ジャン・クリストフ JEAN-CHRISTOPHE 第四巻 反抗 ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)生涯《しょうがい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大|馬鹿《ばか》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「口+愛」、第3水準1-15-23] 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Seine Majesta:t〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://aozora.gr.jp/accent_separation.html -------------------------------------------------------      序  ジャン・クリストフの多少激越なる批評的性格は、相次いで各派の読者に、しばしばその気色を寄せしむるの恐れあることと思うから、予はその物語の新たなる局面に入るに当たって、予が諸友およびジャン・クリストフの諸友に願うが、吾人の批判を決定的のものとみなさないでいただきたい。吾人の思想のおのおのは、吾人の生涯《しょうがい》の一瞬間にすぎない。もし生きるということが、おのれの誤謬《ごびゅう》を正し、おのれの偏見を征服し、おのれの思想と心とを日々に拡大する、というためでないならば、それは吾人になんの役にたとう? 待たれよ! たとい吾人に謬見《びゅうけん》あろうとも、しばらく許されよ。吾人はみずから謬見あるべきを知っている。そしておのれの誤謬を認むる時には、諸君よりもさらに苛酷《かこく》にそれをとがむるであろう。日々に吾人は、多少なりとさらに真理に近づかんと努めている。吾人が終末に達する時、諸君は吾人の努力の価値を判断せらるるであろう。古き諺《ことわざ》の言うとおり、「死は一生を讃《ほ》め、夕《ゆうべ》は一日を讃《ほ》む。」    一九〇六年十一月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン [#改丁]      一 流沙  自由!……他人にも自分自身にもとらわれない自由! 一年この方彼をからめていた情熱の網が、にわかに断ち切れたのであった。いかにしてか? それは彼に少しもわからなかった。網の目は彼の生の圧力をささえることができなかった。強健なる性格が、昨日の枯死した包皮を、呼吸を妨ぐる古い魂を、荒々しく裂き捨てる、生長の発作の一つであった。  クリストフは何が起こったのかよくわからずに、ただ胸いっぱいに呼吸した。ゴットフリートを見送ってもどって来ると、氷のような朔風《さくふう》が、町の大門に吹き込んで渦《うず》巻いていた。人は皆その強風に向かって頭を下げていた。出勤の途にある工女らは、裳衣《しょうい》に吹き込む風と腹だたしげに争っていた。鼻と頬《ほお》とを真赤《まっか》にし、腹だたしい様子で、ちょっと立ち止まっては息をついていた。今にも泣き出しそうにしていた。クリストフは喜んで笑っていた。彼は嵐《あらし》のことを考えてはいなかった。他の嵐のことを、今のがれて来たばかりの嵐のことを考えていた。彼は冬の空を、雪に包まれた町を、苦闘しつつ通ってゆく人々を、ながめまわした。自分のまわりを、自分のうちを、見回した。もはや何かに彼をつないでるものはなかった。彼はただ一人であった。……ただ一人! ただ一人であることは、自分が自分のものであることは、いかにうれしいことだろう。つながれていた鎖を、思い出の苦痛を、愛する面影や嫌《けんお》悪すべき面影の幻を、のがれてしまったことは、いかにうれしいことだろう。ついに生きぬき、生の餌食《えじき》とならず、生の主人となることは、いかにうれしいことだろう!  彼は雪で真白くなって家に帰った。犬のように愉快げに身を揺った。廊下を掃いていた母のそばを通りかかると、あたかも子供にでも言うように、愛情のこもった舌ったるい声を出しながら、彼女を抱き上げた。年老いたルイザは、雪が融《と》けて湿ってる息子《むすこ》の腕の中で、身をもがいた。そして子供のような仇気《あどけ》ない笑いをしながら、「大|馬鹿《ばか》さん!」と彼を呼んだ。  彼は自分の居室へ大股《おおまた》に上がっていった。小さな鏡に顔を映したが、よく見えなかった。それほど薄暗かった。しかし彼の心は喜び勇んでいた。ろくに動きまわることもできないほどの狭い低い室も、彼には一王国のように思われた。彼は扉《とびら》を鍵《かぎ》で閉《し》め切り、満足して笑った。ついに自分自身をまた見出しかけていたのだ! いかに久しい前から自分を取り失っていたことだろう! 彼は急いで、自分の考えの中に沈潜していった。その思想は、遠く金色の靄《もや》の中に融《と》け込んでゆく大きな湖水のように思われた。苦熱の一夜を明かした後、足を清冽《せいれつ》な水に洗われ、身体を夏の朝の微風になでられながら、その湖水のほとりに立っていたのだ。彼は飛び込んで泳ぎ出した。どこへ行くのかわからなかった。しかもそれはほとんどどうでもいいことだった。ただ当てもなく泳ぎ回るのが愉快だった。彼は笑いながら、自分の魂の無数の音に耳傾けながら、黙っていた。魂には無数の生物がうごめいていた。何にも見分けられなかった。頭がくらくらした。ただ眩《まばゆ》いほどの幸福ばかりを覚えた。自分のうちにそれらの見知らぬ力を感じてうれしかった。そして自分の能力をためすことは不精げに後《あと》回しとして、まず内心に咲き乱れてる花に誇らかに酔って、陶然としてしまった。数か月来押えつけられていたのが、にわかに春が来たように、一時に咲きそろった花であった。  母は彼を食事に呼んでいた。彼は降りていった。一日戸外で暮らしたあとのように、頭が茫然《ぼうぜん》としていた。しかし彼のうちには深い喜悦の色が輝いていた。ルイザは彼にどうしたのかと尋ねた。彼は答えなかった。母の胴体をとらえて、スープ鍋《なべ》から湯気が立っている食卓のまわりを、無理に一回り踊らした。ルイザは息を切らして、彼を狂人だと呼びたてた。それから彼女は手を打った。 「まあ!」と彼女は気懸《きがか》りそうに言った、「また恋したのに違いない!」  クリストフは笑いだした。ナフキンを宙に投げた。 「恋だって!……」と彼は叫んだ、「おやおや……嘘《うそ》です、嘘です、もうたくさんだ。安心していらっしゃい。もうするもんですか、一|生涯《しょうがい》しません!……あああ!」  彼は水をなみなみと一杯飲み干した。  ルイザは安心して彼をながめ、頭を振り、微笑《はほえ》んでいた。 「当てにはならない酔っ払いの約束だね、」と彼女は言った、「まあ晩までのことでしょうよ。」 「それだけでも何かになるわけですよ。」と彼は上|機嫌《きげん》に答えた。 「なるほどね。」と彼女は言った。「だがいったい、どうしてお前さんはそううれしがってるんですか?」 「僕はうれしんです。それっきりです!」  彼は食卓に両肱《りょうひじ》をつき、彼女と向かい合いにすわって、今後どんなことをするか、それを彼女に話してやった。彼女はやさしい疑念の様子でそれに耳をかし、スープが冷《さ》めてしまうと静かに注意した。彼は自分の言うことを彼女が聞いていないのを知っていた。しかしそれを気に止めなかった。彼は自分自身にたいして語ってるのであった。  二人は微笑《ほほえ》みながら顔を見合っていた、彼は語り、彼女はよく耳も傾けずに。彼女は息子《むすこ》を自慢にしていたが、その芸術上の抱負にはたいして重きを置いていなかった。彼女は考えていた、「この人は幸福なのだ、それがいちばん肝心なことだ。」――彼は自分の話にみずから酔いながら、母のなつかしい顔を、頸《くび》には黒い襟巻《えりまき》を緊《ひし》とまとい、白い髪をし、若々しい眼で自分をやさしく見守《みまも》り、寛容にゆったりと落ち着いてる母の、その顔をながめていた。彼女の心のうちの考えがすっかり読み取られた。彼は冗談に言ってみた。 「お母さんにとってはどうでもいいことなんでしょうね、僕の話してることなんかは。」  彼女は軽く反対をとなえた。 「いいえ、いいえ!」  彼は彼女を抱擁した。 「なにそうですよ、そうですよ! まあ言い訳なんかしなくてもいいんですよ。お母さんの方が尤《もっと》もです。ただ、僕を愛してください。僕は人に理解してもらわなくてもいいんです。――あなたにも、だれにも。もう今じゃ、だれもいりません、何もいりません。自分のうちに何もかももってるんです……。」 「そうら、」と彼女は言った、「こんどはまた別な狂気|沙汰《ざた》になってきた!……だがそうならなければならないんなら、まだこんどの方がよい。」  おのが思想の湖上に漂う心楽しい幸福!……舟底に横たわり、身体は日の光に浴し、顔は水の面を走るさわやかな微風になぶられて、彼は宙に浮かびながらうとうととしている。寝そべった身体の下には、揺らめく小舟の下には、深い水が感ぜられる。手はひとりでに水に浸される。彼は起き上がる。子供のおりのように、舟縁《ふなべり》に頤《あご》をもたして、過ぎてゆく水をながめる。稲妻のように飛び去ってゆく、不思議な生物の輝きが見える……また他《ほか》のが、次にまた他のが……。いつもそれぞれ異なった生物である。彼は自分のうちに展開してゆく奇怪な光景に笑っている。自分の思想に笑っている。思想をどこにも固定させる必要はない。選ぶこと、それら数限りない夢想のうちになんで選択の要があろう? まだ時間は十分ある。……あとのことだ!……好きな時に網を投じさえすれば、水中に光っているのが見える怪物を、いつでも引き上げられるだろう。今はそれをただ通らしておく。……あとのことだ!  暖かい風とわからないくらいのかすかな流れとのままに、舟は漂っている。穏やかで、日が輝《て》り渡り、寂然《じゃくねん》としている。  ついに彼は懶《ものう》げに網を投じる。水沫《しぶき》の立つ水の上に身をかがめて、見えなくなるまで網を見送る。しばらくぼんやりしたあとに、ゆるゆると網を引く。引くに従って網は重くなる。水から引き上げようとする間ぎわに、ちょっと手を休めて息をつく。獲物を手に入れてることはわかるが、どんな獲物だかはわからない。彼は期待の楽しみをゆるゆると味わう。  彼はついに意を決する。燦然《さんぜん》たる甲鱗《こうりん》の魚類が、水から現われてくる。巣の中の無数の蛇《へび》のように、身をねじっている。彼はそれらを珍しげにながめ、指で動かし、美しいのをちょっと手に取りたくなる。しかし水から出すとすぐに、その光沢は褪《あ》せてきて、その姿が指の間に融《と》け込む。彼はそれを水に投げ込み、また他のを漁《あさ》り始める。自分のうちに動いてる幻想を、どれか一つ選び取るよりも、むしろそれらを皆代わる交わるながめてみたくなる。透明な湖水の中に自由に泳いでる時の方が、ずっと美しいものに思われる……。  彼はそのあらゆる種類のものを漁りだした。いずれも皆奇怪なものばかりだった。数か月来彼のうちにはあらゆる観念が積もっていて、しかも彼はそれを利用し費消することがなかったので、今やその豊富さになやんでいた。しかしすべてが雑然と交り合っていた。彼の思想は物置場であり、ユダヤ人の古物店であって、珍稀な器物、高価な布、鉄|屑《くず》、襤褸《ぼろ》などが、同じ室の中に堆《うずたか》く積まれていた。どれが最も価値あるものであるかを、彼は見分けることができなかった。いずれにも同じく興味がもてた。和音のそよぎ、鐘のように鳴り響く色調、蜜蜂《みつばち》の羽音に似た和声《ハーモニー》、恋せる唇《くちびる》のように微笑《ほほえ》む旋律《メロディー》。また、風景の幻影、人の面影、熱情、霊魂、性格、文学的観念、形而上学的《けいじじょうがくてき》観念。また、雄大不可能な大計画、あらゆるものを音楽で摘出し種々の世界を包括《ほうかつ》せんとする、四部作《テトラロジー》や十部作《デカロジー》。また多くは、一つの声音、街路を通る一人の男、風の音、内心の律動《リズム》、など些細《ささい》なものからにわかに呼び起こされる、仄《ほの》かな明滅する感覚。――それらの計画の多くのものは、ただ題名だけでしか存在していなかった。一つもしくは二つ限りの主調にまとめられるものであったが、それで十分だった。ごく若い人々と同じく彼もまた、創造しようと夢想していたものを創造したのだと信じていた。  しかし彼はかかる煙のごときもので長く満足するには、あまりに多く生活力をそなえていた。彼は空想的な所有に飽きて、幻想を実際につかみ取ろうとした。――まずいずれより始むべきか? いずれの幻想も皆等しく重要なものに思われた。彼はそれらをくり返しまたくり返して調べた。投げ捨ててはまた取り上げた。……否もう、元のを取り上げるのではなかった。もう同じものではなかった。二度ととらえることはできなかった。たえず幻想は変化していた。ながめてるうちにも、手の上で眼の前で、変化した。急がなければならなかった。しかも彼は急いでやることができなかった。自分の仕事の緩慢さに困りぬいた。全部を一日に仕上げたいほどであるのに、わずかな仕事をしでかすのにも非常な困難を感じた。最もいけないことには、着手したばかりでもう厭《いや》になった。幻想は通り過ぎてゆき、彼自身も通り過ぎていった。一つのことをやってると、他のことをやれないのが残念だった。りっぱな主題を一つ選み取っただけで、もうその主題に興味がなくなるように思われた。かくてそのあらゆる財宝も、彼には役にたたなかった。彼の思想は皆、彼が手を触れさえしなければ生き生きとしていた。首尾よくとらえると、もうすでに死んでいた。それはタンタルスの苦痛に似ていた。届く所に果実がなっているけれど、それを手に取ると石になった。唇《くちびる》の近くに清水があるけれど、身をかがめると遠のいてしまった。  彼は渇《かつ》を癒《いや》さんがために、すでに手に入れた泉で、自分の旧作で、喉《のど》をうるおそうとした。……厭な飲料! 彼はそれを一口含むや、ののしりながらすぐに吐き出した。何事ぞ、この生|温《あたた》かい水が、この空粗な音楽が、自分の音楽であったのか?――彼は自分の作曲をひとわたり読み返してみた。そして駭然《がいぜん》とした。さらに腑《ふ》に落ちなかった。どうしてそんなものを書く気になったのかもわからなかった。彼は顔を赤らめた。ある時などは、最も幼稚なページを一つ読んだあとで、室にだれもいないかふり返って見て、それから恥ずかしがってる子供のように、寝台のところへ行って枕《まくら》に顔を隠したこともあった。またある時は、自分の笑うべき作品がいかにも滑稽《こっけい》に思えて、我れながら自分の作であることを忘れた……。 「ああ馬鹿だなあ!」と彼は腹をかかえて笑いながら叫んだ。  しかし最も厭味《いやみ》なのは、恋愛の苦しみや喜びなど、熱烈な感情を表現したつもりでいる曲譜だった。彼は蚊にでもさされたかのように、椅子《いす》の上に飛び上がった。テーブルを拳《こぶし》でうちたたき、憤怒《ふんぬ》の喚《わめ》き声をたてながら、みずから頭をたたいた。荒々しくみずからののしり、豚だの恥知らずだの大馬鹿者だのと自分を呼んで、しばらくはある限りの悪口を自分に浴びせた。しまいには怒鳴り散らしたために真赤《まっか》になって、鏡の前につっ立った。そして頤《あご》をつかみながら言った。 「見ろ、見ろ、間抜《まぬけ》め、なんという馬鹿な顔をしてるんだ! 嘘もいい加減にしろ、無頼漢《ならずもの》め! 水だ、水だ!」  彼は顔を盥《たらい》につき込んで、息がつまるまで水につけておいた。そして顔を充血さし、眼をむき出し、海豹《あざらし》のように息を吐きながら、水から顔を出すと、身体にしたたる水を拭《ぬぐ》いもやらず、急いでテーブルのところに行き、のろわれたる作品を引っつかみ、それを猛然と引き裂きながら、つぶやいた。 「こら、やくざ者め!……こら、こら!……」  そしてようやく胸をなでおろした。  それらの作品がことに彼を激昂《げっこう》さしたゆえんは、その虚偽であることだった。ほんとうに感じたものは何もなかった。暗誦《あんしょう》した句法、小学生徒の修辞法ばかりだった。盲人が色彩のことを語るような調子で、彼は恋愛を語っていた。流行の幼稚な説をくり返しながら、聞きかじりで語っていた。そしてただに恋愛ばかりでなく、あらゆる熱情が、放言の題目に使われていた。――それでも彼は常に真実たらんと努めたのであった。しかし真実たらんと欲するだけでは足りない。真実であり得なければいけない。そして、まだ少しも人生を知らないうちに、いかで真実たることを得よう? それらの作品の虚構を彼に開き示してくれたものは、彼と彼の過去との間ににわかに溝渠《こうきょ》を穿《うが》ったものは、最近半年間の経験であった。彼は幻影から脱出していた。今や彼は、おのれのあらゆる思想の真偽の度を判断するためにあてがい得る、現実の尺度を所有していた。  彼は熱情なしに作られた昔の曲譜に嫌悪《けんお》の情を覚えたので、その結果例の誇張癖から、熱烈な要求に迫られて書かせられるもののほかは、もういっさい書くまいと決心した。そして観念の探求をそこに中止して、もし創作熱が雷電のように落ちかかって来るのでなければ、永久に音楽を捨てようと誓った。  彼がかくみずから誓ったのは、雷鳴が到来しつつあることをよく知っていたからである。  雷は、みずから欲する所にまた欲する時に、落ちる。しかし笛を引きよせる高峰がある。ある場所――ある魂――は、雷鳴の巣である。それは雷鳴を創《つく》り出し、あるいは地平の四方から雷鳴を呼ぶ。そして一年のある月と同じく、生涯《しょうがい》のある年齢は、きわめて多くの電気を飽和しているので、迅雷《じんらい》がそこに生じてくる――随意にでなくとも――少なくとも期待する時に。  全身が緊張する。幾日も幾日もの間、雷鳴が準備される。燃え立った入道雲が、白けた空にかかっている。一陣の風もない。澱《よど》んだ空気が発酵して、沸きたっているように見える。大地は茫然《ぼうぜん》として沈黙している。頭脳は、熱にとどろいている。全自然は、蓄積された力の爆発を待ち、重々しく振り上げられ、黒雲の鉄碪《かなしき》の上に一挙に打ちおろされんとする、鉄槌《てっつい》の打撃を待っている。陰惨な熱い大きな影が通り過ぎる。熱火の風が吹き起こる。全身の神経は、木の葉のようにうち震える。――それから、また沈黙が落ちてくる。空はなお雷電を醸《かも》しつづける。  かかる期待のうちには、一つの歓《よろこ》ばしい苦悶《くもん》がある。不安に押えつけられながらも、人はおのれの血脈中に、宇宙を焼きつくす火が流れるのを感ずる。醸造|樽《だる》中の葡萄《ぶどう》の実のように、飽満せる魂は坩堝《るつぼ》の中で沸きたつ。生と死との無数の萌芽《ほうが》が、魂を悩ます。何が生じて来るであろうか? 魂は姙婦のように、自分のうちに眼を向けて口をつぐみ、胎内の戦《おのの》きに気づかわしげに耳傾ける。そして考える、「私から何が生まれるであろうか?」時には、期待が無駄《むだ》になることもある。雷鳴は破裂せずに消えてしまう。人は頭が重く、張り合いがぬけ、気力疲れ、厭気を催して、我れに返る。しかしそれは時期が延びたばかりである。雷鳴はやがて起こってくる。今日でなければ明日であろう。延びれば延びるほどますます激しくなるだろう……。  それ今起こった! 要は一身のあらゆる深みから湧《わ》き出した。青黒色の濃密な集団となった雲は、狂わんばかりに打ちはためく電に劈《つんざ》かれて、魂の地平を取り囲みながら、息をつめてる空を双《そう》の翼で荒々しく打ちながら、日の光を消しながら、眼|眩《くら》むほどにかつ重々しく翔《かけ》ってくる。狂暴の時間!……猛《たけ》りたった自然原素は、精神の平衡と事物の存在とを確保する「法則」から閉じ込められていたその籠《かご》を脱して、巨大雑多な形を取り、意識界の暗夜を支配する。人は臨終の苦悶を感ずる。もはや生きようとは望まない。ただ望ましいものは、終末のみである、解放の死のみである……。  そしてにわかに、電光がひらめく!  クリストフは喜びの喚《わめ》き声をたてていた。  喜び、激越なる喜び、存在し存在するであろうすべてのものを照らす太陽、創造の崇高なる喜び! 創造することより他《ほか》に喜びはない。創造する人々より他に生きてるものはない。他の者はすべて、生命とは無関係で地上に浮かんでいる影にすぎない。生のあらゆる喜びは、恋愛、才能、行為など、皆創造の喜びである! ただ一つの火炉から立ちのぼる力の火炎である。その大なる竈《かまど》のまわりに席を有しない人々も――野心家、利己主義者、空疎な遊蕩《ゆうとう》児なども――その色|褪《あ》せた反映に身を暖めようとする。  肉体界もしくは精神界において、創造することは、身体の牢獄《ろうごく》から脱することであり、生命の※[#「風にょう+炎」、第4水準2-92-35]風《ひょうふう》中に飛び込むことであり、「存在する者」となることである。創造すること、それは死を殺すことである。  永久に生命の炎が一つも発しないような、おのれの干乾《ひから》びた身体とおのれのうちにある暗夜とを、ただいたずらにうちながめながら、地上に孤独のまま埋もれてる無益なる存在者こそ、実《げ》にも不幸である。花をつけた春の樹木のように、生命と愛との豊饒《ほうじょう》な重みを、少しも感ずることのない魂こそ、実《げ》にも不幸である。世間は名誉と幸福とをその上に積み重ぬるとも、それは死骸《しがい》に冠するものである。  クリストフは一|閃《せん》の光に打たれた時、一つの放電が全身に伝わった。彼はぎくりとして震えた。それはあたかも、海洋の中にあって、暗夜の中にあって、陸地を見出したようなものだった。あるいはまたあたかも、群集の中を通りながら、二つの深い眼にぶつかったようなものだった。そういう現象はしばしば、精神が空虚のうちに身悶《みもだ》えをする悄沈《しょうちん》の時間のあとに起こった。しかしまた、人と話をしあるいは街路を歩きながら、他のことを考えてる瞬間に、なおしばしば起こった。街路にある時には、人前をはばかって、その喜びをあまり激しく現わすことができなかった。しかし家にいる時には、もうなんの拘束もなかった。彼は足を踏み鳴らした。勝鬨《かちどき》の喇叭《らっぱ》を奏した。母はそれに慣れてきて、ついにはその意味を覚《さと》るようになった。卵を産みたての牝鶏《めんどり》のようだと、彼女はよくクリストフに言った。  彼は音楽的観念に浸透されていた。その観念は、独立した完全な楽句の形をなしてることもあったが、多くは、一つの作品全部を包み込む大きな星雲の形をなしていた。その楽曲の結構は、主要の筋道は、彫刻的の明確さで影から浮き出してる眩《まばゆ》いばかりの楽句を、ところどころに鏤《ちりば》めた覆《おお》いを通して、おのずから見えていた。それは一つの閃光《せんこう》にすぎなかった。また時とすると、相次いで多くの閃光が起こることもあって、各閃光は暗夜の各すみずみを照らした。しかし普通は、その気まぐれな力は、いったん不意に現われたあとに、輝いた尾をあとに残しながら、おのれの神秘な隠れ家の中に消え失《う》せて、数日姿を現わさなかった。  そういう霊感《インスピレーション》の悦《よろこ》びは、クリストフに他のすべてをきらわしたほど熾烈《しれつ》なものだった。経験に富んだ芸術家は、霊感はまれなものであることを知っており、直覚の作品を完成するには理知にまつべきものであることを、よく知っている。彼はおのれの観念を搾木《しぼりぎ》にかけ、それに含んでる醇良《じゅんりょう》な汁《しる》を、最後の一滴までも滴《したた》らせる。――(時によっては白水を割ることさえも辞さない。)――しかしクリストフは、まだきわめて若くきわめて自信に富んでいたから、そういう方法を軽蔑《けいべつ》していた。まったく自発的なものでなければ何も作らないという、不可能な夢想をいだいていた。もし彼が眼を閉じてみずから快しとしていなかったなら、自分の企図のばかばかしさをたやすく認めたであろう。もちろん彼は当時内部充実の時期にあって、虚無が潜入するような隙間《すきま》は少しもなかった。彼にとってはすべてのものが、その無尽蔵の豊富さを裏書きするものとなっていた。眼に見るすべてのもの、耳に聞くすべてのもの、日々の生活においてぶつかるすべてのものが、一つの眼つきも、一つの言葉も、魂のうちに幻想の収穫をもたらしていた。彼の思想の無際限な天には、無数の星が流れていた。――とは言え、その当時でもやはり、すべてが一挙に消滅する瞬間もあった。そして、たとい暗夜は長くつづかなかったにしろ、魂の沈黙がつづくのを苦しむ隙《ひま》はほとんどなかったにしろ、その不可知な力にたいするひそかな恐れがないでもなかった。その力は、彼を訪れては立ち去り、またもどってきては消えていった――。こんどはどれくらいの間か? またもどって来ることがあるだろうか?――彼は傲慢《ごうまん》にもそういう考えをしりぞけ、そしてみずから言った。「この力こそ、俺《おれ》自身だ。この力がもうなくなる日には、俺ももう存在すまい。俺は自殺してやろう。」――彼は身体の震えが止まなかった。しかしそれもやはり悦びだった。  けれども、当分泉の涸《か》れる憂いはなかったにしても、クリストフはすでに、その泉が作品全体を養うには足りないことを知り得た。観念はたいていいつも、生地《きじ》のままで現われてきた。それを母岩から分離させることに骨折らなければならなかった。また観念はいつも、躍《おど》り立ちながらなんらの連絡もなく現われてきた。それをたがいに連絡させるためには、慎重な理知と冷静な意志との一要素を加味して、新しい一体に鍛え上げなければならなかった。クリストフはきわめて芸術家的だったので、それをしないではなかった。しかしそう是認したくはなかった。内心のモデルをそのまま謄写してると無理にも思い込んでいた。しかし実はそれを読みやすくするために、多少の変更を余儀なくせしめられていた。――否その上に、意味を曲解することさえもあった。音楽的観念がいかに猛然と襲いかかってきても、その意味を解き得ないことがしばしばあった。その観念は、「存在」の底深いところから、識域を越えたはるかの彼方《かなた》から、にわかに迸《はとばし》り出て来るのだった。そして普通の尺度を越えたまったく純粋なその「力」のうちには、意識といえども、自分に関係ある事柄を、自分が定義し分類すべき人間的感情を、少しも認めることができなかった。喜びも悲しみもことごとく、ただ一つの熱情のうちに交っていた。しかもその熱情は理知を超越したものであったから、とうてい理解しがたかった。それでも、理解するしないにかかわらず、理知はその力に一つの名前を与えたがり、人がおのれの頭脳の巣の中に営々として築いてゆく論理組織の一つに、それを結びつけたがっていた。  それでクリストフは、自分の心を乱すその陰闇《いんあん》な力には一定の意味があり、しかもその意味は自分の意志と調和してるものだと、確信していた――確信したがっていた。深い無意識界から迸り出て来る自由な本能は、それとなんら関係のない明確な観念と、理性の軛《くびき》の下において、否応なしに連絡させられていた。かくてそういう作品は、クリストフの精神が描き出した大なる主題と、彼自身の知らないまったく異なった意味をもってる粗野な力とを、無理に並列さしたものにすぎなかった。  彼は自分のうちで相衝突してるたがいに矛盾せる力に駆られながら、また、描出することはできないが、しかし誇らかな喜びをもって感ぜらるる沸きたった力強い生命を、支離滅裂な作品にやたらに投げ込みながら、頭を下げて手探りに進んでいった。  自分の新たな力を意識した彼は、自分の周囲にあるものを、尊重するように言い聞かせられてるものを、文句なしに尊敬してるものを、初めて正視することができた。――そして彼はただちに、傲慢《ごうまん》な自由さをもってそれを批判した。覆面は裂けた。彼はドイツの虚偽を見た。  いかなる民族にも、いかなる芸術にも、皆それぞれ虚構がある。世界は、些少《さしょう》の真実と多くの虚偽とで身を養っている。人間の精神は虚弱であって、純粋|無垢《むく》な真実とは調和しがたい。その宗教、道徳、政治、詩人、芸術家、などは皆、真実を虚偽の衣に包んで提出しなければならない。それらの虚偽は各民族の精神に調和している。各民族によって異なっている。これがために、各民衆相互の理解がきわめて困難になり、相互の軽蔑《けいべつ》がきわめて容易となる。真実は各民衆を通じて同一である。しかし各民衆はおのれの虚偽をもっていて、それをおのれの理想と名づけている。その各人が生より死に至るまで、それを呼吸する。それが彼にとっては生活の一条件となる。ただ数人の天才のみが、おのれの思想の自由な天地において、男々《おお》しい孤立の危機を幾度も経過した後に、それから解脱することを得る。  つまらないふとした機会が、ドイツ芸術の虚偽をクリストフに突然開き示した。この虚偽に彼がその時まで気づかなかったのは、それを眼前に目撃することがなかったからではない。否彼はあまりにそれに接しすぎていて、適当の距離を有しなかった。しかるに今や山から遠ざかったので、その山が見えてきた。  彼は市立音楽堂の音楽会に臨んでいた。茶卓が十一、二列――二、三百ばかり並んでる広間だった。奥に舞台があって、そこに管絃楽団が控えていた。クリストフのまわりには、薄黒い長い上着をきちっとまとった将校連中! 髯《ひげ》を剃《そ》った、赤い、真面目《まじめ》な、俗気たっぷりの、大きな顔の連中、それから、例の誇張癖を発揮して、盛んに談笑してる貴婦人たち、それから、歯並みをすっかりむき出した微笑《ほほえ》み方をする、善良な令嬢たち、それから、髯《ひげ》と眼鏡との中に潜み込んで、眼の丸い人のよい蜘蛛《くも》に似ている、大男たち。彼らは健康を祝して杯を挙げるたびごとに、椅子《いす》から立ち上がっていた。そういう行ないを、宗教的な敬意をこめてやっていた。その瞬間には、彼らの顔つきも音調も変わった。ミサでも唱えてるような調子で、奠酒《てんしゅ》をささげ合い、聖杯を飲み干し、荘厳と滑稽《こっけい》との交った様子だった。音楽は談話と皿《さら》音の間に打ち消されていた。それでも皆、つとめて低声に話しひそやかに食べてるのだった。音楽長は背の曲がった大きな老人で、白髯《はくぜん》を尻尾《しっぽ》のように頤《あご》にたれ、反《そ》り返った長い鼻をし、眼鏡をかけて、言語学者のような風采《ふうさい》だった。――すべてそれらの類型的人物を、クリストフは久しい以前から見慣れていた。しかしその日はややもすれば、それらを漫画視しがちであった。そういうふうに、人物の奇怪な点が、平素は気づきもしないのに、別になんという理由もなく、突然眼についてくるような日が、往々あるものである。  管絃楽の曲目には、エグモント[#「エグモント」に傍点]の序曲、ワルトトイフェルの円舞曲《ワルツ》、タンホイゼルのローマ巡礼[#「タンホイゼルのローマ巡礼」に傍点]、ニコライの陽気な女房[#「陽気な女房」に傍点]の序曲、アタリー[#「アタリー」に傍点]の宗教行進曲、および、北極星[#「北極星」に傍点]といふ幻想曲《ファンタジア》、などが含まれていた。管絃楽は、ベートーヴェンの序曲を几帳面《きちょうめん》に演奏し、それから円舞曲《ワルツ》を猛然と演奏した。タンホイゼルの巡礼[#「タンホイゼルの巡礼」に傍点]が奏されてる間に、酒瓶《さけびん》の栓《せん》を抜く音が聞えた。クリストフの隣りのテーブルにすわっていた大男が、陽気な女房[#「陽気な女房」に傍点]の節《ふし》を取りながらフォルスタフの身振りをした。空色の長衣を着、白い帯をしめ、御子《しし》鼻に金の鼻眼鏡をかけ、腕の赤い、胴の大きな、肥満した年増の婦人が、シューマンとブラームスとの二、三の歌曲《リード》を、しっかりした声で歌った。彼女は眉《まゆ》をつり上げ、横目を使い、瞬《またた》きをし、左右に頭をうち振り、月のようなその顔に、凍りついた大きな微笑を浮かべ、そして、彼女のうちに輝き出してる厳格な正直さがなかったら、奏楽コーヒー店を時々|偲《しの》ばせるような、大袈裟《おおげさ》な身振りを盛んにやった。一家の母親たる彼女は、熱烈な娘や青春や情熱などを演じたのである。かくてシューマンの詩は、なんとなく育児院めいた無趣味な匂《にお》いを帯びてきた。聴衆は歓喜していた。――しかし、「南ドイツ男声合唱団」が現われた時、聴衆の注意は厳粛になった。彼らは感傷に満ちた種々の合唱曲を、順次にささやいたり喚《わめ》いたりした。四十人の人員で、四人で歌ってるような調子だった。あたかもその合唱から、本来の合唱的特色をことごとく除き去ろうと努めてるかと思われた。大太鼓をたたくような急激な大声を交えながらも、細かな旋律的効果を、内気な涙っぽい細やかな気分を、息も絶え絶えの最弱音の調子を、ねらったものであった。豊満と平衡との欠除であり、甘ったるい様式であった。ボットムの言葉を思わせた。  ――私に獅子《しし》の役をやらしてください。雛《ひな》に餌《え》をやる女鳩《めばと》のように、私はやさしく吼《ほ》えてみせます。鶯《うぐいす》かと思われるように、私は吼えてみせます。  クリストフは初めから耳を傾けながら、次第に呆気《あっけ》にとられてきた。そういうものは彼にとっては少しも珍しいものではなかった。それらの音楽会、管弦楽団、聴衆、それを彼はよく知っていた。ところが今にわかに、そのすべてが嘘《うそ》であるように思われた、すべてが、最も好んでいたものまでが、エグモント[#「エグモント」に傍点]の序曲までが。その荘麗な混乱と正確な紛擾《ふんじょう》とは、今は誠実を欠いてるかのように彼の気色を害した。もちろん彼が聞いたのは、ベートーヴェンやシューマンではなく、その滑稽《こっけい》な演奏者らであり、その鵜呑《うの》みにしたがってる聴衆であって、彼らの濃厚な馬鹿《ばか》さ加減は、重々しい雲のように作品のまわりに立ちこめていた。――がそれはそれとして、作品の中にも、最もりっぱな作品の中にさえも、クリストフがまだかつて感じたことのないある不安なものがこもっていた。――いったいそれはなんであるか? 彼は愛する大家を論議することの不敬を考えて、それをあえて分析して考察することができなかった。しかしいくら見まいとしても、それが眼についた。そして心ならずも見つづけていた。ピザのヴェルゴニョザ[#「ヴェルゴニョザ」に傍点]のように、指の間からのぞいていた。  彼は赤裸々なドイツ芸術を見た。すべての者が――偉大な者も愚かな者も――一種感傷的な慇懃《いんぎん》さで自分の魂を披瀝《ひれき》していた。感動があふれ、高尚な道徳心が滴《したた》り、心をこめて夢中に感情が吐露されていた。恐るべきゲルマン多感性の水門が、切って放たれていた。その多感性は強者の元気を希薄にし、弱者を灰色の水の下におぼらしていた。一つの汎濫《はんらん》であった。ドイツの思想がその底に眠っていた。しかも、メンデルスゾーン式の、ブラームス式の、シューマン式の思想は、また引きつづいては、誇張的な空涙的な歌曲のちっぽけな作者たち一団の思想は、往々にしてなんたるものであったか! 皆砂でできていた。一つの岩もなかった。湿った怪しげな土器であった……。それらは皆、いかにもくだらない幼稚きわまるものだったので、全聴衆がそれにびっくりしていなかろうとは、クリストフには信じ得られないほどだった。ところがまわりをながめると、安泰そうな顔つきばかりだった。聞いてるのは美しい曲ばかりであり、愉悦が得られるに違いないと、前もって思い込んでしまってる連中だった。その彼らにどうして、みずから批判をくだすことなんかできたろう? 彼らはそれら神聖な大家の名前にたいして、満腔《まんこう》の尊敬をささげていた。彼らの尊敬しないものは何があったろう? その番組にたいしても、酒杯にたいしても、自分自身にたいしても、みな恭々《うやうや》しかった。近くとも遠くとも、すべて自分に関係のあるものにたいしては、「閣下」の尊称を頭の中で与えてるらしかった。  クリストフは代わる代わるに、聴衆と作品とのことを考えてみた。あたかも庭の飾りの球《たま》のように、作品は聴衆を反映し、聴衆は作品を反映していた。クリストフは笑い出したい気持になって、顔をしかめた。それでもなお我慢していた。けれども「南ドイツ人」の一団が現われて、恋に落ちた若い娘の気恥ずかしい告白[#「告白」に傍点]を、堂々と歌いだした時には、もう堪えられなかった。彼は放笑《ふきだ》した。憤りの叱声《しっせい》が起こった。隣席の人々は驚いて彼をながめた。それらの憤慨した善良な顔を見ると、彼は愉快になった。彼はますます笑い、笑いつづけ、涙を出して笑いこけた。それには人々も怒った。「出ろ!」と人々は叫んだ。彼は立ち上がり、こみ上げてくる哄笑《こうしょう》に背中を震わしながら、肩をそびやかして出て行った。その退席は人々の憤慨を招いた。それが、クリストフとその町との間の敵意の始まりであった。  右の経験のあとで、クリストフは家に帰ると、「神聖なる」音楽家らの作品を読み返してみた。そして自分が最も愛していた楽匠中にも、嘘《うそ》をついてる者のあるのを認めて駭然《がいぜん》とした。初めはそれを疑おうとつとめ、自分の誤解だと思おうとつとめた。――だが、どうしても駄目《だめ》だった。……大国民の芸術的至宝をこしらえている凡庸《ぼんよう》と虚偽との量に、彼は驚かされた。審査に堪え得るページは、いかに僅少《きんしょう》なことだったろう!  それ以来彼は、敬愛していた他の作品を読むにも、もはや懸念に胸を震わさざるを得なかった。……鳴呼《ああ》、彼は何かに誑《たぶ》らかされたようだった。何物にも同じような不満ばかりだった。ある楽匠にたいしては、断腸の思いをした。愛する友を失ったようなものだった。信頼しきっている友から数年来欺かれていたことに気づいたようなものだった。それを彼は泣いた。もう夜も眠れなかった。たえず苦しんだ。みずから自分をとがめた。もう自分には判断ができなくなったのか? 自分はまったく馬鹿になってしまったのか? 否々、晴れやかな日の麗わしさは、いつもよりずっとよく眼にはいった。人生のみごとな豊富さは、いつもよりずっとよく感ぜられた。彼の心は少しも彼を欺いてはいなかった。  なお長らく彼は、自分にとって最もりっぱな人々、最も純粋な人々、聖者中の聖者とも言うべき人々、そういう楽匠にはあえて手を触れなかった。彼らにたいしていだいてる信仰が傷つけられはすまいかと恐れた。しかしながら、最後まで突進して、たとい苦しみを受けようとも、事物の真相を見きわめんと欲する、誠実な魂の仮借《かしゃく》なき本能には、どうして抵抗することができよう?――で彼はついに神聖なる作品をひらいた。最後の予備隊、近衛《このえ》兵……をもくり出した。そして一目見ると、それらもやはり他の作品と同じく無瑾《むきず》ではなかった。彼は読みつづけるだけの勇気がなかった。時々、読みやめては本を閉じた。彼はノアの息子《むすこ》のように、父親の裸体にマントを投げかけたのであった……。  やがて彼は、それらの廃墟《はいきょ》の中に困惑してたたずんだ。神聖な幻影を失うくらいなら、むしろ自分の片腕を失っても惜しくなかった。心の中の死の悲しみだった。しかし彼のうちには強い活気が宿っていたので、芸術にたいする信頼の念は、そのために動揺されはしなかった。青年のひたむきな自負心をもって、あたかも自分より前にはだれも生きた者がないかのように、ふたたび生活を開始した。生きた熱情と、それに対する芸術の表現との間には、ほとんど例外なしになんらの関係もないということを、彼は自分の新しい力に酔いながら感じていた――おそらく理由がないでもなかったろうが。しかし彼がみずから熱情を表現した時、よりうまくより真実にやれたことと思ったのは、誤りであった。彼はまだそれらの熱情に満たされていたので、自分の書いたもののうちにそれらを見出すのは容易であった。けれども彼以外の他人には、彼が使ったような不完全な彙語《いご》のもとにそれらを認知し得る者は、一人もなかったであろう。彼が非難した多くの芸術家についても、同様であった。彼らは皆、深い感情をいだきそれを表現した。しかし彼らの用いた言葉の秘訣《ひけつ》は、彼らとともに死んでしまったのである。  クリストフは少しも心理学者ではなかった。それらの理由には少しも困らされなかった。自分にとって滅びたものは、永久に滅びたものとなるのであった。彼は青春の自信深い強烈な不正さをもって、過去の人々にたいする自分の批判を点検した。彼は最も高尚な魂をも赤裸になして、その滑稽《こっけい》な点をも無慈悲にえぐり出した。メンデルスゾーンのうちには、あり余った憂愁、気取った幻想、空虚な思想などがあった。ウェーバーには、ガラス細工や金ぴか、心の乾燥、頭だけの情緒。リストは、気高い長老で曲馬師で新古典派で香具師《やし》、実際の気高さと偽りの気高さとの同分量の混合、晴朗な理想と厭味《いやみ》な老練さとの同分量の混合。シューベルトは、無色透明な数千メートルの水底にあるかのように、多感性の下にうずくまってるのであった。その他、英雄時代の古人、半人半神、予言者、教会の長老、皆クリストフの批判を免れなかった。数世紀にまたがりおのれのうちに過去未来を包括《ほうかつ》してる、偉人セバスチアン――セバスチアン・バッハ――でさえも虚偽や世俗の愚劣さや書生じみた饒舌《じょうぜつ》などから、まったく免れてるとは言えないのであった。神を見たこの人も、クリストフの眼から見れば往々にして、面白くもない甘っぽい宗教があり、偽善的な陳腐《ちんぷ》な様式があった。その交声曲《カンタータ》のうちには、恋と信仰との憔悴《しょうすい》の曲調があった。――(嬌態《きょうたい》の魂とキリストとの対話が。)――クリストフはそれに胸を悪くした。ダンスの足取りをしている豊頬《ほうきょう》の天使を見るような気がした。それにまた、この天才的楽匠はいつも閉《し》め切った室の中で書いてたように、彼には感ぜられた。幽閉の感じが漂っていた。おそらく音楽家としては劣っていたろうが、しかし人間としてはすぐれた――ずっと人間的な――他の人々に、たとえばベートーヴェンやヘンデルなどにあるような、外界の強い空気の流れが、その音楽の中には存していなかった。また古典派《クラシック》作家らのうちで彼の気色を害したことは、自由の欠乏であった。彼らの作品では、ほとんどすべてが「組み立て」られたものであった。あるいは、月並みな音楽的修辞法で誇張されてる情緒があり、あるいは、機械的な方法であらゆるふうにくり返されこね回され配合されてる、簡単な律動《リズム》が、装飾的意匠があった。それらの対照的な冗複な構造――奏鳴曲《ソナタ》や交響曲《シンフォニー》――は、広大精巧な設計や端整さなどの美に当時あまり敏感でなかったクリストフを、憤激させるのであった。音楽家の仕事というよりむしろ左官屋の仕事のように彼には思われた。  彼はまた浪漫派《ロマンチック》作家らにたいしても、同じく峻厳《しゅんげん》だった。不思議なことには、最も自由であり、最も自発的であり、最も建築的でないと、自称していた音楽家ほど――たとえばシューマンのように、無数の小曲のうちに、自分の全生命を一滴ずつ注ぎ込んだ人々ほど、彼をいらだたせるものはなかった。みずから脱却しようと誓った自分の少壮な魂やあらゆる稚気を、彼らのうちにもやはり見出しただけに、なおさら憤激した。もとより、誠実なシューマンは虚構をもって難ぜられるはずはなかった。彼が言ってることはほとんどすべて、ほんとうに感じたことばかりだった。しかし、ちょうどシューマンの例によってクリストフが理解するにいたったことは、ドイツ芸術の最も悪い虚構は、その芸術家らが少しも実感しない感情を表現しようと欲したから起こったというより、むしろ彼らが実感する感情――実感する嘘の感情[#「嘘の感情」に傍点]――を表現しようと欲したから起こったということであった。音楽は魂の仮借《かしゃく》なき鏡である。ドイツの音楽家にして、率直で信実であればあるほど、ますます彼が示すところのものは、ドイツ魂の弱点であって、不安定な根底、柔惰な多感性、率直さの欠乏、多少|狡猾《こうかつ》な理想主義、自己を見、あえて自己を正視することの不可能、などであった。この誤れる理想主義は、最も偉大な人々の――たとえばワグナーの、急所であった。その作品を読み返しながら、クリストフは歯ぎしりをした。ローエングリン[#「ローエングリン」に傍点]は、罵倒《ばとう》すべき虚偽の作であるように思われた。その下卑《げび》た騎士道、偽善的なもったい振り、好んでおのれを賛美しおのれを愛する我利冷酷な徳操の化身とも言うべき、恐怖も知らないが人情も知らないその英雄、それを彼は憎みきらった。自分の面影を崇拝し、その神聖さにたいしては他人を犠牲にしても顧みない、自惚《うぬぼれ》の強い几帳面《きちょうめん》な堅苦しい、かかるドイツ的偽善の人物を、彼はよく知りすぎてい、現実に見たことがあった。さまよえるオランダ人[#「さまよえるオランダ人」に傍点]は、その重々しい感傷性と陰鬱《いんうつ》な倦怠《けんたい》とで彼の心を圧倒した。四部曲[#「四部曲」に傍点]の野蛮な頽廃《たいはい》的人物は、恋愛において堪《たま》らないほど空粗だった。妹を奪ってゆくジーグムントは、客間式の華想曲《ロマンス》をテナーで歌っていた。神々の黄昏[#「神々の黄昏」に傍点]中のジーグフリート、ブリュンヒルデは、ドイツのりっぱな夫妻として、たがいの眼に、とくに公衆の眼に、浮華|饒舌《じょうぜつ》な夫婦の情熱を盛んに見せつけていた。それらの作品中には、あらゆる種類の虚偽が集まっていた、嘘《うそ》の理想主義、嘘のキリスト教、嘘のゴチック主義、嘘の伝説味、嘘の神性味、嘘の人間味などが。あらゆる因襲を覆《くつがえ》すものとせられてるその劇ぐらい、巨大な因襲を振りかざしてるものはなかった。眼も精神も心も、片時なりとそれに欺かれるはずはなかった。進んで欺かれようと思わないかぎりは、欺かれるはずはなかった。――ところが人々の眼や精神や心は、欺かれることを望んでいた。ドイツは、その老耄《ろうもう》なまた幼稚な芸術を、解き放された畜生ともったいぶった気取りやの小娘との芸術を、歓《よろこ》び楽しんでいた。  そしてクリストフ自身も、いかんともできなかった。彼はそういう音楽を聞くや否や、他人と同じく、他人よりももっとはなはだしく、音の急湍《きゅうたん》とそれを繰り出す作者の悪魔的意志とにとらえられた。彼は笑った、うち震えた、頬《ほお》を熱《ほて》らした。騎馬の軍隊が自分のうちを通るのを感じた。そういう暴風をおのれのうちにもってる人々には、すべてが許されてると考えた。もはやうち震えながらしか繙《ひもと》くことのできない神聖な作品のうちに、愛していたものの純潔さを何物にも曇らされることなく、昔と同じ激しい感動をふたたび見出す時、いかに彼は喜びの叫びをたてたことだろう! それは彼が難破から救い上げた光栄ある残留品だった。なんたる仕合わせぞ! 自分自身の一部を救い出したような気持だった。そして実際、それは彼自身ではなかったであろうか? 彼が憤激して非難したそれらドイツの偉人は、彼の血、彼の肉、彼の最も貴い存在、ではなかったであろうか? 彼が彼らにたいしてあれほど峻厳だったのは、自分自身にたいして峻厳だったからである。彼以上に彼らを愛したものがあったろうか? シューベルトの温良さ、ハイドンの無邪気さ、モーツァルトの情愛、ベートーヴェンの勇壮偉大な心、それを彼以上によく感じたものがあったろうか? ウェーベルの森の戦《そよ》ぎの中に、または、北方の灰色の空に、ドイツ平原のはるかに、石の巨体と見通し尖頂《せんちょう》の大きな塔をそばだてている、ヨハン・セバスチアンの大|伽藍《がらん》の大きな影の中に、彼以上に敬虔《けいけん》な情をもって身を潜めた者があったろうか?――しかしながら彼はまた、彼らの虚偽を苦しんでいた。それを忘れることができなかった。そして彼らの虚偽を民族に帰し、彼らの偉大さを彼ら自身に帰したのであった。彼は間違っていた。偉大な点も弱点も、等しく民族に属するものである。この民族の力強い混沌《こんとん》たる思想は、音楽や詩の大河となって逆巻《さかま》き、全ヨーロッパはその河水を飲みに来る。――実際彼は、今彼をしてかくも峻烈《しゅんれつ》に民衆を非難せしめている率直な純真さを、他のいかなる民衆のうちに見出し得たであろうか?  彼はそれらのことに少しも気づかなかった。駄々《だだ》っ児《こ》の恩知らずな心をもって、母体から受けた武器を母体に差し向けていた。あとになって、あとになってこそ、彼は初めて感ずるに違いない、母体に負うところがいかに多いかを、自分にとってその母体がいかに貴いものであるかを……。  しかし彼は今、おのれの幼年時代の偶像にたいする盲目的な反動の時期にあった。彼はそれらの偶像を憎み、自分が夢中になって信仰したことを偶像に向かって恨んでいた。――そして彼がそうあるのはいいことであった。生涯《しょうがい》のある年代においては、あえて不正であらなければいけない。注入されたあらゆる賛美とあらゆる尊敬とを塗抹《とまつ》し、すべてを――虚偽をも真実をも、否定し、真実だと自分で認めないすべてのものを、あえて否定しなければいけない。年若い者は、その教育によって、周囲に見聞きする事柄によって、人生の主要な真実に混淆《こんこう》している虚偽と痴愚とのきわめて多くの量を、おのれのうちに吸い込むがゆえに、健全なる人たらんと欲する青年の第一の務めは、すべてを吐き出すことにある。  クリストフはこの強健な嫌悪《けんお》を事とする危機を通っていた。自分の一身を閉塞《へいそく》してる不消化物を本能的に排出していた。  まず第一に、湿った黴《かび》臭い地下室からのように、ドイツ魂から滴《したた》っている、胸悪くなる多感性があった。光よ、光よ! 荒い乾《かわ》いた空気よ! 沼沢の毒気を、ゲルマン魂《ゲミュート》が無尽蔵にみなぎっている、雨滴のように数多い歌曲《リード》や小歌曲の白けた臭気を、一掃してくれないか。それらのものは無数にあった。慾望[#「慾望」に傍点]、郷愁[#「郷愁」に傍点]、跳躍[#「跳躍」に傍点]、願い[#「願い」に傍点]、いかなれば[#「いかなれば」に傍点]? 月に[#「月に」に傍点]、星に[#「星に」に傍点]、鶯に[#「鶯に」に傍点]、春に[#「春に」に傍点]、太陽の光に[#「太陽の光に」に傍点]、春の歌[#「春の歌」に傍点]、春の快楽[#「春の快楽」に傍点]、春の会釈[#「春の会釈」に傍点]、春の旅[#「春の旅」に傍点]、春の夜[#「春の夜」に傍点]、春の使い[#「春の使い」に傍点]、愛の声[#「愛の声」に傍点]、愛の言葉[#「愛の言葉」に傍点]、愛の悲しみ[#「愛の悲しみ」に傍点]、愛の精[#「愛の精」に傍点]、愛の豊満[#「愛の豊満」に傍点]、花の歌[#「花の歌」に傍点]、花の文[#「花の文」に傍点]、花の会釈[#「花の会釈」に傍点]、心の痛み[#「心の痛み」に傍点]、吾が心重し[#「吾が心重し」に傍点]、吾が心乱る[#「吾が心乱る」に傍点]、吾が眼曇る[#「吾が眼曇る」に傍点]、または、小|薔薇《ばら》や小川や雉鳩《きじばと》や燕《つばめ》などとの、仇気《あどけ》ない馬鹿げた対話、または、次のようなおかしな問い――野薔薇に刺がなかりせば[#「野薔薇に刺がなかりせば」に傍点]、――老いたる良人と燕は巣を作りしならば[#「老いたる良人と燕は巣を作りしならば」に傍点]、あるいは、近き頃燕は婚約したりしならば[#「近き頃燕は婚約したりしならば」に傍点]。――すべてそれらの、空粗な愛情、空粗な情緒、空粗な憂愁、空粗な詩、などの汎濫《はんらん》……。いかに多くの美しいものが俗化され、いかに多くの気高い感情が、あらゆる場合にゆえもなく使い古されてることだろう! 最も悪いのは、すべてそれらのものが無駄《むだ》になってることだった。それは公衆におのれの心を開き示さんとする習癖であり、やかましく意中を吐露せんとする、態《わざ》とらしいつまらない性癖であった。言うべきこともないのに常に口をきいていた。その饒舌はいつまでもやまないのか?――これ、沼の蛙《かえる》ども黙らないか!  クリストフがさらにまざまざと虚偽を感じたのは、ことに恋愛の表現中にであった。なぜなら、彼はこの問題ではいっそうよくそれを事実に比較することができたから。涙っぽい几帳面《きちょうめん》な恋歌の因襲は、男の欲望にも女の心にも、なんら一致してるものがなかった。けれどもそれを書いた人々は、少なくとも一生に一度は恋をしたことがあるに違いなかった。しからば彼らはそういうふうに恋したのであったろうか? 否、否。彼らは嘘《うそ》をつき、例の通り嘘をつき、自分自身に向かっても嘘をついたのだ。彼らは自分を理想化せんと欲したのである。理想化するというのは、人生を正視することを恐れ、事物をあるがままに見るを得ないことである。――いたる所に、同じ臆病《おくびょう》さ、男らしい率直さの同じような欠乏。いたる所に、愛国心の中にも、飲酒の中にも、宗教の中にも、冷やかな同じ心酔、浮華な芝居じみた同じ厳粛さ。飲酒の歌は皆、酒や杯にたいする擬人法であった、「汝[#「汝」に傍点]、尚《とうと》き杯よ[#「杯よ」に傍点]……」と。信仰は、不意の波涛《はとう》のように魂から迸《ほとばし》り出るべきものでありながら、一つのこしらえ物となり、一つの通用品となっていた。愛国の歌は、程よく鳴いてる従順な羊の群れのためにこしらえられたものであった……。――さあ怒号してみないか?……なんだ、なお嘘を言いつづけるのか……理想化[#「理想化」に傍点]しつづけるのか――陶酔においても、殺害においても、狂愚においてまでも!……  クリストフはついに理想主義を憎むにいたった。そういう虚偽よりも磊落《らいらく》な粗暴の方がまだ好ましかった。――根本においては、彼はだれよりも理想主義者であって、むしろ好ましいと思ったそれら粗暴な現実主義者こそ、彼の最も忌むべき敵であるはずだった。  彼は自分の熱情に眼を眩《くら》まされていた。霧のために、貧血症に罹《かか》ってる虚偽のために、「太陽のない幽鬼的観念」のために、凍らされたような気がしていた。一身の力をしぼって太陽を翹望《ぎょうぼう》していた。周囲の偽善にたいする、あるいは彼が偽善と名づけてるものにたいする、年少気鋭な軽蔑《けいべつ》心のあまりに、民族の実際的大智が眼に映じなかった。この民族は、おのれの野蛮なる本能を統御せんがために、もしくはそれを利用せんがために、次第にその壮大な理想主義をうち立てたのであった。民族の魂を変形し、それに新しい性質を帯びさせるものは、専断な理性でもなく、道徳および宗教の規範でもなく、立法家および為政家でも、牧師および哲学者でもない。それは幾世紀もの不幸|艱難《かんなん》の所産であって、生きんと欲する民衆はその間に生のために鍛えられる。  その間もクリストフは作曲していた。そして彼の作は、彼が他人に非難するその欠点から免れてはいなかった。なぜならば、彼にあっては創作はやむにやまれぬ欲求であって、その欲求は理知が提出する規則に服従しはしなかった。人は理性によって創造するのではない。必然の力に駆られて創造するのである。――次に、多くの感情に固有の虚偽や誇張を認めるだけでは、それらにふたたび陥るのを免れるものではない。長い困難な努力が必要である。時代相伝の怠惰な習慣の重い遺産をもちながら、現代の社会において、まったく真実たらんとすることは最も困難である。多くは沈黙を守《まも》るが最上の策であるにもかかわらず、おのれの心をたえずしゃべらしておく不謹慎な病癖をもってる人々や民衆にとっては、真実たることはことに容易でない。  この点については、クリストフの心はきわめてドイツ的であった。彼はまだ沈黙の徳を知っていなかった。そのうえ、それは彼の年齢にもふさわしくなかった。彼はしゃべりたい欲求を、しかも騒々しくしゃべりたい欲求を、父から受け継いでいた。彼はそれを意識して、それと争っていた。しかしこの争いに彼の力の一部は痲痺《まひ》していた。――また彼は、祖父から受け継いだ遺伝と争っていた。それもまた同じく厭《いや》な遺伝で、自己を正確に表現することのはなはだしい困難さであった。――彼は技能の児《こ》であった。技能の危険な魅力を感じていた。――肉体的快楽、巧妙さや軽快さや筋肉の活動の快楽、おのれの一身をもって数千の聴衆を征服し眩惑《げんわく》し支配するの快楽。それは年若き者にあっては、きわめて宥恕《ゆうじょ》すべきほとんど罪なき快楽ではあるが、しかし芸術と魂とにとっては、致命的なものである。――クリストフはその快楽を知っていた。それを血の中にもっていた。それを軽蔑《けいべつ》してはいたが、やはりそれに打ち負けていた。  かくて、民族の本能と天分の本能からたがいに引っ張られ、身内に食い込まれて振り払うことのできない寄生的な過去の重荷に圧せられて、彼はつまずきながら進んでいった。そしてみずから排斥していたものに思いのほか接近していた。当時の彼の作品はことごとく、真実と誇張との、明敏な活力とのぼせ上がった愚蒙《ぐもう》との、混合であった。彼の性格が、おのれの運動を拘束する故人の性格の外被をつき破ることができるのは、ごく時々にしかすぎなかった。  彼はただ一人であった。彼を助けて泥濘《でいねい》から引き出してくれる案内者はいなかった。彼は泥濘から外に出たと思ってる時に、ますますそれに落ち込んでいた。不運な詩作に時間と力とを濫費しながら、摸索しつつ進んでいった。いかなる経験をもなめつくした。そしてかかる創作的|煩悶《はんもん》の混乱中にあって、彼は自分が創作するすべてのもののうちで、いずれが最も価値あるかを知らなかった。無法な計画の中で、哲学的主張と奇怪な推測とをもった交響楽詩の中で、途方にくれた。しかしそれに長くかかり合うには、彼の精神はあまりに誠実だった。そしてその一部分をも草案しないうちに、嫌悪《けんお》の情をもって投げ捨てた。あるいはまた、最も取り扱いがたい詩の作品を、序楽の中に訳出しようと考えた。すると自分の領分でない世界の中に迷い込んだ。また、みずから演劇の筋を立ててみることもあったが――(彼は何物にたいしても狐疑《こぎ》しなかったのである)――それは馬鹿げきったものだった。またゲーテやクライストやヘッベルやシェイクスピヤなどの大作を攻撃する時には、まったくそれを曲解していた。知力が欠けてるのではなかったが、批評的精神が欠けていた。彼はまだ他人を理解し得なかった。あまりに自分自身に心を奪われていた。彼がいたるところに見出したのは、自分の率直な誇張的な魂をそなえてる自分自身であった。  それらのまったく生きる術《すべ》のない怪しい物のほかに、彼は多くの小さな作品を書いていた。折りにふれての情緒を直接に表現したもの――すべてのうちで最も永存すべきもので、音楽的感想、すなわち歌曲《リード》であった。この場合にも他と同じく、彼は世流の習慣にたいして熱烈な反動をなしていた。すでに音楽に取り扱われてる有名な詩を取り上げて、シューマンやシューベルトなどと異なったしかもより真実な取り扱い方を、傲慢《ごうまん》にも試みようとしていた。あるいは、ゲーテの詩的な人物、たとえばウィルヘルム・マイステル[#「ウィルヘルム・マイステル」に傍点]中の竪琴《たてごと》手ミニョンなどに、その簡明にして混濁せる個性を与えようとつとめた。あるいは、作者の力弱さと聴衆の無趣味とが暗々裏に一致して、いつも甘っぽい感傷で包み込んでいる、ある種の恋歌にぶつかっていった。そしてその衣を剥ぎ取り、粗野な肉感的な辛辣《しんらつ》さを吹き込んだ。一言にしていえば、熱情や人物を、それ自身のために生きさせようと考え、日曜日ごとに麦酒亭《ビエルガルテン》に集まって安価な感動を求めているドイツ人らの玩具《がんぐ》になるために、それらを生きさせようとはしなかった。  しかし彼は普通、詩人らをあまりに文学的だと思っていた。そして最も単純な原文、かつて教訓本の中で読んだことのある、古い歌曲《リード》の原文を、古い霊歌の原文を、好んで捜し求めた。けれども彼はその賛美歌的性質を存続させまいと用心した。大胆なほど通俗な生き生きとした方法で取り扱った。その他の彼が取り上げたものは、種々の俚諺《りげん》、時としては、通りがかりに耳にした言葉、市井《しせい》の会話の断片、子供の考え――たいていは拙《つたな》い散文的な文句ではあるが、しかしまったく純な感情がその中に透かし見られるものだった。そういうものになると、彼は楽々とやってのけた。そして自分では気づかないでいる一種の深みに到達していた。  彼の作品にはよいものも悪いものもあり、たいていはよいものより悪いものの方が多かったが、その全体について言えば、生命があふれていた。それでもすべて新しいものではなかった、新しい所ではなかった。クリストフは誠実のためにかえって平凡になることが多かった。すでに用いられてる形式をくり返すことがよくあった。なぜなら、それは彼の思想を正確に現わしていたし、また彼はそういう感じ方をしていて、異なった感じ方をしていなかったからである。彼は少しも独創的たらんことを求めなかった。独創的たらんと齷齪《あくせく》するのは凡庸《ぼんよう》なるがゆえである、と彼には思えた。彼は自分が実感してることを言おうと努めて、それがすでに前に言われていようといまいと、少しも気にしなかった。しかもそれはかえって独創的たる最上の方法であることを、またジャン・クリストフは過去にも未来にもただ一度しか存在しないということを、彼は傲慢《ごうまん》にも信じていた。青春の素敵な無遠慮さで、まだ何物もできあがったものはないように思っていた。すべてが作り上げるべき――もしくは作り直すべき――もののように思えた。内部充実の感情は、前途に無限の生命を有するという感情は、過多なやや不謹慎な幸福の状態に彼を陥れていた。たえざる喜悦。それは喜びを求める要もなく、また悲しみにも順応することができた。その源は、あらゆる幸福と美徳との母たる力の中にあった。生きること、あまりに生きること!……この力の陶酔を、この生きることの喜悦を、自分のうちに――たとい不幸のどん底にあろうとも――まったく感じない者は、芸術家ではない。それが試金石である。真の偉大さが認められるのは、苦にも楽にも喜悦することのできる力においてである。メンデルスゾーンやブラームスの輩は、小雨や十月の霧などの神たる輩は、かかる崇高な力をかつて知らなかったのである。  クリストフはその力を所有していた。そして無遠慮な率直さで自分の喜びを見せつけていた。少しも悪意があるのではなかった。他人とそれを共にすることをしか求めていなかった。しかしその喜びをもたない大多数の人々にとっては、それは癪《しゃく》にさわるものであるということを彼は気づかなかった。そのうえ彼は、他人の気に入ろうと入るまいと平気であった。彼はおのれを確信していた。自分の信ずるところを他人に伝うることは、わけもないことのように思われた。彼はいわゆる楽譜製造人ら一般の貧弱さに、自分の豊富さを比較していた。そして自分の優秀なことを認めさせるのは、きわめて容易なことだと考えていた。容易すぎるくらいだった。おのれを示しさえすればよかった。  彼はおのれを示した。  人々は待ち受けていた。  クリストフは自分の感情をもったいぶって隠しはしなかった。事物をあるがまま見ようと欲しないドイツの虚偽を悟って以来、作品や作家にたいするいかなる定評をも顧慮するところなく、あらゆるものにたいして、絶対的な一徹な不断の誠実を事とするのを、一つの掟《おきて》としていた。そして何をするにも極端に奔《はし》らざるを得なかったので、法外なことを言っては、世人を憤慨さした。彼はこの上もなく率直であった。あたかも価値を絶する大発見を一人胸に秘めたく思わない者のように、ドイツの芸術にたいする自分の考えをだれ構わずにもらしては満足していた。そして相手の不満を招いてるとは想像だもしなかった。定評ある作品の愚劣さを認めると、もうそのことでいっぱいになって、出会う人ごとに、専門家と素人《しろうと》とを問わず、だれにでも急いでそれを言って聞かした。顔を輝かしながら最も暴慢な批評を述べたてた。最初人々は本気に受け取らなかった。彼の気まぐれを一笑に付した。しかしやがて、彼が厭《いや》に執拗《しつよう》にあまりしばしばくり返すのを気づいた。彼がそれらの僻論《へきろん》を信じていることは明らかになった。それにたいしては前ほどは笑えなかった。彼は冒涜《ぼうとく》者だった。演奏の最中に騒々しい嘲弄《ちょうろう》を示したり、あるいは光栄ある楽匠らにたいする軽蔑《けいべつ》の念を述べたてた。  何事もみな小さな町じゅうに伝わった。彼の一言も取り落とされはしなかった。人々はすでに、前年の行ないについて彼を憎んでいた。アーダといっしょなところを公然と見せつけた破廉恥なやり方を忘れていなかった。彼自身はもう覚えてはいなかった。日は日を消してゆき、今の彼は以前の彼とは非常に隔たっていた。しかし他人は彼のためにそれを覚えていた。隣人に関するあらゆる過失、あらゆる欠点、嫌《いや》な醜い不面目なあらゆるできごとを、一つも消え失《う》せないようにと細かく書きたてて、それを社会的職務としている連中が、すべての小都市に存在している。クリストフの新しい矯激な行ないは、昔の行ないと相並んで、彼の名義で帳簿に書きのせられた。両者はたがいに照合し合った。道徳を傷つけられた恨みに、善良な趣味を涜《けが》された恨みが加わった。最も寛大な人々は彼のことをこう言った。 「わざと変わった真似《まね》をしたがってるんだ。」  しかし大多数の者は断言した。 「まったく狂人だ。」  なおいっそう危険な風評が――高貴のところから出ただけに効果の多い風評が――広がり始めた。それは次のようなことだった。……クリストフはやはりつづけて公務のために宮廷へ伺候していたが、そこでも例の悪趣味を出して、親しく大公爵に向かって、世に尊敬されてる楽匠らについて顰蹙《ひんしゅく》すべき無作法な言辞を弄《ろう》した。メンデルスゾーンのエリア[#「エリア」に傍点]を、「まやかし坊主《ぼうず》の祈祷《きとう》」と呼び、シューマンのある種の歌曲《リード》を、「小娘の音楽」と見なした――しかもそれは、貴顕の方々がそれらの作品を好んでいると仰《おお》せられた時にである! 大公爵はその無礼な言葉を片付けるために、冷やかに言われた。 「お前の言うことを聞いていると、それでもドイツ人かと疑われることがあるよ。」  そういう高い所から落ちてきたこの復讐《ふくしゅう》的な言葉は、ごく低い所までころがり落ちずにはいなかった。クリストフが成功を博してるという理由から、あるいはいっそう個人的な理由から、彼にたいして遺恨の種があるように思ってる人々は皆、実際彼は純粋なドイツ人ではないということをもち出さずにはいなかった。父方の家は――人の記憶するとおり――フランドルの出であった。それからというものは、この移住者が国家的光栄を誹謗《ひぼう》するのは別に驚くにも当たらないこととなった。右の事実はすべてを説明するものであった。そしてゲルマン式自尊心は、ますますおのれを尊《とうと》むとともに敵を軽蔑するの理由を、そこに見出したのであった。  全然精神的なその復讐にたいして、クリストフは自分から、ますますよい材料を提供していった。自分が将《まさ》に批評にのぼせられようとしている時に、他人を批評するくらい無謀なことはない。もっと巧みな芸術家なら、敵にたいしてもっと尊敬を示したであろう。しかしクリストフは、凡庸《ぼんよう》にたいする軽蔑《けいべつ》と自身の力を信ずる幸福とを隠すべき理由を、少しも認めなかった。そしてその幸福の情をあまりに激しく示した。彼は近ごろ、胸中を披瀝《ひれき》したい欲求に駆られていた。自分一人で味わうにはあまりに大きな喜びだった。他人に喜悦を分かたないならば、胸は張り裂けるかもしれなかった。でも友人がないので、心を打ち明ける相手として、管絃楽の同僚で第二楽長をしてるジーグムント・オックスを選んだ。ウルテムベルヒ生まれの青年で、根は善良だが狡猾《こうかつ》で、クリストフにあふれるばかりの敬意を示していた。クリストフはこの男を疑ってはいなかった。もし疑ったにしたところで、自分の喜びを、赤の他人にまた敵にまでも打ち明けるのは不都合だと、どうして考え得たろう? 彼らはむしろそれを彼に感謝すべきではなかったか。彼は味方と言わず敵と言わず、万人に喜びを伝えようとしていた。――彼らに新しい幸福を受け入れさせるのは最も困難であることを、彼は少しも知らなかった。彼らはむしろ古い不幸の方をよしとするだろう。彼らには幾世紀もくり返し噛《か》みしめてきた食物が必要である。しかし彼らにとってことに忍びがたいことは、その幸福を他人のおかげで得られるという考えである。彼らはもはややむを得ない時にしかその侮辱を許さない。そして返報をしてやろうとくふうする。  それゆえ、クリストフの打ち明け話がだれからもあまり快く迎えられなかったのには、多くの理由が存していた。しかし、ジーグムント・オックスから快く迎えられなかったのには、さらにも一つの理由が存していた。第一楽長のトビアス・プァイフェルは、遠からず隠退することになっていた。そしてクリストフは、年少なのにもかかわらず、その後を襲うべき幸運を有していた。オックスはきわめて善良なドイツ人であるだけに、クリストフが宮廷の信任を得ているからにはその地位に相当してると認めていた。しかし彼は、もし自分の価値が宮廷からもっとよく知られたら自分の方がいっそうよく相当していると、信ずるだけの自惚《うぬぼれ》をもっていた。それでクリストフが毎朝、引きしめようと努めながらもやはり煕々《きき》とした顔つきで劇場へやって来ると、異様な微笑を浮かべてその打ち明け話を迎えるのであった。 「どうです、」と彼は狡猾《こうかつ》そうに言った、「何かまた新しい傑作ができましたか?」  クリストフは彼の腕をとらえた。 「ああ、君、こんどのは一番すぐれたものだよ……君に聞かしたいな!……いやどうも、あまりりっぱすぎるくらいだ。それを聞く者を、神よ助けたまえ、聞いたあとで心に残るのは、ただもう死にたいという考えばかりだ!」  それらの言葉を聞いてる者は聾者ではなかった。クリストフはもしその滑稽《こっけい》なことを感じさせられたらまっ先に笑い出したであろうが、そのクリストフを相手にオックスは、微笑《ほほえ》みもせず、子供じみた感激を親しく揶揄《からか》いもせずして、皮肉にも恍惚《こうこつ》たる様子をした。彼はクリストフをおだてて、なお他の法外なことまでも言わした。そしてクリストフと別れると、それをさらにおかしく誇張して、急いで方々に売り歩いた。音楽家の狭い仲間では、それをまた盛んに嘲笑《ちょうしょう》した。そしてだれも皆、その拙劣な作品――前もってすっかり判断されていた――その拙劣な作品を判断する機会を、待ちかねていた。  ついにその作品が現われた。  クリストフは自分の多くの作品のうちから、ヘッベルのユーディット[#「ユーディット」に傍点]にたいする序曲を選んだ。ドイツ人の無気力にたいする反動から、その野蛮な元気に心ひかれたのであった。(ヘッベルが常にいかにもして天才の面影をそなえようという下心からもったいぶってることを、彼は感じたので、すでに右の作には厭気《いやき》がさし始めていた。)また生の夢[#「生の夢」に傍点]というバールのベックリン式な誇張的題名と生は短し[#「生は短し」に傍点]という題言のついてる、一つの交響曲《シンフォニー》を添えた。なお番組の中には、一|聯《れん》の彼の歌曲《リード》と数種の古典的《クラシック》作品と、オックスの祝典行進曲一つがはいっていた。クリストフはオックスの凡庸《ぼんよう》なことを感じてはいたが、同僚の誼《よし》みから、自分の音楽会にその作品を一つ加えたのであった。  稽古《けいこ》中はさしたることもなかった。管絃楽団はみずから演奏してるそれらの作品を全然理解しなかったし、また各自ひそかに、その新しい音楽の奇怪なのにすこぶる狼狽《ろうばい》してはいたが、しかしまだなんらかの意見をたてる隙《ひま》がなかった。ことに彼らは公衆が意見を吐かないうちは、自分の意見を作ることができなかった。そのうえクリストフの自信ある調子は、ドイツのあらゆる善良な管弦楽団の例にもれず、訓練のとどいた従順なそれらの音楽家らを、すっかり威圧してしまっていた。ただ困難は、女歌手の方から出て来た。彼女は市立音楽会に属する新しい女だった。ドイツにおいてかなり評判の歌手だった。一家の母親である彼女は、ドレスデンやバイロイトにおいて、議論の余地のない豊富な声量で、ブリュンヒルデやクントリーの役を歌っていた。しかし彼女は、ワグナー派について、その派が当然得意としている技術、すなわち、口をぽかんと開いて聞き取れてる聴衆に向かって、子音を空間にころばし棍棒《こんぼう》でなぐりつけるように母音を強調しつつ、りっぱに発音する技術を、よく学んではいたにしろ、自然たらんとする技術を学んではいなかった――当然のことではあるが。そして彼女は一語一語にもったいをつけた。どの語も強調された。綴《つづ》りが鉛の靴底《くつぞこ》をつけて進んでゆき、各文句に一つの悲劇がこもっていた。クリストフは彼女にその劇的能力を少し節減してくれと頼んだ。彼女は初めのうちかなり快くそれを努めた。しかし生来の鈍重さと声を出したい欲求とに打ち負けてしまった。クリストフはいらだってきた。自分は生きてる人間に口をきかせようとしたのであって、悪魔ファネルに拡声器で喚《わめ》かせようとしたのではないと、その尊重すべき婦人に注意した。彼女はその非礼を――だれも想像するごとく――ひどく悪く取った。彼女は言った、ありがたいことには自分は歌うということがなんであるかを知っている、楽匠ブラームスの前でその歌曲《リード》を歌うの光栄を得たこともある、楽匠はそれを聞いて少しも飽きなかったと。 「だからなおいけない、なおいけないよ!」とクリストフは叫んだ。  彼女はその謎《なぞ》のような叫びの意味を説明してもらいたいと、尊大な微笑《ほほえ》みを浮かべながら求めた。彼は答えた、ブラームスは自然さのなんたるやを一|生涯《しょうがい》知らなかったので、その賛辞は最もひどい非難になるわけであって、また、自分――クリストフ――は、彼女がちょうど認めたとおり、時とすると非常に礼を失することもあるけれど、ブラームスの賛辞ほど彼女にとって不面目なことを決して言いはしないと。  議論はそういう調子でつづいていった。彼女は頑固《がんこ》に、圧倒的な悲痛さで自己流に歌いつづけた。――でついにある日クリストフは――もうよくわかったと冷やかに言い放った。彼女の天性がそうである以上は、それを矯正《きょうせい》することはできない。しかしこれらの歌曲《リード》は、正しい歌い方で歌われないとすれば全然歌われない方がいい、もう番組から引きぬいてしまうばかりだと。――それは公演の前日のことだった。それらの歌曲《リード》が期待されていた。彼女みずからそれの噂《うわさ》をしていた。彼女とても相当の音楽家で、それのある長所を鑑賞することはできたのだった。クリストフのやり方は彼女にとって恥辱であった。でも翌日の音楽会がこの青年の名声を決して高めないだろうとは、彼女は確信できなかったので、新進の明星《スター》と葛藤《かっとう》を結びたくなかった。でにわかに折れて出た。そして最後の稽古《けいこ》中、クリストフの要求におとなしく服従した。しかし彼女は、自分の思いどおりに歌ってやろう――翌日の公演では――と、心をきめていた。  当日になった。クリストフはなんらの不安をもいだいてはいなかった。自分の音楽であまり頭がいっぱいになっていたので、それを批判することができなかった。ある部分は人の笑いを招くかもしれないと思っていた。しかしそれがなんだ! 笑いを招くの危険を冒さなければ、偉大なものは書けない。事物の底に徴するためには、世間体や、礼儀や、遠慮や、人の心を窒息せしむる社会的虚飾などを、あえて蔑視《べっし》しなければいけない。もしだれの気にも逆《さか》らうまいと欲するならば、生涯の間、凡庸者どもが同化し得るような凡庸《ぼんよう》な真実だけを、凡庸者どもに与えることで満足するがいい。人生の此方《こなた》にとどまっているがいい。しかしそういう配慮を足下に踏みにじる時に初めて、人は偉大となるのである。クリストフはそれを踏み越えて進んでいった。人々からはまさしく悪口されるかもしれなかった。彼は人々を無関心にはさせないと自信していた。多少無謀な某々のページを開くと、知り合いのたれ彼がどんな顔つきをするだろうかと、彼は面白がっていた。彼は辛辣《しんらつ》な批評を予期していた。前からそれを考えて微笑していた。要するに、聾者ででもなければ作品に力がこもってることを否み得まい――愛すべきものかあるいはそうでないかはどうでもいい、とにかく力があることを。……愛すべきもの、愛すべきものだって!……ただ力、それで十分だ。力よ、ライン河のようにすべてを運び去れ!……  彼は第一の蹉跌《さてつ》に出会った。大公爵が来られなかった。貴賓席はただ付随の輩ばかりで、数人の貴顕婦人で占められた。クリストフは憤懣《ふんまん》を感じた。彼は考えた。「大公爵の馬鹿は俺《おれ》に不平なんだ。俺の作品をどう考えていいかわからないんだ。間違いをしやすまいかと恐れてるんだ。」彼は肩をそびやかして、そんなつまらないことは意に介しないというようなふうをした。ところが他の人々はそれによく注意を留めた。大公爵の欠席は、彼にたいする最初の見せしめであって、彼の未来にたいする威嚇《いかく》であった。  公衆は、主人たる大公爵よりいっそう多くの熱心を示しはしなかった。客席の三分の一はあいていた。クリストフは子供のおりの自分の音楽会がいつも満員だったことを、苦々しく考え出さざるを得なかった。もし彼がもっと経験を積んでいたら、つまらない音楽を作ってる時よりりっぱな音楽を作ってる時の方が聴衆の来るのが少ないことを、当然だと思ったであろう。公衆の大多数に興味を与えるものは、音楽ではなくて音楽家である。すでに大人《おとな》になって皆と同じようにしてる音楽家が、人の感傷性に触れ好奇心を喜ばす小僧っ児の音楽家より、興味を与えることが少ないのは、きわめて、明らかなことである。  クリストフは客席のふさがるのをむなしく待ちつくしたあとで、ついに開演しようと決心した。そうして「少なくてもよき友」の方がいいということを、みずから証明しようと試みた。――が彼の楽観は長くつづかなかった。  楽曲は沈黙のうちに展開していった。――愛情が満ちて今にもあふれんとしてるのが感ぜられるような、聴衆の沈黙もある。しかし今この沈黙の中には、何もなかった。皆無だった。まったくの眠りだった。各|楽句《がっく》が無関心の淵の中に沈み込んでゆくのが感ぜられた。クリストフは聴衆に背中を向け、管絃楽団に気を配ってはいたが、それでも内心の一種の触角をもって、客席で起こってるすべてのことを感知していた。この触角は、真の音楽家には皆そなわっていて、自分の演奏しているものが、周囲の人々の胸底に反響を見出してるかどうかを、知り得させるものである。クリストフは背後の桟敷《さじき》から起こる倦怠《けんたい》の霧に凍えながら、なおつづけて指揮棒を振り、みずから興奮していった。  ついに序曲は終わった。聴衆は拍手した。丁重に冷やかに拍手して、それから静まり返った。クリストフはむしろののしられる方を好んだろう。……ただ一つの口笛でも! 何か生き生きとした兆《しるし》、少なくとも作品にたいする反対の兆でも!……が何もなかった。――彼は聴衆をながめた。聴衆はたがいに見合わしていた。たがいの眼の中に意見を捜し合っていた。しかし彼らはそれを見出し得ないで、また無関心な態度に返った。  音楽はふたたび始まった。こんど交響曲《シンフォニー》の順であった。――クリストフは終わりまでつづけるのに困難を覚えた。幾度も彼は指揮棒を捨てて逃げ出したくなった。聴衆の無感覚に引き込まれて、ついに何を指揮してるかもわからなくなり、底知れぬ倦怠《けんたい》のうちに陥る心地をはっきり感じた。ある楽節で彼が期待していた嘲笑《ちょうしょう》の囁きさえなかった。聴衆は番組《プログラム》を読みふけっていた。番組のページが一時にさらさらとめくられる音を、クリストフは耳にした。そしてまた寂然《じゃくねん》としてしまった。そのまま最後の和音に達すると、やはり前と同じ丁重な拍手が起こって、曲が終わったのを彼らが了解したことをようやく示した。――それでも他の喝采《かっさい》がやんだ時に、孤立した拍手が三つ四つ起こった。しかしそれはなんらの反響も得ないで、きまり悪そうに静まってしまった。そのため空虚はさらにむなしく感ぜられてきた。そしてこのちょっとした出来事によって、聴衆はいかに退屈していたかをぼんやり悟った。  クリストフは管絃楽団のまん中にすわっていた。左右をながめるだけの元気もなかった。泣き出したかった。また憤怒《ふんぬ》の情に震えていた。立ち上がって皆にこう叫びたかった。「僕は君たちが厭《いや》だ、厭でたまらないんだ!……出て行ってくれ、みんな!……」  聴衆は少し眼をさましかけていた。彼らは女歌手を待っていた――彼女を喝采するのに慣れていた。羅針盤《らしんばん》なしに迷い込んだその新作の大洋中では、彼らにとって彼女は、確実なものであり、迷う危険のない案内知った堅固な陸地であった。クリストフは彼らの考えを見て取って、苦笑をもらした。歌手の方でも同じく、聴衆に待たれてることを感づいていた。クリストフは彼女の出る番であることを知らせに行った時、彼女の尊大な様子でそのことを見て取った。二人は敵意を含みながら顔を見合った。クリストフは彼女に腕も貸さないで、両手をポケットにつっ込み、そして彼女を一人で舞台にはいらした。彼女は憤然として先にたった。彼は退屈な様子でそのあとに従った。彼女が舞台に現われるや否や、聴衆は歓呼して迎えた。それは彼らにとって一つの慰籍《いしゃ》であった。顔は輝き出し、いっせいに元気づき、双眼鏡は頬《ほお》にもってゆかれた。彼女は自分の力を確信していて、もちろん自己流に歌曲《リード》を歌い出し、前日クリストフからされた注意を少しも顧みなかった。伴奏していたクリストフはまっさおになった。彼はその背反を予想していた。彼女が違った歌い方をするとすぐに、ピアノの上をたたき、怒気を含んで言った。 「違う!」  彼女は歌いつづけた。彼は低い怒り声をその背中に浴びせた。 「違う! 違う! そうじゃない!……そうじゃない!……」  聴衆には聞こえないが、管絃楽団には漏れなく聞こえる、その激しい叱責《しっせき》に、彼女はじれながらも、なお頑固《がんこ》につづけて、あまりに速度をゆるくし、休止符や延音符《フェルマータ》をやたらに用いた。彼はそれを構わずに先へ進んだ。しまいに二人の間は一拍子だけ隔たった。聴衆はそれに気づいていなかった。クリストフの音楽は快いものでもまたは正確なものでもないということは、すでに長い前から一般に認められていた。しかし同意見でなかったクリストフは、物に憑《つ》かれたようなしかめ顔をしていた。そしてついに破裂した。彼は楽句の中途でぴたりと弾《ひ》きやめた。 「もうたくさんだ!」と彼は胸いっぱいに叫んだ。  彼女は勢いに躯られて、なお半小節ばかりつづけ、そして歌いやめた。 「たくさんだ!」と彼は冷やかにくり返した。  聴衆は一時|惘然《ぼうぜん》とした。やがて彼は冷酷な調子で言った。 「やり直すんだ!」  彼女は呆気《あっけ》に取られて彼をながめた。その両手は震えていた。彼の顔に楽譜を投げつけてやりたいと思った。あとになっても彼女は、どうしてそれをしなかったのか自分でもわからなかった。しかしクリストフの威厳に彼女は圧服されていた。――彼女はやり直した。一連の歌曲《リード》をことごとく、一つの表情をも一つの速度をも変えないで歌った。なぜなら、彼が何物をも仮借《かしゃく》しないだろうと感じていたから。そして、またしても侮辱を受けやすまいかと考えては戦《おのの》いていた。  彼女が歌い終わると、聴衆は熱狂して呼び返した。彼らが喝采《かっさい》してるのは、歌曲《リード》をではなかった――(彼女がたとい他の曲を歌ったのであっても、彼らは同じように喝采しただろう)――名高い老練な歌手をであった。彼女は賞賛しても安全であると彼らは知っていた。そのうえ侮辱の結果を償ってやるつもりもあった。歌手が間違えたのだということを漠然《ばくぜん》と悟っていた。しかしクリストフがそれを皆の前にさらけ出したのは、恥知らずな仕業だと考えていた。彼らはそれらの楽曲を繰り返させようとした。しかしクリストフは断固としてピアノを閉じてしまった。  彼女はその新たな無礼に気づかなかった。あまりに惑乱していて、ふたたび歌おうとは思っていなかった。急いで舞台から出て、自分の室に引きこもった。そこで十五分ばかりの間、心中に積もり重なった恨みと怒りとを吐き出した。神経の発作、涙の洪水、憤激した罵詈《ばり》、クリストフにたいする呪詛《じゅそ》……。閉《し》め切った扉《とびら》越しに、激怒の叫びが聞こえていた。その室にはいることのできた友人らは、そこから出て来ると、クリストフが無頼漢のような振舞いをしたのだとふれ歩いた。その話はすぐ聴衆席へ伝わった。それで、クリストフが最後の楽曲のため指揮台に上がった時、聴衆はどよめいた。しかしその楽曲は彼のではなかった。オックスの祝典行進曲だった。その平板な音楽に安易を覚えた聴衆は、大胆に口笛を鳴らすほどのことをしないでも、クリストフにたいする非難を示すべき最も簡単な方法を取った。彼らは大|袈裟《げさ》にオックスの作を喝采し、二、三度作者を呼び出した。オックスはそのたびにかならず姿を現わした。そして、それがこの音楽会の終わりだった。  読者のよく推察するとおり、大公爵や宮廷の人々――饒舌《じょうぜつ》でしかも退屈してるこの田舎《いなか》の小都会の人々――は、右の出来事の些細《ささい》な点をも聞きもらさなかった。女歌手の味方である諸新聞は、事件には言及しなかったが、筆をそろえて彼女の技倆《ぎりょう》を称揚し、彼女が歌った歌曲《リード》は、ただ報道として列挙したにすぎなかった。クリストフの他の作品については、どの新聞も大差なく、わずかに数行の批評のみだった。「……対位法の知識。錯雑せる手法。霊感《インスピレーション》の欠乏。旋律《メロディー》の皆無。心の作にあらずして頭の作。誠実の不足。独創的たらんとする意図……。」その次に、すでに地下に埋もれてる楽匠、モーツァル、ベートーヴェン、レーヴェ、シューベルト、ブラームスなど、「みずから希《こいねが》わずして独創的なる人々、」そういう人々の独創について、真の独創について、一項が添えてあった。――それから次に、自然の順序として、コンラーディン・クロイツェルのグラナダ[#「グラナダ」に傍点]の露営[#「露営」に傍点]が大公国劇場で新しく再演されることに、説き及ぼしてあった。「書きおろされたばかりのものかと思われるほど清新華麗なその美妙な音楽」のことが、長々と報道されていた。  これを要するに、クリストフの作品は、好意を有する批評家たちからは、全然理解されず――少しも彼を好まない批評家たちからは、陰険な敵意を受け――終わりに、味方の批評家にも敵の批評家にも指導されない大部分の公衆からは、沈黙を被《こうむ》ったのである。公衆は自分自身の考えに放《ほう》っておかれると、なんにも考えないものである。  クリストフは落胆してしまった。  彼の失敗はしかしながら、何も驚くには当たらなかった。彼の作品が人に喜ばれなかったのには、三重の理由があった。作品はまだ十分に成熟していなかった。即座に理解されるにはあまりに新しかった。それから、傲慢《ごうまん》な青年を懲らしてやることが人々にはきわめて愉快だった。――しかしクリストフは、自分の失敗が当然であると認めるには、十分冷静な精神をそなえていなかった。世人の長い不理解と彼らの癒《いや》すべからざる愚蒙《ぐもう》さとを経験することによって、心の晴穏を真の芸術家は得るものであるが、クリストフにはそれが欠けていた。聴衆にたいする率直な信頼の念と、当然のこととして造作《ぞうさ》なく得られるものと思っていた成功にたいする信頼の念とは、今や崩壊してしまった。敵をもつのはもとよりであると思ってはいた。しかし彼を茫然《ぼうぜん》たらしめたのは、もはや一人の味方をももたないことであった。彼が頼りにしていた人々も、今までは彼の音楽に興味をもってたらしく思える人々も、音楽会以来は、彼に一言奨励の言葉をもかけなかった。彼は彼らの胸中を探ろうとつとめた。しかし彼らは曖昧《あいまい》な言葉に隠れた。彼は固執して、彼らのほんとうの考えを知りたがった。すると多少|真面目《まじめ》に口をきいてくれる人々は、彼の以前の作品を、初期の愚かな作品を、彼の前にもち出してきた。――それから彼は幾度も、旧作の名において新作が非難されるのを聞くことになった。――しかもそれは、数年以前には、当時新しかった彼の旧作を非難した人々からであった。そういうのが世間普通のことである。しかしクリストフはそれに同意できなかった。彼は怒鳴り声をたてた。人から愛されなくとも、結構だ。彼はそれを承認した。かえってうれしいくらいだった。すべての人の友たることを望んではいなかった。けれども、愛してるふりをされるのは、そして生長するのを許されないのは、生涯《しょうがい》子供のままでいることを強《し》いられるのは、それはあまりのことであった! 十二歳にしてはいい作も、二十歳にしてはもういい作ではない。そして彼はそのまま停滞しようとは思わなかった。なお変化し、常に変化したいと思っていた。……生の停滞を望む馬鹿者ども!……彼の幼年時代の作品中に見出せる興味は、その幼稚な未熟さにあるのではなくて、未来のために蓄《たくわ》えられてる力にあるのだった。そしてこの未来を彼らは滅ぼそうと欲してるのだった!……否、彼らは彼がいかなる者であるかをかつて理解しなかった。かつて彼を愛したことはなかった。彼らが愛したのは、彼のうちの卑俗な点、凡庸《ぼんよう》な輩と共通な点ばかりであって、真に彼自身[#「彼自身」に傍点]であるところのものをではなかった。彼らの友誼《ゆうぎ》は一つの誤解にすぎなかった……。  彼はおそらくこの誤解を誇張して考えていた。そういう誤解の例は、新しい作品を愛することはできないが、それが二十年もの歳月を経ると心から愛するような、朴直《ぼくちょく》な人々にしばしばある。彼らの虚弱な頭にとっては、新しい生命はあまりに香気が強すぎる。その香気が時《タイム》の風に吹き消されなければいけない。芸術品は年月の垢《あか》に埋もれてから初めて、彼らにわかるようになる。  しかしクリストフは、自分が現在[#「現在」に傍点]である時には人に理解されず、過去[#「過去」に傍点]である時になって人に理解されるということを、是認することができなかった。それよりはむしろ、まったく、いかなる場合にも、決して人に理解されないと、そう思いたかった。そして彼は憤激した。滑稽《こっけい》にも、自分を理解させようとし、説明し、議論した。もとよりなんの役にもたたなかった。それには時代の趣味を改造しなければならなかったろう。しかし彼は少しも狐疑《こぎ》しなかった。否応なしにドイツの趣味を清掃しようと決心していた。しかし彼には不可能のことだった。辛《かろ》うじて言葉を捜し出し、大音楽家らについて、または当の相手について、自分の意見を極端な乱暴さで表白する会話などでは、だれをも説服することはできなかった。ますます敵を作り得るばかりだった。彼がなさなければならないことは、ゆっくりと自分の思想を養って、それから公衆をしてそれに耳を傾けさせることであったろう……。  そしてちょうど、よいおりに、運――悪運――が向いて来て、その方策を彼にもたらしてくれた。  クリストフは管絃楽の楽員らの間に交わり、劇場の料理店の食卓につき、皆の気色を害するのも構わずに、芸術上の意見を述べたてていた。彼らは皆意見を同じゅうしてはいなかったが、彼の恣《ほしいまま》な言葉には皆不快を感じていた。ヴィオラのクラウゼ老人は、いい人物でりっぱな音楽家であって、心からクリストフを愛していたので、話題を転じたいと思った。しきりに咳《せき》をしたり、または、機会をうかがっては駄洒落《だじゃれ》を言ったりした。しかしクリストフはそれを耳に入れなかった。彼はますますしゃべりつづけた。クラウゼは困却して考えた。 「どうしてあんなことを言ってしまいたいのか? とんだことだ! だれでもあんなことは考えるかもしれないが、しかし口に出して言うものではない!」  きわめて妙なことではあるが、彼もまた「あんなこと」を考えていた、少なくともちょっと思いついていた。そしてクリストフの言葉は、多くの疑念を彼のうちに喚《よ》び起こした。しかし彼は、そうとみずから認めるだけの勇気がなかった――半ばは、危険な破目に陥りはすまいかという懸念から、半ばは、謙譲のために、自信に乏しいために。  ホルンのワイグルは、ほんとに何も知りたがらない男だった。だれをも、何物をも、よかろうと悪かろうと、星であろうとガス燈であろうと、ただ賛美したがっていた。すべてが同じ平面の上にあった。彼の賛美には、物によっての多少の別がなかった。彼はただ、賛美し、賛美し、賛美しぬいた。彼にとってそれは、生きるに必要な欲求だった。その欲求を制限されると、苦しみを感ずるのだった。  チェロのクーは、さらにひどく悩まされた。彼はまったく心から悪い音楽を好んでいた。クリストフが嘲笑《ちょうしょう》痛罵《つうば》を浴びせていたものはことごとく、彼にとってはこの上もなく貴重なものだった。彼がことに好んでいたのは、自然に、最も因襲的な作品であった。彼の魂は、涙っぽい浮華な情緒の溜《た》まりであった。確かに彼は、似而非《えせ》大家にたいする感激崇拝において、虚偽を装《よそお》ってるのではなかった。彼がみずからおのれを欺く――それも全然無邪気に――のは、真の大家を賛美してるのだとみずから思い込んでる点にあった。過去の天才らの息吹《いぶ》きを、自分の神のうちに見出せると信じている「ブラームス派」の人々がいる。彼らはブラームスのうちにベートーヴェンを愛している。ところがクーはさらにはなはだしかった。彼はベートーヴェンのうちにブラームスを愛していた。  しかし、クリストフの妄言《ぼうげん》に最も憤慨したのは、ファゴットのスピッツであった。彼はその音楽上の本能的|嗜好《しこう》をよりも、生来の屈従的精神をさらにはなはだしく傷つけられた。ローマのある皇帝は、立ちながら死にたがったこともあったが、スピッツは彼の平素の姿勢どおり、腹|匐《ば》いに平伏して死にたがっていた。腹匐いが彼の生来の姿だった。すべて官僚的なもの、定評あるもの、「成り上がった」もの、そういうものの足下にころがって歓《よろこ》んでいた。そして奴僕《どぼく》の真似《まね》をすることを邪魔されると、我れを忘れていらだつのだった。  それゆえに、クーは慨嘆し、ワイグルは絶望的な身振りをし、クラウゼは取り留めもないことを言い、スピッツは金切り声で叫んでいた。しかしクリストフは自若として、さらにいっそう声高にしゃべりたて、ドイツとドイツ人とに関するひどい意見を述べていた。  隣りの食卓で一人の青年が、笑いこけながらそれに耳を傾けていた。縮らしたまっ黒な髪、怜悧《れいり》そうな美しい眼、太い鼻、しかもその鼻は、先端近くになって、右へ行こうか左へ行こうか決しかねて、まっすぐに行くよりも同時に左右両方へ広がってい、それから厚い唇《くちびる》、敏活な変わりやすい顔つき、その顔つきで彼は、クリストフの言うことに残らず耳を傾け、その唇の動きを見守《みまも》り、その一語一語に、面白がってる同感的な注意を示し、額《ひたい》や顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》や眼尻《めじり》や、または小鼻や頬《ほお》へかけて、小さな皺《しわ》を寄せ、相好《そうごう》をくずして笑い、時とすると、急にたまらなくなって全身を揺ぶっていた。彼は話に口出しはしなかったが、一言も聞き落さなかった。クリストフが大言壮語のうちにまごつき、スピッツからじらされ、憤激のあまり渋滞し急《せ》き込み口ごもり、やがて必要な言葉を――岩石を見出して、敵を押しつぶすまでやめないのを見ると、彼はことに喜びの様子を示した。そしてクリストフが情熱に駆られて、おのれの思想の埒外《らちがい》にまで飛び出し、とてつもない臆説《おくせつ》を吐いて、相手を怒号させるようになると、彼は無上に面白がっていた。  ついに一同は、各自に自分の優秀なことを、感じたり肯定したりするのに飽きて、袂《たもと》を分かった。クリストフは最後まで食堂に残っていたが、やがて出て行こうとすると、先刻《さっき》あんなに面白がって彼の言葉を聞いていた青年から、敷居ぎわで言葉をかけられた。彼はまだその青年を眼にとめていなかった。青年はていねいに帽子を脱ぎ、笑顔をし、自己紹介の許しを求めた。 「フランツ・マンハイムという者です。」  彼はそばから議論を聞いていた無作法を詫《わ》び、相手どもを粉砕したクリストフの手腕を祝した。そしてそのことを考えながらまだ笑っていた。クリストフはうれしくもあるがまだ多少|狐疑《こぎ》しながら、その様子をながめた。 「ほんとうですか、」と彼は尋ねた、「僕をひやかすんじゃないんですか。」  相手は神明にかけて誓った。クリストフの顔は輝きだした。 「それでは、僕の方が道理だと君は思うんですね。君も僕と同じ意見ですね?」 「まあお聞きなさい、」とマンハイムは言った、「実を言えば、僕は音楽家ではありません、音楽のことは少しも知りません。僕の気に入る唯一の音楽は――別にお世辞を言うわけではないが――君の音楽です。……というのも、僕はあまり悪い趣味をもってる男ではないことを、君に証明したいので……。」 「そんなことは、」とクリストフはうれしがりながらも疑わしげに言った、「証拠にはならない。」 「手きびしいですね。……よろしい……僕も同意しよう、それは証拠にはならないと。それで、ドイツの音楽家らにたいする君の説を、批評するのはよそう。だがいずれにしても、一般のドイツ人、古いドイツ人、ロマンチックの馬鹿者ども、彼らにたいする君の説はほんとうだ。酸敗した思想をいだき、涙|壺《つぼ》のような情緒に浸り、われわれにも賛美させようとして、やたらにくり返すあの古めかしい文句、過去未来を通じて常に存在し[#「過去未来を通じて常に存在し」に傍点]、今日の掟であるがゆえに明日の掟たるべき[#「今日の掟であるがゆえに明日の掟たるべき」に傍点]、かの永久の昨日[#「かの永久の昨日」に傍点]……!」  彼はシルレルの有名な一節のある句を誦《しょう》した。 [#ここから3字下げ] ……永久《とわ》なる昨日、 そは常に在りき、また常にめぐり来たる……。 [#ここで字下げ終わり] 「彼がまっ先だ!」と彼は暗誦《あんしょう》の途中で言葉を切って言った。 「だれが?」とクリストフは尋ねた。 「これを書いた旧弊家さ。」  クリストフにはわからなかった。しかしマンハイムは言いつづけた。 「まず僕の考えでは、五十年ごとに、芸術や思想の大掃除をやらなけりゃいけない、前に存在していたものを少しも存続さしてはいけない。」 「そりゃあ少し過激だ。」とクリストフは微笑《ほほえ》みながら言った。 「いやそうじゃない、まったくだ。五十年というのも長すぎる。まあ三十年でいい……それも長すぎるくらいだ!……その程度が衛生にはいい。家の中に父祖の古物を残しておかないことだ。彼らが死んだら、それを他処《よそ》へ送ってていねいに腐敗させ、決してまたもどってこないように、その上に石を置いとくことだ。やさしい心の者はまた花を添えるが、それもよかろう、どうだって構わない。僕が求むることはただ、父祖が僕を安静にしておいてくれることだ。僕の方では向こうをごく安静にしておいてやる。どちらもそれぞれおたがいさまだ、生者の方と、死者の方と。」 「生者よりいっそうよく生きてる死者もあるよ。」 「いや、違う。死者よりいっそうよく死んでる生者があると言った方が、より真実に近い。」 「あるいはそうかもしれない。だがとにかく、古くてまだ若いものもあるよ。」 「ところが、まだ若いんなら、われわれは自分でそれを見出すだろう。……しかし僕はそんなことを信じない。一度よかったものは、もう決して二度とよくはない。変化だけがいいんだ。何よりも肝要なのは、老人を厄介払いすることだ。ドイツには老人が多すぎる。老いたる者は死すべしだ!」  クリストフはそれらの妄論《もうろん》に、深い注意をもって耳を傾け、それを論議するのにいたく骨折った。彼はその一部には同感を覚え、自分と同じ思想を多少認めた。と同時にまた、愚弄《ぐろう》的な調子で極端にわたるのを聞くと、ある困惑を感じた。しかし彼は他人もすべて自分と同じように真摯《しんし》であると見なしていたので、今自分よりいっそう教養あるように見えいっそうたやすく論じているその相手は、おそらく主義から来る理論的な結論を述べてるのであろうと考えた。傲慢《ごうまん》なクリストフは、多くの人からは自惚《うぬぼれ》すぎてるとけなされていたけれども、実は素朴《そぼく》な謙譲さをもっていて、自分よりすぐれた教育を受けた人々に対すると、しばしば欺かれることがあった――彼らがその教育を鼻にかけないで困難な議論をも避けない時には、ことにそうだった。マンハイムはいつも自分の逆説をみずから面白がり、弁難から弁難へわたって、ついには自分で内心おかしいほどの、途方もない駄弁《だべん》にふけってばかりいたので、人から真面目《まじめ》に聞いてもらうようなことは滅多になかった。ところが今クリストフが、自分の詭弁《きべん》を論議せんとしまたはそれを理解せんとして、いたく骨折ってるのを見ると、すっかりうれしくなった。そして冷笑しながらも、クリストフから重視されてるのを感謝した。彼はクリストフを滑稽《こっけい》なまた愛すべき男だと思った。  二人はきわめて親しい間柄になって別れた。そして三時間後に、芝居の試演の時、管弦楽団の席に開いてる小さな扉《とびら》から、マンハイムの※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》とした引きゆがめられた顔が現われて、ひそかに合図をしてるのを見て、クリストフは多少びっくりした。試演がすむと、クリストフはその方へ行った。マンハイムは親しげに彼の腕をとらえた。 「君、少し隙《ひま》があるだろうね。……まあ聞きたまえ。僕はちょっと思いついたことがある。多分君はばかなことだと思うかもしれないが……。実は、一度、音楽に関する、三文音楽家らに関する、君の意見を書いてくれないかね。木片を吹いたりたたいたりするだけの能しかない、君の仲間のあの四人の馬鹿者どもに向かって、無駄《むだ》に言葉を費やすより、広く公衆に話しかける方がいいじゃないか。」 「その方がいいとも! 望むところだ!……よろしい! だが何に書くんだい? 君は親切だね、君は!……」 「こうなんだ。僕は君に願いたいことがあるんだが……。僕らは、僕と数人の友人――アダルベルト・フォン・ワルトハウス、ラファエル・ゴールデンリンク、アドルフ・マイ、ルツィエン・エーレンフェルト――そういう連中で、雑誌を一つこしらえてるんだ。この町での唯一の高級な雑誌で、ディオニゾスと言うんだ。……(君も確か知ってるだろう。)……僕らは皆君を尊敬してる。そして君が同人になってくれれば、実に仕合わせだ。君は音楽の批評を受け持ってくれないか?」  クリストフはそういう名誉に接して恐縮した。彼は承諾したくてたまらなかった。しかしただ自分の力に余る役目ではあるまいかと恐れた。彼は文章が不得手だった。 「なに心配することはない、」とマンハイムは言った、「確かにりっぱに書けるよ。それに、批評家になればあらゆる権利をもつんだ。公衆にたいしては遠慮はいらない。公衆はこの上もなく馬鹿なものだ。芸術家というのもつまらないものだ。人から非難の口笛を吹かれても仕方はない。しかし批評家というものは、『彼奴《あいつ》を罵倒《ばとう》しろ!』と言うだけの権利をもっている。観客は皆思索の困難を批評家に委《ゆだ》ねてるんだ。君の勝手なことを考えればいい。少なくとも何か考えてる様子をすればいい。それらの鵞鳥《がちょう》どもに餌《え》を与えてやりさえすれば、それがどんな餌だろうと構わない。奴《やつ》らはなんでも飲み込んでしまうんだ。」  クリストフは心から感謝しながら、ついに承諾してしまった。そしてただ、何を言っても構わないということを条件とした。 「もちろんさ、もちろんさ。」とマンハイムは言った。「絶対の自由だ! われわれは各人皆自由なんだ。」  マンハイムは、その晩芝居がはねた後、三度劇場へやって来て彼を連れ出し、アダルベルト・フォン・ワルトハウスや他の友人らに、彼を紹介した。彼らは彼を懇《ねんご》ろに迎えた。  土地の古い貴族の家柄であるワルトハウスを除けば、彼らは皆ユダヤ人であって、そして皆すこぶる富裕だった。マンハイムは銀行家の息子《むすこ》、ゴールデンリンクは有名なぶどう園主の息子、マイは冶金《やきん》工場長の息子、エーレンフェルトは大宝石商の息子だった。彼らの父親らは、勤勉|強靭《きょうじん》な古いイスラエル系統に属していて、その民族的精神に執着し、強烈な精力をもって財産を作り、しかもその財産よりその精力の方をより多く享楽していた。ところが息子らは、父親らが建設したものを破壊するために生まれたかの観があった。家伝の偏見と、勤倹貯蓄な蟻《あり》のような性癖とを、嘲笑《ちょうしょう》していた。芸術家を気取っていた。財産を軽蔑《けいべつ》して、それを投げ捨てるようなふうをしていた。しかし実際においては、その手から金が漏れ落ちることはほとんどなかった。彼らはいかに馬鹿な真似《まね》をしようとも、精神の明晰《めいせき》と実際的の能力とをまったく失うほどには決していたらなかった。そのうえ、父親らはそれを監督して、手綱を引きしめていた。中で最も放縦なマンハイムは、もってる物をことごとく本気で濫費したろうけれど、しかし彼はかつて何かをもってることがなかった。そして父の貪欲《どんよく》を大声に罵倒してはいたけれど、心の中では、それをみずから笑いながら父の方が道理だと認めていた。で要するに、ほんとうに気を入れて自分の金で雑誌を維持していたのは、金が自由になるワルトハウスほとんど一人だけであった。後は詩人だった。アルノー・ホルツやウォルト・ホイットマンなどにならって、「多様韻律体《ポリメートル》」の詩を書いていた。ごく長い句と短い句とが交互になってる詩で、一点符、二点符、三点符、横線符、休止符、大文字、イタリック文字、傍線付の言葉などが、頭韻《とういん》法や反覆法――一語の、一行の、または全句の――などとともに、きわめて重要な役目をさせられていた。またあらゆる国の言語や音が插入《そうにゅう》されていた。彼はセザンヌの手法を詩に用いるのだと言っていた。(その理由はだれにもわからなかった。)そして実を言えば、空粗な事物をことによく感ずるだけの、かなり詩的な魂をそなえていた。感傷的で冷静であり、また幼稚で気取りやであった。その苦心した詩は、豪放な無頓着《むとんじゃく》さを装っていた。彼は上流の人としては、りっぱな詩人であったろう。しかしこの種の人は、雑誌や客間にあまり多くいすぎる。しかも彼は唯一人であることを欲していた。階級通有の偏見を超越してる大人物らしく振舞おうと、心がけていた。そのくせだれよりもいっそう偏見をもっていた。彼はそれをみずから認めてはいなかった。自分の主宰してる雑誌で、周囲にユダヤ人ばかりを寄せ集めて、反ユダヤ党である身内の者らに不平を言わせ、みずからおのれの精神の自由を証明することを、いつも快しとしていた。同人らにたいしては、慇懃《いんぎん》な対等の調子を装っていた。しかし心の底では、平静な限りない軽蔑《けいべつ》を彼らにたいしていだいていた。彼らが彼の名前と金とを利用して喜んでいるのを知らないではなかった。そして彼らのなすままに任して、彼らを軽蔑する楽しみを味わっていた。  そして彼らの方でもまた、彼が自分たちのなすままに任していることを軽蔑していた。なぜなら彼らは、彼がそのために利を得てることをよく知っていたから。与える者に与えよである。ワルトハウスは彼らに、自分の名前と財産とを貸与していた。彼らは彼に、自分らの才能と実務的精神と読者とを貸与していた。彼らは彼よりもいっそう怜悧《れいり》だった。と言って、彼らがより多く個性をそなえてるというのではなかった。否おそらく個性はより少なかったであろう。しかしながら彼らは、どこへ行ってもまたいつでもそうであるが、この小都市においても――異民族であるがために、数世紀来孤立してきて嘲笑的な観察眼が鋭利にされているので――最も進んだ精神の所有者であり、腐蝕《ふしょく》した制度や老朽した思想の滑稽《こっけい》な点に最も敏感な精神の所有者であった。ただ、彼らの性格は彼らの知力ほど、自由でなかったので、彼らはそれらの制度や思想を冷笑しながらも、それらを改革することよりむしろ、それらを利用することが多かった。彼らはその独立|不羈《ふき》の信条にもかかわらず、紳士アダルベルトとともに、田舎《いなか》の小ハイカラであり、富裕無為な息子《むすこ》さんたちであって、娯楽や気晴らしのつもりで文学をやってるのであった。彼らはみずから尊大なふうをして喜んでいたが、人のよい威張りやにすぎなくて、若干の無害な人々、もしくは自分たちを決して害し得ないと思われる人々、などにたいしてしか尊大ぶりはしなかった。他日自分たちがはいってゆき、昔攻撃したあらゆる偏見と妥協しながら、世間普通の生活を静かに営むようになるだろうとわかってるような社会とは、葛藤《かっとう》を結ぶ気はさらになかった。そして、いよいよ戈《ほこ》を揮《ふる》いもしくは弁を揮わんとし、現在の偶像――それもすでに揺ぎ始めてる――にたいして、騒々しく出征の途にのぼらんとする時には、いつも自分の船を焼かないだけの用心をしていた。危険な場合にはまた船に乗り込むのだった。それにまた、戦いの結果がどうであろうとも――戦いが済みさえすれば、また戦いが始まるまでには十分長い時間があった。敵のフィリスチン人は静かに眠ることができた。新しいダヴィデ派が求めていたところのものは、なろうと思えば恐るべき者にもなり得るのだということを、敵に信ぜさせることであった。――しかし彼らはなろうと思っていなかった。芸術家らと懇意にし、女優らと夜食をともにする方を、彼らはより多く好んでいた。  クリストフは、その仲間にはいると勝手が悪かった。彼らの話は、女や馬に関することが多かった。しかも厚かましい話し方をしていた。彼らはひどく形式張っていた。アダルベルトは、白々《しらじら》しいゆるやかな声音で、みずから退屈し人を退屈させる上品なていねいさで、意見を述べた。編集長のアドルフ・マイは、重々しくでっぷり太って、頭を両肩の間に埋め、粗暴な様子をしてる男で、いつも自説を通そうとしていた。あらゆることに断定を下し、決して人の答弁に耳を貸さず、相手の意見を軽蔑《けいべつ》してるらしく、なお相手をも軽蔑してるらしかった。美術批評家のゴールデンリンクは、神経的に顔の筋肉を震わす癖があり、大きな眼鏡の陰でたえず眼を瞬《またた》き、交際してる画家たちの真似《まね》をしたのに違いないが、髪を長く伸ばし、黙々として煙草《たばこ》を吹かし、決して終わりまで言ってしまうことのない断片的な文句を口ごもり、親指で空間に曖昧《あいまい》な身振りをするのだった。エーレンフェルトは、小柄で、頭が禿《は》げ、微笑を浮かべ、茶褐《ちゃかっ》色の頤髯《あごひげ》を生《は》やし、元気のない繊細な顔つきをし、鈎《かぎ》鼻であって、流行記事や世間的雑報を雑誌に書いていた。彼は甘ったるい声で、きわめて露骨な事柄をしゃべった。機才はあったが、しかしそれも意地悪い才で、また下等なことが多かった。――これらの富裕な青年らは皆、もとより無政府主義者であった。すべてを所有してる時に社会を否定するのは、最上の贅沢《ぜいたく》である。なぜなら、かくして社会に負うところのものを免れるからである。盗人が通行人を劫掠《きょうりゃく》したあとに、その通行人へこう言うのと同じである、「まだここで何をぐずついてるんだ! 行っちまえ! もう貴様に用はない。」  同人中でクリストフが好感をもってるのは、マンハイムにたいしてばかりだった。確かにこの男は、五人のうちで最も溌剌《はつらつ》としていた。自分の言うことや他人の言うことを、なんでも面白がっていた。どもり、急《せ》き込み、口ごもり、冷笑し、支離滅裂なことを言いたてて、論理の筋道をたどることもできず、みずから自分の考えを正しく知ることもできなかった。しかし彼は、だれにたいしても悪意をいだかず、また野心の影もない、善良な青年だった。実を言えば、きわめて率直だというのではなく、いつも芝居をやってはいた。しかしそれも無邪気にやってるのであって、だれにも害を及ぼさなかった。奇怪な――たいていは大まかな――あらゆる空想にたいして、彼は怒《おこ》りっぽかった。それをすっかり信ずるには、あまりに精緻《せいち》でまた嘲笑《ちょうしょう》的だった。そして怒った時でさえも、冷静を維持する法をよく知っていた。おのれの主義を適用するのに、かつて危ない破目に陥ることがなかった。しかし彼には看板が一つ必要だった。彼にとってはそれが玩具《がんぐ》であって、幾度も取り変えた。現在では、親切という看板をもっていた。もとより彼は、親切であるだけでは満足しなかった。親切に見せかけたがっていた。親切を説き回り、親切な芝居をしていた。家の者らの冷酷厳格な活動性にたいする、またドイツの厳粛主義や軍国主義や俗物根性などにたいする、反発的精神から、彼はトルストイ主義者となり、涅槃《ねはん》主義者となり、福音《ふくいん》信者となり、仏教信者となり――その他自分でもよくはわからなかったが――喜んであらゆる罪悪を許し、とくに淫逸《いんいつ》な罪悪を許し、それらにたいする愛好の情を少しも隠さず、しかも美徳の方はあまり許容しないような、柔弱な骨抜きの恣《ほしいまま》な恵み深い生きやすい道徳――快楽の契約にすぎず、相互交歓の放肆《ほうし》な連盟にすぎないが、神聖という光輪をまとってみずから喜ぶ道徳、そういう道徳の使徒となっていた。そこに小さな偽善が存していた。その偽善は、鋭敏な嗅覚《きゅうかく》にとってはあまり芳《かんば》しいものではなく、もし真面目《まじめ》に取られたら、実際胸悪いものともなるべきはずであった。しかしそれは真面目に取られることを別に望まないで、みずから一人で興がっていた。そしてこの放縦なキリスト教主義は、何かの機会がありさえすれば、すぐに他の看板に地位を譲ろうと待ち構えていた――どんなんでも構わない、暴力、帝国主義、「笑う獅子《しし》」などでも。――マンハイムは茶番を演じていた、心から茶番を演じていた。他の者らのようにユダヤの好々爺《こうこうや》とならないうちから、民族固有のあらゆる機才をもって、自分のもたない感情をも代わる代わる背負っていた。彼はきわめて面白い男であり、この上もなく小癪《こしゃく》な男であった。  クリストフはしばらくの間、マンハイムの看板の一つだった。マンハイムは彼のことばかりを口癖にしていた。至る所に彼の名前を吹聴《ふいちょう》して歩いた。家の者らに向かって、盛んに彼をほめたてて聞かした。その言葉に従えば、クリストフは天才であり、非凡な男であって、珍妙な音楽を作り、ことに変梃《へんてこ》な音楽談をなし、機才にあふれており――そのうえ好男子で、きれいな口と素敵な歯とをもっていた。彼はまた、自分はクリストフから感心されてると言い添えた。――ついにある晩、クリストフを家に連れて来て御馳走《ごちそう》してやった。クリストフは、新しい友の父親である銀行家ロタール・マンハイム、およびフランツの妹であるユーディットと、差し向かいになった。  彼がユダヤ人の家の中にはいり込んだのは、それが初めてだった。ユダヤ人の仲間は、その小都市にかなり多数であり、またその富と団結力と知力とによって、重要な地位を占めてはいたけれど、他の人々と多少離れて生活していた。民衆の中には、ユダヤ人にたいする執拗《しつよう》な偏見と、素朴《そぼく》ではあるがしかし不当な内密の敵意とが、いつも存在していた。クリストフ一家の感情もやはりそうであった。彼の祖父はユダヤ人を好まなかった。しかし運命の皮肉によって、彼の音楽の弟子のうち最良の二人は――(一人は作曲家となり、一人は名高い名手となっていた)――ユダヤ人であった。そしてこの善良な祖父は困却していた。なぜなら、その二人のりっぱな音楽家を抱擁したいと思うことがあった。それから、ユダヤ人らが神を十字架につけたことを悲しげに思い出した。そして彼は、その融和しがたい感情をどうして融和すべきかを知らなかった。が結局、彼は、二人を抱擁した。二人は非常に音楽を愛していたから、神も彼らを許してくださるだろうと、彼はおのずから信じがちだった。――クリストフの父のメルキオルは、自由思想家をもってみずから任じていただけに、ユダヤ人から金を取ることをさほど懸念しなかった。ごく結構なことだとさえ思っていた。しかし彼は、ユダヤ人を罵倒《ばとう》し軽蔑《けいべつ》していた。――クリストフの母は、料理人としてユダヤ人の家に雇われて行くと、悪いことをしたと思わないではなかった。そのうえ、彼女を雇った人々は、彼女にたいしてかなり横柄であった。それでも彼女は、それを彼らに恨まず、だれにも恨まず、神から永劫《えいごう》の罰を受けたそれらの不幸な人々にたいして、憐憫《れんびん》の情でいっぱいになっていた。その家の娘が通るのを見かけたり、あるいは子供らのうれしそうな笑い声を聞いたりすると、深く心を動かした。 「あんなに美しい娘が!……あんなにきれいな子供たちが!……なんという不幸だろう!……」と彼女は考えるのだった。  クリストフが、晩にマンハイム家へ行って御馳走《ごちそう》になるのだと告げた時、彼女は彼になんとも言いかねた。しかし多少心を痛めた。彼女の考えでは、ユダヤ人にたいする人々の悪口をすっかり信じてはいけないし――(世間の人はだれの悪口でも言うのである)――どこにでもりっぱな人たちがいるものではあるが、しかしそれでも、ユダヤ人はユダヤ人の方で、キリスト教徒はキリスト教徒の方で、それぞれ敷居をまたぎ越さない方が、いっそうよくいっそう好都合なのだった。  クリストフは少しもそういう偏見をもってはいなかった。周囲にたえず反発したい気性から、彼はむしろその異民族に心ひかれていた。しかし彼はほとんどその民族を知らなかった。彼が多少の交渉をもっていたのは、ユダヤ民族の最も卑俗な成分とばかりだった。すなわち、小さな商人、ライン河と大会堂との間の小路にうようよしてる下層民らで、彼らは皆、あらゆる人間のうちにある羊の群れみたいな本能をもって、一種の小ユダヤ町を建設しつづけていた。クリストフはしばしば、その一郭を歩き回っては、物珍しいまたかなり同情のある眼で、さまざまの型《タイプ》の女を通りがかりにうかがった。彼女らは頬《ほお》がくぼみ、唇《くちびる》と頬骨とがつき出て、ダ・ヴィンチ式のしかも多少卑しい微笑を浮かべ、その粗雑な話し方と激しい笑いとは、穏やかなおりの顔の調和を不幸にも常に破っていた。しかし、その下層民の滓《かす》の中にも、大きな頭をし、ガラスのような眼をし、多くは動物的な顔をし、肥満してずんぐりしてるそれらの者どもの中にも、最も高尚な民族から堕落してきたそれらの末裔《まつえい》の中にも、その臭い汚泥《おでい》の中にさえ、沼沢の上に踊る鬼火のように輝く不思議な燐光《りんこう》が、霊妙な眼つき、燦然《さんぜん》たる知力、水底の泥土《でいど》から発散する微細な電気が、見て取られるのであった。そしてそれはクリストフを幻惑し不安ならしめた。身をもがいてるりっぱな魂が、汚辱から脱しようと努めてる偉大な心が、そこにあるのだと彼は考えた。そして彼は、それらに出会って、それらを助けてやりたかった。よく知りもしないで、また多少恐れながらも、彼はそれらを愛していた。しかしかつて、そのいずれとも親交を結んだことがなかった。ことにユダヤ人仲間の選まれたる人々と接するの機会は、かつて到来したことがなかった。  それで彼にとっては、マンハイム家の晩餐《ばんさん》は、新奇な魅力と禁ぜられた果実の魅力とをそなえていた。その果実を与えてくれるイーヴのせいで、それがいっそう美味になっていた。クリストフはそこにはいって行った瞬間から、ユーディット・マンハイムにばかり見とれていた。彼女は、彼がその時までに知っていたあらゆる女とは、違った種類のものだった。丈夫な骨格にかかわらず多少|痩《や》せ形の高いすらりとした姿、多くはないがしかし房々《ふさふさ》として低く束ねられてる黒髪、それに縁取られてる顔、それに覆《おお》われてる顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》と骨だった金色の額《ひたい》、多少の近視、厚い眼瞼《まぶた》、軽く丸みをもった眼、小鼻の開いたかなり太い鼻、怜悧《れいり》そうにほっそりした頬、重々しい頤《あご》、かなり濃い色艶《いろつや》、そういうものをもってして彼女は、元気なきっぱりした美しい横顔をしていた。正面《まとも》に見れば、その表情は少し曖昧《あいまい》で不定で複雑だった。眼と顔とが不|釣《つ》り合《あ》いだった。彼女のうちには、強健な民族の面影が感ぜられた。そしてこの民族の鋳型《いがた》の中には、あるいはきわめて美しいあるいはきわめて卑俗な無数の不均衡な要素が、雑然と投げ込まれてるのが感ぜられた。彼女の美はとくに、その口と眼とに存していた。口は黙々としており、眼は近視のためにいっそう奥深く見え、青みがかった眼縁のためにいっそう影深く見えていた。  前にいる女の真の魂を、その両眼の潤《うる》んだ熱烈なヴェール越しに読み取り得るには、クリストフはまだ、個人によりもむしろ多く民族に属してるその眼に十分慣れていなかった。その燃えたったしかも陰鬱《いんうつ》な眼の中に彼が見出したものは、イスラエルの民の魂であった。その眼はみずから知らずして、おのれのうちにイスラエルの民の魂をもっていたのである。彼はその中に迷い込んでしまった。彼がこの東方の海上に道を見出し得るようになったのは、ずっと後のことであって、かかる眸《ひとみ》のうちに幾度も道を迷った後にであった。  彼女は彼をながめていた。何物もその視線の清澄さを乱し得るものはなかった。何物もそのキリスト教徒の魂から逃《のが》れ得るものはなさそうだった。彼はそれを感じた。彼はその女らしい眼つきの魅惑の下に、一種の無遠慮な乱暴さでこちらの意中を穿鑿《せんさく》してる、明晰《めいせき》冷静な雄々しい意力を感じた。その乱暴さのうちには、なんらの悪意もなかった。彼女は彼を手中に握っていた。それも、相手構わずにただ誘惑しようとばかりする追従女のやり方でではなかった。追従と言えば、彼女はだれよりも追従的であった。しかし彼女は自分の力を知っていた。その力を働かせることは、自分の自然の本能に任していた――ことに、クリストフのようなたやすい獲物を相手の時にはそうであった。――またいっそう彼女が興味を覚えるのは、自分の敵を知るということだった。(あらゆる男は、あらゆる見知らぬ者は、皆彼女にとっては敵であった――場合によってはあとで同盟の約を結ぶこともあり得る敵であった。)人生は一つの勝負事であって、怜悧《れいり》な者の方が勝ちを占める。要は、自分のカルタ札を見せないで、敵の札を見て取るにあった。それに成功すると、彼女は勝利の快感を味わうのだった。それから利を得るか否かは問題でなかった。慰みのための勝負だった。彼女は知力を非常に好んでいた。しかし、もし気を入るればいかなる学問においても成功するだけの堅固な頭脳を有してるとしても、また、兄よりもすぐれて銀行家ロタール・マンハイムの真の後継者となり得るとしても、抽象的な知力を好んでるのではなかった。生きたる知力の方を、男子にたいして働かし得る知力の方を、彼女は好んでいた。彼女の楽しみとするところは、人の魂を洞察《どうさつ》することであり、その価値を測定することであった。――(この測定に彼女は、マトシスのユダヤの女[#「ユダヤの女」に傍点]が貨幣を測ってるのと、同じくらい細心な注意をこめていた。)――彼女は驚くべき洞察力によって、鎧《よろい》の隙間《すきま》を、魂の秘鑰《ひやく》たる欠点弱点を、たちまちのうちに見出し、秘訣《ひけつ》を握ることを、よく知っていた。これが、他人を征服する彼女の方法であった。しかし彼女は、その勝利に長くかかわってはいなかった。獲物をなんとかしようとはしなかった。好奇心と自負心とが一度満足すれば、彼女はすぐに興味を失って、他のものへと移っていった。そのあらゆる力は、何物をももたらさなかった。かくも生々たるこの魂の中には、死が宿っていた。彼女は自分のうちに、好奇心と倦怠《けんたい》との天才をそなえていた。  かくて彼女は、彼女をながめてるクリストフをながめていた。ほとんど口をきかなかった。口の片隅《かたすみ》にかすかな微笑を見すれば、それでもう十分だった。クリストフは魔睡させられてしまった。その微笑が消えると、彼女の顔は冷静になり、眼は無関心になった。彼女は給仕の方に気を配って、冷やかな調子で召使に言葉をかけた。もう何も聞いていないかのようだった。それから、眼がまた輝いてきた。そして的確な三、四語は、彼女が残らず聞いて理解していることを示した。  彼女はクリストフにたいする兄の批評を、冷静に点検してみた。彼女はフランツが法螺《ほら》吹きなのを知っていた。美貌《びぼう》であり上品であると兄が吹聴《ふいちょう》していたクリストフの現われるのを見た時、彼女の皮肉な心は好機に接した。――(フランツは明瞭《めいりょう》な事実の反対を見るのに特殊な才をもってるかのようだった。もしくは、反対を信じて矛盾の面白みを味わってるようだった。)――しかしながら、なおよくクリストフを研究してみると、フランツの言ったことは嘘《うそ》ばかりでもないということを、彼女は認めた。そして発見の歩を進めるに従って、まだ不定不均衡ではあるがしかし頑健《がんけん》果敢な一つの力を、クリストフのうちに見出した。彼女は力の稀有《けう》なことをだれよりもよく知っていたから、それを喜んだ。彼女はクリストフに口をきかせ、その思想を開き示させ、その精神の範囲と欠点とをみずから示させることができた。また彼にピアノをひかせた。彼女は音楽を好きではなかったが、理解はあった。そしてクリストフの音楽からいかなる種類の情緒をも起こさせられはしなかったけれども、その独創の点を見て取った。そして慇懃《いんぎん》な冷淡さを少しも変えないで、決してお世辞でない簡単正当な二、三の意見を言ったが、それは彼女がクリストフに興味を覚えてることを示すものだった。  クリストフはそれに気づいた。そして得意になった。なぜなら、そういう批判がいかに価値あるかを、また彼女は滅多に賞賛することがないということを、感じたからである。彼は彼女の好意を得たいという欲求を隠さなかった。そしていかにも無邪気にそれをつとめたので、三人の主人らを微笑《ほほえ》ました。もはやユーディットへしか、そしてユーディットのためにしか、彼は口をきかなかった。他の二人へは少しも取り合わないで、あたかもその存在を認めていないかのようだった。  フランツは彼が話してるのをながめていた。感嘆と誇張癖とを交えて唇《くちびる》や眼を動かしながら、その一語一語を跡づけていた。そして父や殊に嘲《あざけ》り気味の目配せをしながら、ふき出し笑いをしていた。が妹は平然として、兄の目配せに気づかないふうを装《よそお》っていた。  ロタール・マンハイム――少し背の曲がった頑丈《がんじょう》な大きな老人、赤い顔色、角刈りにした灰色の髪、ごく黒い口|髭《ひげ》と眉《まゆ》毛、重々しいがしかし元気で嘲弄《ちょうろう》的で、強烈な生活力を思わせる顔つき――彼もまた、狡猾《こうかつ》なお人よしのふうをして、クリストフを研究していた。そして彼もまた、この青年の中に「何か」があることを、ただちに見て取った。しかし彼は、音楽にも音楽家にも興味をもたなかった。それは彼の部門ではなかった。何にもわからなかったし、わからないことを隠しもしなかった。むしろそれを自慢にさえしていた。――(こういう種類の人が無知を表白するのは、それを誇らんがためにである。)――そしてクリストフの方でも、その銀行家なんかが仲間に加わらなくても別に遺憾と思わないことや、ユーディット・マンハイム嬢との会話だけでその招待の一夜には十分であるということを、他に悪意のない無作法な様子で明らさまに見せつけていたので、ロタール老人は面白がって、暖炉の片隅にすわり込んでいた。そして新聞を読みながら、皮肉な耳をぼんやり傾けて、クリストフの訳のわからない言葉とその奇怪な音楽とを聞いていた。そんな音楽を理解して喜びを感ずるような人があるかと思っては、おりおりひそかな笑いをもらしていた。もはや会議の筋道についてゆくだけの労をも取らなかった。新来の客の真価を知ることは、娘の知力に一任していた。彼女は真面目《まじめ》にその役目を果たしていた。  クリストフが帰ってゆくと、ロタールはユーディットに尋ねた。 「やあ、かなり本音を吐かせたようだね。どう思う、あの音楽家を?」  彼女は笑い、ちょっと考え込み、一言にまとめて、言った。 「少し足りないところがあるようですが、でも馬鹿じゃありませんわ。」 「なるほど、」とロタールは言った、「わしもそう思った。で、成功するだろうかね?」 「するでしょうよ、しっかりしてますわ。」 「それは結構だ。」とロタールは、強者にのみ加担する強者のりっぱな理論をもって言った。「では助けてやらなくちゃいけまい。」  クリストフの方では、ユーディット・マンハイムにたいする賛美の念をもち帰った。けれども彼は、ユーディットがみずから思ってるほど心を奪われてはいなかった。二人とも――彼女はその慧敏《けいびん》さによって、彼は知能の代わりとなってる本能によって――等しく相手を見誤っていた。クリストフは、彼女の顔貌《がんぼう》の謎《なぞ》と頭脳生活の強烈さとに蠱惑《こわく》されていた。しかし彼女を愛してはいなかった。彼の眼と理知とはとらえられていたが、彼の心はとらえられていなかった。――なぜか?――それを説明するのはかなり困難に思える。彼女のうちに曖昧《あいまい》な気懸《きがか》りな何かを、認めたからであったろうか? しかしそれは他の場合であったら、彼にとっては、ますます愛するようになるべき一つの理由であるはずだった。恋愛は、苦しい破目に陥ってゆくことを感ずる時、ますます強烈になってゆくものである。――クリストフがユーディットを愛しなかったとしても、それは二人のどちらの罪でもなかった。愛しない真の理由は、二人のいずれにとってもかなり面白からぬことではあるが、彼が最近の恋愛からまだ十分遠ざかっていなかったということである。経験が彼を聡明《そうめい》にならしたのではなかった。しかし彼はアーダを非常に愛し、その情熱のうちに多くの信念や力や幻を浪費したので、今は新しい情熱にたいしてそれらが十分残っていなかった。他の炎が燃えたつ前に、彼は心の中に他の薪を用意しなければいけなかった。まずそれまでは、偶然に燃え出す一時の火、火災の余炎があるばかりで、それはただ輝いた暫時《ざんじ》の光を発しては、そのまま燃料がなくて消えてゆくのだった。六か月も後だったらおそらく、彼は盲目的にユーディットを愛したろう。が今では、彼は彼女のうちに友だち以上の何物をも認めなかった――確かにやや不安な友だちではあったが。――しかし彼はその不安を払いのけようとつとめた。その不安は彼にアーダのことを思い起こさした。それは魅力のない思い出だった。ユーディットに彼がひきつけられたのは、彼女が他の女と異なったものをもってるからであって、他の女と共通なものをもってるからではなかった。彼女は彼が出会った最初の理知的な女であった。彼女は頭から足先まで理知的であった。彼女の容色さえも――その身振り、動作、顔立ち、唇《くちびる》の皺《しわ》、眼、手、上品な痩《や》せ方、――皆理知の反映であった。身体は理知によって形付けられていた。理知がなかったら、彼女は醜いと見えるかもしれなかった。そしてこの理知が、クリストフの心を歓《よろこ》ばせた。彼は彼女を実際以上に広濶《こうかつ》自由であると思った。彼女のうちに案外なものがあるのを知らなかった。彼は彼女に心をうち明け、自分の考えを彼女に分かちたいという、熱烈な欲求を感じた。彼はまだかつて、自分のことを本気に聞いてくれる者を見出さなかった。そして今、一人の女友だちに出会うのはなんたる喜びだったろう! 姉妹がないことは、幼年時代の遺憾の一つだった。姉妹が一人あったら、兄弟よりもずっとよく自分を理解してくれるだろうと、彼には思われた。ユーディットに会った後彼は、親愛なる友情にたいするそのむなしい希望がよみがえってくるのを感じた。彼は恋愛のことは考えなかった。恋していなかったので、恋愛は友情に比べるとつまらないもののように思われた。  ユーディットは間もなく、右の微妙な点を感じた。そしてそれに気を悪くした。彼女はクリストフを恋しはしなかったし、また、町の富裕で上流に位する青年らを幾人も夢中にならしていたので、クリストフが自分を恋してると知っても、おそらく大なる満足は感じなかったであろう。しかし、彼が自分を恋していないと知っては、多少の憤懣《ふんまん》を禁じ得なかった。彼に理性的な影響しか与え得ないのを見るのは、やや屈辱的なことだった。(没理性的な影響は、女の魂にとっては特別な価値をもってるものである。)しかも彼女は、その理性的な影響さえもほんとうに与えてるのではなかった。クリストフは自分の頭でそれを作り出してるのみだった。ユーディットは専横な精神をもっていた。知り合いの青年らのかなり柔軟な思想を、随意に捏《こ》ねかえすことに慣れていた。そしてその青年らを凡庸《ぼんよう》だと判断していたので、彼らを統御するのにあまり多くの喜びを見出さなかった。ところがクリストフに対すると、統御の困難が多いだけに、興味もいっそう多かった。彼の抱負には無関心だったが、しかしその新しい思想を、その乱雑な力を指導して、その価値を発揮させる――もちろん自己流にであって、彼女が別段理解しようとも思わないクリストフ流にではなかったが――価値を発揮させることは、彼女には愉快なことだったに違いない。が彼女はただちに、それは争闘なしにはできないということを見て取った。彼女はクリストフの中にあるあらゆる種類の既成定見を不条理で幼稚だと思われるあらゆる観念を、一々調べ上げた。それらのものは雑草だった。彼女はそれらを引き抜こうと努めた。しかし一つも引き抜けなかった。彼女は自尊心の最も小さな満足をも得ることができなかった。クリストフには手のつけようがなかった。彼は彼女に心を奪われていなかったので、彼女のために自分の思想をまげる理由を少しももたなかった。  彼女は執拗《しつよう》になっていった。そしてしばらくの間、彼を征服しようと試みた。クリストフは当時、精神の明晰《めいせき》さをもってはいたけれど、も少しでふたたび虜《とりこ》になるところだった。人はおのれの高慢心と欲望とに媚《こ》びるものから欺かれやすい。そして芸術家は他の人よりもいっそう多くの想像力をもっているから、さらに二倍も欺かれやすい。クリストフを危険な親昵《しんじつ》に引き込むのは、ユーディットのやり方一つだった。その親昵は彼の精神をも一度うちくじき、おそらくは前回よりもさらに完全にうちくじいたかもしれなかった。しかし例によって彼女はすぐに飽いてきた。彼女はその征服を労に価しないものだと思った。クリストフはすでに彼女を退屈がらせていた。彼女はもはや彼を理解していなかった。  彼女はもはや、ある限界を越えると彼を理解していなかった。その限界以内では、すべてを理解していた。それ以上を理解するには、彼女のりっぱな理知だけではもう足りなかった。心が必要であったろう。もしくは、心がないならば、一時その幻影を与えるところのものが、愛が、必要であったろう。彼女はよく、人物や事物にたいするクリストフの批評を理解した。彼女はそれを面白く思い、かなりほんとうだと思った。自分でもそういう意見をいだかないでもなかった。しかし彼女の理解しなかったことは、それらの思想が彼の実生活上にある影響を有し得る、しかもその適用が危険で邪魔である時にもそうである、ということだった。クリストフが万人にたいしまた万物にたいして取っていた反抗的な態度は、なんらの効果にも達しないものであった。世界を改造するつもりだとは、いかに彼でも想像してはいなかったろう。……では?……いたずらに頭を壁にぶっつけてるばかりではなかったか。知力のすぐれた者は、他人を批判し、ひそかに他人を嘲笑《あざわら》い、多少他人を軽蔑《けいべつ》しはする。しかし彼も、他人と同様なことを行なって、ただ少しよく行なってるのみである。そういうのが、おのれの他人の上に立たせる唯一の方法である。思想は一個の世界であり、行為は別個の世界である。おのれを思想の犠牲となる必要がどこにあろう? 真正に考える、それはむろんのことだ。しかし真正に口をきく、それがなんの役にたとう? 人間はかなり愚かなもので、真実を堪えることができないからといって、彼らに真実を強《し》いる必要があろうか。彼らの弱点を容認し、それに折れ従うようなふうを装《よそお》い、人を軽蔑する自分の心の中でわが身の自由を感ずること、そこにこそひそかな享楽がないであろうか。それは怜悧《れいり》な奴隷《どれい》の享楽だと、言わば言うがいい。しかし世の中では結局奴隷となるのほかはない以上、同じ奴隷となるならば、自分の意志で奴隷となって、滑稽《こっけい》無益な争闘を避けた方がよい。奴隷のうちで最もいけないのは、おのれの思想の奴隷となって、それにすべてをささげることである。自己を妄信《もうしん》してはいけない。――彼女は、クリストフがどうもそう決心しているらしく思われるとおりに実際においても、ドイツ芸術とドイツ精神との偏見にたいして一徹な攻撃的の道を固執するならば、彼はすべての人を敵に回し、保護者をも敵に回すようになるだろうということを、明らかに見て取っていた。彼は必ずや敗亡に終わるに違いなかった。何故に彼が自分自身にたいして奮激し、好んで身を破滅させるような真似《まね》をするかを、彼女は了解できなかった。  彼を理解せんがためには、成功は彼の目的ではなく、彼の目的はその信念であるということをもまた、彼女は理解しなければならなかったろう。彼は芸術を信じ、おのれ[#「おのれ」に傍点]の芸術を信じ、おのれ自身を信じ、しかも、あらゆる利害問題のみならずおのれの生命よりもさらにすぐれた現実に対するように、それを信じていた。彼が彼女の意見に多少いらだって、率直に語気を強めながら右のことを言い出す時、彼女はまず肩をそびやかした。彼女は彼の言葉を真面目《まじめ》に取らなかった。そしてそこに、兄の口から聞き慣れてるのと同じような大言壮語があると思った。彼女の兄は時々、途方もない荘厳な決心を言明しながら、それを実行しないようによく用心していたのである。ところが次に、クリストフがほんとうにそれらの言葉を妄信《もうしん》していることを見て取ると、彼女は彼を狂者だと判断して、もはや、彼に興味を覚えなかった。  それ以来彼女はもはや、彼によく思われるように見せかけようとは努めなかった。ありのままの自分をさらけ出した。そして彼女は、最初の様子にも似ず、またおそらく彼女が自分で思ってるよりも、ずっとドイツ的であり、しかも平凡なドイツ女であった。――イスラエル民族に非難するのに、彼らがいかなる国民にも属さないで、種々の民衆のうちに居を定めても少しもその影響を被《こうむ》らず、特殊な同一性質を有する一民衆を、ヨーロッパにまたがって形成してるということをもってするのは、まさしく不当である。実際、通過する国々の痕跡《こんせき》を、イスラエル民族ほど容易に受けやすい民族は他にない。フランスのイスラエル人とドイツのイスラエル人との間には、多くの共通な性格がありはするけれども、なおいっそう多くの異なった性格がある。それは彼らの新しい祖国に起因するのである。彼らは驚くほど速やかに、新しい祖国の精神的習慣を、実を言えば精神よりも多くその習慣を、取り入れてしまう。ところが習慣というものは、あらゆる人間にあっては第二の性質であるが、大多数の人間にあっては唯一無二の性質となるから、その結果、一つの国に土着せる公民の多数が、深い正当な国民的精神をみずからは少しももたないでいて、イスラエル人にそれが欠けていると非難するのは、きわめて不都合なことと言わなければならない。  女は常に、外的影響に、より敏感であり、生活条件に順応しそれに従って変化するのが、より迅速《じんそく》ではあるが――イスラエルの女は、全ヨーロッパを通じて、住んでる国土の肉体的および精神的の風潮を、しばしば大袈裟《おおげさ》に採用するが――それでもなお、民族固有の面影を、その濁った重々しい執拗《しつよう》な風味を、失うものではない。クリストフはそれに驚かされた。彼はマンハイム家で、ユーディットの伯母《おば》たちや従姉妹《いとこ》たちや友だちらに出会った。彼女らのうちのある顔は、鼻に近い鋭い眼や、口に近い鼻や、きつい顔立ちや、褐《かっ》色の厚い皮膚の下の赤い血などをもってして、いかにもドイツ離れがしていて、いかにもドイツの女らしくは見えないようにできていたけれど――しかし彼女らは皆、奇体にドイツ婦人となっていた。話し振りから着物の着方までそっくりで、時としてはあまり似通いすぎていた。ユーディットはだれよりもまさっていた。そして他の女たちと比較してみると、彼女の理知のうちには特殊な点が見え、彼女の一身のうちには人工になった点が見えていた。それでも彼女はやはり、他の女たちの欠点の多くをそなえていた。精神的にははるかに自由――ほとんど絶対に自由――であったが、社会的には、より自由ではなかった。もしくは少なくとも、社会的の問題になると、彼女の実利的観念がその自由な理性と交替するのだった。彼女は世間や階級や偏見に結局は自分の利益を見出したので、それらを信じていた。いかにドイツ精神を嘲《あざけ》っても、やはりドイツの風潮に執着していた。著名な某芸術家の凡庸《ぼんよう》さを賢くも感ずるとしても、なお彼を尊敬しないではおかなかった。なぜなら彼は著名であったから。そしてもし個人的に彼と交際がある場合には、彼を賞賛するのだった。なぜならそれは彼女の虚栄心を喜ばせることだったから。彼女はブラームスの作品をあまり好まなかった。そしてひそかに、第二流の作家ではないかと疑っていた。しかし彼の光栄に彼女は威圧された。そして彼から五、六通の書信をもらったことがあるので、その結果彼女にとっては、彼は明らかに当時の最も偉大な音楽家だということになった。彼女はクリストフの真価については、またデトレフ・フォン・フライシェル首席中尉の愚劣さについては、なんらの疑いをもいだいてはいなかった。しかしクリストフの友情よりも、フライシェルが彼女の巨万の富にたいしてなしてくれる追従の方を、いっそう歓《よろこ》んでいた。なぜなら、馬鹿な将校もやはり自分と別な一階級の一人であったから。そしてこの階級にはいることは、ドイツのユダヤ婦人にとっては他の婦人よりもいっそう困難なことだった。彼女は愚かな封建的思想に欺かれてはしなかったけれど、また、もしデトレフ・フォン・フライシェル首席中尉と結婚するとしたら、かえって向こうに大なる光栄を与えてやることになるのだとよく承知してはいたけれど、それでもなお彼を征服しようと努めていた。彼女はその馬鹿者にやさしい目つきを見せながら、また自分の自尊心に媚《こ》びながら、みずから身を卑しくしていた。傲慢《ごうまん》でありまた種々の理由から傲慢であり得るこのユダヤ女、銀行家マンハイムの、知力すぐれ人を軽蔑《けいべつ》しがちなこの娘は、身を堕《おと》したがっていたし、自分が軽蔑《けいべつ》してるドイツの小中流婦人らのいずれもと、同じようなことをしたがっていた。  経験は短かかった。クリストフはユーディットに幻をかけたのとほとんど同じくらいに早く、その幻を失ってしまった。それにはユーディットの方でも、彼に幻を持続させるための労を少しも取らなかった、ということを認めなければならない。かかる気質の女が、相手を判断し相手から離れてしまうと、もはやその日から彼女にとっては、その相手の男は存在しないも同じである。彼女はもはやその相手を眼に留めない。そして自分の犬や猫《ねこ》の前で赤裸になるのをはばからないと同じように、その相手の前で平然たる厚かましさをもっておのれの魂を赤裸にしてはばからない。クリストフはユーディットの利己心を、その冷血を、その凡庸な性格を、見て取った。彼はすっかり虜《とりこ》になってしまう隙《ひま》がなかった。それでも、彼を苦しめるには、彼に一種の苦熱を与えるには、それでもう十分だった。彼はユーディットを愛しないで、こうであり得るかもしれないという彼女を――こうであるに違いないという彼女を、愛していた。彼女の美しい眼は、悩ましい幻惑を彼に及ぼしていた。彼はその眼を忘れることができなかった。その奥底に眠ってる沈鬱《ちんうつ》な魂を今や知りながらも、彼はなお見たいと思うとおりに、最初見たとおりに、その眼を見つづけていた。それは、恋なき恋の幻覚の一つであった。そういう幻覚は、作品にまったく没頭してはいないおりの芸術家らの心の中で、大なる地位を占むるものである。通りすがりの一つの顔も、彼らにこの幻覚を与えるに足りる。彼らはその女のうちに、彼女のうちにあって彼女みずから知りもせず気にもかけていないあらゆる美を、見て取るのである。そして彼女がその美を念頭においていないことを知っては、彼らはなおいっそうそれを愛する。だれにも価値を知られずに、そのまま死んでゆこうとしてる美しいもののように、彼らはそれに愛着する。  おそらくクリストフは誤っていたろう。ユーディット・マンハイムは、実際の彼女より以上のものではあり得なかったろう。しかしクリストフは、しばらく彼女に望みをかけていた。そして魅力はつづいた。彼は彼女を公平に判断することはできなかった。彼女の有する美点はすべて、彼女にのみ属するもののように、彼女の全体であるように、彼には思われた。彼女の有する卑俗な点はすべて、彼女のユダヤとドイツとの二重な民族に、彼は帰せしめていた。そしておそらく彼は、ユダヤ民族よりもドイツ民族の方にいっそう多く、その恨みをいだいていたに違いない。なぜならドイツ民族にたいしていっそう多くそれを苦しまねばならなかったから。彼はまだ他のいかなる国民をも知らなかったので、ドイツ精神は彼にとって一種の替罪羊《みがわりひつじ》であった。彼はそれに世界のあらゆる罪を負わしていた。ユーディットが彼に与えた失望の念は、彼にとっては、ますますドイツ精神を攻撃する理由となった。かかるりっぱな魂の自由な勢いをくじいたことを、彼はドイツ精神に許せなかった。  そういうのが、イスラエル民族と彼との最初の邂逅《かいこう》であった。他の民族と乖離《かいり》してるこの強健な民族のうちに、彼はおのれの戦いの味方を見出し得ることと思っていた。ところがその望みを彼は失った。この民族は人から聞いたところよりずっと弱いものであり、外部の影響にずっと染《し》みやすい――あまりに染みやすい――ものであるということを、いつも極端から極端へ彼を走らせる熱烈な直覚力の変易性によって、すぐに思い込んでしまった。この民族は本来の弱さと、その途上に積もっていた世界のあらゆる弱さとを、皆になっているのだった。クリストフがおのれの芸術の槓桿《こうかん》をすえるべき支点を見出し得るのは、まだここでではなかった。否彼はこの民族とともに、砂漠《さばく》の砂の中に埋没しかかったのである。  彼はその危険を見て取り、またその危険を冒すだけの自信を感じなかったので、マンハイム家を訪れるのをにわかにやめた。幾度も招かれたが、理由も述べずに断わった。彼はその時までいつも熱心に来たがってばかりいたので、かく急激な変化は人目についた。人々はそれを彼の「風変わりな性質」のゆえだとした。しかしマンハイム家の三人は一人として、ユーディットの美しい眼がそれに関係あることを疑わなかった。そしてこのことは、食卓でロタールとフランツとの揶揄《からかい》の種となった。ユーディットは肩をそびやかしながら、見事な征服でしょうと言った。そして冷やかに兄へ向かって、「冗談もいい加減にしてください」と頼んだ。しかし彼女はクリストフがまたやって来るようにと種々仕向けた。だれに聞いてもわからないある音楽上の質疑を解いてくれという口実で、彼に手紙を書いた。そして手紙の終わりに、彼があまりやって来ないことや彼に会うのを楽しみとしてることなどを、親しげにそれとなく匂《にお》わした。クリストフは返事を書き、質疑に答え、多忙なことを告げ、そして姿を見せなかった。二人は時々芝居で出会うことがあった。クリストフは執拗《しつよう》に、マンハイム家の桟敷《さじき》から眼をそらした。そして最もあでやかな笑顔を彼に見せようとしてるユーディットに、気づかないふうを装《よそお》った。彼女は固執しなかった。そして彼に愛着してはいなかったので、この少壮芸術家からまったく無駄《むだ》な骨折りをさせられたことを、不都合だと考えた。彼はまた来たくなったら来るだろう。来たくなかったら――なあに、そんな者は来なくても構わない……。  彼が来なくてもよかった。実際彼がいなくても、マンハイム家の夜会には大きな穴があかなかった。しかしユーディットは、心にもなくクリストフに恨みをいだいた。彼がそばにいる時には、彼女は彼を気にかけなくてもそれを当然だと思っていた。そして彼がそれを不快に思ってる様子を示しても、許してやっていた。しかしその不快の念があらゆる関係を破るまでに進んだことは、馬鹿げた傲慢《ごうまん》心と恋心よりもいっそう利己的な心とのゆえだと、彼女には思われた。――ユーディットは自分と同じ欠点を他人がもっている場合には、その欠点を許容しなかった。  それでも彼女は、クリストフがなすことや書くものをいっそうの注意で見守《みまも》った。様子にはそれと見せずに、好んで兄にその話をさした。クリストフとともに過ごした一日じゅうの会話を、兄に語らした。その話の合い間に、皮肉な意見をはさんで、一つの滑稽《こっけい》な点をも容赦せずに取り上げ、かくて次第に、クリストフにたいするフランツの感激をさましていった。フランツはそれに気づかなかった。  最初の間、雑誌では万事うまくいった。クリストフはまだ、同人らの凡庸さを洞見《どうけん》していなかった。そして彼らの方は、クリストフが仲間であるから、その天才を認めていた。彼を見出したマンハイムは、彼の書いたものを何一つ読んだこともないのに、どこへ行っても、クリストフは立派な批評家で、これまではおのれの天職を思い誤っていたが、自分マンハイムが彼に真の天職を示してやったのだと、いつもくり返し吹聴《ふいちょう》した。一同は彼の書く物を、好奇心をそそるような奇体な言葉で予告した。そして彼の最初の論説は実際、この小さな町の無気力な雰囲気《ふんいき》の中では、家鴨《あひる》の沼の中に落ちた一個の石のごときものだった。それは音楽の過剰[#「音楽の過剰」に傍点]と題されていた。 「音楽が多すぎる、飲み物が多すぎる、食べ物が多すぎる!」とクリストフは書いていた。「人は腹もすかず、喉《のど》もかわかず、必要も感ぜずに、ただ貪婪《どんらん》な習慣から、食ったり飲んだり聞いたりしている。そういうのが、ストラスブルグの馬鹿な摂生法だ。この人民らは貪食《どんしょく》症にかかっている。与えられるものならなんでも構わない。トリスタン[#「トリスタン」に傍点]でもゼッキンゲンのラッパ手[#「ゼッキンゲンのラッパ手」に傍点]でも、ベートーヴェンでもマスカーニでも、遁走《とんそう》曲でも、速歩舞踏曲でも、また、アダム、バッハ、プッチーニ、モーツァルト、マルシュネル、なんでも構わない。彼らは何を食ってるのか自分でも知らない。大事なのはただ食うということだ。そして食うことにも、もはや楽しみを覚えなくなっている。音楽会での彼らを見るがいい。ドイツの快活と世に言われているが、彼らは快活のなんたるやをも知らないのだ。彼らは常に快活にしてる。彼らの快活は、彼らの悲哀と同じく、雨のように広がっている。それは塵埃《じんあい》の喜びであり、弛緩《しかん》しきって無力である。彼らはぼんやり微笑《ほほえ》みながら、音響に音響に音響を聞きふけって、幾時間もじっとしている。何にも考えてはいない。何にも感じてはいない。まるで海綿だ。しかし、真の喜びや真の悲しみ――力――は、一|樽《たる》のビールのように、幾時間にも分け広げられるものではない。それは人の喉《のど》元をとらえ、人を打ち倒す。そのあとではもはや、なお何かを飲み下したい欲求は感ぜられない。それだけで十分なのだ!…… 「音楽が多すぎる! 諸君はみずから身を殺し、また音楽を殺している。みずから身を殺すのは、それは諸君の勝手である。しかし音楽については――いい加減によしてもらいたい。神聖なものと醜劣なものとを同じ籠《かご》の中に投じながら、すなわち諸君がいつもなしてるように、連隊の娘[#「連隊の娘」に傍点]を材料にした幻想曲《ファンタジア》とサキソフォーンの四重奏曲《カルテット》との間にパルシファル[#「パルシファル」に傍点]の前奏曲をはさみ、あるいは黒人舞踏《クークウォーク》の一節《ひとふし》とレオンカヴァロの愚作とをベートーヴェンのアダジオの両側に並べたりして、世にある美しいものを汚すのは、許しがたいことだ。諸君は音楽的の大国民だと誇っている。諸君は音楽を愛すると自称している。だがいったい、どういう音楽を愛するのか! よい音楽をなのか、または悪い音楽をなのか? 諸君は皆一様にそれらを喝采《かっさい》するではないか。とにかく選択してみたまえ! ほんとうに諸君が欲するのはなんだ? それを諸君はみずから知っていない。知ろうとも思ってはいない。一方を選ぶことを、誤りをしやすまいかを、あまりに恐れているのだ。……そんな用心なんか、悪魔にでもいっちまえだ!――俺《おれ》は各派を超越してる、と諸君は言うだろう。――超越、それは以下という意味だ……。」  そしてクリストフはチューリッヒの剛健な市民ゴットフリート・ケルレル老人――峻厳《しゅんげん》な誠実さと郷土的な強い風味とによって彼には最もなつかしい作家の一人――の詩句を引用していた。 [#ここから3字下げ] 流派を超越せりと好みて傲岸《ごうがん》を装《よそお》う者、 寧《むし》ろ遙《はる》か下位に属する者なるべし。 [#ここで字下げ終わり] 「真実たるの勇気をもちたまえ。」と彼はつづけていた。「醜きままたるの勇気をもちたまえ。もし諸君が悪い音楽を好むならば、それときっぱり言うがいい。ありのままのおのれを示すがいい。あらゆる曖昧《あいまい》さの嫌悪《けんお》すべき粉飾を、魂から洗い落すがいい。満々たる水で魂から洗うがいい。どれくらい長い間、諸君は自分の顔を鏡に映して見たことがないというのか? これから僕がそれを見せてやろう。作曲家、演奏家、管絃楽長、歌手、それから汝《なんじ》親愛なる聴衆、君らに一度は自己の姿を知らしてやろう。……君らはなんであろうと勝手だ。しかしぜひとも真実でありたまえ! たとい芸術家らがまた芸術が、それを苦しむようになろうとも、真実でありたまえ! もし芸術と真実とがいっしょに生き得ないならば、芸術は死滅するがいい。真実、それが生命だ。死、それは虚偽だ。」  年少気鋭で過激でかなり悪趣味なこの宣言は、もとより読者を絶叫せしめた。けれども、万人がその目標とされていながら、だれ一人として明らかに名ざされていはしなかったので、自分のことだと見なすものはなかった。各人が真実の最良の友であり、そう信じており、あるいはそう考えていた。それでこの論説の結論は、だれからも攻撃されるの恐れがなかった。人々はただ全体の調子を不快に思った。そしてそれがあまり妥当なものではなく、ことに半官的な芸術家の言としてはそうであるというのが、一般の意見であった。数人の音楽家らは活動しだして、鋭い反抗の態度を取った。彼らはクリストフがそのままでとどまりはすまいと予見していた。またある音楽家らは巧みな態度を取るつもりで、クリストフにその勇敢な行ないを称揚した。でも彼らはやはり、次回の論説には不安をいだいていた。  そういう二様の策略は、共に同じ結果をしか得なかった。クリストフはもう飛び出していた。何物も彼を引止めることができなかった。そして彼があらかじめ言ったとおりに、作者も演奏者も皆引き出された。  まっ先に血祭に上げられたのは音楽長らであった。管弦楽統率術にたいする一般の意見を、クリストフは少しも眼中におかなかった。彼はその町の同僚や近隣の町の同僚を、一々それと名ざした。名ざさない場合には、だれにも一見して明らかであるような諷刺《ふうし》を用いた。宮廷管絃楽長アロイス・フォン・ヴェルネルの無気力さが述べられていることは、だれにでもわかった。これは種々の名誉な肩書をになってる用心深い老人で、万事を気づかい、万事を慎み、部下の音楽家らに一言の注意を与えるのも恐れて、彼らのなすままを従順にながめ、また演奏の番組のうちには、幾年もの引きつづいた成功によって箔《はく》をつけられたものか、あるいは少なくとも、何か官僚的権威の公然の印をおされたものかでなければ、何一つ思い切って加えることもできなかった。クリストフは反語的に、彼の大胆なやり方を称賛した。ガーデやドヴォルザークやチャイコフスキーを見出したのを祝した。彼の指揮する管絃楽の、確固たる正確さ、メトロノーム的な均斉《きんせい》さ、常に美妙な色合いを失わない演奏法を、激称した。次の音楽会には、チェルニーの急速なる練習曲[#「急速なる練習曲」に傍点]を演奏するがいいと提議した。そして、あまり身体を疲らせないように、あまり憤激しないように、貴重な健康をいたわるようにと頼んだ。――あるいはまた、彼がベートーヴェンのエロイカ[#「エロイカ」に傍点]を指揮した方法にたいし、憤怒《ふんぬ》の叫びをあげた。「大砲だ、大砲だ! こういう奴らを掃蕩《そうとう》してくれ!……君らはいったい、戦いとはいかなるものであるか、人間の愚昧《ぐまい》と獰猛《どうもう》とにたいする争闘とはいかなるものであるか――歓喜の笑いを浮かべてそれらを蹂躙《じゅうりん》する力とはいかなるものであるか、それを少しも知らないのだ……。それがどうして諸君にわかろう? 力が戦うのは諸君にたいしてである! ベートーヴェンのエロイカ[#「エロイカ」に傍点]を聞いたり演奏したりしながら、欠伸《あくび》を我慢することに――(なぜならこの曲は諸君を退屈がらせるからだ。……退屈だと、退屈でたまらないと、告白したまえ!)――あるいは、貴顕な人々の通過のさいに、帽をぬぎ背をかがめて風を物ともしないことに、諸君はおのれのうちの勇壮をことごとく浪費してるのだ。」  過去の偉人らの作を「古典《クラシック》」として演奏してる音楽学校の重鎮らにたいしては、彼はいかに譏刺《きし》を事としてもまだ足りなかった。 「古典《クラシック》! この言葉にはあらゆるものが含まっている。自由な情熱が、学校で使えるように整理し加減されてるのだ! 風に吹かれてる広野たる人生が、運動場の四壁のうちに閉じこめられてるのだ! 戦《おのの》く心の粗野な誇らかな律動《リズム》も、高拍子の撞木杖《しゅもくづえ》によりかかり跛を引きながら、お人よしのくだらぬ道を安心して進んでゆく、四拍子一節の時計の音になされてるのだ!……大洋を享楽せんがためには、諸君はそれを金魚といっしょにガラス瓶《びん》の中に入れたがるに違いない。諸君は人生を殺してしまった時に、初めて人生を解するのだ。」  クリストフは、彼が「剥製《はくせい》者」と名づけた人々にたいして温和ではなかったが、「曲馬師」ら、腕の丸みと粉飾した手とを称賛さしに押し出してくる名高い音楽長らにたいしても、やはり温和ではなかった。彼らは、大楽匠を踏み台にしておのれの腕前を揮《ふる》い、広く世に知られてる作品を形《かた》なしにしようとつとめ、ハ短調交響曲[#「ハ短調交響曲」に傍点]の箍《たが》の飛びぬけをやってるのだった。クリストフは彼らを、めかし婆《ばば》、ジプシー、綱渡り、などと呼んでいた。  妙技を有する音楽家らが、豊富な材料を供給してくれた。彼は彼らの奇術的興行を批判することを回避した。彼の言葉に従えば、そういう機械仕掛《からくり》の技芸は、工芸学校に属する手法であって、それらの仕事の価値を評価し得るものは、時間と音数と消費された精力とを記載する図表ばかりであった。時とすると、二時間もの音楽会で、唇《くちびる》に微笑を浮かべ、眼を輝かして、最もひどい困難に――モーツァルトの幼稚なアンダンテ[#「アンダンテ」に傍点]をひくという困難に、首尾よく打ち勝った高名なピアノの名手を、彼は蔑視《べっし》することもあった。――もとより、彼は困難に打ち克《か》つの快楽を否認するものではなかった。彼もまたその快楽を味わったことがあった。それは彼にとって生の歓びの一つであった。しかしながら、その最も物質的な方面のみ見て、芸術上の勇壮心をことごとくそこに限ってしまうことは、彼には滑稽《こっけい》な堕落的なことに思われた。彼は「ピアノの獅子《しし》」や「ピアノの豹《ひょう》」を許容することができなかった。――また彼は、ドイツで名高いりっぱな衒学《げんがく》者にたいしても、あまり寛大ではなかった。彼らは、楽匠らの原作の調子を少しも変えまいと正当に注意し、思想の余勢を細心に抑圧し、あたかもハンス・フォン・ブューロウのように、熱烈な奏鳴曲《ソナタ》を演ずる時にも、語法の教えでも授けてるような調子であった。  歌手らの順番もまわってきた。彼らの粗野な重々しさと田舎《いなか》風の強い語勢について、クリストフはたくさん言うべきことをもっていた。新しい女たる女歌手との最近の葛藤《かっとう》が頭にあるからばかりではなく、自分にとって苦痛だった多くの公演にたいする怨恨《えんこん》があった。そこでは耳と眼とどちらが多く苦しめられるのかわからなかった。醜い舞台装置や不体裁な衣装やけばけばしい色彩などを批評するのに、クリストフは比較の言葉も十分に見出しかねた。人物や身振りや態度の卑俗さ、不自然きわまる演技、他人の魂を装《よそお》うことにおける俳優らの無能さ、やや同じような声の調子で書かれてさえいれば、一つの役から他の役へと彼らが移ってゆく驚くべき無関心さ、それらのことに彼は胸を悪くした。肥満しきった快活|豪奢《ごうしゃ》な婦人らが、代わる代わるイソルデやカルメンに扮装《ふんそう》して現われた。アンフォルタスがフィガロを演じた。しかしクリストフがおのずから最もよく感じたことは、歌の醜いことであって、ことに、旋律の美が本質的要素たる古典的作品における、歌の醜いことであった。もはやドイツではだれも、十八世紀末の完全な音楽を歌うことができなかった。歌おうとつとめる者がなかった。ゲーテの文体のようにイタリー的な光明に浴してるごとく思われる、グルックやモーツァルトの明確素粋な様式――すでに変化し始め、ウェーバーとともに震え揺めき始めた、その様式――クロシアト[#「クロシアト」に傍点]の作者の鈍重な漫画によって滑稽《こっけい》化された、その様式――それはワグナーの勝利によって滅ぼされてしまっていた。鋭い叫びを上げるワルプルギスの荒々しい羽音は、ギリシャの空を覆《おお》うていた。オディンの密雲は光を消滅さしていた。今はもはやだれも、音楽を歌おうと思う者がなかった。人は詩を歌っていた。細部の閑却や醜いものや誤れる音さえも、大目に見のがされていた、ただ作品全体のみが、思想のみが、重要であるという口実のもとに……。 「思想! それについて一言してみよう。なるほど諸君は思想を理解するような顔つきをしている。……しかしながら、諸君が思想を解しようと解すまいと、どうか、その思想が選んだ形式を尊敬してもらいたい。何よりもまず、音楽は音楽であってほしい、音楽のままであってほしい。」  その上、ドイツの芸術家らが表現と深い思想とにたいして払ったと自称する、この大なる注意は、クリストフの意見によれば、おかしな冗談にすぎなかった。表現だと? 思想だと? そうだ、彼らはそれを至る所に――至る所一様に配置していた。毛織の舞踏靴《ぶとうぐつ》の中にも、ミケランジェロの彫刻の中にと同じく――多くも少なくもなく同等に――思想を見出すのであった。だれの作をも、いかなる作をも、同じ力で演奏していた。要するに、多数の人々の考えでは、音楽の本質は――とクリストフは断言した――音量であり音楽的騒音であった。ドイツでかくも強く感ぜられてる歌唱の快楽は、声音的体操の愉悦にすぎなかった。空気で胸をふくらまし、それを元気に力強く長く調子をつけて吹き出すことが、その主眼であった。――そしてクリストフは、賛辞の代わりに健康の保証を、あるすぐれた女歌手にささげた。  クリストフは芸術家らを非難するばかりでは満足しなかった。彼は舞台から飛び出して、呆然《ぼうぜん》と口を開きながらそれらの演奏に臨んでる聴衆をもなぐりつけた。聴衆は惘然《ぼうぜん》として、笑っていいか怒っていいかもわからなかった。彼らはその非道な仕打ちにたいして怒号してもよかった。元来彼らは芸術上の戦いにはいっさい加わるまいと注意していた。あらゆる紛議の外に用心深く身を置いていた。そして間違いをしやすまいかと気づかって、すべてのものを喝采《かっさい》していた。ところが今クリストフは、彼らの喝采《かっさい》を罪悪だとした。……悪作を喝采するというのか! それだけでもたまらないことだ! がクリストフはなお極端に奔《はし》った。彼が彼らに最も非難したのは、偉大な作品を喝采することであった。 「道化者めが、」と彼は彼らに言った、「諸君はそんなに多くの感激を持ち合わしてると人から思われたいのか。……ところが、諸君はちょうど反対のことを証明してるのだ。喝采したいなら、喝采に相当する作品か楽節かを喝采したまえ。モーツァルトが言ったように、『長い耳のために』作られた騒々しい結末を、喝采したまえ。そこでは有頂天に拍手したまえ。驢馬《ろば》の鳴き声が初めから予想されてるんだ。それが音楽会の一部となっているんだ。――しかしながら、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲[#「荘厳ミサ曲」に傍点]のあとには!……不幸なるかなだ!……これは最後の審判である。あたかも大洋上の暴風のように、狂いだつ栄光《グロリア》が展開するのを、諸君は見たのだ。強力|暴戻《ぼうれい》なる意力の竜巻《たつまき》が過ぎるのを、諸君は見たのだ。それは進行を止めて雲につかまりながら、両の拳《こぶし》で深淵《しんえん》の上方にしがみつき、そしてまた全速力で空間中に突進する。※[#「風にょう+炎」、第4水準2-92-35]風《ひょうふう》は怒号する。その暴風の最も強烈な最中に、にわかの転調が、音の反射が、空の暗黒をうがって、蒼白《そうはく》な海の上に、光の延板のように落ちてくる。それが終わりである。殺戮《さつりく》の天使の猛然たる飛翔《ひしょう》は、三度の稲妻に翼を縛られて、ぴたりと止まる。周囲ではまだすべてが戦《おのの》いている。酔える眼は眩《くら》んでいる。心臓は鼓動し、呼吸は止まり、四|肢《し》は痲痺《まひ》している……。そして最後の音が響き終わらないうちに、諸君はすでに快活に愉快になり、叫び、笑い、批評し、喝采する。……実に諸君は、何も見ず、何も聞かず、何も感ぜず、何も理解しなかったのだ、絶対に何物も! 芸術家の苦悩も、諸君にとっては一場の見物となるのだ。一ベートーヴェンの苦悶《くもん》の涙を、諸君はみごとに描かれてると判断する。諸君は主の磔刑《はりつけけい》にたいして『も一度!』と叫ぶかもしれない。諸君の好奇心を一時間の間楽しませるためには、偉大なる魂が一生の間苦悶のうちにもがくのだ!……」  かくてクリストフは、ゲーテの偉大な言葉を、まだその尊大なる清朗さには到達していなかったけれども、みずから知らずして注釈したのであった。 [#ここから3字下げ] 民衆は崇高なるものをもてあそぶ。されどもしその真相を知らば、あえてながめ得るの力を有せざるべし。 [#ここで字下げ終わり]  クリストフはそこで止まればよかった。――しかし彼は勢いに駆られて、聴衆を通り越し、あたかも砲弾のように、聖堂の中に、神殿の中に、凡庸《ぼんよう》者の犯すべからざる避難所の中に――批評界に、落ち込んでいった。彼は同輩らを砲撃した。彼らのうちの一人は、現存の作曲家中最も天分に富んだ者、新進派の最も進んだ代表者、すなわち、実を言えばかなり奇怪ではあるがしかし天才の閃《ひらめ》きに満ちた標題|交響曲《シンフォニー》の作者ハスレルを、あえて攻撃していた。子供のおりハスレルに紹介されたことのあるクリストフは、その昔受けた感激の感謝として、いつも彼にひそかな愛情をいだいていた。ところが今、明らかに無知な馬鹿批評家が、かかる人にたいして訓言を与え、秩序と規範との警告をなすのを見ると、彼は我れを忘れて憤った。 「秩序だと! 秩序だと!」と彼は叫んだ、「君らは警察の秩序よりほかに秩序を知らないんだ。天才は踏み固められた道を進むものではない。天才は秩序を創《つく》り出し、おのれの意志を規範にまで高めるのだ。」  こういう傲慢《ごうまん》な宣言の後に、クリストフはその不運な批評家をとらえて、彼が近ごろ書いた愚劣な事柄をことごとく取り上げ、厳格な是正を施してやった。  批評界全部が侮辱を感じた。それまで批評界は戦いから遠ざかっていた。彼らは側杖《そばづえ》を食うようなことをしたくなかった。彼らはクリストフの人物を知っていた。彼の能力や彼の短気なことを知っていた。それでただ数人の者が、彼のように天分のある作曲家が天職でもない方面に迷い込むのは遺憾だという旨を、控え目に発表したにすぎなかった。いかなる意見をいだいていたにせよ(彼らが一つの意見をもったとして、)彼らはクリストフにも、自分を批評されることなしにすべてを批評し得るという批評家の特権を、尊重していたのである。しかしクリストフが、批評家をつないでいる暗黙の因襲を乱暴にも破るのを見た時、彼らはただちにクリストフをもって、一般秩序の敵であると見なした。一青年が国民的光栄をになってる人々にたいしてあえて敬意を失することは、だれにも皆いまいましいことに思われた。そして彼らはクリストフにたいして、猛烈な戦いを始めた。それは長い論説や引きつづいた論争ではなかった。――(自分より武装の優《まさ》ってる敵にたいすると、彼らはみずから進んでそういう陣地で戦おうとはしない。新聞記者というものは、敵の理論を眼中に置かずにまたそれを読みもしないで、議論を戦わし得るという特殊な才能をもってるものではあるが。)――彼らは長い経験から教えられていた、一新聞の読者は常にその新聞と同意見であるから、論争するようなふうを見せることだけでも、すでに読者の信用を弱めることになると。それゆえ断定しなければならなかった、あるいはさらに上策としては、否定しなければならなかった。(否定は断定の二倍の力をもっている。それは重力の法則の直接的結果である。石を空中に投げ上げるよりも、それを落下させる方がはるかに容易である。)で彼らは好んで、不誠実な皮肉な侮辱的な小文の方法に頼って、それを毎日|倦《う》むことなき執拗《しつよう》さをもって、適当な場所にくり返し掲載した。いつもそれと名ざされてはいなかったが、しかし明らかにわかるようなやり方で、横柄《おうへい》なクリストフが嘲笑《ちょうしよう》されていた。クリストフの言は変化されて、馬鹿げたものになされていた。報ぜられてるクリストフの逸話は、時とすると端緒だけがほんとうのこともあったが、しかしその他はすべてこしらえ物で、全市の人々との間を不和になすために、またさらに宮廷との間を不和になすために、巧みに細工されたものであった。また人身攻撃にまでわたって、彼の顔立ちや服装《みなり》などが悪口され、その漫画が一つ作られていたが、幾度もくり返し掲載されたために、ついには彼に似てると一般に思われるようになった。  それらのことはクリストフの友人らにとっては、もし彼らの雑誌が戦いの飛沫《ひまつ》を受けさえしなかったならば、別になんでもないことだったろう。実際のところ、それは雑誌の広告だった。同人らは雑誌を争論の渦中《かちゅう》に投げ出そうとはせずに、むしろ雑誌をクリストフから引き離そうと思った。彼らは雑誌の評判が傷つけられるのに驚いた。そしてもし注意しなければ、少なくとも編集の方において、遺憾ながら同等の責任を帯ぶるの余儀なきにいたるだろうということが、次第にわかってきた。アドルフ・マイとマンハイムにたいするまだかなり手緩《てぬる》い攻撃が始められただけで、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。マンハイムは面白がった。このことは、父や叔父《おじ》たちや従兄弟《いとこ》たちや数多《あまた》の親戚《しんせき》など、彼がなすことをすべて監視しそれをいまいましく思うのを自分の権利だとしてる連中を、たぶんは立腹させるかもしれないと思った。しかしアドルフ・マイは本気に考えて、雑誌の評判を悪くすることをクリストフに非難した。クリストフは手きびしく撃退した。他の同人らは、害を被らなかったので、いつも皆にたいして首領らしい振舞いをしていたマイが皆の代わりに一本やられたことを、かえっておかしがった。ワルトハウスはひそかに愉快がった。喧嘩《けんか》があればかならず頭を割られる者も出て来る、と彼は言った。もとよりそれは自分の頭を除外した意味でだった。家柄から言っても交友から言っても、自分は打撃を受けないですむと思っていた。そして同人のユダヤ人らが多少いじめられても、別に不都合はないと考えていた。エーレンフェルトとゴールデンリンクとは、まだ害は被らなかったが、多少の攻撃に狼狽《ろうばい》するような者ではなかった。彼らは答え返すことができるのだった。彼らにとってそれよりはるかに手痛いことは、クリストフが頑固《がんこ》に議論をつづけるために、友人らことに女の友人らとの仲が、妙に不和になることであった。彼らは最初の論説を見ると、ごく愉快になって面白い狂言だと思った。クリストフの破竹の勢いを感嘆した。そしてただ一言忠告さえすれば、彼の争闘的な熱気を和らげることができ、あるいは少なくとも、自分らが名ざす男や女からは彼の攻撃を転ぜしむることができると思い込んでいた。――ところがそうはいかない。クリストフは何物にも耳を貸さなかった。なんらの勧告をも顧慮しなかった。そして猛《たけ》り狂ったように攻撃をつづけた。もしそのまま放《ほう》っておいたら、もはやこの地方では生き得られなくなるかもしれなかった。すでに彼らのかわいい女の友だちらは、涙を流して口惜《くや》しがりながら、雑誌社へやって来て苦情をもち込んだ。彼らはあらゆる手段をつくして、クリストフにせめてある批評だけなりと和らげさせようとした。しかしクリストフは少しも調子を変えなかった。彼らは憤った。クリストフも憤った。しかし彼は少しもあらためなかった。ワルトハウスは、自分になんら影響のない友人らの憤激を面白がり、彼らをますます怒らせるためにクリストフの味方をした。万人に向かって頭からぶつかってゆき、なんら退却の道を講ぜず、未来のために隠《かく》れ家《が》を取っておこうとしない、クリストフの勇敢な無法さを、おそらく彼は彼らよりもよく評価し得たのであろう。次にマンハイムは、なんらの私心なしにその騒動を愉快がっていた。几帳面《きちょうめん》な同人どもの中にこの狂人を引き入れたのは、面白い狂言のように思われた。そしクリストフが振り回す拳固《げんこ》をも、また自分にふりかかってくる攻撃をも、斉《ひと》しく腹をかかえて笑っていた。妹の感化を受けて、クリストフにはまさしく足りないところが多少あると信じ始めてはいたものの、そのためにますますクリストフが好ましくなるばかりだった。――(彼は自分が同感をもち得る人々のことを多少|滑稽《こっけい》だと思いたがっていた。)――それで彼はワルトハウスとともに、他人に反対してクリストフを支持しつづけた。  彼はいつもつとめて自分には実際的才能がないと思いたがってはいたが、それでもなお実際的才能が乏しくはなかったので、ちょうどおりよくも、この地方で最も進んだ音楽上の一派の主旨と友の主旨とを結びつけた方が、ずっと有利だろうということを思いついた。  ドイツのたいていの都市にあるように、この町にも一つのワグナー協会があって、保守派に、対抗して新思潮を代表していた。――そしてもとより、ワグナーの光栄が至る所で認められ、彼の作品がドイツのあらゆる歌劇場の上演曲目にのぼせられるに及んでは、彼を擁護しても大なる危険を冒すことにはならなかった。しかし彼の勝利は、自由に承認されたというよりもむしろ、無理|強《じ》いに課せられたものであった。そして多数の者は、心の底では頑固に保守的であって、この町のように、近代の大潮流からやや遠ざかって、古代の評判を誇りとしてる小都市では、ことにそうであった。あらゆる新しきものにたいする、ドイツ民衆に先天的な不信の念、数多の時代によってまだよく咀嚼《そしゃく》されていない何か真実な強健なものにたいする、感受性の一種の怠惰さが、他のどこよりもかかる小都市にいっそうはなはだしかった。その明らかな例としては、ワグナー的精神に鼓吹せられたあらゆる新しい作品が――もうあえて非議できないワグナーの作品は別として――ことごとく冷遇されていた。それゆえワグナー協会がなすべき有益な務めは、芸術の若々しい独創的な力を真面目《まじめ》に擁護することであった。時々それが実際になされていた。そしてブルクナーやフーゴー・ヴォルフは、それらの協会のある物のうちに、自分の最良の味方を見出した。しかしあまりにしばしば、師の利己主義が弟子どもを圧迫していた。バイロイトがただ一人の者を恐ろしく光栄あらしむることにのみ役だったと同じく、バイロイトの分派はそれぞれ小さな教会堂であって、そこで人々は永久に、唯一の神をほめてミサを唱えていた。神聖な教義を文字どおりに遵守《じゅんしゅ》し、顔を塵《ちり》に埋めてひれ伏し、音楽や詩や劇や形而上《けいじじょう》学などというさまざまの見地から唯一の神体を礼拝してる、忠実なる弟子《でし》らにたいして、礼拝堂の側席へはいるのを許すのが、最上のことであった。  この町のワグナー協会の場合も、まさに同じであった。――けれどもこの協会は、種々の行動を取っていた。役にたちそうに思われる有能な青年らを、好んで取り入れようとつとめていた。そして久しい以前から、クリストフに眼をつけていた。ひそかに彼へ意を伝えたこともあった。が彼はそれを念頭にも置かなかった。いかなるものとも結合するの要求を別に感じなかったのである。いかなる必要があって同国人らが皆、いつも羊のように群れを作り、単独では、歌うことも散歩することも飲むことも、何事もなし得ないかの観があるのを、彼は理解できなかった。彼はあらゆる組合主義をきらっていた。しかしいずれかと言えば、他のいかなる組合よりもワグナー協会の方に親しみやすかった。少なくとも、りっぱな音楽会をやるという口実があった。そしてワグナー派の芸術観にことごとく同感ではなかったとは言え、他の音楽団体のいずれよりもそれに接近しがちであった。ブラームスやブラームス派にたいして、自分と同じように不当な態度を示してる一派となら、了解の地歩を見出し得られそうだった。それゆえ彼は紹介されるままに任した。マンハイムが仲介人であった。マンハイムは皆と知り合いだった。音楽家でもないくせに、ワグナー協会の一員になっていた。――協会の幹事は、クリストフが雑誌上で始めた戦いを一々見落とさなかった。またクリストフが敵陣の中でなした若干の演奏は、味方にして働かしたら役にたつだろうということを、力強く立証するもののように彼には思われた。クリストフはまた神聖なる偶像にたいして、不敬な矢を多少放ったこともあった。しかしそのことについては、眼をつぶっておく方がいいと考えられた。――そしてまたおそらく、まだかなり手緩いものであったそれらの最初の攻撃は、クリストフにその上発言する隙《すき》を与えずに急いで引き入れてしまったということに、だれもそうと承認はしなかったが、無関係ではなかったのである。人々はごく丁重に、協会の今後の音楽会に彼の旋律《メロディー》を少し演奏するのを、許してもらいたいと申し込んできた。クリストフはおだてに乗って承諾した。彼はワグナー協会へ出かけて行った。そしてマンハイムから説き勧められて、それに加入してしまった。  このワグナー協会の首領は当時二人あったが、一人は著作家として、一人は管弦楽長として、ともにある程度の名声を有していた。二人ともワグナーにたいして、マホメット教徒的の信仰をいだいていた。前者はヨジアス・クリングといって、ワグナーに関する一辞典――ワグナー辞典[#「ワグナー辞典」に傍点]――をこしらえ、全知全能[#「全知全能」に傍点]なる師の思想を一瞬間に知り得る方便とした。それが彼の畢生《ひっせい》の大事業であった。あたかもフランスの地方の中流人らが、オルレアンの少女[#「オルレアンの少女」に傍点]の歌をすっかり諳誦《あんしょう》するように、彼はその辞典の綱目をことごとく諳誦し得たかもしれない。彼はまたバイロイト日報[#「バイロイト日報」に傍点]に、ワグナーおよびアリアン精神に関する論説を発表していた。言うまでもなく彼にとっては、ワグナーは純アリアン的な典型であり、ドイツ民族は、ラテンのセム精神ことにフランスのセム精神の腐敗的影響から、少しも侵されることのない避難所であった。不純なゴール精神の決定的な敗滅を、彼は宣言していた。それでもやはり、あたかも永遠の敵の脅威を常に感じてるかのように、毎日激しい戦いをつづけていた。彼はフランスにただ一人の偉人をしか認めなかった。それはゴビノー伯爵であった。クリングは小さな老人で、きわめて小柄で、きわめてていねいで、処女のようにすぐ顔を赤らめた。――ワグナー協会のも一人の柱石は、エーリッヒ・ラウベルといって、四十歳まである化学工場の支配人をしてた男だった。その後彼はすべてをうち捨てて、管絃楽長になってしまった。なり得たのは意志の力にもよるし、また富裕だからでもあった。彼はバイロイトにたいする狂信者だった。ミュンヘンからバイロイトまで巡礼の草鞋《わらじ》をはいて徒歩で行ったこともあるそうである。おかしなことだがこの男は、非常に読書をし、非常に旅をし、種々の職業をやり、そして至る所で精力的な人物だということを示していたのに、音楽上においては、まったくパニュルジュの羊となってしまった。あらゆる独創の才を用いつくしながら、他人より少し愚かな地位だけをようやく保ち得た。音楽上ではあまりに自信が乏しかったので、自分の感情に頼ることができないで、音楽長やバイロイトの免許者らがワグナーについて与えてくれる注解を、唯々《いい》諾々として傾聴していた。ヴァーンフリートのワグナー官邸の粗野幼稚なる趣味に合致する、舞台装置や多彩な衣裳などのごとく些細《ささい》な点までも、そのとおりに真似《まね》たいと思っていた。世にはミケランジェロの狂信者がいて、師の作を模写する場合に黴《かび》までも写し取り、神聖な作品の中にはいってきてるということによって、その黴をも神聖なものと見なすことがあるが、ラウベルもまたそういう狂信者と同様だった。  クリストフには、これら二人の人物があまり好ましく思えるはずはなかった。しかし彼らは二人とも、かなり教養のある親切げな社交的な男であった。そしてラウベルの会話は、音楽以外の話題になると面白かった。そのうえ彼は変わり者だった。変わり者はクリストフにとってはあまり不快でなかった。几帳面《きちょうめん》な人々のたまらない凡俗さから、彼の気分を転じさしてくれるのだった。彼はまだ知らなかった、不条理なでたらめを言うくらいたまらない者はないということ、そして独創性なるものは、しばしば誤って「独創家」と呼ばれる方の人々には、その他の人々によりもいっそう少ないということを。なぜならそれらの「独創家」なる人々は、思想が時計の運動みたいになってしまってる単なる奇人にすぎないから。  ヨジアス・クリングとラウベルとは、クリストフを虜《とりこ》にしようと思って、最初彼に向かって敬意に満ちた態度を示した。クリングは彼に称賛の論説を奉り、ラウベルは協会の音楽会で自分が指揮する彼の作品について、彼の指図を一々守ろうとつとめた。クリストフは心を動かされた。ところが不幸にも、それらの懇切の結果は、それを示してくれる人々の愚昧《ぐまい》さによって害された。自分を称賛してくれるがゆえにこちらからもよく思ってやるという能力を、彼はそなえていなかった。彼は気むずかしかった。真実の自分とは反対な点を称賛されることを、断固としてしりぞけていた。そして誤って自分の味方となった人々を、往々敵と見なしがちだった。それで、クリングからワグナーの弟子と認められたり、音階中のある音以外になんら共通点のない、自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の楽句と四部作[#「四部作」に傍点]の楽節との間に、多少の類似を捜されたりしても、彼は少しもありがたくなかった。また自分の作品の一つが、永遠のワグナーの巨大な二作の間に――ワグナー門下生の無価値な模造品と相並んで――插入《そうにゅう》されて演奏されるのを聞いても、彼は少しも愉快ではなかった。  彼は間もなく、その小さな礼拝堂が息苦しくなった。それは一種の音楽学校であって、各種の古い音楽学校と同様に狭苦しく、また芸術界に新しくできたものだけにさらに偏狭なものだった。クリストフは、芸術もしくは思想の一形式が有する絶対的価値にたいして、幻影を失い始めた。これまでは、偉大な観念はどこへいってもそれ自身の光明をもってるものだと信じていた。ところが今では、観念は変化することあっても人は常に同じであることに、気づいた。そして結局は、すべて人にあるのであった。観念は人そのままであった。もし人が凡庸卑屈に生まれついたとすれば、いかなる天分もその人の魂を通るうちに凡庸となるのだった。鉄鎖を破壊する英雄らの解放の叫びも、次の時代の人々の隷属契約となるのだった。――クリストフは自分の感情を言明せずにはおられなかった。芸術上の拝物教を嘲笑《ちょうしょう》した。もはやいかなる種類の偶像も不用であり、いかなる種類の古典も不用であると公言した。ワグナーの精神の後継者だと自称し得る者はだれかと言えば、それはただ、常に前方をながめて決して後ろをふり返ることなく、ワグナーをも足下に踏みしいて直進し得る者――死ぬべきものを死なしめ、生命との熱烈な交渉を維持する、という勇気をもってる者、のみであると公言した。クリングの愚かさは彼を攻撃的ならしめていた。彼はワグナーのうちに見出されるあらゆる欠点や滑稽《こっけい》な点を取り上げた。ワグナー崇拝者の方では、自分らの神にたいして彼がおかしな嫉妬《しっと》を感じてるゆえだと、思わずにはいなかった。クリストフの方では、ワグナーの死後になってそれに熱中してる連中は、ワグナーの生前にはそれをまっ先に絞め殺そうとしたに違いないということを、少しも疑わなかった。――この点においては、彼は彼らにたいして不正だった。クリングやラウベルのごとき者にも、やはり光ってた時代があったのである。二十年ばかり前には、彼らも先頭に立っていた。それから、多くの者と同じように、彼らはそこに停滞したのである。人間の力はいかにも弱いもので、最初の坂を上るともう息を切らして立ち止まる。なおつづけて前進するだけの丈夫な気息をもってる者は、きわめて少ない。  クリストフの態度は、新しい友人らをすぐに離反さしてしまった。彼らの同情は一の取り引きであった。彼らが彼の味方であるためには、彼の方で彼らの味方でなければならなかった。しかるに、クリストフの方で少しも譲歩しそうにないことは、あまりに明らかだった。彼は少しも巻き込まれなかった。人々は彼に冷淡な態度を示してきた。徒党が設定した神々や小さな神々にたいして、彼が与えるのを拒んだ賛辞は、彼にもまた拒まれた。人々は彼の作品を遇するに、以前ほどの熱心を示さなかった。そしてある者らは、彼の名前があまりしばしば番組に出るのを抗議し始めた。人々は彼を背後から嘲《あざけ》り、悪評が盛んになってきた。クリングとラウベルとは、それらの言を打ち捨てておいたが、それに同意してるらしかった。けれども人々は、クリストフと葛藤《かっとう》を結ぶまいと用心していた。第一には、ライン地方の人々の頭は、中間の解決を好み、決して真の解決ではなくて、曖昧《あいまい》な状態をいつまでも長引かせる特権を含む解決を、好むからであった。次には、説得によらずとも少なくとも倦怠《けんたい》によって、彼を思うとおりにしてしまいたいと、人々はやはり望んでいたからである。  クリストフはその余裕を彼らに与えなかった。彼は、一人の男が自分に反感をいだきながらそうだと自認するのを欲しないで、自分となお交誼《こうぎ》をつづけるためにしいて幻をかけようとつとめてるのを、はっきり感ずるように思う時には、自分はその男の敵であるということをりっぱに証明してやるまでは、決してやめないのであった。ワグナー協会のある晩餐会で、偽善に包まれた敵意の壁にぶつかった後、彼は理由なしの退会届をラウベルのもとに送った。ラウベルには合点がゆかなかった。マンハイムはクリストフのもとに駆け込み、万事を調停しようと試みた。クリストフは最初の一言をきくや否や、怒鳴りだした。 「いや、いや、断じていやだ。もうあいつらのことを言ってくれるな。僕はあいつらをもう見たくないんだ。……もう我慢できない、まったくできない。……僕は人間が厭《いや》でたまらないんだ。人間の顔を見るのが堪えられないんだ。」  マンハイムは心から大笑いをしていた。クリストフの激昂《げっこう》を鎮《しず》めようと考えるよりも、むしろその激昂を面白がっていた。 「あいつらがりっぱな者でないことくらいは僕もよく知ってるよ。」と彼は言った。「だがそれは何も今日に始まったことじゃない。で、何か新しいことでも起こったのか。」 「何にも。僕の方でたまらなくなったんだ。……そうだ、笑いたまえ、僕を嘲《あざけ》りたまえ。もちろん、僕は狂人《きちがい》さ。慎重な奴《やつ》らは、健全な理性の法則に従って行動する。だが僕はそうじゃない。衝動によってのみ動く人間なんだ。僕のうちにある電量が蓄積すると、どうしてもそいつが爆発しないではいない。もしそれで怪我《けが》をする者があったら、お気の毒の次第だ。僕にとっても厄介な話さ。僕は社会に生きるようにできてはいない。今後僕は、もう自分だけの者でいたいんだ。」 「それでもまさか、だれの手もかりないで済まそうというんじゃないだろう?」とマンハイムは言った。「君一人きりでは、君の音楽を演奏させることもできやしない。君にだって必要だ、男女の歌手や、管絃楽隊や、管絃楽長や、聴衆や、拍手係や……。」  クリストフは叫んでいた。 「いや、いや、いや!」  しかし最後の言葉は彼を躍《おど》りたたした。 「拍手係だって、君は恥ずかしくないのか。」 「雇いのを言うんじゃないよ。――(実を言えば、雇人拍手係こそ、作品の価値を聴衆に示すために、なお見出された唯一の方法ではあるが。)――しかし、一種の拍手係が、適当に訓練された小さな仲間が、いつでも必要なんだ。どの作家も皆それをもっている。それでこそ友だち甲斐《がい》があるというものだ。」 「僕は友だちをほしくない。」 「それじゃ君の作は、口笛を吹かれるばかりだ。」 「僕は口笛を吹かれたいんだ。」  マンハイムは愉快でたまらなくなった。 「そんな楽しみも長くはつづかないよ。だれも演奏してくれる者がなくなってしまうだろう。」 「なに構うもんか。それじゃ君は、僕が有名な人間になりたがってるとでも思ってるのか。……なるほど僕はこれまで、そういう目的に向かって全力を注いでいた。……まったく無意義だ、狂気|沙汰《ざた》だ、阿呆《あほう》の至りだ。……ちょうど、最も凡俗な高慢心の満足は、光栄の代価たるあらゆる種類の犠牲――不愉快、苦痛、不名誉、汚辱、卑劣、賤《いや》しい譲歩、などを償うものででもあるかのように! ところでもしそういう焦慮が今もなお僕の頭を悩ましてるとしたら、僕はむしろ悪魔にでもさらってゆかれたい。もうそんなことは少しも思っていないんだ。聴衆だの著名だのということには、少しも関《かか》わりたくないんだ。著名ということは、不名誉きわまる賤《いや》しいことだ。僕は一私人でありたいし、自分自身と愛する人々とのために生きたいんだ……。」 「それはそうだ。」とマンハイムは皮肉な様子で言った。「だが仕事は一つなくっちゃいけない。君はなぜ靴《くつ》でもこしらえないのか。」 「ああ僕がもし、他に類のないあのザックスのような靴屋だったら!」とクリストフは叫んだ。「どんなにか僕の生活は愉快に整ってゆくだろう! 一週のうち六日は靴屋をやる――日曜には、ただ親しい者だけで、自分の楽しみにまた数人の友人の楽しみに、音楽をやる。実にいい生活だろう!……馬鹿者どもの判断に供せられるというみごとな喜びのために、自分の時間と労力とをささげてしまうのは、愚の至りではないか。多くの阿呆どもに聞かれたりがやがや言われたり諛《へつら》われたりするよりは、少数のりっぱな人々に愛せられ理解される方が、はるかにましでりっぱではないか。……傲慢《ごうまん》と光栄の欲求との悪魔から、僕はもう引きずり回されはしないぞ。その点は安心したまえ!」 「そうだとも。」とマンハイムは言った。  しかし彼はこう考えていた。 「一時間もたったらこの男は反対のことを言うだろう。」  彼は平然と結論した。 「で僕が、ワグナー協会との間を万事調停してやろうじゃないか。」  クリストフは両腕を上げた。 「そんなことだから、僕は一時間も骨折って、喉《のど》をからしながらいけないと叫んでるんじゃないか!……断わっておくが、僕はもう決してあんな所へ足を踏み入れはしない。いっしょに鳴くためにたがいに寄り集まりたがってる、あのワグナー協会の奴らが、あの組合主義の奴らが、あの羊小屋の奴らが、残らず厭でたまらないんだ。あの羊どもに向かって、僕の代わりに言ってくれたまえ、僕は狼《おおかみ》だと、僕には歯があると、僕は草を食うようにできてる人間じゃないと!」 「よし、よし、言ってやろう。」とマンハイムは言いながら、その昼芝居を面白がって立ち去っていった。彼はこう考えていた。 「この男は狂人だ、縛っておくべき狂人だ……。」  彼はすぐにその対談を妹に語った。妹は肩をそびやかして、そして言った。 「狂人ですって? あの人は狂人だと思わせたがってるのよ。……お馬鹿さんで、おかしなほど傲慢《ごうまん》な人ですわ……。」  かかる間にもクリストフは、ワルトハウスの雑誌上で、激しい戦いをつづけていた。それも戦いが面白いからではなかった。批評界全体が彼を非難し、彼の方ではすべてを罵倒《ばとう》し去ろうとしていた。彼は口をつぐむように仕向けられるのでなお頑張《がんば》ったのであって、譲歩の様子を示したくなかったのである。  ワルトハウスは心配しだした。乱打の最中にあって無難である間は、オリンポスの神のごとき泰然さをもって激戦をながめていた。しかし数週以前から、どの新聞もいっせいに、ワルトハウスの侵すべからざる品位を忘れたかのようだった。そして彼の作者としての自尊心を攻撃し始めた。彼がもしいっそう慧敏《けいびん》であったなら、それらの攻撃の異常な邪悪さのうちに、友人の爪先《つまさき》を認め得たはずである。実際それらの攻撃が起こったのは、エーレンフェルトやゴールデンリンクの陰険な煽動《せんどう》によるのであった。クリストフの筆戦をよさせようと彼に決心させるためには、これ以外に策はないと彼らは見て取ったのである。そして彼らの見解は至当だった。ワルトハウスはただちに、クリストフには困ると公言し始めた。そしてクリストフを支持することをやめた。それ以来雑誌の同人らは皆、クリストフを黙らせようと工夫した。しかし試みに、餌食《えじき》を食いかけてる犬に口輪をはめてみるがいい! 人々が彼に言う言葉は皆、彼をますます刺激するばかりだった。彼は皆を卑怯《ひきょう》者だとし、すべてを――言わなければならないことすべてを、言ってのけると断言した。同人らが自分を追い払うつもりなら、それは彼らの自由だ。彼らも他人と同様に卑劣であることが、町じゅうに知れるばかりだ。しかし自分は、決して自分の方から出て行くことはしない。  同人らは困却して顔を見合わせながら、マンハイムがこの狂人を連れて来てとんだ厄介を背負い込ましたことを、苦々しく非難した。マンハイムは相変わらず笑いながら、クリストフを制しようと努めた。次の論説からは、クリストフに手加減をさせてみせると誓った。一同はそれを信じなかった。しかしマンハイムがいたずらに高言を払ったのでないことは、事実が証明してくれた。クリストフの次の論説は、礼譲の模範とは言い得ないにしろ、もはやだれにたいしてもなんら無礼な語句を含んではいなかった。マンハイムの手段はきわめて簡単だったのである。一同はなぜもっと早くそれを思い付かなかったかと、あとでみずから驚いたのだった。クリストフは雑誌に書いた自分の文章を、かつて読み返したことがなかった。自分の論説の校正を読むのでさえ、大急ぎでいい加減に目を通すだけだった。アドルフ・マイはこのことについて、刺《とげ》を含んだ穏やかな注意を一度ならず与えたことがあった。一字の誤植も雑誌の名誉を傷つけると言っていた。ところがクリストフは、批評をほんとうの芸術だとは見なしていなかったので、悪評を受ける相手は誤植があっても十分論旨を理解するだろうと、いつも答えていた。マンハイムはこの間の事情を利用したのである。彼はクリストフの意見が正当であると言い、校正のことは校正係の仕事であると言って、自分がその役目を引き受けようと言い出した。クリストフは感謝のあまり恐縮した。しかし一同は口をそろえて、この処置は雑誌にとって時間をはぶくことになるので、結局皆のためになるのだと確言した。それでクリストフは校正をマンハイムに任して、よく直してくれと頼んだ。マンハイムはその頼みにそむかなかった。それは彼にとって一つの遊戯であった。最初は用心して、ただある語法を和らげたり、露骨な形容をところどころ削ったりした。そしてうまくいったのに力を得て、やり方を次第に進めていった。文句や意味を変え始めた。その仕事に彼は真の手腕を示した。文句の大体と独特の筆癖とを保存しながら、クリストフが言おうと思ったところとちょうど反対のことを言わせるのが、その全部の技巧であった。マンハイムはクリストフの論説を変形させるために、自分で論説を書く以上に骨折った。彼は一生のうちにこれほど努力したことはなかった。しかし結果はいかにも愉快だった。これまでクリストフから嘲弄《ちょうろう》され通しであったある音楽家らは、彼が次第に穏和になってついには賛辞を呈するのを見ては、呆気《あっけ》に取られてしまった。雑誌では大喜びだった。マンハイムは刻苦精励の余りに成った原稿を皆に読んできかした。一同はどっと笑った。エーレンフェルトやゴールデンリンクは時々マンハイムに言った。 「気をつけたまえ。あまりやりすぎるぜ。」 「なに大丈夫だ。」とマンハイムは答えた。  そして彼はますますやりつづけていた。  クリストフは何にも気づかなかった。彼は雑誌社へやって来、原稿を渡すと、もう少しも気に止めなかった。時とすると、マンハイムをわきに呼ぶこともあった。 「こんどは、あの馬鹿者どもをほんとうにやっつけてやった。少し読んでみたまえ……。」  マンハイムは読んでみた。 「どうだい、君の考えは?」 「猛烈だね。君、余すところはないよ。」 「あいつらはなんと言うだろうかね?」 「そりゃあ大騒ぎだろうよ。」  しかし大騒ぎは少しも起こらなかった。それどころかクリストフの周囲では、輝いた顔ばかりが見られた。彼がやっつけた人々は、往来で彼に挨拶《あいさつ》をした。ある時彼は顔をしかめた気懸《きがか》りな様子で、雑誌社にやって来た。そしてテーブルの上に一枚の訪問名刺を投げ出しながら尋ねた。 「これはいったいなんのことだ?」  それは彼が罵倒《ばとう》したばかりの一音楽家の名刺で、「感謝に堪えず候[#「感謝に堪えず候」に傍点]」と書き入れてあった。  マンハイムは笑いながら答えた。 「皮肉のつもりだね。」  クリストフは安堵《あんど》した。 「ああ!」と彼は言った、「僕の論説があいつの気に入ったんじゃないかと心配していた。」 「あいつは怒《おこ》ってるんだよ、」とエーレンフェルトが言った、「しかしその様子を見せたくないんだ。偉《えら》そうなふうをして嘲《あざけ》っているんだ。」 「嘲ってる?……馬鹿め!」とクリストフはまた激昂《げっこう》して言った。「も一度書いてやる。笑ってる奴《やつ》が笑われるんだ!」 「いや、そうじゃない。」とワルトハウスは心配そうに言った。「僕はあいつが嘲ってるんだとは思わない。それは謙譲の心でやったことだ。あいつは善良なキリスト教徒だ。一方の頬《ほお》を打たれたから、片方の頬をも差し出したんだ。」 「なお結構だ。」とクリストフは言った。「卑怯《ひきょう》者めが! 臀《しり》をなぐられたけりゃなぐってやる。」  ワルトハウスは少しなだめようとした。しかし他の者は皆笑っていた。 「うっちゃっとけよ……。」とマンハイムは言った。 「結局のところ……」とワルトハウスはにわかに心丈夫になって言った、「五十歩百歩だ!……」  クリストフは帰っていった。同人らは狂気のように笑い踊った。それが少し静まると、ワルトハウスはマンハイムに言った。 「それにしても、危ないところだった。……ほんとに気をつけてくれよ。君のおかげで皆がとんだ目に会うかもしれないから。」 「なあに!」とマンハイムは言った。「それにはまだ間があるよ。それにまた、僕はあの男に味方をこしらえてやってるんだからね。」 [#改ページ]      二 埋没  ドイツの芸術を改革せんがために、クリストフが右のような経験を積んでる時、一団のフランス俳優がこの町を通りかかった。それはむしろ一群という方が適当であって、例のとおり、どこから狩り集めて来られたかわからない怪しい者らや、ただ役をふってさえもらえればどんな待遇をも喜んでいる無名の青年俳優らなどの、寄り集まりであった。皆いっしょにかたまって、一人の名高い老女優の馬車に付随していた。この老女優は、ドイツ内を巡業して歩いて、その道すがらこの小都市に立ち寄り、三回の興行を催したのだった。  ワルトハウスの雑誌では、そのことで大騒ぎをした。マンハイムとその友人らは、パリーの文学的および社交的方面に通暁《つうぎょう》していた、もしくは通暁してるふうを見せかけていた。聞きかじった巷説《こうせつ》やまたは多少了解してる事柄を、盛んにくり返していた。彼らはドイツ内にてフランス精神を代表していた。そのためにクリストフは、なおいっそうフランス精神を知りたくなった。マンハイムはうるさいほど、パリーの賛辞を彼に述べたてた。マンハイムは幾度もパリーに行ったことがあった。そこには血縁の者もいた――ヨーロッパの各国に血縁の者がいた。そして至る所で彼らは、その国の国民性と品位とを獲得していた。このアブラハムの民族のうちには、イギリスの従男爵、ベルギーの上院議員、フランスの内閣員、ドイツ帝国議会の代議士、法王付属の伯爵などがあった。そして皆よく団結して、自分らが出て来た共通の始祖にたいして尊敬深くはあったが、それでも心から、イギリス人であり、ベルギー人であり、フランス人であり、ドイツ人であり、または法王党であった。なぜなら、彼らは驕慢《きょうまん》な心から、自分の順応した国が世界第一の国であることを疑わなかったから。ところがマンハイムのみは、それと反対であって、自分の属しない他の国々の方がいいと言って面白がっていた。かくて彼はしばしばパリーのことを話し、しかも心酔の調子で話した。しかし彼はパリー人を称賛するのに、狂気じみた放逸な騒々しい人間であると言い、遊楽や革命にばかり時間をつぶして、決して真面目《まじめ》になることがないと言った。それでクリストフは、「ヴォージュ山の彼方《かなた》のビザンチン式な頽廃的《デカダン》な共和国」にあまり心をひかれなかった。彼がすなおにも想像していたパリーは、ドイツ芸術に関する叢書の一冊として最近世に出た書物の巻頭で見た、ある素朴《そぼく》な版画の示しているパリーと、大差ないものであった。その第一図に、都会の家並みの上にうずくまってるノートル・ダーム寺院の鬼像があって、次の銘がついていた。 [#ここから3字下げ] 飽くなき吸血鬼、永遠の豪奢《ごうしゃ》は、 大都市の上にてその餌食《えじき》を貪《むさぼ》る。 [#ここで字下げ終わり]  善良なドイツ人として彼は、遊蕩《ゆうとう》な異国人とその文学とを軽蔑《けいべつ》していた。その文学について知ってるところはただ、仔鷲や気儘夫人[#「仔鷲や気儘夫人」に傍点]などの放逸な滑稽《こっけい》劇と洒亭の小唄《こうた》とにすぎなかった。だから、芸術になんらの感興をも見出し得そうにない人々が、騒々しく場席係りへ行って急いで名前を記入するような、この小都市の流行好みの風潮を見ると、彼はその名高い旅役者にたいして、軽蔑《けいべつ》的な無関心さを装《よそお》わずにはいられなかった。それを聞くために一歩も踏み出すものかと言い張った。そして座席が非常に高価で、それだけの金を払う手段がなかっただけに、彼には自分の言葉を守《まも》るのがいっそうたやすかった。  フランス俳優一団がドイツへもってきた番組のうちには、二、三の古典劇がはいっていた。しかしその大部分は、とくに輸出向きのパリー物たる馬鹿げた種類だった。なぜなら、凡庸《ぼんよう》くらい万国的なものはないから。クリストフは、その旅回りの女優の第一の出し物となってるトスカ[#「トスカ」に傍点]を知っていた。彼は前に翻訳のトスカ[#「トスカ」に傍点]を聞いたことがあった。その時には、ライン地方の小劇団がフランスの作品にたいしてなし得るかぎりの、軽快な優美さで飾ってあった。そして彼は今、友人らが劇場へ出かけてゆくのを見ながら、嘲《あざけ》り気味の笑いを浮かべて、それを二度聞きに行くには及ばないと気楽に考えていた。それでも翌日になると、友人らが昨晩のことを感激的に話すのに、注意深く耳傾けざるを得なかった。今皆が話してる劇の見物を拒みながら、皆の意見に抗弁する権利までも失ったことを、一人憤慨していた。  予告の第二の出し物は、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]のフランス訳ということになっていた。クリストフはかつてシェイクスピヤの作を見る機会を逃がしたことがなかった。シェイクスピヤは彼にとってはベートーヴェンと同等で尽くることなき生命の泉であった、彼がちょうど通って来た雑然たる不安疑惑の時期においては、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]はことになつかしいものとなっていた。その魔法的な鏡の中に自分の姿をふたたび見出しはすまいかと気づかいながらも、それから魅せられていた。座席を取りに行きたくてたまらないことをみずから打ち消しながら、芝居の広告《びら》のまわりを歩き回った。しかし彼はきわめて強情だったので、いったん友人らに言明した以上は、それを取り消したくなかった。そしてその晩も前晩と同じく、自分の家に留まってるつもりで帰りかけたが、ちょうどその時偶然にも、マンハイムとばったり出会った。  マンハイムは彼の腕をとらえた。そして、父の妹に当たる老いぼれ婆《ばあ》さんが、おおぜいの家族を連れて不意にやって来たことや、それを迎えるために皆家にいなければならなかったことなどを、腹だたしい様子でしかも嘲《あざけ》りの調子を失わないで語ってきかした。彼は逃げ出そうとしたのだった。しかし父は、家庭上の礼儀と年長者に払うべき尊敬との問題については、嘲弄《ちょうろう》を許さなかった。それにちょうど彼は、父をうまく取りなして金を引き出す必要があったので、譲歩して芝居をあきらめない訳にはゆかなかった。 「君たちは切符をもってたのかい。」とクリストフは尋ねた。 「そうさ、上等の桟敷《ボックス》だ。おまけに、僕はそれを他《ほか》へ届けなけりゃならないんだ――(このまますぐに行くところだ)――親父《おやじ》の仲間でグリューネバウムという奴《やつ》にさ。妻君と馬鹿娘とを連れて行っていただきたいというんでね。愉快な話さ。……僕はせめて奴らに何か面白くないことを言ってやりたいと思ってるんだ。だがそんなことには奴らは平気だ、切符さえもって来てもらえれば――切符が紙幣《さつ》ならなお喜ぶだろうがね。」  彼はクリストフをながめながら、口を開いたままにわかに言いやめた。 「ああ……そうだ……ちょうどいい!」  彼は低く言った。 「クリストフ、君は芝居へ行くのかい。」 「いや。」 「諾《うん》と言えよ。芝居へ行ってくれ。僕の頼みだ。厭《いや》とは言えまい。」  クリストフは訳がわからなかった。 「だが切符がないんだ。」 「ここにある!」とマンハイムは勢いよく言いながら、彼の手に切符を無理に握らしてしまった。 「君はめちゃだ。」とクリストフは言った。「そしてお父《とう》さんの言いつけは?」  マンハイムは笑いこけた。 「怒《おこ》るだろうよ。」と彼は言った。  彼は笑い涙を拭《ふ》いて、そして結論した。 「明日《あした》の朝起きぬけに、まだ何にも知らないうちに、僕からもち出してやるんだ。」 「僕は承知できない、」とクリストフは言った、「君のお父さんに不愉快なことだと知っては。」 「君が知る必要はない、君の知ったことじゃない、君に関係あることじゃないんだ。」  クリストフは切符を開いた。 「そして四人分の桟敷《ボックス》をどうするんだい。」 「いいようにするさ。よかったらその奥で眠っても踊っても構わない。女を連れてゆくさ。幾人かあるだろう。入用なら貸してやってもいいよ。」  クリストフは切符をマンハイムに差し出した。 「いや、どうしてもいやだ。取ってくれ。」 「取るもんか。」とマンハイムは数歩|退《さが》りながら言った。「厭なら無理に行ってくれとは言わない。だがもうそれは受け取らないよ。火にくべようと、または律義《りちぎ》者の真似《まね》をしてグリューネバウムの家へ届けようと、それは君の勝手だ。もう僕に関係したことじゃない。さよなら。」  彼は手に切符をもってるクリストフを往来のまん中に置きざりにして、逃げて行ってしまった。  クリストフは困った。グリューネバウムの家へ切符をもってゆくのが至当であると、はっきり思ってもみた。しかしその考えにはあまり気乗りがしなかった。心を定めかねて家へ帰った。気がついて時計をながめてみると、もう芝居へ行くために着替えるだけの時間しかなかった。いずれにしても切符を無駄《むだ》にするのはあまり馬鹿げていた。母へいっしょに行こうと勧めてみた。しかしルイザは、これから寝る方がいいと言った。彼は出かけた。心の底には子供らしい楽しみがあった。ただ一つ不満なのは、その楽しみを一人きりで味わうことだった。桟敷を取り上げてやったグリューネバウム一家や、マンハイムの父にたいしては、なんらの苛責《かしゃく》をも感じなかったけれど、自分と桟敷を共にし得るかもしれない人々にたいして、一種の苛責を感じた。自分のような若い者にとっては、それがどんなに喜ばしいことであるかを考えると、その喜びを分かたないのがつらかった。頭の中であれこれと物色してみたが、切符をやるような相手が見つからなかった。そのうえもう遅《おそ》くなっていて、急がなければならなかった。  劇場へはいる時に、彼は閉《し》め切られてる札売場のそばを通った。座席係りの方にはもう一席も残っていないことが、掲示に示してあった。残念そうに帰ってゆく人々のうちに、彼は一人の若い女を認めた。彼女はまだ思い切って出て行くことができないで、はいって行く人々をうらやましそうにながめていた。ごく簡素な黒服をまとい、さほど背が高くもなく、細そりした顔立ちで、しとやかな様子だった。きれいであるか醜いかは気づく隙《ひま》がなかった。彼は彼女の前を通り越した。がちょっと立ち止まり、ふり向いて、考える間もなく、ぶしつけに尋ねた。 「あなたは、席がありませんか。」  彼女は顔を赤らめ、外国人らしい口調で言った。 「はい、ありませんの。」 「僕は桟敷《ボックス》を一つもってますが、始末に困ってるところです。いっしょにそれを使ってくださいませんか。」  彼女はなおひどく顔を赤らめ、承諾できない断わりを言いながら感謝した。クリストフは断わられたのに当惑して、自分の方から詫《わ》びを言い、なお頼んでみた。しかし、彼女が承諾したがってることは明らかでありながら、彼はうまく説き伏せることができなかった。彼はたいへん困った。そしてにわかに決心した。 「ねえ、すっかりうまくゆく方法があります。」と彼は言った。「切符を上げましょう。僕はどうだっていいんです。前に見たことがあるんですから。――(彼は自慢していた。)――僕よりあなたの楽しみの方が大きいでしょう。さあどうか、この切符をおもちなさい。」  年若な女は、その申し出とその親切な申し出方とにいたく心を動かされて、ほとんど眼に涙を浮かべようとした。そして、彼から切符を取り上げるようなことはしたくないと、感謝しながらつぶやいた。 「では、いっしょにいらっしゃい。」と彼は微笑《ほほえ》んで言った。  彼の様子がいかにも温良で磊落《らいらく》だったので、彼女は断わったのをきまり悪く感じた。そして少しまごつきながら言った。 「まいりますわ……ありがとうございます。」  彼らは中にはいった。マンハイムの桟敷《ボックス》は正面で、広々と開《あ》け放してあって、姿を隠すことはできなかった。二人がはいって来たことは人目につかざるを得なかった。クリストフはその若い女を前の席にすわらせ、自分は邪魔にならないように少し後ろに控えた。彼女はまっすぐに身を堅くし、振り向くこともなし得ず、非常に恥ずかしがっていた。承諾しなければよかったと後悔してるらしくもあった。クリストフは彼女に落ち着く隙《ひま》を与えるために、また話の種が見つからなかったので、わざと他方をながめていた。そしてどこへ眼をやっても、桟敷のはなやかな看客のまん中に、見知らぬ女とともに自分がすわってることが、小さな町の人々の好奇心と批評とを招いてることは、容易に見て取られた。彼はあちこちに激しい視線を投げ返してやった。こちらから他人へ干渉しないのに、他人が執拗《しつこ》く自分に干渉してくるのを、憤っていた。その無遠慮な好奇心は、彼よりも連れの女にいっそう向けられており、しかもいっそう厚かましく向けられてることを、彼は考えなかった。そして、他人がどんなことを言いどんなことを考えようと、まったく平気だという様子を示すために、そばの女の方に身をかがめて、話を始めた。彼女は彼から話しかけられるのを非常に恐れてるらしく、また彼に答えなければならないのを非常に困ってるらしく、彼の方を見もしないで、「はい」とか「いいえ」とか言うのもようやくのことだったので、彼は彼女の世慣れないのを憐《あわ》れに思い、また自分の片隅《かたすみ》に引き込んでしまった。が幸いにも、芝居が始まった。  クリストフは番付を読んでいなかったし、またその名女優がどんな役をするか知りたくも思っていなかった。彼は役者を見にではなく芝居を見に来るという正直者の一人だった。あの名高い女優がオフェリアになるか女王になるか、そんなことを彼は考えなかった。もし考えてみたら、両者の年齢から見て、女王になる方を賛成したろう。しかし彼が思いもつかなかったことには、女優はハムレットの役をした。彼はハムレットを見た時、その機械人形めいた声音を聞いた時、しばらくはそうだと信じられなかった……。 「だれだろう、いったいだれだろう?」と彼は半ば口の中でみずから尋ねた。「それでもまさか……。」  そして、「それでも」それがハムレットだと認め得ざるを得なかった時に、彼は罵声《ばせい》を口走った。幸いにもそばの女は外国人だったからその意味を理解しなかったが、しかし隣りの桟敷《ボックス》の人たちにはよく意味がわかったらしい。黙れという怒った声がすぐに返された。彼は一人で自由にののしるために桟敷《ボックス》の奥に引っ込んだ。彼の憤りは解けなかった。もし彼が偏狭でなかったならば、その六十年代の婦人に青年の服装をして舞台に立たせ、しかもきれいに――少なくとも追従的な眼には――見えさせている、変装の優美さと技巧の芸当に、敬意を表したかもしれなかった。しかし彼はあらゆる芸当を憎み、自然を破るものを憎んでいた。彼の好むところは、女は女であり男は男であることだった。(現代ではいつもそうなってるとは言えない。)ベートーヴェンのレオノーレの幼稚な多少|滑稽《こっけい》な変装でも、彼には不愉快だった。しかしハムレットの変装は、滅法に馬鹿げたものだった。脂肪質で蒼《あお》ざめ、怒りやすく、狡猾《こうかつ》で、理屈っぽく、幻覚にとらわれてる、その強健なデンマーク人を、女――しかも女でもないのだ、男に扮《ふん》する女は怪物にすぎない――それになしてしまうとは? ハムレットを、宦官《かんがん》になし、もしくは曖昧《あいまい》な両性人物になすとは! そういう嫌悪《けんお》すべきばかばかしさが、ただ一日でも口笛を吹かれずに寛容されるとは、だらけ切った時代というのほかはなく、愚昧《ぐまい》きわまる批評界というのほかはないのだ。……女優の声はクリストフをすっかり激昂《げっこう》さしてしまった。彼女は各|綴《つづ》り字を切り離す歌唱的な口調をもっていた。シャンメーレ以来、世に最も詩的でない国民にはいつも貴《とうと》く思われたらしい、あの単調な朗詠法をもっていた。クリストフはいらだって、四つ匍《ば》いに動物の真似《まね》でもしたいほどだった。彼は舞台の方に背中を向けて、直立の罰を受けた小学生徒のように、桟敷の壁と鼻をつき合わせながら、憤怒の渋面をしていた。仕合わせなことには、連れの女は彼の方を見かねていた。もし彼女が見たら、彼を狂人だと思ったかもしれない。  にわかにクリストフの渋面はやんだ。彼は身動きもしないで口をつぐんだ。音楽的な美しい声が、荘重でやさしい若い女声が、聞こえてきたのだった。クリストフは耳をそばだてた。その声が語りつづけるに従って、彼は心ひかれて、そういう囀《さえずり》りをもってる小鳥を見んがために、椅子《いす》の上でふり返った。見るとオフェリアがいた。もとより彼女はシェイクスピヤのオフェリアとは似てもつかなかった。それは背の高い強健なすらりとした美しい娘で、エレクトラかカサンドラみたいなギリシャの若い女の彫像に似ていた。生命の気があふれていた。自分の持ち役だけにとどまろうと努力しながらも、その肉体や身振りや笑ってる褐色《かっしょく》の眼から、青春と喜悦との力が輝き出していた。その美しい肉体の魅力にとらえられてクリストフは、一瞬間前にはハムレットの演出にたいして峻厳《しゅんげん》だったにもかかわらず、オフェリアが自分の描いていた面影とほとんど似てもいないことを、少しも遺憾とは思わなかった。そして想像のオフェリアを犠牲に供しても、なんら後悔を感じなかった。熱情に駆られた者が有する無意識的な妄信《もうしん》さで彼は、その貞節な惑乱せる処女の心の底に燃えてる若々しい熱気に、一つの深い真実さまでも見出した。そしてその魅力をさらに大ならしむるものは、浄《きよ》い温《あたた》かい滑《なめ》らかな声の惑わしだった。一語一語が美しい和音のように響いていた。各|綴《つづ》り音のまわりには、百里香かあるいは野生|薄荷《はっか》の香《かお》りのように、弾力性の律動《リズム》を有する南欧のあでやかな抑揚が踊っていた。アルル国のオフェリア姫ともいうべき不思議な幻影だった。金色の太陽と狂おしい南風との多少を、彼女は身にそなえていた。  クリストフは隣席の女のことを忘れて、彼女のそばに桟敷の前方へすわった。そして名も知らないその美しい女優から眼を離さなかった。しかし一般の観客らは、無名の女優を見に来たのではなくて、彼女になんらの注意も払わなかった。そして女のハムレットが語る時にしか喝采《かっさい》しようとは思っていなかった。それを見て取ったクリストフは、彼らに「馬鹿者ども」と怒鳴りつけてやった――十歩先ばかりまで聞こえる低い声で。  舞台に間幕《あいまく》が降りてから彼は初めて、桟敷を共にしてる連れの女の存在を思い出した。そしてやはりおずおずしてる彼女を見ながら、自分の粗暴な様子は彼女をどんなにか驚かしたに違いないと、微笑《ほほえ》みながら考えてみた。――まさしく彼の考えたとおりだった。偶然にも彼と数時間いっしょにいることとなったその若い女の魂は、ほとんど病的なほど慎み深かった。思い切ってクリストフの招待を承諾したのも、異常な興奮のうちにあったからだった。そして承諾するやすぐに、どうかして彼の手をのがれ、口実を見出し、逃げてしまいたかった。皆の者の好奇心の的となってることを気づいた時には、なおたまらなかった。自分の後ろに――(彼女は振り向き得なかったのである)――連れの男の低いののしり声や不平の声を聞くに従って、ますますいたたまらなくなるばかりだった。彼がどんなことをしでかすかわからないような気がした。そして彼が出て来て自分のそばにすわった時、彼女は恐ろしさにぞっとした。まだ彼はどんなとっぴなことをするかわからない。彼女は穴にでもはいりたかった。そして知らず知らず身を引いていた。彼にさわるのが恐ろしかった。  しかし、幕間《まくあい》になって、おとなしく話しかける彼の声を聞いた時、彼女の恐れはすべて消え去った。 「僕が隣りにいるとたいへん不愉快でしょうね、ごめんください。」  そこで彼女は彼をながめた。そして、先刻いっしょに来る決心の動機となったあの善良な微笑をまた彼の顔に見出した。  彼はつづけて言った。 「僕は思ってることを隠すことができないんです。……それにまた、あまりひどすぎたんで……。あの女が、あの婆《ばあ》さんが……。」  彼はふたたび嫌悪《けんお》のしかめ顔をした。  彼女は微笑《ほほえ》んで、ごく小声で言った。 「それでも、きれいですわ。」  彼は彼女の語調に気づいて尋ねた。 「あなたは外国の方《かた》ですか。」 「ええ。」と彼女は言った。  彼は彼女の質素な小さい長衣をながめた。 「先生をしてるんですか。」と彼は言った。  彼女は顔を赤くして答えた。 「ええ。」 「国はどちらです?」  彼女は言った。 「フランス人ですの。」  彼は驚きの身振りをした。 「フランス人ですって? 僕は思いもつきませんでした。」 「なぜですの。」と彼女はおずおず尋ねた。 「あなたはたいそう……真面目《まじめ》だから。」と彼は言った。  (彼女はそれを、彼の口から出る以上まったくお世辞ではないと考えた。) 「フランスにだって真面目なものもありますわ。」と彼女は当惑して言った。  彼は彼女の正直そうな小さな顔、丸く出てる額《ひたい》、小さなまっすぐな鼻、細そりした頤《あご》、栗《くり》色の髪に縁取られてる痩《や》せた頬《ほお》を、うちながめた。しかし彼の眼に映ってるのは彼女ではなかった。彼はあの美しい女優のことを考えていた。彼はくり返し言った。 「あなたがフランス人だとは実に不思議だ!……ほんとうにあなたはあのオフェリアと同じ国の人ですか。そうだとはだれにも思えないでしょう。」  彼はちょっと黙った後につけ加えた。 「あれは実にきれいですね!」  彼は、隣席の女にとってはあまりありがたくない比較を、彼女とオフェリアとの間に試みてる自分の調子に、みずから気づかなかった。彼女の方はよくそれを感じた。しかし彼女はクリストフを恨まなかった。なぜなら、彼女も彼と同じ考えだったから。彼はあの女優に関するいろんなことを、彼女から聞き出そうと試みた。しかし彼女は何にも知らなかった。明らかに彼女は、芝居のことにはほとんど通じていなかった。 「フランス語が話されるのを聞くのは、あなたには愉快でしょうね。」と彼は尋ねた。  彼は戯れのつもりだったが、しかし図星をさした。 「ええ、それはもう、」と彼女は彼がびっくりしたほど真実な調子で言った、「どんなにかうれしいことですわ。こちらでは、私は息苦しい気がしますの。」  彼はこんどはなおよく彼女をながめた。彼女は軽く両手を震わせ、胸苦しいようなふうだった。しかし彼女はすぐに、今の自分の言葉のうちには、あるいは相手の気色を害するものがあるかもしれないことを、思いついた。 「あら、ごめんください、」と彼女は言った、「自分でもなんだかわからないことを申しまして。」  彼は淡白にうち笑った。 「あやまることがあるものですか。まったくおっしゃるとおりです。何もフランス人でなくっても、こちらでは息がつまりそうです。うっふ……。」  彼は空気を吸い込みながら肩をそびやかした。  しかし彼女は、そういうふうに考えをうち明けたのがきまり悪くなって、それきり口をつぐんでしまった。そのうえ彼女は隣り桟敷の人々がこちらの会話をうかがってるのに気づいていた。彼もまたそのことに気づいて腹をたてた。そして二人は話をやめた。彼は幕間《まくあい》が終わるのを待ちながら、廊下に出て行った。若い女の言葉はまだ彼の耳に響いていた。しかし彼は他のことに気を奪われていた。オフェリアの面影が彼の心を占めていた。そして次々の幕で彼はすっかりとらえられてしまった。狂乱の場面になると、愛と死とのあの哀《かな》しい歌のところになると、女優の声は人を感動せしめないではおかないような抑揚《よくよう》になり得たので、彼はまったく心転倒してしまった。子牛のように声を挙げて泣き出しそうになっている自分を、彼は感じた。そして、気弱さのしるし――(なぜなら、彼は真の芸術家たるものは決して泣いてはいけないと信じていたから)――だと思われるそのことにみずから憤り、また人に見られたくなかったので、ふいに桟敷から外に出た。廊下にも休憩室にもだれ一人いなかった。彼は心乱れながら階段を降りていって、みずから知らないで外に出た。夜の冷たい空気を吸いたかった。薄暗い寂しい通りを大跨《おおまた》に歩きたかった。いつしか運河の岸に出で、河岸の胸壁に肱《ひじ》をついて、黙々たる水をながめた。水の面には街燈の反映が闇《やみ》の中に踊っていた。彼の魂もそれに似ていた。真暗《まっくら》でおののいていた。表面に躍《おど》りたってる大喜悦のほかは、何にも見えなかった。方々の大時計が鳴った。劇場へもどって劇の終わりを聞くことは、彼にはできそうにもなかった。フォルティンブラスの勝利を見にもどれというのか? いや、彼はそれに心ひかれなかった。……なるほどみごとな勝利だろうさ! だれがそんな勝利者をうらやむものか。獰猛《どうもう》な愚かな生命のあらゆる蛮行に飽きはてた後、勝利者になって何になろうぞ。作品全部が生命にたいする恐るべき迫害である。しかしながらその中には、生命の異常なる力が沸きたっていて、悲哀は喜悦となり、苦悩は人を陶酔せしむるほどになっている……。  クリストフは、あの初対面の若い女のことはもはや気にもかけないで、家に帰っていった。彼は彼女を桟敷の中に置きざりにして、その名前さえも知らなかった。  翌朝、彼は女優に会いに、三流どころの小さな旅館へ出かけた。興行主は彼女を仲間といっしよにそこへ泊まらせ、ただ座頭《ざがしら》の女優だけを、町一流の旅館に入れていたのである。クリストフは乱雑な小さな客間に案内された。朝食の残り物が、髪の留め針や裂けたきたない楽譜の紙とともに、蓋《ふた》を開いたピアノの上にのっていた、傍《かたわ》らの室ではオフェリアが、ただ騒ぐのが面白さに、子供のように声を張り上げて歌っていた。訪問者があるのを告げられると、彼女はちょっと歌をやめて、壁の向こうまで聞こえても構わないような、快活な声で尋ねた。 「なんの用だろう? どういう名前なの?……クリストフ……クリストフそれから?……クリストフ・クラフトだって……おかしな名前だこと!」  (彼女はリ[#「リ」に傍点]やラ[#「ラ」に傍点]の音をひどく口の中でころがしながら、二、三度その名前をくり返した。) 「まるで悪口《わるくち》の言葉のようだわ……。」  (彼女こそ悪口を一つ言ったのだ。) 「若い人、それとも年寄り?……よさそうな人なの?……そんならいいわ、行ってみよう。」  彼女はまた歌いだした。  ――吾《わ》が恋よりもやさしきものは世にあらじ……  歌いながら、室じゅうをかき回し、散らかった物の中にはいり込んだ鼈甲《べっこう》の留め針を、ののしりちらした。じれったがって、怒鳴りだし、獅子《しし》のように猛《たけ》りたった。クリストフにはその姿は見えなかったけれど、壁越しに彼女の身振りを一々想像して、一人で笑っていた。ついに足音が近づいてき、扉《とびら》がさっと開かれ、そしてオフェリアが現われた。  彼女はちゃんとした服装をしてはいなかった。化粧着を身体にまきつけ、広い袖《そで》の中に腕を露《あら》わにし、髪はよく梳《くしけず》ってなく、巻き毛が眼や頬《ほお》にたれ下がっていた。その美しい褐色の眼は笑い、口も笑い、頬も笑い、かわいらしい小窪《こくぼ》が頤《あご》のまん中に笑っていた。彼女は荘重な歌うような美しい声で、そんな姿で出て来たことをちょっと詫《わ》びてみた。しかし、別に詫びるわけはないことを、かえって感謝されていいことを、よく知っていた。彼女は彼を、訪問にやって来た新聞記者だと思っていた。そして、ただ自分一個の考えで来たのだと言われ、彼女を賛美してるからだと言われると、失望するどころか、非常に歓《よろこ》んだ。彼女は愛嬌《あいきょう》のいい善良な娘で、人に喜ばれるのが大好きで、またそれを隠そうともしなかった。クリストフの訪問と心酔とに、彼女はうれしくなった。――(彼女はまだ、世辞追従に毒されてはいなかった。)――彼女はその動作においても、作法においても、小さな虚栄心においても、また人に好かれる時に感ずる無邪気な喜びにおいても、少しの不自然さもなかったので、クリストフは一瞬間も窮屈を感じなかった。二人はすぐに古い友だちのような間になった。彼は拙《まず》いフランス語を少し話し、彼女は変なドイツ語をわずか話した。一時間もたつと、どんな内密な話でももち出した。彼女は少しも彼を帰らせようとは思わなかった。この強健で快活で怜悧《れいり》で感情を隠さない南欧の女は、愚かな仲間たちにとりまかれ、言葉を知らない他国にあって、生来の喜びをも覚ゆることなく、退屈でたまらなかったので、話し相手を見出したのがうれしかった。クリストフの方では、誠実に乏しいいじけた小市民らのまん中で、平民的元気に満ちた南欧の自由な女に出会ったことは、言い知れぬ幸福であった。彼はまだ、それら南欧人の不自然な性質を知らなかった。彼らはドイツ人と違って、その心の中にもってるもの全部を相手に示す――またしばしば、もっていないものをも相手に示すことがある。しかしとにかく、この女優は年が若かった、溌剌《はつらつ》としていた、思ってることを、腹蔵なく露骨に言ってのけた。清新な見方で、すべてを自由に批判した。雲霧を吹き払うあの南風が、彼女のうちにも多少感ぜられた。彼女は天分が豊かであった。教養も思慮もなかったけれど、美しいよい物ならば、それをただちに心から感ずることができて、ほんとうに感動するほどだった。そしてすぐそのあとで、にわかに大笑いをした。もとより、彼女は仇《あだ》っぽい女で、瞳《ひとみ》をよく働かせた。よく合わさっていない化粧着の下から、裸の喉《のど》をのぞかしてるのも、少しも不愉快ではなかった。彼女はクリストフの心を迷わせたかったかもしれない。しかしそれはまったく本能からであった。なんらの打算もなかった。笑い、快活に話をし、気兼ねも遠慮もなく、善良なお坊《ぼっ》ちゃんとなりお友だちとなることを、いっそう好んでいた。芝居生活の内幕や、自分のちょっとしたみじめな事柄や、仲間たちのつまらない猜疑《さいぎ》や、彼女に光らせないようにと注意してるゼザベル――(彼女は座頭の女優をきらってゼザベルと綽名《あだな》していた)――の意地悪なことなどを、彼に話してきかした。彼はドイツ人にたいする不平をうち明けた。彼女は手をたたいて面白がり、彼に調子を合わした。彼女は元来善良であって、だれの悪口をも言うつもりではなかったが、しかしやはり自然と悪口を言うのだった。だれかを揶揄《やゆ》する時には、自分の意地悪さを心ではとがめながらも、やはり南欧人の特色たる、現実的な滑稽《こっけい》な観察の才を失わなかった。彼女はそれをどうすることもできないで、うがった批評をくだすのだった。若犬のような歯並みを見せて、蒼《あお》ざめた唇《くちびる》で面自そうに笑った。化粧のために色|褪《あ》せた蒼白い顔の中には、隈《くま》のある眼が輝いていた。  二人は突然、もう一時間以上も話をしたことに気づいた。クリストフはコリーヌ――(それが彼女の芸名だった)――へ、市内を案内するために午後誘いに来ようと申し出た。彼女はその考えにたいへん喜んだ。そして二人は、昼食後すぐに会う約束をした。  約束の時間に、彼はそこへ行った。コリーヌは旅館の小さな客間にすわって、書き抜きを手にしながら声高く読んでいた。彼女は笑《え》みを含んだ眼で彼を迎え、なおやめないで文句を終わりまで読んだ。それから、安楽|椅子《いす》の自分のそばにすわるように合図をした。 「かけてちょうだい、そして口をきいちゃ厭《いや》よ。」と彼女は言った。「台詞《せりふ》を読み返してるところなの。十五分もかかれば大丈夫よ。」  彼女は急《せ》き込んでる小娘のように、ごく早くやたらに読み散らしながら、爪《つめ》の先で書き抜きをたどっていた。彼は諳誦《あんしょう》の手伝いをしてやろうと言い出した。彼女は彼に書き抜きを渡し、立ち上ってくり返した。盛んに言いよどんだり、次の文句へ進んでゆく前に、前の句の終わりを何度もくり返したりした。諳誦しながら始終頭を振っていた。髪の留め針が室の方々に落ち散った。なかなか覚えにくい言葉に出会うと、躾《しつけ》の悪い子供のように焦《じ》れったがった。時とすると、おかしな悪口やかなりひどい言葉――みずから自分に浴びせかけるごくひどい短い言葉――を発することもあった。クリストフは、才能と幼稚さとを共にそなえてる彼女に驚いた。彼女は正当な感動的な台辞回しを見出していった。しかし、全心をこめてるらしい調子の最中に、なんの意味も含まないような言葉を言うことがあった。かわいい鸚鵡《おうむ》のように文句を諳誦して、どういう意味のものであるかは少しも気にかけなかった。するともう支離滅裂なおかしなものになってしまった。彼女はいっこう平気だった。自分でも気がつくと身をねじって笑いこけた。しまいには「ちぇッ!」と言いすてて、彼の手から書き抜きを奪い取り、室の隅《すみ》に投げやり、そして言った。 「もうおしまい、休みの時間だわ!……散歩に出かけましょう。」  彼は彼女の台辞《せりふ》に多少不安を感じて、懸念《けねん》のあまり尋ねた。 「覚えたつもりですか。」  彼女は確かな様子で答えた。 「大丈夫よ。それにまた、黒坊《くろんぼ》だってついてるんだもの。」  彼女は帽子を被《かぶ》りに室へ行った。クリストフは待ちながら、ピアノの前にすわって少しばかり和音をひいた。向こうの室から彼女は叫んだ。 「あ、それはなんなの? もっとひいてちょうだい。ほんとにいいこと!」  彼女は帽子を頭に留めながら駆けて来た。彼はひきつづけた。ひいてしまっても、彼女はもっとつづけるように願った。そして、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]の曲についても一杯のチョコレートについても同様にまき散らす、フランス婦人特有の気のきいた短い感嘆の声をたてながら、彼女はうっとりと聞き入っていた。クリストフは笑っていた。ドイツ人の大袈裟《おおげさ》な強調した感嘆の言葉から、気を散らされるのであった。でも二つとも、相反した誇張だった。一つは床の間の置き物を山とすることであり、一つは山を床の間の置き物とすることであった。後者も前者に劣らず滑稽《こっけい》なものだった。しかしその時クリストフには、後者の方が好ましかった。なぜなら、それが出て来る口を彼は愛していたから。――コリーヌは、彼がひいてるのはだれの作だか尋ねた。そして彼自身の作だと知ると、驚きの声をたてた。彼はその午前の会談のおりに、自分は作曲家だとはっきり言っていた。しかし彼女はそれに少しも注意しなかったのである。彼女は彼のそばにすわって、彼の作を残らずひいてくれとせがんだ。散歩は忘れられてしまった。彼女の方にお世辞があるのではなかった。彼女は音楽を愛していたし、教育の不足を補うに足るりっぱな本能をそなえていた。彼は初め彼女の言うことを本気にしないで、最もたやすい旋律《メロディー》をひいてやった。しかし、自分の好きな一節をふとひいてみて、そのことをなんとも言わないのに、彼女もまたそれが好きだということを知った時、彼は喜ばしい驚きを感じた。りっぱな音楽家であるフランス人に出会うと、ドイツ人はいつも率直な驚きを示すのであるが、彼もやはりそのとおりで、彼女に言った。 「これは不思議だ。あなたは実にりっぱな趣味をもってる。僕はまったく意外でした……。」  コリー又は彼の鼻先で嘲笑《あざわら》った。  その次から彼は面白がって、ますます理解しにくい作を選び、どこまで彼女がついて来るかを見ようとした。しかし彼女は、どんな大胆な表現にもまごつかないらしかった。そして、ドイツではどうしても人から鑑賞されないので、自分でもついに疑惑を生じかけていた、とくに新しい旋律《メロディー》を弾くと、コリーヌはも一度ひいてくれと頼み、みずから立ち上がって、記憶をたどりながらほとんど間違えずにその曲を歌い出したので、彼は非常に驚かされた。彼は彼女の方へ向き直り、心をこめてその両手を取った。 「あなたは音楽家だ!」と彼は叫んだ。  彼女は笑いだした。そして、初めは田舎《いなか》の歌劇に歌手として乗り出したのであったが、巡回興行主から詩劇にたいする才能を認められて、その方へ向けられたのだということを、説明してきかした。彼は叫び声をたてた。 「ひどいや!」 「なぜ?」と彼女は言った。「詩もやはり音楽の一つじゃないの。」  彼女は彼の歌曲[#「歌曲」に傍点]の意味を説明さした。彼はドイツ語で話した。彼女は彼の口や眼の皺《しわ》までも真似《まね》て発音しながら、猿《さる》のようにすばしこくその言葉をくり返した。それから暗誦して歌う時になると、おかしな間違いをした。わからなくなると、自分で言葉を作り出して、喉《のど》にかかった粗野な音を発するので、二人とも笑いだした。彼女は彼に演奏してもらうのに飽きなかったし、また彼は、彼女に演奏してやり彼女の美しい声を聞くのに飽きなかった。その声には少しも職業的な技巧がなかったし、また小娘のように多少喉にかかる歌い方をしてはいたが、なんとも言えぬはかない感傷的な調子がこもっていた。彼女は思うとおりを腹蔵なく言ってのけた。ある物をなぜ好むかあるいは好まないかを、はっきり説明することはできなかったけれど、その批判のうちにはいつも理由が潜んでいた。不思議なことには、最も古典的でドイツで最も賞美さるる楽節において、彼女は最も退屈がった。彼女は礼儀上多少の世辞は言ったが、しかし明らかに、そういう曲からはなんの意味をも感じていなかった。音楽愛好家やまたは音楽家でさえも、かつて聞いたもの[#「かつて聞いたもの」に傍点]からは一種の喜びを感ずるものであって、またその喜びのために彼らは、古い作品の中にかつて愛したことのある形式や様式を、知らず知らずのうちにしばしば再現し、もしくは新しい作品中にもそれを愛するものであるが、しかし彼女は音楽的教養がなかったので、そういう喜びを知らなかった。また彼女は、感傷的な旋律《メロディー》にたいするドイツ人の嗜好《しこう》をも、もってはいなかった。(もしくは少なくとも、彼女の感傷性は別種なものであった。そしてクリストフはその欠点をまだ知らなかった。)ドイツで好まれる多少柔弱な平淡さをもってる楽節にたいして、彼女は少しも歓《よろこ》びを示さなかった。彼の歌曲《リード》のうちの最も凡庸《ぼんよう》なもの――友人らが少しでも彼に祝し得るのを喜んで、彼にそのことばかりを言うので、彼が破棄してしまいたいと思ったある旋律《メロディー》、そういうものに彼女は少しも気をひかれなかった。彼女は劇的な本能から、一定の熱情を忌憚《きたん》なく描いた旋律を好んだ。彼が最も重んじていたのも、やはりそういう旋律だった。けれども彼女は、クリストフが自然だと思っていたある種の粗暴な和声《ハーモニー》にたいしては、あまり同感し得ないことを示した。彼女はそれに出会うと、一種の齟齬《そご》を感じた。そこにさしかかる前に歌うのをやめて、「ほんとうにそうなんですか、」と尋ねた。彼がそうだと答えると、ようやく思い切ってその困難にぶつかっていった。しかしそのあとで、彼女はちょっと口のあたりをゆがめた。クリストフはそれを見落さなかった。またしばしば、彼女はその小節を飛び越したがった。すると彼は、ピアノでくり返した。 「これ嫌《きら》いですね。」と彼は尋ねた。  彼女は鼻をしかめた。 「違ってるわ。」と彼女は言った。 「いいえ。」と彼は笑いながら言った。「ほんとうです。意味を考えてごらんなさい。正しいじゃないですか、ここでは。」  (彼は心臓を指《ゆびさ》した。)  しかし彼女は頭を振った。 「そうかもしれないわ。でも違っててよ、こちらでは。」  (彼女は耳を引っ張った。)  彼女はまた、ドイツの朗吟法の大袈裟《おおげさ》な高声に、不快を感じてる様子だった。 「どうしてあんな大きい声をするんでしょう?」と彼女は尋ねた。「ただ一人なのに。隣りの人たちに聞こえても構わないのかしら。ちょうど……(ごめんなさい、怒《おこ》っちゃいやよ)……ちょうど渡し舟でも呼ぶようだわ。」  彼は怒らなかった。心から笑っていた。そして多少当たってることを認めた。彼はそういう意見を面白がった。だれからもまだそんなことを言われたことがなかった。結局、朗吟法は拡大鏡のように自然の言葉を害《そこな》うことが最も多いというのに、二人は一致した。コリーヌは、ある戯曲の音楽を書いてくれと、クリストフに頼んだ。その芝居で彼女は、時々ある文句を歌いながら管弦楽《オーケストラ》の伴奏に合わして語りたいのだった。彼はその考えに夢中になった。舞台上の実現は困難であったが、コリーヌの音楽的な声なら、それに打ち勝ち得るように考えられた。そして二人は、未来の計画をたてた。  彼らが出かけようと思いついた時には、もう五時近くなっていた。この季節には日の暮れるのが早かった。もはや散歩どころではなかった。その晩コリーヌには、劇場で下|稽古《げいこ》があった。それにはだれも列席することができなかった。予定の散歩をするため明日の午後誘いに来ることを、彼女は彼に約束さした。  翌日も、も少しで同じ場面がくり返されるところだった。彼が訪ねてゆくと、コリーヌは鏡を前にして、高い腰掛にすわり足をぶらぶらさしていた。鬘《かつら》をためしてるのだった。衣裳方と一人の床屋とがそばにいた。彼女は巻毛をも少し高くしたいといって、床屋に種々注文をしていた。そして鏡をのぞいてる時に、自分の背後で微笑《ほほえ》んでるクリストフを鏡の中に見出した。彼女は舌を出してみせた。床屋は鬘をもって出て行った。彼女は快活にクリストフの方をふり向いた。 「今日は。」と彼女は言った。  彼女は彼に接吻《せっぷん》させるため片|頬《ほお》を差し出した。彼はそれほどの親密を期待していなかった。しかしその機会を無駄《むだ》にはしなかった。彼女の方では、その恩恵をなんとも思っていなかった。彼女にとっては、ただ普通の「今日は」と同じものだった。 「ああうれしいこと!」と彼女は言った。「今晩はうまくゆくわ。――(彼女は鬘のことを言ってるのだった。)――ほんとうに悲しかったのよ。今朝いらしったら、私は困りきってるところだったわ。」  彼はその理由を尋ねた。  それは、パリーの床屋が荷造りを間違えて、彼女の役割に適しない鬘を入れて来たからだった。 「平《ひら》べったくって、」と彼女は言った、「おかしな格好に毛がたれ下がってるんだもの。それを見た時私は、ほんとに、涙の限り泣いちゃったわ。ねえ、デジレさん。」 「はいって来ると、」とデジレは言った、「びっくりしたわ。顔の色がなくなって、死人のようになってたんですよ。」  クリストフは笑った。コリーヌはそれを鏡の中で認めた。 「笑ってるのね、人の気も察しないで。」と彼女は怒《おこ》って言った。  が彼女もまた笑いだした。  彼は前夜の稽古《けいこ》の様子を尋ねた。 「すっかりうまくいったわ。」ただ一つ彼女は、他人の台辞《せりふ》はもっと削ってもらいたく、自分のは削らないようにしてほしいだけだった。……二人は楽しく話し合って、午後の一部はそれで過ぎてしまった。彼女はゆるゆると着物を着た。自分の服装についてクリストフの意見を聞くのを楽しんだ。クリストフは彼女の容姿をほめ、フランス語とドイツ語と折衷的な言葉を使って、彼女ほど「淫麗《いんれい》」な人を見たことはないと、率直に述べた。――彼女は最初まごついて彼をながめ、それから突然大声に笑いだした。 「私が何か言ったんですか。」と彼は尋ねた。「そう言っちゃいけないんですか。」 「いいわ、いいわ。」と彼女は笑いこけながら言った。「ちょうどそのとおりよ。」  ついに二人は出かけた。彼女のきらびやかな服装とおかまいなしの言葉とは、人の注意をひいた。彼女はすべての物を嘲笑《ちょうしょう》的なフランス婦人の眼でながめ、そしてその印象を隠そうとしなかった。流行品店や絵葉書店などの前で、彼女はよく放笑《ふきだ》した。感傷的な絵、滑稽《こっけい》な露骨な絵、売笑婦の姿、皇族、赤服の皇帝、青服の皇帝、ゲルマン[#「ゲルマン」に傍点]号の舵《かじ》を取って天を軽蔑《けいべつ》してる老水夫服の皇帝、そんなものが雑然と並べてあった。ワグナーの頑固《がんこ》頭を飾りにした一組の食器の前や、蝋《ろう》細工の頭が傲然《ごうぜん》と控えてる理髪店の前で、彼女は大笑いをした。プロシアやドイツ連邦やまっ裸の軍神を引き連れて、旅行|外套《がいとう》を着け尖《とが》った兜《かぶと》を頂《いただ》いた老皇帝を現わしてる、愛国的記念塔の前でも、彼女は不敬にもおかしがった。人々の顔つきや歩き方や話し方について、おかしなものはなんでも通りがかりに取り上げた。滑稽《こっけい》な点をうかがってるその意地悪な眼つきに会って、被害者らも気づかずにはいられなかった。彼女は猿のような本能に駆られて、みずからなんの考えもなしに、人々の悲喜こもごもなしかめ顔を唇《くちびる》や鼻で真似《まね》ることさえあった。またはふと耳にした切れ切れの文句や言葉のうち、奇妙な音調だと思われるものがあると、頬《ほお》をふくらましてそれをくり返した。彼は彼女のそういう無作法を少しも迷惑とせずに、快く笑っていた。なぜなら、彼も彼女と同じくらい無遠慮に振舞っていたから。幸いにも、もはや彼の評判は失墜しても大して惜しいものではなかった。そういうふうな散歩はすっかり評判を落としてしまうものではあるが。  二人は大会堂を見物に行った。コリーヌは高い踵《かかと》の靴《くつ》をはきたいへんな長衣を着ていたが、それにもかかわらず鐘楼の頂まで上りたがった。長衣の裾《すそ》は階段に引きずって、その角《かど》に引っかかった。彼女は平気だった。裂けるのも構わず衣を引っ張り、元気に裾を引きあげて上りつづけた。も少しで鐘を鳴らそうとまでした。塔の上でヴィクトル・ユーゴーの詩を朗吟した。彼にはその意味が少しもわからなかった。彼女はまたフランスの俗謡を一つ歌った。それから回教徒にならって、祈祷《きとう》時間を告げる真似をした、――薄暮になりかかっていた。二人は会堂の中に降りていった。濃い闇影《あんえい》が大きな壁にはい上がっていた。壁の上方には窓ガラスの怪しい眸《ひとみ》が光っていた。クリストフがふと見ると、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]見物に桟敷を共にしたあの若い女が、片側の礼拝所にひざまずいていた。彼女は祈祷に我れを忘れて、彼の姿に気づかなかった。悲しい切ない表情をしていた。彼はそれに心打たれた。なんとか言葉をかけたかった。少なくとも挨拶《あいさつ》だけなりとしたかった。しかしコリーヌは彼を急《せ》きたてて引っ張っていった。  二人はやがて別れた。ドイツの習慣として開演の時間が早いので、彼女はその準備をしなければならなかった。彼は家に帰った。するとほとんどすぐに、使の者がコリーヌの手紙をもって来た。 [#ここから2字下げ]  ありがたい。ゼザベルが病気。芝居お休み。稽古《けいこ》おやめ。……ねえ、いらっしゃい。いっしょに御飯を食べましょう。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]親しいコリネットより [#ここから2字下げ]  それから、音楽をたくさんもってきてちょうだい! [#ここで字下げ終わり]  彼はちょっと意味がわからなかった。ようやくわかると、コリーヌと同様にうれしかった。そしてすぐ旅館へ出かけた。仲間の者が皆いっしょに食事をしてやすまいかと気づかわれた。しかしだれの姿も見えなかった。コリーヌまでもいなかった。でもやがて、彼女の騒々しい快活な声が、奥の方に聞こえた。彼は彼女を捜し始めた。料理場でようやく見つかった。彼女は手製の料理を、非常な匂《にお》いが近所にあふれて石をも眼覚《めざ》めさすほどの南欧式な料理を、一|皿《さら》こしらえようと考えたのだった。彼女は旅館のでっぷり太った主婦と仲がよかった。そして二人でいっしょに、ドイツ語ともフランス語とも黒人語ともつかない、なんとも言いようのないたいへんな言葉をしゃべりちらしていた。たがいに料理の味をみながら大笑いをしていた。クリストフがやって来たので、なお騒ぎが募った。彼女らは彼を追い出そうとした。しかし彼は逆《さから》って、その有名な料理を味わうことができた。彼はちょっと顔をしかめた。それを見て彼女は、彼を野蛮なチュートン人だとし、彼のために骨折るのはまったく無駄なことだと言った。  二人はいっしょに小さな客間へ上がっていった。そこには食卓が用意されていた。彼とコリーヌとの食器があるばかりだった。仲間の人たちはどこへ行ったのかと、彼は尋ねないではいなかった。コリーヌは平気な身振りをした。 「知らないわ。」 「いっしょに食事をしないんですか。」 「ええちっとも。芝居で顔を合わせるだけでたくさんよ。……ほんとに、食卓でまでいっしょにいなけりゃならないとしたら!……」  それはドイツの習慣とはまるで異なっていた。彼は驚くとともに面白く思った。 「あなたたちは、」と彼は言った、「社交的な国民だと思っていたが。」 「そんなら、」と彼女は言った、「私は社交的でないんでしょうか。」 「社交的というのは、社会のうちに生活するということです。こちらでは、たがいに顔を合わせなければなりません。男も女も子供も、生まれた日から死ぬ日まで、それぞれ社会の一部をなしている。すべては社会のうちでなされる。人は社会とともに食ったり歌ったり考えたりする。社会が嚔《くしゃみ》をすれば、人もそれとともに嚔をする。一杯のビールを飲むのにも、社会とともに飲むんです。」 「それは面白いに違いないわ。」と彼女は言った。「同じ杯で飲んだらいいわ。」 「親密でしょう。」 「親密なんてそんな! 私は好きな人となら兄弟になってもいいし、そうでない人とはごめんだわ……。おう嫌《いや》だ、そんなのは、社会じゃなくて、蟻《あり》の巣よ。」 「僕もあなたに同意です。だからこちらで僕がどんな気持かわかるでしょう。」 「では私の国へいらっしゃいよ。」  それは彼の望むところだった。彼はパリーやフランス人のことについて尋ねた。彼女は種々聞かしてやった。それは完全に正確なものではなかった。南欧婦人の大袈裟《おおげさ》な自慢癖のうえに、相手を幻惑しようという本能的な欲求が加わっていた。彼女の言うところによれば、パリーではだれも皆自由だった。そしてパリーでは皆|怜悧《れいり》なので、各人が自由を利用し、一人としてそれを濫用する者がなかった。各自に好きなことをし、勝手に考え信じ愛し、もしくは愛しなかった。だれもそれに言い分はなかった。そこでは、他人の信仰に立ち入る者はいないし、他人の良心を探偵《たんてい》する者はいないし、他人の思想を抑制する者はいなかった。そこでは、政治家が文芸美術に干渉することがなく、情誼《じょうぎ》や恩顧で勲章や地位や金銭を分かつことがなかった。そこでは、会の名によって評判や成功が左右されることなく、新聞雑誌記者が買収されることなく、文学者が勝手に自惚《うぬぼ》れ返ることはなかった。そこでは、批評界が無名の秀才を圧迫することもなく、知名の士におもねることもなかった。そこでは、成功が、いかに価値ある成功でもが、それを得る手段をすべて正当化することなく、また民衆の崇拝を左右することがなかった。人気は穏和で丁重で親切だった。交誼《こうぎ》はいかにも滑《なめ》らかだった。決して人の悪口が聞かれなかった。人はたがいに助け合っていた。いかに新参な者でも価値さえあれば、かならず喜んで迎えられ、平らかな前途が見出されるのだった。美《うる》わしいものにたいする純なる愛情が、それら任侠《にんきょう》公平なフランス人の魂に満ちていた。そして彼らの唯一の滑稽《こっけい》な点は、その理想主義にあるのであって、そのために彼らは、世に知られた敏才をもってるにもかかわらず、他の国民から欺かれることがあるのだった。  クリストフは呆気《あっけ》に取られて聞いていた。実際、感嘆すべき点が多かった。コリーヌ自身も、自分の言葉を聞きながら感嘆していた。過去の生活の困難だったのについて前日クリストフに話したことなんかは、すっかり忘れてしまっていた。彼も同様にそんなことは思い出してもいなかった。  けれどもコリーヌは、自分の祖国をドイツ人に愛させようと努めてるばかりではなかった。自分自身をも愛させようと望んでいた。親昵《しんじつ》のない一晩は、彼女にとってはしかつめらしくやや滑稽《こっけい》に思われたに違いない。彼女はクリストフにふざけないではおかなかった。しかしそれは徒労だった。彼はさらに気づかなかった。彼は親昵のなんたるやを知らなかった。彼は愛するか愛しないかであった。愛しない時には、恋愛のことなんかは頭にも浮かべなかった。彼はコリーヌにたいして、強い友情をいだいていた。彼にとってはいかにも珍しい南欧人の性質、そのやさしい愛嬌《あいきょう》、その晴れ晴れとした気分、その活発自由な知力に、彼は魅せられていた。そこにはもちろん、愛するためにあり余るほどの理由があった。しかし「人の心の風は己《おの》がままに吹く。」彼の心の風はその方へ吹かなかった。そして、恋愛がないのに恋愛の真似《まね》をすることは、彼のかつて思いもつかないことだった。  コリーヌは彼の冷たい様子を面白がっていた。もって来た種々の楽曲を彼がひいてる間、彼女は彼のそばにピアノの前にすわって、彼の首に裸の腕をまきつけ、音楽をよく聞くために鍵盤《キイ》の方へかがみ込んで、自分の頬をほとんど彼の頬《ほお》にくっつけるほどにした。彼は彼女の睫毛《まつげ》が触れるのを感じ、また、その嘲るような眸《ひとみ》の片隅や、愛くるしい鼻つきや、もち上がった唇《くちびる》の細かい産毛《うぶげ》などを、自分のすぐそばに見た。その唇は微笑《ほほえ》みながら待っていた――彼女は待った。クリストフにはその誘いがわからなかった。コリーヌは自分の演奏を邪魔してる、というのが彼の考えのすべてだった。機械的に彼は身を引いて、椅子《いす》を横の方へずらした。そして間もなく、コリーヌの方へ振り向いて話しかけようとすると、彼女の笑いたくてたまらないような様子が眼についた。その頬の笑靨《えくぼ》は笑っていた。彼女は唇をきっと結んで、放笑《ふきだ》すまいと一生懸命に我慢してるらしかった。 「どうしたんです?」と彼は驚いて言った。  彼女は彼をながめて、にわかに大笑いを始めた。  彼には何にもわからなかった。 「なぜ笑うんです。」と彼は尋ねた。「僕が何かおかしなことを言いましたか。」  彼がしつこく聞けば聞くほど、彼女はますます笑った。笑いやめようとすると、彼の狼狽《ろうばい》した様子を一目見ただけで、さらに激しく笑いだした。立ち上がって、向こうの隅の安楽椅子へ駆けて行き、その羽蒲団《はねぶとん》に顔を埋め、思うまま笑った。その身体全体が笑っていた。彼にもその笑いがうつってきた。彼女の方へやって行き、その背中を軽くつっついた。彼女は心ゆくばかり笑ってから、顔を上げ、涙のたまった眼を拭《ふ》き、彼の方へ両手を差し出した。 「あなたはほんとにいい児《こ》ね。」と彼女は言った。 「特別に悪い児でもありません。」  彼女はなお、こみ上げてくる小さな笑いに身を揺られながら、彼の両手を掘ったまま離さなかった。 「真面目《まじめ》じゃないわね、フランスの女は。」と彼女は言った。  (彼女はフランスー[#「フランスー」に傍点]の女と発音した。) 「僕をからかってるんですね。」と彼は機嫌《きげん》よく言った。  彼女は彼をしみじみとした様子でながめ、強くその両手を振り動かして言った。 「お友だちにね。」 「お友だち!」と彼も手を振り返しながら言った。 「このコリネットがここから発《た》ってしまっても、忘れないでくださるわね。このフランスの女が真面目でないったって、それを恨みはなさらないわね。」 「そしてあなたの方でも、この野蛮なチュートン人がいくら馬鹿だって、それを恨みはしないでしょうね。」 「それだからかえって好きなのよ。……パリーへも会いに来てくださるわね。」 「ええきっと。……そして私に手紙をくださるでしょうね。」 「誓うわ。……あなたもそれを誓ってちょうだいよ。」 「誓います。」 「いいえ。そうじゃないのよ。手を出さなくちゃいけないわ。」  彼女はオレースの誓いを真似た。また彼女は、自分のために一篇の曲を、插楽劇《メロドラマ》を、書くことを彼に約束さした。彼女はそのフランス訳をパリーで演ずるつもりだった。彼女は仲間とともに翌日出発することになっていた。彼らが一興行するフランクフルトまで、彼は翌々日会いに行くと約束した。二人はなおしばらくいっしょにしゃべった。彼女はクリストフに、ほとんど半身裸体の写真を一枚贈った。彼らは兄妹のように抱擁しながら、快活に別れた。そして実際コリーヌは、クリストフが自分をよく愛してはいるが決して恋してはいないことを、それと見て取ってからは、仲のいい友だちとして恋愛なしに、自分もまた彼を愛しだしたのであった。  そのために二人の眠りは、どちらも妨げられなかった。彼は翌日、別れの言葉を告げることができなかった。彼はその時、ある音楽会の下稽古《したげいこ》につかまっていたからである。しかしその次の日に、彼は都合をつけて約束どおりフランクフルトへ行った。汽車で二、三時間ばかりだった。コリーヌはクリストフの約束をほとんど信じていなかった。しかし彼の方はきわめて真面目《まじめ》だった。そして、開演の時間に彼はそこへ着いていた。幕間《まくあい》に彼は行って、彼女の支度《したく》部屋の扉《とびら》をたたいた。彼女は喜ばしい驚きの叫び声をたてて、彼の首に飛びついてきた。彼が来てくれたことを心からありがたがっていた。ただクリストフにとっては不幸にも、彼女はこの町では、彼女の現在の美と将来の成功とを鑑識し得る富裕|怜悧《れいり》なユダヤ人どもから、ずっと多く取り巻かれていた。たえず部屋の入口で人々が雑踏していた。扉《とびら》は半開きのままで、眼の鋭い重々しい顔つきの連中が出入りしていた。彼らは激しい調子でくだらないことを言っていた。コリーヌはもとより彼らとふざけていた。そのあとで、わざとらしい唆《そそ》るような調子をそのまま変えないで、クリストフと話をした。彼はそれにいらだった。また眼前で化粧《けしょう》にとりかかった彼女の平気な不貞さにも、少しの喜びをも感じなかった。腕や喉《のど》や顔に塗られる脂粉に、深い嫌悪《けんお》を覚えた。芝居がすむとすぐに彼は、彼女に会わずに帰りかけようとした。けれども、閉場後招かれていた夜食の宴に臨むことができないのを詫《わ》びながら、彼女に別れを告げると、彼女がいかにも可憐《かれん》な心残りの様子を示したので、彼は決心を押し通すことができなかった。彼女は汽車の時間表を取り寄せて、まだ十分一時間くらいはいっしょにいられる――いっしょにいなければいけないということを、証明してやった。そう説服されるのはもとより彼の望むところだった。そして彼は夜食の宴に列した。そこでしゃべり散らされてるつまらない事柄にたいする倦怠《けんたい》や、コリーヌが手当たりしだいの人に浴びせかけてる揶揄《やゆ》にたいする憤懣《ふんまん》も、彼はあまり多く示さないでいられた。そんなことを彼女に恨むわけにはゆかなかった。彼女はとにかくしたたかな娘で、道徳心もなく、怠惰で、肉感的で、快楽を好み、くだらない愛嬌《あいきょう》をふりまいてばかりいたが、しかし同時に、いかにも公明であり、いかにも善良であって、そのあらゆる欠点も自然で健やかなために、笑って済まさざるを得ないし、ほとんど愛せざるを得なかったのである。しゃべりつづけてる彼女の正面にすわって、クリストフは、イタリー式の微笑――温和さと機敏さと貪食《どんしょく》的な重々しさとのこもった微笑をたたえてる、その元気な顔、輝いてる美しい眼、ふくらみ加減の顎《あご》、などをながめていた。彼はかつてそれほどはっきり彼女を見たことがなかった。ある特徴が彼にアーダを思い起こさした。身振り、眼つき、多少露骨で肉感的な狡猾《こうかつ》さ――すなわち永遠の女性的なところが。しかし彼女のうちに彼が愛してるものは、南欧の性質であった。南欧の寛濶《かんかつ》な性質は、その天分を少しも惜しむところなく発揮し、客間的な美や書籍上の明知をこしらえることには興味をもたないが、しかし心身ともに日の光に花を開くべきなごやかな人物をこしらえて喜ぶのである。――彼が帰りかけると、彼女は食卓を離れ、他人をぬきにして別れを告げた。二人はまた抱擁し合い、手紙の往復と再会との約束をくり返した。  彼は最終の列車に乗って帰途についた。中間のある駅で、反対の方から来た列車が待っていた。ちょうど自分の正面に止まってる車室――三等車の中に、クリストフは、ハムレット[#「ハムレット」に傍点]の芝居でいっしょになったあの若いフランスの女を認めた。彼女の方でもクリストフの姿を見て、見覚えていた。二人ともびっくりした。黙って会釈をしたが、それ以上顔を見合わしかねて身動きもしなかった。けれどもクリストフは、彼女が小さな旅行帽子をかぶって古い鞄《かばん》をそばに置いてるのを、一目で見て取ったのだった。それでも、彼女が国を去ろうとしてるのだとは思いつかなかった。ただ数日の旅だろうと考えた。彼は彼女に話しかけてよいかどうかわからなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》した。言いたいことを頭の中で用意した。そして彼女に言葉をかけるために、車室の窓を開《あ》けようとすると、発車の笛が鳴った。彼は話すことをあきらめた。列車が動き出すまでに数秒過ぎた。二人はまともに顔を見合わした。どちらも自分の車室の中で、車窓に顔をくっつけ、あたりに立ちこめてる闇《やみ》を通して、たがいの眼の中をじっとのぞき込んだ。二つの窓が間を隔てていた。両方から腕を差し出したら、手先は届くかもしれなかった。すぐそばだった。またごく遠かった。列車は重々しく動き出した。たがいに別れる今となっては、彼女はもう臆《おく》しもしないで、彼をながめつづけた。二人はじっと相手の顔に見入ったまま、最後に挨拶《あいさつ》をかわすことさえも考えなかった。彼女は徐々に遠くなった。彼の眼から彼女は消えていった。彼女を乗せてる列車は暗夜の中に投じた。二人は二つの彷徨《さまよ》える世界のように、無限の空間の中で一瞬間をそばで過ごした、そしておそらく永遠に、無限の空間の中にたがいに遠ざかってしまった。  彼女の姿が見えなくなると、彼はその未知の眼差《まなざし》から心の中にうがたれた空虚を感じた。彼にはその理由がわからなかった。しかし空虚は存していた。半ば眼瞼《まぶた》を閉じ、うとうとしながら、車室の片隅《かたすみ》によりかかって、彼は自分の眼の上に彼女の眼の接触を感じていた。そしてそれをなおよく感ずるために、あらゆる他の考えは沈黙してしまった。窓ガラスの外側で羽ばたきしてる昆虫《こんちゅう》のように、コリーヌの面影が彼の心の外で飛び回っていたが、彼はそれを心の中にはいらせなかった。  汽車が向こうに着いて車室から出で、夜のさわやかな空気を吸い寝静まった街路を歩いて、ようやくはっきりした気持になった時、彼はまたコリーヌの面影を見出した。彼女のやさしい様子や卑しい媚《こ》びを思い出すにつれて、喜びといらだちとの交った気持で、その可憐な女優のことを考えては微笑《ほほえ》んだ。 「しようのないフランス人だ!」と彼は低い笑いとともにつぶやきながら、そばに眠っている母が眼を覚《さ》まさないように、そっと着物をぬぎかけた。  すると先夜|桟敷《ボックス》の中で聞いた一語が、ふと頭に浮かんできた。 「そうでない者もいます。」  彼は初めてフランスに接触してから、その二重性質の謎《なぞ》をかけられた。しかしあらゆるドイツ人と同じく、彼は謎を解こうとも思わなかった。そして車室の若い女のことを考えながら、平気でくり返した。 「あの女はフランス人らしくない。」  あたかも、いかなるものがフランス的であり、いかなるものがフランス的でないか、それを説明するのはドイツ人の役目ででもあるかのように。  フランス人であろうとあるまいと、彼女は彼の心を占めていた。彼は夜中に、切ない気持で眼を覚ました。あの若い女のそばに腰掛に置かれていた鞄《かばん》を、思い出したのだった。そして突然、彼女はまったく立ち去ってしまったのだという考えが頭に浮かんだ。実を言えば、その考えは最初から彼に起こるべきだったが、彼は思いつかなかったのである。彼はひそかな悲しみを感じた。彼は寝床の中で肩をそびやかした。 「それが俺《おれ》になんの関《かか》わりがあろう。」と彼は考えた。「俺の知ったことではない。」  彼はまた眠りに入った。  しかし、翌日彼が外に出て最初に出会ったのは、マンハイムだった。マンハイムは彼を「ブリューヘル」と呼び、フランス全体を征服するつもりかと尋ねた。そして彼はこの生きた新聞から、あの桟敷《ボックス》の一件が大成功で、マンハイムの期待以上だったということを、聞き知った。 「君は実に偉い!」とマンハイムは叫んだ。「僕なんか比べものにもなりゃしない。」 「僕がどうしたというんだい!」とクリストフは言った。 「君には感服だ!」とマンハイムは言った。「僕はうらやましいよ。桟敷を奪ってグリューネバウムの奴《やつ》らに鼻をあかしながら、その家のフランス語の家庭教師を代わりに招待するなんて……いや、花輪でもささげたいくらいだ。僕には考えもつかなかった。」 「グリューネバウムの家の家庭教師だったのかい?」とクリストフは茫然《ぼうぜん》として言った。 「そうだ。知らないふりをするがいいよ、罪のないふうをするがいいよ。僕もそれを勧めるね。……親父《おやじ》はもう心を和らげまい。グリューネバウムたちはたいへん怒ってる。……気長い話じゃないんだ。女を追っ払っちゃったよ。」 「なに、」とクリストフは叫んだ、「追い出したって!……僕のために追い出したのかい?」 「君は知らないのか。」とマンハイムは言った。「あの女は君に言わなかったのか。」  クリストフは心が暗くなった。 「気をもむには及ばないよ、君、」とマンハイムは言った、「大したことじゃないからね。それに、どうせそうなるにきまってるよ、いつかグリューネバウムたちに知られたら……。」 「何を?」とクリストフは叫んだ、「何を知られるんだい。」 「君の情婦だということをさ。」 「僕はあの女を知りもしないよ。名前さえ知らないんだ。」  マンハイムは微笑した。その意味はこうだった。 「君は僕を間抜けだと思ってるんだね。」  クリストフは腹をたてた。自分の断言することを信じてくれとマンハイムに迫った。マンハイムは言った。 「それではなおさらおかしな話だね。」  クリストフはいきりたって、グリューネバウムたちに会いに行き、事実を物語り、あの女のあかしをたてる、と言い出した。マンハイムはそれを諌《いさ》めた。 「ねえ君、」と彼は言った、「君がどんなに説きたてても、反対のことをますます信じさせるばかりじゃないか。それにもう手後《ておく》れだよ。今時分あの女は遠くに行ってるだろう。」  クリストフは悲痛な気持になって、その若いフランス婦人の行くえを捜そうとつとめた。彼女に手紙を書いて許しを乞《こ》いたかった。しかしだれも彼女のことをまったく知らなかった。グリューネバウム家の人たちに尋ねたが、ただ追い返されてしまった。彼ら自身も彼女がどこへ行ったか知らなかった、そして平気でいた。クリストフは、悪いことをしたという考えに悩まされた。それは絶え間ない苛責《かしゃく》だった。なおそれには、消え去った彼女の眼から彼の上へ静かに輝き渡る神秘な誘惑が、つけ加わっていた。その誘惑と苛責とは、新しい日月と新しい考えとの波に覆《おお》われて、消えてゆくようにも思われた。しかし底の方に人知れず残存していた。クリストフは彼女を自分の犠牲と呼んで、少しも忘れなかった。も一度めぐり会おうとみずから誓った。その再会がいかに望み少ないかはよくわかっていた。しかもかならず再会することができると信じていた。  コリーヌの方は、彼が書き送る手紙に少しも返事をくれなかった。しかし三か月後に、彼がもう何にも待っていない時に、四十語の電報が届いた。その中で彼女は、うれしげなつまらないことを言い散らし、彼に親しげなかわいい言葉をかけ、「相変わらず愛し合ってるのね」と尋ねていた。それからなんの便りもなくて一年ばかり過ぎた後、子供らしい曲がりくねった大きな字体で、しかも貴婦人らしく見せかけようとつとめながら書きなぐった、一片の手紙――かわいいおどけた数語――が来た。そして、それきりだった。彼女は彼を忘れてはいなかった。しかし彼のことを考える隙《ひま》がなかった。  コリーヌの魅力にまだとらえられており、彼女と話し合った考えで頭がいっぱいになっていて、クリストフは、彼女が若干の歌曲を歌いながら演ずるはずの戯曲のために――一種の詩的|插楽劇《メロドラマ》のために、音楽を書こうと空想した。この種の芸術は、かつてドイツでもてはやされ、モーツァルトから熱心に鑑賞され、ベートーヴェンやウェーバーやメンデルスゾーンやシューマンやまたあらゆる古典的楽匠らによって、実際試みられたものであるが、劇と音楽の決定的様式を実現したと自称するワグナー派の勝利以来、すっかり廃《すた》れたのであった。厚顔な衒学《げんがく》的なワグナー派は、新しい插楽劇《メロドラマ》をすべて排斥するだけで満足せず、古い插楽劇《メロドラマ》を飾りたてようとつとめた。彼らは話される対話の痕跡《こんせき》を歌劇《オペラ》から注意深く消し去って、モーツァルトやベートーヴェンやウェーバーらの作品のために、自己流の叙唱《レシタチーヴ》を書いた。それらの傑作の上におのれの小さな愚作を恭々《うやうや》しくつみ重ねながら、巨匠の考えを補ってるのだと思い込んでいた。  クリストフはコリーヌの批評を聞いたために、ワグナー派の朗吟法の重苦しさやまた多くの醜さなどに、いっそう敏感となっていたので、言葉と歌とを劇中で併合させ叙唱《レシタチーヴ》の中に結合させるのは無意味なことで自然に反する手法ではないかと、疑念をもっていた。それはちょうど、馬と鳥とを同じ車につなごうとするようなものであった。言葉と歌とはそれぞれ自分の律動《リズム》をもっている。作者が両芸術の一方を犠牲にしておのれの好む方に勝利を得させようとするのならば、首肯できる。しかし両芸術間に妥協を求むるのは、両者をともに犠牲にすることだった。言葉がもはや言葉でなく歌がもはや歌でないのを、望むことだった。歌の広い流れが単調な掘割の両岸の間にはめ込まれるのを望み、言葉の美しい裸の手足が、身振りや歩行を妨げるりっぱな重い衣でまとわれるのを、望むことだった。その自由な運動を、なぜ両者に残してやらないのか? たとえば、軽快な足取りで小川のほとりをたどって、歩きながら夢想する美しい娘のようにだ。水の囁《ささや》きは彼女の夢想を揺《ゆす》り、彼女は知らず知らずに、自分の歩みの律動《リズム》を小川の歌に合わしてゆく。かくて音楽と詩とはともに自由のままで、その夢想をないまぜながら、相並んで進んでゆくだろう。――もちろんかかる結合においては、どの音楽もりっぱだとは言えなかったし、詩もまたそうであった。插楽劇《メロドラマ》の反対者らは、これまでなされた試みとその実演者たちとの粗笨《そほん》さにたいして、りっぱに攻撃の理由をもっていた。クリストフも長い間、同じように嫌悪《けんお》を感じていた。俳優らは、楽器の伴奏につれて物語ることだけを事とし、伴奏には気も配らず、自分の声をそれに合わせようともせず、反対に自分の言葉だけを聞かせようとつとめていて、その愚劣さ加減には、音楽的な耳に反感を起こさせるだけのものがあった。しかしながら、コリーヌのなごやかな声――流麗で純潔で、水中の一条の光線のように音楽の中に動きゆき、あらゆる旋律《メロディー》の句調に和合し得て、さらに流動自由な歌のようである声――それをクリストフは味わって以来、新芸術の美を瞥見《べっけん》したのであった。  おそらく彼は至当であったろう。しかし彼はまだ十分の経験をつんでいなかったので、この新しい形式を試みるには危険が伴わないわけにはゆかなかった。この形式こそ、真に芸術的たらんことを欲するならば、最も困難なものである。ことにこの芸術は、一つの本質的な条件を、詩人と音楽家と実演者との結合的努力の完全な調和を、要求するものである。――クリストフはそんなことを気にかけてはいなかった。彼は自分一人その法則を予感してる未知の芸術の中に、無我夢中で飛び込んでいった。  彼の最初の考えはシェイクスピヤの夢幻劇かまたはファウスト[#「ファウスト」に傍点]第二部の一幕かに、音楽の衣を着せることであった。しかしどの劇場も、そういう試みにあまり気が進まない態度を見せた。非常に費用がかかるしまた馬鹿《ばか》げたことのように思われた。音楽におけるクリストフの技倆《ぎりょう》はよく認められていた。しかし演劇に種々の野心をいだいてることは、人の笑いを招いた。人々は彼の言うことを本気に取らなかった。音楽の世界と詩の世界とは、たがいに親しみのないひそかに敵意を含んでる二つの国のようだった。詩の国に踏み込むためには、クリストフは詩人の協力を承諾しなければならなかった。そしてその詩人をも、彼には選択の権利がなかった。彼自身もみずから選ぼうとは思わなかった。彼は自分の詩的趣味に自信がなかった。詩は少しもわからないのだと人から説服されていた。そして実際、周囲の人々の称賛してる詩が彼には少しもわからなかった。彼は例の正直さと強情さとで、それらの詩のあるものの美を感じたいとかなり骨折った。けれどその結果はいつもなんらの得るところもなく、自分自身が少し恥ずかしくなるばかりだった。いや確かに彼は詩人ではなかった。実を言えば、昔のある詩人らを熱愛していたし、それが多少の慰安にはなっていた。しかしもとより、彼は正当の愛し方をしてるのではなかった。偉大なる詩人は、たとい散文に翻訳されようとも、外国語の散文に翻訳されようとも、やはり偉大であるはずだし、また言葉は、それが表現してる魂の価値以外には他に価値をもってるものではないという、おかしな意見を彼はかつて発表したことがあった。友人らは彼を嘲笑《あざわら》った。マンハイムは彼を俗物だとした。しかし彼は弁解しようとはしなかった。音楽のことを語ってる文学者らの実例によって、おのれの専門外の芸術をもあえて批評する芸術家らの滑稽《こっけい》なことを、彼は毎日見ていたので、詩にたいする自分の無能を(心の底では多少信じかねながらも)あきらめていた。そして、この方面では自分より教養があると思われる人々の意見を、眼をつぶって傾聴していた。それだから彼は、雑誌の友人らが説くところに従って、一人の協力者を承諾した。それはシュテファン・フォン・ヘルムートという廃頽《はいたい》派の大詩人であって、彼のもとへ自作のイフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]をもって来た。当時はちょうど、ドイツの詩人らが――(フランスの詩人らと同じく)――ギリシャのあらゆる悲劇を改作してる最中だった。シュテファン・フォン・ヘルムートの作品も、イプセンやホメロスやオスカー・ワイルドなどが――もちろん二、三の考古学的小著をも取り入れて――たがいに混合してるという、あの奇体なギリシャ・ドイツ折衷式脚本の一つであった。アガメムノンは神経衰弱者であり、アキレスは無気力者だった。彼らは長々と身の上を嘆いていた。そしてもとより、彼らの苦情はなんの役にもたたないものだった。劇の力はすべてイフィゲニアの役に集中されていた。――神経質でヒステリーで衒学《げんがく》的なイフィゲニアであって、英雄らに訓戒をしたり、猛烈な勢いでしゃべりたてたり、ニーチェ流の悲観思想を公衆にぶちまけたりしたあげく、死に酔いながら、哄笑《こうしょう》しつつ自殺するのであった。  このギリシャ式の服をまとってる廃頽《はいたい》した東ゴートの気障《きざ》な文学ぐらい、クリストフの精神に相反するものはなかった。しかし彼の周囲の者は傑作だと称賛していた。彼は卑怯《ひきょう》だった。皆の意見に説き伏せられた。しかし実を言えば、彼は音楽で頭がいっぱいになっていて、原文のことよりも音楽のことを多く考えていた。原文は彼にとって、自分の熱情の波をみなぎらすべき川床だった。詩の作品を音楽に翻訳せんとする者が当然もつべき自制と知的無私との状態から、彼はこの上もなく遠ざかっていた。彼は自分のことだけを考えて、作品のことはまったく考えなかった。作品に順応しようともしなかった。そのうえ彼は幻をいだいていた。詩を読んでも、その中にあることとはまったく別なことを思っていた。ちょうど少年時代と同じように、眼前の作品とはまったく異なった作品を頭の中にこしらえ上げてしまった。  彼が現実の作品に気づいたのは、下稽古のおりにであった。ある日一つの場面を聞いていると、それが非常に馬鹿げたものに感ぜられて、役者たちのせいでそうなったのだと思った。そして、詩人の眼前でその場面を役者たちに説明しようとしたばかりでなく、役者たちを弁護してる詩人にまで説明してきかせようとした。作者たる詩人はそれに抗弁して、自分が何を書いたかは自分で知ってるつもりだと、気を悪くした調子で言った。クリストフはそれでも前言を翻さないで、ヘルムートは何にもわかっていないんだと言い張った。ところが、皆がくすくす笑ってるので、初めて自分の滑稽《こっけい》なことに気づいた。要するにそれらの詩句を書いたのは自分ではないということを認めて、口をつぐんでしまった。その時彼は、作品がたまらなくばかばかしいものであることを知った。そして失望落胆した。どうして自分が見間違ったかを怪しんだ。彼はみずから馬鹿者と呼び、髪の毛をかきむしった。「お前には何にもわからないんだ、お前の仕事じゃないんだ、お前は自分の音楽にだけ頭を向ければいいんだ、」と彼は自分自身に向かってくり返しながら、心を落ち着けようとしたが無駄《むだ》だった。――児戯に類した点や、わざとらしい感激や、言葉身振り態度の仰々《ぎょうぎょう》しい虚偽などに、彼はいかにも恥ずかしい気がして、管絃楽を指揮しながらも時々、指揮棒を振り上げる力がなくなるほどだった。黒ん坊の穴へ身を隠したいほどだった。彼はあまりに率直であまりに策略がなかったので、自分の考えを隠し得なかった。友人らも役者らも作者も、皆彼の考えを見て取った。ヘルムートは苦笑を浮かべて彼に言った。 「これは君の気に入らないようですね。」  クリストフは正直に答えた。 「ほんとうのところを言えば、気に入らないんです。僕には意味がわかりません。」 「では作曲するのにも読まなかったんですか。」 「読みました。」とクリストフは無邪気に言った。「しかし僕は思い違いしていたんです。他のことを考えていたんです。」 「ではその考えを自分で書くとよかったんです。」 「ほんとに、僕が書くことができるんだったら!」とクリストフは言った。  詩人はむっとして、腹癒《はらい》せに音楽を批評した。邪魔な音楽で詩句を聞かせる妨げになると不平を並べた。  詩人は音楽家を理解しなかったし、音楽家は詩人を理解しなかったが、役者らの方でもまた音楽家をも詩人をも理解せず、かつそれを少しも気にかけてはいなかった。彼らは自分の持ち役の中であちらこちらに、いつもの効果を与えるような文句をばかり捜していた。朗吟法を調性と音楽的|律動《リズム》とに一致させることなどは、問題ではなかった。あたかもたえず調子はずれの歌い方をしてるがようだった。クリストフは歯ぎしりをして、一生懸命に音符を叫んでやった。が彼らは彼を叫ぶままにさしておいて、彼が自分たちに何を求めてるかさえ理解しないで、平然とやりつづけた。  もし下稽古があまり進んでいなかったら、そして紛擾《ふんじょう》の起こる恐れで制せられていなかったら、クリストフはすべてを放《ほう》り出したかもしれなかった。彼はマンハイムに落胆してることをうち明けると、マンハイムは彼を笑った。 「どうしてだい?」とマンハイムは尋ねた。「万事うまくいってるじゃないか。君たちはたがいに理解していないんだって? へえ、それがなんだい。作者以外に作品が理解された例《ためし》などあるもんか。自分で自分の作品を理解するだけでも、十分幸運じゃないか。」  クリストフは詩のばかばかしさを苦しんでいた。詩のために自分の音楽が毒されると言った。マンハイムも、その詩には常識が欠けてることや、ヘルムートが「頓馬《とんま》」であることは、容易に認めていた。しかし彼はヘルムートにたいしてなんらの不安もいだいてはいなかった。ヘルムートは御馳走《ごちそう》をふるまっていたし、きれいな女をもっていた。批評界にとってはそれだけで十分じゃないか。――クリストフは肩をそびやかして、冗談を聞く暇はないと言った。 「なに冗談なもんか。」とマンハイムは笑いながら言った。「世間の奴らはおめでたいもんだ。人生において何がたいせつか、そんなことは少しも考えていないんだ。」  そして彼は、ヘルムートのことをそんなに気にしないで、自分のことだけを考えるがいいとクリストフに忠告した。少し自分の広告でもせよと勧めた。クリストフは憤慨して拒絶した。彼の私生活について面会を求めて来たある探訪記者に、彼は腹をたてて答えた。 「それは君の知ったことじゃない!」  また、ある雑誌に出すのだと言って写真を求められると、彼は怒《おこ》って飛び上がりながら、自分はありがたいことには通行人に顔をさらすような皇帝なんかではないと、怒鳴り返した。――また、彼を勢力ある社交界に結びつけることもできなかった。彼は招待に応じなかった。偶然承諾の余儀ない場合になっても、出席することを忘れるか、またはすべての人に不快を与えようとつとめてるかと思われるほど、不機嫌《ふきげん》な様子で出席した。  しかし最も悪いことには、彼は公演の二日前に、雑誌の同人らと仲違《なかたが》いをした。  当然起こるべきことが起こった。マンハイムはなおクリストフの論説を校閲しつづけていた。そしてもはや平気で、非難の数行を全部|抹殺《まっさつ》して賛辞と置き換えていた。  ある日クリストフは、とある客間で、一人の音楽家と顔を合わした。――容貌《ようぼう》自慢のピアニストで、クリストフが酷評をくだした男であったが、その時、白い歯並みを見せて微笑《ほほえ》みながら彼のところへ来て礼を言った。彼は礼を言われる訳はないと乱暴な返事をした。相手はなお言い張って、まごつきながら感謝をやめなかった。クリストフは、あの論説に満足するかしないかは君の勝手であるが、しかしあれは確かに君を満足させるために書かれたのではない、と言って相手の言葉をさえぎった。そして背を向けてしまった。ピアニストは彼を親切な気むずかしやだとして、笑いながら立ち去った。しかしクリストフは、自分がやっつけてやった他の音楽家からも感謝の名刺を、せんだって受け取ったことを思い出して、突然ある疑惑を起こした。彼は外に出て、最近の雑誌を売店で買い、自分の論説を捜し、読んだ……。最初は、自分は気が狂ったのではないかと思った。次には、事情を了解した。そして激しい憤りのあまりディオニゾス[#「ディオニゾス」に傍点]の編集所へ駆け込んだ。  ワルトハウスとマンハイムとがそこにいて、懇意な一人の女優と話をしていた。彼らはクリストフの来た理由を尋ねるに及ばなかった。クリストフは、その雑誌をテーブルの上に投げ出しながら、息をつく隙《ひま》もなく、馬鹿野郎だの下司《げす》野郎だの偽造者だのと呼びたて、力任せに椅子《いす》を床にたたきつけ、異常な猛烈さで彼らに詰問した。マンハイムはしいて笑い出した。クリストフはそれを後ろから足蹴《あしげ》にしようとした。マンハイムは腹をかかえて笑いながら、テーブルの後ろに逃げ込んだ。しかしワルトハウスは、きわめて傲然《ごうぜん》と彼に対抗した。そういう調子で口をきいてもらいたくないこと、やがて思い知らしてやるということ、などをその騒ぎの最中に、堂々と威儀を張って彼に言い聞かせようとした。そして自分の名刺を差し出した。クリストフはその名刺を彼の鼻先に投げ返した。 「手数ばかりかけやがる。……名刺なんかなくったって、君の名前は承知だ。君は狡猾《こうかつ》野郎で偽造者だ。君と決闘でもすると僕を思ってるのか。……懲罰、それで君にはたくさんなんだ!……」  彼の声は往来までも聞こえていた。人々は立ち止まって聞いていた。マンハイムは窓を閉《し》めた。訪問の女優は恐れて、逃げ出そうとした。しかしクリストフが扉口《とぐち》をふさいでいた。ワルトハウスは蒼《あお》ざめて息をつまらしながら、マンハイムは口ごもって冷笑しながら、ともに答え返そうとつとめた。しかしクリストフは彼らに口をきかせなかった。最も侮辱的だと思われる事柄を残らず浴びせかけた。そして息が切れ悪口の言葉がなくなってから、ようやくそこを出て行った。ワルトハウスとマンハイムとが声を出し得たのは、彼が立ち去った後だった。マンハイムはすぐ平静に返った。水が家鴨《あひる》の羽の上を滑《すべ》るように、悪口は彼の上から滑り落ちてしまった。しかしワルトハウスは恨みをいだいた。彼の体面は辱《はずかし》められた。そして、その侮辱をなお鋭くなしたのは、見物人がいたことだった。彼は決して許し得なかった。雑誌の同人らも皆彼に一致した。ただマンハイム一人だけが、依然としてクリストフを憎まなかった。彼は心ゆくまでクリストフを興がったのであった。その面白さは、自分が受けた四、五の悪口を十分償い得るものだと考えた。実に面白い茶番だった。もし自分がその主人公であっても、みずからまっ先に笑い出したくなるほどのものだった。それで彼は、何事も起こらなかったかのようにクリストフと握手するつもりであった。しかしクリストフの方はいっそう恨みを含んでいた。そして申し出でをことごとく拒絶した。それでもマンハイムは気にかけなかった。クリストフは一つの玩具《がんぐ》であって、彼はそれからあらゆる興味をくみつくしたのだった。彼はもう他の人形に心を移し始めていた。翌日から二人の関係はすべて絶えてしまった。それでもやはりマンハイムは、自分の前でクリストフの噂《うわさ》が出ると、自分ら二人は親友だと言っていた。そしておそらく彼はそう信じていたのであろう。  喧嘩《けんか》の二日後に、イフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]の初日となった。全然失敗だった。ワルトハウスの雑誌は詩だけをほめて、音楽についてはなんとも言わなかった。他の新聞雑誌では大喜びだった。笑ったり非難したりした。その一篇は三日きりで引っ込められた。しかし嘲笑《ちょうしょう》はそう急にはやまなかった。人々はクリストフを嘲弄《ちょうろう》する機会を得たのでうれしがった。そしてイフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]は、数週間の間尽きざる笑い事となった。クリストフにもう防御の武器がないことは知れわたっていた。人々はそれに乗じていた。ただ一つ、多少皆を控え目にさしたのは、宮廷における彼の地位であった。大公爵は幾度もくり返して彼に意見をし、彼は少しもそれを意に介しなかったので、両者の関係はかなり冷やかなものになっていたけれども、彼はやはり官邸へ伺候していた。そして一般から見れば、実際以上に大きく見えるのではあるが、とにかく一種の公の保護を受けてるのであった。――がその最後の支持をも、彼はみずから破壊し去ることになった。  彼は悪評に苦しめられた。その悪評はただ彼の音楽にたいしてなされたのみでなく、また新芸術の形式に関する彼の考えにたいしてもなされた。人々はそれを理解しようとつとめなかった。(それを嘲笑するためには、曲解する方がよりたやすいことだった。)クリストフは、悪意ある非難にたいしてなし得る最上の返答は、なんらの弁駁《べんばく》をもなさないで創作しつづけることだと考えるだけの聡明《そうめい》さを、まだもっていなかった。数か月以来、いかなる不当な攻撃にも答え返さないでは済まさないという、悪い習慣に染んでいた。で彼は、敵を少しも容赦しない論説を一つ書いた。そして二つの新聞へもち込んだ。ところが思慮深い新聞社の方では、それを掲載し得ないと皮肉な丁重さで詫《わ》びながら、彼のもとへ返してきた。クリストフは意地を張った。かつて助力を頼んで来たことのある同地の社会主義新聞を思い出した。その編集者の一人を知っていた。時々いっしょに話をしたこともあった。権力や軍隊や圧迫的な古めかしい偏見などについて、自由な意見を吐く者を見出すと、クリストフはうれしかった。しかし二人の話は深く進み得なかった。なぜなら、社会主義者との談話はかならずカール・マルクスのことに落ちて行くが、マルクスはクリストフにとって絶対に無関係であったから。そのうえクリストフは、自由思想家――彼があまり好まない唯物主義者でもある男――の談話のうちに、一つの衒学《げんがく》的な峻厳《しゅんげん》さと思想上の専制主義、力にたいするひそかな崇拝、反対の意味の軍国主義、などを見出したが、それは彼が毎日ドイツで聞いているところのものと、たいして違った響きはもっていなかったのである。  しかしながら、他の編集所が自分にたいして扉《とびら》を閉ざすのを見た時、彼が思いついたのはその男とその新聞とであった。かかる手段が物議をかもすだろうとは彼もよく考えた。その新聞は激烈で憎悪《ぞうお》的で、たえず禁止されていた。しかしクリストフはそれを読んでいなかったので、彼にとっては恐るるに当たらない思想の勇敢さを考えついて、彼にとっては嫌悪《けんお》すべき調子の下劣さを考えつかなかった。それにまた彼は、彼を窒息させんために他の諸新聞が陰険な共謀をめぐらしてるのを見て、非常に猛《たけ》りたっていたので、たとい事情にもっとよく通じていても、おそらく気にかけなかったであろう。そうたやすく駆逐されるものではないことを、人々に示してやりたかった。――それで彼は、社会主義新聞社に論説をもち込んだ。すると双手を挙げて歓迎された。翌日、その論説は現われた。そして新聞は誇張的な言辞で報ずるのに、才幹ある青年楽匠たるクラフト君の協力を得たこと、労働階級の要求にたいする彼の熱烈な同情は世間周知のものであること、などをもってした。  クリストフはその注解をも自分の論説をも読まなかった。なぜなら、ちょうど日曜であったその朝、彼は野外散歩に払暁から出かけたのだった。実に晴れ晴れとした気持だった。日の出を見ながら彼は、叫び笑い歌い飛び踊った。もはや雑誌もなく、もはや批評の責任もなかった。時は春であった。あらゆる音楽のうちで最も美しい天と地との音楽が復帰していた。息苦しい臭い薄暗い音楽会場も、不愉快な隣席の聴衆も、つまらない音楽家らも、消えてなくなった。ささやきわたる森から霊妙な歌の起こるのが聞こえていた。そして畑地の上には、大地の表皮を破って生命の芳醇《ほうじゅん》な気が通り過ぎていた。  彼は光明で鳴りわたる頭をもって、散歩から帰ってきた。すると、不在中に官邸から届けられた手紙を、母から渡された。だれからともつかない形式で書かれたその手紙の趣旨は、今朝クラフト氏は官邸へ伺候せられたいとのことだった。――朝はもう過ぎ去っていた。一時に近かった。クリストフはほとんど気にもしなかった。 「もう遅《おそ》い。」と彼は言った。「明日にしよう。」  しかし母は気をもんだ。 「いえ、いえ、殿下にお目にかかるのを延ばせるものではないよ。すぐに行かなければいけません。大事な御用らしいから。」  クリストフは肩をそびやかした。 「大事な御用ですって、あんな人たちに大事な話なんかあるもんですか。……僕に音楽上の意見でも聞かせたいんだろう。愉快だな!……ジーグフリート・マイエル(注―― Siegfried Meyer はドイツの諷刺家らが 〔Seine Majesta:t〕 陛下――皇帝――のことを仲間うちで言う時に用いた綽名《あだな》)と競争しようとの気まぐれを起こして、自分でもエジルの賛歌[#「エジルの賛歌」に傍点]みたいなものを作って人に示したいんだろう。僕は容赦はしない。こう言ってやろう。政治をなさるがいい、政治では殿下が御主人だ。いつも御道理《ごもっとも》だ。しかし芸術では、用心なさるがいい。芸術にふみ込んだら、羽飾りも兜《かぶと》も軍服も金銭も肩書も祖先も憲兵も、殿下についてはしない。……そしたら、どうです、殿下から何が残りますかって。」  善良なルイザは、すべてを本気に取って、天に両腕を差し上げた。 「そんなことを言ってはいけません!……お前さんは狂者《きちがい》だ、狂者《きちがい》だ……。」  彼は母の信じやすいのにつけ込んで、心配さして面白がった。けれどしまいには、無法な言葉があまりすぎたので、ルイザはからかわれてることに気づいた。彼女は背を向けた。 「ほんとに、しようのない人だ。」  彼は笑いながら母を抱擁した。素敵もない機嫌《きげん》だった。散歩してるうちに彼は、りっぱな楽旨《テーマ》を見出したのだった。水中の魚のように、その楽旨が自分のうちに踊ってるのを感じていた。食事をしないうちは、官邸へ出かけようとしなかった。餓鬼のように貪《むさぼ》り食った。それからルイザは彼の身ごしらえを監督した。彼がまた彼女をじらし始めたからである。すり切れた服と埃《ほこり》だらけの靴《くつ》のままで構わない、と言い出した。それでも彼は鶫《つぐみ》のように口笛を吹いて管絃楽の各楽器を真似《まね》ながら、自分で服を着替え靴をみがいた。それが済むと、母は彼の様子を一通り見調べて、襟《えり》飾りをきちんと結び直してやった。彼はいつになくゆっくりしていた。なぜなら自分に満足していたから――そしてそれも、滅多にないことだった。出かけながら彼は、アデライド姫を誘拐《ゆうかい》しに行くのだと言った。それは大公爵の令嬢で、かなりきれいだった。ドイツのある小貴族に嫁しているが、数週間両親のもとへ帰って来ていた。昔クリストフが子供であったおり、彼に多少の同情を示してくれたことがあった。そして彼は彼女を好んでいた。ルイザは彼が恋してるのだと称していた。そして彼も冗談に、恋をしていた。  彼は早く官邸へ行きつこうともしないで、商店の前をぶらついたり、往来に立ち止まって馴染《なじ》みの犬の頭をなでてやったりした。犬も彼と同様に呑気《のんき》で、日向《ひなた》にねそべって欠伸《あくび》をしていた。彼は官邸の広場をめぐらしてる無役な鉄柵《てつさく》を飛び越した。――寂しい広い方形の地で、建物にとり囲まれ、水の涸《か》れてる二つの噴水があり、額《ひたい》の皺《しわ》のような一本の径《みち》で分かたれてる、木陰のない同形の二つの花壇があった。径には砂がかきならされていて、両側には木鉢《きばち》の橙樹《だいだい》が並んでいた。広場の中央には、四|隅《すみ》に徳をかたどった飾りのついてる台石の上に、ルイ・フィリップ式の服装をした、無名の大公爵の銅像が立っていた。ベンチの上にただ一人の散歩者が、新聞を広げたまま居眠っていた。官邸の鉄門のところには、無駄《むだ》な哨兵《しょうへい》らが眠っていた。邸前の高壇の馬鹿な溝《みぞ》の後ろには、眠ってる二門の大砲が、眠ってる町の上に欠伸《あくび》をしていた。クリストフはそれらのものの鼻先で笑ってやった。  彼は官邸へはいっても、公式の態度を取ろうとはしなかった。たかだか微吟をやめたばかりだった。なお楽想《がくそう》が踊りつづけていた。彼は玄関のテーブルの上に帽子を投げ出しながら、子供の時から知ってる受付の老人を親しげに呼びかけた。――(その好々爺《こうこうや》は、クリストフが祖父とともに初めて官邸へ伺って、ハスレルに会ったあの晩から、すでにその地位にいたのである。)――その老人は、クリストフの多少失礼な冗談にもよく答えるのを常としていたが、その時は、横柄《おうへい》な様子を示した。クリストフはそれに気を止めなかった。それから少し奥へ行って控室で、彼は文書局の役人に出会った。いつも彼に親愛の様子を見せながら、盛んにおしゃべりをする男だった。ところが、その男が話を避けて急いで通り過ぎたので、彼はびっくりさせられた。が彼はそれらのことにこだわらないで、なお進んでいって案内を求めた。  彼ははいっていった。午餐《ごさん》が終わったところだった。殿下は客間にいた。暖炉を背にして、客たちと話しながら煙草《たばこ》をふかしていた。客のうちにクリストフは、自分の[#「自分の」に傍点]姫を認めた。彼女も煙草をふかしていた。そして肱掛椅子《ひじかけいす》にしどけなく身をよせかけて、まわりを取り巻いてる将校らに声高く話していた。会合はにぎやかだった。皆はすこぶる愉快そうだった。そしてクリストフははいって行きながら、大公爵の幅広い笑い声を聞いた。しかしクリストフの姿が彼の眼にとまると、その笑い声はぴたりとやんだ。彼は一つ唸《うな》り声をたてて、じかにクリストフめがけて大声に浴びせかけた。 「ああ来たな。どの顔でやって来たのか。お前はこのうえ私《わし》を馬鹿にするつもりなのか。お前は実に悪者だ。」  クリストフは真正面に受けたその砲弾に茫然《ぼうぜん》として、ちょっとの間一言も発することができなかった。彼は自分の遅参のことばかり考えていた。遅参したとてかかる乱暴な目に会う訳はなかった。彼はつぶやいた。 「殿下、私は何かいたしたのでございますか。」  殿下は耳を貸さなかった。勢い激しく言い進んだ。 「黙れ。私《わし》は悪者から侮辱されはしないぞ。」  クリストフは蒼《あお》くなりながら、喉《のど》がつまって言葉が出ないのをもがいた。彼は一生懸命になって叫んだ。 「殿下は不当です……不当であります、私が何をしたかおっしゃらずに、私を侮辱されるのは。」  大公爵は私書官の方をふり返った。私書官はポケットから一枚の新聞を取り出して、それを大公爵に差し出した。大公爵はひどく激昂《げっこう》していた。例の怒りっぽい性質からと言うだけでは不十分だった。芳醇な酒気も加わっていた。彼はクリストフの前に来てつっ立ち、闘牛士が外套《がいとう》を打ち振るように、広げた皺くちゃの新聞をクリストフの顔の前に激しく振り動かしながら、叫んだ。 「汚らわしい行ないだ。……こんなものに顔をつっ込むのがお前にはよく似合ってる。」  クリストフはそれが社会主義の新聞であることを知った。 「私は別に悪いとは思いません。」と彼は言った。 「なに、なんだと!」と大公爵は金切声で叫んだ。「不謹慎な!……この恥知らずの新聞めは、毎日|私《わし》を侮辱してるんだ、私に下劣な悪口を吐いてるんだ……。」 「殿下、」とクリストフは言った、「私はその新聞を読んだことがございません。」 「嘘《うそ》をつくな!」と大公爵は叫んだ。 「私は嘘をついてると言われたくありません。」とクリストフは言った。「読んだことはございません。私は音楽に関係してるだけであります。それにまた、どういうところへ書こうと、それは私の権利であります。」 「お前にはただ黙る権利しかないんだ。私《わし》はお前たちに親切すぎた。お前の不品行やお前の父の不品行によって、もう疾《とっ》くに追い払う理由があったにもかかわらず、お前たち一家の者に恩恵を施してやった。私はお前に、私と敵対する新聞につづけて書くことを禁ずる。それからまた、どんなことであろうとも、今後私の許可なくして書くことを一般に禁ずる。お前の音楽上の筆戦にはもうたくさんだ。私の保護を受けてる者が、趣味と心を有する人々にとって、ほんとうのドイツ人にとって、貴重であるあらゆるものを攻撃して、時間をつぶすのを私は許さない。お前はりっぱな音楽を書く方がよい。もしそれができなければ、音階や練習に精を出す方がよい。国家的光栄を誹謗《ひぼう》したり人々の精神を混乱さしたりして喜ぶ、音楽上のベーベルを私は欲しない。われわれはありがたくも、何がよいかを知っている。それを知るには、お前から説き聞かされるのを待つ要はない。だからお前はピアノに向かうがよい。そしてわれわれを平和にしておいてもらいたいのだ。」  でっぷり肥《ふと》った彼は、クリストフと顔を向き合わして、侮辱的な眼で相手の顔をうかがっていた。クリストフは色を失って、口をききたがっていた。その唇《くちびる》はかすかに動いていた。彼は口ごもりつつ言った。 「私は殿下の奴隷ではありません。言いたいことを言います、書きたいことを書きます……。」  彼は息をつまらしていた。恥辱と憤怒《ふんぬ》とに泣かんばかりになっていた。両足は震えていた。片|肱《ひじ》を急に動かしながら、傍《かたわ》らの家具に乗ってた器物をひっくり返した。自分の様子がいかにもおかしいのをはっきり感じた。果たして笑い声が聞こえた。客間の奥をながめると、皮肉な憐憫《れんびん》の言葉をそばの人たちとかわしながら喧嘩《けんか》を見守《みまも》ってる姫の姿が、霧の向こうにあるようにぼんやり眼にはいった。それ以来彼は、何が起こってるかという正確な意識を失った。大公爵は叫んでいた。クリストフは何を言ってるのかみずから知らないで、いっそう高く叫んでいた。秘書官とも一人の役人とが彼の方へやって来て、彼を黙らせようとつとめた。彼は二人を押しのけた。背中でよりかかっていた家具の上から、機械的に一つの灰皿《はいざら》をつかみ取って、口をききながら振り回した。秘書官の言ってる言葉が耳にはいった。 「さあ、それを放したまえ、それを放したまえ……。」  そして自分が叫んでる取り留めもない言葉や、灰皿でテーブルの縁をたたいてる音などが、耳にはいった。 「出て行け!」と大公爵はひどく猛《たけ》りたって喚《わめ》いた。「出て行け、出て行け。追い出してやるぞ!」  将校らは大公爵のそばに来て、彼を鎮《しず》めようと試みていた。卒中症の大公爵は、両眼をむき出しながら、この無頼漢をつき出せと叫んでいた。クリストフは眼の前が真赤《まっか》になった。将《まさ》に大公爵の鼻面《はなづら》に拳固《げんこ》を食《くら》わせようとした。しかし種々の矛盾した感情の混乱に圧倒されていた。恥辱、激怒、または、彼のうちにまだ多少残ってる、怯懦《きょうだ》や、ゲルマン的忠義心や、伝統的な尊敬心や、君侯の前における屈従的習慣などであった。彼は口をききたかったがそれもできなかった。なんとかしてやりたかったがそれもできなかった。もはや何も眼にはいらず、何も耳にはいらなかった。押し出されるままになって、外へ出た。  彼は冷然たる召使らのまん中を通りぬけた。彼らは扉《とびら》のところまでやって来て、喧嘩《けんか》の騒ぎを残らず聞き取っていた。控室から外に出るため三十歩行くのが、彼には一生かかるかと思われた。前へ進むに従って廊下は長くなった。とうてい出られないような気がした……。向こうにガラス戸から見えてる戸外の光は、彼にとって天の救いであった……。彼はつまずきながら階段を降りていった。帽子を被《かぶ》っていないことに気づかなかった。受付の老人は彼を呼びとめて、帽子を注意してやった。彼はある限りの力を振るい起こしてようやく、官邸を出で、中庭を横ぎり、家へ帰りついた。歯をかち合わしていた。家の扉《とびら》を開くと、母は彼の顔つきと身震いとに恐れ驚いた。彼は母を避け、少しも問いに答えなかった。自分の室に上がって行き、扉を閉《し》め切り、そして寝た。非常に身体が震えていて、着物を脱ぐこともできなかった。息切れがして、手足にまるで力がなかった。……ああ、もう何も見ず、何も感ぜず、この惨《みじ》めな身体を維持する要もなく、卑しい人生と闘《たたか》う要もなく、斃《たお》れてしまい、呼吸も思想もなくて斃れてしまい、もはやどこにも存在しなかったら!……彼はようやくの思いで着物を脱ぎ去り、そのまま床の上に投げ散らし、寝床に飛び込み、眼までもぐり込んだ。室の中には物音が絶えた。床石の上に震える小さな鉄の寝台の音しか、もはや聞こえなかった。  ルイザは扉のところで立ち聞いていた。扉をたたいたが無駄《むだ》だった。静かに呼んでみた。なんの答えもなかった。ひっそりした様子を気づかって窺《うかが》いながら、彼女は待った。それから立ち去った。その日のうちにまた一、二度もどってきて、耳を澄ました。晩にもまた、寝る前にそうした。昼は過ぎ、夜も過ぎた。家じゅう静まり返っていた。クリストフは熱に震えていた。時々涙を流した。夜中に身を起こして、壁に拳固《げんこ》をさしつけた。午前の二時ごろ、にわかに狂暴な気持に駆られて、汗にまみれ半ば裸のまま寝床から出た。大公爵を殺しに行きたかった。憎悪《ぞうお》と恥辱とにさいなまれていた。身心とも燃えたってもがいていた。――この暴風雨《あらし》も、外へは少しも聞こえなかった。一つの言葉も一つの音もし漏れなかった。彼は歯を食いしばって、すべてを自分のうちに閉じこめていた。  翌朝、彼はいつものとおりに降りて来た。ひどくやつれていた。彼は何にも言わなかった。母も尋ねかねた。彼女は近所の噂《うわさ》ですでに知っていた。終日彼は暖炉の隅の椅子《いす》にすわり、老人のように背をかがめ、いらだち黙然としていた。そして一人になると、黙って涙を流した。  夕方、社会主義新聞の編集者が会いに来た。もとより彼は事件を知っていて詳細を聞きたがっていた。クリストフは彼の訪問に感動して、自分を危地に陥れた人々からの同情と謝罪とをもたらしたものだと率直に解した。自尊心から何にも後悔していないふうをした。そして心にあることをすべてうっかりしゃべってしまった。自分と同様に圧迫を憎んでる男にはばからず語るのは、彼にとって一つの慰謝であった。相手は彼をおだてて話させた。新聞にとって好都合な誹謗《ひぼう》的記事を得る機会を、その事件のうちに見て取っていた。クリストフがみずからその記事を書かないまでも、少なくともその材料を供給するだろうと、彼は期待していた。なぜなら、そういう破裂のあとには、宮廷音楽家たるクリストフは、論客としてのりっぱな手腕と、それよりさらに価値ある宮廷に関する小秘録とを、「主義」のために役だててくれることと考えていたのである。彼はわざとらしい遠慮を装《よそお》う男ではなかったから、なんらの技巧も加えず露骨にそのことを申し出た。クリストフは駭然《がいぜん》とした。彼は何にも書かないと断言し、自分の方からする大公爵にたいする攻撃は、このさいすべて私の復讐《ふくしゅう》心から発した行為だと解せられやすいこと、また、自由でなく危険を冒してまで考えを発表していた時よりも、自由の身となった今ではいっそう慎むべきであること、などを主張した。記者はそれらの慎重な気持を少しも理解しなかった。彼はクリストフを、やや偏狭で根は僧侶臭い男だと判断した。ことにクリストフが恐れてるのだと考えた。彼は言った。 「では、僕たちにお任せなさい。僕が書きましょう。あなたは何にもしなくてよろしいです。」  クリストフは何にも言わないでおいてほしいと頼んだ。しかしそうさせるだけの方法がなかった。そのうえ記者は、事件はクリストフ一人に関係したことではないと言い出した。侮辱は新聞にまで及んでいて、新聞には復讐《ふくしゅう》の権利があった。それにはクリストフも返答のしようがなかった。クリストフがなし得たすべては、記者としてではなく、友人としてなしたある打ち明け話を、決して濫用しないという言質を求めることだった。記者は造作《ぞうさ》なくその言質を与えた。それでもクリストフは安心しかねた。軽率なことをしでかしたのに気づいたが、もう間に合わなかった。――一人になると、彼は語ったことをすべて思い起こしてみて、身を震わした。考えるまもなくすぐにペンを取って、うち明けた話を他にくり返してくれるなと、懇願の手紙を記者に書いた。――(不幸にも彼は、その話の一部を手紙の中でみずからくり返して述べた。)  翌日彼が、いらだちながら急いでその新聞を開いて、最初に読んだのは、第一ページに長々と出てる彼の話であった。前日彼が話したことは残らず出ていて、しかも非常に誇張されたものとなり、新聞記者の頭を通ると万事が受ける特殊な変形を受けていた。その記事は下劣な罵詈《ばり》をもって大公爵と宮廷とを攻撃していた。その中のある事柄は、あまりにクリストフの一身に近しいことであり、明らかに彼一人のみが知ってることだったので、記事全部が彼の筆に成ったものだと思われても仕方なかった。  その新たな打撃にクリストフはまいってしまった。読んでゆくに従って、冷たい汗が顔に流れた。読み終わると、狂わんばかりになった。彼は新聞社へ駆け込みたかった。しかし母は彼の乱暴を恐れて引き留めた。母が恐れたのも無理はなかった。彼自身もそれを恐れていた。もし行ったら馬鹿げたことをしかねない気がしていた。そして彼は家に残った――他の馬鹿げたことをするために。彼は記者へ怒った手紙を書き、侮辱的な言葉でその行為を責め、記事を取り消し、その仲間と関係を絶った。取り消しは新聞に出なかった。クリストフは新聞社へ手紙を書き、自分の手紙を発表せよと促した。すると、会見の晩に彼が書いた第一の手紙の写しを、かえって記事の証明となる手紙の写しを、送って来た。それをも発表すべきかと尋ねてきた。クリストフは彼らの手中に陥ったことを感じた。そのうえにまた彼は、あの不謹慎な訪問記者と往来で不幸にも出会った。彼はその記者にたいする軽蔑《けいべつ》の念を言ってやらずにはおかなかった。翌日になると、新聞は侮辱的な小欄を掲げて、宮廷の奴僕どもは、追い出されてもなお奴僕根性がぬけないものだと、書きたてた。最近の事件にそれとなく説き及ぼしてる言葉によって、それがクリストフに関するものであることは疑いの余地がなかった。  クリストフはもはやなんらの支持ももっていないことが、すべての人に明らかにわかった時、彼の思いもつかなかった多数の敵が突然現われてきた。あるいは個人的な非難によって、あるいはその思想や趣味を攻撃することによって、彼が直接間接に傷つけた人々はすべて、ただちに攻勢を取りだして、利息をつけて復讐《ふくしゅう》してきた。クリストフが無感覚から呼び覚《さ》ましてやろうとした一団の大きな公衆は、世論を改革し善人の眠りを妨げんと企てたこの傲慢《ごうまん》な青年に処罰が加えられるのを、満足な心でながめた。クリストフは水に陥っていた。人々はそれぞれ力を尽くして、彼の頭を下に押し沈めようとした。  彼らは皆いっしょになって彼へ飛びかかっては来なかった。ある者が最初に陣地を探るため攻撃してきた。クリストフが応戦をしないので、彼はさらに攻撃を重ねた。すると他の者らもついて来た。それから全隊が進んで来た。ある者らは、美しい場所に汚物を残して面白がる若い犬のように、単なる楽しみからその騒ぎに加わっていた。それは無能な新聞記者らから成る別動隊であった。まったく無知であって、それを人に知らせないために、勝者に阿諛《あゆ》し敗者をののしる奴《やつ》らだった。また他の者らは、おのれの主義主張の重みをもち出し、やたらにがなりたてていた。彼らが通ったあとには何物も残らなかった。偉大な批評――虐殺の批評であった。  クリストフは幸いにも、それらの新聞を読んでいなかった。忠実な四、五の友人は、そのもっとも毒々しいのを注意して送ってくれた。しかし彼はそれをテーブルの上につみ重ねたまま、開こうとも思わなかった。がついに彼の眼は、ある記事の周囲に引かれてる太い赤線に止まった。読んでみると、彼の歌曲《リード》は野獣の唸《うな》り声に似ており、彼の交響曲《シンフォニー》は癲狂院《てんきょういん》から発する趣きがあり、彼の芸術はヒステリー的であり、彼の痙攣《けいれん》的な和声《ハーモニー》は心情の乾燥と思想の空粗とをごまかそうとしたものである、などと書いてあった。その著名な批評家は次のように結んでいた。 [#ここから2字下げ]  クラフト氏は近ごろ報道記者として、その文体および趣味に驚くべきものがあることを証明し、音楽界に一大|快哉《かいさい》を叫ばしめた。その時彼は親しく、むしろ作曲に没頭するよう勧告せられた。しかし彼の最近の音楽的創作は、この好意的勧告が誤れることを示した。クラフト氏は断然報道記者となるべきであった。 [#ここで字下げ終わり]  クリストフはそれを読んで、朝じゅう仕事ができなかったが、なおやけに落胆してしまうために、敵意ある他の新聞を捜し始めた。しかしルイザは、「片付ける」という口実のもとに、なんでも散らかってる物をなくなす癖があって、それらの新聞を焼いてしまっていた。彼は初めそれを怒ったが、次には安堵《あんど》した。残ってたその新聞を母に差し出しながら、これも同様に焼いてくれるとよかったと言った。  彼はさらに痛切な他の侮辱をも受けた。フランクフルトの名ある音楽団へ、四重奏曲《カチュオール》の原稿を一つ送っていたが、それが全員一致でしかもなんらの説明もなしにつき返された。ケルンの管絃楽団が演奏するつもりらしかった序曲は、幾月も待たせた後に、演奏不能のものとして送り返された。また町の管弦楽団からは、さらにひどい目に会わされた。この楽団を指揮していたオイフラート楽長は、かなりりっぱな音楽家であった。しかし多くの管絃楽長と同じく、彼はなんらの精神的好奇心をももってはいなかった。彼はその楽団特有の怠惰さに毒せられていた。――(あるいはむしろ、すてきな健康を得ていた。)――怠惰というのは、すでに著名な作品ならば限りもなくくり返して、真に新しい作品はすべて火のごとく避けることであった。彼は決して飽きることなく、ベートーヴェンやモーツァルトやシューマンなどの大音楽会を催していた。それらの作品においては、耳なれた律動《リズム》の音に身を任せるだけでよかった。それに反して、当代の音楽は彼には堪えがたかった。けれどもそうだとは告白し得ないで、年若い俊才《しゅんさい》をすべて歓迎すると言っていた。実際のところ、古い模型の上にうち立てた作品――五十年も前に新しかった作品の複写めいたもの――をもってゆくと、彼はそれを非常に優遇した。聴衆に演奏して聞かせることを自慢にさえしていた。それで効果を収める慣例も乱さず、聴衆が感動することになってる慣例をも乱さなかった。これに反して、その美しい慣例を破り彼に新たな骨折りをかける恐れのあるものにたいしては、軽侮と憎悪との交った気持を感じた。その改革者が無名の地位から出る機会がない時には、軽侮の方が強かった。改革者に成功の恐れがある時には、憎悪となった――もちろん、彼がすっかり成功してしまうまでの間だったが。  クリストフはまだ成功してるとは言えなかった。そこまではまだかなり遠かった。それで彼は、オイフラート氏が彼の作を何か演奏したい意向を持ってるということを間接に提議された時非常に驚いた。楽長はブラームスの親しい友であり、彼が批評のうちで非難した他の数人の音楽家の親友であることを、彼はよく知っていただけになおさら、それを期待できる理由が少なかった。しかし彼は人がいいので、自分のいだき得る寛大な感情が敵にもあることと思った。自分が困憊《こんぱい》してるのを見て彼らは、卑しい怨恨《えんこん》を含んでるのではないことを証明したがってるのだと、彼は想像した。そしてそれに感動した。彼はオイフラートへ交響詩を一つ送って、真情に満ちた寸簡を認《したた》めた。向こうからは秘書の手に成った返事が来た。冷淡なしかし丁寧《ていねい》な手紙であって、送られたものを正に受け取ったと告げ、交響曲は楽団の規則に従って、近々管絃楽団に配布され、公の演奏をする前に一度、一般試演にかけてみるはずだと書き添えてあった。規則は規則だった。クリストフは従わないわけにはゆかなかった。それにまたこの規則は、単に形式的なものであって、厄介《やっかい》な音楽愛好家らの労作を避けるために使われてるものだった。  二、三週間後に、クリストフは自作の試演が行なわれる由を知った。原則としてはすべて傍聴が禁じられ、作者といえども立ち合うことができなかった。しかし作者が出席することは一般に大目に見られていた。ただ作者たることを示してはいけなかった。だれも皆作者を知りながら知らないふうをするのであった。それで定日になると、クリストフは一人の友人に誘われ、場内に案内されて、ある桟敷《ボックス》の奥に席を占めた。ところが、公開を禁じた試演なのに、場内が――少なくとも下の座席が――ほとんど満員なのを見て、彼は非常に驚かされた。音楽通や閑人《ひまじん》や批評家などがたくさん集まって、がやがや騒いでいた。管弦楽団は彼らの臨席を知らないことになっていた。  最初にまず、ゲーテの冬のハルツ紀行[#「冬のハルツ紀行」に傍点]の一節を取り扱った、次高音《アルト》と男声合唱と管弦楽とからなるブラームスの狂詩曲《ラプソディー》が、演奏された。この作のしかつめらしい感傷性をきらっていたクリストフは、ブラームス派の者らがたくらんで、不敬な非難を加えた一曲を自分に無理に聞かして、ごていねいな復讐《ふくしゅう》をするつもりでいるのだと、みずから考えた。そう考えると笑わずにはいられなかった。狂詩曲《ラプソディー》が終わってから、彼が対抗した知名の音楽家らの他の二曲が始まると、彼の愉快な気分はなお募ってきた。彼らの意図が明らかにわかるような気がした。彼は渋面を押えることができないで、結局これは面白い戦いだと考えた。ブラームスとその一派にたいして感激を示してる聴衆の喝采《かっさい》に、彼は皮肉な喝采を交えまでして面白がった。  ついにクリストフの交響曲《シンフォニー》の番となった。彼の桟敷の方へ管弦楽席や平場から幾つかの視線が向けられたので、彼は自分の出席が知れわたってることを見て取った。彼は奥に隠れた。彼は待った。楽長の指揮棒が上げられ、音楽の河水が沈黙のうちにあふれてきて、将《まさ》に堤防を破らんとする瞬間に、どの音楽家も感ずる一種の痛切な心地を、彼も感じた。彼はまだかつて、自分の作を管絃楽で聞いたことがなかった。彼が夢想した生物らは、いかなるふうに生き上るであろうか。彼らの声はどんなであろうか。彼は自分のうちに彼らが喚くのを感じていた。そして音響の深淵をのぞき込んで彼は、そこから出て来るものを震えながら待っていた。  出て来たのは、名もないものであり、奇体な捏《ね》り細工だった。殿堂の破風《はふ》をささうべき堅固な円柱どころか、廃《すた》れた泥建築のように、和音は次から次へと崩壊していった。漆喰《しっくい》の埃《ほこり》よりほかには何も認められなかった。クリストフは自作が演奏されてるのだとはなかなか信じられなかった。彼は自分の思想の線を、律動《リズム》を捜した。もうそれも見分けられなかった。その思想は壁につかまって行く酔漢のように、訳のわからぬことをしゃべりながらよろよろと進んでいった。彼はそういう状態になってる自分の姿を人に見られたかのように、恥ずかしくてたまらなかった。自分が書いたのはそういうものではないと知っても、なんの役にもたたなかった。愚劣な通弁者から自分の言葉が改悪される時、人はちょっと疑ってみ、その馬鹿さ加減に自分は責任があるかどうか、驚いてみずから尋ねる。ところが公衆の方は、決して怪しまない。聞きなれた通弁者を、歌手を、管弦楽隊を、あたかも読みつけの新聞を信ずるように信じている。通弁者らに誤りがあるはずはない。彼らがくだらないことを言うのは、その作者がくだらないからである。そしてこの場合においては、そう信ずることが愉快であるだけにますます聴衆は怪しまなかった。――クリストフは、楽長が滅茶《めちゃ》な演奏に気づいて、管弦楽をやめさせ、初めからやり直さしてくれるだろうと、しいて思い込もうとした。もはや各楽器がいっしょに鳴ってはいなかった。ホルンは吹き出す機《おり》をそらして、一小節だけ後《おく》れていた。そしてなお数分間吹きつづけたが、次には平気でやめてしまって、その持ち場に穴を開《あ》けた。オーボエのある表現は、すっかり消えてしまっていた。きわめて熟練した耳にとっては、一筋の楽想を見出すことも、また何か楽想があると想像することも、まったく不可能だった。楽器配列の妙想も諧謔《かいぎゃく》的な機知も、演奏の乱雑なために道化《どうけ》たものとなった。たまらないほど愚劣なものであった。音楽を知らない痴漢道化者の作品だった。クリストフは髪の毛をかきむしった。彼は演奏をやめさせたがった。しかしいっしょにいた友人は彼を引き止めた。楽長自身で演奏の誤りを見分けて訂正させるだろう――それにまた、クリストフは姿を現わしてはいけないし、何か注意を与えでもしたら最も悪い結果になるだろうと、説き聞かした。そしてむりにクリストフを桟敷の奥に引っ込ました。クリストフは言われるままに従った。しかし彼はみずから頭を拳固《げんこ》でなぐっていた。そして奇怪な演奏の仕方を新たに聞くことに、憤りと苦悩とのうめき声をたてた。 「畜生めが! 畜生めが!……」と彼はうなっていた。そして叫び出すまいとして両手を口に食いしばっていた。  するとこんどは、動揺しだした聴衆の喧騒《けんそう》が誤った楽音とともに彼の方へ響いてきた。初めはちょっとしたざわめきにすぎなかった。しかしやがてクリストフももう疑わなかった。彼らは笑っていた。管弦楽の楽員らが示唆《しさ》を与えたのである。ある楽員らはその偸《ぬす》み笑いを少しも隠さなかった。それ以来聴衆は、笑うべき作品であると確信して大笑いをした。愉快な気分が一般に広がった。コントラバスがおどけたふうに高調したきわめてリズミカルな動機の反復によって、その気分はさらに倍加した。ただ楽長のみは泰然自若として、支離滅裂な演奏のうちに拍子を取りつづけていた。  ついに終わりに達した。――(最上のものには皆終わりがある。)――聴衆の番となった。聴衆はどっと破裂した。それは愉快の爆発であって、数分間つづいた。ある者は口笛を吹き、ある者は皮肉な喝采《かっさい》をした。最も気のきいた連中は「|も一度《ビス》」と叫んだ。一つの低音《バス》が舞台前の一|隅《ぐう》から響いてきて、道化《どうけ》た主題を真似《まね》しはじめた。他の茶目連中も負けまいとして、同じくそれを真似た。ある者は「作者!」と叫んだ。――それらの才人らは、長くこういう面白い目に会ったことがなかったのである。  騒ぎがやや静まった後に、平然たる楽長は、聴衆の方へ四分の三ほど顔を向け、しかも聴衆を見ないふうを装《よそお》いながら――(聴衆はやはりそこにいないものと見なされていた)――管弦楽団へ合図をして、一言述べたい由を示した。人々は「しッ!」と叫んだ。そして皆黙った。楽長はなおちょっと待った。それから口を開いた。――(明晰《めいせき》で冷やかでよく通る声だった。) 「諸君、楽匠ブラームスにたいしてあえて妄評《もうひょう》を加えた人を、一度御覧に入れたい希望がありませんでしたら、私はむろんこういうもの[#「こういうもの」に傍点]を終わりまで演奏させはしなかったでしょう。」  彼はそう言った。そして壇上から飛び降りながら、沸きたった場内の喝采《かっさい》のうちに退場した。人々は彼をも一度呼び出そうとした。歓呼はなお一、二分の間引きつづいた。しかし彼はふたたび姿を見せなかった。管弦楽隊は立ち去りかけていた。聴衆もまた立ち去ることにした。演奏会は終わった。  すてきな一日だった。  クリストフはもう外に出ていた。下劣な楽長がその譜面台から離るるのを見るや否や、彼は桟敷《ボックス》の外に飛び出したのだった。楽長をとらえてその横面《よこつら》をはりとばしてやるために、二階の階段を駆け降りていった。いっしょにいた友人は、彼を追っかけていって引き止めようとした。しかしクリストフは、その友人を押しのけて、危うく階段の下へつき飛ばすところだった。――(その男も彼を穽《おとしあな》に陥れた同類だと信ぜらるる理由があった。)――オイフラートにとってもまたクリストフにとっても仕合わせなことには、舞台へ通ずる扉《とびら》が閉《し》まっていた。クリストフが怒りに任せてうちたたいても、それは開かなかった。そのうちに聴衆は場席から出始めていた。クリストフはそこにじっとしてることができなかった。彼は逃げ出した。  彼は名状しがたい心地になっていた。狂人のように、両腕を打ち振り、目玉をぎょろつかせ、大声で口をききながら、当てもなく歩いていった。彼は憤怒の叫び声を押え止めていた。街路にはほとんど人影がなかった。その音楽会場は、町はずれの新開地に前年建てられたものだった。クリストフはただ本能的に、田舎《いなか》の方へ逃げようとして、孤立した小屋や板囲いの建築足場などが立ってる荒れ地を横ぎっていった。彼は殺害心を起こしていた。かかる侮辱を自分に加えた男を殺したかった……。がしかし、その男を殺したとて、あれらすべての人々の悪意が少しでも変わるであろうか。彼らの嘲笑《ちょうしょう》がまだ彼の耳には響いていた。彼らはあまりに多勢で、彼はどうともしようがなかった。彼らは彼を辱《はずかし》め押しつぶしてやろうと――他の多くのことにはそれぞれ意見を異にしていながら――皆一致していた。まったく訳のわからないことだった。彼らは彼を憎んでいた。いったい彼は彼ら皆に何をしたのであったか。彼は自分のうちに、美しいものを、人のためになり心を愉快ならしむるものをもっていて、それを語りたく思い、それを他人にも楽しませようと思ったのだ。そしたら彼らも自分と同様に楽しくなるだろうと思っていたのだ。たとい彼らはそれを味わい得なくとも、少なくとも彼の意向には感謝すべきだった。少なくとも、彼らは彼の思い違いの点を親しく注意してやり得るはずだった。しかしそうはしないで、彼の思想をいやに曲解して、それを侮辱し踏みにじり、彼を笑殺せんとして、意地悪い喜びにふけるとは、なんということだろう。彼は激昂《げっこう》のあまり、彼らの憎悪《ぞうお》心をなお誇張して考えていた。それらの凡庸《ぼんよう》な奴らがいだき得ない本気さをも、彼はそこに想像していた。 「俺《おれ》は彼らに何をしたか、」と彼はすすり泣いていた。子供のおり、初めて人間の悪意を知ったあの時のように、彼は息づまる心地がし、もう万事|駄目《だめ》だという気がしていた。  そしてふとあたりをながめ、足下を見ると、水車屋の小川の縁に出て、数年前父がおぼれた場所に来てることを、彼は気づいた。そして自分もおぼれて死にたいという考えがやにわに起こった。彼はすぐさま飛び込もうとした。  しかし、水の静明な瞳《ひとみ》に惑わされてのぞき込んだ時、ごく小さな一匹の小鳥が、そばの木の上で歌いだした――やたらに歌いだした。彼は黙然として耳を澄ました。水がささやいていた。柔らかな風になでられて起伏する、花時の小麦の戦《そよ》ぎが聞こえていた。白楊樹《はくようじゅ》が揺いでいた。路傍の籬《まがき》の向こうには、眼には見えなかったがある庭に蜜蜂《みつばち》の巣があって、その香《かん》ばしい音楽を空気中にみなぎらしていた。小川の向こう側には、瑪瑙《めのう》色に縁取った美しい眼の牝牛《めうし》が、うっとりと夢みていた。一人の金髪の少女が壁の縁に腰掛け、翼をそなえた小さな天使のように目荒な軽い背負い籠《かご》を肩にして、裸の足をぶらつかせ意味のない唄《うた》を歌いながら、やはりうっとりと夢みていた。遠く牧場の中には、一匹の白犬が大きな円を描いて飛び回っていた……。  クリストフは樹《き》によりかかって、春めいた大地をながめかつ聞いていた。それらのものの平和と喜悦とにとらえられた。忘れていたのだ、忘れていたのだ……。にわかに彼は、頬《ほお》をつけていた美しい樹を両腕に抱きしめた。地面に身を投げ出した。草の中に頭を埋めた。彼は激しく笑っていた、幸福に笑っていた。生命のあらゆる美が恵みが魅力が、彼を包み込み浸し込んだ。彼は考えた。「どうして、お前はこんなに美しいのか、そして彼ら――人間――はあんなに醜いのか?」  それはどうでもいいのだ! 彼は生命を愛していた、愛していたのだ。常に生命を愛するだろうということを、何物からも生命を奪われ得ないだろうということを、彼は感じた。彼は夢中になって大地を抱擁した。彼は生命を抱擁していた。 「僕はお前をもっている。お前は僕のものだ。彼らも僕からお前を奪うことはできない。なんとでもするがいい。僕を苦しませるがいい……。苦しむこと、それもやはり生きることだ!」  クリストフはまた勇ましく働きだした。「文士」などとよくも名づけられた奴ども、文飾家、無益な饒舌《じょうぜつ》家、新聞雑誌記者、批評家、芸術上の山師や商売人、それらとはもはやなんらの関係もつけたくなかった。また音楽家らの偏見や嫉妬《しっと》を攻撃して時間をつぶすことは、なおさらしたくなかった。彼らは彼を欲しなかったというのか。――よろしい、もう彼の方でも彼らを欲しなかった。彼はなすべき仕事をもっていた。それをなすことだ。宮廷は彼を解放した。彼はそれを感謝していた。彼は人々の敵意を感謝していた。これから一人静かに働き得るのだった。  ルイザは心から彼に賛成した。彼女はなんらの野心をももっていなかった。クラフト家の気質ではなかった。クリストフの父にも祖父にも似ていなかった。息子のために名誉をも世評をも希望してはいなかった。彼が富裕になり有名になったら、確かに彼女も喜ぶには違いなかった。しかしそれらの利得があまりに不愉快な価を払って得らるべきものであるとしたら、彼がそんなものに係《かか》わり合わない方が彼女にはずっと好ましかった。彼女はクリストフが宮廷と仲|違《たが》いしたことについて、事件そのものよりも彼の苦しみの方をより多く心配した。そして心の底では、彼が雑誌や新聞の連中と喧嘩《けんか》したことを喜んでいた。彼女は不徳な新聞雑誌にたいして、田舎者らしい不信をいだいていた。それらに関係することは、ただ時間を浪費し人の嫌悪《けんお》を招くのに役だつばかりだった。彼女は時々、雑誌の同人たる青二才どもがクリストフと話してるところを聞いた。そして彼らの人の悪さに怖《おそ》れを感じた。彼らは何事も痛烈に非難し、何事についてもひどいことを言っていた。ひどいことを言えば言うほど満足していた。彼女には彼らを愛せられなかった。彼らは確かにきわめて怜悧《れいり》で学者ではあった。しかしいい人ではなかった。で彼女は今や、クリストフがもう彼らと会わないことを喜んだ。彼らに用があるもんか、というクリストフの意見に彼女は同意だった。 「彼らは僕について、勝手なことを言ったり書いたり考えたりするがいい。」とクリストフは言っていた。「彼らは僕が僕自身たることを妨げ得はしない。彼らの芸術、彼らの思想、それが僕に何になるものか。僕はそれを否定してやる!」  世間を否定するのはきわめて痛快なことである。しかし世間は青年の放言壮語によってたやすく否定されるものではない。クリストフは真面目《まじめ》だった。しかし彼は自惚《うぬぼ》れていて、自分をよく知らなかった。彼は僧侶ではなかった。世間を見捨てる気性ではなかった。ことにそれだけの年齢に達していなかった。彼は最初のうちはあまり苦しまなかった。作曲に没頭していた。そしてその仕事がつづいてる間、なんらの不足も感じなかった。しかし、一つの作品が完成してから他の新しい作品が精神を奪うまでの間うちつづく、悄沈《しょうちん》の時期にはいった時、彼は周囲を見回して自分の孤独に慄然《りつぜん》とした。なんのために書いたかを彼は怪しんだ。書いてる間はそういう疑問は起こるものではない。ただ書かなければならない。それは議論のほかである。ところが次に、生まれた作品と顔を合わせる。作品を臓腑《ぞうふ》から迸《ほとばし》り出させた強い本能は沈黙してしまっている。なんのために作品が生まれたのかもうわからない。作品のうちに自分の姿を認めることもなかなかできない。それはほとんど見知らぬ者である。できるならば忘れてしまいたくなる。しかも、作品が発表されるか演奏されるかしないうちは、世の中の独自の生活を得ないうちは、忘れることは不可能である。そうなるまでは、作品は母体に結びつけられてる赤児《あかご》であり、生きた肉体に鋲《びょう》付けされてる生けるものである。生きんがためには、それを切断しなければいけない。クリストフが多く作曲すればするほど、彼から生まれ出て生きることも死ぬこともできないでいるそれら生物の圧迫が、彼のうちに増大していった。だれがこの圧迫から彼を解放してくれるであろうか。一つの人知れぬ力が、それらの彼の思想の児らを突き動かしていた。風に運ばれて宇宙に広がる根強い種子のように、それらは彼から離れて他の魂の中に広がろうと、むりやりに切望していた。クリストフは無生産のうちに閉じこもっていなければならないのであろうか? そんなことだったら彼は憤激するに違いなかった。  あらゆる出口は――芝居も音楽会も――彼にたいして閉ざされていたし、また彼は、一度拒絶された支配人らに新たな申し込みをするほど、どんなことがあっても身を屈したくなかったので、今はもはや、書いたものを出版するだけの方法しか残っていなかった。しかしながら彼は、自作を演奏してくれる管弦楽団よりも、自作を出版してくれる本屋の方が見出しやすいとは、自惚《うぬぼ》れることができなかった。いかにも拙劣な二、三の運動を試みたが、それだけでもう明瞭《めいりょう》だった。彼は新たな拒絶に出会ったり、あるいはそれらの商売人と議論し彼らの保護者的な態度を我慢するよりは、むしろ自費出版の方法を取った。それは狂気の沙汰《さた》だった。彼は宮廷の給料や音楽会などから得た少しの貯蓄をもっていた。しかし今はそれらの財源がすべて涸《か》れていて、他の財源を見出すまでには長くかかるかもしれなかった。十分慎重な態度を取って、当面の困難な時期を過ごす助けとなるべきその小貯蓄は、節約しておかなければいけなかった。ところが、彼はそうしなかったばかりではなく、その貯蓄では出版費用に足りなかったので、平気で借金をした。ルイザはなんとも言い兼ねた。彼女は彼を無鉄砲だと思い、また、書物の上に自分の名前を見るために金を費やす理由がよくわからなかった。しかしそれは、彼の気を落ち着けさせ彼を手もとに引き留める一つの方法だったので、彼女は彼が満足しさえすればそれで非常に幸福だった。  クリストフは、よく知られた種類の安心できる曲を、世に発表することをしないで、非常に愛着してるごく個性的な一連の作品を、原稿の中から選んだ。それはピアノの曲であって、ごく短い大衆的なものやごく込み入ったほとんど劇的なものなど、種々の歌曲が入り交っていた。全体が時には楽しい時には悲しい一連の印象を形造っていて、それらの印象はごく自然に相連続し、順次にピアノ独奏と単独もしくは伴奏付の独唱とで演奏さるべきものとなっていた。「なぜなら、」とクリストフは言っていた、「私は夢想する時、常に自分の感じてることだけを表白しはしない。私は言葉にそれと言わないで、苦しんだり喜んだりする。しかし、それを言わないではおられない瞬間も、別になんの考えもなく歌わないではおられない瞬間も、やってくる。時としては、ぼんやりした言葉、取り留めもない文句、にすぎないこともある。時としては、まとまった詩のこともある。それからまた、私は夢想を始める。そういうふうにして一日は過ぎ去る。そして実際、私が表現しようと思ったのは、一日をである。何故に、歌あるいは前奏曲ばかりを集めるのか? それほど不自然で不調和なものはない。魂の自由な動作を伝えようとつとめなければいけない。」――それで彼は、その一連の集を一日[#「一日」に傍点]と名づけた。その各部分には、内心の夢想の連続を簡単に示す小題がついていた。クリストフはそこに、ひそかな捧呈《ほうてい》文や頭字や日付などを書いておいた。それは彼一人にしかわからないものであって、彼に過去の詩的な時を思い起こさせるものであり、あるいは、にこやかなコリーヌ、弱々しいザビーネ、名を知らぬ若いフランスの女など、愛する人々の面影を思い起こさせるものであった。  右の作品以外に、歌曲《リード》の中から――彼には最も気に入り従って公衆には最も気に入らぬものの中から、三十曲ばかりを彼は選んだ。最も「旋律的」な旋律《メロディー》を選ばないように用心して、最も独自性あるものを選んだ。――(人の知るとおり、世人は「独自性ある」ものをいつも非常に恐れる。性格のないものの方が彼らにはよく似てるのである。)  それらの歌曲《リード》は、十七世紀の古いシレジアの詩人らの句にもとづいて書かれたものであった。それをクリストフは通俗|叢書《そうしょ》の中で読んだことがあって、その誠直さを愛してるのだった。ことに二人の詩人は、兄弟のように親しく思われた。二人とも天分が豊かであったが、ともに三十歳で死んでいた。一人はパウル・フレミンクという愉快な詩人で、コーカサスやイスパハンへ自由な旅を試み、戦争の野蛮や生活の悲哀や時代の腐敗などの中にあって、純潔な愛情深い清朗な魂を失わなかった人である。も一人はヨハン・クリスチアン・ギュンテルという放肆《ほうし》な天才で、風のままに放浪しながら、暴飲と絶望とに身を焦がした人である。クリストフはギュンテルから、彼を圧倒する敵なる神にたいする挑戦と復讐《ふくしゅう》的反語との叫びを、打倒されながら天に雷電を投げ返すタイタンの恐ろしい呪《のろ》いを、くみ出したのであった。そしてフレミンクからは、アネモネやバジレネへ寄する花のように香ばしくやさしい恋の歌、――また澄み切った楽しい心の舞踏歌《タンツリード》たる星のロンド、――またクリストフが朝の祈祷《きとう》のように諳誦《あんしょう》していた自身へ[#「自身へ」に傍点]という悲壮な落ち着いた短詩《ソンネット》、などを取って来たのであった。  敬虔《けいけん》なパウル・ゲルハルトのやさしい楽観主義もまた、クリストフを魅していた。それは彼にとって、悲しみから脱したおりの休息だった。神のうちにある自然のその清浄な幻像を、彼は愛していた。砂の上を歌い流れる小川のほとり、白いチューリップや水仙《すいせん》の中を、鵠《こう》の鳥が堂々と歩を運んでる新鮮な牧場、大きな翼の燕《つばめ》や鳩《はと》の群れが飛んでる澄みわたった空気、雨間を貫く日光の楽しさ、雲間に笑う輝いた空、夕の厳《おごそ》かな清朗さ、森や家畜や町や野の休らい、などを彼は愛していた。今もなお新教の教会で歌われてるそれら聖歌の多くを、彼は無遠慮にも音楽に直した。そしてその賛美歌的性質を残すまいと用心した。否残さないだけではなかった。ひどい性質に変えてしまった。それらに自由な生き生きとした表情を与えた。定めし老ゲルハルトは、自分のキリスト教徒の旅人の歌[#「キリスト教徒の旅人の歌」に傍点]のある節から今発している悪魔的な傲慢《ごうまん》心や、自分の夏の歌[#「夏の歌」に傍点]の平和な流れを急湍《きゅうたん》のようにみなぎらしてる異教的悦楽の情に、身震いをしたことであろう。  ついに出版はなされた。もとより常識を逸した出版だった。クリストフが歌曲[#「歌曲」に傍点]の自費出版をさせその書物を預けた本屋は、ただ隣人だというので彼から選まれたのだった。そういう大事な仕事には手はずが整っていなかった。印刷は数か月もかかった。誤植が多く、校正にも費用がかかった。クリストフはまったく不案内だったから、すべてに三分の一ほども余計に金を取られた。入費ははるかに予想を超過した。次にそれが済むと、クリストフはおびただしい部数を腕にかかえて、どうしていいかわからなかった。その本屋には得意がなかった。書物を広めるための策を少しも講じなかった。その無頓着《むとんじゃく》はまたクリストフの態度とよく合っていた。気が済むように広告でも二、三行書いてくれと彼が頼むと、クリストフは答えた。「広告はいやだ。音楽さえよければ、それで広告になるはずだ。」本屋はクリストフの意志を恭々《うやうや》しく尊重した。そして店の奥に書物をしまい込んだ。それはりっぱに保存されていた。というのは、半年のうちに一冊も売れなかったから。  クリストフは、公衆の方からやって来るのを待ちながら、自分のわずかな財産に明けた穴を埋めるために、何かの方法を講じなければならなかった。そして気むずかしいことを言ってはおれなかった。生活をするとともに負債を払わなければならなかったから。ただに負債が予想以上に大きかったばかりでなく、当てにしていた貯蓄が予算以上に少ないことがわかった。知らず知らずのうちに金を使ったのか、もしくは――この方がずっとほんとうらしかったが――計算を間違えたのであったろうか?(かつて彼は正確な加算をすることができなかった。)がとにかく、金の不足した理由はどうでもよい。金が足りない、そのことだけは確かだった。ルイザは息子《むすこ》を助けるために血の汗をしぼらなければならなかった。彼は痛切な苛責《かしゃく》を感じて、どんなことをしてもできるだけ早く負債を済まそうとした。彼は稽古《けいこ》の口を捜し始めた。申し込んでは往々断わられるのは、いかにもつらいことではあった。彼の評判は地に落ちていた。数人の弟子《でし》を見つけるにもたいへん骨が折れた。それで、ある学校に就職口があることを聞くと、大喜びでそれを引き受けた。  それは半宗教的な学校であった。校長は機敏な人で、音楽家ではなかったが、クリストフの現状をもってしては、ごく安い金で役だたせることができると見抜いたのだった。彼は愛想はよかったが金払いはけちだった。クリストフがおずおず異議をもち出すと、校長は親切そうな微笑を浮かべて、クリストフにはもはや公の肩書がないから、これ以上を要求することはできないものだと言い聞かした。  なさけない仕事だった。生徒らに音楽を教えることよりもむしろ、彼ら自身や両親に彼らが音楽を知ってるとの空想をいだかせることだった。最も大事な事柄は、一般公衆の列席が許される儀式のために、彼らを歌えるように仕込むことだった。方法などはどうでもよかった。クリストフは厭《いや》になってしまった。職務を尽くしながら、有益な仕事をしてると考える慰謝さえも得られなかった。本心では偽善として自責の念を覚えた。彼は子供らにもっと確実な教育を授け、彼らに真面目《まじめ》な音楽を知らせ愛させようと試みた。しかし生徒らはそんなことを気にもかけなかった。クリストフは自分の考えをよく聞かせることができなかった。彼には権威が欠けていた。そして実際、彼は子供らを教育するような性格ではなかった。彼らが渋滞するのに同情を寄せなかった。ただちに音楽の理論を説明してやろうとした。ピアノの稽古《けいこ》を授ける時には、ベートーヴェンの交響曲《シンフォニー》を生徒に課して、それを生徒といっしょに連弾した。もとよりそんなことがやれるはずはなかった。彼は腹をたてて、生徒をピアノから追いのけ、その代わりに一人で長々とひいた。――学校以外の個人の弟子にたいしても、同様であった。彼には少しの我慢もなかった。たとえば、貴族たることを自負しているかわいい令嬢に向かって、女中のようなひき方をすると言ったり、あるいはまた、母親へ手紙を書いて、もう教えるのはごめんだと言い、こういう無能な者にこのうえ関《かかわ》り合っていなければならないとしたら、寿命が縮まるばかりだと言った。――そんなふうなのでうまくゆかなかった。わずかな弟子も離れていった。一人の弟子を二か月以上も引き止めることはできなかった。母は彼に意見を加えた。就職した学校とだけはせめて喧嘩《けんか》をしないと、彼に約束さした。なぜなら、もしその地位を失うようなことがあったら、もはや生活の道がわからなくなるからだった。それで彼は厭《いや》々ながら辛抱した。模範的によく時間を守った。しかし、頓馬《とんま》な生徒が二度も一つところを間違えたり、あるいは次の音楽会のために、無趣味な合唱を自分の級に教え込まなければならない場合には、自分の考えを隠す術《すべ》がなかった。(彼は曲目を選ぶことさえ任せられなかった。彼の趣味は疑われていた。)彼はあまり熱心には教えていないと思われていた。けれども彼は、黙って脹《ふく》れ顔をしながら意地を張っていて、生徒をびっくりさせるほどテーブルの上を打ちたたくだけで、内心の憤りを押えていた。しかし時とすると、あまりに苦々《にがにが》しいことがあった。彼はもう辛抱できなかった。楽曲の最中に彼は歌をやめさした。 「ああ、それはよすがいい、よすがいい。いっそワグナーを僕がひいてやろう。」  生徒らは望むところだった。彼らは彼の後ろでカルタを弄《もてあそ》んだ。するといつも、それを校長に言いつける生徒があった。そしてクリストフは、彼が学校に出てるのは生徒らに音楽を好ませるためにではなく、彼らに音楽を歌わせるためにであることを、言い聞かせられた。彼は震えながら譴責《けんせき》を受けた。しかしそれを甘受していた。喧嘩をしたくなかったのである。――彼がなんらかの価値あるものになり始めると、かかる屈辱を受ける破目に陥るだろうということを、数年以前、彼の前途が輝かしく有望であることを示していた時(その時彼は何にもしてはいなかったが)、その時に、だれが想像し得たであろうか。  学校における職務上、彼は自尊心を傷つけられる苦しみを多く嘗《な》めたが、そのうちで、義務的に同僚を訪問することも、彼にとってはやはりつらい仕事だった。彼はでたらめに二人を訪問してみた。そして非常に厭になって、訪問をつづけるだけの勇気が出なかった。とくに訪問を受けた二人は、別にありがたいとも思わなかったが、他の人々は、個人的に侮辱されたと考えた。皆の者はクリストフを、地位から言っても能力から言っても自分の目下に見ていた。そして彼にたいして保護者的な態度を取っていた。そして彼にたいする意見と自分自身とにいかにも確信ある様子をしていたので、彼にもその考えが感染してきた。彼は彼らのそばにいると自分が馬鹿になったような気がした。彼らに言ってやるべきことは何にも見当たらなかったではないか。彼らはおのれの職務でいっぱいになっていて、それ以外のことは何にも見ていなかった。彼らは人間ではなかった。せめて書物ならまだよかった。しかし彼らは書物の注解であり、言葉の注釈者だった。  クリストフは彼らといっしょになる機会を避けた。しかし時々それをのがれることができなかった。校長は月に一回午後に訪問を受けていた。そして仲間全部が集まることを望んでいた。クリストフは、欠席してもわかるまいといい加減に考えて、断わりもしないでひそかに最初の招待に欠けたが、翌日になると、厭味な小言を食わされた。次回には、母からしかられて、行くことに心をきめた。そして葬式にでも行くように渋々出かけた。  はいって行くと、自分の学校や町の他の学校の教師たちが、細君や娘を連れて集まっていた。彼らは狭すぎる客間に押し込まれて、階級ごとに一群をなしていたが、彼にはなんらの注意をも払わなかった。彼のそばにいる一団は、児童教育や料理のことを話していた。教師の細君たちは皆、多少の料理法を心得ていて、頑強《がんきょう》に学者ぶってしゃべりたてていた。男たちの方もその問題には同じく趣味を覚えていて、ほとんど劣らないくらいの脳力を示していた。また彼らは自分の細君の家政的手腕を誇り、細君らは自分の良人《おっと》の知識を誇っていた。クリストフは、窓ぎわの壁によりかかってたたずみ、どういう様子をしていいかわからず、あるいはぼんやり笑顔をしようとつとめたり、あるいは眼をすえ顔を引きしめて陰鬱《いんうつ》になったりしながら、退屈でたまらなかった。数歩向こうに一人の若い女が窓口に腰掛けて、だれからも話しかけられず、彼と同様に退屈しきっていた。二人とも広間の中をながめていて、たがいに認めなかった。しばらくたってから、どちらもたまらなくなって欠伸《あくび》をしようと向き返った時に、初めて気づいた。ちょうどその時、二人の眼は出会った。二人は親しい目配せをし合った。彼は彼女の方へ一歩近寄った。彼女は小声で彼に言った。 「面白うございますか。」  彼は広間の方へ背中を向け、窓を見ながら、舌を出してみせた。彼女は放笑《ふきだ》した。そしてすぐに気がついて、そばに腰をおろすようにと合図をした。二人は近づきになった。彼女は学校で博物の講義を受け持ってるラインハルト教師の細君だった。夫妻はこの町に最近来たばかりで、まだだれも知り合いがなかった。彼女はとうてい美しいとは言えなかった。鼻は太く、歯並みや賤《いや》しく、清楚《せいそ》なところが少なく、ただ眼だけは生き生きとしてかなり敏捷《びんしょう》で、また仇気《あどけ》ない微笑をもっていた。彼女は鵲《かささぎ》のようによくしゃべった。彼も快活に答えをした。彼女は面白いほど率直で、おかしな頓智《とんち》に富んでいた。二人はあたりの人々にお構いなしで、笑いながら声高く感想を語り合った。近くの人々は、二人を孤立から助け出してやるのが慈悲の仕業である間は、二人の存在を気にも止めなかったが、二人がしゃべり出したとなると、不満そうな眼つきを投げはじめた。そんなにはしゃぐのは、よからぬ趣味となるのであった……。しかし、人の思惑なんかは、二人の饒舌《じょうぜつ》家には無関心なことだった。二人は先刻の意趣晴らしをしていたのである。  最後に、ラインハルト夫人はクリストフに良人《おっと》を紹介した。彼はひどい醜男《ぶおとこ》だった。顔は蒼《あお》ざめ、髭《ひげ》がなく、痘痕《あばた》があり、憐《あわ》れっぽかった。しかしたいへん善良な様子だった。喉《のど》の奥から声を出し、音綴《おんてつ》の間々で休みながら、もったいらしいたどたどしい仕方で言葉を発音した。  彼ら二人は、数か月以前に結婚したのだった。そしてこの二人の醜男醜女は、たがいに惚《ほ》れ合っていた。おおぜいの人中ででも、見合わしたり話したり手を取り合ったりするのに、一種の情愛をこめていた――それは滑稽《こっけい》でかつ切実だった。一人が好むことは、も一人も好んだ。すぐに彼らは、この招待の帰りには宅へ寄って夜食を取ってくれと、クリストフに申し出た。クリストフは冗談を言いながら用心し始めた。今晩は早く帰って寝るのがいちばんいいと言った。十里も歩かせられたようにがっかりしてると言った。しかしラインハルト夫人は、だからこそこのままではいけないと答え返し、こんな厭な気持のまま夜を過ごすのは危険だと言った。クリストフは我《が》を折った。彼は孤独だったので、あまり上品ではないがしかし単純で心厚いこの善人たちに出会ったのを、実はうれしく感じていた。  ラインハルト家のこじんまりした内部は、彼らと同様に心厚いものだった。それは多少|饒舌《じょうぜつ》な心であり、種々の辞令をもってる心であった。家具も道具も皿《さら》も口をきき、「親愛なる客」を迎える喜びをあかずくり返し、健康を尋ね、懇篤で道義的な忠告を与えていた。安楽|椅子《いす》――それもごく堅いものだったが――の上には、小さな羽蒲団《はねぶとん》が敷かれていて、その羽蒲団は親しげにささやいていた。 「どうか十五分間ばかりでも!」  クリストフに出されたコーヒー茶碗《ぢゃわん》は、も一杯飲むように勧めていた。 「も一口どうぞ!」  御馳走皿《ごちそうざら》は、もとよりりっぱな料理に道徳を加味していた。一つの皿は言っていた。 「万事をお考えなさい。そうでないと何にもいいことが起こりますまい。」  も一つの皿は言っていた。 「愛情と感謝とは人を喜ばせます。忘恩はだれでもきらいます。」  クリストフは少しも煙草《たばこ》を吸わなかったが、暖炉の上の灰皿は彼の方へ進んで来ないではいなかった。 「火のついた煙草の小さな休み場所。」  彼は手を洗おうとした。すると化粧台の上のせっけんは言った。 「われわれの親愛なる客人のために。」  そして謹直な手ぬぐいは、何にも言うことがないのにやはり何か言わなければいけないと思ってるごく丁重な人のように、ごく良識的ではあるがしかしあまり適宜でない考えを、「朝を楽しむために早く起きなければいけない」ということを、彼に注意した。 「朝の時間は口に黄金を含んでいます。」  クリストフは椅子《いす》に掛けたまま、室の隅々《すみずみ》から響いてくる他の種々の声に呼びかけられるのを聞くことを恐れて、ついにはもう振り返ることもできなくなった、彼は其奴《そいつ》らに言ってやりたかった。 「黙らないか、畜生め! お前たちの言うことはさっぱりわからない。」  すると彼は突然大笑いに駆られた。そして主人夫妻に、先刻の学校の集まりを思い出したからだと、苦しい説明をした。どんなことがあっても彼らの気分を害したくなかった。そのうえ、彼は滑稽《こっけい》なことにあまり敏感ではなかった。彼は間もなく、それらの物品や人たちの饒舌な懇篤さに馴《な》れてしまった。彼らに向かって何を恕《じょ》しがたいことがあったろう。いかにも善良な人たちだった。嫌《いや》な人物ではなかった。趣味は欠けていたにしても、知力は欠けていなかった。  彼らはやって来たばかりのこの土地でいささか途方にくれていた。田舎《いなか》の小都市の堪えがたい猜疑《さいぎ》心は、その一員となるの名誉を正式に懇願しないと、他人が勝手にはいることを許さなかった。ラインハルト夫妻は、小都市において前任者にたいする新来者の義務を規定する田舎の慣例を、十分念頭においていなかった。厳密に言えば、ラインハルト氏の方はまあ機械的に服従した。しかし夫人の方は、そういう役目を厭《いと》い窮屈を厭《いや》がって、それを一日一日と延ばした。訪問すべき人名表のうちから最も気楽そうなのを選んで、それを最初に済ました。他の訪問は際限なく延ばしておいた。この後者の部類に入れられた知名の人々は、かかる無礼を憤った。アンゲリカ・ラインハルト――(良人《おっと》から親しげにリーリと呼ばれていた)――は、やや自由な態度の女だった。儀式ばった調子を取ることができなかった。上の地位の人々をも馴《な》れ馴れしく呼びかけた。すると彼らは怒って真赤《まっか》になった。彼女は場合によっては、彼らの言葉に逆らうことをも恐れなかった。彼女はきわめて口数が多くて、頭に浮かんだことはなんでも言いたがった。時とするとあまりにばかばかしいことを言って、背後から人に笑われることもあった。また肺腑《はいふ》を刺す露骨な皮肉を言って、深い恨みを買うこともあった。そういう意地悪い言葉を言いたくなる時には、舌を噛《か》んで口に出すまいとした。しかし間に合わなかった。きわめて温良で敬意深い良人は、このことに関して彼女へ控え目な注意をよく与えた。すると彼女は彼を抱擁して、自分は馬鹿でお言葉はもっともだと言った。しかしすぐあとで、彼女はまたくり返すのだった。ことにある種のことは最も言ってならない場合や場所において、彼女はすぐにそれを口にのぼした。もしそれを言い出さなかったら身体が張り裂けるかもしれなかった。――彼女はクリストフと気が合うようにできていた。  言ってならないから従って言いたくなる多くの変な事柄のうちでも、ドイツで行なわれてることとフランスで行なわれてることとの不穏当な比較を、彼女は何につけてもくり返した。彼女はドイツの生まれであった――(彼女ぐらいドイツ式な者はいなかった)――けれど、アルザスで育ち、アルザスのフランス人と交わったので、ラテン文明にひきつけられたのだった。多くのドイツ人やまた最も頑固《がんこ》そうに見える人々も、フランスから併合した地方においては、ラテン文明の魅力に抗することができないものである。なおありていに言えば、アンゲリカは北方のドイツ人と結婚し、純粋にゲルマン式な環境にはいって以来、その魅力は彼女にとって、反発心のためいっそう強くなったのであろう。  クリストフに会った最初の晩から、彼女はいつもの持論をもち出した。彼女はフランス人の会話の愛すべき自由さをほめた。クリストフも相槌《あいづち》をうった。彼にとっては、フランスはコリーヌであった。美しい輝いた眼、にこやかな若々しい口、腹蔵ない自由な態度、いかにも調子のいい声。彼はそれについてもっと知りたくてたまらなかった。  リーリ・ラインハルトは、クリストフと非常によく意見が合うので、手を打って喜んだ。 「残念ですわ、」と彼女は言った、「フランス人の若いお友だちがもうここにいないのは。でも仕方がなかったんです。よそへ行ってしまいました。」  コリーヌの面影はすぐに消えてしまった。あたかも花火の輝きが消えて、暗い空の中に突然、星のやさしい深い光が現われるように、他の面影が、他の眼が、現われてきた。 「だれですか。」とクリストフはぎくりとして尋ねた。「若い家庭教師ではありませんか。」 「え!」とラインハルト夫人は言った、「あなたも御存じですか。」  二人はその女の様子を述べた。どちらも同じ姿だった。 「あなたはその女《ひと》を御存じですね。」とクリストフはくり返した。「どうか知ってるだけのことを私に聞かしてください。」  ラインハルト夫人は、自分たちは親友で万事をうち明け合った間柄だということから、まず話しだした。しかしその詳細に立ち入ると、彼女のいわゆる万事はごくつまらないことになってしまった。二人は初め他人の家で出会った。ラインハルト夫人の方からその若い女に交際を求めた。そして例の懇篤さで、話しに来てくれと招いた。若い女は二、三度やって来た。そして二人は話をした。けれども、好奇なリーリがその若いフランス婦人の生活を多少知るのも、そう容易なことではなかった。向こうは非常に慎み深かった。わずかずつ身の上話を引き出さなければならなかった。ラインハルト夫人は、彼女がアントアネット・ジャンナンという名前であることをまさしく知った。彼女には財産はなかった。家族としては、パリーに残ってる若い弟があるきりで、彼女は献身的にその弟を助けていた。たえずその弟のことを話していた。彼女が多少感情を吐露するのは、その話にばかりだった。そしてリーリ・ラインハルトは、両親もなく友だちもなく一人パリーに残って、ある中学校の寄宿舎にはいってるその若者にたいして、憐《あわ》れみ深い同情の念を示しながら、アントアネットの信頼を得てしまった。アントアネットが外国での就職を甘受したのも、半ばは弟の教育費を補助するためであった。しかし二人の憐れな若者は、たがいに離れて暮らすことができなかった。毎日手紙を書き合った。待ってる手紙が少し遅れても、どちらも病的な心配に駆られた、アントアネットはたえず弟のために心を痛めていた。弟は孤独の悲しさをいつも姉に隠すだけの勇気がなかった。彼の愁訴はいちいちアントアネットの心に、胸が裂かれるような強さで響いた。彼女は弟が苦しんでると考えては心痛し、病気であるがそれを隠してるのだとしばしば想像した。善良なラインハルト夫人は、それらの理由もない危惧《きぐ》について、幾度も親切に彼女をたしなめてやらなければならなかった。そしてしばらくは彼女を安心させることができた。――アントアネットの家庭や身分やまた心底については、夫人は何にも知ることができなかった。ちょっと問いかけられても、その若い女はひどく内気な様子で口をつぐんだ。彼女は教養があった。年齢よりませた経験をもってるらしかった。彼女は素朴《そぼく》であるとともにまた悟ってるらしく、敬虔《けいけん》であるとともにまた非空想的らしかった。この土地の機宜も温情もない家庭にはいっては、幸福でなかった。――どうして彼女がこの地を去ったかを、ラインハルト夫人はよく知っていなかった。人の噂《うわさ》によると不品行をしたそうだった。アンゲリカはそれを少しも信じなかった。それはこの愚かな邪悪な町にふさわしい忌むべき中傷であると、堅く信じ切っていた。しかしいろんな話はあった。だがそんな話なんかはどうでもいいではないか。 「そうですとも。」と首たれてクリストフは言った。 「でもとうとう行ってしまいました。」 「そしてたつ時になんと言いましたか。」 「ああ、その機会がありませんでしたの。」とリーリ・ラインハルトは言った。「ちょうど私はケルンへ二日間行っていました、帰って来ると、……もう遅い!……」と彼女は言葉を途切らしながら、お茶へ入れるシトロンをあまり遅くもって来た女中にあてつけた。  そして、生粋《きっすい》のドイツ人らが家常茶飯事にまで示す生来の厳格さをもって、彼女は厳《いか》めしく言い添えた。 「世の中のことはたいていそうですが、もう遅《おそ》い!」  (それはシトロンのことなのか途切れた話のことなのかわからなかった。)  彼女は言いつづけた。 「帰って来ますと、短い手紙が来ていました。私がしてやった種々なことのお礼を言い、パリーへ帰るということでした。住所は書き残してゆきませんでした。」 「それきり手紙をよこしませんか。」 「ええ何にも。」  クリストフは、あの悲しげな顔が夜の中に消えてゆくところを、ふたたびありありと思い浮かべた。列車の窓越しにこちらをながめている最後に見たとおりの眼が、一瞬間彼の前に現われた。  フランスの謎《なぞ》がいっそう執拗《しつよう》にふたたび提出された。クリストフはフランスを知ってると自称してるラインハルト夫人に尋ねて飽きなかった。そしてラインハルト夫人はかつてフランスに行ったこともないのに、彼になんでも教えてやった。ラインハルト氏はりっぱな愛国者で、夫人以上によくはフランスを知らず、フランスにたいする偏見でいっぱいになっていて、夫人の感激があまりひどくなると、時として控え目な態度を破ることもあったが、しかし夫人はさらに激しく主張しつづけた。そしてクリストフは何にも知らないくせに、信頼の心からそれにいっしょになっていた。  彼にとっては、リーリ・ラインハルトの記憶よりもなお貴《とうと》いものは、彼女の書物だった。彼女はフランスの書物で小さな文庫をこしらえていた。手当たり次第に買われた、学校の教科書や小説や脚本などがあった。フランスのことを知りたがっていながら何にも知っていないクリストフにとっては、ラインハルトが親切にも彼の勝手に任してくれる時には、それらの書物が宝のように思われた。  彼はまず、学校用の古い編纂《へんさん》書から、抜粋文集から、読み始めた。それはリーリ・ラインハルトやその良人にとって、学生時代に役だったものであった。まったく何も知らないフランス文学のうちに分け入ろうとするならば、まずそれから始めなければいけないと、ラインハルトは彼に確言した。クリストフはフランス文学を自分よりよく知ってる人たちをごく尊敬して、その言葉どおり正直に従った。そしてその晩から読み始めた。彼はまず、自分のもってる宝の概略を調べ上げようとつとめた。  彼は次のようなフランスの作家を知った。テオドール・アンリ・バロー、フランソア・ペティ・ド・ラ・クロア、フレデリック・ボードリー、エミール・ドゥレロー、シャール・オーギュスト・デジレ・フィロン、サムュエル・デコンバ、プロスペル・ボール。彼は次の人々の詩を読んだ。ジョゼフ・レール師、ピエール・ラシャンボーディー、ニヴェルノア公爵、アンドレ・ヴァン・アセル、アンドリユー、コレー夫人、サルム・ディック侯夫人コンスタンス・マリー、アンリエット・オラール、ガブリエル・ジャン・バティスト・エルネスト・ウィルフリード・ルグーヴェ、イポリット・ヴィオロー、ジャン・ルブール、ジャン・ラシーヌ、ジャン・ド・ベランゼ、フレデリック・ベシャール、ギュスターヴ・ナドー、エドゥアール・プルーヴィエ、ウーゼーヌ・マニュエル、ユーゴー、ミルヴォア、シェーヌドレ、ゼームス・ラクール・ドラートル、フェリックス・シャヴァンヌ、フランシス・エドゥアール・ジョアサンすなわちフランソア・コペー、ルイ・ベルモンテ。クリストフはそれらの詩の汎濫《はんらん》中に迷い込みおぼれ沈んでしまって、散文の方に移っていった。そこには次のような人たちがいた。ギュスターヴ・ド・モリナリ、フレシエ、フェルディナン・エドゥアール・ブュイソン、メリメ、マルー・ブラン、ヴォルテール、ラメ・フルーリー、父デューマ、ジャン・ジャック・ルソー、メジエール、ミラボー、ド・マザード、クラルティー、コルタンベール、フレデリック二世、および、ヴォギューエ氏。また最もしばしば引用されてるフランスの歴史家は、マクシミリアン・サンソン・フレデリック・シェールであった。クリストフはそういうフランスの名家抄の中に、新ドイツ帝国の宣告を見出した。そしてフレデリック・コンスタン・ド・ルージュモンの書いたドイツ人に関する記述を読んで、次のことを教えられた。 [#ここから2字下げ]  ドイツ人は魂の世界に生きるように生まれている。彼らはフランス人のごとき喧騒《けんそう》浮薄な快活さを有しない。彼らは魂を多分にもち、その愛情はやさしくかつ深い。働いて倦《う》まず、企画して撓《たわ》まない。最も道徳的な人民であり、最も生活期間の長い人民である。ドイツは非常に多くの作家を有し、また美術の天才を有している。他国の人民らが、フランス人たりイギリス人たりスペイン人たることを光栄としているのに反して、ドイツ人はその公平無私なる愛のうちに、全人類を抱擁する。またドイツ国民は、ヨーロッパの中央に位することによって、人類の心であるとともに最高の理性であるように思われる。 [#ここで字下げ終わり]  クリストフは疲れまた驚いて、書物を閉じて考えた。 「フランス人は善良なお坊《ぼっ》ちゃんばかりだ。あまり鋭利ではない。」  彼は他の書物を取り上げた。それはも少し程度の高いもので、高等な学校の用に供するものだった。ミュッセーが三ページを占め、ヴィクトル・デュリュイが三十ページを占めていた。ラマルティーヌは七ページ、ティエールは四十ページ近かった。ル・シッド[#「ル・シッド」に傍点]は全部――ほとんど全部のっていた。(ただドン・ディエーグの独白とロドリーグの独白はあまり長いので削ってあった。)――ランフレーはナポレオン一世にたいするプロシアの反感をおだてていた。それで彼にたいしてはページの制限がなかった。彼一人で十八世紀のクラシックの大家全体以上のページを取っていた。千八百七十年のフランスの敗北に関するたくさんの物語は、ゾラの瓦解[#「瓦解」に傍点]から取って来られたものだった。そして、モンテーニュ、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエール、ディドロー、スタンダール、バルザック、フローベル、などは出ていなかった。その代わり、前の書物に出ていないパスカルが、珍しい人としてこの書物に出ていた。そしてクリストフは、この狂信家が「パリー付近の女学校ポール・ロアイヤルの神父の一人だった」ことをついでに知った……。(注――ジャン・クリストフが友人ラインハルト家の蔵書から借り出したフランス文学名家抄は、次のようなものだった。一、ストラスブールグの聖ヨハネ学習院長哲学博士フーベルト・ウィンゲラート著、中学校用フランス文粋[#「中学校用フランス文粋」に傍点]、中級第二部、一九〇二年七版、デュモン・ショーベルク出版。二、ハンブールグのヨハネ派学習院中学校長テンデリング改訂、ヘルリッヒおよびブルグイ共著、フランス文学[#「フランス文学」に傍点]、一九〇四年ブルンスウィック版。)  クリストフは何もかも投げ捨てようとした。頭がくらくらしていた。もう何にもわからなかった。「いつまでも堂々めぐりだ、」と彼は思った。なんらの意見をもまとめ上げることができなかった。先途がわからずに幾時間もめちゃくちゃにページをくっていた。彼にはフランス語が自由に読めなかった。非常に骨折ってある一節を理解すると、それはたいてい無意味な壮語であった。  そのうちに、かかる渾沌《こんとん》の中から、剣戟《けんげき》、鋭利な言葉、勇ましい笑声など、数条の光線が迸《ほとばし》り出てきた。次第にその初歩の読書から、おそらく編纂の傾向的意図によってであろうが、一つの印象が浮かび上がってきた。ドイツの出版者らは、フランス人の欠点とドイツ人の優秀さとを、フランス人自身の証明によって確定し得るようなものを、その文集中に選び入れていた。しかしながら彼らは、クリストフのような独立的精神の者がそれから明らかに見て取ることは、自分らのすべてを非難して敵をほめるそれらフランス人らの驚くべき自由さであろうとは、夢にも思ってはしなかったのである。ミシュレーはフレデリック二世を、ノンフレーはトラファルガーにおけるイギリス人らを、シャラースは千八百十三年のプロシアを、それぞれ称揚していた。ナポレオンの敵のうち一人として、ナポレオンのことをかくまで手きびしく語り得てる者はなかった。最も尊敬されてる事柄も、彼らの誹謗《ひぼう》的な精神からのがれてはいなかった。ルイ大王当時にあっても、鬘《かつら》の詩人らは思うままのことを語っていた。モリエールは何一つ見のがさなかった。ラ・フォンテーヌはすべてを嘲笑《ちょうしょう》していた。ボアローは貴族を非難していた。ヴォルテールは戦争を軽侮し、宗教を攻撃し、祖国を揶揄《やゆ》していた。人生批評家、諷刺《ふうし》家、論客、滑稽《こっけい》作家、皆それぞれ快活なあるいは陰鬱《いんうつ》な大胆さを競っていた。それは一般に尊敬心の欠如だった。ドイツの正直な出版者らはそれに時々|狼狽《ろうばい》した。彼らは自分の良心を安心させる必要を感じて、料理人も人夫も兵士も従卒も同じ袋に投げ入れたパスカルを、弁解しようとつとめた。パスカルがもし近代の高尚な軍隊を知っていたらかかる言をなさなかったに違いないと、注をつけて抗論した。また、仕合わせにもレッシングがラ・フォンテーヌの物語を訂正し、ジュネーヴ生まれのルソーの意見に従って、烏先生のチーズを毒に浸した一片の肉に変え、そのために卑劣な狐を死なせて、「悪むべき[#「悪むべき」に傍点]阿諛者《おべっかもの》、お前が得るのは毒ばかりだ[#「お前が得るのは毒ばかりだ」に傍点]、」としているのを、彼らはもち出さずにはいなかった。  彼らは赤裸々な真実の前に眼を瞬《またた》いた。しかしクリストフは喜んだ。彼は光明を愛していたのである。けれど彼もやはり、あちらこちらで小さな不安を覚えた。彼はそういう放肆《ほうし》な独立に慣れていなかった。最も自由であってもやはり規律に慣れてるドイツ人にとっては、それは無政府らしく思われた。そのうえクリストフは、フランス人の皮肉さに迷わされた。彼はある事柄をあまり真面目《まじめ》に取りすぎた。また断然たる否定であるある事柄が、彼には反対に冗談的逆説と思われた。だがそれはとにかく、彼はびっくりしたり不快を覚えたりしながらも、少しずつひきつけられていった。彼は種々の印象を分類することはやめた。一つの感情から他の感情へと移っていった。生きていた。フランスの物語――シャンフォールやセギュールや父デューマやメリメなどが乱雑につみ重ねられてる物語――の快活さが、彼の精神を暢々《のうのう》とさしてくれた。そして時々あるページからは、もろもろの革命の強く荒い匂《にお》いがむくむくと立ち上っていた。  明け方近くになって、隣室に眠っていたルイザが眼を覚《さ》ますと、クリストフの室の扉《とびら》の隙間《すきま》から、光の漏れるのが見えた。彼女は壁をたたいて、病気ではないかと彼に尋ねた。椅子《いす》が床の上にきしった。扉が開《あ》いた。そしてクリストフがシャツだけで、一本の蝋燭《ろうそく》と一冊の書物とを手にし、厳粛で滑稽《こっけい》な妙な様子をして現われた。ルイザははっとして、気が狂ったのだと思いながら寝床の上に身を起こした。彼は笑いだして、蝋燭を振りながらモリエールの一節を朗読した。ある文句のまん中で放笑《ふきだ》した。息をつくために母の寝台の足下にすわった。光は彼の手の中で震えていた。ルイザはほっとしてやさしくしかった。 「どうしたの、どうしたのさ! 行ってお寝《やす》みよ。……まあ、ほんとうに馬鹿になったんだね。」  しかし彼はますます機嫌《きげん》よく言い出した。 「これを聞くんですよ。」  そして彼は枕頭《ちんとう》に腰をすえて、その脚本を初めから読み直してきかせた。彼はコリーヌを見るような気がした。彼女の大袈裟《おおげさ》な音調を聞くような気がした。ルイザは言い逆らった。 「あっちへおいでよ、おいでったら! 風邪《かぜ》をひくじゃないか。厭《いや》だね、眠らしておくれよ。」  彼は頑《がん》として読みつづけた。声を張り上げ、両腕を動かし、また息を切って笑った。すてきではないかと母に尋ねた。ルイザは彼に背中を向け、夜具の中にもぐり込み、耳をふさいで言っていた。 「私に構わないでおくれよ……。」  しかし彼女は、彼の笑いを聞いて低く笑っていた。ついに彼女は逆らうのをやめた。クリストフは一幕を読み終えて、面白いでしょうと尋ねたが返辞がなかったので、彼女の上にかがみ込んでのぞいてみると、彼女はもう眠っていた。それで彼は微笑をもらし、彼女の髪にそっと唇《くちびる》をつけて、音をたてずに自分の室へもどった。  彼はラインハルトの蔵書を引き出しに出かけた。あらゆる書物が順序もなく相次いで借り出された。クリストフはすべてを鵜呑《うの》みにした。彼はコリーヌとあの若い婦人との国を非常に愛したがっており、使いはたすべき多くの感激をもっていて、それを利用した。第二流の作品のうちにおいてさえ、あるページある言葉は一陣の自由な空気のように思われた。彼はそれをみずから誇張して考え、ことにラインハルト夫人に話す時はそうであった。すると夫人はいつもさらに夢中になった。彼女は何にもよくわかってはしなかったけれど、好んでフランス文化とドイツ文化とを対照させ、前者を揚げて後者をけなし、そしては良人《おっと》を怒らしたり、またこの小都市で受くる厭な事柄の腹癒《はらい》せをしていた。  ラインハルト氏は憤慨していた。彼は専門の学問以外のことにわたると、学校で教えられた観念から一歩も出ていなかった。彼に言わせると、フランス人は利口で、実際的の事柄に怜悧《れいり》で、愛嬌《あいきょう》があり、談話術を心得ているが、しかし軽薄で、短気で、自慢心強く、本気になることができず、強い感情をいだき得ず、なんらの誠実もない者ども――音楽もなく、哲学もなく、詩もない(作詩法[#「作詩法」に傍点]一冊とベランゼーとフランソア・コペーとを除いては)国民――感慨と大袈裟《おおげさ》な身振りと誇張した言葉と猥褻《わいせつ》書との国民であった。ラインハルトはラテン人種の不道徳を罵倒《ばとう》するに足るだけの、十分な言葉をもっていなかった。そしてよい言葉が見当たらないので、いつも軽佻[#「軽佻」に傍点]という言葉をくり返していた。それは彼の口に上ると、同国人の多くの者の口に上る時と同じく、特別にありがたくない意味を帯びるのであった。それから終わりにはきっと、高尚なるドイツ国民をほめ上げるきまり文句がやって来た――道徳的国民(この点においてドイツ国民は他のあらゆる国民より秀でている[#「この点においてドイツ国民は他のあらゆる国民より秀でている」に傍点]とヘルデルが言った)――忠実なる国民(この忠実[#「忠実」に傍点]とは、真面目、忠実、公平、正直《せいちょく》、などのあらゆる意味をもっていた)――フィヒテが言ったように、優秀なる国民――あらゆる正理と真理との象徴たる、ドイツの力――ドイツの思想――ドイツ魂《ゲムユート》――ドイツ民族それ自身と同じく、唯一の独特なる言葉であり純粋なまま保存されてる唯一の言葉である。ドイツ語――ドイツの婦人、ドイツの酒、ドイツの歌……「ドイツ[#「ドイツ」に傍点]、世界においてすべてより卓越せるドイツ[#「世界においてすべてより卓越せるドイツ」に傍点]!」  クリストフは抗弁した。ラインハルト夫人は叫び出した。三人とも声高く言い合った。しかしよく理解し合っていた。自分らは善良なドイツ人であることを、三人ともよく知っていた。  クリストフはしばしばやって来て、この新しい友人らとともに話をし食事をし散歩をした。リーリ・ラインハルトは彼をひいきにして、滋味ある御馳走《ごちそう》をふるまってやった。彼女は自分自身の健啖《けんたん》を満足させるために、かかる口実を見出したことを喜んでいた。彼女は感情上のまた料理上の種々な注意を凝らしていた。クリストフの誕生日には、大きな蒸し菓子をこしらえ、その上にたくさんの蝋燭《ろうそく》を立て、まん中にはギリシャ風の服装をした小さな砂糖人形をすえた。この人形はイフィゲニアを現わしたつもりで、花輪を一つもっていた。クリストフはドイツ人たることをきらいながら根本からドイツ人だったので、真の情愛を示すあまり上品でないそういう仕方にも、たいへん心を打たれた。  気質《きだて》のよいラインハルト夫妻は、自分らの積極的な友情を示すために、もっと微妙な方法を見出すことができた。楽譜をほとんど読んだことのないラインハルトは、細君に説き勧められて、クリストフの歌曲集[#「歌曲集」に傍点]を二十部ばかり買った。――(発行書店から買い出されたのはそれが最初のものだった。)――ラインハルトはそれを諸方の大学関係の知人に送って、ドイツじゅうにふりまいた。自著の教科書のことで関係があるライプチヒやベルリン書肆《しょし》へも、ある部数を送った。クリストフは少しも知らなかったが、かかる感心なまた拙劣なやり方は、少なくとも当座のうち、なんらの反響ももたらさなかった。方々へ送られた歌曲集は、なかなか的《まと》に達しないらしかった。だれもそれについてなんとも言わなかった。そしてラインハルト夫妻は、そういう無反響にがっかりして、自分たちの尽力をクリストフに隠しておいたことを喜んだ。なぜなら、彼がもしそのことを知ったら、発奮するよりもさらに多く悲嘆したろうから。――しかし実際においては、世間に毎度見られるとおり、何事も無駄《むだ》にはならない。いかなる努力も空には終わらない。数年間は結果が少しもわからない。ところがいつかは、意図の貫かれたことが現われてくる。クリストフの歌曲集[#「歌曲集」に傍点]も、田舎《いなか》に埋もれてる数人の善良な人々の心に、それと言ってよこすにはあまりに臆病《おくびょう》なあまりに倦怠《けんたい》してる人々の心に、徐々に達したのであった。  ただ一人、彼に手紙をよこした者があった。ラインハルトが書物を送ってから二、三か月後、一通の手紙がクリストフのもとに届いた。感動し儀式ばり心酔した古めかしい形式の手紙で、チューリンゲンという小さな町から来、「大学音楽会長[#「大学音楽会長」に傍点]、教授[#「教授」に傍点]、博士ペーテル・シュルツ[#「博士ペーテル・シュルツ」に傍点]」と署名してあった。  クリストフはそれをポケットに入れたまま二日も忘れていたが、ついにラインハルト家でそれを聞くと、彼はたいへん喜んだ。ラインハルト夫妻にとってはなおさらうれしかった。三人はいっしょにそれを読んだ。ラインハルトは細君と意味ありげな合図をかわしたが、クリストフは気づかなかった。クリストフは晴れやかな気持になってるらしかった。ところがにわかに、読んでる最中に彼の顔が曇りぴたりと読みやめたのを、ラインハルトは見て取った。 「え、なぜやめたんだい?」と彼は尋ねた。(二人はすでに隔てない言葉づきになっていた。)  クリストフは怒ってテーブルの上に手紙を投げ出した。 「いや、これはあんまりだ。」と彼は言った。 「何が?」 「読んでみたまえ。」  彼はテーブルに背中を向けて、片隅へ行って脹《ふく》れ顔をした。  ラインハルトは細君といっしょに読んだ、最も熱烈な賞賛の文句しか見出さなかった。 「わからない。」と彼は不思議に思って言った。 「君にはわからないのか、わからないのか……。」とクリストフは叫びながら、手紙を取り上げて、それを彼の眼の前につきつけた。「では君には読み取れないのか。これもやはりブラームス派だというのがわからないのか。」  その時ようやくラインハルトは、その大学音楽会長が手紙の一行中に、クリストフの歌曲をブラームスのそれと比較してることに気づいた……。クリストフは慨嘆した。 「一人の味方、ついに一人の味方を見出したのだ。……しかもそれを得たかと思うと、もう失ってしまったのだ!……」  彼はその比較に憤ってた。もしそのままに放っておいたら、彼はすぐに馬鹿な返事を出したかもしれない。もしくは、少し考えてみたら、まったくなんとも答えない方が賢くて雅量があると思ったであろう。が幸いにもラインハルト夫妻は、彼の不機嫌《ふきげん》を面白がりながらも、このうえ馬鹿な真似《まね》をしないようにさした。そして感謝の一言を書かせてしまった。しかし顔をしかめながら書かれたその一言は、冷淡なよそよそしいものであった。それでもペーテル・シェルツの心酔は揺がなかった。彼は情愛のあふれた手紙をなお二、三通よこした。クリストフは手紙が上手《じょうず》でなかった。その未知の友の文中に感ぜられる誠実の調子によって、多少心が和らぎはしたけれど、音信をやめてしまった。シュルツも沈黙してしまった。クリストフはもうそのことを考えなかった。  今では、彼は毎日ラインハルト夫妻に会い、また日に数回会うこともしばしばだった。たいてい晩はいっしょに過ごした。一人で考え込みながら一日を過ごすと、彼は口をききたい肉体的欲求を感じた。たとい理解されなくとも頭にあることを言い、理由のあるなしにかかわらず笑い、心のうちを吐露し、屈託を晴らしたかった。  彼は二人に音楽をきかしてやった。他に感謝の意を表する方法がなかったので、ピアノについて幾時間もひいてやった。ラインハルト夫人はまったく音楽を解せず、欠伸《あくび》をすまいと非常に骨折った。しかし彼女はクリストフに同情をもっていて、彼がひくものに興味を覚えてるらしいふうを装《よそお》った。良人《おっと》の方も、彼女以上に音楽を理解するとは言えなかったが、ある曲節には非精神的な感動を受けた。そういう時彼はひどく心をそそられて、自分ながらばかばかしく思えるにもかかわらず涙を浮かべまでした。その他の時は何のこともなく、彼にとってはただ音響だけにすぎなかった。そのうえ一般的に言えば、作品のうちのよくない部分――まったく無意義な楽節――にばかり感動していた。――彼らは夫妻とも、クリストフを理解してると思い込んでいた。そしてクリストフも、理解されてると思い込みたかった。けれど時々二人をからかってやろうという意地悪い欲望が起こった。彼は罠《わな》を張って、なんらの意味もないものを、くだらぬ曲を、ひいてきかせながら、それは自分の作だと彼らに思わせておいた。それから彼らが非常に感心すると、ありていに白状した。それで彼らは用心した。次にクリストフが様子ありげに一曲をひくと、彼らはまただまされるのだと想像した。そしてそれを悪口言った。クリストフは彼らに悪口を言わせ、自分もそれに言葉を合わせ、その曲は一文の価値もないと承認し、それからにわかに口を切った。 「ひどい人たちだ。ごもっともですよ。……これは僕のだから。」  彼は二人をうまくだまかすと、王様にでもなったように喜んだ。ラインハルト夫人は少々当惑して彼のところへ来て軽く打った。しかし彼がいかにも心よく笑ってるので、彼らもまたいっしょに笑った。彼らは間違いない意見をいだき得るとは自信していなかった。そしていかなる立脚地に立っていいかわからなくなったので、リーリ・ラインハルトはすべてを非難しようときめ、良人《おっと》はすべてをほめようときめた。そうすれば、二人のうち一人はいつもクリストフと同意見になることが確かだった。  それにまた、二人をクリストフにひきつけたのは、彼が音楽家であるからというよりもむしろ、やや常軌を逸したきわめて親しみ深い活発なお人よしだったからである。彼の悪い噂《うわさ》を聞いても、彼らはそのためにかえって好意をいだいた。彼と同じく彼らもまた、この小都市の雰囲気《ふんいき》に圧迫されていた。彼と同じく彼らもまた率直であって、自分だけの考えで物を判断していた。そして、処世術が下手《へた》で自分の率直さの犠牲となってる大きな坊ちゃんだと、彼らは彼を見なしていた。  クリストフはその新しい友人たちを、たいして買いかぶってはいなかった。彼らから自分の奥底は理解されていないし、決して理解されることはあるまいと思うと、多少|憂鬱《ゆううつ》になった。しかし彼は非常に友情を得ることが少なかったし、しかも非常に友情をほしがっていたので、彼らからいくらか愛してもらえることを限りなく感謝していた。彼は最近一年間の経験から教えられていた。気むずかしくする権利が自分にないことを認めていた。一、二年以前だったら、彼はそれほど我慢強くはなかったろう。善良な退屈なオイレル一家の人たちにたいして手きびしい振舞いをしたことを、彼は思い出しながらくすぐったいような苛責《かしゃく》を感じた。ああ、いかに賢明になったことだろう!……彼はそれをやや嘆息した。ひそかな声が彼にささやいた。 「そうだ、しかしいつまでそれがつづくかしら。」  それで彼は微笑をもらした。そして心が慰められた。  一人の友を得るならば、自分を理解し自分の魂を分かちもつ一人の友を得るならば、彼は何物をなげうっても惜しくは思わなかったろう。――しかし、彼はまだごく若かったけれど、十分世間の経験を積んでいたので、自分の希望は人生において最も実現困難なものであること、自分以前の真の芸術家らの多数よりもさらに幸福たらんと望み得られるものではないことを、よく知っていた。彼らのうちの数名の伝記を、彼はやや知り得ていた。ラインハルト家の蔵書から借り出したある種の書物は、十七世紀のドイツの音楽家らが通った恐るべき艱難《かんなん》な道と、それらの偉大な魂のある者――最も偉大なる魂、勇壮なるシュッツ――が示した泰然たる堅忍さとを、彼に知らしてくれた。焼かれたる都市、疾病に荒らされた田舎《いなか》、全ヨーロッパの軍勢に侵入され蹂躙《じゅうりん》された祖国、しかも――最も悪いことには――災禍にひしがれ困憊《こんぱい》し堕落して、もう戦おうともせず、万事に無関心となり、ひたすら休息をのみ望んでいる祖国、そういうもののまん中にあって、おのれの道を撓《たわ》まずたどっていったのである。クリストフは考えた。「かかる実例を前にして、だれが不平を唱える権利をもっていよう? 彼らには聴衆がなかった、未来がなかった。彼らはただ自分自身のためと神のためとに書いていた。今日書くものは明日のために滅ぼされるかもしれなかった。それでも彼らは書きつづけた。そして少しも悲しんでいなかった。何物も彼らからその勇敢な純朴《じゅんぼく》さを失わせ得なかった。彼らは自己の歌をもって満足していた。そして彼らが人生に求むるところのものはただ、生きること、ただパンだけを得ること、自分の思想を芸術の中に吐露すること、芸術家ならぬ単純真実なる二、三の善良な人々、もちろん彼らを理解はしないがしかし彼らを率直に愛する人々、それを見出すことばかりであった。――どうして彼ら以上に要求深くあり得られようか。人の求め得る幸福には限度がある。それ以上にたいしてはだれも要求の権利を有しない。過大の要求をなすことが許されるのは、自分自身にたいしてであって、他人にたいしてではない。」  そういう考えが彼の心を朗らかにしていた。そして彼は善良なる友ラインハルト夫妻をますます愛していた。この最後の情愛をも人々が争いに来ようとは、彼は思ってもいなかった。  彼は小都市の邪悪さを勘定に入れていなかった。しかし小都市の怨恨《えんこん》は執拗《しつよう》なものである――なんらの目的もないだけになおさら執拗である。おのれの欲するところを知ってる正しい恨みは、目的を達すれば鎮《しず》まってしまう。しかし倦怠《けんたい》のために悪を行なう者らは、決して武器を放さない。常に退屈しているからである。クリストフは彼らの無為閑散なところへ差し出された一つの餌食《えじき》であった。もちろん彼はもう打ち負かされていた。しかし彼はまいった様子を見せないだけの大胆さをそなえていた。彼はもはや何人《なんぴと》をも気にかけなかった。何物をも要求しなかった。人々は彼にたいしていかんともなし得なかった。彼は新しい友人らといっしょになって幸福だった。人々の噂《うわさ》や考えにはすべて無関心だった。それを彼らは許せなかった。――ラインハルト夫人はなおいっそう彼らをいらだたせた。彼女が全市に対抗してクリストフに公然と示してる友情は、彼の態度と同様に、世論にたいする挑戦の観があった。しかし善良なリーリ・ラインハルトは、何物にもまただれにも挑戦してはいなかった。他人に挑《いど》みかかろうとは思っていなかった。ただ他人の意見を求めないで、自分がよいと思ったことをなしてるのだった。ところが、それこそ最も悪い挑発であった。  人々は彼らの挙動をうかがっていた。彼らはうっかりしていた。一人は非常識であり、一人は迂濶《うかつ》だったので、いっしょに外出する時や、あるいは家で、夕方露台に肱《ひじ》をかけて談笑する時でさえ、慎重さを欠いていた。中傷の材料になるような馴《な》れ馴れしい素振りをも、知らず知らずやっていた。  ある朝、クリストフは無名の手紙を受取った。それには、下劣きわまる侮辱的な言葉で、彼をラインハルト夫人の情人であると誹謗《ひぼう》してあった。彼は呆然《ぼうぜん》とした。彼は彼女にたいして、ふざけた考えさえかつて起こしたことがなかった。彼はあまりに貞節であって、有夫姦《ゆうふかん》については清教徒的な恐怖の念をいだいていた。その不潔な共有を考えてみるだけでも、一種の嫌悪《けんお》を覚えた。友人の妻を奪うことは、犯罪のように思われたのである。そしてリーリ・ラインハルトは、彼にその罪を犯す気を起こさせるような女には、最も縁遠かったはずである。気の毒にも、彼女は少しも美しくはなかった。彼は情熱の口実さえもっていなかったはずである。  彼は恥ずかしい困った様子で、友人夫妻の家へ行った。そして同じ困惑の様子を見出した。彼らはおのおの、同様な手紙を受け取ったのであった。しかしたがいにそれと言い出しかねた。三人ともたがいに探り合いまた自分の心を探りながら、もう動くことも口をきくこともできないで、馬鹿な真似《まね》ばかりしていた。リーリ・ラインハルトの生来の無頓着《むとんじゃく》さがのさばって、ふと笑い出したり無法なことを言い出したりすると、にわかに良人《おっと》の眼つきかクリストフの眼つきかが彼女を狼狽《ろうばい》さした。手紙のことが彼女の頭にひらめいた。彼女はまごついた。クリストフもラインハルトもまごついた。そして各自に考えた。 「二人は知らないのかしら。」  けれども彼らは何にも言わないで、前と同じようにしてゆこうとつとめた。  しかし無名の手紙はなおつづいて来て、ますます侮辱的に卑猥《ひわい》になっていった。そのために彼らはいらだちと堪えがたい恥ずかしさとに陥った。手紙を受け取ってもたがいに隠していたが、また読まないで焼き捨てる力もなかった。彼らは震える手で封を切った。中の紙を開きながら絶望した。同じ問題にいくらか新しい変化を添えてる読むに恐ろしい事柄――害毒しようとつとむる精神が作り出した巧みな汚らわしい事柄――を読み取るとひそかに泣いた。執拗《しつよう》につきまとってくるこの悪者はいったい何奴だろうかと、彼らは捜しあぐんだ。  ある日、ラインハルト夫人は力もつきはてて、迫害を受けてることを良人にうち明けた。彼は眼に涙を浮かべて、自分もそうだとうち明けた。それをクリストフに言ったものだろうか? 彼らは言い出しかねた。けれども、彼に用心させるために知らせなければいけなかった。――ラインハルト夫人は、顔を赤らめながら一言切り出してみると、クリストフもまた手紙をもらってることを知ってびっくりした。悪意がかくまで熱烈なのに彼らは驚愕《きょうがく》した。もはやラインハルト夫人は、町じゅうの者に知れわたってることを疑わなかった。三人はたがいに力をつけ合うどころか、がっかりしてしまった。どうしていいかわからなかった。クリストフはそいつの頭を打ち割ってやると言った。――しかしだれの頭を? それにまた、そんなことをしたら中傷はなお盛んになるだろう。……警察に手紙のことを告げようか?――それは陰口を明るみにさらすこととなるだろう。……知らないふうをしていようか? もはやそれもできなかった。彼らの友誼《ゆうぎ》はもう攪乱《かくらん》されていた。ラインハルトは妻とクリストフとの公明さを絶対に信じていたが、それはなんの役にもたたなかった。二人を疑うまいとしてもできなかった。彼は自分の疑念の恥ずかしいばかばかしさを感じた。クリストフと妻とを二人きりになすようにつとめた。しかし彼は苦しんでいた。そして細君にはそれがよくわかった。  彼女の方はさらにいけなかった。クリストフが彼女に心を向けようと思わなかったごとく、彼女もかつてそんなことを思ったことはなかった。ところが中傷のために彼女は、クリストフがとにかく自分に恋愛的感情をいだいてるかもしれないという滑稽《こっけい》な考えを、いつのまにかいだくようになった。そして彼がそんな様子を露ほども示したことはなかったにかかわらず、彼女は一応断わっておく方がよいと思った。彼女は直接にあてつけはしないで、へまな用心深い仕方を用いた。クリストフは最初わからなかったが、ようやくそれとわかると、茫然《ぼうぜん》としてしまった。泣きだしたくなるほど馬鹿げていた。親切だが醜いありふれたこの中流婦人に、彼が恋するとは!……そして彼女がそう信じようとは!……そしてその良人《おっと》に彼は弁解することもできないとは! 「さあ、御安心なさい。危険はありません!……」ともまさか言えなかった。  否々、彼はそれらのいい人たちを侮辱することはできなかった。そのうえ、もし彼女が彼から愛されまいと用心するならば、それは彼女がひそかに彼を愛し始めたからであることを、彼は考え及んだ。無名の手紙はそういう愚かな空想的な考えを彼女に吹き込むほど、好結果をもたらしたのであった。  状況はきわめて困難になるとともに馬鹿げてきて、もうそのままつづくことができなくなった。そのうえまた、リーリ・ラインハルトは口先の大言にもかかわらず、なんら性格の強みをもっていなくて、小都市の暗黙な敵意の前に惑乱してしまった。彼ら夫妻は恥ずかしい口実を設けてもう会うまいとした。  ――ラインハルト夫人は加減が悪かった……。ラインハルトは忙しかった……。二人は数日間不在だった……。  下手《へた》な嘘《うそ》ばかりだった。偶然が意地悪くも面白がって面皮をはいでくれるような嘘だった。  クリストフはもっと率直に言った。 「憐《あわ》れな友だちよ、私たちは別れましょう。私たちには力がないのです。」  ラインハルト夫妻は泣いた。――しかし絶交してしまうと、彼らはほっと安堵《あんど》した。  この小都市は勝利を得ることができた。こんどこそクリストフはただ一人となった。彼は最後の一息たる愛情までも奪われてしまった。――愛情、それがいかにちっぽけなものであろうとも、それなしにはだれの心も生きられるものではない。 [#改ページ]      三 解放  彼にはもはや一人の味方もなかった。友は皆散り失《う》せてしまった。彼が困ってる時にはいつも助けに来てくれる、また彼が今や最も必要としている、あのなつかしいゴットフリートも、長い前にどこかへ行ってしまって、こんどはもう永久に帰って来なかった。この前の夏のある晩、遠い村の名がしるしてある太い字体の手紙が来て、ルイザに兄の死んだことを知らした。この小行商人は、健康が悪いにもかかわらず頑固《がんこ》に放浪の行商をつづけていて、旅先で死んだのである。彼は遠いその地の墓地に葬られた。かくて、クリストフを支持してやり得たかもしれない男らしい朗らかな最後の友情は、深淵《しんえん》の中に没してしまったのだった。彼は今や、年老いて彼の思想には無関心な母親――彼を愛してばかりいて理解してはいない母親と、ただ二人きりであった。彼の周囲は、広漠《こうばく》たるドイツの平野、陰鬱《いんうつ》なる大洋であった。それから出ようと努力することに、ますます深く沈んでゆくばかりだった。彼の敵たるこの小都市は、彼がおぼれるのをながめていた……。  そして彼がもがいてる時、暗夜のさなかに一つの電光がひらめいて、ハスレルの面影が照らし出された。子供のおり彼があれほど愛した大音楽家であって、今やその栄誉はドイツ全土に光被していた。彼はハスレルが昔なしてくれた約束を思い出した。そして絶望的な力をこめてその残りの一事にすがりついた。ハスレルは彼を救ってくれるかもしれなかった。救ってくれるはずだった。彼が求めるのはなんであったか。助力でもなく、金銭でもなく、いかなる物質的援助でもなかった。何物でもなく、ただ理解してもらうことだけだった。ハスレルも彼と同様に迫害されたことがあった。ハスレルは自由の人であった。ドイツの凡庸《ぼんよう》さから恨み深く追求されて押しつぶされそうになってる一人の自由の人を、理解してくれるはずだった。二人は同一の戦いを戦ってるのだった。  彼はその考えをいだくや否や、すぐに実行した。彼は母へ一週間不在になることを告げた。そして、ハスレルが音楽長の地位についてる北ドイツの大都会へ向かって、その晩汽車に乗った。待つことができなかったのである。それは呼吸せんがための最後の努力であった。  ハスレルは有名になっていた。敵はなお武器を捨てていなかったが、しかし味方の者らは、彼こそ現在過去未来を通じての最大の音楽家だと唱えていた。彼は愚蒙《ぐもう》な追従者らにとりまかれ、また、同じく愚蒙な誹謗《ひぼう》者らにとりまかれていた。彼は強い性格でなかったから、誹謗者らのためにいらだちやすくなされ、味方のために柔惰になされていた。彼はありたけの気力を使って、非難者らを不快がらせ叫ばせようとした。彼は悪戯《いたずら》を事とする不良児に似ていた。そしてその悪戯も、最も厭味《いやみ》なものであることが多かった。彼はただに、正統派らを激怒せしむるような奇異な作曲に、その妙才を用いたばかりではなく、また、風変わりな歌詞にたいして、奇怪な主題にたいして、あるいはしばしば曖昧《あいまい》卑猥《ひわい》な情景にたいして、すなわち一言にしていえば、すべて普通の良識と謹直とを傷つけるようなものにたいして、意地悪い嗜好《しこう》を示していた。中流人士らが喚《わめ》くと彼は満足していた。そして中流人士らは欠かさず喚いていた。成り上がり者や王侯に見るような横柄《おうへい》な傲慢《ごうまん》さで、芸術にまで関与していた皇帝は、ハスレルの名声を世間の醜怪事と見なして、機会あるごとにはかならず、彼の厚顔な作品にたいして軽侮的な冷淡さを示していた。かかる公辺の反対は、ドイツ芸術の尖端派にとってはほとんど一つの世間的確認となるものだったが、ハスレルはそれを憤りまた愉快がって、ますます乱暴なやり方をつづけていた。新たに悪戯《いたずら》をすることに、味方の者らは歓喜して天才だと呼号していた。  ハスレルの徒党は、廃頽派《はいたいは》の文学者や画家や批評家からおもに成り立っていた。彼らはたしかに、敬虔《けいけん》主義的精神と国家的道徳心との復興――北ドイツにおいては常に威嚇《いかく》的なものとなる復興――にたいする反抗派を代表するに足るのであった。しかし彼らの独立心は、闘争においては知らず知らずのうちに、滑稽《こっけい》なものとなるほど激昂《げっこう》していた。なぜなら、彼らの多くはかなり辛辣《しんらつ》な才能に欠けてはいなかったとしても、知力を有すること少なく、趣味を有することはさらに少なかったからである。彼らはみずからこしらえ出した人為的な雰囲気《ふんいき》から、もはや脱することができなかった。そしてあらゆる流派に見らるるとおり、ついに実人生の知覚をまったく失ってしまっていた。彼らの評論を読み、彼らが好んで宣言するものを鵜呑《うの》みにする、多くの愚人らにたいして、また自分自身にたいして、彼らは法則をたれていた。彼らの阿諛《あゆ》はハスレルに有害であって、彼をあまりに自惚《うぬぼれ》さしていた。彼は頭に浮かぶ楽想を、少しも検《しら》べないでことごとく取り上げた。そして自分の真価より劣ったものを書くことはあるかもしれないが、それでも他の音楽家のものより常に優《まさ》っていると、ひそかに信じていた。ところがこの考えは、不幸にも多くの場合あまりに真実だったけれど、そのために、きわめて健全な考えであって偉大な作品を生み出すに適したものである、ということにはならなかった。ハスレルは心の底に、敵味方を問わず万人にたいして、全然の蔑視《べっし》をいだいていた。そしてこの苦々《にがにが》しい嘲弄《ちょうろう》的な蔑視は、彼自身と全人生とにまで広がっていた。彼は高潔な無邪気な多くのことを昔信じていただけに、ますます深くその皮肉な懐疑主義の中に沈んでいった。高潔な無邪気な事柄を時日の徐々たる破壊から防ぐだけの力もなく、もはや信じていないものをなお信じていると思い込むだけの虚偽もなし得ないで、彼は憤然と昔の記憶を嘲笑し去らんとつとめた。彼は南ドイツの性質をもっていた。怠惰柔弱で、過度の幸運や寒気や暑気に抵抗しがたく、自分の平衡を維持するためには、適度な気温を必要とする性質だった。彼はみずから知らないまにいつしか、人生の怠惰な享楽を事とするようになってしまった。みごとな珍味や、重々しい飲料や、無為の遊楽や、柔弱な思想などを好んでいた。彼は天分に豊かであって、時流に投じた放漫な音楽中にもなお天才の火花がひらめいてはいたけれど、彼の全芸術には右のことが仄《ほの》見えていた。自分の頽廃《たいはい》を彼はだれよりもよく感じていた。実を言えば、彼一人だけがそれを感じていた――しかも感ずるのは時々のことであって、もとより彼はそういう瞬間を避けたがっていた。そして一度そう感じた時には、暗黒な気分、利己的な配慮、健康の心配、などに浸り込んで人間ぎらいになった――昔自分の感激や憎悪《ぞうお》を刺激したような事柄にたいしてはことごとく無関心になって。  そういう人のそばに、クリストフは慰安を求めに行ったのだった。雨の降る寒い朝、彼はいかばかりの希望をもって、その都会に到着したことだろう。彼の目には芸術における独立的精神の象徴たる人が、そこに住んでいたのだ。彼はその人から、友愛と勇気とに満ちた言葉を期待していた。彼がそういう言葉を必要としていたのは、不利なしかも必然な戦いをつづけてゆかんがためにであった。真の芸術家は、最後の一息まで、一日といえども武装を解かずに世間と戦いを交えなければならない。なぜなら、シルレルが言ったように、「公衆を相手にしての決して後悔なき唯一の関係[#「公衆を相手にしての決して後悔なき唯一の関係」に傍点]――それは戦いである[#「それは戦いである」に傍点]。」  クリストフは非常に気が急《せ》いていて、停車場のとある旅館へ手荷物を預けるか預けないうちに、すぐ劇場へかけつけて、ハスレルの住所を尋ねた。ハスレルは市の中央からかなり遠い郊外に住んでいた。クリストフはパンをがつがつかじりながら、電車に乗った。目的地に近づくに従って、胸が動悸《どうき》してきた。  ハスレルが住居を選んだ一郭の地は、逸品を得ようとする困難な努力にあくせくしてる博学な蛮勇を若いドイツが傾けつくしている、奇異な新しい建築法によって、ほとんど全部が建てられていた。卑俗な町のまん中に、なんらの特色もないまっすぐな街路に、いろんなものが突然そびえていた、エジプトの大|墓窟《ぼくつ》、ノールウェーの農家、修道院、城楼、万国博覧会の層楼、生気のない顔と一つの巨大な眼をもってる、地面にもぐり込んだ無脚のふくれ上がった家、地牢《ちろう》の鉄門、潜水艦の押しつぶされた扉《とびら》、鉄の箍《たが》、窓の鉄格子《てつごうし》についてる金色の隠花植物、表門の上に口を開《あ》いてる怪物、あちらこちらに、思いもかけぬところには皆敷いてある、青い瀬戸の敷き石、アダムとイヴとを示す雑色の切りはめ細工、不調和な色の瓦《かわら》でふいた家根、最上階には銃眼をうがち、頂上には異形の動物をすえ、一方には窓が一つもないが、他方には突然相並んで、方形や長方形のぽかんと開いてる多くの穴が、傷口みたいについてる、要塞《ようさい》式の家、裸壁の大きな面、その面からはただ一つの窓の所へ、不意に大きな露台が飛び出し、その露台はニーベルンゲン式の人像柱にささえられ、またその石の欄干からは、髭《ひげ》のはえた髪の濃い老人の、ベックリンの人魚のような男の、二つのとがった頭が飛び出していた。それらの牢獄みたいな人家の一つ――入口には巨人の裸体像が二つある低い二階建ての、古代エジプトの王宮に似た家――の破風《はふ》に、建築家はこう書きしるしていた。 [#ここから3字下げ] ああ芸術家をして示さしめよ、 過去未来にまたとなき己が宇宙を。 [#ここで字下げ終わり]  クリストフはハスレルのことばかり考えていたので、落ち着きのない眼でそれをながめ、少しも理解しようとはしなかった。彼は目ざす家へ到着した。最も簡単な――カロヴァンジャン式の――家の一つだった。内部は金目のかかった卑俗なぜいたくさを示していた。階段には、熱しすぎた暖房器の重い空気が漂っていた。狭い昇降機がついていた。しかしクリストフは、訪問の心構えをする隙《ひま》を得んがために、それに乗らなかった。感動のために足は震え心は躍《おど》りながら、その五階まで小足に上っていった。そのわずかな歩行の間に、ハスレルとの昔の会見、子供らしい心酔、祖父の面影などが、昨日のことのように彼の頭に浮かんだ。  彼が入口の呼鈴を鳴らした時は、十一時に近かった。家事取締女らしい様子のてきぱきした女が出て来た。彼女は彼をぶしつけにじろじろながめて、「旦那《だんな》様は疲れていらっしゃるからお目にはかかれません、」とまず言い出した。が次に、クリストフの顔に素朴《そぼく》な失望の色が浮かんだのを見て、きっと興味を覚えたのであろう、彼の全身を厚かましく見調べた後に、突然調子を和らげ、ハスレルの書斎に通して、会えるようにしてあげようと言った。そして横目でちらと彼を見やってから、扉《とびら》を閉《し》めた。  印象派の絵画やフランス十八世紀の優雅な版画などが、壁にはかかっていた。ハスレルはあらゆる芸術に通じてると自称していたのである。そして自分の党与から指示されたとおりに従って、マネーとワットーとを自分の趣味の中に結合していた。様式の同様な混合が、家具の配置にも現われていた。ルイ十五世式の非常にりっぱな机は、「新式」の肱掛椅子《ひじかけいす》数個と多彩の羽蒲団《はねぶとん》が山のように積んである東方式の安楽椅子とに、取り囲まれていた。扉には鏡が飾りつけてあった。日本の置物が、棚《たな》や暖炉の上にいっぱい並んでいた。その暖炉の上には、ハスレルの胸像が一つ厳然と控えていた。円卓の上の一つの盤の中には、警句や賛辞が書き入れてある、女歌手や女崇拝者や友人らの写真が、雑然と並んでいた。机の上は驚くほど乱雑をきわめていた。ピアノは開いたままだった。棚の上には埃《ほこり》がつもっていた。半ば吸いさしの葉巻が隅々にころがっていた……。  クリストフは隣室に、ぶつぶつ言ってる不機嫌《ふきげん》な声を聞いた。小間使の強い言葉がそれに答え返していた。ハスレルがあまり出て行きたくない様子を示してることは、明らかだった。また小間使がぜひともハスレルに出て行かせようとしてることも、明らかだった。彼女は少しの遠慮もなく、非常に馴《な》れ馴れしい答え方をしていた。その鋭い声は壁を通して聞こえてきた。クリストフは、主人に注意してる彼女の言葉を聞くと、落ち着けなかった。しかし主人は、少しも気を悪くしていなかった。否かえって、そういう失礼さを面白がってるかのようだった。そしてなおぶつぶつ不平を言いつづけながら、小間使をからかい、彼女を焦《じ》らして面白がっていた。ついにクリストフは、扉《とびら》の開く音を耳にし、たえず不平を言いまたからかいながらハスレルが、足を引きずってやって来るのを耳にした。  彼ははいってきた。クリストフは胸迫る思いをした。彼はハスレルを見覚えていた。ああむしろ見覚えがなかったら? それはまさしくハスレルであった、がまたハスレルではなかった。やはりその大きな額《ひたい》には皺《しわ》もなく、その滑《なめ》らかな顔は子供のようだった。しかし頭は禿《は》げ、身体は肥満し、顔色は黄色く、眠そうな様子をし、下唇は少したれ下がり、退屈そうな不機嫌《ふきげん》な口つきをしていた。肩を曲げ、はだけた上着のポケットに両手をつき込み、足には破れ靴《ぐつ》を引きずっていた。ボタンもかけ終わっていないズボンの上には、シャツがたくね上がっていた。彼は半ば眠っている眼でクリストフをながめた。クリストフが自分の名前をつぶやいても、その眼は輝かなかった。彼は無言のまま自動的な礼を返し、頭でクリストフに席をさし示し、溜息《ためいき》をつきながら安楽|椅子《いす》にどっかとすわり、その羽蒲団《はねぶとん》を身のまわりにつみ重ねた。クリストフはくり返した。 「前に一度……いろいろ御親切を……クリストフ・クラフトという者でございますが……。」  ハスレルは、安楽椅子に深くすわり込み、長い両足を組み合わせ、頤《あご》の高さまで来てる右|膝《ひざ》の上に、痩《や》せた両手を握り合わせていたが、答え返した。 「覚えないね。」  クリストフは喉《のど》をひきつらしながら、昔面会したことを向こうに思い出させようと試みた。しかしそういう親しい思い出を語ることは、いかなる事情においても彼には困難であった。そして目下の事情においては一つの苦悩であった。彼は文句にまごつき、適当な言葉が見当たらず、馬鹿なことを言っては顔を赤らめた。ハスレルはぼんやりした無関心な眼でじっと見つづけながら、彼を言い渋るままに放《ほう》っておいた。クリストフがようやく話を終えると、ハスレルはあたかも彼がまだ言いつづけるのを待ってるかのように、しばらく黙ったまま膝をゆすっていた。それから言った。 「そう……だがそんな話で若返りはしないね……。」  そして彼は伸びをした。  欠伸《あくび》をした後彼は言い添えた。 「……失敬……眠らなかったものだから……昨晩劇場で夜食をしたので……。」  そしてふたたび欠伸をした。  クリストフは今話したことについてハスレルからなんとか言ってもらいたかった。しかしハスレルは、その話に格別興味を覚えないで、もうなんとも言わなかった。そしてクリストフの身の上についても、なんらの問いをもかけなかった。欠伸をしてしまってから、尋ねた。 「前からベルリンへ来てるのかね。」 「今朝ついたばかりです。」とクリストフは言った。 「そう。」とハスレルは別に驚きもしないで言った。「宿屋はどこだい。」  返辞を聞くふうもなく、彼は懶《ものう》げに身を起こし、呼鈴のボタンに手を伸ばし、そして鳴らした。 「ちょっとごめん。」と彼は言った。  小間使が例の横柄《おうへい》な様子をして現われた。 「キティー、」と彼は言った、「今日は俺《おれ》に朝飯を食わせないつもりかい。」 「でも、」と彼女は言った、「お客様とごいっしょのところへ食べ物をもってまいってはいけないじゃございませんか。」 「なぜいけないんだい。」と彼は言いながら、嘲笑《ちょうしょう》的な瞬《またた》きでクリストフをさし示した。「この方は俺の精神を養ってくださる。俺は身体を養おうとするんだ。」 「人様の前で召し上がるのを恥ずかしいとはお思いなさらないのですか、動物園の獣のように。」  ハスレルは怒りもせず、笑いだして、言葉を言い直してやった。 「飼われてる犬|猫《ねこ》のように、だろう。」 「でもまあもっておいで。」と彼は言いつづけた。「恥ずかしさもいっしょに食べてやろう。」  彼女は肩をそびやかしながら出て行った。  クリストフは、自分のしてることをハスレルがなお尋ねようともしないのを見て、ふたたび話の糸口を結ぼうとつとめた。田舎《いなか》における生活の困難なこと、人々の凡庸なこと、彼らの精神の偏狭なこと、孤独な情況のこと、などを話した。自分の心の苦悶を訴えて、同情を寄せてもらおうとつとめた。しかしハスレルは、安楽|椅子《いす》にうずくまり、頭を反《そ》り返らして羽蒲団《はねぶとん》にもたせかけ、眼を半ば閉じて、彼を話すままにしておいて、聞いてもいないようだった。あるいはまた、ちょっと眼瞼《まぶた》をあげて、田舎の人々に関する冷やかな皮肉や滑稽《こっけい》な警句を数語投げつけて、もっとうち解けた話をしようとするクリストフの気をくじいてしまった。――キティーはもどって来て、コーヒーやバタやハムなどの朝食の盆をもってきていた。彼女は脹《ふく》れ顔をして、紙の散らかってるまん中に机の上にそれを置いた。クリストフは、彼女が出て行くのを待って、苦しい話をまた始めた。言いつづけるのにたいへん骨が折れた。  ハスレルは盆を自分の前に引き寄せていた。彼はコーヒーをついで唇《くちびる》をつけた。それから馴《な》れ馴れしい人のいいやや軽蔑《けいべつ》的な様子で、クリストフの話の途中をさえぎって、彼に勧めた。 「一杯どうだい。」  クリストフは断わった。彼は文句の筋道をつなごうと骨折っていた。しかしますますまごついてきて、もう何を言ってるのかみずからわからなくなった。ハスレルの様子に気を奪われていた。ハスレルは皿《さら》を頤《あご》の下に置き、バタつきのパンやハムの切れを指でつまみ上げては、子供のように頬張《ほおば》っていた。でもクリストフはようようのことで、自分は作曲をしてるということや、ヘッベルのユーディット[#「ユーディット」に傍点]にたいする序曲を演奏さしたことがあるなどと、話すことができた。ハスレルは気も止めずに聞いていた。 「何を?」と彼は尋ねた。  クリストフは序曲の題名をくり返した。 「ああ、なるほど。」とハスレルは言いながら、パンと指先とをいっしょにコーヒーの中に浸した。  それきりだった。  クリストフはがっかりして、立ち上がって帰ろうかとした。しかし長い旅行が無駄《むだ》になることを考えた。そして勇気を振るい起こしながら、自分の作を少しひいてお聞かせしたいと、口ごもりながら申し出た。その一言を聞くや否やハスレルはさえぎった。 「いやいや、僕にはわからないよ。」と彼は愚弄《ぐろう》的な多少侮辱的な皮肉の調子で言った。「それにまた、暇がないからね。」  クリストフは眼に涙を浮かべた。しかし彼は、自作にたいするハスレルの意見を聞かないうちは、ここから出て行かないとみずから誓っていた。彼は困惑と憤慨との交った調子で言った。 「失礼ですが、あなたは昔、私の作を聞いてくれるとお約束なさいました。私はただそのために、ドイツの奥からやってまいったのです。どうか聞いてください。」  ハスレルはそういう応対に馴《な》れていなかった。怒《おこ》って顔を赤らめ泣かんばかりになってるその無作法な青年を、彼はながめた。そして面白く思った。彼は懶《ものう》げに肩をそびやかしながら、指でピアノを指し示し、おかしな諦《あきら》めの様子で言った。 「では……やってみたまえ……。」  そこで彼は、仮睡をでもしようとする者のように、安楽|椅子《いす》の中に身を埋め、拳固《げんこ》で羽蒲団《はねぶとん》を打ちたたき、その平らな上に両腕を伸ばし、半ば眼を閉じたが、クリストフがポケットから取り出した巻いた楽譜の量を測るために、またちょっと眼を見開き、小さな溜息をもらし、そして厭々《いやいや》ながら聞くことにした。  クリストフは気おくれがし慴《ふる》えながらも、演奏し始めた。すると間もなくハスレルは、美しいものに我れ知らず心ひかれる芸術家の職業的な興味をもって、眼と耳とをうち開いた。最初はなんとも言わないで、じっとしていた。しかしその眼は前よりはっきりしてき、そのむっつりした唇は動いてきた。次に彼はまったく本気に返って、驚きと感嘆との声をもらした。それはぼんやりした間投詞だけだった。しかしその調子は、彼の感情を明らかに示していた。クリストフは言い知れぬうれしさを感じた。ハスレルはもはや、ひかれたページや残ってるページの数を測ろうとしなかった。クリストフが一曲をひき終わると、彼は言った。 「それから……それから……。」  彼は人間らしい言葉を使い始めていた。 「それはいい、いい!……(彼は感嘆していた)……すてきだ……恐ろしくすてきなものだ!……だがいったい(彼は驚いてつぶやいていた)どうしたんだ?」  彼は座席に身を起こし、頭を前方に差し出し、手を耳にかざし、独語をし、満足げに笑い、そしてある珍しい和声《ハーモニー》の箇所になると、唇《くちびる》をなめようとでもするようにちょっと舌を出した。不意の転調に、彼は非常に動かされて、感嘆の一語をもらしながら急に立ち上がり、ピアノのところへ来てクリストフのそばにすわった。クリストフがそこにいることにも気づかないらしかった。彼は音楽のことばかりを念頭においていた。その一曲が済むと、彼は楽譜帳を取り上げ、ページを読み返し始め、それから次々にページを読んでゆきながら、賞賛と驚きとの独語を言いつづけ、あたかも室には自分一人きりであるかのようだった。 「驚いた!……(彼は言っていた)……此奴《こいつ》はどこからこんなものを見つけ出したのかな……。」  彼は肩でクリストフを押しのけ、みずから数節をひいてみた。ピアノにおける彼の指先は、きわめてやさしくしなやかで軽くみごとだった。クリストフは、彼の華奢《きゃしゃ》な長いよく手入れの届いた両手を認めた。それは彼の身体つきに似合わない、多少病的な貴族味をそなえていた。ハスレルはある和音のところでひき止め、瞬きをしたり音を鳴らしたりしながら、それをくり返しひいた。彼は種々の楽器の音を真似《まね》ながら、唇《くちびる》でやかましく音をたて、またたえず勝手な激語を音楽に交えていた。その激語には好悪の情がともにこもっていた。ひそかないらだちを、それとなき嫉妬《しっと》の念を、彼はみずから禁ずることができなかったのである。そしてまた同時に、貪《むさぼ》るように享楽していたのである。  彼はあたかもクリストフがそこにいないかのように、なお独語をばかりつづけていたが、クリストフはうれしさに真赤《まっか》になりながら、ハスレルの賛辞は自分にたいしてなされてるのだと思わずにはいられなかった。そして彼は、自分が何を作るつもりだったかを説明しだした。ハスレルは初めのうち、その青年が言ってることにはなんらの注意も払わないらしく、大声で自分一人の考えを言いつづけていた。が次に、クリストフのある言葉にはっとした。彼はさあらぬ体を装《よそお》って耳を傾けながら、めくってる楽譜になお眼をすえたまま、口をつぐんでしまった。クリストフの方は、次第に元気になっていた。そしてすっかり信頼してしまった。彼は無邪気な興奮をもって、自分の抱負や身の上を語った。  黙々としていたハスレルは、またも皮肉な様子をしだした。彼は心ひかれてる楽譜から指を離した。ピアノの棚《たな》に肱《ひじ》をかけ、手に額《ひたい》を置いて彼は、年少の客気と惑乱との調子で自作の注釈をしてるクリストフを、ながめてやっていた。そして自分の初めのころのことや、自分の希望や、クリストフの希望や、彼の前途に待ち受けてる苦しみなどを、考えながら、苦笑を浮かべていた。  クリストフは言うべきことを忘れやしないかと恐れながら、眼を伏せて話していた。ハスレルが黙ってるので力を得ていた。ハスレルが自分を見守ってること、自分の一言をも漏れなく聞いてることを、彼は感じていた。二人を隔てていた氷が砕けたように思われて、心が輝かしくなっていた。語り終わると、おずおずと――また信頼しきって――顔を上げ、ハスレルをながめた。そして自分を見すえてる陰鬱《いんうつ》な嘲笑的な好意なき眼を見た時、湧《わ》きかけていた彼の喜びはことごとく、あまりに早い若芽のように一時に凍えてしまった。彼は口をつぐんだ。  ちょっと冷やかな間を置いてから、ハスレルは冷淡な声で口を開いた。彼はふたたび変わってしまったのである。彼は相手の青年にたいして一種の酷薄さを装《よそお》っていた。相手のうちに自分の昔の姿を見出したので、みずから自分を嘲《あざけ》ろうとでもしてるかのように、その抱負や成功の希望などを、残酷に嘲笑《あざわら》っていた。青年の人生にたいする信念を、芸術にたいする信念を、自己にたいする信念を、破壊してしまおうと冷酷にもつとめていた。苦々《にがにが》しげに自分自身を例にあげて、侮辱的な調子で現在の自作のことを話した。 「くだらない作ばかりだ。」と彼は言った。「くだらない奴らにはそれがちょうどいいんだ。音楽を愛する者が、世に十人といると君は思うか。一人もいないじゃないか。」 「私がいます。」とクリストフは熱心に言った。  ハスレルは彼をながめ、肩をそびやかし、そして大儀そうな声で言った。 「君も皆と同じようになるだろう。皆と同じことをするようになるだろう。皆と同じように、成り上がったり楽しんだりすることを考えるだろう。……そして、それがもっともなんだ……。」  クリストフは抗弁しようと試みた。けれどハスレルは彼の言葉をさえぎった。そして彼の楽譜をふたたび取り上げながら、先刻賞賛したその作品を、辛辣《しんらつ》に非難し始めた。青年の眼を逸した、実際上の粗漏を、書き方の不正確さを、趣味や表現の欠点を、ひどく厳重に指摘したばかりでなく、なお馬鹿げた非難を加え、ハスレル自身が生涯《しょうがい》苦しまなければならなかった、最も偏狭で最も時代におくれた音楽家らがなしそうな非難を、加えたのであった。いったい何を意味するのかと尋ねた。彼はもはや非難してるのではなかった。否定してるのであった。心ならずもそれらの作から受けた印象を、憎々しく消し去ろうとつとめてるかのようだった。  クリストフはびっくりして、答えようとも試みなかった。尊敬し愛してる人の口から聞くには恥ずかしい無茶な言葉に、なんで答え返されよう。それにまたハスレルは少しも耳を貸さなかった。彼はそこにぴったりと頑張《がんば》って、楽譜を両手に閉じ、没表情な眼つきをし、苦々《にがにが》しげな口つきをしていた。がついに彼は、クリストフがいるのをふたたび忘れたかのように言った。 「ああいちばん悲しいことは、理解し得る人がいないことだ、一人もいないことだ。」  クリストフは感動に身内を貫かれる心地がした。彼は急にふり向き、ハスレルの手の上に自分の手を置き、心は愛情でいっぱいになって、くり返した。 「私がいます!」  しかしハスレルの手は少しも動かなかった。その若々しい叫びにたいして、彼の心の中で何物かが.一瞬間振るい立ったとしても、クリストフをながめてる彼の鈍い眼には、なんらの光も輝かなかった。皮肉と利己心とが勢いを占めていた。彼は儀式ばったおかしな様子で上半身をちょっと動かして、会釈の様子をした。 「ありがとう!」と彼は言った。  彼はこう考えていた。 「勝手にするがいい! 貴様のために俺が生命を失ったとでも思ってるのか。」  彼は立ち上がり、ピアノの上に楽譜を投げ出し、よろよろした長い足で、また安楽|椅子《いす》のところへ行ってすわり込んだ。クリストフは、彼の胸中を読み取り、不快な侮辱を感じながら、人は万人に理解される必要はないと昂然《こうぜん》として答えてみた。ある種の魂の人たちだけで全民衆に価する。彼らは民衆に代わって考えてくれる。そして彼らが考えたことを、かならず民衆は考えるようになると。――しかしハスレルはもう聞いていなかった。彼はまた茫然《ぼうぜん》自失の状態に陥っていた。それは彼のうちに眠ってる生命力の衰弱から来たものだった。クリストフはきわめて健全であって、そういう急激な変調を理解できなかったから、もう負けだということを漠然《ばくぜん》と感じた。しかし勝ちかけたように思ったすぐあとなので、あきらめることができなかった。彼は絶望的な努力をして、ハスレルの注意を呼び起こそうとつとめた。楽譜を取り上げて、ハスレルから指摘された不規則さの理由を、説明しようとつとめた。ハスレルは安楽|椅子《いす》に埋まって、陰鬱《いんうつ》な沈黙を守っていた。賛成もせず反対もしなかった。ただおしまいになるのを待っていた。  クリストフは、もう仕方がないことを見て取った。文句の途中で言いやめた。楽譜を巻き納めて立ち上がった。ハスレルも立ち上がった。クリストフは恥ずかしくまた気おくれがして、口ごもりながら詫《わ》びを言った。ハスレルは傲慢《ごうまん》なまた退屈そうな品位を見せながら、軽く身をかがめ、冷やかにていねいに手を差し出し、そして入口まで送ってきたが、一言引き止めようともせず、また来るようにも言わなかった。  クリストフはがっかりして街路に出た。当てもなく歩いていった。機械的に二、三の通りをたどった後、前に乗って来た電車の停留場に出た。なんの考えもなくまたそれに乗った。手足にも力がぬけはてて、腰掛の上に身を落した。思慮をめぐらすことも、自分の考えをまとめることもできなかった。何にも考えてはいなかった。自分の心中をのぞき込むのが恐ろしかった。まったく空虚だった。その空虚は自分のまわりに町の中にあるような気がした。もう息もつけなかった。その霧、それらの大きな家々が、彼の呼吸をふさいだ。彼はもう一つの考えしかもたなかった。逃げること、できるだけ早く逃げること――あたかも、この町から逃げ出せば、そこに見出した苦《にが》い幻滅を残して行けるかのように。  彼は旅館に帰った。十二時半前だった。二時間以前に彼はこの旅館にはいったのだった――いかなる光明を心にいだいていたことぞ!――が今は、すべて消え失《う》せてしまっていた。  彼は昼食を取らなかった。室へも上がらなかった。主人が驚いたことには、彼は勘定書を求め、一晩過ごしたかのように金を払い、そして出発するつもりだと言った。何も急ぐ必要はないこと、彼の乗ろうとする汽車は数時間後にしか出ないこと、旅館で待ってる方がいいこと、などを説明されても無駄《むだ》だった。彼はすぐに停車場へ行きたがった。どれでも構わず最初の汽車に乗りたく、一刻もそこにとどまることを欲しなかった。この長い旅をした後、旅費をだいぶ使った後――ただにハスレルに会うことばかりではなく、博物館を見物し音楽会に行き種々の知己を得ることなどを、楽しみにしていたのであるが――彼はもはや一つの考えしかもたなかった、すなわち出発すること……。  彼は停車場へもどってきた。言われたとおりに、乗るべき汽車は三時間後にしか出なかった。しかもその汽車は急行でなく――(クリストフは最下等にしか乗れなかったのである)――途中で停まるのであった。二時間後に発車して初めのに追いつく次の汽車に乗った方が、ずっと利益だった。しかしそれはここで二時間ほど多く過ごすことであった。クリストフには堪えがたかった。彼はもう、待ってる間に停車場の外へ出たくもなかった。――陰鬱な待合時間だった。室は広くがらんとして、しかも騒々しく陰気で、見知らぬ人影が、まったくの他人であり無関係である人影が、どれも皆忙しそうに足を早めながら、出入りしていて、一人の知人もなく、一の親しい顔もなかった。蒼白《あおじろ》い明るみは消えてしまった。霧に包まれた電燈が、夜の中に点々とともって、夜をいっそう暗くしてるがようだった。時がたつにつれてクリストフはますます切ない気持になり、出発の時間を苦しげに待っていた。間違えていないことを確かめるために、一時間に十度も時間表を見直しに行った。そして時間つぶしに、それを隅々《すみずみ》までまた読み返してると、ある地名にはっとした。どうも覚えがあるようだった。やがてそれは、いかにも親切な手紙をくれたシュルツ老人の土地であることが、思い出された。この見知らぬ友を訪れてみようという考えが、慌《あわただ》しい中にもすぐに浮かんできた。その町は直接の帰途には当たっていなくて、支線を一、二時間ばかりの所だった。長い時間待って二、三度乗り換えをしながら、夜通しの旅になるのだった。クリストフは何にも計算に入れなかった。そこへ行こうとすぐにきめた。同情にすがりたいという本能的な欲求があった。考える暇も待たずにすぐ電報を打って、翌朝着くことをシュルツに知らした。がその電報を出すか出さないうちに、もう後悔した。いつに変わらぬおのれの幻が苦笑された。何故にまた新たな苦しみの方へ向かって行くのか?――しかしもう済んだあとだった。変更するには間に合わなかった。  それらの考えのうちに待ち残した時間は過ぎた。――彼の乗るべき汽車がついに仕立てられた。彼はまっ先に乗り込んだ。彼はまったく子供らしくなっていて、ようやく息がつけるようになったのは、汽車が動き出して、灰色の空の中に、もの悲しい驟雨《しゅうう》の下に、夜の落ちかかってる都会の影が消えてゆくのを、車窓から見送った時からであった。そこで一晩過ごしたら死ぬかもしれないような気がしていた。  ちょうどその時――午後六時ごろ――ハスレルの手紙がクリストフあてで旅館に届いた。クリストフの訪問によって、彼は心に多くの動揺を受けたのだった。午後じゅう彼は心苦しく考えていた。あれほど熱烈な愛情をいだいてやって来ながら、自分の冷淡な待遇を受けた憐《あわ》れな青年にたいして、同情の念が湧《わ》かないでもなかった。彼は自分の応対をみずからとがめた。実を言えば彼の方では、いつもの癇癪《かんしゃく》まぎれな不機嫌《ふきげん》の発作にすぎなかった。彼はそれを償おうと考えて、オペラ歌劇の切符とともに閉場後会おうという約束をクリストフに書き送った。――クリストフはそれを少しも知らなかった。ハスレルは彼がやって来ないのを見てこう思った。 「怒ってるな。気の毒だな。」  彼は肩をそびやかした。そしてさらに求めようともしなかった。翌日になるともう念頭にもなかった。翌日には、クリストフは彼から遠くにいた――いかに永遠をかけてもふたたびたがいに近寄ることがないほど遠くに。そして二人は永久に別れてしまった。  ペーテル・シュルツは七十五歳だった。いつも身体が弱くて、かつ老衰していた。かなりの身長だったが、背は曲がり、頭は胸にたれ、気管支は弱く、呼吸が困難だった。喘息《ぜんそく》やカタルや気管支炎がついてまわった。そして必然の苦闘の跡が――幾晩も寝床にすわって、身体を前にかがめ、汗にまみれて、つまった胸に一息の空気を吸い込もうと骨折ることがあった――その痩《や》せた無髯《むぜん》の長い顔の痛ましい皺《しわ》の中に刻まれていた。鼻は長くて、その先が少し太くなっていた。幾筋かの深い皺が、歯の抜けて落ちくぼんだ頬《ほお》を、眼の下から斜めにたち切っていた。そういう衰残の憐《あわ》れな顔を刻んだものは、ただ老年と疾病《しっぺい》のみではなかった。生活の苦しみもそれに加わっていた。――がそれにもかかわらず、彼は悲しんではいなかった。落ち着いた大きな口には、朗らかな温情が現われていた。しかしその年老いた顔に痛切な穏和さを与えてるものは、ことに眼であった。眼は清澄な淡灰色だった。平静と誠実とをもってじっとまともにながめた。それは魂を少しも隠さなかった。心の底まで開き示してるがようだった。  彼の生涯は事件に乏しかった。長年独身をつづけていた。細君は死んでいた。彼女は大して善良でなく、大して怜悧《れいり》でなく、少しも美しくはなかった。しかし彼は彼女についてしみじみとした思い出をもっていた。彼女を亡《な》くしたのは二十五年前だった。それ以来彼は一晩といえども、彼女と悲しいやさしい短い対話を心の中でしないでは、眠ったことがなかった。自分の一日一日に彼女を結びつけていた。――彼には子供がなかった。それが生涯の大きな憾《うら》みだった。彼は父が子に対するように学生らに愛着して、学生らの上に愛情の欲求を移していた。しかし報いられることはまれだった。年老いた心は、若い心にごく近く自分を感じ、ほとんど同年輩くらいに感じ得る。両者を隔てる年月がいかに短いかを知っている。しかし青年はそれを少しも気づかない。青年にとっては、老人は異なった時代の人である。そのうえ、青年は目前の配慮にあまりに心を奪われていて、自分の努力の悲しい終局からは本能的に眼をそらすのである。シュルツ老人は、ある学生らの感謝に時々出会うこともないではなかった。幸でも不幸でも彼らに起こることにはすべて彼が新鋭な関心を見せるので、彼らはそれに動かされた。時々会いに来てくれた。大学を出ると感謝の手紙をよこした。なお引きつづいて年に一、二回手紙をくれる者もあった。けれどその後になると、シュルツ老人はもう彼らの消息に接しなかった。ただ新聞などで某々の出世を知った。すると彼は自分が成功でもしたかのようにその成功を喜んだ。彼は彼らの無音を恨まなかった。いろんな理由を察しやっていた。彼らの愛情を少しも疑わなかった。彼らにたいする自分の感情と同じような感情が、彼らのうちの最も利己的な者にもあるがように思っていた。  しかし書物こそは、彼にとって最上の慰安所であった。書物は決して彼を忘れることなく欺くことがなかった。彼が書物の中でいつくしんだ多くの魂は、今はもう時《タイム》の波を超越していた。その魂らは愛のうちに永久の確固不動さを保っていた。しかもその愛たるや、彼らが人の心のうちに喚《よ》び起こしかつみずからも感じてるらしいものであって、彼らを愛する人々の上に彼らが光り輝かしてくれるものであった。美学と音楽史との教授である彼は、小鳥の歌にそよいでる古い林に似ていた。それらの歌のあるものはごく遠くに響いていた。幾世紀もの彼方《かなた》から来るものだった。それでも十分にやさしく神秘的であった。また彼にとって耳|馴《な》れた親しい歌もあった。それらは親愛な道づれであった。それらの文句のおのおのは、過去の生涯の喜びや悲しみを思い起こさしてくれた。過去の生涯といっても、意識してるものも意識しないものもあった。(なぜなら、太陽の光に照らされるおのおのの日の下には、他の日々が展開していて、それを見知らぬ光が照らすのだから。)また最後には、欲求して長い間待ち望んでる事柄を言ってくれる、まだかつて聞いたこともない歌があった。あたかも雨の下の地面のように、心はうち開いてそれらを迎えた。かくてシュルツ老人は、孤独な生活の沈黙のうちに、小鳥の群がってる森に耳傾けていた。そして伝説中の僧侶のように、魔法の鳥の歌に恍惚《こうこつ》と眠りながら、年月は過ぎてゆき晩年は到来した。しかし彼はいつも二十年代の魂をもっていた。  彼はただに音楽に豊富なばかりではなかった。詩人をも愛していた――古代や近代の詩人らを。自国の詩人ら、ことにゲーテを、愛好していた。しかしまた他国の詩人をも愛していた。彼は学問があって種々の国語が読めた。精神上では、ヘルデルや大ヴェルトブュルゲルら――十八世紀末の「世界の公民」らと、同時代人だった。その広汎《こうはん》な思想に包まれて、千八百七十年前後の激しい争闘の時代を、生きて来たのであった。そして彼はドイツを尊びながらも、ドイツを「光栄」とはしなかった。彼はヘルデルとともに考えていた、「何かを光栄とする者のうちで[#「何かを光栄とする者のうちで」に傍点]、おのれの国家を光栄とする者は[#「おのれの国家を光栄とする者は」に傍点]、至極の愚者である[#「至極の愚者である」に傍点]」と。またシルレルとともに考えていた、「ただ一国民のためにのみ書くは[#「ただ一国民のためにのみ書くは」に傍点]、きわめて貧弱なる理想である[#「きわめて貧弱なる理想である」に傍点]」と。彼の精神は時として臆病《おくびょう》になることがあった。しかし彼の心はすばらしく広大で、世に美《うる》わしいものはことごとく歓迎しようとしていた。おそらく彼は凡庸《ぼんよう》にたいしてあまりに寛大であったろう。しかし彼の本能は最善なものにたいして少しの疑いをもいだかなかった。そして、よい世評を得てる偽りの芸術家らを非難するの力はなかったとは言え、世に認められない独創的な力強い芸術家らを弁護するの力は、常にそなえていた。彼は自分の温良な性質からしばしば誤られた。不正なことをしはすまいかと恐れていた。他人が愛するものを自分が愛しない時には、自分の方が間違ってるのだということを疑わなかった。そしてしまいにはやはりそれを愛するようになった。愛することは彼にとって非常にうれしいことだった。愛と称賛とは、彼の惨《みじ》めな胸に空気が必要であるより以上に、彼の精神生活に必要だった。それで、愛と称賛との新しい機会を与えてくれる人々にたいして、彼はいかに感謝の念をいだいたことだろう!――クリストフは、自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]がシュルツ老人にとってなんであったかを、夢にも知らなかった。それを書いた時の彼自身の感じも、それにたいする老人の生き生きとした感じには及びもつかなかった。彼にとってはそれらの歌は、内部の熔炉《ようろ》から迸《ほとばし》り出た若干の火花にすぎなかった。なお他にも多くの火花が迸り出るに違いなかった。しかしシュルツ老人にとっては、それは一挙に啓示せられた一世界……愛すべき一世界だった。彼の生活はそれによって輝かされたのであった。  一年前から彼は、大学の職を断念しなければならなかった。ますます不安な健康は、もう彼に講義を許さなかったのである。病気で床についている時、ウォルフ書店からいつものとおりに、音楽書の新刊の小包が届いた。受け取ってみるとこんどのには、クリストフの歌曲集[#「歌曲集」に傍点]がはいっていた。彼は一人きりだった。近親の者もそばにいなかった。わずかの家族は久しい前に死に絶えていた。一人の老婢《ろうひ》にすべての世話をさしていたが、老婦は彼の不健康につけこんで、勝手なことばかり彼に強《し》いていた。ほとんど同年輩の二、三の友が、時々訪ねてきてくれた。しかし彼らもまたごく健康ではなかった。天気が悪い時には、彼らもやはり家に閉じこもって、訪問をのばした。ちょうど冬のことで、街路は解けかかった雪に覆《おお》われていた。シュルツは終日だれにも会わなかった。室の中は薄暗かった。黄色い霧が、衝立《ついたて》のように窓ガラスを張りつめて、視線を妨げていた。暖炉の熱が重々しく懶《ものう》かった。近くの教会堂では、十七世紀の古い鐘が、不揃《ふぞろ》いな恐ろしく調子はずれな声で、十五分ごとに、単調な賛美歌の断片を歌っていた。こちらであまり愉快でないおりには、その陽気な調子もなんだか渋面しているように思われるのだった。シュルツ老人は咳《せき》をしながら、一積みの枕《まくら》蒲団《ふとん》に背中でよりかかっていた。彼は好きなモンテーニュを読み返そうとした。しかしその日はいつもほど面白く感じなかった。で書物を置き、苦しげに息をついて、夢想にふけった。音楽書の小包が寝床の上にあった。それを開くだけの勇気もなかった。悲しい心持だった。ついに彼は溜息《ためいき》をして、包みのひもをていねいに解いてから、眼鏡をかけ、楽曲を読み始めた。彼の考えは他に向いていた。避けたい追憶の方へいつも考えがもどってゆくのであった。  彼の眼は古い聖歌の上に落ちた。クリストフが十七世紀の素朴《そぼく》敬虔《けいけん》な詩人の言葉を借りてきて、その調子を一新したものであって、パウル・ゲルハルトのキリスト教徒の旅人の歌[#「キリスト教徒の旅人の歌」に傍点]であった。 [#ここから3字下げ] 希望せよ、憐《あわ》れなる魂、 希望をかけよ、勇ましかれ! ……………… 待てよ、ただ待てよかし。 美わしき喜びの太陽《ひ》を、 やがて汝《なんじ》は見るならん。 [#ここで字下げ終わり]  シュルツ老人はそれらの誠実な言葉をよく知っていた。しかしそれらが彼に話しかけてくれるのは、かつてそんなふうにではなかった……。それはもはや、その単調さによって人の魂を静め眠らしてくれる平静な信仰心ではなかった。それは彼の魂と同じような魂であり、彼自身の魂であり、しかも、さらに若くさらに強く、苦しみながら希望をかけ、喜びを見んと欲しつつ喜びを見てる魂であった。彼の手はうち震えた。大粒の涙が頬《ほお》に流れた。彼は読みつづけた。 [#ここから3字下げ] 起《た》てよ、振い起てよかし! 悲哀と懸念を捨て去れよ! 心を乱し悲しむるものを、 汝が許《もと》より去らしめよ! [#ここで字下げ終わり]  クリストフはそれらの思想に、若い大胆な熱情を伝えていた。その勇壮な笑いは、信じきった率直な最後の句に花を開いていた。 [#ここから3字下げ] 凡《すべ》てを統《す》べ導くものは、 げに汝《なんじ》には非ざるなり。 そは神なり。神は王にして、 凡《すべ》てを適宜に導くなれ! [#ここで字下げ終わり]  そして彼が、若い野人の傲慢《ごうまん》さをもって、原詩の中の元の場所から平気で引き抜き、自分の歌曲《リード》の結末としている、壮大なる軽侮の一|連《れん》はやって来た。 [#ここから3字下げ] あらゆる悪魔うち寄りて、 それに反抗なさんとも、 平然たれ、疑うなかれ! 神は退くものならず。 神の企《たく》みしことはみな、 遂《と》げんと欲せしことはみな、 ついにかならず成るならむ、 神は目的を果すなり! [#ここで字下げ終わり]  ……すると、それは歓喜の頂点であり、戦闘の陶酔であり、ローマ大将軍の凱旋《がいせん》であった。  老人は身体じゅうを震わした。あたかも友だちから手を取られて駆けさせられる子供のように、あえぎながらその厳《おごそ》かな音楽についていった。胸が動悸《どうき》した。涙が流れた。彼はつぶやいた。 「ああ、神よ!……神よ!……」  彼はすすり泣きを始め、また笑っていた。幸福だった。息がつまった。激しく咳《せ》きこんだ。老婢《ろうひ》のザロメが駆けつけてきた。彼女は老人が死にかけてるのかと思った。彼はなお続けて、涙を流し咳《せ》きこみ、そしてくり返していた。 「ああ神よ!……神よ!……」  そして咳の発作から発作へ移る短い間の時間に、彼は快い鋭い笑いをもらしていた。  ザロメは彼が狂人になったのだと思った。それから、その激情の原因を知ると、彼を荒々しく責めたてた。 「つまらないことでそんなになるということがあるものですか!……それを私にお渡しなさい。もっていってしまいます。もうあなたにはお目にかけません。」  しかし老人は、なお咳き込みながらもしっかりしていた。構わないでくれとザロメに叫んだ。彼女が強情を張ると、彼は癇癪《かんしゃく》を起こし、怒鳴りつけ、喉《のど》をつまらしながらののしった。彼女はかつて、彼がそんなに憤って対抗してくるのを、見たことがなかった。彼女はびっくりして、手を引いた。しかしきびしい言葉をやめなかった。彼を狂人爺《きちがいじい》さんだとして、言い進んだ、今まではりっぱな人だと思っていたが、しかしそれは自分の思い違いだった、車夫でさえ顔を赤らめるようなひどいことを言い、眼は顔から飛び出し、その眼がもしピストルだったら、自分は殺されるところだった、などと……。彼女のそういう悪態はいつまでつづくかわからなかった。しかし彼は猛然と枕《まくら》蒲団《ふとん》の上に身を起こして叫んだ。 「出て行きなさい!」  それがいかにも厳然たる調子だったので、彼女は扉《とびら》をばたりと閉《し》めて出て行った。出て行きながらも、もういくら呼ばれたって来やしない、勝手に一人で怒鳴るがよい、などと言い捨てて行った。  そして、夜の影が広がり始めてる室の中には、ふたたび静寂が落ちて来た。会堂の鐘は夕《ゆうべ》の平和の中にふたたび、その落ち着いた奇怪な響きをたてていった。シュルツ老人は激昂《げっこう》したのをやや恥じながら、じっと身を反《そ》らしてあえぎながら、心の騒ぎが鎮《しず》まるのを待っていた。彼は貴い歌曲集[#「歌曲集」に傍点]を胸に抱きしめて、子供のように笑っていた。  彼は一種の恍惚《こうこつ》のうちに孤独な日々を過ごした。もはや自分の病気や冬や佗《わび》しい光や孤独などのことを考えなかった。周囲のすべてが光り輝いて愛を含んでいた。死期に近づいていながら彼は、見知らぬ友の若い魂の中に生き返る心地がした。  彼はクリストフの様子を想像してみた。その想像は実際とはまったく違っていた。それはみずからこうありたいと思ってる姿だった。金髪で、痩《や》せ形で、眼は青く、やや弱い含み声で口をきき、穏和な内気なやさしい人物だった。実際がどうであろうとも、彼はやはりそれを理想化したがっていた。彼は周囲のすべての者を理想化していた、学生や隣人や友人や自分の老婢をも。彼の温和な性質と批評眼の欠如――あらゆる不穏な考えを避けるために半ばは自意識的な――とは、自分の周囲に、自分と同じく朗らかな浄《きよ》い面影を織り出していた。それは、彼が生きるために必要としてる温情の虚偽だった。しかし彼はそれにすっかり欺かれてばかりもいなかった。夜にしばしば寝床の中で、自分の理想と背馳《はいち》する種々なこまかい昼間の出来事を、思い浮かべては嘆息した。老婢のザロメが、付近の上《かみ》さんたちと陰で自分の悪口を言ってること、また毎週の会計をきまってごまかしてること、それを彼はよく知っていた。学生らが必要な間は自分におもねってるが、期待してる助けを受けてしまった後には、自分をうち捨ててしまうこと、それを彼はよく知っていた。隠退後は大学の古い同僚らからもすっかり忘れられてること、また自分の後継者が、自分の論説を名前も挙げないで盗み取り、あるいは名前を挙げる時には、不実なやり方をして、無価値な一句を引用したり、誤謬《ごびゅう》を拾い上げたりしてること(それは批評界によく行なわれてる方法であるが)、それを彼は知っていた。老友のクンツが今日の午後もまたひどい嘘《うそ》を言ったこと、も一人の友のポットペチミットが数日間と言って借りていった書物は、もういつまでも返されることがあるまいということ、それを彼は知っていた。右のことは、生きた人と同様に書物を愛惜してる彼のような者に取っては、非常に悲しいことだった。また古い新しい他の多くの悲しい事柄が、彼の頭に浮かんできた。彼はそれらを考えたくなかった。しかしそれらはいつまでもそこにあった。彼はそれらを感じた。それらのことの追憶が、刺すような苦痛をもって時々彼の心を過《よぎ》った。 「ああ、神よ、神よ!」  彼は静かな夜の中でうなった。――それから、不快な考えをすべて遠ざけた。それらを打ち消した。彼は信頼したかった、楽観したかった、人を信じたかった。そして人を信じていた。彼の幻は幾度か荒々しくこわされたことであろう!――しかしまた他の幻が浮かんできた、いつでも、いつでも……。彼は幻なしにはいられなかった。  見知らぬクリストフは、彼の生活のうちの光の焦点となった。最初に受け取った冷淡な無愛想《ぶあいそう》な手紙は、彼に苦しみを与えたはずだった。――(おそらく実際に与えたろう。)――しかし彼はそうだと認めたくなかった。そして子供らしい喜びをさえ感じた。彼はいかにも謙譲であって、人に求むることがいかにも少なかったから、人から受けるわずかなもので、人を愛し人に感謝したいという要求を満たすに足りるのであった。クリストフに会うなどとは、望みも得ない幸福だった。今ではライン河畔まで旅するにはあまりに年老いていたし、また向こうからの訪問を願うことは、思いもつかなかったのである。  クリストフの電報は、夕方彼が食事についてる時に到着した。彼は最初理解しかねた。知らない人からのように思われた。間違ったのでないかしら、他人あてのではないかしら、とも考えた。三度よみ返してみた。心が乱れていたし、眼鏡はよくかかっていず、ランプの光は鈍くて、文字が眼の前で踊っていた。ようやくそれとわかると、彼は心が転倒して、食事を忘れてしまった。ザロメがいくら呼びかけても無駄《むだ》だった。彼は一口も飲み下すことができなかった。いつでもかならずたたむ胸布《ナフキン》を、そのまま食事の上に放《ほう》り出した。よろめきながら立ち上がり、帽子と杖《つえ》とを取りに行き、そして出かけた。かかる幸福を得て、善良なシュルツがまっ先に考えたことは、他人にもその幸福を分かつことであり、クリストフが来るのを友人らに知らせることであった。  彼は同じく音楽好きな二人の友をもっていて、クリストフにたいする自分の感激を伝えていた。判事のザムエル・クンツと、歯医者のオスカール・ポットペチミットとであった。後者は秀《ひい》でた歌手だった。三人の老人連中は、いっしょにクリストフの噂《うわさ》をしたことがしばしばあった。そして彼の音楽を見当たる限りことごとくやってみた。ポットペチミットは歌い、シュルツは伴奏し、クンツは聞いた。そして彼らはあとで何時間も興奮した。彼らは音楽をやる時に、幾度言ったことだろう。 「ああ、クラフトがいたら!」  シュルツは、自分のもってる喜びと、これから友人らにもたらさんとする喜びとに、往来で一人笑っていた。夜になりかかっていた。クンツの住居は、町から半時間ばかりの小さな村にあった。空は清らかだった。至って穏やかな四月の夕だった。鶯《うぐいす》が歌っていた。シュルツ老人は心が幸福に浸っていた。胸苦しさも感じないで息をし、足には二十年代のような力を覚えた。暗闇《くらやみ》でつまずく石にも気を留めないで、軽快に歩いていった。馬車が来ると、元気に路傍へ身をよけて、御者とうれしげな挨拶《あいさつ》をかわした。道の土手に上っている老人の姿を、角燈の光が通りしなに照らし出す時、御者は驚いて彼をながめていった。  村のとっつきの、小さな庭の中のクンツの家に着いた時は、もうすっかり夜になっていた。彼は戸を激しくたたいて、大声で呼びたてた。窓が一つ開《あ》いて、びっくりしたクンツの顔が現われた。クンツは暗闇の中を透し見て、尋ねた。 「だれですか。なんの用ですか。」  シュルツは息を切らし※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》として、叫んでいた。 「クラフトが……クラフトが明日来るよ……。」  クンツには何にもわからなかった。しかし彼はその声を覚えていた。 「シュルツか!……どうしたんだ。今時分に。何か起こったのか。」  シュルツはくり返した。 「明日来るんだよ、明日の朝!……」 「何が?」とクンツはまだ呆気《あっけ》に取られていて尋ねた。 「クラフトがさ!」とシュルツは叫んだ。  クンツはちょっとその言葉の意味を考えていた。それから、響き渡る感動の言葉を発した。了解したのだった。 「降りて行くよ。」と彼は叫んだ。  窓はまた閉《し》められた。彼は手にランプをもって、階段の入口に現われ、庭に降りてきた。背の低い太鼓腹の老人で、灰色の大きな頭と赤い髯《ひげ》とをもち、顔や手には赤痣《あかあざ》があった。彼は瀬戸のパイプをふかしながら、小股《こまた》でやって来た。お心よしで多少ぼんやりしてるこの男は、生涯《しょうがい》かつて大して気をもんだことがなかった。けれども、シュルツのもたらした報知には彼も平然たることを得なかった。彼はその短い腕とランプとを動かしながら尋ねた。 「なに、ほんとうかい? 来るのかい?」 「明日の朝だ。」とシュルツは電報をうち振りながら揚々とくり返した。  二人の老友は青葉|棚《だな》の下のベンチへ行ってすわった。シュルツはランプを取った。クンツはていねいに電報を開き、半ば口の中でゆっくり読んだ。シュルツは彼の肩越しに声高く読み返した。クンツはなお、電文のまわりの指示欄や、発送された時間や、到着した時間や、語数などをながめた。それからその貴い紙片を、快げに笑ってるシュルツに返し、うなずきながら彼をながめて、くり返した。 「ああよろしい……よろしい!……」  そしてちょっと考え、煙草《たばこ》を一口大きく吸い込んで吐き出した後、シュルツの膝《ひざ》に手を置いて言った。 「ポットペチミットに知らせなけりゃいけない。」 「己《おれ》が行こう。」とシュルツは言った。 「己もいっしょに行こう。」とクンツは言った。  彼はランプを置きに家へはいり、またすぐに出て来た。二人の老人はたがいに腕を組み合わして出かけた。ポットペチミットは反対の村はずれに住んでいた。シュルツとクンツとは、報知を心の中でくり返し考えながら、上《うわ》の空の言葉をかわしていた。突然クンツは立ち止まって、杖《つえ》で地面をたたいた。 「やあしまった!」と彼は言った、「家にはいない……。」  ポットペチミットがその午後、ある手術のために隣り町へ出かけて、そこで泊まり、なお一両日滞在するはずであることを、彼は思い出したのだった。シュルツは途方にくれた。クンツもやはり弱った。彼らはポットペチミットを自慢にしていた。彼の手腕を看板にしたかった。二人はどうしていいかわからないで、道のまん中に立ち止まった。 「どうしよう、どうしよう?」とクンツは尋ねた。 「ぜひともクラフトにポットペチミットの声を聞かせなけりゃいけない。」とシュルツは言った。  彼は考えてから言った。 「電報をうとう。」  二人は電信局へ行って、何事だか少しもわからないような、感動した長い電文をいっしょにつづった。  それからもどっていった。シュルツは時間をくっていた。 「一番列車に乗ったら、明日の朝は帰って来れるだろう。」  しかしクンツは、もう間に合わないと注意し、電報は明日でなければ彼の手に渡るはずがないと言った。シュルツはうなずいた。そして二人はたがいにくり返した。 「弱ったな!」  二人はクンツの門口で別れた。シュルツにたいするクンツの友情はごく深くはあったけれども、村の外までシュルツを送ってゆき、たといわずかな道程《みちのり》でも、夜中にただ一人でまたもどって来るの軽挙を冒すほどには、進んでいなかったのである。翌日、クンツはシュルツの家で昼餐《ちゅうさん》をともにする約束だった。シュルツは心配そうに空をながめた。 「明日天気でさえあれば!」  そして彼は、クンツの言葉にいくらか胸の重みが取れた。巧みな日和見《ひよりみ》だと言われてるクンツは、厳《おごそ》かに空を見調べて――(彼もまたシュルツと同じく、自分らの小さな土地の晴れ晴れとした景色《けしき》をクリストフに見せたかったのである)――そして言った。 「明日はいい天気だ。」  シュルツはまた町へもどっていった。町へ達するまでには、轍《わだち》の中や、路傍に積んである石などに、一度ならずつまずいた。家へ帰る前に菓子屋へ寄って、町の名物たるある蒸し菓子を注文した。それから家へもどった。しかし家へはいりかけると、ふいに後戻《あともど》りして、停車場へ行き、列車到着の正確な時間を調べた。終わりに家へ帰り、ザロメを呼び、翌日の昼餐について長い間彼女と論じ合った。そしてようやく、疲れはてて床についた。しかし彼は降誕祭《クリスマス》前夜の子供のように興奮していて、一睡もできないで、終夜|蒲団《ふとん》の中で寝返りをしていた。午前一時ごろ、昼餐にはむしろ鯉《こい》の蒸し焼をこしらえるようザロメに言うために、起き上がろうと考えた。彼女はその料理が非常に上手《じょうず》だったのである。しかし彼は彼女に言わなかった。もちろんそんなことをしない方がよかった。それでも彼はやはり起き上がって、クリストフにあてた室の中の種々な物を整頓《せいとん》した。ザロメへ聞こえないようにと非常に用心した。しかられやすまいかと恐れていたのである。そして彼は、クリストフが八時前に着くはずはなかったのに、汽車の時間に遅れやすまいかと気づかった。早朝から支度《したく》をした。彼は第一に空をながめた。クンツの見当は当たっていた。すこぶる上天気だった。寒さと急な梯子《はしご》段とを恐れてもう長くはいったこともない窖《あなぐら》へ、爪先立《つまさきだ》って降りていった。いちばんよい葡萄《ぶどう》酒の瓶《びん》を選んだ。上がって来る時に頭をひどく天井にぶっつけた。葡萄酒瓶の籠《かご》をかかえて梯子段を上りきった時には、息が切れてしまうような思いをした。それから木鋏《きばさみ》をもって庭へ行った。いちばん美しい薔薇《ばら》や初咲きの枝を、容赦なく切り取った。次に自分の室へ上がり、あわただしく髯《ひげ》を剃り、一、二か所|怪我《けが》をし、ていねいに服装を整え、そして停車場へ出かけた。七時だった。ザロメがいくら言っても、彼は牛乳一滴も飲まなかった。クリストフも朝食を取らないでやって来るに違いないから、停車場から帰っていっしょに食べるのだと、彼は言っていた。  彼は四十五分前に停車場へ着いた。そしてクリストフを待ちわびながら、ついに見はずしてしまった。我慢して出口で待ってることができないで、プラットホームへ出て行き、乗降客の渦《うず》の中にまごついた。電報の明確な指示があるにもかかわらず、もしかしたら、クリストフは他の列車で来るかもしれないと彼は想像した。それにまた、クリストフが四等車から降りて来ようとは、思いもつかなかった。彼はなお三十分以上も停車場に残って、クリストフを待ってみた。クリストフはもうだいぶ前に到着して、まっすぐに彼の家を訪れて行ったのだった。さらに間《ま》の悪いことには、ザロメが買い物に出かけたところだった。クリストフが行くと門が閉《し》まっていた。ザロメは隣りの人に、だれかが来たらすぐに帰ると言ってくれるようにとだけ頼んでおいたので、隣人はそれだけを伝えて何にも言い添えなかった。クリストフは、ザロメに会いに来たのでもなければ、ザロメとは何者であるかをも知らなかったので、冗談にも程があると思った。大学音楽会長のシュルツ氏はこの地にいないのかと、彼は尋ねた。いるという答えだったが、どこへ行ってるのかわからなかった。彼は怒って立ち去った。  シュルツ老人は、がっかりした顔つきでもどってき、同じくもどったばかりのザロメから、事情を聞いた時には、途方にくれてしまった。泣き出さんばかりになった。自分の不在中に出かけて、クリストフを待たしておくだけの取り計らいさえしないでいる、召使の馬鹿さ加減を憤った。ザロメも同じ怒った調子で、待ってる人を見のがすほど彼が馬鹿だろうとは、思いつかなかったと答え返した。しかし老人は、彼女相手にぐずぐず言い合いはしなかった。一刻も猶予しないで、ふたたび階段を駆け降り、隣りの人たちが教えてくれる漠然《ばくぜん》とした方向へ、クリストフを捜しに出かけた。  クリストフは、だれもいないし一言の言い訳も受けないのを、憤慨していた。次の汽車の時間までどうしていいかわからないので、美しく見える野原を歩き回った。なだらかな丘に囲まれてる、小さな静かな安らかな町だった。人家のまわりの庭、花の咲いた桜樹《おうじゅ》、緑の芝地、美しい樹影《こかげ》、擬古式の廃墟《はいきょ》、大理石の円柱台の上、緑の間には、昔の女王らの白い胸像、そのやさしいかわいい顔つき。町の周囲は皆、牧場と丘陵だった。花咲いた灌木《かんぼく》の中には、鶫《つぐみ》のうれしげな鳴き声が、快活な明朗なフルートの小合奏をしていた。クリストフの不機嫌《ふきげん》は間もなく消えた。彼はペーテル・シュルツを忘れてしまった。  シュルツ老人は、通行人らに尋ねながらむなしく町中を駆け回った。町の上にそびえてる、丘の上の古城にまで上がった。悲しい心でまた降りてきた。その時、ごく遠くまできく彼の鋭い眼は、牧場の叢《くさむら》の影に横たわってる男の姿を、向こうに見出した。彼はクリストフを見知らなかった。向こうの男が彼であるかどうか、知る術《すべ》はなかった。男はこちらに背中を向け、頭を半ば草の中に埋めていた。シュルツは牧場の周囲の道をうろつきながら、胸を躍《おど》らせていた。 「彼だ……いや彼じゃない……。」  呼びかけることもなしかねた。ふといいことを思いついた。彼はクリストフの歌曲[#「歌曲」に傍点]の最初の句を歌いだした。 [#ここから3字下げ] 起てよ、振い起てよかし…… [#ここで字下げ終わり]  クリストフは水から出た魚のように飛び上がって、その続きを大声に歌った。うれしげにふり向いた。真赤《まっか》な顔をして、髪には草がついていた。二人はたがいに名前を呼び合って、両方から駆け寄った。シュルツは道の溝《みぞ》をまたぎ越し、クリストフは柵《さく》を飛び越した。二人は心をこめて握手をし、大声に話したり笑ったりしながら、いっしょに家へ帰ってきた。老人は自分の失策を話した。クリストフは一瞬間前では、新たにシュルツに会いに行かないで、そのまま去ってしまおうと考えていたが、すぐに老人の誠実親切な魂を感じて、彼を愛しだした。家に着くまでにはもう、二人は種々なことをたがいにうち明けていた。  家へはいると、クンツがいた。彼はシュルツがクリストフを捜しに出かけたことを聞いて、落ち着き払って待っていたのである。牛乳入りのコーヒーが出された。しかしクリストフは、町の旅舎で朝食をしたと言った。シュルツ老人は失望した。この土地でのクリストフの最初の食事が自分の家でなされなかったことは、彼にとって真の悲しみだった。それらのつまらない事柄も、彼の愛情深い心にとっては非常に大事なことだった。クリストフはそれを見て取って、ひそかに面白がり、そしてますます彼を好きになった。彼を慰めんがために、二度朝食をしたいほど空腹だと言った。そしてそれを実際に証明した。  不快な気持はことごとく彼の頭から去った。彼はほんとうの友人らの間にある心地がし、生き返った気がした。旅のことを、苦々《にがにが》しい事柄を、滑稽《こっけい》化して語った。休暇を得た学生のようなふうだった。シュルツは晴れやかな様子で、彼をじっと見守り、心から笑っていた。  ひそかな糸で三人を結びつけていたところのもの、すなわちクリストフの音楽に、話はやがて転じていった。シュルツは、クリストフが自分の作品を少しひくところを聞きたくてたまらなかったが、しかしそれを頼みかねていた。クリストフは話しながら、室内を大股《おおまた》に歩いていた。彼が開いたピアノのそばを通りかかると、シュルツはその足つきをうかがった。彼がそこに立ち止まるようにと願った。クンツも同じ思いだった。二人は心を躍らせた。見ると、彼はなお話しつづけながら、機械的にピアノの腰掛にすわり、それから、その楽器へは眼もやらずに、ふと鍵《キイ》の上に手を動かした。シュルツは期待していたので、クリストフが少し琵音《アルペジオ》を奏すると、すぐにその音に心を奪われてしまった。彼はなお話しながら、和音をひきつづけた。それから、楽句全体をひいた。するともう彼は口をつぐんで、ほんとうに演奏しだした。二人の老人は、賢い狡猾《こうかつ》なうれしげな一|瞥《べつ》をかわした。 「これを知っていますか。」とクリストフは自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の一つをひきながら尋ねた。 「知っていますとも。」とシュルツは大喜びをして言った。  クリストフはなお演奏をやめないで、半ばふり返りながら言った。 「ね、このピアノはあまり上等でありませんね。」  老人はひどく恐縮した。彼は詫《わ》びた。 「古物です、」と彼はつつましく言った、「私と同じです。」  クリストフはすっかり向き返り、自分の老衰について許しを乞《こ》うてるような老人をながめ、笑いながらその両手をとった。彼はその誠実な眼を見守った。 「なに、あなたは、」と彼は言った、「あなたは僕より若いですよ。」  シュルツはうちとけた笑いをして、自分の老体や疾病《しっぺい》のことを話した。 「いやいや、」とクリストフは言った、「そんなことじゃない。僕は真面目《まじめ》に言ってるんです。ほんとうでしょう、ねえクンツ。」  (彼はもう「さん」という敬語を省いていた。)  クンツはある限り力をこめてそれに賛成した。  シュルツは自分のことと古いピアノとを結びつけようとした。 「まだごくいい音が出ます。」と彼はおずおず言った。  そして彼は鍵《キイ》にさわった――ピアノの中間部の、幾つかの音を、半オクターヴばかりかなり鮮《あざ》やかに。クリストフはその楽器が彼にとっては旧友であることを悟り、やさしく言った――シュルツの眼を考えながら。 「そうです、まだきれいな眼をもっていますね。」  シュルツの顔は輝いた。彼は自分の古いピアノをやたらにほめ始めた。しかしやがて黙った。クリストフがまたひきだしたからである。歌曲[#「歌曲」に傍点]が相次いでひかれた。クリストフは低い声で歌っていた。シュルツは眼をうるませながら、彼の動作を一々見守っていた。クンツは両手を腹の上に組み合わして、よく聞き取るために眼をつぶっていた。時々クリストフは、晴れやかな顔をして、二人の老人の方をふり返った。二人は恍惚《こうこつ》としていた。彼は無邪気な感激の様子で言っていたが、二人には笑う気も起こらなかった。 「ねえ、いいでしょう……。そしてこれは、どう思います……。それから、これは……これはいちばんりっぱです……。――さあ、ぞっとするようなものを、――ひいてあげよう……。」  彼が夢幻的な一曲をひき終わった時、掛時計の杜鵑《ほととぎす》が鳴きだした。クリストフは飛び上がって怒鳴り声を立てた。クンツはびっくり我れに返って、驚いた大きな眼玉を動かした。シュルツにも、最初は訳がわからなかった。それから、クリストフが挨拶《あいさつ》をしてる鳥に拳固《げんこ》をさしつけ、この馬鹿者を、この腹声の化《ば》け物を、もって行っちまえと怒鳴ってるのを見た時、彼は生涯初めて、その音が実際たまらないものであることを感じた。そして椅子《いす》をもっていって、その邪魔物を取りはずすために上に登ろうとした。しかし彼は落ちかかった。クンツは彼がまた椅子に登ろうとするのをとめた。彼はザロメを呼んだ。彼女はいつものとおりゆっくりやって来て、クリストフが我慢をしかねて自分で取りはずした掛時計を、腕に渡されるのを見て、呆気《あっけ》に取られた。 「これをどうせよとおっしゃるんですか。」と彼女は尋ねた。 「勝手にするがいい。もってゆけ。もう二度と見せるな。」クリストフと同じく短気にシュルツは言った。  彼はその厭《いや》な音をどうしてこう長く我慢できたかみずから怪しんでいた。  ザロメは確かに皆は気が狂ったのだと思った。  音楽はまた始まった。幾時間かたった。ザロメがやって来て、午餐《ごさん》の支度《したく》ができたことを知らした。シュルツは彼女を黙らした。彼女は十分後にまたやって来、それからふたたび、十分後にまたやって来た。こんどは、ひどく怒っていた。癇癪《かんしゃく》を起こしながら、しかも平気なふうを装《よそお》おうとつとめながら、室のまん中につっ立った。シュルツが絶望的な身振りをしたのにも構わず、らっぱのような声で尋ねた。  ――皆様は、冷たい食事と熱い食事と、どちらを召し上がりたいのであるか。彼女の方は、どちらでも構わない。お指図を待ってるばかりである。  シュルツはそのやかましい小言《こごと》に当惑して、彼女をひどくやっつけてやりたかった。しかしクリストフは笑い出した。クンツもその真似《まね》をした。そしてシュルツもついに同じく笑い出した。ザロメはその結果に満足して、あたかも後悔してる人民どもを許してやる女王のような様子で、踵《くびす》をめぐらして出て行った。 「これは元気な女だ!」とクリストフは言いながらピアノから立ち上がった。「彼女の言うところはもっともだ。演奏中にはいって来る聴衆ぐらいたまらないものはない。」  彼らは食卓についた。非常に嵩《かさ》の多い滋養に富んだ食事であった。シュルツがザロメの自負心をおだてたのだった。彼女は何か口実さえあれば自分の腕前を見せたがっていた。そしてその口実を作り出す機会をのがさなかった。二人の老人は非常に健啖《けんたん》だった。クンツは食卓につくと別人の感があった。太陽のように輝き出すのだった。料理屋の看板にもなり得るほどだった。シュルツもまたそれに劣らず御馳走《ごちそう》には敏感だった。しかし不健康のためにいくらか控え目にしなければならなかった。実を言えば、しばしばそれを忘れることがあった。そしてはひどい報いを受けた。そういう時彼は愚痴をこぼさなかった。病気であるとしても、少なくともその原因を知っていたのである。ところで彼には、クンツと同じく、親から子へ代々伝えきたった料理法があった。ザロメがいつも通人らのために腕をふるった。しかるにこんどは、彼女はただ一つの献立表の中に、自分の得意な料理をすべてぶち込んでしまおうと工夫した。それは、少しも悪化していない真正なあの忘るべからざるライン料理法を、すっかり並べたてたようなものだった。あらゆる草の香《かお》り、濃いソース、実質に富んだポタージュ、模範的なスープ肉、すばらしい鯉《こい》、漬《つ》け菜、鵞鳥《がちょう》、手製の菓子、茴香《ういきょう》とキメンとのはいってるパン、などがあった。クリストフは非常に喜んで、口いっぱい頬張《ほおば》りながら、餓鬼のように食べた。鵞鳥一匹をも食いつくすほどの父や祖父から、たいへんな能力を受け継いでいた。それにまた彼は、パンとチーズとで一週間も暮らすことができるとともに、機会がくれは腹の裂けるほど食べることもできるのであった。シュルツは懇切なまた儀式ばった様子をして、彼をやさしい眼つきで見守り、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を盛んについでやった。クンツは赤い顔色になりながら、彼をいい食い友だちだと思っていた。ザロメの広い顔は、満足げに笑《え》みを浮かべていた。――最初彼女は、クリストフがやって来たのを見た時、当てが違ったような気がした。シュルツが前もってあまり吹聴《ふいちょう》していたものだから、彼女は彼のことを、閣下ともいうべき顔つきをしりっぱな肩書をになった人だろうと、想像していた。そして彼を見ると、驚きの声を発せずにはいられなかった。 「こんな人か。」  しかし食卓で、クリストフは彼女の贔屓《ひいき》心を得ることができた。彼女はかつて、自分の腕前をそんなに称美してくれる人に会ったことがなかった。彼女は料理場へもどってもゆかないで、敷居のところに立ち止まって、クリストフをながめていた。クリストフは口を休めずに食べながら、盛んな冗談ばかり言っていた。彼女は腰に手をついて、大笑いをしていた。皆愉快だった。彼らの幸福のうちには、ただ一つの黒点しかなかった。ポットペチミットがいないことだった。彼らはしばしばそのことをくり返し言った。 「ああ、彼がいたら! 食べるのは彼に限る。飲むのは彼に限る。歌うのは彼に限る。」  彼等は賛辞をやめなかった。 「クリストフに彼の歌を聞かせることができたら!……いやたぶんできるだろう。ポットペチミットは夕方帰ってくるかもしれない、遅《おそ》くとも今夜は……。」 「え、今夜僕はもう遠くに行ってますよ。」とクリストフは言った。  シュルツの輝いていた顔は曇った。 「なに、遠くに!」と彼は震える声で言った。「いや、発《た》ってはいけません。」 「発つんです。」とクリストフは快活に言った。「夕方また汽車に乗るんです。」  シュルツは落胆した。クリストフを幾晩も泊めるつもりだった。彼は口ごもった。 「いや、いや、そんなことはない!……」  クンツはくり返した。 「そしてポットペチミットが!」  クリストフは二人をながめた。彼らの善良な懇切な顔に浮かんでる失望の色に、彼は心を動かされた。彼は言った。 「あなた方はほんとにいい人たちだ。……明日の朝|発《た》つことにしましょう。それでどうです?」  シュルツは彼の手を取った。 「ああ、よかった!」と彼は言った。「ありがとう、ありがとう!」  彼は子供のようになっていて、明日はいかにも遠く思われ、考えも及ばないほど遠く思われた。クリストフは今日発ちはしないし、今日じゅうは自分たちのものであり、一晩じゅういっしょにすごし、同じ屋根の下に眠るのだ。それだけのことをシュルツは思っていた。それから先はもうながめたくなかった。  ふたたび快活になった。シュルツば突然立ち上がり、おこそかな様子をした。この小さな町と自分のささやかな家とを訪れてきてくれて、無上の喜びと名誉とを得さしてくれた賓客にたいし、感動した仰山《ぎょうさん》な祝杯を挙げた。喜ばしい彼の再来、彼の成功、彼の光栄、地上のあらゆる幸福、などを心から希望して、杯を干した。それから、「高尚なる音楽」のためにまた杯を挙げ――さらに、老友のクンツのために――さらに、春のために――そしてまたポットペチミットをも忘れなかった。クンツの方でも、シュルツと他の数人のために杯を挙げた。そしてクリストフは、それらの祝杯に終わりをつけるために、ザロメさんのために杯を干した。ザロメは真赤《まっか》になった。そのあとで彼は、弁士らに返答の余裕を与えないで、よく世に知れてる歌謡を歌った。二人の老人もいっしょにやりだした。その後でまた他の唄《うた》を歌い、なお次に、友情と音楽と葡萄酒《ぶどうしゅ》とに関するものを、三部合唱で歌った。響きわたる笑声とたえず触れ合う杯の音とで、すべてが伴奏された。  彼らが食卓から立ち上がったのは、三時半であった。皆少しけだるくなっていた。クンツは肱掛椅子《ひじかけいす》にぐったりとすわった。ちょっと一眠りしたいほどだった。シュルツは午前中の興奮とまた祝杯の酔いのために、足がよろよろしていた。二人とも、クリストフがまたピアノについて幾時間も弾奏することを、希望していた。しかしきわめて快活軽敏なこのひどい青年は、ピアノで三、四の和音をひいてから、にわかにその蓋《ふた》を閉じ、窓から外をながめて、夕食までの間に一回りしてきてもよいかと尋ねた。野の景色が彼をひきつけたのだった。クンツはあまり気乗りの様子を見せなかった。しかしシュルツは即座に、それをいい考えだと思い、シェーン[#「シェーン」に傍点]・ブッフ[#「ブッフ」に傍点]・ワルデル[#「ワルデル」に傍点]の遊歩場を客に見せなければいけないと思った。クンツはちょっと顔をしかめた。しかし別に逆らいはしないで、いっしょに立ち上がった。彼もやはりシュルツと同様に、土地の美景をクリストフに見せたかった。  彼らは出かけた。クリストフはシュルツの腕をとって、老人の気ままな足取りよりも少し早く歩かせた。クンツは汗をふきながらあとにつづいた。彼らは快活にしゃべっていた。人々は門口に立って彼らが通るのをながめ、シュルツ教授の若返ってる様子を認めた。彼らは町から出ると、牧場を横切った。クンツは暑いのをこぼしていた。クリストフは思いやりもなく、空気がさわやかだと言っていた。二人の老人らにとって仕合わせなことには、皆はたえず立ち止まっては議論をし、譜のうちに道の長さが忘れられた。森の中にはいった。シュルツはゲーテとメーリケとの詩句を誦《しょう》した。クリストフは詩がたいへん好きだった。しかしその詩を一句も聞き止めることができなかった。彼は耳を傾けながらぼんやりした夢想に身を任せ、夢想の中で言葉は音楽に代わって、その言葉をすっかり忘れてしまった。彼はシュルツの記憶に感嘆した。一年の大部分は室の中に閉じこもり、ほとんど一生の間|田舎《いなか》の町に閉じこもってる、不具に近いこの病身な老人の元気――それからまた年若くて、芸術運動の中心地に名声を馳《は》せ、そして各地の演奏のためにヨーロッパじゅうを歩き回り、しかも何物にも興味を覚えず、何物をも知ろうとしないハスレル、両者の間にはいかに大なる差異があることぞ! シュルツは単に、クリストフが知ってる現在の芸術界の諸相に通じてるばかりでなく、クリストフが聞いたこともないような過去の音楽家や外国の音楽家などについても、豊富な知識をもっていた。彼の記憶は深い天水|桶《おけ》のようであって、あらゆる清い天水が蓄《たくわ》えられていた。クリストフはあきずにその水をくみ出した。そしてシュルツはクリストフの興味を見てうれしがった。彼は時々、慇懃《いんぎん》な聞き手や従順な学生などに出会うこともあった。しかしながら、息づまるまでにあふれてくる感激の情を分かち得るような若い熱烈な心を見出すことは、かつてなかったのである。  彼らが最もうち解けている最中に、老人はおり悪《あ》しく、ブラームスにたいする賛辞を述べた。クリストフは冷やかな憤りにとらわれた。彼はシュルツの腕を放して、なぐりつけるような調子で、ブラームスを愛する者は自分の味方であり得ないと言った。彼らの喜びはそのために冷水を注がれた。シュルツは議論するにはあまりに気おくれがしていたし、嘘《うそ》をつくにはあまりに正直だったので、弁解しようとつとめながら口ごもっていた。しかしクリストフは一言で彼をさえぎった。 「たくさんです!」  その鋭利《えいり》な調子は返答を許さなかった。冷たい沈黙がきた。彼らは歩きつづけた。二人の老人は顔をも見合わしかねた。クンツは咳《せき》払いをしてから、また話の糸を結ぼうと試み、森や天気のことを言おうとした。しかしクリストフは不機嫌《ふきげん》な様子をして、話を進めてゆこうともせず、一言二言の答えをするばかりだった。クンツはこの方で反響を見出さないので、沈黙を破るために、シュルツと話そうとつとめた。しかしシュルツは喉《のど》をつまらしていて、口をきくことができなかった。クリストフはそれを横目で見やって、笑いたくなった。彼はもう許してやっていた。彼は決して真面目《まじめ》に怒るつもりではなかった。この憐《あわ》れな老人を悲しませるのは畜生にも等しいとさえ思っていた。しかし彼は自分の力を濫用したのであって、また、前言を翻す様子をしたくなかったのである。彼らは森を出るまでそのままの状態だった。聞こえるものはただ、当惑してる二人の老人の引きずるような足音ばかりだった。クリストフは口笛を吹いて、二人の方を見ないふうをしていた。とにわかに、彼はたまらなくなった。彼は放笑《ふきだ》して、シュルツの方へ振り向き、丈夫な手でその両腕をつかんだ。 「ああ、シュルツ!」と彼はやさしげにその顔をながめながら言った、「いいですね、いいですね!……」  彼は景色と天気とのことを言ってるのだった。しかし笑ってる彼の眼はこう言ってるがようだった。 「あなたはいい人だ。僕は乱暴者だ。勘弁してください。僕はあなたが大好きだ。」  老人の心は解けた。日食のあとにまた太陽が出たようなものだった。一瞬間待たなければ言葉を発することができなかった。クリストフはまた彼の腕をとって、このうえもなく親しげに話しだした。夢中になったあまり足を早めて、二人の連れをへとへとにならしてることは気にも止めなかった。シュルツは不平をこぼさなかった。疲れをさえ気づかないほど満足していた。今日一日の不用心な行ないのために、やがてひどい目に会うことも知ってはいた。しかしこう考えていた。 「明日にとっては災難だ! けれど彼が発《た》ってから、身体を休める隙《ひま》は十分あるだろう。」  しかしクンツは、それほど興奮してはいないで、かわいそうな顔つきをして十五、六歩あとからつづいていた。クリストフはようやくそれに気づいた。彼は恐縮して詫《わ》びた。そして牧場の白楊樹《はくようじゅ》の影に寝そべろうと言いだした。シュルツはもとより承知した。それが自分の気管支炎にさわるかどうかも考えなかった。幸いにも、クンツは彼に代わってそのことを考えてくれた。もしくは少なくとも、汗びっしょりになってる自分の身体を牧場の冷気にさらさないために、それを口実とした。次の停車場から汽車に乗って町へ帰ろうと提議した。それに一決された。彼らは疲れていたけれども、乗りおくれないために足を早めなければならなかった。そしてちょうど汽車がはいってくる時に停車場へ着いた。  彼らの姿を見て、一人のでっぷりした男が、車室の入口に飛び出してき、狂人のように両腕を振り動かしながら、あらゆる肩書をくっつけてシュルツとクンツの名前を吼《ほ》えたてた。シュルツとクンツとの方でもまた、両腕を競り叫びながらそれに答えた。二人はその大男の車室へ駆けつけ、大男の方でも、他の乗客らをつきのけながら駆け寄ってきた。クリストフは呆気《あっけ》に取られて、二人をあとから追っかけてゆきながら尋ねた。 「なんですか。」  二人は雀躍《こおどり》しながら叫んでいた。 「ポットペチミットだ!」  その名前は、彼には大した感じを与えなかった。彼は午餐のおりの祝杯のことを忘れていた。ポットペチミットは客車の入口に立ち、シュルツとクンツとは踏段の上に立って、やかましくしゃべりたてていた。彼らはその幸運に感激していた。皆が汽車に乗ると、汽車はすぐに出た。シュルツは紹介してやった。ポットペチミットはにわかに石のように顔を引きしめ、棒杭《ぼうくい》のように堅くなって、お辞儀をし、一通りの挨拶《あいさつ》を済ますや否や、クリストフの手に飛びついて、それをもぎ取ろうとでもするように五、六度打ち振り、そして叫び出した。クリストフはその叫び声のうちに、彼がこの奇遇を神と運命とに感謝してることを見て取った。それでも彼はすぐあとで、腿《もも》をたたきながら、ちょうど先生[#「先生」に傍点]の御到着のおりに、町から出かけていた――かつて町から出かけたことのない自分が出かけていた――不運を、ののしらずにはいなかった。シュルツの電報は、その朝汽車が出て一時間後にしか、彼の手に渡らなかった。電報が着いた時彼は眠っていて、人々は彼を起こさない方がいいと思ったのだった。それで彼は朝じゅう、旅館の者らにたいして怒りたっていた。今もまだ怒りたっていた。彼は患者筋の人々を追い帰し、用件の面会を断わり、帰りを急いで手当たり次第の汽車に乗った。しかしこのやくざな汽車は、本線と連絡していなかった。ポットペチミットはある駅で、三時間も待たなければならなかった。そこで彼は、知ってる限りの憤慨の言葉を言い尽くし、自分と同じように待たされてる乗客やまた駅夫などに、幾度となく自分の不運を物語った。ついに汽車が出た。彼はもう間に合わないかと恐れていた。……しかし、ありがたいことには、ありがたいことには!……  彼はふたたびクリストフの手を取って、毛深い指のある大きな手のひらの中で、それをなで回した。彼は驚くはどでっぷり太っていて、またその割合に背も高かった。四角な頭、短く刈った褐色《かっしょく》の髪、痘痕《あばた》のある無髯《むぜん》の顔、太い眼、太い鼻、太い唇《くちびる》、二重|頤《あご》、短い首、恐ろしく大きな背中、樽《たる》のような腹、胴体から分かれ出てる腕、馬鹿に大きな手足、食物とビールとを取り過ぎて変形した巨大な肉塊、それはあたかも、煙草の鑵《かん》のような人間だった。バヴァリアの町に行くと、そういう人間が通りをぶらついてることがある。籠《かご》の中の鶏に施すのと同じような飽食の方法によってでき上がった一種の人種、その秘訣《ひけつ》を彼らは保持しているのである。ポットペチミットは喜びと暑さとのために、バタの塊《かたまり》みたいに光っていた。そして自分の開いてる膝《ひざ》に、あるいは隣りの者の膝の上に、両の手を置いて、飽かずに口をききながら、弩《いしゆみ》のような強さで子音を空中にころがしていた。時々大笑いをしては、全身を揺ぶった。頭を後ろに反り返らして、口を開き、鼻や喉《のど》に息をはずませ、胸をつまらしていた。その笑いはシュルツやクンツにも伝わった。二人は笑いの発作が済むと、眼の涙をふきながらクリストフをながめた。あたかも彼に尋ねるがような様子だった。 「ねえ……この男をどう思われます?」  クリストフはなんとも思ってはいなかった。ただ彼は気味悪く考えていた。 「この化《ば》け物が俺《おれ》の音楽を歌うのかな。」  一同はシュルツの家へもどった。クリストフはポットペチミットの歌を避けたがっていた。聞かせたくてたまらないでいるポットペチミットがほのめかしても、彼はなんとも言い出さなかった。しかしシュルツとクンツとは、その友を自慢にしたい心でいっぱいだった。仕方がなかったので、クリストフはかなり厭々《いやいや》ながらピアノについた。彼はこう考えていた。 「このお人よしめが! どういう目に会うか知らないんだな。用心するがいい。少しも容赦はしないぞ。」  彼はシュルツに心配をかけるだろうと考え、それが気の毒になった。それでも彼は、このジョン・フォルスタフのような男から自分の音楽が台なしにされるのを我慢するよりは、むしろシュルツに心配をかけたって構わないと決心した。ところが、シュルツに心配をかけるのを恐れるには及ばなかった。大男はすてきな声で歌った。最初の小節からして、クリストフは驚きの身振りをした。彼から眼を離さなかったシュルツは、身を震わした。クリストフが不満足に思ってると考えたのだった。そして彼がようやく安心したのは、弾《ひ》き進むに従ってクリストフの顔がますます輝いてくるのを見てからだった。彼自身もその喜びの反映を受けて晴れやかになっていった。その楽曲が終わり、自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]がこんなによく歌われたのをかつて聞いたことがないと叫びながら、クリストフが振り向いた時、シュルツの歓《よろこ》びは、満足してるクリストフの歓びよりも、得意げなポットペチミットのそれよりも、さらに楽しい深いものだった。なぜなら、二人は自分自身の愉快だけしか感じてはいなかったが、シュルツは二人の友の愉快を感じていたのだから。演奏はなおつづいていった。クリストフは驚嘆していた。この重々しい平凡な男が、どうして自分の歌曲[#「歌曲」に傍点]の思想を現わし得るかを、彼は了解できなかったのである。もとより、正確な色合いがすっかり出てはいなかった。しかし、彼がかつて専門の歌手らに完全に吹き込むことのできなかった、溌剌《はつらつ》さが熱情が現われていた。彼はポットペチミットをながめ、いぶかっていた。 「ほんとうに感じてるのかしら。」  しかし彼は相手の眼の中に、満足してる驕慢《きょうまん》心の炎以外に、なんらの炎をも認めなかった。無意識的な一つの力がその重い肉塊を動かしていた。その盲目的な消極的な力は、相手も知らず理由も知らないで戦う軍隊に似ていた。歌曲[#「歌曲」に傍点]の精神はその力をとらえ、その力は喜んで服従していた。ただ活動したかったからである。自分一人に任せられると、どうしていいかわからなかったであろう。  クリストフは考えた。宇宙の偉大なる彫刻家はその創造の日において、形のでき上がった被造物の離れ離れの各部を整頓《せいとん》することには、あまり心を用いなかったに違いない。いっしょに集まってうまくゆくようにできてるかどうかには頓着《とんじゃく》なく、ともかくも各部をくっつけてみたのだ。それで各人は、あらゆる方面から来た断片で作られることになった。そしてまた、同一人が別々な五、六人の中に分散することとなった。頭脳はある者の中にはいり、心は他の者の中にはいり、この魂に適した身体は、また別な者の有となった。楽器は一方にあり、その演奏者は他方にあるようになった。ある者らは、演奏者がなくて永久に箱に納められてる、みごとなヴァイオリンのようになった。演奏するために作られた者らは、生涯|惨《みじ》めな楽器で満足しなければならなくなった。とこういうふうに彼が考えたのは、かつて一ページの音楽をも自分がうまく歌い得ないことを憤慨していたあまりでもあった。彼は調子はずれの声をもっていて、自分の歌を聞くと厭《いや》にならざるを得なかった。  やがてポットペチミットは自分の成功に酔って、クリストフの歌曲[#「歌曲」に傍点]に「表情をつけ」始めた。言い換えれば、クリストフの表情を自分の表情と置き代え始めた。クリストフはもとより、そのために自分の音楽がよくなったとは思わなかった。彼の顔は曇ってきた。シュルツはそれに気づいた。彼には批評眼がなく、また友人らに感心してばかりいたので、みずからポットペチミットの悪趣味を認めることはできなかった。しかしクリストフにたいする愛情のために、その青年の考えの最も隠微な色合いをも見て取ることができた。彼はもはや自分のうちにはいないで、クリストフのうちにいた。そして彼もまた、ポットペチミットの誇張に厭な気がした。その危険な傾向から引き止めてやろうと工夫した。けれどポットペチミットの口をつぐませることは容易でなかった。彼はクリストフの曲を皆歌いつくすと、クリストフがその名前を聞いただけでもすでに豪猪《やまあらし》のように髪を逆立てた、凡庸《ぼんよう》作家の力作を歌おうとしたので、シュルツはそれを止めさせるためにどんなに苦心したかわからなかった。  幸いにも晩餐の知らせがあったので、ポットペチミットは口をつぐんだ。そして彼の腕前を示すべき別な戦いとなった。こんどは彼の独《ひと》り舞台だった。クリストフは午餐の時に手柄を立ててやや食い疲れていたので、もう少しも彼と争おうとしなかった。  夜はふけていった。食卓のまわりにすわって三人の老人連中は、クリストフを見守っていた。彼らは彼の言葉を一々のみ下していた。かくて現在、この辺鄙《へんぴ》な小さな町で、今日まで一面識もなかった老人たちに取り囲まれ、ほとんど家族以上に彼らと親密にしているということが、クリストフにはきわめて不思議に思われた。世の中に自分の思想が出会う未知の友のいることを想像し得るとしたならば、それは芸術家にとっていかに仕合わせなことだろう――そのために芸術家の心はどんなにか温《あたた》められ、力はどんなに増すだろう、とクリストフは考えた。……しかしたいていはそういうことは起こらない。人は強く感ずれば感ずるほど、そしてそれを言いたければ言いたいほど、ますます感じてることを言うのを恐れながら、いつまでも一人ぽっちであって、一人ぽっちで死んでゆく。阿諛《あゆ》的な俗人らはなんの苦もなくしゃべりたてる。最も深く愛してる人々は、口を開いてそして愛してると言うためには、ひどく気持の苦労をせざるを得ない。それゆえに、あえて言い得る人々には感謝しなければいけない。そういう人々はみずから知らずして、創作家の協力者である。――クリストフは、シュルツ老人にたいする感謝の念を心から覚えた。彼はシュルツ老人と他の二人の仲間とを混同しなかった。シュルツこそこの少数の友人連中の魂であると、彼は感じた。他の二人は、この温情との生きた竈《かまど》の反映にすぎなかった。彼にたいするクンツとポットペチミットとの友情は、だいぶ異なっていた。クンツは利己主義者だった。愛撫《あいぶ》される太い猫《ねこ》が感ずるような一種の安逸な満足の情を、音楽から得てるのであった。ポットペチミットは音楽のうちに、驕慢と肉体運動との快楽を見出してるのであった。どちらもクリストフを理解しようとはつとめていなかった。しかしシュルツはまったく自分を忘れていた。彼は愛していたのである。  もう晩《おそ》かった。招かれてる二人の友は夜中に帰っていった。クリストフはシュルツと二人きりになった。彼は言った。 「こんどはあなた一人のためにひきましょう。」  彼はピアノについてひいた――だれか親愛な人がそばにいる時|弾《ひ》いてやるようなふうに。彼は自分の新作をひいた。老人は恍惚《こうこつ》としていた。クリストフのそばにすわって眼も放さず、息を凝らしていた。そしてわずかな幸福も独占することができないで、親切な心のあまり、彼は知らず知らずくり返した(クリストフを少しいらだたせることだったが)。 「ああ、クンツが帰ったのが残念だ!」  一時間たった。クリストフはやはりひきつづけていた。二人は言葉をかわさなかった。クリストフが弾き終わっても、どちらからもなんとも言わなかった。すべてが沈黙していた。家も街路も眠っていた。クリストフは振り向いた。老人の泣いてるのが眼に止まった。彼は立ち上がって、そのそばに行って抱擁してやった。二人は夜の静けさの中で、声低く話した。掛時計の秒を刻む鈍い音が、隣りの室で響いていた。シュルツは両手を握り合わせ、身体を前にかがめて、小声で話した。クリストフに尋ねられて、身の上や悲しい事柄を物語った。そしてたえず、愚痴を並べることを恐れては、こう言わざるを得なかった。 「私が悪かった……私は不平を言う権利はない……私は皆からたいへん親切にしてもらった……。」  そして彼は実際不平を言ってるのではなかった。それはただ、孤独な生活のつつましい物語から出てくる、無意識な憂愁にすぎなかった。最も悲しい刹那《せつな》には、ごく漠然《ばくぜん》とした感傷的な理想主義の信念告白を交えた。クリストフはそれに悩まされたが、しかし抗弁するのも残酷だった。要するにシュルツのうちにあるものは、確固たる信念よりもむしろ、信ぜんとする熱烈な欲求――不確かな希望であった。彼はそれに、浮標へすがるようにすがりついていた。彼はクリストフの眼の中にその確認を求めていた。クリストフは、切実な信頼の念をもって自分を見入り、自分の答えを懇願し――こう答えてくれと指図してる、友の眼の訴えを心に聞いた。すると彼は、落ち着いた信念と力との言葉を言ってやった。老人はそれを待っていて、それから慰謝を受けた。老人と青年とは、間を隔ててる年月をうち忘れた。二人はたがいに接近して、愛し合い助け合う同年輩の兄弟のようであった。弱い方は強い方に支持を求めていた。老人は青年の魂の中に避難していた。  彼らは十二時過ぎに別れた。クリストフは乗って来たのと同じ列車に乗るために、早く起きなければならなかった。それで服をぬぎながらぐずついていなかった。老人は客の室を、幾月もの滞在を強《し》いるかのようにしつらえていた。花瓶《かびん》にいけた薔薇《ばら》と一枝の月桂樹《げっけいじゅ》とを、テーブルの上にのせておいた。机の上には真新しい吸取紙を備えておいた。朝のうちに、竪形《たてがた》ピアノを運ばせておいた。自分の最も大事な最も好きな書物を数冊選んで、枕頭《ちんとう》の小棚《こだな》にのせておいた。どんな些細《ささい》なものも、愛情をこめて考えなかったものはない。しかしそれは徒労に終わった。クリストフは何にも見なかった。彼は寝台に飛びのって、すぐにぐっすり寝入った。  シュルツは眠らなかった。自分の受けたあらゆる喜びや、友の出発について今から感じてるあらゆる悲しみなどを、一時に考え出していた。二人で言いかわした言葉をまた頭に浮かべていた。自分の寝台のよせかけてある壁の彼方《かなた》に、すぐ近くに、親愛なるクリストフが眠ってることを、考えていた。疲れはててがっかりしぬいていた。散歩の間に冷えて、病気が再発しかけてると感じていた。しかし彼はただ一つのことしか思ってはいなかった。 「彼が発《た》ってしまうまでもちこたえさえすれば!」  そして咳《せ》き込むと、クリストフを起こしはすまいかとびくびくしていた。彼は神にたいする感謝の念で、いっぱいになっていて、老シメオンの今や逝せ給え[#「今や逝せ給え」に傍点](訳者添、今や僕(しもべ)を安全に世を逝(さら)せ給え)という聖歌に基づいて、詩を作りはじめた。……作った詩を書くために、汗まみれになって起き上がった。そして長くテーブルにすわって、ていねいにそれを書き直し、愛情のあふれた捧呈《ほうてい》文をつけ、下部に署名をし、日付と時間とを書き入れた。それから、震えが出てまた床についたが、もう夜通し身体が温《あたた》まらなかった。  曙《あけぼの》がきた。シュルツは残り惜しい心持で、前日の曙のことを考えた。しかしそういう考えで、残ってる最後の幸福の瞬間を乱すことを、みずから責めた。翌日になったらただいま去りつつある時間を愛惜するようになるだろうと、よく知っていた。彼はこの時間を少しも無駄《むだ》に失うまいとつとめた。彼は隣室のわずかな物音にも耳を澄ました。しかしクリストフは身動きもしなかった。彼は寝た通りの場所にまだ横たわっていて、少しも身を動かしてはいなかった。六時半が鳴った。彼はまだ眠っていた。彼に汽車を乗り遅らせることは訳もないことだった。そしてきっと彼はそれを笑って済ますに違いなかった。しかし老人は小心翼々としていて、友のことを承諾も得ずに勝手にきめることはできなかった。彼はいたずらにくり返し言った。 「私のせいじゃない。私にはなんの責《せめ》もあるまい。ただ知らせないだけでいいのだ。そして彼がおりよく眼を覚《さ》まさなかったら、私はも一日彼といっしょに過ごせるのだ。」  しかしこうみずから答え返した。 「いや、私にはその権利がない。」  そして、起こしに行かなければならないと思った。その扉《とびら》をたたいた。すぐにはクリストフの耳にはいらなかった。なおたたきつづけなければならなかった。それが老人にはつらかった。彼は考えていた。 「ああ、なんとよく眠ってることだろう! お午《ひる》までも寝つづけるかもしれない……。」  ついに、壁の向こうから、クリストフの快活な声が答えた。彼は時間を知ると驚きの声を挙げた。室の中を駆け回り、騒々しく身支度をし、切れ切れの節《ふし》を歌いながら、壁越しに親しくシュルツを呼びかけ、冗談を言ってるのが聞こえた。老人は悲しくなってはいたが、それに笑わせられた。扉が開いた。彼はうれしげな顔をし、休らったさわやかな様子で現われた。老人に心を痛ましめてることはまったく考えていなかった。実際は少しも急いで帰る必要はなかった。なお数日滞在してもいっこう差しつかえなかった。そうしたらシュルツはどんなに喜んだであろう! しかしクリストフはそれをはっきり思いつき得なかった。それにまた、彼は老人にたいしていかなる愛情をいだいていたにせよ、出発する方がずっと気楽だった。たえず話しつづけた一日で、絶望的な愛情をもってすがりついてくる人々で、すっかり疲らされていた。そのうえ彼は年若くて、再会の期があることと思っていた。何も世界の果《はて》へ出かけて行くのではなかった。――老人の方では、世界の果よりもっと遠くへ自分がやがて行くことを知っていた。そして彼は永久の見納めにクリストフをながめていた。  彼は極度に疲れていたにもかかわらず、停車場までついて来た。細かな冷たい糠雨《ぬかあめ》が音もなく落ちていた。停車場でクリストフは、金入れを開きながら、家までの汽車賃が不足してることに気づいた。シュルツが喜んで貸してくれるだろうとは承知していた。しかしそれを頼みたくなかった。……なぜか? 何かの世話をする機会を――幸福を、愛してくれる人になぜ与えないのか?……彼はなんとなくそれを欲しなかった。おそらく自尊心からもあろう。彼は途中のある駅までの切符を買った。残りの道は歩いて行こうと考えていた。  発車の時刻が鳴った。客車の踏み段の上で、二人は抱擁し合った。シュルツはクリストフの手に、夜中に書いた詩をそっと握らした。彼は車室の下のプラットホームに残った。別れの瞬間が長引く時よく起こるように、二人はもう何にも言うことがなかった。しかしシュルツの眼は話しつづけていた。それは汽車が出るまでクリストフの顔から離れなかった。  汽車は線路の曲がり角《かど》で見えなくなった。シュルツはまた一人きりになった。彼は泥濘《ねかるみ》の並木道を通って帰った。足を引きずっていた。疲れと寒さと雨の日の悲しさとをにわかに感じた。家までもどるのに、そして階段を上るのに、たいへん骨が折れた。自分の室にはいるや否や、息切れと咳《せき》との発作に襲われた。ザロメが介抱にやって来た。無意識にうめきながらも、その最中に彼はくり返していた。 「実に仕合わせだった!……今まで起こらなかったのは実に仕合わせだった!……」  彼はひどく悪いような気がした。床についた。ザロメは医者を呼びに行った。寝床の中で彼の身体は、布片のようにぐったり放《ほう》り出されていた。身動きもできないほどだった。ただその胸だけが、鞴《ふいご》のようにあえいでいた。頭は重苦しくて熱ばんでいた。彼は前日の各瞬間をそれからそれへと思い生かして、その一日を送った。思い生かしては苦しい気持になり、また次には、あれほどの幸福のあとで愚痴をこぼすのをみずから責めた。彼は手を振り合わせ、心は愛に満ちて、神に感謝した。  クリストフは、この一日のために気が晴れ晴れとし、あとに残してきた愛情のために自信の念が増してきて、故郷へ帰っていった。切符の終わりの駅に達すると、快活に汽車から降りて、徒歩で進んでいった。約六十キロメートルばかり歩かなければならなかった。別に急ぐこともないので、小学生徒のようにぶらぶらやっていった。四月のことだった。野原は大して景色づいてもいなかった。黒い木の枝の先には、皺《しわ》寄った小さな手のように葉が開いていた。数本の林檎《りんご》の樹には花が咲いていた。細く伸びた野薔薇《のばら》が、籬《まがき》のほとりに微笑《ほほえ》んでいた。葉の落ちつくしてる森には、細かい淡緑の新芽が萌《も》え出していて、その向こうに見えてる小さな丘の頂には、鎗《やり》先に貫いた戦利品のように、ロマン式の古城がそびえていた。ごくやさしい青色の空には、まっ黒な雲が飛んでいた。陰影が春めいた野の面を駆けっていった。にわか雨が通り過ぎた。そして明るい太陽がまた現われ、小鳥が歌いだした。  クリストフは、先刻からゴットフリート叔父《おじ》のことを考えてたのに気づいた。彼はこの憐《あわ》れな叔父のことをもう長い間考えたことがなかった。そして、今|執拗《しつよう》にその思い出が浮かんでくるのはなぜだかを怪しんだ。澄み切った運河に沿って白楊樹《はくようじゅ》の並木道をたどりながら、その思い出がしきりに浮かんできた。あまりにその面影が眼先にちらつくので、大きな壁の角を曲がったりすると、叔父が向こうからやって来はすまいか、などと思われた。  空は曇った。霰《あられ》交りの激しい驟雨《しゅうう》が降りだして、遠くで笛が鳴った。クリストフはある村落に近づいていた。人家の薔薇色《ばらいろ》の正面や赤い屋根などが、木の茂みの間に見えていた。彼は足を早めて、最初の家の庇《ひさし》の下に身を避けた。霰が隙間《すきま》もなく落ちていた。あたかも鉛の粒のように、屋根に音をたて往来にはね返っていた。轍《わだち》には雨水がいっぱいになって流れていた。光り輝く恐ろしい帯を広げたような虹《にじ》が、花の咲いた果樹園から横ざまに、青黒い雲の上にかかっていた。  戸の入口に一人の若い娘が、立ちながら編み物をしていた。彼女は親しく、クリストフにはいれと言った。彼はその勧めに従った。はいって行くとその室は、台所と食堂と寝室とに兼用されてるものだった。奥には盛んな火の上に鍋《なべ》がかかっていた。野菜を選《え》り分けていた百姓女が、クリストフに挨拶《あいさつ》をして、火のそばに寄って服を乾《かわ》かせと言った。若い娘は葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶《びん》を取って来て、彼に飲ましてくれた。そしてテーブルの向こう側にすわって、編み物をつづけながら二人の子供に気を配っていた。子供たちは、田舎《いなか》でどろぼう[#「どろぼう」に傍点]とかえんとつや[#「えんとつや」に傍点]とか言われている草の穂を、頸《くび》につっ込み合って遊んでいた。娘はクリストフと話しだした。やがて彼は、彼女が盲目であることに気づいた。彼女は少しも美しくはなかった。頬《ほお》の赤い、歯の白い、丈夫な腕をした、たくましい娘だったが、顔だちは整っていなかった。多くの盲人に見るような、やや無表情なにこやかな様子をしていた。また盲人通有の癖として、あたかも眼が見えるように事物や人物のことを話した。いい顔色をしていらっしゃるとか、今日は野の景色がたいへんいいとか言われると、初めのうちクリストフは惘然《ぼうぜん》として、なんの冗談かと怪しんだ。しかしその盲目の娘と野菜を選り分けてる女とを、代わる代わる見比べたあとには、それも驚くに当たらないことを知った。二人の女は、どこから来たか、どこを通って来たかなどと、親しくクリストフに問いかけた。盲目娘はやや大袈裟《おおげさ》にはしゃいで、話に口を出していた。道路や野に関するクリストフの観察を、承認したり注釈したりした。もとより彼女の言葉はしばしば的をはずれていた。彼女は彼と同様によく眼が見えると思い込みたがってるらしかった。  家族の他の人たちが帰ってきた。三十歳ばかりの頑丈《がんじょう》な農夫とその若い妻とだった。クリストフは皆と代わる代わる話した。そして晴れゆく空をながめながら、出かける時を待っていた。盲目娘は編み物の針を運びながら、ある唄《うた》の節《ふし》を小声で歌っていた。その節は、クリストフに種々の古い事柄を思い起こさした。 「おや、あなたもそれを知ってるんですか。」と彼は言った。 (ゴットフリートがクリストフにそれを昔教えたのであった。)  彼は続きを低く歌った。若い娘は笑いだした。彼女は唄の前半を歌い、彼は愉快にそのあとを終わりまで歌った。彼は立ち上がって天候を見に行った。そしてなんの気もなく室の中を隅々《すみずみ》まで見渡すと、戸棚《とだな》のそばの角のところに、ある物を見つけてはっとした。それは頭の曲がった長い杖《つえ》で、粗末な彫刻を施した柄《え》は、身をかがめてお辞儀してる小さな男を現わしていた。クリストフはそれをよく知っていた。昔それで子供心に遊んだことがあった。彼は杖に飛びつき、息つまった声で尋ねた。 「どうして……どうしてこれをおもちですか。」  男は彼をながめて言った。 「友だちが残していったんです、亡《な》くなった古い友だちが。」  クリストフは叫んだ。 「ゴットフリートですか。」  皆彼の方をふり向きながら尋ねた。 「どうして御存じですか。」  クリストフが、ゴットフリートは自分の叔父《おじ》だと言うと、人々は皆びっくりした。盲目娘は立ち上がった。毛糸の玉が室の中にころがった。彼女は編み物をふみつけながらやって来て、クリストフの手をとってくり返した。 「あなたが甥《おい》ごさんですか。」  皆が一度に口をきいていた。クリストフの方でも尋ねた。 「でもあなた方は、どうして……どうして御存じですか。」  男が答えた。 「ここで死んだんです。」  人々はまた腰をおろした。感動がやや静まると、母親はまた仕事にとりかかりながら、ゴットフリートが数年来立ち寄ってたことを話した。ゴットフリートは行商の行き帰りには、いつもここに足を止めた。最後にやって来た時には――(昨年の七月だった)――たいへん疲れてる様子だった。梱《こり》をおろしてからも、しばらくは口をきくことができなかった。しかし彼がやって来る時はいつもそうであるのを見馴《みな》れていたし、また彼の息が短いことも知っていたので、だれも気にかけなかった。彼は愚痴をこぼさなかった。かつて愚痴をこぼしたことがなかった。不快な事柄のうちにも常に満足の種を見出していた。骨の折れる仕事をする時には、晩に寝床についてうれしいだろうと考えて、楽しんでいた。苦しい時には、苦しみが去ったらどんなに愉快だろうかと考えていた……。 「でも、いつも満足ばかりしていてはいけません。」と善良な婆《ばあ》さんは言い添えた。「なぜかって言えば、愚痴をこぼさないとだれも憐《あわ》れんではくれませんから。私はいつも愚痴をこぼしてばかりいます……。」  ところで、だれも彼に注意を払わなかった。顔色がいいなどと冗談まで言っていた。そしてモデスタ――(それは若い盲目娘の名だった)――が、彼の荷物をおろしてやりにやって来て、若者のようにそんなに歩き回っても疲れないのかと、彼に尋ねた。彼はその答えとしてただ微笑《ほほえ》んだ。口をきくことができなかったのである。彼は戸の前の腰掛にすわった。人々はめいめい仕事をしに行った、男たちは野へ、母親は台所へ。モデスタは腰掛のそばにやっていった。そして戸口にもたれて立ち編み物を手にしながら、ゴットフリートと話した。彼は返辞をしなかった。が彼女は返辞を求めなかった。彼がこの前来た時からの出来事を残らず語っていた。彼は苦しげに息をしていた。口をきこうとつとめてる呼吸の音が聞こえた。彼女は別に気にもかけないで、彼に言った。 「話さないがいいわ。身体をお休めなさいよ。あとで話しなさいよ。……こんなに疲れるってことがあるかしらん……。」  すると彼はもう口をきかなかった。彼女は彼が聞いてくれてることと思って、また話をつづけた。彼はほっと息をついて、それからひっそりとなった。しばらくたって母親が出てみると、モデスタはなお話しつづけており、ゴットフリートは頭を反り返らして天を仰ぎ、腰掛の上に身動きもしないでいた。先刻からモデスタは死人を相手に話してるのであった。その時になって彼女にもようやくわかった、この憐れな人は、死ぬ前に二、三言いおうとしたが、それができなかったので、悲しい微笑を浮かべながらあきらめて、夏の夕《ゆうべ》の平和のうちに眼を閉じたのである……。  雨はもうやんでいた。嫁は厩《うまや》へ行った。息子は鶴嘴《つるはし》を取って、泥《どろ》のつまった表の溝《みぞ》をさらえた。モデスタは話の初めから立ち去っていた。クリストフは母親と二人きり室に残って、感に打たれて黙っていた。老婆《ろうば》は多少おしゃべりで、長い沈黙に堪えることができなかった。そしてゴットフリートとの交わりを残らず語り出した。それはごく遠い昔のことだった。彼女がまだうら若いころ、ゴットフリートは彼女に恋していた。彼はそれをうち明け得なかった。しかし人々はそれを彼にからかっていた。彼女は彼を嘲弄《ちょうろう》していた。皆が彼を嘲弄していた。――(どこででも彼は嘲弄されるのが常だったのだ。)――それでもゴットフリートは、忠実に毎年やって来た。人々から嘲弄されるのも、彼女から少しも愛せられないのも、彼女が他の男と結婚して幸福に暮らしてるのも、皆当然だと彼は考えていた。彼女はあまりに幸福だった。自分の幸福をあまりに自慢にしていた。そして不幸が起こった。良人《おっと》が突然死んだ。次には娘が――健やかなしっかりした美しい娘で、すべての人から感心されていて、土地一番の豪農の息子と結婚することになっていたのであるが、ある災難のために失明してしまった。ある日彼女は、裏手の大きな梨《なし》の木に登って、梨をつみ取っていたところが、梯子《はしご》が滑《すべ》り倒れた。彼女は落ちるはずみに、一本の折れ枝へ眼の近くをひどくぶっつけた。最初のうちはだれも皆、ちょっとした傷あとで済むだろうと思っていた。しかしそれ以来彼女は、額《ひたい》の激しい痛みからたえず苦しめられた。片方の眼が曇ってきて、次に他方の眼も曇った。いくら手当てをしても駄目《だめ》だった。もとより縁談は破れた。約婚の男はなんらの理由も言わずに姿を隠した。そして、一月以前までは彼女と一踊りするためたがいに競い合ってた青年らのうち、この不具な娘と腕を組み合わせるだけの勇気――(勇気がいるのはもっともである)――をもってる者は一人もいなかった。すると、それまで呑気《のんき》でにこやかだったモデスタは、死にたく思うほどの絶望に陥った。彼女は食事をすることも肯《がえ》んぜず、朝から晩まで泣いてばかりいた。夜もなお床の中で彼女の嘆くのが聞かれた。人々はもうどうしていいかわからなかった。彼女といっしょに悲嘆するのほかはなかった。すると彼女はますます泣くばかりだった。皆もついには彼女の愁訴をもてあました。それからしかりつけた。彼女は運河に身を投げてやると言った。時々牧師がやって来た。神様のことだの、永遠の事柄だの、今の苦しみを忍びながら彼世《あのよ》で得られる仕合わせなどを、話してきかした。しかしそれは彼女を少しも慰めなかった。ある日、ゴットフリートがやってきた。モデスタはかつて彼にあまり親切にしてやらなかった。彼女は悪意はもたなかったが、しかし人を軽蔑《けいべつ》しがちだった。そしてまた、深く考えることがなく、笑い好きだった。彼女は彼に向かって、ありったけの意地悪をしていた。ところで、彼は今彼女の不幸を知ると、ひどくびっくりした。けれどもその様子を少しも見せなかった。彼は彼女のそばに行ってすわり、彼女の災難には少しも言葉を向けず、以前と同じように落ち着いて話しだした。気の毒だという一言も発しなかった。彼女の盲目に気づいてもいないがようなふうだった。ただ彼は、彼女が見ることのできない事物は少しも話さなかった。彼女がそういう状態で聞いたり気づいたりし得る事柄だけを話した。しかもそれを当然なことのように単純にやっていた。彼自身もまた盲目であるかのようだった。最初彼女は耳も貸さないで泣きつづけていた。しかし翌日になると、いくらか耳を傾けるようになり、少しは口をききさえした……。 「そして、」と母親は話をつづけた、「あの人が娘にどんなことを言ったのか私は知りません。乾草の始末をしなければなりませんでしたし、娘にかまってる隙《ひま》がありませんでした。晩になって、私どもが畑から帰ってきますと、娘は静かに話をしていました。それからだんだんよくなってきました。自分の不幸を忘れてるようでした。けれどもやはり時々はまた始まることがありました。涙を流したり、ゴットフリートへ悲しい事柄を話そうとしたりしました。けれどもゴットフリートは聞こえないふうをしました。娘を慰め面白がらせるような事柄を、おだやかに話しつづけました。娘は災難にあってからもう少しも家から出ようとしませんでしたが、とうとうあの人に勧められて外を歩いてみる気になりました。あの人は娘を連れて、初めは庭のまわりを少し歩かしただけでしたが、次には畑の方へ長く歩かしてくれました。そして今ではもう娘は、眼が見えるのと同じに、どこへ行ってもわかりますしなんでも知るようになりました。私どもが気にも止めない事柄を見て取ります。以前は自分に縁遠い事柄には興味をもちませんでしたが、今ではどんなものにも興味をもっています。あの時ゴットフリートは、私どもの家にいつもより長くとどまっていました。私どもは発《た》つのを延ばしてくれとは頼みかねましたが、あの人は娘がもっと落ち着くのを見るまで自分からとどまってくれました。するとある日――娘はあそこに、中庭にいたのですが――私はその笑い声を聞きました。それを聞いて私はどんな気持がしたか、とても申すことはできません。ゴットフリートもたいへんうれしそうな様子でした。ゴットフリートは私のそばにすわっていました。私どもは顔を見合わせました。あなた、私は少しも後ろ暗い思いをしないで申すことができます、私は心からあの人を抱きしめました。するとあの人は私に言いました。 『もう私は出かけていいようだ。私がいなくても済むようになったから。』  私は引き止めようとしました。けれどあの人はこう言いました。 『いや、もう私は出かけなけりゃならない。これ以上とどまってはいられない。』  だれも知ってるとおり、あの人は彷徨《さまよ》えるユダヤ人に似ていました。一つ所に住んでることができませんでした。無理に引き止めるわけにもゆきませんでした。そしてあの人は出かけました。けれども、前よりはしばしばここを通るように都合してくれました。そのたびごとにモデスタは大喜びをしました。あの人が来てくれたあとでは、きっと前よりもよくなっていました。家の仕事にかかるようになりました。兄が結婚してからは、子供たちの世話をしてくれます。今ではもう決して愚痴をこぼしませんし、いつも楽しそうにしています。娘は眼が見えてもこんなに幸福でいられるだろうかと、私は時々思うことがあります。ええそうですとも、娘のようになって、賤《いや》しい人たちや悪い事柄が眼につかなくなる方がいいと、そんな考えが起こる日はよくあるではありませんか。世間はほんとに醜くなっていきます。一日一日と悪くなっていきます。……といっても、神様からこんな言葉をしかられはすまいかという気もします。そしてほんとうのことを申せば、世間がどんなにきたなくっても、私はやはり世間を見つづけてゆく方が望みです……。」  モデスタがまた現われた。話は他へそらされた。クリストフは、もう天気がよくなったので出かけたがった。しかし人々は承知しなかった。彼はやむを得ず、夕食の馳走《ちそう》になって一夜を共にすることとなった。モデスタはクリストフの横にすわって、一晩じゅうそばを離れなかった。彼はこの若い娘の運命を憐《あわ》れんで、しみじみと話をしたかった。しかし彼女はその機会を与えなかった。彼女はただゴットフリートのことを尋ねるばかりだった。クリストフが彼女の知らないことを話してやると、彼女はうれしがるとともにまた多少|妬《ねた》んでいた。彼女の方ではゴットフリートのことを進んで語ろうとしなかった。明らかにすっかり言ってしまいはしなかった。あるいはすっかり言うと、言ったあとで後悔していた。思い出は彼女の財産であって、彼女はそれを他人へ分かちたくなかった。彼女のこの愛情のうちには、おのが土地に執着《しゅうじゃく》してる百姓女のような峻烈《しゅんれつ》さがあった。自分と同じようによくゴットフリートを愛する者がいると考えることは、彼女にとっては不快であった。実際彼女はそういうことを信じたくなかった。クリストフはその心中を読み取って、彼女を満足のままにしておいてやった。彼女の話を聞きながら彼は気づいた、彼女は昔ゴットフリートを眼で見たことがあるにもかかわらず、盲目になってからは、実際とまったく異なった面影を作り出しているということは。彼女はその幻影の上に、自分のうちにある愛の要求をことごとくなげかけてるのであった。何物もかかる幻想の働きを妨げるものはなかった。自分の知らないことをも平気で作り出す盲人通有の、大胆な確信をもって、彼女はクリストフに言った。 「あなたはあの人に似ています。」  彼が了解したところでは、彼女は数年来、雨戸を閉《し》め切って真実の光のさし込まない家の中に、暮らしつづけてきたのであった。そして、あたりに罩《こ》めてる闇《やみ》の中で見ることを覚え、闇をも忘れるまでになってる今では、闇にさし込む一条の光に会ったら、たぶんそれを恐れることであろう。彼女はクリストフとともに、やさしい切れ切れの話をしながら、かなり幼稚な些細《ささい》な事柄ばかりをやたらにもち出していた。そういう話にクリストフはあまり興を覚えなかった。彼はその無駄《むだ》話に厭気《いやき》がさしてきた。このようにひどく苦しんだ者が、苦しみのうちにもっと真面目《まじめ》にならないで、そんなつまらない事柄をどうして面白がるのか、彼には理解がいかなかった。彼は時々もっと重大な事柄を話そうと試みた。しかしそれにはなんらの反響もなかった。モデスタは重大な話にはいってゆくことは、できなかった――欲しなかった。  人々は床についた。クリストフは長く眠れなかった。彼はゴットフリートのことを考え、モデスタの幼稚な思い出話から、その面影を引き離そうとつとめた。しかし容易にできないのでいらだってきた。叔父がここで死んだこと、この寝台にその身体は休らったに違いないこと、それを考えては胸迫る思いがした。口をきいて盲目娘に自分のありさまを知らせることができないで、眼を閉じて死んでいったおりの、その臨終の苦悶《くもん》を思い起こそうと彼はつとめた。彼はその眼瞼《まぶた》を開いて、その下に隠れてる思想を、人からも知られずまたおそらくみずからも知らないで去っていったこの魂の秘奥《ひおう》を、どんなにか読み取りたかった! しかしこの魂自身は、そういうことを少しも求めてはいなかった。その知恵はすべて、知恵を欲しないことにあった。自分の意志を事物に強《し》いたがらないことに、事物の成り行きに身を任せ、その成り行きを受け入れ愛することに、あるのだった。かくて彼は事物の神秘な本質と同化していた。そして、この盲目娘や、クリストフや、またきっと人の知らない多くの者に、あれほどいいことをしてやったのも、自然にたいする人間の反抗の常套《じょうとう》語をもたらす代わりに、自然そのものの平和を、和解を、もたらしてやったからである。彼は野や森のように、人に恵みを与えていたのである。……クリストフは、ゴットフリートとともに野の中で過ごした晩のこと、子供のおりに連れて行かれた散歩のこと、夜中に聞かされた物語や歌のこと、などを思い浮かべた。絶望の冬の朝、町を見おろす丘の上を、叔父《おじ》とともに試みた最後の散歩、それを思い起こした。そして眼に涙が湧《わ》いてきた。彼は眠りたくなかった。ゴットフリートの魂が満ちているこの田舎《いなか》に、偶然たどりついて来た今、この神聖な一夜を少しも無駄《むだ》に失いたくなかった。しかし、不規則に断続して流れる泉の音や、蝙蝠《こうもり》の鋭い鳴き声などに耳を傾けてるうちに、青春の頑丈《がんじょう》な疲労は彼の意志にうち勝った。そして彼は眠りに落ちた。  彼が眼を覚ました時には、太陽は輝いており、農家の人々はもう働いていた。下の室には老婆と子供たちしかいなかった。若夫婦は畑に出ていた。モデスタは乳をしぼりに出かけていた。捜しても見当たらなかった。クリストフは彼女の帰りを待とうとしなかった。彼女にぜひ会いたいとも思っていなかった。そして先を急ぐからと言った。皆によろしくと婆さんに頼んでから、彼は出かけた。  彼が村から出ると、道の曲がり角に、山※[#「木+査」、第3水準1-85-84]子《さんざし》の籬《まがき》の根元の斜面に、盲目娘のすわってるのが見えた。  彼女は彼の足音をきいて立ち上がり、微笑《ほほえ》みながら近づいてき、彼の手を取って言った。 「いらっしゃい。」  二人は牧場を横切って上ってゆき、花の咲いてる小さな野に出た。方々に十字架が立っていて、村が下の方に見おろされた。彼女は彼をある墓のそばに連れて行って、そして言った。 「これですよ。」  彼らはひざまずいた。クリストフは、かつてゴットフリートとともにひざまずいたも一つの墓のことを思い出した。そして考えた。 「やがて俺《おれ》の番になるだろう。」  しかしその時、この考えには少しの悲しみもなかった。平和の気が土地から立ち上っていた。クリストフは墳墓の上に乗り出して、ごく低くゴットフリートに叫んだ。 「私のうちにおはいりなさい!……」  モデスタは両手を組み合わして、無言のうちに唇《くちびる》を動かしながら祈っていた。それから、草や花を手探りにしながら、膝頭《ひざがしら》で墓を一回りした。彼女はそれらの草や花を愛撫《あいぶ》してるかのようだった。彼女の怜悧《れいり》な指先は一々見分けていた。枯れ蔦《つた》の幹や色|褪《あ》せた菫《すみれ》などを静かに引き抜いた。立ち上がる時に、彼女は板石の上に手をついた。クリストフが見ると、その指はゴットフリートという名前の一字一字を、そっとかすめるようになでていた。彼女は言った。 「今朝は地面がいい気持です。」  彼女は手を差し出した。彼は手を貸してやった。彼女は彼を湿った冷やかな地面にさわらした。彼は彼女の手を離さなかった。二人のからみ合った指は土の中にはいっていた。彼はモデスタを抱擁した。彼女は彼に接吻《せっぷん》した。  二人は立ち上がった。彼女は摘み取った菫のうち、勢いのいいのを彼に差し出し、しおれたのを自分の胸にさした。二人は膝の塵《ちり》を払ってから、一言もかわさないで墓地を出た。野には雲雀《ひばり》が歌っていた。白い蝶《ちょう》が二人の頭のまわりを飛んでいた。二人はある牧場の中に腰をおろした。村の煙がまっすぐに、雨に洗われた空へ立ち上っていた。静まり返ってる運河が、白楊樹の間に輝いていた。青い光の霞《かすみ》がうっすりと、牧場や森を包んでいた。  しばらく黙っていた後、モデスタは、あたかも眼が見えるかのように、いい天気のことを低く話した。唇《くちびる》を少し開いて空気を吸い込んでいた。生きものの音を聞き澄ましていた。クリストフもまたそういう音楽の価値を知っていた。彼は彼女が考えながら言い得ないでいる言葉を言った。草の下や空気の奥に聞こえる、かすかな鳴き声や戦《そよ》ぎの名を挙げた。彼女は言った。 「ああ、あなたにもおわかりですか。」  彼はゴットフリートからそれらを聞き分けることを教わったと答えた。 「あなたも?」と彼女はいくらか不快そうに言った。  彼はこう言ってやりたかった。 「妬《ねた》んではいけません。」  しかし彼は、自分たちの周囲に微笑《ほほえ》んでいる聖《きよ》い光を見、彼女の失明した眼をながめ、そしてしみじみと憐《あわ》れを覚えた。 「では、」と彼は尋ねた、「あなたに教えたのはゴットフリートですね。」  彼女はそうだと答え、前よりは今の方がいっそうよくそれを楽しめるようになったと言った。――(彼女は何より前であるかは言わなかった。盲目[#「盲目」に傍点]という言葉を口にするのを避けていた。)  二人はちょっと口をつぐんだ。クリストフは同情の念で彼女をながめた。彼女はながめられてるのを感じていた。彼は彼女を気の毒に思ってることを言ってやりたく、彼女から心を打ち明けてもらいたかった。彼はやさしく尋ねた。 「あなたは苦しんだでしょうね。」  彼女は黙って身を堅くしていた。草の葉をむしり取っては、無言のままそれを噛《か》んでいた。やがて――(雲雀《ひばり》の歌は空の奥に遠くなっていった)――クリストフは、自分もまた不幸だったこと、ゴットフリートから助けてもらったこと、などを語った。あたかも声に出して考えてるかのように、自分の苦しみや困難を語った。盲目の娘はその話に顔を輝かせ、注意深く聞いていた。様子を見守っていたクリストフは、彼女が口をきこうとしてるのを見た。彼女は近寄ろうとして身を動かし、彼に手を差し出した。彼も前に乗り出した――がすでに、彼女はまた冷静な様子に返っていた。そして彼が話し終わると、彼女は平凡な二、三言を返しただけだった。一つの皺《しわ》もないその高い額《ひたい》の奥に、石のように頑固《がんこ》な田舎者の強情さが感ぜられた。兄の子供たちを世話するために家へ帰らなければならない、と彼女は言った。にこやかに落ち着き払って口をきいていた。  彼は尋ねた。 「あなたは幸福ですね。」  彼女は彼からそう言われるのを聞いてさらに幸福そうだった。彼女は幸福だと答え、幸福であるはずの理由を主張し、それを彼に思い込ませようとしていた。子供たちのこと、家のこと、などを彼女は話した……。 「ええほんとに、」と彼女は言った、「私はたいへん幸福です。」  彼女は帰るために立ち上がった。彼も立ち上がった。二人は無関心な快活な調子で、別れの言葉をかわした。モデスタの手はクリストフの手の中で少し震えた。彼女は言った。 「今日はお歩きなさるにいい天気でしょう。」  そして、間違えてはいけない曲がり道について、いろいろ注意してくれた。  二人は別れた。彼は丘を降りていった。降りつくして振り返った。彼女は頂《いただき》の同じ場所に立っていた。ハンカチを打ち振って、あたかも彼の姿が見えるかのように合図をしていた。  自分の不幸を否定するかかる強情さのうちには、ある悲壮なかつ滑稽《こっけい》なものが含まっていた。クリストフはそれに心を動かされまた苦しめられた。モデスタがいかに憐憫《れんびん》に価しまた嘆賞にさえ価するかを、彼は感じていた。そして彼は彼女といっしょに二日とは暮らせなかっただろう。――花の咲いた籬《まがき》の間の道をたどりながら、彼はまた、親愛なるシュルツ老人のことをも、あの澄んだやさしい老人の眼のことをも、考え及ぼしていた。その眼は、多くの悲しみが前を通っても、それらを見ることを欲せず、厭な現実を見ていないのであった。 「彼はこの俺《おれ》をどう見てるだろうかしら。」と彼はみずから尋ねた。「俺は彼が見てるところとは非常に異なっている。俺は彼にとっては、彼が望むとおりの人間となっている。彼にとってすべてのものは、彼自身の面影どおりで、彼自身と同じく純潔で高尚である。もし彼がありのままの人生を見たら、彼はおそらく人生に堪え得ないだろう。」  また彼は今の娘のことを思った。彼女は闇《やみ》に包まれながらその闇を否定し、あるものをないと信じたがり、ないものをあると信じたがってるのであった。  その時彼は、ドイツの理想主義の偉大さを認めた。彼がそれをあんなにしばしば憎んだのは、それが凡庸《ぼんよう》な魂のうちにおいて、偽善偽君子的愚劣さの源泉となってるからであった。ところが今彼は、大洋中の一孤島のように、世界のまん中に異なった一世界を創《つく》り出してる、この信念の美を認めた。――しかし彼は、自分ではそういう信念を堪えることができなかった。彼はそういう「死人島」へ避難することを肯《がえ》んじなかった……。ただ生命! ただ真理! 彼は嘘《うそ》をつく英雄となりたくなかった。その楽天的虚偽は、おそらく弱者にとっては生きるために必要であったろう。それらの不幸な人々から支持となる幻影を奪い去ることは、クリストフもこれを罪悪だと見なしたかった。しかし彼自身は、そういう欺瞞《ぎまん》に頼り得なかった。彼は幻影に生きるよりはむしろ死を望んでいた……。しかるに、芸術もまた一つの幻影ではないのか?――否、芸術は幻影たるべきではない。真理だ! 真理! 両眼を大きく見開き、全身の気孔から生命の強烈なる気を吸い込み、事物をあるがままにながめ、不幸をも正視し――そして笑ってやることだ。  数か月過ぎていった。クリストフは自分の町から外へ出る望みを失った。彼を救い得るかもしれなかった唯一人のハスレルは、助力を拒んでしまった。またシュルツ老人の友情も、与えられて間もなく奪い去らるることとなった。  彼は帰ってから一度シュルツへ手紙を書いた。そして愛情に満ちた手紙を二通受け取った。しかし懶《ものう》い気持のために、ことに考えを文字で書き現わすことが困難だったために、彼はその親愛な文句を感謝するのを遅らした。一日一日と返事を延ばした。そしていよいよ書こうと決心しかけると、クンツから短い便《たよ》りが来て、老友の死を報じた。その報知によれば、シュルツは気管支炎が再発して、それが肺炎に変化したのであった。彼はたえずクリストフのことを口にしながら、クリストフに知らして心配をかけてはいけないと禁じた。極端に衰弱しておりまた多年病気がちではあったが、それでも長い苦しい臨終であった。彼はクリストフへ死去の報知をしてくれとクンツへ頼み、最期まで彼のことを考えていたこと、彼に負うあらゆる幸福を感謝していたこと、彼が生きてる間は草葉の陰から祝福していること、などを彼に告げてくれと頼んでいた。――ただクンツが言い得なかったことは、クリストフとともに過ごした一日が、おそらく病気再発の原因であり死去の起因であるという一事だった。  クリストフは黙然として涙を流した。その時になって彼は初めて、亡《な》くした友のあらゆる価値を感じ、どんなに彼を愛してたかを感じた。そのことをよく言ってやらなかったのを、いつものとおり苦しんだ。今はもう間に合わなかった。そして彼の手には何が残されたか? 善良なシュルツは、その死後空虚をさらにむなしく思わせるために、ちょうど現われてきたのにすぎなかった。――クンツとポットペチミットとの方は、シュルツにたいする彼らの友情と彼らにたいするシュルツの友情以外には、なんらの価をももってはいなかった。クリストフは彼らに一度手紙を書いた。そして関係はそれだけのものだった。――彼はまたモデスタへ手紙を書いてみた。しかし彼女は平凡な手紙を書いてもらってよこした。その中にはつまらない事柄しか述べられていなかった。彼は文通をつづけることをあきらめた。彼はもう手紙を出さなかった。だれからももう手紙が来なかった。  沈黙、沈黙。沈黙の重いマントが日に日にクリストフの上にかぶさってきた。それは灰の雨が降りかかってくるのに似ていた。もう晩年になったように思われた。しかもクリストフはようやく生き始めたばかりだった。彼は今からもうあきらめようとは欲しなかった。眠るべき時にはなっていなかった。生きなければならなかった……。  そして彼はもはやドイツで生活することができなかった。小さな町の偏狭さに圧迫されてる彼の才能の苦しみは、彼を絶望さして不正にまで陥らした。彼の神経はむき出しになっていた。すべてが血を迸《ほとばし》らせるほどに彼を傷つけた。彼はあたかも、公園の穴や檻《おり》に閉じこめられて退屈に苦しんでる、あの惨《みじ》めな野獣のようであった。クリストフは同情からそれらの獣を見に行った。彼は獣らの驚嘆すべき眼を見守った。その眼には荒々しい絶望的な炎が、燃えていた――日に日に消えてゆきつつあった。ああ彼らは、自分を解放してくれる暴虐な射殺を、いかに望んでいることであろう! 彼らに生をも死をも妨げる人間の獰猛《どうもう》な冷淡さに比ぶれば、むしろいかなることでもはるかに望ましいのだ!  クリストフにとって最も圧迫的に感ぜられるものは、人々の敵意ではなかった。それは人々の形も根底もない不定な性質であった。あらゆる新思想を了解することを拒む、偏狭な頑固《がんこ》な頭脳を有する人々の執拗《しつよう》な対抗にたいして、どうすればよかったのか。力にたいしては力がある、岩石を切り砕く鶴嘴《つるはし》と爆薬とがある。しかしながら、凝液のごとくぬらりとして、少しの圧力にもくぼみ、しかもなんらの痕跡《こんせき》をも残さない、無定形な塊《かたまり》にたいしては、いかんとも方法がない。あらゆる思想、あらゆる精力、すべては泥濘《でいねい》のうちに没してしまうのであった。一つの石が落ちても、深淵《しんえん》の表面にようやく二、三の波紋がたつのみだった。その顎《あご》は開いてはまた閉じた。そしてそこにあったものの痕跡は、もはや少しも残らなかった。  彼らは敵ではなかった。むしろ敵であればありがたいのだが! 彼らは、愛することも、憎むことも、信ずることも、信じないことも――宗教、芸術、政治、日常生活、すべてにおいて――皆その力がない徒輩であった。彼らの気力はことごとく、和解し得ざるものを和解させんとつとめることに費やされていた。ことにドイツの戦勝以来、新しい力と古い主義との妥協を、嫌悪《けんお》すべき陰謀を、彼らは企図していた。古い理想主義は捨てられていなかった。そこにこそ人々がなし得ないでいる解放の努力が残されていた。彼らはドイツの利益に役だたせんがために理想主義を歪曲《わいきょく》して満足していた。たとえば冷静にして表裏あるヘーゲルを見るがいい。彼はライプチヒとワーテルローとの戦役を待って、おのれの哲学の趣旨とプロシャ国家とを同一たらしめた――利害関係が変わったので主義も変わったのである。人々は敗北したおりには、ドイツは人類を理想とすると言っていた。今や他に打ち克《か》つと、ドイツは人類の理想であると言っていた。他の国家が強大であるおりには、レッシングとともに、「愛国心は一つの勇ましい弱点で[#「愛国心は一つの勇ましい弱点で」に傍点]、なくてもよろしいものだ[#「なくてもよろしいものだ」に傍点]、」と彼らは言い、おのれを「世界の公民[#「世界の公民」に傍点]」だと呼んでいた。しかるに勝利を得た現在では、「フランス式の[#「フランス式の」に傍点]」空想たる、世界の平和、友愛、平和的進歩、人間の権利、生来の平等などにたいして、あくまで軽蔑《けいべつ》の念をいだいていた。最強の国民は他の国民にたいして絶対の権利を有するものであり、他の国民はより弱きがゆえにこの国民にたいしてなんらの権利も有しないものであると、彼らは言っていた。最強の国民は生きたる神であり、理想の化身であって、その進歩は戦争と暴力と圧制とによってなさるるのであった。今や力がおのれの方にあると、力は神聖なるものとなされていた。力はあらゆる理想となり知力となっていた。  実を言えば、ドイツは数世紀の間、理想を有して力を有しないことを、非常に苦しんできたので、多くの艱難《かんなん》を経た後になって、何よりもまず力が必要であると、痛ましい告白をなすにいたったのは、恕《じょ》すべきことではある。しかしながら、ヘルデルやゲーテを有する国民のこの告白のうちには、いかに憂苦が潜んでいたことであろう! そしてこのドイツの戦勝は、ドイツ理想の放棄であり堕落であった……。ああ、ドイツのすぐれた人々の嘆かわしい服従的傾向よりすれば、かかる放棄は実に易々たることにすぎなかったのである。  モーゼルはすでに一世紀余り以前に言っていた。 「ドイツ人の特徴は服従である[#「ドイツ人の特徴は服従である」に傍点]。」  またスタール夫人も言っていた。 「彼らは勇敢に服従します[#「彼らは勇敢に服従します」に傍点]。世に最も哲学的で良い事柄[#「世に最も哲学的で良い事柄」に傍点]、すなわち力にたいする尊敬や[#「すなわち力にたいする尊敬や」に傍点]、この尊敬を変じて賛美とならしむる驚怖の感動など[#「この尊敬を変じて賛美とならしむる驚怖の感動など」に傍点]、それを説明するために[#「それを説明するために」に傍点]、彼らは哲学的推論を用います[#「彼らは哲学的推論を用います」に傍点]。」  クリストフは、ドイツの最も偉大な人物から最も微小な人物にいたるまで、すべての者のうちに右の感情を見出した。上にはシルレルのウィルヘルム・テルがいた。人夫のような筋骨をもってる厳格なこの小市民は、自由なユダヤ人ベールネが言ったように、「ゲスレル閣下の帽子柱の前を[#「ゲスレル閣下の帽子柱の前を」に傍点]、その帽子を見なかったし敬礼の命令にそむいたのでもないということを証明するため[#「その帽子を見なかったし敬礼の命令にそむいたのでもないということを証明するため」に傍点]、眼を伏せて通りながら[#「眼を伏せて通りながら」に傍点]、名誉と恐怖とを妥協せしめんとした[#「名誉と恐怖とを妥協せしめんとした」に傍点]。」降《くだ》っては七十歳の敬すべき老教授ヴァイセがいた。彼は町で最も名誉な学者の一人だったが、一人の中尉殿[#「中尉殿」に傍点]が来るのを見ると、急いで歩道の高みを向こうに譲って、車道へ降りて行くのであった。クリストフは、常住卑屈のかかるつまらない行為を見ると、血が湧《わ》きたつのを覚えた。卑下したのはあたかも自分自身であるかのように、苦しい思いをした。往来ですれちがう将校らの傲慢《ごうまん》な様子は、彼らの横柄《おうへい》な鯱子張《しゃちこば》り方は、彼にひそかな憤怒《ふんぬ》の念を与えた。彼は彼らに少しも道を譲る様子を見せなかった。通り過ぎる時には彼らと同じように傲慢な眼つきで見返した。も少しで喧嘩《けんか》をひき起こしかけたことも一度ならずあった。あたかも彼は喧嘩を求めてるかのようだった。けれども彼は、そういう空威張《からいば》りの危険な無益さを認むることにおいては、あえて人後に落つるものではなかった。ただ時々彼はめちゃな気持になるのであった。たえず自制していたので、また頑強《がんきょう》な力が鬱積《うっせき》して少しも費やされなかったので、そのためにいらだってきた。するともうどんな馬鹿げた事でもやりかねなかった。もう一年もこの地にいたら自分は破滅するだろう、というような気がしていた。自分の上にのしかかってくる野蛮な軍国主義、舗石の上に鳴ってる佩剣《はいけん》、多くの叉銃《さじゅう》、砲口を町の方へ向けて発射するばかりになってる、兵営の前の大砲、それらのものに彼は憎悪の念をいだいていた。当時評判の高かった卑猥《ひわい》な小説は多く、大小を問わずあらゆる兵営内の腐敗を暴露《ばくろ》していた。将校らは皆悪徳の人物として描かれていて、その自働機械的な職務以外においては、ただ怠惰《たいだ》に日を送り、酒を飲み、賭博《とばく》をし、負債をこしらえ、他人から補助を仰ぎ、たがいに悪口をし合い、その階級の上下を問わず皆、自分より下位の者にたいして権力を濫用するのであった。クリストフは、他日彼らの下に服従しなければならないかと思うだけでも、喉《のど》をしめつけられる心地がした。彼らから侮辱と不正とを被《こうむ》ってる、不名誉きわまる自分の姿を見ることは、堪えられなかった、断じて堪えられなかった……。彼らのうちのある者らが有してる精神上の偉大さを、彼は知らなかった。彼らがみずから苦しんでるところのものを、彼は知らなかった。失われた幻、悪用され濫用された、多くの力や青春や名誉や信念や犠牲の熱望――無意義な職業。もしそれが単に一つの職業であるとするならば、犠牲を目的としないものであるとするならば、それはもはや一つの哀れな活動にすぎないし、無能な道化《どうけ》にすぎないし、みずから信ぜずして口先で唱える範例にすぎないのである。  クリストフはもはや祖国では満足しきれなかった。潮の干満のように一定の時期において、ある種の鳥のうちに突然不可抗的に眼覚《めざ》めてくるあの不思議な力を、彼は自分のうちに感じていた――それは大移住の本能であった。シュルツ老人から遺贈されたヘルデルやフィヒテの書物を読みながら、彼はその中に自分と同じ魂を見出した――土塊に執着してる土地の子[#「土地の子」に傍点]をではなく、光の方へ向かざるを得ない精神[#「精神」に傍点]を、太陽の子[#「太陽の子」に傍点]を。  どこへ行くべきか? 彼はそれを知らなかった。しかし彼の眼はラテンの国たる南欧に注がれていた。そしてまずフランスに。混乱に陥ったドイツのいつもの避難所たるフランス。ドイツ思想はフランスを悪口しつづけながらも、幾度その世話になったことであろう! 一八七〇年以後においてさえ、ドイツの砲火の下に焼かれ破砕されたその大都市から、いかなる魅力が発してきたことであるか! 思想および芸術の最も革命的な形式も最も復古的な形式も、順次にまたは時として同時に、実例や霊感やをそこに見出したのである。クリストフもまた、ドイツの大音楽家らの多くが逆境に陥った時と同じく、パリーの方を振り向いた……。彼はフランス人についてどれだけ知っていたか?――二人の女の顔と手当たり次第に読んだ若干の書物。しかしそれだけでも彼にとっては、光明と快活と元気との国、その上に大胆な若い心に適するゴール的高慢さを多少そなえた国、それを想像するには足りるのであった。彼はフランスをそういう国だと信じていた。なぜなら、そう信ずる必要があったし、そうであれかしと心から願っていたから。  彼は出発の決心をした。――しかし母のために出発することができなかった。  ルイザはしだいに老いていった。彼女は息子を鐘愛《しょうあい》していた。息子は彼女の喜びのすべてだった。そして彼女は、彼がこの世で最も愛してるもののすべてだった。けれども彼らはたがいに苦しめ合っていた。彼女はクリストフをほとんど理解せず、また理解しようともつとめなかった。ただ彼を愛しようとばかりした。彼女は狭い臆病《おくびょう》なぼんやりした精神を有し、また感心すべき心を、なんとなく人の心を動かし圧迫するような、愛し愛されたいという強い欲求を有していた。彼女は息子《むすこ》を非常な学者だと思って尊敬していたが、彼の天分を窒息させるようなことばかりしていた。彼がこの小さな町に自分のそばに生涯《しょうがい》とどまってるだろうと思っていた。もう幾年もいっしょに暮らしてきたし、ずっと同じような状態でゆくだろうと思わざるを得なかった。かくして彼女は幸福だった。どうして彼もまた幸福でないことがあろうぞ。彼にこの町の気楽な中流階級の娘を娶《めあ》わせ、日曜日には彼が教会堂のオルガンを弾《ひ》くのを聞き、そしていつまでも自分のそばにとどまってること、それが彼女の夢想の全範囲だった。彼女は息子をいつも十一、二歳くらいに見ていた。それ以上になってほしくなかった。そして彼女はこの狭い天地に息づまってる不幸な一個の男子を、別に悪い心ではなしに苦しめていた。  とは言え、大望のなんたるかを理解し得ないで、家庭の愛情とささやかな義務の遂行とに、人生の全幸福を置いている母親の、かかる無意識的な哲理のうちには、多くの真――一つの精神的偉大さ――が存在していた。それは愛することを欲する魂であり、愛することのみを欲する魂であった。愛を捨てるよりもむしろ、生活、理性、論理、全世界、すべてを捨てる方が好ましかったのだ! そしてこの愛は、無際限で懇願的で要求深いものだった。それはすべてを与えるものであり、またすべてを得んと欲するものだった。それは愛せんがためには生きることを犠牲にし、また他人にも、自分の愛する人々にも、同じ犠牲を求めていた。ああ、単純なる魂の愛の力よ! その力は、たとえばトルストイのごとき不安定な天才の模索的理論や、あるいは死滅しつつある文明のあまりに精練されたる芸術などが、激しい闘争や傾け尽くされたる努力の一生――数世紀――を終わると、いかなる帰結に到着するかを、一目で見出させてくれる……。しかしながら、クリストフのうちにうなっていた傲然《ごうぜん》たる世界は、はるかに異なったる法則をもっていて、他の知恵を要求していた。  彼は久しい前から、自分の決心を母へ告げたがっていた。しかし母に与える苦しみを思っては、ひどく恐れていた。口へ出そうとすると、卑怯《ひきょう》な気持になって、また先へ延ばした。それでも二、三度彼は、おずおずと出発のことをほのめかした。しかしルイザはそれを真面目《まじめ》に取らなかった――おそらくは、彼自身にも冗談に言ってるのだと思わせんがために、真面目に取らないふうを装《よそお》ったのであろう。すると彼はもう言い進むことができなかった。ただ陰鬱《いんうつ》に考え込んでばかりいた。何か心に重い秘密でもあるがようだった。そして憐《あわ》れな彼女は、その秘密がなんであるかを直覚し得たので、その自白を遅らせようとこわごわつとめていた。晩に、たがいに近くランプの火影《ほかげ》にすわって、沈黙に陥るような場合に、彼女は彼が今にも言い出しはすまいかとにわかに感ずるのであった。すると彼女は恐ろしさのあまり、なんでも構わずでたらめなことを口早やに話し出した。自分でも何を言ってるのかわからないくらいだった。しかしどうしても彼が言い出すのを妨げなければならなかった。通例彼女は本能から、彼に沈黙を強《し》いる最上の事柄を見出していた。自分の健康状態を、脹《は》れてきた手足のことを、不随になりかかってる膝《ひざ》のことを、静かに訴えるのだった。彼女は自分の悩みを誇張して、もうなんの役にも立たない無能な婆《ばあ》さんになったと言った。だが彼はそういう幼稚な策略に欺かれなかった。無言の非難をこめて悲しげに彼女をながめていた。そして間もなく、疲れてるから床にはいるという口実で、座を立つのであった。  しかしそういう手段は長くルイザを救うことができなかった。ある晩、彼女がまたその手段に頼ると、クリストフは勇気を振るい起こして、老母の手に自分の手をのせて言った。 「お母さん、私は少しお話ししたいことがあるんです。」  ルイザははっとした。しかしにこやかな様子をしようとつとめながら、答えた――喉《のど》をひきつらして。 「どういうことですか。」  クリストフは口ごもりながらも、出発の意志を告げた。彼女はいつものとおり、それを冗談にして話をそらそうとした。しかし彼は気色を和らげないで、こんどはいかにも思い込んだ真面目《まじめ》なふうで言いつづけたので、もはや疑う余地はなかった。すると彼女は口をつぐみ、血の流れも止まり、無言のまま冷たくなって、怖《お》じ恐れた眼でじっと彼をながめた。そして非常な苦悶《くもん》の色が彼女の眼に上ってきたので、彼の方でも言葉が出せなくなった。そして二人とも默っていた。ついに彼女はほっと息をつくとともに、言った。――(その唇《くちびる》はふるえていた。) 「そんなことがお前……そんなことが……。」  大粒の涙が二つ彼女の頬《ほお》に流れた。彼はがっかりしてわきを向き、両手に顔を隠した。二人は泣いた。しばらくしてから、彼は自分の室にはいって、翌日まで閉じこもった。二人はもはやそのことを口先へも出さなかった。そして彼がなんとも言わないので、彼女は彼がその計画をやめたのだと信じようとした。それでもやはりたえず気にかかった。  そのうちに、彼はもう黙っておれなくなった。たとい彼女に断腸の思いをさせることになろうとも、ぜひとも話さなければならなかった。彼はあまりに苦しかったのだ。自分の苦しみにたいする利己心は、彼女に苦しみをかけるという考えに打ち克《か》った。彼は口を開いた。心が乱されるのを恐れて母を見ないようにしながら、終わりまで言い進んだ。もう二度と言い合うことがないように、出発の日まで定めた。――(この次になったら、今日ほどの悲しい勇気が出るかどうか、自分でもわからなかった。)――ルイザは叫んでいた。 「いえ、いえ、そんなことを言ってはいけません!……」  彼は身を堅くして、厳然たる決心をもって言いつづけた。言い終えると――(彼女はすすり泣いていた)――彼は彼女の手を取って、自分の芸術のため生命のためには、しばらく出かけることがいかに必要であるかを、彼女に了解させようとつとめた。彼女は聞くことを拒み、涙を流し、そしてくり返していた。 「いえ、いえ! いやです……。」  彼はいかに彼女へ理屈を説いても無駄《むだ》だったので、夜になったら彼女の考え方も変わるかもしれないと思って、そのまま座を立った。しかし翌日食卓でまたいっしょになると、彼は少しの思いやりもなくまた計画のことを言い始めた。彼女は唇《くちびる》にあてた一口のパンをとり落して、悲しい非難の調子で言った。 「では私を苦しめたいんだね。」  彼は心を動かされたが、それでも言った。 「お母さん、必要なことなんです。」 「いいえ、いいえ、」と彼女はくり返し言った、「そんな必要があるものですか……。私に心配をかけるためにです……まるで狂気の沙汰《さた》です……。」  二人はたがいに説服しようとした。しかしたがいに相手の言葉を耳に入れなかった。彼は議論の無駄なことを悟った。議論はたがいにますます苦しめ合うのに役だつばかりだった。そして彼は頑《がん》として、出発の準備を始めた。  ルイザは、いかに願っても彼を引き止めることができないのを見て取ると、陰鬱《いんうつ》な悲嘆のうちに沈み込んだ。終日室の中に閉じこもって、晩になっても燈火もつけなかった。もう口もきかず食事もしなかった。夜にはその泣き声が聞こえた。彼は身を切られるような思いをした。悔恨の情にとらえられて、夜通し眠れないで輾転《てんてん》しながら、床の中で苦しい声をたてた。それほど彼は母を愛していたのだ! なんのために彼女を苦しめなければならなかったのか?……ああ、苦しむのは彼女一人ではないだろう。彼にはそれがよくわかっていた……。なんのために運命は、愛する人々を苦しめるような使命をも果たさんとする欲求と力とを、彼のうちに置いたのであるか? 「ああ、もし私が自由であったら、」と彼は考えた、「もし私が、自分のなるべきものになろうとする、あるいはなれなかったら自分にたいする恥と嫌悪《けんお》とのうちに死のうとする、この残忍な力に縛られていなかったら、愛するあなたがたをいかに幸福ならしむることができることでしょう! けれどまず、私を生き活動し戦い苦しましてください。そしたら私はいっそうの愛をもっておそばにもどって来るでしょう。どんなにか私は、愛し、愛し、愛することだけをしたいんです!……。」  母の絶望的な魂の不断の非難が、もし黙っているだけの力をもっていたならば、彼は決してそれに対抗することができなかったろう。しかし気の弱いやや饒舌《じょうぜつ》なルイザは、胸ふさがるような心痛を自分一人に取っておくことができなかった。そして近所の女たちに話した。他の二人の息子《むすこ》にも話した。二人の息子は、クリストフを非難する絶好の機会を利用せずにはおかなかった。ことに、今ではほとんど理由もないのに兄を妬《ねた》みつづけていたロドルフは――クリストフのわずかな好評にもいらだって、あえて自認しかねるような下等な考えで、ひそかに兄の未来の成功を恐れていた(なぜなら、彼はかなり怜悧《れいり》であって、兄の実力を感じていたし、他人も自分と同様にそれを感じていはしないかと思っていたから)――そのロドルフは、自分の方がすぐれてるとしてクリストフを頭から押えつけるのを、この上もなく喜んだ。彼は母の困窮を知っていながら、かつてあまり気にかけたこともなく、母を助け得るだけの十分余裕ある身分でありながら、クリストフの世話にばかり任していた。ところがクリストフの計画を知ると、彼はただちに多くの愛情を示してきた。彼は母親を見捨てるという考えを憤慨して、それを恐るべき利己心だとした。彼は厚顔にも自分でやってきて、クリストフにそれを言った。あたかも鞭《むち》打ちに相当する子供にでも対するがように、ごく横柄《おうへい》に訓戒をたれた。母親にたいする義務や、母親が彼のためになした犠牲などを、傲慢《ごうまん》な様子で説ききかした。クリストフは危うく激怒するところだった。彼はロドルフを狡猾《こうかつ》漢だとし偽善の犬だとして、臀《しり》を蹴立《けた》てて追い出した。ロドルフはその仕返しに母を煽動《せんどう》した。ルイザは彼から刺激されて、クリストフが不孝者のような行ないをしてると思い込み始めた。クリストフには出発の権利がないとくり返し聞かされたし、それは彼女の信じたがってるところだった。彼女は最も強力な武器たる涙に頼ることをしないで、クリストフに向かって不当な非難を加えた。クリストフはそれに反感を覚えた。二人はたがいに厭《いや》なことを言い合った。その結果はただ、それまでなお躊躇《ちゅうちょ》していたクリストフに、出発の準備を急ごうと考えさせたばかりだった。慈悲深い隣人らが母を気の毒がってること、近所の評判では母を犠牲者だとし自分を酷薄漢だとしてること、それを彼は知った。彼は歯をくいしばって、もはや決心を翻さなかった。  日は過ぎ去っていった。クリストフとルイザとはほとんど口をきかなかった。たがいに愛し合っていたこの二人は、いっしょに過ごす最後の日々をできるだけ味わいつくそうともしないで、多くの愛情をも埋没せしむる無益な不機嫌《ふきげん》のうちに、残ってる時間を失っていった――世にはしばしばそういう例がある。二人は食卓で顔を合わせるばかりだった。しかも、たがいに向かい合ってすわりながら、眼を見合わせもせず、言葉を交えもせず、幾口かを無理に食べるだけで、それも食べるためではなく、むしろ体裁を保つための方が多かった。クリストフは辛《かろ》うじて、喉《のど》から二、三言しぼり出すこともあった。しかしルイザは返辞をしなかった。そしてこんどは彼女の方で口をきいてみると、彼の方で口をつぐんでしまった。かかる状態は二人には堪えられなかった。そしてそれが長引けば長引くほど、それから脱するのがますます困難になった。このままで二人は別れるのであろうか? ルイザは今となって、自分が不正で拙劣だったことを認めた。しかし彼女はあまりに苦しんでいたので、失ってしまったように思われる息子《むすこ》の心を、どうして取りもどしていいかわからなかったし、思ってもぞっとするほどのその出発を、どうしたらやめさせられるかわからなかった。クリストフは、母の蒼《あお》ざめてるはれぼったい顔を、ひそかにながめやっては、悔恨の念に責められた。しかしもう出発の決心を固めたことだし、自分の一生に関することだと知っていたので、悔恨の念からのがれるために、もっと早く出発しておけばよかったと卑怯《ひきょう》にも考えた。  彼の出発の日は翌々日となった。悲しい差し向かいの時がまた過ぎた。たがいに一言もかわさないで夕食を済ますと、クリストフは自分の室に退いた。そして机の前にすわり、両手に頭をかかえ、なんの仕事もできないで、一人悩んでいた。夜はふけた。もう一時に近かった。とふいに隣室で、物音がした。椅子《いす》がひっくり返った。扉《とびら》が開《あ》いた。シャツ一つの素足の母が、すすり泣きながら彼の首に飛びついてきた。彼女は熱で焼けるようになっていた。息子を抱きしめて、絶望の鳴咽《おえつ》のうちに訴えた。 「発《た》ってはいけません、発ってはいけません。お願いだから、お願いだから! ねえ、発ってはいけません!……私は死にそうです……我慢が、我慢ができません!……」  彼は驚き恐れて、母を抱擁しながらくり返した。 「お母さん、落ち着いてください、落ち着いてください、どうぞ!」  しかし彼女は言いつづけていた。 「私には我慢ができません。……もうお前きりなんです。お前が発《た》ってしまったら、私はどうなるでしょう? 死んでしまうに違いありません。私はお前と離れて死にたくない。一人で死にたくない。私が死ぬまで待ってください!……」  彼はその言葉に胸を裂かれる思いがした。どう言って慰めてよいかわからなかった。この愛情と悲しみとの訴えにたいしては、いかなる理由がよく抵抗し得ようぞ! 彼は彼女を膝《ひざ》に抱き上げて、接吻《せっぷん》ややさしい言葉で、気を鎮《しず》めさせようとした。老母は次第に口をつぐんで、静かに泣きだした。彼女が少し落ち着いた時、彼は言った。 「お寝《やす》みなさい。風邪《かぜ》をひきますよ。」  彼女はくり返した。 「発《た》ってはいけません!」  彼はごく低く言った。 「発ちません。」  彼女は身を震わした。そして彼の手を取った。 「ほんとうですか。」と彼女は言った。「ほんとうですか?」  彼はがっかりして顔をそむけた。 「明日《あした》、」と彼は言った、「明日、申しましょう……。私をこのままにしておいてください、お願いですから!……」  彼女はすなおに立ち上って、自分の室へもどった。  翌朝になると彼女は、狂人のように真夜中に絶望の発作に襲われたことが、恥ずかしくなった。そして息子がなんと言うだろうかとびくびくしていた。彼女は室の隅《すみ》にすわって待っていた。編み物を取ってそれに心を向けようとしたが、手が思うままにならないで取り落してしまった。クリストフがはいって来た。二人はたがいに顔を見合わせないで、小声で挨拶《あいさつ》をした。彼は陰鬱《いんうつ》な様子で、窓の前に立ち、母へ背中を向けて、黙り込んだ。彼のうちには闘《たたか》いがあった。前もってその結果はわかりすぎていたが、それを延ばそうとつとめていた。ルイザは彼に言葉をかけかね、待ちまた恐れている返辞を促しかねた。彼女はまた強《し》いて編み物を取り上げた。しかし何をしてるのか夢中だった。編み目はゆがんでいった。外には雨が降っていた。長い沈黙のあとに、クリストフは彼女のそばに来た。彼女は身動きもしなかったが、胸は動悸《どうき》していた。クリストフは不動のまま彼女をながめた。それからにわかに、そこにひざまずいて、母の長衣の中に顔を埋めた。そして一言も言わないで、涙を流した。その時彼女は、彼がとどまることを悟った。彼女の心は、死ぬほどのつらい苦しみから和らいだ。――しかしすぐに、苛責《かしゃく》の念が交ってきた。息子が犠牲にしてくれたすべてのものを、彼女は感じたのである。そして、彼が彼女を犠牲にした時に苦しんだすべてを、彼女が苦しみ始めた。彼女は彼の上に身をかがめてその額《ひたい》や髪に唇《くちびる》をあてた。二人は無言のうちに、涙と悲痛とを共にした。ついに彼は頭を挙げた。ルイザは彼の顔を両手にはさんで、眼の中を見入った。彼女は言いたかった。 「お発《た》ちなさい!」  しかしそれを言うことができなかった。  彼はこう言いたかった。 「喜んでとどまりましょう。」  しかし彼はそれを言うことができなかった。  どうにもできない情況だった。二人とも処置に困った。彼女は切ない愛情のうちに溜息《ためいき》をついた。「ああ、みんないっしょに生まれていっしょに死ぬことができるのだったら!」  その素朴《そぼく》な願いが、彼のうちにやさしく沁《し》み通った。彼は涙をふいて、微笑《ほほえ》もうとつとめながら言った。 「いっしょに死にましょう。」  彼女はなお尋ねた。 「確かですか。発《た》たないんですね。」  彼は立ち上がった。 「きまったことです。もうそのことを言うのはよしましょう。またあともどりをするには及びません。」  クリストフは言葉を違えなかった。もう出発のことを言い出さなかった。しかしそれを考えずにはいられなかった。彼はとどまった。しかしその犠牲の返報として、悲しい様子や不機嫌《ふきげん》さで母を悩ました。そしてルイザは、やり方が拙劣であって――自分は拙劣だと知りつつも、していけないことをかならずするほど、きわめて拙劣で――彼の悩みの原因を知りすぎていながら、しつこくそれを彼の口から言わせようとした。落ち着きのない煩《うるさ》い理屈っぽい愛情で彼をなやまし、二人はたがいに異なった性質であることを――彼が忘れようとつとめていたことを、始終彼に思い出さした。幾度彼は彼女に心のうちをうち明けたがったことだろう! しかし口を開こうとすると、いかんともできない壁が間につっ立った。そして彼は内心の思いを胸に潜めた。彼女はそれに気づいていた。しかし彼のうち明け話を求むることもなしかねたし、またどういうふうに求めていいかもわからなかった。思いきってやってみても、彼が胸につかえて言いたくてたまらながってるその思いを、ますます深く秘めさせるばかりだった。  多くの些細《ささい》なことのために、罪のない癖のために、彼女はまたクリストフをいらだたせて、間をうとくならしていた。人のいいこの老母は少しぼけていた。彼女は近所の噂《うわさ》話をくり返したがった。また保母めいた愛情をもっていて、人を揺籃《ゆりかご》に結びつける子供時代のくだらない事柄を、しきりにもち出した。しかしそれからのがれるには、一人前の男となるには、もう非常に骨を折ってきたではないか。しかるにいまさら、ジュリエットの乳母《うば》のごときが現われてきて、汚ない襁褓《むつき》や、くだらない考えや、また、幼い魂が卑しい物質と息苦しい環境との圧迫に逆らう、あの厄介《やっかい》な時代を、一々述べたてなければならないというのか!  それらのことの合い間には、彼女はいとやさしい愛情の発作を――あたかも赤ん坊を相手にしてるかのように――示すのであった。彼はそれに心をとらわれて、身をうち任せる――あたかも赤ん坊のように――のほかはなかった。  最も悪いのは、彼らのように、朝から晩まで始終二人きりで、しかも他人から孤立して、暮らしてゆくことである。二人でいて苦しむ時には、たがいにその苦しみを医することができない時には、それを激烈ならしむるのは必然の勢いである。自分の苦しみの責《せめ》をたがいに転嫁し合い、実際にそうだと信じてしまう。それよりはむしろ一人きりの方がよい。苦しむのは一人きりだから。  彼ら二人には毎日苦悩の日がつづいた。世間にしばしばあるごとく、偶然の事件が起こって、外見上不幸な――実は巧妙な――方法で、二人がもがいている残忍な不決定な状態を断ち切ってくれなかったならば、彼らは長くそれから脱し得なかったであろう。  十月のある日曜日だった。午後四時のこと。天気は晴れ晴れとしていた。クリストフは終日室にとじこもって、「自分の憂鬱《ゆううつ》を嘗《な》め」ながら考え込んでいた。  彼はもう我慢ができなかった。外に出て、歩き回り、精力を費やし、身体を疲らして、もう考えないようになりたくてたまらなかった。  前日から母との間が気まずかった。なんとも言わないで出かけようとした。しかし階段の上まで来るうちに、彼女が独《ひと》りぽっちで一晩じゅう心配するだろうと考えた。彼は忘れ物があるという口実をみずから設けて、また室にもどった。母の室の扉《とびら》が半ば開いていた。彼はその間からのぞき込んだ。そして数秒の間母をながめた……。その数秒が、今後彼の生涯中いかなる場所を占めることになったか!……  ルイザはその時、晩の祈祷《きとう》からもどって来たところだった。窓の隅の例の好きな場所にすわっていた。正面の家の亀裂《きれつ》のあるよごれた白壁が、ながめをさえぎっていた。しかし彼女がすわってる隅からは、右手の方に、隣家の二つの中庭の向こうに、ハンカチほどの芝生《しばふ》の片隅が見られた。窓縁には一|鉢《はち》の朝顔が絲にからんで伸びていて、ぶらさがってる梯子《はしご》の上にその細やかな蔓《つる》を広げていた。一条の光線がそれに当たっていた。ルイザは椅子《いす》に腰掛け、背を丸くして、大きな聖書を膝《ひざ》の上に開きながら、別に読んでもいなかった。両手を――筋が太くふくれて、労働者のように少し曲がってる四角な爪《つめ》のある両手を――聖書の上に平たくのせて、小さな植物と斜めに見える空の一角とを、しみじみとながめていた。金緑色の朝顔の葉から来る光の反射が、少し痣《あざ》のある疲れた顔を、ごく細かくてあまり濃くない白い髪を、微笑んで半ば開いてる口を、照らしていた。彼女はこの安息の時を楽しんでいた。それは彼女の一週間中で最もよい瞬間だった。苦しんでる者にとってはごく楽しい状態、何事も考えず、ただあるがままにうっとりとして、半睡の心だけが口をきいてくれる状態、それに彼女は浸っていた。 「お母さん、」と彼は言った、「少し出かけてみたいんです。ブイルの方を一回りしてきます。帰りは少し遅《おそ》くなるかもしれません。」  うとうととしていたルイザは、軽く身を震わした。それから彼の方へ向き返り、平和なやさしい眼で彼をながめた。 「行っておいで。」と彼女は言った。「ほんとうにね、よいお天気だから。」  彼女は微笑《ほほえ》んでみせた。彼もまた微笑み返した。二人はしばし顔を見合わしていた。それからたがいに頭と眼とで、ちょっとやさしい会釈をかわした。  彼は静かに扉《とびら》を閉《し》めた。彼女はまた徐《おもむ》ろに夢想にふけった。色|褪《あ》せた朝顔の実にさしてる光線のように、息子の微笑みはその夢想に、一条の輝いた反映を投じていた。  かくして、彼は母を置きざりにしたのであった――一生の間。  十月の夕《ゆうべ》。青白い冷やかな太陽。懶《ものう》げな田舎《いなか》はまどろんでいる。村々の小さな鐘が、野の沈黙のうちにゆるやかに鳴っている。耕作地のまん中から、数条の煙が徐ろに立ち上っている。こまやかな靄《もや》が遠くに漂っている。ぬれた地面を覆《おお》っている白い霧が、夜の来るを待って立ち上ろうとしている……。一匹の猟犬が、地面に鼻をすれすれにして、甜菜《てんさい》の畑の中を駆け回っていた。小鳥の群れが幾つも、薄暗い空に舞っていた。  クリストフは夢想にふけりながら、目当ても定めずに、しかも本能的に、一定の方向へ歩いていた。数週間以来、彼の散歩は、ある村の方へ向かいがちだった。そこへ行けばきっと、一人の美しい娘に出会うのだった。彼はその娘に心ひかれていた。それは単に好きだというにすぎなかったが、しかしごく強い多少不安な好き方だった。クリストフはだれかを愛せずにはほとんどいられなかった。彼の心はめったにむなしいことがなかった。偶像たるべき何かの美しい面影が、いつもすえられていた。愛してることをその偶像から知られるか否かは、多くの場合どうでもいいことだった。彼に必要なのは愛することだった。心の中が決してまっくらにならないこと、それが必要だった。  こんどの新しい炎の対象は、ある農家の娘だった。エリエゼルがレベッカに会ったように、彼は彼女に泉のそばで会った。しかし彼女は彼に水を飲めとは言わなかった。彼の顔に水をはねかけたのだった。小川の岸のくぼんだ所、巣のように根を張ってる二本の柳の間に、彼女は膝《ひざ》をついて、勇敢にシャツを洗っていた。その舌も腕に劣らず活発だった。小川の向こう岸でせんたくをしている他の村娘たちと、盛んに談笑していた。クリストフは数歩離れて、草の上に寝そべっていた。そして両手に頤《あご》をのせて、彼女らをながめていた。彼女らはほとんどきまり悪がりもしなかった。時とすると生意気に聞こえる調子でしゃべりつづけていた。彼はあまり耳にも止めなかった。せんたく板の音や牧場の牛の遠い鳴き声などに交ってる、彼女らの笑い声の響きばかりを聞いていた。そして彼は、一人の美しい娘から眼を離さないで、ぼんやり夢想にふけっていた。――娘たちはやがて、彼の注意の対象を見分けた。意地悪いあてつけの言葉をたがいに言い出した。彼の好きな娘は、ごく鋭い悪口を彼に投げかけた。それでも彼が動かなかったので、彼女は立ち上がって、しぼったせんたく物をひとかかえ取り上げ、それを叢《くさむら》の上に広げ始めながら、彼の顔をうかがう口実を得るために近寄っていった。近くを通る時に、ぬれた布で彼に水をはねかけるように振舞って、そして笑いながら厚かましく彼をながめた。彼女は痩《や》せていたが頑丈《がんじょう》で、多少しゃくれたきつい頤《あご》、短い鼻、丸みを帯びた眉《まゆ》、輝いた厳《きび》しい大胆なごく青い眼、ギリシャ式の多少つき出た太い唇《くちびる》のある美しい口、頸筋《くびすじ》の上に束《つか》ねてる房々《ふさふさ》とした金髪、日焼けのした顔色をもっていた。頭をまっすぐにして、一語一語に冷笑を浮かべ、日にさらした両手を打ち振りながら、男のように歩いていた。挑《いど》むような眼つきでクリストフをながめながら――彼が口をきくのを待ちながら、せんたく物を広げつづけた。クリストフもまた彼女をながめていた。しかし彼は少しも彼女へ口をききたくはなかった。終わりに彼女は、彼の鼻先で笑い出して、仲間の方へ帰っていった。彼はいつまでもそこに横たわっていた。そのうち夕方になると、彼女は背負い籠《かご》を背にし、露《あら》わな両腕を組み、少し前かがみになって、たえず談笑しながら立ち去っていった。  彼は二、三日後、町の市場の、にんじんやトマトやきゅうりやキャベツなどが山のように積まれた中で、また彼女を見かけた。その時彼は、売りに出された奴隷のように、籠の前にずらりと立ち並んでる女商人の群れをながめながら、ぶらぶら歩いていた。金袋と切符束とをもってる警官が、彼女らの前を順次に通っていって、貨幣を受け取り切符を渡していた。コーヒー売りの女が、小さなコーヒー壺《つぼ》がいっぱいはいってる籠《かご》をもって、列から列へと歩き回っていた。快活な太った一人の老尼が、腕に二つの大きな籠をさげて市場を回り、神様のことを語りながら、恥ずかしげもなく野菜の寄進を求めていた。人々は大声に叫んでいた。緑色にぬった皿《さら》をそなえてる古い秤《はかり》が、鎖の音といっしょにきしり鳴っていた。小さな車につけられてる大きな犬どもが、自分の大事な役目を誇りげに愉快に吠《ほ》えていた。そういう喧騒《けんそう》の中に、クリストフはかのレベッカを認めた。――そのほんとうの名はロールヘンというのだった。――彼女は金髪の後部に、白と青とのキャベツの葉を一枚さしていた。それがちょうど歯形に切り刻んだ帽子のようになっていた。彼女は籠の上に腰をかけ、黄色いたまねぎや小さな薄赤い蕪菁《かぶら》や青いいんげん豆や真赤《まっか》な林檎《りんご》などの山を前にし、売ろうともしないで林檎をかじっていた。彼女は食べてやめなかった。時々、前掛で頤《あご》や首をふき、腕で髪の毛をかき上げ、頬《ほお》を肩にこすりつけ、または手の甲で鼻をこすっていた。あるいは両手を膝の上に置いて、一握りのえんどうを際限もなく手から手へ移していた。そして閑散な様子で、左右をながめていた。しかし身のまわりで起こることは少しも見落とさなかった。気がつかないふりをしながらも、自分の方へ向けられてる眼つきを見て取っていた。彼女は完全にクリストフを認めた。買い手たちと話しながら、その頭越しに、眉根《まゆね》をよせて自分の賛美者を観察していた。彼女は法王のように威儀堂々としていた。しかし心のうちではクリストフを嘲《あざけ》っていた。彼は嘲られるに相当していた。数歩向こうにつっ立って、彼女を貪《むさぼ》るように見つめていたのである。それから彼は、言葉をかけずに立ち去った。  その後彼は何度か、彼女の村のまわりをさまよった。彼女はよく農家の中庭を行き来していた。彼は往来に立ち止まって彼女をながめた。彼女のためにやって来たのだとは自認していなかった。そして実際、そんなことはほとんど考えていなかった。彼はある作曲に没頭すると、夢遊病者みたいな状態になるのだった。意識的な魂が音楽的思想を追い求めている一方に、一身の他の部分は無意識的なも一つの魂のものとなり、その魂はわずかな放心の隙《すき》をもうかがって自由の天地にのがれようとしていた。彼はしばしば、彼女の正面にいる時でも、自分の音楽の囁《ささや》きに気を取られていた。そして彼女をながめながら夢想しつづけていた。彼は彼女を愛してるとは言い得なかった。そんなことは考えてもいなかった。彼女を見るのが楽しい、ただそれだけだった。自分を彼女の方へ導いてゆく欲望には、みずから気づいていなかった。  そういう執拗《しつよう》なやり方は、噂《うわさ》の種となった。農家の人々はそれを笑っていた。クリストフが何者であるか知られてしまった。人々は笑いながらも彼を放《ほう》っておいた。なぜなら彼は害を与えはしなかったから。要するに、彼は馬鹿者のような様子をしていた。そして自分でも平気でいた。  村の祭りだった。悪戯《いたずら》っ児《こ》らは小石の間で癇癪《かんしゃく》玉をつぶしながら、「皇帝陛下万歳!」を叫んでいた。小屋に閉じこめられてる牛の鳴き声が聞こえ、居酒屋には酔っ払いの歌が聞こえていた。彗星《すいせい》のような尾をつけた凧《たこ》が、畑の上高く空中に動いていた。鶏が黄色い敷き藁《わら》を狂気のようにかき回していた。風がその羽を、老婦人の裳衣《しょうい》に吹き込むように、吹き広げていた。一匹の薄赤い豚が、日向《ひなた》で快《こころよ》げに横たわって眠っていた。  クリストフは三王星[#「三王星」に傍点]という飲食店の赤い家根の方へ進んでいった。その上には小さな旗が翻っていた。正面にはたまねぎの数珠《じゅず》がかかっていて、窓には赤と黄との金蓮花《きんれんか》が飾ってあった。彼はその広間にはいった。煙草《たばこ》の煙が立ちこめていて、壁には黄ばんだ着色石版画が並び、いちばん誉《ほま》れある場所に、帝王の彩色像が掲げられて、樫《かし》の葉飾りで縁取られていた。人々は踊っていた。クリストフは、あの美しい娘もそこにいるに違いないと思っていた。そして実際彼はその顔をまっ先に認めた。彼は室の隅《すみ》にすわった。そこからゆっくりと踊り手らの動きがながめられた。彼は気づかれないようにごく注意していたが、ロールヘンは向こうから彼を見つけ出した。つきることなきワルツを踊りながら、彼女は相手の男の肩越しに、ちらちらと横目を注いだ。そして彼の心をなお刺激するために、大口を開《あ》いて笑いながら、村の若者らとふざけていた。ひどく饒舌《じょうぜつ》で、つまらないことを言いたてていた。この点では彼女も、社交裏の若い娘らと同じだった。彼女らは人からながめられてると、笑ったり動き回ったりしなければならないと思い、自分だけではなく見物人のために、馬鹿にならなければならないと思うのである。――でもこの点では、彼女らはそれほど馬鹿ではない、なぜなら、見物人は自分をながめてはいるが耳を傾けてはいないということを、知っているからである。――クリストフはテーブルに両|肱《ひじ》をつきその拳《こぶし》に頤《あご》をのせて、娘の素振りを熱烈な眼で見守っていた。彼の精神はあまりとらわれていなかったので、彼女の狡猾《こうかつ》から欺かれはしなかった。しかしそれからひきつけられないほど自由でもなかった。そしてあるいは憤りの声をもらしたり、あるいはひそかに笑ったりしながら、罠《わな》にかかりかけると肩をそびやかしていた。  も一人の者が彼の様子をうかがっていた。それはロールヘンの父だった。背が低くでっぷりして、鼻の短い大きな顔で、禿《は》げてる脳天は日にやけ、まわりに残ってる昔の金髪は、デューラーの聖ヨハネのように、厚く巻き縮れてい、髯《ひげ》はすっかり剃《そ》り、冷静な顔つきをし、口の角《かど》に長いパイプをくわえて、彼は他の百姓らとごくゆっくり話しながら、クリストフの無言の身振りを、流し目にうかがっていた。そしてひそかに笑みをもらしていた。やがてちょっと咳《せき》払いをした。小さな灰色の眼の中に、悪意の光を輝かせながら、クリストフのテーブルの横手に来てすわった。クリストフは不快になって、しかめた顔をふり向けた。するとその老人の狡猾《こうかつ》な眼つきに出会った。老人はパイプをくわえたままで、馴《な》れ馴《な》れしく言葉をかけた。クリストフは彼を見知っていた。性質《たち》の悪い老人だと思っていた。しかし娘にたいする弱みから、その父親にたいして寛大になっていて、いっしょにいると妙な喜びをさえ感じた。こざかしい老人はそれに気づいた。彼は天気の晴雨について話し、向こうの美しい娘たちのことや、クリストフが踊らないことなどを、遠回しにひやかしたあとで、踊る労を取らないのはもっとものことであり、酒杯の前に肱《ひじ》をついて食卓にすわってる方がましだと結論した。そして遠慮なく一杯|御馳走《ごちそう》になった。飲みながらも彼は、やはりゆっくりと話していった。こまごました事柄、生活の困難なこと、天気の悪いこと、諸物価の高いこと、などを言い出した。クリストフは不機嫌《ふきげん》な二、三言を返すばかりだった。そのことに興味はなかった。彼はただロールヘンをながめていた。時々沈黙がおちてきた。百姓は彼の一言を待った。しかしなんら答えもなかった。それでまた静かに話しだした。クリストフは、この老人の相手をしその打ち明け話を聞くの光栄に浴する訳を、みずから怪しんでいた。ところがついに了解した。老人は苦情を述べつくしたあとで、他の問題に移っていった。自分の所でできるもの、野菜や飼い鳥や卵や牛乳などを、上等だと自慢した。そしてだしぬけに、官邸を顧客《とくい》にしてもらえまいかと尋ねた。クリストフははっとした。  ――どうして知ってるのかしら?……俺《おれ》のことを知ってるのかな。  ――そうだとも、と老人は言っていた、なんでも知れるものさ……。  だが次のことは口にしなかった。  ――……自分で骨折って調べる時には。  クリストフは意地悪い喜びを感じながら、「なんでも知れる」にもかかわらず、自分があの小宮廷と仲|違《たが》いをしたこと、昔は官邸の大膳《だいぜん》局や厨房《ちゅうぼう》に信用を得ているとの自惚《うぬぼ》れがあったにしろ――(それをも実は疑っていた)――その信用も今では没落してしまってること、などは知られてやすまいと教えてやった。老人はかすかに口元をしかめた。それでも落胆はしなかった。ちょっと間をおいてから、せめて某々の家庭に紹介してもらえまいかと尋ねた。そしてクリストフが関係のある家庭を皆列挙した。市場で正確に聞きただしておいたのである。クリストフはそういう探索を怒り出すはずだったが、しかしこの老人がいかに狡猾《こうかつ》でも結局は馬鹿をみるにすぎないだろうと考えて、むしろ笑い出したくなった。(老人は自分の求めてる紹介が、新しい顧客を得るよりも在来の顧客を減らすに役だつような紹介であることを、ほとんど気づかないでいた。)それでクリストフは、老人がその粗雑なくだらない奸計《かんけい》を、無駄《むだ》に頭からしぼり出しつくすのを放っておいた。そして否とも応とも答えなかった。しかし百姓はしつこく言いたてた。取って置きのクリストフ自身やルイザの方へ鉾先《ほこさき》を向けて、牛乳やバタやクリームを無理にも押しつけようとした。クリストフは音楽家だから、朝晩に新しい生卵をのむくらい声にきくものはないと、言い添えた。生み立てのぽかぽかした卵を差し上げようと、盛んにすすめた。クリストフは老人から歌手だと思われたことを考えて、放笑《ふきだ》した。百姓はそれにつけ込んで、も一本酒を取り寄せた。それから彼は、クリストフから当座引き出し得るものは皆引き出してしまったので、そのままぶっきら棒に立ち去っていった。  夜になっていた。踊りはますます活気だってきた。ロールヘンはもはやクリストフに注意を向けていなかった。村のある馬鹿な若者の方へ、頻繁《ひんぱん》に振り向かなければならなかった。それは豪農の息子で、すべての娘たちの争いの的となっていた。クリストフはその競争を面白がった。娘たちはたがいに微笑み合い、また喜んで引っかき合っていた。お坊ちゃんのクリストフは夢中になって見ていた。そしてロールヘンの勝利を願っていた。しかしその勝利が得られると、少し悲しい気がした。それをみずからとがめた。彼はロールヘンを愛していなかったし、彼女が自分の好きな者を愛するのは当然だった。――もちろんそうである。しかしながら、一人ぽっちだという気持は愉快なものではなかった。ここにいるすべての人々は、彼を利用して次に彼を嘲笑《あざわら》うためにしか、彼に興味をつないではしなかったのである。彼は溜息《ためいき》をついた。ロールヘンをながめながら微笑んだ。ロールヘンは、競争者たる他の娘どもを憤らせる喜びで、平素よりはるかに美しくなっていた。彼は帰ろうと思った。もう九時近くだった。町へ帰るには、たっぷり二里ほどは歩かなければならなかった。  彼がテーブルから立ち上がりかけると、扉《とびら》が開いた。十人ばかりの兵士が、どやどやはいり込んできた。そのために室の中が白《しら》けわたった。人々はささやきだした。踊っていた男女の幾組かは、その踊りをやめて、新来者に不安な眼を注いだ。扉の近くに立っていた百姓は、わざと兵士らへ背中を向けて、自分たちだけで話をしだした。しかし様子にはそれと見せないで、用心深く身をよけて、兵士らを通らした。――先ごろから、町の周囲にある要塞《ようさい》の守備兵らと、土地の者らは暗闘を結んでいたのである。兵士らは退屈でたまらないので、百姓らに向かってその鬱憤《うっぷん》を晴らしていた。百姓らを無遠慮に嘲笑し、ひどくいじめつけ、その娘らにたいしては、征服地におけると同様の振舞いをしていた。前週なんかは、酒に酔った兵士らが、隣村の祭礼を騒がして、一人の小作人を半殺しにした。クリストフはそれらのことを知っていたので、百姓らと同じ心持になっていた。そしてふたたび席につきながら、どういうことが起こるかを待った。  兵士らは厭《いや》な様子で迎えられたのを気にもかけずに、ふさがってるテーブルへ騒々しくやって行き、人々を押しのけて席を取った。それはちょっとの間のことだった。多くの人々はぶつぶつ言いながら身を避けた。腰掛の端にすわっていた一人の老人は、そう早く退《ど》くことができなかった。彼は兵士らから腰掛をもち上げられて、哄笑《こうしょう》のうちに引っくり返った。クリストフは憤然と立ち上がった。しかし将《まさ》に口を出そうとすると、老人はようよう起き上がって、不平を言うどころか、やたらに謝《あやま》ってばかりいた。二人の兵士がクリストフのテーブルへやって来た。彼は拳《こぶし》を握りしめて彼らが近づくのをながめた。しかし防御の要はなかった。二人の兵士は、格闘者のように大きな人のいい奴らで、一、二の無鉄砲者のあとから従頓についてきて、その真似《まね》をしようとしてるのだった。彼らはクリストアの昂然《こうぜん》たる様子に気おくれがした。クリストフは冷やかな調子で言ってやった。 「僕の席です。」  すると彼らは急いで詫《わ》びて、邪魔にならないように腰掛の端へ退いた。クリストフの声に首長らしい抑揚があったので、本来の服従心が強く働いたのだった。クリストフが百姓でないことを彼らはよく見て取っていた。  クリストフはその従順な態度に多少心が静まって、いっそうの冷静さで観察することができた。兵士らは一人の下士に率いられてることが、容易に見て取られた。きびしい眼をした小さなブルドッグみたいな男で、偽善的な意地悪な奴僕的な顔をしていた。先の日曜日に大|喧嘩《げんか》をした豪傑連の一人だった。彼はクリストフの隣りのテーブルにすわり、もう酔っ払いながら、人々の顔をじろじろながめては、ひどい毒舌を投げつけていた。人々は聞こえないふうをしていた。彼はことに、踊ってる男女に鉾先《ほこさき》を向けて、その身体の美点や欠点を、破廉恥な言葉で述べたてた。連中はそれでどっと笑った。娘らは真赤《まっか》になって、眼に涙を浮かべていた。青年らは歯をくいしばって、無言のうちに憤っていた。攻撃者の眼は徐々に室内を一巡して、一人をも見のがさなかった。クリストフは自分の番になってくるのを見て取った。彼はコップをつかんだ。ちょっとでも侮辱の言を発したらその頭にコップを投げつけてやるつもりで、テーブルの上に拳をすえて待ち受けた。彼はみずから言っていた。 「俺《おれ》は狂人だ。出かけた方がましだ。腹をえぐられるようなことになるだろう。そしてもしのがれても、牢屋《ろうや》にぶちこまれるかもしれない。わりに合わない話だ。喧嘩をしかけられないうちに出かけよう。」  しかし彼の傲慢《ごうまん》心はそれを拒んだ。こういう奴どもから逃げ出すふりをしたくなかった。――陰険|暴戻《ぼうれい》な眼つきは彼にすえられた。彼は堅くなって、憤然とにらみ返した。下士はちょっと彼を見調べた。クリストフの顔つきにおかしくなった。隣りの兵士を肱《ひじ》でつっついて、冷笑しながら青年を指《さ》し示した。そして早くも、口を開いて毒づこうとしかけた。クリストフは腹をすえて、コップを発止と投げつけようとした。――がこんども、偶然に助けられた。酔漢が口をきこうとしたとたんに、一組のへまな踊り手が彼に突き当たって、そのコップを下に落とさした。彼は猛然と振り向いて、盛んにののしり散らした。彼の注意はそちらにそらされてしまった。彼はもうクリストフのことを考えていなかった。クリストフはなお数分間待った。それから、相手がもう悪口を言い出そうとしないのを見て取ると、立ち上がって、静かに帽子を取り、扉《とびら》の方へゆっくり歩いていった。彼は相手がすわってる腰掛から眼を離さないで、逃げ出すのではないことを感じさせようとした。しかし下士はすっかりクリストフのことを忘れていた。だれもクリストフに気を配ってる者はなかった。  彼は扉のハンドルを回した。も少しで外に出るところだった。しかし無難では出られない運命にあった。室の奥に騒ぎがもち上がっていた。兵士らは酒を飲んだあとに、こんどは踊ろうとしていた。娘たちにはそれぞれ相手の男があったので、兵士らはその男どもを追い払った。男どもはなされるままになった。しかしロールヘンは言うことをきかなかった。クリストフの気に入った勇ましい眼つきと意志の強そうな頤《あご》とを、彼女は無駄《むだ》にもってるのではなかった。彼女が狂気のように踊ってる時、彼女を選んだ下士は、彼女からその相手の男を奪いに来た。彼女は足を踏み鳴らし、叫びたて、下士を押しのけながら、こんな無骨者と踊るものかと言いたてた。下士は追っかけてきた。彼女が人々の後ろに隠れると、彼はその人々をなぐりつけた。ついに彼女はテーブルの後ろに逃げ込んだ。そこでちょっと彼の手からのがれると、息をついてののしりだした。彼女は抵抗してもなんの役にもたたないことを知っていた。癇癪《かんしゃく》まぎれに地だんだふんで、最もひどい言葉を見つけては浴びせかけ、彼の顔を家畜場の種々な動物の顔にたとえた。彼はテーブルの向こう側から彼女の方へ乗り出し、薄気味悪い微笑を浮かべ、怒りに眼を輝かしていた。にわかに彼は勢いをこめて、テーブルを飛び越し、彼女をとらえた。彼女はたくましい女としての本性どおりに、なぐりつけ蹴《け》りつけた。彼はしっかり直立していなかったので、身体の平均を失いかけた。そして憤然として彼女を壁に押しつけ、頬《ほお》に平手の一撃を食《くら》わした。さらにも一度打とうとした。その時、だれかが彼の背に飛びかかり、力任せになぐりつけ、一蹴りで酔漢らのまん中に蹴飛ばした。テーブルや人々を押しのけて彼に飛びかかったその男は、クリストフだった。下士は狂気のように怒りたって、剣を抜きながら向き直った。その剣を使う間も与えずにクリストフは、床几《しょうぎ》で彼をなぐり倒した。見物人のうちで仲裁しようと思いつく者もなかったほど、万事が素早く行なわれてしまった。しかし、下士が床の上に牛のように倒れるのが見えると、恐ろしい騒動がもち上がった。他の兵士らは剣を抜いて、クリストフに駆け寄った。百姓らは兵士らに飛びかかった。全般の争闘となった。コップは方々へ飛び、テーブルはひっくり返った。百姓らは本気になっていった。宿怨《しゅくえん》を晴らそうとしていた。人々は床にころがって、猛然とつかみ合った。ロールヘンを横取られた踊りの相手は、強壮な農家の下男だったが、先刻侮辱を加えた一人の兵士の頭をつかんで、壁に激しくぶっつけていた。ロールヘンは棒を取って、容赦もなく引っぱたいていた。他の娘らは喚《わめ》きながら逃げ出していた。ただ二、三の元気な者たちが、面白がって争闘に加わっていた。その一人の、太った金髪の小娘は、一人の大きな兵士――先刻クリストフのテーブルにすわっていた兵士――が相手を引っくり返して胸を膝《ひざ》でこづいてるのを見て、炉のところへ走って行き、またもどって来て、その暴漢の頭を後ろに引き向け、一つかみの焼き灰を眼に振りかけた。兵士は唸《うな》り声をたてた。娘はその抵抗を失った敵をののしって歓《よろこ》んでいた。彼は今や百姓らから思うままなぐりつけられていた。ついに兵士らは敵しかねて、床の上に三人の仲間を残したまま、戸外へ退却した。争闘は村の往来でつづけられた。兵士らは殺戮《さつりく》の叫びを発しながら、あらゆる人家に闖入《ちんにゅう》して、あらゆる狼藉《ろうぜき》を働こうとした。百姓らは棒を持って追っかけ、荒れ犬をけしかけていた。第三の兵士が、三叉《みつまた》に腹を刺されて倒れた。他の兵士らは村から追い出されて、逃げ出すよりほかに仕方がなかった。畑を横ぎって逃げながら、仲間を集めてじきにもどってくるぞと、遠くから叫んでいた。  百姓らは陣地を手中に収めて、飲食店へ帰ってきた。彼らは雀躍《こおどり》して喜んでいた。被《こうむ》っていた迫害の意趣晴らしを、久しく期待していたのが今得られたのであった。争闘の結果にはまだ思い及ぼしていなかった。皆一度に口をきいて、各自に勇気を誇っていた。彼らはクリストフに親密な様子を見せた。クリストフは彼らに近づいた心地がしてうれしかった。ロールヘンは彼のところへ行って手を取り、その鼻先で笑いながら、自分の硬《かた》い手の中に彼の手をしばらく握っていた。彼女はもう彼を滑稽《こっけい》だと思っていなかった。  人々は怪我《けが》人の世話にかかった。村人のうちには、歯のかけた者、肋骨《ろっこつ》の折れた者、瘤《こぶ》や青痣《あおあざ》ができた者があるばかりで、大した害も被っていなかった。しかし兵士らの方はそうでなかった。三人の者は重傷を受けていた。眼を焼かれ肩を半ば斧《おの》で切り取られてる大男、腹をえぐられてあえいでる男、クリストフからなぐり倒された下士。人々はその三人を、炉のそばに横たえておいた。最も軽傷な下士が眼を見開いた。取り巻いてのぞき込んでる百姓らを、憎悪《ぞうお》のこもった眼つきでじっとながめ回した。そして出来事を思い出すや否や、彼らをののしり始めた。復讐《ふくしゅう》をし思い知らしてやるぞと断言し、怒りに喉《のど》をつまらしていた。できるならみなごろしにしてやるつもりでいることが、それと感ぜられた。人々はつとめて笑った。しかしそれは強《し》いて装《よそお》った笑いだった。一人の若い百姓は、負傷者に叫びつけた。 「黙れ、黙らなきゃぶち殺すぞ!」  下士は起き上がろうとした。口をきいた男を、血走った眼で見すえながら言った。 「野郎め、殺してみろ! 貴様らの首も取ってやる。」  彼は怒鳴りつづけた。腹をえぐられた男は、血をしぼられる豚のように鋭い叫びを挙げていた。三番目の男は身動きもしないで、死人のほうに硬《こわ》ばっていた。重苦しい恐怖が、百姓らの上に落ちかかった。ロールヘンと数人の女たちは、負傷者らを他の室へ運んだ。下士の怒鳴り声や死にかかってる兵士の唸《うな》り声が、遠く消えていった。百姓らは黙り込んでしまった。三人の身体がやはり足下に横たわってるかのように、同じ場所に丸く立ち並んでいた。恐怖のあまりに、身を動かすことも顔を見合わすこともしかねていた。ついに、ロールヘンの父が言った。 「お前たちはえらいことをしでかしたな!」  心配の囁《ささや》きが起こった。彼らは固唾《かたず》をのんでいた。それから皆一度に口をききだした。初めは、立ち聞かれるのを気づかうかのようにひそひそやっていたが、間もなく、調子が高まって激しくなった。彼らはたがいに責め合った。なぐりつけたことをたがいにとがめ合った。口論が激烈になってきた。今にも腕力|沙汰《ざた》になるかと思われた。ロールヘンの父は皆をなだめた。腕を組んでクリストフの方へ向きながら、頤《あご》でさし示した。 「そして彼奴《あいつ》は、」と彼は言った、「何しにここへ来てるんだ?」  一同の怒りはことごとくクリストフに向かった。 「そうだ、そうだ!」と人々は叫んだ、「彼奴がおっ始めたんだ。彼奴がいなけりゃ、何も起こりはしなかったんだ。」  クリストフは呆然《ぼうぜん》として、答え返そうと試みた。 「僕がしたことは、僕のためではなくて、君たちのためなんだ。君たちもよく知ってるはすだ。」  しかし彼らは猛《たけ》りたって言い返した。 「俺たちだけで防げねえことがあるものか、町の者からどうしろと教わるに及ぶものか。だれがお前さんの意見を聞いた? 第一、だれがお前さんに来てくれと頼んだ? お前さんは家にいることができなかったのか。」  クリストフは肩をそびやかして、扉《とびら》の方へ進んでいった。しかし、ロールヘンの父はその道をさえぎりながら、鋭く叫んだ。 「そら、そら! 俺たちに難儀をかけておいて、もう逃げ出すつもりでいやがる。帰してなるものか!」  百姓らは喚《わめ》いた。 「帰してなるものか! 元の起こりは彼奴だ。万事の始末をつけるのは、彼奴の役目だ。」  彼らは拳固《げんこ》をつき出しながら彼を取り巻いた。その威脅的な顔の輪が狭まってくるのをクリストフは見た。彼らは恐怖のあまり猛りたっていた。彼は一言も言わず、嫌悪《けんお》の渋面をし、テーブルの上に帽子を投げ出しながら、室の奥に行ってすわり、彼らの方へ背を向けた。  しかしロールヘンは憤然として、百姓らのまん中に飛び込んだ。その美しい顔は真赤《まっか》になり、憤怒《ふんぬ》の皺《しわ》をよせていた。彼女はクリストフを取り巻いてる人々を手荒く押しのけた。 「卑怯《ひきょう》者のより集まり、畜生ども!」と彼女は叫んだ。「お前たちは恥ずかしくないんですか。あの人がみんなやったんだと思わせたがったりしてさ! だれも見てる人がなかったとでもいうような顔をしてさ! 一生懸命になぐりつけた者は一人もいないようなふりをしてさ!……皆がなぐり合ってる最中に、一人でも腕組みをしてぼんやりしてる者があったとしたら、私はその顔に唾《つばき》を吐きかけて、卑怯者、卑怯者、と言ってやったはずですよ……。」  百姓らは、この意外な叱責《しっせき》にびっくりして、ちょっと口をつぐんだ。それからまた叫びだした。 「彼奴《あいつ》が始めたんだ。彼奴がいなけりゃ、何にも起こらなかったんだ。」  ロールヘンの父は娘に合図をしていたが、無駄だった。彼女は言った。 「あの人が始めたに違いないとも! それがお前たちの自慢になりますか。あの人がいなかったら、お前たちは馬鹿にされ、私たちも馬鹿にされるところだったじゃないか。意気地なしめ、臆病《おくびょう》者!」  彼女は相手の男を呼びかけた。 「そしてお前さんは、何にも言わないで、へいへいして、蹴《け》ってくださいとお臀《しり》を出していたね。も少しでお礼でも言うところだったろう。恥ずかしくないんですか。……皆さんは恥ずかしくないんですか。お前たちは男じゃない。勇気と言ったら、いつも地面に鼻をつけてる小羊くらいなものだ。あの人が手本を示してくれたのはもっともです。――そして今になって、なんでもあの人に背負わせたいんでしょう。……いったい、そんなことってあるもんですか。私がさせやしません。あの人は私どものために喧嘩《けんか》をしてくれました。あの人を助けるか、いっしょに祝杯を挙げるかがほんとうです。私はきっぱりそう言います!」  ロールヘンの父は彼女の腕を引っ張っていた。夢中になって怒鳴っていた。 「黙れ、黙れ!……黙らないか、こら!」  しかし彼女は父を押しのけて、ますます言い募った。百姓らは叫びたてていた。彼女は鼓膜《こまく》の破れるような鋭い声で、さらに高く叫んだ。 「第一お前さんには、なんの言い草があるんですか。隣りの室に半分死んでるようになってるあの男を、先刻《さっき》お前さんが蹴りつけてたのを、私が見なかったとでも思ってるんですか。それからお前さんは、ちょっと手を見せてごらんなさい。……まだ血がついています。ナイフをもってるところを、私に見られなかったとでも思ってるんですか。もしお前たちが、あの人にちょっとでもひどいことをしたら、私は見たことをみんな、みんな言ってやります。お前たちをみな罪におとしてやります。」  百姓らは激昂《げっこう》して、その怒った顔をロールヘンの顔に近づけ、鼻先で怒鳴りつけていた。そのうちの一人は、彼女を打とうとする様子をした。ロールヘンに惚《ほ》れてる男は、その男の襟首《えりくび》をつかんだ。そして二人はなぐり合わんばかりになって、たがいに身構えをした。一人の老人がロールヘンに言った。 「俺《おれ》たちがみな仕置きにあったら、お前もあうぞ。」 「私もあいましょう。」と彼女は言った。「私はお前さんたちのように卑怯《ひきょう》じゃありません。」  そして彼女はまたしゃべりたてた。  彼らはどうしていいかわからなかった。そして父親へ言葉を向けた。 「お前は娘を黙らせないか。」  老人はロールヘンを極端に走らせるのは軽率だと悟っていた。彼は皆に静まるよう合図をした。沈黙が落ちてきた。ロールヘン一人が語りつづけた。それから彼女は、もう答弁を受けないので、薪《まき》のない火のように静まった。しばらくして、父は咳《せき》払いをして言った。 「じゃあいったいお前はどうしたいというんだ? まさか俺たちの身を滅ぼしたいんじゃないだろう。」  彼女は言った。 「あの人を助けてもらいたいんです。」  彼らは考え始めた。クリストフは同じ場所にじっとしていた。傲然《ごうぜん》と身を堅くして、自分に関することだとも思っていないがようだった。しかしロールヘンの仲介には感動していた。ロールヘンもやはり、彼がそこにいることを知らないようなふうをしていた。彼がすわってるテーブルに背中をもたして、喧嘩《けんか》腰で百姓らを見すえていた。百姓らは眼を下に落して、煙草《たばこ》を吹かしていた。ついに、彼女の父はパイプを噛《か》んでから言った。 「どんな申し立てをしようと、ここに残ってる以上は、あの男の罪は明らかだ。軍曹がちゃんと見覚えてるから、とても許すまい。あの男にとってはただ一つの方法があるばかりだ。すぐに国境の向こう側に逃げ出すことだ。」  要するにクリストフの逃亡が自分たちには利益だと、考えたのであった。逃亡は罪の自認となる。そして彼がここにいて弁解しないかぎり、事件のおもな責任を彼になすりつけるのは容易だ。他の百姓らも賛成した。彼らはその考えをよく理解し合っていた。――そうと決定すると、早くクリストフに出かけさせたかった。一刻前に言った言葉はさらりと忘れた顔をして、彼らはクリストフに近寄り、彼の安危をひどく心配してるようなふうをした。 「旦那《だんな》、一刻も猶予しちゃいけません。」とロールヘンの父は言った。「奴らがまたやって来ますぜ。要塞《ようさい》へ行くに半時間、もどって来るに半時間……。もう逃げ出す隙《ひま》きりありません。」  クリストフは立ち上がっていた。彼も考えてみたのだった。とどまっていたら身の破滅だと、彼もよく知っていた。しかし、出かける、母に会わないで出かける?……否、それはでき得ることでなかった。彼は言った、まず町へ帰り夜中に出発して国境を越える、それだけの余裕はあるだろうと。しかし百姓らは大声を発した。先刻は彼が逃げるのをさえぎって戸口をふさいだのに、今では彼が逃亡しないことに反対していた。町へもどれば、きっとつかまってしまう。彼が着くうちには、もう知らせがいってる。家に帰ったところを捕えられるだろう。――でもクリストフは強情を張った。ロールヘンはその意中を了解していた。 「あなたはお母さんに会いたいんでしょ。……私が代わりに行ってあげましょう。」 「いつ?」 「今夜。」 「ほんとに? そうしてくれますか。」 「行きますとも。」  彼女は肩掛を取って、それを身にまとった. 「何かお書きなさい。もっていってあげます。……こちらへいらっしゃい。インキをあげましょう。」  彼女は彼を奥の室へ引っ張っていった。入口でふり返って、自分に心を寄せてる男に呼びかけた。 「そして、お前さんは支度《したく》をなさい。この人を案内するんです。国境の向こうへ見送るまで、そばを離れてはいけませんよ。」 「いいとも、いいとも。」と男は言った。  彼もまた、クリストフがフランスへはいり、できることならもっと遠くへ行くことを、よく見届けたいとだれにも劣らず急いでいた。  ロールヘンは、クリストフとともに別の室へはいった。クリストフはなお躊躇《ちゅうちょ》していた。もう母を抱擁することもないかと思うと、悲痛の情に堪えなかった。いつになったらまた会えるだろう? あんなに年老い、疲れはて、一人ぽっちである。この新しい打撃にまいってしまうかもしれない。自分がいなかったら、どうなるだろう?……しかし、自分がとどまっていて、処刑され、幾年も禁錮されたら、母はどうなるだろう? 母にとってはそれの方が、確かに孤独であり悲惨であるに違いない。たとい遠くにいようともせめて自由であれば、母の助けとなることもできるし、また母の方からやって来ることもできよう。――彼は自分の考えを明らかに見分ける隙《ひま》がなかった。ロールヘンは彼の両手を取り、すぐそばに立って、彼をながめていた。二人の顔はほとんど触れ合っていた。彼女は彼の首に両腕を投げかけて、その口に接吻《せっぷん》した。 「早く、早く!」と彼女はテーブルを指《さ》しながらごく低く言った。  彼はもう考えようとしなかった。テーブルにすわった。彼女は一冊の出納簿から、赤の方罫《ほうけい》がついてる紙を一枚裂き取った。  彼は書いた。 [#ここから2字下げ]  お母さん許してください。たいへんな御心配をかけることになりました。他に仕方もなかったのです。私は少しも間違ったことをしたのではありません。けれども今、逃げ出して国を去らなければなりません。この手紙をお届けする人が、すっかり申し上げますでしょう。私はお別れの言葉を親しく申したかったのです。しかし皆が承知しません。その前に捕えられるだろうと言います。私はほんとに悲しくて、もう意志の力もありません。私はこれから国境を越えます。けれども、お手紙をいただくまではすぐ近くにとどまっています。私の手紙をお届けする人が、御返事を私にもって来てくれますでしょう。私がどうすべきかおっしゃってください。何をおっしゃろうとも、そのとおりにいたします。私のもどるのがお望みでしたら、もどって来いとおっしゃってください。あなたを一人残すことは、考えてもたまりません。あなたはどうして暮らしてゆかれるでしょうか。許してください。許してくださいませ。私はあなたを愛してそして抱擁いたします……。 [#ここで字下げ終わり] 「早くしましょう、旦那。そうでないと間に合いません。」とロールヘンに心を寄せてる男が、扉《とびら》を半ば開いて言った。  クリストフはあわてて署名をし、手紙をロールヘンに渡した。 「自分で手渡ししてくれますか。」 「自分で行きます。」と彼女は言った。  彼女はもう出かけようとしていた。 「明日《あした》、」と彼女は言いつづけた、「返事をもって来ます。ライデン――(ドイツを出て第一の停車場)――で待っていてください、停車場のプラットホームの上で。」  (好奇《ものずき》な彼女は、後が手紙を書いてる間に、その肩越しに読んでしまっていたのである。) 「その時すっかりきかしてください、母がこの打撃に会ってどんなふうだったか、またどんなことを言ったかみんな。何も隠さないでしょうね。」とクリストフは懇願して言った。 「すっかり言います。」  二人はもう自由に話ができなかった。入口にはかの男が立って彼らを見ていた。 「そしてクリストフさん、」とロールヘンは言った、「私は時々お母さんを訪《たず》ねてあげましょう。お母さんの様子を知らしてあげましょう。心配してはいけません。」  彼女は男子のように元気な握手を彼に与えた。 「行きましょう。」と百姓は言った。 「行こう!」とクリストフは言った。  三人とも出かけた。途中で別れた。ロールヘンは一方へ行き、クリストフは案内者とともに他方へ行った。二人は少しも話をしなかった。靄《もや》に包まれた三日月が、森の彼方《かなた》に隠れていった。ほのかな光が野の上に漂っていた。低地には、牛乳のように白い濃い霧が立ちのぼっていた。震えてる木立が湿った空気に浸っていた……。村から出てわずか数分行くと、百姓はにわかに後ろへ飛びさがって、クリストフへ止まれという合図をした。二人は耳を澄ました。街道の前方から、一隊の兵士の歩調の音が近づいてきた。百姓は籬《まがき》をまたぎ越して、畑の中へはいった。クリストフも同様にした。二人は耕作地を横ぎって遠ざかった。街道を通る兵士の足音が聞こえた。暗闇《くらやみ》の中で百姓は彼らに拳《こぶし》を差し出した。クリストフは狩り出された獣のように、胸せまる思いをした。二人はまた街道に出たが、犬に吠《ほ》えられて人に知れられるので、村落や一軒家などを避けていった。木深い丘の向こうに出ると、鉄道線路の赤い火が遠くに見えた。その燈火で見当を定めて、第一の停車場へ行こうときめた。それは容易ではなかった。谷へ降りるに従って、霧の中へ没していった。二、三の川を飛び越さなければならなかった。次には、甜菜《てんさい》の畑と耕耘《こううん》地との広々とした中に出た。とうていそれから出られないような気がした。平野はでこぼこしていた。高みとくぼみとが相つづいて、ともするところげそうだった。ついに、むやみと歩き回り、霞の中におぼれきった後、二人は突然数歩先に、土手の上の線路の照燈を見出した。二人は土手によじ上った。汽車に襲われる危険を冒して、線路に沿って進み、停車場から百メートルばかりの所まで行った。そこでまた街道にもどった。汽車が通る二十分前に駅へ着いた。ロールヘンの頼みがあったにもかかわらず、百姓はクリストフを置きざりにした。他の者らがどうなったか、また自分の財産がどうなったか、それを見に早く帰りたがったのである。  クリストフはライデン行きの切符を買った。ひっそりしてる三等待合所に一人で待った。腰掛の上にうとうとしていた駅員が、汽車が着くとやってきて、クリストフの切符を調べて、扉《とびら》を開いてくれた。車室の中にはだれもいなかった。列車の中のすべては眠っていた。野の中のすべては眠っていた。一人クリストフは、疲れていながらも眠れなかった。重い鉄の車輪で国境へ近く運ばれてゆくに従って、安全の地に脱したいという焦慮を感じてきた。一時間たてば自由になるはずだった。しかしそれまでの間に、ただ一言の通知でもあれば捕縛されるに違いなかった。……捕縛! 思っただけでも全身に反抗の気が湧《わ》いた。嫌悪《けんお》すべき暴力によって窒息させられる!……そう思うと息もつけなかった。別れてゆく母も故国も、彼の念頭には浮かばなかった。自分の自由が脅かされてるという利己的な考えのうちに、救いたいその自由のことをしか考えなかった。いかなる価を払っても! そうだ、たとい罪悪を犯しても……。国境まで歩きつづけないでこの汽車に乗ったことを、彼は苦々《にがにが》しくみずから責めた。それもただ数時間節約したかったのみである。それがなんの足しになろう! 狼《おおかみ》の口に飛び込もうとするようなものだった。確かに国境の駅で網を張られてるに違いなかった。命令が発せられてるに違いなかった……。彼は一時、停車場へ着く前に進行中の汽車から飛び降りようかと考えた。車室の扉《とびら》を開きまでした。しかしもう遅《おそ》かった。到着しかけていた。汽車は止まった。五分間。それが永遠のように思われた。クリストフは部屋の奥に飛びのき、窓掛の後ろに隠れて、不安にプラットホームを眺めた。そこには一人の憲兵がじっと立っていた。駅長が一通の電報を手にして、駅長室から出て来、あわただしく憲兵の方へ進んでいった。クリストフは自分に関することだと疑わなかった。彼は武器を捜した。二枚刃の丈夫なナイフよりほかに何もなかった。彼はポケットの中でそれを開いた。胸に角燈をかざした一人の駅員が、駅長とすれ違って、列車に沿って駆けてきた。クリストフはその駅員がやって来るのを見た。彼はポケットの中でナイフの柄を握りしめて、考えた。 「もう駄目《だめ》だ!」  彼は極度に興奮していたから、もしその駅員がおり悪《あ》しくも、彼の方へやって来て彼の車室へはいろうとしたら、その胸にナイフを刺し通したかもしれなかった。しかし駅員は隣りの車室に立ち止まって、今乗った一乗客の切符を調べた。列車はまた進行しだした。クリストフは胸の動悸《どうき》を押し静めた。身動きもしなかった。助かったともまだ思いかねていた。国境を越えないうちはそう思いたくなかった。……夜が明け始めた。木立の姿が闇《やみ》から出てきた。一つの馬車が、鈴音をたて燈火をちらつかせながら、幽霊のように街道を通っていった……。クリストフは車窓に顔をくっつけて、版図の境界を示す帝国章のついた標柱を見ようとつとめた。汽車がベルギーの最初の駅へ到着する汽笛を鳴らした時、彼はまだその標柱を夜明けの光の中に捜していた。  彼は立ち上がった。扉《とびら》をすっかり開《あ》け放した。冷たい空気を吸い込んだ。自由! 前途に横たわってる全|生涯《しょうがい》! 生きる喜び!……――そして間もなく、残してきたものにたいする悲しみが、これから見出そうとするものにたいする悲しみが、一時に彼の上へ襲いかかった。一夜じゅうの激情の疲れが彼を圧倒した。彼はがっくりと腰掛に身を落した。停車場へ着くまでにはわずか一分あるかなしかだった。その一分間後に、一人の駅員が車室の扉を開くと、クリストフの寝姿を見出した。クリストフは腕を揺られて眼を覚《さ》まし、一時間も眠ったような気がして変だった。重々しく汽車から降りて、税関へやって行った。そして、もうすっかり他国の領土へはいってしまい、もはや身を護る要もなかったので、待合室の腰掛に長々と寝そべって、ぐっすり眠り込んでしまった。  彼は午《ひる》ごろ眼を覚ました。ロールヘンは二時か三時より前には来るはずがなかった。彼は汽車の到着を待ちながら、その小駅のプラットホームの上を百歩ばかり歩いた。それからまっすぐに牧場の中へ行った。冬の来るのを思わせる灰色の陰気な日だった。日の光が眠っていた。運転されてるある列車の寂しい汽笛の音ばかりが、もの悲しい静けさを破っていた。クリストフは蕭条《しょうじょう》たる野の中で、国境から数歩の所に立ち止まった。彼の前にはごく小さな沼があった。いと清らかな水|溜《たま》りで、陰鬱《いんうつ》な空が反映していた。沼には柵《さく》がめぐらされて、二本の樹木が岸に立っていた。右手のは白楊樹《はくようじゅ》で、梢《こずえ》の葉は落ちつくして震えていた。後方のは大きな胡桃《くるみ》の木で、黒い裸の枝を差しのべて偉大な蛸《たこ》のような格好だった。まっ黒な実が房《ふさ》になって重々しく揺いでいた。枯れて散り残った木の葉がおのずから枝を離れて、静まり返ってる沼に一つ一つ落ちていた……。  彼はそれらをかつて見たことがあるような気がした、その二本の樹《き》と沼とを……。――そして突然、彼は眩暈《めまい》の状態に陥った。それは生涯の平野に時おり開かれるものである。時《タイム》の中の穴である。自分はどこにいるのか、自分はだれであるのか、いかなる時代に生きているのか、幾世紀以来こうしているのか、もはやわからなくなってしまう。クリストフは、これはかつてあったことで、今のことは今あるのではなくて他の時にあったのだ、というような感じがした。彼はもはや彼自身ではなかった。彼は自分自身を、かつてここにこの場所に立っていた他人のようなふうに、外からごく遠くからながめていた。種々の見知らぬ思い出のざわめきが、耳には聞こえていた。彼の動脈は音をたてていた……。  ――このように……このように……このように……。  幾世紀もの唸《うな》り声……。  彼以前のクラフト家の多くの人たちも、彼が今日受けてる試練を受け、郷土における最後の時間の悲嘆を味わったのだった。たえず放浪する血統、独立独歩と焦慮とのために至る所から追い払われる血統。どこにも定住するを許さない内心の悪魔から、常にさいなまれる血統。しかももぎ離される土地に執着して、それを捨て去ることのできない血統だった。  こんどはクリストフの番となって、その同じ道程をまたたどってるのであった。そして彼は途上に、先だった人々の足跡を見出していた。彼は眼に涙をいっぱい浮かべて、祖国の土地が靄《もや》の中に消えゆくのをながめた。それに別れを告げなければならなかった。……彼は祖国を離れたいと熱望していたではないか?――そうだ。しかしほんとうに祖国を去る今となっては、苦悶《くもん》に身をしぼらるる心地がした。生まれた土地からなんらの感情もなく別れ得るものは、動物の心よりほかにない。幸福にせよ不幸にせよ、生まれた土地とともに暮らしたのだ。それは母であり伴侶《はんりょ》であった。その中に眠り、その上に眠り、それに浸されていた。その胸の中には、吾人の貴い夢が、吾人の過去の全生涯が、吾人の愛した人々の聖《きよ》い塵《ちり》が、蓄《たくわ》えられているのだ。クリストフは、自分の日々の生活と、その土地の上にまた下に残してる親愛な面影とを、眼前に思い浮かべた。彼にとっては、苦しみは喜びに劣らず貴いものだった。ミンナ、ザビーネ、アーダ、祖父、ゴットフリート叔父、シュルツ老人――すべてが数分間のうちに彼の眼に浮かんだ。彼はそれらの故人(アーダをも彼は故人のうちに数えていた)から身をもぎ離すことができなかった。愛する人々のうちでただ一人生き残ってる母を、それらの幽鬼中に残してゆくことを考えると、さらに堪えがたかった。彼はまた国境を越えてもどろうとした。それほど、逃亡を求めたことが卑怯《ひきょう》に思われた。ロールヘンがもたらすはずの母の返事に、もしもあまり大きな悲しみが現われていたら、どんなことがあっても帰ろうと決心した。しかし、もし何にも受け取らなかったら? もしロールヘンがルイザのもとまで行くことができないか、あるいは返事をもって来ることができないかしたら? やはり帰るとしよう。  彼は停車場へもどった。侘《わ》びしく待ちあぐんだ後、ついに汽車が現われた。クリストフは車室のどの扉口《とぐち》かに、ロールヘンの精悍《せいかん》な顔つきを待ち受けた。彼女が約束を守ることを確信していたのである。しかし彼女は姿を見せなかった。彼は不安になって、車室から車室へと駆け回った。そして乗客の人波に駆けながらぶっつかってると、見覚えがあるように思われる一つの顔を認めた。十三、四歳の少女で、頬《ほお》がふくれ、太っちょで、林檎《りんご》のように真赤な色をし、反《そ》り返った太い短い鼻、大きな口、濃い縮み髪を頭に束ねていた。なおよくながめると、自分のによく似た古|鞄《かばん》を手にさげてることがわかった。彼女の方もまた、雀《すずめ》のように彼を横目にうかがっていた。そして彼からながめられてることを見て取ると、彼の方へ数歩寄ってきた。しかし彼の正面につっ立ったまま、一言も言わないで、廿日鼠《はつかねずみ》のような小さい眼で彼の顔をのぞき込んだ。クリストフは思い出した。ロールヘンの家の牛飼いの少女だった。彼は鞄を指《ゆびさ》しながら言った。 「僕へだろう、ね?」  少女は身動きもしなかった。そしてとぼけた様子で答えた。 「どうですか。いったいどこからいらしたの。」 「ブイルから。」 「鞄を送った人はだれですか。」 「ロールヘンだ。さあ渡してくれ。」  娘は鞄を差し出した。 「はい!」  そして彼女は言い添えた。 「ああ、すぐにあなたとわかったわ。」 「では何を待っていたんだい。」 「あなただとおっしゃるのを待ってたの。」 「そしてロールヘンは?」とクリストフは尋ねた。「なぜ来なかったんだい。」  少女は答えなかった。クリストフはこの人中では何も言いたくないのだなと悟った。まず荷物の検査を受けなければならなかった。それが済むと、クリストフはプラットホームの先端へ少女を連れていった。 「憲兵たちが来たのよ。」と少女はもう非常に饒舌《じょうぜつ》になって話した。「あなたが出かけると、すぐ入れ違いにやって来たのよ。方々の家へはいり込んで、みんなに尋ねて、ザーミ姉さんやクリスチャンやカスバル小父《おじ》さんなんかをつかまえたの。それからメラニーやゲルトルーデもつかまったの。何にもしなかったと喚《わめ》いても駄目《だめ》だった。泣いてたわ。ゲルトルーデは憲兵を引っかいたわ。何もかもあなたがしたんだと言っても、役にたたなかったのよ。」 「なに、僕が!」とクリストフは叫んだ。 「そうよ。」と少女は平気で言った。「あなたは逃げちゃったから、ちっとも構わないじゃないの? すると憲兵たちはあなたを方々捜して、あっちこっちへ追っかけて行ったわ。」 「そしてロールヘンは?」 「ロールヘンはいなかったの。町へ行ってから、あとでもどってきたのよ。」 「僕のお母さんに会ったのかしら。」 「ええ。これがその手紙よ。自分で来たがってたけれど、やっぱりつかまったの。」 「ではどうしてお前は来られたんだい。」 「こうよ。ロールヘンは憲兵に見つからないで、村に帰ってきて、それからまた出かけようとしたの。けれどゲルトルーデの妹のイルミナが、訴えたもんだから、捕《と》り手が来たのよ。憲兵たちが来るのを見ると、自分の室に上がっていって、すぐに降りてゆく、今着物を着てるから、と言いたてたの。私は裏の葡萄《ぶどう》畑にいたのよ。ロールヘンは窓から、リディア、リディア、って私を小声で呼ぶの。行ってみると、あなたのお母さんからもらってきた鞄《かばん》と手紙を、私に渡して、あなたに会える場所を教えてくれたの。駆けておゆき、つかまらないようにおし、と言われたわ。私は駆け出して、それからここへ来たのよ。」 「それきりなんとも言わなかったの!」 「言ったわ。自分の代わりに来たんだというしるしに、この肩掛も渡してくれって。」  クリストフは、花の刺繍《ししゅう》と赤い玉のついてるその白い肩掛を見覚えていた。前夜ロールヘンが彼と別れる時、顔を包んでたものだった。彼女がそれを愛の記念に贈るために用いた、ほんとうらしからぬ無邪気な口実を聞いても、彼は笑えなかった。 「あら、」と少女は言った、「もう他《ほか》の汽車が来た。家へ帰らなきゃならないわ。さよなら。」 「まあお待ち。」とクリストフは言った。「来るのに、汽車賃はどうしたんだい。」 「ロールヘンからもらったの。」 「でもこれをもっておいで。」とクリストフは言いながら、彼女の手に数個の貨幣を握らした。  彼はもう行こうとする少女の腕を取って引き止めた。 「それから……。」と彼は言った。  彼は身をかがめて、彼女の両の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。少女は拒むような顔つきをしていた。 「いやがってはいけない。」とクリストフは冗談に言った。「お前にではないよ。」 「ええ、よくわかってるわ。」と娘はひやかし気味に言った。「ロールヘンにだわ。」  クリストフが牛飼いの少女の両の豊頬《ほうきょう》で接吻したのは、単にロールヘンをばかりではなかった。自分のドイツ全体をであった。  少女は逃げ出して、発車しかけてる汽車の方へ走っていった。彼女は車室の入口に残って、見えなくなるまで彼へハンカチを振っていた。故国と愛する人々との息吹《いぶ》きを最後にもたらしてきた使者の田舎《いなか》娘を、彼はじっと見送った。  彼女の姿が見えなくなると、彼はこんどこそまったく異境の孤客となった。彼は母の手紙と恋しい肩掛とを手にしていた。肩掛を胸に抱きしめて、それから手紙を開こうとした。しかし彼の手は震えた。いかなることが読まれるだろうか? いかなる苦しみをそこに見出すだろうか?……いや、すでに聞こえるような気がするその悲しいとがめには、堪えることができないだろう。引き返して帰ることにしよう。  彼はついに手紙を開いた。そして読んだ。 [#ここから2字下げ]  私の憐《あわ》れな子よ、私のことを心配しないでください。私は物わかりよくしましょう。神様が私を罰せられたのです。私は自分のためばかりを思ってお前を引き止めてはいけないのでした。パリーへお行きなさい。たぶんその方がお前のためにはいいでしょう。私のことは気にしないでください。どうにかやってゆくことができます。いちばん肝心なのは、お前が幸福であることです。私はお前を抱擁します。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]母より [#ここから2字下げ] できる時には手紙をください。 [#ここで字下げ終わり]  クリストフは鞄《かばん》の上にすわって泣いた。  駅夫がパリー行きの乗客を呼んでいた。重い列車が轟然《ごうぜん》たる音をたてて到着しかけていた。クリストフは涙をぬぐい、立ち上がってみずから言った。 「やむを得ない。」  彼はパリーの方面の空をながめた。一面に薄暗い空は、その方面ではいっそう暗澹《あんたん》としていた。陰暗な深淵《しんえん》のようであった。クリストフは胸迫る気がした。しかしみずからくり返した。 「止むを得ない。」  彼は汽車に乗った。そして窓からのぞき出しながら、気味悪い地平線をながめつづけた。 「おおパリーよ!」と彼は考えていた。「パリーよ! 僕を助けてくれ。僕を救ってくれ。僕の思想を救ってくれ!」  薄暗い霧は濃くなっていった。クリストフの後方には、去ってゆく故国の上には、両の眼ほどの――ザビーネの両の眼ほどの――薄青い空の片隅《かたすみ》が、重々しい雲の切れ目から、寂しげに微笑《ほほえ》み出して、そのまま消えていった。汽車は出た。雨が降った。夜になった。 底本:「ジャン・クリストフ(二)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年7月16日改版第1刷発行 入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2008年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。