【桑の木物語】 【山本周五郎】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その藩に伝わっている「杏花亭筆記」という書物には、土井悠二郎についてあらまし次のように記している。 「土井右衛門、名《=な》は悠二郎。忠左衛門《=チュウザエモン》茂治《シゲハル》の二男《次男》に生《生ま》れ、わけがあって七歳まで町家に育った。八歳の春から幼君のお相手として御殿へあ《上》がり、ずっとお側去らずに仕えたが、二十一のとき致仕《チシ》した。  生《生ま》れつき奔放にして無埒、つねに奇矯のおこないが多く、宗眼日録《=ソウガン日録》には、勤めかたよろしからず、ということがしばしば挙げてある。致仕《チシ》してのちは市中にかくれ、親族や旧知とも断《た》って無為に一生を終ったという。  また上屋敷の庭の奥に、いま大木《=タイボク》になった桑の林があるのは、泰春院《タイシュン院》さまが少年のころ、彼のすすめによって植えられたと伝えられるが、このような進言をするところなども、彼の無埒な性分のあらわれであろう。──ちなみに宗眼日録《=ソウガン日録》は泰春院《タイシュン院》さま御一代《ご一代》の記録であって、御歴代《ご歴代》の中興であると同時に、稀世の名君といわれる侯《=コウ》の、生涯と治績とが詳述されてある。筆者は新泉《+ニイイズミ》宗十郎、のちに国老となり、宗眼《ソウガン》と号した」  以上が記事の概略であるが、はなはだかんばしくない。「生《生ま》れつき奔放無埒」とか「勤めかたよろしからず」とか、だいぶて《手》ひどくやられている。大名屋敷の奥庭、──町家などでもそうだが、──桑の木を植えるなどというのは変っているが、それが奇矯というほどのことかどうか。いちがいに断言はできないだろう。  また読者の便宜のために、同じ「杏花亭筆記」にある彼の祖父の記事を、その要点だけぬいて紹介しよう。 「土井勘右衛門、虚木《キョボク》と号す。浄松院《ジョウショウ院》さまのとき留守役(世襲)より側御用に召され、老職を兼ねて信任もっとも篤く、浄松院《ジョウショウ院》さま御他界《ご他界》ののちは、世子の御養育《ご養育》に専念した。泰春院《タイシュン院》さまの英明《エイメイ》果断の資質は、勘右衛門に負うところ多しともいう。──また他《=ホカ》に評がある。彼は豪放磊落なれど、酒を好み、老年に及ぶまで遊里にでいりし、俗曲、俳諧に長じ、日常のようすには不拘束なことが少なくなかった」と。  これにも「他の評」として一種の批判がつけ加えてある。重職であるうえに藩主の幼君の育て役といえば、相当な人格者でなければならない筈だが、酒好きで遊里にでいりして、日常が不拘束だとするとあまり褒めたはなしではない。──そしてこの点、悠二郎の「奔放無埒」と、なにか因果関係があるのではないだろうか。  悠二郎は双生児《=ソウセイジ》であった。兄《=アニ》を左門松太郎という。武家では双生児《=ソウセイジ》を嫌うので、生《#生ま》れるとすぐ里子《=サトゴ》にやられた。杏花亭はただ「町家」と記しているが、詳しくいうと浅草|六軒町《=ろっけんまち》にある「舟仙《シュウ仙》」という舟宿《船宿》であった。  父の忠左衛門《=チュウザエモン》は|もの《物》堅い性分で、留守役という社交的な勤めにいながら、酒も多くは|たしな《嗜》まず、たった一つ金魚を飼うという趣味のほか、碁将棋も知らないというふうだった。しかし祖父の勘右衛門はかなり道楽者だったらしい。杏花亭が記しているように、ずっと老年まで吉原《ヨシワラ》や深川あたりでよく遊び、酒もつよいし、荻江一中《=オギエイッチュウ》などの俗曲にも通じていたし、虚木《キョボク》という号で俳諧にもだいぶ凝ったそうである。──そんな関係から「舟仙《シュウ仙》」をひいきにしたのだろう、よほど気にいったとみえて、あるじ仙吉は上屋敷の家へもちょくちょくきげん伺いに来た。またおつねという女房なども、季節の魚《=サカナ》を持ったりして、台所へあらわれることが珍しくなかった。  悠二郎を舟仙《シュウ仙》へあずけたのは祖父の勘右衛門である。父は反対であった。なんにしたところで武家の子をあずける環境ではない、母のかな女《=オンナ》も眉をひそめたのであるが、虚木老《キョボクロウ》は《は-》さも心得たというくちぶりで、  ──こいつの相貌をみるに、どうもおれに似た道楽者になるらしい、だから舟宿《船宿》などへあずけるのも、毒を以て毒を制する法である。  こう云ったという。またのちには嫁に向って、嫁とはむろんかな女《じょ-》のことであるが、その嫁に向ってこう云ったこともあるそうだ。  ──どうせ二男坊《次男坊》のことだ、つまらないようなところの養子にするより、いっそ当人がよければ船頭にでもなるがいいのさ、にんげん一生、あれはあれで気楽でもあるし、なかなか粋な|しょうばい《商売》だからな。  たぶん酔ったきげんででも云ったものだろうが、それにしても乱暴なはなしで、当時としては相当な自由主義者だったとみえる。──ともかく、彼はこうして舟仙《シュウ仙》へあずけられた。  ──あまり大事に扱ってはいけない、たいていな悪戯は叱らぬように、なるべく野放しに育てろ。  仙吉とおつねは虚木老《キョボクロウ》からそう厳命され、そのいいつけどおりに育てた。乳母は葛西のほうの農家の者《=モノ》であった。──彼は赤子のじぶんから勾配が早かった。七月目《ナナツキメ》にはもうお乳には眼もくれず、誕生まえに平気で強飯《+コワメシ》を喰《食》べた。這うのも、立つのも、歩きだすのも、すべて一般よりは三割がた早かった。 「こんな赤ん坊っておら見たこともねえ」  葛西から来た乳母はいつもこう云っていたそうだ。 「なんだってすばしっこくって、ちっとも眼がはなせねえ、寝たかと思ってちょっと立ったら、いつのまにかもう土間へおりて下駄をしゃぶってるだ、ほんとにこの子には胆煎《肝い》っちまうよ」  這い歩きを始めるじぶんにはたいていの子が眼のはなせないものだ。しかし悠二郎のはとくべつだったらしい。乳母の云うとおり、なにしろすばしっこいのと桁外れなことばかりするので、まわりの者《=もの》のおちつく暇がなかった。そのなかの一つに「梅干のたね」というのがある。それはまだやっと這い始めたころのことだが、ちょっとゆだんしているまに、鼻の穴へ梅干のたねを押し込んでしまった。鼻の両方の穴へ、梅干のたねを一つずつ自分で捻じこんだのである。そうして息が詰《詰ま》ったものだから、ひっくり返って、手足をばたばたさせて、泡を吹いた。 「まったくあのときばかりは寿命がちぢまりましたね、いま思いだしてもぞっとしますよ」  おつねはずっとのちになってもしばしばそう云って身ぶるいをした。──とにかく慌てたらしい、いろいろして、ようやく鼻の穴になにか入っているのをみつけ、毛抜を持って来て、暴れるのを乳母に押えさせて、取り出そうとしてみた、が、その物《=もの》はぬるぬる滑るし鼻《/鼻》の入口よりはるかに大きいので、どうやってみても出すことができない、そのうちに悠二郎はぐったりと青くなった。おつねはそれを横抱きにし、はだしで家《=イエ》をとびだして、花川戸の玄庵さんという医者まで夢中で走った。  ──玄庵先生、うちの悠坊が。  こう悲鳴をあげて駆けこんだとき、どういう拍子か悠二郎がくしゃみをして、そうして、ぎゃあと泣きだした。──そのくしゃみで片方の穴からたねがとびだしたのである。もちろん残った一つは玄庵さんが出して呉れた。玄庵さんもこれには呆れてものが云えないと云ったそうだ。  自分では全く覚えがないし、ほかにもずいぶん|わる悪戯《ワルイタズラ》をしているが、さすがの悠二郎もこの話にだけはて《照》れた。「気取《気ど》ったってだめですよ、なにしろ鼻の穴へ梅干のたねなんだから」  こう云われると絶対に頭があがらないのであった。  祖父の虚木老《キョボクロウ》はその後《=ご》もずっと舟仙《シュウ仙》へあらわれた。ほぼ十日にいちどぐらいの割だろう、舟仙《シュウ仙》へやって来ると、二階で芸人たちを呼んで賑やかに騒いだり、舟で吉原《ヨシワラ》とか深川などの遊里へでかけたりした。──それでいつかおつねが女の子を生んだとき、老は頼まれて名づけ親になったくらいである。そのとき悠二郎は四つになっていたが、おみつと名づけられたその子を珍しがって、抱《=だ》こうとしたり鼻を摘《つま》んだり、口や耳へ指を入《=い》れたりするので、少しのまもゆだんができなかったそうである。  祖父がしばしば来るのは、ひとつには孫のようすを見るつもりもあったらしい。だが悠二郎はそんな妙な「じじい」などには興味がなかったので、おちついて話したことなどいちどもなかった。──そんなことより遊ぶのでいそがしい、飯を食うひまも惜しいくらい|いそが《イソガ》しかった。なにしろ家《=イエ》が舟宿《船宿》で、隅田川があって、浅草寺が近いのだから、遊ぶに事を欠かないのである。食事と寝るときのほか、雨が降ろうと風《=カゼ》が吹こうと、家の中で彼の姿をみることなど殆んどなかった。  悠二郎は五つのときすでに近所じゅうでのがき大将であった。躯《+カラダ》つきは痩せて小さかったが、知恵のまわるのとすばしっこいことは無敵で、たいてい年上の子と暄曄《喧嘩》をしても負けたことがない、──いつも着物はかぎ裂き、手足は泥んこ、どこかにひっ掻き傷か瘤をでかしていないことはなかった。そうして晩飯の膳で、片方の眼かなにか紫色に腫らした顔《=かお》で、せかせか飯をかっこみながら云うのであった。 「ちきしょう、あの勝《かつ》んべの野郎、みてやがれ、あしたとっ捉《捕》まえたら‥‥」  こっちは花川戸から山の宿、今戸、橋場あたり、川を越しては小梅から向島へかけて、「舟仙《シュウ仙》の悠ちゃん」と、すっかり名がとおった。子供たちばかりではなく、その子供の親たちにまで知れわたり、またそういう親たちが苦情をもちこむので、仙吉夫婦《=センキチ夫婦》もずいぶん交際がひろくなっていった。 「おらあ仲間うちから頭《+ず》が高えと云われたもんだが、このごろは悠坊のおかげですっかり腰の低いにんげんになっちゃったぜ」 「ねんがらねんじゅうあやまってるんですものね、お客のみなさんもびっくりしているわ、親方のあいそがばかによくなったって、──つまり悠坊にしつけられたってわけね」 「よして呉れ冗談じゃねえ、おめえにまでばかにされりゃあせわあねえ」  仙吉とおつねはよくこんなことを云って、くさったり笑ったりしたものであった。──こうして七歳になった年《=トシ》の秋、悠二郎はとつぜん生家の土井家《土井け-》へひきとられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  あとで聞くところによると、家へひきとると云いだしたのも祖父だったらしい。それも急に云いだしたことで、忠左衛門《=チュウザエモン》夫婦にはいやもおうも云うひまがなかった。ことに忠左衛門《=チュウザエモン》はそれまでに二度か三度《=3度》、ひそかに悠二郎のようすを見にいって、  ──あれはもういけない、舟仙《シュウ仙》へ呉れてやるよりしかたがない。  こう云って妻に首を振《=ふ》ってみせた。とうてい侍の家へいれるわけにはいかない、おまえも諦めろと云ったそうである。  生家へつれて来られたときの、彼の恰好は、|相当ひとめ《相当’人目》をひくものであった。つい昨日まで川で泳いだり、蜻蛉を追いまわしたり、泥《=ドロ》まみれで喧嘩をしたりしていたのである。それがいきなり着物をきちんと着せられ、生《生ま》れて初めての袴をつけられ、腰にはこれも生《生ま》れて初めての刀を差され、おまけに足袋までは《履》かされた。髪もむろん武家ふうにきちっと結われているわけで、なにしろ|躯じゅう《身体中》が窮屈で息が苦しくって、今にも眼がまわってぶっ倒れそうな気持だった。  彼はまっ黒に日《=ヒ》にやけ、眼ばかりぎょろぎょろしていた。忠左衛門《=チュウザエモン》はちらと見るなり、眉をしかめてそっぽを向いた。かな女《じょ-》はさすが母親である、彼のそのあさましい姿に胸をうたれ、抱《=だ》きよせてぽろぽろ涙をこぼした。──兄の松太郎はびっくりして、ぽかんと口《=くち》をあいて、そうして坐ったまま少し後ろへ身をしさった。悠二郎はすばやくこれを見て取り、  ──こいつはたいしたこたあねえ。  こう思ってふんと軽侮の鼻を鳴らした。  祖父はこのほかにも家扶の渡辺老人や、七人《=しちにん》の家士《カシ》や、下男女中たちにも彼をひきあわせた。悠二郎は|かれ《彼》らがみんなくみし易いことをみぬいた。父親は|にがて《苦手》らしい、家来のなかで黒板《クロイタ》権兵衛というのも、髭なんぞはやして団栗まなこで、ちょっとゆだんができないかもしれない。──だがほかのやつらはなっちゃねえ、芥子《+カラシ》のきいてそうなやつは一人もいやしねえ。悠二郎は張合《張り合い》のないような気持で、幾たびもふんと鼻を鳴らした。  彼の新しい生活が始まった。そのなかでまいったのは、行儀作法というやつと学問であった。一日|いっぱ《イッパ》い着物を着て、袴をつけて、小さいけれども刀を差して、そうして歩くにも坐るにも、姿勢をきちんと正していなければならない。──眼を正面へ向けて静かに歩く、坐ったら胸を張って両手を膝に置く。言葉は明瞭簡単に要点だけ云い、決してむだ口《=グチ》をきかない。食事はおちついて、皿小鉢や箸の音をさせない、くちゃくちゃ噛むなどはもってのほかである。もしこれらの禁を犯すと、すぐさま「悠二郎──」と、父の叱陀《叱咤》がとぶのであった。 「悠二郎きちんと坐れ、着物の衿を合わせろ」 「口《=クチ》をむすべ、男はむやみに笑うものではない」 「静かに歩け悠二郎、廊下は馬場ではないぞ」  悠二郎、悠二郎、悠二郎。ならん、いかん、黙れ、坐れとひっきりなしである。いちどやりきれなくなってお祖父さんに訴えた、虚木老《キョボクロウ》はにやにや笑って、「おまえ兄の松太郎をどう思う」と反問した。彼は言下に答えた、「あんな真桑瓜のできそくないなんか小指でちょいですよ」 「しかしその松太郎は、おまえが降参したことをちゃんとやっているではないか」  お祖父さんはとぼけたような顔《=かお》でこう云った。 「するとできそくないの真桑瓜はおまえのほうじゃないのか」  ひとからこんな侮辱をうけたことはなかった。もしそれがお祖父さんでなかったら、くたくたにのして今戸焼《今戸焼き》の窯《=かま》ん中《=なか》へたたっこむところである。悠二郎は口惜《悔》しさのあまりぽろぽろ涙をこぼし、それをげんこで擦《-こす》りながら云った。 「おいらあ、できそくないでも、真桑瓜でもありゃしねえ、なんにも、降参することなんか、ありゃしねえや」 「そうかな、本当かな。」お祖父さんはまたにやにや笑った、「──怪しいもんだな」  彼は発奮した。意地っぱりならひけはとらない、ちきしょうと、歯《=は》をくいしばって頑張った。──もちろんそれほど難行苦行というわけではない、慣れてしまえばよいので、おまけによく注意すれば手足を伸ばす隙《スキ》は幾らでもある。父が役所へでかけたあと、母の眼の届かないところで好きなだけ息抜きをすることができる。またその点では彼はもともと第一流の才があったから、そういう時と処《ところ》を発見し、それを利用するのに|てまひま《手間暇》はかからなかった。  学問のほうは茅野《カヤノ》道之助という同藩の侍が、初め三十日ばかり素読を教えにかよって来た。  ──土井へ帰るとすぐの頃で、まだ満足に坐ることもできなかった。それが机に向って、書物をひらいて、相手の読むとおりに、一字ずつ口《=クチ》まねをして読むのである。‥‥字はむやみにごちゃごちゃしているし、読むことがまるっきりちんぷんかんである。足は痺れるし、眠くなるし、面白いのは欠伸が幾らでも出ることだった。 「行儀を正しくしなければいけません」  茅野《カヤノ》先生は眼をぎょろっと光らせた。 「膝をしゃんとしなさい、欠伸はいけません、せっかく学問をしても、欠伸をするとそこからみんな出ていってしまいます」  悠二郎は|ふん《フン》と思った。出たがっているなら出してやればいい、むりに詰め込んで置くことはないじゃないかと思った。 「おれはさっきから欠伸を二十《=ニジュウ》くらいしちゃったけど、じゃもうみんな出てっちゃったかね」  茅野《カヤノ》先生は顔を代赭色にし、もの凄い眼つきでこっちを睨み、そうしてえへんと咳をして、さっさと素続《素読》をつづけた。──三日、四日、五日、ますますいやになり退屈になるばかりで、茅野《カヤノ》先生の熱心なのがふしぎだった。 「こんなの読んで先生は面白いのかい」  どうも不審なのできいてみたのである。少しも|わる気《悪気》はなかったのだが、先生はひどく怒ってぱたりと書物をしめ、これは面白ずくでやっているのではない、とおそろしくいきまいたようなことを云った。 「これは学問です、孔子さまという聖人のおしえなのです、有難い、ごく|まじめ《真面目》な、尊い学問です」  そうして滔々となにか饒舌りだした。悠二郎はこいつはいいと思った、云ってることはやっぱりちんぷんかんだが、同じちんぷんかんなら聞いてるだけのほうが楽だ。第一また先生の代赭色になった顔《=カオ》や、自分ではよっぽどもの凄いつもりなんだろう、ぎょろぎょろ光らせる眼だまや、活溌につばきをとばして動く口《’口》など、こっちから眺めているのは相当に面白い。  ──小梅の勝《かつ》んべも怒《=おこ》るとつらがあんな色になりやがった、‥‥あの眼だまは誰に似てるかしらん、瓦屋の熊だろうか。  こういう連想もいろいろ湧いてくる。  ──ずいぶんよく動く口《=クチ》だなあ、休みなしにぱくぱくやってやがら、‥‥そうだ、お父《とっ》つぁんの飼ってる金魚ってのをまだ見てねえぞ。  これは素読なんてへんなものよりいい、これに限ると思ったので、それからは飽きてくるとこの手を使った。 「孔子っていつごろのにんげんだい」 「敬称をおつけなさい、孔子などと呼びすてにしてはいけません、聖人といわれるくらい偉大な方《=かた》なのですから、──孔子さまは今から二千三百年ほどまえの方《=かた》です」  これにはびっくりした。先生がやまをかけてるんだと思った。そしてそれが少しも掛値なしの年数だと聞いて、こんどは本当にびっくりした。 「へえーおっどろいた、そんなに古いとは知らなかった、へえー、そんなかね、だけどそんなに古い学問をおれたちがならって、まだなにか役に立つことがあるのかい」  茅野《カヤノ》先生そのときは、いつもよりずっと濃い代赭色になった。それで悠二郎はこいつはいつもよりずっと長く楽しめるなと思い、思ったとおりゆっくり楽しむことができた。──茅野《カヤノ》先生は三十日かよって来たが、それで辞職して来《=こ》なくなった。卑怯にも告げ口《=ぐち》をしたらしい、悠二郎は父からこっぴどく叱られ、廊下の板の上へ半日坐らされた。 「明日から学堂へゆくのだ、学堂で|ふまじめ《不真面目》なことをすると、このくらいのことでは済まぬぞ」  そういうことで、兄の松太郎といっしょに上屋敷の中にある藩の学校へゆくことになった。  学堂では茅野《カヤノ》先生を相手にするようにはいかなかった。生徒は七歳から十二歳までで、お|めみ《目見》え以上の者《=もの》の子供に限り、三十四五人《三十’四、五人》いた。お|めみ《目見》え以下の者《=もの》は、それぞれ学堂の教官の私宅で教わるのである。学堂には校長のほかに教官が五人いた。校長は相良税所という名で、身分は中老、|しらが《白髪》頭のごく温厚なひとであった。教官たちも怒《=おこ》りっぽいのと、妙に四角ばっているのが眼障《目障》りなくらいで、まずたいしたことはないと思ったのであるが、なかに一人とんでもないやつがいた。  そいつは花田|欣弥《キンヤ》などという、いやに優しいみたような、思わせぶりな|名まえ《名前》だし、色の白い眉の濃い、なかなかの美男子でもあった。ところがそれが|くわせ者《食わせ者》であった。学堂へ通学し始めてから三日めに、彼は悠二郎を廊下へ坐らせ、拳骨でこつんと額《ヒタイ》をこづいた。  五日めには濡縁のうえへ坐らされた。それはごつごつした木の丸いのを並べた縁側で、坐ると向《=むこ》う脛の骨がごりごりして、今にも骨がおっぴしょれるかと思われ、痛さのあまりし《/し》まいには眼がちらくらしてきた。──こんちきしょうと歯《=ハ》をくいしばり、とうとう「よし」と云われるまで我慢しとおしたけれど、恨み骨髄に徹し、いつかきっとこの返報をしてやる、と、心のうちに誓いを立てた。‥‥それからも庭《’庭》へ|はだし《裸足》で立たされたり、残されたり、毎日なにか罰《=バツ》をくわされ、隔日にいちどは例の濡縁に坐らされた。  それは入学して三十日ばかり経ったある日のことだが、授業が終って帰ろうとすると、花田先生が彼に「残っていろ」と命じた。ちえっ、また残されか。こう思って、うんざりして、机の前に独りぽつんと残っていた。──すると、やがて花田先生が来て、菓子の入っている鉢をそこへ出《=だ》しながら坐った。 「露月堂《ロゲツ堂》の栗饅頭だ、喰《食》べろ」  そして自分がまず一つ取った。悠二郎はごくっと喉が鳴り、口の中へなまつばが出て来た。しかし黙って、そっぽを向いていた。 「私はもう明日から授業をしない、二三日うちに国許へ立つんだ、──おまえともお別れなんだから、一つ喰《食》べて呉れ、それから話すことがある」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「喰《食》べたくありません、饅頭なんか、だい嫌いです」  そっぽを向いたままこう云った。花田先生は手に取った饅頭を鉢へ戻し、暫くこっちの顔を見ていたが、やがて、「よし」と頷いて坐りなおした。 「私はもう少しおまえの面倒をみたかった、いまおまえを置いてゆくのは残念なんだ、おそらく普通ではおまえのいいところがわかるまい、ただ手に負えない悪童ぐらいにみられるだろう、それがこころ残りなんだ」  先生はこう云って少し声《=コエ》を低くした。 「これはまだ極秘のことなんだが、おまえは近いうちに若君の御学友《ご学友》にあげられる筈だ。あがる者《=もの》は七人《=しちにん》いるが、そのなかでおまえと新泉《ニイイズミ》小太郎の二人には、私がいちばん望みをかけている、おまえと新泉《ニイイズミ》は、それぞれの能力で若君のお役に立って呉れなければならない、ほかの者《=モノ》とは違う、自分には責任があるということを忘れずに、しっかりやって呉れ」  悠二郎はいやな気持になった。現在でさえ堅苦しくって息が詰りそうなのに、若君のお相手になんぞあがったらどうしよう。とんでもない、これは断わらなければいけないと思った。しかし花田先生は自分に反感をもっている、このひとに頼んでもだめだと考えて黙っていた。 「これで話は終りだ、おまえには少し厳しくし過ぎたかもしれないが、その代《代わ》り、──これをみろ」  花田先生はこう云って、自分の袴の裾を捲《=まく》って両足の脛を出してみせた。まばらに毛の生えた、やはり色白の向う脛に、両方とも二寸ぐらいの幅で、赤く腫れたような条《スジ》が四五段ずつ痕になっていた。──なんのことかわからない、ことによるとそれが血脚気というものかも知れない、悠二郎はそう思った。そしてその栗饅頭を貰って、まもなく家《=イエ》へ帰った。  あとで聞いたところによると、花田先生は国許の藩校の教頭を命ぜられたのだそうである。代《=かわ》りの中野|健之助《ケンノスケ》という教官が来たが、これは若いのに眼鏡をかけた、土色めいた顔《=カオ》の少しむくんだ、老人のように咳ばかりしている先生だった。──悠二郎がまわりの者《=もの》を小突いたり、髪毛《髪の毛》をひ《引》っ張ったり、いきなり|頬《ほっ》ぺたへ墨《=スミ》をぬたくったりして騒がせても、眼鏡をかけたそのたるんだような顔《=かお》でこっちを覗いて、「どなたですか、どなたですか」などとうさん臭《=くさ》そうに云うだけであった。  悠二郎のほうでもだんだんこつを覚えてきて、その頃からは罰《=バツ》をくうようなことも少なくなったが、その代《代わ》りほかにひとついやなことが始まった。それは新泉《ニイイズミ》小太郎との対立である、──はじめはそんな者のいることなどまったく知らなかった。みんなうすのろのとんかちだと思っていたが、花田先生から自分と並《なら》べてその名を聞かされて以来、いったいどんな野郎だろうと注意するようになった。  ‥‥そいつはまるっこい躯《体》で、|頬《ほっ》ぺたが赤くて、眉毛と口《=くち》のいやにきりっとした、なかなか男前なようすをしていた。いつも唇を固くむすび、しんとしたような眼で先生の講義をじっと聞いたり、おちついたいい声《=こえ》でいやに上手《=ジョウズ》に本を読んだりした。 「結構です、たいへん結構です」  先生はみんなにこう云って褒めた。どの先生も小太郎がひいきらしい。 「これは新泉《ニイイズミ》の書いたものだが、字というものはこう書かなくてはいけない、順に廻してよく見ておくがよい」  そんなことが毎日のようにあった。父親の新泉《ニイイズミ》宗十郎は次席家老だそうで、だから先生たちは特にひいきをしているんだ。こう思ってみたが、花田先生の云ったことが頭にひっかかって、どうにも気になってしかたがない。  ──近いうち若君の御学友《ご学友》にあげられるだろう、そのなかでおまえと小太郎の二人に、いちばん望みをかけている。  極秘だというし、こっちはそんな窮屈な役はまっぴらだから、まだ誰にも云ってはないし、なるべくそんなことにならないように──つまり優良児童だと誤解されないように──つとめているのだが、一方ではどうしても対抗する気持が出る。おれだって花田先生には望みをかけられているんだぞ、こう云ってやりたい気持でむずむずした。  だが癪に障るのは相手の態度である、新泉《ニイイズミ》小太郎はこっちを無視していた。乙にすましかえってまるっきりこっちを見ようともしない。もともと無口のほうらしいが、二度か三度《=3度》こっちから話しかけたのに「そう」とか「いや」とか云うばかりで、ぜんぜん相手にしないのである。喧嘩をふっかけてやろうと思ってもそんな隙《スキ》がないし、──なにしろいまいましくって、毎日の通学が苦になるくらいだった。  兄《=アニ》の松太郎とはふしぎなくらい関係がなかった。同じ家《=イエ》に住みいっしょに学堂へも通《-かよ》っていたのだが、満足に口《=くち》をききあった記憶もない。双生児《=ソウセイジ》は性質も似るというが、そうとばかりは定《決ま》らないらしい。兄《=アニ》は幾らかぼけているみたように温和《大人》しくて、学校へ行け「はい」剣術をやれ「はい」、勉強しろ「はい」食事だ、寝ろ、起きろ、──一日じゅうはいはいと云いなり放題になっていた。こっちはどうしたってそんなぐあいにはいかない、自分でもたまにはおちついていようと思うけれども、少しながく坐っていると眠くなるか、耳の中で蝉が鳴くような気持になる。手足がむずむずし始め、躯《体》のそこらが痒くなって、つい知らず外《=ソト》へとびだしてしまうのである。 「悠二郎が来てから家《=イエ》の中がめちゃめちゃになってしまった」  父はよくこう云って眉をしかめた。慥かにそうらしいが、責任がどっちにあるかは問題だと思う。なにしろ此処は浅草の家と違って、大川もなければ舟もなし、見世物も草《=クサ》の原も砂利山もなんにもない。庭はあることはあるが、へんてこな石《=イシ》だの芝生だの植込だの池だの、苔のついた石燈籠だの、それぞれが尺で計ったようにきっちりと、いやによそよそしく配置してあって、木の枝《=エダ》ひとつ折っても「こらっ」とどなられる。 「その枝《=エダ》はそこの樹蔭《木陰》を生かすために伸ばしてあったのだ、それを折ってはまるでみられなくなるではないか、|おろ《愚》か者《=モノ》」  池のふちにあるへんてこな岩《’岩》の、肩のところに出っ張《張り》があった。かたちが悪いからそいつを金槌で欠いて取ったが、そのときも同じような小言をくわされた。それから踏石、──玄関の脇の木戸口から広縁まで、平ぺったい石《=イシ》がとびとびに置いてある。それを踏んでゆくようになっているのだが、そいつがひどくぞんざいで、一つは左へ次は右へというふうに、へんに曲って置かれてあった。おそらく意地の悪い人間か眼の狂ったやつの仕事だろう──よし、たまには善《い》いこともしてやるさ、悠二郎はこう思って、そいつを一列にまっすぐに置きなおした。たいして大きくも厚くもないが、重いことはべらぼうに重かった。彼は汗だくになり、終ったときには足がふらふらした。  ひとに知れない善行というものは気持のいいものだ、悠二郎は父がそれを発見したときの、驚きと嘆賞の声を想像し、疲れも忘れてぞくぞくした。──が、その結果はまるで予期に反したものだった。どう予期に反したかは云わないほうがいいだろう、‥‥要するに彼は父の見ている前で、もういちど汗だくになって、その踏石を元のように置きなおさなければならなかった。  庭の土を掘っていたら慈姑が出て来た。山の手というところは|きてれつ《奇天烈》なことがあるもんだと思って、掘れば幾らでも出て来るので、三十五六《三十’五、六》も掘りだしたら、そいつは水仙の球根だったので怒られた。また春さき庭の一隅にえたいの知れない芽が出た、きみの悪い色をしたやつがにょきにょき出たので、毒の草《=クサ》かなにかだと思って、きれいにひっこ抜いてやったところが、それは芍薬の芽だそうで、これにもいっぱいくわされた。  金魚のときはもっとひどくやられた。  父の居間のある広縁のさきに、水蓮《スイレン》を浮かせた大きな鉢がある、そいつは高さが二三尺《二、三尺》に周囲が十二三尺《十’二、三尺》くらいで、父はその中で金魚を飼っていた。薄い緑色に濁ったきたならしい水の中に、赤と白の斑《マダラ》なやつが十尾ばかりいるらしい。水蓮《スイレン》の葉の蔭とか、濁った水を透《透か》して、いつもそいつらは妙《’妙》にのたのたと、草臥れたような泳き《ぎ》方をしていた。 「お父《=とう》さまが大切にしていらっしゃるんですから悪戯をしてはいけませんよ」  母は心配そうに諄くこう云った。──見ているだけならいいので、側《=ソバ》へいっては眺めたのである。そいつらは大きくて肥えていた、なかには五寸よりもっと大きいらしい、頭のところが瘤々で、胴が毬《=マリ》みたいに肥えてひどく|ぶざま《無様》なのもいた。そいつらは《は-》らんちゅうとか獅子頭とか云うので、育て方が|ひじょう《非常》にむずかしく、父の丹精は誰にもまねのできないものだったそうだ。‥‥父はそいつらを御殿へ献上するので、いっそう大事にするということであるが、それはそうかもしれないが、悠二郎は父が案外な手ぬ《抜》かりをしているのを発見した。それはなにかというと、父は大事にするあまり、金魚どもの鰭や尾が伸びすぎているのに気がつかない、だからそいつらは鰭や尾が邪魔になって、満足に泳ぐことができないのである。──まるで赤ん坊が振袖でも着たように、躯《体》をくねくねさせ、のたのたした草臥れたような恰好で、重たそうにやっとこさ泳ぐのである。  悠二郎はそいつらが可哀そうになった。そこで鋏を持って来て、一尾《一尾’》ずつ捉まえて、その伸びすぎた鰭や尾を《を/》ちょうどいいくらいに切ってやった。──そうして七尾《シチビ》めを切ってやっていたとき、団栗まなこの黒板《クロイタ》権兵衛にみつかったのである。彼は殺されるような声で叫び、まず母がとんで来た、それから家扶の渡辺老、兄の松太郎、誰も彼もみんな、家じゅうの人間が集まって来たには驚いた。 「私たちだって髪毛《髪の毛》や爪が伸びれば、切るんですから、金魚だって可哀そうじゃないでしょうか」  こう説明したけれども父はむやみに怒って、とうとう三日のあいだ暗い納戸で謹慎させられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  悠二郎が若君の正篤と初めて会ったのは、明くる年《=トシ》の三月のことであった。──そんなことにならないように、自分ではかなり努力したつもりだったが、その甲斐《=カイ》もなく「御学友《ご学友》」にあげられてしまったのである。  浄松院《ジョウショウ院》という先の殿さまは、六年まえに二十三歳で亡くなられ、若君はまだ任官こそしないが、そのときすでに六万三千石の藩主であった。生母は清香院《セイコウ院》といって、幕府の連枝の松平の出《出’》であり、その実兄に当る松平外記が後見になった。──政治は合議制で、江戸と国許の全老職が参画し、そのなかで土井勘右衛門は若君の御養育《ご養育》を兼ねていた。  若君はそのころ信太郎《ノブ太郎》といったが、悠二郎たちは「若さま」と呼ぶように注意された。──若さまは大きい表御殿とはべつに、奥庭の高みにある日月亭《ニチゲツ亭》に起居していた。そこはまわりに松や杉の林があり、花畑や広い芝生などもあった。いちばん高い丘へ登ると、西は溜池から赤坂台から山王の森などがひと眼だし、東は表御殿の屋根の間《=あいだ》から、京橋方面の下町《=したまち》が眺められる。‥‥またそこを西へ下り、かこいの笠木塀《笠木べい》を越えると、一段ずつ果樹畑《果樹バタケ》とか菜園などがあって、いちばん下《’下》は小さな流れのある谷底のようになっている。そこが屋敷境で、高い築地塀《築地ベイ》の向《向こ》うは黒いような森の茂みだった。  ──若君は|おな《同》い年《=どし》の八歳だった。蒼白いような痩せた躯《体》で、眉毛と眼の間《=あいだ》の|はな《離》れた、ぼうっとした顔《=カオ》つきだった。動作も|のろくさ《ノロクサ》しているし、舌《=シタ》っ足らずな口《=くち》をきくし、見ているとじれったくなるばかりだった。  ──こんなのが|ばか殿《馬鹿トノ》になるんだな。  悠二郎はこう思ったので、お相手など|まじめ《真面目》にする気持がなく、たいてい独りでとびまわっていた。花田先生の云ったとおり、選《えら》まれたのは七人《=しちにん》で、むろん新泉《ニイイズミ》もその一人だった。──|かれ《彼》らは朝八時にあがり、午後三時にさがる。朝のうち講話と素読と習字をし、午後は剣術の型《=カタ》の稽古があって、そのほかは庭で遊ぶという日課だった。そして七日にいちどずつ休みがあった。  悠二郎は素読も習字もいやだったが、講話と剣術は好きだった。講話というのは古今の名将勇士とか合戦物語《カッセン物語》などで、浅草寺の境内でやっていた辻講釈に似ていた。それで、ことによると知り合《合い》かもしれないと思って、「先生は頓珍軒鈍斎《トン珍軒ドンサイ》ってひと知ってますか。」ためしにそうきいてみた。すると、それはどこの|なに《何》者だと聞くから、浅草の辻講釈だと云ったら、先生は怒って講話を途中でよしてしまった。  御殿へあ《上》がりだして三度目の休みの日であったが、お祖父さんが「聖堂へゆこう」といって、朝早《=あさ早》くいっしょに屋敷を出た。家へ帰ってから初めての外出である、それだけでも嬉しかったのに、聖堂へはゆかないで、浅草の舟仙《シュウ仙》へつれてゆかれたにはびっくりした。 「黙っているんだぞ、内証《内緒》だぞ」  お祖父さんはこう念を押した。  舟仙《シュウ仙》では悠二郎を見ておつねが涙をこぼした。五つになった《た/》おみつは忘れたものか、くりくりした眼でこっちを眺め、側《=ソバ》へ来ようとはしなかった。悠二郎は手早く袴をぬぎ着物《/着物》をぬいで、「母ちゃん、おいらの着物出して呉れよ。」こう云いながら髪の毛もほどいた。 「そいから頭も前のようにして呉れねえ」 「まあ坊ちゃんそんなこと|仰しゃ《仰》ったって、まさかあなた」 「いいから好きなようにしてやれ。」虚木老《キョボクロウ》はこう云って笑った、「──半年も辛抱した息抜きだ、好きなように暴れて来い」  筒袖の脛っきりの袷に三尺《サンシャク》、頭もちょいとひっ括っただけの、実《=じつ》にさばさばした恰好になった。 「わあすげえ、こいつはすげえや」  彼はとびあがって叫んだ。 「腰んとこが軽くって躯《体》が浮いちゃいそうだ、屋根まで跳びあがれそうだ、わあすげえ、──母ちゃん、吉べえいるかい」 「舟は危のうございますよ」  おつねがそう云ったときには、彼はもう土間から外《=ソト》へとびだしていた。──吉べえという若い船頭を呼びだし、舟を出させて向《=むこ》う河岸へいったまま、昼飯まで帰らなかった。そしてようやく帰ったときには、片方の眼のまわりを紫色に腫らし、|頬《ほっ》ぺたに三条もひっ掻き傷ができていた。 「勝《かつ》んべの野郎に貸しがあったんだよ」  彼は茶漬をかきこみながら云った。 「小梅にゃもう一人いるんだけど、逃げちゃって出て来《こ》やしねえ、こんだ瓦屋の熊んとこへいくんだ、喧嘩じゃねえよ観音さまで遊ぶんだ」  薬《=クスリ》をつけてやる暇もなく、喰《食》べ終ると箸を抛りだして出ていった。──虚木老《キョボクロウ》は虚木老《キョボクロウ》で深川あたりへでかけたらしい、三時すぎてから、いいきげんに酔って帰ったが、悠二郎はそれよりずっとおくれて、泥《=ドロ》まみれになり、千切《=ちぎ》れた片袖をぶらぶらさせて帰って来た。 「その顔はどうしたんだ、冗談じゃない。」さすがの虚木老《キョボクロウ》も唸った、「──おれたちは聖堂へいったことになっているんだぞ、聖堂でおまえそんな、‥‥冗談じゃない、だがまあ早く支度《シタク》をしろ、帰りがすっかりおくれてしまった」  舟仙《シュウ仙》を出るとき、おみつが門口《=カドグチ》から顔《=かお》を半分のぞかせて、にっと笑いながら云った。 「悠ちゃんのあんちゃん、また来てね」  悠二郎は黙ってさっさっと歩きだした。  そのときは虚木老《キョボクロウ》がうまいぐあいにごまかした。聖堂を出るとき石段で転んで、眼のまわりをそんなにし、また枸橘《+カラタチ》の垣根で頬《ホオ》をひっ掻いたといった。信用したかどうか、父は黙っていたし、母もなんにも云わずに薬《=クスリ》をつけて呉れた。  それから月にいちど舟仙《シュウ仙》へ出かけた。また三社|祭り《祭》とか両国《=リョウゴク》の花火とか、四万六千日《=シマンロクセンニチ》とか草市などの、なつかしい行事のあるときには、定《決ま》った日のほかにも伴《連》れて出て呉れた。  若君と話をするようになったのは、その年《=とし》の初秋のころだった。それまで若君は新泉《ニイイズミ》にばかりくっついていて、彼などには眼もくれなかった。こっちはそのほうが有難い、暇さえあれば勝手にとびまわって、そのじぶんはもう広い上屋敷の隅から隅まで知っていた。──七月《7月’》はじめから小太郎が出て来《=こ》なくなった。病気だということで、若君のひどく淋しそうなようすが眼についた。悠二郎はそのとき初めて声《=こえ》をかけた。そうして若君の気をまぎらせてやろうと思って、耳へ口《=くち》を押しつけて囁いた。 「魚《=サカナ》をしゃくいにゆきましょうか」  若君はけげんそうな眼をしてこっちを見た。 「鮒だの蝦だの獲れるんですよ、面白いぜ」  ほかのやつらには内証《内緒》だからと云って、|しめ《示》し合せて、例の屋敷境の谷へ下《お》りていった。若君は笠木塀《笠木べい》を乗り越えるとき泣きそうになり、台地を跳び下りるとき膝を擦剥《=すりむ》いた。動作が|のろくさ《ノロクサ》して不器用で、つい舌打ちをしたくなった。 「もっと|てっとり早《手っ取りばや》くしなくちゃだめですよ、擦剥《=すりむ》いたとこなんかうっちゃっときなさい、番人にみつかるとたいへんなんだから」  最後の菜園の、石垣を跳び下りると、その石垣のひとところ崩れた穴から目笊を取り出した。  ──若君は不安そうにまわりを眺めまわしていた。|うす暗《薄暗》くてじめじめした、狭い谷底のような景色にびっくりし、また不安で気持がおちつかないらしい。悠二郎はさあこっちですよと云って、蘆を掻きわけて流れのところへいった。幅三尺ばかりの、ほんの浅い泥溝《+ドブ》川であるが、溜池に続いているので、そっちから小さな魚《=サカナ》や川蝦がのぼって来るのである。悠二郎は慣れたようすで袴の股立をとり、はだしになって流れの中へ|はい《入》ると、たちまち小鮒《コブナ》を一尾《一尾’》す《/す》くいあげて来た。 「ほらね、獲《と》れたでしょ、こいつはきんこってんだぜ、金色に光ってるだろ、金鮒《キンブナ》ともいうけど、小梅のやつらはきんこってえんだ」  彼は小鮒《コブナ》を五尾と川蝦を三《3》つばかり獲った。若君にはまったく初めての経験で、そのときはただ驚くばかりだった。眼をまるくして、ばかにでもなったような顔《=かお》をしていた。  その翌日のことであるが、遊び時間になると若君が彼を呼んで、「若のところにも魚《=サカナ》がいるよ」と云った。そこでいっしょにいってみると、小さな泉水に金魚が泳いでいた。──それは《は-》らんちゅうとか獅子頭とかいう例の|ぶざま《無様》なやつで、父の献上したものだということがすぐにわかった。悠二郎は急にきな臭《=くさ》いようないやな気持になり、脇のほうへ唾を吐いて、ちえっこんなの、と、しかめ面《っ面》をして云った。 「こいつらはみんな片輪者《片輪モノ》ですよ、女の観るもんだぜ、こんなの面白いのかな、なっちゃねえな」  若君は途方にくれたような顔《=かお》で、しょげていた。  二日ばかりして、彼はまた若君をさそってしゃくいにいった。三度《=3度》めには若君のほうからゆこうと云いだした。面白くなったらしい、笠木塀《笠木べい》を乗り越えるのも、台地を跳び下りるのも、番人が来たときの隠れ方《=かた》も、だんだんいたについてきたし、自分でも流れに|はい《入》ってしゃくうようになった。 「本当はこんなもんじゃないんだぜ、橋場の川へゆきゃあ鮠《/ハヤ》だの鯉っ子だの、こんなでけえのが山と獲れるんだぜ──おれなんか綾瀬川でなんべんも鯉を釣っちゃった」 「──そこへは、若もゆけるの」 「いかれやしねえさ、いけると面白いんだがな、芝居もあるし、観音さまにゃあ軽業もかかるしよ、ろくろっ首って見たことがあるかい」 「──若はいつか、‥‥いつか、能を観た」  そんなぐあいに話《ハナシ》もするが、たいていちぐはぐで、悠二郎はいつも軽侮に堪《=た》えないという顔をし、それから気の毒になって、自分の楽しい経験を詳しく物語るのであった。  新泉《ニイイズミ》が出て|来はじ《来始》めると、若君はまた新泉《ニイイズミ》をひきつけて離さなかったが、悠二郎にも疎くはしなかった。ただ二人がどうしても折り合えないということは察したとみえ、悠二郎には決して新泉《ニイイズミ》の話をせず、新泉《ニイイズミ》に悠二郎のことは黙っていたようだ。  若君を屋敷からぬけ出させて、浅草界隈の面白いところを見せてやりたい。悠二郎はその頃からよくそう空想していた、もちろん空想するだけで、実際にやろうとも思わなかったし、そんなことが出来るとも考えなかった。しかしやがて機会がやって来て、その夢のような空想が実現できるようになったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  若君が十二歳になった年《=トシ》、六月から八月いっぱい、本所の下屋敷ですごすことになった。躯《体》が虚弱なので、医師と勘右衛門の主張で定《決ま》ったらしい。女をひとりも置かず、侍もごく僅かで、学問も他の稽古もなく、七人《=しちにん》のお相手と遊び暮していればよかった。──その下屋敷で、悠二郎は巧みに機会をつかみ、若君を外《=ソト》へぬけ出させたのであった。  そこでは万事がゆるやかだった。養育係としては勘右衛門がいるだけだし、御殿の造りも、|塀がこ《塀ガコ》いも簡略で、隠れて出入《出入り》する隙《スキ》は幾らでもあった。たいていは若君に「気分が悪い」と云わせ、寝所《シンジョ》へ|はい《入》るふりをして出かけるのである。それにはお相手のなかの原精一郎というのを身代りに寝所《シンジョ》へ寝かして置いた。精一郎はずぬけたくいしん|ぼう《棒》で、いつも一袋《=ひとふくろ》の菓子で買収することができたのである。──悠二郎はぬけ出るとまず舟仙《シュウ仙》へゆき、そこで若君にも着替えをさせ、そうしてほうぼう伴《連》れまわった。舟仙《シュウ仙》の者《=もの》には若君を友達の信太郎《ノブ太郎》だと紹介し、|かれ《彼》らの前では「おい信《#ノブ》ちゃん」などと呼んでみせた。若君のほうにはこっちを「悠公」と呼ばせ、それで幾分かは階級をつけるつもりだったが、どうしても若君はそれに慣れず、しまいまであいまいに「おい」とか「ちょっと」とかいうふうにしか呼ばなかった。  悠二郎は小梅の勝《かつ》んべを撲るところもみせた。魚《サカナ》の釣り方も、池のかいぼりも、大川で泳ぐことも教えた。若君もだんだん身軽に動けるようになり、|わる悪戯《ワルイタズラ》をして追っかけられるようなばあいでも、なかなかすばやく巧みに逃げられるようになった。──向島の長命寺の近くへいったときのことだが、寮めいたある家《=イエ》の側《=そば》でふと思いだし、「ちょっと待ってな、慥かこの中だと思ったが、いまうめえ物《=もの》を取って来てやるからな」  こう云って悠二郎は、生垣の隙《すき》から庭の中へもぐり込んだ。そこでまえに桑の実《=み》を取ったことがある、少し季節がおくれているが、場所は慥かにそこだと思っては《=は-》いった、するとはたして大きな桑の木があり、生《=な》り盛《ざか》りは過ぎているが、黒い実《=ミ》がまだかなり残っている。──悠二郎は両手でそれを摘《#つ》み取り、ふところへ入れてはまた摘み取った。と、とつぜん、 「この野郎、また庭を荒すか」  こう叫びながら、下男のような男が棒を持ってとびだして来た。悠二郎はすばやく生垣の隙《すき》から外《=ソト》へぬけ、「早《=ハヤ》く早《=ハヤ》く」と、若君をつきとばすように逃げだした。──水戸屋敷のところまで息もつかずに走り、そこの土堤《土手》の下《シタ》で、ふところから桑の実《=み》を出して二人で喰《食》べた。 「うまいねえ、こんなうまい物《=もの》は初めてだ、これなんの実《=ミ》なの」 「桑の実《ミ》さ、こいつを喰《食》べると口《=クチ》ん中じゅう紫色になるんだ。ほら見てみな、ね」 「本当だ、若のもなってるかね」  二人は互いに口《=クチ》や舌《=シタ》を見せあい、お|はぐろ《歯黒》を付けたようだと笑いあった。  九月に上屋敷へ帰ると、若君は庭師に命じて桑を二本植えさせた。庭師はそんなものはお屋敷の庭へ植えるものではないと云《#い》い、なかなか承知しなかったが、若君がどうしてもきかないので、それでは内証《内緒》ですからと云って、日月亭《ニチゲツ亭》の裏のところへ二本植えた。 「こっちは若、こっちはおまえのにしよう」  若君は悠二郎にこう囁いた。 「これから毎年二本ずつ植えるよ、そうしてたくさんになったら、家中《かちゅう》の者《=モノ》みんなに食《=く》わせてやるのさ、みんなうまいのでびっくりするよ」  明くる年《=トシ》も下屋敷で|さか《盛》んにぬけ出した。  その翌年からは十二月にも、ひと月だけ下屋敷ですごすことになり、夏とは違ったいろいろの経験をした。──桑の木は一年に二本ずつ植えてゆき、初めに植えたのは、三年めから実《=ミ》が生りだした。  若君は十六歳の春、後見を解かれ、摂津守に任官して正篤と名のり、松平|玄蕃頭《+ゲンバノカミ》の女で、十七になる順子《-より子》と結婚した。 「お祖父さまこんな乱暴なことがありますか」  悠二郎は心《=ココロ》から怒って、祖父に向ってこう詰問した。 「先殿《セントノ》もそのまえの殿も若死をなすっていらっしゃる。それはみんな早く結婚するためじゃありませんか、準斎《ジュンサイ》先生も早婚はその者《=もの》の躯《体》にもよくないし、生《#生ま》れる子も劣弱になり易いと云ってますよ、そのくらいのことがお祖父さまにはおわかりにならないのですか」 「わかっているさ、──みんな、おそらく誰だって承知しているだろう」 「ではなぜ黙っているんです、どうして止めようとなさらないんです。向《=むこ》うは女の十七でいいだろうけれど、若さまは十六でもおくのほうじゃありませんか」 「だがこれだけは、どうにもならないんだ」  そして虚木老《キョボクロウ》は語った。五代まえから、ふしぎに藩主が若死をする、光覚院というひとから先代の浄松院《ジョウショウ院》まで、たいてい二十二か三で病死してしまう。そのころ大名の家では早婚が通例であって、名目だけにしても十三四《十サンシ》で結婚するものさえ少なくはない。──そのためもあろう、同時に医者のみるところでは、躰質《体質》的な遺伝のようなものもあるらしい、室井|準斎《ジュンサイ》は浄松院《ジョウショウ院》をも診た医者であるが、若君|信太郎《ノブ太郎》の躰質《体質》に、父と共通した点が多いことを指摘している。 「人間の寿命はわからない、どんな名医にも人間の寿命を当てることはできまい、しかし五代も続いて早逝《=ソウセイ》し、躰質《体質》が似ているものとすれば、──おそれ多いことだが、いちおう御短命《ご短命》とみなければならぬ」  そこで問題になるのは継嗣のことである。六万三千石の所領と、家名血統と、ひいては全家臣たちのためには、どうしても世子がなくてはならない。少しは愚かであろうと、弱かろうと、世継ぎだけは必要なのである。 「そんなばかなことがあるもんですか、幾らお世継ぎが必要だからって、そんな、──それじゃあまるで若さまのお命《=イノチ》を、短いうえに短くするようなものじゃありませんか」 「人間は生きた年数だけで長命か短命かがきまるものではない」  昂奮している悠二郎を見て、虚木老《キョボクロウ》はなだめるかのようにこう云った。 「土蔵の中で百年生きるのと、市中で三十年生きるのと、その経験したことを比較してみるがいい、どちらが長く生きたことになるか、──悠二郎、わかるだろう」 「いいえ、わかりません、それが若さまとなにか関係があるんですか」  虚木老《キョボクロウ》は苦笑して、勘のにぶいやつだと呟き、わからなければよく考えろと云った。  正篤は表御殿へ移り、お相手役は解かれて、悠二郎と新泉《ニイイズミ》とくいしんぼうの原と、三人があらたに側扈従《+ソバゴショウ》となった。──悠二郎はその当座《当座/》しきりに、正篤に向ってそれとなく早婚のよくないことを説いた。明らかには云えないから、ほかに例をとって話したのだが、正篤もそれと感づいたとみえ、「おれのことなら心配しなくともいいよ。」こう云って微笑《-びしょう-》した。  順子《より子》姫の輿入れは三月中旬《3月中旬》に行われた。しかし正篤は表御殿で寝起きをし、やむを得ない行事のほかは奥へはゆかなかった。──そのことではかなりむずかしいゆくたてがあったらしい。正篤の母の清香院《セイコウ院》にとっては、順子《より子》は血縁つづきであり、また|ひじょう《非常》な気にいりで、その縁組も彼女の意志でまとめたものだといわれる。──もうひとつはやっぱり早く世継ぎも欲しかったろうし、寝所《シンジョ》を奥へ移すようにと、かなりやかましい督促があった。そのあいだに立って、勘右衛門と室井|準斎《ジュンサイ》がいろいろとりなしをし、正篤の躯《体》が不調だからという理由を主《シュ》にして、ごく自然に延期していったもようである。  その年《=トシ》も六月になるとすぐ下屋敷へ移り、早速またぬけ出しを始めた。舟仙《シュウ仙》ではみんな待ち兼ねていたが、なかでもおみつはこれまでにないよろこびようで、「お揃いの浴衣を拵《=こしら》えといたのよ」などと云って、自分で浴衣や三尺《サンシャク》を出して来て、側《=そば》に付いていて世話をやいた。 「悠ちゃん、三尺《サンシャク》はもっと下《’下》へ締めるものよ、信《ノブ》さんももう少し下《=シタ》になさらなくっちゃ、──そう、ええ、いいわ、わりと柄《=ガラ》も似合うわ」  そんなふうに大人びたことを云った。家の|しょうばい《商売》が|しょうばい《商売》だし、下町《=したまち》も浅草育ちだからませるのだろうが、去年から見ると背丈も伸び、|顔だ《顔立》ちも|目だ《目立》ってきれいになって、十三《=13》という年《=トシ》より一つ二つ上《’上》にみえた。 「なまを云ってやがら、自分で仕立てたわけでもねえくせにして、あっちへいってろよ、うるせえ」 「縫《ぬ》やあしないけど柄《ガラ》はあたしの見立てよ」 「道理《=ドウリ》で田舎っ臭《=くせ》えと思った、おめえなんぞまだそんながらじゃあねえよ、おしゃぶりでもしゃぶってあねさまごっこでもしているがいいのさ」 「いいわよ、気にいらなきゃ脱いで頂戴」 「お情けで着てやるよ、可哀そうだからね、母ちゃん、舟借《舟’借》りるぜ」  正篤を促して河岸へとびだすと、おみつが追って来てまた世話をやいた。 「その舟はだめよ悠ちゃん、だめなのよ、こっちの舟にしなさいよ」 「黙ってろ、うるせえ、素人じゃねえんだ」 「偉そうなこと云うわね、そんならやってごらんなさいよ、いいお慰みだわ」  二人の口喧嘩にはもう正篤も慣れている。仙吉夫婦《=センキチ夫婦》も向《向こ》うで笑いながら見ていた。──なにってやんでえ、こっちがよっぽどお慰みだと、もやいを解《=と》いて、棹を使って舟を川へ出した。もうよかろうと、艪臍《+ロベソ》をしめそうとしたが、そこが取れて無くなっているので唸った。 「どうしたの、漕がないの、悠ちゃん」  河岸からおみつがそう叫んだ。  その年《=トシ》は舟仙《シュウ仙》の家でよく遊んだ。大神楽だとか講釈師だとか、手品師とかお《落》とし噺《+バナシ》とか俗曲などの芸人を呼んで、二階をぶっとおして近所の者《=モノ》も招いたりして、賑やかに見物した。──もうそれまでに浅草寺の奥山で、その種《しゅ》のものはたいてい見ていたが、そういう座敷へ来る者《=もの》の芸はまたべつの味《’味》があり、正篤は|ひじょう《非常》に楽しそうなようすだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  上屋敷へ帰る日が近づいてから、おみつは悠二郎と二人きりのとき、さぐるような眼つきで彼を見ながら云った。 「なんだか今年はようすがへんね、いつもと違って信《ノブ》さんをばかに大事にするし、外《=ソト》へ出てもあんまり乱暴なことしないじゃないの」 「おめえなんぞの知ったこっちゃねえよ」 「信《ノブ》さんだって迷惑そうだったわよ、いつかあたしに、今年は悠ちゃん|へん《変》だって、へんにうるさくするって、そ云ってたわよ」  悠二郎はどきっとした。おみつのさぐるような眼から顔《=かお》をそむけ、よし、そんなこと云《#い》やあがったら、あいつ、──などと云ったものの、胸がふさがるような思いで、おみつの側《=ソバ》から逃げだした。  その年《=トシ》は十月になって、思いがけない帰国の許しが出た。参覲《参勤》のいとまで正篤にとっては初めての国入りである。まだ一二年《一、二年》はその沙汰もあるまいと思っていたし、出立までの日数が少なかったので、家中《カチュウ》はいっとき眼の廻るような騒ぎだった。──正篤は悠二郎に、こっちに残っていろと云った。おまえを江戸から離すのは可哀そうだし、おみつが淋しがるだろう、などとも云った。しかし悠二郎はてんで聞こうともせず、正篤に付いて出立した。  国許にはちょうど一年いた。高い山が東と北に峰をつらね、城下《城下’》の近くに瀬の早い川がながれていた。城《しろ-》は丘陵の上にあり、森のような樹立《木立》に囲まれているが、地盤が高いので眺望はひろく大きかった。  悠二郎はその眺望にはまいった。雪をかむった山々の峰が、鋭く尖ってはっきり見える、雨風にさらされた、灰色めいた、うらさびれたような町《=マチ》の家々、その向《向こ》うをながれている川の、早瀬のところのあざやかに白い泡、そして遠くうちひらけている荒地《荒れ地》や田《タ》には、一日じゅう溶けない薄氷《=ハクヒョウ》が張っている、──どっちを見てもそんな景色で、見るたびに江戸が恋しくなり、気持が沈むのに降参した。  花田先生とはゆくとすぐに会った。相変らず色白のおとこまえだが、少し肥えて態度もずっと穏やかになっていた。──新泉《ニイイズミ》と二人でいちど遊びに来いと云われ、二人で訪ねて昼餉を馳走されたが、こっちへ来るとすぐ結婚されたそうで、やさしそうな妻女と小さな男の子がいた。 「うん、よし、いいだろう、だいたい思ったとおりだ」  二人のようすを見て、花田|欣弥《キンヤ》は微笑《-びしょう-》しながらそう云った。新泉《ニイイズミ》はそ知らぬ顔をしていたが、悠二郎はてれくさくなって頸《首》を撫でたりそら咳をしたりした。おまえと新泉《ニイイズミ》の二人に望みをかけている。と、いつか花田先生は云ったが、今の言葉はそれにつながるものに相違ない。とすればとんでもないはなしで、それどころではございませんと逃げだしたいくらいだった。  一年の在国ちゅう、正篤の性格に一種の変化が起こった。  あとで思い当ったことだが、帰国するとすぐ菩提所の大竜寺へ展墓をし、それから間《マ》をおいてしばしば寺を訪ねた。その前後から気分に|むら《ムラ》がではじめ、陽気に笑う日があるかと思うと、ひどく憂鬱に黙りこむ日が続く。するとまた急に元気になって、鷹巣山へ遠乗りをしようと云いだしたりした。──沈んだようすのときは顔つきまで暗く、蒼《青》ざめて、眉をしかめて、なにか痛みを堪《こら》えてでもいるような、苦しげな表情になった。 「どうかなすったのですか、お躯《体》のぐあいでも悪いのではございませんか」  あるとき悠二郎がそうきいてみた。正篤は不意におどかされでもしたように、ぎょっとした眼つきでこっちを見た。それから唇を歪《=ゆが》めて笑い、頭を振りながら云った。 「いやなんでもない、──大丈夫だ、郷愁というのだろう、ときどき江戸へ帰りたくなる」 「はあ、それは、しかしそれだけでございますか」 「おまえ帰りたくないか。」正篤はこう云って、脇のほうへ眼をそらした、「──江戸へ帰って、また舟仙《シュウ仙》へゆこう、みんな待っているだろう、今ごろおみつはなにをしているだろうな」  悠二郎は身につまされ、ほっとすると同時に、せっかく忘れようとしているものを思いださせられて、いやな心持になった。  これもその|じぶん《自分》のことだが、花田|欣弥《キンヤ》が靖献遺言の講義をすることになった。だいたい五十回ばかりの予定で始めたのであるが、第一日《第イチニチ》の講義を半刻《ハントキ》ほど聴いたとき、とつぜん「ああ」という奇妙な呻きのような声をあげた。──悠二郎はとっさに眼をあげたが、正篤は蒼《青》ざめ、いつもよりもっと鋭く眉をしかめ、一種の捉えがたい歪《=ゆが》んだ表情になっているのを見た。だが正篤は自分の声に自分でびっくりし、とまどいをしたように、「いやなんでもない、続けて呉れ。」こう云ったのであるが、そのあとでも聴いているようすはなく、講義はそれきりでやめになった。──その後《=ご》もときどき妙な《な-》ことがあった、話をしていて急にちぐはぐな返辞をしたり、ふっと黙りこんでしまったり、いきなり外《=ソト》へ出ようと云ったりして、まわりの者《=もの》をまごつかせた。けれどもそれは、ときたまのことであるし、|かくべつ《格別’》異常にみえるほどでもなかったので、悠二郎もたいして気にかけは《は-》しなかったのである。  江戸へ戻ったのは翌々年の三月であった。そして参覲《参勤》出府の式──国産の献上物を持って将軍に謁見すること──が済むとすぐ、正篤は軽い風邪をひいて寝た。旅の疲れも出たのであろう、長くて四五日《四、五にち》と思われたが、そのまま五十日ばかり病間《=ビョウマ》を出ることができなかった。  悠二郎は殆んど詰めきりでお伽をした。むろんお伽や宿直《+トノイ》はほかにもいたが、彼と新泉《ニイイズミ》と原の三人はいつもお側去らずで、ことに悠二郎はその期間ずっと家《=イエ》へ帰らなかった。──新泉《ニイイズミ》や原は五日にいちどずつ家《=イエ》へ帰るし、夜も正篤に云われれば部屋へさがって寝た。しかし悠二郎だけはそういうばあいでも宿直《トノイ》より遠くへは決してさがらなかった。‥‥正篤も諄く「さがれ」とは云わなかった。二人きりになれば舟仙《シュウ仙》を中心にした話ができる、そのときだけは気が紛れるらしい、声をだして笑うことさえしばしばあった。 「あの話には驚いた、とうてい本当とは思えなかった」  あるとき正篤はふと思いだしたというふうに、こう云って笑いながらこっちを見た。どうも顔の一点をじろじろ見て笑うので、悠二郎は例の如くてれて、なんの話ですかときいた。正篤は自分の鼻を指さした。 「おまえの鼻の穴がどうしてそんなに大きくなったかという話《話’》さ、おつねにすっかり聞いたんだよ」 「えっ、ああ──ああそればかりは」 「そればかりは《は-》と云ったって本当なんだろう」 「覚えがないんです。」悠二郎は赤くなり、むきになって弁明した、「──ぜんぜんです、自分ではこ《-こ》れっぽっちも覚えのないことなんです。これだけは誰にも話さない約束だったんですが、‥‥ひどいやつだ」  正篤は笑って、そして激しく咳きいった。  だが、こういう会話はだんだん少なくなり、正篤のようすは日の経つにしたがって憂鬱の色を増した。悠二郎の話を聞いて笑っても、それが心《=ココロ》からの笑いでないことがわかる。沈んだ顔色をして、ともすると黙りこんで、ぼんやりどこかを眺めるというふうなことが多くなった。──病気が悪くなったのかと案じられたが、医者は寧ろ恢復しつつあると云っていた。そのうち悠二郎はふと、正篤が国《=クニ》にいるじぶんから、幾たびもそんなようすをみせたことを思い出し、そこになにか理由があって、そうしてそれが現在まで糸をひいているのではないか、と、想像してみたりした。  昏れがたから雨になったある夜のこと、ちょうどまた二人きりのときだったが、とりとめのない話がふととぎれて、どちらもいっとき、しんしんと庇を打つ雨の音に聴きいっていた。そしてかなり経ってから、正篤は枕の上で仰向いたまま、喉にからんだような声でこう云った。 「悠二郎、おまえ浅草へはいつゆくんだ」  それはもうたびたび云われることであった。悠二郎はさりげなく、いつものように答えた。 「もう本復《ホンプク》もまのないことですから、ごいっしょにお供を致します、独りでまいっても面白くはございません」 「そうではあるまい、浅草へもゆきたいが、おれの側《=そば》を離れることができないのだろう。」正篤の声は棘のある調子に変った、「──おまえは知っているのだ、それで、おれがいつ死ぬかもしれないと思って」 「なにを|仰しゃ《仰》るのですか」  悠二郎はぎくっとし、慌てて遮ろうとしたが、正篤は冷笑するように続けた。 「隠すことはない、おれも知っているのだ、大竜寺へ展墓にいったとき、寺の日鑑《ニッカン》をみてすっかりわかったのだ、五代まえの先祖から、わが家《=や》の男子はみな若くて死ぬ、父上もお祖父さまもひいお祖父さまも、みんな二十《#ハタチ》から二十二三《二十’二、三》で亡くなっている、──おれに早く奥を迎えさせ、早く世継ぎのできるように強《し》いたのも、母上や老臣どもがおれの短命だということを知っていたからだ、そうではないか、悠二郎」  悠二郎には口《=クチ》がきけなかった。両手で袴を掴み、頭《こうべ》を垂れ、こみあげてくる涙をけんめいに堪《-こら》えていた。 「みんなには、おれの命《=イノチ》よりも、世継ぎの有無のほうが重大だ、──たとえそのために、おれが寿命を早めることになっても、世継ぎをつくることができれば、そのほうがみんなのためにはよい、‥‥そうではないか、悠二郎」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  悠二郎はそこへ手をついた。そうしてできるだけ静かな調子で云った。 「私は殿が若死をなさるとは思いません、御代々《ご代々》が御短命《ご短命》だからと申して、殿《#トノ》も御短命《ご短命》であるとは定《決ま》りは致しません、私は殿は御長命《ご長命》でいらっしゃると信じております」 「おまえが信じるだけでおれの寿命が延びると思うのか」 「私はいつぞや祖父からこのようなことを聞きました。」悠二郎は構わずこう続けた、「──人間は生きた年数だけで、長命か短命かがきまるものではない、土蔵の中で百年生きるのと、市中で三十年生きるのと、その経験したことを比較すれば、市中で三十年しか生きないほうが、事実は長命したといえるではないか」  正篤は眼をつむり、息をひそめるようにした。悠二郎は言葉をつよめて云い継いだ。 「私は祖父の申すことがそのときはわかりませんでした。しかしまもなく合点《ガテン》がまいったのです、殿《=トノ》の御身分《ご身分》としては、殿《#トノ》はこれまでにもかなり桁外れな御経験《ご経験》をなさいました、──庶民と同じ姿になって、浅草の見世物もごらんになり、大川へ舟を出して、自由に泳ぎもし釣りもあそばしました、向島から小梅あたりの悪童どもと、いっしょに遊んだり喧嘩をしたり、‥‥他の方々《=かたがた》、御殿の中だけで成長なさる方々《=かたがた》には、とうてい見も聞きもできない経験をなすっておいでです。そうではございませんでしょうか」  悠二郎は思うことを的確に云えないもどかしさにあせり、肩を揺すったりせかせかと膝を撫でたり、そしてしきりに吃った。 「人間の寿命はそなわったものだと申します、仮にもし殿の御寿命《ご寿命》が二十三までと致しましても、それまでにできるだけ広い多くの経験をなさり、充実したゆるみのない生活をあそばすとすれば、なすこともなく百年生きるより、はるかに、本当に生きたと申せるのではございませんか」  正篤はいつか眼をあけて、暗い天床《天井》の一隅をじっと見まもっていた。更けた夜のしじまには、庇を打つ雨の音が、さむざむとひそかに聞えてくる。──悠二郎はもう言葉を選《えら》むひまもなく、念いの口《=クチ》を衝いて出るままに云った。 「殿にもしものことがあれば、そのときは、悠二郎もお供を致します、決して、殿《=トノ》ひとりお死なせ申しは致しません、──人間はいつかはみんな死ぬのです、おそかれ早《ハヤ》かれ、いずれはみんな死んでゆくのです、‥‥殿、死ぬことをお考えなさいますな、大事なのは生きているうちのことです、できるだけ充実した生きかた、広く深いゆるみのない生きかたを考えましょう、そのときが来るまで、生きられるうちに充分に、生《#生ま》れてきた甲斐《=カイ》のあるように生きることを考えましょう」 「──わかった、よくわかった」  正篤はやや長い沈黙のあとでこう云った。 「──生きられる限り生きよう、おまえの云うとおり、大事なのは生きることだ、悠二郎、──おまえだけは、どんなことがあってもおれから離れて呉れるな」 「どんなことがありましても。」悠二郎は証しを立てるように云った。 「──この世は申すまでもなく、あの世へも、決してお側を離れは致しません」  正篤が手を伸ばした。その手を悠二郎は両手で受けた。雨は少しのや《止》みま《間》もなく、しんしんと庇を打っていた。  医者の云ったとおり正篤の病気は順調によくなり、五月中旬には|とこばら《床払》いをした。そうして医者の進言もあり正篤の望みで、すぐ下屋敷へ静養のために移った。──まえのことがあってから、正篤はもう憂鬱なようすをみせず、寧ろ起ち居《い》は元気になり、顔つきも明るく大胆になった。下屋敷へ移って四五日《四、五にち》すると、 「悠二郎、暗くなったらでかけるぞ」  こう囁いて、その日初めて、夜になって屋敷をぬけ出した。もう年《=トシ》も十八であるし、任官した藩主であったから、ぬけ出すにも以前ほど周囲の者《=もの》に気をつかう必要はない。しかし正篤はそれでいい気になるというふうはなく、二日おき三日おきくらいにでかけ、夜もあまり更けないうちにきちんと帰った。  おみつはもう十五歳で、みかけもすっかり娘らしくなったが、生来《=セイライ》の|ませ《マセ》た気持はみかけよりずっと大人びていて、二人を弟かなんぞのように扱った。 「いい若いしがなによ、たまには《は-》なか(吉原《ヨシワラ》)へでもいってらっしゃい」  などと、きいたふうなことを云う。 「偉そうなこと云ってもだめよ、悠ちゃんなんか、梅干の種《=タネ》を鼻の穴じゃないの、──くやしかったら芸妓の情人《いい人》でもつくってごらんなさい」 「なにょう云《い》やあがる、こっちあ屋敷が本所にあるんだぜ」  悠二郎はむきになって口《=クチ》を尖らす。 「お屋敷が本所だからどうしたのよ」 「べらぼうめ、本所から深川はひと跨ぎだ、なあ信《ノブ》さん、こいつあなんにも知っちゃあいねえのさ、へ、可愛いもんさ」 「そんなら家《=イエ》へ伴《連》れて来たらいいじゃないの、そんなお馴染があるんなら伴《連》れていらっしゃいよ」 「べらぼうめ、こちとらあてめえのおっこちを見せまわるほど浅黄裏じゃあねえや、嘘だと思うんなら自分でいって聞いてみな、櫓下へいって当時こちらで信《ノブ》さんと悠さんに深間《フカマ》のお姐さんはどなたでござんすか、──こうきけば猫の仔でも教えて呉れらあ、ざまあみやがれ」 「そんならそっちへいったらいいじゃないの、こんな家《’家》へなんか来たって面白かあないでしょ、いらっしゃいよ、すぐ舟のしたくさせてあげるわ」  おみつはくやしそうに唇を噛む。 「おう待ってました、松吉《マツキチ》にそいって呉れ、門限があるんだから早いとこ頼むってな」 「云うわよ、なんでもありゃしないわ、そう云えばいいんでしょ」 「云えばいいのさ、さっさと頼むぜ」 「わかったわよ、どうせいいわよ、きれいな顔《=かお》をしてたって蔭じゃあそんなことをしているんだから、家じゃあ母ちゃんもあたしも待ってたんじゃないの、今日は家《=イエ》で悠《-ゆっ》くりして頂こうって、大騒ぎでいろいろ下拵えをして、芸人は誰と誰を呼ぼうかって、お父《とっ》つぁんもいっしょに相談して、もういらっしゃるかしらってみんなで待ってたんじゃないの、それなのに」 「なんだ、泣くのか、こいつあ驚きだ」  おみつは泣きだし、正篤はにやにや笑っている。悠二郎は途方にくれ、いまさら云いなだめるわけにもいかず、さりとてそのまま立てもせず、ごまかそうとして、てれて、うろうろして、ついにはおつねの助けを求める。 「どうしてそうなんだろう、顔を見るとすぐ喧嘩なんだから、──おまえが悪いんだよ、なんだねばかばかしい、自分でへんなこと云いだしたんじゃないの、だから悠さんにからかわれたんじゃないか、嘘だよあんなこと、からかわれてるんじゃないか、ばかだねこのひとは」 「いいわよ、拵《こさ》えといたお肴みんな猫にやっちゃうから」 「猫がまっぴらだとさ」 「およしなさいったらねえいいかげんに、おみつは下へ来てお呉れ、煮物をみてて呉れなきゃあ困るよ」  そんな口諍《口争》いは番たびのことだが、もちろんすぐにからっと仲なおりができてしまう、二人が帰るときなどは外《=ソト》まで送って出て、「ちょっと待って、衿が曲ってるわ」などと悠二郎の着物のどこかしら、引いたり下げたり、なにかしなければ気が済まないらしい。 「信《ノブ》さんはきちんとなさるのに、どうして悠ちゃんはこう着《-き》かたが下手《=へた》なんでしょう、ちょっとじっとして、だめよそんなに動いちゃあ」 「うるせえな、曲ってたっていいよ」 「よかあないわよ、ちょっと待ってよ、ここんとこ、あらいやだ、これ下《’下》から着なおさなくちゃだめだわ」 「なにょう云ってやんだい、あばよ」  しょうのないひとね、おみつは眉をひそめて、小走りに少し追って、正篤へは丁寧におじぎをしてあいそを云うのであった。 「どうぞまたおいで下さいまし、お待ち申しております」  舟仙《シュウ仙》の二階で遊んで帰るときはそのままだが、外《=ソト》へ出るときはたいてい職人の恰好であった。小梅から向島のほうもよく歩き、桑の実《=み》を取って庭番にみつかって息を限りに逃げた、あの生垣の側《そば》も通《=とお》ってみた。 「お庭の桑はどうしたでしょう、たしか六本くらい植えたんでしたね、──八本だったかしら」 「あれからもう七年経ってるじゃないか、一年に二本ずつ植える筈だったろう、おまえ忘れていたのか」 「じゃあずっと、あれから、二本ずつですか」 「おれのと悠二郎のと、‥‥上屋敷へ戻ったらみにゆくがいい」  その年《=トシ》は久しぶりで小梅の勝《かつ》んべに会った。三社|祭り《祭》の雑沓のなかで、悠二郎が呼びかけると彼は赤い顔《=かお》をし、|おと年《一昨年》から下谷|竹町《タケチョウ》の左官屋へいっていると云った。 「今戸の瓦屋の熊を知ってるね、あいつ板前になるんだって、いま中洲の百尺で皿洗いをやってるよ。」勝《かつ》はこんなことを云って、それから眼をしばしばさせながら、「──おらあ聞いたけど、悠ちゃんも信《ノブ》さんもお侍の子なんだってな」  綾瀬川でその年《=トシ》は正篤が五百匁あまりの鯉を釣った。またおみつの案内で水神へ舟でゆき、そこの百姓家《百姓や》のような小さな|うす暗《薄暗》い茶屋で川魚料理を喰《食》べた。  九月になってまもなく上屋敷へ帰ると、すぐさま悠二郎は日月亭《ニチゲツ亭》の裏へいってみた。正篤の云うとおり、今年の春あたり植えたらしい二本を入《=い》れて、数えてみると十四本あった。初め植えたのは丈《タケ》も九尺あまりになり、正篤が手入れを禁じてあるので、枝《=エダ》を四方《シホウ》へ伸ばせるだけ伸ばしていた。 「こんなものを、どうせ、始末におえません、見るたびにどうも、なんとも。」庭師の老人はしきりにこぼしていた、「──どうしたってお庭につくもんじゃございません、いまに爺《=じじ》いが叱られるに定《決ま》っています」  正篤はなにも云わず微笑《-びしょう-》していた。  まだ下屋敷にいるときから、悠二郎は諄く正篤に念を押した。今年こそ奥からやかましく云われるに違いない、しかし決して譲歩なさらぬよう、自分は祖父や準斎《ジュンサイ》のほうを説得するから、あなたは奥に対してきっぱりした態度をとって頂きたい。早婚の害はとりかえしがつかないという、二十《ハタチ》までは決して奥の寝所《シンジョ》へははいらぬように。──正篤は約束した、そうして上屋敷へ戻った日の夜、改めて正篤のほうからその約束を繰り返した。 「決して譲歩はしない、大丈夫だ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  おれはまずおれ自身を生かしてゆく、そしてもし寿命がゆるすなら、世継ぎには健康な血統をのこすようにしたい。正篤はこう云って、さらに次のように続けた。 「おれはおまえのおかげでいろいろ世間を知ることができた、商人《+アキンド》や日雇い人足や職人たち、そのほか一般の町家の暮しをずいぶん見てきた、──そしてそのときの政治が、善ければいいように、悪《#わる》ければそのまま悪く、直接あの者《=モノ》たちの暮しにひびくことも、おぼろげながらわかるように思う、‥‥今年の冬もいこう、来年も再来年も、いとまのある限り見てまわろう、おれは今年は、初めて、──自分が六万三千石の領主だということに気づいたよ」  悠二郎はびっくりした。やっぱり血というものは争えないと思い、ただ面白がっているだけの自分にてれて、独りで赤くなった。 「そのときがきたら、おれは自分で藩政をみる、まだそのときではない、だがそのときがきたら、──悠二郎、おまえと新泉《ニイイズミ》がおれの両の腕になるんだぞ」  奥からは強硬な話が幾たびもあった。いつかは表《-おもて》の寝所《シンジョ》へ、生母の清香院《セイコウ院》が自分で迎えに来たそうである。そのときは悠二郎は宿直《トノイ》にいなかったが、清香院《セイコウ院》の泣き声が焼火《+ショウカ》の間《=あいだ》まで聞《聞こ》えたという。──勘右衛門はすでに養育係を解かれ、老職の席だけはあるが、隠居づとめのような気儘な身の上で、そのころはもうあまり外出もせず、家で暢気に酒を飲んでいるというふうだった。それでも悠二郎が頼むと奥御殿へいって呉れた。‥‥医者の室井|準斎《ジュンサイ》は奥や他の老職たちの間《=あいだ》に挾まって、かなり苦しい立場らしかったが、これも勘右衛門と口《=くち》を合わせて、正篤の健康を楯に|ねば《粘》り|とお《通》したらしい、そして結局のところ延期ということに定《決ま》ったのであった。  その年《=とし》の十二月も下屋敷へいった。明くる年《=トシ》の夏、そしてその十二月も同様である。ただ遊びかたが段々に変り、芸人を呼ぶとか、ものを喰《食》べにゆくとか、芝居や見世物を観るなどということが少なくなった。──参覲《参勤》のいとまが延びて、国へ立ったのはその翌年の二月《=ニガツ》のことであるが、それまで下谷から浅草、深川、本所あたりの、ごみごみした汚ない、長屋のような町《=マチ》ばかり選《よ》って歩き、人足などと並んで食事をしたり、彼等と酒を飲んだりした。 「長く生きられないとしたら、生きているうちに、せめて自分の領地だけでも、少しはましな政治がしてみたい」  正篤はしばしばこう云って溜息をついた。 「あんなにみんな困っているじゃないか、あれだけ働いて満足に暮している者《=もの》がないじゃないか」  それからまたこうも云った。 「第一番に重職の交替をやろう、新しい風《=カゼ》をいれて、そうして思いきったことをするんだ」  二月《=ニガツ》。国許へ立つとき悠二郎は残された。正篤には供《=トモ》のゆるしを得てあったのだが、間際になってその係りから云いわたされ、いやもおうもなく江戸に残されてしまった。 「なにいいさ、久しぶりで悠《-ゆっ》くり遊ぶさ」  勘右衛門はへらへら笑っていた。 「気が向いたら舟仙《シュウ仙》へでもいって、たまにはおつねに孝行をしてやるがいい、おまえまだ母ちゃんと呼んでいるのか」 「よして下さい、こっちはそれどころじゃありませんよ」 「ここで怒ったってしようがない。舟仙《シュウ仙》がいやならまた金魚の尾鰭《=オビレ》でも切ってやるさ、またそろそろ伸びているころだぞ」  悠二郎はくやしがって歯《=ハ》ぎしりをした。  残されたことがどうにもくやしい。新泉《ニイイズミ》はもちろんくいしんぼうの原精一郎まで供《=トモ》をしていった。どうして自分だけ残されたのか、正篤の意志でないことはわかっている、おそらく誰かの邪魔だろう、正篤から自分を離そうと思うやつの策動に違いない。  ──|いったい《一体》どいつの仕事だろう。  新泉《ニイイズミ》かと幾たびも思った。しかし気性こそ合わないが、彼は新泉《ニイイズミ》がそんな人間でないということを知っていた。まさか原のくいしん|ぼう《棒》ではあるまいし、ほかに思い当る者《=もの》はひとりもない。そこでまたふっと新泉《ニイイズミ》の名が頭にうかび、慌ててまたうち消し、自分でもしまいにうんざりして、よし、そんならこっちは息抜きをしてやれ、と、ようやく肚をきめた。  舟仙《シュウ仙》へもいったが、面白くはなかった。 「あら、信《ノブ》さんどうなすって」 「わからねえやつだな、このまえ来たとき云ったじゃねえか、殿《=トノ》さまの供《=トモ》をして国へいってるんだよ、なんど云《#い》やあいいんだ」 「そんなに怒《=おこ》らなくったっていいわよ、ただちょっときいただけじゃないの、そんなにもぽんぽん云わなくったっていいでしょ」 「うるせえ、あっちへいってろ」  つまらないのでごろっと横になる。 「どうなさるの、でかけるんじゃないんですか」 「うるせえって云ってるだろう、聞えねえのか」  三度《=3度》ばかりいったけれど、たいてい二時間ばかりいると飽きて、つまらなくなって帰って来てしまった。ときには茶間《茶の間》に坐りこんで仙吉やおつねと話しもした。仙吉はおりおり勘右衛門へ挨拶にいくのでそっちの話もよく出た。 「このあいだは酒のお相手をして来たが、御隠居さまもめっきり弱くおなんなさいましたね」 「そうかなあ、おれは半月《ハンツキ》ばかり会わねえから、知らねえ」 「そのときも話が出たんですが、悠さん此処からお帰んなすったときずいぶんお困んなすったんですってね」 「なんだっておめえ当りめえよ、今まで野放しに育ったんだ、それこそ年《=ネン》じゅう裸で、好き勝手にとびまわっていたのが、着物をきちんと着て袴をはいて、腰にあ刀を差して行儀作法だ、‥‥おまけにそれが悪戯ざかりの七つてえ年《=トシ》なんだから堪らねえやな」 「まったくね、あの日ここで支度《=シタク》をなさるとき、べそをかいてらっしゃるのを見て、あたし涙が出て涙が出てしようがなかったわ、夜中《=ヨナカ》にひょいと眼がさめると眠れないのよ、いまごろどうしていらっしゃるか、あんまり窮屈なんで浅草へ帰りたがって泣いてでもいらっしゃりゃあしないかって、──なんども夢をみたわね、母ちゃんっ《-っ》て、はっきり呼ぶのを聞いて眼がさめるの」 「帰っていらっしたに違えねえ、ちょっと表《オモテ》を見て来るからって、そうじゃねえ夢だってえのに強情をはりあがってよ、寒いのに表《-おもて》まで出てみやがったっけな」 「外《=ソト》はまっ暗でしんと寝しずまってるの、来たことは来たけれど、叱られると思って隠れてるんじゃあないか、──暗い道《=ミチ》にはまっ白に霜がおりてる、悠ちゃん、悠ちゃんって、裏のほうまで呼んでまわったこともあったわね」 「もうそんな話はいいや」  悠二郎はてれて起きあがる。 「久しぶりで肩でも叩《-たた》こうか、母ちゃん」  するとおみつがぷっとふきだす。 「いやあねえ悠ちゃんたら、まるで取って付けたみたいじゃないの、ふだんすばしっこいくせにそんなことは気が利かないのね」 「黙ってろ、うるせえ、こっちあお祖父さん《ん-》から云いつかってるんだ、さあ坐んなよ、母ちゃん」 「勿体ない、よして下さいよ、肩が曲るわ」 「あたしが叩くわ、あたしならいいでしょ」 「こうすると男親ってものは分《ブ》の悪いもんだな、二人でそうやっておふくろのおっ取りっこをして、いってえおらあどうなるんだ」  こんな和やかな時間も、正篤がいないとまがもてず、なにか喰《食》べても、酒を飲んでも面白くない。外《=ソト》へでかけても勝《かつ》んべは左官、瓦屋の熊は料理屋の板前、むかしの遊び仲間はみんなそれぞれ職についている。どっちをみても自分ひとり置いてきぼりをくった感じで、だんだん家《’家》にひっこんでいるようになった。  正篤は翌年四月に出府した。悠二郎は待ちこがれて、まるで恋人にでも逢うような気持で挨拶に出たが、正篤はただ祝いの言葉を聞くだけで、おそろしく冷やかな態度を示した。のこって話してゆけとも云わない、‥‥側《=ソバ》にいる扈従《+コジュウ》たちを見ると、新泉《ニイイズミ》も原もすました顔《=かお》で、すっかり色が黒くなり、躯《体》つきも逞しくなって、いかにも側近護衛といった身構えである。悠二郎はつき放《=はな》されたような、淋《=さみ》しい気持で御前をさがった。  正篤が出府するとすぐ、悠二郎に役目を解くという沙汰があった。おぼしめしで扈従《コジュウ》の役を免ぜられる。追って沙汰あるまで身を劬《労》るように、──そういうことで、お手許から二十金という御下賜があった。  ──いよいよ重職の交替だな、それに相違ない、そのときしかるべき役にあげられるのだ、そのための待命というわけだろう。  悠二郎はこう思って独《=ひと》り納得をした。  五月《5月》になってはたして重職の交替が行われた。勘右衛門が正篤のうしろ楯になったらしい、かなり広い範囲にわたる交替で、いちじは家中《カチュウ》ぜんたいが騒然となった。──詳しいことは彼は知らない、祖父が幾夜も御殿に泊りこみ、国許とのあいだにたびたび早《ハヤ》の使者が往復した。それは約ひと月ほどかかり、梅雨あけと共に|いち段落《イチ段落》ついた。  だが悠二郎にはなんの沙汰もなかった。  新泉《ニイイズミ》が父の宗十郎を襲名して側用人にあげられた。原精一郎が納戸奉行になったには驚いたしその他《=ほか》にもむかしの学友のなかから二人、ふだん「あの男は」と云われていた者《=モノ》で、悠二郎の知っている人間が三人も重役についた。  そしてすべてが終ったとき勘右衛門が倒れた。  虚木老《キョボクロウ》はもう七十六歳で、三年ほどまえから躯《+カラダ》が弱っていた。あれほど遊蕩の好きだったひとが、あまり外出もしなくなり、家で飲む酒の量も減るばかりだった。──そこへ重職交替の騒ぎで、不眠の奔走もしたものらしい、つまりその過労が原因となって、なにもかも結着し安心すると共にがっくり折れた感じである。  病気は脳溢血で、倒れると同時に意識を喪い、ほんの二時間ばかりして死んだ。──知らせを聞いて、夜《よ》も更けていたが、正篤が駆けつけて来たとき、すでに勘右衛門の息は絶えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  正篤はまっすぐに病間《=ビョウマ》へとおり、扈従《コジュウ》も遠ざけて、遺骸とさし向いで半刻《ハントキ》あまりすごした。みんな遠慮をしろと云われ、家族も隣りの部屋へさがっていたが、正篤がしきりになにかかきくどき、ときには声を忍んで嗚咽するさまが、襖越しにいたましく聞えてきた。──正篤は遺族には|かくべつ《格別’》言葉もかけず、とくに悠二郎など眼にもつかぬようすで、弔問が終るとさっさと帰ってしまった。  ──殿《=トノ》はどうしたのだろう、おれを忘れてしまったのか、それともなにかごきげんを損じたか、やっぱり誰かの策謀だろうか。  彼は|ひじょう《非常》にじれ、気持のおちつく時《’時》がなかった。三度《=3度》ばかり新泉《ニイイズミ》を訪ねた、いちど殿におめどおりをしたい、うかがいたいことがある。ぜひとりなしを頼む。こう云って頭を下げて頼んだ、しかしそれはむだであった。 「殿は暫く待てと|仰しゃ《仰》る、いずれ沙汰しようから、それまで待つようにとの仰せだ」  新泉《ニイイズミ》の言葉が信じられなくなり、原《ハラ》にも、そのほか側近の知る限りの者《=もの》に頼んだ。しかしついには、「今後かような取次ぎはならぬ」と云われたそうで、それからは誰も頼みをきいて呉れる者《=もの》はなかった。  ──お祖父さんも死んでしまった。  せめて祖父でもいて呉れたら、不平を訴えることもできるし、慰めても貰えるであろう。だが今はもうそういう相手もない。父は老職で勘定奉行を兼ね、兄は左門となのって納戸方《納戸かた》吟味役になっている。母はもちろん愛して呉れているが、おつねのようにじかな愛しかたではない、どこかに風《=カゼ》のとおるような隙《スキ》がある。──彼は自分が孤独だということをはっきり感じた。そしてどうにもやりきれなくなり、じりじりして外《=ソト》へとびだすが、どこにも気のまぎれるあてはなく、ついしぜんに舟仙《シュウ仙》へ足が向いた。  それでもまだそのころは希望があった。正篤は待てという、追って沙汰をすると云うのである。そのうち本当に呼ばれるかもしれない、そういう希望もなくはなかった。──それが十月になって、ある日さっぱりと解決したのである。任免の衝《=ショウ》に当る老職に呼ばれ、いよいよお召しかと胸をわくわくさせていった。ところがその老職は、「おぼしめすところあって今日より無役に仰せつけられる、御幼年《ご幼年》よりの精勤を嘉賞あそばされ、お手許より金五十枚、御垢着《+オンアカツキ》、ならびに生涯三十|人扶持《人ブチ》を下《=くだ》しおかれる」  こう云ってそれぞれの下賜品をそこへ出した。  悠二郎は家《=イエ》へさがるとその足で、まっすぐに舟仙《シュウ仙》へゆき、まる三日のあいだ帰らなかった。酒を飲み、寝ころび、芸人を呼ぶかと思うとすぐかえらせ、夜中《=ヨナカ》に起きあがって独りぶつぶつなにか云《い》い、独りで冷酒を飲んだりした。 「三十|人扶持《人ブチ》の飼殺しか、くそうくらえ」 「どうしたの悠ちゃん、なにをそんなに苛々しているのよ、なにかあったの」 「うるせえ、おめえなんぞの知ったこっちゃあねえ」 「だって心配じゃないの、お酒ばかり飲んでるし、しじゅうじりじりしているし、お屋敷へは帰らないし、母ちゃんだってお父《とっ》つぁんだって気を揉んでるわよ、ねえ、──云ってよ、なにか心配なことでもできたの、悠ちゃん」 「うるせえってんだ、いいから黙ってほっといて呉れ」  四日めに家《=イエ》から家扶の渡辺老人が来た。父も母も案じているからいちど帰るように、なにか話もあるということで、とにかく老人といっしょに帰った。 「この不所存者《不所存もの》。」父はいきなりこう叱りつけた、「──家《=イエ》をあけて舟宿《船宿》などへ逗留するとはなにごとだ、家名にかかわるとは思わないか、|おろ《愚》か者《=モノ》」 「さあお詫びをなさい、悠二郎、もうこれから決してこんなことは致しませんって」  母が側《そば》からそうとりなした。しかし悠二郎は黙って、頭《こうべ》を垂れて、じっと身動きもしなかった。 「お祖父さまがあまやかして育てたからこのような無埒なことをする、おまえも今年はもう二十一歳ではないか、まして部屋住の身であれば、いっそう身を慎み行いを正さなければならぬ、十日のあいだ部屋を出るな、謹慎を申しつける」  彼はついにひと言も云わず、十日のあいだ部屋に籠っていた。このあいだつねに正篤の健康のことが頭にあったらしい、ときに兄と顔《=カオ》が合ったりすると、殆んど無意識にきいた。 「殿のごようすはどうですか、ずっとお丈夫ですか、病気などのごようすはありませんか」  しかしそうきいたとたんに、よけいなことと思い、自分で自分に腹を立てた。 「ずっと御健康《ご健康》のようだ、このごろは少しお肥りになったようにみえる」  そんなことを聞かされても、彼はもうどっちでもいいとそっぽを向き、ふきげんになって兄の側《=ソバ》から離れるのであった。  十日の謹慎が解《=と》けた日、必要な身まわりの物《=もの》を持って、二度と帰らないつもりで、彼は家《=イエ》を出て舟仙《シュウ仙》へいった。 「暫く厄介になるよ」  こう云って二階の端《端’》の、いつもの四帖半《四畳半》へおちつき、二三日は酒びたりになっていた。──醒めていればもちろん、酔っていても、ついすると正篤のことを想っていた。まだ信太郎《ノブ太郎》といっていたころ、初めてこちらから話しかけ、屋敷境へ魚《=サカナ》をしゃくいにいった。笠木塀《笠木べい》を乗り越えるときの泣きそうな顔《=カオ》や、浅草界隈の話をしたとき、さも羨ましそうに、  ──そこへは若もいけるの。  こうきいた顔《=カオ》つきもありありと思いだせる。  下屋敷へゆくようになって、うまくぬけ出して遊んだ日々《=ヒビ》のこと、見る物《=もの》すべてが珍しく楽しそうで、いきいきと笑ったりとびまわったりした姿など、なにもかもが昨日のことのように新しい。 「だがみんな過ぎ去ったことだ、みんな夢をみたようなものだ、おれはこうして舟仙《シュウ仙》の二階に酔いしれている、そしてもうむかしの悠二郎じゃあない、みじめに忘れられ、捨てられてしまった人間だ」  彼は幾たびもあの病間《=ビョウマ》の一夜を思いだした。正篤が自分の短命であることを知って、初めてそれを告白したときのことである。  ──自分は日鑑《ニッカン》をみた、わが家《=や》では五代まえから男子がみな早世する、おそらく自分も二十二三《二十’二、三》までの命《=イノチ》だと思う。  冷やかな、そして棘のある、絶望的な調子であった。悠二郎は胸のつぶれる思いで、こみあげる涙を抑えながら、死ぬことなど忘れて生きることを考えるように、万一のときに貴方ひとりは死なさぬ、自分もあの世へ供《=トモ》をする、そのときがくるまでは生き甲斐《=ガイ》のあるように生きてゆこう。言葉をつくしてこう云った。──正篤はわかって、感動して呉れた、悠二郎にはその感動が偽りだったとは思えない。正篤はそのときこう云いはしなかったか、  ──よくわかった、おまえの云うとおり大事なのは生きることだ、生きられる限り生きよう、だがおまえだけは、どんなことがあっても側《=ソバ》を離れて呉れるな。  そしてその年《=とし》の秋にはこうも云った筈だ。  ──時期がきたらおれは自分で政治をみる、その時期がきたら、悠二郎、おまえと新泉《ニイイズミ》と二人でおれの左右の腕になって呉れ。  これらのことはみなごまかしだったのだろうか、その場かぎりの|根なし言《根無し言》だったのだろうか。悠二郎は呻く、酒を呷って酔おうとする、しかしどうやっても胸はおさまらなかった。 「ばかばかしい、女の腐ったように、いつまでみれんがましくうだうだしているんだ」  自分を嘲弄するようにせせら笑う。 「大名は威厳をつくらなくちゃあならねえ、おれにゃあ子供のときからの裏の裏まで知られている、そんな者に側《=ソバ》にいられちゃあ威厳もへったくれもねえ、邪魔なのはわかりきったこった、そこに気がつかねえのか唐変木め」  だがそう呟きながら、彼の眼には涙がたまっていた。  家から渡辺老人が三度《=3度》ばかり来た。悠二郎はいちども会わなかった。すると十二月になってまもなく、父が渡辺老人を伴《連》れて来て、正式に勘当すると告げた。 「土井とは縁《=えん》を切り、御家臣《ご家臣》帳からも名を削った、我が子でもなくもはや藩家《藩け-》の家臣でもない、おまえはおまえの好きにするがよい」  悠二郎はなにも云わず、黙ってただ頭を下げた。父は仙吉夫婦《=センキチ夫婦》にもそのことを告げたのであろう、おみつが駆けあがって来て、悠二郎の側《=そば》へ坐って泣きだした。 「どうしたっていうの、いったいなにがあったの、悠ちゃん、あんた勘当なんかされちゃってどうするのよ、お願いだから謝って頂戴、すぐいって謝って頂戴、このとおりよ悠ちゃん」 「泣くこたあねえ、覚悟のうえなんだ」 「そんなこと云ったって、お家《=ウチ》を出されてこれからどうするのよ、ねえ、あたしのお願いだから謝って頂戴」 「ほっといて呉れ、おれのこたあおれがするよ」 「それじゃ済まないから云うんじゃないの、そんなことしたら苦労するばかりじゃないの」  おみつは袂で顔を押えながら泣いた。 「──悠ちゃんの苦労するのを見て、あたしが平気でいられると思って、‥‥あたしがどんなに心配しているか、あんたわかっちゃあ呉れないの」  悠二郎はそこへ寝ころんだまま、長いこと黙っておみつの泣くのを聞いていた。それからやがて眼をつむったまま、低い囁くような声でこう云った。 「おらあこの家で育った、生《生ま》れるとすぐに来て、おめえのおふくろを母ちゃんと呼んで育った、大川の水も、観音さまの境内も、向島から小梅の端《端’》のほうまで、みんなおれの|幼な馴染《幼馴染》だし、喧嘩友達も大勢《-おおぜい》いる、ここがおれの故郷《’故郷》だ、──この家がおれの家だ、おめえのおふくろがおれの本当の母親だ」  おみつはひとしきり激しく泣いた、「悠ちゃん」と叫んで、袂で顔を包んだままそこへ泣き伏した。悠二郎はぐらぐらと頭を揺《ゆす》り、それからやはり低い声《=こえ》でこう続けた。 「おらあこの家の船頭になる、いつかお祖父さんが云ったそうだ、──当人がよければ船頭になるのもいい、あれはあれで気楽だし、なかなか粋な|しょうばい《商売》だってよ、‥‥おれにだって、猪牙船《猪牙ブネ》ぐれえ漕げるからなあ」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「杏花亭筆記」にいう、致仕《チシ》してのち市井《シセイ》にかくれ、親族旧知と断《た》って、無為に一生を終った、というのはこの事をさすのであろう。彼は仙吉を説きおつねをくどいた。仙吉はそのとき初めて、祖父から悠二郎のためにといって、多額の金《-かね》を預かっているとうちあけた。 「あれは野育ちだからどうせ侍《’侍》ではおさまるまい、もししくじって転げ込むようなことがあったら、これで舟宿《船宿》の株でも買ってやって呉れ、そういうことでこれだけお預かり申しました」  仙吉はそこへ金《-かね》を並べてそう云った。  年《#とし》があけるとおみつは厄年になる、悠二郎は強引におみつを嫁に欲《=ほ》しいと云《い》い、誰にいなやもなく、押詰《押し詰ま》ってから祝言の盃《=サカズキ》をした。──披露は中洲の「百尺」でやった、舟宿《船宿》なかまはもちろん、悠二郎は勝《かつ》んべも熊も、むかしの友達でいどころのわかる限り集めて、そうして宴《’宴》の終るまで賑やかに飲んだ。  その前後に二度ばかり、土井の母が来たそうである、良人に禁じられているからと、そっとおつねだけに会い、ゆくすえをくれぐれも頼むと云って、自分で縫った肌着や着物や、帯などを置いて去ったということだ。そして、それなり本当に土井とは往来が絶えてしまった。 「信《ノブ》さんはどうなすったのかしら、ちっともおみえにならないわねえ」  まだ丸髷のおちつかないじぶん、おみつはふと思いだしてはそう云った。 「侍なんてあんなものよ、あいつはとんだ出世をしやあがった、もうおれなんぞに用なんかありゃしねえ、あいつのことなんざ忘れるがいいんだ」 「だってあんなに仲がよかったのに‥‥」  そんな会話が幾たびかあったが、やがて悠二郎は本気に怒った声《=こえ》でこうどなった。 「いいかげんにしねえか。こんどおれのまえであいつの名を云ったらぶん撲るぞ」  おみつはあっけにとられ、まじまじとこちらの顔を見まもった。そしてなにかわけがあると察したのであろう、それからは信《ノブ》さんの「の」の字も口《=くち》にしなかった。  二年めの夏におみつは子を産んだ、女の子で、仙吉が「つならびにしよう」と云《い》い、おなつと名をつけた。そのときちょうどいいきっかけだからと、仙吉夫婦《=センキチ夫婦》は隠居して、家をそっくり悠二郎《’悠二郎》とおみつに譲った。──舟仙《シュウ仙》に猪牙船《猪牙ブネ》が七はいに釣舟《ツリブネ》が|五はい《五杯》、ほかに屋形船が三艘あり、川筋でも繁昌することではひけをとらなかった。  おなつが五つの年《=とし》に長男が生《生ま》れ、おみつの望みで勇吉《ユウキチ》と名づけた。 「あんたのような気性に育って貰いたいの、もういちどゆうちゃんて呼べるのもうれしいわ、ねえ、いい名でしょ」  おみつはしおのある眼で、良人の顔をじっとみつめた。悠二郎はてれ、眼をぱちぱちさせて脇へ向いた。 「でもあんたのせっかちと、|わる悪戯《ワルイタズラ》だけはごめんだわね、年《=ネン》じゅう泥んこの瘤だらけ傷だらけ、出れば喧嘩というのもまっぴらだわ」 「自分の玩具《=オモチャ》だと思ってやがる、世話あねえや」  そのころからのことだが、正篤の噂がときどき耳に|はい《入》った。武家の客たちの話《=はな》すのも聞いたし、世間にも評判好《評判ず》きな者がいて、少し珍しいことがあると自分のことのように触《=ふ》れまわるから、坐っていても|しぜん《自然》いろいろなことが聞けた。──正篤は名君という噂であった、藩治《ハンチ》に多くの功績をあげ、領民に慕われるばかりでなく、幕府のおぼえもいいらしい、躯《体》も健康で、武鑑にはもう三人の子が載っていた。  ──名君、あのときの信《ノブ》さんが、名君。  悠二郎はほのかに懐旧のおもいにとらわれた。しかしすでに遠い思い出《出’》であり、もはや自分には縁《=エン》のないひとであった。悠二郎は高い空《=ソラ》をわたる風《=カゼ》の音でも聞くような、一種の虚しいおもいで、そっと溜息をつき、窓の外《=ソト》へ眼をやった。  勇吉《ユウキチ》の三つの年《=とし》にまた女の子が生《生ま》れた。 「おっ母《か》さんよりよっぽど功者だぜ」  仙吉はよろこんで、やっぱりつならびだと、こんどはお初と名をつけたが、自分はその年《=とし》の夏のはじめに、急性の腸《=チョウ》を病んで亡くなった。  ──ひどい痛みを伴う下痢で、しまいには赤いものを下《=くだ》したりして、ほんの十日ばかりのあっけない死にかただった。  仙吉の初七日《ショナノカ》の済んだ、明くる日のことである。朝の九時ごろだったが、とつぜん原精一郎が訪ねて来たのでびっくりした。 「くいしんぼうだよ、覚えているかね」  原はこう笑って、こっちがまだ返辞もしないうちに、急ぎの使者なんだと、持って来た結び文《ぶみ》をさしだした。すぐみて呉れと云うので、あけてみると正篤からの手紙だった。  ──会って話したいことがある、むかしの気持ですなおに来て貰いたい、来るものと信じて待っている。  こういう意味の走り書きで、署名はただ「信《ノブ》さん」とあり、宛名は「悠どの」としてあった。署名の「信《ノブ》さん」という字が、いきなりぎゅっと彼の心臓をつかんだ。むかしの気持でという、そのむかしの気持が全身に甦り、飛び立つおもいで、彼はおみつをせきたてて支度《シタク》をした。  原と駕《駕籠》を並べて上屋敷へゆき、原《=ハラ》の案内で、そのまま奥庭へはいっていった。──正篤は麻の帷子で袴はつけず、短刀だけ差した恰好で、日月亭《ニチゲツ亭》の縁側に腰をかけていた。肥えたばかりでなく、筋肉質の逞しい躯《体》になり、唇つきにも眼にも、ちからと意志の強さが表われていた。 「辞儀はぬきにしよう、久方ぶりだった」 「御堅固《ご堅固》におわしまして、‥‥」  悠二郎はそう云いかけて絶句した。 「原はもうよい、さがって呉れ」  正篤はこう云って暫く沈黙した。ひとばらいをしたのだろう、原《=ハラ》が去るとそこには誰もいなかった。──正篤はかねて用意をしていたらしく、そこにあった小さな酒壺《サカツボ》を取り、二つのギヤマンの足付の杯《=サカズキ》に、黒っぽい色の、濃いどろっとしたものを注《-つ》いで、「おれの手作りの酒だ、おれも飲む、飲みながら話そう」  悠二郎に杯《=サカズキ》の一つを与え、自分も自分のを持った。 「おまえおれに肚を立てたろうな、無情な主人だと怨んだであろうな、──あれほど約束したことを、いよいよの時になって反故にし、あるかなきかのように扱った、怨むのが当然だ、もしおれがおまえの立場だったとしても、きっと肚を立てずにはいなかったと思う」 「正直に申上《申し上》げます、御意のとおりでございました」  悠二郎はこう答えて、幾らか反抗するように、杯《サカズキ》のものをぐっと飲んだ。野趣のある香気の、ほのかに甘渋い味《=アジ》であった。 「おれは悠二郎を片腕に頼むつもりでいた、それには些かも譃《偽り》はなかった」  正篤は眼を伏せる姿勢でこう云った。 「しかしおれは考えたのだ、おまえはあまりに近し過ぎる、こちらは気がつかなかったけれども、下屋敷を二人でぬけ出したことは、新泉《ニイイズミ》をはじめ多くの者《=もの》が知っていた、知っては《は-》いたが、勘右衛門に禁じられて、みな知らぬような顔《=かお》をしていたのだ」  悠二郎はそっと頷いた。ちょっと意外ではあったが、云われてみればそのとおりである。あんなにしげしげぬけ出したし、原精一郎という買収した者《=モノ》もある、知れなかったと思うほうが、寧ろ不自然だと云わなければなるまい。 「二人はあまりに近し過ぎた、幼年から殆んど側《#ソバ》を離れず、すべてに深入りをし過ぎていた、おれが藩政をみるばあい、相当てあらな事を、やらなければならぬ、一部に不平や非難のおこることは、必至だ、おれはそのときのことを思った‥‥家臣の非難はそのまま藩主には向かない、必ず側近の者《=もの》にゆく、おまえがもしおれの帷幄にいれば、おれにもっとも近しい者《=モノ》として、おれの寵臣として、家中《かちゅう》の怨嗟はおまえに集まるだろう、──おれはそうしたくなかった、おまえをそういう立場には置きたくなかったのだ」  悠二郎は空《カラ》になった杯《=サカズキ》を手に深くうなだれていた。胸がいっぱいになり、眼のうちに熱いものが溢れてきた。 「おまえを除外することは辛《=つら》かった、おまえが肚を立て、怨むだろうこともわかっていた、しかしそれでもいいと思ったのだ、──おまえには怨まれても、そんな立場に立たせるよりいいと思ったのだ、‥‥だが悠二郎、あれから十年のあいだ、おれはおまえを思わぬ日はなかった、いつもおまえが側《=そば》にいるつもりでいたぞ、──見せるものがある、ついてまいれ」  こう云って正篤は立ち、裏庭のほうへまわっていった。ついてゆくと、見覚えのある桑の木の前で立停《立ち止ま》り、こちらへ振返った。 「数えてみろ悠二郎、二人の桑だ」  すぐにはその意味がわからなかった。しかし木の数を読んでゆくうちに、古い記憶がはっと思いうかび、危うく声をあげそうになった。──そうして一つ一つ、桑の木に手を触《=ふ》れながら、三十八本まで数え終ると、もはや|がまん《我慢》が切れ、そこへ棒立ちになって面《=メン》を掩った。 「おれのと、おまえのと、毎年二本ずつ、あれからずっと、欠かさず植えてきた」 「────」 「夏になって、実《=ミ》が生ると、おれは独りで此処へ来て、おまえに呼びかけながら、この実《=み》を摘《=つ》んで喰《食》べた──この実《=ミ》で酒を醸して、おまえに呼びかけながら、更けた寝所《シンジョ》で独りそっと飲む癖もついた、おまえはいつもおれの側《=そば》にいたのだ、わかるか、悠二郎」  悠二郎の喉から嗚咽が堰を切った。すると正篤が近寄り、彼の手を取って、そうして自分も噎びあげた。  ──会いたかったぞ、悠二郎。  ──殿《=トノ》、お会いしとうございました。  握られた手から手へ、互いのおもいは痛いほど鮮やかに通じ合った。やがて正篤は「もういい、もうこれでいい」と云《#い》い、懐紙《=カイシ》を出して顔《=かお》を拭くと、こんどは明るく笑いながら、桑の枝々を指さして云った。 「みろ、こんなに生《=な》ってる、久しぶりでいっしょに摘《=つ》んで喰《食》べよう、泣くのはよせ」 「もう泣いては《は-》おりません」 「おれはこの木、おまえはそれだぞ」 「先刻《さっき》のが桑の酒でございますか」 「帰りに持ってゆくがいい、ひと瓶わけてある」  二人は桑の枝《=エダ》に手を伸ばし、黒く熟れた実《=ミ》を摘《=つ》んでは口《=くち》に入《=い》れた。 「おれのほうのことは聞いたか」 「お世継ぎと姫《+ヒイ》さま、お三人儲けられたうえ、名君という御評判《ご評判》をうかがいました」 「悠二郎は子供は何人ある」 「男一人に女二人でございます」 「おみつとは相変らず喧嘩をするのか」  悠二郎は口《=クチ》いっぱいに桑の実《=み》を頬張って、もごもごもごと、|なに《何》やら|わけ《訳》のわからない返辞をした。正篤もせっせと摘《=つ》んでは喰《食》べながら云う。 「舟宿《船宿》の亭主も悪くはないだろう」 「残念ながらそのようでございます」 「うちあけて云えばそれもあったのだ。」正篤は紫色に染まった唇で微笑《=びしょう》する、「──さっき申したことも事実だが、もう一つはおまえを侍にさせたくなかった、屋敷勤《屋敷づと》めより、町住いのほうがおまえには似合っている。おみつと添わせて、気楽に一生おくらせたかった、おまえを水に放《=はな》してやりたかったんだ」 「──見て下さい」  悠二郎は聞えぬ態《テイ》で、こう云って正篤のほうへ口《=くち》をあけてみせた。正篤もおれのはどうだと口《=くち》をあけた。二人は遠い日の向島の出来事を思いだし、互いの黒く染まった口《’口》を見ながら、両方でいっしょに笑いだした。──これは|おろ《愚》かしい所業である、三十にもなる男が二人、そんな子供だましなことをしなくてもいいではないか。慥かにそうだ、慥かにこれは|おろ《愚》かしい光景である。しかし二人にはそうして話すほかに、言葉を交わすことができないのである、桑の実《=ミ》は古い思い出《出’》で|かれ《彼》らを結び、桑の枝葉《=エダハ》は今、あまりに明《=あか》らさまな感動を隠して呉れる。それなしには、二人とももっと恥ずかしい、やりきれない場面を演じなければならないだろう。 「漸く暇が出来るようになった」  正篤は次の木に移りながら云った。 「これからは時々《ときどき》来るがいい」 「舟仙《シュウ仙》へもおいで下さるときがまいりましょうか」  悠二郎も次の木へ移ってゆく、お互いに顔《=かお》を見られたくないらしい、繁った葉の、暗がりの中から正篤が明るい調子でこう答えた。 「うんゆこう、いつか、もっとさきになって身に暇《=ヒマ》が出来たら、──おれは長命するぞ悠二郎」 「私がそう申上《申し上》げた筈です」 「それよりもっとだ、勘右衛門より|なが生《長生》きをする、──聞えるか、おれは八十まで生《=い》きるつもりだぞ、聞いているのか、悠二郎」  桑の葉が揺れ、悠二郎の|なに《何》やらもごもご答えるのが聞《聞こ》えた。正篤は摘《=つ》み溜めた実《=ミ》を口へ入《=い》れ、すばやく指で眼を拭《=ふ》いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「山本周五郎全集第二十二巻◇ 契りきぬ・落ち梅記」新潮社】 【   1983(昭和58)年4月25日発行】 【初出:「キング」大日本|雄辯會《雄弁会》講談社】 【   1949(昭和24)年11月】 【入力:特定非営利活動法人はるかぜ】 【校正:北川|松生《マツオ》】 【2020年4月28日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https:《コロン》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。