◇。◇。◇。
【鍵屋の辻】
【直木三十五】
◇。◇。◇。
【第一章】 ────
◇。◇。◇。
 張り扇から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門ミナモトノヨシムラ─:─琢磨ヒョウリンによる、秀国、本当はヤストモ、名乗りだけでもちょっとこれくらいちがっているが─:─三池デンタ光世の一刀をもって「バタバタ」と旗本の付き人ども三十六人を斬って落すが:、記録で行くとこの付き人なる者がただの二人になってしまう。そのうえ困った事にはこの天下無双の荒木又右衛門が後ろから小者に棒で腰の所を殴られている。琢磨ヒョウリン──これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているがときどき誤りのある実録物だ─:─だと、これがもう一つひどくなって頭を二度槍で殴られている。とにかく柳生十兵衛’取り立ての門人一万二千人──但し講釈師の調査─:─の中から、ただ一人の極意皆伝という又右衛門が小者ハイに腰だの頭だのを殴られては/恩師十兵衛に対して甚だ申訳の無いことであるし:、第一’三十人もおまけをつけて贔屓にしてくれた講釈師に対しても全く済まぬ訳であるが、どうも事実だから曲げる事もできない。もっとも芥川竜之介に云わせると、
「そりゃ’君、又右衛門が棒だと知っていたから殴らしておいたのだよ」
 と説明するがこれは、氏の機智意外に面白い解釈である。棒くらいなら時として殴らしておいてもいいというのは武術の心得の一つである。
 宮本武蔵の二刀流を伝えた細川家のサムライにトゴウ太兵衛と云う人がある。ある日まちを行くと人が集まって騒いでいる。聞くと、
「角力取らしい男が人を斬って、あの空屋へ逃込んでいるが捕える手だてが無くて困っている」
 と云うのである。
「何か壁を壊す物があるまいか」
 と聞くと、杵をもって来た。太兵衛はそれで壁へ穴をあけると、のそのそと尻から先へ押入っていった。いかさま不思議な入り方である。太兵衛が曲者を捕えて人々に引き渡した時に、
「尻から入るは、どうした訳で御座りますか」
 と聞くと、
「あいつめ/異な事をする奴だわいと、ぼんやり見ていたからすぐ捕える事ができたのだ:、それに尻なら少々’斬られたって大事が無いからな」
 と答えた。この尻の話から推すと、又右衛門の腰も、
「棒なら大事ないからなあ」
 と芥川説がちゃんと理由づけられる事になる。しかしシリでも腰でも切られぬに越した事は無い。ただ尻から入る機智、シリなら少々’斬られてもいいという覚悟は、武術の奥儀を腹に包んでいる人にして始めて出る考えであり、出来る覚悟である。そしてトゴウ太兵衛は対手を知っていたからである。もし次のそう云う場合にも彼は矢張り尻から入るかと云ったら、恐らく愚問だと笑うだろう。時には壁を全部こわしもするだろうし、時には黙って通りすぎるかも知れない。機により変に応じて、それぞれに処して行くのが剣の極意である。伊東一刀斎の「カン」と説明しているのもここである。事に面してどう処して行くか。一瞬の「カン」に当って腹ができていると「尻を斬らして捕え」もするし「腰を殴らして」強敵を倒しもするのである。「カン」はただ剣と剣とを交えている時の「隙」だけでは無い:、あらゆる突発的出来事に面した時の刹那の「カン」であって、これにちゃんと処して誤らないのは「出来た腹」のみである。そうしてこの腹は剣からも入る事が出来るし/禅からも入る事ができる。多くの剣客が禅に篤く/いわゆる剣禅一致の妙などと云う言葉をも喜んだものである。もちろん文芸からでもいいし、女買いからでも入れるし、絵からでもいい。武蔵が絵画も剣も究極は一であると云ったがこの意味である。
 又右衛門の師、柳生但馬守宗矩などはこの点に於いてその妙境に到達している人である。禅でも心の無を重んじるが/剣も心を虚くする事を大切としている。無刀流とか無念流とか無想剣とか/無を大事にした事は多い。
「打ちタチにも、程にも、拍子にも、心を-とむれば/手前の働き皆脱けそうらいて、人に斬られ申すべくそうろう。敵に心を置けぱ敵に心をとられ、我身に心を置けば我身に心をとられそうろう─:─これ皆’心の留まりて/手前の脱けざるにより申すべくそうろう」
 と沢庵禅師の「不動チ」にあるが、無念無想のキョウにあって/敵に応じて無よりいで、無限に働くのを極意としている。平たくいうと、敵の眼に心を-とめると、太刀のほうが留守になるし、太刀のみに気を入れていると、脚の構えが抜けるし:、一人に心を-とめると、後ろへ廻った敵に困るし/前後へ気を配れば左右が粗になる。というように到底’心を何物にかに留めては、留切れないから、こっちが「無」になってしまって/対手を見ない事にするのである。そして敵から与える「カン」にこっちが働いて行くのである。「無」になるためにはもちろん生死を出ていなくてはならぬ。何時でも死んでもいい腹は一番に括っておかねばならぬ物である。武蔵に見い出された時のトゴウ太兵衛が、細川公の前で武蔵から、
「平素の覚悟は」
 と聞かれて、
「いつも死の座に居るつもりしていたが、近頃その死という事も忘れた。何も云う事も無いが、そう聞かれると、こうでも返事するよりほかに覚悟は無い」
 と答えると、武蔵が、
「これが剣の極意と云うもの」
 と云った話がある。宗矩の高弟である又右衛門も多少この辺の事は心得ていたらしい。腰の一件も、強敵’桜井半兵衛を斬り倒していた時だから、
「腰ならいい」
 と殴らしておいた-とも云える。少くもその腰を殴った小者を、刀ではらいはしたが斬らなかった所を見ると/対手にせなかったものらしい。
「危ない危ない、怪我しちゃいけないからのけのけ」
 ぐらいは云ったかも知れぬ。──と、もっともこれは又右衛門を贔屓にしての説明で、本当は油断の隙を殴られたのかも知れない。
◇。◇。◇。
【第二章】 ────
◇。◇。◇。
「主人、朋友の敵は其義の浅深によるべきなり、我が子ならびに弟のカタキは討たざるなり」
 と「勇士常心記」に出ている。弟源太夫のカタキとして又五郎を討つと云う事は当時のサムライの常識から云って出来ない事である。それを荒木又右衛門までが助太刀に出て、天下の評判を高めたのは、弟のカタキ以外に「上意討」の如くなっていたからである。又五郎を旗本の安藤四郎右衛門──講釈の阿部四郎五郎─:─が隠匿して池田公に喧嘩を吹掛け、
 このたびは備前摺鉢’底抜けて、池田宰相味噌をつけたり
 と云うような落首まで立つくらいになったから意地として池田タダタケ公は又五郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中どもも持て余しているとき、毒殺だと噂されたくらい急に死んでしまったのである。死際に、
「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢し、今に落着あいきわまらず/死せん事こそ口惜しけれ、依って残す一言あり、我れ果ても/仏事追善の営み無用たるべし:、川合又五郎が首を手向けよ、さなきに於いては冥途黄泉の下に於いても鬱憤止む事無く」
 と遺言したくらいだったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし/弟のカタキであると共に主君のメイによって討つ所謂「上意討」も含まれてきたのである。
 寛永九年三月、
「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸しそうろうとも”二夜と留置きそうろう’者はきっとクセゴトに行わるべき者なり」
 というお触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押さえるためのお触れである。こうなれば四郎右衛門も-かくまっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰がうたんにも限らぬし、郡山名代の剣客、数馬の姉聟である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃のサムライカタギはまだまだ大したものであった。荒木と同カチュウであって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して/又五郎のために助太刀にくるし、又五郎の妹聟’桜井半兵衛も、
「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに/縁につながる自分が出ぬ法は無い」
 と戸田左門ウジカネの家中で二ヒャッコクを領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構えと来たら向かうところ敵無しと称されていた者である。カチュウでは霞の半兵衛という渾名の出来ているくらい/槍をもたしては名誉のサムライであった。又右衛門が鍵屋の辻で、
「半兵衛に決して槍をとらすな」
 とそのために孫右衛門、ブ右衛門の二人にかからせたのでも判る。
 又五郎は一’二カ所に匿れ忍んで居たが/面白くなかったり主人に死なれたりして結局また江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの/黙って入ってこっそり隠れて居れば/旗本の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもそのほうが利口である。頭山満の屋敷へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、早大の佐野学が某所に引っこんでいるんだなどと噂やら事実やら”とにかく東京で有力な人の袖に縋れば、安全な事今も昔も大した変わりはない。荒木は又五郎の動静をシュとして甚左衛門のイッシ一動によって知ろうとした。甚左衛門も寛永のサムライカタギをもっている立派な男である。又五郎へ義理立てて浪人してからは/又五郎の居る所に必ずついて行く事にしている。又右衛門は甚左衛門と同カチュウだから敵の顔を知らぬ上に於いて、甚左の意地バって又五郎の前に立っているのを利用するにかぎる。甚左衛門はそうと知っているがそれを避けて匿れる程の策も持たない。意地一本、真正直に又右衛門に逢えぱ討取るつもりでいる。
◇。◇。◇。
【第三章】 ────
◇。◇。◇。
 又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい。機会としては絶好の時である。然し当時’奈良の町奉行はチュウボウ飛騨ノカミ秀政といって旗本の関係者であった。もし濫りに斬り込んで、奉行の手で邪魔が入ったり、討ったとしても後で不利益だったりしてもつまらぬし:、町家では町人ヒャクショウが騒ぎ立ててどんな事が起らぬにも限らぬからそのまま様子を見ている事とした。寛永十一年十一月五日の事である、諸説あるが、マゴの口から洩れたというのが本当だろう。又五郎から馬’三頭を六日の夜明けぬうちに廻せという註文がきたというのである。待っていた機会がいよいよ来た訳である。見張りを出して川合がたの様子を見せると、立ちそうだという。四人は仕度を整えて一行の跡をつける事にした。鎖帷子と鎖入鉢巻の用意をして、七’八町のあとから見えがくれに後を追って行く。
 サムライの意地で殺し、意地から匿い、意地で来た助太刀である。いつでも対手になってやるという覚悟で、もちろん鎖帷子、白昼堂々と槍を立てて又五郎は行く。三人に槍三本、鉄砲一挺、半弓一張とちゃんと格式を守って大手を振っているのである。若’党、小姓、足軽、人足’合せて二十人、奈良般若寺口から坂道を登り/木津から、笠置を経て、笠置街道を進む。六日の午後の二時に島ヶ原へ入った。日足の早い冬、次の駅まで行くのは危険である。カタキをもつ身はただの旅人にも増して早立ち早泊りが必要である。それで松屋という宿へ泊る事となった。それを見届けて、松屋より二’三町先のほう、マシャク勘兵衛のうちへ頼んで、又右衛門は見張る事にした。松屋の近くの宿では泊まれぬから、仕方無しに馬問屋へ頼んで、腰をおろしたのである。七日の明け切れぬうちに荒木はここを立った。これから先は、道を選んで場所をこしらえるだけである。隠れているのによくて敵の逃道の無い”そして味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下’小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、ここには数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが/突当りが石垣で、右角のチ-ャミセが万屋喜右衛門、右へ曲ると塔世坂というサカがあって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、カドを折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。
「ここがいい。左右に分かれて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、あとの出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ/袋の鼠に出来る。ブ右衛門と孫右衛門は鍵屋のカドで隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後のヤツを斬り捨てて下人どもを追い散らそう。数馬はただ又五郎一人にかかってヨジンに振り向くな、ヨジンは又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たらブ右衛門、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るか/とにかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬り込む合図は私があとのヤツを斬ると同時だ。三人’一度に目指す者にかかれ」
 こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つために四人は万屋へ入った。街道筋のアキュウドはこの寒さにも五時から店を開けている。
「亭主寒いナ」
 と云って入った。この四人、そろって上方ものだから写実で行くと、
「おっさん、えらい寒いこっちゃナア」
 と云ったかも知れぬが、とにかくこのチ-ャミセへこういう事を云ったと伝えられている。
「親父、じろじろと見るナ。怪しくみえるかの。サムライと云うものは敷居を跨ぐと敵のあるものでのう。鎖帷子、ほうら鎖頭巾、どうじゃ、こうちゃんとした-なりをするといい男だろうがの、今に喧嘩でもしてみろ、三人や五人ならおくれはとらぬぞ。時に亭主/もっと燗を熱くしてくれ」
 又右衛門はドブロクの燗を熱く熱くと幾度も云ったそうである。茶屋の親仁だから燗の事だけは確かにはっきりと覚えていたにちがいない。酒を傾けながら孫右衛門はときどき店先へ出て、又五郎らの来るのを見る。長田川の橋からは一本道でハシジョーにかかればチ-ャミセからはひと目である。敵がそこへ現れたという合図は孫右衛門が小唄を唄う事にしてある。
「いい心持ちになった、亭主、この羽織をお前にくれてやろう」
「旦那様、めっそうもない‥‥」
「ま、取っておけ、/少し長いぞ」
 と云ったが又右衛門の身の丈’六尺’二寸と云うのだからぞろりと着れば踵まであったかも知れない。
「亭主、わしのもくれようか」
 と云って数馬も羽織をぬいだ。これは池田家第一の美男子と称された源太夫の兄である。遺伝学から云うと兄より弟のほうがいい男が多いそうだが、その代り兄は甚六で多少ゆったりしているから矢張り数馬もいい男であったにちがいない。緋羽二重の下着に黒羽二重の紋付という出で立ちなど、如何にも色男らしいこしらえである。
 寛永時代の小唄だから頗る悠長な、間延びのした半’謡曲じみたものであろう。酒も大して飲まないのに、孫右衛門/店先でゆらゆら唄い出した。
 襷に、鉢巻、足許を調べて、
「亭主、勘定」
 ブ右衛門と孫右衛門は左角の鍵屋の-のきへ忍んで/北’谷口で逸する敵の逃げ道を切り取ると共に/先に立つ一人を斬る。荒木、渡辺の二人は万屋の小影に身をひそめて又五郎と付き人に当たる。
◇。◇。◇。
【第四章】 ────
◇。◇。◇。
 寛永十一年十一月七日、辰の刻、今の朝’八時である。この時’荒木がまた万屋へ戻ろうとするから、
「何故?」
 と聞くと、
「イヤ、一文多く渡したのだが、いつもなら何でも無いが、こういう場合だから、又右衛門め周章てたなと思われるのが残念だから、ちょっと行って取り戻してくる」
 と云ったという話があるが、これは嘘らしい。 
 長田川の橋に現れた一行、真っ先に立って当たりを見廻しつつ”ばじょうでくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人’虎屋九左衛門、半町も先に立って物見の役とある。つづいて美濃の国’戸田家の浪人、桜井半兵衛とって二十四歳の若者、使い慣れたる十文字の槍を小者’三助に立てさせ/馬側に気に入りの小姓’湊江清左衛門を引きつけ、半弓をもった勘七:、同じく差替えをもった市蔵をあとにしたがえて、あっぱれなる骨柄’寛永サムライカタギを眉宇に漲らせている。又五郎同じく二十四歳、小者’一人、キゾウというに十文字の槍をもたせ/後ろを押さえる人として叔父の川合甚左衛門、四十三という男盛り:、若’党’与作に素槍を担がせ、同じく熊蔵を従えた主従十一人/鎖帷子’厳重に、マゴ人足と共に二十人の一群、イチモンジの道を上野の城下へ乗り入れてくる。
 荒木又右衛門ヤストモ、ときに三十七、来伊賀ノカミ’キンミチ、アツガサネの一刀:、ハバキモトで一寸/長さ二尺’七寸というゴウ刀、斬られても殴られても、助かりっこのない代物である。虎屋九左衛門の馬は遥かに過ぎ、鍵屋の前を桜井の馬が曲り、押えの甚左衛門が、いま万屋の軒先へさしかかった時、
「甚左衛門っ」
 ダイオンジョウの終わらぬうち大きく一足踏出した又右衛門の来金道、閃くと共に右足を斬り落としてしまった。馬から落ちる隙も刀を抜くひまも無い。タタと刻み足に諸共/いま打ち下ろした刀をひらりと返すが早いか下から斬り上げて肩口へ打込んだ。眼にも留らぬ早業である。川合甚左衛門、自慢のドウタヌキへ手をかけたが抜きも得ないで斃されてしまった。一口に刀を返してというがなかなか尋常の腕でこの返しが利くものでない:、「ホンエンの刀」と称して、真っ向へ打を入れて、受けんとする刹那、転じて胴へ返すのが本手で、これはいろいろに使うのである。打込んで行く勢いを途中で止めるのが練磨の腕前だが/敵もさる者、それを見破ってその「カン」に逆撃されると負けになる。あくまで真向微塵とみせて、ヒラリと返すのだから一流に達した腕でないと出来ない芸当である。初太刀は大抵’受けられるが、ゴのセンといって/すぐの斬り返しにまで備えるのは余程の腕が要る。片脚を落された刹那/刀を抜いて次の斬り込みに備える隙くらいは普通の相手なら有るところだが、名代の荒木又右衛門、切り下すと共に返してきたから、隙も何も有ったものでない。二太刀で物の見事にやられてしまった。甚左衛門を倒すと共に、周章てだつ小者どもに、
「邪魔すなッ」
 と大喝したから、思わず逃げ出す。
「数馬、助太刀はせぬぞッ」
 と云い捨てて、二人きりの勝負とし、小者どもを追いながら鍵屋のカドから桜井半兵衛へかかって行った。
 この早業は到底’数馬には出来ない。荒木と共に走出したが、又五郎も期していた所である。トモの槍を取るが早いかそれを力にしてひらりと左のほうへ降り立つ。
「又五郎、覚悟致せ」
「さあ、参れッ」
 万屋も鍵屋もバタバタと戸を閉める。小田町は大騒ぎになった。数馬は又右衛門に仕込まれて相当の腕にはなっている。しかし真剣の立ち合いはこれが始めてである。ただ敵に対した時の覚悟だけはちゃんとしていたらしい。美少年でも流石は寛永時代のサムライ、なかなか味のある勝負をしている。又五郎は琢磨ヒョウリンによると真刀流の達人で、弱年の頃「猫又」を退治したと書いてあるが、「猫又」などという代物が怪しいように、又五郎の腕も判らない。その証拠には源太夫を殺した時に周章てて、とどめも刺さなけりゃ、鞘まで忘れて逃げ出してしまっている。不良少年の強がりでちょっと人を斬っては見たが、度胸も腕もそうあったものとは思えない。それ以後二’三年の修行だからまずは数馬と互角の勝負、ただ槍をもっているだけが強味という所である。腕が同じだと槍のほうにブがある。槍の目録に対して刀の免許が丁度いいくらいで、一段の差があるそうである。
 又五郎は中段にくらいをとる。数馬は柳生流の青眼、穂先と切っ先がお互いにピリピリ働いて、相手に変化を計られまいとする。二尺余りを距てて睨合っているが、槍のほうから仕懸けて行くらしく/ときどき気合いと共に穂先が働く。それにつれて刀も動く。と、閃めいた穂先、流星の如く胸へ走る、数馬の備前祐定’二尺’五寸五分、はらいは払ったが、帷子の裏をかいて胸へしたたか傷けられた。
「此処だぞ」
 と、数馬は思った。
「自分は死んでもいい、その代りにはきっと又五郎は討ち取ってみせる、さあ来い」
 又右衛門の仕込んだのはこの決心である。身を捨てて敵を討つという必死の決心である、短い気合を二’三度かけるが早いか、数馬は又五郎の手元へ飛び込もうとした。さっと繰り引いて突き出す槍、胸へ閃いてくるのをそのままに/片手で槍のエを握るが早いか、ハンミを延ばして片手討ちの大上段、真っ向から斬り込んでしまった。槍は離れて得な武器だが、附き込まれて役に立たぬ。放すが早いか飛び退って腰へ手がかかる刹那、ユンデに槍をすてて/片手なぐりに二度目の祐定が打ち下す。こうなれば受ける隙も無い。ノド笛へかじりつきたいように憎みをお互いにもちながら、又五郎も斬らしておいて抜打ちに数馬の真っ向へ斬りつける。この抜打ちは承知の事だから、避けは避けたが/気が上ずっている/身体はままに動かない。耳からホオへかけて一筋かすられる。こうなればもう二人とも本当の刀は使えない。無茶苦茶に息がつづけば斬り合うだけである。相当の腕の者なら、槍を受けておいて斬り込んだ時に、致命傷を与えてそれでケリがつくのだが、腕のちがいはそうも行かない。宮本武蔵が、
「二刀を使うのは、片手でも諸手と同様に働かせるための練習である」
 と云っているがここの事である。片手で斬り込んだとき普段の練習で諸手で斬り込んだと同じ効き目があったら、数馬は矢張池田カチュウ第一の美男子でおられたかも知れないが:、不幸にしてこの心得が無かったため、顔へ二ヵ所の傷を受けてしまった。武蔵は従って大抵二刀で仕合をしていない。必ず一刀で/そして一太刀で相手を倒している。流石に剣道の第一人者だけの事がある。又右衛門とはまた同日の話ではない。
 この二人の勝負で、数馬は十’三ヵ所、又五郎は五ヵ所の手傷を受けた。池田家に保存されているこの時の祐定の刀には六ヵ所も斬り込みがあって”いかに悪闘したかを物語っているが:、伝える所によると「辰の刻よりミトキが間」というから/朝の九時から午後の三時まで斬り合っていた事になる。正味六時間、これはどうも譃らしい。又右衛門が甚左衛門を斬ったのは物の十秒とかかっていない:、それからすぐ桜井半兵衛にかかって、容易く討ち取ったのだから長くてシゴジュップンの事である。一時間とみたとしても残りの五時間を又右衛門がまた「熱燗」で、二人の勝負を見物していたとは考えられない:、このミトキは甚左衛門が斬られてから、役人の出張、負傷者の手当て、野次馬が又右衛門について役所へ行く迄の時間と見るのが正当である。
 鍵屋のカドを曲った時、桜井半兵衛は又右衛門の懸声を聞いた。とたん、物影からブ右衛門が斬りつけた。たたみかけて斬り込むカタナ、槍を取る隙が無いから、刀の鞘を払って受け止めると共に馬からうしろへひらりと降り立った。ブ右衛門と共に走り出た孫右衛門は、槍持ちの三助に斬りかかったから、三助’驚いて槍をジュウオウに振り廻す。半兵衛と三助お互いに渡しも受け取りもできない。スワっ、と驚いたが流石に半兵衛の供をしてきた若党だけある。清左衛門が抜くと共に市蔵も木刀を抜いた。定まらぬ腰ではあるが、主人大事と、遠くから「ヤアヤア」くらいで迫ってくる。ブ右衛門も又右衛門に相当のあいだ奉公していて一人前の腕だが/三人に一人の腕では無い。まして半兵衛、槍ほど無類の達者では無くとも、刀法もブ右衛門よりは上である。
「下郎、参れッ」
 と大上段、つつと小刻みに寄ったからブ右衛門’一足ひく、と中段に刀が変わるが早いか、
「エヤッ」
 躱す隙も無く、肩をざくりとやられてしまった。三助を相手にしていた孫右衛門、相手を捨てておいて、
「己れ」
 と横から斬りかかる。
「ヤア」
 と、構えられると流石にすぐは踏み込めない。三助、そのあいだに槍の鞘を払うや孫右衛門へ、
「こん畜生っ」
 と突いてかかったヤツを袖摺へ一ヵ所受けた。そのとき又右衛門が走り寄ってきたのである。血に-そんだ来金道’二尺’七寸を片手に、六尺余りの又右衛門が駆けつけたのだから小者はたまらない。浮き足だつところ孫右衛門、
「糞っ」
 というが早いか、十文字槍をもって/へっぴり腰に突いてかかった三助へ斬り込んで/一太刀肩へ斬り込んだ。ばったり倒れたので孫右衛門が暫く息をついで、半兵衛にかかろうとする。ブ右衛門は半兵衛を孫右衛門に渡したが/肩の傷がかなりに深い。気が立っているから戦いはするものの、清左衛門にまた傷を受けた。しかし、又右衛門が来て半兵衛が-おいすくめられているのをみると、小者どもはとても戦う勇気などなくなってしまう。半弓をもっていた勘蔵がうろうろしていて/ブ右衛門に尻を斬られて横っとびに逃げるし:、清左衛門もブ右衛門の決死の顔をみると薄気味悪くなって、逃げ出すのを追討ちに肩をやられる。市蔵ひとり’木刀をもって石垣の所で固くなっているのみである。ブ右衛門は二人を追払うと共にぐったりとなってしまった。鍵屋の前で又五郎と数馬が斬り合っているから/助太刀しようとして一足’踏み出すと共に倒れてしまった。気を取り直して石へ腰をおろしたが刀を杖にしたままどうもできない。
 又右衛門も相手が半兵衛だから自重している。御互に青眼、いわゆるアイ青眼の構え。
「どうした事じゃ、其処なお人に申すが敵討ちか、喧嘩か」
 という声が突当りの崖上からした。孫右衛門の耳にも誰の耳にも入ら無いが、又右衛門は微塵も逆上していない。
「敵討ち、敵討ちで御座る」
 と、じっと半兵衛を見つめながら答えた。しかし対手が老人で通らない。またしても聞くのに対して又右衛門はまた返事をしながら切っ先をカチリと半兵衛の太刀先へ当てながら/じりじりと追込んでくる。槍をもたしたならどうなったか知れぬが/ブ右衛門の命がけの働で槍をとる隙がないから/半兵衛はブの悪い太刀打ちである。喋りながらも少しの隙なく詰め寄せてくる太刀に/気は苛立ちながら、押され押されして次第に追い込まれる。軒下に焚物の枯松葉が積んであったが其処まで押つけられてしまった。散らかしてある松の小枝に半兵衛の踵がかかる、その「カン」、
「エイッ」
 心得て一足’退る。足をとられて松葉の上へ倒れかかるその一髪の隙、来金ドウが肩先へ斬り込んできた。どっと倒れる所、孫右衛門得たりと斬りつけて/耳の上と眼の上へテを負わせた。ハラハラとして、その様をみていた市蔵、来金ドウが打込むとき吾を忘れて走り出した。振りかぶった木刀、どしりと又右衛門の腰へ入った。綿入れ二枚に帯までしめていては痛い事も無い。二度目の木刀を又右衛門’振りかえりざま、
「危ないぞッ」
 と、払ったが、市蔵はシニモ-ノグルい、三度目は憎い刀めと/伊賀守金道を殴った。又右衛門も後に『不覚であった』と物語っているが、流石にアツガサねのゴウ刀が、鍔元から五寸の所で折れてしまった。又右衛門もハッとしたが市蔵も思わず驚くと/急に怖ろしくなって逃げ出した。
「孫右衛門、とどめを刺すな」
 と云っておいて又右衛門は鍵屋の前へ駆けつけた。
◇。◇。◇。
【第五章】 ────
◇。◇。◇。
 数馬と又五郎は刀を杖にしてただ立っているだけである。ノドはもうカラカラになって息もつづかない。指は硬直してしまって延びも曲りもしない。手のひらは痛むし刀は重いし、眼は霞むようだしぼんやりしてしまって/相手が刀を上げるとこっちも上げるし、休めば休むというふうに反射作用で動いているだけである。
「数馬っ、何故討てぬ。累年のカタキではないか。愚か者ッ」
 数馬が刀を取り上げると又五郎も取り上げたが、もう人の身体かも判らない。斬り込んだ刀の重み/祐定の切味で、左腕を斬り落した。又五郎も形だけは受けてみるが手もなく倒れてしまった。
「それとどめ」
 くずれるようにとどめを刺した数馬を、
「気を確かに、しっかりせぬとこのまま死んでしまうぞ」
 と労わりつつ鍵屋の軒下へ入れた。町奉行が駈け付ける。又右衛門が事情を話す。負傷者の手当てをする。それぞれ役人警護の下に引き取る所へ引き取って/上役の指図をまつ事になる。又右衛門はブ右衛門をつれて傷の手当てをしに数馬の姻族、彦坂加兵衛の家へ行って水を飲み、大めしを食って、役人のくる迄と眠ってしまった。藤堂カチュウの人々が称めるのも、鳥取侯が死んだと偽って郡山へ戻さなかったのも”三大仇討の一つと云われるのも、講釈師が飯の種にするのも、芥川竜之介が又右衛門をつよいというのも─:─もっとも芥川氏は弁慶が一番つよいんだそうである。日本人の造り出した一番つよいヤツが弁慶だからこいつに敵う奴は無いのだそうである。べんけいするヤツには敵はないとか、ベんけいは天才の母とかいうのはここから出た事である──。
 ブ右衛門は暫くして死んだ。三助と半兵衛も二三日して死んだ。又右衛門は’かすり傷を受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると”のちまで城内ふかくとどめておいたものらしい。墓は鳥取市外の玄忠寺にある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取テラマチ興禅寺に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。やはり寺町の光明寺にある。三人の子孫とも現存しているそうである。郡山には荒木の屋敷趾が保存されているし、鳥取にも跡が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にあって、念仏寺の川合ブエモンの墓と隣同志になっている。ほかの連中のは何も残っていない。鍵屋は現在もチ-ャミセである。仇討の跡には碑が立っている。
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【テイホ-ン:「仇討二十一話◇ 大衆文学館」講談社】
【1995(平成7)年3月17日初版発行】
【1995(平成7)年5月ハツカ2サツ】
【入力:atom】
【校正:大野晋】
【2000年8月23日公開】
【2000年9月ハツカ修正】
【青空文庫作成ファイル:】
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