◇。◇。◇。◇。◇。 【レ・ミゼラブル】 【第五部】 【ジャン・ヴァルジャン】 【ビクトル・ユーゴー】 【豊島与志雄訳】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一編《第イッペン》】 【市街戦】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【サン・タントアーヌとタンプルとの両防寨】 ◇。◇。◇。◇。◇。  社会の病根を観察する者がま《”ま》ずあげ得る最も顕著な二つの防寨は、本書の事件と同時代のものではない。その二つの防寨は、異なった二つの局面においてい《/い》ずれも恐るべき情況を象徴するものであって、有史以来の最も大なる市街戦たる《る/》1848年六月の宿命的な反乱のおり、地上に現われ出たのである。  時として、主義に反し、自由と平等《/平等》と友愛《/友愛》とに反し、一般投票に反し、万人が万人を統べる政府に反してまでも、その苦悩と落胆《/落胆》と欠乏《/欠乏》と激昂《/ゲッコウ》と困窮《/困窮》と毒気《/毒気》と無知《/無知》と暗黒《/暗黒》との底から、《:、》絶望せる偉人ともいうべき賤民は抗議を持ち出すことがあり、下層民は民衆に戦いをいどむことがある。  無頼の徒は公衆の権利を攻撃し、愚衆は良民に反抗する。  それこそ痛むべき争闘である。なぜかなれば、その暴行のうちには常に多少の権利があり、その私闘のうちには自殺が存するからである。そして無頼の徒といい賤民《/賤民》といい愚衆《/愚衆》といい下層民《/下層民》という侮辱的なそれらの言葉は、《:、》悲しくも、苦しむ者らの罪よりもむ《/む》しろ統治する者らの罪を証し、零落者らの罪よりもむ《/む》しろ特権者らの罪を証明する。  しかして吾人は、それらの言葉を発するに悲痛と敬意とを感ぜざるを得ない。哲学はそれらの言葉に相当する事実の底を|究む《究》る時、悲惨と相並んで多《/多》くの壮大さがあるのをしばしば見いだすからである。アテネは一つの愚衆であった。無頼の徒はオランダを造った。下層民は一度ならずローマを救った。そして賤民はイエス・キリストのあとに従っていた。  いかなる思想家といえども、時として下層の偉観を|なが《眺》めなかった者はない。  聖ゼロームが心を向けていたのは、疑いもなくこの賤民へであった。「都市の泥濘こそ地《/地》の大法なり」と神秘な言葉を発した時、彼の心が考えていたのは、使徒や殉教者らが輩出したそれらの貧民や浮浪《/浮浪》の徒やみ《/み》じめな者らのことをであった。  苦しみそ《/そ》して血をしぼってるこの多衆の激怒、おのれの生命《イノチ》たる主義に反するその暴行、権利に反するその暴挙、などは皆下層民《皆’下層民》の武断政略《+クーデター》であって、鎮圧されなければならないものである。正直なる者はそういう鎮圧に身をささげ、多衆を愛するがゆえにかえってそれと戦う。しかしながら彼は、対抗しながらもいかにそれを宥恕すべきものであるかを感じ、抵抗しながらもいかにそれを貴んでいることであろう! おのれのなすべきところをなしながら、足を引き止《と》むるようなあ《/あ》る不安な何物かを感ずる稀有な時期は、かかるところから到来する。人は固執する、固執しなければならない。しかし本心は満足しながらも悲しんでいる。そして義務の遂行のうちに、ある痛心の情が交じってくる。  直ちに言を進めるが、1848年六月の暴動は特殊の事実であって、ほとんど歴史哲学のうちにおいて他《/他》と同類に置くことのできないものである。吾人が上に発した言葉はすべて、おのれの権利を要求する労働の聖《/聖》なる焦慮が感ぜらるるこの異例の暴動に関しては、排除しなければならない。この暴動を人は鎮圧しなければならなかった、それは義務であった、なぜならこの暴動は共和を攻撃したから。しかし根底においては、1848年六月は何《-なん》であったか。それは民衆のおのれ自身に対する反抗であった。  主題から目を離しさえしなければ、決して岐路に陥るものではない。それでちょっとの間《あいだ》、上にあげたまったく独特な二つの防寨に読者《/読者》の注意を向けさせることを、ここに許していただきたい。その二つの防寨こそ、1848年六月の反抗の特質を示すものである。  一つはサン・タントアーヌ郭外の入り口をふさいでいた、一つはタンプル郭外を防護していた。六月の輝く青空の下にそびえた、この内乱の恐るべき二つの傑作は、見る者に忘るべからざる印象《’印象》を与えた。  サン・タントアーヌの防寨は雄魁なものだった。高さは人家の三階に及び、長さは七百尺《700尺》に及んでいた。その郭外の広い入り口す《/す》なわち三つの街路を、一方から他方まで|ふさ《塞》いでいた。凹凸し、錯雑し、鋸形《+ノコギリガタ》をし、入り組み、広い裂け目を銃眼とし、それぞれ稜角堡《+稜角ホウ》をなす多くの築堤で|ささ《支》えられ、《:、》そこここに突起を出し、背後には人家の大きな二つの突出部が控えていて、既に七月十四日(1789年)を経てきたそ《/そ》の恐るべき場所の奥に、巨大なる堤防のようにそびえていた。そしてこの大親《タイシン》たる防寨の後ろには、各街路の奥に十九の小防寨《ショウ防寨》が重なっていた。その郭外のうちにある広大なる半死の苦しみは、困窮が最後の覆滅を望むような危急な瞬間に達していることが、防寨を一目見《ひと目見》ただけで感ぜられた。しかも防寨は何でできていたか。ある者の言によれば、七階建《7階だ》ての人家を三つ|ことさら《/殊更》に破壊して作ったものだといい、ある者の言によれば、あらゆる憤怒《フンヌ》の念が奇蹟的に作り上げたものだという。そして憎悪のあらゆる手段をもって築かれた痛むべき光景、倒壊の趣を持っていた。|だれ《誰》がそれを建設したか、とも言い得らるれば、|だれ《誰》がそれを破壊したか、とも言い得られた。沸騰せる熱情が即座に作ったものであった。扉、鉄門、庇《廂》、框、|こわ《壊》れた火鉢、亀裂した鍋、すべてを与え、すべてを投げ込み、すべてを押し入れこ《”こ》ろがし掘《/掘》り返し破壊《/破壊》しく《”く》つがえし打《/打》ち砕いたのである。舗石《+敷石》、泥土《ドロツチ》、梁《ハリ》、鉄棒、|ぼろ《ボロ》、ガラスの破片、腰のぬけた椅子、青物の芯、錠前、屑、および呪詛の念などから成っていた。偉大であり、また卑賤であった。渾沌《混沌》たるものが即座に作った深淵であった。大塊に小破片、引きぬかれた一面の壁に|こわ《壊》れた皿、あらゆる破片の恐るべき混和、シシフォス(訳者注◇ 地獄の中にて絶えず大石を転がす刑に処せられし人─神話)はそこにおのれの岩を投げ込み、ヨブはそこにおのれの壜の破片を投げ込んでいた。要するにまったく恐ろしいものだった。浮浪の徒の堡塁だった。くつがえされた多くの荷馬車はその斜面を錯雑さしていた。大きな大八車が一つ、車軸を上にして横ざまに積まれて、紛糾した正面に一つの傷痕をつけてるかのようだった。乗り合い馬車が一つ、砦の頂にむりやりに引き上げられ、あたかも荒々しい砦の築造者らが恐怖《/恐怖》に悪戯を添えんと欲したかのように、その轅をいたずらにある空中の馬に差し出してるかと思われた。その巨大な堆積、暴動の積層は、あらゆる革命がオッサ山《サン》とペ《/ペ》リオン山《サン》とを積み重ねたものかと(訳者注◇ ジュピテルに反抗した巨人らが天に攻め上らんために重ねたテッサリーの二つの山)見る者の心に思わせた。89年(1789)の上に積み重ねた93年(1793)、八月十日(1792年)の上に積み重ねた共和熱月《共和熱ガツ》九日(1794年七月二十七日)、《:、》一月二十一日(1793年)の上に積み重ねた共和霧月《共和キリゲツ》十八日(1799年十一月九日)、共和草月(1795年五月)の上に積み重ねた共和檣月《共和ショウゲツ》(1795年十月)、1830年の上に積み重ねた1848年であった。場所の要害はその努力にふさわしいものであり、防寨はバスティーユの牢獄の消えうせた場所に出現して恥ずかしくないものであった。もし大洋が堤防を築くとするならば、おそらくかかる防寨を築くであろう。狂猛《凶猛》な怒濤の跡はその畸形な堆積の上に印せられていた。しかもその怒濤は、下層の群集だったのである。その喧囂の状の化石が見えるかと思われた。急激な進歩の暗い大きな蜂の群れがおのれの巣の中で騒いでるのが、この防寨の上に聞こえるかと思われた。それは一つの藪であったか、酒神の祭であったか、それとも一つの要塞であったろうか。眩惑の羽ばたきによって作られたものかと思われた。その角面堡《+カクメンホウ》のうちには一種の塵芥《+ゴミ》の山があり、その堆積のうちには一種のオリンポスの殿堂があった。その絶望に満ちた混乱のうちに見らるるものは、屋根の椽木《+垂木》、色紙のはられた屋根部屋の断片、砲弾を待ち受けて物《/物》の破片のうちに立てられてるガラスのついた窓の扉、《:、》引きぬかれた煙筒《+煙突》、戸棚、テーブル、腰掛け、上を下《-した》への乱雑な堆積、それから乞食さえも拒むような無数のがらくた、そのうちには狂猛《凶猛》と虚無とが同時にこもっていた。民衆の|ぼろ《ボロ》屑、木材と鉄《/鉄》と青銅《/青銅》と石《/石》との|ぼろ《ボロ》屑であって、サン・タントアーヌ郭外が巨大な箒の一掃《ひと掃》きでそれらを戸口に押しやり、その悲惨をもって防寨となしたかのようだった。首切り盤のような鉄塊、引き|ち切《千切》られた鎖、絞首台の柱のような角材、物の破片の中に横倒しに置かれてる車輪、《:、》それらのものはこの無政府の堂宇に、民衆が受けてきた古い苛責の陰惨な相貌を交じえさしていた。実《じつ》にこのサン・タントアーヌの防寨は、すべてのものを武器としていた。内乱が社会の頭に投げつけ得るすべてのものは、そこに姿を現わしていた。それは一つの戦いではなくて、憤怒《フンヌ》の発作だった。その角面堡《+カクメンホウ》をまもってるカラビン銃は、中に交じってた数個の霰弾銃とともに、瀬戸物の破片や、骨片や、上衣のボタンや、《:、》また銅がはいってるために有害な弾となる寝室《/寝室》のテーブルの足についてる小車輪までも、やたらに発射した。防寨全部がまったく狂乱していた。名状し難い騒擾の声を雲《/雲》の中まで立ち上《のぼ》らしていた。ある瞬間には、軍隊に戦いをいどみながら、群集と騒乱とでおおわれてしまった。|燃ゆる《モユル》がような無数の頭が、その頂を|おお《覆》い隠した。蟻のような群集がいっぱいになっていた。その頂上には、銃やサ《/サ》ーベルや棍棒《/棍棒》や斧《/斧》や槍《/槍》や剣銃《/剣銃》などがつき立っていた。広い赤旗が風にはためいていた。号令の叫び、進撃の歌、太鼓の響き、婦人の泣き声、餓死《餓死'》の暗黒な哄笑、などがそこに聞かれた。防寨はまったく常規《常軌》を逸したもので、しかも生命《イノチ》を有していた。あたかも雷獣の背のように電光《/電光》の火花がほとばしり出ていた。神の声に似た民衆の声がうなっているその頂は、革命の精神から発する暗雲に|おお《覆》われていた。異常な荘厳さが、巨人の屑籠をくつがえしたようなそ《/そ》の破片の堆積から発していた。それは塵芥《+ゴミ》の山であり、またシナイの山(訳者注◇ モーゼがエホバより戒律を受けし所)であった。  上に言ったとおり、この防寨は革命の名においてし《/し》かも革命を攻撃したのである。偶然であり、無秩序であり、狼狽であり、誤解であり、未知数であったこの防寨は、立憲議会と民衆《/民衆》の大権と普通選挙《/普通選挙》と国民《”国民》と共和《/共和》とを向こうにまわしたのである。それはマルセイエーズ(フランス国歌)にいどみかかるカ《/カ》ルマニョールの歌(革命歌)であった。  狂乱《狂乱’》せるし《/し》かも勇壮なる挑戦であった。なぜなれば、この古い郭外は一個の英雄だからである。  郭外と角面堡《+カクメンホウ》とは互いに力を合わしていた。郭外は角面堡《+カクメンホウ》の肩にすがり、角面堡《+カクメンホウ》は郭外に身を|ささ《支》えていた。広い防寨は、アフリカの諸将軍の戦略をも拉ぐ断崖のごとく横たわっていた。その洞窟、その瘤、その疣、その隆肉《’隆肉》などは、言わば顔を顰めて、硝煙の下に冷笑していた。霰弾は形もなく消えうせ、榴弾は埋まり没《/没》しの《/飲》み込まれ、破裂弾はただ穴を明け得るのみだった。およそ混沌たるものを砲撃しても何の効があろう。戦役の最も荒々しい光景になれていた各連隊も、猪のごとく毛を逆立《逆だ》て山《/山》のごとく巨大なその角面堡《+カクメンホウ》の野獣を、不安な目で|なが《眺》めたのである。  そこから約四半里《約四半里’》ばかり先、シャトー・ドーの近くで大通りに出てるタンプル街の角《カド》で、ダルマーニュという商店の少しつき出た店先から思《/思》いきって頭を出してみると、《:、》遠くに、運河の向こうに、ベルヴィルの坂道を上ってる街路の中、坂道を上りきった所に、人家の三階の高さに達する不思議な障壁が見られた。それはあたかも左右の軒並みを連ねたが《が-》ようで、街路を一挙にふさぐために最《/最》も高い壁を折り曲げたが《が-》ようだった。しかしその壁は、実は舗石《+敷石》で築かれていたのである。|まっす《真っ直》ぐで、規則正しく、冷然として、垂直になっており、定規をあて墨縄《/墨縄》を引き錘鉛《+/スイエン》をたれて作られたもののようだった。もとよりセメントは用いられていなかったが、しかもローマのある障壁に見らるるように、そのため建築上の強固さは少しも減じていなかった。高さから推してまた奥行も察せられた。上層と地覆《+チフク》とはまったく数学的な平行を保《-たも》っていた。灰色の表面には所々に、ほとんど目につかないくらいの銃眼の列が黒《/黒》い糸のように見えていた。各銃眼の間には一定の等しい距離が置かれていた。街路には目の届くかぎり人影もなかった。窓も扉も皆しめ切ってあった。そして奥に立っている防壁のために、あたかも袋町のようになっていた。防壁は不動のまま静まり返っていた。何らの人影も見えず、何らの音も聞こえなかった。一つの叫び声もなく、一つの物音もなく、息の音《’音》さえもなかった。まったく一つの墳墓だった。  六月のまぶしい太陽は、その恐るべき物の上に一面の光を浴びせていた。  これが、タンプル郭外の防寨であった。  この場所に行ってそれを|なが《眺》むると、最も豪胆な者でもそ《/そ》の神秘な出現の前に考え込まざるを得なかった。それはよく整い、よく接合し、鱗形《+ウロコガタ》に並び、直線をなし、均斉を保ち、しかも凄惨な趣があった。学理と暗黒とがこもっていた。防寨の首領は、幾何学者かも《/も》しくは幽鬼かと思われた。人々はそれを|なが《眺》め、そして声低《声’低》く語り合った。  時々、兵士か将校かあ《/あ》るいは代議士か|だれ《誰》かが、偶然その寂しい大道を通りかかると、鋭いかすかな音がして、通行者は負傷するか死ぬかして地《/地》に倒れた。もし幸いにそれを免れる時には、閉ざされた雨戸か、素石《ソセキ》の間か、壁の漆喰かの中に、一発の弾がはいり込むのが見られた。時とするとそれはビスカ《カ-》イヤン銃のこともあった。防寨の人々は多く、一端《いったん》を麻屑と粘土とでふさいだ鋳鉄《/鋳鉄》のガス管二本で、二つの小さな銃身をこしらえていた。ほとんど火薬を|むだ《無駄》に費やすことはなかった。弾《玉》はたいてい命中した。そこここに死体が横たわって、舗石《+敷石》の上には血《血’》がたまっていた。また著者は、一匹の白い蝶が街路を飛び回ってたことを記憶している。さすがに夏の季節だけは平然としていた。  付近の大きな門の下には、負傷者がいっぱいはいっていた。  そこでは、姿を隠してる|だれ《誰》かから常にねらわれるような感があった。明らかに街路中《街路じゅう》どこででも|ねら《狙》い打ちにされるらしかった。  タンプル郭外の入り口に運河《/運河》の円橋《丸橋》がこしらえてる驢馬の背中ほどの空地《空き地》の後ろに、攻撃縦列をなして集まってる兵士らは、そのものすごい角面堡《+カクメンホウ》を、《:、》その不動の姿を、その冷然たる様を、しかも死を招くその場所を、|まじめ《真面目》な考《/考》え込んだ様子で偵察していた。ある者らは、帽子が向こうに見えないように注意しながら、穹窿形の橋の上まで腹ばいになって進んでいった。  勇敢なるモンテーナール大佐は、身を震わしながらその防寨を嘆賞した。彼はひとりの代議士に言った。「うまく築いたものだ! 一つの不ぞろいな舗石《敷石》もない。まるで磁器ですね。」その時、一発の弾《玉》は、彼の勲章を打ち砕いた。彼は倒れた。 「卑怯者め!《/》」とある者は言った、「姿を現わせ、見える所に出てこい。それができないのか。隠れてばかりいるのか!」  しかしこのタンプル郭外の防寨は、八十人の者に守られ一万《/一万》の兵に攻撃されて、三日の間持《あいだ持》ちこたえた。四日目《4日目》に、ザアチャーやコンスタンティーヌの都市になされたのと同様の方法が用いられ、人々は人家をうがち、または屋根に伝わり、そしてついに防寨《’防寨》は占領された。八十人の「卑怯者」らのうちひとりとして逃げようとはしなかった。皆《みんな》そこで戦死を遂げた。ただひとり首領のバルテルミーだけは身を脱したが、彼のことはすぐ次に述べるとおりである。  サン・タントアーヌの防寨は雷電のはためきであり、タンプルの防寨は沈黙であった。この二つの角面堡《+カクメンホウ》の間には獰猛《/獰猛》と凄惨との差があった。一つは顎のごとく、一つは仮面のようだった。  この六月の巨大な暗黒な反乱が一《/一》つの憤怒《フンヌ》と一《/一》つの謎とでできていたとすれば、第一の防寨のうちには竜《+ドラゴン》が感ぜられ、第二の防寨の背後にはスフィンクスが感ぜられた。  この二つの砦は、クールネとバルテルミーという|ふたり《二人》の男によって築かれたものである。クールネはサン・タントアーヌの防寨を作り、バルテルミーはタンプルの防寨を作った。どちらの防寨も、築造者の面影を帯びていた。  クールネは高い体躯の男であった。大きな肩、赤い顔、力強い拳《コブシ》、大胆な心、公正な魂、|まじめ《真面目》な恐《/恐》ろしい目をそなえていた。勇敢で、元気で、激《ゲキ》しやすく、猛烈だった。最も真実な男であり、最も恐るべき勇士だった。戦争、争闘、白兵戦、などは彼の固有の空気であり、彼の気を引き立たした。かつて海軍士官だったことがあり、その身振りや声をみても、大洋から出てき暴風雨《/暴風雨》を経てきたことが察せられた。彼は戦いのうちにもなお暴風をもたらした。神性を除いてはダントンのうちにヘラクレス的なものがあったように、天才を除いてはクールネのうちにダントン的なものがあった。  バルテルミーは、やせた、虚弱な、色の青い、寡黙な男で、一種の悲壮な浮浪少年であった。ある時ひとりの巡査からなぐられて、その巡査をつけ|ねら《狙》い、待ち受け、殺害し、そして十七歳で徒刑場《徒刑バ》に送られた。徒刑場《徒刑バ》から出てきた彼は、右の防寨を作ったのである。  その後彼らは|ふたり《二人》とも追放されてロンドンに亡命していたが、何《なん》の因縁か、バルテルミーはクールネを殺した。痛ましい決闘だった。その後しばらくして、色情のからんだあ《/あ》る秘密な事件に巻き込まれ、フランスの法廷は情状の酌量を認《-みと》むるがイ《/イ》ギリスの法廷は死をしか認めないあ《/あ》る災厄のうちに、バルテルミーは死刑に処せられた。一個の知力をそなえ確《/確》かに剛毅な人物でありま《”ま》たおそらく偉大な人物だったかも知れないこの不幸な男は、社会の痛ましい制度の常として、《:、》物質上の欠乏のためにま《”ま》た精神上の暗黒のために、フランスにおいて徒刑場《徒刑バ》より始め、イギリスにおいて絞首台に終わったのである。バルテルミーはいかなる場合にも、一つの旗をしか掲げなかった。それは黒い旗であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【深淵中《深淵ちゅう》の会談】 ◇。◇。◇。◇。◇。  暴動の陰暗な教育を受くること満十六年《/満十六年》に及んだので、1848年六月は《は/》1832年六月よりもはるかに知力が進んでいた。それでシャンヴルリー街の防寨は、上に概説した二つの巨大な防寨に比《-くら》ぶれば、一つの草案に過ぎず一《/一》つの胎児に過ぎなかった。しかし当時にあっては、それでも恐るべきものであった。  マリユスはもはや何物にも注意を向けていなかったので、暴徒らはただアンジョーラひとりの監視の下に、暗夜に乗じて仕事をした。防寨は修繕されたばかりでなく、なお大きくされた。上の方《ホウ》へも二尺ほど高められた。舗石《+敷石》の中に立てられた鉄棒は、槍をつき立てたようだった。方々《ほうぼう》から持ってきて加えられたあらゆる種類の物の破片は、ますますその外部を錯雑していた。いかにも巧妙に築かれた角面堡《+カクメンホウ》で、内部は壁のごとく、外部は藪のようだった。  城壁のように上に上ってる舗石《敷石》の段は、再び築き直された。  人々は防寨を整え、居酒屋の下の広間を片付け、料理場《料理バ》を野戦病院となし、負傷者に繃帯を施し、床やテーブルの上に散らかってる火薬を集め、《:、》弾丸を鋳、弾薬をこしらえ、綿撒糸《+メンザンシ》を裂き、落ち散った武器を分配し、角面堡《+カクメンホウ》の内部を清め、破片を拾いのけ、死体を運んだ。  死体はなお手中にあるモンデトゥール小路のうちに積み重ねられた。そこの舗石《敷石》はその後長い|間まっか《あいだ真っ赤》になっていた。戦死者のうちには、四人の郊外国民兵があった。アンジョーラは彼らの軍服をわきに取って置かした。  アンジョーラは二時間の睡眠を一同に勧めた。彼の勧告は命令に等しかった。けれどもその命《メイ》に応じて眠った者は、わずか|三、四人《サンヨニン》に過ぎなかった。フイイーはその二時間のすきを利用して、居酒屋と向かい合った壁の上に次《/次》のような銘を刻み込んだ。 【 民衆万歳!】  その四文字は、素石《ソセキ》の中に釘で彫りつけたものであって、1848年にもなお壁の上に明らかに残っていた。  三人の女どもは、その夜間の猶予の間にまったく姿を隠してしまった。ために暴徒らはいっそう自由な気持ちになることができた。  彼女らはとやかくして、どこか近くの人家に投げ込んだのだった。  負傷者らの大部分は、なお戦うことができ、またそれを欲していた。野戦病院となった料理場《料理バ》の蒲団《布団》や藁蓆の上には、五人の重傷者がいたが、そのうち|ふたり《二人》は市民兵だった。市民兵は第一に手当を受けたのである。  下《シタ》の広間のうちにはもはや、喪布をかけられてるマブーフと柱《/柱》に縛られてるジャヴェルとのほか|だれ《誰》もいなかった。 「ここは死人《-しにん》の室《+部屋》だ。」とアンジョーラは言った。  室《部屋》の内部、一本の蝋燭がかすかに照らしてる奥の方《ほう》に、死人のテーブルが横棒のようになってそ《/そ》の前に柱が立っていたので、立ってるジャヴェルと横《/横》たわってるマブーフとは、ちょうど大きな十字架のようになって漠然と見えていた。  乗り合い馬車の轅は、一斉射撃のために先を折られたが、なお旗を立て得るくらいは立ったまま残っていた。  首領の性格をそなえていて口《/口》にするところを必ず実行するアンジョーラは、戦死した老人の血《血’》にまみれ穴《/穴》のあいてる上衣を轅の棒に結びつけた。  食事はいっさいできなかった。パンも肉もなかった。防寨の五十人の男は、やってきてからその時まで十六時間のうちに、居酒屋にあったわずかな食物をす《/す》ぐに食いつくしてしまった。死守する防寨はすべて、一定の時を経れば必然にメ《/メ》デューズ号の筏(訳者注◇ メデューズ号の難破者らが乗り込んで十三日間大洋の上を漂っていた筏)となるものである。人々は飢餓に忍従しなければならなかった。サン・メーリーの防寨では、パンを求むる暴徒らにとり巻かれたジャンヌが、「食物!《/》」と叫んでいる声に対して、「何で食物がいるか、今は三時だ、四時には皆死《-みんな死》ぬんだ、」と答えた。そういう悲壮な六月六日の日が、到来したばかりの時だったのである。  もう食物を得ることができなかったので、アンジョーラは飲み物を禁じた。葡萄酒を厳禁して、ただブランデーだけを少し分配してやった。  居酒屋の窖の中で、密封した十五本ばかりの壜が見いだされた。アンジョーラとコンブフェールとはそれを調べてみた。コンブフェールは窖から出て来ながら言った。「初め香料品を商っていたユシュルー爺さんの昔の資本《+元手》だ。」するとボシュエは言った。「本物の葡萄酒に違いない。グランテールが眠ってるのは|仕合わ《幸》せだ。奴が起きていたら、なかなかこのまま放《-ほ》っておきはすまい。」種々《いろいろ》不平の声をもらす者もあったが、アンジョーラはその十五本の壜に最後の断案を下して、|だれ《誰》の手にも触れさせないで神聖な物としておくために、マブーフ老人が横たわってるテーブルの下に並べさした。  午前二時ごろ人数を調べてみると、なお三十七人いた。  夜は明けかかってきた。舗石《+敷石》の箱の中に再びともしていた炬火《松明》を、人々は消してしまった。街路から切り取った小さな中庭のような防寨の内部は、|やみ《闇》に満たされて、払暁の荒涼たる微明のうちに、|こわ《壊》れた船の甲板に似寄《似通》っていた。行ききする戦士の姿は、ま《真》っ黒な影のように動いていた。そしてその恐るべき闇の巣窟の上には、黙々たる幾階もの人家が青白く浮き出していた。更に上の方には、煙筒《煙突》が|ほの白《ホノジロ》く立っていた。空は白とも青ともつかない微妙な色にぼかされていた。小鳥は楽しい声を立てながら空を飛んでいた。防寨の背景をなしている高い人家は、東に向いていたので、屋根の上に薔薇色の反映が見えていた。その四階《4階》の軒窓《ノキマド》には、殺された門番の灰色の頭髪が、朝の微風になぶられていた。 「炬火《松明》を消したのはうれしい。」とクールフェーラックはフイイーに言った。「風に揺らめいてるあの光は|いや《嫌》でならなかった。まるで何かを|こわ《怖》がってるようだった。炬火《松明》の光というものは、卑怯者の知恵みたいなものだ。いつも震えてばかりいて、ろくに照らしもしないからね。」  曙は小鳥を目ざめさせるとともに、人の精神をもさまさせる。人々はみな話しはじめた。  ジョリーは樋《トイ》の上をぶらついてる一匹の猫を見て、それから哲学を引き出した。 「猫とはいかなるものか知ってるか。」と彼は叫んだ。「猫は一つの矯正物だ。神様は鼠をこしらえてみて、やあこいつはしくじったと言って、それから猫をこしらえた。猫は鼠の正誤表だ。鼠プラス猫、それがすなわち天地創造の校正なんだ。」  コンブフェールは学生や労働者らに取り巻かれて、ジャン・プルーヴェールやバ《/バ》オレルやマ《/マ》ブーフやま《”ま》たル・カブュクのことまで、すべて死んだ人々のことを話し、またアンジョーラの厳粛な悲哀のことを語っていた。彼はこう言った。 「ハルモディオスとアリストゲイトン、ブルツス、セレアス、ステファヌス、クロンウェル、シャーロット・コルデー、サント、なども皆、手を下した後《あと》に一時悲哀を感じたのだ。人の心はたやすく傷むものであり、人生は至って不思議なものである。公徳のための殺害の場合でも、もしありとすれば救済のための殺害の場合でも、ひとりの者を仆したという悔恨の念《念’》は、人類に奉仕したという喜びの情より深いものだ。」  そして話は種々《いろいろ》のことに飛んだが、やがてジャン・プルーヴェールの詩《-し》のことから一転して、ゼオルジック(訳者注◇ ヴィルギリウスの詩《-し》)の翻訳者らの比較を試み、《:、》ローとク《/ク》ールナンとを比べ、クールナンとド《/ド》リーユとを比べ、マルフィラートルが訳した数節、ことにシーザーの死に関する名句をあげたが、そのシーザーという言葉から、話はまたブルツスの上に戻った。 「シーザーの覆滅は至当である。」とコンブフェールは言った。「キケロはシーザーにきびしい言葉を下したが、あれは正当だ。あの酷評は決して悪口《悪くチ》ではない。ゾイルスがホメロスを嘲り、メヴィウスがヴィルギリウスを嘲り、ヴィゼがモリエールを嘲り、ポープがセークスピヤを嘲り、フレロンがヴォルテールを嘲ったのは、昔からよくある嫉妬と憎みからきたのである。天才は嘲笑を受け、偉人は多少人《多少’人》から吠えらる《る-》るのが常である。しかしゾイルス輩《ハイ》とキケロとはまったく別者だ。キケロは思想による審判者である。あたかもブルツスが剣による審判者であるのと同じだ。僕に言わすれば、後者の審判すなわち剣によるものは好ましくない。しかし古代はそれを許していた。ルビコンを渡ったシーザーは、民衆から来るもろもろの地位をお《/お》のれから出るもののように人に授け、《:、》元老院に姿を現わさず、エウトロピウスが言ったように、王のごときま《”ま》たほとんど暴君のごときことを行なった。そして彼は偉人であったために、それだけ不幸ともま《”ま》た幸とも言える。なぜなれば、彼が偉人であっただけにいっそうその教訓は高遠《-こうえん》となったから。しかし僕の目から見れば、彼が受けた二十三の傷は、イエス・キリストの額に吐きかけられた唾ほどの痛切さを持たない。シーザーは元老院の議員らから刺されたが、キリストは下男らから侮辱され頬《/ホオ》を打たれた。侮辱がより大なるがゆえに、人は神を感ずるのだ。」  積み重ねた舗石《+敷石》の上からそれらの会談者らを見おろしながら、ボシュエはカラビン銃を手にしたまま叫び出した。 「おお、シダテネオム、ミリノス、プロバリンテよ、エアンチデの三女神よ! ああた《/た》れか|われ《吾》をして、ラウリオムやエダプテオンのギリシャ人のごとくに、ホメロスの詩《-し》を誦《+ず》せしむる者があるか!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【光明と陰影】 ◇。◇。◇。◇。◇。  アンジョーラは偵察に出かけていた。彼は軒下に沿ってモンデトゥール小路から出て行った。  ちょっとことわっておくが、暴徒らは皆希望《-みんな希望》に満ちていた。たやすく前夜の襲撃を撃退したので、夜明けの襲撃をも前もってほとんど軽蔑するような気になっていた。彼らはその襲撃を微笑《微笑’》しながら待ち受けていた。彼らはおのれの主旨を確信するとともに、成功をもはや疑わなかった。その上《うえ》援兵もきつつあるに違いないと思っていた。彼らはそれをあてにしていた。光明的な楽観をもって前途を速断するのは、フランス戦士の力の一つである。彼らは《は-》きたらんとする一日を三つの局面に分かって、それを確信していた。すなわち、朝六時には「かねて手を入れておいた」一個連隊が裏切ってくる、正午にはパリー全市が立ち上がる、日没の頃には革命となる。  サン・メーリーの警鐘が前日絶《前日’絶》えず鳴り続けてるのが聞こえていた。それは、も《もう》一つの大きな防寨、すなわちジャンヌの防寨が、なお支持してる証拠であった。  それらの希望は、蜂の巣における戦いの騒音のように、一種の快活なま《”ま》た恐ろしいささやきとなって、人々の群れから群れへとかわされていた。  アンジョーラは再び姿を現わした。彼は外部の暗黒の中をひそかに鷲のように翔り回って戻ってきたのである。彼はし《-し》ばし、両腕を組み片手《/片手》を口にあてて、人々の喜ばしい話を聞いていた。それから、|しだい《次第》に白んでゆく曙の色の中にい《/い》きいきした薔薇のような姿で言った。 「パリーの全兵士が動員している、その三分の一はこの防寨に押し寄せてくるんだ。その上《うえ》国民兵も加わっている。僕は歩兵第五連隊の帽子と国民兵第六連隊の旗とを見て取った。攻撃までには一時間ばかりの余裕しかない。人民の方《ほう》は、昨日は沸き立っていたが、今朝は静まり返っている。今は|もう《モウ》待つべきものも希望すべきものもない。郭外も連隊も共に|だめ《駄目》だ。われわれは孤立だ。」  その言葉は、人々の騒々しい話声《話し声》の上に落ちかかって、蜂の巣の上に落ちてくる暴風雨の最初《/最初》の一滴のような結果を生じた。皆口《みんなクチ》をつぐんでしまった。死の翔り回るのが聞こえるような名状し難い沈黙が、一瞬間続いた。  それはごくわずかの間《マ》だった。  群集の最も薄暗い奥の方から、一つの声がアンジョーラに叫んだ。 「よろしい。防寨を二丈の高さにして皆で死守しよう。諸君、死屍となっても抵抗しようではないか。人民は共和党を見捨てるとしても、共和党は人民を見捨てないことを、示してやろうではないか。」  その言葉は、すべての者の頭から個人的《/個人的》な心痛の暗雲を払い去った。そして熱誠な拍手をもって迎えられた。  右の言葉を発した男の名前は永久《エーキュウ》に知られなかった。それはある労働服を着た無名の男であり、見知らぬ男であり、忘れられた男であり、過ぎ去ってゆく英雄であった。かかる無名の偉人は、常に人類の危機と社会の開闢とに交じっていて、一定の時機におよんで断乎として決定的な一言を発し、電光のひらめきのうちに一瞬間民衆と神とを代表した後、またたちまち暗黒のうちに消えうせるものである。  不屈の決心は、1832年六月六日の空気に濃く漂っていた。右のこととほとんど同時に、サン・メーリーの防寨のうちでは、暴徒らが次の喊声を上げた。それは史上にも残り、当時の判定録にもしるされたものである。「援兵が来ると否とは問うところでない! われわれは最後のひとりまでここで戦死を遂げるんだ。」  読者の見るとおり、両防寨は実際上孤立《実際上’孤立》してはいたが、精神は互いに通い合っていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【五人を減じひとりを加《-くわ》う】 ◇。◇。◇。◇。◇。 「死屍の抵抗」を宣言した無名の男が、共通の魂の言葉を発した後《あと》、一同の口から何とも言えぬ満足した恐《/恐》るべき叫びが出てきた。その意味は沈痛であったが調子《/調子》は勇壮であった。 「戦死万歳! 全員ここにふ《踏》み止《とど》まろう。」 「なぜ全員だ?」とアンジョーラは言った。 「全員! 全員!」  アンジョーラは言った。 「地の理はよく、防寨は堅固だ。三十人もあれば充分だ。なぜ四十人を全部犠牲にする必要があるか?」  人々は答え返した。 「ひとりも去りたくないからだ。」 「諸君!《/》」とアンジョーラは叫んだ。その声はほとんど激昂《ゲッコウ》に近い震えを帯びていた。「共和は無用な者まで犠牲にするほど豊富な人数を有しない。虚栄は浪費である。ある者にとっては立ち去ることが義務であるならば、その義務もまた他の義務と同様に果たすべきではないか。」  主義の人なるアンジョーラは、絶対のものから来るような偉力を同志《/同志》の上に有していた。しかしその絶対的権力にもかかわらず、人々はなお不平をもらした。  徹頭徹尾首領《テッ頭徹尾’首領》たるアンジョーラは、人々がつぶやくのを見て、なお主張した。彼は昂然として言った。 「ただ三十人になることを恐れる者はそう言え。」  不満のつぶやきはますます高まった。 「それに、」とある群れの中から声がした、「立ち去ると口で言うのは容易だが、防寨は包囲されてるんだ。」 「市場町《イチバマチ》の方《ほう》は開いている。」とアンジョーラは言った。 「モンデトゥール街は自由だ、そしてプレーシュール街からインノサン市場《イチバ》へ出られる。」 「そしてそこで捕《捕ま》る。」と群れの中から他の声がした。「戦列兵か郊外兵かの前哨に行き当たる。労働服をつけ縁無《フチ無》し帽をかぶって通ればすぐ向こうの目につく。どこからきたか、防寨からではないか、と問われる。そして手を見られる。火薬のにおいがする。そのまま銃殺だ。」  アンジョーラはそれに答えないで、コンブフェールの肩に触れ、|ふたり《二人》で居酒屋の下の広間にはいって行った。  彼らはまたすぐそこから出てきた。アンジョーラは両手にいっぱい、取って置いた四着《4着》の軍服を持っていた。後《あと》に続いたコンブフェールは、皮帯《カワオビ》と軍帽とを持っていた。 「この服をつけてゆけば、」とアンジョーラは言った、「兵士の間に交じって逃げることができる。|りっぱ《立派》に四人分ある。」  そして彼は、舗石《+敷石》をめくられた地面の上に四つの軍服を投げ出した。  堅忍なる聴衆のうちには身を動かす者もなかった。コンブフェールは語り出した。 「諸君、」と彼は言った。「憐憫の情を少し持たなければいけない。ここで何が問題であるか知っているか。問題は婦人の上にあるんだ。いいか。妻を持ってる者はないか。子供を持ってる者はないか。足で揺籃《揺り籠》を動かした《”た》くさんの子供に取り囲まれてる母親を持ってる者はないか。君らのうちで、かつて育ての親の乳房を見なかった者があるならば、手をあげてみたまえ。諸君はここで死にたいと言う。諸君に今語《今’語》っている僕もここで死にたい。しかし僕は、腕をね《ネ》じ合《あ》わして嘆く婦人の幻を自分の周囲に見たくはない。欲するならば死にたまえ。しかし他の人をも死なしてはいけない。ここでやがて行なわれんとする自滅は荘厳なものである。しかしその自滅は範囲をせばめて、決して他人におよぼしてはいけない。もしそれを近親の者にまでおよぼす時には、自滅ではなくて殺害となる。金髪の子供らのことを考えてみ、白髪の老人らのことを考えてみるがいい。聞きたまえ、今《いま》アンジョーラが僕に話したことを。シーニュ街の角《カド》に、光のさす窓が一つ見えていた、六階の粗末な窓に蝋燭の光がさしていた、《:、》その窓ガラスには|、一晩中眠《、一晩中’眠》りもしないで待ってるらしい年取った女の頭が、ゆらゆらと映っていた。たぶん君《キミ》らのうちの|だれ《誰》かの母親だろう。でそ《/そ》ういう者は、立ち去るがいい。急いで行って、母親に言うがいい、お母さんただ今帰《いま帰》りましたと。安心したまえ、ここはあとに残った者だけで充分だ。自分の腕で一家を|ささ《支》えてる者には、身を犠牲にする権利はない。それは家庭を破滅させるというものだ。また娘を持ってる者、妹を持ってる者、そういう者はよく考えて見たまえ。自分の身を犠牲にする、自分は死ぬ、それはかまわぬ、しかし明日は? パンに窮する若い娘、それは恐ろしいことではないか。男は食を乞うが、女は身を売る。ああ《あ/》あのうるわしいや《/や》さしい可憐《/可憐》な娘ら、《:、》花の帽子をかぶり、歌いさえずり、家の中に清らかな気を満たし生《/生》きたる香《コウ》のようであり、地上における処女の純潔さで天《/天》における天使の存在を証する者、《:、》ジャンヌやリーズやミミ、諸君の恵みであり誇りである愛《/愛》すべき正直なる者、彼女らが飢《-う》えんとするのである。ああ《あ/》何と言ったらいいか。世には人の肉体の市場《イチバ》がある。彼女らがそこに|はい《入》るのを防ぐのは、彼女らのまわりにう《打》ち震える諸君の影の手がよ《/よ》くなし得るところではない。街路に、通行人でいっぱいになってる舗石《+敷石》の上に、商店の前に、首筋をあらわにし泥《/泥》にまみれてさまよう女のことを考えて見たまえ。その女どももまたも《/も》とは純潔だったのだ。妹を持ってる者は妹のことを考えてみるがいい。困窮、淫売、官憲、サン・ラザール拘禁所、《:、》そういう所に、あのうるわしい、たおやかな娘らは、あの五月のライラックの花よりもなおさわやかな貞節《/貞節》と温順《/温順》と美《/美》とのもろい宝は、ついに落ちてゆくのだ。ああ《あ/》諸君は身を犠牲にする、諸君はもはや生きていない。それは結構だ。諸君は民衆を王権から免れさせようと欲したのだ。しかもまた諸君は自分の娘を警察の手に渡すのである。諸君、よく注意したまえ、あわれみの心を持ちたまえ。婦人らのことを、不幸なる婦人らのことを、われわれは普通あ《/あ》まり念頭に置いていない。婦人らが男のごとき教育を受けていないことに自ら得意となり、彼女らの読書を妨げ、彼女らの思索を妨げ、彼女らが政治に干与するのを妨げている。そこで今晩彼女らが、死体公示所へ行って諸君の死屍を見分けんとするのを、初めからさせないようにしてはどうか。家族のある者はわれわれの言に従い、われわれと握手して立ち去り、われわれをここに残して自由に働かしてくれてはどうか。むろん立ち去るには勇気が必要である。それは困難なことだ。しかし困難が大《ダイ》なるほど、価値はますます大である。諸君は言う、俺は銃を持っている、俺は防寨にきている、どうでも俺は去らないと。どうでもと、そう口で言うのは|たやす《容易》い。しかし諸君、明日というものがある。その明日には、諸君はもう生きていないだろうが、諸君の家族はまだ残っているだろう。そしていかに多くの苦しみがやってくるか! ここにひとりの健康なかわいい子供がいるとする。林檎のような頬《ホオ》をし、片言交じりに|しゃべ《喋》りさ《/さ》えずり笑い、脣《+口》づけをすればそのいきいきした肉体が感ぜらるる。ところが彼が見捨てられた時、どうなりゆくか考えてみたまえ。僕はそういう子供をひとり見たことがある。まだ小さなこれくらいな児《子》だった。父親が死んだので、貧しい人たちが慈悲心から拾い上げた。しかし彼ら自身もパンに窮していた。子供はいつも腹をすかしていた。ちょうど冬だった。子供は泣きもしなかった。彼はストーヴに寄ってゆくが、そこには火もなく、煙筒《煙突》には黄色い土が塗りつけてあるばかりだ。子供はその土を小さな指先で少しはがして、それを食っていた。呼吸は荒く、顔は|まっさお《真っ青》で、足には力がなく、腹はふくれていた。一言も口をきかなかった。話しかけても返事をしなかった。そしてついに死んだ。ネッケルの救済院に連れていって死なしたのだ。そこで僕は子供を見た。僕は当時その救済院に寄宿していたんだ。今諸君《いま諸君》のうちに、父親たる者があるならば、頑丈な手に子供の小さな手を引いて日曜日《/日曜日》の散歩を楽しみとしてる父親があるならば、《:、》右の子供はすなわち自分の子供にほかならないと想像してもらいたい。僕はそのあわれな子供のことをよく覚えている、今も目に見るような気がする。裸のまま解剖台の上に横たわっていた時、その肋骨は墓場の草の下の土饅頭のように皮膚《/皮膚》の下に飛び出していた。胃袋の中には泥のようなものが見いだされた。歯の間には灰がついていた。さあ胸《/胸》のうちに目を向けて、心の声に耳を傾け《け-》ようではないか。統計の示すところによると、親のない子供の死亡率は五十五パーセントにおよんでいる。僕は繰り返して言う、問題は妻の上に、母親の上に、若い娘の上に、頑是ない子供の上にある。諸君自身のことを言うのではない。諸君自身のことはよくわかっている。諸君が皆勇敢《-みんな勇敢》であることはよくわかっている。諸君が皆心《-みんな心》のうちに、大義のために身を犠牲にするの喜びと光栄とを持ってることは、よくわかっている。諸君は有益なま《”ま》た|みごと《見事》な死を遂げんがために選《-えら》まれたる者であることを感じており、各人皆勝利《各人みな勝利》の分前《分け前》を欲しておることは、よくわかっている。まさにそのとおりである。しかし諸君はこの世においてひとりではない。考えてやらなければならない他の人たちがいる。利己主義者であってはならないのだ。」  人々は皆沈鬱《-みな沈鬱》な様子をして頭《コウベ》をたれた。  最も荘厳なる瞬間における人の心の不思議な矛盾さよ! か《斯》く語ったコンブフェール自身孤児《自身’孤児》ではなかった。彼は他人の母親のことを思い出していたが、自分の母親のことは忘れていた。彼はおのれを死地に置かんとしていた。彼こそ「利己主義者」であった。  マリユスは飲食もせず、熱に浮かされたようになり、あらゆる希望の外にいで、悲痛の洲に乗り上げ、最も悲惨な難破者となり、激越な情緒に浸《-ひた》され、《:、》もはや最後が近づいたことを感じて、人が自ら甘受する最期の時間の前に常に来る幻覚的《/幻覚的》な惘然《呆然》さのうちに、|しだい《次第》に深く沈み込んでいた。  生理学者が今彼《今’彼》の様子を観察したならば、科学上よく知られ類別《/類別》されてる熱性混迷《熱性混迷》の|しだい《/次第》に高まる徴候を見て取り得《え》たであろう。この熱性混迷が苦悩に対する関係は、あたかも肉体的歓楽が快感に対するようなものである。絶望にもまたその恍惚たる状態がある。マリユスはそういう状態に達していた。彼はすべてのことを、外部から見るように|なが《眺》めていた。前に言ったとおり、眼前に起こった事物も、彼には遠方のもののように思えた。全体はよく見て取れたが、些細な点はわからなかった。行ききする人々は炎の中を横ぎってるが《が-》ようであり、人の話し声は深淵の底から響いてくるが《が-》ようだった。  しかしながらただ今のことは彼の心を動かした。その情景のうちには鋭い一点があって、それに彼は胸を貫かれ呼《/呼》びさまされた。彼はもはや死ぬという一つの観念しか持っていず、それから気を散らされることを欲していなかった。しかし今や彼はその陰惨な夢遊のうちにあって、自ら身を滅ぼしながらも他人《/他人》を助けることは禁じられていないと考えた。  彼は声を上げた。 「アンジョーラとコンブフェールとの意見は正当だ。」と彼は言った。「無益な犠牲を払うの要《用》はない。僕は|ふたり《二人》の意見に賛成する。そして早くしなければいけない。コンブフェールは確かな事柄を言ったではないか。諸君のうちには、家族のある者がいるだろう、母や妹や妻や子供を持ってる者がいるだろう。そういう者はこの列から出たまえ。」  |だれ《誰》も動く者はなかった。 「結婚した者および一家の支柱たる者は、列外に出たまえ!《/》」とマリユスは繰り返した。  彼の権威は偉大なものだった。アンジョーラはもとより防寨の首領であったが、マリユスは防寨の救済主《救済シュ》であった。 「僕はそれを命ずる!《/》」とアンジョーラは叫んだ。 「僕は諸君に願う!《/》」とマリユスは言った。  その時、コンブフェールの言葉に動かされ、アンジョーラの命令に揺られ、マリユスの懇願に感動されて、勇士らは、互いに指摘し始めた。「もっともだ。君は一家の主人じゃねえか。出るがいい。」とひとりの若者は壮年の男に言った。男は答えた。「むしろお前の方《ほう》だ。お前は|ふたり《二人》の妹を養ってゆかなくちゃならねえんだろう。」そして異様な争いが起こった。互いに墳墓の口から出されまいとする争いだった。 「早くしなけりゃいけない。」とコンブフェールは言った。「もう|十五、六分《ジュウゴ六分》もすれば間に合わなくなるんだ。」 「諸君、」とアンジョーラは言った、「ここは共和である、万人《ばんにん》が投票権を持っている。諸君は自ら去るべき者を選《-えら》むがいい。」  彼らはその言葉に従った。数分の後、五人の男が全員一致をもって指名され、列から前に進み出た。 「五人いる!《/》」とマリユスは叫んだ。  軍服は四着《4着》しかなかった。 「ではひとり残らなくちゃならねえ。」と五人の者は言った。  そしてまた互いに居残ろうとする争いが、他の者に立ち去るべき理由を多く見いださんとする争いが始まった。寛仁な争いだった。 「お前には、お前を大事にしてる女房がいる。──お前には年取った母親《+お袋》がいる。──お前には親父も母親《+お袋》もいねえ、お前の小さな三人の弟はどうなるんだ。──お前は五人の子供の親だ。──お前は生きるのが本当だ、十七じゃねえか、死ぬに《-に》は早《-ハエ》え。」  それら革命の偉大な防寨は、勇壮の集中する所であった。異常なこともそこでは当然だった。勇士らはそれを互いに驚きはしなかった。 「早くしたまえ。」とクールフェ《ェー》ラックは繰り返した。  群れの中からマリユスに叫ぶ声がした。 「居残る者をあなたが指定して下さい。」 「そうだ、」と五人の者は言った、「選んで下さい。私どもはあなたの命令に従う。」  マリユスはもはや自分には何らの感情も残っていないと思っていた。けれども今、死ぬべき者をひとり選ぶという考えに、全身の血は心臓に集まってしまった。彼の顔は既に青ざめていたが、更に一抹の血の気もなくなった。  彼は五人の方《ホウ》へ進んだ。五人の者は微笑《微笑’》して彼を迎え、テルモピレの物語の奥に見らる《る-》るあ《/あ》の偉大なる炎に満ちた目をもって、各自彼に叫んだ。 「私を、私を、私を!」  マリユスは惘然《呆然》として彼らを|なが《眺》めた。やはり五人である! それから彼の目は四着《4着》の軍服の上に落ちた。  その瞬間、第五の軍服が天から降ったかのように、四着《4着》の軍服の上に落ちた。  五番目の男は救われた。  マリユスは目を上げた。そしてフォー《ー-》シュルヴァン氏の姿を認めた。  ジャン・ヴァルジャンはちょうど防寨の中にはいってきたところだった。  様子を探ってか、あるいは本能によってか、あるいは偶然にか、彼はモンデトゥール小路からやってきた。国民兵の服装のおかげでたやすくこれまで来ることができた。  反徒の方《ほう》がモンデトゥール街に出しておいた哨兵は、ひとりの国民兵のために警報を発することをしなかった。「たぶん援兵かも知れない、そうでないにしろど《/ど》うせ捕虜になるんだ、」と思って、自由に通さしたのである。時機はきわめて切迫していた。自分の任務から気を散らし、その見張りの位置を去ることは、哨兵にはできなかった。  ジャン・ヴァルジャンが角面堡《+カクメンホウ》の中にはいってきた時、|だれ《誰》も彼に注意を向ける者はいなかった。すべての目は、選《えら》まれた五人の男と四着《4着》の軍服との上に注《-そそ》がれていた。ジャン・ヴァルジャンもまたそれを見そ《’そ》れを聞き、それから黙って自分の上衣をぬいで、それを他の軍服の上に投げやった。  人々の感動は名状すべからざるものだった。 「あの男は|だれ《誰》だ?」とボシュエは尋ねた。 「他人を救いにきた男だ。」とコンブフェールは答えた。  マリユスは荘重な声で付け加えた。 「僕はあの人を知っている。」  その一言で一同は満足した。  アンジョーラはジャン・ヴァルジャンの方《ほう》を向いた。 「よくきて下すった。」  そして彼は言い添えた。 「御承知のとおり、われわれは死ぬのです。」  ジャン・ヴァルジャンは何の答えもせず、救い上げた暴徒に手伝って自分の軍服を着せてやった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【防寨の上より見たる地平線】 ◇。◇。◇。◇。◇。  この危急の時こ《/こ》の無残な場所における一同の状態には、その合成力としてま《”ま》たその絶頂として、アンジョーラの沈痛をきわめた態度があった。  アンジョーラのうちには革命の精神が充満していた。けれども、いかに絶対なるものにもなお欠けたところがあるとおり、彼にも不完全なところがあった。あまりにサン・ジュスト的なところが多くて、アナカルシス・クローツ的なところが充分でなかった(訳者注◇ 両者共に大革命時代の人)。けれど彼の精神は、ABCの友の結社において、コンブフェールの思想からある影響を受けていた。最近になって、彼は|しだい《次第》に独断の狭い形式から脱し、広汎なる進歩を目ざすようになり、偉大なるフランスの共和をして広大《/広大》なる人類の共和たらしむることを、最後の壮大な革新として受け入れるに至った。ただ直接現在の方法としては、激烈な情況にあるために、また激烈な処置を欲していた。この点においては彼は終始一貫していた。93年(1793年)という一語につくされる恐るべき叙事詩的一派に、彼はなお止《-とど》まっていた。  アンジョーラはカラビン銃の銃口に片肱《片肘》をついて舗石《+/敷石》の段の上に立っていた。彼は考え込んでいた。そしてある息吹を感じたかのように身を震わしていた。死のある所には、神占《シンセン》の几《+机》のごとき震えが起こるものである。魂の目がのぞき出てる彼の眸からは、押さえつけた炎のような輝きが発していた。と突然《/突然’》彼は頭をもたげた。その金髪は後ろになびいて、星を鏤めた暗澹《/暗澹》たる馬車に駕せる天使の頭髪のようで、また後光の炎を発する怒《-いか》った獅子の鬣のようであった。そしてアンジョーラは声を張り上げた。 「諸君、諸君は未来を心に描《-えが》いてみたか。市街は光に満ち、戸口には緑の木が茂り、諸国民は同胞のごとくなり、人は正しく、老人は子供をいつくしみ、《:、》過去は現在を愛し、思想家は全《-まった》き自由を得、信仰者は全く平等となり、天は宗教となり、神は直接の牧師となり、人の本心は祭壇となり、憎悪は消え失せ、工場にも学校にも友愛の情があふれ、《:、》賞罰は明白となり、万人に仕事があり、万人のために権利があり、万人の上に平和があり、血を流すこともなく、戦争もなく、母たる者は喜び楽しむのだ。物質を征服するは第一歩である。理想を実現するは第二歩である。進歩が既に何をなしたか考えてみよ。昔最初《昔’最初》の人類は、怪物が過ぎ行くのを恐怖に震えながら眼前に見た、水の上にうなりゆく怪蛇《+カイダ》を、火を吐く怪竜を、鷲の翼と虎の爪とをそなえてかける空中の怪物たるグリフォンを。それらは皆人間以上《皆’人間以上》の恐るべき獣であった。しかるに人間は、罠を、知力の神聖なる罠を張り、ついにそれらの怪物を捕えてしまったのである。  吾人は怪蛇《+カイダ》を制御した、それを汽船という。吾人は怪竜が《を》制御した、それを機関車という。吾人はまさにグリフォンを制御せんとしている、既に手中に保《-たも》っている、それを軽気球という。そしてこのプロメテウスのごとき仕事が成就する日こそ、すなわち怪蛇《+カイダ》と怪竜《/怪竜》とグ《/グ》リフォンとの三つの古代の夢想を、ついにおのれの意志に馴致し終わる日こそ、人間は水火風三界《水火風/三界》の主《ヌシ》となり、《:、》他の生ある万物に対しては、いにしえの神々が昔人間《昔’人間》に対して有していたような地位を、獲得するに至るだろう。奮励せよ、そして前進せよ! 諸君、吾人はどこへ行かんとするのであるか。政府を確立する科学へである、唯一の公《公け》の力となる事物必然の力《力’》へである、自ら賞罰を有し明白に宣揚する自然の大法へである、日の出にも比すべき真理の曙へである。吾人は各民衆の協和へ向かって進み、人間の統一へ向かって進む。もはや虚構を許さず、寄食を許さぬ。真実なるものによって支配されたる現実、それが目的である。文化はその審判の廷を、ヨーロッパの頂に、後には全大陸の中心に、知力の大議会のうちに、開くに至るだろう。これにやや似たものは既に行なわれた。古代ギリシャの連邦議員は、年に二回会議を開き、一つは神々の場所たるデルフにおいてし、一つは英雄の場所たるテルモピレにおいてした。やがては、ヨーロッパもこの連邦議員を有し、地球全体もこの連邦議員を有するに至るだろう。フランスは実に、この崇高なる未来を胸裏にいだいている。それが十九世紀の懐妊である。ギリシャによって描かれたその草案は、フランスによって完成されるに恥ずかしくないものである。僕の言を聞け、フイイー、君《キミ》は勇敢な労働者、民衆の友、諸民衆《ショミン衆》の友だ。僕は君を尊敬する。君は明らかに未来を洞見した、君のなすところは正しい。君は、フイイー、父もなく母も持たなかった、《:、》そして、仁義を母《ハハ》とし権利《/権利》を父とした。君はここに死なんとしている、すなわち勝利を得んとしてるのだ。諸君、今日の事はいかになりゆこうとも、敗れることによってま《”ま》た打ち勝つことによって、われわれがな《成》さんとするのは一つの革命である。火災が全市を輝かすように、革命は全人類を輝かす。しかもわれわれはいかなる革命をな《成》さんとするのか。それは今言うとおり真実なるものの革命である。政治的見地よりすれば、ただ一つの原則あるのみだ、すなわち人間が自らおのれの上に有する主権である。この自己に対する自己の主権を自由という。この主権の二個もしくは数個が結合するところに国家がはじまる。しかしその結合のうちには何ら権利の減殺はない。個々の主権がその多少の量を譲歩するのは、ただ共同的権利を造らんがためである。その量は各人皆同等《各人みな同等》である。各人が万人に対してなすこの譲歩の同一を、平等と言う。共同的権利とは、各人《カクジン》の権利の上に光り輝く万人の保護にほかならない。各人に対するこの万人の保護を、友愛という。互いに結合するあらゆる主権の交差点を、社会という。その交差は一つの接合であって、その交差点は一つの結び目である。か《斯》くて社会的関係が生じてくる。ある者はそれを社会的約束という。しかし両者は同一のものである、約束なる語はその語原上より言っても関係《/関係》という観念で作られたものである。われわれはこの平等ということをよく了解しておかなくてはならない。なぜなれば、自由を頂点とするならば、平等は基底だからである。平等とは諸君、同じ高さの植物を言うのでない、大きな草の葉や小さな樫の木の仲間を言うのではない。互いに減殺《減殺’》し合う一連の嫉妬を言うのではない。それは、民事上よりすれば、あらゆる能力が同等の機会を有することであり、政治上よりすれば、あらゆる投票が同等の重さを有することであり、宗教上よりすれば、あらゆる本心が同等の権利を有することである。平等は一つの機関を持つ、すなわち無料の義務教育である。アルファベットに対する権利、まずそこから始めなければならない。小学校を万人に強請し、中学校は万人の意に任せる、それが定法である。同一の学校から同等の社会が生ずる。そうだ、教育の問題である。光明、光明《こうみょう》! すべては光明より発し、光明に返る。諸君、十九世紀は偉大である、しかし二十世紀は幸福であるだろう。二十世紀にはもはや、古い歴史に見えるようなものは一つもないだろう。征服、侵略、簒奪、武力による各国民の競争、諸国王の結婚結合よりくる文化の障害、世襲的暴政を続ける王子の出生、会議による民衆の分割、王朝の崩壊による国家の分裂、《:、》二頭の暗黒なる山羊のごとく無限《/無限》の橋上《ハシジョー》において額《ヒタイ》をつき合わする二つの宗教の争い、それらももはや今日《コンニチ》のように恐るるに及ばないだろう。飢饉、不正利得、困窮から来る売淫、罷工から来る悲惨、絞首台、剣、戦争、および事変の森林中におけるあ《-あ》らゆる臨時の追剥《追剥ぎ》、《:、》それらももはや恐るるに及ばないだろう、否《否/》もはや事変すらもないとさえ言い得るだろう。人は幸福になるだろう。地球がおのれの法則を守るごとく、人類はおのれの大法を守り、調和は人の魂と天《/天》の星との間に立てられるだろう。惑星が光体の周囲を回るごとく、人の魂は真理の周囲を回るだろう。諸君、われわれがいる現在の時代は、僕が諸君に語っているこの時代は、陰惨なる時代である。しかしそれは未来を購《贖》うべき恐ろしい代金である。革命は一つの税金である。ああ《あ/》かくて人類は、解放され高《/高》められ慰《/慰》めらる《る-》るであろう! われわれはこの防寨の上において、それを人類に向かって断言する。愛の叫びは、もし犠牲の高処からでないとすれば果《/果》たしてどこからいで得るか。おお《お/》兄弟諸君、ここは考える者らと苦《/苦》しむ者らとの接合点である。この防寨は、舗石《+敷石》からも《/も》しくは角材からも《/も》しくは鉄屑からできてるのではない。二つの堆積からできてるのだ、思想の堆積と苦難《/苦難》の堆積とからである。ここにおいて悲惨は理想と相会する。白日は暗夜を抱擁して言う、予は今汝《今’汝》と共に死せんとし汝《/汝》は今予《今’予》と共に再生せんとする。あらゆる困苦を抱《-だ》きしむることから信念がほとばしり出る。苦難はここにその苦痛をもたらし、思想はここにその不滅をもたらしている。その苦痛とその不滅とは相交わって、われわれの死を形造る。兄弟よ、ここで死ぬ者は未来の光明のうちに死ぬのである。われわれは曙の光に満ちたる墳墓の中に|はい《入》るのである。」  アンジョーラは口をつぐんだ、というよりもむ《/む》しろ言葉を途切《-とぎ》らした。彼の脣は、なお自分自身に向かって語り続けてるかのように、黙々として動いていた。ために人々は、注意を凝らしなおその言を聞かんがために彼を|なが《眺》めた。何らの喝采も起こらなかったが、低いささやきが長く続いた。言葉は息吹である。それから来る知力の震えは木の葉のそよぎにも似ている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【粗野なるマリユス、簡明なるジャヴェル】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスの脳裏に起こったことを一言《イチゴン》しておきたい。  彼《かれ》の心の状態を読者は記憶しているだろう。彼にとってすべてはもはや幻にすぎなかったとは、前に繰り返したところである。彼の識別力は乱れていた。なお言うが、瀕死の者の上にひろがる大きい暗《/暗》い翼の影にマリユスは包まれていた。彼は墳墓の中に|はい《入》ったように感じ、既に人生の壁の向こう側にいるような心地がして、もはや生きたる人々の顔をも死人《/しにん》の目でしか|なが《眺》めていなかった。  いかにしてフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏がここへきたのか、何ゆえにきたのか、何をしにきたのか? それらの疑問をもマリユスは起こさなかった。その上、人の絶望には特殊な性質があって、自分自身と同じく他人《/他人》をも包み込《こ》んでしまうものである。すべての人が死ににきたということも、マリユスには至って当然なことに思われた。  ただ彼は、コゼットのことを考えては心を痛めた。  それにまたフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は、マリユスに言葉もかけず、マリユスの方《ほう》を|なが《眺》めもせず、マリユスが声を上げて「僕はあの人を知っている」と言った時にも、その声を耳にしたような様子さえしなかった。  マリユスにとっては、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏のそういう態度は意を安んぜさせるものであった。そしてもし言い得《-う》べくんば、ほとんど彼を喜ばせるものであった。彼にとってフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は怪しいとともにまたいかめしい謎《/謎》のごとき人物であって、いつも言葉をかけることは絶対に不可能のような気がしていた。その上《うえ》会ったのはよほど以前のことだったので、元来臆病で内気なマリユスはいっそう言葉をかけ難い気がした。  選ばれた五人の男は、モンデトゥール小路の方《ホウ》へ防寨を出て行った。彼らはどう見ても国民兵らしく思われた。そのうちのひとりは涙を流しながら去っていった。防寨を出る前に彼らは残ってる人々を抱擁した。  生命《イノチ》のうちに送り返される五人の男が出て行った時、アンジョーラは死に定められてる男のことを考えた。彼は下の広間に|はい《入》っていった。ジャヴェルは柱に括られたまま考え込んでいた。 「何か望みはないか。」と彼にアンジョーラは尋ねた。  ジャヴェルは答えた。 「いつ俺を殺すのか。」 「待っておれ。今は弾薬の余分がないんだ。」 「では水をくれ。」とジャヴェルは言った。  アンジョーラは一杯の水を持ってき、彼がすっかり縛られてるので自《/自》らそれを飲ましてやった。 「それだけか。」とアンジョーラは言った。 「この柱では楽でない。」とジャヴェルは答えた。「このまま一夜を明かさせたのは薄情だ。どう縛られても|かま《構》わんが、あの男のようにテーブルの上に寝かしてくれ。」  そう言いながら頭を動かして彼《/彼》はマブーフ氏の死体をさした。  読者の記憶するとおり、弾《玉》を鋳たり弾薬《/弾薬》をこしらえたりした大きなテーブルが室《部屋》の奥にあった。弾薬はすべて|でき《出来》上がり火薬《/火薬》はすべて用い尽されたので、そのテーブルはあいていた。  アンジョーラの命令で、四人の暴徒はジャヴェルを柱から解いた。解いてる間、五番目の男はその胸に銃剣をさしつけていた。両手は背中に縛り上げたままにし、足には細い丈夫な鞭縄をつけておいた。それで彼は絞首台に上る人のように、一足に|一尺四、五寸《一尺四五寸》しか進むことができなかった。室《+部屋》の奥のテーブルの所まで歩かせて、人々はその上に彼を横たえ、身体の|まんなか《真ん中》をしっかと縛りつけた。  なおいっそう安全にするために、脱走を不可能ならしむる縛り方をした上、首につけた縄で、監獄において鞅《「鞅」》と呼ばるる縛り方を施した。縄を首の後ろから通して、胸の所で十字にし、それから胯《+股》の間を通し、後ろの両手に結びつけるのである。  人々がジャヴェルを縛り上げてる間、ひとりの男が室《部屋》の入り口に立って、妙に注意深く彼を|なが《眺》めていた。ジャヴェルはその男の影を見て、頭を回《+めぐ》らした。それから目をあげて、ジャン・ヴァルジャンの姿を認めた。ジャヴェルは別に驚きもしなかった。ただ傲然と目を伏せて、自ら一言言った。「ありそうなことだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【局面の急迫】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は急に明けてきた。しかし窓は一つも開かれず、戸口は一つも弛められなかった。夜明けではあったが、目ざめではなかった。防寨に相対してるシャンヴルリー街の一端《-いったん》は、前に言ったとおり、軍隊の撤退したあとで、今やまったく自由になったかのように、気味悪い静けさをして人《/人》の通行を許していた。サン・ドゥニ街は、スフィンクスの控えてるテーベの大道のようにひっそりしていた。四つ辻は太陽の反映に白く輝いていたが、生《セイ》あるものは何もいなかった。寂然《寂念》たる街路のその明るみほど、世に陰気なものはあるまい。  何物も目には見えなかったが、物音は聞こえていた。ある距離を|へだ《隔》てた所に怪しい運動が起こっていた。危機が迫ってることは明らかだった。前夜のように哨兵らが退いてきた、しかし今度は哨兵の全部だった。  防寨は第一の攻撃の時よりいっそう堅固になっていた。五人の男が立ち去ってから、人々は防寨をなお高めていた。  市場町《イチバマチ》の方面を見張っていた哨兵の意見を聞いて、アンジョーラは後方から不意打ちされるのを気使《気遣》い、一大決心を定めた。すなわちその時まで開いていたモンデトゥール小路の歯状堡をもふさがした。そのためになお数軒の人家にわたる舗石《+敷石》がめくられた。か《斯》くて防寨は、前方シャンヴルリー街と、左方シーニュ街お《/お》よびプティート・トリュアンドリー街と、右方モンデトゥール街と、三方《サンポウ》をふさいで、実際ほとんど難攻不落に思われた。彼らはまったくその中に閉じ込められた。正面は三方《3方》に向いていたが、出口は一つもなかった。「要塞にしてまた鼠罠か、」とクールフェーラックは笑いながら言った。  アンジョーラは居酒屋の入り口の近くに三十《30》ばかりの舗石《+敷石》を積ました。「よけいにめくったもんだ、」とボシュエは言った。  攻撃が来るに違いないと思われた方面は、今やいかにも深く静まり返っていた。でア《/ア》ンジョーラは一同をそれぞれ戦闘位置につかした。  ブランデーの少量が各人に分配された。  襲撃に対する準備をしてる防寨ほど不思議なものはな《無》い。人々は芝居小屋にでもはいったかのように各自《/各自》に自分の位置を選《えら》む。あるいは身体をよせかけ、あるいは肱をつき、あるいは肩でよりかかる。舗石《敷石》を立てて特別の席をこしらえる者もある。邪魔になる壁の|すみ《隅》からはなるべく遠ざかる。身をまもるに便利な凸角《トッカク》があればそれにこもる。左ききの者は調法で、普通の者に不便な場所を占《し》むる。多くの者は腰をおろして戦列につく。楽に敵を殺し気持《/気持》ちよく死ぬことを欲するからである。1848年六月の悲惨な戦いにおいては、狙撃の巧みなひとりの暴徒が平屋根の上で戦ったが、一個の安楽椅子を持ち出していた。そしてそれに腰掛けたまま霰弾にたおれた。  指揮者が戦闘準備の命令を下すや否やす《/す》べて無秩序な運動は止む。もはや不和もなく、寄り集まりもなく、陰口もなく、離れた群れもない。人々の頭の中にあるものはみな一つに集中し、ただ敵の襲撃を待つの念だけに変わってしまう。防寨は危険が来る前までは混乱であるが、危険に陥《おちい》れば規律となる。危急は秩序を生ずる。  アンジョーラが二連発のカラビン銃《銃’》を取って、自分の場所としてる一種の狭間に身を置くや、人々は口をつぐんでしまった。多くの小さな鋭い音が舗石《+敷石》の壁に沿ってごったに起こった。それは銃を構える音だった。  また人々の態度は、深い勇気と信念とを示していた。極度の犠牲心はかえって力を生ぜさせる。彼らはもはや希望を持たなかったが、しかし絶望を持っていた。絶望は時として勝利を与える最後の武器であるとは、ヴァージルの言ったところである。最上の手段は最後の決心から生まれてくる。死の船に乗り込むのは、往々にして難破から脱する方法となる。柩の蓋は身をまもる板となる。  前夜のとおり人々の注意は、今や明るくなって見えてきた街路の先端に向けられた、というよりそこに倚りかかったと言ってもよい。  待つ間《マ》は長くなかった。どよめきの音がサン・ルーの方面にまたはっきり聞こえ始めた。しかしそれは第一回の攻撃のおりの運動とは異なっていた。鎖の音、大集団《ダイ集団》の恐ろしいざわめき、舗石《敷石》の上に当たる青銅の音、一種のおごそかな響き、それらはあるすごい鉄器が近づいてくるのを示していた。多くの利害と思想とが交通するために|うが《穿》ち設けられ、恐ろしい戦車を通すために作られたのではない、それらの平和な古い街路のうちに、一つの震動が起こってきた。  街路の先端に据えられてた戦士らの瞳は、ものすごくなった。  一門の大砲が現われた。  砲手らが砲車を押し進めてきた。大砲は発射架の中に入《-い》れられていた。前車ははずされていた。砲手の二人は砲架を|ささ《支》え、四人は車輪の所に添い、他の者らは《は-》あとに続いて弾薬車を引いていた。火のついた火縄の煙が見えていた。 「打て!《/》」とアンジョーラは叫んだ。  防寨は全部火蓋を切った。その射撃は猛烈だった。雪崩のような煙は、砲門と兵士らとを|おお《覆》い隠した。数秒ののち煙《/煙》が散ると、大砲と兵士らとが再び見えた。砲手らは静かに正確に急《/急》ぎもせず、砲口を防寨の正面に向けてしまっていた。弾《玉》にあたった者は一人もいなかった。砲手長は砲口を上げるため砲尾《/砲ビ》に身体をもたせかけ、望遠鏡の度を合わせる天文学者のように落ち着き払って、照準を定め始めた。 「砲手、あっぱれ!《/》」とボシュエは叫んだ。  そして、防寨の者は皆拍手《-みんな拍手》した。  一瞬間の後には、大砲は街路の|まんなか《真ん中》に溝《ドブ》をまたいでおごそかに据えられ、発射するばかりになっていた。恐るべき口は防寨の上に開かれていた。 「さあこい!《/》」とクールフェ《ェー》ラックは言った。「ひどい奴だな、指弾《+シッペイ》の後《あと》に拳骨か。軍隊は俺たちの方《ほう》に大きな足を差し出したな。こんどは防寨も本当に動くぞ。小銃は掠《+掠め》るばかりだが、大砲はぶっつかる。」 「新式の青銅の八斤砲だ。」とコンブフェールはそれに続いて言った。「あの砲は、銅と錫とが百に十《’10》の割合を越すとすぐに破裂する。錫が多すぎれば弱くなって、火門《’火門》の中に幾つもすき間ができる。その危険を避けし《/し》かも装薬を強くするには、十四世紀式に戻って箍をはめなくちゃいけない。すなわち砲尾《砲ビ》から砲耳までつ《継》ぎ目なしの鋼鉄の輪をたくさんはめて外《/外》から強くするんだ。さもなければどうにかして欠点を補うんだ。猫捜器《ビョーソウ器》で火門《’火門》の中にできた|すきま《隙間》がわかる。しかし最もいい方法は、グリボーヴァルの発明した動星器を用いることだ。」 「十六世紀には、」とボシュエは言った、「砲身内に旋条を施していた。」 「そうだ、」とコンブフェールは答えた、「そうすれば弾道力は増すが、|ねら《狙》いの正確さは減ずる。その上、短距離の射撃には、弾道は思うように|まっす《真っ直》ぐにならず、抛物線は大きくなり、弾《玉》は充分|まっす《真っ直》ぐに飛ばなくて中間《”中間》の物を打つことができなくなる。しかし実戦においては中間の物を打つ必要があって、敵が近くにおり発射を急ぐ場合には、ますますそれが大切となる。十六世紀の旋条砲の弾道が彎曲するその欠点は、装薬の弱さからきている。そして装薬を弱くするのは、この種の武器では、たとえば砲架を痛めないようにというような発射の方《ほう》の必要からきている。要するにこの専制者たる大砲も、欲することを何でもやれるわけではない。力には大なる弱点がある。砲弾は一時間に六百里しか走れないが、光線は一秒に七万里走る。それがすなわち、イエス・キリストのナポレオンに勝るところだ。」 「弾《玉》をこめ!《/》」とアンジョーラは言った。  防寨の面は砲弾の下にどうなるであろうか。砲弾に穴をあけられるであろうか。それが問題であった。暴徒らが銃に再び弾《タマ》をこめてる間《あいだ》に、砲兵らは大砲に弾をこめていた。  角面堡《+カクメンホウ》内の懸念はすこぶる大きかった。  大砲は発射された。轟然たる響きが起こった。 「ただ今!《/》」と快活な声がした。  砲弾が防寨の上に落ちかかると同時に、ガヴローシュが防寨の中に飛び込んできた。  彼はシーニ街の方からやってきて、プティート・トリュアンドリー小路に向いてる補助の防寨を敏捷《/敏捷》に乗り越えてきたのだった。  砲弾よりもガヴローシュの方《ほう》が防寨の中に騒ぎを起こした。  砲弾は雑多な破片の堆い中に没してしまった。せいぜい乗り合い馬車の車輪を一つこわしア《/ア》ンソーの古荷車《フル荷車》を砕いたに過ぎなかった。それを見て人々は笑い出した。 「もっと打て。」とボシュエは砲兵らに叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【大砲の真の偉力】 ◇。◇。◇。◇。◇。  人々はガヴローシュの周囲に集まった。  しかし彼は何も物語る暇がなかった。マリユスは駭然《蓋然》として彼を横の方《ほう》に招いた。 「何しに戻ってきたんだ。」 「なんだって!《/》」と少年は言った。「お前の方《ほう》はどうだ?」  そして彼はおごそかな厚かましさでマリユスを見つめた。その両の目は心中《シンチュウ》にある得意の情のために一際大《/一際大》きく輝いていた。  マリユスはきびしい調子で続けて言った。 「戻ってこいと|だれ《誰》が言った! 少なくとも手紙は|あて名《宛名》の人に渡したのか。」  手紙のことについてはガヴローシュも多少やましいところがないでもなかった。防寨に早く戻りたいので、手紙は渡したというよりもむ《/む》しろ厄介払いをしたのだった。顔もよく見分けないで未知の男に託したのは多少軽率《多少’軽率》だったと、彼は自ら認めざるを得なかった。実際その男は帽子をかぶってはいなかったが、それだけでは弁解にならなかった。要するに彼は、手紙のことについては少し心苦しい点があって、マリユスの叱責を恐れていた。でそ《/そ》の苦境をきりぬけるために、最も簡単な方法を取って、ひどい嘘を言った。 「手紙は門番に渡してきた。女の人は眠っていたから、目がさめたら見るだろう。」  マリユスはその手紙を贈るについて二つの目的を持っていた、コゼットに別れを告げることと、ガヴローシュを救うこと。で彼《/彼》は望みの半分だけが成就したことで満足しなければならなかった。  手紙の送達と、防寨の中にフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の出現と、その二つの符合が彼の頭に浮かんだ。ガヴローシュにフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏をさし示した。 「あの人を知っているか。」 「いや。」とガヴローシュは言った。  実際ガヴローシュは、今言ったとおり、暗夜の中でジャン・ヴァ《ァ-》ルジャンを見たに過ぎなかった。  マリユスの頭の中に浮かんできた漠然たる不安な推測は、ガヴローシュの一語に消えうせた。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の意見はわからないが、おそらくは共和派だろう。そうだとすれば、彼が防寨の中に現われたのも別に不思議はない|わけ《訳》だった。  そのうちにもうガヴローシュは、防寨の他の一端《-いったん》で叫んでいた。「俺の銃をくれ!」  クールフェーラックは銃を彼に返してやった。  ガヴローシュは彼のいわゆる「仲間の者ら」に、防寨が包囲されてることを告げた。戻って来るのは非常に困難だった。戦列歩兵の一隊がプ《/プ》ティート・トリュアンドリーに銃を組んでシーニュ街の方《ほう》を監視しており、市民兵がその反対のプ《/プ》レーシュール街を占領していた。そして正面には軍勢の本隊が控えていた。  それだけのことを知らして、ガヴローシュは加えて言った。 「俺が許すから、奴らにどかんと一つ食わしてくれ。」  その間《あいだ》、アンジョーラは自分の狭間の所にあって、耳を澄ましながら様子をうかがっていた。  襲撃軍の方《ほう》は、砲弾の効果に不満だったのであろう、もうそれを繰り返さなかった。  一中隊の戦列歩兵が、街路の先端に現われて砲車の後ろに陣取った。彼らは街路の舗石《+敷石》をめくり、そこに舗石《敷石》の小さな低い障壁をこしらえた。それは高さ一尺八寸くらいなもので、防寨に向かって作った一種の肩墻《+ケンショウ》だった。肩墻《+ケンショウ》の左の角《カド》には、サン・ドゥニ街に集まってる郊外国民兵の縦隊の先頭が見えていた。  向こうの様子をうかがっていたアンジョーラは、弾薬車から霰弾の箱を引き出すような音を耳にし、また砲手長が照準を変えて砲口を少し左へ傾けるのを見た。それから砲手らは弾をこめ始めた。砲手長は自ら火縄桿を取って、それを火口に近づけた。 「頭を下げろ、壁に寄り沿え!《/》」とアンジョーラは叫んだ。「皆防寨《みんな防寨》に沿って|かが《屈》め!」  ガヴローシュがきたので、部署を離れて居酒屋の前に散らばってた暴徒らは、入り乱れて防寨の方《ほう》へ駆けつけた。しかしアンジョーラの命令が行なわれない前に、大砲は恐ろしい響きとともに発射された。果たしてそれは霰弾だった。  弾《玉》は角面堡《+カクメンホウ》の切れ目に向かって発射され、その壁の上にはね返った。その恐ろしいはね返しのために、|ふたり《二人》の死者と三人の負傷者とが生じた。  もしそういうことが続いたならば、防寨はもう|ささ《支》え得られない。霰弾は内部にはいって来る。  狼狽のささやきが起こった。 「ともかくも第二発を防ごう。」とアンジョーラは言った。  そして彼はカラビン銃《銃’》を低く下げ、砲手長をねらった。砲手長はその時、砲尾《砲ビ》の上に身をかがめて、照準を正しく定めていた。  その砲手長は|りっぱ《立派》な砲兵軍曹で、年若《トシ若》く、金髪の、やさしい容貌の男だったが、恐怖すべき武器として完成するとともに、ついには戦争を絶滅すべきその武器に、ちょうどふさわしい怜悧な様子をしていた。  アンジョーラのそばに立ってるコンブフェールは、その男をじっと|なが《眺》めていた。 「まったく遺憾なことだ!《/》」とコンブフェールは言った。「こういう殺戮は実に恐ろしい。ああ《あ”》国王がいなくなれば、戦いもも《-も》うな《な-》くなるんだ。アンジョーラ、君《キミ》はあの軍曹をねらっているが、どんな男かよくはわからないだろう。いいか、|りっぱ《立派》な青年だ、勇敢な男だ、思慮もあるらしい。若い砲兵は皆相当《-みんな相当》な教育を受けてる者どもだ。あの男には、父があり、母があり、家族があり、意中の女もあるかも知れない。多くて二十五歳より上ではな《無》い。君の兄弟かも知れないんだ。」 「僕の兄弟だ。」とアンジョーラは言った。 「そうだ、」とコンブフェールも言った、「また僕の兄弟でもある。殺すのはや《辞》めようじゃないか。」 「僕に任してくれ。な《成》すべきことはな《成》さなければならない。」  そして一滴の涙が、アンジョーラの大理石のような頬《ホオ》を静かに流れた。  と同時に、彼はカラビン銃の引き金を引いた。一閃の光がほとばしった。砲手長は二度ぐるぐると回り、腕を前方に差し出し、空気を求めてるように顔を上にあげたが、それから砲車の上に横ざまに倒れ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、その|まんなか《真ん中》から|まっす《真っ直》ぐに血がほとばしり出ていた。弾《玉》は胸を貫いたのである。彼は死んでいた。  彼を運び去って代わりの者を呼ばなけれは《ば》ならなかった。か《斯》くて実際数分間の猶予が得られたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【昔ながらの射撃の手腕】 ◇。◇。◇。◇。◇。  防寨の中では種々《いろいろ》の意見がかわされた。大砲はまた発射されようとしていた。その霰弾を浴びせられては|十五、六分《ジュウゴ六分》しか支持されない。その力を殺ぐことが絶対に必要だった。  アンジョーラは命令を下した。 「蒲団《布団》の蔽いをしなくちゃいけない。」 「蒲団《布団》はない、」とコンブフェールは言った、「皆負傷者《みんな負傷者》が寝ている。」  ジャン・ヴァルジャンはひとり列から離れて、居酒屋の角《カド》の標石《標イシ》に腰掛け、銃を膝の間にはさんで、その時まで周囲に起こってることには少しも立ち交わらなかった。「銃を持っていて何《-なん》にも《も-》しねえのかな、」とまわりの戦士らが言う言葉をも、耳にしないが《が-》ようだった。  ところがアンジョーラの命令が下されると、彼は立ち上がった。  読者は記憶しているだろうが、一同がシャンヴルリー街にやってきた時、ひとりの婆《バア》さんは弾の来るのを予想して、蒲団《布団》を窓の前につるしておいた。それは屋根裏の窓で、防寨の少し外にある七階建《/7階だ》ての人家の屋根上《屋根ウエ》になっていた。蒲団《布団》は斜めに置かれ、下部は二本の物干し竿に掛け、上部は二本の綱《’綱》でつるしてあった。綱は屋根部屋の窓縁《マドベリ》に打ち込んだ釘に結わえられ、遠くから見ると二本《2本》の麻糸のように見えた。防寨から|なが《眺》めると、その二本の綱《’綱》は髪の毛ほどの細《-ほそ》さで空に浮き出していた。 「|だれ《誰》か私に二連発のカラビン銃を貸してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  アンジョーラはちょうど自分のカラビン銃に弾をこめたところだったので、それを彼に渡した。  ジャン・ヴァルジャンは屋根部屋の方《ほう》をねらって、発射した。  蒲団《布団》の綱の一方は切れた。  蒲団《布団》はもはや一本の綱《’綱》で下がってるのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは第二発を発射した。第二の綱ははね返って窓ガラスにあたった。蒲団《布団》は二本の竿《サオ》の間をすべって街路に落ちた。  防寨の中の者は喝采した。  人々は叫んだ。 「蒲団《布団》ができた。」 「そうだ、」とコンブフェールは言った、「しかし|だれ《誰》が取りに行くんだ?」  実際蒲団《実際/布団》は防寨の外に、防御軍と攻囲軍との間に落ちたのである。しかるに砲兵軍曹の死に殺気立《殺気だ》った兵士らは、少し以前から、立てられた舗石《+敷石》の掩蔽線の後ろに腹ばいになり、砲手らが隊伍を整えてる間《あいだ》の大砲の沈黙を補うため、防寨に向かって銃火を開いていた。暴徒らの方《ほう》は、弾薬を|むだ《無駄》にしないようにそれには応戦しなかった。銃弾は防寨に当たって砕け散っていたが、街路はしきりに弾が飛んで危険だった。  ジャン・ヴァルジャンは防寨の切れ目から出て、街路に|はい《入》り、弾丸の雨の中を横ぎり、蒲団《布団》の所まで行き、それを拾い上げ、背中に引っかけ、そして防寨の中に戻ってきた。  彼は自らその蒲団《布団》を防寨の切れ目にあてた。しかも砲手らの目につかぬよう壁によせて掛けた。  か《斯》くして一同は霰弾を待った。  やがてそれはき《来》た。  大砲は轟然たる響きとともに一発の霰弾を吐き出した。しかしこんどは少しもはね返らなかった。弾《玉》は蒲団《布団》の上に流れた。予期の効果は得られた。防寨の人々は無事であった。 「共和政府は君に感謝する。」とアンジョーラはジャン・ヴァルジャンに言った。  ボシュエは驚嘆しか《/か》つ笑った。彼は叫んだ。 「蒲団《布団》にこんな力があるのは怪《け》しからん。ぶつかる物に対するたわむ物の勝利だ。しかしとにかく、大砲の勢いをそぐ蒲団《布団》は光栄なるかなだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 【黎明】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどこの時刻に、コゼットは目をさました。  彼女の室《部屋》は狭く小《/小》ぎれいで奥《/奥》まっていた。家の後庭に面して、東向きの細長い窓が一つついていた。  コゼットはパリーにどんなことが起こってるか少しも知らなかった。彼女は前夜《前夜’》外に出なかったし、「騒ぎがもち上がってるようでございますよ」とトゥーサンが言った時には、もう自分の室《+部屋》に退いていた。  コゼットは少しの間しか眠らなかったが、その間《あいだ》は深く熟睡した。彼女は麗しい夢を見た。それはおそらく小さな寝台が純白であったせいも多少あろう。マリユスらしい|だれ《誰》かが、光のうちに彼女に現われた。彼女は目に太陽の光がさ《差》したので目ざめた。そして初めは《は-》それもなお夢の続きのような気がした。  夢から出てきたコゼットの最初の考えは、喜ばしいものだった。彼女の心はすっかり落ち着いていた。数時間前のジャン・ヴァ《ァ-》ルジャンと同じく彼女も、不幸を絶対にしりぞけようとする心的反動のうちにあった。なぜともなく全力をつくして希望をいだきはじめた。それから突然《突然’》悲しい思いが起こってきた。──この前《まえ》マリユスに会ってからも《/も》う三日《3日》になっていた。しかし彼女は自ら考えた。マリユスは自分の手紙を受け取ったに違いない、自分のいる所を知ったはずである、知恵のある人だから、どうにかして自分の所へきてくれるだろう。──そしてそれも確かに今日だろう、今朝かも知れない。──もうすっかり明るくなっていたが、日《ヒ》の光は横ざまに流れていた。まだごく早いんだろうと彼女は思った。けれどもとにかく起きなければならなかった、マリユスが来るのを迎えるために。  彼女はマリユスなしには生きておれないような気がした。そしてそれでもう充分だった。マリユスはきっと来るだろう。こないという理由は少しも認められなかった。来ることは確かだった。三日間も苦しむのは既に恐ろしいことだった。三日もマリユスに会わせないとは神様もあまりひどすぎた。けれど今は、神の残酷な悪戯たる試練もきりぬけてきたし、マリユスは《は-》きっといい消息を持ってきつつあるに違いなかった。実に青春とはそうしたものである。青春はすぐに目の涙をかわかす。悲しみを不用なものとして、それを受け入れない。青春はある未知の者の前における未来のほほえみである、しかもその未知の者は青春自身である。それが幸福であるのは自然である。その息はあたかも希望でできてるかのようである。  その上コゼットは、マリユスがやってこないのはただ一日だけだというそのことについて、彼がどんなことを言ったか、またどんな説明をしたか、それを少しも思い出すことができなかった。地に落とした一個の貨幣がいかに巧みに姿を隠すか、そしていかにうまく見えなくなってしまうかは、人の皆知るところである。観念のうちにもそういうふうに人をたぶらかすものがある。一度頭脳の片|すみ《隅》に潜んでしまえば、もうおしまいである、姿が見えなくなってしまう、記憶で取り押さえることができなくなる。コゼットも今、記憶を働かしてみたが少しも効がないのにじれていた。マリユスが言った言葉を忘れてしまったのは、不都合なことであり済まないことであると、彼女は思った。  彼女は寝床から出て、魂と身体と両方の斎戒を、すなわち祈祷と化粧とをした。  やむを得ない場合には読者を婚姻の室《+部屋》に導くことはできるが、処女の室《部屋》に導くことははばかられる。それは韻文においてもでき難いことであるが、散文においてはなおさらである。  処女の室《部屋》は、まだ開かぬ花の内部である、闇の中の白色《白イロ》である、閉じたる百合のひそやかな房《+部屋》で、太陽の光がのぞかぬうちは人《/人》がのぞいてはならないものである。蕾のままでいる婦人は神聖なものである。自らあらわなるその清浄な寝床、自らおのれを恐れる尊い半裸体、上靴の中に逃げ込む白い足、《:、》鏡の前にも人の瞳の前かのように身《/身》を隠す喉元、器具の軋る音や馬車の通る音にも急《/急》いで肩の上に引き上げられるシャツ、《:、》結わえられたリボン、はめられた留め金、締《し》められた紐、かすかなおののき、寒さや貞節から来る小さな震え、あらゆる動きに対するそれとなき恐れ、《:、》気づかわしいもののないおりにも常に感ずる軽やかな不安、暁の雲のように麗しいそれぞれの衣服の襞、すべてそれらのものは語るにふさわしいものではない。それを列挙するだけで既に余りあるのである。  人の目は、上りゆく星に対するよりも起《/起》き上がる若き娘の前に、いっそう敬虔でなければならない。手を触れることができるだけに、いっそうそっとしておくべきである。桃の実の絨毛、梅の実の粉毛《フンモウ》、輻射状の雪の結晶、粉羽《コナウ》におおわれてる蝶の翼、などさえも皆、自らそれと知らない処女の純潔さに比《-くら》ぶれば、むしろ粗雑なものにすぎない。若き娘は夢にすぎなくて、まだ一つの像ではない。その寝所は理想の|ほの暗《仄暗》い部分のうちに隠れている。不注意な一瞥はその漠《バク》たる陰影を侵害する。そこにおいては観照も冒涜となる。  それでわれわれは、コゼットが目をさましたおりのそ《/そ》の香ばしい多少取《/多少取》り乱れた姿については、少しも筆を染めないでおこう。  東方の物語が伝えるところによると、薔薇の花は神からま《真》っ白に作られたが、まさに開かんとする時アダムにのぞかれたので、それを羞じて赤くなったという。われわれは若き娘と花とを尊むがゆえに、その前においては無作法な言を弄し得ないのである。  コゼットは急いで装いをし、髪を梳きそ《/そ》れを結んだ。当時の婦人は、入れ毛や芯などを用いて髷や鬢をふくらすことをせず、髪の中に座型を入《い》れることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、方々《ホウボウ》を見回して、街路の一部や家《/家》の角《カド》や舗石《+/敷石》の片|すみ《隅》などを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻の溝《ドブ》の一端《-いったん》でも今は彼女の望みにいっそう叶うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空を|なが《眺》めた。  すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて重苦《/重苦》しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然と感じた。実際種々《実際いろいろ》のことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。  それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的なそ《/そ》して神《’神》に信頼した微笑とが、心に起こってきた。  まだ家中は眠っていた。あたりは田舎のように静かだった。窓の扉は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくあり得《う》べからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きが時々《ときどき》聞こえていた。こんなに早くから大門《オオモン》を開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨を攻撃してる大砲の響きだった。  コゼットの室《+部屋》の窓から数尺下の所、壁についてるま《真》っ黒な古い蛇腹の中に、燕の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上から|のぞ《覗》くとその小さな楽園の中が見られた。母親は扇のように翼をひろげて雛を|おお《覆》うていた。父親は飛び上がって出て行き、それからまた戻ってきては、嘴の中に餌と脣《+口》づけをもたらしていた。朝日の光はその幸福な一群を金色に輝かし、増せよ殖えよという自然の大法はそ《/そ》こにおごそかにほほえんでおり、そのやさしい神秘は朝《/朝》の光栄に包まれて花を開いていた。コゼットは朝日の光を髪に受け、魂を空想のうちに浸し、内部は愛に外部《/外部》は曙に輝かされ、《:、》ほとんど機械的に身をかがめて、同時にマリユスのことを思ってるのだとは自ら気づきもせずに、それらの小鳥を、その家庭を、その雌雄を、その母と雛とを、小鳥の巣から乙女心を深く乱されながらう《打》ち|なが《眺》め始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【人を殺さぬ確実なる狙撃】 ◇。◇。◇。◇。◇。  襲撃軍の射撃はなお続いていた。小銃と霰弾とはこもごも発射された。しかし実際は大なる損害を与えなかった。ただコラント亭の正面の上部だけはひどく害を受けた。二階の窓や屋根部屋の窓は、霰弾のために無数の穴を明けられて、|しだい《次第》に形を失ってきた。そこに陣取っていた戦士らは身を隠すのやむなきに至った。けれども、それは防寨攻撃の戦術上の手段であって、長く射撃を続けるのも、暴徒らに応戦さしてそ《/そ》の弾薬をなくすためだった。暴徒らの銃火が弱ってき、もはや弾《’玉》も火薬もなくなったことがわかる時に、いよいよ襲撃をやろうというのだった。しかしアンジョーラはその罠にかからなかった。防寨は少しも応戦しなかった。  兵士らの射撃が来るたびごとにガヴローシュは舌で頬《ホオ》をふくらました。それは傲然たる軽蔑を示すものだった。 「うまいぞ、」と彼は言った、「どしどし着物を破ってくれ。俺たちは繃帯がいるんだ。」  クールフェーラックは効果の少ない霰弾を嘲って、大砲の方へ向かって言った。 「おい、大変|むだ《’無駄》使いをするね。」  戦いにおいても舞踏会におけるがごとく、人は相手をほしがるものである。角面堡《+カクメンホウ》がか《斯》く沈黙してることは、攻撃軍に不安を与え、何か意外の変事が起こりはしないかと心配させ始めたらしい。そして彼らは、舗石《+敷石》の砦の向こうを見届けたく思い、射撃を受けながら応戦もしないその平然たる障壁の背後には、どういうことが行なわれてるか知りたく思ったらしい。暴徒らはふいに、近くの屋根の上に日光に輝く一つの兜帽を見いだした。ひとりの消防兵が高い煙筒《煙突》に身を寄せて、偵察をやってるらしかった。その視線はま《真》上から防寨の中に落ちていた。 「あそこに困った偵察者が出てきた。」とアンジョーラは言った。  ジャン・ヴァルジャンはアンジョーラのカラビン銃を返していたが、なお自分の小銃を持っていた。  一言も口をきかずに彼は消防兵をねらった。そして一瞬の後には、その兜帽は一弾を受けて音を立てながら街路に落ちた。狼狽した兵士は急いで身を隠した。  第二の観察者がその後《あと》に現われた。それは将校だった。再び小銃に弾をこめたジャン・ヴァ《ァ-》ルジャンは、その将校をも|ねら《狙》い、その兜帽を兵士の兜帽と同じ所に打ち落とした。将校もたまらずにすぐ退いてしまった。そしてこんどは、ジャン・ヴァルジャンの考えが向こうに通じたらしかった。もう|だれ《誰》も再び屋根の上に現われなかった。防寨の中をうかがうことはやめられた。 「なぜ殺してしまわないんだ?」とボシュエはジャン・ヴァルジャンに尋ねた。  ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【秩序の味方たる無秩序】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ボシュエはコンブフェールの耳にささやいた。 「あの男は僕の言葉に返事をしない。」 「射撃をもって好意を施す男だ。」とコンブフェールは言った。  既に昔となってるその当時のことをまだ多少記憶してる人々は、郊外からきた国民兵らが暴動に対して勇敢であったことを知ってるであろう。彼らは特に1832年六月の戦いに熱烈で勇猛だった。パンタンやヴ《/ヴ》ェルテュやキ《/キ》ュネットなどの飲食店の主人のうちには、暴動のために「営業」を休まなければならなくなり、舞踏室が荒廃したのを見て憤激し、飲食店の秩序を保《-たも》たんがために、ついに戦死した者もあった。か《斯》く中流市民的にしてま《”ま》た勇壮なるこの時代には、種々《いろいろ》の思想にもそ《/そ》れに身をささぐる騎士がいるとともに、種々《いろいろ》の利益にもそ《/そ》れをまもる勇士がいた。動機の卑俗さは何ら行動の勇壮さを減殺《減殺’》しはしなかった。蓄積された貨幣の減少を回復せんがためには、銀行家らもマルセイエーズを高唱した。勘定場のためにも叙情詩的な血が流された。人々はスパルタ的な熱誠をもって、祖国の微小縮図たる店頭を防御した。  根本《コンポン》においては、それらのものの中にこもっていた意義は皆|まじめ《’真面目》なものであったと言うべきである。すなわち社会の各要素が、平等の域に|はい《入》る前にまず、闘争の域に|はい《入》っていたのである。  なおこの時代のも《もう》一つの特徴は、政府主義(|きちょうめん《几帳面》な一党派に対する乱暴な名前ではあるが)のうちに交じってる無政府主義であった。人々は不規律をもって秩序の味方をしていた。国民軍の某大佐の指揮の下に勝手《/勝手》な召集の太鼓はふいに鳴らされた。某大尉は自分一個の感激から戦いに向かった。某国民軍は「思いつき」で勝手な戦いをした。危急の瞬間に、「騒乱」のうちに、人々は指揮官の意見よりもむ《/む》しろ多く自己の本能に従った。秩序を守る軍隊の中に、真の単独行動の兵士が数多あった、しかもファンニコのごとく剣による者もあれば、アンリ・フォンフレードのごとくペンによる者もあった。  一群の主義によってよりもむ《/む》しろ一団の利益によって当時不幸《/当時’不幸》にも代表されていた文明は、危険に陥っていた、あるいは陥っていると自ら信じていた。そして警戒の叫びを発していた。各人は自ら中心となり、勝手に文明をまもり助《/助》け庇っていた。|だれ《誰》も皆社会《-みな社会》の救済をもっておのれの任務としていた。  熱誠のあまり時《/時》としては鏖殺を事とするに至った。国民兵の某隊は、その私権をもって軍法会議を作り、わずか五分間のうちにひ《/ひ》とりの捕虜の暴徒を裁断して死刑に処した。ジャン・プルーヴェールが殺されたのも、かかる即席裁判によってだった。実に狂猛《凶猛》なるリンチ法(私刑の法)であって、それについてはいずれの党派も他を非難する権利を有しない。なぜならそれは、ヨーロッパの王政によって行なわれたとともにま《”ま》たアメリカの共和政によっても行なわれたからである。そしてこのリンチ法には、また多くの誤解が含まっていた。ある日の暴動のおり、ポール・エーメ・ガルニエというひとりの若い詩人は、ロアイヤル広場で兵士に追跡されてま《”ま》さに銃剣で突かれんとしたが、六番地の門の下に逃げ込んでようやく助かった。「サン・シモン派のひとりだ」と兵士らは叫んで、彼を殺そうとしたのである。彼はサン・シモン公の追想記を一冊小《一冊’小》わきにかかえていた。ひとりの国民兵がその書物の上にサン・シモンという一語を見て、「死刑だ!《/》」と叫んだのだった。(訳者注◇ サン・シモン公は社会主義者サ《サ-》ン・シモンとは別人)  1832年六月六日、郊外からきた国民兵の一隊は、上にあげたファンニコ大尉に指揮されて、自ら好んで勝手に、シャンヴルリー街で大損害を受けた。この事実はいかにも不思議に思えるが、1832年の反乱後に開かれた法廷の審問によって証明されたものである。ファンニコ大尉は性急無謀な中流市民で、秩序の別働者とも称すべき男で、上に述べたような種類の人々のひとりであり、《:、》熱狂的な頑強な政府党であって、時機がこないのに早くも射撃をしたくてたまらなくなり、自分ひとりです《/す》なわち自分の中隊で防寨を占領しようという野心に駆られた。赤旗が上げられ、次いで古い上衣が上げられたのを黒旗《黒’旗》だと思い、それを見てまた激昂《ゲッコウ》した。将軍や指揮官らは会議を開いて、断然たる襲撃の時機はまだきていないと考え、そのひとりの有名な言葉を引用すれば、「反乱が自ら自分を料理する」まで待とうとした時、彼は声高《コワダカ》にそれを非難した。彼から見れば、防寨はもう熟していたし、熟したものは落ちるべきはずだったので、彼はあえて行動したのだった。  彼が指揮していた一隊も、彼と同じく決意の者どもであって、一実見者《イチ実見者》の言うところによると、「熱狂者ども」であった。彼の中隊は、詩人ジャン・プルーヴェールを銃殺した中隊で、街路の角《カド》に置かれてる大隊の先頭になっていた。最も意外な時機に、大尉は部下を防寨に突進さした。その行動は、戦略よりもむしろ多くほしいままな心からなされたもので、ファンニコの中隊には高価な犠牲をもたらした。街路の三分の二も進まないうちに、防寨からの一斉射撃を被《-こうむ》った。先頭に立って走っていた最も大胆な四人の兵は、角面堡《+カクメンホウ》の足下で|ねら《狙》い打ちにされた。そしてこの国民兵の勇敢な一群は、皆豪勇《みな豪勇》な者らではあったが戦《/戦》いの粘着力を少しも持っていなかったので、《:、》しばらく躊躇した後《あと》、舗石《+敷石》の上に十五の死体を遺棄しながら、退却のやむなきに至った。その躊躇の暇は、暴徒らに再び弾《タマ》をこめる余裕を与えた。そして避難所たる角《カド》に達しないうちに、第二の一斉射撃を受けてま《”ま》た大なる損害を被《こうむ》った。一時彼らは敵味方の射撃の間にはさまれた。砲兵は何の命令も受けないのでな《/な》お発射を続けていたから、その霰弾をも受けたのである。大胆無謀なファンニコは、霰弾にたおれたひとりだった。彼は大砲すなわち秩序から殺されたのである。  その激しいというよりむしろ狂乱的な攻撃は、アンジョーラを激昂《ゲッコウ》さした。彼は言った。 「|ばか《馬鹿》野郎! 下らないことに、部下を殺し、俺たちに弾薬を使わせやがる。」  アンジョーラは暴動の真の将帥だったが、言葉もそれにふさわしかった。反軍と鎮定軍とは同等の武器で戦ってるのではない。反軍の方《ほう》は早く力を失いやすいものであって、発射する弾薬にも限りがあり、犠牲にする戦士にも限りがある。一つの弾薬盒が空《カラ》になり、ひとりの戦士がたおれても、もはやそれを補充すべき道はない。しかるに鎮定軍の方《ほう》には、軍隊が控えて人員には限りがなく、ヴァンセンヌ兵機局が控えていて弾薬には限りがない。鎮定軍には、防寨の人員と同数ほどの連隊があり、防寨の弾薬嚢と同数ほどの兵器廠がある。それゆえ常に一をもって百に当たるの戦いであって、もし革命が突然《突然’》現われて戦《/戦》いの天使の炎の剣を秤《ハカリ》の一方に投ずることでもない限りは、防寨はついに粉砕さるるにきまっている。しかし一度革命となれば、すべてが立ち上がり、街路の舗石《+敷石》は沸き立ち、人民の角面堡《+カクメンホウ》は至る所に築かれ、《:、》パリーはおごそかに震い立ち、天意的なものが現われきたり、八月十日(1792年)は空中に漂い、七月二十九日(1830年)は空中に漂い、《:、》驚くべき光が現われ、うち開いてる武力の顎《+オトガイ》はたじろぎ、獅子のごとき軍隊は、予言者フランスがつっ立って泰然と構えているのを、眼前に見るに至るのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【過ぎゆく光】 ◇。◇。◇。◇。◇。  一つの防寨を守る混沌たる感情と情熱とのうちには、あらゆるものがこもっている。勇気があり、青春があり、名誉の意気があり、熱誠があり、理想があり、確信があり、賭博者の熱があり、また特に間歇的な希望がある。  この一時の希望の漠然たる震えの一つが、最も意外な時に、シャンヴルリーの防寨を突然《突然’》過ぎった。 「耳を澄まして見ろ、」となお様子をうかがっていたアンジョーラはにわかに叫んだ、「パリーが覚醒してきたようだ。」  実際六月六日の朝、|一、二時間《イチニ時間》の間《あいだ》、反乱はある程度まで増大していった。サン・メーリーの頑強な警鐘の響きは、逡巡してる者らを多少奮い立たした。ポアリエ街とグラヴィリエ街とに防寨が作られた。サン・マルタン凱旋門の前では、カラビン銃を持ったひとりの青年が、単独で一個中隊《一個中’隊》の騎兵を攻撃した。掩蔽物もない大通りの|まんなか《真ん中》で、彼は地上にひざまずき、銃を肩にあて引《/引》き金を引いて、中隊長を射殺し、それから振り向いて言った。「これでまたひとり悪者がなくなった。」彼はサーベルで薙ぎ倒された。サン・ドゥニ街では、目隠し格子《ゴウシ》の後ろからひとりの女が、市民兵に向かって射撃をした。一発ごとに、目隠し格子《ゴウシ》の板が動くのが見えた。ポケットにいっぱい弾薬を入れている十四歳の少年がひとり、コソンヌリー街で捕えられた。多くの衛舎は攻撃を受けた。ベルタン・ポアレ街の入り口では、カヴェーニャク・ド・バラーニュ将軍が先頭に立って進んでいた一個連隊の胸甲兵が、まったく不意の激しい銃火にむかえ打たれた。プランシュ・ミブレー街では、屋根の上から軍隊を目がけて、古い皿の破片や什器などが投げられた。それははなはだよくない徴候で、スールト元帥にその事が報告された時、昔ナ《/ナ》ポレオンの参謀だった彼もさすがに考え込んで、サラゴサの攻囲のおりシ《/シ》ューシェが言った言葉を思い起こした、《:、》「婆さんどもまでが溲瓶《尿瓶》のものをわれわれの頭上にぶちまけるようになっては、とても|だめ《駄目》だ。」  暴動は一局部のことと思われていた際に突然《/突然’》現われてきた各所の徴候、優勢になってきた憤怒《フンヌ》の熱、パリー郭外と呼ばるる莫大な燃料の堆積の上にあ《/あ》ちらこちら飛び移る火の粉、《:、》それらのものは軍隊の指揮官らに不安の念を与えた。彼らは急いでそれらの火災の始まりをも《揉》み消そうとつとめた。そしてモーブュエやシ《/シ》ャンヴルリーやサ《/サ》ン・メーリーなどの各防寨は、最後に残して一挙に粉砕せんがために、各所の火の粉を消してしまうまで、その攻撃を延ばした。軍隊は沸き立った各街路に突進し、あるいは用心して徐々に進み、あるいは一挙に襲撃しながら、右に左に、大《ダイ》なるものは掃蕩し、小《ショウ》なるものは探査した。兵士らは銃を発射する人家の扉を打ち破った。同時に騎兵も活動を始めて、大通りの群集を駆け散らした。そしてこの鎮圧はかなりの騒擾を起こし、軍隊と人民との衝突に特有な騒々しい響きを立てた。砲火と銃火との響きの間々《あいだあいだ》にアンジョーラが耳にしたのは、その騒ぎの音であった。その上《うえ》彼は担架にのせられた負傷者らが通るのを街路の先端に認めて、クールフェーラックに言った、《:、》「あの負傷者らはわ《我》が党の者ではない。」  しかしその希望は長く続かなかった。光明は間もなく消えてしまった。三十分とたたないうちに、空中に漂ってたものは消散しつくした。あたかも雷を伴わない電火《電カ》のようなものだった。孤立しながら固執する者らの上に人民《/人民》の冷淡さが投げかける鉛《/鉛》のような重い一種の外套を、暴徒らは再び身に感じた。  漠然と輪郭だけができかかってきたらしい一般の運動は、早くも失敗に終わってしまった。今や陸軍大臣の注意と諸将軍の戦略とは、なお残ってる|三、四《サンヨン》の防寨の上に集中されることになった。  太陽は地平線の上に上ってきた。  ひとりの暴徒はアンジョーラを呼びかけた。 「われわれは腹がすいてる、実際こんなふうに何《-なん》にも食わずに死ぬのかね。」  自分の狭間の所になお肱をついていたアンジョーラは、街路の先端から目を離さずに、頭を動かしてうなずいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十四章】 【アンジョーラの情婦の名】 ◇。◇。◇。◇。◇。  クールフェーラックはアンジョーラの傍《ソバ》の舗石《+敷石》の上にすわって、大砲をなお罵倒し続けていた。霰弾と呼ばるる爆発の暗雲が恐《/恐》ろしい響きを立てて通過するたびごとに、彼は冷笑の声を上げてそれを迎えた。 「喉を痛めるぞ、|ばか《馬鹿》な古狸めが。気の毒だが、大声を出したって|だめ《駄目》だ。まったく、雷鳴《+雷》とは聞こえないや、咳くらいにしか思われない。」  そして周囲の者は笑い出した。  クールフェーラックとボシュエは、危険が増すとともにますます勇敢な上|きげん《機嫌》さになって、スカロン夫人のように、冗談をもって食物の代用とし、また葡萄酒がないので、人々に快活の気分を注《-つ》いでまわった。 「アンジョーラは豪い奴だ。」とボシュエは言った。「あのびくともしない豪勇さはまったく僕を驚嘆させる。彼はひとり者だから、多少悲観することがあるかも知れん。豪いから女ができないんだといつもこぼしてる。ところがわれわれは皆多少《-みんな多少》なりと情婦を持っている。だから|ばか《馬鹿》になる、言い換えれば勇敢になる。虎のように女に夢中になれば、少なくとも獅子のように戦えるんだ。それは女から翻弄された一種の復讐だ。ローランはアンゼリックへの面当に戦死をした。われわれの勇武は皆女《-みんな女》から来る。女を持たない男は、撃鉄のないピストルと同じだ。男を勢いよく発射させる者は女だ。ところがアンジョーラは女を持っていない。恋を知らないで、それでいて勇猛だ。氷のように冷たくて火《/火》のように勇敢な男というのは、まったく前代未聞だ。」  アンジョーラはその言葉をも耳にしないかのようだった。しかし彼の傍《ソバ》にいた者があったら、彼が半ば口《くち》の中でパ《/パ》トリア(祖国)とつぶやくのを聞き取ったであろう。  ボシュエは《は-》なお冗談を言い続けていたが、その時クールフェーラックは叫んだ。 「またきた!」  そして来客の名を告げる接待員のような声を出して付け加えた。 「八斤砲でございます。」  実際新しい人物がひとり舞台《/舞台》に現われてきた。第二の砲門だった。  砲兵らはすみやかに行動を開始して、第二の砲を第一の砲の近くに据えつけた。  それによって、防寨の最後はほぼ察せられた。  しばらくすると、急いで操縦された二個の砲は、角面堡《+カクメンホウ》に向かって正面から火蓋を切った。戦列歩兵や郊外国民兵らの銃火も、砲兵を掩護した。  ある距離を|へだ《隔》てて他の砲声も聞こえた。二門《ニモン》の砲がシャンヴルリー街の角面堡《+カクメンホウ》に打ちかかったと同時に、他の二門の砲はサン・ドゥニ街とオーブリー・ル・ブーシュ街とに据えられて、サン・メーリーの防寨を攻撃したのである。四個の砲門は互いに恐ろしく反響をかわした。  それら陰惨な闘犬の吠え声は、互いに応え合ったのである。  今やシャンヴルリー街の防寨を攻撃してる二門の砲のうち、一つは霰弾を発射し、一つは榴弾を発射していた。  榴弾を発射していた砲は、少し高く照準されて、防寨の頂の先端に弾が落下するようにねらわれたので、そこを破壊して、霰弾の破裂するがような舗石《+敷石》の破片を暴徒《/暴徒》らの上に浴びせた。  かかる砲撃の目的は、角面堡《+カクメンホウ》の頂から戦士らを追いしりぞけ、その内部に集まらせようとするにあった。言い換えれば、突撃の準備だった。  一度戦士らが、榴弾のために防寨の上から追われ霰弾《/霰弾》のために居酒屋の窓から追《-お》わるれば、襲撃隊はねらわれることもなくま《”ま》たおそらく気づかれることもなく、その街路にはいり込むことができ、《:、》前夜のようににわかに角面堡《+カクメンホウ》をよじ上ることもでき、不意を襲って占領し得るかも知れなかった。 「どうしてもあの邪魔な砲門を少し沈黙させなければいけない。」とアン|ジジ《ジ》ョーラは言った。そして叫んだ。「砲手を射撃しろ!」  一同は待ち構えていた。長く沈黙を守っていた防寨は、おどり立って火蓋を切った。|七、八回《シチハチ回》の一斉射撃は、一種の憤激と喜悦とをもって相次いで行なわれた。街路は濃い硝煙に満たされた。そして数分間の後、炎の線に貫かれたその靄をとおして、砲手らの三分の二は砲車《/砲車》の下にたおれてるのがかすかに見られた。残ってる者らはいかめしく落ち着き払って、なお砲撃に従事していたが、発射はよほどゆるやかになった。 「うまくいった。成功だ。」とボシュエはアンジョーラに言った。  アンジョーラは頭を振って答えた。 「まだ|十五、六分間《ジュウゴ六分間》しなければ成功とはい《言》えない。しかもそうすれば、もう防寨には十個ばかりの弾薬しか残らない。」  その言葉をガヴローシュが耳にしたらしかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十五章】 【外に出た《た-》るガヴローシュ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  クールフェーラックは防寨のすぐ下の外部に、弾丸の降り注ぐ街路に、ある者の姿を突然《突然’》見いだした。  ガヴローシュが、居酒屋の中から壜を入れる籠を取り、防寨の切れ目から外に出て、角面堡《+カクメンホウ》の裾で殺された国民兵らの弾薬盒から、中にいっぱいつまってる弾薬を取っては、平然としてそれを籠の中に入れてるのだった。 「そこで何をしてるんだ!《/》」とクールフェーラックは言った。  ガヴロ|シー《ーシ》ュは顔を上げた。 「籠をいっぱいにしてるんだ。」 「霰弾が見えないのか。」  ガヴローシュは答えた。 「うん、雨のようだ。だから?」  クールフェーラックは叫んだ。 「戻ってこい!」《」◇。》 「今すぐだ。」とガヴローシュは言った。  そして一躍して街路に飛び出した。  読者の記憶するとおり、ファンニコの中隊は退却の際に、死体を方々《-ほうぼう》に遺棄していた。  その街路の舗石《+敷石》の上だけに、二十余りの死体が散らばっていた。ガヴローシュにとっては二十余りの弾薬盒であり、防寨にとっては補充の弾薬であった。  街路の上の硝煙は霧のようだった。つき立った断崖の間の谷合に落ちてる雲を見たことのある者は、暗い二列の高い人家にい《/い》っそう濃くなされて立ちこめてるその煙を、おおよそ想像し得《う》るだろう。しかも煙は静かに上ってゆき、絶えず新しくなっていた。そのために昼の明るみも薄らいで、|しだい《次第》に薄暗くなってくるようだった。街路はごく短かかったけれども、その両端《両はし-》の戦士は互いに見分けることがほとんどできなかった。  か《斯》く薄暗くすることは、防寨に突撃せんとする指揮官らがあ《/あ》らかじめ考慮し計画したことだったろうが、またガヴローシュにも便利だった。  その煙の下に隠れ、その上《うえ》身体が小さかったので、彼は敵から見つけられずに街路《/街路》のかなり先まで進んでゆくことができた。まず|七、八個《シチ8個》の弾薬盒は、大した危険なしに盗んでしまった。  彼は平たく四《-よ》つばいになって、籠を口にくわえ、身をねじまげす《/す》べりゆきは《/這》い回って、死体から死体へと飛び移り、猿が胡桃の実をむくように、弾薬盒や弾薬嚢を開いて盗んだ。  防寨の者らは、彼がなおかなり近くにいたにかかわらず、敵の注意をひくことを恐れて、声を立てて呼び戻すことをしかねた。  ある上等兵の死体に、彼は火薬筒を見つけた。 「喉の|かわ《乾》きにもってこいだ。」と彼は言いながら、それをポケットに入れた。  |しだい《次第》に先へ進んでいって、彼はついに向こうから硝煙が見透せるぐらいの所まで達した。  それで、舗石《+敷石》の防壁の後ろに潜んで並んでる狙撃戦列兵や街路《/街路》の角《カド》に集まってる狙撃国民兵らは、煙の中に何かが動いてるのを突然《/突然’》見いだした。  ある標石《標イシ》の傍《ソバ》に横たわってる軍曹の弾薬をガヴローシュが奪っている時、弾《玉》が一発飛んできてそ《/そ》の死体に当たった。 「ばか!《/》」とガヴローシュは言った、「死んだ奴をも一度殺《う一度ころ》してくれるのか。」  第二の弾は彼のすぐ傍《ソバ》の舗石《敷石》に当たって火花を散らした。第三の弾は彼の籠をくつがえした。  ガヴローシュはそちらを|なが《眺》めて、弾《玉》が郊外兵から発射されてるのを認めた。  彼は身を起こし、|まっす《真っ直》ぐに立ち上がり、髪の毛を風になびかし、両手を腰にあて、射撃してる国民兵の方《ほう》を見つめ、そして歌った。 ◇。◇。  ナンテールではどいつも醜い、  罪はヴォルテール  バレーゾーではどいつも愚か、  罪はルーソー。 ◇。◇。  それから彼は籠を取り上げ、こぼれ落ちた弾薬を一つ残らず拾い集め、なお銃火の方《ほう》へ進みながら、他の弾薬を略奪しに行った。その時第四《とき第四》の弾がきたが、それもまたそ《ソ》れた。ガヴローシュは歌った。 ◇。◇。  公証人じゃ俺は《は-》ないんだ、  罪はヴォルテール、  俺は小鳥だ、小さな小鳥、  罪はルーソー。 ◇。◇。  第五の弾がまたそ《ソ》れて、彼になお第三齣《+第三セツ》を歌わせた。 ◇。◇。  陽気なのは俺の性質、  罪はヴォルテール、  みじめなのは俺の身じたく、  罪はルーソー。 ◇。◇。  そういうことがなおしばらく続いた。  その光景は、すさまじいとともにま《”ま》た愉快なものだった。ガヴローシュは射撃されながら射撃を愚弄していた。いかにもおもしろがってる様子だった。あたかも猟人を嘴でつっついてる雀のようだった。群《群れ》が来るごとに彼は一連の歌で応じた。絶えず射撃はつづいたが、どれも命中しなかった。国民兵や戦列兵も彼を|ねら《狙》いながら笑っていた。彼は地に伏し、また立ち上がり、戸口の|すみ《隅》に隠れ、また飛び出し、姿を隠し、また現われ、逃げ出し、また戻ってき、嘲弄で霰弾に応戦し、しかもその間《あいだ》に弾薬を略奪し、弾薬盒を空《カラ》にしては自分の籠を満たしていた。暴徒らは懸念のために息をつめ、彼の姿を見送っていた。防寨は震えていたが、彼は歌っていた。それはひとりの子供でもなく、ひとりの大人でもなく、実に不思議な浮浪少年《/浮浪少年》の精であった。あたかも傷つけ得《う》べからざる戦《/戦》いの侏儒であった。弾丸は彼を追っかけたが、彼はそれよりもなお敏捷だった。死を相手に恐ろしい隠れんぼをやってるかのようで、相手の幽鬼の顔が近づくごとに指弾《+/シッペイ》を食わしていた。  しかしついに一発の弾《玉》は、他のより|ねら《狙》いがよかったのかあ《/あ》るいは狡猾だったのか、鬼火のようなその少年をとらえた。見ると、ガヴローシュはよろめいて、それからぐたりと倒れた。防寨の者らは声を立てた。しかしこの侏儒の中には、アンテウス(訳者注◇ 倒れて地面に触《ふ》るるや再び息をふき返すという巨人)がいた。浮浪少年にとっては街路の舗石《+敷石》に触れることは、巨人が地面に触れるのと同じである。ガヴローシュは再び起き上がらんがために倒れたまでだった。彼はそこに上半身を起こした。一条《一筋》の血が顔に長く伝っていた。彼は両腕を高く差し上げ、弾《玉》のき《来》た方《ほう》を|なが《眺》め、そして歌い始めた。 ◇。◇。  地面の上に俺はころんだ、  罪はヴォルテール、  溝《ドブ》の中に顔つき込んだ、  罪は‥‥。 ◇。◇。  彼は歌い終えることができなかった。同じ狙撃者の第二の弾が彼の言葉を中断さした。こんどは彼も顔を舗石《敷石》の上に伏せ、そのまま動かなかった。偉大なる少年の魂は飛び去ったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十六章】 【兄は父となる】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどその時リュクサンブールの園《’園》に──《─:》事変を見る目はどこへも配らなければならないから述べるが──《─:》|ふたり《二人》の子供が互いに手を取り合っていた。ひとりは七歳くらいで、ひとりは五歳くらいだった。彼らは雨にぬれていたので、日《ヒ》の当たる方《ほう》の径《道》を歩いていた。年上の方《ほう》は年下の方《ほう》を引き連れていたが、二人とも|ぼろ《ボロ》を|まと《纏》い顔《/顔》は青ざめ、野の小鳥のような様子をしていた。小さい方《ほう》は言っていた、「腹がすいたよ。」  年上の方《ほう》はほとんど保護者といったようなふうで、左手に弟を連れながら、右の手には小さな杖を持っていた。  園《エン》の中には他に人もいなかった。園は寂然としており、鉄門は反乱のため警察《/警察》の手で閉ざされていた。そこに露営していた軍隊は戦いに招かれて出かけていた。  |ふたり《二人》の子供はどうしてそこにいたのか? あるいは風紀衛兵の衛舎のすき間から逃げてきたのかも知れない。あるいは付近に、アンフェール市門か天文台《/天文台》の丘か、産表《産着》に包まれたる嬰児《+幼子》(訳者注◇ 幼児キリストのこと)を彼らは見いだしぬと《/と》いう文字のある破風のそびえている近くの四つ辻《辻’》かに、《:、》ある興行師の小屋があって、そこから逃げ出してきたのかも知れない。あるいは前日の夕方、園《エン》の門がし《閉》められる時番人《時/番人》の目をのがれて、人が新聞などを読む亭の中に一夜を過ごしたのかも知れない。それはとにかく事実を言えば、彼らは戸外に迷った身でありま《”ま》た一見自由《一見’自由》らしい身であった。しかし戸外に迷ってし《/し》かも自由らしいというのは、棄《捨》てられたということである。あわれな|ふたり《二人》の子供は実際棄《実際’捨》てられた者であった。  この|ふたり《二人》の子供は、ガヴローシュが世話してやったあの子供たちで、読者は記憶しているだろう。テナルディエの児《子》で、マニョンに貸し与えられ、ジルノルマ《マ-》ン氏の児《子》とされていたが、今は根のない枝《エダ》から落ちた木の葉となり風《/風》のまにまに地上に転々していたのである。  マニョンの家にいた当時はきれいで、ジルノルマ《マ-》ン氏に対する広告とされていたその着物も、今では|ぼろ《ボロ》となっていた。  その後彼らは、「宿無し児」という統計のうちにはいることとなり、パリーの街路の上で、警察から調べられ捨《/捨》てられま《”ま》た見つけられるというような身の上になっていた。  そのみじめな子供らがリュクサンブールの園《’園》の中にいたのも、かかる騒乱の日のおかげだった。もし番人らに見つかったら、|ぼろ着物《ボロキモノ》の彼らは追い出されたに違いない。貧しい子供は公《公け》の園囿には|はい《入》ることを許されていない。けれども、子供として彼らは花に対する権利を持っていることを、人はまず考《-かんが》うべきではないだろうか。  |ふたり《二人》の子供は、鉄門がし《閉》められていたためそこにいることができた。彼らは規則を犯していた。園《エン》の中に忍び込みそ《/そ》こに止《-とど》まっていた。鉄門が閉じたとて番人がいなくなるわけではなく、なお見張りは続けられているはずであるが、しかしおのずから気がゆるんで怠《/怠》りがちになるものである。それに番人らもまた世間の騒ぎに心をひかれ、園の中よりも外の方《ほう》に気を取られて、もう内部に注意していなかったので、従って二人の違犯者がいることにも気づかなかった。  前日雨が降り、その日の朝も少し降った。しかし六月の驟雨は大したことではない。暴風雨があっても、一時間とた《経》つうちには、どこに雨が降ったかというようにからりと晴れてしまう。夏の地面は、子供の頬《ホオ》と同じくすぐに|かわ《乾》きやすい。  夏至に近いま《真》昼の光は刺すが《が-》ようである。それはすべてを奪い取る。執拗に地面にしがみついてすべてを吸い取る。太陽も喉がかわいてるかと思われる。夕立ちも一杯の水にすぎない。一雨くらいはすぐに飲み干される。朝はすべてに水がしたたっていても、午後にはすべてが砂塵におおわれる。  雨に洗われ日光《/日光》に拭われた緑葉《ミドリバ》ほど|みごと《/見事》なものはな《無》い。それは暖かい清涼である。庭の木も牧場《ボクジョウ》の草も、根には水を含み花《/花》には日を受け、香炉のようになって一時《/一時》にあらゆる|かお《香》りを放つ。すべてが笑いの《/の》ぞき出す。人は穏やかな酔い心地になる。初夏は仮りの楽園である。太陽は人の心をものびやかにする。  そして、世にはこれ以上を何も求めない者がいる。ある気楽者《気楽モノ》らは、空の青いのを見て、これで充分だと言う。ある夢想家らは、自然の驚異に没頭して、自然を賛美するのあまり、善悪に対して無関心となる。ある宇宙の観照者らは、恍惚として人事を忘れて、人は樹下に夢想し得るにかかわらず、《:、》甲の飢えや乙《/乙》の渇きや、貧しき者の冬の裸体、子供の脊髄の淋巴性彎曲、煎餅蒲団、屋根裏、地牢、寒さに震える少女の|ぼろ《ボロ》、《:、》など種々《いろいろ》のことになぜ心をわずらわすか、そのゆえんを了解しない。しかしそれらは、平穏なし《/し》かも恐ろしいし《/し》かも無慈悲にもひとり満足せる精神である。不思議にも彼らは、無限なるもののみをもって充分としている。人の最も必要とする抱擁《/抱擁》し得らるるものを、有限なるものを、彼らは知らない。崇高な働きたる進歩をなし得る有限《/有限》なるもののことを、彼らは考えない。無限なるものと有限なるものとの人為的お《/お》よび神為的結合《シンイ的結合》から生ずる名状し難いものを、彼らは看過する。ただ無辺際なるものに面してさえおれば、彼らはほほえむ。かつて愉快を知らないが、常に恍惚としている。沈湎することがその生命である。人類の歴史も彼らにとっては、ただの一些事にすぎない。その中にすべては含まっていない。真《シン》のすべては外部にある。人間という些事に心を労して何《/なん》の役に立つか。人間は苦しんでいるというが、あるいはそうかも知れない。しかしとにかく、アルデバラム星《セイ》の上りゆくのを|なが《眺》めてみよ。母親は乳が出ず赤児《/赤児》は死にかかっているというが、そのようなことは自分の知るところではない。まあとにかく、一片の樅の白木質《ハクボク質》が顕微鏡下に示すあ《/あ》の驚くべき薔薇形の縞を|なが《眺》めてみよ。でき得《う》るならば最もうるわしいマリーヌのレースをそれに比較してみるがいい!《/》 とそう彼らは言う。それらの思索家は愛することを忘れているのである。獣帯星座は彼らをして、泣く児に目を向けることを得ざらしむる。神は彼らの魂を|おお《覆》い隠す。それは微小にして同時《/同時》に偉大なる一群の精神である。ホラチウスはそのひとりであり、ゲーテはそのひとりであり、ラ・フォンテーヌもおそらくはそのひとりであった。実に無限なるもののみを事とする壮大《/壮大》なる利己主義者であり、人の悲しみに対する平然《/平然》たる傍観者であって、天気さえ麗しければ|ネロ《/ネロ》のごとき暴君をも意に介せず、日の光をのみ見て火刑場《/火刑バ》を眼中に置かず、《:、》断頭台上の処刑を|なが《眺》めてもた《/た》だ光線の作用のみを気にし、叫び声もす《/す》すりなきの声も瀕死《/瀕死》のうめきも警鐘《/警鐘》の響きも耳にせず、五月であればすべてをよく思い、《:、》紅色《ベニイロ》と金色との雲が頭上にたなびく限りは満足だと称し、星の光と小鳥の歌とのつきるまでは幸福であるべく定められている。  輝いたる暗黒なる人々である。彼らは自らあわれむべき者であるとは夢にも思わない。しかし彼らはまさしくあわれむべき者らである。涙を流さぬ者は目が見えない。眉の下に両眼を持たず額《/額》の中央に一個の星を持っている、夜と昼とで同時にできてる者を、あわれみかつ賛嘆し得るとするならば、彼らこそあわれみかつ賛嘆すべき者らである。  それら思想家の無関心は、ある者の説によれば、高遠《こうえん》なる哲理から来るものであるという。あるいはそうであるとしても、しかしその高遠《-こうえん》さのうちには不具なる点がある。人は不死であるとともに跛足《+ビッコ》であり得る。神ヴルカヌスはその例である。人は人間以上であるとともに人間以下であり得る。自然のうちには広大なる不完全さも存する。太陽が盲目でないか否かを|だれ《誰》が知ろうぞ。  しからばおよそ何を信頼すべきであるか。太陽は虐偽《虚偽》なりとあえて言い得《-う》べきか。天才も、最高の人も、恒星たる人も、誤ることがあり得るのか。いと高きにある者、最高点にある者、頂《頂き》にある者、中天にある者、地上に多くの光を送る者、《:、》彼らの目もわずかしか見えないのか、よく見えないのか、あるいはまったく見えないのか。それでは絶望のほかはないではないか。否。しからば太陽の上に何が存するのか。曰く、神。  1832年六月六日の午前十一時ごろ、人影もない寂しいリュクサンブールの園《’園》は麗《/麗》しい様《さま》を呈していた。五目形に植えられた樹木や花壇の花は、日光のうちに香気《/香気》や眩惑の気を送り合っていた。ま《真》昼の光に酔うた枝々は、互いに相抱《アイイダ》こうとしてるが《が-》ようだった。シコモルの茂みの中には頬白が騒いでおり、雀は勇ましい声を立て、啄木鳥はマロニエの幹をよじ上って、樹皮の穴を軽く啄き回っていた。花壇のうちには百合の花が、もろもろの花の王らしく咲き誇っていた。それも至当である、香気のうちにても最も尊厳なるものは純白から発する|かお《香》りである。石竹の鋭い匂いも漂っていた。マリー・ド・メディチの愛した古い小鳥も、高い樹木の中で恋を語っていた。チューリップの花は日の光を受けて、金色に紅色《/ベニイロ》にま《”ま》たは|燃ゆる《モユル》がようになり、あたかも花で作られた種々《いろいろ》の炎に異ならなかった。その群咲きのまわりには蜂が飛び回って、炎の花から出る火花となっていた。すべては優美と快活とにあふれ、次にきたるべき雨さえもそうだった。再び来るその雨も、鈴蘭や忍冬《+スイカズラ》が恵みをたれるのみで、少しも心配なものではなかった。燕は見るも不安なほど|みごと《見事》に低く飛んでいた。そこにある者は幸福の気を呼吸し、生命はよき|かお《香》りを発し、自然はすべて純潔と救助《/救助》と保護《/保護》と親愛《/親愛》と愛撫《/愛撫》と曙《/曙》とを発散していた。天より落ちて来る思想は、人が脣《+口》づけする小児の小さい手のようにやさしいものであった。  木の下《-した》に立ってる裸体のま《真》っ白な像は、点々と光の落ちた影の衣服をまとっていた。それらの女神は日光の|ぼろ《ボロ》を|まと《纏》っていたのである。光線はその四方へたれ下がっていた。大きな池のまわりは、焼けるかと思えるまでに地面が|かわ《乾》ききっていた。わずかに風があって、所々《ところどころ》に塵の渦を立てていた。去年の秋から残ってる少しの黄色い落葉《落ち葉》が互《/互》いに愉快げに追っかけ合って、戯れてるが《が-》ようだった。  豊かな光には何となく人の心を安らかならしむるものがあった。生命、樹液、暑気、蒸発気などは満ちあふれていた。万物の下にその源泉の大きさが感ぜられた。愛に貫かれてるそれらの息吹の中に、反照と反映との行ききの中に、光の驚くべき濫費の中に、黄金の液の名状し難い流出の中に、無尽蔵者の浪費が感ぜられた。そしてその光輝のうしろには、炎の幕のうしろにおけるが《が-》ように、無数の星を所有する神がか《/か》すかに認め得らるるのであった。  砂がまかれてるために一点の泥土《ドロツチ》もなかった、また雨が降ったために一握の塵埃もなかった。草木の茂みは洗われたばかりの所だった。あらゆる種類のビロードや繻子《/繻子》や漆《/漆》や黄金《/黄金》は、花の形をして地《/地》からわき出て、一点の汚れも帯びていなかった。壮麗であるとともに瀟洒だった。楽しき自然の沈黙が園に満ちていた。その天国的な沈黙とともに、巣の中の鳩の鳴き声、群蜂《+グンポウ》の羽音、風のそよぎなど、無数の音楽が聞こえていた。季節の調和は全体を一団の麗しいものに仕上げていた。春の来去《ライキョ》は適当な順序でなされていた。ライラックの花は終わりに近づき、素馨《+ジャスミン》の花は咲きそめていた。ある花が遅れていると、その代わりにある昆虫が早めに出ていた。六月の前衛たる赤い蝶は、五月の後衛たる白い蝶と相交わっていた。篠懸は新しい樹皮をまとっていた。マロニエの|みごと《見事》な|木立ち《木立》は微風に波打っていた。実にそれは光り輝いた光景であった。近くの兵営の一老兵士は、鉄門から園の中をのぞいて言った、「正装した春だ。」  自然はすべて朝食にかかっていた。万物は食卓についていた。今はちょうどその時刻だった。青い大きな卓布《テーブルクロス》が空にかけられ、緑の大きな卓布《テーブルクロス》が地にひろげられていた。太陽は煌々と輝いていた。神はすべてに食事を供していた。あらゆるものは各自の秣や餌を持っていた。山鳩には麻の実があり、鶸には黍があり、金雀《+カナリヤ》には蘩蔞《+ハコベ》があり、駒鳥には虫《-むし》があり、蜂には花があり、蠅には滴虫があり、蝋嘴《+シメ》には蠅があった。彼らは互いに多少相食《多少’相食》み合っていた。そこに善と悪との相交わる神秘がある。しかし彼らは一つとして空腹ではなかった。  |ふたり《二人》の見捨てられた子供は、大きな池のそ《-そ》ばまできていたが、それら自然の光輝に多少心《多少’心》を乱されて、身を潜めようとしていた。人と否とを問わずすべて壮麗なるものに対するあわれな者弱《者/弱》い者の本能である。そして彼らは白鳥の小屋のうしろに隠れていた。  間《マ》を置いて方々《-ほうぼう》に、叫びの声、騒擾の音、銃火の騒然たる響き、砲撃の鈍いとどろきなどが、風のまにまに漠然と聞こえていた。市場町《イチバマチ》の方面には屋根の上に煙が見えていた。人を呼ぶような鐘の音《’音》が遠くに響いていた。  |ふたり《二人》の子供は、それらの物音にも気づ《づ-》かないか《か-》のようだった。弟の方《ほう》は時々《ときどき》半ば口《くち》の中で繰り返した。「腹がすいたよ。」  |ふたり《二人》の子供とほとんど同時に、別の|ふたり《二人》連れが大きな池に近づいてきた。五十歳ばかりの老人とそ《/そ》れに手を引かれてる六歳ばかりの子供とであった。確かに親子であろう。子供は大きな菓子パンを持っていた。  後に廃されたことであるが、その当時は、マダム街やアンフェール街などのセーヌ川に沿ったある家には、リュクサンブールの園《’園》の鍵をそなえることが許されていて、《:、》借家人《シャクヤニン》らは、鉄門が閉ざされた時でも自由に出入りし得られた。この親子はきっとそういう家の人であったに違いない。  |ふたり《二人》の貧しい子供はその「紳士」がやって来るのを見て、前よりもなお多少身《多少’身》を潜めた。  それはひとりの中流市民であった。以前にマリユスがやはりその池のそばで、「過度を慎む」ようにと息子に言ってきかしてる一市民の言葉を、恋《/恋》の熱に浮かされながら耳にしたことがあったが、あるいはそれと同じ人だったかも知れない。その様子は親切と高慢とを同時に示していて、その口はいつも開いてほほえんでいた。その機械的な微笑は、頤《顎》が張りすぎてるのに皮膚《/皮膚》が少なすぎるためにできるのであって、心を示すというよりむ《/む》しろ歯を示してるだけだった。子供はまだ食《-く》い終えないでいるか《嚙》じりかけの菓子パンを持ったまま、もう腹いっぱいになってるような様子だった。暴動があるために子供の方《ほう》は国民兵服をつけていたが、父親は用心のために平服のままだった。  父と子とは二羽の白鳥が浮かんでる池《’池》の縁に立ち止まった。その市民は白鳥に対して特殊な賛美の心をいだいてるらしかった。彼はその歩き方の点ではまったく白鳥に似寄《似通》っていた。  しかし今白鳥《いま白鳥》は泳いでいた。游泳は白鳥の主要な才能である。それはすこぶるみごとだった。  もし|ふたり《二人》の貧しい子供が耳を傾けたならば、そして物を理解し得るだけの年齢に達していたならば、彼らはそこに一個の|まじめ《真面目》な男の言葉を聞き取り得たであろう。父は子にこう言っていた。 「賢い人は少しのものに満足して生きている。私を見なさい。私は|はな《華》やかなことを好まない。金や宝石で飾り立てた着物を着たことはない。そんな虚飾は心の劣った者のすることだ。」  その時、強い叫び声が鐘《/鐘》の音《’音》と騒擾の響きとを伴って、市場町《イチバマチ》の方《ほう》から突然《突然’》聞こえてきた。 「あれは《は-》なに?」と子供は尋ねた。  父は答えた。 「お祭だよ。」  すると突然《突然’》彼は、白鳥の緑色の小屋のうしろに身動きもしないで隠れてる|ぼろ着物《/ボロキモノ》の|ふたり《二人》の子供を見つけた。 「あんなのがそもそもの始まりだ。」と彼は言った。  そしてちょっと黙った後《あと》に言い添えた。 「無政府主義がこの園にまで入り込《こ》んできてる。」  そのうちに子供は、菓子パンをかじったが、それをまた吐き出し、急に泣き出した。 「何で泣くんだい。」と父は尋ねた。 「もうお腹がすいていないんだもの。」と子供は言った。  父親の微笑《微笑’》はな《-な》お深くなった。 「お菓子を食べるには何もお腹がすいてなくてもいい。」 「このお菓子はいやだ。固くなってるから。」 「もう欲しくないのか?」 「ええ。」  父は白鳥の方《ほう》をさし示した。 「あの鳥に投げてやりなさい。」  子供は躊躇した。もう食べたくないからと言って、それで他の者にくれてやる理由とはならない。  父は言い続けた。 「慈悲の心を持ちなさい。動物をもあわれまなければいけない。」  そして彼は子供の手から菓子を取って、それを池の中に投げやった。  菓子は岸の近くに落ちた。  白鳥は遠く池の中程にいて、他の餌を漁っていた。そして市民にも菓子パンにも気がつかなかった。  市民は菓子が|むだ《無駄》に終わりそうなのを感じ、その徒らな難破に心を動かされて、激しい|合い図《合図》の身振りをしたので、ようやく白鳥の注意をひいた。  二羽の白鳥は何か浮いてるのを見つけ、まさしく船のように岸へ方向を変じ、菓子パンの方《ほう》へ静かに進んできた。白い動物にふさわしいいかにもゆったりした威風だった。 「シーニュ(白鳥)にはシーニュ(|合い図《合図》)がわかる。」と市民はその頓知を得意そうに言った。  その時、遠くの騒擾の響きはまた急に高まった。こんどはすごいように聞こえてきた。同じく一陣の風にも特にはっきりと意味を語るものがある。その時吹いてきた風は、太鼓のとどろきや鬨《/鬨》の声や一隊《/一隊》の兵《兵’》の銃火の音や警鐘《/警鐘》と大砲との沈痛な応答の響きなどを、はっきりと伝えていた。それとちょうど一致して、一団の黒雲《コクウン》がにわかに太陽を蔽うた。  白鳥《ハクチョウ》はまだ菓子パンに達していなかった。 「帰ろう。」と父は言った。「テュイルリーの宮殿が攻撃されてる。」  彼はまた子供の手を取った。それから言い添えた。 「テュイルリーとリュクサンブールとは、皇族と貴族との間ぐらいしか離れていない。間は遠くない。鉄砲の弾が雨のように飛んでくるかも知れない。」  彼は空の雲を|なが《眺》めた。 「そしてまた本当の雨も降りそうだ。空までいっしょになってる。ブランシュ・カデットは(若い枝は──ブールボン分家は)挫かれる。早く帰ろう。」 「白鳥《ハクチョウ》がお菓子を食べる所が見たいなあ。」と子供は言った。  父は答えた。 「そうしては不用心《ブ用心》だ。」  そして彼は自分の小さな市民を連れていった。  子供は白鳥の方《ほう》を残《名残》り惜しがって、五目形の植え込みの角《カド》に池が隠れるまで、その方《ほう》を振り返って|なが《眺》めた。  そのうちに、白鳥と同時に|ふたり《二人》の浮浪の子供が菓子パンに近寄ってきた。菓子は水の上に浮いていた。弟の方《ほう》は菓子を|なが《眺》め、兄の方《ほう》は去ってゆく市民を|なが《眺》めていた。  父と子とは入りくんだ道をたどって、マダム街の方《ホウ》へ通ずる段《/段》をなした木の茂みに|はい《入》っていった。  彼らの姿が見えなくなると、すぐに兄は、丸みをもった池の縁に腹ばいになり、左手でそこにしがみつきながら、《:、》ほとんど水に落ちそうになるほど身を乗り出し、右手を伸ばしてその杖を菓子の方《ほう》へ差し出した。白鳥は競争者を見て急いだ。しかし急ぎながら胸をつき出したので、小さな漁夫にはそれがかえって|仕合わ《幸》せとなった。水は二羽の白鳥の前に揺れて退《-ひ》いた。そのゆるやかな丸い波紋の一つのために、菓子は静かに子供の杖の方《ほう》へ押しやられた。白鳥《ハクチョウ》がやってきた時に、杖は菓子に届いた。子供は一つ強くたたいてそれを引きよせ、白鳥をおどかし、菓子をつかみ取《と》り、そして立ち上がった。菓子はぬれていたが、|ふたり《二人》は腹がすき喉《/喉》が|かわ《乾》いていた。兄はその菓子パンを、大きいのと小さいのと二つに割り、自分は小さい方《ほう》を取り、大きい方《ほう》を弟に与えて、こう言った。 「それをつめ込んでしまえ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十七章】 【死せる父死《父/死》なんとする子を待つ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは防寨から外に飛び出した。コンブフェールもそのあとに続いた。しかしもう間に合わなかった。ガヴローシュは死んでいた。コンブフェールは弾薬の籠を持ち帰り、マリユスはガヴローシュの死体を持ち帰った。  彼は思った。ああ、父親が自分の父にしてくれたことを、自分は今その子に報いているのだ。ただ、テナルディエは生きた自分の父を持ち帰ってくれたが、自分は今彼《今’彼》の死んだ子を持ち帰っているのか。  マリユスがガヴローシュを胸にかかえて角面堡《+カクメンホウ》に戻ってきた時、少年の顔と同じく彼の顔も血《血’》にま《-ま》みれていた。  ガヴローシュを抱き取ろうとしてかがんだ時、一弾が彼の頭をかすめた。彼はそれに自ら気づかなかった。  クールフェーラックは自分の首飾りを解いて、マリユスの額を結わえてやった。  人々はマブーフと同じテーブルの上にガヴローシュを横たえ、二つの死体の上に黒い肩掛けをひろげた。それは老人と子供とを|おお《覆》うに足りた。  コンブフェールは持ち帰った籠の弾薬を皆に分配した。  各人に十五発分ずつあった。  ジャン・ヴァルジャンはやはり標石《標イシ》の上に腰掛けたままじっとしていた。  コンブフェールが十五発の弾薬を差し出した時、彼は頭を振った。 「まったく珍しい変人だ。」とコンブフェールは低い声でアンジョーラに言った。「この防寨にいて戦おうともしない。」 「それでも防寨を守っては《は-》いる。」とアンジョーラは答えた。 「勇壮の方面にも奇人がいるわけだな。」とコンブフェールは言った。  それを聞いたクールフェーラックも口を出した。 「マブーフ老人とはまた異なった種類の男だ。」  ここにちょっと言っておかなければならないが、防寨は銃弾を浴びせられながら、その内部はほとんど乱されていなかった。こういう種類の戦いの旋風を横切ったことのない者は、その動乱に交じって妙に静穏な瞬間があることを、おそらく想到し得ないだろう。人々は行ききたり、語り、戯れ、ぶらぶらしている。霰弾の中でひとりの兵士が、「ここはまったく独身者《+独り者》の朝飯のようだ」と言ったのを、実際耳にした男をわれわれは知っている。繰り返して言うが、シャンヴルリー街の角面堡《+カクメンホウ》の中は、至って静穏らしく見えていた。あらゆる事変や局面は、すべて通過し終わっていた、もしくは通過し終わらんとしていた。状況は危急なものから恐ろしいものとなり、恐ろしいものから更に絶望的なものとなろうとしていた。状況が暗澹となるに従って、勇壮な光はますます防寨を赤く染めていた。アンジョーラは若いスパルタ人が抜き身の剣を陰惨《/陰惨》な鬼神《キジン-》エピドタスにささげるような態度で、おごそかに防寨に臨んでいた。  コンブフェールは腹部に前掛けをつけて負傷者らの手当てをしていた。ボシュエとフイイーとはガヴローシュが上等兵の死体から取った火薬筒で弾薬を作っていたが、ボシュエはフイイーにこう言った、「われわれは《は-》じきに他の遊星へ旅立つんだ。」クールフェーラックは自分の場所としておいたアンジョーラの傍《ソバ》の舗石《+敷石》の上に、仕込み杖や銃《/銃》や二梃《+/二丁》の騎馬用ピストルや一梃《/一丁》のポケット・ピストルなどを、《:、》まるで武器箱をひっくり返したようにして、若い娘が小さな裁縫箱を片づけるような注意でそれを整理していた。ジャン・ヴァルジャンは正面の壁を黙って|なが《眺》めていた。ひとりの労働者はユシュルー上《かみ》さんの大きな麦稈帽子《+麦わら帽子》を頭の上に紐で結わえつけて、日射病にかかるといけねえな《/な》どと言っていた。エークスのクーグールド結社に属する青年らは、最後にも《もう》一度田舎言葉を急いで口にしておこうと思ってるかのように、いっしょに集まって愉快そうにしゃべり合っていた。ジョリーはユシェ《ュ》ルー上《かみ》さんの鏡を取ってきて、それに映して自分の舌を検査していた。数人の戦士らは、ある引き出しの中にほとんど黴のはえたパン屑を見つけ出して、貪るようにそれを食っていた。マリユスは死せる父が自分に何《-なん》というであろうかと心を痛めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十八章】 【餌食となれる禿鷹】 ◇。◇。◇。◇。◇。  なお防寨《/防寨》に独特な心理的事実を一つ述べておきたい。この驚くべき市街戦の特色は一つたりとも省いてはいけないからである。  上に述べたとおりその内部はいかにも不思議なほど静穏であるけれども、それでも中にいる人々にとっては、防寨はやはり一つの幻のごとく感じられるものである。  内乱の中には黙示録的神秘がある。未知の世界のあらゆる靄は荒々しい炎を交じえている。革命はスフィンクスである。防寨の中を通った者は|だれ《誰》でも、夢の中を過ぎたかと自ら思う。  そういう場所で人が感ずるところのものは、既にわれわれがマリユスについて指摘してきたとおりであり、《:、》また結果もやがて述べんとするとおりであるが、実に生以上《セイ以上》でありま《”ま》た以下である。一度防寨を出れば、そこで何を見てきたかはもうわからなくなる。恐ろしいものであったが、さて何《-なん》であったかはわからない。人の顔をして戦ってる多くの観念にとりかこまれていた。未来の光明の中に頭をつき込んでいた。死体が横たわり幽霊がつっ立っていた。時間は巨大であって永劫が有する時間のようだった。死の中に生きていた。もろもろの陰影が過ぎ去っていった。しかしそれらは何《-なん》であったか? 血の流《なが》るる手をも見た。耳を聾するばかりの恐ろしい響きがあり、また恐怖すべき静寂があった。叫んでるうち開《ひら》いた口があり、また沈黙してるうち開《ひら》いた口があった。煙《ケムリ》に包まれていたし、おそらく|やみ《闇》夜に包まれていた。測り知られぬ深みから流れ出る凄惨《/凄惨》なものに触れたようでもあった。爪の中に何か赤いもののついてるのが見える。しかしもはや何《-なん》のことだか思い出せないのである。  さて、シャンヴルリー街に戻ってみよう。  突然、二度の一斉射撃の間に、時を報ずる遠い鐘の音《’音》が聞こえた。 「正午だ。」とコンブフェールは言った。  その十二の鐘が鳴り終えないうちに、アンジョーラはすっくと立ち上がり、防寨の上からとどろくような声を出して叫んだ。 「舗石《+敷石》を家の中に運べ。窓や屋根裏にそれをあてろ。人員の半分は射撃にかかり、半分は舗石《敷石》の方《ほう》にかかるんだ。一刻も猶予はできない。」  肩に斧をかついだ消防工兵の一隊が、街路の先端に戦闘隊形をなして現われたのだった。  それは一縦隊の先頭にすぎなかった。そしてその縦隊というのは無論《むろん》襲撃隊であった。防寨を破壊する任務を帯びてる消防工兵は常に、防寨を乗り越える任務を帯びてる兵士の先に立つべきものである。  1822年ク《/ク》レルモン・トンネール氏が「首縄の一《ひと》ひねり」と呼んだ危急の瞬間に、人々はまさしく際会していたのである。  アンジョーラの命令は直ちにそのとおり実行された。か《斯》く命令が急速《/急速》に正確に行なわれるのは船と防寨とに限ることで、両方とも脱走することのできない唯一の戦場である。一分間とたたないうちに、アンジョーラがコラント亭の入り口に積ましておいた舗石《敷石》の三分の二は、二階の屋根裏に運ばれ、《:、》次の一分間が過ぎないうちに、それらの舗石《敷石》は巧みに積み重ねられて、二階の窓や屋根裏《/屋根裏》の軒窓《ノキマド》の半ばをふさいだ。主任建造者たるフイイーの考案によって巧みに明けられた数個の間隙からは、銃身が差し出されるようになっていた。か《斯》く窓を固めることは、霰弾の発射がやんでいたのでこ《/こ》とに容易だった。が今《/今》や二門の砲は、襲撃に便利な穴を、あるいはでき得《う》べくんば一つの割れ目を、そこに作らんがために、障壁の中央めがけて榴弾を発射していた。  最後の防御物たる舗石《+敷石》が指定の場所に配置されたとき、アンジョーラはマブーフの死体がのせられてるテ《/テ》ーブルの下に置いていた壜を、すっかり二階に持ってこさした。 「|だれ《誰》がそれを飲むんだ。」とボシュエは尋ねた。 「奴らが。」アンジョーラは答えた。  それから人々は一階の窓をふさぎ、夜分に居酒屋の扉を内部《’内部》から締め切ることになってる鉄の横木を、すぐ差し入れるばかりにしておいた。  要塞は完全にでき上がった。防寨はその城壁であり、居酒屋はその櫓《ヤグラ》だった。  残ってる舗石《敷石》で人々は防寨の切れ目をふさいだ。  防寨の守備軍は常に軍需品を節約しなければならないし、攻囲軍もそれをよく知ってるので、攻囲軍はわざわざ敵をあせらすような緩慢な方略を用い、《:、》時機がこないのに早くも銃火の中に|おど《躍》り出《だ》してみせるような外観だけの策略を事とし、実際はゆっくり落ち着いてるものである。襲撃の準備はいつも一定の緩慢さをもってなされ、次に電光石火の突撃が始められる。  その緩慢な準備の間に、アンジョーラはすべてを検査しす《”す》べてを完成するの暇を得た。かかる同志らが死なんとする以上は、その死は|りっぱ《立派》なものでなければならない、と彼は思っていた。  彼はマリユスに言った。「僕ら|ふたり《二人》は主将だ。僕は家の中で最後の命令を与えよう。君は外にいて見張りをしてくれたまえ。」  マリユスは防寨の頂で見張りの位置についた。  読者が記憶するとおり野戦病院となってる料理場《料理バ》の扉を、アンジョーラは釘付けにさした。 「負傷者らに累を及ぼしてはいけない。」と彼は言った。  彼は下の広間で、簡潔な深《/深》く落ち着いた声で、最後の訓令を与えた。フイイーはそれに耳を傾け、一同を代表して答えた。 「二階に、階段を切り離すための斧を用意しておけ。それがあるか?」 「ある。」とフイイーは言った。 「いくつ?」 「普通のが二つと大斧が一つ。」 「よろしい。健全な者が二十六人残っている。銃は何挺《+何丁》あるか。」 「三十四。」 「八《8》つ余分だな。その八梃《八丁》にも同じく弾《玉》をこめて持っていろ。サーベルやピストルは帯にはさめ。二十人は防寨につけ、六人は屋根裏や二階の窓に潜んで、舗石《+敷石》の銃眼から襲撃軍を射撃しろ。ひとりでも手をこまぬいていてはいけない。間もなく襲撃の太鼓が聞こえたら、階下の二十人は防寨に走り出ろ。早い者から勝手にいい場所を占めるんだ。」  そういう手配りをした後《あと》、彼はジャヴェルの方《ほう》を向いて、そして言った。 「きさまのことも忘れやしない。」  そしてテーブルの上に一梃《一丁》のピストルを置いて、彼は言い添えた。 「ここから最後に出る者が、この間諜《+スパイ》の頭を打ちぬくんだ。」 「ここで?」と|だれ《誰》かが尋ねた。 「いや。こんな死体をわれわれの死体に交じえてはいけない。モンデトゥール街の小さな防寨は|だれ《誰》でもまたぎ越せる。高さ四尺しかない。こいつは堅く縛られてる。そこまで連れていって、そこで始末するがいい。」  その際に及んで、アンジョーラよりな《-な》お平然たる者があるとすれば、それはジャヴェルであった。  そこにジャン・ヴァルジャンが出てきた。  彼は暴徒らの間に交じっていたが、そこから出てきて、アンジョーラに言った。 「君は指揮者ですか。」 「そうだ。」 「君はさっき私に礼を言いましたね。」 「共和の名において。防寨は|ふたり《二人》の救い主を持っている、マリユス・ポンメルシーと君だ。」 「私には報酬を求める資格があると思いますか。」 「確かにある。」 「ではそれを一つ求めます。」 「何を?」 「その男を自分で射殺することです。」  ジャヴェルは頭を上げ、ジャン・ヴァルジャンの姿を見、目につかぬくらいの身動きをして、そして言った。 「正当だ。」  アンジョーラは自分のカラビン銃に弾をこめ始めていた。彼は周囲の者を見回した。 「異議はないか?」  それから彼はジャン・ヴァルジャンの方《ほう》を向いた。 「間諜《+スパイ》は君にあげる。」  ジャン・ヴァルジャンは実際、テーブルの一端《イッタン》に身を置いてジャヴェルを自分のものにした。彼はピストルをつかんだ。引き金を上げるかすかな音が聞こえた。  それとほとんど同時に、ラッパの響きが聞こえてきた。 「気をつけ!《/》」と防寨の上からマリユスが叫んだ。  ジャヴェルは彼独特の声のない笑いを始めた。そして暴徒らをじっと|なが《眺》めながら、彼らに言った。 「きさまたちも俺以上の余命はないんだ。」 「みんな外へ!《/》」とアンジョーラは叫んだ。  暴徒らはどやどやと外に飛び出していった。そして出てゆきながら、背中に──こう言うのを許していただきたい──ジャヴェルの言葉を受けた。 「じきにまた会おう!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十九章】 【ジャン・ヴァルジャンの復讐】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルと|ふたり《二人》きりになった時、捕虜の身体の|まんなか《真ん中》を縛ってテ《/テ》ーブルの下で結んである縄《ナワ》を解いた。それから立てという|合い図《合図》をした。  ジャヴェルはそれに従った。縛られた政府の権威が集中してるような名状《/名状》し難い微笑を浮かべていた。  ジャン・ヴァルジャンは鞅をとらえて駄馬を引きつれるように、鞅縛りにした縄を取って、ジャヴェルを引き立て、自分のうしろに引き連れながら、居酒屋の外に出た。ジャヴェルは足をも縛られていてご《/ご》く小またにしか歩けなかったので、ゆっくりと進んでいった。  ジャン・ヴァルジャンは手にピストルを持っていた。  |ふたり《二人》はか《斯》くて防寨の中部の四角な空地《空き地》を通っていった。暴徒らはさし迫った攻撃の方《ほう》に心を奪われて、こちらに背中を向けていた。  ただマリユスひとりは、少し離れて防壁の左端に控えていて、|ふたり《二人》の通るのを見た。死刑囚と処刑人と相並んだありさまは、マリユスの心の中にあ《/あ》る死の光で照らし出された。  ジャン・ヴァルジャンは一瞬間もとらえた手をゆるめないで、モンデトゥール小路の小さな砦を、ようやくにしてジャヴェルにまたぎ越さした。  その防壁を乗り越した時、彼らはその小路の中で、まったく|ふたり《二人》きりになった。|だれ《誰》も見ている者はなかった。暴徒らからは人家の角《カド》で隠されていた。防寨から投げ捨てられた死骸が、数歩《スウホ》の所に恐ろしい|ありさま《有様》をして積み重なっていた。  その死骸の重なった中に、一つの|まっさお《真っ青》な顔と乱《/乱》れた髪と穴《/穴》のあいた手と半《/半》ば裸の女の胸とが見えていた。エポニーヌであった。  ジャヴェルはその女の死体を横目でじっと|なが《眺》め、深く落ち着き払って低く言った。 「見覚えがあるような娘だ。」  それから彼はジャン・ヴァルジャンの方《ほう》に向いた。  ジャン・ヴァルジャンはピストルを小わきにはさみ、ジャヴェルを見つめた。その目つきの意味は言葉にせずとも明らかだった。「ジャヴェル、私だ、」という意味だった。  ジャヴェルは答えた。 「復讐するがいい。」  ジャン・ヴァルジャンは|内隠し《内ポケット》からナイフを取り出して、それを開いた。 「|どす《ドス》か?」とジャヴェルは叫んだ。「もっともだ。貴様にはその方《ほう》が適当だ。」  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの首についてる鞅縛りを切り、次にその手首の縄を切り、次に身をかがめて、足の綱を切った。そして立ち上がりながら言った。 「これで君は自由だ。」  ジャヴェルは容易に驚く人間ではなかった。けれども、我《吾》を取り失いはしなかったが一種《/一種》の動乱をおさえることができなかった。彼は茫然と口を開いたまま立ちすくんだ。  ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。 「私はここから出られようとは思っていない。しかし万一の機会に出られるようなことがあったら、オンム・アルメ街七番地《街7番地》にフ《/フ》ォーシュルヴァンという名前で住んでいる。」  ジャヴェルは虎のように眉をしかめて、口の片|すみ《隅》をちらと開いた。そして口の中でつぶやいた。 「気をつけろ。」 「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  ジャヴェルはまた言った。 「フォーシュルヴァンと言ったな、オンム・アルメ街で。」 「七番地《7番地》だ。」  ジャヴェルは低く繰り返した。「七番地《7番地》。」  彼は上衣のボタンをはめ、両肩の間に軍人らしい硬直な線を作り、向きを変え、両腕を組んで一方《/一方》の手で頤《顎》を|ささ《支》え、《:、》そして市場町《イチバマチ》の方《ホウ》へ歩き出した。ジャン・ヴァルジャンはその姿を見送った。数歩進《スウホ進》んだジャヴェルは振り向いて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。 「君は俺の心を苦しめる。むしろ殺してくれ。」  ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かっても《/も》う|きさま《貴様》と言っていないのを自ら知らなかった。 「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  ジャヴェルはゆるい足取りで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街の角《カド》を曲がった。  ジャヴェルの姿が見えなくなった時、ジャン・ヴァルジャンは空中にピストルを発射した。  それから彼は防寨の中に戻って言った。 「済んだ。」  その間《あいだ》に次のことが起こっていた。  マリユスは防寨の内部より外部の方《ほう》に多く気を取られて、下《した》の広間の薄暗い奥に縛られた間謀《+スパイ》をそ《/そ》の時までよくは見なかった。  しかし、死にに行くため防寨《/防寨》をまたぎ越してる間謀《+スパイ》をま《真》昼の光で見た時、彼はその顔を思い出した。一つの記憶が突然《突然/》頭に浮かんできた。ポントアーズ街の警視のことと、防寨の中で自分が使っている二梃《+二丁》のピストルはその警視からもらったものであることを、思い起こした。そしてその顔を思い起こしたばかりでなく、またその名前を思い起こした。  けれどもその記憶は、彼の他の観念と同じように、おぼろげで乱れていた。それは自ら下した断定ではなく、自ら試みた疑問であった。 「あの男は、ジャヴェルと名乗ったあの警視ではないかしら?」  たぶんまだその男のために調停する時間はあったろう。しかし、果たしてあのジャヴェルであるかをまず確かめなければならなかった。  マリユスは防寨の向こう端に位置を占めたアンジョーラを呼びかけた。 「アンジョーラ!」 「何だ!」 「あの男の名は何《-なん》というんだ。」 「どの男?」 「あの警察の男だ。君はその名前を知ってるか。」 「もちろん。自分で名乗ったんだ。」 「何という名だ。」 「ジャヴェル。」  マリユスは身を起こした。  その時、ピストルの音が聞こえた。  ジャン・ヴァルジャンが再び現われて、「済んだ」と叫んだ。  暗い悪寒がマリユスの心をよぎった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十章《第20章》】 【死者も正しく生者《/セイジャ》も不正ならず】 ◇。◇。◇。◇。◇。  防寨の臨終の苦悶はまさに始まろうとしていた。  その最後の瞬間の悲痛な荘厳さを、あらゆるものが助成していた。空中に漂ってる無数の神秘な響き、見えない街路の中に行動してる密集した軍隊の気配、おりおり高まる騎兵の疾駆する音、砲兵の行進する重いとどろき、パリー街衢に交差する銃火と砲火、《:、》屋根の上に立ち上《のぼ》ってゆく金色の戦塵、恐ろしげな遠い一種の叫喚の声、至る所を脅《-おびや》かす電光、《:、》今やすすりなきするような調子になってるサン・メーリーの警鐘、季節の穏和、日光と雲とに満たされた空の輝き、日光の麗しさ、人家の恐ろしい沈黙。  前日以来、シャンヴルリー街の両側に並んでる人家は、二つの壁、荒々しい二つの壁となっていたのである。戸は閉ざされ、窓は閉ざされ、雨戸も閉ざされていた。  現在とはいたく異なってる当時にあっては、あまりに長く続いた状態を、特に与えられた法典を、あるいは法治国の美名を、民衆が破り去らんと欲する時間が来る時、一般の憤怒《フンヌ》の念が大気中にひろがる時、都市がその舗石《+敷石》をはぐに同意する時、《:、》反乱がその合い言葉を耳にささやいて市民《/市民》をほほえます時、その時住民は言わば暴動の気に貫かれて、戦士の後援者となり、また人家は、よりかかってくる即座の要塞と相親しんだ。しかし情況がまだ熟《ジュク》さない時、反乱が決定的な同意を得ない時、群集がその運動を好まない時には、戦士らは見捨てられ、都市は反抗の周囲に砂漠と変じ、《:、》人の魂は冷却し、避難所は閉ざされ、街路は防寨を占領せんとする軍隊を助ける隘路となるのだった。  民衆はいかに強《-し》いられても、おのれの欲する以上に早く足を運ぶものではない。民衆にそれを強いんとする者こそ禍である。民衆は他《-た》の自由にはならない。そして民衆は反乱をその成り行きに放置する。暴徒らはペスト患者のごとく見捨てられる。人家は断崖となり、戸は拒絶となり、家の正面は壁となる。その壁は物を見ま《”ま》た聞くけれども、それを欲しない。多少口《多少'口》を開いて反徒を救うであろうか。否。一の審判者となるのである。反徒らを|なが《眺》めて、彼らに罪を宣告する。それらの閉ざされた人家こそいかに陰惨なるものであるか。一見死んでるように思われるが、実は生きているのである。生命の流れはそこで切れてるようであるが、実は存続している。もう一昼夜《イッ昼夜》の間《あいだ》だれも出入りしなかったが、人はひとりも欠けてはいない。その巌のように静まり返った家の中では、人が行ききし起臥《/起臥》している。家庭をなしている。飲みま《/ま》た食っている。ただ恐ろしいことには、戦々兢々《戦々恐々》としている。その恐怖の念《念’》は、反徒らに対するひどい冷淡さを宥恕するものである。また酌量すべき情況としては狼狽の念もいっしょにある。時としては、そして実際あったことであるが、恐怖は熱情となることもある。慎重が憤激に変わり得るように、恐怖は狂猛《凶猛》に変わり得る。そこから、温和派の熱狂者という意味深い言葉が生じてくる。極度におびえた感情は炎となって、そこからすごい煙のような憤怒《フンヌ》の情が生じてくる。「彼ら反徒どもは何を望んでいるのか? 彼らはかつて満足ということを知らない。彼らは平穏な人々にまで累を及ぼそうとしている。これでもまだ革命が足りないとでも思っているのか。ここに何をしに来たのか。勝手に何でもするがいい。終わりはどうせき《決》まっている。自業自得だ。なるようになるだろうさ。われわれの知ったことではない。この街路もかわいそうに一面に弾傷を受けるのか。全く無頼漢どもの寄り合いだ。まず第一に戸を開かないことだ。」かくして人家は、墓のようなありさまになる。反徒はその戸の前で、死の苦しみを受ける。霰弾と抜き身のサーベルとが近づいてくるのを見る。叫んだところで、聞いてる者はあるが助《/助》けにきてくれる者はないのがわかっている。そこには他《タ》を庇護し得る壁もあり、彼らを救い得る人もいる。しかも、壁には聞く耳があるけれども、人には石のような心しかない。  |だれ《誰》を咎むるべきであるか?  何人《ナンピト》をも、そしてまたすべての人を。  吾人が属するこの不完全な時代を。  高遠《こうえん》なる理想が、自ら反乱と変化し、哲理上の抗議を武装上の抗議となし、ミネルヴァをパラスとするのは(訳者注◇ ミネルヴァというは詩《-し》の神としての名称であり、パラスというは戦《戦さ》の神《カミ》としての名称であって、同一の女神である)、《:、》常に自己を危険にさらしてのことである。忍耐しきれずに暴動となる理想は、いかなる目に会うかを自らよく知っている。多くは時機が早す《す-》ぎるものである。それで自ら運命に忍従して、勝利の代わりに破滅《/破滅》を勇ましく甘受する。拒絶を浴びせる者らを恨むことなく、かえって彼らを弁護しながら彼《/彼》らに奉仕する。寛大にも見棄てられることに同意する。障害に対しては不屈であり、忘恩に対しては柔和である。  とはいえ、そもそもそれは、忘恩であろうか?  しかり、人類の見地よりすれば。  否、個人の見地よりすれば。  進歩は人間の様式である。人類一般の生命を進歩と称する。人類の集団的歩行を進歩と称する。進歩は前進する。それは天国的なるものお《/お》よび神的《シンテキ》なるものの方《ほう》へ向かって、地上的な人間的《/人間的》な大旅行を試みる。けれども落伍者を収容するための休憩所を持っている。ある燦然たるカナンの地(訳者注◇ 神がイスラエル人に与《-あた》うべきことを約束せる土地─旧約)が突然《突然’》地平線上に現われるのを前にして、瞑想するための停立所《停立ジョ》を持っている。眠るべき夜を持っている。そして、人間の魂の上に影がおりているのを見、眠ってる進歩を暗黒のうちに探りあてながらそ《/そ》れをさまし得ないということは、思想家の深い痛心の一つである。 「おそらく神は死んでる」とジェラール・ド・ネルヴァルは本書の著者に向かってある時言った。しかしそれは進歩と神とを混同し、運動の中絶をもって運動者《/運動者》の死と見做しての言である。  絶望する者は誤っている。進歩は必ず目をさます。また進歩は結局《結局’》眠りながらも前進したと言ってもいい、なぜなら成長したからである。進歩が再び立ち上がる時、その姿は前よりも高くなっている。常に平静であることは、川自身の関するところでないと同じく、進歩自身の関するところではない。決して障壁を築くな、決して岩石を投入するな。障害は水を泡立たしめ、人類を沸騰せしむる。そこに混乱が生ずる。しかしその混乱の後《あと》にも多少前進したことが認められる。一般的平和にほかならない秩序が立てられるまでは、調和と統一とが君臨するまでは、進歩はその道程中に革命を持つであろう。  しからば進歩とは何《なん》であるか? それは上に言ったとおりである。民衆の恒久なる生命《イノチ》である。  しかるに、個人の一時的生命が人類《/人類》の永遠なる生命に相反《アイ反》することが、時として起こってくる。  吾人はか《斯》く高言することができる。個人は一定の利益を有しており、条件を付してそれを譲り得るものである。現在は宥し得《う》べき程度の利己心を持っている。一時の生命もその権利を有していて、未来のために常に犠牲にせらるべきものではない。現在地上《現在’地上》を通るべき順番になっている時代は、後に地上を通るべき順番になってる他の時代のために、結局《結局’》同等な他の時代のために、その命脈を縮めらるべきはずではない。すべての者とよばるるある者がつぶやく。「私は存在している。私は年若く恋《/恋》に燃えてる。あるいは、年老い休息《/休息》を欲してる。私は一家の父であり、働き、繁昌し、事業に成功し、貸し家を持ち、政府に預けた金《-かね》を持ち、幸福であり、妻も子も持っており、すべてそれらのものを愛し、生き存《+なが》らえたい。私を静かにさしておいて欲しい。」そういう所から、ある時におよんで、人類の豪侠なる前衛に対する深《/深》い冷淡さが生じてくる。  その上また高遠《-こうえん》なる理想は、戦いをなしながらその光り輝く天地を去るということを、吾人は是認したい。明日の真理なる理想は、咋日《昨日》の虚偽から、その方法す《/す》なわち戦いを借りてくる。未来なる理想は、過去のごとく行動する。純潔なる観念でありながら、自ら違法の行為となる。おのれの勇壮のうちに暴戻をも交じえる。その暴戻については自ら責を負うのが至当である。主義に反したる時宜《/時宜》と便宜との暴戻であって、必ずその罪を負わなければならない。理想がなす反乱も、古い軍法を手にして戦う。間諜《スパイ》を銃殺し、反逆者を処刑し、生ける者を捕えて未知《/未知》の暗黒界に投げ込む。死を使用する。そしてこれは重大なことである。理想はもはや、その不可抗不可朽の力たる光明に信念《/信念》を持たないが《が-》ようである。剣をもって人を打つ。しかるにいかなる剣も単一なるものはな《無》い。あらゆる剣は皆両刃《-みな両刃》である。一方で他《タ》を傷つける者は、他方でおのれを傷つける。  以上の制限を付しながらも、しかも厳重に付しながらも、未来の光栄ある戦士らを、理想の司祭らを、そ《ソ》が成功すると否とを問わず、吾人は賛美せざるを得ないのである。彼らの業《ギョウ》が流産に終わろうとも、彼らは尊敬に値する。そしておそらくその不成功のうちにこそ、彼らは|いっそう《一層》の荘厳さを持つ。進歩にかなったる勝利は、民衆の喝采を受くるに足る。しかし勇壮な敗北は、民衆の心を動かすに足る。一つは壮大であり、一つは崇高である。成功よりもむ《/む》しろ主義に殉ずることを取る吾人に言わすれば、ジョン・ブラウンはワシントンよりも偉大であり、ピサカネはガリバルディよりも偉大である。  敗者の味方もなければならない。  未来を企図する偉大なる者らが失敗する時、人は彼らに対して、多く不正なる態度を取る。  人は革命者らを非難するに、恐怖の念を散布することをもってする。防寨をすべて暴行と見做す。彼らの所説をとがめ、彼らの目的を疑い、彼らの内心を恐れ、彼らの良心を難ずる。現在の社会状態に対抗して、悲惨と苦悩《/苦悩》と不正《/不正》と悲嘆《/悲嘆》と絶望《/絶望》とをうずたかく引き起こし立《/立》て直し積《/積》み重ね、どん底から暗黒の石塊を引き出して、そこに銃眼を作り戦闘《/戦闘》を始めることを、彼らに非難する。そして彼らに向かって叫ぶ、「汝らは地獄の舗石《+敷石》をめくってるのだ!」しかし彼らは答え得《う》るであろう、「それはかえってわれわれの防寨が善良な意志で作られてる証拠である。」  確かに最善の方法は平和のうちに解決することである。要するに吾人はか《斯》く承認する、舗石《敷石》のめくられるのを見る時には人《/人》は熊を思い出す、そして社会が不安を覚《おぼ》ゆるのはかかる意欲に対してである。しかし社会の救済は、社会自身の考えによる。吾人が呼び起こさんとするのは、社会自身の意欲である。激越なる救治策は必要でない。好意をもって弊害を研究し、それは《を》調べ上げ、次にそれを矯正すること、吾人が社会に勧めたいのはそれである。  それはとにかくとして、世界各地のうちで特にフランスに目を据えて、理想の不撓なる理論をもって大業を果たさんために戦うそれらの人々は、たとい倒れても、またことに倒れたがゆえに、崇高たるのである。彼らはおのれの生命《イノチ》を進歩《/進歩》に対する純なる贈り物として投げ出す。天の意志を成就し、宗教的行為をなす。一定の時が来れば、台詞渡しの詩《-し》の俳優のような無私の心で、神の定めた筋書きに従って墳墓《/墳墓》の中へ|はい《入》ってゆく。1789年七月十四日に不可抗力《/不可抗力》をもって始まった人類の大運動に、世界的な燦然たる最上の結果をもたらさんがために、その希望なき戦いと堅忍《/堅忍》なる消滅とを甘受する。かかる兵士らはすなわち牧師であり、フランス大革命はすなわち神の身振りである。  そしてまた、他の章において既に指摘しておいた種々《いろいろ》の区別のほかに、次の区別をも添加しておくが至当であろう、すなわち、革命と呼ばるる是認された反乱と、暴動と呼ばるる否認された革命とである。破裂したる一つの反乱は、民衆の前に試験を受くる一つの観念である。もし民衆が黒球を投ずれば、その観念は|むだ《無駄》花となり、反乱は無謀の挙となる。  あらゆる機会に、高遠《こうえん》なる理想が欲するたびごとに、戦いのうちにはいるということは、民衆のよくなし得るところではない。国民は常住不断に英雄《/英雄》や殉教者の気質を持ってるものではない。  国民は実際的である。先天的に反乱をいやがる。第一に、反乱は破滅に終わることが多いからであり、第二に、反乱の出発点は常に抽象的なものだからである。  なぜかなれば、そしてこれはきわめて|みごと《見事》なことであるが、献身者らが身をささげるのは常に理想のためであり、理想のみのためにである。反乱は一つの熱誠である。熱誠は憤怒《憤ヌ》することがあって、そのために武器を執るに至る。しかしあらゆる反乱は、一つの政府もしくは制度に射撃を向けるが、その目標は更に高い所に存する。たとえば、力説すべきことには、1832年の反乱の首領らが戦った目標は、ことにシャンヴルリー街の若い熱狂者らが戦っている目標は、必ずしもルイ・フィリップではなかった。打ち明けて言えば、彼らの大多数は、王政と革命との中間なるこの王の資格を、充分によく認めていた。王を憎む者は一人もなかった。彼らは昔シ《/シ》ャール十世のうちにあるブールボン本家を攻撃したごとく、ルイ・フィリップのうちにあるブールボン分家を攻撃したのである。そしてフランスにおける王位をくつがえしつつ、更にくつがえさんと欲したところのものは、前に説明したとおり、人間に対する人間の専横と全世間《/全世間》の権利に対する一部の特権の専横とであった。パリーに王がなくなれば、その影響として世界に専制者がなくなる。そういうふうに彼らは考えていた。彼らの目的は、まさしく遠いものであり、おそらく漠然たるものであり、努力しても容易におよばないものだったが、しかし偉大なるものであった。  まさしくそうである。そして人はそれらの幻想のために身を犠牲に供する。犠牲者らにとってはそれらの幻想はたいてい幻影に終わるけれども、しかも結局《結局’》人間的な確信が交じってる幻影である。反徒は反乱を詩化《シ化》し美化《/美化》する。自分のな《成》さんとする事柄に心酔しながら、その悲壮な事柄のうちに身を投ずる。結果はわかるものではない、あるいは成功するかも知れない。同志は少数であり、敵には全軍隊がいる。しかしまもるところのものは、権利、自然の大法《タイ法》、一歩《1歩》も枉《-ま》ぐることのできない各人の自己に対する主権、正義《セイギ》、真理《シンリ》、などである。そして場合によっては、三百人のスパルタ人(訳者注◇ テルモピレにおいてレオダニスに率いられし兵士)のごとくに死するであろう。頭に浮かべるのは、ドン・キホーテのことではなくレオニダスのことである。そして彼らは前方に進んでゆく。一度踏み出せばもはや退《-ひ》くことをしない。頭をかがめてまっしぐらに突進する。希望として心にいだくところのものは、前代未聞の勝利、完成されたる革命、自由の手に託されたる進歩、人類の成長、世界の救済などである。またいかに失敗しようとも、結局テルモピレに過ぎない。  進歩のためのかかる戦いは、しばしば失敗するものであって、その理由は上に述べきたったとおりである。群集は冒険騎士の誘導に従わない。重々しい集団は、多衆は、自身の重さのためにかえって|こわ《壊》れやすいものであって、冒険を恐れる。理想のうちには多少の冒険がある。  その上、忘れてならないことには、利害の念もそこに交じってくる。利害の念《念’》は理想と情操とに親しみ難い。時としては、胃袋は心を麻痺させる。  フランスの偉大と美とは、他の民衆よりも腹に重きを置くことが少ないところにある。フランスは最も平然と自ら腰に麻縄をまとう。最初に目ざめ、最後に眠る。|まっす《真っ直》ぐに前進する。実に一つの探求者である。  それはフランスが芸術家だからである。  理想は論理の頂点にほかならない。同様に、美は真《シン》なるものの頂にほかならない。芸術家たる民衆は、終始一貫する民衆である。美を愛することは光明を欲することである。それゆえに、ヨーロッパの炬火《松明》は、換言すれば文化の炬火《松明》は、まずギリシャによって担われ、ギリシャはそれをイタリーに伝え、イタリーはそれをフランスに伝えた。光り輝く神聖なる民衆らよ! 彼らは生命のランプを人に伝う。  賛美すべき事には、民衆の詩《-し》は民衆の進歩の要素である。文化の量は想像力の量によって測られる。ただし、文化の普及者たる民衆は強健《/強健》なる民衆でなければならない。コリントはそうである。シバリスはそうでない。柔弱に陥るものは衰微する。愛好者であっても堪能者であってもいけない。ただ芸術家でなければならない。文化の事業においては、繊巧を事としてはいけない、ただ崇高を事としなければいけない。この条件において理想の雛型は人類に与えらるる。  近代の理想は、その様式を芸術のうちに有し、その方法を科学のうちに有している。科学によってこそ、詩人の荘厳なる幻影す《/す》なわち社会的美《社会的ビ》は実現されるであろう。A+B によってこそ、エデンの園は再び作られるであろう。文化が到達し得た現在の地点においては、正確は光彩の必要な一要素である。芸術的情操は、ただに科学的機能によって助けらるるばかりでなく、またそれによって完成される。夢も計算の上に立たなければならない。勝利者である芸術も、徒歩者たる科学を支柱としなければならない。足場の強固さが大切である。近代の精神は、インドの天才を馬車とするギ《/ギ》リシャの天才である、象の上に乗ったるアレクサンデルである。  独断的信条のうちに化石しも《”も》しくは利得のために堕落したる人種は、文化の嚮導者としては不適当である。偶像もしくは金銭の前に跪坐することは、歩行の筋肉と前進《/前進》の意志とを萎縮させる。祭儀の業《-ぎょう》もしくは商売の業《-ぎょう》に没頭することは、民衆の光を減じ、その水準を低めながらそ《/そ》の水平線を低め、《:、》世界の目標たる人間的なるとともに神的《/シンテキ》なる知力、諸国民をして伝教師的たらしむるの知力を、民衆から奪い去る。バビロンは理想を持たず、カルタゴは理想を持たない。アテネとローマとは、数世紀間の暗黒時代を通じてもなお、文化の円光を有し維持する。  フランスはギリシャおよびイタリーと同質の民衆である。美《ビ》によってアテネ的であり、偉大によってローマ的である。その上にまた仁侠である。フランスは自己を惜しまない。他の民衆よりもしばしば、献身と犠牲との心を起こす。ただその心があ《/あ》るいはきたり、あるいは去るだけである。か《斯》くて、フランスがただ歩くことをしか欲《-ほっ》しない時に走る者、もしくはフランスが立ち上がらんと欲する時に歩く者、彼らにとっての大《ダイ》なる危険が生ずる。フランスは時に唯物主義に陥る。ある瞬間においては、その崇高なる頭脳を満たす観念は、もはやフランスの偉大さを思わせるものを少しも持たず、ミズーリ州や南《/南》カロライナ州くらいの大きさしか持たない。いかんせん、巨人は侏儒の役を演じ、広大なるフランスは好奇にも些事を事とする。策の施しようはない。  それに対しては何も言うことはない。恒星のごとき民衆にも時におのれを蝕するの権利がある。ただ、光が再び現われさえすれば、日蝕が暗夜に終わりさえしなければ、すべてかまわない。曙と再生とは同意義である。光の再現は自我の存続と同一である。  これらの事実をそのまま認定しようではないか。防寨の上に死するも、もしくは亡命のうちに倒るるも、それは時の事情による一《/一》つの献身として是認さるる。献身の真《シン》の名は、公平無私ということである。見捨てらるる者らをして見捨てられしめよ、国を追わるる者らをして追われしめよ。吾人はただ、偉大なる民衆が退く時には、その後退のあまりに大《大’》ならざらんことを希望するに止《-とど》めよう。再び理性に返り得るというのを口実にしてあまりに深く下降してはいけない。  物質は存在し、一時は存在し、利益は存在し、腹は存在する。しかし腹が唯一の英知であってはいけない。一時の生命もその権利を持っている、吾人はそれを是認する。しかし恒久の生命もまたその権利を持っている。ただ悲しいかな、高く上っていてもなお墜落することがある。その事実は史上に余りあるほど数多ある。卓越して理想を味わってる国民も、次に泥を噛んでそ《/そ》れを甘しとする。そしてソクラテスを捨ててフォルスタフを取る理由を尋ねらるる時、彼は答える、為政家を好むからであると。  白兵戦の物語に戻る前、なお一言《イチゴン》しておきたい。  今われわれが物語ってるような戦いは、理想を求むる一つの痙攣にほかならない。束縛されたる進歩は病いを得て、かかる悲壮な癲癇の発作をなす。この進歩の病いに、内乱に、吾人は途中で出会わざるを得なかったのである。社会的永罰《社会的エイバツ》を受けたる人物を軸とし進歩《/進歩》を真の表題とするこの劇においては、それは幕中《幕チュウ》にまた幕間に必ずいできたるべき一局面である。  進歩!  吾人がしばしば発するこの叫びこそ、吾人の考えのすべてである。一編の劇がここまできた以上は、中に含まってる観念はな《/な》お多くの試練を受くべきものであるとしても、《:、》今吾人《今’吾人》は、よしやその帷《-とばり》をまったく掲げることは許されないまでも、少なくともその光を明らかに透かし見せることだけはお《/お》そらく許されるであろう。  読者が今眼前《今’眼前》にひらいている書物は、中断や例外《/例外》の個所や欠点《/欠点》はあるとしても、初めから終わりまで、全体においても、局部においても、《:、》悪《アク》より善への、不正より正《セイ》への、偽《ギ》より真への、夜より昼への、欲望より良心への、枯朽より生命への、獣性より義務への、地獄より天への、無より神《’神》への、その行進である。出発点は物質であり、到着点は心霊である。怪蛇《+カイダ》に始まり、天使に終わるのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十一章】 【勇士】 ◇。◇。◇。◇。◇。  突然、襲撃の太鼓が鳴り響いた。  襲撃は台風のようだった。前夜《前夜’》暗闇の中では、兵士らは蟒蛇《+ウワバミ》のごとく|ひそ《密》かに防寨に押し寄せた。しかし今は、白日のうちで、そのうち開《ひら》けた街路の中で、奇襲はまったく不可能だった。その上、強大な武力は明らかに示され、大砲は咆哮し始めていた。それで軍隊は一挙に防寨に|おど《躍》りかかった。今は憤激もかえって妙手段であった。強力なる戦列歩兵の一縦隊が、一定の間《マ》を置いて徒歩の国民兵と市民兵とを交じえ、姿は見えないがただ足音だけが聞こえる群《/群》がり立った軍勢をうしろにひきつれて、《:、》街路のうちに襲歩で現われてき、太鼓を鳴らし、ラッパを吹き、銃剣を交差し、工兵を先頭に立て、弾丸の下に泰然として、壁の上に青銅の梁の落ちかかるような重さで、防寨めがけて|まっす《真っ直》ぐに進んできた。  障壁はよく持ちこたえた。  暴徒らは猛烈な銃火を開いた。敵からよじ登られる防寨は電光《/電光》の鬣をふりかぶったかと思われた。襲撃は狂猛《凶猛》をきわめて、防寨の表面は一時襲撃軍《一時’襲撃軍》をもって満たされたほどだった。しかし防寨は、獅子が犬を振るい落とすように兵士らを振るい落とした。あたかも海辺の巌が一時泡沫《一時’泡沫》におおわれるがように、襲撃軍におおわれてしまったが、一瞬間の後にはまた、そのつき立ったま《真》っ黒な恐ろしい姿を現わした。  退却を余儀なくされた縦列《ジュウ列》は街路に密集し、何らの掩護物もなく恐《/恐》るべきありさまで、角面堡《+カクメンホウ》に向かって猛射を浴びせた。仕掛け花火を見たことのある者は、花束と言わるる一束の交差した火花を記憶しているだろう。その花束を垂直でなしに横に置き、各火花の先に小銃弾《ショウ銃弾》や猟銃霰弾《/猟銃霰弾》やビ《/ビ》スカイヤン銃弾があって、その房《フサ》のような雷電の下に死を振るい出していると想像してみるがいい。防寨は実にそういう銃火の下にあった。  両軍とも決意のほどは同じだった。その勇気はほとんど蛮的であって、まず自己犠牲より始まる壮烈《/壮烈》な獰猛さを含んでいた。国民兵までもアルゼリア歩兵のごとく勇敢に戦う時代だった。軍隊の方《ほう》は一挙に敵を屠《-ほふ》らんと欲《ほっ》し、反乱の方《ほう》はあくまで戦わんと欲していた。青春と健全とのさなかにおいて死《/死》の苦痛を甘受する精神は、勇敢をして熱狂たらしむる。その白兵戦のうちに各人が掉尾の勇を振《-ふる》った。街路には死屍が累々と横たわった。  防寨には、一端《いったん》にアンジョーラがおり、他《タ》の一端《イッタン》にマリユスがいた。全防寨を頭のうちに担ってるアンジョーラは最後《/最後》まで身を保《-たも》とうとして潜んでいた。三人の兵士が、彼の姿も見ないで彼《/彼》の狭間に相次いで倒れた。マリユスは身をさらして戦っていた。彼は自ら敵の目標となった。角面堡《+カクメンホウ》の上から半身以上を乗り出していた。感情を奔放さした吝嗇家ほど激しい浪費をなすものはなく、夢想家ほど実行において恐ろしいものはな《無》い。マリユスは猛烈でありま《”ま》た専心であった。彼は夢の中にあるようにして戦いの中にいた。あたかも幽霊が射撃をしてるのかと思われた。  防御軍の弾薬は尽きかかっていたが、その風刺は尽きなかった。墳墓の旋風のうちに立ちながら彼らは笑っていた。  クールフェーラックは帽子をかぶっていなかった。 「帽子をいったいどうした。」とボシュエは彼に尋ねた。  クールフェーラックは答えた。 「奴らが大砲の弾で飛ばしてしまった。」  あるいはまた昂然たる言葉をも彼らは発していた。 「わけがわからない、」とフイイーは苦々しげに叫んだ、《:、》「彼等は、(そしてフイイーは、旧軍隊のうちの知名な人や高名《/高名》な人など、若干の名前を一々あげた、)われわれに加わると約束し、われわれを助けると誓い、名誉にかけて明言し、《:、》しかもわれわれの将たるべき者でありながら、われわれを見捨てるのか!」  それに対してコンブフェールは、落ち着いた微笑をしながらた《/た》だこう答えた。 「世間には、星を|なが《眺》むるようにた《/た》だ遠方から名誉の法則を観測する者もあるさ。」  防寨の中は、|こわ《壊》れた薬莢が播き散らされて、雪でも降ったようだった。  襲撃軍には数の利があり、反軍には地の利があった。反徒らは城壁の上に拠っていて、死体や負傷者らの間《あいだ》につまずき急斜面《/急斜面》に足を取られてる兵士らを、|ねら《狙》い打ちに薙ぎ倒した。前に述べたような築き方をして巧妙《/巧妙》に固められてるその防寨は、一握の兵をもって一軍《/一軍》をも敗走させ得る地の利を実際有《/実際’有》していた。けれども襲撃隊は、絶えず援兵を受けて弾丸《/弾丸》の雨下する下にもますます数を増し、いかんともすべからざる勢いで寄せてきた。そして今や少しずつ、一歩一歩、しかも確実に防寨に迫ってきて、あたかも螺旋が圧搾器をしめつけるようなものだった。  襲撃は相次いで行なわれた。危険は刻々に増していった。  その時、この舗石《+敷石》の上において、このシャンヴルリー街のうちにおいて、トロイの城壁にもふさわしい争闘が起こった。憔悴し|ぼろ《/ボロ》をまとい疲《/疲》れ切ってる防寨の人々は、二十四時間の間一食《あいだ1食》もせず、一睡もせず、余すところは数発の弾のみとなり、《:、》ポケットを探っても弾薬はなく、ほとんど全員傷《全員’傷》を受け、黒くよごれた布片《布切れ》で頭や腕をまき、着物には穴があいてそこから血が流れ、《:、》武器としては悪い銃と古い鈍ったサーベルにすぎなかったが、しかもタイタン族のように巨大となったのである。防寨は十回の余りも攻め寄せられ、襲撃され、よじ登られたが、決して陥落はしなかった。  この争闘のおおよその|ありさま《有様》を知らんとするならば、恐ろしい勇気の堆積に火をつけ、その燃え上がるのを見ると思えば大差はない。戦いではなくて火炉の内部であった。口は炎の息を出し、顔は異様な様《さま》に変わり、人間の形が保たれることはできないかのようで、戦士らは皆燃え上がっていた。そして白兵戦の火坑精《カキョウ精》らがそ《/そ》の|まっか《真っ赤》な煙の中に行ききするのは、見るも恐ろしい光景だった。その壮大なる殺戮が相次いで各所に起こる光景をこ《/こ》こに描写することはやめよう。一戦闘をもって一万二千の句を満たす(訳者注◇ イリヤードのごとく)の権利は、ただ叙事詩のみが有するのである。  十七の奈落のうちの最も恐るべきもので、吠陀《+ヴェダ》の中で剣葉林と呼ばれてるあ《/あ》のバラモン教の地獄のありさまも、か《斯》くやと思われるほどだった。  彼らは敵を間近に引き受け、ピストルやサ《/サ》ーベルや拳固《/拳固》で接戦し、遠くから、近くから、上から、下から、至る所から、人家の屋根から、居酒屋の窓から、またある者は窖にすべり込んでその風窓から、戦った。ひとりをもって六十人を相手とした。コラント亭の正面は半ば破壊されて、見る影もなくなった。窓は霰弾を打ち込まれて、ガラスも窓縁もなく、舗石《+敷石》でむちゃくちゃに|ふさ《塞》がれてる|ぶかっこう《不格好》な穴に過ぎなくなった。ボシュエは殺され、フイイーは殺され、クールフェーラックは殺され、ジョリーは殺され、コンブフェールはひとりの負傷兵を引き起こそうとするせつな、三本の銃剣で胸を貫かれ、わずかに空を仰いだだけで息絶えた。  マリユスは《は-》なお戦っていたが、全身傷《全身’傷》におおわれ、ことに頭部がはなはだしく、顔は血潮の下に見えなくなり、あたかも|まっか《真っ赤》なハンカチを顔に|かぶ《被》せたが《が-》ようだった。  アンジョーラひとりはどこにも傷を受けなかった。武器がなくなった時、左右に手を伸ばして何かをつかみ取ろうとすると、ひとりの暴徒が彼の手に刃物の一片を渡してくれた。マリニャーノの戦いにフランソア一世は三本の剣を使ったが、彼は実に四本《4本》の剣を使いつくして、今やその折れた一片を手にしてるのみだった。  ホメロスは言う。「ディオメーデは、麗しきアリスバの地に住みけるテ《/テ》ウトラニスの子アクシロスを屠《-ほふ》り、《:、》メシステウスの子エウリアルスは、ドレソス、オフェルチオス、エセポス、および河神アバルバレアが一点の非もなきブコリオンの種を宿して産めるペ《/ペ》ダソスを討ち取り、《:、》オデュッセウスはペルコーテのピヂテスを仆し、アンチロクスはアブレロスを仆し、ポリペテスはアチスアロスを仆し、ポリダマスはシレネのオトスを仆し、テウセルはアレタオンを仆しぬ。メガンチオスはエウリピロスの槍の下に死しぬ。英雄の王たるアガメムノンは、轟々たるサトニオの大河に洗わるる峻嶮《/峻嶮》なる都市に生まれたるエラトスを打ち倒しぬ。」フランスの古き武勲詩ゼ《/ゼ》ストの中においては、塔を引き抜いて投げつけながら身をまもる巨人スワンティボール侯を、エスプランディアンは両刃の炎をもって攻撃した。フランスの古い壁画の示すところによれば、ブルターニュ公とブールボン公とは、武装し紋章《/紋章》をつけ戦《/戦》いのしるしをつけ、馬にまたがり、鉞を手にし、鉄の面と鉄《/鉄》の靴と鉄《/鉄》の手袋をつけ、一つは黄色の馬飾りを施し、一つは藍色の馬衣を置いて、互いに相見《+あいまみ》えた。ブルターニュ公は兜の両角《両カク》の間に獅子の記章をつけ、ブールボン公は兜の目庇に大きな百合の記章をつけていた。しかし雄壮たらんがためには、イヴォンのごとく公爵《/公爵》の兜をかぶるの要《用》はなく、エスプランディアンのごとく生《/生》ける炎《ホノオ》を手に握るの要《用》はなく、《:、》ポリダマスの父フィレスのごとく人間《/人間》の王エウフェテスから贈られたる美しい甲冑をエ《/エ》フィレより持ち帰るの要《用》はない。ただ一つの確信もしくは一つの忠誠のために身をささぐれば足りる。昨日まではボースやリムーザンの農夫であり、今日はリュクサンブールの園《’園》のかわいい子供らのまわりに短《/短》い剣を腰に下げてぶらついてる、あの素朴なる可憐な兵士、《:、》解剖体の一片や一冊《/一冊》の書物の上に背をかがめ、あるいは鋏で髯をつんでいる、あの金髪蒼顔なる若い学生、彼ら両者をとらえて、義務の息吹を少し吹き込み、ブーシュラー四つ辻やプ《/プ》ランシュ・ミブレー袋町で向かい合って立たしめ、《:、》そして一方は軍旗のために戦い、一方は理想のために戦い、両者共に祖国のために戦ってるのだと想わしむるならば、その争闘は巨大なものとなるであろう。か《斯》くて、人類がもがいてる叙事詩的な大野《タ-イヤ》において、相争う一介の兵士と一介《/一介》の学生とが投ずる影は、猛虎に満ちたリシアの王メガルヨンと諸神《/諸神》に等しい偉大なるアジァクスとが、相格闘《あい格闘》しながら投ずる影に、匹敵することができるであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十二章】 【接戦】 ◇。◇。◇。◇。◇。  生き残ってる首領としてはた《/た》だ防寨の両端《両はし-》に立ってるアンジョーラとマリユスとの二人のみになった時、クールフェーラックとジ《/ジ》ョリーとボ《/ボ》シュエとフ《/フ》イイーとコ《/コ》ンブフェールとが長く|ささ《支》えていた中央部は、彼らの戦死とともに撓んできた。大砲は都合よい裂け目を作ることはできなかったけれども、角面堡《+カクメンホウ》の中央を三日月形《三日月型》にかなり広く破壊した。その障壁の頂は砲弾の下に飛び散って崩れた。そしてあるいは内部にあ《/あ》るいは外部に落ち散った破片は、|しだい《次第》に積もりながら、障壁の両側に、内部と外部とに、二つの斜面をこしらえてしまった。外部の斜面は突入に便利な傾斜を与えた。  力をきわめた襲撃がその点に向かって試みられた。それは成功した。一面に銃剣を逆立《逆だ》て襲歩《/襲歩》で進んできた集団は、不可抗な力をもって寄せてき、襲撃縦隊の密集した先頭は、斜面の上に硝煙《/硝煙》の中から現われてきた。こんどはもはや最後であった。中央を防いでいた一群の暴徒は列を乱して退却した。  その時、おのれの生命《イノチ》を愛する暗い心はあ《/あ》る者のうちに目ざめてきた。森林のごとく立ち並んだ小銃から|ねら《狙》い打ちにされながら、数多の者はもう死ぬことを欲しなかった。自己保存の本能がうなり出し獣性《/獣性》が人間のうちに再び現われてくる瞬間である。彼らは角面堡《+カクメンホウ》の背面をなす七階建《7階だ》ての高い人家の方《ほう》へ押しつけられていた。その家は彼らを救うものともな《成》り得るのだった。それはすっかり締め切られて、上から下まで障壁をめぐらされたようなありさまだった。兵士らが角面堡《+カクメンホウ》の内部にはいり込むまでには、一つの戸が開いてま《”ま》た閉じるだけの時間はあった。それには電光の一閃ほどの間《マ》で足りた。突然《突然’》少しばかり開いてまたすぐに閉ざさるるその家の戸は、それら絶望の人々にとっては生命《イノチ》となるのだった。家のうしろには街路があり、逃走も可能であり、余地があった。彼らはその戸を、銃床尾《銃床ビ》でたたき足《/足》で蹴《-け》り、呼び、叫び、懇願し、手を合わした。しかし|だれ《誰》もそれを開く者はなかった。四階《4階》の軒窓《ノキマド》からは、死人の頭が彼らを|なが《眺》めていた。  しかしアンジョーラとマリユスと|七、八人《シチハチニン》の者は、彼らのまわりに列を作り、挺身して彼らを保護していた。アンジョーラは兵士らに叫んだ、「出て来るな!」そして一将校がその言に従わなかったので、アンジョーラはその将校を仆してしまった。彼は今や角面堡《+カクメンホウ》の内部の小さな中庭で、コラント亭を背にし、一方の手に剣を握り、一方の手にカラビン銃を取り、襲撃者らを食い止めながら、居酒屋の戸を開いていた。彼は絶望の人々に叫んだ。「開いてる戸は一つきりだ、こればかりだ。」そして身をもって彼らを|おお《覆》い、ひとりで一隊の軍勢に立ち向かいながら、背後から彼らを通さした。彼らは皆そこに走り込んだ。アンジョーラはカラビン銃《銃’》を杖のように振り回し、棒術でいわゆる隠れ薔薇と称する使い方をして、左右と前とに差しつけられる銃剣を打ち落とし、そして最後にはいった。兵士らは続いて侵入せんとし、暴徒らは戸を閉ざさんとし、一瞬間恐ろしい光景を呈した。戸は非常な勢いで閉ざされて戸口《/戸口》の中に嵌り込みながら、しがみついていた一兵士の五本の指を切り取り、そのままそれを戸の縁に膠着さした。  マリユスは外に残されていた。一発の弾を鎖骨に受けたのである。彼は気が遠くなって倒れかかるのを感じた。その時彼は既に眼を閉じていたが、強い手につかみ取らる《る-》るような感じを受け、気を失って我《吾》を忘れる前にちらと、コゼットのことが最後に思い出され、それとともにこういう考えが浮かんだ、「捕虜となった、銃殺されるのだ。」  アンジョーラは居酒屋の中に逃げ込んだ人々のうちマ《/マ》リユスがいないのを見て、同じ考えをい《-い》だいた。しかし彼らは皆、自分の死を考えるだけの余裕しかないような瞬間にあった。アンジョーラは戸に横木を入れ、鐉《カキガネ》をし、錠前と海老錠との二重の締まりをした。その間《あいだ》も、兵士らは銃床尾《銃床ビ》で工兵《/工兵》らは斧で、外部から激しく戸をたたいていた。襲撃者らはその戸めがけて集まっていた。今や居酒屋の包囲攻撃が始まった。  兵士らは憤怒《フンヌ》に満ちていたことを、ここに言っておかなければならない。  砲兵軍曹の死は彼らを激昂《ゲッコウ》さした。次に、いっそういけなかったことには、襲撃に先立つ数時間のうちに、暴徒らは捕虜をすべて虐殺し現《/現’》に居酒屋の中には頭のない一兵士の死体があるという噂が、彼らの間に言いふらされた。この種の痛ましい風説は、たいてい内乱に伴うものであって、後にトランスノナン街の惨劇を惹起さしたのは、かかる誤報のゆえであった。  戸の防備ができた時、アンジョーラは他の者らに言った。 「生命《イノチ》を高価に売りつけてやろうよ。」  それから彼はマブーフとガヴローシュが横たわってるテーブルに近づいた。喪布の下には、|まっす《真っ直》ぐな硬ばった姿が大《/大》きいのと小さいのと二つ見えており、二つの顔は経帷子の冷《/冷》ややかな襞の下にぼんやり浮き出していた。喪布の下から一本の手が出て下にたれていた。それは老人の手であった。  アンジョーラは身をかがめて、前日その額《ヒタイ》に脣をあてたように、その尊むべき手に脣をあてた。  それは彼が生涯のうちにした唯一の二度の脣《+口》づけだった。  さて話を簡単に進めよう。防寨はテーベの市門のごとく戦ったが、居酒屋はサラゴサの人家のように戦った。かかる抵抗は執拗である。身を休むる陣営もなく、軍使を出すことも不可能である。敵を殺す以上は皆死《-みな死》を欲する。シューシェが「降伏せよ」と言う時に、パラフォクスは答える、「弾丸の戦いの後《あと》には刃物の戦いのみだ。」(訳者注◇ 1809年サラゴサの攻囲の折のこと)ユ《:ユ》シュルー居酒屋の襲撃にはあらゆるものが交じっていた。舗石《+敷石》は窓や屋根から雨のごとく降り、兵士らはそれにたたきつぶされつつ激昂《ゲッコウ》した。窖や屋根裏から銃弾が飛んだ。攻撃は猛烈であり、防御は激烈であった。最後に、戸が破れた時には、鏖殺《+皆殺し》の狂猛《凶猛》な蛮行が演ぜられた。襲撃者らは|こわ《壊》されて床《/床》に投げ出された戸の板に足を取られながら、居酒屋の中に突入したが、そこにはひとりの敵もいなかった。螺旋状の階段は斧に断ち切られて室《+部屋》の|まんなか《真ん中》に横たわっており、数人の負傷者らは既に息絶えており、生命《イノチ》のある者は皆二階《-みな二階》に上がっていた。階段の入口だったその天井の穴から、恐怖すべき銃火が爆発した。それは最後の弾薬であった。その弾薬が尽きた時、瀕死の苦しみのうちにある恐ろしい彼らに火薬《/火薬》も弾《玉》もなくなった時、《:、》前に述べたとおりア《ア-》ンジョーラが取って置かした壜を各自に二本ずつ取り上げ、その|こわ《壊》れやすい棍棒をもって上《/上》がってくる兵士らに対抗した。それは葡萄酒ではなく硝酸の壜だった。われわれはここに、その殺戮の陰惨な光景をありのまま語っているのである。包囲された者はあらゆる物を武器となす。水中燃焼物もアルキメデスの名を汚すものではなく、沸騰せる瀝青《+チャン》もバイヤールの名を汚すものではない。戦争はすべて恐怖であり、武器を選ぶの暇はない。襲撃者らの銃火は不自由でか《/か》つ下から上に向かってなされるものではあったが、しかも多くの殺傷を与えた。天井の穴の縁《フチ》は、間もなく死者の頭にかこまれ、それから煙を立てる長い|まっか《真っ赤》な糸がしたたった。混乱は名状すべ《べ-》からざるありさまだった。家の中に閉じこめられた|燃ゆる《モユル》がような煙は、この戦闘の上をほ《/ほ》とんど暗夜のように|おお《覆》っていた。戦慄すべき光景もこの程度に達すれば、それを現わす言葉はない。今や地獄の中のようなこの争闘のうちには、もはや人間はいなかった。もはや巨人と巨獣との戦いでもなかった。ホメロスの語るところよりもミ《/ミ》ルトンやダンテの語るところにいっそう似てるものだった。悪魔が攻撃し幽鬼《/幽鬼》が抵抗したのである。  それは怪物的な壮烈さであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十三章】 【断食者と酩酊者との|ふたり《二人》の友】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ついに、短い梯子を作り、階段の残骸をたよりとし、壁を攀じ、天井に取りつき、引き戸の縁《フチ》で抵抗する最後の者らを薙ぎ払いながら、《:、》戦列兵と国民兵《”国民兵》と市民兵《”市民兵》とが入り交じってる二十人《/二十人》ばかりの襲撃者は、その恐ろしい登攀のうちに大部分は顔の形もわからないまでに傷を受け、血潮のために目も見えなくなり、憤激し、凶猛となって、二階の広間に侵入した。そこには、立ってる者はただひとりにすぎなかった。それはアンジョーラだった。弾薬もなく、剣もなく、入り来る者らの頭をなぐって床尾をこわしたカ《/カ》ラビン銃の銃身を手にしてるのみだった。彼は襲撃者《襲撃者’》らを球突台で隔て、室《+部屋》の片|すみ《隅》に退き、そこで眦を決し、昂然と頭を上げ、筒先ばかりの銃を手にして立っていたが、《:、》その姿はなお敵に不安を与え、周囲には空地《空き地》が残されて|だれ《/誰》も近づく者はなかった。ある者が叫んだ。 「これが首領だ。砲手を殺したのもこの男だ。そこに立ってるのはちょうどいい。そのままでいろ。すぐ銃殺してやる。」 「打て。」とアンジョーラは言った。  そしてカラビン銃の断片を投げすて、腕を組んで、胸を差し出した。  みごとな死を遂げる豪胆さは、常に人を感動させるものである。アンジョーラが腕を組んで最期を甘受するや、室《部屋》の中の争闘の響きはや《止》み、その混乱はたちまち墳墓のごとき厳粛さに静まり返った。武器をす《捨》てて身動きもせずに立ってるアンジョーラの威風は、騒擾を押さえつけてしまったかと思われた。ただひとり一個所《一か所》の傷も負わず、崇高な姿で、血《血’》にまみれ、麗しい顔をし、不死身なるかのように平然としているこの青年は、《:、》その落ち着いた一瞥の威厳のみで既に、ものすごい一群の者らをして、彼を殺すに当たって尊敬の念を起こさしめるかと思われた。彼の美貌は、その瞬間矜持《瞬間’矜持》の念にいっそう麗しくなって、光り輝いていた。そして負傷を知らないとともに疲労《/疲労》をも知らない身であるかのように、恐るべき二十四時間を経きたった後《あと》にもなお、その面《-おもて》は鮮《鮮や》かな薔薇色をしていた。一証人が、その後軍法会議の前で、「アポロンと呼ばるるひとりの暴徒がいた」と語ったのは、たぶん彼のことを言ったのであろう。アンジョーラをねらっていたひとりの国民兵は、銃をおろしながら言った、「花を打つような気がする。」  十二人の者が、アンジョーラと反対の一隅に並び、沈黙のうちに銃を整えた。  それから一人の軍曹が叫んだ、「ねらえ。」  ひとりの将校がそれをさえぎった。 「待て。」  そして将校はアンジョーラに言葉をかけた。 「目を隠すことは望まないか。」 「いや。」 「砲兵軍曹を殺したのは君か。」 「そうだ。」  その少し前にグランテールは目をさましていた。  読者の記憶するとおりグランテールは、前日から二階の広間で、椅子に|すわ《座》りテ《/テ》ーブルによりかかって眠っていたのだった。  彼は「死ぬほどに酔う」という古いたとえを充分に実現していた。アブサントとス《/ス》タウトとア《/ア》ルコールの強烈な眠り薬は、彼を昏睡におとしいれた。彼がよりかかってるテーブルは小さくて、防寨の役には立たなかったので、そのままにされていた。彼はそのテーブルの上に胸をかがめ、両腕にぐったり頭を押しつけ、杯やコ《/コ》ップや壜《/壜》にとりまかれて、常に同じ姿勢のままでいた。蟄伏してる熊や血《/血》を吸いきった蛭のように、圧倒し来《きた》る睡魔に襲われていた。小銃の音も、榴弾の響きも、窓から室《+部屋》にはいってくる霰弾も、襲撃の非常な喧騒も、何一つとして効果のあるものはなかった。ただ彼は時々、鼾の声で大砲の響きに答えるのみだった。あたかも目をさます手数なしにそのまま殺してくれる弾《タマ》をそこで待ってるようだった。まわりには数名の死骸が横たわっていた。一見したところでは、それら深い永眠に陥ってる者と何《/何》らの区別もなかった。  物音は泥酔者をさますものではない。泥酔者をさますのは静寂の方《ほう》である。そういう不思議はしばしば見らるるところである。あらゆるものが崩落する周囲の物音は、グランテールの我《吾》を忘れた眠りをますます深くした。物の崩壊は彼を気持ちよくゆすってくれた。しかるにアンジョーラの前に喧騒が急にやんだことは、その重い眠りに対する激動だった。それは全速力で走ってる馬車がにわかに止まったようなもので、馬車の中にうとうとと居眠ってる者は目をさます。グランテールはびっくりして身を起こし、両腕を伸ばし、眼を擦《-こす》り、あたりを|なが《眺》め、欠伸をし、そしていっさいを了解した。  酔いのさめるのは、幕を切って落とすに似ている。人は一瞥で一つかみに、酩酊が隠していたすべてを見て取る。万事が突然《突然’》記憶に浮かんでくる。二十四時間の間に起こったことを少しも知らないでいる酔漢も、眼瞼《目蓋》を開くか開かないうちに事情を了解する。すべての観念は急に明るくなって蘇ってくる。酩酊の曇りは、頭脳を盲目になしていた一種の煙は、たちまち晴れて、明るい明瞭な現実の姿に地位を譲る。  グランテールは片|すみ《隅》に押しやられ、球突台のうしろに隠れたようになっていたので、アンジョーラの上に目を据えていた兵士らは、少しも彼に気づかなかった。そして軍曹が「ねらえ」という命令を再び下《-くだ》そうとした時、突然《突然’》兵士らの耳に、傍から強い叫び声が響いた。 「共和万歳! 吾輩もそのひとりだ。」  グランテールは立ち上がっていた。  参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。  彼は「共和万歳!《/》」と繰り返し、しっかりした足取りで室《+部屋》を横ぎり、アンジョーラの傍《ソバ》に立って銃口の前に身を置いた。 「一打ちでわれわれ|ふたり《二人》を倒してみろ。」と彼は言った。  そして静かにアンジョーラの方《ほう》を向いて言った。 「承知してくれるか。」  アンジョーラは微笑《微笑’》しながら彼の手を握った。  その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。  アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも弾《’玉》で釘付けにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭《コウベ》をたれた。  グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。  それから間もなく兵士らは、家の上層に逃げ上がってる残りの暴徒らを駆逐しにかかった。彼らは本格子《+ホンコウシ》の間から屋根部屋の中に弾を打ち込んだ。屋根裏で戦いが始まった。死体は窓から投げ出されたが、中にはまだ生きてる者もあった。|こわ《壊》れた乗り合い馬車を起こそうとしていた軽歩兵のうち|ふたり《二人》は、屋根裏の窓から発射された二発のカラビン銃に仆された。労働服をつけたひとりの男は、腹に銃剣の一撃を受けて、その窓から投げ出され、地上に横たわって最後の呻きを発した。ひとりの兵士とひとりの暴徒とは、瓦屋根の斜面の上にいっしょにすべり、互いにつかみ合った手を離さなかったので、獰猛な抱擁のまま地上にころげ落ちた。窖の中でも同じような争闘が行なわれた。叫喚、射撃、猛烈な蹂躙、次いで沈黙が落ちてきた。防寨は占領されていた。  兵士らは付近の人家を捜索し、逃走者を追撃し始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十四章】 【捕虜】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは実際捕虜になっていた。ジャン・ヴァルジャンの捕虜になっていた。  倒れかかった時うしろから彼をとらえた手、意識を失いながらつかまれるのを彼が感じた手は、ジャン・ヴァルジャンの手であった。  ジャン・ヴァルジャンはた《/た》だそこに身をさらしてるというほかには、少しも戦闘に加わらなかった。しかし彼がもしいなかったならば、その最後の危急の場合において、|だれ《誰》も負傷者らのことを考えてくれる者はなかったろう。幸いにして、天恵のごとくそ《/そ》の殺戮中の至る所に身を現わす彼がいたために、倒れた者らは引き起こされ、下の室《+部屋》に運ばれ、手当てをされた。間《マ》を置いて彼は常に防寨の中に現われてきた。しかし打撃や襲撃や、また一身の防御さえも、彼の手では少しもなされなかった。彼は黙々として人を救っていた。その上、彼はただわずかな擦過傷《+カスリキズ》を受けたのみだった。弾《玉》は彼にあたることを欲しなかった。彼がこの墳墓の中にきながら夢想していたものの一部が、もし自殺であったとしたならば、その点では彼はまったく不成功に終わった。しかし宗教に反する行ないたる自殺を彼が頭に浮かべていたかどうかは、われわれの疑いとするところである。  ジャン・ヴァルジャンは濃い戦雲の中でマ《/マ》リユスを見るような様子はしていなかった。しかし実際は、マリユスから目を離さなかった。一発の弾がマリユスを倒した時、ジャン・ヴァルジャンは虎のごとく敏活に飛んでゆき、獲物につかみかかるように彼の上に飛びかかり、そして彼を運び去った。  その時襲撃の旋風は、アンジョーラと居酒屋の戸口とを中心として猛烈をきわめていたので、《:、》気を失ってるマリユスを腕にかかえ、防寨の中の舗石《+敷石》のない空地《空き地》を横ぎり、コラント亭の角《カド》の向こうに身を隠したジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの姿を、目に止めた者はひとりもなかった。  岬のように街路につき出ているその角《カド》の事を、読者は覚えているだろう。それにさえぎられて数尺《スーシャク》の四角な地面は、銃弾も霰弾もま《”ま》た人の視線をも免れていた。時としては、火災の|まんなか《真ん中》にあって少しも焼けていない室《+部屋》があり、また荒れ狂ってる海の中にあって、岬の手前か袋《/袋》のような暗礁の中に、少しの静穏な一隅がある。エポニーヌが最後の息を引き取ったのも、防寨の四角な内部のうちにあるそういう|すみ《隅》においてであった。  そこまで行って、ジャン・ヴァルジャンは立ち止まり、マリユスを地上におろし、壁に背を寄せて周囲を見回した。  情況は危急をきわめていた。  一瞬の間は、おそらく|二、三分《ニサンフン》の間は、その一面の壁に身を隠すことができた。しかしこの殺戮の場所からどうして出たらいいか? 八年前ポロンソー街でなした苦心と、ついにそこを脱し得た方法とを、彼は思い出した。それはあの時非常に困難なことだったが、今はまったく不可能なことだった。前面には、七階建《7階だ》てのびくともしない聾《+ツンボ》のような家があって、その窓によりかかってる死人《-しにん》のほかには住《/住》む人もないかのように見えていた。右手には、プティート・トリュアンドリーの方《ほう》をふさいでるかなり低い防寨があった。その障壁をまたぎ越すのはわけはなさそうだったが、しかしその頂の上から、一列の銃剣の先が見えていた。防寨の向こうに配備されて待ち受けてる戦列歩兵の分隊だった。明らかに、その防寨を越すことはわざわざ銃火を受けに行くようなものであり、その舗石《+敷石》の壁の上からのぞき出す頭は、六十梃《+ロクジッチョウ》の銃火の的となるのだった。左手には戦場があった。壁の角《カド》の向こうには死が控えていた。  どうしたらよいか?  そこから脱し得るのはおそらく鳥《’鳥》のみであろう。  しかも、直ちに方法を定め、工夫をめぐらし、決心を堅めなければならなかった。数歩《スウホ》先の所で戦いは行なわれていた。幸いなことには、ただ一点に、居酒屋の戸口に向かってのみ、すべての者が飛びかかっていた。しかし、ひとりの兵士が、ただひとりでも、家を回ろうという考えを起こすか、あるいは側面から攻撃しようという考えを起こしたならば、万事休するのだった。  ジャン・ヴァルジャンは正面の家を|なが《眺》め、傍《ソバ》の防寨を|なが《眺》め、次には、狂乱の体《テイ》になって|せっぱ《/切羽》つまった猛烈さで地面を|なが《眺》め、あたかもおのれの目でそ《/そ》こに穴を明けようとしてるかと思われた。  |なが《眺》めてるうちに、深い心痛のうちにも漠然と認めらるる何かが浮き出してきて、彼の足下に一定の形を取って現われた。あたかも目の力でそこに望む物を作り出したかのようだった。すなわち数歩《スウホ》先の所に、外部からきびしく監視され待《/待》ち受けられてる小さな防寨の根本《根元》に、積まれた舗石《+敷石》の乱れてる下に半ば隠されて、地面と水平に平たく置かれてる鉄格子を、彼は見つけたのである。その格子は、丈夫な鉄の棒を横に渡して作られたもので、二尺四方くらいの大きさだった。それを堅めてる周囲の舗石《敷石》がめくられたので、錠をはずされたようになっていた。鉄棒の間からは、煖炉の煙筒《煙突》か水槽《/水槽》の管《クダ》のような暗い穴が見えていた。ジャン・ヴァルジャンは飛んでいった。昔の脱走の知識が、電光のように彼の頭に上がってきた。上に重なってる舗石《敷石》をはねのけ、鉄格子を引き上げ、死体のようにぐったりとなってるマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肱と膝との力によって、幸いにもあまり深くない井戸のようなその穴の中におりてゆき、《:、》頭の上に重い鉄の蓋をおろし、その上にまた揺らいでる舗石《敷石》を自然にくずれ落ちてこさせ、地下三メートルの所にある舗石《敷石》の面に足をおろすこと、《:、》それだけのことを彼は、あたかも狂乱のうちになすかのように、巨人の力と鷲《/鷲》の迅速さとをもってなし遂げた。わずかに数分間を費やしたのみだった。  か《斯》くてジャン・ヴァルジャンは、まだ気を失ってるマリユスと共に、地下の長い廊下みたいなものの中に出た。  そこは、深い静穏、まったくの沈黙、闇夜のみであった。  昔街路《昔’街路》から修道院の中に落ちこんだ時に感じた印象が、彼の頭に浮かんできた。ただ、彼が|今にな《いま担》っているのは、コゼットではなくてマリユスであった。  襲撃を受けてる居酒屋の恐ろしい騒擾の響きも、今や漠然たるつぶやきの声のように、かすかに頭の上方《-じょうほう》に聞こえるきりだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二編】 【怪物の腸】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【海のために痩《-や》する土地】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーは年《ネン》に二千五百万フランの金《-かね》を水に投じている、しかもこれは比喩ではない。いかにしてま《”ま》たいかなる方法でか? 否《否/》昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否《否/》何の目的もない。いかなる考えでか? 否《否/》何という考えもない。何ゆえにか? 否《否/》理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何《なん》であるか? 曰く、下水道。  二千五百万という金額は、その方面の専門科学によって見積もられた概算のうちの最も低い額《ガク》である。  科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最《/最》も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日《こんにち》認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、われわれが汚穢と称するところのものを二《/二》つの桶にいっぱい入れ、それを竹竿の両端《両はし-》に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお陰で、支那の土地は今日《-こんにち》なおア《/ア》ブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒蒔けば百二十粒得らる《る-》る。いかなる海鳥糞《+カイチョウフン》も、その肥沃さにおいては都市の残滓《+ザンサイ》に比すべくもない。大都市は排泄物を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野《-へーや》を肥すならば、確かに成功をもたらすだろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。  この肥料の黄金を人はどうしているか? 深淵のうちに掃きす《捨》てているのである。  多くの船隊は莫大な費用をかけて、海燕やペンギンの糞《フン》を採りに、南極地方へ送り出される。しかるに手もとにある無限の資料は海に捨てられている。世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。  標石《シルベイシ》の|すみ《隅》に積まれてる不潔物、夜の街路を通りゆく泥濘の箱車《箱グルマ》、塵芥《+ゴミ》捨て場のきたない樽《タル》、鋪石《+敷石》に隠されてる地下の臭い汚泥の流れ、それらは何であるか? 花咲く牧場《ボクジョウ》であり、緑の草であり、百里香や麝香草《/麝香草》や鼠尾草《+/タムラソウ》であり、小鳥であり、家畜であり、夕方満足《夕方’満足》の声を立てる大きな牛であり、《:、》|かお《香》り高い秣であり、金色の麦であり、食卓の上のパンであり、人の血管を流《なが》るる《-る》あたたかい血液であり、健康であり、喜悦であり、生命である。地にあっては諸《+諸々》の形に現われ、天にあっては諸《+諸々》の象《+姿》に現われる、神秘な創造は、そうであらんことを望んでいる。  それを取って大《ダイ》なる坩堝に入《-い》るれば、人の豊かなる滋養が流れ出る。平野《へーや》の養分は人間の養いとなる。  人はかかる富をす《捨》てるも自由であり、また吾人のこの意見を笑うも自由である。しかしそれはかえって大なる無知を表明するにすぎないであろう。  統計によれば、フランス一国《いっこく》のみにて毎年約五億フランの金《-かね》を、各河口から大西洋に注《-そそ》ぎ込んでいるという。見よ、五億の金《-かね》があれば歳費の四分の一を払い得るではないか。人間の知恵は、その五億《5億》を喜んで溝《+ドブ》の中に厄介払いしている。しかもそれは民衆の滋養分であって、それを初めは一滴一滴と下水道から川に吐き出し、ついには滔々と川から大洋に吐き出している。下水の一流《ヒト流》しは千フランを|むだ《無駄》にしている。そこから二つの結果が生ずる、すなわち痩瘠《+ソウセキ》した土地と有毒《/有毒》な水と。飢餓は田地からきたり、疫病《+疾病》は川から来る。  たとえば、現在テームス川がロンドンを毒しつつあることは、顕著な事実である。  パリーについて言えば、最近下水道《最近’下水道》の大部分は、下流の方《ほう》の最後の橋下に移さねばならなかった。  弁と疏通堰とを備えて吸い取りま《”ま》た吐き出す二重管の装置は、人の肺臓のように簡単《/簡単》な初歩の疏水の方法であって、既にイギリスの多くの村では充分に行なわれてることであるが、《:、》それを設けるだけでも、フランスにおいて、田野《デ-ンヤ》の清水を都市に導き都市《/都市》の肥沃な水を田野《デンヤ》に送るには充分であろう。そしてごく簡単で容易なその交換は今日《/こんにち》捨てられつつある五億《5億》の金《-かね》を回収するであろう。しかるに人はまるで別なことを考えている。  現在の方法は、よくする《る-》つもりでかえって悪いことをしている。意向はよいが、結果は哀れである。都市を清潔にするつもりで、実は住民を萎靡さしている。下水道は誤った考えである。取るものをまた戻すという二重《2重》の働きをする疏水工事が、ただ洗い清めるだけでか《/か》えって貧弱ならしむる下水道の代わりに、いたる所に設けらる《る-》るならば、《:、》その時こそ、新しい社会経済の効果と相伴《アイ伴》って、土地の産物は十倍《10倍》にもなり、貧苦の問題は著しく軽減されるだろう。その上に寄食の排除をもってすれば、問題はまったく解決されるだろう。  しかしそれまでは、公衆の富は川に流れ去り、漏泄が行なわれる。漏泄とはちょうど適した言葉である。ヨーロッパはか《斯》くのごとくして疲弊のうちに滅びてゆく。  フランスについては、損失額は上に述べたとおりである。しかるに、パリーはフランス全人口の二十五分の一を有し、パリー市の糞は最上とされているので、パリーの損失高は、フランスが年々失ってる五億《5億》のうちの二千五百万《/二千五百万》フランに当たるとしても、あえて過当の計算ではない。この二千五百万フランを、救済や娯楽の事業に用いたならば、パリーの光輝は倍加するはずである。しかるに市はそれを汚水に投じ去っている。それでか《斯》く言うこともできる、パリーの一大浪費、その驚くべき華美、ボージョン(訳者注◇ 十八世紀の大富豪)式の乱行、遊興、両手で蒔き散らすような金使い、豪奢、贅沢、華麗、それは実に下水道であると。  か《斯》くて誤った盲目な社会経済学のために、万人の幸福は水に溺れ、水に流れ、深淵のうちに失われている。社会の富をすくい取るためにサン・クルーの辺に網でも張るべきであろう。  経済上より言えば、右の事実をか《斯》く約言することができる、すなわち、パリーは底のぬ《抜》けた籠であると。  パリーは模範市であり、各国民からまねられる模型的な完全市であり、理想の住む首都であり、発案と衝動《/衝動》と試験《/試験》との堂々たる祖国であり、あらゆる精神の住所であり中心地《”中心地》であり、《:、》宛然一国《宛然イッコク》をなす都市であり、未来の発生地であり、バビロンとコリントを結合した驚《/驚》くべき都であるが、これを上に述べきたった見地から見る時には、南支那の一農夫をして肩《/肩》を聳やかさせるであろう。  パリーを模倣するは、自ら貧窮に陥ることである。  その上、古来から行なわれてる愚かなその浪費についてはことに、パリー自身も一つの模倣者である。  この驚くべき愚妄事《+愚蒙事》は新しく始まったことではない。それは決して若気の|ばか《馬鹿》さではない。古人も近代人のようなことをしていた。リービッヒは言う、「ローマの下水道はロ《/ロ》ーマの農夫の繁栄をことごとく吸いつくした。」ローマの田舎がローマの下水道によって衰微させられた時、ローマはまったくイタリーを疲弊さしてしまった、《:、》そしてイタリーを下水道のうちに投じ去った時、更にシシリーを投じ去り、次にサルヂニアを投じ去り、次にアフリカを投じ去ってしまった。ローマの下水道は世界をの《飲》み込んだのである。その呑噬の口を、市と世界とに差し出したのである。全く市と世界とに(訳者注◇ ローマ法王の祝祷中にある言葉)である。永遠の都市と、しかも底知れぬ下水道。  他の方面におけると同じくこのことについても、ローマはその実例をた《垂》れている。  明知の都市に固有な一種の愚昧さをもって、パリーはその実例にならっている。  か《斯》くて、今述《今’述》べきたった事業を完成せんがために、パリーはその地下にも《もう》一つパリーを有するに至った。すなわち下水道のパリーである。そこにも街路があり、四つ辻があり、広場があり、袋町があり、動脈があり、汚水の血が流れていて、ただ人影がないばかりである。  何者にも、たとえ偉大なる民衆にも、阿諛の言を弄してはならないから、吾人はあえて言うのである。すべてがある所には、崇高と相並んで卑賤も存する。パリーのうちには、光明の町たるアテネがあり、力の町たるチロがあり、勇気の町たるスパルタがあり、奇跡の町たるニニヴェがありはするが、《:、》また泥土《ドロツチ》の町たるルテチア(訳者注◇ 古代のパリー)もある。  けれどその力もまたそこに蔵されている。諸《+諸々》の記念物のうちにおいても、パリーの巨大な下水の溝渠は特に、マキアヴェリやベ《/ベ》ーコンやミ《/ミ》ラボーなどのごとき人物によって人類《/人類》のうちに実現された不思議な理想を、すなわち卑賤なる壮大さを実現してるものである。  パリーの地下は、もし中を透視し得るとするならば、巨大な石蚕《+セ-キサン》の観《’観》を呈しているだろう。古い大都市が立ってる周囲六里のこの土地には、海綿も及ばないほど多くの水路や隘路がついている。別に一個の洞窟をなしてる墳墓は別とし、ガス管の入り乱れた格子の目は別とし、給水柱《給水チュウ》に終わってる上水分配の広大《/広大》な一連の管《クダ》は別として、《:、》ただ下水道だけでさえ、セーヌの両岸の下に暗黒《/暗黒》な驚くべき網の目を作っている。それはまったく迷宮であって、その傾斜が唯一の道しるべである。  その湿った靄の中には、パリーが産んだかと思《’思》える鼠の姿が見えている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【下水道の昔の歴史】 ◇。◇。◇。◇。◇。  蓋を取るようにパリー市を取り去ったと想像すれば、鳥瞰的に見らる《る-》る下水道の地下の網目は、セーヌ川に接木した大《/大》きな木の枝のようにそ《/そ》の両岸に現われてくるだろう。右岸においては、囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》がその枝の幹となり、その分脈は小枝となり、行き止まりの支脈は細枝となる。  しかしその形は、概略のものでまったく正確というわけにはゆかない。かかる地下の分枝の角《カド》は普通直角《普通’直角’》をなしているが、植物の枝には直角なのはきわめてまれである。  その不思議な幾何学的図形にいっそうよく似た象《+形》を想像しようとするならば、叢のように錯雑した不思議《/不思議》な東方文字を、暗黒面の上に平《/平》たく置いたと仮定すればよろしい。その妙な形の文字は、一見したところ入り乱れて無茶苦茶なようであるが、あるいは角《カド》と角《カド》とであ《/あ》るいは一端《-いったん》と一端《-いったん》とで、互いに結び合わされている。  汚水だめや下水道は、中世や後期《/後期》ローマ帝国や古《/古》い東方諸国などにおいて、多大の役目をなしていた。疫病はそこから発し、専制君主らはそこに死んだ。衆人はその腐敗の床《トコ》を、恐るべき死の揺籃《揺り籠》を、一種敬虔《一種’敬虔》な恐怖をもって|なが《眺》めていた。ベナレスの寄生虫の巣窟は、バビロンの獅子の洞にも劣らぬ幻惑を人に与えていた。ユダヤ神学の書物によれば、テグラート・ファラザル(訳者注◇ 古代アッシリアの王)はニ《/ニ》ニヴェの汚水だ《溜》めによって誓っていた。ライデンのヨハンが偽りの月を出してみせたのは、ムュンステルの下水道からである。このヨハンに相当する東方人でコ《/コ》ラサンの隠れた予言者モカナが、偽りの太陽を出してみせたのは、ケクシェブの汚水井戸からである。  人間の歴史は下水溝渠の歴史に反映している。死体投棄の溝渠はローマの歴史を語っていた。パリーの下水道は古い恐《/恐》るべきものであった。それは墳墓でもあり、避難所でもあった。罪悪、知力、社会の抗議、信仰の自由、思想、窃盗、人間の法律が追跡するま《”ま》たは追跡したすべてのものは、その穴の中に身を隠していた。十四世紀の木槌暴徒、十五世紀の外套盗賊、十六世紀のユーグノー派、十七世紀のモラン幻覚派、十八世紀の火傷強盗、などは皆そこに身を隠していた。百年前には、夜中短剣《夜中/短剣》がそこから現われてきて人を刺し、また掏摸は身が危うくなるとそこに潜み込んだ。森に洞穴《+ドウケツ》のあるごとく、パリーには下水道があった。ゴール語のいわゆるピカルリアという無籍者らは、クール・デ・ミラクル一郭の出城として下水道《/下水道》に居を構え、《:、》夕方になると寝所にはいるように、せせら笑った獰猛な様子でモ《/モ》ーブュエの大水門の下に戻っていった。  ヴィード・グーセ袋町(巾着切袋町)やクープ・ゴルジュ街(首切り街)などを毎日の仕事場としてる者どもが、シュマン・ヴェールの小橋やユ《/ユ》ルポアの陋屋《あばら家》を夜の住居とするのは、至って当然なことだった。そのために無数の口碑が伝わっている。あらゆる種類の幽鬼がそ《/そ》の長い寂しい地郭に住んでいる。至る所に腐爛と悪気《アッキ》とがある。中にいるヴィヨンと外《/外》のラブレーと(訳者注◇ 盗賊の仲間にはいったことのある十五世紀の大詩人、および愉快な風刺家であった十六世紀の文豪)が互いに話し合う風窓が、所々《ところどころ》についている。  いにしえのパリーにおいては、下水道の中にあらゆる疲憊とあ《/あ》らゆる企図とが落ち合っていた。社会経済学はそこに一つの残滓《+ザンサイ》を見、社会哲学はそこに一つの糟粕を見る。  下水道は都市の本心である。すべてがそこに集中し互《/互》いに面を合わせる。その青ざめたる場所には、暗闇はあるが、もはや秘密は存しない。事物は各《各々》、その真の形体を保《-たも》っている、もしくは少なくともその最後の形体を保《-たも》っている。不潔の堆積なるがゆえに、その長所として決して他《タ》を欺かない。率直がそこに逃げ込んでるのである。バジル(訳者注◇ ボーマルシェーの戯曲「セ《/セ》ヴィールの理髪師」中の人物にて滑稽《/滑稽》なる偽善者の典型)の仮面はそこにあるが、しかしその厚紙も糸《/糸》もそのままに見え、外面とともに内面も見えていて、正直なる泥土《ドロツチ》が看板となっている。その隣には、スカパン(訳者注◇ モリエールの戯曲「スカパンの欺罔」中の人物にて巧妙快活なる欺罔者の典型)の作り鼻《ばな》がある。文明のあらゆる不作法は、一度その役目を終われば、社会のあらゆるものがすべり込むこの真実の溝《+ドブ》の中に落ちてゆき、そこにの《飲》み込まれてしまう。しかしそこでは身を隠しはしない。それらの錯雑は一つの告白である。そこでは、偽りの外見もなく、何らの糊塗もなく、醜陋もそのシャツをぬぎ、まったくの裸となり、《:、》幻や蜃気楼は崩壊し、用を終えしもののすごい顔つきをしながら、もはやただあるがままの姿をしか保《-たも》たない。現実と堙滅とのみである。そこでは、壜の底は泥酔を告白し、籠の柄《エ》は婢僕の勤めを語る。そこでは、文学上の意見を持っていた林檎の種は、再び単なる林檎の種となる。大きな銅貨の面の肖像は素直に緑青で蔽われ、カイファスの唾はフォルスタフの嘔吐物と相会し(訳者注◇ 前者はキリストを処刑せしユダヤの司祭、後者はジャンヌ・ダルクに敗られしイギリスの将軍)、《:、》賭博場から来るルイ金貨は自殺者《/自殺者》の紐の端が下がってる釘と出会い、青白い胎児はこ《/こ》の前のカルナヴァル祭最終日にオペラ座で踊った金ぴか物に包まれて転々し、人々を裁いた法官帽は賤婦《+/センプ》の裳衣《ショーイ》だった腐敗物の傍《ソバ》に沈溺する。それは友愛以上であり、昵近である。脂粉を塗っていたものもすべて顔を汚《-よご》す。最後の覆面も引きはがれる。下水道は一つの皮肉家《皮肉屋》である。それはすべてのことをしゃべる。  不潔なるもののかかる誠実さは、吾人を喜ばせ吾人《/吾人》の心を休める。国家至上の道理、宣誓、政略、人間の裁判、職務上の清廉、地位の威厳、絶対に清い法服、などが装ういかめしい様子を、地上において絶えず見続けてきた後《あと》、《:、》下水道にはいってそれらのものにふさわしい汚泥を見るのは、いささか心を慰むるに足ることである。  それがまた同時に種々《いろいろ》のことを教える。さきほど述べたとおり、歴史は下水道を通ってゆく。サン・バルテルミーのごときあらゆる非道は、鋪石《+敷石》の間から一滴一滴とそこにしたたる。公衆の大虐殺は、政治上および宗教上の大殺戮は、この文明の地下道を通って、そこに死骸を投げ込んでゆく。夢想家の目より見れば、史上のあらゆる虐殺者らがそこにいて、恐ろしい薄暗がりの中に膝をかがめ、経帷子の一片を前掛けとし、悲しげにおのれの所業をぬ《-ぬ》ぐい消している。ルイ十一世はトリスタンと共におり、フランソア一世はデュプラーと共におり、シャール九世《9世》は母親と共におり、リシュリユ《ュ》ーはルイ十三世と共におり、《:、》ルーヴォアも、ルテリエも、エベールも、マイヤールもおり、皆石《みな石》を爪でかきながら、おのれの行為の跡を消そうと努めている。それらの洞穴《+ドウケツ》の中には、幽鬼らの箒の音が聞こえる。社会の災害の大《ダイ》なる悪臭が呼吸される。片|すみ《隅》には赤い反映が見える。そこには血《血’》のしたたる手が洗われた恐《/恐》ろしい水が流れている。  社会観察者はそれらの影の中に|はい《入》らなければいけない。それらの影も社会実験室の一部をなす。哲学は思想の顕微鏡である。すべてはそれから逃げようと欲するが、何物もそれから脱することはできない。方々《ホウボウ》逃げ回っても|むだ《無駄》である。逃げ回りながら人はいかなる方面を示すか? 不名誉な方面をではないか。哲学は活眼をもって悪を追求し、虚無のうちに|のが《逃》れ去るのを許さない。消滅する事物の塗抹のうちにも、消え失《う》する事物の縮小のうちにも、哲学はすべてを認知する。|ぼろ《ボロ》を再び緋衣《+ヒイ》となし、化粧品の破片を再び婦人となす。汚水溝渠で都市を再び作り出し、泥土《ドロツチ》で再び風俗を作り出す。陶器の破片を見ては、壺や瓶を結論する。羊皮紙の上の爪跡で、ユーデンガスのユダヤ居住地とゲ《/ゲ》ットーのユダヤ居住地との差を見て取る。今残《今’残》っているもののうちに、かつてありしものを見いだす、すなわち、善、悪、偽、真、宮殿内の血痕、洞窟の墨痕《+ボクコン》、娼家の蝋の一滴、与えられた苦難、喜んで迎えられた誘惑、吐き出された遊楽、|りっぱ《立派》な人々が身をかがめつつ作った襞、《:、》下等な性質のために起こる心のうちの汚涜《+オドク》の跡、ローマの人夫らの短上衣《ヤッケ》にあるメッサリナ(訳者注◇ クラウディウス皇帝の妃にして淫乱で有名な女)の肱の跡、などを見いだすのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【ブリュヌゾー】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーの下水道は、中世においては伝説的な状態にあった。十六世紀に、アンリ二世はその測量を試みたが、失敗に終わった。メルシエの立証するところによれば、今から百年足らず前までは、下水道はまったく放棄されていて、なるがままに任せられていた。  そういうふうにこの古いパリーは、論議と不決定《/不決定》と模索《/模索》とにすべて放任されていた。長い間かなり愚昧のままであった。その後、89年(1789年)はいかにして都市に精神が出て来るかを示した。しかしいにしえにおいては、首府はあまり頭脳を持っていなかった。精神的にもまたは物質的にも自分の仕事を処理する道を知らず、弊害を除去することができないとともに汚物《/汚物》を除去することもできなかった。すべてが妨害となり、すべてが疑問となった。たとえば、下水道はまったく探査することができなかった。市中においては万事わけがわからないとともに、汚水だめの中においては方向を定めることができなかった。地上にては了解が不可能であり、地下にては脱出が不可能だった。言語の混乱の下《-した》には洞穴《+ドウケツ》の混乱があった。迷宮がバベルの塔と裏合わせになっていた。  時とするとパリーの下水道は、あたかも軽視されたナイル川が突然《突然’》憤ることがあるように、氾濫の念を起こすことがあった。きたならしいことではあるが、実際下水道《実際’下水道》の漲溢が幾度も起こった。時々この文明の胃袋は不消化に陥り、汚水は市の喉元に逆流し、パリーはその汚泥を反芻して味わった。そしてか《斯》く下水道と悔恨との類似は実際有益《実際’有益》だった。それは人に警告を与えた。しかしそれもかえって悪い意味にばか《か-》り取られた。市はその泥土《ドロツチ》の鉄面皮に腹を立てて、不潔が再び戻って来るのを許さなかった。なおいっそうよく追い払おうとした。  1802年の氾濫は、八十歳ほどになるパリー人が今もよく記憶している。汚水は、ルイ十四世の銅像があるヴィクトアール広場に縦横《ジュウオウ》にひろがり、またシャン・ゼリゼーの下水道の二つの口からサン・トノレ街へ|はい《入》り、《:、》サン・フロランタンの下水道からサン・フロランタン街へ、ソンヌリーの下水道からピエール・ア・ポアソン街へ、シュマン・ヴェールの下水道からポパンクール街へ、ラップ街の下水道からロケット街へ|はい《入》った。シャン・ゼリゼーの石樋を|おお《覆》うこと、三十五センチの高さにおよんだ。そして南の方《ほう》は、セーヌ川への大水門から逆行して、マザリーヌ街《’街》やエショーデ街やマレー街まではいり込み、百九メートルの距離の所、《:、》ちょうどラシーヌが昔住んでいた家の数歩前《スウホ前》の所で、ようやく止まった。十七世紀に対しては国王(ルイ十四世)よりも詩人(ラシーヌ)の方《ほう》を尊敬したわけである。その深さはサン・ピエール街が最高で、水口の舗石《+敷石》の上三尺《うえ3尺》に達し、その広さはサン・サバン街が最高で、二百三十八メートルの距離にひろがった。  十九世紀の初めにおいても、パリーの下水道はなお神秘な場所であった。およそ泥土《ドロツチ》は決して令名を得るものではないけれども、当時はその悪名《-あくみょう》が恐怖を起こさせるほどに高かった。パリーは漠然と、自分の下に恐ろしい洞穴《+ドウケツ》があるのを知っていた。一丈五尺もある百足虫《+百足》が群れをなし、怪獣ベヘモスの浴場にもなり得ようという、テーベの奇怪な沼のように人々はそれを思っていた。下水掃除人らの長靴も、よく知られてるある地点より先へは決して踏み込まなかった。サント・フォアとク《/ク》レキ侯とがその上で互いに親交を結んだというあの塵芥掃除人の箱車《箱グルマ》が、下水道の中にそのまま空けられていた時代、それからあまり遠くない時代だったのである。下水道の浚渫はまったく豪雨《’豪雨》にうち任せてあったが、雨水《アマミズ》はそれを掃除するというよりも閉塞《/閉塞》することの方《ほう》が多かった。ローマは汚水の溝渠に多少の詩味《シミ》を与えてゼ《/ゼ》モニエ(階段)と呼んでいたが、パリーはそれを侮辱してト《/ト》ルー・プュネー(臭気孔)と呼んでいた。科学も迷信も同じ嫌悪の情をいだいていた。臭気孔は、衛生にとっても伝説にとっても共に嫌悪すべきものだった。大入道がムーフタールの下水道の臭い穹窿の下に閉じ込められていた。マルムーゼら(訳者注◇ ルイ十五世の時陰謀《とき陰謀》を|はか《謀》った青年諸侯)の死体はバリユリーの下水道に投ぜられていた。ファゴンの説によると、1685年の恐ろしい熱病は、マレーの下水道にできた大きな割れ目から起こったものとのことである。その割れ目は、1833年まで、サン・ルイ街の風流馬車《フウリュウ馬車》の看板が出てる前の方《ほう》に、大きく口を開いたままであった。またモルテルリー街の下水道の口は、疫病の出口として有名だった。一列の歯に似て先《/先》のとがった鉄棒の格子がついてる様は、その痛ましい街路の中にあって、あたかも地獄の気を人間に吹きかける怪竜《怪竜’》の口かと思われた。民衆の想像は、パリーの陰暗な下水道に、ある無窮的な恐《/恐》ろしいことどもを付け加えていた。下水道は底なしであった。バラトロム(訳者注◇ アテネにて死刑囚を投げ込みし深淵)であった。その恐ろしい腐爛の地域を探険しようという考えは、警察の人々にも起こらなかった。その未知の世界を検べること、その闇の中に錘を投ずること、その深淵の中に探査に行くこと、|だれ《誰》がそれをあえてな《成》し得たろうか。それこそ戦慄《戦慄’》すべきことだった。けれども、やってみようという者もいた。汚水の溝渠にもそのクリストフ・コロンブスがいた。  1805年のある日、例のとおり珍しく皇帝がパリーにやってきた時、ドゥクレスだったかクレテだったか時《/時》の内務大臣がやってきて、内謁を乞うた。カルーゼルの広場には、大共和国《ダイ共和国》および大帝国の偉大なる兵士らのサーベルの音が響いていた。ナポレオンの戸口は勇士らでいっぱいになっていた。ラインやエ《/エ》スコーやア《/ア》ディジェやナ《/ナ》イルなどの戦線に立った人々、ジューベールやド《/ド》ゥゼーやマ《/マ》ルソーやオ《/オ》ーシュやク《/ク》レベルらの戦友、フルーリュスの気球兵、マイヤンスの擲弾兵、ゼノアの架橋兵、エジプトのピラミッドをも見てきた軽騎兵、ジュノーの砲弾から泥を浴びせられた砲兵、《:、》ゾイデルゼーに停泊してる艦隊を強襲して占領した胸甲兵、また、ボナパルトに従ってロディの橋を渡った者もおり、ムュラーと共にマントアの塹壕中《塹壕ちゅう》にいた者もおり、ランヌに先立ってモンテベロの隘路を進んだ者もいた。当時の軍隊はすべて、分隊または小隊で代表されて、テュイルリー宮殿の中庭に並び、休息中のナポレオンを護衛していた。大陸軍《ダイ陸軍》が過去にマレンゴーの勝利を持ち前途《/前途》にアウステルリッツの勝利を控えてる燦然たる時代だった。内務大臣はナポレオンに言った、「陛下、私は昨日《昨日/》帝国において最も勇敢な男に会いました。」「《:「》どういう男だ? そしてどういうことをしたのか、」と皇帝はせき込んで言った。「ある事をしたいと申すのです。」「《:「》何を?」「《:「》パリーの下水道にはいってみようと申します。」  その男は実在の人物で、ブリュヌゾーと言う名前であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【世に知られざる事がら】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その探険はやがて行なわれた。恐るべき戦陣だった、疫病と毒ガスとに対する暗黒中の戦いだった、同時にまた発見の航海だった。その探険隊のうちでまだ生き残ってるひとり、当時ごく若い怜悧な労働者だったひとりが、公文書の文体に適せぬので警視総監《/警視総監》への報告中にブ《/ブ》リュヌゾーが省略しなければならなかった不思議な事実を、今から数年前まで人に語ってきかしていた。当時の消毒方法はきわめて初歩の程度だった。ブリュヌゾーが地下の網目の最初《/最初》の支脈を越すか越さないうちに、二十人の一隊のうち八人の者はもう先《先き》へ進むことを拒んだ。仕事は複雑で、探険とともに浚渫の役をも兼ねていた。潔めながらま《”ま》た同時に種々《いろいろ》の測量をしなければならなかった。すなわち、水の入り口を調べ、鉄格子および穴を数え、支脈をきわめ、分岐点の水流を見、種々《いろいろ》のたまりに関する区画を見て取り、主要水路に続いてる小水路《捷水路》を探り、《:、》各隧道の要石の下の高さ、穹窿の彎曲部と底部とにおける広さ、などを測定し、終わりに、各水口と直角に水面線を、底部と街路の地面と両方からの距離で定めるのであった。前進は遅々として困難だった。下降用の梯子が底の泥中に三尺《3尺》も没することは珍しくなかった。角灯はガスのためによく燃えなかった。気絶した者を時々《ときどき》運び出さなければならなかった。ある所は絶壁のようになっていた。地面はくずれ、石畳は落ち、下水道は|すた《廃》れ井戸のようになっていた。堅い足場は得られなかった。ひとりの者が突然《突然’》沈み込み、それを引き上げるのも辛うじてだった。化学者フールクロアの注意に従って、十分に潔めた場所には樹脂《/樹脂》に浸した麻屑をいっぱいつ《詰》めた大《/大》きな籠に火をともしていった。壁には所々《ところどころ》、腫物《+腫れ物》とも言えるような妙な形の菌様《+キノコヨウ》のものが、一面に生じていた。呼吸もできないほどのその場所では、石までが病気になってるかと思われた。  ブリュヌゾーはその探険において、上から下へと進んでいった。グラン・ユルルールの二つの水路が分かれてる所で、彼はつき出た石の上に1550という年号を読み分けた。その石はフィリベール・ドゥロムがアンリ二世の命を受けて、パリーの下水道を探険した時、最後に到着した地点を示すもので、下水道にしるされた十六世紀の痕跡だった。またブリュヌゾーは、1600年から1650年の間に上をおおわれた二つ、ポンソーの水路とヴィエイユ・デュ・タンプル街の水路との中に、十七世紀の手工を見いだし、《:、》1740年に切り開かれて上をおおわれた集合溝渠の西部に、十八世紀の手工を見いだした。その二つの穹窿、ことに新しい方の1740年のは、囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》の漆喰工事よりもいっそう亀裂や崩壊がはなはだしかった。囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》は1412年に成ったもので、その時メ《/メ》ニルモンタンの小さな水流はパリーの大下水道《ダイ下水道》に用いられて、《:、》農夫の下男が国王の侍従長になったほどの昇進をし、グロ・ジャンがル《/ル》ベルに(杢兵衛どんがお殿様に)なったようなものだった。  所々に、ことに裁判所の下の所に、下水道の中に作られた昔の地牢の監房とも思えるようなものがわずかに認められた。恐ろしいインパーセ(地下牢)である。それらの監房の一つには、鉄の首輪が下がっていた。一同はそれらを皆ふさいでいった。また発見された物にはずいぶん珍しいものがあった。なかんずく猩々《+ヒヒ》の骸骨はすぐれたものであった。この猩々《+ヒヒ》は1800年に動植物園から姿を隠したもので、十八世紀の末ベ《/ベ》ルナルダン街に猩々《+ヒヒ》が出たという名高い確かな事実と、おそらく関係があるものに違いない。獣《ケモノ》はあわれにも下水道の中に溺死してしまったのである。  アルシュ・マリオンに達する長い丸天井《丸天井’》の隘路の下に、少しも破損していない屑屋の負い籠が一つあったことは、鑑識家《鑑識カ》らの嘆賞を買い得《え》た。人々が勇敢に征服していった泥土《ドロツチ》の中には、至る所に、金銀細工物《金銀ザイク物》や宝石《/宝石》や貨幣《/貨幣》などの貴重品が満ちていた。もし巨人があってその泥土《ドロツチ》を漉したならば、篩の中に数世紀間の富が残ったに違いない。タンプル街とサント・アヴォア街との二つの水道の分岐点では、ユーグノー派の珍しい銅のメダルが拾われた。その一面には、枢機官の帽をかぶった豚がついており、他の面には、法王の冠をかぶった狼がついていた。  大溝渠《+ダイ溝渠》の入り口の所で、最も意外なものに人々は出会った。その入り口は、昔は鉄格子で閉ざされていたのであるが、もう肱金《ヒジガネ》しか残っていなかった。ところがその肱金《ヒジガネ》の一つに、形もわからないよごれた布が下がっていた。おそらく流れてゆく途中でそこに引っかかって、|やみ《闇》の中に漂い、そのまま裂けてしまったものだろう。ブリュヌゾーは角燈《角灯》をさしつけて、その|ぼろ《ボロ》を調べていた。バチスト織りの精巧な麻布《アサヌノ》で、いくらか裂け方の少ない片|すみ《隅》に、冠の紋章がついていて、その上に LAUBESP という七文字《ナナ文字》が刺繍してあった。冠は侯爵の冠章《カン章》だった。七文字《ナナ文字》は Laubespine(ローベスピーヌ)という女名の略字だった。一同は眼前のその布片《布切れ》がマラーの柩布《+柩ギレ》の一片であることを見て取った。マラーには青年時代に情事があった。それは獣医としてアルトア伯爵の家に寄寓していた頃のことである。歴史的に証明されてるある一貴婦人《イチ貴婦人》との情事から、右の|敷き布《敷布》が残っていた。偶然に取り残されていたのか、あるいは記念として取って置かれたのか、いずれかはわからないがとにかく、彼が死んだ時家《とき’家》にある多少きれいな布と言ってはそれが唯一のものだったので、それを柩布《+柩ギレ》としたのであった。婆さんたちは、この悲劇的な民衆の友を、歓楽のからんだその布に包んで、墳墓へ送りやったのである。  ブリュヌゾーはそこを通り越した。一同は|ぼろ《ボロ》をそのままにしておいて手をつけなかった。それは軽蔑からであったろうか、あるいは尊敬からであったろうか? ともあれマラーはそのいずれをも受けるの価値があった。その上《うえ》宿命の跡はあまりに歴然としていて、人をしてそれに触れることを躊躇さしたのである。もとより、墳墓に属する物はそれが自ら選んだ場所に放置しておくべきである。要するにその遺物は珍しいものであった。侯爵夫人がそこに眠っており、マラーがそこに腐っていた。パンテオンを通って、ついに下水道の鼠の中に到着したのである。その寝所の布片《布切れ》は、昔はワットーによってあらゆる襞まで喜んで写されるものであったが、今はダンテの凝視にふさわしいものとなり果てていた。  パリーの地下の汚水溝渠を全部検分するには、1805年から12年まで七年間を要した。進むにしたがってブリュヌゾーは、種々《いろいろ》の大事業を計画し、指揮し、成就した。1808年には、ポンソーの水路の底部を低くし、また方々《-ほうぼう》に新水路を作っては下水道をひろげ、1809年には、サン・ドゥニ街の下をインノサンの噴水の所まで、《:、》1810年には、ゾロアマントー街の下とサルペートリエール救済院の下とに、1811年には、ヌーヴ・デ・プティー・ペール街の下、マイュ街の下、エシャルプ街の下、ロアイヤル広場の下に、《:、》1812年には、ペー街の下とアンタン大道の下とに、下水道をひろげた。同時にまた、あらゆる水路を消毒し健全《/健全》にした。二年目からブリュヌゾーは、婿のナルゴーをも仕事に加わらした。  か《斯》くのごとくして十九世紀の初めには、旧社会はその二重底を清め下水道《/下水道》の化粧をした。とにかくそれだけ清潔になったわけである。  迂曲し、亀裂し、石畳はなくなり、裂け目ができ、穴があき、錯雑した曲がり角が入り組み、秩序もなく高低《コウテイ》し、悪臭を放ち、野蛮で、暗黒のうちに沈み、舗石《+敷石》にも壁にも傷痕《+ショウコン》がつき、恐怖すべき姿で横たわっている、《:、》そういうのがパリーの昔の下水道をふり返って見たありさまだった。四方《シホウ》への分岐、塹壕の交差、枝の形、鴨足の形、坑道の中にあるような亀裂、盲腸、行き止まり、腐蝕した丸天井。臭い水たまり、四壁には湿疹のような滲出物、天井からたれる水滴、暗黒、実にバビロンの町の胃腸であり、洞窟であり、墓穴であり、街路が穿たれている深淵であり、《:、》かつては華麗であった醜汚《シュウオ》の中に、過去と称する盲目の巨大な土竜が彷徨するのが暗黒《/暗黒》の中に透かし見らるる、広大なる土竜の穴であって、その古い吐出口の墓窟《ハカアナ》のごとき恐ろしさに匹敵するものは何もない。  繰り返して言うが、そういうのがすなわち過去の下水道であ《-あ》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【現在の進歩】 ◇。◇。◇。◇。◇。  今日《コンニチ》では、下水道は清潔で、冷ややかで、|まっす《真っ直》ぐで、規則正しい。イギリスにてレスペクタブル(|りっぱ《立派》な)という言葉が含む意味の理想的なものを、ほとんど実現している。整然として|薄ら《ウスラ》明るく、墨縄で設計され、あたかも裃をつけたようにきちんとしている。一介の町人が国家の顧問官となったようにかしこまっている。中にはいってもたいてい明らかに見える。汚泥も端正に控えている。一見した所では、あの昔の地下廊下かとも思われやすい。地下廊下は、「民衆が王を愛していた」古いのんきな時代には、少しも珍しくないもので、王侯たる人々が逃走するのに至って便利なものだった。か《斯》く今日《コンニチ》の下水道は美しい下水道である。純粋な様式ですべて支配されている。直線的なアレキサンドリア式古典味《式古典み》は、詩《し》から追い払われて、建築のうちに逃げ込んだらしく、この長い薄暗《/薄暗》い|ほの白《/ホノジロ》い丸天井のあらゆる石に交じっているかと思われる。各出口は皆迫持《皆’迫持》になっている。リヴォリ街の所は溝渠の中においても一派をなしている。その上、幾何学的な線が最も適当した場所を求むれば、それはまさしく大都市の排泄濠《+排泄ゴウ》であろう。そこではすべてが最も短距離の道を選ばなければならない。下水道は今日多少官省《こんにち多少官省》ふうな趣を呈している。時として警察は下水道に関する報告をなすが、もはやその中でも敬意を欠かされてはいない。それに対する公用語中の単語も、上等になって品位《/品位》をそなえている。腸と言われていたものも今日《-こんにち》では隧道と言われ、穴と言われていたものも今日《-こんにち》では検査孔と言われている。もしヴィヨンが昔の予備の住居を尋ねても、今はその影さえ見つけ得ないだろう。しかしこの網の目のような窖の中にはやはり、昔からの齧歯獣の民が住んでいて、昔よりかえって多いくらいである。時々、古猛者《フル猛者》の鼠が下水道の窓から首を出してみて、パリーの者らをのぞくことがある。けれどもその寄生動物でさえ、おのれの地下の宮殿に満足して温和になっている。もう汚水溝渠には初めのような獰猛さは少しもない。雨水《アマミズ》は昔の下水道を汚していたが、今日《コンニチ》の下水道を洗い潔めている。とは言えあ《/あ》まり安心しすぎてはいけない。有毒ガスはまだそこに住んでいる。完全無欠というよりも、むしろ偽善である。警視庁と衛生局とでいかに力をつくしても及ばなかった。あらゆる清潔法が講ぜられたけれども、今になお、懺悔した後《あと》のタルテュフ(訳者注◇ モリエールの戯曲「タルテュフ」の主人公で偽善者の典型)のように何《/何》となく怪しい臭気を放っている。  全体より見れば汚水の掃蕩は下水道が文明に尽す務めであるから、《:、》そしてこの見地よりすれば、タルテュフの良心はアウジアスの家畜小屋(訳者注◇ 牛が三千頭もいながら三十年も掃除をしたことのないという物語中の家畜小屋)よりも一進歩《イチ進歩》というべきであるから、確かにパリーの下水道は改善されたわけである。  それは進歩以上である。一つの変形である。昔の下水道と現今の下水道との間には、一大革命がある。そしてその革命は|だれ《誰》がなしたか? 吾人が上に述べた世《/世》に忘《忘れ》られてるブリュヌゾーである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【将来の進歩】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリー下水道の開鑿は、決して些々たる仕事ではなかった。過去十世紀の間《あいだ》力を尽しながら、あたかもパリー市を完成することができなかったと同様に、それを完成することはできなかった。実際下水道《実際’下水道》は、パリーの拡大からあらゆる影響を受けている。それは地中において無数の触角《ショッカク》をそなえた暗黒な水螅《+スイシ》のようなもので、地上に市街がひろがるとともに地下《/地下》にひろがってゆく。市街が一つの街路を作るたびごとに、下水道は一本の腕を伸ばす。昔の王政時代には、二万三千三百メートルの下水道しか作られてはいなかった。1806年一月一日のパリーはほとんどそのままの状態であった。この時以来、すぐ後で再び述べるが、下水道の事業は着々として勇ましく再《/再》び始められ続けられてきた。ナポレオンは、妙な数では《は-》あるが、四千八百四メートル作《つく》り、ルイ十八世は五千七百九メートル、《:、》シャール十世は一万八百三十六メートル、ルイ・フィリップは八万九千二十メートル、1848年の共和政府は二万三千三百八十一メートル、現政府は七万五百メートル作った。現在では全部で二十二万六千六百十メートル、すなわち六十里の下水道となっている。パリーの巨大な内臓である。なお人目につかない小枝は常に作られつつある。それは世に知られない広大な建造である。  読者の見るとおり、パリーの地下の迷宮は今日《-こんにち》、十九世紀の初めより十倍《10倍》もの大きさになっている。その汚水溝渠を今日《コンニチ》のような比較的完全な状態になすには、いかばかりの忍耐と努力とが必要であったか、想像にも余りあるほどである。いにしえの王政時代の奉行と十八世紀《/十八世紀》の末十年間《末’十年間》の革命市庁とが、1806年以前に存在していた五里の下水道を穿つに至ったのも、辛うじてのことだった。あらゆる種類の障害がその事業を妨げた、あるいは地質上の障害もあれば、あるいはパリーの労働者階級の偏見から来る障害もあった。鶴嘴や鍬《/鍬》や鑚《+/キリ》などのあらゆる操作に著しく不便な地層の上に、パリーは立っている。パリーという驚くべき歴史的組織が積み重ねらるるその地質的組織ほど、穿ち難《がた》く貫《/貫》き難いものはな《無》い。その沖積層の中に何かの形で工事を始めて進み込《こ》もうとすると、地下の抵抗は際限もなく現われてくる。溶けた粘土があり、流れる泉があり、堅い岩があり、専門の科学で俗に芥子《「芥子」》と言われる柔らかい深い泥土《ドロツチ》がある。薄い粘土脈やア《/ア》ダム以前の大洋にいた牡蠣の殻をちりばめてる化石層などと交互になっている石炭岩層の中を、鶴嘴は辛うじて進んでゆく。時とすると水の流れが突然《突然’》現われてきて、始められたばかりの穹窿を突きこわし、人夫らを溺らすこともある。あるいは泥灰岩が流れ出し、瀑布のような勢いで奔騰して、ごく大きな押さえの梁をもガラスのように砕く。最近のことであるが、ヴィエットで、サン・マルタン掘割りの水を涸らしもせず航運《/航運》にも害を与えないようにして、その下に集合下水道を通さなければならなかった時、掘割りの底に裂け目ができて、《:、》にわかに地下の工事場に水があふれてき、吸い上げポンプの力にもおよばなかった。それで潜水夫を入れてその裂け目をさがさせると、大|だま《溜》りの口の所にあることがわかったので、非常な骨折りでそれをふさいだ。また他の所、すなわちセーヌ川の近くやあるいはかなり離れた所でも、《:、》たとえばベルヴィルやグ《/グ》ランド・リューやリ《/リ》ュニエール通路などで、人が足を取られてす《/す》っかり沈み込んでしまうほどの底なし泥砂に出会った。その上になお、有毒ガスのための窒息、土壌の墜落のための埋没、突然の崩壊。その上になお、チブスもあって、人夫らは|しだい《次第》にそれに感染する。近頃でも、深さ十メートルの塹壕の中で働きながら、ウールクの主要水管を入れるための土堤《土手》を作ってクリシーの隧道を掘り、更に、地すべりのする間を、多くはごく臭い開鑿をやり支柱《/支柱》を施して、《:、》オピタル大通りからセーヌ川までビエーヴルの穹窿を作り、更に、モンマルトルの溢水からパリーを救い、マルティール市門の近くに停滞してる九町歩余《9町歩余り》の濁水に出口を与えるために働き、《:、》更に、四《4》カ月間昼夜の別なく十一メートルの深さの所で働いて、ブランシュ市門からオーベルヴィリエの道に至る一条の下水道を作り、《:、》更に、未聞のことではあったが、塹壕もなくまったく地中で、バール・デュ・ベク街の下水道を地下六メートルの所に穿った後《あと》に、監督のモンノーは死亡した。また、トラヴェルシエール・サン・タントアーヌ街からルールシーヌ街に至るまで市中の各地点に、三千メートルにおよぶ下水道の穹窿を作り、《:、》更に、アルバレートの支脈を作って、サンシエ・ムーフタール四つ辻に雨水《アマミズ》の氾濫するのを防ぎ、更に、流砂の中に石とコンクリートとの土台を作って、その上にサン・ジョルジュの下水道を設け、《:、》更に、ノートル・ダーム・ド・ナザレの支脈の底を下げるという恐るべき工事を指揮した後《あと》に、技師のデュローは死亡した。しかし、戦場の虐殺よりもずっと有益なそれら勇敢な行為については、何らの報告文も作られていない。  1832年におけるパリーの下水道は、今日《コンニチ》の状態とは非常な差があった。ブリュヌゾーは一刺戟を与えたが、その後なされた大改造をいよいよ着手さしたのはコレラ病の流行だった。たとえば口にするも驚くべきことではあるが、1821年には、大運河と言わるる囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》の一部が、ちょうどヴェニスの運河のように、グールド街に裸のまま蟠っていた。その醜悪の蓋をするに要した二十六万六千八十《二十六万六千ハチジュッ》フラン六サンチームの金《-かね》を、パリー市が調達し得たのは、ようやく1823年のことである。コンバとキ《/キ》ュネットとサ《/サ》ン・マンデとの三つの吸入井戸を、その出口と種々《/いろいろ》の装置とた《/た》まりと清浄用《/清浄用》の分脈とをつけて完成したのは、わずかに1836年のことである。それから|しだい《次第》にパリーの腹中の溝渠は新しく作り直され、また前に言ったとおり、最近四半世紀ばかりの間に十倍以上《10倍以上》の長さとなった。  今から三十年前、すなわち1832年六月五日六日の反乱のおりには、下水道の大部分はほとんど昔のままだった。大多数の街路は、今日《コンニチ》では中高となっているが、当時は中低《ナカビク》の道にすぎなかった。街路や四つ辻の勾配が終わってる低部には、大きな四角の鉄格子が方々《-ほうぼう》に見えていた。格子の太い鉄棒は、群集の足に磨かれて光っており、馬車には|すべ《滑》りやすくて危険であり、馬もよく|ころ《転》ぶほどだった。橋梁や道路に関する公用語では、それらの低部や鉄格子に Cassis(訳者注◇ ラテン語にては|くも《蜘蛛》の巣という意味になる)という意味深い名前を与えていた。この1832年には、エトアール街、サン・ルイ街、タンプル街、ヴィエイユ・デュ・タンプル街、ノートル・ダーム・ド・ナザレ街、フォリー・メリクール街、フルール河岸《ガシ》、プティー・ムュスク街、《:、》ノルマンディー街、ポン・トー・ビーシュ街、マレー街、サン・マルタン郭外、ノートル・ダーム・デ・ヴィクトアール街、モンマルトル郭外、グランジュ・バトリエール街、シャン・ゼリゼー、ジャコブ街、トールノン街、などの多数の街路には、《:、》昔のゴチック式の汚水溝渠がまだその口を皮肉らしく開いていた。時代のついた厚顔さをそなえ、時には標石《標イシ》でめぐらされた、のろまな巨大な石の空洞であった。  1806年のパリーの下水道は、1663年五月に調べられたのとほとんど同じで、五千三百二十八尋だった。ところがブリュヌゾーの工事の後《あと》、1832年一月一日には、四万三百メートルとなっていた。すなわち1806年から31年まで毎年平均七百五十メートル作られたことになる。その後、毎年八千メートルから時には一万メートルに及ぶ隧道が、コンクリートで固めた上に水硬石灰《スイコウ石灰》の漆喰工事を施して作られた。一メートルに二百フランとして、現今のパリーの下水道六十里は四千八百万フランを示している。  最初に指摘した経済上の進歩論のほかに、公衆衛生の重大な案件が、パリーの下水道というこの大問題に関連している。  パリーは水の層と空気の層と二つの間《あいだ》にはさまれている。水の層はかなり深い地下に横たわっているが、既に二つの穿孔によって達せられていて、白堊とジュラ系石灰岩との間にある緑《/緑》の砂岩帯から供給される。この砂岩帯は、半径二十五里の円盤でおおよそを示すことができる。多数の大小の河川がその中に浸透している。グルネルの泉の水一杯を飲めば、セーヌ、マルヌ、イオンヌ、オアーズ、エーヌ、シェル、ヴィエンヌ、ロアール、などの諸川の水を飲むことになる。この水の層は健全なるものである。第一に空からき、つぎに地からきたものである。しかるに空気の層は不健全で、下水道からきたものである。汚水溝渠のあらゆる毒ガスが市中の呼吸に交じっている。そこから悪い気息が起こってくる。科学の証明するところによれば、肥料の堆積の上で取った空気も、パリーの上で取った空気よりははるかに清い。けれども一定の時日を経たならば、進歩するにつれ、各種の機関も完成し、光明も増加して、人は水の層を用いて空気の層を清めるようになるであろう。言い換えれば、下水道を洗滌《+洗浄》するようになるであろう。下水道の洗滌《洗浄》という語に吾人がいかなる意味を持たしてるかを、読者は既に知っているはずである。すなわちそれは、汚穢を土地に返す事である、汚穢を土地に送り肥料《/肥料》を田野《デンヤ》に送る事である。この簡単な一事によって、社会全体が貧窮の減少と健康《/健康》の増進とを得るであろう。現今にあっては、パリーからの疫病の放射は、ルーヴルを疫病車の轂とすれば、その周囲五十里《周囲50里》におよんでいる。  過去十世紀の間《あいだ》汚水溝渠はパリーの病毒だったとも言い得るだろう。下水道は市が血液の中に持ってる汚点である。人民も本能からよくそれを知っていた。屠獣者の仕事は、非常に恐れられて、長い間死刑執行人《間’死刑執行人》の手にゆだねられていたが、下水掃除夫の仕事も、昔はそれとほとんど同じように危険なものであり、同じように民衆から|いや《嫌》がられていた。泥工に頼んでその臭い堀の中に|はい《入》ってもらうには、高い賃銀を出さなければならなかった。井戸掘り人《にん》の梯子もそこに|はい《入》るには躊躇していた。「下水道におりてゆくのは墓穴の中に|はい《入》ることだ、」というたとえまでできていた。その上前《うえ前》に述べたとおり、あらゆる種類の嫌忌すべき伝説のために、その巨大な下水道は恐ろしいことどもでおおわれていた。実に世に恐れられた洞窟であって、その中には、人間の革命とともに地球《/地球》の革命の跡まで残っており、ノアの大洪水のおりの貝殻からマ《/マ》ラーの|ぼろ《ボロ》に至るまで、あらゆる大変災の遺物が見いだされるのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三編 【泥土《ドロツチ》にして霊】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【下水道とその意外なるもらい物】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだのは、パリーの下水道の中《なか》へだ《だ-》った。  ここにまたパリーと海との類似がある。大洋の中におけるごとく、下水道の中にはいり込む者はそのまま姿を消すことができる。  実に驚くべき変化だった。市の|まんなか《真ん中》にありながら、ジャン・ヴァルジャンは市の外に出ていた。またたくまに、一つの蓋を上げそ《/そ》れをまた閉ざすだけの暇に、彼はま《真》昼間からまったくの暗黒に、正午から真夜中に、騒擾の響きから沈黙に、百雷の旋風から墳墓の凪ぎに、《:、》そしてまた、ボロンソー街の変転よりもなおいっそう不思議な変転によって、最も大なる危険から最《/最》も全《-まった》き安全にはいってしまった。  突然《突然’》窖の中に陥ること、パリーの秘密牢の中に姿を消すこと、死に満ちてる街路を去って生《セイ》の存する一種の墳墓に移ること、それはまったく不思議な瞬間だった。彼は|しば《暫》しあっけに取られて、耳を澄ましながら惘然《呆然》とたたずんだ。救済の罠は突然《突然’》彼の下に口を開いたのである。天《天’》の好意は彼を欺いて言わば捕虜にしてしまったのである。驚嘆すべき天《/天》の待ち伏せである。  ただ負傷者は少しの身動きもしなかった。ジャン・ヴァルジャンはその墓穴の中で今自分《-いま自分》の担ってる男が、果たして生きてるのか死んでるのかを知らなかった。  彼の第一の感じは、盲目になったということだった。にわかに彼は何《なん》にも見えなくなった。それからまた、しばらくの間は聾者になったような気もした。何も聞こえなかった。頭の上数尺《上スーシャク》の所で荒れ狂ってる虐殺の暴風は、前に言ったとおり厚い地面で|へだ《隔》てられたので、ごくかすかにぼんやり響いてくるだけで、ある深い所にとどろいてる音のように思われた。彼は足の下が堅いことを感じた。それだけであった。しかしそれで十分だった。一方の手を伸ばし、次にまた他方の手を伸ばすと、両方とも壁に触れた。そして道の狭いことがわかった。足がすべった。そして舗石《+敷石》のぬれてることがわかった。穴や水《/水》たまりや淵《/淵》を気使《気遣》って、用心しながら一歩ふみ出してみた。そして石畳が先まで続いてるのを悟った。悪臭が襲ってきたので、それがどういう場所であるかを知った。  しばらくすると、彼はもう盲目ではなかった。わずかな光が今すべり込んできた口からさ《差》していたし、また目もその窖の中にな《慣》れてきた。物の形がぼんやり見え出してきた。彼がもぐり込んできたとしか言いようのないその隧道は、後ろを壁でふさがれていた。それは専門語で分枝と言わるる行き止まりの一つだった。また彼の前にも他の壁が、暗夜の壁があった。穴の口からさ《差》してくる光は、前方|十一、二歩《十イチニホ》の所でなくなってしまい、下水道の湿った壁をようやく数メートルだけ|ほの白《ホノジロ》く浮き出さしていた。その向こうは厚い闇だった。そこにはいってゆくことはいかにも恐ろしく、一度はいったらそのままの《飲》み尽され《れ-》そうに思われた。けれどもその靄の壁の中につき入《い》ることは不可能ではなく、また是非ともそうしなければならなかった。しかも急いでしなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは、自分が舗石《+敷石》の下に見つけた鉄格子は、また兵士らの目にもつくかも知れないと思った。すべてはその偶然の機会にかかっていると思った。兵士らもまたその井戸の中におりてきて、彼を|さが《探》すかも知れなかった。一分間も猶予してはおれなかった。彼はマリユスを地面にお《降》ろしていたが、それをまた拾い上げた、というのも実際の|ありさま《有様》を示す言葉である。そして彼はマリユスを肩にかつぎ、前方に歩き出した。彼は決然として暗黒の中にはいって行った。  しかし実際において|ふたり《二人》は、ジャン・ヴァルジャンが思っていたほど安全になったのではなかった。種類は違うがやはり同じく大なる危険が、彼らを待ち受けていた。戦闘の激しい旋風の後《あと》に毒気《/毒気》と陥穽との洞窟がきたのである。混戦の後《あと》に汚水溝渠がきたのである。ジャン・ヴァルジャンは地獄の一つの世界から他の世界へ陥ったのである。  五十歩ばかり進んだ時、彼は立ち止まらなければならなかった。問題が一つ起こった。隧道《ずいどう》は斜めにも《もう》一つの隧道に続いていた。二つの道が開いていた。いずれの道を取るべきか、左へ曲がるべきか右《/右》へ曲がるべきか。その暗い迷宮の中でどうして方向を定められよう。しかし前に注意しておいたとおり、その迷宮には一つの手がかりがある。すなわちその傾斜である。傾斜に従っておりてゆけば川に出られる。  ジャン・ヴァルジャンは即座にそれを了解した。  彼は考えた。たぶんここは市場町《イチバマチ》の下水道に違いない。それで、道を左に取って傾斜をおりてゆけば、十五分とかからないうちに、ポン・トー・シャンジュとポ《/ポ》ン・ヌーフとの間のセーヌ川のどの出口かに達するだろう。すなわちパリーの最も繁華な所に|ま昼間《真昼間/》身をさらすことになる。おそらく四つ辻の人だかりに出っくわすだろう。血に染まった二人の男が足下の地面から出てくるのを見ると通行人《/通行人》の驚きはどんなだろう。巡査がやってき、近くの衛兵らが武器を取ってやってくる。地上に出るか出ないうちに取り押さえられる。それよりもむしろ、この迷宮の中には《-は》いり込み、暗黒に身を託し、天運のままに出口を求めた方《ほう》が上策である。  で彼《/彼》は傾斜の上の方《ほう》へと右に曲がった。  隧道《ずいどう》の角《カド》を曲がると、穴の口からさ《差》していた遠い光は消えてしまい、暗黒の幕が再びたれてきて、彼はまた目が見えなくなった。それでも彼は前進をやめずに、できるだけ早く進んだ。マリユスの両腕は彼の首のまわりにからみ、両足は背後にたれていた。その両腕を彼は一方の手で押さえ、他の手で壁を伝った。マリユスの頬《ホオ》は彼の頬《ホオ》に接し、血《血’》のためにそのままこびりついた。彼はマリユスの生温い血が自分の上に流れかかって、服の下までしみ通るのを覚えた。けれども、負傷者の口元に接している耳に湿気《/湿気》のある温味《ヌクミ》が感ぜられるのは、呼吸のしるしで、従ってまた生命のしるしだった。今や彼がたどっている隧道は、初めのより広くなっていた。彼はかなり骨を折ってそれを歩いていった。前日の雨水《アマミズ》はまだまったく流れ去っていず、底の中ほどに小さな急流を作っていたので、彼は水の中に足をふみ入れないようにするため、壁に身を寄せて行かなければならなかった。そういうふうにして彼は|ひそ《密》かに足を運んだ。あたかも見えない中《なか》を手探りして地下《/地下》の闇の脈の中に没してゆく夜の生物のようだった。  けれども、あるいは遠い穴からわずかの明りがそ《/そ》の不透明な靄の中に漂ってるのか、あるいは目が暗闇にな《慣》れてくるのか、《:、》少しずつぼんやりした影が見え、手で伝ってる壁や頭《/頭》の上の丸天井などが漠然とわかってきた。魂が不幸のうちに拡大してつ《/つ》いにそこに神を見いだすに至ると同じように、瞳孔は暗夜のうちに拡大してつ《/つ》いにはそこに明るみを見いだすに至るものである。  行く手を定めることは困難であった。  下水道の線は、上に重なってる街路の線を言わば写し出してるものである。パリーのうちには当時二千二百の街路があった。そのちょうど下に下水道と称する暗黒な枝が錯綜してるのを想像してみるがいい。当時存在していた下水道の組織は、それを端から端へつなぎ合わしてみると、十一里の長さに達していた。上に述べたとおり、現在におけるその網の目は、最近三十年間の特に活発な工事によって、六十里にも及んでいる。  ジャン・ヴァルジャンはまず第一に思い違いをした。彼は今《いま/》サン・ドゥニ街の下にいるものと思ったのであるが、不幸にも実はそうでなかった。サン・ドゥニ街の下には、ルイ十三世の時代にできた古い石の下水道があって、大溝渠《+ダイ溝渠》と言われてる集合溝渠に|まっす《真っ直》ぐ続いている。そして昔のクール・デ・ミラクルの高みで右《/右》に肱を出し、また一本の枝が別れてサン・マルタンの下水道となり、四つの腕は十字形に交差している。しかしコラント亭のそばに入り口があるプ《/プ》ティート・トリュアンドリーの隧道は、サン・ドゥニ街の地下とはまったく連絡がなく、モンマルトルの下水道に続いていた。ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだのはそれへだった。そこには道に迷う所がたくさんあった。モンマルトルの下水道は、古い網の目のうちで最も入り組んだものの一つである。幸いにもジャン・ヴァ《ァ-》ルジャンは、帆柱をたくさん組み合わしたような図形をしてる市場町《イチバマチ》の下水道を通り越した。しかし彼の前には幾つもの難関があった。多くの街路の角《カド》が──まったくそれは街路である──《─:》暗黒の中に疑問符のように控えていた。第一に左の方《ほう》には、判じ物のようなプラートリエールの大下水道《ダイ下水道》が、郵便局や麦市場《麦イチバ》の|建て物《建物》の下などに、T字形《字型》やZ字形《字型》の紛糾した枝をつき出し、Y字形《字型》をなしてセーヌ川に終わっている。第二に右の方《ほう》には、カドラン街の彎曲した隧道が歯《/歯》のような三つの行き止まりを持って控えている。第三にまた左の方《ほう》には、マイュの下水道の一脈が、既に入り口近くからフォーク形《型》に錯雑し、稲妻形に続いていて、各方面に交差し分岐《/分岐》してるルーヴルの大流出口に達している。最後にまた右の方《ほう》には、ジューヌール街の行き止まりの隧道があって、囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》に達するまで小さな横穴が方々《-ほうぼう》についている。そしてこの囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》のみが、十分安心できるくらいの遠い出口に彼を導き得るのであった。  もしジ《ジ-》ャン・ヴァルジャンが、上に指摘したようなことを多少知っていたならば、ただ壁に手を触れただけで、サン・ドゥニ街の下水道にいるのではないことをすぐに気づいたろう。というのは、古い切り石の代わりに、すなわち花崗岩と肥石灰漆喰《/ヒ石灰漆喰》とで作られ一尋八百《/1尋’八百》フランもする底部と溝《ドブ》とを供えて下水道《/下水道》に至るまで広壮厳然たる昔の建築の代わりに、《:、》近代の安価な経済的方法、すなわちコンクリートの層の上に水硬石灰《スイコウ石灰》で固めた砂岩の一メートル二百フランの工事を、いわゆる小材料でできた普通の泥工事を、彼は手に感じたはずである。しかし彼はそれらのことを少しも知っていなかった。  彼は、何も見ず、何も知らず、偶然のうちに没し、言いかえれば天命のうちにの《飲》み込まれて、懸念しながらも落《/落》ち着いて前方に進んでいった。  けれども実《-じつ》を言えば、彼は|しだい《次第》にある恐怖の情にとらえられていった。彼を包んでいた影は彼《/彼》の精神の中にもはいってきた。彼は一つの謎の中を歩いていたのである。その汚水の道は実に恐るべきものである。眩惑をきたさせるまでに入り組んでいる。その暗黒のパリーのうちに|とら《捉》えらる《る-》る時、人は慄然たらざるを得ない。ジャン・ヴァルジャンは目に見えない道を探り出してゆかなければならなかった。否《否/》ほとんど道を作り出してゆかなければならなかった。その不可知の世界においては、踏み出してみる各一歩は、それが最後の一歩となるかも知れなかった。いかにしてそこから出られるであろうか。出口が見つかるであろうか。しかも|時期おく《ジキオク》れにならないうちに出口が見つかるであろうか。石造の蜂の巣のようなその巨大な地下の海綿は、彼に中を通りぬ《抜》けさせるであろうか。ある意外な闇の結び目に出会いはしないだろうか。脱出し得られぬ所に、通過し得られぬ所に、陥りはしないだろうか。その中でマリユスは出血のために死に、彼は空腹のために死には《は-》すま《ま-》いか。|ふたり《二人》ともその中に埋没し終わって、二つの骸骨となり、その暗夜の片|すみ《隅》に横たわるに至りは《は-》すま《ま-》いか。それは彼自身にもわからなかった。彼はそれらのことを自ら尋ねてみたが、自ら答えることができなかった。パリーの内臓は一つの深淵である。いにしえの予言者のように、彼は怪物の腹中にいたのである。  突然《突然’》彼は意外な驚きを感じた。最も思いがけない瞬間に、そしてやはり|まっす《真っ直》ぐに進み続けていた時に、傾斜を上っているのでないことに気づいた。水の流れは、爪先からこないで、踵の方《ほう》に当たっていた。下水道は今下《いま下》り坂になっていた。どうしたわけだろう。さては|にわか《俄》にセーヌ川に出るのであろうか。セーヌ川に出るのは大なる危険であったが、しかし引き返すの危険は更に大きかった。彼は続けて前に進んだ。  しかし彼が進みつつあったのはセーヌ川の方《ホウ》へではなかった。セーヌ右岸にあるパリーの土地の高脈は、一方の水をセーヌ川に注ぎ他方《/他方》の水を大溝渠《+ダイ溝渠》に注いでいる。分水嶺をなすその高脈は、きわめて不規則な線をなしている。排水を両方に分つ最高点は、サント・アヴォア下水道ではミ《/ミ》シェル・ル・コント街の彼方にあり、ルーヴルの下水道では大通《/大通》りの近くにあり、モンマルトルの下水道では市場町《/イチバマチ》の近くにある。ジャン・ヴァルジャンが到着したのは、その最高点であった。彼は囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》の方《ほう》へ進んでいた。道筋《道すじ》はまちがっていなかった。しかし彼はそれを少しも自ら知らなかった。  枝道に出会うたびごとに、彼はその角《カド》に一々さわってみた。その口が今いる隧道よりも狭い時には、そちらに曲がり込まないで|まっす《真っ直》ぐに進んでいった。狭い道はすべて行き止まりになってるはずで、目的すなわち出口から遠ざかるだけであると、至当な考えをしたからである。か《斯》くして彼は、上にあげておいた四つの迷路によって暗黒《/暗黒》のうちに張られてる四つの罠を、免れることができた。  時には、防寨のため交通が途絶され暴動《/暴動》のため石のように黙々としてるパリーの下から出て、いきいきたる平常のパリーの下にはいったのを、彼は感ずることができた。ふいに頭の上で、雷のような遠い連続した音が聞こえた。それは馬車の響きであった。  彼は約三十分ばかり、少なくとも自ら推測したところによると約三十分ばかり、歩き続けていたが、なお休息しようとも思わなかった。ただマリユスを|ささ《支》えてる手を代えたのみだった。暗《くら》さはいよいよ深くなっていたが、その深みがかえって彼を安心さした。  突然《突然’》彼は前方に自分の影を認めた。影は足下の底部と頭上《/頭上》の丸天井とをぼんやり染めてるほのかな弱い赤みの上に浮き出していて、隧道のじめじめした両側《両ガワ》の壁の上に、右へ左へと|すべ《滑》り動いた。彼は惘然《呆然》としてうしろを振り返った。  うしろの方《ほう》に、彼が今通《今’通》ってきたばかりの隧道の中に、しかも見たところ非常に遠く思われる所に、厚い闇を貫いて、こちらを|なが《眺》めてるような一種の恐ろしい星が燃え上がっていた。  それは下水道の中に出る陰惨な警察の星であった。  星の向こうには、黒い|まっす《真っ直》ぐなぼ《/ぼ》んやりした恐ろしい十個たらずの影が、入り乱れて揺らめいていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【説明】 ◇。◇。◇。◇。◇。  六月六日に下水道内捜索の命令が下された。敗亡者らがあるいはそこに逃げ込んでは《は-》すま《ま-》いかという懸念があったので、ブュジョー将軍が公然のパリーを掃蕩している間に、ジスケ警視総監は隠密のパリーを探索することになったのである。上《うえ》は軍隊によって下《/下》は警察によって代表された官力《/官力》の二重戦略を必要とする、相関連《あい関連》した二重《ニジュウ》の行動であった。警官と下水夫《下水フ》との三隊は、パリーの地下道を探険しにかかって、一つはセーヌ右岸を、一つは左岸を、一つはシテ島を探った。  警官らは、カラビン銃、棍棒、剣、短剣、などを身につけていた。  その時ジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンにさし向けられたのは、右岸巡邏隊の角灯だった。  その巡邏隊は、カドラン街の下にある彎曲した隧道と三《/三》つの行き止まりとを見回ってきたところだった。彼らがそれらの行き止まりの奥に大角灯《ダイ角灯》を振り動かしてる時、既にジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンは途中でその隧道の入り口に出会ったが、本道より狭いのを知って、それにはいり込まなかった。彼は他の方《ほう》へ通っていった。警官らはカドランの隧道から出てきながら、囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》の方向に足音が聞こえるように思った。実際それはジャン・ヴァルジャンの足音だった。巡邏の長をしてる警官はそ《/そ》の角灯を高く上げ、一隊の人々は足音が響いてくる方向へ靄《/靄》の中をのぞき込んだ。  ジャン・ヴァルジャンにとっては何とも言い難い瞬間だった。  幸いにも、彼はその角灯をよく見ることができたが、角灯の方《ほう》は彼をよく見ることができなかった。角灯は光であり、彼は影であった。彼はごく遠くにいたし、あたりの暗黒の中に包まれていた。彼は壁に身を寄せて立ち止まった。  それに彼は、後方に動いてる|もの《物》が何《なん》であるかを知らなかった。不眠と不食《/不食》と激情《/激情》とは、彼をもまた幻覚の状態に陥らしていた。彼は一つの火炎を見、火炎のまわりに幽鬼を見た。それはいったい何であるか、彼にはわけがわからなかった。  ジャン・ヴァルジャンが立ち止まったので、音は《は-》やんだ。  巡邏の人々は、耳を澄ましたが何《なん》にも聞こえず、目を定めたが何《なん》にも見えなかった。彼らは互いに相談を始めた。  当時モ《/モ》ンマルトルの下水道にはちょうどその地点に、通用地と言われてる一種の四つ辻があった。大雨のおりなどには雨水《アマミズ》が流れ込んできて地下《/地下》の小さな湖水みたようになるので、後に廃されてしまった。巡邏の者らはその広場に集まることができた。  ジャン・ヴァルジャンは幽鬼らがいっしょに丸く集まってるのを見た。その犬のような頭は、互いに近く寄ってささやきかわした。  それらの番犬がなした相談の結果は次のことに帰着した。何か思い違いをしたのである。音がしたのではない。|だれ《誰》もいない。囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》のうちにはいり込むのは|むだ《無駄》である。それはただ時間を空費するばかりだ。それよりもサン・メーリーの方《ほう》へ急いで行かなければいけない。何かな《成》すべきことがあり追跡《/追跡》すべき「ブーザンゴー」がいるとするならば、それはサン・メーリーの方面においてである。  徒党というものは時々その古い侮辱的な綽名を仕立て直してゆく。1832年には、「ブーザンゴー」(水夫帽)という言葉は、既にすたってるジャコバンという言葉と、当時まだあまり使われていなかったがそ《/そ》の後広く用いられたデマゴーグという言葉との、中間をつないで過激民主党《/過激民主党》をさすのだった。  隊長は斜めに左へ外れてセ《/セ》ーヌ川への斜面の方《ほう》に下ってゆくよう命令を下した。もし彼らが二つに分かれて二方面《/二方面》へ進んでみようという考えを起こしたならば、ジャン・ヴァルジャンは捕えられていたろう。ただ一筋の糸にかかっていたのである。おそらく警視庁では、戦闘の場合を予想し暴徒《/暴徒》らが多数いるかも知れないと予想して、巡邏隊に分散することを禁ずる訓令を出したのであろう。一隊はジャン・ヴァルジャンをあとに残して歩き出した。すべてそれらの行動についてジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンが認めたことは、にわかに角灯が彼方に向いて光《/光》がなくなったことだけだった。  隊長は警官としての良心の責《セキ》を免れるため、立ち去る前に、見捨ててゆく方面へ向かって、すなわちジ《ジ-》ャン・ヴァルジャンの方へ向かって、カラビン銃を発射した。その響きは隧道の中に反響また反響となって伝わり、あたかもその巨大な腸の腹鳴《/腹鳴》りするが《が-》ようだった。一片の漆喰が流れの中に落ちて、数歩《スウホ》の所に水をはね上げたので、ジャン・ヴァルジャンは頭の上の丸天井に弾があたったのを知った。  調子を取ったゆるやかな足音が、しばらく隧道の底部の上に響き、遠ざかるにしたがって|しだい《次第》に弱くなり、一群の黒い影は見えなくなり、《:、》ちらちらと漂ってる光が、丸天井に丸い赤味を見せていたが、それも小さくなってついに消えてしまい、静寂はまた深くなり、暗黒はまた一面にひろがり、《:、》その闇の中にはもう何も見えるものもなく聞《/聞》こゆるものもなくなってしまった。けれどもジャン・ヴァルジャンは、なおあえて身動きもせずに、長い間壁《あいだ壁》に背をもたしてたたずみ、耳を傾け、瞳をひろげて、その一隊の幻が消えうせるのを|なが《眺》めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【尾行されたる男】 ◇。◇。◇。◇。◇。  世間の重大な騒擾の最中にも平然として保安《/保安》と監視との義務を怠らなかったことは、当時の警察に認めてやらなければならない。暴動も警察の目から見れば、悪漢らを手放しにするの口実とはならないし、政府が危険に瀕しているからといって、社会を閑却するの口実とはならない。平常の職務は、異常な場合の職務の間にも正確に尽されていて、少しも乱されてはいなかった。政治上の大事件が始まってる最中にも、あるいは革命となるかも知れないという不安の下《もと》にも、反乱や防寨に気を散らさるることなく、警官は盗賊を「尾行」していた。  ちょうどそういう一事が、六月六日の午後、セーヌ右岸のアンヴァリード橋《バシ》の少し先の汀で行なわれていた。  今日《コンニチ》ではもうそこに川岸の汀はない。場所のありさまは一変している。  さてその川岸の汀の上で、ある距離を|へだ《隔》ててる二人の男が、明らかに互いの目を避けながらも互《/互》いに注意し合ってるらしかった。先に行く男は遠ざかろうとしていたし、あとからついてゆく男は近寄ろうとしていた。  それはあたかも遠くから黙ってなされてる将棋のようなものだった。どちらも急ぐ様子はなく、ゆるやかに歩いていた。あまり急いでかえって相手の歩みを倍加させは《は-》すま《ま-》いかと、互いに気使《気遣》ってるが《が-》ようだった。  たとえば、食に飢えた者が獲物を追っかけながら、それをわざと様子に現わすまいと《と-》してるのと同じだった。獲物の方《ほう》は狡猾であって、巧みに身をまもっていた。  追われてる鼬と追《/追》っかけてる犬との間の適宜な割合が、ちょうど両者の間に保《-たも》たれていた。のがれようとしてる男は、体も小さく顔《/顔》もやせていた。捕えようとしてる男は、背の高い偉丈夫《イジョウフ》で、いかめしい様子をしており、腕力もすぐれてるらしかった。  第一の男は、自分の方《ほう》が弱いのを知って、第二の男を避けようとしていた。しかしおのずから一生懸命の様子が現われていた。彼をよく見たならば、逃走せんとする痛ましい敵対心と恐《/恐》れに交じった虚勢とが、その目の中に読み取られたであろう。  川岸の汀には人影もなかった。通りすがりの者もなかった。所々につないである運送船には、船頭もいず人夫もいなかった。  向こう岸からでなければ|ふたり《二人》の様子をたやすく見て取ることはできなかった。そしてそれだけの距離を置いて|なが《眺》める時には、先に行く男は、毛を逆立《逆だ》て|ぼろ《/ボロ》をまとい怪《/怪》しい姿をして、|ぼろぼろ《ボロボロ》の仕事服の下に不安らしく震えており、《:、》後ろの男は、古風な役人ふうな姿をして、フロック型の官服をつけ頤《/顎》の所までボタンをはめているのが、見て取られたろう。  読者がもし更に近くから|ふたり《二人》を|なが《眺》めたならば、彼らが何者であるかをおそらく知り得たろう。  第二の男の目的は何《-なん》であったか?  おそらく第一の者にもっと暖かい着物を着せてやろうというのに違いなかった。  国家の服をつけてる者が|ぼろ《ボロ》をまとってる男を追跡するのは、その男にもやはり国家の服を着せんがためにである。ただ問題はその色にある。青い服を着るのは光栄であり、赤い服を着るのは不愉快である。  世には下層にも緋の色がある。(訳者注◇ 上層に皇帝の緋衣《+ヒイ》のあるごとくに)  第一の男がのがれんと欲していたのは、たぶんこの種の不愉快と緋《/緋》の色とであったろう。  第二の男が第一の男を先に歩かしてな《/な》お捕えないでいるのは、その様子から推測すると、彼をある著名な集合所にはいり込ませ、一群のいい獲物の所まで案内させようというつもりらしかった。その巧みなやり方を「尾行」という。  右の推測をなお確かならしむることには、ボタンをはめてる男は川岸通りを通りかかった空《カラ》の辻馬車を汀から見つけて、御者に|合い図《合図》をした。御者はその|合い図《合図》を了解し、またきっと相手がどういう人であるかを見て取ったのだろう、手綱を回《巡》らして、川岸通りの上から|並み足《並足》で|ふたり《二人》の男について行き始めた。そのことは、先に歩いてる|ぼろ《ボロ》服の怪しい男からは気づかれなかった。  辻馬車はシャン・ゼリゼーの|並み木《並木》に沿って進んでいた。手に鞭を持ってる御者の半身が胸欄《-きょうらん》の上から見えていた。  警官らに与えられてる警察の秘密訓令の一つに、こういう個条がある。「不時の事件のためには常に辻馬車を手に入れ置くべし。」  互いに|みごと《見事》な戦略をもって行動しながら|ふたり《二人》の男は、川岸通りの傾斜が水ぎわまで下ってる所に近づいていった。そこは当時、パッシーから到着する辻馬車の御者らが、馬に水を飲ませるために川までおりてゆけるようになっていた。けれどもその傾斜は、全体の調和を保つためにその後つぶされてしまった。馬はそのために喉をかわかしているが、見た所の体裁はよくなっている。  仕事服の男は、シャン・ゼリゼーに逃げ込むためにそ《/そ》の傾斜を上ってゆくつもりらしかった。シャン・ゼリゼーは樹木の立ち並んだ場所だった。しかしその代わりに、巡査の往来が繁く相手《/相手》は容易に助力を得られるわけだった。  川岸通りのその地点は、1824年ブ《/ブ》ラク大佐がモレー市からパリーに持ってきたい《/い》わゆるフランソア一世の家と言わるる|建て物《建物》から、ごく近い所であった。衛兵の屯所もすぐそばにあった。  ところが意外にも、追跡されてる男は、水飲み場の傾斜を上ってゆかなかった。彼はなお川岸通りに沿って汀を進んでいった。  彼の地位は明らかに危険になっていった。  セーヌ川に身を投げるのでなければ、いったい彼はどうするつもりだろう。  先に行けばもう川岸通りに上る方法はなかった。傾斜もなければ階段もなかった。少し先は、セーヌ川がイエナ橋《バシ》の方《ほう》へ屈曲してる地点で、汀はますます狭くなり、薄い舌ほどになって、ついに水の中に没していた。そこまで行けば、右手は絶壁となり、左と前とは水となり、うしろには警官がやってきて、彼はどうしても四方から|はさ《挟》まれることになるのだった。  もっともその汀のつきる所には、何《なん》の破片とも知れない種々《いろいろ》の遺棄物が六、七尺の高さに積もって、人の目をさえぎっては《は-》いた。しかしその男は一周すればすぐに見つけられるようなそ《/そ》の残壊物《残壊ブツ》の堆積のうしろに、うまく身を隠そうとでも思っていたのだろうか。それは児戯に類する手段であった。彼も確かにそんなことを考えていたのではあるまい。それほど知恵のない盗人は世にあるものではない。  残壊物《残壊ブツ》の堆積は水ぎわに高くそびえていて、川岸通りの壁まで岬のようにつき出ていた。  追われてる男は、その小さな丘の所まで行って、それを回った。そのためにも《もう》ひとりの男からは見えなくなった。  あとの男は、相手の姿を見ることができなくなったが、それとともに先方から見られることもなくなった。彼はその機会に乗じて、今までの仮面を脱してご《/ご》く早く歩き出した。間もなく残壊物《残壊ブツ》の丘の所に達して、それを一巡した。そして彼は惘然《呆然》として立ち止まった。彼が追っかけてきた男はもうそこにいなかった。  仕事服の男はまったく雲隠れしてしまったのである。  汀は残壊物《残壊ブツ》の堆積から先には三十歩ばかりしかなく、川岸通りの壁に打ちつけてる水の中に没していた。  逃走者がセーヌ川に身を投ずるか川岸通《/川岸通》りによじ上るかすれば、必ず追跡者の目に止まったはずである。いったい彼はどうなったのであろう?  上衣によくボタンをかけてる男は、汀の先端まで進んでゆき、拳を握りしめ目《/目》を見張り考え込んで、しばらくたたずんだ。と突然《突然’》彼は額をたたいた。地面がつきて水となってる所に、分厚な錠前と三《/三》つの太い肱金《+筋金》とのついてる大きな低い円形の鉄格子を、彼は認めたのだった。その鉄格子は、川岸通りの下に開いてる一種の門であって、その口は川と汀とにまたがっていた。黒ずんだ水が下から流れ出ていた。水はセーヌ川に注いでいた。  その錆ついた重い鉄棒の向こうに、一種の丸い廊下が見えていた。  男は両腕を組んで、叱責するような様子で鉄格子を睨めた。  しかし睨んだだけでは足りないので、彼はそれを押し開こうとした。そして揺すってみたが、鉄格子はびくともしなかった。何《なん》の音も聞こえなかったけれども、たぶんそれは今しがた開かれたはずである。そんな錆ついた鉄格子《鉄格子’》にしては、音のしなかったのが不思議である。またそれは再び閉ざされたに相違ない。してみれば、つい先刻その門を開いて閉ざした男は、開門鉤ではなく一《/一》つの鍵を持っていたことは確かである。  その明らかな事実は、鉄格子を揺すっている男の頭に突然《突然’》浮かんできた。彼は憤然として思わず結論を口走った。 「実にけしからん、政府の鍵を持っている!」  それから彼は直ちに冷静に返って、頭の中にいっぱい乱れてる考えのすべてを、ほとんど冷罵のような一息の強い単語で言い放った。 「よし、よし、よし、よしっ!」  そう言って、あるいは男が再び出て来るのを見るつもりか、あるいは他の男どもがはいってゆくのを見るつもりか、とにかく何事かを期待しながら、気長く憤怒《フンヌ》を忍んでる猟犬のような様子で、残壊物《残壊ブツ》の堆積のうしろに潜んで見張りをした。  彼の足並みに速度を合わしてきた辻馬車の方《ほう》も、上方《ジョーホウ》の胸欄《-きょうらん》のそばに止まった。御者は長待ちを予想して、下《シタ》の方《ほう》が湿ってる燕麦の袋を馬の鼻面にあてがった。そういう食物の袋はパリー人のよく知ってるもので、ついでに言うが、彼ら自身も時々《ときどき》政府からそれをあてがわれることがある。まれにイエナ橋《バシ》を渡る通行人らは、遠ざかる前に振り返って、あたりの景色の中にじっと動かないでいる二つのもの、汀の上の男と川岸通《/川岸通》りの上の辻馬車とを、しばらく|なが《眺》めていった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【彼もまた十字架を負う】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは再び前進し始めて、もう足を止めなかった。  行進はますます困難になってきた。丸天井の高さは一定でなかった。平均の高さは五尺六寸ばかりで、人の身長に見積もられていた。ジャン・ヴァルジャンはマリユスを天井に打ちつけないように背《/背》をかがめなければならなかった。各瞬間に身をかがめ、それからまた立ち上がり、絶えず壁に触れてみなければならなかった。壁石の湿気と底部の粘質とは、手にもま《”ま》た足にもしっかりした|ささ《支》えを与えなかった。彼は都市のきたない排泄物の中につまずいた。風窓から時々さしてくる明るみは、長い間《マ》を置いてしか現われてこなかったし、太陽の光も月の光かと思われるほど弱々しかった。その他はすべて、靄と毒気《/毒気》と混濁《/混濁》と暗黒《/暗黒》のみだった。ジャン・ヴァルジャンは腹がすき喉《/喉》が|かわ《乾》いていた。ことに|かわ《乾》きははなはだしかった。しかもそこは海のように、水が一面にありながら一滴も飲むことのできない場所だった。彼の体力は、読者の知るとおり非常《/非常》に大であって、清浄節欲な生活のために老年《/老年》におよんでもほとんど減じてはいなかったが、それでも今や弱り始めてきた。疲労は襲ってき、そのために力は少なくなり、背の荷物は|しだい《次第》に重さを増してきた。マリユスはもう死んでるのかも知れないと思われた。命のない身体のようにずっしりした重さがあった。ジャン・ヴァルジャンはその胸をなるべく押さえないように、またその呼吸がなるべく自由に通うようなふうに、彼を|にな《担》っていた。足の間には鼠がすばやく逃げてゆくのを感じた。中には狼狽の余り彼に噛みついたのがあった。時々《ときどき》下水道の口のすき間から新しい空気が少し流れ込んできたので、彼はまた元気になることもあった。  彼が囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》に達したのは、午後三時ごろであったろう。  最初に彼は突然《突然’》広くなったのに驚いた。両手を伸ばしても両方の壁に届かず頭《/頭》も上の丸天井に届かないほどの広い隧道に、にわかに出たのだった。実際その大溝渠は、広さ八尺《8尺》あり高《/高》さは七尺ある。  モンマルトル下水道が大溝渠に合してる所には、他の二つの隧道、すなわちプロヴァンス街のそれと屠獣所《/屠獣所》のそれとが落ち合って、四つ辻を作っている。ごく怜悧な者でなければその四つの道のうちを選択することは困難であった。幸いにジャン・ヴァルジャンは一番広い道を、すなわち囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》を選《えら》みあてた。しかしそこにまた問題が起こってきた。傾斜を下るべきか、あるいは上るべきか? 事情は切迫しているし今《/今》はいかなる危険を冒してもセーヌ川に出なければいけないと、彼は考えた、言い換えれば、傾斜をおりてゆかなければならないと。彼は左へ曲がった。  その選定は彼のために|仕合わ《幸》せだった。囲繞溝渠《+イジョウ溝渠》はベルシーの方《ほう》へとパ《/パ》ッシーの方《ほう》へと二つの出口があると思い、その名の示すがようにセーヌ右岸のパリーの地下を取り巻いてると思うのは、誤りである。来歴を考えればわかることであるが、その大溝渠は昔のメ《/メ》ニルモンタン川にほかならないのであって、上手《かみ手》に上ってゆけば一つの行き止まりに達する。その行き止まりはすなわち、昔の川の出発点で、メニルモンタンの丘の麓にある源泉だった。ポパンクール街より以下のパリーの水を合し、アムロー上水道となり、昔のルーヴィエ島《トウ》の上手《-かみ手》でセーヌ川に注いでる一脈とは、何ら直接の連絡はないのである。集合溝渠を完全ならしむるその一脈は、メニルモンタン街の下では、上と下とに水を分かつ地点となってる一塊の土壌で、大溝渠《ダイ溝渠》から|へだ《隔》てられている。もしジャン・ヴァルジャンが隧道を上っていったならば、限りない努力を重ねた後、まったく疲れきり、息も絶えだえになって、暗黒の中で一つの壁につき当たったであろう。そして彼はもう万事休したに違いない。  なお厳密に言えば、その行き止まりから少しあとに引き返し、ブーシュラー四つ辻の地下の輻湊点にも迷わないで、フィーユ・デュ・カルヴェールの隧道に|はい《入》り、《:、》次に左手のサン・ジルの排水道に|はい《入》り、次に右に曲がり、サン・セバスティヤンの隧道を避ければ、アムロー下水道に出られ、《:、》それから更に、バスティーユの下にあるF字形《字型》の隧道に迷いこまなければ、造兵廠の近くのセーヌ川への出口に達するのだった。しかしそれには、巨大な石蚕《+セキサン》のような下水道をよく知りつくし、あらゆる枝と穴とを知っていなければならなかったろう。しかるに、なおことわっておくが、彼は自らたどってるその恐るべき道筋について何らの知識をも持っていなかった。もしどういう所にいるかと人に尋ねられたとしたら、彼はただ暗夜のうちにいるのだと答えたろう。  本能は彼にいい助言を与えたのである。傾斜をおりてゆけば、実際あるいは救われるかも知れなかった。  彼は、ラフィット街とサン・ジョルジュ街との下で鷲《/鷲》の爪の形に分岐してる二つの隧道と、アンタン大道の下のフォーク形《型》に分かれてる長い隧道とを、そのまま右にして|まっす《真っ直》ぐに進んでいった。  たぶんマドレーヌの分岐らしい一つの横道《横みち》から少し先まで行った時、彼は立ち止まった。非常に疲れていた。おそらくアンジュー街ののぞき穴であったろうが、かなり大きな風窓がそこにあって、相当強《相当つよ》い光がさし込んでいた。ジャン・ヴァルジャンは負傷してる弟に対するような静かな動作で、マリユスを下水道の底の段の上におろした。マリユスの血に染まった顔は、風窓から来る白い明るみを受けて、墳墓の底にあるもののように思われた。その目は閉じ、髪は赤い絵の具を含んだまま|かわ《乾》いてる刷毛《ハケ》のようになって額《ヒタイ》にこびりつき、両手は死んだようにだらりとたれ、四肢は冷たく、脣の|すみ《隅》には血が凝結していた。血《血’》のかたまりが襟飾りの結び目にた《溜》まっていた。シャツは傷口には《-は》いり込み、上衣のラシャは|なまなま《生々》しい肉の大きな切れ目をじかに擦っていた。ジャン・ヴァルジャンは指先で服を開いて、その胸に手をあててみた。心臓はまだ鼓動していた。彼は自分のシャツを裂き、できるだけよく傷口を縛って、その出血を止めた。それから|薄ら明《ウスラア》かりの中で、依然として意識もなくま《”ま》たほとんど息の根もないマリユスの上に身をかがめ、言葉に尽し難い恨みの情をもって見守った。  マリユスの服を開く時、ジャン・ヴァルジャンはそのポケットに二つの物を見いだした。前日入《前日’入》れたまま忘れられてるパンと、マリユスの紙ばさみであった。彼はそのパンを食い、次に紙ばさみを開いてみた。第一のページにマリユスが認めた数行《数ギョウ》が見えた。その文句は読者の記憶するとおりである。 ◇。◇。  予はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地《街’六番地》に住む予が祖父ジルノルマ《マ-》ン氏のもとに、予の死骸を送れ。 ◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは風窓からさしこむ光《光り》でその数行《数ギョウ》を読み、しばらく何か考え込んだようにしてたたずみながら、半《なか》ば口の中で繰り返した、「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地《街’六番地》、ジルノルマ《マ-》ン氏。」それから彼は紙挾《+紙ばさ》みをまたマリユスのポケットにしまった。彼は食を得たので力を回復した。それでマリユスを再び背に負い、その頭を注意して自分の右肩にもたせ、また下水道を下り始めた。  メニルモンタンの谷に沿って曲がりながら続いてる大溝渠は、およそ二里ほどの長《-なが》さだった。その間《あいだ-》おもな部分には皆石《-みんな石》が鋪《+敷》いてあった。  ジャン・ヴァルジャンの地下の道筋を読者によくわからせるために、われわれは一々パリーの街路の名前をあげているが、彼自身はもとより炬火《松明》のようなそういう知識を持たなかった。パリーのいかなる地帯を横ぎってるのか、またいかなる道筋をたどってるのか、それを彼に示してくれるものは何もなかった。ただ、時々《ときどき》出会う光の隈がますます薄くなってゆくので、日光はもう往来にささず日暮《/日暮》れに間もないことが、わかるばかりだった。そして頭の上の馬車のとどろきは、連続してたのが間歇的になり、後《あと》にはほとんど聞こえなくなってしまったので、《:、》もうパリーの中央の地下にいるのではなく、外郭の大通りか出外れの川岸通りかに近いあ《/あ》る寂しい場所に近づいたことが、推定されるだけだった。人家や街路の少ない所には、下水道の風窓も少なくなる。今やジャン・ヴァルジャンのまわりには暗やみが濃くなっていた。それでも彼は闇の中を手探りでなお前進し続けた。  するとにわかに、その闇は恐ろしいほどになってきた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【砂にも巧みなる不誠実あり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは水の中にはいってゆくのを感じ、また足の下《した》には《は-》もう舗石《+敷石》がなくて泥土《/ドロツチ》ばかりなのを感じた。  ブルターニュやスコットランドのある海岸では、旅客や漁夫などが、干潮の時岸《とき/岸》から遠い砂浜を歩いていると、数分前から歩行が困難になってるのを突然《突然’》気づくことが往々ある。足下の砂浜は瀝青《+チャン》のようで、足の裏はすいついてしまう。それはもう砂ではなくて黐である。砂面はまったくかわいているが、歩を運ぶごとに、足をあげるとすぐに、その足跡には水がいっぱいになる。けれど目に見た所では普通の砂浜と何《-なん》の違いもない。広い浜は平たく静かであり、砂は一面に同じ|ありさま《有様》をし、固い所とそうでない所との区別は少しもつかない。跳虫《+跳ね虫》の小さな雲のような楽しい群れは、行く人の足の上に騒々しく飛び続ける。人はなおその道を続け、前方に進み、陸地の方へ向かって、岸に近づこうとする。彼は別に不安を覚えない。実際何《実際なん》の不安なことがあろう。ただ彼は一歩ごとに足の重みが増してゆくように感ずるばかりである。するとにわかに沈み出す。|二、三寸《ニサン寸/》沈んでゆく。まさしく道筋が悪いのである。正しい方向を見定めるために彼は立ち止まる。ふと自分の足下を見る。足は見えなくなっている。砂の中に没している。それで足を砂から引き出し、元きた方《ほう》に戻ろうとしてうしろを向く。するとなお深く沈んでゆく。砂は踝まで及ぶ。飛び上がって左へ行こうとすると砂《/砂》は脛の半ばまで来る。右《ミギ》へ行こうとすると、砂は膝頭まで来る。その時彼《とき彼》は、流砂の中に陥ってることを、人が歩くを得ず魚《/魚》が泳ぐを得ない恐るべき場所に立ってることを、始めて気づいて、名状すべからざる恐怖に襲われる。荷物があればそれを投げ捨てる。危険に瀕した船のように身を軽くしようとする。しかしもう遅い。砂は膝の上まで及ぶ。  彼は助けを呼ぶ、帽子やハンカチを振る。砂はますます彼を巻き込む。もし浜辺に人がいないか、陸地があまり遠いか、特に危険だという評判のある砂床であるか、あたりに勇者がいないかすれば、もう万事終わりである。そのまま没するのほかはない。彼が定められた刑は、恐るべき徐々の埋没で、避け難い執念深《/執念深》いそ《/そ》して遅らすことも早めることもできないものであり、幾時間も続いて容易《/容易》に終わらないものであって、《:、》健康な自由な者を立ったままとらえ、足から引き込み、努力をすればするほど、叫べば叫ぶほど、ますます下へ引きずりこみ、抵抗すればそれを罰するかのようにいっそう強くつかみ取《と》り、徐々に地の中に埋めてゆき、《:、》しかも、一望の眼界《視界》や、樹木や、緑の野や、平野《へーや》のうちにある村落の煙や、海の上を走る船の帆や、さえずりながら飛ぶ小鳥や、太陽や、空などを、う《打》ち|なが《眺》めるだけの余裕を与えるのである。その埋没は、地面の底から生ある者の方《ほう》へ潮《ウシオ》のごとく高まってくる一つの墳墓である。各瞬間は酷薄な埋葬者となる。とらわれた悲惨な男は、すわり伏しま《”ま》たは|おうと《嘔吐》する。しかしあらゆる運動はますます彼を埋めるばかりである。彼は身を伸ばして立ち上がり、沈んでゆく。|しだい《次第》にの《飲》み込まれるのを感ずる。叫び、懇願し、雲に訴え、腕をねじ合わせ、死者狂《死物狂》いとなる。もう砂は腹までき、次に胸におよぶ。もう半身像にすぎなくなる。両手を差し上げ、恐ろしいうなり声を出し、砂浜の上に爪を立ててそ《/そ》の灰のようなものにつかまろうとし、半身像の柔らかい台から脱するため両肱に身を|ささ《支》え、狂気のように泣き叫ぶ。砂は|しだい《次第》に上がってくる。肩におよび、首におよぶ。今や見えるものは顔だけになる。大声を立てると、口には砂がいっぱいになる。もう声も出ない。目はまだ見えているが、それもやがて砂にふさがれる。もう何も見えなくなる。次には額が没してゆく。少しの髪の毛が砂の上に震える。一本の手だけが残って、砂浜の表面から出て動き回る。それもやがて見えなくなる。そして一人の人間が痛ましい消滅をとげるのである。  時には騎馬の者が馬《/馬》と共に埋没することもあり、車を引く者が車《/車》と共に埋没することもある。皆砂浜《みんな砂浜》の下に終わってしまう。それは水の外の難破である。土地が人を溺らすのである。土地が大洋に浸《-ひた》されて罠となる。平地のように見せかけて、海のように口を開く。深淵もそういうふうに人を裏切ることがある。  かかる悲惨なできごとはあ《/あ》る地方の海浜には常に起こり得ることであるが、三十年前のパリー下水道にも起こり得るのであった。  1833年に始められた大工事以前には、パリーの地下の道はよく突然《突然’》人を埋没させるようになっていた。  水が特に砕けやすい下層の地面にしみ込むので、古い下水道では舗石《+敷石》であり新《/新》しい下水道ではコンクリートの上に固めた水硬石灰《スイコウ石灰》である部分は、もうそれを|ささ《支》えるものがなくなって揺るぎ出《だ》していた。この種の牀板《+床板》においては、一つの皺はすなわち一つの割れ目である。一つの割れ目はすなわち一つの崩壊である。底部はかなり長く破壊していた。泥濘の二重の深淵たるその亀裂を専門《/専門》の言葉では崩壊孔と称していた。崩壊孔とは何《なん》であるか? 突然《突然’》地下で出会う海岸の流砂である。下水道の中にあるサン・ミシェルの丘の刑場である。水を含んだ土地は溶解したようになっている。その分子は柔らかい中間《チュウカン》に漂っている。土でもなく水でもない。時としては非常な深さにおよんでいる。そういうものに出会うほど恐ろしいことはない。もし水が多ければ、死はすみやかであって、直ちにの《飲》み込まれてしまう。もし泥が多ければ、死はゆるやかであって、徐々に埋没される。  そういう死は人の想像にもおよばないだろう。埋没が海浜の上においても既に恐るべきものであるとするならば、下水溝渠の中においてはどんなものであろう。海浜《カイヒン》においては、大気、外光、白日、朗らかな眼界《視界》、広い物音、生命を雨降らす自由の雲、遠くに見える船、種々《いろいろ》の形になって現われる希望、《:、》き《来》合わせるかも知れない通行人、最後の瞬間まで得られるかも知れない救助、それらのものがあるけれども、《:、》下水道の中においてはただ、沈黙、暗黒、暗い丸天井、既にでき上がってる墳墓の内部、上を蔽われてる泥土《ドロツチ》の中の死、すなわち汚穢のための徐々の息苦しさ、《:、》汚泥の中に窒息が爪を開いて人の喉をつかむ石の箱、瀕死の息に交じる悪臭のみであって、砂浜ではなく泥土《ドロツチ》であり、台風ではなくて硫化水素であり、大洋ではなくて糞尿である。頭の上には知らぬ顔をしている大都市を持ちながら、徒らに助けを呼び、歯をくいしばり、もだえ、もがき、苦しむのである。  か《斯》くのごとくして死ぬる恐ろしさは筆紙のおよぶところではない。時とすると死は、一種の壮烈さによってそ《/そ》の恐ろしさを贖われることがある。火刑や難破のお《折》りなどには、人は偉大となることがある。炎や白波の中においては、崇高な態度も取られる。そこでは滅没《滅没’》しながら偉大な姿と変わる。しかし下水の中ではそうはゆかない。その死は醜悪である。そこで死ぬのは屈辱である。最後に目に浮かぶものは汚穢である。泥土《ドロツチ》は不名誉と同意義の言葉である。それは小さく醜《/醜》くま《”ま》た賤しい。クレランス(訳者注◇ イギリスのエドワード四世《4世》の弟で、王に背いた後死刑に処せられた時、自ら葡萄酒の樽の中の溺死の刑を求めたと伝えられている)のように芳香葡萄酒の樽の中で死ぬのはまだいいが、《:、》エスクーブロー(訳者注◇ 本章末節参照)のように溝浚人《+溝浚ニン》の墓穴の中で死ぬのはたまらない。その中でもがくのは醜悪のきわみである。死の苦しみをしながら泥水中《+デイスイ中》を歩くのである。地獄と言ってもいいほどの暗黒があり、泥穴と言ってもいいほどの泥濘があって、その中に死んでゆく者は、果たして霊魂となるのか蛙《/蛙》となるのかを自ら知らない。  墳墓はどこにあっても凄惨なものであるが、下水道の中では醜悪なものとなる。  崩壊孔の深さ《さ’》は一定でなく、またその長さや密度も場所によって異なり、地層の粗悪さに比例する。時とすると、|三、四尺《サン四尺》の深さのこともあれば、八尺《8尺》から十尺にもおよぶことがあり、あるいは底がわからぬこともある。その泥土《ドロツチ》はほとんど固くなってる所もあれば、ほとんど水のように柔らかい所もある。リュニエールの崩壊孔では、ひとりの人が没するに一日くらいかかるが、フェリポーの泥濘では五分間くらいですむ。泥土《ドロツチ》の密度いかんに従ってその支持力にも多少がある。大人が没しても子供《/子供》なら助かる所がある。安全の第一要件は、あらゆる荷物を捨ててしまうことにある。足下の地面が撓うのを感ずる下水夫《下水フ》らは、いつもまず第一に、その道具袋や負《/負》い籠や泥桶《/泥桶》を投げ捨てるのであった。  崩壊孔のできる原因は種々《いろいろ》である。地質の脆弱、人の達し得ないほど深い所に起こる地すべり、夏の豪雨、絶え間ない冬の雨、長く続く霖雨など。また時とすると、泥灰岩や砂質の地面に立ち並んでる周囲の人家の重みのため、地廊の丸天井が押しやられてゆがむか、あるいは、その圧力のために底部が破裂して割れ目ができることもある。パンテオンの低下は、一世紀以前に、サント・ジュヌヴィエーヴ山《サン》の隧道の一部をそういうふうにして|ふさ《塞》いでしまった。人家の重みのために下水道がくずれる時、ある場合にはその変動は、舗石《+敷石》の間が鋸形《+ノコギリガタ》に開いて上部《/上部》の街路に現われた。その裂け目は亀裂した丸天井の長さだ《-だ》けうねうねと続いていて、損害は明らかに目に見えるので、すぐに修復することができた。けれどもまた、内部の惨害が少しも外部に痕跡を現わさないこともしばしばあった。そういう場合こそ下水夫《下水フ》は災いである。底のぬけた下水道に不用意にはいって、そのままになった者も往々ある。古い記録は、そのようにして崩壊孔の中に埋没した下水夫《下水フ》を列挙している。幾多の名前が出ている。そのうちには、ブレーズ・プートランという男があるが、カレーム・プルナン街の広場の下の崩壊孔に埋没した下水夫《下水フ》である。彼はニコラ・プートランの兄弟であって、このニコラ・プートランは、1785年に嬰児《+みどり子》の墓地と言われていた墓地の最後《/最後》の墓掘り人であった。その年にこの墓地は廃せられてしまったのである。  またその中には、上にちょっとあげた愉快な青年子爵エ《/エ》スクーブローもいる。彼は絹の靴下をはきバ《/バ》イオリンをささげて襲撃が行なわれたレ《/レ》リダ市の攻囲のお《折》りの勇士のひとりだった。エスクーブローはある夜、従妹《従姉妹》たるスールディ公爵夫人のもとにいた所を不意に見つけられ、公爵の剣を|のが《逃》れるためにボートレイ下水道の中に逃げ込んだが、その崩壊孔の中に溺死してしまった。スールディ夫人はその死を聞いた時、薬壜を取り寄せて塩剤《エン剤》を嗅ぎ、嘆くのを忘れた。そういう場合には恋も続くものではない。汚水だ《溜》めは恋の炎を消してしまう。ヘロはレ《/レ》アドロスの溺死体を洗うのを拒み、チスベはピ《/ピ》ラムスの前に鼻をつまんで「おお臭《-くさ》い!《/》」と言う。(訳者注◇ 古代の物語中の話) ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【崩壊孔】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは一つの崩壊孔に出会ったのである。  かかる崩壊は、当時シ《’シ-》ャン・ゼリゼーの地下にしばしば起こったことで、非常に流動性のものだったから、水中工事を困難ならしめ地下構造《/地下構造》を脆弱ならしめていた。その流動性は、サン・ジョルジュ街区の砂よりもいっそう不安定なものであり、マルティール街区のガスを含んだ粘土層よりもいっそう不安定なものだった。しかも、サン・ジョルジュの砂地は、コンクリートの上に石堤を作ってようやく食い止められたものであり、《:、》マルティールの粘土層は、マルティール修道院の回廊の下では鋳鉄《/鋳鉄》の管《クダ》でようやく通路が穿たれたほど柔らかいものであった。1836年に、今《いま》ジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンがはいり込んだその石造の古い下水道を改造するために、サン・トノレ郭外の下がこわされた時、《:、》シャン・ゼリゼーからセーヌ川まで地下に横たわってた流砂は非常な障害となって、工事は六カ月近くも続き、付近の住民、ことに旅館や馬車を所有してる人々の、ひどい不平の声を受けたものである。工事は困難なばかりでなく、また至って危険なものだった。実際、雨が四《4》カ月半も続き、セーヌ川の溢水が三度も起こった。  ジャン・ヴァルジャンが出会った崩壊孔は前日《/前日》の驟雨のためにできたものであった。下《した》の砂土にようやく|ささ《支》えられていた舗石《+敷石》はゆがんで、雨水《アマミズ》をふさぎ止め、水が中にしみ込んで、地|くず《崩》れが起こっていた。底部はゆるんで、泥土《ドロツチ》の中にはいり込んでいた。どれほどの長さに及んでいたか、それはわからない。|やみ《闇》は他の所よりもずっと濃くなっていた。それは暗夜の洞窟の中にある泥土《ドロツチ》の穴だった。  ジャン・ヴァルジャンは足下の舗石《敷石》が逃げてゆくのを感じた。彼は泥濘の中にはいった。表面は水であり、底は泥であった。けれどもそれを通り越さなければならなかった。あとに引き返すことは不可能だった。マリユスは死にかかっており、ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。それにまたどこにも他に行くべき道はなかった。ジャン・ヴァルジャンは前進した。その上、初めの|二、三歩《ニサンポ》ではその窪地はさ《/サ》まで深くなさそうだった。しかし進むに従って、足は|しだい《次第》に深く没していった。やがては、泥が脛の半ばにおよび水《/水》が膝の上におよんだ。彼は両腕でできるだけマリユスを水の上に高く上げながら、進んでいった。今や泥は膝におよび、水は帯の所におよんだ。もう退《-ひ》くことはできなかった。ますます深く沈んでいった。底の泥土《ドロツチ》は、ひとりの重さにはたえ得るくらい濃密だったが、明らかに|ふたり《二人》を支えることはできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとは、もし別々に分かれたらあるいは無事ですむかも知れなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくはもう死骸になってるかも知れない瀕死のマリユスを《を-》にないながら、続けて前進した。  水は腋まできた。彼は今にも沈み込むような気がした。その深い泥土《ドロツチ》の中で歩を運ぶのも辛うじてであった。|ささ《支》えとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ち上げ、非常な力を費やして前進した。しかしますます沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスを|ささ《支》えてる両腕と頭とだけだった。洪水の古い絵には、そういうふうに子供を差し上げてる母親が見らる《る-》る。  彼はなお沈んでいった。水を避けて呼吸を続けるために、頭をうしろに倒して顔《/顔》を上向けた。もしその暗黒の中で彼を見た者があったら、影の上に漂ってる仮面かと思ったかも知れない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と蒼白《/ソウハク》な顔とを、ぼんやり見分けた。彼は|死に物狂《死物狂》いの努力をして、足を前方に進めた。足は何か固いものに触れた。一つの足場である。ちょうどいい時だった。  彼は身を伸ばし、身をひねり、夢中になってその足場に乗った。あたかも生命《イノチ》のうちに上ってゆく階段の第一段のように思えた。  危急の際に底の泥の中で出会ったその足場は、底部の向こうの一端《-いったん》だった。それは曲がったまま|こわ《壊》れないでいて、板のようにま《”ま》た一枚でできてるかのように、水の下に撓っていた。よく築かれた石畳工事は、迫持になっていてか《斯》くまでに丈夫なものである。その一片の底部は、半ば沈没しながらなお強固で、まったく一つの坂道となっていた。一度その坂に足を置けば、もう安全だっ《-っ》た。ジャン・ヴァルジャンはその斜面を上って、泥濘孔《+泥穴》の彼岸に着いた。  彼は水から出て、一つの石に出会い、そこにひざまずいた。彼は自然にそういう心地になって、しばらくそこにひざまずいたまま、全心を投げ出して言《/言》い知れぬ祈念を神にささげた。  彼は身を震わし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死の者をになって背をかがめ、泥濘をしたたらし、魂は異様な光明に満たされながら、立ち上がった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【上陸の|間ぎわ《間際》に座礁することあり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは再び進み出した。  けれども、崩壊孔の中に生命《イノチ》は落としてこなかったとするも、力はそこに落としてきたが《が-》ようだった。極度の努力に彼は疲憊しつくしていた。今は身体に力がなくて、|三、四歩進《3’4歩’進》んでは息をつき、壁によりかかって休んだ。ある時は、マリユスの位置を変えるために段《/段》の所にすわらなければならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力はなくなっていたとするも、元気は消えうせていなかった。彼はまた立ち上がった。  彼はほとんど足早に絶望的《/絶望的》に歩き出して、頭も上げず、息もろくにつかないで、百歩ばかり進んだ。すると突然《突然’》壁にぶつかった。下水道の曲がり角に達し、頭を下げて歩いていたので、その壁に行き当たったのである。目を上げてみると、隧道の先端に、前方の遠いごくはるかな彼方に、一つの光が見えた。今度は前のように恐ろしい光ではなかった。それは楽しい白い光だった。日の光であった。  ジャン・ヴァルジャンは出口を認めたのである。  永劫の罰を被《-こうむ》って焦熱地獄の中にありながら突然《/突然’》出口を認めた魂にして始めて、その時ジャン・ヴァ《ァ-》ルジャンが感じた心地《-ここち》を知り得るだろう。その魂は、焼け残りの翼をひろげて、光り輝く出口の方《ほう》へ、狂気のごとく飛んでゆくに違いない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みをも感じなかった。足は再び鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりもむ《/む》しろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿形の迫持で、|しだい《次第》に低くなってる隧道の丸天井よりも更に低く、丸天井が下がるにしたがって|しだい《次第》に狭まってる隧道よりも更に狭かった。隧道《ずいどう》は漏斗《+ロート》の内部のようになっていた。か《斯》く|しだい《次第》につぼんでる不都合な形は、重罪監獄の側門《ソク門》を模したもので、監獄では理に合っているが、下水道では理に合わないので、その後改造されてしまった。  ジャン・ヴァルジャンはその出口に達した。  そこで彼は立ち止まった。  まさしく出口ではあったが、出ることはできなかった。  丸い門は丈夫な鉄格子で閉ざされていた。そして鉄格子は、酸化した肱金《ヒジガネ》の上にめったに開閉された様子も見えず、石の框に厚い錠前で固定してあり、錠前は赤く錆びて、大きな煉瓦のようになっていた。鍵穴も見え頑丈《/頑丈》な閂子《+閂》が鉄の受座に深くはいってるのも見えていた。錠前は明らかに二重錠がおろされていた。それは昔パリーがやたらに用いていた牢獄の錠前の一つだった。  鉄格子の向こうには、大気、川、昼の光、狭くはあるが立ち去るには足りる汀、遠い川岸通り、容易に姿を隠し得らるる深淵たるパリー、広い眼界《視界》、自由、などがあった。右手には下流の方《ほう》にイエナ橋《バシ》が見え、左手には上流の方《ほう》にアンヴァリード橋《バシ》が見えていた。夜を待って逃走するには好都合な場所だった。パリーの最も寂しい地点の一つだった。グロ・カイユーに向き合ってる汀だった。蠅は鉄格子の間から出入《出入り》していた。  午後の八時半ごろだったろう。日は暮れかかっていた。  ジャン・ヴァルジャンは底部のかわいた所に壁《/壁》に沿ってマリユスをおろし、それから鉄格子に進んでいって、その鉄棒を両手につかんだ。そして狂気のごとく揺すったが、少しも動かなかった。鉄格子はびくともしなかった。弱い鉄棒を引きぬいて槓杆《+梃子》とし扉《/扉》をこじあけるか錠前をこわすかするつもりで、彼は鉄棒を一本一本つかんだが、どれも小揺るぎさえしなかった。虎の牙もおよばないほど固く植わっていた。一つの槓杆《+梃子》もなく、一つの力になる物もなかった。障害は人力のおよぶべくもなかった。扉を開くべき方法は何もなかった。  それでは彼は、そこで終わらなければならなかったのか。どうしたらいいか。どうなるのか。引き返して、既に通ってきた恐ろしい道程を繰り返すには、その力がなかった。それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあの泥濘の孔《穴》を、どうして再び通ることができよう。更にその泥濘の後《あと》には、あの警官の巡邏隊があるではないか。確かに二度とそれから|のが《逃》れられるものではない。そしてまた、どこへ行ったらいいか。どの方向を取ったらいいか。傾斜について進んでも、目的を達せられるものではない。他の出口にたどりついた所で、必ずやそれも石の蓋か鉄《/鉄》の格子かでふさがれているだろう。あらゆる口がそういうふうに閉ざされてることは疑いない。彼がはいってきた鉄格子は偶然にもゆるんでいたが、しかし下水道の他の口がすべて閉ざされてることは明らかである。彼はただ牢獄の中に逃げ込み得たに過ぎなかった。  万事終《万事’終》わりであった。ジャン・ヴァルジャンがなしてきたすべては徒労に帰した。神はそれを受け入れなかったのである。  |かれ《彼》らは二人とも、死の大きな暗い網に捕えられてしまった。そしてジャン・ヴァルジャンは、暗黒の中に震え動くま《/真》っ黒な網の糸の上に恐《/恐》るべき蜘蛛が走り回るのを感じた。  彼は鉄格子《鉄格子’》に背を向け、やはり身動きもしないでいるマリユスのそばに、舗石《+敷石》の上に、すわるというよりもむ《/む》しろ打ち倒れるように身を落とした。その頭は両膝の間にたれた。出口はない。それが苦悶の最後の一滴であった。  その深い重圧の苦しみのうちに、|だれ《誰》のことを彼は考えていたか。それは自分のことでもなく、またマリユスのことでもなかった。彼はコゼットのことを思っていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【裂き取られたる上衣の一片】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その喪心の最中に、一つの手が彼の肩に置かれ、一つの声が低く彼に話しかけた。 「山分けにしよう。」  その闇の中に|だれ《誰》がいたのであろうか。絶望ほど夢に似たものはな《無》い。ジャン・ヴァルジャンは夢をみてるのだと思った。少しも足音は聞こえなかったのである。現実にそんなことがあり得るだろうか。彼は目をあげた。  一人の男が彼の前にいた。  男は労働服を着、足には何《なん》にもは《履》かず、靴を左手に持っていた。明らかに彼は、足音を立てないでジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの所まで来るために、靴をぬ《脱》いだのだった。  ジャン・ヴァルジャンはその男が|だれ《誰》であるかを少しも惑わなかった。いかにも意外な邂逅ではあったが、見覚えがあった。テナルディエだった。  言わば突然《突然’》目をさましたようなものだったが、ジャン・ヴァルジャンは危急になれており、意外の打撃をも瞬間に受け止めるように鍛えられていたので、直ちに冷静に返ることができた。それに第一、事情は更に険悪になり得るはずはなかった。困却もある程度におよべば、もはやそれ以上に大きくなり得ないものである。テナルディエが出てきたとて、その闇夜をいっそう暗くすることはできなかった。  しばし探り合いの時間が続いた。  テナルディエは右手を額の所まで上げて目庇を作り、それから目をまたたきながら眉根を寄せたが、《:、》それは口を軽く|とが《尖》らしたのとともに、相手が|だれ《誰》であるかを見て取ろうとする鋭い注意を示すものだった。しかし彼はそれに成功しなかった。ジャン・ヴァルジャンは前に言ったとおり、光の方《ほう》に背を向けていたし、またま《真》昼間の光でさえも見分け難いほど泥にまみれ血《/血》に染まって姿《/姿》が変わっていた。それに反してテナルディエは、窖の中のような|ほの白《ホノジロ》い明りではあるがそ《/そ》の|ほの白《ホノジロ》さの中にも妙にはっきりしてる鉄格子から来る光を、ま《真》っ正面に受けていたので、《:、》通俗な力強い比喩で言うとおり、すぐにジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの目の中に飛び込んできたのである。この条件の違いは、今や二つの位置と二人《”二人》の男との間に行なわれんとする不思議な対決において、確かにジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの方《ほう》にある有利さを与えるに足りた。会戦は、覆面をしたジャン・ヴァルジャンと仮面《/仮面》をぬ《脱》いだテナルディエとの間に行なわれた。  ジャン・ヴァルジャンはテナルディエが自分を見て取っていないのをすぐに気づいた。  |ふたり《二人》はその薄暗い中《’中》で、互いに身長を|はか《測》り合ってるように、しばらくじろじろ|なが《眺》め合った。テナルディエが先に沈黙を破った。 「お前はどうして出るつもりだ。」  ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。  テナルディエは続けて言った。 「扉をこじあけることはできねえ。だがここから出なけり《り-》ゃならねえんだろう。」 「そのとおりだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「じゃあ山分けだ。」 「いったい何のことだ?」 「お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺の方《ほう》に鍵があるんだ。」  テナルディエはマリユスをさし示した。彼は続けて言った。 「俺はお前を知らねえ、だが少し手伝おうというんだ。おだやかに話をつけようじゃねえか。」  ジャン・ヴァルジャンは了解しはじめた。テナルディエは彼を人殺しだと思ってるのだった。テナルディエはまた言った。 「まあ聞けよ、お前はそいつの懐中を見届けずにやっつけたんじゃあるめえ。半分俺によこせ。扉を開いてやらあね。」  そして穴だらけの上衣の下から大きな鍵を半ば引き出しながら、彼は言い添えた。 「自由な身になる鍵がどんなものか、見てえなら見せてやる。これだ。」  ジャン・ヴァルジャンは、老《ロウ-》コルネイユの用語を借りれば、「唖然とした。」そして眼前のことが果たして現実であるかを疑ったほどである。それは恐ろしい姿で現われてくる天意であり、テナルディエの形となって地《/地》から出て来る善良な天使であった。  テナルディエは上衣の下に隠されてる大きなポケットに手をつき込み、一筋の綱を取り出して、それをジャン・ヴァルジャンに差し出した。 「さあ、」と彼は言った、「おまけにこの綱もつけてやらあな。」 「綱を何にするんだ。」 「石もいるだろうが、それは外にある。|こわ《壊》れ物がいっぱい積んであるんだ。」 「石を何にするんだ。」 「|ばか《馬鹿》だな。お前はそいつを川に投げ込むつ《つ-》もりだろう。すりゃあ石と綱とがいるじゃねえか。そうしなけりゃ水に浮いちまわあな。」  ジャン・ヴァルジャンはその綱を取った。|だれ《誰》にでも、そういうふうにただ機械的に物を受け取ることがある。  テナルディエは突然ある考えが浮かんだかのように指を鳴らした。 「ところで、お前はどうして向こうの泥孔《泥穴》を越してきたんだ。俺にはとてもできねえ。ぷー、あまりいい|にお《匂》いじゃねえな。」  ちょっと黙った後、彼はまた言い出した。 「俺がいろんなことを聞いてるのに、お前が一向返事もしねえのはもっともだ。予審のいやな|十五、六分間《十五ロクフンカン》の下稽古だからな。それに、口をききさえしなけりゃあ、あまり大きな声を出しゃしねえかという心配もねえ|わけ《訳》だからな。だがどっちみち同じことだ。お前の顔もよく見えねえし、お前の名も知らねえからといって、お前がどんな人間でど《/ど》んなことをするつもりか、俺にわからねえと思っちゃまちがえだぜ。よくわかってらあね。お前はその男をばらして、今どこかに押し込むつ《つ-》もりだろう。お前には川がいるんだ。川ってものは|ばか《馬鹿》なことをすっかり隠してしまうものだからな。困るなら俺が救ってやらあ。正直者の難儀を助けるなあ、ちょうど俺のはまり役だ。」  ジャン・ヴァルジャンが黙ってるのを彼は一方に承認しながらも、明らかに口をきかせようとつとめていた。彼は横顔でも見ようとするように、相手の肩を押した。そしてやはり中声《ナカゴエ》をしたまま叫んだ。 「泥孔《泥穴》と言《い》やあ、お前はどうかしてるね。なぜあそこに|ほう《抛》り込んでこなかったんだ?」  ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。  テナルディエは襟飾りとしてる|ぼろ《ボロ》布を喉仏の所まで引き上げた。それは真剣になった様子を充分に示す身振りだった。そして言った。 「だが、つまりお前のやり方は悧巧《利口》だったかも知れねえ。職人が明日穴《明日’穴》でも|ふさ《塞》ぎに来れば、そこに死人が捨てられてるのをきっと見つける。そうすりゃあ、それからそれと糸をたぐって跡をかぎつけ、お前の身におよんでくる。下水道の中を通った奴がいる。それは|だれ《誰》だ、どこから出たんだ、出るのを見た者があるか? なんて警察はなかなか抜け目がねえからな。下水道は裏切って、お前を密告する。死人《しにん》なんていう拾い物は珍しいし、人の目をひく。だから下水道を仕事に使う奴《ヤツ》はあまりいねえ。ところが川とくりゃあ、|だれ《誰》でも使ってる。川はまったく墓場だからな。一月《ひと月》もたってから、サン・クルーの網に死体がひっかかる。そうなりゃあかまったこたあねえ。身体は腐ってらあ。|だれ《誰》がこの男を殺したか、パリーが殺したんだ、てなことになる。警察だってろくに調べやしねえ。つまりお前は上手にやったわけだ。」  テナルディエがしゃべればしゃべるほど、ジャン・ヴァルジャンはますます黙り込んだ。テナルディエはまた彼の肩を押し動かした。 「さあ用事をすまそう。二つに分けるんだ。お前は俺の鍵を見たんだから、俺にも一つお前の金《-かね》を見《み-》せなよ。」  テナルディエは荒々しく、獰猛で、胸に一物あるらしく、多少威嚇《多少’威嚇》するようなふうだったが、それでもごくなれなれしそうだった。  不思議なことが一つあった。テナルディエの態度は単純ではなかった。まったく落ち着いてるような様子はなかった。平気なふうを装いながら、声を低めていた。時々《ときどき》口に指をあてては、しッ!《/》 とつぶやいた。その理由はどうも察し難《がた》かった。そこには彼ら|ふたり《二人》のほか|だれ《誰》もいなかった。おそらく他に悪党どもがどこかあまり遠くない片|すみ《隅》に潜んでいて、テナルディエはそれらと仕事を分かちたくないと思ってるのだと、ジャン・ヴァルジャンは考えた。  テナルディエは言った。 「話を片づけてしまおう。そいつは懐中にいくら持っていたんだ?」  ジャン・ヴァルジャンは身体中方々《体中-ほうぼう》|さが《探》した。  読者の記憶するとおり、いつも金《-かね》を身につけてるのは彼の習慣だった。臨機の策を講じなければならない陰惨な生活に定められてる彼は、金《かね》を用意しておくのを常則《ジョウソク》としていた。ところがこんどに限って無一物だった。前日の晩、国民兵の服をつけるとき、悲しい思いに沈み込んでいたので、紙入れを持つのを忘れてしまった。彼はただチョッキの|隠し《ポケット》にわずかな貨幣を持ってるだけだった。全部で三十《サンジュッ》フランばかりだった。彼は汚水に浸ったポケットを裏返して、底部の段の上に、ルイ金貨一個と五《/五》フラン銀貨二個と大《/大》きな銅貨を|五、六個《ゴロッ個》並べた。  テナルディエは妙に首をひねりながら下脣をつき出した。 「安っぽくやっつけたもんだな。」と彼は言った。  彼はごくなれなれしく、ジャン・ヴァルジャンとマリユスとのポケットに一々さわってみた。ジャン・ヴァルジャンは特に光の方《ほう》に背を向けることばかりに気を使っていたので、彼のな《成》すままに任した。テナルディエはマリユスの上衣を扱ってる間《あいだ》に、手品師のような敏捷さで、ジャン・ヴァルジャンが気づかぬうちに、その破れた一片を裂き取って、自分の上衣の下に隠した。その一片の布は、他日被害者《他日/被害者》と加害者とが|だれ《誰》であるかを知る手掛かりになるだろうと、多分考《多分’考》えたのだろう。しかし金《-かね》の方《ほう》は、三十《サンジュッ》フラン以外には少しも見いださなかった。 「なるほど、」と彼は言った、「|ふたり《二人》でそれだけっきり持たねえんだな。」  そして山分けという約束を忘れて、彼は全部取ってしまった。  大きな銅貨に対しては彼もさすがにちょっと躊躇した。しかし考えた末そ《/そ》れをも奪いながら口《クチ》の中でつぶやいた。 「かまわねえ、あまり安すぎるからな。」  それがすんで、彼はまた上衣の下から鍵を引き出した。 「さあ、お前は出なけりゃなるめえ。ここは市場《イチバ》のようなもんで出《/出》る時に金《-かね》を払うんだ。お前は金《-かね》を払ったから、出るがいい。」  そして彼は笑い出した。  彼がそういうふうに、見知らぬ男に鍵を貸してやり、その門から他人を出してやったのは、一殺害人を救ってやろうという純粋無私《/純粋無私》な考えからであったろうか。それについては疑いを入れる余地がある。  テナルディエはジャン・ヴァルジャンに自ら手伝って再《/再》びマリユスを肩にかつがせ、それから、ついて来るように|合い図《合図》をしながら、跣足《裸足》の爪先でそっと鉄格子の方《ほう》へ進み寄り、《:、》外をのぞき、指を口にあて、決心のつかないようなふうでしばらくたたずんだ。やがて外の様子をうかがってしまうと、彼は鍵を錠前の中に差し込んだ。閂子《+閂》は|すべ《滑》り、扉は開いた。擦《こす》れる音もせず、軋る音もしなかった。ごく静かに開かれてしまった。それでみると明らかに、鉄格子と肱金《ヒジガネ》とはよく油が塗られていて、思ったよりしばしば開かれていたものらしい。その静けさは気味悪いものだった。隠密な往来がそこに感ぜられ、夜の男どもの黙々たる出入りと罪悪《/罪悪》の狼の足音とがそこに感ぜられた。下水道はまさしく、秘密な盗賊仲間の同類だった。音を立てないその鉄格子は贓品受け取り人《にん》だった。  テナルディエは扉を少し開き、ジャン・ヴァルジャンにちょうど通れるだけのすき間を与え、鉄格子を再び閉ざし、錠前の中に二度鍵を回し、息の根ほどの音も立てないで、暗黒の中にまた没してしまった、《:、》彼は虎のビロードのような足で歩いてるかと思われた。一瞬間の後には、天意ともいうべきその嫌悪すべき男は、目に見えないもののうちにはいり込んでしまっていた。  ジャン・ヴァルジャンは外に出た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【死人と思わるるマリユス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはマリユスを汀の上にすべりおろした。  彼らは外に出たのである。  毒気と暗黒《/暗黒》と恐怖《/恐怖》とは背後になった。自由に呼吸される清純な生《/生》きた楽しい健全な空気は、あたりにあふれていた。周囲は至る所静寂《ところ静寂》であったが、しかしそれは蒼空《青空》のうちに太陽が沈んでいった後《あと》の|麗わ《/麗》しい静寂だった。薄暮の頃で、夜はき《来》かかっていた。夜こそは大なる救済者であり、苦難から出るために影のマントを必要とするあ《/あ》らゆる魂の友である。空は大きな平穏となって四方《シホウ》にひろがっていた。川は脣《+口》づけをするような音を立てて足下に流れていた。シャン・ゼリゼーの楡《ニレ》の|木立ち《木立》の中には、互いに就寝のあいさつをかわしてる小鳥の軽い対話が聞こえていた。ほの青い中天をかすかに通してた《/た》だ夢想の目にのみ見える|二、三《二’三》の星は、無辺際のうちに小さな点となって輝いていた。夕《夕べ》はジャン・ヴァルジャンの頭の上に、無窮なるものの有するあらゆる静穏を展開していた。  しかりとも否とも言い難い微妙な不分明《/不分明》な時間だった。既に夜の靄はかなり濃くなっていて、少し離《ハナ》るれば人の姿もよくわからないが、なお昼の明るみはかなり残っていて、近くに寄れば相手の顔が認められた。  ジャン・ヴァルジャンはしばらくの間《あいだ》、そのおごそかなま《”ま》たやさしい清朗の気にまったく打たれてしまった。か《斯》く我《吾》を忘れさせる瞬間もよくあるものである。そういう時、苦悩は不幸なる者をわずらわすのをやめる。すべては思念の中に姿を潜める。平和の気は夢想する者を夜のように|おお《覆》う。そして輝く薄明の下に、光をちりばむる空をまねて、人の魂も星に満たされる。ジャン・ヴァルジャンは頭の上に漂ってるその輝く広い影をう《打》ち|なが《眺》めざるを得なかった。彼は思いにふけりながら永劫《/永劫》の空のおごそかな静寂のうちに、恍惚と祈念との情をもって浸り込んだ。それから急に、あたかも義務の感が戻ってきたかのように、彼はマリユスの方《ホウ》へ身をかがめ、掌《手のひら》の窪の中に水をすくって、その数滴《スーテキ》を静かに彼の顔にふりかけた。マリユスの眼瞼《目蓋》は開かなかった。けれども半ば開いてるその口には息が通っていた。  ジャン・ヴァルジャンは再び川に手を入れようとした。その時、姿は見えないが|だれ《誰》かが背後に立ってるような言《/言》い知れぬ不安を突然《突然’》感じた。  |だれ《誰》でもそういう感銘を知ってるはずだが、それについては既に他の所で述べてきたとおりである。  ジャン・ヴァルジャンはふり返った。  感じたとおり、果たして何者かがうしろにいた。  背の高いひとりの男が、フロック形《型》の長い上衣を着、両腕を組み、しかも右手には鉛の頭が見える棍棒を持って、マリユスの上にかがんでるジャン・ヴァルジャンの数歩《スウホ》うしろの所に、じっと立っていた。  それは影に包まれていて幽霊《/幽霊》のように見えた。単純な者であったら、薄暗がりのために恐怖を感じたろう。思慮ある者であったら、棍棒のために恐怖を感じたろう。  ジャン・ヴァルジャンはその男がジャヴェルであることを見て取った。  テナルディエを追跡したのはジャヴェルにほかならなかったことを、読者は既に察したであろう。ジャヴェルは望外にも防寨《/防寨》から出た後《あと》、警視庁へ行き、わずかの間親《あいだ親》しく総監に面接して口頭の報告をし、それからまた直ちに自分の任務についた。読者は彼のポケットに見いだされた書き付けのことを記憶しているだろう。それによると彼の任務には、しばらく前から警察の注意をひいていたセーヌ右岸のシャン・ゼリゼー付近を少し監視することも含まっていた。彼はそこでテナルディエを見つけ、その跡をつけたのだった。その後のことは読者の知るとおりである。  ジャン・ヴァルジャンの前に親切にも鉄格子を開いてやったのは、テナルディエの一つの妙策だったことも、また同様にわかるはずである。テナルディエはジャヴェルがまだそこにいることを感じていた。待ち伏せされてる男は的確な一つの嗅覚を持ってるものである。そこで猟犬に一片の骨を投げ与えてやる必要があった。殺害者とは何という望外の幸いであろう! それは又とない身代わりであって、どうしてものがすわけにはゆかない。テナルディエは自分の代わりにジャン・ヴァルジャンを外につき出すことによって、警察に獲物を与え、自分の追跡を弛ませ、いっそう大きな事件のうちに自分のことを忘れさせ、《:、》いつも間諜《+スパイ》が喜ぶ待ち甲斐《ガイ》のある報酬をジャヴェルに与え、自分は三十《サンジュッ》フランを儲け、そして、自分の方《ほう》はそれに紛れて身を脱し得ることと思った。  ジャン・ヴァルジャンは一つの暗礁から他の暗礁へぶつかったのである。  相次いでテナルディエからジャヴェルへと落ちていった二度の災難は、あまりにきびしすぎた。  前に言ったとおり、ジャン・ヴァルジャンはまったく姿が変わっていたので、ジャヴェルはそれと見て取り得《え》なかった。彼は両腕を組んだまま、目につかないくらいの動作で棍棒を握りしめてみて、それから簡明な落《/落》ち着いた声で言った。 「何者だ。」 「私だ。」 「いったい|だれ《誰》だ?」 「ジャン・ヴァルジャン。」  ジャヴェルは棍棒をくわえ、膝をまげ、身体を傾け、ジャン・ヴァルジャンの両肩を二つの万力ではさむように強い両手でとらえ、その顔をのぞき込み、そして始めてそれと知った。二人の顔はほとんど接するばかりになった。ジャヴェルの目つきは恐ろしかった。  ジャン・ヴァルジャンはあたかも山猫の爪を甘受してる獅子のように、ジャヴェルにつかまれたままじっとしていた。 「ジャヴェル警視、」と彼は言った、「私は君の手中にある。それに今朝から、私はもう君に捕えられたものだと自分で思っていた。君から|のが《逃》れるつもりならば、住所などを教えはしない。私を捕えるがいい。ただ一つのことを許してもらいたい。」  ジャヴェルはその言葉を聞いてるようにも思われなかった。彼はジャン・ヴァルジャンの上にじっと瞳を据えていた。頤《顎》に皺を寄せ、脣を鼻の方《ほう》へつ《突》き出して、荒々しい夢想の様子だった。それから彼はジャン・ヴァルジャンを放し、すっくと身を伸ばし、棍棒を充分手のうちに握りしめ、そして夢の中にでもいるように、次の問を発した、というよりむしろ|つぶや《呟》いた。 「君はここに何をしてるんだ、そしてその男は何者だ。」  彼はもうジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンを|きさま《貴様》と呼んではいなかった。  ジャン・ヴァルジャンは答えたが、その声の響きにジャヴェルは始めて我に返った。 「私が君に話したいのもちょうどこの男のことだ。私の身は君の勝手にしてほしい。だがまずこの男をその自宅に運ぶのを手伝ってもらいたい。願いというのはそれだけだ。」  ジャヴェルの顔は、人から譲歩を予期されてると思うたびごとにいつもするように、すっかり張りつめた。けれども彼は否とは言わなかった。  彼は再び身をかがめ、ポケットからハンカチを引き出し、それを水に浸して、マリユスの血に染まってる額《ヒタイ》をぬぐった。 「防寨にいた男だな。」と彼は独語《独り言》のように半ば口《くち》の中で言った。「マリユスと呼ばれていた者だ。」  彼こそ実に一流の探偵というべきであって、やがて殺されるのを知りながらも、すべてを観察し、すべてに耳を傾け、すべてを聞き取り、すべてのことを頭に入れていたのである。死の苦悶のうちにありながら、様子をうかがい、墳墓へ一歩ふみ込みながら、記録をとっていたのである。  彼はマリユスの手を取って脈を診た。 「負傷している。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「死んでいる。」とジャヴェルは言った。  ジャン・ヴァルジャンは答えた。 「いや、まだ死んではいない。」 「君はこの男を、防寨からここまで運んできたんだな。」とジャヴェルは言った。  下水道を横ぎってきたその驚くべき救助についてそ《/そ》の上《うえ》尋ねることもせず、また彼の問にジャン・ヴァルジャンが何とも答えないのを気にも止めなかったのを見ると、何か深く彼の頭を満たしていたものがあったに違いない。  ジャン・ヴァルジャンの方《ほう》は、ただ一つの考えしかいだいていないようだった。彼は言った。 「この男の住所は、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街で、その祖父‥‥名前を忘れてしまった。」  ジャン・ヴァルジャンはマリユスの上衣を探り、紙ばさみを取り出し、マリユスが鉛筆で走り書きしたページを開き、それをジャヴェルに差し出した。  文字が読めるくらいの光は、まだ空中に漂っていた。その上ジャヴェルの目は、夜の鳥のように暗中にも見える一種《/一種》の燐光を持っていた。彼はマリユスの書いた数行《数ギョウ》を読み分けてつぶやいた。 「フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地《街’六番地》、ジルノルマン。」  それから彼は叫んだ。「おい、御者!」  読者の思い起こすとおり、辻馬車は万一の場合のために待っていた。  ジャヴェルはマリユスの紙挾《+紙ばさ》みを取り上げてしまった。  まもなく、馬車は水飲み場の傾斜をおりて汀までやってき、マリユスは奥の腰掛けの上に置かれ、ジャヴェルとジャン・ヴァルジャンとは相並んで前の腰掛けにすわった。  戸は閉ざされ、辻馬車はすみやかに遠ざかって、川岸通りをバスティーユの方向へ上っていった。  一同は川岸通りを去って、街路にはいった。御者台の上に黒く浮き出してる御者は、やせた馬に鞭をあてていた。馬車の中は氷のような沈黙に満たされていた。マリユスは身動きもせず、奥の|すみ《隅》に身体をよせかけ、頭を胸の上にぐたりとたれ、両腕をぶら下げ、足は固くなって、もうただ柩を待ってるのみであるように思われた。ジャン・ヴァルジャンは影でできてるかのようであり、ジャヴェルは石でできてるかのようだった。そして馬車の中はまったくの暗夜であって、街灯の前を通るたびごとに、明滅する電光で照らされるように内部《/内部》が青白くひらめいた。死骸と幽霊《/幽霊》と彫像《/彫像》と、三つの悲壮な不動の姿が、偶然いっしょに集まって、ものすごく顔をつき合わしてるかと思われた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 【生命《イノチ》を惜しまぬ息子の帰宅】 ◇。◇。◇。◇。◇。  舗石《+敷石》の上に馬車が揺れるたびごとに、マリユスの頭髪から一滴ずつ血《血’》がたれた。  馬車がフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地《街’六番地》に達した時は、もうま《真》夜中だった。  ジャヴェルは|まっさき《真っ先》に馬車からおり、大門《オオモン》の上についてる番地を一目で見て取り、牡山羊《+オヤギ》とサチール神《シン》とが向かい合ってる古風《/古風》な装飾のある練鉄の重い金槌を取って、案内の鐘を一つ激しくたたいた。片方の扉が少し開いた。ジャヴェルはそれを大きく押し開いた。門番は欠伸をしながら、ぼんやり目をさましたようなふうで、手に蝋燭を持って半身《ハンミ》を現わした。  家の中は皆寝静《-みな寝静》まっていた。マレーでは皆早寝《-みな早寝》で、ことに暴動の日などはそうである。その善良な古い町は、革命と聞くと恐れおののき、眠りの中に逃げ込んでしまう。あたかも子供らが、人攫い鬼《おに》の来るのを聞いて、急いで頭から|ふとん《布団》をかぶるようなものである。  その間《あいだ》に、ジャン・ヴァルジャンは両わきを|ささ《支》え御者《/御者》は膝を持って、|ふたり《二人》でマリユスを馬車から引き出した。  そういうふうにマリユスをかかえながら、ジャン・ヴァルジャンは大きく裂けてる服の下に手を差し込んで、その胸にさわってみ、なお心臓が鼓動してるのを確かめた。しかも、馬車の動揺のためにかえって生命《イノチ》を取り返したかのように、心臓の鼓動はいくらか前よりもよくなっていた。  ジャヴェルはいかにも暴徒の門番に対する役人といった調子で、その門番に口をきいた。 「ジルノルマンという者の家はここか。」 「ここですが、何の御用でしょう?」 「息子を連れ戻してきたのだ。」 「息子を?」と門番はぼんやりしたふうで言った。 「死んでいるんだ。」  よごれた|ぼろぼろ《ボロボロ》の服をつけたジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンが、ジャヴェルのうしろに立ってるので、門番は恐ろしそうにそちらを|なが《眺》めていた。するとジャン・ヴァルジャンは頭を振って、死んでるのではないと|合い図《合図》をした。  門番にはジャヴェルの言葉もジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの|合い図《合図》もよくわからないらしかった。  ジャヴェルは続けて言った。 「この者は防寨に行っていたが、このとおり連れてきたのだ。」 「防寨に!《/》」と門番は叫んだ。 「そして死んだのだ。親父を起こしに行け。」  門番は身を動かさなかった。 「行けと言ったら!《/》」とジャヴェルはどなった。  そして彼は付け加えた。 「いずれ明日は葬式となるだろう。」  ジャヴェルにとっては、公道における普通のできごとは、すべて整然と分類されていた。それは警戒と監視との第一歩である。そして各事件はそれぞれの部門を持っていた。普通にありそうな事柄はすべて、言わば引き出しの中にしまわれていて、場合に応じて必要なだけ取り出さるるのだった。街路の中には、騒擾、暴動、遊楽、葬式、などがあった。  門番はただバスクだけを起こした。バスクはニコレットを起こした。ニコレットはジルノルマン伯母を起こした。祖父の方《ほう》はなるべく遅く知らせる方《ほう》がいいとされて、眠ったままにして置かれた。  マリユスは|建て物《建物》の他の部屋の者が|だれ《誰》も気づかないうちに二階に運ばれ、ジルノルマ《マ-》ン氏の次の室《+部屋》の古《/古》い安楽椅子に寝かされた。そしてバスクが医者を迎えに行き、ニコレットが箪笥を開いてる間《あいだ》に、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルから肩をとらえられてるのを感じた。  彼はその意味を了解し、ジャヴェルの足音をうしろにしたがえながら階段をまたおりていった。  門番は恐ろしい夢の中にいるような心地《ココチ》で、彼らがはいってきたとおりにま《”ま》た出て行くのを|なが《眺》めた。  彼らは再び馬車に乗った。御者も御者台に上った。 「ジャヴェル警視、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「も《もう》一つ許してもらいたい。」 「何だ?」とジャヴェルは荒々しく尋ねた。 「ちょっと自宅に戻るのを許してほしい。それからあとは君の存分にしてもらおう。」  ジャヴェルは上衣のえりに頤《顎》を埋め、しばらく黙り込んでいたが、それから前の小窓を開いた。 「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地《街7番地》へやれ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【絶対者の動揺】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼らは先方に着くまで一言も口をきかなかった。  ジャン・ヴァルジャンが望んでいることは何《-なん》であったか? 既にはじめたところをな《成》し終える《-る》こと、すなわち、コゼットに事情を知らせ、彼女にマリユスの居所を告げ、他の何か有益な注意を与え、またでき得《う》るならばあ《/あ》る最後の処置を取ることだった。彼自身のことは、彼一身に関することは、万事終わっていた。彼はジャヴェルに捕えられ、少しも抵抗しなかった。もし他の者がそういう地位に立ったら、テナルディエにもらった綱とこ《/こ》れから|はい《入》るべき第一の地牢の格子窓とに、おそらく漠然と思いを馳せたであろう。しかしミリエル司教に会って以来ジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンのうちには、あらゆる暴行に対して、あえて言うが自身の生命《イノチ》を害する暴行に対しても、深い敬虔な躊躇の情があったのである。  自殺ということは、未知の世界に対する一種神秘的な違法行為であり、ある程度まで魂の死を含み得るものであって、ジャン・ヴァルジャンにはな《成》し得ないことだった。  オンム・アルメ街の入り口で馬車は止まった。その街路は非常に狭くて馬車ははいれなかった。ジャヴェルとジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンとは馬車から降りた。  御者は馬車のユトレヒト製ビロードが、被害者の血と加害者《/加害者》の泥とで汚点《シミ》だらけになったことを、「警視様」にうやうやしく申し出た。彼はその事件を殺害だと思っていたのである。そして損害を弁償してもらわなければならないと言い添えた。同時に彼はポケットから手帳を取り出して、「何とか御証明を一行《イチギョウ》」その上に書いていただきたいと警視様に願った。  ジャヴェルは御者が差し出してる手帳を退けて言った。 「待ち合わせと馬車代とをいれて全部でいくらほしいのか。」 「七時間と十五分になりますし、」と御者は答えた、「ビロードはま《真》新しだったものですから、警視様、八十《ハチジュッ》フランいただきましょう。」  ジャヴェルはポケットからナポレオン金貨を四《-よっ》つ取り出して与え、馬車を返してやった。  ジャン・ヴァルジャンはすぐ近くにあるブラン・マントーの衛舎かア《/ア》ルシーヴの衛舎かに、ジャヴェルが自分を徒歩で連れてゆくつもりだろうと思った。  彼らはオンム・アルメ街にはいって行った。街路はいつ《つ-》ものとおり寂然としていた。ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとに従った。彼らは七番地《7番地》に達した。ジャン・ヴァルジャンは門を叩いた。門は開いた。 「よろしい。上ってゆくがいい。」とジャヴェルは言った。  そして妙な表情をし、強いて口《’口》をきいてるかのようなふうで言い添えた。 「わたしはここで君を待っている。」  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの顔を|なが《眺》めた。そんなやり方はジャヴェルの平素にも似合わぬことだった。けれども、今《いま》ジャヴェルが一種傲然たる信任を彼に置いているとしても、それはおのれの爪の長さだ《-だ》けの自由を鼠に与える猫の信任であるし、《:、》またジャン・ヴァルジャンは一身を投げ出して万事を終わろうと決心していたので、別に大して驚くにも当たらないことだった。彼は戸を押し開き、家の中に|はい《入》り、もう寝ていて寝床の中から門を開く綱を引いてくれたその門番に、「私だ」と言い残し、階段を上っていった。  二階にきて彼は立ち止まった。あらゆる悲しみの道《’道》にも足を休むべき場所がある。階段の上の窓は、揚げ戸窓になっていたが、いっぱい開かれていた。古い家には多く見受けられるとおり、その階段も外から明りが取られていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光が少し階段に差して灯火《+明かり》の倹約となっていた。  ジャン・ヴァルジャンは息をつくためかあ《/あ》るいはただ機械的にか、その窓から頭を出した。そして街路の上に身をかがめてみた。街路は短くて、端から端まで明るく街灯に照らされていた。ジャン・ヴァルジャンは惘然《呆然》として我《吾》を忘れた。そこにはもう|だれ《誰》もいなかったのである。  ジャヴェルは立ち去っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【祖父】 ◇。◇。◇。◇。◇。  人々からとりあえず安楽椅子の上にのせられたまま身動《/身動》きもしないで横たわってるマリユスを、バスクと門番とは客間の中に運んだ。呼ばれた医者は駆けつけてきた。ジルノルマン伯母は起き上がっていた。  ジルノルマン伯母は驚き恐れて、うろうろし、両手を握り合わせ、「まあどうしたことだろう、」と口にするきり何《/なん》にもできなかった。時とするとまた言い添えた、「何もかも血だらけになる。」それから最初の恐怖がしずまると、彼女の頭にも事情が多少わかってきて、「こうなるにきまっている、」という言葉を出させた。それでも彼女は、そういう場合によく口にされる「私が言ったとおりだ」とまでは言わなかった。  医者の言いつけで、たたみ寝台《ネ台》が一つ安楽椅子のそばに据えられた。医者はマリユスを診察して、脈がまだ続いており、胸には一つも深い傷がなく、脣の|すみ《隅》の血は鼻孔《/鼻孔》から出てるものであることを検べ上げた後《あと》、《:、》彼を平たく寝台の上に寝かし、呼吸を自由にさせるために、上半身を裸にし、枕を与えないで頭が身体と同じ高さに、というよりむしろ多少低《多少’低》くなるようにした。ジルノルマン嬢はマリユスが裸にされるのを見て席をはずした。そして自分の室《+部屋》で念珠祈祷を唱えはじめた。  胴体は内部におよぶ傷害を一つも受けていなかった。一弾は紙挾《+紙ばさ》みに勢いをそがれ、横にそれて脇《/脇》にひどい裂傷を与えていたが、それは別に深くはなく、したがって危険なものではなかった。下水道の中を長く通ってきたために、折れた鎖骨はまったく食い違って、そこに重な損傷があった。両腕は一面にサーベルを受けていた。顔にはひどい傷は一つもなかった。けれども頭はすっかりめちゃくちゃになっていた。それらの頭部の傷はどういう結果をきたすであろうか、頭皮だけに止《-とど》まってるのだろうか、脳をも侵してきはしないだろうか? その点がまだ不明だった。重大な兆候は、それらの傷のために気絶してることであって、そういう気絶からはついに再びさ《覚》めないことがよくある。その上《うえ》彼は出血のために弱りきっていた。ただ帯から下の部分は、防寨にまもられて無事だった。  バスクとニコレットとは布を引き裂いて繃帯の用意をした。ニコレットはそれを縫い、バスクはそれを巻いた。綿撒糸《+メンザンシ》がないので、医者は一時綿《一時’綿》をあ《当》てて傷口の出血を止めた。寝台のそばには、外科手術の道具が並べられてるテーブルの上に、三本の蝋燭が燃えていた。医者は冷水でマリユスの頬《ホオ》と頭髪とを洗った。桶一杯の水はたちまち赤くなった。門番は手に蝋燭を持ってそれを照らしていた。  医者は悲しげに考え込んでいるらしかった。時々《ときどき》彼は自ら心のうちで試みてる問に自《/自》ら答えるように、否定的に頭を振った。医者がひとりでやるその不思議な対話は、病者に対する悪いしるしである。  医者がマリユスの顔をぬぐって、なお閉じたままの眼瞼《目蓋》に軽く指先をさわった時、その客間の奥の扉が開いて、青ざめた長い顔が現われた。  祖父であった。  二日間の暴動は、ジルノルマ《マ-》ン氏をひどく刺激し怒《”おこ》らせ心痛《/心痛》さしていた。前夜《前夜’》彼は一睡もできず、またその一日熱《一日’熱》に浮かされていた。晩になると、家中の締まりをよくしろと言いつけながら、早くから床《トコ》について、疲労のため軽い眠りに入った。  老人の眠りはさ《覚》めやすいものである。ジルノルマ《マ-》ン氏の室《+部屋》は客間に接していたので、皆は用心をしていたが、物音は彼をさ《覚》ましてしまった。彼は扉のすき間から見える光に驚いて、寝床から起き出し、手探りにやってきた。  彼は閾の上に立ち、半ば開いた扉の取っ手に片手をかけ、頭を少し差し出してふらふらさし、身体は経帷子のように白いま《”ま》っすぐな無襞の寝間着に包まれ、びっくりした様子であった。その姿はあたかも墳墓の中をのぞき込んでる幽霊のようだった。  彼は寝台を見、ふとんの上の青年を見た。青年は血《血’》にまみれ、皮膚は蝋のように白く、目は閉じ、口は開き、脣は青ざめ、帯から上は裸となり、全身まっかな傷でおおわれ、身動きもせず、明るく照らし出されていた。  祖父は頭から足先までその固い五体の許すだけ震え上がり、老年のために目じりが黄色くなってる両眼はガラスのような光におおわれ、《:、》顔全体はたちまち骸骨のそれのように土色の角《カド》を刻み、両腕は撥条《+バネ》が切れたようにだらりとたれ下がり、惘然《呆然》たる驚きの余りそ《/そ》の震えてる年老いた両手の指は一本一本にひろがり、《:、》両膝は前方に角度をなしてこごみ、寝間着の開き目から白い毛の逆立ったあわれな膝頭があらわにのぞき出し、そして彼はつぶやいた。 「マリユス!」 「旦那様、」とバスクは言った、「若旦那様は人に運ばれてこられました。防寨に行かれまして、そして‥‥。」 「死んだのだ!《/》」と老人は激しい声で叫んだ、「無頼漢めが!」  その時、墳墓の中の変容もかくやと思われるばかりに、その百歳《100歳》に近い老人は若者のようにすっくと身を伸ばした。 「あなたは医者ですね。」と彼は言った。「まず一つのことをはっきり言ってもらいたいです。そいつは死んでいるのでしょう、そうではないですか。」  医者は心痛の余り黙っていた。  ジルノルマ《マ-》ン氏は両手をね《捩》じ合わしながら、恐ろしい笑いを発した。 「死んでいる、死んでいる。防寨で生命《イノチ》を投げ出したのだ、この|わし《儂》を恨んで。|わし《儂》への面当にそんなことをしたのだ。ああ《あ/》吸血児めが! こんなになって|わし《儂》の所へ戻ってきたのか。ああ、死んでしまったのか!」  彼は窓の所へ行き、息苦しいかのようにそれをいっぱい開き、そして暗闇の前に立ちながら、街路の方《ほう》に暗夜《/暗夜》に向かって語り始めた。 「突かれ、切られ、喉をえぐられ、屠《ほふ》られ、引き裂かれ、ずたずたに切り|さいな《苛》まれたのだ。わかったか、恥知らずめが! お前はよく知ってたはずだ、|わし《儂》がお前を待っていたこと、お前の室《+部屋》を整えて置いたこと、お前の小さな子供の時分の写真をいつも寝床の枕頭《+枕元》に置いていたことも。よく知ってたはずだ、お前はただ帰ってきさえすればよかった、もう長い年月わしはお前の名を呼んでいた、夕方などどうしていいかわからないで膝に手を置いたまま暖炉《/暖炉》の|すみ《隅》にじっとしていた、お前のためにぼんやりしてしまっていた。お前はよく知ってたはずだ、ただ戻ってきさえすればよかったのだ、私ですと言いさえすればよかったのだ。お前はこの家の主人となる身だったのだ。|わし《儂》は何でもお前の言うことを聞いてやるはずだったのだ、この老いぼれた|ばか《馬鹿》な祖父《+爺さん》をお前は思うとおりにすることができたのだ。お前はそれをよく知っていながら、『いや、彼は王党だ、彼の所へ行くもんか、』と言った。そしてお前は防寨に行き、依怙地に生命《イノチ》を捨ててしまった。ベリー公について|わし《儂》が言った事柄の腹癒せだ。実に不名誉なことだ。だがまあ床《トコ》について、静かに眠るがいい。ああ死んでしまった。これが|わし《儂》の覚醒《+目覚め》だ。」  医者はこんどは両方を心配し出して、ちょっとマリユスのそばを離れ、ジルノルマ《マ-》ン氏の所へ行き、その腕を取った。祖父はふり返り、大きく開いた血走ってるように思われる目で彼を|なが《眺》め、それでも落ち着いて彼は言った。 「いやありがとう。|わし《儂》は何ともない。|わし《儂》は一個の男子だ。ルイ十六世の死も見てきた。あらゆる事変を経てきた。だがただ一つ恐ろしいことがある。新聞紙が世に害毒を流すのを考えることだ。でたらめ記者、饒舌家、弁護士、弁論家、演壇、論争、進歩、光明、人権、出版の自由、《:、》そういうものがあればこそ、子供は皆《-みんな》こういう姿になって家《イエ》に運ばれて来るのだ。ああ《あ/》マリユス! 呪うべきことだ。殺されてしまった。|わし《儂》より先に死んでしまった。防寨、無頼漢! ドクトル、君《キミ》はこの辺に住んでるのでしょう。|わし《儂》は君をよく知っている。君の馬車が通るのを|わし《儂》はよく窓から見かけた。|わし《儂》は誓って言う。|わし《儂》が今怒《今’怒》ってると思ってはまちがいです。死んだ者に対して怒っても仕方がない。それは|ばか《馬鹿》げたことだ。これは|わし《儂》が自分で育てた子供です。この子がまだごく小さい時、|わし《儂》はもう老年になっていた。小さな鍬と小《/小》さな椅子とを持ってテュイルリーの園《’園》でよく遊んでいた。そして番人にしかられないように、|わし《儂》は杖の先で、彼が鍬で地面に掘った穴をよく埋めてやった。ところが他日、ルイ十八世を打ち倒せと叫んで、出ていってしまった。それは|わし《儂》の罪ではない。彼は薔薇色の頬《ホオ》をし、金髪であった。母親はもう亡くなっていた。小さな子供は皆金色の髪をしてるものだが、なぜでしょう。これはひとりのロアールの無頼漢の子です。だが父親の罪は子供の知ったことではない。|わし《儂》はこれがほんのこれくらいの大きさの時のことを覚えている。まだドという音を言えない時だった。小鳥のようにやさしい|わけ《/訳》のわからぬ口をきいていた。ある時ファルネーゼのヘラクレス像の前で、大勢《大ぜい》の者が彼を取り巻いて嘆賞したことを、|わし《儂》は覚えている。それほどこの子は美しかった。まるで絵に書いたようだった。|わし《儂》は時々《ときどき》大きい声をすることもあり、杖を振り上げておどかすこともあったが、それもただ戯れであることを彼はよく知っていた。朝わしの室《+部屋》へはいってくると小言を言ったが、それでも|わし《儂》にとっては日の光がさ《差》してくるようなものだった。そういう子供に対しては、|だれ《誰》でも無力なものだ。子供はわれわれを奪い、われわれをとらえて、決して放さないものだ。実際この子のようにかわいいものは世になかった。そして今、この子を殺してしまったラファイエット派やバ《/バ》ンジャマン・コンスタン派やテ《/テ》ィルキュイル・ド・コルセル派などは、何という奴どもだ! このままで済ますことはできない。」  やはり身動きもせずに色《/色》を失ってるマリユスに彼は近寄って、また両腕をね《捩》じ合わした。医者もマリユスのそばに戻っていた。老人の白い脣は、ほとんど機械的に動いて、臨終の息のように、ようやく聞き取れるか《/か》すかな言葉をもらした。「ああ、薄情者、革命党、無法者、虐殺人《虐殺にん》!」それは死骸に対して瀕死の者がつぶやく非難の声であった。  内心の爆発は常に外に現われなければやまないものである。引き続いて言葉は少しずつ出てきたが、しかし祖父にはもうそれを口にするだけの力がないように見えた。彼の声は他界から来るかと思われるほど遠くかすかになっていた。 「それももう|わし《儂》にとっては同じことだ。|わし《儂》も間もなく死ぬんだ。ああ《あ/》パリーのうちにも、このあわれな子を喜ばせるだけの女はいなかったのか! なぜこの世をおもしろく楽しもうとはせず、戦いに行って畜生のように屠《-ほふ》られてしまったのか。それも|だれ《誰》のため何《/なん》のためかと言えば、共和のためではないか! 若い者はショーミエールにでも行って踊ってればいいのだ。二十歳といえばめったにない大事な年齢だ。ろくでもない|ばか《馬鹿》な共和めが! 世の母親がいくらきれいな子供をこしらえても、皆攫《みんな攫》ってゆきやがる。ああ《あ/》この子は死んでしまった。そのためにお前のと|わし《儂》のと二つの葬式がこの家から出るだろう。お前がそんなことをしたのも、ラマルク将軍の目を喜ばせるためなのか。だがそのラマルク将軍がいったいお前に何をしてくれたか。猪武者めが、向こう見ずめが! 死んだ者のために死ぬなんてなんのことだ。これで気が狂わずに《に-》いられるか。考えてみるがいい、わずか二十歳《ハタチ》で! そしてあとに残る者のことはふり向いて見ようともしない。このようにして世にあわれな人のいい老人は、ただひとりで死ななければならないのか。おお《お/》ただひとりでくたばってしまうのか! だがとにかくそれで結構だ。|わし《儂》の望みどおりだ。|わし《儂》もこれでさっぱり往生するだろう。|わし《儂》はあまり長生きしてる。もう百歳だ、万々歳だ。長い前から死んでよかったのだ。この打撃で済んだ。もう終わりだ。かえって|仕合わ《幸》せというものだ! この子にアンモニアを嗅がせたりやたらに薬を飲ませたりしても、もう何《なん》の役に立とう。ドクトル、もう君がどんなに骨折っても|むだ《無駄》ですぞ。ねえ、彼は死んでいる、まったく死んでいる。|わし《儂》はよくそれを知っている。わし自身も死んでるのだから。彼は世の中を半分しか知らなかった。ああ《あ/》今の時代は、汚れてる、汚れてる、汚れてるんだ。時代自身も、思潮も、学説も、指導者も、権威者も、学者も、三文文士も、へぼ思想家も、それから六十年来テュイルリー宮殿の烏の群れを脅かした多くの革命も、皆汚《みんな汚》れてるんだ。そしてお前はこんなふうに身を殺しながら、|わし《儂》に対して慈悲の心を持たなかったのだから、|わし《儂》もお前の死を別に悲しくは思わない。わかったか、人殺しめ!」  ちょうどその時マリユスは、静かに眼瞼《目蓋》を開いた。そしてその目は、まだ昏睡的な驚きにおおわれながら、ジルノルマ《マ-》ン氏《氏’》の上に据えられた。 「マリユス!《/》」と老人は叫んだ、「マリユス、|わし《儂》の小さなマリユス、|わし《儂》の子、|わし《儂》のかわいい子! 目を開いたか、|わし《儂》を見てるのか、生きてくれたのか! ありがたい!」  そして彼は気を失って倒れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四編】 【ジャヴェルの変調】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャヴェルはゆるやかな足取りでオンム・アルメ街を去っていった。  生涯に始めて頭《コウベ》をたれ、生涯に始めて両手をうしろにまわして、彼は歩いていた。  その日までジャヴェルは、ナポレオンの二つの態度のうち決意《/決意》を示す方《ほう》の態度をしか、すなわち胸に両腕を組む態度をしか取ったことはなかった。遅疑を示す方《ほう》の態度は、すなわち両手をうしろにまわす方《ほう》の態度は、彼の知らないところだった。しかるに今や一変化《イチ変化》が起こっていた。彼の全身には緩慢沈鬱《緩慢’沈鬱》の気が漂って、心痛の様《さま》が現われていた。  彼は静かな街路を選んではいっていった。  それでも彼は一定の方向に進んでいた。  彼はセーヌ川に達する最も近い道をたどり、オルム川岸《ガシ》にいで、その川岸通りに沿い、グレーヴを通り越し、そしてシャートレー広場の衛舎からわずか離れた所、ノートル・ダーム橋《バシ》の角《カド》に立ち止まった。セーヌ川はそこで、一方ノ《/ノ》ートル・ダーム橋《バシ》とポ《/ポ》ン・トー・シャンジュの橋とにはさまれ、他方メ《/メ》ジスリー川岸《ガシ》とフ《/フ》ルール川岸《ガシ》とにはさまれて、《:、》まんなかに急流を通しながら四角《/四角》な湖水みたようになっていた。  セーヌ川のその辺は水夫たちが恐れてる場所である。今日《コンニチ》はなくなっているが当時《/当時》は橋の水車の杭があって、そのために急流が狭められ激《/激》せられてはなはだ危険だった。二つの橋が近いので危険《/危険》はなお大となっている。橋弧《キョウコ》の下は激しく水が奔騰している。水は大きな恐《/恐》ろしい波を立てて逆巻き、そこに集まってたまり、太い水の綱で橋杭を引き抜こうとしてるかのように打ちつけている。そこに一度陥る者は再び姿を現わすことがなく、最も泳ぎに巧みな者も溺れてしまう。  ジャヴェルは橋の欄干に両肱をもたせ、頤《顎》を両手に埋め、濃い口髭を爪先で機械的にひねりながら、考え込んだ。  一つの珍事が、一つの革命が、一つの破滅が、彼の心の底に起こったのである。深く反省すべき問題がそこにあった。  ジャヴェルは恐ろしい苦悶をいだいていた。  数時間前から既にジャヴェルの考えは単純でなくなっていた。彼《かれ》の心は乱されていた。その一徹な澄み切った頭脳は、透明さを失っていた。その水晶のごとき澄明さのうちには、一片の雲がかけていた。ジャヴェルは自分の本心のうちに義務《/義務》が二分《ニブン》したのを感じ、自らそれをごまかすことができなかった。セーヌ川の汀で、意外にもジャン・ヴァルジャンに会った時、彼のうちには、獲物を再びつかんだ狼のごときものと主人《/主人》に再びめぐり会った犬のごときものとがあった。  彼は自分の前に二つの道を見た。両方とも同じように|まっす《真っ直》ぐであったが、とにかく二つであった。生涯にただ一本の直線しか知らなかった彼は、それにおびえた。しかも痛心のきわみには、その二つの道は互いに相入れないものだった。二つの直線は互いに排し合っていた。いずれが真実のものであったろうか。  彼の地位は名状し難いものであった。  悪人のおかげで生命《イノチ》を保ち、その負債を甘受してそ《/そ》れを償却し、心ならずも罪人《ザイニン》と同等の位置に立ち、恩に対して他の恩を返すこと、《:、》「行け」と言われたのに対してこんどは「自由の身となれ」と言ってやること、私的な動機からして一般的責務を犠牲にし、しかもその私的な動機のうちにも、同じく一般的なま《”ま》たおそらく更に優れた何かを感ずること、《:、》自分一個の本心に忠実なるため社会《/社会》に裏切ること、それら種々《いろいろ》の不合理が現実に現われてきて彼の上に積み重なったので、彼はな《成》すところを知らなかった。  ジャヴェルを驚かした一事は、ジャン・ヴァルジャンが彼を赦したことであり、彼を茫然自失せしめた一事は、彼自らがジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンを赦したことであった。  彼はいかなる所に立っていたのか。彼はおのれを|さが《探》したが、もはやおのれを見いだすことはできなかった。  今やいかになすべきであっ《-っ》たか? ジャン・ヴァルジャンを引き渡すは悪いことであり、またジャン・ヴァルジャンを自由の身にさしておくのも悪いことだった。第一の場合においては、官憲の男が徒刑場《徒刑バ》の男よりも更に低く墜ちることであり、第二の場合においては、徒刑囚が法律よりも高く上って法律《/法律》を足に踏まえることだった。二つの場合とも、彼ジャヴェルにとっては不名誉なことであった。いかなる決心を取っても墜堕《/墜堕》が伴うのだった。人の宿命には不可能の上に垂直にそびえてる絶壁があるもので、それから向こうは人生はもはや深淵にすぎなくなる。ジャヴェルはそういう絶壁の縁《フチ》の一つに立っていた。  彼の心痛の一つは、考えなければならなくなったことである。相矛盾するそれらの感情の激しさは、彼をして考《/考》えるの余儀なきに至らしめた。思考ということは、彼がかつて知らなかったことであって、何よりも彼を苦しめた。  思考のうちには常に内心の反乱が多少あるもので、彼は自分のうちにそういう反乱を持ってるのにいら立った。  自分の職務の狭い範囲外に属するいかなる問題に関する思考も、あらゆる場合において彼に取っては、一つの無用事であり一《/一》つの退屈事だった。しかし今や過ぎた一日のことを考えると苦しくなった。それでも彼は、そういう打撃の後《あと》に自分の本心をのぞき込み、自らおのれを検覈せざるを得なかった。  彼は自分のなしてきた事柄に戦慄した。彼ジャヴェルは、警察のあらゆる規則に反し、社会上および司法上の組織に反し、法典全部に反し、自らよしとして罪人《ザイニン》を放免したのである。それは彼一個には至当であった。しかし彼は私事のために公務を犠牲にした。それは何とも名状し難いことではなかったか。自ら犯したその名義の立たない行為に顔を向けるたびごとに、彼は頭から足先までふるえ上がった。いかなる決心を取るべきであるか。今はただ一つの手段きり残っていなかった。急いでオンム・アルメ街に戻りジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンを下獄させること、それこそ明らかに彼がなさなければならないことだった。しかし彼はな《成》し得なかった。  何かがその方《ほう》への道を彼にふさいでいた。  何物であるか? 何《なん》であるか? 法廷や執行文《/執行文》や警察《/警察》や官憲《/官憲》などより他のものが、世にはあるのであろうか。ジャヴェルは当惑した。  神聖なる徒刑囚、法をもっても裁くことのできない囚人、しかもそれはジャヴェルにとって現実であった。  罰を与えるための人間であるジャヴェルと、罰を受くるための人間であるジャン・ヴァルジャンと、互いに法の中にあるその|ふたり《二人》が、|ふたり《二人》とも法を超越するに至ったことは、恐るべきことではなかったか。  いったいどうしたわけであるか。かかる異常事が世に起こるものであろうか、そして|だれ《誰》も罰を受けないことがあり得るだろうか。ジャン・ヴァルジャンは社会組織全体よりも強力であって自由《/自由》の身となり、彼ジャヴェルは《は-》なお政府のパンを食い続けてゆく、そういうことがあり得るだろうか。  彼の夢想は|しだい《次第》に恐ろしくなってきた。  そういう夢想の間にも彼はなお、フィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれた暴徒のことについて、多少の自責を持つはずであった。しかし彼はそのことを念頭に浮かべなかった。小さな過失はより大なる過失のうちに消えてしまった。それにまた、その暴徒は確かに死んでいた。法律上の追跡は死人《-しにん》にまで及ぶものではない。  ジャン・ヴァルジャンという一点こそ、彼の精神を圧する重荷であった。  ジャン・ヴァルジャンは彼をまったく困惑さした。彼の生涯の支柱だったあらゆる定理はそ《/そ》の男の前にくずれてしまった。彼ジャヴェルに対するジャン・ヴァルジャンの寛容は、彼を圧倒してしまった。昔彼が虚偽とし狂愚《/狂愚》として取り扱ってきた他の事実も思い出されて、今や現実のものとなってよみがえってきた。マドレーヌ氏の姿は、ジャン・ヴァルジャンの背後に再び現われ、その二つの姿が重なり合って一つとなり、崇敬すべきものとなった。恐ろしい何ものかが、囚人に対する賛嘆の情が、魂のうちに沁み通ってくるのをジャヴェルは感じた。徒刑囚に対する尊敬、そういうことがあり得るであろうか。彼は慄然として、身を|ささ《支》えることができなかった。いかにもだえても、内心の審判のうちにおいて、その悪漢の荘厳さを自白せざるを得なかった。それは実にた《耐》え難いことであった。  慈善を施す悪人、あわれみの念が強く、やさしく、救助を事とし、寛大で、悪に|報ゆる《ムク-ユル》に善をもってし、憎悪に|報ゆる《ムク-ユル》に許容をもってし、《:、》復讐よりも憐愍を取り、敵を滅ぼすよりも身を滅ぼすことを好み、おのれを打った者を救い、徳の高所にあってひざまずき、人間よりも天使に近い徒刑囚、《:、》そういう怪物が世に存在することを、ジャヴェルは自認するの余儀なきに至った。  事情はそのまま存続するを得なかった。  あえて力説するが、あの怪物に、その賤しむべき天使に、その嫌悪すべき英雄に、彼を茫然たらしむるとともに憤激《/憤激》さしたその男に、まさしく彼は何ら抵抗することなく屈服したのではなかった。ジャン・ヴァルジャンと向き合って馬車の中にいた間に、幾度となく法の虎は彼のうちに咆哮した。幾度となく彼はジャン・ヴァルジャンの上に飛びかかりたい念に駆られた。彼をつかみ彼《/彼》を食わんとした、すなわち彼を捕縛せんとした。実際それは誠に容易なことだった。衛舎の前を通りかかる時、「これは監視違反の囚人だ」と叫び、憲兵らを呼び、「この男を君たちに引き渡す」と言い、《:、》それから自分は立ち去り、罪人《罪人’》をそこに残し、その他のことはいっさいかまわず、自分は少しもそれに関与しなければよかったのである。ジャン・ヴァルジャンは永久《エーキュウ》に法律の捕虜となり、法律の欲するままに処理せらるるだろう。それこそ最も正当なことだった。ジャヴェルはそれらのことをひとり考えた。そしてその方向を取り、手を下し、彼をつかもうとした。しかし今それができなくなったと同じく、その時にもそれができなかった。ジャン・ヴァルジャンの首筋に向かって痙攣的に手をあげるたびごとに、その手は非常な重さに|圧せら《アッセラ》れるように再び下にたれた。そして彼は自分に叫びかける一つの声を、異様な声を、頭の奥に聞いた。「よろしい。汝の救い主を引き渡せ。それからポンテオ・ピラト(訳者注◇ キリストを祭司の長等《長ら》に引き渡せしユダヤの太守)の盥《タライ》を取り寄せて汝の手を洗うがいい。」  次に彼の考えは自分自身の上に戻ってきて、壮大となったジャン・ヴァルジャンの傍《ソバ》に、堕落した自身ジ《/ジ》ャヴェルの姿を見た。  一徒刑囚が彼の恩人だったのである!  しかしまた、何ゆえに彼は自分を生かしておくことをその男に許したのだったか。彼は防寨の中で殺さるべき権利を持っていた。彼はその権利を用《もち》うべきだったろう。他の暴徒らを呼んでジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンを妨げ、無理にも銃殺されること、その方《ほう》がよかったのである。  彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こぎにされたのを感じた。法典ももはや彼の手の中では丸太にすぎなかった。彼は|わけ《訳》のわからぬ一種の懸念と争わなければならなかった。その時まで彼の唯一の規矩だった合法的肯定とはまったく異なった一《/一》つの感情的啓示が、彼のうちに起こってきた。旧《+元》の公明正大さのうちに止《-とど》まるだけでは、もう足りなくなった。意外な一連の事実が突発して、彼を屈服さした。一つの新世界が彼の魂に現われた。すなわち、甘受してま《”ま》た返してやった親切、献身、慈悲、寛容、憐愍から発した峻厳の毀損、個人性の承認、絶対的裁断の消滅、永劫定罪《永劫テイザイ》の消滅、《:、》法律の目における涙の可能、人間に依存する正義とは反対の方向を取る一種の神に依存する正義。彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐《/恐》ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさし、彼を眩惑さした。鷲の目を持つことを強いられた梟であった。  彼は自ら言った、これも真実なのだ、世には例外がある、官憲も狼狽させられることがある、規則も事実の前に逡巡することがある、万事が法典の明文のうちに当てはまるものではない、《:、》意外事は人を服従させる、徒刑囚の徳は役人の徳を罠にかからせることもある、怪物が神聖になることもある、宿命のうちにはそういう伏兵もある。そして彼は絶望の念をもって、自分はそういう奇襲を避《-さ》けることができなかったのだと考えた。  彼は親切というものの世《/世》に存在することを認めざるを得なかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことではあるが、先刻親切《先刻’親切》な行ないをなしてきた。彼は変性したのだった。  彼は自分が卑怯であるのを認めた。彼は自ら恐ろしくなった。  ジャヴェルの理想は、人間的たることではなく、偉大たることではなく、崇高たることではなかった。一点の非もないものとなることであった。  しかるに彼は今や歩《ホ》を誤っていた。  どうして彼はそうなったのか、どうしてそういうことが起こったのか? それは彼自身にもわからなかった。彼は両手で頭を押さえ、いかに考えてみても、自らそれを説明することができなかった。  確かに彼はジャン・ヴァルジャンを再び法律の下に置こうと常に考えていた。ジャン・ヴァルジャンは法律の虜であり、彼ジャヴェルは法律の奴隷であった。ジャン・ヴァルジャンを手にしてる間、それを放ちやろうという考えを持ってるとは、彼はただの瞬時も自ら認めなかった。彼の手が開いてジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンを放したのは、ほとんど自ら知らずに行なったことだった。  あらゆる種類の謎のような新奇なことが、彼の眼前に現われてきた。彼は自ら問い自《/自》ら答えたが、その答《答え》はかえって彼を脅かした。彼は自ら尋ねてみた。「私がほとんど迫害するまでに追求したあの囚徒は、あの絶望の男は、私を足の下に踏まえ、復讐することができ、しかも怨恨のためと身《/身》の安全のために復讐するのが至当でありながら、私の生命《イノチ》を助け、私を赦したが、それはいったい|なぜ《何故》であったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。そして私もまたこんどは、彼を赦してやったが、それはいったい|なぜ《何故》であったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。それでは果たして、義務以上の何かがあるのであるか?」そこになって彼はおびえた。彼の秤《ハカリ》ははずれてしまった。一方の皿は深淵のうちに落ち、一方の皿は天に上がった。そしてジャヴェルは、上にあがった方《ほう》と下《/下》に落ちた方《ほう》とに対して、等しく恐怖を感じた。彼はヴォルテール派とか哲人《/テツジン》とか不信者《/不信者》とか呼ばれるような人物では少しもなかった。否《否/》かえって本能から、うち立てられたキリスト教会を尊敬していた。けれどもただ、社会全体のいかめしい一片としてしかそれを知らなかった。秩序は彼の信条であって、それだけで彼には充分だった。成年に達し今《/今》の職務について以来、彼は自分の宗教のほとんど全部を警察のうちに置いてしまった。そして、少しも皮肉ではなく、最も|まじめ《真面目》な意味において、彼は前にわれわれが言ったとおり、人が牧師であるごとく探偵《/探偵》であった。彼は上官として総監ジスケ氏を持っていた。彼はこの日まで、神という他の上官のことをほとんど考えてみなかった。  この神という新しい主長を彼は意外にも感得して、そのために心が乱された。  彼はその思いがけないものに当面して困惑した。彼はその上官に対してはどうしていいかわからなかった。今まで彼が知っていたところでは、部下は常に身をかがむべきものであり、背反し誹謗《/誹謗》し議論《/議論》してはいけないものであり、あまりに無茶な上官に対しては辞表を呈するのほかはなかった。  しかしながら、神に辞表を呈するにはいかにしたらいいであろうか?  またそれはともかくとして、一つの事実がすべての上に顕然としてそびえ、彼の考えは常にその点に戻っていった。すなわち恐るべき違反の罪を犯したという一事であった。監視違反の再犯囚に対して、彼は目を閉じてきたのだった。ひとりの徒刑囚を放免してきたのだった。法律に属するひとりの男を盗んできたのだった。彼はまさしくそういうことを行なった。彼はもはや自分自身がわからなくなった。自分は果たして本来の自分であるか確かでなかった。自分の行為の理由さえも見失い、ただ眩惑のみが残っていた。彼はその時まで、暗黒なる清廉を生む盲目的《/盲目的》な信念にのみ生きていた。しかるに今や、その信念は彼を去り、その清廉は彼になくなった。彼が信じていたことはすべて消散した。自分の欲《-ほっ》しない真実が頑強につきまとってきた。今後彼は別の人間とならなければならなかった。突然内障眼《+突然ソコヒ》の手術を受けた本心の異様な苦痛に悩んだ。見るのを厭《きら》っていたものを見た。自己が空しくなり、無用となり、過去の生命《イノチ》から切り離され、罷免され、崩壊されたのを、彼は感じた。官憲は彼のうちに死滅した。彼はもはや存在の理由を持たなかった。  かき乱されたる地位こそは恐るべきものである。  花崗岩のごとき心であって、しかも疑念をいだく。法の鋳型の中で全部鋳上げられた懲戒の像であって、しかもその青銅の胸の中に、ほとんど心臓にも似たる不条理不従順なるある物を突然に認める。その日まで悪《アク》だと思っていたものが善となり、その善に対して善を報いなければならなくなる。番犬であって、しかも敵の手を舐《+舐め》る。氷であって、しかも溶解する。釘抜きであって、しかも普通の手となる。突然に指が開くのを感ずる。つかんだ獲物を放つ。それは実に恐怖すべきことである。  もはや進むべき道を知らずして後退《/後退》する一個の人間の鉄砲弾であった。  自ら次のことを認めざるを得ないとは何たることであろう! すなわち、無謬なるもの必《/必》ずしも無謬ではない。信条のうちにも誤謬があり得る。法典はすべてを説きつくすものではない。社会は完全ではない。官憲も動揺することがある。動かすべからざるもののうちに割《/割》れ目のできることがある。裁判官も人間である。法律も誤ることがある。法廷も誤認することがある。大空の広大なる青ガラスにも亀裂が見《-み》らるるのか?  ジャヴェルのうちに起こったことは、直線的な心の撓曲であり、魂の脱線であり、不可抗の力をもって|まっす《真っ直》ぐに突進し神《/神》に当たって砕け散る、清廉の崩壊であった。確かにそれは異常なことだった。秩序の火夫が、官憲の機関車が、軌道を走る盲目なる鉄馬《鉄バ》にまたがって進みながら、光明の一撃を受けて落馬したのである。変更を許さざるもの、直接なるもの、正規なるもの、幾何学的なるもの、受動的なるもの、完全なるものが、撓んだのである。機関車に対してもダマスクスの道があったのである。(訳者注◇ 聖パウロのある伝説に由来し、突然《突然’》内心の光輝によって心機一転することをダマスクスの道という)  常に人の内部にあって真の良心となり虚偽《/虚偽》に反発する神、閃光をして消滅することを得ざらしむる禁令、光輝をして太陽を記憶せしむるの命令、魂をして虚構の絶対とそれに接する真の絶対とを見分けしむるの訓令、死滅せざる人間性、滅落《メツラク》せざる人心、《:、》そういう燦然たる現象を、おそらく人間の内部の最も|美わ《麗》しい不可思議を、ジャヴェルは知ったであろうか。ジャヴェルはそれを見通したであろうか。ジャヴェルはそれを了解したであろうか。否々《イナ/イナ》。しかしながら、その不可解にして明白なるものの圧力の下《もと》に、彼は自分の頭脳が少しく開《-ひら》けるのを感じた。  彼はその異変のために面目を一新した、というよりもむ《/む》しろその犠牲となった。彼は憤激しながらそれに打たれた。彼がその中に見たところのものは、存立の大《ダイ》なる困難のみだった。爾来永久《爾来/えいきゅう》に呼吸を妨げられるような心地がした。  頭の上に未知のものを持つこと、それに彼はな《慣》れていなかった。  それまで自分の上に持ってたところのものは、明確単純清澄《明確’単純’セイチョウ》な表面であるように彼の目には見えていた。そこには、何ら未知のものもなく暗黒なものもなかった。規定されたるもの、整理されたるもの、鎖につなぎ止められたるもの、簡明なるもの、正確なるもの、範囲の定められたるもの、限定されたるもの、閉鎖されたるもの、ばかりであった。すべて予見されたるものであった。官憲は一つの平坦なるものであった。その中には何らの墜落もなく、それに対しては何らの眩惑もなかった。ジャヴェルが今まで未知のものを見てきたのは、ただ下方においてのみだった。不規律、意想外、渾沌界《混沌界》の錯雑した入り口、いつすべり落ちるかもわからない深淵、そういうものは、賊徒や悪人《/悪人》や罪人《/ザイニン》などのすべて下層地帯に存在していた。しかるに今《いま》ジャヴェルはあおむけに転倒し、異様な妖怪す《/す》なわち上方《ジョーホウ》の深淵を見て、にわかに狼狽した。  どうしたことであろう、徹頭徹尾突《テットウ徹尾突》きくずされ、絶対に失調させられるとは! およそ何に信頼したらいいか。確信していたものが崩壊してしまうとは!  社会の鎧の欠陥が寛厚《/寛厚》なる一罪人によって見いだされ得るのか。法律の正直なる僕《シモベ》が、ひとりの男を放免するの罪とそ《/そ》れを捕縛するの罪との二つの罪の間に、突然《突然’》板ばさみになることがあり得るのか。国家が役人に与える訓令のうちにも、不確かなるものがあるのか。義務のうちにも行き止まりがあるものなのか。ああ《あ/》それらはすべて実際のことだったのか。刑罰の下に屈している昔の悪漢がすっくと立ち上がってつ《/つ》いに正当となることがあるのも、真実だったのか。そんなことが信じ得られようか。それでは、法律も変容した罪悪の前に宥免《/宥免》を乞《-こ》いながら退《-しりぞ》かなければならないような場合が、世にはあるのか。  そうだ、それは事実であった。ジャヴェルはそれを見、それに触れた。ただにそれを否定し得なかったばかりでなく、自らその渦中のひとりであった。それはまさしく現実であった。現実がかかる異様な姿になり得るとは、実に呪うべきことだった。  もし事実がその本分を守るならば、必ずや事実は法を証明することをしかしないであろう。なぜならば、事実を世に送るものは神であるから。しかるに今や、無政府主義までが天からおりてこようとするのか。  か《斯》くて、ますます加わってくる煩悶のうちに、茫然自失した幻覚のうちに、ジャヴェルの感銘を押さえ止め訂正《/訂正》するすべてのものは消えうせ、《:、》社会も人類《/人類》も宇宙《/宇宙》も皆、彼の目には爾来た《/た》だ単に忌まわしいだけの姿となって映じた。そして、刑法、判決、至当なる立法の力、終審裁判所の決定、司法官職、政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、法律の無謬、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条、《:、》国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公《公け》の真理、《:、》すべてそれらのものは、破片となり塵芥《/塵芥》となり渾沌《/混沌》たるものとなってしまった。秩序の監視人《監視ニン》であり、警察の厳正な僕《シモベ》であり、社会を保護する番犬である、彼ジャヴェル自身も、打ち負かされてしまった。そしてそれらの廃墟の上に、緑の帽を頭にかぶり円光《/円光》を額にいただいてるひとりの男が立っていた。彼が陥った惑乱はそういうものであり、彼が魂のうちに持った恐るべき幻はそういうものであった。  それはた《耐》え得ることであったろうか。否。  きびしい状態があるとすれば、それこそまさにきびしい状態であった。それから脱する道は二つしかなかった。一つは、決然としてジャン・ヴァルジャンに向かって進んでゆき、徒刑囚たる彼を地牢に返納すること。今一つは‥‥。  ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、こんどは頭をもたげて、シャートレー広場の片|すみ《隅》にともってる軒灯《/軒灯》で示されている衛舎の方《ほう》へ、確乎たる足取りで進んでいった。  そこまで行って彼は、ひとりの巡査が中にいるのをガラス戸《ド》から認め、自分もはいっていった。衛舎の扉のあけ方《かた》だけででも、警察の者らは互いにそれと知り得るのである。ジャヴェルは自分の名前を告げ、名刺を巡査に示し、それから一本の蝋燭がともってるそ《/そ》のテーブルの前にすわった。テーブルの上には、一本のペンと、鉛のインキ壺と、少しの紙とがの《載》っていた。不時の調書や夜間巡邏の訓令などのために備えてあるものだった。  いつも一個の藁椅子がついてるそのテーブルは、規定の品である。いずれの分署にも備えてある。そして必ず、鋸屑がいっぱいはいってる黄楊の平皿と、赤い封蝋がいっぱいはいってるボール箱とが上にの《載》っている。それは官省ふうの最下級をなすものである。国家の文学はまずそこで始まる。  ジャヴェルはペンと一枚の紙とを取って、書き始めた。彼が書いた文句は次のとおりだった。 ◇。◇。   職務上の注意事項  一、警視総監閣下の一瞥せられんことを願う。  二、予審廷より来る囚徒らは、身体検査中、靴を脱ぎ跣足《/裸足》のまま舗石《+敷石》の上に佇立す。監獄に戻るにおよんで多くは咳を発す。ために病舎の費用を増すに至る。  三、製糸監は、所々《ところどころ》に警官の配置あるをもってはなはだよろし。しかれども、重大なる場合のために、少なくとも|ふたり《二人》の警官は互いに見得る位置を保つ要あるべし。か《斯》くせば、もし何らかの理由によって、ひとりが務めを怠ることありとも、他のひとりがそれを監視し補足《/補足》するを得ん。  四《④》、マドロンネット監獄においては、たとい金《-かね》を払うも囚徒《/囚徒》に椅子を与えざる特殊の規則あれど、その何《/何》ゆえなるやを解する能わず。  五、マドロンネットにおいては、酒保の窓に二本の鉄棒あるのみ。これ酒保をして、囚徒に手を触《ふ》るるを得《え》せしむるものなり。  六、呼び出し人《にん》と普通に称せられて他《/他》の囚徒らを面会所に呼ぶの用をなす囚徒は、名前を声高《コワダカ》に叫ぶごとに当人《/当人》より二スーずつ徴発す。これ一つの奪取なり。  七、一筋の糸のたれたるものあれば、該囚徒は織物工場において十《/十》スーずつ賃金を差し引かる。これ請け負い者の弊風なり。織物はそのために粗悪となるものに非《-あら》ざればなり。  八、フォルス監獄を訪れる者が、サント・マリー・レジプシエンヌ面会所に至るために、必ず「小僧の中庭」を通るは、憂慮すべきことなり。  九《⑨》、毎日憲兵らが、警視庁の中庭において、司法官らの行なえる尋問を語り合うは、確かなる事実なり。神聖なるべき憲兵が、予審廷にて聞けることを繰り返し語るは、風紀の重大なる紊乱なり。  十、アンリー夫人は正直なる女にして、その酒保はきわめて清潔なり。しかれども、秘密監の罠の口をひとりの女が握るは、よきことに非《あら》ず。そは大文明の附属監獄にとりて恥ずべきことなり。 ◇。◇。  ジャヴェルは一つの句読点をも略さず、紙に確かなペンの音を立てながら、最も冷静正確な手跡で、右の各行をしたためた。そして最後の行の次に署名をした。 ◇。◇。 【一等警視◇ ジャヴェル】 ◇。◇。 【シャートレー広場の分署において】 【1832年六月七日午前一時頃《年’六月七日’午前一時頃》】 ◇。◇。  ジャヴェルは紙の上の新しいインキをかわかし、紙を手紙のように折り、それに封をし、裏に「制度に関する覚え書き」としたため、それをテーブルの上に残し置き、そして衛舎から出て行った。鉄格子のはまってるガラス戸は彼の背後に閉ざされた。  彼はシャートレー広場を再び斜めに横ぎり、川岸通りにいで、ほとんど自動機械のような正確さで、|十五、六分《ジュウゴ六分》前に去った同じ場所へ戻ってきた。彼はそこに肱をつき、胸壁の同じ石の上に同《/同》じ態度で身を休めた。前の時から身を動かしたとは思えない|ほど《程》だった。  一点のすき間もない闇だった。ま《真》夜中に引き続く墳墓のような時間だった。雲の天井が星を隠していた。空には凄惨な気が深くよどんでいた。シテ島の人家にももう一点の光も見えなかった。通りかかる者もなかった。街路も川岸通りも、見える限り寂然としていた。ノートル・ダームの堂宇と裁判所《/裁判所》の塔とが、暗夜のひな形のように見えていた。一つの街灯の光が川岸縁《カシブチ》を赤く染めていた。多くの橋の姿は、靄の中に相重なってぼかされていた。川の水は雨のために増していた。  読者の記憶するとおり、ジャヴェルがよりかかってるその場所は、ちょうどセーヌ川の急流の上であって、無限の螺旋のように解けてはまた結ばるる恐《/恐》るべき水の渦巻きを眼下にしていた。  ジャヴェルは頭をかがめて|なが《眺》め入《い》った。すべては|まっくら《真っ暗》で、何物も見分けられなかった。泡立つ激流の音は聞こえていたが、川の面《オモテ》は見えなかった。おりおり、目が眩むばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて茫漠《/茫漠》たるうねりをなした。水には一種の力があって、最も深い闇夜のうちにも、どこからともなく光を取ってきてそ《/そ》れを蛇《ヘビ》の形になすものである。が、再びその明るみも消え、すべてはまたおぼろになった。広大無限《コウダイ無限》なるものがそこに口を開いてるかと思われた。下《した》にあるものは水ではなく、深淵であった。川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの懸崖《/懸崖》のようだった。  何物も見えなかったが、水の敵意ある冷たさとぬ《/ぬ》れた石の無味な|にお《匂》いとは感ぜられた。荒々しい息吹がその淵《フチ》から立ち上《のぼ》っていた。目には見えないがそれと知らるる増水、波の悲壮なささやき、橋弧《キョウコ》の気味悪い大きさ、頭に浮かんでくるその陰惨な空洞中への墜落、《:、》すべてそれらの暗影は人を慄然たらしむるものに満たされていた。  ジャヴェルはその暗黒の口を|なが《眺》めながら、しばらくじっとたたずんでいた。専心に似た注視で目《/目》に見えないものを見守っていた。水は音を立てて流れていた。すると突然、彼は帽子をぬぎ、それを川岸縁《カシブチ》に置いた。一瞬間の後には、帰り|おく《遅》れた通行人が遠くから見たならば幽霊《/幽霊》と思ったかも知れないような黒い高い人影が、胸壁の上にすっくと立ち現われ、セーヌ川の方《ホウ》へ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中に|まっす《真っ直》ぐに落ちていった。鈍い水音《ミズオト》が聞こえた。そして水中に没したその暗い姿の痙攣の秘密は、ただ影のみが知るところだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五編】 【孫と祖父】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【亜鉛の張られたる樹木再《樹木/再》び現《あら》わる】 ◇。◇。◇。◇。◇。  上に述べきたった事件より少し後《あと》、ブーラトリュエルはひどく心を動かされた。  ブーラトリュエルというのは、あのモンフェルメイュの道路工夫《道路コウフ》で、本書の暗黒なる場面において読者《/読者》が既に瞥見した男である。  読者はたぶん記憶してるだろうが、ブーラトリュエルは種々《いろいろ》の怪しい仕事をやっていた。石割りをしながらも、大道で旅客の持ち物を強奪していた。土方でか《/か》つ盗賊でありながら、一つの夢想をいだいていた。彼はモンフェルメイュの森の中に埋められてるという宝のことを信じていた。いつかはあ《/あ》る木の根本《根元》の地中に金《-かね》を見いだしてやるつもりでいた。そしてまずそれまでは通行人のポケットの金《-かね》に好んで目をつけていた。  けれども当座の間は彼も謹慎していた。彼はわずかに身を脱したのだった。読者の知るとおり、彼はジョンドレットの陋屋《あばら家》の中で、他の悪漢らとともに捕縛された。ところが、悪徳も時には役に立つもので、泥酔のために助かった。彼がそこに盗賊としていたのかも《/も》しくは被害者としていたのか、どうしてもわからなかった。待ち伏せの晩泥酔《晩/泥酔》していたことが証明されたので、免訴の申し渡しによって、自由の身となった。彼はまた森の中に逃げ込んだ。彼はガンエーからランニーへ至る道路工事に立ち戻り、政府の監視の下に、国家のために道路の手入れをなし、《:、》しおれた顔つきをし、ひどく鬱ぎこみ、危うく身を滅ぼさんとした悪事に対してもだいぶ熱がさめていた。しかし身を救ってくれた酒に対しては、いっそうの愛着をもって親しんでいた。  道路工夫《道路コウフ》の藁小屋に戻って間もなく、彼がひどく心を動かされたことというのは、次のような事柄だった。  ある朝まだ日の出より少し前の頃、ブーラトリュエルはいつものとおり仕事に、またおそらくは待ち伏せに出かけたが、その途中で、樹木の枝葉の間にひとりの男を認めた。彼はそのうしろ姿を見ただけだったが、遠方から|薄ら明《ウスラアカ》りの中に|なが《眺》めた所では、|かっこう《恰好》にどうやら見覚えがあるような気がした。ブーラトリュエルは酒飲みではあったが、正確明晰な記憶力を持っていた。そういう記憶力は、法律的方面と多少の争いをしてる者にとっては、欠くべからざる護身の武器である。 「あの男は見かけたような奴だが、はてな?」と彼は自ら尋ねてみた。  しかし、頭の中にぼんやり残ってる|だれ《誰》かにその男が似てるというだけで、そのほかは何《なん》にも自ら答えることができなかった。  それでもブーラトリュエルは、それを|だれ《誰》とはっきりき《決》めることはできなかったが、種々《いろいろ》考え合わせ推測《/推測》してみた。男は土地の者ではない。どこからかやってきた者に相違ない。明らかに徒歩でき《来》たのである。今時分モンフェルメイュを通る客馬車は一つもない。男は夜通し歩いたに違いない。それではいったいどこからきたのだろう? 遠方からではない。旅嚢も包みも持っていないのを見てもわかる。きっとパリーからき《来》たのであろう。ところで、なぜこの森の中にき《来》たのか、なぜこんな時刻にき《来》たのか、何をしにき《来》たのか?  ブーラトリュエルは宝のことを考えた。それから記憶をたどっていると、既に数年前、ある男のことで同じように心をひかれたことがあったのを、ぼんやり思い出した。どうもその男と同一人であるように考えられた。  そんなことを考えふけりながら、自分の瞑想の重みの下に、彼は頭を下げていた。それは自然のことではあるが、あまり上手なやり方ではなかった。彼が頭を上げた時、もうそこには|だれ《誰》もいなかった。男は森と薄暗がりとの中に消えてしまっていた。 「畜生め、」とブーラトリュエルは言った、「今一度見つけ出してやらあ。どこの奴か|さが《探》し出してやらあ。うろついてる盗賊め、何か|わけ《訳》があるに違いねえ。嗅ぎ出してやるぞ。この森の中で、俺に内密《内緒》で仕事をしようたって、やれるものか。」  彼は鋭くとがった鶴嘴を取り上げた。 「さあ、」と彼はつぶやいた、「これで地面でも人間でも|さが《探》せる。」  そして糸と糸とをつなぎ合わしてゆくように、男がたどったと思われる道筋にできるだけよく従いながら、彼は|木立ち《木立》の中を進み始めた。  |大また《大股》に百歩ばかり進んだ頃、上りかける太陽の光の助けを得た。所々《ところどころ》砂の上についてる足跡、踏みにじられた草、押し分けられた灌木、目をさましながら伸びをする美人の腕のような|やさ《優》しいゆるやかさで、茂みの中に身を起こしつつある曲《/曲》げられた若枝、《:、》そういうものが彼に道筋を示してくれた。彼はそれに従っていった。それからそれを見失った。時は過ぎていった。彼は森の中に深くはいり込んだ。そして一種の高所に達した。ギーユリーの歌の節《フシ》を口笛で吹きながら遠《/遠》くの小道を通ってゆく朝の猟人をひとり見て、彼は木へ登ってみようと思いついた。年は取っていたがなかなか敏捷だっ《-っ》た。ちょうどそこには、チチルス(訳者注◇ 橅《ブナ》の木の下《-した》に横たわってる瞑想的な羊飼い──ヴィルギリウスの詩《-し》)と《:と》ブーラトリュエルとにふさわしい橅《ブナ》の大木が一本あった。ブーラトリュエルはできるだけ高くその橅《ブナ》に登った。  それはいい思いつきだった。|木立ち《木立》が入り組んで森が深くなってる寂然たる方面を|なが《眺》め回すと、突然《突然’》男の姿が見えた。  しかし男は、見えたかと思うまにま《”ま》た隠れてしまった。  男は大木の茂みに|おお《覆》い隠されてるかなり向こうの開《ひら》けた場所へ、はいり込んだ、というよりもむ《/む》しろすべり込んだのである。しかしブーラトリュエルはその開《ひら》けた場所をよく知っていて、そこには臼石がうずたかく積んであり、《:、》そのそばに、亜鉛板《+トタン板》を樹皮へじかに打ち付けてある枯《/枯》れかかった栗の木が一本あるのを、よく見ておいた。その開《ひら》けた場所は、ブラリュの地所と昔言われた所だった。積まれた石は何《なん》にするためのものかわからなかったが、三十年前までは確かにそのまま残っていた。今日《コンニチ》もまだたぶんそこにあるだろう。板塀がいくら長くもつと言っても、およそ石の積んだのくらい長くもつものはな《無》い。ところがそこには一時のものでたくさんで、長くもたせなければならないような理由は一つもなかったのである。  ブーラトリュエルは喜びの余り大急ぎで、木からおりた、というよりむしろすべり落ちた。穴は見つかった。今は獣を捕えるだけだった。夢みていたあの|たいへん《大変》な宝は、たぶんそこにあるに違いなかった。  しかしその開《ひら》けた場所まで行くのは、そう容易なことではなかった。無数の稲妻形の意地悪《/意地悪》く曲がりくねってる知った小道から行けば、十五分くらいは充分かかるのだった。一直線に進んでゆくには、木の茂みがその辺はことに厚く、荊棘《+イバラ》が深く強くて、三十分はたっぷりかかるのだった。ブーラトリュエルはこの点を思い誤った。彼は一直線の方《ほう》を信じた。一直線ということは、尊むべき幻覚ではあるが、往々人《往々’人》を誤らせることが多い。茂みが深く交差していたが、ブーラトリュエルはそれを最善の道のように思った。 「狼の大通りから行ってやれ。」と彼は言った。  ブーラトリュエルはいつも斜めな道を取るにな《慣》れていて、こんどだけ|まっす《真っ直》ぐな道を歩くのは誤りだった。  彼は思い切って、入り乱れた藪の中につき進んだ。  柊や蕁麻《+/イラグサ》や山査子《/山査子》や野薔薇《/野薔薇》や薊《/薊》や気短《/気短》かな茨などと戦わなければならなかった。非常な掻傷《掻き傷》を受けた。  低地の底では水たまりに出会って、それを渡らなければならなかった。  彼はついに四十分ばかりの後、ブラリュの空地《空き地》へたどりついた。汗を流し、着物をぬらし、息を切らし、肉を引き裂かれ、恐ろしい姿になっていた。  空地《空き地》には|だれ《誰》もいなかった。  ブーラトリュエルは石の積んである所へ走り寄った。石は元のとおりだった。動かされた跡はなかった。  男の方《ほう》は、森の中に消えうせていた。逃げてしまっていた。どこへ、どの方面へ、どの茂みの中へか? それを察知することはまったくできなかった。  しかも遺憾きわまることには、石の積んであるうしろに、亜鉛の張ってある木の前に、掘り返したばかりの新しい土《ツチ》があり、忘れられたか捨《/捨》てられたかした鶴嘴が一つあり、また穴が一つあった。  穴は空《から》だった。 「泥坊め!《/》」とブーラトリュエルは地平線に向かって両の拳を振り上げながら叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【マリユス国内戦《/国内戦》よりいでて家庭戦《/家庭戦》の準備をなす】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは長い間死《あいだ死》んでるのか生きてるのかわからない状態にあった。数週間熱《数週間’熱》が続き、それに伴って意識の昏迷をきたし、また、傷そのものよりもむ《/む》しろ頭部の傷の刺激から来るか《/か》なり危険な脳症の徴候を示していた。  彼は最初のうち幾晩も、熱に浮かされた痛ましい饒舌になり、妙に執拗な苦悩のうちに、コゼットの名を呼び続けた。|二、三《ニサン》の大きな傷はことに危険なものだった。大きな傷口の膿《+ノウ》は常に内部へ吸収されがちなもので、その結果、大気のある影響を受けて患者を殺すことがある。それで天気の変化するごとに、わずかの暴風雨にも、医者は心配していた。「何よりもまず病人の気をいら立たせてはいけません、」と彼は繰り返し言っていた。絆創膏でガーゼや繃帯を止める仕方は当時まだ見いだされていなかったので、手当ては複雑で困難だった。ニコレットは|敷き布《敷布》を一枚ほごして綿撒糸《+メンザンシ》を作った。「天井ほどの大きな|敷き布《敷布》」と彼女は言っていた。塩化洗滌薬《+塩化洗浄薬》と硝酸銀とを腐蝕部の奥まで達せさせるのも、容易なことではなかった。危険の間《あいだ》、ジルノルマ《マ-》ン氏は孫の枕頭《+枕元》につき添いながら惘然《呆然》として、マリユスと同様に死んでるのか生きてるのかわからなかった。  毎日、時によると一日に二度も、門番の言うところによるとご《「ご》く|りっぱ《立派》な服装の白髪の紳士が《」が》、病人の様子を尋ねにきて、《:、》手当てのためと言って綿撒糸《+メンザンシ》の大きな包みを置いていった。  ついに九月の七日、瀕死のマリユスが祖父の家に運ばれてきた悲《/悲》しい夜から満三《満3》カ月たった時、医者はその生命《イノチ》を保証すると明言した。回復期がやってきた。けれどもなお彼は、鎖骨の挫折からくる容態のために、二カ月余りも長椅子の上に身を横たえていなければならなかった。いつまでも口のふさがらない傷が残って、手当てを長引かし、病人をひどく退屈がらせることがよくある。  しかし、その長い病と長《/長》い回復期とのために、彼は官憲の追求を免れた。フランスにおいてはいかなる激怒も、公《公け》の激怒でさえ、六カ月もた《経》てば消えてしまう。それに当時の社会状態にあっては、暴動は|だれ《誰》でもしやすい過失であって、それに対してはある程度まで目を閉じてやらなければならなかった。  なおその上、ジスケの無茶な命令は、負傷者を申し出るように医者に強いて、輿論を激昂《ゲッコウ》さし、《:、》また輿論のみでなく第一に国王をも激昂《ゲッコウ》さしたので、負傷者らはその激昂《ゲッコウ》のために隠匿され保護《/保護》された。そして軍法会議では、戦争中に捕虜となった者のほかは、いっさい不問に付することに決した。それでマリユスは無事のままでいることができた。  ジルノルマ《マ-》ン氏は最初あらゆる心痛を経て、次にあらゆる狂喜を感じた。毎晩負傷者の傍《傍ら》で夜を明かすのをやめさすのは、非常な骨折りだった。彼はマリユスの寝台のそばに自分の大きな|肱掛け《肱掛》椅子を持ってこさした。圧定布《当て布》や繃帯を作るためには家にある最上の布を使うように娘に言いつけた。けれどもジルノルマン嬢は、年取った悧巧《利口》な女だったので、老人の命に従うように見せかけながら、最上の布は皆《-みんな》しまっておいた。綿撒糸《+メンザンシ》を作るにはバチスト織りの布よりも粗悪な布の方《ほう》がよく、新しい布よりも擦り切れた布の方《ほう》がよいということを、ジルノルマ《マ-》ン氏はどうしても承認しなかった。手当ての時には、ジルノルマン嬢は謹んで席をはずしたが、ジルノルマ《マ-》ン氏はいつもそこについていた。鋏で死肉を切り取る時《とき》、彼はいつも自ら「いた、いたい!《/》」と|うめ《呻》いていた。震えを帯びてる老衰した姿で病人に煎薬の茶碗を差し出してる所は、見るも痛ましいほどだった。彼はやたらにいろんなことを医者に尋ねた。そしていつも同じ質問を繰り返してることには自ら気づかなかった。  マリユスがもう危険状態を脱したと医者から告げられた日、老人は常識を失った。彼は門番に慰労としてルイ金貨を三つ与えた。その晩自分の室《+部屋》に退くと、親指と人差し指とでカスタネットの調子を取って、ガヴォットを踊り、次のような歌を歌った。 ◇。◇。  ジャンヌの生まれはフーゼール、  羊飼い女のまことの巣。  われは愛す、その裳衣《ショーイ》、     すね者。 ◇。◇。  愛は彼女のうちに生く。  彼女の瞳のうちにこそ、  愛は置きぬ、その矢筒、     やたら者。 ◇。◇。  われは彼女を歌にせん。  ディアナよりもなおいとし、  わがジャンヌとその乳房、     ちから者。 ◇。◇。  それから彼は椅子の上にひざまずいた。少し開いてる扉のすきから彼の様子を注意していたバスクは、たしかに彼が祈りをしているのだと思った。  その時まで、彼はほとんど神を信じていなかったのである。  マリユスの容態がますますよくなってゆくごとに、祖父は狂わんばかりになった。やたらにうれしげな機械的《/機械的》な行動をした。自分でなぜともわからずに階段を上ったり下ったりした。隣に住んでたひとりの美しい婦人は、ある朝大《朝/大》きな花輪を受け取って茫然とした。それを贈ったのはジルノルマ《マ-》ン氏だった。そのために彼女は夫から疑られまでした。ジルノルマ《マ-》ン氏はニコレットを膝に抱き上げようとした。マリユスを男爵殿《男爵どの》と呼んだ。「共和万歳!《/》」と叫ぶこともあった。  彼は始終医者に尋ねた、「もう危険はないでしょうね。」彼は祖母のような目つきでマリユスを|なが《眺》めた。マリユスが物を食べる時はそれから目を離さなかった。彼はもう自分を忘れ、自分を眼中に置いていなかった。マリユスが一家の主人となっていた。彼は喜びの余り自分《/自分》の地位を譲り与え、孫に対して自分の方《ほう》が孫となっていた。  そういう喜悦のうちにあって、彼は最も尊むべき子供となっていた。癒りかかった病人を疲らしたりわずらわしたりすることを恐れて、ほほえみかける時でさえそのうしろにまわった。彼は満足で、愉快で、有頂天で、麗しく、若々しくなった。その白髪は、顔に現われてる喜びの輝きに、一種のやさしい威厳を添えた。高雅な趣が顔の皺といっしょになる時には、いかにも景慕すべきものとなる。花を開いた老年のうちには言い知れぬ曙の気がある。  マリユスの方《ほう》は、人々に包帯をさせ看護《/看護》をさせながら、コゼットという一つの固定した観念をいだいていた。  熱と昏迷とが去って以来、彼はもうその名前を口にせず、あるいはもうそのことを考えていないのかとも思われた。しかし彼が黙っていたのは、まさしく彼の魂がそこに行ってるからだった。  彼はコゼットがどうなったか少しも知らなかった。シャンヴルリー街の事件はただ一片の雲のように記憶の中に漂っていた。エポニーヌやガ《/ガ》ヴローシュやマ《/マ》ブーフやテ《/テ》ナルディエ一家の者や、防寨の硝煙にものすごく包まれてる友人らなどは、皆《みんな》ほとんど見分けのつかないほどの影となって彼《/彼》の脳裏に浮かんでいた。その血まみれの事件のうちに不思議にもフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏が現われたことは、暴風雨中《暴風雨ちゅう》の謎のように彼には思えた。自分の生命《イノチ》については彼は何《なん》にもわからなかった。どうしてま《”ま》た|だれ《誰》から救われたのか少しも知らなかった。周囲の人々にもそれを知ってる者はなかった。周囲の人々から彼が聞き得たことは、辻馬車に乗せられて夜中《/夜中》にフィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれてきたということだけだった。過去も現在も未来も、すべては彼にとって漠然たる観念の靄にすぎなかった。しかしその靄の中に、不動な一点が、明確な一つの形が、花崗岩でできてるようなある物が、一つの決意が、一つの意志が、存在していた。すなわち再びコゼットに会うことだった。彼にとっては、生命《イノチ》の観念とコゼットの観念とは別々のものではなかった。彼は心のうちで、その一方だけを受け取ることはすまいと決していた。|だれ《誰》でも自分を生きさせようと望む者には、祖父にも運命《/運命》にも地獄《/地獄》にも、消えうせたエデンの園を戻すように要求してやろうと、決心の臍《ホゾ》を固めていた。  それに対する障害は、彼も自らよく認めていた。  特に一事をここに力説しておくが、祖父のあらゆる親切や慈愛も、彼の心を奪うことは少しもできず、彼の心を和らげることはあまりできなかった。第一、彼はすべてのことをよく知っていなかった。次に、まだおそらく熱に浮かされてる病床の夢想のうちに彼は、自分を懐柔しようとする変な新しい試みと見做して、祖父のやさしい態度を信じなかった。彼は冷淡にしていた。祖父はそのあわれな老いた微笑を空しく費やすのみだった。マリユスはこう考えていた。自分が何《なん》にも口をきかずな《/な》されるままにしている間《あいだ》だけ、祖父も穏やかにしているのだ、《:、》しかし問題が一度コゼットのことにおよんだなら、祖父の顔は一変し、その真の態度が仮面をぬいで現われて来るに違いない。その時こそきびしいことが起こってくる、家庭問題の再発、身分の相違、一度に出てくるあらゆる嘲弄や異議、フォーシュルヴァンとかまたはクープルヴァン、財産、貧乏、困窮、首につけた石、将来、などということが。そして激しい反対と、結局の拒絶。か《斯》く考えてマリユスはあらかじめ心を固めていた。  それからなお、生命《イノチ》を回復するにしたがって、心の古い痛みはまた現われてき、記憶の古傷はまた口を開いてきた。彼は再び過去のことを思いやった。ポンメルシー大佐は再びジルノルマ《マ-》ン氏と彼マリユスとの間《あいだ》につっ立った。自分の父に対してあ《/あ》れほど不正で酷薄であった人から、何ら真の好意が望まれるものではないと彼は考えた。そして健康とともに、祖父に対する一種の頑固さが彼に戻ってきた。そのために老人はやさしく心を痛めた。  ジルノルマ《マ-》ン氏は少しも様子に現わしはしなかったが、マリユスが家に運ばれてきて以来、意識を回復して以来、一度も自分を父と呼んだことのないのを、深く心にとめていた。もとよりマリユスは他人らしい敬称で彼を呼びはしなかった。しかしその父という語もま《”ま》たは敬称をも使わないように、一種の言い回し方をしていた。  危機は明らかに近づいてきた。  かかる場合にいつもあるとおり、マリユスはまず試みのために、いよいよ戦端を開く前に斥候戦をやってみた。いわゆる瀬踏である。ある朝偶然《朝/偶然》にも、ジルノルマ《マ-》ン氏は手にした新聞のことから、国約議会《コクヤク議会》のことを少し論じ、ダントンやサ《/サ》ン・ジュストやロ《/ロ》ベスピエールに対して王党《/王党》らしい嘲りの口吻をもらした。すると、「九十三年に働いた人々は皆大人物です、」とマリユスはいかめしく言った。老人は口を噤んでしまって、その日は終日一言も発しなかった。  マリユスは一歩も譲ることをしない往年の祖父をいつも頭に置いていたので、その沈黙を深い憤怒《フンヌ》の集中だと思い、それから激しい論争が起こることを予期し、頭の奥で戦いの準備をますます固めた。  彼は心にきめていた、もし拒絶される場合には、包帯を破りすて、鎖骨をはずし、残ってる傷を|なまなま《生々》しくむき出し、いっさい食物を取るまいと。傷はすなわち戦いの武器だった。コゼットを得るかもしくは死ぬ、と彼は決心していた。  彼は病人の狡猾な忍耐で好機会を待っていた。  その機会は到来した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【マリユス攻勢《/攻勢》を取る】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある日ジルノルマ《マ-》ン氏は、戸棚の大理石板の上に壜《/壜》やコップを娘が片づけてる時、マリユスの上に身をかがめて、最もやさしい調子で彼に言った。 「ねえマリユス、|わし《儂》がもしお前だったら、もう魚より肉の方《ほう》を食べるがね。比目魚《+ヒラメ》のフライも回復期のはじめには結構だが、病人が立って歩けるようになるには、上等の脇肉《+ワキニク》を食べるに限るよ。」  マリユスはもうほとんど体力をすべて回復していたが、更にその力を集中して、そこに半身《ハンミ》を起こし、握りしめた両の拳を|敷き布《敷布》の上につき、祖父の顔をまともにじっと|なが《眺》め、恐ろしい様子をして言った。 「そうおっしゃれば一つ申したいことがあります。」 「何かね?」 「私は結婚したいのです。」 「そんなことなら前からわかっている。」と祖父は言った。そして笑い出した。 「何《なん》ですって、わかっていますって?」 「うむ、わかっているよ。あの娘《ムスメ》をもらうがいい。」  マリユスはその一言に惘然《呆然》として眩惑し、手足を震わした。  ジルノルマ《マ-》ン氏は続けて言った。 「そうだ、あのきれいなかわいい娘をもらうがいい。あの娘《ムスメ》は毎日、老人を代わりによこしてお前の様子を尋ねさしている。お前が負傷してからというもの、いつも泣きながら綿撒糸《+メンザンシ》をこしらえてばかりいる。|わし《儂》はよく知ってる。オンム・アルメ街七番地《街7番地》に今住《今’住》んでいる。ああ《あ/》いいとも。好きならもらうがいい。お前はすっかりはまり込んでいるな。お前はつまらない計画を立てて、こう考えたんだろう。『あの祖父《+ジジイ》に、あの摂政時代と執政内閣時代との木乃伊に、あの古めかしい洒落者に、《:、》あのゼロントとなったドラントに(訳者注◇ 共にモリエールの戯曲中の人物にて、ゼロントは欺かれやすい愚かな好々爺、ドラントは|ばか《馬鹿》げた気取りや)、《:、》きっぱりと思い知らしてやろう。彼だって昔は、おもしろいことをやって、情婦《+色女》をこしらえ、小娘をひっかけ、幾人ものコゼットを持っていたんだ。お化粧をし、翼をつけ、春のパンを食ったことがあるんだ。昔のことを少し思い出さして《て-》やらなけりゃいけない。どうなるかみてるがいい。戦争だ。』そう思ってお前は甲虫《カブトムシ》の角《ツノ》をつかまえたわけだな。いい考えだ。そこで|わし《儂》が脇肉《+ワキニク》はどうだと言い出したら、実は結婚したいのですが、と答えたんだな。それは話をそらすというものだ。お前は少し言い争うつもりでいたんだろう。|わし《儂》がこれでも古狸であることを、お前は知らなかったんだ。どうだね。腹が立つかね。祖父《+お爺》さんを少し|ばか《馬鹿》にしてやろうなどと思っても、そうはいかないさ。議論なんかしかけようたって|むだ《無駄》なことさ。弁護士さん、癪にさわるかね。まあ怒るのは損だよ。お前のすきなようにしてやれば、文句もなかろうというものだ。|ばか《馬鹿》だね。まあ聞きなさい。|わし《儂》もなかなかずるくてな、いろいろ調べてみたんだ。なるほどきれいで悧巧《利口》な娘だ。槍騎兵の話も嘘だった。綿撒糸《+メンザンシ》を山のように作ってくれたよ。実に|りっぱ《立派》な娘だ。お前に逆上せきってる。もしお前が死んだら、三人になるところだった、娘の葬式が|わし《儂》の葬式に続いて出る所《ところ》だった。|わし《儂》もな、お前がよくなりかけてからは、娘を枕頭《+枕元》に連れてきてやろうとは思ったが、美男子が負傷して寝てる所へ、夢中になってる若い娘をすぐに連れてくるのも、小説ならともかく、実際は《は-》ちと困るからな。伯母さんもどう言うかわからないしね。お前は素裸になってる時の方《ほう》が多いくらいだった。いつもそばについてたニコレットに聞いてみなさい、婦人を傍《ソバ》に置けたかどうか。それからまた医者もどう言うかわからない。きれいな娘は決して人の熱を下げてくれるものではないからな。だが、もうそれでいい、こんな話はやめよう。すっかりきまってる。でき上がってる。まとまってることなんだ。あの娘《ムスメ》をもらうがいい。|わし《儂》の意地悪さと言えばまあそんなものだ。ねえ、|わし《儂》はな《ナ》、お前からきらわれてるのを見て取って、こう考えた。『こいつが俺を愛するようになるには、どうしたらいいかな。』そしてまた|わし《儂》は考えた。『なるほど、コゼットが俺の手の中にある。コゼットを一つく《-く》れてやろう。そうしたら少しは俺を愛してくれるに違いない。あるいはまた、愛しない理由を言うに違いない。』ところがお前は、この爺さんがやかましく言い、大きな声を立て、反対をとなえ、その夜明けのような娘の上に杖を振り上げることと、思っていたんだろう。だがそんなことを|わし《儂》がするものか。コゼットも結構、恋も結構、|わし《儂》はもうそれで十分だ。だからどうか結婚してくれ。かわいいお前のことだもの、幸福になってくれ。」  そう言って、老人は涙にむせんだ。  彼はマリユスの頭を取り、それを年老いた胸に両腕で抱きしめた。そして|ふたり《二人》とも泣き出した。泣くのは最上の幸福の一つの形である。 「お父さん!《/》」とマリユスが叫んだ。 「ああ、では|わし《儂》を愛してくれるか?」と老人は言った。  それは名状し難い瞬間だった。|ふたり《二人》は息をつ《詰》まらして、口をきくこともできなかった。やがて老人はつぶやいた。 「さあ、これで口もあけた。|わし《儂》をお父さんと言ってくれた。」  マリユスは祖父の腕から頭をはずして、静かに言った。 「ですがお父さん、もう私は丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います。」 「それも承知してる。明日会わしてやろう。」 「お父さん!」 「何かね。」 「なぜ今日はいけないんです。」 「では今日、そう今日《/今日》にしよう。お前は三度お父さんと言ったね、それに免じて許してやろう。|わし《儂》が引き受ける。お前のそばへ連れてこさせよう。こうなるだろうと思っていた。ちゃんと詩《-し》にもなってる。アンドレ・シェニエの病める若者という悲歌の末句《マック》だ。九十三年の悪《アク:》‥‥大人物どもから斬首されたアンドレ・シェニエのね。」  ジルノルマ《マ-》ン氏はマリユスがちょっと眉をしかめたように思った。しかしあえて言っておくが、マリユスはまったく歓喜のうちに包まれ、1793年のことなんかよりもコ《/コ》ゼットのことを多く考えていて、老人の言葉に耳を傾けていなかった。けれども祖父は、折り悪しくアンドレ・シェニエを口にして自ら震え上がり、急いで弁解を始めた。 「斬首というのは適当でない。事実を言えば、革命の偉人たちは、確かに悪人ではなく英雄であったが、アンドレ・シェニエを少し邪魔にして、彼を断頭‥‥《‥:》すなわち、その英傑たちは、共和熱月《共和熱ガツ》七日(1794年七月二十五日)、公衆の安寧のために、アンドレ・シェニエに願って‥‥。」  ジルノルマ《マ-》ン氏は自分の言おうとする言葉に喉をしめつけられて、あとを続けることができなかった。言い終えることも言い直すこともできず、娘がマリユスのうしろで枕を直してる間《あいだ》に、激情に心転倒《心’転倒》して、老年の足が許す限りの早さで、寝室の外に飛び出し、うしろに扉を押ししめ、|まっか《真っ赤》になり、喉をつまらし、口に泡を立て、目をむき出して、《:、》ちょうど次の室《+部屋》で靴をみがいていた正直なバスクとばったり顔《’顔》を合わした。彼はバスクの襟をとらえ、ま《真》っ正面から勢い込めてどなりつけた。「畜生、その悪漢どもが殺害したんだ!」 「|だれ《誰》をでございますか。」 「アンドレ・シェニエをだ!」 「さようでございます。」とバスクは驚き恐れて言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の小わきの包み】 ◇。◇。◇。◇。◇。  コゼットとマリユスとは再び会った。  その面会はどんなものであったか、それを語るのをわれわれはやめよう。世には描写すべからざるものがある。たとえば太陽もその一つである。  コゼットがはいってきた時には、バスクやニコレットをも加えて一家《/一家》の者が皆マリユスの室《+部屋》に集まっていた。  彼女は閾の上に現われた。その姿はあたかも円光に包まれてるかと思われた。  ちょうどその時祖父は鼻をかもうとしていた。彼はそれを急にやめ、ハンカチで鼻を押さえたまま、その上からコゼットを|なが《眺》めた。 「みごとな娘だ!《/》」と彼は叫んだ。  それから彼は大きな音を立てて鼻をかんだ。  コゼットは、酔い、喜び、おびえ、天に上ったような心地になっていた。彼女はおよそ幸福が与え得《う》るだけの恐怖を感じていた。彼女は口ごもり、|まっさお《真っ青》になり、また|まっか《真っ赤》になり、マリユスの腕に身を投じたく思いながらあ《/あ》えてなし得なかった。大勢《大ぜい》の人前で愛するのをはずかしがったのである。人は幸福なる恋人らに対して無慈悲である。彼らが最も|ふたり《二人》きりでいたく思う時にはそこに控えている。しかし|ふたり《二人》はまったく他人を必要としないのである。  コゼットと共に、白髪の老人がひとりそのあとから|はい《入》ってきた。彼は荘重な顔つきをしていたが、それでもほほえんでいた。しかしそれはぼんやりした痛ましい微笑だった。この老人は「フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏」で、すなわちジ《ジ-》ャン・ヴァルジャンであった。  彼は新しい黒服をまとい白《/白》い襟飾りをつけて、門番が言ったとおりご《/極》く|りっぱ《立派》な服装をしていた。  公証人ででもありそうなその|きちょうめん《几帳面》な市民が、あの六月七日の夜、気絶したマリユスを腕にかかえ、|ぼろ《ボロ》をまとい、不潔で醜《/醜》く荒々《/荒々》しく、《:、》血と泥とにまみれた顔をして、門の中にはいってきた恐ろしい死体運搬人《死体運搬にん》であろうとは、門番は夢にも思いつかなかった。しかしどことなく見覚えがあるように思った。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏がコゼットと共にやってきた時、門番はそっと女房にささやかざるを得なかった。「何だかあの人は前に見たことがあるようにいつも思われてならないがね、どうも変だ。」  フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏はマリユスの室《+部屋》の中で、わきによけるように扉のそばに立っていた。彼は小わきに、紙にくるんだ八折本《ヤツオリボン》らしい包みを抱えていた。包み紙は緑がかった色で、黴がはえてるようだった。 「あの人はいつもああして書物を抱えていなさるのかしら。」と書物|ぎらい《ギライ》なジルノルマン嬢は、低い声でニコレットに尋ねた。 「そう、あの人は学者だ。」とその声を耳にしたジルノルマ《マ-》ン氏は同じ小声で答えた。「だがそんなことはかまわんじゃないか。|わし《儂》が知ってるブーラールという人もやはり、いつも書物を持って歩いていて、ちょうどあのように古本を胸に抱いていた。」  そしてお辞儀をしながら、彼は高い声で言った。 「トランシュルヴァンさん‥‥。」  ジルノルマン老人は他意あってそんなふうに呼んだのではなかった。人の名前にとんちゃくしないのは、彼にとっては一つの貴族的な癖だった。 「トランシュルヴァンさん、わたしは、孫のマリユス・ポンメルシー男爵のために御令嬢《/御令嬢》に結婚を申し込みますのを、光栄と存じます。」 「トランシュルヴァン氏」は頭を下げた。 「これできまった。」と祖父は言った。  そしてマリユスとコゼットとの方を向き、祝福するように両腕をひろげて叫んだ。 「互いに愛し合うことを許す。」  彼らは二度とその言葉を繰り返させなかった。言われるが早いかすぐに楽しく話し出した。マリユスは長椅子の上に肱をついて身を起こし、コゼットはそのそばに立って、互いに声低く語り合った。コゼットはささやいた。「ああ《あ/》うれしいこと、またお目にかかれたのね。ねえ、あなた、あなた! 戦争においでなすったのね。なぜなの。恐ろしいことだわ。四月《+ヨツキ》の間私《あいだ私》は生きてる気はしなかったわ。戦争に行くなんて、ほんに意地悪ね。私あなたに何をして? でも許して上げてよ。これからもうそんなことをしてはいけないわ。さっき、私たちに来るようにって使いがきた時、私はまたも《/も》う死ぬのかと思ったの。でもうれしいことだったのね。私は悲しくて悲しくて、着物を着換《着が》えることもできなかったのよ。大変な服装《+ナリ》をしてるでしょう。しわくちゃな襟飾りをしてるところをごらんなすって、お家の方は何とおっしゃるでしょうね。さあ、あなたも少し話してちょうだい。私にばかり口をきかしていらっしゃるのね。私たちはずっとオンム・アルメ街にいたのよ。あなたの肩の傷はさぞひどかったんでしょうね。手が|はい《入》るくらいだったそうですってね。それに鋏で肉を切り取ったんですってね。ほんとに恐ろしい。私は泣いてばかりいたので、目を悪くしてしまったの。どうしてあんなに苦しんだかと思うとおかしいほどよ。お祖父様は御親切《ご親切》そうな方ね。静かにしていらっしゃいな、肱で起き上がってはいけないわ。用心なさらないと、障るでしょう。ああ《あ/》私ほんとに|仕合わ《幸》せだこと! 悪いことももう済んでしまったのね。私どうかしたのかしら。いろんなことをお話《話し》したいと思ったのに、すっかり忘れてしまった。やっぱりあなたは私を愛して下さるの? 私たちはオンム・アルメ街に住んでるのよ。庭はないの。私はいつも綿撒糸《+メンザンシ》ばかりこしらえていたわ。ねえあなた、ごらんなさい、指に胼胝《+タコ》ができてしまったわ。あなたが悪いのよ。」マリユスは言った。「おお《お/》天使よ!」  天使という言葉こそ、使い古すことのできない唯一のものである。他の言葉はみな、恋人らの無茶な使用にはた《耐》え得ない。  それから、あたりに人がいるので、|ふたり《二人》は口をつぐんでも《/も》う一言も言わず、ただ|やさ《優》しく手を握り合ってるばかりだった。  ジルノルマ《マ-》ン氏は室《+部屋》の中にいる人々の方へ向いて声高《コワダカ》に言った。 「みんな声を高くして話すんだ。楽屋の方《ほう》で音を立てるんだ。さあ、子供|ふたり《二人》で勝手にしゃべくるように、少し騒ぐがいい。」  そして彼はマリユスとコゼットに近寄って、ごく低く言った。 「うちとけて親しむがいい。遠慮するにはおよばない。」  ジルノルマン伯母は、古ぼけた家庭にか《斯》く突然《突然’》光がさし込んできたのを惘然《呆然》として|なが《眺》めていた。惘然《呆然》さのうちには何らの悪意もなかった。それは二羽の山鳩に対する梟の憤《/憤》った妬ましい目つきでは少しもなかった。五十七歳の罪のない老女の唖然たる目つきであり、愛の勝利を|なが《眺》めてる空しい生命《イノチ》だった。 「どうだ、」と父は彼女に言った、「こんなことになるだろうと|わし《儂》がかねて言ったとおりではないか。」  彼はちょっと黙ったが、言い添えた。 「他人の幸福も見るものだ。」  それから彼はコゼットの方《ほう》に向いた。 「実にきれいだ、実にきれいだ! グルーズの絵のようだ。おい、いたずらっ児《子》さん、お前はひとりでこれからその娘さんを独占するんだな。|わし《儂》と張り合わずにすんで|仕合わ《幸》せだ。|わし《儂》がもし十五年も若けりゃ、剣を取ってもお前と競争するからな。いや、お嬢さん、わたしはお前さんに惚れ込んでしまった。しかし怪しむに当たらない。それはお前さんの権利だ。ああ《あ/》これで、美しいき《/き》れいな楽《/楽》しいか《/か》わいい結婚が一つ出来上がる。ここの教区はサン・ドゥニ・デュ・サン・サクルマンだが、サン・ポールで結婚式をあげるように許しを得てやろう。あの教会堂の方《ほう》が上等だ。ゼジュイット派が建てたものだ。あの方《ほう》が美しい。ビラーグ枢機官の噴水と向き合っている。ゼジュイット派建築の傑作は、ナムュール市にあって、サン・ルーと言われてる。お前たちが結婚したらそこへ行ってみるがいい。旅するだけの価値はある。お嬢さん、わたしも全然お前さんの味方だ。娘が結婚するのはいいことだ。結婚するようにできている。聖カテリナ(訳者注◇ 四世紀初葉《4世紀初葉》の殉教者にして若《/若》い娘の守護神)のような女で、|わし《儂》がいつもその髪を解かせたく思うのが、世にはたくさんある。娘のままでいるのも結構なことだが、それはどうも冷たすぎる。聖書にもある、増せよ殖えよと。人民を救うにはジャンヌ・ダルクのような女も必要だが、しかし人民を作るにはジゴーニュ小母さん(訳者注◇ 人形芝居の人物にて、裳衣《ショーイ》の下からたくさんの子供を出してみせる女)のような女が必要だ。だから美人はすべからく結婚すべし。実際独身《実際/独身》でいて何のためになるか|わし《儂》にはさっぱりわからん。なるほど、教会堂に特別の礼拝所を持ち、聖母会の連中の噂ばかりする者も世にはある。しかし結婚して、夫は|りっぱ《立派》な好男子だし、一年たてば金髪の大きな赤ん坊ができ、元気に乳を吸い、腿は肥ってよくくくれ、曙のように笑いながら、薔薇色の小さな手でいっぱいに乳房を握りしめるとすれば、《:、》晩の祈祷に蝋燭を持って象牙の塔(聖母マリア)を歌うよりも、よほど勝《優》っている。」  祖父は九十歳の踵でくるりと回って、発条《+バネ》がとけるような具合に言い出した。 ◇。◇。 「か《斯》くてアルシペよ、夢想に限界《+限り》を定めて、  やがて汝《+ナ》が婚姻するは、まことなるか。 ◇。◇。  時にね。」 「何《なん》です、お父さん。」 「お前には親しい友だちがあったか。」 「ええ、クールフェーラックという者です。」 「今どうしてる?」 「死んでいます。」 「それでいい。」  彼は|ふたり《二人》のそばに腰を掛け、コゼットにも腰掛けさし、彼らの四つの手を自分の年老いた皺のある手に取った。 「実に|りっぱ《立派》な娘さんだ。このコゼットはまったく傑作だ。小娘でまた貴婦人だ。男爵夫人には惜しい。生まれながらの侯爵夫人だ。睫毛も|りっぱ《立派》だ。いいかね、お前たちは本当の道を踏んでるということをよく頭に入れとかなくてはいかん。互いに愛し合うんだ。愛して|ばか《馬鹿》になるんだ。愛というものは、人間の愚蒙で神の知恵だ。互いに慕い合うがいい。ただ、」と彼は急に沈み込んで言い添えた、「一つ悲しいことがある。それが|わし《儂》の気がかりだ。|わし《儂》の財産の半分以上は終身年金になっている。|わし《儂》が生きてる間はいいが、|わし《儂》が死んだら、もう二十年もしたら、かわいそうだが、お前たちは|一文な《一文無》しになる。男爵夫人たるこのま《真》っ白な美しい手も、食うために働かなくてはならないことになるだろう。」  その時、荘重な落ち着いた声が聞こえた。 「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢は、六十万フランの金《-かね》を持っています。」  その声はジャン・ヴァルジャンから出たのだった。  彼はその時まで一言も口をきかずにいた。|だれ《誰》も彼がそこにいることさえ知らないが《が-》ようだった。そして彼は幸福な人々のうしろにじっと立っていた。 「ウューフラジー嬢というのは何のことだろう?」と祖父はびっくりして尋ねた。 「私です。」とコゼットは答えた。 「六十万フラン!《/》」とジルノルマ《マ-》ン氏は言った。 「たぶん一万|四、五千《シゴ千》フランはそれに足りないかも知れませんが。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  そして彼はジルノルマン嬢が書物だと思っていた包みをテーブルの上に置いた。  ジャン・ヴァルジャンは自ら包みを開いた。それは一束《-ひと束》の紙幣だった。人々はそれをひろげて数えてみた。千フランのが五百枚と五百《/五百》フランのが百六十八枚はいっていて、全部で五十八万四千フランあった。 「これは結構な書物だ。」とジルノルマ《マ-》ン氏は言った。 「五十八万四千フラン!《/》」と伯母がつぶやいた。 「これで万事うまくいく、そうじゃないか。」と祖父はジルノルマン嬢に言った。「マリユスの奴《ヤツ》、分限者の娘を狩り出したんだ。こうなったらお前も若い者の恋にかれこれ言えやしないだろう。学生は六十万フランの女学生を見つけ出す。美少年はロスチャイルド以上の働きをするというものだ。」 「五十八万四千フラン!《/》」とジルノルマン嬢は半ば口《くち》の中で繰り返していた。「五十八万四千フラン、まあ六十万フランだ。」  マリユスとコゼットとは、その間《あいだ》ただ互いに顔を見合っていた。|ふたり《二人》はそんなことにほとんど注意もしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【金《かね》は公証人よりもむ《/む》しろ森に託すべし】 ◇。◇。◇。◇。◇。  読者は長い説明を待つまでもなく既に了解したであろう。ジャン・ヴァルジャンはシャンマティユー事件の後《あと》、最初の数日間の逃走によって、パリーにき、モントルイュ・スュール・メールでマドレーヌ氏の名前で儲けていた金額を、ちょうどよくラフィット銀行から引き出すことができた。そして再び捕えられることを気使《気遣》って──果たして間もなく捕えられたが──《─:》モンフェルメイュの森の中のブラリュの地所と言われてる所に、その金《-かね》を埋めて隠しておいた。金額は六十三万フランで、全部銀行紙幣だったので、わずかな嵩で一つの小箱に納めることができた。ただその小箱に湿気を防ぐため、更に栗の木屑をいっぱいつめた樫の箱に入れておいた。同じ箱の中に彼は、も《もう》一つの宝である司教の燭台をもしまった。モントルイュ・スュール・メールから逃走する時彼がその二つの燭台を持っていったことを、読者は記憶しているだろう。ある夕方ブ《/ブ》ーラトリュエルが最初に見つけた男は、ジャン・ヴァルジャンにほかならなかった。その後ジャン・ヴァルジャンは、金《かね》がいるたびごとにそれを取りにブラリュの空地《空き地》にやってきた。前に言ったとおり彼が時々家《時々’家》をあけたのは、そのためだった。彼は人の気づかない茂みの中に一本の鶴嘴を隠しておいた。それから彼は、マリユスが回復期にはいったのを見た時、その金《-かね》の役立つ時機が近づいたのを感じて、それを取りに出かけていった。ブーラトリュエルが森の中でこ《/こ》んどは夕方でなく早朝に見かけた男は、やはりジ《ジ-》ャン・ヴァルジャンだった。ブーラトリュエルはその鶴嘴だけを受け継いだ。  実際に残ってた金額は五十八万四千五百フランだった。ジャン・ヴァルジャンはそのうち五百フランだけを自分のために引き去っておいた。「あとはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。  その金額とラフィット銀行から引き出した六十三万フランとの間の差額は、1823年から1833年に至る十年間の費用を示すものである。そのうち修道院にいた五年間は、ただ五千フランかかったのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは二つの銀の燭台を暖炉棚の上に置いた。その|りっぱ《立派》なのを見てトゥーサンはひどく感心していた。  それからまたジャン・ヴァルジャンは、ジャヴェルから免れたことを知っていた。その事実が自分の前で話されるのを聞いて、彼は機関新聞で更に確かめてみた。その記事によると、ジャヴェルというひとりの警視が、ポン・トー・シャンジュとポ《/ポ》ン・ヌーフの二つの橋の間《あいだ》の洗濯舟の下に溺死してるのが発見された、《:、》しかるに彼は元来上官《元来/上官》からもごく重んぜられ何《/何》ら非難すべき点もない男であって、その際残していった手記によって考えれば、精神に異状を呈して自殺を行なったものらしい、というのだった。ジャン・ヴァルジャンは考えた。「実際彼は、私を捕えながら放免したところをみると、どうしても既にあの時から気が狂っていたに違いない。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【コゼットを幸福ならしむる|ふたり《二人》の老人】 ◇。◇。◇。◇。◇。  結婚の準備は悉く整えられた。医者に相談すると、二月には行なってもいいという明言が得られた。今は十二月《12月》だった。か《斯》くて全《-まった》き幸福の楽しい数週間が過ぎていった。  祖父も同じように幸福だった。彼はよく|十四、五分間《ジュウシ五分間》もコゼットに見惚れてることがあった。 「実にきれいな娘だ!《/》」と彼は叫んだ。「そして至ってやさしく親切そうな様子だ。いとしき者よわ《/わ》が心よ、などと言ってもまだ足りない。これまで見たこともないほど美しい娘だ。やがては菫のように香《-か》んばしい婦徳も出て来るだろう。まったく優美の至りだ。こんな婦人といっしょにおれば、|だれ《誰》でも|りっぱ《立派》な生活をしないわけにはゆかない。マリユス、お前は男爵で金持ちだ。もう弁護士なんかにはならないでくれ、頼むから。」  コゼットとマリユスとは、にわかに墳墓から楽園に移ったが《が-》ようだった。その変化はあまりに意外だったので、|ふたり《二人》はたとい目が眩みはしなかったとするもま《”ま》ったく惘然《呆然》としてしまった。 「どうしてだかお前にわかる?」とマリユスはコゼットに言った。 「いいえ。」とコゼットは答えた。「ただ神様が私たちを見てて下さるような気がするの。」  ジャン・ヴァルジャンはすべてのことをなし、すべてを平らにし、すべてを和らげ、すべてを容易なら《ら-》しめた。彼はコゼット自身と同じくらい熱心に、また表面上いかにもうれしそうに、彼女の幸福を早めようとした。  彼は市長をしていたことがあるので、コゼットの戸籍という彼《/彼》ひとりが秘密を握ってる困難な問題をも、よく解決することができた。その身元を露骨に打ち明けたら、あるいは結婚が破れるかも知れなかった。彼はあらゆる困難をコゼットに免れさした。彼女のために死に絶えた一家をこしらえてやった。それはいかなる故障をも招かない安全な方法だった。コゼットは死に絶えた一家のただひとりの末裔となり、彼の娘ではなくて、|もひとり《もう一人》のフォーシュルヴァンの娘となった。|ふたり《二人》のフォーシュルヴァン兄弟はプティー・ピクプュスの修道院で庭番をしていたことがあるので、そこに聞き合わされた。よい消息や|りっぱ《立派》な証明はたくさんあった。善良な修道女らは、身元なんかの問題はよく知りもせずあ《/あ》まり注意してもいなかったし、また不正なことがされてようとも思っていなかったので、《:、》小さなコゼットは|ふたり《二人》のフォーシュルヴァンのどちらの娘であるかを本当に知ってはいなかった。彼女らは望まれるままの口をきき、しかも心からそう述べ立てた。身元証明書はすぐにでき上がった。コゼットは法律上ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢となった。彼女は両親ともにない孤児と確認された。ジャン・ヴァルジャンはうまく取り計らって、フォーシュルヴァンという名の下にコゼットの後見人と定められ、またジルノルマ《マ-》ン氏は後見監督人と定められた。  五十八万四千フランは、名を明かすことを欲しなかった今《/今》は亡くなってるある人から、コゼットへ遺贈されたものとなった。その遺産は初め五十九万四千フランだったが、内一万フランはウューフラジー嬢の教育費に使われ、その内五千フランは修道院に支払われたものだった。その遺産は第三者の手に保管され、コゼットが丁年に達するか結婚するかする時彼女《時/彼女》に渡されることになっていた。それらのことは、読者の見るとおりいかにももっともなことであって、特に百万の半ば以上という金《-かね》がついておればなおさらだった。もとよりいぶかしい点も所々ないではなかったが、人々はそれに気づかなかった。当事者のひとりは愛に目がおおわれていたし、他の人たちは六十万フランに目がおおわれていた。  コゼットは自分が長く父と呼び続けていた老人の娘でないことを聞かされた。彼はただ親戚であって、|もひとり《もう一人》のフォーシュルヴァンという人が本当の父であった。他の時だったらそのことは彼女の心を痛ませたろう。しかし今は得も言えぬ楽しい時だったので、それはただわずかな影であり一時《/一時》の曇りにすぎなかった。彼女はまったく喜びに満たされていたので、その雲も長く続かなかった。彼女はマリユスを持っていた。青年がきて、老人は姿を消した。人生はそうしたものである。  それにまた、コゼットは長年の間《あいだ》、自分の周囲に謎のようなことを見るにな《慣》れていた。不可思議な幼年時代を経てきた者は皆、いつもある種のあきらめをしやすいものである。  それでも彼女は続けてジャン・ヴァルジャンを父と呼んでいた。  心も空に喜んでいるコゼットは、ジルノルマン老人にも深く感謝していた。実際老人はやたらに愛撫の言葉や贈り物を彼女に浴びせかけた。ジャン・ヴァルジャンが彼女のために、社会における正当な地位と適当《/適当》な身元とを作ってやってる間《あいだ》に、ジルノルマ《マ-》ン氏は結婚の贈り物に腐心していた。壮麗であることほど彼を喜ばせるものはなかった。祖母《ソボ》から伝えられてるバンシュ製レースの長衣《ナガギヌ》をもコゼットに与えた。彼は言った。「こういう物もまた生き返ってくる。古い物も喜ばれて、|わし《儂》の晩年の若い娘が|わし《儂》の幼年時代の婆《バア》さんのような服装をするんだ。」  中ぶくれの|りっぱ《立派》なコロマンデル製の漆戸棚《+ウルシトダナ》をも彼は開放してしまった。それはもう長年の間開《あいだ開》かれたことのないものだった。彼は言った。「この婆さんたちにもひとつ懺悔をさしてやれ。腹に何をしまってるか見てやろう。」そして彼は自分の幾人もの妻や情婦《/情婦》やお《/お》婆さんたちの用具がいっぱいつまってる引き出しの中を、大騒ぎでかき回した。南京繻子、緞子、模様絹《模様ギヌ》、友禅絹、トゥール製の炎模様粗絹《炎模様アラギヌ》の長衣《ナガギヌ》、洗たくにたえる金縁の印度ハンカチ、織り上げたばかりで鋏のはいっていない裏表なしの花模様絹、《:、》ゼノアやアランソン製の刺繍、古い金銀細工の装飾品、微細な戦争模様のついてる象牙の菓子箱、装飾布、リボン、それらをすべて彼はコゼットに与えた。コゼットはマリユスに対する愛に酔いジ《/ジ》ルノルマ《マ-》ン氏に対する感謝の念にいっぱいになって、心の置き所も知らず、繻子とビロードとをまとった限りない幸福を夢みていた。結婚の贈物が天使からささげられてるような気がした。彼女の魂はマリーヌのレースの翼をつけて蒼空《/青空》のうちに舞い上がっていた。  |ふたり《二人》の恋人の恍惚の情におよぶものは、前に言ったとおり、ただ祖父の歓喜あるのみだった。か《斯》くてフィーユ・デュ・カルヴェール街には楽隊の響きが起こったかのようだった。  祖父は毎朝コゼットへ何かの古物を必ず贈った。あらゆる衣裳が彼女のまわりに燦爛と花を開いた。  マリユスは幸福のうちにも好んで|まじめ《真面目》な話をしていたが、ある日、何かのことについてこう言った。 「革命の人々は実に偉大です。カトーやフォキオン(訳者注◇ ローマおよびアテネの大人物)のように数世紀にわたる魅力を持っていて、各人がそれぞれ古代の記念のようです。」 「古代の絹!《/》」と老人は叫んだ。「ありがとう、マリユス。ちょうど|わし《儂》もそういう考えを|さが《探》してるところだった。」  そして翌日、茶色の観世模様古代絹の|みごと《見事》な長衣《ナガギヌ》がコゼットの結婚贈り物に加えられた。  祖父はそれらの衣裳から一つの哲理を引き出した。 「恋愛は結構だ。だが添え物がなくてはいかん。幸福のうちにも無用なものがなくてはいかん。幸福そのものは必要品にすぎない。だから大いに|むだ《無駄》なもので味をつけるんだ。宮殿と心だ。心とルーヴル美術館だ。心とヴェルサイユの大噴水だ。|羊飼い女《羊飼女》にも公爵夫人のような様子をさせることだ。矢車草を頭にいただいてるフィリスにも十万フランの年金をつけることだ。大理石の柱廊の下に目の届く限り田舎景色《+田舎ゲシキ》をひろげることだ。田舎景色《+田舎ゲシキ》もいいし、また大理石と黄金との美観もいい。幸福だけの幸福はパンばかりのようなものだ。食えはするがご|ちそう《馳走》にはならない。|むだ《無駄》なもの、無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それが|わし《儂》は好きだ。|わし《儂》はストラスブールグの大会堂《ダイ会堂》で見た時計を覚えている。それは四階建《ヨン階だ》ての家ほどある大きな時計で、時間を教えてもいたが、親切にも時間を教えてはいたが、そのためにばかり作られたものではなさそうだった。正午やま《真》夜中や、太陽の時間である昼の十二時や、恋愛の時間である夜の十二時や、そのほかあらゆる時間を報じたあとで、種々《いろいろ》なものを出してみせた。月と星、陸と海、小鳥と魚、フォイボスとフォイベ(訳者注◇ 太陽の神と月の神)、《:、》また壁龕から出て来るたくさんのもの、十二使徒、皇帝カルル五世、エポニーネとサビヌス(訳者注◇ ローマ人の覊絆からゴール族を脱せしめんと企てた勇士夫婦)、《:、》その上になお、ラッパを吹いてる金色の子供もたくさんいた。そのたびごとになぜともなく空中に響き渡らせる楽しい鐘の音《’音》は、言うまでもないことだ。ただ時間だけを告げる素裸のみじめな時計が、それと肩を並べることができようかね。|わし《儂》はな《ナ》、ストラスブールグの大時計の味方だ。シュワルツワルト(黒森山)の杜鵑《ホトトギス》の声を出すだけの目ざまし時計より、それの方《ほう》がずっとよい。」  ジルノルマ《マ-》ン氏は特に、結婚式のことについて屁理屈《屁理屈’》を並べていた。彼の賛辞のうちには十八世紀の事柄がやたらにはいってきた。 「お前たちは儀式の方法を心得ていない。近ごろの者は喜びの日をどうしていいかよく知らないのだ。」と彼は叫んだ。「お前たちの十九世紀は柔弱だ。過分ということがない。金持ちをも知らなければ、貴族をも知らない、何事にも|いがぐり《イガグリ》頭だ。お前たちのいわゆる第三階級というものは、無味、無色、無臭、無形だ。家を構える中流市民階級の夢想は、自分で高言してるように、新しく飾られた紫檀や更紗《/更紗》のちょっとした化粧部屋にすぎない。さあお並び下さい、しまりやさんがけちけち嬢さんと結婚致します、といったような具合だ。その|ぜいたく《贅沢》や華美《カ-ビ》としては、ルイ金貨を一つ蝋燭にはりつけるくらいのものだ。十九世紀とはそんな時代なんだ。|わし《儂》はバルチック海《海’》の向こうまでも逃げてゆきたいほどだ。|わし《儂》は既に1787年から、何もかも|だめ《駄目》になったと予言しておいた。ローアン公爵やレ《/レ》オン大侯《タイ侯》やシ《/シ》ャボー公爵やモ《/モ》ンバゾン公爵やス《/ス》ービーズ侯爵や顧問官《/顧問官》トゥーアル子爵が、|がた《ガタ》馬車に乗ってロンシャンの競馬場に行くのを見た時からだ。ところが果たしてそれは実を結んだ。この世紀では|だれ《誰》でも皆、商売をし、相場をし、金《かね》を儲け、そしてしみったれてる。表面だけを注意して塗り立ててる。おめかしをし、洗い立て、石鹸をつけ、拭《ぬぐ》いをかけ、髯を剃り髪《/髪》を梳き、靴墨をつけ、てかてかさし、みがき上げ、刷毛《ハケ》をかけ、外部だけきれいにし、一点のほこりもつけず、《:、》小石のように光らし、用心深く、身ぎれいにしてるが、一方では情婦《+色女》をこしらえて、手鼻《/手鼻》をかむ馬方でさえ眉を顰《-ひそ》むるような、肥料溜《+肥溜め》や塵溜を心の底に持っている。|わし《儂》は今の時代に、不潔な清潔という題辞を与えてやりたい。なにマ《/マ》リユス、怒ってはいけないよ。|わし《儂》に少し言わしてくれ。別に民衆の悪口《悪くチ》を言うんじゃない。お前のいわゆる民衆のことなら十分感心してるのだが、中流市民を少しばか《か-》り|たた《叩》きつけてやるのは|かま《構》わんだろう。もちろん|わし《儂》もそのひとりだ。よく愛する者はよく鞭うつ。そこで|わし《儂》はきっぱりと言ってやる。今日《コンニチ》では、人は結婚をするが結婚《/結婚》の仕方を知らない。まったく|わし《儂》は昔の風習の美しさが惜しまれる。すべてが惜しまれる。その優美さ、仁侠さ、礼儀正しい細やかなやり方、いずれにも見らるる愉快な|ぜいたく《贅沢》さ、すなわち、上は交響曲から下《/下》は太鼓に至るまで婚礼の一部となっていた音楽、舞踊、《:、》食卓の楽しい顔、穿ちすぎた恋歌、小唄、花火、打ち解けた談笑、冗談や大騒ぎ、リボンの大きな結び目。それから新婦の靴下留《靴下ど》めも惜しまれる。新婦の靴下留《靴下ど》めは、ヴィーナスの帯と従姉妹同士だ。トロイ戦争は何から起こったか? ヘレネの靴下留《靴下ど》めからではないか。なぜ人々は戦ったか、なぜ神のようなディオメーデはメ《/メ》リオネスが頭にいただいてる十本《/十本》の角《ツノ》のある青銅の大きな兜を打ち砕いたか、なぜアキレウスとヘクトルとは槍で突き合ったか? それも皆《-みんな》ヘレネが靴下留《靴下ど》めにパリスの手を触れさしたからではないか。コゼットの靴下留めからホメロスはイリアードをこしらえるだろう。その詩《-し》の中に|わし《儂》のような饒舌な老人を入れて、それをネストルと名づけるだろう。昔はね、愛すべき昔では、人は賢い婚礼をしたものだ。|りっぱ《立派》な契約をし、次に|りっぱ《立派》なご|ちそう《馳走》をしたものだ。キュジャスが出てゆくとガマーシュがはいってきたものだ(訳者注◇ 前者は法律学者の典型にて、後者はドン・キホーテの一挿話中に出てくる婚礼の大馳走《オオ馳走》をする田舎者)。というのも、胃袋というものは愉快な奴で、自分の分け前を求め、自分もまた婚礼をしようとするからだ。皆《みんな》よく食ったし、また食卓では、胸当てをはずして適宜《/適宜》に|えり《襟》を開いてる美人と隣合ってすわったものだ。皆大《みんな大》きく口をあいて笑うし、あの時代は実に愉快な者ばかりだった。青春は花輪だった。若い男は皆、ライラックの一枝《ヒトエダ》か薔薇《/薔薇》の一握りかを持っていた。軍人までも皆羊飼《-みんな羊飼》いだった。たとい竜騎兵の将校でも、フロリアン(訳者注◇ 十八世紀の後半の寓話作者)と人から呼ばるる術《スベ》を心得ていた。皆《みんな》きれいに着飾るように心掛けていた。刺繍をつけ緋絹《+緋ギヌ》をつけていた。市民は花の《の-》ようだったし、侯爵は宝石のようだった。脚絆留《+脚絆ど》めをつけたり長靴をつけたりはしなかった。はなやかで、艶々しく、観世模様をつけ、蝦茶色ずくめで、軽快で、華奢で、人の気をそらさないが、それでもなお腰《’腰》には剣を下げていた。蜂雀《ホウジャク》も嘴と爪とを持ってるものだ。優美なる藍色服の人々の時代だった。その時代の一面は繊麗であり、一面は壮麗だった。そして人々は遊び戯れていたものだ。ところが今日《コンニチ》では|だれ《誰》も|皆まじめ《みな真面目》くさってる。市民はけちで貞節ぶってる。お前たちの世紀は不幸なものだ。あまり首筋を出しすぎてると言っては優美の女神を追いやっている。あわれにも、美しさをも醜さと同じように包み隠してる。革命から後《あと》は、|だれ《誰》でもズボンをはくようになった、踊り娘《子》までそうだ。道化女も|まじめ《真面目》くさり、リゴドン踊りも理屈っぽくなってる。威儀を正してなけり《り-》ゃいけない。襟飾りの中に頤《顎》を埋めていなけりゃ気を悪くされる。結婚しようとする二十歳の小僧の理想は、ロアイエ・コラール氏(訳者注◇ 立憲王党派の謹厳なる学者)のようになろうということだ。そしてお前たちは、そういう威容をばかり保ってついにどうなるか知ってるのか。ただ矮小になるばかりだ。よく覚えておくがいい、快活は単に愉快であるばかりでなく、また偉大である。だから快活に恋をするがいい。結婚するなら、熱情と無我夢中《/無我夢中》と大騒《/大騒》ぎと混沌《/混沌》たる幸福とをもって結婚するがいい。教会堂でしかつめらしくしてるのもよいが、弥撒がすんだら、新婦のまわりに夢の渦巻きを起こさしてやるがいい。結婚は堂々としていてし《/し》かも放恣でなくちゃいかん。ランスの大会堂《ダイ会堂》からシャントルーの堂まで練り歩かなくちゃいかん。元気のない婚礼は思ってもいやだ。少なくともその当日だけは、オリンポスの殿堂にはいった気でなくてはね《ネ》。神々になった気でなくてはね《ネ》。ああ《あ/》みんなして、空気の精や遊《/遊》びの神や笑《/笑》いの神や銀楯《/銀楯》の精兵などになるがいい。小鬼になるがいい。結婚したての者は皆《-みんな》アルドブランディニ侯(訳者注◇ 十七世紀の初めに見いだされた華麗な結婚図の古い壁画の主人公)のようでなくちゃいけない。生涯にただ一度のその機会に乗じて、白鳥や鷲と共に火天まで舞い上がっていくんだ。そして翌日また中流市民の蛙《カエル》の中に落ちてこないで《で-》すむようにしなくちゃいけない。結婚について倹約したり、その光輝をそぐようなことをしてはいけない。光栄の日に|けちけち《ケチケチ》するものではない。婚礼は世帯《所帯》ではない。|わし《儂》の思いどおりにやれたら、実に|みやび《雅》なものになるんだがな。|木立ち《木立》の中にはバイオリンの音を響かしてやる。計画と言っては、空色と銀だ。儀式には田野《デ-ンヤ》の神々をも並べてみせる。森の精や海の精をも招きよせてみせる。アンフィトリテ(訳者注◇ 海の女神)の婚礼、薔薇色の雲、髪を結わえた素裸の水の精ども、女神に四行詩《4行詩》をささげるアカデミー会員、海の怪物に引かれた馬車。 ◇。◇。  トリトン(海の神)は先に駆けりつ、法螺の貝もて  人皆を歓喜せしむる楽《ガク》を奏しぬ。 ◇。◇。  これが儀式の目録だ、目録の一つだ。さもなくば|わし《儂》はもう何《-なん》にも知らん、断じて!」  祖父が叙情詩熱に浮かされて、自ら自分の言葉に耳を傾けてる間《あいだ》に、コゼットとマリユスとは自由に顔を見合わして恍惚《/恍惚》としていた。  ジルノ《ノル》マン伯母はいつもの平然たる落ち着きでそ《/そ》れらのことを|なが《眺》めていた。彼女は|五、六《ゴロッ》カ月以来、ある程度までの感動を受けた。マリユスが戻ってきたこと、血《血’》にまみれて運ばれてきたこと、防寨から運ばれてきたこと、死にかかっていたが次に生き返ったこと、祖父と和解したこと、婚約したこと、貧乏な女と結婚すること、分限者の女と結婚すること。六十万フランは彼女の最後の驚きだった。それから最初の聖体拝領の時のような無関心さがまた戻ってきた。彼女は欠かさず教会堂の祭式に列し、大念珠をつまぐり、祈祷書を読み、家の片|すみ《隅》で人々がわれ汝を愛すをささやいてる間《あいだ》に、他の片|すみ《隅》でアヴェ・マリアをささやき、《:、》そしてマリユスとコゼットとを漠然と二つの影のように|なが《眺》めていた。しかし実際彼女の方《ほう》が影の身であった。  ある惰性的な苦行の状態があるもので、その時人《とき人》の魂は麻痺して中性となり、世話事とも言い得るすべてのことに無関心となり、《:、》地震や大変災などを除いては、何事にも何ら人間らしい感銘を受くることなく、何ら楽しい感銘をも苦しい感銘をも受くることがなくなる。ジルノルマン老人は娘にこう言った。「そういう帰依の状態は、鼻感冒《+鼻風邪》と同じものだ。お前は人間の|にお《匂》いを少しも感じない。悪い|にお《匂》いも良《-い》い|にお《匂》いも感じない。」  その上、六十万フランの金《-かね》は、どうでもいいという気を老嬢に起こさした。父はいつも彼女をあまり眼中においていなかったので、マリユスの結婚承諾についても彼女に相談をしなかった。例のとおり熱狂的な行動を取り、奴隷となった専制者の態度で、ただマリユスを満足させようという一つの考えしか持っていなかった。伯母については、伯母が実際そこにいるかどうか、伯母が何かの意見を持ってるかどうか、それを彼は考えてもみなかった。彼女はきわめて温順ではあったが、そのために多少気を悪くした。そして内心では少し不満を覚えながら、表面は冷然として、自ら言った。「父はひとりで結婚問題をきめてしまったのだから、私もひとりで遺産の問題をきめてしまおう。」実際彼女は財産を持っていたが、父は財産を持たなかった。それで彼女は、そこに自分の決心をおいていた。結婚する|ふたり《二人》が貧乏だったら貧乏のままにしておいてやれ、甥にはお気の毒様だ、|一文な《一文無》しの女を娶るなら彼も|一文な《一文無》しになるがいい。ところがコゼットの持っている百万の半ば以上の金《-かね》は、伯母の気に入った、|ふたり《二人》の恋人に対する心持ちを変えさした。六十万と言えば尊敬に価するものである。そして明らかに彼女は、若い|ふたり《二人》にもう金《-かね》の必要がなくなった以上、彼らに自分の財産を与えてやるより|ほか《他》にしようがなくなったのである。  新夫婦は祖父の所に住むことに話がまとまっていた。ジルノルマ《マ-》ン氏は家で一番美しい自分の室《+部屋》を是非とも彼らに与えようと思っていた。彼はこう言った。「それで|わし《儂》も若返る。元から考えていたことだ。|わし《儂》はいつも自分の室《部屋》で結婚式を行ないたいと思っていたんだ。」彼はその室《部屋》に、優美な古い珍品をやたらに備えつけた。また天井と壁には大変な織物を張らせた。それは彼が一機《+ヒトカマ》そっくり持っていて、ユトレヒト製だと思ってるもので、毛莨色《+キンポウゲイロ》の繻子のような地質に蓮馨花色《+/サクラソウ色》のビロードのような花がついていた。彼は言った。「ローシュ・ギヨンでアンヴィル公爵夫人の寝台の帷《-とばり》となっていたのも、これと同じ織物だ。」また彼は暖炉棚の上に、裸の腹にマッフをかかえてるサクソニー製の人形を一つ据えた。  ジルノルマ《マ-》ン氏の図書室は弁護士事務室となった。読者の記憶するとおり、弁護士たる者は組合評議員会の要求によって事務室を一つ持っていなければならなかったので、マリユスにもその必要があったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【幸福のさなかに浮かびくる幻《マボロシ》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  |ふたり《二人》の恋人は毎日顔《毎日’顔》を合わしていた。コゼットはいつもフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏と共にやってきた。ジルノルマン嬢は言った。「こんなふうに嫁さんの方《ほう》から|きげん《機嫌》を取られに男の家へやって来るのは、まるでさかさまだ。」けれどもマリユスはまだ回復期にあったし、フィーユ・デュ・カルヴェール街の|肱掛け《肱掛》椅子はオ《/オ》ンム・アルメ街の藁椅子よりも|ふたり《二人》の差し向かいに好都合だったので、自然とコゼットの方《ほう》からやって来る習慣になったのである。マリユスとフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏とは絶えず会っていたが、話をし合うことはあまりなかった。自然とそういうふうに黙契ができたかのようだった。娘にはすべて介添えがいるものである。コゼットはフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏といっしょでなければやってこられなかったろう。しかしマリユスにとっては、コゼットあってのフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏であった。彼はフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏をとにかく迎えていた。か《斯》くて彼らは、万人の運命を一般に改善するという見地から政治上の事柄を、微細にわたることなく漠然と話題に上せて、しかりもしくは否というよりも多少多くの口をきき合うこともあった。一度マリユスは、教育というものは無料の義務的なものになして、あらゆる形式の下に増加し、空気や太陽のように万人に惜しまず与え、《:、》一言《イチゴン》にして言えば、民衆全体が自由に吸入し得らるるようにしなければいけないという、平素の持論を持ち出したが、その時|ふたり《二人》はまったく意見が合って、ほとんど談話とも言えるくらい口をきき合った。そしてフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏がよく語りし《/し》かもある程度まで高尚な言葉を使うのを、マリユスは認めた。けれども何かが欠けていた。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏には普通の人よりも、何かが足りなくま《”ま》た何かが多すぎていた。  マリユスは頭の奥でひそかに、自分に向かっては単に親切で冷然《/冷然》たるのみのフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏に対して、あらゆる疑問をかけてみた。時とすると、自分の思い出にさえ疑いをかけてみた。彼の記憶には、一つの穴《あな》、暗い一点、四《4》カ月間の瀕死の苦しみによって掘られた深淵が、できていた。多くのことがその中に落ち込んでいた。そのために、か《斯》く|まじめ《真面目》な落ち着いた人物であるフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏を防寨の中で見たというのは、果たして事実だったろうかと自ら疑ってみた。  もとより、過去の明滅する幻が彼の脳裏に残したものは、単なる惘然《呆然》さのみではなかった。幸福中にもまた満足中にも人をして沈鬱《/沈鬱》に後方をふり返り見させる記憶の纒綿から、彼が免れていたと思ってはいけない。消えうせた地平線の方《ほう》をふり返り見ない頭には、思想もなければ愛もないものである。時々マリユスは両手で頭をおおった。そして騒然たるおぼろな過去が、彼の脳裏の|薄ら《ウスラ》明りの中を過ぎっていった。彼はマブーフが倒れる所を再び見、霰弾の下に歌を歌ってるガヴローシュの声を聞き、エポニーヌの額の冷たさを脣の下に感じた。アンジョーラ、クールフェーラック、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ボシュエ、グランテール、などすべての友人らが、彼の前に立ち現われ、次いでまた消えうせてしまった。それらの、親しい、悲しい、勇敢な、麗しい、あるいは悲壮な者らは、皆夢《みんな夢》であったのか? 彼らは実際存在していたのか? 暴動はすべてを硝煙のうちに巻き込んでしまっていた。それらの大《ダイ》なる苦熱は大《/ダイ》なる幻を作り出す。彼は自ら問い、自ら憶測し、消えうせたそれらの現実に対して眩暈《目眩》を感じた。彼らは皆《ミンナ》どこにいるのか、皆死《みんな死》んでしまったというのは真実であるか。彼を除いたすべての者は暗黒の中に墜落してしまっていた。それはあたかも芝居の幕のうしろに隠れたことのように彼には思われた。人生にもか《斯》く幕のおりることがある。神は次の場面へと去ってゆく。  そして彼自身は、やはり同じ人間なのか。貧しかったのに富有となった。孤独だったのに家庭の人となった。望みを失ってたのにコゼットを娶ることとなった。彼は墳墓を通ってきたような気がした。暗黒な姿で墳墓には《-は》いり込み、純白な姿でそこから出てきたような気がした。しかもその墳墓の中に、他の者は皆残《-みな残》ってるのである。ある時には、それら過去の人々がまた現われてき、彼の周囲に立ち並んで彼を陰鬱になした。その時彼はコゼットのことを考えて、また心が朗らかになるのだった。その災いを消散させるには、コゼットを思う幸福だけで充分だった。  フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏もそれら消えうせた人々のうちにほとんどはいっていた。防寨にいたフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏が、肉と骨とをそなえ|まじめ《/真面目》な顔をしてコゼットのそばにすわってるこのフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏と同一人であるとは、マリユスには信じ難《がた》かった。第一の方《ほう》はおそらく、長い間《あいだ》の昏迷のうちに現滅《現滅’》した悪夢の一つであろう。その上、|ふたり《二人》ともきわめて謹厳な性格だったので、マリユスはフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏に向かって何か聞き糺すこともでき難《がた》かった。聞き糺してみようという考えさえ彼には浮かばなかった。|ふたり《二人》の間《あいだ》のそういう妙な|へだ《隔》たりは、前に既に指摘しておいたとおりである。  |ふたり《二人》とも共通の秘密を持っていながら、一種の黙契によって、そのことについては互いに一言も交じえない。そういう事実は案外たくさん世にあるものである。  ただ一度、マリユスは探りを入れてみたことがあった。彼は会話の中にシャンヴルリー街のことを持ち出して、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の方へ向きながら言った。 「あなたはあの街路《+街》をよく御存じでしょうね。」 「どの街路《街》ですか。」 「シャンヴルリー街です。」 「そういう名前については別に何の考えも浮かびませんが。」とフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は最も自然らしい調子で答えた。  答えは街路《街》の名前についてであって、街路《街》そのものについてではなかったが、それでもマリユスはよく了解できるような気がした。 「まさしく自分は夢をみたのだ。」とマリユスは考えた。「幻覚を起こしたのだ。|だれ《誰》か似た者がいたのだろう。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏はあすこにいたのではない。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【行方不明の|ふたり《二人》の男】 ◇。◇。◇。◇。◇。  歓喜の情はきわめて大きかったけれども、マリユスの他の気がかりを全然消すことはできなかった。  結婚の準備が整えられてる間《あいだ》に、定《決》まった日を待ちながら、彼は人を使って困難な既往の穿鑿《詮索》を細密になさした。  彼は諸方面に恩を被《-こうむ》っていた。父のためのもあれば、自分自身のためのもあった。  まずテナルディエがいた。また彼マ《’マ》リユスをジルノルマ《マ-》ン氏のもとへ運んでくれた未知の人がいた。  マリユスはその|ふたり《二人》の者を探し出そうとつとめた。結婚し幸福になって彼らのことを忘れようとは思わなかった。その恩を報じなければ、これから光り輝いたものとなる自分の生活に影がさしはしないかを恐れた。その負債をいつまでも遅滞さしておくことは彼にはできなかった。楽しく未来にはいってゆく前に過去《/過去》の負いめを皆済《-みんな済》ましたいと願った。  たといテナルディエは悪漢であろうとも、そのためにポンメルシー大佐を救ったという事実を少しも曇らせは《は-》しなかった。テナルディエは世の中の|だれ《誰》にとっても一個の盗賊だったが、マリユスにとってだけはそうでなかった。  そしてマリユスは、ワーテルローの戦場の実景についてはまったく無知だったので、父はテナルディエに対して、生命《イノチ》の恩にはなってるが感謝《/感謝》の義務はないという妙な地位に立ってる特別の事情を、少しも知らなかった。  マリユスは種々《いろいろ》の人に頼んだが、|だれ《誰》もテナルディエの行方を|さが《探》しあてることはできなかった。その踪跡はまったくわからなくなってるらしかった。テナルディエの女房は予審中に監獄で死んでいた。その嘆かわしい一家のうちで生き残ってるのはテナルディエと娘のアゼルマだけだったが、|ふたり《二人》とも暗黒の中に没し去っていた。社会の不可知なる深淵は再び黙々として彼らの上を鎖《+閉ざ》していた。その深淵の面には、何《なに》かが陥ったことを示してくれ、また錘を投ずべき場所を示してくれるような、揺るぎや、震えや、かすかな丸い波紋さえも、もはや見られなくなっていた。  テナルディエの女房は死に、ブーラトリュエルは免訴となり、クラクズーは消えうせ、おもな被告は脱走してしまったので、ゴルボー屋敷の待ち伏せの裁判はほとんど空に終わってしまった。事件はかなり曖昧のままになっていた。重罪裁判廷は|ふたり《二人》の従犯人《従犯にん》で満足しなければならなかった。すなわちパンショー一名《/一名》プランタニエ一名《/一名》ビグルナイユとド《/ド》ゥミ・リアール一名《/一名》ドゥー・ミリアールとであって、|ふたり《二人》とも審理の上十年《うえ/10年》の徒刑に処せられた。脱走した不在の共犯人《共犯にん》らに対しては、無期徒刑が宣告された。頭目であって主犯者たるテナルディエは、同じく欠席裁判所によって死刑を宣告された。テナルディエに関して世に残ってるものは、その宣告だけで、あたかも柩のそばに立ってる蝋燭のように、彼の葬られた名前の上に凄惨な光を投じていた。  その上この処刑は、再び捕縛される恐れのためにテ《/テ》ナルディエを最後の深みへ追いやってしまったので、彼を|おお《覆》う暗黒をいっそう深からしめ《め-》るのみだった。  |もひとり《もう一人》の男に関しては、すなわちマリユスを救ってくれた無名の男に関しては、初めのうち多少捜索《多少’捜索》の結果が上がったけれど、それから急に行き止まってしまった。すなわち、六月六日の夜フ《/フ》ィーユ・デュカルヴェール街へマリユスを乗せてきた辻馬車を見いだ《だ-》すことができた。その御者の言うところはこうであった。六月六日、シャン・ゼリゼー川岸通りの大溝渠《+ダイ溝渠》の出口の上で、午後の三時から夜まで、ある警官の命令で彼は「客待ち」をしていた。午後の九時ごろ、川の汀についてる下水道の鉄格子口《+テツゴウシグチ》が開いた。ひとりの男がそこから出てきて、死んでるらしい他の男を肩にかついでいた。そこに番をしていた警官は、生きている男を捕え、死んでいる男を押さえた。警官の命令で、御者は「その人たち」を馬車に乗せた。最初フィーユ・デュ・カルヴェール街へ行った。死んでる男はそこでおろされた。その死んでる男というのはマリユス氏であった。「こんどは」生きていたけれども、御者は確かに見覚えていた。それから|ふたり《二人》はまた彼の馬車に乗った。彼は馬に鞭をあてた。古文書館の門から数歩《スウホ》の所で、止まれと声をかけられた。その街路で彼は金《-かね》をもらって返された。警官は|もひとり《もう一人》の男をどこかへ連れて行った。それ以上のことは少しも知らない。その晩は非常に暗かった。  前に言ったとおり、マリユスは何《なん》にも覚えていなかった。防寨の中であおむけに倒れかかる時背後《とき/背後》から力強い手でとらえられたことだけを、ようやく思い出した。それから何《-なん》にもわからなくなった。意識を回復したのはジルノルマ《マ-》ン氏の家においてだった。  彼は推測に迷った。  御者の言う男が彼自身であることは疑いなかった。けれども、シャンヴルリー街で倒れてア《/ア》ンヴァリード橋近《バシ近》くのセーヌ川の汀で警官から拾い上げられたとは、どうしたのであったろうか。|だれ《誰》かが彼を市場町《イチバマチ》からシャン・ゼリゼーまで運んでくれたには違いなかった。だがどうして? 下水道を通ってか。それにしては驚くべき献身的な行為である。  |だれ《誰》かしら。|だれ《誰》だろうか?  マリユスが|さが《探》してるのはその男であった。  彼の救い主であるその男については、何《なん》にもわからず、何らの踪跡もなく、少しの手掛かりもなかった。  マリユスは警察の方《ほう》には内々《ナイナイ》にせざるを得なかったが、それでもついに警視庁にまで探索を進めてみた。しかしそこでも他の所と同じく、何ら光明ある消息は得られなかった。警視庁では辻馬車の御者ほどもその事件を知っていなかった。六月六日大溝渠《+六月六日/ダイ溝渠》の鉄の扉の所でなされた捕縛などということは少しも知られていなかった。その件については何ら警官の報告も届いていなかった。警視庁ではそれを作り話だと見なした。それを捏造したのは御者だとされた。御者というものは、少し金《カネ》をもらいたいと思えば何でもやる、想像の話でもこしらえる。とは言うものの、その事柄はいかにも確からしかった。マリユスはそれを疑い得なかった。少なくとも、上に述べたとおり、自分がその男だということは疑い得なかった。  その不思議な謎においてはすべてが不可解だった。  その男、気絶したマリユスをかついで大溝渠《+ダイ溝渠》の鉄格子口《+テツゴウシグチ》から出て来るのを御者が見たというその不思議な男、《:、》ひとりの暴徒を救助してる現行を見張りの警官から押さえられたというその不思議な男、彼はいったいどうなったのか? 警官自身はどうなったのか? なぜその警官は口をつぐんでいたのであろうか。男はうまく逃走してしまったのであろうか。彼は警官を買収したのであろうか。マリユスがあらん限りの恩になってるその男は、なぜ生きてるしるしだに伝えてこなかったのか。その私心のない行ないは、その献身的な行ないにも劣らず驚くべきものだった。なぜその男は再び出てこなかったのか。おそらく彼はいかなる報酬を受けてもなお足りなかったのかも知れないが、しかし|だれ《誰》も感謝を受けて不足だとするはずはない。彼は死んだのであろうか、どういう人であったろうか、どういう顔をしていたのか? それを言い得る者はひとりもなかった。その晩は非常に暗かったと御者は答えた。バスクとニコレットとはすっかり狼狽して、血《血’》にまみれた若主人にしか目を注《-そそ》がなかった。ただ、マリユスの悲惨な帰着を蝋燭で照らしていた門番だけが、問題の男の顔を|なが《眺》めたのであるが、その語るところはこれだけだった、「その人は恐ろしい姿だった。」  マリユスは探査の助けにもと思って、祖父のもとへ運ばれてきた時身《とき身》につけていた血に染《-し》んだ服をそのまま取って置かした。上衣を調べてみると、裾が妙なふうに裂けていた。その一片がなくなっていた。  ある晩マリユスは、その不思議なできごとや、試みてみた数限《カズかぎ》りない探査や、あらゆる努力が無効に終わったことなどを、コゼットとジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンとの前で話した。ところが「フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏」の冷淡な顔つきは彼をいら立たした。彼はほとんど憤怒《フンヌ》の震えを帯びてる強い調子で叫んだ。 「そうです、その人は《は-》たといどんな人であったにせよ、崇高な人です。あなたはその人のしたことがわかりますか。その人は天使のようにやってきたのです。戦いの最中に飛び込んでき、私を奪い去り、下水道の蓋をあけ、その中に私を引きずり込み、私を|にな《担》って行かなければならなかったのです。恐ろしい地下の廊下を、頭をかがめ、身体を曲げ、暗黒の中を、汚水の中を、一里半以上も、背に一つの死骸を|にな《担》って一里半以上も、歩かなければならなかったのです。しかも何の目的でかと言えば、ただその死骸を救うということだけです。そしてその死骸が私だったのです。彼はこう思ったのでしょう。まだおそらく生命《イノチ》の影が残ってるらしい、このかすかな生命《イノチ》のために自分一身を賭してみようと。しかも彼は自分の一身を、一度だけではなく幾度《/幾度》も危険にさらしたのです。進んでゆく一歩一歩が皆危険《-みんな危険》だったのです。その証拠には、下水道を出るとすぐに捕えられたのでもわかります。どうです、彼はそれだけのことをやったのです。しかも何らの報酬をも期待してはいなかったのです。私は何者だったのでしょう、ひとりの暴徒にすぎなかったのです、ひとりの敗北者にすぎなかったのです。ああ、もしコゼットの六十万フランが私のものであったら‥‥。」 「それはあなたのものです。」とジャン・ヴァルジャンはさえぎった。 「そうなれば、」とマリユスは言った、「あの人を見つけ出すために私はそれを皆投《-みんな投》げ出してもかまいません。」  ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六編】 【不眠の夜】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【1833年二月十六日】 ◇。◇。◇。◇。◇。  1833年二月十六日から十七日へかけた夜は、祝福されたる夜であった。夜の影の上には天《テン》が開《-ひら》けていた。マリユスとコゼットとの結婚の夜だった。  その日は実に麗しい一日だった。  それは祖父が夢想したような空色の祝典ではなく、新郎新婦の頭上に天使や愛の神が飛び回る夢幻的な祝いではなく、門の上に美しい彫刻帯《フリーズ》をつけるのにふさわしい結婚ではなかった。しかしそれは楽しい微笑んでる一日だった。  1833年の結婚式のありさまは、今日《コンニチ》とは非常に異なっていた。新婦を連れ、教会堂から出るとすぐに逃げ出し、自分の幸福をは《恥》ずかしがって身を隠し、《:、》破産者のように人を避《-さ》ける様子とソ《/ソ》ロモンの賛歌のような歓喜とを一つにするという、あのイギリスふうの雅致は、まだフランスに行なわれていなかった。その楽園を駅馬車の動揺に任し、その神秘を馬車の軋る音で貫かせ、旅籠屋の寝床を結婚の床《トコ》とし、《:、》そして一生のうちの最も神聖な思い出を、駅馬車の車掌や宿屋《/宿屋》の女中などと差し向かいになった光景に交じえながら、一晩だけの卑俗な寝床に残してくるという、《:、》そういうやり方のうちに、貞節な微妙《/微妙》な謹直《/謹直》な何かがあることは、まだ了解されていなかった。  現今十九世紀《現今/十九世紀》の後半においては、区長とその飾り帯、牧師とその法衣《ホウエ》、法律と神、それだけでは足りなくなっている。それに|加う《クワウ》るに、ロンジュモーの御者(訳者注◇ 美声を持ったある駅馬車の御者が結婚の|間ぎわ《間際》に女をすててオ《/オ》ペラ役者になって浮かれ歩くという歌劇中の人物)をもってしなければならない。赤い縁取りと鈴ボタンのついてる青い上衣《上着》、延べ金の腕章、緑皮《ミドリ皮》の股衣《ズボン》、尾を結んだノルマンディー馬への掛け声、|にせ《ニセ》の金モール、塗り帽子、髪粉をつけた変な頭髪、大きな鞭、および丈夫な長靴。けれどもフランスではまだ、イギリスの貴族がするように、新郎新婦の駅馬車の上に底《/底》のぬけた上靴や破《/破》れた古靴などをやたらに投げつけるほど、優美のふうが進んではいない。その風習は、結婚の当日伯母《当日’伯母》の怒りを買って古靴を投げつけられたのがかえって僥倖になったという、マールボルーあるいはマルブルーク公となったチャーチル(訳者注◇ 十八世紀はじめのイギリスの将軍でお《/お》どけ唄の主人公として伝説的の人物となった人)に由来するものである。そういう古靴や上靴は、まだフランスの結婚式にははいってきていない。しかし気長《気なが》に待つがいい。いわゆるいい趣味はだんだんひろがってゆくもので、やがてはそれも行なわれるようになるだろう。  1833年には、また百年以前には、馬車を大駆けにさせる結婚式などというものは行なわれていなかった。  変に思われるかも知れないが、その頃の人の考えでは、結婚というものはごく打ち解けた公《公け》の祝いであり、淳朴な祝宴は家庭の尊厳を汚《ケガ》するものではなく、《:、》たといそのにぎわいは度を越えようと、猥らなものでさえなければ、少しも幸福の妨げとなるものではないとされ、《:、》また、やがて一家族《イチ家族》が生まれいずべき|ふたり《二人》の運命の和合をまず家の中で始め、同棲生活がその楔として長く結婚の室《+部屋》を有することは、至って尊い善良なことだとされていた。  そして人々は、不謹慎にも自宅で結婚をしたのである。  マリユスとコゼットとの結婚も、現今廃っているその風習に従って、ジルノルマ《マ-》ン氏の家でなされた。  教会堂に掲示すべき予告、正式の契約書、区役所、教会堂、それら結婚上の仕事はご《/ご》く当然な普通なことではあるが、いつも多少の面倒をきたすものである。そして二月十六日まででなければすっかり準備ができ上がらなかった。  しかるに、われわれはただ正確を期するためにこの一事を言うのであるが、十六日はちょうど謝肉祭末日《謝肉祭’末日》の火曜日だった。それで人々はいろいろ躊躇したり気にかけたりし、ことにジルノルマン伯母はひどく心配した。 「謝肉祭末日《謝肉祭’末日》なら結構だ。」と祖父は叫んだ。「こういう諺がある。 ◇。◇。  謝肉祭末日《謝肉祭’末日》の結婚ならば  謝恩を知らぬ子供はできない。 ◇。◇。  是非ともやろう。十六日にきめよう。マリユス、お前は延ばしたいか。」 「いいえ、ちっとも。」と恋人は答えた。 「ではその日が結婚だ。」と祖父は言った。  それで、世間のにぎわいをよそにして、十六日に結婚式があげられた。その日は雨が降った。けれども、たとい他の者は皆雨傘《-みんな雨傘》の下にいようとも、恋人らが|なが《眺》める幸福の蒼天は、常に空の片|すみ《隅》に残ってるものである。  その前日、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマ《マ-》ン氏の面前で、五十八万四千フランをマリユスに渡した。  結婚は夫婦財産共有法によってなされたので、契約書は簡単だった。  トゥーサンはジャン・ヴァルジャンに不用となったので、コゼットが彼女を引き取って、小間使いの格に昇進さした。  ジャン・ヴァルジャンの方《ほう》は、ジルノルマン家のうちに特に彼のために設けられたきれいな室《+部屋》を提供された。そして、「お父様、どうかお願いですから、」とコゼットが切に勧めるので、彼も仕方なしに、その室《部屋》に住もうというおおよその約束をした。  結婚の定日の数日前、ジャン・ヴァルジャンに一事が起こった。すなわち右手の親指を少し負傷したのである。大した傷ではなかった。そして彼はそれを気にかけたり包帯したりま《”ま》たは調べてみたりすることを|だれ《誰》にも許さなかった、コゼットにも許さなかった。それでも彼は、その手を布で結わえ、腕を首からつ《吊》らなければならなかった。そして署名することができなくなった。ジルノルマ《マ-》ン氏がコゼットの後見監督人として彼の代わりをした。  われわれは読者を区役所や教会堂まで連れて行くことをよそう。人は通例そこまで|ふたり《二人》の恋人について行くものでなく、儀式が結婚の花束をボタンの穴にさすとすぐ、背を向けて立ち去るものである。だからわれわれはここに一事をしるすに止《-とど》めよう。その一事は、もとより婚礼の一行からは気づかれなかったことであるが、フィーユ・デュ・カルヴェール街からサン・ポール教会堂までの道程の途中で起こったものである。  当時、サン・ルイ街の北端で舗石《+敷石》の修復がされていて、パルク・ロアイヤル街から先は往来がふさがれていた。それで婚礼の馬車は|まっす《真っ直》ぐにサン・ポールへ行くことができず、どうしても道筋を変えなければならなかった。一番簡単なのは大通りへ回り道をすることだった。ところがちょうど謝肉祭末日《謝肉祭’末日》なので大通りには馬車がいっぱいになってるだろうと、客のひとりは注意した。「なぜです?」とジルノルマ《マ-》ン氏は尋ねた。「仮装行列があるからです。」すると祖父は言った。「それはおもしろい。そこから行きましょう。この若い者たちは結婚して、これから人生の|まじめ《真面目》な方面にはいろうとするんです。仮装会を少し見せるのも何かのためになるでしょう。」  一同は大通りから行くことにした。第一の婚礼馬車には、コゼットとジ《/ジ》ルノルマン伯母とジ《/ジ》ルノルマ《マ-》ン氏とジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンとが乗った。マリユスは習慣どおり花嫁と別になって第二の馬車に乗った。婚礼の行列はフィーユ・デュ・カルヴェール街を出るとすぐに、マドレーヌとバスティーユの間を往来してる絶《/絶》え間のない長い馬車の行列の中にはいり込んだ。  仮装の人々は大通りにいっぱいになっていた。時々《ときどき》雨が降ったけれども、パイヤスやパ《/パ》ンタロンやジ《/ジ》ルなどという道化者らはそれに臆しもしなかった。その1833年の冬の上|きげん《機嫌》さのうちにパ《/パ》リーはヴェニスの町のようになっていた。今日《コンニチ》ではもうそ《/そ》ういう謝肉祭末日《謝肉祭’末日》は見られない。今日存在《こんにち存在》しているものは皆広《-みんな広》い意味の謝肉祭であって、本当の謝肉祭はもはやな《無》くなっている。  横町《横丁》は通行人でいっぱいになっており、人家の窓は好奇な者でいっぱいになっていた。劇場の回廊の上にある平屋根には見物人が立ち並んでいた。仮装行列のほかにまた、謝肉祭末日《謝肉祭’末日》の特徴たるあ《/あ》らゆる馬車の行列が見られた。ちょうどロンシャンにおけるがように、辻馬車、市民馬車、逍遥馬車、幌小馬車、二輪馬車、などが警察の規則で互いに一定の距離を保ち、あたかもレールにはめ込まれたようにして、整然と進んでいた。それらの馬車の中にある者は|だれ《誰》でも、見物人であると同時にま《”ま》た人から見物されていた。巡査らは、平行して反対の方向へ行くその間断なき二つの行列を、大通りの両側に並ばせ、その二重の運行が少しも妨げられないように、《:、》馬車の二つの流れを、一つは上手《カミ手》のアンタン大道の方《ほう》へ、一つは下手《シモ手》のサン・タントアーヌ郭外の方《ほう》へと、厳重に監視していた。上院議員や大使などの紋章のついた馬車は、道《みち》の中央を自由に往来していた。ある壮麗なおもしろい行列、ことに飾り牛の行列なども、同様の特権を持っていた。そういうパリーの快活さのうちに、イギリスはその鞭を鳴らしていた、すなわちセーモアー卿と一般に綽名されてる駅馬車は、大きな音を立てて走り過ぎていた。  二重の行列は、羊飼いの番犬のように並んで駆けてる市民兵で付き添われていたが、その中には、爺さんや婆《バア》さんたちがいっぱい乗り込んでる正直《/正直》な家族馬車が交じっていて、その戸口には仮装した子供の鮮やかな一群が見えていた。七歳ばかりの道化小僧や六歳《/六歳》ばかりの道化娘らで、公然と一般の遊楽に加わってることを感じ、道化役者の品位と役人《/役人》のしかつめらしさとをそなえてる、愉快な少年少女らであった。  時々、馬車の行列のどこかに混雑が起こり、両側のどちらかの列に結び目ができて、それが解けるまで立ち止まることもあった。一つの馬車に故障が起これば、それですぐに全線が動けなくなった。しかしやがて行進は始まるのだった。  婚礼の馬車は、バスティーユの方へ向かって大通《/大通》りの右側を進んでる列の中にはいっていた。ところがポン・トー・シュー街の高みで、しばらく行列が止まった。それと同時に、マドレーヌの方《ほう》へ進んでる向こう側の行列も同じく行進を止めた。そして行列のちょうどその部分に一つの仮装馬車があった。  それらの仮装馬車は、否《否/》むしろそれらの仮装の荷物は、パリーになじみの深いものである。もしそういう馬車が、謝肉祭末日《謝肉祭’末日》や四旬節中日《四旬節’中日》などに見えないと、人々は何か悪いことがあるのだと思い、互いにささやき合う。「何か|わけ《訳》があるんだな。たぶん内閣が変わるのかも知れない。」通行人の上の方《ほう》に揺り動かされてるたくさんのカサンドルやア《/ア》ールカンやコ《/コ》ロンビーヌなどの道化、トルコ人から野蛮人に至るまでありとあらゆる滑稽な者、侯爵夫人をかついでるヘラクレス神《シン》、《:、》アリストファネスに目を伏せさせた巫女のように、ラブレーにも耳を押さえさせるかと思われるばかりの無作法な女ども、麻屑の鬘、薔薇色の肉襦袢《+肉ジュバン》、洒落者の帽子、斜眼者《+藪睨み》の眼鏡、《:、》蝶になぶられてるジャノー(訳者注◇ 滑稽愚昧な人物)の三角帽、徒歩の者らに投げつける叫び声、腰にあてた拳《コブシ》、無作法《ブ作法》な態度、裸の肩、仮面をつけた顔、ほしいままな醜態、《:、》それから花の帽子をかぶった御者が撒き散らす無茶苦茶な悪口《悪くチ》、そういうのがこの見世物のありさまである。  ギリシャにはテスピスの四輪馬車が必要であったが、フランスにはヴァデの辻馬車が必要である。(訳者注◇ 前者は悲劇の開祖たるギリシャ詩人、後者は通俗詩の開祖たるフランス詩人)  いかなるものも皆道化化《みんな道化化》され得る、道化そのものも更に道化化され得る。古代美《古代ビ》の渋面であるサツルヌス祭も、|しだい《次第》に度を強めてきてつ《/つ》いに謝肉祭《+カルナヴァル》末日となっている。昔は葡萄蔓の冠をかぶり太陽《/太陽》の光を浴び、神々しい半身裸体のうちに大理石で造られたような乳房を示していた酒神《+バッカス》祭も、《:、》今日《コンニチ》では北部の湿った|ぼろ《ボロ》の下に形がくずれてきて、仮面行列と言われるようになっている。  仮装馬車の風習は王政時代のごく古くからあった。ルイ十一世の会計報告によれば、「仮装辻馬車三台のためにト《/ト》ールヌア貨幣二十」を宮廷執事に使わせている。現今では、それら一群の騒々しい仮装人物らは、たいてい旧式な辻馬車の上段にいっぱい立ち並び、あるいは幌をおろした市営幌馬車に|がやがや《ガヤガヤ》つまっている。六人乗りの馬車に二十人《/二十人》も乗っている。椅子や腰掛《/腰掛》けや幌《/幌》の横や轅《/轅》にまでも乗っている。照灯にまたがってる者さえある。あるいは立ち、あるいは寝ころび、あるいは腰《コシ》をかけ、あるいは足をねじ曲げ、あるいは脛をぶら下げてる。女は男の膝に腰掛けてる。遠くから見ると、それらの|うようよ《ウヨウヨ》した頭が妙なピラミッド形《型》をなしている。そしてこの一馬車の者どもは、群集の|まんなか《真ん中》に歓喜《/歓喜》の山となってそびえている。コレやパ《/パ》ナールやピ《/ピ》ロン(訳者注◇ 皆諧謔風刺《皆’諧謔風刺》に富んだ詩人)などのような言葉が、更に隠語を交じえてそれから流れ出る。その上方《-じょうほう》から群集の上に、野卑な文句が投げつけられる。できる限りたくさんの人を積んでるその馬車は、戦利品のようなありさまに見える。前部は喧騒をきわめ、後部は混雑をきわめている。一同は怒鳴り、喚《わめ》き、吼え、笑い、有頂天になっている。快活の気はわき立ち、譏刺《キシ》は燃え上がり、陽気さは緋衣《+ヒイ》のようにひろがっている。二匹の痩馬は、花を開いてる滑稽を神《/神》に祭り上げて引いてゆく。それは哄笑の凱旋車である。  その哄笑は、露骨というにはあまりに皮肉すぎる。実際その笑いには怪しげな気がこもっている。それは一つの使命を帯びてるのである。パリー人に謝肉祭を示すの役目を持ってるのである。  それら野卑無作法《野卑’無作法》な馬車には、何となく暗黒の気が感ぜらるるものであって、思索家をして夢想に沈ませる。その中には政府がいる。公人《コウジン》と公娼との不思議な和合がそこにはっきりと感ぜらるる。  種々《いろいろ》の醜悪が積み重なって一つの快活さを作り上げること、破廉恥と卑賤とを積み上げて民衆を酔わすこと、間諜《スパイ》が醜業を|ささ《支》える柱《’柱》となって衆人《/衆人》を侮辱しながらかえっ|て衆人を侮辱しながらかえって《て》衆人を笑わせること、《:、》金ぴかの|ぼろ《ボロ》であり、半ば醜業と光明とであり、吠えまた歌っている、その生きた恐ろしい積み荷が、辻馬車の四つの車輪に運ばれてゆくのを見て、群集が喜ぶこと、《:、》あらゆる恥辱でできてるその光栄に向かって、人々が手をたたいて喝采すること、《:、》二十の頭を持った喜悦の怪蛇《+カイダ》を自分たちの|まんなか《真ん中》に引き回してもらうという以外には、群集にとって何らおもしろいにぎわいもないということ、それは確かに悲しむべきことである。しかしどうしたらいいのか。リボンと花とで飾られた汚賤《+オセン》のそれらの車は、公衆の笑いによって侮辱されながら赦《/赦》されているではないか。すべての者の笑いは、一般の堕落を助ける。ある種の不健全なにぎわいは、民衆を分散さして多衆となす。そして多衆にとっては暴君にとってと同じく、諧謔が必要である。国王にはロクロールがあり、人民にはパイヤスがある(訳者注◇ 前者はルイ十四世の下にいた諧謔をもって知られし将軍、後者は卑俗な喜劇によく出て来る一種の道化役)。パリーは荘厳な大都市たることを止《-や》むる時には常《/常》に狂愚な大都会となる。謝肉祭はその政治の一部分となっている。うち明けて言えば、パリーは好んで破廉恥な喜劇を受け容れる。もし主人があれば、その主人はただ一事をしか求めない、すなわちわれに泥を塗ってくれと。ローマも同じ気質を持っていた。ローマはネロを愛していた。しかるにネロは巨大なる泥塗り人《にん》であった。  さて、前に言ったとおり、婚礼の行列が大通りの右側に止まった時偶然《とき偶然》にも、仮面をつけた男女が房《ふさ》のようにかたまって乗り込んでるその大きな四輪馬車の一つが、大通りの左側に止まった。そして仮装馬車はちょうど新婦の馬車と大通りをはさんで向かい合った。 「おや!《/》」と仮装のひとりが言った、「婚礼だ。」 「嘘の婚礼だ。」と他のひとりが言った。「本物は俺たちの方《ほう》だ。」  そして、婚礼の列の方《ほう》へ言葉をかけるには少し離れすぎていたし、また巡査の制止の声を恐れていたので、仮装の|ふたり《二人》は他の方《ほう》を向いた。  すぐに、仮装馬車の者らはごく忙しくなった。群集が彼らに悪罵の声をかけ始めた。それは仮装の者らに対する群集の愛撫である。今言葉《いま言葉》をかわした|ふたり《二人》も、仲間の者らといっしょに、衆人に立ち向かわなければならなかった。彼らは道化者のあらゆる武器を持っていたが、無数の人々の悪謔を相手にして他《/他》を顧みるの余裕がなかった。そして仮装の者らと群集との間に激しく諧謔がかわされた。  そのうちに、同じ馬車に乗っていた他の仮装の|ふたり《二人》、すなわちお爺さんのふうをして|ばか《馬鹿》に大きな黒髭をつけてる鼻《/鼻》の大きなスペイン人と、黒ビロードの仮面をつけてるごく若いやせたはすっぱ娘とが、《:、》やはり婚礼の馬車に目を止めて、仲間の者らと道行人《道行びと》らとが互いに野次りかわしてる間《あいだ》に、低い声で話をした。  彼らの|ふたり《二人》の内緒話は、喧騒の声に包まれて他にもれなかった。去来する雨に、あけ放してある馬車の中はすっかりぬ《濡》れていた。それに二月の風はまだ寒い。スペイン人に答えながら、首筋をあらわにしたはすっぱ娘の方《ほう》は、震え笑いか《/か》つ咳をしていた。  その会話は次のとおりだった。(訳者注◇ 以下の会話は隠語を交じえたものと想像していただきたい) 「なあ、おい。」 「なによ、お父さん。」 「あの爺さんが見えるか。」 「どの爺さん?」 「向こうの、婚礼馬車の一番先のに乗ってる、こちら側のさ。」 「黒い布で腕をつ《吊》ってる方《ほう》の。」 「そうだ。」 「それがどうしたの。」 「どうも確かに見覚えがある。」 「そう。」 「この首を賭けてもいい、この命を賭けてもいい、俺は確かにあのパンタン人(パリー人)を知ってる。」 「なるほど今日は、パリーはパンタンだね。」《」:》(訳者注◇ パンタンとは小さな操り人形のことにて仮面道化をさすのであるが、また下層の俗語ではパリーのことをパンタンという) 「少しかがんだらお前に花嫁が見えやしないか。」 「見えない。」 「花婿の方《ほう》は?」 「あの馬車には花婿はいないよ。」 「なあに!」 「いないよ、|もひとり《もう一人》の爺さんが花婿なら知らないが。」 「とにかくよくかがんで花嫁を見てくれ。」 「見えやしないよ。」 「じゃいいさ。だが手をどうかしてるあの爺さんを、俺は確かに知ってる。」 「爺さんを知ってるったって、それがなにになるんだね。」 「それはわからねえ。だが時には何かになるさ。」 「あたしは爺さんなんかあまり気には止めないよ。」 「俺はあいつを知ってる!」 「勝手に知るがいいよ。」 「どうして婚礼の中に出てきたのかな。」 「よけいなことだよ。」 「あの婚礼はどこから出たのかな。」 「あたしが知るもんかね。」 「まあ聞けよ。」 「なに?」 「ちょっと頼まれてくれ。」 「なにを?」 「馬車からおりてあの婚礼の跡をつけるんだ。」 「どうして?」 「どこへ行くのか、そしてどういう婚礼か、少し知りてえんだ。急いでおりて駆けていけ、お前は若いから。」 「この馬車を離れることはできないよ。」 「なぜだ。」 「雇われているんだからさ。」 「畜生!」 「はすっぱ娘になって警視庁から一日分の給金をもらってるじゃないかね。」 「なるほど。」 「もし馬車から離れて、警視に見つかろうもんなら、すぐにつかまってしまう。よく知ってるくせに。」 「うん、知ってるよ。」 「今日は、あたしはお上から買われた身だよ。」 「それはそうだが、どうもあの爺さんが気になる。」 「爺さんなのが気になるの。若い娘でもないくせにね。」 「一番先の馬車に乗ってる。」 「だから?」 「花嫁の馬車に乗ってる。」 「それで?」 「花嫁の親に違いねえ。」 「それがどうしたのさ。」 「花嫁の親だというんだ。」 「そうさね、ほかに親はいやしない。」 「まあ聞けよ。」 「なんだね?」 「俺は仮面をつけてでなけりゃ外《/外》にはあまり出られねえ。こうしてりゃ、顔が隠れてるから|だれ《誰》にもわからねえ。だが明日になったらもう仮面がなくなる。明日は灰の水曜日(四旬節第一日《四旬節’第イチニチ》)だ。うっかりすりゃ捕まっちまう。また穴の中に戻らなき《き-》ゃあならねえ。ところがお前は自由な身体だ。」 「あまり自由でもないよ。」 「でも俺よりは自由だ。」 「だからどうなのよ?」 「あの婚礼がどこへ行くか調べてもらいたいんだ。」 「どこへ行くか?」 「そうだ。」 「それはわかってるよ。」 「なに、どこへ行くんだ?」 「カドラン・ブルーへ《へ-》さ。」 「なにそっちの方面じゃねえ。」 「それじゃ、ラーペへ《へ-》さ。」 「それともほかの方《ほう》かも知れねえ。」 「それは向こうの勝手さ。婚礼なんてものはどこへ行こ《こ-》うと自由じゃないか。」 「まあそんなことはどうでもいい。とにかく、あの婚礼はどういうもので、あの爺さんはどういう男で、またあの人たちはどこに住んでるか、それを俺に知らしてくれというんだ。」 「いやだよ! |ばかばか《馬鹿馬鹿》しい。一週間もたってから、謝肉祭の終わりの火曜日にパリーを通った婚礼がどこへ行ったか調べたって、なかなかわかるもんじゃないよ。藁小屋の中に落ちた針を|さが《探》すようなもんだ。わかりっこないよ。」 「でもまあやってみるんだ。いいかね、アゼルマ。」  そのうち二つの列は、大通りの両側で反対《/反対》にまた動き出した。そして花嫁の馬車は仮装馬車から見えなくなってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【なお腕をつ《吊》れるジャン・ヴァルジャン】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夢想を実現すること。|だれ《誰》がそれを許されているか。それには天における推薦を得なければならない。人は皆自《-みな/自》ら知らずして候補に立つ、そして天使らが投票をする。コゼットとマリユスとはその選に|はい《入》っていた。  区役所と教会堂とにおけるコゼットは、燦然として人の心を奪った。彼女の身じたくは、ニコレットの手伝いで重《主》にトゥーサンがやったのである。  コゼットは白琥珀の裳衣《ショーイ》の上にバンシュ紗の長衣《ナガギヌ》をまとい、イギリス刺繍のヴェール、みごとな真珠の首環、橙花《+オレンジ》の帽をつけていた。それらは皆白色《ミナ白’色》だったが、その白ずくめの中で彼女は光り輝いていた。美妙な純潔さが光明のうちに綻びて姿《/姿》を変えようとしてるありさまだった。処女が女神になろうとしてるのかと思われた。  マリユスの美しい髪は艶々として薫っていた。その濃い巻き毛の下には所々に、防寨での創痕《+傷跡》である青白い筋が少し見えていた。  祖父は昂然として頭をもたげ、バラス(訳者注◇ 革命内閣時代の華美豪奢《華美’豪奢》な人物)の時代のあらゆる優美さを最もよく集めた服装と態度とをして、コゼットを導いていた。ジャン・ヴァルジャンが腕をつ《吊》っていて花嫁《/花嫁》に腕を貸すことができなかったので、彼がその代わりをしているのだった。  ジャン・ヴァルジャンは黒い服装をして、そのあとに従いほ《/ほ》ほえんでいた。 「フォーシュルヴァンさん、」と祖父は彼に言った、「実にいい日ではありませんか。これで悲しみや苦しみはおしまいにしたいもんです。これからはもうどこにも悲しいことがあってはいけません。まったく私は喜びを主張します。悪は存在の権利を持つものではありません。実際世《実際’世》に不幸な人々がいることは、青空に対して恥ずべきことです。悪は元来善良《元来’善良》である人間から来るものではありません。人間のあらゆる悲惨は、その首府として、またその中央政府として、地獄を持っています、言い換えれば悪魔のテュイルリー宮殿を持ってるのです。いやこれは、今では私も過激派のような言い方をするようになりましたかな。ところで私はもう、何ら政治上の意見は持っていません。すべての人が金持ちであるように、すなわち愉快であるように、それだけを私は望んでいるんです。」  あらゆる儀式を完成させるものとして、区長の前と牧師の前とであ《/あ》る限りの|しか《然》りという答えを発した後《あと》、区役所の書面と奥殿《オクドノ》の書面とに署名した後《あと》、|ふたり《二人》互いに指輪を交換した後《あと》、《:、》香炉の煙に包まれて、ま《真》っ白な観世模様絹の天蓋の下に相並んでひざまずいた後《あと》、|ふたり《二人》互いに手を取り合って、すべての人々から賛美されう《/う》らやまれつつ、マリユスは黒服をまとい彼女《/彼女》は白服をまとい、《:、》大佐の肩章をつけ鉞《/鉞》で舗石《+敷石》に音を立てる案内人のあとに従い、魅せられてる見物人の人垣の間を進んで、《:、》両扉《+両ヒ》とも大きく開かれてる教会堂の表門の下まで行き、再び馬車に乗るばかりになって、すべてが終わった時、コゼットはまだそれが夢ではないかと疑っていた。彼女はマリユスを|なが《眺》め、群集を|なが《眺》め、空を|なが《眺》めた。あたかも夢からさめるのを恐れてるが《が-》ようだった。そのびっくりした不安な様子は言《/言》い知れぬ一種の魅力を彼女に添えていた。家に戻るために、彼らはいっしょに相並んで同じ馬車に乗った。ジルノルマ《マ-》ン氏とジャン・ヴァルジャンとが|ふたり《二人》に向き合ってすわった。ジルノルマン伯母は一段だけ位を落とされて、二番目の馬車に乗った。祖父は言った。「これでお前たちは、三万フランの年金を持ってる男爵お《/お》よび男爵夫人となったわけだ。」コゼットはマリユスに近く寄り添って、天使のようなささやきで彼の耳根《耳元》をなでた。「本当なのね。私の名もマリユスね。私はあなたの夫人なのね。」  彼ら|ふたり《二人》は光り輝いていた。彼らは、再び来ることのない見《/見》いだそうとて見いだせない瞬間にあり、あらゆる青春と喜悦とのま《”ま》ばゆい交差点にあった。彼らはジャン・プルーヴェールの詩《-し》を実現していた。|ふたり《二人》の年齢を合わしても四十歳に満たなかった。精気のような結婚であって、その|ふたり《二人》の若者は二つの百合の花であった。彼らは互いに見ることをせず、しかも互いに見とれ合っていた。コゼットはマリユスを光栄の中に|なが《眺》め、マリユスはコゼットを祭壇の上に|なが《眺》めていた。そしてその祭壇の上とその光栄の中とに、|ふたり《二人》は共に神《カミ》となって相交わり、その奥に、コゼットにとっては霞のうしろに、マリユスにとっては炎の中に、《:、》ある理想的なものが、現実的なものが、脣《+口》づけと夢との会合が、婚姻の枕が、横たわってるのだった。  過去のあらゆる苦しみは戻ってきて、かえって彼らを酔わした。苦痛、不眠、涙、煩悶、恐怖、絶望、それらのものも今は愛撫と光輝とに姿を変じて、まさにき《来》たらんとする麗しい時間を更《/更》に麗しくするように思われた。そしてあらゆる悲しみも今《/今》は喜びの装いをする召し使いのように思われた。苦しんだのはいかに|仕合わ《幸》せなことであるか。彼らの不幸は今や彼らの幸福に曙の色を与えていた。|ふたり《二人》の愛の長い苦悶はついに昇天の喜びに達したのである。  彼ら|ふたり《二人》の魂のうちには、マリユスにあっては快楽の色に染められコ《/コ》ゼットにあっては貞節の色に染められてる同じ歓喜があった。彼らは声低く語り合った。|ふたり《二人》でプリューメ街の小さな庭をま《”ま》た見に行こうと。コゼットの長衣《ナガギヌ》の襞はマリユスの上に置かれていた。  そういう日こそは、夢幻《ユメマボロシ》の確実との得《/得》も言えぬ混同の日である。人は実際に所有しま《”ま》た仮想する。種々《いろいろ》想像するだけの余裕がまだ残っている。ま《真》昼にあってま《真》夜中のことを思うその日こそは、実に名状し難い情緒に満ちてるものである。彼ら|ふたり《二人》の心の楽しさは、衆人の上にも流れ出し、通りすがりの者らにも喜悦の気を与えていた。  サン・タントアーヌ街のサン・ポール教会堂の前には、多くの人が立ち止まって、コゼットの頭の上に震える橙花《+オレンヂ》を馬車《/馬車》のガラス戸越《ド越》しに|なが《眺》めていた。  それから一同は、フィーユ・デュ・カンヴェール街の自宅に戻った。マリユスはコゼットと相並んで、かつて瀕死の身体を引きずり上げられたあの階段を、光り輝き昂然《/昂然》として上っていった。貧しい人々は、戸口の前に集まっても《/も》らった金《-かね》を分かちながら、|ふたり《二人》を祝福した。至る所に花が撒かれていた。家の中も教会堂に劣らず|かお《香》りを放っていた。香《コウ》の次に薔薇の花となったのである。|ふたり《二人》は無窮のうちに歌声を聞くような気がし、心のうちに神をいだき、宿命を星の輝く天井のように感じ、頭の上に朝日の光を見るがように思った。突然大時計が鳴った。マリユスはコゼットの美しい裸の腕と、胴衣のレース越しにかすかに見える薔薇色のものとを|なが《眺》めた。そしてコゼットはマリユスの視線を見て、目の中までもま《真》っ赤になった。  ジルノルマン一家の旧友の多数は、皆招待《みんな招待》されていた。人々はコゼットのまわりに集まって、先を争いながら男爵夫人と彼女に呼びかけた。  今は大尉になってるテオデュール・ジルノルマン将校も、徒弟《従兄弟》ポンメ《メ-》ルシーの結婚に列するため、任地のシャルトルからやってきていた。コゼットは彼の顔を忘れていた。  彼の方《ほう》では、いつも婦人らからきれいだと思われてばかりいたので、もうコゼットのことも頭に残っていなかった。 「この槍騎兵の話を本当にしないでよかった。」とジルノ《ノ-》ルマン老人はひとりで思った。  コゼットはこれまでにないほどジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンに対してやさしかった。また彼女はジルノ《ノ-》ルマン老人としっくり調子が合っていた。老人が盛んに警句や格言を使って喜びを述べ立ててる間、彼女は愛と善良さとを|かお《/香》りのように発散さしていた。幸福はすべての者が楽しからんことを欲するものである。  彼女はジャン・ヴァルジャンに話しかける時は、少女時代の声の調子に戻っていた。また、ほほえみを送って彼に甘えていた。  饗応の宴は食堂に設けられていた。  昼間のように明るい灯火は、大《ダイ》なる喜びの席にはなくてならないものである。靄と暗《-くら》さとは決して幸福な人々の好むものではない。彼らは黒い姿となるのを喜ばない。夜は《は-》よいが、暗闇はいけない。もし太陽が出ていなければ、それを別に一つこしらえなければならない。  食堂は楽しい器具の巣であった。中央には、ま《真》っ白に光ってる食卓の上に、平たい延べ金の下飾りがついてるヴェニス製の大燭台《+ダイ燭台》が一つあって、《:、》その四方《シホウ》の枝の蝋燭に囲まれた|まんなか《真ん中》には、青や紫《/紫》や赤《/赤》や緑《/緑》などに塗った各種の鳥がとまっていた。大燭台《+オオ燭台》のまわりには多くの飾り燭台があり、壁には三枝《3枝》もしくは五枝に分かれた反射鏡がかかっていた。鏡、水晶器具、ガラス器具、皿、磁器、陶器、土器、金銀細工物《金銀ザイク物》、銀の器具など、すべてが輝き笑っていた。燭台の間々《あいだあいだ》には花輪がいっぱい積まれていて、至る所光《ところ光》か花かであった。  次の間では、三つのバイオリンと一《/一》つの笛とが制音器《セイオン器》をつけて、ハイドンの四部合奏曲を奏していた。  ジャン・ヴァルジャンは客間の入り口の横手の椅子に|すわ《座》っていて、扉が開くとほとんどそのうしろに隠れるようになっていた。食堂に|はい《入》るちょっと前に、コゼットはふと引きずられるように彼のそばに寄ってゆき、両手で花嫁の衣裳をひろげながら深《/深》い愛敬《愛嬌》の様子を示し、やさしいい《/い》たずらそうな目つきをして尋ねた。 「お父さま、あなたお《/お》うれしくて?」 「ああ、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「うれしい。」 「では笑ってちょうだいな。」  ジャン・ヴァルジャンは笑顔をした。  やがて、バスクは食事の用意が整ったことを告げた。  客人らは、コゼットに腕を貸してるジルノルマ《マ-》ン氏のあとについて、食堂に|はい《入》り、予定の順序で食卓のまわりに並んだ。  花嫁の右と左とにある二つの大きな|肱掛け《肱掛》椅子には、一つにジルノルマ《マ-》ン氏がすわり、一つにジャン・ヴァルジャンがすわることになっていた。ジルノルマ《マ-》ン氏は席についた。しかしも《もう》一つの|肱掛け《肱掛》椅子には|だれ《誰》もいなかった。  人々は「フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏」の姿を見回した。  彼はもうそこにいなかった。  ジルノルマ《マ-》ン氏はバスクに声をかけた。 「フォーシュルヴァ《ァ-》ンさんはどこにおらる《る-》るか知っていないか。」 「はい存じております。」とバスクは答えた。「フォーシュルヴァン様は、お手の傷が少し痛まれて、男爵お二方と会食ができないから、旦那様によろしく申し上げてほしいと私にお伝えでございました。そして今晩は御免を被《-こうむ》って、明朝来《ミョウチョウ来》るからと申されて、|ただ《只》今お帰りになりました。」  その空《-から》の|肱掛け《肱掛》椅子のために、婚礼の宴は一時白《一時’白》けた。しかしフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は不在でも、ジルノルマ《マ-》ン氏がそこにいて、|ふたり分《二人分》にぎやかにしていた。もし傷が痛むようならフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は早くから床《トコ》につかれた方《ほう》がよいが、しかしそれもちょっとした|いたいた《イタイタ》に過ぎない、と彼は断言した。そしてその言葉でもう充分だった。それにもとより、一座喜《一座’喜》びにあふれてる中にあってそ《/そ》の薄暗い一隅などは何でもないことだった。コゼットとマリユスはもう幸福の影しか頭に映らないような利己的な至福《/至福》な瞬間にあった。それにまたジルノルマ《マ-》ン氏は妙案を思いついた。「ところでその|肱掛け《肱掛》椅子が空いている。マリユス、お前がそこにすわるがいい。伯母さんの方《ほう》に権利はあるんだが、きっとお前に許してくれるよ。その席はお前のだ。それが正当で、また至極おもしろい。好運児と幸運女とは相並ぶべしだ。」人々は皆喝采《-みんな喝采》した。マリユスはコゼットのそばにジ《ジ-》ャン・ヴァルジャンの席についた。そして万事うまくいったので、初めジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンの不在を悲しく思っていたコゼットも、ついに満足するようになった。マリユスがジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの代わりになった時、コゼットはもう神《’神》を恨まなかった。彼女は白繻子の上靴をつけた小さなやさしい足を、マリユスの足の上にのせた。  |肱掛け《肱掛》椅子はふさがり、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏はなくなってしまい、何も欠けた所はなかった。そして五分もた《経》つうちには、食卓全体はすべてを忘れた上|きげん《機嫌》で、端から端まで笑いさざめいていた。  食後の茶菓子の時になって、ジルノルマ《マ-》ン氏はた《立》ち上がり、九十二歳の高齢のために手が震えるのでこぼれないようにと、半分ばかり注《-つ》がしたシャンパンの杯を取り、新夫婦の健康を祝した。 「お前たちは二度の説教を|のが《逃》れることはできない。」と彼は声を張り上げた。「朝に司祭の説教があり、晩に祖父の説教があるのだ。まあ|わし《儂》の言うことを聞くがいい。|わし《儂》はお前たちに一つの戒めを与える、それは互いに熱愛せよということだ。|わし《儂》はくどくど泣き言を並べないで、すぐに結論に飛んでゆく、すなわち幸福なれというのだ。万物のうちで賢いのはた《/た》だ鳩《ハト》だけである。ところが哲学者らは言う、汝の喜びを節せよと。しかるに|わし《儂》は言う、汝の喜びを奔放ならしめよと。むちゃくちゃにのぼせ上がるがいい、有頂天になるがいい。哲学者《哲学者’》どもの言うことは阿呆の至りだ。彼らの哲学なんかはその喉の中につき戻すがいいのだ。|かお《香》りが多すぎ、開いた薔薇の花が多すぎ、歌ってる鶯が多すぎ、緑の木の葉が多すぎ、人生に曙が多すぎる、などということがあり得ようか。互いに愛しすぎるということがあり得ようか。互いに気に入りすぎるということがあり得ようか。気をつけるがいい、エステル、お前はあまりにきれいすぎる、気をつけるがいい、ネモラン、お前はあまりに麗しすぎる(訳者注◇ フロリアンの牧歌中の若い女と男)、などというのは何《-なん》という|ばか《馬鹿》げたことだ。互いに惑わし|よろこ《/喜》ばし夢中《/夢中》にならせすぎるということがあり得るものか。あまり上|きげん《機嫌》すぎるということがあり得るものか。あまり幸福すぎるということがあり得るものか。汝の喜びを節せよだと、|ばか《馬鹿》な。哲学者《哲学者’》どもを打ち倒すべしだ。知恵はすなわち歓喜なり、歓喜せよ、歓喜すべし。いったいわれわれは、善良だから幸福なのか、もしくは幸福だから善良なのか? サンシー金剛石《ダイヤモンド》は、アルレー・ド・サンシーの所有だったからサンシーといわれるのか、またはサン・シー(百六)カラットの重さがあるからサンシーと言われるのか? そういうことは|わし《儂》にはわからない。人生はそんな問題で満ちている。ただ大切なのは、サンシー金剛石《ダイヤモンド》を所有することだ、幸福を所有することだ。おとなしく幸福にしているがいい。太陽に盲従するがいい。太陽とは何《なん》であるか? それは愛だ。愛と言《い》わば婦人だ。ああ《あ/》そこにこそ全能の力はあるんだ。それが婦人だ。この過激派のマリユスに聞いてみるがいい、彼がこのコゼットという小さな暴君の奴隷でないかどうかを。しかも甘んじてそうなってるではないか。実に婦人なるかなだ。ロベスピエールのごとき者でさえ長く地位を保つことはできない。常に婦人が君臨するのだ。|わし《儂》がまだ王党だというのも、この婦人の王位に対してのことだ。アダムは何であるか? それはイブの王国だ。イヴにとっては89年(1789年)の事変なんかはない。百合の花を冠した国王の笏はあった、地球を上にのせた皇帝の笏はあった、鉄でできたシャールマーニュ大帝の笏はあった、黄金でできたルイ大王の笏はあった、《:、》けれども革命は、親指と人差し指とで、一文《イチモン》の|ねう《値打》ちもない藁屑のようにそれらをへし折ってしまった。廃せられ砕《/砕》かれ地《/地》に投ぜられて、もはや笏はなくなっている。ところが、蘭麝の|かお《香》りを立てる刺繍した小さなハンカチに対して、革命をやれるならやってみるがいい。一《ひと》つ見たいものだ。やってみなさい。なぜそれが強固かと言えば、一片の布だからだ。ああ《あ/》諸君は十九世紀ですね。どうです。われわれは十八世紀の者です。そしてわれわれも諸君と同じくらいに|ばか《馬鹿》であった。しかし諸君は、ころりがコレラ病と言われるようになり、ブーレ踊りがカチューシャ舞踏と言われるようになったからと言って、世界に大変化《ダイ変化》をきたしたと思ってはいけません。根本《コンポン》においては、常に婦人を愛せざるを得ないでしょう。その原則からは|だれ《誰》だってなかなか出られるものではない。それらの鬼女がわれわれの天使である。そうだ、愛と婦人と脣《+口》づけ、その世界から|だれ《誰》も出られるものではない。|わし《儂》はむしろそこに|はい《入》りたいと思うくらいだ。ヴィーナスの星(金星)が、天空の偉大な洒落女が、大洋のセリメーヌが、あらゆるものをおのれの下に静めながら、《:、》海の波濤をも一婦人のように物ともしないで、無窮の空に上ってゆくのを、諸君のうちに見られた方がありますか。大洋はすなわち謹厳なアルセストです(訳者注◇ モリエールの戯曲「人間ぎらい」中《ちゅう》の主人公にてセリメーヌはその中の嬌艶な女)。ところで彼がいかに苦い顔をしていようと、ヴィーナス(愛の神)が現われてくれば、ほほえまざるを得ないのである。この粗暴な獣も屈服してしまう。われわれにしても同じことだ。憤怒《フンヌ》、暴風、雷鳴、天井まで水沫《シブキ》が飛んでいようと、ひとりの婦人が舞台に|現わ《アラワ》るれば、一つの星が上ってくれば、平伏《平伏’》してしまうのである。マリユスは六カ月前には戦争をしていた。しかるに今日《コンニチ》は結婚をしている。それは結構なことだ。マリユス、そうだとも、コゼット、お前たちのやることはもっともだ。大胆にふたり頼《/頼》り合って生《’生》きてゆくがいい、互いに恋し合うがいい、さんざん他の者をうらやませるがいい、互いに崇拝し合うがいい。お前たち|ふたり《二人》の嘴で、地上にありとあらゆる幸福の藁屑をつまみ取って、それで生涯の巣を作るがいい。愛し愛さるることは、若い時には麗しい奇蹟のような気がするものだ。だがそれは、自分たちが始めて考え出したことだと思ってはいけない。この|わし《儂》もやはり夢をみたり、思いを走《+馳》せたり、憧れをい《-い》だいたりしたことがある。|わし《儂》もやはり、月のように輝いた魂を自分のものにしたことがある。恋愛は六千歳の子供だ。恋愛は長い白髯《シロヒゲ》をつけてもいい者なんだ。メトセラ(訳者注◇ ノアの祖父にて九百六十九年生《/九百六十九年’生》きたと言わるる人物)もキューピッドに比《-くら》ぶれば鼻たらし小僧にすぎない。六十世紀も前から男女《/男女》は互いに愛しながら困難をきりぬけてきた。狡猾な悪魔は人間をきらい始めたが、いっそう狡猾な人間は女を愛し始めた。そうして、悪魔から受ける災いよりもいっそう多くのいいことをした。この妙策は、地上の楽園の初めから見いだされていたのである。この発明は古くからのものだが、いつまでも新しいものである。それを利用しなければいけない。フィレモンとボーシスになるまでは、まずダフニスとクロエになるがいい(訳者注◇ 前者は近代のオペラの中の|ふたり《二人》の恋人、後者はギリシャの物語の中の|ふたり《二人》の恋人)。お前たちが|ふたり《二人》|いっしょ《一緒》にいさえすれば、何も不足なものはなく、コゼットはマリユスにとって太陽となり、マリユスはコゼットにとって全世界となる、そういうふうでなくてはいかん。コゼット、夫のほほえみをお前の晴天とするがいい、マリユス、妻の涙をお前の雨とするがいい。そして願《-ねが》わくば、お前たちの家庭に決して雨が降らないようにな。お前たちは恋愛結婚といういい籤を引きあてた。その大変な賞品を得たのだから、それを大事にし、鍵をかけてしまって置き、やたらに使ってしまわないで、互いに愛し合い、その他のことは顧みないでいい。|わし《儂》が言うことをよく心に止めておかなくてはいかん。これはボンサンス(良識)だ。良識は決して人を誤るものではない。互いに信仰し合わなくてはいかん。|だれ《誰》にでも神を拝む独特のやり方があるものだ。ところで神を拝む最もいい方法は、自分の妻を愛することだ。私はお前を愛する! というのが|わし《儂》の教理要領だ。|だれ《誰》でも愛を持ってるものは《は-》すなわち正教派だ。アンリ四世《4世》の誓投詞《セイトウシ》では飽食《/飽食》と酩酊との間に神聖というものが置かれていた。すなわち酔っ払いの神聖なる腹!(訳者注◇ 語気を強めるために、よし、畜生、などというのと同じ意味のもの)し《:し》かし|わし《儂》はそういう宗派ではない。それには婦人が忘れられてる。アンリ四世《4世》の誓投詞《セイトウシ》にそういうことがあるのは|わし《儂》の意外とするところだ。諸君、婦人なるかなです。人は|わし《儂》を老人だと言う。しかし不思議にも|わし《儂》は自分ながら若返ってくるような気がする。|わし《儂》は森の中に行って睦言を聞きたいくらいだ。麗しく幸福である道を心得てるそれらの若者どもは、|わし《儂》の心を酔わしてくれる。もし|だれ《誰》か見たいというなら、すてきな結婚をしてみせてもいい。いずれの点から考えても、神がわれわれ人間を作ったのは、こういうことをさせるためだったに違いない、《:、》すなわち、夢中にかわいがり、喋々喃々し、美しく着飾り、鳩のようになり、牡鶏《+雄鶏》のようになり、朝から晩まで恋愛をつっつき回し、《:、》かわいい妻のうちに自分の姿を映してみ、得意になり、意気揚々として、反りくり返ることだ。それが人生の目的である。御免を被《-こうむ》って申せば、われわれ老人がまだ若い頃一般《頃/一般》に考えていたことは、そういうようなことだった。ああ《あ/》その頃は、いかにあでやかな女《オンナ》が、愛くるしい顔ややさしい姿が、たくさんいたことだろう! |わし《儂》はその中を荒し回ったものだ。すべからく互いに愛し合うべし。もし愛し合うことがなかったならば、春があったとて何の役に立つか|わし《/儂》にはわからない。そうなったら|わし《儂》はむしろ神《’神》に願って、神がわれわれに示してくれる美しいものを皆寄《-みんな寄》せ集め、それをわれわれから取り戻し、花や小鳥《/小鳥》やき《/き》れいな娘を、再びその箱《函》に閉じ込めてもらいたいくらいだ。子供たちよ、この好々爺の祝福を受けてくれ。」  その一晩の饗宴は、にぎやかで快活《/快活》で楽《/楽》しいものだった。一座を支配する祖父の上|きげん《機嫌’》さは、すべてのものの基調となり、各人はほとんど百歳《100歳》に近い老人の|へだ《隔》てない態度に調子を合わしていた。舞踏も少し行なわれ、また盛んに談笑された。甘えっ児《子》の婚礼だった。高砂の爺さんを招いてもいいほどだった。それにまた、高砂の爺さんはジル《ル-》ノルマン老人のうちに含まれていた。  か《斯》くて大騒ぎをした後《あと》に、静寂が落ちてきた。  新夫婦は退いていった。  十二時少し前に、ジルノルマン家は寺院のようにひっそりとなった。  ここでわれわれは筆を止めよう。結婚の夜の入り口には、ひとりの天使が立っていて、ほほえみながら口《’口》に指をあてている。  愛の祝典があげらるる聖殿に対しては、人の魂は瞑想にはいってゆく。  それらの人家の上には光輝があるに違いない。その中にこもってる喜びは、光となって石の壁を通し、ほんのりと暗黒を照らすに違いない。その運命に関する神聖な祝いは、必ずや天国的な光明を無窮《/無窮》のうちに送るに相違ない。愛は男女の融合が行なわれる崇高な坩堝である。一体と三体と極体と、人間の三位一体がそれから出てくる。か《斯》く二つの魂が一つとなって生まれ出ることは、影にとっては感動すべきことに違いない。愛する男はひとりの牧師である。歓喜せる処女はびっくりする。かかる喜悦のあるものは神のもとまで達する。真《シン》に結婚がある所には、すなわち恋愛がある所には、理想もそれに交じってくる。結婚の床《トコ》は、暗闇の中の一隅に曙を作り出す。もし上界の恐るべきま《”ま》た麗しい象《+形》を肉眼で見得るものとするならば、夜の形象が、翼のある見知らぬ者らが、目に見えない境を過ぎりゆく青色の者らが、《:、》身をかがめて、輝く人家のまわりに暗い頭を寄せ集め、満足し祝福《/祝福》しつつ、処女の新婦を互いにさし示し、《:、》やさしい驚きの様子をして、その聖い顔の上に人間の至福の反映を浮かべているのを、おそらく人は見るであろう。もしその極致の瞬間に、歓喜に眩惑せる|ふたり《二人》の者が、他に|だれ《誰》もいないと信じつつも耳を澄ますならば、飛びかわす翼の音を室《部屋》の中に聞くであろう。完全なる幸福は、天使をも参与させるものである。その小さな暗い寝所は、全天空を天井としている。愛に聖められた二つの脣が、創造のために相接する時、その得も言えぬ脣《+口》づけの上には、星辰の広漠たる神秘のうちに、必ずや一つの震えが起こるに相違ない。  それらの幸福こそ真正《/真正》なるものである。それらの喜悦を外《他》にしては真の喜悦は存しない。愛、そこにこそ唯一の恍惚たる喜びがある。他のすべては皆嘆《-みんな嘆》きである。  愛《愛’》しも《/も》しくは愛した、それで充分である。更に求むることをやめよ。人生の暗い襞のうちに見いだされ得る真珠は、ただそれのみである。愛することは成就することである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【側《そば》より離さざる物】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはどうなったか?  コゼットの|やさ《優》しい命令で笑顔をしたあと間もなく、|だれ《誰》からも注意を向けられていないのに乗じて、ジャン・ヴァルジャンは立ち上がり、人に気づかれぬうちに次の間へ退いた。八カ月以前に、彼が泥と血《/血》と埃《/埃》とでま《真》っ黒になって、祖父のもとへそ《/そ》の孫を運んではいってきたのも、やはりその同じ室《+部屋》へであった。今やその古い壁板は、緑葉《ミドリバ》と花とで飾られていた。かつてマリユスが横たえられた安楽椅子には、音楽師らが集まっていた。黒い上衣と短《/短》いズボンと白《/白》い靴足袋と白《/白》い手袋とをつけたバスクは、これから出そうとする皿のまわりにそ《/そ》れぞれ薔薇の花を配っていた。ジャン・ヴァルジャンは首につ《吊》った腕を彼に示し、席をはずす理由を伝えてくれるように頼んで、そこを出て行った。  食堂の窓は街路に面していた。ジャン・ヴァルジャンはしばらく、それらの明るい窓の下の影の中に、身動きもしないでたたずんでいた。彼は耳を澄ました。祝宴の混雑した物音が伝わってきた。祖父の堂々たる声高《コワダカ》な言葉、バイオリンの響き、皿やコップの音、哄笑の声、などが聞こえてきた。そして彼はその愉快な騒ぎの中に、コゼットの楽しい|やさ《/優》しい声を聞き分けた。  彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街を去って、オンム・アルメ街へ帰っていった。  帰ってゆくのに彼は、サン・ルイ街とキ《/キ》ュルテュール・サント・カトリーヌ街とブ《/ブ》ラン・マントー教会堂の方《ほう》の道筋を取った。それは少し遠回りの道だったが、三カ月以前から、ヴィエイユ・デュ・タンプル街の混雑《/混雑》と泥濘とを避《-さ》けるために、《:、》コゼットと共にオ《/オ》ンム・アルメ街からフ《/フ》ィーユ・デュ・カルヴェール街へ行くのに、毎日通《まいにち通》いなれた道筋であった。  コゼットが通りつけたその道は、彼に他の道筋を取ら《ら-》せなかった。  ジャン・ヴァルジャンは自分の家に戻った。蝋燭をともして階段を上っていった。部屋はがらんとしていた。トゥーサンももういなかった。ジャン・ヴァルジャンの足音は、室《+部屋》の中にいつもより高く響いた。戸棚は皆開《-みんな開》かれていた。彼はコゼットの室《部屋》へ|はい《入》った。寝台には|敷き布《敷布》もなかった。綾布の枕は枕掛けもレース飾りもなくなって、床の下の方《ほう》にたたまれてる夜具の上にのせてあり、床はむき出しになっても《/も》う|だれ《誰》も寝られないようになっていた。コゼットが大事にしていた細々した婦人用の器物は、皆持《みんな持》ってゆかれていた。残ってるのはただ、大きな家具と四方《シホウ》の壁ばかりだった。トゥーサンの寝床も同じように取り片づけてあった。ただ一つの寝床だけが用意されていて、|だれ《誰》かを待ってるようだった。それはジャン・ヴァルジャンの寝床だった。  ジャン・ヴァルジャンは壁を|なが《眺》め、戸棚の|二、三《ニサン》の戸を閉ざし、室《+部屋》から室《部屋》へと歩き回った。  それから彼は自分の室《部屋》に|はい《入》り、テーブルの上に燭台を置いた。  彼はつ《吊》るしていた腕をはずし、別に痛みもしないかのようにそ《/そ》の右手を使っていた。  彼は自分の寝台に近寄った。そして彼の目は、偶然にかま《”ま》たは意あってか、コゼットがうらやんでたつき物の上に、決して彼のそばを離れない小さな鞄の上に落ちた。六月四日オ《/オ》ンム・アルメ街にやってきた時、彼はそれを枕頭《+枕元》の小卓の上に置いていた。彼はすばしこくその小卓の所へ行き、ポケットから一つの鍵を取り出し、そして鞄を開いた。  彼はその中から、十年前コ《/コ》ゼットがモンフェルメイュを去る時につけていた衣裳を、静かに取り出した。第一に小さな黒い長衣《ナガギヌ》、次に黒い襟巻き、次にコゼットの足はごく小さいので今《/今》でもまだは《履》けそうな丈夫《/丈夫》な粗末な子供靴《+子供グツ》、《:、》次にごく厚い綾織りの下着、次にメリヤスの裳衣《ショーイ》、次にポケットのついてる胸掛け、それから毛糸の靴足袋。その靴足袋には、小さな脛の形がまだかわいく残っていて、ほとんどジャン・ヴァルジャンの掌の長さほ《-ほ》どしかなかった。それらのものは皆黒《-みんな黒》い色だった。彼女のためにそれらの衣裳をモンフェルメイュまで持ってってやったのは彼だった。今彼《今’彼》はそれらを鞄から取り出しては、一々寝床の上に並べた。彼は考え込んでいた。昔のことを思い起こしていた。冬で、ごく寒い十二月のことだった。彼女は|ぼろ《ボロ》を着て半ば裸のまま震えていた。そのあわれな小さな足は木靴《/木靴》をは《履》いて|まっか《真っ赤》になっていた。彼ジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンは、それらの破れ物を脱がせて、この喪服をつけさしてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、ことに相当な服装をして暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだに違いなかった。また彼はモンフェルメイュの森のことを思い出していた。コゼットと彼とは|ふたり《二人》いっしょにその森を通っていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない|木立ち《木立》のこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったこと、などが皆思《みんな思》い出された。そして今彼《今’彼》はそれらの小さな衣類を寝床の上に並べ、襟巻きを裳衣《ショーイ》のそばに置き、靴足袋を靴のそばに置き、下着を長衣《ナガギヌ》のそばに置き、それらを一つ一つ|なが《眺》めた。あの時彼女《とき彼女》はまだごく小さかった。大きな人形を腕に抱き、ルイ金貨をこの胸掛けのポケットに入れ、そして笑っていた。|ふたり《二人》は手を取り合って歩いた。彼女が頼りとする者は、世にただ彼ひとりだった。  そこまで考えた時、ジャン・ヴァルジャンの敬すべき白髪の頭は寝床の上にたれ、その堅忍な老いた心は張り裂け、その顔はコゼットの衣裳の中に埋ってしまった。もしその時階段を通る者があったら、激しいすすり泣きの声が耳に聞こえたであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【きわみなき苦悶】 ◇。◇。◇。◇。◇。  われわれが既にその多くの局面を|なが《眺》めてきた古《/古》い恐るべき争闘が、再び始まった。  ヤコブが天使と争ったのはただ一夜だけであった。しかるに痛ましくも、ジャン・ヴァルジャンが暗黒の中で自分《/自分》の本心とつかみ合って猛烈に争うのを、幾度吾人は見たことであろう!  実に異常な争闘であった。ある時は足がすべり、ある時は足下の地面がくずれた。善へ進まんとあせる本心が、彼をつかみ彼《/彼》を圧倒したことも、幾度であったろう。一歩《1歩》も譲らない真理が、彼の胸を膝の下に押さえつけたことも、幾度であったろう。彼が光明から投げ倒されてそ《/そ》の宥恕を願ったことも、幾度であったろう。彼のうちにま《”ま》た彼の上に司教からともされた仮借なき光明が、盲目ならんと欲する彼を強いて眩惑さしたことも、幾度であったろう。巖に身を|ささ《支》え、詭弁によりかかり、塵にまみれ、あるいは本心を自分の下に打ち倒し、あるいは本心から打ち倒されながら、争闘のうちに彼が立ち直ったことも、幾度であったろう。曖昧な理屈を立てた後《あと》、利己心の一見道理《一見’道理’》あるらしい狡猾な論法を用いた後《あと》、《:、》憤った本心から「奸佞の徒、みじめなる奴、」と耳に叫ばれるのを彼が聞いたのも、幾度であったろう。頑迷なる彼の思想が、瞭然たる義務の下に痙攣的なうめきを発したのも、幾度であったろう。神に対する抗争。暗い汗。多くの秘密な傷、彼ひとりだけが感ずる多くの出血。彼の痛ましい生が受くる多くの擦り傷。血《血’》にまみれ、傷におおわれ、身を砕かれ、光に照らされ、心に絶望の念をいだき、魂に清朗の気をたたえて、彼がまた起き上がったのも、幾度であったろう。敗者でありながら彼《/彼》は勝者のように感じていた。そして彼の本心は、彼を挫き苦《/苦》しめ打《/打》ち折った後《あと》、恐ろしい煌々《/煌々》たる落《/落》ち着いた姿をして彼の上につっ立ち、彼に言った、「今は平和に歩くがいい!」  しかし、か《斯》く陰惨な争闘から出てきた後では、それもいかに悲しい平和であったことか!  けれどもその晩ジャン・ヴァルジャンは、最後の戦いをしてるような心地になった。  痛切な一つの問題が現われていた。  定められた運命は|まっす《真っ直》ぐなものではない。それは当の人間の前にま《”ま》っすぐな大道となって開《-ひら》けゆくものではない。行き止まりもあり、袋庭もあり、|まっくら《真っ暗》な曲がり角もあり、多くの道が交錯してる不安な四つ辻もある。ジャン・ヴァルジャンは今、それらの四つ辻のうち最も危険なものに立ち止まっていた。  彼は善と悪との最後の交差点に到達していた。その暗黒な接合点を眼前に見ていた。そしてこんども、他の痛ましい変転の折既《折/既》に幾度か起こったように、二つの道が前に開《-ひら》けていた。一つは彼を誘惑し、一つは彼を恐れさした。いずれを取るべきであるか?  彼を恐れさする道《’道》の方《ほう》を、神秘な指先がさし示していた。その指こそは、影の中に目を定めるたびごとに万人が認め得るところのものである。  ジャン・ヴァルジャンは《は-》なお一度、恐るべき港とほ《/ほ》ほえめる陥穽とのいずれかを選択しなければならなかった。  それでは、魂は癒され得るが運命《/運命》はいかんともし難いということは、果たして真実なのか。不治の宿命! 恐るべきことである。  彼の前に現われた問題とは、次のようなものであった。  ジャン・ヴァルジャンはコゼットとマリユスとの幸福に対していかなる態度を取らんとしていたのか。しかもその幸福たるや、彼が自ら望み、彼が自ら作ってやったものである。彼はその幸福を自分の内臓のうちにしまい込んでいたが、今やそれを取り出して|なが《眺》めていた。そして、自分の胸から血煙を立てる短刀を引きぬきながらそ《/そ》の上におのれの製作銘を認《-みと》むる刀剣師のような一種の満足を、彼は感じ得るのであった。  コゼットはマリユスを得、マリユスはコゼットを所有していた。彼らはすべてを、富をさえも得ていた。しかもそれは彼が自らな《成》してやった業《-わざ》だった。  しかし、今現《いま現》に存在し今《/今》そこにあるその幸福に対して、彼ジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンはどうしようとしていたのか。彼はその幸福の仲間にはいってもよかったであろうか。それを自分のものであるかのように取り扱ってもよかったであろうか。確かにコゼットは他人のものであった。しかし彼ジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンは、自分が保有し得るだけのものをコゼットから保有してもよかったであろうか、《:、》推定されたものではあるがし《/し》かし大切にされていた父たるの地位に、彼は今までどおり止《-とど》まっていてもさしつかえなかったであろうか。平然としてコゼットの家にはいり込んでもよかったであろうか。その未来の中に自分の過去を、一言も明かさずに持ち込んでもよかったであろうか。当然であるかのようにそこに出てゆき、素性を隠しながらそ《/そ》の輝く炉辺にすわっても、さしつかえなかったであろうか。彼らの潔い手を自分の悲惨な手のうちに、ほほえみながら取ってもよかったであろうか。ジルノルマン家の客間の平和な炉火の前に、法律の不名誉な影をあとに引きずってる自分の足を置いても、よかったであろうか。コゼットとマリユスと共に、彼も幸運の分前《+分け前》をもらってもよかったであろうか。自分の頭の上の曇りと彼《/彼》らの上の雲とを深めても、さしつかえなかったであろうか。彼ら|ふたり《二人》の至福に自分の覆滅を、第三者として付け加えてもよかったであろうか。やはり何も打ち明けないでもよかったであろうか。一言《イチゴン》にして言えば、それら|ふたり《二人》の幸福な者のそばに、宿命の気味悪い沈黙としてすわっていても、さしつかえないのであったろうか。  人は常に宿命とその打撃とになれていて、ある種の疑問が恐《/恐》ろしい赤裸の姿で現われてきても、あえて目をあげてそ《/そ》れを見つめ得るようになっていなければいけない。善と悪とはそのきびしい疑問の背後に控えている。「どうするつもりか、」とそのスフィンクスは尋ねる。  ジャン・ヴァルジャンはそういう試練になれていた。彼はそのスフィンクスをじっと見つめた。  彼はその残忍な問題をあらゆる方向から考究した。  あの麗しいコゼットは、難破者たる彼にとっては一枚の板子であった。しかるに今や|いか《如何》にすべきであったか。それに取りついているべきか。それを離すべきか!  もしそれに取りついていれば、彼は破滅から免れ、日光のうちに上ってゆき、衣服と頭髪とから苦い水をしたたらせ、救われ、生きながらえることができるのだった。  もしそれを離せば!  その時は深淵あるのみだった。  か《斯》く彼は自分の考えに悲痛な相談をなしてみた。あるいは更に適切に言えば、戦いを開いた。彼は心のうちで、あるいは自分の意志に対してあ《/あ》るいは自分の確信に対して、猛然として飛びかかっていった。  泣くことができたのは、ジャン・ヴァルジャンにとって一つの|仕合わ《幸》せだった。それはおそらく彼の心を晴らしたであろう。けれども争いの初めは激烈だった。一つの暴風雨が、昔彼をアラスの方《ほう》へ吹きやったのよりもいっそう猛烈な暴風雨が、彼のうちに荒れ回った。過去は現在の前に再び現われてきた。彼はその両者を比較し、そしてすすり泣いた。一度涙の堰が開かるるや、絶望した彼は身をもだえた。  彼は道がふさがったのを感じていた。  ああ、利己心と義務との激戦において、昏迷し、奮激し、降伏を肯んぜず、地歩を争い、何らかの逃げ道をねがい、《:、》一つの出口を求めつつ、巍然たる理想の前から一歩一歩退く時、後方にある壁の根本は、いかに凄惨なる抵抗を突然なすことであるか。  道をさえぎる聖なる影を感ずる心地《ココチ》は!  目に見えざる酷薄なるもの、それはいかに執拗につきまとってくることか!  本心との戦いには決して終わりがない、ブルツスといえどもあきらめるがいい。カトーといえどもあきらめるがいい。本心は神なるがゆえに、底を持たない。その井戸の中へ、一生の仕事を投げ込み、幸運を投げ込み、富を投げ込み、成功を投げ込み、自由や祖国を投げ込み、安寧も、休息も、喜悦も、皆投《みんな投》げ込んでみよ。まだ、まだ、まだ足りない。瓶を空《-むな》しゅうし、壺の底をはたけ。そして終わりに、おのれの心をも投げ込まなければならない。  いにしえの地獄の靄の中には、そういう大樽がどこかにある。  それを拒むのは許されないことであろうか。尽きることなき追求はその権利を持ってるのであろうか。限りなき鉄鎖は人力のた《耐》え得ないものではないのであろうか。シシフス(訳者注◇ 死後地獄の中にて永久《エーキュウ》に岩石を転がす刑に処せられし者)やジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンが、「もうこれが力の限りだ!《/》」と言うのを、|だれ《誰》か|とが《咎》める者があろうか。  物質の服従には、磨損するがために一定の限度がある。しかるに、精神の服従には限度がないのであろうか。永久《エーキュウ》の運動が不可能であるとするのに、それでも永久《エーキュウ》の献身が求め得らる《る-》るのであろうか。  第一歩は容易である。困難なのは最後の一歩である。シャンマティユーの事件も、コゼットの結婚および続いて来る事柄に比《-くら》ぶれば何《-なん》であったろう。再び徒刑場《徒刑バ》にはいることも、虚無のうちに|はい《入》りゆくことに比《-くら》ぶれば何であろう。  下降の第一段は、いかに暗いものであることか。更に第二段は、いかに暗黒なるものであることか!  このたびは、いかにして顔をそむけないでおられようぞ。  殉教は、一つの浄化である、侵蝕による浄化である。聖化せしむる苛責である。最初のうちはそれを甘んじて受くることができる。赤熱した鉄の玉座にすわり、赤熱した鉄の冠を額にいただき、赤熱した鉄の王国を甘諾し、赤熱した鉄の笏を執る。しかしなおその上に炎のマントを着なければならない。そしてその時こそ、みじめな肉体は反抗し、人はその苦痛を避けたく思うことが、ないであろうか。  ついにジャン・ヴァルジャンは、喪心の極《極み》、平静のうちにはいった。  彼は計画し、夢想し、光明と陰影との神秘な秤皿《+ハカリザラ》の高低《コウテイ》を|なが《眺》めた。  光り輝く|ふたり《二人》の若者に自分の刑罰を添加すること、もしくは、救う道なき自分の陥没を自分《/自分》ひとりに止《-とど》めること。前者はコゼットを犠牲にすることであり、後者は自己を犠牲にすることであった。  彼はいかなる解決をなしたか。いかなる決心を定めたか。宿命の森厳なる尋問に対して彼《/彼》が心のうちでなした最後の確答は、何《なん》であったか。いかなる扉を開こうと彼は決心したか。生命《イノチ》のいかなる方面の扉を、彼はいよいよ閉鎖しようと決心したか。四方《シホウ》をとりまいてる測り知られぬ断崖のうち、いずれを彼は選んだか。いかなる絶端を彼は甘受したか。それらの深淵のいずれに向かって、彼は首肯したか?  彼の昏迷的な夢想は終夜続いた。  彼はそのまま同じ態度で、寝床の上に身をかがめ、巨大な運命の下《もと》に平伏《平伏’》し、おそらくは痛ましくも押しつぶされ、《:、》十字架につけられた後俯向けに投げ出された者のように、拳を握りしめ両腕を十の字にひろげて、夜が明けるまでじっとしていた。十二時間の間《あいだ》、冬の長い夜の十二時間の間《あいだ》、頭も上げず一言も発しないで、凍りついたようになっていた。自分の思念が、あるいは蛇のように地面をは《這》い、あるいは鷲のように天空を翔ってる間、死骸のように身動きもしないでいた。その不動の姿は、あたかも死人のようだった。と突然《/突然’》彼は痙攣的に身を震わし、その口はコゼットの衣裳に吸い着いて、それに脣《+口》づけをした。彼がなお生きてることを示すものはただそれだけだった。  それを見ていた者は、|だれ《誰》であるか、|だれ《誰》かであるか? ジャン・ヴァルジャンはただひとりであって、そこには|だれ《誰》もいなかったではないか。  否、闇の中にある「あの人」が。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七編】 【苦杯の最後の一口】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【地獄の第七界と天国の第八圏】 ◇。◇。◇。◇。◇。  結婚の翌日は寂しいものである。人々は幸福な|ふたり《二人》の沈思に敬意を表《ヒョウ》し、またその眠りの長引くのに多少の敬意を表する。訪問や祝辞の混雑はしばらく後《あと》にしか始まってこないものである。さて二月十七日の朝、もう正午少し過ぎた頃だったが、バスクが布巾《フキン》と羽箒とを腕にして、「次の間を片づけ」ていた時、軽く扉をたたく音が聞こえた。呼び鐘《ガネ》は鳴らされなかった。こういう日にとっては少し不謹慎な訪れ方だった。バスクが扉を開くと、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏が立っていた。バスクは彼を客間に通した。客間はまだいっぱい取り散らされていて、前夜の歓楽のなごりをとどめていた。 「まあ旦那様、」とバスクは言った、「私どもは遅く起きましたので。」 「御主人《ご主人》は起きておいでかね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。 「お手はいかがでございます。」とバスクは尋ね返した。 「だいぶいい。御主人《ご主人》は起きておいでかね。」 「どちらでございますか、大旦那様《+オオ旦那様》と若旦那様と。」 「ポンメルシーさんの方《ほう》だ。」 「男爵様でございますか。」と言いながらバスクは|まっす《真っ直》ぐに身を伸ばした。  男爵などということは召し使いにとってはことに尊く思われるものである。彼らはそれから何かを受ける。哲学者が称号の余沫《+ヨマツ》とでも呼びそうなものを、彼らは自分の身にまとって喜ぶ。ついでに言うが、マリユスは共和の戦士であり、実際それを行為に示してきたが、今は心ならずも男爵となっていた。この称号に関して家庭内に小さな革命が起こっていた。その称号を好んで用いるのは今ではジルノルマ《マ-》ン氏であって、マリユスはむしろそれを避けていた。しかし、「予が子は予の称号を用《-もち》うべし」とポンメルシー大佐から書き残されていたので、マリユスもそれに服従していた。その上、女たる自覚ができかかってきたコゼットは、男爵夫人たることを喜んでいた。 「男爵でございますか。」とバスクは繰り返した。「見て参りましょう。フォーシュルヴァ《ァ-》ン様がおいでになりましたと申し上げましょう。」 「いや、私だと言わないでくれ。内々《ナイナイ》にお話《話し》したいことがあると言ってる人とだけで、名前は言わないでくれ。」 「へえ!《/》」とバスクは言った。 「ちょっとびっくりさ《さ-》してみたいから。」 「へえ!《/》」とバスクは、前の「へえ!《/》」を自ら説明するようにして繰り返した。  そして彼は出て行った。  ジャン・ヴァルジャンはひとりになった。  上に言ったとおり、客間の中はすっかり取り散らされていた。もし耳を澄ましたら、婚礼の漠然たる騒ぎがまだ聞こえそうにも思われた。床《床’》の上には、花輪や髪飾りから落ちた各種の花が散らばっていた。根元まで燃えつきた蝋燭は、燭台の玻璃に蝋のしたたりを添えていた。器具はすっかりその位置が乱されていた。片|すみ《隅》には、|三、四脚《サンヨンキャク》の|肱掛け《肱掛》椅子が互いに丸く寄せられてな《/な》お話を続けてるが《が-》ようだった。室《+部屋》全体が笑っていた。宴《ウタゲ》の果てた跡にもなお多くの優美さが残ってるものである。すべてが幸福だったのである。乱れてるそれらの椅子の上で、凋んでるそれらの花の間で、消えてるそれらの灯火の下で、人々は喜びの念をい《-い》だいたのである。今や太陽の光は蝋燭の後を継いで、客間のうちに楽しくさし込んでいた。  数分間過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはバスクと別れた所にじっと立っていた。顔は青ざめていた。その目は落ちくぼんで、不眠のためほとんど眼窩の中に隠れてしまっていた。その黒服には乱れた皺がついていて、一晩中《一晩中’》着通されたことを示していた。その肱は|敷き布《敷布》とすれ合った跡が白く毛ばだっていた。彼は自分の足もとに、太陽の光で窓の形が床の上に投げられてるのを|なが《眺》めていた。  扉の所に音がした。彼は目をあげた。  マリユスがはいってきた。頭を上げ、口もとに笑みを浮かべ、一種の輝きを顔に漂わせ、ゆったりとした額《ヒタイ》で、揚々たる目をしていた。彼もまた一睡もしていなかった。 「ああ《あ/》あなたでしたか、お父さん!《/》」と彼はジャン・ヴァルジャ《ャ-》ンを見て叫んだ。「バスクの奴妙《ヤツ/妙》に|もっと《尤》もらしい様子《様子’》をしたりなんかして! それにしてもたいそう早くいらしたですね。まだ十二時半にしかなりませんよ。コゼットは眠っています。」  フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏に向かってマリユスが言った「お父さん」という言葉は、最上の喜びを意味するものだった。読者の知ってるとおり、彼らの間には常に、絶壁と冷《/冷》ややかさと気兼《/気兼》ねとが、砕き融かさなければならない氷が、介在していた。ところが今やマリユスに喜びの時がきて、その絶壁も低くなり、その氷も融け、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は彼にとってもコゼットにとっても同じくひとりの父となったのである。  彼は続けて言った。喜悦の聖い発作の特色として、言葉は彼からあふれ出た。 「お目にかかってほ《/ほ》んとにうれしく思います。昨日いて下さらなかったので私どもはどんなに寂しかったでしょう。よくきて下さいました、お父さん。お手はいかがです。よろしい方《ほう》で、そうではありませんか。」  そして、自らいいと答えたのに満足しながら、彼はなお言い続けた。 「私どもは|ふたり《二人》でよくあなたの噂ばかりしています。コゼットはどんなにかあなたを慕っています。この家にあなたのお室《+部屋》があることもお忘れではありませんでしょうね。私どもはもうオンム・ア《-ア》ルメ街をあまり好み《み-》ません。実際もう好ましくありません。どうしてあなたはあんな街路にお移りなすったのです。あすこは、不健康で、うるさくて、きたなくて、一方の端には柵があり、寒くて、とても行けや《や-》しません。ここにお住みになったがよろしいです。今日からそうなすって下さい。そうでないとコゼットが承知しませんよ。まったくコゼットは私どもを自分の好きなとおりにするつもりでいます。あなたはあの室《+部屋》をご|らん《覧》なすったでしょう。私どもの室《部屋》のすぐわきで、庭に向いています。錠前も直してあれば、寝台も整っていて、すっかり用意ができています。ただおい《出》でになりさえすればよろしいんです。コゼットはあなたの寝台のそばに、ユトレヒト製ビロードの大きな安楽椅子を据えて、お父様をいたわっておくれと言いました。春になるといつも、窓の正面にあるアカシアの茂みに、鶯がやってきます。二カ月の間《あいだ》も続いております。その鶯の巣がお室《+部屋》の左にあって、私どものが右手にあるわけです。晩には鶯が歌い、昼間はコゼットがお話相手になります。室《部屋》は日当たりも上等です。コゼットがあなたの書物も並べてあげます。クック大尉の旅行記やヴ《/ヴ》ァンクーヴァーの旅行記や、何でも御入用《ご入り用》なものを整えてあげます。|たし《確》かごく大事にしていられる小さな鞄が一つありましたね。あのためには片|すみ《隅》にちゃんと置き場所をこしらえさしてあります。私の祖父はまったくあなたに心服しています。ちょうどいいお相手です。みんないっしょに住みましょう。あなたはトランプを御存じですか。もしおやりでしたら祖父はどんなに喜ぶでしょう。私が裁判所に弁論に出る時には、あなたがコゼットを散歩に連れていって下さい、昔《昔’》リュクサンブールでなすったように、コゼットに腕を貸して。私どもは是非ともごく幸福にしたいときめています。それにはあなたの幸福も欠けてはいけません。ねえお父さん。そして今日は、私どもといっしょに朝食をして下さい。」 「私は、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「あなたに一つ話したいことがあるんです。私は|もと《元》徒刑囚だった身の上です。」  およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲を越すことがある。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の口から出た「私は|もと《元》徒刑囚だった身の上です」という言葉は、マリユスの耳に響きはしたが、まとまった意味の範囲を越えたものだった。マリユスは了解しなかった。ただ何か言われたように思えたが、何であるかわからなかった。彼はぼんやりしてしまった。  その時彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気づいた。彼は自分の喜びに夢中になって、相手のひどく青ざめてるのがそれまで目にはいらなかった。  ジャン・ヴァルジャンは右腕をつ《吊》っていた黒布《黒’布》を解き、手に巻いていた包帯をはずし、親指を出して、それをマリユスに示した。 「手はなんともなっていません。」と彼は言った。  マリユスはその親指を|なが《眺》めた。 「初めからなんともなかったのです。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。  実際何らの傷痕もなかった。  ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。 「私はあなたの結婚の席にいない方《ほう》がよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することを|のが《逃》れるために、怪我をしたと嘘を言いました。」  マリユスは口ごもった。 「どういうわけですか。」 「そのわけは、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は徒刑場《徒刑バ》にはいったことがある身だからです。」 「そんなことが!《/》」とマリユスは恐れて叫んだ。 「ポンメルシーさん、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「私は十九年間徒刑場《十九年間’徒刑バ》にいました。窃盗のためにです。次に無期徒刑に処せられました。窃盗のためにです。再犯としてです。今では脱走の身の上です。」  マリユスはいたずらに、現実の前にたじろぎ、事実を拒み、明確を排しようとしたが、しかもその本意を屈しなければならなかった。彼はようやくいっさいを了解し始めた。そしてかかる場合の常として、言外のことまで了解した。内心にさ《差》してきた嫌悪すべき光に彼は戦慄を覚えた。慄然たる一つの観念が彼の精神を過ぎった。自分にあてられてる一つのおぞましい宿命を、未来のうちに垣間見た。 「すべてを言って下さい、すべてを言って下さい!《/》」と彼は叫んだ。「あなたはコゼットの父ですね。」  そして彼は言い難い恐怖に駆られて|二、三歩《ニサンポ》後ろに退《さが》った。  ジャン・ヴァルジャンは天井まで伸び上がるかと思われるようなおごそかな態度で頭を上げた。 「今あなたは私の言うことを信じて下さらなければいけません。そして、私のような者の誓言は法廷からは受け入れられませんけれども‥‥。」  そこで彼はちょっと口《’口》をつぐんだ。それから一種の崇厳陰惨《崇厳’陰惨》な力をもって、ゆっくりと一語一語力《一語一語’力》を入れて言い添えた。 「‥‥私の言葉を信じて下さい。コゼットの父は私ですと! 神に誓って否と言います。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンと言います。コゼットとは何の縁故もありません。御安心《ご安心》下さい。」  マリユスはつぶやいた。 「|だれ《誰》が証明してくれましょう‥‥。」 「私がです。私がそう言う以上は。」  マリユスは相手を|なが《眺》めた。相手は沈痛で落ち着いていた。そういう静平《セイヘイ》から偽りが出ようはずはなかった。氷のごとき冷ややかさは誠実なものである。その墳墓のごとき冷然さのうちには真実が感ぜられた。 「私はあなたの言葉を信じます。」とマリユスは言った。  ジャン・ヴァルジャンは承認するように頭を下げ、そしてまた言い続けた。 「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。ただ通りがかりの者にすぎません。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。なるほど私が彼女を愛していたのは本当です。既に年を取ってからごく小さな娘を見ると、それを愛したくなるものです。年を取ってくると、どの子供に対しても祖父のような気になるものです。私のような者でも人並みの心をいくらか持ってるらしいです。コゼットは孤児でした。父も母もありませんでした。それでせめて私でもあった方《ほう》がよかったのです。そういうわけで私は彼女を愛し始めました。子供という者はか弱いもので、偶然出会った私のような者でもその保護者となり得ます。私はコゼットに対して保護者の務めをしてきました。私はそれくらいのことを善《-い》い行ないだと言い得ようとは思いませんが、しかしもし善《-い》い行ないだとすれば、私がそれをしたことも考えてやって下さい。私の罪を多少なりと軽くするものとして考えていただきたいです。そして今日、コゼットは私の手もとを離れ、|ふたり《二人》は行路を異《イ》にすることになりました。これから以後、私はもうコゼットに対しては何の関係もなくなります。彼女はポンメルシー夫人です。彼女の保護者が変わったわけです。そしてコゼットにはそれが|仕合わ《幸》せです。万事好都合《万事’好都合》です。六十万フランの金《-かね》については、あなたは何とも言われませんが、私から先に申《-もう》し上《あ》ぐれば、それは委託されたものです。その委託金がどうして私の手にはいったか、それは問う必要はありますまい。私はただそれを返すまでです。それ以上私は人に求めらる《る-》るところはないはずです。私は自分の本名を明かして本来の自分に返りました。それは私一個に関することです。ただ私は、私がどんな人間だかあ《/あ》なたに知っていただきたいのです。」  そしてジャン・ヴァルジャンはマリユスの顔を正面からじっと|なが《眺》めた。  マリユスが感じたことは、ただ雑然たる連絡もないことばかりだった。宿命のある種の風は人の魂のうちにそういう波を立たせるものである。  自分のうちのすべてのものが分散してしまうような惑乱の瞬間を知らない者は、およそ世にあるまい。そういう時人《とき人》は、いつも的はずれのことをでたらめに口にする。世には突然《突然/》意外なことが現われてくることもあって、人はそれにた《耐》え得ないで、強烈な酒を飲んだように酔わされてしまう。マリユスは新たに現われてきた自分の地位に惘然《呆然》としてしまって、ほとんど相手の自白を難ずるがような口のきき方をした。 「ですが、」と彼は叫んだ、「なぜあなたはそんなことを私に言うのです。|だれ《誰》に強《-し》いられて言うのです。自分ひとりで秘密を守っておればいいではありませんか。あなたは告発されてもいず、捜索されてもいず、追跡されてもいないではありませんか。自ら好んでそんなことを打ち明けられるのには何か理由があるでしょう。言っておしまいなさい。何かあるでしょう。どういうつもりで自白をなさるのです。どういう動機で?」 「どういう動機?」とジャン・ヴァルジャンは、マリユスに話しかけるというよりもむ《/む》しろ自分自身に話しかけるような低い鈍い声で答えた。「なるほど、この囚徒が私は囚徒ですと言ったのは、どういう動機からかと、そうです、妙な動機でです。それは正直からです。不幸なことですが、私の心の中に私をつなぎ止めてる一筋の綱があります。ことに老年になるとその綱がますます丈夫になるものです。まわりの生活がすべて|こわ《壊》れかけてくるのに、その綱だけは頑固に残ります。もし私が、その綱を払いのけ、それを断ち切り、その結び目を解くか切り捨てるかして、遠くへ立ち去ることができてたら、私は救われたでしょう。ただ|出立つ《出立》するだけでよかったでしょう。ブーロア街に駅馬車もあります。そうすれば、あなたは幸福になり、私は行ってしまうだけです。で私《/私》はその綱を切ろうとつとめ、引きのけようとしたが、綱は丈夫で、中々切れるどころではなく、私の心をいっしょに引きもぎろうとするのです。その時私《とき私》は、他の所へ行って生活することはできないと思いました。どうしても他へは行けません。で、なるほどあなたの言われるのは道理です、私は|ばか《馬鹿》です。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に室《+部屋》を一つ与えて下さるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれと安楽椅子に言って下さるし、《:、》あなたのお祖父様は私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、皆《みんな》いっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット‥‥いやごめん下さい、つい口癖になってるものですから、《:、》で私《/私》はポンメルシー夫人に腕を貸し、皆同《みんな同》じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には暖炉の同じ片|すみ《隅》に集まり、夏には|いっしょ《一緒》に散歩をする。実に喜ばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮らしてゆく、一家族のように!」  その言葉を発して、ジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕を組み、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足下の床をにらみつけ、声は急に激しくなった。 「一家族! いや。私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者でありません。人が自分の家とする所では、どこへ行っても私はよけいな者となるのです。世にはたくさんの家庭があるが、私が加わり得る家庭はありません。私は不幸な者です。社会の外に|ほう《抛》り出されてる人間です。父母があったとさえも思えないくらいです。私があの娘さんを結婚さした日、私のすべては終わりました。彼女が幸福であること、愛する人といっしょにいること、親切な御老人がおらる《る-》ること、|ふたり《二人》の天使の家庭ができたこと、家中喜《家中'喜》びに満ちてること、万事よくいってること、《:、》それを私は見て、自分で言いました、汝は入るべからずと、実際私は、嘘をつくこともでき、あなた方皆《がた皆》を欺くこともでき、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏となってることもできました。そして彼女のためである間は嘘もつきました。しかし今は私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。なるほど私がただ黙ってさえおれば、今のまま続いていったでしょう。あなたは、|だれ《誰》に強《-し》いられて自白するのかと私にお尋ねなさる。それは下らないものです。私の良心です。けれども、黙っているのもまた|たやす《容易》いことでした。私は一晩中、黙っていようといろいろ考えてみました。あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる。実際私《実際’私》があなたに申したことは普通のことではないので、あなたがそう言われるのも無理はありません。ところで私は一晩中、いろいろ理屈を並べてみ、至当な理由を並べてみて、できるだけの努力はしました。しかしどうしても私の力に及ばないことが二つあったのです。私の心をここにつなぎとめ釘付《/釘付》けにし|こび《/コビ》りつかせてる綱を断ち切ることと、ひとりでいる時私《とき私》に低く話しかけるある者を黙らせることとです。それで私は今朝あなたにすべてを自白しにきました。すべてを、もしくはほとんどすべてをです。私にだけ関係したことで言う必要のないものは、胸にしまって申しません。要点は既に御存じのとおりのことです。私は自分の秘密を取り上げて、あなたの所へ持ってきました。そしてあなたの目の前に底まで開いて見せました。これは容易な決心ではなかったのです。私は終夜苦《終夜’苦》しみました。私は自ら言ってみました。これはシャンマティユー事件とは違う、自分の名前を隠したとて|だれ《誰》に害を及ぼすものでもない、《:、》フォーシュルヴァンという名前はあることをしてやった礼としてフォーシュルヴァン自身からもらったものである、それを自分の名前としておいてさしつかえない、《:、》あなたからいただくあの室《+部屋》にはいったらどんなに幸福だろう、|だれ《誰》の邪魔にもなるまい、自分だけの片|すみ《隅》に引きこもっていよう、《:、》コゼットはあなたのものであるが、私は彼女と同じ家にいることを考えていようと。そうすれば各自相応な幸福を得られるわけです。続けてフォーシュルヴァンとなっておれば、すべてはよくなるわけです。もちろんただ私の魂を別にしてはです。そうして私のまわりには喜びの光が満ち、私の魂の底だけが暗黒なばかりです。しかし人は幸福であるだけでは足りません。満足でなければいけません。そうして私はフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏となっており、自分の本当の顔を隠し、あなたの晴れやかな心の前に私は謎をいだき、あなたの白日の輝きの中に私は影をいだき、《:、》何らの警告もせず善良《/善良》な顔をしてあなたの家庭に徒刑場《徒刑バ》を引き入れ、もしあなたに知られたら追い払われるに違いないと考えながら、あなたと同じ食卓につき、《:、》もし召し使いたちに知られたら実に汚らわしいと言われるに違いないと思いながら、彼らから用をしてもらうことになるのです。当然あなたからきらわれるべき肱をあなたに接し、あなたの握手を騙り取ることになります。あなたの家では、尊い白髪と烙印《/烙印》をおされた白髪との両方に、尊敬を分かつことになります。最も親しい談話の折り、皆が互いに心の底まで打ち開いてると思ってる時に、あなたのお祖父様とあ《/あ》なた方《がた》|ふたり《二人》と私《/私》と四人いっしょにいる時に、そこには|もひとり《もう一人》見知らぬ男がいることになります。私は自分の恐ろしい井戸の蓋を開くまいということにばかり注意して、あなた方《がた》の生活のうちに立ち交わることになります。そうしてもはや葬られてる私が、生命《イノチ》のあるあなた方《がた》の邪魔に|はい《入》ることになります。私は永久《エーキュウ》に彼女につきまとうことになります。あなたとコ《/コ》ゼットと私《/私》と三人とも、緑色の帽子をかぶることになります。あなたはそれでも平然としておられますか。私は最も踏みにじられた人間にすぎません。そしてこんどは最も恐ろしい人間となる|わけ《訳》です。そして毎日罪悪《毎日’罪悪》を犯すこととなるでしょう。毎日嘘《毎日'嘘》をつくこととなるでしょう。毎日暗夜《毎日’暗夜》の仮面をつけることとなるでしょう。毎日自分《毎日’自分》の汚辱をあなた方《がた》に分かつこととなるでしょう。毎日です、しかも私の愛するあなた方《がた》に、私の子供たるあなた方《がた》に、潔白なるあなた方《がた》にです。黙っているのが何でもないことでしょうか。沈黙を守っているのが|わけ《訳》もないことでしょうか。いえ、|わけ《訳》もないことではありません。沈黙が虚偽となることもあります。しかも私の虚偽、私の欺瞞、私の汚辱、私の怯懦、私の裏切り、私の罪悪、それを私は一滴一滴と飲み、また吐き出し、また飲み込み、《:、》夜中に終えてはまた昼に始め、そして私の朝の挨拶も偽りとなり、晩の挨拶も偽りとなり、その虚偽の上に眠り、その虚偽をパンと共に食《-く》い、《:、》しかもコゼットと顔を合わせ、天使のほほえみに地獄の者のほほえみで答え、忌むべき瞞着者となるわけです。幸福になるにはどうしたらいいでしょうか。ああ《あ/》この私が幸福になるには! そもそも私に幸福になる権利があるのでしょうか。私は人生の外にいる者です。」  ジャン・ヴァルジャンは言葉を切った。マリユスは耳を傾けていた。かかる一連の思想と苦悶との声は決して中断するものではない。ジャン・ヴァルジャンは再び声を低めたが、こんどはもう単に鈍い声ではなくて凄惨《/凄惨》な声だった。 「なぜそんなことを言うのかとあなたは尋ねなさる。告発されても捜索《/捜索》されても追跡《/追跡》されてもいないではないかと、あなたは言われる。ところが事実私《事実’私》は告発されてるのです。捜索され、追跡されてるのです。|だれ《誰》からかと言えば、私自身からです。私の行く手をさえぎる者は私自身です。私は自分を引きつれ、自分を突き出し、自分を捕縛し、自分を処刑しています。人は自分自身を捕える時ほど、しかと捕えることはないものです。」  そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスの方《ほう》へ引っ張った。 「この拳をごらん下さい。」と彼は言い続けた。「この拳《-こぶし》は襟をつかんでどうしても放さないようには見えませんか。ところでこれと同じも《もう》一つの拳《-こぶし》があります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるが《が-》ようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓《+ハラワタ》を引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」  そして更に痛切な音調で、彼は言い添えた。 「ポンメルシーさん、これは常識をはずれたことかも知れませんが、しかし私は正直な男です。私はあなたの目には低く堕ちながら、自分の目には高く上るのです。前にも一度そういうことがありましたが、こんどほど苦しいものではありませんでした。何でもないことでした。そう、私はひとりの正直な男です。しかし私の誤ったやり方のために、もしあなたがなお続けて私を重んずるようなことになれば、私はもう正直ではなくなります。ところが今あなたは私を賤しんでいられるから、私は正直な男と言えるのです。私は一つの宿命を担っていまして、人の尊敬はただ盗んでしか得られないのですが、そういう尊敬はかえって私を|はずかし《辱》め私《/私》の内心を苦しめます。そして自ら自分を尊敬するには、人から賤しまれなければいけないのです。その時私《とき私》は始めて|まっす《真っ直》ぐに立てます。私は自分の良心に服従してる一徒刑囚です。他に類もないことだとは自分《/自分》でも知っています。しかしどうしたらいいのでしょう。それが事実です。私は自分自身に対して約束をしています。それを守るだけです。生涯のうちには身を縛られるようなことに出会いもすれば、義務のうちに引きずり込まれるような機会に会うこともあります。おわかりでしょう、ポンメルシーさん、私の生涯にはいろいろなことが起こったのです。」  ジャン・ヴァルジャンはまた言葉を切りながら、自分の言葉の後口がいかにも苦いかのようにようやく唾をの《飲》み込んで、また続けた。 「そういう嫌悪すべきものを身に担っている場合、人はそれをひそかに他人へ分かち与えてはいけません、自分の疫病を他人に伝染さしてはいけません、《:、》気づかれないようにして他人を自分の深みへ引きずり込んではいけません、他人にまでも自分の赤い着物をまとわせてはいけません、《:、》狡猾なやり方をして自分のみじめさで他人の幸福を妨げてはいけません。聖い人々に近寄って、目に見えない自分の膿をひそかに他人になすること、それは忌むべきことです。フォーシュルヴァンは私にその名前を貸してくれは《は-》しましたが、私にはそれを用《-もち》うる権利はありません。彼は私にその名前を与えることもできましたが、私はそれを取ることができませんでした。一つの名前はすなわち一つの自己です。ところで私はひとりの田舎者にすぎませんが、このとおり少しは考えもし、少しは書物も読みました。そして物事のわきまえもあります。このとおり相当《/相当》に自分の意見も表白できます。私は自分で自分を教育しました。そう確《/確》かに、他人の名前を盗み取ってその下に身を置くのは、不正直なことです。アルファベットの文字は、金入れや時計のように騙り取ることもできます。しかし、肉と骨とをそなえた偽りの名前となり、生きた偽りの鍵となり、錠前をこじあけて正直な人の家には《-は》いり込み、《:、》決して|まっす《真っ直》ぐに物を見ず、いつも偸み見ばかりをし、自分の内部に汚辱をいだいていることは、どうして、どうして、どうして! それよりもむ《/む》しろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙を流し、爪で肉体をかきむしり、悩みにもだえて夜を過ごし、自分の心身を自ら食いつくす方《ほう》が、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しに参ったのです。おっしゃるとおり自ら好んでです。」  彼は苦しい息をついて、最後の言葉を投げつけた。 「昔私《昔/私》は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日《今日’》私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」 「生きるため!《/》」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」 「ああ、あなたの言われる意味はよくわかります。」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、幾度も続けて頭をゆるく上げ下げした。  それから沈黙が落ちてきた。|ふたり《二人》とも黙り込んで、深く考えの淵に沈んでしまった。マリユスはテーブルのそばにすわり、折り曲げた指の一本の上に口の角《カド》をもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩き回っていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、映ってる自分の姿も目に入《-い》れないで鏡《/鏡》の面を|なが《眺》めながら、あたかも内心の推理に答えるかのように言った。 「でも、これで私は気が安らいだ!」  彼はまた歩き出して、室《+部屋》の先端まで行った。そして向き返ろうとした時、マリユスが自分の歩いてるのを|なが《眺》めているのに気づいた。その時彼は、名状し難い調子でマリユスに言った。 「私の足は少し引きずり加減になっています。その理由ももうおわかりでしょう。」  それから彼はマリユスの方《ホウ》へすっかり向き直った。 「ところで、まあ仮りにこうなったとしたらどうでしょう、《:、》私が何《なん》にも言わず、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏となっており、あなたの家には《-は》いり込み、あなたの家庭のひとりとなり、自分の室《部屋》をもらい、毎朝楽しく食事をし、晩は三人で芝居に行き、《:、》私はテュイルリーの園《’園》やロアイヤル広場にポンメルシー夫人の伴《供》をし、皆《みんな》いっしょに暮らし、私も人並みの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなた方《がた》もそこにおられ、いっしょに話をし笑《/笑》い合っている時に、突然ジャン・ヴァルジャンと叫ぶ声が聞こえ、警察の恐ろしい手が陰《蔭》から現われてき、私の仮面をにわかにはぎ取るとします!」  彼はまた口をつぐんだ。マリユスは慄然として立ち上がっていた。ジャン・ヴァルジャンは言った。 「それをあなたはどう思われます?」  マリユスは沈黙をもってそれに答えた。  ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。 「私は黙っていない方《ほう》が正しいと、あなたにもよくおわかりでしょう。でど《/ど》うか、あなたは幸福で、天にあって、ひとりの天使をまもる天使となり、日《ヒ》の光の中に住み、それに満足して下さい。そして、ひとりのあわれな罪人が、自分の胸を開いて義務をつくすために取った手段については、心をわずらわさないで下さい。今あなたの前に立ってるのは|ひとり《一人》のみじめな男です。」  マリユスは静かに室《+部屋》を横切り、ジャン・ヴァルジャンのそばにきて、彼に手を差し出した。  しかしマリユスは相手が手を出さないので、進んでそれを取らなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンはなされるままに任した。マリユスはあたかも、大理石の手を握りしめたような気がした。 「私の祖父にはいくらも親しい人がいます。」とマリユスは言った。「あなたの赦免を得るように努めてみましょう。」 「それは|むだ《無駄》なことです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。「私は死んだ者と思われています。それで充分です。死んだ者は監視を免れています。静かに腐蝕してると見做されています。死は赦免と同じことです。」  そしてマリユスに握られていた手を放しながら、犯すべからざる威厳をもって言い添えた。 「その上、義務を果たすことは、頼りになる友を得ると同じです。私はただ一つの赦免をしか必要としません、すなわち自分の良心の赦免です。」  その時、客間の他の一端《イッタン》にある扉が少し静かに開いて、その間《あいだ》からコゼットの頭が現われた。こちらからはその|やさ《優》しい顔だけしか見えなかった。髪は|みごと《見事》に乱れており、眼瞼《目蓋》はまだ眠りの気にふくらんでいた。彼女は巣から頭を差し出す小鳥のような様子で、最初に夫を|なが《眺》め、次にジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンを|なが《眺》め、そして薔薇の花の奥にあるほほえみかと思われるような笑顔をして、彼らに言葉をかけた。 「政治の話をしていらっしゃるのね、私をのけものにして何《-なん》ということでしょう!」  ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。 「コゼット!《/》」とマリユスはつぶやいた。そしてそのまま口をつぐんだ。あたかも彼ら|ふたり《二人》は罪人ででもあるかのようだった。  コゼットは光り輝いて、なお|ふたり《二人》をかわるがわる見比べていた。その日の中には、楽園の反映があるかと思われた。 「実際の所をつかまえたのよ。」とコゼットは言った。「フォーシュルヴァンお父様が、良心だの義務を果たすだのとおっしゃってるのを、私は扉《+戸》の外から聞いたんですもの。それは政治のことでしょう。いやよ。すぐ翌日から政治の話をするなんていけないことよ。」 「そうではないんだよ、コゼット。」とマリユスは答えた。「僕たちは用談をしている。お前の六十万フランをどこに預けたら一番いいか話し合って‥‥。」 「いえ、そんなことではないわ。」とコゼットはそれをさえぎった。「私もはいって行ってよ。私が参ってもいいでしょう。」  彼女は思い切って扉から出て、客間の中にはいってきた。たくさんの襞と大《/大》きな袖のあるま《真》っ白な広い化粧着をつけて、それを首から足先まで引きずっていた。古いゴチックの画面には天使のまとうそ《/そ》ういう美しい長衣《ナガギヌ》が黄金色の空に描いてある。  コゼットは大鏡に映して自分の姿を頭から足先まで|なが《眺》め、それから言い難い喜びにあふれて叫んだ。 「むかし王様と女王様とがおられました、というお噺のようだわ。私ほんとに|うれ《嬉》しいこと!」  そう言って彼女は、マリユスとジャン・ヴァルジャンとに会釈した。 「さあ私は、」と彼女は言った、「あなた方《がた》のそばの|肱掛け《肱掛》椅子に|すわ《座》っていますわ。もう三十分もすれば御飯なのよ。何《なん》でも好きなことを話しなさるがいいわ。男の方って話をしずには《は-》いられないものね。私おとなしくしていますわ。」  マリユスは彼女の腕を取って、やさしく言った。 「僕たちは用談をしているのだからね。」 「あそ《/そ》うそう、」とコゼットはそれに答えて言った、「私窓《私’窓》をあけたら、庭にたくさんピエロ(訳者注◇ 雀の俗称)がきていましたわ。小鳥の方《ほう》のよ、仮装のではないのよ。今日は灰の水曜日(四旬節第一日《四旬節’第イチニチ/》)でしょう。でも小鳥には大斎日もないのね。」 「僕たちは用談をしているんだから、ねえ、コゼット、ちょっと向こうへ行ってておくれ。数字のことだからお前は退屈するに違いない。」 「まああなたは、今朝きれいな襟飾りをしていらっしゃるのね。ほんとにおしゃれだこと。いえ、数字でも私は退屈しませんわ。」 「きっと退屈するよ。」 「いいえ。なぜって、あなたのお話ですもの。よくはわからないか知れないけれど、おとなしく聞いていますわ。好きな人の声を聞いておれば、その意味はわからなくてもいいんですもの。ただ私はいっしょにいたいのよ。あなたといっしょにいますわ、ねえ。」 「大事なお前のことだけれど、それはいけないんだ。」 「いけないんですって!」 「ああ。」 「|よご《ヨゴ》ざんすわ。」とコゼットは言った。「いろんなお話があるんだけれど。お祖父様はまだお起きになっていません。伯母様は弥撒に参られました。フォーシュルヴァンお父様の室《+部屋》では、暖炉から煙が出ています。ニコレットは煙筒《+煙突》掃除人を呼びにやりました。トゥーサンとニコレットとはもう喧嘩をしました。ニコレットがトゥーサンの吃りをからかったんです。でも何《-なん》にもあなたには話してあげないわ。いけないんですって? では私の方《ほう》でも、覚えていらっしゃい、いけないと言ってあげるわ。どちらが降参するでしょうか。ねえ、マリユス、私もあなたたちお|ふたり《二人》といっしょにここにいさして下さいな。」 「いや、是非とも|ふたり《二人》きりでなければいけないのだ。」 「では私はほかの者だとおっしゃるの?」  ジャン・ヴァルジャンはそれまで一言も発しなかった。コゼットは彼の方《ほう》を向いた。 「まずお父様、私はあなたに接吻していただきたいわ。私の加勢もしず何《/何》ともおっしゃらないのは、どうなすったんです。そんなお父様ってあるものでしょうか。このとおり私は家庭の中でごく不幸ですの。夫が私をいじめます。さあすぐに私を接吻して下さいな。」  ジャン・ヴァルジャンは近寄った。  コゼットはマリユスの方《ほう》を向いた。 「私はあなたは|いや《嫌》。」  それから彼女はジャン・ヴァルジャンに額を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは一歩進み寄った。  コゼットは退《さが》った。 「お父様、まあお顔の色が悪いこと。お手が痛みますの。」 「それはもうよくなった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「よくお眠りにならなかったんですか。」 「いいや。」 「何か悲しいことでもおありになるの。」 「いいや。」 「私を接吻して下さいな。どこもお悪くなく、よくお眠りになり、御安心《ご安心》していらっしゃるのなら、私何《わたし何》とも小言は申しません。」  そして新たに彼女は額を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは天の反映の宿ってるその額《ヒタイ》に脣をあてた。 「笑顔をして下さいな。」  ジャン・ヴァルジャンはその言に従った。しかしそれは幽霊の微笑のようだった。 「さあ夫から私をかばって下さい。」 「コゼット!《/》」とマリユスは言った。 「お父様、怒ってやって下さい。私がいる方《ほう》がいいと言ってやって下さい。私の前ででもお話はできます。私を|ばか《馬鹿》だと思っていらっしゃるのね。ほんとにおかしいわ、用談だの、金《かね》を銀行に預けるだのって、大した御用ですわね。男って何でもないことに勿体をつけたがるものね。私こ《/こ》こにいたいんです。私は今朝大変きれいでしょう、マリユス、私を見てごらんなさい。」  そしてかわいい肩を少しそびやかし、ちょっとすねてみた何とも言えない顔をして、彼女はマリユスを|なが《眺》めた。|ふたり《二人》の間には一種の火花があった。そこに人がいようと少しもかまわなかった。 「僕はお前を愛するよ!《/》」とマリユスは言った。 「私はあなたを慕ってよ!《/》」とコゼットは言った。  そして|ふたり《二人》はどうすることもできないでし《/し》かと抱き合った。 「もうこれで、私がここにいてもいいでしょう。」とコゼットは勝ち誇ったようにち《/ち》ょっと口をとがらして化粧着の襞をなおしながら言った。 「それはいけない。」とマリユスは哀願するような調子で答えた。「僕たちはまだきまりをつけなければならないことがあるから。」 「まだいけないの?」  マリユスは厳格な口調で言った。 「コゼット、どうしてもいけないのだ。」 「ああ、あなたは太い声をなさるのね。いいわ、行ってしまいます。お父様も私を助けて下さらないのね。お父様もあなたも、|ふたり《二人》ともあまり圧制です。お祖父様に言いつけてあげます。私がまたじ《/じ》きに戻ってきてつまらないことをするとお思いなすっては、まちがいですよ。私だって矜りは持っています。こんどはあなた方《がた》の方《ほう》からいらっしゃるがいいわ。私がいなけりゃあなた方《がた》の方《ほう》で退屈なさるから、見ててごらんなさい。私は行ってしまいます、ようございます。」  そして彼女は出て行った。  |二、三《二’三》秒たつと、扉はまた開いて、彼女の鮮麗な顔が扉《/扉》の間からも《もう》一度現われた。彼女は|ふたり《二人》に叫んだ。 「ほんとに怒っていますよ。」  扉は再び閉ざされ、室《+部屋》の中は影のようになった。  彼女が現われたのは、あたかも道に迷った太陽の光が、自ら気づかないで突然闇夜《突然’闇夜》を過ぎったがようなものだった。  マリユスは扉が固く閉ざされたのを確かめた。 「かわいそうに!《/》」と彼はつぶやいた、「コゼットがやがて知ったら‥‥。」  その一言にジャン・ヴァルジャンは全身を震わした。彼は昏迷した目でマリユスを見つめた。 「コゼット! そう、なるほどあなたはコゼットに話されるつもりでしょう。ごもっともで《で-》す。だが私はそのことを考えていませんでした。人は一つの事には強くても、他の事にはそうゆかない場合があります。私はあなたに懇願します、哀願します、どうか誓って下さい、彼女には言わないと。あなたが、あなただけが、知っている、というので充分ではないでしょうか。私は他から強《し》いられなくとも自《/自》らそれを言うことができました。宇宙に向かっても、世界中に向かっても、公言し得るでしょう。私には結局どうでもいいことです。しかし彼女は、彼女には、それがどんなことだかわかりますまい。どんなにおびえるでしょう。徒刑囚、それが何《なん》であるかも説明してやらなければなりますまい。徒刑場《徒刑バ》にはいっていた者のことだ、とも言ってやらなければなりますまい。彼女は、かつて一鎖の囚人らが通るのを見たことがあります。ああ!」  彼は|肱掛け《肱掛》椅子に倒れかかり、両手で顔を|おお《覆》うた。声は聞こえなかったが、肩の震えを見れば、泣いてるのが明らかだった。沈黙の涕泣、痛烈な涕泣だった。  むせび泣きのうちには息のできないことがある。彼は一種の痙攣にとらえられ、息をするためのように椅子の背に身を反らせ、両腕をたれ、涙にぬれた顔をマリユスの前にさらした。そしてマリユスは、底のない深みに沈んでるかと思われる声で、彼が低くつぶやくのを耳にした。 「おお《お/》死にたい!」 「御安心《ご安心》なさい、」とマリユスは言った、「あなたの秘密は私だけで|だれ《誰》にももらしません。」  そしてマリユスは、おそらく読者が想像するほど心を動かされてはいなかったであろうが、一時間ばかり前から意外な恐《/恐》ろしいことにもな《慣》れてこざるを得なかったし、《:、》目の前で一徒刑囚の姿が徐々にフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の姿に重なってくるのを見、痛むべき現実に|しだい《次第》にとらえられ、《:、》その場合の自然の傾向として、相手と自分との間にできた|へだ《隔》たりを認めざるを得ないようになって、こう言い添えた。 「私は、あなたが忠実にま《”ま》た正直に返して下すった委託金について、一言も言わないでは《は-》おられないような気がします。それは実に清廉な行ないです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額を定めて下さい、それだけ差し上げますから。いかほど多くとも御遠慮《ご遠慮》にはおよびません。」 「御親切は感謝します。」とジャン・ヴァルジャンは穏やかに答えた。  彼はしばらく考え込んで、人差し指で親指の爪を機械的にこすっていたが、やがて口《クチ》を開いた。 「もうほとんど万事す《’済》んだようです。そして最後にも《もう》一つ残っていますが‥‥。」 「何ですか。」  ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇しながら、声という声も出さず、ほとんど息もしないで、言った、というよりむしろ口ごもった。 「すべてを知られた今となっては、御主人《ご主人》としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか。」 「その方《ほう》がいいだろうと思います。」とマリユスは冷ややかに答えた。 「ではもう会いますまい。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。  そして彼は扉の方《ほう》へ進んでいった。  彼は|と《取》っ手に手をかけ、閂子《+閂》ははずれ、扉は少し開いた。ジャン・ヴァルジャンは通れるくらいにそれを開き、ちょっと立ち止まり、それからまた扉をしめて、マリユスの方へ向き直った。  彼はもう青ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。目にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の炎が宿っていた。その声は再び不思議にも落ち着いていた。 「ですが、」と彼は言った、「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所に留《-とど》まっており、やはり続けて会いたいと思いますから、すべてを正直にあなたに申さなければならなかったのです。私の考えの筋はおわかりでしょう、容易にわかることです。私は九カ年以上も彼女といっしょにいたのです。私どもは初めは大通りの破家《+あばら家》に住み、それから修道院に住み、次にリュクサンブールの近くに住んでいました。あなたが始めて彼女に会われたのはリュクサンブールでですね。彼女の青いペルシの帽を覚えておいでですか。それから私どもは、アンヴァリード街区に行きました。鉄門と庭とのある家です。プリューメ街です。私は小さな後庭の離れに住んでいて、そこからいつも彼女のピアノを聞いていました。それが私の生命《イノチ》でした。私どもは決して別々になったことはありませんでした。九年《9年》と何カ《ヶ》月か続いたのです。私は実の親のようであり、彼女は実《-じつ》の娘のようでした。あなたにもよくおわかりかどうか知りませんが、ポンメルシーさん、今立《今’立》ち去ってしまい、もう彼女に会わず、もう彼女に言葉もかけず、まったく彼女を失ってしまうのは、実にた《耐》え難いことです。もし悪いとお考えになりませんでしたら、私は時々コゼットに会いにき《来》たいのです。たびたびは参りません。長居もいたしません。表《オモテ》の小さな室《+部屋》にきめていただいてもよろしいです。階下の室《部屋》ででもよろしいです。召し使い用の裏門から出入りしてもかまいません。しかしそれではかえって怪しまれましょう。やはり普通の表門からはいった方《ほう》がよろしいでしょう。まったくのところ私は、なおコゼットに会いたいのです。どんなにまれにでもよろしいです。私の地位になって考えて下さい。私はそれ以外に何の望みもありません。それにまたも《-も》ちろん用心もしなければなりません。私がまったくこなくなれば、かえって悪いことになり、人から不思議に思われるでしょう。で最《/最》も都合よくするには、夕方参った方《ほう》がいいでしょう、夜になろうとする頃。」 「毎晩こられてもよろしいです。」とマリユスは言った。「コゼットにお待ちさせます。」 「御親切はありがたく思います。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  マリユスはジャン・ヴァルジャンにお辞儀をし、幸福は絶望を扉の所まで送り出し、そして|ふたり《二人》は別れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【語られし秘密の中の影】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスの心は転倒してしまった。  コゼットのそばについてるその男に対して、彼がいつも感じていた一種の|へだ《隔》たりは、今や彼にも了解できた。その男の身には何となく謎のような趣があって、彼は本能からそれに気づいて《て-》いたのである。謎というのは、最も忌まわしい汚辱、徒刑場《徒刑バ》だった。あのフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏は徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであった。  幸福の最中に突然そういう秘密を知ることは、あたかも鳩の巣の中に蠍を見いだすがようなものだった。  マリユスとコゼットとの幸福は、今後か《’斯》かるものと隣しなければならないように定められていたのか。それはもう動かし難い事実だったのか。成立した結婚の一部としてその男を受け入れなければならなかったのか。もはやいかんともする道はなかったのか。  マリユスは徒刑囚ともまた離れ難い関係となったのか。  いかに光明や喜悦の冠をいただこうとも、人生の紅の時期を、幸福な愛を、いかに味わおうとも、それを忍ぶことができようか。か《斯》かる打撃は、恍惚たる大天使をも、光栄に包まれたる半神をも、必ずや戦慄させるであろう。  か《斯》かる限界の激変の常として、マリユスは自ら責《-せ》むべき点はないかを顧みてみた。洞察の明を欠いてはいなかったか。注意の慎重さを欠いてはいなかったか。いつとなくうっかりしてはいなかったか。おそらく多少その気味《キミ》があったかも知れない。ついにコゼットとの結婚に終わったその恋愛事件のうちに、まず周囲のことを明らかにしないで、不注意にふ《踏》み込んでゆきはしなかったか。およそ吾人が生活から少しずつ改善されてゆくのは、吾人が自ら自身に対してなす一連の認定によってであるが、彼も今、自分の性質の空想夢幻的な一面を自認した。そういう一面は、多くの者が有する一種の内心の雲であって、熱情や悲哀の激発のうちにひろがってゆき、魂の気温に従って変化し、その人全体を侵し、その本心を霧に包んでしまうものである。われわれは前にしばしば、マリユスの個性のこの独特な要素を指摘しておいた。マリユスは今になってようやく思い起こした、自分の恋に酔いながらプリューメ街で、無我夢中になっていた|六、七週間《ロクシチ週間》の間《あいだ》、あのゴルボーの破家《+あばら家》における活劇のことを、《:、》争闘の間沈黙《あいだ沈黙》していて次《/次》に逃げ出すという不思議な行動を被害者が取ったあの活劇のことを、コゼットに一口も語らなかったのを。その事件を少しもコゼットに話さなかったというのは、どうしたことだろうか。ごく最近のことだったのに! テナルディエという名前をさえ口外しなかったのは、ことにエポニーヌに会った日でさえ口をつぐんでいたのはどうしたことだったろうか。今となってみれば、彼はその当時の自分の沈黙をほ《/ほ》とんど自ら説明に苦しむほどだった。けれどもいろいろ理由も考えられた。自分のそそっかしいこと、コゼットに酔ってしまっていたこと、すべてが恋にの《飲》みつ《尽》くされていたこと、互いに理想の天地に舞い上がっていたこと、《:、》またおそらく、その激越な楽しい心の状態にほとんどわからぬくらいの理性が交じっていて、ために漠然たる鋭い本能から、あの触れることを恐れていた恐怖すべき事件について、何らの役目もつとめたくなく、《:、》ただのがれようとばかり欲《-ほっ》していて、その話をしまたは証人となるには同時に告訴者とならざるを得ない地位に自分《/自分》が立ってるあの事件を、記憶のうちに隠して堙滅さしてしまおうとしていたこと。それにまた、その数週間は電光のようであって、ただ愛し合うのほか何《-なん》の余裕もなかった。それからまた、すべてを考量し、すべてをひっくり返してみ、すべてを調べて、ゴルボー屋敷の待ち伏せのことをコゼットに話し、テナルディエという名前を彼女に言ったところで、その結果はどうなったろうか。ジャン・ヴァルジャンが徒刑囚であることを発見したところで、彼マ《’マ》リユスの心が変わり、またコゼットの心が変わったであろうか。それで彼は退《-ひ》いたであろうか。彼女を愛しなく《く-》なったであろうか。彼女と結婚しなくなったであろうか。否。何かが今と違うようになったであろうか。否少《否/少》しも。それでは何も後悔し、何も自責することはなかったではないか。すべていいようになったのだ。恋人と呼ばるる酩酊者にとっては一《/一》つの神があるものである。マリユスは盲目でありながら、洞察の明をそなえていたのと少しも変わらない道をたどったのである。恋は彼の目を|おお《覆》っていた。しかしそれはどこへ導かんがためにか。楽園へ導かんがためにではなかったか。  しかし今後は、その楽園は傍《+傍ら》に地獄を引き連れてゆくことになったのである。  あの男に対して、ジャン・ヴァルジャンとなったフォーシュルヴァンに対して、元からマリユスがいだいていた|へだ《隔》たりの感じは、今は嫌悪の情を交《’ま》じうるに至った。  あえて言うが、その嫌悪の情の中にはまた、あわれみの念があり、ある驚きの念さえも含まれていた。  その盗人は、その再犯の盗人は、委託金をそのまま返した。しかもいくらであるかと言えば、実に六十万フランである。彼ひとりしかその秘密を知ってる者はなかった。そしてすべてを自分のものとなし得るのだった。しかも彼はそっくり返してしまった。  その上、彼は自ら進んで身分を打ち明けた。しかも何からも強《-し》いられたのではない。彼がいかなる者であるかを人に知られたとすれば、それは彼自身の言葉によってである。その自白はただに屈辱を甘受するばかりではなく、また危険をも甘受するものであった。罪人にとっては、仮面は単なる仮面でなく、また一つの避難所である。彼はその避難所を自ら捨ててしまった。偽名は一身の安全を得さするものである。彼はその偽名を自ら投げ捨ててしまった。徒刑囚たる彼も正しい家庭のうちに長く身を隠し得たのであるが、彼は自らその誘惑に抵抗した。そしてそれらはいかなる動機からかと言えば、ただ良心の懸念からである。彼は偽りだとはどうしても思えない強い調子でそれを自ら説明した。要するにこのジャン・ヴァルジャンなる者がいかなる男であったにせよ、確かに目ざめたる一つの良心であった。そこには神秘な再生が始まっていた。そして外から|なが《眺》めたところによれば、彼は既に長い以前から謹直の僕《シモベ》となっていた。か《斯》かる正と善との発動は下賤な性格者にはあり得《う》べからざることである。良心の覚醒、それは魂の偉大さを示すものである。  ジャン・ヴァルジャンは誠実であった。その誠実さは、目に見えるものであり、手に触れられるものであり、否定し得《う》べからざるものであり、そのために彼が自ら受けた悲痛の情によっても明《/明》らかに知らるるものであって、《:、》真実か否かの穿鑿《詮索》を不用ならしめ、彼が言ったすべてに権威を与えていた。か《斯》くてマリユスは不思議な地位にはさまれた。フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の口から出てくるものは、すべて不誠実であり、ジャン・ヴァルジャンの口から発するものは、すべて誠実であった。  マリユスは種々《いろいろ》考慮してジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンに対する不思議な貸借表を作ってみ、その貸しと借りとを調べ上げ、一つの平均点に達せんとつとめた。しかしそれらはすべてあたかも暴風雨の中にあるが《が-》ようだった。マリユスはその男に対して明確な観念を得ようとつとめ、言わばジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの思想の奥底まで見きわめようとしたが、彼の姿はいかんともし難い靄の中に出没して|とら《/捉》え難《がた》かった。  正直に返された委託金、誠実になされた告白、それは善良《善良’》なることであった。それはあたかも雲の中にひらめく光のようなものだった。が次《/次》にまた雲は暗くなった。  マリユスの記憶はいかにも混乱していたが、多少の影は浮かんできた。  ジョンドレットの陋屋《あばら家》におけるあの事件は果たしてどういうことであったろうか。警官がきた時、なぜあの男は訴えることをせずに逃げ出してしまったのか。そのことについてはマリユスも答えを見いだし得た。すなわちその男は脱走の身で法廷《/法廷》から処刑されていたからである。  次に第二の疑問が起こってきた。なぜあの男は防寨にやってきたのか。というのは、今やマリユスは炙出しインキのように、記憶が激しい情緒のうちに再び現われてくるのを明らかに認めたからである。あの男は防寨にいた。しかも戦ってはいなかった。いったい何をしにきたのであるか。その疑問に対して、一つの幻が浮かんできて答えた、ジャヴェルと。ジャン・ヴァルジャンが縛られてるジャヴェルを防寨の外へ連れてゆくすごい光景を、マリユスは今明《今’明》らかに思い起こした、《:、》そしてモンデトゥール小路の角《カド》の向こうに恐ろしいピストルの音がしたのを、今なお耳にするが《が-》ように覚えた。おそらくあの間諜《+スパイ》とあの徒刑囚との間には、憎悪の念があったに違いない。互いに邪魔になっていたのであろう。それでジャン・ヴァルジャンは復讐をしに防寨へき《来》たのだ。彼は遅くやってきた。たぶんジャヴェルが捕虜になってることを知ってきたのかも知れない。コルシカのいわゆるヴェンデッタ(訳者注◇ コルシカの閥族間に行なわれる猛烈な復讐)はある種の下層社会に|はい《入》りこんで一《/一》つの法則となっている。半ば《ば-》善の方へ向かってる者でもそ《/そ》れを至当だと思うほど普通のことになっている。彼らは悔悟の途中において窃盗は慎むとしても、復讐には躊躇しない。それでジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺したのだ。あるいは少なくとも殺したらしい。  最後になお一つの問題が残っていた。そしてこれには何らの解答も得られなかった。マリユスはあたかも釘抜きに|はさ《挟》まれたように感じた。すなわち、ジャン・ヴァルジャンとコゼットとあ《/あ》れほど長く生活を共にしてきたのは、どうしてだったろうか。この少女をあの男といっしょに置いた痛ましい《い-》天の戯れは、何の意味だったろうか。天上には二重鍛えの鎖もあるもので、神は天使と悪魔とをつなぎ合わして喜ぶのであろうか。罪悪と潔白とが悲惨の神秘な牢獄において室《+部屋》を同じゅうすることもあるのか。人間の宿命と呼ばるる一連の囚徒のうちにおいて、二つの額《ヒタイ》が、一つは素朴であり、一つは獰猛であり、《:、》一つは曙の聖い白色《白イロ》に浸り、一つは劫火の反映で永久《エーキュウ》に青ざめている、二つの額《ヒタイ》が、相並ぶこともあるのか。その説明し難い配合を|だれ《誰》が決定し得たのか。いかにして、いかなる奇跡によって、この《の-》天の少女と地獄の老人との間に共同の生活が立てられたのか。何者が子羊を狼に結びつけ得たのか。そして更に不可解なことには、何者が狼を子羊に愛着させ得たのか。なぜならば、その狼は子羊を愛していたではないか、凶猛なる者がか弱い者を慕っていたではないか、《:、》また九カ年間、天使は怪物によりかかって身を|ささ《支》えていたではないか。コゼットの幼年および青年時代、世の中への顔出し、生命《イノチ》と光明との方《ホウ》への潔い生育、それらは皆《-みんな》この不思議な献身によって|まも《守》られていたのである。ここに問題は、言わば数限《’数限》りない謎に分かれ、深淵の下に更に深淵が開《-ひら》けてきて、マリユスはもはや眩暈《目眩》を感ぜずにはジャン・ヴァルジャンの方《ほう》をのぞき込むことができなかった。その深淵のごとき男はそもそも何者であったろうか。  創世紀の古い比喩は永久《エーキュウ》に真《シン》なるものである。現在のごとき人間の社会には、将来大《将来/ダイ》なる光によって変化されない限り、常に二種の人間が存在する。一つは高きにある者であり、一つは地下にある者である。一つは善に従う者、すなわちアベルであり、一つは悪に従うもの、すなわちカインである。しかるに今、このやさしい心のカインは、そもそもいかなるものであったろうか。処女に対して、敬虔な心を傾けて愛し、彼女を監視し、彼女を育て、彼女をまもり、彼女を敬い、自ら不潔の身でありながら、純潔をもって彼女を|おお《覆》い包むこの盗賊は、そもそもいかなるものであったろうか。無垢なる者を尊んで、それに一つの汚点《シミ》をもつけさせなかったこの汚泥は、そもそもいかなるものであったろうか。コゼットを教育したこのジャン・ヴァルジャンは、そもそもいかなるものであったろうか。上りゆく一つの星をしてあ《/あ》らゆる影と雲とを免れさせ《せ-》んと《と-》のみつとめた、この暗黒の男は、そもそもいかなるものであったろうか。  そこにジャン・ヴァルジャンの秘密があった。またそこに神の秘密があった。  その二重の秘密の前にマリユスはたじろいだ。ある意味において、一つは他を確実《確実’》ならしめていた。この一事の中に、ジャン・ヴァルジャンの姿とともにまた神の姿も見られた。神はおのれの道具を持っている。神は欲するままの道具を使用する。神は人間に対しては責任を持たない。吾人はいかにして神の意を知り得ようぞ。ジャン・ヴァルジャンはコゼットのために力を尽した。彼はある程度まで彼女の魂を作り上げた。それは争うべからざる事実だった。しかるに、その仕事をした者は恐るべき男であった。しかしなされた仕事は|みごと《見事》なものであった。神はおのれの心のままに奇跡を行なった。神は麗しいコゼットを作り上げ、その道具としてジャン・ヴァルジャンを使った。神は好んでこの不思議な共同者を選んだ。それはどういうつもりであったかを、吾人は神に尋《-たず》ぬべきであろうか。肥料が春に手伝って薔薇《/薔薇》の花を咲かせるのは、別に珍しいことでもないではないか。  マリユスはそういう答えを自ら与えて、自らそれをよしと思った。上に指摘したあらゆる点に関して、彼はあえてジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンに肉迫してゆかなかった。あえて肉迫し得ないでいるのは自ら気づかなかった。彼はコゼットを鍾愛し、コゼットを所有し、そしてコゼットは純潔に光り輝いていた。それでもう彼には充分だった。この上いかなる説明を要しようぞ。コゼットは光輝そのものであった。光輝を更に明らかにする要があろうか。マリユスはすべてを持っていた。更に何を望むべきことがあろう。まったく、それで十分《充分》ではないか。ジャン・ヴァルジャン一身のことなどは、彼の関することではなかった。その男のいかんともし難い影をのぞき込みながら、彼はそのみじめなる男の荘重《/荘重》な断言にすがりついた。「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。」  ジャン・ヴァルジャンはただ通りがかりの者にすぎなかった。それは彼が自ら言ったことである。そして彼は今通《今’通》りすぎようとしていた。彼がいかなる者であったにせよ、その役目はもう終わっていた。今後コゼットのそばで保護者の役目をする者はマリユスとなっていた。コゼットは蒼天のうちに、自分と似寄《似通》った者を、恋人を、夫を、天国における男性を、見いだしたのである。翼を得姿《得/姿》を変えたコゼットは、空虚な醜い脱殻たるジャン・ヴァルジャンを、地上に残してきたのだった。  か《斯》くてマリユスは種々《いろいろ》考え回したが、いつも終わりには、ジャン・ヴァルジャンに対する一種の恐怖に落ちていった。おそらくそれは聖なる恐怖であったろう。なぜなら彼は、その男のうちに天意的《/天意的》なものを感じていたからである。けれどもとにかく、いかに考えてみても、またいかに事情を酌んでやっても、常にこういう結論に落ちゆかざるを得なかった。すなわち、彼は徒刑囚である。換言すれば、社会の最も下の階段よりも更に下にいて、自分の立つべき階段を有しない者である。最下等の人間の次が、徒刑囚である。徒刑囚は言わば生きた人間の仲間にはいる者ではない。徒刑囚は法律から、およそ奪われ得る限りの人間性を皆奪《/みんな奪》われた者である。マリユスは民主主義者であったが、刑法上の問題については厳格な社会組織の味方であって、法律に問わるる者に対してはまったく法律と同じ精神で臨んでいた。彼もまだあらゆる進歩をしたとは言えなかった。人間によって書かれたものと神《/神》によって書かれたものとを、法律と権利とを、彼はまだ区別し得なかった。人力《ジンリキ》にて廃しま《”ま》たは回復し得ざるものをも処断するの権利を人《/人》が有するか否かを、少しも精査し考察《/考察》していなかった。刑罰という語に少しも反感を持っていなかった。成文律を犯した者が永久《エーキュウ》の罰を被るのは、きわめて至当なことであると考え、文明の方法として、社会的永罰《社会的エイバツ》を承認していた。彼は天性善良であり、根本《コンポン》においては内心の進歩をもなし遂げていたので、必ずや将来更に進んだ考えを持つには違いなかったが、現在においてはまだ右のような地点にしかいなかった。  そういう思想状態にあったので、彼にはジャン・ヴァルジャンがいかにも醜いい《/い》とうべきものに見えた。それは神に見棄てられたる男だった。徒刑囚だった。この徒刑囚という一語は、彼にとっては、審判のラッパの響きのように思えた。そして長くジャン・ヴァルジャンを|なが《眺》めた後《あと》、彼が最後に取った態度は顔をそむけることだった。退《しりぞ》け(訳者注◇ サタンよ退《-しりぞ》け)であった。  あえて実際のところを言うならば、マリユスはジャン・ヴァルジャンにいろいろ尋ねて、ついにジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンをして「あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる」と言わしめた程であったが、それでも重要な|二、三《二’三》の疑問は避けたのだった。それらの疑問が頭に浮かばないではなかったが、彼はそれを尋ねることを恐れた。すなわち、ジョンドレットの陋屋《あばら家》のこと、防寨のこと、ジャヴェルのこと。それらの疑問からはいかなる事実が現われてくるか見当がつかなかった。ジャン・ヴァルジャンは自白を躊躇するような男とは思われなかった。そしてマリユスは、強いて彼の口を開かせた後《あと》、また中途で、彼の口をつぐませたくなるかも知れなかった。ある非常な疑念の場合において、一つの問いを発した後《あと》、その答えが恐ろしくなって耳をふさごうとするようなことは、|だれ《誰》にでもあるものである。そういう卑怯な念《念’》は、恋をしてる場合にことによく起こってくる。いとうべき事情を極度に聞きただすのは、賢明なことではない。自分の生命《イノチ》と分かつべからざる方面が必ずや関係してくるような場合には、ことにそうである。ジャン・ヴァルジャンが我《吾》を捨ててかかった説明からは、いかなる恐ろしい光が出て来るかわからなかったし、その忌むべき光がコゼットの身にまでおよぶかも知れなかった。その天使の額にも、地獄の光が多少残ってるかも知れなかった。電光の飛沫もなお雷である。人の宿命にも一種の連帯性があるもので、潔白それ自身といえどもなお、他物をも染める反射の痛ましい法則によって罪悪《/罪悪》の印が押されてることがある。最も純潔なるものにも、忌むべきものと隣した反映の跡がなお残ってることがある。正当か不当かは別として、とにかくマリユスは恐れをい《-い》だいた。彼は既にあまりあるほどのことを聞かされていた。その上《うえ》深入りすることよりもむ《/む》しろ心を転ずることを求めていた。彼は我《吾》を忘れて、ジャン・ヴァルジャンに対しては目を閉じながら、コゼットを両腕に抱き去った。  その男は闇夜であった。生きたる恐ろしい闇夜であった。いかにしてその奥底を探ることをな《成》し得よう。闇に向かって問いを発するのは恐怖すべきことである。いかなる答えが出てくるかわかったものではない。そのために曙までも永久《エーキュウ》に暗くされるかも知れない。  そういう精神状態にあったから、以来その男がコゼットと何らかの接触を保つということは、マリユスにとっては思うもた《耐》え難いことだった。自ら躊躇してな《成》し得なかったその恐ろしい問い、動かすべからざる決定的な解決が出て来るかも知れなかったその恐ろしい問い、《:、》それをあえて発しなかったことを、彼は今となってほとんど自ら責めた。彼は自分があまりに善良で、あまりにおだやかで、更に言えば、あまりに弱かったのを知った。その弱さのために彼は、不注意な譲歩をするに至ったのである。彼はその感傷に乗ぜられた。彼は誤った。きっぱりと簡単にジャン・ヴァルジャンを拒絶すべきであった。ジャン・ヴァルジャンはむしろ火に与《-あた》うべき部分であって、彼はそれを切り捨てて自分《/自分》の家を火災から免れさせるべきであった。彼は自ら自分を恨み、また自分の耳をふさぎ目《/目》をふさいで巻き込んでいったそ《/そ》の情緒の突然の旋風を恨んだ。彼は自分自身に不満だった。  今はいかにしたらいいか。ジャン・ヴァルジャンの訪問は彼のはなはだしくいとうところだった。あの男を家に入れて何の役に立つか。どうしたらいいか。そこまで考えてきて彼は迷った。彼はそれ以上掘り下げることを欲せず、それ以上深《以上ふか》く考慮することを欲しなかった。彼は自ら自分を測ることを欲しなかった。彼は約束を与えていた、言わるるままに約束してしまった。ジャン・ヴァルジャンは彼の誓約を得ていた。徒刑囚に対しても、否徒刑囚《否/徒刑囚》に対してであるからなおさら、約束は守らなければならない。とは言え彼の第一の義務はコゼットに対するものだった。要するに彼は、何よりもまず嫌悪の念に揺すられた。  マリユスは、頭の中にあるあらゆる観念を一々取り上げ、そのたびごとに心を動かされながら、雑然たる全体のことを持ちあぐんだ。その結果深《結果ふか》い惑乱に陥った。またその惑乱をコゼットに隠すのは容易なことではなかった。しかし愛は一つの才能である。マリユスはついにそれを隠し遂《と》げた。  その上《うえ》彼は、鳩の白きがように率直であって何《/何》らの疑念をもいだいていないコゼットに、それとなくいろいろなことを尋ねてみた。彼女の子供の時のこと、彼女の若い時のこと、それについて彼女と話をしてみた。そしてあの徒刑囚がコゼットに対して、およそあり得る限り善良で慈悲深く|りっぱ《/立派》に振る舞ってきたことを、|しだい《次第》に確認するに至った。マリユスが推察し仮定《/仮定》していたことはすべて事実だった。その気味悪い蕁麻《+イラクサ》はこの百合を愛して保護《/保護》してきたのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八編】 【消えゆく光】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【下の室《+部屋》】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日、夜になろうとする頃、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマン家を表門から訪れた。彼を迎えたのはバスクだった。バスクはちょうど中庭に出ていて、何か言いつけを受けてでもいるが《が-》ようだった。誰某《誰ソレ》さんがこられるから気をつけておいでと召し使いに言うと、ちょうどその人がやってくる、そういうことも時々あるものである。  バスクはジャン・ヴァルジャンが近寄るのも待たないで、彼に言葉をかけた。 「二階がおよろしいか階下がおよろしいか伺うようにと、男爵様の仰せでございます。」 「階下にしよう。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。  バスクはもとよりきわめて恭しい態度で、低い室《部屋》の扉を開いて、そして言った。「ただ今奥様《今’奥様》に申し上げます。」  ジャン・ヴァルジャンが通されたのは、丸天井のついたじ《/じ》めじめした階下の室《部屋》で、時々《ときどき》物置きに使われ、街路に面し、赤い板瓦が舗《+敷》いてあり、鉄格子のついた窓が一つあるきりで、中は薄暗かっ《-っ》た。  それははたきやブ《/ブ》ラシや箒《/箒》でいじめられる室《+部屋》ではなかった。ほこりは静かに休らっていた。蜘蛛は何らの迫害も受けないでいた。|りっぱ《立派》な蜘蛛の巣が一つ、ま《真》っ黒に大きくひろげられ蠅《/蠅》の死体で飾られて、窓ガラスの上に車輪のようにかかっていた。室《部屋》は狭くて天井も低く、一隅には空罎《+空き瓶》が積まれていた。石黄色《石黄ショク》の胡粉で塗られた壁は、所々《ところどころ》大きく剥落していた。奥の方に黒塗りの木の暖炉が一つあって、狭い棚がついていた。中には火が燃えていた。それは「階下にしよう」というジャン・ヴァルジャンの返事が既に予期されてたことを、明らかに示すものだった。  二つの|肱掛け《肱掛》椅子が暖炉の両|すみ《隅》に置かれていた。椅子の間には、毛よりも糸目の方《ほう》がよけいに見えてる古い寝台敷きが《-が》、絨毯の代わりにひろげられていた。  室《部屋》の中は暖炉の火の輝きと窓《/窓》からさす薄明りとで照らされてるのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは疲れていた。数日来食《数日来’食》も取らず眠《/眠》ってもいなかった。彼は|肱掛け《肱掛》椅子の一つに身を落とした。  バスクが戻ってきて、点火《+点》した蝋燭を一本暖炉の上に置き、また出て行った。ジャン・ヴァルジャンは首をたれ、頤《顎》を胸に埋めて、バスクにも蝋燭にも目を向けなかった。  突然《突然’》彼は飛び上がるようにして身を起こした。コゼットが彼のうしろに立っていた。  彼は彼女がはいってくるのを見はしなかったが、その気配を感じたのだった。  彼は振り向いて彼女を|なが《眺》めた。彼女はいかにもあでやかな美しさだった。しかし彼がその深い眼眸《眼差し》で|なが《眺》めたのは、その美《ビ》ではなくて魂であった。 「まあ、」とコゼットは叫んだ、「何《なん》というお考えでしょう! お父様、私あなたが変わったお方だとは知っていましたが、こんなことをなさろうとは思いもよりませんでしたわ。ここで私に会いたいとおっしゃるのだと、マリユスが申すのですよ。」 「そう、私から願ったことだ。」 「そうおっしゃるだろうと思っていました。ようございます。仕返しをしてあげますから。でもまあ最初のことからしましょう。お父様、私を接吻して下さいな。」  そして彼女は頬《ホオ》を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは不動のままでいた。 「お動きなさいませんのね。わかりますよ。罪人《罪人’》のようですわ。でもとにかく許してあげます。イエス・キリストも言われました、他の頬《ホオ》をもめぐらしてこれに向けよと。さあこ《/こ》こにございます。」  そして彼女は他の頬《ホオ》を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは身動きもしなかった。あたかもその足は床に釘付けにされてるが《が-》ようだった。 「本気でそうしていらっしゃるの。」とコゼットは言った。「私あなたに何かしましたかしら。ほんとに困ってしまいますわ。私あなたに貸しがありますのよ。今日は私どもといっしょに御飯を召し上がって下さらなければいけません。」 「食事は済んでいる。」 「嘘ですわ。私ジルノルマン様にあなたをしかっていただきますよ。お祖父様ならお父様を少したしなめることができます。さあ、私といっしょに客間にいらっしゃいよ、すぐに。」 「いけない。」  それでコゼットは多少地歩《多少’地歩》を失った。彼女は上手《ウワテ》に出るのをやめて、こんどはいろいろ尋ねるようになった。 「どうしてでしょう! 私に会うのに家で一番きたない室《+部屋》をお望みなさるなんて。ここはほんとにひどいではありませんか。」 「お前も知っ‥‥。」  ジャン・ヴァルジャンは言い直した。 「奥さんも御存じのとおり、私は変人だ、私にはいろいろ変わった癖がある。」  コゼットは小さな両手をたたいた。 「奥さん! 御存じのとおり!‥‥それもまた変だわ。どういう|わけ《訳》でしょう?」  ジャン・ヴァルジャンは時々ごまかしにやる例《/例》の悲痛なほほえみを彼女に向けた。 「あなたは奥さんになることを望んだ。そして今奥《いま奥》さんになっている。」 「でもあなたに対してはそうではありませんわ、お父様。」 「もう私を父と呼んではいけない。」 「まあ何をおっしゃるの?」 「私をジャンさんと呼ばなければいけない、あるいはジャンでもいい。」 「もう父ではないんですって、私はもうコゼットではないんですって、ジャンさんですって。いったいどうしてでしょう。大変な変わりようではありませんか。何か起こったのですか。まあ私の顔を少し見て下さいな。あなたは私どもといっしょに住むのをおきらいなさるのね。私の室《部屋》をおきらいなさるのね。私あなたに何をしまして! 何をしましたでしょう。何かあるのでございましょう。」 「いや何《-なん》にも。」 「それで?」 「いつもと少しも変わりはな《無》い。」 「ではなぜ名前をお変えなさるの。」 「あなたも変えている。」  彼はまた微笑をして言い添えた。 「あなたはポンメルシー夫人となっているし、私はジャンさんとなっても不思議ではない。」 「私にはわけがわかりませんわ。何だか|ばか《馬鹿》げてるわ。あなたをジャンさんと言ってよいか夫に聞いてみましょう。きっと許してはくれないでしょう。あなたはほんとに、大変私に心配をさせなさいますのね。いくら変わった癖があるからといって、この小さなコゼットを苦しめてはいけません。悪いことですわ。あなたは親切な方だから、意地悪をなすってはいけません。」  彼は答えなかった。  彼女は急に彼の両手を取り、拒む間《マ》を与えずそれを自分の顔の方《ほう》へ持ち上げ、頤《顎》の下の首元に押しあてた。それは深い愛情を示す所作だった。 「どうか、」と彼女は言った、「親切にして下さいな。」  そして彼女は言い進んだ。 「私が親切というのはこういうことですわ。意地っ張りをなさらないで、ここにきてお住みになって、またちょいちょいいっしょに散歩して下すって、プリューメ街のようにここにも小鳥がいますから、私どもといっしょにお暮らしなすって、《:、》オンム・アルメ街のひどい家をお引き払いになり、私たちにいろんな謎みたいなことをなさらず、普通のとおりにしていらっして、《:、》私どもといっしょに晩餐もなされば、私どもといっしょに昼御飯もお食べになり、私のお父様になって下さることですわ。」  彼は取られた手を離した。 「あなたにはもう父はい《要》らない、夫があるから。」  コゼットは少し気を悪くした。 「私に父がい《要》らないんですって! そんな無茶なことをおっしゃるなら、もう申し上げる言葉もありません。」 「トゥーサンだったら、」とジャン・ヴァルジャンは考えの拠り所を求めて何《/何》でも手当たり|しだい《次第》につかもうとしてるかのように言った、《:、》「私にはまったくいつも自己一流《自己’一流》のやり方があることを、一番に認めてくれるだろう。何も変わったことが起こったのではない。私はいつも自分の薄暗い片|すみ《隅》を好んでいた。」 「でもここは寒うございます。物もよく見えません。そしてジャンさんと言ってくれとおっしゃるのも、あまりひどすぎます。私にあなたなんておっしゃるのもいやです。」 「ところで、さっきここへ来る途中、」とジャン・ヴァルジャンはそれに答えて言った、「サン・ルイ街で私の目についた道具が一つある。道具屋の店先に置いてあった。私がもしきれいな女だったらあの道具をほしがったに違いない。ごく|りっぱ《立派》にできてる新式の化粧台だった。|たし《確》かあなたが薔薇の木と言っていたあの道具だった。篏木細工《+ハメキザイク》も施してあった。鏡もかなり大きかった。引き出しもいくつか《か-》ついていた。実にきれいなものだった。」 「ほんとに人を|ばか《馬鹿》にしていらっしゃるわ!《/》」とコゼットは答え返した。  そしてこの上もないかわいい様子で、歯をくいしばり、脣を開いて、ジャン・ヴァルジャンに息を吹きかけた。それは猫のまねをした美《ビ》の女神だった。 「私はもう腹が立ってなりません。」と彼女は言った。「昨日から、みんなで私にひどいことばかりなさるんですもの。私はほんとに怒っています。私には|わけ《訳》がわかりません。マリユスが何か言ってもあなたは私をかばって下さらないし、あなたが何かおっしゃってもマリユスは私の味方になってくれません。私はひとりぽっちです。私はおとなしく室《+部屋》まで用意しています。もし神様にでもはいっていただけるのでしたら、ほんとに喜んでお入れしたいくらいです。|だれ《誰》もその室《部屋》にはいって下さる人もありません。室《部屋》の借り手がないので私は破産してしまいます。ニコレットに少しご|ちそう《馳走》の|したく《支度》をさしても、どなたも食べて下さいません。そして私のフォーシュルヴァンお父様はジャンさんと言えとおっしゃるしまた、壁には髯がはえていて、玻璃器の代わりには空罎《+空き瓶》が並んでおり、、《:、》窓掛けの代わりには蜘蛛の巣が張っているような、恐ろしい古いきたないじめじめした窖のような所で、私に会ってくれとおっしゃるんですもの。あなたが一風変わった方だとは私も承知しています。あなたのいつものことですから。けれども結婚したばかりの者には、少し気を休ませてやるものですわ。あとでまたすぐに変わったこともできるではありませんか。あなたはあのオンム・《・-》アルメ街のひどい家《’家》がいいとおっしゃいますの。私はもういやでたまりません。いったい私に何を怒っていらっしゃいますの。私心配《わたし心配》でなりませんわ。ああ!」  そして急に|まじめ《真面目》になって、彼女はジャン・ヴァルジャンをじっと見つめ、こう言い添えた。 「あなたは、私が幸福であるのをおもしろく思っていらっしゃらないんですか。」  無邪気も時には自ら知らないで深くつき込むことがある。右の疑問は、コゼットにとってはごく単純なものだったが、ジャン・ヴァルジャンにとっては深くつき込んだものだった。コゼットはちょっとひっかくつもりだったが、実は深い傷を相手に与えた。  ジャン・ヴァルジャンは顔色を変えた。彼はしばらく返事もせずにじっとしていたが、次に自ら自分に話しかけるような何《/何》とも言えない調子でつぶやいた。 「その幸福は私の生涯の目的であった。今神《今’神》は私が去るべきを示して下さる。コゼット、お前は幸福だ。私の日は終わったのだ。」 「ああ《あ/》お前と呼んで下すったのね!《/》」とコゼットは叫んだ。  そして彼女は彼の首に飛びついた。  ジャン・ヴァルジャンは我《吾》を忘れて、彼女を惘然《呆然》と自分の胸に抱きしめた。彼はほとんど彼女をまた取り戻したような心地になった。 「ありがとう、お父様。」とコゼットは言った。  その感情の誘惑はジャン・ヴァルジャンにとって痛烈なものとなり始めた。彼は静かにコゼットの腕から身を退《-しりぞ》け、そして帽子を取り上げた。 「どうなさるの。」とコゼットは言った。  ジャン・ヴァルジャンは答えた。 「奥さん、お別れします。皆様が待っていられましょうから。」  そして扉の閾の上で彼は言い添えた。 「私はあなたにお前と言いました。しかしもうこれからそんなことは《は-》しないと御主人《ご主人》に申し上げて下さい。ごめん下さい。」  ジャン・ヴァルジャンはコゼットをあとにして出て行った。コゼットはその謎のような別れの言葉に茫然としてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【更に数歩《スウホ》の退却】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日、同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。  コゼットはもう何《-なん》にも尋ねもせず、不思議がりもせず、寒いとも言わず、客間のことも口に出さなかった。彼女はお父様ともまたはジャンさんとも言わなかった。そして自分はあなたと言われるままにしておいた。奥さんと言われるままにしておいた。ただ喜びの情が少し減じてるのみだった。もし悲しみが彼女にも可能であるとすれば、彼女はいくらか悲しんでいた。  愛せられる男は、好き勝手なことを語って、何《なん》にも説明せず、しかもそれで愛せられている女を満足させるものであるが、おそらくコゼットもマリユスとそういう談話をかわしたのであろう。恋人らの好奇心は、自分らの愛より以外に遠くわたるものではない。  下《した》の室《部屋》は多少取《多少と》り片《かた》づけられた。バスクは空罎《+空き瓶》を取り除《の》け、ニコレットは蜘蛛の巣を払った。  その後毎日同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。彼はマリユスの言葉を文字どおりに解釈して日々《/日々》こざるを得なかったのである。マリユスはジャン・ヴァルジャンがやって来る時刻には、いつも外出するようにしていた。一家の人々は、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏の一風変わったやり方にな《慣》れてきた。それにはトゥーサンの助けもよほどあった。「旦那様はいつもあんなでございました」と彼女は繰り返し言った。祖父も、「あの人は変わり者だ」と断言した。そしてすべてはきまった。その上《うえ》九十歳にもなれば、もう交際などということはできなくて、ただいっしょに並ぶというだけである。そして新来の者は皆一《-みんな一》つのわずらいとなってくる。もう他人を入れる余地はない。日常の習慣がすっかりでき上がっている。ジルノルマン老人には、フォーシュルヴァ《ァ-》ン氏とかトランシュルヴァン氏とかいう「そんな人」はこ《来》ない方《ほう》がよかったのである。彼は言い添えた。「ああいう変わり者は何をするかわかったものではない。ずいぶん奇抜なことをやる。と言ってその理由は何もない。カナプル侯爵はもっとひどかった。|りっぱ《立派》な邸宅を買い入れて、自分はその物置きに住んでいた。ああいう人たちは表面だけ変なことをしてみたがるものだ。」  |だれ《誰》もその凄惨な裏面《ウラ面》には気づく者はなかった。第一ど《/ど》うしてそんなことが推察し得られたろう? 印度にはそういう沼がいくらもある。異様な不思議な水がたたえていて、風もないのに波を立て、静穏であるべきなのが荒れている。人はただその理由もない混乱の表面だけを|なが《眺》める。そして底に水蛇がのたうっていることを気づかない。  多くの人もそういう秘密な怪物を持っている、心中《シンチュウ》にいだいている苦悩を、身を噛む竜を、内心の闇の中に住む絶望を。かかる人も普通の者と同じようにして暮らしている。彼のうちに無数の歯を持ってる恐ろしい苦悶が寄生し、|みじ《惨》めなる彼のうちに生活し、彼の生命《イノチ》を奪いつつあることは、|だれ《誰》からも知られない。その男が一つの深淵であることは、|だれ《誰》からも知られない。その淵《’淵》の水は停滞しているが、きわめて深い。時々、理由のわからぬ波が表面に現われてくる。不思議なうねりができ、次に消えうせ、次にまた現われる。底から泡が立ちのぼってきては、消えてゆく。何でもないことのようであるが、実は恐ろしいことである。それは人に知られぬ獣の吐く息である。  ある種の妙な習慣、たとえば、他の人が帰る頃にや《-や》ってくるとか、他の人が前に出てる間《あいだ-》うしろに隠れてるとか、壁色のマントをつけるとでも言い得るような態度をあらゆる場合に取るとか、《:、》寂しい道を選ぶとか、人のいない街路を好むとか、少しも会話の仲間入りをしないとか、人込みやにぎわいを避《-さ》けるとか、のんきそうにして貧乏な暮らしをするとか、《:、》金《かね》があるのにいつも鍵をポケットに入れ蝋燭《/蝋燭》を門番の所に預けておくとか、潜門から出入りするとか、裏の階段から上ってゆくとか、《:、》すべてそういう何でもなさそうな特殊の癖、表面に現われたる波紋や泡《/泡》や|とら《/捉》え難い皺は、しばしば恐るべき底から発してくることがある。  か《斯》くて数週間過ぎ去っていった。新しい生活は|しだい《次第》にコゼットをとらえていった。結婚のために生じた交際、訪問、家政、遊楽、それらの大事件が起こってきた。コゼットの楽しみは費用のかかるものではなかった。それはただマリユスといっしょにいるということだけだった。彼と共に出かけ、彼と共に家にいる、それが彼女の一番大事な仕事だった。互いに腕を組み合わし、白昼街路《白昼’街路》を公然と、人通りの多い中をただ|ふたり《二人》で歩くこと、これは彼らにとって常に新しい喜びだった。コゼットが気を痛めたことはただ一つきりなかった。すなわち、年取った|ふたり《二人》の独身女は融和し難いけれど、祖父は達者であり、マリユスは時々《ときどき》何かの弁論に出廷し、ジルノルマン伯母は新家庭のそばに差し控えた日々を送りつつ満足していた。ジャン・ヴァルジャンも毎日訪れてきた。  お前という呼び方は消えうせてしまい、あなたとか奥《/奥》さんとかジ《/ジ》ャンさんとかいうことになって、彼はコゼットに対してまったく別人のようになった。彼女の心を自分から離そうとした彼の注意は、うまく成功した。彼女はますます快活になり、ますますやさしみが減じてきた。それでもなお彼女はよく彼を愛してい、彼もそのことを感じていた。ある日彼女《日’彼女》は突然《突然’》彼に向かって言った。「あなたは私のお父様でしたが、今はそうでなくなり、あなたは私の伯父様でしたが、今はそうでなくなり、あなたはフォーシュルヴァン様でしたが、今はジャン様となられたのですね。するとあなたは、いったいどういう方なんでしょう。私そんなこと|いや《嫌》ですわ。もしあなたがごくいい方だということを知らなかったら、私はあなたを|こわ《怖》がるかも知れません。」  彼はなおオンム・アルメ街に住んでいた。以前コ《/コ》ゼットが住んでいた街区を去るに忍びなかったのである。  初めのうち彼は、数分間しかコゼットのそばにいないで、すぐ帰っていった。  ところが|しだい《次第》に、彼は長居をするようになってきた。あたかも日が長くなるのに乗じた形だった。彼は早くき《来》ては遅く帰っていった。  ある日、コゼットはふと「お父様」と言ってしまった。すると喜びのひらめきが、ジャン・ヴァルジャンの陰鬱な老年の顔に輝いた。彼は彼女をとらえた。「ジャンと言って下さい。」彼女は笑い出しながら答えた。「ああそうでしたわね、ジャンさん。」「それでよろしいです、」と彼は言った。そして彼は顔をそむけて、彼女に見えないように目をぬぐった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【プリューメ街の庭の思い出】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それが最後であった。その最後のひらめき以来、光はまったく消えうせてしまった。もはや親しみもなく、抱擁をもって迎えられることもなく、お父様! という深いやさしみの言葉もなくなった。彼は自ら命じ自《/自》ら行なって、自分のあらゆる幸福を相次いで卻けてしまった。一日にしてコゼットをすべて失った後《あと》、次に再び彼女を少しずつ失うという、悲惨な目に彼は出会った。  目もついには窖の明るみにな《慣》れてくるものである。結局コゼットの姿を毎日見るというだけで彼には充分だった。彼の全生命はその時間に集中されていた。彼は彼女のそばにすわり、黙って彼女を|なが《眺》め、あるいはまた、昔のこと、彼女の子供の折りのこと、修道院にいた頃のこと、当時の小さなお友だちのこと、などを彼女に話した。  ある日の午後──それは四月のはじめであって、既に暖かくなってるがまださわやかであり、日《ヒ》の光はきわめてうららかで、マリユスとコゼットとの窓のほとりの庭は春の目ざめの気に満ち、《:、》山楂《+山査子》は芽ぐみ、丁子は古壁の上に宝石を飾り、薔薇色の金魚草は石の割れ目に花を開き、草の間には|ひな菊《雛菊》や金鳳花がかわいく咲きそめ、年内の白い蝶は始めて飛び出し、《:、》永遠の婚礼の楽手たる春風は、古い詩人らが一陽来復と呼んだ黎明の大交響曲の最初の譜を樹木の間に奏していた──《─:》そのある日の午後、マリユスはコゼットに言った。「プリューメ街の庭にまた行ってみようといつか話したね。今すぐに行こう。恩を忘れてはいけない。」そして|ふたり《二人》は、二羽の燕のように春に向かって舞い上がった。プリューメ街の庭は曙のような気を彼らに与えた。愛の春とも言うべき何物かを彼らは過去に持っていた。プリューメ街の家はまだ借受期限内で、コゼットのものになっていた。|ふたり《二人》はその庭に行き、その家に行った。そして昔に返って、我《吾》を忘れてしまった。その夕方いつもの時刻に、ジャン・ヴァルジャンはフィーユ・デュ・カルヴェール街にやってきた。バスクは彼に言った。「奥様は旦那様と|御いっしょ《ご一緒》にお出かけになりまして、まだお帰りになっていません。」彼は黙って腰をおろし、一時間ばかり待った。コゼットは帰ってこなかった。彼はうなだれて帰っていった。  コゼットは「自分たちの庭」を散歩したことに気を奪われ、「過去のうちに一日《イチニチ》を過ごした」ことを非常に喜んで、翌日もそのことばかり言っていた。ジャン・ヴァルジャンに会わなかったことな《な-》んかは念頭になかった。 「どうしてあそこまで行きました?」とジャン・ヴァルジャンは彼女に尋ねた。 「歩いて。」 「そして帰りには?」 「辻馬車で。」  しばらく前からジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンは、若夫婦がごくつつましい生活をしてるのに気づいていた。そのために彼は心をわずらわされた。マリユスの倹約は厳重で、ジャン・ヴァルジャンに向かって彼が言った言葉は絶対的な意味を持っていた。彼は思い切って尋ねてみた。 「なぜあなたは自分の馬車を備えないのですか。小ぎれいな箱馬車なら月《/月》に五百フランもあればいいでしょう。あなた方《がた》は金持ちではありませんか。」 「私にはわかりません。」とコゼットは答えた。 「トゥーサンについてもそうでしょう。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「いなくなったままで、代わりも雇ってないのは、なぜですか。」 「ニコレットだけで充分ですから。」 「しかしあなたには小間使いがひとりい《要》るでしょう。」 「マリユスがいてくれますもの。」 「あなた方《がた》は自分の家を持ち、自分の召し使いを持ち、馬車を一つ備え、芝居の席も取っておいていい|はず《筈》です。あなた方《がた》には何でもできます。なぜ金持ちのようにしないのですか。金《かね》を使えばそれだけ幸福も増すわけです。」  コゼットは答えなかった。  ジャン・ヴァルジャンの訪問の時間は決して短くはならなかった。否《否/》かえって長くなった。心がすべってゆく時には、人は坂の途中で足を止めることはできない。  ジャン・ヴァルジャンは訪問の時間を長引かし、時のたつのを忘れさせようと思う時には、いつもマリユスのことをほめた。マリユスは美しく気高《/気高》く勇気《/勇気》があり才《/才》があり雄弁《/雄弁》であり親切《/親切》であるとした。コゼットは更にマリユスをほめた。ジャン・ヴァルジャンは何度も繰り返した。そして言葉の尽きることはなかった。マリユスという一語は無尽蔵な言葉だった。その四字の中には幾巻もの書籍が含まっていた。そういうふうにして、ジャン・ヴァルジャンは長く留《-とど》まることができた。コゼットを|なが《眺》めそ《/そ》のそばですべてを忘れることは、彼にとってはいかに楽しいことであったろう。それは自分の傷口を結わえることだった。バスクが二度もきて、「食事の用意ができたことを奥様に申し上げてこいと、大旦那様《+オオ旦那様》が仰せられました、」と告げるようなことも、幾度かあった。  そういう日ジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンは、深く思いに沈みながら戻っていった。  マリユスの頭に浮かんだあの脱殻のたとえには、何か真実な点が含まっていたであろうか。ジャン・ヴァルジャンは果たして一つの脱殻であって、自分から出た蝶を執拗《/執拗》に訪れて来る身であったろうか。  ある日、彼はいつもより長座をした。するとその翌日は暖炉に火がはいっていなかった。「おや、火がない、」と彼は考えた。そして自らその説明を下した。「なに当然のことだ。もう四月だ。寒さは済んでしまったのだ。」 「まあ、寒いこと!《/》」とコゼットははいってきながら叫んだ。 「寒くはありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「では、バスクに火を焚くなとおっしゃったのはあなたですか。」 「ええ。もうすぐ五月です。」 「でも六月《6月》までは火を焚くものです。こんな低い室《+部屋》では一年中火《一年中’火》がい《要》ります。」 「私はもう火は|むだ《無駄》だと思ったのです。」 「それもあなたの一風変わったところですわ。」とコゼットは言った。  翌日はまた火がはいっていた。しかし二つの|肱掛け《肱掛》椅子は、室《部屋》の端の扉の近くに並んでいた。「どういうわけだろう?」とジャン・ヴァルジャンは考えた。  彼はその|肱掛け《肱掛》椅子を取りにゆき、いつものとおり暖炉のそばに並べた。  それでも再び火が焚かれたので彼は元気を得た。彼はいつもより長く話した。帰りかけて立ち上がった時、コゼットは彼に言った。 「主人は昨日《昨日’》変なことを私に言いました。」 「どういうことですか。」 「こうなんです。コゼット、僕たちには三万フランの年金がはいってくる、二万七千はお前の方《ほう》から、三千はお祖父《じい》さんから下さるので、というんです。それで三万ですわと私が答えますと、お前には三千フランで暮らしてゆく勇気があるかってききます。私は、ええあ《/あ》なたといっしょなら|一文な《一文無》しでも、と答えました。それから私は、なぜそんなことをおっしゃるの、と尋ねてみますと、ただ聞いてみたのだ、と答えたのですよ。」  ジャン・ヴァルジャンは一言も発し得なかった。コゼットはたぶん彼から何かの説明を待っていたのであろう。しかし彼は沈鬱な無言《/無言》のまま彼女の言葉に耳を傾けた。彼はオンム・アルメ街に戻っていった。彼は深く考え込んでいたので、入り口をまちがえて、自分の家に|はい《入》らず、隣の家にはいり込んだ。そしてほとんど三階まで上っていってからようやく、まちがったことに気づいて、またおりていった。  彼の精神は種々《いろいろ》の推測に苦しめられた。マリユスがあの六十万フランの出所《出どころ》について疑いをいだき、何か不正な手段で得られたものではないかと恐れてるのは、明らかだった。おそらく彼は、その金《-かね》がジャン・ヴァルジャンから出たものであることを発見したのかも知れなかったし、その怪しい財産に不安の念をいだき、それを自分の手に取ることを好まず、《:、》コゼットと|ふたり《二人》でうしろ暗《ぐら》い金持ちとなるよりむ《/む》しろ貧しい暮らしをしようと思ってるのかも知れなかった。  その上《うえ》漠然とジャン・ヴァルジャンは、自分が排斥されてるのを感じ始めた。  翌日、例の下の室《+部屋》にはいってゆくと彼は一種の戦慄を感じた。|肱掛け《肱掛》椅子は二つともなくなっていた。普通の椅子さえ一つもなかった。 「まあ、椅子がない!《/》」とコゼットははいってきて叫んだ。「椅子はどこにあるんでしょう?」 「もうありません。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「あんまりですわ!」  ジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。 「持ってゆくように私がバスクに言いました。」 「なぜです。」 「今日はちょっとの間しかいないつもりですから。」 「長くいないからと言って、立ったままでいる理由にはなりません。」 「何でも客間に|肱掛け《肱掛》椅子がいるとかバスクが言っていたようです。」 「なぜでしょう。」 「たしか今晩お客があるのでしょう。」 「いえ|だれ《誰》もき《来》はしません。」  ジャン・ヴァルジャンはそれ以上何《以上なん》とも言うことができなかった。  コゼットは肩をそびやかした。 「椅子を持ってゆかせるなんて! こないだは火を消さしたりして、ほんとにあなたは変な方ですわ。」 「さようなら。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。  彼は「さようなら、コゼット」とは言わなかった。しかし「さようなら、奥さん」と言う力もなかった。  彼は気力もぬ《抜》けは《果》てて出て行った。  こんどは彼もよく了解した。  翌日彼はもうこ《来》なかった。コゼットは晩になってようやくそれに気づいた。 「まあ、」と彼女は言った、「ジャンさんは今日いらっしゃらなかった。」  彼女は軽い悲しみを覚えたが、すぐにマリユスの脣《+口》づけにまぎらされて、ほとんど自ら気にも止めなかった。  その翌日も彼はこ《来》なかった。  コゼットは別にそれを気にもせず、いつものとおりその晩を過ごし、その夜を眠り、目をさました時ようやくそのことを頭に浮かべた。彼女はそれほど幸福だったのである。彼女はその朝すぐにジャン氏のもとへニコレットをやって、病気ではないか、また昨日は|なぜ《何故》こなかったかと尋ねさした。ニコレットはジャン氏の答えをもたらしてきた。少しも病気ではない。ただ忙《-いそが》しかった。すぐにまた参るだろう、できるだけ早く。それにまたちょっと旅をしようとしている。奥さんは自分がいつも時々《ときどき》旅する習慣になってるのを覚えていられるはずである。決して心配されないように。自分のことは考えられないように。  ニコレットはジャン氏の家へ行って、奥様の言葉をそのまま伝えたのだった。「昨日ジャン様は|なぜ《何故》おいでにならなかったか」を尋ねに奥様からよこされたのだと。「私が参らないのはもう二日になります、」とジャン・ヴァルジャンは静かに答えた。  しかしその注意はニコレットの気に止まらなかった。彼女はそのことについては一言もコゼットに復命しなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【牽引力と消滅】 ◇。◇。◇。◇。◇。  1833年の晩春から初夏へかけた《た-》数カ月の間《あいだ》、マレーのまばらな通行人や店頭《/店頭》にいる商人や門口《/門口》にぼんやりしてる人などは、さっぱりした黒服をまとってるひとりの老人を見かけた。老人は毎日日暮《毎日’日暮》れの頃同《ころ同》じ時刻に、オンム・アルメ街からサ《/サ》ント・クロア・ド・ラ・ブルトンヌリー街の方《ホウ》へ出てきて、ブラン・マントー教会堂の前を通り、《:、》キュルテュール・サント・カトリーヌ街へ|はい《入》り、エシャルプ街まできて左に曲がり、そしてサン・ルイ街へ|はい《入》るのだった。  そこまで行くと、彼は足をゆるめ、頭を前方に差し出し、何《なん》にも見ず何《-なん》にも聞かず、目を常に同じ一点にじっととらえていた。その一点は、彼にとっては星が輝いてるのかと思われたが、実はフィーユ・デュ・カルヴェール街の角《カド》にほかならなかった。その街路に近づくに従って、彼の目はますます輝いてきた。内心の曙のように一種の喜悦の情がその眸に光っていた。そして魅せられ感動《/感動》されてるような様子をし、脣はかすかに震え動き、あたかも目に見えない何者かに話しかけてるがようで、ぼんやり微笑を浮かべて、できるだけゆっくり足を運んだ。向こうに行きつくことを願いながら、それに近寄る瞬間を恐れてるとでもいうようだった。彼を引きつけるらしいその街路からも《/も》はや家の|四、五軒《四’五軒》しかへだたらない所まで行くと、《:、》彼の歩調は非常にゆるやかになって、時とするともう歩いてるのでないとさえ思われるほどだった。その震える頭とじ《/じ》っと定めた瞳とは、極を求める磁石の針を思わせた。か《斯》くていくら到着を長引かしても、ついには向こうへ着かなければならなかった。彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街に達した。すると、そこに立ち止まり、身を震わし、最後の人家の角《カド》から、一種沈痛《一種’沈痛》な臆病さで頭を差し出し、その街路をのぞき込んだ。その悲愴な眼差の中には、不可能事《不可能ジ》から来る眩暈《目眩》と閉《/閉》ざされたる楽園とに似た何かがあった。それから一滴の涙が、徐々に眼瞼《目蓋》の|すみ《隅》にた《溜》まってきて、下に落ちるほど大きくなり、ついに頬《ホオ》をすべり落ち、あるいは時とすると口もとに止まった。老人はその苦い味を感じた。彼はそのまましばらく石のようになってたたずんだ。それから、同じ道を同《/同》じ歩調で戻っていった。その角《カド》から遠ざかるに従って、目の光は消えていった。  そのうちしだ《だ-》いに、老人はフィーユ・デュ・カルヴェール街の角《カド》まで行かないようになった。彼はよくサン・ルイ街の中ほどに立ち止まった、あるいは少し遠くに、あるいは少し近くに。ある日などは、キュルテュール・サント・カトリーヌ街の角《カド》に止まって、遠くからフィーユ・デュ・カルヴェール街を|なが《眺》めた。それから彼は何かを拒むが《が-》ように、黙って頭を左右に振り、そして引き返していった。  やがて彼は、もうサ《/サ》ン・《・-》ルイ街までも行かなくなった。パベ街までしか行かないで、頭を振って戻っていった。次にはトロア・パヴィヨン街より先へは行かなくなった。その次にはもうブラン・マントー教会堂から先へ出なくなった。ちょうど、もう撥条《+バネ》を巻かれなくなった振り子が、|しだい《次第》に振動を狭めてつ《/つ》いに止まってしまおうとしてるのによく似ていた。  毎日、彼は同じ時刻に家をいで、同じ道筋をたどったが、向こうまで行きつくことができなかった。そしておそらく自分でも気づかないで、行く距離を絶えず縮めていた。彼の顔にはただ一つの観念が浮かんでいた、すなわち、何の役に立とう? と。眸の光は消えうせて、もう外に輝かなかった。涙もまた涸れて、もう眼瞼《目蓋》の|すみ《隅》にた《溜》まらなかった。その思い沈んだ目は|かわ《乾》いていた。彼の頭はいつも前方に差し出されていた。時々その頤《顎》が震え動いていた。やせた首筋のしわは見るも痛ましいほどだった。時としては、天気の悪い時など、腕の下に雨傘を抱えていたが、それを開いてることはなかった。その辺の上《-かみ》さんたちは言った、「あの人はお|ばか《馬鹿》さんですよ。」子供たちは笑いながらそのあとについていった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九編】 【極度の闇、極度の曙】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【不幸者《不幸もの》を|あわ《憐》れみ幸福者《/幸福者》を恕《+許》すべし】 ◇。◇。◇。◇。◇。  幸福であるのは恐るべきことである。いかに人はそれに満足し、いかにそれをもって足れりとしていることか! 人生の誤れる目的たる幸福を所有して、真の目的たる義務を、いかに人は忘れていることか!  けれどもあえて言うが、マリユスを非難するのは不当であろう。  マリユスは前に説明したとおり、結婚前にもフォーシュルヴァ《ァ-》ン氏に向かって問い糺《質》すことをせず、結婚後にもジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンに向かって問い糺《質》すことを恐れた。彼は心ならずも約束するに至ったことを後悔した。望みなきあの男にそれだけの譲歩をなしたのは誤りだったと、彼は幾度も自ら言った。そして今は、|しだい《次第》にジャン・ヴァルジャンを家から遠ざけ、できるだけ彼をコゼットの頭から消してしまおうと、ただそれだけを|はか《謀》っていた。コゼットとジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンとの間にいつも多少自分《多少’自分》をはさんで、彼女がもう彼のことを気づかず彼《/彼》のことを頭に浮かべないようにと、願っていた。それは消し去ること以上で、蝕し去ることであった。  マリユスは必要であり正当《/正当》であると判断したことを行なってるに過ぎなかった。彼は苛酷なこともせずし《/し》かも弱々しい情も動かさないでジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンを排斥し去ろうとしていたが、《:、》それには、彼の考えによれば、読者が既に見てきたとおりの重大な理由があり、また次に述べる別の理由もあった。彼は自ら弁論することになったある訴訟事件において、偶然にも昔ラフィット家に雇われていた男と出会い、何も別に尋ねたわけではないが、不思議な話を聞かされた。もとより彼は秘密を厳守すると約束した手前もあり、ジャン・ヴァルジャンの危険な地位をも考えてやって、その話を深く探ることはできなかった。ただ彼はその時、果たすべき重大な義務があることを感じた。それはあの六十万フランを返却するということで、彼はその相手をできるだけひそかに|さが《探》し求めた。そしてその間金《あいだ-かね》に手をつけることを避けた。  コゼットに至っては、それらの秘密を少しも知らなかった。しかし彼女を非難するのもまたあ《/あ》まり苛酷であろう。  一種の強い磁力がマリユスから彼女へ流れていて、そのために彼女は、本能的にま《”ま》たほとんど機械的に、マリユスの欲するままになっていた。「ジャン氏」のことについても、彼女はマリユスの意志に感応して、それに従っていた。夫は彼女に何も言う必要はなかった。彼女は夫の暗黙の意向から漠然たるし《/し》かも明らかな圧力を感じて、それに盲従した。彼女の服従はここではただ、マリユスが忘れてることは思い出すまいというのにあった。そのためには何ら努力の要《用》はなかった。彼女は自らその理由を知らなかったし、また彼女に|とが《咎》むべきことでもないが、彼女の魂はまったく夫の魂となり了せて、《:、》マリユスの考えの中で影に蔽われてるものは皆、彼女の考えの中でも暗くなるのであった。  けれどもそれはあまり強く言えることではない。ジャン・ヴァルジャンに関することでは、その忘却と消滅とはただ表面的のものに過ぎなかった。彼女は忘れやすいというよりもむ《/む》しろうっかりしていた。心の底では、長く父と呼んできたその男をごく愛していた。しかし夫の方《ほう》をなおいっそう愛していた。そのために彼女の心は、多少平衡を失って一方に傾いたのである。  時々、コゼットはジャン・ヴァルジャンのことを言い出して怪しむこともあった。するとマリユスは彼女をなだめた。「留守なんだろう。旅に出かけるということだったじゃないか。」それでコゼットは考えた。「そうだ。あの人はいつもこんなふうにいなくなることがあった。それにしてもこう長引くことはなかったが。」|二、三度彼女《ニサン度’彼女》はニコレットをオンム・アルメ街にやって、ジャン氏が旅から帰られたかと尋ねさした。ジャン・ヴァルジャンはまだ帰らないと答えさした。  コゼットはそれ以上尋ねなかった。この世でなくてならないものは、ただマリユスばかりだったから。  なお言っておくが、マリユスとコゼットの方《ほう》でもまた不在になった。彼らはヴェルノンへ行った。マリユスはコゼットを父の墓へ連れて行った。  マリユスはコゼットを|しだい《次第》にジャン・ヴァルジャンから|のが《逃》れさした。コゼットはされるままになっていた。  それにまた、子供の忘恩などとあ《/あ》る場合にはあまりきびしく言われてることも、実は人が考えるほど常に|とが《咎》むべきことではない。それは自分自身の忘恩である。他の所で言っておいたように、自然は「前方を見て」いる。自然は生きてるものを、来る者と去る者とに分かっている。去る者は闇の方へ向き、来る者は光明の方へ向いている。ここにおい|てか《て》乖離が生じてきて、老いたる者にとっては宿命的なものとなり、若い者にとっては無意識的なものとなる。その乖離は初めは感じ難いほどであるが、木の枝が分かれるように|しだい《次第》に大きくなる。小枝はなお幹についたまま遠ざかってゆく。それは小枝の罪ではない。青春は喜びのある所へ、にぎわいの方《ほう》へ、強い光の方《ほう》へ、愛の方《ほう》へ、進んでゆく。老衰は終焉の方《ほう》へ進んでゆく。両者は互いに姿を見失いはしないが、もはや抱擁はしなくなる。若き者は人生の冷ややかさを感じ、老いたる者は墳墓の冷ややかさを感ずる。そのあわれなる子供らをとがめてはいけない。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【油尽《あぶら尽》きたるランプの最後のひらめき】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある日、ジャン・ヴァルジャンは階段をおりてゆき、街路に|二、三歩《ニサンポ》ふみ出して、ある標石《標イシ》の上に腰をおろした。それは、六月五日から六日へかけた晩、ガヴローシュがやってきた時、彼が考えふけりながら腰掛けていたのと、同じ石であった。彼はそこにしばらくじっとしていたが、やがてまた階上《階上’》へ上っていった。それは振り子の最後の振動だった。翌日、彼はもう室《+部屋》から出なかった。その翌日には、もう寝床から出なかった。  門番の女は、キャベツや馬鈴薯に少しの豚肉をまぜて、彼の粗末な食物をこしらえてやっていたが、その陶器皿《陶器ザラ》の中を見て叫んだ。 「まああなたは、昨日から何も召し上がらないんで《で-》すね。」 「いや食べたよ。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「お皿はまだいっぱいですよ。」 「水差しを見てごらん。空《カラ》になってるから。」 「それは、ただ水を飲んだというだけで、なにも食べたことにはなりません。」 「でも、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「水だけしかほしくなかったのだとしたら?」 「それは喉がかわいたというもんです。いっしょに何《-なん》にも食べなければ、熱ですよ。」 「食べるよ。明日は。」 「それともいつかは、でしょう。なぜ今日《今日’》召し上がらないんです。明日は食べよう、なんていうことがありますか。私がこしらえてあげたのに手をつけないでおくなんて! この煮物はほんとにおいしかったんですのに!」  ジャン・ヴァルジャンは婆さんの手を取った。 「きっと食べるよ。」と彼は親切な声で言った。 「あなたはわ《分》からずや《屋》です。」と門番の女は答えた。  ジャン・ヴァルジャンはその婆さんよりほかにはほとんど|だれ《誰》とも顔を合わせなかった。パリーのうちには|だれ《誰》も通らない街路があり、|だれ《誰》も訪れてこない家《’家》がある。彼はそういう街路の一つに住み、そういう家の一つにはいっていた。  まだ外に出かけた頃、彼はある鋳物屋の店で、|五、六《ゴ六》スー出して小さな銅の十字架像を買い、それを寝台の正面の釘にかけて置いた。そういう首つり台はいつ見ても快いものである。  一週間過《一週間’過》ぎたが、その間《あいだ》ジャン・ヴァルジャンは室《+部屋》の中さえ一歩も歩かなかった。彼はいつも寝たままだっ《-っ》た。門番の女は亭主に言った。「上のお爺さんは、もう起きもしなければ、食べもしないんだよ。長くは《は-》もつまい。何かひどく心配なことがあるらしい。私の推察じゃ、きっと娘が悪い所へかたづいたんだよ。」  亭主は夫としての威厳を含んだ調子でそれに答えて言った。 「もし金《-かね》があれば、医者にかかるさ。金《かね》がなければ、医者にかからないさ。医者にかからなければ、死ぬばかりさ。」 「医者にかかったら?」 「やはり死ぬだろうよ。」と亭主は言った。  女房は自ら自分の舗石《+敷石》と言ってる所には《生》えかかってる草を、古《フル》ナイフで掻き取りはじめたが、そうして草を取りながらつぶやいた。 「かわいそうに。きれいな爺さんなのに。雛鶏《+ヒヨッコ》のようにま《真》っ白だが。」  彼女は街路の向こう端に、近所の医者がひとり通りかかるのを見た。そして自分ひとりできめて、その医者にき《来》てもらうことにした。 「三階でございますよ。」と彼女は医者に言った。「かまわずにはいって下さい。お爺さんはもう寝床から動けないので、鍵はいつも扉についています。」  医者はジャン・ヴァルジャンに会い、彼に話をしかけた。  医者がおりてくると、門番の女は彼に呼びかけた。 「どうでございましょう?」 「病人はだいぶ悪いようだ。」 「どこが悪いんでございましょうか。」 「どこと言って悪い所もないが、全体がよくない。見たところどうも大事な人でも失ったように思われる。そんなことで死ぬ場合もあるものだ。」 「あの人はあなたに何と言いましたか。」 「病気ではないと言っていた。」 「またあなたにき《来》ていただけますでしょうか。」 「よろしい。」と医者は答えた。「だが私よりもほかの人にき《来》てもらわなければなるまい。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【今は一本のペンも重し】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある晩ジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンは、辛うじて肱で身を起こした。自ら手首を取ってみると、脈が感ぜられなかった。呼吸は短くて時々《ときどき》止まった。彼は今まで知らなかったほどひどく弱ってるのに気づいた。すると、何か最期の懸念に駆られたのであろう、彼は努力をして、そこにすわり、服をつけた。自分の古い労働服を着た。もう外にも出かけないので、またその服を取り出し、それを好んでつけたのだった。服をつけながら何度も休まなければならなかった。上衣の袖に手を通すだけでも、額から汗が流れた。  ひとりになってから彼は、控え室の方《ほう》に寝台を移していた。寂しい広間にはできるだけいたくなかったからである。  彼は例の鞄を開いてコゼットの古い衣裳を取り出した。  彼はそれを寝床の上にひろげた。  司教の二つの燭台は元のとおり暖炉の上にの《載》っていた。彼は引き出しから二つの蝋燭を取って、それを燭台に立てた。それから、夏のこととてまだ充分明《充分’明》るかったが、その蝋燭に火をともした。死人《しにん》のいる室《+部屋》の中にそんなふうに昼間から蝋燭がともされてるのは、時々《ときどき》見られることである。  一つの道具から他の道具へと行く一歩一歩に、彼は疲れきって腰をおろさなければならなかった。それは力を費やしてはまた回復するという普通の疲労ではなかった。ある限りの運動の残りだった。二度とはやれない最後の努力のうちにしたたり落ちてゆく、消耗し尽した生命《イノチ》であった。  彼が身を落とした椅子の一つは、ちょうど鏡の前になっていた。その鏡こそは、彼にとっては宿命的なものであり、マリユスにとっては天意的なものであって、すなわち彼がコゼットの逆の文字を吸い取り紙《がみ》の上に読み得たそ《/そ》の鏡だった。彼は鏡の中に自分の顔をのぞいたが、自分とは思えないほどだった。八十歳にもなるかと思われた。マリユスの結婚前には、ようやく五十歳になるかならないくらいに思えたが、この一年の間に三十ほども年を取ってしまっていた。今額《今ヒタイ》にあるものは、もはや老年の皺ではなくて、死の神秘な標だった。無慈悲な爪の痕がそこに感ぜられた。両の頬《ホオ》はこけていた。顔の皮膚は、既に土をかぶったかと思われるような色をしていた。口の両|すみ《隅》は、古人がよく墓の上に刻んだ多くの面に見るように、下にた《垂》れ下がっていた。彼は非難するような様子で空を|なが《眺》めた。|だれ《誰》かを|とが《咎》めずには《は-》いられない悲壮《/悲壮》な偉人のひとりかと思われた。  彼はもはや悲哀の流れも涸れつくしたという状態に、疲憊の最後の一段にあった。悲しみも言わば凝結してしまっていた。人の魂についても、絶望の凝塊とでも言うべきものがある。  夜になった。彼は非常な努力をして、テーブルと古い|肱掛け《肱掛》椅子とを暖炉のそばに引き寄せ、テーブルの上にペンとイ《/イ》ンキと紙《/紙》とをの《載》せた。  それがすんで、彼は気を失った。意識を恢復すると、喉が|かわ《乾》いていた。水差しを持ち上げることができないので、それをようやく口の方《ほう》へ傾けて、一口飲んだ。  それから彼は寝床の方《ほう》を振り向き、立っておれないのでやはりすわったまま、小さな黒い長衣《ナガギヌ》とその他の大事な品々とを|なが《眺》めた。  そういう観照は、数分間と思ってるうちには《/は》や幾時間《/幾時間》にもなるものである。突然《突然’》彼は身震いをし、寒気《寒け》に襲わるるのを感じた。彼は司教の燭台にともってる蝋燭に照らされたテーブルに肱をかけて、ペンを取り上げた。  ペンもインキも長く使わないままだったので、ペンの先は曲がり、インキは|かわ《乾》いていた。彼は立ちあがって数滴の水をインキの中に注《-そそ》がなければならなかった。それだけのことをするにも|二、三回休《二’三回’休》んで腰をおろした。それにまたペンは背の方《ほう》でしか字が書けなかった。彼はときどき額《ヒタイ》を拭いた。  彼の手は震えていた。彼はゆっくりと次のような数行《数ギョウ》を認《-したた》めた。 ◇。◇。  コゼット、私はお前を祝福する。私はここにちょっと説明しておきたい。お前の夫が、私に去るべきものであることを教えてくれたのは、至当なことである。けれども、彼が信じていることのうちには少し誤りがある。しかしそれも彼が悪いのではない。彼は|りっぱ《立派》な人である。私が死んだ後《あと》も、常に彼をよく愛しなさい。ポンメルシー君、私の愛児を常に愛して下さい。コゼット、私はここに書き残しておく。これは私がお前に言いたいと思ってることである。私にまだ記憶の力が残っていたら、数字も出てくるであろうが、よく聞きなさい。あの金《-かね》はまったくお前のものである。そのわけはこうである。白飾玉《シロ飾り玉》はノールウェーからき、黒飾玉《黒飾り玉》はイギリスからき、黒ガラス玉はドイツから来る。飾り玉の方《ほう》が軽くて貴くて価《/アタイ》も高い。その擬《+紛》い玉はドイツでできるが、フランスでもできる。二寸四方《二寸シホウ》の小さな鉄碪《カナシキ》と鑞《/鑞》を溶かすアルコールランプとがあればよい。その鑞は、以前は樹脂と油煙とで作られていて、一斤四《一斤4》フランもしていた。ところが私は漆とテレビン油とで作ることを考え出した。価はわずかに三十スーで、しかもずっと品がよい。留め金は紫のガラスでできるのだが、右の鑞でそのガラスを黒い鉄の小さな輪縁につける。ガラスは鉄の玉には紫でなければいけないし、金の玉には黒でなければいけない。スペインにその需要が多い。それは飾り玉の国で‥‥ ◇。◇。  そこで彼は書くのをやめ、ペンは指から落ち、時々《ときどき》胸の底からこみ上げてくる絶望的なすすり泣きがまた襲ってき、あわれな彼は両手で頭を押さえ、そして思いに沈んだ。 「ああ、万事終わった。」と彼は心の中で叫んだ(神にのみ聞こえる痛むべき叫びである)。「私はもう彼女に会うこともあ《あ-》るまい。それは一つのほほえみだったが、もう私の上を通りすぎてしまった。彼女を再び見ることもなく、私はこのまま闇夜のうちにはいってゆくのか。おお、一分《1分》でも、一秒でも、あの声をきき、あの長衣《ナガギヌ》にさわり、あの顔を、あの天使のような顔を|なが《眺》め、そして死ねたら! 死ぬのは何でもない。ただ恐ろしいのは、彼女に会わないで死ぬことだ。彼女はほほえんでくれるだろう、私に言葉をかけてくれるだろう。そうしたとて|だれ《誰》かに災いをおよぼすだろうか。いやいや、もう済んでしまった、永久《エーキュウ》に。私はこのとおりただひとりである。ああ、私はもう彼女に会えないだろう。」  その時だれか扉をたたく者があった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【物を白くするのみなる墨壺】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどその時、なおよく言えばその同じ夕方、マリユスが食卓を離れ、訴訟記録を調べる用があって、自分の事務室に退いた時、バスクが一通の手紙を持ってきて言った。「この手紙の本人が控え室にきております。」  コゼットは祖父の腕を取って、庭を一回《ひと回》りしていた。  手紙にも人間と同じく、気味《キミ》の悪いものがある。粗末な紙、荒い皺、一目見《ひと目見》ただけでも不快の気を起こさせるものがある。バスクが持ってきた手紙はそういう種類のものだった。  マリユスはそれを手に取った。煙草の|にお《匂》いがしていた。およそ|にお《匂》いほど記憶を呼び起こさせるものはな《無》い。マリユスはその煙草の|にお《匂》いに覚えがあった。彼は表《オモテ》を|なが《眺》めた。「御邸宅にて、ポンメルシー男爵閣下。」煙草の|にお《匂》いに覚えがあるために、彼は手跡にも覚えがあることがわかった。驚きの情にも電光があると言っても不当ではない。マリユスはそういう電光の一つに照らされたようだった。  記憶の神秘な助手である|にお《匂》いは、彼のうちに一世界をよみがえらした。紙といい、たたみ方といい、インキの青白い色といい、また見覚えのある手跡といい、ことに煙草の|にお《匂》いといい、すべてが同じだった。ジョンドレットの陋屋《あばら家》が彼の目の前に現われてきた。  偶然の不思議なる悪戯よ! か《斯》くて、彼があれほど|さが《探》していた二つの踪跡のうちの一つ、最近更《最近’更》に多くの努力をしたがついにわ《分》からずも《/も》う永久《エーキュウ》に見いだせないと思っていた踪跡は、向こうから彼の方《ホウ》へやってきたのである。  彼は貪るように手紙を披いて読み下した。 ◇。◇。 【    男爵閣下】  もし天にして小生に才能を与えたまいしならんには、小生は学士院(科学院)会員テナル男爵となり得候《+得そうら》いしものを、ついにしからずして終わり候。小生はただその名前のみを保有し居候が、この一事によって閣下の御好意に浴するを得ば幸甚に御座候。小生に賜わる恩恵は報いらるるべき所これ有り候。と申すは、小生はある個人に関する秘密を握りおり、その個人は閣下に関係ある男に候《そうろう》。小生はただ閣下の御《お》ためを計るの光栄を希望する者にて、おぼしめしこれ有り候《そうら》わばそ《/そ》の秘密を御伝え申すべく候。男爵夫人閣下は素性高《素性たか》き方に候《そうら》えば、小生はただ閣下の貴《たっと》き家庭より何《/何》ら権利なきその男を追い払《はら》い得る、きわめて簡単なる方法を御知《お知》らせ申すべく候。高徳《コウトク》の聖殿も長く罪悪と居《キョ》を共にする時は、ついには汚《-けが》るるものに御座候。   小生は控え室にて、閣下の|御さし《お指》図を相待ち居候。敬具。 ◇。◇。  手紙にはテナルと署名してあった。  その署名は必ずしも偽りではなかった。ただ少《/少》し縮めただけのものだった。  その上、その冗文と文字使いとは事実を明らかに語っていた。出所《出どころ》は充分明瞭《充分’明瞭》だった。疑問をはさむの余地はなかった。  マリユスは深く心を動かされた。そして驚駭《+キ-ョウガイ》の後《あと》に喜びの念をい《-い》だいた。今はもはや、捜索しているもうひとりの男を、自分を救ってくれた男を、見いだすのみであって、それができればもう他に望みはなくなる|わけ《訳》だった。  彼は仕事机の引き出しを開き、中からいくばくかの紙幣を取り出し、それをポケットに入れ、机をまた閉ざし、そして呼鈴《+ベル》を鳴らした。バスクが扉を少し開いた。 「ここに通してくれ。」とマリユスは言った。  バスクは案内してきた。 「テナル様でございます。」  ひとりの男がはいってきた。  マリユスは新たな驚きを覚えた。はいってきたのはまったく見知らぬ男だった。  その男は、と言ってももう老人だが、大きな鼻を持ち、頤《顎》を首飾りの中につき込み、目には緑色の琥珀絹《+琥珀ギヌ》で縁覆《フチ覆》いした緑色の眼鏡をかけ、《:、》髪は額の上に平らになでつけられて眉毛《+/眉》の所まで下がり、イギリスの上流社会の御者がつけてる鬘のようだった。その髪は半ば白くなっていた。頭から足先まで黒ずくめで、その黒服はす《擦》り切れては《は-》いるが小ぎれいだった。一《ひと》ふさの飾り玉が|内隠し《内ポケット》から出ていて、時計がはいってることを示していた。手には古い帽子を持っていた。前かがみに歩いていて背中《/背中》が曲がってるために、そのお時儀《辞儀》はいっそう丁寧らしく見えた。  一目見《ひと目見》ても不思議なことには、その上衣はよくボタンがかけられてるのに|だぶだぶ《ダブダブ》していて、彼のために仕立てられたものではなさそうだった。  ここにちょっと余事を述べておく必要がある。  当時パ《/パ》リーには、ボートレイイ街の造兵廠の近くの古い怪しい小屋《コヤ》に、ひとりの怜悧なユダヤ人が住んでいて、不良の徒を良民に変装してやるのを仕事としていた。長い時間を要しなかったので、悪者らにとっては、至って便利だった。日に三十《サンジュッ》スー出せば、一日か二日の約束で、見てるまに服装を変えてくれて、できるだけうまくあ《/あ》らゆる種類の良民に仕立ててくれた。衣裳を貸してくれるその男は、取り替え人《にん》と呼ばれていた。それはパリーの悪者らがつけた名前で、別の名前は知られていなかった。彼はかなりそろった衣服室《衣服部屋》を持っていた。人々を変装してやる衣服は相当な品だった。彼は特殊な才能を持ち、種々《いろいろ》の方法を心得ていた。店の釘にはそれぞれ、社会のあらゆる階級の擦れ切れた皺《/皺》だらけの衣裳がかかっていた。こちらに役人の服があり、あちらに司祭の服があり、一方に銀行家の服があり、片|すみ《隅》に退職軍人の服があり、他の|すみ《隅》には文士の服があり、向こうには政治家の服がある、という具合になっていた。その男はパリーで演ぜられる大きな泥坊芝居の衣裳方だった。その小屋は詐偽窃盗の出入りする楽屋だった。|ぼろ《ボロ》をまとってるひとりの悪漢が衣服室《衣服部屋》にやってき、三十《サンジュッ》スー出し、その日演《日’演》じようとする役目に従って適当な服装を選《えら》み、そして再び階段をおりてゆく時には、まったく相当な人間に変わっていた。翌日になると、その衣服は正直に返却された。盗賊らをすっかり信用してる取り替え人《にん》は、決して品物を盗まれることがなかった。ただその衣服には一つ不便な点があった。すなわち「うまく合わない」ということだった。着る人の身体に合わして作られたものでなかったから、甲の者には小さすぎ、乙の者には大きすぎるという具合に、|だれ《誰》にもきっちり合わなかった。普通の者より小さいか大きいかが常である悪者らは、取り替え人《にん》の衣服にははなはだ具合が悪かった。またあまりふとっていてもあまりやせていてもいけなかった。取り替え人《にん》は普通の人間をしか頭に入れていなかった。ふとってもいずやせてもいず、背が高くも低くもない、始めてぶっつかった奴の身体に合わして、標準をきめていた。そのために着換《着が》えをすることが困難な場合もしばしば起こって、顧客らはできるだけの手段を尽してその困難を切りぬけようとしていた。並みはずれの体格を持ってる者には、気の毒な|わけ《訳》だった。たとえば、政治家の服装はすっかり黒ずくめで、従って適宜なものであったが、ピットにはあまり広すぎ、カステルシカラにはあまり狭すぎた。この政治家の服は、取り替え人《にん》の目録の中には次のように指定されていた。それをここに書き写してみよう。「黒ラシャの上衣《上着》、黒の厚ラシャのズボン、絹のチョッキ、靴、およびシャツ。」欄外に、前大使と《/と》してあって、注《註》がついていた。その注をも写してみよう。「別の箱にあり、程よき巻き髪の鬘、緑色の眼鏡、時計の飾り玉、および、綿《ワタ》にくるみたる長さ一寸《1寸》の小さな羽軸二本。」それだけで前大使たる政治家ができ上がるのだった。その服装は言わば衰弱しきっていた。縫い目は白《-しら》ばんでおり、一方の肱にはボタン穴《穴’》くらいの破れ目《め》ができかかっていた。その上、上衣の胸にボタンが一つ取れていた。しかしそれは何でもないことだった。政治家の手はいつも上衣の中に差し込まれて胸《/胸》を押さえてるものであるから、ボタンが一つ足りないのを隠す役目をもするわけだった。  もしマリユスが、パリーのそういう隠密な制度に通じていたならば、今《いま/》バスクが案内してきた客の背に、取り替え人《にん》の所から借りてきた政治家の上衣を、すぐに見て取り得《え》たはずである。  マリユスは予期していたのと違った男がはいってくるのを見て失望し、失望の念《念’》はや《-や》がて新来の客に対する嫌悪の情となった。そして男が低く頭を下げてる間、彼はその頭から足先までじろじろ|なが《眺》めて、きっぱりした調子で尋ねた。 「何《なん》の用ですか。」  男は鰐の媚び笑《ワラ》いとでも言えるように、歯をむき出して愛相笑《愛想笑》いをしながら答えた。 「閣下には方々《ホウボウ》でお目にかかる光栄を得ましたように覚えております。ことに数年前、バグラシオン大公夫人のお邸《屋敷》や、上院議員ダンブレー子爵のお客間などで、お目にかかったように存じております。」  まったく初対面の人にもどこかで前に会ったような様子をするのは、卑劣な男の巧《/巧》みな慣用手段である。  マリユスは男の話に注意していた。しかしいくらその声の調子や身振りに目をつけても、失望は大きくなるばかりだった。鼻にかかった声であって、予期していた鋭いかわいた声音とはまったく異なっていた。彼はまったく推定に迷わされた。 「僕は、」と彼は言った、「バグラシオン夫人もダンブレー氏も知りません。まだどちらの家にも足をふみ入れたことはかつてありません。」  その答えは無愛想だった。それでもなお男は慇懃に言い続けた。 「ではお目にかかりましたのは、シャトーブリアン氏のお宅でしたでしょう。私はシャトーブリアン氏をよく存じております。なかなか愛想のよいお方です。どうだテナル、いっしょに一杯やろうか、などと時々《ときどき》申されます。」  マリユスの顔はますます険しくなった。 「僕はまだシャトーブリアン氏の宅に招かれたことはありません。つまらないことはぬ《抜》きにしましょう。結局どういう用ですか。」  男はいっそうきびしくなったその声の前に、いっそう低く頭を下げた。 「閣下、まあどうかお聞き下さい。アメリカのパナマに近い地方にジョヤという村がございます。村と申しましても、家は一軒きりございません。堅い煉瓦作りの四階建《ヨン階だ》てになっている大きな四角な家でありまして、その四角の各辺が五百尺《五百’尺》もあり、各階は下の階より十二尺《十二シャク》ほど引っ込んで、それだけがぐるりと平屋根になっています。中央が中庭で、食料や武器が納められています。窓はなくてみな銃眼になり、戸はなくてみな梯子になっています。すなわち地面から二階の平屋根へ上れる梯子、次は二階から三階へ、三階から四階《4階》へとなっていまして、また中庭におりられる梯子もあります。室《+部屋》には扉がなくてみな揚げ戸になり、階段がなくてみな梯子になっています。晩になると、揚げ戸をしめ、梯子を引き上げ、トロンブロン銃やカラビン銃を銃眼に備えます。内《ウチ》へ|はい《入》ることは到底できません。昼間は住家《住処》で、夜は要塞で、住民は八百人《800人》というのがその村のありさまでございます。なぜそんなに用心をするかと申せば、ごく危険な地方だからであります。食人人種がたくさんおります。ではなぜそんな所へ行くかと言いますれば、実に素敵な土地でありまして、黄金が出るからであります。」 「結局どういうことになるんですか。」と失望から性急に変わってマ《/マ》リユスは話をさえぎった。 「こういうことでございます、閣下。私はもう疲れは《果》てた古い外交官であります。古い文明のために力を使い果たしてしまいました。それで一つ野蛮な仕事をやってみようと思っているのでございます。」 「だから?」 「閣下、利己心は世界の大法であります。日傭稼ぎの貧乏な田舎女は、駅馬車が通れば振り返って見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、振り向きもいたしません。貧乏人の犬は金持ちに吠えかかり、金持ちの犬は貧乏人に吠えかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的であります。金《かね》は磁石であります。」 「だから? 結局何《結局なん》ですか。」 「私はジョヤに行って住みたいと思っております。家族は三人で、私の妻に娘、それもごく美しい娘でございます。旅は長くて、金《かね》もよほどかかります。私は金《-かね》が少しいるのでございます。」 「それが何で僕に関係があるんですか。」とマリユスは尋ねた。  男は首飾りから首を差し出した。禿鷹のよくやる身振りである。そして彼はいっそう笑顔を深めて答えた。 「閣下は私の手紙を御覧になりませんでしたでしょうか。」  それはほとんどそのとおりであった。実際、手紙の内容にマリユスはよく気を止めなかった。彼は手紙を読んだというよりむしろその手跡を見たのだった。何が書いてあったかはほとんど覚えていなかった。けれどもちょっと前から新しい糸口が現われてきた。彼は「私の妻に娘」という一事に注意をひかれた。そして鋭い目を男の上に据えていた。予審判事といえどもそれにおよぶまいと思われるほど、じっと目を注いでいた。ほとんど待ち伏せをしてるようなありさまだった。それでも彼はただこう答えた。 「要点を言ってもらいましょう。」  男は二つの|内隠し《内ポケット》に両手をつき込み、背筋《セスジ》を|まっす《真っ直》ぐにせずた《/た》だ頭だけをあげて、こんどはこちらから緑色の眼鏡越しにマリユスの様子をうかがった。 「よろしゅうございます、閣下。要点を申し上げましょう。私は一つ買《/買》っていただきたい秘密を手にしております。」 「秘密!」 「秘密でございます。」 「僕に関しての?」 「はい少《/少》しばかり。」 「その秘密とはどういうことです?」  マリユスは相手の言うことに耳を傾けながら、ますます注意深くその様子を観察していた。 「私はまず報酬を願わないでお話しいたしましょう。」と男は言った。「私がおもしろい人物である事もおわかりでございましょう。」 「お話しなさい。」 「閣下、あなたはお邸《屋敷》に盗賊と殺人犯とをおい《入》れになっております。」  マリユスは慄然とした。 「僕の宅に? いや決して。」と彼は言った。  男は平然として、肱で帽子の塵を払《ハラ》い、言い進んだ。 「人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今申《今’申》し上げますのは、古い|時期おく《ジキ遅》れの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。」 「聞きましょう。」 「ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」 「それは知っています。」 「なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。」 「お言いなさい。」 「元は徒刑囚だった身の上です。」 「それは知っています。」 「私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。」 「いや。前から知っていたのです。」  マリユスの冷然たる調子、それは知っていますという二度の返事、相手に二の句をつがせないような簡明さ、それらは男の内心を多少激昂《多少’ゲッコウ-》さした。彼は憤激した目つきをちらとマリユスに投げつけた。その|まなざ《眼差》しはすぐに隠れて、一瞬の間にすぎなかったが、一度見たら忘れられないようなものだった。マリユスはそれを見のがさなかった。ある種の炎はあ《/あ》る種の魂からしか発しない。思想の風窓である眸は、そのために焼かれてしまう。眼鏡もそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。  男はほほえみながら言った。 「私は何も男爵閣下のお言葉に逆らうつもりではございません。がとにかく、私がよく秘密を握っているということは認めていただきたいのでございます。これからお知らせ申し上げますことは、ただ私ひとりしか承知していないことであります。それは男爵夫人閣下の財産に関することでございます。非常な秘密でありまして、金《かね》に代えたいつもりでいます。でま《”ま》ず最初閣下にお買い上げを願いたいのです。お安くいたしましょう。二万フランに。」 「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは言った。  男はその価《アタイ》を少しく下げる必要を感じた。 「閣下、一万フラン下《くだ》されば申し上げましょう。」 「繰り返して言うが、君は僕に何も教えるものはな《無》い|はず《筈》です。君が話そうという事柄を僕は皆知《みんな知》っています。」  男の目には新しいひらめきが浮かんだ。彼は声を高めた。 「それでも私は今日の食を得なければなりません。まったくそれは非常な秘密です。閣下、お話しいたしましょう。お話しいたしましょう。二十《ニジュッ》フラン恵《’恵》んで下さい。」  マリユスは彼をじっと見つめた。 「僕も君の非常な秘密を知っています。ジャン・ヴァルジャンの名前を知ってると同様に、君の名前も知っています。」 「私の名前を?」 「そうです。」 「それはわけもないことでしょう、閣下。私はそれを手紙に書いて差し上げましたし、また自分で申し上げました、テナルと。」 「ディエ。」 「へえ!」 「テナルディエ。」 「それは|だれ《誰》のことでございますか。」  危険になると、豪猪《ヤマアラシ》は毛を逆立《逆だ》て、甲虫は死んだまねをし、昔の近衛兵は方陣を作るが、この男は笑い出した。  それから彼は上衣の袖を指で弾《ハジ》いてほ《/ほ》こりを払った。  マリユスは続けて言った。 「君はまたそのほか、労働者ジョンドレット、俳優ファバントゥー、詩人ジャンフロー、スペイン人ド《’ド》ン・アルヴァレス、およびバリザールの家内とも言う。」 「何《なん》の家内で?」 「なお君《きみ》は、モンフェルメイュで飲食店をやっていた。」 「飲食店? いえ、どうしまして。」 「そして君の本名はテナルディエというのだ。」 「さようなことはありません。」 「そして君は悪党だ。そら。」  マリユスはポケットから一枚の紙幣を取り出して、相手の顔に投げつけた。 「ありがとうございます。ごめん下さい。五百フラン! 男爵閣下!」  男は狼狽して、お時儀《辞儀》をし、紙幣をつかみ、それを調べた。 「五百フラン!《/》」と彼は茫然として繰り返した。そして半ば口《’口》の中でつぶやいた、「いい代物だ!」  それから突然《突然’》彼は叫んだ。 「これでいいとしよう。楽にしましょう。」  そして猿のような敏捷さで、髪をうしろにな《撫》で上げ、眼鏡をはずし、二本《2本》の羽軸を鼻から引き出してしまい込んだ。その羽軸は上に述べておいたもので、また本書の他の所でも読者が既に見てきたものである。か《斯》くて彼は、あたかも帽子でも脱ぐようなふうに仮面をはいでしまった。  その目は輝き出した。所々でこぼこして上《/上》の方《ほう》に醜い皺の寄ってる変な額《ヒタイ》が出てきた。鼻は嘴のようにとがった。肉食獣のような獰猛狡獪《獰猛’狡獪》な顔つきが現われた。 「男爵の申されるとおりです。」と彼は全く鼻声がなくなった明らかな声で言った。「私はテナルディエです。」  そして彼は曲がっていた背を|まっす《真っ直》ぐにした。  まさしくその男はテナルディエだったので以後そう呼ぶが、テナルディエは非常に驚かされた。もし惑乱し得るとしたら、惑乱するところだった。彼は向こうを驚かすつもりできて、かえって反対に驚かされた。その屈辱は五百フランで償われた。そして結局《結局’》彼はそれを受け取ってしまった。しかしそれでもやはり惘然《呆然》とさせられたには違いなかった。  彼はそのポンメルシー男爵とは初対面だった。そして彼が仮装していたにかかわらず、ポンメルシー男爵は彼を見破り、しかもその奥底までも見て取った。その上《うえ》男爵は、ただテナルディエのことをよく知ってるのみでなく、またジャン・ヴァルジャンのこともよく知ってるらしかった。か《斯》く冷然としてし《/し》かも寛厚なるまだ青二才にすぎないこの青年は、そもそもいかなる人物だろうか、《:、》人の名前を知っており、その名前をみな知っており、しかも財布の口を開いてくれ、裁判官のように悪人をいじめつけ、しかも欺かれた愚人のように金《-かね》を出してくれるとは?  読者の記憶するとおり、テナルディエはかつてマリユスの隣の室《部屋》に住んでいたけれども、彼を見たことは一度もなかった。そういうことは、パリーでは別に珍しくはない。彼は以前に自分の娘たちから、マリユスというごく貧しい青年が、同じ家に住んでるとぼんやり聞かされた。そしてその顔も知らないで、読者が知るとおりの手紙を彼に書いた。そのマリユスとこのポンメルシー男爵とを結びつけることは、彼の頭の中ではとうていできなかった。  ポンメルシーという名前については、読者の記憶するとおり、彼はワーテルローの戦場で、ただその終わりの三字(訳者注◇ メルシとはまたありがとうという意味である)と解釈しただけであって、《:、》ただ一つの感謝の言葉としてあまり注意も払わなかったのは、無理ならぬことである。  ところで彼は、娘のアゼルマを使って、二月十六日の婚礼の跡を探らせ、また自分でも種々穿鑿《いろいろ詮索》して、ついに多くのことを知るに至り、自分は暗黒の底にいながら、秘密の糸口を数多つかみ得た。そしてある日大溝渠《日’ダイ溝渠》の中で出会った男がいかなる人物であったかを、狡智によって発見した、あるいは少なくとも帰納的に察知し得た。その名前までも容易に推察した。また、ポンメルシー男爵夫人はコゼットであることをも知っていた。そしてこの方面では、慎重に差し控えた方《ほう》がいいと思った。コゼットは何者であるか? それは彼にもよくわからなかった。私生児であることは漠然とわかっていた。が《が/》ファンティーヌの話にはどうも怪しいふしがあるように思われた。それを話して何《なん》の役に立とう、その口止め料をもらうためにか? 否《否/》彼は、それよりも更によい売り物を持っていた、あるいは持ってると思っていた。それに、何らの証拠もなくただ推察だけで、「あなたの夫人は私生児です」とポンメルシー男爵に告げたところで、それはただ夫の激怒を買うに過ぎなかったろう。  テナルディエの考えでは、マリユスとの会話はまだ始まったとも言えないものであった。もとより彼は、一旦退却し、戦略を改め、陣を撤し、方向を変えなければならなかった。けれども、大事な点はまだ先方に知られていないし、ポケットには五百フランせしめていた。その上、いざとなれば言うべきことも持っていたので、深い知識とい《/い》い武器とをそなえてるポンメルシー男爵に対してもなお、自分の方《ほう》に強味があると感じていた。テナルディエのような者にとっては、一々の会話が皆戦闘《皆’戦闘》である。さて今始《いま始》めんとする戦闘においては、彼の地位はどういうものであったか? 彼は相手がいかなる人物であるかを知らなかった、しかし問題がいかなるものであるかを知っていた。彼はすみやかに、自分の武力を心の中で調べてみて、「私はテナルディエです」と言った後《あと》、先方の様子を待ってみた。  マリユスは考えに沈んでいた。彼はついにテナルディエを捕《捕ま》えたのである。あれほど見つけ出したいと思っていた男が、今目《いま目》の前にいるのだった。彼はポンメルシー大佐の要求を果たすことができるのだった。あの英雄がこの悪漢に多少なりとも恩を受けていること、墓の底から父が彼マリユスに向かって振り出した手形は今にまだ支払われていないこと、それに彼は屈辱を感じていた。そしてまた、テナルディエに対して複雑な精神状態の中にありながら彼は、大佐がかかる悪漢に救われた不幸について、返報してやる所がなければならないように考えられた。しかしそれはとにかく、彼は満足であった。今や、かかる賤しい債権者から大佐の影を解き放してやる時がきたのだった。負債の牢獄から父の記憶を引きぬいてしまう時がきたのだった。  そういう義務のほかに、彼にはも《もう》一つなすべきことがあった。もしできるならばコゼットの財産の出所《出どころ》を明らかにすることだった。今ちょうどその機会がきたように思われた。テナルディエはおそらく何か知ってるに違いなかった。この男を底まで探りつくしたら何かの役に立つかも知れなかった。で彼《/彼》はまずそれから始めた。  テナルディエはその「いい代物」を|内隠し《内ポケット》にしまい込んで、ほとんど媚びるようにお《/お》となしくマリユスを|なが《眺》めていた。  マリユスは沈黙を破った。 「テナルディエ、僕は君の名前を言ってやった。そして今また、君のいわゆる秘密、君が僕に知らせようと思ってきたものを、僕から言ってもらいたいのか? 僕もいろいろ知ってることがある。君よりもくわしく知ってるかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは、君が言うとおり、人殺しで盗人だ。マドレーヌ氏という富有な工場主を破滅さしてその金《-かね》を盗んだから、盗人である。警官ジャヴェルを殺害したから、人殺しである。」 「何だかよくわかりかねますが、男爵。」とテナルディエは言った。 「ではよくわからしてあげよう。聞きなさい。1822年ごろ、パ・ド・カレー郡に、ひとりの男がいた。彼は以前少しく法律に問われたことのある者だったが、マドレーヌ氏という名前で身を立て名誉《/名誉》を回復していた。まったく一個の正しい人間となっていた。そしてある工業で、黒ガラス玉の製造で、全市を繁昌さした。自分の財産もできたが、それは第二の問題で、言わば偶然にできたのである。それから彼は貧しい人たちの養い親となった。病院を建て学校を開き、病人を見舞い、娘には嫁入じたくをこしらえてやり、寡婦《+ヤモメ》には暮らしを助けてやり、孤児は引き取って育ててやった。ほとんどその地方の守り神だった。彼は勲章を辞退したが、ついに市長に推された。ところがひとりの放免囚徒が、その人の旧悪の秘密を知っていて、その人を告発し捕縛《/捕縛》させ、《:、》その捕縛に乗じてパリーにやってき、偽署をしてラフィット銀行から──この事実はその銀行の出納係から直接に聞いたことだ──《─:》マドレーヌ氏のものである五十万以上の金額を引き出してしまった。そのマドレーヌ氏の金《-かね》を奪った囚人というのが、すなわちジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンである。またも《もう》一つの事実についても、僕は何も君から聞く必要はない。ジャン・ヴァルジャンは警官ジャヴェルを殺した。ピストルで殺した。か《斯》く言う僕がその場にいたのだ。」  テナルディエは厳然たる一瞥をマリユスに投げた。あたかも一度打ち負けた者が再び勝利に手をつけ、失っていた地歩を一瞬間のうちに取り戻したかのようだった。しかしまたすぐに例の微笑が現われた。上位の者に対しては、下位の者はただ気兼ねした勝利をしか持ち得《え》ないものである。テナルディエはただこれだけマリユ《ユ-》スに言った。 「男爵は、何だか筋道が違っていますようですが。」  そう言いながら彼は、時計の飾り玉を意味ありげにひねくってそ《/そ》れに力を添えた。 「なに!《/》」とマリユスは言った、「君はそれに抗弁するのか。それは実際の事実だ。」 「いえ、譫言みたいなものです。男爵も打ち明けて言われましたから、私の方《ほう》でも打ち明けて申しましょう。何よりもまず真実と正義とが第一です。私は不正な罪を被ってる者を見るのを好みません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいません。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいません。」 「何《なん》だと! それはどうしてだ?」 「二つの理由からです。」 「どういう理由だ? 言ってみなさい。」 「第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んだというわけにはなりません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには。」 「何を言うんだ。」 「そして第二はこうです。彼はジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身であるからには。」 「と言うと?」 「ジャヴェルは自殺したのです。」 「証拠があるか、証拠が!《/》」とマリユスは我《吾》を忘れて叫んだ。  テナルディエはあたかも古詩の句格めいた調子で言った。 「警官‥‥ジャヴェルは‥‥ポン・トー・シャンジュの橋の‥‥小船の下に‥‥おぼれて‥‥いました。」 「それを証明してみなさい!」  テナルディエは腋のポケットから、大きな灰色の紙包みを取り出した。種々《いろいろ》の大きさにたたんだ紙が中にはいっているらしく見えた。 「私は記録を持っています。」と彼は落ち着いて答えた。  そしてまた言い添えた。 「男爵、私はあなたのために、このジャン・ヴァルジャンのことをすっかり探り出そうと思いました。私はジャン・ヴァルジャンとマドレーヌとは同一人であると申しましたし、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身にほかならないと申しましたが、そう申すにはもとより証拠があってのことです。しかも手で書いた証拠ではありません。書いたものは疑うこともでき、またどうにでもなるものです。けれども私が持ってるのは、印刷した証拠物であります。」  そう言いながらテナルディエは、黄ばみがかって色が褪せてし《/し》かも強い煙草の|にお《匂》いがする二枚の新聞紙を、包みの中から引き出した。そのうちの一枚は、折り目が破れて四角な紙片に切れており、も《もう》一枚のよりずっと古いものらしかった。 「二つの事実と二つの証拠です。」とテナルディエは言った。そして彼はひろげた二枚の新聞紙をマリユスに差し出した。  その二枚の新聞は、読者の知ってるものである。古い方《ほう》のは、1823年七月二十五日のドラポー・ブラン紙の一枚であって、《:、》その記事は本書の第二部第二編第一章《第二部/第二編/第一章》で読者が見たとおり、マドレーヌ氏とジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンとが同一人である事を証明するものだった。もう一枚は、1832年六月十五日の機関紙であって、ジャヴェルの自殺を証明し、なおジャヴェルが自ら警視総監に語った口頭の報告が添えてあった。その報告によれば、ジャヴェルはシャンヴルリー街の防寨で捕虜になったが、ひとりの暴徒がピストルをもって彼を手中のものにしながら、彼の頭を射貫かないで空に向けて発射し、《:、》その寛大なはからいのために一命を助かったというのだった。  マリユスは読んだ。その中には明らかな事実があり、確かな日付けがあり、疑うべからざる証拠があった。その二枚の新聞紙は、テナルディエが自説を支持するためにこ《/こ》とさら印刷さしたものではなかった。機関紙に掲げられた記事は、警視庁から公《公け》に発表したものだった。マリユスも疑う余地を見いださなかった。銀行の出納係が伝えた話はまちがっていて、彼自身も誤解をしていたのだった。ジャン・ヴァルジャンはにわかに偉大なものとなって、雲の中から現われてきた。マリユスは喜びの叫びを自らおさえることができなかった。 「それでは、あのあわれむべき男は、驚くべき|りっぱ《立派》な人物だったのか! あの財産はまったく彼自身のものだったのか! 一地方全体の守護神たるマドレーヌであり、ジャヴェルの救い主たるジャン・ヴァルジャンであるとは! 実に英雄だ、聖者だ!」 「いえあ《/あ》の男は、聖者でも英雄でもありません。」とテナルディエは言った。「人殺しで盗賊です。」  そして彼は自らある権威を感じ始めたような調子で付け加えた。「落ち着いてお話《話し》しましょう。」  盗賊、人殺し、もはや消え去ったと信じていたらそれらの言葉が再び現われて落ちかかってきたので、マリユスは氷の雨に打たれるような思いがした。 「それでもやはり!《/》」と彼は言った。 「そうですとも。」とテナルディエは言った。「ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌのものを盗みはしませんでしたが、やはり盗賊です。ジャヴェルを殺しはしませんが、やはり人殺しです。」 「君はあの、」とマリユスは言った、「四十年前の盗みを言うのだろう。あれならば、その新聞にもあるとおり、悔悟と克己《/克己》と徳操《/徳操》との生涯で贖われている。」 「男爵、私は殺害と窃盗と申すのです。しかも繰り返して言いますが、現在の事実です。あなたにこれからお知らせいたしますことは、まったく|だれ《誰》も知らないことであります。まだ世間に発表されていないことであります。そしてたぶんあなたは、ジャン・ヴァルジャンから巧みに男爵夫人へ贈られた財産の出所《出どころ》も、それでおわかりになりますでしょう。私は特に巧みにと申しますが、実際そういう種類の寄贈によって、名誉ある家にもぐり込み、その安楽にあずかり、《:、》同時にまた、自分の罪悪を隠し、盗んだものをおもしろく使い、名前を包み、家庭の人となるのですから、まあまずいやり方ではありません。」 「そう言うなら、僕にも言うべきことがある。」とマリユスは口を入れた。「だがまあ続《/続》けて話してみなさい。」 「男爵、私はあなたにすべてを包まず申しましょう。報酬の方《ほう》は、あなたの寛大なおぼしめしにお任せいたします。その秘密は黄金の山を積んでもよろしいものです。こう申しますと、なぜジャ《ャ-》ン・ヴァルジャンの方《ほう》へ行かないのかと言われるかも知れませんが、それはごく簡単な理由からであります。彼がすっかり金《-かね》を出してしまったことを、しかもあなたのために出してしまったことを、私は存じております。そのやり方は実に巧いものだと思います。ところで彼はもう一文《イチモン》も持ってはいませんので、ただ私に空っぽの手を開いて見せるほかはありますまい。それに私は、ジョヤまで行くのに少し金《-かね》がい《要》りますので、何も持たない彼の所よりも、何でも持っておいでになるあなたの方《ホウ》へ参ったのであります。ああ《あ/》少し疲れましたから、どうか椅子にすわることを許して下さい。」  マリユスは腰をおろし、彼にもすわるように身振りをした。  テナルディエはボタン締《ジ》めの椅子に腰をおろし、二枚の新聞紙を取り、それを包み紙の中にまたたたみ込みながら、ドラポー・ブラン紙を爪ではじいてつぶやいた、「こいつ、手に入《い》れるのにずいぶん骨を折らせやがった。」それから彼は膝を重ね、椅子の背によりかかった。自分の語ろうとする事に対して安心《/安心》しきってる者が取る態度である。そしていよいよ、落ち着き払い一語一語力《/一語一語’力》を入れて、本題にとりかかった。 「男爵、今からおおよそ一年ばかり前、1832年六月六日、あの暴動のありました日、パリーの大下水道《ダイ下水道》の中に、アンヴァリード橋《バシ》とイエナ橋《バシ》との間のセーヌ川への出口の所に、ひとりの男がいました。」  マリユスはにわかに自分の椅子を、テナルディエの椅子に近寄せた。テナルディエはその動作に目を注いで、相手の心をとらえ一語一語《/一語一語》に相手の胸のとどろきを感ずる弁士のように、おもむろに続けていった。 「その男は、政治とは別なある理由のために身《/身》を隠さなければならないので、下水道を住居として、そこへ|はい《入》る鍵を持っていました。重ねて申しますが、それは六月六日でした。晩の八時ごろだったでしょう。その男は、下水道の中に物音を聞いて、非常に驚き、身を潜めて待ち受けました。物音というのは人の足音で、何者かが暗闇の中を歩いて、彼の方《ホウ》へやってきました。不思議なことに、彼以外にもひとり下水道の中にいたのです。下水道の出口の鉄格子は遠くありませんでした。それからも《漏》れて来るわずかな光で、彼は新らしくきた男が何者であるかを見て取り、また背中に何か|かつ《担》いでるのを知りました。その男は背をかがめて歩いていました。それは前徒刑囚で、肩に担ってるのは一つの死体でした。でま《”ま》あ言わば、殺害の現行犯です。窃盗の方《ほう》はそれから自然にわかることです。人はただで他人を殺すものではありません。その囚徒は死体を川に投げ込むつもりだったのです。なお一つ注意までに申しますと、出口の鉄格子の所までたどりつく前に、下水道の中を遠くからやってきたその囚徒は、恐ろしい泥濘孔《+泥穴》に必ず出会ったはずで、そこに死体をほうり込んで来ることもできたわけです。しかし、明日《あす》にも下水人夫《下水ニンプ》がその泥濘孔《+泥穴》を掃除に来れば、殺された男を見つけ出すかも知れません。殺した方《ほう》ではそんなことを|いや《嫌》がったのです。そしてむしろ泥濘孔《+泥穴》を、荷を|かつ《担》いだまま通りぬけて来ることにきめたのです。どれほど大変な努力をしたかは察しられます。それくらい危険なことはまたとあるものではありません。よく死なずに通りぬけてこられたのが不思議なほどです。」  マリユスの椅子は更に近寄った。テナルディエはそれに乗じて長く息をついて、言い続けた。 「閣下、下水道は広い練兵場《練兵ジョウ》とは違います。隠れる物は何もなく、身を置く所《ところ》さえな《無》いくらいです。そこに|ふたり《二人》の男がいれば、互いに顔を合わさないわけにはゆきません。その|ふたり《二人》も出会いました。そこに住んでいる男とそ《/そ》こを通りぬけようとしてる男とは、互いに困ったとは思いながらも、あいさつをかわさないわけにはゆきませんでした。通りぬけようとしてる男は、そこに住んでる男に言いました。『お前には俺の背中のものが何だかわかるだろう。俺は出なけりゃ《-ゃ》ならねえ。お前は鍵を持ってるようだから、それを俺に貸してくれ。』ところで、その囚徒は恐ろしく強い奴《ヤツ》でした。拒むわけにはゆきません。けれども鍵を持ってる男は、ただ時間を延ばすためにいろんなことをしゃべりました。彼はその死《’死》んだ男をよく見ましたが、ただ年が若く、|りっぱ《立派》な服装《+ナリ》をして金持ちらしく、また血《血’》のために顔の形もわからなくなってるというほかは、何《なん》にもよくわかりませんでした。それで、しゃべってるうちに彼は、人殺しの男に気づかれないように、そっとうしろから、殺された男の上衣の端を裂き取りました。言うまでもなく証拠品としてです。それによって事件を探索し犯罪者《/犯罪者》にその犯罪の証拠品をつきつけてやるためです。彼はその証拠品をポケットにしまいました。それから彼は、鉄格子を開き、相手の男をその背中の厄介物と共に外へ送り出し、鉄格子をまた閉ざし、そして逃げてしまいました。事件にそれ以上関係したくないと思い、ことに殺害者がその被害者を川に投げ込む時そ《/そ》の近くにいたくないと思ったからでした。で、これまでお話し申せばもう充分おわかりでしょう。死体を|かつ《担》いでいたのはジャン・ヴァルジャンです。鍵を持っていたのは、現にか《斯》く申し上げてる私です。そして上衣の布片《+切れ》は‥‥。」  そしてテナルディエは、一面に黒ずんだ汚点《シミ》のついてる引き裂けた黒ラシャの一片を、ポケットから取り出し、両手の親指と人差し指とでつまんでひろげながら、それを目の所まで上げて、物語の結末とした。  マリユスは色を変えて立ち上がり、ほとんど息もつけないで黒ラシャの一片を見つめ、一言も発せず、その布片《布切れ》から目を離しもせず、壁の方《ほう》へ退ってゆき、《:、》うしろに差し出した右手で壁の上をなでながら、暖炉のそばの戸棚の錠前についていた一本の鍵を|さが《探》した。そしてその鍵を探りあて、戸棚を開き、なおテナルディエがひろげてる布片《布切れ》から驚きの眸を離さず、後ろ向きのまま戸棚の中に腕を差し伸ばした。  その間《あいだ》テナルディエは言い続けていた。 「男爵、その殺された青年は、ジャン・ヴァルジャンの罠にかかったどこかの金持ちで、大金を所持していたものだと思える理由が、いくらもあります。」 「その青年は僕だ、その上衣はこれだ!《/》」とマリユスは叫んだ。そして血に染《-し》んだ古い黒の上衣を床《床’》の上に投げ出した。  彼はテナルディエの手から布片《布切れ》を引ったくり、上衣の上に身をかがめ、裂き取られた一片を裂《/裂》けてる据《+裾》の所へあててみた。裂け目はきっかり合って、その布片《布切れ》のために上衣は完全なものとなった。  テナルディエは茫然とした。「こいつは《は-》やられたかな、」と彼は考えた。  マリユスは身を震わし、絶望し、また驚喜して、すっくとつっ立った。  彼はポケットの中を探り、恐ろしい様子でテナルディエの方《ほう》へ進み寄り、五百フランと千フランとの紙幣をいっぱい握りつめた拳を差し出し、彼の顔につきつけた。 「君は恥知らずだ! 君は嘘つきで、中傷家で、悪党だ! 君はあの人に罪を着せるためにやってきて、かえってあの人を公明なものにした。あの人を破滅させようとして、かえってあの人を|りっぱ《立派》な者にした。そして君こそ盗賊だ。君こそ人殺しだ。おいテ《/テ》ナルディエ・ジョンドレット、君《キミ》がオピタル大通りの破家《+あばら家》にいた所を、僕は見て知っている。君を徒刑場《徒刑バ》へ送るだけの材料を、いやそれよりもっと以上の所へ送るだけの材料を、僕は握っている。さあ、悪者の君に、千フランだけ恵んでやる。」  そして彼は一枚の千フラン紙幣をテナルディエへ投げつけた。 「おいジ《/ジ》ョンドレット・テナルディエ、卑劣きわまる悪漢、これは君にいい見せしめだ、秘密を売り歩き、内密なことを商売にし、暗闇の中を漁り回る、みじめな奴! この五百フランもくれてやる。拾ったらここを出ていっちまえ! それもワーテルローのお陰だ。」 「ワーテルロー!《/》」とテナルディエは五百フランを千フランと共にポケットにしまいながらつぶやいた。 「そうだ、人殺しめが! 君はそこで‥‥大佐の命を救った。」 「将軍ので。」とテナルディエは頭を上げながら言った。 「大佐だ!《/》」とマリユスは憤然として言った。「将軍なら一文《イチモン》もやりはしない。それから君《キミ》は、また悪事をしにここへきた。君は既にある限りの罪悪を犯している。どこへなりと行くがいい、姿を消してしまうがいい。ただ楽に暮らすようにと、それだけ僕は希望しておく。さあ、ここにまだ三千フランある。それを持ってゆけ。明日からでもアメリカへ行くがいい、娘といっしょに。君の妻はもう死んでいる、けしからん嘘つきめが! 出発の時には僕が見届けてやる、そしてその時二万フランは恵んでやる。どこへなりと行ってくたばってしまえ!」 「男爵閣下、」とテナルディエは足下まで頭を下げながら答えた、「御恩は長く忘れません。」  そしてテナルディエは何《なん》にも|わけ《訳》がわ《分》からず、黄金の袋で打ちのめされ、頭の上に紙幣をまき散らす雷電に打たれ、ただあっけに取られたまま狂喜して、そこを出て行った。  彼はまったく雷に打たれたと同じだったが、しかしまた満足でもあった。もしその雷に対して避雷針を持っていたならば、かえって不満な結果となってたであろう。  ここにすぐ、この男のことを片づけておこう。今述《今’述》べてる事件から二日の後、彼はマリユスの世話によって、名前を変え、娘のアゼルマを連れ、ニューヨークで受け取れる二万フランの手形を持ち、アメリカへ向かって出発した。一度踏みはずしたテナルディエのみじめな徳性は、もはや矯正すべからざるものになっていた。彼はアメリカへ行っても、ヨーロッパにいる時と同様だった。悪人が手を触《ふ》るる時には、善行も往々にして腐敗し、それから更に悪事が出てくるようになる。マリユスからもらった金《-かね》で、テナルディエは奴隷売買を始めた。  テナルディエが出てゆくや否や、マリユスは庭に走っていった。コゼットはまだ散歩していた。 「コゼット! コゼット!《/》」と彼は叫んだ。「おいで、早くおいで! すぐに行くのだ。バスク、辻馬車を一つ呼んでこい。コゼット、おいで。ああ、僕の命を救ってくれたのはあの人だった。一刻も遅らしてはいけない。すぐ肩掛けをつけるんだ。」  コゼットは彼が気でも狂ったのかと思ったが、その言葉どおりにした。  彼は息もつけないで、胸に手をあてて動悸を押ししずめようとしていた。彼は大胯《大股》に歩き回った。コゼットを抱いて言った。 「ああ、コゼット、僕は実にあわれむべき人間だ!」  マリユスは熱狂していた。彼はジャン・ヴァルジャンのうちに、高い|ほの暗《/仄暗》い言《/言》い知れぬ姿を認め始めた。非凡な徳操の姿が彼に現われてきた。最高にしてし《/し》かもやさしい徳であり、広大なるためにかえって謙譲なる徳であった。徒刑囚の姿はキリストの姿と変わった。マリユスはその異変に眩惑した。彼は自分の今|なが《’眺》めているものがただ偉大であるというほか、何《なん》にもはっきりとわからなかった。  間もなく一台の辻馬車が門前にやってきた。  マリユスはそれにコゼットを乗せ、次に自分も飛び乗った。 「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地《街7番地》だ。」  馬車は出かけた。 「まあうれしいこと!《/》」とコゼットは言った、「オンム・アルメ街なのね。私は今まで言い出《だ》しかねていましたのよ。私たちはジャンさんに会いに行くんですわね。」 「お前のお父さんだ、コゼット、今こそお前のお父さんだ。コゼット、僕にはもうすっかりの《飲》み込めた。お前はガヴローシュに持たしてやった僕の手紙を受け取らなかったと言ったね。きっとあの人の手に落ちたに違いない。それで僕を救いに防寨へき《来》て下すったのだ。そして、天使となるのがあの人の務めでもあるように、ついでに他の人たちをも救われたのだ。ジャヴェルをも救われた。僕をお前に与えるために、あの深淵の中から僕を引き出して下すった。僕を背中にかついで、あの恐ろしい下水道を通られた。ああ《あ/》僕は実に恐ろしい恩知らずだ。コゼット、あの人はお前の守り神だった後《あと》、僕の守り神になられた。まあ考えてもごらん、恐ろしい泥濘孔《+泥穴》があったのだ、必ずおぼれてしまうような所が、泥の中におぼれてしまうような所が、コゼット、それをあの人は僕をつれて渡られた。僕は気を失っていた。何《なん》にも見えず、何《なん》にも聞こえず、自分がどんなことになってるか知ることができなかったのだ。僕たちはあの人を連れ戻し、否でも応でも家に引き取り、もう決して離すことではない。ああ《あ/》家にいて下さればいいが、すぐ会えればいいが! 僕はこれから一生あの人を敬い通そう。そうだ、そうしなければいけない、そうだろう、コゼット。ガヴローシュが僕の手紙を渡したのは、あの人《ひと》へだったに違いない。それですっかりわかる。お前にもわかったろう。」  コゼットには一言もわからなかった。 「おっしゃる通りですわ。」と彼女は言った。  馬車はそのうちにも駛《+馳せ》っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【背後に昼を有する夜】 ◇。◇。◇。◇。◇。  扉をたたく音を聞いてジ《/ジ》ャン・ヴァルジャンは振り向いた。 「おはいり。」と彼は弱々しく言った。  扉は開かれた。コゼットとマリユスとが現われた。  コゼットは室《部屋》の中に飛び込んできた。  マリユスは扉の框によりかかって、閾の上にたたずんだ。 「コゼット!《/》」とジャン・ヴァルジャンは言った。そして蒼白《ソウハク》な昏迷《/昏迷》した凄惨《/凄惨》な様子で、目には無限の喜びを浮かべ、震える両腕を開いて、椅子の上に身を起こした。  コゼットは激しい感動に息も|ふさ《塞》がって、ジャン・ヴァルジャンの胸に身を投げた。 「お父様!《/》」と彼女は言った。  ジャン・ヴァルジャンは心転倒《心’転倒》して、ようやくにつぶやいた。 「コゼット! 彼女! あなた、奥さん! お前だったか! ああ!」  そしてコゼットの腕に抱きしめられて、彼は叫んだ。 「お前だったか! き《来》てくれたか! では私を許してくれるんだね。」  マリユスは涙を落とすまいとして眼瞼《目蓋》を下げながら、一歩進み出て、泣き声をおさえようとしてび《/び》くびく震えてる脣の間からつぶやいた。 「お父さん!」 「おお《お/》あなたも、あなたは私を許して下さるのですね!《/》」とジャン・ヴァルジャンは言った。  マリユスは一言も発し得なかった。ジャン・ヴァルジャンは言い添えた。「ありがとう。」  コゼットは肩掛けをぬぎ捨て、帽子を寝台の上に投げやった。 「邪魔だわ。」と彼女は言った。  そして老人の膝の上にすわりながら、得も言えぬやさしい手つきで彼の白髪を払いのけ、その額《ヒタイ》に脣《+口》づけをした。  ジャン・ヴァルジャンは惘然《呆然》として、されるままになっていた。  コゼットはただ漠然としか事情を了解していなかったが、あたかもマリユスの負い目を払ってやりたいと思ってるかのように、いっそう親愛の度を強めていた。  ジャン・ヴァルジャンは口ごもりながら言った。 「人間というものは実に愚かなものです。私はもう彼女に会えないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられる時、私はこう自分で言っていました。万事終わった、そこに彼女の小さな長衣《ナガギヌ》がある、私はみじめな男だ、もうコゼットにも会えないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段を上ってこられる時言っていました。実に私は|ばか《馬鹿》ではありませんか。それほど人間は|ばか《馬鹿》なものです。しかしそれは神を頭に置いていないからです。神《カミ》はこう言われます。お前は人から見捨てられるだろうと思うのか、|ばか《馬鹿》な、いや決して、そんなことになるものではないと。ところで、天使をひとり必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきます。コゼットにまた会います。かわいいコゼットにまた会います。ああ、私は実に不幸でした。」  彼はそれからちょっと口《’口》がきけなかった。がま《”ま》た言い続けた。 「私は実際、ごく時々でもコゼットに会いたかったのです。人の心は噛みしめるべき骨を一つほしがるものです。けれどもまた、自分はよけいな者だと私は感じていました。あの人たちにはお前はい《要》らない、お前は自分の片|すみ《隅》に引っ込んでいるがよい、人はいつでも同じようにしてることはできないものだ、そう私は自分で自分に言いきかせました。ああ《あ/》しかし、ありがたいことには、私はまた彼女に会った! ねえコゼット、お前の夫は実に|りっぱ《立派》だ。ああ《あ/》お前はちょうど、刺繍したきれいな襟をつけているね。私はその模様が好きだ。夫から選んでもらったのだろうね。それからお前にはカシミヤがよく似合うから是非買ってごらん。ああ《あ/》ポンメルシーさん、私に彼女をお前と呼ばして下さい。わずかの間ですから。」  コゼットは言い出した。 「あんなに私共を見限ってしまうなんて、何という意地悪でしょう。いったいどこへいらしたの、何《なん》でこう長く行っていらしたの? 昔は、旅はいつも|三、四日《サンヨッカ》だけだったではありませんか。私はニコレットをやりましたが、いつもきまってお留守だという答えきりだったんですもの。いつからお戻りになっていましたの。なぜお知らせなさいませんでしたの。ほんとに様子も大変お変わりになっていますよ。まあ、悪いお父様ね! 御病気《ご病気》だったのでしょう、そして私どもにお知らせなさらなかったのでしょう。マリユス、この手にさわってみてごらんなさい、冷たいこと!」 「こうしてあなたもきて下すったのですね、ポンメルシーさん、あなたは私を許して下さるのですね!《/》」とジャン・ヴァルジャンは繰り返した。  ジャン・ヴァルジャンが二度言ったその言葉に、マリユスの心にいっぱいたまっていたものが出口を得て、彼は急に言い出した。 「コゼット、聞いたか、この方はいつもこうだ、いつも僕に許しを求めなさる。しかも僕にどんなことをして下すったか、お前は知ってるか、コゼット。この方は僕の命を救って下すった。いやそれ以上をして下すった。お前を僕に与えて下すった。そして、僕を救って下すった後《あと》、お前を僕に与えて下すった後《あと》、コゼット、自分をどうされたか? 自分の身を犠牲にされたのだ。実に|りっぱ《立派》な方だ。しかも、その恩知らずの僕に、忘れっぽい僕に、無慈悲な僕に、罪人《罪人’》の僕に、ありがとうと言われる。コゼット、僕は一生涯《イッ生涯》この方の足下にひざまずいても、なお足りないのだ。あの防寨、下水道、熱火の中、汚水の中、それを通ってこられたのだ、僕のために、お前のために、コゼット! あの死ぬばかりの所を通って僕を運んできて下すった。僕を死から助け出し、しかも御自分《ご自分》は甘んじて生命《イノチ》を危険にさらされた。あらゆる勇気、あらゆる徳、あらゆる勇壮、あらゆる高潔、それらをすべて持っていられる。コゼット、この方こそ実に天使だ!」 「ま、まあ!《/》」とジャン・ヴァルジャンは低く言った。「なぜそんなことを言われるのです。」 「だがあなたこそ、」とマリユスは崇敬の念のこもった奮激をもって叫んだ。「なぜそれを言われなかったのです? あなたも悪い。人の命を助けておいて、それを隠すなんて! その上になお、自分の素性を語るという口実の下《もと》に、自分自身を誹謗なすった。実にひどいことです。」 「私は真実を申したのです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「いや、」とマリユスは言った、「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏であったのに、なぜそれを言われませんでした。あなたはジャヴェルを救ったのに、なぜそれを言われませんでした。私はあなたに命の恩になってるのに、なぜそれを言われませんでした。」 「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えはもっともだと思いました。私は去らなければいけなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引き止められたに違いありません。それで私は黙っていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、まったく困ることになったでしょう。」 「何が困るのです、|だれ《誰》が困るのです!《/》」とマリユスは言った。「あなたはここにこのままおられるつもりですか。私どもはあなたをお連れします。ああ、偶然ああいうことを知った時のことを考えると! 是非とも私どもはあなたを連れてゆきます。あなたは私どもの一部です。あなたは彼女の父で、また私の父です。もう一日もこのひどい家《’家》で過ごされてはいけません。明日もここにいるなどと考えられてはいけません。」 「明日は、」とジャン・ヴァルジャンは言った。「私はもうここにいますまい、しかしあなたの家にもいますまい。」 「それはどういうことです?」とマリユスは答え返した。「ああそ《/そ》うですか、いやもう旅もお許ししません。もう私どものそばを離れられてはいけません。あなたは私どものものです。決してあなたを離しません。」 「こんどこそは是非そうします。」とコゼットも言い添えた。「下に馬車も待たしてあります。私あなたを連れてゆきます。やむを得なければ力ずくでも|かつ《担》いでゆきます。」  そして笑いながら彼女は、老人を両腕に持ち上げるような身振りをした。 「あなたのお室《+部屋》は、まだ私どもの家にそのままになっています。」と彼女は言い進んだ。「この頃《ごろ》はまあどんなに庭《’庭》がきれいになったでしょう! 躑躅が大変みごとになりました。道《みち》には川砂《カワズナ》を敷きましたし、菫色の小さな貝殻も交じっています。私の苺も食べていただきましょう。私がそれに水をやっていますのよ。そしてもう、奥さんというのもやめ、ジャンさんというのもやめ、私どもは共和政治になり、みんなお前と言うことにしましょう、ねえ、マリユス。番付けが変わったのよ。それからお父様、私はほんとに悲しいことがありましたの。壁の穴の中に駒鳥が一匹巣をこしらえていましたが、それを恐ろしい猫が食べてしまいました。巣の窓から頭を差し出していつも私を見てくれた、ほんとにかわいい小さな駒鳥でしたのに! 私泣《私’泣》きましたわ。猫を殺してやりたいほどでしたの。でもこれからは、もう|だれ《誰》も泣かないことにしましょう。みんな笑うんですわ、みんな幸福になるんですわ。あなたは私どもの所へいらっしゃいますでしょうね。お祖父様もどんなに御満足なさるでしょう。庭に畑を差し上げますから、何かお作りなさいましよ。あなたの苺が私の苺の相手になれるかどうか、競争をしてみましょう。それからまた、私は何でもあなたのお望みどおりにいたしましょう。そしてまた、あなたも私の言うことを聞いて下さいますのよ。」  ジャン・ヴァルジャンはそれをよく聞かないでた《/た》だぼんやり耳にしていた。その言葉の意味よりむ《/む》しろその声の音楽を聞いていた。魂の沈痛な真珠である大きな涙の一滴が、|しだい《次第》に彼の目の中に宿ってきた。彼はつぶやいた。 「彼女がきてくれたことは、神が親切であらるる証拠だ。」 「お父様!《/》」とコゼットは言った。  ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。 「いっしょに住むのは楽しいことに違いない。木には小鳥がいっぱいいる。私はコゼットと共に散歩する。毎日あいさつをかわし、庭で呼び合う、いきいきした人たちの仲間にはいる、それは快いことだろう。朝から互いに顔を合わせる。めいめい庭の片|すみ《隅》を耕す、彼女はその苺を私に食べさせ、私は自分の薔薇を彼女につんでやる。楽しいことだろう。ただ‥‥。」  彼は言葉をとぎらして、静かに言った。 「残念なことだ。」  涙は落ちずに、元へ戻ってしまった。ジャン・ヴァルジャンは涙を流す代わりにほほえんだ。  コゼットは老人の両手を自分の両手に取った。 「まあ!《/》」と彼女は言った、「お手が前よりいっそう冷たくなっています。御病気《ご病気》ですか。どこかお苦しくって?」 「私? いや、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は病気ではない。ただ‥‥。」  彼は言いやめた。 「ただ、何《なん》ですの?」 「私はもうじきに死ぬ。」  コゼットとマリユスとは震え上がった。 「死ぬ!《/》」とマリユスは叫んだ。 「ええ、しかしそれは何でもありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  彼は息をつき、ほほえみ、そしてまた言った。 「コゼット、お前は私に話をしていたね。続けておくれ。もっと話しておくれ。お前のかわいい駒鳥が死んだと、それから、さあお《/お》前の声を私に聞かしておくれ!」  マリユスは石のようになって、老人を|なが《眺》めていた。  コゼットは張り裂けるような声を上げた。 「お父様、私のお父様! あなたは生きておいでになります。ずっと生きられます、私が生かしてあげます、ねえお父様!」  ジャン・ヴァルジャンはかわいくてたまらないような様子で彼女の方《ホウ》へ頭を上げた。 「そう、私を死なないようにしておくれ。あるいはお前の言うとおりになるかも知れない。お前たちがき《来》た時私《とき私》は死にかかっていた。ところがお前たちがき《来》たのでそのままになっている。何だか生き返ったような気もする。」 「あなたにはまだ充分力《充分’力》もあり元気もあります。」とマリユスは叫んだ。「そんなふうで死ぬものだと思っていられるのですか。いろいろ心配もあられましたでしょうが、これからもうな《無》くなります。お許しを願うのは私の方《ほう》です、膝をついてお願いします! お生きになれます、私どもといっしょに、そして長く、お生きになれます。あなたにまたき《来》ていただきます。私たち|ふたり《二人》が、あなたの幸福という一つの考えしかもう持っていない私たち|ふたり《二人》が、ここについております。」 「おわかりでしょう、」とコゼットは涙にまみれながら言った、「お死にはなさらないとマリユスも言っています。」  ジャン・ヴァルジャンはほほえみ続けていた。 「あなたが私をまた引き取って下すっても、ポンメルシーさん、それで私はこれまでと変わった者になるでしょうか。いや、神はあなたや私と同じように考えられて、決してその意見を変えられはしません。私が逝ってしまうのは|ため《為》になることです。死はよい処置です。神は、私どもがどうなればよいかを私《/私》どもよりよく知っていられます。あなたが幸福であられること、ポンメルシー氏がコゼットを得ること、青春は朝を娶ること、あなた方《がた》|ふたり《二人》のまわりにはライラックの花や鶯がいること、《:、》あなた方《がた》の生活は日の輝いた芝生のようであること、天の喜びがあなた方《がた》の魂を満たすこと、《:、》そして今、もう何《なん》の役にも立たない私は、死んでゆくこと、すべてそれらは正しいことに違いありません。まあよく考えてみて下さい、今はもう何《-なん》にもなすべきことはありません。私は万事終わったのだとはっきり感じています、一時間前に、私は一時気《一時’気》を失いました。そしてまた昨晩、私はそこにある水差しの水をみな飲みました。コゼット、お前の夫は実にいい方だ、お前は私といっしょにいるよりはずっと|仕合わ《幸》せだ。」  扉の音がした。はいってきたのは医者だった。 「お目にかかって、またすぐお別れです、先生。」とジャン・ヴァルジャンは言った、「これは私の子供たちです。」  マリユスは医者に近寄った。彼はただ、「先生?‥‥。」と一言言いかけた。その調子には充分な問いが含まっていた。  医者は意味深い一瞥でその問いに答えた。 「万事が望みどおりにならないからといって、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「それで神を恨んではいけない。」  沈黙が落ちてきた。皆の胸は圧えつけられていた。  ジャン・ヴァルジャンはコゼットの方《ほう》を向いた。彼は永久《エーキュウ》に失うまいとするように彼女を|なが《眺》め始めた。彼は既に深い影の底に沈んではいたが、なおコゼットを|なが《眺》めて恍惚たることができた。彼女の|やさ《優》しい顔の反映が彼《/彼》の蒼白《ソウハク》な面《-おもて》を照らしていた。墳墓にもその歓喜の情があり得る。  医者は彼の脈を診た。 「ああ御病人《/ご病人》に必要なのはあなた方《がた》でした。」と彼はコゼットとマリユスとを|なが《眺》めながらつぶやいた。  そして彼はマリユスの耳元に身をかがめてご《/ご》く低く言い添えた。 「もう手おくれです。」  ジャン・ヴァルジャンは《は-》なおほとんどコゼットを|なが《眺》めることをやめないで、心朗らかな様子をしてマ《/マ》リユスと医者とをじろりと見た。そして彼の口から聞き分け難い次の言葉がもれた。 「死ぬのは何でもないことだ。生きられないのは恐ろしいことだ。」  突然《突然’》彼は立ち上がった。か《斯》くにわかに力が戻ってくるのは、時によると臨終の苦悶の徴候である。彼はしっかりした足取りで壁の所まで歩いてゆき、彼を助けようとしたマリユスと医者とを払いのけ、壁にかかってる小さな銅の十字架像をはずし、また戻ってきて、健全な者のように自由な動作で腰をおろした。そして十字架像をテーブルの上に置きながら、高い声で言った。 「実に偉大な殉教者だ。」  それから、彼の胸は落ちくぼみ、頭は震え動き、あたかも死に酔わされたかのようになって、両膝の上に置かれた両手はズ《/ズ》ボンの布に爪を立て|はじ《始》めた。  コゼットは彼の肩を|ささ《支》え、すすり泣きながら、彼に何か言おうとつとめたが、それもできなかった。ただ、涙の交じった痛ましい唾液とともに出て来る単語のうちに、次のような言葉がようやく聞き取られた。「お父様! 私たちのもとを離れて下さいますな。せっかくお目に掛かったままお別れになるなどということが、あるものでございましょうか。」  臨終の苦悶は紆余曲折すると言い得る。あるいは行き、あるいはきたり、あるいは墳墓の方《ほう》へ進み、あるいは生命《イノチ》の方《ほう》へ戻ってくる。死んでゆくことのうちには暗中模索の動作がある。  ジャン・ヴァルジャンはその半ば失神の状態の後《あと》、再び気を取り直し、あたかも暗黒の影を払い落とそうとするように額《ヒタイ》を振り立て、ほとんどまったく正気に返った。彼はコゼットの袖の一襞《ヒト襞》を取り、それに脣をあてた。 「回復してきました、先生、回復してきました!《/》」とマリユスは叫んだ。 「あなた方《がた》は|ふたり《二人》ともいい人だ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「今私《今’私》の心を苦しめてる事は何《なん》であるか、言ってみましょう。私の心を苦しめる事は、ポンメルシーさん、あなたがあの金《-かね》に手をつけようとされないことです。あの金《-かね》は、まさしくあなたの奥さんのものです。その|わけ《訳》を今|ふたり《二人》に言ってきかしてあげます。私があなた方《がた》に会ったのを喜ぶのも、一つはそのためです。黒い飾り玉はイギリスからき、白い飾り玉はノールウェーからきます。それらのことは皆《-みんな》この紙に書いてありますから、それをお読みなさい。腕環《+腕輪》には、鑞付けにしたブリキの自在環の代わりに、はめ込んだブリキの自在環《自在カン》をつけることを発明しました。その方《ほう》がきれいで、品もよく、価《アタイ》も安いのです。それでどれくらい金《-かね》が儲けられるかわかるでしょう。コゼットの財産はまったく彼女のものです。私がこんな細かな事を話すのも、あなたの心を安めようと思うからです。」  門番の女は、階段を上がってき、少し開いてる扉の間から中をのぞき込んでいた。医者はそこを去るように知らせたが、その心の篤い婆《バア》さんは、立ち去る前に臨終の人に向かってこう言わないでは《は-》おられなかった。 「牧師様をお呼びしましょうか。」 「牧師様は|ひとり《一人》おられる。」ジャン・ヴァルジャンは答えた。  そして彼は指で、頭の上の一点を指し示すようなふうをした。おそらく彼の目には、そこに何者かの姿を見ていたのであろう。  実際ミリエル司教がその臨終に立ち会っていられたかも知れない。  コゼットは静かに彼の腰の下に枕をさし入れた。  ジャン・ヴァルジャンはまた言った。 「ポンメルシーさん、どうか気使《気遣》わないで下さい。あの六十万フランはまさしくコゼットのものです。もしあなたがあれを使われなければ、私の生涯は|むだ《無駄》になってしまうでしょう。私どもはそのガラス玉製造《玉’製造》に成功したのでした。ベルリン玉と言われてるのと対抗しました。ドイツの黒玉も到底かないはしません。ごくよくできた玉の千二百もはいってる大包《オオ包》みが、わずかに三フランしか《か-》しないのです。」  大事な人がまさに死なんとする時には、人はその人にしがみついて引き止めようとする目つきで、それを見つめるものである。|ふたり《二人》とも、心痛《シンツウ》の余り黙然《/黙念》として、死に対して何と言うべきかを知らず、絶望し身《/身》を震わしながら、コゼットの方《ほう》はマリユスに手を取られ、|ふたり《二人》で彼の前にじっと立っていた。  刻々にジャン・ヴァルジャンは弱っていった。彼は|しだい《次第》に沈んでいって、暗黒な地平に近づきつつあった。呼吸は間歇的になり、わずかな残喘にも途切らされた。もはや前腕の位置を変えるのも容易でなくなり、両足はまったく動かなくなり、そして手足のみじめさと身体《/身体》の疲憊とが増すとともに、魂の荘厳さが現われてきて、額の上にひろがってきた。他界の光は既にその眸の中に明らかに宿っていた。  彼の顔は蒼白《ソウハク》になり、同時にまたほほえんでいた。もはやそこには生命《イノチ》の影はなくて、他のものがあった。呼吸は微弱になり、目は大きくなっていた。それは翼が感ぜらるる死骸であった。  彼はそばに来るようにコゼットに|合い図《合図》をし、次にマリユスに|合い図《合図》をした。明らかに臨終の最後の瞬間だった。そして彼は、遠くから来るかと思われるような声で、|ふたり《二人》と彼との間には既に壁ができてるかと思われるようなかすかな声で、|ふたり《二人》に話しかけた。 「近くにおいで、|ふたり《二人》とも近くにおいで。私はお前たち|ふたり《二人》を深く愛する。ああ、こうして死ぬのは結構なことだ。コゼット、お前もまた私を愛してくれるね。私は、お前がいつもお前の老人《+年寄り》に愛情を持っていてくれたことを、よく知っていた。私の腰の下にこの括り蒲団を入れてくれるとは、何《なん》というやさしいことだろう。お前は私の死を、少しは泣いてくれるだろうね。あまり泣いてはいけない。私はお前がほんとに悲しむことを望まない。お前たち|ふたり《二人》はたくさん楽しまなければいけない。それから私は、あの締金のない金環で何よりもよく儲かったことを、言い忘れていた。十二ダース入りの大包みが十《ジュッ》フランでできるのに、六十《ロクジュッ》フランにも売れた。まったくよい商売だった。だから、ポンメルシーさん、あの六十万フランも驚く程のことではありません。正直な金《-かね》です。安心して金持ちになってよろしいのです。馬車も備え、時々は芝居の桟敷も買い、コゼットは美しい夜会服も買うがいいし、それから友人たちにご|ちそう《馳走》もし、楽しく暮らすがいい。私はさっきコゼットに手紙を書いておいた。どこかにあるはずだ。それから私は、暖炉の上にある二つの燭台を、コゼットにあげる。銀であるが、私にとっては、金でできてると言ってもいいし、金剛石《ダイヤモンド》でできてるといってもいい品《シナ》である。立てられた蝋燭を聖い大蝋燭《オオ蝋燭》に変える力のある燭台だ。私にあれを下すった人が、果たして私のことを天から満足の目で見て下さるかどうかは、私にもわからない。ただ私は自分でできるだけのことはした。お前たちは|ふたり《二人》とも、私が貧しい者であるということを忘れないで、どこかの片|すみ《隅》に私を葬って、ただその場所を示すだけの石を上《/上》に立てて下さい。それが私の遺言である。石には名前を刻んではいけない。もしコゼットが時々きてくれるなら、私は大変喜ぶだろう。あなたもきて下さい、ポンメルシーさん。私は今白状《いま白状》しなければなりませんが、私はいつもあなたを愛したというわけではなかった。それは許して下さい。けれど今は、彼女とあなたとは、私にとってただ|ひとり《一人》の者です。私はあなたに深く感謝しています。私はあなたがコゼットを幸福にして下さることをはっきり感じています。ああ、ポンメルシーさん、彼女の美しい薔薇色の頬《ホオ》は私の喜びでした。少しでも色が悪いと、私は悲しかったものです。それから、戸棚の中に五百フランの紙幣が一枚はいっています。私はそれに手をつけないでいます。それは貧しい人たちにやるためのものです。コゼット、その寝台の上にお前の小さな長衣《ナガギヌ》があるでしょう。お前はあれを覚えていますか。まだあの時から十年にしかならない。時のた《経》つのは実に早いものだ。私たちはごく幸福だった。がも《/も》うすべて済んでしまった。|ふたり《二人》とも泣くにはおよばない。私はごく遠《-とお》くへ行くのではない。向こうからお前たちの方《ほう》を見ていよう。お前たちは夜になってただ|なが《眺》めさえすればよい、私がほほえんでいるのがわかるだろう。コゼット、お前はモンフェルメイュを覚えていますか。お前は森の中にいて、大変恐がっていた。私が水桶の柄《エ》を持ってやった時のことを、まだ覚えていますか。私がお前の小さな手に触ったのは、それが始めてだった。ほんとに冷たい手だった。ああ、その頃、その手は|まっか《真っ赤》だったが、今では大変白くなっている。それから大きな人形、あれも覚えていますか。お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。あれを修道院に持っていかなかったことを、お前は残念がっていたものだ。お前は幾度私を笑わしたことだろう。雨が降ると、溝の中に藁屑を浮かべて、それが流れてゆくのを見ていた。ある時私は、柳編みの羽子板と、黄や青《/青》や緑《/緑》の羽毛のついた羽子《+羽根》とを、お前に買ってやったことがある。お前はもう忘れているでしょう。お前はごく小さい時はほんとにいたずらだった。いろんなわるさをしていた。自分の耳に桜ん坊を入れてしまったこともある。しかしそれはみな過去のことだ。人形を抱いて通った森、歩き回った|木立ち《木立》の中、身を隠した修道院、いろんな遊びごと、他愛もない大笑い、それらはみな影にすぎなくなっている。私はそういうものがみな自分のものだと思っていた。しかし私の|ばか《馬鹿》げた考えだった。またあのテナルディエ一家の者は、みな悪者だった。しかしそれは許してやらなければいけない。コゼット、今ちょうどお前の母親の名前を言ってきかせる時がきた。お前の母親は、ファンティーヌという名前である。その名前をよく覚えておきなさい、ファンティーヌだ。それを口にするたびごとにひざまずかなくてはいけない。あの人は非常に難儀をした。お前を大変かわいがっていた。お前が幸福な目にあったのと、ちょうど同じくらい不幸な目に会った。それが神の配剤である。神は天にあって、われわれ皆《-みな》の者を見られ、大きな星の間《あいだ》にあって自分の仕業を知っていられる。私はもう逝ってしまう。|ふたり《二人》とも、常によく愛し合いなさい。世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない。そして時々は、ここで死んだあわれな老人の事を考えて下さい。おお《お/》コゼットや、この頃《ごろ》お前に会わなかったといっても、それは私の罪ではない。そのために私はどんなに苦しんだろう。私はよくお前が住んでいる街路の角《カド》まで出かけて行った。私が通るのを見た人たちは、きっと変に思ったに違いない。私は気ちがいのようになっていた。ある時《とき》などは帽子も|かぶ《被》らないで出かけて行ったものだ。おお《お/》私の|ふたり《二人》、私はもうこれで目もはっきり見えない。まだ言いたいこともたくさんあるが、もうそれはどうでもよい。ただ私のことを少し考えておくれ。お前たちは祝福された人たちだ。私はもう自分で自分がよくわからない。光が見える。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちのかわいい頭をかして、その上にこの手を置かして下さい。」  コゼットとマリユスとは、そこにひざまずき、我《吾》を忘れ、涙にむせび、ジャン・ヴァルジャンの両手に各々すがりついた。そのおごそかな手はもはや動かなかった。  彼はあおむけに倒れた。二つの燭台から来る光が彼を照らしていた。その白い顔は天の方《ほう》を|なが《眺》め、その両手はコゼットとマリユスとの脣《+口》づけのままになっていた。彼は死んでいた。  夜は星もなく、深い暗《-くら》さだった。必ずやその影の中には、ある広大なる天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【草は隠し雨《/雨》は消し去る】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ペール・ラシェーズの墓地の、共同埋葬所のほとり、《:、》その墳墓の都の|りっぱ《立派》な一郭から遠く離れ、永遠の面前に死の醜い様式をひろげて見せている種々《/いろいろ》工夫を凝らされた石碑の、立ち並んでる所から遠く離れ、寂しい片|すみ《隅》の、古い壁の傍《ソバ》、《:、》旋花《+昼顔》のからんだ一本の大きな水松《+イチイ》の下、茅草《+カヤクサ》や苔のはえている中に、一基の石がある。その石もまた、他の石と同じく、長い年月《ネンゲツ》の傷害や苔《/苔》や黴《/黴》や鳥《/鳥》の糞《フン》などを免れてはいない。水のために緑となり、空気のために黒くなっている。近くには小道もなく、草が高く茂っていてすぐに足をぬ《濡》らすので、その方《ほう》へ踏み込んでみようとする人もない。少し日がさす時には、蜥蜴がやってくる。あたりには、野生の燕麦がそよいでいる。春には、木の間に頬白がさえずる。  その石には何らの加工も施してない。ただ墓石に用《-もち》うるということだけを考えて切られたものであり、ただ人をひとり|おお《覆》うだけの長さと幅とにしようということだけを注意されたものである。  何らの名前も見られない。  ただ、既にもう幾年《イクネン》か前に、|だれ《誰》かが四行《4ギョウ》の句を鉛筆で書きつけていたが、それも雨やほこりに打たれて|しだい《次第》に読めなくなり、今日《コンニチ》ではおそらく消えてしまったであろう。その句は次のとおりであった。 ◇。◇。  彼は眠る。数奇なる運命にも生きし彼、  己が天使を失いし時に死したり。  さあそれもみな自然の数ぞ、  昼去りて夜の来るがごとくに。 ◇。◇。 【──終わり──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店】 【   1987(昭和62)年5月18日改版第|1刷《イッサツ》発行】 【※《◇》「橙花《+オレンヂ》と橙花《+オレンジ》」《」:》、「挺(何挺《+何丁》)と梃(一梃《一丁》)」《」:》、「大燭台《+ダイ燭台》と大燭台《+オオ燭台》」《」:》、「イブとイヴ」《」:》、「撥条《+バネ》と発条《+バネ》」の混在は底本通《テイホン通》りにしました。】 【※《◇》誤植の確認に「レ・ミゼラブル(六)」岩波文庫、岩波書店《岩波書店◇》1960(昭和35)年8月30日第12刷《サツ》、「レ・ミゼラブル(七《7》)」岩波文庫、岩波書店《岩波書店◇》1961(昭和36)年12月10日第13刷《サツ》を用いました。】 【入力:tatsuki】 【校正:門田裕志、小林繁雄】 【2007年2月17日作成】 【2013年4月21日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。