小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ 萩原朔太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)浦島《うらしま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)日夜|低吟《ていぎん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あきらめ[#「あきらめ」に傍点] -------------------------------------------------------  万葉集にある浦島《うらしま》の長歌を愛誦《あいしょう》し、日夜|低吟《ていぎん》しながら逍遥《しょうよう》していたという小泉八雲は、まさしく彼《かれ》自身が浦島の子であった。希臘《ギリシャ》イオニア列島の一つである地中海の一|孤島《ことう》に生れ、愛蘭土《アイルランド》で育ち、仏蘭西《フランス》に遊び米国に渡《わた》って職を求め、西|印度《インド》に巡遊《じゅんゆう》し、ついに極東の日本に漂泊《ひょうはく》して、その数奇《すうき》な一生を終ったヘルンは、魂《たましい》のイデーする桃源郷《とうげんきょう》の夢《ゆめ》を求めて、世界を当《あて》なくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。  しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻惑《げんわく》した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった――後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に非《あら》ずと言って嘆息《たんそく》した――けれども、貞淑《ていしゅく》で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂《さび》しいながらも満足な晩年を経験した。ヘルン自ら、絶えずそれを羞恥《しゅうち》したごとく、彼のように短身|矮躯《わいく》で、かつ不具に近い近眼の隻眼者《せきがんしゃ》で、その上に気むずかし屋の社交|下手《べた》であったことから、至るところ西洋の女性に嫌《きら》われ通していた男が、日本に来て初めて人並《ひとなみ》の身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良人《おっと》に仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に幻滅《げんめつ》して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一貫《いっかん》して絶讃《ぜっさん》の言葉を惜《おし》まなかったことによっても、またその多くの『怪談《かいだん》』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を聯想《れんそう》させるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の淑《しと》やかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に拠《よ》るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢餓《きが》と冷遇《れいぐう》を忍《しの》びながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨《さん》たる辛苦《しんく》を嘗《な》めつくして、しかも常に魂の充《み》たされない孤独《こどく》に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマートでなかったにしろ、すくなくともその妻に抱擁《ほうよう》された家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一《ゆいいつ》の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の隅《すみ》に、幸福という物の侘《わび》しい実体を見たのであろう。  すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環境的《かんきょうてき》の不遇《ふぐう》に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普通《ふつう》の常識が思惟《しい》するように、日本を真に愛したからではなかった。その頃《ころ》の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜《みにく》い生存競争があり、常々不義や奸計《かんけい》が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。詩人がその空想の中で画《えが》くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、生涯《しょうがい》夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。だがその時、彼はその妻や子供のことを考えた。既《すで》に老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして国籍《こくせき》を持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。しかもその妻のごとき、純日本的な可憐《かれん》な女を、彼のいわゆる『野蛮人《やばんじん》』である西洋人の社会に、孤独で生活させることの痛ましさは、想像だけでも耐《た》えがたい残忍事《ざんにんじ》だった。だが彼が帰化を決心し、日本の土となることを覚悟《かくご》した時、言い知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうずつき迫《せま》るのを感じたであろう。それが日本人の抒情的《じょじょうてき》な言葉で、あきらめ[#「あきらめ」に傍点]と呼ばれるものであることさえ、おそらくヘルンは知ったであろう。  東京|帝国《ていこく》大学の招聘《しょうへい》に応じて、松江《まつえ》や熊本《くまもと》の地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への献身的《けんしんてき》な犠牲《ぎせい》だった。上陸当初の日に一瞥《いちべつ》して嘔吐《おうと》を催《もよお》し、現代日本の醜悪面《しゅうあくめん》を代表する都会と罵《ののし》り、世界のどんな汚《きたな》い俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であった。しかも彼の夫人にとって――世の多くの若い女性と同じく――東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であった。『わたし、フロックコート着る。東京に住む。皆《みな》あなたのためです』と、さすがにヘルンも夫人に愚痴《ぐち》をこぼしている。夫人もよくその良人の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私や子供のために尽《つく》してくれた犠牲でした。勿体《もったい》ないほどありがたいことでした』と、その追懐談《ついかいだん》の中で沁々《しみじみ》と語っている。  彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼津《やいづ》の旅先から、留守居《るすい》の妻に送った手紙によく現われている。 [#ここから1字下げ]  小サイ可愛《カワイ》イママサマ。  ヨク来タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、今朝《ケサ》参リマシタ。口デ言エナイホド喜ビマシタ。  ママサマ、少シモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ[#「一度モ」は底本では「一度も」]夜ノ海ニ行キマセン。乙吉《オトキチ》ト新美《シンミ》ノ二人ガ、子供ヲ大事ニ気ヲ附《ツ》ケマス。一雄《カズオ》ハ深イ所デ泳イデモ危《アブナ》イコトハアリマセン。コノ夏ハクラゲヲ大変|恐《オソ》レマス。シカシヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。  アノ成田様ノオ護符《マモリ》ノコトヲ思ウ。アノイワレハ可愛ラシイモノデス。  私少シ淋《サビ》シイ。今アナタノ顔ヲ見ナイノハ。マダデスカ。見タイモノデス。  蚤《ノミ》ガ群ッテ集マルノデ眠《ネム》ルノハ少シムツカシイ。シカシ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。  今年私ハ、小サイタライノオ風呂《フロ》ニ二三日ゴトニ入リマス。 [#ここから5字下げ] 焼津 八月十七日 [#ここから2字下げ] パパカラ [#ここから3字下げ] 可愛イ子ニ、ソレカラ皆ノ人ニヨロシク。 [#地から1字上げ]小泉八雲 [#ここから1字下げ]  小サイ可愛イママサマ。  今朝成田様ノオマモリガ参リマシタ。パパハ乙吉ニヤリマシタ。スルト大変喜ビマシタ。(中略)  ママニ願ウ。自分ノ身体《カラダ》ヲ可愛ガルヨウニ。今アナタ忙《イソ》ガシイデショウネ。大工《ダイク》ヤ壁屋《カベヤ》ヤ沢山《タクサン》ノ仕事デ。デスカラ身体ヲ大事ニスルヨウニクレグレモ願イマス。  私今日ハ忙ガシカッタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。シカシモウ皆スマセマシタ。  巌《イワオ》ト一雄、丈夫《ジョウブ》デ可愛ラシイ。海デ沢山遊ビ黒クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強毎日シマス。  サヨナラ、可愛イママサマ。  オババサンニ可愛イ言葉。  子供ニ接吻《セップン》。 [#ここから4字下げ] 焼津 八月十八日 [#地から1字上げ]小泉八雲 [#ここで字下げ終わり]  この情緒纏綿《じょうしょてんめん》たる手紙は、新婚《しんこん》当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十|歳《さい》を過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して『小サイ可愛イママサマ』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた子煩悩《こぼんのう》であったかが解《わか》る。彼はいつも手紙の終りに『オババサマニヨロシク』とか『オババサマニ可愛イ言葉』とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、姑《しゅうとめ》の義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の娘《むすめ》で、純日本風の礼儀《れいぎ》正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に非《あら》ずば姑の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、一般《いっぱん》に沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪の姑等と同居したら、彼の神国日本観は、おそらく顛倒《てんとう》した結果になったろうと言っている。  ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服――特に浴衣《ゆかた》を好んだ――を着、畳《たたみ》の上に正坐《せいざ》し、日本の煙管《きせる》で刻煙草《きざみたばこ》を詰《つ》めて吸ってた。食事も米の飯に味噌汁《みそしる》、野菜の漬物《つけもの》や煮魚《にざかな》を食い、夜は二三合の日本酒を晩酌《ばんしゃく》にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)住居は度々《たびたび》変ったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを嫌《きら》った。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも甚《はなは》だ不機嫌《ふきげん》であった。当時の日本は、文明開化の欧米心酔《おうべいしんすい》時代であったので、至るところ、彼はそうした不機嫌の目に逢《あ》わされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の真似《まね》をしたがると、彼は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼の語藻《ごそう》において『西洋人』と同字義であった。  そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。彼は学生に向っても、常に奢侈《しゃし》を戒《いまし》めて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。贅沢《ぜいたく》な暮《くら》しをするほど、生活が煩瑣《はんさ》に複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさえあれば、それで私の生活は充分《じゅうぶん》であると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風の簡易生活をしていたのである。  しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を損《そこな》い、趣味《しゅみ》を害するようなものは――人でも、家具でも、物音でも――絶対にその家庭に入れなかった。書斎《しょさい》に仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ『私の考え破れました』といって、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》を開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない笑談《じょうだん》を言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家|団欒《だんらん》の空気を作った。  どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と同伴《どうはん》した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を離《はな》れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。『私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、山陰道《さんいんどう》の辺鄙《へんぴ》な島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい山蔭《やまかげ》に住んでるような、暗く荒寥《こうりょう》とした島嶼《とうしょ》であった。人跡《ひとあと》絶えた山道には、人力車の通う術《すべ》もなかったので、二人の若い男女は、互《たがい》に助け合いながら、蔦葛《つたかずら》の這《は》う細道を、幾時間《いくじかん》となくさまよい歩いた。そして気味わるく物凄《ものすご》い顔をした、雲助のような男たちに脅《おび》やかされたり、黒塚《くろづか》の一軒家《いっけんや》のような家に泊《とま》って、白髪《しらが》の恐《おそ》ろしい老婆《ろうば》に睨《にら》まれたりした。夫人はその時のことを追想して、草双紙《くさぞうし》で読んだ昔《むかし》物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い稚気《ちき》のぬけなかった夫人は、恐らく恐怖《きょうふ》にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。  ヘルンは常に散歩を好み、学校の帰途《きと》などには、まだ知らない町の隅々《すみずみ》を徘徊《はいかい》したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい静閑《せいかん》の所であり、寺院の墓地や、邸《やしき》の空庭や、小高い見晴らしの丘《おか》などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も退屈《たいくつ》を感じて『詰《つ》まンないの』というような場所であった。しかし琴《こと》、生花《いけばな》、茶道《さどう》によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの風雅《ふうが》を知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い闇夜《やみよ》の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の稲田《いなだ》であった。何の見る物もなく風情《ふぜい》もないので、夫人が怪《あや》しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お聴《き》きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中で蛙《かえる》が雨のように鳴いていたのである。  松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかった。ある時は下宿をしたり、ある時は間借りをしたり、ある時は借家をしたりして、常に住居を転々としていた。しかし東京へ移ってから、子供が大ぜい生れたりして、家内《やうち》が狭《せま》くなった上に、貯財も少し出来て来たので、夫人のすすめで売家を一軒買うことにした。ある日二人は、例によって睦《むつま》じく連れそいながら、牛込辺《うしごめあたり》の売邸を探しに歩いた。すると一軒|頃合《ころあい》の家が見つかった。それは昔の旗本が住んでた屋敷《やしき》で、大きな武家風の門があり、庭には蓮池《はすいけ》などがあった。しかし何となく陰気に薄暗《うすぐら》くじめじめして、妙《みょう》に気味の悪い厭《いや》な感じがしたので、夫人が直覚的に反対したにもかかわらず、ヘルンは一見して大いに気に入り、『面白いの家』『面白いの家』と、子供のように嬉《うれ》しがって、是非それを買おうと言った。結局それは、夫人の強硬な反対によって中止されたが、後でそれが有名な化物《ばけもの》屋敷と解った時、夫人がほッと胸を撫《な》でおろしたとは反対に、ヘルンは大変失望して、『ですからなぜ、あの家住みませんでしたか。私あの家、面白いの家と思いました』と幾度《いくど》も繰返《くりかえ》して口惜《くや》しがった。  ヘルンについての一不思議は、あれほど広く多方面の文献に亘《わた》って、日本人以上に日本のことを知っていながら、日本語をほとんど知らなかったということである。彼の知ってた日本文字は、片仮名のイロハと僅少《きんしょう》の漢字にすぎず、彼の語る日本語は、焼津からの手紙にある通り、不思議な文法によって独創された、子供の片言のような日本語である。後に買った大久保《おおくぼ》の家に、書斎を新しく建て増しする時、一切《いっさい》の設計や事務を妻に一任して、自分は全く無頓着《むとんちゃく》で居たが、それでも妻が時々相談を持ちかけると、『もう、あの家よろしいの時、あなた言いましょう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大学に参る。よろしいの時、大久保に参ります。あの新しい家に。ただこれだけです』と煩《わずら》わしそうに言った。こうしたヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかった。家族の人々は、それを『ヘルンさん言葉』と呼んで面白がった。そうした奇妙《きみょう》な日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となったであろう。化物屋敷の一件以来、おそらくは『面白いの家』という言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰気な家などを指す代名詞になったであろう。それは結果において、一層八雲の家庭を楽しく団欒的のものにした。  しかしヘルンの奇妙な言葉を、真に完全に理解し得たものは、彼の妻より外にはなかった。そういう場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使って応答した。二人の仲の好い成人《おとな》が、子供の片言のようなことをしゃべり合って、何時間もの長い間、笑ったり戯《たわむ》れたりしている風景こそ、おそらく真にフェアリイランド的であったろう。そうした夫婦の会話は女中や下僕《げぼく》にはもちろんのこと、子供たちにさえもよく解らなかった。『内のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉でだれにも解らない神秘のことを話している』と、学校へ行ってる男の子が、自慢《じまん》らしく仲間の子供に語ったほど、それは奇妙な別世界の会話であった。(子供と会話する時には、ヘルンは多く英語を用いた。)  元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、単に鼻を嗅《か》ぎ合うとか、尾《お》を振《ふ》り合うとか、目をちょっと見合すとかいうだけで、相互《そうご》の意志が完全に疎通《そつう》するのに、人間は廻《まわ》りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。自分の意志や感情やを、真によく対手《あいて》に呑《の》み込《こ》んでもらうためには、対手が自分の親友|知己《ちき》であり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知っているものでない限り百万言を費して無駄《むだ》になる場合が多い。単に眼《め》を見合すだけで、一切の意味が了解《りょうかい》される恋人《こいびと》同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な会話が、おそらくそういう種類のものであろう。 『人生でいちばん楽しい瞬間《しゅんかん》は』とゲーテが言ってる。『だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの秘密や楽しみやを、愛人同士で語り合っている時である』と。同じ家の中に住んでる家族の者にさえも、ほとんど全く解らない不思議な言葉で、何時間も倦《あ》きずに睦じく語り合ってた二人の男女こそ、この世における最も理想的に幸福な夫婦であった。すべての恋する人々は、自分等以外に全く人影《ひとかげ》のない離《はな》れ小島の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけの会話をしたいと願うのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正にそうした通りの理想であった。彼等の愛人同士は、周囲に多くの人々が住んでる環境《かんきょう》に居て、しかも無人島に居る二人だけの会話を会話し、二人だけの生活を自由に享楽《きょうらく》していたのであった。  晩餐《ばんさん》の時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を盃《さかずき》で傾《かたむ》けながら、甚だ上機嫌に朗かだった。夫人や家族の者たちは、彼の左右に侍《はべ》って酌《しゃく》をしながら、その日の日本新聞を読んできかせた。(ヘルン自身には、英字新聞しか読めなかったから。)ある日の新聞に、次のような記事が出ていた。山の手の某所《ぼうしょ》に住んでるある華族《かぞく》の老婦人が、非常に極端《きょくたん》な西洋嫌いで、何でも舶来《はくらい》のものやハイカラなものは、一切『西洋|臭《くさ》い』と言って使用しない。そのためその家では、シャボンやランプはもちろんのこと女中たちの髪飾《かみかざり》や持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、万事皆昔の大名御殿《だいみょうごてん》にそっくりなので、どの女中も居つかずに逃《に》げ出してしまい、人に頼《たの》んで募集《ぼしゅう》しても、『あのお邸なら真ッぴら、真ッぴら』と言って寄りつかない、というような記事が明治時代の新聞に特有な洒落本口調《しゃれぼんくちょう》で書いてあった。  夫人がそれを読んできかすと、ヘルンはすっかり上機嫌になってしまい、『いかに面白い。いかに面白い』と、子供のように手を拍《う》って悦《よろこ》びながら、『私、その人大好きです。そのような人、私の一番の友達。私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私、少しも西洋臭くない』と言って大満足なので、『あなた西洋臭くないでしょう。しかし、あなた鼻高い。眼青い。駄目《だめ》です』などと夫人にからかわれ、『あ、どうしよう、私この鼻』など言って悄気返《しょげかえ》り、『真ッぴら、真ッぴら』と、今おぼえたばかりの日本語を面白がって使ったりして、夫人や女中たちを大笑いさせたりしているのだが、その後で、『しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するのです』と言ったヘルンは、真に日本を熱愛した詩人であった。晩年多少日本に幻滅を感じた時でさえも、他の外人が日本を悪意的に批評する時、いつも憤然《ふんぜん》として大《おおい》に怒《いか》り、さながら自分の愛人を侮辱《ぶじょく》された時の騎士《きし》のごとく、鋭《するど》い反撃《はんげき》の槍《やり》をふるって突《つ》き当って行った。そうした八雲の心理は、我が子の魯鈍《ろどん》に幻滅を感じてる親が、他人から、その愛児の悪評を聞いて怒る心理と、よく似たものであったと思われる。  日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとって忍《しの》びがたい悲哀《ひあい》であった。なかんずくヘルンを最も悲しませたのは、盆踊《ぼんおどり》等の農村行事や風俗やが、明治政府によって禁圧されたことから、自然に衰褪《すいたい》して来ることだった。彼はそれを憤慨《ふんがい》しているが、むしろ彼の真の怒りは基督《キリスト》教に向っていた。政府が盆踊を禁ずるのも、国民が欧米人の真似《まね》をするのも、固有の日本文化が亡《ほろ》びるのも、すべて皆基督教の宣教師が宣伝するためであり、一切の悪は耶蘇《ヤソ》教の罪に帰せられた。『皆、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆悪くするのです。耶蘇、日本の敵です』と、至るところで彼は耶蘇教を罵《ののし》り、その宣教師を仇敵《きゅうてき》のごとく憎《にく》んでいる。そうした彼は、事実上において熱心な仏教信者でもあった。彼の信仰《しんこう》の中には、仏教的な輪廻《りんね》永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によって、一種独特の人生観にまで展開していた。『自分が死んでから、後生が鳥や虫に生れ変るとしても、自分は少しも悲しいと思わない。なぜなら鳥や虫の生活の方が、人間よりも不幸であるとは思えないから』と、あるエッセイの中で書いてるヘルンは、日本人の民族化した仏教情操であるところの、あの『物のあわれ』の抒情的《じょじょうてき》ペーソスを知ってたのである。  そうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散歩区域は、寺院の閑静な境内《けいだい》だった。特に東京の富久町《とみひさちょう》に居た時には、近所の瘤寺《こぶでら》へ毎日のように出かけて行った。その寺は庭が広く、背後に老杉の茂《しげ》った林があったので、彼の瞑想的《めいそうてき》な散歩に最も好ましい所であった。寺の老僧《ろうそう》とも懇意《こんい》になり、ついにある時、自分がその住持になりたいと言い出し、夫人と次のような問答をした。 『ママさん私この寺に坐《すわ》る。むずかしいでしょうか』 『あなた、坊《ぼう》さんでない。ですから、むずかしいですね』 『私、坊さん。なんぼ仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』 『あなた、坊さんになる。面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです』 『その同じ時、あなた比丘尼《びくに》となりましょう。一雄[#1段階小さな文字](註《ちゅう》、長男)[#小さな文字終わり]小さい坊主です。いかに可愛いでしょう。毎日経よむと墓を弔《とむら》いするで、よろこぶの生きるです』 『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』 『ああ、私願うです』  人間よりも、虫や鳥の方が幸福だと言ったヘルンは、人生について、悲哀の外の何物をも知らなかった。厭離一切娑婆世界《おんりいっさいしゃばせかい》の厭世観《えんせいかん》は、ヘルンの多くの作品中に一貫《いっかん》して、その特殊《とくしゅ》な文学情操の基調となってる。  彼の文学は、本質的に我が『方丈記《ほうじょうき》』や『徒然草《つれづれぐさ》』の類《たぐい》と同じく、仏教的無常観によった『遁世者《とんせいしゃ》の文学』であり、ヘルン自身がまた現実の『遁世者』であった。寺の住持になって世を隠遁《いんとん》し、読経《どきょう》と墓掃除《はかそうじ》に余生を送りたいといった彼の言葉は、決して一時の戯れではなく、彼の心の無限の悲哀を告白した言葉であった。だがそうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き届いた妻の奉仕も、決して慰《なぐさ》めることのできないものであったからだ。しかしもし、現実に八雲が世捨人になったとしたら、おそらくその貞淑な夫人もまた、『その同じ時』比丘尼になったかも知れないのである。  こうした悲しい対話――これほどにも悲しい対話があるだろうか――が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩のごとく、半ば笑談のようにして語られた。『あなたの鼻高い、あなたの眼大きい』などという時、夫人はいつも指でヘルンの顔を突ついたりして、子供を扱《あつか》うようにして戯れからかった。その度《たび》ごとに、ヘルンはまた『ごめん、ごめん』などと言って笑いふざけた。そうした外観《うわべ》だけを見ている人は、おそらくこうした夫婦の生活を、たわいもない子供の『ままごと』遊びのように思ったであろう。しかもその対話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が含《ふく》まれていた。そしてその悲哀の意味を知ってるものは、世界にただ二人の、妻と良人よりなかったのである。『家のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉で、だれにも解らない神秘なことを話している』と子供が無邪気《むじゃき》に言った言葉は、実際にもっと神秘な意味をもっていたのである。  ヘルン夫妻の結婚は、すべての点において特異であり、世の常の凡俗《ぼんぞく》な夫婦関係とちがっていた。ヘルンにとっての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に『可愛い小さいママさま』であったと共に、またその仕事の忠実な助手でもあり秘書でもあった。日本字の読めないヘルンは、その『怪談』や『骨董《こっとう》』やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの蕊《しん》を暗くし、幽暗《ゆうあん》な怪談気分にした部屋《へや》の中で、夫人の前に端坐《たんざ》して耳をすました。話が佳境《かきょう》に入って来ると、ヘルンは恐ろしそうに顔色を変え、『その話、怖《こわ》いです、怖いです』といっておののきふるえた。夫人にとっては、それがまた何より面白いので、話がおのずから雄弁《ゆうべん》になり、子供に聞かすようにしてなだめ話した。  こうした夫婦の生活では、読書が妻の重大な役目だった。ヘルンが学校に行ってる間、夫人は暇《ひま》を盗《ぬす》んで熱心に読書をし、手の及《およ》ぶ限り、日本の古い伝説や怪談の本を漁《あさ》りよんだ。夫人が書斎の掃除をしたり、家事の雑務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であった。『ママさん。あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され』と言った。しかしヘルンは、素読される書物の記事には、何の興味も持たなかった。すべての物語は、夫人自身の主観的の感情や解釈を通じて、実感的に話されねばならなかった。『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません』と常にいった。それ故多くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によって主観的に飜案化《ほんあんか》され、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文学化したものであった。それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻の功績によるものだといって、深く夫人の労に感謝し、ある著述のごときは、実際に夫人の名で出版しようとしたほどであった。しかし夫人はあくまで良人に対して謙遜《けんそん》だった。彼女《かのじょ》は田舎《いなか》の程度の低い学校を出たばかりで、充分の高等教育を受けなかったので、常に自分の無学を悲しみ、良人に対して満足な奉仕《ほうし》ができないことを嘆《なげ》き詫《わ》びた。  ある時ヘルンから万葉集の歌を質問され、答えることができなかったので、泣いてその無学を詫び、良人に不実の罪の許しを乞《こ》うた。その時ヘルンは、黙《だま》って彼女を書架《しょか》の前に導き、彼の尨大《ぼうだい》な著作全集を見せて言った。この沢山の自分の本は、一体どうして書けたと思うか。皆妻のお前のお蔭で、お前の話を聞いて書いたのである。『あなた学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました』と言った。実際もし彼の妻がインテリ女性であったとすれば、日本の古い伝説や怪談やを、女の素直な心で率直に実感することはできなかったろう。『無学で貞淑な女は天才以上である』とニイチェが言っているが、ヘルンの妻のごとき女性は、正にその意味での『天才以上』であったのである。  こうした貞淑の妻にかしずかれて、日本での晩年を平和に暮した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覚していた。彼はその故国の友人に手紙を書き、日本での生活|実況《じっきょう》を次のように詳述《しょうじゅつ》している。曰《いわ》く、学校の講義が終ると、車夫が人力車を持って迎《むか》えに来ている。家の玄関《げんかん》へつくと、車夫がとても威勢《いせい》の好《よ》い大きな声で、『オ帰リイ』と叫《さけ》ぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て来る。妻や女中たちが、玄関の畳に列《なら》び坐って、『お帰り遊ばせ』とお辞儀《じぎ》をする。それから座敷へ上ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かえさせてくれる。まるで女の子が、人形を玩具《おもちゃ》にするようである。私は妻の為《な》す通りに任せている。それから少し休息し、書斎に入って仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まって話をする。私が日本酒を飲むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑う。私も時々笑談を言う。仕事の多い日には、しばしば夜更《よふ》かしをして書きつづける。そういう時、妻はわざわざ私の所へやって来て、『遅《おそ》くなりますから、お先へ休ませて戴《いただ》きます』と言う、丁寧《ていねい》に三つ指をついてお辞儀をし、それから自分の寝床《ねどこ》へ入る。度々のことで面倒《めんどう》だから、今度から止《や》めにして、先へ勝手に寝ることにしろと何度も言うが、妻は婦道に背くと言い、なかなか承知しないので困っている云々《うんぬん》[#1段階小さな文字](大意)[#小さな文字終わり]と。  こうした手紙の中に、ヘルンの大得意な満悦《まんえつ》さが現われている。実際彼の妻のように、良人に対して忠実な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中にはほとんどなく、これほどまた男が殿様扱《とのさまあつか》いにされる家庭生活も、西洋では考え及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外国人たちが、いかにその日本の友人を羨望《せんぼう》したかが想像される。ヘルン自身も、もちろんまたそれを意識して書いてるので、『どうだ。羨《うら》やましかろう』という自誇《じこ》の情が、そうした手紙の言外によく現われてる。  しかしヘルンのように神経質で気むずかしく、感情の変化が烈《はげ》しい男に仕えるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に為し得ないことであったろう。真の『貞淑』とは、良人に奴婢《ぬひ》としての善き奉仕をすることではなくして、良人の気質や性格をよく理解し、努めて良人に同化して一心同体となることの奉仕である。そしてそのためには、人の心理を洞察《どうさつ》する聡明《そうめい》な智慧《ちえ》と、絶えず同化しようと努めるところの、献身的な意志と努力が必要である。ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の気性をすっかり呑《の》み込《こ》むようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後では、全く子供のように正直一途《しょうじきいちず》で、子供のように純情無比の人であったと言ってる。実際ヘルンは――多くの天才的な詩人と同じように――本質的に子供らしい純情さと無邪気さを持った性格者だった。そのため夫人は一面において旧日本的な婦道と礼節とによって、恭《うやうや》しく彼に仕えながらも、半面においては彼を子供扱いにせねばならなかった。夫人にとってのヘルンは、最も信頼《しんらい》する良人であったと共に、一面ではまた『大きな駄々《だだ》ッ子《こ》坊や』でもあった。ヘルンの趣味はすべてにおいて庶民的《しょみんてき》で、儀式ばったことが嫌いなので、フロックコートなどの礼服を非常に嫌い、常に野蛮人の服と称し『なんぼ野蛮の物』と言っていた。それで学校に式のある時など、他の教師は皆礼服で列席するのに、ヘルンは一張羅《いっちょうら》の背広で押《お》し通していた。しかしそれではあまり体面に関するので、夫人が是非フロックコートを新調するようにすすめたが、頑《がん》として中々きかない。それで夫人から『あなた、日本のこと、大変よく書きましたから、お上《かみ》で、あなた賞《ほ》めるためお呼びです。お上に参るの時、あなた、シルクハット、フロックコートですよ』などと、子供をだますようにして説き伏《ふ》せられ、やっと礼服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に押《おさ》えつけ、女中までが手伝って騒《さわ》ぎながら、まるで駄々ッ子を扱うように、あやしたりすかしたりして、厭《いや》がるのを強《し》いて着せねばならなかった。  いわゆる『文明』を嫌ったヘルンは、反対にあらゆる自然を深く愛した。特に虫や鳥やの小動物を愛し、蛇《へび》、蛙、蝉《せみ》、蜘蛛《くも》、蜻蛉《とんぼ》、蝶《ちょう》などが好きであった。それらの小動物に対して、彼はいつも『あなた』という言葉で呼びかけ、人間と話すようにして話をした。そうした彼の宇宙的博愛主義は、草木万有の中に霊性《れいせい》が有ると信じられてるところの、仏教的な汎神論《はんしんろん》にもとづいていた。それ故彼は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を虐《いじ》めたり殺したりすることを非常に叱《しか》った。女中が蛇を追ったといって叱られ、植木屋が筍《たけのこ》を抜《ぬ》いたといって怒られ、はては『おババさま』の姑でさえが、枯《か》れた朝顔をぬいたというので『おババさま好き人です。しかし朝顔に気の毒しました』と叱言《こごと》を言われた。  ヘルンはまた猫《ねこ》が特別に好きであった。松江に居た時も焼津に居た時も、道に捨猫さえ見れば拾って帰り、幾疋《いくひき》でも飼《か》って育てた。夫人と結婚して間もない頃、雨でずぶ濡《ぬ》れになった小猫を拾って帰り、その泥《どろ》だらけのままの猫を懐中《かいちゅう》に入れて、長い間やさしく暖めていた。夫人の告白によれば、自分の良人に対する真の愛は、その時初めて起ったという。これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思い、ヘルンに対して、何かいじらしく涙《なみだ》ぐましいものさえも感じたというのである。  そうしたヘルンの家庭では、自然界のちょっとした出来事や現象やが、いつも物珍《ものめず》らしく大騒ぎの種になるのであった。たとえば裏の竹藪《たけやぶ》に蛇が出たとか、蟇《ひき》が鳴いてるとか、蟻《あり》の山が見つかったとか、梅《うめ》の花が一輪|咲《さ》いたとか、夕焼が美しく出ているとかいうようなことを、だれか家人の一人が発見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。するとヘルンは大悦びで部屋をとび出し、『いかに可愛きでしょう』とか『なんぼ楽しいの声でしょう』とか『いかに綺麗《きれい》』とか言いながら、何時間もその小動物を眺《なが》めたり、夕焼雲を見たりして悦ぶので、そうした小事件が見つかるたびに、女中や書生等の家人たちが、さも大手柄《おおてがら》の大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へ馳《かけ》つけるので、いつも家中が和《なご》やかに賑《にぎわ》っていた。  しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの八釜《やかま》しい主人であった。家内のちょっとした物音や話声にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど『美しいシャボン玉』を壊《こわ》さないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が折《おり》を見て掃除に行くと、『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪い病《くせ》です』といって、中々許してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。  ヘルンの机の座右《ざゆう》には、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事の中《うち》にも手当り次第に掴《つか》み出しては、国分《こくぶ》の刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、江《え》の島《しま》に遊んだ土産《みやげ》として、大きな法螺貝《ほらがい》を買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、『面白いの音』といいながら、頬《ほお》をふくらして、ボオボオと吹《ふ》き鳴らしては、また『いかに面白い』といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという約束《やくそく》にした。  西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、老僕《ろうぼく》が一人、他に抱車夫《かかえしゃふ》が一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数がいくつもあって廊下《ろうか》続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質に注意しているので、家中がひッそりとして閑寂《かんじゃく》に静まり返っていた。そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと余韻《よいん》の浪《なみ》をうって伝って来る。すると『それ貝が鳴った』とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に駈《か》けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き渋《しぶ》り、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを紛《まぎ》らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。  晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。既に老の近づいたことを知った彼は、自分の残されてる短かい時間に、なおまだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考えて愁然《しゅうぜん》とし、『人生は短かすぎる』と幾度《いくど》も言って嘆息《たんそく》した。彼は心臓に病があった。その危険な兆候《ちょうこう》が、五十|歳《さい》を越《こ》えてからしばしば現われて来た。初めて大久保の新居に移った時は、春の麗《うら》らかな日であって、裏の竹藪で鶯《うぐいす》がしきりに鳴いてた。八雲は縁側《えんがわ》に立ってそれに聞き惚《ほ》れ、『いかに面白いと楽しいですね』と言って喜んだが、また『私、心痛いです』と言った。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり楽しくて嬉《うれ》しいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が続くかと思い、それがまた心配になって来たと言った。そうした彼の言葉通りに、現実の心配が迫《せま》って来た。老いが既に来り、死の近づいて来たことを知った彼は、すべての自然を感傷的に眺めることから、万象に対して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の桜《さくら》が返り咲きをしたのを見て、『春のように暖かいから、桜思いました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし……』と言って悲しげに『かわいそうです。今に寒くなります。驚《おどろ》いて凋《しぼ》みましょう』と言った。桜は実際その日一日で散ってしまった。またその同じ秋の夕べ、籠《かご》に飼ってる松虫が鳴いてるのを聞き、『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悦びました。しかし段々寒くなって来ました。知ってますか。知っていませんか。直《じき》に死なねばならないということを。気の毒ですね。かわいそうな虫』と寂しげに言い、この頃《ころ》の暖かい日に、そっと草むらの中に放してやれ、と家人に言いつけた。  その頃のヘルンは、瞬時を惜《お》しんで仕事に熱中していたため、以前のようには、度々妻と一所に旅行したり、散歩したりすることができなかった。それで妻の屈託《くったく》を慰めようとし、夫人に向って度々外出や遊山《ゆさん》をすすめた。『外に参りよき物見る。と聞く。と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本を読むばかり、いけません』と言った。また時々は夫人に芝居《しばい》見物をすすめて、『歌舞伎座《かぶきざ》に団十郎《だんじゅうろう》、たいそう面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のお土産』など言いながら、後ではいつも少し凋《しお》れて『しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかに詰《つま》らんです。しかし仕方がない』などと言った。  初めて病気の発作《ほっさ》が起った時、ヘルンは自己の運命をすっかり自覚し、死後における妻子の保護と財産の管理とを、親友の法学士に一任して、後に心がかりのないようにした。そして妻に向って言った。『この痛み、もう大きの、参りますならば、多分私は死にましょう。私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶《かめ》買いましょう。三銭あるいは四銭位です。私の骨入れるために。そして田舎の、寂しい寺に埋《う》めて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悦ぶ。私死にましたの知らせ、要《い》りません。もし人が尋《たず》ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです』と、そして何か困難な事件が起ったならば、法学士の梅氏に相談しろと言った。『そのような哀《あわ》れな話、して下さるな。そのようなこと、決してないのです』と夫人が言うに対しても、『心からの話、真面目《まじめ》のことです』と言い、『仕方ない!』と死を覚悟《かくご》していた。しかもなお残された仕事のことを考え、『人生は短かすぎる』と幾度か嘆息した。  桜の花が返り咲きをした日から、数日を経てまもなくヘルンは死んでしまった。死ぬ前の日に、彼は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那でもない、大層遠い遠い見知らぬ国へ、長い旅をした夢であった。そして今ここに居る自分が本当か、旅をした自分が本当かと夫人に問い、『ああ夢の世の中』、と呟《つぶや》いて寂しげに嘆息した。わが漂泊の詩人|芭蕉《ばしょう》は『旅に病んで夢は枯野《かれの》をかけめぐる』といって死んだ。夢見ることによって生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであった。世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。今、この悲しい詩人の霊《れい》は、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の草深い墓地の中に、一片の骨となって埋まっている。 [#地から1字上げ][#1段階小さな文字](昭和十六年九、十月)[#小さな文字終わり] 底本:「ちくま日本文学全集 萩原朔太郎」筑摩書房    1991(平成3)年10月20日第1刷発行 底本の親本:「萩原朔太郎全集 第十一巻」筑摩書房    1977(昭和52)年8月25日 初出:「日本女性」    1941(昭和16)年9月号・10月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「馳《かけ》つけ」と「駈《か》けつけ」、「二三合の日本酒」と「二三本の日本酒」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「小泉|八雲《やくも》の家庭生活」となっています。 ※副題は底本では、「室生犀星《むろうさいせい》と佐藤春夫《さとうはるお》の二詩友を偲《しの》びつつ」となっています。 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 入力:きりんの手紙 校正:岡村和彦 2021年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。