◇。◇。◇。 【小泉八雲の家庭生活】 【室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ】 【萩原朔太郎】 ◇。◇。◇。  万葉集にある浦島の長歌を愛誦し、日夜低吟しながら逍遥していたという小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であった。希臘《ギリシャ”》イオニア列島の一つである地中海の一孤島に生れ、愛蘭土《アイルランド》で育ち、仏蘭西《フランス》に遊び米国《/米国》に渡って職を求め、西印度に巡遊し、《:、》ついに極東の日本に漂泊して、その数奇な一生を終ったヘルンは、魂のイデーする桃源郷の夢を求めて、世界を当《当て》なくさまよい歩いたボヘミアンであり、正《まさ》に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。  しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻惑した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった─《─:》─後年彼《後年’彼》は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に非《-あら》ずと言って嘆息した─《─:》─けれども、貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂しいながらも満足な晩年を経験した。ヘルン自ら、絶えずそれを羞恥したごとく、彼《/彼》のように短身矮躯で、かつ不具《/不具》に近い近眼の隻眼者で、その上に気むずかし屋の社交下手《社交ベタ》であったことから、至るところ西洋の女性に嫌われ通していた男が、《:、》日本に来て初めて人並の身長者となり、人並以上の美人を妻としか《/か》つその妻に終世深《終世ふか》く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良人《夫》に仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、《:、》後年彼《後年’彼》が多少日本《多少’日本》に幻滅して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一貫して絶讃の言葉を惜《惜し》まなかったことによっても、《:、》またその多くの『怪談』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を連想させるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の淑やかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に拠るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢餓と冷遇を忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨《サン》たる辛苦を嘗めつくして、《:、》しかも常に魂の充たされない孤独に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマートでなかったにしろ、すくなくともその妻に抱擁された家庭だけは、彼《/彼》の最後に祝福された、唯一の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初《時’初》めて心の隅に、幸福という物の侘しい実体を見たのであろう。  すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的《/家庭的》、環境的の不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普通の常識が思惟するように、日本を真に愛したからではなかった。その頃の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜い生存競争があり、常々不義《常々’不義》や奸計が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。詩人がその空想の中で画《えが》くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得《う》べからざる夢の国を、生涯夢見続《生涯’夢見続》けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。だがその時、彼《/彼》はその妻や子供のことを考えた。既に老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして国籍を持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。しかもその妻のごとき、純日本的な可憐な女を、彼《/彼》のいわゆる『野蛮人』である西洋人の社会に、孤独で生活させることの痛ましさは、想像だけでも耐えがたい残忍事だった。だが彼が帰化を決心し、日本の土となることを覚悟した時、言い知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうずつき迫るのを感じたであろう。それが日本人の抒情的な言葉で、あきらめと呼ばれるものであることさえ、おそらくヘルンは知ったであろう。  東京帝国大学の招聘に応じて、松江や熊本の地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への献身的な犠牲だった。上陸当初の日に一瞥して嘔吐を催し、現代日本の醜悪面を代表する都会と罵り、世界のどんな汚い俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼《/彼》が死んでも住みたくない所であった。しかも彼の夫人にとって──世の多くの若い女性と同じく─《─:》─東京は|あこが《憧》れの都であり、そこでの生活は一生最高《一生’最高》の理想であった。『わたし、フロックコート着る。東京に住む。皆あなたのためです』と、さすがにヘルンも夫人に愚痴をこぼしている。夫人もよくその良人《夫》の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私《みんな私》や子供のために尽してくれた犠牲でした。勿体ないほどありがたいことでした』《』/》と、その追懐談の中で沁々《しみじみ》と語っている。  彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼津の旅先から、留守居の妻に送った手紙によく現われている。 ◇。◇。◇。  小さい可愛いままさま。  よく来たと申したいあなたの可愛い手紙、今朝参《今朝’参》りました。口で言えないほど喜びました。  ままさま、《、/》少しもあぶない事はありません。どうぞ案じないで下さい。今年は一度も夜の海に行きません。乙吉と新美《シンミ》の二人が、子供を大事に気を附けます。一雄は深い所で泳いでも危《危な》いことはありません。この夏はくらげを大変恐《大変’恐》れます。しかしよく泳ぎ、そしてよく遊びます。  あの成田様のお護符《護り》のことを思う。あのいわれは可愛らしいものです。  私少《わたし少》し淋しい。今あなたの顔を見ないのは。まだですか。見たいものです。  蚤が群《群が》って集まるので眠るのは少しむつかしい。しかし朝、海で泳ぐから、皆《みんな》、夜の心配を忘れます。  今年私《今年’私》は、小さいたらいのお風呂に二三日ごとに入ります。 ◇。◇。◇。 【焼津◇ 八月十七日】 ◇。◇。◇。 【ぱぱから】 ◇。◇。◇。  可愛い子に、それから皆の人によろしく。 【小泉八雲】 ◇。◇。◇。  小さい可愛いままさま。  今朝成田様《今朝’成田様》のおまもりが参りました。ぱぱは乙吉にやりました。すると大変喜《大変’喜》びました。(中略)  ままに願う。自分の身体を可愛がるように。今あなた忙がしいでしょうね。大工や壁屋や沢山の仕事で。ですから身体を大事にするようにくれぐれも願います。  私今日《わたし今日》は忙がしかった。本屋が校正をよこしたから。しかしもう皆《みんな》すませました。  巌と一雄、丈夫で可愛らしい。海で沢山遊《たくさん遊》び黒くなりました。乙吉《乙吉’》は二人を大事にしてくれます。勉強毎日します。  さよなら、可愛いままさま。  おばばさんに可愛い言葉。  子供に接吻。 ◇。◇。◇。 【焼津◇ 八月十八日】 【小泉八雲】 ◇。◇。◇。  この情緒纏綿たる手紙は、新婚当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十歳を過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して『小さい可愛いままさま』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子煩悩であったかが解る。彼はいつも手紙の終りに『おばばさまによろしく』とか『おばばさまに可愛い言葉』とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、姑の義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の娘で、純日本風の礼儀正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非《-あら》ずば姑《/姑》の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一般に沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪《意地悪’》の姑等《姑ら》と同居したら、彼《/彼》の神国日本観は、おそらく顛倒した結果になったろうと言っている。 ◇。◇。◇。  ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服──特に浴衣を好んだ──を着《き》、畳の上に正坐し、日本の煙管で刻煙草を詰めて吸ってた。食事も米の飯に味噌汁、野菜の漬物や煮魚を食い、夜は二三合《ニ三合》の日本酒を晩酌にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)住居は度々変《たびたび変》ったが、純日本風の家を好んで、《、/》少しでも洋風を加味したものを嫌った。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚だ不機嫌であった。当時の日本は、文明開化の欧米心酔時代であったので、至るところ、彼《/彼》はそうした不機嫌の目に逢わされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の真似をしたがると、彼《/彼》は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼《/彼》の語藻《語ソウ》において『西洋人』と同字義であった。  そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。彼は学生に向《向か》っても、常に奢侈を戒めて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。贅沢な暮《暮ら》しをするほど、生活が煩瑣に複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合《一日ニ三合》の米の飯と、《、/》少しばかりの副食物と、二三合《ニ三合》の日本酒とさえあれば、それで私の生活は充分であると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風《学者ふう》の簡易生活をしていたのである。  しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を損い、趣味を害するようなものは─《─:》─人でも、家具でも、物音でも──絶対にその家庭に入《い》れなかった。書斎に仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ『私の考え破れました』《』/》といって、腹立《腹立た》しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、箪笥の抽出《引き出し》を開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない笑談《冗談》を言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家団欒の空気を作った。  どこへ旅行する時にも、彼《/彼》はいつもその妻と同伴した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末《時’末》の女の児《子》が生れたばかりで、母の手を離れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等《/彼等》の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。『私少《わたし少》し淋しい。今あなたの顔見ないのは。まだですか。早く見たいものです』と《/と》いう焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道の辺鄙な島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、《、/》少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭に住んでるような、暗く荒寥とした島嶼であった。人跡絶《人あと絶》えた山道には、人力車の通う術《スベ》もなかったので、二人の若い男女は、互に助け合いながら、蔦葛の這う細道を、幾時間となくさまよい歩いた。そして気味《キミ》わるく物凄い顔をした、雲助のような男たちに脅やかされたり、黒塚の一軒家のような家に泊って、白髪《シラガ》の恐ろしい老婆に睨まれたりした。夫人はその時のことを追想して、草双紙で読んだ昔物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚気のぬけなかった夫人は、恐らく恐怖にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。  ヘルンは常に散歩を好み、学校《/学校》の帰途などには、まだ知らない町の隅々を徘徊したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内《再度’案内》した。『今日私《今日’私》、面白い所見《ところ見》つけました。あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静閑の所であり、寺院の墓地や、邸《屋敷》の空庭や、小高い見晴らしの丘などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈を感じて『詰まン《ん》ないの』と《/と》いうような場所であった。しかし琴、生花《生け花》、茶道によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風雅を知ってた彼の妻は、良人《夫》と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲田であった。何の見る物もなく風情もないので、夫人が怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、《:、》『お聴きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中で蛙が雨のように鳴いていたのである。  松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかった。ある時は下宿をしたり、ある時は間借りをしたり、ある時は借家をしたりして、常に住居を転々としていた。しかし東京へ移ってから、子供が大ぜい生《生ま》れたりして、家内《ヤウチ》が狭くなった上に、貯財も少し出来て来たので、夫人のすすめで売家を一軒買うことにした。ある日二人は、例によって睦じく連れそいながら、牛込辺《牛込辺り》の売邸を探しに歩いた。すると一軒頃合《一軒/頃合い》の家が見つかった。それは昔の旗本が住んでた屋敷で、大きな武家風《武家ふう》の門があり、庭には蓮池などがあった。しかし何となく陰気に薄暗くじめじめして、妙に気味《キミ》の悪い厭な感じがしたので、夫人が直覚的に反対したにもかかわらず、ヘルンは一見して大いに気に入り、《:、》『面白いの家』『面白いの家』と、子供のように嬉しがって、是非それを買おうと言った。結局それは、夫人の強硬な反対によって中止されたが、後でそれが有名な化物屋敷と解った時、夫人がほッと胸を撫でおろしたとは反対に、ヘルンは大変失望《大変’失望》して、『ですからなぜ、あの家住《家’住》みませんでしたか。私あの家《’家》、面白いの家と思いました』《』/》と幾度も繰返して口惜《悔》しがった。  ヘルンについての一不思議は、あれほど広く多方面の文献に亘って、日本人以上に日本のことを知っていながら、日本語をほとんど知らなかったということである。彼の知ってた日本文字は、片仮名のイロハと僅少の漢字にすぎず、彼《/彼’》の語る日本語は、焼津からの手紙にある通り、不思議な文法によって独創された、子供の片言のような日本語である。後に買った大久保の家に、書斎を新しく建て増しする時、一切の設計や事務を妻に一任して、自分は全く無頓着で居たが、それでも妻が時々相談《ときどき相談》を持ちかけると、《:、》『もう、あの家《’家》よろしいの時、あなた言いましょう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大学に参る。よろしいの時、大久保に参ります。あの新しい家に。ただこれだけです』と煩わしそうに言った。こうしたヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかった。家族の人々は、それを《を/》『ヘルンさん言葉』と呼んで面白がった。そうした奇妙な日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となったであろう。化物屋敷《化け物屋敷》の一件以来、おそらくは『面白いの家』という言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰気な家などを指す代名詞になったであろう。それは結果において、一層八雲《いっそう八雲》の家庭を楽しく団欒的のものにした。  しかしヘルンの奇妙な言葉を、真に完全に理解し得たものは、彼《/彼’》の妻より外《ほか》にはなかった。そういう場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使って応答した。二人の仲の好い成人《大人》が、子供の片言のようなことをしゃべり合って、何時間もの長い間、笑ったり戯れたりしている風景こそ、おそらく真《シン》にフェアリイランド的であったろう。そうした夫婦の会話は女中や下僕にはもちろんのこと、子供たちにさえもよく解らなかった。『内《うち》のパパとママとは、|だれ《誰》にも解らない不思議な言葉で|だれ《/誰》にも解らない神秘のことを話している』と、学校へ行ってる男の子が、自慢らしく仲間《仲間’》の子供に語ったほど、それは奇妙な別世界の会話であった。(子供と会話する時には、ヘルンは多く英語を用いた。)  元来人間《元来’人間》の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、単に鼻を嗅ぎ合うとか、尾を振り合うとか、目をちょっと見合《見合わ》すとかいうだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は廻りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得《え》ない。自分の意志や感情やを、真《シン》によく対手に呑み込んでもらうためには、対手が自分の親友知己であり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知っているものでない限り百万言《/百万言》を費して無駄《/無駄》になる場合が多い。単に眼を見合すだけで、一切の意味が了解される恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な会話が、おそらくそういう種類のものであろう。  『人生でいちばん楽しい瞬間は』とゲーテが言ってる。『|だれ《誰》にも解らない二人だけの言葉で、|だれ《誰》にも解らない二人だけの秘密や楽しみやを、愛人同士で語り合っている時である』と。同じ家《’家》の中に住んでる家族の者にさえも、ほとんど全く解らない不思議な言葉で、何時間も倦きずに睦《/睦》じく語り合ってた二人の男女こそ、この世における最も理想的に幸福な夫婦であった。すべての恋する人々は、自分等以外《自分ら以外》に全く人影のない|離れ小島《ハナレ小島’》の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけの会話をしたいと願うのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正《まさ》にそうした通りの理想であった。彼等の愛人同士は、周囲に多くの人々が住んでる環境に居て、しかも無人島に居る二人だけの会話を会話し、二人だけの生活を自由に享楽していたのであった。  晩餐の時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を盃で傾けながら、甚だ上機嫌《ジョウ機嫌》に朗かだった。夫人や家族の者たちは、彼《/彼》の左右に侍って酌をしながら、その日の日本新聞を読んできかせた。(ヘルン自身には、英字新聞しか読めなかったから。)ある日の新聞に、次のような記事が出ていた。山の手の某所に住んでるある華族の老婦人が、非常に極端な西洋嫌いで、何でも舶来のものやハイカラなものは、一切『西洋臭い』と言って使用しない。そのためその家《’家》では、シャボンやランプはもちろんのこと女中《/女中》たちの髪飾や持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、万事皆昔《万事みんな昔》の大名御殿にそっくりなので、《:、》どの女中も居つかずに逃げ出してしまい、人に頼んで募集しても、『あのお邸《屋敷》なら真ッぴら、真ッぴら』と言って寄りつかない、《:、》というような記事が明治時代の新聞に特有な洒落本口調で書いてあった。  夫人がそれを読んできかすと、ヘルンはすっかり上機嫌《ジョウ機嫌》になってしまい、『いかに面白い。いかに面白い』と、子供のように手を拍って悦びながら、『私、その人大好きです。そのような人、私の一番の友達。私見《わたし見》る好きです。その家《’家》、私是非見《私ぜひ見》る好きです。私、《、/》少しも西洋臭くない』と言って大満足なので、『あなた西洋臭くないでしょう。しかし、あなた鼻高い。眼青《目青》い。駄目です』などと夫人に|からか《揶揄》われ、『あ、どうしよう、私この鼻』な《/な》ど言って悄気返り、『真ッぴら、真ッぴら』と、今おぼえたばかりの日本語を面白がって使ったりして、夫人や女中たちを大笑いさせたりしているのだが、その後《あと》で、《:、》『しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するのです』と言ったヘルンは、真に日本を熱愛した詩人であった。晩年多少日本《晩年’多少’日本》に幻滅を感じた時でさえも、他の外人が日本を悪意的に批評する時、いつも憤然として大《大い》に怒り、さながら自分の愛人を侮辱された時の騎士のごとく、鋭い反撃の槍をふるって突き当《当た》って行った。そうした八雲の心理は、我が子の魯鈍に幻滅を感じてる親が、他人から、その愛児の悪評を聞いて怒る心理と、よく似たものであったと思われる。  日本が西洋臭くなり日本《/日本》の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとって忍びがたい悲哀であった。なかんずくヘルンを最も悲しませたのは、盆踊等の農村行事や風俗やが、明治政府によって禁圧されたことから、自然に衰褪して来ることだった。彼はそれを憤慨しているが、むしろ彼の真の怒りは基督教に向《向か》っていた。政府が盆踊を禁ずるのも、国民が欧米人の真似をするのも、固有の日本文化が亡びるのも、すべて皆基督教《みんな基督教》の宣教師が宣伝するためであり、一切の悪は耶蘇教の罪に帰せられた。『皆《みんな》、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆悪《みんな悪》くするのです。耶蘇、日本の敵です』と、至るところで彼は耶蘇教を罵り、その宣教師を仇敵のごとく憎んでいる。そうした彼は、事実上において熱心な仏教信者でもあった。彼の信仰の中には、仏教的な輪廻永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によって、一種独特《一種’独特》の人生観《人生観’》にまで展開していた。『自分が死んでから、後生が鳥や虫に生れ変《変わ》るとしても、自分は少しも悲しいと思わない。なぜなら鳥《’鳥》や虫の生活の方《ほう》が、人間よりも不幸であるとは思えないから』と、あるエッセイの中で書いてるヘルンは、《:、》日本人の民族化した仏教情操であるところの、あの『物のあわれ』の抒情的ペーソスを知ってたのである。  そうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散歩区域は、寺院の閑静な境内だった。特に東京の富久町に居た時には、近所の瘤寺《瘤デラ》へ毎日のように出かけて行った。その寺は庭が広く、背後に老杉《ロウサン》の茂った林があったので、彼《/彼》の瞑想的な散歩に最も好ましい所であった。寺の老僧とも懇意になり、ついにある時、自分がその住持になりたいと言い出し、夫人と次のような問答をした。  『ママさん私この寺に坐る。むずかしいでしょうか』  『あなた、坊さんでない。ですから、むずかしいですね』  『私、坊さん。なんぼ仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』  『あなた、坊さんになる。面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです』  『その同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄(註、長男)小さい坊主です。いかに可愛いでしょう。毎日経よむと墓を弔《-とむら》いするで、よろこぶの生きるです』  『あなた、ほかの世、坊さんと生《生ま》れて下さい』  『ああ、私願《わたし願》うです』  人間よりも、虫や鳥の方《ほう》が幸福だと言ったヘルンは、人生について、悲哀の外《ほか》の何物をも知らなかった。厭離一切娑婆世界《オンリ一切娑婆世界》の厭世観は、ヘルンの多くの作品中に一貫して、その特殊な文学情操の基調となってる。 ◇。◇。◇。  彼の文学は、本質的に我が『方丈記』や『徒然草』の類《類い》と同じく、仏教的無常観によった『遁世者の文学』であり、ヘルン自身がまた現実の『遁世者』であった。寺の住持になって世を隠遁し、読経と墓掃除《ハカ掃除》に余生を送りたいといった彼の言葉は、決して一時の戯れではなく、彼《/彼’》の心の無限の悲哀を告白した言葉であった。だがそうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き届いた妻の奉仕も、決して慰めることのできないものであったからだ。しかしもし、現実に八雲が世捨人になったとしたら、おそらくその貞淑な夫人もまた、『その同じ時』比丘尼になったかも知れないのである。  こうした悲しい対話──これほどにも悲しい対話があるだろうか─《─:》─が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩《-し》のごとく、半ば笑談《’冗談》のようにして語られた。『あなたの鼻高い、あなたの眼大きい』などという時、夫人はいつも指でヘルンの顔を突《突っ》ついたりして、子供を扱うようにして戯れからかった。その度《-たび》ごとに、ヘルンはまた『ごめん、ごめん』などと言って笑いふざけた。そうした外観《うわべ》だけを見ている人は、おそらくこうした夫婦の生活を、たわいもない子供の『ままごと』遊びのように思ったであろう。しかもその対話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が含まれていた。そしてその悲哀の意味を知ってるものは、世界にただ二人の、妻と良人《夫》よりなかったのである。『家《うち》のパパとママとは、|だれ《誰》にも解らない不思議な言葉で、|だれ《誰》にも解らない神秘なことを話している』と子供が無邪気に言った言葉は、実際にもっと神秘な意味をもっていたのである。 ◇。◇。◇。  ヘルン夫妻の結婚は、すべての点において特異であり、世の常の凡俗な夫婦関係とちがっていた。ヘルンにとっての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に『可愛い小さいママさま』であったと共に、またその仕事の忠実な助手でもあり秘書《/秘書》でもあった。日本字の読めないヘルンは、その『怪談』や『骨董』やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの蕊《芯》を暗くし、幽暗《ユウアン》な怪談気分にした部屋の中で、夫人の前に端坐して耳をすました。話が佳境に入って来ると、ヘルンは恐ろしそうに顔色を変え、『その話、怖いです、怖いです』といっておののきふるえた。夫人にとっては、それがまた何より面白いので、話がおのずから雄弁になり、子供に聞かすようにしてなだめ話《’話》した。  こうした夫婦の生活では、読書が妻の重大な役目だった。ヘルンが学校に行ってる間、夫人は暇を盗んで熱心に読書をし、手の及ぶ限り、日本の古い伝説や怪談の本を漁《-あさ》りよんだ。夫人が書斎の掃除をしたり、家事の雑務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であった。『ママさん。あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され』と言った。しかしヘルンは、素読される書物の記事には、何の興味も持たなかった。すべての物語は、夫人自身の主観的の感情や解釈を通じて、実感的に話されねばならなかった。『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考《考え》でなければいけません』と常にいった。それ故多《ゆえ多》くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によって主観的に翻案化され、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文学化したものであった。それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻《みんな妻》の功績によるものだといって、深《ふか》く夫人の労に感謝し、ある著述のごときは、実際に夫人の名で出版しようとしたほどであった。しかし夫人はあくまで良人《夫》に対して謙遜だった。彼女は田舎の程度の低い学校を出たばかりで、充分の高等教育を受けなかったので、常に自分の無学を悲しみ、良人《夫》に対して満足な奉仕ができないことを嘆き詫びた。  ある時ヘルンから万葉集の歌を質問され、答えることができなかったので、泣いてその無学を詫び、良人《夫》に不実の罪の許しを乞うた。その時ヘルンは、黙って彼女を書架の前に導き、彼《/彼》の尨大《膨大》な著作全集を見せて言った。この沢山の自分の本は、一体どうして書けたと思うか。皆妻《みんな妻》のお前のお蔭で、お前の話を聞いて書いたのである。『あなた学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書《わたし書》けました』《』/》と言った。実際もし彼の妻がインテリ女性であったとすれば、日本の古い伝説や怪談やを、女の素直な心で率直に実感することはできなかったろう。『無学で貞淑な女は天才以上である』とニイチェが言っているが、ヘルンの妻のごとき女性は、正《まさ》にその意味での『天才以上』であったのである。  こうした貞淑の妻にかしずかれて、日本での晩年を平和に暮《暮ら》した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覚していた。彼はその故国の友人に手紙を書き、日本での生活実況を次のように詳述している。曰く、学校の講義が終《終わ》ると、車夫が人力車を持って迎えに来ている。家の玄関へつくと、車夫がとても威勢の好《良》い大きな声で、『お帰りい』と叫ぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て来る。妻や女中たちが、玄関の畳《’畳》に列び坐って、『お帰り遊ばせ』とお辞儀をする。それから座敷へ上《上が》ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かえさせてくれる。まるで女の子が、人形を玩具にするようである。私は妻の為す通りに任せている。それから少し休息し、書斎に入って仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まって話をする。私が日本酒を飲むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑う。私も時々笑談《ときどき冗談》を言う。仕事の多い日には、しばしば夜更かしをして書きつづける。そういう時、妻はわざわざ私の所へやって来て、『遅くなりますから、お先へ休ませて戴きます』と言う、丁寧に|三つ《ミツ》指をついてお辞儀をし、それから自分の寝床へ入る。度々のことで面倒だから、今度から止《辞》めにして、先へ勝手に寝ることにしろと何度も言うが、妻は婦道に背くと言い、なかなか承知しないので困っている云々《/云々》(大意)と。  こうした手紙の中に、ヘルンの大得意な満悦さが現われている。実際彼《実際’彼》の妻のように、良人《夫》に対して忠実な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中にはほとんどなく、《:、》これほどまた男が殿様扱いにされる家庭生活も、西洋では考え及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外国人たちが、いかにその日本の友人を羨望したかが想像される。ヘルン自身も、もちろんまたそれを意識して書いてるので、《:、》『どうだ。|羨や《羨》ましかろう』と《/と》いう自誇《ジコ》の情が、そうした手紙の言外によく現われてる。  しかしヘルンのように神経質で気むずかしく、感情の変化が烈しい男に仕えるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に為し得ないことであったろう。真の『貞淑』とは、良人《夫》に奴婢としての善《良》き奉仕をすることではなくして、良人《夫》の気質や性格をよく理解し、努めて良人《夫》に同化して一心同体となることの奉仕である。そしてそのためには、人の心理を洞察する聡明な智慧《知恵》と、絶えず同化しようと努めるところの、献身的な意志と努力が必要である。ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人《夫》の気性をすっかり呑み込むようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後《あと》では、全く子供のように正直一途で、子供のように純情無比の人であったと言ってる。実際ヘルンは──多くの天才的な詩人と同じように─《─:》─本質的に子供らしい純情さと無邪気さを持った性格者だった。そのため夫人は一面において旧日本的な婦道と礼節とによって、恭しく彼に仕えながらも、半面においては彼を子供扱いにせねばならなかった。夫人にとってのヘルンは、最も信頼する良人《夫》であったと共に、一面ではまた『大きな駄々ッ子坊や』でもあった。ヘルンの趣味はすべてにおいて庶民的で、儀式ばったことが嫌いなので、フロックコートなどの礼服を非常に嫌い、常に野蛮人の服と称し『な《/な》んぼ野蛮の物』と言っていた。それで学校に式のある時など、他の教師は皆礼服《みんな礼服》で列席するのに、ヘルンは一張羅の背広で押し通していた。しかしそれではあまり体面に関するので、夫人が是非フロックコートを新調するようにすすめたが、頑として中々きかない。それで夫人から『《◇『》あなた、日本のこと、大変よく書きましたから、お上で、あなた賞めるためお呼びです。お上に参るの時、あなた、シルクハット、フロックコートですよ』などと、子供をだますようにして説き伏せられ、やっと礼服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に押えつけ、女中までが手伝って騒ぎながら、まるで駄々ッ子を扱うように、あやしたりすかしたりして、厭がるのを強いて着せねばならなかった。  いわゆる『文明』を嫌ったヘルンは、反対にあらゆる自然を深く愛した。特に虫や鳥やの小動物を愛し、蛇、蛙、蝉、蜘蛛、蜻蛉、蝶などが好きであった。それらの小動物に対して、彼《/彼》はいつも『あなた』《』/》という言葉で呼びかけ、人間と話すようにして話をした。そうした彼の宇宙的博愛主義は、草木万有の中に霊性が有ると信じられてるところの、仏教的な汎神論にもとづいていた。それ故彼《ゆえ彼》は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を虐めたり殺したりすることを非常に叱った。女中が蛇を追ったといって叱られ、植木屋が筍を抜いたといって怒られ、はては『おババさま』の姑でさえが、枯れた朝顔をぬいたというので《で:》『おババさま好き人です。しかし朝顔に気の毒しました』《』/》と叱言を言われた。  ヘルンはまた猫が特別に好きであった。松江に居た時も焼津に居た時も、道に捨猫さえ見れば拾って帰り、幾疋《幾匹》でも飼って育てた。夫人と結婚して間《マ》もない頃、雨でずぶ濡れになった小猫を拾って帰り、その泥だらけの《の-》ままの猫を懐中《カイチュウ》に入れて、長い間やさしく暖めていた。夫人の告白によれば、自分の良人《夫》に対する真の愛は、その時初《時’初》めて起《起こ》ったという。これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思い、ヘルンに対して、何かいじらしく涙ぐましいものさえも感じたというのである。  そうしたヘルンの家庭では、自然界のちょっとした出来事や現象やが、いつも物珍らしく大騒ぎの種になるのであった。たとえば裏の竹藪に蛇が出たとか、蟇《ヒキ》が鳴いてるとか、蟻の山が見つかったとか、梅の花が一輪咲いたとか、夕焼が美しく出ているとかいうようなことを、|だれ《誰》か家人の一人が発見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。するとヘルンは大悦《大喜》びで部屋をとび出し、『いかに可愛きでしょう』とか『なんぼ楽しいの声でしょう』とか『い《/い》かに綺麗』とか言いながら、何時間もその小動物を眺めたり、夕焼雲《夕焼け雲》を見たりして悦ぶので、《:、》そうした小事件が見つかるたびに、女中や書生等《書生ら》の家人たちが、さも大手柄の大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へ馳《駆け》つけるので、いつも家中が和やかに賑っていた。  しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの八釜しい主人であった。家内のちょっとした物音や話声《話し声》にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど『美しいシャボン玉』を壊さないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が折を見て掃除に行くと、《:、》『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪い病《癖》です』といって、中々許《中々’許》してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。  ヘルンの机の座右には、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事の中《うち》にも手当り次第に掴み出しては、国分の刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、江の島に遊んだ土産として、大きな法螺貝を買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、『面白いの音《おと》』といいながら、頬《ホオ》をふくらして、ボオボオと吹き鳴らしては、また『いかに面白い』といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草《今後’煙草》の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという約束にした。  西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外《ほか》に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老僕が一人、他に抱車夫が一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数《マカズ》がいくつもあって廊下続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質《みんな神経質》に注意しているので、家中がひッ《っ》そりとして閑寂に静まり返っていた。そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞《聞こ》えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと余韻の浪をうって伝って来る。すると『それ貝が鳴った』《』/》とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に駈けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』《』/》と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き渋り、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを紛らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。  晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。既に老《老い》の近づいたことを知った彼は、自分の残されてる短かい時間に、なおまだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考えて愁然とし、『人生は|短か《短》すぎる』と幾度も言って嘆息した。彼は心臓に病《病い》があった。その危険な兆候が、五十歳を越えてからしばしば現われて来た。初めて大久保の新居に移った時は、春の麗らかな日であって、裏の竹藪で鶯がしきりに鳴いてた。八雲は縁側に立ってそれに聞き惚れ、『いかに面白いと楽しいですね』と言って喜んだが、また『私、心痛いです』と言った。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり楽しくて嬉しいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が続くかと思い、それがまた心配になって来たと言った。そうした彼の言葉通りに、現実の心配が迫って来た。老いが既に来り、死の近づいて来たことを知った彼は、すべての自然を感傷的に眺めることから、万象に対して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の桜が返り咲きをしたのを見て、『春のように暖かいから、桜思いました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし‥‥《:‥》』と言って悲しげに『かわいそうです。今に寒くなります。驚いて凋みましょう』と言った。桜は実際その日一日《ヒ-イチニチ》で散ってしまった。またその同じ秋の夕べ、籠に飼ってる松虫が鳴いてるのを聞き、『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悦びました。しかし段々寒《段々’寒》くなって来ました。知ってますか。知っていませんか。直《じき》に死なねばならないということを。気の毒ですね。かわいそうな虫』と寂しげに言い、この頃の暖かい日に、そっと草むらの中に放してやれ、と家人に言いつけた。  その頃のヘルンは、瞬時を惜しんで仕事に熱中していたため、以前のようには、度々妻《たびたび妻》と一所に旅行したり、散歩したりすることができなかった。それで妻の屈託を慰めようとし、夫人に向《向か》って度々外出《たびたび外出》や遊山をすすめた。『外に参りよき物見る。と聞く。と帰るの時、《、/》少し私に話し下され。ただ家に本を読むばかり、いけません』と言った。また時々は夫人に芝居見物をすすめて、『歌舞伎座に団十郎、たいそう面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のお土産』など言いながら、後ではいつも少し凋れて『しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私《家わたし》の家ではありません。いかに詰《詰ま》らんです。しかし仕方がない』などと言った。  初めて病気の発作が起《起こ》った時、ヘルンは自己の運命をすっかり自覚し、死後における妻子の保護と財産の管理とを、親友の法学士に一任して、後《あと》に心がかりのないようにした。そして妻に向《向か》って言った。『この痛み、もう大きの、参りますならば、多分私《多分’私》は死にましょう。私死《わたし死》にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買《カメ買》いましょう。三銭あ《/あ》るいは四銭位《4銭くらい》です。私の骨入《骨い》れるために。そして田舎の、寂しい寺に埋めて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悦ぶ。私死《わたし死》にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです』と、そして何か困難な事件が起《起こ》ったならば、法学士の梅氏に相談しろと言った。『そのような哀れな話、して下さるな。そのようなこと、決してないのです』と夫人が言うに対しても、《:、》『心からの話、真面目のことです』と言い、『仕方ない❢』と死を覚悟していた。しかもなお残された仕事のことを考え、『人生は|短か《短》すぎる』と幾度か嘆息した。  桜の花が返り咲きをした日から、数日を経てまもなくヘルンは死んでしまった。死ぬ前の日に、彼《/彼》は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那でもない、大層遠《大層’遠》い遠い見知らぬ国へ、長い旅をした夢であった。そして今ここに居る自分が本当か、旅をした自分が本当かと夫人に問い、《:、》『ああ夢の世の中』、と呟いて寂しげに嘆息した。わ《我》が漂泊の詩人芭蕉は『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』といって死んだ。夢見ることによって生きた詩人等《詩人ら》は、また夢見ることの中で死ぬのであった。世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。今、この悲しい詩人の霊は、雑司ヶ谷の草深い墓地の中に、一片の骨となって埋まっている。 (昭和十六年九、十月) ◇。◇。◇。 【底本:「ちくま日本文学全集◇ 萩原朔太郎」筑摩書房】 【1991(平成3)年10月二十日第1刷発行】 【底本の親本:「萩原朔太郎全集◇ 第十一巻《第11巻》」筑摩書房】 【1977(昭和52)年8月25日】 【初出:「日本女性」】 【1941(昭和16)年9月号・10月号】 【※《◇》底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【※《◇》「馳《かけ》つけ」と「駈けつけ」、《:、》「二三合《ニ三合》の日本酒」と「二三本の日本酒」の混在は、底本通りです。】 【※《◇》表題は底本では、「小泉八雲の家庭生活」となっています。】 【※《◇》副題は底本では、「室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」となっています。】 【※《◇》誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。】 【入力:きりんの手紙】 【校正:岡村和彦】 【2021年5月27日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。