じようとはしなかった。むしろそれを考えることを恐れた。それはなんだか悪夢に似寄っていた。――しかるに今や、すべてが明らかになった。それら生物のほの暗い意識界は、こんどは光明の巣となった。  生物の群がってる草の中に、昆虫の羽音の鳴り響く木陰に、クリストフは寝ころんで、じっとうちながめた、蟻《あり》の性急な活動を、歩きながら踊ってるように見える足長|蜘蛛《ぐも》を、横っ飛びに跳《は》ね回る蝗《いなご》を、重々しいしかもせかせかした甲虫《かぶとむし》を、白い斑紋《はんもん》のある弾力性の皮膚をそなえている毛のないまっ裸の桃色の蚯蚓《みみず》を。あるいはまた、両手を頭の下にあてがい、眼を閉じて、彼は耳を傾けた、眼に見えない管弦楽に。香《かんば》しい樅《もみ》の木のまわりで、一条の日の光の中で、物狂わしく回転してる昆虫のロンド、蚊のファンファーレ、地蜂《じばち》のオルガンの音、木の梢《こずえ》に鐘のようにふるえてる野蜂の集団の音、または、揺ぐ木立の崇高な囁《ささや》き、微風に吹かるる枝のやさしい戦《そよ》ぎ、波動する草の細やかな葉ずれ、あたかも、湖水の清澄な面《おもて》に皺《しわ》を刻むそよ風のような、また、通りすぎ空中に消えてゆく恋しい足音のような……。  すべてそれらの音やそれらの鳴き声を、彼は自分の中に聞いた。それら生物の最小から最大にいたるまで、同じ一つの生命の川が貫流していた。川は彼をも浸していた。彼は彼らと同じ血からなり、彼らの悦楽の親しい反響を聞いた。多くの小川で大きくなった河のように、彼らの力は彼の力に交り合った。彼は彼らの中におぼれた。窓を破って窒息してる彼の心に吹き込んできた空気の圧力に、彼の胸は破裂せんばかりになった。変化はあまりに急激だった。至るところに虚無ばかりを見てきた後に、自分の生存をのみ懸念していて、その生存が雨のように分散するのを感じていたのに、今やおのれを忘れて宇宙のうちに甦《よみがえ》らんとあこがれると、至るところに無限無辺の生を見出したのであった。彼は墳墓から出て来たような思いがした。生の河はなみなみとたたえて流れていた。彼はその中を愉快に泳いでいった。そしてその流れに運ばれながら、彼はまったく自由の身だと信じた。彼は知らなかった、前より少しも自由ではないということを、何人《なんぴと》も自由ではないということを、宇宙を支配する法則自身でさえも自由ではないということを、死のみが――おそらく――人を解放してくれるということを。  しかし、殻から出た蛹《さなぎ》は、新らしい外皮の中に喜んで手足を伸して、自分の新しい牢獄《ろうごく》の境界をまだ認めるの隙《ひま》がなかった。  月日の新しい周期が始った。幼い時、初めて事物を一つ一つ発見していった時のような、神秘な喜ばしい、黄金と熱気との日々であった。黎明《れいめい》から黄昏《たそがれ》のころまで、彼はたえざる幻の中に生きていた。すべての務めはうち捨てられた。長い年月の間、たとい病気の時でさえ、一回の稽古《けいこ》をも一回の管弦楽試演をも欠かしたことのない、この生真面目《きまじめ》な少年は、今やよからぬ口実を捜し出しては、仕事をなまけた。彼は嘘《うそ》をつくことも恐れなかった。嘘をついても後悔の念を覚えなかった。これまで喜んで意志を服せしめていた堅忍主義の生活は、道徳も義務も、今はほんとうのものでないように彼には思えた。その偏狭な専制は自然にぶっつかってこわれてしまった。健全強壮自由な人間性、それが唯一の徳である。その他はすべて悪魔にでも行くがいい! 世間から道徳の名をもって飾られ、人生をその中に押し込めようと世人がしている、用心深い策略の煩瑣《はんさ》な規則を見ると、憫笑《びんしょう》に価するようなものばかりであった。笑うべき土竜《もぐら》の巣だ! 生命が一過すれば、すべては清掃されるのだ……。  クリストフは精力に満ちあふれながら、時々、破壊し、焼きつくし、粉砕し、息苦しい自分の力を盲目狂暴な行為で飽満させたいという、欲望に駆られた。たいていそういう発作は、突然の精神|弛緩《しかん》に終ることが多かった。彼は涙を流し、地上に身を投出し、大地に抱きついた。それにかじりつき、しがみつき、それを食いたかった。彼は熱気と欲求とに震えていた。  ある夕方、彼は林の縁を散歩していた。眼は光に酔わされ、頭はふらふらしていて、すべてが変容される狂熱状態にあった。ビロードのような夕の光が、さらに魅惑を添えていた。紅色と黄金色との光線が、栗《くり》の木立の下に漂っていた。燐光《りんこう》のような輝きが、牧場から発してるようだった。空は眼のように悦《よろこ》ばしくやさしかった。横の牧場に、一人の娘が刈草を動かしていた。シャツと短い裳衣《しょうい》だけで、頸《くび》と腕とを露《あら》わにして、草をかき集めては積んでいた。短い鼻、広い頬《ほお》、丸い額、そして髪にハンカチをかぶっていた。その日焼けのした陶器のような皮膚は、夕日に赤く染まって、一日の名残りの光を吸い込んでるかと思われた。  その娘がクリストフを魅惑した。彼は※[#「木+無」、第3水準1-86-12]《ぶな》の木によりかかって、彼女が林の縁の方へやって来るのをながめていた。彼女は彼を気にかけていなかった。ちょっと彼女は無頓着《むとんじゃく》な眼つきを上げた。日に焼けた顔の中のきつい青い眼を彼は見た。彼女は彼のすぐそばを通りかかった。そして草を拾うためにかがんだ時、半ば開いたシャツの襟《えり》から、頸筋と背筋との金色のむく毛が彼の眼にとまった。彼のうちにみなぎっていた暗い欲望が一時に破裂した。彼は後ろから彼女に飛びつき、その頸と胴とをつかみ、頭を仰向かせ、半ば開いた彼女の口に自分の口を押しつけた。彼はかわききったかさかさの唇《くちびる》に接吻《せっぷん》し、怒って噛《か》みつこうとしてる彼女の歯にぶっつかった。彼の両手はきつい腕や汗にぬれたシャツの上をなで回った。彼女はもがいた。彼はますますきつく抱きしめ、締め殺してしまいたかった。彼女は身をもぎ離し、叫び、唾《つば》を吐き、手で唇を拭《ふ》き、ののしりたてた。彼は手を離していた。そして畑を横切って逃げだした。彼女は石を投げつけ、破廉恥な呼び方をやたらに浴せかけた。彼は真赤《まっか》になって、彼女の言葉や考えよりもむしろ自分自身の考えに多く恥じ入った。そういう行いをした突然の無意識が非常に恐ろしくなった。何をしたのか? 何をしようとしたのか? それについて了解し得るかぎりのことは皆、嫌悪《けんお》の情を起こさせるものばかりだった。そしてその嫌悪の情からまた挑発《ちょうはつ》された。彼は自分自身と争った。どちらに真のクリストフがあるかわからなかった。盲目的な力が襲いかかってきた。いくらそれをのがれようとしても駄目《だめ》だった。自分自身から逃げることだった。その力は彼をどうするか分らない。明日……一時間後……耕作地を駆けぬけて道路に達するまでのそれだけの時間に、彼は何をするかわからない。彼は道へまでも行きつけるだろうか。引返して娘のところへ駆けつけるために、立止りはしないだろうか。そしてもしその時は?……彼は娘の喉元《のどもと》をとらえていたあの眩迷《げんめい》の瞬間を思い出した。いかなる行いも可能であった。罪悪でさえも……そうだ、罪悪でさえも。……彼は胸騒ぎのために息がはずんでいた。道路まで行きつくと、息をするために立止った。娘は向うで、叫び声をきいてやって来たも一人の娘と話をしていた。そして二人は腰に拳《こぶし》をあてて、大笑いをしながら彼の方をながめていた。  彼は家に帰った。数日間、身動きもしないで、室に閉じこもった。やむを得ない場合の外は、町へも出かけなかった。町の入口を通る機会を、野へ踏み出す機会を、びくびくして避けていた。暴風雨の前の静けさの最中に起る一陣の風のように、彼の上に吹きおろしてきたあの狂乱の息吹《いぶ》きを、そこでまた見出しはすまいかと恐れた。町の廓壁《かくへき》は自分をそれから守ってくれるだろうと、彼は思っていた。しかし、閉《し》め切った雨戸の間の眼に留らないほどの隙間《すきま》が、視線を通し得るくらいの隙間があれば、敵は忍び込んでくることができるということを、彼は考えていなかった。 [#改ページ]      二 ザビーネ  中庭の向こう側、家の片翼の一階に、二十歳の若い女が住んでいた。ザビーネ・フレーリッヒという名前で、数か月前から寡婦になり、一人の小さな娘をもっていたが、やはりオイレル老人の借家人だった。街路に面した店をもっていて、なおその上に、中庭に面した二つの室を有し、四角な狭い庭までついていた。その庭は、蔦《つた》のからんだ針金作りのちょっとした垣根《かきね》で、オイレル一家の庭と区別されていた。彼女の姿は滅多に庭に見えなかったが、子供は朝から晩まで、土いじりをしてそこで一人遊んでいた。庭には草木が思うままはびこっていたので、手入れの届いた径《みち》と整然たる自然とを好んでいたユスツス老人は、それが非常に不満だった。そのことについて、借家人に少し注意を与えたこともあった。しかしおそらくそのために、彼女はもう庭に出て来なくなったのであろう。そして庭は少しもよくなりはしなかった。  フレーリッヒ夫人は小さな小間物店を出していた。町の目抜きの繁華な街路に位していたので、かなり客足がつくはずだった。しかし彼女はこの商売にも、庭にたいすると同様にあまり気を入れていなかった。フォーゲル夫人の説に従えば、自尊心のある婦人にとっては――ことに、怠惰を許されないまでも怠惰でいてやってゆけるくらいの財産がない時には――自分で世帯の仕事をするのが至当であるそうだが、フレーリッヒ夫人はそうしないで、十五歳の小娘を一人雇っていた。この小娘が朝のうち幾時間かやって来て、若いお上さんが寝床の中にぐずついたり、呑気《のんき》にお化粧をしたりする間、室を片付けたり店番をしたりしていた。  クリストフは時々、彼女が長い肌着《はだぎ》をつけ素足のままで室の中をうろうろしたり、長い間鏡の前にすわっていたりするのを、窓ガラス越しに見かけることがあった。彼女は窓掛をおろすのを忘れるほど無頓着《むとんじゃく》だった。そして気がついても、無精のあまりわざわざ窓掛をおろしに行こうともしなかった。クリストフは彼女よりずっと初心《うぶ》だったから、向うをきまり悪がらせまいと思って窓から離れた。しかし誘惑は強かった。少し顔を赤めながらも、彼女の両腕を横目で見やった。その腕は心持|痩《や》せていて、解いて髪のまわりに懶《ものう》げに上げられ、頸《くび》の後ろで手先を組み合していたが、しまいにしびれてきてまたがっくりおろされるまで、そのままぼんやりしていた。クリストフはその快い光景をただ通りがかりにうっかり見たばかりであって、そのために音楽上の瞑想《めいそう》が少しも邪魔されはしなかったのだと、思い込んでいた。しかし彼はそれに興味を覚えてるのだった。そしてザビーネが化粧に費やしたのと同じだけの時間を、彼女をながめて空費するようになった。彼女は決して嬌飾家《めかしや》ではなかった。平素はむしろ構わない方だった。アマリアやローザほどにも、自分の服装《みなり》に細かな注意を払ってはいなかった。お化粧台の前にいつまでもじっとしていたのも、単なる怠惰からであった。留針を一本さすにも、そのあとで大儀そうな顰《しか》め顔をちょっと鏡に映しながら、その大した努力の骨休めをしなければならなかった。日暮れになりかけても、まだすっかり身仕舞を済ましていなかった。  ザビーネの仕度《したく》がととのわないうちに、小婢《こおんな》が帰ってしまうこともたびたびだった。すると客は、店の入口の鈴《ベル》を鳴らした。一、二度鈴を鳴らさせ呼ばせておいてから、彼女はようやく椅子《いす》から立上る決心をするのだった。そして笑顔をしながら、ゆっくり出て来た――ゆっくり、客の求むる品物を捜した――そして少し捜しても見付からない時には、あるいは(実際あったことだが)それを取出すのにあまり骨の折れる時には、たとえば室の隅《すみ》から他の隅へ梯子《はしご》をもって行かなければならないような時には、平気で品切れだと言った。それに、店を少しも片付けようともせず、また実際きれてる品物を取寄せようともしなかったので、客の方で根負けがしたり、他の店へ行ったりした。しかしだれも彼女を憎む者はなかった。やさしい声で口をきき何事にも平気でいるこの愛敬者を相手には、腹のたてようがなかった。どんなことを言われても彼女は無頓着《むとんじゃく》だった。そしてだれもよくそのことを感じたので、不平を言い始める者も、それをつづけるだけの勇気がなかった。彼女のあでやかな微笑に笑顔で答えて帰っていった。しかしもう二度と買いに来なかった。彼女はそれを少しも苦にしなかった。そしていつも微笑《ほほえ》んでいた。  彼女はフロレンスの若い女のような顔つきをしていた。くっきりした高い眉毛《まゆげ》、睫毛《まつげ》の幕の下に半ば開いている灰色の眼。少し脹《は》れた下|眼瞼《まぶた》、その下に寄ってる軽い皺《しわ》。かわいい小さな鼻は、軽やかな曲線を描いて先の方で高まっていた。も一つの小さな曲線が、鼻と上唇《うわくちびる》とを隔て、その上唇は開きかかってる口の上にまき上って、にこやかな懶《ものう》さに唇をとがらした様子になっていた。下唇は少し厚かった。顔の下部は円形《まるがた》で、フィリッポ・リッピの描いた処女のような、仇気《あどけ》ない真面目《まじめ》さをそなえていた。顔色は少し曇っていた。髪はうすい栗《くり》色で、ごたごたに束ねてあり、後ろの方はもじゃもじゃしていた。身体はきゃしゃで、骨組が細く、動作が手ぬるかった。服装《みなり》には大して気をつけていなかった――胸の開いた上着、不足がちなボタン、すり切れた汚ない靴《くつ》、おさんどんじみた様子――けれど、その若々しい優美さ、物やさしさ、本能的な愛敬、などで人の心をひいていた。店の表に出て涼んでいると、通りかかりの若者らはそれに見とれた。そして彼女は、彼らを少しも気にかけてはいなかったが、見られてることに気付かずにはいなかった。すると彼女の眼は、心寄せて見られてるのを感ずるあらゆる女の眼がするように、感謝と喜びとの色を浮かべた。そしてこう言ってるようだった。 「ありがとうよ!……もっと、もっと、見てちょうだい!……」  しかし、人に好かれることがうれしかったにせよ、彼女は本来の無精から、少しも好かれようとつとめたことはなかった。  オイレルにフォーゲルの一家にとっては、彼女はいつも悪口の種であった。彼女のことは万事彼らの気色を害した。彼女の怠惰、家の中の乱雑、服装《みなり》のだらしなさ、彼らの注意にたいする馬鹿ていねいな冷淡さ、たえざる笑顔、夫の死に接しても乱されない晴やかさ、娘の病身、店の不景気、または、いかなることがあっても、その慣れきった習慣を、いつもののらくらさを、少しも変えないでやってゆく日々の生活の、細大ともどもの退屈さ加減――彼女の万事が、彼らの気色を害した。そして最もいけないのは、彼女がそんなふうでいて人に好かれることだった。フォーゲル夫人はそれを彼女に許してやることができなかった。すべて正直な人たちはそうだが、オイレル一家の者が存在の理由としてるところのもの、そしておのれの生活を早くもこの世からの煉獄《れんごく》となしてるところのもの、すなわち強力な伝統、真正な主義、無味乾燥な義務、面白みのない労働、燥急、喧騒《けんそう》、口論、悲嘆、健全な悲観主義、そういうものの上に、実際の行為によって皮肉な拒否を投げかけんがために、ザビーネはことさらにそうしてるのだとでもいうような調子だった。神聖な一日じゅう、何にもせず、勝手なことに多くの時間をつぶし、人が懲役人のように身を粉にして苦労してるのに、横柄にも落着き払ってそれを馬鹿にするとは――おまけに、世間の者までが彼女を至当だとするとは――それはあんまりのことだった。正直に暮そうとする勇気をくじくものだった!……が幸いにも、神はよくしたものだ! この世にまだ分別をそなえた者が数人あった。フォーゲル夫人はそれらの人々といっしょにみずから慰めていた。若い寡婦について、鎧戸《よろいど》の間からのぞき得た一日のことを皆で言い合った。それらの悪口は、晩に食卓へ皆集った時、一家の者の喜びとなった。クリストフは心を他処《よそ》にして聞いていた。フォーゲル一家の者たちが隣人の行いを非難するのを、彼はあまりに聞き慣れていたので、もうそれになんらの注意も払わなかった。そのうえ彼はまだザビーネ夫人については、その露《あら》わな頸《くび》筋と両腕とをしか知らなかった。それらのものはかなり気に入るものではあったが、それだけでは、彼女の一身に決定的な断案を下すわけにはゆかなかった。けれども彼は、彼女にたいして十分の寛容を心に感じていた。そして施毛曲《つむじまが》りの気質から、彼女がフォーゲル夫人の気に入っていないことがことにありがたかった。  ごく暑い時には、夕食後、午後じゅう日の当っていた息苦しい中庭に残ってることはできなかった。家じゅうで少し息のつける場所といっては、ただ往来のそばだけだった。オイレルとその婿とは、ルイザといっしょに、時々入口へ行ってその段に腰をおろした。フォーゲル夫人とローザとは、ちょっと姿を見せるきりだった。家庭の仕事に引止められていた。フォーゲル夫人は、ぶらぶらする隙《ひま》がないことを示すのを誇りとしていた。手いっぱいに仕事をしないで家の入口で欠伸《あくび》ばかりしてるようなそんな人たちを見ると、気が苛《い》ら苛らしてくるなどというようなことを、聞えよがしに高い声で言っていた。彼らを働かせることができない――(彼女はそれを口惜《くや》しがっていた)――ので、その姿を見まいと決心して、家にはいって癇癪《かんしゃく》まぎれに働いた。ローザは彼女を真似《まね》なければならないと思っていた。オイレルとフォーゲルとは、どこにいても風が強すぎるような気がし、身体が冷えるのを恐れて、室へ上って行った。彼等は早くから寝た。そしてどんなことがあっても、少しも平素の習慣を変えたがらなかった。九時過ぎには、もはやルイザとクリストフとしか表には残っていなかった。ルイザは終日室の中で過していたから、晩になるとクリストフは、彼女に少し外の空気を吸わせるために、できるだけ誘い出すようにしていた。彼女は一人ではなかなか外に出なかった。往来の喧騒《けんそう》をきらっていた。子供らが鋭い叫びをたてて追駆け合っていた。近所の犬がそれに答えて吠《ほ》えたてていた。ピアノの音が聞え、少し遠くにはクラリネットの音が、隣の街路にはコルネットの音が聞えていた。種々の声が呼びかわしていた。人々がそれぞれ家の前を連れだって行き来していた。ルイザはそういう混雑の中に一人放り出されたら、もうどうにもしようがないと思ったろう。しかし息子《むすこ》のそばにいると、かえってそれが面白く思われるほどだった。物音は次第に静まっていった。子供や犬などがまっ先に寝にいった。人々の群が小さくなっていった。空気はいっそう清らかになった。静寂が落ちてきた。ルイザは細い声で、アマリアやローザから聞いた世間話をした。彼女はそんな話を大して面白がってるのではなかった。しかし彼女は息子《むすこ》を相手に何を話していいかわからなかった。しかも息子に近寄って何か言ってみたかったのである。クリストフはその気持を感じて、彼女の話を面白く思ってるらしいふうを装った。しかし耳は傾けていなかった。彼はぼんやりした気分に浸り込んでいって、その日の出来事を思い起こしていた。  ある晩、二人がそうしていると――母が話をしてる間に、彼は隣の小間物屋の入口が開《あ》くのを見た。女の姿が黙って出て来て、往来に腰をおろした。その椅子《いす》はルイザから数歩の所にあった。女は最も濃い暗がりの中にすわっていた。クリストフはその顔を見ることができなかった。しかしだれであるかはわかった。彼の茫然《ぼうぜん》たる気持は消え失《う》せた。空気がいっそうやさしくなったように思われた。ルイザはザビーネがいるのに気もつかないで、その静かなおしゃべりを低い声でつづけていた。クリストフは前よりもよく耳を傾けた。そしてそれに自分の意見も交えたくなり、口をききたくなり、またおそらく言葉を向うの女に聞かせたくなった。彼女の痩《や》せた姿は、じっと身動きもせず、少しがっかりしたような様子で、足を軽く組み、両手を膝《ひざ》の上に平たく重ねていた。前方をまっすぐに向いて、何にも耳にしていないらしかった。ルイザはうとうとしていた。そして家にはいった。クリストフはも少し残っていたいと言った。  もう十時になりかけていた。通りはひっそりしていた。しまいまで残っていた近所の人たちも、順々に家へはいっていった。店の戸の閉《しま》る音が聞えた。燈火のさしていたガラス戸がまたたいて見えなくなっていった。まだ一つ二つ残っていたが、それもすぐに暗くなった。しいんとした。……彼らは二人きりだった。たがいに顔を見合わしもせず、息を凝らして、おたがいにそばにいるのも知らないような様子だった。遠い野から、草の刈られた牧場の香《かお》りが漂ってき、隣の露台《バルコニー》から、一|鉢《はち》の丁字の花の匂《にお》いがしてきた。空気はよどんでいた。天の川が流れていた。一本の煙筒の真上に、北斗星が傾いていた。青白い空に星が菊のように花を開いていた。教区の会堂で十一時が鳴ると、その響きに合わして、他の会堂で澄んだ響きや錆《さ》びた響きがくり返され、また家の中で、掛時計の重い音や鳴時計の嗄《しゃが》れた声がくり返された。  二人は夢想から覚《さ》めて、同時に立上った。そして家にはいりかける時、二人ともそれぞれ、無言のまま頭で会釈をした。クリストフは室にもどった。蝋燭《ろうそく》をともし、テーブルの前にすわり、両手で頭をかかえ、何にも考えもせずに長い間じっとしていた。それから溜息《ためいき》をついて、寝床にはいった。  翌日、彼は起き上ると、機械的に窓へ近寄って、ザビーネの室の方をながめた。しかし窓掛は降りていた。午前中降りていた。その後はいつも降りていた。  翌晩クリストフは、また家の前へ出ようと母に言い出した。それが習慣になった。ルイザは喜んだ。彼が夕食を済ますとすぐに、窓を閉め雨戸を閉めて室に閉じこもってしまうのを見ると、彼女は心配になるのであった。――小さな無言の人影もまた、いつもの場所にすわりに来ることを欠かさなかった。彼らはルイザの気づかぬまに素早く頭で会釈をかわした。クリストフは母と話をした。ザビーネは往来で遊んでる自分の娘に微笑《ほほえ》みかけていた。九時ごろに彼女は娘を寝かしに行き、それからまた音もなくもどってきた。彼女が少し手間どると、クリストフは彼女がもうもどって来ないのではないかと気をもみ始めた。家の中の物音や、眠ろうとしない小娘の笑声などを、彼は窺《うかが》った。ザビーネが店の入口に現われない前から、その衣《きぬ》ずれの音を聞き分けた。彼女が出て来ると、彼は眼をそらして、いっそう元気な声で母に話しかけた。時とすると、ザビーネからながめられてる気がした。彼の方でもまたそっと流し目に見やった。しかしかつて二人の眼は出会わなかった。  子供が仲介の役を勤めた。彼女は他の子供らとともに往来を走り回った。足の間に顔をつき込んで眠ってるおとなしい犬を、皆でからかっては面白がっていた。犬は赤い眼を少し開いて、しまいには気を悪くしたらしい唸《うな》り声を発した。すると子供らは、怖《こわ》さと面白さとに声をたてながら四方へ逃げ散った。娘は金切声を出して、あたかも追っかけられてるように後ろを見い見い、やさしく笑っていたルイザの膝《ひざ》へ駆け寄ってすがりついた。ルイザは娘を引止めて種々尋ねだした。それからザビーネとの間に話が始った。クリストフは少しも口を出さなかった。彼はザビーネに話しかけなかった。ザビーネも彼に話しかけなかった。暗黙の習慣から、二人はたがいに知らないふうをした。しかし彼は自分を通りこしてかわされてる話の一語をも聞きもらさなかった。ルイザには彼のその無言が反感を含んでるもののように思われた。ザビーネの方はそうは判断しなかった。しかし彼女は彼に気がひけて、多少返辞にまごついた。すると家の中へはいる口実を見つけるのであった。  一週間の間、ルイザは風邪《かぜ》をひいて室にこもった。クリストフとザビーネとは二人きりだった。最初の晩は、二人とも恐《こわ》がっていた。ザビーネはてれ隠しに、娘を膝に抱き上げて、やたらに接吻《せっぷん》しつづけた。クリストフは困って、向うの様子を知らないふうをつづけたものかどうか迷った。変なぐあいになってきた。二人はまだ言葉をかわしたことはなかったが、ルイザのおかげですっかり知り合いになっていた。彼は一、二の文句を喉《のど》から出そうとした。しかしその声は中途でつかえてしまった。すると娘が、こんどもまた二人を当惑から救ってくれた。娘は隠れん坊をしながら、クリストフの椅子《いす》のまわりを回った。クリストフはその途中をとらえて、抱いてやった。彼は元来あまり子供好きでなかったが、その娘を抱きしめると、不思議な快さを感じた。娘は遊びに気をとられて、身をもがいた。クリストフは少しからかってやった。手に噛《か》みつかれた。それで地面に降ろしてやった。ザビーネは笑っていた。二人は子供を見ながら、なんでもない言葉をかわした。それからクリストフは、話の糸口を結ぼうと――(そうしなければならないと思って)――つとめた。しかし言葉の種が豊富でなかった。それにザビーネは、その仕事を少しもやさしくしてくれなかった。彼女は彼が言うことをただくり返すだけで満足した。 「いい晩ですね。」 「ええ、ほんとにいい晩ですわ。」 「中庭では息もつけません。」 「ええ、中庭は息苦しゅうございますね。」  話は困難になってきた。ザビーネは娘を連れもどす時刻なのをよい機会にして、娘といっしょに家にはいった。そしてもう出て来なかった。  クリストフは、彼女がその後毎晩同じようにして、ルイザが来ない間は二人きりになるのを避けはすまいかと気づかった。しかしそれは反対だった。翌日は、ザビーネが話を始めようとした。彼女は気が向いてるからというよりもむしろつとめてそうした。話の種を見つけるのにたいそう骨折ってることが、言い出した問いに自分でも困ってることが、よく感じられた。問いと答えとが、苛立《いらだ》たしい沈黙の間にぽつりぽつりと落ちた。クリストフはオットーと二人きりの初めのころのことを思い出した。しかしザビーネに対しては、話題の範囲はさらに狭かった。それに彼女はオットーほどの気長さをもたなかった。つとめてもあまりうまくゆかないことを見てとると、もうつづけて気を入れなかった。あまりに骨を折らなければならなかったので、もう面白くなくなった。彼女は口をつぐんだ。そして彼もそれに倣《なら》った。  間もなく、すべてはきわめて穏かになった。夜はまた静かになり、二人の心はまた考えにふけった。ザビーネは夢想しながら、椅子《いす》の上にゆるやかに身を揺すっていた。クリストフはそのそばで夢想していた。二人はたがいに何にも言わなかった。三十分もたつと、ある苺《いちご》車の上から生暖かい風が吹き送ってくる酔わすような匂いに、クリストフはうっとりとなって、小声に独語《ひとりごと》を言った。ザビーネはそれに二、三言答えた。それから二人はまた黙った。そのなんとも言えない沈黙とその無関心な数言との魅力を味わった。二人は同じ夢想にふけり、ただ一つの考えでいっぱいになっていた。彼らはそれがどういう考えであるか少しも知らず、みずからそれをはっきりさせなかった。十一時が鳴ると、微笑《ほほえ》みながら別れた。  次の日には、二人はもう話を交えようとも試みなかった。親しい沈黙を事とした。時々二、三の片言を口にすると、二人とも同じことを考えてるのがわかった。  ザビーネは笑いだした。 「むりに話さない方がどんなにかよござんすね!」と彼女は言った。「話さなければならないと思うと、厭《いや》になってしまいますわ!」 「ええ、世間の者が皆、」とクリストフはしんみりした調子で言った、「あなたと同じ意見だったら!」  二人とも笑った。彼らはフォーゲル夫人のことを考えていた。 「かわいそうな人ね、」とザビーネは言った、「ほんとに飽き飽きしますわ。」 「自分ではちっとも倦きないんですからね。」とクリストフは悲しい様子で言った。  ザビーネはその様子と言葉とを面白がった。 「あなたには面白いんでしょう。」と彼は言った。「あなたは楽ですよ、隠れておられるから。」 「そうですわね。」とザビーネは言った。「私は室にはいって鍵《かぎ》をかっておきますのよ。」  彼女はほとんど沈黙にも等しいかすかなやさしい笑いをもらしていた。クリストフは夜の静寂の中に、恍惚《こうこつ》として耳を傾けていた。彼はさわやかな空気を心地よく吸い込んだ。 「ああ、黙ってるのはほんとにいいことだ!」と彼は身体を伸ばしながら言った。 「そしてしゃべるのはほんとに無駄《むだ》なことですわ!」と彼女は言った。 「そうです、」とクリストフは言った、「おたがいによくわかり合えるんだから。」  二人はまた沈黙に陥った。暗いのでたがいに顔を見ることはできなかった。二人とも微笑《ほほえ》んでいた。  けれども、いっしょにいると同じことを感じていたとはいえ――もしくはそうみずから想像していたとはいえ――二人はたがいに相手のことを少しも知ってはいなかった。ザビーネはそれを別に気にかけてはいなかった。クリストフはそれほど無関心ではなかった。ある晩、彼は彼女に尋ねた。 「あなたは音楽が好きですか。」 「いいえ。」と彼女は事もなげに答えた。「退屈しますの。私にはちっともわかりません。」  その淡泊さが彼の心を喜ばした。音楽が大好きだと言いながら音楽を聞くと退屈の色を示す人々の虚偽に、彼は飽き飽きしていた。音楽を好まないでかつ好まないと口に言うことは、ほとんど一つの美徳のようにさえ彼には思えた。彼はまたザビーネに、書物を読むかどうか尋ねた。  ――読まなかった。第一書物をもっていなかった。  彼は自分の書物を貸してやろうと言った。 「真面目《まじめ》な御本でしょう?」と彼女は不安そうに尋ねた。  ――厭《いや》なら、真面目な書物でないのを。詩集を。  ――でも詩集なら真面目な書物である。  ――では小説を。  彼女は口をとがらした。  ――小説には興味がなかったのか?  ――否。興味はあった。しかしそれはいつも長すぎた。かつて終りまで読み通す根気がなかった。初めの方を忘れるし、章を飛ばして読むし、もう少しもわからなくなった。すると書物を投げ出してしまうのだった。  ――なるほど興味を感じてるりっぱな証拠だった!  ――なあに、嘘《うそ》の話はそれくらいの読み方で沢山《たくさん》だった。書物より他のことに興味を取っておいたのだった。  ――おそらく芝居へか?  ――否々。  ――芝居へは行かなかったのか?  ――行かなかった。芝居は暑すぎた。あまり人が多すぎた。家にいる方がよかった。光が眼に毒だし、役者がいかにも醜い!  その点については彼も同意見だった。しかし芝居にはまだ他のものがあった、すなわち脚本が。 「ええ。」と彼女は気のりしないような調子で言った。「でも私には隙《ひま》がありませんもの。」 「朝から晩まで何をすることがあるんですか。」  彼女は微笑《ほほえ》んでいた。 「沢山《たくさん》することがありますのよ。」 「なるほど、」と彼は言った、「店がありましたね。」 「あら、店なんか、」と彼女は平気で言った、「たいして忙しくはありません。」 「ではお嬢さんのために隙がないんですか。」 「いいえ、娘なんか! たいへんおとなしくって、一人で遊んでいます。」 「では?」  彼はそういう不謹慎な追及を詫《わ》びた。しかし彼女は面白がっていた。  ――沢山《たくさん》のことが、それは沢山のことがあった。  ――何が?  ――一々言うことができないほどだった。あらゆる仕事があった。起き上り、身じまいをし、昼食のことを考え、昼食をこしらえ、昼食を食べ、夜食のことを考え、少し室を片付け……そんなことばかりでも、もう昼は暮れてしまった……。それにまた、何にもしない時間も少しはなければならなかった……。 「退屈ではありませんか?」 「いいえ、少しも。」 「何にもなさらない時でも?」 「何にもしない時がいちばん退屈しませんわ。かえって何かする時の方が退屈しますわ。」  二人は笑いながら顔を見合った。 「あなたはほんとに幸福ですね!」とクリストフは言った。「私は何にもしないということをまだ知りません。」 「よく御存じだと私は思っていますのに。」 「四、五日前からようやくわかりかけたんです。」 「では今によくおわかりになりますわ。」  彼女と話をすると、彼は心が和《やわ》らぎ休らうのを感じた。ただ彼女と会うだけでも十分だった。不安だの、焦燥だの、心をしめつける苛《い》ら苛らした懊悩《おうのう》から、解放された。彼女と話してる時には、なんらの惑いもなかった。彼女のことを想《おも》ってる時には、なんらの惑いもなかった。彼はみずからそうだとは認めかねた。しかし彼女のそばにゆくとすぐに、快いしみじみとした安楽を覚え、ほとんどうつらうつらとしてきた。夜は、今までになくよく眠れた。  仕事の帰りがけに、彼はよく店の中をちらりとのぞき込んだ。ザビーネを見かけないことはめったになかった。二人は微笑《ほほえ》みで会釈をした。時とすると、彼女は入口にいたので、数話をかわすこともあった。あるいはまた、彼は戸を少し開いて、娘を呼び、ボンボンの小箱をその手に握らしてやった。  ある日、彼は思い切って中にはいった。チョッキのボタンがいると言った。彼女はそれを捜し始めた。しかし見つからなかった。あらゆるボタンがごっちゃになっていた、一々見分けることができないほど。彼女はその乱雑さを見られるのを少し当惑した。彼はそれを面白がって、なおよく見るために珍しそうにのぞき込んだ。 「厭ですよ!」と彼女は言いながら、両手で引き出しを隠そうとした。「のぞいちゃいけません。ごちゃごちゃですもの……。」  彼女は捜し始めた。しかしクリストフは彼女をじらした。彼女は癇癪《かんしゃく》を起して、引き出しをしめてしまった。 「見つからないわ。」と彼女は言った。「次の街路《まち》のリージさんのところへいらっしゃいな。きっとありますわ。あすこならなんでもありますよ。」  彼はその商売ぶりを笑った。 「あなたはそんなふうに、客をみんな向うへやってしまうんですか。」 「ええ、これが初めてのことじゃありませんわ。」と彼女は快活に答えた。  しかし彼女は多少きまりが悪かった。 「片付けるのはほんとに厭ですもの。」と彼女は言った。「一日一日と片付けるのを延ばして……でも明日《あした》はきっとしますわ。」 「手伝ってあげましょうか。」とクリストフは言った。  彼女は断った。承知したくはあったが、人から悪口を言われそうなので承知しかねた。それにまた、面目なかった。  二人は話しつづけた。 「そしてボタンは?」と彼女はやがてクリストフに言った。「リージさんのところへいらっしゃらないんですか。」 「行くもんですか。」とクリストフは言った。「あなたが片付けるのを待っています。」 「あら、」とザビーネは今言ったことをもう忘れて言った、「そんなにいつまでも待っちゃいけません!」  その心からの叫びが、二人を快活になした。  クリストフは彼女がしめた引き出しに近づいた。 「僕に捜さしてください。」  彼女はそれを止《と》めようとして、駆け寄った。 「いえ、いえ、どうぞ。確かにありませんのよ……。」 「ありますとも、きっと。」  すぐに彼は、得意然としてほしいボタンを引き出した。なお他にも要《い》るボタンがあった。彼はつづけて捜そうとした。しかし彼女はその手から箱をひったくって、自負心から自分で捜し始めた。  日は傾いていた。彼女は窓に近寄った。クリストフは数歩離れて腰をおろした。娘がその膝《ひざ》に上ってきた。彼は娘のおしゃべりを聞いてるふうをし、気のない返辞をしながら、ザビーネをながめていた。彼女も見られてるのを知っていた。彼女は箱の上にかがみ込んでいた。その頸《くび》筋と頬《ほお》が少し彼の眼にはいった。――そして彼女をながめているうちに、彼女が赤くなってるのに気づいた。彼も赤くなった。  子供はしきりにしゃべっていた。だれもそれに答えなかった。ザビーネはもう身動きもしなかった。クリストフは彼女が何をしてるかを見なかった。彼には、彼女が何にもしていないことが、手にもってる箱をもながめていないことが、よくわかっていた。沈黙が長くつづいた。小娘は心配になって、クリストフの膝からすべりおりた。 「なぜ何にも言わないの?」  ザビーネはにわかにふりむいて、娘を両腕に抱きしめた。箱は下に落ちた。娘は喜びの声をあげて、家具の下にころがってゆくボタンを、四つばいになって追っかけた。ザビーネは窓のそばにもどって、窓ガラスに顔を押しあてた。外の景色に見とれてるふうをした。 「さよなら。」とクリストフは途方にくれて言った。  彼女は頭も動かさなかった。そしてごく低く言った。 「さよなら。」  日曜の午後は、家の中ががらんとしていた。皆が教会堂へ行って、晩課を聞いていた。ザビーネは少しも行かなかった。ある時、美しい鐘の音がしきりに呼びたてるのに、彼女は小さな庭の戸の前にすわっていたが、それを見つけたクリストフは、冗談に彼女を責めてやった。彼女は同じ冗談の調子で、ミサだけが義務的なものであると答えた。晩課はそうではなかった。それであまり熱心になりすぎるのは無駄なことだし、不謹慎なことでさえあった。そして神は自分を恨むどころかかえってありがたがっていられるだろうと、彼女は好んで考えていた。 「あなたは自分にかたどって神をこしらえてるんです。」とクリストフは言った。 「神様になったら、私はさぞ退屈するでしょう。」と彼女は思い込んだ調子で言った。 「あなたが神になったら、あまり世間のことにはかかわらないでしょうね。」 「私が神様にお願いしたいことは、私を構ってくださらないようにということだけですわ。」 「そんならいくら願ったって悪いことになりようはないでしょう。」とクリストフは言った。 「しッ!」とザビーネは叫んだ、「不信心なことを言っていますわ。」 「神があなたに似ていると言っても、それが不信心なことだとは私は思いません。神はきっと喜ばれるに違いありません。」 「もうよしてくださいよ!」とザビーネは言った。半ば笑い半ば気にしていた。神様が怒りはすまいかと気づかい始めていた。彼女は急いで話題を変えた。 「それに、」と彼女は言った、「気楽に庭をながめることができるのも、一週間のうちに今だけですわ。」 「そうです。」とクリストフは言った。「あの人たちがいませんから。」  二人は顔を見合った。 「ほんとに静かですこと!」とザビーネは言った。「めったにないことですわ……なんだか変な気分がしますわ……。」 「ああ、」とにわかにクリストフは憤然と叫んだ、「あいつを絞め殺してやりたいと幾度思ったかしれない!」  だれのことを言ってるのか説明するに及ばなかった。 「そして他の人は?」とザビーネは快活に尋ねた。 「なるほど、」とクリストフはがっかりして言った、「ローザもいる。」 「かわいそうな娘さんだこと!」とザビーネは言った。  二人は黙った。 「ああ、いつも今のようだったら!……」とクリストフは溜息《ためいき》をついた。  彼女はにこやかな眼で彼の方を見上げたが、また眼を伏せた。彼は彼女が仕事をしてるのに気づいた。 「何をしているんです?」と彼は尋ねた。  (二人は、両方の庭の間に張られた蔦《つた》の帷《とばり》で隔てられていた。) 「おわかりでしょう。」と彼女は言いながら、膝の上の皿《さら》をもち上げた。「豌豆《えんどう》の莢《さや》をむいていますの。」  彼女は大きな溜息をもらした。 「でもそれは厭な仕事じゃありません!」と彼は笑いながら言った。 「あらたまりませんわ、」と彼女は答えた、「いつも食べ物のことにかかりあってるのは!」 「きっとあなたは、」彼は言った、「もしできることなら、厭な思いをして食べ物をこしらえるより、食べないですます方の人ですね。」 「ほんとにそうですわ!」と彼女は叫んだ。 「お待ちなさい。手伝ってあげます。」  彼は垣根《かきね》をまたぎ越して、彼女のそばに来た。  彼女は家の入口のところで椅子《いす》に腰かけていた。彼は彼女の足下の踏段にすわった。腹のところにたくねてある彼女の長衣の皺《しわ》の中から、彼は青い豌豆の莢《さや》をつかみ取った。そして彼女の膝にはさまれてる皿の中に、丸い小さな豆を入れた。彼は下を見つめていた。ザビーネの黒い靴《くつ》下が見えていて、踝《くるぶし》や足先の形を示していた。彼は彼女を見上げられなかった。  空気は重かった。空は白ばんでごく低くたれ、そよとの風もなかった。一枚の木の葉も動かなかった。庭は大きな壁で仕切られ、世界はそこで終っていた。  子供は隣の女と出かけていた。二人きりだった。二人は物を言わなかった。もう何にも言うことができなかった。眼をあげないで彼は、ザビーネの膝から、なお豌豆をつかみ取った。その指先は彼女に触れると震えた。瑞々《みずみず》しいなめらかな莢の中で、ザビーネの指先に出会った。彼女の指も震えていた。二人はもうつづけることができなかった。たがいに眼をそらしてじっとしていた。彼女は椅子に身をそらし、口を半ば開き、両腕をたれていた。彼はその足下にすわり、彼女に背をもたしていた。肩と腕とに沿って、ザビーネの膝の温《ぬく》みを感じた。二人とも息をはずましていた。クリストフは手のほてりを冷すために石に押しあてた。その片方の手が、靴から出てるザビーネの足先に触れた。そして引離すことができなくてその上を押えた。二人ともぞっと身を震わした。茫《ぼう》として気を失いかけた。クリストフの片手はザビーネの小さな足の細い指先を握りしめていた。ザビーネは汗ばみまた冷たくなって、クリストフの方へ身をかがめてきた……。  聞き慣れた人声が、その陶酔から二人を呼びさました。二人は震え上った。クリストフは一挙に飛び立ち、また垣根《かきね》を越えた。ザビーネは長衣の中に莢を拾い集めて、家へはいった。中庭から彼はふり向いた。彼女は戸口に立っていた。二人は顔を見合った、雨の細かな粒が木の葉に音をたて始めていた……。彼女は戸を閉ざした。フォーゲル夫人とローザとがもどってきた……。彼は自分の室にはいった……。  黄色っぽい昼の光が、激しい雨におぼれて消えかかったころ、彼は抗しがたい衝動に駆られてテーブルから立上った。しまってる窓のところへかけつけて、向うの窓の方へ両腕を差出した。同時に、向うの窓に、しまってる窓ガラスの後ろに、室の薄暗がりの中に、両腕をこちらに差出してるザビーネの姿を、彼は見た――見たと思った。  彼は室から駆け出した。階段を降りて行った。庭の垣根《かきね》に駆け寄った。人に見られるのも構わずに、それを乗り越そうとした。しかし、彼女の姿が見えた窓をながめると、雨戸がすっかりしめ切ってあった。家の中は寝静まってるかと思われた。彼は行くのを躊躇《ちゅうちょ》した。窖《あなぐら》へ行こうとしていたオイレル老人が、彼を見て呼びかけた。彼は足を返した。夢をみたような気がした。  ローザはどういうことが起こってるか、長く気づかないではいなかった。元来彼女には狐疑《こぎ》心がなかったし、嫉妬《しっと》の感情とはどんなものだかまだ知らなかった。彼女はすべてを与えるつもりでい、また代わりに何かを求めようとはしなかった。しかし、クリストフから少しも愛してもらえないことを悲しげにあきらめてはいたものの、クリストフが他の女を愛するようなことがあろうとは、かつて思ってもみなかった。  ある晩、食事のあとに、彼女は数か月来のめんどうな刺繍《ししゅう》をなし終えた。うれしい心地がした。一度クリストフと話をしに行って、いくらか心を晴らしたかった。母が背を向けてるのに乗じて、室からぬけ出した。悪戯《いたずら》をする小学生徒のように、家の外に忍び出た。いつまでたってもその仕事が終えるものかと軽蔑《けいべつ》的な口をきいたクリストフを、少しやりこめてやるのが楽しみだった。この憐《あわ》れな娘は、自分にたいするクリストフの感情がどんなものだか、いたずらに知ってるばかりだった。自分で人に会うのがうれしいものだから、他人も自分に会えばうれしいものだといつも考えがちであった。  彼女は表に出た。家の前にはクリストフとザビーネとが腰かけていた。ローザの心は悲しくなった。けれども彼女は、その不穏当な印象を受けてもやめなかった。彼女は快活にクリストフを呼びかけた。その鋭い声音を静かな夜の中に聞いて、クリストフは誤った音符を聞いたような気がした。彼は椅子《いす》の上でぞっとし、怒りに顔をしかめた。ローザは彼の鼻の先に、得意然として刺繍《ししゅう》を振ってみせた。クリストフは苛立《いらだ》ってそれを押しのけた。 「できあがったわ、できあがったわ!」と彼女は言い張っていた。 「ではも一つ始めたらいいでしょう。」とクリストフは冷淡に言った。  ローザはまごついた。喜びはすべて消えてしまった。  クリストフは意地悪く言いつづけた。 「そしてあなたがそれを三十もこしらえたら、すっかりお婆《ばあ》さんにでもなったら、生涯《しょうがい》を無駄《むだ》にはしなかったと自分で考えることぐらいはできるでしょう。」  ローザは泣きたくなっていた。 「まあ意地悪だこと!」と彼女は言った。  クリストフは恥ずかしくなった。そして二、三言親切な言葉をかけてやった。彼女はごくわずかなことにも満足しがちだったので、すぐにまた信頼してしまった。そして盛んに騒々しいおしゃべりをやりだした。家の中での習慣のために、低い声で話すことができずに、大声にわめきたてた。クリストフはいくら我慢をしても、不機嫌《ふきげん》さを隠すことができなかった。初めは苛立った簡単な言葉を返してやったが、次にはもうなんとも返辞をせず、背中を向けて、彼女のがらがらしたおしゃべりのままに歯ぎしりをしながら椅子《いす》の上にやきもきした。ローザは彼がじりじりしてるのを見、黙らなければいけないことを知っていた。それでもなお激しくしゃべりつづけるばかりだった。ザビーネは数歩先の暗がりの中で黙って、皮肉な平静さでその光景を見ていた。それから飽きてきて、その晩はもう駄目になったと感じながら、立上って家にはいった。クリストフは彼女がいなくなってからようやく、彼女の立去ったことに気づいた。そして自分もすぐ立上り、言い訳もしないで、冷やかな挨拶《あいさつ》を言い捨てて、ふいと行ってしまった。  ローザは街路に一人残って、彼がはいって行った戸をがっかりしながらながめていた。涙が出て来た。彼女は急いで家にはいり、母と口をきかないで済むようにと、足音をたてないで自分の室に上ってゆき、大急ぎで着物をぬぎ、一度寝床にはいって蒲団《ふとん》をかぶると、そのまますすり泣き始めた。彼女は今起こったことを考えてみようとはしなかった。クリストフがザビーネを愛してるかどうか、クリストフとザビーネとが自分を辛抱することができないかどうか、それをみずから尋ねてみなかった。彼女は知っていた、万事終ったことを、もはや生活には意義がなくなったことを、ただ死ぬより外はないことを。  翌朝になると、また考慮の力が永久のいたずらな希望を伴って彼女に帰ってきた。前夜の出来事を一々思い起しながら、それをあれほど重大に考えたのは間違いだったと思い込んだ。もちろんクリストフは彼女を愛していなかった。がそれは、こちらから愛してるのでついには向うからも愛されるだろうという、ひそかな考えを心の底に秘めて、あきらめていた。しかしザビーネと彼との間に何かあるということを、どの点で見て取られたのか。あんなに賢い人が、だれの目にも下らなく平凡に見える女などを、どうして愛することができようか。彼女は安心を覚えた。――がやはり、クリストフを監視し始めた。その日は何にも眼に止らなかった、なぜなら、眼に止るようなことが何にもなかったから。しかしクリストフの方では、彼女が終日自分のまわりをうろうろしてるのを見て、なぜとなく妙な苛立《いらだ》ちを覚えた。晩に彼女がまた往来へ出て来て、思い切って、二人の横に腰をおろすと、彼の苛立ちはさらに激しくなった。それは前夜の光景の反復であった。ローザが一人でしゃべった。しかしザビーネは前夜ほど長く待たないで、間もなく家へはいった。クリストフもそれに倣《なら》った。ローザはもはや、自分のいるのが邪魔になってることを、みずから隠すわけにゆかなかった。しかしこの不幸な娘は自分を欺こうとつとめた。自分の心をごまかそうとするのは、最もいけないことだとは気づかなかった。そしていつもの頓馬《とんま》さで、その後毎日同じことをやった。  翌日クリストフは、ローザを傍《かたわ》らに控えながら、ザビーネが出て来るのをむなしく待った。  その次の日には、ローザ一人きりだった。二人は彼女と争うのをやめていた。しかし彼女がかち得たものは、クリストフの恨みだけだった。クリストフは唯一の幸福たる大事な晩の楽しみを奪われたのを、非常に憤った。自分の感情にばかりふけって、かつてローザの感情を察してやろうともしなかっただけに、彼女をいっそう許しがたく思った。  かなり以前からザビーネは、ローザの意中を知っていた、自分の方で愛してるかどうかを知る前に、すでに彼女はローザが嫉妬《しっと》を感じてるのを知っていた。しかし彼女はそれについてなんとも言わなかった。そして勝利を確信してる美しい女にありがちの残忍さをもって、彼女は黙って嘲弄《ちょうろう》半分に、拙劣な敵の徒労をながめていた。  ローザは戦場を自分の手に収めながらも、自分の戦術の結果を憐れにもうちながめた。彼女にとって最善の策は、強情を張り通さないことであり、クリストフを平穏にさしておくことであった、少なくとも当分のうちは。ところが彼女はそうしなかった。そして最悪の策は彼にザビーネのことを話すことだったが、彼女はまさしくそれをした。  彼女は胸を踊らせながら、彼の意中を知ろうとして、ザビーネはきれいだとこわごわ言ってみた。非常にきれいだとクリストフは冷やかに答え返した。ローザはみずから求めたその答えを予期していたものの、それを耳にきくと心に打撃を受けた。ザビーネがきれいであることを彼女はよく知っていた。しかしかつてそれを気に止めなかった。ところが今初めて、クリストフの眼を通して彼女をながめていた。そして見て取ったのは、彼女のすっきりした顔だち、小さな鼻、かわいい口、ほっそりした身体、優美な動作……。ああどんなにか切ないことだった!……そういう身体になれるならば、何物に換えても惜しいとは思わなかった。自分の身体よりあの身体の方を人が好む訳は、あまりによくわかった。……自分の身体は!……こんな身体に生まれるとはなんの因果だったろう。なんという重々しい身体だろう。なんと醜く見えることだろう。なんと厭らしいことだろう。そして、それから解放されるには死より外に道はないと考えると!……彼女はきわめて傲慢《ごうまん》であり同時に謙譲だったから、愛されないことに苦情を言いはしなかった。苦情を言うなんらの権利もなかった。そしてなおいっそう自分を卑下しようとつとめた。しかし彼女の本能はそれに反抗した。……否、それは不正だ!……なぜこんな醜い身体は自分にだけあって、ザビーネにはないのか。……なぜ人はザビーネを愛するのか。ザビーネは人に愛されるだけのことを何をしたか。……ローザの容赦ない眼に映じたザビーネは、怠惰で、やりっぱなしで、利己的で、だれにも構わず、家のことも子供のこともまた何にも気を止めず、自分の身だけをかわいがり、生きてるのもただ、眠ったりぶらついたりなんにもしないでいるためばかりだった。……そしてそんなことで、人に好かれてるのだ……クリストフに好かれてるのだ……あれほど厳格なクリストフに、何よりもローザが尊重し感服してるクリストフに! それはあまりに不正なことだった。またあまりに馬鹿げたことだった。……どうしてクリストフはそれに気づかなかったのか?――彼女は時々、ザビーネにとってはあまりありがたくない意見を、クリストフの耳に入れざるを得なかった。彼女はそうしたくはなかったが、自分で控えることができなかった。そしてはいつもみずから後悔した。なぜなら、彼女はきわめて善良で、だれの悪口をも言うことを好まなかったから。それになおいっそう後悔したわけは、クリストフがいかに夢中になってるかを示す残酷な答えを、いつもそれから招き出した。クリストフは自分の愛情を傷つけられると、相手を傷つけることばかり求めた。そしていつもうまくいった。ローザはなんとも答え返さないで、泣くまいと我慢しながら唇《くちびる》をきっと結び、頭をたれて去っていった。彼女は自分が悪かったのだと考えた。クリストフにその愛する者の悪口を言って心を痛めさしたから、これも当然の報いだと考えた。  ローザの母の方は、それほど我慢強くなかった。何にでもよく眼が届くフォーゲル夫人は、オイレル老人とともに、クリストフがよく隣の若い女と話をしてることに、間もなく気づいた。恋物語を推察するにかたくはなかった。他日ローザとクリストフとを結婚させようという彼らのひそかな計量は、そのために障害を受けた。相談もせずに勝手にきめたことだし、クリストフにもわかってるはずだとは言えなかったけれど、それでも彼らにとっては、右のことはクリストフから仕向けられた直接の侮辱のように考えられた。アマリアの専制的な心は、人が自分と異った考えをもつことを許せなかった。幾度となくザビーネについて吐いた冷評を、クリストフからないがしろにされたのが、いかにも忌々《いまいま》しく思われるのであった。  彼女は憚《はばか》りもなくその冷評を彼にくり返し聞かした。彼が傍らにいるたびごとに、彼女は何か口実を設けて隣の女の噂《うわさ》をした。最も侮辱的な事柄を、最もクリストフの気にさわるような事柄を、わざわざ捜し求めた。そして彼女の生々《なまなま》しい眼と言葉とをもってすれば、それを見出すのは訳もなかった。善を施すとともにまた害悪をなす術においても、男よりずっとすぐれている女特有の残忍な本能から、彼女はザビーネの怠惰や道徳的弱点よりもむしろ、その不潔なことを多く言いたてた。彼女の厚かましい穿鑿《せんさく》的な眼は、窓ガラス越しに、家の奥まではいり込み、ザビーネの粉飾《ふんしょく》の秘密まで見通して、不潔な証拠を探り出し、彼女はそれをずうずうしい満足さで並べたてた。礼儀上すっかり言い尽されない場合には、口で言うよりいっそうほのめかした。  クリストフは恥辱と憤怒とに顔色を変え、布のように蒼白《あおじろ》くなり、唇《くちびる》を震わした。ローザはどういうことになるかわからない気がして、止めてくれと母に願った。ザビーネを弁護しようとさえ試みた。しかしそれはますますアマリアの攻勢を激しくさせるばかりだった。  そして突然、クリストフは椅子《いす》から飛び上った。彼はテーブルをたたきながら怒鳴りだした。そういうふうに一婦人のことを噂し、その居間をのぞき込み、その浅間しい事柄を並べたてるのは、卑劣きわまることだ。一人離れて暮してゆき、だれにも害をなさずだれの悪口もいわない、善良な美しい穏かな人、それにたいして憤慨する者は、きわめて意地悪な奴《やつ》に違いない。しかし、それで向うの人を傷つけたと思うのは、大した間違いだ。それはただ、向うの人にますます同情を集めさせ、その善良さをますます目だたせるばかりだ。  アマリアはあまり言いすぎたと感じていた。しかし彼女はクリストフの訓戒が癪《しゃく》にさわった。そして論鋒《ろんぽう》を転じて言った。善良さを云々《うんぬん》するのは訳もないことだ。善良という言葉をもってすれば、なんでも許される。なるほど、決して何にも手をつけず、だれにも構わず、自分の義務を尽さないで、それで善良だとされるのだから、至って便利なものだ!  それにたいしてクリストフは答え返した。第一の義務は、他人にたいして生活を楽しくなしてやることだ。しかしながら、醜いこと、無愛想なこと、人をいやがらせること、他人の自由を妨げること、人を苦しめること、隣人や召使や家族や自分自身をそこなうこと、それを唯一の義務と心得てるような奴《やつ》が、世には沢山ある。そういう者どもやそういう義務は、疫病と共に、御免こうむりたいものだ!……  争論は激烈になっていった。アマリアはきわめて苛棘《かきょく》になった。クリストフは一歩も譲らなかった。――そして最も明らかな結果としては、その後クリストフが、たえずザビーネといっしょのところを見せつけようとすることだった。彼は彼女を訪れて戸をたたいた。彼女と快活に談笑した。そのためには、アマリアやローザに見られるような時を選んだ。アマリアは激烈な言葉でそれに報いた。しかし正直なローザは、そういう残忍な妙計に胸をしぼらるる思いがした。彼が自分たちをさげすんでることを、彼が復讐しようとしてることを、彼女は感じた。そして苦《にが》い涙を流した。  かくて、幾度となく不正の苦しみを受けたことのあるクリストフは、今や他人に不正の苦しみを与えることを覚えた。  それからしばらくたったころ、この町から数里隔たったランデックという小さな町で粉屋をやってるザビーネの兄が、息子の洗礼式を挙げた。ザビーネは教母だった。彼女はクリストフを招待した。彼はそういう祝いごとを好まなかったが、フォーゲル一家の者をいやがらせかつザビーネといっしょにいられるという満足のために、さっそく承知をした。  ザビーネは、断られることはわかっていながら、わざわざアマリアとローザとを招待して、意地悪な楽しみを味わった。はたして彼女らは断った。ローザは承諾したくてたまらなかった。彼女はザビーネをきらってはいなかった。クリストフが愛してるので、時には愛情でいっぱいになる気持がすることもあった。ザビーネにそのことを言って、頸《くび》に飛びつきたかった。しかし母が控えていたし、母の実例があった。彼女は傲然と心を引きしめて、招待を断った。それから、彼ら二人が出発してしまった時、二人がいっしょにいて、いっしょに楽しくしていて、この七月の麗わしい日に、ちょうど今ごろは野を散歩してるだろうと思うと、しかも自分は、口やかましい母の傍らに、山のように堆《うずたか》い繕《つくろ》い物とともに、室の中に閉じこもってるのに、と思うと、彼女は息がつまるような気がした。そして自分の自尊心をのろった。ああ、もしまだ間に合うなら?……だが間に合ったとしても、やはり彼女は同じことだったろう……。  粉屋は自分の腰掛馬車をやって、クリストフとザビーネとを迎えさした。二人は途中で、数人の招待客を乗せてやった。天気はさわやかでかわいていた。野の中の桜の実の赤い房が、うららかな太陽に輝いていた。ザビーネは微笑《ほほえ》んでいた。その蒼ざめた顔は、清新な空気のため薔薇《ばら》色になっていた。クリストフは膝《ひざ》の上に女の子をのせていた。二人はたがいに話そうとしなかった。だれ構わず隣の者に、そして何事にかかわらず、ただ話しかけた。そしてたがいの声を聞いて満足し、同じ馬車で運ばれてるのに満足した。人家や樹木や通行人などをたがいにさし示しては、子供らしい喜びの眼つきをかわした。ザビーネは田舎《いなか》が好きであった。しかしほとんど行ったことがなかった。不治の怠惰な性質のために、少しも散歩を試みなかった。もう満一年近くも町から出たことがなかった。それでちょっとした物を見ても面白がった。そんな物は、クリストフにとっては少しも目新しくなかった。しかし彼はザビーネを愛していた。そして愛する者の常として、彼女を通してすべてを見ていた。彼女の喜びの戦《おのの》きを一々感じ、さらに彼女の情緒を高まらしていた。彼は恋人と一つに溶け合いながら、自分の一身を挙げて彼女に与えきっていたのである。  水車場へ着くと、農家の人たちや他の招待客が中庭に集まっていて、非常な大騒ぎで二人を迎えた。鶏や家鴨《あひる》や犬などが声を合わしていた。粉屋のベルトルトは、金色の髪で、頭も肩も四角張り、ザビーネが小柄なのと同じ程度に肥大で、快活な男だった。彼は小さな妹を両腕に抱き取り、こわれやしないか気づかってるかのようにそっと地面に降ろした。小さな妹は例のとおり、その大男を勝手に取扱い、しかも大男の兄は、彼女のむら気や無精や沢山の欠点を、口重々しく嘲《あざけ》りながらも、足に接吻《せっぷん》せんばかりに恭《うやうや》しく仕えていることを、クリストフは間もなく見て取った。彼女はそういうことに慣れていて、当然のことだと思っていた。当然のことだと思っていて、どんなことにも驚かなかった。彼女は愛されるためにもなんにもしなかった。彼女にとっては愛されるのがまったく自然のことらしかった。もし愛されなくとも彼女は平気だった。そのゆえにまただれでも彼女を愛した。  クリストフはなおも一つ発見した。それは前のほど愉快なものではなかった。洗礼式はただに教母を仮定するばかりではなく、また教父をも仮定するものである。そして教父は教母にたいしてある権利をもってるもので、教母が年若くてきれいである時には、教父はたいていその権利を捨てるものではない。ところで、金髪の縮れた耳輪をつけた一人の百姓が、笑いながらザビーネに近寄って、その両の頬《ほお》に接吻した時、クリストフはそれを見て、にわかに気がついた。そういうことを今まで忘れていたのは馬鹿であるし、それを気にかけるのはさらに馬鹿であると、彼は考えるどころかかえって、あたかもザビーネがその闇討《やみうち》にわざわざ自分を陥れたもののように、彼女を恨んだ。式のつづく間、彼女と別々になってると、彼の不機嫌《ふきげん》さはなお募ってきた。牧場の間をうねってゆく行列の中で、ザビーネは時々ふり向いて、彼の方にやさしい眼つきを送った。彼は見ないふりをしていた。彼女は彼が怒ってるのを感じ、その訳も察していた。しかしそれでも彼女はほとんど平気だった。かえって面白がっていた。もし愛する男とほんとうに仲違いをしても、たといそれに心痛を感じようとも、彼女は決してその誤解をとこうとは露ほどもつとめなかったろう。それはたいへん骨の折れることに相違なかった。どんなことでもついにはひとりでによくなってゆくものである……。  食卓でクリストフは、粉屋の妻君と頬の赤い太った娘との間にすわった。彼はその娘に従ってミサに列して、その時は別に気にも止めなかったが、今少し見てやろうと思いついた。そして相当の容貌《ようぼう》だと思ったので、腹癒《はらい》せのために、わざとザビーネの注意をひくように、大声にちやほやした。彼はうまくザビーネの注意をひき得た。しかしザビーネは、どんなことにもまただれにも、嫉妬《しっと》を感ずるような女ではなかった。自分が愛されてさえおれば、その人がなお他の者を愛しようと、そんなことには無関心だった。腹をたてるどころか、クリストフが楽しんでるのをうれしがった。食卓の向う端から、最もあでやかな笑みを彼に送った。クリストフはまごついた。もうザビーネの冷淡さは疑えなかった。そして彼はまた黙々たる脹《ふく》れ顔に返った。揶揄《やゆ》されようと、杯に酒を盛られようと、何をされても機嫌がなおらなかった。ついに彼は、その尽きることなき飲食の間に何をしに来たのかと、腹だたしくみずから尋ねながら、うとうとするような心地になってしまったので、招待客の幾人かをその農家へ送りかたがた舟を乗り回そうと粉屋が言い出したのも、耳に止めなかった。またザビーネが、同じ舟へ乗るためにこちらへ来いと相図してるのも、彼の眼にはいらなかった。そうしようと思った時には、もう彼の席はなくなっていた。そして他の舟に乗らなければならなかった。その新たな不運は彼をますます不機嫌《ふきげん》になしたが、幸いにも、同乗者を途中でたいてい降ろしてゆくことがすぐにわかった。すると彼は気分を和らげ、それらの人々に晴やかな顔を見せた。その上に、水上の麗かな午後、舟を漕《こ》ぐ楽しさ、質朴《しつぼく》な人々の快活さなどは、ついに彼の不機嫌さをすっかり消散さしてしまった。ザビーネがそばにいなかったので、彼はもう少しも気を引きしめず、他人と同じくなんらの懸念もなしに磊落《らいらく》に遊び楽しんだ。  皆は三|艘《そう》の舟にのっていた。三艘ともたがいに追い抜こうとして間近につづいていた。人々は舟から舟へ、快活な冗談を言い合った。舟がすれ合った時、クリストフはザビーネの笑みを含んだ眼つきを見た。そして彼もまた微笑《ほほえ》み返さないではおれなかった。仲直りができた。やがて二人でいっしょに帰ってゆかれることを彼は知っていたのである。  人々は四部合唱を歌い始めた。おのおのの群れが順次に歌の一句を言い、反覆部はみなで合唱した。間を隔てた舟が、たがいに反響を返し合った。歌声は小鳥のように水面をすべっていった。時々どの舟かが岸に着けられた。一、二人の百姓が降りていった。降りた者は岸に立って、遠ざかってゆく舟に相図をした。元からあまり多くない仲間は次第に減っていった。声は合唱から一つ一つ離れていった。しまいには、クリストフとザビーネと粉屋との三人だけになった。  三人は同じ舟に乗り、流れを下って帰っていった。クリストフとベルトルトとは櫂《かい》を手にしていたが、漕いではいなかった。ザビーネはクリストフの正面に艫《とも》の方にすわって、兄と話をし、クリストフをながめていた。兄との対話のために、二人は安らかに見かわすことができた。もし言葉が途切れたら二人は見かわすことができなかったろう。その嘘《うそ》の言葉は、こう言うようだった、「私が見てるのはあなたではありません。」しかし眼つきはたがいにこう言っていた、「あなたはどういう人? 私が愛してるあなたは!……どういう人だろうと、私が愛してるあなた!……」  空は曇ってきた。霧が牧場から立ちのぼり、川は水蒸気をたて、太陽は靄《もや》の中に消えていった。ザビーネは震えながら、小さな黒い肩掛で肩と頭とを包んだ。彼女は疲れてるらしかった。舟が岸に沿うて、枝をさし伸べた柳の下にすべってゆく時には、彼女は眼を閉じた。ほっそりした顔が蒼ざめていた。唇には苦しそうな皺《しわ》が寄っていた。彼女はもう身動きもしなかった。苦しんでる――たいへん苦しんだ――死んでる、ようだった。クリストフは心がしめつけられた。彼は彼女の方に身をかがめた。彼女は眼を開き、クリストフの不安な眼が問いかけてるのを見、それに微笑《ほほえ》み返してやった。それは彼にとって一条の日の光にも等しかった。彼は小声で尋ねた。 「加減が悪いんじゃありませんか。」  彼女は否という身振をして言った。 「寒いんですの。」  二人の男は自分たちの外套《がいとう》を彼女にかけてやった。あたかも子供を夜具の中にくるんでやるように、その足先や脛《すね》や膝《ひざ》を包んでやった。彼女はされるままになって、眼つきで礼を言った。細かな冷たい雨が落ち始めた。二人は櫂を取って、帰りを急いだ。重々しい雲が空を隠していた。川はインキのような波をたてていた。野の中にはあちらこちらに、人家の窓に火がともった。水車場へ着いた時には、雨が激しく降りしきっていた。ザビーネは凍えていた。  台所で盛んに火を焚《た》いて、驟雨《しゅうう》の過ぎるのを待った。しかし雨は降り募るばかりで、風まで加わった。町へ帰るには馬車で三里ほど行かなければならなかった。粉屋は、こんな天気にはザビーネを帰らせられないと言った。そして彼ら二人に、その農家で一夜を明かしてくれと言い出した。クリストフは承諾するのに躊躇《ちゅうちょ》した。彼はザビーネの眼つきに相談しかけた。しかしザビーネの眼は炉の炎をじっと見つめていた。クリストフの決断に影響するのを恐れてるもののようだった。しかしクリストフが承諾の一言を言った時、彼女は彼の方へ赤い――(それは火の反射だったろうか?)――顔を向けた。彼は彼女が満足してるのを見てとった。  楽しい一晩……。外には雨があばれていた。火は黒い暖炉の中で、金色の火花を無数に散らしていた。皆はそのまわりに丸く集まっていた。彼らの奇怪な影が壁の上に揺いでいた。粉屋はザビーネの娘に、手で種々な影を作る仕方を見せていた。子供は笑っていた。それでもすっかり安心しきってはいなかった。ザビーネは火の上にかがみ込んで、重い火箸《ひばし》で機械的に火をかきたてていた。彼女は少しぐったりしていた。家庭のことを述べたてる嫂《あによめ》のおしゃべりに、耳も傾けずただうなずきながら、微笑《ほほえ》んで夢想にふけっていた。クリストフは粉屋と並んで影の中にすわり、子供の髪を静かに引っ張っていた。そしてザビーネの微笑をながめていた。彼女は彼から見られてることを知っていた。彼は彼女から微笑《ほほえ》みかけられてることを知っていた。二人にはその晩じゅうただの一度も、たがいに話し合う機会もなく、正面に顔を見かわす機会もなかった。また二人はそうしようとも求めなかった。  二人は晩早く別れた。彼らの寝室は隣合っていた。内部に扉《とびら》が一つあって通じ合っていた。クリストフは我知らず、ザビーネの室の方に※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かけがね》がおろしてあることを確かめた。彼は床にはいって、眠ろうとつとめた。雨が窓ガラスを打っていた。風が煙筒の中でうなっていた。階下《した》の扉《とびら》が一つばたばた動いていた。一本の白楊樹《はくようじゅ》が嵐《あらし》に打たれて、窓の前でみりみり音していた。クリストフは眼を閉じることができなかった。彼女のそばに同じ屋根の下にいることを考えた。彼女とは壁一重越しであった。ザビーネの室にはなんの音も聞えなかった、しかし彼女の姿が見えるように思われた。寝床の上に起き上って、壁越しに小声で彼女を呼び、愛のこもった熱烈な言葉を言い送った。そして、なつかしい声が自分に答えてくれ、自分の言った文句をくり返し、低く自分の名を呼んでるのが、聞こえるような気がした。自分一人で問うたり答えたりしてるのか、あるいは彼女が実際口をきいてるのか、彼にはわからなかった。少し高い呼び声をきくと、じっとしてることができなかった。彼は寝台から飛び出した。暗夜の中を手探りで、扉に近寄った。彼はそれを開きたくなかった。その扉がしまってるので安心を覚えていた。そしてふたたびそのハンドルに触れると、扉の開くのが眼についた……。  彼ははっとした……。また静かに扉をしめ、また開き、も一度しめた。先刻扉は締まっていたではないか。そうだ、彼はそれを確かに知っていた。では誰が開いたのか。彼は胸がとどろいて息がつけなかった。寝台によりかかった。腰をおろして息をついた。彼は情熱に圧倒された。そして身動きができなくなった。身体じゅうが震えた。彼はその未知の歓喜を、数か月来呼び求めてはいたが、それが今自分のそばにそこにあって、もう何も間を隔てる物がない時になって、恐怖の念をいだいた。恋にとらわれてる激越なこの青年は、その欲求が実現されかかるとにわかに、恐怖と嫌悪《けんお》とを感ずるのみだった。彼はその欲望を恥じ、自分が将《まさ》にせんとしてることを恥じた。彼はあまりに愛していたので、愛するものをあえて享楽することができず、むしろそれを恐れた。悦《よろこ》びを避けるためには、何事でもなしたかも知れなかった。愛することは、ああ愛することは、愛するものを涜《けが》すことによってしか可能ではないのか?……  彼は扉のそばにまたやって来ていた。そして、愛欲と懸念とに震えながら、錠前に手をかけながら、開こうと決心することができなかった。  そして扉の向う側では、床石に素足をつけ、寒さに震えながら、ザビーネが立っていた。  かくて二人は躊躇《ちゅうちょ》した……幾何《いくばく》の間かを……幾分間かを、幾時間かを。……二人はたがいにそこにいることを知らなかった、しかもまた知っていた。二人はたがいに腕を差出していた――彼は激しい愛欲に押しつぶされてはいる勇気もなく――彼女は、彼を呼び、彼を待ち、彼がはいって来はすまいかとうち震えながら……。そしてついに彼がはいろうと意を決したのは、彼女が思い切って※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かけがね》をしてしまった時であった。  すると彼は自分を狂人だとした。彼は全力をこめて扉にのしかかった。口を錠前に押しあてて願った。 「あけて!」  彼はごく低くザビーネを呼んだ。彼女は彼のあえぐ息を聞き得た。彼女は扉のそばに釘《くぎ》付けになって、身動きもせず、凍えきり、歯をうち合して震え、扉を開く力もなく、床につく力もなかった……。  暴風雨はなおつづいて、樹木を鳴らし、家の戸をきしらしていた……。二人はおのおの、身体は疲れ果て、心は悲しみに満ちて、自分の寝床へもどった。鶏が嗄《しわが》れた声で鳴いた。曙《あけぼの》の最初の光が、一面に濛《もう》と曇った窓ガラスを通して現われた。降りしきる雨におぼれた、悲しい蒼白《あおじろ》い曙であった。  クリストフはできるだけ早く起き上った。彼は台所へ降りてゆき、人々と話をした。彼は出発を急ぎ、ザビーネと二人きりになるのを恐れた。お上さんが出て来て、ザビーネの気分の悪いことを告げ、昨日の散歩に風邪《かぜ》をひいて、その朝出発しがたいことを言った時、彼はほとんど安堵《あんど》の思いをした。  帰りの道中は痛ましかった。彼は馬車を断った。そして、地面や樹木や人家を喪布《もぬの》のように包んでる黄色い霧の中を、ぬれた野を通って、徒歩で帰っていった。光と同じく、生命も消え失《う》せてるかと思われた。すべてが幽鬼のようなありさまをしていた。彼自身も幽鬼のようであった。  家へ帰ってみると、皆|怒《おこ》った顔をしていた。彼がザビーネといっしょに、どこでだか分ったものじゃない、一夜を過したことを皆いまいましく思っていた。彼は自分の室にとじこもって、仕事にかかった。ザビーネは翌日帰って来たが、やはり室に閉じこもった。二人はたがいに会わないように用心した。それに天気が雨がちで寒かった。どちらも外へ出かけなかった。二人はしめ切った窓ガラスの影から見合った。ザビーネは沢山着込んで暖炉の隅《すみ》にうずくまり、考えに沈んでいた。クリストフは書き物の中に埋っていた。二人は遠慮気味に窓から窓へ会釈をかわした。二人とも自分が何を感じてるか明確に知ってはいなかった。彼らはたがいに恨み、自分自身を恨み、事物を恨んでいた。農家の一夜は考えの外におかれていた。彼らはそれに顔を赤くした。そして自分たちの熱狂を多く恥じてるのか、熱狂に打ち負けなかったことを多く恥じてるのか、自分でもわからなかった。たがいに顔を合せるのがつらかった。なぜなら、顔を見合すと避けたく思ってる記憶が浮かんできたから。そしてたがいに同じ思いで、どちらも室の奥に引込んで、すっかりおのれを忘れてしまおうとした。しかしそれはできなかった。そして彼らはたがいのひそかな敵意を苦しんだ。クリストフはある時、ザビーネの冷たい顔の上に、隠れた怨恨《えんこん》の表情を読み取り得て、それが長く頭から離れなかった。彼女もやはり同じように、そういう考えに苦しんでいた。いくらそれとたたかい、それを打消してみても、それから免れることはできなかった。自分の心のうちに起こったことをクリストフに推察されたという恥ずかしさが、それに加わっていた――そして身を提供した恥ずかしさが……身を提供しながら与えなかった恥ずかしさが。  クリストフは音楽会のために、ケルンやデュッセルドルフへ行く機会を進んでとらえた。家を遠く離れて二、三週間過すのは、きわめて愉快なことだった。それらの音楽会の準備と、そこで演奏しようと思ってる新曲の創作とに、彼はすっかり没頭して、ついに煩わしい思い出を忘れてしまった。ザビーネもまた例のぼんやりした生活を始めて、思い出は頭から消え失せた。二人はたがいのことを平気で考えるようになった。ほんとに愛し合っていたのであろうか? 彼らはそれを疑ってみた。クリストフはザビーネに別れも告げないでケルンへ出発しようとした。  彼の出発の前日、どうしたのか二人はまた近づいた。皆が教会堂へ行ってる例の日曜の午後であった。クリストフも旅行の仕度を済ますために出かけていた。ザビーネは小さな庭に腰をおろして、夕日に当っていた。クリストフが帰ってきた。彼は急いでいた。初めは、彼女の姿を見ながら、会釈をしたまま通りすぎようとした。しかしその瞬間に、彼は何かに引止められた。それはザビーネの蒼白《あおじろ》い顔色であったか、あるいは、悔恨とか懸念とか情愛とかの、何か言いがたい感情であったか?……とにかく彼は立止って、ザビーネの方をふり向いた。そして庭の垣根《かきね》によりかかって、晩の挨拶《あいさつ》をした。彼女はなんとも答えないで、手を差出した。彼女の笑顔には温良さが満ち充《み》ちていた――彼がかつて彼女に見受けなかったほどの温良さが。彼女の身振には「仲直り……」という意味が見えていた。彼は垣根越しにその手をとらえ、身をかがめてそれに接吻《せっぷん》した。彼女は少しも手を引込めようとはしなかった。彼はそこにひざまずいて、「私は愛してる」と言いたかった。……二人は黙って顔を見合った。しかし少しも意中を明かさなかった。やがて彼女は手を離し、顔をそむけた。彼も胸騒ぎを隠すために横を向いた。それから二人はまた、晴やかな眼で見合った。太陽は沈みかけていた。菫《すみれ》色、橙《だいだい》色、葵《あおい》色、いろんな美妙な色合が、清い寒い空に流れていた。彼女は彼の見慣れた手つきで、寒そうに肩の肩掛を合した。彼は尋ねた。 「身体はどうですか。」  彼女は答えるに及ばないとでもいうように、ちょっと口をとがらした。二人はうれしそうにじっと見かわしつづけた。たがいに見失っていたのがまためぐり会ったかのようだった……。  彼はついに沈黙を破って言った。 「明日|発《た》ちます。」  ザビーネは駭然《がいぜん》とした顔つきになった。 「発つんですって?」と彼女はくり返した。  彼は急いでつけ加えた。 「なに、たった二、三週間です」 「二、三週間!」と彼女は狼狽《ろうばい》の様子で言った。  彼は説明した、音楽会に約束したこと、しかしいったん帰って来れば、もう冬じゅうどこへも行かないと。 「冬、」と彼女は言った、「それまでにはまだなかなか……。」 「いいえ、」と彼は言った、「じきに冬になります。」  彼女は彼の方を見ないで首を振っていた。 「いつまた会えるでしょうかしら?」と彼女はややあって言った。  彼にはその問いの意味がよくわからなかった。もうそれは答えられてたはずだった。 「帰ってくればすぐに会えます、十五日か、おそくも二十日たったら。」  彼女は落胆しきった様子をつづけていた。彼は冗談を言ってみた。 「あなたにはそれくらいの時間なんか長くはないでしょう。」と彼は言った。「眠っていらっしゃいよ。」 「そうね。」とザビーネは言った。  彼女は微笑《ほほえ》もうとした。しかし唇《くちびる》が震えていた。 「クリストフさん!……」彼女は突然言いながら、彼の方へ身を起こした。  その声のうちには悲嘆の調子がこもっていた。こう言ってるらしかった。 「行かないでくださいな! 発《た》っては厭《いや》!……」  彼は彼女の手を取った。その顔をながめた。彼女がその二週間の旅を重大視してる訳がわからなかった。しかし、彼女が一言言いさえすれば、こう言ってやったであろう。  ――行きません……。  彼女が口を開こうとした時に、表の戸があいて、ローザが現われた。ザビーネはクリストフの手から自分の手を引込めた。そして急いで家へはいった。入口で、彼女はも一度彼をながめた――そして姿が消えた。  クリストフはその晩も一度彼女に会おうと考えていた。しかし、フォーゲル一家の者からは監視され、どこへ行くにも母からついて来られ、例によって旅の仕度は遅れがちだし、家から逃げ出せる隙《ひま》は一瞬間もなかった。  翌日、彼はごく早朝に出発した。ザビーネの門口を通ると、中にはいりたくなり、その窓をたたきたかった。彼女に別れるのが非常につらかった、しかも別辞もかわさないで別れるのが――別れを告げる隙《ひま》もないほど早くから、ローザに妨げられたのであった。しかし彼は、彼女は眠ってるだろうと考え、起こしたら恨まれるだろうと考えた。それに、何を言うべき言葉があったろうか? 今となっては、旅をやめるにはあまりに時過ぎていた。そしてもし彼女が止めてくれと願ったら!……とにかく彼は、自分の力を彼女にためしてみることをも――場合によっては彼女に少し心配をかけることをも、あえて辞せないとはみずから認めかねた……。自分の出発のためにザビーネが受ける苦しみを、彼は真面目《まじめ》には考えていなかった。そしてそのわずかな間の不在は、おそらく彼女がいだいてる愛情を募らせるだろうと、彼は思っていた。  彼は停車場へかけつけた。やはり多少の心残りを感じた。しかし汽車が動き出すとすべてを忘れてしまった。心が青春の気に満ちてるような気がした。屋根や塔の頂が太陽から薔薇《ばら》色に染められてる古い町に向って、快活に挨拶《あいさつ》をした。そして出発する者のこだわりない気持をもって、残ってる人たちに別れを告げ、もはやそのことを考えなかった。  デュッセルドルフやケルンにいる間、彼は一日もザビーネのことを頭に浮べなかった。朝から晩まで、音楽会の試演や公演に没頭し、会食や談話に夢中になり、沢山の新奇な事物や成功の驕慢《きょうまん》な満足に気を奪われて、思い出す隙がなかった。ただ一度、出発後五日目の夜に、悪夢のあと急に眼を覚《さま》した時、眠りながら彼女[#「彼女」に傍点]のことを考えていて、その考えのために眼が覚めたことを、彼は気づいた。しかし、どうして[#「どうして」に傍点]彼女のことを考えたかは思い出せなかった。悩ましくて胸騒ぎがしていた。それは別に不思議でもなかった。その晩彼は、音楽会で演奏し、会場を出ると、夜食の宴に引張り込まれ、そこで数杯のシャンペンを飲んだのだった。彼は眠ることができないので起き上った。ある楽想《がくそう》が頭につきまとっていた。睡眠中に自分を苦しめたのはこれだなと彼は思った。そしてそれを書いてみた。読み返してみると、たいへん悲しいものであるのを見てびっくりした。書く時にはなんらの悲しみも感じてはいなかった、少なくともそうらしかった。しかしながら、いつかも、悲しんでる時に、癪《しゃく》にさわるほど快活な音楽しか書けなかったことがあるのを、思い出した。でそのことは、それ以上考えつめなかった。自分の内部の世界の不思議さには、訳はわからないながらも慣れきっていた。彼はそれからすぐにまた眠って、翌朝になると、もう何にも思い出さなかった。  彼は三、四日旅を長引かした。帰ろうと思えばすぐ帰れることがわかっていたので、旅を長引かすのが面白かった。急いで帰る必要もなかった。そして帰途の汽車の中で、彼は初めてザビーネのことを考えた。手紙も書き送らないでいた。もらってるかもしれない手紙を郵便局へ受取りに出かけて行くこともしなかったほど、呑気《のんき》であった。彼はそうして沈黙してることに、ひそかな楽しみを見出していた。かなたには自分を待ってる人がいること、自分を愛してる人がいることが、わかっていた。……愛してる? 彼女はまだかつてそれを彼に言わなかった。彼はかつてそれを彼女に言わなかった。しかしもとより口に言うまでもなく、二人はそれを知っていた。とは言え、最も貴重なのは確実な告白であった。なぜ二人は、それをするのにあれほど長く待ったのであろうか。告白を口に出そうとすると、いつも何かが――ある偶然事が、ある邪魔物が――それを妨げたのだった。なぜか? なぜなのか? いかに多くの時を二人は失ったことだろう! 彼は恋しい人の口からその大事な言葉が出るのを聞きたくてたまらなくなった。彼はその言葉を彼女に言いたくてたまらなくなった。そして人のいない車室の中で、それを声高く言ってみた。近くなるに従って、焦燥の念で胸が迫ってきた、一種の苦悶《くもん》で……。もっと早く走れ! さあもっと早く! ああ、一時間たてば彼女に会えるのだと考えると!……  彼が家へ戻ったのは朝の六時半だった。だれもまだ起きていなかった。ザビーネの部屋の窓はしまっていた。彼は彼女に足音を聞かれまいとして、爪先《つまさき》で中庭を通りすぎた。彼女をふいに驚かしてやろうと楽しんでいた。彼は自分の部屋へ上っていった。母は眠っていた。彼は音をたてずに服装《みなり》をととのえた。腹がすいていた。しかし戸棚《とだな》を捜したらルイザが眼覚めはすまいかと恐れた。中庭に足音が聞えた。そっと窓を開いて見ると、例のとおりローザがまっ先に起き上って、掃除を始めてるのであった。彼は小声で呼んだ。彼女は彼の姿を見て、うれしい驚きの身振りをした。それからいかめしい様子をした。彼はまだ彼女から恨まれてるなと考えた。しかし非常に気が晴々していた。彼女のそばへ降りて行った。 「ローザさん、ローザさん、」と彼は快活な声で言った、「何か食べる物をくださいよ。くれなけりゃあなたを食っちまう。腹がすいてたまらない!」  ローザは微笑《ほほえ》んだ。そして彼を一階の台所へ連れていった。彼に牛乳を一|碗《わん》ついでやりながら、旅や音楽会などのことをしきりに尋ねないではおかなかった。しかし彼が快くそれに答えているのに――(帰ってきた喜びのために彼は、ローザの饒舌《じょうぜつ》に出会ってもかえってうれしいくらいだった)――ローザはにわかに、問いの中途で口をつぐんだ。彼女は悲しげな顔をし、眼をそらし、何かが心にかかるらしかった。それからまたしゃべりだした。しかし彼女はそれをみずからとがめるらしく、またぴたりと言葉を途切らした。彼もついにそれに気がついて言った。 「いったいどうしたんです。僕に不平なんですか?」  彼女は否と言うために、強く頭を振った。そして例のとおりだしぬけに、彼の方を向きながら両手でその腕をとらえた。 「おう、クリストフさん!……」と彼女は言った。  彼ははっとした。手にもっていたパンを取り落とした。 「え、なんです?」と彼は言った。  彼女はくり返した。 「おう、クリストフさん!……たいへん悲しいことが起こったの……。」  彼はテーブルを押しやった。そして口ごもった。 「ここで!」  彼女は中庭の向う側の家をさし示した。  彼は叫んだ。 「ザビーネさんが!」  彼女は泣いた。 「死にました。」  クリストフはもう何にも眼にはいらなかった。彼は立上った。倒れるような気がした。テーブルにつかまった。上にのってた物を皆ひっくり返した。大声にわめきたかった。ひどい苦痛をなめた。※[#「口+区」、第4水準2-3-68]吐《おうと》を催した。  ローザは駭然《がいぜん》として、彼の傍《かたわ》らに駆け寄った。彼の頭をかかえて泣いた。  口がきけるようになると彼は言った。 「ほんとうなもんか!」  彼はほんとうだと知っていた。しかしそれを否定したかった。あったことをないものにしたかった。けれど涙の流れてるローザの顔を見た時、もう疑えなかった。彼はすすり泣いた。  ローザは顔をあげた。 「クリストフさん!」と彼女は言った。  彼はテーブルの上に身を伸ばして、顔を隠していた、彼女はその上に身をかがめた。 「クリストフさん!……お母さんが来ますよ……。」  クリストフは立上った。 「いやだ、」と彼は言った、「見られたくない。」  彼女は彼の手を取り、涙で見えなくなってよろめいてる彼を、中庭に面してる小さな薪《まき》部屋まで連れていった。彼女は戸をしめた。真暗《まっくら》になった。彼は手当り次第に、薪割台の上に腰をおろした。彼女は薪束の上に腰かけた。外部の物音はかすかにしか聞こえなかった。そこで彼は人に聞かれる恐れなしに泣くことができた。彼は我を投げ出して激しくむせび泣いた。ローザは彼が泣くのをかつて見たことがなかった。彼に泣くことができようとさえも思っていなかった。彼女は自分の少女の涙しか知らなかった。そしてこういう男子の絶望を見ると、恐怖と憐憫《れんびん》とが胸いっぱいになった。彼女はクリストフにたいして熱烈な愛情を覚えていた。その愛には少しも利己的な点がなかった。それは犠牲になりたい無限の欲求、彼のために苦しみたい渇望、彼のあらゆる苦しみを身に引受けてやりたい渇望であった。彼女は母親のように彼を両腕で抱いてやった。 「クリストフさん、」と彼女は言った、「泣いてはいけないわよ!」  クリストフは横を向いた。 「死んでしまいたい!」  ローザは両手を握り合した。 「そんなことを言っちゃいや、クリストフさん。」 「僕は死んでしまいたい。もうできない……もう生きておれない……生きてたってなんの役にたつもんか。」 「クリストフさん、ねえクリストフさん、あなたは一人ぽっちじゃないわ。あなたを愛してる人もあってよ……。」 「それがなんになるもんか。もう何もかも厭《いや》だ。他のものは生きようと死のうと勝手だ。何もかも厭だ。あの女《ひと》だけを愛してたのに、あの女だけしか愛していなかったのに!」  彼は両手に顔を隠しながら、さらに激しくむせび泣いた。ローザはもうなんとも言うことができなかった。クリストフの情熱の利己主義に、彼女は胸を刺し通された。最も彼に近づいてると思っていた瞬間に、かつてなかったほど孤独な惨《みじ》めな自分を感じたのであった。苦しみは、二人を近づけるどころか、ますます二人を引離していた。彼女は苦《にが》い涙を流した。  ややあってクリストフは泣くのをやめた、そして尋ねた。 「でもどうして、どうして?……」  ローザはその意味がわかった。 「あなたが発《た》った晩に、インフルエンザにかかったのよ、そしてすぐに亡《な》くなって……。」  彼はうなった。 「ああ!……なぜ僕に知らしてくれなかったんだろう?」  彼女は言った。 「私は手紙を書いたのよ。でもあなたのお所がわからなかったの、なんとも言い置いてくださらなかったんですもの。芝居へも聞きに行ったけれど、だれも知っていなかったの。」  彼は彼女の恥ずかしがりなことを知っていたし、その奔走にはたいへん骨折れたろうと察した。彼は尋ねた。 「あの女《ひと》が……あの女がそうしてくれと言ったんですか?」  彼女は頭を振った。 「いいえ、私が思いついて……。」  彼は眼つきで彼女に感謝した。ローザの心は解けた。 「かわいそうに……クリストフさん!」と彼女は言った。  彼女は泣きながら彼の首に飛びついた。クリストフはその純な愛情の貴《とうと》さを感じた。彼はどんなにか慰めてもらいたかった。彼は彼女を抱擁した。 「ありがとう。」と彼は言った。「ではあなたもあの女を愛していたんだね?」  彼女は彼から身を離し、熱烈な眼つきで彼を見やり、なんとも答えず、また泣きだした。  その眼つきは彼にとっては一の光明であった。それはこう言ってるがようだった。  ――私が愛していたのは、あの女ではない……。  クリストフはついに見てとった、まだ知らなかったことを――幾月も前から見ようと欲しなかったことを。彼は彼女から愛されていたことを見てとった。 「しッ!」と彼女は言った、「私を呼んでるのよ。」  アマリアの声が聞こえていた。  ローザは尋ねた。 「家へ行きますか?」  彼は言った。 「いや、まだ駄目だ、母と話をすることなんかできない……。あとで……。」  彼女は言った。 「ここにいらっしゃいな。じきにもどってくるから。」  彼は暗い薪《まき》部屋に残った。一条の光が、蜘蛛《くも》の巣の張りつめた狭い軒窓から落ちていた。往来には物売女の呼び声が聞えていた。隣の厩《うまや》で一頭の馬が、壁に息を吐きかけ蹄《ひづめ》で蹴《け》っていた。クリストフは先刻悟った事柄について、なんらの喜びをも感じなかった。しかし一時はそれが気にかかった。今までわからなかった多くのことが、ようやく了解されてきた。今まで注意も払わなかった数多《あまた》の細かな事実が、頭に浮かんできて明瞭《めいりょう》になった。彼はそんなことを考えたのにみずから驚き、一瞬間といえども自分の悲しみから気を転じたのにみずから憤った。しかしその悲しみは、きわめて残虐なものだったので、愛欲よりもずっと強い自己保存の本能に強《し》いられて、彼はそれから眼をそらし、あたかも水におぼれた絶望者が、なお一瞬間水面に浮かぶ助けとなる物なら、何物にでも本意ならずもすがりつくがように、この新らしい考えに取りついたのであった。そのうえ、彼はみずから苦しんでいたので、他人が苦しんでる――しかも自分のために苦しんでるゆえんを、今感じたのであった。彼は先刻《さっき》流さした涙を理解した。ローザがかわいそうになった。彼女にたいして自分が残酷であったことを――なおこれからも残酷であるだろうことを、彼は考えた。なぜなら彼は彼女を愛していなかったから。彼女が彼を愛してもなんの役にたとう? 憐《あわ》れな娘よ!……彼女は親切だ(それを彼女は先刻証明した)ということを、彼はいたずらに思うばかりだった。彼女の親切さが彼に何になったろう?……彼女の生が彼に何になったろう?……彼は考えた。 「なぜ彼女の方が死ななかったのか、なぜあの女《ひと》の方が生きていないのか?」  彼はまた考えた。 「彼女は生きている。私を愛している。今日か、明日か、生涯のうちには、それを私に言うことができる。――そしてあの女《ひと》、私が愛するただ一人の女、彼女は愛してることを私に告げずに死んでしまった。私の方でも愛してることを彼女に言わなかった。永久に私は彼女がそれを言うのを聞くことがないだろう。永久に彼女は言うことができないだろう……。」  そして最後の夕の思い出が浮かんできた。たがいにうち明けようとしてると、ローザがやって来て二人を妨げたことを、彼は思い出した。そして彼はローザを憎んだ……。  薪《まき》部屋の戸がまた開かれた。ローザは低い声でクリストフを呼び、手さぐりで捜した。彼女は彼の手を取った。彼はその手に触れて反発心を覚えた。みずからそれを心にとがめたが、どうにもできなかった。  ローザは黙っていた。深い同情の念から口をつぐんでいたのである。クリストフは無駄《むだ》口で苦しみを乱されないのを感謝した。けれども彼は知りたかった。……あの女[#「あの女」に傍点]のことを話してくれる者は彼女一人だった。彼は低く尋ねた。 「いつあの女《ひと》は……?」 (死んだか、とは言い得なかった。)  彼女は答えた。 「一週間前の土曜日に。」  一つの思い出が彼の頭を過《よぎ》った。彼は言った。 「夜中ですね。」  ローザはびっくりして彼をながめた。そして言った。 「ええ、夜中よ、二時と三時との間に。」  あの悲しみのメロディーがまた彼に現われた。  彼は震えながら尋ねた。 「たいへん苦しみましたか。」 「いいえ、仕合せと、別にお苦しみなさらなかったの。あんなにお弱かったんですもの。ちっとも逆らいなさらなかったの。すぐに、駄目《だめ》だということがわかったのよ。」 「そしてあの女《ひと》は、前からそれと知っていましたか。」 「さあどうですか。でもなんだか……。」 「何か言いましたか。」 「いいえ、何にも。赤ん坊のようにむずがっていらしてよ。」 「あなたはそばにいたんですか。」 「ええ、初めの二日間、兄さんがいらっしゃるまで、一人でついていたの。」  彼は感謝の念に駆られて彼女の手を握りしめた。 「ありがとう。」  彼女は血が心臓にこみ上げてくるような気がした。  ちょっと黙ってた後に、彼は言った、息がつまるような問いをつぶやいた。 「あの女《ひと》は何にも言わなかったんですか……僕にたいして。」  ローザは悲しげに頭を振った。彼が待ってる返事をしてやることができたら、何を投げ出しても惜しく思わなかったであろう。嘘《うそ》を言うことができないのが心苦しかった。彼女は彼を慰めようとつとめた。 「もう本心を失っていらしたんですもの。」 「口をききましたか。」 「意味がよくわからなかったの。ごく低い声でした。」 「娘さんはどこにいます?」 「兄さんが田舎の家へ連れていったの。」 「そして、あの女[#「あの女」に傍点]は?」 「やはり向うに。前週の月曜日に、ここから発《た》たれたの。」  二人はまた泣き出した。  フォーゲル夫人の声がまたローザを呼んだ。クリストフはふたたび一人残って、逝去《せいきょ》のその日々に立ちもどってみた。一週間、もう一週間になっていた……。嗚呼《ああ》、あの女《ひと》はどうなったのだろう。その週間は、なんと雨が多いことだったろう、地上では!……そして彼は、その間じゅう笑い楽しんでいたではないか!  彼はポケットの中に、絹紙に包んだ物を感じた。彼女の靴《くつ》につけてやるためにもって来た銀の留金《とめがね》であった。靴から出てる小さな足先に手を押し当てた夕のことを、彼は思い出した。その小さな足も、今はどこにあるのか。どんなにか冷えきってることだろう!……その生あたたかい接触の思い出だけが、あの愛する身体から得た唯一のものであることを、彼は考えた。彼はかつてその身体に触れ得なかった、それを両腕に抱き取り得なかった。彼女はまったく識《し》られないままで去っていった。彼女については、魂も肉体も、彼は少しも知るところがなかった。彼女の形態や生命や愛について、彼は一つの思い出も持っていなかった。……彼女の愛?……その証拠さえあったのであろうか。……手紙も、形見の品も――なんにも彼はもたなかった。自分の中にか、自分の外にか、どこに彼女をとらえ彼女を捜したらいいか?……ただ虚無! 彼女について彼に残ってるものは、彼女にたいする彼の愛ばかりであった。彼に残ってるものは彼自身ばかりであった……。――それでもなお、壊滅の手から彼女をもぎ取らんとする激しい欲望と死を否定せんとする欲求のために、彼はその最後の遺品に執着して、狂信的な一句の中に没入した。  妾《わらわ》は死にたるに非ず、住居《すまい》を変えたるなり。  泣きつつ妾を見給う君のうちに、妾は生きて残れり。  愛せられし魂は姿を変うるも、恋人の魂の外には出でじ。  彼はそれらの崇高な言葉を読んだことはかつてなかった。しかしそれは彼のうちにあったのである。人は皆順次に、幾世紀となく十字架に上ってゆく。各自に苦悶を見出し、幾世紀となき絶望的な希望を見出す。かつて生存した人々、かつて死とたたかい、死を否定し――そして死んだ人々、彼らの足跡をそのまま、各自にたどってゆく。  彼は家に閉じこもった。向うの家の窓を見ないために、終日雨戸を閉ざしておいた。彼はフォーゲル一家の者を避けた。彼らが厭でたまらなかった。彼は彼らを責むべきものは持っていなかった。皆ごく善良な人々でごく敬虔《けいけん》であって、死にたいしては私の感情を抑制していた。クリストフの苦しみを知っていて、どう考えたにしろとにかくそれを尊重していた。彼の前でザビーネの名前を口にすることを避けた。しかし彼らは、彼女の生前には彼の敵であった。それだけの事実で彼はもう十分に、彼女がいなくなった今でも彼らに敵意を含むことができた。  そのうえ、彼らは騒々しい振舞を少しも変えなかった。一時的であるがとにかく真面目《まじめ》な憐憫《れんびん》の情を感じはしたが、その不幸に無関心なことは――(それは当然すぎることだったが)――明白であった。おそらく彼らは、心ひそかに厄介払いをした気持さえ感じたであろう。少なくともクリストフはそう想像した。彼にたいするフォーゲル一家の意向が明らかにわかってる今では、彼はややもすればそれを誇張して考えがちだった。実際においては、彼らはあまり彼を眼中においてはいなかった。そして彼は自分を重大視すぎていた。ザビーネの死は、家主一家の計画から主要な障害を取り除いて、ローザに自由の地を与えるものだと彼らに思わせただろうということを、彼は疑わなかった。それでなお彼はローザをきらった。人が――(フォーゲル一家の者でも、ルイザでも、ローザ自身でも)――彼の一身を相談もなくひそかに処置するならば、もはやそれだけの事実で、いかなる場合においても、愛してもらいたいという女から彼を遠ざけるには十分だった。彼は自分がたいせつにしてる自由に手を触れられると思うたびごとに、猛然と反抗した。しかしこんどの場合は、彼一人だけの問題ではなかった。彼にたいする人々の越権な振舞は、ただに彼の権利を侵害するばかりではなく、彼が心をささげていた死者の権利をも侵害するものであった。それで彼は、だれからも攻撃されはしなかったのに、猛然と権利を防護しようとした。彼はローザの善良さをも疑った。ローザは彼が苦しむのを見て自分も苦しみ、しばしば訪れて来ては、彼を慰めようとし、彼にあの女《ひと》の話をしようとした。彼はそれをしりぞけなかった。彼はザビーネが生前知り合いだっただれかとその話をしたかった。病中の些細《ささい》な出来事をも知りたかった。しかし彼はローザのそういう親切を感謝しなかった。彼女の心に打算的な動機があると見なしていた。何かの当てがない以上は彼女が決して許されそうもないそれらの訪問や長い談話を、一家の者は、またアマリアさえ、明らかに許可していたではないか。ローザも家の者らと同意見ではなかったであろうか。ローザの同情がまったく誠実なもので私念のこもったものではないということを、彼は信ずることができなかった。  しかるに、ローザはもとよりそういう心ではなかった。彼女はクリストフを心から気の毒がっていた。クリストフを通じてザビーネを愛せんがために、彼の眼で彼女を見ようとつとめていた。以前彼女にたいしていだいていた悪い感情をきびしくみずからとがめて、晩に祈りをするおりに彼女の許しを願っていた。しかしローザは、忘れることができたであろうか、自分が生きてることを、始終クリストフに会ってることを、彼を愛してることを、もはやも一人の女を恐れるに及ばないことを、も一人の女は消え失せてしまったことを、その思い出さえもやはり消え失せるだろうということを、自分一人残ってるということを、そしていつかは……ということを。自分の悲しみの最中に、自分の悲しみとなる愛する人の悲しみの最中に、突然の喜ばしい挙動を、不条理な希望を、押えることができたであろうか。ローザはあとでそれをみずからとがめた。それは一|閃《せん》にすぎなかった。それでも十分だった。彼はそれを見てとった。彼は彼女がぞっとするような眼つきを注いだ。彼女はその中に憎悪《ぞうお》の気持を読みとった。あの女《ひと》が死んだのに彼女が生きてることを、彼は恨んでいた。  粉屋はその馬車を連れて、ザビーネのわずかな道具を取りに来た。クリストフが出稽古《でげいこ》からもどって来て見ると、寝台、箪笥《たんす》、蒲団《ふとん》、衣類、すべて彼女の所有であったものが、すべて彼女のあとに残ってたものが、家の前の街路に並べられていた。彼には見るに堪えない光景であった。彼は急いで通りすぎた。玄関でベルトルトに出会った。ベルトルトは彼を引止めた。 「ああ、あなた。」と彼は言いながらクリストフの手を心こめて握りしめた。「ごいっしょだったあのころには、こんなことになろうとはだれも思いもしませんでしたね。あの時は愉快でした。それでもあの日から、水の上を漕《こ》ぎ回ったあの時から、悪くなりだしたんですよ。だが結局、愚痴をこぼしたってなんの役にもたちません。死んでしまったんです。この次はわれわれの番でしょう。世の中はそうしたもんです。……そしてあなたは、いかがです? 私はまあおかげさまで、至って丈夫です。」  彼は赤い顔色をし、汗をかき、酒の匂いをさしていた。この男が彼女の兄であり、彼女の思い出に権利をもってるかと思うと、クリストフの心は傷つけられた。愛する者のことをその男の口から聞くのが苦しかった。これに反して粉屋の方は、ザビーネの話ができる知人を見出したのがうれしかった。彼はクリストフの冷淡の訳がわからなかった。自分がそこにいること、あの農家の一日のことを突然もち出したこと、重々しく呼び起こしてる楽しい思い出、地面に散らかっていて話の間に足で押しやられてるザビーネの憐れな遺品、そういうものがクリストフの心の中の苦しみをかきまわそうとは、彼は夢にも思わなかったのである。しかしザビーネの名前がちょっと彼の口に上ってさえ、クリストフは胸裂ける思いをした。彼はベルトルトを黙らせる口実を捜した。彼は階段を上りかけた。しかし相手は彼にくっついて来、階段の途中で彼を引止め、話をつづけた。そしてついに、ある種の人々が、ことに下層の人々が、病気のことを話すおりに見出す不思議な楽しみをもって、聞きづらい細かな事柄をもやたらにもち出して、ザビーネの病気を語り出した時、クリストフはもう我慢ができなかった。(彼は切ない声をたてまいとしてじっと身を堅くしていた。)彼はきっぱりと相手の言葉をさえぎった。 「御免ください。」と彼は氷のような冷淡さで言った。「これで失礼します。」  彼はその外の挨拶《あいさつ》もせずに別れた。  そういう無情な態度に、粉屋は反感を覚えた。彼は妹とクリストフとの間のひそかな愛情を察していないではなかった。そして今クリストフがそういう無関心さを示したのが、彼には奇怪なことに思われた。クリストフは少しも人情のない奴《やつ》だと彼は判断した。  クリストフは居室に逃げ込んだ。胸苦しかった。引越騒ぎのつづいてる間、もう外に出なかった。彼は窓からのぞくまいとみずから誓った。しかしのぞかないではおられなかった。窓掛の後ろの片隅《かたすみ》に隠れて、なつかしい衣類がもち出されるのを見送った。それらがなくなってゆくのを見ると、彼は往来に駆け出そうとし、「いえいえ、私に残していってください、もっていってはいけません」と叫ぼうとした。彼は彼女を全部奪われないために、少くとも一品を、たった一品でも、自分に与えてくれと願いたかった。しかしどうして粉屋にそれを願われよう? 彼にとっては粉屋は赤の他人であった。彼の恋は彼女でさえも知ってはいなかった。それをどうして今他の人に示されよう? それにまた、もし一言言いかけたら、すぐに泣き出すかもしれなかった。……否々、黙っていなければならない、全部の消滅をただじっとうちながめていなければならない、その難破から名残《なご》りの一片を救い出すためには、何にもなすことができずに……。  そしてすべてが済んだ時、家が空《から》になった時、粉屋の後ろに表門がしめられた時、荷車の車輪の響きが窓ガラスを震わしながら遠ざかった時、その響きが消えてしまった時、彼は床《ゆか》に倒れ伏して、もはや一滴の涙もなく、苦しもうとのあるいはたたかおうとの考えもなく、冷えきってしまい、彼自身死んだようになった。  扉《とびら》をたたく者があった。彼はじっとしていた。また扉がたたかれた。彼は鍵《かぎ》をかけて閉じこもることを忘れていた。ローザがはいってきた。床の上に横たわっている彼を見て、彼女は声をたて、恐れて立止った。彼は憤然と頭をもたげた。 「何? なんの用です? 構わないでください。」  彼女は出て行かなかった。扉によりかかって躊躇《ちゅうちょ》しながらたたずんでいた。くり返して言った。 「クリストフさん……。」  彼は黙って立上った。そういう所を彼女に見られたのが恥ずかしかった。手で埃《ほこり》を払いながら、きびしい調子で尋ねた。 「いったいなんの用です?」  ローザは気をくじかれて言った。 「御免なさい……クリストフさん……はいって来たのは……もってきてあげたのよ……。」  彼は彼女が手に一品をもってるのを見た。 「これなの。」と彼女は言いながらそれを彼に差出した。「ベルトルトさんに願って、形見の品をもらったのよ。あなたがお喜びなさるだろうと思って……。」  それは小さな銀の鏡であった。あの女《ひと》が幾時間も、おめかしをするというよりもむしろなまけて、顔を映すのを常としていた、懐中鏡であった。クリストフはその鏡を取った、それを差出している手を取った。 「おう、ローザ!……」と彼は言った。  彼はひしと彼女の親切さを感じ、自分の不正さを感じた。情に激した様子で、彼女の前にひざまずき、その手に唇《くちびる》をつけた。 「許しておくれ……許しておくれ……。」と彼は言った。  ローザには、初めはわからなかった、それから、よくわかりすぎた。彼女は真赤《まっか》になり、泣きだした。彼の言う意味はこうであることがわかった。 「僕が悪くとも許しておくれ……あなたを愛さなくとも許しておくれ……僕にできなくとも許しておくれ……あなたを愛することができなくとも、いつまでもあなたを愛することがなかろうとも!……」  彼女は手を引込めなかった。彼が接吻《せっぷん》してるのは自分ではないことを、彼女は知っていた。そして彼は、ローザの手に頬《ほお》を押しあてたまま、彼女に意中を読み取られてることを知りながら、熱い涙を流した。彼女を愛することができないのに、彼女を苦しめるのに、苦《にが》い悲しみを感じていた。  二人は室内の薄ら明りの中に、二人とも泣きながら、そのままじっとしていた。  ついに彼女は手を放した。彼はなおつぶやいていた。 「許しておくれ!……」  彼女はやさしく彼の頭に手をのせた。彼は立上った。二人は黙って接吻し合った。たがいに唇の上に涙の辛い味を感じた。 「長く友だちになりましょう。」と彼は低く言った。  彼女はうなずいた。そしてあまりの悲しさに口もきけないで、彼と別れた。  世の中は悪くできてるものだと彼らは考えた。愛する者は愛されない。愛される者は少しも愛しない。愛し愛される者は、いつかは早晩、愛から引離される……。人はみずから苦しむ。人は他人を苦しませる。そして最も不幸なのは、かならずしもみずから苦しんでる者ではない。  クリストフはまた家から逃げ出し始めた。もはや家で暮すことができなかった。窓掛のない窓やむなしい部屋を、正面に見ることができなかった。  彼はさらにひどい苦しみを知った。オイレル老人はすぐに、その一階を人に貸した。ある日クリストフは、ザビーネの室に見知らぬ人々の顔を見た。新しい生活が、消え失せた生活の最後の痕跡《こんせき》をも消滅さしてしまった。  家にとどまってることが彼にはできなくなった。彼は終日外で過した。夜になって何にも見えなくなるころに、ようやく帰って来た。ふたたび彼は野の逍遙《しょうよう》を始めた。そして不可抗の力でベルトルトの農家の方へ引きつけられた。しかし中へははいらなかった。近寄ることもしかねた。遠くからその周囲を回った。農家や平野や川を見おろせる丘の上の一地点を見出していた。それがいつも散歩の目的地であった。そこから彼は、屈折して流れてる水を見送り、柳の茂みの下で死の影がザビーネの顔をかすめるのを見たことのある、あの場所まで見渡した。そこから彼は、二人が一つの扉に――永遠の扉に隔てられ、あれほど近くしかも遠く相並んで夜を明したことのある、あの室の二つの窓を見分けた。そこから彼は、墓地の上へ翔《かけ》っていった。彼はまだ墓地へはいろうと決心することができないでいた。彼は幼い時からその腐爛《ふらん》の畑地に嫌悪《けんお》を感じていて、愛する人々の面影をそこに結びつけることが嫌だった。しかし、高くから遠くから見ると、小さな死の畑地には少しも陰惨な気がなかった。それは静かだった、太陽の光に眠っていた。……眠り!……彼女は眠るのが好きだった! 今その土地では、何物も彼女の眠りを防げないだろう。鶏の声が、平野を横切って答え合っていた。農家からは、水車の音や、家禽《かきん》の鳴声や、子供らの※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]戯《きぎ》の声が響いていた。彼はザビーネの小さな娘を見つけ、その走るのを見、その笑声を聞き分けた。一度彼は、農家の門口で、壁をとり巻いてる凹路《くぼみち》の影で、彼女を待ち受けた。そして彼女が通るのをとらえ、激しく抱きしめた。娘は恐《こわ》がって泣き出した。彼女はもうほとんど彼を忘れていた。彼は尋ねた。 「ここにいるのがいいの?」 「ええ、面白いわ……。」 「帰りたくはない?」 「いやよ!」  彼は放してやった。子供のそういう無関心さが、彼には切なかった。憐《あわ》れなザビーネよ!……でもその子供は、彼女であった、彼女の小部分であった……ごくわずかな小部分! 子供は母親に似ていなかった。彼女の中でしばらく過して来たのではあったが、その神秘な滞在からは、故人のごくかすかな香《かお》りをようやく得てきてるのみだった。声の抑揚、唇《くちびる》のちょっとしたゆがめ方、頭の傾《かし》げ方、などばかりだった。その他の全身は、まったく他人であった。そしてザビーネの存在に交渉のあるこの存在にたいして、クリストフはみずから認めはしなかったが、ある嫌悪《けんお》を感じていた。  クリストフがザビーネの面影を見出したのは、自分自身のうちにだけだった。その面影は至る所へ彼について来た。けれども彼が真に彼女といっしょにいると感ずるのは、一人きりの時だった。とくに、彼女の思い出に満ちたその土地のまん中の、人目の遠い、丘の上の、その隠れ場所にいる時くらい、彼女をすぐそばに感ずることはなかった。彼は数里の道を歩いてやって来、あたかもある密会へおもむくかのように胸をどきつかせながらそこへ駆け上った。それは実際一つの密会だった。そこへ着くと、彼は地面に――彼女[#「彼女」に傍点]の身体が横たわってるその同じ地面に――身を横たえた。彼は眼をつぶった。彼女が彼のうちに沁《し》み込んできた。彼は彼女の顔だちを見なかった、声を聞かなかった。がその必要はなかった。彼女は彼のうちにはいり込み、彼女は彼をとらえ、彼は彼女を自分のものにした。そういう熱烈な幻覚状態のうちにあっては、彼は彼女といっしょにいるということ以外には、もう何事も意識しなかった。  その状態は長くはつづかなかった。――実を言えば、彼がまったく真実だったのはただ一回だけだった。翌日からは、早くも意志が加わった。そしてそれ以来、クリストフはその状態を復活させようといたずらにつとめた。その時になって彼は初めて、ザビーネのはっきりした姿を心に描き出そうと考えた。それまでは、そんなことは思いもしなかったのである。彼は閃光《せんこう》的にそれを描き出すことができ、それにすっかり光被された。しかしそれも、長い期待と暗黒とをもってして初めて得られるのであった。 「憐《あわ》れなザビーネよ!」と彼は考えた、「彼らは皆お前を忘れている。お前を愛し、永久にお前を心にとどめているのは、私だけだ、おう私の貴い宝よ! 私はお前をもっている、お前をとらえている。決してお前をのがすまい!……」  彼はそういうふうに言っていた。なぜならすでに彼女は彼からのがれかかっていたから。あたかも水が指の間から漏るように、彼女は彼の考えから逃げ出しかかっていた。彼はいつも忠実に密会にやって来た。彼は彼女のことを考えようとして、眼をつぶった。しかし往々にして彼は、三十分の後に、一時間の後に、時には二時間の後に、自分が何にも考えていなかったことに気づいた。低地の物音、水門に水の奔騰する音、丘の上に草を食《は》んでる二匹の山羊《やぎ》の鈴の音、彼が寝ころがってるすぐそばの細い小さな木立を過ぎる風の音、そういうものが、海綿のように粗《あら》い柔軟な彼の考えを浸していた。彼は自分の考えに憤った。その考えは彼の望みに従おうとつとめ、故人の面影を固定させようとつとめた。しかし飽き疲れうっとりしてまた力を失い、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつきながら、種々の感覚の怠惰な波動にふたたび身を任すのであった。  彼は自分の遅鈍な気分を振いたたした。ザビーネを求めて田舎《いなか》を歩き回った。その笑顔が宿ったことのある鏡の中に彼女を求めた。その手が水に浸ったことのある川縁に彼女を求めた。しかし鏡も水も、彼自身の反映をしかもたらさなかった。歩行の刺激、新鮮な空気、脈打つ強健な血潮、それらは彼のうちに音楽を呼び覚《さま》した。彼は自分を欺こうとした。 「ああザビーネ!……」と彼は嘆いた。  彼はそれらの歌を彼女にささげた。自分の愛と苦しみとを、頭のうちに蘇《よみがえ》らせようと企てた。……しかしいかにしても甲斐《かい》がなかった。愛と苦しみとはよく蘇った。しかし憐《あわ》れなザビーネはそれにかかわりをもっていなかった。愛と苦しみとは未来の方をながめていて、過去の方をながめてはいなかった。クリストフはおのれの青春にたいしてはなんらの手向いもできなかった。活気は新たな激しさをもって彼のうちに湧《わ》き上ってきた。彼の悲痛、愛惜、清浄な燃えたつ愛、抑圧された欲望は、彼の熱を高進さしていった。喪の悲しみにもかかわらず、彼の心臓は快い激しい律動で鼓動していた。いきり立った歌が酔い狂った音律で踊っていた。すべてが生命を祝頌《しゅくしょう》し、悲しみさえも祝いの性質を帯びていた。クリストフはきわめて率直だったから、みずから幻を描きつづけることができなかった。そして彼はおのれを蔑《さげす》んだ。しかし生命は彼に打ち勝った。死に満ちた魂と生命に満ちた身体とを持って、彼は悲しみながら、復活の力に身を任せ、狂妄《きょうもう》な生の喜びに身を任した。強者にあっては、苦悶《くもん》も、憐憫《れんびん》も、絶望も、回復できない亡失の痛切な負傷《いたで》も、死のあらゆる苦痛も、猛烈な拍車で彼らの脇腹《わきばら》をこすりながら、この生の喜びを刺激し煽動《せんどう》するばかりである。  かつまたクリストフは、ザビーネの影が閉じ込められてる近づきがたい侵しがたい奥殿を、自分の魂の底の深みにもっているということを、よく知っていた。生命の急流もこの奥殿を流し去ることはできないだろう。人は皆おのおの、おのが心の奥底に、愛した人たちの小さな墓場のごときものをもっている。彼らは何物にも覚《さま》されずに、幾年月かをそこに眠る。しかし他日その墓窟《はかあな》の開ける日が――人の知るごとく――めぐって来る。死者はその墓を出でて、母の胎内に眠ってる子供のように、彼らの思い出が息《やす》らっている胸を持つ愛人へ、愛する者へ、色|褪《あ》せた唇《くちびる》で頬笑《ほほえ》みかける。 [#改ページ]      三 アーダ  雨がちな夏のあとに、秋が輝いていた。果樹園の中には、果実が枝の上に群れをなしていた。赤い林檎《りんご》が、象牙珠《ぞうげだま》のように光っていた。ある樹木は早くも、晩秋の燦爛《さんらん》たる衣をまとっていた。火の色、果実の色、熟した瓜《うり》や、オレンジや、シトロンや、美味な料理や、焼肉などの、種々の色彩《いろどり》。鹿子色《かのこいろ》の光が、林の間の至る所にひらめいていた。そして牧場からは、透き通ったさふらん[#「さふらん」に傍点]の小さな薔薇《ばら》色の炎が立ちのぼっていた。  彼は丘を降りていた。日曜の午後だった。彼は傾斜に引かれてほとんど駆けながら、大胯《おおまた》に歩を運んでいた。散歩の初めから頭につきまとってた律動をもってる一句を、彼は歌っていた。そして真赤《まっか》な色をし、胸をはだけ、狂人のように腕を振り、眼をきょろつかせながら、やって行くと、道の曲り角で、金髪の大きな娘に、ぱったり出会った。娘は壁の上に乗って、大きな枝を力任せに引張りながら、紫色の小さな梅の実を、うまそうに食っていた。彼らは二人とも同じようにびっくりした。彼女はどきまぎして、口いっぱいほおばりながら彼をながめた。それから笑い出した。彼も同じく放笑《ふきだ》した。彼女は見るも快い姿だった、光の粉を散らしたような、縮れた金髪で縁取られた丸顔、赤いふっくらとした頬《ほお》、青い大きな眼、横柄にそりくり返ってるやや太い鼻、つき出た強い糸切歯をそなえたまっ白な歯並が見えてる、ごく赤い小さな口、貪食《どんしょく》的な頤《あご》、それから、丈夫な骨組みの体格のよい、大きな脂《あぶら》ぎった豊饒《ほうじょう》な身体。彼は彼女に叫んだ。 「御|馳走《ちそう》さま!」  そして歩きつづけようとした。しかし彼女は呼びかけた。 「もし、もし、少し親切にしてくださらないこと? 助けておろしてちょうだいな。降りられなくなったから……。」  彼はもどってきた。どうして上ったかと尋ねた。 「手足で……上るのはいつもやさしいものよ……。」 「うまそうな果物《くだもの》が頭の上にぶらさがってる時には、なおさらでしょう。」 「ええ……でも食べてしまうと、がっかりするわ。もうどこから降りていいかわからなくなってしまうわ。」  彼はそこにとまってる彼女をながめた。そして言った。 「そうやってるとよく似合いますよ。そこにじっとしていらっしゃい。また明日《あした》見に来ます。さよなら!」  しかし彼は彼女の下にたたずんで、動かなかった。  彼女は恐《こわ》がってるふうをした。そしてかわいい顔つきで、置きざりにしないようにと願った。二人は笑いながら、そのまま顔を見合っていた。彼女はつかまってる枝を彼にさし示しながら言った。 「あげましょうか。」  所有権にたいするクリストフの尊重の念は、オットーとともに彷徨《ほうこう》していたころよりも、少しも発達していなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》なく承諾した。彼女は彼に梅の実を投げつけながら面白がった。  彼が食べてしまうと、彼女は言った。 「さあこれで!……」  彼はなお待たして意地悪くうれしがった。彼女は壁の上でじれったがっていた。ついに彼は言った。 「さあ!」  そして彼は腕を差出した。  しかし飛び降りようとする時になって彼女は考え直した。 「待ってちょうだい! 先に食べ物を取込んでおかなくちゃならないわ。」  彼女は手の届くかぎりのりっぱな梅の実を摘み取って、ふくらんだチョッキにいっぱいつめた。 「用心してくださいよ。つぶしちゃいけないわよ。」  彼はつぶしてやりたいほどだった。  彼女は壁の上に身をかがめ、彼の腕に飛び込んだ。彼は頑丈《がんじょう》ではあったが、その重みをささえかねて、彼女とともに後ろざまに倒れかけた。二人は同じくらいな身長だった。顔が触れ合った。梅の汁《しる》にぬれた甘い唇《くちびる》に、彼は接吻《せっぷん》した。彼女も同じく無遠慮に接吻を返した。 「どこへ行くんです?」と彼は尋ねた。 「わからないわ。」 「一人で散歩してるんですか。」 「いいえ。友だちといっしょなの。でも見失ってしまったのよ。……おーい!」と彼女はいきなり精いっぱいに呼び声をたてた。  何の答えもなかった。  彼女は別にそれを気にもかけなかった。二人はどこへともなくただまっすぐに歩き出した。 「そしてあなたは、どこへいらっしゃるの?」と彼女は言った。 「僕もわからないんです。」 「ちょうどいいわ。いっしょに行きましょう。」  彼女は少しはだけてるチョッキから梅の実を取出して、それをかじりだした。 「毒になりますよ。」と彼は言った。 「いいえちっとも。いつも食べてるのよ。」  チョッキの隙間《すきま》から彼は彼女の肌襦袢《はだじゅばん》を見ていた。 「もうすっかりあたたかになっちゃったわ。」と彼女は言った。 「どれ!」  彼女は笑いながら彼に一つ差出した。彼はそれを食べた。彼女は子供のように梅の実をすすりながら、横目で彼をながめていた。彼にはこの出来事がしまいにどうなるかよくわからなかった。が彼女には少なくとも多少の見当はついていた。彼女は待っていた。 「おーい!」と林の中で叫ぶ声がした。 「おーい!」と彼女は答えた。「……あらいたわ、」とクリストフに言った、「まあよかった。」  彼女は反対に、かえって悪いと考えていた。しかし女にとっては、言葉というものは考えどおりのことを言うために与えられたものではない。……ありがたいことだ! もしそうでなかったら、地上にはもはや道徳が存し得なくなるだろう。  人声は近づいてきた。連れの者たちが道に出て来るところだった。彼女は一飛びに路傍の溝《みぞ》を踊り越し、その土手によじ上り、木立の後ろに隠れた。彼はびっくりして彼女のすることをながめていた。彼女は来いと強く相図をした。彼はあとについていった。彼女は林の中の方にはいり込んでいった。 「おーい!」と彼女は連れの者たちがかなり遠くなった時にふたたび言った。「……少し捜さしてやらなきゃいけないわ。」と彼女はクリストフに言ってきかした。  連れの者たちは道の上に立止って、どこから声が響いてくるのか耳を傾けた。彼らは彼女の声に答えて、つづいて林の中にはいってきた。しかし彼女は待っていなかった。右に出たり左に出たりして面白がった。彼らは喉《のど》を涸《か》らして呼んでいた。彼女はそのままにさしておいて、それから反対の方へ行って呼んだ。ついに彼らは疲れてしまった。彼女を出て来させる最上の策は、少しも捜してやらないことにあるのだと信じて、こう叫んだ。 「さようなら!」  そして歌いながら去っていった。  彼女は彼らにほったらかされたのを怒った。彼らを厄介払いしようとしてはいたが、しかし彼らにそうやすやすと思い切られたことが許せなかった。クリストフは馬鹿《ばか》げた顔つきをしていた。見知らぬ娘といっしょにやった隠れん坊の遊びが、たいして面白くもなかった。そして二人きりなのに乗じようとも考えてはいなかった。彼女も別にそうしようとは考えていなかった。腹だちまぎれにクリストフのことなんか忘れていた。 「まあ、ずいぶんひどい。」と彼女は手を打ちながら言った。「こんなに置いてきぼりにするなんて!」 「でも、」とクリストフは言った、「自分で望んだことでしょう。」 「いいえちっとも!」 「自分で逃げたでしょう。」 「私が逃げたって、それは私一人のことで、あの人たちの知ったことじゃないわ。あの人たちは私を捜してくれなけりゃならないはずだわ。もしも私が道にでも迷ったんだったら……。」  もしも……もしも事情が反対だったら、どんなことになっていたろうかと、彼女ははや心細がっていた。 「そう、少し責めてやらなくっちゃ!」と彼女は言った。  彼女は大跨《おおまた》に引返した。  道の上に出ると、彼女はクリストフのことを思いだして、また彼をながめた。――しかしもう時遅れだった。彼女は笑いだした。先刻彼女のうちにいた小さな悪魔は、もういなくなっていた。彼女はほかのがも一匹やって来るのを待ちながら、無関心な眼でクリストフをながめていた。それにまた、彼女は腹がすいていた。胃袋の加減で、夕飯時なのを思い出していた。飲食店で連れの者たちといっしょになろうと急いでいた。彼女はクリストフの腕をとらえ、力いっぱいにもたれかかり、しきりに吐息をつき、疲れ果てたと言った。それでもやはり、狂人のように叫んだり笑ったり駆けたりしながら、クリストフを引張って坂道を降りていった。  二人は話しだした。彼女は彼がどういう者であるか知った。しかし彼女は彼の名前を知っていなかった。そして彼の音楽家たる肩書にたいして敬意を払わないらしかった。彼の方でも彼女のことを知った。カイゼル街(町の最もりっぱな通り)のある化粧品商の店員で、名前はアーデルハイト――友だち仲間ではアーダ、であった。その散歩の仲間は、同じ商店に働いてる朋輩《ほうばい》の一人と、二人のりっぱな青年だった。青年の一人はヴァイレル銀行員で、も一人はある大きな流行品商の事務員だった。彼らは日曜を利用したのであって、ライン河の美景が見られるプロヘット飲食店で晩餐《ばんさん》をし、それから船で帰るつもりにしていた。  二人が飲食店に着いた時、一同はもうそこにすわり込んでいた。アーダは一同を責めたてないではおかなかった。卑劣にも置きざりにしたことを彼らに不平言い、そしてこの人に助けてもらったのだと言ってクリストフを紹介した。彼らはアーダの苦情はいっこう構いつけなかった。しかし彼らはクリストフのことを知っていた。銀行員は評判を耳にしていたし、事務員は二、三の楽曲を聞いたことがあった――(彼はすぐに得意然とその一節《ひとふし》を口ずさんだ。)そして彼にたいする彼らの尊敬の様子は、アーダに感銘を与えた。そのうえ、も一人の若い女ミルハ――(実際はヨハンナという名前だったが)――栗《くり》色髪の女で、始終眼をまたたき、額が骨たち、前髪を引きつめ、その支那の女みたいな顔は、多少渋めがちではあったが、しかし利口そうでちょっとかわいく、山羊《やぎ》みたいな面影があり、脂気《あぶらけ》の多い金色の皮膚をしていた――それが急に宮廷音楽員[#「宮廷音楽員」に傍点]をちやほやしだしたので、アーダはなお感銘を受けた。一同は晩餐御同席の栄を得たいと彼に願った。  彼はかつてそういう供応に臨んだことがなかった。各人がきそって彼を尊敬した。二人の女が、仲よく彼を奪い合った。二人とも彼の気を迎えた――ミルハは、大仰な様子と狡猾《こうかつ》な眼つきをして、食卓の下で彼に膝頭《ひざがしら》をつきつけながら――アーダは、美しい瞳《ひとみ》や美しい口や、すべてその美しい身体のあらゆる誘惑の種を、厚かましく働かせながら。そしてやや露骨すぎるそういう嬌態《きょうたい》は、クリストフを当惑させ悩ました。それらの大胆な二人の娘は、ふだん家で彼をとり巻いてる無愛想な人々の顔つきとは、まったく別種の観があった。彼はミルハに興味を覚えた。彼女の方がアーダよりも怜悧《れいり》だと推察した。しかしそのひどく阿諛《あゆ》的なやり方と曖昧《あいまい》な微笑とには、好悪《こうお》の入り交った気持を起こさせられた。彼女はアーダから発する喜悦の光輝にたいしては、匹敵し得なかった。そして彼女もよくそれを知っていた。勝負は自分の方が負けだと見てとると、彼女は強《し》いて頑張《がんば》らずに、ただ微笑《ほほえ》みつづけ、気長に好機を待つことにした。アーダはもう自分のものだと見てとると、そのうえ優勢に乗ずることをしなかった。彼女の振舞は、朋輩を不愉快がらせようとするのが重《おも》であった。彼女はそれに成功した。満足だった。しかしその戯れに、彼女はみずから引っかかった。クリストフの眼の中に、彼女は自分が煽《あお》りたててやった情熱を感じた。そしてその情熱は、彼女のうちにも燃えてきた。彼女は口をつぐんだ。下等な揶揄《やゆ》をやめた。二人は黙って顔を見かわした。口の上には接吻《せっぷん》の味が残っていた。時々にわかに元気を出して、他の人達の冗談に騒々しく口を出した。それからまた黙り込んでは、そっと顔を見合った。しまいには人に気づかれるのを恐れるかのように、もう見かわしもしなかった。自分のうちにくぐまり込んで、情欲をかきいだいていた。  食事が終ると、一同は出かけることにした。乗船場まで行くには、林をつき切って二キロメートル歩かなければならなかった。アーダはまっ先に立上った。クリストフはそのあとにつづいた。二人は他の人々の仕度ができるのを待ちながら、表の石段の上にたたずんだ――飲食店の門前にともされたただ一つの軒燈の光が、ぽつりと差してる浅い霧の中に、無言のまま相並んで……。  アーダはクリストフの手を取り、家の横を、庭の暗闇《くらやみ》の方へ引張っていった。茂るに任せた葡萄蔓《ぶどうづる》が一面にたれさがってるバルコニーの下に、二人は身を潜めた。あたりは重い闇だった。二人は相手の顔も見えなかった。風が樅《もみ》の梢《こずえ》を揺すっていた。彼は自分の指にからんでるアーダの生あたたかい指を感じ、彼女が胸にさしている一輪のヘリオトロープの香《かお》りを感じた。  にわかに彼女は彼を引寄せた。クリストフの口は、霧にぬれたアーダの髪に触れ、彼女の眼や睫毛《まつげ》や小鼻や脂肪太りの頬骨《ほおぼね》に接吻し、口の角に接吻し、唇《くちびる》を捜し求めて、そこにじっと吸いついた。  他の者たちも出て来ていた。彼らは呼んでいた。 「アーダさん!……」  二人はじっとしていた。たがいに抱きしめながら、息を凝らしていた。  ミルハの声が聞えた。 「先に行ったのよ。」  仲間の者の足音は、闇の中を遠ざかっていった。二人はたがいになお強く抱きしめて、熱烈な囁《ささや》きも唇《くちびる》から漏れる余地がなかった。  村の大時計が遠くで鳴った。二人は抱擁から身を離した。乗船場へ大急ぎで駆けつけなければならなかった。二人は無言のまま、腕と手とを組み合せ、たがいに歩調を合せながら出かけた――彼女の気性どおりの素早いてきぱきした小足で。街道は寂しかった。平野に人影もなかった。十歩と先は見えなかった。二人は好ましい闇夜の中を、晴やかな安心しきった心地で歩いていった。道の小石につまずきもしなかった。遅れていたので近道をとった。小道は葡萄《ぶどう》畑の間をしばらく降りたあとに、また上り坂になり、丘の中腹を長くうねっていた。霧の中に河の音が聞え、近づいて来る船の推進輪の高い響きが聞えてきた。二人は道を捨てて畑の中を駆けだした。ついにライン河の岸に着いた。しかし乗船場まではまだかなりあった。それでも二人の晴やかな気持は変らなかった。アーダは夕の疲労をも忘れていた。二人はそのまま、月の光のように仄《ほの》白く浮出してる河に沿うて、ますます湿っぽくますますこまやかに漂っている靄《もや》の中を、ひっそりしてる草の上を、夜通しでも歩けられそうな気がしていた。船の汽笛が鳴って、その眼に見えない怪物は重々しく遠ざかっていった。二人は笑いながら言った。 「次のに乗りましょう。」  河の渚《なぎさ》には、静かな余波が二人の足下に砕けていた。  乗船場に行くと、こう言われた。 「しまいの船が出たばかりです。」  クリストフは胸にどきっとした。アーダの手はいっそう強く彼の腕を握りしめた。 「いいわ!」と彼女は言った、「明日《あした》になったら出るでしょう。」  数歩向うに、河岸《かし》の高壇《テラース》にある柱に、角燈がさがっていて、霧の暈《かさ》の中にぼーっと光っていた。その少し先に、二、三の明るいガラス窓が見えて、一軒の小さな宿屋があった。  二人は狭い庭にはいった。歩くと砂が音をたてた。手探りで階段が見つかった。中にはいると、燈火が消され始めていた。アーダはクリストフの腕にすがりながら、室を一つ求めた。二人が通された室は、庭に面していた。クリストフは窓からのぞき出した。見ると、河《かわ》は燐光《りんこう》のように浮出しており、角燈が眼のように光っていて、そのガラスに大きな翼の蚊がぶっつかっていた。扉《とびら》はしめられた。アーダは寝台のそばに立って、微笑《ほほえ》んでいた。彼は彼女の方を見られなかった。彼女も彼を見てはいなかったが、しかし睫毛《まつげ》越しに、彼の一挙一動をうかがっていた。床板は歩くたびにきしった。家の中のかすかな物音まで聞えた。二人は寝台の上にすわって、無言のまま相|抱《いだ》いた。  庭のちらつく燈《ともしび》は消えた。すべてが消えた……。  夜……淵《ふち》……光もなく、本心もなく……ただ「存在」が。「存在」の陰闇《いんあん》貪欲《どんよく》な力。無上に力強い喜悦。張り裂けるばかりの喜悦。空虚が石を吸い込むように、全身を吸い込む喜悦。あらゆる考えを吸い尽す情欲の渦巻《うず》。暗夜のうちに転々する陶酔せる世界の、狂暴|無稽《むけい》なる「法則」……。  夜……相交る息、溶け合う二つの身体の金色の生あたたかさ、いっしょに陥ってゆく恍惚《こうこつ》の深淵《しんえん》……幾多の夜を含む夜、幾多の世紀を含む時間、死を含む瞬間……共にみる夢、眼を閉じてささやく言葉、半ば眠りながら捜し合う素足の、やさしいひそやかな接触、涙と笑い、万事を空にして愛し合い、また虚無の眠りを分ち合う、その幸福、脳裏に浮ぶ雑然たる物象、鳴りわたる夜の幻影……。ライン河は、家の下の入江に、ひたひたと音をたてている。遠くには、巌《いわお》に打ちつけるその波が、砂上に降る小雨のように響いている。乗船台は水の重みに、きしりうなっている。それをつなぎ止める鎖は、古い鉄|屑《くず》のような音をたてて、伸び縮みしている。河の音が高まって、室の中いっぱいになる。寝台は舟のように思われる。二人は相並んで、眼くらむばかりの流れに運ばれる――空|翔《かけ》る小鳥のように、空虚のうちに浮かびながら。夜はますます闇《やみ》となり、空虚はますますむなしくなる。二人はたがいにますますしかと抱きしめる。アーダは泣き、クリストフは意識を失い、二人とも暗夜の波の下に沈んでゆく……。  夜……死……。何故に蘇《よみがえ》るの要があろう?……  夜明けの光が、ぬれた窓ガラスをかすめる。生命の光が、懶《ものう》い身体の中にまたともってくる。彼は眼を覚《さま》す。アーダの眼が彼を見ている。二人の頭は同じ枕の上にもたれている。二人の腕はからみ合っている。二人の唇《くちびる》は相触れている。全生涯が数分間のうちに過ぎてゆく、太陽と偉大と静安との日々……。 「私はどこにいるのか? そして私は二人なのか? 私はまだ存在しているのか? 私はもはや自分の一身を感じない。無限が私をとり巻いている。オリンポスの平安に満ち充《み》ちた静かな大きい眼をしてる彫像、それの魂を私は今もっている……。」  二人はまた眠りの時代に陥ってゆく。そして耳慣れた曙《あけぼの》の音が、遠い鐘、過ぎゆく小舟、水のしたたる二本の櫂《かい》、道行く人の足音が、二人に生きてることを思い起こさせながら、それを二人に味わわせながら、そのまどろめる幸福を、乱すことなく愛撫《あいぶ》してゆく……。  窓の前に船の音がしてきたので、うとうとしていたクリストフは我れに返った。きまった職務の間に合うように町へ帰るため、七時には出かけようという約束だった。彼はささやいた。 「聞こえるだろう?」  彼女は眼を開かなかった。ただ微笑《ほほえ》んで、唇を差出し、元気を出して彼を抱擁し、それからまた頭を彼の肩の上に落した。……窓ガラスから彼は、船の煙筒や、人なき甲板や、ほとばしり出る煙が、白い空にすべってゆくのを見た。彼はまたうっとりとした……。  気づかないうちに一時間たった。時計の音を聞いて、彼ははっとした。 「アーダ……、」と彼は女の耳にささやいた、「ね、アーダ、」と彼はくり返した、「八時だよ。」  彼女はなお眼を閉じたまま、不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》と口とを渋めた。 「眠らしてちょうだいよ。」と彼女は言った。  そして彼の腕から身を離し、疲れはてた溜息《ためいき》を漏らしながら、彼に背を向け、向う向いたまままた眠った。  彼は彼女の傍《かたわ》らに寝ていた。同じあたたかさが二人の身体を流れていた。彼は夢想にふけり始めた。血潮は穏かな大きい波をなして流れていた。清朗な感覚は微妙な清新さでごくわずかな印象をも感じていた。彼は自分の力と青春とを楽しんだ。男子たるの誇りを感じた。自分の幸福に微笑《ほほえ》んだ。そして自分の孤独を感じた、いつものとおりの孤独を、おそらくはなおいっそうの孤独を。しかしなんらの悲哀もなく、崇高な寂寥《せきりょう》の孤独だった。もはや熱気もなかった。もはや陰影もなかった。自然は彼の朗らかな魂のうちに自由に反映していた。仰向けに横たわり、窓に面し、輝く霧を含んだまぶしい空気の中に眼をおぼらして、彼は微笑んだ。 「生きることはなんといいことだろう!……」  生きる!……一|艘《そう》の小舟が通った。……彼は突然、もう生きていない人たちのことを考えた。通りすぎた小舟のことを考えた。それにはいっしょに乗っていた、彼らが――彼と――彼女と……。彼女とは?……それは今彼のそばに眠ってるこの女ではない。ただ一人の女、恋しい女、死んでる憐《あわ》れな小さな女。――それならばこの女は何者であるか? どうしてここにいるのか? どうして二人は、この室に、この寝台に、やって来たのか? ながめても、見覚えがない。見知らぬ女だ。昨日の朝までは、彼にとって彼女は存在していなかった。彼は彼女のことを何を知っているか?――怜悧でないことを知っている。善良でないことを知っている。血の気の少ない寝脹《ねば》れた顔をし、低い額をし、息をするために口を開き、ふくれつき出た唇《くちびる》で鯉《こい》のような口つきをしていて、今は美しくないことを知っている。自分が少しも愛していないことを知っている。そして考えれば考えるほど、切ない悩みに彼は胸を刺し通される。最初の瞬間から、この見知らぬ唇に接吻《せっぷん》したのだ。出会った最初の夜から、この無関係な美しい身体を抱いたのだ。――それなのに、愛する彼女にたいしては、自分のそばに彼女が生きまた死ぬのをながめてき、かつてその髪に触れることもなし得なかったし、その身体の香りを知ることも永久にないだろう。もう何も残っていない。すべて溶け去ってしまった。土地からすべて奪われてしまった。彼女を護《まも》ることもしなかった……。  そして、仇気《あどけ》なく眠っている女をのぞき込み、その顔だちをうかがいながら、好意のない眼でながめていると、彼女は彼の視線を感じた。彼女はじっと見られてるのが不安になり、ようやく元気を出して、重い眼瞼《まぶた》を上げ、微笑《ほほえ》んだ。眼覚めたばかりの子供のように、よく回らぬ舌の先で、彼女は言った。 「見ちゃ嫌《いや》よ、見っともないから……。」  彼女は眠気にうちまけて、またすぐにがっくりとなり、なお微笑み、口ごもった。 「ああ、ほんとに……ほんとうに眠いのよ!」  そしてまた夢にはいった。  彼は笑わないではおられなかった。その子供らしい口と鼻とにやさしく接吻した。それから、その大きな小娘の寝姿をなおちょっとながめた後、その身体をまたぎ越して、音をたてずに起上った。彼が寝床から出ると、彼女はほっと溜息をついて、あいた寝台のまん中に、長々と身を伸した。彼は身繕いをしながら、彼女の眼を覚させまいと、その心配は少しもなかったが、とにかく用心をした。それが済むと、窓ぎわの椅子《いす》にかけて、氷塊がころげてるかと思われるような、霧の濛々《もうもう》と立ちこめた河をながめた。そして夢想のうちに惘然《ぼうぜん》と沈んでゆくと、哀調を帯びた牧歌の曲が漂ってきた。  時々彼女は、眼を少し開いて、ぼんやり彼の方をながめ、幾秒かかかって彼の姿を認め、彼に微笑《ほほえ》みかけ、またも眠りに陥っていった。彼女は彼に時間を尋ねた。 「九時十五分前だよ。」  彼女は半ば眠りながら考えた。 「まだなんでもないわ、九時十五分前なら。」  九時半に、彼女は伸びをし、溜息をつき、起きると言った。  しかし彼女がまだ動かないうちに、十時が鳴った。彼女は不機嫌《ふきげん》になった。 「また鳴ってるわ!……いつも時間の進むこと!……」  彼は笑った。そして彼女のそばに来て寝台に腰かけた。彼女は彼の頸《くび》に両腕をまきつけて、夢の話をした。彼はあまり注意して聞かないで、ちょいちょいやさしい言葉をはさんでさえぎった。しかし彼女は彼を黙らして、非常に重大な話かなんぞのように、ごく真面目《まじめ》に話をつづけた。  ――彼女は晩餐《ばんさん》会に列していた。大公爵もいた。ミルハは尨犬《むくいぬ》だった[#「だった」に傍点]……いや、縮れ毛の羊だった。そして給仕をしていた。……アーダはどうしたのか、地面から上へ上っていって、空中で歩いたり踊ったり寝たりすることができた。それは訳もないことだった。ただ、こう……こうすればよかった。するともうそれができるのだった。  クリストフは彼女をひやかした。彼女は笑われたのを少しむっとしながらも、自分でも笑っていた。彼女は肩をそびやかした。 「ああ、あんたにはちっともわからないのね!……」  二人はその寝台の上で、同じ皿《さら》と同じ匙《さじ》とで朝食をした。  彼女はついに起上った。掛物をはねのけ、美しい大きなまっ白い足先と、でっぷりした美しい脛《すね》を出して、敷物の上にすべりおりた。それから、そこにすわって息をつき、自分の足をながめた。しまいに手を打って、出てゆくように彼に言った。彼がぐずぐずしてると、彼女は彼の肩をとらえ、扉《とびら》の外に押し出し、鍵《かぎ》でしめ切った。  彼女はいろいろ手間どり、美しい手足を一つずつながめては差伸ばし、顔を洗いながら十四連の感傷的な歌曲《リード》を歌い、窓につかまってタンブリンの音をまねてるクリストフの顔に水をはねかけ、出かける時には、庭に咲き残ってる薔薇《ばら》の花を摘み取り、そして二人は船に乗った。霧はまだ晴れていなかった。しかしそれを通して日が輝いていた。乳色の光の中に浮んでる気がした。アーダはクリストフとともに艫《とも》の方にすわり、うとうととした不平そうな様子をし、光が眼にしみるとか、一日じゅう頭痛がするだろうとか、愚痴を言っていた。そしてクリストフが、彼女の苦情を十分本気にとってやらなかったので、彼女は無愛想に黙り込んでしまった。わずかに細目を開き、眼覚めたばかりの子供のようなおかしな鹿爪《しかつめ》らしさをしていた。しかし次の乗船場で、優美な貴婦人が乗り込んで近くにすわると、彼女はすぐに元気になって、感傷的な上品なことをクリストフに言おうとつとめた。四角張った言葉使いを彼にしだした。  クリストフは彼女が女主人になんと遅延の言い訳をするか、それを気にしていた。彼女はほとんど気にかけてもいなかった。 「なに、初めてのことじゃないわ。」 「何が?……」 「おそくなったのが。」と彼女は彼の問いに少し困って言った。  彼は彼女がそう何度もおそくなった理由を尋ね得なかった。 「なんと言うつもりだい?」 「お母さんが病気だとか、死んだとか……なんだっていいわ。」  彼女にそう無造作《むぞうさ》に言われたので、彼は嫌《いや》な心地がした。 「嘘《うそ》をつくのはいけない。」  彼女はむっとした。 「私は嘘は言いません……それにしたって、言えやしません……。」  彼は半ば冗談に半ば真面目《まじめ》に尋ねた。 「なぜ言えないんだい?」  彼女は笑った。そして肩をそびやかしながら言った、彼は粗野で無作法だとか、もうお前なんて言葉つきをしないように頼んでおいたのにとか。 「僕にはその権利がないのかい?」 「ちっともありません。」 「あんなことがあったあとでも?」 「何にもあったんじゃありません。」  彼女は笑いながら、軽侮の様子で彼を見つめた。そして、もとよりそれは冗談ではあったが、最もひどいことには、真面目《まじめ》にそう言いほとんどそう信じることも、彼女にはたいして骨の折れることではないに違いなかった。――(彼はそれを感じた。)しかし彼女はきっと愉快な思い出にはしゃいでもいたのだろう。クリストフをながめながら急に笑い出し、音高く接吻《せっぷん》し、近くの人々をもはばからなかった。それにまた近くの人々も、なんら驚いた様子をも見せなかった。  彼は今では、いつも男女の店員らと連れだって散歩するようになった。彼らの野卑さを彼もあまり好まず、途中ではぐれようとつとめた。しかしアーダは、つむじ曲りの気質から、もう林の中に迷い込もうとしなかった。雨が降る時か、あるいは他の理由で町から出かけられない時には、彼は芝居や博物館や動物園などに彼女を連れていった。なぜなら、彼女はいつも彼といっしょなのを人に見せつけたがったから。彼女はまた、宗教上の祭式にまで彼について来てもらいたがった。しかし彼は、もはや信仰しなくなってからは、教会堂へ足を踏み入れることを欲しなかったほど、ばかばかしく誠実だった。――(他の口実を設けて、会堂のオルガニストの地位を辞してしまっていた。)――しかもまた同時に、みずから識《し》らずしてやはり宗教的だったので、アーダの申し出を不敬なことだと思わずにはいられなかった。  彼は晩には彼女のところへ出かけていった。同じ家に住んでるミルハがいっしょにいた。ミルハは少しも恨みをいだいていないで、柔らかいやさしい手を彼に差出し、無関係なことや放縦な事柄を話し、そしてつつましく姿を隠した。この二人の女は、親友たる理由を最も失って以来、最も親友らしく振舞っていた。いつも二人いっしょにいた。アーダは何事もミルハに隠さないで、すっかりうち明けていた。ミルハはなんでも聞いていた。そしてそれを、二人とも同じくらいうれしがってるようだった。  クリストフはこの二人の女といっしょになると、どうも気がゆったりしなかった。彼女らの友誼《ゆうぎ》、その奇怪な会話、放恣《ほうし》な行動、無遠慮な態度、とくにミルハの物の見方や話し方の無遠慮さ――(それでも彼の面前ではいくらか少なかったが、彼がいない時のこともアーダが聞かしてくれた)――それからまた、つまらない問題やかなり淫《みだ》らな問題へいつもわたってゆく、不謹慎で饒舌《じょうぜつ》な彼女らの好奇心、すべてそういう曖昧《あいまい》な多少獣的な雰囲気《ふんいき》に、彼は恐ろしく困らされた。それでもまた心をひかれた。なぜならそういう種類のことを少しも知らなかったから。その二人の小さな獣どもは、つまらないことを話し合い、とりとめもないことを語り合い、馬鹿《ばか》げた笑い方をし、うれしそうに眼を輝かしながら、淫逸《いんいつ》な話をつづけるので、そういう会話の中に出ると彼は面食《めんくら》ってしまった。そしてミルハが立ち去るとほっと安堵《あんど》するのだった。二人の女をいっしょにすると、彼には言葉のわからない外国の土地のように思われた。考えを通じ合うことができなかった。彼女らは彼の言葉には耳も傾けず、外国人たる彼を馬鹿にしていた。  アーダと二人きりの時には、やはり違った二つの言葉を使いはしたが、それでもたがいに了解するために、二人とも少なくも努力はしていた。しかし実を言えば、彼は彼女を了解すればするほど、ますます了解していないのであった。彼女は彼が知った最初の女性だった。あの憐《あわ》れなザビーネも女性の一人ではあったが、彼は彼女を少しも知っていなかった。彼にとっては、彼女はただ心の夢だけとなっていた。しかるにアーダは、空費した時を回復させる役目となった。彼はこんどこそ女性の謎《なぞ》を解こうとつとめた――おそらくはなんらかの意義を求めようとする人々にとってしか謎ではないところの謎を。  アーダは少しの知力もそなえていなかった。がそれはまだ些細《ささい》な欠点だった。もし彼女がそれをあきらめていたら、クリストフもそれをあきらめたろう。しかし彼女は、つまらないことにばかり頭を向けていながらも、精神的な事柄にも通じてると自負して、確信をもって万事を判断した。音楽のことを話しては、クリストフが最もよく知ってる事柄を彼に説明してやり、判定を下して頑《がん》として応じなかった。彼女を説伏しようとしても無駄《むだ》だった。彼女は万事にたいして主張と疑惑とをもっていた。やたらに気むずかしいことを言い、頑固《がんこ》で傲慢《ごうまん》であって、何物をも理解しようとはしなかった――理解することができなかった。実際何にもわからないということが、どうしても承知できなかった。もし彼女が、その欠点と美点とをもってただ生地《きじ》のままで満足していたなら、彼はさらにいかほどかよく愛してやったことだろう!  事実彼女は、考えるということをほとんど心にかけていなかった。食べ飲み歌い踊り叫び笑い眠ることだけを、心にかけていた。幸福にしていたいと思っていた。そしてそれは、もし成功していたらきわめて結構なことだったろう。元来彼女は、幸福なるために天賦の才をもっていて、大食であり、怠惰であり、淫蕩《いんとう》であり、クリストフをいやがらせまた面白がらせる無邪気な利己心をそなえていたし、約言すれば、友だちにたいしてではないが、仕合せにもそれをもってる本人にたいして人生を愉快ならしむるところの、ほとんどあらゆる悪徳をもっていたし――(それになお、幸福な顔つきをしていたが、この幸福な顔つきは、少なくともそれがきれいである以上は、すべて近寄る人たちの上に幸福を光被するものである)――かくて生存に満足すべき多くの理由がありはしたけれど、しかし満足するだけの知力さえそなえてはいなかった。健康そうな様子をし、あふれるばかりの快活さを有し、猛烈な食欲をそなえ、清新で、陽気で、美しい丈夫なこの娘は、自分の健康を気づかっていた。馬のように大食しながら、身体の弱いことを嘆いていた。あらゆる愚痴をこぼしていた、もう歩けない、もう息がつけない、頭痛がする、足が痛む、眼が痛む、胃が痛む、心が痛む、などと。あらゆるものを恐《こわ》がり、ばかに迷信家で、どこにでも何かの前兆を認めていた。たとえば食卓では、ナイフ、十字に組合したフォーク、客の数、ひっくり返ってる塩入れなどがあって、災難を避けるために沢山の禁呪《まじない》をしなければならなかった。散歩をしてると、鳥の数を数え、それがどちらへ飛ぶかをかならず観察した。また心配そうに足下の道をうかがい、もし午前中に蜘蛛《くも》が通るのを見つけると、非常に悲しがって、引返したがった。それをむりにつづけて散歩させるには、もう正午過ぎなので前兆は凶から吉へ変ったのだと説き伏せるより外に、なんらの手段もなかった。また夢を気にしていた。彼女はいつも長々とクリストフに夢の話をした。そのちょっとした些事《さじ》を忘れても、幾時間もかかって思い出そうとした。ただ一つの事柄も彼に聞かせないではおかなかった。それはまったく荒唐|無稽《むけい》な事柄の連続であって、おかしな結婚、死人、裁縫女、王侯、滑稽《こっけい》なまた時には猥褻《わいせつ》な事柄、などが問題になっていた。彼はそれに耳を傾けなければならないし、意見を吐かなければならなかった。彼女はそれらの愚にもつかない幻影に、終日つきまとわれてることもしばしばだった。世の中は悪くできてるものだと考え、事物や人々をぶしつけにながめ、やたらに嘆息してクリストフを困らした。そして彼は、自家の陰鬱《いんうつ》な小市民たちのもとをいくら逃げ出しても、やはりここにもまた、永遠の敵たる「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者[#「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者」に傍点]」を見出したのである。  そういう不機嫌《ふきげん》な愚痴の最中に、突然、また快活な様子が騒々しく大|袈裟《げさ》に現われてくるのであった。するともう、先刻の苦情と同じく、その快活さにも手のつけようがなかった。理由もないのにいつまでもつづくかと思われるほど大笑いをし、畑の中を駆けずり回り、狂気じみた仕業《しわざ》をし、子供のように戯れ、ばかなことをして喜び、土くれや汚《きたな》い物をかきまわし、畜類や蜘蛛《くも》や蟻《あり》や蚯蚓《みみず》などをいじくり、それをいじめ、害を加え、小鳥を猫《ねこ》に、蚯蚓を鶏に、蜘蛛を蟻に、たがいに食わせ、しかも悪心あってなすのではなく、あるいはまったく無意識的な加害の本能から、好奇心から、無為退屈な心からであった。または、倦《う》むことなき欲求をもって、くだらないことを言い、なんの意味もない言葉を何十度となく繰り返し、人をいやがらせ、苛立《いらだ》たせ、じらし、激怒させることもあった。しかも、だれかが――だれでも構わない――道に姿を現わすと、また嬌態《きょうたい》が始まった。すぐに彼女は、元気よく口をきき、笑声をたて、騒ぎたて、変な表情をし、人目を引いた。わざとらしい突飛な行動をした。クリストフは今に彼女が真面目《まじめ》らしいことを言い出すだろうと、びくびくしながら予感した。――そして、はたしていつもそのとおりだった。彼女は感傷的になった。しかも他の場合と同じく、こんどもまた法外だった。恐ろしい勢いで感情をぶちまけた。クリストフはそれに悩まされて、なぐりつけたかった。彼が彼女に何よりも最も許しがたかったことは、誠実でないということだった。誠実というのは、知力や美貌《びぼう》と同じくらいめったにない賦性で、万人にそれを要求するのは無理であるということを、彼はまだ知らなかった。彼は虚言を忍ぶことができなかった。しかもアーダは彼にひどく嘘《うそ》をついた。明らかな事実が現われていても、平気でたえず嘘をついた。彼に不快を与えた事柄を――彼の気に入った事柄をも――すぐに忘れてしまう驚くべき容易さを、その時々の調子に任して生活してる女が一般に有する忘却の容易さを、彼女はもっていた。  そして、それにもかかわらず二人は愛し合っていた。たがいに心から愛し合っていた。アーダも愛にかけては、クリストフと同様に誠実だった。その愛は精神の同感の上に立ってはいなかったが、それでもやはり真実のものだった。下等な情熱とはなんらの共通点ももってはいなかった。青春の美しい愛であった。いかにも肉感的なものではあったが、卑俗なものではなかった。なぜならその中ではすべてが若々しかったから。率直でほとんど清廉で、快楽の燃えたつ清純さに洗われた愛だった。アーダはなかなかクリストフほど初心《うぶ》ではなかったとは言え、まだ青春の心と身体とのりっぱな特権をもっていた。その感覚の清新さは、小川のように清澄|溌溂《はつらつ》として、ほとんど純潔の感を与え、何物にも妨げられることがなかった。彼女は普通の生活においては利己的で平凡で不誠実であったが、愛のために、素朴《そぼく》に真実にほとんど善良にさえなっていた。他人のために自己を忘れることにおいて見出される喜びを、彼女は理解するほどになっていた。クリストフはその様子をうれしげにながめた。すると、彼女のために死んでも惜しくないような気がした。愛する魂はその愛のうちに、いかにおかしなしかも痛切な欺瞞《ぎまん》をもちきたすことであるか! 恋人にありがちな幻は、クリストフのうちにあっては、あらゆる芸術家に固有な幻想力によってさらに強調されていた。アーダの一つの微笑も、彼にとっては深い意義をもっていた。やさしい一言も、その心の善良さの証拠であった。彼は宇宙にあるあらゆるみごとなものを、彼女のうちにおいて愛していた。彼は彼女を、おのれの自我、おのれの魂、おのれの存在、と呼んでいた。二人はいっしょに愛情のあまり涙を流した。  二人を結びつけてるものは、ただ快楽ばかりではなかった。追想と夢想との得も言えぬ詩趣であった。がその追想と夢想とは、彼ら二人のものだったろうか、あるいはまた、彼ら以前に愛していた人々、彼ら以前に……彼らのうちに……存在していた人々、そういう人たちのものだったろうか?……二人はたがいにそれと言わずに、おそらくはそれと知らずに、心のうちにいだいていた、林の中で出会った最初の瞬間の幻影を、いっしょに過した最初の日々と夜々との幻影を、たがいに腕のなかにいだかれ合い、身動きせず、考えもせず、愛と無言の喜悦との奔流に浸って、うとうととしたそれらの眠りを。ちょっと触れてもすでに人知れず顔色が変り一身が快感のうちに溶け去ってゆくほどの、突然の追憶、種々の事象、隠密な考えなどが、蜜蜂《みつばち》のような羽音を立てて二人を取り巻いていた。燃えたつやさしい光。心はあまりに大きな楽しさに圧倒されて、惘然《ぼうぜん》となり黙り込んでゆく。春の初光のうち震える大地の沈黙、熱っぽい懶《ものう》さ、けだるい微笑……。若々しい二つの身体の清新な愛は、四月の朝である。それは露のように過ぎてゆく。心の若さは、太陽の朝餐《ちょうさん》である。  クリストフとアーダとの恋愛関係をますます密接ならしめたものは、ことに彼らに対する世間の批評であった。  二人が最初に出会ったその翌日から、近くの人々は皆それを知った。アーダは少しもその情事を隠そうとしなかった。むしろ彼を手に入れたことを自慢にしたがっていた。クリストフはもっと内密にしたがっていたが、しかし人々の好奇心につきまとわれてるのを感じた。そしてアーダの前を逃げようとする様子をしたくなかったので、わざと彼女といっしょのところを見せつけていた。小さな町じゅうにぱっと噂《うわさ》がたった。クリストフの管弦楽団の仲間は、彼に嘲笑《ちょうしょう》的なお世辞を述べた。彼は自分のことに他人が干渉するのを許し得なかったので、返辞もしなかった。官邸でも、彼の不品行が非難された。中流市民らは、彼の行いをきびしく批評した。彼は数軒の音楽教授の口を失った。また他の家では、それ以来母親たちは、あたかもクリストフが大事な娘を奪おうと思ってでもいるかのように、疑い深い様子をして、娘の稽古《けいこ》に立ち合わなければいけないと考えた。令嬢たちは何にも知らないことと見なされていた。しかし、もとより彼女らはすっかり知っていた。そして、クリストフは趣味を解しないとして冷遇しながら、もっと詳しいことを非常に知りたがっていた。クリストフの評判がいいのは、小さな商人や店員などの間ばかりだった。しかしそれも長つづきはしなかった。彼は一方の悪評にたいするのと同じく、他方の好評にたいしても腹をたてていた。そして悪評の方はなんともしようがなかったので、称賛の方がつづかないような策をとり、しかもそれはさほど困難なことではなかった。彼は世間一般の無遠慮を憤っていた。  彼にたいして最も激昂《げっこう》したのは、ユスツス・オイレルとフォーゲル一家だった。クリストフの不品行は、直接身に受けた侮辱のように彼らには思われた。それでも彼らは、なんら真面目《まじめ》な計画を彼の上にすえてるのでもなかった。彼らは――ことにフォーゲル夫人は――芸術家気質なるものを軽蔑《けいべつ》していた。しかし彼らは、元来苦労性の精神をもっていたし、運命に苦しめられてると信じがちな精神をもっていたので、クリストフとローザとの結婚が実現されそうもないことがいよいよ確かになると、その結婚に執着していたのだとみずから思い込んだ。そしてそこに例の不運の一つの兆《しるし》を見てとったのである。もし運命が彼らの違算の責を帯びるものとするならば、理論上クリストフには責任がないはずだった。しかしフォーゲル一家の者の理論は、苦情を言うべき理由を最も多く見出し得させるような理論であった。それで彼らは、クリストフが不品行をするのも、単に彼一個の楽しみのためばかりではなく、また自分らを侮辱せんがためにである、と判断した。そのうえ彼らは、不品行そのものをも忌みきらった。彼らはきわめて信仰深く、道徳心強く、家庭的の徳義心に厚かったので、そういう人たちの例として、彼らの考えによれば、肉欲の罪は最も恥ずべきものであり最も重大なものであり、また唯一の恐るべきものであるから唯一の罪とも言えるのであった。――(相当の者なら決して窃盗や殺害の心は起こすものでないということは、あまりに明らかなことだった。)――それでクリストフは徹頭徹尾正しからぬ者だと彼らには思われた。彼らは彼にたいする態度を変えた。彼が通りかかると、冷酷な顔つきをして横を向いた。クリストフの方では、彼らと話をしたくも思ってはいなかったので、それらの澄し込んだ様子を見るごとに肩をそびやかした。アマリアは彼を軽蔑して避けるようなふうをしながらも、心にたまってることを言ってやるために、しきりに彼と接する機会を作りたがっていたが、彼はその無礼な仕打ちをも見ないふりをしていた。  クリストフが心打たれたのは、ただローザの態度だけであった。この少女は家族のだれよりもいっそうきびしく彼を非難した。それは、クリストフの新しい恋が、彼から自分が愛される機会を、まったく破壊してしまうように思われるからではなかった。彼女はそういう機会が一つもないことを知っていた――(やはりつづけて希望はかけていたろうけれど。……彼女は永久に希望をかけているだろう!)――しかし彼女は、クリストフを偶像視していた。しかるにその偶像がこわれかけたのである。それは最もつらい苦痛だった……彼女の純潔な心のうちでは、彼から蔑視《べっし》されることよりも、さらに残忍な苦痛だった。彼女は清教徒的なやり方で、偏狭な道徳のうちに育てられ、その道徳を熱心に信じていたので、クリストフについて聞き知った事柄は、ただに彼女を悲しませたばかりでなく、また嫌悪《けんお》の情さえも起こさせた。彼がザビーネを愛してる時から、彼女はすでに苦しんでいた。その自分の崇拝者にたいする幻影を、すでに幾何《いくばく》か失いかけた。クリストフがかくも凡庸《ぼんよう》な魂を愛するということは、不可解なまたあまり名誉でないことのように彼女には思われた。しかし少なくとも、その愛は純粋であって、かつザビーネはそれに相当し得ないでもなかった。最後に死が通り過ぎて、すべてを清めたのであった……。しかしすぐそのあとで、クリストフが他の女を愛そうとは――しかもいかなる女か!――それは卑しいことであり、嫌悪すべきことだった! 彼女は彼に対抗して、死んだ女を庇護《ひご》するようになった。その女を忘れたことを、彼に許し得なかった。……が嗚呼《ああ》、彼は彼女よりもなおいっそうそのことを考えていたのである! しかし彼女は、熱烈な心の中に二つの感情を同時にいれ得る余地があろうとは、夢にも思わなかった。現在を犠牲にしなければ過去に忠実であり得ないものだと、信じていた。清くて冷やかな彼女は、人生についてもまたクリストフについても、なんらの観念をも得ていなかった。すべてが彼女自身と同じように、純粋で狭小で義務に服従していなければいけないように思われた。彼女は心身ともすべてにおいて謙譲であって、ただ一つの誇りをしかもっていなかった。それは純潔の誇りだった。そして自分についてもまた他人についても、それを要求していた。クリストフがかくまで堕落したことを、彼女は許してやり得なかったし、永久に許してやり得なかったであろう。  クリストフは彼女に、弁解するつもりではないとしても、とにかく話をしようとつとめた。――(純潔無邪気な娘に何を言い得ることがあったろう?)――ただ、自分は彼女の友であること、彼女の尊重を切望してること、自分はまだそれを受けるに足りること、などを彼女に確信さしてやりたかった。しかしローザはいかめしく口をつぐんで、彼を避けていた。彼は彼女から軽蔑されてることを感じた。  彼はそれを苦しみまた憤った。自分はその軽蔑《けいべつ》に相当する者でない、という自覚があった。それでも彼はついに狼狽《ろうばい》してしまった。自分に罪があると考えた。そして最も苦々しい非難を、ザビーネのことを考えながら、みずから自分に浴せた。彼はみずから自分を苦しめた。 「嗚呼《ああ》、どうしてこんなはずがあろうか? どうして私はこうなのか?……」  しかし彼は自分を押し流す流れに抵抗することができなかった。彼は人生は罪悪的なものだと考えた。そして人生を見ないで生きるために眼を閉じた。それほど、生きたく、愛したく、幸福でありたかった。……確かに、彼の愛のうちにはなんら軽蔑《けいべつ》すべきものはなかった。アーダを愛するのは、賢明でなく怜悧《れいり》でなくたいして幸福でさえないかもしれないと、彼はよく知っていた。しかしなんの賤《いや》しい点があったろうか? たとい――(彼は信じまいとつとめていたが)――アーダには大して精神的価値がなかったと仮定しても、彼女にたいする彼の愛は、何によってそれだけ純潔の度が少ないと言えたであろうか? 愛は愛する者のうちにあるので、愛される者のうちにあるのではない。純潔な者にあっては、すべてが純潔だ。強壮な者や健全な者にあっては、すべてが純潔だ。愛は、ある種の小鳥をその最も美しい色彩で飾りたてるものであり、正直な魂から、その最も高尚なものを引出してくる。愛人にふさわしくないものは何一つ示したくないという欲求から、人はもはや、愛が刻んだ美しい像に調和する思想や行為にしか、喜びを見出さなくなる。そして魂が浴する青春の泉は、力と喜悦との潔《きよ》い光輝は、麗わしくかつ有益であって、人の心をますます偉大ならしむるものである。  知友たちから誤解されてることは、彼の心に憂苦を満さした。しかし最も重大な憂苦は母親までが心配し始めたことであった。  この善良な婦人は、フォーゲル一家の偏狭な主義を共に奉じてはいなかった。彼女はあまり目近に真の悲しみを見てきたので、他の悲しみを想像し出そうとはしなかった。自分を卑下し、生活に困憊《こんぱい》し、生活からたいした喜びも受けず、生活に喜びを求めることはさらに少なく、成行のままにあきらめ、事変を理解しようともつとめないで、他人を批判し非難することを慎しんでいた。自分にはその権利がないと信じていた。自分をきわめて愚かだと考えて、他人が自分と同じように考えないから間違ってるとは見なさなかった。自分の道徳と信念との一徹な規則を他人にも押しつけようとすることは、彼女には笑うべきことのように思われた。そのうえ、彼女の道徳と信念とは、すべて本能的なものであった。自分一身に関しては敬虔《けいけん》で純潔であった彼女は、ある種の欠点にたいする下層の人々の寛大さをもって、他人の行いには眼をつぶっていた。かつて舅《しゅうと》のジャン・ミシェルが彼女にたいしていだいていた不満の一つも、そういう点にあった。彼女は尊むべき人々とそうでない人々との間に、充分の区別をつけていなかった。相当の婦人なら知らないふりをすべきであるような、付近で評判のあだっぽい娘らにも、往来や市場なんかで、立止って親しく握手をしたり話しかけたりすることを、平気でやっていた。善悪を区別することは、罰したり許したりすることは、これを神にうち任していた。彼女が他人に求めるところは、たがいに生活を気楽ならしむるためにごく必要な、多少のやさしい同情ばかりであった。親切でさえあれば、というのが彼女にとっては肝要なことだった。  しかしフォーゲル家に住んで以来、彼女は皆から変化されつつあった。当時彼女はがっかりして反抗するだけの力がなかっただけになおさら、一家の誹謗《ひぼう》的な精神は容易に彼女を餌食《えじき》にしてしまった。アマリアが彼女を奪い取った。朝から晩まで、二人いっしょに仕事をし、アマリア一人口をききながら、ずっと差向いでいるうちに、受身で圧倒されがちなルイザは、知らず知らずのうちに、すべてを判断し批評するような習慣になってしまった。フォーゲル夫人はクリストフの行状にたいする自分の考えを、彼女に言わないではおかなかった。ルイザの平気なのが癪《しゃく》にさわっていた。自分たち一家の者が憤慨してる事柄をルイザがいっこう気にも留めないのは、不都合なことだと考えていた。彼女の心をすっかり乱させることができないのを、不満に思っていた。クリストフはそれに気がついた。ルイザは思い切って彼をとがめることができなかった。しかし毎日、小心な不安な執拗《しつよう》な意見がくり返された。彼が苛立《いらだ》って乱暴な返辞をすると、もう彼女はなんとも言わなかった。しかしその眼にはやはり心痛の色があるのを、彼は読みとった。家にもどってきて、彼女が泣いてたことに気づくことも時々あった。彼は母の性質をよく知っていたので、そういう心配は彼女自身の心から出たものでないことを確信した。――そしてどこからその心配が来るかを知った。  彼はそれを片付けてしまおうと決心した。ある晩、ルイザは涙を押えきれなくなって、食事の最中に立上った。クリストフはその悲しみの種を聞く隙《ひま》もなかった。彼は大胯《おおまた》に階段をまたぎ降り、フォーゲル一家のもとに押しかけていった。彼は憤りに燃えたっていた。母にたいするフォーゲル夫人の振舞を怒ってるばかりではなかった。ローザを煽動《せんどう》して敵意をもたせたこと、ザビーネを中傷したこと、その他数か月来しいて我慢してきた数々のこと、その仕返しをしてやらなければならなかった。彼は数か月以来、積り積った恨みの荷を背負っていて、それを早くおろしてしまおうとした。  彼はフォーゲル夫人の室に飛び込んだ。そして、しずめようとしてもなお激怒に震える声で、母にどんなことをいってあんなふうにならせたのかと詰問した。  アマリアはそれを非常に悪くとった。自分の勝手なことを言ったまでであると答え、自分の行いをだれにも報告する必要はない――まして彼に報告する必要はない、と答えた。そして日ごろ用意していた言葉を言ってやるために、その機会に乗じてつけ加えた、もしルイザが悲しんでるなら、その理由は彼自身の行状以外に捜すに及ばない、彼の行状は、彼自身にとっては恥辱であり、他のすべての人にとっては醜怪事であると。  クリストフが攻撃を始めるには、向うからの一つの攻撃で充分だった。彼は激昂《げっこう》して叫んだ、自分の行状は自分だけに関するものであること、自分の行状がフォーゲル夫人の気に入ろうが入るまいが、そんなことはいっこう構わないこと、もし不平を言いたければ、自分に向って言ってもらいたいこと、言いたいことはなんでも自分に向って言えるはずだということ、言われたって自分は雨が落ちかかったほどにも思わないということ、しかし自分は断じて禁ずる[#「禁ずる」に傍点]――(よく聞くがいい)――何一つ母に言うのを禁ずる[#「禁ずる」に傍点]ということ、そして、病身の年老いた憐《あわ》れな女を攻撃するのは、卑劣な仕業《しわざ》だということ。  フォーゲル夫人は大声をたてた。かつてだれからも、そんな調子で物を言われたことがなかった。小僧っ子から――しかも自分の家で――説諭を受けるものかと彼女は言った。そして彼を侮辱的な態度で取扱った。  喧嘩《けんか》の声を聞きつけて、他の人たちもやって来た――ただフォーゲルを除いて。フォーゲルは自分の健康の害になるようなことはいつも避けていたのである。オイレル老人は、立腹してるアマリアから介添人に立てられて、将来は意見や訪問は差控えてもらいたいとクリストフにきびしく頼んだ。自分たちは彼の助言をまたずともなすべきことを知っており、義務を果しており、常に義務を果すだろう、と言った。  クリストフは出て行くと言い、もう二度と足を踏み入れるものかと公言した。けれども彼は、自分にとっては直接身辺の敵となってる例の「義務」について、心ゆくまで彼らに言ってやらないうちは、決して出て行かなかった。そんな「義務」を云々《うんぬん》するなら、自分はむしろ悪徳の方を好むだろう、と彼は言った。フォーゲル一家のような人たちこそ、しきりに善を不愉快なものにしながら、善をみだすものであった。彼らとの対照によってこそ人は、不徳義ではあってもしかし愛想のいいにこやかな人たちに、誘惑を感ずるのであった。ついには生活を陰鬱《いんうつ》にし害毒するほどの堅苦しい横柄な厳格さで、つまらない雑役や取るに足らぬ行いなど、すべてに、義務という言葉を通用するのは、かえって義務の名を涜《けが》すものである。義務は特殊なものである。実際の献身の場合のために、それは保留しておかなければいけない。自分の不機嫌《ふきげん》や、他人を不快がらせようとする欲望などを、義務の名で覆《おお》ってはいけない。自分が愚かにもまたは不面目にも陰気だからと言って、すべての人が陰気であるようにと願い、すべての人に自分の不具な摂生法を強いんとするのは、理由のないことである。美徳のうちで第一のものは、喜悦である。美徳は、幸福な自由なこだわりのない顔つきをしていなければいけない。善をなす者は、みずから自身を喜ばせなければいけない。しかるに、フォーゲル一家のいわゆる常住不断の義務、小学校教師みたいな圧制、やかましい口調、役にもたたない議論、不快な幼稚な理屈、喧騒《けんそう》、優雅の欠乏、あらゆる魅力と礼節と沈黙とを欠いた生活、生存を萎微《いび》させるようなものはなんでも取上げる浅薄な悲観思想、他人を理解するよりも軽蔑《けいべつ》する方を易《やす》しとする傲慢《ごうまん》な非理知、すべてそれらの、偉大さも幸福も美もない凡俗な道徳、それは実に醜悪な有害なものである。それは実に、美徳よりも悪徳の方に、いっそう人間的な観を与えさせるものである。  そういうふうにクリストフは考えていた。そして自分を傷つけた者を傷つけ返してやりたいという欲求に駆られて、自分も相手の人たちと同様に間違ってるということには気づかなかった。  もちろんこの憐《あわ》れな人たちは、ほとんど彼の観察どおりであった。しかしそれは彼らの罪ではなかった。彼らの顔つきや態度や思想を不愛想ならしめてしまった、不愛想な生活の罪であった。彼らは悲惨から――一挙に落ちかかって人を殺すかあるいは鍛えるかする大悲惨からではなく――たえずくり返される不運、最初の日から最後の日に至るまで一滴ずつ落ちてくる小さな悲惨から、変化されてしまっていた……。なんと悲しむべきことであるか! なぜなら、それらの粗硬な表皮の下には、方正や善良や無言の勇気など、いかに多くの宝がたくわえられていたことだろう!……一民衆の力が、未来の活気が!  クリストフが義務は特殊なものだと信じたのは、誤りではなかった。しかし恋愛もやはり特殊なものである。すべてが特殊である。何かに価するすべてのものは皆――悪でさえもやはり(悪にも価値がある)――常習ということより以上の敵を有しない。魂の致命的な敵は、毎日の消耗である。  アーダは倦怠《けんたい》し始めていた。クリストフの性質のように豊富な性質の中で、自分の愛を更新してゆくには、彼女は充分の知力をそなえていなかった。彼女の官能と浮華的な精神とは、およそ見出し得るかぎりの快楽を愛から引出してしまっていた。もはや愛を破壊する快楽しか残ってはいなかった。彼女は一種のひそかな本能をもっていた。それは多くの女に、善良な女にも、また多くの男に、怜悧《れいり》な男にも、共通な本能であって、この本能をそなえた男女は、仕事もせず、子供もこしらえず、活動もせず――いかなることをも、生活をもせず――しかも、あまりに多くの活力をもっているので、おのれの無用さを堪え忍ぶこともできないのである。彼らは他人も自分らと同じく無用ならんことを望み、他人をそうなさんためにできるだけつとめる。時とすると我知らずそうしていることもあって、その悪の欲求にみずから気づくと、憤然としてそれをしりぞける。しかし多くは、その欲求を守り育てる。そして各自の力に従って――ある者は、わずかな親しい仲間内だけでひそかに――ある者は、広く公衆にたいして大規模に――すべて生を有するもの、生を欲するもの、生に価するものを、ことごとく破壊しつくそうとつとめる。偉人や偉大な思想などを、おのれと同じ水準に引下げようと熱中する批評家、恋人を卑《いや》しくすることを喜ぶ娘、この二つは同種類の有害な二匹の畜生である。――ただ後者の方がいくらかかわいい。  アーダはクリストフをやりこめるために、彼を多少堕落させたかったであろう。が事実彼女は、力をもっていなかった。他人を堕落させるについても、もっと知力が必要であった。彼女はそれを感じていた。そして自分の愛がクリストフを害することができないのは、彼女が彼にたいして隠しもってる大きな不平の一つだった。彼女は彼を害しようと望んでるとはみずから認めていなかった。もしできてもおそらくはしなかったであろう。しかしそれを自分の力でできないということが、癪《しゃく》にさわるように思われるのだった。愛してくれる男を善化しあるいは悪化する力が自分にあるという幻を、女に与えてやらないのは、愛の不足を示すものである。ぜひともそれを実際にためしてみようという心を、女に起こさせるものである。クリストフはそれを用心していなかった。ある時アーダは戯れに尋ねた。 「私のためになら音楽を捨ててくだすって?」(もちろん彼女はそれを少しも願ってはいなかった。)  すると彼は直截《ちょくせつ》に答えた。 「おうそんなことは、たといお前にしろ、だれにしろ、できるものかね。僕はどこまでも音楽をやるつもりだ。」 「それであんたは私を愛してるというの?」と彼女はむっとして叫んだ。  この音楽というものを、彼女は憎んでいた――自分に少しもわからないだけになおさら、そしてまた、この眼に見えない敵を害してクリストフの熱情を傷つけるべき妙策を見出し得ないだけになおさら、それを憎んでいた。いかに彼女が軽蔑《けいべつ》の調子で音楽のことを語り、クリストフの作曲を軽視しようとも、彼はただ大笑いをするだけだった。アーダは激昂《げっこう》しながらも口をつぐまざるを得なかった。なぜなら、自分の滑稽《こっけい》なことがわかっていたから。  しかしながら、この方面ではなんともしかたがなかったとは言え、彼女はクリストフのうちに、いっそうたやすく急所を刺し得る他の弱点を見出していた。それは彼の道徳的信念であった。クリストフはフォーゲル一家との喧嘩《けんか》にもかかわらず、青春期の熱狂にもかかわらず、本能的な貞節さを、純潔の要求を、まだ心にもっていた。彼はそれを意識してはいなかったが、しかしそれがアーダのような女を、最初は驚かしひきつけ魅惑し、次には面白がらせ、次には苛立《いらだ》たせ、次には憎悪の念をいだくまでに激させるのだった。彼女はその点を正面から攻撃しはしなかった。彼女は奸佞《かんねい》な尋ね方をした。 「あんたは私を愛してくださるの?」 「愛するとも!」 「どれくらい愛してくださるの?」 「できるかぎり。」 「それじゃ充分でないわよ………そうよ………私にはどんなことをしてくだすって?」 「なんでも望みどおりに。」 「悪いことでもしてくだすって?」 「おかしな愛し方だね。」 「それとは別問題よ。してくだすって?」 「そんな必要はありゃしない。」 「でも私がそれを望んだら?」 「お前が間違ってるんだ。」 「かもしれないわ……で、してくだすって?」  彼は彼女を接吻《せっぷん》しようとした。しかし彼女は押しのけた。 「悪いことでもしてくださるの、どうなの?」 「厭《いや》だよ。」  彼女は怒《おこ》って背中を向けた。 「あんたは愛していないのね。愛するとはどういうことだか知らないんだわ。」 「そうかもしれない。」と彼は人のいい様子で言った。  情熱に駆られた瞬間には、人と同じように馬鹿なことでも、おそらくは悪いことでも、またそれ以上のことでも――わかったもんじゃない――自分はやりかねないと、彼はよく知っていた。しかし冷静にそれを自慢するのは恥ずべきことだと思い、アーダにそれを明言するのは危険だと思った。本能的に彼は、相手の女が自分を監視し、わずかな言葉をも注意してるのを、感じていた。不利な尻尾《しっぽ》を押えられるようなことをしたくなかった。  なお幾度も、彼女は攻撃してきた。彼女は尋ねた。 「あんたが私を愛してくださるのは、ほんとに私を愛してるからなの、または私があんたを愛してるからなの?」 「お前を愛してるからだ。」 「では、私があんたを愛さなくとも、やはり私を愛してくださるの?」 「ああ。」 「そして、もし私が他《ほか》の人を愛しても、やはり私を愛してくださるの?」 「さあ、それは僕にはわからない……そうは思えない……がいずれにしても、お前は、僕が愛すると言う最後の女だろう。」 「でも何か今と変ることがあって?」 「沢山ある。僕もたぶん変るだろう、お前もきっと変ってくる。」 「私が変ったら、どうなるの?」 「たいへんなことになるさ。僕は今のままお前を愛してるんだ。もしお前がまったく別な者になったら、僕はもうお前を愛するかどうか受け合えない。」 「あんたは愛していないのよ、愛していないのよ! そんなへりくつが何になって! 愛するか愛しないか、どっちかだわ。もしあんたが私を愛しているんなら、私が何をしようと、いつでも変らず、そのまま私を愛してくださるはずだわ。」 「それは畜生のような愛し方だ。」 「私はそういうふうに愛してもらいたいのよ。」 「それじゃお前は人を見違えたんだ、」と彼は戯れて言った、「僕はお前が求めるような者じゃない。そんなことは、僕にはしようたってできやしない。それにまた僕はしようとも思わない。」 「あんたは利口なのをたいそう御自慢ね。私よりも自分の知恵の方を余計愛しているんだわ。」 「僕はお前を愛してるんだ、ひどいことを言う奴《やつ》だね、お前が自分の身を愛してるよりもっと深くお前を愛してるんだ。お前が美しくって善良であればあるほど、ますます僕はお前を愛するんだ。」 「まるで学校の先生みたいね。」と彼女はむっとして言った。 「だってさ、僕は美しいものが好きなんだ。醜いものはきらいだ。」 「私のうちにあっても?」 「お前のうちにあるとことにそうだ。」  彼女は荒々しく足をふみ鳴した。 「私は批評されたかありません。」 「それじゃ、僕がお前をどう思ってるか、そしてどんなに愛してるか、それを不平言うがいいよ。」と彼は彼女の心を和らげるためにやさしく言った。  彼女は彼の腕に抱かれるままになって、微笑《ほほえ》みをさえ浮かべ、彼に接吻《せっぷん》を許した。しかしやがて、もう忘れたころだと彼が思ってる時に、彼女は不安そうに尋ねた。 「あんたは私のどういうところを醜いと思ってるの?」  彼は用心してそれを彼女に言わなかった。卑怯《ひきょう》な答えをした。 「何にも醜いと思ってるところはない。」  彼女はちょっと考え、微笑み、そして言った。 「ねえ、クリストフ、あんたは嘘《うそ》はきらいだと言ったわね。」 「軽蔑《けいべつ》してるよ。」 「道理《もっとも》だわ、」と彼女は言った、「私も軽蔑しててよ。それに、私は安心だわ、決して嘘をつかないから。」  彼はその顔をながめた。彼女は本気で言ってるのだった。その無自覚さが彼の心をくつろがした。「ではね、」と彼女は彼の頸《くび》に両腕を巻きつけながらつづけて言った、「もし私が他の人を愛したら、そしてあんたにそう言ったら、なぜあんたは私を恨むの?」 「よしてくれよ、僕をいつも苦しめるのを。」 「あんたを苦しめるんじゃないわ。他の人を愛してると私は言ってるんじゃないのよ、愛してはいないとさえ言ってるわ。……でもこれから先、もし愛したら……?」 「まあ、そんなことは考えないとしようや。」 「私は考えたいのよ。……あんたは私を恨まないの? 私を恨むことができないの?」 「僕は恨まないだろう、お前と別れるだろう。それっきりだ。」 「別れる? どうしてなの? 私がまだあんたを愛していても……。」 「他の男を愛しながら?」 「むろんよ。そんなことはよくあるわ。」 「なに、僕たちにはそんなことが起こるものか。」 「なぜ?」 「なぜって、お前が他の男を愛する時には、もう僕はお前を、ちっとも、もうちっとも、愛さないだろうからさ。」 「先刻《さっき》はわからないと言ってたじゃないの。……それごらんなさい、あんたは私を愛さないんだわ!」 「そうかもしれない。その方がお前のためにはいいよ。」 「というのは?……」 「お前が他の男を愛する時に、もし僕がお前を愛していたら、お前にも、僕にも、またその男にも、始末が悪くなるだろうからさ。」 「そうら!……あんたはもう無茶苦茶よ。では私は、一|生涯《しょうがい》あんたといっしょになってなけりゃならないもんなの?」 「安心おし、お前は自由だよ。いつでも僕と別れたい時には別れるがいいさ。ただ、それは一時の別れじゃなくて、永久のおさらばだ。」 「でも、やはりあんたを愛してるとしたら、この私が。」 「愛し合ってる時には、たがいに一身をささげ合うものなんだ。」 「じゃあ、あんたからささげてちょうだい!」  彼はその利己主義には笑わずにおれなかった。彼女も笑った。 「片方だけの献身は、」と彼は言った、「片恋になるだけだ。」 「そんなことはないわ。両方からの恋になるものよ。もんあんたが私に身をささげてくださるなら、私はもっとあんたを愛してあげるわ。そして、ねえ、御自分の方だって考えてごらんなさい。自分は身をささげたからといって、どんなに深く私を愛するかしれないわ、どんなに幸福になるかしれないわ。」  二人は、ちょっと気をそらして意見の真面目《まじめ》な相違を忘れたのに、満足の笑みをもらしていた。  彼は笑顔をして、彼女を見守《みまも》った。彼女は心の底では、自分で言ってるとおりに、今すぐにクリストフと別れたくは少しもなかった。彼はしばしば彼女を怒らせ厭がらせはしたが、彼女は彼のような献身がいかに貴《とうと》いかを知っていた。また彼女はだれも他の男を愛してはいなかった。戯れにあんなことを言ったのは、半ばは、それが彼に不愉快であることを知っていたからであり、半ばは、子供がきたない水の中をかき回して面白がるように、曖昧《あいまい》な下品な考えをもてあそぶことが愉快だったからである。彼はそれを知っていた。別に彼女を憎まなかった。しかし彼は、それらの不健全な議論に飽《あ》き、自分が愛しておりまた恐らく愛されている、その不安定な混濁した性質の女と、暗々裏に行う闘《たたか》いに飽いていた。彼女のことをみずから欺くためになさなければならない努力に、彼は飽いていたし、時には泣きたいほどうんざりしていた。彼は考えた。「なぜ、なぜ彼女はこうなんだろう? なぜ人間はこうなんだろう? いかに人生はつまらないものか!……」と同時にまた彼は微笑《ほほえ》みながらながめた、彼の方をのぞき込んでるきれいな顔を、その青い眼、つややかな色、にこやかで饒舌《じょうぜつ》で、多少愚かで、ぬれた歯並と舌とのあざやかな輝きを見せて、半ば開いている口を。二人の唇《くちびる》はほとんど触れ合っていた。しかも彼は、遠くから、ごく遠くから、他の世界からのように、彼女をながめていた。見ると、彼女は次第に遠ざかり、霧の中に消えていった……。次にはもう見えなかった。その声も聞こえなかった。彼は一種の快い忘却のうちに陥ってゆき、その中で、音楽のことや、夢想のことや、アーダに無関係な種々のことを考えた。一つの曲調が聞こえてきた。彼は静かに作曲にふけった……ああ、美しい音楽!……かくも悲しい、堪えがたいまでに悲しい、しかも親切な、やさしい音楽……ああなんと快いことか……これだ、これだ……。他は皆真実のものではなかった……。  彼は腕を揺すられた。一つの声が叫んでいた。 「まあどうしたの? まったく狂人だわ。どうして私をそんなに見てるの? なぜ返辞をしないのよ?」  彼は自分をながめてる眼をまた見出した。だれなのか!……ああそうだ……。――彼はほっと息をした。  彼女は彼を観察していた。彼が何を考えてるか知ろうとつとめていた。彼女には理解ができなかった。しかしいくらどんなことをしても駄目《だめ》だと感じた。彼をすっかり手にとらえることができなかった。いつでも彼が逃げ出せる門があった。彼女はひそかに苛立《いらだ》っていた。 「なぜ泣くの?」と彼女は一度、彼が他の世界へのそういう旅からもどってくる時に尋ねた。  彼は眼に手をやった。眼がぬれてることを知った。 「僕にはわからない。」と彼は言った。 「なぜ返辞をしないの? もう三度も同じことを言ったのよ。」 「いったいどういうんだい?」と彼はやさしく尋ねた。  彼女はまた愚にもつかない議論をもち出した。  彼は飽《あ》き飽きしてる身振りをした。 「ええ、よすわ。」と彼女は言った。「ただ一言《ひとこと》だけ!」  そしてますます盛んにやり出した。  クリストフは怒って身体を揺すった。 「そんなにけがらわしい話はよしてくれ!」 「冗談を言ってるのよ。」 「もっとりっぱな話の種を捜しておいでよ。」 「じゃあせめて理由を言ってごらんなさい。なぜそれが気に入らないか言ってごらんなさい。」 「理由があるもんか。なぜ肥料《こやし》が臭いかには、議論の余地はない。肥料は臭い、ただそれっきりだ。僕は鼻をつまんで逃げ出すばかりさ。」  彼は憤然として立去った。そして冷たい空気を呼吸しながら、大胯《おおまた》に歩き回った。  しかし彼女は、一遍も、二遍も、十遍も、同じことをやりだした。彼の本心をいやがらせ傷つけるようなものなら、なんでも議論のうちに取り入れた。  それはまったく、人をからかって面白がる神経衰弱症の娘の、不健全な戯れにすぎないものだと、彼は思っていた。彼は肩をそびやかし、あるいは聞かないふうをした。彼女の言葉を真面目《まじめ》にはとらなかった。でもやはり、彼女を投げ捨ててしまいたいような気になることもあった。なぜなら、神経衰弱症と神経衰弱患者とは、最も彼の趣味に合わなかったからである……。  しかし彼は十分も彼女と離れていれば、もうすっかり不快なことを忘れてしまうのだった。そして新しい希望と幻影とをいだいて、アーダのところへもどっていった。彼は彼女を愛していた。愛は不断の信仰の行為である。神が存在しようとすまいと、そんなことはほとんど構わない。信ずるから信ずるのだ。愛するから愛するのだ。多くの理由を要しない!……  クリストフがフォーゲル一家の者と喧嘩《けんか》してからは、その同じ家に住んでることができなくなったので、ルイザは余儀なく、息子《むすこ》と自分とのために他の住居を捜して引移った。  ある日、クリストフの末弟のエルンストが、ふいに家へ帰って来た。だいぶ前から消息不明になっていたのだった。何かをやるたびごとに、相次いで追い出されて、なんらの職をももっていなかった。財布は空《から》であり、健康は害されていた。それで彼は、いったん古巣へ立ちもどって、新たに出直すがいいと考えたのだった。  エルンストは、二人の兄とはどちらとも、仲が悪くなかった。二人からあまり敬重されてはいず、自分でもそれを知っていた。しかしそんなことはどうでもいいことだったので、別に恨みもしなかった。二人もまた彼を憎んではいなかった。憎んでも無駄だったろう。どんなことを言ってやっても、皆彼からすべり落ちて少しも刃が立たなかった。彼は媚《こび》を含んだ美しい眼で微笑《ほほえ》み、つとめて悔悟の様子を装い、他のことを考え、首肯し、感謝し、そしてしまいにはいつも、兄のどちらかから金をしぼり取っていた。クリストフは心ならずも、この道化た愛敬者に愛情をいだいていた。彼の顔だちは、クリストフと同じく、否より以上に、父のメルキオルに似ていた。クリストフと同様に背が高く頑丈《がんじょう》であって、整った顔つき、淡懐な様子、澄んだ眼、真直な鼻、にこやかな口、美しい歯、愛想のいい態度、をもっていた。クリストフは彼を見ると、心が解けてしまって、前から用意しておいた小言も半分しか言えなかった。自分と同じ血を分け、少くとも容姿の点では自分の名誉となる、その美しい少年にたいして、クリストフは本来、一種親愛の情を感じていた。悪い奴だとは思っていなかった。それにエルンストは決して馬鹿ではなかった。教養はなかったが、才智がないではなかった。精神的な事柄に興味を覚え得ないでもなかった。音楽を聞くと愉快を感じていた。兄の音楽を理解してはいなかったが、それを物珍しそうに聴《き》いていた。クリストフは身内の者の同情に甘やかされたことがなかったので、自分の音楽会にときおり弟の姿を見つけると喜んでいた。  しかしエルンストの主な才能は、二人の兄の性質を知りぬいてることと、二人を巧みにあやなすこととであった。クリストフはエルンストの利己心と冷淡とを知り、エルンストが必要な時にしか母や自分のことを考えないと知っていても、いつもその愛情を含んだ素振りに陥れられて、何事でも拒むことは滅多になかった。クリストフは彼の方を、も一人の弟のロドルフよりもずっと好んでいた。ロドルフは端正謹直で、事務に勉励し、徳義心が強く、金を求めることもなく、また金を与えることもなく、毎日曜日には几帳面《きちょうめん》に母に会いに来、一時間留って、自分のことばかりしゃべり、勝手な熱を吹き、自分の家やまた自分に関することはなんでも自慢をし、他人のことは尋ねもせず、また興味も覚えず、そして時間が鳴ると、義務を果したことに満足して、立去ってゆくのであった。こんな人物をこそクリストフは我慢ができなかった。ロドルフが来る時間には、外出するようにしていた。ロドルフはクリストフをねたんでいた。彼は芸術家をすべて軽蔑《けいべつ》していて、クリストフの成功を苦々しく思っていた。それでも彼は、自分の出入する商人間におけるちょっとした評判を、利用せずにはおかなかった。しかしかつて、母にもクリストフにも、それを一言ももらしたことがなかった。クリストフの成功を知らないようなふうをしていた。それに引代え、クリストフに起こった不快な出来事は、些細《ささい》なことまでも皆知っていた。クリストフはそういう下らなさを軽蔑して、さらに気づかないふうを装っていた。しかし彼がもし知ったら平気でおられなかったろうことであるが、そして実際思ってもみなかったことであるが、彼に不利なロドルフの知識の一部分は、エルンストから来たものであった。この狡猾《こうかつ》な少年は、クリストフとロドルフとの違いをよく見分けていた。もちろん、クリストフのすぐれてることはよく認めていたし、彼の廉潔さにたいして多少皮肉な一種の同情さえいだいてるようだった。しかし彼はそれを利用することをはばからなかった。また、ロドルフの悪い感情を軽蔑《けいべつ》しながらも、それに卑屈にも乗じていた。その虚栄心や嫉妬《しっと》心に諛《こ》び、その冷遇をおとなしく甘受し、町の醜聞を、ことにクリストフに関する醜聞を、一々告げ知らした――そんな話なら彼はいつでも不思議なほどよく知っていた。そして彼はまんまと目的を達した。ロドルフは吝嗇《りんしょく》にもかかわらず、クリストフと同様に、エルンストから騙《だま》し取られていた。  かくてエルンストは、公平に二人を利用し愚弄《ぐろう》していた。また二人とも彼を愛していた。  エルンストは日ごろの狡猾にもかかわらず、母のところへ姿を現わした時には気の毒な様子をしていた。彼はミュンヘンからやって来たのだった。そこで彼は最後の地位を見つけ出したが例のとおりすぐに追い払われてしまった。篠《しの》つく雨に打たれたり、どことも知れぬ所に臥《ふ》したりしながら、大半の道程《みちのり》を歩かなければならなかった。泥《どろ》にまみれ、着物は裂け、乞食《こじき》のようなふうをし、また痛々しい咳《せき》をしていた。途中で悪い気管支炎にかかったのである。彼がはいって来るのを見ると、ルイザは心転倒してしまい、クリストフは感動して駆け寄った。エルンストは涙もろかったし、その場の効果に乗じないではおかなかった。そして皆が感情に駆られた。三人ともたがいに抱《だ》き合って泣いた。  クリストフは自分の室を与えた。寝床をあたためられ、病人はそこに寝かされたが、もう死にかけてるかと思われた。ルイザとクリストフとは、その枕頭《ちんとう》につき添って、交替に看護をした。医者、薬剤、室内の十分な火、特別の食物、などが必要だった。  その次にはまた、足から頭までの服装《みなり》を心配してやらなければならなかった。シャツ、靴《くつ》、服、すっかり新しくしてやらなければならなかった。エルンストはされるままに任していた。ルイザとクリストフとは、その費用を償うために、血の汗を流して働いた。二人はその当座非常に困窮していた。新たに家具を整えたし、住居は前と同様に不便でありながら借賃が高かったし、クリストフには弟子が減っていたし、費用はかさんでいた。辛うじてやりくりをしてるだけだった。二人はできるかぎりの手段を尽した。もちろんクリストフは、自分よりもよくエルンストを助け得るような身分にあるロドルフに、頼み込むこともできるはずだった。しかし彼はそうしたくなかった。独力で弟を救わなければ名誉にかかわると考えていた。自分に救う責任があると思っていた、兄としての資格から言って――またクリストフたるべきゆえんから言っても。彼は恥ずかしさに顔を赤らめながら、二週間前には憤然として拒絶した仕事を――ある富裕《ふゆう》な匿名の好事家があって、楽曲を一つ買い取って自分の名前で発表したいというのを、その仲介者がクリストフのところに申込んできたのであったが、それを、こちらから引受けて頼みに行かなければならなかった。ルイザは日当で雇われていって、衣類を繕った。二人ともたがいに犠牲を隠し合っていた。家へもって帰る金については、嘘《うそ》を言い合っていた。  エルンストは病後に、暖炉のすみにうずくまりながら、ある日、激しい咳の間々に、多少の借金があることをうち明けた。でそれも支払われた。だれも彼に小言一つ言わなかった。病人にたいして、悔悟してもどって来た放蕩息子《ほうとうむすこ》にたいして、小言をいうのは親切な処置とは言えないのだったから。そしてエルンストは、艱難《かんなん》のために人が変ったかと思われた。彼は涙声で過去の過《あやま》ちを述べた。ルイザは彼を抱擁しながら、もうそんなことを考えてくれるなと頼んだ。彼は元来甘えっ子だった。愛情をぶちまけてはいつも母に取り入っていた。昔クリストフはそれを多少ねたんだものだった。しかし今では、最も年下で最も弱い子がまた最も愛せられるのを、当然だと思っていた。彼自身も、たいして年齢が違わないにもかかわらず、エルンストを弟というよりもむしろ、ほとんど息子のように見なしていた。エルンストは彼に非常な尊敬の念を示していた。時には、クリストフが負担してる重荷のこと、金の不自由を忍んでること……などをそれとなく言い出すこともあった。しかしクリストフは言葉をつづけさせなかった。エルンストは卑下したやさしい眼つきで、ただそれを認定するだけにした。彼はクリストフが与える助言に賛成した。健康が回復したら、生活を一変して、真面目《まじめ》に働くつもりでいるらしかった。  彼は回復しかけていた。しかし予後は長かった。その濫用された身体には養生が肝要だと、医者は明言した。それで彼は引きつづいて、母のもとにとどまり、クリストフと床を分ち、兄がかせぎ出してくれるパンや、ルイザが工夫してこしらえてくれるちょっとした御馳走《ごちそう》を、うまそうに食べていた。立去るなどとは口にも出さなかった。ルイザとクリストフも、そのことを彼に言わなかった。彼らは、かわいい息子《むすこ》を、かわいい弟を、見出してたいへんうれしがっていた。  クリストフはエルンストと長い夜々をいっしょに過してるうちに、次第に親しい話をもするようになった。彼はだれかに心の中をうち明けたがっていた。エルンストは怜悧《れいり》だった。機敏な頭をもっていて、半分聞けば全体を悟った。彼と話すのは愉快だった。けれどもクリストフは、最も心にかかってることは、自分の恋愛のことは、一言も言い出し得なかった。一種の羞恥《しゅうち》心に引止められた。エルンストはすっかり知っていたが、それを少しも外に表わさなかった。  ある日、すっかり全快したエルンストは、快晴の午後に乗じて、ライン河のほとりをぶらついた。町から少し外へ出て、ある騒々しい飲食店の前を通りかかると、ちょうど日曜のこととて、多くの人がやって来て踊ったり飲んだりしていたが、その中に、大騒ぎをしてるアーダやミルハといっしょに食卓についてる、クリストフの姿が見えた。クリストフも彼の姿を見て、顔を赤らめた。エルンストは慎み深いふうをして、クリストフに近寄らずに通りすぎた。  クリストフはその出会にたいへん困った。そのために、いかなる連中に自分が立ち交ってるかが、さらに強く感じられた。そういうところを弟に見られたのが、心苦しかった。なぜなら、以後はエルンストの品行を批判する権利を失ったばかりでなく、また、兄としての義務について、きわめて高い、きわめて素朴な、多少旧弊な、そして多くの人には滑稽《こっけい》に思われるかもしれないほどの、一つの観念をもっていたからである。自分のようにその義務を欠くと、自分自身の眼にもみずから堕落することになると、彼は考えていた。  その晩、いっしょの居室に二人落ち合った時、彼は昼間の出来事をエルンストが暗に言い出してくれるのを待った。しかしエルンストは慎重に口をつぐんで、やはり待っていた。すると、二人とも着物をぬいでるうちに、クリストフは自分の恋愛をうち明けようと決心した。彼はおどおどしてエルンストの方をながめられなかった。そして気恥ずかしさのあまり、ことさらに乱暴な言い方をした。エルンストは少しも助けてくれなかった。黙っていて、やはり彼の方をながめなかった。それでも彼の様子を見てとっていた。クリストフの拙劣さや無器用な言葉などがいかに滑稽《こっけい》であるかを、少しも見落さなかった。クリストフは思い切ってアーダを名ざすのも、容易ではなかった。そして彼の描き出すアーダの姿は、あらゆる恋人にどれにでもよくあてはまるようなものだった。でもとにかく彼は自分の恋愛を語った。そして心に満ちてる情愛の波に次第に我を忘れてきた。愛することはいかにいいことであるか、闇夜《やみよ》のような生活の中でその光明に出会わないうちは、いかに自分は惨《みじ》めであったか、深い恋愛がなかったらいかに人生はつまらないものであるか、そういうことを語った。相手は真面目《まじめ》くさって耳を傾けていた。程よく返辞をして、少しも尋ねはしなかった。しかし感動したその握手は、クリストフと同様に感じてることを示した。二人は恋愛と人生とに関して意見を交換した。クリストフはいたってよく了解されたことを喜んだ。二人は眠る前に、親しく抱擁しあった。  クリストフは多くの気がねと遠慮とをもってではあったが、自分の恋愛をエルンストにうち明ける習慣になった。エルンストの慎み深さは彼を安心さしていた。アーダに関する不安をも、彼はそれとなく知らせた。しかし彼はかつて彼女をとがめなかった。自分自身をとがめていた。そして眼に涙を浮かべながら、アーダを失うようなことがあったらもう生きてはおられないだろうと言った。  彼はエルンストのことをアーダに話すのも忘れなかった。そして彼の怜悧《れいり》と美貌《びぼう》とをいつもほめた。  エルンストはアーダに紹介してくれとは、クリストフに進んで申し出なかった。自分の知ってる者はだれもいないと言いながら、寂しそうに室に閉じこもって、出かけることを肯《がえん》じなかった。クリストフは日曜日に、弟が家に残ってるのに、アーダとなお野外遊歩をつづけてるのを、みずからとがめた。それでも、恋人と二人っきりにならないと苦しかった。しかし自分の利己主義もやましかった。そしてエルンストをいっしょに来ないかと誘った。  紹介は、アーダの室の入口で、階段の上でなされた。エルンストとアーダは丁重に挨拶《あいさつ》をかわした。アーダはいつもつきっきりのミルハを従えて、外に出て来た。ミルハはエルンストを見ると、ちょっと驚きの声をたてた。エルンストは微笑《ほほえ》み、近寄ってゆき、ミルハに接吻した。ミルハはそれを当然だと思ってるらしかった。 「なんだ、お前たちは知ってるのかい?」とクリストフは呆気《あっけ》にとられて尋ねた。 「もちろんだわ。」とミルハは笑いながら言った。 「いつから?」 「ずっと前から。」 「そしてお前も知ってたのかい?」とクリストフはアーダに尋ねた。「なぜそう言わなかったんだい?」 「ミルハさんの情人《いろおとこ》ならみんな私が知ってるとでも、あんたは思ってるのね。」とアーダは肩をそびやかしながら言った。  ミルハはその情人という言葉|尻《じり》をとらえて、冗談に怒ったふうをした。クリストフはそれ以上何にも知り得なかった。彼は鬱《ふさ》ぎ込んだ。エルンストも、ミルハも、アーダも、皆率直さを欠いてるように彼には思えた。それかと言って、実を言えば、彼らになんら嘘をとがむべき点もなかった。しかし、アーダにたいしてはなんの秘密ももたないミルハが、そのことだけを隠しだてしていようとは、信じがたかったし、エルンストとアーダとが今までたがいに知らなかったとは、信じがたかった。クリストフは二人の様子をうかがった。二人は平凡な言葉を少しかわしただけだった。そしてエルンストは散歩の間じゅう、もうミルハにしか取合わなかった。アーダの方でも、クリストフにしか話しかけなかった。彼女は彼にたいして、いつもよりずっと愛想がよかった。  それ以来、エルンストはいつも彼らの仲間に加わった。クリストフは彼を除外したかったが、あえて口には言い出せなかった。弟を遠ざけたいのは、彼を遊び仲間にすることの恥ずかしさ以外に、他に理由があるのではなかった。クリストフは疑惑をいだいてはしなかった。エルンストはなんら疑惑の種をも与えなかった。ミルハに熱中してるらしかった。そしてアーダにたいしては、ていねいな遠慮を守り、ほとんど不相応な敬意をさえ見せていた。あたかも兄に示す尊敬の一部を、兄の情婦へも移そうとしてるがようだった。アーダはそれを別に怪しまなかった。そして自分でも同じく用心をしていた。  彼らはいっしょに長い散歩をした。兄弟二人は先に進み、アーダとミルハとは笑いさざめきながら、数歩あとからついて行った。彼女らはよく道のまん中に立止っては、長い間しゃべり合った。クリストフとエルンストもまた立止って、二人を待った。しまいにクリストフはじれったくなって、また歩き出した。しかし二人のおしゃべり女を相手にエルンストが談笑してるのを聞くと、不快になってすぐに振り向いた。彼らが何を言ってるか知りたかった。でも彼らが彼に追いつく時には、もう話はやんでいた。 「みんなでいつも何をたくらんでるんだい?」と彼は尋ねた。  彼らは冗談を言ってそれに答えた。三人はたがいに諜《しめ》し合していた。  クリストフはアーダとかなり激しい口論をしたのだった。その日は朝から二人でぶつぶつ言い合っていた。アーダはそういう場合にはいつも、意趣晴しをするためにたまらない厭《いや》なふうを見せつけながら、傲慢《ごうまん》なむっとした様子をするのであったが、その時は珍しくもそうではなかった。こんどに限って彼女は、単にクリストフを無視するようなふうをして、他の二人の連れを相手にいかにも上|機嫌《きげん》に振舞っていた。心ではその諍《いさか》いを別に怒ってもいないかのようだった。  これに反してクリストフは、非常に仲直りをしたがっていた。かつてないほど熱中しきっていた。恋愛の恩恵にたいする感謝の情、ばかげた口論で時間を浪費した後悔の念――また理由もない懸念、この恋愛も終りに近づいてるという変な気持、そういうものが彼の愛情につけ加わっていた。彼は寂しげにアーダの美しい顔をながめた。アーダは彼の方を少しも見ないようなふうを装って、他の者と笑い戯れていた。その顔は多くのなつかしい思い出を彼のうちに呼び起こさせた。そのあでやかな顔は、時々――(この時もそうだったが)――多くの温良さといかにも純潔な微笑とを浮かべることさえあって、そんな時クリストフは、なぜ二人の間がもっとうまくゆかないのか、なぜ二人は自分たちの幸福を好んで害しているのか、なぜ彼女は輝かしい時間を忘れようとつとめ、自分のうちにもってる善良な正直なものと背馳《はいち》しようとつとめているのか、それを怪しむのであった。――二人の愛情の清らかさを、たとい頭の中においてにしろ、濁らしたりよごしたりして、いかなる不思議な満足を彼女は見出してるのか? クリストフは自分の愛するものを信じたくてたまらなかった。そしてさらにも一度みずから幻を描こうとつとめた。彼は自分の方が正しくないとみずからとがめ、自分に寛大な心が欠けてることを後悔していた。  彼はアーダに近寄った。話しかけようとつとめた。が彼女はただ二、三言冷やかな言葉を返すきりだった。少しも彼と仲直りしたいと思ってはいなかったのである。彼はせがんだ。ちょっと他の者から離れて自分の言うことを聞いてくれとその耳にささやいた。彼女はかなり不愛想な様子でついてきた。二人がだいぶわきにそれて、ミルハからもエルンストからも見られない所まで来ると、彼はふいに彼女の手を取り、許しを乞《こ》い、林の中の枯葉の上に、彼女の前にひざまずいた。こんなに仲違いしたままではもう生きておれないと彼は言った。もう散歩や麗わしい天気を楽しむこともできない。もう何物も楽しめない。彼女から愛してもらいたいのだった。なるほど彼は、正しくないこともしばしばあり、乱暴であり嫌味《いやみ》であることもあった。彼は彼女に許しを懇願した。罪は彼の愛そのものにあったのだ。愛のうちに何か凡庸《ぼんよう》なものがあることを、二人のなつかしい過去の思い出にまったくふさわしいものでなければ何物も、堪え忍ぶことができなかったのだ。彼は過去の思い出を、最初の邂逅《かいこう》やいっしょに過した初めの日々を、彼女に思い起こさした。いつも変らず彼女を愛しているし、永久に愛するだろう、と彼は言った。どうか遠のいてくれるな! 自分にとっては彼女がすべてである……。  アーダは彼の言葉に耳を傾けながら、微笑《ほほえ》みを浮かべ、落着きを失い、ほとんど感動していた。彼女は彼にやさしい眼つきをしてやった。たがいに愛していてもう怒《おこ》ってはいないと告げる眼つきだった。二人は抱擁し合った。そして寄り添いながら、落葉した林の中を歩いて行った。彼女はクリストフをかわいいと思い、彼のやさしい言葉に満足していた。しかし頭にもってる悪い思いつきを捨てはしなかった。でもさすがに躊躇《ちゅうちょ》され、先刻ほど気が進まなかった。それでもやはり計画どおりを実行した。なぜか? それをだれが言い得よう……。先刻みずから実行を誓ったからであるか?……そんなことがだれにわかるものか。おそらくは、自分が自由であるということを、恋人に証明してやり、自分自身に証明してやるために、彼を欺くのがその日はことに面白く思えたのかもしれなかった。彼女はそれで恋人を失うとは考えていなかった。失いたくはなかった。最も確かに恋人をとらえると信じていた。  一同は森の中の木立まばらな所に到着した。そこから二つの小道が分れていた。クリストフは一方の道をとった。エルンストは目的の丘の頂へは他方の道の方が早く着けると言い出した。アーダも同じ意見だった。クリストフはたびたび来て道をよく知っていたので、二人が間違ってると主張した。彼らはどちらも譲らなかった。そしてためしてみようということになった。どちらも自分の方が先に着くと誓った。アーダはエルンストといっしょに出かけた。ミルハはクリストフに従った。彼女は彼の方がほんとうだと信じてるらしいふうをしていた。そして「いつもあれだ」と一言つけ加えた。クリストフは戯れを本気にとっていた。そして負けるのがきらいだったから、足早に、ミルハが困るくらい早く歩き出した。ミルハはちっとも彼ほど急いではいなかった。 「まあそんなに急ぐことはないわ。」と彼女は例の皮肉な落着いた調子で言った。「私たちが先に着くにきまっててよ。」  彼はある懸念にとらえられた。 「なるほど、」と彼は言った、「少し早く歩きすぎるようだ。冗談じゃない。」  彼は足をゆるめた。 「だが僕は知ってる、」と彼はつづけて言った、「向うでは確かに、先に着くために駆けてるよ。」  ミルハは笑い出した。 「いいえ、心配しなくってもいいわ!」  彼女は彼の腕にぶら下り、彼にしかと寄り添っていた。クリストフより少し背が低いので、歩きながら、その怜悧《れいり》な甘えた眼で彼の方を見上げていた。彼女はまったくきれいで誘惑的だった。彼は彼女を見違えたような気がした。彼女くらい変りやすい者はなかった。普通は少し蒼《あお》ざめた脹《は》れぼったい顔をしていたが、ちょっとした興奮や、楽しい考えや、あるいは人の機嫌《きげん》をとりたい心が起こると、それだけでもう、お婆《ばあ》さんじみた様子がなくなり、頬《ほお》には赤味がさし、眼の下やまわりの眼瞼《まぶた》の皺《しわ》が消え、眼つきに光を帯び、そして顔立ち全体に、アーダの顔に見られないような青春と活気と機知とが浮かんでくるのだった。クリストフはその変化に驚いた。彼は眼をそらした。彼女と二人きりなのが少し不安だった。彼女が煩わしかった。彼は彼女の言ってることには耳を傾けず、返辞をせず、あるいはでたらめの返辞をした。そしてアーダのことだけを考えていた――考えたかった。アーダが先刻見せたやさしい眼のことを思った。恋しさで胸がいっぱいになった。清らかな空に細い小枝を伸してる林の景色がいかに美しいかを、ミルハは彼に見とれさせたがっていた。……そうだ、すべてが美しかった。雲は散り失《う》せていた。アーダは彼の手にもどっていた。彼は二人の間の氷を砕くことができたのだった。二人はまた愛し合っていた。もはや一体にすぎなかった。彼は安堵《あんど》の息をついた。いかに空気も軽やかだったことか! アーダが彼にもどってきたのだ……。すべてが彼に彼女のことを思わせた。……少し天気が湿っぽかった。彼女は寒くはないだろうか?……美しい木立に白く水気が凍りついていた。彼女に今それを見せられないのが残念だ。……しかし彼は勝負のことを思い出した。そして足を早めた。道を間違えないように用心した。目的地に着くと、意気揚々として言った。 「僕たちが先《さき》だ!」  彼は愉快そうに帽子を振った。ミルハは微笑《ほほえ》みながら彼をながめていた。  二人がいる場所は、森の中の長い険しい岩だった。榛《はしばみ》といじけた小樫《こがし》とがまわりに茂ってる頂上の高台から見おろすと、木立のある斜面や、紫色の靄《もや》に包まれた樅《もみ》の梢《こずえ》や、青々とした谷間を流れるライン河の長い帯が見えていた。小鳥の声もしなかった。人声もしなかった。そよとの風もなかった。どんよりした太陽の蒼白《あおじろ》い光に寒げにあたたまってる、しみじみと静まり返った冬の一日であった。遠くには時々、汽車の短い汽笛が谷間に響いていた。クリストフは岩の端に立って、その景色にながめ入った。ミルハはクリストフをうちながめていた。  彼は機嫌《きげん》のいい様子で彼女の方へ振り向いた。 「どうだい、怠惰者《なまけもの》たちだなあ、僕が言ってやったとおりだ!……よし、待っててやれ……。」  彼は亀裂《ひび》のはいった地面の上に、日向《ひなた》に寝そべった。 「そうよ、待ってましょう……。」とミルハは帽子を脱ぎながら言った。  彼女の口調には、いかにも嘲《あざけ》り気味がこもっていたので、彼は身を起こして彼女をながめた。 「どうなすったの?」と彼女は平然として尋ねた。 「今なんと言ったんだい?」 「待ってましょうと言ったのよ。あんなに早く私を歩かせるには及ばなかったでしょう。」 「そうだね。」  彼らはでこぼこした地面の上に、二人とも寝ころんで待った。ミルハは低い声である歌を歌った。クリストフはそのところどころを口ずさんだ。しかし彼はたえずそれを途切らしては耳を傾けた。 「足音が聞こえるようだ。」  ミルハは歌いつづけていた。 「ちょっと黙っておくれ。」  ミルハは口をつぐんだ。 「いや、なんでもなかった。」  彼女はまた歌い出した。  クリストフはもうじっとしておれなかった。 「道に迷ったのかもしれない。」 「迷ったんですって? 迷うはずがないわ。エルンストさんはどの道でも知ってるから。」  おかしな考えがクリストフの頭に浮かんだ。 「向うが先に着いて、僕たちが来ない前にここから出かけたんじゃないかしら。」  ミルハは仰向けに寝そべり、空を見ながら、歌の中途で、狂人のように笑い出し、息もとまるほどだった。クリストフは言い張った。彼らは停車場へもう行ってるに違いないと言って、そこへ降りてゆきたがった。ミルハはとうとう起き上った。 「そんなことをすればかえってはぐれてしまうだけだわ。……停車場のことなんかなんの話もなかったわ。ここで落合うことになってたんじゃないの。」  彼はまた彼女のそばにすわった。彼女は彼が待ちくたびれてるのを面白がっていた。彼は自分を見守《みまも》ってる彼女の皮肉な眼つきを感じた。彼は真面目《まじめ》に心配しだした――彼ら二人のために心配しだした。彼らを疑ってはいなかった。彼はまた立上った。林の中にもどってゆき、彼らを捜し、彼らを呼んでみよう、と言いだした。ミルハはくすりと笑った。彼女はポケットから、針と鋏《はさみ》と糸とを取出していた。そして帽子の羽飾りを、落着き払って解いたり付けたりしていた。終日でもそこにすわってるつもりらしかった。 「駄目《だめ》よ、駄目よ、お馬鹿《ばか》さんね。」と彼女は言った。「もしあの人たちがここへ来るとしても、仕方なしにやって来るんだとは、あんたは思わなくって?」  彼ははっとした。彼女の方を振向いた。彼女は彼を見ないで、仕事に気を入れていた。彼はそのそばに寄った。 「ミルハ!」と彼は言った。 「え?」と彼女は仕事をやめずに言った。  彼はひざまずいて、彼女をすぐ近くからながめた。 「ミルハ!」と彼はくり返した。 「なによ?」と彼女は尋ねながら、仕事から眼をあげ、微笑《ほほえ》んで彼をながめた。「どうしたの?」  彼女は彼の狼狽《ろうばい》した顔つきを見ながら、嘲るような表情をした。 「ミルハ!」と彼は喉《のど》をひきつらしながら尋ねた、「君の考えを、言ってくれ……。」  彼女は肩をそびやかし、微笑み、そしてまた仕事にかかった。  彼は彼女の手を取り、縫ってる帽子を取り上げた。 「こんなことはよしてくれ、よしてくれ、そして僕に言ってくれよ……。」  彼女は彼を正面《まとも》にじっと見た、そして待った。クリストフの唇《くちびる》の震えてるのが眼についた。 「君は、」と彼はごく低く言った、「エルンストとアーダとが……。」  彼女は微笑んだ。 「もとよりだわ!」  彼は憤激してきっとなった。 「いや、いや、そんなはずはない! 君だってそう思ってるんじゃないだろう。……嘘《うそ》だ、嘘だ!」  彼女は彼の両肩に手を置いて、笑いこけた。 「あなたは馬鹿ね、ほんとにお馬鹿さんだわ。」  彼は激しく彼女を揺すった。 「笑うなよ。なぜ笑うんだい? ほんとうだとしたら笑いごとじゃない。君はエルンストを愛してるじゃないか……。」  彼女は笑いつづけた。そして彼を引寄せながら、接吻《せっぷん》した。彼は我れ知らず、接吻を返した。しかし自分の唇《くちびる》の上に、まだ兄弟の接吻の熱がさめないその唇を感じた時、彼はつと身を引き、彼女の顔を少し押し離した。彼は尋ねた。 「君は知ってたのか? 皆で諜《しめ》し合したのか?」  彼女は笑いながら「そうだ」と言った。  クリストフは声もたてなかった。憤怒《ふんぬ》の身振りもしなかった。もう息もできないかのように口を開いた。眼を閉じて、両手で胸を押えた。心臓が裂けそうだった。それから地面に横たわり、両手で頭をかかえた。そして子供の時のように、嫌悪《けんお》と絶望の発作に打たれた。  あまりやさしくなかったミルハも、彼を気の毒に思った。自然と親愛な憐《あわ》れみの情に駆られ、彼の上に身をかがめ、やさしい言葉をかけ、また、塩剤の壜《びん》を嗅《か》がせようとした。しかし彼は彼女をいやがって押しのけ、彼女が怖《こわ》がったほどにわかに立上った。彼には復讐《ふくしゅう》の力も欲求もなかった。苦悶《くもん》に引きつった顔で彼女をながめた。 「恥知らずめが、」と彼は絶望の底から言った、「君はどんなひどいことをしてるか、わかっていないんだ……。」  彼女は彼を引止めようとした。しかし彼は、それらの破廉恥な行いや、泥《どろ》のような心の奴《やつ》らや、彼らが自分を陥れようとした不倫な共愛などを、いまいましく唾棄《だき》しながら、林の間を逃げていった。涙を流し、身を震わし、嫌悪《けんお》の念にむせびあげていた。彼女を、彼ら皆を、自分自身を、自分の身体を、自分の心を、嫌忌《けんき》していた。軽侮の暴風が彼のうちに荒れていた。その暴風は久しい前から準備されたものだった。低級な思想、卑しい妥協、また彼が数か月来住んでいた腐爛《ふらん》空粗な雰囲気《ふんいき》などにたいして、早晩反動が来るべきであった。しかし愛したい要求は、愛するものに幻をかけたい要求は、その危機をできるだけ遅らしていた。それがにわかに破裂した。その方がかえってよかった。空気と峻烈《しゅんれつ》な純潔との大風が、氷のごとき朔風《さくふう》が、毒気を吹き払った。嫌悪の情は一撃のもとに、アーダにたいする恋愛を滅ぼしてしまった。  アーダはその仕業《しわざ》によって、クリストフにたいする支配権をいっそう強固にうち建て得ると信じていたが、それはこんどもまた、愛してくれてる男にたいする粗雑な不理解を証明するばかりだった。けがれた心をつなぎ止める嫉妬《しっと》の情も、クリストフのような若い驕慢《きょうまん》な純潔な性情には、ただ反発させるだけだった。しかし彼がことに許し得なかったことには、断じて許し得なかったことには、その裏切りの行為はアーダにあっては、情熱から来たものではなく、また、女の理性がたいていは屈服しがちな不条理下劣な出来心、その一つでもほとんどなかった。否――彼は今や了解した――それは彼女にあっては、彼を堕落させ、彼を恥ずかしめ、自分に対抗する彼の道徳心や信念を罰し、彼を自分と同じ水平面に低下さし、彼を自分の足下にひざまずかせ、自分の害毒の力をみずから承認しようという、ひそかな欲望であった。そして彼は嫌忌《けんき》の念をもってみずから尋ねた、だが多くの者のうちにある汚さんとするこの欲求は――自分や他人のうちの純潔なものを汚さんとするこの欲求は、いったいなんであるのか?――表皮の全面にもはや一点の清い場所も残っていない時初めて幸福を感じ、汚穢《おあい》の中にころがって快楽を味わう、それらの豚のような魂は!……  アーダはクリストフが自分のもとにもどってくるのを、二日ばかり待ってみた。それから気をもみだして、甘ったるい手紙を書き送った。もちろんあの出来事については何にも言及しなかった。クリストフは返事もよこさなかった。彼は言葉にも尽せないほどの深い憎悪《ぞうお》でアーダを憎んでいた。彼は自分の生活から彼女を抹殺《まっさつ》していた。彼にとってはもはや彼女は存在していなかった。  クリストフはアーダから解放されていた。しかし自分自身から解放されてはいなかった。みずから心をそらそうとつとめ、過去の清浄強健な静安さに帰ろうとつとめても、その甲斐《かい》がなかった。人は過去にもどり得るものではない。道は進みつづけなければならない。いかにふり返っても、眼にはいるのはただ、通り過ぎて来た場所が、かつて宿った家の遠い煙が、記憶の靄《もや》の中に、地平線に隠れてゆくばかりで、なんの役にもたたない。そして情熱に駆られた数か月くらい、人を昔の魂から遠く引離すものはない。道は急に曲り、景色は変る。自分のあとに残してゆくものに、最後の別れを告げるようなものである。  クリストフはそれを承認することができなかった。彼は過去に向って腕を差出した。昔の孤独な忍諦《にんてい》の魂を復活させようと固執した。しかしその魂はもはや存在していなかった。情熱がもたらす多くの廃墟《はいきょ》こそ、情熱それ自身よりもずっと危険である。クリストフはもう愛すまいとし、恋愛を――しばらくの間――軽蔑《けいべつ》しようとしたが、甲斐《かい》がなかった。彼は恋愛の爪痕《つめあと》を受けていた。心の中に一つの空虚があって、それを満たさなければならなかった。一度味わったことのある者を焼きつくすような、情愛と快楽とのあの恐ろしい要求の代りに、たとい反対のものでもいいから何か他の熱情が必要だった。軽蔑の熱情、驕慢な純潔の熱情、徳操の信念の熱情でも。――しかしそれらのものでもやはり足りなかった。もはや彼の飢えをいやすに足りなかった。それはただ一時のごまかしにすぎなかった。彼の生活は、急激な反動の連続――極端から極端への飛躍の連続だった。あるいは、非人間的禁欲主義の規矩《きく》に生活を押込もうとした。そしてもはや物を食べず、水を飲み、歩行や労苦や不眠で身体を痛めつけ、あらゆる楽しみをみずから禁じた。あるいは、自分のような者には力が真の道徳であると思い込んだ。そして快楽の追求にふけった。しかしいずれの場合においても、彼は不幸であった。彼はもはや一人ではいられなかった。また、もはや一人でいずにはおられなかった。  彼にたいする唯一の救済の道は、真の友情を――おそらくはローザの友情を、見出すことであったろう。彼はその中に身をのがれることができたであろう。しかし両家はまったく不和になっていた。もうたがいに顔を合せることもなかった。ただ一度、クリストフはローザに出会った。彼女はミサから出て来るところだった。彼は彼女に近寄るのを躊躇《ちゅうちょ》した。彼女の方は、彼の姿を見ると、やって来ようとする様子をした。しかし彼がついに、石段を降りてる信者たちの人波を分けて、彼女に近づこうとすると、彼女は眼をそらした。彼がそばまで行くと、彼女は冷やかに挨拶《あいさつ》をして、そのまま通り過ぎた。彼はその若い娘の心の中に、強い冷酷な軽蔑《けいべつ》の念があるのを感じた。彼女がやはり自分を愛していて、それをうち明けたがってることを、彼は感じなかった。彼女はしかしその愛を、罪ででもあるようにみずからとがめていた。クリストフを不良で堕落してると信じ、ますます自分と縁遠いものであると信じていた。かくて二人はたがいに永久に取失った。そしてそれは、どちらにとっても、かえっていいことだったろう。彼女は善良ではあったが、彼を理解するには十分の生活力がなかった。彼は愛情と尊重とをほしがってはいたが、喜びも苦しみも空気もない閉じこもった凡庸《ぼんよう》な生活では、息がつけなかったろう。で二人は苦しむことになるわけだった――たがいに苦しませるのを苦しむことになるわけだった。それで結局、二人を隔てた不運は、往々あるように――常にあるように、強壮で永続する者にとっては、幸運であった。  しかし当座の間、それは二人にとっては大きな悲しみであり、不幸であった。ことにクリストフにとってそうだった。最も多く知力をそなえた者から知力を奪い去り、最も善良な者から善良さを奪い去るかの観がある、その仮借なき徳操、その狭小な心は、彼を苛立《いらだ》たせ、彼を傷つけ、反発心によって彼をより放恣《ほうし》な生活に投げ入れたのである。  クリストフはアーダとともに近郊の酒場をぶらついてるうちに、数人の面白い若者と――浮浪者らと、知り合いになっていた。彼らのやり口の呑気《のんき》さと自由さとは、彼にはさほど不快ではなかった。その一人のフリーデマンというのは、彼と同じく音楽家で、オルガニストであって、三十ばかりの年配、才知もあり、自分の職務にも堪能《たんのう》だった。しかし救うべからざる怠惰者《なまけもの》で、その凡庸な域を脱するために努力をするよりもむしろ、飢え死にか渇《かわ》き死にかする方を好むほどだった。そして齷齪《あくせく》と生活してる人々の悪口を言いながら、自分の懶惰《らんだ》を慰めていた。その多少重々しい皮肉な冗談は、人を笑わせずにはおかなかった。彼は仲間の者らよりずっと放胆で、地位ある人々をけなすのを――さすがに目配せや略語をもっておずおずとではあったが――はばからなかった。音楽の方面では、世の定説に少しも従わず、当代の偉人らがほしいままにしてる名声を、狡猾《こうかつ》に罵倒《ばとう》することもできた。女も彼からさらに容赦されなかった。ある女ぎらいな僧侶の古い言葉で、クリストフがだれよりもよくその辛辣《しんらつ》さを味わい得た一句を、彼は好んで冗談にもち出していた。  ――女は霊の死滅なり[#「女は霊の死滅なり」に傍点]。  クリストフは今や憤懣《ふんまん》のうちにあって、フリーデマンと話をすると幾分の気晴しを見出した。彼はフリーデマンを批判し、その卑俗な嘲弄《ちょうろう》の精神を、いつも長く喜ぶことはできなかった。たえざる嘲笑と否定との調子は、やがては人を苛立《いらだ》たせるものとなり、無力を表白するものであった。しかしそれはまた、凡俗な輩《やから》の自己満足的な愚昧《ぐまい》さをもって、心を和らげてくれるものでもあった。クリストフは心の底ではこの友を軽蔑《けいべつ》しながら、もはや彼なしですますことができなかった。フリーデマンの仲間でさらに下らない曖昧《あいまい》な落伍《らくご》者どもといっしょに、二人がいつも相並んで食卓についてるのが見られた。連中は賭博《とばく》をし、駄弁《だべん》を弄し、幾晩もぶっとおしに酒を飲んだ。クリストフは豚料理と煙草のむかむかする匂《にお》いの中で、突然我に返ることがあった。そして昏迷《こんめい》した眼であたりの人々を見回した。もはや彼らには見覚えがなかった。彼は心を痛めながら考えた。 「俺《おれ》が今いるのはどこなのか? この連中は何者なのか? 俺は此奴《こいつ》らとなんの用があるのか?」  彼らの話や笑声をきくと、彼は胸糞《むなくそ》が悪くなった。しかしその連中と別れるだけの力がなかった。家に帰って、自分の欲望や悔恨と差向いになるのが恐《こわ》かった。彼は駄目になりつつあった。駄目になりつつあることをみずから知っていた。彼は捜し求めた――彼は見た、残忍な明瞭《めいりょう》さをもって、フリーデマンのうちに堕落しきった将来の自分の面影を。そしてその脅威から覚醒させられるどころではなく、かえってうち倒されてしまったほど、ひどい落胆の過程をたどっていた。  彼はもし破滅し得たら、破滅したであろう。しかし幸いにも、他の同種類の人々と同じく、一つの反発力を、破滅にたいして他人のもたない一つの避難所を、もっていた。第一には力があった。知力よりもさらに明敏な、意志よりもさらに強い、死ぬことを肯《がえ》んじない生きんとする本能があった。また次には、芸術家の不思議な好奇心を、真に創造力をそなえた者が皆有している熱烈な没我性を、彼はみずから知らずしてもっていた。いかに愛し、苦しみ、おのれの情熱にまったく身を投げ出しても、やはり彼はそれらのことをじっと見ていた。それらのことは彼のうちにあったが、彼自身ではなかった。無数の小さな魂が、彼のうちで暗々裏に、不可知なしかも確かな定まった一点の方へ、引き寄せられていた。空中で一つの神秘な淵《ふち》から吸い寄せられてる星辰《せいしん》の世界にも似ていた。そういう無意識的な二重の不断の状態は、日常生活が眠りに入って、スフィンクスの眼が、「存在」の多様な面貌《めんぼう》が、睡眠の深淵《しんえん》から浮かび上ってくる眩迷《げんめい》の瞬間に、よく現われてきた。クリストフは一年ばかり前から、ことにひどく幻夢につきまとわれた。その中で彼は、自分が同時に異った数多《あまた》の存在で、往々幾世界と幾世紀とで隔てられた遠い数多の存在[#「存在」に傍点]であることを、いかんともできない幻によって、一瞬間のうちにはっきり感ずるのであった。覚醒の状態になっても、その不安な幻惑がまだ残っていて、しかもその原因がなんであったかは覚えていなかった。それはあたかも、一つの固定観念からくる疲れのようなものであって、観念が消え失《う》せてもその痕跡《こんせき》は残っており、しかもそれがなんであったかはわからない。しかるに、彼の魂が日々の網の目の中で苦しげにもがいてる一方には、注意深い晴朗なも一つの魂が彼のうちで、それらの絶望的な努力を傍観していた。彼の眼にはそれが見えなかった。しかしそれは彼の上に、おのれの隠れた光の反照を投げかけていた。その魂は貪慾《どんよく》であって、現在の男や女や大地や情熱や思想などを、しかも苦々しい凡庸《ぼんよう》な卑賤《ひせん》なものまでも、喜んで感じ許容し観察し理解したがっていた。――それだけのことで、それらのものにその光明を多少伝うるに足り、クリストフを虚無から救い出すに足りた。その魂は彼に、自分はまったくの孤独ではないと感じさした。そしてこのすべてであることを好みすべてを知ることを好む第二の魂が、あらゆる破壊的な情熱にたいして城壁を築いてくれた。  この魂は、水の上に彼の頭を維持させるには足りたが、独力で水から脱することを彼に得さしはしなかった。彼はまだ、自分を制御し精神を統一することは、なかなかできなかった。いかなる仕事もできなかった。やがて多産的になるべき精神的危機を、彼は通っていた。――未来の全生涯はすでにそこに芽《めぐ》んでいた――しかしその内心の豊富さは、当座の間、狂妄《きょうもう》な行いとなってしか現われなかった。そしてかかる過剰な充実の直接の結果は、最も貧弱な空粗のそれと異ならなかった。クリストフは自分の生活力におぼらされていた。彼のあらゆる力は恐るべき圧力を受けて、あまりに急激に全部同時に生成していた。ただ意志だけがそれほど急激には生長していなかった。そして意志はそれらの怪物の群に脅かされていた。性格はきしり揺らいでいた。他人の眼には、その地震は、その内部の大|漲溢《ちょういつ》は、少しも見えなかった。クリストフ自身にも、意欲し創造し生存するの力がないことだけしか、見えなかった。欲念、本能的衝動、思想などが、あたかも火山地帯から硫黄《いおう》の煙が噴出《ふきだ》すように、相次いで飛び出してきた。そして彼はみずから尋ねた。 「こんどは何が出てくるだろう? 俺はどうなるだろう? いつもこうだろうか、あるいはすっかりおしまいになるだろうか? 俺は取るに足らない者だろうか、いつまでたっても?」  そしてここに、遺伝的な本能が、先人らの悪徳が、現われ出て来た。  彼は飲酒にふけった。  彼はいつも、酒の匂いをさせ、笑い興じ、ぐったりして、家にもどってきた。  憐《あわ》れにもルイザは、彼の様子をながめ、溜息《ためいき》をつき、なんとも言わず、そして祈りをした。  ところがある晩、彼は酒場から出て、町はずれの街道で、数歩前のところに、例の梱《こり》を背負ってるゴットフリート叔父《おじ》のおかしな影を見つけた。数か月来、この小男は土地へ帰って来たことがなかった。いつもその不在が次第に長くなっていた。でクリストフはたいへん喜んで彼を呼びかけた。重荷の下に前かがみになってるゴットフリートは、ふり返った。そして大|袈裟《げさ》な身振りをやってるクリストフの姿を見、ある標石の上にすわって、待ち受けた。クリストフは元気な顔つきをし、飛びはねながら近寄っていった。そしてたいへんなつかしい様子を示して叔父の手をうち振った。ゴットフリートは長い間彼を見つめて、それから言った。 「今晩は、メルキオルさん。」  クリストフは叔父が間違えたのだと思った。そして笑いだした。 「かわいそうに耄碌《もうろく》したんだな、」と彼は考えた、「記憶《おぼえ》がないんだな。」  ゴットフリートは実際、老いぼれ萎《しな》び縮みいじけた様子をしていた。かすかな短い小さな息をしていた。クリストフはやたらにしゃべりつづけた。ゴットフリートは梱《こり》をまた肩にかつぎ、黙って歩きだした。身振りをし大声にしゃべりたててるクリストフと、咳《せき》をしながら黙ってるゴットフリートとは、相並んで帰りかけた。そしてクリストフに呼びかけられると、ゴットフリートは彼をやはりメルキオルと呼んだ。こんどはクリストフは尋ねてみた。 「ああ、どうして僕をメルキオルというんです? 僕はクリストフというんですよ。よく知ってるじゃないですか。僕の名を忘れたんですか?」  ゴットフリートは、立止りもせず、彼の方に眼をあげ、彼をながめ、頭を振り、そして冷やかに言った。 「いやメルキオルさんだ。よく見覚えがある。」  クリストフは駭然《がいぜん》として立止った。ゴットフリートはとぼとぼ歩きつづけていた。クリストフは答え返しもせずに、そのあとについていった。彼は酔いもさめてしまった。ある奏楽コーヒー店の戸のそばを通りかかると、入口のガス燈と寂しい舗石との映ってるその曇った板ガラスのところへやって行った。彼はメルキオルの面影を認めた。心転倒して家に帰った。  彼はみずから尋ね、みずから魂を探りながら、その夜を過した。彼は今や了解した。そうだ、自分のうちに芽を出してる本能や悪徳を認めた。彼はそれが恐ろしかった。メルキオルの死体の傍《かたわ》らで通夜《つや》をしたこと、種々誓いをたてたこと、などを考えた。そしてその後の自分の生活を調べてみた。ことごとく誓いにそむいていた。一年この方、何をしてきたのであったか? 自分の神のために、自分の芸術のために、自分の魂のために、何をしてきたのであったか? 自分の永遠のために、何をしてきたのであったか? 失われ濫費され汚《けが》されない日は、一日もなかった。一つの作品もなく、一つの思想もなく、一つの持続した努力もなかった。たがいに破壊し合う欲念の混乱。風、埃《ほこり》、虚無……。望んでもなんの甲斐《かい》があったろう? 望んだことは何一つなしていなかった。望んだことの反対をばかりなしていた。なりたくなかったものになってしまった、というのが彼の生活の総勘定であった。  彼は少しも寝なかった。朝の六時ごろ(まだ暗かった)、ゴットフリートが出発の支度《したく》をする音が聞こえた。――ゴットフリートはそれ以上足を留めようと思っていなかった。町を通るついでに、いつものとおり、妹と甥《おい》とを抱擁しにやって来たのであった。でも翌朝はまた出かけると、前もって言っておいた。  クリストフは降りて行った。苦悶の一夜のために蒼《あお》ざめて落ちくぼんだ彼の顔を、ゴットフリートは見た。彼はクリストフにやさしく微笑《ほほえ》んでやり、ちょっといっしょに来ないかと尋ねた。未明に二人はいっしょに出かけた。何も語る必要はなかった。たがいに了解していた。墓地のそばを通ると、ゴットフリートは言った。 「はいろうよ、ね。」  彼はこの地へ来るとかならず、ジャン・ミシェルとメルキオルとを訪れていた。クリストフはもう一年も墓参をしたことがなかった。ゴットフリートはメルキオルの墓の前にひざまずいた、そして言った。 「このお二人がよく眠るように、そして私たちを悩ますことのないように、お祈りをしよう。」  彼の考えはいつも、不思議な迷信と明るい分別とが交り合っていた。クリストフは時としてそれに驚かされることがあった。しかしこんどは、その考えをよく了解した。二人は墓地を出るまで、それ以上何にも言わなかった。  きしる鉄門をまたしめてから、二人は壁に沿って、雪の滴《したた》りが落ちてる墓地の糸杉《いとすぎ》の下の小道をたどり、眼覚めかけてる寒そうな畑中を歩いて行った。クリストフは泣きだした。 「ああ、叔父《おじ》さん、」と彼は言った、「僕は苦しい!」  彼の恋の経験については、ゴットフリートを困らすだろうという妙な懸念から、あえて語り得なかった。そして、自分の恥ずかしいこと、凡庸なこと、卑劣なこと、誓いを破ったこと、などを話した。 「叔父さん、どうしたらいいでしょう? 僕は望んだ、たたかった。そして一年たっても、やはり前と同じ所にいる。いや同じ所にもいない! 退歩してしまった。僕はなんの役にもたたない、なんの役にもたたないんです。生活を駄目《だめ》にしてしまったんです、誓いにそむいたんです!……」  二人は町を見晴す丘に上りかけていた。ゴットフリートはやさしく言った。 「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎《かんじん》なことは、ねえ、望んだり生きたりするのに飽きないことだ。その他のことは私たちの知ったことじゃない。」  クリストフは絶望的にくり返した。 「僕は誓いに背いたんです!」 「聞こえるかい?……」とゴットフリートは言った。  (田舎《いなか》で鶏が鳴いていた。) 「あの鶏《とり》も皆、誓いに背いただれかのためにも歌ってるんだ。私たちのめいめいのために、毎朝歌ってくれる。」 「もう僕のために、」とクリストフは切なげに言った、「鶏も歌ってくれない日が来るでしょう……明日のない日が。そして僕の生活はどうなってることでしょう?」 「いつだって明日はあるよ。」とゴットフリートは言った。 「でも、望んだってなんの役にもたたないんなら、どうしたらいいでしょう?」 「用心をするがいい、そして祈るがいい。」 「僕はもう信じていないんです。」  ゴットフリートは微笑《ほほえ》んだ。 「信じていないとしたら、生きていられないはずだ。だれでも信じてるものだ。祈るがいいよ。」 「何を祈るんです?」  真赤《まっか》な冷たい地平線に出かかってる太陽を、ゴットフリートは彼にさし示した。 「日の出にたいして、信心深くなければいけない。一年後のことを、十年後のことを、考えてはいけない。今日《こんにち》のことを考えるんだよ。理屈を捨ててしまうがいい。理屈はみんな、いいかね、たとい道徳の理屈でも、よくないものだ、馬鹿げたものだ、害になるものだ。生活に無理をしてはいけない。今日《こんにち》に生きるのだ。その日その日にたいして信心深くしてるのだ。その日その日を愛し、尊敬し、ことにそれを凋ませず、花を咲かすのを邪魔しないことだ。今日《きょう》のようにどんよりした陰気な一日でも、それを愛するのだ。気をもんではいけない。ごらんよ、今は冬だ。何もかも眠っている。がよい土地は、また眼を覚ますだろう。よい土地でありさえすればいい、よい土地のように辛抱強くありさえすればいい。信心深くしてるんだよ。待つんだよ。お前が善良なら、万事がうまくいくだろう。もしお前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、それでも、やはりそのままで満足していなければいけない。もちろんそれ以上できないからだ。それに、なぜそれ以上を望むんだい? なぜできもしないことをあくせくするんだい? できることをしなければいけない……我が為し得る程度を[#「我が為し得る程度を」に傍点]。」 「それじゃあまりつまらない。」とクリストフは顔をしかめながら言った。  ゴットフリートは親しげに笑った。 「それでもだれよりも以上のことをなすわけだ。お前は傲慢《ごうまん》だ。英雄になりたがってる。それだから馬鹿なまねしかやれないんだ……。英雄!……私はそれがどんなものだかよく知らない。しかしだね、私が想像すると、英雄というのは、自分にできることをする人だ。ところが他の者はそういうふうにはやらない。」 「ああ!」とクリストフは溜息をついた、「そんなら生きてても何になるでしょう? 生きてても無駄です。『欲するは能うことなり!』……と言ってる人たちもあります。」  ゴットフリートはまた静かに笑った。 「そうかい?……だがそれは大きな嘘つきだよ。でなけりゃ、たいした望みをもってない人たちだ……。」  二人は丘の頂きに着いていた。やさしく抱擁し合った。小さな行商人は、疲れた足取りで去っていった。クリストフはその遠ざかってゆく姿をながめながら、じっと考えに沈んだ。彼は叔父《おじ》の言葉をみずからくり返した。 「我が為し得る程度を[#「我が為し得る程度を」に傍点]。」  そして彼は微笑《ほほえ》みながら考えた。 「そうだ……それでもやはり……十分だ。」  彼は町の方へ帰りかけた。堅くなった雪が、靴の下で音をたてた。冬の鋭い朔風《さくふう》が、丘の上に、いじけた樹木の裸枝を震わしていた。その風は、彼の頬を赤くなし、彼の皮膚を刺し、彼の血を鞭《むち》うった。下の方には、人家の赤い屋根が、まぶしい寒い日の光に笑っていた。空気は強く酷《きび》しかった。凍った大地は、辛辣《しんらつ》な歓喜を感じてるがようだった。クリストフの心も大地と同じだった。彼は考えていた。 「俺も眼を覚ますだろう。」  彼の眼にはまだ涙があった。彼は手の甲でそれをぬぐった。そして霧の帷《とばり》の中にはいってゆく太陽を、微笑みながらながめた。雪を含んだ重い雲が、強風に吹きたてられて、町の上を通っていた。彼はその雲に向って軽侮の身振りをした。氷のような風が吹いていた……。 「吹け、吹け!……俺をどうにでもしろ! 俺を吹き送れ!……俺は行先をよく知ってるのだ。」 底本:「ジャン・クリストフ(一)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年6月16日改版第1刷発行 入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2008年1月27日作成 2009年8月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。