◇。◇。◇。 【鍵屋の辻】 【直木三十五】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  張扇《張り扇》から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門源義村《荒木又右衛門ミナモトノヨシムラ》─《─:》─琢磨兵林《琢磨ヒョウリン》による、秀国、本当は保和《ヤストモ》、諱《名乗り》だけでも一寸《ちょっと》これ位《くらい》ちがっているが──《:─》三池伝太光世《三池デンタ光世》の一刀をもって「バタバタ」と旗本の附人共三十六人《付き人ども三十六人》を斬って落すが、《:、》記録で行くとこの附人《付き人》なる者がただの二人になってしまう。その上困《うえ困》った事にはこの天下無双の荒木又右衛門が背後《後ろ》から小者に棒で腰の所を撲《殴》られている。琢磨兵林《琢磨ヒョウリン》──これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているが時々誤《ときどき誤》りのある実録物だ─《─:》─だと、これがもう一つひどくなって頭を二度槍で撲《殴》られている。とにかく柳生十兵衛取立《柳生十兵衛’取り立て》の門人一万二千人──但し講釈師の調査──《:─》の中から、只一人《ただ一人》の極意皆伝という又右衛門が小者輩《小者ハイ》に腰だの頭だのを撲《殴》られては恩師十兵衛《/恩師十兵衛》に対して甚だ申訳の無いことであるし、《:、》第一三十人《第一’三十人》も御負《おま》けをつけて贔屓にしてくれた講釈師に対しても全く済まぬ訳であるが、どうも事実だから曲げる事もできない。尤《もっと》も芥川竜之介に云わせると、 「そりゃ君《’君》、又右衛門が棒だと知っていたから撲《殴》らしておいたのだよ」  と説明するがこれは、氏の機智意外に面白い解釈である。棒位《棒くらい》なら時として撲《殴》らしておいてもいいというのは武術の心得の一つである。  宮本武蔵の二刀流を伝えた細川家の士《サムライ》に都甲太兵衛《トゴウ太兵衛》と云う人がある。一日街《ある日まち》を行くと人が集《集ま》って騒いでいる。聞くと、 「角力取らしい男が人を斬って、あの空屋へ逃込んでいるが捕える手段《手だて》が無くて困っている」  と云うのである。 「何か壁を壊す物があるまいか」  と聞くと、杵をもって来た。太兵衛はそれで壁へ穴をあけると、のそのそと尻から先へ押入っていった。いかさま不思議な入り方である。太兵衛が曲者を捕えて人々に引渡《引き渡》した時に、 「尻から入るは、どうした訳で御座りますか」  と聞くと、 「あいつめ異《/異》な事をする奴だわいと、呆《ぼ》んやり見ていたからすぐ捕える事ができたのだ、《:、》それに尻なら少々斬《少々’斬》られたって大事が無いからな」  と答えた。この尻の逸話《話》から推すと、又右衛門の腰も、 「棒なら大事ないからなあ」  と芥川説がちゃんと理由づけられる事になる。然《しか》し尻《シリ》でも腰でも切られぬに越した事は無い。ただ尻から入る機智、尻《シリ》なら少々斬《少々’斬》られてもいいという覚悟は、武術の奥儀を腹に包んでいる人にして始めて出る考えであり、出来る覚悟である。そして都甲太兵衛《トゴウ太兵衛》は対手を知っていたからである。もし次のそう云う場合にも彼は矢張り尻から入るかと云ったら、恐らく愚問だと笑うだろう。時には壁を全部こわしもするだろうし、時には黙って通りすぎるかも知れない。機により変に応じて、それぞれに処して行くのが剣の極意である。伊東一刀斎の「間《カン》」と説明しているのも此処《ここ》である。事に面してどう処して行くか。一瞬の「間《カン》」に当って腹ができていると「尻を斬らして捕え」もするし「腰を撲《殴》らして」強敵を倒しもするのである。「間《カン》」はただ剣と剣とを交えている時の「隙」だけでは無い、《:、》あらゆる突発的出来事に面した時の刹那の「間《カン》」であって、これにちゃんと処して誤らないのは「出来た腹」のみである。そうしてこの腹は剣からも入る事が出来るし禅《/禅》からも入る事ができる。多くの剣客が禅に篤く所謂剣禅一致《/いわゆる剣禅一致》の妙などと云う言葉をも喜んだものである。勿論文芸《もちろん文芸》からでもいいし、女買いからでも入れるし、絵からでもいい。武蔵が絵画も剣も究極は一であると云ったがこの意味である。  又右衛門の師、柳生但馬守宗矩などはこの点に於《於い》てその妙境に到達している人である。禅でも心の無を重んじるが剣《/剣》も心を虚くする事を大切としている。無刀流とか無念流とか無想剣とか無《/無》を大事にした事は多い。 「打太刀《打ちタチ》にも、程にも、拍子にも、心を留《-と》むれば手前《/手前》の働き皆脱け候《そうらい》て、人に斬られ可申候《申すべくそうろう》。敵に心を置けぱ敵に心をとられ、我身に心を置けば我身に心をとられ候《そうろう》─《─:》─是皆心《これ皆’心》の留まりて手前《/手前》の脱け申《ざる》により可申候《申すべくそうろう》」  と沢庵禅師の「不動智《不動チ》」にあるが、無念無想の境《キョウ》にあって敵《/敵》に応じて無より出《いで》、無限に働くのを極意としている。平たくいうと、敵の眼に心を留《-と》めると、太刀の方《ほう》が留守になるし、太刀のみに気を入れていると、脚の構えが抜けるし、《:、》一人に心を留《-と》めると、背後《後ろ》へ廻った敵に困るし前後《/前後》へ気を配れば左右が粗になる。というように到底心《到底’心》を何物にかに留めては、留切れないから、こっちが「無」になってしまって対手《/対手》を見ない事にするのである。そして敵から与える「間《カン》」にこっちが働いて行くのである。「無」になる為《た》めには勿論生死《もちろん生死》を出ていなくてはならぬ。何時でも死んでもいい腹は一番に結《括》っておかねばならぬ物である。武蔵に見出《見い出》された時の都甲太兵衛《トゴウ太兵衛》が、細川公の前で武蔵から、 「平常《平素》の覚悟は」  と聞かれて、 「いつも死の座に居るつもりしていたが、近頃その死という事も忘れた。何も云う事も無いが、そう聞かれると、こうでも返事するより外《ほか》に覚悟は無い」  と答えると、武蔵が、 「これが剣の極意と云うもの」  と云った話がある。宗矩の高弟である又右衛門も多少この辺の事は心得ていたらしい。腰の一件も、強敵桜井半兵衛《強敵’桜井半兵衛》を斬倒《斬り倒》していた時だから、 「腰ならいい」  と撲《殴》らしておいた《た-》とも云える。少くもその腰を撲《殴》った小者を、刀で払《はら》いはしたが斬らなかった所を見ると対手《/対手》にせなかったものらしい。 「危《危な》い危《危な》い、傷《怪我》しちゃいけないから退《の》け退《の》け」  位《ぐらい》は云ったかも知れぬ。──と、尤《もっと》もこれは又右衛門を贔屓にしての説明で、本当は油断の隙を撲《殴》られたのかも知れない。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。 「主人、朋友の敵は其義の浅深に可依也《よるべきなり》、我子並《我が子ならび》に弟の敵者不討也《カタキは討たざるなり》」  と「勇士常心記」に出ている。弟源太夫の敵《カタキ》として又五郎を討つと云う事は当時の武士《サムライ》の常識から云って出来ない事である。それを荒木又右衛門までが助太刀に出て、天下の評判を高めたのは、弟の敵以外《カタキ以外》に「上意討」の如くなっていたからである。又五郎を旗本の安藤四郎右衛門──講釈の阿部四郎五郎─《─:》─が隠匿して池田公に喧嘩を吹掛け、  此度《このたび》は備前摺鉢底抜《備前摺鉢’底抜》けて、池田宰相味噌をつけたり  と云うような落首まで立つ位《くらい》になったから意地として池田忠雄公《池田タダタケ公》は又五郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中共《老中ども》も持余《持て余》している時《とき》、毒殺だと噂された位急《くらい急》に死んでしまったのである。死際に、 「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢し、今に落着相極《落着あいきわま》らず死《/死》せん事こそ口惜しけれ、依《依っ》て残す一言あり、我れ果ても仏事追善《/仏事追善》の営み無用たるべし、《:、》川合又五郎が首を手向けよ、左《さ》なきに於《於い》ては冥途黄泉の下に於《於い》ても鬱憤止む事無く」  と遺言した位《くらい》だったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし弟《/弟》の敵《カタキ》であると共に主君の命《メイ》によって討つ所謂「上意討」も含まれてきたのである。  寛永九年三月、 「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸し候《そうろう》とも二夜《”二夜》と留置き候者《そうろう’者》は屹度曲事《きっとクセゴト》に行わるべき者也《者なり》」  という御触《お触》れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押《押さ》える為《た》めの御触《お触》れである。こうなれば四郎右衛門も匿《-かく》まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討《う》たんにも限らぬし、郡山名代の剣客、数馬の姉聟である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃の武士気質《サムライカタギ》は未《ま》だ未《ま》だ大したものであった。荒木と同家中《同カチュウ》であって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して又五郎《/又五郎》の為《た》めに助太刀にくるし、又五郎の妹聟桜井半兵衛《妹聟’桜井半兵衛》も、 「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに縁《/縁》につながる自分が出ぬ法は無い」  と戸田左門氏鉄《戸田左門ウジカネ》の家中で二百石《二ヒャッコク》を領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構えと来たら向《向か》う所敵無《ところ敵無》しと称されていた者である。家中《カチュウ》では霞の半兵衛という綽名《渾名》の出来ている位槍《くらい/槍》をもたしては名誉の武士《サムライ》であった。又右衛門が鍵屋の辻で、 「半兵衛に決して槍をとらすな」  とその為《た》めに孫右衛門、武右衛門《ブ右衛門》の二人にかからせたのでも判る。  又五郎は一二《一’二》カ所に匿れ忍んで居たが面白《/面白》くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸《結局また江戸》へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙《/黙》って入ってこっそり隠れて居れば旗本《/旗本》の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもその方《ほう》が利口である。頭山満の邸《屋敷》へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、早大の佐野学が某所に匿《引っこ》んでいるんだなどと噂やら事実やらと《”と》にかく東京で有力な人の袖に縋れば、安全な事今も昔も大した変《変わ》りはない。荒木は又五郎の動静を主《シュ》として甚左衛門の一止一動《イッシ一動》によって知ろうとした。甚左衛門も寛永の武士気質《サムライカタギ》をもっている立派な男である。又五郎へ義理立てて浪人してからは又五郎《/又五郎》の居る所に必ず附《つ》いて行く事にしている。又右衛門は甚左衛門と同家中《同カチュウ》だから敵の顔を知らぬ上に於《於い》て、甚左の意地張《意地バ》って又五郎の前に立っているのを利用するにかぎる。甚左衛門はそうと知っているがそれを避けて匿れる程の策も持たない。意地一本、真正直に又右衛門に逢えぱ討取るつもりでいる。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい。機会としては絶好の時である。然し当時奈良《当時’奈良》の町奉行は中坊飛騨守秀政《チュウボウ飛騨ノカミ秀政》といって旗本の関係者であった。もし濫りに斬込《斬り込》んで、奉行の手で邪魔が入ったり、討ったとしても後で不利益だったりしてもつまらぬし、《:、》町家では町人百姓《町人ヒャクショウ》が騒立《騒ぎ立》ててどんな事が起らぬにも限らぬからそのまま様子を見ている事とした。寛永十一年十一月五日の事である、諸説あるが、馬子《マゴ》の口から洩れたというのが本当だろう。又五郎から馬三頭《馬’三頭》を六日の夜明けぬうちに廻せという註文がきたというのである。待っていた機会がいよいよ来た訳である。見張《見張り》を出して川合方《川合がた》の様子を見せると、立ちそうだという。四人は支度《仕度》を整えて一行の跡をつける事にした。鎖帷子と鎖入鉢巻の用意をして、七八町《七’八町》のあとから見えがくれに後を追って行く。  武士《サムライ》の意地で殺し、意地から匿い、意地で来た助太刀である。いつでも対手になってやるという覚悟で、勿論鎖帷子《もちろん鎖帷子》、白昼堂々と槍を立てて又五郎は行く。三人に槍三本、鉄砲一挺、半弓一張とちゃんと格式を守って大手を振っているのである。若党《若’党》、小姓、足軽、人足合《人足’合》せて二十人、奈良般若寺口から坂道を登り木津《/木津》から、笠置を経て、笠置街道を進む。六日の午後の二時に島ヶ原へ入った。日足の早い冬、次の駅まで行くのは危険である。敵《カタキ》をもつ身はただの旅人にも増して早立ち早泊りが必要である。それで松屋という宿へ泊る事となった。それを見届けて、松屋より二三町先《二’三町先》の方《ほう》、馬借勘兵衛《マシャク勘兵衛》の家《うち》へ頼んで、又右衛門は見張る事にした。松屋の近くの宿では泊《泊ま》れぬから、仕方無しに馬問屋へ頼んで、腰をおろしたのである。七日の明け切れぬ中《うち》に荒木はここを立った。これから先は、道を選んで場所をこしらえるだけである。隠れているのによくて敵の逃道の無いそ《”そ》して味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町《城下’小田町》の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処《ここ》には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが突当《/突当》りが石垣で、右角の茶店《チ-ャミセ》が万屋喜右衛門、右へ曲ると塔世坂という坂《サカ》があって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、角《カド》を折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。 「此処《ここ》がいい。左右に分《分か》れて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、後《あと》の出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ袋《/袋》の鼠に出来る。武右衛門《ブ右衛門》と孫右衛門は鍵屋の角《カド》で隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後の奴《ヤツ》を斬捨《斬り捨》てて下人共《下人ども》を追散《追い散ら》そう。数馬はただ又五郎一人にかかって余人《ヨジン》に振向《振り向》くな、余人《ヨジン》は又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たら武右衛門《ブ右衛門》、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るかと《/と》にかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬込《斬り込》む合図は私が後《あと》の奴《ヤツ》を斬ると同時だ。三人一度《三人’一度》に目指す者にかかれ」  こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つ為《た》めに四人は万屋へ入った。街道筋の商人《アキュウド》はこの寒さにも五時から店を開けている。 「亭主寒いナ」  と云って入った。この四人、そろって上方者《上方もの》だから写実で行くと、 「おっさん、えらい寒いこっちゃナア」  と云ったかも知れぬが、とにかくこの茶店《チ-ャミセ》へこういう事を云ったと伝えられている。 「親父、じろじろと見るナ。怪しくみえるかの。武士《サムライ》と云うものは敷居を跨ぐと敵のあるものでのう。鎖帷子、ほうら鎖頭巾、どうじゃ、こうちゃんとした扮《-なり》をするといい男だろうがの、今に喧嘩でもしてみろ、三人や五人ならおくれはとらぬぞ。時に亭主も《/も》っと燗を熱くしてくれ」  又右衛門は濁酒《ドブロク》の燗を熱く熱くと幾度も云ったそうである。茶屋の親仁だから燗の事だけは確かに明瞭《はっきり》と覚えていたにちがいない。酒を傾けながら孫右衛門は時々店先《ときどき店先》へ出て、又五郎らの来るのを見る。長田川の橋からは一本道で橋上《ハシジョー》にかかれば茶店《チ-ャミセ》からは一眼《ひと目》である。敵がそこへ現れたという合図は孫右衛門が小唄を唄う事にしてある。 「いい心持《心持ち》になった、亭主、この羽織をお前にくれてやろう」 「旦那様、めっそうもない‥‥」 「ま、取っておけ、《、/》少し長いぞ」  と云ったが又右衛門の身丈六尺二寸《身の丈’六尺’二寸》と云うのだからぞろりと着れば踵まであったかも知れない。 「亭主、わしのもくれようか」  と云って数馬も羽織をぬいだ。これは池田家第一の美男子と称された源太夫の兄である。遺伝学から云うと兄より弟の方《ほう》がいい男が多いそうだが、その代り兄は甚六で多少ゆったりしているから矢張り数馬もいい男であったにちがいない。緋羽二重の下着に黒羽二重の紋付という扮装《出で立ち》など、如何にも色男らしいこしらえである。  寛永時代の小唄だから頗る悠長な、|間の《間延》びのした半謡曲染《半’謡曲じ》みたものであろう。酒も大しての《飲》まないのに、孫右衛門店先《孫右衛門/店先》でゆらゆら唄出《唄い出》した。  襷に、鉢巻、足許を調べて、 「亭主、勘定」  武右衛門《ブ右衛門》と孫右衛門は左角の鍵屋の軒《-のき》へ忍んで北谷口《/北’谷口》で逸する敵の退路《逃げ道》を切取《切り取》ると共に先頭《/先》に立つ一人を斬る。荒木、渡辺の二人は万屋の小影に身をひそめて又五郎と附人《付き人》に当《当た》る。 ◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。  寛永十一年十一月七日、辰の刻、今の朝八時《朝’八時》である。此時荒木《この時’荒木》が又万屋《また万屋》へ戻ろうとするから、 「何故?」  と聞くと、 「イヤ、一文多く渡したのだが、平常《いつも》なら何でも無いが、こういう場合だから、又右衛門め周章てたなと思われるのが残念だから、一寸行《ちょっと行》って取戻《取り戻》してくる」  と云ったという話があるが、これは嘘らしい。   長田川の橋に現れた一行、真先《真っ先》に立って周囲《当たり》を見廻しつつ馬上《”ばじょう》でくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人虎屋九左衛門《町人’虎屋九左衛門》、半町も先に立って物見の役とある。つづいて美濃の国戸田家《国’戸田家》の浪人、桜井半兵衛とって二十四歳の若者、使慣《使い慣》れたる十文字の槍を小者三助《小者’三助》に立てさせ馬側《/馬側》に気に入りの小姓湊江清左衛門《小姓’湊江清左衛門》を引《引き》つけ、半弓をもった勘七、《:、》同じく差替《差替え》をもった市蔵を後《あと》にしたがえて、天晴《あっぱれ》なる骨柄寛永武士気質《骨柄’寛永サムライカタギ》を眉宇に漲らせている。又五郎同じく二十四歳、小者一人《小者’一人》、喜蔵《キゾウ》というに十文字の槍をもたせ後《/後》ろを押《押さ》える人として叔父の川合甚左衛門、四十三という男盛り、《:、》若党与作《若’党’与作》に素槍を担がせ、同じく熊蔵を従えた主従十一人鎖帷子厳重《主従十一人/鎖帷子’厳重》に、馬子人足《マゴ人足》と共に二十人の一群、一文字《イチモンジ》の道を上野の城下へ乗入《乗り入》れてくる。  荒木又右衛門保和《荒木又右衛門ヤストモ》、時《とき》に三十七、来伊賀守金道《来伊賀ノカミ’キンミチ》、厚重《アツガサネ》の一刀、《:、》鎺元《ハバキモト》で一寸長《一寸/長》さ二尺七寸《二尺’七寸》という強刀《ゴウ刀》、斬られても撲《殴》られても、助かりっこのない代物である。虎屋九左衛門の馬は遥かに過ぎ、鍵屋の前を桜井の馬が曲り、押えの甚左衛門が、今万屋《いま万屋》の軒先へさしかかった時、 「甚左衛門っ」  大音声《ダイオンジョウ》の終《終わ》らぬうち大きく一足踏出した又右衛門の来金道、閃くと共に右脚《右足》を斬落《斬り落》としてしまった。馬から落ちる隙も刀を抜くひまも無い。タタと刻足《刻み足》に諸共今打下《諸共/いま打ち下ろ》した刀をひらりと返すが早いか下から斬上《斬り上》げて肩口へ打込んだ。眼にも留らぬ早業である。川合甚左衛門、自慢の同田貫《ドウタヌキ》へ手をかけたが抜きも得ないで斃されてしまった。一口に刀を返してというが中々尋常《なかなか尋常》の腕でこの返しが利くものでない、《:、》「翻燕《ホンエン》の刀」と称して、真向《真っ向》へ打を入れて、受けんとする刹那、転じて胴へ返すのが本手で、これはいろいろに使うのである。打込んで行く勢《勢い》を途中で止めるのが練磨の腕前だが敵《/敵》もさる者、それを見破ってその「間《カン》」に逆撃されると負《負け》になる。あくまで真向微塵とみせて、ヒラリと返すのだから一流に達した腕でないと出来ない芸当である。初太刀は大抵受《大抵’受》けられるが、後《ゴ》の先《セン》といってす《/す》ぐの斬返《斬り返》しにまで備えるのは余程の腕が要る。片脚を落された刹那刀《刹那/刀》を抜いて次の斬込《斬り込》みに備える隙位《隙くらい》は普通の相手なら有る所《ところ》だが、名代の荒木又右衛門、斬下《切り下》すと共に返してきたから、隙も何も有ったものでない。二太刀で物の美事《見事》にやられてしまった。甚左衛門を倒すと共に、周章て立《だ》つ小者共《小者ども》に、 「邪魔すなッ」  と大喝したから、思わず逃出《逃げ出》す。 「数馬、助太刀はせぬぞッ」  と云い捨てて、二人きりの勝負とし、小者共《小者ども》を追いながら鍵屋の角《カド》から桜井半兵衛へかかって行った。  この早業は到底数馬《到底’数馬》には出来ない。荒木と共に走出したが、又五郎も期していた所である。供《トモ》の槍を取るが早いかそれを力にしてひらりと左の方《ほう》へ降立《降り立》つ。 「又五郎、覚悟致せ」 「さあ、参れッ」  万屋も鍵屋もバタバタと戸を閉める。小田町は大騒ぎになった。数馬は又右衛門に仕込まれて相当の腕にはなっている。しかし真剣の立合《立ち合い》はこれが始めてである。ただ敵に対した時の覚悟だけはちゃんとしていたらしい。美少年でも流石は寛永時代の武士《サムライ》、中々味《なかなか味》のある勝負をしている。又五郎は琢磨兵林《琢磨ヒョウリン》によると真刀流の達人で、弱年の頃「猫又」を退治したと書いてあるが、「猫又」などという代物が怪しいように、又五郎の腕も判らない。その証拠には源太夫を殺した時に周章《周章て》て、止《とど》めも刺さなけりゃ、鞘まで忘れて逃出《逃げ出》してしまっている。不良少年の強がりで一寸人《ちょっと人》を斬っては見たが、度胸も腕もそうあったものとは思えない。それ以後二三年《以後二’三年》の修業《修行》だからまずは数馬と互角の勝負、ただ槍をもっているだけが強味という所である。腕が同じだと槍の方《ほう》に歩《ブ》がある。槍の目録に対して刀の免許が丁度いい位《くらい》で、一段の差があるそうである。  又五郎は中段に位《くらい》をとる。数馬は柳生流の青眼、穂先と尖先《切っ先》が御互《お互い》にピリピリ働いて、相手に変化を計られまいとする。二尺余りを距てて睨合っているが、槍の方《ほう》から仕懸けて行くらしく時々気合《/ときどき気合い》と共に穂先が働く。それにつれて刀も動く。と、閃めいた穂先、流星の如く胸へ走る、数馬の備前祐定二尺五寸五分《備前祐定’二尺’五寸五分》、払《はら》いは払ったが、帷子の裏をかいて胸へしたたか傷けられた。 「此処だぞ」  と、数馬は思った。 「自分は死んでもいい、その代りにはきっと又五郎は討取《討ち取》ってみせる、さあ来い」  又右衛門の仕込んだのは此決心《この決心》である。身を捨てて敵を討つという必死の決心である、短い気合を二三度《二’三度》かけるが早いか、数馬は又五郎の手元へ飛込《飛び込》もうとした。さっと繰引《繰り引》いて突出《突き出》す槍、胸へ閃いてくるのをそのままに片手《/片手》で槍の柄《エ》を握るが早いか、半身《ハンミ》を延《延ば》して片手討《片手討ち》の大上段、真向《真っ向》から斬込《斬り込》んでしまった。槍は離れて得な武器だが、附込《附き込》まれて役に立たぬ。放すが早いか飛退《飛び退》って腰へ手がかかる刹那、左手《ユンデ》に槍をすてて片手《/片手》なぐりに二度目の祐定が打下《打ち下》す。こうなれば受ける隙も無い。咽喉笛《ノド笛》へ噛《かじ》りつきたいように憎みを御互《お互い》にもちながら、又五郎も斬らしておいて抜打《抜打ち》に数馬の真額《真っ向》へ斬《斬り》つける。この抜打《抜打ち》は承知の事だから、避けは避けたが気《/気》が上ずっている身体《/身体》はままに動かない。耳から頬《ホオ》へかけて一筋かすられる。こうなればもう二人とも本当の刀は使えない。無茶苦茶に呼吸《息》がつづけば斬合《斬り合》うだけである。相当の腕の者なら、槍を受けておいて斬込《斬り込》んだ時に、致命傷を与えてそれでケリがつくのだが、腕のちがいはそうも行かない。宮本武蔵が、 「二刀を使うのは、片手でも双手《諸手》と同様に働かせるための練習である」  と云っているが此処《ここ》の事である。片手で斬込《斬り込》んだ時平常《とき普段》の練習で双手《諸手》で斬込《斬り込》んだと同じ効果《効き目》があったら、数馬は矢張池田家中第一《矢張池田カチュウ第一》の美男子でおられたかも知れないが、《:、》不幸にしてこの心得が無かったため、顔へ二ヵ所の傷を受けてしまった。武蔵は従って大抵二刀で仕合をしていない。必ず一刀でそ《/そ》して一太刀で相手を倒している。流石に剣道の第一人者だけの事がある。又右衛門とは又同日《また同日》の談《話》ではない。  この二人の勝負で、数馬は十三《十’三》ヵ所、又五郎は五ヵ所の手傷を受けた。池田家に保存されているこの時の祐定の刀には六ヵ所も斬込《斬り込》みがあって如何《”いか》に悪闘したかを物語っているが、《:、》伝える所によると「辰の刻より三刻《ミトキ》が間」というから朝《/朝》の九時から午後の三時まで斬合《斬り合》っていた事になる。正味六時間、これはどうも譃らしい。又右衛門が甚左衛門を斬ったのは物の十秒とかかっていない、《:、》それからすぐ桜井半兵衛にかかって、容易く打討《討ち取》ったのだから長くて四五十分《シゴジュップン》の事である。一時間とみたとしても残りの五時間を又右衛門が又《また》「熱燗」で、二人の勝負を見物していたとは考えられない、《:、》この三刻《ミトキ》は甚左衛門が斬られてから、役人の出張、負傷者の手当《手当て》、野次馬が又右衛門について役所へ行く迄の時間と見るのが正当である。  鍵屋の角《カド》を曲った時、桜井半兵衛は又右衛門の懸声を聞いた。とたん、物影から武右衛門《ブ右衛門》が斬《斬り》つけた。たたみかけて斬込《斬り込》む刀《カタナ》、槍を取る隙が無いから、刀の鞘を払って受留《受け止》めると共に馬からうしろへひらりと降立《降り立》った。武右衛門《ブ右衛門》と共に走出《走り出》た孫右衛門は、槍持ちの三助に斬《斬り》かかったから、三助驚《三助’驚》いて槍を縦横《ジュウオウ》に振廻《振り廻》す。半兵衛と三助御互《三助お互い》に渡しも受取《受け取》りもできない。素破《スワ》っ、と驚いたが流石に半兵衛の供をしてきた若党だけある。清左衛門が抜くと共に市蔵も木刀を抜いた。定まらぬ腰ではあるが、主人大事と、遠くから「ヤアヤア」位《くらい》で迫ってくる。武右衛門《ブ右衛門》も又右衛門に相当の間奉公《あいだ奉公》していて一人前の腕だが三人《/三人》に一人の腕では無い。まして半兵衛、槍ほど無類の達者では無くとも、刀法も武右衛門《ブ右衛門》よりは上である。 「下郎、参れッ」  と大上段、つつと小刻《小刻み》に寄ったから武右衛門一足退《ブ右衛門’一足ひ》く、と中段に刀が変《変わ》るが早いか、 「エヤッ」  躱す隙も無く、肩をざくりとやられてしまった。三助を相手にしていた孫右衛門、相手を捨てておいて、 「己れ」  と横から斬《斬り》かかる。 「ヤア」  と、構えられると流石にすぐは踏込《踏み込》めない。三助、その間《あいだ》に槍の鞘を払うや孫右衛門へ、 「こん畜生っ」  と突いてかかった奴《ヤツ》を袖摺へ一ヵ所受けた。その時又右衛門《とき又右衛門》が走寄《走り寄》ってきたのである。血に染《-そ》んだ来金道二尺七寸《来金道’二尺’七寸》を片手に、六尺余りの又右衛門が走《駆け》つけたのだから小者は耐《たま》らない。浮足立《浮き足だ》つ所孫右衛門《ところ孫右衛門》、 「糞っ」  というが早いか、十文字槍をもってへ《/へ》っぴり腰に突いてかかった三助へ斬込《斬り込》んで一太刀肩《/一太刀肩》へ斬込《斬り込》んだ。ばったり倒れたので孫右衛門が暫く呼吸《息》をついで、半兵衛にかかろうとする。武右衛門《ブ右衛門》は半兵衛を孫右衛門に渡したが肩《/肩》の傷が可成《かな》りに深い。気が立っているから戦《戦い》はするものの、清左衛門に又傷《また傷》を受けた。しかし、又右衛門が来て半兵衛が追《-おい》すくめられているのをみると、小者共《小者ども》はとても戦う勇気などなくなってしまう。半弓をもっていた勘蔵がうろうろしていて武右衛門《/ブ右衛門》に尻を斬られて横っとびに逃《逃げ》るし、《:、》清左衛門も武右衛門《ブ右衛門》の決死の顔をみると薄気味悪くなって、逃げ出すのを追討ちに肩をやられる。市蔵一人木刀《市蔵ひとり’木刀》をもって石垣の所で固くなっているのみである。武右衛門《ブ右衛門》は二人を追払うと共にぐったりとなってしまった。鍵屋の前で又五郎と数馬が斬合《斬り合》っているから助太刀《/助太刀》しようとして一足踏出《一足’踏み出す》と共に倒れてしまった。気を取直《取り直》して石へ腰をおろしたが刀を杖にしたままどうもできない。  又右衛門も相手が半兵衛だから自重している。御互に青眼、所謂相青眼《いわゆるアイ青眼》の構え。 「どうした事じゃ、其処な御仁《お人》に申すが敵討《敵討ち》か、喧嘩か」  という声が突当りの崖上からした。孫右衛門の耳にも誰の耳にも入ら無いが、又右衛門は微塵も逆上していない。 「敵討《敵討ち》、敵討《敵討ち》で御座る」  と、じっと半兵衛を見凝《見つ》めながら答えた。しかし対手が老人で通らない。又《また》しても聞くのに対して又右衛門は又返事《また返事》をしながら鉾子尖《切っ先》をカチリと半兵衛の太刀先へ当てながらじ《/じ》りじりと追込んでくる。槍をもたしたならどうなったか知れぬが武右衛門《/ブ右衛門》の命がけの働で槍をとる隙がないから半兵衛《/半兵衛》は歩《ブ》の悪い太刀打《太刀打ち》である。喋りながらも寸毫《少し》の隙なく詰寄《詰め寄》せてくる太刀に気《/気》は苛立ちながら、押され押されして次第に追込《追い込》まれる。軒下に焚物の枯松葉が積んであったが其処まで押つけられてしまった。散らかしてある松の小枝に半兵衛の踵がかかる、その「間《カン》」、 「エイッ」  心得て一足退《一足’退》る。足をとられて松葉の上へ倒れかかるその一髪の隙、来金道《来金ドウ》が肩先へ斬込《斬り込》んできた。どっと倒れる所、孫右衛門得たりと斬《斬り》つけて耳《/耳》の上と眼の上へ傷《テ》を負《負わ》せた。ハラハラとして、その様をみていた市蔵、来金道《来金ドウ》が打込むとき吾を忘れて走出《走り出》した。振《振り》かぶった木刀、どしりと又右衛門の腰へ入った。綿入二枚《綿入れ二枚》に帯までしめていては痛い事も無い。二度目の木刀を又右衛門振《又右衛門’振り》かえりざま、 「危《危な》いぞッ」  と、払ったが、市蔵は死物狂《シニモ-ノグル》い、三度目は憎い刀めと伊賀守金道《/伊賀守金道》を撲《殴》った。又右衛門も後に『不覚であった』と物語っているが、流石に厚重《アツガサ》ねの強刀《ゴウ刀》が、鍔元から五寸の所で折れてしまった。又右衛門もハッとしたが市蔵も思わず驚くと急《/急》に怖《怖ろ》しくなって逃出《逃げ出》した。 「孫右衛門、止《とど》めを刺すな」  と云っておいて又右衛門は鍵屋の前へ走《駆け》つけた。 ◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。  数馬と又五郎は刀を杖にしてただ立っているだけである。咽喉《ノド》はもう|からから《カラカラ》になって呼吸《息》もつづかない。指は硬直してしまって延びも曲りもしない。掌《手のひら》は痛むし刀は重いし、眼は霞むようだしぼんやりしてしまって相手《/相手》が刀を上げるとこっちも上げるし、休めば休むという風《ふう》に反射作用で動いているだけである。 「数馬っ、何故討てぬ。累年の仇敵《カタキ》ではないか。愚者《愚か者》ッ」  数馬が刀を取上《取り上》げると又五郎も取上《取り上》げたが、もう人の身体かも判らない。斬込《斬り込》んだ刀の重み祐定《/祐定》の切味で、左腕を斬落《斬り落》した。又五郎も形だけは受けてみるが手もなく倒れてしまった。 「それ止《とど》め」  くずれるように止《とど》めを刺した数馬を、 「気を確かに、しっかりせぬとこのまま死んでしまうぞ」  と労わりつつ鍵屋の軒下へ入れた。町奉行が駈付《駈け付》ける。又右衛門が事情を話す。負傷者の手当《手当て》をする。それぞれ役人警護の下に引取《引き取》る所へ引取《引き取》って上役《/上役》の指図をまつ事になる。又右衛門は武右衛門《ブ右衛門》をつれて傷の手当《手当て》をしに数馬の姻族、彦坂加兵衛の家へ行って水を飲み、大飯《大めし》を食って、役人のくる迄と眠ってしまった。藤堂家中《藤堂カチュウ》の人々が称めるのも、鳥取侯が死んだと偽って郡山へ戻さなかったのも三大仇討《”三大仇討》の一つと云われるのも、講釈師が飯の種にする|のもの《の》も、芥川竜之介が又右衛門を強《つよ》いというのも─《─:》─尤《もっと》も芥川氏は弁慶が一番強《一番つよ》いんだそうである。日本人の造出《造り出》した一番強《一番つよ》い奴《ヤツ》が弁慶だからこいつに敵う奴は無いのだそうである。べんけいする奴《ヤツ》には敵はないとか、ベんけいは天才の母とかいうのは此処《ここ》から出た事である──。  武右衛門《ブ右衛門》は暫くして死んだ。三助と半兵衛も二三日して死んだ。又右衛門は擦傷《’かすり傷》を受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると後《”のち》まで城内深《城内ふか》く留《とど》めておいたものらしい。墓は鳥取市外の玄忠寺にある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取寺町興禅寺《鳥取テラマチ興禅寺》に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。矢張寺町《やはり寺町》の光明寺にある。三人の子孫共現存《子孫とも現存》しているそうである。郡山には荒木の屋敷趾が保存されているし、鳥取にも跡が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にあって、念仏寺の川合武右衛門《川合ブエモン》の墓と隣同志になっている。外《ほか》の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店《チ-ャミセ》である。仇討の跡には碑が立っている。 ◇。◇。◇。 【底本《テイホ-ン》:「仇討二十一話◇ 大衆文学館」講談社】 【1995(平成7)年3月17日初版発行】 【1995(平成7)年5月二十日《月ハツカ》2刷《サツ》】 【入力:atom】 【校正:大野晋】 【2000年8月23日公開】 【2000年9月二十日修正《月ハツカ修正》】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。