◇。◇。◇。◇。◇。 【レ・ミゼラブル】 【第三部】 【マリユス】 【ビクトル・ユーゴー】 【豊島与志雄訳】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一編《第イッペン》】 【パリーの微分子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【小人間《ショウ人間》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーは一つの子供を持ち、森は一つの小鳥を持っている。その小鳥を雀と言い、その子供を浮浪少年と言う。  パリーと少年、一つは坩堝であり一《/一》つは曙であるこ《/こ》の二つの観念をこね合わし、この二つの火花をう《打》ち合わしてみると、それから一つの小さな存在がほとばしり出る。ホムンチオ(小人)とプラウツスは言うであろう。  この小さな人間は、至って快活である。彼らは毎日の食事もしていない、しかも気が向けば毎晩興行物《毎晩’興行モノ》を見に行く。肌にはシャツもつけず、足には靴もはかず、身を|おお《覆》う屋根もない。まったくそういうものを持たない空飛《/空飛》ぶ蠅のようである。七歳から十三歳までで、隊を組んで生活し、街路を歩き回り、戸外に宿り、踵《カカト》の下までくる親譲りの古いズボンをはき、耳まで隠れてしまうほかの親父からの古帽子《フル帽子》をかぶり、縁《フチ》の黄色くなった一筋きりのズボンつりをつけ、《:、》駆け回り、待ち伏せし、獲物を|さが《探》し回り、時間を浪費し、パイプをくゆらし、暴言を吐き、酒場に入り|びた《浸》り、盗人と知り合い、女とふざけ、隠語を用い、卑猥な歌を歌い、《:、》しかもその心のうちには何らの悪《アク》もないのである。その魂のうちにあるものは、一つの真珠たる潔白である。真珠は泥の中にあってもと《溶》け去らぬ。人が年少である間は、神も彼が潔白ならんことを欲する。  もし広大なる都市に向かって、「あれは何だ?」と尋《タズ》ぬるならば、都市は答えるだろう、「あれは私の子供だ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【その特徴の若干】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーの浮浪少年は、小《ショウ》なる巨人である。  何ら誇張もなくありのままを言えば、この溝《+ドブ》の中の天使は時としてシャツを持ってることもあるが、それもただ一枚きりである。時としては靴を持ってることもあるが、それも底のす《擦》り切れたものである。時には住居を持っていて、母親がいるのでそれを愛することもあるが、しかし自由だからと言って街路の方《ほう》を好む。独特の遊びがあり、独特の悪戯がある。そしてその根本《コンポン》は中流市民に対する憎悪である。また独特な比喩がある。死ぬことを、たんぽぽを根から食うという。また独特な仕事を持っている。辻馬車を連れてき、馬車の踏み台をおろし、豪雨のおりに街路の一方から他方へ人を渡してやってい《/い》わゆる橋商売《ハシ商売》をなし、《:、》フランス民衆のためになされた当局者の演説をふれ回り、舗石《+敷石》の間を掃除する。また独特の貨幣を持っている。往来に落ちてる種々《いろいろ》な金物でできてる不思議な貨幣で、|ぼろ《ボロ》と言われていて、その小さな浮浪少年の仲間にご《/ご》く規則だった一定の流通をする。  最後に、彼らは独特な動物を持っていて、すみずみでそれを熱心に観察する。臙脂虫、油虫、足長蜘蛛、二つの角《ツノ》のある尾を曲げて人《/人》をおびやかす黒い昆虫の「鬼」。また物語にあるような怪物をも持っている。腹に鱗があるけれど、蜥蜴でもなく、背中に疣があるけれど、蟇《蝦蟇》でもなく、古い石灰竈やかわいた水溜《+水溜め》などの中に住んでいて、まっ黒で毛がはえ、ねばねばして、あるいは遅くあ《/あ》るいは早くはい回り、声は出さないがじっと見つめ、《:、》だれもかつて見たこともないような恐ろしいものであって、彼らはその怪物を「つんぼ」と呼んでいる。石の間に「つんぼ」を|さが《探》し回ることは、身の毛のよだつような楽しみである。なお別の楽しみは、急に舗石《+敷石》を上げて草鞋虫を見つけることである。またパリーの各地は、そこで見つかる種々《いろいろ》なおもしろいもので名がとおっている。ユルシュリーヌの建築材置き場の中にははさみ虫、パンテオンには百足虫《+百足》、練兵場《練兵ジョウ》の溝《+ドブ》の中には|おたまじゃくし《オタマジャクシ》がいる。  彼らの言葉はタレーラン(訳者注◇ 機才に富んだ弁舌で有名な当時の政治家)に匹敵する。同様に冷笑的であり、またいっそう正直である。まったく思いもかけないような快弁を持っていて、その大笑いで店屋の者を狼狽させることもある。その調子は大喜劇から狂言に至るまでの間を快活にはね回る。  葬式の行列が通る。そのうちに医者がいるとする。すると|ひとり《一人》の浮浪少年は叫ぶ、「おや、医者の野郎、自分の仕事の取り入れをするなんて、いつから初《始》めやがったんだ。」  群集の中に浮浪少年の|ひとり《一人》がいる。そして眼鏡や鎖をつけた|ひとり《一人》の堂々たる男が怒ってふり返りながら言うとする、「やくざ者め、俺の妻の腰に手をかけたな。」 「僕が! では僕の懐に手をつっ込んでみたらいいだろう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【その愉快さ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  晩になると、いつもいくらかの金《-かね》をどうにか手に入れて、この小人は芝居に行く。ところがその蠱惑的な閾《+敷居》を一度またぐと、彼らの様子は変わってしまう。浮浪少年だったのが、小僧《小僧’》っ児《子》になってしまう。芝居小屋は船を裏返したようなもので、上の方《ほう》に船底がある。小僧《小僧’》っ児《子》がつめ込むのはその船底へである。小僧《小僧’》っ子と浮浪少年との関係は、ちょうど蛾《/蛾》と青虫との関係である。羽がはえて空中を飛び回る代物である。芝居小屋のその狭い、臭い、薄暗い、不潔な、不健康な、たまらない、のろうべき船底が、天国ともなるためには、彼らがそこにいさえすれば十分《充分》である、《:、》光り輝くその幸福と、その力強い心酔と喜悦と、羽音のようなその拍手とをもって。  ある|ひとり《一人》の者に無用さを与え、その必要さを取り去ってしまえば、そこに一つの浮浪少年ができ上がる。  浮浪少年は、一種《1種》の文学的直覚を持っていないこともない。その傾向は、多少遺憾ながら、決してクラシック趣味ではなさそうである。彼らは生まれながらにしてあ《/あ》まりアカデミックではない。その一例をあぐれば、この喧騒な少年らの小社会《ショウ社会》におけるマルス嬢の評判は、一味の皮肉さで加味されていた。浮浪少年は彼女のことをまるまる嬢と言っていた。  彼らは怒鳴り、揶揄し、嘲弄し、喧嘩をし、乞食小僧のような|ぼろ《ボロ》をまとい哲人《/テツジン》のような弊衣をつけ、下水の中をあさり、塵溜《+チリダメ》の中を狩り、汚物のうちから快活を引き出し、町の巷に天下の奇想をまき散らし、《:、》冷笑し風刺《/風刺》し、口笛を吹き歌《/歌》を歌い、歓呼し罵詈《/罵詈》し、アレリュイアとマタンチュルリュレットと(訳者注◇ 歓呼の賛歌とのろいの賛歌と)をあわせ用い、デ・プロフォンディスからシアンリまで(訳者注◇ 荘重な聖歌から卑しい俗歌まで)あらゆる調子を口ずさみ、《:、》求《もと》めずして見いだし、知らないことをも知り、|すり《掏摸》を働くほどに謹厳であり、賢者たるまでに|ばか《馬鹿》であり、不潔なるまでに詩的であり、神々の上にうずくまり、糞便の中に飛び込んで星を身につけて出て来る。実にパリーの浮浪少年は小《ショウ》ラブレー(訳者注◇ 十六世紀の快活な風刺詩人)である。  彼らは時計入れの|内隠し《内ポケット》がついてるズボンでなければ満足しない。  彼らはあまり驚くことがなく、恐れることはなお更少なく、迷信を軽蔑し、誇張をへこまし、神秘を愚弄し、幽霊を|ばか《馬鹿》にし、架空をうち倒し、浮誇《フコ》を滑稽化する。それは彼らが散文的だからでは決してない。反対に彼らは、荘重な幻影を道化た幻と変えるまでである。もしアダマストール(訳者注◇ ヴァスコ・ダ・ガマの前につっ立ったという喜望峰を守っている巨人)が彼らに現われたとしても、彼らは言うであろう、「おやあ、案山子《+カガシ》めが!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【その有用な点】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーは弥次馬に初まり、浮浪少年に終わる。この二つは他のいずれの都市にも見られないものである。一つはただながめるだけで満足する消極的なものであり、一つは進取的に限りない手段をめぐらす。プリュドンムとフーイユーとである(訳者注◇ 無能尋常の典型と悪戯発明の典型)。パリーのみがこの二つをその博物誌のうちに持っている。各王政は弥次馬のうちにあり、各無政府は浮浪少年のうちにある。  パリーの場末のこの青白い子供は、困苦の中に、社会の現実と人間の事がらとの前に考《/考》え深く目を開きながら、生活し生長《/生長》し、熟し発達《/発達》してゆく。彼らは自分をむとんちゃくだと思っている。しかし実際はそうでない。彼らはじっとながめていて、何事にも笑い出そうとしているが、しかしまた他のことをも仕出かそうとしている。いかなる種類のものであろうとも、およそ、特権、濫用、破廉恥、圧制、不正、専制、不法、盲信、暴虐、などと名のつくものは、この|ぽかん《ポカン》としてる浮浪少年に用心するがいい。  この少年はやがて大きくなるだろう。  いかなる土《’土》で彼らはできているか? ごくありふれた泥からである。一握りの泥と一つの息吹、それだけでアダムができ上がる。ただ一つの神が通ればそれで足りる。そして神は一つやはりこの浮浪少年の上を通った。運命はこの少年に働きかける。ただここで運命という言葉は、多少偶然《多少’偶然》という意味をこめて用いるのである。それ自身普通《自身’普通》のつまらぬ土の中にこね上げられ、無知で、無学で、放心で、卑俗で、微賤であるこの侏儒は、やがてイオニア人(哲人《哲ジン》)となるであろうか、《:、》またはベオチア人(ばか)となるであろうか。まあ待つがいい。世は輪𢌞《+輪廻》だ。パリーの精神、偶然で子供を作り宿命《/宿命》で人を作るその悪魔は、ラテンの壺屋の車を逆さに回して、新しい壺を古代の壺にしようとしている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【その境界】 ◇。◇。◇。◇。◇。  浮浪少年は、心のうちに知恵を持っていて、町を愛しま《”ま》た静寂を愛する。フスクスのように町の愛人であり、フラックスのように田野《デンヤ》の愛人である。  考えながら歩くこと、すなわち逍遥すること、それは哲学者にとってはいい時間つぶしである。ことに、多少私生児的《多少’私生児的》な、かなり醜い、しかも奇怪な、二つの性質からできてる田舎において、ある種の大都会な《/な》かんずくパリーを取り囲んでいる田舎において、そうである。郊外を観察することは、すなわち水陸両棲物を観察することである。|木立ち《木立》の終わり、軒並みの初まり、雑草の終わり、舗石《+敷石》の初まり、田圃の終わり、商店の初まり、轍の終わり、擾乱の初まり、神の囁きの終わり、人の喧騒の初まり、それゆえに異常な興味がある。  それゆえに、あまり人《’人》の心をひかず常《/常》に通行人からうら寂しいという形容詞をかぶせられてるそれらの地に、表面上何《表面上’何》らの目的もない散歩を夢想家《/夢想家》らがなすのである。  これらのページを書いている著者も、昔は長い間パ《/パ》リー郊外の散策者だった。そして著者にとってそれは深い思い出の源である。あの平坦な芝地、あの石多い小道、あの白堊、あの石灰、あの石膏、あの荒地《荒れ地》や休耕地のきびしい単調さ、奥深い所に突然《突然’》見えてくる農園の早生の植物、僻地と都市との混合した景色、《:、》兵営の太鼓が騒々しく合奏して、遠く戦陣の轟きをもたらす片すみの人なき広い野原、昼間の寂寞、夜間の犯罪、風に回ってる揺らめく風車、石坑《セッコウ》の採掘車輪、墓地のすみの居酒屋、《:、》太陽の光を浴び蝶《/蝶》の群れ飛んでる広茫《コウボウ》たる地面を四角に切り取っている大《/大》きな黒壁の神秘な魅力、それらのものに著者の心はひかれていた。  次のような特殊な場所を知っている者が世にあるだろうか。グラシエール、キュネット、砲弾で斑点をつけられてるグルネルの恐ろしい壁、モン・パルナス、フォス・オー・ルー、マルヌ川岸《-カシ》のオービエ、モンスーリ、トンブ・イソアール、《:、》それからまたピエール・プラト・ド・シャーティヨン、そこには廃れた古い石坑《セッコウ》が一つあって、今ではただ茸《キノコ》がはえるだけのことで、腐った板の引き戸で地面にふたがしてある。ローマの田舎は人にある観念を与えるが、パリーの郊外もまた他の一つの観念を人に与える。眼前に現われてる地平線以内に、ただ野《/野》と人家《/人家》と樹木《/樹木》とのみを見ることは、その表面にのみ止《-とど》まることである。あらゆる事物の光景は、神の考えを含んでいる。平野が都市と接している場所には、人の心を貫くある言い知れぬ憂鬱が印せられている。そこでは自然と人類とが同時に口をきいている。地方的特色がそこに現われている。  パリーの郭外に接しているそれら寂寞の地、パリーの縁《フチ》とも称し得《う》べきそれらの地、それをわれわれのように逍遥したことのある者は、そこここに、最も寂しい場所に、意外の時に、薄い籬のうしろやわびしい壁のすみに、《:、》泥にまみれ塵《/塵》にまみれぼ《/ぼ》ろをまとい髪《/髪》をぼうぼうとさした色の青い子供らが、がやがやと集まって、矢車草の花を頭にかぶって、めんこ遊びをしているのを、おそらくだれも見たことがあるだろう。それは貧しい家《’家》から飛び出してきた子供らである。市外の大通りは彼らの自由に息をつくべき場所である。郊外の地は彼らのものである。彼らはその辺をいつも遊び回る。卑賤な歌を無邪気に歌い回る。彼らはそこにいて、あるいはむしろそこに生存して、すべての人の目をのがれ、五月六月の柔らかな光の中で、地面に掘った穴のまわりにうずくまり、親指の先で|おはじき《オハジキ》をして一文二文《イチモンニモン》を争い、《:、》何らの責任もなく放縦《/放縦》で放漫《/放漫》で幸福《/幸福》なのである。しかも市人の姿を認《-みと》むるや、一つの仕事があることを思い出し、糧を得なければならぬことを思い出し、こがね虫のいっぱいはいった古い毛糸の靴足袋や一束《/ひと束》のリラの花などを売りつけようとする。その不思議な子供らと出会うことは、同時におもしろいま《”ま》た悲しいパリー付近の風致の一つである。  時とするとそれらの男の児《子》の群れには、女の児《子》が交じってることもある。彼らの姉妹ででもあるのか? まだ年若い娘で、やせて、|いらいら《イライラ》して、手の皮膚はかさかさになり、雀斑ができていて、裸麦や美人草の穂を頭につけ、快活で、荒っぽくて、跣足《裸足》になっている。畑の中で|さくらんぼう《サクランボウ》を食べてる者もいる。夕方になると笑ってる声も聞こえる。ま《真》昼の暑い光に照りつけられてるその群れ、あるいは夕方の|薄ら明《ウスラ明か》りのうちに透かし見られるその群れ、それは長く夢想散歩者の頭を占めて、夢のうちにもその幻が交じってくるであろう。  パリーは中心で、郊外はその円周である。これらの子供にとってはそれが全土である。決して彼らはその外に出ようとしない。あたかも魚が水から出ることのできないように、彼らはもはやパリーの雰囲気から出ることができない。彼らにとっては、市門から二里離《二里ハナ》るればもはや空虚である。イヴリー、ジャンティイー、アルクイュ、ベルヴィル、オーベルヴィリエ、メニルモンタン、ショアジー・ル・ロア、ビランクール、《:、》ムードン、イッシー、ヴァンヴル、セーヴル、プュトー、ヌイイー、ジャンヌヴィリエ、コロンブ、ロマンヴィル、シャトゥー、アスニエール、ブージヴァル、ナンテール、アンガン、ノアジー・ル・セク、《:、》ノジャン、グールネー、ドランシー、ゴネス、そこに彼らの世界は終わるのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【その歴史の一片】 ◇。◇。◇。◇。◇。  本書の物語が起こった時代には、もとよりそれもほとんど現代ではあるが、その頃には今日《こんにち》のように街路の角《カド》に巡査がいはしなかった(今はそれを論ずる時でないのは|仕合わ《幸》せである)。浮浪の少年がパリーにいっぱいになっていた。囲いのない土地や、建築中の家《イエ》や、橋の下などで、巡邏の警官らから当時毎年拾《当時’毎年’拾》い上げられた宿無しの子供は、統計によると平均二百六十人《平均’二百六十人》くらいはあった。それらの巣のうちで有名なのは、いわゆる「アルコル橋《バシ》の燕」と言わるるに至った。もとよりそれは社会の最も不幸な兆候の一つであった。人間のあらゆる罪悪は子供の浮浪から初まる。  けれどもパリーはその例外としてよろしい。われわれが今持《今’持》ち出した思い出が痛ましいにもかかわらず、ある点までこの除外例は正当である。他のすべての大都市においては、浮浪の少年は沈淪した人間である。ほとんどどこにおいても、孤立した少年は必ず世の不徳に巻き込まるるままに投げ出され打《/打》ち捨てられたもので、ついにはそれによって正直さと本心とを食いつくさるるに至る。しかるにパリーの浮浪少年は、あえて言うがパリーの浮浪少年は、表面いかにも磨滅され痛《/痛》められては《は-》いるが、内部においてはほとんど純全たるままである。思っても輝かしい一事は、そしてフランス民衆革命の燦爛たる誠実さのうちに光輝を放ってる一事は、実に大洋の水《ミズ》のうちにある塩分から生ずるように、パリーの空気のうちにある観念から生ずる、一種《1種》の非腐敗性である。パリーを呼吸することは、魂を保存することである。  しかもわれわれがここに説くことも、分散した家族の網目を引きずってるかのように見えるこれらの少年の|ひとり《一人》に出会う時《とき》に、人が感ずる悲痛な感情を、少しも和らげるものではない。まだはなはだ不完全なる現今の文明においては、多くの家族の者らは暗闇のうちに散り失せ、自分の子供らがいかになったかも知らず、《:、》いわば往来の上におのれの臓腑を落としてゆくのは、さほど珍しいことではない。そこから陰惨な境涯が起こってくる。この悲しき一事も一つの成句を作り出して、そのことを「パリーの舗石《+敷石》の上に投げ出される」(訳者注◇ 家《イエ》なく職なき境涯に投ぜらるるの意)と言う。  ついでに言うが、かく子供を放棄することは、昔の王政によっても決して救済しようとはされなかった。エジプトやボヘミアの一部の下層社会は、上層の便宜にのみ供され、勢力家の意のままになっていた。下層民衆の子弟を教育することに対する嫌悪は、一般の信条となっていた。「半可通」が何の役に立つものか? そういうのが合い言葉だった。ところで、浮浪の子供は無学な子供の必然の帰結である。  その上、王政は時として子供の必要を生じた。そういう時には、往来から子供を拾い上げていた。  古いことはさておいて、ルイ十四世の時であるが、王は一艦隊を造ろうとした。それは道理あることで、よい考えだった。しかしその方法はどうだったか。風のまにまに漂わされる帆船に相並んで、それを必要に応じて曳舟《+エイシュウ》するために、あるいは櫂によりあ《/あ》るいは蒸気によって自由な方向に進み得る船を有しなければ、艦隊なるものは存在し得ない。ところが当時の海軍にとっては、帆と櫂とによる軍艦があたかも今日《コンニチ》の蒸気による軍艦のごときものだった。それで帆と櫂との軍艦が必要となった。しかしそういう軍艦は漕刑《+ソウ刑》囚人によってのみ動かされていたので、従って漕刑《+ソウ刑》囚人が必要となった。で《で/》宰相コルベールは、地方の監察官と諸侯の議政府《議’政府》とに命じて、|でき得《出来得》る限り多くの囚人をこしらえさした。役人らは彼の歓心を求めて大いに力を尽した。歌唱行列の前に帽子をかぶったままつっ立っている男がいると、新教徒的な態度だといって、すぐに漕刑場《+ソウ刑場》へ投じた。往来で子供に出会うと、その子供が十五歳になっていてか《/か》つ宿所を持たない場合には、すぐに漕刑場《+ソウ刑場》へ送った。それが偉大なる治世であり偉大なる世紀だったのである。  ルイ十五世の下《もと》では、浮浪の子供はパリーになくなってしまった。人知れぬある秘密な使途にあてんために、警察は子供を奪い去ってしまった。人々は王の赤血《セッケツ》の沐浴について恐ろしい推測を戦慄《/戦慄》しながらささやきかわした。バルビエはそれらのことを率直に書き留めている。時として警吏は、子供が少なくなったので父親のある子供まで捕えることがあった。父親は絶望的になって警吏につっかかっていった。そういう場合には高等法院が中にはいって、絞罪に処した。だれを? 警吏をか、否、父親を。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【その階級】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーの浮浪少年階級《浮浪少年’階級》はほとんど一つの閥族である。だれでもはいれるものではないと言ってさしつかえないほどである。  この |Gamin《ガマン》(浮浪少年)という語は、1834年に初めて印刷の上に現われて、俗語の域から文学上の言葉のうちにはいってきたのである。この語が現われたのは、クロード・グー(訳者注◇ これも本書の作者ユーゴーの作である)と題する小冊子の中であった。激しい物議を起こした。がその語は一般に通用されるに至った。  浮浪少年らの中で重きをなす原因にはきわめて種々《いろいろ》なものがある。われわれが知ってるし交《/交》わりもした|ひとり《一人》は、ノートル・ダームの塔の上から落ちる人を見たというので、ごく尊敬され感心《/感心》されていた。ある者は、アンヴァリードの丸屋根につける彫像が一時置かれていた裏庭に忍び込んで、その鉛を少し「ちょろまかした」というので、ごく尊敬されていた。ある者は、駅馬車がひっくり返るのを見たというので、ごく尊敬されていた。またある者は、市民の目をほとんどえぐり出そうとした|ひとり《一人》の兵士と「知り合いである」というので、ごく尊敬されていた。  パリーの一浮浪少年の次の嘆声、俗人がその意味をも解《カイ》しないでただ笑い去ってしまう深い文句、それを以上のことは説明するものである。「ああ《あ/》ああ、いやになっちまう、まだ六階から落っこった者を見ないんだからな!」(この言葉は彼ら特有の発音で言われたのである)。  確かに次のようなのは田舎者式の|みごと《見事》な言葉である。「父《+トっつ》あん、お前のお上さんは病気で死んだじゃないか。なぜお前は医者を呼びにやらなかったんだ?」「《:「》何を言わっしゃるだ、|わし《儂》ら貧乏人は《は-》な、人手を借りねえで死にますだ。」ところでもし田舎者の消極的な愚弄が右の言葉のうちにこもってるとするならば、郭外の小僧の無政府的な自由思想は、確かに左の言葉のうちにこもってるであろう。すなわち、死刑囚が馬車の中で教誨師の言葉に耳を傾けていると、パリーの子供は叫ぶ。「あいつ牧師めと話をしてやがる、卑怯者だな!」  宗教上のことに対するある大胆さは、浮浪少年を高めるものである。唯我独尊ということが大事である。  死刑執行に立ち会うことは、一つの義務となっている。断頭台を互いにさし示しては笑い、種々《いろいろ》な綽名《渾名》を浴びせかける。「飯《メシ》の食い上げ──脹《膨》れっ面──天国婆《天国ババア》──おしまいの一口──その他。」事がらを少しも見落とすまいとしては、壁をのり越え露台《/露台》によじ上り、木に登り、鉄門にぶら下がり、煙筒につかまる。浮浪少年は生まれながらの水夫であり、また生まれながらの屋根職人である。いかなる檣《+マスト》をも屋根をも恐れはしない。グレーヴの刑場ほどのお祭り騒ぎはどこにも見られない。サンソンとモンテス師とは広く知られてる名前である。処刑囚を励ますために皆呼《-みんな呼》びかける。時としては賛美することさえある。浮浪少年のラスネールは、恐るべきドータンが勇ましく死に就くのを見て、行く末を思わせる次の言葉を発した、「うらやましいな。」浮浪少年の仲間には、ヴォルテールのことは知られていないが、パパヴォアーヌのことは知られている。彼らは「政治家」と殺害者とを同じ話のうちに混同してしまう。そういうすべての人々が最後に着た服装を言い伝えている。彼らは知っている、トレロンは火夫の帽子をかぶっていた、アヴリルは川獺の帽子をかぶっていた、ルーヴェルは丸い帽子をかぶっていた、《:、》老《ロウ-》ドラポルトは禿頭《ハゲ頭》で何もかぶっていなかった、カスタンは|まっか《真っ赤》なきれいな顔をしていた、ボリーはロマンティックな頤髯《アゴヒゲ》をはやしていた、《:、》ジャン・マルタンは《は-》なおズボンつりをかけていた、ルクーフェは母と言い争った。「ねどこのことをぐずぐず言うなよ、」と|ひとり《一人》の浮浪少年はその二人に叫んだ。またある|ひとり《一人》はドバッケルが通るのを見ようとしたが、群集の中で自分があまり小さかったので、川岸の街燈柱《街灯柱》を見つけてそれに登り初めた。するとそこに立っていた憲兵が眉をしかめた。「登らして下さい、憲兵さん、」と少年は言った。そして彼の心を和らげるためにつけ加えた、「落ちはしませんから。」「《:「》落ちようとそんなことはかまわないさ」と憲兵は答えた(訳者注◇ 上《ウエ》にある多くの人物はみな重罪によって死刑に処せられし人)。  浮浪少年の間では、著名な事件は非常に尊ばれる。深く「骨までも」傷をした者があると、仲間の尊敬の頂上までも上りつめることができる。  拳固を食わせることも、かなり尊敬さるる方法である。浮浪少年が最も好んで言う一事は、「おれはすてきに強いんだぞ、いいか!《/》」ということである。左ききであることは、非常にうらやましがられる。やぶにらみもまた尊敬される。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【前国王のおもしろき言葉】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夏には、彼らは蛙に変化する。そして夕方、まさに暮れんとする頃、オーステルリッツ橋《バシ》やイエナ橋《バシ》の前で、石炭の筏や洗濯女の小舟《小船》などの上から、まっさかさまにセーヌ川に飛び込んで、秩序取り締まりの規則や警察の目をのがれて種々《いろいろ》なことをやる。しかるに巡査らは見張りをしている。その結果、まったく劇的光景を演じ、親愛なる記憶すべき叫び声を生んだこともある。1830年ごろ有名だったその叫び声は、仲間から仲間へ通ずる戦略的|合い図《合図》である。ホメロスの詩《-し》のように句格がそろい、パナテネー祭(訳者注◇ ミネルヴ神《-シン》の祭典)におけるエルージアの町の歌にも比《くら》ぶべき言葉《/言葉》に尽し難い調子がこもっていて、古代のエヴォエ(訳者注◇ バッカス神をたたえる巫子らの叫び)がそこに復活して来るのである。すなわち次のようなものである。「おーい、仲間、おーい!《/》 でかだぞ、いぬだぞ、用意しろ、逃げろ、下水からだ!」  時とするとそれらの蚊どものうちには──彼らは自ら蚊と綽名《渾名》している──字の読める者もいることがあり、また字の書ける者もいることがある。しかし皆《みんな》いつも楽書きすることは心得ている。いかなる不思議な相互教育によってかわからないが、彼らは皆公《-みんな公》の役に立ち得るあらゆる才能を示す。1815年から30年までは、七面鳥の鳴き声をまねていたが、1830年から48年までは、壁の上に梨を書きつけて回っていた(《:(》訳者注◇ 七面鳥は前の時《/時》の国王ルイ十八世の紋章、梨は後の時《/時》の国王ルイ・フィリップの紋章)。ある夏の夕方、ルイ・フィリップは徒歩で帰ってきたところが、まだ小さな取るに足らぬ浮浪少年の|ひとり《一人》が、ヌイイー宮殿の鉄門の柱に大きな梨を楽書きせんとして、背伸びをし汗《/汗》を流してるのを見つけた。王は先祖のアンリ四世《4世》からうけついできた心よさをもってそ《/そ》の少年の手助けをし、ついに梨を書いてしまって、それから彼にルイ金貨を一つ与えながら言った、「これにも梨がついているよ。」また浮浪少年は喧騒を好むものである。過激な状態は彼を喜ばせる。彼らはまた「司祭輩《司祭ハイ》」をきらう。ある日ユニヴェルシテ街で、一人の小僧がその六十九番地の家の正門に向かってあかんべーをしていた。通行人が彼に尋ねた、「この門に向かってなぜそんなことをしてるんだ?」すると彼は答えた、「司祭がここに住んでるんだ。」実際そこは、法王の特派公使の住居であった。けれども、彼らのヴォルテール主義(訳者注◇ 反教会)が何であろうと、もし歌唱の子供となれるような機会がやってくると、それを承諾することもある。そしてそういう場合には、丁重に弥撒《+ミサ》の勤めに従う。それから、タンタルス(訳者注◇ 永久《エーキュウ》の飢渇に処せられし神話中の人物)のように彼らが望んでいた二つのことがある。彼らはいつもそれを望みながら永久《エーキュウ》にそれを得ないでいる。すなわち、政府を顛覆することと、ズボンを仕立て直すこと。  完全なる浮浪少年は、パリーのすべての巡査を知悉していて、その|ひとり《一人》に出会えばすぐに名指すことができる。各巡査をくわしく研究している。その平常を調べ上げて、それぞれ特殊な記録をとっている。その心の中《うち》を自由に読み取っている。彼らはすらすらと滞りなく言い得る、《:、》「某《ナニガシ》は反逆人だ、──某《ナニガシ》はごく意地悪《意地悪’》だ、──某《ナニガシ》は偉い奴《ヤツ》だ、──某《ナニガシ》は滑稽な奴だ。」《」:》(これらの、反逆人、意地悪、偉い奴《ヤツ》、滑稽な奴、などという言葉は、彼らに言われる時は特殊な意味を有するのである)「《:「》あいつは、ポン・ヌーフ橋《バシ》を自分の物とでも思ってるのか。欄干の外の縁《フチ》を歩くことを世間に禁じやがる。それから向こうのは、人の耳を引っ張る癖がある。云々、云々。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【ゴールの古き魂】 ◇。◇。◇。◇。◇。  市場《イチバ》の児《子》なるボクランのうちに、またボーマルシェーのうちに、この種の少年の気質があった(訳者注◇ 二人とも著述家、次に出て来る人々も同じ)。浮浪少年気質はゴール精神の一特色である。それは妥当な常識に交わると時としてそれに力を与える。あたかも葡萄酒にアルコールを加えるがごときものである。また時とすると欠点ともなる。ホメロスは無駄口をたたくと言えるならば、ヴォルテールは浮浪少年気質を発揮すると言うべきであろう。カミーユ・デムーランは郭外人であった。奇蹟をけなしたシャンピオンネはパリーの舗石《+敷石》から出てきた。彼はまだごく小さい時から、サン・ジャン・ド・ボーヴェー会堂やサン・テティエンヌ・デュ・モン会堂などの回廊に侵入していた。そして彼はサント・ジュヌヴィエーヴ会堂の聖櫃《+聖ヒツ》を不作法《無作法》に取り扱って、サン・ジャンヴィエの聖壺《聖コ》に命令を下していた。  パリーの浮浪少年は、敬意と皮肉《/皮肉》と横柄《/横柄》さとを持っている。食を十分《充分》に与えられず胃袋が嘆いているので、がつがつした歯を持っている。また機才を持っているので、美しい目をしている。エホバの神がいるとしても、彼らは天国の階段を飛びはねて上ってゆくであろう。彼らは足蹴に強い。彼らはあらゆる方面に成長をなし得る。彼らは溝《+ドブ》の中で遊んでいる、けれど騒動があるとすっくと立ち上がる。霰弾の前にもたじろがないほど豪胆である。いたずらっ児《子》だったのが英雄となる。テバン(訳者注◇ 偶像を廃棄して惨殺せられし古《古代》ローマの一団体)の少年のように獅子《/獅子》の背をもなでるであろう。鼓手のバラ(訳者注◇ 大革命の時の勇敢な少年)はパリーの一浮浪少年であった。あたかも聖書の戦馬が「ヴァー!《/》」とうなるように、彼らは「前へ!《/》」と叫ぶ、そしてたちまちのうちに小童から巨人となる。  この泥中の少年は、また理想中の少年である。モリエールからバラに至るまでのその翼の長さを計ってみるがよい。  要するに、そして一言《イチゴン》に概括すれば、浮浪少年とは不幸なるがゆえに嬉戯する一個の人物である。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 【ここにパリーあり、ここに人あり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  なおすべてを概説せんには、今日《こんにち》のパリーのガマン(浮浪少年)は、いにしえのローマのギリシャ人のように、年老いた世界の皺を額に有する年少民衆である。  浮浪少年は国民にとって一つの美《ビ》であり、また同時に一つの病《病い》である。なおさなければならない病《病い》である。いかにしてなおすか? 光明をもってである。  光明は人を健やかにする。  光明は人を輝かす。  あらゆる社会的の麗しい光輝は、科学、文学、美術、および教育から生ずる。人を作れ、人を作れよ。彼らをして汝に温暖を与えしめんがために、彼らに光を与えよ。いつかは普通教育の光輝ある問題は、絶対的真理《絶対的シンリ》の不可抗な権威をもって確立さるるに至るであろう。そしてその時におよんでこそ、フランス精神の監視の下《もと》に政事を行なう人々は、次の選択をなさなければならないだろう、《:、》すなわちフランスの少年かも《/も》しくはパリーの浮浪少年か、光明のうちに|燃ゆる炎《モユル-ホノオ》か、もしくは暗黒のうちにひらめく燐火か。  浮浪少年はパリーを表現し、パリーは世界を表現する。  なぜかなれば、パリーは全部であるからである。パリーは人類の天井である。この驚くべき一大都市は、過去現在のあらゆる風習の縮図である。パリーを見るは、所々《ところどころ》に天空と星座とを有する全歴史を見通すに等しい。カピトールとしては市庁を、パルテノンとしてはノートル・ダーム寺院を、アヴェンティノの丘としてはサン・タントアーヌの一郭を、アシナリオムとしてはソルボンヌ大学を、《:、》パンテオンとしてはパンテオンの殿堂を、ヴィア・サクラとしてはイタリアン大通りを、アテネの風楼《フウ楼》としては輿論を、パリーはみな有している。そしてゼモニエ(訳者注◇ 古《古代》ローマにて処刑人の死体を陳列するカピトール山《サン》の階段)としては嘲弄がもって代えている。そのマホー(スペインの伊達者)をめかしやと言い、そのトランステヴェレノ(ローマのチベル彼岸の民)を郭外人と言い、そのハンマル(インドの籠舁)を市場人足《イチバ人足》と言い、《:、》そのラツァロネ(ナポリの乞食)を組合盗賊と言い、そのコクニー(ロンドンっ児《子》)を洒落者と言う。世界中にあるものは皆パリーにもある。デュマルセーの描《-えが》いた魚売り女はエウリピデスの草売り女と一対である。円盤投戯者《円盤トウギ者》のヴェジャヌスは綱渡り人《にん/》フォリオゾのうちに復活している。テラポンティゴヌス・ミレスは擲弾兵ヴ《/ヴ》ァドボンクールと腕を組み合って歩くであろう。骨董商ダ《/ダ》マジプスはパリーの古物商人のうちに納まり返るであろう。アゴラ(アテネの要塞)はディドローを監禁するであろうが、それと同じくヴァンセヌの要塞はソクラテスをつかみ取るであろう。クルティルスが猬《+ハリネズミ》の炙肉《+炙り肉》を考え出したように、グリモン・ド・ラ・レーニエールは油でいためたロースト・ビーフを考えついた。プラウツスの書いた鞦韆《+ブランコ》はエトアール凱旋門の気球の下に現われている。アプレイウスが出会ったペシルの|剣食い《剣クイ》芸人はポン・ヌーフ橋《バシ》の上の|刃呑み《刃ノミ》芸人である。ラモーの甥は寄食者ク《/ク》ルクリオンと好一対をなすものである。エルガジルスも喜んでエーグルフイユによってカンバセレスの家に導かれるだろう。ローマの四人の遊冶郎ア《/ア》ルセジマルクス、フェドロムス、ディアボルス、アルジリッペは、クールティーユからラバテュの駅馬車に乗り込む。アウルス・ジュリウスはコングリオの前に長くたたずんだが、シャール・ノディエはポリシネルの前に長くたたずんだ。マルトンは虎とは言えないが、しかしパリダリスカも決して竜ではなかった。道化者《道化もの》パントラビュスはイギリス・カフェーで遊蕩児ノ《/ノ》メンタヌスをも愚弄する。ヘルモジェヌスはシャン・ゼリゼーのテノル歌手とも言い得べく、そのまわりには乞食のトラジウスがボベーシュ流の服を着て金《-かね》を集めている。チュイルリー公園にはうるさく服のボタンをつかまえて引き留《と》むる者がいて、テスブリオンから二千年後の今日《こんにち》もなお同じ抗議を人に言わする、「マントを引っ張るのはだれだ、私は急《-いそ》ぐんだ。」スュレーヌの葡萄酒はアルバの葡萄酒に肩を並べる。デゾージエの赤縁のコップはバラトロンの大杯《タイハイ》にも匹敵する。ペール・ラシェーズの墓地は夜の雨の中にエスキリエの丘と同じようなすごい光を発する。そして五年間の契約で買われた貧民の墓は、いにしえの奴隷の借り棺《ヒツギ》と同じである。  パリーにないものがあるか|さが《探》してみるがいい。トロフォニウスの染甕《+ソメガメ》の中にあったものは皆、メスメルの桶の中にある。エルガフィラスはカグリオストロのうちによみがえる。バラモン僧ヴ《/ヴ》ァサファンタはサン・ジェルマン伯のうちに化身している。サン・メダールの墓地はダマスクスの回教寺院ウ《/ウ》ームーミエに劣らぬ奇蹟を行なっている。  パリーはイソップとしてマイユーを有し、カニディアとしてルノルマン嬢を有する。パリーはデルフ町のように、あまり痛烈なる現実の幻に驚いている。ドドナの町で占考の椅子が震え動いたように、パリーではテーブルがひっくり返っている。ローマが娼婦を玉座にのぼしたように、パリーは浮気女工を玉座にのぼしている。そして要するに、ルイ十五世はクラウディウス皇帝より悪いとしても、デュ・バリー夫人はメッサリナよりも勝《優》っている。われわれはそれを排斥したのであるが、本当に生きてた異常な一典型《+一タイプ》のうちにパリーは、ギリシャの赤裸とヘ《/ヘ》ブライの潰瘍とガ《/ガ》スコーニュの悪謔とを結合している。パリーはディオゲネスとヨブとペラースとを混合し、コンスティテュシオンネル(立憲)新聞の古い紙《’紙》で一つの幽霊に着物を着せて、コドリュク・デュクロスを作り出している。  暴君はほとんど老いることなしとプルタルコスは言っているけれど、ローマはドミチアヌス皇帝の下《-もと》におけると同じくシ《/シ》ルラの下《-もと》に自らあきらめて、甘んじてその酒に水を割った。多少正理派《多少セイリ派》のきらいはあるがヴァルス・ヴィビスクスがなした次の賛辞を信ずるならば、チベル川は一つのレテ川(訳者注◇ 地獄の忘却の川《河》)と言うべきであった。「吾人はグラックス兄弟に対してチベル川を有す、チベルの水を飲むは反乱を忘るることなり。」しかるにパリーは一日に百万リットルの水を飲む。しかしそれにもかかわらず、場合によっては非常ラッパを鳴らし警鐘《/警鐘》を乱打する。  それを外《他》にしては、パリーは善良なる小児である。彼は堂々とすべてを受け入れる。彼はヴィーナスの世界においても気むずかしくはない。そのカリーピージュのヴィーナスはホッテントット式である。彼は一度笑えば、もはやすべてを許す。醜悪も彼を喜ばせ、畸形も彼を上|きげん《機嫌》にし、悪徳も彼の気を慰むる。滑稽でさえあれば、卑しむべき人たるも許されるであろう。偽善でさえも、その最上の卑劣も、彼の気をそこなわない。彼は文学者であるから、バジルの前にも鼻つまみをしない。プリアポスの「しゃくり」を気にしなかったホラチウスのごとく、タルチュフの祈祷をも怒らない。世界の各面相はパリーの横顔のうちにある。マビーユの舞踏会はジャニクロムのポリムニア女神のダンスとは言えないが、しかし婦人服売買婦はじっと洒落女を見張っていて、あたかも周旋婦のスタフィラが処女のプラネジオムを待ち伏せしてるようである。コンバの市門はコリゼオムの劇場とは言えないが、しかしシーザーがそこに見物しているかのように人々は勢い込んでいる。シリアの上《-かみ》さんはサゲー小母さんよりも愛嬌があるだろうが、《:、》しかしヴィルギリウスがローマの居酒屋に入り浸ったとするならば、ダビド・ダンジェやバルザックやシャルレなどはパリーの飲食店にはいり込んでいる。パリーは君臨する。天才はそこに燃え出し、赤リボンの道化者はそこに栄える。アドナイは雷と電光との十二の車輪をそなえた車に乗ってパリーを過ぎる。シレヌスは驢馬に乗ってパリーにはいって来る。これをパリーではランポンノー爺さんと言う。  パリーはコスモス(宇宙)と同意義の語である。パリーは、アテネであり、ローマであり、シバリスであり、エルサレムであり、パンタンである。パリーにはあらゆる文明が概括され、またあらゆる野蛮が概括されている。パリーは一つの断頭台を欠いても気を悪くするであろう。  グレーヴ処刑場の少しを有するはいいことである。そういう香味がなかったならば、この永久《エーキュウ》の祭典はどうなるであろう。われわれの法律は賢くもそこにそなわっている、そしてそれによって、この肉切り包丁《ぼうちょう》はカルナヴァル祭最終日《サイ最終日》に血をしたたらせる。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【嘲笑し君臨《/君臨》す】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーに限界があるか、否少《否/少》しもない。おのれが統御する者らをも時《/時》として愚弄するほどのこの権勢を持っていた都市は、他に一つもない。「喜べ、アテネ人よ!《/》」とアレクサンデルは常に叫んでいた。パリーは法律以上のものを、流行を作る。パリーは流行以上のものを、慣例を作る。もし気が向けば|ばか《/馬鹿》となることもある。時としては自らそういう贅沢もする。すると世界はパリーとともに|ばか《馬鹿》となる。それからパリーは目をさまし、目をこすりながら言う、「ほんとに俺は|ばか《馬鹿》げてる!」そして人類の面前に向かって放笑《+吹き出》す。そういう都市は何と驚くべきものではないか。不思議にも、その偉大さとその滑稽さとは親しく隣合い、その威厳はその戯言から少しも乱さるることなく、同じ一つの口が、今日は最後の審判のラッパを吹き、明日は蘆笛《アシブエ》を吹き得るのである。パリーは主権的な陽気さを持っている。その快活は火薬でできており、その滑稽は帝王の笏を保《-たも》っている。その颶風は時として一の渋面から出て来る。その爆発、その戦乱、その傑作、その偉業、その叙事詩《叙事シ》は、世界の果てまでも響き渡る、そしてその諧謔も世界の果てにおよぶ。その笑いはすべての土をはね上げる火山の口である。その嘲弄は火炎である。彼は各民衆にそ《/そ》の風刺と理想とを課する。人間の文明の最も高い記念塔は、彼の皮肉を受け入れ、彼の悪戯を恒久のものたらしむる。彼は壮大である。彼は世界を開放せしむる偉大なる1789年七月十四日《年’七月十四日》を持っている。彼はあらゆる国民に憲法制定の宣誓をなさせる。1789年八月四日《年’八月四日》のその一夜は、わずか三時間のうちに封建制度の一千年《イッ千年》を解決した。彼はその理論をもって、満場一致の意志の筋力とする。彼はあらゆる壮大なる形の下に仲間を増してゆく。ワシントン、コスキュースコ、ボリヴァール、ボツァリス、リエゴ、ベム、マニン、ロペス、ジョン・ブラウン、ガリバルディーなど、彼はおのれの光によって彼らを皆満《-みんな満》たしてやる。未来が光り輝く所にはどこにも彼はいる、1779年にはボストンに、1820年にはレオン島に、1848年にはペストに、1860年にはパレルモに。ハーパース・フェヤリーの小舟《小船》に集まったアメリカの奴隷廃止党員の耳に、またゴツィー旅館の前の海辺ア《/ア》ルキーにひそかに集まったアンコナの愛国者らの耳に、彼は自由という力強い標榜語をささやく。彼はカナリスを作り出し、キロガを作り出し、ピザカーヌを作り出す。彼は偉大なるものを地上に光被する。バイロンがミソロンギーで死に、マツェットがバルセロナで死ぬのは、彼の息吹に吹きやられてである。彼はミラボーの足もとでは演壇となり、ロベスピエールの足もとでは噴火口となる。その書籍、その劇、その美術、その科学、その文学、その哲学などは、人類の宝鑑である。パスカル、レニエ、コルネイユ、デカルト、ジャン・ジャック・ルーソーを彼は有し、各瞬間にわたるヴォルテールを、各世紀にわたるモリエールを有している。彼はおのれの言葉を世界の人々の口に話させる、そしてその言葉は「道《みち(言葉)》」となる(訳者注◇ 太初に道《みち》(|ことば《言葉》)あり道《/みち(言葉)》は神と偕にあり道《/みち(言葉)》は即ち神なり云々──ヨハネ伝第一章)。彼はすべての人の精神のうちに進歩の観念をうち立てる。彼が鍛える救済の信条は、各時代にとっての枕刀である。1789年いらい各民衆のあらゆる英雄が作られたのは、彼の思想家お《/お》よび詩人の魂をもってである。それでもなお彼は悪戯する。そしてパリーと称するこの巨大なる英才は、その光明によって世界の姿を変えながら、テセウスの殿堂の壁にブージニエの鼻を楽書きし、ピラミッドの上に盗人クレドヴィルと書きつける。  パリーはいつも歯をむき出している。叱咜していない時は笑っている。  そういうのがすなわちパリーである。その屋根から立ち上る煙は、全世界の思想である。泥と石との堆積であると言わば言え、特にそれは何よりも精神的一存在である。それは偉大以上であって、無限大である。そして何《なに》ゆえにそうであるか? あえてなすからである。  あえてなす。進歩が得《-え》らるるのはそれによってである。  あらゆる荘厳なる征服は、みな多少とも大胆の賜物である。革命が行なわれるには、モンテスキューがそれを予感し、ディドローがそれを説き、ボーマルシェーがそれを布告し、コンドル《ル-》セーがそれを計画し、アルーエがそれを準備し、ルーソーがそれを予考する、などのみにては足りない。ダントンがそれを敢行しなければいけない。  果敢!《/》 の叫びは一つの光あれ(訳者注◇ 神光《カミ/光》あれと言いたまいければ光ありき)である。人類の前進のためには、常に高峰《コウホウ》の上に勇気という慢《誇》らかな教訓がなければならない。豪胆は歴史を輝かすものであって、人間の最も大《ダイ》なる光輝の一つである。曙光は立ち上る時《とき》に敢行する。試み、いどみ、固執し、忍耐し、自己に忠実であり、運命とつかみ合い、恐怖の過少をもってかえって破滅を驚かし、《:、》あるいは不正なる力に対抗し、あるいは酔える勝利を侮辱し、よく執しよ《”よ》く抗する、それがすなわち民衆の必要とする実例であり、民衆を奮起せしむる光明である。その恐るべき光こそ、プロメテウスの炬火《松明》からカンブロンヌの煙管《+パイプ》に伝わってゆくところのものである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【民衆のうちに潜める未来】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーの民衆は、たとい大人に生長しても、常にガマン(浮浪少年)である。その少年を描《-えが》くことは、その都市を描《-えが》くことである。鷲をその磊落なる小雀《コスズメ》のうちにわれわれが研究したのは、このゆえである。  あえて力説するが、パリー民族が見られるのは特にその郭外においてである。そこに純粋の血《血’》があり、真の相貌がある。そこにこの民衆は働きか《/か》つ苦しんでいる。苦悩と労働とは人間の二つの相《ソウ》である。そこに名も知られぬ無数の人々がいる。そしてその中に、ラーペの仲仕からモンフォーコンの屠獣者に至るまであらゆる奇体な典型《+タイプ》が群がっている。町の掃きだめとキケロは叫び、憤《おこ》ったバークは愚衆と言い添える。賤民どもであり、群衆どもであり、平民どもである。そういう言葉は早急に発せられたものである。しかしま《”ま》あお《-お》くとしよう、それが何のかかわりがあろう。彼らがはだしで歩いているとしても、それが何であろう。けれども悲しいかな、彼らは文字を知らない。そしてそのために彼らは見捨てらるべきであろうか。彼らの窮迫をののしりの一材料とすべきであろうか。光明もそれらの密層《ミッ層》を貫くことはできないであろうか。顧みて、光明!《/》 というその叫びを聞き、それに心をとどめようではないか。光明! 光明! その混濁も透明となり得ないことがあろうか。革命は一つの変容ではないか。行け、哲人《哲ジン》らよ、教えよ、照らせよ、燃やせよ、声高に考えよ、声高《コワダカ》に語れよ、日の照る下に喜んで走れよ、街頭に親しめよ、よき便りをもたらせよ、《:、》ABCを豊かに与えよ、権利を宣言せよ、マルセイエーズを歌えよ、熱誠をまき散らせよ、樫の青葉を打ち落とせよ。そして思想をして旋風たらしめよ。あの群集は昇華され得るであろう。時々にひらめき激《/ゲキ》し震《/震》えるあ《/あ》の広大なる主義と徳との燎原の火を、利用し得る道を知ろうではないか。あの露わな足、露わな腕、|ぼろ《ボロ》、無知、卑賤、暗黒、それらは理想の実現のために使用し得らるるであろう。民衆を通してながめよ、さすれば真理を認め得るであろう。人が足に踏みにじり、炉のうちに投じ、溶解し、沸騰せしむる、あの賤しき石くれも、やがては燦爛たる結晶体となるであろう。ガリレオやニュートンが天体を発見し得るのは、実にそれによってである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【少年ガヴローシュ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  この物語の第二部に述べられた事件から|八、九年《八’九年》たった時、タンプル大通りやシャトー・ドォーの方面において、|十一、二歳《ジュウ一’二歳》の|ひとり《一人》の少年が人の目をひいていた。その少年は、脣には年齢にふさわしい笑いを持っていたが、それとともにまったく陰鬱な空虚《/空虚》な心を持っていた。もしそ《/そ》ういう心さえなかったならば、上に述べた浮浪少年の理想的タイプをかなり完全にそなえているとも称し得るものだった。大人のズボンを変なふうには《履》いていた。しかしそれは親譲りのものではなかった。また女用《オンナ用》の上衣をつけていた。しかしそれは母親からもらったものではなかった。だれかがかわいそうに思ってそういう|ぼろ《ボロ》を着せてやったものだろう。といっても、彼は両親を持っていた。ただ、父親は彼のことを気にも止めず、母親は彼を少しも愛していなかった。彼はあらゆる子供のうちでも最もあわれむべき者の|ひとり《一人》だった。父と母とを持ちながらし《/し》かも孤児でもある子供の|ひとり《一人》だった。  この少年は、往来にいる時が一番楽しかった。街路の舗石《+敷石》も彼にとっては、母の心ほどに冷酷ではなかった。  彼の両親は彼を世の中に蹴り捨ててしまったのである。  彼はただ訳《/訳》もなく飛び出してしまったのである。  彼は、騒々しい、色の青い、すばしこい、敏感な、|いたずら者《悪戯者》で、根強いか《/か》つ病身らしい様子をしていた。街頭を行き来《-き》し、歌を歌い、銭投《ゼニ投》げをし、溝《+ドブ》をあさり、少しは盗みをもした。しかし猫や雀のように快活に盗みをやり、悪戯者と言われれば笑い、悪者と言われれば腹を立てた。住居もなく、パンもなく、火もなく、愛も持たなかった。しかし彼は自由だったので、いつも快活だった。  かかるあわれな者らがもし大人である時には、たいていは社会の秩序という石臼がやって来て押しつぶしてしまうものである。しかし子供である間は、小さいからそれをのがれ得る。ごく小さな穴さえあればそれで身を免れることができる。  この少年は前に述べたとおりまったく放棄されていたけれど、時とすると三カ月に一度《一度’》くらいは、「どれどれひとつ阿母《+おっかあ》にでも会ってこよう!《/》」と言うことがあった。すると彼はもう、その大通りも曲馬場《曲馬ジョウ》もサン・マルタン凱旋門も打ち捨てて、川岸に行き、橋を渡り、郭外に出で、サルペートリエール救済院のほとりに行き、それから、どこへ行くのか。それはまさしく、読者が既に知っているあの五十・《’》五十二番地という二重番地の家、ゴルボー屋敷へである。  いつも住む人がなく、「貸し間《マ》」という札《フダ》が常にはりつけられていたその五十・《’》五十二番地の破屋《+あばら家》には、その頃珍しくも、大勢《大ぜい》の人が住んでいた。もとよりパリーのことであるから、大勢《大ぜい》の人と言っても互いに何らの縁故も関係《/関係》も持たなかった。皆赤貧《みんな赤貧》の部類に属する者たちだった。赤貧の階級は、まず困窮な下層市民から初まり、困苦から困苦へと|しだい《次第》に社会のどん底の方《ほう》へ沈んでゆき、物質的文明の末端である二つのものとなってしまうのである。すなわち、泥を掃き除ける溝渫《+ドブ浚》い人《にん》と、|ぼろ《ボロ》を集める屑屋とである。  ジャン・ヴァルジャンのいた頃の「借家主《シャクヤヌシ》」の婆《’婆》さんはもう死んでいて、後《あと》にはそれとちょうど同じような婆さんがきていた。だれかある哲学者が言ったことがある、「婆《ババア》というものは決してな《無》くならないものだ。」  この新たにきた婆さんは、ビュルゴン夫人と言って、その生涯に重立ったことと言っては、ただ三羽の鸚鵡を飼ったくらいのもので、それらの鸚鵡が三代順次《3代’順次》に彼女の心に君臨したのである。  その破屋《+あばら家》に住んでいた人々のうちで最も惨めなのは、四人の一家族《イチ家族》だった。父と母とも《/も》うかなり大きなふたりの娘とで、前に述べておいたあ《/あ》の屋根部屋の一つに、四人いっしょになって住んでいた。  その一家族は、極端に貧窮であるというほかには、一見したところ別《/別》に変わった点もないようだった。父親は室《+部屋》を借りる時《とき》、ジョンドレットという名前だと言った。引っ越してきてから、と言っても、借家主婆《シャクヤヌシ婆》さんの|うま《旨》い言い方を借りれば、それはまったく身体だけの引っ越しにすぎなかったが、《:、》その後しばらくしてジョンドレットは、前の婆《’婆》さんと同じく門番でま《”ま》た掃除女であるその借家主婆《シャクヤヌシ婆》さんに、次のように言ったことがある。「婆さん、もしだれかひょっとやってきて、ポーランド人とか、イタリア人とか、またスペイン人とかを尋ねる者があったら、それは私のことだと思っていてもらいましょう。」  その一家族は、あの愉快なはだしの少年の家族だった。少年はそこへやってきても、見いだすものはただ貧窮と悲惨とだけで、それにな《/な》おいっそう悲しいことには、何らの笑顔をも見いださなかった。竈《カマド》も冷えておれば、人の心も冷えている。彼がはいってゆくと、家の者は尋ねた、「どこからきたんだい。」彼は答えた、「|おもて《表》からさ。」また彼が出て行こうとすると、家の者は尋ねた、「どこへ行くんだい。」彼は答えた、「|おもて《表》へさ《サ》。」母親はいつも言った、「何しに帰ってきたんだい。」  その少年は、窖の中にはえた青白い草《クサ》のように、まったく愛情のない中に生きていた。けれども彼はそれを少しも苦にせず、また|だれ《誰》をも恨まなかった。彼はいったい両親というものはどうあるべきものかということをもよくは知らなかった。  それでも、母親は彼の姉たちをかわいがっていた。  言うのを忘れていたが、タンプル大通りではこの少年を小僧《/小僧》ガヴローシュと言っていた。なぜガヴローシュと呼ばれたかというと、おそらくその父親がジョンドレットというからだったろう。  家名を断つということは、ある種の悲惨な家族における本能らしい。  ジョンドレット一家が住んでいたゴルボー屋敷の室《+部屋》は、廊下の端《端’》の一番奥だった。そしてそれと並んだ室《部屋》にはマリユス君というごく貧しい|ひとり《一人》の青年が住んでいた。  このマリユス君が何人《ナンピト》であるかは、次に説明しよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二編】 【大市民《ダイ市民》】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【九十歳と三十二枚の歯】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ブーシュラー街やノ《/ノ》ルマンディー街やサ《/サ》ントンジュ街などには、ジルノルマンという爺さんのことを覚えていて喜《/喜》んで話してくれる昔からの住人が、今なおいくらか残っている。彼らが若い頃その人はもう老人だった。過去と称する漠然たる幻の立ちこめた曠野を憂鬱にながめる人たちの頭には、その老人の姿がタ《/タ》ンプル修道院に隣していた迷宮のような小路のうちにお《/お》ぼろに浮かんでくる。その一郭の入り組んだ小路にはル《/ル》イ十四世の頃はフランスの各地方の名前がつけられていて、《:、》あたかも今日《こんにち/》ティヴォリの新しい街区の小路に欧州《/欧州》の各首都の名前がつけられてるのと同じであった。ついでに言うが、それは一つの前進であってそ《/そ》こに進歩が見られるではないか。  ジルノルマ《マ-》ン氏は1831年には飛び切りの長寿者だった。そしてその長く生きてきたという理由だけで滅多《/滅多》に見られない人となっており、昔は普通の人だったが今《/今》はまったく|ひとり《一人》っきりの人であるという理由で不思議《/不思議》な人となっていた。独特な老人で、いかにも時勢はずれの人で、十八世紀式の多少傲慢《多少’傲慢》な完全《/完全》な真の市民であり、侯爵らが侯爵ふうを持っているようにそ《/そ》の古い市民ふうをなお保っていた。九十歳を越えていたが、腰も曲がらず、声も大きく、目もたしかで、酒も強く、よく食い、よく眠り、鼾までかいた。歯は三十二枚そろっていた。物を読む時だけしか眼鏡をかけなかった。女も好きだったが、もう十年この方断然《方’断然/》そして全然女《全然’女》に接しないと自ら言っていた。「もう女の気に入らない」と言っていた。しかしそれにつけ加えて、「あまり年取ったから」とは決して言わず、「あまり貧乏だから」と言っていた。そしてよく言った、「私がもし|尾羽う《オハ打》ち枯らしていなかったら‥‥へへへ。」実際彼にはも《/も》う一万五千フランばかりの収入きり残っていなかった。彼の夢想は、何《なに》か遺産でも受け継いで、妾を置くために十万《/十万》フランばかりの年金を得ることだった。明らかに彼は、ヴォルテール氏のように生涯中死《生涯じゅう死》にかかってた虚弱《/虚弱》な八十翁の類いではなかった。亀裂《+罅》のはいった長生きではなかった。この元気な老人は常に健康だった。彼は浅薄で、気が早く、すぐに腹を立てた。何事にも、多くは条理もたたないのに、煮えくり返った。その意見に反対しようものなら、すぐに杖を振り上げた。大世紀《ダイ世紀》(訳者注◇ ルイ十四世時代)のころのようになぐりつけまでした。もう五十歳以上の未婚の娘を持っていたが、怒った時にはそれをひどくなぐりつけ、また鞭でよくひっぱたいた。彼の目にはその老嬢も|七、八歳《七’八歳》の子供としか見えなかった。彼はまた激しく召し使いどもに平手を食わした、そして「このひきずり奴《め》が!《/》」とよく言った。彼が口癖のののしり語の一つは、足が額にくっつこうともというのだった。ある点について彼は妙に泰然としていた。毎日ある理髪屋に顔をそらせていた。その理髪屋はか《/か》つて気が狂ったことのある男で、愛嬌者《+愛嬌モノ》のきれいな上《-かみ》さんである自分の女房のことについてジ《/ジ》ルノルマン氏を妬いていたので、従って彼を|きら《嫌》っていた。ジルノルマ《マ-》ン氏は何事にも自分の鑑識に自ら感心していて、自分は至って機敏だと公言していた。次に彼の言い草を一つ紹介しよう。「実際私《実際’儂》は洞察力《洞察リョク》を持ってるんだ。蚤がちくりとやる場合には、どの女からその蚤がうつってきたか、りっぱに言いあてることができる。」彼が最もしばしば口にする言葉は、多感な男というのと自然というのだった。この第二の方《ほう》の言葉は、現代使われてるような広大な意味でではなかった。そして彼は炉辺のちょっとした風刺のうちに独特《/独特》な仕方でそれを揷入《挿入》していた。彼は言った。「自然は、あらゆるものを多少文明《多少’文明》に持たせるため、おもしろい野蛮の雛形までも文明に与えている。ヨーロッパはアジアやアフリカの小形《小型》の見本を持っている。猫は客間の虎であり、蜥蜴はポケットの鰐である。オペラ座の踊り子たちは薔薇のような野蛮女である。彼女らは男を食いはしないが、男の脛をかじっている。というよりも、魔術使いだ。男を牡蠣みたいにばかにして、貪り食う。カリブ人は人を食ってその骨《’骨》だけしか残さない、だが彼女らはその殻だけしか残さない。そういうのがわれわれの風俗だ。われわれの方《ほう》はの《飲》み下しはしないが、かみつくのだ。屠りはしないが、引っかくのだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【この主人にしてこの住居あり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼はマレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住んでいた。自分の家であった。この家はその後こわされて建て直され、パリーの各街路の番地変更の時にやはりその番地も変えられたはずである。当時彼はその二階の古い広い部屋に住んでいた。それは街路と庭とを両方に控え、ゴブランやボーヴェー製の牧羊の絵のついてる大きな布で天井《/天井》までもすっかり張られていた。天井や鏡板についてる画題は、小さくして肱掛椅子にも施されていた。またその寝台は、コロマンデル製のラック塗りの大《/大》きな九枚折《9枚折》り屏風で囲まれていた。窓には長く広い窓掛けが下がっていて、いかにも|みごと《見事》な大《/大》きな縮れ襞をこしらえていた。庭はすぐそれらの窓の下にあったが、愉快げに老人が上り下《降》りする|十二、三段《ジュウ二’三段》の階段で角《/カド》になってる一つの窓から、ことによく見られた。室《部屋》に接している文庫のほかに、彼がごく大事にしてる納戸部屋が一つあった。それはりっぱな小室《+小部屋》で、そこに張ってある素敵な壁紙には百合の花模様や種々《/いろいろ》な花がついていた。その壁紙は、ルイ十四世の漕刑場《+ソウ刑場》でこしらえられたもので、王の情婦のためにヴ《/ヴ》ィヴォンヌ氏が囚人らに命じて作らせたものだった。ジルノルマ《マ-》ン氏はそれを、百歳も長寿を保《-たも》って死んだ母方の大変《/大変》な大叔母から譲り受けたのだった。彼は二度妻《二度’妻》を持ったことがあった。彼の様子は朝臣《チョーシン》と法官との中間《中間’》に止《-とど》まっていた。しかし彼はかつて朝臣《チョーシン》であったことはないが、法官にはなろうとすればな《/な》れないこともなかったかも知れない。彼は快活であり、気が向けば人をいたわってやった。世には、最も|ふきげん《不機嫌》な夫であるとともに最《/最》もおもしろい情人であるために、いつも妻からは裏切られるが決《/決》して情婦からは欺かれることのないような男がいるものだが、彼も若い頃はそういう男の|ひとり《一人》だった。彼は絵画の方面に鑑識があった。彼の室《部屋》にはだれかの|みごと《見事》な肖像が一つあった。ヨルダンスの手に成ったもので、荒い筆触で様々な細部まで描《-えが》かれていて、乱雑にで《/で》たらめに書かれたものらしかった。ジルノルマ《マ-》ン氏の服装は、ルイ十五世式でもなければ、ルイ十六世式でもなく、執政内閣時代のアンクロアイヤブル(軽薄才子)のような服装だった。彼はそれほど自分を若いと思っていて、その流行をまねたのだった。その上衣は軽いラシャで、広い折り襟と、長い燕尾と、大きな鉄のボタンとがついていた。それに|加う《クワウ》るに、短いズボンと留め金つきの靴。そしていつも両手をズボンのポケットにつっ込んでいた。彼は堂々と言っていた、「フランス大革命は無頼漢どもの寄り合いだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【リュク・エスプリ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  十六歳の時に彼は、当時成熟していてヴ《/ヴ》ォルテールから歌いはやされた有名《/有名》なふたりの美形カ《/カ》マルゴー嬢とサ《/サ》レ嬢とから、同時に色目を使われるの光栄に浴した。そして両方の炎の間にはさまれて、勇ましい退却を行ない、ナアンリーという小さな踊り子の方《ほう》へ|なび《靡》いていった。その娘は彼と同じ十六歳で、まだ子猫のように名も知られない者だったが、彼はそれに恋したのだった。彼はいつもその思い出をいっぱい持っていた。彼はよく叫んだ。「あのギマール・ギマルディニ・ギマルディネットは実にきれいだった。最後にロンシャンで会った時には、髪の毛を神々しくちぢらし、世にも珍しいトルコ玉の飾りをつけ、赤ん坊の頬《ホオ》の色のような長衣《ナガギヌ》を引っかけ、ふさふさしたマッフを持っていた。」彼はまた青春の頃にナン・ロンドランのチョッキをつけてたことがあって、そのことを心ゆくばか《か-》り語っていた。「私は日の出る東《+-あずま》のトルコ人のような服を着ていた、」と彼はよく言った。二十歳のころ彼はふ《/ふ》とブーフレル夫人に見られて、「ばかにかわいい人」と言われたことがあった。政治界や官界に現われてる名前は、どれもこれも皆下等《/みんな下等》で市民的であると言って憤慨していた。彼は新聞を、彼のい《/い》わゆる新報紙だの報知紙《/報知紙》だのを、笑いをおさえながら読んでいた。彼はよく言った。「何という者どもだ、コルビエール、ユマン、カジミール・ペリエ、そういうのが大臣だって。まあ新聞に大臣ジルノルマ《マ-》ン氏と書いてあるとしてごらん、おかしいだろうじゃないか。ところでまあ彼らときたら、結構それで通るくらい|ばか《馬鹿》だからな。」彼は上品も下等もおかまいなしの言葉で何でも快活に言ってのけ、女の前であろうと少しもはばからなかった。野卑なこと、猥褻なこと、不潔なこと、それを語るにも一種の落ち着きをもってし、風流の冷静さをもってした。まったく彼が属する前世紀《前世紀’》の不作法《無作法》さである。婉曲なる詩《-し》の時代はま《”ま》た生々しい散文の時代であったことは注意すべきである。彼の教父は、彼が他日天才《他日/天才》になるだろうと予言して、次の意味深い二つの洗礼名を彼に与えていた、すなわちリュク・エスプリと(訳者注◇ 使徒ルカ・精霊の意)。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【百歳の志願者】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼は子供の時、故郷《故鄕》のムーランの中学校で幾つかの褒賞をもらい、彼がヌヴェール公爵と呼んでいたニ《/ニ》ヴェルネー公爵の手から親しく授かった。国約議会《コクヤク議会》も、ルイ十六世の処刑も、ナポレオンも、ブールボン家の復帰も、その褒賞の思い出を彼の心から消すことはできなかった。ヌヴェール公爵は、彼にとっては時代の最も偉い|大立て物《大立者》だった。彼はよく言った。「何《なん》というりっぱな大貴族だったろう、あの青い大綬をつけられたところは何という|みごと《見事》さだったろう!」ジルノルマ《マ-》ン氏の目には、カテリナ二世はベステュシェフから三千ルーブルで黄金精液の秘法を買い取ったので、ポーランド分割の罪をつぐなったことになるのだった。彼は叫んだ。「黄金精液、ベステュシェフの黄色い薬《クスリ》、将軍ラモットの液、それは十八世紀では半オンス壜が一《1》ルイ(二十《ニジュッ》フラン)もしたものだ。恋の災厄に対する偉大な薬で、ヴィーナスに対する万能薬だ。ルイ十五世はその二百壜を法王に贈られたものだ。」もし彼に、その黄金精液は実は鉄の過塩化物にすぎないのだと言ったら、彼は非常に絶望し狼狽《/狼狽》したに違いない。ジルノルマ《マ-》ン氏はブールボン家を賛美し、恐怖のうちに1789年を過ごした。そしていかなる方法で恐怖時代をのがれていたか、いかに多くの快活と機才とが首《/首》を切られないためには必要であったかを、彼は絶えず語っていた。もしある若い者が彼《/彼》の前で共和政を賛美でもしようものなら、彼は顔の色を変え息《/息》もつけないほどにいらだつのだった。時とすると彼は自分の九十歳ということに関連さして、こんなことを言った。「私は九十三という年を二度と見たくない。」(訳者注◇ ルイ十六世の死刑が行なわれた1793年にかけた言葉)《):》しかしまたある時には、百歳までは生きるつもりだと人にもらしていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【バスクとニコレット】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼は定説を持っていた。その一つは次のようなものだった。「もし人が熱烈に女を愛し、しかも自分には、醜い、頑固な、正当な、権利を有し、法律を楯にとり、場合によっては嫉妬を起こすがような、あまり気に入らない正妻がある時には、《:、》それに処して平和なるを得る方法はただ一つあるのみである。すなわち、妻に財布のひもを任せることである。権利をすてて自由の身になるのだ。すると妻はその方《ほう》に心を奪われ、貨幣の取り扱いに熱中し、指に緑青を染め、折半小作人や請作人《請作ニン》を仕込み、代言人をよび、公証人を指揮し、弁護士をわずらわし、《:、》法官を訪れ、裁判を起こし、証書を作り、契約を書かせ、得意になり、売り、買い、計算し、命令し、約束し和解《/和解》し、契約し取《/取》り消し、《:、》譲歩し譲与《/譲与》し還付《/還付》し、整理し、混乱させ、蓄財し、浪費する。その他種々《他色々》の|ばか《馬鹿》なことを行ない、それが権柄的なま《”ま》た個人的な喜びとなり、それで自ら慰める。夫から軽蔑されてる間《あいだ》に、夫を破産さして満足するものである。」この理論を彼は自分自身に適用し、自分の履歴とまでなっていた。彼の二番目の妻は、彼の財産をかなり賢く管理していたので、ある日彼女が死んだ時、彼には食べるだけのものが残っていた、すなわちほとんど全部を終身年金に預けて年収一万五千《/年収’一万五千》フランほどにはなった。がそ《/そ》の大部分は彼とともに消え失せることになっていた。彼は別に驚きもしなかった、遺産を残すことなんかあ《/あ》まり考えてもいなかったから。それにまた、世襲財産はあぶなっかしいものであって、たとえば国有財産になることもあるのを、彼は見てきたのだった。整理公債の変動に立ち会ってきたのだった。そして彼は公債大帳をあまり信用しなかった。「カンカンポア街の銀行だけじゃないか、」と彼は言っていた。フィーユ・デュ・カルヴェール街の家は、前に言ったとおり自分のものであった。「牡と牝と」ふたりの雇い人がいた。新しい雇い人がやって来る時には、ジルノルマ《マ-》ン氏は新たに洗礼名をつけてやるのを常とした。男の方《ほう》にはその出生地の名前を与えた、ニモア、コントア、ポアトヴァン、ピカールなどと。最後の下男は、ふとってよぼよぼした息切れのする五十歳ばかりの男で、二十歩《20歩》とは走れなかった。しかしバイヨンヌ生まれであるところから、ジルノルマ《マ-》ン氏は彼にバスクという名前を与えていた(訳者注◇ ピレネー山間《山あい》の剽悍なる民《タミ》にバスク人というのがある)。下女の方《ほう》は皆《-みんな》ニコレットという名前をもらっていた。(後に出てくるマニョンという女もそうであった。)ある日、門番に見るような背の高いつ《/つ》んとしたすてきな料理女が彼の家にやってきた。ジルノルマ《マ-》ン氏は尋ねた。「給金は月にいくらほしいんだ。」「三十《サンジュッ》フランです。」「何という名前だ。」「《:「》オランピーと申します。」「《:「》よろしい五十《/ゴジュッ》フランあげよう、そしてニコレットという名前にしたがいい。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【マニョンとそのふたりの子供】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジルノルマ《マ-》ン氏においては、心痛は憤怒《フンヌ》となって現われた。彼は絶望すると狂猛《凶猛》になった。彼はあらゆる偏見を持っていて、あらゆるわがままを行なった。彼の外部の特徴を形造っていたものの一つで、また彼の内心の満足であったところのものは、前に指摘しておいたとおり、老いても血気盛んだということで、是非ともそういうふうに装うということだった。彼はそれを「りっぱな評判」を得ることと称していた。りっぱな評判は彼に時《/時》とすると、不思議な意外な獲物をもたらすことがあった。ある日、相当な産着にくるまれ泣《/泣》き叫んでる生《/生》まれたばかりの大きな男の児《子》が牡蠣籠《+/牡蠣カゴ》みたいな籠の中に入《-い》れられて、彼の家に持ち込まれた。|六カ《6ヶ》月前に追い出された|ひとり《一人》の下女が、その赤ん坊は彼の児《子》だと言ったのである。ジルノルマ《マ-》ン氏はその時ちょうど八十四歳いっぱいになっていた。まわりの者は大変に腹を立てわ《/わ》き返るような騒ぎをした。恥知らずの売女めが、いったいだれに赤ん坊を育てさせようと思ってるのか。何という大胆さだ。何と忌まわしい中傷だ! ところがジルノルマ《マ-》ン氏の方《ほう》は、少しも腹を立てなかった。彼は中傷によってへつらわれた好々爺らしい快い微笑を浮かべて、その赤児《赤子》をながめた、そして他人事のように言った。「なあに、なんだと、どうしたと、いったいどうしたんだと? みんなばかに驚いてるな。なるほど無学な者どもだわい。シャール九世陛下の庶子ア《/ア》ングーレーム公爵閣下は、八十五歳になって十五の蓮葉娘と結婚された。ボルドーの大司教だったスールディー枢機官の弟のアリューイ侯爵ヴ《/ヴ》ィルジナル氏は、八十三歳で議長ジ《/ジ》ャカン夫人の小間使いによって|ひとり《一人》の児《子》を設けられた、《:、》真の恋愛の児《子》で、後にマルタ団の騎士となり軍事顧問官《/軍事顧問官》となった人だ。近代の偉人の|ひとり《一人》であるタバロー修道院長は、八十七歳の人の設けた児《子》である。そんなことは何も不思議とするには当たらない。聖書を見てもわかる。ただこのお児《子》さんは、私《儂》のでないということを宣言する。がま《”ま》あ世話してやるがいい。このお児《子》さんが悪いのではない。」そのやり方はいかにも善良だった。女はマニョンという名だったが、次の年にまた第二の子供を彼に贈ってきた。それもやはり男の児《子》だった。そしてこんどはジルノルマ《マ-》ン氏もついに降参した。彼はふたりの子供を母親に送り返して、該母親《その母親》が再びかかることをしないという条件で、その養育料として毎月八十《毎月ハチジュッ》フランを与えることにした。彼はつけ加えて言った。「もちろん母親はふたりを大事にしなければいけない。時々《ときどき》私が見に行くことにする。」そして彼は実際それを行なった。彼はまた牧師《/牧師》になっている|ひとり《一人》の弟を持っていた。その弟はポアティエ学会の会長を三十三年間もしていて、七十九歳で死んだ。「若くて亡くなった」とジルノルマ《マ-》ン氏は言っていた。彼はその思い出をあまり多く持っていなかった。弟はおとなしい吝嗇家で、牧師だから貧しい人々に出会えば施与《/施与》をしなければならないと思っては《は-》いたが、小銭だの法価《/法価》を失った銅貨だのしか恵まなかった、《:、》そして天国の道によって地獄に行く方法を見いだしていた。兄のジルノルマ《マ-》ン氏の方《ほう》は、施与をおしまないで、好んでま《”ま》た鷹揚に与えていた。彼は親切で、性急で、恵み深《ぶか》くて、もし金《-かね》がたくさんあったらそのやり口は|みごと《見事》なものだったろう。自分に関係することなら何でも、たとい騙詐《+騙り》でも、堂々とやってもらいたがっていた。ある日、ある相続の件について、厚かましい明《/明》らかなやり方でそ《/そ》の道の者からごまかされた時、彼は次のようにおごそかに叫んだ。「チェッ! いかにも卑しいやり方だ! かかる我利我利を私は恥ずかしく思う。この節《セツ》ではすべてが、悪者までが堕落している。断じて、それは私のような者から盗むべきやり口ではない。森の中で盗まれたようなものだ、しかも悪い盗み方だ。森はコンスユル(督政官)の名を汚《穢》さざらんことを。」(訳者注◇ 森の中で盗まれることは、大胆な避《/さ》くる道のない方法で盗まれることを言う)《):》彼はまた、前に言ったとおり二度妻《二度’妻》を持った。第一の妻に|ひとり《一人》の娘があって、結婚しないでいた。第二の妻にも|ひとり《一人》の娘があった。この方《ほう》は三十歳ばかりで死んだが、その前に、一兵卒《イチ兵卒》から成り上がりの軍人と、愛し合ったのか偶然でき合ったのかま《”ま》たは何かで、結婚していた。その軍人は、共和政お《/お》よび帝政の頃に軍隊にはいっていて、アウステルリッツの戦《いくさ》に勲章をもらい、ワーテルローでは大佐になっていた。「これは私の家の恥だ、」と老市民は言っていた。彼はまたひどく煙草が好きだった。それからことにちょっと手先でレースの襟飾りをちぢらすのに巧みだった。彼はあまり神を信じていなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【規定──晩ならでは訪客を受けず】 ◇。◇。◇。◇。◇。  リュク・エスプリ・ジルノルマ《マ-》ン氏とは右のような人物であった。彼は少しも頭髪を失わず、白髪というよりもむ《/む》しろ灰色の髪をしていて、いつも「犬の耳」式にそれをなでつけていた。要するに、そしてそれらのことをいっしょにして、彼は一個の敬愛すべき人物だった。  彼は十八世紀式の人物であって、軽佻にして偉大であった。  王政復古の初めのころ、まだ若かったジルノルマ《マ-》ン氏は──《─:》彼は1814年には七十四歳にすぎなかった──《─:》サン・ジェルマン郭外セルヴァンドニ街のサン・スュルピス会堂の近くに住んでいた。彼がマレーに退いたのは、八十歳に達した後、社会から隠退してであった。  そして社会から隠退して閉じこもり、自分の習慣のみを守った。原則として、そして彼はそれに一徹であったが、昼間は|まった《全》く門《’門》を閉ざし、決して晩《’晩》にしか訪客《/訪客》を受けなかった。だれであろうといかなる用件があろうと、晩に限るのだった。五時に夕食をして、それから門が開かれた。それは彼の世紀の習慣であって、それを少しも改めようとしなかったのである。彼は言っていた。「昼間は物騒で、雨戸を閉ざすべきである。りっぱな紳士は、蒼空《青空》が星を輝かす時に、おのれの精神を輝かすのである。」そして彼はすべての人に対して、たとい国王に対してさえ、墻壁を高く築いていた。彼の時代の古い都雅である。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【二個は必ずしも一対をなさず】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジルノルマ《マ-》ン氏のふたりの娘については、上に少しく述べておいた。ふたりは十年の間《マ》をおいて生まれた。若い頃、ふたりにはほとんど似寄《似通》った所がなかった。その性質から言っても容貌から言っても、これが姉妹かと思われるほどだった。妹の方《ほう》はかわいい心根を持っていて、すべて輝かしい方《ほう》へ心《-心》を向け、花や詩《/し》や音楽《/音楽》に夢中になり、光栄ある世界をあこがれ、熱烈で、高潔で、子供の時から頭の中であ《/あ》る勇壮な者に身をささげていた。姉の方《ほう》もまた自分の夢想を持っていた。ある御用商人、ある金持ちで恰幅のいい糧秣係《+糧秣ガカ》り、あるいかにもお人よしの夫、ある成金、またはある県知事、そういうものを蒼空《青空》のうちに夢みていた。県庁の招待会、首に鎖をからました控え室の接待員、公の舞踏会、市町村長の祝辞、「知事夫人」たること、そういうものが彼女の想像のうちに渦巻いていた。そのようにしてふ《/ふ》たりの姉妹は若いころ、めいめい自分の夢想のうちにさまよい出ていた。ふたりとも翼を持っていた、|ひとり《一人》は天使のように、|ひとり《一人》は鵞鳥のように。  いかなる野心も、少なくともこの世では、十分に満たさるることはない。いかなる天国も、現代の時勢では、地上のものとなることはない。妹は自分の夢想中の男と実際結婚したが、その後死んでしまった。姉の方《ほう》は一度も結婚をしなかった。  われわれのこの物語の中に現われてくる頃の彼女は、一片の老いぼれた徳であり、一個の燃焼し難《がた》い似而非貞女であり、最もとがった鼻の一つであり、およそ世にある最《/最》も遅鈍な精神の一つであった。特殊な一事としては、その狭い家庭外にあってはだ《/だ》れも彼女の呼び名を知ってる者のないことだった。人々は彼女を姉のジルノルマン嬢と呼んでいた。  偽君子的なことでは、姉のジルノルマン嬢はイギリスの未婚婦人よりも一日《イチジツ》の長があったろう。彼女は暗闇にまで押し進められた貞節であった。生涯のうちの恐ろしい思い出と自称していることは、ある日靴下留《日’靴下ど》めの紐を|ひとり《一人》の男に見られたということだった。  年《とし》とともにその無慈悲な貞節はつのるばかりだった。その面布《+カオギヌ》はかつて十分《充分》に透き通ったものにされたことがなく、かつて十分《充分》に高く引き上げられたことがなかった。だれも|のぞ《覗》こうともしない所にまで、やたらに留め金や留《/留》め針が使われた。貞節を装うことの特性は、要塞が脅かさるること少なければ少ないほどま《”ま》すます多くの番兵を配置することである。  けれども、その古い潔白の秘密を説明するものとするならしてもいいが、彼女は|ひとり《一人》の槍騎兵の将校に抱擁されることを、別に不快がりもせずに許していた。それは彼女の甥の子で、テオデュールという名前だった。  そのかわいがってる槍騎兵が|ひとり《一人》ありは《は-》したが、われわれが彼女に与えた似而非貞女という付札は、まったくよく適当していた。ジルノルマン嬢は一種の薄明の魂であった。貞節を装うことは半端の徳でありま《”ま》た半端の不徳である。  彼女は貞節を装うことのほかにな《/な》お狂信癖《キョウシン-ヘキ》を持っていた。実《じつ》によく適当した裏地である。彼女はヴィエルジュ会にはいっており、ある種の祭典には白い面紗《+ヴェール》をつけ、特殊な祈祷をつぶやき、「聖なる血」を尊び、「聖《清》き心」を敬い、《:、》普通一般の信者どもには許されない礼拝堂の中で、ロココ・ゼジュイット式の祭壇の前に数時間じっと想を凝らし、《:、》そしてそこで、大理石像の群《群れ》の間に、金箔をかぶせた木材の大きな円光の輻の中に、自分の心を翔けらせるのであった。  彼女は礼拝堂での友だちを|ひとり《一人’》持っていた。同じく年老いた童貞の女で、名前をヴォーボアと言い、全然愚蒙《全然’愚蒙》な婆さんであって、ジルノルマン嬢はそのそばで一つの俊敏な鷲たるの愉快を感じていた。アグニュス・デイやア《/ア》ヴェ・マリア(訳者注◇ 神の羊のものにて人はあるなり云々──めでたしマリアよ恵まるるものよ云々──という祈祷)《):》のほかにヴォーボア嬢は、種々《いろいろ》な菓子を作る方法を心得てるきりで、他に何らの教養もそなえていなかった。一点の知力の汚点《+染み》もない愚昧《/愚昧》の完全な白紙であった。  なお付記すべきことは、ジルノルマン嬢は老年になるにつれて悪くなるというよりもむ《/む》しろよくなっていった。それは消極的な性質の者には通例のことである。彼女はかつて意地悪《意地悪’》だったことはなかった。意地悪《意地ワル》でないというのは一つの相対的な善良さである。それからまた、年《トシ》ごとに圭角がとれてきて、時とともに穏和になってきた。彼女のうちには言い知れぬ哀愁がこめていて、自分でもその理由を知らなかった。彼女の様子のうちには、まだ初まらないうちに既に終わった一生涯《/一生涯》がもつところの茫然自失さがあった。  彼女は父の家を整えていた。あたかもビヤンヴニュ閣下が自分のそばに妹を引きつけていたように、ジルノルマ《マ-》ン氏は自分のそばに娘を引きとめていた。老人と老嬢との世帯は決して珍しいものではなく、ふたりの弱い者が互いによりかかってるありさまは常《/常》に人の心を打つ光景である。  この一家の中には、以上の老嬢と老人とのほかに、なお|ひとり《一人》の少年がいた。小さな男の児《子》で、いつもジルノルマ《マ-》ン氏の前に身を震わして黙っていた。ジルノルマ《マ-》ン氏がその子供に口をきく時は、いつも|きび《厳》しい声を上げ、時として杖を振り上げまでもした。「おいで、横着さん!──いたずらさん、こちらへおいで!──返事をしなさい、おばかさん!──顔をお見せ、ろくでなしさん!──云々、云々。」そして彼はその子供を無性にかわいがっていた。  それは彼の孫であった。この少年のことはおいおい述べるとしよう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三編】 【祖父と孫】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【古き客間】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジルノルマ《マ-》ン氏はセルヴァンドニ街に住んでいたころ、幾つかのご《/ご》くりっぱな上流のサロン(客間)に出入りしていた。彼は中流市民ではあったが、拒まれはしなかった。否《否/》かえって、彼は二重《’2重》の機才を、一つは実際持っているものであり一《/一》つは持ってると人から思われていたものであるが、二重の機才をそなえていたので、喜んで迎えられ歓待《/歓待》された。彼は自分が羽振りをきかせ得る所へでなければど《/ど》こへも出入りしなかった。どんな価《アタイ》を払っても常に勢力を欲し常《/常》にもてはやされることを欲する者が世にはある。彼らは自分が有力者であり得ない所では、道化物《道化モノ》となるものである。ところがジルノルマ《マ-》ン氏はそういう性質の人ではなかった。出入りする王党のサロン(客間)における彼の羽振りは、彼の自尊心を少しも傷けないものだった。彼は至る所で有力者だった。ド・ボナルド氏やバ《/バ》ンジー・プュイ・ヴァレー氏にまで匹敵するほどになっていた。  1817年ごろ、彼はきまって一週に二回はその午後を、近くのフェルー街のT男爵夫人の家で過ごすことにしていた。彼女はりっぱな尊敬すべき人物で、その夫はルイ十六世の時にベルリン駐剳《+駐箚》のフランス大使だったことがある。このT男爵は、生存中磁気《生存中’磁気》の研究に無我夢中になっていたが、革命時の亡命に零落してしまい、《:、》死後に残した財産としてはただ、メスメルとその小桶(訳者注◇ メスメルは動物磁気研究の開祖)に関するき《/き》わめて不思議な記録を赤《/赤》いモロッコ皮《ガワ》の表紙で金縁にしてと《綴》じ上げた、十冊の手記のみだった。T夫人は品位を保《-たも》ってそれらの記録を出版しなかった、《:、》そして、どうして浮き出してきたかだれにもわからないあ《/あ》るわずかな年収入《ネン収入》で生活をささえていた。彼女は彼女のい《/い》わゆる雑種の社会たる宮廷から離れて、気高い矜らかな貧《/貧》しい孤立のうちに暮らしていた。一週に二回数人《二回’数人》の知人が、その寡婦の炉のまわりに集まることになっていて、そこに純粋な王党派のサロン(客間)をこしらえていた。皆お茶を飲んだ。そして時勢だの憲法《/憲法》だのブオナパルト派(訳者注◇ ブオナパルトはボナパルトの皮肉な呼称)だの青色大綬《/青色大綬》を市民へ濫発することだのル《/ル》イ十八世のジャコバン主義だのについて、《:、》風向きが悲歌的であるか慷慨的であるかに従って、あるいは嘆声を放ちあ《/あ》るいは嫌悪の叫びを上げた。そしてシャール十世以来初めて王弟《/王弟》によってほの見えてきた希望のことを、低い声で語り合った。  そこでは、ナポレオンのことをニコラと呼ぶ俗歌が非常に喜ばれた。社交界の最もやさしい美しい公爵夫人らが、「義勇兵ら」(訳者注◇ ナポレオンがエルバ島より帰還せし時の)に向けられた次のような俗謡に我《吾》を忘れて喝采した。 ◇。◇。  ズボンの中に押し込めよ、  はみ出たシャツの片端《片ハシ》を。  白き旗を愛国者らは  掲げたりと人に言わすな。(訳者注◇ 白き旗は王党の旗) ◇。◇。  また人々は、痛烈なものだと思ってる地口を言ってはおもしろがり、皮肉だと思ってる他愛もない洒落言葉を言ってはおもしろがり、四行句《4ギョウ句》や対連句を言ってはおもしろがった。たとえばドゥカーズやドゥゼール氏らが連なっていた穏和なデソール内閣についての次のような句。 ◇。◇。  ぐらつく王位を固めんためには、  ソール(土地)、セール(室《部屋》)、カーズ(小屋《コヤ》)を取り|代う《カウ》べし。 ◇。◇。  あるいはまた、「おぞましきジャコバン院」である上院の名簿を作り、その中に種々《いろいろ》な名前を組み合わして、たとえば次のような句をこしらえ上げた。「ダマス、サブラン、グーヴィオン・サン・シール(訳者注◇ みな王党の人々)。」そして非常に愉快がった。  その仲間だけでまた革命の道化歌《道化ウタ》を作った。彼らは革命の暴威をあ《/あ》べこべに革命者どもの方《ほう》へ向けさせようとする一種《/一種》の下心を持っていた。人々はその小唄の「よからん」を歌った。 ◇。◇。  噫、よからん、よからん、よからんや!  ブオナパルト派は絞首台! ◇。◇。  小唄は断頭台のようなものである。何らおかまいなしに、今日はこちらの首を切り、明日はあちらの首を切る。それは一つの変化にすぎない。  当時1816年の事件たるフュアルデス事件については(訳者注◇ 行政官フュアルデス暗殺事件)、人々は暗殺者バスティードやジョージオンの味方をした。なぜならフュアルデスは「ブオナパルト派」であったから。また人々は自由派を「兄弟同士」と綽名《渾名》した。それは侮辱の極度のものであった。  教会堂の鐘楼に鶏形風見《風見鶏》があるように、T男爵夫人の客間も二《/二》つの勇ましい牡鶏《+雄鶏》を持っていた。一つはジルノルマ《マ-》ン氏で、一つはラモト・ヴァロア伯爵であった。この伯爵のことを人々は一種の敬意をもって互いにささやき合った。「御存じですか、あれが首環事件のラモト氏です」(訳者注◇ 1785年ごろラモト伯爵夫人によって惹起せられた有名な首環紛失事件)。仲間の間ではそのような特殊な容捨も行なわれるのである。  なおここにちょっと付言する。市民間《市民カン》においては、光栄ある地位はあまりに容易な交際を許す時にはその光を減ずるものである。|だれ《誰》に出入りを許すかを注意しなければいけない。冷たいものが近づく時に温気が失われるように、一般に軽蔑されてる人物を近づける時には尊敬が減ずるのである。しかし古い上流社会は、他の法則と同じくこ《/こ》の法則をも意に介しなかった。ポンパドゥール夫人の兄弟であるマリニーはスービーズ侯の家に出入りした。兄弟であったけれども、ではない、兄弟であったから、である。ヴォーベルニエ夫人の教父デ《/デ》ュ・バリーはリシュリユー元帥の家で歓待された。そういう社会はオリンポスの山である。メルキュール神《-シン》もゲメネ侯も等しくそこに住む。盗賊であろうとも、それが一個の神でさえあれば、そこに許されるのである。  ラモト伯爵は、1815年には七十五歳の老人で、いくらか人の目につく所と言ってはただ、黙々たる|もったい《勿体》ぶった様子と、角立った冷ややかな顔つきと、きわめて丁重な態度と、首の所までボタンをかけた服と、《:、》燃えるような濃黄土色《濃い黄土色》の長いだぶだぶのズボンをは《履》いてい《/い》つも組み合わしてる大きな足だけだった。その顔もズボンと同じ色をしていた。  ラモト氏がこの客間のうちで「もてて」いたのは、その高名のゆえであり、また言うもおかしいがし《/し》かも確かなことは、そのヴァロアという名前のゆえであった。  ジルノルマ《マ-》ン氏の方《ほう》に対する敬意は、まったく彼のよい地金のゆえであった。彼は上に立つべき人だったから上に立っていたのである。彼はごく気軽であり快活《/快活》であるうちにも、市民的に尊大な威圧的《/威圧的》な堂々《/堂々》たる率直な作法を持っていた。その上《うえ》老年の重みまで加わっていた。人は事なく百年も長生きすることはほとんどできないものである。ついには歳月のために尊むべき蓬髪を頭《/頭》のまわりに生ずるのが普通である。  その上《うえ》彼は、まったく昔気質のひらめきとも称すべき名句の才を持っていた。ある時プロシャ王は、ルイ十八世を王位に復してやった後、リュパン伯爵として王を訪問してきたところが、《:、》そのルイ十四世大王の後裔たる王によって、かえってブランデンブルグ侯爵として最《/最》も微妙な横柄さをもって待遇せられた。ジルノルマ《マ-》ン氏はそれを喜んで、そして言った。「フランス王でない国王は、皆《みんな》ただ一州の王たるに過ぎない。」またある日、彼の前で次のような問答がなされた。「クーリエ・フランセー紙の編集者はどういう刑に処せられましたか。」「ていし刑(発行停止刑)です。」するとジルノルマ《マ-》ン氏は横から言葉をはさんだ。「|てい《テイ》だけ多すぎる。」(すなわち死刑)《):》その種の言葉は人《/人》に一つの地位を得させるものである。  ブールボン家復帰の記念謝恩日に、タレーラン(訳者注◇ 革命、帝政、王政復古、と順次に節を曲げし政治家)が通るのを見て彼は言った。「彼処に魔王閣下が行く。」  ジルノルマ《マ-》ン氏はいつも自分の娘と小《/小》さな少年とを連れてきた。娘というのはあの永遠の令嬢で、当時四十歳《当時’四十歳》を越していたが、見たところは五十歳くらいに思われた。少年の方《ほう》は、六歳の美しい児《子》で、色が白く血色《/血色》がよく生々《+/生き生き》としていて、疑心のない幸福《/幸福》そうな目つきをしていた。しかし彼がその客間に現われると、いつもまわりで種々《いろいろ》なことを言われた。「きれいな子だ!」「惜しいものだ!」「かわいそうに!」この子供は前にちょっと述べておいたあの少年である。人々は彼のことを「あわれな子」と呼んでいた。なぜなら彼の父は「ロアールの無頼漢」(訳者注◇ ナポレオン旗下の軍人)の|ひとり《一人》だったからである。  そのロアールの無頼漢は、既に述べておいたジルノルマ《マ-》ン氏の婿で、彼が「家の恥」と呼んでいた人である。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【当時の残存赤党の|ひとり《一人》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その頃、ヴェルノンの小さな町にはいって、やがて恐ろしい鉄骨の橋となるべき運命にあったあ《/あ》の美しい記念の橋の上を歩いたことのある者は、橋の欄干を越して|ひとり《一人》の男を見ることができたであろう。その男は五十歳ばかりの老人で、鞣革の帽子をかぶり、灰色の粗末なラシャのズボンと背広とをつけ、その背広には赤いリボンの古《/古》く黄色くなってるのが縫いつけてあり、《:、》木靴をはき、日に焼け、顔はほとんど黒く頭髪《/頭髪》はほとんどまっ白で、額《ヒタイ》から頬《ホオ》へかけて大きな傷痕があり、腰《コシ》も背も曲がり、年齢よりはずっと老けていて、手には耡《+スキ》か鎌かを持ち、ほとんど一日中そこにある多くの地面の一つをぶらついていた。それらの地面は皆壁《-みんな壁》に囲まれ、橋の近くにあって、セーヌ川の左岸に帯のように続いており、美しく花が咲き乱れて、《:、》も《もう》少し広かったら園《/園》とも言うべく、も《もう》少し狭かったら叢《/草むら》とも言うべきありさまだった。それらの囲いの土地はどれも皆、一端《いったん》に川《河》を控え他端《/他端》に一つの人家を持っていた。上に述べた背広と木靴の男は1817年ごろには、それらの地面のうちの最も狭くそ《/そ》れらの家のうちの最も粗末なものに住んでいた。彼はそこに|ひとり《一人》で寂しく黙々《/黙々》として貧しく暮らしていた。そして若くもなく老年でもなく、美《うつく》しくも醜くもなく、田舎者でも町人でもない|ひとり《一人》の女が、彼の用を足していた。彼が自分の庭と称していたその四角な土地は、彼の手に培養さるる美しい花によって、町で評判になっていた。花を作るのが彼の仕事だった。  労力と忍耐と注意とま《”ま》た桶の水とによって、彼は造物主に次いで巧《/巧》みな創造をすることができた。そして自然から忘《忘れ》られていたような|みごと《見事》なチューリップやダリヤを作り出した。彼ははなはだ巧妙だった。アメリカや支那からきた珍しい貴重《/貴重》な灌木を培養するために小《/小》さな石南土《石南ド》の|塊り《塊》を作ることにおいては、スーランジュ・ボダンにもまさっていた。夏には夜明けから庭の小道に出て、芽をさしたり、枝をはさんだり、草を取ったり、水をやったり、花の間を歩き回ったりして、善良な悲しげなま《”ま》た安らかな様子をし、《:、》あるいは夢みるように数時間じっとたたずんでは、木《木’》の間にさえずる小鳥の歌やど《/ど》こかの家《’家》からもれる子供の声などに耳を傾け、あるいはまた、草の葉末に宿る露の玉が太陽《/太陽》の光に紅宝玉《ルビー》のように輝くのを見入っていた。彼の食卓はごく質素で、また葡萄酒よりも多くは牛乳を飲んでいた。子供に対しても彼は一歩を譲り、召し使いからまで|しか《叱》られていた。気味悪いくらいに内気で、めったに外出することはなく、顔を合わせる者とてはただ、彼のもとへやってくる貧民どもと、親切な老人である司祭《/司祭》のマブーフ師のみだった。けれども、町の人だのま《”ま》たは他国の人だのだれであろうと、チューリップや薔薇を見たがってそ《/そ》の小さな家を訪れて来る時には、彼はほほえんで門を開いてくれた。それがすなわち前に言った「ロアールの無頼漢」だったのである。  それからまた、軍事上の記録や、伝記や、機関新聞や、大陸軍《ダイ陸軍》の報告書などを読んだことのある者は、そこにかなりしばしば出て来るジ《/ジ》ョルジュ・ポンメルシーという名前を頭に刻まれたであろう。そのジョルジュ・ポンメルシーはごく若くしてサ《/サ》ントンジュ連隊の兵卒であった。そのうちに革命が起こった。サントンジュ連隊はライン軍に属することになった。王政からの古い連隊は、王政顛覆後もなおその地方の名前を捨てないでいて、旅団に編成されたのはよ《/よ》うやく1794年のことだったのである。さてポンメルシーは各地に転戦し、スピレス、ウォルムス、ノイスタット、ツルクハイム、アルゼー、マイヤンスなどで戦ったが、このマイヤンスの時などは、ウーシャールの後衛たる二百人のうちの|ひとり《一人》だった。彼は十二番目にいて、アンデルナッハの古い胸壁の背後でヘ《/ヘ》ッセ侯の全軍に対抗し、胸壁の頂から斜面まです《/す》べて敵砲のために穿たれるまでは本隊《/本隊》の方《ほう》に退却しなかった。マルシエンヌおよびモン・パリセルの戦いの時にはクレベルの下に属し、後者の戦いでは腕をビスカイヤン銃弾に貫かれた。次に彼はイタリー国境に向かい、ジューベールとともにテ《/テ》ンデの峡路をふせいだ三十人の擲弾兵の|ひとり《一人》だった。その時の武勲により、ジューベールは高級副官《高級フク官》となり、ポンメルシーは少尉となった。ロディーの戦いでは、霰弾の雨注する中にベ《/ベ》ルティエのそばに立っていた。「ベルティエは砲手であり騎兵《/騎兵》であり擲弾兵《/擲弾兵》であった」とボナパルトをして言わしめたのは、その戦いである。またノヴィーにおいては、自分の古い将軍たるジューベールが剣《/剣》を上げて「進め!《/》」と叫んでる瞬間にたおれるのを見た。また戦略上自分《戦略上’自分》の一隊を引率して小船に乗り、ゼノアからやはりその海岸のある小さな港へ向かった時には、|七、八艘《シチハチ艘》のイギリス帆船の網の中に陥った。ゼノア人の船長の考えでは、大砲を海中に投じ、兵士を中甲板に隠し、商船と見せかけて暗中を|のが《逃》れたがった。しかるにポンメルシーは、旗檣《+キショウ》の綱に三色旗を翻《-ひるが》えさし、毅然としてイギリス二等艦の砲弾の下を通過した。それから二十里ばかり行くうちに、彼の大胆さは|ますます《益々’》加わり、その小船をもってイギリスの大運送船《ダイ運送船》を襲って捕獲した。その運送船はシシリアに兵士を運んでいたのであって、舷側までいっぱいになるほど人員《/人員》と馬とを積んでいた。1805年には、フェルディナンド大公からグンズブールグを奪ったマ《/マ》ーレル師団の中にいた。ウェッティンゲンにおいては、弾丸の雨下する中に、竜騎兵第九連隊の先頭に立って致命傷を受けたモ《/モ》ープティー大佐を腕に抱き取った。アウステルリッツにおいては、敵の砲火の下を冒してなされたあ《/あ》の驚嘆すべき梯形行進中にあって勇名《/勇名》を上げた。ロシア近衛騎兵が歩兵第四連隊の一隊を壊滅さした時、その近衛騎兵をうち破って返報をした者の中にポンメルシーもいた。皇帝は彼に勲章を与えた。次に、マンテュアにてウルムゼルを捕虜とし、アレキサンドリアにてメラスを捕虜とし、ウルムにてマックを捕虜とした各戦争に彼は参加した。モルティエに指揮されてハンブールグを奪取した大陸軍《ダイ陸軍》の第八軍団に彼は属していた。次に昔のフランドルの連隊だった歩兵第五十五連隊に代わった。エイラウにおいては、本書の著者の伯父たる勇敢なル《/ル》イ・ユーゴー大尉が、八十三人の一隊を提げて二時間《/二時間》の間敵軍《あいだ敵軍》の攻撃をささえたあの墓地に、彼もいた。彼はその墓地から生き残って脱してきた三人の|ひとり《一人》だった。彼はまたフリードランドの戦いにも参加した。次に彼はモスコーを見、ベレジナを見、ルッチェン、バウチェン、ドレスデン、ワルシャワ、ライプチッヒなどを見、ゲルンハウゼンの隘路を見、《:、》次に、モンミライ、シャトー・ティエリー、クラン、マルヌ川岸《-カシ》、エーヌ川岸《-カシ》、恐るべきランの陣地を見た。アルネー・ル・デュックにおいては、大尉になっていて、十人のコザック兵をなぎ払い、将軍の生命《イノチ》をではないが部下《/部下》の伍長の生命《イノチ》を救った。その時彼は方々《ほうぼう》に負傷し、左腕《ヒダリウデ》からだけでも二十七個の弾丸の破片が見いだされた。パリー陥落の八日前には、彼は一同僚と地位を代わって騎兵にはいった。彼は旧制度の下でいわゆる二重《’2重》の手と呼ばれたものを持っていた、すなわち、兵士としては剣と銃とを同《/同》じく巧みに操縦し、将校としては騎兵隊と歩兵隊とを同《/同》じく巧みに操縦し得る能力を持っていた。そういう能力が更に軍隊教育によって完成さるる時に、特殊な軍隊が生まれたのである。全体として騎兵でありま《”ま》た歩兵であった竜騎兵はその一例である。ポンメルシーはナポレオンに従ってエルバ島に赴いた。ワーテルローにおいては、デュボア旅団中《旅団ちゅう》の胸甲騎兵中隊の指揮官だった。ルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは彼であった。彼はその軍旗を持ち帰って皇帝の足下に地に投じた。彼は血《血’》にまみれていた。軍旗を奪う時《とき》、剣《剣’》の一撃を顔に受けたのである。皇帝は満足して叫んだ。「汝は今より大佐であり、男爵であり、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者だぞ。」ポンメルシーは答えた。「陛下、やがて寡婦たるべ《べ-》き妻のために御礼《/御礼》を申しまする。」一時間後に彼はオーアンの峡路におちいった。さてこのジョルジュ・ポンメルシーとは何人《ナンピト》であったか。それはやはりあの「ロアールの無頼漢」その人であった。  以上が彼の経歴の大略である。ワーテルローの戦いの後、読者は思い起こすであろうが、ポンメルシーはオ《/オ》ーアンの凹路《+オウロ》から引き出され、首尾よく味方の軍隊に合することができ、野戦病院から野戦病院へ運び回され、ついにロアールの舎営地に落ち着いたのである。  王政復古のために彼は俸給を半減され、次にヴェルノンの住居へ、すなわち監視の下に、置かれることになった。国王ルイ十八世は一百日《イチ百日》(訳者注◇ ナポレオンの再挙の間《あいだ》のこと)のうちに起こったすべては無効であると考えていたので、彼に対しても、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエ受賞者であることも、大佐の階級も、男爵の肩書きも、少しも認めてはくれなかった。彼の方《ほう》ではまた、あらゆる場合に陸軍大佐男爵《陸軍大佐’男爵》ポンメルシーと署名することを欠かさなかった。彼は古い青服を一つしか持たなかった。そして外出する時にはいつも、レジオン・ドンヌール勲章のオフィシエの略綬をそれにつけていた。検察官は彼に「該勲章の不法佩用」について検事局が起訴するかも知れないと予告してやった。その注意があ《/あ》る公然の規定をふんで手もとに達した時、ポンメルシーはにがにがしい微笑を浮かべて答えた。「私の方《ほう》でもはやフランス語を了解しなくなったのか、あるいはあなたの方《ほう》でもはやフランス語を話さなくなったのか、いずれだか知れないが、とにかく私にはあなたの言うことがわからない。」それから彼は一週間続《一週間’続》けてそ《/そ》の赤い略綬をつけて外出した。だれもあえて|とが《咎》める者はなかった。また|二、三度陸軍大臣《二’三度’陸軍大臣》と管轄の司令官とは、「ポンメルシー少佐殿《少佐どの》へ」として手紙を贈った。それらの手紙を彼は封《/封》も開かないで返送してしまった。やはりちょうどそのころ、セント・ヘレナにいたナポレオンは、「ボナパルト将軍へ」としたハ《/ハ》ドソン・ローの信書を同じようにつき返したのである。ポンメルシーはついに、こういう言葉を許していただきたいが、皇帝と同じ唾液を口の中に持つに至ったのである。  それと同じく、昔はローマにおいてカルタゴ兵の捕虜らは、督政官フラミニウスに敬礼することを拒み、多少《多少’》ハンニバルと同じ魂を持っていたのである。  ある日の朝、ポンメルシーはヴェルノンの町で検察官に出会い、彼の前に進んでいって言った。「検察官殿《検察官どの》、顔の傷はこのままつけておいてもよろしいですか。」  彼は騎兵中隊長としてのわずかな俸給の半額のほか何《/何》らの財産も持たなかった。それゆえヴェルノンでできるだけ小さな家を借りた。そこに彼は|ひとり《一人》で住んでいた。そのありさまは上に述べたとおりである。帝政時代に、両戦役の間に、彼はジルノルマン嬢と結婚するだけの時間の余裕があった。老市民であるジルノルマ《マ-》ン氏は、内心憤りながらもそ《/そ》の結婚に承諾せざるを得なかった。そして嘆息しながら言った、「最も高い家柄でも余儀ないことだ。」ポンメルシー夫人はいずれの点から見てもりっぱな婦人で、教養がありそ《/そ》の夫に恥ずかしからぬ珍しい婦人であった。しかし1815年に、|ひとり《一人》の子供を残して死んだ。その子供は、孤独な生活における大佐の慰謝だったはずである。しかるに祖父は、権柄ずくでその孫を請求し、もし渡さなければ相続権を与えないと宣告した。父親は子供のために譲歩した。そしてもはや子供をも手もとに置くことができなくなったので、花を愛し初《始》めた。  その上《うえ》彼はすべてを思い切ってしまい、何らの活動もせず計画《/計画》もしなかった。彼は自分の考えを、現在なしている無垢な事がらと過去《/過去》になした偉大な事がらとに分かち与えていた。あるいは石竹の珍花《珍カ》を育てんと望み、あるいはアウステルリッツの戦いを回想して、その時間を過ごしていた。  ジルノルマ《マ-》ン氏はその婿と何らの交渉も保たなかった。大佐は彼にとっては|ひとり《一人》の「無頼漢」であり、彼は大佐にとって|ひとり《一人》の「木偶漢《+木偶の坊》」にすぎなかった。ジルノルマ《マ-》ン氏が大佐のことを口にするのはただ、時々その「男爵閣下」を嘲笑の種にする時くらいのものだった。子供が相続権を奪われて追い戻されはしないかを気づかって、ポンメルシーは決して子供に会おうともせず言葉《/言葉》をかけようともしないだろうということは、前後の事情から明らかだった。ジルノルマン家《ケ》に対しては、ポンメルシーは一つの疫病神にすぎなかった。一家のものは自分たちだけで思い通りに子供を育てるつもりだった。そういう条件を受け入れたのは大佐の方《ほう》もお《/お》そらく誤っていたかも知れない。しかし彼はそれに甘んじて、別に悪いこととも思わず、自分だけを犠牲にすることだと思っていた。ジルノルマ《マ-》ン氏の遺産は大したものではなかったが、姉のジルノルマン嬢の遺産は莫大なものだった。この伯母は未婚のままで、物質的に非常に富裕だった。そしてその妹の子供は当然《/当然》その相続者だった。  子供はマリユスという名だったが、自分に父のあることを知っていた。しかしそれ以上は何もわからなかった。だれもそれについては聞かしてくれなかった。けれども、祖父から連れてゆかれる社交場《社交じょう》での、人々のささやきや片言《/片言》や目《/目》くばせなどは、長い間に子供の目を開かせ、ついに子供に多少の事情をさとらした。そして、言わば彼の呼吸する雰囲気であるそれらの思想や意見は、自然と彼のうちに徐々に浸潤し侵入《/侵入》してきて、いつのまにか彼は、父のことを思うと一種の屈辱と心痛《/心痛》とを感ずるようになった。  彼がそういうふうにして生長している間に、|二、三カ《二’三ヶ》月に一度《一度’》くらいは、大佐は家をぬけ出し、監視を破る刑人《刑ジン》のようにひそかにパリーにやってきて、《:、》伯母のジルノルマンがマリユスを弥撒《+ミサ》に連れて行くころを見計らい、サン・スュルピス会堂の所に立っていた。そこで、伯母がふり返りはしないかを恐れながら、柱の陰に隠れ、息を凝らしてじっとたたずんで、子供を見るのだった。顔に傷のある軍人も、その老嬢をか《/か》くまで恐れていたのである。  そういうところから、彼はまたヴェルノンの司祭マ《/マ》ブーフ師とも知り合いになったのである。  そのりっぱな牧師は、サン・スュルピス会堂のひ《/ひ》とりの理事と兄弟だった。理事はあの男があ《/あ》の子供をながめてる所を幾度も見た、そして男の大きな頬《ホオ》の傷と目《/目》にいっぱいあふれてる涙とを見た。大丈夫らしい様子をしながら女《/女》のように泣いているのが、理事の心をひいた。その顔つきが頭の中に刻み込まれた。ところがある日彼は、兄に会いにヴェルノンへ行くと、橋の上で大佐に出会い、それがあのサン・スュルピス会堂の男であることを認めた。理事はそのことを司祭に語り、ふたりして何かの口実の下《もと》に大佐を訪れた。そしてそれをきっかけに何度も訪問するようになった。大佐は初めい《/い》っさい口《’口》をつぐんでいたが、ついに事情を打ち明けた。それで司祭と理事とは、大佐の身の上をことごとく知り、ポンメルシーが自分の幸福を犠牲にして子供《/子供》の未来を|はか《図》ってる事情を知るに至った。そのために、司祭は大佐に対して敬意と温情とをいだき、大佐の方《ほう》でもま《”ま》た司祭を好むようになった。その上、もしどちらも至って|まじめ《真面目》であり善良《/善良》である場合には、およそ世の中に老牧師《/老牧師》と老兵士《/老兵士》とほど、容易に理解し合い容易《/容易》に融合し合うものは《は-》ない。根本《コンポン》においては彼らは同じ種類の人間である。一は下界《ゲカイ》の祖国に身をささげ、一は天上の祖国に身をささげている。ただそれだけの違いである。  年《ネン》に二度、一月一日と聖ジョルジュ記念日(訳者注◇ 四月二十三日)とに、マリユスは義務としての手紙を父に書いた。それは伯母が口授《口受》したもので、形式的な文句の書き写しともいえるようなものだった。ジルノルマ《マ-》ン氏が許容したことはた《/た》だそれだけだった。すると父親はきわめて心をこめた返事をよこした。祖父はそれを受け取って、読みもしないでポケットに押し込んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【彼らに眠りあれ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  T夫人のサロン(客間)は、マリユス・ポンメルシーの世間に対する知識のすべてだった。彼が人生を|なが《眺》むることのできる窓は、それが唯一のものだった。けれどその窓は薄暗くて、その軒窓《ノキマド》ともいうべきものから彼にさして来るものは、温暖よりも寒気の方《ほう》が多く、昼の光よりも夜の闇の方《ほう》が多かった。その不思議な社会にはいってきた当時、喜悦と光明とのみであった少年は、間もなく悲しげになり、その年齢になおいっそう不似合いなことには、沈鬱になってきた。それらの尊大な独特な人々にとり巻かれて、彼は心からの驚きをもって周囲を見回した。するとすべてのものは、ただ彼のうちにそ《/そ》の茫然たる驚きを増させるだけだった。T夫人の客間のうちには、きわめて尊むべき貴族の老夫人らがいた、マタン、ノエ、それからレヴィと発音されてるレヴィス、カンビーズと発音されてるカンビス、などという夫人が。それらの古めかしい顔つきとそ《/そ》れらのバイブルにある名前とは、少年の頭の中で、彼が暗唱している旧約書の中にはいり込んできた。そして彼女らが、消えかかった暖炉のまわりに丸くすわり、青い覆いをしたランプの光にほのかに照らされ、きびしい顔つきをし、灰色かま《”ま》たは白い頭髪をし、寂しい色しかわからない時勢おくれの長い上衣を着、《:、》長い間《マ》を置いては時々《ときどき》堂々たるま《”ま》たきびしい言葉を発しながら、みなそ《-そ》こに集まっている時《とき》、小さなマリユスはびっくりした目で彼女らをながめて、《:、》婦人というよりもむ《/む》しろ古代の長老や道士を見るような気がし、実在の人物というよりもむ《/む》しろ幽霊を見るような気がした。  それらの幽霊に交じってまた、その古い客間には常客たる数人の牧師がおり、それから数人の貴族らがいた。ベリー夫人の第一秘書役たるサスネー侯爵、シャール・ザントアンヌという匿名で単韻《/単韻》の短詩を出版したヴァロリー子爵、《:、》金の綯総《+ヨリフサ》のついた緋ビロードの服をつけ首筋《/首筋》を露わにしてこ《/こ》の暗黒界を脅かしてるき《/き》れいな才ばしった妻を持ち、かなり若いのに胡麻塩の頭を持っていたボーフルモン侯、《:、》最もよく「適宜な礼儀」を心得ていたフランス中での男たるコリオリ・デスピヌーズ侯爵、愛嬌のある頤《顎》をした好人物アマンドル伯爵、《:、》王の書斎と言われてるルーヴルの図書館の柱石であるポール・ド・ギー騎士。このポール・ド・ギー氏は、年取ったというよりもむ《/む》しろ古くなったという方《ほう》が適当な禿頭《ハゲ頭》の人で、《:、》その語るところによると、1793年十六歳《年/十六歳》のおり、忌避者として徒刑場に投ぜられ、やはり忌避者たる八十歳の老人ミ《/ミ》ールポア司教と同じ鎖につながれたそうである。ただし彼の方《ほう》は兵役忌避者であったが、司教の方《ほう》は僧侶法忌避者であった。それはツーロンの徒刑場だった。彼らの役目は、夜間断頭台《夜間’断頭台》の所へ行って、昼間そこで処刑された者の首《/首》と身体とを拾って来ることだった。彼らは血の|したた《滴》る胴体を背にかついできた。そして徒刑囚としての赤い外套は、朝には|かわ《乾》き晩《/晩》にはぬ《濡》れて、首筋の後ろに血潮《/血潮》の厚い皮ができるようになったそうである。そういう悲壮な物語はT夫人の客間に満ち満ちていた。そしてマラーをののしる勢いに駆られて、トレスタイヨンまでを賞揚した。過激王党的な数人の代議士は、ホイストの勝負を争っていた、《:、》ティボール・デュ・シャラール氏、ルマルシャン・ド・ゴミクール氏、および右党で名高い嘲笑者のコルネー・ダンクール氏など。大法官フ《/フ》ェルレットは、その短いズボンとやせた足とをもって、タレーランの家へ行く途中に時々この客間を見舞った。彼はもとアルトア伯爵の遊び仲間であった。そして美婦カ《/カ》ンパスプの前に膝を折ったアリストテレスと反対に、女優ギ《/ギ》マールを四つ足で歩かし、それによって哲学者の仇《カタキ》を大法官《/大法官》が報じたことを古今に示したのである。  牧師の方《ほう》には次のような人々がいた。アルマ師、これはフードル紙上の仲間たるラローズ氏が、「へー、何者だ、五十歳にも満たないで、たぶん黄口の少年輩《少年ハイ》だろう、」と云ったその人である。それから、国王の説教師であるルツールヌール師。まだ伯爵でも司教《/司教》でも大臣《/大臣》でも上院議員《/上院議員》でもなく、ボタンの取れた古い教服を着ていたフレーシヌー師。サン・ジェルマン・デ・プレ会堂の司祭ク《/ク》ラヴナン師。次に、法王の特派公使。これは当時ニジビの大司祭マ《/マ》ッキ閣下と称し後《/後》に枢機官になったが、その瞑想的な長い鼻で有名だった。なおも《/もう》ひとりイタリーの高僧がいたが、次のような肩書きがついていた、《:、》すなわち、パルミエリ師、宮廷教官、七人の法王庁分担大書記官《法王庁’分担ダイ書記官》の|ひとり《一人》、リベリア本院の記章帯有のキャノン牧師、聖者代弁人《聖者代弁にん/》すなわち聖者の請願師、これは列聖事務に関係あることで、ほとんど天国区隊の参事官ともいうべき意味である。終わりにふたりの枢機官、リュゼルヌ氏とク《/ク》レルモン・トンネール氏。リュゼルヌ枢機官は文筆の才があり、数年後にはコンセルヴァトゥール紙にシ《/シ》ャトーブリアンと相並んで執筆するの光栄を有した。クレルモン・トンネール氏はツールーズの司教であって、しばしばパリーにやってきて、陸海軍大臣だったことのある甥《/甥》のトンネール侯爵の家に滞在した。彼は快活な背《/背》の低い老人で、教服をまくって下《/下》から赤い靴下を出していた。その特長は、大百科辞典をきらうことと、撞球《+玉突き》に夢中になることとであった。当時、クレルモン・トンネールの館があったマダム街を夏《/夏》の夕方などに通る者は、そこに立ち止まって、撞球《+玉突き》の音を聞き、《:、》随行員でカリストの名義司教たるコトレー師に向かって、「点数、三つ当りだ、」と叫ぶ枢機官の鋭い声を聞いたものである。クレルモン・トンネール枢機官は、元のサンリスの司教で四十人のアカデミー会員の|ひとり《一人》である彼《/彼》の最も親しい友人ロ《/ロ》クロール氏から、T夫人の客間に連れてこられたのである。ロクロール氏は、その背の高い身体とア《/ア》カデミーへの精励とによって有名だった。当時ア《/ア》カデミーの集会所となっていた図書室の隣《/隣》の広間のガラス戸越《ドご》しに、好奇な者らは木曜日《/木曜日》には必ず元のサンリスの司教を見ることができた。彼はいつも立っていて、あざやかに化粧をし紫《/紫》の靴下をはき、明らかにその小さなカラーをよく見せんためであろうが、戸に背を向けていたものである。右のような聖職者らは、その大部分教会《大部分’教会》の人であるとともに宮廷《/宮廷》の人だったが、T夫人の客間の荘重な趣をま《”ま》すます深からしめていた。また五人の上院議員、ヴィブレー侯爵、タラリュ侯爵、エルブーヴィル侯爵、ダンブレー子爵、ヴァランティノア公爵らは、客間の貴族的な趣を増さしていた。このヴァランティノア公爵は、モナコ侯す《/す》なわち他国の主権者ではあったが、フランスおよび上院議員の位を非常に尊敬していて、その二つを通じてすべてのものを見ていた。「枢機官はローマのフランス上院議員であり、ロード(卿)はイギリスのフランス上院議員である」と言っていたのは彼である。けれども、この世紀には革命は至る所にあるはずであって、この封建的な客間でも、前に言ったとおり|ひとり《一人》の市民が勢力を振るっていた。すなわちジルノルマ《マ-》ン氏がそこに君臨していたのである。  実《じつ》にこの客間のうちに、パリーの白党の本質精髄があった。世に名高い人々は、たとい王党であろうと、そこから遠ざけられていた。名声のうちには常に無政府臭味があるものである。シャトーブリアンがもしそこに|はい《入》っていったら、ペール・デュシェーヌ(訳者注◇ 民主主義の代表的人物)がはいってきたほどの騒ぎをきたしたであろう。けれども、|四、五《シゴ》の共和的王政派の人々は、この正教的な社会のうちにはいることを特別に許されていた。ブーニョー伯爵も条件つきで迎えられていた。  今日《コンニチ》の「貴族」の客間は、もはやそれらの客間と似寄《似通》った点を少しも持たない。今日《コンニチ》のサン・ジェルマン郭外には異端派的な|にお《匂》いがある。現今の王党らは、誉《ほ》むべきことには、もはや一種の民主派である。  T夫人の客間においては、皆秀《みんな秀》でた階級の人々であったから、花やかな礼容の下に、趣味は洗煉されま《”ま》た尊大になっていた。習慣は無意識的なあらゆる精緻さを含んでいた。そしてこの精緻さこそ、既に埋められながらな《/な》お生きている旧制そのものだったのである。その習慣のうちのあるものは、特に言葉の上のそれは、いかにも奇妙に思われるものだった。ただ表面だけを見る観察者らは、単に老廃にすぎないものを田舎式だと見誤ったかも知れない。女に対して将軍夫人などという言葉がまだ言われていた。連隊長夫人という言葉もまったく廃れてはいなかった。美しいレオン夫人は、おそらくロングヴィル公爵夫人や、シュヴルーズ公爵夫人などの思い出によってであろうが、侯爵夫人という肩書きよりもそ《/そ》ういう名称の方《ほう》を好んでいた。クレキー侯爵夫人も自ら連隊長夫人と言っていた。  チュイルリー宮殿において、王に向かって親しく言葉を向ける時には、いつも国王という三人称を用いて、決して陛下と言わない巧妙《巧妙’》さを作り出したのは、やはりこの上流の小社会《ショウ社会》であった。なぜなら陛下という称号は、「簒奪者(訳者注◇ ナポレオン)によって汚《-けが》された」からである。  そこでまた人々は、事件や人物を批判した。人々は時代をあざけり、ために時代ということを了解しないで済んだ。人々は互いに驚きの情を深め合った。また互いにその知識を分かち合った。メッセラはエ《/エ》ピメニデスに物を教えた(訳者注◇ 共に太古の人物で、前者は長命を以って後者《/後者》は長眠《チョーミン》を以って有名である)。聾者《+聾ジャ》は盲者の手を引いた。彼らはコブレンツ(訳者注◇ 1792年王党の亡命者が集合せし地)以来経過した時間をないものだとした。ルイ十八世が神のお陰によって治世二十五年目であったのと同じく、移住者らもまさしくその青年期の第二十五年目だったのである。  すべては調和がとれていた。何物もあまりに生き生きとしてるものはなかった。人の言葉はようやく一つの息吹にすぎなかった。新聞は客間と一致して一《/一》つの草双紙にすぎないらしかった。若い人々もいたが、それもみな多少死《多少’死》にかかっていた。控え室においても、接待員はみな老耄《老いぼれ》だった。まったく過去のものとなっているそれらの人物には、やはり同じ種類の召し使いが仕えていた。それらの|ようす《様子》を見ると、もう長い前に生命《イノチ》を終えながら、なお頑固に墳墓《/墳墓》と争っているかのようだった。保存する、保存、保存人《保存にん》、そういうのが彼らの辞書のほとんど全部の文字だった。「|にお《匂》いがいい」(評判がいい)ということが問題だった。実際それらの尊ぶべき群れの意見のうちには香料があった、そしてその思想にはインド草の香りがしていた。それは木乃伊《+ミイラ》の世界だった。主人はいい香りをた《焚》き込まれており、従僕は剥製にされていた。  亡命し零落《”零落》した|ひとり《一人》のりっぱな老侯爵夫人は、もう|ひとり《/一人》の侍女しか持っていなかったが、なお言い続けていた、「私の女中ども」と。  T夫人の客間のうちで人々は何をしていたか? 彼らはみな過激王党派だったのである。  ユルトラ(過激派)である、というこの言葉は、それが表現する事物はお《/お》そらくまだ消滅しつくしてはいないであろうが、言葉自身は今日《コンニチ》ではもはや無意味のものとなっている。その理由は次の通りである。  過激派であるということは、範囲の外まで逸することである。王位の名によって王笏《/王笏》を攻撃し、祭壇の名によって司教《/司教》の冠を攻撃することである。おのれが導くものを虐遇することである。後ろに乗せて引き連れてるものを後足《+/後脚》でけ《蹴》ることである。邪教徒の苦痛の程度が少ないと言って火刑場《/火刑場》を悪口《悪くチ》することである。崇拝されることが少いと言って偶像《/偶像》を非難することである。過度の尊敬によって侮辱《/侮辱》することである。法王に法王主義の不足を見いだし、国王に王権の不足を見いだし、夜に光の過多を見いだすことである。白色《白イロ》の名によって石膏《/石膏》や雪《/雪》や白鳥《/白鳥》や百合《/百合》の花などに不満をいだくことである。敵となるまでに深く味方たることである。反対するまでに深く賛成することである。  過激的な精神は、ことに王政復古の第一面の特質である。  およそ歴史中、1814年ごろから初まり右党《/右党》の手腕家ヴ《/ヴ》ィレル氏が頭をもたげた1820年ごろに終わったこの小期間に、相似寄《相似通》った時期は一つもない。その六年は実に異様な一時期であって、騒然たると同時に寂然《/ジャク念》として、嬉々たると同時に沈鬱《/沈鬱》で、《:、》あたかも曙の光に照らされてるがようであると同時に、なお地平線に立ちこめて|しだい《次第》に過去のうちに沈み込まんとする大災厄《/大災厄》の暗雲におおい隠されてるがようであった。その光と影との中に、新しくま《”ま》た古く、おかしくま《”ま》た悲しく、年少でま《”ま》た老年である一小社会《イチ小社会》があって、目をこすっていた。復起《復帰》と覚醒とほど互いによく似寄《似通》ってるものは《は-》ない。ふきげんにフランスを|なが《眺》め、またフランスから皮肉に|なが《眺》められてる一群。街路に満ちてる人のいい老梟《+ロウ梟》たる公爵ら、帰国せる者らとよみがえった者ら、すべてに驚き|あき《呆》れてる旧貴族ら、《:、》祖国を再び見て歓喜し、もとの王政を再び見得ないで絶望して、フランスにあることをほほえみま《”ま》た泣いている善良な貴族ら、帝国の貴族す《/す》なわち軍国の貴族に恥辱を与える十字軍の貴族。歴史の意義を失った歴史的人種。ナポレオンの仲間を軽蔑するシャールマーニュ大帝の仲間。上に述べきたったとおり、剣戟は互いに凌辱し合った。フォントノアの剣は笑うべきものであり、一つの錆くれにすぎなかったと言う。マレンゴーの剣は擯斥すべきもので、一つのサーベルにすぎなかったと言い返す。昔は昨日をけなした。人々はもはや、偉大なるものに対する感情も持たず、嘲笑すべきものに対する感情も持たなかった。ナポレオンを称してスカパンと言う者もいた(訳者注◇ スカパンとはモリエールの喜劇中の人物にて、奸知にたけた悪従僕の典型)。しかしそういう社会は今は《は-》もうなくなっている。くり返して言うが、今日《コンニチ》ではもう影も止《-とど》めていない。で、今日《こんにち》、偶然その相貌を多少つかんできて、頭の中に浮かべようとする時には、あたかもノアの洪水以前の世界ほどに不思議《/不思議》なものに思われる。そしてまた実際その社会も一の洪水によっての《飲》み込まれてしまったのである。二つの革命によって姿を消してしまったのである。思想とはいかに大《ダイ》なる波濤であるか! 破壊し埋没すべく命ぜられたすべてをい《/い》かに早くおおい隠し、恐るべき深淵をい《/い》かにたちまちの間《マ》にこしらえることか。  そういうのが、このはるかな廉潔な時代の客間のありさまであった。そしてそこでは、マルタンヴィル氏はヴォルテールよりもいっそうの機才を持っていたのである。  それらの客間は、自分だけの文学と政治とを持っていた。フィエヴェーが信用を得ていた。アジエ氏が法令をたれていた。マラケー川岸《-カシ》の古本《フルホン》出版商コ《/コ》ルネ氏が種々《いろいろ》批評を受けていた。ナポレオンはそこでは、まったくコルシカの食人鬼《ショクジンキ》にすぎなかった。その後、国王の軍隊の陸軍中将ブ《/ブ》オナパルテ侯爵(訳者注◇ ナポレオンのこと)という語が歴史の中に入《-い》れられたのは、時代精神への譲歩であった。  それらの客間は、長く純潔であることはできなかった。既に1818年ごろより、数人の正理派《セイリ派》は芽を出し初めて、不安な影となった。それらの人々のやり方は、王党であるとともにそ《/そ》れを弁明することだった。過激派らがきわめて傲然としていたところに、正理派《セイリ派》らは多少の恥を感じていた。彼らは機才を持っていたし、沈黙を持っていた。その政治的信条には、適当に倨傲さが交じえられていた。その成功は当然だった。彼らは白い襟飾りとボ《/ボ》タンをすっかりかけた上衣とを濫用したが、それももとより有効だった。正理派《セイリ派》の過誤も《/も》しくは不幸は、老いたる青春をこしらえたことだった。彼らは賢者のような態度をとった。絶対過激なる主義に一《/一》つの穏和なる権力を接木しようとした。破壊的自由主義に保守的自由主義を対立させ、しかも時としては珍《/珍》しい怜悧さをもってそれをした。人々は彼らがこう言うのを聞いた。「勤王主義に感謝せよ。勤王主義は少なからざる役目をした。それは伝統と教養《/教養》と宗教《/宗教》と尊敬《/尊敬》とを再びもたらした。忠実で正直《/正直》で誠実《/誠実》で仁愛《/仁愛》で献身的《/献身的》であった。たとい自ら好んでではなかったとはいえ、国民の新しい偉大さに王国古来《/王国古来》の偉大さを交じえた。そしてその誤《過》ちは、革命と帝国《/帝国》と光栄《/光栄》と自由《/自由》と、若き思想と若《/若》き時代と若《/若》き世紀とを、理解していないことである。しかしそれが吾人に対して有する誤《過》ちは、吾人もまた時としてそ《/そ》れに対して有しなかったであろうか。吾人がその後を継いだ革命は、すべてに聡明なるべきはずである。勤王主義を攻撃することは、自由主義の矛盾である。何たる過失であり、何たる盲目であるか。革命のフランスは、歴史のフランスに、言い換えればその母に、また言い換えればそれ自身に、敬意を欠いている。1816年九月五日以後王国《年’九月五日以後/王国》の高貴さが受けている待遇は、あたかも1814年七月八日以後帝国《年’七月八日以後/帝国》の高貴さが受けた待遇と同じである。彼らは鷲に対して不正であったが、吾人は百合の花に対して不正である。かくて人は常《/常》に酷遇すべき何かを欲するのであるか。ルイ十四世の王冠の金を去り、アンリ四世《4世》の紋章を取り除くことは、有用なことであるか。イエナ橋《バシ》からNの字(訳者注◇ ナポレオンの頭字《イニシャル》)を消したヴォーブラン氏を吾人《/吾人》は嘲笑する。しかしいったい彼は何をなさんとしたのであるか。吾人がなしてることと同じことをではないか。マレンゴーと同じくブ《/ブ》ーヴィーヌも吾人のものである。Nの字と同じく百合《/百合》の花も吾人のものである。それは吾人のつぐべき遺産である。それを削除することが何《なん》のためになるか。現在の祖国と同じく過去《/過去》の祖国をも否認してはいけない。何《なに》ゆえに歴史のすべてを欲してはいけないのか。何《なに》ゆえにフランスのすべてを愛してはいけないのか。」  そういうふうに正理派《セイリ派》らは、批評されるのを喜ばずま《”ま》た弁護されるのを憤《いきどお》っていた勤王主義を、批評しま《”ま》た弁護したのである。  過激派は勤王論の第一期を画し、融合はその第二期の特質となった。熱狂に次ぐに巧妙《/巧妙》をもってしたのである。そしてわれわれはこれをもってそ《/そ》のスケッチの終わりとしよう。  この物語の途中において、本書の著者は、近世史のこ《/こ》の不思議な一時期に出会った。そして通りすがりに一瞥を与えて、今日《コンニチ》もはや知られないそ《/そ》の社会の奇怪な状態を少《/少》しく述べざるを得なかったのである。しかし著者は急速に、また何ら苦々しい嘲笑的な考えもなしに、それをなすのである。思い出は、母たる祖国に関するものであるから親愛《/親愛》と尊敬とを起こさせ、著者をこ《/こ》の過去の一時期に愛着せしむる。か《且》つまたその一小社会《イチ小社会》も、偉大さを持っていたことを言っておきたい。人はそれをほほえむことはできよう、しかしそれを軽蔑しま《”ま》たは憎むことはできない。それは昔のフランスだったのである。  さて、マリユス・ポンメルシーは普通の子供と同じくい《/い》くらか勉強をした。伯母のジルノルマン嬢の手から離れた時祖父《時/祖父》は彼を、最も純粋な古典に通ずるり《/り》っぱな教師に託した。開《ひら》けかかっていた彼の若い心は、似而非貞女から腐儒の手に移った。それから彼は数年間中学校《数年間’中学校》に通い、次に法律学校にはいった。彼は王党で熱狂家《/熱狂カ》で謹厳《/謹厳》であった。彼は祖父の快活と冷笑とを不快《/不快》に感じてあまり好まなかった。そしてまた父のことを思うと心が暗くなった。  それに彼は、上品で寛容《/寛容》で誇《/誇》らかで宗教的《/宗教的》で熱誠《/熱誠》で、冷熱あ《’合》わせ有する少年だった。厳酷なるまでに気品があり、粗野なるまでに純潔であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【無頼漢の死】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスが古典の勉強を終えたのとジ《/ジ》ルノルマ《マ-》ン氏が社交界から退いたのとは、ほとんど同時だった。老人はサン・ジェルマン郭外とT《/T》夫人の客間とに別れを告げて、マレーのフ《/フ》ィーユ・デュ・カルヴェール街にある家に住んだ。そして召し使いとしては、門番のほかに、マニョーンの次にきた小間使いのニコレットと、前に述べておいた息切《/息切》れがしてぜ《/ぜ》いぜいいってるバスクとがいた。  1827年に、マリユスは十七歳に達した。ある晩外《晩’外》から帰って来ると、祖父は手に一通の手紙を持っていた。 「マリユス、」とジルノルマ《マ-》ン氏は言った、「お前は明日ヴ《/ヴ》ェルノンへ行くんだ。」 「どうしてですか。」とマリユスは尋ねた。 「父に会いにだ。」  マリユスは震えた。何《なん》でも期待してはいたが、ただこれだけは、いつか父に会うようになろうとは、まったく思いもかけなかった。彼にとっては、これほど意外なことは、これほど驚くべきことは、そしてまたあえて言うがこ《/こ》れほど不愉快なことは、何もあり得なかった。それは遠ざかろうとするものにし《/し》いて近づけられることだった。一つの苦しみのみではなかった、一つの賦役だった。  マリユスは政治的反感の理由のほかになお、いくらか気がやわらいだ時にジルノルマ《マ-》ン氏が呼んだように猪武者《/猪武者》である父は、自分を愛していないと思い込んでいた。父が彼を今のように見捨てて他人《/他人》の手に任しておくのを見ても、そのことは明らかだった。自分が愛せられていないと感じて、彼もまた父を愛しはしなかった。これほどわかりきったことはない、と彼は思った。  彼はまったく呆然として、ジルノルマ《マ-》ン氏に訳を尋ねることもしかねた。祖父はまた言った。 「病気らしいのだ。お前に会いたいと言っている。」  そしてちょっと口《’口》をつぐんだ後に、彼は言い添えた。 「明日の朝、出かけなさい。フォンテーヌの家に、六時にたって夕方向《夕方’向》こうに着く馬車があるはずだ。それに乗るがいい。至急だということだから。」  それから彼は手紙をもみくちゃにして、ポケットに押し込んだ。実はマリユスは、その晩にたって翌朝《/翌朝》は父のそばに行けたのである。ブーロア街の駅馬車が、当時夜中《当時’夜中》にルアン通いをやっていて、ヴェルノンを通ることになっていた。しかしジルノルマ《マ-》ン氏もマリユスも、それを聞き合わしてみようとは考えもしなかった。  翌日薄暮《翌日’薄暮》の頃、マリユスはヴェルノンに着いた。もう灯火《+明かり》のつき初《始》める頃だった。彼は出会い頭《ガシラ》の男に、「ポンメルシーさんの家」を尋ねた。なぜなら、彼は内心復古政府《内心’復古政府》と同意見を持っていて、やはり父を男爵とも大佐とも認めてはいなかった。  彼は父の住居を教えられた。呼び鈴を鳴らすと、|ひとり《一人》の女が手に小さなランプを持って出てきて、戸を開いてくれた。 「ポンメルシーさんは?」とマリユスは言った。  女はじっとつっ立っていた。 「ここがそうですか。」とマリユスは尋ねた。  女は頭でうなずいた。 「お目にかかれましょうか。」  女は頭を振った。 「でも私はその息子です。」とマリユスは言った。「私を待っていられるんです。」 「もう待ってはおられません。」と女は言った。  その時彼は、女が泣いているのに気づいた。  彼女はすぐ入り口の室《+部屋》の扉を彼にさし示した。彼ははいって行った。  その室《部屋》は、暖炉の上に置かれてる一本の脂蝋燭の光に照らされ、中に三人の男がいた。|ひとり《一人》は立っており、|ひとり《一人》はひざまずいており、|ひとり《一人》はシャツだけで床《床’》の上に長々と横たわっていた。その横たわってるのが大佐だった。  他のふたりは医者と牧師とで、牧師は祈祷をしていた。  大佐は三日前から、脳膜炎にかかった。病気の初めから彼はある不吉な予感がして、ジルノルマ《マ-》ン氏へ息子をよこしてくれるように手紙を書いた。果たして病気は重くなった。マリユスがヴェルノンへ着いたその夕方、大佐には錯乱の発作が襲ってきた。彼は女中が引き止めようとするにもかかわらず起き上がって叫んだ。「息子はこない! 私の方《ほう》から会いに行くんだ。」それから彼は室《部屋》を飛び出して、控え室の上に倒れてしまった。そしてそれきり息が絶えたのである。  医者と牧師とが呼ばれた。医者は間に合わなかった。牧師も間に合わなかった。息子のき《-き》ようもま《”ま》たあまり遅かった。  蝋燭の薄暗い光で、そこに横たわってる青ざめた大佐の頬《ホオ》の上に、もはや生命《イノチ》のない目から流れ出た太《/太》い涙が見えていた。目の光はなくなっていたが、涙はまだかわいていなかった。その涙こそ、息子の遅延のゆえであった。  マリユスはこれを最初としてま《”ま》た最後として会ったその男をじっとながめた、《:、》尊むべき雄々しいその顔、|もはや《最早’》物の見えないその開いた目、その白い髪、そして頑丈な手足、《:、》その手や足の上には、剣《剣’》の傷痕である黒い筋と弾丸《/弾丸》の穴である赤い点とが、そこここに見えていた。また彼は、神が仁慈をきざんだその顔の上に勇武《/勇武》をきざみつけてる大きな傷痕をながめた。そして彼は、その男が自分の父であり、しかももはや死んでいることを考え、慄然として立ちつくした。  しかし彼が感じた悲哀は、およそ人の死んで横たわってるのを見るおりに感ずる普通《/普通》の悲哀だった。  悲痛が、人の心を刺す悲痛が、その室《+部屋》の中にあった。下女は片すみで嘆いており、司祭は祈祷しながら嗚咽の声をもらしており、医者は目の涙をふ《拭》いていた。死骸自身も泣いていた。  その医者と牧師《/牧師》と女《/女》とは、一言も発せず、痛心のうちにマリユスをながめた。彼はその間《あいだ》にあってひとり門外漢だった。マリユスはほとんど心を動かしていなかった、《:、》そして自分の態度をきまり悪く感じ、また当惑した。彼は手に帽子を持っていたが、悲しみのためそ《/そ》れを手に保つ力もなくなったと見せかけるため、わざと下《’下》に取り落とした。  と同時に彼は一種の後悔の念を感じ、自らその行ないを卑しんだ。しかしそれは彼が悪いのだったろうか。いかんせん、彼は父を愛していなかったではないか!  大佐の遺産とては何もなかった。家具を売り払っても葬式《/葬式》の費用に足るか足らずであった。下女は一片の紙を見つけて、それをマリユスに渡した。それには大佐の手で次のことが認《-したた》めてあった。 ◇。◇。  予が子のために──皇帝はワーテルローの戦場にて予《/予》を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって贖いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこ《/こ》れを取りこ《/こ》れを用《-もち》うべし。もとより予が子はそ《/そ》れに価するなるべし。 ◇。◇。  その裏に大佐はまた書き添えていた。 ◇。◇。  なおこのワーテルローの戦争において、|ひとり《一人》の軍曹予《軍曹/予》の生命《イノチ》を救いくれたり。その名をテナルディエという。最近彼《最近’彼》はパリー近傍の小村《ショウソン/》シェルも《”も》しくはモンフェルメイュにおいて、小旅亭《ショウ旅亭》を営めるはずなり。もし予が子にしてテ《/テ》ナルディエに出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表《ヒョウ》すべし。 ◇。◇。  父に対する敬虔の念からではなかったが、常に人の心に強い力を及ぼす死《/死》に対する漠然たる敬意から、マリユスはその紙片を取って納めた。  大佐のものとては何も残っていなかった。ジルノルマ《マ-》ン氏はその剣と軍服とを古物商《/古物商》に売り払わせた。近所の人々はその庭を荒らして、珍しい花を持って行った。その他の花卉は、蕁麻《+イラグサ》や藪となり、あるいは枯れてしまった。  マリユスはヴェルノンに四十八時間しか留まっていなかった。葬式の後彼《あと彼》はパリーに帰って、また法律の勉強にかかり、もはや父のことはか《/か》つて世にいなかった者のように思い出しもしなかった。二日にして大佐は地に埋められ、三日にして忘《忘れ》られてしまった。  マリユスは帽子に喪章をつけた。ただそれだけのことだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【弥撒《+ミサ》に列して革命派となる】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは子供の時からの宗教上の習慣を守っていた。ある日曜日に彼は、サン・スュルピス会堂に行き、小さい時いつも伯母から連れてこられたそ《/そ》のヴィエルジュ礼拝堂で弥撒《+ミサ》を聞いた。その日彼は平素よりぼんやりして何か考え込んでいて、一本の柱の後ろに席を占め、理事マ《/マ》ブーフ氏の背に書いてあるユ《/ユ》トレヒトのビロードを張った椅子の上にうずくまって、それに自ら気もつかないでいた。弥撒《+ミサ》が初まったかと思うと、|ひとり《一人》の老人が出てきて、マリユスに言った。 「あなた、ここは私の席です。」  マリユスは急いで横にの《-の》いた。そして老人はその椅子に|すわ《座》った。  弥撒《+ミサ》がす《済》んでからも、マリユスは考え込みながら|四、五歩《シゴホ》向こうにじっとしていた。老人はまた彼の所《ところ》へ近づいて、そして言った。 「先刻はお邪魔してすみませんでした。そしても《もう》一度お許し下さい。きっとうるさい奴《ヤツ》とおぼし召すでしょうが、その訳を申しますから。」 「いえ、それには及びません。」とマリユスは言った。 「ですが、私を悪く思われるといけませんから。」と老人は言った。「私はあの席が好きなんです。同じ弥撒《+ミサ》でもあすこで聞くと、一番よく思われます。なぜかって、それは今申《今’申》します。あの席から私は、長年の間《あいだ》、きまって|二、三カ《ニ三ヶ》月に一度は、|ひとり《一人》のりっぱな気《/気》の毒な父親がやって来るのを見たのです。その人は自分の子供を見るのにそ《/そ》れ以外には機会も方法もありませんでした。家庭の都合上、子供に会うことができなかったのです。でい《/い》つも子供が弥撒《+ミサ》に連れてこられる時間を計らって、その人は《は-》やってきました。子供の方《ほう》は、父親がそこにいることは夢にも知りませんでした。おそらく父親があるこ《こ-》とさえも知らなかったでしょう。罪のないものです。父親は、人に見られないようにあ《/あ》の柱の後ろに隠れていました。そして子供を見ては涙を流していました。その子供を大変愛《大変’愛》していたのです。かわいそうな人です。私はその|ありさま《有様》を見たのです。そしてあの場所は、私にとっては聖《清》い場所となりまして、いつもそこで弥撒《+ミサ》をきくことになったのです。私は理事として当然すわり得る理事席よりも、あの席の方《ほう》が好ましいのです。また私は多少その不幸な人の身分を知っています。舅と金持ちの伯母と、それから親戚もあったのでしょうが、とにかくその人たちは、父親が子供に会うなら子供《/子供》に相続権を与えないとおどかしていたのです。でそ《/そ》の人は、子供が他日金持《-たじつ金持》ちになり|仕合わ《/幸》せになるように、自分を犠牲にしていました。政治上の意見から遠ざけられたのです。なるほど政治上の意見も結構ですが、世には意見を意見だけに止《-とど》めない人がいます。まあ、ワーテルローの戦いに加わったからと言って、それが悪魔だとは言えますまい。そういう理由で親と子供とをへだてるわけはありません。その人はボナパルトの下《もと》に大佐でした。もう死んだと思います。司祭をしてる私の兄と同じくヴ《/ヴ》ェルノンに住んでいました。何《なん》でも、ポンマリーとかモ《/モ》ンペルシーとか‥‥言っていました。確か剣《/剣》で切られた大きな傷痕がありました。」 「ポンメルシーではありませんか。」とマリユスは顔の色を変えて言った。 「さよう、さよう、ポンメルシーです。あなたもその人を知っていましたか。」 「ええ、」とマリユスは言った、「それは私の父です。」  老理事は両手を組んで、叫んだ。 「え! あなたがその子供! なるほど、そうです、今ではもう大きくなっていられるはずです。まあどうでしょう、あなたを深く愛していたお父さんがいられたのですよ。」  マリユスは老人に腕を貸して、その宅まで送っていった。そして翌日、彼はジルノルマ《マ-》ン氏に言った。 「友人と狩猟の約束をしましたから、三日間ばかり出かけたいんですが。」 「四日《4日》でもよい、」と祖父は答えた、「遊んでおいで。」  そして彼は目をまたたきながら低い声で娘に言った。 「何か女のことだな。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【会堂理事に会いたる結果】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは|どこ《何処》へ行ったか。それは少し後《あと》にわかるだろう。  マリユスは三日間の不在の後《あと》、パリーに帰ってきて、すぐに法律学校の図書館に行き、機関紙のとじ込みを借り出した。  彼はその機関紙を読み、共和お《/お》よび帝政時代のあらゆる歴史、「セント・ヘレナ追想記」、あらゆる記録、新聞、報告書、宣言、などを片端《片っ端》からむさぼり読んだ。大陸軍《ダイ陸軍》の報告書の中に初《/初》めて父の名を見いだした時は、一週間も興奮した。彼はまた、ジョルジュ・ポンメルシーが仕えていた将軍らを、なかんずくH伯爵を訪れた。彼が再び尋ねて行ったマブーフ理事は、大佐の隠退やそ《/そ》の花やそ《/そ》の孤独など、ヴェルノンの生活の|ありさま《有様》を聞かしてくれた。ついにマリユスは崇高で穏《/穏》やかで世《/世》に珍しいその男のことを、自分の父であった獅子羊《/獅子羊》とも言うべきその人のことを、十分に知り得るに至った。  かくて、すべての時間と考えとをささげたそ《/そ》の研究にふけってる彼は、ほとんどジルノルマン一家の人々と顔を合わせることがなくなった。食事の時には姿を見せたが、あとでさがすともういなかった。伯母は不平をもらした。ジルノルマ《マ-》ン氏は微笑《微笑’》して言った、「なあに、ちょうど娘のあとを追う年頃だ。」時とすると彼はつけ加えた、「いやはや、ちょっとした艶事と思っていたが、どうも本気の沙汰らしいぞ。」  いかにもそれは本気の沙汰だった。  マリユスは父を崇拝し初《始》めていた。  同時に、彼の思想のうちには異常な変化が起こりつつあった。その変化の面は、数多くてし《/し》かも次から次へと移っていった。本書はわれわれの時代の多《/多》くの精神の歴史を語らんとするものであるから、この変化の面を一歩一歩たどりそ《/そ》のすべてを指摘することは、無益の業《ギョウ》ではないと思う。  今《いま》マリユスが目を通した歴史は、彼を驚駭《+キョウガイ》せしめた。  第一の結果は眩惑であった。  その時まで彼にとっては、共和、帝国、などという言葉はた《/た》だ恐ろしいものにすぎなかった。共和とは薄暮のうちの一断頭台であり、帝国とは暗夜のうちの一サーベルであった。しかるに今彼《今’彼》はその中をのぞき込んで、混沌たる暗黒をのみ予期していたところに、恐れと喜びとの交じった一種の異様な驚きをもって、星辰の輝くのを見たのである。ミラボー、ヴェルニオー、サン・ジュスト、ロベスピエール、カミーユ・デムーラン、ダントン、それから、上り行く太陽のナポレオン。彼は自分がどこにあるかを知らなかった。彼はそれらの光に眼《-め》くらんで後退った。そのうち|しだい《次第》に驚きの情が去り、それらの光輝になれ、眩惑なしにそれらの事業をながめ、恐怖の情《ジョウ》なしにそれらの人々を見調べた。革命と帝国《/帝国》とは、彼の夢見るような瞳の前に遠景《/遠景》をなして光り輝いた。そして彼は、その事変と人物との二つの群れが、二つの偉業のうちにつづまるのを見た。民衆に還付された民権の君臨のうちにある共和国と、全欧州に課せられたフランス思想の君臨のうちにある帝国。そして革命のうちから民衆の偉大なる姿が現《-あら》わるるのを見、帝国のうちからフランスの偉大なる姿が現《-あら》わるるのを見た。実にすばらしいことだ、と彼は自ら内心に叫んだ。  あまりに総合的な彼の第一の評価が眩惑《/眩惑》のために見落としたことを、ここに指摘するの必要はあるまいと思う。ここに語られるものは、前進する一精神《イチ精神》の状態である。すべて進歩というものは、皆一躍《みんな一躍》してなされるものではない。そしてこのことを、前後すべてにわたって一度に言っておきながら、物語の先を続けよう。  マリユスは、自分の父を了解していなかったと同じく今《/今》まで自分の国を了解していなかったことに、その時初めて気づいた。彼は両者いずれをも知らなかったのである。そして好んで自分の眼に一種の闇をきせていたのである。しかるに今や彼は眼を開いてながめた。そして一方では賛嘆し、一方では愛慕した。  彼は愛惜と悔恨《/悔恨》との情に満たされ、心にあることを語り得るのは今《/今》や一つの墳墓に向かってのみであることを思って、絶望の念に駆られた。ああ《あ/》父がなお生きていたならば、父がなおあったならば、神がそのあわれみとい《/い》つくしみとをもってな《/な》お父を生かしておいてくれたならば、彼はいかにそのそばに走り行き、いかにし《-し》かと身を投げかけ、いかに父に叫んだことであろう!「お父さん! 来ましたよ。私です。私はあなたと同じ心を持っています。私はあなたの児《子》です!」いかに彼は父の白い頭を抱き、その髪を涙でぬらし、その傷をながめ、その手を握りしめ、その服をなつかしみ、その足に脣をつけたことであろう。ああ《あ/》なぜに父は、長寿を保《-たも》たず、天の正しき裁きをも受けず、息子の愛をも受けないで、かくも早くいってしまったのか。マリユスは心の中で絶《/絶》えずすすりなきし、常にそれを「ああ!《/》」と言葉にもらした。同時に彼はまた、いっそう本当に|まじめ《真面目》になり、いっそう本当に沈重になり、自分の信念と思想とにい《/い》っそう固まった。各瞬間に、真《シン》なるものの光が彼の理性を補っていった。彼のうちには一種の内的発育が起こってきた。自分の父と自分の祖国と、彼にとっては新しいその二つのものがもたらしてくる、一種《1種》の自然の生長を彼は感じた。  鍵を手にしたがようにす《/す》べては開《-ひら》けてきた。彼は今まできらっていたものを了解し、今まで憎んでいたものを見通した。それ以来彼《以来’彼》は、嫌忌すべく教えられた偉業について、のろうべく教えられた偉人らについて、天意的にしてま《”ま》た人間的なる犯《/犯》すべからざる意義を明らかに見た。昨日のものでありながら既《/既》に古い昔のもののように思われる以前《/以前》の意見を考える時には、自ら憤り自《/自》ら微笑を禁じ得なかった。  父に対する意見を改めるとともに、彼は自然にナポレオンに対する意見をも改めるに至った。  けれども、第二の方《ほう》は多少の努力を要したことを、言っておかなければならない。  子供の時から彼は、ボナパルトに関する1814年の当事者らの意見に浸《-ひた》されていた。およそ復古政府のあらゆる偏見や、利己的な考えや、本能などは、ナポレオンを変形しがちだった。復古政府はロベスピエールよりもな《/な》おいっそうナポレオンの方《ほう》を|きら《嫌》っていた。そしてかなり巧みに国民の疲労や母親《/母親》らの恨みを利用した。ボナパルトはついにほとんど伝説的な怪物と化し去った。前に述べてきたとおり子供の想像に似た民衆《/民衆》の想像裏《想像リ》に、彼を浮かび出させるについて、1814年の当事者らはあ《/あ》らゆる恐るべき仮面を次々に持ち出し、《:、》壮大となるほど恐ろしいものから、奇怪となるほど恐ろしいものに至るまで、チベリウスからク《/ク》ロクミテーヌに至るまで(訳者注◇ 前者は残忍なるローマ皇帝後者《皇帝/後者》は残酷なる怪物)すべて持ち出した。かくてボナパルトのことを話す時、心底《シンテイ》に憎悪の念がありさえすれば、すすり泣こうと笑《/笑》い出そうと勝手だった。マリユスもいわゆる「あの男」について、頭の中にそれ以外の考えをか《/か》つて持たなかった。またそういう考えは、彼の性質のうちにあ《/あ》る執拗さにからみついていた。彼のうちにはナポレオンを憎む頑固《/頑固》な小僧がいた。  歴史を読みながら、ことに種々《いろいろ》の記録や材料のうちに歴史を調べながら、マリユスの目からナポレオンを隠していた被いは|しだい《/次第》に取れてきた。彼は何かある広大なるものを瞥見した、そして他の事におけると同じようにナポレオンについても、今まで思い違いをしていたのではないかと疑った。日がたつにつれてますますはっきり見えてきた。そして初めはほとんど不本意ながら、後にはあたかも不可抗な幻にひかされたがように夢中《/夢中》になって、《:、》徐々に一歩一歩と、最初は暗い階段を、次にはおぼろに照らされた階段を、最後には光に満ちた燦然たる心酔の階段を、彼はよじのぼり初めた。  ある夜、彼は|ひとり《一人》で屋根裏にある自分の小さな室《+部屋》にいた。蝋燭がともっていた。彼はテーブルに肱をついて開いた窓のそばで本を読んでいた。各種の夢想が空間から浮かんできて、彼の考えに混入した。何という大《ダイ》なる光景で夜はあるか! どこから来るとも知れぬほのかな響きが聞こえる。地球より二百倍も大きい火星が炬火《/松明》のように|まっか《真っ赤》に輝いているのが見える。大空は黒く、星辰はひらめいている。驚くべき光景である。  マリユスは大陸軍《ダイ陸軍》の報告書を、戦場において書かれたホメロス的な文句をその時読んでいた。間《マ》をおいては父の名前が出てき、絶えず皇帝の名前が出てきた。大帝国の全局が現われてきた。彼は自分のうちに、潮《ウシオ》のようなものが|ふく《膨》れ上がりわ《/沸》き上がってくるのを感じた。時とすると、息吹のように父が自分のそばを通って、耳に何か|ささや《囁》くかと思われた。彼は|しだい《次第》に異常な気持ちになっていった。太鼓の音《’音》、大砲のとどろき、ラッパの響き、歩兵隊の歩調を取った足音、騎兵の茫漠たる遠い疾駆の音《’音》、などが聞こえてくるかと思われた。時々《ときどき》彼は目を天の方《ほう》へ上げて、きわまりなき深みのうちに巨大《/巨大》な星座の輝くのをながめ、それからまた書物の上に目を落として、そこにまた他の巨大なるものが雑然と動くのを見た。彼《彼’》の胸はしめつけられた。彼は感きわまり、身を震わし、息をあえいだ。とに《/に》わかに、心のうちに何がありま《”ま》た何に動かされてるのかを自ら知らないで、彼は立ち上がり、両腕を窓の外に差し伸ばし、《:、》陰影を、静寂を、暗黒なる無窮を、永劫の広漠を、じっとながめ、そして「皇帝万歳!《/》」を叫んだ。  その瞬間以来、いっさいが決定した。コルシカの食人鬼──簒奪者──暴君──自分の姉妹に愛着した怪物──《─:》ルマタ(訳者注◇ ナポレオンがひいきにした俳優)の教えを受けた道化役者──聖地ジャファの攪乱者──猛虎──ブオナパルテ──《─:》すべてそれらは消散してしまい、そのあとには彼の頭の中に漠然たるし《/し》かも光り輝く光明が現われて、そこには届き難い高みに、シーザーの大理石像の青白《/青白》い幻が光っていた。皇帝は彼の父にとっては、人々の賛嘆し献身《/献身》する親愛《/親愛》なる将帥にすぎなかった。しかしマリユスにとっては、それ以上の何かであった。世界統一の業《ギョウ》をローマ人の一団より継承するフランス人の一団を建設すべく、使命を帯びたる者であった。破壊の驚くべき建造者であり、シャールマーニュ、ルイ十一世、アンリ四世《4世》、リシュリユー、ルイ十四世、公安委員会、などの後継者であった。またもとより、汚点や欠点《/欠点》や罪悪《/罪悪》をも有したであろう。換言すれば人間《/人間》であったであろう。しかしその欠点のうちにもお《/お》ごそかであり、その汚点のうちにも光《/光》り輝き、その罪悪のうちにも強力《/強力》であった。あらゆる国民をしてフランスを「大国民」なりと言わしめるため、天より定められた人であった。否《否/》なおそれ以上であった。手に保《-も》つ剣によってヨーロッパを征服し、放射する光によって世界を征服したる、フランス自身の権化《ゴンゲ》であった。マリユスは常に辺境に突っ立って未来《/未来》をまもる赫々たる映像を、ボナパルトのうちに認めた。専制君主ではあるがし《/し》かし執政官であり、共和より生まれて革命《/革命》の結末をつける専制君主であった。イエスが神人であるごとく、彼にとってはナポレオンは民衆人であった。  新たに一宗教にはいった者のように、明らかにその帰依は彼を酔わしてしまった。彼はそこに飛び込んで執着し、あまりに深入りしすぎた。それは彼の性質上、やむを得なかった。一度坂道《一度’坂道》にさしかかると、途中でふ《踏》み止《とど》まることがほとんどできなかった。そして剣に対する熱狂は彼をとらえ、その思想に対する心酔と頭《/頭》の中でからみ合った。彼は自ら気づかずして、天才とともにそ《/そ》して天才と一体になって、力を賛美した。言い換えれば、彼は自ら知らずして、偶像崇拝の二つの室《+部屋》の中に身を置いた、一方は神性なるもの、一方は獣性なるもの。多くの点について、彼はなお誤った方向をたどっていた。彼はすべてを承認した。人は真理の方《ほう》へ進みながら途中誤謬《/途中/誤謬》に出会うことがある。彼は一種の熱烈な誠意を持っていて、すべてを一塊にしての《飲》み込んだ。新たに|はい《入》った道理において、あたかもナポレオンの光栄を測るがように旧制《/旧制》の誤謬を判別しながら、酌量すべき事情をす《/す》べて閑却して顧みなかった。  それにしても、驚くべき一歩はふみ出されたのである。昔王政《昔’王政》の墜落を見たところに、今はフランスの高揚を見た。彼の方向は変わっていた。昔、西であったものは、今は東になっていた。彼は向きを変えていた。  すべてそれらの革新は、家《イエ》の人々が気づかぬ間に彼《/彼》のうちに成し遂げられた。  そのひそかな仕事のうちに、ブールボン派であり過激王党派《/過激王党派》だった古い外皮をまったく捨ててしまった時、《:、》貴族派、一性論派《イチ性論’派》、王党派、の衣を脱した時、革命派となり、深き民主派となり、ほとんど共和派となった時、《:、》その時彼はオルフェーヴル川岸《-カシ》のある印刷屋に行って、男爵マ《/マ》リユス・ポンメルシーという名前の名刺を百枚注文《百枚’注文》した。  それは彼のうちに起こった変化の、父を中心としてすべてが引き寄せられるに至った変化の、きわめて当然な結果の一つにすぎなかった。ただ彼は|ひとり《一人》も知己を持たず、どの門番の家へもその名刺をふりまくことができなかったので、それをポケットの中に蔵い込んだ。  またも《/もう》一つの自然な結果として、彼は父に近づくに従って、父の記憶に近づくに従って、大佐が二十五年間奮闘《二十五年間’奮闘》してきた事物に近づくに従って、祖父から遠ざかるに至った。前に言ったとおり、ジルノルマ《マ-》ン氏のむら気《っけ》は既に長い前から彼の好むところでなかった。既に彼らの間には、軽佻なる老人に対する沈重《/沈重’》なる青年のあ《/あ》らゆる不調和が存していた。ジェロントの快活はウ《/ウ》ェルテルの憂鬱を憤《いきどお》らせい《/い》ら立たせるものである。同じ政治的意見と同《/同》じ思想とがふ《/ふ》たりに共通である間は、それを橋としてマリユスはジルノルマ《マ-》ン氏と顔を合わしていた。しかし一度その橋が落つるや、ふたりの間には深淵が生じた。それからまた特に、愚かな動機によって彼を無慈悲にも大佐から引き離し、かくて父から子供を奪い子供《/子供》から父を奪ったのは、実にジルノルマ《マ-》ン氏であったことを思うと、マリユスは言うべからざる反撥の情を覚えた。  父に対する愛慕のために、マリユスはほとんど祖父を嫌悪するに至った。  けれどもそれらのことは、前に言ったとおり、外部には少しも現われなかった。ただ彼は|ますます《益々’》冷淡になって、食事も簡単にすまし、家にいることも少なくなった。伯母がそれについて小言を言った時、彼はごくおとなしくしていて、その口実に、勉強だの学校《/学校》の講義だの試験《/試験》だの講演会《/講演会》だの種々《/いろいろ》なことを持ち出した。祖父の方《ほう》はその一徹な見立てを少しも変えなかった。「女のことだ。よくわかってる。」  マリユスは時々家《ときどき’家》をあけた。 「あんなにしてどこへ行くのでしょう。」と伯母は尋ねた。  その不在はいつもごくわずかな時日だったが、そのうちに彼はある時《とき》、父が残したいいつけを守らんために、モンフェルメイュに行って、昔のワーテルローの軍曹である旅亭主《リョ亭主/》テナルディエを|さが《探》した。しかしテナルディエは破産して、宿屋は閉ざされ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のために、マリユスは四日間家《四日間’家》をあけた。 「確かにこれは調子が狂ってきたんだな。」と祖父は言った。  彼がシャツの下に何かを黒《/黒》いリボンで首から胸にかけてるのを、ふたりは見たようにも思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【ある艶種】 ◇。◇。◇。◇。◇。  |ひとり《一人》の槍騎兵のことを前にちょっと述べておいた。  それはジルノルマ《マ-》ン氏の父方の系統で、甥の子に当たり、一族の外にあって、いずれの家庭からも遠く離れ、兵営の生活を送っていた。そのテオデュール・ジルノルマン中尉は、いわゆるきれいな将校たるすべての条件をそなえていた。「女のような身体つき」をし、揚々たる態度でサーベルを引きずり、髭を上に巻き上げていた。時にパリーに来ることがあったが、それもごくまれで、マリユスはかつて会ったことがないくらいだった。ふたりの従兄弟は互いに名前だけしか知ってはいなかった。前に言ったと思うが、テオデュールはジルノルマン伯母の気に入りだった。そしてそれも、常に顔を合わしていないからに過ぎなかった。常に会っていないといろいろよく思われるものである。  ある日の朝姉《朝/姉》のジルノルマン嬢は、その平静さのうちにもさすがに興奮して、自分の室《+部屋》に戻ってきた。マリユスがまた祖父に向かって、ちょっと旅をしたいと申し出たのである。しかもすぐその晩にたちたいと言った。「行っておいで、」と祖父は答えた。そしてジルノルマ《マ-》ン氏は額の上まで両《/両》の眉を上げながら、|ひとり《一人》して言った、「また家をあけるんだな。」それでジルノルマン嬢は非常に心痛して自分《/自分》の室《部屋》に上ってゆきながら階段の所で、「あまりひどい!《/》」と憤慨の言葉をもらし、《:、》「だがいったいどこへ行くんだろう?」と疑問の言葉をもらした。何か道ならぬ艶事、ある影の中の女、ある媾曳、ある秘密、そういうことに違いないと彼女は思い、少しばか《か-》り探ってみるのも当然だと考えた。秘密を探って味わうことは、悪事を最初にかぎ出すのと同じ趣味で、聖《清》い心の者もそ《/そ》れに不快を覚えないものである。熱心な信仰の人の心のうちにも、汚れたる行ないに対する好奇心があるものである。  それで彼女は、事情を知りたいという漠然とした欲望にとらわれた。  平素の落ち着きにもかかわらず、多少不安《多少’不安》なそ《/そ》の好奇心をまぎらすために、彼女は自分の技芸のうちに逃げ込んで刺繍《/刺繍》を初めた。それは車の輪がたくさんにある帝政および復古時代の刺繍の一つで、綿布の上に綿糸《/綿糸》でなすのだった。退屈な仕事に頑固な女工という形である。そうして彼女は幾時間もの間椅子《あいだ/椅子》に|すわ《座》りきりでいた。すると扉が開いた。ジルノルマン嬢は顔を上げた。中尉のテオデュールが前に立っていて、軍隊式の礼をしていた。彼女は喜びの声を上げた。お婆さんであり、似而非貞女であり、信者であり、伯母であっても、自分の室《+部屋》に一人の槍騎兵がはいって来るのを見ては、うれしからざるを得ないわけである。 「まあ、テオデュール!」と彼女は叫んだ。 「ちょっと通りかかりましたので。」 「まあ初めに‥‥。」 「ええ今!」とテオデュールは言った。  そして彼は伯母を抱擁した。ジルノルマン伯母は机の所へ行って、その抽出《引き出》しをあけた。 「少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。」 「いえ、今晩帰《今晩’帰》ります。」 「そんなことがお前!」 「でもそうなんです。」 「でもテオデュールや、泊まっていっておくれ、お願いだから。」 「私の心ははいと言いますが、命令がいえと言います。ごく簡単な事情です。私どもの兵営が変わって、今までムロンだったのが、ガイヨンになったんです。で元《/元》の営所からこんどの営所へ行くには、パリーを通らなければなりません。それで私は、ちょっと伯母さんに会って来ると言ってやってきました。」 「そしてこれはその骨折りのためにね。」  彼女はルイ金貨を十個彼《十個/彼》の手に握らした。 「いえお《/お》目にかかる私の喜びのためにと言って下さい、伯母さん。」  テオデュールは彼女をまた抱擁した。その時、軍服の金モールのために首筋がちょっとすりむけたのを、彼女はかえってうれしく感じた。 「でお《/お》前は連隊について馬で行くんですか。」 「いいえ伯母さん。あなたにお目にかかりたかったんです。それで特別の許可を受けてきました。従卒が馬をひいていってくれますから、私は駅馬車で行きます。それについて、少しお尋ねしたいことがありますが。」 「何《なん》ですか。」 「従弟《従兄弟》のマリユス・ポンメルシーも旅行するんですか。」 「どうしてそれを知っています?」と伯母はにわかに強い好奇心にそそられて言った。 「こちらへ着いてから、前部の席を約束しておこうと思って馬車屋へ行きました。」 「すると?」 「すると|ひとり《一人》の客が上部の席を約束していました。私はその名札を見ました。」 「何という名でした。」 「マリユス・ポンメルシーというんです。」 「まあ何《/なん》ということでしょう。」と伯母は叫んだ。「お前の従弟《従兄弟》はお前のようにちゃんとした子ではないんですよ。駅馬車の中で夜を明かそうなんて。」 「私と同じようにですね。」 「いえお《/お》前の方《ほう》は義務ですからね。あれのは無茶なんです。」 「おやおや!」とテオデュールは言った。  そこで姉のジルノルマン嬢に一事件が起こった。ある考案が浮かんだのである。もし男だったら額《ヒタイ》をたたくところだった。彼女はテオデュールに尋ねはじめた。 「お前の従弟《従兄弟》はお前を知ってるでしょうか。」 「いいえ。私の方《ほう》は従弟《従兄弟》を見たことがあります、けれど向こうでは一度も私に目を向けたことはありません。」 「でお《/お》前さんたちはちょうどいっしょに旅するわけですね。」 「ええ、彼は上部の席で、私は前部の席で。」 「その駅馬車は《は-》どこへ行くんです。」 「アンドリーへです。」 「ではマリユスはそこへ行くんでしょうね。」 「ええ、私のように途中で降《-お》りさえしなければ。私はガイヨンの方《ほう》へ乗り換えるためにヴェルノンで降ります。私はマリユスがどの方《ほう》へ行くつもりかは少しも知りません。」 「マリユスって、まあ何《/なん》て賤しい名でしょうね。どうしてマリユスなんていう名をつけたんでしょう。だけどお前の方《ほう》はまあ、テオデュールというんですからね。」 「でもアルフレッドという方《ほう》が私は好きです。」と将校は言った。 「まあ聞いておくれよ、テオデュール。」 「聞いていますよ、伯母さん。」 「気をつけてですよ。」 「気をつけていますよ。」 「いいですかね。」 「はい。」 「ところで、マリユスはよく家をあけるんですよ。」 「へえー。」 「旅をするんですよ。」 「ハハア。」 「泊まってくるんですよ。」 「ほほう。」 「どうしたわけか知りたいんですがね。」  テオデュールは青銅で固めた人のように落ち着き払って答えた。 「何か艶種でしょう。」  そしてまちがいないというような薄ら笑いをして、彼は言い添えた。 「女ですよ。」 「そうに違いない。」と伯母は叫んだ。彼女はジルノルマ《マ-》ン氏の言葉を聞いたような気がし、大伯父と甥の子とからほ《/ほ》とんど同じように力をこめて言われた女という言葉によって、自分の思っていたところも確かなものとなったように感じた。彼女は言った。 「私たちの頼みをきいておくれよ。マリユスのあとを少しつけておくれよ。向こうではお前を知らないから、わけはないでしょう。女がいるとすれば、それも見届けるようにね。そして始終のことを知らしておくれ。お祖父さんも喜ばれるでしょうから。」  テオデュールはそんな探索の役目にあまり趣味を持たなかった。しかし彼はルイ金貨十個《金貨’十個》にひどく心を打たれていたし、も《もう》一度もらえるかも知れないと思った。でそ《/そ》の仕事を引き受けて言った、「承知しました、伯母さん。」そして彼は一人でつけ加えた、「監督になったわけだな。」  ジルノルマン嬢は彼を抱擁した。 「テオデュールや、お前はそんな悪戯はしないでしょうね。お前はただ規律に従い、命令を守り、義務を果たす謹直な人で、家《’家》をすてて女に会いに行くなどということはないでしょうね。」  槍騎兵は凶賊カ《/カ》ルトゥーシュが誠直《セイチョク》だと言ってほめられたような満足の渋面をした。  そういう対話が行なわれた日の夕方、マリユスは監視されてることに気もつかずに、駅馬車に乗った。監視人《監視ニン》の方《ほう》では、第一にまず眠ってしまった。それは他意ない眠りだった。アルゴス(訳者注◇ 百《100》の目をそなえ五十《/五十》の目ずつ交代に眠るという怪物)は終夜鼾《終夜’鼾》をかいて眠ってしまったのである。  夜明けに御者は叫んだ。「ヴェルノン、ヴェルノン宿、ヴェルノンで降りる方!」そして中尉のテオデュールは目をさました。 「そうだ、」と彼はまだ半ば夢の中にあってつぶやいた、「ここで降りるんだった。」  それから、目がさめるにつれて記憶が|しだい《次第》に明らかになってゆき、伯母のこと、ルイ金貨十個《金貨’十個》のこと、マリユスの挙動を知らせると約束したことなどを、彼は思い出した。そして|ひとり《一人》で笑い出した。 「もう馬車にいは《は-》すまい。」と彼はふだんの軍服の上衣のボタンをかけながら考えた。「ポアシーに止まったかも知れない。トリエルに止まったかも知れない。それとも、ムーランで降《-お》りなかったらマントかな。あるいはロルボアーズで降《-お》りたかな。またはパッシーまできたかな。そして左へ曲がってエヴルーの方《ほう》へ行ったか、右へ曲がってラローシュ・ギーヨンの方《ほう》へ行ったかな。追っかけようたって|だめ《駄目》だし、お人よ《好》しの伯母へは、さて何と書いてやったものだろう。」  その時上部《時’上部》の室《部屋》から降りる黒いズボンが、前部の室《+部屋》のガラス戸から見えた。 「マリユスかしら?」と中尉は言った。  それはマリユスだった。  馬車の下には、馬や御者などの間に交じって、小さな田舎娘が旅客《/旅客》に花を売っていた。「おみやげの花はいかが、」と彼女は呼んでいた。  マリユスはそれに近寄って、平籠の中の一番美しい花を買った。 「なるほど、」と前の部屋から飛び降りながらテオデュールは言った、「これはおもしろくなってきた。どんな女にあの花を持ってってやるのかな。あんなきれいな花を持ってゆくくらいだから、よほどの別嬪に違いない。ひとつ見てやろう。」  そしても《/も》う今度は、言いつかったためではなく、自分の好奇心からして、あたかも自ら好きで狩りをする犬のように、彼はマリユスのあとをつけはじめた。  マリユスはテオデュールに何らの注意も払わなかった。りっぱな女たちが駅馬車から降りてきたが、彼はその方《ほう》にも目を注《-そそ》がなかった。彼は周囲のこと何一つ目に|はい《入》らないようだった。 「よほど夢中になってるな。」とテオデュールは考えた。  マリユスは教会堂の方《ほう》へ向かって行った。 「すてきだ。」とテオデュールは自ら言った。「会堂だな。弥撒《+ミサ》でちょっと味をつけた媾曳はいいからな。神様の頭越しに横目とはしゃれてるからな。」  教会堂まで行くと、マリユスはその中に|はい《入》らないで、裏手の方《ほう》へ回っていった。そして奥殿《オクドノ》の控壁の角《カド》に見えなくなった。 「外で会うんだな。」とテオデュールは言った。「ひとつ女を見てやるかな。」  そして彼は靴の爪先で立って、マリユスが曲がった角《カド》の方《ほう》へ進んで行った。  そこまで行くと、彼は呆然と立ち止まった。  マリユスは額を両手の中に伏せて、一つの墓の叢《草むら》の中にひざまずいていた。花はそこに手向けられていた。墓の一端《イッタン》に、その頭部のしるしたる小高い所に、黒い木の十字架が立っていて、白い文字がしるしてあった、「陸軍大佐男爵《陸軍大佐’男爵/》ポンメルシー。」マリユスのむせび泣く声が聞こえた。  女とは一基《イッ基》の墓だったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【花崗岩と大理石】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスが初めてパリーを去って旅したのは、そこへであった。ジルノルマ《マ-》ン氏が「家をあけるんだな。」と言ったたびごとに彼が立ち戻ったのは、そこへであった。  中尉テオデュールは、意外にも墳墓に出くわしてま《”ま》ったく唖然とした。墳墓に対する敬意と大佐《/大佐》に対する敬意との交じった、自ら解き得ない一種の不思議な不安《/不安》な感情を覚えた。そしてマリユスをひとり墓地に残して退いた。その退却には規律があった。死者は大きな肩章をつけて彼に現われ、彼はそれに対して挙手の礼をしようとまでした。伯母に何と書いてやっていいかわからないので、結局何《結局なん》にも書いてやらないことにした。そしてそのままでは、マリユスの恋愛事件についてテオデュールがなした発見からは、おそらく何らの結果も起こらなかったであろうが、《:、》しかし偶然のうちにしばしばある不思議《/不思議》な天の配剤によって、ヴェルノンのそのできごとの後間《あと間》もなく、パリーで一つの事件がもち上がった。  マリユスは三日目《3日目》の朝早《あさ早》くヴ《/ヴ》ェルノンから帰ってきて、祖父の家に着いた。そして駅馬車《/駅馬車》の中で二晩《フタ晩》過ごしたためにす《/す》っかり疲れていて、《:、》水泳場に一時間ばかり行って不眠《/不眠》を補いたくなったので、急いで自分の室《+部屋》に上がって行き、旅行用のフロックと首《/首》にかけていた黒い紐とを脱ぐが早いか、すぐに水泳場へ出かけて行った。  ジルノルマ《マ-》ン氏は健康な老人の例にもれず朝早《/朝早》くから起きていて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足の及ぶ限り大急ぎで、マリユスの室《+部屋》がある上《/上》の階段を上がっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちに種々《いろいろ》尋ねてみて、どこから帰ってきたかを少し知ろうと思った。  しかし八十以上の老人が上がって来るのよりも、青年が下《-お》りてゆく方《ほう》が早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋に|はい《入》ってきた時には、マリユスはもうそこにいなかった。  寝床《ねどこ》はそのままになっており、その上には何の気もなしに、フロックと黒い紐とが散らかしてあった。 「この方《ほう》がよい。」とジルノルマ《マ-》ン氏は言った。  そして間もなく彼《/彼》は客間にはいってきた。そこには既に姉のジルノルマン嬢が席についていて、例の車の輪を刺繍していた。  ジルノルマ《マ-》ン氏は得意げにはいってきたのである。  彼は片手にフロックを持ち、片手に首のリボンを持っていた。そして叫んだ。 「うまくいった。これで秘密が探れる。底の底までわかる。悪戯者の放蕩に手をつけることができる。種本を手に入れたようなものだ。写真もある。」  実際、メダルに似寄《似通》った黒い粒革の小箱がリボンに下がっていた。  老人はその小箱を手に取って、しばらく開きもしないでじっとながめた。あたかも食に飢えた乞食が自分《/自分》のでないり《/り》っぱなごちそうが鼻の先にぶら下がってるのをながめるような、欲望と喜悦《/喜悦》と憤怒《/フンヌ》との交じってる様子だった。 「これは確かに写真だ。こんなことを私《儂》はよく知っている。胸にやさしくつけてるものだ。実に|ばか《馬鹿》げた者どもだ。見るもぞっとするような恐ろしい下等な女に違いない。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね。」 「まあ見ようではありませんか、お父さん。」と老嬢は言った。  ばねを押すと小箱は開いた。中にはただ、ていねいに畳んだ一片の紙があるのみだった。 「同じことは一つことだ。」と言ってジルノルマ《マ-》ン氏は笑い出した。「これもわかってる。艶文《+イロブミ》というやつだ。」 「さあ読んでみましょう。」と伯母は言った。  そして彼女は眼鏡をかけた。ふたりはその紙を開いて、次のようなことを読んだ。 ◇。◇。  予が子のために──皇帝はワーテルローの戦場にて予《/予》を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって購《贖》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこ《/こ》れを取りこ《/こ》れを用《-もち》うべし。もとより予が子はそ《/そ》れに価するなるべし。 ◇。◇。  父と娘とが受けた感情は、とうてい言葉には尽し難《がた》い。彼らは死人の頭から立ち上る息吹で凍らされでもしたように感じた。互いに一言もかわさなかった。ただジルノルマ《マ-》ン氏は自分自身に話しかけるように低い声で言った。 「あのサーベル奴《め》の字だ。」  伯母はその紙を調べ、種々《いろいろ》ひっくり返してみ、それから小箱の中にしまった。  同時に、青い紙《’紙》にくるんだ小さな長方形の包みが、フロックのポケットから落ちた。ジルノルマン嬢はそれを拾い上げて、青い紙《’紙》を開いてみた。それはマリユスの百枚の名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマ《マ-》ン氏に差し出した。彼は読んだ、「男爵マ《/マ》リユス・ポンメルシー。」  老人は呼び鈴を鳴らした。ニコレットがやってきた。ジルノルマ《マ-》ン氏はリボンと小箱《/小箱》とフ《/フ》ロックとを取り、それらを室《+部屋》のまんなかに、床にたたきつけた。そして言った。 「その|ぼろ《ボロ》屑を持ってゆけ。」  一時間ばかりの間《あいだ》はまったく深い沈黙のうちに過ごされた。老人と老嬢とは互いに背中合わせにすわり込み、各自に、そしてたぶんは同じことを、思いめぐらしていた。終わりにジルノルマン伯母は言った。 「よいざまだ!」  やがてマリユスが現われた。戻ってきたのである。そして室《部屋》の閾《+敷居》を|また《跨》がないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手《一枚’手》に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、何かしらてきびしい市民的《/市民的》な冷笑的《/冷笑的》な高圧さで叫んだ。 「これ、これ、これ、これ、お前は今は男爵だな。お祝いを言ってあげよう。いったい何《-なん》という訳だ?」  マリユスは少し顔を赤らめて答えた。 「私は父の子だという訳です。」  ジルノルマ《マ-》ン氏は冷笑をやめて、きびしく言った。 「お前の父というのは、私だ。」 「私の父は、」とマリユスは目を伏せ厳格《/厳格》な様子をして言った、「謙遜なそ《/そ》して勇壮な人でした。共和とフランスとにりっぱに仕えました。人間がかつて作った最《/最》も偉大な歴史の中の偉人でした。二十五年余りの間露営《あいだ露営》のうちに暮らしました、昼は砲弾と銃火の下《シタ》に、夜は雪の中に、泥《ドロ》にまみれ、雨に打たれて暮らしました。軍旗を二つ奪いました。二十余の傷を受けました。そして忘れられ捨《/捨》てられて死にました。しかもその誤《過》ちと言ってはただ、自分の国と私と、ふたりの忘恩者をあ《/あ》まりに愛しすぎたということばかりでした。」  それはジルノルマ《マ-》ン氏の聞くにたえないことだった。共和という言葉で彼は立ち上がった、否《否/》なおよく言えばつっ立った。そしてマリユスの発する一語一語に、鉄工場《鉄’工場》の韛《鞴》の息を炭火《/炭火》の上に吹きかけるようなさまが、その王党の老人の顔に現われた。彼の顔色は薄墨色から赤となり、赤から真紅となり、真紅から炎の色と変じた。 「マリユス!」と彼は叫んだ、「言語道断な奴だ! お前の親父がどんな男だったか、そんなことは私《儂》は知らん。知ろうとも思わん。いっさい知らん、顔も知らん。ただ私が知ってるのは、奴らが皆悪党《-みんな悪党》だったことだけだ。人非人、人殺し、赤帽子、盗人《盗っ人》、だけだったことだ。皆《みんな》そうだ。皆《みんな》そうだ。私はだれも知らん。皆《みんな》いっしょにして言うんだ。わかったか、マリユス! お前が男爵だって! ロベスピエールに仕えた奴らは皆山賊《-みんな山賊》だ。ブ‥オ‥ナ‥パルテに仕えた奴らは皆無頼漢《-みんな無頼漢》だ。正当な国王に背き、背き、背いた奴らは皆謀反人《-みんな謀反人》だ。ワーテルローでプロシア人とイギリス人との前から逃げ出した奴らは皆卑怯者《-みんな卑怯者》だ。私が知ってるのはそれだけのことだ。お前の親父さんもその中にいたかどうか、私は知らん。はなはだ気の毒の至りだ。」  こんどはマリユスが炭火で、ジルノルマ《マ-》ン氏が韛《鞴》となった。マリユスは手足を震わし、どうなるかを知らず、頭は燃えるようだった。彼は聖餐が風《/風》に投げ散らされるのを見る牧師のようであり、偶像の上に通行人《/通行人》が唾してゆくのを見る道士のようだった。そういうことが自分の前で臆面もなく言われるのは許すべからざることのように思われた。しかしどうしたらいいか。父は自分の面前で足下に踏みつけられ踏《/踏》みにじられた。しかも|だれ《誰》によってであるか。祖父によってではないか。一方を凌辱することなくして一方《/一方》を復讐することがどうしてできよう。祖父を辱《恥ずか》しむることはできない、また、父の讐を報じないで捨《/捨》ておくことも同じくできない。一方には神聖なる墳墓があり、他方には白髪がある。しばらく彼は酔ったようによろめきながら、頭の中には旋風が渦巻いた。やがて彼は目を上げ、祖父をじっと見つめ、そして雷のような声で叫んだ。 「ブールボン家《ケ》なんかぶっ倒れるがいい、ルイ十八世の大豚めも!」  ルイ十八世はもう四年前に死んでいた。しかしそんなことは彼にはどうでもよかった。  老人は|まっか《真っ赤》になっていたが、突然《突然’》髪の毛よりもなお白くなった。彼は暖炉の上にあったベリー公の胸像の方《ほう》を向いて、変に荘重な態度で深く礼をした。それから黙ったままおもむろに暖炉から窓へ、窓から暖炉へと、二度室《+二度’部屋》の中を横ぎり、石の像が歩いてるように床《/床》をぎしぎしさした。二度目の時彼は、年取った羊のように惘然《+モウ然》としてその衝突をながめていた娘の方《ほう》へ身をかがめて、ほとんど冷静な微笑をたたえて言った。 「この人のような男爵と、私《儂》のような市民とは、とうてい同じ屋根の下にいることはできない。」  そして急に身を起こし、まっさおになり、う《打》ち震い、恐ろしい様子になり、恐るべき憤怒《フンヌ》の輝きに額《ヒタイ》を一段と大きくして、マ《マ-》リユスの方《ほう》に腕を差し伸ばして叫んだ。 「出て行け。」  マリユスは家を去った。  翌日、ジルノルマ《マ-》ン氏は娘に言った。 「あの吸血児の所へ|六カ《6ヶ》月ごとに六十ピストル(訳者注◇ ピストルは金貨にして十《ジュッ》フランに当たる)だけ送って、もう決してあいつのことを私の前で口にしてはいけません。」  まだ吐き出すべき激怒がたくさん残っており、しかもそのやり場に困って、彼はそれから三カ月以上も続けて、自分の娘に他人がましい冷《/冷》ややかな口をきいていた。  マ《マ-》リユスの方《ほう》でもまた、憤《おこ》って家《イエ》を飛び出した。そして彼の激昂《ゲッコウ》を強めた一事があったことをち《/ち》ょっと言っておかなければならない。家庭の紛紜を複雑にするそ《/そ》れらのこまかな不祥事が常にあるもので、たとい根本《コンポン》においてはそのために不正が増大するものではないとしても、損失はそのために大きくなるものである。ニコレットは祖父の命令によって、大急ぎでマリユスの「|ぼろ《ボロ》屑」をその室《+部屋》に持ってゆきながら、自分でも気づかずに、たぶん薄暗い上《/上》の階段にでもあろうが、大佐の書いた紙片がはいっている黒い粒革の箱を落とした。そしてその紙も箱も見つからなかった。きっと「ジルノルマ《マ-》ン氏」が──その日以来もうマリユスは祖父のことをそういうふうにしか決して呼ばなかった──「父の遺言」を火中に投じたものと、マリユスは思い込んだ。彼は大佐が書いたその数行《スウギョウ》を暗記していたので、結局何《結局’何》らの損害をも受けはしなかった。しかしその紙《’紙》、その筆蹟、その神聖な形見、それは実に彼の心だったのである。それがどうされたのであるか?  マリユスは《は-》どこへ行くとも言わず、またどこへ行くつもりか自分でも知らず、三十《サンジュッ》フランの金《-かね》と、自分の時計と、旅行鞄に入れた|二、三《二’三》枚の衣服とを持って、家を出て行った。そして辻馬車に飛び乗り、時間借《時間ガ》りにして、ラタン街区の方《ほう》へあ《/あ》てもなく進ました。  マリユスはどうなりゆくであろうか? ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四編《第4編》】 【ABCの友】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【歴史的たらんとせし一団】 ◇。◇。◇。◇。◇。  外見は冷静であったがこ《/こ》の時代には、一種《1種》の革命的な戦慄が漠然と行き渡っていた。1789年および1792年の深淵から起こった息吹は、空気の中に漂っていた。こういう言葉を用いるのが許されるならば、青年は声変わりの時期にあったのである。人々はほとんど自ら知らずして、当時の機運につれて変化しつつあった。羅針盤の面を回る針《’針》は、同じく人の心の中《うち》をも回っていた。各人はその取るべき歩みを前方に進めていった。王党は自由主義者となり、自由主義者は民主主義者となっていた。  それは多くの引き潮を交錯した一《/一》つの上げ潮のごときものであった。引き潮の特性は混和をきたすものである。そのためにきわめて不可思議な思想の結合を生じた。人々は同時にナポレオンと自由とを崇拝した。われわれは今ここに物語の筆を進めているが、この物語は実に当時《/当時》の映像なのである。当時の人々の意見は多様な面を通過していた。ヴォルテール的勤王主義はずいぶんおかしなものであるが、ボナパルト的自由主義も同じく不可思議なもので、まったく好一対であった。  その他の精神的団体には、いっそう|まじめ《真面目》なものがあった。それらの人々は原則を探究し、権利に愛着していた。絶対なるものに熱狂し、無限の実現を|のぞ《覗》き見ていた。絶対なるものはその厳酷さによって、人の精神を蒼空《青空》に向かわしめ、無限なるもののうちに浮動せしむる。夢想を生むには、独断に如《-し》くものはな《無》い。そして未来を生み出すには、夢想に如《-し》くものはな《無》い。今日の空想郷《空想キョウ》も、明日はやがて肉と骨とを|そなう《ソナウ》るに至るであろう。  進んだ思想は二重《’2重》の基調を持っていた。秘奥が見えそめて来ると、疑わしい狡猾な「打ち建てられたる秩序」は脅かされるに至った。それは最高の革命的徴候である。権力の下心は対濠《+タイゴウ》のうちにおいて民衆《/民衆》の下心と相見ゆる。暴動の孵化はクーデターの予謀に策応する。  当時フランスには、ドイツのツーゲンドブンドやイ《/イ》タリーのカルボナリのごとき、広汎な下層の結社組織はまだ存していなかった。しかし所々に、秘密な開発が行なわれ、枝をひろげつつあった。クーグールド結社はエークスにできかかっていた。またパリーにはこの種の同盟が多くあったが、なかんずくABCの友なる結社があった。  ABCの友とは何《-なん》であったか? 外見は子供の教育を目的としていたものであるが、実際は人間の擡頭を目的としていたものである。  彼らは自らABCの友と宣言していた。ABC(アーベーセー)とは、|〔Abaisse'〕《アベッセ》 にして、民衆の意であった(訳者注◇ 両者の音が共通なるを取ったもので、アベッセは抑圧されたるものという意)。彼らは民衆を引き上げようと欲していた。駄洒落だと笑うのはまちがいである。駄洒落はしばしば政治において重大なものとなることがある。その例、ナルセスを一軍の指揮官たらしめたカ《/カ》ストラトスはカストラへ(去勢者は陣営へ)。その例、バルバリとバルベリニ(野蛮とバルベリニ)。その例、フエロスとフエゴス(法典とフエゴス)。その例、汝はペトロスなり、我《吾》このペトラムの上に(汝はペテロなり、我《吾》この石の上に我が教会を建てん)。  ABCの友はあまり大勢《大ぜい》ではなかった。それは芽ばえの状態にある秘密結社だった。もし親しい仲間というものが英雄になり得るとすれば、ほとんど親しい仲間と言ってもいい。彼らは巴里の二カ所で会合していた。一つは市場《イチバ》の近くのコラントと呼ぶ居酒屋、これは後《-あと》になって問題となるものである。それからも《もう》一つは、パンテオンの近くで、サン・ミシェル広場のミューザンという小さな珈琲《+コーヒー》店、これは今日《コンニチ》なくなっている。第一の集会の場所は、労働者の出入りする所で、第二の方《ほう》は学生の出入りする所だった。  ABCの友の|ふだん《普段》の秘密会は、ミューザン珈琲《+コーヒー》店の奥室《オクベヤ》で催された。その広間は店からかなり離れていて、ごく長い廊下で店に通じ、窓が二つあり、グレー小路に面して秘密《/秘密》な梯子がついてる出口が一つあった。人々はそこで煙草をふかし、酒を飲み、カルタ遊びをし、または笑い声をあげていた。ごく高い声であらゆることを語っていたが、あることは低い声で話し合っていた。壁には共和時代のフランスの古びた地図がかけられていたが、それだけでも警官の目を光らせるには十分だった。  ABCの友の大部分は若干の労働者らと親《/親》しく意志が疎通してる学生らであった。重なる人々の名前をあげれば下のとおりで、ある程度まで歴史のうちにはいるものである。すなわち、アンジョーラ、コンブフェール、ジャン・プルーヴェール、フイイー、クールフェーラック、バオレル、レグルまたはレーグル、ジョリー、グランテール。  それらの青年は、友情のあまり一種《/一種》の家庭的な親しみを互いに持っていた。すべての人々は、レーグルは別として、南部生まれの者だった。  それは顕著なる一団であった。しかもわれわれの背後にある目《/目》に見えない深淵の中に消えうせてしまった。しかしその青年等《青年ら》が悲壮《/悲壮》なる暴挙の影のうちに没してしまうのを見る前に、われわれがたどりきたった物語のこの所《ところ》で、彼らの頭上に一条《/一条》の光をさし向けてみることは、おそらく無益なことではないだろう。  われわれはアンジョーラを第一にあげたが、その理由は後《のち》にわかるだろう。彼は富裕なひとり息子であった。  アンジョーラは、魅力のあるし《/し》かも恐ろしいことをもや《-や》り得る青年だった。彼は天使のように美しかった。野蛮なるアンチノオス(訳者注◇ ハドリアヌス皇帝の寵臣たりし非常《/非常》に美しきビシニヤ人のどれい)であった。彼の目の瞑想的なひらめきを見れば、過去のある生活において、既に革命の黙示録を渉猟したもののように思われるのだった。彼は親しく目撃でもしたかのように革命《/革命》の伝説を知っていた。偉大なる事物の些細な点まですべて知っていた。青年には珍しい司教的なま《”ま》た戦士的な性質だった。祭司であり、戦士であった。直接の見地から見れば、民主主義の兵士であり、同時代の機運を離れて見れば、理想に仕える牧師であった。深い瞳と、少し赤い眼瞼《目蓋》と、すぐに人を軽蔑しそうな厚い下脣と、高い額《ヒタイ》とを持っていた。顔に広い額《ヒタイ》があることは地平線《/地平線》に広い空があるようなものである。時々《ときどき》青ざめることもあったが、十九世紀の始めや十八世紀の終わりに早《/早》くから名を知られたある種の青年らのように、若い娘のようないきいきした有《/有》り余った若さを持っていた。既に大きくなっていながら、まだ子供のように見えた。年《とし》は二十二歳であるが、十七歳の青年のようだった。きわめて|まじめ《真面目》で、この世に女性というものがいることを知らないかのようだった。彼の唯一の熱情は、権利であり、彼の唯一の思想は、障害をくつがえすことであった。アヴェンチノ山《サン》に登ればグ《/グ》ラックスとなり、コンヴァンシオン(民約議会)におればサ《/サ》ン・ジュストともなったであろう。彼はほとんど薔薇を見たことがなく、春を知らず、小鳥の歌うのを聞いたことがなかった。エヴァドネの露わな喉にも、アリストゲイトンと同じく彼《/彼》は心を動かされなかったであろう。彼にとってはハルモディオスにとってと同じく、花は剣を隠すに都合がよいのみだっ《-っ》た。彼は喜びの中にあっても厳格だった。共和以外のすべてのものの前には、貞操を守って目《/目》を伏せた。彼は自由の冷ややかな愛人であった。彼の言葉は痛烈な霊感の調を帯び、賛美歌の震えを持っていた。彼は思いもよらない時に翼をひろげた。彼のそばにあえて寄り添わんとする恋人こそ不幸なるかなである。もしカンブレー広場やサン・ジャン・ド・ボーヴェー街の|浮わ気女工《浮気女工》らにして、中学から抜け出たばかりのような彼の顔、童のような首筋、長い金色の睫毛、青い目、風にそよぐ髪、薔薇色の頬《ホオ》、《:、》溌剌とした脣、美しい歯並み、などを見て、その曙のごとき姿に欲望をそそられ、アンジョーラの上に|おの《己》が美容を試みんとするならば、《:、》意外な恐ろしい目つきが、突如として彼女に深淵を示し、ボーマルシェーの洒落者の天使とエ《/エ》ゼキエルの恐るべき天使とを混同すべからざることを、教えてやったであろう。  革命の論理を代表せるアンジョーラと相並んで、コンブフェールは、革命の哲学を代表していた。革命の論理とそ《/そ》の哲学との間には、次のような差異があった。すなわち、論理は戦争に帰結され得るが、哲学はただ平和に到達するのみが可能である。コンブフェールはアンジョーラを補い訂正《/訂正》していた。彼の方《ほう》がより低くそ《/そ》してより広かった。彼は人の精神に、一般的観念の広い原則を注ぎ込まんと欲した。彼は言っていた、「革命だ、しかし文明だ。」そしてつき立った山の回りに、広い青い地平線を開いた。それゆえ、コンブフェールの見解のうちには近《/近》づき得る実行《/実行》し得るものがあった。コンブフェールを以ってする革命は、アンジョーラをもってする革命よりもい《/い》っそうのびのびとしていた。アンジョーラは革命の神聖なる権利を表現し、コンブフェールはその自然なる権利を表現していた。前者はロベスピエールに私淑し、後者はコンドル《ル-》セーに接近していた。コンブフェールはアンジョーラよりも多くあ《/あ》らゆる世界の生活に生きていた。もしこのふたりの青年にして歴史《/歴史》に現われることが許されたならば、一方は正しき人となり、一方は賢き人となったであろう。アンジョーラはより男性的であり、コンブフェールはより人間的であった。人間と男性、実際そこに彼らの色合いの差異があった。天性の純白さによって、アンジョーラがきびしかったごとくコ《/コ》ンブフェールは優しかった。彼は市人と言う言葉を愛したが、人間と言う言葉をいっそう好んでいた。彼はスペイン人のように、ホンブル(訳者注◇ 人間という意味でまた一種のカルタ遊びの名)と喜んで言ったであろう。彼はあらゆるものを読み、芝居に行き、公開講義を聞きに行き、アラゴから光の分極の理を学び、《:、》外頸動脈と内頸動脈との二重作用《二重’作用》を説明して、一つは顔面に行き一《/一》つは脳髄に行っているという、ジョフロア・サン・ティレールの説に熱中した。彼は時勢に通暁し、一歩一歩学問《一歩一歩’学問》を研究し、サン・シモンとフーリエを対照し、象形文字を読み解き、小石を見つけて砕いては地質学《/地質学》を推理し、記憶だけで蚕《/蚕》の蛾を描《-えが》き、《:、》アカデミー辞典のフランス語の誤謬を指摘し、ピュイゼギュールやド《/ド》ルーズを研究し、何物をも、奇蹟であろうとも、これを肯定せず、何物をも、幽霊であろうともこ《/こ》れを否定せず、《:、》機関紙のとじ込みをめくり、よく思いを凝らし、未来は学校教師の手にあると断言し、教育問題を心にかけていた。知的および道徳的水準の向上、知識の養成、思想の普及、青年時代における精神の発育、などのために社会が絶えず努力することを欲した。また現在の研究法の貧弱《貧弱’》さ、いわゆるクラシックと称する|二、三《/二’三》世紀に限られた文学的見解のみじめさ、《:、》官界衒学者の暴君的専断、スコラ派の偏見、旧慣、などがついにはフランスの大学をして牡蠣(愚人)の人工培養場《人工培養ジョウ》たらしむるに至りはしないかを気づかっていた。彼は学者で、潔癖で、几帳面で、多芸で、勉強家で、また同時に、友人らのいわゆる「空想的なるまでに」思索的であった。彼は自分のすべての夢想を信じていた、すなわち、鉄道、外科手術における苦痛の減退、暗室中の現象、電信、軽気球の操縦など。のみならず、人類に対抗して迷信《/迷信》や専断《/専断》や偏見《/偏見》によって至る所に建てられた要塞には、あまり恐れをいだかなかった。学問はついに局面を変えるに至るであろうと考えてる者の|ひとり《一人》だった。アンジョーラは首領であり、コンブフェールは指導者であった。一方は共に戦うべき人であり、一方は共に歩くべき人であった。とは言え、コンブフェールとても戦うことを得なかったのではない。彼は障害と接戦し、溌剌たる力と爆発《/爆発》とをもって攻撃することを、あえて拒むものではなかった。しかしながら、公理を教え着実《/着実》なる法則を流布して、|しだい《次第》に人類をその運命と調和させて行くこと、それが彼の喜ぶところのものだった。そして二つの光の中で、彼の傾向は、焼き尽す光よりもむ《/む》しろ輝き渡る光の方《ほう》にあった。火事は疑いもなく曙を作ることができるであろう。しかし何《なに》ゆえに太陽の登るのを待ってはいけないか。火山は輝き渡る、しかし暁の光はいっそうよく輝き渡るではないか。コンブフェールは崇高の炎よりも、美《ビ》の純白の方《ほう》をおそらく好んだであろう。煙《ケムリ》に悩まされたる光、暴力によってあがなわれたる進歩は、この優しく|まじめ《真面目》なる精神を半《/半》ばしか満足せしめなかった。1793年のように、民衆がまっさかさまに真理の中に飛び込むことは、彼を恐れさした。しかし彼にとっては、停滞は|なお《猶》いっそう嫌悪すべきものであった。彼はそこに腐敗と死滅とを感じた。全体として言えば、彼は瘴癘の気よりも泡沫《/ホーマ-ツ》を愛し、下水よりも急流《/急流》を愛し、モンフォーコンの湖水よりもナ《/ナ》イヤガラ瀑布を愛した。要するに彼は、止まることをも急ぐことをも欲しなかったのである。騒々しい友人らが、絶対なるものに勇ましく心ひかれて、輝かしい革命的冒険を賛美し、それを呼び起こさんとしている中《うち》にあって、コンブフェールはただ、進歩をして自然に進ませようと欲した。それは善良な進歩であって、おそらく冷ややかではあろうがし《/し》かし純粋であり、方式的ではあろうがし《/し》かし難点なきものであり、平静ではあろうがし《/し》かし揺るがし得ないものであったろう。コンブフェールは自らひざまずいて手を合わせ、未来が純潔さをもって到来せんことを祈り、何物も民衆の広大有徳《広大ユウトク》なる進化を乱すものな《-な》からんことを祈ったであろう。「善は無垢ならざるべからず、」と彼は絶えず繰り返していた。そしてた《/た》とい革命の偉大さは、眩惑せしむるばかりの理想を見つむることであり、血潮と猛火とを踏みにじりつつ雷電の中を横ぎって、理想に向かって飛びゆくことであるとしても、進歩の美は、無垢なることに存するに違いない。そして一方を代表するワシントンと、他方の化身たるダントンとの間には、白鳥の翼を持った天使と鷲《/鷲》の翼を持った天使とをへだてる差違がある。  ジャン・プルーヴェールは、コンブフェールよりもな《/な》おいっそう穏やかな|はだ《肌》合いの人物だった。彼は自らジュアン(訳者注◇ ジャンを中世式にしたもの)と呼んでいた。それは中世紀《チュウ世紀》の非常に有用な研究が生まれ出た強《/強》く深い機運に立ち交じっているという、あのつまらぬ一時の空想からであった。ジャン・プルーヴェールは情緒深く、鉢植えの花を育て、笛を吹き、詩《し》を作り、民衆を愛し、婦人をあわれみ、子供のために泣き、未来と神とを同じ親しみのうちに混同し、《:、》気高き一つの首を、すなわちアンドレ・シェニエの首をはねたことを、革命に向かって難じていた。平素は繊細であるが突如《/突如》として雄々しくなる声を持っていた。博学と言えるほど学問があり、ほとんど東方語学者であった。またことに善良であった。善良さがいかに偉大に近いものであるかを知っている人にはご《/ご》くわかりきったことであるが、詩《し》の方面において彼《/彼》は広大なるものを愛していた。彼はイタリー語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を知っていた。しかもそれはダンテとユ《/ユ》ヴェナリスとア《/ア》イスキロスとイ《/イ》ザヤの四詩人《4詩人》を読むことに使われたのみだった。フランス人ではラシーヌよりもコルネイユを、コルネイユよりもアグリッパ・ドービネを好んでいた。燕麦《カラス麦》や矢車草のはえている野を喜んで散歩し、世の中の事件とほとんど同じくらいに雲《/雲》のことを気にしていた。彼の精神は人間の方面と神《/神》の方面と、二つの態度を有していた。あるいは研究し、あるいは静観していた。終日彼《終日’彼》は社会問題を探究していた。すなわち、給料、資本、信用、婚姻、宗教、思想の自由、恋愛の自由、教育、刑罰、貧窮、組合、財産、生産、分配、すべて人類の群れを暗《-くら》き影でおおう下界《ゲカイ》の謎を探究していた。そして夜になると、あの巨大なる存在者たる星辰をながめた。アンジョーラのごとく、彼は金持ちでひ《/ひ》とり息子であった。彼はもの柔らかに話をし、頭を下げ、目を伏せ、きまり悪るげにほほえみ、ぞんざいな服装をし、物なれない様子をし、わずかなことに赤面し、非常に内気だった。それでもまた勇敢であった。  フイイーは、扇作りの職工で、父も母もない孤児で、一日辛《一日’辛》うじて三フランをもうけていた。そして彼は世界を救済するという一つの考えしか持たなかった。それからなおも《もう》一つの仕事を持っていた、すなわち学問をすることで、それを彼はま《”ま》た自己を救済することと呼んでいた。彼は独学で読むこと書くことを学んだ。彼のあらゆる知識はただ|ひとり《一人》で学んだのだった。彼は寛大な心を持っていた。広大な抱擁力を持っていた。この孤児は民衆《/民衆》を自分の養児としていた。母がいなかったので、祖国の事を考えていた。祖国を持たぬ人間の地上《/地上》にいることを欲しなかった。民衆の人たる深い洞察力《洞察リョク》をもって、われわれが今日民族観念《こんにち民族観念》と呼ぶところのものを心の中にはぐくんでいた。悲憤慷慨もよくその原因を知悉した上のことでありたいというので、特に歴史を学んだ。ことにフランスのことのみを考えている若々しい夢想家らの寄り合いの中にあって、彼はフランス以外を代表していた。そして専門として、ギリシャ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニヤ、イタリー、などのことを知っていた。彼は権利としてのような執拗さをもって、場合の適当不適当《適当’不適当》をかまわず、以上の国名を絶えず口にしていた。クレート島およびテッサリーにおけるトルコ、ワルソーにおけるロシヤ、ヴェニスにおけるオーストリヤ、などの暴行は彼を憤慨さした。なかんずく、1772年の大暴逆《ダイ暴逆》(訳者注◇ ポーランドの分割)は彼を激昂《ゲッコウ》さした。憤りの中に真実を含むほどおごそかな雄弁はない。彼はそういう雄弁を持っていた。1772年という汚《-けが》れたる日付、裏切りによって覆滅されたる|すぐ《優》れた勇敢な民衆、あの三国《サンゴク》の罪悪、あの奇怪きわまる闇撃《+闇討ち》、などのことを彼はあくまでも論じていた。それは実に、その後多くのすぐれた国民を襲い、言わばその出生証書を塗抹したる、あの恐るべき国家的抑圧の典型となり標《/標》本となったのである。現代のあらゆる社会的加害は、ポーランドの分割より胚胎する。ポーランドの分割は一つの定理であり、それより現代のあらゆる政治的罪悪が導き出される。最近一世紀以来のすべての専制君主とす《/す》べての反逆人とは皆《ミンナ》、不可変更のポーランド分割調書を作り、確認し、署名し、花押したのである。近世の大逆《タイギャク》の史を閲すると、右の事がらが第一に現われてくる。ウィーン会議はおのが罪悪を完成する前に、その悪事を相談したのである。1772年は猟の勝閧であり、1815年は獲物の腐肉である。とそ《/そ》ういうのがフイイーのいつもの文句であった。このあわれな労働者は正義の擁護者となり、正義は彼を偉大ならしめて彼《/彼》にむくいた。実際正当《実際/正当》の権利の中には無窮なるものがあったからである。ワルソーを韃靼化せんとするのは、ヴェニスをゼルマン化せんとするよりもはなはだしい。いかなる国王もそういうことをする時には、ただ労力と名誉とを失うのみである。うち沈められたる祖国も、やがては水面に浮かび上がって再び姿を|現わ《現》すであろう。ギリシャは再びギリシャとなり、イタリーは再びイタリーとなる。事実に対する権利の抗議は永久《エーキュウ》に残存する。一民衆を盗むの罪は、時効にかかって消滅するものではない。それら莫大なる詐欺取財は、未来に長く続くものではない。国民はハンカチのように模様を抜き去られるものではない。  クールフェーラックは、ド・クールフェーラック氏と言われる父を持っていた。王政復古の中流階級が貴族《/貴族》または華族ということについていだいている愚かな考えの一つは、実にこの分詞のド《「ド」》という一字を貴重がったことである。人の知るとおり、この分詞には何らの意味もない。しかし、ミネルヴ時代(訳者注◇ 王政復古の初期)の市民らはこの下らないド《「ド」》の文字をあまりに高く敬っていたので、それを廃止しなければならないと思われるほどになった。かくてド・ショーヴラン氏はただショーヴランと呼ばせ、ド・コーマルタン氏はコーマルタンと、ド・コンスタンド・ルベック氏はバンジャマン・コンスタンと、ド・ラファイエット氏はラファイエットと呼ばせるに至った。クールフェーラックもそれにおくれを取るまいとして、ただ簡単にクールフェーラックと自ら呼んだのである。  クールフェーラックについては、それだけでほとんど十分《充分》である。そしてただ、クールフェーラックならばま《”ま》ずトロミエスを見よ、と言うだけに止《-とど》めておこう。  実際ク《/ク》ールフェーラックは、機才めの美とも称し得る若々《/若々》しい元気を持っていた。ただ後になるとそういうものは、小猫のやさしさがな《無》くなるように消え失せてしまい、その優美《優美’》さも二本《/2本》の足で立てば市民となり、四本の足で立てば牡猫《+/オス猫》となるものである。  かかる種類の精神は、代々の学生に、代々の若々しい芽に、相次いで伝えられ手《/手》から手へ渡りゆき、競争者のごとくに走り回り、そして常に何らの変化をもほとんど受けないものである。かくして、前に述べたとおり、1828年のクールフェーラックの言うことを聞く者は、1817年のトロミエスの言うことを聞く思いがするであろう。ただクールフェーラックは善良な男であった。見たところ外部的の精神は同じであるが、彼とトロミエスとの間には大《ダイ》なる差違があった。彼らのうちに潜在している人間は、前者と後者とではひどく異なっていた。トロミエスのうちには一人の検事があり、クールフェーラックのうちには一人の洒落武士《洒落’武士》があった。  アンジョーラは首領、コンブフェールは指導者、クールフェーラックは中心であった。他の二者がより多く光明を与えたとすれば、彼はより多く温熱を与えた。実際、彼は中心たるすべての特長、丸みと喜色とを持っていたのである。  バオレルは1822年六月の血腥《/血腥》い騒動の時、若いラールマンの葬式のおりに顔を出したことがあった。  バオレルはいつも上|きげん《機嫌》で、悪友で、勇者で、金使いが荒く、太っ腹なるまでに放蕩者《放蕩モノ》で、雄弁なるまでに饒舌で、暴慢なるまでに大胆であった。最も善良なる魔性の者であった。大胆なチョッキをつけ、|まっか《真っ赤》な意見を持っていた。偉大なる騒擾者、言いかえれば、騒乱のない時には喧嘩ほど好きなものはなく、革命のない時には騒乱ほどの好きなものはなかった。いつでも窓ガラスをこわしたり、街路の舗石《+敷石》をめくったり、政府を顛覆したりすることをやりかねない男で、そういうことをして結果《/結果》を見たがっていた。十一年間も大学にとどまっていた。法律の|にお《匂》いをか《嗅》いだが、それを大成したことはなかった。「決して弁護士にならず」というのをモットーとし、寝床側のテーブルを戸棚とし、その中に角帽が見えていた。法律学校の前に現れることはまれだったが、そういう時はいつも、ラシャ外套はまだ発明されていなかったので、フロックのボタンをよくかけて衛生上《/衛生上》の注意をしていた。学校の正門について、「何《なん》というひどい老いぼれ方だ!《/》」と言い、校長のデルヴァンクール氏について、「何《なん》という記念碑だ!《/》」といっていた。講義のうちに歌の材料を見つけたり、教授らのうちに漫画の種を見いだしたりしていた。かなり多額な学資、年《ネン》に三千フランほども、くだらないことに費やしてしまった。彼には田舎者の両親があったが、その親たちに自分を深く尊敬させるような術《スベ》を心得ていた。  彼は両親のことをこう言っていた。「彼らは田舎者で、市民ではない。だからいくらか頭があるんだ。」  気まぐれなバオレルは、多くのカフェーに出入りした。他の者はどこかなじみの家を持っていたが、彼はそんなものを持たなかった。彼はやたらに彷徨した。錯誤は人間的で、彷徨はパリーっ児的である。彼の奥底には洞察力《洞察リョク》があり、見かけによらぬ思索力があった。  彼はABCの友と、未だ成立しないが早晩形造《早晩’形造》られるべき他の団体との間の、連鎖となっていた。  それら青年の集会所のうちには、ひとり禿頭《ハゲ頭》の会員がいた。  ルイ十八世が国外に亡命せんとする日、それを辻馬車の中に助け入れたので公爵となされたアヴァレー侯爵が、次のような話をした。1814年、フランスに戻らんとして王がカレーに上陸した時、|ひとり《一人》の男が王に請願書を差し出した。「何か望みなのか、」と王は言った。「陛下、郵便局が望みでござります。」「《:「》名は何という?」「《:「》レーグルと申します。」  王は眉をひそめ、請願書の署名をながめ、レグルと書かれた名を見た。このいくらかボナパルト的でない綴字《ツヅリジ》に(訳者注◇ レーグルとは鷲の意にしてナ《/ナ》ポレオンの紋章)王は心を動かされて、微笑を浮かべた。「陛下、」と請願書を差し出した男は言った、「私には、レグール(訳者注◇ 顎の意)という綽名《渾名》を持っていました犬番《/犬番》の先祖がありまして、その綽名《渾名》が私の名前となったのであります。私はレグールと申します。それをつづめてレグル、また少しかえてレーグルと申すのであります。」それで王はほほえんでしまった。後に、故意にかあるいは偶然にか、王は彼にモーの郵便局を与えた。  禿頭《ハゲ頭》の会員は、実にこのレグルもしくはレーグルの息子で、レーグル(ド・モー)と署名していた。彼の仲間は、手軽なので彼をボシュエと呼んでいた。  ボシュエは、不幸を有する快活な男であった。彼の十八番は、何事にも成功しないことだった。それでかえって彼は何事をも笑ってすましていた。二十五歳にして既に禿頭《ハゲ頭》だった。彼の父は一軒の家屋と一《/一》つの畑とを所有するに至った。しかしその息子たる彼は、投機に手を出したのがまちがいの元で、まっさきにその家と畑とをなくしてしまった。それでもう彼には何物も残っていなかった。彼は学問があり才《/才》があったが、うまくゆかなかった。すべての事がぐれはまになり、すべてのことがくい違った。自分でうち立てるすべての物が、自分の上にくずれかかった。木を割れば指を傷つける、情婦ができたかと思えばそ《/そ》の女には他にいい人があるのを間もなく発見する。始終何《しじゅう何》かの不幸が彼に起こってきた。そういうところから彼の快活が由来したのである。彼は言っていた、「僕は瓦がくずれ落ちる屋根の下に住んでいるんだ。」驚くことはまれで、なぜなら事変が起こるのがあらかじめわかっているのだから、いけない時でも平気に構えており、《:、》運命の意地悪さにも笑っていて、まるで冗談をきいてる人のようだった。貧乏ではあったが、彼の上|きげん《機嫌》のポケットはいつも無尽蔵だった。すぐに|一文な《一文無》しになってしまうが、笑い声はいつまでも尽きなかった。窮境がやってきても彼《/彼》はその古馴染《フル馴染》に親しく会釈した。災厄をも親しく遇した。不運ともよく馴染み、その綽名《渾名》を呼びかけるほどになっていた。「鬼門さん、今日《こんにち》は、」と彼はいつも言った。  その運命の迫害が、彼を発明家にしてしまった。彼は種々《いろいろ》の妙策を持っていた。少しも金《-かね》は持たなかったが、気が向くと「思うままの荒使《荒づか》い」をする術《スベ》を知っていた。ある晩、彼はある蓮葉女《+ハスハ女》と夜食をして、ついに「百フラン」を使い果たしてしまった。そしてそのばか騒ぎのうちに、次のようなすてきな言葉を思いついた。「サン・ルイの娘よ、僕の靴をぬげ。」(訳者注◇ サン・ルイは百フラン、そしてまたルイ王にかけた言葉)  ボシュエは弁護士職の方《ほう》へ進むのに少しも急がなかった。彼はバオレルのようなやり方で法律を学んだ。ボシュエはほとんど住所を持っていなかった。ある時はまったくなかった。方々《ホウボウ》を泊まり歩いた、そしてジョリーの家へ泊まることが一番多かった。ジョリーは医学生だった。彼はボシュエよりも二つ若かった。  ジョリーは、若い神経病みだった。医学から得たところのものは、医者となることよりむしろ病人となることだった。二十三歳で彼は自分を多病者と思い込み、鏡に舌を写して見ることに日を送っていた。人間は針のように磁気に感ずるものだと断言して、夜分血液《夜分’血液》の循環が地球の磁気の大流に逆らわないようにと、頭を南に足《/足》を北にして牀《+トコ》を伸べた。嵐のある時は自分で脈を取って見た。その上《うえ》連中のうちで一番快活《一番’快活》だった。若さ、病的、気弱さ、快活さ、すべてそれら個々のものは、うまくいっしょに同居して、それから愉快な変人ができ上がって、それを仲間らは、音をたくさん浪費して、ジョリリリリーと呼んでいた。「君は四《4》り(四里)も飛び回れるんだ」とジャン・プルーヴェールは彼に言っていた。  ジョリーはステッキの先を鼻の頭につける癖があった。それは鋭敏な精神を持ってるしるしである。  かようにそれぞれ異なっては《は-》いるが、全体としては|まじめ《真面目》に取り扱うべきであるこれらの青年は、同じ一つの信仰を持っていた。それは「進歩」ということである。  すべての人々は、フランス大革命から生まれた嫡子であった。最も軽佻な者でも、1789年という年を言うときはおごそかになった。彼らの肉身《ニクシン》の父は、中心党で王党《/王党》で正理党《/セイリ党》で、あるかま《”ま》たはあった。しかしそれはどうでもいいことである。若い彼らの雑多な前時代は彼《/彼》らには少しも関係を及ぼさなかった。主義という純潔な血が、彼らの血管には流れていた。彼らは何ら中間の陰影もなく直接に、清純なる権利と絶対《/絶対》なる義務とに愛着していた。  その主義にいったん加盟入会した彼らは、ひそかに理想を描《-えが》いていた。  すべてそれら燃えたる魂のうちに、確信せる精神のうちに、|ひとり《一人》の懐疑家《懐疑か-》があった。彼はどうしてそこにはいってきたのであるか。あらゆる色の取り合わせによってであった。その懐疑家《懐疑か-》をグランテールと呼び、いつもその判じ名のR《/R》を署名した(訳者注◇ グランテールという音は大字《大文字》Rという意を|現わ《現》す)。グランテールは何事をも信じようとはしなかった男である。それに彼は、パリー学問の間に最も多く種々《/いろいろ》なことを知った学生の|ひとり《一人》だった。最もよい珈琲《+コーヒー》はランブラン珈琲《+コーヒー》店にあり、最もよい撞球台《+玉突き台》はヴォルテール珈琲《+コーヒー》店にあることを知っていた。メーヌ大通りのエルミタージュにはよい菓子とよい娘とがあること、サゲーお上さんの家には|みごと《見事》な鶏料理ができること、《:、》キュネットの市門にはすばらしい魚料理があること、コンバの市門にはちょっとした白葡萄酒があること、などを知っていた。あらゆるものについて、彼は上等の場所を知っていた。その上、足蹴術を心得ており、舞踏をも少し知っており、また桿棒術に長じていた。そのほかまた非常な酒飲みだった。彼は極端に醜い男だった。当時の最もきれいな靴縫い女であったイルマ・ボアシーは、彼の醜さにあきれて、「グランテールはしようがない」という判決を下した。しかしグランテールのうぬぼれはそれを少しも意としなかった。彼はいかなる女でもやさしくじっと見つめ、「俺が思いさえしたら、なあに」と言うようなようすをして、一般に女にもてると仲間たちに信じさせようとしていた。  民衆の権利、人間の権利、社会の約束、仏蘭西《+フランス》革命、共和、民主主義、人道、文明、宗教、進歩、などというすべての言葉は、グランテールにとってはほとんど何らの意味をもなさなかった。彼はそれらを笑っていた。懐疑主義、この知力のひからびた潰瘍は、彼の精神の中に完全《/完全》な観念を一つも残さなかった。彼は皮肉とともに生きていた。彼の格言はこうであった、「世には一つの確かなることあるのみ、そはわ《我》が満ちたる杯《サカズキ》なり。」兄弟であろうと父であろうと、弟のロベスピエールであろうとロアズロールであろうと、すべていかなる方面におけるい《/い》かなる献身をも彼《/彼》はあざけっていた。 「死んだとはよほどの進歩だ。」と彼は叫んでいた。十字架像のことをこう言っていた、「うまく成功した絞首台だ。」彷徨者で、賭博者で、放蕩者《放蕩モノ》で、たいてい酔っ払ってる彼は、絶えず次のような歌を歌って、仲間の若い夢想家らに不快を与えていた。「若い娘がかわいいよ、よい葡萄酒がかわいいよ。」節は「アンリ四世《4世》万々歳」の歌と同じだった。  それにこの懐疑家《懐疑か-》は、一つの狂的信仰を有していた。それは観念でもなく、教理でもなく、芸術でもなく、学問でもなかった。それは|ひとり《一人》の人間で、しかもアンジョーラであった。グランテールはアンジョーラを賛美し、愛し、尊んでいた。この無政府的懐疑家《無政府的懐疑か-》が、それら絶対的精神者の一群の中にあって、だれに結びついたかというに、その最も絶対的なるものにであった。いかにしてアンジョーラは彼を征服したか。思想をもってか。否《イナ》。性格をもってである。これはしばしば見られる現象である。信仰者に懐疑家《懐疑か-》が結びつくということは、補色の法則の示すとおり至《/至》って普通なことである。われわれに欠けているものはわ《/わ》れわれを引きつける。盲人ほど日の光を愛するものは《は-》ない。侏儒は連隊の鼓手長を崇拝する。蟇《蝦蟇》は常に目を空の方《ほう》に向ける、なぜであるか、鳥の飛ぶのを見んがためである。心中《シンチュウ》に懐疑のはい回ってるグランテールは、アンジョーラの中に信仰の飛翔するのを見るのを好んだ。彼にはアンジョーラが必要だった。彼は自らそれを明らかに意識することなく、自らその理由を解《-と》こうと考えることなく、ただアンジョーラの清《/清》い健全《/健全》な確固《/確固》な正直《/正直》な一徹《/一徹》な誠実《/誠実》な性質に、まったく魅せられてしまった。彼は本能的にその反対のものを賛美した。彼の柔軟なた《/た》わみやすいは《/は》ずれがちな病的《/病的》な畸形《/畸形》な思想は、背骨に|まと《纏》いつくが《が-》ようにア《/ア》ンジョーラに|まと《纏》いついた。彼の精神的背景は、アンジョーラの確固さによりかかった。グランテールもアンジョーラのそばにいれば、一個の人物のようになった。また彼自身は、外見上両立《外見上’両立》し難《がた》い二つの要素から成っていた。彼は皮肉であり、信実であった。彼の冷淡さは愛を持っていた。彼の精神は信仰なくしてもすますことができたが、彼の心は友情なくしてすますことができなかった。それは深い矛盾である。なぜなれば愛情は信念であるから。彼の性質はそういうものだった。世には物の裏面《裏’面》となり背面《/背面》となり裏《/裏》となるために生まれた人々がある。ポルークス、パトロクロス、ニソス、エウダミダス、エフェスチオン、ペクメヤ、などはすなわちそれである(訳者注◇ 皆献身的友情《みんな献身的友情》を以って名ある古代の人物)。彼らは他人によりかかるという条件でのみ生きている。彼らの名は扈従《+コジュウ》である、そして接続詞のと《「と」》という字の次にしか書かれることがない。彼らの存在は彼ら自身のものではない。自分のものでない他の運命の裏面《裏’面》である。グランテールはそういう人物の|ひとり《一人》だった、彼はアンジョーラの背面であった。  それらの結合はほとんどアルファベットの文字で始まってると言うこともできるであろう。一続《ひと続》きになす時はO《/O》とPとが離すべからざるものとなる。もしよろしくばO《/O》とPと言うがいい、すなわちオレステスとピラデスと(訳者注◇ 物語中のオレステスとその友人ピラデス。彼らの頭字《イニシャル》はOとP。またアンジョーラとグランテールとの頭字《イニシャル》はEとG)。  アンジョーラの本当の従者であったグランテールは、この青年らの会合のうちに住んでいた。彼はそこに生きていた。彼の気に入《い》る場所はそこのみだった。彼は彼らの後《あと》にどこへでもついて行った。酒の気炎の中に彼《/彼》らの姿がゆききするのを見るのが彼の喜びだった。人々は彼の上|きげん《機嫌》のゆえに彼を仲間に許していた。  信仰家《信仰か-》なるアンジョーラは、その懐疑家《懐疑か-》を軽蔑していた。自分が節制であるだけにその酔っ払いをいやしんでいた。また昂然たる憐憫を少しはかけてやっていた。グランテールは少しも認められないピラデスであった。常にアンジョーラに苛酷に取り扱われ、てきびしく排斥され拒絶《/拒絶》されていたが、それでもまたやってきて、アンジョーラのことをこう言っていた。「何という美しい大理石のような男だろう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【ブロンドーに対するボシュエの弔辞】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある日の午後、前に述べておいた事件とちょうど一致することになるが、レーグル・ド・モーはミューザン珈琲《+コーヒー》店の戸口の枠飾りの所によりかかってう《/う》っとりとしていた。彼は浮き出しにされた人像柱《カリアティード》のような|ありさま《有様》をしていた。ただ自分の夢想にふけっていた。彼はサン・ミシェル広場をながめていた。よりかかることは立ちながら寝ることで、夢想家にとっては少しもいやなことではない。レーグル・ド・モーは前々日法律学校《前々日’法律学校》でふりかかったくだらない失策のことを考えていたが、別に憂わしいふうもなかった。それは彼一個《彼’一個》の将来の計画、もとよりずいぶんぼんやりしたものではあったが、その計画を変化させてしまったのである。  夢想していても馬車は通るし、夢想家とても馬車は目につく。ぼんやりとあちらこちらに目をさ迷わせていたレーグル・ド・モーは、その夢現《夢うつつ》のうちに、広場にさしかかってきた二輪馬車《’二輪馬車》を認めた。馬車は並み足でどこを当てともなさそうに進んでいた。あの馬車はだれの所へ行こうとするのだろう。どうして並み足でゆっくり行くのだろう。レーグルはそれをながめた。馬車の中には、御者のそばに一人の青年が乗っていた。そして青年の前には、かなり大きな旅行鞄が置いてあった。鞄に縫いつけられた厚紙には、大きな黒い文字の名前が見えていた、「マリユス・ポンメルシー。」  その名前を見てレーグルの態度は変わった。彼はぐっと身を起こして、馬車の中の青年を呼びかけた。 「マリユス・ポンメルシー君!」  呼びかけられた馬車は止まった。  その青年もやはり深く考え込んでるようだったが、目を上げた。 「えー?」と彼は言った。 「君はマリユス・ポンメルシー君だろう。」 「もちろん。」 「僕は君を|さが《探》していたんだ。」とレーグル・ド・モーは言った。 「どうして?」とマリユスは尋ねた。彼はまさしく祖父の家を飛び出してきたばかりのところだった。そして今眼前《今’眼前》に立ってるのはかつて見たこともない顔《カオ》だった。「僕は君を知らないが。」 「僕だってそのとおり。僕は君を少しも知らない。」とレーグルは答えた。  マリユスは道化者にでも出会ったように思い、往来のまんなかでまやかしを初められたのだと思った。彼はその時あまり|きげん《機嫌》のいい方《ほう》ではなかった。眉をひそめた。レーグル・ド・モーは落ち着き払って言い続けた。 「君は一昨日学校《一昨日/学校》へこなかったね。」 「そうかも知れない。」 「いや確かにそうだ。」 「君は学生なのか。」とマリユスは尋ねた。 「そうだ。君と同じだ。一昨日、ふと思い出して僕は学校へ行ってみた。ねえ君《キミ》、ときどきそんな考えだって起こるものさ。教師がちょうど点呼をやっていた。君も知らないことはないだろうが、そういう時奴《とき奴》らは実際滑稽《実際’滑稽》なことをするね。三度名《三度’名》を呼んで答えがないと、名前が消されてしまうんだ。すると六十《ロクジュッ》フラン飛んでいってしまうさ。」  マリユスは耳を傾け初めた。レーグルは言い続けた。 「出席をつけたのはブロンドーだった。君はブロンドーを知ってるかね、ひどくとがったずいぶん意地悪《’意地悪》そうな鼻をしている奴さ。欠席者をかぎ出すのを喜びとしてる奴さ。あいつ狡猾《/狡猾》にホ《「ホ」》という文字から初《始》めやがった。僕は聞いていなかった。そういう文字では僕は少しも損害をうける訳がないんだからね。点呼はうまくいった。消される者は一人もなかった。皆出席《みんな出席》だったんだ。ブロンドーの奴悲観《ヤツ/悲観》していたね。僕は|ひそ《密》かに言ってやった、ブロンドー先生、今日は少しもいじめる種《タネ》がありませんねって。すると突然ブロンドーは、マリユス・ポンメルシーと呼んだ。だれも答えなかった。ブロンドーは希望にあふれて、いっそう大きな声でくり返した、マリユス・ポンメルシー。そして彼はペンを取り上げた。君、僕には腸があるんだからね。僕は急いで考えたんだ。これは豪い奴《ヤツ》だぞ、名を消されようとしている。待てよ。ずぼらなおもしろい奴に違いない。善良な学生ではないな。床《トコ》の間《マ》の置き物みたいな奴ではないな。勉強家ではないな。科学や文学《/文学》や神学《/神学》や哲学《/哲学》を自慢する嘴《/嘴》の黄色い衒学者ではないな。くだらぬことにおめかししてる愚物ではないな。敬すべきなまけ者に違いない。そこらをうろついてるか、転地としゃれ込んでるか、|浮わ気女工《浮気女工》とふざけてるか、美人をつけ回してるか、あるいは今時分俺《今時分/俺》の女のもとへでも入り浸ってるかも知れないぞ。よし助《/助》けてやれ。一つブロンドーの奴《ヤツ》をやっつけてやれ! その時ブ《/ブ》ロンドーは抹殺の黒ペンをインキに浸して、茶色の目玉で聴講者を見回して、三度目に繰り返した、マリユス・ポンメルシー! 僕は答えた、はい! それで君は消しを食わなかったんだ。」 「君!‥‥。」とマリユスは言った。 「そしてそれで、僕の方《ほう》が消しを食っちゃった。」とレーグル・ド・モーは言い添えた。 「君の言うことはわからない。」とマリユスは言った。  レーグルは言った。 「わかってるじゃないか。僕は返事をするために講壇の近くにいて、逃げ出すために扉の近くにいたんだ。教師は僕を何だかじっと見つめていた。するとブロンドーの奴《ヤツ》、ボアローが説いた意地悪《意地悪’》の鼻に違いない、突然レ《「レ」》の字へ飛び込んできやがった。それは僕の文字なんだ。僕はモーの者で、レグルと言うんだ。」 「レーグル!」とマリユスは言葉をはさんだ、「いい名だね。」(訳者注◇ レーグルすなわち鷲はナポレオンの紋章で、彼はナポレオン崇拝家である) 「ブロンドーはそのいい名前の所へやってきたんだ。そして叫んだ、レーグル! 僕は答えた。はい! するとブロンドーの奴《ヤツ》、虎のようなやさしさで僕をながめ、薄ら笑いをして言いやがった。君はポンメルシーなら、レーグルではあるまい。この一言は君にとってあまり有り難くないようだが、実はそのいまいましい味をなめたのは僕だけさ。彼奴《アイツ》はそう言って、僕の名を消してしまった。」  マリユスは叫んだ。 「それは実に‥‥。」 「まず何よりも、」とレーグルはさえぎった、「何とかうまい賛辞のうちにブ《/ブ》ロンドーをお陀仏にしてやりたいんだ。奴《ヤツ》を死んだ者と仮定する。元来やせてはいるし、顔色は青白いし、冷たいし、硬《強》ばってるし、変な臭いがするし、死んだところで大した変わりはないだろう。そこで僕はこう言ってやろう。──爾地《ナンジ/地》を裁く者よ思《/思》い知れ。この所《ところ》にブロンドー横たわる、鼻のブロンドー、ブロンドー・ナジカ(鼻ブロンドー)、《:、》規則の牡牛、ボス・ディシプリネ(規則牛《規則ウシ》)、命令の番犬、点呼の天使、彼は実にまっすぐであり、四角であり、正確であり、厳正であり、正直であり、嫌悪すべきものなりき。わ《我》が名を彼が消したるがごとく、彼の名を神は消したまえり。」  マリユスは言った。 「僕はまったく‥‥。」 「青年よ、」とレーグル・ド・モーは続けて言った、「これは汝の教えとならんことを。以来は必ず|きちょうめん《几帳面》なれ。」 「何とも申し訳がない。」 「汝の隣人をして再《/再》び名を消さるるに至らしむることなかれ。」 「僕は何とも‥‥。」  レーグルは笑い出した。 「そして僕は愉快だ。も《もう》少しで弁護士になるところだったが、その抹殺で救われたわけだ。弁護士などという月桂冠はおやめだ。これで後家の弁護もしなくていいし、孤児を苦しめることもしなくてすむ。弁護士服もおさらばだ、見習い出勤もおさらばだ。いよいよ除名が得られたわけだ。そして皆君《-みんな君》のおかげだ。ポンメルシー君。改めて感謝の訪問をするつもりでいる。君はどこに住んでるんだ。」 「この馬車の中だよ。」とマリユスは言った。 「ぜいたくなわけだね。」とレーグルは平気で答えた。「君のために祝そう。そこにいたら年《ネン》に九千フランは家賃を払わなきゃなるまいね。」  その時クールフェーラックが珈琲《+コーヒー》店から出てきた。  マリユスは寂しげにほほえんだ。 「僕は二時間前からこの借家にいるんだが、もう出ようと思ってる。だがよくあるような話で、どこへ行っていいかわからないんだ。」 「君《キミ》、」とクールフェーラックは言った、「僕の家にきたまえ。」 「僕の方《ほう》に先取権はあるんだが、」とレーグルは言葉をはさんだ、「悲しいかな自分の家というのがないからな。」 「黙っておれよ、ボシュエ。」とクールフェーラックは言った。 「ボシュエだと、」とマリユスは言った、「君はレーグルというんじゃなかったかね。」 「そしてド・モーだ。」とレーグルは答えた。「変名ボシュエ。」  クールフェーラックは馬車にはいってきた。 「御者、」と彼は言った、「ポルト・サン・ジャックの宿屋だ。」  そしてその晩、ポルト・サン・ジャックの宿屋の一室に、クールフェーラックの隣室に、マリユスは落ち着いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【マリユスの驚き】 ◇。◇。◇。◇。◇。  数日のうちに、マリユスはクールフェーラックの親友となってしまった。青年時代にはすぐに親密になり、受けた傷もたちまち|なお《治》るものである。マリユスはクールフェーラックのそばにいて自由《/自由》な空気を呼吸した。それは彼にとってまったく新奇なことだった。クールフェーラックは彼に何も尋ねはしなかった。そんなことは考えもしなかった。そのような年ごろでは、顔つきを見れば直ちにすべてが看取されるものである。言葉なぞは無用である。顔がおしゃべりをするという青年が世には《は-》いる。互いに顔を見合わせれば、互いに心がわかってしまう。  けれどもある朝、クールフェーラックは突然《突然’》彼にこういう問いを発した。 「時に君は何か政治的意見を持ってるかね。」 「何《なん》だって!」とマリユスはその問に気《/気》を悪くして言った。 「君は何派《ナニ派》だと言うんだ。」 「民主的ボナパルト派だ。」 「鼠色のおとなしい奴《ヤツ》だな。」とクールフェーラックは言った。  翌日、クールフェーラックはマリユスをミューザン珈琲《+コーヒー》店に導いた。それから彼は、微笑を浮かべてマリユスの耳にささやいた、「僕は君を革命に巻き込んでやらなけりゃならない。」そして彼をABCの友の室《+部屋》へ連れて行った。彼はマリユスを仲間の者らに紹介して、低い声で「生徒だ」とただ一言言った。マリユスにはそれが何の意味だかわからなかった。  マリユスは多くの精神の蜂の巣の中に落ち込んだ。もとより彼は無口で沈重であったが、飛ぶべき翼もなく戦《/戦》うべき武器も持たない人間ではなかった。  マリユスはその時まで孤独で、習慣と趣味とによって独語《/独語》と傍白とに傾いていたので、まわりに飛び回ってる青年らにいささか辟易した。それら種々《いろいろ》のはつらつたる若者は、同時に彼を襲い彼《/彼》を引っ張り合った。自由と活動とのうちにあるそ《/そ》れら精神の入り乱れた騒ぎを見ては、彼の思想は旋風のように渦をまいた。時とするとその思想は混乱して、遠く逃げ去って再《/再》び取り戻し得ないかとも思われた。哲学、文学、美術、歴史、宗教、すべてが思い設けないやり方で語られるのを彼は聞いた。彼は不思議な境地を瞥見した。そして適当な視点に置いてそ《/そ》れらを見なかったので、何《なん》だか渾沌界《混沌界》を見るような心地だった。彼は父の意見に従うために祖父の意見をすてて、自ら心が定まったと思っていた。しかるに今や、まだ心が定まってはいないのではないかという気がして、不安でもあるがま《”ま》たそ《-そ》う自認《’自認》もできかねた。今まですべてのものを見ていた角度は、再びぐらつき初めた。一種《1種》の震動が彼の頭脳の全世界を動揺さした。内心の不可思議な動乱であった。彼はそれにほとんど苦悩を覚えた。  その青年らには、「神聖にされたるもの」は一つもないが《が-》ようだった。あらゆることについて独特な言をマリユスは聞いた。それはまだ臆病な彼の精神にはわずらいとなった。  いわゆるクラシックの古い興行物の悲劇《/悲劇》の題が書いてある芝居の広告が出ていた。「市民らが大事にしてる悲劇なんぞやめっちまえ!《/》」とバオレルは叫んだ。するとコンブフェールが次のように答えるのをマリユスは聞いた。 「バオレル、君はまちがってる。市民階級は悲劇を愛するものだ。この点だけはほうっておくがいい。鬘の悲劇にも存在の理由がある。僕はアイスキロスを持ち出してその存在の権利を否定する輩ではない。自然のうちには草案があるんだ。創造のうちにはまったく擬作の時代があるんだ。嘴でない嘴、翼でない翼、蹼でない蹼、足でない足、笑いたくなるような悲しい泣き声、そういうもので家鴨は成り立ってる。そこで、家禽が本当の鳥と並び存する以上は、クラシックの悲劇も古代悲劇《/古代悲劇》と並び存していけないはずはない。」  あるいはまた偶然、マリユスはアンジョーラとクールフェーラックとの間にはさまって、ジャン・ジャック・ルーソー街を通った。  クールフェーラックは彼の腕をとらえた。 「いいかね。これはプラートリエール街だ。しかるに六十年ほど前に一風変わった家族が住んでいたために、今日《コンニチ》ではジャン・ジャック・ルーソー街と名づけられてる。その家族というのは、ジャン・ジャックとテレーズだった。時々そこでは赤ん坊が生まれた。テレーズがそれを生むと、ジャン・ジャックがそれを捨ててしまった。」  すると、アンジョーラはクールフェーラッ《-ッ》クを肱でつっついた。 「ジャン・ジャックに対しては黙っていたまえ。僕はその男を賛美しているんだ。彼は自分の子を打ち捨ては《は-》したさ。しかし彼は民衆を拾い上げたじゃないか。」  その青年らはだれも、「皇帝」という言葉を口にしなかった。一人ジ《/ジ》ャン・プルーヴェールだけは時々ナポレオンと言った。ほかの者らは皆《-みんな》ボナパルトと言っていた。アンジョーラはブオナパルトと発音していた。  マリユスは漠然と驚きを感じた。知恵のはじめなり。(訳者注◇ 神を─帝王を─恐るるは知恵のはじめなり) ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【ミューザン珈琲《+コーヒー》店の奥室《オクベヤ》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それらの青年らの会話には、マリユスもい合わしま《”ま》た時々は口出しをしたが、そのうちの一つは、彼の精神に対して真の動揺を及ぼした。  それはミューザン珈琲《+コーヒー》店の奥室《オクベヤ》で行なわれた。その晩、ABCの友のほとんど全部が集まっていた。燈火は煌々とともされていた。人々は激せずし《/し》かも騒々しく、種々《いろいろ》なことを話していた。沈黙してるアンジョーラとマリユスとを除いては、皆手当《みんな手当》たり|しだい《次第》に弁じ立てていた。仲間同士の話というものは、しばしばそういう平和な喧騒をきたすものである。それは会話であると同時にカ《/カ》ルタ遊びであり混雑《/混雑》であった。人々は言葉を投げ合っては、その言葉じりをつかみ合っていた。人々は方々《ホウボウ》のすみずみで話をしていた。  だれも女はこの奥室《オクベヤ》に入るのを許されていなかった。ただルイゾンという珈琲皿《+コーヒーザラ》を洗う女だけは許されていて、時々《ときどき》洗い場から「実験室」(料理場《料理バ》)へ行くためにそこを通っていた。  すっかりいい気持ちに酔ってるグランテールは、一隅に陣取ってしゃべり立てていた。彼は屁理屈をこね回して叫んでいた。 「ああ《あ/》喉がかわいた。諸君、僕には一つの望みがあるんだ。ハイデルベルヒの酒樽が中気にかかって、蛭を十二匹ばかりそ《/そ》れにあてがってやりたいというんだ。僕は酒が飲みたい。僕は人生を忘れたい。人生とはだれかが考え出した|いや《嫌》な発明品だ。そんなものは長続きのするものではない、何《なん》の価もあるものではない。生きることにおいて人は首の骨をくじいている。人生とは実際の役に立たない飾り物だ。幸福とは片面だけ色を塗った古額《フル額》に過ぎない。伝道之書は言う、すべて空《クウ》なり。おそらくかつて存在しなかったかも知れないその善人と、僕は同様の考えを持っている。零《+ゼロ》はま《真》っ裸で歩くことを欲しないから、虚栄の衣を|まと《纏》うのだ。おお《お/》虚栄! 仰山な言葉ですべてに衣を着せたもの、《:、》台所は実験室となり、踊り児《子》は先生となり、道化者は体育家《体育か-》となり、拳闘家《+拳闘カ》は闘士となり、薬局の小僧は化学者となり、《:、》鬘師は美術家となり、泥工は建築師となり、御者は遊猟者となり、草鞋虫は翼鰓虫《ヨクサイムシ》となる。虚栄には表裏両面がある。表面は愚で、ガラス玉をつけた黒人《+黒んぼ》だ。裏面《ウラ面》はばかで、|ぼろ《ボロ》をつけた哲学者だ。僕は前者を泣き、後者を笑う。名誉とか威厳とか言われるもの、名誉および威厳そのものも、一般に人造金でできてるに過ぎない。国王は人間の自尊心を玩具にしてるんだ。カリグラは馬を督政官にした。シャール二世は牛肉を騎士にした。ゆえに諸君は、督政官インシタツスと従男爵《/従男爵》ローストビーフ(訳者注◇ 前者は馬、後者は焼き肉)との間を|いば《威張》り歩くべしだ。人間の真価に至っては、もはやほとんど尊敬さるる価値がなくなってる。隣同士の賛辞をきいてみたまえ。白に白を重ねると|ひど《酷》いことになる。白百合《+シロ百合》が口を開くとすれば、いかに鳩《ハト》のことを悪口するだろうか。狂信者をそしる盲信者は、蝮蛇《+蝮》や青蛇《+青ヘビ》よりももっと有害な口をきく。僕が無学なのは残念なわけだ。種々《いろいろ》たくさん例をあげたいが、僕は何《なん》にも知らない。だが僕は常に機才を有していたんだ。グロの弟子になっていた時には、雑画を書きなぐるよりも林檎《/林檎》を盗んで日を送ったものだ。ラパン(下手画工)はラピーヌ(奪略)の男性だ。僕はそれだけの人間だ。しかし君《キミ》らだって僕と同じようなものさ。僕は諸君の完全無欠や優越《/優越》や美点《/美点》を何とも思わない。すべての美点は欠点のうちに投げ込まれるものだ。倹約は吝嗇に近く、寛大は浪費に接し、勇気は|からいば《空威張》りに隣する。きわめて敬虔なことを云々する者は、多少迷信的《多少’迷信的》な言葉を発するものだ。ディオゲネスの外套に穴があると同じく、徳の中にもまさしく悪徳がある。諸君はいずれを賛美するか、殺されたる者と殺したる者と、すなわちシーザーとブルツスとを。一般に人は殺した者の方《ほう》に味方する。ブルツス万歳、彼は人殺しをした。すべて徳とはそんなものさ。徳というか、それもいい、しかしそれはまた狂気だ。そういう偉人には不思議な汚点がある。シーザーを殺したブルツスは、小さな男の児《子》の像に惚れ込んだ。その像はギリシャの彫刻家ス《/ス》トロンジリオンの作ったものだ。彼はまた美しき脚と呼ばるる女傑エ《/エ》ウクネモスの姿を刻んだ。するとネロが旅行中にそれを持ち去ってしまった。そしてこのストロンジリオンは、ブルツスとネロとを一致せしめた二《/二》つの彫像しか後世に残さなかった。ブルツスは一方に惚れ込み、ネロは他方に惚れ込んだ。歴史なるものは長たらしいむだ口に過ぎない。一つの世紀は他の世紀の模倣にすぎない。マレンゴーの戦いはピドナの戦いの模写であり、クロヴィスのトルビアックの戦いとナ《/ナ》ポレオンのアウステルリッツの戦いとは、二滴の血潮のように似通っている。僕は戦勝を尊敬しはしない。戦いに勝つというほど|ばか《馬鹿》げたことはない。真の光栄は信服せしむることにある。まあ何か証明せんと努めてみたまえ。諸君は成功して満足するが、それも何《なん》というつまらないことだ。諸君は打ち勝って満足するが、それは何《-なん》というみじめなことだ。ああ《あ/》至る所、虚栄と卑怯とのみだ。すべては成功にのみ臣事している。文法までがそうだ。万人成功《万人’成功》を欲す、とホラチウスは言った。だから僕は人類を軽蔑する。全から部分へ下れと言うのか。諸君は僕に民族を賛美し初《始》めよと言うのか。乞うま《”ま》ずいかなる民族をやだ。ギリシャなのか。昔のパリー人たるアテネ人らは、あたかもパリー人らがコ《/コ》リニーを殺したようにフ《/フ》ォキオンを殺し、アナセフォラスがピ《/ピ》シストラッスのことを、彼の尿は蜜蜂を呼ぶと言ったほどに、暴君に媚びていたのだ。五十年間ギリシャで最も著名な人物は、文法家《文法か-》のフィレタスだった。きわめてちっぽけなや《痩》せ男だから、風に吹き飛ばされないようにと靴《/靴》に鉛をつけておかなければならなかった。コリントの大広場には、シラニオンが彫刻しプ《/プ》リニウスが類別した像が立っていた。それはエピスタテスの像だ。ところがエピスタテスという男は何をしたか。彼は足|がらみ《ガラミ》を発明したにすぎない。ギリシャとその光栄とは、それだけのうちにあるんだ。それから他の例に移ってみよう。僕はイギリスを賞賛すべきなのか。フランスを賛美すべきなのか。フランスだって? そしてその理由もパリーがあるためなのか。しかし昔のパリーたるアテネについての意見は今述《今’述》べたとおりだ。またイギリスの方《ほう》は、ロンドンがあるためなのか。僕は昔のロンドンたるカルタゴがきらいだ。それからロンドンは、華美の都《都’》だがま《”ま》た悲惨の首府だ。チャーリング・クロス教区だけでも、年《ネン》に百人の餓死者がある。アルビオン(訳者注◇ 古代ギリシャ人がイギリスに付せし名称)とはそういう所だ。なおその上、薔薇の冠と青眼鏡とをつけて踊《/踊》ってるイギリスの女を見たこともあると、僕はつけ加えよう。イギリスなどはいやなことだ。しからば、ジョンブルを賛美しないとすれば、その弟のジョナサンを賛美せよと言うのか。僕はこの奴隷ばかりの弟は味わいたくない。時は金なりという言葉を除けば、イギリスには何が残るか。綿《メン》は王なりという言葉を除けば、アメリカには何が残るか。またドイツは淋巴液であり、イタリーは胆汁だ。あるいはロシアを喜ぶべきであるか。ヴォルテールはロシアを賛美した、また支那をも賛美した。僕とて《て-》も、ロシアは美を有している、なかんずくすぐれたる専制政治を有している、ということは認《-みと》むる。だが僕は専制君主を気の毒に思うものだ。彼らの生命《イノチ》は弱々しいものだ。|ひとり《一人》のアレキシスは斬首され、|ひとり《一人》のピーターは刺殺《刺殺’》され、|ひとり《一人》のポールは絞殺《絞殺’》され、|もひとり《もう一人》のポールは靴の踵で踏みつぶされ、多くのイワンは喉を裂かれ、数多のニコラスやバジルは毒殺されたのだ。そしてそれらのことは、ロシア皇帝の宮殿が明らかに不健康な状態にあることを示すものだ。開化せるあらゆる民族は、戦争という一事を持ち出して思想家《/思想家》に賛美させる。しかるに戦争は、文明的戦争は、ヤクサ山の入り口における強盗の略奪より、パス・ドートゥーズにおけるコマンシュ土蛮の劫掠に至るまで、山賊のあらゆる形式を取り用い寄《”寄》せ集めたものである。諸君は僕に言うだろう、なあに、ヨーロッパはそれでもアジアよりはすぐれたる価値を持ってるではないかと。僕もアジアは滑稽であることに同意する。しかし僕は諸君は達頼喇嘛《+ダライラマ》を笑い得るの権利があるとは認めない。西欧民族たる諸君は、イサベラ女王のきたない下着からフ《/フ》ランス皇太子の厠椅子に至るまで、威厳の箔をつけたあ《/あ》らゆる汚物を、流行と上品とのうちに混入《/混入》せしめたではないか。人類諸君、僕は諸君に、ああ《あ/》止んぬるかなと言いたい。ブラッセルでは最もよく麦酒《+ビール》を飲み、ストックホルムでは最もよく火酒《+ウォッカ》を飲み、マドリッドでは最もよくチョコレートを、アムステルダムでは最もよくジン酒を、《:、》ロンドンでは最もよく葡萄酒を、コンスタンチノーブルでは最もよく珈琲《+コーヒー》を、パリーでは最もよくアブサントを、人は飲むんだ。そして有用な観念はそういう所にこそ存する。全体としてはパリーが一番すぐれている。パリーでは、屑屋に至るまで遊蕩児である。ディオゲネスも、ピレウスで哲学者たるよりは、パリーのモーベール広場で屑屋たる方《ほう》がいいと思うに違いない。それからなお、こういうことを学びたまえ。屑屋の酒場はこれを一口屋と称するんだ。その最も有名なのはカスロールとアバットアールとである。そこで、葉茶屋、面白屋、一杯屋、銘酒屋、寄席亭、冷酒屋、舞踏亭、曖昧屋、一口屋、隊商亭よ、僕こそまさしく快楽児だ。リシャールの家で一人前四十《一人前ヨンジュッ》スーの食事をしたこともある。クレオパトラを裸にしてころがすには、ペルシャの絨毯がなくてはいけない。クレオパトラはどこにいるんだ。ああ《あ/》お前か、ルイゾン、今日《こんにち》は。」  酩酊を通り越してるグランテールは、ミューザン珈琲《+コーヒー》店の奥室《オクベヤ》の一隅で、通りかかった皿洗いの女を捕えて、そんなふうにしゃべり散らした。  ボシュエは彼の方《ほう》へ手《-手》を差し出して、彼を黙らせようとした。するとグランテールは|ますます《益々’》よくしゃべり立てた。 「エーグル・ド・モー、手をおろせ。アルタクセルクセスの古衣《フルゴロモ》を拒むヒポクラテスのようなまねをしたって、僕は何とも思《-おも》やしない。僕は君のために黙りはしない。その上《うえ》僕は悲しいんだ。君は僕に何を言ってもらおうというのか。人間というものは悪い奴《ヤツ》だ、見っともない奴《ヤツ》だ。蝶々が勝ちで、人間が負けだ。神《カミ》はこの動物を|つくりそこ《ツクリソコ》なった。一群の人間を取ってみるとまったく醜悪の選り抜きとなる。|どい《ドイ》つもこいつもみじめなものだ。ファンム(女《オンナ》)はア《/ア》ンファーム(破廉恥)と韻《/韻》が合うんだ、そうだ、僕は憂鬱病にかかっている。メランコリーにかき回され、ノスタルジーにかかり、その上ヒポコンデリアだ。そして僕は腹が立ち、憤り、欠伸をし、退屈し、苦しみ、|いや気《嫌気》がさしてるんだ。神《カミ》なんか悪魔に行っちまえだ。」 「グランテル(大文字《オオ文字》R)、まあ黙っておれったら。」とボシュエは言った。彼はまわりの仲間と権利ということを論じていて、半ば以上裁判の専門語に浸りきっていたが、その結末はこうであった。 「‥‥僕はほとんど法律家とは言えず、たかだか素人検事というくらいのところだが、その僕をして言わしむれば、こういうことになるんだ。ノルマンディーの旧慣法の条項によれば、サン・ミシュルにおいては、毎年、所有者ならびに遺産受理者の全各人によって、他の負担は別として、当価物《当価ブツ》が貴族のために支払われなければならない、《:、》しかしてこれは、すべての永貸契約《エイタイ契約》、賃貸契約、世襲財産、公有官有の契約、抵当書入契約《抵当書き入れ契約》‥‥。」 「木魂《木霊》よ、嘆けるニンフよ‥‥。」とグランテールは口ずさんだ。  グランテールのそばには、ほとんど黙り返ったテーブルの上に、二つの小さなコップの間に一枚《/一枚》の紙とイ《/イ》ンキ壺とペ《/ペ》ンとがあって、小唄ができ上がりつつあることを示していた。その大事件は低い声で相談されていて、それに従事しているふたりの者は頭をくっつけ合っていた。 「名前を第一に見つけようじゃないか。名前が出てくれば|事がら《事柄》も見つか《か-》るんだ。」 「よろしい。言いたまえ。僕が書くから。」 「ドリモン君としようか。」 「年金所有者か。」 「もちろん。」 「その娘は、セレスティーヌ。」 「‥‥ティーヌと。それから。」 「サンヴァル大佐。」 「サンヴァルは陳腐だ。僕はヴァルサンと言いたいね。」  小唄を作ろうとしてる人々のそばには他の一群がいて、混雑にまぎらして低い声で決闘を論じていた。年上の三十歳くらいの男が年若《/年若》の十八歳くらいの男に助言して、相手がどんな奴《ヤツ》だか説明して《て-》やっていた。 「おい気《/気》をつけろよ。剣にはあいつか《/か》なりな腕を持ってるんだ。ねらいが確かだ。攻撃力があり、|すき《隙》を失わず、小手と、奇襲と、早術《+早業》と、正しい払《ハラ》いと、正確な打ち返しとに巧みなんだ。そして左利きだ。」  グランテールの向こうの角《+隅》には、ジョリーとバオレルとがド《/ド》ミノ遊びをやり、また恋愛の話をしていた。 「君は幸福だね、」とジョリーは言った。「君の女はいつも笑っている。」 「それがあれの悪いところなんだ。」とバオレルは答えた。「女が笑うというのはいけないものだ。そんなことをされるとだましてやりたくなる。実際、快活な女を見ると後悔《/後悔》するという気は起こらなくなるものだ。悲しい顔をされてると良心が出て来るからね。」 「義理を知らない奴《ヤツ》だな。笑う女は非常にいいじゃないか。そして君たちは決してけんかをしたこともなしさ。」 「それは約束によるんだ。僕ら《等》はちょっと神聖同盟を結んで互《/互》いに国境を定め、それを越えないことにしている。寒風に吹きさらされてる方《ほう》はヴォーに属し、軟風の方《ほう》はジェックスに属するというわけだ。そこから平和が生まれるんだ。」 「平和、それは有り難い|仕合わ《幸》せだね。」 「だがね、ジョリリリリー、君はどうしてまた御令嬢とけんかばかりしてるんだ。‥‥御令嬢と言えばわかるだろう。」 「あいつはいつもきまってふくれっ面ばかりしてるんだ。」 「だが君は、かわいいほどやせほおけた色男だね。」 「ああ!」 「僕だったらあの女をうまく扱ってやるがね。」 「言《い》うは《は-》やすしさ。」 「行なうもまた同じだ。ムュジシェッタというんだったね。」 「そうだ。だが君、りっぱな女だぜ。非常に文学が好きで、足が小さく手《/手》が小さく、着物の着つ《付》けもいいし、まっ白で、肉がよくついていて、カルタ占女《+ウラナイ》のような目をしている。僕はすっかり打ち込んじゃった。」 「それじゃあ、ご|きげん《機嫌》を取り、上品に振る舞い、膝の骨を働かせなくちゃいかんよ。ストーブの家から毛糸皮のいいズボンを買ってきたまえ。それでうまくいくよ。」 「いくらくらいだ。」とグランテールが叫んだ。  第三番目のすみでは、夢中になって詩《/し》が論ぜられていた。多神教の神話はキリスト教の神話とぶつかり合っていた。オリンポスが問題となっていたが、ジャン・プルーヴェールはロマンティシズムからそ《/そ》の味方をしていた。ジャン・プルーヴェールは静かな時しか内気ではなかった。一度興奮しだすとすぐに爆発し、一種《1種》の快活さがその熱烈の度を強め、嬉々たると同時に叙情的になった。 「神々を悪く言いたもうな。」と彼は言った。「神々はおそらく消滅してはしない。ジュピテルは僕にとっては死んだとは思えない。神々は夢にすぎないと君らは言うのか。だが今日《こんにち》のような自然のうちにも、その夢が消え去った後《あと》にもまた、あらゆる偉大な多神教的神話が出て来るんだ。たとえば、城砦の姿をしてるヴ《/ヴ》ィニュマル山《サン》(訳者注◇ ピレーネー山脈の高峰《コウホウ》)は、僕にとってはなおキ《/キ》ベーレ神《シン》の帽子なんだ。またパンの神が夜ごとにやってきて、柳の幹の空洞の穴を一つ一つ指でふさいで笛《/笛》を吹かないとは限らない。ピスヴァーシュの滝には何かのためにイ《/イ》オの神がやってきてるに違いないと、僕はいつも思ったものだ。」  最後の第四すみでは、政事が論ぜられていた。人々は特許憲法を酷評していた。コンブフェールは穏やかにそれに賛成していたが、クールフェーラックは忌憚なく攻撃の矢を放っていた。テーブルの上には折悪しく有《/有》名なトゥーケ法の一部が置いてあった。クールフェーラックはそれをつかんで打ち振り、その紙の音を自分の議論に交じえていた。 「第一に、僕は王を好まない。経済の点から言っても好ましくない。王とは寄食者だ。王を養うには費用がかかるんだ。聞きたまえ。王というものは高価なものなんだ。フランソア一世が死んだ時、フランスの公債利子《公債’利子》は年《ネン》に三万リーヴルだった。ルイ十四世が死んだ時は、配当二十八リーヴルのものが二十六億あった。それはデマレーの言によると、1760年の四十五億に相当し、今日《コンニチ》では百二十億に《’に》相当する。第二に、コンブフェールにははなはだ気の毒の至りだが、特許憲法は文明の悪い手段だ。過渡期を救う、推移を円滑にする、動揺をしずめる、立憲の擬政を行なって国民《/国民》を王政から民主政に自然に転ぜしむる、そういう理屈はすべて唾棄すべきものだ。否々《イナ/イナ》、偽りの光でもって民衆を啓発すべきではない。そういう憲法の窖の中では、主義は萎靡し青《/青》ざめてしまう。廃退は禁物である。妥協は不可である。王が民衆に特許憲法を与えるなどとは断じていけない。すべてそういう特許憲法には卑劣な第十四条というのがある。与えんとする手の傍《+傍ら》には、つかみ取らんとする爪がある。僕は断然君《断然’君》のいわゆる憲法を拒絶する。憲法というのは仮面だ。裏には虚偽がある。憲法を受くるには民衆は譲歩しなければならない。法とは全《-まった》き法のみである。否《イナ》、憲法なんかはだめだ。」  時は冬であった。二本の薪が暖炉の中で音を立てて燃えていた。いかにも人を誘うがようで、クールフェーラックはそれにひかされた。彼は手の中で哀れなトゥーケ法をもみくちゃにして、火中に投じた。紙は燃えた。コンブフェールはルイ十八世の傑作が燃えるのを哲学者《/哲学者》のようにながめた。そしてただこう言って満足した。 「炎に姿を変えた憲法だ。」  かくして、譏刺《キシ》、客気、悪謔、活気と呼ばるるフランス気質、ユーモアと呼ばるるイギリス気質《カタギ》、善趣味と悪趣味、道理と屁理屈、対話のあらゆる狂気火花、《:、》それが室《+部屋》の四方八方に一時に起こり乱《/乱》れ合って、一種《1種》の快活な砲戦の|ありさま《有様》を人々の頭上に現出していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【地平の拡大】 ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の間の精神の衝突は驚嘆すべきものであって、その火花を予測しそ《/そ》の輝きを解くことはできないものである。忽然として何がほとばしり出るか、それはまったく測り知るを得ない。悲しんでいるかと思えば呵々大笑し、冗談を言っているかと思えば突然|まじめ《真面目》になる。その導火線は偶然に発せらるる一言にかかっている。各人の思いつきはその主人となる。無言の所作さえも意外な平野を展開させるに足りる。たちまちにして視界の変化する急激な転向を事とする対話である。偶然がかかる会話の運転手である。  言葉のかち合いから妙《-みょう》なふうに起こってきた一つの厳粛な思想が、グランテール、バオレル、プルーヴェール、ボシュエ、コンブフェール、クールフェーラックらの入り乱れた言葉合戦の中を、突如としてよぎっていった。  対話の中にいかにして一つの文句が起こってくるか。いかにしてその文句が突然《突然’》聞く人々の注意をひくに至るのか。今述《今’述》べたとおり、それはだれにもわからないことである。ところで、喧囂の最中に、ボシュエはふいにコンブフェールに何か言いかけて、次の日付でその言葉を結んだ。 「1815年六月十八日、ワーテルロー。」  そのワーテルローという言葉に、水のコップをそばにしてテーブルに肱をついていたマリユスは頤《/顎》から拳をはずして、じっと聴衆をながめ初《始》めた。 「そうだ、」とクールフェーラックは叫んだ、「この十八という数は不思議だ。実に妙だ。ボナパルトに禁物の数だ。前にルイという字を置き後《/あと》に霧月《シモツキ》という字を置いて見たまえ(訳者注◇ ルイ十八世およびナポレオンがクーデターを断行した十八日霧月共和八年《十八日シモツキ共和八年》、──また六月十八日のワーテルロー)。始めと終わりとがつきまとう意味深い特質をもったこの人間の全宿命が、そこにあるんだ。」  アンジョーラはその時まで黙っていたが、沈黙を破ってクールフェーラックに言った。 「君は贖罪という語をもって、罪悪を意味させるんだろう。」  突然ワーテルローという語が現われたので既《/既》にいたく激《激’》していたマリユスは、この罪悪という語を聞いても《/も》うた《耐》え切れなくなった。  彼は立ち上がって、壁にかかってるフランスの地図の方《ほう》へお《/お》もむろに歩み寄った。地図の下の方《ほう》を見ると、一つの小さな島が別に仕切りをして載っていた。彼はその仕切りの上に指を置いて言った。 「コルシカ島、これがフランスを偉大ならしめた小島だ。」  それは凍った空気の息吹のようだった。人々は皆口《-みんなクチ》をつぐんだ。何か起こりかけていることを皆感《-みんな感》じた。  バオレルはボシュエに何か答えながら、いつもやる半身像めいた姿勢をとろうとしていたが、それをやめて耳をそばだてた。  だれをも見ないでその青い眼をただ空間に定めてるようなアンジョーラは、マ《マ-》リユスの方《ほう》をも顧みないで答えた。 「フランスは偉大となるためには何もコルシカ島などを要しない。フランスはフランスだから偉大なんだ。我《吾》の名は獅子なればなりだ。」  マリユスはそれで引っ込もうとしなかった。彼はアンジョーラの方《ほう》を向き、内臓をしぼって出て来るようなお《/お》ののいた声で叫んだ。 「僕はあえてフランスを小さくしようとするのではない。ナポレオンをフランスに結合することは、フランスを小《ショウ》ならしむる所以とはならない。この点を一言《イチゴン》さしてくれたまえ。僕は君らの中では新参だ。しかし僕は君らを見て驚いたと言わざるを得ない。いったい|われ《我》らの立脚地はどこにあるのか。いったい|われ《我》らは何者なのか。君らは何人《ナンピト》か。僕は何人《ナンピト》か。まず皇帝のことを説こう。僕の聞くところでは、君らは王党のようにウ《「ウ」》に力を入れてブゥオナパルトと言っている。が僕の祖父はもっとうまく発音していると君らに知らしてやりたい。祖父はブオナパルテと言っているんだ。僕は諸君を青年だと思っていた。しかるに諸君は熱情をどこにおいてるのか。そしてその熱情を何に使おうとしてるのか。もし皇帝を賛美しないとしたら、だれを賛美しようとするのか。それ以上に、諸君は何を欲するのか。かかる偉大を欲しないとしたら、いかなる偉人を欲するのか。彼はすべてを持っていたのだ。彼は完璧であった。彼はその頭脳の中に、人間の能力の全量を収めていた。彼はユスチニアヌスのように法典を作り、シーザーのように命令し、タキツスの雷電とパ《/パ》スカルの閃光とを交じえた談話をし、《:、》自ら歴史を作り自らそれを書き、イリヤッドのような報告をつづり、ニュートンの数理とマ《/マ》ホメットの比喩とを結合し、ピラミッドのように偉大な言葉を近東に残した。ティルシットでは諸皇帝に威厳を教え、学芸院ではラプラスに応答し、参事院ではメルランに対抗し、一方では幾何学に他方《/他方》では訴訟に魂を与え、検事らとともにあっては法律家であり、天文学者らとともにあっては星学家《星学か-》だった。クロンウェルが二本の蝋燭の一本を吹き消したように、彼はタンブルの殿堂へ行って窓掛《/窓掛》けの総《フサ》に難癖をつけた。彼はあらゆることを見、あらゆることを知っていた。しかもなお赤児《赤子》の揺籃《揺り籠》に対しては人《/人》のいい笑いを浮かべた。そしてたちまちにして、ヨーロッパは色を失い耳《/耳》をそばだて、軍隊は行進を初め、砲車は回転し、船橋《せんきょー》は河川に渡され、雲霞のような騎兵は颶風の中を駆けり、叫喚の声、ラッパの響き、至る所王位《所’王位》は震動し、《:、》諸王国の境界は地図の上に波動し、鞘《サヤ》を払った超人の剣《ケン》の音は鳴り渡り、そして人々は、彼が手に炎を持ち、目に光を帯び、大陸軍《ダイ陸軍》と老練近衛軍《/老練’近衛軍》との二翼を雷鳴のうちに展開して、地平にすっくと立ち上がるのを見た。それは実に戦いの天使だったのだ。」  皆《みんな》は沈黙していた。そしてアンジョーラは頭を下げていた。沈黙は多くの場合、承認かあるいは一種の屈服の結果である。マリユスはほとんど息もつかずに、ますます熱烈さを増して言い続けた。 「諸君、正しき考えを持とうではないか。そういう皇帝の帝国たるは、一民衆にとっていかにも光輝ある運命ではないか。そしてこの民衆が実にフランスであり、この民衆はその才能をこ《/こ》の人物の才能に結合したのだ。出現し君臨し、進み行き、勝利を博し、あらゆる国都を宿場とし、自分の擲弾兵を取って国王となし、諸王朝の顛覆を布告し、一蹴してヨーロッパを変造し、《:、》攻め寄せる時には神《/神》の剣《ケン》の柄《ツカ》を執れるかの感を人にいだかしめ、ハンニバル、シーザー、シャールマーニュを一身に具現した者、そういう者に従い、目ざむる曙ごとに光彩陸離《/光彩陸離》たる戦勝の報知をもたらす者《モノ》の民となり、《:、》アンヴァリードの砲声を起床の鐘となし、マレンゴー、アルコラ、アウステルリッツ、イエナ、ワグラムなど、永久《エーキュウ》に赫々たる驚嘆すべき戦勝の名を光明の淵に投じ、《:、》幾世紀の最高天に毎瞬時戦勝《毎瞬時’戦勝》の星座を開かしめ、フランス帝国をローマ帝国と比肩せしめ、大国民となり大陸軍《/ダイ陸軍》を生み出し、山岳が四方《シホウ》に鷲を飛ばすがように、地球上にその軍隊を飛躍せしめ、戦勝を博し、征服し、撃ち砕き、《:、》ヨーロッパにおいて光栄《/光栄》の黄金を|まと《纏》う唯一の民衆となり、歴史を通じて巨人《/巨人》のラッパを鳴り響かし、勝利と光耀とによって世界《/世界》を二重に征服すること、それは実に崇高ではないか。およそこれ以上に偉大なるものは何があるか。」 「自由となることだ。」とコンブフェールは言った。  こんどはマリユスの方《ほう》で頭《コウベ》をたれた。その簡単な冷ややかな一語は、鋼鉄の刃のように彼《/彼》の叙事詩的な激語を貫き、彼はその激情が心の中から消えてゆくのを覚えた。彼が目を上げた時、コンブフェールはもうそこにいなかった。彼の賛美に対するにそ《/そ》の一言の返報でおそらく満足して、出て行ってしまった。そしてアンジョーラを除くのほか、皆《みんな》その後《あと》についていった。室《+部屋》の中はむなしかった。アンジョーラはマリユスのそばにただ一人居残って、その顔《’顔》をおごそかに見つめていた。けれどもマリユスは、再び思想を少《’少》し建て直して、自分を敗北した者とは思わなかった。彼のうちにはなお慷慨のなごりがさめず、まさにアンジョーラに向かって三段論法《/三段論法》の陣を展開せんとした。その時ちょうど立ち去りながら階段の所で歌う声が聞こえた。それはコンブフェールであった。その歌はこうである。 ◇。◇。  よしやシーザーこの|われ《吾》に  誉《+ナ》と戦《-いくさ》を与《-あた》うとも、  母に対する恩愛を  打ち捨て去るを要しなば、  われシーザーにかく言わん、  笏と輦《+クルマ》は持ちて行け、  われは母をばただ愛す、  われは母をばただ愛す。 ◇。◇。  コンブフェールが歌うそのやさしい粗野な調子は、歌に一種の不思議な偉大さを与えていた。マリユスは考え込んで、天井を見上げ、ほとんど機械的にくり返した。「母?‥‥」  その時、彼は自分の肩にアンジョーラの手が置かれたのを感じた。 「おい、」とアンジョーラは彼に言った、「母とは共和のことだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【逼迫】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その晩のことは、マリユスに深い動揺を残し、彼の心のうちに悲しい暗黒を残した。麦の種を蒔くために鉄《/鉄》の鍬で掘り割《わ》られる時に、地面が受くるような感じを、彼もおそらく感じたであろう。その時はただ傷をのみ感ずる。芽ぐみのおののきと実《/ミ》を結ぶ喜びとは、後日にしかやってこない。  マリユスは陰鬱になった。彼はようやく一つの信仰を得たばかりだった。それをももう捨ててしまわなければならないのか。彼は自ら否と断言した。疑惑をいだくを欲しないと自ら宣言した。それでもやはり疑い初めた。二つの宗教、一つはいまだ脱し得ないもの、一つはいまだ入り込《こ》み得ないもの、その中間にあるはた《耐》え難いことである。かかる薄暮の|薄ら《ウスラ》明りは、蝙蝠のような心をしか喜ばせない。マリユスははっきりした眸であった。彼には真の光明が必要だった。懐疑の薄明は彼を苦しめた。彼は今あるがままの場所にとどまりたいと願い、そこに固執していたいと願った。しかしうち勝ち難い力によって、続行し、前進し、思索し、思考し、いっそう遠く進むべく余儀なくされた。どこに彼は導かれん《ん-》とするのであろうか。かくばかり前方に踏み出して父に近づいた後《あと》になって、更にこんどは父より遠ざかる歩みを続けてゆくこと、それを彼は恐れた。新たに起こってきたあらゆる反省によって、彼の不安は増していった。嶮崖《+嶮ガイ》が彼の周囲に現われてきた。彼は祖父とも友人《/友人》らとも融和していなかった。一方の目から見れば彼は無謀であり、他方の目から見れば彼はおくれていた。そして彼は一方に老年と他方《/他方》に青年と、両方から二重に孤立していることを認めた。彼はミューザン珈琲《+コーヒー》店に行くことをやめた。  本心がかく悩まされて、彼は生活の|まじめ《真面目》なる方面はほとんど少しも考えていなかった。しかし人生の現実は、忘れ去らるるを許さない。現実は突然《突然’》彼に肱の一撃を与えにきた。  ある日、宿の主人はマリユスの室《+部屋》へはいってきて、彼に言った。 「クールフェーラックさんが、あなたのことを引き受けて下さるんですね。」 「そうです。」 「ですが私は金《-かね》がいるんですが。」 「クールフェーラック君に、話があるからきてくれと言って下さい。」とマリユスは言った。  クールフェーラックはやってき、主人は去って行った。マリユスは彼に、今まで口にしようとも思わなかったことを、自分は世界に孤独の身で親戚《/親戚》もないということを語った。 「君はいったい何になるつもりだい。」とクールフェーラックは言った。 「わからないんだ。」とマリユスは答えた。 「何をするつもりだい。」 「わからない。」 「金《かね》は持ってるのか。」 「十五フランだけだ。」 「では僕に貸せというのか。」 「いや決して。」 「着物はあるのか。」 「あれだけある。」 「何か金目《カネメ》のものでも持ってるのか。」 「時計が一つある。」 「銀か。」 「金だ。このとおり。」 「僕はある古着屋を知っている。君のフロックとズボンを買ってくれるだろう。」 「そいつは好都合だ。」 「ズボンとチ《/チ》ョッキと帽子《/帽子》と上衣《/上衣》とを一つずつ残しておけばたくさんだろう。」 「それから靴と。」 「何《なん》だって! 跣足《裸足》で歩くつもりじゃないのか。ぜいたくな奴だね。」 「それだけで足りるだろう。」 「知ってる時計屋もある。君の時計を買ってくれるだろう。」 「それもいいさ。」 「いやあ《/あ》まりよくもない。ところでこれから先君《さき君》はどうするつもりだ。」 「何《なん》でもやる。少なくも悪いことでさえな《無》ければ。」 「英語を知ってるか。」 「いや。」 「ドイツ語は?」 「知らない。」 「困ったね。」 「なぜだ?」 「僕の友人に本屋があるんだが、百科辞典のようなものを作るので、ドイツ語か英語かの項《コウ》でも翻訳すればいいと思ったのさ。あまり報酬はよ《良》くないが、食ってはいける。」 「では英語とドイツ語を学ぼう。」 「その間《あいだ》は?」 「その間《あいだ》は着物や時計を食ってゆくさ。」  彼らは古着屋を呼びにやった。古着屋は古服《フルフク》を二十《ニジュッ》フランで買った。彼らは時計屋へ行った。時計屋は四十五フランで時計を買った。 「悪くはないね。」と宿《/宿》に帰りながらマリユスはクールフェーラックに言った。「自分の十五フランを加えると八十《ハチジュッ》フランになる。」 「そして宿の勘定は?」とクールフェーラックは注意した。 「なるほど、すっかり忘れていた。」とマリユスは言った。  宿の主人は勘定書《勘定ガキ》を持ってきた。すぐに払わねばならなかった。七十《ナナジュッ》フランになっていた。 「十《ジュッ》フラン残った。」とマリユスは言った。 「大変だぞ、」とクールフェーラックは言った、「英語を学ぶ間に五フランを食い、ドイツ語を学ぶ間に五フランを食ってしまう。語学を早くのみ込んでしまうか、百《百’》スーをゆっくり食いつぶすかだ。」  そうこうするうちに、悲しい場合になるとか《/か》なり根が親切なジルノルマン伯母は、マリユスの宿をかぎつけてしまった。ある日の午前、マリユスが学校から帰って来ると、伯母の手紙と、密封した箱にはいった六十ピストルす《/す》なわち金貨六百フランとが、室《+部屋》に届いていた。  マリユスはうやうやしい手紙を添えて、三十のルイ金貨を伯母《/伯母》のもとへ返してやった。生活の方法を得たし今後決《/今後’決》してさしつかえない程度にはやってゆけると彼は書いた。その時彼にはた《/た》だ三フラン残ってるのみだった。  伯母は祖父をますます怒らせ《せ-》はしないかを気づかって、その拒絶を少しも知らせなかった。その上《うえ》祖父は言っておいたのである、「あの吸血児のことは決して私の前で口にするな。」  マリユスはそこで借金をしたくなかったので、ポルト・サン・ジャックの宿を引き払った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五編】 【傑出《傑出’》せる不幸】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【窮迫のマリユス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスにとって生活は苦しくなった。自分の衣服と時計とを食うのは大したことではない。彼はいわゆる怒った牝牛という名状《/名状》すべからざるものを食ったのである(訳者注◇ 怒ったる牝牛を食うとは困窮のどん底に達するの意)。それは実に恐るべきもので、一片のパンもない日々、睡眠のない夜々《ヨナヨナ》、蝋燭のない夕《夕べ》、火のない炉、仕事のない週間、希望なき未来、肱のぬけた上衣《上着》、若い娘らに笑われる古帽子《フル帽子》、《:、》借料を払わないためしめ出される夕《夕べ》の戸、門番や飲食店の主人から受くる侮辱、近所の者の嘲り、屈辱、踏みにじられる威厳、選り好みのできない仕事、嫌悪、辛苦、落胆、などあらゆるものを含んでいる。そしてマリユスは、いかにして人がそれらを貪り食うか、いかにしばしば人はそれらのもののほかの《飲》み下すべきものがないか、それを学んだのである。愛を要するがゆえに自尊をも要する青春の頃において、服装の賤しいゆえにあざけられ、貧しいゆえに冷笑されるのを、彼は感じた。いかめしい矜持に胸のふくれ上がるのを覚《おぼ》ゆる青年時代において、彼は一度ならず穴《/穴》のあいた自分の靴の上に目を落としては、困窮の不正なる恥辱と痛切《/痛切》なる赤面とを知った。それは驚くべき恐《/恐》るべき試練であって、それを受くる時《とき》、弱き者は賤劣となり強《/強》き者は崇高となる。運命があ《/あ》るいは賤夫《センプ》をあ《/あ》るいは半神《ハンシン》を得んと欲する時《とき》、人を投ずる坩堝である。  なぜなれば、かえって小さな奮闘のうちにこそ多《/多》くの偉大なる行為がなされる。窮乏と汚行との必然の侵入に対して、影のうちに一歩一歩身《一歩一歩’身》をまもる執拗な人知《/人知》れぬ勇気があるものである。何人《ナンピト》にも見られず、何らの誉れも報いられず、何らの歓呼のラッパにも迎えられぬ、気高い秘密な勝利があるものである。生活、不幸、孤立、放棄、貧困、などは皆一《-みんな一》つの戦場であり、またその英雄がある。それは往々にして、高名なる英雄よりもな《/な》お偉大なる人知れぬ英雄である。  堅実にして稀有なる性格がか《/か》くして|つく《作》り出さるる。ほとんど常に残忍なる継母である困窮は時《/時》として真の母となる。窮乏は魂と精神との力を産み出す。窮迫は豪胆の乳母となる。不幸は大人物《ダイジンブツ》のためによき乳となる。  苦しい生活のある場合には、マリユスは自ら階段を掃き、八百屋でブリーのチーズを一スーだけ買い、《:、》夕靄のおりるのを待ってパン屋へ行き、一片のパンをあがなって、あたかも盗みでもしたようにそ《/そ》れをひそかに自分の屋根部屋へ持ち帰ることもあった。時とすると、意地わるな女中らの間に肱で小突かれながら、片すみの肉屋にひそかにはいってゆく、ぎごちない青年の姿が見えることもあった。彼は小わきに書物を抱え、臆病らしいま《”ま》た気の立った様子をして、店に|はい《入》りながら汗のにじんだ額から帽子をぬぎ、《:、》あっけにとられてる肉屋の上《-かみ》さんの前にう《/う》やうやしく頭を下げ、小僧の前にも《もう》一度頭を下げ、羊の肋肉《+ロクニク》を一片求め、|六、七《ロクシチ》スーの金《-かね》を払《ハラ》い、肉を紙に包み、書物の間にはさんでわきに抱え、そして立ち去っていった。それはマリユスだった。彼はその肋肉《+ロクニク》を自ら煮、それで三日の飢えをしのぐのであった。  初めの日は肉を食い、二日目はその脂を吸い、三日目《3日目》にはその骨をねぶった。  幾度も繰り返してジルノルマン伯母は、六十ピストルを贈ってみた。しかしマリユスはいつも必要がないと言ってそれを送り返した。  前に述べた心の革命が彼のうちに起こった時も、彼は父に対する喪服をな《/な》おつけていた。その時以来彼はもうその黒服を脱がなかった。しかし衣服の方《ほう》が彼から去っていった。ついにはもう上衣がなくなった。次にズボンもなくなりかけていた。いかんとも術《スベ》はなかった。ただ彼もいくらかクールフェーラックに力を貸してやったことがあるので、クールフェーラックは彼に古い上衣を一枚くれた。マリユスはある門番に頼んで三十《サンジュッ》スーでそれを裏返してもらった。それで新しい一枚の上衣となった。しかしその地色は緑だった。それからは日が暮れなければマリユスは外に出なかった。夜になると上衣の緑は黒となった。常に喪服をつけて《て-》いたいと願って、彼は夜の|やみ《闇》を身に|まと《纏》ったのである。  そういう境涯を通って、彼はついに弁護士の資格を得た。彼は表面上クールフェーラックの室《+部屋》に住んでることにした。それはかなりの室《部屋》で、そこには取って置きの幾冊かの法律の古本《フルホン》もあり、少しばかりの小説の端本《+ハホン》で補われ、弁護士としての規定だけの文庫には見られた。手紙も一切クールフェーラックの所へあ《宛》てさした。  マリユスは弁護士となった時、冷ややかではあるが恭順と敬意とをこめた手紙を書いて祖父に報じた。ジルノルマ《マ-》ン氏は身を震わしながらその手紙を取り、それを読み下し、そして四つに引き裂いて屑籠に投げ込んだ。それから|二、三日《二’三にち》してジルノルマン嬢は、父がただ一人室《一人/部屋》の中で何か声高に言ってるのを聞いた。そういうことは、彼がきわめて激昂《ゲッコウ》した時いつも起こることだった。ジルノルマン嬢は耳を傾けた。老人はこう言っていた。「貴様が|ばか《馬鹿》でさえなければ、同時に男爵で弁護士であるなどということができないのが、わかるべきはずだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【貧困のマリユス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  貧窮も他の事と同じである。ついにはた《耐》え得らるるものとなる。いつかはある形を取り、それに固まってゆく。人は貧窮にも生長する、換言すれば、微弱ではあるが/しかし生きるには十分《充分》な一種の仕方で発達してゆく。マリユス・ポンメルシーの生活がいかなる具合に整えられていったかは、次のとおりである。  彼は最も狭い峠を越した。前にひらけた峡路《峡ロ》はいくらか広くなった。勤勉と勇気《/勇気》と忍耐《/忍耐》と意思《/意思》とをもって、彼はついに年《ネン》に約七百フランを働き出すようになった。彼はドイツ語と英語とを学んだ。クールフェーラックから友人の本屋に関係をつけてもらって、その文学部の方《ほう》につまらぬ端役を勤めることになった。広告文をつづり、新聞の翻訳をし、出版物に注を入れ、伝記を編み、その他種々《他色々》のことをやった。それでともかく毎年、七百フランはきまって収入があった。それで生活を立てた。必ずしもひどい生活ではなかった。どういうふうにして? それは次に述べよう。  マリユスは年三十《ネン-サンジュッ》フランで、ゴルボー屋敷のきたない室《+部屋》を一つ借り受けた。書斎とは言っていたが暖炉もなく、道具とては《は-》ただ是非とも必要なものだけしかなかった。そのわずかな道具は自分のものだった。毎月三《毎月3》フランずつ借家主《シャクヤヌシ》の婆《’婆》さんに与えて、室《部屋》を掃除してもらい、毎朝少《毎朝’少》しの湯と新《/新》しい鶏卵を一つと一《/一》スーのパンとを持ってきてもらった。彼はそのパンと卵とで昼食をすました。卵の高い安いによってその昼食は二スーから四《4》スーまでの間を高低《コウテイ》した。晩の六時にサン・ジャック街に出ていって、マテュラン街の角《カド》にある版画商バ《/バ》ッセの店と向き合ったルーソーという家で夕食をした。スープは取らなかった。食べるのは、六スーの肉の一皿、三スーの野菜の半皿、三スーのデザート。それからまた三スーで随意のパン。葡萄酒の代わりには水を飲んだ。その頃はいつもでっぷりふとってま《”ま》だ色艶のよかったルーソーの上《-かみ》さんが、いかめしく帳場に陣取っていたが、彼はそこで金《-かね》を払《ハラ》い、給仕に一スーを与えると、上《かみ》さんは笑顔を見せてくれた。それから彼はそこを出た。十六スーで笑顔と夕食とを得るのだった。  そのルーソーの飲食店では、酒を飲むよりも水《/水》を飲む者の方《ほう》が多く、レストーラン(料理屋)というよりもむ《/む》しろ休憩所と言ったほどの所だった。今日《コンニチ》はも《-も》うな《無》くなっている。主人はおもしろい綽名《渾名》を持っていて、水のルーソーと呼ばれていた。  そういうふうにして、四《4》スーで昼食をし十六《/十六》スーで夕食をして、食べるのに一日二十《イチニチ-ニジュッ》スーだけかかった。それで一年に三百六十五フランとなった。それに室代《+部屋代》が三十《サンジュッ》フラン、婆さんに三十六フラン、その他少しの雑費。合計四百五十《合計四百ゴジュッ》フランで、マリユスは食事と室《部屋》と雑用とをすました。それから衣服が百フラン、シャツが五十《ゴジュッ》フラン、|洗たく《洗濯》が五十《ゴジュッ》フラン。全部で六百五十《六百ゴジュッ》フランを出なかった。そして手元に五十《ゴジュッ》フラン残った。彼は豊かであった。場合によっては十《ジュッ》フランくらいは友人に貸してやった。クールフェーラックは一度六十《一度ロクジュッ》フランも借りたことがあった。火については、暖炉がなかったのでマリユスはそれを「簡便に」しておいた。  マリユスはいつも|二そろ《フタ揃》いの衣服を持っていた。一つは古くて「平素《+普段》のため」のであり、一つは新しくて特別《/特別》の場合のためのであった。両方とも黒だった。またシャツは三つきりなかった、一つは身につけ、一つは戸棚に入れて置き、も《もう》一つは|洗たく《洗濯》屋にい《行》っていた。損《+傷》むにつれてま《”ま》た新しくこしらえた。しかし普通いつも破けていたので、頤《顎》の所まで上衣のボタンをかけていた。  マリユスがそういう立身をするまでには、幾年《イクネン》かの月日を要した。それはきびしい年月で、過ぎるに困難な年であり、よじのぼるに困難な年であった。しかしマリユスは一日たりと《と-》も意気沮喪しなかった。彼は困苦ならばすべてを受け入れ、負債を除いてはあらゆることをなした。自分は何人《ナンピト》にも一文《イチモン》の負債《+負い目》もないと、彼は自ら公言していた。彼に言わすれば、負債は奴隷の初まりであった。債権者は奴隷の主人よりも悪いと彼は思っていた。なぜなれば、主人は単に人の身体を所有するのみであるが、債権者は人の威厳を所有しそ《/そ》れを侮辱することができるからである。金《かね》を借りるよりはむしろ食わない方《ほう》を彼は望んだ。そして幾日《幾にち》も絶食したことさえあった。彼はあらゆる極端が相接することを思い、注意しなければ物質的の零落は精神《/精神》の堕落をきたすことを思って、深く心の矜りに注意していた。違った境遇にあったならば恭敬とも思われたかも知れない儀礼や行為をも、今は屈辱と思われて、昂然と頭を高くした。退くことを欲しないので、少しも無謀なことをやらなかった。顔にはいつもいかめしい赤みをたたえていた。彼は苛酷なるまでに内気だった。  あらゆる困苦のうちにあって、彼は心のうちにあるひそかな力から、励まされま《”ま》た時には導かれるのを感じた。魂は身体を助ける、そしてある時には身体を支持する。籠をささえるのは中の鳥のみである。  マリユスの心のうちには、父の名と並んでも《/もう》一つの名が刻まれていた、すなわちテ《/テ》ナルディエの名が。熱烈で|まじめ《真面目》な性質のマリユスは、一種《1種》の円光をその男にきせていた。彼の考えでは、その男は父の生命《イノチ》の親であり、ワーテルローの砲弾銃火の中にあって大佐《/大佐》を救った勇敢な軍曹であった。マリユスは決して父の記憶とそ《/そ》の男の記憶とを離したことがなく、尊敬のうちに両者を結合していた。それは二段の礼拝で、大きな祭壇は大佐に対するものであり、小さな祭壇はテナルディエに対するものだった。そして彼の感謝の念を倍加せしめたものは、テナルディエが陥りの《/飲》み込まれたという不運のことを考えることだった。マリユスはモンフェルメイユで、不幸な旅亭主《リョ亭主》の零落と破産《/破産》とを知った。それ以来彼《以来’彼》は異常な努力をつくして、テナルディエの行方を探り、彼が没した困窮の暗黒《/暗黒》なる深淵のうちに彼を探り出さんとつとめた。マリユスはあらゆる方面を|さが《探》し回った。シェル、ボンディー、グールネー、ノジャン、ランニー、方々《ほうぼう》へ行ってみた。三年の間彼《あいだ彼》はそれに夢中になり、たくわえたわずかの金《-かね》をその探索に費やしてしまった。しかしだれ|ひとり《一人》テ《/テ》ナルディエの消息を知ってる者はなかった。おそらく外国へでも行ったのだろうと想像された。債権者らもまた、マリユスほどの好意はないが同《/同》じような熱心をもって、彼を|さが《探》し回った。しかし彼に手をつけることはできなかった。マリユスは自分の探索の不成功を、自ら責め自《/自》ら憤《いきどお》った。それは大佐が彼に残した唯一の負債で、彼は名誉にかけてそれを払おうと欲した。彼は考えた。「ああ、父が死にかかって戦場に横たわっている時《とき》、彼テ《/テ》ナルディエは砲煙弾雨の中に父を見いだし、肩に担って連れだしてくれた。しかも彼は父に何らの恩をも受けていなかったのである。そしてテナルディエにか《斯》く負うところ多いこの自分は、暗黒のうちに苦悩《/苦悩》に呻吟《シンギン》してる彼を見いだすこともできず、彼を死《”死》より生《/セイ》へと連れ戻すこともできないのか。いや是非とも|さが《探》し出さなければならない!」実際マリユスは、テナルディエを見いださんがためには片腕《/片腕》を失うも意とせず、彼を困窮より引き出さんがためには血潮《/血潮》をことごとく失うも意としなかったであろう。テナルディエに会うこと、何かの助力を彼に与えてやること、「あなたは私を御存じない、しかし私はあなたを知っています、さあここにいるから、どんなことでも命じて下さい!《/》」と彼に言うこと、《:、》それがマリユスの最も楽しいま《”ま》た最も美しい夢想であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【生長したるマリユス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その頃マリユスは二十歳《ハタチ》であった。祖父のもとを去ってから三年になる。両方ともやはり同じような状態で、互いに近寄ろうとも会おうとも《も-》しなかった。その上、会ったとてそれが何《なん》になろう、ただ衝突するばかりである。いずれかが勝つものでもない。マリユスは青銅の甕《カメ》で、ジルノルマン老人は鉄の壺であった。  マリユスは祖父の心を誤解していたことを、ここに言っておかなければならない。彼はジルノルマ《マ-》ン氏が自分をかつて愛したことはないと思っていた。|どな《怒鳴》り叫《/叫》び狂《/狂》い杖《/杖》を振り回すそ《/そ》の気短かできびしい元気な老人は、喜劇中のジェロント型の軽薄で同時《/同時》にきびしい愛情をしか自分《/自分》に対して持っていないと、彼は思っていた。しかしそれはマリユスの誤解だった。自分の子供を愛しない父親は世《/世》にないでもない、しかし自分の孫を大事にしない祖父は世《/世》に決してない。前に言ったとおり、本来ジルノルマ《マ-》ン氏はマリユスを偶像のように大事にしていた。ただ彼は、叱責と時《/時》には打擲さえ交じえる自己一流《/自己’一流》の仕方で愛していた。そしてその子供がいなくなると、心のうちに暗い空虚を感じた。もう子供のことは自分に言うなと命じながら、それがあまりによく守られたのをひそかに悔やんだ。初めのうちは、そのブオナパルテ党、ジャコバン党、テロリスト(暴虐党)、セプタンプリズール(虐殺党)が、再び帰って来るだろうと希望をかけていた。しかし週は過ぎ月《/月》は過ぎ年《/年》は過ぎても、吸血児は姿を見せなかったので、ジルノルマ《マ-》ン氏は深く絶望した。「といって、|わし《儂》は彼奴《アイツ》を追い出すよりほかに仕方はなかった、」と祖父は自ら言った。そしてまた自ら尋ねた、「もしあんなことを再びするとしたら、|わし《儂》はまた同じことを繰り返すだろうか?」彼の自尊心は即座に、|しか《然》りと答えた。しかしひそかに振られた彼の年取った頭は、悲しげに否《/否》と答えた。彼は落胆の時日を過ごした。マリユスが彼には欠けてしまったのである。老人というものは、太陽を要するように愛情《/愛情》を要する。愛情は温度である。ジルノルマ《マ-》ン氏はいかに頑強な性質であったとは言え、マリユスがいなくなったため心《/心》のうちにある変化が起こった。いかなることがあろうとも、その「恥知らず奴《め》」の方《ほう》へ一歩も曲げようとは欲しなかったであろう。しかし彼は苦しんでいた。マリユスのことを決して尋ねはしなかったが、常に思いやっていた。彼はますますマレーで隠退の生活を送るようになった。なお昔のとおり快活《/快活》で激烈ではあったが、その快活さも悲《/悲》しみと怒りを含んでるかのように痙攣的《/痙攣的》の峻酷《+峻コク》さを帯び、その激烈さも常《/常》に一種の静《/静》かな陰鬱な銷沈に終わった。時とすると彼は言った、「ああ、もし帰ってきたら、したたか打ってやるんだが!」  伯母の方《ほう》は、そう深く考えてもいず、そう多く愛してもいなかった。彼女にとっては、マリユスはもはやただ黒いぼんやりした映像にすぎなかった。そしてついには、おそらく彼女が飼っていたに違いない猫《/猫》か鸚鵡ほどにもマリユスのことを気にとめなかった。  ジルノルマン老人のひそかな苦しみがい《/い》っそう増した所以は、彼がそれを全部胸《全部’胸》のうちにしまい込んで少《/少》しも人に覚られないようにしたからである。彼の苦しみは新しく発明されたあ《/あ》の自ら煙をも燃やしつくす竈《/カマド》のようなものだった。時とすると|よけい《余計》な世話や《焼》きの者らがマ《マ-》リユスの|こと《事》を持ち出して、彼に尋ねることもあった。お孫さんは何をなさいました?‥‥あるいは、どうなられました? すると老人は、あまりに悲しい時には溜息をつきながら、あるいは快活なふうを見せたい時には袖を爪ではじきながら、こう答えた。「男爵ポンメルシー君はど《/ど》こかのすみで三百代言をやっているそうです。」  老人がかく愛惜している一方に、マリユスは自ら祝していた。あらゆる善良な心の人におけるがように、不幸は彼から苦々しさを除いてしまった。彼は今やジルノルマ《マ-》ン氏のことを考えるにもた《/た》だ穏和な情《ジョウ》をもってするのみだった。しかし父に対して不親切であったその男からはも《/も》はや何物をも受けまいと決心していた。そしてそれは、最初の憤激が今《/今》やよほど|やわ《和》らいだのを示すものだった。その上《うえ》彼は、今まで苦しみ今《/今》もなお苦しんでいることを幸福に感じていた。それは父のためだったのである。生活の困難は彼を満足させ彼《/彼》を喜ばせた。彼は一種の喜悦の情《ジョウ》をもって自ら言っていた。──これは極めて些細なことだ。この些細なことも一つの贖罪だ。もしこの贖罪がなかったならば、自分の父に対して、あのような父に対して、かつて不信にも背反したことは、必ず何らかの仕方でい《/い》つかは罰せられるであろう。父はあらゆる苦しみをなめ自分《/自分》は少しの苦しみも受けないということは、正しいことではあるまい。もとより自分の労働も窮乏も大佐《/大佐》の勇壮な一生に比べては及びもつかないものであろう。それからまた、父に近づき父《/父》に似んとする唯一の方法は、敵に対して父が勇敢であったとおり自分《/自分》も赤貧に対して勇壮であるということである。そこにこそ疑いもなく、「予が子はそ《/そ》れに価するなるべし」という大佐の言葉の意味があるのである。──その大佐の言葉こそマリユスが絶えずいだいていたところのもので、その遺言状がなくなったので胸にはいだいていなかったが、心のうちにいだいていたのである。  そしてまた、祖父から追い出された時は彼《/彼》はまだ子供にすぎなかったが、今では既に一個の人となっていた。彼はそれを感じていた。繰り返して言うが、辛苦は彼のためになったのである。青年時代の貧困は、うまくゆくと特殊な美点を有して、人の意思をすべて努力の方《ほう》へ転ぜしめ、人の心をすべて希望の方《ほう》へ向かわしむる。貧困は直ちに物質的生活を赤裸々にして、それを嫌悪すべきものたらしめ、従って人を精神的生活の方《ほう》へ飛躍せしむる。富裕なる青年は、多くのはなやかな野卑な楽しみを持っている。競馬、狩猟、畜犬、煙草、カルタ、美食、その他。すべて魂の高尚美妙な方面を犠牲に供する、下等な方面の仕事である。貧しい青年は骨折ってパンを得、それを食し、食し終わった後《あと》にはもはや夢想のほか何もない。彼は神より与えらるる無料の劇場に赴く、彼は見る、天、空間、星辰、花、小児、《:、》その中にあって彼自ら苦しんでいる人類、その中にあって彼自ら光り輝いている創造。彼はつくづく人類をながめてそ《/そ》こに魂を認め、つくづく創造をながめてそ《/そ》こに神を認める。彼は夢想して自《/自》ら偉大なることを感じ、なお夢想して自《/自》ら温和なることを感ずる。悶々たる人間の利己主義を脱して、瞑思《+メイシ》する人間の同情心《同情シン》に達する。彼のうちには賛美すべき感情が花を開く、自己の忘却と万人に対する憐憫とが。自然が閉じたる魂には拒み、開いたる魂にはささげ与《/与》え惜《/惜》しまない、あの無数の怡悦を考えつつ、英知の上の長者たる彼は、金銭の上の長者たる人々をあわれむようになる。精神のうちに光明がはいって来るに従って、あらゆる憎しみは心から去ってゆく。それに元来彼は不幸であるか? 否《イナ》。青年の悲惨は決して悲惨なものではない。普通のいずれの青年を取ってみても、いかに貧しかろうとも、その健康、力、活発な歩調、輝ける目、熱く流《なが》るる血潮、黒き髪、あざやかな頬《ホオ》、赤き脣、白き歯、清《きよ》き息、などをもってして、彼は常に老いたる帝王のうらやむところとなるであろう。それから毎朝彼《毎朝’彼》は再びパンを得ることに従事する。そして彼の手がパンを得つつある間に、彼の背骨は矜持を得、彼の頭脳は思想を得る。仕事が終える時には、言うべからざる喜悦に、静観と歓喜とに戻ってゆく。辛苦の中、障害の中、舗石《+敷石》の上、荊棘《+茨》の中、時には泥濘の中に、足をふみ入れながら、頭は光明に包まれて、彼は生きる。彼は堅実で、清朗《晴朗》で、温和で、平和で、注意深く、|まじめ《真面目》で、僅少に満足し、親切である。そして彼は、多くの富者に欠けてる二《/二》つの財宝を恵まれたことを神に謝する、すなわち、自分を自由ならしむる仕事と自分《/自分》を価値あらしむる思念とを。  マリユスのうちに起こったことは、以上のようなものであった。すべてを言えば、彼は静観の方面に傾きすぎるほどだった。ほとんど確実に食を得らるるに至った日から、彼はその状態に止めて、貧乏はいいことだとさとり、思索にふけるために仕事を節した。そして時によると、幾日《幾にち》も終日瞑想《終日’瞑想》のうちに過ごし、幻を見る人のように、恍惚と内心《/内心》の光燿《+コウ燿》との無言《/無言》の逸楽のうちに沈湎していた。彼は生活の方式をこう定めた。無形の仕事に|でき得《出来う》る限り多く働かんがために有形《/有形》の仕事に|でき得《出来う》る限り少なく働くこと。言葉を換えて言えば、現実の生活に幾時間かを与え、残余の時間を無窮のうちに投げ込むこと。彼は何らの欠乏をも感じなかったので、そういうふうに取り入れられた静観はつ《/つ》いに怠惰の一形式に終わるということに、気づかなかった。生活の最初の必要に打ち勝ったのみで満足したことに、そしてあまりに早く休息したことに、気づかなかった。  明らかにわかるとおり、このように元気な殊勝な性質にとっては、それは一時《イチジ》の過渡期の状態にすぎなかった。そして宿命の避《-さ》くべからざる葛藤に触《-ふ》るるや直ちに、マリユスは覚醒するであろう。  ところで、彼は弁護士になっては《は-》いたけれども、またジルノルマン老人がそれをどう思ったとしても、彼は実際弁論《実際’弁論》もせず、三百代言をこね回しもしなかった。夢想は彼を転じて弁論から遠ざけた。代言人の家に出入りし、裁判のあとをつけ、事件を探る、それは彼のた《耐》え得ないところだった。何《なに》ゆえにそういうことをする必要があるか。彼は生活の道を変える理由を少しも認めなかった。あの商売的なつまらない本屋の仕事は、ついに彼には確実な仕事となっていた。あまり骨《’骨》の折れないことではあったが、前に説明してきたとおり、それだけで彼には十分だった。  彼が仕事をさしてもらってる種々《いろいろ》な本屋のうちの|ひとり《一人》は、マジメル氏だったと思うが、彼を雇い込み、りっぱに住まわせ、一定の仕事を与え、年《ネン》に千五百フラン払おうと、申し出てきた。りっぱに住まう、千五百フラン、なるほど結構ではある。しかし自由を捨てる、給料で働く、一種《1種》の抱え文士となる! マリユスの考えでは、それを承諾したら自分の地位はよくなると同時にま《”ま》た悪くもなるのであった。楽な暮らしは得られるが、威厳は堕ちるのだった。完全な美しい不幸を醜《/醜》い賤しい窮屈に変えることだった。盲人が片目の男になるようなものだった。マリユスはその申し出を断わった。  マリユスは孤立の生活をしていた。すべてのことの局外にいたいという趣味から、またあまりに脅かされたために、アンジョーラの主宰する群れにもすっかりはいり込みはしなかった。やはり仲のいい間がらではあり何《/何》か起こった場合にはできるだけの方法で助け合うことにはなっていたが、しかしそれ以上には深入りしなかった。マリユスは友人をふたり持っていた。|ひとり《一人》は青年のクールフェーラックで、|ひとり《一人》は老人のマブーフ氏だった。どちらかと言えば彼はその老人の方《ほう》に傾いていた。第一に、そのおかげで心の革命が起こったし、またそのおかげで父を知り父《/父》を愛したのであった。「彼は私の内障眼《+底翳》をなおしてくれた」とマリユスは言っていた。  確かにその会堂理事は決定的な働きをした。  けれども、その場合マブーフ氏は、天意に代わって静かに虚心平気《/虚心’平気》に仕事をなしたのである。彼は偶然にそ《/そ》して自ら識らずしてマリユスを照らしたのであって、あたかも人からそこに持ちきたされる蝋燭《/蝋燭》のごときものだった。彼はそ《/そ》の蝋燭であって、その人ではなかった。  マリユスの内部に起こった政見的革命については、マブーフ氏は全く、それを了解し希望《/希望》し指導《/指導》することはできなかったのである。  今後再《今後’再》びマブーフ氏はこの物語の中に出て来るので、ここに彼について一言費《イチゴン費》やすのも|むだ《無駄》ではあるまい。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【マブーフ氏】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マブーフ氏がマリユスに向かって、「なるほど政治上の意見も結構です」と言った時、それは彼の精神の真《/真》の状態を言い現わしたものだった。あらゆる政治上の意見に、彼はまったく無関心で、そんなことはどうでもかまわないのだった。そして自分を平和にして置いてさえくれるものだったら、何でもかまわず是認した。あたかもギリシャ人らが、地獄の三女神フ《/フ》ューリーのことを、「美《ビ》の女神、善良の女神、魅惑の女神」あるいはウーメニード(親切な女神)、などと呼んだようなものである。マブーフ氏の政見といえば、植物およびこ《/こ》とに書物の熱心なる愛好ということだった。当時はだれも党という終《/終》わりにくっつく一語なしには生きられなかったので、彼も同じくそ《/そ》の終わりの党という語を持っていたが、しかし王党でもなく、ボナパルト党でもなく、憲法党でもなく、オルレアン党でもなく、無政府党でもなく、実に書物党であった。  世界には|なが《眺》むるに足るべきあらゆる種類の苔《/苔》や草《/草》や灌木《/灌木》があり、ひもとくに足るべき多《/多》くの二折形《二折りガタ》や三十二折形《/三十二折りガタ》の書物があるのに、《:、》憲法だの民主《/民主》だの正権《/セイ権》だの王政《/王政》だの共和《/共和》だのという児戯《/児戯》に類することについて、人々が互いに憎み合うということを、彼は理解することができなかった。彼は有用ならんことを心掛けていて、書物をたくわえはするが読書《/読書》をもし、植物学者ではあるが園丁《/園丁》でもあった。彼がポンメルシー大佐を知った時、大佐が花について試みてることを彼《/彼》は果実について試みてるという同感が、ふたりの間にはあった。マブーフ氏はついに、サン・ジェルマンの梨にも劣らぬ味を有する苗木《/苗木》の梨の果《+実》を作り出すに至った。また夏の黄梅にも劣らぬ香味《/香味》のある今日《-こんにち》有名な十月《/十月》の黄梅《黄梅’》の果《実》が生まれ出たのも、たぶん彼の工夫の一つからだったらしい。よく弥撒《+ミサ》に行ったのも、信仰からというよりむ《/む》しろ穏和を好むからだった。そしてまた人の顔は好きだがそ《/そ》の声はきらいなところから、人が大勢《大ぜい》集まって黙ってるのは会堂《/会堂》でしか見られないからだった。国家のために少しは尽さなければならないと思って、会堂理事の職を選んだのだった。その上、女のことといったらチューリップの球根ほどにも思っていず、男のことといったらオランダのエルゼヴィール版の書物ほどにも思っていなかった。もう六十の坂をと《とっ》くに越していたが、ある日だれかが彼に尋ねた、「あなたは結婚したことがおありですか。」「《:「》忘れてしまいました、」と彼は答えた。時とすると、だれにもそれは起きることであるが、こう口にすることもあった、「ああ《あ/》私に金《-かね》があったら!」しかしそれは、ジルノルマン老人のようにき《/き》れいな娘を横目で見ながら言うのではなく、古書をながめながら言うのだった。彼は|ひとり《一人》で、年寄りの女中といっしょに住んでいた。少し手部痛風《シュブ痛風》にかかっていた。そしてリューマチから来る関節不随の指を休ませようとする時には、布を折ってそれでゆわえた。彼はコートレー付近の特産植物誌という彩色《サイショク》版入りの書物をこしらえて出版したが、かなりの評判で、その銅版を持っていて自ら売った。そのためメジュール街の彼の門をたたく者が日《ヒ》に|二、三《二’三》度はあった。彼はそのため年《ネン》に二千フランばかりを得ていた。それがほとんど彼の財産全部だった。そして貧しくはあったが、忍耐と倹約と長い間《あいだ》のおかげで、あらゆる種類の高価な珍本《珍ポン》を集めることができた。外出する時はいつも書物を一冊小《一冊’小》わきに抱えていたが、帰って来る時にはしばしば二冊となっていた。小さな庭と一階の四つの室《+部屋》とが彼の住居だったが、その唯一の装飾としては枠《/枠》に入れた植物標本と古《/古》い名家の版画だけだった。サーベルや銃を見ると身体が凍える思いをした。生涯の間一度《あいだ一度》も大砲に近寄ったこともなくア《/ア》ンヴァリード(廃兵院)に行ったこともなかった。かなりの胃袋を持っており、司教をしてる|ひとり《一人》の兄があり、頭髪はまっ白で、口にも心にも歯がなくなり、身体中震《体中’震》え、言葉はピカルディーなまりで、子供のような笑い方をし、すぐに物におそれ、年取った羊のような様子をしていた。その上、ポルト・サン・ジャックの本屋の主人でロ《/ロ》アイヨルという老人のほか、生きた者のうちには友人も知己もなかった。その夢想は、藍をフランスの土地に育ててみたいということだった。  女中の方《ほう》もまた、質朴な性質だった。そのあわれな人のいい婆さんは、かつて結婚したことがなかった。ローマのシクスティーヌ礼拝堂でア《/ア》レグリ作の聖歌でも歌いそうなス《/ス》ュルタンという牡猫《+オス猫》が、彼女の心を占領して、彼女のうちに残ってる愛情にとっては十分だった。彼女の夢想は少しも人間までは及ばなかった。決して彼女は自分の猫より先まで出ようとはしなかった。猫と同じように口髭がはえていた。その自慢はいつもまっ白な帽子だった。日曜日に弥撒《+ミサ》から帰って来ると、行李の中の下着を数えたり、買ったばかりで決《/決》して仕立てない反物を寝床の上にひろげてみたりして、時間を過ごした。読むことはできた。マブーフ氏は彼女にプリュタルク婆さんという綽名《渾名》をつけていた。  マブーフ氏はマリユスが好きであった。なぜなら、マリユスは若くて穏和だったので、彼の内気を脅《-おびや》かすことなく彼《/彼》の老年をあたためてくれたからである。穏和な青年は、老人にとっては風《/風》のない太陽のようなものである。マリユスは武勲《/武勲》や火薬《/火薬》や入《/入》り乱れた進軍など、父が幾多の剣撃を与えま《”ま》た受けたあの驚くべき戦闘で、まったく心を満たされてしまったとき、マブーフ氏を訪ねて行った。するとマブーフ氏は、花栽培の方面からそ《/そ》の英雄のことを語ってきかした。  1830年ごろ、兄の司祭は死んだ。そしてほとんどすぐに、マブーフ氏の眼界《視界》は夜がきたように暗くなった。破産──公証人の──は、兄と自分との名義で所有していた全部である一万フランを、彼から奪ってしまった。七月革命は書籍業に危機をきたした。騒乱の時代にまっ先に売れなくなるものは特産植物誌などというものである。コートレー付近の特産植物誌はぱったりその売れ行きが止まった。幾週間たっても|ひとり《一人》の買い手もなかった。時とするとマブーフ氏は呼鈴《+ベル》のなるのに喜んで飛び立った。「旦那様、水屋でございますよ、」とプリュタルク婆さんは悲しげに言った。ついにマブーフ氏はメジエール街を去り、会堂理事の職をやめ、サン・スュルピス会堂を見捨て、書物は売らなかったが版画《/版画》の一部を売り──それは大して大事にしているものではなかった──《─:》そしてモンパルナス大通りに行って小さな家に居を定めた。しかしそこには三カ月しか住まなかった。それには二つの理由があった。第一は、一階と庭とで三百フランもかかるのに、二百フランしか借料にあてたくなかったからである。第二は、ファトゥー射的場の隣だったので、終日拳銃《+終日/ピストル》の音がして、それにた《耐》え得なかったからである。  彼はその特産植物誌と銅版《/銅版》と植物標本《/植物標本》と紙《/紙》ばさみと書物《/書物》とを持って、サルペートリエール救済院の近くに、オーステルリッツ村の茅屋に居を定めた。そこで彼は年《ネン》に五十エキュー(二百五十《二百ゴジュッ》フラン)で、三つの室《+部屋》と、籬で囲まれ井戸《/井戸》のついてる一つの庭を得たのである。彼はその移転を機会として、ほとんどすべての家具を売り払ってしまった。そして新しい住居にはいってきた日、きわめて愉快そうで、版画や植物標本をかける釘を自分で打ち、残りの時間は庭を掘り返すことに使い、《:、》晩になって、プリュタルク婆さんが陰気な様子をして考え込んでるのを見ると、その肩をたたいてほほえみながら言った、「おい、藍ができるよ。」  ただふたりの訪問客、ポルト・サン・ジャックの本屋とマリユスとだけが、そのオーステルリッツの茅屋で彼に会うことを許されていた。なお落ちなく言えば、戦争にちなんだこの殺伐な地名は、彼にはかなり不愉快でもあった。  なおまた、前に指摘してきたとおり、一つの知恵か、一つの熱狂か、あるいはまた往々あるとおりそ《-そ》の両方に、まったくとらえられてしまってる頭脳は、実生活の事物に通ずることがきわめて遅いものである。自分自身の運命が彼らには遠いものである。そういう頭脳の集中からは一種《/一種》の受動性が生ずるもので、それが理知的になると哲学《/哲学》に似寄《似通》ってくる。衰微し、零落し、流れ歩き、倒れまでしても自分《/自分》ではそれにあまり気がつかない。実際ついには目をさますに至るけれど、それもずっと後のことである。それまでは、幸と不幸との賭事の中で局外者《/局外者》のように平気でいる。彼らはその間《あいだ》に置かれた賭金《賭け金》でありながら、不関焉《+関せず焉》として両方をぼんやりながめている。  そういうふうにして、自分のまわりに希望が相次いで消えてゆき|しだい《/次第》に薄暗くなるにもかかわらず、マブーフ氏はどこか子供らしくし《/し》かもきわめて深く落ち着き払っていた。彼の精神の癖は振り子の動揺にも似ていた。一度幻《一度’幻》でねじが巻かれると長く動いていて、その幻が消えてもなお止まらなかった。時計は鍵がなくなった時に急に止まるものではない。  マブーフ氏は他愛ない楽しみを持っていた。その楽しみは金《-かね》もかからずま《”ま》た思いも寄らぬものだった。ちょっとした偶然の機会から彼はそれを得た。ある日プリュタルク婆さんは室《+部屋》の片すみで小説を読んでいた。その方《ほう》がよくわかるからと言って声高《/声高》に読んでいた。声高《コワダカ》に読むことは読んでるのだと自分自身にのみこませることである。至って声高に物を読んで、自分は今読書《今’読書》をしてると自分自身に納得させるような様子をしてる者が、世にはずいぶんある。  プリュタルク婆さんはそういう元気で、手に持ってる小説を読んでいた。マブーフ氏は聞くともなしにそれを聞いていた。  そのうちにプリュタルク婆さんは次のような文句の所にきた。それは|ひとり《一人》の竜騎兵の将校と美人との話だった。 『‥‥美人ブーダ(口をとがらした)、とドラゴン(竜騎兵)は‥‥。』  そこで婆さんは眼鏡をふくためにちょっと言葉を切った。 「ブーダ(仏陀)と竜《+ドラゴン》‥‥。」とマブーフ氏は口の中でくり返した。「なるほどそのとおりだ。昔一匹の竜《+ドラゴン》がいて、その洞穴の奥で口から炎を吐き出して天《/天》を焦がした。既に多くの星はその怪物から焼かれたことがあり、その上《うえ》奴は虎のような爪を持っていた。でそ《/そ》の時仏陀《時’仏陀》は洞穴の中にはいってゆき、首尾よく竜《+ドラゴン》を改心さしたのだ。プリュタルク婆さん、お前がそこで読んでるのはいい書物だ。それ以上に美しい物語は世間にない。」  そしてマブーフ氏は楽しい空想にふけった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【悲惨の隣の親切なる貧困】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスはその廉直な老人を好んだ。老人は徐々に窮乏のうちに陥ってゆくのに気づき、|しだい《次第》に驚いては《は-》いたが、まだ少しも悲しみはしなかった。マリユスはクールフェーラックにも出会い、またマブーフ氏をも訪れた。だがそれもごくまれで、月に多くて|一、二回《一’二回》にすぎなかった。  マリユスの楽しみは、郊外の|並み木通《並木通》りや、練兵場《練兵ジョウ》や、リュクサンブールの園《’園》の最も人の少ない道などを、|ひとり《一人》で長く散歩することだった。時には、園芸家の庭や、サラド畑《バタケ》や、小屋の鶏《ニワトリ》や、水揚げ機械の車を動かす馬などをながめて、半日も過ごすことがあった。通りがかりの者は驚いて彼をうちながめ、ある者はその服装を怪しみそ《/そ》の顔つきをすごく思った。しかしそれは、あてもなく夢想にふけってる貧しい青年にすぎなかった。  彼がゴルボー屋敷を見いだしたのは、そういう散歩の折りであった。そしてその寂しいさまと代《/ダイ》が安いのとにひかされて、そこに住むことにした。そこで彼はただマリユ《ユ-》ス氏という名前だけで知られていた。  父の昔の将軍や昔《/昔》の同僚らのうちには、彼の身の上を知るとそ《/そ》の邸《屋敷》に招いてくれる者もあった。マリユスは断わらなかった。それは父のことを話す機会だった。そういうふうにして彼は時々、パジョル伯爵やベ《/ベ》ラヴェーヌ将軍やフ《/フ》リリオン将軍などの邸《屋敷》を訪れ、また廃兵院にも行った。音楽や舞踏などがあった。そういう晩マ《/マ》リユスは新しい上衣をつけて行った。けれども寒い凍《/凍》りついた日でなければ、決してそれらの夜会や舞踏会に行かなかった。なぜなら、馬車を雇ってゆくことができなかったし、少しでもよごれた靴をは《履》いて向こうに着くことを欲しなかったから。  彼は時々こう言った、しかしそれは別に皮肉のつもりではなかった。「客間では、靴を除いては全身泥《全身ドロ》だらけでもかまわないものだ。よく迎えられんがためには、非の打ちどころのないた《/た》だ一つのものさえあれば十分だ。それは良心であるか、否《いな》、靴である。」  あらゆる情熱は、愛のそれを除いては、夢想のうちに消散してしまうものである。マリユスの政治上の熱も、夢想のうちに消え失せてしまった。1830年の革命は、彼を満足させ彼《/彼》をしずめさして、それを助けた。しかし憤激を除いては、後《あと》はやはり元と同じだった。彼の意見はただ和らげられたというのみで、少しも変わりはなかった。更によく言えば、彼はもう意見などというものを持たず、ただ同感をのみ持っていた。いかなる党派かといえば、彼は人類派だった。そして人類のうちではフランスを選び、国民のうちでは民衆を選び、民衆のうちでは婦人を選んだ。彼の憐憫が特に向けられたのはその点へであった。今や彼は事実よりも思想を好み、英雄よりも詩人を好み、マレンゴーのような事件よりもヨブ記のような書物をいっそう賛美した。それからまた、一日の瞑想の後《あと》、|夕方並み木通《夕方’並木通》りを帰って来る時《とき》、そして樹木の枝の間から、底なき空間を、言い難き光輝を、深淵を、影を、神秘を|なが《眺》むる時《とき》、単に人類にのみかかわることはすべてきわめて微小であるように彼には思えた。  人生の真に、そして人類の哲理の真に、ついに到達したと彼は思っていた。おそらく実際到達《実際’到達》していたであろう。そして今やもうほとんど天をしかながめなくなった。実に天こそは、真理がその井戸の底からながめ得る唯一のものである。  それでもなお彼は、未来に対する計画考案組立仕組《計画/考案/組立/仕組》をふやしてゆくことはやめなかった。そういう夢想の状態にあるマリユスの内部を|なが《眺》むるならば、その魂の純潔さにい《/い》かなる目も眩惑されるであろう。実際、他人の内心をのぞくことが肉眼《/肉眼》に許されるならば、人はその思想するところのものによってよりも、その夢想するところのものによってい《/い》っそう確実に判断さるるであろう。思想のうちには意志がある。しかし夢想のうちにはそれがない。まったく自発的である夢想は、巨大と理想とのうちにあっても、人の精神の形を取りそ《/そ》れを保全する。燦然たる運命の方《ほう》へ向けらるる無考慮《/無考慮》で無限度《/無限度》な憧憬ほど、人の魂の底から直接にま《”ま》た誠実に出てくるものはない。こしらえ上げ推理《/推理》し組《/組》み合わした理想の中よりも、それらの憧憬の中にこそ、各人《カクジン》の真の性格は見いだされる。幻想こそ最もよくその人に似る。各人はその性格に従って不可知《/不可知》のものと不可能《/不可能》のものとを夢想する。  1831年の中ごろ、マリユスの用を達《足》していた婆さんは、マリユスの隣に住んでるジ《/ジ》ョンドレットというあわれな一家が、まさに追い払われようとしてることを話してきかした。ほとんど毎日外《毎日ソト》にばかり出ていたマリユスは、隣の室《+部屋》に人が住んでるかさえもよく知らなかった。 「どうして追い払われるんです。」と彼は言った。 「室代《部屋代》を払わないからですよ。二期分もたまっています。」 「いかほどになるんです。」 「二十《ニジュッ》フランですよ。」と婆さんは言った。  マリユスは引き出しの中に三十《サンジュッ》フランたくわえていた。 「さあ、」と彼は婆さんに言った、「ここに二十五フランあります。そのかわいそうな人たちのために払ってやり、余った五フランはその人たちにやって下さい。だが私がしたんだと言ってはいけませんよ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【後継者】 ◇。◇。◇。◇。◇。  偶然にも、中尉テ《/テ》オデュールの属していた連隊がパリーに駐屯することとなった。その好機はジルノルマン伯母に第二の考案を与えた。最初彼女《最初’彼女》はテオデュールにマリユスを監視させようとしたのであったが、こんどはテオデュールにマリユスのあとを継がせようと謀った。  とにかく、家の中に青年の面影がほしいと祖父が漠然と感じているに違いない場合なので──青年という曙は廃残の老人にとっては往々快いものである──別のマリユスを見いだすのに好都合だった。伯母は考えた。「なに、書物の中で見当たる誤植のようなものさ。マリユスというのをテオデュールと読めばよい。」  孫に当たる甥は直接の孫と大差はない。弁護士がいないので槍騎兵を入《-い》れるわけである。  ある日の朝、ジルノルマ《マ-》ン氏がコ《/コ》ティディエンヌ紙か何かを読んでいた時、娘ははいってきて、一番やさしい声で彼に言った。自分が目をかけてやってる者に関することだったから。 「お父さん、今朝テ《/テ》オデュールがごあいさつに参ることになっています。」 「だれだ、テオデュールとは?」 「あなたの甥の子ですよ。」 「あー。」と祖父は言った。  それから彼はまた読み初《始》めて、テオデュールとか何とかいうその甥のことはも《/も》う頭にしていなかった。そして物を読む時にはほとんどいつものことだったが、その時もやがて興奮し出した。彼が手にしていた「新聞か何か」は、もとより王党のものだったことはわかりきっているが、それが少しも筆《フデ》を和らげないで、当時のパリーに毎日のように起こっていたあ《/あ》る小事件の一つが、翌日起《翌日’起》こることを報じていた。──法律学校と医学校《/医学校》との学生が、正午にパンテオンの広場に集まることになっている、評議するために。──それは一つの時事問題に関することだった。すなわち国民軍の砲兵に関することで、ルーヴル宮殿の中庭に据えられた大砲について陸軍大臣《/陸軍大臣》と「市民軍」の間に起こった争論に関してだった。学生らはそのことを「評議する」ことになっていた。それだけで既にジルノルマ《マ-》ン氏の胸をいっぱいふくれさすには十分だった。  彼はマリユスのことを考えた。マリユスも学生であって、たぶん他の者と同じく、「正午にパンテオンの広場に評議しに」行くであろう。  彼がそういうつらい考えにふけっている時《とき》、中尉のテオデュールは平服を着て──平服を着たのは上手なやり方だった──ジルノルマン嬢に用心深《用心ぶか》く導かれて、そこにはいってきた。槍騎兵はこんなふうに考えていた。「この頑固親爺《+頑固オヤジ》も財産をそっくり終身年金に入れたわけでもあるまい。金になるなら時々は人民服を着るのもいい。」  ジルノルマン嬢は高い声で父に言った。 「甥の子のテオデュールです。」  そして低い声で中尉に言った。 「何《なん》でも賛成するんですよ。」  そして彼女は室《+部屋》を出て行った。  中尉はそんな|きちょうめん《几帳面》な会見にはあまりなれていなかったので、多分おずおずとつぶやいた。「伯父様、こんにちは。」そして、軍隊式敬礼の無意識的な機械的《/機械的》な型を普通の敬礼の型にくずした中間のおじぎをした。 「あーお前か。よくきた。まあすわるがいい。」と祖父は言った。  しかしそう言ったばかりで、彼は《は-》すっ《-っ》かり槍騎兵のことを忘れてしまった。  テオデュールはすわったが、ジルノルマ《マ-》ン氏は立ち上がった。  ジルノルマ《マ-》ン氏は両手をポケットにつっ込んで、室《+部屋》をあちらこちら歩き出し、二つの|内隠し《内ポケット》の中に入れていた二つの時計を、年老いた震える指先でいじりながら、声高にしゃべり出した。 「鼻ったらしどもが! パンテオンの広場に集まる。|ばか《馬鹿》な! 昨日まで乳母がついていた小僧のくせに。鼻をすったら乳が出ようという奴どもが。それで明日正午《明日’正午》に評議する! こんなありさまでどうなるんだ。どうなるんだ。世はま《真》っ暗やみになるのはわかりきってる。シャツなしども(革命共和党)のおかげでこんなことになるんだ。市の砲兵! 市の砲兵のことを評議する! 国民軍の大砲の音について、|はばか《憚》りもなく外に出てきて|がやがや《ガヤガヤ》しやがるとは。しかもどんな奴らが集まろうというのか。ジャコバン主義(過激民主主義)がどんなところに落ち着くか見るがいい。私《儂》は何でも賭ける。百万円でも賭ける、そして断言するんだ、そんな所へ行く奴《ヤツ》は罪人か前科者《/前科モノ》ばかりだ。共和党に囚人、いい取り組みだ。カルノーは言った、『|わし《儂》にどうしろと言うのか、反逆人めが』《:』》フーシェは答えた。『勝手にしろ|ばか者《馬鹿もの》!』そういうのが共和党の常だ。」 「ごもっともで《で-》す。」とテオデュールは言った。  ジルノルマ《マ-》ン氏は少し頭を振り向けてテオデュールを見、そしてまた言い続けた。 「この恥知らず奴《め》が、秘密結社のうちにはいったのは思ってもしゃくにさわる! なぜ貴様は家を出て行ったんだ、共和党になるためか。|ばか《馬鹿》! 第一人民《第一/人民》は共和なんか望んでいない。望んでいないんだ。人民は良識を持っている。常に国王があったこと、常に国王があるべきことを知ってる。人民は要するに人民にすぎないことを知ってる。共和なんかは|ばか《馬鹿》にしてるんだ。わかったか、|ぐず《愚図》めが! そんなむら気《っけ》は|のろ《呪》うべきだ。デュシェーヌ紙(訳者注◇ 革命時代の過激なる新聞)に惚れ込み、断頭台に色目を使い、1793年の舞台裏で小唄《/小唄》を歌いギターをひくとは、唾を吐きかけても足りん。それほど今の若者らは|ばか《馬鹿》だ。皆《みんな》そうだ。|ひとり《一人》としていい奴《ヤツ》はいない。街路《+街》に流れてる空気を吸えば、それでもう気が狂ってしまう。十九世紀は毒だ。どのいたずらっ児《子》も、少しばかり山羊のような髯がは《生》え出すと、ひとかど物《’物》がわかった気になって、古い身内の者を捨ててしまう。何かと言えば共和だのロ《/ロ》マンティックだのという。いったいロマンティックとは何だ。説明してもらいたいもんだ。|ばか《馬鹿》げきったことばかりじゃないか。エルナニがあったのは一年前だ(訳者注◇ 本書の作者ユーゴーの戯曲で、1830年その第一回公演はロマンティック運動のエポックメーキングのものとせらる)。ところでそのエルナニとはどういうものか少し聞きたいもんだ。アンチテーズ(対偶法)だけだ、胸くそが悪くなるようなものだけだ、フランス語とさえもいえないものだ。それからまたルーヴルの中庭に大砲を据えるなどということをする。そういうことばかりが今の時代の無頼漢どもの仕業じゃないか。」 「伯父様の説はもっともです。」とテオデュールは言った。  ジルノルマ《マ-》ン氏は続けた。 「ムューゼオムの中庭に大砲を据える! それはいったい何《-なん》のためだ。大砲をどうするつもりか。ベルヴェデールのアポロンに霰弾を浴びせるつもりか。弾薬嚢とメディチのヴィーナスと何《-なん》の関係がある。今時の青年は皆手《-みんな手》がつけられない奴らばかりだ。バンジャマン・コンスタン(訳者注◇ 自由派の首領)なんか何《/何》と下らない奴《ヤツ》だ。皆悪党《みんな悪党》でなければ|ばか《馬鹿》だ。わざわざ醜いふうをし、きたない服をつけ、女と見れば|こわ《怖》がり、娘っ児《子》のまわりに乞食のような様子をして下女《/下女》どもから笑われる。恋愛にまでびくびくしてるあわれな奴らだ。醜い上に愚かだ。ティエルスランやポ《/ポ》ティエ式の地口をくり返し、袋のような上衣《上着》、馬丁のようなチョッキ、粗末な麻のシャツ、粗末なラシャのズボン、粗末な皮の靴、そして吹けば飛ぶようなことをしゃべりちらしてる。そういう片言で破れ靴の底でも繕うがいい。しかもその|ばか《馬鹿》な小僧っ児《子》どもが政治上の意見を持ってるというのか。奴らが政治に口を出すことは厳重に禁じなければいかん。異説を立て、社会を改造し、王政をくつがえし、あらゆる法律をうち倒し、窖と屋根部屋とをあべこべにし、門番と国王とを置きかえ、ヨーロッパ中《じゅう》をかき回し、世界を建て直し、《:、》そして|洗たく女《洗濯女》どもが車に乗る時横目《時/横目》でその足をのぞいて喜んでいやがる。ああ《あ/》マリユス! けしからん奴《ヤツ》だ。大道でどなり立て、議論し、討論し、手段を講ずる! 奴らはそれを手段という。ああ、同じ紊乱でも今は小さくなって雛児《+/ヒヨッコ》になってしまってる。私は昔は混沌界を見たが、今はただ泥《/泥》の泡《+アブク》だけだ。学校の生徒が国民軍のことを評議するなどとは、オジブワやカ《/カ》ドダーシュなんかの化け物のうちにも見られないことだ。羽子《+羽根》つきの羽子《+羽根》のようなものを頭にかぶり手《/手》に棍棒を持ってま《/真》っ裸で歩く蛮人も、この得業士どもほどひどくはない。取るに足らぬ小猿のくせに、尊大で傲慢で、評議したり理屈をこね回したりする。もう世は末だ。この水陸のみじめな地球も確かにもう終わりだ。最後の吃逆がいるんなら、フランスは今それをしてるところだ。評議するならしろ、やくざ者め! オデオンの拱廊《アーケード》で新聞なんか読むからそういうことになるんだ。一スーの金《-かね》を出して、それでもう、やれ識見《/識見》だの知力《/知力》だの心《/心》だの魂《/魂》だの精神《/精神》だのができ上がる。そして出て来ると、家の中でいばり散らす。新聞というものは疫病神だ。どれもそうだ。ドラポー・ブラン紙にしたって、記者のマルタンヴィルはジャコバン党だった。ああ、貴様は、祖父を絶望さして得意になってるんだろう。貴様は?」 「そのとおりです。」とテオデュールは言った。  そしてジルノルマ《マ-》ン氏が息をついてる間に乗じて、槍騎兵はおごそかに言い添えた。 「新聞は機関新聞だけにし、書物は軍事年報だけにするがよろしいんです。」  ジルノルマ《マ-》ン氏は言い続けた。 「シエイエスのようなものだ。国王を殺しながら上院議員になる。奴らの終わりはいつもそうだ。ぞんざいな|いや《卑》しい言葉を使いながらつ《/つ》いには伯爵殿《伯爵どの》と言われるようになろうというわけだ。腕のように図太い伯爵殿《伯爵どの》だ、九月(1892年)の虐殺者どもだ。哲人シエイエスだ。幸いに私《儂》は、そういう哲人《哲ジン》どもを、ティヴォリの道化見世物《道化’見世物》ほどにも尊敬しない。上院議員らが蜜蜂のついた紫《/紫》ビロードのマントを着《-き/》アンリ四世《4世》式の帽子をかぶってマ《/マ》ラケー河岸《ガシ》を通るのを、ある日私は見たことがある。胸くそが悪くなるような様子をしていた。ちょうど虎に従う猿《サル》のようだ。市民諸君、私は断言する、君らのいう進歩は狂乱である、君らの人類は幻である、君らの革命は罪悪である、君らの共和は怪物である、《:、》君らのいう純潔なる若きフランスは遊女屋《/遊女屋》から出て来るものだ。私はそれを主張する。よし君らが何であろうとも、新聞記者であり、経済学者であり、法律家であろうとも、また君《キミ》らが断頭台の刃よりもよ《良》く自由平等博愛《自由’平等’博愛》を知っていようとも! 私は断じてそう言うのだ、わが敬愛なる諸君!」 「しかり、」と中尉は叫んだ、「まったくそのとおりです。」  ジルノルマ《マ-》ン氏はやりかけた手まねをやめて、ぐるりと振り向き、槍騎兵テオデュールの顔をじっと見つめ、そして言った。 「お前は|ばか《馬鹿》だ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六編】 【両星《両セイ》の会交】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【綽名《渾名》──家名の由来】 ◇。◇。◇。◇。◇。  当時のマリユスは、中背の美しい青年で、まっ黒な濃い髪、高い利発らしい額《ヒタイ》、うち開いた熱情的な小鼻、|まじめ《真面目》な落ち着いた様子、そしてその顔には、矜らかで思索的《/思索的》で潔白《/潔白》な言い知れぬ趣が漂っていた。その横顔は線に丸みがあるとともにま《”ま》た厳乎たるところがあって、アルザスおよびローレーヌを通じてフ《/フ》ランス人の容貌のうちにはいってきたゼルマン式の優しみがあり、《:、》ロマン種族中にあって古《古代》ゼルマン族の特長となり獅子族《/獅子族》と鷲族《/鷲族》とを区別せしむるあ《/あ》の稜角の皆無さをそなえていた。頭を使う人の精神がほとんど等分に深《/深》さと無邪気さとを有する頃の年輩に、彼もちょうど属していた。大事の場合に際しては、あたかも愚鈍なるかのように思わるることもあり、また一転して崇高なる趣にもなった。その態度は、内気で、冷ややかで、丁寧で、控え目であった。脣はきわめて赤く歯《/歯》はきわめて白く、いかにも魅力ある口だったので、その|ほほえ《微笑》みは容貌《/容貌》の有する厳格さを償って余りあった。その清澄《セイチョウ》な額《ヒタイ》とそ《/そ》の快楽的な微笑とは、ある時には不思議な対照をなした。目は小さかったが、目つきは大きかった。  最も窮乏《窮乏’》していた頃、若い娘らがよく自分の後ろをふり返って見るのに彼は気づいた。そして心のうちに冷《-ひ》やりとして、逃げ出すか身《/身》を隠すかした。きっと自分の古い服を見て笑っているのだと彼は思った。しかし事実は、彼の様子のいいのを彼女らは見てあ《/あ》こがれてるのであった。  彼と通りがかりのきれいな娘らとの間のそ《/そ》ういう暗黙の誤解から、彼は妙に頑なになった。あらゆる女の前から逃げ出したので、結局《結局’》彼はいずれの女かを選んでそ《/そ》れに近寄ろうとすることをしなかった。かくて彼はこれと定まりのない、クールフェーラックの言葉に従えば開《-ひら》けない、生活をしていたのである。  クールフェーラックはまた彼に言った。「そう聖人《’聖人》ぶろうとするなよ。(彼らはへだてのない言葉を使っていた。へだてのない言葉を使うのは青年の友情の特質である。)まあ僕の忠告でも聞けよ。そんなに書物ばかり読まないで、少しは女でも見てみろ。娘っ児《子》も何かのためにはなるぜ、マリユス。逃げ出《だ》したり顔《/顔》を赤くしたりしていると、|ばか《馬鹿》になっちまうぜ。」  またある時《とき》、クールフェーラックはマリユスに出会って言った。 「やあ今日《こんにち》は、牧師さん。」  クールフェーラックにそういうたぐいのことを言われると、その一週間ほどの間マリユスは、老若を問わず、いっさい女というものを前《/前》よりもいっそう避け、おまけにクールフェーラックをも避けた。  しかしながら広大な天地の間には、マリユスが逃げもしなければ恐《/恐》れもしないふたりの女がいた。実を言うと、それでも女だと言われたら彼は非常に驚いたかも知れない。|ひとり《一人》は彼の室《+部屋》を掃除してくれる髯《/髯》のはえた婆さんだった。クールフェーラックをして、「女中が髯をはやしてるのを見てマ《/マ》リユスは自分の髯をはやさないんだ」と言わしめた、その婆さんだった。|もひとり《もう一人》はある小娘で、彼はそれにしばしば出会ったがよ《/よ》く目を留めても見なかった。  もう一年以上も前からマリユスは、リュクサンブールの園《’園》のある寂しい道で、ペピニエール(苗木栽培地)の胸壁に沿った道で、|ひとり《一人》の男とご《/ご》く若い娘とを見かけた。ふたりはウエスト街の方《ほう》に寄った最《/最》も寂しい道の片端《片ハシ》に、いつも同じベンチの上に並んで腰掛けていた。自分の心のうちに目を向けて散歩している人によくあるように、別に何《なん》の気もなくほ《/ほ》とんど毎日のように、マリユスはその道に歩み込んだ、そしてはいつもそ《/そ》こにふたりを見いだした。男は六十歳くらいかとも思われ、悲しそうな|まじめ《/真面目》な顔つきをしていて、退職の軍人かとも見える頑丈なし《/し》かも疲れ切った様子をしていた。もし勲章でもかけていたら、「もとは将校だな」とマリユスに思わしたかも知れない。親切そうではあるがど《/ど》こか近寄り難いところがあって、決して人に視線を合わせることをしなかった。青いズボンと青《/青》いフロックとをつけ、いつも新しく見える広《/広》い縁《フチ》の帽子をかぶり、黒い襟飾りをし、まっ白ではあるが粗末《/粗末》な麻のち《/ち》ょうどクエカー宗徒のようなシャツを着ていた。ある日ひとりの|浮わ気女工《浮気女工》がそのそばを通って、「身ぎれいな鰥夫《+独り者》だこと」と言った。頭髪はまっ白だった。  彼に連れられてきて、二人で自分のものときめたようなそ《/そ》のベンチに初めて腰掛けた時、娘の方《ほう》はまだ|十三、四歳《ジュウ三’四歳》であって、醜いまでにやせており、ぎごちなく、別に取りどころもなかったが、目だけはや《/や》がてかなり美しくなりそうな様子だった。けれどもただ、不快に思われるほどの厚かましさでい《/い》つもその目を上げていた。修道院の寄宿生に見るような同時《/同時》に年寄りらしいま《”ま》た子供らしい服装をして、黒いメリノラシャのま《”ま》ずい仕立て方の長衣《ナガギヌ》をつけていた。ふたりは親子らしい様子だった。  まだそう老人とも言えぬその年取った男と、まだ一人前になっていないその小娘とに、マリユスは|二、三日《二三日》気を留《-と》めたが、それからもう何《/何》らの注意も払わなかった。彼らの方《ほう》でも、マリユスに気づいているふうはなかった。いつも穏やかな平和《/平和》な様子で互いに何か話していた。娘の方《ほう》は絶えず快活に口をきいていた。老人の方《ほう》は口数《口かず》が少なく、時々《ときどき》何とも言えぬ親愛さを目の中にたたえて娘《/娘》を見やっていた。  マリユスはいつしか機械的に、その道に歩みこむ癖になっていた。そしていつもそこで彼らに出会った。  そのありさまは次のようである。  マリユスはその道を通りかかる時《とき》、いつも好んで彼《/彼》らのベンチがある方《ほう》とは反対の端からやっていった。そしてずっと道をたどってゆき、ふたりの前を通り、それから|後返って《あと返って》、やって来た方《ほう》の端まで戻り、それからまた新たに同じことを初《始》めるのだった。彼は散歩のうちにその往復を|五、六回《ゴロッ回》も続け、また一週間のうちにそういう散歩を|五、六回《ゴロッ回》はしたが、それでも彼らとはあいさつもかわさなかった。ところがその男と娘とは、人の目を避けてるらしかったけれども、《:、》いや反対に、人の目を避けてたがために、学校の帰りや撞球《+玉突き》の帰りなどに時々ペピニエール(苗木栽培地)のまわりを散歩する|五、六人《ゴロクニン》の学生から、自然に注意されるようになった。撞球《+玉突き》の方《ほう》の仲間であったクールフェーラックも、時々ふたりの姿を認めたが、娘がきれいでないのを見て、すぐにわざとそれを避けるようにした。そして彼はパルト人のように、逃げながらふたりに綽名《渾名》の槍をなげつけてしまった。娘の長衣《ナガギヌ》と老人の頭髪とが特に目についたので、娘をラノアール(黒)嬢と呼び、父をルブラン(白)氏と呼んだ。もとよりふたりの身の上を知ってる者はなく名《/名》がわからなかったので、右の綽名《渾名》が一般に通用することになった。学生らは言った、「ああ《あ/》ルブラン氏がベンチにきてる!」そしてマリユスも他の者らと同じく、便宜上その知らない人をルブラン氏と呼んでいた。  われわれもまた学生らと同じように、たやすく話を進めるために彼をルブラン氏と呼ぶことにしよう。  か《斯》くて最初の一年間マリユスは、ほとんど毎日き《/き》まった時間に彼らの姿を見た。彼にとっては、老人の方《ほう》は多少好ましかったが、娘の方《ほう》は一向おもしろくもなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【光ありき】 ◇。◇。◇。◇。◇。  物語がようやくここまで進んできた時、すなわちこの二年目に、マリユスのリュクサンブール逍遥はちょっと中絶した。それは彼自身にもなぜだかよくわからなかったが、とにかく|六カ《6ヶ》月近くもその道に足を踏み入れなかった。ところがついにまたある日、彼はそこに戻っていった。さわやかな夏の朝のことで、晴れた日にはだれもそうであるがマ《/マ》リユスもごく愉快な気持ちになっていた。耳に聞こえる小鳥の歌や、木の葉の間からちらと見える青空などが、心の中にはいって来るかと思われた。  彼はまっすぐに「自分の道」へ行った。そしてその一端《イッタン》に達すると、あの見な《慣》れたふたりがやはりいつものベンチに腰掛けてるのを認めた。ところが近寄ってゆくと、老人の方《ほう》は同じ人だったが、娘の方《ほう》は人が変わってるように思えた。今彼《今’彼》の目の前にあるのは、背の高い美しい女で、大きくなりながらま《”ま》だ幼時の最も無邪気な優美《優美’》さをそなえてる時期であり、《:、》ただ十五歳という短い語によってのみ伝え得ると《/と》らえ難い純潔な時期であって、ちょうどその年頃の女の最《/最》も魅力ある姿をすべてそなえていた。金色《キンイロ》の線でぼかされた|みごと《見事》な栗色の髪、大理石でできてるような額《ヒタイ》、薔薇の花弁《花びら》でできてるような頬《ホオ》、《:、》青白い赤味、目ざめるような白さ、閃光のように微笑がもれ音楽《/音楽》のように言葉がほとばしり出る美妙な口、《:、》ラファエロが聖母マリアに与えたろうと思われるような頭と、その下《-した》にはジャン・グージョンがヴィーナスに与えたろうと思われるような首筋。そしてその愛くるしい顔立ちをな《/な》お完全ならしむるためには、鼻がまた美しいというよりもか《/か》わいいものだった。まっすぐでもなく、曲がってるでもなく、イタリー式でもギリシャ式でもなく、パリー式の鼻だった。言い換えれば何となく怜悧そうで繊細《/繊細》で不規則《/不規則》で純潔《/純潔》であって、画家を困らせ詩人《/詩人》を喜ばせる類《類い》の鼻だった。  彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下《’下》に向けられていた。影と貞純《テイジュン》とのあふれてる長《/長》い栗色の睫毛だけが、彼の目にはいった。  それでもなおこの|麗わ《麗》しい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳《/耳》を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。  初めのうちマリユスは彼女のことを、その男の別の娘で、前の娘の姉ででもあろうと思った。しかし、いつもの逍遥の癖から二度目にベンチに近寄った時、注意深く彼女をながめた時、彼はそれがやはり同じ人であることを認めた。|六カ《6ヶ》月のうちに小娘は若い娘となった、ただそれだけのことだった。そういうことは最も普通に起こる現象である。またたくまにほころんでた《/た》ちまちに薔薇の花となってしまうような時期が、女の子にはある。昨日までは子供として気にも留《-と》めないが、今日はもはや気がかりなしには見られないようになる。  さてその娘は、ただに大きくなったばかりではなく、理想的になっていた。四月にはいれば世の中は三日見《/三日’見》ぬ間に桜となるように、|六カ《6ヶ》月で彼女には美を着飾るに足りたのである。彼女の四月がき《来》たのであった。  貧乏で憔悴していた人が、目《め》ざむるようににわかに窮迫《/窮迫》から富裕となり、あらゆる金使いをして、たちまちにぜいたくに|みごと《/見事》にまばゆきまでになるのは、世に時として見らるることである。それは金《-かね》が舞い込んできたからである、期限の金《-かね》を昨日《昨日’》受け取ったからである。その若い娘もその定期金を受け取っていたのである。  そしてまた彼女は、フラシ天の帽子やメ《/メ》リノの長衣《ナガギヌ》や学校靴《/学校靴》や赤《/赤》い手などをしていなくて、もう寄宿生らしいところはなかった。美《ビ》とともに趣味も生じたのである。別に取り繕った様子もないが、さっぱりした豊《/豊》かな優美《優美’》さをそなえた服装《身なり》をしていた。黒い緞子の長衣《ナガギヌ》と同《/同》じ布の肩衣と白《/白》い縮紗《+クレープ》の帽子をつけていた。支那象牙の日がさの柄《エ》をいじってる手は、白い手袋を通していかにも繊細なことが察せられ、絹の半靴《ハングツ》はその足の小さいことを示していた。近くを通ると、その全身の粧《装》いからは若々《/若々》しいしみ通るようなかおりが発していた。  老人の方《ほう》は前と何《-なん》の変わりもなかった。  二度目にマリユスが近寄った時、娘は眼瞼《目蓋》を上げた。その目は深い青空の色をしていた。しかしその露わでない青みのうちには、まだ子供の目つき以外に何物もなかった。彼女は無関心にマリユスをながめた。あたかもシコモルの木の下《-した》を走る小猿をでも見るがようで、またはベンチの上に影を投げてる大理石《/大理石》の水盤をでも見るが《が-》ようだった。そしてマリユスの方《ほう》でも、もう他の事を考えながら逍遥を続けた。  彼は娘がいるベンチのそばをなお|四、五度《シゴ度》は通ったが、その方《ほう》へ目も向けなかった。  それからまた毎日のように、彼は例によってリュクサンブールにき、例のとおり「父と娘」とをそこに見い出した。しかしもうそ《-そ》れを気に留《-と》めなかった。その娘が美しくなった今も、醜くかった以前と同じく、彼は別に何とも考えなかった。彼はやはり、彼女が腰掛けてるベンチのすぐそばを通っていた。それが彼の習慣となっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【春の力】 ◇。◇。◇。◇。◇。  空気の温暖なある日、リュクサンブールの園《’園》は影と光とにあふれ、空は《は-》その朝天使《朝’天使》らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの|木立ち《木立》の中では雀が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方《ほう》へ目《-目》を上げ、ふたりの視線が出会った。  こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光であった。  彼女は目を伏せ、彼は逍遥を続けた。  今彼《今’彼》が見たところのものは、子供の率直単純な目ではなかった。半ば開いてま《”ま》たにわかに閉じた神秘な淵であった。  ごく若い娘もそ《/そ》ういう一瞥をする時がある。そこに居合わした人こそ災いである。  まだ自分で知らない一つの魂のそ《/そ》ういう最初の一瞥は、空における曙のようなものである。ある不可知な輝《/輝》き渡る何物かの目ざめである。尊むべき闇をにわかに漠然と照らし、現在のあらゆる無心と将来《/将来》のあらゆる熱情とから成っている、その意外なる光耀の危険な魅力は、何物をもってしても写し出すことはできないであろう。偶然におのれを示し、また他を待っている、一種《1種》の定かならぬ愛情である。無心のうちに知らず知らずに張られ、自ら欲せずにま《”ま》た知らずに人の心をとらえる、一種《1種》の罠である。一個の婦人のように|なが《眺》むる乙女である。  その一瞥の落ちる所から深い夢が生まれないことは、きわめてまれである。あらゆる純潔とあらゆる熱情とは、その聖《清》き致《/致》命的な輝きのうちに集まっており、婀娜な女の十分《/充分》に仕組んだ秋波よりもな《/な》お強い魔力を有していて、《:、》かおりと毒とに満ちた|ほの暗《仄暗》いい《/い》わゆる恋と呼ばるる花を、人の心の奥ににわかに開かせる。  その夕方屋根裏《夕方’屋根裏》の室《+部屋》に帰りついて、マリユスは自分の服装をながめ、初めて自分のきたなさと不作法《/無作法》と「平素《+普段》の」服装でリュクサンブールに散歩に行く非常《/非常》な愚かさとを気づいた。その平素《+普段》の服装というのは、リボンの所まで押しつぶされた帽子と、馬方のような粗末な靴と、膝の所が白けてる黒いズボンと、肱の所がはげかかってる黒い上衣とであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【大病のはじまり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日例《翌日/例》の時刻に、マリユスは戸棚から新しい上衣とズ《/ズ》ボンと帽子《/帽子》と靴《/靴》を取り出した。そしてその完全な武具に身を固め、手袋をはめ、きわめてめかし込んで、リュクサンブールに出かけた。  途中彼はクールフェーラックに出会ったが、そ知らぬ風《ふう》をして通りすぎた。クールフェーラックは帰ってから友人らに言った。「今僕《今’僕》はマリユスの新しい帽子と上衣に出会ったよ。奴さんは中にくるまっていた。きっと試験でも受けに行くんだろう。ひどくぼんやりしていた。」  リュクサンブールに着くと、マリユスは池を一周し、白鳥をながめ、それからまた、苔のために頭が黒くなり臀《/臀》が片一方なくなってるあ《/あ》る像の前に長くたたずんで、それをながめた。池のそばには、腹の便々《ベンベン》たる四十|かっこう《恰好》の市民がいて、五歳ばかりの男の児《子》の手を引いていたが、それにこんなことを言っていた。「何《なん》でも度を過ごしてはいけない。専制主義と無政府主義とからは、同じくらいに遠く離れていなければいけない。」マリユスはその市民の言に耳を傾けた。それから彼はも《もう》一度池《一度’池》を一周した。そしてついに「自分の道」の方《ほう》へ進んで行ったが、それも徐々に、またあたかもいやいやながら行くが《が-》ようだった。ちょうど無理に引っ張られてるようでもあれば、また同時に行くのを引き止められてるようでもあった。しかし彼は自らそれらのことに少しも気づかず、いつものとおりであると思っていた。  道に出てみると、向こうの端にルブラン氏と若い娘とが「彼らのベンチ」にき《来》ているのがわかった。彼はずっと上《ウエ》まで上衣のボタンをかけ、しわができないようにと上衣をよく引っ張り、一種《1種》の満足な心地《-ここち》でズボンの輝いた艶を見回し、そしてベンチに向かって進んでいった。その進み方のうちには進撃の趣があり、また確かに征服の下心もあったに違いない。それでここに、「ハンニバルはローマへ向かって進んだ」と言うように、「彼はベンチへ向かって進んだ」と言おう。  とは言え彼の態度はまったく機械的であって、いっ《つ》ものとおりの頭《/頭》と仕事との専心は少しも中断されていなかった。得業士提要は|ばか《馬鹿》な書物で、人間精神の傑作としてラシーヌの三つの悲劇を梗概しモ《”モ》リエールの喜劇はただ一つしか梗概してないのを見ると、よほどの愚人が書いたものに違いない、と彼はその時考えていた。けれど耳には鋭い音が鳴り渡っていた。ベンチの方《ほう》へ近寄りながら、彼は上衣のしわを伸ばし、目を若い娘の上に据えていた。道の向こうの端は、彼女のために漠然とした青い輝きで満たされてるかのように思えた。  近づくに従って彼の歩みは|ますます《益々’》ゆるやかになってきた。ある距離までベンチに近づくと、道《みち》の先端まではまだだいぶあったが、そこで立ち止まり、自分でもどうした訳か知らないで足を返した。向こうの端まで行かなかったことをさえ自ら知らなかった。娘が彼の姿を遠くから認め、その新しい服装をしたりっぱな様子を見たかどうか、それさえわからなかった。けれども彼は、だれかに後ろから見らるる場合に自分の姿をよく見せようとして、まっすぐに背を伸ばして歩いた。  彼は道の反対の端まで行き、それからまた戻ってきて、こんどは前よりもずっとベンチに近づいて来た。そして|木立ち三本《木立’3本》をへだてるだけの所までやってきたが、そこでもうどうしても先へ進めないような気がして、ちょっと躊躇した。娘の顔が自分の方《ほう》へ差し向けられてるのを見るように思った。それでも彼は男らしい激しい努力をして、ためらう心を押さえつけ、前の方《ほう》へ進んでいった。やがて彼はまっすぐに身を固くして、耳の先まで|まっか《真っ赤》になり、右にも左にもあえて目もくれず、政治家のように手を上衣の中にさし込んで、ベンチの前を通りすぎた。そしてそこを、その要塞の大砲の下を、通ってゆく時、恐ろしく胸が動悸するのを感じた。彼女は前日のとおり、緞子の長衣《ナガギヌ》と縮紗《+/クレープ》の帽子とをつけていた。「彼女の声」に違いない言《/言》い難い声を彼は聞いた。彼女は静かに話をしていた。きわめてきれいだった。それだけのことを、彼は彼女を見ようとも《も-》しなかったけれども心に感じた。彼は考えた。「フランソア・ド・ヌーシャトー氏が自筆《/自筆》だとしてジ《/ジ》ル・ブラスの刊行本《刊行ボン》の初めにつけたマ《/マ》ルコ・オブルゴン・ド・ラ・ロンダに関する論説は、実は私が書いたのだと知ったら、彼女もきっと私に敬意と尊敬とを持つに違いないんだが。」  彼はベンチの所を通りすぎ、すぐ先の道の端まで行き、それからまた戻ってきて、も《もう》一度美しい娘の前を通った。が|こんど《/今度》はまっさおになっていた。強い不安しか感じなかった。彼はベンチと娘とから遠ざかっていった。そして彼女の方《ほう》に背を向けながら、後ろから彼女に見られてるような気がして、思わずよろめいた。  それから彼はもうベンチに近寄らなかった。道の中ほどに立ち止まって、今までかつてしなかったことであるが、横目をしながらそ《/そ》このベンチに腰をおろしてしまい、漠然たる心の底で考えた。要するに、自分が嘆賞してるそ《/そ》の白い帽子と黒い上衣とのあの人たちも、自分の|みが《磨》き立てたズボンと新《/新》しい上衣とに対して、全然無感覚《全然’無感覚》であることはできないだろうと。  十五分ばかりそうしていた後《あと》、円光にとりまかれてるベンチの方《ほう》へま《-ま》た歩き出そうとするかのように、彼は立ち上がった。けれどもそこに立ったままで身動《/身動》きもしなかった。あすこに娘とともに毎日腰掛《毎日’腰掛》けている老紳士の方《ほう》でも、きっと自分に気がつき、自分の態度をおそらく不思議に思ったであろうと、十五カ月以来初めて彼は考えた。  そしてまた初めて彼は、心のうちでとは言え、ルブラン(白)氏などという綽名《渾名》でその知らない紳士を呼んでいたことに、ある不敬さを感じた。  そして彼は頭《コウベ》をたれ、手にしてるステッキの先で砂《/砂》の上に物の形を描《-えが》きながら、数分間じっとしていた。  それから突然《突然’》向きを変え、ベンチとルブラン氏とその娘とを後ろにして、自分の家へ帰っていった。  その日彼は夕食を食いにゆくことを忘れた。晩の八時ごろそれに気づいたが、もうサン・ジャック街までやって行くにはあまり遅かったので、なあにと言って、一片のパンだけをかじった。  彼は上衣にブラシをかけ、丁寧にそれを畳んでから、ようやく寝床にはいった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【ブーゴン婆さんのたびたびの驚き】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ブーゴン婆さん──と言うのは、ゴルボー屋敷の借家主で門番《/門番》で兼世帯女《/けん世帯女》である婆さんで、実際は前に言ったとおりブ《/ブ》ュルゴンという名だったが、《:、》何物をも尊敬したことのないひ《/ひ》どいクールフェーラックの奴《ヤツ》が、そう名づけてしまったのである(訳者注◇ ブーゴン婆とはぐずり婆《バア》の意)。──ブーゴン婆さんは、その翌日、マリユスがまた新しい上衣を着て出かけるのを見て、あきれてしまった。  マリユスはまたリュクサンブールの園《’園》に行ったが、道の中ほどにあるベンチより先へは行かなかった。前のように彼はそこに腰掛け、遠くからながめて、白い帽子と黒い長衣《ナガギヌ》とま《”ま》たことに青い輝きをはっきり見た。彼はそこを動きもせず、リュクサンブールの門がしまる時によ《/よ》うやく帰っていった。ルブラン氏とその娘とが帰ってゆく姿は見えなかった。それで彼は、ふたりはウエスト街の門から出て行ったのだろうと推定した。その後、数週間後のことであったが、その時のことを考えてみた時、彼はその晩ど《/ど》こで夕食をしたかどうしても思い出せなかった。  その翌日、もう三日目《3日目》であったが、ブーゴン婆さんはまた驚かされた。マリユスは新しい上衣を着て出かけたのである。 「まあ三日続けて!《/》」と彼女は叫んだ。  彼女は《は-》あとをつけてみようとした。しかしマリユスは早く|大また《大股》に歩いていた。あたかも河馬が羚羊《+カモシカ》を追っかけるようなものだった。|二、三分《二’三フン》とたたないうちに、彼女はマリユスの姿を見失い、息を切らして戻ってきた。喘息のためにほとんど息をつまらして、ひどく怒っていた。彼女はつぶやいた。「毎日いい方《ほう》の服をつけて、おまけに人をこんなに駆けさしてさ、それでいいつもりかしら!」  マリユスはまたリュクサンブールにおもむいた。  若い娘はルブラン氏とともにそこにきていた。マリユスは本を読んでるようなふうをして、できるだけ近づいていったが、それでもまだよほど遠くに立ち止まった。それから自分のベンチの方《ほう》へ戻って腰を掛け、小道のうちを無遠慮な雀が飛び回るのをながめ、自分が嘲られてるような気がしながら、四時間もじっとしていた。  そういうふうにして二週間ばかり過ぎた。マリユスはもう散歩をするためにリュクサンブールに行くのではなく、いつも同じ場所にな《/な》ぜだか自分でも知らないでた《/た》だすわりに行った。一度そこへつくと、もう一歩も動かなかった。彼は人目につかないようにと朝から新しい上衣を着た、そしてまた来る日も来る日も同じようにした。  彼女はまさしく驚嘆すべきほど美しかった。しいて批評がまし《し-》い一つの難点をあぐれば、その悲しそうな目つきとう《/う》れしそうな微笑との間の矛盾で、それが彼女の顔に何《/何》か心迷ったような趣を与え、ためにある瞬間には、その|やさ《優》しい顔は愛くるしいままで異様《/異様》になるのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【囚われ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  二週間目の終わりのある日、マリユスは例のとおり自分《/自分》のベンチにすわって、手に書物を開いていたが、もう二時間にもなるのに一《イッ》ページも読んでいなかった。と突然《/突然’》彼は身を震わした。道の向こうの端で一大事が起こったのである。ルブラン氏と娘とはベンチを離れ、娘は父親の腕を取り、ふたりはマリユスがおる道の中ほどへ向かってやってきたのである。マリユスは書物を閉じ、それからまた開き、次にそれを読もうとつとめた。彼は震えていた。円光はまっすぐに彼の方《ほう》へやってきつつあった。「ああ、姿勢をなおす暇もない、」と彼は考えた。そのうちにも白髪の男とその若い娘とは進んできた。彼にはその間《あいだ》が、一世紀ほど長いように思われ、また一瞬間にすぎないようにも思われた。「何しにこちらへ来るんだろう?」と彼は自ら尋ねた。「ああ、彼女がここを通ってゆく! その足は、自分から二歩と離れないこ《/こ》の道の砂を踏んでゆく!」彼は気が顛倒していた。ごく美しい男とも《も-》なりたかった。勲章でも持っていたかった。ふたりの歩み寄ってくる調子をとった静かな音が聞こえた。ルブラン氏が怒った目つきを自分に向けは《は-》すま《ま-》いかとも想像した。「何か自分に話しかけるだろうか、」とも考えた。彼は頭《コウベ》をたれた。そしてまた頭を上げた時、ふたりはすぐそばにきていた。若い娘は通っていった。通りすがりに彼をながめた。考え込んだようなやさしさで彼をじっとながめた。マリユスは頭から足の爪先までぞっとした。もう長い間一度も彼女の方《ほう》へ行かなかったことを難じられたような気がし、私の方《ほう》から参りましたと言われたような気がした。その輝いた深い瞳の前に、マリユスは眩惑されてしまった。  彼は頭の中が燃えるように感じた。彼女の方《ほう》から自分の所へきてくれた、何という幸いだろう。そしてまた彼女は、いかにじっと自分を見てくれたろう! 彼女は今まで見たよりも一段《/一段》と美しく彼には思えた。女性の美と天使《/天使》の美とをいっしょにした美しさである。ペトラルカをして歌わしめダ《/ダ》ンテをして|ひざまず《跪》かしめ《め-》る美しさである。彼はあたかも青空の中央に漂ってるような思いをした。同時に彼は、自分の靴に|ほこり《埃》がついていたので非常に心苦しかった。  彼女はまたこの靴をも見たに違いない、と彼は思った。  彼女の姿が見えなくなるまで、彼はその後ろを見送った。それから気が狂ったようにリュクサンブールの園《’園》の中を歩き初《始》めた。時とすると|ひとり《一人》で笑ったり声高に語ったりしがちだった。まったく夢を見ているようで、子もりの女どもまで彼が近づいて来ると、めいめい自分が恋せられてるんだと思ったほどである。  彼は街路でまた彼女に会いは《は-》すま《ま-》いかと思って、リュクサンブールを出た。  彼はオデオンの回廊の下でクールフェーラックに行き会った。「いっしょに食事をしにこいよ、」と彼はクール《ル-》フェーラックに言った。彼らはルーソーの家に行き、六フラン使《’使》い果たした。マリユスは鬼のようによく食べた。給仕にも六スー与えた。食後のお茶の時に、彼はクール《ル-》フェーラックに言った。「君は新聞を読んだか。オードリ・ド・プュイラヴォーの演説は実にりっぱじゃないか。」  彼はすっかり恋に取っつかれていた。  食事をすますと、彼はクール《ル-》フェーラックに言った。 「芝居をおごろう。」彼らはポルト・サン・マルタン座へ行って、アドレーの旅籠屋でフ《/フ》レデリックの演技を見た。マリユスはすてきにおもしろがった。  同時に彼はまたひどく気が立っていた。芝居から出て、|ひとり《一人》の小間物屋の女が溝《+ドブ》をまたいでそ《/そ》の靴下留《靴下ど》めが見えたのを、頑固にふり返りもしなかった。「僕はああいう女をも喜んで採集するんだがな、」と言ったクール《ル-》フェーラックの言葉に、彼はほとんど嫌悪の念をい《-い》だいた。  クールフェーラックは翌日、彼をヴォルテール珈琲《+コーヒー》店に招いた。マリユスはそこに行って、前日よりもなおいっそうむさぼり食った。彼はすっかり考え込んでおり、またごく快活だった。機会あるごとにすぐに高笑いをしたがってるかのようだった。|ひとり《一人》の田舎者に紹介されるとそ《/そ》れを親しく抱擁した。学生の一団がテーブルのまわりに陣取っていた。国家がわざわざ金《-かね》を出してソ《/ソ》ルボンヌ大学で切り売りさしてる|ばか《馬鹿》げた講義のことを論じていたが、次にその談話は、多くの辞書やキシュラの韻律法などにある誤謬《/誤謬》や欠陥のことに落ちていった。マリユスはその議論をさえぎって叫んだ。「それでも十字勲章をもらうのは悪くないぞ!」 「これはおかしい!」とクールフェーラックはジャン・プルーヴェールに低くささやいた。 「いや、」とジャン・プルーヴェールは答えた、「奴は|まじめ《真面目》なんだ。」  実際それは|まじめ《真面目》だった。マリユスは大《ダイ》なる情熱が起こってこようとする楽しいま《”ま》た激烈な最初の時期に際会していた。  ただ一度の目つきが、すべてそういう変化をもたらしたのである。  火坑《カキョウ》には既に火薬がつめられている時《とき》、火災の準備が既にでき上がっている時《とき》、それより簡単なことはない。一つの瞥見はすなわち口火である。  事は既に終わった。マリユスは|ひとり《一人》の女に恋した。彼の運命は未知の世界にふみ込まんとしていた。  婦人の一瞥は、表面穏やかであるが実《/実》は恐るべきある種の歯車にも似ている。人は毎日平和に事もなくそのそばを通り過ぎ、何らの懸念も起こさない。ある時は、それが自分のそばにあることさえも忘れてしまっている。行き、きたり、夢想し、語り、笑っている。が《が/》突然とらえられたことを感ずる。その時はもはや万事終わりである。歯車は人を巻き込み、瞥見は人を捕える。どこからということなく、またいかにしてということなく、思いめぐらしてる思想の一端《-いったん》からでも、うっかりしてるすき間からでも、人を捕えてしまう。それは身の破滅である。全身引《全身’引》き込まれなければやまない。不可思議な力から鷲づかみにされる。身をもがいても|むだ《無駄》である。人間の力ではいかんともすることはできない。精神も幸福《/幸福》も未来《/未来》も魂《/魂》もすべてが、車の歯《歯’》から歯へ、苦悶から苦悶へ、懊悩から懊悩へと、陥ってゆく。そしてあるいは悪い女の力に支配されるか、あるいは気高い心の婦人に支配されるかに従って、人がその恐るべき機械から出て来る時には、あるいは汚辱によって面目を失っているか、あるいは情熱によって面目を一新しているかだけである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【推察のままに任せらるるU文字の事件】 ◇。◇。◇。◇。◇。  孤立、すべてからの分離、矜持、独立、自然に対する趣味、日々の物質的活動《物質的’活動》の欠除、自分のうちに引きこもった生活、貞節な心のひそかな争闘、《:、》万物に対するやさしい恍惚、などはついにマリユスをして情熱《/情熱》と呼ばるるところのものにとらえらるる素地をこしらえていた。父に対する崇拝の念《念’》は|しだい《次第》に一つの信仰となり、あらゆる信仰と同じくそ《/そ》れも心の奥に引っ込んでしまっていた。そして今第一《今’第一》の正面に何物《/何物》かが必要となっていた。そこに恋がき《来》たのである。  まる一月《-ひと月》はか《斯》くて過ぎた。その間マリユスは毎日リュクサンブールの園《’園》に行った。その時間が来れば何物《/何物》も彼を引き止め《め-》ることはできなかった。「あいつは勤務中だ、」とクールフェーラックは言った。マリユスは歓喜のうちに日を過ごしていた。若い娘も彼の方《ほう》に目をつけてることは確かだった。  彼はついに大胆になって、あのベンチに近寄っていった。けれどもも《/も》うその前を通ることをしなかった。一つは臆病な本能からと、また一つには恋する者の注意深い本能からだった。「父親の注意」をひかない方《ほう》がいい、と彼は思っていた。彼は深いマキアヴェリ式の権謀を用いて、彫像の台石や樹木《/樹木》の後ろに自分の地位を選び、《:、》そしてできるだけよく娘の方《ほう》から見えるようにし、できるだけ老紳士の方《ほう》からは見えないようにした。時とすると半時間も、レオニダスかスパルタクスか何《/何》かの像の陰にじっとたたずんで、手に書物を持ち、その書物から静かに目を上げて、美しい娘の方《ほう》を見ようとすることもあった。すると彼女の方《ほう》でもぼんやりした微笑を浮かべて、彼の方へかわいい横顔を向けた。白髪の老人とごく自然にま《”ま》た静かに話をしながら、彼女はその処女らしいま《”ま》た熱情のあふれた夢見るような目を、マリユスの上に据えるのだった。世界の最初の日からイヴが知っていた、また人生の最初からすべての女が知っている、古い太古からのやり方である。彼女の口は|ひとり《一人》の方《ほう》へ返事をし、彼女の目つきは|もひとり《もう一人》の方《ほう》へ返事をしていた。  けれども、ルブラン氏の方《ほう》でもついに何事かに気づいたことは想像される。なぜなら、マリユスがやってゆくと、しばしば彼は立ち上がって歩き出した。彼はよくいつもの場所を離れ、道《みち》の他の端にあるグラディアトゥールの像のそばのベンチに腰掛け、あたかもそこまでマリユスがついて来るかを見ようとするが《が-》ようだった。マリユスはその訳を了解せず、その失策をやってしまった。「父親」は|しだい《次第》に不正確になり、もう毎日は「自分の娘」を連れてこなかった。時とすると|ひとり《一人》でやってきた。するとマリユスはそこに止《-とど》まっていなかった。それがまたも《もう》一つの失策だった。  マリユスはそういう徴候には少しも気を留《-と》めなかった。臆病な状態から、避《さ》くるを得ない自然の順序として、盲目の状態に陥っていった。彼の恋は募ってきた。毎夜その夢を見た。その上《うえ》意外な幸福がやってきた。それは火に油を注ぐようなもので、また彼の目をい《/い》っそう盲目ならしむるものだった。ある日の午後、たそがれ頃に、「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一つのハンカチを見いだした。刺繍もないごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で清らかで、言うべからざるかおりが発してるように思えた。彼は狂喜してそれを拾い取った。ハンカチにはU・《-》Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何《なん》にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字《2字》は彼女について|つか《掴》み得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何《なん》といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣をつけ、それをか《嗅》ぎ、昼は胸の肌につけ、夜は脣にあてて眠った。 「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。  しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。  その拾い物の後はいつも、マリユスはそれに脣をつけ、それを胸に押しあてながら、リュクサンブールに姿を現わした。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。 「何という貞節さだろう!」とマリエ《ユ》スは言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【老廃兵といえども幸福たり得る】 ◇。◇。◇。◇。◇。  われわれは貞節という語を発したことであるし、また何事をも隠さないつもりであるから、「彼のユルスュール」は恍惚《/恍惚》のうちにあるマリユスにき《/き》わめて|まじめ《真面目》な苦しみを与えたことが一度あるのを、ここに述べなければならない。それは彼女が、ルブラン氏を促してベンチを去り道《/みち》を逍遥した幾日かのうちの、ある日のことだった。晩春の強い風が吹いて篠懸《/篠懸》の木の梢を揺すっていた。父と娘とは互いに腕を組み合わして、マリユスのベンチの前を通り過ぎた。マリユスはそのあとに立ち上がり、その後ろ姿を見送った。彼《彼’》の心は狂わんばかりで、自然にそういう態度をしたらしかった。  何物よりも最も快活で、おそらく春の悪戯を役目としているらしい一陣の風が、突然《突然’》吹いてきて、ペピニエール(苗木栽培地)から巻き上がり、道《みち》の上に吹きおろして、《:、》ヴィルギリウスの歌う泉の神やテ《/テ》オクリトスの歌う野《’野》の神にもふさわしい|みごと《/見事》な渦巻きの中に娘を包み込《こ》み、《:、》イシスの神の長衣《ナガギヌ》よりいっそう神聖な彼女の長衣《ナガギヌ》を巻き上げ、ほとんど靴下留《靴下ど》めの所までまくってしまった。何とも言えない美妙な|かっこう《恰好》の片脛《+片ハギ》が見えた。マリユスもそれを見た。彼は憤慨し立腹した。  娘はひどく当惑した様子で急いで長衣《ナガギヌ》を引き下げた。それでも彼の憤りは止まなかった。──その道には彼のほかだれもいなかったのは事実である。しかしいつも|だれ《誰》もいないとは限らない。もし|だれ《誰》かいたら! あんなことが考えられようか。彼女が今したようなことは思《/思》ってもいやなことである。──ああ《あ/》しかし、それも彼女の知ったことではない。罪あるのはただ一つ、風ばかりだ。けれども、シェリュバンの中にあるバルトロ的気質が(訳者注◇ フィガロの結婚中の人物で、前者は女に初心な謹厳な少年、後者は嫉妬深い後見人)《):》ぼんやり動きかけていたマリユスは、どうしても不満ならざるを得ないで、彼女の影に対してまで嫉妬《/嫉妬》を起こしていた。肉体に関する激しい異様《/異様》な嫉妬の念が人の心のうちに目ざめ、不法にもひどく働きかけてくるのは、皆《みんな》そういうふうにして初まるのである。その上、この嫉妬の念を外《-ほか》にしても、そのかわいらしい脛を見ることは、彼にとっては少しも快いことではなかった。偶然出会《偶然’出会》う何でもない婦人の白い靴下を見せられる方《ほう》が、彼にとってはまだしも|いや《嫌》でなかったろう。 「彼のユルスュール」は、道《みち》の向こうの端まで行き、ルブラン氏とともに引き返してきて、マリユスが再び腰をおろしていたベンチの前を通った。その時マリユスは気むずかしい荒《/荒》い一瞥を彼女に与えた。若い娘はちょっと身を後ろにそらせるようにし、それとともに眼瞼《目蓋》を上の方《ほう》に上げた。「まあどうなすったのだろう!《/》」という意味だった。  それは彼らの「最初の争い」だった。  マリユスが目の叱責を彼女に与え終わるか終わらないうちに、一人の男がその道に現われた。それは腰の曲がったしわだらけな白髪の老廃兵で、ルイ十五世式の軍服をつけ、兵士のサン・ルイ会員章《会員ショウ》たる、組み合わした剣《ケン》のついてる小《/小》さな楕円形の赤ラシャを胴につけ、《:、》その上、上衣の片袖には中《”中》に腕がなく、頤《顎》には銀髯がはえ、一方の足は義足だった。マリユスはその男の非常《/非常》に満足げな様子がそ《/そ》れと見て取らるるような気がした。またその皮肉な老人が自分のそばをびっこひいて通りながら、ごく親しい愉快《/愉快》そうな目配せをしたように思えた。あたかも偶然にふたりは心を通じ合って、いっしょに何かうまいことを味わったとでも、自分に伝えてるらしく彼《/彼》には思えた。その剣《ケン》の端くれの老耄《老いぼれ》めが、いったい何でそ《/そ》う満足げにしてるのか。奴《ヤツ》の義足と娘の脛との間に何《なん》の関係があるか。マリユスは嫉妬の発作に襲われた。「彼奴《アイツ》もいたんだろう。あれを見たに違いない!《/》」と彼は自ら言った。そして彼はそ《/そ》の老廃兵をなきものにしたいとまで思った。  時がたつに従ってい《/い》かなる尖端《+切っ先》も鈍ってくる。「ユルスュール」に対するマリユスの憤りも、たとい正しいま《”ま》た至当なものであったとしても、やがて過ぎ去ってしまった。彼はついにそれを許した。しかしそれには多大の努力を要し、三日の間というものは不平のうちに過ごした。  とは言うものの、そんなことのあったにもかかわらず、またそんなことがあったために、彼の情熱は|ますます《益々’》高まって狂《/狂》わんばかりになった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【日食】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼女はユルスュールという名であることを、マリユスがいかにして発見したか、否《否/》発見したと思ったか、それは読者の既に見てきたところである。  欲望は愛するにつれて起こってくる。彼女がユルスュールという名であることを知ったのは、既に大したことである、しかもまたきわめて些事である。マリユスは|三、四週《サンヨン週》間のうちにそ《/そ》の幸福を食い尽《つく》してしまっ《-っ》た。彼は新たに他の幸福を欲した。彼は彼女がどこに住んでるかが知りたくなった。  彼はグラディアトゥールのベンチの策略に陥って、第一の失策を演じた。ルブラン氏が|ひとり《一人》で来る時にはリュクサンブールの園《’園》に止《-とど》まることをしないで、第二の失策を演じた。それからまた第三の失策をやった。それは非常な失策だった。彼は「ユルスュール」のあとをつけたのである。  彼女はウエスト街の最も人通りの少ない場所に住んでいた。見たところ質素な、四階建《ヨン階だ》ての新しい家だった。  それ以来マリユスは、リュクサンブールで彼女に会うという幸福に加えて、彼女のあとにその家までついてゆくという幸福を得た。  彼の渇望は増していった。彼女の名前を、少なくともその幼名、かわいい名《’名》、本当の女らしい名を、彼は知っていた。彼女の住居をも知った。そしてこんどは、どういう身分であるかを知りたくなった。  ある日の夕方、その家までふたりのあとについて行った時、ふたりの姿が正門から見えなくなった時、彼は続いてはいって行き、勇敢にも門番に尋ねた。 「今帰《いま帰》っていった人は、二階にお《お-》らるる方ですか。」 「いいえ、」門番は答えた、「四階《4階》にいる人です。」  それでまた一歩進《一歩’進》んだわけである。そしてその成功はマリユスを大胆ならしめた。 「表に向いてる室《+部屋》ですか。」と彼は尋ねた。 「えー!《/》」と門番は言った、「人の家というものは皆往来《-みんな往来》に向けて建ててあるものですよ。」 「そしてあの人はどういう身分の人ですか。」とマリユスはまた尋ねた。 「年金があるんです。ずいぶん親切な人で、大した金持ちというのではないが、困る者にはよく世話をして下さるんです。」 「名前は何《-なん》というんですか。」とマリユスはまたきいた。  門番は頭を上げて、そして言った。 「あなたは探偵ですか?」  マリユスはかなり当惑したがしかし非常に喜んで立ち去った。だいぶ歩を進めたわけである。 「しめた、」と彼は考えた、「ユルスュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階《4階》に住んでいることもわかった。」  その翌日、ルブラン氏と娘とは、わずかな間しかリュクサンブールに止《-とど》まっていなかった。まだ日の高いうちに立ち去ってしまった。マリユスはいつものとおりウエスト街まで彼らのあとについて行った。正門の所へ行くと、ルブラン氏は娘を先に中へ入れて、その門をくぐる前に立ち止まり、ふり返ってマリユスをじっとながめた。  次の日、彼らはリュクサンブールにこなかった。マリユスは一日待《一日’待》ちぼけをくった。  晩になって、彼はウエスト街に行き、四階《4階》の窓に燈火《+明かり》がさしてるのを見た。彼はその燈火《+明かり》が消えるまで窓の下をうろついた。  その次の日、リュクサンブールへは|ふたり《二人》ともこ《来》なかった。マリユスは終日待《終日’待》っていて、それからまた窓の下の夜の立ち番をした。それが十時までかかった。夕食は時と場合に任した。熱は病人を養い、恋は恋人を養う。  彼はそういうふうにして一週間を過ごした。ルブラン氏と娘とはもうリュクサンブールに姿を見せなくなった。マリユスは種々《いろいろ》悲しい推察をした。昼間《昼間’》正門の所で待ち伏せすることはな《為》しかねた。晩に出かけて行って、窓ガラスにさしてる赤い光をながめることだけで満足した。時とするとその窓に人影がさして、それを見る彼《彼’》の胸は激しく動悸した。  八日目、彼が窓の下にやって行った時、そこには光が見えなかった。彼は言った。「おや、まだランプがついていない。でももう夜だ。どこへか出かけたのかしら。」彼は待ってみた。十時まで、十二時まで、ついに夜中の一時になった。四階《4階》の窓には何の光もささず、また家の中に|だれ《誰》もはいってゆく者もなかった。彼はひどく沈みきって立ち去った。  翌日──彼はただ、明日《あす》は明日《-あす》はと暮らしていて、言わば、彼にとっては今日というものはなかったのである──翌日、彼はまたリュクサンブールで彼らのいずれをも見かけなかった。恐れていたとおりだった。薄暗くなってからその家の前へ行った。窓には何の光もなかった。鎧戸がしめてあった。四階《4階》はまっ暗だった。  マリユスは正門をたたき、はいって行って、門番に言った。 「四階《4階》の人は?」 「引っ越しました。」と門番は答えた。  マリユスはよろめいた。そして弱々しく言った。 「いったいいつですか。」 「昨日です。」 「今どこに住んでいられますか。」 「一向知りません。」 「ではこんどの住所を知らして行かれなかったんですか。」 「そうです。」  そして門番は頭を上げて、マリユスに気づいた。 「やああなたですか。」と彼は言った。「それじゃあなたはや《/や》はり警察の方《かた》ですね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七編】 【パトロン・ミネット】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【鉱坑と坑夫】 ◇。◇。◇。◇。◇。  人間のあらゆる社会は皆《ミンナ》、劇場でいわゆる奈落なるものを有している。社会の地面は至る所発掘《ところ発掘》されている。あるいは善を掘り出さんがために、あるいは悪を掘り出さんがために。そしてそれらの仕事は互いに積み重なっている。そこには上方《ジョーホウ》の鉱坑もあれば、下方の鉱坑もある。そういう薄暗い地下坑は、時として文明の下に影を没し、また無関心で不注意なるわれわれによって足下に蹂躙さるることもあるが、それ自身に上部と下部とをそなえている。十八世紀におけるフランスの百科辞典は、やはりその一つの坑であって、ほとんど地上に現われてるものであった。初代キリスト教をひそかにはぐくんでいたあの暗黒は、やがてローマ皇帝の下に爆発して光明《/光明》をもって人類を満たさんがためには、ただ一つの機会を要するのみだった。聖なる暗黒のうちには、実に潜在せる光明があったのである。火山が蔵する影のうちには、やがて炎々と輝き出すべき可能性がある。熔岩もすべてその初めは暗黒である。最初の弥撒《+ミサ》が唱えられた瑩窟《+エイ窟》は、単にローマの一洞窟だったのである。  社会の組織の下には、驚くべく複雑な廃墟が、あらゆる種類の発掘が存している。宗教の坑があり、哲学の坑があり、政治の坑があり、経済の坑があり、革命の坑がある。あるいは思想の鶴嘴、あるいは数字の鶴嘴、あるいは憤怒《フンヌ》の鶴嘴。一つの瑩窟《+エイ窟》から他の瑩窟《+エイ窟》へと、人々は呼びかわし答え合う。あらゆる理想郷は、それらの坑によって地下をへめぐる。四方《シホウ》に枝を伸ばしてゆく。あるいは互いに出会って親交を結ぶ。ジャン・ジャック・ルーソーはおのれの鶴嘴をディオゲネスに貸し、ディオゲネスは彼におのれの提灯を貸す。あるいはまた互いに争闘する。カルヴィンはソチニの頭髪をつかむ。しかしながら、それらの力が一つの目的に向かって進むのを、何物も止め妨《さまた》ぐる《-る》ことはできない。暗黒の中を往来し上下《/上下》して、おもむろに上層と下層とを置き換え外部《/外部》と内部とを交代せしむる、その広汎なる一斉の活動を、何物も止め妨《さまた》ぐる《-る》ことはできない。それは隠れたる広大なる蠢動である。しかし社会は、表面をそのままにして内臓《/内臓》を変化せしめつつあるその発掘に、ほとんど気づかないでいる。そして地下の層が数多いだけに、その仕事も雑多であり、その採掘も種々《いろいろ》である。けれどそれらの深い開鑿からいったい何が出て来るのか。曰く、未来が。  地下深く下《-くだ》れば下るほど、その労働者は不可思議なものとなる。社会哲学者らが見て取り得る第一層までは、仕事は善良なものである。しかしその一層を越せば、仕事も曖昧雑駁なものとなり、更に下に下《-くだ》れば恐るべきものとなる。ある深《-ふか》さに及べば、もはや文明の精神をもってしては入り得ない坑となる。そこはもはや、人間の呼吸し得《う》べき範囲を越えた所で、それより先に怪物の棲居《+住まい》となるべきものである。  下に導く段階はまた不思議なものである。その各段は、哲学の立脚し得る各段であって、そこには、あるいは聖なるあ《/あ》るいは畸形なる種々《いろいろ》の労働者が|ひとり《一人》ずつおる。ヨハン・フスの下にルーテルがおり、ルーテルの下にデカルトがおり、デカルトの下にヴォルテールがおり、ヴォルテールの下にコンドル《ル-》セーがおり、コンドル《ル-》セーの下にロベスピエールがおり、ロベスピエールの下にマラーがおり、マラーの下にバブーフがおる。そういうふうにして続いてゆく。更に下の方《ほう》に、目に見えるものと見えないものとの境界の所には、他の|ほの暗《仄暗》い人影がおぼろに認められる。それはおそらく、いまだこの世に存しない人々であろう。昨日の人は今は幽鬼であるが、明日の人は今はまだ浮遊のものである。精神の目のみがそれらを漠然と認め得るのである。まだ生まれざる未来の仕事は、哲学者の幻像の一つである。  胎児の状態にある陰府の中の世界、何という異常な幻であるか!  サン・シモン、オーエン、フーリエなどもまたその側面坑の中におる。  それら地下の開鑿者らは皆《ミンナ》、自ら知らずしてあ《/あ》る目に見えない聖《/聖》なる鎖に結ばれていて、各自孤立《各自’孤立》していはしないが、多くは常に自ら孤独であると考えている。そして実際、彼らの仕事は種々《いろいろ》であり、ある者の光明とあ《/あ》る者の炎とが互いに矛盾することもある。ある者は楽しく、ある者は悲壮である。けれども、その相違のいかんにかかわらず、それらの労働者らは皆《ミンナ》、最高のものから最低のものに至るまで、最賢《サイケン》のものから最愚のものに至るまで、一つの類似点を持っている。すなわち無私ということを。マラーもイエスと同じくおのれを忘れている。彼らは皆《-みんな》おのれを捨て、おのれを脱却し、おのれのことを考えていない。彼らは自己以外のものを見ている。彼らは一の目を有している。その目はすなわち絶対なるものを|さが《探》し求めている。最高の者は一眸のうちに天をすべて収めている。最下の者も、いかにいまだ空漠たろうとも、なおその眉目の下に無窮《/無窮》なるもののかすかな輝きを持っている。そのな《為》すところが何であろうとも、かかる標を、星の瞳を、有している者ならば、すべて皆尊《-みんな尊》むべきではないか。  影の瞳はまた他の標である。  そういう瞳より悪が始まる。目に光なき者《’者》こそは、注意すべき恐《/恐》るべき者である。社会のうちには、暗黒なる坑夫もいる。  発掘はやがて埋没となり、光明もやがて消えうせるような地点が、世にはあるものである。  以上述《以上’述》べきたった鉱坑の下《シタ》に、それらの坑道の下《シタ》に、進歩と理想郷とのその広大なる地下の血脈系《ケツミャク系》の下《シタ》に、《:、》はるか地下深くに、マラーより下、バブーフより下、更に下、はるか遠く下に、上方《ジョーホウ》の段階とは何らの関係もない所に、最後の坑道がある。恐るべき場所である。われわれが奈落と呼んだのはすなわちそれである。それは暗黒の墓穴《ハカアナ》であり、盲目の洞穴である。どん底である。  そこは地獄と通じている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【どん底】 ◇。◇。◇。◇。◇。  このどん底においては無私は消滅する。悪魔は漠然と姿を現わし、人は自己のことのみを考えている。盲目の自我が、咆え、漁り、模索し、かみつく。社会のウゴリノがこの深淵のうちにおる(訳者注◇ ウゴリノとは飢の塔のうちに幽閉されて餓死《/餓死》せる子供らの頭を咬める人──ダンテの神曲《シン曲》)。  その墓穴《ハカアナ》の中にさまよってる荒々しい人影は、ほとんど獣類ともま《”ま》たは幽鬼とも称すべきものであって、世の進歩なるものを念頭にかけず、思想をも文字をも知らず、ただおのれ一個の欲望の満足をしか計っていない。彼らはほとんど何らの自覚も持たず、心の中には一種の恐るべき虚無を蔵している。ふたりの母を持っているが、いずれも残忍なる継母であって、すなわち無知と困窮とである。また嚮導者としては欠乏を持っている。そしてそのあらゆる満足はた《/た》だ欲情を満たすことである。彼らは恐ろしく貪慾である。換言すれば獰猛である、しかも暴君のごとくにではなく、猛虎のごとくに。それらの悪鬼は、難渋より罪悪に陥ってゆく。しかもそれは必然の経過であり、恐るべき変化であり、暗黒の論理的帰結である。社会の奈落には《這》い回ってるものは、もはや絶対なるものに対する痛切な要求の声ではなく、物質に対する反抗の念である。そこにおいて人は竜《+ドラゴン》となる。飢渇がその出発点であり、サタンとなることがその到達点である。そういう洞穴《+ドウケツ》から凶賊ラスネールが現われて来る。  われわれは前に第四編《第4編》において、上層の鉱区の一つ、すなわち政治的革命的哲学的《政治的’革命的’哲学的》の大坑道の一つを見てきた。既に述べたとおりそこにおいては、すべてが気高く、純潔で、品位あり、正直である。そこにおいても確かに、人は誤謬に陥ることがあり、また実際陥《実際’陥》ってもいる。しかし壮烈さを含む間はその誤謬も尊むべきである。そこでなさるる仕事の全体は、進歩という一つの名前を持っている。  今や他の深淵、恐るべき深淵を、|のぞ《覗》くべき時となった。  われわれはあえて力説するが、社会の下には罪悪の大洞窟が存している。そして無知が消滅する日まではそれは《は-》なお存するであろう。  この洞窟は、すべてのものの下にあり、すべてのものの敵である。いっさいに対する憎悪である。この洞窟はかつて哲学者《/哲学者》を知らず、その剣はかつてペ《/ペ》ンに鋳つぶされたことがない。その黒色《黒イロ》はインキ壺の崇高なる黒色《黒イロ》と何《/何》らかの関係を有したことがない。その息づまるばかりの天井の下に痙攣する暗黒の指は、かつて書物をひもとき新聞《/新聞》をひらいたことがない。バブーフも強賊カルトゥーシュに比すれば|ひとり《一人》の探検家であり、マラーも凶漢シンデルハンネスに比すれば|ひとり《一人》の貴族である。この洞窟はいっさいのものの転覆を目的としている。  しかりい《/い》っさいのものの。そのうちには、彼が|のろ《呪》う上層《/上層》の坑道も含まれる。彼はその厭悪すべき蠢動のうちに、啻に現在の社会制度を掘り返すのみでなく、なお哲学をも、科学をも、法律をも、人類の思想をも、文明をも、革命をも、進歩をも、すべてを掘り返す。その名は単に窃盗、売笑、殺戮、刺殺である。彼は暗黒であり、混沌を欲する。彼を|おお《覆》う屋根は無知《/無知》で作られてある。  他のすべてのもの、上層のすべての洞窟は、ただ一つの目的をしか有しない、すなわちこの洞窟を除去することである。哲学や進歩が、同時にその全器官をそろえて、現実の改善な《/な》らびに絶対なるものの静観によって、到達せんと目ざす所は実にこの一事にある。無知の洞窟を破壊するは、やがて罪悪の巣窟を破壊することである。  以上述べきたったところの一部を数言《スウコト》につづめてみよう。曰く、社会の唯一の危険は暗黒にある。  人類はただ一つである。人はすべて同じ土《ツチ》でできている。少なくともこの世にあっては、天より定められた運命のうちには何《/何》らの相違もない。過去には同じ|やみ《闇》、現世には同じ肉、未来には同じ塵。しかしながら、人を作る捏粉《練り粉》に無知《/無知》が交じればそれを黒くする。その不治の黒色《黒イロ》は、人の内心にしみ込み、そこにおいて悪となる。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【バベ、グールメル、クラクズー、およびモンパルナス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  クラクズーにグ《/グ》ールメルにバ《/バ》ベにモ《/モ》ンパルナスという四人組みの悪漢が、1830年から1835年まで、パリーの奈落を支配していた。  グールメルは、あたかも失脚したヘラクレス神《シン》のような男だった。その巣をアルシュ・マリオンの下水道に構えていた。身長六尺《身長六’尺》、大理石のような胸郭、青銅のような腕、洞穴《+ドウケツ》から出るような呼吸、巨人のような胴体、小鳥のような頭蓋。あたかもファルネーゼのヘラクレス神の像が、小倉のズボンと綿《/綿》ビロードの上衣をつけた形である。そういう彫刻的な体躯《体》をそなえたグールメルは、怪物をも取りひしぎ得たであろうが、自ら怪物となることはなお容易であった。低い前額《ヒタイ》、広い顳顬、年齢四十足《年齢シジュウ足》らずで目尻《/目尻》には皺が寄り、荒く短い頭髪、毛むくじゃらの頬《ホオ》、猪《イノシシ》のような髯、それだけでもおよそその人物が想像さるるだろう。彼の筋肉は労働を求めていたが、彼の暗愚はそれをきらっていた。まったく怠惰な強力にすぎなかった。うかとした機会でも人を殺すことができた。植民地生まれの男だと一般に思われていた。1815年にアヴィニョンで運搬夫《運搬フ》となっていたことがあるので、ブリューヌ元帥(訳者注◇ 1815年アヴィニョンにて暗殺され河中に投ぜられし人)にもいくらか手をつけたことがあるに違いない。その後運搬夫《後’運搬フ》をやめて悪漢となったのである。  バベの小柄なのは、グールメルの粗大と対照をなしていた。バベはや《痩》せており、また物知りだった。身体は薄いが、心は中々見透《中々’見透》かし難《がた》かった。その骨を通して日の光は見られたが、その瞳を通しては何物も見られなかった。彼は自ら化学者だと言っていた。ボベーシュの仲間に|はい《入っ》って道化役者となり、またボビノの仲間に|はい《入》って滑稽家《+滑稽カ》となっていたこともある。サン・ミイエルでは喜劇を演じたこともある。気取りやで、話し上手で、大げさにほほえみ、大げさに身振りをした。「国の首領」の石膏像や肖像を往来で売るのを商売にしていた。それからまた歯抜きもやった。市場《イチバ》で種々《いろいろ》な手品を使ってみせた。一つの屋台店を持っていたが、それにラッパと次《/次》の掲示とをつけていた。──諸アカデミー会員歯科医《会員’歯科医/》バベ、金属お《/お》よび類金属に関し物理的実験を試み、歯を抜き、同業者《同業シャ》の手の及ばざる歯根の治療をなす。価《アタイ》、歯一本一《歯’一本’一》フラン五十サンチーム、二本二《二本’二》フラン、三本三《3本’3》フラン五十サンチーム、好機を利用せよ。──(この「好機を利用せよ」というのは、「|でき得《出来う》る限り歯を抜くべし」という意味であった。)彼は妻帯して子供を持っていた。しかし妻も子供らもその後どうなったか自ら知らなかった。ハンケチでも捨てるように彼らを捨ててしまったのである。新聞を読むことができたが、それはその暗黒な社会での一異彩だった。ある日、まだその屋台店のうちに家族をいっしょに引き連れていた頃、メッサジェー紙上で、ある女が牛のような顔をした子を生んだが子供《/子供》も丈夫にしているということを読んで、彼は叫んだ。「これは金儲けになる! だが俺の女房はそんな子供を設けてくれるだけの知恵もねえんだからな。」  それから後、彼はすべてをよして「パリーに手をつけ」初《始》めた。これは彼自身の言葉である。  クラクズーとは何《-なん》であったか。暗夜そのものであった。彼は空が黒く塗られるのを待って姿を現わした。夜になると穴から出てきたが、夜が明けないうちにま《”ま》たそこへ引っ込んでいった。その穴はどこにあるか、だれも知ってる者はなかった。まっくらな中ででも、仲間の者にまで背中を向けて口をきいた。そしてクラクズーというのも彼の実際の名前ではなかった。彼は言っていた、「俺はパ・デュ・トゥー(皆無)というんだ。」もし蝋燭の光でもさそうものなら、すぐに仮面をかぶった。彼は|こわいろ使《声色’づか》いだった。バベはよく言った、「クラクズーは二色《2色》の声を持ってる夜の鳥だ。」彼は朦朧とした恐ろしい、ぶらつき回ってる男だった。クラクズーというのは綽名《渾名》であって、果たして何か名前を持ってるかさえもわからなかった。口よりも腹から声を出すことが多いので、果たして声というものを持ってるかさえもわからなかった。だれもその仮面をしか見たことがないので、果たして顔を持ってるかさえもわからなかった。幻のように彼は忽然と姿を消した。出て来る時も、まるで地面から飛び出してくるかと思われるほどだった。  痛ましい者と言えばおそらくモンパルナスであったろう。まだ少年で、二十歳《ハタチ》にも満たず、きれいな顔、桜桃《+サクランボウ》にも似た脣、みごとなまっ黒い頭髪、目に宿ってる春のような輝き、しかもあらゆる悪徳にしみ、あらゆる罪悪を望んでいた。悪を消化しつくしたので、更にひどい悪を渇望していた。浮浪少年から無頼漢となり、無頼漢から強盗と変じたのである。やさしく、女らしく、品《ヒン》があり、頑健で、しなやかで、かつ獰猛だった。1829年のスタイルどおりに、帽子の左の縁《フチ》を上げて髪《/髪》の毛を少し見せていた。強盗をして生活していた。そのフロック型の上衣は上等《/上等》の仕立てではあったが、まったくす《擦》り切れていた。彼は困窮のうちに沈み殺害《/殺害》をも犯しつつし《/し》かも|めかしや《メカシヤ》であった。この青年のあらゆる罪悪の原因は、美服をまといたいという欲望だった。「お前さんはきれいね、」と彼に言ったある一人の|浮わ気女工《浮気女工》は、彼の心のうちに一点の暗黒を投じ、そのアベルをしてカインたらしめたのである。自分のきれいであることを知って、彼は更に優美《/優美》ならんことを欲した。しかるに第一の優美は怠惰である。そして貧しい者の怠惰はすなわち罪悪である。いかなる浮浪の徒も、モンパルナスくらいに人に恐れられていた者はあまりない。十八歳にして彼は既に後《あと》に数多の死屍を残していた。この悪漢のために、両腕をひろげ顔《/顔》を血にま《-ま》みらしてたおれた通行人も、|一、二《イチニ》に止《-とど》まらない。縮らした頭髪、ぬりつけた香油、きちっとした上衣、女のような腰つき、プロシャの将校のような上半身、周囲に起こる町娘らの賛美のささやき、《:、》気取《気ど》った結び方をした襟飾り、ポケットの中にしのばした棍棒、ボタンの穴にさした一輪の花、そういうのがこの人殺しの洒落者の姿であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【仲間の組織】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それら四人組みの悪党は、プロテウスの神のように自由に姿を変え、警察の網の目をぬけては《這》い回り、「樹木や炎《/炎》や泉《/泉》など種々《いろいろ》の姿となって」名探偵ヴ《/ヴ》ィドックの容赦なき目をも|のが《逃》れんとつとめ、《:、》互いに名前や詐術を貸し合い、自身の暗黒のうちに潜み、秘密な穴に|のが《逃》れ、互いに隠し合い、仮装舞踏会でつ《付》け鼻を取り去るようにす《/す》ぐに|ありさま《有様》を変え、《:、》あるいは四人が|ひとり《一人》であるかのように見せかけ、あるいは名警官《メイ警官/》ココ・ラクールでさえも四人を一群の者であると誤るほど巧みに大勢《大ぜい》に見せかけた。  それら四人の者は、実は四人ではなかったのである。パリーで|大仕掛け《大仕掛》に仕事をしてる四つの頭を持った一個《/一個》の不可思議な盗賊であった。社会の窖に住む恐《/恐》るべき悪の水螅《+スイシ》であった。  その分岐とその網目のような下層の脈絡とによって、バベとグ《/グ》ールメルとク《/ク》ラクズーとモ《/モ》ンパルナスとの四人は、広くセーヌ県内の闇撃《+闇討ち》を一手に引き受けていた。彼らは通行人に対して、下層からのクーデターを行なった。この種の仕事を考えついた者、夜の仕事を思いついた者は、皆《みんな》その実行を彼らにはかった。四人の悪漢は草案を供給さるればそ《/そ》れをうまく舞台に上《の》せた。彼らはその筋書きに従って仕事をした。彼らはいつも、何か肩を貸す必要がありま《”ま》た相当に利益のある悪事には、それに相応《相応’》した適当な人員を貸してやることもできた。力ずくの仕事には共犯人を呼び集めることもできた。一群の暗闇の役者を持っていて、社会の底のあらゆる悲劇に自由に使っていた。  通常夕方《通常’夕方》に彼らは起き上がって、サルペートリエール救済院の近くの野原で会合した。そしてそこで種々《いろいろ》相談をこらした。それから十二時間の夜の間は彼らのもので、それをいかに使うべきかを定めた。  パトロン・ミネット、というのがどん底の社会でこ《/こ》の四人組みの仲間に与えられてる名前だった。日々に消えうせつつある古い不思議な俗語では、パトロン・ミネット(子猫親方)というのは朝の意味であって、犬と狼との間というのが夕《/夕べ》の意味であるのと同じである。このパトロン・ミネットという呼び名は、おそらく彼らの仕事が終わる時刻からきたものであろう。夜明けは幽霊は消えうせ盗賊《/盗賊》が分散する時なのである。四人の者はそういう異名で知られていた。重要裁判長がかつて、ラスネールをその獄屋に見舞って、彼が否認してる罪悪を尋問したことがある。「では|だれ《誰》がそれをしたのだ。」と裁判長は尋ねた。するとラスネールは、司法官にとっては謎にすぎないが警察《/警察》にとっては明らかにわかる次の答えをした。「たぶんパトロン・ミネットでしょう。」  ある場合には、登場人物の名前だけを見てそ《/そ》の芝居のいかなるものであるかが察せられる。それと同じく、賊徒の名前だけを見てそ《/そ》の一群がいかなるものであるか推察されることがある。でパ《/パ》トロン・ミネットの重なる手下がい《/い》かなる呼び名を持っていたかを次にあげてみよう。それらの名前はみんな特殊の記録の中に出ているものである。 ◇。◇。  パンショー、別名プランタニエ、別名ビグルナイユ。  ブリュジョン(ブルジョンの一系統があった。これについてはあとで一言《イチゴン》する。)  ブーラトリュエル、前にちょっと述べたことのある道路工夫《道路コウフ》。  ラヴーヴ。  フィニステール。  オメール・オギュ、黒人。  マルディソアール。  デペーシュ。  フォーントルロア、別名ブークティエール。  グロリユー、放免囚徒。  バールカロス、別名デュポン氏。  レスプラナード・デュ・スュド。  プーサグリーヴ。  カルマニョレ。  クリュイドニエ、別名ビザロ。  マンジュダンテル。  レ・ピエ・ザン・レール。  ドゥミ・リアール、別名ドゥー・ミルアール。  その他 ◇。◇。  他は略すとしよう。それらは最悪の者ではないから。そして上に述べたような名前は皆《-みんな》それぞれ特殊な相貌を持っている。そしてそれも単に個人を|現わ《現》すのみではなく、その種類を代表しているものである。それらの名前は各、文明の下層に生ずる醜《/醜》い菌の各種類に相当するものである。  これらの者は、めったに顔を明るみにさらすことをしないので、往来で普通行《普通’行》き会うような人のうちにはいなかった。昼になると、夜の荒々しい仕事に疲れて眠りに行った。あるいは石灰窯《+石炭ガマ》の中に、あるいはモンマルトルやモンルージュのすたれた石坑《セッコウ》の中に、時としては下水道の中に。彼らは地の中にもぐり込んでいた。  その後そういう者らはどうなったか? 彼らはやはり存在している。彼らは常に存在していたのである。ホラチウスもその事を語っている、「娼婦、薬売、乞食、道化役者。」そして社会が現状のままである間は、彼らもやはり現状のままでいるだろう。その窖の薄暗い天井の下《シタ》に、彼らは絶えず社会の下漏《+下漏れ》から生まれ出て来る。常に同じような妖怪となって現われて来る。ただ彼らの名前と外皮とのみが異なるばかりである。  個人は消滅するが、その種族は存続する。  彼らは常に同じ能力を持っている。乞食から浮浪人に至るまで、種族はその純一性を保《-たも》っている。彼らはポケットの中の金入れを察知し、|内隠し《内ポケット》の中の時計をかぎつける。金や銀は彼らに一種の|にお《匂》いを放つ。また盗《/盗》まれたそうな様子をしている人《/人》のいい市民もいる。そういう市民を彼らは根気よくつけ回す。外国人や田舎者が通るのを見れば、彼らは蜘蛛のように身を震わす。  ま《真》夜中の頃、人なき街路で、彼らに出会いま《”ま》たはその影を見る時《とき》、人は慄然とする。彼らは人間とは思われない。生ある靄でできてるかのような姿をしている。あたかも彼らは常に闇と一体をなしており、|やみ《闇》と見分けがつかず、影以外に何らの魂をも持たないかのようである。そして彼らが夜陰から脱け出してくるのはただ一瞬時《一瞬時’》の間《マ》のみであって、しばし恐るべき生命《イノチ》に生きんがためのみであるかのように思われる。  そういう悪鬼を消散させんには、何が必要であるか。光明である。漲溢《チョウイツ》せる光明である。曙の光に対抗し得る蝙蝠は一つもない。どん底から社会を照らすべきである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八編】 【邪悪なる貧民】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【マリユスひ《/ひ》とりの娘を|さが《探》しつつあ《/あ》る男に会う】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夏は過ぎ、秋も過ぎて、冬となった。ルブラン氏も若い娘もリュクサンブールの園《’園》に姿を見せなかった。マリユスはただ、あのやさしい美《/美》しい顔をも《もう》一度見たいとのみ念じていた。彼は絶えず|さが《探》していた。至る所を|さが《探》し回った。しかしその影をも見い出すことはできなかった。マリユスはもはや心酔せる夢想家でもなく、決然たる熱烈《/熱烈》な確乎《/確乎》たる男でもなく、大胆に運命を切り開かんとする者でもなく、《:、》未来の上に未来をつみ重ねて夢みる頭脳でもなく、方案や計画《/計画》や矜持《/矜持》や思想《/思想》や意志《/意志》に満てる若き精神でもなかった。彼は実に迷える犬であった。彼は暗い悲しみに陥った。もはや万事終わったのである。仕事もいやになり、散歩にも疲れ、孤独にもあきはてた。広漠たる自然も昔は、種々《いろいろ》の姿や光《/光》や声《/声》や忠言《/忠言》や遠景《/遠景》や地平《/地平》や教訓《/教訓》に満ち満ちていたが、今はもう彼の前にむ《/む》なしく横たわってるのみだった。すべてが消えうせたように彼には思えた。  彼は常に思索を事としていた。なぜなら他に仕方もなかったからである。しかし彼はもはや自分の思想にも心楽しまなかった。思想が絶えず声低く提議してくることに対してひ《/ひ》そかにこう答えた、「それが何の役に立つか。」  彼は幾度となくおのれを責めた。なぜ自分は彼女の跡をつけたか。彼女を見るだけで既に幸福ではなかったか。彼女も自分の方《ほう》を見ていた。それだけでも既に至上のことではなかったか。彼女も自分を愛しているらしかった。それでもう十分ではなかったか。自分はいったい何を得ようと欲したのか。それだけでたくさんではなかったか。自分は道にはずれていた。自分は誤っていた‥‥。その他いろいろ自ら責めた。マリユスの性質としてそ《/そ》れらのことは少しもうち明けなかったが、クールフェーラックはやはりその性質上す《/す》べてをだいたいさとった。そして初めは、マリユスが恋に陥ったのを意外に感じながらも、それを祝していた。それからマリユスが憂鬱に沈み込んだのを見て、ついにこう彼に言った。「君はまったくまずかったんだ。まあち《/ち》とショーミエールにでも遊びにこいよ。」  一度、九月の晴れた日にそそのかされて、マリユスはクールフェーラックとボ《/ボ》シュエとグ《/グ》ランテールとが誘うままに、ソーの舞踏を見に行った。まことに夢のような話ではあるが、そこであるいは彼女に会うかも知れないと思ったのである。がも《/も》とより|さが《探》してる女は見当たらなかった。「だがいったい、見失った女は大概ここで見つかるものだがな、」とグランテールは横を向いてつぶやいた。マリユスは仲間をそこに残して、|ひとり《一人》で歩いて帰って行った。彼はすべてが懶く、熱に浮かされ、乱れた悲《/悲》しい目つきを暗夜のうちに据え、宴楽の帰りのに《/に》ぎやかな連中を乗せてそばを通りすぎてゆく楽《/楽》しい馬車の響きとほこりとに脅かされ、《:、》意気消沈して、頭をはっきりさせるために途上《/途上》の胡桃の|木立ち《木立》のかおりを胸深く吸い込みながら、家に帰っていった。  彼は|しだい《次第》に深く孤独の生活にはいってゆき、心乱れ気力《/気力》を失い、内心の苦悶に身を投げ出し、罠にかかった狼のように苦《/苦》しみの中をもがき回り、姿を消した彼女を至る所に|さが《探》し求め、まったく恋のためにぼけてしまった。  一度ある時《とき》、妙な人に出会って、彼は不思議な感に打たれた。アンヴァリード大通りのそばの小さな裏通りで、一人の男と行き会ったのである。その男は労働者のような服装をして、長い庇のついた無縁帽《+フチ無し帽》をかぶっていたが、その下からま《真》っ白い髪の毛が少し見えていた。マリユスはその白髪の美しさに心ひかれて、その男をじっとながめてみた。男はゆっくり歩いていて、何か苦しい瞑想にふけってるようだった。そして妙な《な-》ことには、マリユスはまったくルブラン氏を見るような気がした。同じ頭髪、帽子の下から見えてる限りでは同じ横顔、同じ歩きかた、そしてた《/た》だ少し寂しすぎる点が違ってるだけだった。しかしルブラン氏が、どうして労働者の服をつけてるのだろう、どういう訳だろう、その仮装は何の意味だろう? マリユスは少なからず驚いた。それから彼はようやく我に返って、第一にその男の跡をつけてみようとした。あるいは|さが《探》してる糸口をついに見いだしたのかも知れない。いずれにしても、も《もう》一度その男を近くからながめ、謎を解かなければならない。そう彼は考えついたが、もう時が|おく《遅》れていた。男はもはやそこにいなかった。ある狭い横町《横丁》に曲がったのであろう。マリユスはもうその姿を見いだすことができなかった。そしてこの遭遇は、数日間彼《数日間’彼》の頭を占めていたが、そのうちに消えうせてしまった。彼は自ら言った、「結局、他人の空似に過ぎなかったのだろう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【拾い物】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは《は-》なお続けてゴルボー屋敷に住んでいた。そしてそこのだれにも気をつけていなかった。  実際その頃、ゴルボー屋敷には彼とジョンドレットの一家だけしか住んでいなかった。彼はジョンドレットの負債を一度払ってやったことがあるが、その父にも母にも娘らにもか《/か》つて口をきいたことはなかった。他の借家人《シャクヤニン》らは、引っ越したか、死んだか、または金《-かね》を払わないので追い出されるかしてしまっていた。  その冬のある日、太陽は午後になって少し現われたが、それも二月の二日、すなわち古い聖燭節の日であった。このちょっと姿を現わした太陽は、やがて六週間の大寒を示すものであって、あのマティユー・レンスベルグが次の古典的な二行《2行》の句を得たのもそれからである。 ◇。◇。  日をして輝き閃《’閃》かしめよ、  さあれ熊《/熊》は洞穴《+ドウケツ》に帰るなり。 ◇。◇。  マリユスは外に出かけた。夜の|やみ《闇》が落ちようとしていた。ちょうど夕食の時間だった。いかに美しい愛に心奪われていても、悲しいかな食事はしなければならない。  彼は家の戸口をまたいで外へ出た。ちょうどその時、ブーゴン婆さんは戸口を掃除しながら、次のおもしろい独語をもらしていた。 「この節《セツ》は安い物と言って何があろう? みんな高い。安い物はただ世間の難渋だけだ。難渋だけは金《-かね》を出さないでもやって来る。」  マリユスはサン・ジャック街《街’》へ行こうと思って、市門の方《ほう》へ大通りをゆるゆる歩いて行った。頭《コウベ》をたれて物思いに沈みながら歩いていた。  突然《突然’》彼は、薄暗がりの中に|だれ《誰》かから押しのけられるのを感じた。ふり返ると、|ぼろ《ボロ》を着たふたりの若い娘だった。|ひとり《一人》は背が高くてやせており、|ひとり《一人》はそれより少し背が低かったが、ふたりとも物に|おび《怯》え息《/息》を切らして、逃げるように大急ぎで通っていった。ふたりはマリユスに気づかず、出会頭《出会い頭》に彼につき当たったのだった。|薄ら《ウスラ》明りにすかして見ると、ふたりは色青《色’青》ざめ、髪をふり乱し、きたない帽子をかぶり、裳は破れ裂け、足には何もは《履》いてなかった。駆けながら互いに口をきいていた。大きい方《ほう》がごく低い声で言った。 「いぬがきたのよ。もちっとであげられるところだった。」  |もひとり《もう一人》のが答えた。「私ははっきり見たわ。でた《/た》だもう一目散よ。」  マリユスはそ《/そ》の変な言葉でおおよそさとった。憲兵か巡査かがそのふたりの娘を捕えそこなったものらしい、そしてふたりはうまく逃げのびてきたものらしい。  ふたりは彼の後ろの|並み木《並木》の下《-した》には《-は》いり込み、暗闇の中にしばらくは|ほの白《ホノジロ》く見えていたが、やがて消え失せてしまった。  マリユスはしばらくたたずんでいた。  それから歩みを続けようとすると、自分の足元の地面に鼠色の小さな包みが落ちてるのに気づいた。彼は身をかがめてそれを拾ってみた。封筒らしいもので、中には紙でもはいっていそうだった。 「そうだ、」と彼は言った、「あのあわれな女どもが落としていったんだろう。」  彼は足を返し、声を揚げて呼んでみたが、はやふたりの姿は見えなかった。それでもう遠くへ行《’行》ったことと思い、その包みをポケットの中に入れ、そして食事をしに出かけて行った。  途中、ムーフタール街の路地で、彼は子供の柩を見た。黒ラシャでおおわれ、三つの台の上に置かれて、一本の蝋燭の火に照らされていた。暗がりのふたりの娘のことが思い出された。 「あわれな母たち!」と彼は考えた。「自分の子供が死ぬるのを見るよりな《/な》おいっそう悲しいことがある。それは自分の子供が悪い生活をしてるのを見ることだ。」  そのうちに、彼の悲しみの色を変えさえしたそれらの影は頭《/頭》から消え去ってしまって、彼はまたいつもの思《’思》いに沈み込んだ。リュクサンブールの美しい木の下《シタ》で、さわやかな空気と光との中で過ごした、愛と幸福との|六カ《6ヶ》月間のことをま《”ま》たしのびはじめた。 「私の生活は何と陰鬱になったことだろう!《/》」と彼は自ら言った。「若い娘らはやはり私の目の前に現われて来る。ただ、昔はそれがみな天使に見えたが、今は食屍鬼《+死屍食い鬼》のような気がする。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【一体四面】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その晩、マリユスは床《-とこ》につ《就》こうとして着物をぬ《脱》いでいた時、上衣のポケットの中に、夕方大通《夕方’大通》りで拾った包みに手を触れた。彼はそれを忘れていたのである。そこで彼は考えた、包みを開いてみたらどうにかなるだろう、もし実際彼女《実際’彼女》らのものだったら、中にはたぶんその住所があるだろう、《:、》そしてとにかく、落とし主へ返せるような手掛かりがあるかも知れない。  彼は包み紙を開いた。  包み紙には封がしてなかった。そして中には、同じく封がしてない四つの手紙がはいっていた。  それぞれ|あて名《宛名》がついていた。  四《4》つともひどい煙草のにおいがしていた。  第一の手紙の|あて名《宛名》はこうだった。「下院前の広場‥‥《マルマル》番地、グリュシュレー侯爵夫人閣下。」  中にはおそらく何《-なに》か所要の手掛かりがあるかも知れない、その上《うえ》手紙は開いているので読んでも一向さしつかえないだろう、とマリユスは考えた。  手紙の文句は次のとおりだった。 ◇。◇。 【侯爵夫人閣下】 ◇。◇。  寛容と憐愍との徳は社会をいっそう密接に結び合わせしむるものに御座候。公正のために身をささげ正法《/セイ法》の聖なる主旨に愛着して身をささげ、その主旨を擁護せんがために、血潮を流し財産《/財産》その他いっさいを犠牲に供し、《:、》しかも今や落魄の極《極み》にあるこの不幸なるスペイン人の上に、願《ねが》わくは閣下のキリスト教徒たる感情を向けたまい、慈悲の一瞥を投ぜられんことを。全身負傷《全身’負傷》を被《-こうむ》り居る教育《/教育》あり名誉《/名誉》あるこの軍人をして、なおそのあわれなる生を続けしめんがために、閣下は必ずや助力を惜しまれざるべしと存じ候。閣下の高唱せらるる人道の上に、また不幸なる一国民に対して閣下が有せらるる同情の上に、あらかじめ期待を掛け申し候。彼らの祈願は閣下の入れたもう所となり、彼らの感謝の念《念’》は長く閣下の御名《ミナ》を忘れざるべしと信じ申候《申し候》。  ここにつつしんで敬意を表《ヒョウ》し候《-そうろう》。 ◇。◇。 【フランスに亡命し今国《/今’国》へ帰らんとして旅費《/旅費》に窮せるスペイン王党の騎兵大尉】 ◇。◇。 【ドン・アルヴァレス】 ◇。◇。  署名には何らの住所もついていなかった。マリユスは第二の手紙にその住所がありは《は-》すま《ま-》いかと思った。その|あて名《宛名》はこうだった。「カセット街九番地《街9番地》、モンヴェルネー伯爵夫人閣下。」  マリユスはその中に次の文句を読んだ。 ◇。◇。 【伯爵夫人閣下】 ◇。◇。  私事は六人の子供を持てるあわれなる母にて、末の児《子》はわずかに八カ月になり候。この児《子》の出産以来私《出産以来’私》は病気にかかり、五カ月以前からは夫にすてられ、今は何の収入の途《道》もなく、ただ貧苦の底に悩みおり候。  伯爵夫人閣下の御慈悲を望んで、深き敬意を表《ヒョウ》し申候《申し候》。 ◇。◇。 【バリザールの家内】 ◇。◇。  マリユスは第三の手紙を開いたが、それもやはり哀願のもので、次のように書かれていた。 ◇。◇。  サン・ドゥニ街にてフェール街の角《カド》、小間物貿易商、選挙人パ《/パ》ブールジォー殿《どの》 ◇。◇。  ここにあえて一書を呈して、フランス座へ戯曲一篇《/戯曲イッペン》を送りたる一文人《イチ文人》へ、貴下《キカ》の御《お》あわれみと御同情とを賜わらんことを懇願仕《懇願つか》まつり候。その戯曲は、題材を歴史に取り、場面を帝国時代のオーヴェルニュにいたしたるものに候《-そうろう》。文体は自然にして簡潔、多少の価値はあるものと自信仕《自信つか》まつり候。歌詞も四カ所これ有り候。滑稽と|まじめ《/真面目》と奇想《/奇想》とは、種々《いろいろ》の人物と相交わり、全篇に漂えるロマンチシズムの軽き色合《色合い》に交錯し、筋は不思議なる発展をなし、感動すべき多くの変転を経て、光彩陸離たる種々《いろいろ》の場面のうちに|から《絡》みゆくものに御座候。  主として小生の目ざせる点は、現代人の刻々に要求する所を満足させんことに候。換言すれば、ほとんどあらゆる新奇なるふうにその方向を変ずる、か《カ》の定見なき笑《/笑》うべき風見《/風見》とも言うべき流行を満足させんことに候。  かかる特長あるにもかかわらず、座付きの作者らの嫉妬と利己心《利己シン》とは、小生を排斥せんとするやも知れずと懸念いたし候。新参の者が常に受くる冷遇を、小生とてもよく存じおり候《そうら》えば。  貴下《キカ》には常に文人を保護したまわる由を承り候まま、あえて娘をつかわして、この冬季にあっても食《食’》も火もなき困窮の状を具申いたさせ候。何とぞ今度の戯曲並《戯曲’並》びに今後の作を貴下《キカ》にささげんとの微意を御受け下されたく候。かくて小生は、貴下《キカ》の保護を受くるの光栄に浴し、貴下《キカ》の名をもって小生の著述を飾るの光栄に浴《浴’》せんことを、いかほど希望いたしおるやを申し上げたくと存候《存じ候》。もし貴下《キカ》にしていくらかな《な-》りと御補助を賜わらば、小生は直ちに一篇《イッペン》の詩《-し》を作りて、感謝の意を表《ひょう》すべく候。小生は力の及ぶ限りその詩《-し》を完全なるものたらしめ、なおまた、戯曲の初めに揷入《挿入》して舞台に上《-のぼ》する前、あらかじめ貴下《キカ》のもとへ御送《お送》り申すべく候。  パブールジォー殿並《どの並》びに夫人へ、小生の深き敬意を表《ひょう》し候。 ◇。◇。 【文士ジャンフロー】 ◇。◇。  追白、四十《ヨンジュッ》スーほどにてもよろしく候。 ◇。◇。  娘をつかわして小生自身参上《ショウセイ自身’参上》いたさざるを御許《お許》し下されたく、実は悲惨にも服装の都合上外出《都合上’外出》いたしかね候次第に御座候。 ◇。◇。  マリユスはついに四番目の手紙を開いた。|あて名《宛名》はこうだった。「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿《紳士どの》。」中には次の文句がしたためてあった。 ◇。◇。 【慈愛深《慈愛ふか》き紳士殿《紳士どの》】 ◇。◇。  もし拙者の娘と御同行《ご同行’》下され候《-そうら》わば、一家困窮《一家’困窮》のきわみなる状態にあることを御認め下さるべく、また身元証明書は御覧に供すべく候。  かかる手記を御覧候《御覧そうら》わば、恵み深き貴下《キカ》は必ずや惻隠の情を起こし下さるべしと存候《存じ候》。真の哲学者は常に強き情緒を感ずるものに候《そうら》えば。  同情の念深《念’深》き紳士殿《紳士どの》、最も残酷なる窮乏に一家《/一家》の者苦《者’苦》しみおり候。しかして何かの救助を得んために政府《/政府》よりその証明を得るなどとは、いかに悲痛なることに候ぞや。他人《人》より救助せらるるを待ちながら、しかも飢餓に苦しみ飢餓《/飢餓》に死するの自由さえもなきもののごとくに候。運命はある者にはあまりに冷酷に、またある人にはあまりに寛大にあ《/あ》まりに親切にこれ有り候。貴下《キカ》の御来臨《ご来臨》を待ち申し候。あるいはおぼし召しあらば御施与を待申候《待申し候》。しかして拙者の敬意を御受け下されたく願上《願い上》げ候。 ◇。◇。 【大人閣下《タイジン閣下》のきわめて卑しき従順なる僕《しもべ》】 【俳優◇ ファバントゥー】 ◇。◇。  それら四通《4ツウ》の手紙を読み終わったが、マリユスは前と同じく何らの手掛かりも得なかった。第一に、どの手紙にも住所がついていなかった。  次に手紙は、ドン・アルヴァレスとバ《/バ》リザールの家内と詩《/詩》人ジャンフローと俳《/俳》優ファバントゥーと、四人の違った人からのものらしかったが、不思議にも四つとも同じ筆蹟だった。  四《4》つとも同一人からのものでないとするならば、それをいかに解釈したらいいか?  その上、ことにそう考えさせることには、四通《4ツウ》とも同じ粗末な黄色い紙《’紙》であり、同じ煙草のにおいがしていた。そして明らかに文体を変えてはあるが、同じような文字使いが絶えず平気に現われてきて、文士ジャンフローもスペインの大尉も何ら異なるところがなかった。  この小秘密を解《-と》かんとつとめることは、まったく|むだ《無駄》な骨折りだった。もしそれが拾い物でなかったら、単に人をからかうものとしか思われなかったろう。その上マリユスは悲しみのうちに沈んでいたので、偶然の悪戯を取り上げるだけの余裕もなく、街路の舗石《+敷石》が彼に試みたようなそ《/そ》の遊びに心を向けるだけの余裕もなかった。あたかも四通《4ツウ》の手紙の間の目隠し鬼になって|からか《揶揄》われてるような気がした。  またその手紙はマリユスが大通りで出会った二人の娘のものだということを示すものも、何もなかった。要するに何らの価値もない反故にすぎないことは明らかだった。  マリユスは四つの手紙をまた包み紙に入れて、室《+部屋》の片すみになげすて、そして床《トコ》につ《就》いた。  翌朝七時《翌朝’七時》ごろ、彼は起き上がって朝食をし、それから仕事にかかろうとした。その時静かに扉をたたく者があった。  いったい彼は所持品と言っては何もなかったので、かつて、扉に錠をおろさなかった。ただ時として急《/急》ぎの仕事をしてる時は錠をおろすこともあったが、それもごくまれにしかなかった。また外出する時でさえ、鍵を錠前に差し込んだままにしておいた。「泥坊がはいりますよ、」とブーゴン婆さんはよく言った。「盗まれるものは何もありません、」とマリユスは答えていた。けれども実際、ある日古靴《日’古靴》を一足盗まれたことがあって、ブーゴン婆さんの言ったとおりになった。  扉は再び初めのようにごく軽くたたかれた。 「おはいりなさい。」とマリユスは言った。  扉は開いた。 「何か用ですか、ブーゴン婆さん。」とマリユスはテーブルの上の書物と書き物とから目を離さないで言った。  するとブーゴン婆さんのでない別の声が答えた。 「ごめんなさい。あの‥‥。」  その声は鈍く乱れし《/し》わがれ濁《/濁》っていて、火酒《+ウォッカ》や焼酎で喉をつぶした老人のような声だった。  マリユスは急にふり返った。そこには|ひとり《一人》の若い娘がいた。 ◇。◇。 【第四章】 【困窮の中に咲ける薔薇】 ◇。◇。  まだうら若い娘が|ひとり《一人》、半ば開いた扉の所に立っていた。光のさしこむ屋根裏の軒窓《ノキマド》がち《/ち》ょうど扉と向き合ったところにあって、彼女の顔を青白い光で照らしていた。色の悪いや《痩》せ衰えた骨立《/骨立》った女で、冷え震えている裸体の上には、ただシャツと裳衣《ショーイ》とをつけてるだけだった。帯の代わりに麻糸をしめ、頭のリボンの代わりに麻糸を結わえ、とがった両肩はシャツから現われ、褐色の憂鬱な顔には血の気がなく、鎖骨のあたりは土色をし、赤い手、半ば開いてる色あせた口、抜け落ちた歯、|ほの暗《仄暗》い大胆な賤しい目、《:、》未熟な娘の|かっこう《恰好》で腐敗した老婆の目つきだった。五十歳と十五歳とがいっしょになった形だった。全体が弱々しくま《”ま》た同時に恐ろしい生物で、人をして震え上がらし《し-》むるかま《”ま》たは泣かし《し-》むる生物だった。  マリユスは立ち上がって、夢の中に現われて来る影《/影》のようなその女を、惘然《呆然》として見守った。  ことに痛ましいのは、彼女は生まれつき醜いものでなかったことである。ごく小さい時には美しかったに違いない。年頃の容色はなお、汚行と貧困とから来る恐《/恐》ろしい早老のさまと戦っていた。一抹の美しさがその十六歳《十六才》の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐《方/恐》ろしい雲の下に消えてゆく青白《/青白》い太陽のように見えていた。  その顔にマリユスは全然見覚《全然’見覚》えがないでもなかった。どこかでかつて見たことがあるような気がした。 「何か御用ですか。」と彼は尋ねた。  若い娘は酒に酔った囚徒のような声で答えた。 「マリユスさん、手紙を持ってきたのよ。」  彼女はマリユスと名を呼んだ。彼女がやはり彼に用があってきたことは疑いなかった。しかし彼女はいったい何者なのか、どうしてマリユスという名を知ったのか?  彼がこちらへと言うのも待たないで、娘ははいってきた。彼女はつかつかと|はい《入》ってきて、驚くばかりの平気さで、室《+部屋》の方々《-ほうぼう》を見回し、取り乱した寝床をながめた。足には何もは《履》いていなかった。裳衣《ショーイ》の大きな裂け目からは、長い脛とやせた膝とが見えていた。彼女は震えていた。  彼女は実際手《実際/手》に一通の手紙を持っていて、それをマリユスに渡した。  マリユスは手紙を開きながら、その大きな封糊《封コ》がまだ湿っているのに気づいた。使いの者は遠くからきたのではないに違いなかった。彼は手紙を読み下した。 ◇。◇。 【隣の親切なる青年よ!】 ◇。◇。  小生は貴下《キカ》が|六カ《6ヶ》月以前小生《月以前’小生》の家賃を御払い下され候好意を聞き及び候。小生は貴下《キカ》の幸福を祈り候。小生らは一家四人《一家4人》にて、この一週間一片のパンすらもなく、しかも家内は病気にかかりおり候こと、万事は長女より御聞き取り下されたく候。もし小生の思い違いに候《-そうら》わずば、寛大なる貴下《キカ》はこの陳述に動かされ、小生に些少の好意を寄せ恵《/恵》みをたれんとの念を起こしたまわることを、期待して誤りなきかと信じ申候《申し候》。  人類の恩恵者に対して負うべき至大の敬意を表《ひょう》し候。 ◇。◇。 【ジョンドレット】 ◇。◇。  追白──小生の長女は、マリユス殿《どの》、貴下《キカ》の|御さし図《お指図》を待ち申すべく候。 ◇。◇。  その手紙は、前日の晩《晩’》からマリユスの頭を占めていた不思議な事件のさなかにきたので、あたかも窖の中に蝋燭をともしたようなものだった。すべてが突然《突然’》明らかになった。  その手紙は他の四通《4ツウ》の手紙と同じ所からきたものだった。同じ筆蹟、同じ文体、同じ文字使い、同じ紙《’紙》、同じ煙草のにおい。  五つの手紙、五つの話《話し》、五つの名前、五つの署名、そしてただ一人の筆者。スペインの大尉ドン・アルヴァレス、不幸なる女バリザール、劇詩人ジャンフロー、老俳優ファバントゥー、それらは四人のジョンドレットにすぎなかった。ただしそれもジョンドレット自身が果たしてジョンドレットという名前であるとすればである。  マリユスはもうかなり長くその屋敷に住んでいたが、前に言ったとおり、その賤しい隣人については、会う機会はめったになく、一瞥を与えることさえもまれであった。彼は他に心を向けていた。心の向かうところに目も向くものである。実は廊下や階段でジョンドレット一家の者に行き会うことは、一度ならず《ず-》あったはずであるが、彼にとって彼らは皆単《-みんな単》に影絵にすぎなかった。彼は少しも注意を払っていなかった。それで前日の晩、大通りでジョンドレットの娘らにつき当たりながらも──それは明らかに彼女らに相違なかった──だれであるか一向わからなかったほどで、《:、》自分の室《+部屋》にはいってきた娘に対しても、嫌悪と憐愍との感を通して、どこかほかで会ったことがあるというぼんやりした覚えがあるに過ぎなかった。  しかるに今やすべてが明らかにわかってきた。彼は事情を了解した。隣にいるジョンドレットは、困窮の揚げ句、慈善家の慈悲をこ《乞》うのを仕事としていること。種々《いろいろ》の人の住所を調べていること。金持ちで慈悲深《慈悲ぶか》そうな人々へ仮りの名前で手紙を書き、娘なんか《か-》どうなろうと|かま《構》わないほどのひどい状態にあるので、娘らに危険を冒して手紙を持って行かしてること。運命と賭事をし、娘らをその賭物《賭け物》としてること。また前日娘《前日/娘》らが逃げ出しながら息を切らしお《/お》びえていた所を見、耳にしたあ《-あ》の変な言葉から察すると、おそらくふたりは何かよ《良》からぬことをしていたに違いないこと。そしてそれらのことから結論すると、この人間社会のまんなかにおいて、子供とも娘《/娘》とも婦人《/婦人》ともつかないふたりの悲惨な者が、不潔なし《/し》かも罪のない怪物の一種が、困窮のために作り出されたこと。それをマリユスは了解した。  悲しむべき者ら、彼らには名前もなく、年齢もなく、雌雄の性もなく、彼らにとってはもはや善も悪《アク》も空名であって、幼年時代を過ぎるや既《/既》に世に一物をも所有せず、自由をも徳義《/徳義》をも責任《/責任》をも有しない。昨日《昨日’》開いて今日ははや色あせたその魂は、往来に投げ捨てられ泥《/泥》にしぼんでた《/た》だ車輪にひかれるのを待つばかりの花《/花》のようなものである。  さはあれ、驚いた痛ましい目でマリユスが見守っているうちにも、若い娘は幽霊のように臆面《/臆面》もなく室《+部屋》の中を歩き回っていた。自分の肉体が露わであることなどは少しも気にしないで、室《部屋》の中を騒ぎ回った。時とすると、破《やぶ》れ裂《/裂》け取《/取》り乱したシャツはほとんど腰《’腰》の所までた《垂》れ下がった。それでも彼女は、椅子を動かしたり、戸棚の上にある化粧道具をかき回したり、マリユスの服にさわってみたりして、すみずみまで漁《-あさ》り初《始》めた。 「あら、」と彼女は言った、「鏡があるのね。」  そしてあたかも自分ひとりであるかのように、切れぎれの流行歌や|ばか《/馬鹿》な反唱句などを口ずさんだが、しわがれた喉音のためにそ《/そ》れも悲しげに響いた。しかしそういう厚顔の下にも、言い知れぬ気兼ねと不安《/不安》と卑下《/卑下》とが見えていた。不作法《無作法》は一つの恥である。  そういうふうに彼女が室《+部屋》の中を飛び回り、言わば日《’日》の光に驚きあ《/あ》るいは翼を折った小鳥のように飛んでるのを見るくらい、およそ世に痛ましいものはなかった。異なった教育と運命との下にあったならば、その若い娘の快活《/快活》で自由な態度にも、おそらくある優しみと魅力とがあったであろう。動物のうちにあっては、鳩に生まれたものが鶚と変わることは決してない。そういう変化はただ人間のうちにのみ見られる。  マリユスは思いに沈んで、彼女を勝手にさしておいた。  彼女はテーブルに近づいた。 「ああ、本が!」と彼女は言った。  彼女の曇った目はあ《/あ》る光に輝いた。そしていかなる人の感情のうちにもある喜ばしい自慢の念をこめた調子で、彼女は言った。 「あたし読むことができるのよ。」  彼女はテーブルの上に開いてあった一冊の書物を元気よく取り上げて、かなりすらすらと読み下した。 ◇。◇。 ‥‥ボーデュアン将軍は、旅団の五大隊をもってウーゴモンの城を奪取すべしとの命令を受けぬ、城はワーテルロー平原‥‥の ◇。◇。  彼女は読むのを止《辞》めた。 「ああ、ワーテルロー、あたしそれを知ってるわ。昔の戦争ね。うちのお父さんも行ったのよ。お父さんは軍人だったのよ。うちの者はみなりっぱなボナパルト党だわ。ワーテルローって、イギリスと戦した所ね。」  彼女は書物を置いて、ペンを取り、そして叫んだ。 「それからまたあたし、書くこともできてよ。」  彼女はペンをインキの中に浸して、マ《マ-》リユスの方《ほう》へ向いた。 「見たいの? ほら今字《/今’字》を書いて見せるわ。」  そしてマリユスが何か答える間もなく、彼女はテーブルのまん中にあった一枚の白紙へ書いた。 「いぬがいる。」  それからペンを捨てた。 「字は違ってないでしょう。見て下さいよ。あたしたちは学問をしたのよ、妹もあたしも。前からこんなじゃなかったのよ。あたしたちだって‥‥。」  そこで彼女は急に口をつぐんで、どんよりした瞳をじっとマリユスの上に据え、そして笑い出しながら、あらゆる苦しみをあ《/あ》らゆる皮肉で押さえつけたような調子で言った。 「ふーん!」  そして快活な調子で次の文句を小声で歌い出した。 ◇。◇。  お腹がすいたわ、お父さん。  食う物がないよ。  身体が寒いわ、お母さん。  着る物がないよ。 ◇。◇。  震えよ、  ロロット!  泣けよ。  ジャッコー! ◇。◇。  そういう俗歌を歌い終わるが早いか彼女は叫んだ。 「マリユスさん、あなた時々《ときどき》芝居へ行って? あたし行くのよ。あたしには小さい弟があって、役者たちと友だちなので、時々《ときどき》切符をくれるの。でも|向こう《ムコウ》桟敷はきらいよ。窮屈できたなくて、どうかすると乱暴な人や臭い人がいっぱいいるんだもの。」  それから彼女はつくづくとマリユスをながめ、妙な様子をして言った。 「マリユスさん、あなたは自分が大変いい男なのを知ってるの?」  そして同時に同じ考えがふたりに起こった。それで娘は微笑《微笑’》したが、マリユスは顔を赤くした。  彼女は彼に近寄って、片手をその肩の上に置いた。 「あなたはあたしを気にも留めてないが、あたしはマリユスさん、あなたを知っててよ。ここでもよく階段の所で会ったわ。それから、オーステルリッツ橋《バシ》の近くに住んでるマブーフという爺さんの家へあなたが行くのを、何度も見たわ、あの近所を歩いてる時に。あなた、そう髪の毛を散らしてる所がよく似合ってよ。」  彼女はやさしい声をしようとしていたが、そのためにただ声が低くなるばかりだった。あたかも鍵《+キー》のなくなってる鍵盤の上では音が出ないように、彼女の言葉の一部は喉頭から脣へ来る途中で消えてしまった。  マリユスは静かに身を引いていた。 「お嬢さん、」と彼は冷ややかな厳格さで言った、「たぶんあなたのらしい包みがそこにあります。あなたにお返ししましょう。」  そして彼は四つの手紙がはいってる包みを取って彼女に差し出した。  彼女は手を打って叫んだ。 「まあ方々《/ほうぼう》|さが《探》したのよ。」  それから急に包みを引ったくって、その包み紙を開きながら言った。 「ほんとに妹とふたりでどのくらい|さが《探》したか知れやしない! あなたが拾ってくれたのね。大通りででしょう。大通りに違いないわ。駆けた時に落としたのよ。そんな|ばか《馬鹿》なことをしたのは妹なのよ。家へ帰ってみるとないんだもの。打《ぶ》たれたくないもんだから、打《ぶ》たれたって何《なん》の役にもたたないから、ほんとに何《なん》の役にもたたないから、全くよ、だからわたしたちはこう言ったの、《:、》手紙はちゃんと持って行ったがどこでも断わられてしまったって。それが手紙はみんなここにあったのね。どうしてあなたそれがあたしのだとわかって? ああそう、筆蹟《+手(筆跡)》でね。では昨晩《+夕べ/》あたしたちが道でつき当たったのは、あなただったのね。ちっとも見えなかったんだもの。あたしは妹に言ったの、男だろうかって。すると妹は、そうらしいと言ったわ。」  そう言ってるうちに彼女は、「サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿《紳士どの》」という|あて名《宛名》の手紙を開いてしまった。 「そう、」と彼女は言った、「これは弥撒《+ミサ》へゆくお爺さんへやる手紙よ。ちょうど時間だわ。あたし持ってってこよう。朝御飯が食べられるだけのものをもらえるかも知れない。」  それから彼女は笑い出してつけ加えた。 「今日の朝御飯はあたしたちにとっては何だかあなたにわかって? 一昨日の朝御飯と、一昨日の晩御飯と、昨日の朝御飯と昨日の晩御飯と、それだけをみんないっしょに今朝食《今朝た》べることになるのよ。かまやしない、お腹がはち切れるほど食べてやるわ。」  それでマリユスは、その不幸な娘が自分の所へ求めにきたものが何《ナン》であったかを思い出した。  彼はチョッキの中を探ったが、何もなかった。  娘はしゃべり続けた。あたかもマリユスがそこにいるのも忘れてしまったが《が-》ようだった。 「あたしはよく晩に出かけていくの。何度も帰ってこないこともあるわ。ここに来る前、去年の冬は、橋の下に住んでたのよ。冷え切ってしまわないように皆重《-みんな重》なり合ってたわ。妹なんか泣いててよ。水ってほんとに悲しいものね。身を投げようかと思ったが、でもあまり寒そうだからといつも思い返したの。出かけたい時はすぐに|ひとり《一人》で出かけてよ。溝《+ドブ》の中に寝ることもよくあるわ。夜中に街路《+街》を歩いてると、木が首切り台のように見えたり、大きい黒い家がノートル・ダームの塔のように見えたり、また白い壁が川のように見えるので、おや向こうに水があるって思うこともあるのよ。星がイリュミネーションの燈《+明かり》のように見えて、ちょうど煙が出たり、風に吹き消されたりしてるようで、また耳《/耳》の中に馬が息を吹き込んでるような気がしてびっくりするのよ。夜中なのに、バルバリーのオルガンの音だの、製糸工場の機械の音だの、何だかわからない種々《いろいろ》なものが聞こえてよ。だれかが石をぶっつけるようなの、夢中に逃げ出すの、あたりがぐるぐる回り出すの、何もかも回り出すのよ。何《なん》にも食べないでいると、ほんとに変なものよ。」  そして彼女は我《吾》を忘れたようにマリユスをながめた。  マリユスは方々《ホウボウ》のポケットを探り回したあげく、ついに五フランと十六スーを集め得た。それが現在彼《現在’彼》の持ってる全部だった。「まあこれで今日の夕食は食えるし、明日のことはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。そして十六スーを取って置き、五フランを娘に与えた。  娘はその貨幣を|つか《掴》んだ。 「まあ有り難い、」と彼女は言った、「太陽《+お陽さま》が照ってる!」  そしてあたかもその太陽が、彼女の頭の中の怪しい言葉の雪崩を解かす力でも持ってたかのように、彼女は言い続けた。 「五フラン! 光ってるわ、王様だわ、この|でこ《デコ》の中にね。|しめ《シメ》だわ。あなたは親切な|ねんこ《ネンコ》だわ。あたしあなたに|ぞっこん《ゾッコン》でよ。いいこと、|どんたく《ドンタク》だわ。二日の間は、灘と肉とシチュー、たっぷりやって、それに気楽な|ごろ《ゴロ》だわ。」  そんな訳のわからぬことを言って、シャツを肩に引き上げ、マリユスにていねいにおじぎをし、それから手で親しげな|合い図《合図》をし、そして扉の方《ほう》へ行きながら言った。 「さようなら。でもとにかく、あのお爺さんを|さが《探》しに行ってみよう。」  出がけに彼女は、ひからびたパンの外皮が戸棚の上の塵の中に|かび《カビ》かかっているのを見つけて、それに飛びかかり、すぐにかじりつきながらつぶやいた。 「うまい、堅い、歯が欠けそうだ。」  それから彼女は出て行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【運命ののぞき穴】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスはもう五年の間《あいだ》、貧困、欠乏、窮迫のうちに生きていた。しかし彼はまだ本当の悲惨を知らなかったことに気づいた。彼は本当の悲惨を今しがた見たのであった。彼の目の前を通って行ったあの悪鬼こそそれだったのだ。実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子供のそれを見なければいけない。  最後の困窮に達する時《とき》、男はまた同時に最後の手段に到着する。ただ彼の周囲の弱き者こそ災いである! 仕事、賃金、パン、火気、勇気、好意、すべてを男は同時に失う。外部に日の光が消えたようになる時《とき》、内部には精神の光が消える。その暗黒のうちにおいて彼は、弱い女や子供と顔を合わせる。そして彼らをしいて汚辱のうちに|はい《入》らせる。  その時こそ戦慄すべきあらゆることが可能になる。絶望をかこむ囲壁はもろく、どこからでも直ちに悪徳や罪悪に通い得る。  健康、青春、名誉、|うら《ウラ》若き肉身《ニクシン》の初心《ウブ》なる聖《清》き羞恥、《:、》情操、処女性、貞節など、すべて魂の表皮は、手段を講ずる模索によって、汚賤《+オセン》に出会いそ《/そ》れにな《慣》れゆく模索によって、悲惨なる加工を受くる。父、母、子供、兄弟、姉妹、男、女、娘、すべての者は、性と血縁《/血縁》と年齢《/年齢》と醜悪《/醜悪》と潔白《/潔白》との差別なく暗澹《/暗澹》たる混乱のうちにからみ合い、あたかも鉱石が作らるるように一つに凝結する。互いに寄り合って運命の破屋《+あばら家》の中にうずくまる。互いに悲しげに見合わせる。おお《お/》不運なる者らよ! いかに青ざめてることか。いかに冷えきってることか。われわれよりもはるかに太陽から遠い星の中にいるかのようである。  あの若い娘はマリユスにとって、暗黒の世界からつかわされたもののようであった。  彼女はマリユスに、暗夜の恐ろしい一面を開いて見せた。  マリユスは、今まで空想と情熱とに心奪われて、隣の者らには一瞥をも与えなかったことを、自ら難じた。彼らの家賃を払ってやったことは、ただ機械的の行為で、人の皆《-みな》なすところであろう。しかし彼マリユスは、なおよ《-よ》りよ《良》きことをなすべきではなかったろうか。人の住む境域を越えた暗夜のうちに手探りで生きてるそ《/そ》れらの捨てられたる人々は、ただ一重の壁でへだたっていたのみではなかったか。彼は彼らと肱をすれ合わしていた。彼こそはある意味において、彼らが触れ得る人類の最後の鎖の環であった。自分のそばに彼らが生きてる物音が、否《否/》むしろ瀕死のあえぎをしてるのが、聞こえていたのである。しかも彼はそれに少しも注意をしなかった。日々に、刻々に、壁を通して、彼らが歩き行《/行》き来たり語《/語》るのが聞こえていた。しかも彼は耳を貸そうともしなかった。そして彼らの言葉のうちにはうめきの声が交じっていたが、彼はそれに耳を傾けようともしなかった。彼《彼’》の頭他《頭ほか》にあって、夢想に、不可能の光輝に、空漠たる愛に、熱狂に向いていた。しかるに一方では、同じ人間が、イエス・キリストを通じての同胞が、民衆としての同胞が、彼のそばに苦しんでいた。甲斐なき苦しみをしていた。その上《うえ》彼は、彼らの不幸の一部を助成し、彼らの不幸をいっそう重くしていた。なぜなれば、彼らがもし他の隣人を持っていたならば、彼よりもいっそう非空想的《/非空想的》で注意深い隣人を持っていたならば、普通の恵み深《ぶか》い人を持っていたならば、《:、》必ずや彼らの困窮はその人の認《-みと》むるところとなり、彼らの窮迫のありさまはその人の気づくところとなって、既に久しい前から彼らは収容せられ救《/救》われていたかも知れない。もとより彼らの様子は、きわめて退廃し、腐敗し、汚れ、嫌悪すべきものとはなっていたけれど、しかし零落したる者は多く堕落するが常である。その上、不運なる者と汚《/汚》れたる者という二つが混合し融合して、一つの宿命的な言葉、惨めなる者という一語を成すがような一点が、世にはある。そしてそれもだれの誤《過》ちであるか? そしてまた、その堕落が底深《底ふか》ければ深いほどいっそう大《ダイ》なる慈悲を与《-あた》うべきではないか。  そうマリユスは自ら訓戒した。時として彼は、真に正直な人に見らる《る-》るように、自ら自分の教訓師となり、過度に自分を叱責することがあった。で今《/今》やそうしながら、ジョンドレットの一家をへだてる壁をじっと見守った。あたかも彼は、憐愍の情に満ちてる目でその壁を貫き、その不幸な人々をあたためんとしてるかのようだった。壁は割り板と角材とでささえた薄い漆喰で、前に言ったとおり、言葉と声音とをはっきり通さしていた。今までそれに気づかなかったとは、マリユスもよほどの夢想家だったに違いない。ジョンドレットの方《ほう》にもま《”ま》たマリユスの方《ほう》にも、何らの壁紙もはってなかった。粗末な構造が露わに見えていた。マリユスはほとんど自ら知らないで、その壁を調べてみた。時としては夢想も思想がなすように物《/物》を調べ観察《/観察》し精査《/精査》する。マリユスは突然《突然’》飛び上がった。高く天井に近い所に、三枚の割り板がよく合わないでできてる三角形の穴が一つあるのを、気づいたのである。そのすき間をふさいでいたはずの漆喰はなくなっていた。戸棚の上に上れば、そこからジョンドレットのきたない室《部屋》の中は見られる。哀憐の情にも、好奇心があり、またあるべきはずである。そのすき間は一種ののぞき穴になっていた。不運を救わんがためには、それをひそかにながめることも許される。「彼らはどういう者であるか、またどんな状態でいるか、少し見てやろう、」とマリユスは考えた。  彼は戸棚の上には《這》い上がり、瞳を穴にあてがい、そしてながめた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【巣窟中の蛮人】 ◇。◇。◇。◇。◇。  都市にも森林と同じく、その最も猛悪なる者が身を隠してる洞窟がある。ただ都市にあっては、か《斯》く身を隠す者は、獰猛で不潔《/不潔》で卑小《/卑小》で、一言にして言えば醜い。森林にあっては、身を隠す者は、獰猛で粗野《/粗野》で偉大《/偉大》で、一言にして言えば美しい。両者の巣窟を比《くら》ぶれば、野獣の方《ほう》が人間よりもまさっている。洞窟は陋屋《あばら家》よりも上である。  マリユスが見たところのものは一つの陋屋《あばら家》であった。  マリユスは貧乏でそ《/そ》の室《+部屋》はみすぼらしかった。それでも彼の貧乏は気高く、彼の室《部屋》は清潔だった。ところが彼が今のぞき込んだ部屋は、賤しく、きたなく、臭く、不健康で、薄暗く、嫌悪すべきものだった。家具としては《は-》ただ、一脚《1脚》の藁椅子、こわれかかった一個のテーブル、数個の欠けた古壜《+フル瓶》、それから両|すみ《隅》にある名状《/名状》すべからざる二つの寝床。明りとしてはただ、蜘蛛の巣の張りつめた四枚ガラスの屋根裏の窓。その軒窓《ノキマド》からは、人の顔を幽霊の顔くらいに見せるわ《/わ》ずかな光が差し込んでいた。壁は癩病やみのような|ありさま《有様》を呈し、種々《いろいろ》の傷跡がいっぱいあって、あたかも恐ろしい病《病い》のために相好をくずされたかのようだった。じめじめした気がそこからにじみ出していた。木炭で書きなぐった卑猥な絵が見えていた。  マリユスが借りてる室《+部屋》には、とにかくどうにか煉瓦が敷いてあった。ところがその室《部屋》には、石も敷いてなければ板《/板》も張ってなかった。人々は黒く踏みよごされた古い漆喰の上をじかに歩いていた。そのでこぼこの床《床’》の上には、ほこりがこびりついて、かつて箒をあてられたこともなく、古い上靴や靴《/靴》やき《/き》たない|ぼろ《ボロ》などがあちこちに取り散らされていた。でも室《部屋》には暖炉が一つあって、そのために借料が年《ネン》に四十《ヨンジュッ》フランだったのである。暖炉の中には種々《いろいろ》なものがはいっていた、火鉢、鍋、こわれた板、釘にかかってる|ぼろ《ボロ》、鳥籠《+鳥カゴ》、灰、それから少しの火まで。二本の燃えさしの薪が、寂しげにくすぶっていた。  室《部屋》の惨状を一段と加えるものは、それが広いことだった。つき出た所や、角《カド》になってる所や、暗い穴になってる所があり、高低《コウテイ》の屋根裏や湾《/湾》や岬《/岬》があった。そのために底の知れぬ恐ろしいすみずみができて、拳のように大きな蜘蛛や、足のような大きな草鞋虫や、あるいはまた何か怪物のような人間までが、そこにうずくまっていそうだった。  寝床《ねどこ》の一つは扉の近くにあり、一つは窓の近くにあった。二つともその片端《カタハシ》は暖炉に接していて、マリユスの正面になっていた。  マリユスがのぞいてる穴の隣の|すみ《隅》には、黒い木の枠にはいった色刷《/色刷》りの版画が壁にかかっていた。その下の端には「夢」と大字《ダイジ》で書かれていた。それは眠ってる女と子供とを描《えが》いたもので、子供は女の膝の上に眠っていて、一羽の鷲が嘴に王冠をくわえて雲《/雲》の中を舞っており、女はなお眠ったまま子供の頭にそ《/そ》の王冠のかぶさらないようにと払いのけていた。遠景《エン景》には、栄光に包まれたナポレオンが、黄色い柱頭のついてる青い大きな円柱によりかかっていたが、その円柱には次の文字が刻まれていた、「マレンゴー、アウステルリッツ、イエナ、ワグラム、エロット。」  その額縁の下の方《ほう》には、長めの一種の鏡板が下に置かれて、斜めに壁に立てかけてあった。裏返された画面、おそらく向こう側に書きなぐってある額面か、あるいは壁から取りはずされてそのままはめ込むのが忘《忘れ》られた姿鏡《姿見》のようでもあった。  テーブルの上にはマリユスはペ《/ペ》ンとイ《/イ》ンキと紙《/紙》とを認めたが、その前には、六十歳ばかりの男が|すわ《座》っていた。男は背が低く、やせて、色を失い、荒々しく、狡猾で残忍《/残忍》で落《/落》ち着かない様子であって、一言にして言えば嫌悪《/嫌悪》すべき賤奴《+センド》だった。  もしラヴァーテル(訳者注◇ 人相学の開祖)がその面相を見たならば、禿鷹と代言人との混同した相《ソウ》をそ《/そ》こに見いだしたであろう。肉食の鳥と訴訟の男とは、互いに醜くし合い互《/互》いに補い合って、訴訟の男は肉食の鳥を野卑にし、肉食の鳥は訴訟の男を恐ろしくなしていた。  その男は長い半白の髯をはやしていた。女のシャツを着ていたが、そのために毛むくじゃらの胸と灰色《/灰色》の毛が逆立ってる裸の腕とが見えていた。そのシャツの下には、泥まみれのズボンが見え、また足指のはみ出た長靴も見えていた。  彼は口にパイプをくわえ、それをくゆらしていた。部屋の中にはもう一片のパンもなかったが、それでも煙草だけはあった。  彼は何か書いていたが、おそらくマリユスが先刻読《先刻’読》んだような手紙であろう。  テーブルの片端《カタハシ》には、赤っぽい古い端本《+ハホン》が一冊見えていた。書籍縦覧所の古い十二折型の体裁から見ると、それは小説の本らしかった。表紙には太い大文字《オオモジ》で次の書名が刷ってあった。「神、王、名誉、および婦人。デュクレー・デュミニル著。1814年。」  物を書きながら男は大声に口をきいていた。マリユスはその言葉を聞き取った。 「死んだからって平等ということはねえんだ! ペール・ラシェーズの墓地を見てみろ。身分のある奴らのは、金《かね》のある奴らのは、上手《ウワテ》の石の舗《+敷》いてあるアカシヤの|並み木道《並木道》にある。そこまで馬車で行けるんだ。身分の低い者、貧乏な者、不幸な者、なんかのはどうだ。みな下手《-しもて》にある。泥が膝までこようって所だ、穴の中だ、じめじめしてる所だ。早く腐るようにそんな所へ入《-い》れられるんだ。墓まいりをするったって、地の中へめ《-め》いり込むようにしなけりゃ行かれやしねえ。」  そこで彼はちょっと言葉を切って、拳でテーブルの上をたたき、歯ぎしりしながら付け加えた。 「ええ、世界中を食ってもやりてえ!」  四十歳くらいともまた百歳くらいとも見える太い女が、跣足《裸足》で暖炉のほとりにかがんでいた。  女もただ、シャツ一枚と、古《フル》ラシャのつぎのあたったメ《/メ》リヤスの裳衣《ショーイ》一枚をつけてるだけだった。粗布《アラヌノ》の前掛けが裳衣《ショーイ》の半ばを隠していた。彼女は腰を折ってかがんではいたが、背はごく高そうに見えた。亭主と比《くら》ぶれば大女だった。白髪交じりの赤茶けたきたない金髪を持っていたが、爪の平たい艶のある大きな手でそ《/そ》れを時々かき上げていた。  女のそばには、一冊《1冊》の書物が開いたまま下に置いてあった。テーブルの上のと同じ体裁で、おそらく同じ小説の続きででもあろう。  一方の寝床の上には、身体《体》の細長い色《/色》の青い小娘が腰掛けてるのが見えていた。半裸体のままで、足をぶら下げ、何も聞きも見もせずま《”ま》た生きてもいないような様子だった。  確かに、マリユスの所へやってきた娘の妹に違いない。  年齢は十一か十二くらいに見えた。しかしよく注意して見ると、十五歳にはなってるらしかった。前後大通《前後’大通》りで「ただもう一目散よ」と言ったのは、その娘だった。  彼女は長く小さいままでいてそ《/そ》れから急ににわかに伸びてゆく虚弱《/虚弱》なたちの子供だった。赤貧がそういう哀れな人間を作り出すのである。彼らには幼年時代も少女時代もない。十五歳でまだ十二歳くらいに見え、十六歳では既に二十歳《ハタチ》くらいにも見える。今日は小娘で、明日ははや一人前の女である。あたかも一生を早く終《-お》えんがために年をまたぐかのようである。  今のところまだその娘は、子供の様子をしていた。  それからまた、その住居のうちには何ら仕事をしてるさまも見えなかった。何かの機械もなく、|糸取り車《糸トリグルマ》もなく、何らの道具もなかった。ただ片すみに、怪しい鉄片が少しばかりあった。そういう陰鬱な怠慢こそ、絶望の後にきたり、死の苦しみの前に来るものである。  マリユスは《は-》しばしその惨憺たる室《部屋》の内部をながめていた。それは墓の内部よりもいっそう恐ろしいものだった。そこでは、人の魂がうごめき人《/人》の生命《イノチ》が|あえ《喘》いでるのが感じられるのだった。  屋根裏の部屋、窖、社会の最下層をは《這》いまわるあ《/あ》る貧人らがいる賤しい溝《+ドブ》、それはまったくの墓場ではなく、むしろ墓場の控え室である。しかしながら、富者らがその邸宅の入り口に最も華美をつくすがように、貧者らのすぐそばにある死も、その玄関に最大の悲惨をこらすがように思われる。  男は黙ってしまい、女は口もきかず、若い娘は息さえもしていないようだった。ただ紙の上をきしるペンの音ばかりが聞こえていた。  やがて男は書く手を休めずつぶやいた。 「愚だ、愚だ、すべて愚だ!」  ソロモンの警語(訳者注◇ 空《クウ》なるかな空《/クウ》なるかなす《/す》べて空《クウ》なり!《/》)をそのまま言いかえたその言葉に、女はため息をもらした。 「お前さん、|いらいら《イライラ》しなさんなよ。」と彼女は言った。「身体でも悪くしちゃつまらないよ、あんた。あんな人たちにだれかまわず手紙を書くなんて、うちの人もあまり気がよすぎるというものよ。」  悲惨のうちにあると、寒気のうちにいるように、人は互いに身体を近寄らせるが、心は互いに遠ざかるものである。この女はうち見たところ、心のうちにある愛情の限りをつくして亭主を愛していたらしいが、一家の上に押《お》っかぶさった恐ろしい赤貧から来る互《/互》いの日々の口論のうちに、その愛も消えうせてしまったのであろう。亭主に対してはもはや愛情の灰のみしか、彼女のうちには残っていなかった。けれども、よく世にあるとおり、やさしい呼び方だけは消えずに残っていた。彼女はいつも亭主に言った。あんた、お前さん、うちの人、などと。それも心は黙っているのにた《/た》だ口の先だけで。  男はまた書き初《始》めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【戦略と戦術】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは胸をしめつけられるような思いがして、間に合わせのそ《/そ》の一種の観測台からおりようとした。その時ある物音が聞こえたので、彼は気をひかれてそこに止《-とど》まっていた。  部屋の扉が突然《突然’》開かれたのだった。  姉娘が閾《+敷居》の所に現われた。  足には太い男の靴をはき、靴から赤い踝の所まで泥をはね上げ、身には|ぼろぼろ《ボロボロ》の古いマントを着ていた。一時間前マリユスが見た時はそのマントを着ていなかったが、それはおそらく彼の同情をひかんがために扉の所に置いてきて、出《で》しなにまた着て行ったものであろう。彼女ははいってき、後ろに扉を押し閉ざし、息を切らしてるのでちょっと立ち止まって休み、それから勝ちほこった喜悦の表情をして叫んだ。 「来るよ!」  父は目をその方《ほう》に向け、女房は顔をその方《ほう》に向けたが、妹は身動きもしなかった。 「だれが?」と父は尋ねた。 「旦那がよ。」 「あの慈善家か。」 「そうよ。」 「サン・ジャック会堂の?」 「そうよ。」 「あの爺さんか?」 「そうよ。」 「それが来るのか。」 「今あたしのあとから来るのよ。」 「確か。」 「確かよ。」 「では本当にあれが来るのか。」 「辻馬車で来るわ。」 「辻馬車で。ロスチャイルドみたいだな。」  父は立ち上がった。 「どうして確かだってことがわかるんだ。辻馬車で来るんなら、どうしてお前の方《ほう》が先にこられたんだ。少なくもうちの所だけは言っておいたろうね。廊下の一番奥の右手の戸だとよく言ったのか。まちがわなけりゃいいがな。でお《/お》前は教会堂で会ったんだね。手紙は読んでくれたのか。お前に何と言った。」 「まあまあお父さん!」と娘は言った。「何《なん》でそうせき立てるのよ。こうなんだよ。あたしが教会堂にはいると、向こうはいつもの所にいた。あたしはおじぎをしてね、手紙を渡してやったのさ。向こうはそれを読んでくれてね、私にきくのよ、『お前さんはどこに住んでいますか、』って。『旦那様、私が御案内《ご案内》しましょう、』と答えると、こういったのよ。『いや所《/所》を知らしておくれ。娘が買い物をしなければならないから、私はあとから馬車に乗って、お前さんと同じくらいに着くようにする。』それであたしは所を知らしてやったわ。家を知らせると、向こうはびっくりして、ちょっともじもじしてるようだったが、それからこう言ったの。『とにかく、私が行くから。』弥撒《+ミサ》がすんでからあたしは、あの人が娘といっしょに教会堂から出るのを見たわ、それから辻馬車《/辻馬車》に乗る所も。あたしちゃんと、廊下の一番奥の右手の戸だって言っておいたよ。」 「それでもどうしてきっと来ることがわかるんだ。」 「馬車がプティー・バンキエ街へ来るのを見たのよ。だから駆けてきたんだわ。」 「どうしてその馬車だってことがわかる?」 「ちゃんと馬車の番号を見といたんだよ。」 「何番だ。」 「四百四十番よ。」 「よしお《”お》前は悧巧《利口》な娘《子》だ。」  娘はまじまじと父を見つめ、そして足には《履》いてる靴を見せながら言った。 「悧巧《利口》な娘かも知れないわ。だがあたしはもうこんな靴はごめんよ、もうどうしたっていやよ。第一身体《第一’身体》に悪いし、その上みっともないわ。底がじめじめして、しょっちゅうぎいぎい言うのくらい、いやなものったらありはしない。跣足《裸足》の方《ほう》がよっぽどましだわ。」 「もっともだ。」と父は答えた。そのやさしい調子は娘の荒々しい言い方と妙な対照をなしていた。「だが教会堂へは靴をは《履》かなくちゃはいれねえからな。貧乏な者だって靴をは《履》かなきゃならねえ。神様の家へは跣足《裸足》では行かれねえよ。」と彼は苦々しくつけ加えた。それからまた頭を占めてる問題に返って言った。「ではきっと来るんだな?」 「すぐあたしのあとにやって来るよ。」と娘は言った。  男は身を起こした。顔には一種の輝きがあった。 「おいお前、」と彼は叫んだ、「聞いたか。今慈善家《今’慈善家》が来るんだ。火を消しておけよ。」  女房はあきれ返って身動きもしなかった。  父親は軽業師のようにすばやく、暖炉の上にあった口の欠けた壺を取り、燃えさしの薪の上に水をぶちまけた。  それから姉娘の方《ほう》へ向いて言った。 「お前は椅子の藁を抜くんだ。」  娘はそれが何のことだかわからなかった。  父は椅子をつかみ、踵で一蹴《+ひと蹴》りして、腰掛け台の藁を抜いてしまった。彼《彼’》の足はそこをつきぬけた。足を引きぬきながら、彼は娘に尋ねた。 「今日は寒いか。」 「大変寒いわ。雪が降ってるよ。」  父は窓の近くの寝床にすわってた妹娘の方《ほう》を向いて、雷のような声で怒鳴った。 「おい、寝床からおりろ、なまけ者が。いつもつくねんとしてばかりいやがる。窓ガラスでもこわせ。」  娘は震えながら寝床から飛びおりた。 「窓ガラスをこわせったら!」と父はまた言った。  娘は呆気に取られて立っていた。 「わからねえのか。」と父はくり返した。「窓ガラスを一枚こわせと言うんだ。」  娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉に従って、爪先で背伸びをし、拳をかためて窓ガラスを打った。ガラスは|こわ《壊》れて、大きな音をして下に落ちた。 「よし。」と父は言った。  彼は着実でま《”ま》た性急だった。部屋の|すみずみ《隅々》まで急いで見回した。  彼の様子はちょうど、戦争が初《始》まろうとする時に当たって、早くも最後の準備をする将軍のようだった。  それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ち上がって、ゆっくりした重々しい声で尋ねた。その言葉は凍って出て来るかのようだった。 「あんた、何をするつもりだね?」 「お前は寝床に寝ていろ。」と男は答えた。  その調子は考慮の余地を人に与えなかった。女房はそれに従って、寝床《ねどこ》の上に重々しく身を横たえた。  そのうちに、片すみですすり泣く声がした。 「何《なん》だ?」と父親は叫んだ。  妹娘《妹ムスメ》はなおすみっこにうずくまったまま、血《血’》にまみれた拳を出して見せた。窓ガラスをこわす時けがしたのである。彼女は母親の寝床のそばに行って、黙って泣いている。  こんどは母親が身を起こして叫んだ。 「まあごらんよ。何《なん》て|ばか《馬鹿》なことをさせたもんだね。ガラスなんか|こわ《壊》さしたから手を切ったんじゃないか。」 「その方《ほう》がいい。」と男は言った。「初めからそのつもりだ。」 「なんだって、その方《ほう》がいいって?」と女は言った。 「静かにしろ!」と男は答え返した。「俺は言論の自由を禁ずるんだ。」  それから彼は自分が着ていた女のシャツを引き裂いて、細い布片《布切れ》をこしらえ、それで娘の血《血’》にまみれた拳を急いで結わえた。  それがすむと、彼は満足げな目つきで自分の裂けたシャツを見おろした。 「おまけにシャツもだ。」と彼は言った。「なかなかいい具合に見える。」  凍るような風が窓ガラスに音を立てて、室《+部屋》の中に吹き込んできた。外《そと》の靄も室《部屋》にはいってきて、目に見えない指でぼーっとほ《-ほ》ごされる|ほの白《ホノジロ》い綿のようにひろがっていった。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。前日聖燭節《前日’聖燭節》の太陽で察せられた寒気が、果たしてやってきたのである。  父親はぐるりと|あた《辺》りを見回して、何か忘れたものはないかと調べてるようだった。それから、古い十能を取上《取り上》げて湿った薪《焚き木》の上に灰をかぶせ、すっかりそれを埋めてしまった。  それから立ち上がって、暖炉に寄りかかって言った。 「さあこれで慈善家を迎えることができる。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【陋屋《あばら家》の中の光】 ◇。◇。◇。◇。◇。  姉娘は父親の所へ寄ってきて、彼の手の上に自分の手を置いた。 「触ってごらん、こんなに冷《冷た》いわ。」と彼女は言った。 「なあんだ、」と父は答えた、「俺の方《ほう》がもっと冷《冷た》い。」  母親は性急に叫んだ。 「お前さんはいつでもだれよりも上だよ、苦しいことでもね。」 「黙ってろ。」と男は言った。女は一種のにらみ方をされて黙ってしまった。  陋屋《あばら家》の中は一時静《一時’静》まり返った。姉娘は平気な顔をしてマントの裾の泥を落としていた。妹の方《ほう》はなお泣き続けていた。母親は両手に娘の頭を抱えてやたらに脣をつけながら、低くささやいていた。 「いい児《子》だからね、泣くんじゃないよ、何でもないからね。泣くとまたお父さんに怒られるよ。」 「いやそうじゃねえ。」と父は叫んだ。「泣け、泣け。泣く方《ほう》がいいんだ。」  それから彼は姉娘の方《ほう》へ向いて言った。 「どうしたんだ、こないじゃねえか。こなかったらどうする。火は消す、椅子はこわす、シャツは裂く、窓ガラスはこわす、そして一文《イチモン》にもならねえんだ。」 「おまけに娘には|けが《怪我》をさしてさ!」と母親はつぶやいた。 「おい、」と父親は言った、「この屋根はべらぼうに寒いじゃねえか。もしこなかったらどうするんだ。これはまた何《-なん》て待たせやがるんだ。こうも思ってるんだろう、『なあに待たしておけ、それがあ《当》たり|まえ《前》だ!』本当にいまいましい奴らだ。締め殺してでもやったら、どんなにいい気持ちでおもしろくて溜飲が下がるかわからねえ。あの金持ちの奴らをよ、みんな残らずさ。|どい《ドイ》つもこいつも慈悲深《慈悲ぶか》そうな顔をしやがって、体裁ばかりつくりやがって、弥撒《+ミサ》には行くし、坊主には物を送ったり阿諛《+おべっか》を使ったりしやがる。そのくせ俺|たち《達》より上の者だと思い込んで、恥をかかせにやってきやがる。着物を施すなんて言いながら、四《4》スーも出せばつりがこようっていう|ぼろ《ボロ》を持ってくるし、それにまたパンとくるんだ。そんなもの俺は欲しくもねえ。皆《みんな》わ《分》からずや《屋》ばかりだ。俺が欲しいなあ金《-かね》だ。ところが金《-かね》ときては一文《イチモン》も出しやがらねえ。金《かね》をくれても飲んでしまうと言ってやがる。俺たちは酒飲みでなまけ者だと言ってやがる。そして御当人《ご当人》は! 奴らは《は-》いったい何だい。若え時には何をしてきたんだい。泥坊じゃねえか。そうででもなけりゃあ金持ちになれるわけはねえ。ええ、世間は四|すみ《隅》から持ち上げて、すぽっと投げ出しちまうがいい。みんなつぶれっちまうかも知れねえ。つぶれなくっても、皆無一文《みんな無一文》になるわけだ。それだけ儲けものだ。──だがあの慈善家のばか野郎、いったい何をしてるんだ。本当に来るのか。ことによると番地を忘れたかな。あの爺《+ジジイ》の畜生め‥‥。」  その時軽く扉をたたく音がした。男は飛んでいって扉を開き、うやうやしくお|じぎ《辞儀》をし、景慕のほほえみを浮かべて、叫んだ。 「お|はい《入》り下さい。御親切な旦那、また美しいお嬢様も、どうかお|はい《入》り下さい。」  年取った|ひとり《一人》の男と若い|ひとり《一人》の娘とが、その屋根部屋の入り口に現われた。  マリユスはまだのぞき穴の所を去っていなかった。そして今彼《今’彼》が受けた感じは、とうてい人間の言葉をもっては現わせない。  現われたのは実に彼女だった。  およそ恋をしたことのある者は「彼女」という語の二字のうちに含まれる光《/光》り輝く意味を知っているであろう。  まさしく彼女であった。マリユスは突然《突然’》眼前にひろがった光耀たる霧を通して、ほとんど彼女の姿を見分けることができないくらいだった。がそ《/そ》れはまさしく、姿を隠したあのやさしい娘だった、|六カ《6ヶ》月の間彼《あいだ彼》に輝いていたあ《/あ》の星だった、あの瞳、あの額《ヒタイ》、あの口、消え去りながら彼を暗夜のうちに残したあ《/あ》の美しい顔だった。その面影は一度見えなくなったが、今また現われたのである。  その面影は再び、この影の中に、この屋根部屋の中に、この醜い陋屋《あばら家》の中に、この恐ろしい醜悪の中に、現われきたったのである。  マリユスは我《吾》を忘れておののいた。ああま《”ま》さしく彼女である! 彼は胸の動悸のために目も|くら《眩》むほどだった。まさに涙を流《-なが》さんばかりになった。ああ、あれほど長く|さが《探》しあぐんだ後ついにめぐり会おうとは! 彼はあたかも、自分の魂を失っていたのをま《”ま》た再び見いだしたような気がした。  彼女はやはり以前のとおりで、ただ少し色が青くなってるだけだった。その妙なる顔は紫ビロードの帽子に縁取られ、その身体は黒繻子《+黒ジュス》の外套の下に隠されていた。長い上衣の下からは絹の半靴《ハングツ》にし《-し》められた小さな足が少し見えていた。  彼女はやはりルブラン氏といっしょだった。  彼女は室《+部屋》の中に数歩進《スウホ進》んで、テーブルの上にかなり大きな包みを置いた。  ジョンドレットの姉娘は、扉の後ろに退いて、そのビロードの帽子、その絹の外套、またその愛くるしい幸福な顔を、陰気な目つきでながめていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【泣かぬばかりのジョンドレット】 ◇。◇。◇。◇。◇。  部屋はきわめて薄暗かっ《-っ》たので、外から|はい《入》ってくるとちょうど窖へでもはいったような感じがする。それで新来のふたりは、あたりのぼんやりした物の形を見分けかねて、少しく躊躇しながら進んできた。しかるに家の者らは、屋根裏に住む者の常として薄暗《/薄暗》がりになれた目で、彼らの姿をすっかり見て取ることができて、じろじろうちながめていた。  ルブラン氏は親切そうなま《”ま》た悲しげな目つきで近づいてきて、ジョンドレットに言った。 「さあこの包みの中に、新しい着物と靴足袋《/靴足袋》と毛布《/毛布》とがはいっています。」 「神様のような慈悲深いお方、いろいろありがとう存じます。」とジョンドレットは頭を床にすりつけんばかりにして言った。──それから、ふたりの客があわれな部屋の内部を見回してる間《あいだ》に、彼は姉娘の耳元に身をかがめて、低く口早《クチバヤ》に言った。 「へん、俺が言ったとおりじゃねえか。|ぼろ《ボロ》だけで、金《かね》は一文《イチモン》もくれねえ。奴らは《は-》みんなそうだ。ところでこの老耄《老いぼれ》にやった手紙には、こちらの名前は何《-なん》として置いたっけな。」 「ファバントゥーよ。」と娘は答えた。 「うむ俳優《/俳優》だったな、よし。」  それを思い出したのはジョンドレットに|仕合わ《幸》せだった。ちょうどその時ルブラン氏は、彼の方《ほう》へ向いて、名前を思い出そうとしてるような様子で彼に言った。 「なるほどお気の毒です、ええと‥‥。」 「ファバントゥーと申します。」ジョンドレットは急いで答えた。 「ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな、ええ覚えています。」 「俳優をしていまして、元はよく当てたこともございますので。」  そこでジョンドレットは、この慈善家を捕《捕ら》うべき時がきたと思い込んだ。で彼は、市場香具師《+イチバ香具師》のような大げさな調子と大道乞食《/大道乞食》のような哀れな調子とをないまぜた声で叫んだ。「タルマの弟子でございます、旦那、私はタルマの弟子でございます。昔は万事都合がよろしゅうございましたが、只今では誠に不運な身の上になりました。旦那ご《/ご》らん下さいまし、パンもなければ火もございません。ただ一つの椅子は藁がぬけ落ちています。こんな天気に窓ガラスは|こわ《壊》れています。それに家内まで寝ついていまして、病気なのでございます。」 「御気《お気》の毒に。」とルブラン氏は言った。 「子供まで|けが《怪我》をしています。」とジョンドレットは言い添えた。  小娘は知らない人がきたのに紛らされて、「お嬢様」をながめながら泣きやんでいた。 「泣けっ《-っ》たら、大声に泣けよ。」とジョンドレットは彼女に低くささやいた。  と同時に彼はその|けが《怪我》した手をつねった。彼はそれらのことを手品師のような早業でやってのけた。  娘は大声を立てた。  マリユスが心のうちで「わがユルスュール」と呼んでいた美しい若い娘は、すぐにその方《ほう》へやっていった。 「まあかわいそうなお《-お》子さん!」と彼女は言った。 「お嬢様、」とジョンドレットは言い進んだ、「この血の出ている手首をごらん下さいまし。日に六スーずつもらって機械で仕事をしていますうちに、こんなことになりました。あるいは腕を切り落とさなければならないかも知れませんのです。」 「そうですか。」と老人は驚いて言った。  小さな娘はその言葉を本気に取って、いかにもうまく泣き出した。 「全くのことでございまして、実にどうも!《/》」と父親は答えた。  しばらく前からジョンドレットは、その慈善家を変な様子でじろじろながめていた。口をききながらも、何か記憶を呼び起こそうとでもするように、注意して彼の様子を探ってるらしかった。そして新来のふたりが小娘にその負傷した手のことを同情して尋ねてる間に乗じて、彼は突然、ぼんやりした元気のない様子で寝床に横たわってる女房のそばへ行き、低い声で言った。 「あの男をよく見ておけ!」  それからルブラン氏の方《ほう》を向き、哀れな状態を口説き続けた。 「旦那、ごらんのとおり私は、着る物とては家内のシャツ一枚きりでございまして、それもこの冬の最中《さなか》にすっかり破れ裂けています。着物がないので外に出られないような始末でございます。着物一枚でもありましたら、私はマルス嬢(訳者注◇ 当時名高《当時’名高》い女優)の所へでも行くのでございますが。嬢は私を知っていましてご《/ご》く贔屓にしてくれます。まだトゥール・デ・ダーム街に住んでるのでございましょうか。旦那も御存じですかどうか、私は嬢といっしょに田舎で芝居を打ったことがあります。私もいっしょに大成功でございました。で《で/》只今でもセリメーヌ(訳者注◇ モリエールの喜劇中の人物で機才ある美人──マルス嬢をさす)は、きっと私を救ってくれますでしょう。エルミールはベリゼールに物を恵んでくれますでしょう(訳者注◇ 前者はモリエールの喜劇中の人物で正直なる婦人、後者は伝説中の人物で零落せる将軍。──マルス嬢とジョンドレット自身とを指す)。ですがこの姿ではどうにもできません。その上《うえ》一文の持ち合わせもありません。まったく家内が病気なのに無一文なのでございます。娘がひどい|けが《怪我》をしているのに無一文なのでございます。家内は時々《ときどき》息がつまります。年齢のせいでもございましょうが、また神経も手伝っています。どうにかいたさなくてはなりません。また娘の方《ほう》も同様で。と申して、医者も薬も、どうして払《’払》いましょう、一文《イチモン》もありません。ですからまあわずかな《な-》お金でも跪いて押しいただくような始末でございます。芸術なんていうものもこうなってはみじめなものでございます。美しいお嬢様、それから御親切《ご親切》な旦那様、さようではございませんか。あなた方は徳と親切とを旨とされて、いつも教会堂へおいででございますが、私のかわいそうな娘もまた教会堂へお祈りに参っていますので、毎日お姿をお見かけいたしております。私は娘どもを宗教のうちに育てたいのでございます。芝居へなんぞは《は-》やりたくないと思いましたので。賤しい者の娘は《は-》えてつまずきやすいものでございます。私はつまらないことは決して聞かせません。いつも名誉だの道徳《/道徳》だの徳操《/徳操》だのを説いてきかせています。娘どもに尋ねてもみて下さいませ。まっすぐの道を歩かなければなりません。娘どもは父として私をいただいています。ちゃんとした家庭を持たぬのがはじまりで、しまいには賤しい稼ぎに身を落とすような不幸な者どもではございません。家なしの娘《ムスメ》から|だれかま《誰'構》わずの夫人となるのが常であります。ですが、ファバントゥーの一家にはそんな者は|ひとり《一人》もありません。私は娘どもをりっぱに教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神様を信ずるようにと願っております。──それから旦那、りっぱな旦那様、私どもが明日どんなことになるかは御承知でもございますまい。明日は二月四日で、いよいよの日でございます。家主《ヤヌシ》に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払《今晩はら》いをしませんと、明日は、姉娘と、私と、熱のある家内と、けがをしている子供と、私ども四人はここから外に、往来に、追い出されてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます、旦那様。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十《ロクジュッ》フランになっております。」  ジョンドレットは嘘を言った。家賃は四期で四十《ヨンジュッ》フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから|六カ《6ヶ》月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。  ルブラン氏はポケットから五フランを取り出して、それをテーブルの上に置いた。  ジョンドレットはそのわずかな暇に姉娘の耳にささやいた。 「ばかにしてる、五フランばかりでどうしろっていうのか。椅子とガラスの代にもならねえ。せめて入費《+入り目》ぐらいは置いてくがあたりまえだ。」  その間《あいだ》にルブラン氏は、青いフロックの上に着ていた大きな褐色の外套をぬいで、それを椅子の背に投げかけた。 「ファバントゥー君、」と彼は言った、「私は今五《-いま五》フランきり持ち合わせがないが、一応娘《一応むすめ》を連れて家に帰り、今晩またやってきましょう。払わなければならないというのは今晩のことですね‥‥。」  ジョンドレットの顔は不思議な色に輝いた。彼は元気よく答えた。 「さようでございます、尊い旦那様。八時には家主《ヤヌシ》の所へ持って参らなければなりません。」 「では六時にやってきます、そして六十《ロクジュッ》フラン持ってきましょう。」 「ほんとに御親切な旦那様!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。  そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。 「おい、あいつをよく見ておけよ。」  ルブラン氏は若い美しい娘の腕を取って、扉の方《ほう》へ向いた。 「では今晩また、皆さん。」と彼はい《言》った。 「六時でございますか。」とジョンドレットはき《訊》いた。 「正六時に。」  その時、椅子の上にあった外套がジョンドレットの姉娘の目に止まった。 「旦那、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」  ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。  ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。 「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」 「おお《お/》私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供《供’》さして下さいませ。」 「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」  ジョンドレットは二言《フタコト》と待たなかった。彼はすぐにその褐色の外套を引っかけた。  そしてジョンドレットが先に立って、三人は室《+部屋》を出て行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 【官営馬車賃──一時間二フラン】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室《部屋》に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女を|つか《掴》み取《と》り彼女《/彼女》をすっかり包み込《こ》んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子の外套とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星《セイ》が室《+部屋》の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑されはしなかったであろう。  若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、|けが《怪我》した娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額《ヒタイ》、その美貌、その姿、その歩き方を彼は皆知《みんな知》っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園《’園》でその数語《スウ語》を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命《イノチ》を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラ《/ラ》ッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マリユスは狂喜とともに憤怒《フンヌ》の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込《こ》んでいた。その恐ろしい陋屋《-あばら家》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇《蝦蟇》の間に蜂雀《+ホウジャク》を見るような気がした。  彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともか《-か》く不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまい《い-》ということ。で彼は戸棚から飛びおり、帽子を取った。そして扉のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌《お喋り》だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかま《”ま》たは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再《/再》び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何《なん》としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間《あいだ》に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がつ《/つ》いに彼は危険をおかして室《+部屋》を出た。  もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角《カド》を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。  マリユスはその方《ほう》へ駆けていった。大通りの角《カド》までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空《-から》のままで大通りを過ぎるのを認めた。今は《は-》もう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でま《”ま》た危険の恐れもない。  マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎ《決》めで!」  マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着《き》、シャツは胸の所の一つの襞が裂けていた。  御者は馬を止め、目をまばたき、マリユスの方《ほう》へ左《-左》の手を差し出しながら、人差し指と親指との先を静かにこすってみせた。 「何《なん》だ?」とマリユスは言った。 「先にお金をどうか。」と御者は言った。  マリユスは十六スーきり持ち合わせがないことを思い出した。 「いくらだ?」と彼は尋ねた。 「四十《ヨンジュッ》スー。」(訳者注◇ 四十《ヨンジュッ》スーは二フランに当たる) 「帰ってきてから払おう。」  御者は何の答えもせず、ただラ・パリス(訳者注◇ 素朴な小唄)の節《フシ》を口笛で吹いて、馬に鞭を当てて行ってしまった。  マリユスは茫然として馬車が行ってしまうのをながめた。持ち合わせが二十四スー足りなかったために、喜悦と幸福《/幸福》と愛《/愛》とを失ってしまい、再び暗夜のうちに陥ってしまった。せっかく目が見えてきたのにま《”ま》た見えなくなってしまった。彼は苦々しく、そして実際深《実際ふか》い遺憾の念をもって、その朝あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。その五フランさえ持っていたら、救われ、よみがえり、地獄と暗黒とから脱し、孤独や憂愁やひとり身から脱していたであろう。自分の運命の黒い糸をあ《/あ》の黄金色の美しい糸に結び合わせることができたであろう。しかるにその美しい糸口は、彼の目の前にちょっと浮かび出たばかりで、また再び断ち切れてしまったのである。彼は絶望して家に帰った。  ルブラン氏は晩に再びやって来ると約束した、そしてその時こそはうまく跡をつけてやろう、そう彼は考え得たはずである。しかし先刻夢中《先刻’夢中》になってのぞいている時《とき》、彼はその約束の言葉をもほとんど聞き取り得なかったのである。  家の階段を上ってゆこうとした時彼は、大通りの向こう側、バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所に、「慈善家」の外套にくるまったジョンドレットの姿を認めた。ジョンドレットは他の|ひとり《一人》の男に口をきいていた。その男は場末の浮浪人とも言い得るような人相の悪い奴らの|ひとり《一人》だった。そういう奴らは、曖昧な顔つきをし、怪しい独語を発し、悪いことをたくらんでいそうな風付《ふう付》きであって、普通は昼間《昼間’》眠っているもので、それから推すと夜分に仕事をしてるものらしい。  ふたりは立ちながら身動きもしないで、渦巻き降る雪の中で話をしていた。その互いに身を寄せ合ってるさまは、確かに警官の目をひくべきものだったが、マリユスはあまり注意を払わなかった。  けれども、彼はいかに心が悲しみに満たされていたとは言え、ジョンドレットが話しかけてるその場末の浮浪人にどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。何だかパンショーという男に似てるようだった。パンショーと言えば、クールフェーラックがかつて教えてくれた男で、またその付近ではかなり危険な夜盗だとして知られてる男で、別名をプランタニエも《/も》しくはビグルナイユと言っていた。その名前は前編で読者の既に見たところである。このパンショー一名《/一名》プランタニエ一名《/一名》ビグルナイユは、後に多くの刑事裁判のうちに現われてきて、ついに有名な悪党となった者であるが、当時はただ名が通ってるというだけの悪者にすぎなかった。そして今日《こんにち》では既に、盗賊強盗《盗賊’強盗》らの間に|ひとり《一人》の伝説的人物となっている。彼は王政の終わり頃《ごろ》にはもう一方の首領となっていた。夕方、まさに夜にならんとする頃、囚人らが集まって低くささやき合う時には、彼はフォルス監獄の獅子の窖(訳者注◇ ある中庭)での噂の種となった。その監獄に行くと、1843年に三十人の囚徒が白昼未曾有《白昼’未曾有》の脱獄をはかった時に使った排尿道が路地の下を通ってる所、ちょうど便所の舗石《+敷石》の上の方《ほう》の囲壁の上に、パンショーという彼の名前を読むことができた。それは彼が脱獄を企てたある時に、自ら大胆にもそこに彫りつけたものである。1832年にも、警察は既に彼に目をつけていたが、その頃彼《頃’彼》はまだ本当に舞台に立ってはいなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【惨めなる者悲《者/悲》しめる者に力を貸す】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスはゆるい足取《足ど》りで家の階段を上って行った。そして自分の室《+部屋》に|はい《入》ろうとする時《とき》、自分のあとについてくるジョンドレットの姉娘の姿を廊下に認めた。彼女は彼にとっては見るも不快の種だった。彼の五フランを持ってるのは彼女だった。今更それを返せと言ったところで仕方がない。官営馬車はもうそこにいず、またあの辻馬車は遠くに行っていた。その上《うえ》彼女は金《-かね》を返しもすまい。また先刻きたあの人たちの住所を彼女に尋ねても、たぶん|むだ《無駄》だろう。彼女はとうていそれを知ってるわけはない。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙の|あて名《宛名》は、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿《紳士どの》としてあったばかりだから。  マリユスは室《部屋》にはいって、後ろに扉を押ししめた。  しかし扉はしまらなかった。ふり返って見ると、半ば開いた扉を一つの手がささえていた。 「何《なん》だ? だれだ?」と彼は尋ねた。  それはジョンドレットの姉娘だった。 「ああ《あ/》あなたですか、」とマリユスはほとんど冷酷に言った、「またき《来》たんですか。何か用ですか。」  娘は何か考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下の陰の所に立っていた。マリユスはただ半開きの扉からその姿を見るだけだった。 「さあどうしたんです。」とマリユスは言った。「何か用があるんですか。」  娘は陰鬱な目を上げて彼を見た。その目には一種の光がぼんやりひらめいていた。彼女は彼に言った。 「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」 「私が!」とマリユスは言った。 「ええ、あなたがよ。」 「私はどうもしません。」 「いいえ。」 「本当です。」 「いいえき《/き》っとそうだわ。」 「かまわないで下さい。」  マリユスはまた扉を押しやったが、娘は《は-》なおそれをささえていた。 「ねえ、あなたはまちがってるわ。」と彼女は言った。「あなたはお金持ちでもないのに、今朝大変親切《今朝’大変’親切》にしてくれたでしょう。だから今もそうして下さいな。今朝あたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることを言って下さいな。何かあなたは心配してるわ、よく見えてよ。あたしあ《-あ》なたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役に立たなくて? あたしを使って下さいな。何もあなたの秘密を聞こうっていうんじゃないわ、そんなこと言わなくてもいいわよ。でもあたしだって役に立つこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしは父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、方々《ホウボウ》尋ね回るとか、居所《居どころ》をさがすとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあ《/あ》たしにもできてよ。ねえ、何《なん》のことだかあたしに言って下さいな。どんな人の所へだって行って話してきてあげるわ。ちょっと|だれ《誰》かが口をききさえすれば、それでよくわかってうまくいくこともあるものよ。ねえあたしを使って下さいな。」  ある考えがマリユスの頭に浮かんだ。人はおぼれかかる時には一筋の藁にもあえてすがろうとする。  彼は娘のそばに寄った。 「聞いておくれ‥‥。」と彼は娘に言った。  彼女は喜びの色に目を輝かしてそれをさえぎった。 「ええあ《/あ》たしにそう親しい言葉を使って下さいな! あたしその方《ほう》がほんとにうれしいわ。」 「ではね《ネ》、」と彼は言った、「お前はここに、あの‥‥娘といっしょにお爺さんを連れてきたんだね。」 「ええ。」 「お前はあの人たちの住所を知ってるのかい。」 「いいえ。」 「それを僕のために|さが《探》し出してくれよ。」  娘の陰鬱な目つきはうれしそうになっていたが、そこで急に曇ってきた。 「あなたが思っていたことはそんなことなの。」と彼女は尋ねた。 「ああ。」 「あの人たちを知ってるの。」 「いいや。」 「では、」と彼女は早口に言った、「あの娘《ムスメ》さんを知っていないのね、そしてこれから知り合いになりたいと言うのね。」  あの人たちというのがあの娘《ムスメ》さんと変わったことのうちには、何《なに》かしら意味ありげなま《”ま》た苦々しいものがあった。 「とにかくお前にできるかね。」とマリユスは言った。 「あの美しいお嬢さんの居所《居どころ》を聞き出してくることね?」  あの美しいお嬢さんというその言葉のうちには、なお一種の影があって、それがマリユスを|いらいら《イライラ》さした。彼は言った。 「まあ何でもいいから、あの親と娘との住所だ。なにふ《/ふ》たりの住所だけだよ。」  娘はじっと彼を見つめた。 「それであたしに何をくれるの。」 「何《なん》でも望みどおりのものを。」 「あたしの望みどおりのものを?」 「ああ。」 「ではきっと|さが《探》し出してくるわ。」  彼女は頭を下げ、そして突然ぐいと扉を引いた。扉はし《閉》まった。  マリユスは|ひとり《一人》になった。  彼は椅子の上に身を落とし、頭と両腕とを寝台の上に投げ出し、とらえ所《どころ》のない考えのうちに沈み、あたかも眩暈《+ゲンウン》でもしてるかのようだった。朝以来起《朝’以来’起》こってきたあらゆること、エンゼル(天使)の出現、その消失、あの娘《ムスメ》の今の言葉、絶望の淵のうちに漂ってきた希望の光、それらが入り乱れて彼の頭にいっぱいになっていた。  突然《突然’》彼はその夢想から激しく呼びさまされた。  彼はジョンドレットの高い|きび《厳》しい声を耳にしたのである。その言葉は彼の異常な注意をひくものだった。 「確かにそうだ、俺はそうと見て取ったんだ。」  ジョンドレットが言ってるのは|だれ《誰》のことだろう? |だれ《誰》をいったい見て取ったのか。それはルブラン氏のことなのか。「わがユルスュール」の父親のことなのか。でもジョンドレットはいったい彼を知ってるのか。自分の生涯を暗闇から救ってくれるあらゆる手掛かりは、かくも突然にま《”ま》た意外に得られようとするのか。自分の愛する者は|だれ《誰》であるか、あの若い娘はいかなる人であるか、その父親はいかなる人であるか、遂にそれがわかろうとするのか。ふたりをおおっていた濃い闇もまさに晴れようとするのか。ヴェールはまさに引き裂かれんとするのか。ああ《あ/》天よ!  彼は戸棚の上にのぼった、というよりもむ《/む》しろ飛び上がった。そして例の壁の小穴《コ穴》の近くに位置を占めた。  彼は再びジョンドレットの陋屋《あばら家》の内部を見た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【ルブラン氏の与えし五フランの用途】 ◇。◇。◇。◇。◇。  一家の様子には前と変わった所はなく、ただ女房と娘たちとが包みの中のものを取り出して、毛の靴下やシ《/シ》ャツをつけていたばかりだった。新しい二枚の毛布は二つの寝台の上にひろげられていた。  ジョンドレットは今帰《いま帰》ってきたばかりらしかった。まだ外から|はい《入》ってきたばかりの荒い息使いをしていた。ふたりの娘は暖炉のそばに床《/床’》の上にすわって、姉の方《ほう》は妹の手を結わえてやっていた。女房は暖炉のそばの寝床の上に身を投げ出して驚《/驚》いたような顔つきをしていた。ジョンドレットは室《+部屋》の中を|大また《大股》にあちこち歩き回っていた。彼は異様な目つきをしていた。  女房は亭主の前におずおずして呆気に取られてるようだったが、やがてこう言った。 「でも本当かね、確かかね。」 「確かだ。もう八年になるんだが、俺は見て取ったんだ。奴《ヤツ》だと見て取った。一目でわかった。だが、お前にはわからなかったのか。」 「ええ。」 「でも俺が言ったじゃねえか、注意しろって。全く同じ|かっこう《恰好》で、同じ顔つきで、年《とし》も大して取っては《は-》いねえ。世間にはどうしたわけのものか少しも老けねえ奴がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装《+ナリ》をしてるだけのことだ。全く不思議な畜生だが、とうとうとらえてやったというもんだ。」  彼は立ち止まって、娘らの方《ほう》へ言った。 「お前たちは出て行くんだ。──|ばか《馬鹿》だな、あれに気がつかなかったって。」  娘らは父の言うとおりに出てゆこうとして立ち上がった。  母親はつぶやいた。 「手にけがをしてるのに‥‥。」 「外《そと》の風に当たればなおる。」とジョンドレットは言った。「出て行け。」  明らかに彼にはだれも口答えができないらしい。ふたりの娘は出て行った。  ふたりが扉から出ようとした時、亭主は姉娘の腕をとらえ、一種《1種》特別な調子で言った。 「お前たちはちょうど五時にここへ帰って来るんだぞ、ふたりいっしょに。用があるんだから。」  マリユスは更に注意して耳を澄ました。  女房とふたりきりになると、ジョンドレットはまた歩き出し、黙って室《+部屋》の中を|二、三《二’三》度回った。それからしばらくの間《あいだ》、着ていた女シャツの裾をズボンの帯の中に押し込んでいた。  突然《突然’》彼は女房の方《ほう》を向き、腕を組み、そして叫んだ。 「も《もう》一つおもしろいことを聞かしてやろうか。あの娘《ムスメ》は《は-》な‥‥。」 「え、なに?」と女房は言った、「あの娘《ムスメ》が?」  マリユスはもう疑えなかった。まさしくそれは「彼女」のことに違いなかった。彼は非常な懸念で耳を傾けた。彼の全生命は耳の中に集中していた。  しかしジョンドレットは身をかがめ、女房に低い声でささやいた。それから身を起こして、声高に言い添えた。 「彼女《+あれ》だ!」 「さっきのが?」と女は言った。 「そうだ。」と亭主は言った。  およそいかなる言葉をもってしても、女房の言ったさっきのが? という語のうちにこもってたものを伝えることはできないだろう。驚駭《+キョウガイ》と憤慨《/憤慨》と憎悪《/憎悪》と憤怒《/フンヌ》とがこんがらがって一《/一》つの恐ろしい高調子《タカ調子》になって現われたのである。亭主から耳にささやかれた数語《スウ語》、それはおそらくある名前だったろうが、それを聞いたばかりでこの大女は、ぼんやりしていたのがにわかに飛び上がって、いとうべき様子から急に恐るべき様子に変わったのである。 「そんなことがあるもんかね!《/》」と彼女は叫んだ。「家《うち》の娘どもでさえ跣足《裸足》のままで長衣《ナガギヌ》もない始末じゃないかね。それに、繻子の外套、ビロードの帽子、半靴《ハングツ》、それからいろいろなもの、身につけてるものばかりでも二百フランの上になるよ。まるでお姫様だね。いいえお《/お》前さんの見違いだよ。それに第一、彼女《+あれ》は醜い顔だったが、今のはそんなに悪くもないじゃないか。全く悪い方《ほう》じゃない。彼女《+あれ》のはずはないよ。」 「いや大丈夫彼女《+大丈夫あれ》だ。今にわかる。」  その疑念の余地のない断定を聞いて、女房は大きな赤ら顔を上げて、変な表情で天井を見上げた。その時マ《/マ》リユスには、亭主よりも彼女の方《ほう》がはるかに恐ろしく思えた。それは牝虎《+メ虎》の目つきをした牝豚のようだった。 「ええッ!《/》」と彼女は言った、「うちの娘どもを気の毒そうな目で見やがったあ《/あ》のきれいな嬢さんの畜生が、乞食娘だって。ええあ《/あ》の|どて《土手》っ腹《ぱら》を蹴破ってでもやりたい!」  彼女は寝台から飛びおり、髪の毛を乱し、小鼻をふくらまし、口を半ば開け、手を後ろに伸ばして拳を握りしめ、しばらくじっと立っていた。それから、そのまま寝床の上に身を投げ出した。亭主の方《ほう》は女房に気も留《-と》めずに、室《+部屋》の中を歩き回っていた。  しばらく沈黙の後《のち》、彼は女房の方《ほう》へ近寄って、その前に立ち止まり、前の時のように両腕を組んだ。 「も《もう》一ついいことを聞かしてやろうか。」 「何《なん》だね。」と彼女は尋ねた。  彼は低い短い声で答えた。 「金蔵ができたんだ。」  女房は「気が違ったんじゃないかしら」というような目つきで、じっと彼をながめた。  彼は続けて言った。 「畜生! 今まで長い間というもの、火がありゃ腹がへるしパ《/パ》ンがありゃ凍えるってわけだった。もう貧乏は飽き飽きだ。俺もみんなも首が回らなかったんだ。笑い事じゃねえ、冗談じゃねえ、くそおもしろくもねえや、狂言もお《-お》やめだ。へった腹にかき込んで、かわいた喉につぎ込むんだ。食い散らして眠って何《-なん》にもしねえ。そろそろこちらの番になってきたんだ。くたばる前に一度は金持ちにもならなけりゃあね!」  彼は室《+部屋》をぐるりと一回《ヒト回》りしてつけ加えた。 「ほかの奴らのようにね。」 「いったい何のことだよ?」と女房は尋ねた。  彼は頭を振り、目をまばたき、何か述べ立てようとする大道香具師のように声を高めた。 「何《なん》のことかというのか、まあ聞けよ。」 「しッ!」と女房は言った。「大きな声をしなさんな。人に聞かれて悪いことだったら。」 「なあに、だれが聞くもんか。お隣か。奴さんさっき出て行ったよ。いたってあ《/あ》のお|ばか《馬鹿》さんが聞きなんかするもんか。だがさっき出かけるのを見たんだ。」  それでも一種の本能からジョンドレットは声を低めた。しかしマリユスに聞こえないほど低くはならなかった。幸いにも雪が降っていて大通《/大通》りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかり聞き取ることができた。  マリユスが聞いたのは次のような言葉だった。 「よく聞け。黄金の神様がつかまったんだ。つかまったも同じことだ。もう大丈夫だ。手はずはでき上がってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時に来る。六十《ロクジュッ》フランを持ってきやがる。どうだ、俺の口上はうめえだろう、六十《ロクジュッ》フラン、家主、二月四日。実は一期分《1期分》も借りはねえんだからな、|ばか《馬鹿》野郎だ。がと《/と》にかく六時にあいつはやって来る。ちょうど隣の先生も飯を食いに行く時分だ。ビュルゴン婆さんも町に皿洗いに行ってる時分だ。家の中には|だれ《誰》もいやしねえ。お隣は十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参《野郎/降参》するにきまってる。」 「もし降参しなかったら?」と女房は尋ねた。  ジョンドレットはすごい身振りをして言った。 「やっつけてしまうばかりさ。」  そして彼は笑い出した。  彼が笑うのを見るのは、マリユスにとっては初めてだった。その笑いは冷ややかで静かで、人を慄然たらしむるものがあった。  ジョンドレットは暖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子を取り出し、袖でその塵を払って頭にかぶった。 「ちょっと出かけるぜ。」と彼は言った。「まだ会って置かなくちゃならねえ者もいる。みないい奴《ヤツ》ばかりだ。まあ仕上げを御覧《+ごロウ》じろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ。」  そして両手をズボンの|隠し《ポケット》につっ込み、ちょっと考えていたが、それから叫んだ。 「あいつが俺に気づかなかったのは、もっけの|仕合わ《幸》せというものだ。向こうでも気がついたらもうき《来》やしねえ。危うく取りもらす所だった。この髯のおかげで助かったんだ。このおかしな頤髯《アゴヒゲ》でな、このかわいいち《/ち》ょっとおもしろい頤髯《アゴヒゲ》でな。」  そして彼はまた笑い出した。  彼は窓の所へ行った。雪はなお降り続いていて灰色《/灰色》の空を隠していた。 「何《なん》てひどい天気だ!《/》」と彼は言った。  それから外套の襟を合わした。 「こいつあ少し大きすぎる。」そしてつけ加えた。「だがまあいいや。あいつが置いてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へも出られねえし、何もかも手違いになる所だった。世の中の事ってど《/ど》うかこうかうまくゆくもんだ。」  そして帽子を眼深に引き下げながら、彼は出て行った。  戸口から彼が|五、六歩《ゴロッポ》したかどうかと思われるくらいの時、扉は再び開いて、その間《あいだ》から彼の荒々しいそ《/そ》してずるそうな顔が現われた。 「忘れていた。」と彼は言った。「火鉢に炭をおこしておくんだぜ。」  そして彼は女房の前掛けの中に、「慈善家」がくれた五フラン貨幣を投げ込んだ。 「火鉢に炭を?」女房は尋ねた。 「そうだ。」 「幾桝ばかり?」 「二桝もありゃあいい。」 「それだけなら三十《サンジュッ》スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。」 「そんなことをしちゃいけねえ。」 「なぜさ?」 「大事な五フランを|むだ《無駄》にしちゃいけねえ。」 「なぜだよ?」 「俺の方《ほう》でまだ買うものがあるんだ。」 「何を?」 「ちょっとしたものだ。」 「どれくらいかかるんだよ。」 「どこか近くに金物屋があったね。」 「ムーフタール街にあるよ。」 「そうだ、町角の所に、わかってる。」 「でもその買い物にいくらかかるんだよ。」 「五十《ゴジュッ》スーか‥‥まあ三フランだ。」 「ではごちそうの代《ダイ》はあまり残らないね。」 「今日は食物《+食い物》どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。」 「そう、それでいいよ、お前さん。」  女房のその言葉を聞いて、ジョンドレットは扉をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって急《/急》いで階段をおりてゆくのを、マリユスは聞いた。  その時、サン・メダール会堂で一時の鐘が鳴った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【ひそかに語り合う者は悪人の類《類い》ならん】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは夢想家ではあったが、既に言ったとおり、また生来堅固《生来’堅固》な勇敢な男であった。孤独な瞑想の習慣は、彼のうちに同情と哀憐との念を深めながら、おそらく激昂《ゲッコウ》する力を減じたであろうが、憤慨の力は少しもそこなわれずにいた。彼はバラモン教徒のような慈悲心と法官《/法官》のような峻厳さとを持っていた。蛙をあわれむとともに蛇《/蛇》を踏みつぶすだけの心を持っていた。しかるに彼が今のぞき込んだ所は、蝮の穴であった。彼が見た所のものは、怪物の巣であった。 「かかる悪人どもは踏みつぶさなければいけない。」と彼は自ら言った。  解決されるかと思っていた謎は一つも解かれなかった。否《否/》かえってすべては|ますます《益々’》不可解になった。リュクサンブールの美しい娘についてもま《”ま》たルブラン氏と呼んでいる男についても、ジョンドレットが彼らを知っているということのほかには何らの得る所もなかった。そして耳にした怪しい言葉を通してよ《/よ》うやく彼にはっきりわかったことは、ただ一事にすぎなかった。すなわち、ある待ち伏せが、ひそかなし《/し》かも恐ろしい待ち伏せが、今計画《今’計画》されているということ。ふたりとも、父親の方《ほう》は確かに、娘の方《ほう》もたぶん、大《ダイ》なる危険に遭遇せんとしていること。自分はふたりを救わなければならないこと。ジョンドレットの者らの忌むべき策略の裏をかき、その蜘蛛の巣を破ってしまわなければならないこと。  彼はちょっとジョンドレットの女房に目を注いだ。彼女は片すみから古い鉄の火鉢を引き出し、また鉄屑の中に何か|さが《探》していた。  彼は音を立てないよ《よ-》うに注意してできるだけ静かに戸棚からおりた。  今なされつつある事柄に対して恐怖の念をいだきながらも、またジョンドレット一家の者らに対して嫌悪の感をいだきながらも、《:、》彼は自分の愛する人のために力を尽くすようになったと考えて、一種《1種》の喜びを感じた。  しかしどうしたらいいものか? ねらわれてるふたりに知らせると言ったところで、ふたりをどこに見いだすことができよう。マリユスはその住所を知らなかった。ふたりはちょっと彼の目の前に現われて、それから再びパリーの深い大きな淵の中に沈んでしまったのである。あるいは晩の六時に、ルブラン氏がやって来る時に、扉の所に待っていて、罠のあることを知らせるとしようか。しかしジョンドレットとその仲間の者らは、自分が待ち受けてるのを見つけるに違いない。あたりには人もいないし、向こうの方《ほう》が強いので、彼らは何とでもして自分を捕えてしまうか、または自分を遠ざけてしまうだろう。そうすれば自分が助けようと思ってる人もそれで破滅だ。ちょうど一時が鳴ったばかりである。待ち伏せは六時にすっかりでき上がるはずだ。それまでには五時間の余裕がある。  なすべき道は《は-》ただ一つきりなかった。  彼はいい方《ほう》の服をつけ、絹の襟巻きを結び、帽子を取り、ちょうど苔の上を跣足《裸足》で歩くように少《/少》しも音を立てないで出て行った。  その上《うえ》幸いにも、ジョンドレットの女房はなお続けて鉄屑の中をかき回していた。  外に出ると彼は、すぐにプティー・バンキエ街の方へ行った。  その街路の中ほどに、ある所はまたげそうな低い壁があって、向こうは荒れ地になっていた。そこを通る時分には、彼はすっかり考え込んでゆ《/ゆ》っくり足を運んでいた。そして雪のために足音もしなかった。その時突然彼《とき突然’彼》は、すぐ近くに人の話し声を聞いた。ふり返ってみると、街路はひっそりして、人影もなく、まっ昼間《ピルマ》であった。しかもはっきり人声が聞こえていた。  彼はふと思いついてそばの壁の上から向こうをのぞいてみた。  果たしてそこには、ふたりの男が壁に背を向け、雪の上にかがんで、低く語り合っていた。  ふたりとも彼の見知らぬ顔だった。|ひとり《一人》はだぶだぶの上衣をつけた髯のある男で、|もひとり《もう一人》は|ぼろ《ボロ》をまとった髪の長い男だった。髯のある方《ほう》は丸いギリシャ帽をかぶっていたが、|もひとり《もう一人》は何もかぶらず、髪の上に雪が積っていた。  ふたりの上に頭をつき出して、マリユスはその言葉をよく聞き取ることができた。  長髪の男は相手を肱でつっ突いて言った。 「パトロン・ミネットの力を借りれば、しくじることはねえ。」 「そうかな。」と髯の男は言った。  長髪の方《ほう》は続けた。 「|ひとり《一人》に五百弾でいいだろう。もしどじっても、五年か六年、まあ長くて十年だ。」  相手はやや躊躇して、ギリシャ帽の下を指でかきながら答えた。 「そっちは実際だからな。そんな目にあっちゃあ。」 「大丈夫し《/し》くじりっこはねえ。」と長髪の方《ほう》は言った。「爺《+ト》っつぁんの小馬車に馬をつけとくんだから。」  それから彼らはゲイテ座で前日見た芝居のことを話し初《始》めた。  マリユスは歩き出した。  不思議にも壁の後ろに隠れ雪《/雪》の中にうずくまってるそ《-そ》れらふたりの男の曖昧な話は、何だかジョンドレットの恐ろしい計画に関係があるらしく、マリユスには思われてならなかった。どうしてもあのことらしかった。  彼はサン・マルソー郭外の方《ほう》へ行って、見当たり次第の店で、警察部長の居所《居どころ》を尋ねた。  ポントアーズ街十四番地というのを教えられた。  マリユスはその方《ほう》へ行った。  パン屋の前を通った時、晩の食事はできないかも知れないと思って、二スーのパンを買い、それを食べた。  道すがら彼は天に感謝した。彼は考えた。今朝ジ《/ジ》ョンドレットの娘に五フランやっていなかったら、自分はルブラン氏の馬車について行って、その結果何《結果-なん》にも知らなかったに違いない、《:、》そしてジョンドレット一家の者の待ち伏せを妨《さまた》ぐる《-る》ものもなく、ルブラン氏はそれで破滅になり、またおそらく娘もともに破滅の淵に陥ってしまったであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十四章】 【警官二個《警官/二個》の拳骨を弁護士に与《-あた》う】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ポントアーズ街十四番地にきて、マリユスはその二階に上がり、警察部長を尋ねた。 「部長さんはお留守です。」と|ひとり《一人》の小僧が言った。「ですが代理の警視はおられます。お会いになりますか。急ぎの用ですか。」 「そうです。」とマリユスは言った。  小僧は彼を部長室に案内した。中格子《+中ゴーシ》の後ろに、ストーブに身を寄せ、|三重まわし《3重マワシ》の大きなマントの袖を両手で上げている、背の高い男が|ひとり《一人》そこに立っていた。四角張った顔、脣の薄い引き締まった口《’口》、荒々しい半白の濃い頬鬚《+頬髭》、ふところの中まで見通すような目つき、それは透徹する目ではなくて、探索する目と言う方《ほう》が適当だった。  その男は獰猛さと恐ろしさとにおいてはあ《/あ》えてジョンドレットに劣りはしなかった。番犬も時とすると、狼に劣らず出会《/出会》った者に不安を与えることがある。 「何《なん》の用かね。」と彼はぞんざいな言葉でマリユスに尋ねた。 「部長さんは?」 「不在だ。私《儂》がその代理をしている。」 「ごく秘密な事件ですが。」 「話してみたまえ。」 「そしてごく急な事件です。」 「では早く話すがいい。」  その男は平静でま《”ま》た性急であって、人をこわがらせま《”ま》た同時に安心させる点を持っていた。恐怖と信頼とを与えるのだった。マリユスは彼にできごとを語った。──ただ顔を知ってるばかりの人ではあるが、その人が今夜、待ち伏せに会うことになっている。──自分はマリユス・ポンメルシーという弁護士であるが、自分のいる室《+部屋》の隣が悪漢の巣窟で、壁越しにその計画をすっかり聞き取った。──罠を張った悪漢はジョンドレットとかいう男である。──共犯者もいるらしい。たぶん場末の浮浪人どもで、なかんずくパ《/パ》ンショー一名《/一名》プランタニエ一名《/一名》ビグルナイユという男がいる。──ジョンドレットの娘どもが見張りをするだろう。──ねらわれてる人は、その名前もわからないので、前もって知らせる方法もない。──そしてそれらのことは晩の六時に、オピタル大通りの最も寂しい所、五十・《’》五十二番地の家で、実行されることになっている。  その番地を聞いて、警視は顔を上げ、冷ややかに言った。 「では廊下の一番奥の室《+部屋》だろう。」 「そうです。」とマリユスは言った、そしてつけ加えた。「その家を御存じですか。」  警視はちょっと黙っていたが、それから靴の踵《カカト》をストーブの火口《火ぐち》で暖めながら答えた。 「そうかも知れないね。」  それから、マリユスにというよりもむ《/む》しろその襟飾りにでも口をきいてるように目を下げて、半ば口《’口》の中で続けて言った。 「パトロン・ミネットが多少関係してるに違いない。」  その言葉にマリユスは驚いた。 「パトロン・ミネット、」と彼は言った、「ほんとに私はそういう言葉を耳にしました。」  そして彼は、プティー・バンキエ街の壁の後ろで、長髪の男と髯《/髯》の男とが雪の中で話していたことを、警視に語った。  警視はつぶやいた。 「髪の長い男はブリュジョンに違いない。髯のある方《ほう》は、ドゥミ・リヤール一名《/一名》ドゥー・ミリヤールに違いない。」  彼はまた眼瞼《目蓋》を下げて、考え込んだ。 「その爺《+ト》っつぁんというのも、およそ見当はついてる。ああ《あ/》マントを焦がしてしまった。いつもストーブに火を入れすぎるんだ。五十・《’》五十二番地と。もとのゴルボーの持ち家だな。」  それから彼はマリユスをながめた。 「君が見たのは、その髯の男と髪《/髪》の長い男きりかね。」 「それとパンショーです。」 「その辺をぶらついてるお洒落の小男を見なかったかね。」 「見ません。」 「では植物園にいる象のような大男は?」 「見ません。」 「では昔の手品師のような様子をした悪者は?」 「見ません。」 「四番目に‥‥いやこ《/こ》いつはだれの目にもはいらない、仲間も手下も使われてる奴も、彼を見たことがないんだから、君が見つけなかったからって怪しむに足りん。」 「見ません。いったいそいつらは何者ですか。」とマリユスは尋ねた。  警視は言った。 「その上まだ奴らの出る時ではないからな。」  彼はまたちょっと口《’口》をつぐんだが、やがて言った。 「五十・《’》五十二番地と。家は知ってる。中に隠れようとすれば、役者どもにきっと見つかる。そうすればただ芝居をやらずに逃げるばかりだ。どうも皆《ミンナ》はにかみやばかりで、見物人をいやがるからな。そりゃあいかん、いかん。少し奴らに歌わしたり踊らしたりしたいんだがな。」  そんな独語を言い終わって、彼はマ《マ-》リユスの方《ほう》へ向き、じっとその顔を見ながら尋ねた。 「君はこわいかね。」 「何がです?」とマリユスは言った。 「その男どもが。」 「まああ《/あ》なたに対してと同じくらいなものです。」とマリユスはぶしつけに答えた。その警官が自分に向かってぞんざいな言葉ばかり使ってるのを、彼はようやく気づき初めていた。  警視はなお|じっ《ジッ》とマリユスを見つめ、一種《1種》のおごそかな調子で言った。 「君はなかなか勇気のあるらしい正直者《/正直者》らしい口のきき方をする。勇気は罪悪を恐れず、正直は官憲を恐れずだ。」  マリユスはその言葉をさえぎった。 「それはとにかく、どうなさるつもりです。」  警視はただこう答えた。 「あの家に室《+部屋》を借りてる者は皆《ミンナ》、夜分に帰ってゆくための合い鍵を持っている。君も一つ持ってるはずだね。」 「ええ。」とマリユスは言った。 「今そこに持ってるかね。」 「ええ。」 「それを私《儂》にくれ。」と警視は言った。  マリユスはチョッキの|隠し《ポケット》から鍵を取って、それを警視に渡し、そして言い添えた。 「ちょっと申しておきますが、人数を引き連れてこられなければいけません。」  警視はマリユスに一瞥を与えた。ヴォルテールがもし田舎出のアカデミー会員から音韻《/音韻》の注意でも受けたら、やはりそんな一瞥を与えたことだろう。そして警視は、太い両手をマントの大きな両のポケットにずぶりとつっ込み、普通は拳骨と言わるる鋼鉄《/鋼鉄》の小さなピストルを二つ取り出した。彼はそれをマリユスに差し出しながら、口早《口バヤ》に強く言った。 「これを持って、家に帰って、室《+部屋》に隠れていたまえ。不在らしく見せかけなくちゃいかん。二つとも弾《-たま》がこもってる。一梃《+一丁》に二発ずつだ。よく気をつけて見ているんだ。壁に穴があると言ったね。奴らがやってきたら、しばらく勝手にさしておくがいい。そしてここだと思ったら、手を下す時だと思ったら、ピストルを打つんだ。早すぎてはいかん。それからは私《儂》の仕事だ。ピストルを打つのは、空へでも、天井へでも、どこでもかまわん。ただ早くしすぎないことだ。いよいよ仕事が初まるまで待つんだ。君は弁護士と言ったね、それくらいのことはわかってるだろう。」  マリユスは二梃《二丁》のピストルを取って、上衣のわきのポケットの中に入れた。 「それじゃふくらんで外から見える。」と警視は言った。「それよりズボンの両方の|隠し《ポケット》に入《-い》れるがいい。」  マリユスはピストルを各、ズボンの両の|隠し《ポケット》に入れた。 「もうこれで一刻もぐずぐずしておれない。」と警視は言った。「今何時《今’ナンジ》だ? 二時半か。それは七時だったな。」 「六時です。」とマリユスは言った。 「まだ充分時間《充分’時間》はある、が余るほどはない。」と警視は言った。「今言《今’言》ったことを少しでも忘れてはいかん。ぽーんとピストルを一つ打つんだぞ。」 「大丈夫です。」とマリユスは答えた。  そしてマリユスが出て行こうとして扉の|とっ手《取っ手》に手をかけた時、警視は彼に呼びかけた。 「それから、それまでに何か私《儂》に用ができたら、ここに自分で来るか使《/使》いをよこすかしたまえ、警視のジャヴェルと言ってくればわかる。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十五章】 【ジョンドレット買《/買》い物をなす】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それから少したって、三時ごろ、クールフェーラックがボシュエと連れ立って、偶然ム《/ム》ーフタール街を通った。雪は|ますます《益々’》降りしきって、空間を満たしていた。ボシュエはクールフェーラックにこんなことを言っていた。 「こう綿《ワタ》をちぎったような雪が落ちて来るのを見ると、何だか天《/天》には白い蝶の疫病でも流行してるらしく思えるね。」  と突然ボシュエは、変な様子をして市門の方《ほう》へ街路《/街路》を歩いて行くマリユ《ユ-》スの姿を認めた。 「おや、」とボシュエは叫んだ、「マリユスだ。」 「僕も知ってる。」とクールフェーラックは言った。「だが言葉をかけるのは《は-》よそうや。」 「なぜだ。」 「気を取られてるんだ。」 「何に?」 「あの顔つきを見たらわかるじゃないか。」 「顔つきって?」 「だれかの跡をつけてるような様子だ。」 「なるほどそうだ。」とボシュエは言った。 「まああの目つきを見てみたまい。」とクールフェーラックはまた言った。 「だがいったいだれの跡をつけてるんだろう。」 「いずれか《/か》わいい者に違いない。夢中になってるんだ。」 「だがね、」とボシュエは注意した、「街路にはかわいいのか《「か」》の字も見えないじゃないか。女なんて|ひとり《一人》もいやしない。」  クールフェーラックはよくながめた、そして叫んだ。 「男の跡をつけてるんだ。」  実際、後ろからでも灰色の髯がよく見えてる|ひとり《一人》の男が帽子をかぶって、マリユスから二十歩ばかり先に歩いていた。  その男は大きすぎて身体によく合わないま《真》新しい外套をつけ、泥《ドロ》にまみれてる|ぼろぼろ《ボロボロ》になった|ひど《酷》いズボンをはいていた。  ボシュエは笑い出した。 「あの男はいったい何《-なん》だい。」 「あれか、」とクールフェーラックは言った、「まあ詩人だね。詩人って奴《ヤツ》はよく、兎の皮売りみたいなズボンをは《履》き、上院議員みたいな外套を着てるものだ。」 「マリユスがどこへ行くか見てやろうよ、」とボシュエは言った、「あの男がどこへ行くか見てやろうよ。ふたりの跡をつけてやろう、おい。」 「ボシュエ!」とクールフェーラックは叫んだ、「エーグル・ド・モー(モーの鷲)、なるほど君はすてきな獣だね。男の跡をつけてる男を、また追っかけて行こうというんだからな。」  それで彼らは道を引き返した。  マリユスは実際、ムーフタール街をジョンドレットが通るのを見て、その様子をうかがっていたのである。  ジョンドレットは後ろから既に目をつけられていようとは夢にも思わないで、まっすぐに歩いて行った。  彼はムーフタール街を離れた。マリユスはグラシユーズ街の最も下等な家の一つに彼が|はい《入》るのを見た。十五分ばかりして彼はそこから出てきて、それからまたムーフタール街に戻ってきた。当時ピエール・ロンバール街の角《カド》にあった金物屋に彼は足を止めた。それからしばらくしてマリユスは、彼がその店から出て来るのを見た。彼は白木の柄《エ》のついた|冷や《冷》りとするような大きな鑿《+タガネ》を、外套の下に隠し持っていた。プティー・ジャンティイー街の端まで行って彼は左に曲がり、足早にプティー・バンキエ街へ|はい《入》った。日は暮れようとしていた。ちょっとや《止》んだ雪はまた降り出していた。マリユスは同じプティー・バンキエ街の角《カド》に身を潜めた。街路にはやはり人の姿も見えなかった。マリユスはジョンドレットの跡をつけてその街路に出るのをやめた。それはマリユスにとって幸いだった。なぜなら、彼が先刻長髪《先刻’長髪》の男と髯の男との話を聞いた低《/低》い壁の所まで行くと、ジョンドレットはふり返ってながめ、跡をつけてる者も見《/見》てる者もないのを確かめ、それから壁をまたぎ、姿を消してしまったのである。  その壁に囲まれた荒れ地は、あまり評判のよくない古《/古》い貸し馬車屋の後庭に続いていた。その馬車屋はかつて破産したことがあったが、まだ小屋《コヤ》の中には|四、五台《シゴ台》の古馬車《フル馬車》を持っていた。  ジョンドレットの不在の間に帰ってゆく方《ほう》が悧巧《利口》だとマリユスは考えた。その上も《/も》うだいぶ遅くもなっていた。毎晩早くから、ビュルゴン婆さんは町に皿洗いに出かけて、いつも戸を閉ざすことにしていたので、家の戸はきまって暮れ方には締まりがしてあった。ところがマリユスは鍵を警視に渡してしまった。それで急いで帰る必要があった。  夕方になっていた。夜は刻々に迫っていた。地平線の上にもま《”ま》た広い大空のうちにも、太陽に照らされた所はただ一カ所あるきりだった、すなわち月が。  月はサルペートリエール救済院の低い丸屋根のかなたに、赤く上りかけていた。  マリユスは|大また《大股》に歩いて五十・《’》五十二番地へ帰ってきた。その時まだ戸は開いていた。彼は爪先だって階段を上り、廊下の壁伝いに自分の室《+部屋》にすべり込んだ。読者の記憶するとおり、廊下の両側は屋根部屋で、その頃皆《頃みんな》あ《空》いていて貸し間《マ》になっていた。ビュルゴン婆さんはいつもそれらの扉をあけ放しにしていた。マリユスはそれらの扉の一つの前を通る時《とき》、その空室の中にじっと動かない四つの人の顔が、軒窓《ノキマド》から落ちる昼のなごりの明るみにぼ《/ぼ》んやり|ほの白《ホノジロ》く浮き出してるのを、ちらと見たような気がした。しかし彼は自分の方《ほう》で人に見られたくなかったので、それを見届けようともしなかった。彼はついに、人に見られもせずま《”ま》た音も立てずに自分の室《部屋》にはいり込んだ。ちょうど危うい時だった。ビュルゴン婆さんが出かけて家《/家》の戸がしまる音を、それから間もなく彼は聞いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十六章】 【1832年流行のイギリス調の小唄】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは寝台に腰掛けた。五時半ごろだった。事の起こるまでにはただ三十分を余すのみだった。あたかも暗闇の中で時計の秒を刻む音をきくように、彼は自分の動脈の音《-おと》を聞いた。そしてひそかに到来しつつある二つの事がらを思いやった、一方から歩を進めつつある罪悪と他方《/他方》からきつつある法権とを。彼は恐れてはいなかった、しかしまさに起こらんとする事を考えてはあ《/あ》る戦慄を禁じ得なかった。意外のできごとに突然《突然’》襲われた人がよく感ずるように彼《/彼》にもその一日はまったく夢のように思われた。そして何か悪夢につかれてるのでないことを確かめるために、彼はズボンの|隠し《ポケット》の中で鋼鉄《/鋼鉄》の二梃《二丁》のピストルの冷ややかさに手を触れてみなければならなかった。  雪はもうやんでいた。月は|しだい《次第》に冴えてきて靄から脱し、その光は地に積った雪の白い反映と交じって、室《+部屋》の中に暁のような明るみを与えた。  ジョンドレットの室《部屋》の中には明りがあった。マリユスは壁の穴が血のように赤い光に輝いてるのを見た。  その光はどうしても蝋燭のものらしくは思えなかった。そしてまたジョンドレットの室《部屋》の中には、何ら動くものもなく、だれも身動きもせず口《/口》もきかず、呼吸の音さえ聞こえず、氷のような深い沈黙に満たされていて、もしその光がなかったら、墓場かとも思われるほどだった。  マリユスは静かに靴をぬいで、それを寝台の下に押し込んだ。  数分過ぎ去った。マリユスは表《-おもて》の戸が|ぎー《ギー》と開く音を聞いた。重い早《/早》い足音が階段を上ってき、廊下を通っていって、それから隣の室《+部屋》の掛け金《がね》が音高く|はず《外》された。それはジョンドレットが帰ってきたのだった。  すぐに多くの声が聞こえ出した。一家の者は皆室《-みんな部屋》の中にいた。ちょうど狼の子が親狼の不在中黙《不在中’黙》ってるように、一家の者は主人の不在中黙《不在中’黙》っていたまでである。 「俺だ。」と主人は言った。 「お帰んなさい。」と娘らは変な声を立てた。 「どうだったね?」と母親は言った。 「この上なしだ。」とジョンドレットは答えた。「だがばかに足が冷てえ。うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」 「すっかり出かけるばかりだよ。」 「言っといた事を忘れちゃいけねえ。うまくやるんだぜ。」 「大丈夫だよ。」 「と言うのは《は-》な‥‥。」とジョンドレットは言いかけて、皆まで言わずにしまった。  マリユスは彼が何か重いものをテーブルの上に置く音を聞いた。たぶん買ってきた鑿《+タガネ》ででもあったろう。 「ところで、」とジョンドレットは言った、「みな何か食ったか。」 「ああ、」と母親は言った、「大きい馬鈴薯を三つと塩を少し。ちょうど火があるから焼いたんだよ。」 「よし、」とジョンドレットは言った、「明日はごちそうを食いに連れてってやる。家鴨の料理とそれからいろいろなものがついてさ、まるでシャール十世の御殿の晩餐のようにな。すっかりよくなるんだ。」  それから声を低めて彼はつけ加えた。 「鼠罠の口はあいてるし、猫どもももうきている。」  そしてなおいっそう声を低めてまた言った。 「それを火の中に入れて置け。」  マリユスは火箸かま《”ま》たは何か鉄器で炭をかき回す音《音’》を聞いた。ジョンドレットは続けて言った。 「音のしねえように扉の肱金《ヒジガネ》には蝋を引いて置いたか。」 「ああ。」と母親は答えた。 「今何時だ。」 「もうすぐに六時だろう。サン・メダールでさっき半《’半》が打ったんだから。」 「よし。」とジョンドレットは言った。「娘どもは見張りをしなくちゃいけねえ。おい、ふたりともこっちへきてよく聞きな。」  しばらく何かささやく声がした。  ジョンドレットはまた高い声をあげた。 「ビュルゴン婆さんは出て行ったか。」 「ああ。」と母親は言った。 「隣にもだれもいねえんだな。」 「一日留守だったよ、それに今は食事の時分じゃないか。」 「確かだね。」 「確かだよ。」 「まあとにかく、」とジョンドレットは言った、「いるかどうか見に行ったってさしつかえねえ。おい娘、蝋燭を持って見てきな。」  マリユスは四《-よ》つばいになって、こっそり寝台の下にはいり込んだ。  彼が隠れ終わるか終わらないうちに、すぐ扉のすき間から光が見えた。 「お父さん、」という声がした、「出かけてるよ。」  それは姉娘の声だった。 「中に|はい《入》ったのか。」と父親が尋ねた。 「いいえ、」と娘は答えた、「でも鍵が扉についてるから、きっと出かけたんだよ。」  父親は叫んだ。 「でもまあはいってみろ。」  扉が開いた。マリユスはジョンドレットの姉娘が手に蝋燭を持ってはいって来るのを見た。その様子は朝と少しも変わっていなかったが、ただ蝋燭の光で見るといっそう恐ろしく見えた。  彼女は寝台の方《ほう》へ|まっす《真っ直》ぐに進んできた。マリユスはその間《あいだ/》言葉にもつくし難いほど心配した。しかし彼女がやってきたのは、寝台の側に壁《/壁》に掛かってる鏡の所へであった。彼女は爪先で伸び上がって、鏡の中をのぞいた。隣の室《部屋》には鉄の道具を動かす音が聞こえていた。  娘は手の平で髪をなでつけ、鏡に向かってほほえみながら、その気味《キミ》の悪いつぶれた声で歌った。 ◇。◇。 【われらの恋は七日なりけり。】 【ああ《あ/》たのしみのいかに短《-みじか》き、】 【八日の愛も難《カタ》かりければ!】 【恋は|永え《+-トコシエ》なるべきに、】 【恋は|永え《+-トコシエ》なるべきに!】 ◇。◇。  その間《あいだ》マリユスは震えていた。そして自分の荒い息使いはきっと彼女の耳につくに違いないという気がした。  娘は窓の方《ほう》へ行って、外を見ながら、いつもの半ば気|ちが《違》いじみた様子で声高に言った。 「パリーも白いシャツをつけた所は何《/ナン》て醜いだろう!」  そしてまた鏡の所へ帰ってきて、自分の顔をま《真》っ正面から映してみたり少《/少》し横向きに映してみたりして、様子をつくっていた。 「おい、」と父親が叫んだ、「何をしてるんだ。」 「寝台の下や道具の下を見てるのよ。」と彼女はやはり髪を直しながら答えた。「だれもいやしないわ。」 「ばか!」と父親はどなった。「早く帰ってこい。ぐずぐずしてるんじゃねえ。」 「今行くよ、今すぐ。」と彼女は言った。「ほんとにちょっとの暇もありゃあしない。」  そして小声に歌った。 ◇。◇。  誉れを求めて君去《君’去》りゆかば、  何処《+いずこ》までもと我追《吾お》いゆかん。 ◇。◇。  彼女は最後に鏡をじろりと見て、扉を後ろにし《閉》めながら出て行った。  しばらくするとマリユスは、廊下にふたりの娘の跣足《裸足》の足音を聞いた。そしてまた、彼女らに呼びかけてるジョンドレットの声を聞いた。 「よく気をつけるんだぞ。|ひとり《一人》は市門の方《ほう》で、|ひとり《一人》はプティー・バンキエ街の角《カド》だ。ちょっとでも家の戸口から目を離してはいけねえ。何か見えたらすぐにやってこい、大急ぎで飛んでくるんだ。|はい《入》る時の鍵は持ってるね。」  姉の方《ほう》はつぶやいた。 「雪の中に跣足《裸足》で番をさせるなんて!」 「明日は|まっか《真っ赤》な絹靴を買ってやらあね。」と父親は言った。  ふたりの娘は階段をおりていった。そしてすぐに下の戸のしまる響きが聞こえたのでみると、ふたりは外に出て行ったらしい。  家の中にいるのはもう、マリユスとジョンドレット夫婦ばかりだった。それからまたあるいは、空室の扉の向こうの薄暗がりの中にマ《/マ》リユスがちらと見た怪しい人々ばかりだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十七章】 【マリユスが与えし五フランの用途】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは今や例の観測台の位置につくべき時だと思った。そして青年の身軽さをもってすぐに壁の穴の所へ立った。  彼はのぞいた。  ジョンドレットの部屋の内部は不思議な光景を呈していた。マリユスが先刻見た怪しい光の源もわかった。緑青のついた燭台に一本《/一本》の蝋燭がともっていたが、室《+部屋》を実際に照らしてるのはそ《/そ》れではなかった。暖炉の中に置かれて炭《スミ》がいっぱいおこってるか《/か》なり大きな鉄火ばちから、室《部屋》の中全体が照り返されてるようだった。それはジョンドレットの女房が午前から用意しておいたものである。炭は盛んにおこって、火鉢は|まっか《真っ赤》になっており、青い炎が立ちのぼって、火の中に差し込まれて赤くなってる鑿《+タガネ》の形をはっきり浮き出さしていた。その鑿《+タガネ》はジョンドレットがピエール・ロンバール街で買ったものである。扉のそばの片すみには、何《なに》か特別の用に当てるためのものらしい品《シナ》が二処《+ふた所》に積んであって、一つは鉄の類《類い》らしく、一つは繩の類《類い》らしかった。すべてそういうありさまは、何が計画されてるかを知らない者には、至って気味悪くも感ぜられ、また同時に何でもないことのようにも感ぜられたろう。そして火に照らされてる室《部屋》の中は、地獄の入り口というよりもむ《/む》しろ鉄工場《テツ工場》のようだった。しかしその光の中にいるジョンドレットは鍛冶屋というよりもむ《/む》しろ悪魔のような様子をしていた。  火鉢の焼けている熱さは非常なもので、テーブルの上の蝋燭もそ《/そ》の方面が溶けかかって、斜めに減っていきつつあった。ディオゲネスが凶賊カルトゥーシュに変じたとしたらそ《/そ》れにもふさわしいような、銅製の古い龕燈《+龕ドウ》が一つ、暖炉の上に置いてあった。  火鉢はほとんど消えた燃えさしのそばに炉《/炉》の中に置いてあったので、炭火のガスは暖炉の煙筒の中に立ちのぼっていて、室《+部屋》には何らの|にお《匂》いもひろがっていなかった。  月は窓の四枚の板ガラスからさし込んで、炎の立ってる|まっか《真っ赤》な屋根部屋の中に|ほの白《ホノジロ》い光を送っていた。そして実行の刹那にもな《/な》お夢想家であるマリユスの詩的な精神には、それがあたかも地上の醜い幻に交じった天《/天》の思想の一片であるかのように思われた。  こわれた一枚の窓ガラスから空気が流れ込んできて、いっそうよく炭火の|にお《匂》いを散らし、火鉢のあるのを隠していた。  ジョンドレットの巣窟は、ゴルボー屋敷について前に述べておいた所でわかるとおり、凶猛暗黒《凶猛’暗黒》な行為の場所となり罪悪《/罪悪》を隠蔽する場所となるのに、いかにもふさわしかった。それはパリーのうちでの、最も寂しい大通りの、最も孤立した家の最《/最》も奥深い室《部屋》であった。もし待ち伏せなどということが人の世になかったとしても、そこにおればきっとそれが発明されたろうと思われるほどだった。  家の全奥行きと多くの空室とが、その巣窟を大通りからへだてていた。そしてそこについてる唯一の窓は、壁と柵とに囲まれた広い荒れ地の方《ほう》に向いていた。  ジョンドレットはパイプに火をつけ、藁のぬけた椅子の上にすわって、煙草を吹かしていた。女房は低い声で彼に何やら言っていた。  もしマリユスがクールフェーラックであったなら、言い換えれば絶《/絶》えずあらゆる機会に笑うような人であったなら、彼はジョンドレットの女房を見た時必《とき必》ずふきだしていたに違いない。シャール十世の即位式に列した武官の帽子にかなり似寄《似通》った羽《/羽》のついた黒い帽をかぶり、メリヤスの裳衣《ショーイ》の上に格子縞《+格子ジマ》の大きな肩掛けを引っかけ、その朝娘《朝’娘》がいやがった男の靴をは《履》いていた。そういう服装が先刻ジョンドレットをして感嘆せしめたのである。「うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃい《-い》けねえからな。」  ジョンドレットはルブラン氏からもらった少《/少》し大きすぎる新しい外套を相変わらず着ていた。そしてその外套とズボンとが妙な対照をなして、クールフェーラックに詩人だろうという考えを起こさした時と同じ様子だった。  突然ジョンドレットは声を高めた。 「ところでちょっと思い出したが、こんな天気では馬車で来るにきまってる。龕灯《+龕ドウ》をつけて、それを持って下に行け。下《した》の戸の後ろに立っているんだ。馬車の止まる音《音’》を聞いたら、すぐにあけてやれ。はいってきたら、階段と廊下とで明りを見せてやるがいい。そして奴がここにはいる間《あいだ》に、お前は急いでおりてゆき、御者に金《-かね》を払《ハラ》い、馬車を返してしまえ。」 「その金《-かね》は?」と女房は尋ねた。  ジョンドレットはズボンの|隠し《ポケット》を探って、五フラン取り出して渡した。 「これはどうしたんだよ。」と女房は叫んだ。  ジョンドレットは堂々と答えた。 「それは今朝隣《今朝’隣》の先生がくれたものだ。」  そして彼はつけ加えた。 「ねえ、椅子が二ついるだろうね。」 「どうするのに?」 「すわるのにさ。」  その時マリユスは、女房が事もなげに次のような答えをしたのを聞いて、ぞっと背中に戦慄を覚えた。 「それじゃあ、隣のを持ってこよう。」  そして彼女はすばしこく扉をあけて廊下に出た。  マリユスにはとうてい、戸棚からおりて寝台の所へ行きそ《/そ》の下に隠れるだけの時間がなかった。 「蝋燭を持ってゆけ。」とジョンドレットは叫んだ。 「いいよ。」と女房は言った。「かえって邪魔だよ、椅子を二つ持たなくちゃならないか《か-》らね。それに月の光が明るいよ。」  マリユスは女房の重々しい手が暗《/暗》がりに扉の鍵を探ってる音《音’》を聞いた。扉は開いた。彼はその場所に、恐れと驚きとのために釘付けにされたように立ちすくんだ。  ジョンドレットの女房ははいってきた。  軒窓《ノキマド》から一条の月の光がさして、室《+部屋》の中の|やみ《闇》を二つに分けていた。その一方の|やみ《闇》は、マリユスがよりかかってる壁の方《ほう》をすっかりおおっていたので、彼の姿はその中に隠されていた。  女房は目を上げたが、マ《マ-》リユスの姿に気づかなかった。そしてマリユスが持っていた二つきりの椅子を二つとも取って、室《部屋》を出てゆき、後ろに|がたり《ガタリ》と扉をしめていった。  彼女は部屋に戻った。 「さあ《あ/》椅子を二つ持ってきたよ。」 「そこで、向こうに龕灯《+龕ドウ》がある。」と亭主は言った。「早くおりて行け。」  女房は急いでその言葉に従い、ジョンドレットただひとり室《+部屋》の中に残った。  彼はテーブルの両方に二つの椅子を置き、炭火の中に鑿《+タガネ》を置きかえ、暖炉の前に古屏風《+フル屏風》を立てて火鉢を隠し、それから繩の積んである片すみに行き、そこに何か調べるようなふうに身をかがめた。その時マリユスは、今まで何かわからなかったその繩みたいなものは、実は木の桟と引っかけるための二つの鈎《カギ》とがついてるき《/き》わめて巧みにできた繩梯子だということがわかった。  その繩梯子と、それから扉の後ろに積んだ鉄屑の中に交じってる荒々しい道具、まったくの鉄棒なんかは、その朝ジ《/ジ》ョンドレットの室《部屋》の中になかったもので、確かにその午後マリユスの不在中に持ち込まれたものに相違なかった。 「あれはみな刃物師《/刃物師》の道具だな。」とマリユスは考えた。  もしマリユスに今少《今’少》しその方面の知識があったら、彼は刃物師の道具だと思ったもののうちに種々《いろいろ》なものを認《-みと》むることができたろう、《:、》すなわち、錠前を破ったり扉をこじあけたりする道具や、切ったり断ち割ったりする道具などで、盗賊仲間で|ちび《チビ”》および|ばさ《バサ》と言わるる二種の恐ろしい道具だった。  二つの椅子をそなえたテーブルと暖炉とは、ちょうどマ《マ-》リユスの正面になっていた。火ばちが隠されたので、室《部屋》はもう蝋燭で照らされてるばかりだった。そしてテーブルの上や暖炉《/暖炉》の上のちょっとした物でさえ、大きな影を投じていた。口の欠けた水差しは、壁のほとんど半分に影を投じていた。室《部屋》の中には何とも言えぬ恐ろしいぞ《/ぞ》っとするような静けさがたたえていた。今にも何か非常なことが起こりそうだった。  ジョンドレットはよほど何かに気を取られてると見えて、パイプの火の消えたのも知らずにいたが、それからまた立ってきて椅子に腰掛けた。蝋燭の光で、顔の荒々しい狡猾《/狡猾》そうな角張《/角張》った所が、いっそうよく目立った。そして眉をひそめたり急《/急》に右手を開いたりして、あたかもその陰惨な内心で最後《/最後》にも《もう》一度ひ《/ひ》とりで問いひ《/ひ》とりで答えてるかのようだった。そういう自分ひとりの問答のうちに、彼は急にテーブルの引き出しを開き、中に隠してあった料理用の長いナイフを取り出し、指の爪を切ってみてそ《/そ》の刃を試した。それがすむと、ナイフをまた引き出しにしまって、それをしめた。  マ《マ-》リユスの方《ほう》では、ズボンの右の|隠し《ポケット》にあるピストルをつかみ、それを引き出して引き金を上げた。  引き金を上げる時ピ《/ピ》ストルは、鋭いはっきりした小さな音を出した。  ジョンドレットは|ぎくり《ギクリ》として、椅子の上に半ば身を起こした。 「だれだ?」と彼は叫んだ。  マリユスは息をこらした。ジョンドレットはちょっと耳を澄ましたが、やがて笑い出しながら言った。 「なんだ|ばか《馬鹿》な。壁板の音だ。」  マリユスはピストルを手に握りしめた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十八章】 【向かい合える二個の椅子】 ◇。◇。◇。◇。◇。  突然《突然’》遠い単調な鐘の響きがガラスを震わした。サン・メダール会堂で六時を報じ初《始》めたのである。  ジョンドレットはその一響《ヒトヒビ》きごとに頭を動かして数えた。六つの響きを聞いた時、指先で蝋燭の芯をつまんだ。  それから彼は室《+部屋》の中を歩き出し、廊下の方《ほう》に耳を傾け、また歩き出し、また耳を傾けた。「なにき《/来》さえすれば!」と彼はつぶやいた。それからまた椅子の所へ戻った。  彼がそこにすわるかすわらないうちに、扉が開いた。  ジョンドレットの女房がそれを開いたのだった。彼女は廊下に立って、ぞっとするような愛想を顔に浮かべていた。龕灯《+龕ドウ》の穴の一つからもれる光がその顔を下から照らしていた。 「どうぞ旦那様、お|はい《入》り下さいまし。」と彼女は言った。 「お|はい《入》り下さいませ、御親切な旦那様。」とジョンドレットは急いで立ち上がって言った。  ルブラン氏が現われた。  彼はいかにも朗らかな様子をしていて、妙に尊く思われた。  彼はテーブルの上にルイ金貨を四個(八十《ハチジュッ》フラン)置いた。 「ファバントゥー君、」と彼は言った、「これは君の家賃と当座の入用《入り用》のためのものです。その他のことは御相談《ご相談》するとしましょう。」 「神様があなたにむくいて下さいますように、御慈悲深い旦那様。」とジョンドレットは言った。  それから彼は急いで女房に近寄った。 「馬車を返せ。」  亭主がルブラン氏にお世辞をあびせかけ椅子《/椅子》を進めてる間《あいだ》に、女房はそっとぬ《抜》け出した。そして間もなく戻ってきて亭主の耳にささやいた。 「すんだよ。」  朝から降り続いていた雪は深く積っていたので、馬車のき《来》たのも聞こえなければ、また馬車が帰ってゆくのも聞こえなかった。  そのうちにルブラン氏は腰を掛けた。  ジョンドレットはルブラン氏と向き合った椅子に腰をおろした。  さてこれから起こるべき光景をよく理解せんために、読者は次のことを頭に入れておいていただきたい。凍りつくような寒い夜、雪が積って月光の下に広《/広》い経帷子のように白く横たわって寂莫《/寂莫》たるサルペートリエールの一郭、そのすごい大通りと黒《/黒》い楡の|並み木《並木》の長い列とを所々《/ところどころ》赤く照らしてる街灯の光、《:、》ひとりの通行人もなさそうな周囲四半里《周囲四半里’》ばかりの間《あいだ》、その静寂と物《/物》すごさと暗夜《/暗夜》とのまんなかにあるゴルボー屋敷、その屋敷の中に、その寂莫《寂寞》たる一郭の中に、その暗黒の中にあって、ただ一本の蝋燭に照らされてるジョンドレットの広い屋根部屋、《:、》その部屋の中に向き合ってテーブルについてるふたりの男、一人は落ち着いた静かなルブラン氏、|ひとり《一人》はほほえんでる恐ろしいジョンドレット、また片すみには牝の狼のようなジョン|ドッ《ド》レットの女房、《:、》それから壁の後ろには、人に見えない所にたたずんで、一語も聞きもらさず一挙動《/イッ挙動》も見落とすまいとして、目を見張りピ《/ピ》ストルを握りしめてるマリユス。  マリユスは一種不安な胸騒ぎを覚えたが、何らの恐怖をも感じなかった。彼はピストルの柄《エ》を握りしめて心を落ち着けた。「いつでも好きな時にあの悪党を押さえつけてやろう、」と彼は考えていた。  どこか近くに警官が潜んでいて、約束の|合い図《合図》を待って今《/今》にも腕を差し伸ばそうとしてるもののように、彼は感じていた。  その上、ジョンドレットとルブラン氏とのその恐《恐ろ》しい会合から、自分の知りたく思ってることについて何《/何》かの手掛かりが得られは《は-》すま《ま-》いかと、彼は望んでいたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十九章】 【気にかかる暗《/くら》きすみ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ルブラン氏は腰をおろすや否や、寝床の方《ほう》を見やった。だれも寝てはいなかった。 「|けが《怪我》をしたかわいそうな娘さんはいかがです。」と彼は尋ねた。 「よくありません。」とジョンドレットは心配そうなま《”ま》た感謝してるような微笑をして答えた。「大変悪うございます。それで姉に連れられて、ブールブ施療院へ繃帯してもらいに行きました。間もなくお目にかかるでございましょう、すぐに帰って参りますから。」 「御家内はだいぶおよろしいようですね。」とルブラン氏は女房の変な服装をじろりと見やって言った。彼女はその時、既に出口を扼してるかのようにルブラン氏と扉との間に立って、威嚇するようなま《”ま》たほとんど戦わんとしてるような態度で彼を見守っていた。 「家内はもう死にかかっているのでございます。」とジョンドレットは言った。「ですが旦那様、非常に元気がございましてな、女というよりはまったく牛とでも申したいくらいで。」  女房はその賛辞に動かされて、媚びられた怪物が嬌態《+シナ》を作るような様子で言った。 「あなたはいつもほんとに親切でね、ジョンドレット。」 「ジョンドレットですって。」とルブラン氏は言った。「私はまたファバントゥー君というのだと思っていましたが。」 「ファバントゥー一名《/一名》ジョンドレットでありまして、」と亭主は急いで言った、「俳優の雅号でございます。」  そしてルブラン氏に気づかれぬようち《/ち》ょっと肩をそびやかして女房をたしなめ、力をこめた媚びるような調子で言い進んだ。 「いや、この家内と私とは、いつも仲よく暮らしていますんで、そういうことでもなかった日には、もう世に何《なん》の楽しみもございません。私どもはそれほど不|仕合わ《幸》せなので、旦那様。腕はあっても仕事はありませず、元気はあっても働く所がありません。いったい政府はどうしているのでしょう。私は決して旦那、過激党ではございません、騒ぎを起こす者ではございません、政府に楯をつく者ではございません。ですが私がもし大臣にでもなりましたら、断じてこんな状態にはして置きません。まあたとえば、私は娘どもに紙細工の職業でも覚えさしたかったのです。なに職業を? とおっしゃるのですか。さようです、職業で、ほんのちょっとした職業で、パンを得るだけのものでございます。何という落ちぶれかたでしょう。旦那様。昔の姿と比べては何という零落でございましょう。ほんとに、盛んな時のものは何一つ残ってはいません。ただ一つだけで何《-なん》にも残ってはいません。ただ一つと申しますのは、ごく大事にしています画面ですが、それをも手離《手放》そうというのでございます。何しろ食っては行かなくちゃなりませんので、まったく食ってだけはゆかなくちゃなりませんので。」  ジョンドレットがそういうふうに、考え深い狡猾《/狡猾》そうな顔の表情を保《-たも》ちながらも表面上何《/表面上’何》ら前後の考えもなさそうなふうでしゃべっているうちに、マリユスはふと目をあげて、今まで見なかった|ひとり《一人》の男を室《+部屋》の奥に認めた。その男は、扉の音も立てずに静かにはいってきたのである。紫色の毛編みのチョッキを着ていたが、それもす《擦》り切れよ《/よ》ごれ裂《/裂》けた古いもので、折り目の所には皆穴《-みんな穴》があいていた。それからまた、綿ビロードの大きなズボンをはき、足には木靴をつっかけ、シャツも着ず、首筋を出し、刺青《入れ墨》した両腕を出し、顔はま《真》っ黒に塗られていた。彼は黙って腕を組んだまま、近い方《ほう》の寝台に腰をおろしていたが、ちょうどジョンドレットの女房の後ろになっていたので、ただぼんやりその姿が見えるきりだった。  注意を伝える一種の磁石的な本能から、ルブラン氏はマリユスとほとんど同時にその方《ほう》を顧みた。彼は驚きの様子を自らおさえることができなかった。そしてそれはジョンドレットの目をのがれなかった。 「ああ《あ/》なるほど、外套でございますか。」とジョンドレットは叫んで、機嫌を取るようなふうでそのボタンをかけた。「私によく合います。まったくよく合います。」 「あの人は|だれ《誰》です。」とルブラン氏は言った。 「あれでございますか。」とジョンドレットは言った。 「隣の男でありまして、どうか決しておかまいなく。」  その隣の男というのは、不思議な顔つきをしていた。けれども、そのサン・マルソー郭外には化学製造工場がたくさんあって、そこの職工は多くま《真》っ黒な顔をしてることがあった。ルブラン氏の様子は、静かに大胆《/大胆》に安心《/安心》しきってるが《が-》ようだった。彼は言った。 「で、何《なん》のお話でしたかな、ファバントゥー君。」 「話と申しますのは、実は旦那様。」とジョンドレットは言いながら、テーブルの上に肱をつき蟒蛇《+/ウワバミ》のようなじ《/じ》っとすわったやさしい目でルブラン氏をながめた。「私は画面を一つ売り払いたいと申しかけた所でございましたが。」  扉の所で軽い音がした。第二の男がはいってきて、ジョンドレットの女房の後ろに寝台《/寝台》に腰掛けた。第一の男と同じように、両腕を出し、インキか煤かで顔を塗りつぶしていた。  その男も文字どおりに室《+部屋》にすべり込んできたのであるが、ルブラン氏の注意を|のが《逃》れることはできなかった。 「どうかお気になさいませんように。」とジョンドレットは言った。「みんなこの家にいるものでございます。ところで今の話でございますが、私に残っていますのは一枚の画面きりで、それも貴重なものでして‥‥。まあ旦那、ごらん下さいませ。」  彼は立ち上がって、壁の所へ行った。その下の方《ほう》に、前に述べた鏡板が置いてあった。彼はそれを裏返して、やはり壁に立てかけた。それはなるほど何か画面らしいもので、わずかに蝋燭の光で照らされていた。マリユスはジョンドレットが自分《/自分》とその画面との間に立っているので、何が描《-えが》いてあるかはっきり見て取ることができなかった。しかしちょっと見た所、粗末な書きなぐりのものらしく、その主要人物らしいのには、見世物の看板か屏風《/屏風》の絵かに見るような|なまなま《/生々》しい色彩が施してあった。 「それは何《-なん》ですか。」とルブラン氏は尋ねた。  ジョンドレットは勢いよく言った。 「大家《タイカ》の絵でして、非常な価値《+値打ち》のあるもので、旦那様。私はふたりの娘と同じぐらいにこれを大事にしていまして、種々《いろいろ》の思い出がこもっているのでございます。ですが今申《今’申》しましたとおり、まったくのところ、ごく困っているものですから、これを売ってしまいたいと存じまして‥‥。」  偶然にか、それとも多少不安《多少’不安》を感じ初《始》めたのか、ルブラン氏はその画面をながめながらもち《/ち》らと室《+部屋》の|すみ《隅》を見やった。そこには今や四人の男がいた。三人は寝台に腰掛け、|ひとり《一人》は扉の框のそばに立っていた。四人とも腕をあらわにし、身動きもしないで、顔は黒く塗られていた。寝台に腰掛けてる三人のうちの|ひとり《一人》は、壁によりかかって目を閉じ、あたかも眠ってるかのようだった。その男はもう老人で、まっ黒な顔の上に白い髪があるありさまは何《/何》とも言えない不気味さだった。他のふたりはまだ若そうで、|ひとり《一人》は髯をはやしており、|ひとり《一人》は髪の毛を長くしていた。だれも靴をは《履》いていなかった。上靴をは《履》いてない者は跣足《裸足》のままだった。  ジョンドレットはルブラン氏の目がそ《/そ》の男らの上にすえられてるのを認めた。 「みな親しい仲の者で、近所の者でございます。」と彼は言った。「顔を黒くしていますのは、炭の中で仕事をしているからでして、みな暖炉職工でございます。どうかお気になさらないで、旦那、まあ私のこの画面を買って下さいませ。どうか不幸をあわれんで下さいませ。高くとは申しません。がま《”ま》あど《/ど》れぐらいの価値《+値打ち》だとおぼし召されますか。」 「だが、」とルブラン氏は言いかけて、ジョンドレットの顔をまともにじっとながめ、用心するようなふうであった、「それは何か旅籠屋の看板ですね。三《3》フランぐらいはしますかな。」  ジョンドレットは静かに答えた。 「紙入れをお持ち合わせでございましょうか。千エキュー(五千フラン)なら申し分ありませんが。」  ルブラン氏はすっくと身を起こし、壁を背にして、急いで室《+部屋》の中を見回した。左手の窓の方《ほう》にはジョンドレットがおり、右手の扉の方《ほう》にはその女房と四人の男とがいた。四人の男は身動きもしなければ、また彼を見てる様子さえもなかった。ジョンドレットはぼんやりした瞳をして悲《/悲》しそうな調子を張り上げ、泣くような声でまた話し出した。それでルブラン氏も今目《-いま目》の前におるこの男は貧乏《/貧乏》のために気でも狂ったのではないかと思ったかも知れない。 「もしこの画面でもお買い下さらなければ、まったく旦那様、」とジョンドレットは言った、「私はもう策の施しようもありませんで、川にでも身を投げるよりほか仕方がございません。私はふたりの娘に、合わせ紙《ガミ》の仕事を、お年玉用のボール箱をこしらえる仕事を習わせようと思っていますんです。それにはガラスが下に落ちないように向こうに板のついたテーブルだの、特別な炉だの、木と紙《/紙》と布《/布》とに使い分けする強さの違ったそれぞれの糊を入《い》れる三《/三》つに仕切ってある壺だの、《:、》それからまた、厚紙を切る|截ち包丁《タチボウチョウ》、形を取る型《カタ》、鉄をうちつける金槌、ピンセット、その他いろんなものがいります。そしてそれでいくら取れるかと言えば、日に四《4》スーだけでございます、それも十四時間働きづめでして。箱一つでき上がるには十三遍《13編》も細工人《サイクニン》の手をくぐります。しかも紙はぬらさなければならないし、汚点《+染み》をつけてはいけないし、糊は熱くしておかなければならないし、まったくやりきれません。そして日に四《4》スーです。それでまあどうして暮らしてゆけましょう。」  そういうふうに語りながらジョンドレットは、彼を見守ってるルブラン氏の方《ほう》を少しも顧みなかった。ルブラン氏の目はジョンドレットを見つめ、ジョンドレットの目は扉を見つめていた。マリユスの熱心な注意はふたりの上に代わる代わる向けられた。ルブラン氏は自ら問うようなふうだった。「この男は|ばか《馬鹿》なのかな?」ジョンドレットは冗漫と懇願とのあ《/あ》らゆる調子で|二、三《二’三》度くり返した。 「川にでも身を投げるよりほか、もう仕方がございません! 先日もそのつもりで、オーステルリッツ橋《バシ》のわきを三段ほどお《-お》りてゆきました。」  と突然、彼の鈍い瞳は怪しい炎《ホノオ》に輝き、小さな身体《体》は伸び上がって恐《/恐》ろしい様子になり、ルブラン氏の方《ほう》へ一歩進み、そして雷のような声で彼は叫んだ。 「そんなことではないんだ! 貴様には俺がわ《分》かるか?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十章《第20章》】 【待ち伏せ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどそれは、部屋の扉が突然《突然’》開いて、青麻のだぶだぶの上衣を着、黒紙の仮面をつけた三人の男が見えた時だった。第一の男はや《痩》せていて、鉄のついた長い棒を持っていた。第二の男は巨人のような体躯《体》で、屠牛用の斧を頭を下にして柄《/エ》のまんなかを握っていた。第三の男は肩幅が広く、第一の男ほどや《痩》せてもいなければ第二《/第二》の男ほど太くもなくて、どこかの牢獄の戸から盗んででもきたような|ばか《/馬鹿》に大きな鍵を握りしめていた。  ジョンドレットはそれら三人の男が来るのを待っていたものらしい。そして棍棒を持ったや《痩》せた男と彼との間に速《/速》い対話が初《始》まった。 「すっかり用意はできてるか。」とジョンドレットは言った。 「できてる。」とやせた男は答えた。 「だがモンパルナスはどこにおる。」 「あの色役者は、立ち止まってお前の娘と話をしていた。」 「どっちの娘だ。」 「姉の方《ほう》よ。」 「下《した》に辻馬車はき《来》てるか。」 「き《来》てる。」 「例の小馬車に馬はついてるか。」 「ついてる。」 「いい|やつ《ヤツ》を二頭か。」 「すてきな|やつ《ヤツ》だ。」 「言っといた所《ところ》で待ってるな。」 「そうだ。」 「よし。」とジョンドレットは言った。  ルブラン氏はひどく青ざめていた。彼は今やいかなる所へ陥ったかを了解したかのように、室《+部屋》の中のものをぐるりと見回した。そしてまわりを取り囲んでる人々の方《ほう》へ順々に向けられる彼の頭は、注意深《注意ぶか》そうにか《/か》つ驚いたようにお《/お》もむろに首の上を動いた。しかし彼の様子のうちには、恐怖のさまは少しも見えなかった。彼はテーブルをもって即座の堡塁とした。そして一瞬間前まではただ親切な老人としか思われなかった彼は、今や|にわか《俄》に闘士の姿に変わって、椅子の背にその頑丈な拳を置き、驚くべき恐《/恐》ろしい態度を取った。  かかる危険を前にして確固毅然たるその老人は、ただ何《-なん》ということもなく本来《/本来》からして勇気と親切とを兼ねそなえてるもののように思われた。おのれの愛する女の父に当たる人は、おのれに対して決して他人ではない。マリユスはその名も知らぬ老人について自ら矜りを感じた。  ジョンドレットが、「あれはみな暖炉職工でございます、」と言った腕の|あら《露》わな男どものうちの三人は、鉄くずの中を探って、|ひとり《一人》は大きな鋏を取り、|ひとり《一人》は重い火ばしを取り、|ひとり《一人》は金槌を取って、一言も発せずに扉《/扉》から斜めに並んだ。年取った男はなお寝台の上に腰掛けていて、ただ目を開いたばかりだった。ジョンドレットの女房はそのそばに腰掛けていた。  マリユスはもう数秒のうちに自分が手を出すべき時が来るだろうと考えた。彼は廊下の方《ほう》へ天井《/天井》を向けて右手を上げ、ピストルを打つ用意をした。  ジョンドレットは棍棒の男との対話を終えて、再《ふたた》びル|ラブ《ブラ》ン氏の方《ほう》へ向き、彼独特のお《/お》さえつけたような恐《/恐》ろしい低い笑いをしながら、前の問いをくり返した。 「それじゃ貴様には俺がわ《分》からねえのか。」  ルブラン氏は彼を正面から|じっ《ジッ》と見て答えた。 「わからない。」  するとジョンドレットはテーブルの所までやっていった。そして蝋燭の上から身をかがめ、腕を組み、その角張った獰猛な頤《顎》をルブラン氏の落ち着いた顔にさしつけ、ルブラン氏があとにさがらないくらいにで《/で》きるだけ近く進み出て、まさにか《噛》みつかんとする野獣のようなその姿勢のまま叫んだ。 「俺はファバントゥーというんじゃねえ、ジョンドレットというんでもねえ。俺はテナルディエという者だ。モンフェルメイュの宿屋の亭主だ。いいか、そのテナルディエなんだ。さあこれで貴様、俺がわかったろう。」  ほとんど見えないくらいの赤みがルブラン氏の額にちらと浮かんだ。そして彼は例の平静さで、震えもしなければ高《/高》まりもしない声で答えた。 「いっこうわからない。」  マリユスの耳にはその答えもはいらなかった。その暗闇の中にそのとき彼を見た者があったならば、駭然《蓋然》とし呆然として打《/打》ちひしがれたような彼の様子が見られたであろう。ジョンドレットが「俺はテナルディエという者だ」と言った瞬間に、マリユスはあたかも心臓を貫かれる刃の冷《-つめ》たさを感じたかのように、全身を震わして壁にもたれかかった。それから|合い図《合図》の射撃をしようと待ち構えていた右の腕は静かにたれ、ジョンドレットが「い《/い》いかそのテナルディエなんだ」とくり返した時には、力を失った彼の指は危うくピストルを落としかけた。本名を現わしたジョンドレットは、ルブラン氏を動かし得なかったが、マリユスを顛倒さした。ルブラン氏が知らないらしいそ《/そ》のテナルディエという名前を、マリユスはよく知っていた。そしてその名前は彼にとっていかなる意味を有するかを読者《/読者》は思い出すだろう。その名前こそ、父の遺言のうちにしるされ、彼が常に心にいだいていたものである。彼はその名前を、頭の奥に、記憶の底に、また、「テナルディエという者予《者/予》の生命《イノチ》を救いくれたり、もし予が子にして彼に出会わば、及ぶ限りの好意を彼に表《ヒョウ》すべし、」という神聖なる命令のうちに、常に納めていたのである。その名前こそ、読者の記憶するとおり、彼の心が帰依してるものの一つであった。彼はそれを父の名前といっしょにして崇拝していた。しかるに現在この男がテナルディエであろうとは! 長い間いたずらに|さが《探》しあぐんでいたモンフェルメイュの宿屋の主人であろうとは! 彼はついにその男を見いだしたが、それもいかにしてであったか。父を救った男は悪漢だったのである。マリユスが身をささげて仕えんと望んでいたその男は、怪物だったのである。このポンメルシー大佐を救ってくれた男は、今やある暴行を行なわんとしていた。マリユスにはその暴行がいかなる形式のものであるかま《”ま》だ明らかにはわからなかったけれども、とにかく殺害らしく思われるものだった。しかもその暴行は|だれ《誰》に向かって加えられんとしているのか! ああ《あ/》何たる宿命ぞ、いかに苦《-にが》き運命の愚弄ぞ! 父は柩の底から彼に、|でき得《出来う》る限りの好意をテナルディエにつくすよう命じていた、そして四年の間彼《あいだ彼》は、父に対するその負債《+負い目》を果たさんとの念しか持っていなかった。しかるに、警官をして罪悪《/罪悪》の最中における悪漢を捕えさせんとする瞬間に当たって運命《/運命》は彼に叫んだ。「その男こそテナリ《ル》ディエである!」ワーテルローの勇ましい戦場で弾丸《/弾丸》の雨下する中に救われた父の生命《イノチ》に対して、その男に彼はつ《/つ》いに何をむくいんとするのか、絞首台をもってむくいんとするのか。もしテナルディエを見いだすこともあったら、直ちに馳せ寄ってその足下に身を投じようと、彼はか《/か》ねて期していた。そして今実際彼《今’実際’彼》を見いだしは《は-》したが、しかしそれは彼を刑執行人の手に渡《-わた》さんがためだったのであるか。父はマリユスに「テナルディエを救え」と言っていた、しかるにマリユスはテナルディエを打ちひしいでそ《/そ》の敬愛せる聖《清》き声に答えんとするのか。その男は身の危険を冒して父を死より救い、父はその男を子たるマリユスに頼んでおいたのに、マリユスは今自らその男をサン・ジャックの広場に処刑さして、それを父の墓前にささげんとするのか。父が自らし《-し》たためた最後の意志をかくも長い間胸にいだいていながら、まさしくその正反対をなさんとは、何《なん》という運命の愚弄であろう! しかしまた一方に、その待ち伏せを見ながらそ《/そ》れを妨げんともせず、被害者を見捨て殺害者《/殺害者》を許《-ゆる》さんとするのか! かかる悪漢に対して何らか感謝の念をいだき得るものであろうか。四《4》カ年以来マリユスが持っていたあらゆる考えは、その意外の打撃によってずたずたに引き裂かれてしまった。彼は身を震わした。すべては彼の一存にかかっていた。彼の眼前に争っているそれらの人々は、おのずから彼の手中にあった。もし彼がピストルを打ったならば、ルブラン氏は救われテ《/テ》ナルディエは捕えられるだろう。もしピストルを打たなければ、ルブラン氏は犠牲に供され、テナルディエはあるいは身を脱するだろう。一方を倒しても、また他方を見殺しにしても、いずれも悔恨の念《念’》は免れぬ。何となすべきか? いずれを選ぶべきか? 最も強き記憶、内心の深き誓い、最も神聖なる義務、最も尊き文言、それに|そむ《背》くべきか。父の遺言に|そむ《背》くべきか。あるいはまた罪悪の行なわるるのを見過ごすべきか。一方には父のために懇願する「わがユルスュール」の声が聞こえるように思われ、他方にはテナルディエのことを頼む大佐の声が聞こえるように思われた。そして彼は気も狂わんばかりの心地がした。膝も身体をささえきれなくなった。しかも眼前の光景は切迫していて、熟慮のひまさえもなかった。自分が左右し得ると思っていた旋風にか《/か》えって運び去らるるがようなものだった。彼はほとんど気を失いかけた。  その間《あいだ》にテナルディエは──われわれは以後彼《以後’彼》をこの名前で呼ぶことにしよう──|われ《吾》を忘れたようにま《”ま》た勝利に酔うたがように、テーブルの前をあちらこちら歩いていた。  彼は手のうちに蝋燭をつかみ、蝋は壁にはねかかり火《/火》は消えかかったほどの激しさでそれを暖炉の上に置いた。  それから彼は恐ろしい様子でルブラン氏の方《ほう》をふり向き、こういう言葉を吐きかけた。 「焼けた、焦げた、煮えた、蒲焼だ!」  そして彼は恐ろしい勢いでまた歩き出した。 「ああ、」と彼は叫んだ、「とうとう見つけたよ、慈善家さん、|ぼろ着物《ボロキモノ》の分限者さん、人形をくれた奴さん、老耄《老いぼれ》のジョクリスさん!(訳者注◇ ジョクリスとはお人よしの典型的人物)ああお《/お》前さんには|わし《儂》がわ《分》からないのかね。ちょうど八年前、1823年のクリスマスの晩に、モンフェルメイュの|わし《儂》の宿屋へきたなあ、お前さんではなかったろうよ。ファンティーヌの娘のアルーエットというのを|わし《儂》の家から連れ出したなあ、お前さんではなかったろうよ。黄色い外套を着ていたのは《は-》な、そして今朝|わし《’儂》の所へきた時のように|ぼろ着物《ボロキモノ》の包みを手に下げていたのは《は-》な。おい女房、よその家へ毛糸の靴下をつめ込んだ包みを持って行くのは、この男の癖と見えるな、この慈善顔をした老耄《老いぼれ》めのな。分限者さん、お前さんは小間物屋かね。貧乏人に店のがらくたをくれやがって、へん、笑わせやがるよ。お前さんに俺がわ《分》からねえって? だがな、俺の方《ほう》ではわ《分》かってるんだ。お前がここに鼻をつっ込みやがった時からすぐに見て取ったんだ。宿屋だからと言ってやたらに人の家へ入り込《こ》みやがって、みじめな着物をつけてさ、一文《イチモン》の銭をこ《乞》うような貧乏な様子をしてさ、人をだまかし、大きなふうをして、米櫃をまき上げやがって、《:、》森の中で人を脅かしやがって、そのくせ人が落ちぶれてると、大きすぎる外套だの病院にあるような|ぼろ《ボロ》毛布を二枚持ってきて、すました顔をしてやがる。それでうまくゆくと思うと大まちがえだ、老耄《老いぼれ》の乞食めが、誘拐者《+かどわかし》めが!」  彼はふと言いやめて、ちょっと心の中で独語してるように見えた。ちょうど彼の憤怒《フンヌ》は、ローヌ川のように穴の中《なか》へでも落ちたかのように見えた。そしてひそかに独語したことに大声で結末をつけるかのように、テーブルを拳でたたいて叫んだ。 「しかもお人よしのようなふうをしやがってさ。」  そしてルブラン氏の方《ほう》へ言いかけた。 「おい、お前は以前によくも俺を|ばか《馬鹿》にしやがったな。俺の不運のもとはみんなお前だぞ。わずか千五百フランで大事な娘を取ってゆきやがったからだ。娘は《は-》な、たしか金持ちの子供だったんだ。それまでにずいぶん金《-かね》も送ってきた。俺はその娘を一生の食いものにするつもりでいたんだ。あの宿屋じゃあずいぶん損をしたんだが、その娘さえいりゃあどうにか《か-》なったろうというものだ。あんなつまらねえ宿屋ったらねえや、ぜいたくなばか騒ぎばかりしてさ、俺の方《ほう》じゃあ能《/能》もなくすっかり食いつぶしてしまったからな。ああ《あ/》あの店へきやがって酒を飲んだ奴《ヤツ》どもにゃあ酒《/酒》がみな毒とでもなったらなあ! いやそんなこたあどうでもいいや。おいお前は《は-》な、あのアルーエットを連れて行く時には、俺を愚図とでも思って笑いやがったろ《ろ-》うな。あの森の中では大きな棒を持っていやがったな。あの時はお前の方《ほう》が強《つよ》かったさ、だがこんどはそうはいかねえや。切り札は俺の方《ほう》にあるんだ。お気の毒だがお前の方《ほう》が負けだ。ハハアおかしいや、ちゃんちゃらおかしいや。うまく罠に落っこちやがった。俺は言ってやったよ、俳優でございます、私はファバントゥーと申します、マルス嬢やムューシュ嬢といっしょに芝居をしたこともございます、《:、》二月四日に家主《ヤヌシ》に金《-かね》を払わなくてはなりませんとさ、それに奴さん少しも気がつかねえんだ、期限は二月四日じゃなくて一月八日になってるってことをな。ばか野郎め! そしてつまらねえフィリップ(訳者注◇ ルイ・フィリップ王の肖像がある二十《ニジュッ》フラン金貨)を四《4》つ持ってきやがった。恥知らずめ! せめて百フランでも持って来りゃあまだしもだ。だがまあう《/う》まく俺の|おもしろ《面白》くもねえ策に乗りやがった。ほんにおかしいや。俺は|ひとり《一人》でこう言っていたんだ。『おばかさん、さあつかまえたぞ。今朝はてめえの足をなめてやる、だが晩になってみろ、心臓までもしゃぶってやるからな。』」  テナルディエはしゃべるのをやめた。彼は息を切らしていた。その小さな狭い胸は、鍛冶屋の韛《鞴》のようにあえいでいた。その目は賤しい幸福の色に満ちていた。恐れていた者をついにう《打》ち倒し媚《/媚》びていた者をついに侮辱してやったという残忍卑怯《残忍’卑怯》な弱者の喜びであり、巨人ゴライアスの頭を土足にかける侏儒の喜びであり、《:、》もはや身を守り得ないほど死に瀕しては《は-》いるがま《”ま》だ苦痛を感ずるくらいの命はある病める牡牛を、初めて引き裂きかけた豪狗《ゴウク》の喜びである。  ルブラン氏は彼の言葉を少しもさえぎらなかった。しかし彼が言いやめた時にこう言った。 「私には君の言うことがわ《分》からない。君は何か思い違いをしているようだ。私はごく貧しい者で、分限者なんかではない。私は君を知らない。|だれ《誰》かと人違いをしたのでしょう。」 「なんだと、白《しら》ばっくれるな。」とテナルディエはうめき出した。「冗談を言うない。ぐずぐずぬかしやがって、老耄《老いぼれ》めが。貴様、覚えていねえのか。俺がわ《分》からねえのか。」 「失礼だがわ《分》からない。」とルブラン氏は丁寧な調子で答えたが、それはかかる場合に何だか力強く妙に聞こえた。「君はどうも悪党らしいが。」  人の知るとおり、嫌悪すべき輩はすべていら立ちやすいものであり、怪物はすべて怒りやすいものである。悪党という言葉を聞いて、テナルディエの女房は寝台から飛びおり、テナルディエは握りつぶさんばかりに椅子をつかんだ。「じっとしてろ。てめえは!」と彼は女房に叫んだ。そしてルブラン氏の方《ほう》へ向き直った。 「悪党だと! なるほどな、金《かね》のある奴らは俺たちのことをそうぬかしやがる。なるほどそれに違《-ちげ》えねえ。俺は破産をし、身を隠し、食うものもねえし、金《かね》もねえし、それで悪党だ。もう三日というもの何《-なん》にも口にしねえ、それで悪党だ。それに貴様らは、足を暖かくし、サコスキの上靴をはき、毛のはいった外套を着、大司教のような様子をし、門番のついた家の二階に住み、《:、》松露を食《-く》い、正月には四十《ヨンジュッ》フランもするアスパラガスを食いちらし、豌豆を食い、口一杯にほおばり、そして寒いかどうか知りてえ時には、シュヴァリエ技師の寒暖計がいくらさしてるか新聞で見やがる。だがな、本当の寒暖計は俺たちだ。時計台の角《カド》の河岸に出て、何度の寒さかを見にゆく必要はねえんだ。俺たちは脈の血が凍り心臓《/心臓》にも氷がは《張》るのを感ずるんだ。そしては、神もねえのかって言うんだ。そういう時に貴様らは、俺たちの巣にやってきやがって、そうだ巣にやってきやがって、悪党だなんてぬかすんだ。だがな俺《/俺》たちは、貴様らを食ってやるんだ。金持ちの|ちび《チビ》ども、貴様らを貪り食ってやらあな。おい分限者さん、よく覚えておくがいい。俺は《は-》な、身分のある男だったんだ、免状を持っていたんだ、選挙の資格もあったんだ、りっぱな市民だったんだ、この俺がだぜ、ところが貴様にはそういうものが一つもねえんだろう、貴様には《は-》な!」  そこでテナルディエは扉のそばに立ってる男どもの方《ほう》へ一歩進んで身《/身》を震わしながら言った。 「人の所へきやがって、靴直しかなんぞにでも言うような口をききやがるんだぜ。」  それからまた、更に怒《-いか》り立ってルブラン氏の方《ほう》へあ《浴》びせかけた。 「そしてまたこういうことも覚えておいてもらおうぜ、慈善家さん! 俺は《は-》な、後ろ暗え人間じゃねえんだ。名前を明しもしねえで人の家へ子供を取りに来るような者じゃねえんだ。俺は|もと《元》フランスの軍人だ、勲章でももらっていい人間だ。ワーテルローに行ってよ、何とかいう伯爵の将軍を戦争中に救ったんだ。名前をきかされたが、声が低くて聞き取れなかった。ありがとうというだけは聞こえた。そんな礼の言葉なんかより、名前を聞き取った方《ほう》がよかったんだが。そうすればまた尋ね出すこともできようってわけさ。この絵は《は-》な、ブラッセルでダヴィドが描《-えが》いたものなんだ。何が描《-えが》いてあるかわかるか。この俺を描《-えが》いたんだ。ダヴィドは俺の手柄を後の世まで残そうと思ったんだ。その将軍を背にかついで、弾丸《+たま》の下をくぐって運んでゆくところだ。物語はざっとこのとおりさ。俺は何もその将軍に世話になっていたわけじゃねえ。他人も同様さ。それでも俺は生命《イノチ》を捨ててその人を助けた。その証明書はポケットに一杯あらあ。俺はワーテルローの名高い兵士だぞ。ところで、親切にそれだけ言ってきかしてやったからには、これでおしまいにしよう。つまり俺は金《-かね》がほしいんだ。たくさんな金《-かね》が、莫大な金《-かね》がほしいんだ。うんと言わなきゃあ、やっつけてしまうばかりだ、いいか。」  マリユスは心の苦悩を多少おさえ得て、耳を傾けていた。そして最後の疑念もすべて消えてしまった。その男こそまったく、父の遺言にあるテナルディエだったのである。そしてテナルディエが父の忘恩を非難するのを聞き、自分は今や必然にその非難を至当のものたらし《し-》めんとしていることを思って、マリユスは身を震わした。彼の困惑は|ますます《益々’》深くなった。その上、テナルディエの言葉、その語調、その身振り、一語ごとに炎をほとばしらすその目つき、《:、》またすべてを暴露する悪心の爆発、虚勢と卑劣と、傲慢と丁重と、憤激と愚昧とその混合、真実の苦情と虚偽の感情とのその混淆、暴戻の快感をむさぼる悪人らしいその破廉恥、《:、》醜い魂のその厚顔なる赤裸、あらゆる苦しみと憎しみとが結びついてるその火炎、すべてそれらのもののうちには、害悪のごとく嫌悪すべきま《”ま》た真理のごとく痛切なる何物かが存していた。  大家《タイカ》の画面、テナルディエがルブラン氏に買ってくれと言い出したダヴィドの絵は、もう読者もほぼ察し得たであろうが、実は彼の宿屋の看板にほかならなかった。それは読者の記憶するとおり、彼が自分で描《-えが》いたものであって、モンフェルメイュにおける失敗以来《失敗’以来/》なお取って置いた唯一のものだった。  ちょうどテナルディエの位置がマリユスの視線を妨げないようになったので、マリユスは今その絵らしいものをながめることができた。なるほどその塗りたくってある中に、戦争らしいありさまと、背景の煙と、|ひとり《一人》の男をかついでる人間とが認められた。それがすなわちテ《/テ》ナルディエとポンメルシーとのふたりで、救った軍曹と救《/救》われた大佐とである。マリユスは酒に酔ったが《が-》ようだった。その画面は父がまだ生きてるような感を彼にいだかせた。もはやそれはモンフェルメイュの宿屋の看板ではなかった。一つの復活であり、墳墓はその口を開いて、幻影がそこに立ち現われた。マリユスは両の顳顬に心臓の鼓動を聞いた。耳にはワーテルローの大砲の響きが聞こえ、気味悪いその板の上にぼ《/ぼ》んやり描かれてる血に染まった父の姿は、彼を脅かした。そして彼には、その怪しい幽霊が自分をじっと見つめてるように思われた。  テナルディエは一息ついて、ルブラン氏《氏’》の上に血走った瞳をすえ、低いぶっきらぼうな声で言った。 「今貴様《今’貴様》を踊らしてやる、だがその前に何か言うことがあるか。」  ルブラン氏は黙っていた。その沈黙のうちに、しわがれ声《ゴエ》の忌まわしい嘲りが廊下から響いた。 「薪でも割るなら俺が行くぞ。」  それはおもしろがってる斧を持った男だった。  同時に、毛だらけの泥まみれの大きな顔が、歯というよりも牙を出してす《/す》ごい笑いを浮かべながら、扉の所からのぞき込んだ。  斧を持ってる男の顔だった。 「どうして面を取ったんだ。」とテナルディエは怒って叫んだ。 「笑ってみてえからさ。」と男は答えた。  ちょっと前からルブラン氏は、テナルディエの挙動に目をつけ|すき《/隙》をうかがってるようだった。テナルディエの方《ほう》は自分の憤激に目がくらみ、頭がくらんでいた。そして、扉には番がついているし、自分は武器を持ってるのに相手は無手であるし、女房をも|ひとり《一人》と数えれば相手は|ひとり《一人》にこちらは九人いるので、安心しきって室《+部屋》の中を歩き回っていた。斧の男に口をきく時には、ルブラン氏の方《ほう》に背を向けた。  ルブラン氏はその瞬間をとらえた。彼は椅子を蹴飛し、テーブルをはねのけ、テナルディエがふり返る間《マ》もあらせず、驚くべき敏捷さで一躍して窓《/窓》の所へ達した。窓を開き、その縁《フチ》に飛び上がり、それを乗り越すのは、一瞬間の仕事だった。彼は半ば窓の外に出た。その時六《とき六》つの頑丈な手が彼をつかみ、無理無体に彼を室《部屋》の中に引きずり込んだ。彼の上に飛びかかったのは三人の「暖炉職工」だった。と同時に、テナルディエの女房は彼の頭髪につかみかかった。  その騒ぎに、外《そと》の悪党どもも廊下から|はい《入》って来た。寝床《ねどこ》の上にいた酒に酔ってるらしい老人も、寝台 からおりて、手に道路工夫《道路コウフ》の金槌を持ってよろめきながら出て来た。 「暖炉職工」の|ひとり《一人》の顔は、蝋燭の光に照らされていた。その塗りつぶした顔つきのうちにマリユスは、それがパンショー一名《/一名》プランタニエ一名《/一名》ビグルナイユであることを見てとった。その男が今や、鉄棒の両端《両はし-》に鉛の丸《+たま》のついてる一種《/一種》の玄翁をルブラン氏の頭めがけて振り上げた。  マリユスはそれを見てもはや堪えることができなかった。「お父さん、許して下さい、」と彼は心に念じて、指先で、ピストルの引き金を探った。そして今や発射せんとした時、テナルディエの叫ぶ声がした。 「けがをさしてはいけねえ!」  犠牲者の死物狂いの試みは、テナルディエを激させるどころかかえって落ち着かした。彼のうちには、獰猛な者と巧妙な者とふ《/ふ》たりの人間がいた。そしてその時までは、勝利に酔い、取りひしがれて身動きもしない餌物《+獲物》を前にして、獰猛な者の方《ほう》が強く現われていた。しかるに犠牲者があばれ出して抵抗しかけた時に、巧妙な者の方《ほう》が現われてきて優勢となった。 「けがをさしてはいけねえ!」と彼はくり返した。そして、彼自身では知らなかったが、その第一の成功として、彼はそれでピストルの発射をやめマ《/マ》リユスをすくました。今や危急は去って局面が一変したので、も《もう》少し待ってもさしつかえない、とマリユスは思った。ユルスュールの父を見殺しにするかあ《/あ》るいは大佐の救い主を滅ぼすかの板ばさみの地位から自分《/自分》を助け出してくれるような、何かの機会が起こるまい|もの《モノ》でもない、と彼は思った。  恐ろしい争闘が初まっていた。ルブラン氏は老人の胸を一撃して室《+部屋》のまんなかにはね倒した。それから二度後ろを払って、他のふたりの襲撃者を打ち倒し、それを|ひとり《一人》ずつ両膝の下に押し伏せた。ふたりの悪漢は膝に押さえつけられて、ちょうど花崗石《花崗セキ》の挽臼の下になったように|うめ《呻》き声を出した。しかし残りの四人は、その恐ろしい老人の両腕と首筋とをとらえ、組み敷かれたふたりの「暖炉職工」の上に押さえつけた。かくて一方を押さえ他方《/他方》に押さえられ、下の者らを押しつぶし上《/上》の者らから息をつめられ、自分の上に集まってる人々の力をいたずらにはねのけようとしながらル《/ル》ブラン氏はそれら恐るべき悪党どもの下に見えなくなって、《:、》あたかも番犬や猟犬どものほえ立った一群の下に押さえられている猪のようだった。  彼らは、ようやく窓に近い寝台の上にルブラン氏を引き倒し、じっと押さえつけたきりだった。テナルディエの女房はなお髪の毛をつかんで離さなかった。 「てめえは引っ込んでろ、」とテナルディエは言った。「肩掛けが破れるじゃねえか。」  女房は狼の牝が牡に従うように、うなりながらその言葉に従った。 「さあみんなで、」とテナルディエは言った、「そいつの身体をさがせ。」  ルブラン氏は抵抗の念を捨てた《た-》らしかった。人々は彼の身体を|さが《探》した。しかし身につけてた物はただ、六フランはいってる皮の金入れとハンカチばかりだった。  テナルディエはそのハンカチを自分のポケットに納めた。 「なんだ、紙入れもねえのか。」と彼は尋ねた。 「それに時計もねえんだ。」と「暖炉職工」の|ひとり《一人》が答えた。 「そんなことはどうでもいい。」と大きな鍵を持ってる仮面の男が腹声《腹ゴエ》でつぶやいた。「なかなかすげえ爺《+ジジイ》だ。」  テナルディエは扉の片すみに行き、一束《ひと束》の繩を取り、それを皆の所へ投げやった。 「寝台の足に縛りつけろ。」と彼は言った。  そして、ルブラン氏の一撃を食って室《+部屋》の中に長く横たわり、身動きもしないでいる老人を見て、彼は尋ねた。 「ブーラトリュエルは死んだのか。」 「いや酔っ払ってるんだ。」とビグルナイユが答えた。 「すみの方《ほう》に片づけろ。」とテナルディエは言った。  ふたりの「暖炉職工」は、足の先でその泥酔者を鉄屑《/鉄屑》の積んであるそばに押しやった。 「バベ、どうしてこう大勢《大ぜい》連れてきたんだ。」とテナルディエは棍棒の男に低い声で言った。「むだじゃねえか。」 「仕方がねえ、皆きてえって言うから。」と棍棒の男は答えた。「どうもこの頃は不漁《+シケ》でね、さっぱり商売がねえんだ。」  ルブラン氏が押し倒された寝台は、施療院にあるようなもので、四角が荒削りの四本の木の足がついていた。  ルブラン氏はされるままに身を任した。悪党どもは窓から遠くて暖炉《/暖炉》に近い方《ほう》のその一本の足に、両足を床につけて立たしたまま彼を縛りつけた。  すっかり縛り終えた時、テナルディエは椅子を持ってきて、ほとんどルブラン氏の正面に腰をおろした。彼はもう様子がすっかり変わっていた。わずかな時間のうちに彼の顔つきは、奔放な狂暴さから落《/落》ち着き払った狡猾な冷静さに変わっていた。マリユスは役人のようなその微笑のうちに、一瞬間前まで泡を吹いてどなっていたほ《/ほ》とんど獣のような口を認めかねるほどだった。彼は呆然としてそ《/そ》の不思議な恐るべき変容を見守った、そして猛虎が代言人と早変わりしたのを見るような驚きを感じた。 「旦那‥‥。」とテナルディエは言った。  そしてなおルブラン氏を押さえてる悪人どもに少《/少》し離れるように手まねをした。 「少しどいてくれ、旦那にちょっと話があるんだ。」  皆《みな》の者は扉の方《ほう》へさ《下》がった。彼は言い出した。 「旦那、窓から飛び出《だ》そうなんてよくありませんぜ。足をくじくかも知れませんからな。でま《”ま》あ穏やかに話をつけようじゃありませんか。第一|わし《/儂》の方《ほう》でも気づいたことを申さなくちゃならねえ、と言うのは旦那、これだけのことに少しも声を立てなさらね《ね-》えことだ。」  テナルディエの言うのは道理で、心乱れてるマリユスはいっこう気づかなかったが、それはまったく事実だった。ルブラン氏はわずか二三言《ニサンこと》を発するにも少《/少》しもその声を高くしなかった、《:、》そして窓のそばで六人の悪漢と奮闘する時でさえ、きわめて深い不思議《/不思議》な沈黙を守っていたのである。テナルディエは言い続けた。 「どうですかね、泥坊とか何とか少しはどなったって、別に|わし《儂》の方《ほう》では不思議とは思わねえ。場合によっちゃあ、人殺し!《/》 とでも|どな《怒鳴》りてえところだ。そう言われたって|わし《儂》の方《ほう》じゃ別に気を悪くはしねえ。うさんな奴らに取り巻かれた時にゃあ、少しは騒ぎ立てるのがあたりまえだ。お前さんが声を立てたにしろ、それでどうしようっていうんじゃねえ。猿轡さえもはめは《は-》しねえ。なぜかって、それはこの室《+部屋》がごく人の耳に遠いからだ。この室《部屋》は何も取り柄はねえが、それだけはりっぱなもんだ。まるで窖みてえだ。かりに爆弾を破裂さしたところで一番近所《一番’近所》の警察にも酔っ払いの鼾ぐらいにしか聞こえねえ。大砲の音も|ぼーん《ボーン》というきりで、雷の響きも|ぷーっ《プーッ》というきりだ。まったく都合のいい住所だ。だがとにかく、お前さんは少しも声を立てなかった。なるほど感心な心掛けだ。|わし《儂》にもよく察しはつく。ねえ旦那、声を立てたら、来る者は警官だ。警官のあとから来る者は裁判官だ。ところで旦那は少しも声を立てなさらねえ。なるほど旦那の方《ほう》でも|わし《儂》らと同様、裁判官や警官が来るのを好みなさらねえ。それは旦那に──|わし《儂》も前からうすうす察してはいましたがね──何か人に知られては都合のよくねえことがありなさるからだ。|わし《儂》らの方《ほう》だってそれは同じでさあ。だから互いに話がわ《分》かろうっていうもんじゃありませんか。」  そういうふうに話しながら、テナルディエはじっとルブラン氏《氏’》の上に瞳をすえて、両眼からつき出した視線の鋭い刃を相手の心の底まで突き通そうとしてるかのようだった。その上《うえ》彼の言葉は、ずるそうな穏《/穏》やかな横柄さがこもっては《は-》いたが、ごく控え目でか《/か》つ|りっぱ《立派》だとさえ言えるほどだった。そして先刻まで一強盗にすぎなかったその悪人のうちには、なるほど「牧師になるために学問をした男」があることも感ぜられた。  捕虜が守っている沈黙、自分の生命《イノチ》をも顧みないほどのその注意、まず第一に叫び声を立てるのが当然であるのをじっとおさえてるその我慢、《:、》すべてそれらのことを、テナルディエの言葉によってマリユスは初めて気づいて、あえて言うが、かなり気にかかって心苦《/心苦》しい驚きを感じた。  テナルディエの道理ある観察は、クールフェーラックがルブラン氏という綽名《渾名》を与えたそ《/そ》の荘重な不思議《/不思議》な人物を包む不可解の密雲を、いっそう暗くするもののようにマ《/マ》リユスには思えた。しかし、彼が果たして何人《ナンピト》であったにせよ、かく繩に縛られ、殺害者らに取り巻かれ、言わばもう半ば墓穴《ハカアナ》の中につき込まれ、刻々にその墓穴《ハカアナ》は足下に深まりゆくにもかかわらず、《:、》またテナルディエのあ《/あ》るいは暴言の前にあ《/あ》るいは甘言の前にありながら、彼は常に顔色一つ動かさなかった。そしてマリユスは、そういう際におけるそ《/そ》の崇高な幽鬱《/幽鬱》な顔貌に対して、自ら驚嘆を禁じ得なかった。  それこそまさしく、恐怖にとらわるることなき魂であり、狼狽の何たるかを知らない魂であった。絶望の場合に臨んでも驚駭《+キョウガイ》の念をおさえ得る人であった。危機はいかにも切迫し、覆滅はいかにも避け難くはあったけれども、水中に恐ろしい目を見張る溺死者のような苦悶のさまは、少しも現われていなかった。  テナルディエは無造作に立ち上がって、暖炉の所へ行き、そばの寝台に立てかけてあった屏風を取り払った。そして盛んな火炎に満ちた火鉢が現われ、中には白熱して所々|まっか《真っ赤》になってる鑿《+タガネ》があるのが、はっきり捕虜の目にはいった。  テナルディエはそれからルブラン氏のそばに戻ってきて腰をおろした。 「なお先を少し言わしてもらいましょうか。」とテナルディエは言った。「お互いに話がわかろうっていうもんです。だから穏やかに事をきめましょうや。さっき腹を立てたなあ|わし《儂》が悪かった。どうしたのか自分でもわからねえが、あまりむちゃになって、少し乱暴な口をききすぎたようだ。たとえて言ってみりゃあ、お前さんが分限者だからと言って、金《かね》が、沢山な金《-かね》が、莫大な金《-かね》がほしいなんて言ったなあ、|わし《儂》の方《ほう》がまちがっていた。そりゃあお前さんにいくら金《-かね》があったところで、いろいろ入費《+入り目》もありなさるだろうし、だれだって同じことでさあ。|わし《儂》だって何もお前さんの財産をつぶそうっていうんじゃねえ。とにかくお前さんの身をそぐようなこたあしませんや。有利な地位にいるからって、それに乗じて人に笑われるようなことをする人間たあ違いまさあ。よござんすか、|わし《儂》の方《ほう》でもまあまけておいて、いくらか譲歩するとしましょう。つまり二十万フランばかりでよろしいんですがね。」  ルブラン氏は一言も発しなかった。テナルディエは言い続けた。 「このとおり|わし《儂》は相当に事をわけて話してるつもりだ。お前さんの財産がどのくらいあるか|わし《儂》は知らねえ、だがお前さんは金《-かね》に目をく《く-》れは《は-》しなさらねえってことだけはわかってる。お前さんのような慈悲深《慈悲ぶけ》え人は、不|仕合わ《幸》せな一家の父親に二十万《/二十万》フランぐらいは出してくれてもよさそうなもんだ。お前さんだって確かに物の道理はわかってるはずだ。今日のように骨を折って、今晩のように手はずをきめて、ここにきてる人たちを見てもわかるとおり万事《/万事》うまく仕組みをした以上は、《:、》わずかデノアイエ料理店で十五スーの赤い奴《ヤツ》を飲み肉《/肉》をつっつくぐらいの金《-かね》じゃすまされねえってことは、お前さんにもわかるはずだ。二十万フランぐらいの価値《+値打ち》はありまさあね。それだけの|はした金《端金》をふところから出しさえしなさりゃあ、それですべて帳消しにして、お前さんに指一本さしゃあしません。なるほどお前さんは、だが今二十万《今’二十万》フランなんて持ち合わせはねえって言いなさるだろう。なに|わし《儂》もそう無茶なことは言いませんや。今それをくれとは言やあしません。ただ一つお頼みがあるんでさあ。|わし《儂》が言うとおりに書いてもらいてえんです。」  そこで、テナルディエは言葉を切った。それから火鉢の方《ほう》へ|ちょっと《チョット》笑顔を向けながら、一語一語力《一語一語’力》を入れて言い添えた。 「ことわっておくが、お前さんに字が書けねえとは言わせない。」  その時の彼の微笑《’微笑》には、宗教裁判所の大法官をもうらやませるほどのものがあった。  テナルディエはルブラン氏のすぐそばにテーブルを押しやって、引き出しからインキ壺とペ《/ペ》ンと一枚《/一枚》の紙とを取り出した。彼はその引き出しを半ば開いたままにしておいたが、そこにはナイフの長い刃が光っていた。  彼はルブラン氏の前に紙を置いた。 「書きなさい。」と彼は言った。  捕虜はついに口《’口》を開いた。 「どうして書けというんです、このとおり縛られているのに。」 「なるほどな、」とテナルディエは言った、「ご道理《もっとも》だ。」  そして彼はビグルナイユの方《ほう》を向いた。 「旦那の右の腕を解《-ほど》いてくれ。」  パンショー一名《/一名》プランタニエ一名《/一名》ビグルナイユは、テナルディエの言うとおりにした。捕虜の右手が自由になった時、テナルディエはペンをインキに浸して、それを彼に差し出した。 「旦那、よく頭に入れておいてもらいましょうや。お前さんは今日|わし《’儂》らの手の中にありますぜ。|わし《儂》らの思うままに、まったく思うままにどうにでもできますぜ。人間の力ではとうていお前さんをここから助け出すことはできねえ。だが|わし《儂》らだって荒療治をしなけりゃならねえようになるのはま《”ま》ったく|いや《嫌》なんだ。|わし《儂》はお前さんの名前も知らねえし、住所も知らねえ。しかしことわっておくが、お前さんがこれから書く手紙を持って行く使いの者が帰って来るまでは、縛られたままでいなさらなけりゃならねえ。そのつもりで、さあ書きなさるがいい。」 「何と?」と捕虜は尋ねた。 「|わし《儂》の言うとおりに。」  ルブラン氏はペンを取った。  テナルディエは口授《口受》し初《始》めた。 「──わが娘よ‥‥──」  捕虜は身を震わして、テナルディエの方《ほう》へ目《-目》を上げた。 「──わが愛する娘よ──と書きなさい。」とテナルディエは言った。  ルブラン氏はそのとおりに書いた。テナルディエは続けた。 「──すぐにおいで‥‥──。」  彼は言葉を切った。 「お前さんは彼女《+あれ》にそういうふうな親しい言い方をしていなさるだろうな。」 「|だれ《誰》に?」とルブラン氏は尋ねた。 「わかってらあな、」とテナルディエは言った、「あの子供にさ、アルーエットにさ。」  ルブラン氏は外見上いかにも冷静に答えた。 「何《なん》のことだか私にはわからない。」 「でもまあ書きなさい。」とテナルディエは言った。そしてまた口授《口受》を初めた。 「──すぐにおいで。是非お前にきてほしい。この手紙を持って行く人が、お前を私の所へ案内してくれることになっている。私はお前を待っている。やっておいで安心して──。」  ルブラン氏はそれをすっかり書いた。テナルディエは言った。 「ああ《あ/》安心してというのは消しなさい。それは何だか普通のことでないような気を起こさして、不安に思わせるかも知れない。」  ルブラン氏はその四字を消した。 「さあ署名しなさい。」とテナルディエは言った。「お前さんの名は何《-なん》て言うのかな。」  捕虜はペンを置いて、そして尋ねた。 「|だれ《誰》にこの手紙はやるんですか。」 「お前さんにはよくわかってるはずだ。」とテナルディエは答えた。「あの子供にさ。今言ってきかしたとおりだ。」  問題の若い娘の名を言うことをテナルディエが避けてるのは明らかだった。彼は「アルーエット」(ひばり娘)と言いま《”ま》た「あの子供」と言いは《は-》したが、その名前は口に出さなかった。それは共犯者らの前にも秘密を守る巧妙《/巧妙》な男の用心であった。名前を言うことは「その仕事」を彼らの手に渡してしまうことだったろう、そして彼らに必要以上のことを知らせることだったろう。  彼は言った。 「署名しなさい。お前さんの名は何《-なん》というんだ。」 「ユルバン・ファーブル。」と捕虜は答えた。  テナルディエは猫のようにすばしこく手をポケットにつっ込んで、ルブラン氏から取り上げたハンカチを引き出した。彼はそのしるしを|さが《探》して、蝋燭の火に近づけた。 「U・《-》F、なるほど。ユルバン・ファーブル。ではU・《-》Fと署名しなさい。」  捕虜は署名をした。 「手紙を畳むには両手がいるから、|わし《儂》に渡しなさい、|わし《儂》が畳むから。」  それがすむと、テナルディエは言った。 「住所を書きなさい。お前さんの家のファーブル嬢と。ここからそう遠くねえ所に、サン・ジャック・デュ・オー・パの付近に、お前さんが住んでることを|わし《儂》は知ってる。毎日その教会堂の弥撒《+ミサ》に行きなさるのでもわかる。だがどの町だか|わし《儂》は知らねえ。お前さんは今どんな場合にいるかわかっていなさるはずだと思う。だから名前に嘘を言わなかったとおり、住所にも嘘を言わねえがいい。自分でそれを書きなさい。」  捕虜はちょっと考え込んでいたが、やがてペンを取って書いた。  ──サン・ドミニク・ダンフェール街十七番地、ユルバン・ファーブル氏方《氏かた》、ファーブル嬢殿《嬢どの》。  テナルディエは熱に震えるような手つきでその手紙をつかんだ。 「女房。」と彼は叫んだ。  テナルディエの女房は急いでやって来た。 「さあ手紙だ。やることはわかってるだろう。辻馬車が下にある。すぐに出かけて、すぐに帰ってこい。」  それから斧を持ってる男の方《ほう》へ言った。 「貴様はちょうど面を取ってるから、うちの上《-かみ》さんにつ《-つ》いてってくれ。馬車の後ろに乗ってゆくがいい。例の小馬車を置いてきた所はわかってるな。」 「わかってる。」と男は言った。  そして斧を片すみに置いて、彼はテナルディエの女房のあとについて行った。  ふたりが出てゆくと、テナルディエは半ば開いている扉から顔をさし出して、廊下で叫んだ。 「何より手紙を落とさないようにしろ! 二十万フラン持ってると同じだぞ。」  テナルディエの女房のしわがれた声がそれに答えた。 「安心しておいで。|内ふところ《ウチフトコロ》にしまってるから。」  一分間とたたないうちに、鞭の音が聞こえたが、それもすぐに弱くなって消えてしまった。 「よし、」とテナルディエはつぶやいた、「ずいぶん早《ハえ》えや《-や》。あの調子で駆けてゆきゃあ、家内は|四、五十分《シゴジュップン》で戻ってくる。」  彼は暖炉に近く椅子を寄せ、そこに腰をおろして、両腕を組み、泥だらけの靴を火鉢の方《ほう》へ差し出した。 「足が冷てえ。」と彼は言った。  テナルディエと捕虜とともにその部屋の中にいるのは、もう五人の悪漢ばかりだった。彼らは仮面をつけたりあ《/あ》るいは黒く塗りつぶしたりして顔を隠しながら、なるべく恐ろしく見せかけるように、炭焼き人だの黒人《/黒人》だの悪魔《/悪魔》だのの姿をまねていたが、皆のろい沈鬱《/沈鬱》な様子をしていた。それを見ると、彼らは罪悪を犯すことをもちょうど仕事をするような具合に、至って平気で、何ら憤激の情も憐愍の念もなしに、一種《1種》の退屈らしい様子でやってるようだった。彼らは獣のように|すみ《隅》にかたまって黙々としていた。テナルディエは足を暖めていた。捕虜はまた無言のうちに沈んでいた。先刻その部屋を満たしていた荒々しい騒ぎに次いで、陰惨な静けさがやってきたのである。  芯に大きく灰のたまってる蝋燭が、その広い部屋をぼんやり照らしてるばかりで、火鉢の火も弱くなっていた。そしてそこにおる怪物らの頭は、壁や天井に変な形の影を投げていた。  聞こえるものはただ、眠ってる酔っ払いの老人の静《/静》かな息の音《’音》ばかりだった。  マリユスは種々《いろいろ》重なってきた心痛のうちにじ《/じ》っと待っていた。謎は|ますます《益々’》不可解になってきた。テナルディエがアルーエットと呼んだあの「子供」はいったい何《-なん》であったろうか。彼の「ユルスュール」のことであったろうか。捕虜はそのアルーエットという言葉を聞いても少しも心を動かさないらしかった、そしてごく自然に「何《なん》のことだか私にはわからない」と答えた。しかし一方に、U・《-》Fという二字は説明された。それはユルバン・ファーブルだった。そしてユルスュールも今はユルスュールという名ではなくなった。マリユスが最もはっきり知り得たのはその一事だった。一種《1種》の恐ろしい魅惑にとらえられて彼は、全光景を観察し見おろし得るそ《/そ》の場所に釘付けにされてしまった。そこに彼は、目近《間近》にながめた厭うべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動《/動》くこともできなかった。いかなる事にてもあれた《/た》だ何か起こることを望むだけで、考えをまとめることもできず、決心を固める術《スベ》も知らずに、彼はただ待っていた。 「いずれにしても、」と彼は思った、「アルーエットというのが彼女のことであるかどうか、これからはっきりわかるだろう。テナルディエの女房がそれをここへ連れて来るだろうから。その時こそ私の心は決するのだ。もし必要であれば、私はこの生命《イノチ》と血潮とをささげても彼女を救ってやる。いかなることがあっても私はあとへは退《-ひ》かない。」  かくて三十分ばかり過ぎ去った。テナルディエはある暗黒な瞑想のうちに沈み込んでるようだった。捕虜は身動きもしなかった。けれどもマリユスは、少し前から時々《ときどき》間を置いて、捕虜のあたりに何《/何》か鋭いかすかな音が聞こえるように思った。  突然、テナルディエは捕虜に言いかけた。 「ファーブルさん、今すぐに言っといた方《ほう》がいいようだから聞かしてあげよう。」  その数語《スウ語》は、これから何か説明が初まるもののように思われた。マリユスは耳を傾けた。テナルディエは言い続けた。 「家内はすぐに帰って来る。そうせかないで待っていなさるがいい。アルーエットはまったくお前さんの娘だろうから、お前さんが家に引き取って置きてえなあ|あたりまえ《当たり前》だと|わし《儂》も思う。だがちょっと聞いておいてもらいましょう。お前さんの手紙を持って、家内は娘さんに会いに行く。ところでさっきごらんのとおり家内《/家内’》へは相当な服装《+ナリ》をさしといたから、すぐに娘さんはついて来るに違いない。そしてふたりは辻馬車に乗るが、その後ろには|わし《儂》の仲間がひとり乗ってる。市門の外のある場所には、上等の馬が二匹ついてる小馬車がある。そこまでお前さんの娘は連れてこられるんだ。そこで娘さんは辻馬車からおりて、|わし《儂》の仲間といっしょに小馬車に乗る。家内はここに帰ってきて報告する、すんだと。娘さんの方《ほう》には別に悪いことは《は-》しねえ。娘さんはある所まで小馬車で連れてゆかれるが、そこにじっとしてるだけだ。そしてお前さんが二十万《二十万’》フランの小金を|わし《儂》にくれるとすぐに娘さんを返してあげる。もしお前さんが|わし《儂》を捕縛させるようなことをすれば、|わし《儂》の仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。まあざ《/ざ》っとこういう筋道だ。」  捕虜は一言をも発しなかった。ちょっと休んでからテナルディエは言い続けた。 「お聞きのとおり何でもねえことなんだ。お前さんの心次第で何も悪いことは起こりゃあしねえ。うち明けて|わし《儂》は話したんだ。よくのみ込んでおいてもらいてえと思ってな。」  彼は言葉を切った。捕虜は口を開こうともしなかった。テナルディエはまた言った。 「家内が帰ってきて、アルーエットは出かけたと言いさえすりゃあ、すぐにお前さんは許してあげる。勝手に家に帰って寝てもいい。ねえ、|わし《儂》らは別に悪い計画《+企み》を持ってやしねえ。」  恐るべき幻がマリユスの脳裏を過ぎった。何事ぞ、彼らはその若い娘を奪ってここへは連れてこないのか。あの怪物の|ひとり《一人》がその娘を暗黒のうちに運び去ろうとするのか。いったいどこへ?‥‥そしてもしその娘が果たして彼女であったならば! いや《や/》彼女であることは明らかである。マリユスは心臓の鼓動も止まるような気がした。どうしたものであろう。ピストルを打つがいいか。その悪漢どもを皆警官《-みんな警官》の手に渡してしまうがいいか。しかしそれにしても、あの恐ろしい斧の男は若い娘を連れてやはり手の届かぬ所に行ってるだろう。マリユスは恐ろしい意味が察せらるるテナルディエの数語《スウ語》を思った。「もしお前さんが|わし《儂》を捕縛させるようなことをすれば、|わし《儂》の仲間がアルーエットに手を下すばかりだ。」  今は《は-》もう大佐の遺言のためばかりではなく、また自分の恋のために、愛する人の危険のために、差し控えていなければならないように彼は思った。  既に一時間以上も前から続いたその恐ろしい情況は一瞬ごとに様子を変えていった。マリユスは勇を鼓して最も悲痛な推測を一々考慮してみた、そして何かの希望を|さが《探》し求めたが少しも見い出されなかった。彼の脳裏の騒乱はそ《/そ》の巣窟の気味悪い沈黙と異様な対照をなしていた。  その沈黙のうちに、階段の所の扉が開《-あ》いてま《”ま》たしまる音が聞こえた。  捕虜は縛られながらちょっと身を動かした。 「うちのお上だ。」とテナルディエは言った。  その言葉の終わるか終わらないうちに、果たしてテナルディエの女房が室《+部屋》に飛び込んできた。|まっか《真っ赤》になって、息を切らし、あえいで、目を光らしていた。そしてその大きな両手で一度に両腿をたたきながら叫んだ。 「嘘の住所だ。」  女房が引き連れていた悪漢が、彼女のあとから|はい《入》ってきて、またその斧を取り上げた。 「嘘の住所だと!」テナルディエは鸚鵡返《鸚鵡がえ》しに言った。  女房は言った。 「|だれ《誰》もいやしない。サン・ドミニク街十七番地にユルバン・ファーブルなんて者はいやしない。|だれ《誰》にきいても知ってる者なんかいないよ。」  彼女は息をつまらして言葉を切ったが、それからまた続けて言った。 「テナルディエ、お前さんはその爺さんに|ばか《馬鹿》にされたんだよ。あまりお前さんも人がよすぎるじゃないか。私ならほんとにそいつの頤《顎》を|四つ裂き《ヨツザキ》にでもしておいてかかるんだがね。意地の悪いことをしやがったら、生きてるまま煮たててやるんだがね。そうすりゃあ、きっと本当のことを言って娘のおる所や金《/かね》を隠してる所を吐き出してしまったに違いない。私だったらそういうふうにやってのけるよ。男なんて女《/女》よりはよほど|ばか《馬鹿》だって言うが、まったくだ。十七番地なんかには|だれ《誰》もいやしない。大きな門があるきりなんだ。サン・ドミニク街にはファーブルなんて者はいやしない。大急ぎで馬をかけさせるし、御者には祝儀をやるし、いろいろなことをしてさ。門番の男にも聞いたし、しっかり者らしいそのお上さんにも聞いたが、そんな人はてんで知らないじゃないかね。」  マリユスはほっと息をついた。ユルスュールかあ《/あ》るいはアルーエットか本当の名前はわからないが、とにかく彼女は救われたのだった。  たけり立った女房が怒鳴りちらしてる間《あいだ》に、テナルディエはテーブルの上に腰掛けた。彼は一言も発しないでそ《/そ》のままの姿勢をして、たれてる右足を振り動かしながら、残忍な夢想に沈んでるような様子で、しばらく火鉢の方《ほう》を見やっていた。  ついに彼は、特に獰猛なゆ《/ゆ》っくりした調子で捕虜に言った。 「嘘の住所だと、いったい貴様何《貴様/なん》のつもりだ。」 「時間を延ばすためだ!」と捕虜は爆発したような声で叫んだ。  そして同時に彼は縛られた繩を揺すった。それは皆切《-みんな切》れていた。捕虜はもはや、片足が寝台に結わえられてるばかりだった。  七人の男がはっと我《吾》に返って飛びかかる|すき《隙》も与えず、彼は暖炉の所に低く身をかがめ、火鉢の方《ほう》に手を伸ばし、それからすっくと立ち上がった。そして今やテナルディエもその女房も悪漢どもも、驚いて室《+部屋》のすみに退《-しりぞ》き、呆然と彼を見守った。彼はほとんど自由になって恐ろしい態度をし、すごい火光がしたたるばかりの|まっか《真っ赤》に焼けた鑿《+タガネ》を、頭の上に振りかざしていたのである。  ゴルボー屋敷におけるこ《/こ》の待ち伏せの後《あと》に間《/間》もなく行なわれた裁判所の調査によれば、二つに切り割って特殊《/特殊》な細工《サイク》を施した大きな一スー銅貨が、臨検の警官によってそ《/そ》の屋根部屋の中に見い出されたのだった。その大きな銅貨は、徒刑場の気長い仕事によって暗黒《/暗黒》な用途のために暗黒《/暗黒》の中で作り出される驚《/驚》くべき手工品の一つであり、破獄の道具にほかならない驚《/驚》くべき品物の一つだった。異常な技術に成ったそ《/そ》れらの恐るべき微妙《/微妙》な作品が宝石細工に対する関係は、あたかも怪しい隠語の比喩が詩《/し》に対する関係と同じである。言語のうちにヴィヨンのごとき詩人らがあると同じく、徒刑場のうちにはベンヴェヌート・チェリーニのごとき金工らがおる。自由にあこがれてる不幸な囚人は、時とすると別に道具がなくても、包丁や古《フル》ナイフなどで、二枚の薄い片に一スー銅貨を切り割り、貨幣の面《メン》には少しも疵がつかないように両片をくりぬき、《:、》その縁《フチ》に螺旋条をつけて、また両片がうまく合わさるようにこしらえることがある。それは自由にねじ合わせたりねじあけたりできるもので、一つの箱となっている。箱の中には時計の撥条《+ゼンマイ》が隠されている。そしてその撥条《+ゼンマイ》をうまく加工すると、大きな鎖でも鉄の格子でも切ることができる。その不幸な囚徒はた《/た》だ一スー銅貨しか持っていないように思われるが、実は自由を所有してるのである。ところで、後に警察の方《ほう》で捜索をした時、その部屋の窓に近い寝台の下で見いだされた、二つの片に開かれてる大きな一スー銅貨は、そういう種類のものであった。それからまた、その銅貨の中に隠し得るくらいの小《/小》さな青い鋼鉄の鋸も見い出された。おそらく、悪漢どもが捕虜の身体を|さが《探》した時、捕虜はその大きな銅貨を持っていたが、それをうまく手の中に隠し、それから次に、右手が自由になったので、それをねじあけ、中の鋸を使って縛られてる繩を切ったものであろう。マリユスが気づいたかすかな音とわずかな動作とは、またそれで説明がつく。  見現わされるのを恐れて身をかがめることができなかったので、彼は左足の縛りめは切らなかったのである。  悪漢どもは初めの驚きからようやく我に返った。 「安心しろ。」とビグルナイユはテナルディエに言った。 「まだ左の足が縛ってある。逃げることはできねえ。受け合いだ。あの足を縛ったなあ俺だぜ。」  そのうちに捕虜は声を揚げた。 「君らは気の毒な者どもだ。|わし《儂》の生命《イノチ》はそう骨折って大事にするほどのものはな《無》い。ただ、|わし《儂》に口をきかせようとしたり、書きたくないことを書かせようとしたり、言いたくないことを言わせようとしたりするからには‥‥。」  彼は左腕《ヒダリウデ》の袖をまくり上げてつけ加えた。 「見ろ。」  同時に彼は腕を伸ばして、右手に木の柄《エ》をつかんで持っていた焼《/焼》けてる鑿《+タガネ》を、その|あら《露》わな肉の上に押し当てた。  じゅーっと肉の焼ける音が聞こえ、拷問部屋に似た|にお《匂》いが室《+部屋》にひろがった。マリユスは恐ろしさに気を失ってよろめき、悪漢どもすら震え上がった。しかしその異常な老人の顔はちょっとひきつったばかりだった。そして赤熱した鉄が煙を上げてる傷口の中にはいってゆく間、彼は平気なほ《/ほ》とんど荘厳な様子で、美しい目をじっとテナルディエの上にすえていた。その目の中には、何ら憎悪の影もなく、一種《1種’》朗らかな威厳のうちに苦痛《/苦痛》の色も消えうせてしまっていた。  偉大な高邁《/高邁》な性格の人にあっては、肉体的の苦悩にとらえられた筋肉と感覚との擾乱は、その心霊を発露さして、それを額の上に現出させる。あたかも兵卒らの反逆はつ《/つ》いに指揮官を呼び出すがようなものである。 「みじめな者ども、」と彼は言った、「|わし《儂》が君らを恐れないと同じに、君らももう|わし《儂》を恐れるには及ばない。」  そして彼は傷口から鑿《+タガネ》を引き離し、開いていた窓からそれを外に投げ捨てた。赤熱した恐ろしい道具は、回転しながら暗夜のうちに隠れ、遠く雪の中に落ちて冷えていった。  捕虜は言った。 「どうとでも勝手にするがいい。」  彼はもう武器は一つも持っていなかった。 「奴《ヤツ》を捕えろ!」とテナルディエは言った。  悪漢のうちのふたりは彼の肩をとらえた。そして仮面をつけた腹声《腹ゴエ》の男は、彼の前に立ちふさがって、少しでも動いたら大鍵《+オオカギ》を食わして頭《/頭》を打ち破ってやろうと待ち構えた。  同時にマリユスは、壁の下の方で自分のすぐ下に、低い声でかわされる次の対話を聞いた。あまり近いので、話してる者の姿は穴から見えなかった。 「こうなったらほかに仕方はねえ。」 「やっつける!」 「そうだ。」  それは主人と女房とが相談してるのだった。  テナルディエはゆっくりとテーブルの方《ほう》へ歩み寄って、その引き出しを開き、ナイフを取り出した。  マリユスはピストルの手を握りしめた。異常な困惑のうちに陥った。一時間前から、彼の内心のうちには二つの声があった。一つは父の遺言を尊重せよと彼に語り、一つは捕虜を救えと彼に語っていた。その二つの声は絶えず互いに争闘を続けて彼《/彼》を|もだ《悶》えさした。彼はこの瞬間まで、その二つの義務を相融和し得る道はないかと漠然と願っていた。しかしそれをかなえるようなものは何も起こってこなかった。しかるにもはや危機は迫っており、遅滞の最後は越えられていた。捕虜から数歩《スウホ》の所に、テナルディエはナイフを手にして考え込んでいた。  マリユスは昏迷してあたりを見回した。絶望の極《極み》の最後の機械的な手段である。  と突然、彼はおどり上がった。  彼の足下に、テーブルの上に、満月の強い光が一枚の紙片を照らし出して、彼にそれを示してるかのようだった。その紙片の上に彼は、テナルディエの姉娘がその朝書いた大きな文字の次の一行《イチギョウ》を読んだ。  ──いぬがいる。  一つの考えが、一つの光が、マリユスの脳裏をよぎった。それこそ彼が|さが《探》している方法だった。彼を苦しめてる恐るべき問題の解決、殺害者を逃がし被害者《/被害者》を救う方法であった。彼は戸棚の上にひざまずき、腕を伸ばし、その紙片をつかみ取《と》り、壁から一塊の漆喰を静かにはぎ取り、それを紙片に包みそ《/そ》のままそれを部屋のまんなかに穴から投げ込んだ。  ちょうど危うい時であった。テナルディエは最後の危懼《+危惧/》もしくは最後の用心をおさえつけて、捕虜の方《ほう》へ歩《-歩》を進めていた。 「何か落ちた。」とテナルディエの女房は叫んだ。 「何《なん》だ?」と亭主は言った。  女房は駆け寄って、紙に包んだ漆喰を拾った。  彼女はそれを亭主に渡した。 「どこからきたんだ。」とテナルディエは尋ねた。 「なにど《/ど》こから来るもんかね、」と女房は言った、「窓からよりほかはないじゃないかね。」 「俺はそれが飛んで来る所を見た。」とビグルナイユは言った。  テナルディエは急いで紙をひらき、蝋燭の火に近づけた。 「エポニーヌの手蹟《+手》だ。畜生!」  彼は女房に|合い図《合図》をすると、女房はすぐにそばにきた。彼は紙に書いてある一行《イチギョウ》の文句を示して、それから鈍い声でつけ加えた。 「早く! 梯子だ。肉は鼠罠に入れたままで、引き上げよう。」 「首をちょんぎらずにかえ。」と女房は尋ねた。 「そんな暇はねえ。」 「どこから逃げるんだ。」とビグルナイユは言った。 「窓からよ。」とテナルディエは答えた。「エポニーヌが窓から石をほうり込んだところを見ると、その方《ほう》には手が回ってねえことがわかる。」  仮面をつけた腹声《腹ゴエ》の男は、大鍵《+オオ鍵》を下に置き、両腕を高く上げて、黙ったままその手を三度急《三度/急》がしく開いたり握ったりした。それは船員らの間の戦闘準備の|合い図《合図》みたいなものだった。捕虜をとらえていた悪漢はその手を離した。またたく間に、繩梯子は窓の外におろされ、二つの鉄の鈎《カギ》でしっかと窓縁《マドベリ》に止められた。  捕虜は周囲に起こってることには少しも注意をしなかった。彼は何か夢想しあ《/あ》るいは祈祷してるが《が-》ようだった。  繩梯子がつけられるや、テナルディエは叫んだ。 「こい、上《かみ》さん!」  そして彼は窓の方《ほう》へつ《突》き進んだ。  しかし彼がそこをまたごうとした時、ビグルナイユは荒々しく彼の襟筋をつかんだ。 「いけねえ、古狸め、俺たちが先だ。」 「俺たちが先だ!」と悪漢どもは怒鳴り立てた。 「つまらねえ野郎だな、」とテナルディエは言った、「時間をつぶすばかりだ。いぬどもがき《来》かかってるじゃねえか。」 「じゃあ、」と|ひとり《一人》の悪漢が言った、「だれが一番先か籤引きをしろ。」  テナルディエは叫んだ。 「|ばか《馬鹿》ども、気でも狂ったのか。のろまばかりそろってやがる。時間をつぶすばかりじゃねえか。籤引きをするっていうのか。じゃんけんか、藁屑か、名前を書いて帽子に入れてか‥‥。」 「俺の帽子ではどうだ。」と入り口の所に声がした。  皆《みな》の者は振り向いた。それはジャヴェルだった。  彼は手に帽を持って、微笑《微笑’》しながらそれを差し出していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十一章】 【常にまず被害者を捕《捕ら》うべし】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャヴェルは日暮れに、手下を方々《ほうぼう》に張り込ませ、大通りをはさんでゴルボー屋敷と向かい合ったバ《/バ》リエール・デ・ゴブラン街の|木立ち《木立》の後ろに自ら身を潜めた。彼はまずいわゆる「ポケット」を開いて、屋敷の付近に見張りをしてるふたりの娘をその中にねじ込もうとした。しかし彼はアゼルマをしか「袋にする」ことはできなかった。エポニーヌの方《ほう》はその場所にいなくて姿が見えなかったので、捕えることができなかった。それからジャヴェルは位置について、約束の|合い図《合図》を待って耳を傾けていた。辻馬車が出かけたり戻ってきたりするので、彼は少なからず心配になって、ついにた《耐》えきれなくなった。そして多くの悪漢どもがはいり込んだのを認めていたので、確かにそこに巣があると思い、確かにうまいことがあるに違いないと信じて、ピストルの鳴るのをも待たずにはいって行こうと心を決した。  読者の思い起こすとおり、彼はマリユスの合い鍵を持っていたのである。  彼はちょうどいい時にやってきた。  狼狽した悪漢らは、逃げ出そうとする時方々《時/ほうぼう》に投げ捨てた武器をまたつかみ取った。またたく間に、見るも恐ろしいそれら七人の者どもは、いっしょに集まって防御の姿勢を取った。|ひとり《一人》は斧を持ち、|ひとり《一人》は大鍵《オオカギ》を持ち、|ひとり《一人》は玄翁を持ち、その他の者は鋏や火箸《/火箸》や金槌《/金槌》などを持ち、テナルディエはナイフを手に握っていた。テナルディエの女房は娘たちが腰掛けにしていた窓《/窓》の角《カド》にある大きな畳石をつかんだ。  ジャヴェルは帽子をかぶって、両腕を組み、杖を小脇にはさみ、剣を鞘に納めたままで、室《+部屋》の中に二歩はいり込んだ。 「そこにじっとしていろ!」と彼は言った。「窓から出ちゃいかん。出るなら扉の方《ほう》から出してやる。その方《ほう》が安全だ。貴様たちは七人だが、こちらは十五人だ。オーヴェルニュの田舎者のようにつかみ合わなくてもいい。静かにしろ。」  ビグルナイユは上衣の下に隠し持っていたピストルを取って、それをテナルディエの手に渡しながら、彼の耳にささやいた。 「あれはジャヴェルだ。俺はあいつに引き金を引くなあ|いや《嫌》だ。貴様やってみるか。」 「やるとも。」とテナルディエは答えた。 「じゃあ打ってみろ。」  テナルディエはピストルを取って、ジャヴェルをねらった。  三歩前《3歩’前》の所にいたジャヴェルは、彼をじっとながめて、ただこれだけ言った。 「打つな、おい、当たりゃしない。」  テナルディエは引き金を引いた。弾《玉》ははずれた。 「それみろ!」とジャヴェルは言った。  ビグルナイユは玄翁をジャヴェルの足下に投げ出した。 「旦那は悪魔の王様だ、降参すらあ。」 「そして貴様たちもか。」とジャヴェルは他の悪漢どもに尋ねた。  彼らは答えた。 「|へえ《ヘエ》。」  ジャヴェルは静かに言った。 「そうだ、それでよし。俺が言ったとおり、皆《みんな-》おとなしい奴らだ。」 「ただ一つお願いがあります、」とビグルナイユは言った、「監禁中煙草《監禁中/煙草》は許していただきてえんですが。」 「許してやる。」とジャヴェルは言った。  そして後ろをふり返って呼んだ。 「さあはいってこい。」  剣を手にした巡査と棍棒の類《類い》を持った刑事との一隊が、ジャヴェルの声に応じておどり込んできた。そして悪漢どもを縛り上げた。一本の蝋燭の光がそれら一群の人々をようやく照らして、部屋の中はいっぱい影に満ちた。 「皆に指錠をはめろ。」とジャヴェルは叫んだ。 「そばにでもきてみろ!《/》」と叫ぶ声がした。それは男の声ではなかったが、さりとて女の声とも言い得ないものだった。  テナルディエの女房が窓の一方の角《カド》によって、その怒鳴り声を揚げたのだった。  巡査や刑事らは後ろにさがった。  彼女は肩掛けをぬぎすてて、帽子だけはかぶっていた。亭主はその後ろにうずくまって、ぬぎすてられた肩掛けの下に身を隠さんばかりにしていた。彼女はまたそれを自分の身体《体》でおおいながら両手《/両手》で頭の上の畳石を振りかざして、岩石を投げ飛ばさんとする巨人のように調子を取っていた。 「気をつけろ。」と彼女は叫んだ。  人々は廊下の方《ほう》へ退いた。室《部屋》のまんなかには広い空地《空き地》があいた。  テナルディエの女房は指錠をはめられるままに身を任した悪漢どもの方《ほう》をじろりと見やって、つぶれた喉声でつぶやいた。 「卑怯者!」  ジャヴェルはほほえんだ。そしてテナルディエの女房がにらみつけてる空地《空き地》のうちに進み出た。 「近くへ来るな、行っちまえ、」と彼女は叫んだ、「そうしないとぶっつぶすぞ。」 「すごい勢いだな。」とジャヴェルは言った。「上さん、お前さんに男のような髯があるからって、|わし《儂》にも女のような爪があるからな。」  そして彼はなお進んで行った。  テナルディエの女房は髪をふり乱し恐《/恐》ろしい様子をし、足をふみ開き、後ろに身をそらして、ジャヴェルの頭をめがけて狂《/狂》わんばかりに畳石を投げつけた。ジャヴェルは身をかがめた。畳石は彼の上を飛び越え、向こうの壁につき当たって漆喰《/漆喰》の大きな一片をつき落とし、《:、》それから、幸いにほとんど人のいなかった室《+部屋》のまんなかを、角《カド》から角《カド》とご《/ご》ろごろころがり戻って、ジャヴェルの足下にきて止まった。  同時にジャヴェルはテナルディエ夫婦の所へ進んだ。彼の大きな手は、一方に女房の肩をとらえ、一方に亭主の頭を押さえた。 「指錠だ!」と彼は叫んだ。  警官らは皆一度《-みんな一度》に戻ってきた。そして数秒のうちにジャヴェルの命令は遂行された。  とりひしがれたテナルディエの女房は、縛り上げられた自分の手と亭主の手とを見て、床の上に身を投げ出して、泣き声を揚げた。 「ああ《あ/》娘たちは!」 「娘どもも、もう暗い所へはいってる。」とジャヴェルは言った。  そのうちに警官らは、扉の後ろに眠っている酔っ払いを見つけて、揺り動かした。彼は目をさましながらつぶやいた。 「すんだか、ジョンドレット。」 「すんだよ。」とジャヴェルが答えた。  捕縛された六人の悪漢はそこに立っていた。でも彼らはその異様な顔つきのままであって、三人は顔をまっ黒に塗っており、三人は仮面をかぶっていた。 「面はつけておけ。」とジャヴェルは言った。  そして、ポツダム宮殿で観兵式をやるフレデリック二世のような目つきで、後《あと》は一同を見渡して、それから三人の「暖炉職工」へ向かって言った。 「どうだビグルナイユ。どうだブリュジョン。どうだドゥー・ミリヤール。」  次に仮面をかぶってる三人の方《ほう》へ向いて、彼は斧の男に言った。 「どうだな、グールメル。」  それから棍棒の男に言った。 「どうだな、バベ。」  それから腹声《腹ゴエ》の男に言った。 「おめでとう、クラクズー。」  その時彼は、悪漢どもの捕虜を顧みた。捕虜は警官らがはいってきてからは、一言をも発せず、じっと頭《コウベ》をたれていた。 「その者を解いてやれ。」とジャヴェルは言った。「そして|ひとり《一人》も外へ出てはならんぞ。」  そう言って彼は、おごそかにテーブルの前にすわった。テーブルの上には蝋燭とペ《/ペ》ンやイ《/イ》ンキがまだ置いてあった。彼はポケットから印のはいった紙を一枚取り出して、調書を書き初《始》めた。  いつも同一なきまり文句を|二、三行《二’三ギョウ》書いた時、彼は目を上げた。 「その男どもから縛られていた者をここに連れてこい。」  警官らはあたりを見回した。 「どうしたんだ、」とジャヴェルは尋ねた、「その者はどこにおるんだ。」  悪漢どもの捕虜、ルブラン氏も《/も》しくはユルバン・ファーブル氏、もしくは、ユルスュールあ《/あ》るいはアルーエットの父親は、消えうせてしまっていた。  扉には番がついていたが、窓には番がいなかった。彼は縛りが解かれたのを見るや否や、ジャヴェルが調書を書いてる間《あいだ》に、混雑と騒《/騒》ぎと人込《/人込》みと薄暗《/薄暗》さとま《”ま》た|だれ《誰》も自分に注意を向けていない瞬間とに乗じて、窓から飛び出して行ったのである。  |ひとり《一人》の警官は窓の所へ駆け寄って見回した。外にはだれも見えなかった。  繩梯子《+繩バシゴ》はまだ動いていた。 「畜生!」とジャヴェルは口の中で言った。「あれが一番大事な奴だったに違いないが。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十二章】 【第二部第三編に泣きいし子供】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それらの事件がオピタル大通りの家で起こったその次の日、オーステルリッツ橋《バシ》の方《ほう》からき《来》たらしい|ひとり《一人》の少年が、フォンテーヌブロー市門の方《ほう》へ向かって右手《/右手》の横丁を進んで行った。まったく夜になっていた。少年は色青くやせていて、|ぼろ《ボロ》をまとい、二月の寒空に麻のズボンをつけ、声の限りに歌を歌っていた。  プティー・バンキエ街の角《カド》の所に、腰の曲がった婆さんが、街灯の光を頼りに掃き溜めの中をかき回していた。少年は通りすがりにその婆さんにつき当たって、それからあとじさりながら大きい声で言った。 「おやあ! 俺はまたでかいで《/で》かい犬かと思ったい。」  彼はその二度目の「でかい」という言葉を、おどけた声を張り上げて言った、文字にすればその言葉だけ一段と活字を大きくすべき所である。  婆さんは怒って立ち上がった。 「小僧め!」と彼女はつぶやいた。「かがんでいなかったら、蹴飛ばしてやるところだったに。」  少年は既に向こうに行っていた。 「しッしッ。」と彼は言った。「やはり犬には違いないや。」  婆さんは息もつまらんばかりに腹を立てて、すっかり立ち上がった。目尻の皺と口角とがいっしょになってる角張《/角張》った皺だらけの蒼白《ソウハク》な顔を、街灯の赤い光が正面から照らした。身体は影の中に隠れて、頭だけしか見えなかった。暗夜のうちから一条の光で切り取られた「老耄《老いぼれ》」そのものの面かと思われた。少年はそれをじろじろながめた。 「お上さんも美しいがね、俺の気に入る|たち《タチ》のものじゃあないや。」と彼は言った。  彼はまた歩き出して、歌い初《始》めた。 ◇。◇。 【クードサボ王様(どた靴王様)】 【狩りに行かれぬ、】 【烏の狩りに‥‥】 ◇。◇。  そう三句歌った後《あと》、彼は口をつぐんだ。彼は五十・《’》五十二番地の家の前にきていた。そして戸《ト》がし《閉》まってるのを見て、足で蹴《-け》り初《始》めた。その大きな激しい音は、彼の少年の足よりもむしろ、その足には《履》いてる大人の靴を示していた。  そのうちに、プティー・バンキエ街の角《カド》で出会った先刻の婆《’婆》さんが、叫び声を立て大層《/大層》な身振りをして、後ろから駆けつけてきた。 「どうしたんだね。どうしたんだね。まあ、戸が破れるじゃないか。家をこわしでもするのかい。」  少年はやはり蹴《-け》り続けた。  婆さんは喉を張り裂かんばかりに叫んだ。 「おい、人の家をそんなにしてもいいものかね。」  と突然《突然’》彼女は言葉を切った。先刻の浮浪少年であることに気づいたのである。 「おや、今の餓鬼だよ。」 「おや、お婆さんか。」と少年は言った。「こんちは、ビュルゴンミューシュ婆さん。俺はちょっと御先祖様に会いにきたんだ。」  婆さんは老衰と醜さとをよく利用して即座《/即座》にしたたか憎しみを|現わ《現》す変なしかめっ面をしたが、それは不幸にも暗やみの中なので見えなかった、そして答えた。 「もうだれもいないよ、おばかさん。」 「へえー。」と少年は言った。「じゃあ親父はどこにいるんだい。」 「フォルス監獄だよ。」 「おやあ! じゃあ母親《+お袋》は?」 「サン・ラザール懲治監だよ。」 「なるほど! それから姉《-あね》たちは?」 「マドロンネット拘禁所だよ。」  少年は耳の後ろをかいて、ビュルゴン婆さんをながめた、そして言った。 「ほうー。」  それから彼は回れ右をして立ち去った。戸口に立っていた婆さんは、それからすぐに、冬の寒風に震えてる黒い楡の|並み木《並木》の下《-した》を、歌《うた》を歌いながら遠ざかってゆく少年の朗らかな若い声を聞いた。 ◇。◇。 【クードサボ王様】 【狩りに行かれぬ、】 【烏の狩りに、】 【お輿は竹馬《タケウマ》。《-》】 【下をくぐらば】 【二スー取られぬ。】 ◇。◇。 【底本:「レ・ミゼラブル(二)」岩波文庫、岩波書店】 【   1987(昭和62)年4月16日改版第|1刷《イッサツ》発行】 【《【:》   「レ・ミゼラブル(三)」岩波文庫、岩波書店】 【   1987(昭和62)年5月18日改版第|1刷《イッサツ》発行】 【※《◇》「ジョンドレットの女房が」の段落は、底本では天付きになっています。】 【※《◇》誤植の確認に「レ・ミゼラブル(四《4》)」岩波文庫、岩波書店1《/1》959(昭和34)年6月10日第12刷《サツ》を用いました。】 【入力:tatsuki】 【校正:門田裕志、小林繁雄】 【2007年1月16日作成】 【2013年4月21日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。