◇。◇。◇。◇。◇。 【レ・ミゼラブル】 【第五部】 【ジャン・ヴァルジャン】 【ビクトル・ユーゴー】 【豊島与志雄訳】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第イッペン】 【市街戦】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【サン・タントアーヌとタンプルとの両防寨】 ◇。◇。◇。◇。◇。  社会の病根を観察する者が”まずあげ得る最も顕著な二つの防寨は、本書の事件と同時代のものではない。その二つの防寨は、異なった二つの局面において/いずれも恐るべき情況を象徴するものであって、有史以来の最も大なる市街戦たる/1848年六月の宿命的な反乱のおり、地上に現われ出たのである。  時として、主義に反し、自由と/平等と/友愛とに反し、一般投票に反し、万人が万人を統べる政府に反してまでも、その苦悩と/落胆と/欠乏と/ゲッコウと/困窮と/毒気と/無知と/暗黒との底から:、絶望せる偉人ともいうべき賤民は抗議を持ち出すことがあり、下層民は民衆に戦いをいどむことがある。  無頼の徒は公衆の権利を攻撃し、愚衆は良民に反抗する。  それこそ痛むべき争闘である。なぜかなれば、その暴行のうちには常に多少の権利があり、その私闘のうちには自殺が存するからである。そして無頼の徒といい/賤民といい/愚衆といい/下層民という侮辱的なそれらの言葉は:、悲しくも、苦しむ者らの罪よりも/むしろ統治する者らの罪を証し、零落者らの罪よりも/むしろ特権者らの罪を証明する。  しかして吾人は、それらの言葉を発するに悲痛と敬意とを感ぜざるを得ない。哲学はそれらの言葉に相当する事実の底を究る時、悲惨と相並んで/多くの壮大さがあるのをしばしば見いだすからである。アテネは一つの愚衆であった。無頼の徒はオランダを造った。下層民は一度ならずローマを救った。そして賤民はイエス・キリストのあとに従っていた。  いかなる思想家といえども、時として下層の偉観を眺めなかった者はない。  聖ゼロームが心を向けていたのは、疑いもなくこの賤民へであった。「都市の泥濘こそ/地の大法なり」と神秘な言葉を発した時、彼の心が考えていたのは、使徒や殉教者らが輩出したそれらの貧民や/浮浪の徒や/みじめな者らのことをであった。  苦しみ/そして血をしぼってるこの多衆の激怒、おのれのイノチたる主義に反するその暴行、権利に反するその暴挙、などは皆’下層民のクーデターであって、鎮圧されなければならないものである。正直なる者はそういう鎮圧に身をささげ、多衆を愛するがゆえにかえってそれと戦う。しかしながら彼は、対抗しながらもいかにそれを宥恕すべきものであるかを感じ、抵抗しながらもいかにそれを貴んでいることであろう! おのれのなすべきところをなしながら、足を引きとむるような/ある不安な何物かを感ずる稀有な時期は、かかるところから到来する。人は固執する、固執しなければならない。しかし本心は満足しながらも悲しんでいる。そして義務の遂行のうちに、ある痛心の情が交じってくる。  直ちに言を進めるが、1848年六月の暴動は特殊の事実であって、ほとんど歴史哲学のうちにおいて/他と同類に置くことのできないものである。吾人が上に発した言葉はすべて、おのれの権利を要求する労働の/聖なる焦慮が感ぜらるるこの異例の暴動に関しては、排除しなければならない。この暴動を人は鎮圧しなければならなかった、それは義務であった、なぜならこの暴動は共和を攻撃したから。しかし根底においては、1848年六月は-なんであったか。それは民衆のおのれ自身に対する反抗であった。  主題から目を離しさえしなければ、決して岐路に陥るものではない。それでちょっとのあいだ、上にあげたまったく独特な二つの防寨に/読者の注意を向けさせることを、ここに許していただきたい。その二つの防寨こそ、1848年六月の反抗の特質を示すものである。  一つはサン・タントアーヌ郭外の入り口をふさいでいた、一つはタンプル郭外を防護していた。六月の輝く青空の下にそびえた、この内乱の恐るべき二つの傑作は、見る者に忘るべからざる’印象を与えた。  サン・タントアーヌの防寨は雄魁なものだった。高さは人家の三階に及び、長さは700尺に及んでいた。その郭外の広い入り口/すなわち三つの街路を、一方から他方まで塞いでいた。凹凸し、錯雑し、ノコギリガタをし、入り組み、広い裂け目を銃眼とし、それぞれ稜角ホウをなす多くの築堤で支えられ:、そこここに突起を出し、背後には人家の大きな二つの突出部が控えていて、既に七月十四日(1789年)を経てきた/その恐るべき場所の奥に、巨大なる堤防のようにそびえていた。そしてこのタイシンたる防寨の後ろには、各街路の奥に十九のショウ防寨が重なっていた。その郭外のうちにある広大なる半死の苦しみは、困窮が最後の覆滅を望むような危急な瞬間に達していることが、防寨をひと目見ただけで感ぜられた。しかも防寨は何でできていたか。ある者の言によれば、7階だての人家を三つ/殊更に破壊して作ったものだといい、ある者の言によれば、あらゆるフンヌの念が奇蹟的に作り上げたものだという。そして憎悪のあらゆる手段をもって築かれた痛むべき光景、倒壊の趣を持っていた。誰がそれを建設したか、とも言い得らるれば、誰がそれを破壊したか、とも言い得られた。沸騰せる熱情が即座に作ったものであった。扉、鉄門、廂、框、壊れた火鉢、亀裂した鍋、すべてを与え、すべてを投げ込み、すべてを押し入れ”ころがし/掘り返し/破壊し”くつがえし/打ち砕いたのである。敷石、ドロツチ、ハリ、鉄棒、ボロ、ガラスの破片、腰のぬけた椅子、青物の芯、錠前、屑、および呪詛の念などから成っていた。偉大であり、また卑賤であった。混沌たるものが即座に作った深淵であった。大塊に小破片、引きぬかれた一面の壁に壊れた皿、あらゆる破片の恐るべき混和、シシフォス(訳者注◇ 地獄の中にて絶えず大石を転がす刑に処せられし人─神話)はそこにおのれの岩を投げ込み、ヨブはそこにおのれの壜の破片を投げ込んでいた。要するにまったく恐ろしいものだった。浮浪の徒の堡塁だった。くつがえされた多くの荷馬車はその斜面を錯雑さしていた。大きな大八車が一つ、車軸を上にして横ざまに積まれて、紛糾した正面に一つの傷痕をつけてるかのようだった。乗り合い馬車が一つ、砦の頂にむりやりに引き上げられ、あたかも荒々しい砦の築造者らが/恐怖に悪戯を添えんと欲したかのように、その轅をいたずらにある空中の馬に差し出してるかと思われた。その巨大な堆積、暴動の積層は、あらゆる革命がオッササンと/ペリオンサンとを積み重ねたものかと(訳者注◇ ジュピテルに反抗した巨人らが天に攻め上らんために重ねたテッサリーの二つの山)見る者の心に思わせた。89年(1789)の上に積み重ねた93年(1793)、八月十日(1792年)の上に積み重ねた共和熱ガツ九日(1794年七月二十七日):、一月二十一日(1793年)の上に積み重ねた共和キリゲツ十八日(1799年十一月九日)、共和草月(1795年五月)の上に積み重ねた共和ショウゲツ(1795年十月)、1830年の上に積み重ねた1848年であった。場所の要害はその努力にふさわしいものであり、防寨はバスティーユの牢獄の消えうせた場所に出現して恥ずかしくないものであった。もし大洋が堤防を築くとするならば、おそらくかかる防寨を築くであろう。凶猛な怒濤の跡はその畸形な堆積の上に印せられていた。しかもその怒濤は、下層の群集だったのである。その喧囂の状の化石が見えるかと思われた。急激な進歩の暗い大きな蜂の群れがおのれの巣の中で騒いでるのが、この防寨の上に聞こえるかと思われた。それは一つの藪であったか、酒神の祭であったか、それとも一つの要塞であったろうか。眩惑の羽ばたきによって作られたものかと思われた。そのカクメンホウのうちには一種のゴミの山があり、その堆積のうちには一種のオリンポスの殿堂があった。その絶望に満ちた混乱のうちに見らるるものは、屋根の垂木、色紙のはられた屋根部屋の断片、砲弾を待ち受けて/物の破片のうちに立てられてるガラスのついた窓の扉:、引きぬかれた煙突、戸棚、テーブル、腰掛け、上を-したへの乱雑な堆積、それから乞食さえも拒むような無数のがらくた、そのうちには凶猛と虚無とが同時にこもっていた。民衆のボロ屑、木材と/鉄と/青銅と/石とのボロ屑であって、サン・タントアーヌ郭外が巨大な箒のひと掃きでそれらを戸口に押しやり、その悲惨をもって防寨となしたかのようだった。首切り盤のような鉄塊、引き千切られた鎖、絞首台の柱のような角材、物の破片の中に横倒しに置かれてる車輪:、それらのものはこの無政府の堂宇に、民衆が受けてきた古い苛責の陰惨な相貌を交じえさしていた。じつにこのサン・タントアーヌの防寨は、すべてのものを武器としていた。内乱が社会の頭に投げつけ得るすべてのものは、そこに姿を現わしていた。それは一つの戦いではなくて、フンヌの発作だった。そのカクメンホウをまもってるカラビン銃は、中に交じってた数個の霰弾銃とともに、瀬戸物の破片や、骨片や、上衣のボタンや:、また銅がはいってるために有害な弾となる/寝室のテーブルの足についてる小車輪までも、やたらに発射した。防寨全部がまったく狂乱していた。名状し難い騒擾の声を/雲の中まで立ちのぼらしていた。ある瞬間には、軍隊に戦いをいどみながら、群集と騒乱とでおおわれてしまった。モユルがような無数の頭が、その頂を覆い隠した。蟻のような群集がいっぱいになっていた。その頂上には、銃や/サーベルや/棍棒や/斧や/槍や/剣銃などがつき立っていた。広い赤旗が風にはためいていた。号令の叫び、進撃の歌、太鼓の響き、婦人の泣き声、餓死'の暗黒な哄笑、などがそこに聞かれた。防寨はまったく常軌を逸したもので、しかもイノチを有していた。あたかも雷獣の背のように/電光の火花がほとばしり出ていた。神の声に似た民衆の声がうなっているその頂は、革命の精神から発する暗雲に覆われていた。異常な荘厳さが、巨人の屑籠をくつがえしたような/その破片の堆積から発していた。それはゴミの山であり、またシナイの山(訳者注◇ モーゼがエホバより戒律を受けし所)であった。  上に言ったとおり、この防寨は革命の名において/しかも革命を攻撃したのである。偶然であり、無秩序であり、狼狽であり、誤解であり、未知数であったこの防寨は、立憲議会と/民衆の大権と/普通選挙と”国民と/共和とを向こうにまわしたのである。それはマルセイエーズ(フランス国歌)にいどみかかる/カルマニョールの歌(革命歌)であった。  狂乱’せる/しかも勇壮なる挑戦であった。なぜなれば、この古い郭外は一個の英雄だからである。  郭外とカクメンホウとは互いに力を合わしていた。郭外はカクメンホウの肩にすがり、カクメンホウは郭外に身を支えていた。広い防寨は、アフリカの諸将軍の戦略をも拉ぐ断崖のごとく横たわっていた。その洞窟、その瘤、その疣、その’隆肉などは、言わば顔を顰めて、硝煙の下に冷笑していた。霰弾は形もなく消えうせ、榴弾は埋まり/没し/飲み込まれ、破裂弾はただ穴を明け得るのみだった。およそ混沌たるものを砲撃しても何の効があろう。戦役の最も荒々しい光景になれていた各連隊も、猪のごとく毛を逆だて/山のごとく巨大なそのカクメンホウの野獣を、不安な目で眺めたのである。  そこから約四半里’ばかり先、シャトー・ドーの近くで大通りに出てるタンプル街のカドで、ダルマーニュという商店の少しつき出た店先から/思いきって頭を出してみると:、遠くに、運河の向こうに、ベルヴィルの坂道を上ってる街路の中、坂道を上りきった所に、人家の三階の高さに達する不思議な障壁が見られた。それはあたかも左右の軒並みを連ねたが-ようで、街路を一挙にふさぐために/最も高い壁を折り曲げたが-ようだった。しかしその壁は、実は敷石で築かれていたのである。真っ直ぐで、規則正しく、冷然として、垂直になっており、定規をあて/墨縄を引き/スイエンをたれて作られたもののようだった。もとよりセメントは用いられていなかったが、しかもローマのある障壁に見らるるように、そのため建築上の強固さは少しも減じていなかった。高さから推してまた奥行も察せられた。上層とチフクとはまったく数学的な平行を-たもっていた。灰色の表面には所々に、ほとんど目につかないくらいの銃眼の列が/黒い糸のように見えていた。各銃眼の間には一定の等しい距離が置かれていた。街路には目の届くかぎり人影もなかった。窓も扉も皆しめ切ってあった。そして奥に立っている防壁のために、あたかも袋町のようになっていた。防壁は不動のまま静まり返っていた。何らの人影も見えず、何らの音も聞こえなかった。一つの叫び声もなく、一つの物音もなく、息の’音さえもなかった。まったく一つの墳墓だった。  六月のまぶしい太陽は、その恐るべき物の上に一面の光を浴びせていた。  これが、タンプル郭外の防寨であった。  この場所に行ってそれを眺むると、最も豪胆な者でも/その神秘な出現の前に考え込まざるを得なかった。それはよく整い、よく接合し、ウロコガタに並び、直線をなし、均斉を保ち、しかも凄惨な趣があった。学理と暗黒とがこもっていた。防寨の首領は、幾何学者か/もしくは幽鬼かと思われた。人々はそれを眺め、そして声’低く語り合った。  時々、兵士か将校か/あるいは代議士か誰かが、偶然その寂しい大道を通りかかると、鋭いかすかな音がして、通行者は負傷するか死ぬかして/地に倒れた。もし幸いにそれを免れる時には、閉ざされた雨戸か、ソセキの間か、壁の漆喰かの中に、一発の弾がはいり込むのが見られた。時とするとそれはビスカ-イヤン銃のこともあった。防寨の人々は多く、いったんを麻屑と粘土とでふさいだ/鋳鉄のガス管二本で、二つの小さな銃身をこしらえていた。ほとんど火薬を無駄に費やすことはなかった。玉はたいてい命中した。そこここに死体が横たわって、敷石の上には血’がたまっていた。また著者は、一匹の白い蝶が街路を飛び回ってたことを記憶している。さすがに夏の季節だけは平然としていた。  付近の大きな門の下には、負傷者がいっぱいはいっていた。  そこでは、姿を隠してる誰かから常にねらわれるような感があった。明らかに街路じゅうどこででも狙い打ちにされるらしかった。  タンプル郭外の入り口に/運河の丸橋がこしらえてる驢馬の背中ほどの空き地の後ろに、攻撃縦列をなして集まってる兵士らは、そのものすごいカクメンホウを:、その不動の姿を、その冷然たる様を、しかも死を招くその場所を、真面目な/考え込んだ様子で偵察していた。ある者らは、帽子が向こうに見えないように注意しながら、穹窿形の橋の上まで腹ばいになって進んでいった。  勇敢なるモンテーナール大佐は、身を震わしながらその防寨を嘆賞した。彼はひとりの代議士に言った。「うまく築いたものだ! 一つの不ぞろいな敷石もない。まるで磁器ですね。」その時、一発の玉は、彼の勲章を打ち砕いた。彼は倒れた。 「卑怯者め/」とある者は言った、「姿を現わせ、見える所に出てこい。それができないのか。隠れてばかりいるのか!」  しかしこのタンプル郭外の防寨は、八十人の者に守られ/一万の兵に攻撃されて、三日のあいだ持ちこたえた。4日目に、ザアチャーやコンスタンティーヌの都市になされたのと同様の方法が用いられ、人々は人家をうがち、または屋根に伝わり、そしてついに’防寨は占領された。八十人の「卑怯者」らのうちひとりとして逃げようとはしなかった。みんなそこで戦死を遂げた。ただひとり首領のバルテルミーだけは身を脱したが、彼のことはすぐ次に述べるとおりである。  サン・タントアーヌの防寨は雷電のはためきであり、タンプルの防寨は沈黙であった。この二つのカクメンホウの間には/獰猛と凄惨との差があった。一つは顎のごとく、一つは仮面のようだった。  この六月の巨大な暗黒な反乱が/一つのフンヌと/一つの謎とでできていたとすれば、第一の防寨のうちにはドラゴンが感ぜられ、第二の防寨の背後にはスフィンクスが感ぜられた。  この二つの砦は、クールネとバルテルミーという二人の男によって築かれたものである。クールネはサン・タントアーヌの防寨を作り、バルテルミーはタンプルの防寨を作った。どちらの防寨も、築造者の面影を帯びていた。  クールネは高い体躯の男であった。大きな肩、赤い顔、力強いコブシ、大胆な心、公正な魂、真面目な/恐ろしい目をそなえていた。勇敢で、元気で、ゲキしやすく、猛烈だった。最も真実な男であり、最も恐るべき勇士だった。戦争、争闘、白兵戦、などは彼の固有の空気であり、彼の気を引き立たした。かつて海軍士官だったことがあり、その身振りや声をみても、大洋から出てき/暴風雨を経てきたことが察せられた。彼は戦いのうちにもなお暴風をもたらした。神性を除いてはダントンのうちにヘラクレス的なものがあったように、天才を除いてはクールネのうちにダントン的なものがあった。  バルテルミーは、やせた、虚弱な、色の青い、寡黙な男で、一種の悲壮な浮浪少年であった。ある時ひとりの巡査からなぐられて、その巡査をつけ狙い、待ち受け、殺害し、そして十七歳で徒刑バに送られた。徒刑バから出てきた彼は、右の防寨を作ったのである。  その後彼らは二人とも追放されてロンドンに亡命していたが、なんの因縁か、バルテルミーはクールネを殺した。痛ましい決闘だった。その後しばらくして、色情のからんだ/ある秘密な事件に巻き込まれ、フランスの法廷は情状の酌量を-みとむるが/イギリスの法廷は死をしか認めない/ある災厄のうちに、バルテルミーは死刑に処せられた。一個の知力をそなえ/確かに剛毅な人物であり”またおそらく偉大な人物だったかも知れないこの不幸な男は、社会の痛ましい制度の常として:、物質上の欠乏のために”また精神上の暗黒のために、フランスにおいて徒刑バより始め、イギリスにおいて絞首台に終わったのである。バルテルミーはいかなる場合にも、一つの旗をしか掲げなかった。それは黒い旗であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【深淵ちゅうの会談】 ◇。◇。◇。◇。◇。  暴動の陰暗な教育を受くること/満十六年に及んだので、1848年六月は/1832年六月よりもはるかに知力が進んでいた。それでシャンヴルリー街の防寨は、上に概説した二つの巨大な防寨に-くらぶれば、一つの草案に過ぎず/一つの胎児に過ぎなかった。しかし当時にあっては、それでも恐るべきものであった。  マリユスはもはや何物にも注意を向けていなかったので、暴徒らはただアンジョーラひとりの監視の下に、暗夜に乗じて仕事をした。防寨は修繕されたばかりでなく、なお大きくされた。上のホウへも二尺ほど高められた。敷石の中に立てられた鉄棒は、槍をつき立てたようだった。ほうぼうから持ってきて加えられたあらゆる種類の物の破片は、ますますその外部を錯雑していた。いかにも巧妙に築かれたカクメンホウで、内部は壁のごとく、外部は藪のようだった。  城壁のように上に上ってる敷石の段は、再び築き直された。  人々は防寨を整え、居酒屋の下の広間を片付け、料理バを野戦病院となし、負傷者に繃帯を施し、床やテーブルの上に散らかってる火薬を集め:、弾丸を鋳、弾薬をこしらえ、メンザンシを裂き、落ち散った武器を分配し、カクメンホウの内部を清め、破片を拾いのけ、死体を運んだ。  死体はなお手中にあるモンデトゥール小路のうちに積み重ねられた。そこの敷石はその後長いあいだ真っ赤になっていた。戦死者のうちには、四人の郊外国民兵があった。アンジョーラは彼らの軍服をわきに取って置かした。  アンジョーラは二時間の睡眠を一同に勧めた。彼の勧告は命令に等しかった。けれどもそのメイに応じて眠った者は、わずかサンヨニンに過ぎなかった。フイイーはその二時間のすきを利用して、居酒屋と向かい合った壁の上に/次のような銘を刻み込んだ。 【 民衆万歳!】  その四文字は、ソセキの中に釘で彫りつけたものであって、1848年にもなお壁の上に明らかに残っていた。  三人の女どもは、その夜間の猶予の間にまったく姿を隠してしまった。ために暴徒らはいっそう自由な気持ちになることができた。  彼女らはとやかくして、どこか近くの人家に投げ込んだのだった。  負傷者らの大部分は、なお戦うことができ、またそれを欲していた。野戦病院となった料理バの布団や藁蓆の上には、五人の重傷者がいたが、そのうち二人は市民兵だった。市民兵は第一に手当を受けたのである。  シタの広間のうちにはもはや、喪布をかけられてるマブーフと/柱に縛られてるジャヴェルとのほか誰もいなかった。 「ここは-しにんの部屋だ。」とアンジョーラは言った。  部屋の内部、一本の蝋燭がかすかに照らしてる奥のほうに、死人のテーブルが横棒のようになって/その前に柱が立っていたので、立ってるジャヴェルと/横たわってるマブーフとは、ちょうど大きな十字架のようになって漠然と見えていた。  乗り合い馬車の轅は、一斉射撃のために先を折られたが、なお旗を立て得るくらいは立ったまま残っていた。  首領の性格をそなえていて/口にするところを必ず実行するアンジョーラは、戦死した老人の血’にまみれ/穴のあいてる上衣を轅の棒に結びつけた。  食事はいっさいできなかった。パンも肉もなかった。防寨の五十人の男は、やってきてからその時まで十六時間のうちに、居酒屋にあったわずかな食物を/すぐに食いつくしてしまった。死守する防寨はすべて、一定の時を経れば必然に/メデューズ号の筏(訳者注◇ メデューズ号の難破者らが乗り込んで十三日間大洋の上を漂っていた筏)となるものである。人々は飢餓に忍従しなければならなかった。サン・メーリーの防寨では、パンを求むる暴徒らにとり巻かれたジャンヌが、「食物/」と叫んでいる声に対して、「何で食物がいるか、今は三時だ、四時には-みんな死ぬんだ、」と答えた。そういう悲壮な六月六日の日が、到来したばかりの時だったのである。  もう食物を得ることができなかったので、アンジョーラは飲み物を禁じた。葡萄酒を厳禁して、ただブランデーだけを少し分配してやった。  居酒屋の窖の中で、密封した十五本ばかりの壜が見いだされた。アンジョーラとコンブフェールとはそれを調べてみた。コンブフェールは窖から出て来ながら言った。「初め香料品を商っていたユシュルー爺さんの昔の元手だ。」するとボシュエは言った。「本物の葡萄酒に違いない。グランテールが眠ってるのは幸せだ。奴が起きていたら、なかなかこのまま-ほっておきはすまい。」いろいろ不平の声をもらす者もあったが、アンジョーラはその十五本の壜に最後の断案を下して、誰の手にも触れさせないで神聖な物としておくために、マブーフ老人が横たわってるテーブルの下に並べさした。  午前二時ごろ人数を調べてみると、なお三十七人いた。  夜は明けかかってきた。敷石の箱の中に再びともしていた松明を、人々は消してしまった。街路から切り取った小さな中庭のような防寨の内部は、闇に満たされて、払暁の荒涼たる微明のうちに、壊れた船の甲板に似通っていた。行ききする戦士の姿は、真っ黒な影のように動いていた。そしてその恐るべき闇の巣窟の上には、黙々たる幾階もの人家が青白く浮き出していた。更に上の方には、煙突がホノジロく立っていた。空は白とも青ともつかない微妙な色にぼかされていた。小鳥は楽しい声を立てながら空を飛んでいた。防寨の背景をなしている高い人家は、東に向いていたので、屋根の上に薔薇色の反映が見えていた。その4階のノキマドには、殺された門番の灰色の頭髪が、朝の微風になぶられていた。 「松明を消したのはうれしい。」とクールフェーラックはフイイーに言った。「風に揺らめいてるあの光は嫌でならなかった。まるで何かを怖がってるようだった。松明の光というものは、卑怯者の知恵みたいなものだ。いつも震えてばかりいて、ろくに照らしもしないからね。」  曙は小鳥を目ざめさせるとともに、人の精神をもさまさせる。人々はみな話しはじめた。  ジョリーはトイの上をぶらついてる一匹の猫を見て、それから哲学を引き出した。 「猫とはいかなるものか知ってるか。」と彼は叫んだ。「猫は一つの矯正物だ。神様は鼠をこしらえてみて、やあこいつはしくじったと言って、それから猫をこしらえた。猫は鼠の正誤表だ。鼠プラス猫、それがすなわち天地創造の校正なんだ。」  コンブフェールは学生や労働者らに取り巻かれて、ジャン・プルーヴェールや/バオレルや/マブーフや”またル・カブュクのことまで、すべて死んだ人々のことを話し、またアンジョーラの厳粛な悲哀のことを語っていた。彼はこう言った。 「ハルモディオスとアリストゲイトン、ブルツス、セレアス、ステファヌス、クロンウェル、シャーロット・コルデー、サント、なども皆、手を下したあとに一時悲哀を感じたのだ。人の心はたやすく傷むものであり、人生は至って不思議なものである。公徳のための殺害の場合でも、もしありとすれば救済のための殺害の場合でも、ひとりの者を仆したという悔恨の念’は、人類に奉仕したという喜びの情より深いものだ。」  そして話はいろいろのことに飛んだが、やがてジャン・プルーヴェールの-しのことから一転して、ゼオルジック(訳者注◇ ヴィルギリウスの-し)の翻訳者らの比較を試み:、ローと/クールナンとを比べ、クールナンと/ドリーユとを比べ、マルフィラートルが訳した数節、ことにシーザーの死に関する名句をあげたが、そのシーザーという言葉から、話はまたブルツスの上に戻った。 「シーザーの覆滅は至当である。」とコンブフェールは言った。「キケロはシーザーにきびしい言葉を下したが、あれは正当だ。あの酷評は決して悪くチではない。ゾイルスがホメロスを嘲り、メヴィウスがヴィルギリウスを嘲り、ヴィゼがモリエールを嘲り、ポープがセークスピヤを嘲り、フレロンがヴォルテールを嘲ったのは、昔からよくある嫉妬と憎みからきたのである。天才は嘲笑を受け、偉人は多少’人から吠えらる-るのが常である。しかしゾイルスハイとキケロとはまったく別者だ。キケロは思想による審判者である。あたかもブルツスが剣による審判者であるのと同じだ。僕に言わすれば、後者の審判すなわち剣によるものは好ましくない。しかし古代はそれを許していた。ルビコンを渡ったシーザーは、民衆から来るもろもろの地位を/おのれから出るもののように人に授け:、元老院に姿を現わさず、エウトロピウスが言ったように、王のごとき”またほとんど暴君のごときことを行なった。そして彼は偉人であったために、それだけ不幸とも”また幸とも言える。なぜなれば、彼が偉人であっただけにいっそうその教訓は-こうえんとなったから。しかし僕の目から見れば、彼が受けた二十三の傷は、イエス・キリストの額に吐きかけられた唾ほどの痛切さを持たない。シーザーは元老院の議員らから刺されたが、キリストは下男らから侮辱され/ホオを打たれた。侮辱がより大なるがゆえに、人は神を感ずるのだ。」  積み重ねた敷石の上からそれらの会談者らを見おろしながら、ボシュエはカラビン銃を手にしたまま叫び出した。 「おお、シダテネオム、ミリノス、プロバリンテよ、エアンチデの三女神よ! ああ/たれか吾をして、ラウリオムやエダプテオンのギリシャ人のごとくに、ホメロスの-しをずせしむる者があるか!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【光明と陰影】 ◇。◇。◇。◇。◇。  アンジョーラは偵察に出かけていた。彼は軒下に沿ってモンデトゥール小路から出て行った。  ちょっとことわっておくが、暴徒らは-みんな希望に満ちていた。たやすく前夜の襲撃を撃退したので、夜明けの襲撃をも前もってほとんど軽蔑するような気になっていた。彼らはその襲撃を微笑’しながら待ち受けていた。彼らはおのれの主旨を確信するとともに、成功をもはや疑わなかった。そのうえ援兵もきつつあるに違いないと思っていた。彼らはそれをあてにしていた。光明的な楽観をもって前途を速断するのは、フランス戦士の力の一つである。彼らは-きたらんとする一日を三つの局面に分かって、それを確信していた。すなわち、朝六時には「かねて手を入れておいた」一個連隊が裏切ってくる、正午にはパリー全市が立ち上がる、日没の頃には革命となる。  サン・メーリーの警鐘が前日’絶えず鳴り続けてるのが聞こえていた。それは、もう一つの大きな防寨、すなわちジャンヌの防寨が、なお支持してる証拠であった。  それらの希望は、蜂の巣における戦いの騒音のように、一種の快活な”また恐ろしいささやきとなって、人々の群れから群れへとかわされていた。  アンジョーラは再び姿を現わした。彼は外部の暗黒の中をひそかに鷲のように翔り回って戻ってきたのである。彼は-しばし、両腕を組み/片手を口にあてて、人々の喜ばしい話を聞いていた。それから、次第に白んでゆく曙の色の中に/いきいきした薔薇のような姿で言った。 「パリーの全兵士が動員している、その三分の一はこの防寨に押し寄せてくるんだ。そのうえ国民兵も加わっている。僕は歩兵第五連隊の帽子と国民兵第六連隊の旗とを見て取った。攻撃までには一時間ばかりの余裕しかない。人民のほうは、昨日は沸き立っていたが、今朝は静まり返っている。今はモウ待つべきものも希望すべきものもない。郭外も連隊も共に駄目だ。われわれは孤立だ。」  その言葉は、人々の騒々しい話し声の上に落ちかかって、蜂の巣の上に落ちてくる暴風雨の/最初の一滴のような結果を生じた。みんなクチをつぐんでしまった。死の翔り回るのが聞こえるような名状し難い沈黙が、一瞬間続いた。  それはごくわずかのマだった。  群集の最も薄暗い奥の方から、一つの声がアンジョーラに叫んだ。 「よろしい。防寨を二丈の高さにして皆で死守しよう。諸君、死屍となっても抵抗しようではないか。人民は共和党を見捨てるとしても、共和党は人民を見捨てないことを、示してやろうではないか。」  その言葉は、すべての者の頭から/個人的な心痛の暗雲を払い去った。そして熱誠な拍手をもって迎えられた。  右の言葉を発した男の名前はエーキュウに知られなかった。それはある労働服を着た無名の男であり、見知らぬ男であり、忘れられた男であり、過ぎ去ってゆく英雄であった。かかる無名の偉人は、常に人類の危機と社会の開闢とに交じっていて、一定の時機におよんで断乎として決定的な一言を発し、電光のひらめきのうちに一瞬間民衆と神とを代表した後、またたちまち暗黒のうちに消えうせるものである。  不屈の決心は、1832年六月六日の空気に濃く漂っていた。右のこととほとんど同時に、サン・メーリーの防寨のうちでは、暴徒らが次の喊声を上げた。それは史上にも残り、当時の判定録にもしるされたものである。「援兵が来ると否とは問うところでない! われわれは最後のひとりまでここで戦死を遂げるんだ。」  読者の見るとおり、両防寨は実際上’孤立してはいたが、精神は互いに通い合っていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【五人を減じひとりを-くわう】 ◇。◇。◇。◇。◇。 「死屍の抵抗」を宣言した無名の男が、共通の魂の言葉を発したあと、一同の口から何とも言えぬ満足した/恐るべき叫びが出てきた。その意味は沈痛であったが/調子は勇壮であった。 「戦死万歳! 全員ここに踏みとどまろう。」 「なぜ全員だ?」とアンジョーラは言った。 「全員! 全員!」  アンジョーラは言った。 「地の理はよく、防寨は堅固だ。三十人もあれば充分だ。なぜ四十人を全部犠牲にする必要があるか?」  人々は答え返した。 「ひとりも去りたくないからだ。」 「諸君/」とアンジョーラは叫んだ。その声はほとんどゲッコウに近い震えを帯びていた。「共和は無用な者まで犠牲にするほど豊富な人数を有しない。虚栄は浪費である。ある者にとっては立ち去ることが義務であるならば、その義務もまた他の義務と同様に果たすべきではないか。」  主義の人なるアンジョーラは、絶対のものから来るような偉力を/同志の上に有していた。しかしその絶対的権力にもかかわらず、人々はなお不平をもらした。  テッ頭徹尾’首領たるアンジョーラは、人々がつぶやくのを見て、なお主張した。彼は昂然として言った。 「ただ三十人になることを恐れる者はそう言え。」  不満のつぶやきはますます高まった。 「それに、」とある群れの中から声がした、「立ち去ると口で言うのは容易だが、防寨は包囲されてるんだ。」 「イチバマチのほうは開いている。」とアンジョーラは言った。 「モンデトゥール街は自由だ、そしてプレーシュール街からインノサンイチバへ出られる。」 「そしてそこで捕まる。」と群れの中から他の声がした。「戦列兵か郊外兵かの前哨に行き当たる。労働服をつけフチ無し帽をかぶって通ればすぐ向こうの目につく。どこからきたか、防寨からではないか、と問われる。そして手を見られる。火薬のにおいがする。そのまま銃殺だ。」  アンジョーラはそれに答えないで、コンブフェールの肩に触れ、二人で居酒屋の下の広間にはいって行った。  彼らはまたすぐそこから出てきた。アンジョーラは両手にいっぱい、取って置いた4着の軍服を持っていた。あとに続いたコンブフェールは、カワオビと軍帽とを持っていた。 「この服をつけてゆけば、」とアンジョーラは言った、「兵士の間に交じって逃げることができる。立派に四人分ある。」  そして彼は、敷石をめくられた地面の上に四つの軍服を投げ出した。  堅忍なる聴衆のうちには身を動かす者もなかった。コンブフェールは語り出した。 「諸君、」と彼は言った。「憐憫の情を少し持たなければいけない。ここで何が問題であるか知っているか。問題は婦人の上にあるんだ。いいか。妻を持ってる者はないか。子供を持ってる者はないか。足で揺り籠を動かし”たくさんの子供に取り囲まれてる母親を持ってる者はないか。君らのうちで、かつて育ての親の乳房を見なかった者があるならば、手をあげてみたまえ。諸君はここで死にたいと言う。諸君に今’語っている僕もここで死にたい。しかし僕は、腕をネじあわして嘆く婦人の幻を自分の周囲に見たくはない。欲するならば死にたまえ。しかし他の人をも死なしてはいけない。ここでやがて行なわれんとする自滅は荘厳なものである。しかしその自滅は範囲をせばめて、決して他人におよぼしてはいけない。もしそれを近親の者にまでおよぼす時には、自滅ではなくて殺害となる。金髪の子供らのことを考えてみ、白髪の老人らのことを考えてみるがいい。聞きたまえ、いまアンジョーラが僕に話したことを。シーニュ街のカドに、光のさす窓が一つ見えていた、六階の粗末な窓に蝋燭の光がさしていた:、その窓ガラスには、一晩中’眠りもしないで待ってるらしい年取った女の頭が、ゆらゆらと映っていた。たぶんキミらのうちの誰かの母親だろう。で/そういう者は、立ち去るがいい。急いで行って、母親に言うがいい、お母さんただいま帰りましたと。安心したまえ、ここはあとに残った者だけで充分だ。自分の腕で一家を支えてる者には、身を犠牲にする権利はない。それは家庭を破滅させるというものだ。また娘を持ってる者、妹を持ってる者、そういう者はよく考えて見たまえ。自分の身を犠牲にする、自分は死ぬ、それはかまわぬ、しかし明日は? パンに窮する若い娘、それは恐ろしいことではないか。男は食を乞うが、女は身を売る。ああ/あのうるわしい/やさしい/可憐な娘ら:、花の帽子をかぶり、歌いさえずり、家の中に清らかな気を満たし/生きたるコウのようであり、地上における処女の純潔さで/天における天使の存在を証する者:、ジャンヌやリーズやミミ、諸君の恵みであり誇りである/愛すべき正直なる者、彼女らが-うえんとするのである。ああ/何と言ったらいいか。世には人の肉体のイチバがある。彼女らがそこに入るのを防ぐのは、彼女らのまわりに打ち震える諸君の影の手が/よくなし得るところではない。街路に、通行人でいっぱいになってる敷石の上に、商店の前に、首筋をあらわにし/泥にまみれてさまよう女のことを考えて見たまえ。その女どももまた/もとは純潔だったのだ。妹を持ってる者は妹のことを考えてみるがいい。困窮、淫売、官憲、サン・ラザール拘禁所:、そういう所に、あのうるわしい、たおやかな娘らは、あの五月のライラックの花よりもなおさわやかな/貞節と/温順と/美とのもろい宝は、ついに落ちてゆくのだ。ああ/諸君は身を犠牲にする、諸君はもはや生きていない。それは結構だ。諸君は民衆を王権から免れさせようと欲したのだ。しかもまた諸君は自分の娘を警察の手に渡すのである。諸君、よく注意したまえ、あわれみの心を持ちたまえ。婦人らのことを、不幸なる婦人らのことを、われわれは普通/あまり念頭に置いていない。婦人らが男のごとき教育を受けていないことに自ら得意となり、彼女らの読書を妨げ、彼女らの思索を妨げ、彼女らが政治に干与するのを妨げている。そこで今晩彼女らが、死体公示所へ行って諸君の死屍を見分けんとするのを、初めからさせないようにしてはどうか。家族のある者はわれわれの言に従い、われわれと握手して立ち去り、われわれをここに残して自由に働かしてくれてはどうか。むろん立ち去るには勇気が必要である。それは困難なことだ。しかし困難がダイなるほど、価値はますます大である。諸君は言う、俺は銃を持っている、俺は防寨にきている、どうでも俺は去らないと。どうでもと、そう口で言うのは容易い。しかし諸君、明日というものがある。その明日には、諸君はもう生きていないだろうが、諸君の家族はまだ残っているだろう。そしていかに多くの苦しみがやってくるか! ここにひとりの健康なかわいい子供がいるとする。林檎のようなホオをし、片言交じりに喋り/さえずり笑い、口づけをすればそのいきいきした肉体が感ぜらるる。ところが彼が見捨てられた時、どうなりゆくか考えてみたまえ。僕はそういう子供をひとり見たことがある。まだ小さなこれくらいな子だった。父親が死んだので、貧しい人たちが慈悲心から拾い上げた。しかし彼ら自身もパンに窮していた。子供はいつも腹をすかしていた。ちょうど冬だった。子供は泣きもしなかった。彼はストーヴに寄ってゆくが、そこには火もなく、煙突には黄色い土が塗りつけてあるばかりだ。子供はその土を小さな指先で少しはがして、それを食っていた。呼吸は荒く、顔は真っ青で、足には力がなく、腹はふくれていた。一言も口をきかなかった。話しかけても返事をしなかった。そしてついに死んだ。ネッケルの救済院に連れていって死なしたのだ。そこで僕は子供を見た。僕は当時その救済院に寄宿していたんだ。いま諸君のうちに、父親たる者があるならば、頑丈な手に子供の小さな手を引いて/日曜日の散歩を楽しみとしてる父親があるならば:、右の子供はすなわち自分の子供にほかならないと想像してもらいたい。僕はそのあわれな子供のことをよく覚えている、今も目に見るような気がする。裸のまま解剖台の上に横たわっていた時、その肋骨は墓場の草の下の土饅頭のように/皮膚の下に飛び出していた。胃袋の中には泥のようなものが見いだされた。歯の間には灰がついていた。さあ/胸のうちに目を向けて、心の声に耳を傾け-ようではないか。統計の示すところによると、親のない子供の死亡率は五十五パーセントにおよんでいる。僕は繰り返して言う、問題は妻の上に、母親の上に、若い娘の上に、頑是ない子供の上にある。諸君自身のことを言うのではない。諸君自身のことはよくわかっている。諸君が-みんな勇敢であることはよくわかっている。諸君が-みんな心のうちに、大義のために身を犠牲にするの喜びと光栄とを持ってることは、よくわかっている。諸君は有益な”また見事な死を遂げんがために-えらまれたる者であることを感じており、各人みな勝利の分け前を欲しておることは、よくわかっている。まさにそのとおりである。しかし諸君はこの世においてひとりではない。考えてやらなければならない他の人たちがいる。利己主義者であってはならないのだ。」  人々は-みな沈鬱な様子をしてコウベをたれた。  最も荘厳なる瞬間における人の心の不思議な矛盾さよ! 斯く語ったコンブフェール自身’孤児ではなかった。彼は他人の母親のことを思い出していたが、自分の母親のことは忘れていた。彼はおのれを死地に置かんとしていた。彼こそ「利己主義者」であった。  マリユスは飲食もせず、熱に浮かされたようになり、あらゆる希望の外にいで、悲痛の洲に乗り上げ、最も悲惨な難破者となり、激越な情緒に-ひたされ:、もはや最後が近づいたことを感じて、人が自ら甘受する最期の時間の前に常に来る/幻覚的な呆然さのうちに、次第に深く沈み込んでいた。  生理学者が今’彼の様子を観察したならば、科学上よく知られ/類別されてる熱性混迷の/次第に高まる徴候を見て取りえたであろう。この熱性混迷が苦悩に対する関係は、あたかも肉体的歓楽が快感に対するようなものである。絶望にもまたその恍惚たる状態がある。マリユスはそういう状態に達していた。彼はすべてのことを、外部から見るように眺めていた。前に言ったとおり、眼前に起こった事物も、彼には遠方のもののように思えた。全体はよく見て取れたが、些細な点はわからなかった。行ききする人々は炎の中を横ぎってるが-ようであり、人の話し声は深淵の底から響いてくるが-ようだった。  しかしながらただ今のことは彼の心を動かした。その情景のうちには鋭い一点があって、それに彼は胸を貫かれ/呼びさまされた。彼はもはや死ぬという一つの観念しか持っていず、それから気を散らされることを欲していなかった。しかし今や彼はその陰惨な夢遊のうちにあって、自ら身を滅ぼしながらも/他人を助けることは禁じられていないと考えた。  彼は声を上げた。 「アンジョーラとコンブフェールとの意見は正当だ。」と彼は言った。「無益な犠牲を払うの用はない。僕は二人の意見に賛成する。そして早くしなければいけない。コンブフェールは確かな事柄を言ったではないか。諸君のうちには、家族のある者がいるだろう、母や妹や妻や子供を持ってる者がいるだろう。そういう者はこの列から出たまえ。」  誰も動く者はなかった。 「結婚した者および一家の支柱たる者は、列外に出たまえ/」とマリユスは繰り返した。  彼の権威は偉大なものだった。アンジョーラはもとより防寨の首領であったが、マリユスは防寨の救済シュであった。 「僕はそれを命ずる/」とアンジョーラは叫んだ。 「僕は諸君に願う/」とマリユスは言った。  その時、コンブフェールの言葉に動かされ、アンジョーラの命令に揺られ、マリユスの懇願に感動されて、勇士らは、互いに指摘し始めた。「もっともだ。君は一家の主人じゃねえか。出るがいい。」とひとりの若者は壮年の男に言った。男は答えた。「むしろお前のほうだ。お前は二人の妹を養ってゆかなくちゃならねえんだろう。」そして異様な争いが起こった。互いに墳墓の口から出されまいとする争いだった。 「早くしなけりゃいけない。」とコンブフェールは言った。「もうジュウゴ六分もすれば間に合わなくなるんだ。」 「諸君、」とアンジョーラは言った、「ここは共和である、ばんにんが投票権を持っている。諸君は自ら去るべき者を-えらむがいい。」  彼らはその言葉に従った。数分の後、五人の男が全員一致をもって指名され、列から前に進み出た。 「五人いる/」とマリユスは叫んだ。  軍服は4着しかなかった。 「ではひとり残らなくちゃならねえ。」と五人の者は言った。  そしてまた互いに居残ろうとする争いが、他の者に立ち去るべき理由を多く見いださんとする争いが始まった。寛仁な争いだった。 「お前には、お前を大事にしてる女房がいる。──お前には年取ったお袋がいる。──お前には親父もお袋もいねえ、お前の小さな三人の弟はどうなるんだ。──お前は五人の子供の親だ。──お前は生きるのが本当だ、十七じゃねえか、死ぬ-には-ハエえ。」  それら革命の偉大な防寨は、勇壮の集中する所であった。異常なこともそこでは当然だった。勇士らはそれを互いに驚きはしなかった。 「早くしたまえ。」とクールフェーラックは繰り返した。  群れの中からマリユスに叫ぶ声がした。 「居残る者をあなたが指定して下さい。」 「そうだ、」と五人の者は言った、「選んで下さい。私どもはあなたの命令に従う。」  マリユスはもはや自分には何らの感情も残っていないと思っていた。けれども今、死ぬべき者をひとり選ぶという考えに、全身の血は心臓に集まってしまった。彼の顔は既に青ざめていたが、更に一抹の血の気もなくなった。  彼は五人のホウへ進んだ。五人の者は微笑’して彼を迎え、テルモピレの物語の奥に見らる-る/あの偉大なる炎に満ちた目をもって、各自彼に叫んだ。 「私を、私を、私を!」  マリユスは呆然として彼らを眺めた。やはり五人である! それから彼の目は4着の軍服の上に落ちた。  その瞬間、第五の軍服が天から降ったかのように、4着の軍服の上に落ちた。  五番目の男は救われた。  マリユスは目を上げた。そしてフォー-シュルヴァン氏の姿を認めた。  ジャン・ヴァルジャンはちょうど防寨の中にはいってきたところだった。  様子を探ってか、あるいは本能によってか、あるいは偶然にか、彼はモンデトゥール小路からやってきた。国民兵の服装のおかげでたやすくこれまで来ることができた。  反徒のほうがモンデトゥール街に出しておいた哨兵は、ひとりの国民兵のために警報を発することをしなかった。「たぶん援兵かも知れない、そうでないにしろ/どうせ捕虜になるんだ、」と思って、自由に通さしたのである。時機はきわめて切迫していた。自分の任務から気を散らし、その見張りの位置を去ることは、哨兵にはできなかった。  ジャン・ヴァルジャンがカクメンホウの中にはいってきた時、誰も彼に注意を向ける者はいなかった。すべての目は、えらまれた五人の男と4着の軍服との上に-そそがれていた。ジャン・ヴァルジャンもまたそれを見’それを聞き、それから黙って自分の上衣をぬいで、それを他の軍服の上に投げやった。  人々の感動は名状すべからざるものだった。 「あの男は誰だ?」とボシュエは尋ねた。 「他人を救いにきた男だ。」とコンブフェールは答えた。  マリユスは荘重な声で付け加えた。 「僕はあの人を知っている。」  その一言で一同は満足した。  アンジョーラはジャン・ヴァルジャンのほうを向いた。 「よくきて下すった。」  そして彼は言い添えた。 「御承知のとおり、われわれは死ぬのです。」  ジャン・ヴァルジャンは何の答えもせず、救い上げた暴徒に手伝って自分の軍服を着せてやった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【防寨の上より見たる地平線】 ◇。◇。◇。◇。◇。  この危急の時/この無残な場所における一同の状態には、その合成力として”またその絶頂として、アンジョーラの沈痛をきわめた態度があった。  アンジョーラのうちには革命の精神が充満していた。けれども、いかに絶対なるものにもなお欠けたところがあるとおり、彼にも不完全なところがあった。あまりにサン・ジュスト的なところが多くて、アナカルシス・クローツ的なところが充分でなかった(訳者注◇ 両者共に大革命時代の人)。けれど彼の精神は、ABCの友の結社において、コンブフェールの思想からある影響を受けていた。最近になって、彼は次第に独断の狭い形式から脱し、広汎なる進歩を目ざすようになり、偉大なるフランスの共和をして/広大なる人類の共和たらしむることを、最後の壮大な革新として受け入れるに至った。ただ直接現在の方法としては、激烈な情況にあるために、また激烈な処置を欲していた。この点においては彼は終始一貫していた。93年(1793年)という一語につくされる恐るべき叙事詩的一派に、彼はなお-とどまっていた。  アンジョーラはカラビン銃の銃口に片肘をついて/敷石の段の上に立っていた。彼は考え込んでいた。そしてある息吹を感じたかのように身を震わしていた。死のある所には、シンセンの机のごとき震えが起こるものである。魂の目がのぞき出てる彼の眸からは、押さえつけた炎のような輝きが発していた。と/突然’彼は頭をもたげた。その金髪は後ろになびいて、星を鏤めた/暗澹たる馬車に駕せる天使の頭髪のようで、また後光の炎を発する-いかった獅子の鬣のようであった。そしてアンジョーラは声を張り上げた。 「諸君、諸君は未来を心に-えがいてみたか。市街は光に満ち、戸口には緑の木が茂り、諸国民は同胞のごとくなり、人は正しく、老人は子供をいつくしみ:、過去は現在を愛し、思想家は-まったき自由を得、信仰者は全く平等となり、天は宗教となり、神は直接の牧師となり、人の本心は祭壇となり、憎悪は消え失せ、工場にも学校にも友愛の情があふれ:、賞罰は明白となり、万人に仕事があり、万人のために権利があり、万人の上に平和があり、血を流すこともなく、戦争もなく、母たる者は喜び楽しむのだ。物質を征服するは第一歩である。理想を実現するは第二歩である。進歩が既に何をなしたか考えてみよ。昔’最初の人類は、怪物が過ぎ行くのを恐怖に震えながら眼前に見た、水の上にうなりゆくカイダを、火を吐く怪竜を、鷲の翼と虎の爪とをそなえてかける空中の怪物たるグリフォンを。それらは皆’人間以上の恐るべき獣であった。しかるに人間は、罠を、知力の神聖なる罠を張り、ついにそれらの怪物を捕えてしまったのである。  吾人はカイダを制御した、それを汽船という。吾人は怪竜を制御した、それを機関車という。吾人はまさにグリフォンを制御せんとしている、既に手中に-たもっている、それを軽気球という。そしてこのプロメテウスのごとき仕事が成就する日こそ、すなわちカイダと/怪竜と/グリフォンとの三つの古代の夢想を、ついにおのれの意志に馴致し終わる日こそ、人間は水火風/三界のヌシとなり:、他の生ある万物に対しては、いにしえの神々が昔’人間に対して有していたような地位を、獲得するに至るだろう。奮励せよ、そして前進せよ! 諸君、吾人はどこへ行かんとするのであるか。政府を確立する科学へである、唯一の公けの力となる事物必然の力’へである、自ら賞罰を有し明白に宣揚する自然の大法へである、日の出にも比すべき真理の曙へである。吾人は各民衆の協和へ向かって進み、人間の統一へ向かって進む。もはや虚構を許さず、寄食を許さぬ。真実なるものによって支配されたる現実、それが目的である。文化はその審判の廷を、ヨーロッパの頂に、後には全大陸の中心に、知力の大議会のうちに、開くに至るだろう。これにやや似たものは既に行なわれた。古代ギリシャの連邦議員は、年に二回会議を開き、一つは神々の場所たるデルフにおいてし、一つは英雄の場所たるテルモピレにおいてした。やがては、ヨーロッパもこの連邦議員を有し、地球全体もこの連邦議員を有するに至るだろう。フランスは実に、この崇高なる未来を胸裏にいだいている。それが十九世紀の懐妊である。ギリシャによって描かれたその草案は、フランスによって完成されるに恥ずかしくないものである。僕の言を聞け、フイイー、キミは勇敢な労働者、民衆の友、ショミン衆の友だ。僕は君を尊敬する。君は明らかに未来を洞見した、君のなすところは正しい。君は、フイイー、父もなく母も持たなかった:、そして、仁義をハハとし/権利を父とした。君はここに死なんとしている、すなわち勝利を得んとしてるのだ。諸君、今日の事はいかになりゆこうとも、敗れることによって”また打ち勝つことによって、われわれが成さんとするのは一つの革命である。火災が全市を輝かすように、革命は全人類を輝かす。しかもわれわれはいかなる革命を成さんとするのか。それは今言うとおり真実なるものの革命である。政治的見地よりすれば、ただ一つの原則あるのみだ、すなわち人間が自らおのれの上に有する主権である。この自己に対する自己の主権を自由という。この主権の二個もしくは数個が結合するところに国家がはじまる。しかしその結合のうちには何ら権利の減殺はない。個々の主権がその多少の量を譲歩するのは、ただ共同的権利を造らんがためである。その量は各人みな同等である。各人が万人に対してなすこの譲歩の同一を、平等と言う。共同的権利とは、カクジンの権利の上に光り輝く万人の保護にほかならない。各人に対するこの万人の保護を、友愛という。互いに結合するあらゆる主権の交差点を、社会という。その交差は一つの接合であって、その交差点は一つの結び目である。斯くて社会的関係が生じてくる。ある者はそれを社会的約束という。しかし両者は同一のものである、約束なる語はその語原上より言っても/関係という観念で作られたものである。われわれはこの平等ということをよく了解しておかなくてはならない。なぜなれば、自由を頂点とするならば、平等は基底だからである。平等とは諸君、同じ高さの植物を言うのでない、大きな草の葉や小さな樫の木の仲間を言うのではない。互いに減殺’し合う一連の嫉妬を言うのではない。それは、民事上よりすれば、あらゆる能力が同等の機会を有することであり、政治上よりすれば、あらゆる投票が同等の重さを有することであり、宗教上よりすれば、あらゆる本心が同等の権利を有することである。平等は一つの機関を持つ、すなわち無料の義務教育である。アルファベットに対する権利、まずそこから始めなければならない。小学校を万人に強請し、中学校は万人の意に任せる、それが定法である。同一の学校から同等の社会が生ずる。そうだ、教育の問題である。光明、こうみょう! すべては光明より発し、光明に返る。諸君、十九世紀は偉大である、しかし二十世紀は幸福であるだろう。二十世紀にはもはや、古い歴史に見えるようなものは一つもないだろう。征服、侵略、簒奪、武力による各国民の競争、諸国王の結婚結合よりくる文化の障害、世襲的暴政を続ける王子の出生、会議による民衆の分割、王朝の崩壊による国家の分裂:、二頭の暗黒なる山羊のごとく/無限のハシジョーにおいてヒタイをつき合わする二つの宗教の争い、それらももはやコンニチのように恐るるに及ばないだろう。飢饉、不正利得、困窮から来る売淫、罷工から来る悲惨、絞首台、剣、戦争、および事変の森林中における-あらゆる臨時の追剥ぎ:、それらももはや恐るるに及ばないだろう、否/もはや事変すらもないとさえ言い得るだろう。人は幸福になるだろう。地球がおのれの法則を守るごとく、人類はおのれの大法を守り、調和は人の魂と/天の星との間に立てられるだろう。惑星が光体の周囲を回るごとく、人の魂は真理の周囲を回るだろう。諸君、われわれがいる現在の時代は、僕が諸君に語っているこの時代は、陰惨なる時代である。しかしそれは未来を贖うべき恐ろしい代金である。革命は一つの税金である。ああ/かくて人類は、解放され/高められ/慰めらる-るであろう! われわれはこの防寨の上において、それを人類に向かって断言する。愛の叫びは、もし犠牲の高処からでないとすれば/果たしてどこからいで得るか。おお/兄弟諸君、ここは考える者らと/苦しむ者らとの接合点である。この防寨は、敷石から/もしくは角材から/もしくは鉄屑からできてるのではない。二つの堆積からできてるのだ、思想の堆積と/苦難の堆積とからである。ここにおいて悲惨は理想と相会する。白日は暗夜を抱擁して言う、予は今’汝と共に死せんとし/汝は今’予と共に再生せんとする。あらゆる困苦を-だきしむることから信念がほとばしり出る。苦難はここにその苦痛をもたらし、思想はここにその不滅をもたらしている。その苦痛とその不滅とは相交わって、われわれの死を形造る。兄弟よ、ここで死ぬ者は未来の光明のうちに死ぬのである。われわれは曙の光に満ちたる墳墓の中に入るのである。」  アンジョーラは口をつぐんだ、というよりも/むしろ言葉を-とぎらした。彼の脣は、なお自分自身に向かって語り続けてるかのように、黙々として動いていた。ために人々は、注意を凝らしなおその言を聞かんがために彼を眺めた。何らの喝采も起こらなかったが、低いささやきが長く続いた。言葉は息吹である。それから来る知力の震えは木の葉のそよぎにも似ている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【粗野なるマリユス、簡明なるジャヴェル】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスの脳裏に起こったことをイチゴンしておきたい。  かれの心の状態を読者は記憶しているだろう。彼にとってすべてはもはや幻にすぎなかったとは、前に繰り返したところである。彼の識別力は乱れていた。なお言うが、瀕死の者の上にひろがる大きい/暗い翼の影にマリユスは包まれていた。彼は墳墓の中に入ったように感じ、既に人生の壁の向こう側にいるような心地がして、もはや生きたる人々の顔をも/しにんの目でしか眺めていなかった。  いかにしてフォーシュルヴァ-ン氏がここへきたのか、何ゆえにきたのか、何をしにきたのか? それらの疑問をもマリユスは起こさなかった。その上、人の絶望には特殊な性質があって、自分自身と同じく/他人をも包みこんでしまうものである。すべての人が死ににきたということも、マリユスには至って当然なことに思われた。  ただ彼は、コゼットのことを考えては心を痛めた。  それにまたフォーシュルヴァ-ン氏は、マリユスに言葉もかけず、マリユスのほうを眺めもせず、マリユスが声を上げて「僕はあの人を知っている」と言った時にも、その声を耳にしたような様子さえしなかった。  マリユスにとっては、フォーシュルヴァ-ン氏のそういう態度は意を安んぜさせるものであった。そしてもし言い-うべくんば、ほとんど彼を喜ばせるものであった。彼にとってフォーシュルヴァ-ン氏は怪しいとともにまたいかめしい/謎のごとき人物であって、いつも言葉をかけることは絶対に不可能のような気がしていた。そのうえ会ったのはよほど以前のことだったので、元来臆病で内気なマリユスはいっそう言葉をかけ難い気がした。  選ばれた五人の男は、モンデトゥール小路のホウへ防寨を出て行った。彼らはどう見ても国民兵らしく思われた。そのうちのひとりは涙を流しながら去っていった。防寨を出る前に彼らは残ってる人々を抱擁した。  イノチのうちに送り返される五人の男が出て行った時、アンジョーラは死に定められてる男のことを考えた。彼は下の広間に入っていった。ジャヴェルは柱に括られたまま考え込んでいた。 「何か望みはないか。」と彼にアンジョーラは尋ねた。  ジャヴェルは答えた。 「いつ俺を殺すのか。」 「待っておれ。今は弾薬の余分がないんだ。」 「では水をくれ。」とジャヴェルは言った。  アンジョーラは一杯の水を持ってき、彼がすっかり縛られてるので/自らそれを飲ましてやった。 「それだけか。」とアンジョーラは言った。 「この柱では楽でない。」とジャヴェルは答えた。「このまま一夜を明かさせたのは薄情だ。どう縛られても構わんが、あの男のようにテーブルの上に寝かしてくれ。」  そう言いながら頭を動かして/彼はマブーフ氏の死体をさした。  読者の記憶するとおり、玉を鋳たり/弾薬をこしらえたりした大きなテーブルが部屋の奥にあった。弾薬はすべて出来上がり/火薬はすべて用い尽されたので、そのテーブルはあいていた。  アンジョーラの命令で、四人の暴徒はジャヴェルを柱から解いた。解いてる間、五番目の男はその胸に銃剣をさしつけていた。両手は背中に縛り上げたままにし、足には細い丈夫な鞭縄をつけておいた。それで彼は絞首台に上る人のように、一足に一尺四五寸しか進むことができなかった。部屋の奥のテーブルの所まで歩かせて、人々はその上に彼を横たえ、身体の真ん中をしっかと縛りつけた。  なおいっそう安全にするために、脱走を不可能ならしむる縛り方をした上、首につけた縄で、監獄において「鞅」と呼ばるる縛り方を施した。縄を首の後ろから通して、胸の所で十字にし、それから股の間を通し、後ろの両手に結びつけるのである。  人々がジャヴェルを縛り上げてる間、ひとりの男が部屋の入り口に立って、妙に注意深く彼を眺めていた。ジャヴェルはその男の影を見て、頭をめぐらした。それから目をあげて、ジャン・ヴァルジャンの姿を認めた。ジャヴェルは別に驚きもしなかった。ただ傲然と目を伏せて、自ら一言言った。「ありそうなことだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【局面の急迫】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は急に明けてきた。しかし窓は一つも開かれず、戸口は一つも弛められなかった。夜明けではあったが、目ざめではなかった。防寨に相対してるシャンヴルリー街の-いったんは、前に言ったとおり、軍隊の撤退したあとで、今やまったく自由になったかのように、気味悪い静けさをして/人の通行を許していた。サン・ドゥニ街は、スフィンクスの控えてるテーベの大道のようにひっそりしていた。四つ辻は太陽の反映に白く輝いていたが、セイあるものは何もいなかった。寂念たる街路のその明るみほど、世に陰気なものはあるまい。  何物も目には見えなかったが、物音は聞こえていた。ある距離を隔てた所に怪しい運動が起こっていた。危機が迫ってることは明らかだった。前夜のように哨兵らが退いてきた、しかし今度は哨兵の全部だった。  防寨は第一の攻撃の時よりいっそう堅固になっていた。五人の男が立ち去ってから、人々は防寨をなお高めていた。  イチバマチの方面を見張っていた哨兵の意見を聞いて、アンジョーラは後方から不意打ちされるのを気遣い、一大決心を定めた。すなわちその時まで開いていたモンデトゥール小路の歯状堡をもふさがした。そのためになお数軒の人家にわたる敷石がめくられた。斯くて防寨は、前方シャンヴルリー街と、左方シーニュ街/およびプティート・トリュアンドリー街と、右方モンデトゥール街と、サンポウをふさいで、実際ほとんど難攻不落に思われた。彼らはまったくその中に閉じ込められた。正面は3方に向いていたが、出口は一つもなかった。「要塞にしてまた鼠罠か、」とクールフェーラックは笑いながら言った。  アンジョーラは居酒屋の入り口の近くに30ばかりの敷石を積ました。「よけいにめくったもんだ、」とボシュエは言った。  攻撃が来るに違いないと思われた方面は、今やいかにも深く静まり返っていた。で/アンジョーラは一同をそれぞれ戦闘位置につかした。  ブランデーの少量が各人に分配された。  襲撃に対する準備をしてる防寨ほど不思議なものは無い。人々は芝居小屋にでもはいったかのように/各自に自分の位置をえらむ。あるいは身体をよせかけ、あるいは肱をつき、あるいは肩でよりかかる。敷石を立てて特別の席をこしらえる者もある。邪魔になる壁の隅からはなるべく遠ざかる。身をまもるに便利なトッカクがあればそれにこもる。左ききの者は調法で、普通の者に不便な場所をしむる。多くの者は腰をおろして戦列につく。楽に敵を殺し/気持ちよく死ぬことを欲するからである。1848年六月の悲惨な戦いにおいては、狙撃の巧みなひとりの暴徒が平屋根の上で戦ったが、一個の安楽椅子を持ち出していた。そしてそれに腰掛けたまま霰弾にたおれた。  指揮者が戦闘準備の命令を下すや否や/すべて無秩序な運動は止む。もはや不和もなく、寄り集まりもなく、陰口もなく、離れた群れもない。人々の頭の中にあるものはみな一つに集中し、ただ敵の襲撃を待つの念だけに変わってしまう。防寨は危険が来る前までは混乱であるが、危険におちいれば規律となる。危急は秩序を生ずる。  アンジョーラが二連発のカラビン銃’を取って、自分の場所としてる一種の狭間に身を置くや、人々は口をつぐんでしまった。多くの小さな鋭い音が敷石の壁に沿ってごったに起こった。それは銃を構える音だった。  また人々の態度は、深い勇気と信念とを示していた。極度の犠牲心はかえって力を生ぜさせる。彼らはもはや希望を持たなかったが、しかし絶望を持っていた。絶望は時として勝利を与える最後の武器であるとは、ヴァージルの言ったところである。最上の手段は最後の決心から生まれてくる。死の船に乗り込むのは、往々にして難破から脱する方法となる。柩の蓋は身をまもる板となる。  前夜のとおり人々の注意は、今や明るくなって見えてきた街路の先端に向けられた、というよりそこに倚りかかったと言ってもよい。  待つマは長くなかった。どよめきの音がサン・ルーの方面にまたはっきり聞こえ始めた。しかしそれは第一回の攻撃のおりの運動とは異なっていた。鎖の音、ダイ集団の恐ろしいざわめき、敷石の上に当たる青銅の音、一種のおごそかな響き、それらはあるすごい鉄器が近づいてくるのを示していた。多くの利害と思想とが交通するために穿ち設けられ、恐ろしい戦車を通すために作られたのではない、それらの平和な古い街路のうちに、一つの震動が起こってきた。  街路の先端に据えられてた戦士らの瞳は、ものすごくなった。  一門の大砲が現われた。  砲手らが砲車を押し進めてきた。大砲は発射架の中に-いれられていた。前車ははずされていた。砲手の二人は砲架を支え、四人は車輪の所に添い、他の者らは-あとに続いて弾薬車を引いていた。火のついた火縄の煙が見えていた。 「打て/」とアンジョーラは叫んだ。  防寨は全部火蓋を切った。その射撃は猛烈だった。雪崩のような煙は、砲門と兵士らとを覆い隠した。数秒ののち/煙が散ると、大砲と兵士らとが再び見えた。砲手らは静かに正確に/急ぎもせず、砲口を防寨の正面に向けてしまっていた。玉にあたった者は一人もいなかった。砲手長は砲口を上げるため/砲ビに身体をもたせかけ、望遠鏡の度を合わせる天文学者のように落ち着き払って、照準を定め始めた。 「砲手、あっぱれ/」とボシュエは叫んだ。  そして、防寨の者は-みんな拍手した。  一瞬間の後には、大砲は街路の真ん中にドブをまたいでおごそかに据えられ、発射するばかりになっていた。恐るべき口は防寨の上に開かれていた。 「さあこい/」とクールフェーラックは言った。「ひどい奴だな、シッペイのあとに拳骨か。軍隊は俺たちのほうに大きな足を差し出したな。こんどは防寨も本当に動くぞ。小銃は掠めるばかりだが、大砲はぶっつかる。」 「新式の青銅の八斤砲だ。」とコンブフェールはそれに続いて言った。「あの砲は、銅と錫とが百に’10の割合を越すとすぐに破裂する。錫が多すぎれば弱くなって、’火門の中に幾つもすき間ができる。その危険を避け/しかも装薬を強くするには、十四世紀式に戻って箍をはめなくちゃいけない。すなわち砲ビから砲耳まで継ぎ目なしの鋼鉄の輪をたくさんはめて/外から強くするんだ。さもなければどうにかして欠点を補うんだ。ビョーソウ器で’火門の中にできた隙間がわかる。しかし最もいい方法は、グリボーヴァルの発明した動星器を用いることだ。」 「十六世紀には、」とボシュエは言った、「砲身内に旋条を施していた。」 「そうだ、」とコンブフェールは答えた、「そうすれば弾道力は増すが、狙いの正確さは減ずる。その上、短距離の射撃には、弾道は思うように真っ直ぐにならず、抛物線は大きくなり、玉は充分真っ直ぐに飛ばなくて”中間の物を打つことができなくなる。しかし実戦においては中間の物を打つ必要があって、敵が近くにおり発射を急ぐ場合には、ますますそれが大切となる。十六世紀の旋条砲の弾道が彎曲するその欠点は、装薬の弱さからきている。そして装薬を弱くするのは、この種の武器では、たとえば砲架を痛めないようにというような発射のほうの必要からきている。要するにこの専制者たる大砲も、欲することを何でもやれるわけではない。力には大なる弱点がある。砲弾は一時間に六百里しか走れないが、光線は一秒に七万里走る。それがすなわち、イエス・キリストのナポレオンに勝るところだ。」 「玉をこめ/」とアンジョーラは言った。  防寨の面は砲弾の下にどうなるであろうか。砲弾に穴をあけられるであろうか。それが問題であった。暴徒らが銃に再びタマをこめてるあいだに、砲兵らは大砲に弾をこめていた。  カクメンホウ内の懸念はすこぶる大きかった。  大砲は発射された。轟然たる響きが起こった。 「ただ今/」と快活な声がした。  砲弾が防寨の上に落ちかかると同時に、ガヴローシュが防寨の中に飛び込んできた。  彼はシーニ街の方からやってきて、プティート・トリュアンドリー小路に向いてる補助の防寨を/敏捷に乗り越えてきたのだった。  砲弾よりもガヴローシュのほうが防寨の中に騒ぎを起こした。  砲弾は雑多な破片の堆い中に没してしまった。せいぜい乗り合い馬車の車輪を一つこわし/アンソーのフル荷車を砕いたに過ぎなかった。それを見て人々は笑い出した。 「もっと打て。」とボシュエは砲兵らに叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【大砲の真の偉力】 ◇。◇。◇。◇。◇。  人々はガヴローシュの周囲に集まった。  しかし彼は何も物語る暇がなかった。マリユスは蓋然として彼を横のほうに招いた。 「何しに戻ってきたんだ。」 「なんだって/」と少年は言った。「お前のほうはどうだ?」  そして彼はおごそかな厚かましさでマリユスを見つめた。その両の目はシンチュウにある得意の情のために/一際大きく輝いていた。  マリユスはきびしい調子で続けて言った。 「戻ってこいと誰が言った! 少なくとも手紙は宛名の人に渡したのか。」  手紙のことについてはガヴローシュも多少やましいところがないでもなかった。防寨に早く戻りたいので、手紙は渡したというよりも/むしろ厄介払いをしたのだった。顔もよく見分けないで未知の男に託したのは多少’軽率だったと、彼は自ら認めざるを得なかった。実際その男は帽子をかぶってはいなかったが、それだけでは弁解にならなかった。要するに彼は、手紙のことについては少し心苦しい点があって、マリユスの叱責を恐れていた。で/その苦境をきりぬけるために、最も簡単な方法を取って、ひどい嘘を言った。 「手紙は門番に渡してきた。女の人は眠っていたから、目がさめたら見るだろう。」  マリユスはその手紙を贈るについて二つの目的を持っていた、コゼットに別れを告げることと、ガヴローシュを救うこと。で/彼は望みの半分だけが成就したことで満足しなければならなかった。  手紙の送達と、防寨の中にフォーシュルヴァ-ン氏の出現と、その二つの符合が彼の頭に浮かんだ。ガヴローシュにフォーシュルヴァ-ン氏をさし示した。 「あの人を知っているか。」 「いや。」とガヴローシュは言った。  実際ガヴローシュは、今言ったとおり、暗夜の中でジャン・ヴァ-ルジャンを見たに過ぎなかった。  マリユスの頭の中に浮かんできた漠然たる不安な推測は、ガヴローシュの一語に消えうせた。フォーシュルヴァ-ン氏の意見はわからないが、おそらくは共和派だろう。そうだとすれば、彼が防寨の中に現われたのも別に不思議はない訳だった。  そのうちにもうガヴローシュは、防寨の他の-いったんで叫んでいた。「俺の銃をくれ!」  クールフェーラックは銃を彼に返してやった。  ガヴローシュは彼のいわゆる「仲間の者ら」に、防寨が包囲されてることを告げた。戻って来るのは非常に困難だった。戦列歩兵の一隊が/プティート・トリュアンドリーに銃を組んでシーニュ街のほうを監視しており、市民兵がその反対の/プレーシュール街を占領していた。そして正面には軍勢の本隊が控えていた。  それだけのことを知らして、ガヴローシュは加えて言った。 「俺が許すから、奴らにどかんと一つ食わしてくれ。」  そのあいだ、アンジョーラは自分の狭間の所にあって、耳を澄ましながら様子をうかがっていた。  襲撃軍のほうは、砲弾の効果に不満だったのであろう、もうそれを繰り返さなかった。  一中隊の戦列歩兵が、街路の先端に現われて砲車の後ろに陣取った。彼らは街路の敷石をめくり、そこに敷石の小さな低い障壁をこしらえた。それは高さ一尺八寸くらいなもので、防寨に向かって作った一種のケンショウだった。ケンショウの左のカドには、サン・ドゥニ街に集まってる郊外国民兵の縦隊の先頭が見えていた。  向こうの様子をうかがっていたアンジョーラは、弾薬車から霰弾の箱を引き出すような音を耳にし、また砲手長が照準を変えて砲口を少し左へ傾けるのを見た。それから砲手らは弾をこめ始めた。砲手長は自ら火縄桿を取って、それを火口に近づけた。 「頭を下げろ、壁に寄り沿え/」とアンジョーラは叫んだ。「みんな防寨に沿って屈め!」  ガヴローシュがきたので、部署を離れて居酒屋の前に散らばってた暴徒らは、入り乱れて防寨のほうへ駆けつけた。しかしアンジョーラの命令が行なわれない前に、大砲は恐ろしい響きとともに発射された。果たしてそれは霰弾だった。  玉はカクメンホウの切れ目に向かって発射され、その壁の上にはね返った。その恐ろしいはね返しのために、二人の死者と三人の負傷者とが生じた。  もしそういうことが続いたならば、防寨はもう支え得られない。霰弾は内部にはいって来る。  狼狽のささやきが起こった。 「ともかくも第二発を防ごう。」とアンジョーラは言った。  そして彼はカラビン銃’を低く下げ、砲手長をねらった。砲手長はその時、砲ビの上に身をかがめて、照準を正しく定めていた。  その砲手長は立派な砲兵軍曹で、トシ若く、金髪の、やさしい容貌の男だったが、恐怖すべき武器として完成するとともに、ついには戦争を絶滅すべきその武器に、ちょうどふさわしい怜悧な様子をしていた。  アンジョーラのそばに立ってるコンブフェールは、その男をじっと眺めていた。 「まったく遺憾なことだ/」とコンブフェールは言った。「こういう殺戮は実に恐ろしい。ああ”国王がいなくなれば、戦いも-もうな-くなるんだ。アンジョーラ、キミはあの軍曹をねらっているが、どんな男かよくはわからないだろう。いいか、立派な青年だ、勇敢な男だ、思慮もあるらしい。若い砲兵は-みんな相当な教育を受けてる者どもだ。あの男には、父があり、母があり、家族があり、意中の女もあるかも知れない。多くて二十五歳より上では無い。君の兄弟かも知れないんだ。」 「僕の兄弟だ。」とアンジョーラは言った。 「そうだ、」とコンブフェールも言った、「また僕の兄弟でもある。殺すのは辞めようじゃないか。」 「僕に任してくれ。成すべきことは成さなければならない。」  そして一滴の涙が、アンジョーラの大理石のようなホオを静かに流れた。  と同時に、彼はカラビン銃の引き金を引いた。一閃の光がほとばしった。砲手長は二度ぐるぐると回り、腕を前方に差し出し、空気を求めてるように顔を上にあげたが、それから砲車の上に横ざまに倒れ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、その真ん中から真っ直ぐに血がほとばしり出ていた。玉は胸を貫いたのである。彼は死んでいた。  彼を運び去って代わりの者を呼ばなければならなかった。斯くて実際数分間の猶予が得られたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【昔ながらの射撃の手腕】 ◇。◇。◇。◇。◇。  防寨の中ではいろいろの意見がかわされた。大砲はまた発射されようとしていた。その霰弾を浴びせられてはジュウゴ六分しか支持されない。その力を殺ぐことが絶対に必要だった。  アンジョーラは命令を下した。 「布団の蔽いをしなくちゃいけない。」 「布団はない、」とコンブフェールは言った、「みんな負傷者が寝ている。」  ジャン・ヴァルジャンはひとり列から離れて、居酒屋のカドの標イシに腰掛け、銃を膝の間にはさんで、その時まで周囲に起こってることには少しも立ち交わらなかった。「銃を持っていて-なんにも-しねえのかな、」とまわりの戦士らが言う言葉をも、耳にしないが-ようだった。  ところがアンジョーラの命令が下されると、彼は立ち上がった。  読者は記憶しているだろうが、一同がシャンヴルリー街にやってきた時、ひとりのバアさんは弾の来るのを予想して、布団を窓の前につるしておいた。それは屋根裏の窓で、防寨の少し外にある/7階だての人家の屋根ウエになっていた。布団は斜めに置かれ、下部は二本の物干し竿に掛け、上部は二本の’綱でつるしてあった。綱は屋根部屋のマドベリに打ち込んだ釘に結わえられ、遠くから見ると2本の麻糸のように見えた。防寨から眺めると、その二本の’綱は髪の毛ほどの-ほそさで空に浮き出していた。 「誰か私に二連発のカラビン銃を貸してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  アンジョーラはちょうど自分のカラビン銃に弾をこめたところだったので、それを彼に渡した。  ジャン・ヴァルジャンは屋根部屋のほうをねらって、発射した。  布団の綱の一方は切れた。  布団はもはや一本の’綱で下がってるのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは第二発を発射した。第二の綱ははね返って窓ガラスにあたった。布団は二本のサオの間をすべって街路に落ちた。  防寨の中の者は喝采した。  人々は叫んだ。 「布団ができた。」 「そうだ、」とコンブフェールは言った、「しかし誰が取りに行くんだ?」  実際/布団は防寨の外に、防御軍と攻囲軍との間に落ちたのである。しかるに砲兵軍曹の死に殺気だった兵士らは、少し以前から、立てられた敷石の掩蔽線の後ろに腹ばいになり、砲手らが隊伍を整えてるあいだの大砲の沈黙を補うため、防寨に向かって銃火を開いていた。暴徒らのほうは、弾薬を無駄にしないようにそれには応戦しなかった。銃弾は防寨に当たって砕け散っていたが、街路はしきりに弾が飛んで危険だった。  ジャン・ヴァルジャンは防寨の切れ目から出て、街路に入り、弾丸の雨の中を横ぎり、布団の所まで行き、それを拾い上げ、背中に引っかけ、そして防寨の中に戻ってきた。  彼は自らその布団を防寨の切れ目にあてた。しかも砲手らの目につかぬよう壁によせて掛けた。  斯くして一同は霰弾を待った。  やがてそれは来た。  大砲は轟然たる響きとともに一発の霰弾を吐き出した。しかしこんどは少しもはね返らなかった。玉は布団の上に流れた。予期の効果は得られた。防寨の人々は無事であった。 「共和政府は君に感謝する。」とアンジョーラはジャン・ヴァルジャンに言った。  ボシュエは驚嘆し/かつ笑った。彼は叫んだ。 「布団にこんな力があるのはけしからん。ぶつかる物に対するたわむ物の勝利だ。しかしとにかく、大砲の勢いをそぐ布団は光栄なるかなだ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 【黎明】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどこの時刻に、コゼットは目をさました。  彼女の部屋は狭く/小ぎれいで/奥まっていた。家の後庭に面して、東向きの細長い窓が一つついていた。  コゼットはパリーにどんなことが起こってるか少しも知らなかった。彼女は前夜’外に出なかったし、「騒ぎがもち上がってるようでございますよ」とトゥーサンが言った時には、もう自分の部屋に退いていた。  コゼットは少しの間しか眠らなかったが、そのあいだは深く熟睡した。彼女は麗しい夢を見た。それはおそらく小さな寝台が純白であったせいも多少あろう。マリユスらしい誰かが、光のうちに彼女に現われた。彼女は目に太陽の光が差したので目ざめた。そして初めは-それもなお夢の続きのような気がした。  夢から出てきたコゼットの最初の考えは、喜ばしいものだった。彼女の心はすっかり落ち着いていた。数時間前のジャン・ヴァ-ルジャンと同じく彼女も、不幸を絶対にしりぞけようとする心的反動のうちにあった。なぜともなく全力をつくして希望をいだきはじめた。それから突然’悲しい思いが起こってきた。──このまえマリユスに会ってから/もう3日になっていた。しかし彼女は自ら考えた。マリユスは自分の手紙を受け取ったに違いない、自分のいる所を知ったはずである、知恵のある人だから、どうにかして自分の所へきてくれるだろう。──そしてそれも確かに今日だろう、今朝かも知れない。──もうすっかり明るくなっていたが、ヒの光は横ざまに流れていた。まだごく早いんだろうと彼女は思った。けれどもとにかく起きなければならなかった、マリユスが来るのを迎えるために。  彼女はマリユスなしには生きておれないような気がした。そしてそれでもう充分だった。マリユスはきっと来るだろう。こないという理由は少しも認められなかった。来ることは確かだった。三日間も苦しむのは既に恐ろしいことだった。三日もマリユスに会わせないとは神様もあまりひどすぎた。けれど今は、神の残酷な悪戯たる試練もきりぬけてきたし、マリユスは-きっといい消息を持ってきつつあるに違いなかった。実に青春とはそうしたものである。青春はすぐに目の涙をかわかす。悲しみを不用なものとして、それを受け入れない。青春はある未知の者の前における未来のほほえみである、しかもその未知の者は青春自身である。それが幸福であるのは自然である。その息はあたかも希望でできてるかのようである。  その上コゼットは、マリユスがやってこないのはただ一日だけだというそのことについて、彼がどんなことを言ったか、またどんな説明をしたか、それを少しも思い出すことができなかった。地に落とした一個の貨幣がいかに巧みに姿を隠すか、そしていかにうまく見えなくなってしまうかは、人の皆知るところである。観念のうちにもそういうふうに人をたぶらかすものがある。一度頭脳の片隅に潜んでしまえば、もうおしまいである、姿が見えなくなってしまう、記憶で取り押さえることができなくなる。コゼットも今、記憶を働かしてみたが少しも効がないのにじれていた。マリユスが言った言葉を忘れてしまったのは、不都合なことであり済まないことであると、彼女は思った。  彼女は寝床から出て、魂と身体と両方の斎戒を、すなわち祈祷と化粧とをした。  やむを得ない場合には読者を婚姻の部屋に導くことはできるが、処女の部屋に導くことははばかられる。それは韻文においてもでき難いことであるが、散文においてはなおさらである。  処女の部屋は、まだ開かぬ花の内部である、闇の中の白イロである、閉じたる百合のひそやかな部屋で、太陽の光がのぞかぬうちは/人がのぞいてはならないものである。蕾のままでいる婦人は神聖なものである。自らあらわなるその清浄な寝床、自らおのれを恐れる尊い半裸体、上靴の中に逃げ込む白い足:、鏡の前にも人の瞳の前かのように/身を隠す喉元、器具の軋る音や馬車の通る音にも/急いで肩の上に引き上げられるシャツ:、結わえられたリボン、はめられた留め金、しめられた紐、かすかなおののき、寒さや貞節から来る小さな震え、あらゆる動きに対するそれとなき恐れ:、気づかわしいもののないおりにも常に感ずる軽やかな不安、暁の雲のように麗しいそれぞれの衣服の襞、すべてそれらのものは語るにふさわしいものではない。それを列挙するだけで既に余りあるのである。  人の目は、上りゆく星に対するよりも/起き上がる若き娘の前に、いっそう敬虔でなければならない。手を触れることができるだけに、いっそうそっとしておくべきである。桃の実の絨毛、梅の実のフンモウ、輻射状の雪の結晶、コナウにおおわれてる蝶の翼、などさえも皆、自らそれと知らない処女の純潔さに-くらぶれば、むしろ粗雑なものにすぎない。若き娘は夢にすぎなくて、まだ一つの像ではない。その寝所は理想の仄暗い部分のうちに隠れている。不注意な一瞥はそのバクたる陰影を侵害する。そこにおいては観照も冒涜となる。  それでわれわれは、コゼットが目をさましたおりの/その香ばしい/多少取り乱れた姿については、少しも筆を染めないでおこう。  東方の物語が伝えるところによると、薔薇の花は神から真っ白に作られたが、まさに開かんとする時アダムにのぞかれたので、それを羞じて赤くなったという。われわれは若き娘と花とを尊むがゆえに、その前においては無作法な言を弄し得ないのである。  コゼットは急いで装いをし、髪を梳き/それを結んだ。当時の婦人は、入れ毛や芯などを用いて髷や鬢をふくらすことをせず、髪の中に座型をいれることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、ホウボウを見回して、街路の一部や/家のカドや/敷石の片隅などを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻のドブの-いったんでも今は彼女の望みにいっそう叶うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空を眺めた。  すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて/重苦しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然と感じた。実際いろいろのことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。  それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的な/そして’神に信頼した微笑とが、心に起こってきた。  まだ家中は眠っていた。あたりは田舎のように静かだった。窓の扉は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくありうべからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きがときどき聞こえていた。こんなに早くからオオモンを開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨を攻撃してる大砲の響きだった。  コゼットの部屋の窓から数尺下の所、壁についてる真っ黒な古い蛇腹の中に、燕の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上から覗くとその小さな楽園の中が見られた。母親は扇のように翼をひろげて雛を覆うていた。父親は飛び上がって出て行き、それからまた戻ってきては、嘴の中に餌と口づけをもたらしていた。朝日の光はその幸福な一群を金色に輝かし、増せよ殖えよという自然の大法は/そこにおごそかにほほえんでおり、そのやさしい神秘は/朝の光栄に包まれて花を開いていた。コゼットは朝日の光を髪に受け、魂を空想のうちに浸し、内部は愛に/外部は曙に輝かされ:、ほとんど機械的に身をかがめて、同時にマリユスのことを思ってるのだとは自ら気づきもせずに、それらの小鳥を、その家庭を、その雌雄を、その母と雛とを、小鳥の巣から乙女心を深く乱されながら打ち眺め始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【人を殺さぬ確実なる狙撃】 ◇。◇。◇。◇。◇。  襲撃軍の射撃はなお続いていた。小銃と霰弾とはこもごも発射された。しかし実際は大なる損害を与えなかった。ただコラント亭の正面の上部だけはひどく害を受けた。二階の窓や屋根部屋の窓は、霰弾のために無数の穴を明けられて、次第に形を失ってきた。そこに陣取っていた戦士らは身を隠すのやむなきに至った。けれども、それは防寨攻撃の戦術上の手段であって、長く射撃を続けるのも、暴徒らに応戦さして/その弾薬をなくすためだった。暴徒らの銃火が弱ってき、もはや’玉も火薬もなくなったことがわかる時に、いよいよ襲撃をやろうというのだった。しかしアンジョーラはその罠にかからなかった。防寨は少しも応戦しなかった。  兵士らの射撃が来るたびごとにガヴローシュは舌でホオをふくらました。それは傲然たる軽蔑を示すものだった。 「うまいぞ、」と彼は言った、「どしどし着物を破ってくれ。俺たちは繃帯がいるんだ。」  クールフェーラックは効果の少ない霰弾を嘲って、大砲の方へ向かって言った。 「おい、大変’無駄使いをするね。」  戦いにおいても舞踏会におけるがごとく、人は相手をほしがるものである。カクメンホウが斯く沈黙してることは、攻撃軍に不安を与え、何か意外の変事が起こりはしないかと心配させ始めたらしい。そして彼らは、敷石の砦の向こうを見届けたく思い、射撃を受けながら応戦もしないその平然たる障壁の背後には、どういうことが行なわれてるか知りたく思ったらしい。暴徒らはふいに、近くの屋根の上に日光に輝く一つの兜帽を見いだした。ひとりの消防兵が高い煙突に身を寄せて、偵察をやってるらしかった。その視線は真上から防寨の中に落ちていた。 「あそこに困った偵察者が出てきた。」とアンジョーラは言った。  ジャン・ヴァルジャンはアンジョーラのカラビン銃を返していたが、なお自分の小銃を持っていた。  一言も口をきかずに彼は消防兵をねらった。そして一瞬の後には、その兜帽は一弾を受けて音を立てながら街路に落ちた。狼狽した兵士は急いで身を隠した。  第二の観察者がそのあとに現われた。それは将校だった。再び小銃に弾をこめたジャン・ヴァ-ルジャンは、その将校をも狙い、その兜帽を兵士の兜帽と同じ所に打ち落とした。将校もたまらずにすぐ退いてしまった。そしてこんどは、ジャン・ヴァルジャンの考えが向こうに通じたらしかった。もう誰も再び屋根の上に現われなかった。防寨の中をうかがうことはやめられた。 「なぜ殺してしまわないんだ?」とボシュエはジャン・ヴァルジャンに尋ねた。  ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【秩序の味方たる無秩序】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ボシュエはコンブフェールの耳にささやいた。 「あの男は僕の言葉に返事をしない。」 「射撃をもって好意を施す男だ。」とコンブフェールは言った。  既に昔となってるその当時のことをまだ多少記憶してる人々は、郊外からきた国民兵らが暴動に対して勇敢であったことを知ってるであろう。彼らは特に1832年六月の戦いに熱烈で勇猛だった。パンタンや/ヴェルテュや/キュネットなどの飲食店の主人のうちには、暴動のために「営業」を休まなければならなくなり、舞踏室が荒廃したのを見て憤激し、飲食店の秩序を-たもたんがために、ついに戦死した者もあった。斯く中流市民的にして”また勇壮なるこの時代には、いろいろの思想にも/それに身をささぐる騎士がいるとともに、いろいろの利益にも/それをまもる勇士がいた。動機の卑俗さは何ら行動の勇壮さを減殺’しはしなかった。蓄積された貨幣の減少を回復せんがためには、銀行家らもマルセイエーズを高唱した。勘定場のためにも叙情詩的な血が流された。人々はスパルタ的な熱誠をもって、祖国の微小縮図たる店頭を防御した。  コンポンにおいては、それらのものの中にこもっていた意義は皆’真面目なものであったと言うべきである。すなわち社会の各要素が、平等の域に入る前にまず、闘争の域に入っていたのである。  なおこの時代のもう一つの特徴は、政府主義(几帳面な一党派に対する乱暴な名前ではあるが)のうちに交じってる無政府主義であった。人々は不規律をもって秩序の味方をしていた。国民軍の某大佐の指揮の下に/勝手な召集の太鼓はふいに鳴らされた。某大尉は自分一個の感激から戦いに向かった。某国民軍は「思いつき」で勝手な戦いをした。危急の瞬間に、「騒乱」のうちに、人々は指揮官の意見よりも/むしろ多く自己の本能に従った。秩序を守る軍隊の中に、真の単独行動の兵士が数多あった、しかもファンニコのごとく剣による者もあれば、アンリ・フォンフレードのごとくペンによる者もあった。  一群の主義によってよりも/むしろ一団の利益によって/当時’不幸にも代表されていた文明は、危険に陥っていた、あるいは陥っていると自ら信じていた。そして警戒の叫びを発していた。各人は自ら中心となり、勝手に文明をまもり/助け庇っていた。誰も-みな社会の救済をもっておのれの任務としていた。  熱誠のあまり/時としては鏖殺を事とするに至った。国民兵の某隊は、その私権をもって軍法会議を作り、わずか五分間のうちに/ひとりの捕虜の暴徒を裁断して死刑に処した。ジャン・プルーヴェールが殺されたのも、かかる即席裁判によってだった。実に凶猛なるリンチ法(私刑の法)であって、それについてはいずれの党派も他を非難する権利を有しない。なぜならそれは、ヨーロッパの王政によって行なわれたとともに”またアメリカの共和政によっても行なわれたからである。そしてこのリンチ法には、また多くの誤解が含まっていた。ある日の暴動のおり、ポール・エーメ・ガルニエというひとりの若い詩人は、ロアイヤル広場で兵士に追跡されて”まさに銃剣で突かれんとしたが、六番地の門の下に逃げ込んでようやく助かった。「サン・シモン派のひとりだ」と兵士らは叫んで、彼を殺そうとしたのである。彼はサン・シモン公の追想記を一冊’小わきにかかえていた。ひとりの国民兵がその書物の上にサン・シモンという一語を見て、「死刑だ/」と叫んだのだった。(訳者注◇ サン・シモン公は社会主義者サ-ン・シモンとは別人)  1832年六月六日、郊外からきた国民兵の一隊は、上にあげたファンニコ大尉に指揮されて、自ら好んで勝手に、シャンヴルリー街で大損害を受けた。この事実はいかにも不思議に思えるが、1832年の反乱後に開かれた法廷の審問によって証明されたものである。ファンニコ大尉は性急無謀な中流市民で、秩序の別働者とも称すべき男で、上に述べたような種類の人々のひとりであり:、熱狂的な頑強な政府党であって、時機がこないのに早くも射撃をしたくてたまらなくなり、自分ひとりで/すなわち自分の中隊で防寨を占領しようという野心に駆られた。赤旗が上げられ、次いで古い上衣が上げられたのを黒’旗だと思い、それを見てまたゲッコウした。将軍や指揮官らは会議を開いて、断然たる襲撃の時機はまだきていないと考え、そのひとりの有名な言葉を引用すれば、「反乱が自ら自分を料理する」まで待とうとした時、彼はコワダカにそれを非難した。彼から見れば、防寨はもう熟していたし、熟したものは落ちるべきはずだったので、彼はあえて行動したのだった。  彼が指揮していた一隊も、彼と同じく決意の者どもであって、イチ実見者の言うところによると、「熱狂者ども」であった。彼の中隊は、詩人ジャン・プルーヴェールを銃殺した中隊で、街路のカドに置かれてる大隊の先頭になっていた。最も意外な時機に、大尉は部下を防寨に突進さした。その行動は、戦略よりもむしろ多くほしいままな心からなされたもので、ファンニコの中隊には高価な犠牲をもたらした。街路の三分の二も進まないうちに、防寨からの一斉射撃を-こうむった。先頭に立って走っていた最も大胆な四人の兵は、カクメンホウの足下で狙い打ちにされた。そしてこの国民兵の勇敢な一群は、みな豪勇な者らではあったが/戦いの粘着力を少しも持っていなかったので:、しばらく躊躇したあと、敷石の上に十五の死体を遺棄しながら、退却のやむなきに至った。その躊躇の暇は、暴徒らに再びタマをこめる余裕を与えた。そして避難所たるカドに達しないうちに、第二の一斉射撃を受けて”また大なる損害をこうむった。一時彼らは敵味方の射撃の間にはさまれた。砲兵は何の命令も受けないので/なお発射を続けていたから、その霰弾をも受けたのである。大胆無謀なファンニコは、霰弾にたおれたひとりだった。彼は大砲すなわち秩序から殺されたのである。  その激しいというよりむしろ狂乱的な攻撃は、アンジョーラをゲッコウさした。彼は言った。 「馬鹿野郎! 下らないことに、部下を殺し、俺たちに弾薬を使わせやがる。」  アンジョーラは暴動の真の将帥だったが、言葉もそれにふさわしかった。反軍と鎮定軍とは同等の武器で戦ってるのではない。反軍のほうは早く力を失いやすいものであって、発射する弾薬にも限りがあり、犠牲にする戦士にも限りがある。一つの弾薬盒がカラになり、ひとりの戦士がたおれても、もはやそれを補充すべき道はない。しかるに鎮定軍のほうには、軍隊が控えて人員には限りがなく、ヴァンセンヌ兵機局が控えていて弾薬には限りがない。鎮定軍には、防寨の人員と同数ほどの連隊があり、防寨の弾薬嚢と同数ほどの兵器廠がある。それゆえ常に一をもって百に当たるの戦いであって、もし革命が突然’現われて/戦いの天使の炎の剣をハカリの一方に投ずることでもない限りは、防寨はついに粉砕さるるにきまっている。しかし一度革命となれば、すべてが立ち上がり、街路の敷石は沸き立ち、人民のカクメンホウは至る所に築かれ:、パリーはおごそかに震い立ち、天意的なものが現われきたり、八月十日(1792年)は空中に漂い、七月二十九日(1830年)は空中に漂い:、驚くべき光が現われ、うち開いてる武力のオトガイはたじろぎ、獅子のごとき軍隊は、予言者フランスがつっ立って泰然と構えているのを、眼前に見るに至るのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十三章】 【過ぎゆく光】 ◇。◇。◇。◇。◇。  一つの防寨を守る混沌たる感情と情熱とのうちには、あらゆるものがこもっている。勇気があり、青春があり、名誉の意気があり、熱誠があり、理想があり、確信があり、賭博者の熱があり、また特に間歇的な希望がある。  この一時の希望の漠然たる震えの一つが、最も意外な時に、シャンヴルリーの防寨を突然’過ぎった。 「耳を澄まして見ろ、」となお様子をうかがっていたアンジョーラはにわかに叫んだ、「パリーが覚醒してきたようだ。」  実際六月六日の朝、イチニ時間のあいだ、反乱はある程度まで増大していった。サン・メーリーの頑強な警鐘の響きは、逡巡してる者らを多少奮い立たした。ポアリエ街とグラヴィリエ街とに防寨が作られた。サン・マルタン凱旋門の前では、カラビン銃を持ったひとりの青年が、単独で一個中’隊の騎兵を攻撃した。掩蔽物もない大通りの真ん中で、彼は地上にひざまずき、銃を肩にあて/引き金を引いて、中隊長を射殺し、それから振り向いて言った。「これでまたひとり悪者がなくなった。」彼はサーベルで薙ぎ倒された。サン・ドゥニ街では、目隠しゴウシの後ろからひとりの女が、市民兵に向かって射撃をした。一発ごとに、目隠しゴウシの板が動くのが見えた。ポケットにいっぱい弾薬を入れている十四歳の少年がひとり、コソンヌリー街で捕えられた。多くの衛舎は攻撃を受けた。ベルタン・ポアレ街の入り口では、カヴェーニャク・ド・バラーニュ将軍が先頭に立って進んでいた一個連隊の胸甲兵が、まったく不意の激しい銃火にむかえ打たれた。プランシュ・ミブレー街では、屋根の上から軍隊を目がけて、古い皿の破片や什器などが投げられた。それははなはだよくない徴候で、スールト元帥にその事が報告された時、昔/ナポレオンの参謀だった彼もさすがに考え込んで、サラゴサの攻囲のおり/シューシェが言った言葉を思い起こした:、「婆さんどもまでが尿瓶のものをわれわれの頭上にぶちまけるようになっては、とても駄目だ。」  暴動は一局部のことと思われていた際に/突然’現われてきた各所の徴候、優勢になってきたフンヌの熱、パリー郭外と呼ばるる莫大な燃料の堆積の上に/あちらこちら飛び移る火の粉:、それらのものは軍隊の指揮官らに不安の念を与えた。彼らは急いでそれらの火災の始まりを揉み消そうとつとめた。そしてモーブュエや/シャンヴルリーや/サン・メーリーなどの各防寨は、最後に残して一挙に粉砕せんがために、各所の火の粉を消してしまうまで、その攻撃を延ばした。軍隊は沸き立った各街路に突進し、あるいは用心して徐々に進み、あるいは一挙に襲撃しながら、右に左に、ダイなるものは掃蕩し、ショウなるものは探査した。兵士らは銃を発射する人家の扉を打ち破った。同時に騎兵も活動を始めて、大通りの群集を駆け散らした。そしてこの鎮圧はかなりの騒擾を起こし、軍隊と人民との衝突に特有な騒々しい響きを立てた。砲火と銃火との響きのあいだあいだにアンジョーラが耳にしたのは、その騒ぎの音であった。そのうえ彼は担架にのせられた負傷者らが通るのを街路の先端に認めて、クールフェーラックに言った:、「あの負傷者らは我が党の者ではない。」  しかしその希望は長く続かなかった。光明は間もなく消えてしまった。三十分とたたないうちに、空中に漂ってたものは消散しつくした。あたかも雷を伴わない電カのようなものだった。孤立しながら固執する者らの上に/人民の冷淡さが投げかける/鉛のような重い一種の外套を、暴徒らは再び身に感じた。  漠然と輪郭だけができかかってきたらしい一般の運動は、早くも失敗に終わってしまった。今や陸軍大臣の注意と諸将軍の戦略とは、なお残ってるサンヨンの防寨の上に集中されることになった。  太陽は地平線の上に上ってきた。  ひとりの暴徒はアンジョーラを呼びかけた。 「われわれは腹がすいてる、実際こんなふうに-なんにも食わずに死ぬのかね。」  自分の狭間の所になお肱をついていたアンジョーラは、街路の先端から目を離さずに、頭を動かしてうなずいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十四章】 【アンジョーラの情婦の名】 ◇。◇。◇。◇。◇。  クールフェーラックはアンジョーラのソバの敷石の上にすわって、大砲をなお罵倒し続けていた。霰弾と呼ばるる爆発の暗雲が/恐ろしい響きを立てて通過するたびごとに、彼は冷笑の声を上げてそれを迎えた。 「喉を痛めるぞ、馬鹿な古狸めが。気の毒だが、大声を出したって駄目だ。まったく、雷とは聞こえないや、咳くらいにしか思われない。」  そして周囲の者は笑い出した。  クールフェーラックとボシュエは、危険が増すとともにますます勇敢な上機嫌さになって、スカロン夫人のように、冗談をもって食物の代用とし、また葡萄酒がないので、人々に快活の気分を-ついでまわった。 「アンジョーラは豪い奴だ。」とボシュエは言った。「あのびくともしない豪勇さはまったく僕を驚嘆させる。彼はひとり者だから、多少悲観することがあるかも知れん。豪いから女ができないんだといつもこぼしてる。ところがわれわれは-みんな多少なりと情婦を持っている。だから馬鹿になる、言い換えれば勇敢になる。虎のように女に夢中になれば、少なくとも獅子のように戦えるんだ。それは女から翻弄された一種の復讐だ。ローランはアンゼリックへの面当に戦死をした。われわれの勇武は-みんな女から来る。女を持たない男は、撃鉄のないピストルと同じだ。男を勢いよく発射させる者は女だ。ところがアンジョーラは女を持っていない。恋を知らないで、それでいて勇猛だ。氷のように冷たくて/火のように勇敢な男というのは、まったく前代未聞だ。」  アンジョーラはその言葉をも耳にしないかのようだった。しかし彼のソバにいた者があったら、彼が半ばくちの中で/パトリア(祖国)とつぶやくのを聞き取ったであろう。  ボシュエは-なお冗談を言い続けていたが、その時クールフェーラックは叫んだ。 「またきた!」  そして来客の名を告げる接待員のような声を出して付け加えた。 「八斤砲でございます。」  実際新しい人物がひとり/舞台に現われてきた。第二の砲門だった。  砲兵らはすみやかに行動を開始して、第二の砲を第一の砲の近くに据えつけた。  それによって、防寨の最後はほぼ察せられた。  しばらくすると、急いで操縦された二個の砲は、カクメンホウに向かって正面から火蓋を切った。戦列歩兵や郊外国民兵らの銃火も、砲兵を掩護した。  ある距離を隔てて他の砲声も聞こえた。ニモンの砲がシャンヴルリー街のカクメンホウに打ちかかったと同時に、他の二門の砲はサン・ドゥニ街とオーブリー・ル・ブーシュ街とに据えられて、サン・メーリーの防寨を攻撃したのである。四個の砲門は互いに恐ろしく反響をかわした。  それら陰惨な闘犬の吠え声は、互いに応え合ったのである。  今やシャンヴルリー街の防寨を攻撃してる二門の砲のうち、一つは霰弾を発射し、一つは榴弾を発射していた。  榴弾を発射していた砲は、少し高く照準されて、防寨の頂の先端に弾が落下するようにねらわれたので、そこを破壊して、霰弾の破裂するがような敷石の破片を/暴徒らの上に浴びせた。  かかる砲撃の目的は、カクメンホウの頂から戦士らを追いしりぞけ、その内部に集まらせようとするにあった。言い換えれば、突撃の準備だった。  一度戦士らが、榴弾のために防寨の上から追われ/霰弾のために居酒屋の窓から-おわるれば、襲撃隊はねらわれることもなく”またおそらく気づかれることもなく、その街路にはいり込むことができ:、前夜のようににわかにカクメンホウをよじ上ることもでき、不意を襲って占領し得るかも知れなかった。 「どうしてもあの邪魔な砲門を少し沈黙させなければいけない。」とアンジョーラは言った。そして叫んだ。「砲手を射撃しろ!」  一同は待ち構えていた。長く沈黙を守っていた防寨は、おどり立って火蓋を切った。シチハチ回の一斉射撃は、一種の憤激と喜悦とをもって相次いで行なわれた。街路は濃い硝煙に満たされた。そして数分間の後、炎の線に貫かれたその靄をとおして、砲手らの三分の二は/砲車の下にたおれてるのがかすかに見られた。残ってる者らはいかめしく落ち着き払って、なお砲撃に従事していたが、発射はよほどゆるやかになった。 「うまくいった。成功だ。」とボシュエはアンジョーラに言った。  アンジョーラは頭を振って答えた。 「まだジュウゴ六分間しなければ成功とは言えない。しかもそうすれば、もう防寨には十個ばかりの弾薬しか残らない。」  その言葉をガヴローシュが耳にしたらしかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十五章】 【外に出た-るガヴローシュ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  クールフェーラックは防寨のすぐ下の外部に、弾丸の降り注ぐ街路に、ある者の姿を突然’見いだした。  ガヴローシュが、居酒屋の中から壜を入れる籠を取り、防寨の切れ目から外に出て、カクメンホウの裾で殺された国民兵らの弾薬盒から、中にいっぱいつまってる弾薬を取っては、平然としてそれを籠の中に入れてるのだった。 「そこで何をしてるんだ/」とクールフェーラックは言った。  ガヴローシュは顔を上げた。 「籠をいっぱいにしてるんだ。」 「霰弾が見えないのか。」  ガヴローシュは答えた。 「うん、雨のようだ。だから?」  クールフェーラックは叫んだ。 「戻ってこい!」◇。 「今すぐだ。」とガヴローシュは言った。  そして一躍して街路に飛び出した。  読者の記憶するとおり、ファンニコの中隊は退却の際に、死体を-ほうぼうに遺棄していた。  その街路の敷石の上だけに、二十余りの死体が散らばっていた。ガヴローシュにとっては二十余りの弾薬盒であり、防寨にとっては補充の弾薬であった。  街路の上の硝煙は霧のようだった。つき立った断崖の間の谷合に落ちてる雲を見たことのある者は、暗い二列の高い人家に/いっそう濃くなされて立ちこめてるその煙を、おおよそ想像しうるだろう。しかも煙は静かに上ってゆき、絶えず新しくなっていた。そのために昼の明るみも薄らいで、次第に薄暗くなってくるようだった。街路はごく短かかったけれども、その両はし-の戦士は互いに見分けることがほとんどできなかった。  斯く薄暗くすることは、防寨に突撃せんとする指揮官らが/あらかじめ考慮し計画したことだったろうが、またガヴローシュにも便利だった。  その煙の下に隠れ、そのうえ身体が小さかったので、彼は敵から見つけられずに/街路のかなり先まで進んでゆくことができた。まずシチ8個の弾薬盒は、大した危険なしに盗んでしまった。  彼は平たく-よつばいになって、籠を口にくわえ、身をねじまげ/すべりゆき/這い回って、死体から死体へと飛び移り、猿が胡桃の実をむくように、弾薬盒や弾薬嚢を開いて盗んだ。  防寨の者らは、彼がなおかなり近くにいたにかかわらず、敵の注意をひくことを恐れて、声を立てて呼び戻すことをしかねた。  ある上等兵の死体に、彼は火薬筒を見つけた。 「喉の乾きにもってこいだ。」と彼は言いながら、それをポケットに入れた。  次第に先へ進んでいって、彼はついに向こうから硝煙が見透せるぐらいの所まで達した。  それで、敷石の防壁の後ろに潜んで並んでる狙撃戦列兵や/街路のカドに集まってる狙撃国民兵らは、煙の中に何かが動いてるのを/突然’見いだした。  ある標イシのソバに横たわってる軍曹の弾薬をガヴローシュが奪っている時、玉が一発飛んできて/その死体に当たった。 「ばか/」とガヴローシュは言った、「死んだ奴をもう一度ころしてくれるのか。」  第二の弾は彼のすぐソバの敷石に当たって火花を散らした。第三の弾は彼の籠をくつがえした。  ガヴローシュはそちらを眺めて、玉が郊外兵から発射されてるのを認めた。  彼は身を起こし、真っ直ぐに立ち上がり、髪の毛を風になびかし、両手を腰にあて、射撃してる国民兵のほうを見つめ、そして歌った。 ◇。◇。  ナンテールではどいつも醜い、  罪はヴォルテール  バレーゾーではどいつも愚か、  罪はルーソー。 ◇。◇。  それから彼は籠を取り上げ、こぼれ落ちた弾薬を一つ残らず拾い集め、なお銃火のほうへ進みながら、他の弾薬を略奪しに行った。そのとき第四の弾がきたが、それもまたソれた。ガヴローシュは歌った。 ◇。◇。  公証人じゃ俺は-ないんだ、  罪はヴォルテール、  俺は小鳥だ、小さな小鳥、  罪はルーソー。 ◇。◇。  第五の弾がまたソれて、彼になお第三セツを歌わせた。 ◇。◇。  陽気なのは俺の性質、  罪はヴォルテール、  みじめなのは俺の身じたく、  罪はルーソー。 ◇。◇。  そういうことがなおしばらく続いた。  その光景は、すさまじいとともに”また愉快なものだった。ガヴローシュは射撃されながら射撃を愚弄していた。いかにもおもしろがってる様子だった。あたかも猟人を嘴でつっついてる雀のようだった。群れが来るごとに彼は一連の歌で応じた。絶えず射撃はつづいたが、どれも命中しなかった。国民兵や戦列兵も彼を狙いながら笑っていた。彼は地に伏し、また立ち上がり、戸口の隅に隠れ、また飛び出し、姿を隠し、また現われ、逃げ出し、また戻ってき、嘲弄で霰弾に応戦し、しかもそのあいだに弾薬を略奪し、弾薬盒をカラにしては自分の籠を満たしていた。暴徒らは懸念のために息をつめ、彼の姿を見送っていた。防寨は震えていたが、彼は歌っていた。それはひとりの子供でもなく、ひとりの大人でもなく、実に不思議な/浮浪少年の精であった。あたかも傷つけうべからざる/戦いの侏儒であった。弾丸は彼を追っかけたが、彼はそれよりもなお敏捷だった。死を相手に恐ろしい隠れんぼをやってるかのようで、相手の幽鬼の顔が近づくごとに/シッペイを食わしていた。  しかしついに一発の玉は、他のより狙いがよかったのか/あるいは狡猾だったのか、鬼火のようなその少年をとらえた。見ると、ガヴローシュはよろめいて、それからぐたりと倒れた。防寨の者らは声を立てた。しかしこの侏儒の中には、アンテウス(訳者注◇ 倒れて地面にふるるや再び息をふき返すという巨人)がいた。浮浪少年にとっては街路の敷石に触れることは、巨人が地面に触れるのと同じである。ガヴローシュは再び起き上がらんがために倒れたまでだった。彼はそこに上半身を起こした。一筋の血が顔に長く伝っていた。彼は両腕を高く差し上げ、玉の来たほうを眺め、そして歌い始めた。 ◇。◇。  地面の上に俺はころんだ、  罪はヴォルテール、  ドブの中に顔つき込んだ、  罪は‥‥。 ◇。◇。  彼は歌い終えることができなかった。同じ狙撃者の第二の弾が彼の言葉を中断さした。こんどは彼も顔を敷石の上に伏せ、そのまま動かなかった。偉大なる少年の魂は飛び去ったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十六章】 【兄は父となる】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどその時リュクサンブールの’園に──:事変を見る目はどこへも配らなければならないから述べるが──:二人の子供が互いに手を取り合っていた。ひとりは七歳くらいで、ひとりは五歳くらいだった。彼らは雨にぬれていたので、ヒの当たるほうの道を歩いていた。年上のほうは年下のほうを引き連れていたが、二人ともボロを纏い/顔は青ざめ、野の小鳥のような様子をしていた。小さいほうは言っていた、「腹がすいたよ。」  年上のほうはほとんど保護者といったようなふうで、左手に弟を連れながら、右の手には小さな杖を持っていた。  エンの中には他に人もいなかった。園は寂然としており、鉄門は反乱のため/警察の手で閉ざされていた。そこに露営していた軍隊は戦いに招かれて出かけていた。  二人の子供はどうしてそこにいたのか? あるいは風紀衛兵の衛舎のすき間から逃げてきたのかも知れない。あるいは付近に、アンフェール市門か/天文台の丘か、産着に包まれたる幼子(訳者注◇ 幼児キリストのこと)を彼らは見いだしぬ/という文字のある破風のそびえている近くの四つ辻’かに:、ある興行師の小屋があって、そこから逃げ出してきたのかも知れない。あるいは前日の夕方、エンの門が閉められる時/番人の目をのがれて、人が新聞などを読む亭の中に一夜を過ごしたのかも知れない。それはとにかく事実を言えば、彼らは戸外に迷った身であり”また一見’自由らしい身であった。しかし戸外に迷って/しかも自由らしいというのは、捨てられたということである。あわれな二人の子供は実際’捨てられた者であった。  この二人の子供は、ガヴローシュが世話してやったあの子供たちで、読者は記憶しているだろう。テナルディエの子で、マニョンに貸し与えられ、ジルノルマ-ン氏の子とされていたが、今は根のないエダから落ちた木の葉となり/風のまにまに地上に転々していたのである。  マニョンの家にいた当時はきれいで、ジルノルマ-ン氏に対する広告とされていたその着物も、今ではボロとなっていた。  その後彼らは、「宿無し児」という統計のうちにはいることとなり、パリーの街路の上で、警察から調べられ/捨てられ”また見つけられるというような身の上になっていた。  そのみじめな子供らがリュクサンブールの’園の中にいたのも、かかる騒乱の日のおかげだった。もし番人らに見つかったら、ボロキモノの彼らは追い出されたに違いない。貧しい子供は公けの園囿には入ることを許されていない。けれども、子供として彼らは花に対する権利を持っていることを、人はまず-かんがうべきではないだろうか。  二人の子供は、鉄門が閉められていたためそこにいることができた。彼らは規則を犯していた。エンの中に忍び込み/そこに-とどまっていた。鉄門が閉じたとて番人がいなくなるわけではなく、なお見張りは続けられているはずであるが、しかしおのずから気がゆるんで/怠りがちになるものである。それに番人らもまた世間の騒ぎに心をひかれ、園の中よりも外のほうに気を取られて、もう内部に注意していなかったので、従って二人の違犯者がいることにも気づかなかった。  前日雨が降り、その日の朝も少し降った。しかし六月の驟雨は大したことではない。暴風雨があっても、一時間と経つうちには、どこに雨が降ったかというようにからりと晴れてしまう。夏の地面は、子供のホオと同じくすぐに乾きやすい。  夏至に近い真昼の光は刺すが-ようである。それはすべてを奪い取る。執拗に地面にしがみついてすべてを吸い取る。太陽も喉がかわいてるかと思われる。夕立ちも一杯の水にすぎない。一雨くらいはすぐに飲み干される。朝はすべてに水がしたたっていても、午後にはすべてが砂塵におおわれる。  雨に洗われ/日光に拭われたミドリバほど/見事なものは無い。それは暖かい清涼である。庭の木もボクジョウの草も、根には水を含み/花には日を受け、香炉のようになって/一時にあらゆる香りを放つ。すべてが笑い/のぞき出す。人は穏やかな酔い心地になる。初夏は仮りの楽園である。太陽は人の心をものびやかにする。  そして、世にはこれ以上を何も求めない者がいる。ある気楽モノらは、空の青いのを見て、これで充分だと言う。ある夢想家らは、自然の驚異に没頭して、自然を賛美するのあまり、善悪に対して無関心となる。ある宇宙の観照者らは、恍惚として人事を忘れて、人は樹下に夢想し得るにかかわらず:、甲の飢えや/乙の渇きや、貧しき者の冬の裸体、子供の脊髄の淋巴性彎曲、煎餅蒲団、屋根裏、地牢、寒さに震える少女のボロ:、などいろいろのことになぜ心をわずらわすか、そのゆえんを了解しない。しかしそれらは、平穏な/しかも恐ろしい/しかも無慈悲にもひとり満足せる精神である。不思議にも彼らは、無限なるもののみをもって充分としている。人の最も必要とする/抱擁し得らるるものを、有限なるものを、彼らは知らない。崇高な働きたる進歩をなし得る/有限なるもののことを、彼らは考えない。無限なるものと有限なるものとの人為的/およびシンイ的結合から生ずる名状し難いものを、彼らは看過する。ただ無辺際なるものに面してさえおれば、彼らはほほえむ。かつて愉快を知らないが、常に恍惚としている。沈湎することがその生命である。人類の歴史も彼らにとっては、ただの一些事にすぎない。その中にすべては含まっていない。シンのすべては外部にある。人間という些事に心を労して/なんの役に立つか。人間は苦しんでいるというが、あるいはそうかも知れない。しかしとにかく、アルデバラムセイの上りゆくのを眺めてみよ。母親は乳が出ず/赤児は死にかかっているというが、そのようなことは自分の知るところではない。まあとにかく、一片の樅のハクボク質が顕微鏡下に示す/あの驚くべき薔薇形の縞を眺めてみよ。できうるならば最もうるわしいマリーヌのレースをそれに比較してみるがいい/ とそう彼らは言う。それらの思索家は愛することを忘れているのである。獣帯星座は彼らをして、泣く児に目を向けることを得ざらしむる。神は彼らの魂を覆い隠す。それは微小にして/同時に偉大なる一群の精神である。ホラチウスはそのひとりであり、ゲーテはそのひとりであり、ラ・フォンテーヌもおそらくはそのひとりであった。実に無限なるもののみを事とする/壮大なる利己主義者であり、人の悲しみに対する/平然たる傍観者であって、天気さえ麗しければ/ネロのごとき暴君をも意に介せず、日の光をのみ見て/火刑バを眼中に置かず:、断頭台上の処刑を眺めても/ただ光線の作用のみを気にし、叫び声も/すすりなきの声も/瀕死のうめきも/警鐘の響きも耳にせず、五月であればすべてをよく思い:、ベニイロと金色との雲が頭上にたなびく限りは満足だと称し、星の光と小鳥の歌とのつきるまでは幸福であるべく定められている。  輝いたる暗黒なる人々である。彼らは自らあわれむべき者であるとは夢にも思わない。しかし彼らはまさしくあわれむべき者らである。涙を流さぬ者は目が見えない。眉の下に両眼を持たず/額の中央に一個の星を持っている、夜と昼とで同時にできてる者を、あわれみかつ賛嘆し得るとするならば、彼らこそあわれみかつ賛嘆すべき者らである。  それら思想家の無関心は、ある者の説によれば、こうえんなる哲理から来るものであるという。あるいはそうであるとしても、しかしその-こうえんさのうちには不具なる点がある。人は不死であるとともにビッコであり得る。神ヴルカヌスはその例である。人は人間以上であるとともに人間以下であり得る。自然のうちには広大なる不完全さも存する。太陽が盲目でないか否かを誰が知ろうぞ。  しからばおよそ何を信頼すべきであるか。太陽は虚偽なりとあえて言い-うべきか。天才も、最高の人も、恒星たる人も、誤ることがあり得るのか。いと高きにある者、最高点にある者、頂きにある者、中天にある者、地上に多くの光を送る者:、彼らの目もわずかしか見えないのか、よく見えないのか、あるいはまったく見えないのか。それでは絶望のほかはないではないか。否。しからば太陽の上に何が存するのか。曰く、神。  1832年六月六日の午前十一時ごろ、人影もない寂しいリュクサンブールの’園は/麗しいさまを呈していた。五目形に植えられた樹木や花壇の花は、日光のうちに/香気や眩惑の気を送り合っていた。真昼の光に酔うた枝々は、互いにアイイダこうとしてるが-ようだった。シコモルの茂みの中には頬白が騒いでおり、雀は勇ましい声を立て、啄木鳥はマロニエの幹をよじ上って、樹皮の穴を軽く啄き回っていた。花壇のうちには百合の花が、もろもろの花の王らしく咲き誇っていた。それも至当である、香気のうちにても最も尊厳なるものは純白から発する香りである。石竹の鋭い匂いも漂っていた。マリー・ド・メディチの愛した古い小鳥も、高い樹木の中で恋を語っていた。チューリップの花は日の光を受けて、金色に/ベニイロに”またはモユルがようになり、あたかも花で作られたいろいろの炎に異ならなかった。その群咲きのまわりには蜂が飛び回って、炎の花から出る火花となっていた。すべては優美と快活とにあふれ、次にきたるべき雨さえもそうだった。再び来るその雨も、鈴蘭やスイカズラが恵みをたれるのみで、少しも心配なものではなかった。燕は見るも不安なほど見事に低く飛んでいた。そこにある者は幸福の気を呼吸し、生命はよき香りを発し、自然はすべて純潔と/救助と/保護と/親愛と/愛撫と/曙とを発散していた。天より落ちて来る思想は、人が口づけする小児の小さい手のようにやさしいものであった。  木の-したに立ってる裸体の真っ白な像は、点々と光の落ちた影の衣服をまとっていた。それらの女神は日光のボロを纏っていたのである。光線はその四方へたれ下がっていた。大きな池のまわりは、焼けるかと思えるまでに地面が乾ききっていた。わずかに風があって、ところどころに塵の渦を立てていた。去年の秋から残ってる少しの黄色い落ち葉が/互いに愉快げに追っかけ合って、戯れてるが-ようだった。  豊かな光には何となく人の心を安らかならしむるものがあった。生命、樹液、暑気、蒸発気などは満ちあふれていた。万物の下にその源泉の大きさが感ぜられた。愛に貫かれてるそれらの息吹の中に、反照と反映との行ききの中に、光の驚くべき濫費の中に、黄金の液の名状し難い流出の中に、無尽蔵者の浪費が感ぜられた。そしてその光輝のうしろには、炎の幕のうしろにおけるが-ように、無数の星を所有する神が/かすかに認め得らるるのであった。  砂がまかれてるために一点のドロツチもなかった、また雨が降ったために一握の塵埃もなかった。草木の茂みは洗われたばかりの所だった。あらゆる種類のビロードや/繻子や/漆や/黄金は、花の形をして/地からわき出て、一点の汚れも帯びていなかった。壮麗であるとともに瀟洒だった。楽しき自然の沈黙が園に満ちていた。その天国的な沈黙とともに、巣の中の鳩の鳴き声、グンポウの羽音、風のそよぎなど、無数の音楽が聞こえていた。季節の調和は全体を一団の麗しいものに仕上げていた。春のライキョは適当な順序でなされていた。ライラックの花は終わりに近づき、ジャスミンの花は咲きそめていた。ある花が遅れていると、その代わりにある昆虫が早めに出ていた。六月の前衛たる赤い蝶は、五月の後衛たる白い蝶と相交わっていた。篠懸は新しい樹皮をまとっていた。マロニエの見事な木立は微風に波打っていた。実にそれは光り輝いた光景であった。近くの兵営の一老兵士は、鉄門から園の中をのぞいて言った、「正装した春だ。」  自然はすべて朝食にかかっていた。万物は食卓についていた。今はちょうどその時刻だった。青い大きなテーブルクロスが空にかけられ、緑の大きなテーブルクロスが地にひろげられていた。太陽は煌々と輝いていた。神はすべてに食事を供していた。あらゆるものは各自の秣や餌を持っていた。山鳩には麻の実があり、鶸には黍があり、カナリヤにはハコベがあり、駒鳥には-むしがあり、蜂には花があり、蠅には滴虫があり、シメには蠅があった。彼らは互いに多少’相食み合っていた。そこに善と悪との相交わる神秘がある。しかし彼らは一つとして空腹ではなかった。  二人の見捨てられた子供は、大きな池の-そばまできていたが、それら自然の光輝に多少’心を乱されて、身を潜めようとしていた。人と否とを問わずすべて壮麗なるものに対するあわれな者/弱い者の本能である。そして彼らは白鳥の小屋のうしろに隠れていた。  マを置いて-ほうぼうに、叫びの声、騒擾の音、銃火の騒然たる響き、砲撃の鈍いとどろきなどが、風のまにまに漠然と聞こえていた。イチバマチの方面には屋根の上に煙が見えていた。人を呼ぶような鐘の’音が遠くに響いていた。  二人の子供は、それらの物音にも気づ-かないか-のようだった。弟のほうはときどき半ばくちの中で繰り返した。「腹がすいたよ。」  二人の子供とほとんど同時に、別の二人連れが大きな池に近づいてきた。五十歳ばかりの老人と/それに手を引かれてる六歳ばかりの子供とであった。確かに親子であろう。子供は大きな菓子パンを持っていた。  後に廃されたことであるが、その当時は、マダム街やアンフェール街などのセーヌ川に沿ったある家には、リュクサンブールの’園の鍵をそなえることが許されていて:、シャクヤニンらは、鉄門が閉ざされた時でも自由に出入りし得られた。この親子はきっとそういう家の人であったに違いない。  二人の貧しい子供はその「紳士」がやって来るのを見て、前よりもなお多少’身を潜めた。  それはひとりの中流市民であった。以前にマリユスがやはりその池のそばで、「過度を慎む」ようにと息子に言ってきかしてる一市民の言葉を、/恋の熱に浮かされながら耳にしたことがあったが、あるいはそれと同じ人だったかも知れない。その様子は親切と高慢とを同時に示していて、その口はいつも開いてほほえんでいた。その機械的な微笑は、顎が張りすぎてるのに/皮膚が少なすぎるためにできるのであって、心を示すというより/むしろ歯を示してるだけだった。子供はまだ-くい終えないでいる嚙じりかけの菓子パンを持ったまま、もう腹いっぱいになってるような様子だった。暴動があるために子供のほうは国民兵服をつけていたが、父親は用心のために平服のままだった。  父と子とは二羽の白鳥が浮かんでる’池の縁に立ち止まった。その市民は白鳥に対して特殊な賛美の心をいだいてるらしかった。彼はその歩き方の点ではまったく白鳥に似通っていた。  しかしいま白鳥は泳いでいた。游泳は白鳥の主要な才能である。それはすこぶるみごとだった。  もし二人の貧しい子供が耳を傾けたならば、そして物を理解し得るだけの年齢に達していたならば、彼らはそこに一個の真面目な男の言葉を聞き取り得たであろう。父は子にこう言っていた。 「賢い人は少しのものに満足して生きている。私を見なさい。私は華やかなことを好まない。金や宝石で飾り立てた着物を着たことはない。そんな虚飾は心の劣った者のすることだ。」  その時、強い叫び声が/鐘の’音と騒擾の響きとを伴って、イチバマチのほうから突然’聞こえてきた。 「あれは-なに?」と子供は尋ねた。  父は答えた。 「お祭だよ。」  すると突然’彼は、白鳥の緑色の小屋のうしろに身動きもしないで隠れてる/ボロキモノの二人の子供を見つけた。 「あんなのがそもそもの始まりだ。」と彼は言った。  そしてちょっと黙ったあとに言い添えた。 「無政府主義がこの園にまで入りこんできてる。」  そのうちに子供は、菓子パンをかじったが、それをまた吐き出し、急に泣き出した。 「何で泣くんだい。」と父は尋ねた。 「もうお腹がすいていないんだもの。」と子供は言った。  父親の微笑’は-なお深くなった。 「お菓子を食べるには何もお腹がすいてなくてもいい。」 「このお菓子はいやだ。固くなってるから。」 「もう欲しくないのか?」 「ええ。」  父は白鳥のほうをさし示した。 「あの鳥に投げてやりなさい。」  子供は躊躇した。もう食べたくないからと言って、それで他の者にくれてやる理由とはならない。  父は言い続けた。 「慈悲の心を持ちなさい。動物をもあわれまなければいけない。」  そして彼は子供の手から菓子を取って、それを池の中に投げやった。  菓子は岸の近くに落ちた。  白鳥は遠く池の中程にいて、他の餌を漁っていた。そして市民にも菓子パンにも気がつかなかった。  市民は菓子が無駄に終わりそうなのを感じ、その徒らな難破に心を動かされて、激しい合図の身振りをしたので、ようやく白鳥の注意をひいた。  二羽の白鳥は何か浮いてるのを見つけ、まさしく船のように岸へ方向を変じ、菓子パンのほうへ静かに進んできた。白い動物にふさわしいいかにもゆったりした威風だった。 「シーニュ(白鳥)にはシーニュ(合図)がわかる。」と市民はその頓知を得意そうに言った。  その時、遠くの騒擾の響きはまた急に高まった。こんどはすごいように聞こえてきた。同じく一陣の風にも特にはっきりと意味を語るものがある。その時吹いてきた風は、太鼓のとどろきや/鬨の声や/一隊の兵’の銃火の音や/警鐘と大砲との沈痛な応答の響きなどを、はっきりと伝えていた。それとちょうど一致して、一団のコクウンがにわかに太陽を蔽うた。  ハクチョウはまだ菓子パンに達していなかった。 「帰ろう。」と父は言った。「テュイルリーの宮殿が攻撃されてる。」  彼はまた子供の手を取った。それから言い添えた。 「テュイルリーとリュクサンブールとは、皇族と貴族との間ぐらいしか離れていない。間は遠くない。鉄砲の弾が雨のように飛んでくるかも知れない。」  彼は空の雲を眺めた。 「そしてまた本当の雨も降りそうだ。空までいっしょになってる。ブランシュ・カデットは(若い枝は──ブールボン分家は)挫かれる。早く帰ろう。」 「ハクチョウがお菓子を食べる所が見たいなあ。」と子供は言った。  父は答えた。 「そうしてはブ用心だ。」  そして彼は自分の小さな市民を連れていった。  子供は白鳥のほうを名残り惜しがって、五目形の植え込みのカドに池が隠れるまで、そのほうを振り返って眺めた。  そのうちに、白鳥と同時に二人の浮浪の子供が菓子パンに近寄ってきた。菓子は水の上に浮いていた。弟のほうは菓子を眺め、兄のほうは去ってゆく市民を眺めていた。  父と子とは入りくんだ道をたどって、マダム街のホウへ通ずる/段をなした木の茂みに入っていった。  彼らの姿が見えなくなると、すぐに兄は、丸みをもった池の縁に腹ばいになり、左手でそこにしがみつきながら:、ほとんど水に落ちそうになるほど身を乗り出し、右手を伸ばしてその杖を菓子のほうへ差し出した。白鳥は競争者を見て急いだ。しかし急ぎながら胸をつき出したので、小さな漁夫にはそれがかえって幸せとなった。水は二羽の白鳥の前に揺れて-ひいた。そのゆるやかな丸い波紋の一つのために、菓子は静かに子供の杖のほうへ押しやられた。ハクチョウがやってきた時に、杖は菓子に届いた。子供は一つ強くたたいてそれを引きよせ、白鳥をおどかし、菓子をつかみとり、そして立ち上がった。菓子はぬれていたが、二人は腹がすき/喉が乾いていた。兄はその菓子パンを、大きいのと小さいのと二つに割り、自分は小さいほうを取り、大きいほうを弟に与えて、こう言った。 「それをつめ込んでしまえ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十七章】 【死せる父/死なんとする子を待つ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは防寨から外に飛び出した。コンブフェールもそのあとに続いた。しかしもう間に合わなかった。ガヴローシュは死んでいた。コンブフェールは弾薬の籠を持ち帰り、マリユスはガヴローシュの死体を持ち帰った。  彼は思った。ああ、父親が自分の父にしてくれたことを、自分は今その子に報いているのだ。ただ、テナルディエは生きた自分の父を持ち帰ってくれたが、自分は今’彼の死んだ子を持ち帰っているのか。  マリユスがガヴローシュを胸にかかえてカクメンホウに戻ってきた時、少年の顔と同じく彼の顔も血’に-まみれていた。  ガヴローシュを抱き取ろうとしてかがんだ時、一弾が彼の頭をかすめた。彼はそれに自ら気づかなかった。  クールフェーラックは自分の首飾りを解いて、マリユスの額を結わえてやった。  人々はマブーフと同じテーブルの上にガヴローシュを横たえ、二つの死体の上に黒い肩掛けをひろげた。それは老人と子供とを覆うに足りた。  コンブフェールは持ち帰った籠の弾薬を皆に分配した。  各人に十五発分ずつあった。  ジャン・ヴァルジャンはやはり標イシの上に腰掛けたままじっとしていた。  コンブフェールが十五発の弾薬を差し出した時、彼は頭を振った。 「まったく珍しい変人だ。」とコンブフェールは低い声でアンジョーラに言った。「この防寨にいて戦おうともしない。」 「それでも防寨を守っては-いる。」とアンジョーラは答えた。 「勇壮の方面にも奇人がいるわけだな。」とコンブフェールは言った。  それを聞いたクールフェーラックも口を出した。 「マブーフ老人とはまた異なった種類の男だ。」  ここにちょっと言っておかなければならないが、防寨は銃弾を浴びせられながら、その内部はほとんど乱されていなかった。こういう種類の戦いの旋風を横切ったことのない者は、その動乱に交じって妙に静穏な瞬間があることを、おそらく想到し得ないだろう。人々は行ききたり、語り、戯れ、ぶらぶらしている。霰弾の中でひとりの兵士が、「ここはまったく独り者の朝飯のようだ」と言ったのを、実際耳にした男をわれわれは知っている。繰り返して言うが、シャンヴルリー街のカクメンホウの中は、至って静穏らしく見えていた。あらゆる事変や局面は、すべて通過し終わっていた、もしくは通過し終わらんとしていた。状況は危急なものから恐ろしいものとなり、恐ろしいものから更に絶望的なものとなろうとしていた。状況が暗澹となるに従って、勇壮な光はますます防寨を赤く染めていた。アンジョーラは若いスパルタ人が抜き身の剣を/陰惨なキジン-エピドタスにささげるような態度で、おごそかに防寨に臨んでいた。  コンブフェールは腹部に前掛けをつけて負傷者らの手当てをしていた。ボシュエとフイイーとはガヴローシュが上等兵の死体から取った火薬筒で弾薬を作っていたが、ボシュエはフイイーにこう言った、「われわれは-じきに他の遊星へ旅立つんだ。」クールフェーラックは自分の場所としておいたアンジョーラのソバの敷石の上に、仕込み杖や/銃や/二丁の騎馬用ピストルや/一丁のポケット・ピストルなどを:、まるで武器箱をひっくり返したようにして、若い娘が小さな裁縫箱を片づけるような注意でそれを整理していた。ジャン・ヴァルジャンは正面の壁を黙って眺めていた。ひとりの労働者はユシュルーかみさんの大きな麦わら帽子を頭の上に紐で結わえつけて、日射病にかかるといけねえ/などと言っていた。エークスのクーグールド結社に属する青年らは、最後にもう一度田舎言葉を急いで口にしておこうと思ってるかのように、いっしょに集まって愉快そうにしゃべり合っていた。ジョリーはユシュルーかみさんの鏡を取ってきて、それに映して自分の舌を検査していた。数人の戦士らは、ある引き出しの中にほとんど黴のはえたパン屑を見つけ出して、貪るようにそれを食っていた。マリユスは死せる父が自分に-なんというであろうかと心を痛めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十八章】 【餌食となれる禿鷹】 ◇。◇。◇。◇。◇。  なお/防寨に独特な心理的事実を一つ述べておきたい。この驚くべき市街戦の特色は一つたりとも省いてはいけないからである。  上に述べたとおりその内部はいかにも不思議なほど静穏であるけれども、それでも中にいる人々にとっては、防寨はやはり一つの幻のごとく感じられるものである。  内乱の中には黙示録的神秘がある。未知の世界のあらゆる靄は荒々しい炎を交じえている。革命はスフィンクスである。防寨の中を通った者は誰でも、夢の中を過ぎたかと自ら思う。  そういう場所で人が感ずるところのものは、既にわれわれがマリユスについて指摘してきたとおりであり:、また結果もやがて述べんとするとおりであるが、実にセイ以上であり”また以下である。一度防寨を出れば、そこで何を見てきたかはもうわからなくなる。恐ろしいものであったが、さて-なんであったかはわからない。人の顔をして戦ってる多くの観念にとりかこまれていた。未来の光明の中に頭をつき込んでいた。死体が横たわり幽霊がつっ立っていた。時間は巨大であって永劫が有する時間のようだった。死の中に生きていた。もろもろの陰影が過ぎ去っていった。しかしそれらは-なんであったか? 血のながるる手をも見た。耳を聾するばかりの恐ろしい響きがあり、また恐怖すべき静寂があった。叫んでるうちひらいた口があり、また沈黙してるうちひらいた口があった。ケムリに包まれていたし、おそらく闇夜に包まれていた。測り知られぬ深みから流れ出る/凄惨なものに触れたようでもあった。爪の中に何か赤いもののついてるのが見える。しかしもはや-なんのことだか思い出せないのである。  さて、シャンヴルリー街に戻ってみよう。  突然、二度の一斉射撃の間に、時を報ずる遠い鐘の’音が聞こえた。 「正午だ。」とコンブフェールは言った。  その十二の鐘が鳴り終えないうちに、アンジョーラはすっくと立ち上がり、防寨の上からとどろくような声を出して叫んだ。 「敷石を家の中に運べ。窓や屋根裏にそれをあてろ。人員の半分は射撃にかかり、半分は敷石のほうにかかるんだ。一刻も猶予はできない。」  肩に斧をかついだ消防工兵の一隊が、街路の先端に戦闘隊形をなして現われたのだった。  それは一縦隊の先頭にすぎなかった。そしてその縦隊というのはむろん襲撃隊であった。防寨を破壊する任務を帯びてる消防工兵は常に、防寨を乗り越える任務を帯びてる兵士の先に立つべきものである。  1822年/クレルモン・トンネール氏が「首縄のひとひねり」と呼んだ危急の瞬間に、人々はまさしく際会していたのである。  アンジョーラの命令は直ちにそのとおり実行された。斯く命令が/急速に正確に行なわれるのは船と防寨とに限ることで、両方とも脱走することのできない唯一の戦場である。一分間とたたないうちに、アンジョーラがコラント亭の入り口に積ましておいた敷石の三分の二は、二階の屋根裏に運ばれ:、次の一分間が過ぎないうちに、それらの敷石は巧みに積み重ねられて、二階の窓や/屋根裏のノキマドの半ばをふさいだ。主任建造者たるフイイーの考案によって巧みに明けられた数個の間隙からは、銃身が差し出されるようになっていた。斯く窓を固めることは、霰弾の発射がやんでいたので/ことに容易だった。が/今や二門の砲は、襲撃に便利な穴を、あるいはできうべくんば一つの割れ目を、そこに作らんがために、障壁の中央めがけて榴弾を発射していた。  最後の防御物たる敷石が指定の場所に配置されたとき、アンジョーラはマブーフの死体がのせられてる/テーブルの下に置いていた壜を、すっかり二階に持ってこさした。 「誰がそれを飲むんだ。」とボシュエは尋ねた。 「奴らが。」アンジョーラは答えた。  それから人々は一階の窓をふさぎ、夜分に居酒屋の扉を’内部から締め切ることになってる鉄の横木を、すぐ差し入れるばかりにしておいた。  要塞は完全にでき上がった。防寨はその城壁であり、居酒屋はそのヤグラだった。  残ってる敷石で人々は防寨の切れ目をふさいだ。  防寨の守備軍は常に軍需品を節約しなければならないし、攻囲軍もそれをよく知ってるので、攻囲軍はわざわざ敵をあせらすような緩慢な方略を用い:、時機がこないのに早くも銃火の中に躍りだしてみせるような外観だけの策略を事とし、実際はゆっくり落ち着いてるものである。襲撃の準備はいつも一定の緩慢さをもってなされ、次に電光石火の突撃が始められる。  その緩慢な準備の間に、アンジョーラはすべてを検査し”すべてを完成するの暇を得た。かかる同志らが死なんとする以上は、その死は立派なものでなければならない、と彼は思っていた。  彼はマリユスに言った。「僕ら二人は主将だ。僕は家の中で最後の命令を与えよう。君は外にいて見張りをしてくれたまえ。」  マリユスは防寨の頂で見張りの位置についた。  読者が記憶するとおり野戦病院となってる料理バの扉を、アンジョーラは釘付けにさした。 「負傷者らに累を及ぼしてはいけない。」と彼は言った。  彼は下の広間で、簡潔な/深く落ち着いた声で、最後の訓令を与えた。フイイーはそれに耳を傾け、一同を代表して答えた。 「二階に、階段を切り離すための斧を用意しておけ。それがあるか?」 「ある。」とフイイーは言った。 「いくつ?」 「普通のが二つと大斧が一つ。」 「よろしい。健全な者が二十六人残っている。銃は何丁あるか。」 「三十四。」 「8つ余分だな。その八丁にも同じく玉をこめて持っていろ。サーベルやピストルは帯にはさめ。二十人は防寨につけ、六人は屋根裏や二階の窓に潜んで、敷石の銃眼から襲撃軍を射撃しろ。ひとりでも手をこまぬいていてはいけない。間もなく襲撃の太鼓が聞こえたら、階下の二十人は防寨に走り出ろ。早い者から勝手にいい場所を占めるんだ。」  そういう手配りをしたあと、彼はジャヴェルのほうを向いて、そして言った。 「きさまのことも忘れやしない。」  そしてテーブルの上に一丁のピストルを置いて、彼は言い添えた。 「ここから最後に出る者が、このスパイの頭を打ちぬくんだ。」 「ここで?」と誰かが尋ねた。 「いや。こんな死体をわれわれの死体に交じえてはいけない。モンデトゥール街の小さな防寨は誰でもまたぎ越せる。高さ四尺しかない。こいつは堅く縛られてる。そこまで連れていって、そこで始末するがいい。」  その際に及んで、アンジョーラより-なお平然たる者があるとすれば、それはジャヴェルであった。  そこにジャン・ヴァルジャンが出てきた。  彼は暴徒らの間に交じっていたが、そこから出てきて、アンジョーラに言った。 「君は指揮者ですか。」 「そうだ。」 「君はさっき私に礼を言いましたね。」 「共和の名において。防寨は二人の救い主を持っている、マリユス・ポンメルシーと君だ。」 「私には報酬を求める資格があると思いますか。」 「確かにある。」 「ではそれを一つ求めます。」 「何を?」 「その男を自分で射殺することです。」  ジャヴェルは頭を上げ、ジャン・ヴァルジャンの姿を見、目につかぬくらいの身動きをして、そして言った。 「正当だ。」  アンジョーラは自分のカラビン銃に弾をこめ始めていた。彼は周囲の者を見回した。 「異議はないか?」  それから彼はジャン・ヴァルジャンのほうを向いた。 「スパイは君にあげる。」  ジャン・ヴァルジャンは実際、テーブルのイッタンに身を置いてジャヴェルを自分のものにした。彼はピストルをつかんだ。引き金を上げるかすかな音が聞こえた。  それとほとんど同時に、ラッパの響きが聞こえてきた。 「気をつけ/」と防寨の上からマリユスが叫んだ。  ジャヴェルは彼独特の声のない笑いを始めた。そして暴徒らをじっと眺めながら、彼らに言った。 「きさまたちも俺以上の余命はないんだ。」 「みんな外へ/」とアンジョーラは叫んだ。  暴徒らはどやどやと外に飛び出していった。そして出てゆきながら、背中に──こう言うのを許していただきたい──ジャヴェルの言葉を受けた。 「じきにまた会おう!」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十九章】 【ジャン・ヴァルジャンの復讐】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルと二人きりになった時、捕虜の身体の真ん中を縛って/テーブルの下で結んであるナワを解いた。それから立てという合図をした。  ジャヴェルはそれに従った。縛られた政府の権威が集中してるような/名状し難い微笑を浮かべていた。  ジャン・ヴァルジャンは鞅をとらえて駄馬を引きつれるように、鞅縛りにした縄を取って、ジャヴェルを引き立て、自分のうしろに引き連れながら、居酒屋の外に出た。ジャヴェルは足をも縛られていて/ごく小またにしか歩けなかったので、ゆっくりと進んでいった。  ジャン・ヴァルジャンは手にピストルを持っていた。  二人は斯くて防寨の中部の四角な空き地を通っていった。暴徒らはさし迫った攻撃のほうに心を奪われて、こちらに背中を向けていた。  ただマリユスひとりは、少し離れて防壁の左端に控えていて、二人の通るのを見た。死刑囚と処刑人と相並んだありさまは、マリユスの心の中に/ある死の光で照らし出された。  ジャン・ヴァルジャンは一瞬間もとらえた手をゆるめないで、モンデトゥール小路の小さな砦を、ようやくにしてジャヴェルにまたぎ越さした。  その防壁を乗り越した時、彼らはその小路の中で、まったく二人きりになった。誰も見ている者はなかった。暴徒らからは人家のカドで隠されていた。防寨から投げ捨てられた死骸が、スウホの所に恐ろしい有様をして積み重なっていた。  その死骸の重なった中に、一つの真っ青な顔と/乱れた髪と/穴のあいた手と/半ば裸の女の胸とが見えていた。エポニーヌであった。  ジャヴェルはその女の死体を横目でじっと眺め、深く落ち着き払って低く言った。 「見覚えがあるような娘だ。」  それから彼はジャン・ヴァルジャンのほうに向いた。  ジャン・ヴァルジャンはピストルを小わきにはさみ、ジャヴェルを見つめた。その目つきの意味は言葉にせずとも明らかだった。「ジャヴェル、私だ、」という意味だった。  ジャヴェルは答えた。 「復讐するがいい。」  ジャン・ヴァルジャンは内ポケットからナイフを取り出して、それを開いた。 「ドスか?」とジャヴェルは叫んだ。「もっともだ。貴様にはそのほうが適当だ。」  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの首についてる鞅縛りを切り、次にその手首の縄を切り、次に身をかがめて、足の綱を切った。そして立ち上がりながら言った。 「これで君は自由だ。」  ジャヴェルは容易に驚く人間ではなかった。けれども、吾を取り失いはしなかったが/一種の動乱をおさえることができなかった。彼は茫然と口を開いたまま立ちすくんだ。  ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。 「私はここから出られようとは思っていない。しかし万一の機会に出られるようなことがあったら、オンム・アルメ街7番地に/フォーシュルヴァンという名前で住んでいる。」  ジャヴェルは虎のように眉をしかめて、口の片隅をちらと開いた。そして口の中でつぶやいた。 「気をつけろ。」 「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  ジャヴェルはまた言った。 「フォーシュルヴァンと言ったな、オンム・アルメ街で。」 「7番地だ。」  ジャヴェルは低く繰り返した。「7番地。」  彼は上衣のボタンをはめ、両肩の間に軍人らしい硬直な線を作り、向きを変え、両腕を組んで/一方の手で顎を支え:、そしてイチバマチのホウへ歩き出した。ジャン・ヴァルジャンはその姿を見送った。スウホ進んだジャヴェルは振り向いて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。 「君は俺の心を苦しめる。むしろ殺してくれ。」  ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かって/もう貴様と言っていないのを自ら知らなかった。 「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  ジャヴェルはゆるい足取りで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街のカドを曲がった。  ジャヴェルの姿が見えなくなった時、ジャン・ヴァルジャンは空中にピストルを発射した。  それから彼は防寨の中に戻って言った。 「済んだ。」  そのあいだに次のことが起こっていた。  マリユスは防寨の内部より外部のほうに多く気を取られて、したの広間の薄暗い奥に縛られたスパイを/その時までよくは見なかった。  しかし、死にに行くため/防寨をまたぎ越してるスパイを真昼の光で見た時、彼はその顔を思い出した。一つの記憶が突然/頭に浮かんできた。ポントアーズ街の警視のことと、防寨の中で自分が使っている二丁のピストルはその警視からもらったものであることを、思い起こした。そしてその顔を思い起こしたばかりでなく、またその名前を思い起こした。  けれどもその記憶は、彼の他の観念と同じように、おぼろげで乱れていた。それは自ら下した断定ではなく、自ら試みた疑問であった。 「あの男は、ジャヴェルと名乗ったあの警視ではないかしら?」  たぶんまだその男のために調停する時間はあったろう。しかし、果たしてあのジャヴェルであるかをまず確かめなければならなかった。  マリユスは防寨の向こう端に位置を占めたアンジョーラを呼びかけた。 「アンジョーラ!」 「何だ!」 「あの男の名は-なんというんだ。」 「どの男?」 「あの警察の男だ。君はその名前を知ってるか。」 「もちろん。自分で名乗ったんだ。」 「何という名だ。」 「ジャヴェル。」  マリユスは身を起こした。  その時、ピストルの音が聞こえた。  ジャン・ヴァルジャンが再び現われて、「済んだ」と叫んだ。  暗い悪寒がマリユスの心をよぎった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第20章】 【死者も正しく/セイジャも不正ならず】 ◇。◇。◇。◇。◇。  防寨の臨終の苦悶はまさに始まろうとしていた。  その最後の瞬間の悲痛な荘厳さを、あらゆるものが助成していた。空中に漂ってる無数の神秘な響き、見えない街路の中に行動してる密集した軍隊の気配、おりおり高まる騎兵の疾駆する音、砲兵の行進する重いとどろき、パリー街衢に交差する銃火と砲火:、屋根の上に立ちのぼってゆく金色の戦塵、恐ろしげな遠い一種の叫喚の声、至る所を-おびやかす電光:、今やすすりなきするような調子になってるサン・メーリーの警鐘、季節の穏和、日光と雲とに満たされた空の輝き、日光の麗しさ、人家の恐ろしい沈黙。  前日以来、シャンヴルリー街の両側に並んでる人家は、二つの壁、荒々しい二つの壁となっていたのである。戸は閉ざされ、窓は閉ざされ、雨戸も閉ざされていた。  現在とはいたく異なってる当時にあっては、あまりに長く続いた状態を、特に与えられた法典を、あるいは法治国の美名を、民衆が破り去らんと欲する時間が来る時、一般のフンヌの念が大気中にひろがる時、都市がその敷石をはぐに同意する時:、反乱がその合い言葉を耳にささやいて/市民をほほえます時、その時住民は言わば暴動の気に貫かれて、戦士の後援者となり、また人家は、よりかかってくる即座の要塞と相親しんだ。しかし情況がまだジュクさない時、反乱が決定的な同意を得ない時、群集がその運動を好まない時には、戦士らは見捨てられ、都市は反抗の周囲に砂漠と変じ:、人の魂は冷却し、避難所は閉ざされ、街路は防寨を占領せんとする軍隊を助ける隘路となるのだった。  民衆はいかに-しいられても、おのれの欲する以上に早く足を運ぶものではない。民衆にそれを強いんとする者こそ禍である。民衆は-たの自由にはならない。そして民衆は反乱をその成り行きに放置する。暴徒らはペスト患者のごとく見捨てられる。人家は断崖となり、戸は拒絶となり、家の正面は壁となる。その壁は物を見”また聞くけれども、それを欲しない。多少'口を開いて反徒を救うであろうか。否。一の審判者となるのである。反徒らを眺めて、彼らに罪を宣告する。それらの閉ざされた人家こそいかに陰惨なるものであるか。一見死んでるように思われるが、実は生きているのである。生命の流れはそこで切れてるようであるが、実は存続している。もうイッ昼夜のあいだだれも出入りしなかったが、人はひとりも欠けてはいない。その巌のように静まり返った家の中では、人が行ききし/起臥している。家庭をなしている。飲み/また食っている。ただ恐ろしいことには、戦々恐々としている。その恐怖の念’は、反徒らに対するひどい冷淡さを宥恕するものである。また酌量すべき情況としては狼狽の念もいっしょにある。時としては、そして実際あったことであるが、恐怖は熱情となることもある。慎重が憤激に変わり得るように、恐怖は凶猛に変わり得る。そこから、温和派の熱狂者という意味深い言葉が生じてくる。極度におびえた感情は炎となって、そこからすごい煙のようなフンヌの情が生じてくる。「彼ら反徒どもは何を望んでいるのか? 彼らはかつて満足ということを知らない。彼らは平穏な人々にまで累を及ぼそうとしている。これでもまだ革命が足りないとでも思っているのか。ここに何をしに来たのか。勝手に何でもするがいい。終わりはどうせ決まっている。自業自得だ。なるようになるだろうさ。われわれの知ったことではない。この街路もかわいそうに一面に弾傷を受けるのか。全く無頼漢どもの寄り合いだ。まず第一に戸を開かないことだ。」かくして人家は、墓のようなありさまになる。反徒はその戸の前で、死の苦しみを受ける。霰弾と抜き身のサーベルとが近づいてくるのを見る。叫んだところで、聞いてる者はあるが/助けにきてくれる者はないのがわかっている。そこにはタを庇護し得る壁もあり、彼らを救い得る人もいる。しかも、壁には聞く耳があるけれども、人には石のような心しかない。  誰を咎むるべきであるか?  ナンピトをも、そしてまたすべての人を。  吾人が属するこの不完全な時代を。  こうえんなる理想が、自ら反乱と変化し、哲理上の抗議を武装上の抗議となし、ミネルヴァをパラスとするのは(訳者注◇ ミネルヴァというは-しの神としての名称であり、パラスというは戦さのカミとしての名称であって、同一の女神である):、常に自己を危険にさらしてのことである。忍耐しきれずに暴動となる理想は、いかなる目に会うかを自らよく知っている。多くは時機が早す-ぎるものである。それで自ら運命に忍従して、勝利の代わりに/破滅を勇ましく甘受する。拒絶を浴びせる者らを恨むことなく、かえって彼らを弁護しながら/彼らに奉仕する。寛大にも見棄てられることに同意する。障害に対しては不屈であり、忘恩に対しては柔和である。  とはいえ、そもそもそれは、忘恩であろうか?  しかり、人類の見地よりすれば。  否、個人の見地よりすれば。  進歩は人間の様式である。人類一般の生命を進歩と称する。人類の集団的歩行を進歩と称する。進歩は前進する。それは天国的なるもの/およびシンテキなるもののほうへ向かって、地上的な/人間的な大旅行を試みる。けれども落伍者を収容するための休憩所を持っている。ある燦然たるカナンの地(訳者注◇ 神がイスラエル人に-あたうべきことを約束せる土地─旧約)が突然’地平線上に現われるのを前にして、瞑想するための停立ジョを持っている。眠るべき夜を持っている。そして、人間の魂の上に影がおりているのを見、眠ってる進歩を暗黒のうちに探りあてながら/それをさまし得ないということは、思想家の深い痛心の一つである。 「おそらく神は死んでる」とジェラール・ド・ネルヴァルは本書の著者に向かってある時言った。しかしそれは進歩と神とを混同し、運動の中絶をもって/運動者の死と見做しての言である。  絶望する者は誤っている。進歩は必ず目をさます。また進歩は結局’眠りながらも前進したと言ってもいい、なぜなら成長したからである。進歩が再び立ち上がる時、その姿は前よりも高くなっている。常に平静であることは、川自身の関するところでないと同じく、進歩自身の関するところではない。決して障壁を築くな、決して岩石を投入するな。障害は水を泡立たしめ、人類を沸騰せしむる。そこに混乱が生ずる。しかしその混乱のあとにも多少前進したことが認められる。一般的平和にほかならない秩序が立てられるまでは、調和と統一とが君臨するまでは、進歩はその道程中に革命を持つであろう。  しからば進歩とはなんであるか? それは上に言ったとおりである。民衆の恒久なるイノチである。  しかるに、個人の一時的生命が/人類の永遠なる生命にアイ反することが、時として起こってくる。  吾人は斯く高言することができる。個人は一定の利益を有しており、条件を付してそれを譲り得るものである。現在は宥しうべき程度の利己心を持っている。一時の生命もその権利を有していて、未来のために常に犠牲にせらるべきものではない。現在’地上を通るべき順番になっている時代は、後に地上を通るべき順番になってる他の時代のために、結局’同等な他の時代のために、その命脈を縮めらるべきはずではない。すべての者とよばるるある者がつぶやく。「私は存在している。私は年若く/恋に燃えてる。あるいは、年老い/休息を欲してる。私は一家の父であり、働き、繁昌し、事業に成功し、貸し家を持ち、政府に預けた-かねを持ち、幸福であり、妻も子も持っており、すべてそれらのものを愛し、生きながらえたい。私を静かにさしておいて欲しい。」そういう所から、ある時におよんで、人類の豪侠なる前衛に対する/深い冷淡さが生じてくる。  その上また-こうえんなる理想は、戦いをなしながらその光り輝く天地を去るということを、吾人は是認したい。明日の真理なる理想は、昨日の虚偽から、その方法/すなわち戦いを借りてくる。未来なる理想は、過去のごとく行動する。純潔なる観念でありながら、自ら違法の行為となる。おのれの勇壮のうちに暴戻をも交じえる。その暴戻については自ら責を負うのが至当である。主義に反したる/時宜と便宜との暴戻であって、必ずその罪を負わなければならない。理想がなす反乱も、古い軍法を手にして戦う。スパイを銃殺し、反逆者を処刑し、生ける者を捕えて/未知の暗黒界に投げ込む。死を使用する。そしてこれは重大なことである。理想はもはや、その不可抗不可朽の力たる光明に/信念を持たないが-ようである。剣をもって人を打つ。しかるにいかなる剣も単一なるものは無い。あらゆる剣は-みな両刃である。一方でタを傷つける者は、他方でおのれを傷つける。  以上の制限を付しながらも、しかも厳重に付しながらも、未来の光栄ある戦士らを、理想の司祭らを、ソが成功すると否とを問わず、吾人は賛美せざるを得ないのである。彼らのギョウが流産に終わろうとも、彼らは尊敬に値する。そしておそらくその不成功のうちにこそ、彼らは一層の荘厳さを持つ。進歩にかなったる勝利は、民衆の喝采を受くるに足る。しかし勇壮な敗北は、民衆の心を動かすに足る。一つは壮大であり、一つは崇高である。成功よりも/むしろ主義に殉ずることを取る吾人に言わすれば、ジョン・ブラウンはワシントンよりも偉大であり、ピサカネはガリバルディよりも偉大である。  敗者の味方もなければならない。  未来を企図する偉大なる者らが失敗する時、人は彼らに対して、多く不正なる態度を取る。  人は革命者らを非難するに、恐怖の念を散布することをもってする。防寨をすべて暴行と見做す。彼らの所説をとがめ、彼らの目的を疑い、彼らの内心を恐れ、彼らの良心を難ずる。現在の社会状態に対抗して、悲惨と/苦悩と/不正と/悲嘆と/絶望とをうずたかく引き起こし/立て直し/積み重ね、どん底から暗黒の石塊を引き出して、そこに銃眼を作り/戦闘を始めることを、彼らに非難する。そして彼らに向かって叫ぶ、「汝らは地獄の敷石をめくってるのだ!」しかし彼らは答えうるであろう、「それはかえってわれわれの防寨が善良な意志で作られてる証拠である。」  確かに最善の方法は平和のうちに解決することである。要するに吾人は斯く承認する、敷石のめくられるのを見る時には/人は熊を思い出す、そして社会が不安をおぼゆるのはかかる意欲に対してである。しかし社会の救済は、社会自身の考えによる。吾人が呼び起こさんとするのは、社会自身の意欲である。激越なる救治策は必要でない。好意をもって弊害を研究し、それを調べ上げ、次にそれを矯正すること、吾人が社会に勧めたいのはそれである。  それはとにかくとして、世界各地のうちで特にフランスに目を据えて、理想の不撓なる理論をもって大業を果たさんために戦うそれらの人々は、たとい倒れても、またことに倒れたがゆえに、崇高たるのである。彼らはおのれのイノチを/進歩に対する純なる贈り物として投げ出す。天の意志を成就し、宗教的行為をなす。一定の時が来れば、台詞渡しの-しの俳優のような無私の心で、神の定めた筋書きに従って/墳墓の中へ入ってゆく。1789年七月十四日に/不可抗力をもって始まった人類の大運動に、世界的な燦然たる最上の結果をもたらさんがために、その希望なき戦いと/堅忍なる消滅とを甘受する。かかる兵士らはすなわち牧師であり、フランス大革命はすなわち神の身振りである。  そしてまた、他の章において既に指摘しておいたいろいろの区別のほかに、次の区別をも添加しておくが至当であろう、すなわち、革命と呼ばるる是認された反乱と、暴動と呼ばるる否認された革命とである。破裂したる一つの反乱は、民衆の前に試験を受くる一つの観念である。もし民衆が黒球を投ずれば、その観念は無駄花となり、反乱は無謀の挙となる。  あらゆる機会に、こうえんなる理想が欲するたびごとに、戦いのうちにはいるということは、民衆のよくなし得るところではない。国民は常住不断に/英雄や殉教者の気質を持ってるものではない。  国民は実際的である。先天的に反乱をいやがる。第一に、反乱は破滅に終わることが多いからであり、第二に、反乱の出発点は常に抽象的なものだからである。  なぜかなれば、そしてこれはきわめて見事なことであるが、献身者らが身をささげるのは常に理想のためであり、理想のみのためにである。反乱は一つの熱誠である。熱誠は憤ヌすることがあって、そのために武器を執るに至る。しかしあらゆる反乱は、一つの政府もしくは制度に射撃を向けるが、その目標は更に高い所に存する。たとえば、力説すべきことには、1832年の反乱の首領らが戦った目標は、ことにシャンヴルリー街の若い熱狂者らが戦っている目標は、必ずしもルイ・フィリップではなかった。打ち明けて言えば、彼らの大多数は、王政と革命との中間なるこの王の資格を、充分によく認めていた。王を憎む者は一人もなかった。彼らは昔/シャール十世のうちにあるブールボン本家を攻撃したごとく、ルイ・フィリップのうちにあるブールボン分家を攻撃したのである。そしてフランスにおける王位をくつがえしつつ、更にくつがえさんと欲したところのものは、前に説明したとおり、人間に対する人間の専横と/全世間の権利に対する一部の特権の専横とであった。パリーに王がなくなれば、その影響として世界に専制者がなくなる。そういうふうに彼らは考えていた。彼らの目的は、まさしく遠いものであり、おそらく漠然たるものであり、努力しても容易におよばないものだったが、しかし偉大なるものであった。  まさしくそうである。そして人はそれらの幻想のために身を犠牲に供する。犠牲者らにとってはそれらの幻想はたいてい幻影に終わるけれども、しかも結局’人間的な確信が交じってる幻影である。反徒は反乱をシ化し/美化する。自分の成さんとする事柄に心酔しながら、その悲壮な事柄のうちに身を投ずる。結果はわかるものではない、あるいは成功するかも知れない。同志は少数であり、敵には全軍隊がいる。しかしまもるところのものは、権利、自然のタイ法、1歩も-まぐることのできない各人の自己に対する主権、セイギ、シンリ、などである。そして場合によっては、三百人のスパルタ人(訳者注◇ テルモピレにおいてレオダニスに率いられし兵士)のごとくに死するであろう。頭に浮かべるのは、ドン・キホーテのことではなくレオニダスのことである。そして彼らは前方に進んでゆく。一度踏み出せばもはや-ひくことをしない。頭をかがめてまっしぐらに突進する。希望として心にいだくところのものは、前代未聞の勝利、完成されたる革命、自由の手に託されたる進歩、人類の成長、世界の救済などである。またいかに失敗しようとも、結局テルモピレに過ぎない。  進歩のためのかかる戦いは、しばしば失敗するものであって、その理由は上に述べきたったとおりである。群集は冒険騎士の誘導に従わない。重々しい集団は、多衆は、自身の重さのためにかえって壊れやすいものであって、冒険を恐れる。理想のうちには多少の冒険がある。  その上、忘れてならないことには、利害の念もそこに交じってくる。利害の念’は理想と情操とに親しみ難い。時としては、胃袋は心を麻痺させる。  フランスの偉大と美とは、他の民衆よりも腹に重きを置くことが少ないところにある。フランスは最も平然と自ら腰に麻縄をまとう。最初に目ざめ、最後に眠る。真っ直ぐに前進する。実に一つの探求者である。  それはフランスが芸術家だからである。  理想は論理の頂点にほかならない。同様に、美はシンなるものの頂にほかならない。芸術家たる民衆は、終始一貫する民衆である。美を愛することは光明を欲することである。それゆえに、ヨーロッパの松明は、換言すれば文化の松明は、まずギリシャによって担われ、ギリシャはそれをイタリーに伝え、イタリーはそれをフランスに伝えた。光り輝く神聖なる民衆らよ! 彼らは生命のランプを人に伝う。  賛美すべき事には、民衆の-しは民衆の進歩の要素である。文化の量は想像力の量によって測られる。ただし、文化の普及者たる民衆は/強健なる民衆でなければならない。コリントはそうである。シバリスはそうでない。柔弱に陥るものは衰微する。愛好者であっても堪能者であってもいけない。ただ芸術家でなければならない。文化の事業においては、繊巧を事としてはいけない、ただ崇高を事としなければいけない。この条件において理想の雛型は人類に与えらるる。  近代の理想は、その様式を芸術のうちに有し、その方法を科学のうちに有している。科学によってこそ、詩人の荘厳なる幻影/すなわち社会的ビは実現されるであろう。A+B によってこそ、エデンの園は再び作られるであろう。文化が到達し得た現在の地点においては、正確は光彩の必要な一要素である。芸術的情操は、ただに科学的機能によって助けらるるばかりでなく、またそれによって完成される。夢も計算の上に立たなければならない。勝利者である芸術も、徒歩者たる科学を支柱としなければならない。足場の強固さが大切である。近代の精神は、インドの天才を馬車とする/ギリシャの天才である、象の上に乗ったるアレクサンデルである。  独断的信条のうちに化石し”もしくは利得のために堕落したる人種は、文化の嚮導者としては不適当である。偶像もしくは金銭の前に跪坐することは、歩行の筋肉と/前進の意志とを萎縮させる。祭儀の-ぎょうもしくは商売の-ぎょうに没頭することは、民衆の光を減じ、その水準を低めながら/その水平線を低め:、世界の目標たる人間的なるとともに/シンテキなる知力、諸国民をして伝教師的たらしむるの知力を、民衆から奪い去る。バビロンは理想を持たず、カルタゴは理想を持たない。アテネとローマとは、数世紀間の暗黒時代を通じてもなお、文化の円光を有し維持する。  フランスはギリシャおよびイタリーと同質の民衆である。ビによってアテネ的であり、偉大によってローマ的である。その上にまた仁侠である。フランスは自己を惜しまない。他の民衆よりもしばしば、献身と犠牲との心を起こす。ただその心が/あるいはきたり、あるいは去るだけである。斯くて、フランスがただ歩くことをしか-ほっしない時に走る者、もしくはフランスが立ち上がらんと欲する時に歩く者、彼らにとってのダイなる危険が生ずる。フランスは時に唯物主義に陥る。ある瞬間においては、その崇高なる頭脳を満たす観念は、もはやフランスの偉大さを思わせるものを少しも持たず、ミズーリ州や/南カロライナ州くらいの大きさしか持たない。いかんせん、巨人は侏儒の役を演じ、広大なるフランスは好奇にも些事を事とする。策の施しようはない。  それに対しては何も言うことはない。恒星のごとき民衆にも時におのれを蝕するの権利がある。ただ、光が再び現われさえすれば、日蝕が暗夜に終わりさえしなければ、すべてかまわない。曙と再生とは同意義である。光の再現は自我の存続と同一である。  これらの事実をそのまま認定しようではないか。防寨の上に死するも、もしくは亡命のうちに倒るるも、それは時の事情による/一つの献身として是認さるる。献身のシンの名は、公平無私ということである。見捨てらるる者らをして見捨てられしめよ、国を追わるる者らをして追われしめよ。吾人はただ、偉大なる民衆が退く時には、その後退のあまりに大’ならざらんことを希望するに-とどめよう。再び理性に返り得るというのを口実にしてあまりに深く下降してはいけない。  物質は存在し、一時は存在し、利益は存在し、腹は存在する。しかし腹が唯一の英知であってはいけない。一時の生命もその権利を持っている、吾人はそれを是認する。しかし恒久の生命もまたその権利を持っている。ただ悲しいかな、高く上っていてもなお墜落することがある。その事実は史上に余りあるほど数多ある。卓越して理想を味わってる国民も、次に泥を噛んで/それを甘しとする。そしてソクラテスを捨ててフォルスタフを取る理由を尋ねらるる時、彼は答える、為政家を好むからであると。  白兵戦の物語に戻る前、なおイチゴンしておきたい。  今われわれが物語ってるような戦いは、理想を求むる一つの痙攣にほかならない。束縛されたる進歩は病いを得て、かかる悲壮な癲癇の発作をなす。この進歩の病いに、内乱に、吾人は途中で出会わざるを得なかったのである。社会的エイバツを受けたる人物を軸とし/進歩を真の表題とするこの劇においては、それは幕チュウにまた幕間に必ずいできたるべき一局面である。  進歩!  吾人がしばしば発するこの叫びこそ、吾人の考えのすべてである。一編の劇がここまできた以上は、中に含まってる観念は/なお多くの試練を受くべきものであるとしても:、今’吾人は、よしやその-とばりをまったく掲げることは許されないまでも、少なくともその光を明らかに透かし見せることだけは/おそらく許されるであろう。  読者が今’眼前にひらいている書物は、中断や/例外の個所や/欠点はあるとしても、初めから終わりまで、全体においても、局部においても:、アクより善への、不正よりセイへの、ギより真への、夜より昼への、欲望より良心への、枯朽より生命への、獣性より義務への、地獄より天への、無より’神への、その行進である。出発点は物質であり、到着点は心霊である。カイダに始まり、天使に終わるのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十一章】 【勇士】 ◇。◇。◇。◇。◇。  突然、襲撃の太鼓が鳴り響いた。  襲撃は台風のようだった。前夜’暗闇の中では、兵士らはウワバミのごとく密かに防寨に押し寄せた。しかし今は、白日のうちで、そのうちひらけた街路の中で、奇襲はまったく不可能だった。その上、強大な武力は明らかに示され、大砲は咆哮し始めていた。それで軍隊は一挙に防寨に躍りかかった。今は憤激もかえって妙手段であった。強力なる戦列歩兵の一縦隊が、一定のマを置いて徒歩の国民兵と市民兵とを交じえ、姿は見えないがただ足音だけが聞こえる/群がり立った軍勢をうしろにひきつれて:、街路のうちに襲歩で現われてき、太鼓を鳴らし、ラッパを吹き、銃剣を交差し、工兵を先頭に立て、弾丸の下に泰然として、壁の上に青銅の梁の落ちかかるような重さで、防寨めがけて真っ直ぐに進んできた。  障壁はよく持ちこたえた。  暴徒らは猛烈な銃火を開いた。敵からよじ登られる防寨は/電光の鬣をふりかぶったかと思われた。襲撃は凶猛をきわめて、防寨の表面は一時’襲撃軍をもって満たされたほどだった。しかし防寨は、獅子が犬を振るい落とすように兵士らを振るい落とした。あたかも海辺の巌が一時’泡沫におおわれるがように、襲撃軍におおわれてしまったが、一瞬間の後にはまた、そのつき立った真っ黒な恐ろしい姿を現わした。  退却を余儀なくされたジュウ列は街路に密集し、何らの掩護物もなく/恐るべきありさまで、カクメンホウに向かって猛射を浴びせた。仕掛け花火を見たことのある者は、花束と言わるる一束の交差した火花を記憶しているだろう。その花束を垂直でなしに横に置き、各火花の先にショウ銃弾や/猟銃霰弾や/ビスカイヤン銃弾があって、そのフサのような雷電の下に死を振るい出していると想像してみるがいい。防寨は実にそういう銃火の下にあった。  両軍とも決意のほどは同じだった。その勇気はほとんど蛮的であって、まず自己犠牲より始まる/壮烈な獰猛さを含んでいた。国民兵までもアルゼリア歩兵のごとく勇敢に戦う時代だった。軍隊のほうは一挙に敵を-ほふらんとほっし、反乱のほうはあくまで戦わんと欲していた。青春と健全とのさなかにおいて/死の苦痛を甘受する精神は、勇敢をして熱狂たらしむる。その白兵戦のうちに各人が掉尾の勇を-ふるった。街路には死屍が累々と横たわった。  防寨には、いったんにアンジョーラがおり、タのイッタンにマリユスがいた。全防寨を頭のうちに担ってるアンジョーラは/最後まで身を-たもとうとして潜んでいた。三人の兵士が、彼の姿も見ないで/彼の狭間に相次いで倒れた。マリユスは身をさらして戦っていた。彼は自ら敵の目標となった。カクメンホウの上から半身以上を乗り出していた。感情を奔放さした吝嗇家ほど激しい浪費をなすものはなく、夢想家ほど実行において恐ろしいものは無い。マリユスは猛烈であり”また専心であった。彼は夢の中にあるようにして戦いの中にいた。あたかも幽霊が射撃をしてるのかと思われた。  防御軍の弾薬は尽きかかっていたが、その風刺は尽きなかった。墳墓の旋風のうちに立ちながら彼らは笑っていた。  クールフェーラックは帽子をかぶっていなかった。 「帽子をいったいどうした。」とボシュエは彼に尋ねた。  クールフェーラックは答えた。 「奴らが大砲の弾で飛ばしてしまった。」  あるいはまた昂然たる言葉をも彼らは発していた。 「わけがわからない、」とフイイーは苦々しげに叫んだ:、「彼等は、(そしてフイイーは、旧軍隊のうちの知名な人や/高名な人など、若干の名前を一々あげた、)われわれに加わると約束し、われわれを助けると誓い、名誉にかけて明言し:、しかもわれわれの将たるべき者でありながら、われわれを見捨てるのか!」  それに対してコンブフェールは、落ち着いた微笑をしながら/ただこう答えた。 「世間には、星を眺むるように/ただ遠方から名誉の法則を観測する者もあるさ。」  防寨の中は、壊れた薬莢が播き散らされて、雪でも降ったようだった。  襲撃軍には数の利があり、反軍には地の利があった。反徒らは城壁の上に拠っていて、死体や負傷者らのあいだにつまずき/急斜面に足を取られてる兵士らを、狙い打ちに薙ぎ倒した。前に述べたような築き方をして/巧妙に固められてるその防寨は、一握の兵をもって/一軍をも敗走させ得る地の利を/実際’有していた。けれども襲撃隊は、絶えず援兵を受けて/弾丸の雨下する下にもますます数を増し、いかんともすべからざる勢いで寄せてきた。そして今や少しずつ、一歩一歩、しかも確実に防寨に迫ってきて、あたかも螺旋が圧搾器をしめつけるようなものだった。  襲撃は相次いで行なわれた。危険は刻々に増していった。  その時、この敷石の上において、このシャンヴルリー街のうちにおいて、トロイの城壁にもふさわしい争闘が起こった。憔悴し/ボロをまとい/疲れ切ってる防寨の人々は、二十四時間のあいだ1食もせず、一睡もせず、余すところは数発の弾のみとなり:、ポケットを探っても弾薬はなく、ほとんど全員’傷を受け、黒くよごれた布切れで頭や腕をまき、着物には穴があいてそこから血が流れ:、武器としては悪い銃と古い鈍ったサーベルにすぎなかったが、しかもタイタン族のように巨大となったのである。防寨は十回の余りも攻め寄せられ、襲撃され、よじ登られたが、決して陥落はしなかった。  この争闘のおおよその有様を知らんとするならば、恐ろしい勇気の堆積に火をつけ、その燃え上がるのを見ると思えば大差はない。戦いではなくて火炉の内部であった。口は炎の息を出し、顔は異様なさまに変わり、人間の形が保たれることはできないかのようで、戦士らは皆燃え上がっていた。そして白兵戦のカキョウ精らが/その真っ赤な煙の中に行ききするのは、見るも恐ろしい光景だった。その壮大なる殺戮が相次いで各所に起こる光景を/ここに描写することはやめよう。一戦闘をもって一万二千の句を満たす(訳者注◇ イリヤードのごとく)の権利は、ただ叙事詩のみが有するのである。  十七の奈落のうちの最も恐るべきもので、ヴェダの中で剣葉林と呼ばれてる/あのバラモン教の地獄のありさまも、斯くやと思われるほどだった。  彼らは敵を間近に引き受け、ピストルや/サーベルや/拳固で接戦し、遠くから、近くから、上から、下から、至る所から、人家の屋根から、居酒屋の窓から、またある者は窖にすべり込んでその風窓から、戦った。ひとりをもって六十人を相手とした。コラント亭の正面は半ば破壊されて、見る影もなくなった。窓は霰弾を打ち込まれて、ガラスも窓縁もなく、敷石でむちゃくちゃに塞がれてる不格好な穴に過ぎなくなった。ボシュエは殺され、フイイーは殺され、クールフェーラックは殺され、ジョリーは殺され、コンブフェールはひとりの負傷兵を引き起こそうとするせつな、三本の銃剣で胸を貫かれ、わずかに空を仰いだだけで息絶えた。  マリユスは-なお戦っていたが、全身’傷におおわれ、ことに頭部がはなはだしく、顔は血潮の下に見えなくなり、あたかも真っ赤なハンカチを顔に被せたが-ようだった。  アンジョーラひとりはどこにも傷を受けなかった。武器がなくなった時、左右に手を伸ばして何かをつかみ取ろうとすると、ひとりの暴徒が彼の手に刃物の一片を渡してくれた。マリニャーノの戦いにフランソア一世は三本の剣を使ったが、彼は実に4本の剣を使いつくして、今やその折れた一片を手にしてるのみだった。  ホメロスは言う。「ディオメーデは、麗しきアリスバの地に住みける/テウトラニスの子アクシロスを-ほふり:、メシステウスの子エウリアルスは、ドレソス、オフェルチオス、エセポス、および河神アバルバレアが一点の非もなきブコリオンの種を宿して産める/ペダソスを討ち取り:、オデュッセウスはペルコーテのピヂテスを仆し、アンチロクスはアブレロスを仆し、ポリペテスはアチスアロスを仆し、ポリダマスはシレネのオトスを仆し、テウセルはアレタオンを仆しぬ。メガンチオスはエウリピロスの槍の下に死しぬ。英雄の王たるアガメムノンは、轟々たるサトニオの大河に洗わるる/峻嶮なる都市に生まれたるエラトスを打ち倒しぬ。」フランスの古き武勲詩/ゼストの中においては、塔を引き抜いて投げつけながら身をまもる巨人スワンティボール侯を、エスプランディアンは両刃の炎をもって攻撃した。フランスの古い壁画の示すところによれば、ブルターニュ公とブールボン公とは、武装し/紋章をつけ/戦いのしるしをつけ、馬にまたがり、鉞を手にし、鉄の面と/鉄の靴と/鉄の手袋をつけ、一つは黄色の馬飾りを施し、一つは藍色の馬衣を置いて、互いにあいまみえた。ブルターニュ公は兜の両カクの間に獅子の記章をつけ、ブールボン公は兜の目庇に大きな百合の記章をつけていた。しかし雄壮たらんがためには、イヴォンのごとく/公爵の兜をかぶるの用はなく、エスプランディアンのごとく/生けるホノオを手に握るの用はなく:、ポリダマスの父フィレスのごとく/人間の王エウフェテスから贈られたる美しい甲冑を/エフィレより持ち帰るの用はない。ただ一つの確信もしくは一つの忠誠のために身をささぐれば足りる。昨日まではボースやリムーザンの農夫であり、今日はリュクサンブールの’園のかわいい子供らのまわりに/短い剣を腰に下げてぶらついてる、あの素朴なる可憐な兵士:、解剖体の一片や/一冊の書物の上に背をかがめ、あるいは鋏で髯をつんでいる、あの金髪蒼顔なる若い学生、彼ら両者をとらえて、義務の息吹を少し吹き込み、ブーシュラー四つ辻や/プランシュ・ミブレー袋町で向かい合って立たしめ:、そして一方は軍旗のために戦い、一方は理想のために戦い、両者共に祖国のために戦ってるのだと想わしむるならば、その争闘は巨大なものとなるであろう。斯くて、人類がもがいてる叙事詩的なタ-イヤにおいて、相争う一介の兵士と/一介の学生とが投ずる影は、猛虎に満ちたリシアの王メガルヨンと/諸神に等しい偉大なるアジァクスとが、あい格闘しながら投ずる影に、匹敵することができるであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十二章】 【接戦】 ◇。◇。◇。◇。◇。  生き残ってる首領としては/ただ防寨の両はし-に立ってるアンジョーラとマリユスとの二人のみになった時、クールフェーラックと/ジョリーと/ボシュエと/フイイーと/コンブフェールとが長く支えていた中央部は、彼らの戦死とともに撓んできた。大砲は都合よい裂け目を作ることはできなかったけれども、カクメンホウの中央を三日月型にかなり広く破壊した。その障壁の頂は砲弾の下に飛び散って崩れた。そしてあるいは内部に/あるいは外部に落ち散った破片は、次第に積もりながら、障壁の両側に、内部と外部とに、二つの斜面をこしらえてしまった。外部の斜面は突入に便利な傾斜を与えた。  力をきわめた襲撃がその点に向かって試みられた。それは成功した。一面に銃剣を逆だて/襲歩で進んできた集団は、不可抗な力をもって寄せてき、襲撃縦隊の密集した先頭は、斜面の上に/硝煙の中から現われてきた。こんどはもはや最後であった。中央を防いでいた一群の暴徒は列を乱して退却した。  その時、おのれのイノチを愛する暗い心は/ある者のうちに目ざめてきた。森林のごとく立ち並んだ小銃から狙い打ちにされながら、数多の者はもう死ぬことを欲しなかった。自己保存の本能がうなり出し/獣性が人間のうちに再び現われてくる瞬間である。彼らはカクメンホウの背面をなす7階だての高い人家のほうへ押しつけられていた。その家は彼らを救うものとも成り得るのだった。それはすっかり締め切られて、上から下まで障壁をめぐらされたようなありさまだった。兵士らがカクメンホウの内部にはいり込むまでには、一つの戸が開いて”また閉じるだけの時間はあった。それには電光の一閃ほどのマで足りた。突然’少しばかり開いてまたすぐに閉ざさるるその家の戸は、それら絶望の人々にとってはイノチとなるのだった。家のうしろには街路があり、逃走も可能であり、余地があった。彼らはその戸を、銃床ビでたたき/足で-けり、呼び、叫び、懇願し、手を合わした。しかし誰もそれを開く者はなかった。4階のノキマドからは、死人の頭が彼らを眺めていた。  しかしアンジョーラとマリユスとシチハチニンの者は、彼らのまわりに列を作り、挺身して彼らを保護していた。アンジョーラは兵士らに叫んだ、「出て来るな!」そして一将校がその言に従わなかったので、アンジョーラはその将校を仆してしまった。彼は今やカクメンホウの内部の小さな中庭で、コラント亭を背にし、一方の手に剣を握り、一方の手にカラビン銃を取り、襲撃者らを食い止めながら、居酒屋の戸を開いていた。彼は絶望の人々に叫んだ。「開いてる戸は一つきりだ、こればかりだ。」そして身をもって彼らを覆い、ひとりで一隊の軍勢に立ち向かいながら、背後から彼らを通さした。彼らは皆そこに走り込んだ。アンジョーラはカラビン銃’を杖のように振り回し、棒術でいわゆる隠れ薔薇と称する使い方をして、左右と前とに差しつけられる銃剣を打ち落とし、そして最後にはいった。兵士らは続いて侵入せんとし、暴徒らは戸を閉ざさんとし、一瞬間恐ろしい光景を呈した。戸は非常な勢いで閉ざされて/戸口の中に嵌り込みながら、しがみついていた一兵士の五本の指を切り取り、そのままそれを戸の縁に膠着さした。  マリユスは外に残されていた。一発の弾を鎖骨に受けたのである。彼は気が遠くなって倒れかかるのを感じた。その時彼は既に眼を閉じていたが、強い手につかみ取らる-るような感じを受け、気を失って吾を忘れる前にちらと、コゼットのことが最後に思い出され、それとともにこういう考えが浮かんだ、「捕虜となった、銃殺されるのだ。」  アンジョーラは居酒屋の中に逃げ込んだ人々のうち/マリユスがいないのを見て、同じ考えを-いだいた。しかし彼らは皆、自分の死を考えるだけの余裕しかないような瞬間にあった。アンジョーラは戸に横木を入れ、カキガネをし、錠前と海老錠との二重の締まりをした。そのあいだも、兵士らは銃床ビで/工兵らは斧で、外部から激しく戸をたたいていた。襲撃者らはその戸めがけて集まっていた。今や居酒屋の包囲攻撃が始まった。  兵士らはフンヌに満ちていたことを、ここに言っておかなければならない。  砲兵軍曹の死は彼らをゲッコウさした。次に、いっそういけなかったことには、襲撃に先立つ数時間のうちに、暴徒らは捕虜をすべて虐殺し/現’に居酒屋の中には頭のない一兵士の死体があるという噂が、彼らの間に言いふらされた。この種の痛ましい風説は、たいてい内乱に伴うものであって、後にトランスノナン街の惨劇を惹起さしたのは、かかる誤報のゆえであった。  戸の防備ができた時、アンジョーラは他の者らに言った。 「イノチを高価に売りつけてやろうよ。」  それから彼はマブーフとガヴローシュが横たわってるテーブルに近づいた。喪布の下には、真っ直ぐな硬ばった姿が/大きいのと小さいのと二つ見えており、二つの顔は経帷子の/冷ややかな襞の下にぼんやり浮き出していた。喪布の下から一本の手が出て下にたれていた。それは老人の手であった。  アンジョーラは身をかがめて、前日そのヒタイに脣をあてたように、その尊むべき手に脣をあてた。  それは彼が生涯のうちにした唯一の二度の口づけだった。  さて話を簡単に進めよう。防寨はテーベの市門のごとく戦ったが、居酒屋はサラゴサの人家のように戦った。かかる抵抗は執拗である。身を休むる陣営もなく、軍使を出すことも不可能である。敵を殺す以上は-みな死を欲する。シューシェが「降伏せよ」と言う時に、パラフォクスは答える、「弾丸の戦いのあとには刃物の戦いのみだ。」(訳者注◇ 1809年サラゴサの攻囲の折のこと):ユシュルー居酒屋の襲撃にはあらゆるものが交じっていた。敷石は窓や屋根から雨のごとく降り、兵士らはそれにたたきつぶされつつゲッコウした。窖や屋根裏から銃弾が飛んだ。攻撃は猛烈であり、防御は激烈であった。最後に、戸が破れた時には、皆殺しの凶猛な蛮行が演ぜられた。襲撃者らは壊されて/床に投げ出された戸の板に足を取られながら、居酒屋の中に突入したが、そこにはひとりの敵もいなかった。螺旋状の階段は斧に断ち切られて部屋の真ん中に横たわっており、数人の負傷者らは既に息絶えており、イノチのある者は-みな二階に上がっていた。階段の入口だったその天井の穴から、恐怖すべき銃火が爆発した。それは最後の弾薬であった。その弾薬が尽きた時、瀕死の苦しみのうちにある恐ろしい彼らに/火薬も玉もなくなった時:、前に述べたとおりア-ンジョーラが取って置かした壜を各自に二本ずつ取り上げ、その壊れやすい棍棒をもって/上がってくる兵士らに対抗した。それは葡萄酒ではなく硝酸の壜だった。われわれはここに、その殺戮の陰惨な光景をありのまま語っているのである。包囲された者はあらゆる物を武器となす。水中燃焼物もアルキメデスの名を汚すものではなく、沸騰せるチャンもバイヤールの名を汚すものではない。戦争はすべて恐怖であり、武器を選ぶの暇はない。襲撃者らの銃火は不自由で/かつ下から上に向かってなされるものではあったが、しかも多くの殺傷を与えた。天井の穴のフチは、間もなく死者の頭にかこまれ、それから煙を立てる長い真っ赤な糸がしたたった。混乱は名状すべ-からざるありさまだった。家の中に閉じこめられたモユルがような煙は、この戦闘の上を/ほとんど暗夜のように覆っていた。戦慄すべき光景もこの程度に達すれば、それを現わす言葉はない。今や地獄の中のようなこの争闘のうちには、もはや人間はいなかった。もはや巨人と巨獣との戦いでもなかった。ホメロスの語るところよりも/ミルトンやダンテの語るところにいっそう似てるものだった。悪魔が攻撃し/幽鬼が抵抗したのである。  それは怪物的な壮烈さであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十三章】 【断食者と酩酊者との二人の友】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ついに、短い梯子を作り、階段の残骸をたよりとし、壁を攀じ、天井に取りつき、引き戸のフチで抵抗する最後の者らを薙ぎ払いながら:、戦列兵と”国民兵と”市民兵とが入り交じってる/二十人ばかりの襲撃者は、その恐ろしい登攀のうちに大部分は顔の形もわからないまでに傷を受け、血潮のために目も見えなくなり、憤激し、凶猛となって、二階の広間に侵入した。そこには、立ってる者はただひとりにすぎなかった。それはアンジョーラだった。弾薬もなく、剣もなく、入り来る者らの頭をなぐって床尾をこわした/カラビン銃の銃身を手にしてるのみだった。彼は襲撃者’らを球突台で隔て、部屋の片隅に退き、そこで眦を決し、昂然と頭を上げ、筒先ばかりの銃を手にして立っていたが:、その姿はなお敵に不安を与え、周囲には空き地が残されて/誰も近づく者はなかった。ある者が叫んだ。 「これが首領だ。砲手を殺したのもこの男だ。そこに立ってるのはちょうどいい。そのままでいろ。すぐ銃殺してやる。」 「打て。」とアンジョーラは言った。  そしてカラビン銃の断片を投げすて、腕を組んで、胸を差し出した。  みごとな死を遂げる豪胆さは、常に人を感動させるものである。アンジョーラが腕を組んで最期を甘受するや、部屋の中の争闘の響きは止み、その混乱はたちまち墳墓のごとき厳粛さに静まり返った。武器を捨てて身動きもせずに立ってるアンジョーラの威風は、騒擾を押さえつけてしまったかと思われた。ただひとり一か所の傷も負わず、崇高な姿で、血’にまみれ、麗しい顔をし、不死身なるかのように平然としているこの青年は:、その落ち着いた一瞥の威厳のみで既に、ものすごい一群の者らをして、彼を殺すに当たって尊敬の念を起こさしめるかと思われた。彼の美貌は、その瞬間’矜持の念にいっそう麗しくなって、光り輝いていた。そして負傷を知らないとともに/疲労をも知らない身であるかのように、恐るべき二十四時間を経きたったあとにもなお、その-おもては鮮やかな薔薇色をしていた。一証人が、その後軍法会議の前で、「アポロンと呼ばるるひとりの暴徒がいた」と語ったのは、たぶん彼のことを言ったのであろう。アンジョーラをねらっていたひとりの国民兵は、銃をおろしながら言った、「花を打つような気がする。」  十二人の者が、アンジョーラと反対の一隅に並び、沈黙のうちに銃を整えた。  それから一人の軍曹が叫んだ、「ねらえ。」  ひとりの将校がそれをさえぎった。 「待て。」  そして将校はアンジョーラに言葉をかけた。 「目を隠すことは望まないか。」 「いや。」 「砲兵軍曹を殺したのは君か。」 「そうだ。」  その少し前にグランテールは目をさましていた。  読者の記憶するとおりグランテールは、前日から二階の広間で、椅子に座り/テーブルによりかかって眠っていたのだった。  彼は「死ぬほどに酔う」という古いたとえを充分に実現していた。アブサントと/スタウトと/アルコールの強烈な眠り薬は、彼を昏睡におとしいれた。彼がよりかかってるテーブルは小さくて、防寨の役には立たなかったので、そのままにされていた。彼はそのテーブルの上に胸をかがめ、両腕にぐったり頭を押しつけ、杯や/コップや/壜にとりまかれて、常に同じ姿勢のままでいた。蟄伏してる熊や/血を吸いきった蛭のように、圧倒しきたる睡魔に襲われていた。小銃の音も、榴弾の響きも、窓から部屋にはいってくる霰弾も、襲撃の非常な喧騒も、何一つとして効果のあるものはなかった。ただ彼は時々、鼾の声で大砲の響きに答えるのみだった。あたかも目をさます手数なしにそのまま殺してくれるタマをそこで待ってるようだった。まわりには数名の死骸が横たわっていた。一見したところでは、それら深い永眠に陥ってる者と/何らの区別もなかった。  物音は泥酔者をさますものではない。泥酔者をさますのは静寂のほうである。そういう不思議はしばしば見らるるところである。あらゆるものが崩落する周囲の物音は、グランテールの吾を忘れた眠りをますます深くした。物の崩壊は彼を気持ちよくゆすってくれた。しかるにアンジョーラの前に喧騒が急にやんだことは、その重い眠りに対する激動だった。それは全速力で走ってる馬車がにわかに止まったようなもので、馬車の中にうとうとと居眠ってる者は目をさます。グランテールはびっくりして身を起こし、両腕を伸ばし、眼を-こすり、あたりを眺め、欠伸をし、そしていっさいを了解した。  酔いのさめるのは、幕を切って落とすに似ている。人は一瞥で一つかみに、酩酊が隠していたすべてを見て取る。万事が突然’記憶に浮かんでくる。二十四時間の間に起こったことを少しも知らないでいる酔漢も、目蓋を開くか開かないうちに事情を了解する。すべての観念は急に明るくなって蘇ってくる。酩酊の曇りは、頭脳を盲目になしていた一種の煙は、たちまち晴れて、明るい明瞭な現実の姿に地位を譲る。  グランテールは片隅に押しやられ、球突台のうしろに隠れたようになっていたので、アンジョーラの上に目を据えていた兵士らは、少しも彼に気づかなかった。そして軍曹が「ねらえ」という命令を再び-くだそうとした時、突然’兵士らの耳に、傍から強い叫び声が響いた。 「共和万歳! 吾輩もそのひとりだ。」  グランテールは立ち上がっていた。  参加しそこなって仲間にはいることができなかった全戦闘の燦然たる光は、様子を変えたこの酔漢の輝く目の中に現われた。  彼は「共和万歳/」と繰り返し、しっかりした足取りで部屋を横ぎり、アンジョーラのソバに立って銃口の前に身を置いた。 「一打ちでわれわれ二人を倒してみろ。」と彼は言った。  そして静かにアンジョーラのほうを向いて言った。 「承知してくれるか。」  アンジョーラは微笑’しながら彼の手を握った。  その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。  アンジョーラは八発の弾に貫かれ、あたかも’玉で釘付けにされたかのように壁によりかかったままだった。ただコウベをたれた。  グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。  それから間もなく兵士らは、家の上層に逃げ上がってる残りの暴徒らを駆逐しにかかった。彼らはホンコウシの間から屋根部屋の中に弾を打ち込んだ。屋根裏で戦いが始まった。死体は窓から投げ出されたが、中にはまだ生きてる者もあった。壊れた乗り合い馬車を起こそうとしていた軽歩兵のうち二人は、屋根裏の窓から発射された二発のカラビン銃に仆された。労働服をつけたひとりの男は、腹に銃剣の一撃を受けて、その窓から投げ出され、地上に横たわって最後の呻きを発した。ひとりの兵士とひとりの暴徒とは、瓦屋根の斜面の上にいっしょにすべり、互いにつかみ合った手を離さなかったので、獰猛な抱擁のまま地上にころげ落ちた。窖の中でも同じような争闘が行なわれた。叫喚、射撃、猛烈な蹂躙、次いで沈黙が落ちてきた。防寨は占領されていた。  兵士らは付近の人家を捜索し、逃走者を追撃し始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二十四章】 【捕虜】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは実際捕虜になっていた。ジャン・ヴァルジャンの捕虜になっていた。  倒れかかった時うしろから彼をとらえた手、意識を失いながらつかまれるのを彼が感じた手は、ジャン・ヴァルジャンの手であった。  ジャン・ヴァルジャンは/ただそこに身をさらしてるというほかには、少しも戦闘に加わらなかった。しかし彼がもしいなかったならば、その最後の危急の場合において、誰も負傷者らのことを考えてくれる者はなかったろう。幸いにして、天恵のごとく/その殺戮中の至る所に身を現わす彼がいたために、倒れた者らは引き起こされ、下の部屋に運ばれ、手当てをされた。マを置いて彼は常に防寨の中に現われてきた。しかし打撃や襲撃や、また一身の防御さえも、彼の手では少しもなされなかった。彼は黙々として人を救っていた。その上、彼はただわずかなカスリキズを受けたのみだった。玉は彼にあたることを欲しなかった。彼がこの墳墓の中にきながら夢想していたものの一部が、もし自殺であったとしたならば、その点では彼はまったく不成功に終わった。しかし宗教に反する行ないたる自殺を彼が頭に浮かべていたかどうかは、われわれの疑いとするところである。  ジャン・ヴァルジャンは濃い戦雲の中で/マリユスを見るような様子はしていなかった。しかし実際は、マリユスから目を離さなかった。一発の弾がマリユスを倒した時、ジャン・ヴァルジャンは虎のごとく敏活に飛んでゆき、獲物につかみかかるように彼の上に飛びかかり、そして彼を運び去った。  その時襲撃の旋風は、アンジョーラと居酒屋の戸口とを中心として猛烈をきわめていたので:、気を失ってるマリユスを腕にかかえ、防寨の中の敷石のない空き地を横ぎり、コラント亭のカドの向こうに身を隠したジャ-ン・ヴァルジャンの姿を、目に止めた者はひとりもなかった。  岬のように街路につき出ているそのカドの事を、読者は覚えているだろう。それにさえぎられてスーシャクの四角な地面は、銃弾も霰弾も”また人の視線をも免れていた。時としては、火災の真ん中にあって少しも焼けていない部屋があり、また荒れ狂ってる海の中にあって、岬の手前か/袋のような暗礁の中に、少しの静穏な一隅がある。エポニーヌが最後の息を引き取ったのも、防寨の四角な内部のうちにあるそういう隅においてであった。  そこまで行って、ジャン・ヴァルジャンは立ち止まり、マリユスを地上におろし、壁に背を寄せて周囲を見回した。  情況は危急をきわめていた。  一瞬の間は、おそらくニサンフンの間は、その一面の壁に身を隠すことができた。しかしこの殺戮の場所からどうして出たらいいか? 八年前ポロンソー街でなした苦心と、ついにそこを脱し得た方法とを、彼は思い出した。それはあの時非常に困難なことだったが、今はまったく不可能なことだった。前面には、7階だてのびくともしないツンボのような家があって、その窓によりかかってる-しにんのほかには/住む人もないかのように見えていた。右手には、プティート・トリュアンドリーのほうをふさいでるかなり低い防寨があった。その障壁をまたぎ越すのはわけはなさそうだったが、しかしその頂の上から、一列の銃剣の先が見えていた。防寨の向こうに配備されて待ち受けてる戦列歩兵の分隊だった。明らかに、その防寨を越すことはわざわざ銃火を受けに行くようなものであり、その敷石の壁の上からのぞき出す頭は、ロクジッチョウの銃火の的となるのだった。左手には戦場があった。壁のカドの向こうには死が控えていた。  どうしたらよいか?  そこから脱し得るのはおそらく’鳥のみであろう。  しかも、直ちに方法を定め、工夫をめぐらし、決心を堅めなければならなかった。スウホ先の所で戦いは行なわれていた。幸いなことには、ただ一点に、居酒屋の戸口に向かってのみ、すべての者が飛びかかっていた。しかし、ひとりの兵士が、ただひとりでも、家を回ろうという考えを起こすか、あるいは側面から攻撃しようという考えを起こしたならば、万事休するのだった。  ジャン・ヴァルジャンは正面の家を眺め、ソバの防寨を眺め、次には、狂乱のテイになって/切羽つまった猛烈さで地面を眺め、あたかもおのれの目で/そこに穴を明けようとしてるかと思われた。  眺めてるうちに、深い心痛のうちにも漠然と認めらるる何かが浮き出してきて、彼の足下に一定の形を取って現われた。あたかも目の力でそこに望む物を作り出したかのようだった。すなわちスウホ先の所に、外部からきびしく監視され/待ち受けられてる小さな防寨の根元に、積まれた敷石の乱れてる下に半ば隠されて、地面と水平に平たく置かれてる鉄格子を、彼は見つけたのである。その格子は、丈夫な鉄の棒を横に渡して作られたもので、二尺四方くらいの大きさだった。それを堅めてる周囲の敷石がめくられたので、錠をはずされたようになっていた。鉄棒の間からは、煖炉の煙突か/水槽のクダのような暗い穴が見えていた。ジャン・ヴァルジャンは飛んでいった。昔の脱走の知識が、電光のように彼の頭に上がってきた。上に重なってる敷石をはねのけ、鉄格子を引き上げ、死体のようにぐったりとなってるマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肱と膝との力によって、幸いにもあまり深くない井戸のようなその穴の中におりてゆき:、頭の上に重い鉄の蓋をおろし、その上にまた揺らいでる敷石を自然にくずれ落ちてこさせ、地下三メートルの所にある敷石の面に足をおろすこと:、それだけのことを彼は、あたかも狂乱のうちになすかのように、巨人の力と/鷲の迅速さとをもってなし遂げた。わずかに数分間を費やしたのみだった。  斯くてジャン・ヴァルジャンは、まだ気を失ってるマリユスと共に、地下の長い廊下みたいなものの中に出た。  そこは、深い静穏、まったくの沈黙、闇夜のみであった。  昔’街路から修道院の中に落ちこんだ時に感じた印象が、彼の頭に浮かんできた。ただ、彼がいま担っているのは、コゼットではなくてマリユスであった。  襲撃を受けてる居酒屋の恐ろしい騒擾の響きも、今や漠然たるつぶやきの声のように、かすかに頭の-じょうほうに聞こえるきりだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二編】 【怪物の腸】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【海のために-やする土地】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーはネンに二千五百万フランの-かねを水に投じている、しかもこれは比喩ではない。いかにして”またいかなる方法でか? 否/昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否/何の目的もない。いかなる考えでか? 否/何という考えもない。何ゆえにか? 否/理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とはなんであるか? 曰く、下水道。  二千五百万という金額は、その方面の専門科学によって見積もられた概算のうちの最も低いガクである。  科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな/最も有効なのは人間から出る肥料であることを、こんにち認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、われわれが汚穢と称するところのものを/二つの桶にいっぱい入れ、それを竹竿の両はし-に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお陰で、支那の土地は-こんにちなお/アブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒蒔けば百二十粒得らる-る。いかなるカイチョウフンも、その肥沃さにおいては都市のザンサイに比すべくもない。大都市は排泄物を作るに最も偉大なものである。都市を用いて-へーやを肥すならば、確かに成功をもたらすだろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。  この肥料の黄金を人はどうしているか? 深淵のうちに掃き捨てているのである。  多くの船隊は莫大な費用をかけて、海燕やペンギンのフンを採りに、南極地方へ送り出される。しかるに手もとにある無限の資料は海に捨てられている。世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。  シルベイシの隅に積まれてる不潔物、夜の街路を通りゆく泥濘の箱グルマ、ゴミ捨て場のきたないタル、敷石に隠されてる地下の臭い汚泥の流れ、それらは何であるか? 花咲くボクジョウであり、緑の草であり、百里香や/麝香草や/タムラソウであり、小鳥であり、家畜であり、夕方’満足の声を立てる大きな牛であり:、香り高い秣であり、金色の麦であり、食卓の上のパンであり、人の血管をながる-るあたたかい血液であり、健康であり、喜悦であり、生命である。地にあっては諸々の形に現われ、天にあっては諸々の姿に現われる、神秘な創造は、そうであらんことを望んでいる。  それを取ってダイなる坩堝に-いるれば、人の豊かなる滋養が流れ出る。へーやの養分は人間の養いとなる。  人はかかる富を捨てるも自由であり、また吾人のこの意見を笑うも自由である。しかしそれはかえって大なる無知を表明するにすぎないであろう。  統計によれば、フランスいっこくのみにて毎年約五億フランの-かねを、各河口から大西洋に-そそぎ込んでいるという。見よ、五億の-かねがあれば歳費の四分の一を払い得るではないか。人間の知恵は、その5億を喜んでドブの中に厄介払いしている。しかもそれは民衆の滋養分であって、それを初めは一滴一滴と下水道から川に吐き出し、ついには滔々と川から大洋に吐き出している。下水のヒト流しは千フランを無駄にしている。そこから二つの結果が生ずる、すなわちソウセキした土地と/有毒な水と。飢餓は田地からきたり、疾病は川から来る。  たとえば、現在テームス川がロンドンを毒しつつあることは、顕著な事実である。  パリーについて言えば、最近’下水道の大部分は、下流のほうの最後の橋下に移さねばならなかった。  弁と疏通堰とを備えて吸い取り”また吐き出す二重管の装置は、人の肺臓のように/簡単な初歩の疏水の方法であって、既にイギリスの多くの村では充分に行なわれてることであるが:、それを設けるだけでも、フランスにおいて、デ-ンヤの清水を都市に導き/都市の肥沃な水をデンヤに送るには充分であろう。そしてごく簡単で容易なその交換は/こんにち捨てられつつある5億の-かねを回収するであろう。しかるに人はまるで別なことを考えている。  現在の方法は、よくする-つもりでかえって悪いことをしている。意向はよいが、結果は哀れである。都市を清潔にするつもりで、実は住民を萎靡さしている。下水道は誤った考えである。取るものをまた戻すという2重の働きをする疏水工事が、ただ洗い清めるだけで/かえって貧弱ならしむる下水道の代わりに、いたる所に設けらる-るならば:、その時こそ、新しい社会経済の効果とアイ伴って、土地の産物は10倍にもなり、貧苦の問題は著しく軽減されるだろう。その上に寄食の排除をもってすれば、問題はまったく解決されるだろう。  しかしそれまでは、公衆の富は川に流れ去り、漏泄が行なわれる。漏泄とはちょうど適した言葉である。ヨーロッパは斯くのごとくして疲弊のうちに滅びてゆく。  フランスについては、損失額は上に述べたとおりである。しかるに、パリーはフランス全人口の二十五分の一を有し、パリー市の糞は最上とされているので、パリーの損失高は、フランスが年々失ってる5億のうちの/二千五百万フランに当たるとしても、あえて過当の計算ではない。この二千五百万フランを、救済や娯楽の事業に用いたならば、パリーの光輝は倍加するはずである。しかるに市はそれを汚水に投じ去っている。それで斯く言うこともできる、パリーの一大浪費、その驚くべき華美、ボージョン(訳者注◇ 十八世紀の大富豪)式の乱行、遊興、両手で蒔き散らすような金使い、豪奢、贅沢、華麗、それは実に下水道であると。  斯くて誤った盲目な社会経済学のために、万人の幸福は水に溺れ、水に流れ、深淵のうちに失われている。社会の富をすくい取るためにサン・クルーの辺に網でも張るべきであろう。  経済上より言えば、右の事実を斯く約言することができる、すなわち、パリーは底の抜けた籠であると。  パリーは模範市であり、各国民からまねられる模型的な完全市であり、理想の住む首都であり、発案と/衝動と/試験との堂々たる祖国であり、あらゆる精神の住所であり”中心地であり:、宛然イッコクをなす都市であり、未来の発生地であり、バビロンとコリントを結合した/驚くべき都であるが、これを上に述べきたった見地から見る時には、南支那の一農夫をして/肩を聳やかさせるであろう。  パリーを模倣するは、自ら貧窮に陥ることである。  その上、古来から行なわれてる愚かなその浪費についてはことに、パリー自身も一つの模倣者である。  この驚くべき愚蒙事は新しく始まったことではない。それは決して若気の馬鹿さではない。古人も近代人のようなことをしていた。リービッヒは言う、「ローマの下水道は/ローマの農夫の繁栄をことごとく吸いつくした。」ローマの田舎がローマの下水道によって衰微させられた時、ローマはまったくイタリーを疲弊さしてしまった:、そしてイタリーを下水道のうちに投じ去った時、更にシシリーを投じ去り、次にサルヂニアを投じ去り、次にアフリカを投じ去ってしまった。ローマの下水道は世界を飲み込んだのである。その呑噬の口を、市と世界とに差し出したのである。全く市と世界とに(訳者注◇ ローマ法王の祝祷中にある言葉)である。永遠の都市と、しかも底知れぬ下水道。  他の方面におけると同じくこのことについても、ローマはその実例を垂れている。  明知の都市に固有な一種の愚昧さをもって、パリーはその実例にならっている。  斯くて、今’述べきたった事業を完成せんがために、パリーはその地下にもう一つパリーを有するに至った。すなわち下水道のパリーである。そこにも街路があり、四つ辻があり、広場があり、袋町があり、動脈があり、汚水の血が流れていて、ただ人影がないばかりである。  何者にも、たとえ偉大なる民衆にも、阿諛の言を弄してはならないから、吾人はあえて言うのである。すべてがある所には、崇高と相並んで卑賤も存する。パリーのうちには、光明の町たるアテネがあり、力の町たるチロがあり、勇気の町たるスパルタがあり、奇跡の町たるニニヴェがありはするが:、またドロツチの町たるルテチア(訳者注◇ 古代のパリー)もある。  けれどその力もまたそこに蔵されている。諸々の記念物のうちにおいても、パリーの巨大な下水の溝渠は特に、マキアヴェリや/ベーコンや/ミラボーなどのごとき人物によって/人類のうちに実現された不思議な理想を、すなわち卑賤なる壮大さを実現してるものである。  パリーの地下は、もし中を透視し得るとするならば、巨大なセ-キサンの’観を呈しているだろう。古い大都市が立ってる周囲六里のこの土地には、海綿も及ばないほど多くの水路や隘路がついている。別に一個の洞窟をなしてる墳墓は別とし、ガス管の入り乱れた格子の目は別とし、給水チュウに終わってる上水分配の/広大な一連のクダは別として:、ただ下水道だけでさえ、セーヌの両岸の下に/暗黒な驚くべき網の目を作っている。それはまったく迷宮であって、その傾斜が唯一の道しるべである。  その湿った靄の中には、パリーが産んだかと’思える鼠の姿が見えている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【下水道の昔の歴史】 ◇。◇。◇。◇。◇。  蓋を取るようにパリー市を取り去ったと想像すれば、鳥瞰的に見らる-る下水道の地下の網目は、セーヌ川に接木した/大きな木の枝のように/その両岸に現われてくるだろう。右岸においては、イジョウ溝渠がその枝の幹となり、その分脈は小枝となり、行き止まりの支脈は細枝となる。  しかしその形は、概略のものでまったく正確というわけにはゆかない。かかる地下の分枝のカドは普通’直角’をなしているが、植物の枝には直角なのはきわめてまれである。  その不思議な幾何学的図形にいっそうよく似た形を想像しようとするならば、叢のように錯雑した/不思議な東方文字を、暗黒面の上に/平たく置いたと仮定すればよろしい。その妙な形の文字は、一見したところ入り乱れて無茶苦茶なようであるが、あるいはカドとカドとで/あるいは-いったんと-いったんとで、互いに結び合わされている。  汚水だめや下水道は、中世や/後期ローマ帝国や/古い東方諸国などにおいて、多大の役目をなしていた。疫病はそこから発し、専制君主らはそこに死んだ。衆人はその腐敗のトコを、恐るべき死の揺り籠を、一種’敬虔な恐怖をもって眺めていた。ベナレスの寄生虫の巣窟は、バビロンの獅子の洞にも劣らぬ幻惑を人に与えていた。ユダヤ神学の書物によれば、テグラート・ファラザル(訳者注◇ 古代アッシリアの王)は/ニニヴェの汚水溜めによって誓っていた。ライデンのヨハンが偽りの月を出してみせたのは、ムュンステルの下水道からである。このヨハンに相当する東方人で/コラサンの隠れた予言者モカナが、偽りの太陽を出してみせたのは、ケクシェブの汚水井戸からである。  人間の歴史は下水溝渠の歴史に反映している。死体投棄の溝渠はローマの歴史を語っていた。パリーの下水道は古い/恐るべきものであった。それは墳墓でもあり、避難所でもあった。罪悪、知力、社会の抗議、信仰の自由、思想、窃盗、人間の法律が追跡する”または追跡したすべてのものは、その穴の中に身を隠していた。十四世紀の木槌暴徒、十五世紀の外套盗賊、十六世紀のユーグノー派、十七世紀のモラン幻覚派、十八世紀の火傷強盗、などは皆そこに身を隠していた。百年前には、夜中/短剣がそこから現われてきて人を刺し、また掏摸は身が危うくなるとそこに潜み込んだ。森にドウケツのあるごとく、パリーには下水道があった。ゴール語のいわゆるピカルリアという無籍者らは、クール・デ・ミラクル一郭の出城として/下水道に居を構え:、夕方になると寝所にはいるように、せせら笑った獰猛な様子で/モーブュエの大水門の下に戻っていった。  ヴィード・グーセ袋町(巾着切袋町)やクープ・ゴルジュ街(首切り街)などを毎日の仕事場としてる者どもが、シュマン・ヴェールの小橋や/ユルポアのあばら家を夜の住居とするのは、至って当然なことだった。そのために無数の口碑が伝わっている。あらゆる種類の幽鬼が/その長い寂しい地郭に住んでいる。至る所に腐爛とアッキとがある。中にいるヴィヨンと/外のラブレーと(訳者注◇ 盗賊の仲間にはいったことのある十五世紀の大詩人、および愉快な風刺家であった十六世紀の文豪)が互いに話し合う風窓が、ところどころについている。  いにしえのパリーにおいては、下水道の中にあらゆる疲憊と/あらゆる企図とが落ち合っていた。社会経済学はそこに一つのザンサイを見、社会哲学はそこに一つの糟粕を見る。  下水道は都市の本心である。すべてがそこに集中し/互いに面を合わせる。その青ざめたる場所には、暗闇はあるが、もはや秘密は存しない。事物は各々、その真の形体を-たもっている、もしくは少なくともその最後の形体を-たもっている。不潔の堆積なるがゆえに、その長所として決してタを欺かない。率直がそこに逃げ込んでるのである。バジル(訳者注◇ ボーマルシェーの戯曲「/セヴィールの理髪師」中の人物にて/滑稽なる偽善者の典型)の仮面はそこにあるが、しかしその厚紙も/糸もそのままに見え、外面とともに内面も見えていて、正直なるドロツチが看板となっている。その隣には、スカパン(訳者注◇ モリエールの戯曲「スカパンの欺罔」中の人物にて巧妙快活なる欺罔者の典型)の作りばながある。文明のあらゆる不作法は、一度その役目を終われば、社会のあらゆるものがすべり込むこの真実のドブの中に落ちてゆき、そこに飲み込まれてしまう。しかしそこでは身を隠しはしない。それらの錯雑は一つの告白である。そこでは、偽りの外見もなく、何らの糊塗もなく、醜陋もそのシャツをぬぎ、まったくの裸となり:、幻や蜃気楼は崩壊し、用を終えしもののすごい顔つきをしながら、もはやただあるがままの姿をしか-たもたない。現実と堙滅とのみである。そこでは、壜の底は泥酔を告白し、籠のエは婢僕の勤めを語る。そこでは、文学上の意見を持っていた林檎の種は、再び単なる林檎の種となる。大きな銅貨の面の肖像は素直に緑青で蔽われ、カイファスの唾はフォルスタフの嘔吐物と相会し(訳者注◇ 前者はキリストを処刑せしユダヤの司祭、後者はジャンヌ・ダルクに敗られしイギリスの将軍):、賭博場から来るルイ金貨は/自殺者の紐の端が下がってる釘と出会い、青白い胎児は/この前のカルナヴァル祭最終日にオペラ座で踊った金ぴか物に包まれて転々し、人々を裁いた法官帽は/センプのショーイだった腐敗物のソバに沈溺する。それは友愛以上であり、昵近である。脂粉を塗っていたものもすべて顔を-よごす。最後の覆面も引きはがれる。下水道は一つの皮肉屋である。それはすべてのことをしゃべる。  不潔なるもののかかる誠実さは、吾人を喜ばせ/吾人の心を休める。国家至上の道理、宣誓、政略、人間の裁判、職務上の清廉、地位の威厳、絶対に清い法服、などが装ういかめしい様子を、地上において絶えず見続けてきたあと:、下水道にはいってそれらのものにふさわしい汚泥を見るのは、いささか心を慰むるに足ることである。  それがまた同時にいろいろのことを教える。さきほど述べたとおり、歴史は下水道を通ってゆく。サン・バルテルミーのごときあらゆる非道は、敷石の間から一滴一滴とそこにしたたる。公衆の大虐殺は、政治上および宗教上の大殺戮は、この文明の地下道を通って、そこに死骸を投げ込んでゆく。夢想家の目より見れば、史上のあらゆる虐殺者らがそこにいて、恐ろしい薄暗がりの中に膝をかがめ、経帷子の一片を前掛けとし、悲しげにおのれの所業を-ぬぐい消している。ルイ十一世はトリスタンと共におり、フランソア一世はデュプラーと共におり、シャール9世は母親と共におり、リシュリューはルイ十三世と共におり:、ルーヴォアも、ルテリエも、エベールも、マイヤールもおり、みな石を爪でかきながら、おのれの行為の跡を消そうと努めている。それらのドウケツの中には、幽鬼らの箒の音が聞こえる。社会の災害のダイなる悪臭が呼吸される。片隅には赤い反映が見える。そこには血’のしたたる手が洗われた/恐ろしい水が流れている。  社会観察者はそれらの影の中に入らなければいけない。それらの影も社会実験室の一部をなす。哲学は思想の顕微鏡である。すべてはそれから逃げようと欲するが、何物もそれから脱することはできない。ホウボウ逃げ回っても無駄である。逃げ回りながら人はいかなる方面を示すか? 不名誉な方面をではないか。哲学は活眼をもって悪を追求し、虚無のうちに逃れ去るのを許さない。消滅する事物の塗抹のうちにも、消えうする事物の縮小のうちにも、哲学はすべてを認知する。ボロを再びヒイとなし、化粧品の破片を再び婦人となす。汚水溝渠で都市を再び作り出し、ドロツチで再び風俗を作り出す。陶器の破片を見ては、壺や瓶を結論する。羊皮紙の上の爪跡で、ユーデンガスのユダヤ居住地と/ゲットーのユダヤ居住地との差を見て取る。今’残っているもののうちに、かつてありしものを見いだす、すなわち、善、悪、偽、真、宮殿内の血痕、洞窟のボクコン、娼家の蝋の一滴、与えられた苦難、喜んで迎えられた誘惑、吐き出された遊楽、立派な人々が身をかがめつつ作った襞:、下等な性質のために起こる心のうちのオドクの跡、ローマの人夫らのヤッケにあるメッサリナ(訳者注◇ クラウディウス皇帝の妃にして淫乱で有名な女)の肱の跡、などを見いだすのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【ブリュヌゾー】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリーの下水道は、中世においては伝説的な状態にあった。十六世紀に、アンリ二世はその測量を試みたが、失敗に終わった。メルシエの立証するところによれば、今から百年足らず前までは、下水道はまったく放棄されていて、なるがままに任せられていた。  そういうふうにこの古いパリーは、論議と/不決定と/模索とにすべて放任されていた。長い間かなり愚昧のままであった。その後、89年(1789年)はいかにして都市に精神が出て来るかを示した。しかしいにしえにおいては、首府はあまり頭脳を持っていなかった。精神的にもまたは物質的にも自分の仕事を処理する道を知らず、弊害を除去することができないとともに/汚物を除去することもできなかった。すべてが妨害となり、すべてが疑問となった。たとえば、下水道はまったく探査することができなかった。市中においては万事わけがわからないとともに、汚水だめの中においては方向を定めることができなかった。地上にては了解が不可能であり、地下にては脱出が不可能だった。言語の混乱の-したにはドウケツの混乱があった。迷宮がバベルの塔と裏合わせになっていた。  時とするとパリーの下水道は、あたかも軽視されたナイル川が突然’憤ることがあるように、氾濫の念を起こすことがあった。きたならしいことではあるが、実際’下水道の漲溢が幾度も起こった。時々この文明の胃袋は不消化に陥り、汚水は市の喉元に逆流し、パリーはその汚泥を反芻して味わった。そして斯く下水道と悔恨との類似は実際’有益だった。それは人に警告を与えた。しかしそれもかえって悪い意味にばか-り取られた。市はそのドロツチの鉄面皮に腹を立てて、不潔が再び戻って来るのを許さなかった。なおいっそうよく追い払おうとした。  1802年の氾濫は、八十歳ほどになるパリー人が今もよく記憶している。汚水は、ルイ十四世の銅像があるヴィクトアール広場にジュウオウにひろがり、またシャン・ゼリゼーの下水道の二つの口からサン・トノレ街へ入り:、サン・フロランタンの下水道からサン・フロランタン街へ、ソンヌリーの下水道からピエール・ア・ポアソン街へ、シュマン・ヴェールの下水道からポパンクール街へ、ラップ街の下水道からロケット街へ入った。シャン・ゼリゼーの石樋を覆うこと、三十五センチの高さにおよんだ。そして南のほうは、セーヌ川への大水門から逆行して、マザリーヌ’街やエショーデ街やマレー街まではいり込み、百九メートルの距離の所:、ちょうどラシーヌが昔住んでいた家のスウホ前の所で、ようやく止まった。十七世紀に対しては国王(ルイ十四世)よりも詩人(ラシーヌ)のほうを尊敬したわけである。その深さはサン・ピエール街が最高で、水口の敷石のうえ3尺に達し、その広さはサン・サバン街が最高で、二百三十八メートルの距離にひろがった。  十九世紀の初めにおいても、パリーの下水道はなお神秘な場所であった。およそドロツチは決して令名を得るものではないけれども、当時はその-あくみょうが恐怖を起こさせるほどに高かった。パリーは漠然と、自分の下に恐ろしいドウケツがあるのを知っていた。一丈五尺もある百足が群れをなし、怪獣ベヘモスの浴場にもなり得ようという、テーベの奇怪な沼のように人々はそれを思っていた。下水掃除人らの長靴も、よく知られてるある地点より先へは決して踏み込まなかった。サント・フォアと/クレキ侯とがその上で互いに親交を結んだというあの塵芥掃除人の箱グルマが、下水道の中にそのまま空けられていた時代、それからあまり遠くない時代だったのである。下水道の浚渫はまったく’豪雨にうち任せてあったが、アマミズはそれを掃除するというよりも/閉塞することのほうが多かった。ローマは汚水の溝渠に多少のシミを与えて/ゼモニエ(階段)と呼んでいたが、パリーはそれを侮辱して/トルー・プュネー(臭気孔)と呼んでいた。科学も迷信も同じ嫌悪の情をいだいていた。臭気孔は、衛生にとっても伝説にとっても共に嫌悪すべきものだった。大入道がムーフタールの下水道の臭い穹窿の下に閉じ込められていた。マルムーゼら(訳者注◇ ルイ十五世のとき陰謀を謀った青年諸侯)の死体はバリユリーの下水道に投ぜられていた。ファゴンの説によると、1685年の恐ろしい熱病は、マレーの下水道にできた大きな割れ目から起こったものとのことである。その割れ目は、1833年まで、サン・ルイ街のフウリュウ馬車の看板が出てる前のほうに、大きく口を開いたままであった。またモルテルリー街の下水道の口は、疫病の出口として有名だった。一列の歯に似て/先のとがった鉄棒の格子がついてる様は、その痛ましい街路の中にあって、あたかも地獄の気を人間に吹きかける怪竜’の口かと思われた。民衆の想像は、パリーの陰暗な下水道に、ある無窮的な/恐ろしいことどもを付け加えていた。下水道は底なしであった。バラトロム(訳者注◇ アテネにて死刑囚を投げ込みし深淵)であった。その恐ろしい腐爛の地域を探険しようという考えは、警察の人々にも起こらなかった。その未知の世界を検べること、その闇の中に錘を投ずること、その深淵の中に探査に行くこと、誰がそれをあえて成し得たろうか。それこそ戦慄’すべきことだった。けれども、やってみようという者もいた。汚水の溝渠にもそのクリストフ・コロンブスがいた。  1805年のある日、例のとおり珍しく皇帝がパリーにやってきた時、ドゥクレスだったかクレテだったか/時の内務大臣がやってきて、内謁を乞うた。カルーゼルの広場には、ダイ共和国および大帝国の偉大なる兵士らのサーベルの音が響いていた。ナポレオンの戸口は勇士らでいっぱいになっていた。ラインや/エスコーや/アディジェや/ナイルなどの戦線に立った人々、ジューベールや/ドゥゼーや/マルソーや/オーシュや/クレベルらの戦友、フルーリュスの気球兵、マイヤンスの擲弾兵、ゼノアの架橋兵、エジプトのピラミッドをも見てきた軽騎兵、ジュノーの砲弾から泥を浴びせられた砲兵:、ゾイデルゼーに停泊してる艦隊を強襲して占領した胸甲兵、また、ボナパルトに従ってロディの橋を渡った者もおり、ムュラーと共にマントアの塹壕ちゅうにいた者もおり、ランヌに先立ってモンテベロの隘路を進んだ者もいた。当時の軍隊はすべて、分隊または小隊で代表されて、テュイルリー宮殿の中庭に並び、休息中のナポレオンを護衛していた。ダイ陸軍が過去にマレンゴーの勝利を持ち/前途にアウステルリッツの勝利を控えてる燦然たる時代だった。内務大臣はナポレオンに言った、「陛下、私は昨日/帝国において最も勇敢な男に会いました。」:「どういう男だ? そしてどういうことをしたのか、」と皇帝はせき込んで言った。「ある事をしたいと申すのです。」:「何を?」:「パリーの下水道にはいってみようと申します。」  その男は実在の人物で、ブリュヌゾーと言う名前であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【世に知られざる事がら】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その探険はやがて行なわれた。恐るべき戦陣だった、疫病と毒ガスとに対する暗黒中の戦いだった、同時にまた発見の航海だった。その探険隊のうちでまだ生き残ってるひとり、当時ごく若い怜悧な労働者だったひとりが、公文書の文体に適せぬので/警視総監への報告中に/ブリュヌゾーが省略しなければならなかった不思議な事実を、今から数年前まで人に語ってきかしていた。当時の消毒方法はきわめて初歩の程度だった。ブリュヌゾーが地下の網目の/最初の支脈を越すか越さないうちに、二十人の一隊のうち八人の者はもう先きへ進むことを拒んだ。仕事は複雑で、探険とともに浚渫の役をも兼ねていた。潔めながら”また同時にいろいろの測量をしなければならなかった。すなわち、水の入り口を調べ、鉄格子および穴を数え、支脈をきわめ、分岐点の水流を見、いろいろのたまりに関する区画を見て取り、主要水路に続いてる捷水路を探り:、各隧道の要石の下の高さ、穹窿の彎曲部と底部とにおける広さ、などを測定し、終わりに、各水口と直角に水面線を、底部と街路の地面と両方からの距離で定めるのであった。前進は遅々として困難だった。下降用の梯子が底の泥中に3尺も没することは珍しくなかった。角灯はガスのためによく燃えなかった。気絶した者をときどき運び出さなければならなかった。ある所は絶壁のようになっていた。地面はくずれ、石畳は落ち、下水道は廃れ井戸のようになっていた。堅い足場は得られなかった。ひとりの者が突然’沈み込み、それを引き上げるのも辛うじてだった。化学者フールクロアの注意に従って、十分に潔めた場所には/樹脂に浸した麻屑をいっぱい詰めた/大きな籠に火をともしていった。壁にはところどころ、腫れ物とも言えるような妙な形のキノコヨウのものが、一面に生じていた。呼吸もできないほどのその場所では、石までが病気になってるかと思われた。  ブリュヌゾーはその探険において、上から下へと進んでいった。グラン・ユルルールの二つの水路が分かれてる所で、彼はつき出た石の上に1550という年号を読み分けた。その石はフィリベール・ドゥロムがアンリ二世の命を受けて、パリーの下水道を探険した時、最後に到着した地点を示すもので、下水道にしるされた十六世紀の痕跡だった。またブリュヌゾーは、1600年から1650年の間に上をおおわれた二つ、ポンソーの水路とヴィエイユ・デュ・タンプル街の水路との中に、十七世紀の手工を見いだし:、1740年に切り開かれて上をおおわれた集合溝渠の西部に、十八世紀の手工を見いだした。その二つの穹窿、ことに新しい方の1740年のは、イジョウ溝渠の漆喰工事よりもいっそう亀裂や崩壊がはなはだしかった。イジョウ溝渠は1412年に成ったもので、その時/メニルモンタンの小さな水流はパリーのダイ下水道に用いられて:、農夫の下男が国王の侍従長になったほどの昇進をし、グロ・ジャンが/ルベルに(杢兵衛どんがお殿様に)なったようなものだった。  所々に、ことに裁判所の下の所に、下水道の中に作られた昔の地牢の監房とも思えるようなものがわずかに認められた。恐ろしいインパーセ(地下牢)である。それらの監房の一つには、鉄の首輪が下がっていた。一同はそれらを皆ふさいでいった。また発見された物にはずいぶん珍しいものがあった。なかんずくヒヒの骸骨はすぐれたものであった。このヒヒは1800年に動植物園から姿を隠したもので、十八世紀の末/ベルナルダン街にヒヒが出たという名高い確かな事実と、おそらく関係があるものに違いない。ケモノはあわれにも下水道の中に溺死してしまったのである。  アルシュ・マリオンに達する長い丸天井’の隘路の下に、少しも破損していない屑屋の負い籠が一つあったことは、鑑識カらの嘆賞を買いえた。人々が勇敢に征服していったドロツチの中には、至る所に、金銀ザイク物や/宝石や/貨幣などの貴重品が満ちていた。もし巨人があってそのドロツチを漉したならば、篩の中に数世紀間の富が残ったに違いない。タンプル街とサント・アヴォア街との二つの水道の分岐点では、ユーグノー派の珍しい銅のメダルが拾われた。その一面には、枢機官の帽をかぶった豚がついており、他の面には、法王の冠をかぶった狼がついていた。  ダイ溝渠の入り口の所で、最も意外なものに人々は出会った。その入り口は、昔は鉄格子で閉ざされていたのであるが、もうヒジガネしか残っていなかった。ところがそのヒジガネの一つに、形もわからないよごれた布が下がっていた。おそらく流れてゆく途中でそこに引っかかって、闇の中に漂い、そのまま裂けてしまったものだろう。ブリュヌゾーは角灯をさしつけて、そのボロを調べていた。バチスト織りの精巧なアサヌノで、いくらか裂け方の少ない片隅に、冠の紋章がついていて、その上に LAUBESP というナナ文字が刺繍してあった。冠は侯爵のカン章だった。ナナ文字は Laubespine(ローベスピーヌ)という女名の略字だった。一同は眼前のその布切れがマラーの柩ギレの一片であることを見て取った。マラーには青年時代に情事があった。それは獣医としてアルトア伯爵の家に寄寓していた頃のことである。歴史的に証明されてるあるイチ貴婦人との情事から、右の敷布が残っていた。偶然に取り残されていたのか、あるいは記念として取って置かれたのか、いずれかはわからないがとにかく、彼が死んだとき’家にある多少きれいな布と言ってはそれが唯一のものだったので、それを柩ギレとしたのであった。婆さんたちは、この悲劇的な民衆の友を、歓楽のからんだその布に包んで、墳墓へ送りやったのである。  ブリュヌゾーはそこを通り越した。一同はボロをそのままにしておいて手をつけなかった。それは軽蔑からであったろうか、あるいは尊敬からであったろうか? ともあれマラーはそのいずれをも受けるの価値があった。そのうえ宿命の跡はあまりに歴然としていて、人をしてそれに触れることを躊躇さしたのである。もとより、墳墓に属する物はそれが自ら選んだ場所に放置しておくべきである。要するにその遺物は珍しいものであった。侯爵夫人がそこに眠っており、マラーがそこに腐っていた。パンテオンを通って、ついに下水道の鼠の中に到着したのである。その寝所の布切れは、昔はワットーによってあらゆる襞まで喜んで写されるものであったが、今はダンテの凝視にふさわしいものとなり果てていた。  パリーの地下の汚水溝渠を全部検分するには、1805年から12年まで七年間を要した。進むにしたがってブリュヌゾーは、いろいろの大事業を計画し、指揮し、成就した。1808年には、ポンソーの水路の底部を低くし、また-ほうぼうに新水路を作っては下水道をひろげ、1809年には、サン・ドゥニ街の下をインノサンの噴水の所まで:、1810年には、ゾロアマントー街の下とサルペートリエール救済院の下とに、1811年には、ヌーヴ・デ・プティー・ペール街の下、マイュ街の下、エシャルプ街の下、ロアイヤル広場の下に:、1812年には、ペー街の下とアンタン大道の下とに、下水道をひろげた。同時にまた、あらゆる水路を消毒し/健全にした。二年目からブリュヌゾーは、婿のナルゴーをも仕事に加わらした。  斯くのごとくして十九世紀の初めには、旧社会はその二重底を清め/下水道の化粧をした。とにかくそれだけ清潔になったわけである。  迂曲し、亀裂し、石畳はなくなり、裂け目ができ、穴があき、錯雑した曲がり角が入り組み、秩序もなくコウテイし、悪臭を放ち、野蛮で、暗黒のうちに沈み、敷石にも壁にもショウコンがつき、恐怖すべき姿で横たわっている:、そういうのがパリーの昔の下水道をふり返って見たありさまだった。シホウへの分岐、塹壕の交差、枝の形、鴨足の形、坑道の中にあるような亀裂、盲腸、行き止まり、腐蝕した丸天井。臭い水たまり、四壁には湿疹のような滲出物、天井からたれる水滴、暗黒、実にバビロンの町の胃腸であり、洞窟であり、墓穴であり、街路が穿たれている深淵であり:、かつては華麗であったシュウオの中に、過去と称する盲目の巨大な土竜が彷徨するのが/暗黒の中に透かし見らるる、広大なる土竜の穴であって、その古い吐出口のハカアナのごとき恐ろしさに匹敵するものは何もない。  繰り返して言うが、そういうのがすなわち過去の下水道で-あった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【現在の進歩】 ◇。◇。◇。◇。◇。  コンニチでは、下水道は清潔で、冷ややかで、真っ直ぐで、規則正しい。イギリスにてレスペクタブル(立派な)という言葉が含む意味の理想的なものを、ほとんど実現している。整然としてウスラ明るく、墨縄で設計され、あたかも裃をつけたようにきちんとしている。一介の町人が国家の顧問官となったようにかしこまっている。中にはいってもたいてい明らかに見える。汚泥も端正に控えている。一見した所では、あの昔の地下廊下かとも思われやすい。地下廊下は、「民衆が王を愛していた」古いのんきな時代には、少しも珍しくないもので、王侯たる人々が逃走するのに至って便利なものだった。斯くコンニチの下水道は美しい下水道である。純粋な様式ですべて支配されている。直線的なアレキサンドリア式古典みは、しから追い払われて、建築のうちに逃げ込んだらしく、この長い/薄暗い/ホノジロい丸天井のあらゆる石に交じっているかと思われる。各出口は皆’迫持になっている。リヴォリ街の所は溝渠の中においても一派をなしている。その上、幾何学的な線が最も適当した場所を求むれば、それはまさしく大都市の排泄ゴウであろう。そこではすべてが最も短距離の道を選ばなければならない。下水道はこんにち多少官省ふうな趣を呈している。時として警察は下水道に関する報告をなすが、もはやその中でも敬意を欠かされてはいない。それに対する公用語中の単語も、上等になって/品位をそなえている。腸と言われていたものも-こんにちでは隧道と言われ、穴と言われていたものも-こんにちでは検査孔と言われている。もしヴィヨンが昔の予備の住居を尋ねても、今はその影さえ見つけ得ないだろう。しかしこの網の目のような窖の中にはやはり、昔からの齧歯獣の民が住んでいて、昔よりかえって多いくらいである。時々、フル猛者の鼠が下水道の窓から首を出してみて、パリーの者らをのぞくことがある。けれどもその寄生動物でさえ、おのれの地下の宮殿に満足して温和になっている。もう汚水溝渠には初めのような獰猛さは少しもない。アマミズは昔の下水道を汚していたが、コンニチの下水道を洗い潔めている。とは言え/あまり安心しすぎてはいけない。有毒ガスはまだそこに住んでいる。完全無欠というよりも、むしろ偽善である。警視庁と衛生局とでいかに力をつくしても及ばなかった。あらゆる清潔法が講ぜられたけれども、今になお、懺悔したあとのタルテュフ(訳者注◇ モリエールの戯曲「タルテュフ」の主人公で偽善者の典型)のように/何となく怪しい臭気を放っている。  全体より見れば汚水の掃蕩は下水道が文明に尽す務めであるから:、そしてこの見地よりすれば、タルテュフの良心はアウジアスの家畜小屋(訳者注◇ 牛が三千頭もいながら三十年も掃除をしたことのないという物語中の家畜小屋)よりもイチ進歩というべきであるから、確かにパリーの下水道は改善されたわけである。  それは進歩以上である。一つの変形である。昔の下水道と現今の下水道との間には、一大革命がある。そしてその革命は誰がなしたか? 吾人が上に述べた/世に忘れられてるブリュヌゾーである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【将来の進歩】 ◇。◇。◇。◇。◇。  パリー下水道の開鑿は、決して些々たる仕事ではなかった。過去十世紀のあいだ力を尽しながら、あたかもパリー市を完成することができなかったと同様に、それを完成することはできなかった。実際’下水道は、パリーの拡大からあらゆる影響を受けている。それは地中において無数のショッカクをそなえた暗黒なスイシのようなもので、地上に市街がひろがるとともに/地下にひろがってゆく。市街が一つの街路を作るたびごとに、下水道は一本の腕を伸ばす。昔の王政時代には、二万三千三百メートルの下水道しか作られてはいなかった。1806年一月一日のパリーはほとんどそのままの状態であった。この時以来、すぐ後で再び述べるが、下水道の事業は着々として勇ましく/再び始められ続けられてきた。ナポレオンは、妙な数では-あるが、四千八百四メートルつくり、ルイ十八世は五千七百九メートル:、シャール十世は一万八百三十六メートル、ルイ・フィリップは八万九千二十メートル、1848年の共和政府は二万三千三百八十一メートル、現政府は七万五百メートル作った。現在では全部で二十二万六千六百十メートル、すなわち六十里の下水道となっている。パリーの巨大な内臓である。なお人目につかない小枝は常に作られつつある。それは世に知られない広大な建造である。  読者の見るとおり、パリーの地下の迷宮は-こんにち、十九世紀の初めより10倍もの大きさになっている。その汚水溝渠をコンニチのような比較的完全な状態になすには、いかばかりの忍耐と努力とが必要であったか、想像にも余りあるほどである。いにしえの王政時代の奉行と/十八世紀の末’十年間の革命市庁とが、1806年以前に存在していた五里の下水道を穿つに至ったのも、辛うじてのことだった。あらゆる種類の障害がその事業を妨げた、あるいは地質上の障害もあれば、あるいはパリーの労働者階級の偏見から来る障害もあった。鶴嘴や/鍬や/キリなどのあらゆる操作に著しく不便な地層の上に、パリーは立っている。パリーという驚くべき歴史的組織が積み重ねらるるその地質的組織ほど、穿ちがたく/貫き難いものは無い。その沖積層の中に何かの形で工事を始めて進みこもうとすると、地下の抵抗は際限もなく現われてくる。溶けた粘土があり、流れる泉があり、堅い岩があり、専門の科学で俗に「芥子」と言われる柔らかい深いドロツチがある。薄い粘土脈や/アダム以前の大洋にいた牡蠣の殻をちりばめてる化石層などと交互になっている石炭岩層の中を、鶴嘴は辛うじて進んでゆく。時とすると水の流れが突然’現われてきて、始められたばかりの穹窿を突きこわし、人夫らを溺らすこともある。あるいは泥灰岩が流れ出し、瀑布のような勢いで奔騰して、ごく大きな押さえの梁をもガラスのように砕く。最近のことであるが、ヴィエットで、サン・マルタン掘割りの水を涸らしもせず/航運にも害を与えないようにして、その下に集合下水道を通さなければならなかった時、掘割りの底に裂け目ができて:、にわかに地下の工事場に水があふれてき、吸い上げポンプの力にもおよばなかった。それで潜水夫を入れてその裂け目をさがさせると、大溜りの口の所にあることがわかったので、非常な骨折りでそれをふさいだ。また他の所、すなわちセーヌ川の近くやあるいはかなり離れた所でも:、たとえばベルヴィルや/グランド・リューや/リュニエール通路などで、人が足を取られて/すっかり沈み込んでしまうほどの底なし泥砂に出会った。その上になお、有毒ガスのための窒息、土壌の墜落のための埋没、突然の崩壊。その上になお、チブスもあって、人夫らは次第にそれに感染する。近頃でも、深さ十メートルの塹壕の中で働きながら、ウールクの主要水管を入れるための土手を作ってクリシーの隧道を掘り、更に、地すべりのする間を、多くはごく臭い開鑿をやり/支柱を施して:、オピタル大通りからセーヌ川までビエーヴルの穹窿を作り、更に、モンマルトルの溢水からパリーを救い、マルティール市門の近くに停滞してる9町歩余りの濁水に出口を与えるために働き:、更に、4カ月間昼夜の別なく十一メートルの深さの所で働いて、ブランシュ市門からオーベルヴィリエの道に至る一条の下水道を作り:、更に、未聞のことではあったが、塹壕もなくまったく地中で、バール・デュ・ベク街の下水道を地下六メートルの所に穿ったあとに、監督のモンノーは死亡した。また、トラヴェルシエール・サン・タントアーヌ街からルールシーヌ街に至るまで市中の各地点に、三千メートルにおよぶ下水道の穹窿を作り:、更に、アルバレートの支脈を作って、サンシエ・ムーフタール四つ辻にアマミズの氾濫するのを防ぎ、更に、流砂の中に石とコンクリートとの土台を作って、その上にサン・ジョルジュの下水道を設け:、更に、ノートル・ダーム・ド・ナザレの支脈の底を下げるという恐るべき工事を指揮したあとに、技師のデュローは死亡した。しかし、戦場の虐殺よりもずっと有益なそれら勇敢な行為については、何らの報告文も作られていない。  1832年におけるパリーの下水道は、コンニチの状態とは非常な差があった。ブリュヌゾーは一刺戟を与えたが、その後なされた大改造をいよいよ着手さしたのはコレラ病の流行だった。たとえば口にするも驚くべきことではあるが、1821年には、大運河と言わるるイジョウ溝渠の一部が、ちょうどヴェニスの運河のように、グールド街に裸のまま蟠っていた。その醜悪の蓋をするに要した二十六万六千ハチジュッフラン六サンチームの-かねを、パリー市が調達し得たのは、ようやく1823年のことである。コンバと/キュネットと/サン・マンデとの三つの吸入井戸を、その出口と/いろいろの装置と/たまりと/清浄用の分脈とをつけて完成したのは、わずかに1836年のことである。それから次第にパリーの腹中の溝渠は新しく作り直され、また前に言ったとおり、最近四半世紀ばかりの間に10倍以上の長さとなった。  今から三十年前、すなわち1832年六月五日六日の反乱のおりには、下水道の大部分はほとんど昔のままだった。大多数の街路は、コンニチでは中高となっているが、当時はナカビクの道にすぎなかった。街路や四つ辻の勾配が終わってる低部には、大きな四角の鉄格子が-ほうぼうに見えていた。格子の太い鉄棒は、群集の足に磨かれて光っており、馬車には滑りやすくて危険であり、馬もよく転ぶほどだった。橋梁や道路に関する公用語では、それらの低部や鉄格子に Cassis(訳者注◇ ラテン語にては蜘蛛の巣という意味になる)という意味深い名前を与えていた。この1832年には、エトアール街、サン・ルイ街、タンプル街、ヴィエイユ・デュ・タンプル街、ノートル・ダーム・ド・ナザレ街、フォリー・メリクール街、フルールガシ、プティー・ムュスク街:、ノルマンディー街、ポン・トー・ビーシュ街、マレー街、サン・マルタン郭外、ノートル・ダーム・デ・ヴィクトアール街、モンマルトル郭外、グランジュ・バトリエール街、シャン・ゼリゼー、ジャコブ街、トールノン街、などの多数の街路には:、昔のゴチック式の汚水溝渠がまだその口を皮肉らしく開いていた。時代のついた厚顔さをそなえ、時には標イシでめぐらされた、のろまな巨大な石の空洞であった。  1806年のパリーの下水道は、1663年五月に調べられたのとほとんど同じで、五千三百二十八尋だった。ところがブリュヌゾーの工事のあと、1832年一月一日には、四万三百メートルとなっていた。すなわち1806年から31年まで毎年平均七百五十メートル作られたことになる。その後、毎年八千メートルから時には一万メートルに及ぶ隧道が、コンクリートで固めた上にスイコウ石灰の漆喰工事を施して作られた。一メートルに二百フランとして、現今のパリーの下水道六十里は四千八百万フランを示している。  最初に指摘した経済上の進歩論のほかに、公衆衛生の重大な案件が、パリーの下水道というこの大問題に関連している。  パリーは水の層と空気の層と二つのあいだにはさまれている。水の層はかなり深い地下に横たわっているが、既に二つの穿孔によって達せられていて、白堊とジュラ系石灰岩との間にある/緑の砂岩帯から供給される。この砂岩帯は、半径二十五里の円盤でおおよそを示すことができる。多数の大小の河川がその中に浸透している。グルネルの泉の水一杯を飲めば、セーヌ、マルヌ、イオンヌ、オアーズ、エーヌ、シェル、ヴィエンヌ、ロアール、などの諸川の水を飲むことになる。この水の層は健全なるものである。第一に空からき、つぎに地からきたものである。しかるに空気の層は不健全で、下水道からきたものである。汚水溝渠のあらゆる毒ガスが市中の呼吸に交じっている。そこから悪い気息が起こってくる。科学の証明するところによれば、肥料の堆積の上で取った空気も、パリーの上で取った空気よりははるかに清い。けれども一定の時日を経たならば、進歩するにつれ、各種の機関も完成し、光明も増加して、人は水の層を用いて空気の層を清めるようになるであろう。言い換えれば、下水道を洗浄するようになるであろう。下水道の洗浄という語に吾人がいかなる意味を持たしてるかを、読者は既に知っているはずである。すなわちそれは、汚穢を土地に返す事である、汚穢を土地に送り/肥料をデンヤに送る事である。この簡単な一事によって、社会全体が貧窮の減少と/健康の増進とを得るであろう。現今にあっては、パリーからの疫病の放射は、ルーヴルを疫病車の轂とすれば、その周囲50里におよんでいる。  過去十世紀のあいだ汚水溝渠はパリーの病毒だったとも言い得るだろう。下水道は市が血液の中に持ってる汚点である。人民も本能からよくそれを知っていた。屠獣者の仕事は、非常に恐れられて、長い間’死刑執行人の手にゆだねられていたが、下水掃除夫の仕事も、昔はそれとほとんど同じように危険なものであり、同じように民衆から嫌がられていた。泥工に頼んでその臭い堀の中に入ってもらうには、高い賃銀を出さなければならなかった。井戸掘りにんの梯子もそこに入るには躊躇していた。「下水道におりてゆくのは墓穴の中に入ることだ、」というたとえまでできていた。そのうえ前に述べたとおり、あらゆる種類の嫌忌すべき伝説のために、その巨大な下水道は恐ろしいことどもでおおわれていた。実に世に恐れられた洞窟であって、その中には、人間の革命とともに/地球の革命の跡まで残っており、ノアの大洪水のおりの貝殻から/マラーのボロに至るまで、あらゆる大変災の遺物が見いだされるのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三編 【ドロツチにして霊】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【下水道とその意外なるもらい物】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだのは、パリーの下水道のなかへだ-った。  ここにまたパリーと海との類似がある。大洋の中におけるごとく、下水道の中にはいり込む者はそのまま姿を消すことができる。  実に驚くべき変化だった。市の真ん中にありながら、ジャン・ヴァルジャンは市の外に出ていた。またたくまに、一つの蓋を上げ/それをまた閉ざすだけの暇に、彼は真昼間からまったくの暗黒に、正午から真夜中に、騒擾の響きから沈黙に、百雷の旋風から墳墓の凪ぎに:、そしてまた、ボロンソー街の変転よりもなおいっそう不思議な変転によって、最も大なる危険から/最も-まったき安全にはいってしまった。  突然’窖の中に陥ること、パリーの秘密牢の中に姿を消すこと、死に満ちてる街路を去ってセイの存する一種の墳墓に移ること、それはまったく不思議な瞬間だった。彼は暫しあっけに取られて、耳を澄ましながら呆然とたたずんだ。救済の罠は突然’彼の下に口を開いたのである。天’の好意は彼を欺いて言わば捕虜にしてしまったのである。驚嘆すべき/天の待ち伏せである。  ただ負傷者は少しの身動きもしなかった。ジャン・ヴァルジャンはその墓穴の中で-いま自分の担ってる男が、果たして生きてるのか死んでるのかを知らなかった。  彼の第一の感じは、盲目になったということだった。にわかに彼はなんにも見えなくなった。それからまた、しばらくの間は聾者になったような気もした。何も聞こえなかった。頭の上スーシャクの所で荒れ狂ってる虐殺の暴風は、前に言ったとおり厚い地面で隔てられたので、ごくかすかにぼんやり響いてくるだけで、ある深い所にとどろいてる音のように思われた。彼は足の下が堅いことを感じた。それだけであった。しかしそれで十分だった。一方の手を伸ばし、次にまた他方の手を伸ばすと、両方とも壁に触れた。そして道の狭いことがわかった。足がすべった。そして敷石のぬれてることがわかった。穴や/水たまりや/淵を気遣って、用心しながら一歩ふみ出してみた。そして石畳が先まで続いてるのを悟った。悪臭が襲ってきたので、それがどういう場所であるかを知った。  しばらくすると、彼はもう盲目ではなかった。わずかな光が今すべり込んできた口から差していたし、また目もその窖の中に慣れてきた。物の形がぼんやり見え出してきた。彼がもぐり込んできたとしか言いようのないその隧道は、後ろを壁でふさがれていた。それは専門語で分枝と言わるる行き止まりの一つだった。また彼の前にも他の壁が、暗夜の壁があった。穴の口から差してくる光は、前方十イチニホの所でなくなってしまい、下水道の湿った壁をようやく数メートルだけホノジロく浮き出さしていた。その向こうは厚い闇だった。そこにはいってゆくことはいかにも恐ろしく、一度はいったらそのまま飲み尽され-そうに思われた。けれどもその靄の壁の中につきいることは不可能ではなく、また是非ともそうしなければならなかった。しかも急いでしなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは、自分が敷石の下に見つけた鉄格子は、また兵士らの目にもつくかも知れないと思った。すべてはその偶然の機会にかかっていると思った。兵士らもまたその井戸の中におりてきて、彼を探すかも知れなかった。一分間も猶予してはおれなかった。彼はマリユスを地面に降ろしていたが、それをまた拾い上げた、というのも実際の有様を示す言葉である。そして彼はマリユスを肩にかつぎ、前方に歩き出した。彼は決然として暗黒の中にはいって行った。  しかし実際において二人は、ジャン・ヴァルジャンが思っていたほど安全になったのではなかった。種類は違うがやはり同じく大なる危険が、彼らを待ち受けていた。戦闘の激しい旋風のあとに/毒気と陥穽との洞窟がきたのである。混戦のあとに汚水溝渠がきたのである。ジャン・ヴァルジャンは地獄の一つの世界から他の世界へ陥ったのである。  五十歩ばかり進んだ時、彼は立ち止まらなければならなかった。問題が一つ起こった。ずいどうは斜めにもう一つの隧道に続いていた。二つの道が開いていた。いずれの道を取るべきか、左へ曲がるべきか/右へ曲がるべきか。その暗い迷宮の中でどうして方向を定められよう。しかし前に注意しておいたとおり、その迷宮には一つの手がかりがある。すなわちその傾斜である。傾斜に従っておりてゆけば川に出られる。  ジャン・ヴァルジャンは即座にそれを了解した。  彼は考えた。たぶんここはイチバマチの下水道に違いない。それで、道を左に取って傾斜をおりてゆけば、十五分とかからないうちに、ポン・トー・シャンジュと/ポン・ヌーフとの間のセーヌ川のどの出口かに達するだろう。すなわちパリーの最も繁華な所に真昼間/身をさらすことになる。おそらく四つ辻の人だかりに出っくわすだろう。血に染まった二人の男が足下の地面から出てくるのを見ると/通行人の驚きはどんなだろう。巡査がやってき、近くの衛兵らが武器を取ってやってくる。地上に出るか出ないうちに取り押さえられる。それよりもむしろ、この迷宮の中に-はいり込み、暗黒に身を託し、天運のままに出口を求めたほうが上策である。  で/彼は傾斜の上のほうへと右に曲がった。  ずいどうのカドを曲がると、穴の口から差していた遠い光は消えてしまい、暗黒の幕が再びたれてきて、彼はまた目が見えなくなった。それでも彼は前進をやめずに、できるだけ早く進んだ。マリユスの両腕は彼の首のまわりにからみ、両足は背後にたれていた。その両腕を彼は一方の手で押さえ、他の手で壁を伝った。マリユスのホオは彼のホオに接し、血’のためにそのままこびりついた。彼はマリユスの生温い血が自分の上に流れかかって、服の下までしみ通るのを覚えた。けれども、負傷者の口元に接している耳に/湿気のあるヌクミが感ぜられるのは、呼吸のしるしで、従ってまた生命のしるしだった。今や彼がたどっている隧道は、初めのより広くなっていた。彼はかなり骨を折ってそれを歩いていった。前日のアマミズはまだまったく流れ去っていず、底の中ほどに小さな急流を作っていたので、彼は水の中に足をふみ入れないようにするため、壁に身を寄せて行かなければならなかった。そういうふうにして彼は密かに足を運んだ。あたかも見えないなかを手探りして/地下の闇の脈の中に没してゆく夜の生物のようだった。  けれども、あるいは遠い穴からわずかの明りが/その不透明な靄の中に漂ってるのか、あるいは目が暗闇に慣れてくるのか:、少しずつぼんやりした影が見え、手で伝ってる壁や/頭の上の丸天井などが漠然とわかってきた。魂が不幸のうちに拡大して/ついにそこに神を見いだすに至ると同じように、瞳孔は暗夜のうちに拡大して/ついにはそこに明るみを見いだすに至るものである。  行く手を定めることは困難であった。  下水道の線は、上に重なってる街路の線を言わば写し出してるものである。パリーのうちには当時二千二百の街路があった。そのちょうど下に下水道と称する暗黒な枝が錯綜してるのを想像してみるがいい。当時存在していた下水道の組織は、それを端から端へつなぎ合わしてみると、十一里の長さに達していた。上に述べたとおり、現在におけるその網の目は、最近三十年間の特に活発な工事によって、六十里にも及んでいる。  ジャン・ヴァルジャンはまず第一に思い違いをした。彼はいま/サン・ドゥニ街の下にいるものと思ったのであるが、不幸にも実はそうでなかった。サン・ドゥニ街の下には、ルイ十三世の時代にできた古い石の下水道があって、ダイ溝渠と言われてる集合溝渠に真っ直ぐ続いている。そして昔のクール・デ・ミラクルの高みで/右に肱を出し、また一本の枝が別れてサン・マルタンの下水道となり、四つの腕は十字形に交差している。しかしコラント亭のそばに入り口がある/プティート・トリュアンドリーの隧道は、サン・ドゥニ街の地下とはまったく連絡がなく、モンマルトルの下水道に続いていた。ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだのはそれへだった。そこには道に迷う所がたくさんあった。モンマルトルの下水道は、古い網の目のうちで最も入り組んだものの一つである。幸いにもジャン・ヴァ-ルジャンは、帆柱をたくさん組み合わしたような図形をしてるイチバマチの下水道を通り越した。しかし彼の前には幾つもの難関があった。多くの街路のカドが──まったくそれは街路である──:暗黒の中に疑問符のように控えていた。第一に左のほうには、判じ物のようなプラートリエールのダイ下水道が、郵便局や麦イチバの建物の下などに、T字型やZ字型の紛糾した枝をつき出し、Y字型をなしてセーヌ川に終わっている。第二に右のほうには、カドラン街の彎曲した隧道が/歯のような三つの行き止まりを持って控えている。第三にまた左のほうには、マイュの下水道の一脈が、既に入り口近くからフォーク型に錯雑し、稲妻形に続いていて、各方面に交差し/分岐してるルーヴルの大流出口に達している。最後にまた右のほうには、ジューヌール街の行き止まりの隧道があって、イジョウ溝渠に達するまで小さな横穴が-ほうぼうについている。そしてこのイジョウ溝渠のみが、十分安心できるくらいの遠い出口に彼を導き得るのであった。  もしジ-ャン・ヴァルジャンが、上に指摘したようなことを多少知っていたならば、ただ壁に手を触れただけで、サン・ドゥニ街の下水道にいるのではないことをすぐに気づいたろう。というのは、古い切り石の代わりに、すなわち花崗岩と/ヒ石灰漆喰とで作られ/1尋’八百フランもする底部とドブとを供えて/下水道に至るまで広壮厳然たる昔の建築の代わりに:、近代の安価な経済的方法、すなわちコンクリートの層の上にスイコウ石灰で固めた砂岩の一メートル二百フランの工事を、いわゆる小材料でできた普通の泥工事を、彼は手に感じたはずである。しかし彼はそれらのことを少しも知っていなかった。  彼は、何も見ず、何も知らず、偶然のうちに没し、言いかえれば天命のうちに飲み込まれて、懸念しながらも/落ち着いて前方に進んでいった。  けれども-じつを言えば、彼は次第にある恐怖の情にとらえられていった。彼を包んでいた影は/彼の精神の中にもはいってきた。彼は一つの謎の中を歩いていたのである。その汚水の道は実に恐るべきものである。眩惑をきたさせるまでに入り組んでいる。その暗黒のパリーのうちに捉えらる-る時、人は慄然たらざるを得ない。ジャン・ヴァルジャンは目に見えない道を探り出してゆかなければならなかった。否/ほとんど道を作り出してゆかなければならなかった。その不可知の世界においては、踏み出してみる各一歩は、それが最後の一歩となるかも知れなかった。いかにしてそこから出られるであろうか。出口が見つかるであろうか。しかもジキオクれにならないうちに出口が見つかるであろうか。石造の蜂の巣のようなその巨大な地下の海綿は、彼に中を通り抜けさせるであろうか。ある意外な闇の結び目に出会いはしないだろうか。脱出し得られぬ所に、通過し得られぬ所に、陥りはしないだろうか。その中でマリユスは出血のために死に、彼は空腹のために死には-すま-いか。二人ともその中に埋没し終わって、二つの骸骨となり、その暗夜の片隅に横たわるに至りは-すま-いか。それは彼自身にもわからなかった。彼はそれらのことを自ら尋ねてみたが、自ら答えることができなかった。パリーの内臓は一つの深淵である。いにしえの予言者のように、彼は怪物の腹中にいたのである。  突然’彼は意外な驚きを感じた。最も思いがけない瞬間に、そしてやはり真っ直ぐに進み続けていた時に、傾斜を上っているのでないことに気づいた。水の流れは、爪先からこないで、踵のほうに当たっていた。下水道はいま下り坂になっていた。どうしたわけだろう。さては俄にセーヌ川に出るのであろうか。セーヌ川に出るのは大なる危険であったが、しかし引き返すの危険は更に大きかった。彼は続けて前に進んだ。  しかし彼が進みつつあったのはセーヌ川のホウへではなかった。セーヌ右岸にあるパリーの土地の高脈は、一方の水をセーヌ川に注ぎ/他方の水をダイ溝渠に注いでいる。分水嶺をなすその高脈は、きわめて不規則な線をなしている。排水を両方に分つ最高点は、サント・アヴォア下水道では/ミシェル・ル・コント街の彼方にあり、ルーヴルの下水道では/大通りの近くにあり、モンマルトルの下水道では/イチバマチの近くにある。ジャン・ヴァルジャンが到着したのは、その最高点であった。彼はイジョウ溝渠のほうへ進んでいた。道すじはまちがっていなかった。しかし彼はそれを少しも自ら知らなかった。  枝道に出会うたびごとに、彼はそのカドに一々さわってみた。その口が今いる隧道よりも狭い時には、そちらに曲がり込まないで真っ直ぐに進んでいった。狭い道はすべて行き止まりになってるはずで、目的すなわち出口から遠ざかるだけであると、至当な考えをしたからである。斯くして彼は、上にあげておいた四つの迷路によって/暗黒のうちに張られてる四つの罠を、免れることができた。  時には、防寨のため交通が途絶され/暴動のため石のように黙々としてるパリーの下から出て、いきいきたる平常のパリーの下にはいったのを、彼は感ずることができた。ふいに頭の上で、雷のような遠い連続した音が聞こえた。それは馬車の響きであった。  彼は約三十分ばかり、少なくとも自ら推測したところによると約三十分ばかり、歩き続けていたが、なお休息しようとも思わなかった。ただマリユスを支えてる手を代えたのみだった。くらさはいよいよ深くなっていたが、その深みがかえって彼を安心さした。  突然’彼は前方に自分の影を認めた。影は足下の底部と/頭上の丸天井とをぼんやり染めてるほのかな弱い赤みの上に浮き出していて、隧道のじめじめした両ガワの壁の上に、右へ左へと滑り動いた。彼は呆然としてうしろを振り返った。  うしろのほうに、彼が今’通ってきたばかりの隧道の中に、しかも見たところ非常に遠く思われる所に、厚い闇を貫いて、こちらを眺めてるような一種の恐ろしい星が燃え上がっていた。  それは下水道の中に出る陰惨な警察の星であった。  星の向こうには、黒い真っ直ぐな/ぼんやりした恐ろしい十個たらずの影が、入り乱れて揺らめいていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【説明】 ◇。◇。◇。◇。◇。  六月六日に下水道内捜索の命令が下された。敗亡者らがあるいはそこに逃げ込んでは-すま-いかという懸念があったので、ブュジョー将軍が公然のパリーを掃蕩している間に、ジスケ警視総監は隠密のパリーを探索することになったのである。うえは軍隊によって/下は警察によって代表された/官力の二重戦略を必要とする、あい関連したニジュウの行動であった。警官と下水フとの三隊は、パリーの地下道を探険しにかかって、一つはセーヌ右岸を、一つは左岸を、一つはシテ島を探った。  警官らは、カラビン銃、棍棒、剣、短剣、などを身につけていた。  その時ジャン・ヴァルジャ-ンにさし向けられたのは、右岸巡邏隊の角灯だった。  その巡邏隊は、カドラン街の下にある彎曲した隧道と/三つの行き止まりとを見回ってきたところだった。彼らがそれらの行き止まりの奥にダイ角灯を振り動かしてる時、既にジャン・ヴァルジャ-ンは途中でその隧道の入り口に出会ったが、本道より狭いのを知って、それにはいり込まなかった。彼は他のほうへ通っていった。警官らはカドランの隧道から出てきながら、イジョウ溝渠の方向に足音が聞こえるように思った。実際それはジャン・ヴァルジャンの足音だった。巡邏の長をしてる警官は/その角灯を高く上げ、一隊の人々は足音が響いてくる方向へ/靄の中をのぞき込んだ。  ジャン・ヴァルジャンにとっては何とも言い難い瞬間だった。  幸いにも、彼はその角灯をよく見ることができたが、角灯のほうは彼をよく見ることができなかった。角灯は光であり、彼は影であった。彼はごく遠くにいたし、あたりの暗黒の中に包まれていた。彼は壁に身を寄せて立ち止まった。  それに彼は、後方に動いてる物がなんであるかを知らなかった。不眠と/不食と/激情とは、彼をもまた幻覚の状態に陥らしていた。彼は一つの火炎を見、火炎のまわりに幽鬼を見た。それはいったい何であるか、彼にはわけがわからなかった。  ジャン・ヴァルジャンが立ち止まったので、音は-やんだ。  巡邏の人々は、耳を澄ましたがなんにも聞こえず、目を定めたがなんにも見えなかった。彼らは互いに相談を始めた。  当時/モンマルトルの下水道にはちょうどその地点に、通用地と言われてる一種の四つ辻があった。大雨のおりなどにはアマミズが流れ込んできて/地下の小さな湖水みたようになるので、後に廃されてしまった。巡邏の者らはその広場に集まることができた。  ジャン・ヴァルジャンは幽鬼らがいっしょに丸く集まってるのを見た。その犬のような頭は、互いに近く寄ってささやきかわした。  それらの番犬がなした相談の結果は次のことに帰着した。何か思い違いをしたのである。音がしたのではない。誰もいない。イジョウ溝渠のうちにはいり込むのは無駄である。それはただ時間を空費するばかりだ。それよりもサン・メーリーのほうへ急いで行かなければいけない。何か成すべきことがあり/追跡すべき「ブーザンゴー」がいるとするならば、それはサン・メーリーの方面においてである。  徒党というものは時々その古い侮辱的な綽名を仕立て直してゆく。1832年には、「ブーザンゴー」(水夫帽)という言葉は、既にすたってるジャコバンという言葉と、当時まだあまり使われていなかったが/その後広く用いられたデマゴーグという言葉との、中間をつないで/過激民主党をさすのだった。  隊長は斜めに左へ外れて/セーヌ川への斜面のほうに下ってゆくよう命令を下した。もし彼らが二つに分かれて/二方面へ進んでみようという考えを起こしたならば、ジャン・ヴァルジャンは捕えられていたろう。ただ一筋の糸にかかっていたのである。おそらく警視庁では、戦闘の場合を予想し/暴徒らが多数いるかも知れないと予想して、巡邏隊に分散することを禁ずる訓令を出したのであろう。一隊はジャン・ヴァルジャンをあとに残して歩き出した。すべてそれらの行動についてジャ-ン・ヴァルジャンが認めたことは、にわかに角灯が彼方に向いて/光がなくなったことだけだった。  隊長は警官としての良心のセキを免れるため、立ち去る前に、見捨ててゆく方面へ向かって、すなわちジ-ャン・ヴァルジャンの方へ向かって、カラビン銃を発射した。その響きは隧道の中に反響また反響となって伝わり、あたかもその巨大な腸の/腹鳴りするが-ようだった。一片の漆喰が流れの中に落ちて、スウホの所に水をはね上げたので、ジャン・ヴァルジャンは頭の上の丸天井に弾があたったのを知った。  調子を取ったゆるやかな足音が、しばらく隧道の底部の上に響き、遠ざかるにしたがって次第に弱くなり、一群の黒い影は見えなくなり:、ちらちらと漂ってる光が、丸天井に丸い赤味を見せていたが、それも小さくなってついに消えてしまい、静寂はまた深くなり、暗黒はまた一面にひろがり:、その闇の中にはもう何も見えるものもなく/聞こゆるものもなくなってしまった。けれどもジャン・ヴァルジャンは、なおあえて身動きもせずに、長いあいだ壁に背をもたしてたたずみ、耳を傾け、瞳をひろげて、その一隊の幻が消えうせるのを眺めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【尾行されたる男】 ◇。◇。◇。◇。◇。  世間の重大な騒擾の最中にも平然として/保安と監視との義務を怠らなかったことは、当時の警察に認めてやらなければならない。暴動も警察の目から見れば、悪漢らを手放しにするの口実とはならないし、政府が危険に瀕しているからといって、社会を閑却するの口実とはならない。平常の職務は、異常な場合の職務の間にも正確に尽されていて、少しも乱されてはいなかった。政治上の大事件が始まってる最中にも、あるいは革命となるかも知れないという不安のもとにも、反乱や防寨に気を散らさるることなく、警官は盗賊を「尾行」していた。  ちょうどそういう一事が、六月六日の午後、セーヌ右岸のアンヴァリードバシの少し先の汀で行なわれていた。  コンニチではもうそこに川岸の汀はない。場所のありさまは一変している。  さてその川岸の汀の上で、ある距離を隔ててる二人の男が、明らかに互いの目を避けながらも/互いに注意し合ってるらしかった。先に行く男は遠ざかろうとしていたし、あとからついてゆく男は近寄ろうとしていた。  それはあたかも遠くから黙ってなされてる将棋のようなものだった。どちらも急ぐ様子はなく、ゆるやかに歩いていた。あまり急いでかえって相手の歩みを倍加させは-すま-いかと、互いに気遣ってるが-ようだった。  たとえば、食に飢えた者が獲物を追っかけながら、それをわざと様子に現わすまいと-してるのと同じだった。獲物のほうは狡猾であって、巧みに身をまもっていた。  追われてる鼬と/追っかけてる犬との間の適宜な割合が、ちょうど両者の間に-たもたれていた。のがれようとしてる男は、体も小さく/顔もやせていた。捕えようとしてる男は、背の高いイジョウフで、いかめしい様子をしており、腕力もすぐれてるらしかった。  第一の男は、自分のほうが弱いのを知って、第二の男を避けようとしていた。しかしおのずから一生懸命の様子が現われていた。彼をよく見たならば、逃走せんとする痛ましい敵対心と/恐れに交じった虚勢とが、その目の中に読み取られたであろう。  川岸の汀には人影もなかった。通りすがりの者もなかった。所々につないである運送船には、船頭もいず人夫もいなかった。  向こう岸からでなければ二人の様子をたやすく見て取ることはできなかった。そしてそれだけの距離を置いて眺める時には、先に行く男は、毛を逆だて/ボロをまとい/怪しい姿をして、ボロボロの仕事服の下に不安らしく震えており:、後ろの男は、古風な役人ふうな姿をして、フロック型の官服をつけ/顎の所までボタンをはめているのが、見て取られたろう。  読者がもし更に近くから二人を眺めたならば、彼らが何者であるかをおそらく知り得たろう。  第二の男の目的は-なんであったか?  おそらく第一の者にもっと暖かい着物を着せてやろうというのに違いなかった。  国家の服をつけてる者がボロをまとってる男を追跡するのは、その男にもやはり国家の服を着せんがためにである。ただ問題はその色にある。青い服を着るのは光栄であり、赤い服を着るのは不愉快である。  世には下層にも緋の色がある。(訳者注◇ 上層に皇帝のヒイのあるごとくに)  第一の男がのがれんと欲していたのは、たぶんこの種の不愉快と/緋の色とであったろう。  第二の男が第一の男を先に歩かして/なお捕えないでいるのは、その様子から推測すると、彼をある著名な集合所にはいり込ませ、一群のいい獲物の所まで案内させようというつもりらしかった。その巧みなやり方を「尾行」という。  右の推測をなお確かならしむることには、ボタンをはめてる男は川岸通りを通りかかったカラの辻馬車を汀から見つけて、御者に合図をした。御者はその合図を了解し、またきっと相手がどういう人であるかを見て取ったのだろう、手綱を巡らして、川岸通りの上から並足で二人の男について行き始めた。そのことは、先に歩いてるボロ服の怪しい男からは気づかれなかった。  辻馬車はシャン・ゼリゼーの並木に沿って進んでいた。手に鞭を持ってる御者の半身が-きょうらんの上から見えていた。  警官らに与えられてる警察の秘密訓令の一つに、こういう個条がある。「不時の事件のためには常に辻馬車を手に入れ置くべし。」  互いに見事な戦略をもって行動しながら二人の男は、川岸通りの傾斜が水ぎわまで下ってる所に近づいていった。そこは当時、パッシーから到着する辻馬車の御者らが、馬に水を飲ませるために川までおりてゆけるようになっていた。けれどもその傾斜は、全体の調和を保つためにその後つぶされてしまった。馬はそのために喉をかわかしているが、見た所の体裁はよくなっている。  仕事服の男は、シャン・ゼリゼーに逃げ込むために/その傾斜を上ってゆくつもりらしかった。シャン・ゼリゼーは樹木の立ち並んだ場所だった。しかしその代わりに、巡査の往来が繁く/相手は容易に助力を得られるわけだった。  川岸通りのその地点は、1824年/ブラク大佐がモレー市からパリーに持ってきた/いわゆるフランソア一世の家と言わるる建物から、ごく近い所であった。衛兵の屯所もすぐそばにあった。  ところが意外にも、追跡されてる男は、水飲み場の傾斜を上ってゆかなかった。彼はなお川岸通りに沿って汀を進んでいった。  彼の地位は明らかに危険になっていった。  セーヌ川に身を投げるのでなければ、いったい彼はどうするつもりだろう。  先に行けばもう川岸通りに上る方法はなかった。傾斜もなければ階段もなかった。少し先は、セーヌ川がイエナバシのほうへ屈曲してる地点で、汀はますます狭くなり、薄い舌ほどになって、ついに水の中に没していた。そこまで行けば、右手は絶壁となり、左と前とは水となり、うしろには警官がやってきて、彼はどうしても四方から挟まれることになるのだった。  もっともその汀のつきる所には、なんの破片とも知れないいろいろの遺棄物が六、七尺の高さに積もって、人の目をさえぎっては-いた。しかしその男は一周すればすぐに見つけられるような/その残壊ブツの堆積のうしろに、うまく身を隠そうとでも思っていたのだろうか。それは児戯に類する手段であった。彼も確かにそんなことを考えていたのではあるまい。それほど知恵のない盗人は世にあるものではない。  残壊ブツの堆積は水ぎわに高くそびえていて、川岸通りの壁まで岬のようにつき出ていた。  追われてる男は、その小さな丘の所まで行って、それを回った。そのためにもうひとりの男からは見えなくなった。  あとの男は、相手の姿を見ることができなくなったが、それとともに先方から見られることもなくなった。彼はその機会に乗じて、今までの仮面を脱して/ごく早く歩き出した。間もなく残壊ブツの丘の所に達して、それを一巡した。そして彼は呆然として立ち止まった。彼が追っかけてきた男はもうそこにいなかった。  仕事服の男はまったく雲隠れしてしまったのである。  汀は残壊ブツの堆積から先には三十歩ばかりしかなく、川岸通りの壁に打ちつけてる水の中に没していた。  逃走者がセーヌ川に身を投ずるか/川岸通りによじ上るかすれば、必ず追跡者の目に止まったはずである。いったい彼はどうなったのであろう?  上衣によくボタンをかけてる男は、汀の先端まで進んでゆき、拳を握りしめ/目を見張り考え込んで、しばらくたたずんだ。と突然’彼は額をたたいた。地面がつきて水となってる所に、分厚な錠前と/三つの太い筋金とのついてる大きな低い円形の鉄格子を、彼は認めたのだった。その鉄格子は、川岸通りの下に開いてる一種の門であって、その口は川と汀とにまたがっていた。黒ずんだ水が下から流れ出ていた。水はセーヌ川に注いでいた。  その錆ついた重い鉄棒の向こうに、一種の丸い廊下が見えていた。  男は両腕を組んで、叱責するような様子で鉄格子を睨めた。  しかし睨んだだけでは足りないので、彼はそれを押し開こうとした。そして揺すってみたが、鉄格子はびくともしなかった。なんの音も聞こえなかったけれども、たぶんそれは今しがた開かれたはずである。そんな錆ついた鉄格子’にしては、音のしなかったのが不思議である。またそれは再び閉ざされたに相違ない。してみれば、つい先刻その門を開いて閉ざした男は、開門鉤ではなく/一つの鍵を持っていたことは確かである。  その明らかな事実は、鉄格子を揺すっている男の頭に突然’浮かんできた。彼は憤然として思わず結論を口走った。 「実にけしからん、政府の鍵を持っている!」  それから彼は直ちに冷静に返って、頭の中にいっぱい乱れてる考えのすべてを、ほとんど冷罵のような一息の強い単語で言い放った。 「よし、よし、よし、よしっ!」  そう言って、あるいは男が再び出て来るのを見るつもりか、あるいは他の男どもがはいってゆくのを見るつもりか、とにかく何事かを期待しながら、気長くフンヌを忍んでる猟犬のような様子で、残壊ブツの堆積のうしろに潜んで見張りをした。  彼の足並みに速度を合わしてきた辻馬車のほうも、ジョーホウの-きょうらんのそばに止まった。御者は長待ちを予想して、シタのほうが湿ってる燕麦の袋を馬の鼻面にあてがった。そういう食物の袋はパリー人のよく知ってるもので、ついでに言うが、彼ら自身もときどき政府からそれをあてがわれることがある。まれにイエナバシを渡る通行人らは、遠ざかる前に振り返って、あたりの景色の中にじっと動かないでいる二つのもの、汀の上の男と/川岸通りの上の辻馬車とを、しばらく眺めていった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【彼もまた十字架を負う】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは再び前進し始めて、もう足を止めなかった。  行進はますます困難になってきた。丸天井の高さは一定でなかった。平均の高さは五尺六寸ばかりで、人の身長に見積もられていた。ジャン・ヴァルジャンはマリユスを天井に打ちつけないように/背をかがめなければならなかった。各瞬間に身をかがめ、それからまた立ち上がり、絶えず壁に触れてみなければならなかった。壁石の湿気と底部の粘質とは、手にも”また足にもしっかりした支えを与えなかった。彼は都市のきたない排泄物の中につまずいた。風窓から時々さしてくる明るみは、長いマを置いてしか現われてこなかったし、太陽の光も月の光かと思われるほど弱々しかった。その他はすべて、靄と/毒気と/混濁と/暗黒のみだった。ジャン・ヴァルジャンは腹がすき/喉が乾いていた。ことに乾きははなはだしかった。しかもそこは海のように、水が一面にありながら一滴も飲むことのできない場所だった。彼の体力は、読者の知るとおり/非常に大であって、清浄節欲な生活のために/老年におよんでもほとんど減じてはいなかったが、それでも今や弱り始めてきた。疲労は襲ってき、そのために力は少なくなり、背の荷物は次第に重さを増してきた。マリユスはもう死んでるのかも知れないと思われた。命のない身体のようにずっしりした重さがあった。ジャン・ヴァルジャンはその胸をなるべく押さえないように、またその呼吸がなるべく自由に通うようなふうに、彼を担っていた。足の間には鼠がすばやく逃げてゆくのを感じた。中には狼狽の余り彼に噛みついたのがあった。ときどき下水道の口のすき間から新しい空気が少し流れ込んできたので、彼はまた元気になることもあった。  彼がイジョウ溝渠に達したのは、午後三時ごろであったろう。  最初に彼は突然’広くなったのに驚いた。両手を伸ばしても両方の壁に届かず/頭も上の丸天井に届かないほどの広い隧道に、にわかに出たのだった。実際その大溝渠は、広さ8尺あり/高さは七尺ある。  モンマルトル下水道が大溝渠に合してる所には、他の二つの隧道、すなわちプロヴァンス街のそれと/屠獣所のそれとが落ち合って、四つ辻を作っている。ごく怜悧な者でなければその四つの道のうちを選択することは困難であった。幸いにジャン・ヴァルジャンは一番広い道を、すなわちイジョウ溝渠をえらみあてた。しかしそこにまた問題が起こってきた。傾斜を下るべきか、あるいは上るべきか? 事情は切迫しているし/今はいかなる危険を冒してもセーヌ川に出なければいけないと、彼は考えた、言い換えれば、傾斜をおりてゆかなければならないと。彼は左へ曲がった。  その選定は彼のために幸せだった。イジョウ溝渠はベルシーのほうへと/パッシーのほうへと二つの出口があると思い、その名の示すがようにセーヌ右岸のパリーの地下を取り巻いてると思うのは、誤りである。来歴を考えればわかることであるが、その大溝渠は昔の/メニルモンタン川にほかならないのであって、かみ手に上ってゆけば一つの行き止まりに達する。その行き止まりはすなわち、昔の川の出発点で、メニルモンタンの丘の麓にある源泉だった。ポパンクール街より以下のパリーの水を合し、アムロー上水道となり、昔のルーヴィエトウの-かみ手でセーヌ川に注いでる一脈とは、何ら直接の連絡はないのである。集合溝渠を完全ならしむるその一脈は、メニルモンタン街の下では、上と下とに水を分かつ地点となってる一塊の土壌で、ダイ溝渠から隔てられている。もしジャン・ヴァルジャンが隧道を上っていったならば、限りない努力を重ねた後、まったく疲れきり、息も絶えだえになって、暗黒の中で一つの壁につき当たったであろう。そして彼はもう万事休したに違いない。  なお厳密に言えば、その行き止まりから少しあとに引き返し、ブーシュラー四つ辻の地下の輻湊点にも迷わないで、フィーユ・デュ・カルヴェールの隧道に入り:、次に左手のサン・ジルの排水道に入り、次に右に曲がり、サン・セバスティヤンの隧道を避ければ、アムロー下水道に出られ:、それから更に、バスティーユの下にあるF字型の隧道に迷いこまなければ、造兵廠の近くのセーヌ川への出口に達するのだった。しかしそれには、巨大なセキサンのような下水道をよく知りつくし、あらゆる枝と穴とを知っていなければならなかったろう。しかるに、なおことわっておくが、彼は自らたどってるその恐るべき道筋について何らの知識をも持っていなかった。もしどういう所にいるかと人に尋ねられたとしたら、彼はただ暗夜のうちにいるのだと答えたろう。  本能は彼にいい助言を与えたのである。傾斜をおりてゆけば、実際あるいは救われるかも知れなかった。  彼は、ラフィット街とサン・ジョルジュ街との下で/鷲の爪の形に分岐してる二つの隧道と、アンタン大道の下のフォーク型に分かれてる長い隧道とを、そのまま右にして真っ直ぐに進んでいった。  たぶんマドレーヌの分岐らしい一つの横みちから少し先まで行った時、彼は立ち止まった。非常に疲れていた。おそらくアンジュー街ののぞき穴であったろうが、かなり大きな風窓がそこにあって、相当つよい光がさし込んでいた。ジャン・ヴァルジャンは負傷してる弟に対するような静かな動作で、マリユスを下水道の底の段の上におろした。マリユスの血に染まった顔は、風窓から来る白い明るみを受けて、墳墓の底にあるもののように思われた。その目は閉じ、髪は赤い絵の具を含んだまま乾いてるハケのようになってヒタイにこびりつき、両手は死んだようにだらりとたれ、四肢は冷たく、脣の隅には血が凝結していた。血’のかたまりが襟飾りの結び目に溜まっていた。シャツは傷口に-はいり込み、上衣のラシャは生々しい肉の大きな切れ目をじかに擦っていた。ジャン・ヴァルジャンは指先で服を開いて、その胸に手をあててみた。心臓はまだ鼓動していた。彼は自分のシャツを裂き、できるだけよく傷口を縛って、その出血を止めた。それからウスラアかりの中で、依然として意識もなく”またほとんど息の根もないマリユスの上に身をかがめ、言葉に尽し難い恨みの情をもって見守った。  マリユスの服を開く時、ジャン・ヴァルジャンはそのポケットに二つの物を見いだした。前日’入れたまま忘れられてるパンと、マリユスの紙ばさみであった。彼はそのパンを食い、次に紙ばさみを開いてみた。第一のページにマリユスが認めた数ギョウが見えた。その文句は読者の記憶するとおりである。 ◇。◇。  予はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街’六番地に住む予が祖父ジルノルマ-ン氏のもとに、予の死骸を送れ。 ◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは風窓からさしこむ光りでその数ギョウを読み、しばらく何か考え込んだようにしてたたずみながら、なかば口の中で繰り返した、「フィーユ・デュ・カルヴェール街’六番地、ジルノルマ-ン氏。」それから彼は紙ばさみをまたマリユスのポケットにしまった。彼は食を得たので力を回復した。それでマリユスを再び背に負い、その頭を注意して自分の右肩にもたせ、また下水道を下り始めた。  メニルモンタンの谷に沿って曲がりながら続いてる大溝渠は、およそ二里ほどの-ながさだった。そのあいだ-おもな部分には-みんな石が敷いてあった。  ジャン・ヴァルジャンの地下の道筋を読者によくわからせるために、われわれは一々パリーの街路の名前をあげているが、彼自身はもとより松明のようなそういう知識を持たなかった。パリーのいかなる地帯を横ぎってるのか、またいかなる道筋をたどってるのか、それを彼に示してくれるものは何もなかった。ただ、ときどき出会う光の隈がますます薄くなってゆくので、日光はもう往来にささず/日暮れに間もないことが、わかるばかりだった。そして頭の上の馬車のとどろきは、連続してたのが間歇的になり、あとにはほとんど聞こえなくなってしまったので:、もうパリーの中央の地下にいるのではなく、外郭の大通りか出外れの川岸通りかに近い/ある寂しい場所に近づいたことが、推定されるだけだった。人家や街路の少ない所には、下水道の風窓も少なくなる。今やジャン・ヴァルジャンのまわりには暗やみが濃くなっていた。それでも彼は闇の中を手探りでなお前進し続けた。  するとにわかに、その闇は恐ろしいほどになってきた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【砂にも巧みなる不誠実あり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは水の中にはいってゆくのを感じ、また足のしたには-もう敷石がなくて/ドロツチばかりなのを感じた。  ブルターニュやスコットランドのある海岸では、旅客や漁夫などが、干潮のとき/岸から遠い砂浜を歩いていると、数分前から歩行が困難になってるのを突然’気づくことが往々ある。足下の砂浜はチャンのようで、足の裏はすいついてしまう。それはもう砂ではなくて黐である。砂面はまったくかわいているが、歩を運ぶごとに、足をあげるとすぐに、その足跡には水がいっぱいになる。けれど目に見た所では普通の砂浜と-なんの違いもない。広い浜は平たく静かであり、砂は一面に同じ有様をし、固い所とそうでない所との区別は少しもつかない。跳ね虫の小さな雲のような楽しい群れは、行く人の足の上に騒々しく飛び続ける。人はなおその道を続け、前方に進み、陸地の方へ向かって、岸に近づこうとする。彼は別に不安を覚えない。実際なんの不安なことがあろう。ただ彼は一歩ごとに足の重みが増してゆくように感ずるばかりである。するとにわかに沈み出す。ニサン寸/沈んでゆく。まさしく道筋が悪いのである。正しい方向を見定めるために彼は立ち止まる。ふと自分の足下を見る。足は見えなくなっている。砂の中に没している。それで足を砂から引き出し、元きたほうに戻ろうとしてうしろを向く。するとなお深く沈んでゆく。砂は踝まで及ぶ。飛び上がって左へ行こうとすると/砂は脛の半ばまで来る。ミギへ行こうとすると、砂は膝頭まで来る。そのとき彼は、流砂の中に陥ってることを、人が歩くを得ず/魚が泳ぐを得ない恐るべき場所に立ってることを、始めて気づいて、名状すべからざる恐怖に襲われる。荷物があればそれを投げ捨てる。危険に瀕した船のように身を軽くしようとする。しかしもう遅い。砂は膝の上まで及ぶ。  彼は助けを呼ぶ、帽子やハンカチを振る。砂はますます彼を巻き込む。もし浜辺に人がいないか、陸地があまり遠いか、特に危険だという評判のある砂床であるか、あたりに勇者がいないかすれば、もう万事終わりである。そのまま没するのほかはない。彼が定められた刑は、恐るべき徐々の埋没で、避け難い/執念深い/そして遅らすことも早めることもできないものであり、幾時間も続いて/容易に終わらないものであって:、健康な自由な者を立ったままとらえ、足から引き込み、努力をすればするほど、叫べば叫ぶほど、ますます下へ引きずりこみ、抵抗すればそれを罰するかのようにいっそう強くつかみとり、徐々に地の中に埋めてゆき:、しかも、一望の視界や、樹木や、緑の野や、へーやのうちにある村落の煙や、海の上を走る船の帆や、さえずりながら飛ぶ小鳥や、太陽や、空などを、打ち眺めるだけの余裕を与えるのである。その埋没は、地面の底から生ある者のほうへウシオのごとく高まってくる一つの墳墓である。各瞬間は酷薄な埋葬者となる。とらわれた悲惨な男は、すわり伏し”または嘔吐する。しかしあらゆる運動はますます彼を埋めるばかりである。彼は身を伸ばして立ち上がり、沈んでゆく。次第に飲み込まれるのを感ずる。叫び、懇願し、雲に訴え、腕をねじ合わせ、死物狂いとなる。もう砂は腹までき、次に胸におよぶ。もう半身像にすぎなくなる。両手を差し上げ、恐ろしいうなり声を出し、砂浜の上に爪を立てて/その灰のようなものにつかまろうとし、半身像の柔らかい台から脱するため両肱に身を支え、狂気のように泣き叫ぶ。砂は次第に上がってくる。肩におよび、首におよぶ。今や見えるものは顔だけになる。大声を立てると、口には砂がいっぱいになる。もう声も出ない。目はまだ見えているが、それもやがて砂にふさがれる。もう何も見えなくなる。次には額が没してゆく。少しの髪の毛が砂の上に震える。一本の手だけが残って、砂浜の表面から出て動き回る。それもやがて見えなくなる。そして一人の人間が痛ましい消滅をとげるのである。  時には騎馬の者が/馬と共に埋没することもあり、車を引く者が/車と共に埋没することもある。みんな砂浜の下に終わってしまう。それは水の外の難破である。土地が人を溺らすのである。土地が大洋に-ひたされて罠となる。平地のように見せかけて、海のように口を開く。深淵もそういうふうに人を裏切ることがある。  かかる悲惨なできごとは/ある地方の海浜には常に起こり得ることであるが、三十年前のパリー下水道にも起こり得るのであった。  1833年に始められた大工事以前には、パリーの地下の道はよく突然’人を埋没させるようになっていた。  水が特に砕けやすい下層の地面にしみ込むので、古い下水道では敷石であり/新しい下水道ではコンクリートの上に固めたスイコウ石灰である部分は、もうそれを支えるものがなくなって揺るぎだしていた。この種の床板においては、一つの皺はすなわち一つの割れ目である。一つの割れ目はすなわち一つの崩壊である。底部はかなり長く破壊していた。泥濘の二重の深淵たるその亀裂を/専門の言葉では崩壊孔と称していた。崩壊孔とはなんであるか? 突然’地下で出会う海岸の流砂である。下水道の中にあるサン・ミシェルの丘の刑場である。水を含んだ土地は溶解したようになっている。その分子は柔らかいチュウカンに漂っている。土でもなく水でもない。時としては非常な深さにおよんでいる。そういうものに出会うほど恐ろしいことはない。もし水が多ければ、死はすみやかであって、直ちに飲み込まれてしまう。もし泥が多ければ、死はゆるやかであって、徐々に埋没される。  そういう死は人の想像にもおよばないだろう。埋没が海浜の上においても既に恐るべきものであるとするならば、下水溝渠の中においてはどんなものであろう。カイヒンにおいては、大気、外光、白日、朗らかな視界、広い物音、生命を雨降らす自由の雲、遠くに見える船、いろいろの形になって現われる希望:、来合わせるかも知れない通行人、最後の瞬間まで得られるかも知れない救助、それらのものがあるけれども:、下水道の中においてはただ、沈黙、暗黒、暗い丸天井、既にでき上がってる墳墓の内部、上を蔽われてるドロツチの中の死、すなわち汚穢のための徐々の息苦しさ:、汚泥の中に窒息が爪を開いて人の喉をつかむ石の箱、瀕死の息に交じる悪臭のみであって、砂浜ではなくドロツチであり、台風ではなくて硫化水素であり、大洋ではなくて糞尿である。頭の上には知らぬ顔をしている大都市を持ちながら、徒らに助けを呼び、歯をくいしばり、もだえ、もがき、苦しむのである。  斯くのごとくして死ぬる恐ろしさは筆紙のおよぶところではない。時とすると死は、一種の壮烈さによって/その恐ろしさを贖われることがある。火刑や難破の折りなどには、人は偉大となることがある。炎や白波の中においては、崇高な態度も取られる。そこでは滅没’しながら偉大な姿と変わる。しかし下水の中ではそうはゆかない。その死は醜悪である。そこで死ぬのは屈辱である。最後に目に浮かぶものは汚穢である。ドロツチは不名誉と同意義の言葉である。それは小さく/醜く”また賤しい。クレランス(訳者注◇ イギリスのエドワード4世の弟で、王に背いた後死刑に処せられた時、自ら葡萄酒の樽の中の溺死の刑を求めたと伝えられている)のように芳香葡萄酒の樽の中で死ぬのはまだいいが:、エスクーブロー(訳者注◇ 本章末節参照)のように溝浚ニンの墓穴の中で死ぬのはたまらない。その中でもがくのは醜悪のきわみである。死の苦しみをしながらデイスイ中を歩くのである。地獄と言ってもいいほどの暗黒があり、泥穴と言ってもいいほどの泥濘があって、その中に死んでゆく者は、果たして霊魂となるのか/蛙となるのかを自ら知らない。  墳墓はどこにあっても凄惨なものであるが、下水道の中では醜悪なものとなる。  崩壊孔の深さ’は一定でなく、またその長さや密度も場所によって異なり、地層の粗悪さに比例する。時とすると、サン四尺の深さのこともあれば、8尺から十尺にもおよぶことがあり、あるいは底がわからぬこともある。そのドロツチはほとんど固くなってる所もあれば、ほとんど水のように柔らかい所もある。リュニエールの崩壊孔では、ひとりの人が没するに一日くらいかかるが、フェリポーの泥濘では五分間くらいですむ。ドロツチの密度いかんに従ってその支持力にも多少がある。大人が没しても/子供なら助かる所がある。安全の第一要件は、あらゆる荷物を捨ててしまうことにある。足下の地面が撓うのを感ずる下水フらは、いつもまず第一に、その道具袋や/負い籠や/泥桶を投げ捨てるのであった。  崩壊孔のできる原因はいろいろである。地質の脆弱、人の達し得ないほど深い所に起こる地すべり、夏の豪雨、絶え間ない冬の雨、長く続く霖雨など。また時とすると、泥灰岩や砂質の地面に立ち並んでる周囲の人家の重みのため、地廊の丸天井が押しやられてゆがむか、あるいは、その圧力のために底部が破裂して割れ目ができることもある。パンテオンの低下は、一世紀以前に、サント・ジュヌヴィエーヴサンの隧道の一部をそういうふうにして塞いでしまった。人家の重みのために下水道がくずれる時、ある場合にはその変動は、敷石の間がノコギリガタに開いて/上部の街路に現われた。その裂け目は亀裂した丸天井の長さ-だけうねうねと続いていて、損害は明らかに目に見えるので、すぐに修復することができた。けれどもまた、内部の惨害が少しも外部に痕跡を現わさないこともしばしばあった。そういう場合こそ下水フは災いである。底のぬけた下水道に不用意にはいって、そのままになった者も往々ある。古い記録は、そのようにして崩壊孔の中に埋没した下水フを列挙している。幾多の名前が出ている。そのうちには、ブレーズ・プートランという男があるが、カレーム・プルナン街の広場の下の崩壊孔に埋没した下水フである。彼はニコラ・プートランの兄弟であって、このニコラ・プートランは、1785年にみどり子の墓地と言われていた墓地の/最後の墓掘り人であった。その年にこの墓地は廃せられてしまったのである。  またその中には、上にちょっとあげた愉快な青年子爵/エスクーブローもいる。彼は絹の靴下をはき/バイオリンをささげて襲撃が行なわれた/レリダ市の攻囲の折りの勇士のひとりだった。エスクーブローはある夜、従姉妹たるスールディ公爵夫人のもとにいた所を不意に見つけられ、公爵の剣を逃れるためにボートレイ下水道の中に逃げ込んだが、その崩壊孔の中に溺死してしまった。スールディ夫人はその死を聞いた時、薬壜を取り寄せてエン剤を嗅ぎ、嘆くのを忘れた。そういう場合には恋も続くものではない。汚水溜めは恋の炎を消してしまう。ヘロは/レアドロスの溺死体を洗うのを拒み、チスベは/ピラムスの前に鼻をつまんで「おお-くさい/」と言う。(訳者注◇ 古代の物語中の話) ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【崩壊孔】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは一つの崩壊孔に出会ったのである。  かかる崩壊は、当時’シ-ャン・ゼリゼーの地下にしばしば起こったことで、非常に流動性のものだったから、水中工事を困難ならしめ/地下構造を脆弱ならしめていた。その流動性は、サン・ジョルジュ街区の砂よりもいっそう不安定なものであり、マルティール街区のガスを含んだ粘土層よりもいっそう不安定なものだった。しかも、サン・ジョルジュの砂地は、コンクリートの上に石堤を作ってようやく食い止められたものであり:、マルティールの粘土層は、マルティール修道院の回廊の下では/鋳鉄のクダでようやく通路が穿たれたほど柔らかいものであった。1836年に、いまジャ-ン・ヴァルジャンがはいり込んだその石造の古い下水道を改造するために、サン・トノレ郭外の下がこわされた時:、シャン・ゼリゼーからセーヌ川まで地下に横たわってた流砂は非常な障害となって、工事は六カ月近くも続き、付近の住民、ことに旅館や馬車を所有してる人々の、ひどい不平の声を受けたものである。工事は困難なばかりでなく、また至って危険なものだった。実際、雨が4カ月半も続き、セーヌ川の溢水が三度も起こった。  ジャン・ヴァルジャンが出会った崩壊孔は/前日の驟雨のためにできたものであった。したの砂土にようやく支えられていた敷石はゆがんで、アマミズをふさぎ止め、水が中にしみ込んで、地崩れが起こっていた。底部はゆるんで、ドロツチの中にはいり込んでいた。どれほどの長さに及んでいたか、それはわからない。闇は他の所よりもずっと濃くなっていた。それは暗夜の洞窟の中にあるドロツチの穴だった。  ジャン・ヴァルジャンは足下の敷石が逃げてゆくのを感じた。彼は泥濘の中にはいった。表面は水であり、底は泥であった。けれどもそれを通り越さなければならなかった。あとに引き返すことは不可能だった。マリユスは死にかかっており、ジャン・ヴァルジャンは疲れきっていた。それにまたどこにも他に行くべき道はなかった。ジャン・ヴァルジャンは前進した。その上、初めのニサンポではその窪地は/サまで深くなさそうだった。しかし進むに従って、足は次第に深く没していった。やがては、泥が脛の半ばにおよび/水が膝の上におよんだ。彼は両腕でできるだけマリユスを水の上に高く上げながら、進んでいった。今や泥は膝におよび、水は帯の所におよんだ。もう-ひくことはできなかった。ますます深く沈んでいった。底のドロツチは、ひとりの重さにはたえ得るくらい濃密だったが、明らかに二人を支えることはできなかった。マリユスとジャン・ヴァルジャンとは、もし別々に分かれたらあるいは無事ですむかも知れなかった。しかしジャン・ヴァルジャンは、おそらくはもう死骸になってるかも知れない瀕死のマリユスを-にないながら、続けて前進した。  水は腋まできた。彼は今にも沈み込むような気がした。その深いドロツチの中で歩を運ぶのも辛うじてであった。支えとなる泥の密度はかえって障害となった。彼はなおマリユスを持ち上げ、非常な力を費やして前進した。しかしますます沈んでいった。もう水から出てるのは、マリユスを支えてる両腕と頭とだけだった。洪水の古い絵には、そういうふうに子供を差し上げてる母親が見らる-る。  彼はなお沈んでいった。水を避けて呼吸を続けるために、頭をうしろに倒して/顔を上向けた。もしその暗黒の中で彼を見た者があったら、影の上に漂ってる仮面かと思ったかも知れない。彼は自分の上に、マリユスのうなだれた頭と/ソウハクな顔とを、ぼんやり見分けた。彼は死物狂いの努力をして、足を前方に進めた。足は何か固いものに触れた。一つの足場である。ちょうどいい時だった。  彼は身を伸ばし、身をひねり、夢中になってその足場に乗った。あたかもイノチのうちに上ってゆく階段の第一段のように思えた。  危急の際に底の泥の中で出会ったその足場は、底部の向こうの-いったんだった。それは曲がったまま壊れないでいて、板のように”また一枚でできてるかのように、水の下に撓っていた。よく築かれた石畳工事は、迫持になっていて斯くまでに丈夫なものである。その一片の底部は、半ば沈没しながらなお強固で、まったく一つの坂道となっていた。一度その坂に足を置けば、もう安全だ-った。ジャン・ヴァルジャンはその斜面を上って、泥穴の彼岸に着いた。  彼は水から出て、一つの石に出会い、そこにひざまずいた。彼は自然にそういう心地になって、しばらくそこにひざまずいたまま、全心を投げ出して/言い知れぬ祈念を神にささげた。  彼は身を震わし、氷のように冷たくなり、臭気にまみれ、瀕死の者をになって背をかがめ、泥濘をしたたらし、魂は異様な光明に満たされながら、立ち上がった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【上陸の間際に座礁することあり】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンは再び進み出した。  けれども、崩壊孔の中にイノチは落としてこなかったとするも、力はそこに落としてきたが-ようだった。極度の努力に彼は疲憊しつくしていた。今は身体に力がなくて、3’4歩’進んでは息をつき、壁によりかかって休んだ。ある時は、マリユスの位置を変えるために/段の所にすわらなければならなかった。そしてもう動けないかと思った。しかしたとい力はなくなっていたとするも、元気は消えうせていなかった。彼はまた立ち上がった。  彼はほとんど足早に/絶望的に歩き出して、頭も上げず、息もろくにつかないで、百歩ばかり進んだ。すると突然’壁にぶつかった。下水道の曲がり角に達し、頭を下げて歩いていたので、その壁に行き当たったのである。目を上げてみると、隧道の先端に、前方の遠いごくはるかな彼方に、一つの光が見えた。今度は前のように恐ろしい光ではなかった。それは楽しい白い光だった。日の光であった。  ジャン・ヴァルジャンは出口を認めたのである。  永劫の罰を-こうむって焦熱地獄の中にありながら/突然’出口を認めた魂にして始めて、その時ジャン・ヴァ-ルジャンが感じた-ここちを知り得るだろう。その魂は、焼け残りの翼をひろげて、光り輝く出口のほうへ、狂気のごとく飛んでゆくに違いない。ジャン・ヴァルジャンはもう疲労を感じなかった。もうマリユスの重みをも感じなかった。足は再び鋼鉄のように丈夫になって、歩くというよりも/むしろ走っていった。近づくにしたがって、出口はますますはっきり見えてきた。それは穹窿形の迫持で、次第に低くなってる隧道の丸天井よりも更に低く、丸天井が下がるにしたがって次第に狭まってる隧道よりも更に狭かった。ずいどうはロートの内部のようになっていた。斯く次第につぼんでる不都合な形は、重罪監獄のソク門を模したもので、監獄では理に合っているが、下水道では理に合わないので、その後改造されてしまった。  ジャン・ヴァルジャンはその出口に達した。  そこで彼は立ち止まった。  まさしく出口ではあったが、出ることはできなかった。  丸い門は丈夫な鉄格子で閉ざされていた。そして鉄格子は、酸化したヒジガネの上にめったに開閉された様子も見えず、石の框に厚い錠前で固定してあり、錠前は赤く錆びて、大きな煉瓦のようになっていた。鍵穴も見え/頑丈な閂が鉄の受座に深くはいってるのも見えていた。錠前は明らかに二重錠がおろされていた。それは昔パリーがやたらに用いていた牢獄の錠前の一つだった。  鉄格子の向こうには、大気、川、昼の光、狭くはあるが立ち去るには足りる汀、遠い川岸通り、容易に姿を隠し得らるる深淵たるパリー、広い視界、自由、などがあった。右手には下流のほうにイエナバシが見え、左手には上流のほうにアンヴァリードバシが見えていた。夜を待って逃走するには好都合な場所だった。パリーの最も寂しい地点の一つだった。グロ・カイユーに向き合ってる汀だった。蠅は鉄格子の間から出入りしていた。  午後の八時半ごろだったろう。日は暮れかかっていた。  ジャン・ヴァルジャンは底部のかわいた所に/壁に沿ってマリユスをおろし、それから鉄格子に進んでいって、その鉄棒を両手につかんだ。そして狂気のごとく揺すったが、少しも動かなかった。鉄格子はびくともしなかった。弱い鉄棒を引きぬいて梃子とし/扉をこじあけるか錠前をこわすかするつもりで、彼は鉄棒を一本一本つかんだが、どれも小揺るぎさえしなかった。虎の牙もおよばないほど固く植わっていた。一つの梃子もなく、一つの力になる物もなかった。障害は人力のおよぶべくもなかった。扉を開くべき方法は何もなかった。  それでは彼は、そこで終わらなければならなかったのか。どうしたらいいか。どうなるのか。引き返して、既に通ってきた恐ろしい道程を繰り返すには、その力がなかった。それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあの泥濘の穴を、どうして再び通ることができよう。更にその泥濘のあとには、あの警官の巡邏隊があるではないか。確かに二度とそれから逃れられるものではない。そしてまた、どこへ行ったらいいか。どの方向を取ったらいいか。傾斜について進んでも、目的を達せられるものではない。他の出口にたどりついた所で、必ずやそれも石の蓋か/鉄の格子かでふさがれているだろう。あらゆる口がそういうふうに閉ざされてることは疑いない。彼がはいってきた鉄格子は偶然にもゆるんでいたが、しかし下水道の他の口がすべて閉ざされてることは明らかである。彼はただ牢獄の中に逃げ込み得たに過ぎなかった。  万事’終わりであった。ジャン・ヴァルジャンがなしてきたすべては徒労に帰した。神はそれを受け入れなかったのである。  彼らは二人とも、死の大きな暗い網に捕えられてしまった。そしてジャン・ヴァルジャンは、暗黒の中に震え動く/真っ黒な網の糸の上に/恐るべき蜘蛛が走り回るのを感じた。  彼は鉄格子’に背を向け、やはり身動きもしないでいるマリユスのそばに、敷石の上に、すわるというよりも/むしろ打ち倒れるように身を落とした。その頭は両膝の間にたれた。出口はない。それが苦悶の最後の一滴であった。  その深い重圧の苦しみのうちに、誰のことを彼は考えていたか。それは自分のことでもなく、またマリユスのことでもなかった。彼はコゼットのことを思っていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【裂き取られたる上衣の一片】 ◇。◇。◇。◇。◇。  その喪心の最中に、一つの手が彼の肩に置かれ、一つの声が低く彼に話しかけた。 「山分けにしよう。」  その闇の中に誰がいたのであろうか。絶望ほど夢に似たものは無い。ジャン・ヴァルジャンは夢をみてるのだと思った。少しも足音は聞こえなかったのである。現実にそんなことがあり得るだろうか。彼は目をあげた。  一人の男が彼の前にいた。  男は労働服を着、足にはなんにも履かず、靴を左手に持っていた。明らかに彼は、足音を立てないでジャ-ン・ヴァルジャンの所まで来るために、靴を脱いだのだった。  ジャン・ヴァルジャンはその男が誰であるかを少しも惑わなかった。いかにも意外な邂逅ではあったが、見覚えがあった。テナルディエだった。  言わば突然’目をさましたようなものだったが、ジャン・ヴァルジャンは危急になれており、意外の打撃をも瞬間に受け止めるように鍛えられていたので、直ちに冷静に返ることができた。それに第一、事情は更に険悪になり得るはずはなかった。困却もある程度におよべば、もはやそれ以上に大きくなり得ないものである。テナルディエが出てきたとて、その闇夜をいっそう暗くすることはできなかった。  しばし探り合いの時間が続いた。  テナルディエは右手を額の所まで上げて目庇を作り、それから目をまたたきながら眉根を寄せたが:、それは口を軽く尖らしたのとともに、相手が誰であるかを見て取ろうとする鋭い注意を示すものだった。しかし彼はそれに成功しなかった。ジャン・ヴァルジャンは前に言ったとおり、光のほうに背を向けていたし、また真昼間の光でさえも見分け難いほど泥にまみれ/血に染まって/姿が変わっていた。それに反してテナルディエは、窖の中のようなホノジロい明りではあるが/そのホノジロさの中にも妙にはっきりしてる鉄格子から来る光を、真っ正面に受けていたので:、通俗な力強い比喩で言うとおり、すぐにジャ-ン・ヴァルジャンの目の中に飛び込んできたのである。この条件の違いは、今や二つの位置と”二人の男との間に行なわれんとする不思議な対決において、確かにジャ-ン・ヴァルジャンのほうにある有利さを与えるに足りた。会戦は、覆面をしたジャン・ヴァルジャンと/仮面を脱いだテナルディエとの間に行なわれた。  ジャン・ヴァルジャンはテナルディエが自分を見て取っていないのをすぐに気づいた。  二人はその薄暗い’中で、互いに身長を測り合ってるように、しばらくじろじろ眺め合った。テナルディエが先に沈黙を破った。 「お前はどうして出るつもりだ。」  ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。  テナルディエは続けて言った。 「扉をこじあけることはできねえ。だがここから出なけり-ゃならねえんだろう。」 「そのとおりだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「じゃあ山分けだ。」 「いったい何のことだ?」 「お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺のほうに鍵があるんだ。」  テナルディエはマリユスをさし示した。彼は続けて言った。 「俺はお前を知らねえ、だが少し手伝おうというんだ。おだやかに話をつけようじゃねえか。」  ジャン・ヴァルジャンは了解しはじめた。テナルディエは彼を人殺しだと思ってるのだった。テナルディエはまた言った。 「まあ聞けよ、お前はそいつの懐中を見届けずにやっつけたんじゃあるめえ。半分俺によこせ。扉を開いてやらあね。」  そして穴だらけの上衣の下から大きな鍵を半ば引き出しながら、彼は言い添えた。 「自由な身になる鍵がどんなものか、見てえなら見せてやる。これだ。」  ジャン・ヴァルジャンは、ロウ-コルネイユの用語を借りれば、「唖然とした。」そして眼前のことが果たして現実であるかを疑ったほどである。それは恐ろしい姿で現われてくる天意であり、テナルディエの形となって/地から出て来る善良な天使であった。  テナルディエは上衣の下に隠されてる大きなポケットに手をつき込み、一筋の綱を取り出して、それをジャン・ヴァルジャンに差し出した。 「さあ、」と彼は言った、「おまけにこの綱もつけてやらあな。」 「綱を何にするんだ。」 「石もいるだろうが、それは外にある。壊れ物がいっぱい積んであるんだ。」 「石を何にするんだ。」 「馬鹿だな。お前はそいつを川に投げ込むつ-もりだろう。すりゃあ石と綱とがいるじゃねえか。そうしなけりゃ水に浮いちまわあな。」  ジャン・ヴァルジャンはその綱を取った。誰にでも、そういうふうにただ機械的に物を受け取ることがある。  テナルディエは突然ある考えが浮かんだかのように指を鳴らした。 「ところで、お前はどうして向こうの泥穴を越してきたんだ。俺にはとてもできねえ。ぷー、あまりいい匂いじゃねえな。」  ちょっと黙った後、彼はまた言い出した。 「俺がいろんなことを聞いてるのに、お前が一向返事もしねえのはもっともだ。予審のいやな十五ロクフンカンの下稽古だからな。それに、口をききさえしなけりゃあ、あまり大きな声を出しゃしねえかという心配もねえ訳だからな。だがどっちみち同じことだ。お前の顔もよく見えねえし、お前の名も知らねえからといって、お前がどんな人間で/どんなことをするつもりか、俺にわからねえと思っちゃまちがえだぜ。よくわかってらあね。お前はその男をばらして、今どこかに押し込むつ-もりだろう。お前には川がいるんだ。川ってものは馬鹿なことをすっかり隠してしまうものだからな。困るなら俺が救ってやらあ。正直者の難儀を助けるなあ、ちょうど俺のはまり役だ。」  ジャン・ヴァルジャンが黙ってるのを彼は一方に承認しながらも、明らかに口をきかせようとつとめていた。彼は横顔でも見ようとするように、相手の肩を押した。そしてやはりナカゴエをしたまま叫んだ。 「泥穴といやあ、お前はどうかしてるね。なぜあそこに抛り込んでこなかったんだ?」  ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。  テナルディエは襟飾りとしてるボロ布を喉仏の所まで引き上げた。それは真剣になった様子を充分に示す身振りだった。そして言った。 「だが、つまりお前のやり方は利口だったかも知れねえ。職人が明日’穴でも塞ぎに来れば、そこに死人が捨てられてるのをきっと見つける。そうすりゃあ、それからそれと糸をたぐって跡をかぎつけ、お前の身におよんでくる。下水道の中を通った奴がいる。それは誰だ、どこから出たんだ、出るのを見た者があるか? なんて警察はなかなか抜け目がねえからな。下水道は裏切って、お前を密告する。しにんなんていう拾い物は珍しいし、人の目をひく。だから下水道を仕事に使うヤツはあまりいねえ。ところが川とくりゃあ、誰でも使ってる。川はまったく墓場だからな。ひと月もたってから、サン・クルーの網に死体がひっかかる。そうなりゃあかまったこたあねえ。身体は腐ってらあ。誰がこの男を殺したか、パリーが殺したんだ、てなことになる。警察だってろくに調べやしねえ。つまりお前は上手にやったわけだ。」  テナルディエがしゃべればしゃべるほど、ジャン・ヴァルジャンはますます黙り込んだ。テナルディエはまた彼の肩を押し動かした。 「さあ用事をすまそう。二つに分けるんだ。お前は俺の鍵を見たんだから、俺にも一つお前の-かねをみ-せなよ。」  テナルディエは荒々しく、獰猛で、胸に一物あるらしく、多少’威嚇するようなふうだったが、それでもごくなれなれしそうだった。  不思議なことが一つあった。テナルディエの態度は単純ではなかった。まったく落ち着いてるような様子はなかった。平気なふうを装いながら、声を低めていた。ときどき口に指をあてては、しッ/ とつぶやいた。その理由はどうも察しがたかった。そこには彼ら二人のほか誰もいなかった。おそらく他に悪党どもがどこかあまり遠くない片隅に潜んでいて、テナルディエはそれらと仕事を分かちたくないと思ってるのだと、ジャン・ヴァルジャンは考えた。  テナルディエは言った。 「話を片づけてしまおう。そいつは懐中にいくら持っていたんだ?」  ジャン・ヴァルジャンは体中-ほうぼう探した。  読者の記憶するとおり、いつも-かねを身につけてるのは彼の習慣だった。臨機の策を講じなければならない陰惨な生活に定められてる彼は、かねを用意しておくのをジョウソクとしていた。ところがこんどに限って無一物だった。前日の晩、国民兵の服をつけるとき、悲しい思いに沈み込んでいたので、紙入れを持つのを忘れてしまった。彼はただチョッキのポケットにわずかな貨幣を持ってるだけだった。全部でサンジュッフランばかりだった。彼は汚水に浸ったポケットを裏返して、底部の段の上に、ルイ金貨一個と/五フラン銀貨二個と/大きな銅貨をゴロッ個並べた。  テナルディエは妙に首をひねりながら下脣をつき出した。 「安っぽくやっつけたもんだな。」と彼は言った。  彼はごくなれなれしく、ジャン・ヴァルジャンとマリユスとのポケットに一々さわってみた。ジャン・ヴァルジャンは特に光のほうに背を向けることばかりに気を使っていたので、彼の成すままに任した。テナルディエはマリユスの上衣を扱ってるあいだに、手品師のような敏捷さで、ジャン・ヴァルジャンが気づかぬうちに、その破れた一片を裂き取って、自分の上衣の下に隠した。その一片の布は、他日/被害者と加害者とが誰であるかを知る手掛かりになるだろうと、多分’考えたのだろう。しかし-かねのほうは、サンジュッフラン以外には少しも見いださなかった。 「なるほど、」と彼は言った、「二人でそれだけっきり持たねえんだな。」  そして山分けという約束を忘れて、彼は全部取ってしまった。  大きな銅貨に対しては彼もさすがにちょっと躊躇した。しかし考えた末/それをも奪いながらクチの中でつぶやいた。 「かまわねえ、あまり安すぎるからな。」  それがすんで、彼はまた上衣の下から鍵を引き出した。 「さあ、お前は出なけりゃなるめえ。ここはイチバのようなもんで/出る時に-かねを払うんだ。お前は-かねを払ったから、出るがいい。」  そして彼は笑い出した。  彼がそういうふうに、見知らぬ男に鍵を貸してやり、その門から他人を出してやったのは、一殺害人を救ってやろうという/純粋無私な考えからであったろうか。それについては疑いを入れる余地がある。  テナルディエはジャン・ヴァルジャンに自ら手伝って/再びマリユスを肩にかつがせ、それから、ついて来るように合図をしながら、裸足の爪先でそっと鉄格子のほうへ進み寄り:、外をのぞき、指を口にあて、決心のつかないようなふうでしばらくたたずんだ。やがて外の様子をうかがってしまうと、彼は鍵を錠前の中に差し込んだ。閂は滑り、扉は開いた。こすれる音もせず、軋る音もしなかった。ごく静かに開かれてしまった。それでみると明らかに、鉄格子とヒジガネとはよく油が塗られていて、思ったよりしばしば開かれていたものらしい。その静けさは気味悪いものだった。隠密な往来がそこに感ぜられ、夜の男どもの黙々たる出入りと/罪悪の狼の足音とがそこに感ぜられた。下水道はまさしく、秘密な盗賊仲間の同類だった。音を立てないその鉄格子は贓品受け取りにんだった。  テナルディエは扉を少し開き、ジャン・ヴァルジャンにちょうど通れるだけのすき間を与え、鉄格子を再び閉ざし、錠前の中に二度鍵を回し、息の根ほどの音も立てないで、暗黒の中にまた没してしまった:、彼は虎のビロードのような足で歩いてるかと思われた。一瞬間の後には、天意ともいうべきその嫌悪すべき男は、目に見えないもののうちにはいり込んでしまっていた。  ジャン・ヴァルジャンは外に出た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 【死人と思わるるマリユス】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはマリユスを汀の上にすべりおろした。  彼らは外に出たのである。  毒気と/暗黒と/恐怖とは背後になった。自由に呼吸される清純な/生きた楽しい健全な空気は、あたりにあふれていた。周囲は至るところ静寂であったが、しかしそれは青空のうちに太陽が沈んでいったあとの/麗しい静寂だった。薄暮の頃で、夜は来かかっていた。夜こそは大なる救済者であり、苦難から出るために影のマントを必要とする/あらゆる魂の友である。空は大きな平穏となってシホウにひろがっていた。川は口づけをするような音を立てて足下に流れていた。シャン・ゼリゼーのニレの木立の中には、互いに就寝のあいさつをかわしてる小鳥の軽い対話が聞こえていた。ほの青い中天をかすかに通して/ただ夢想の目にのみ見える二’三の星は、無辺際のうちに小さな点となって輝いていた。夕べはジャン・ヴァルジャンの頭の上に、無窮なるものの有するあらゆる静穏を展開していた。  しかりとも否とも言い難い微妙な/不分明な時間だった。既に夜の靄はかなり濃くなっていて、少しハナるれば人の姿もよくわからないが、なお昼の明るみはかなり残っていて、近くに寄れば相手の顔が認められた。  ジャン・ヴァルジャンはしばらくのあいだ、そのおごそかな”またやさしい清朗の気にまったく打たれてしまった。斯く吾を忘れさせる瞬間もよくあるものである。そういう時、苦悩は不幸なる者をわずらわすのをやめる。すべては思念の中に姿を潜める。平和の気は夢想する者を夜のように覆う。そして輝く薄明の下に、光をちりばむる空をまねて、人の魂も星に満たされる。ジャン・ヴァルジャンは頭の上に漂ってるその輝く広い影を打ち眺めざるを得なかった。彼は思いにふけりながら/永劫の空のおごそかな静寂のうちに、恍惚と祈念との情をもって浸り込んだ。それから急に、あたかも義務の感が戻ってきたかのように、彼はマリユスのホウへ身をかがめ、手のひらの窪の中に水をすくって、そのスーテキを静かに彼の顔にふりかけた。マリユスの目蓋は開かなかった。けれども半ば開いてるその口には息が通っていた。  ジャン・ヴァルジャンは再び川に手を入れようとした。その時、姿は見えないが誰かが背後に立ってるような/言い知れぬ不安を突然’感じた。  誰でもそういう感銘を知ってるはずだが、それについては既に他の所で述べてきたとおりである。  ジャン・ヴァルジャンはふり返った。  感じたとおり、果たして何者かがうしろにいた。  背の高いひとりの男が、フロック型の長い上衣を着、両腕を組み、しかも右手には鉛の頭が見える棍棒を持って、マリユスの上にかがんでるジャン・ヴァルジャンのスウホうしろの所に、じっと立っていた。  それは影に包まれていて/幽霊のように見えた。単純な者であったら、薄暗がりのために恐怖を感じたろう。思慮ある者であったら、棍棒のために恐怖を感じたろう。  ジャン・ヴァルジャンはその男がジャヴェルであることを見て取った。  テナルディエを追跡したのはジャヴェルにほかならなかったことを、読者は既に察したであろう。ジャヴェルは望外にも/防寨から出たあと、警視庁へ行き、わずかのあいだ親しく総監に面接して口頭の報告をし、それからまた直ちに自分の任務についた。読者は彼のポケットに見いだされた書き付けのことを記憶しているだろう。それによると彼の任務には、しばらく前から警察の注意をひいていたセーヌ右岸のシャン・ゼリゼー付近を少し監視することも含まっていた。彼はそこでテナルディエを見つけ、その跡をつけたのだった。その後のことは読者の知るとおりである。  ジャン・ヴァルジャンの前に親切にも鉄格子を開いてやったのは、テナルディエの一つの妙策だったことも、また同様にわかるはずである。テナルディエはジャヴェルがまだそこにいることを感じていた。待ち伏せされてる男は的確な一つの嗅覚を持ってるものである。そこで猟犬に一片の骨を投げ与えてやる必要があった。殺害者とは何という望外の幸いであろう! それは又とない身代わりであって、どうしてものがすわけにはゆかない。テナルディエは自分の代わりにジャン・ヴァルジャンを外につき出すことによって、警察に獲物を与え、自分の追跡を弛ませ、いっそう大きな事件のうちに自分のことを忘れさせ:、いつもスパイが喜ぶ待ちガイのある報酬をジャヴェルに与え、自分はサンジュッフランを儲け、そして、自分のほうはそれに紛れて身を脱し得ることと思った。  ジャン・ヴァルジャンは一つの暗礁から他の暗礁へぶつかったのである。  相次いでテナルディエからジャヴェルへと落ちていった二度の災難は、あまりにきびしすぎた。  前に言ったとおり、ジャン・ヴァルジャンはまったく姿が変わっていたので、ジャヴェルはそれと見て取りえなかった。彼は両腕を組んだまま、目につかないくらいの動作で棍棒を握りしめてみて、それから簡明な/落ち着いた声で言った。 「何者だ。」 「私だ。」 「いったい誰だ?」 「ジャン・ヴァルジャン。」  ジャヴェルは棍棒をくわえ、膝をまげ、身体を傾け、ジャン・ヴァルジャンの両肩を二つの万力ではさむように強い両手でとらえ、その顔をのぞき込み、そして始めてそれと知った。二人の顔はほとんど接するばかりになった。ジャヴェルの目つきは恐ろしかった。  ジャン・ヴァルジャンはあたかも山猫の爪を甘受してる獅子のように、ジャヴェルにつかまれたままじっとしていた。 「ジャヴェル警視、」と彼は言った、「私は君の手中にある。それに今朝から、私はもう君に捕えられたものだと自分で思っていた。君から逃れるつもりならば、住所などを教えはしない。私を捕えるがいい。ただ一つのことを許してもらいたい。」  ジャヴェルはその言葉を聞いてるようにも思われなかった。彼はジャン・ヴァルジャンの上にじっと瞳を据えていた。顎に皺を寄せ、脣を鼻のほうへ突き出して、荒々しい夢想の様子だった。それから彼はジャン・ヴァルジャンを放し、すっくと身を伸ばし、棍棒を充分手のうちに握りしめ、そして夢の中にでもいるように、次の問を発した、というよりむしろ呟いた。 「君はここに何をしてるんだ、そしてその男は何者だ。」  彼はもうジャン・ヴァルジャ-ンを貴様と呼んではいなかった。  ジャン・ヴァルジャンは答えたが、その声の響きにジャヴェルは始めて我に返った。 「私が君に話したいのもちょうどこの男のことだ。私の身は君の勝手にしてほしい。だがまずこの男をその自宅に運ぶのを手伝ってもらいたい。願いというのはそれだけだ。」  ジャヴェルの顔は、人から譲歩を予期されてると思うたびごとにいつもするように、すっかり張りつめた。けれども彼は否とは言わなかった。  彼は再び身をかがめ、ポケットからハンカチを引き出し、それを水に浸して、マリユスの血に染まってるヒタイをぬぐった。 「防寨にいた男だな。」と彼は独り言のように半ばくちの中で言った。「マリユスと呼ばれていた者だ。」  彼こそ実に一流の探偵というべきであって、やがて殺されるのを知りながらも、すべてを観察し、すべてに耳を傾け、すべてを聞き取り、すべてのことを頭に入れていたのである。死の苦悶のうちにありながら、様子をうかがい、墳墓へ一歩ふみ込みながら、記録をとっていたのである。  彼はマリユスの手を取って脈を診た。 「負傷している。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「死んでいる。」とジャヴェルは言った。  ジャン・ヴァルジャンは答えた。 「いや、まだ死んではいない。」 「君はこの男を、防寨からここまで運んできたんだな。」とジャヴェルは言った。  下水道を横ぎってきたその驚くべき救助について/そのうえ尋ねることもせず、また彼の問にジャン・ヴァルジャンが何とも答えないのを気にも止めなかったのを見ると、何か深く彼の頭を満たしていたものがあったに違いない。  ジャン・ヴァルジャンのほうは、ただ一つの考えしかいだいていないようだった。彼は言った。 「この男の住所は、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街で、その祖父‥‥名前を忘れてしまった。」  ジャン・ヴァルジャンはマリユスの上衣を探り、紙ばさみを取り出し、マリユスが鉛筆で走り書きしたページを開き、それをジャヴェルに差し出した。  文字が読めるくらいの光は、まだ空中に漂っていた。その上ジャヴェルの目は、夜の鳥のように暗中にも見える/一種の燐光を持っていた。彼はマリユスの書いた数ギョウを読み分けてつぶやいた。 「フィーユ・デュ・カルヴェール街’六番地、ジルノルマン。」  それから彼は叫んだ。「おい、御者!」  読者の思い起こすとおり、辻馬車は万一の場合のために待っていた。  ジャヴェルはマリユスの紙ばさみを取り上げてしまった。  まもなく、馬車は水飲み場の傾斜をおりて汀までやってき、マリユスは奥の腰掛けの上に置かれ、ジャヴェルとジャン・ヴァルジャンとは相並んで前の腰掛けにすわった。  戸は閉ざされ、辻馬車はすみやかに遠ざかって、川岸通りをバスティーユの方向へ上っていった。  一同は川岸通りを去って、街路にはいった。御者台の上に黒く浮き出してる御者は、やせた馬に鞭をあてていた。馬車の中は氷のような沈黙に満たされていた。マリユスは身動きもせず、奥の隅に身体をよせかけ、頭を胸の上にぐたりとたれ、両腕をぶら下げ、足は固くなって、もうただ柩を待ってるのみであるように思われた。ジャン・ヴァルジャンは影でできてるかのようであり、ジャヴェルは石でできてるかのようだった。そして馬車の中はまったくの暗夜であって、街灯の前を通るたびごとに、明滅する電光で照らされるように/内部が青白くひらめいた。死骸と/幽霊と/彫像と、三つの悲壮な不動の姿が、偶然いっしょに集まって、ものすごく顔をつき合わしてるかと思われた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10章】 【イノチを惜しまぬ息子の帰宅】 ◇。◇。◇。◇。◇。  敷石の上に馬車が揺れるたびごとに、マリユスの頭髪から一滴ずつ血’がたれた。  馬車がフィーユ・デュ・カルヴェール街’六番地に達した時は、もう真夜中だった。  ジャヴェルは真っ先に馬車からおり、オオモンの上についてる番地を一目で見て取り、オヤギとサチールシンとが向かい合ってる/古風な装飾のある練鉄の重い金槌を取って、案内の鐘を一つ激しくたたいた。片方の扉が少し開いた。ジャヴェルはそれを大きく押し開いた。門番は欠伸をしながら、ぼんやり目をさましたようなふうで、手に蝋燭を持ってハンミを現わした。  家の中は-みな寝静まっていた。マレーでは-みな早寝で、ことに暴動の日などはそうである。その善良な古い町は、革命と聞くと恐れおののき、眠りの中に逃げ込んでしまう。あたかも子供らが、人攫いおにの来るのを聞いて、急いで頭から布団をかぶるようなものである。  そのあいだに、ジャン・ヴァルジャンは両わきを支え/御者は膝を持って、二人でマリユスを馬車から引き出した。  そういうふうにマリユスをかかえながら、ジャン・ヴァルジャンは大きく裂けてる服の下に手を差し込んで、その胸にさわってみ、なお心臓が鼓動してるのを確かめた。しかも、馬車の動揺のためにかえってイノチを取り返したかのように、心臓の鼓動はいくらか前よりもよくなっていた。  ジャヴェルはいかにも暴徒の門番に対する役人といった調子で、その門番に口をきいた。 「ジルノルマンという者の家はここか。」 「ここですが、何の御用でしょう?」 「息子を連れ戻してきたのだ。」 「息子を?」と門番はぼんやりしたふうで言った。 「死んでいるんだ。」  よごれたボロボロの服をつけたジャ-ン・ヴァルジャンが、ジャヴェルのうしろに立ってるので、門番は恐ろしそうにそちらを眺めていた。するとジャン・ヴァルジャンは頭を振って、死んでるのではないと合図をした。  門番にはジャヴェルの言葉もジャ-ン・ヴァルジャンの合図もよくわからないらしかった。  ジャヴェルは続けて言った。 「この者は防寨に行っていたが、このとおり連れてきたのだ。」 「防寨に/」と門番は叫んだ。 「そして死んだのだ。親父を起こしに行け。」  門番は身を動かさなかった。 「行けと言ったら/」とジャヴェルはどなった。  そして彼は付け加えた。 「いずれ明日は葬式となるだろう。」  ジャヴェルにとっては、公道における普通のできごとは、すべて整然と分類されていた。それは警戒と監視との第一歩である。そして各事件はそれぞれの部門を持っていた。普通にありそうな事柄はすべて、言わば引き出しの中にしまわれていて、場合に応じて必要なだけ取り出さるるのだった。街路の中には、騒擾、暴動、遊楽、葬式、などがあった。  門番はただバスクだけを起こした。バスクはニコレットを起こした。ニコレットはジルノルマン伯母を起こした。祖父のほうはなるべく遅く知らせるほうがいいとされて、眠ったままにして置かれた。  マリユスは建物の他の部屋の者が誰も気づかないうちに二階に運ばれ、ジルノルマ-ン氏の次の部屋の/古い安楽椅子に寝かされた。そしてバスクが医者を迎えに行き、ニコレットが箪笥を開いてるあいだに、ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルから肩をとらえられてるのを感じた。  彼はその意味を了解し、ジャヴェルの足音をうしろにしたがえながら階段をまたおりていった。  門番は恐ろしい夢の中にいるようなココチで、彼らがはいってきたとおりに”また出て行くのを眺めた。  彼らは再び馬車に乗った。御者も御者台に上った。 「ジャヴェル警視、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もう一つ許してもらいたい。」 「何だ?」とジャヴェルは荒々しく尋ねた。 「ちょっと自宅に戻るのを許してほしい。それからあとは君の存分にしてもらおう。」  ジャヴェルは上衣のえりに顎を埋め、しばらく黙り込んでいたが、それから前の小窓を開いた。 「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街7番地へやれ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十一章】 【絶対者の動揺】 ◇。◇。◇。◇。◇。  彼らは先方に着くまで一言も口をきかなかった。  ジャン・ヴァルジャンが望んでいることは-なんであったか? 既にはじめたところを成し終え-ること、すなわち、コゼットに事情を知らせ、彼女にマリユスの居所を告げ、他の何か有益な注意を与え、またできうるならば/ある最後の処置を取ることだった。彼自身のことは、彼一身に関することは、万事終わっていた。彼はジャヴェルに捕えられ、少しも抵抗しなかった。もし他の者がそういう地位に立ったら、テナルディエにもらった綱と/これから入るべき第一の地牢の格子窓とに、おそらく漠然と思いを馳せたであろう。しかしミリエル司教に会って以来/ジャン・ヴァルジャンのうちには、あらゆる暴行に対して、あえて言うが自身のイノチを害する暴行に対しても、深い敬虔な躊躇の情があったのである。  自殺ということは、未知の世界に対する一種神秘的な違法行為であり、ある程度まで魂の死を含み得るものであって、ジャン・ヴァルジャンには成し得ないことだった。  オンム・アルメ街の入り口で馬車は止まった。その街路は非常に狭くて馬車ははいれなかった。ジャヴェルとジャ-ン・ヴァルジャンとは馬車から降りた。  御者は馬車のユトレヒト製ビロードが、被害者の血と/加害者の泥とでシミだらけになったことを、「警視様」にうやうやしく申し出た。彼はその事件を殺害だと思っていたのである。そして損害を弁償してもらわなければならないと言い添えた。同時に彼はポケットから手帳を取り出して、「何とか御証明をイチギョウ」その上に書いていただきたいと警視様に願った。  ジャヴェルは御者が差し出してる手帳を退けて言った。 「待ち合わせと馬車代とをいれて全部でいくらほしいのか。」 「七時間と十五分になりますし、」と御者は答えた、「ビロードは真新しだったものですから、警視様、ハチジュッフランいただきましょう。」  ジャヴェルはポケットからナポレオン金貨を-よっつ取り出して与え、馬車を返してやった。  ジャン・ヴァルジャンはすぐ近くにあるブラン・マントーの衛舎か/アルシーヴの衛舎かに、ジャヴェルが自分を徒歩で連れてゆくつもりだろうと思った。  彼らはオンム・アルメ街にはいって行った。街路はいつ-ものとおり寂然としていた。ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとに従った。彼らは7番地に達した。ジャン・ヴァルジャンは門を叩いた。門は開いた。 「よろしい。上ってゆくがいい。」とジャヴェルは言った。  そして妙な表情をし、強いて’口をきいてるかのようなふうで言い添えた。 「わたしはここで君を待っている。」  ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの顔を眺めた。そんなやり方はジャヴェルの平素にも似合わぬことだった。けれども、いまジャヴェルが一種傲然たる信任を彼に置いているとしても、それはおのれの爪の長さ-だけの自由を鼠に与える猫の信任であるし:、またジャン・ヴァルジャンは一身を投げ出して万事を終わろうと決心していたので、別に大して驚くにも当たらないことだった。彼は戸を押し開き、家の中に入り、もう寝ていて寝床の中から門を開く綱を引いてくれたその門番に、「私だ」と言い残し、階段を上っていった。  二階にきて彼は立ち止まった。あらゆる悲しみの’道にも足を休むべき場所がある。階段の上の窓は、揚げ戸窓になっていたが、いっぱい開かれていた。古い家には多く見受けられるとおり、その階段も外から明りが取られていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光が少し階段に差して明かりの倹約となっていた。  ジャン・ヴァルジャンは息をつくためか/あるいはただ機械的にか、その窓から頭を出した。そして街路の上に身をかがめてみた。街路は短くて、端から端まで明るく街灯に照らされていた。ジャン・ヴァルジャンは呆然として吾を忘れた。そこにはもう誰もいなかったのである。  ジャヴェルは立ち去っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第十二章】 【祖父】 ◇。◇。◇。◇。◇。  人々からとりあえず安楽椅子の上にのせられたまま/身動きもしないで横たわってるマリユスを、バスクと門番とは客間の中に運んだ。呼ばれた医者は駆けつけてきた。ジルノルマン伯母は起き上がっていた。  ジルノルマン伯母は驚き恐れて、うろうろし、両手を握り合わせ、「まあどうしたことだろう、」と口にするきり/なんにもできなかった。時とするとまた言い添えた、「何もかも血だらけになる。」それから最初の恐怖がしずまると、彼女の頭にも事情が多少わかってきて、「こうなるにきまっている、」という言葉を出させた。それでも彼女は、そういう場合によく口にされる「私が言ったとおりだ」とまでは言わなかった。  医者の言いつけで、たたみネ台が一つ安楽椅子のそばに据えられた。医者はマリユスを診察して、脈がまだ続いており、胸には一つも深い傷がなく、脣の隅の血は/鼻孔から出てるものであることを検べ上げたあと:、彼を平たく寝台の上に寝かし、呼吸を自由にさせるために、上半身を裸にし、枕を与えないで頭が身体と同じ高さに、というよりむしろ多少’低くなるようにした。ジルノルマン嬢はマリユスが裸にされるのを見て席をはずした。そして自分の部屋で念珠祈祷を唱えはじめた。  胴体は内部におよぶ傷害を一つも受けていなかった。一弾は紙ばさみに勢いをそがれ、横にそれて/脇にひどい裂傷を与えていたが、それは別に深くはなく、したがって危険なものではなかった。下水道の中を長く通ってきたために、折れた鎖骨はまったく食い違って、そこに重な損傷があった。両腕は一面にサーベルを受けていた。顔にはひどい傷は一つもなかった。けれども頭はすっかりめちゃくちゃになっていた。それらの頭部の傷はどういう結果をきたすであろうか、頭皮だけに-とどまってるのだろうか、脳をも侵してきはしないだろうか? その点がまだ不明だった。重大な兆候は、それらの傷のために気絶してることであって、そういう気絶からはついに再び覚めないことがよくある。そのうえ彼は出血のために弱りきっていた。ただ帯から下の部分は、防寨にまもられて無事だった。  バスクとニコレットとは布を引き裂いて繃帯の用意をした。ニコレットはそれを縫い、バスクはそれを巻いた。メンザンシがないので、医者は一時’綿を当てて傷口の出血を止めた。寝台のそばには、外科手術の道具が並べられてるテーブルの上に、三本の蝋燭が燃えていた。医者は冷水でマリユスのホオと頭髪とを洗った。桶一杯の水はたちまち赤くなった。門番は手に蝋燭を持ってそれを照らしていた。  医者は悲しげに考え込んでいるらしかった。ときどき彼は自ら心のうちで試みてる問に/自ら答えるように、否定的に頭を振った。医者がひとりでやるその不思議な対話は、病者に対する悪いしるしである。  医者がマリユスの顔をぬぐって、なお閉じたままの目蓋に軽く指先をさわった時、その客間の奥の扉が開いて、青ざめた長い顔が現われた。  祖父であった。  二日間の暴動は、ジルノルマ-ン氏をひどく刺激し”おこらせ/心痛さしていた。前夜’彼は一睡もできず、またその一日’熱に浮かされていた。晩になると、家中の締まりをよくしろと言いつけながら、早くからトコについて、疲労のため軽い眠りに入った。  老人の眠りは覚めやすいものである。ジルノルマ-ン氏の部屋は客間に接していたので、皆は用心をしていたが、物音は彼を覚ましてしまった。彼は扉のすき間から見える光に驚いて、寝床から起き出し、手探りにやってきた。  彼は閾の上に立ち、半ば開いた扉の取っ手に片手をかけ、頭を少し差し出してふらふらさし、身体は経帷子のように白い”まっすぐな無襞の寝間着に包まれ、びっくりした様子であった。その姿はあたかも墳墓の中をのぞき込んでる幽霊のようだった。  彼は寝台を見、ふとんの上の青年を見た。青年は血’にまみれ、皮膚は蝋のように白く、目は閉じ、口は開き、脣は青ざめ、帯から上は裸となり、全身まっかな傷でおおわれ、身動きもせず、明るく照らし出されていた。  祖父は頭から足先までその固い五体の許すだけ震え上がり、老年のために目じりが黄色くなってる両眼はガラスのような光におおわれ:、顔全体はたちまち骸骨のそれのように土色のカドを刻み、両腕はバネが切れたようにだらりとたれ下がり、呆然たる驚きの余り/その震えてる年老いた両手の指は一本一本にひろがり:、両膝は前方に角度をなしてこごみ、寝間着の開き目から白い毛の逆立ったあわれな膝頭があらわにのぞき出し、そして彼はつぶやいた。 「マリユス!」 「旦那様、」とバスクは言った、「若旦那様は人に運ばれてこられました。防寨に行かれまして、そして‥‥。」 「死んだのだ/」と老人は激しい声で叫んだ、「無頼漢めが!」  その時、墳墓の中の変容もかくやと思われるばかりに、その100歳に近い老人は若者のようにすっくと身を伸ばした。 「あなたは医者ですね。」と彼は言った。「まず一つのことをはっきり言ってもらいたいです。そいつは死んでいるのでしょう、そうではないですか。」  医者は心痛の余り黙っていた。  ジルノルマ-ン氏は両手を捩じ合わしながら、恐ろしい笑いを発した。 「死んでいる、死んでいる。防寨でイノチを投げ出したのだ、この儂を恨んで。儂への面当にそんなことをしたのだ。ああ/吸血児めが! こんなになって儂の所へ戻ってきたのか。ああ、死んでしまったのか!」  彼は窓の所へ行き、息苦しいかのようにそれをいっぱい開き、そして暗闇の前に立ちながら、街路のほうに/暗夜に向かって語り始めた。 「突かれ、切られ、喉をえぐられ、ほふられ、引き裂かれ、ずたずたに切り苛まれたのだ。わかったか、恥知らずめが! お前はよく知ってたはずだ、儂がお前を待っていたこと、お前の部屋を整えて置いたこと、お前の小さな子供の時分の写真をいつも寝床の枕元に置いていたことも。よく知ってたはずだ、お前はただ帰ってきさえすればよかった、もう長い年月わしはお前の名を呼んでいた、夕方などどうしていいかわからないで膝に手を置いたまま/暖炉の隅にじっとしていた、お前のためにぼんやりしてしまっていた。お前はよく知ってたはずだ、ただ戻ってきさえすればよかったのだ、私ですと言いさえすればよかったのだ。お前はこの家の主人となる身だったのだ。儂は何でもお前の言うことを聞いてやるはずだったのだ、この老いぼれた馬鹿な爺さんをお前は思うとおりにすることができたのだ。お前はそれをよく知っていながら、『いや、彼は王党だ、彼の所へ行くもんか、』と言った。そしてお前は防寨に行き、依怙地にイノチを捨ててしまった。ベリー公について儂が言った事柄の腹癒せだ。実に不名誉なことだ。だがまあトコについて、静かに眠るがいい。ああ死んでしまった。これが儂の目覚めだ。」  医者はこんどは両方を心配し出して、ちょっとマリユスのそばを離れ、ジルノルマ-ン氏の所へ行き、その腕を取った。祖父はふり返り、大きく開いた血走ってるように思われる目で彼を眺め、それでも落ち着いて彼は言った。 「いやありがとう。儂は何ともない。儂は一個の男子だ。ルイ十六世の死も見てきた。あらゆる事変を経てきた。だがただ一つ恐ろしいことがある。新聞紙が世に害毒を流すのを考えることだ。でたらめ記者、饒舌家、弁護士、弁論家、演壇、論争、進歩、光明、人権、出版の自由:、そういうものがあればこそ、子供は-みんなこういう姿になってイエに運ばれて来るのだ。ああ/マリユス! 呪うべきことだ。殺されてしまった。儂より先に死んでしまった。防寨、無頼漢! ドクトル、キミはこの辺に住んでるのでしょう。儂は君をよく知っている。君の馬車が通るのを儂はよく窓から見かけた。儂は誓って言う。儂が今’怒ってると思ってはまちがいです。死んだ者に対して怒っても仕方がない。それは馬鹿げたことだ。これは儂が自分で育てた子供です。この子がまだごく小さい時、儂はもう老年になっていた。小さな鍬と/小さな椅子とを持ってテュイルリーの’園でよく遊んでいた。そして番人にしかられないように、儂は杖の先で、彼が鍬で地面に掘った穴をよく埋めてやった。ところが他日、ルイ十八世を打ち倒せと叫んで、出ていってしまった。それは儂の罪ではない。彼は薔薇色のホオをし、金髪であった。母親はもう亡くなっていた。小さな子供は皆金色の髪をしてるものだが、なぜでしょう。これはひとりのロアールの無頼漢の子です。だが父親の罪は子供の知ったことではない。儂はこれがほんのこれくらいの大きさの時のことを覚えている。まだドという音を言えない時だった。小鳥のようにやさしい/訳のわからぬ口をきいていた。ある時ファルネーゼのヘラクレス像の前で、大ぜいの者が彼を取り巻いて嘆賞したことを、儂は覚えている。それほどこの子は美しかった。まるで絵に書いたようだった。儂はときどき大きい声をすることもあり、杖を振り上げておどかすこともあったが、それもただ戯れであることを彼はよく知っていた。朝わしの部屋へはいってくると小言を言ったが、それでも儂にとっては日の光が差してくるようなものだった。そういう子供に対しては、誰でも無力なものだ。子供はわれわれを奪い、われわれをとらえて、決して放さないものだ。実際この子のようにかわいいものは世になかった。そして今、この子を殺してしまったラファイエット派や/バンジャマン・コンスタン派や/ティルキュイル・ド・コルセル派などは、何という奴どもだ! このままで済ますことはできない。」  やはり身動きもせずに/色を失ってるマリユスに彼は近寄って、また両腕を捩じ合わした。医者もマリユスのそばに戻っていた。老人の白い脣は、ほとんど機械的に動いて、臨終の息のように、ようやく聞き取れる/かすかな言葉をもらした。「ああ、薄情者、革命党、無法者、虐殺にん!」それは死骸に対して瀕死の者がつぶやく非難の声であった。  内心の爆発は常に外に現われなければやまないものである。引き続いて言葉は少しずつ出てきたが、しかし祖父にはもうそれを口にするだけの力がないように見えた。彼の声は他界から来るかと思われるほど遠くかすかになっていた。 「それももう儂にとっては同じことだ。儂も間もなく死ぬんだ。ああ/パリーのうちにも、このあわれな子を喜ばせるだけの女はいなかったのか! なぜこの世をおもしろく楽しもうとはせず、戦いに行って畜生のように-ほふられてしまったのか。それも誰のため/なんのためかと言えば、共和のためではないか! 若い者はショーミエールにでも行って踊ってればいいのだ。二十歳といえばめったにない大事な年齢だ。ろくでもない馬鹿な共和めが! 世の母親がいくらきれいな子供をこしらえても、みんな攫ってゆきやがる。ああ/この子は死んでしまった。そのためにお前のと儂のと二つの葬式がこの家から出るだろう。お前がそんなことをしたのも、ラマルク将軍の目を喜ばせるためなのか。だがそのラマルク将軍がいったいお前に何をしてくれたか。猪武者めが、向こう見ずめが! 死んだ者のために死ぬなんてなんのことだ。これで気が狂わずに-いられるか。考えてみるがいい、わずかハタチで! そしてあとに残る者のことはふり向いて見ようともしない。このようにして世にあわれな人のいい老人は、ただひとりで死ななければならないのか。おお/ただひとりでくたばってしまうのか! だがとにかくそれで結構だ。儂の望みどおりだ。儂もこれでさっぱり往生するだろう。儂はあまり長生きしてる。もう百歳だ、万々歳だ。長い前から死んでよかったのだ。この打撃で済んだ。もう終わりだ。かえって幸せというものだ! この子にアンモニアを嗅がせたりやたらに薬を飲ませたりしても、もうなんの役に立とう。ドクトル、もう君がどんなに骨折っても無駄ですぞ。ねえ、彼は死んでいる、まったく死んでいる。儂はよくそれを知っている。わし自身も死んでるのだから。彼は世の中を半分しか知らなかった。ああ/今の時代は、汚れてる、汚れてる、汚れてるんだ。時代自身も、思潮も、学説も、指導者も、権威者も、学者も、三文文士も、へぼ思想家も、それから六十年来テュイルリー宮殿の烏の群れを脅かした多くの革命も、みんな汚れてるんだ。そしてお前はこんなふうに身を殺しながら、儂に対して慈悲の心を持たなかったのだから、儂もお前の死を別に悲しくは思わない。わかったか、人殺しめ!」  ちょうどその時マリユスは、静かに目蓋を開いた。そしてその目は、まだ昏睡的な驚きにおおわれながら、ジルノルマ-ン氏’の上に据えられた。 「マリユス/」と老人は叫んだ、「マリユス、儂の小さなマリユス、儂の子、儂のかわいい子! 目を開いたか、儂を見てるのか、生きてくれたのか! ありがたい!」  そして彼は気を失って倒れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四編】 【ジャヴェルの変調】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャヴェルはゆるやかな足取りでオンム・アルメ街を去っていった。  生涯に始めてコウベをたれ、生涯に始めて両手をうしろにまわして、彼は歩いていた。  その日までジャヴェルは、ナポレオンの二つの態度のうち/決意を示すほうの態度をしか、すなわち胸に両腕を組む態度をしか取ったことはなかった。遅疑を示すほうの態度は、すなわち両手をうしろにまわすほうの態度は、彼の知らないところだった。しかるに今やイチ変化が起こっていた。彼の全身には緩慢’沈鬱の気が漂って、心痛のさまが現われていた。  彼は静かな街路を選んではいっていった。  それでも彼は一定の方向に進んでいた。  彼はセーヌ川に達する最も近い道をたどり、オルムガシにいで、その川岸通りに沿い、グレーヴを通り越し、そしてシャートレー広場の衛舎からわずか離れた所、ノートル・ダームバシのカドに立ち止まった。セーヌ川はそこで、一方/ノートル・ダームバシと/ポン・トー・シャンジュの橋とにはさまれ、他方/メジスリーガシと/フルールガシとにはさまれて:、まんなかに急流を通しながら/四角な湖水みたようになっていた。  セーヌ川のその辺は水夫たちが恐れてる場所である。コンニチはなくなっているが/当時は橋の水車の杭があって、そのために急流が狭められ/激せられてはなはだ危険だった。二つの橋が近いので/危険はなお大となっている。キョウコの下は激しく水が奔騰している。水は大きな/恐ろしい波を立てて逆巻き、そこに集まってたまり、太い水の綱で橋杭を引き抜こうとしてるかのように打ちつけている。そこに一度陥る者は再び姿を現わすことがなく、最も泳ぎに巧みな者も溺れてしまう。  ジャヴェルは橋の欄干に両肱をもたせ、顎を両手に埋め、濃い口髭を爪先で機械的にひねりながら、考え込んだ。  一つの珍事が、一つの革命が、一つの破滅が、彼の心の底に起こったのである。深く反省すべき問題がそこにあった。  ジャヴェルは恐ろしい苦悶をいだいていた。  数時間前から既にジャヴェルの考えは単純でなくなっていた。かれの心は乱されていた。その一徹な澄み切った頭脳は、透明さを失っていた。その水晶のごとき澄明さのうちには、一片の雲がかけていた。ジャヴェルは自分の本心のうちに/義務がニブンしたのを感じ、自らそれをごまかすことができなかった。セーヌ川の汀で、意外にもジャン・ヴァルジャンに会った時、彼のうちには、獲物を再びつかんだ狼のごときものと/主人に再びめぐり会った犬のごときものとがあった。  彼は自分の前に二つの道を見た。両方とも同じように真っ直ぐであったが、とにかく二つであった。生涯にただ一本の直線しか知らなかった彼は、それにおびえた。しかも痛心のきわみには、その二つの道は互いに相入れないものだった。二つの直線は互いに排し合っていた。いずれが真実のものであったろうか。  彼の地位は名状し難いものであった。  悪人のおかげでイノチを保ち、その負債を甘受して/それを償却し、心ならずもザイニンと同等の位置に立ち、恩に対して他の恩を返すこと:、「行け」と言われたのに対してこんどは「自由の身となれ」と言ってやること、私的な動機からして一般的責務を犠牲にし、しかもその私的な動機のうちにも、同じく一般的な”またおそらく更に優れた何かを感ずること:、自分一個の本心に忠実なるため/社会に裏切ること、それらいろいろの不合理が現実に現われてきて彼の上に積み重なったので、彼は成すところを知らなかった。  ジャヴェルを驚かした一事は、ジャン・ヴァルジャンが彼を赦したことであり、彼を茫然自失せしめた一事は、彼自らがジャ-ン・ヴァルジャンを赦したことであった。  彼はいかなる所に立っていたのか。彼はおのれを探したが、もはやおのれを見いだすことはできなかった。  今やいかになすべきであ-ったか? ジャン・ヴァルジャンを引き渡すは悪いことであり、またジャン・ヴァルジャンを自由の身にさしておくのも悪いことだった。第一の場合においては、官憲の男が徒刑バの男よりも更に低く墜ちることであり、第二の場合においては、徒刑囚が法律よりも高く上って/法律を足に踏まえることだった。二つの場合とも、彼ジャヴェルにとっては不名誉なことであった。いかなる決心を取っても/墜堕が伴うのだった。人の宿命には不可能の上に垂直にそびえてる絶壁があるもので、それから向こうは人生はもはや深淵にすぎなくなる。ジャヴェルはそういう絶壁のフチの一つに立っていた。  彼の心痛の一つは、考えなければならなくなったことである。相矛盾するそれらの感情の激しさは、彼をして/考えるの余儀なきに至らしめた。思考ということは、彼がかつて知らなかったことであって、何よりも彼を苦しめた。  思考のうちには常に内心の反乱が多少あるもので、彼は自分のうちにそういう反乱を持ってるのにいら立った。  自分の職務の狭い範囲外に属するいかなる問題に関する思考も、あらゆる場合において彼に取っては、一つの無用事であり/一つの退屈事だった。しかし今や過ぎた一日のことを考えると苦しくなった。それでも彼は、そういう打撃のあとに自分の本心をのぞき込み、自らおのれを検覈せざるを得なかった。  彼は自分のなしてきた事柄に戦慄した。彼ジャヴェルは、警察のあらゆる規則に反し、社会上および司法上の組織に反し、法典全部に反し、自らよしとしてザイニンを放免したのである。それは彼一個には至当であった。しかし彼は私事のために公務を犠牲にした。それは何とも名状し難いことではなかったか。自ら犯したその名義の立たない行為に顔を向けるたびごとに、彼は頭から足先までふるえ上がった。いかなる決心を取るべきであるか。今はただ一つの手段きり残っていなかった。急いでオンム・アルメ街に戻り/ジャン・ヴァルジャンを下獄させること、それこそ明らかに彼がなさなければならないことだった。しかし彼は成し得なかった。  何かがそのほうへの道を彼にふさいでいた。  何物であるか? なんであるか? 法廷や/執行文や/警察や/官憲などより他のものが、世にはあるのであろうか。ジャヴェルは当惑した。  神聖なる徒刑囚、法をもっても裁くことのできない囚人、しかもそれはジャヴェルにとって現実であった。  罰を与えるための人間であるジャヴェルと、罰を受くるための人間であるジャン・ヴァルジャンと、互いに法の中にあるその二人が、二人とも法を超越するに至ったことは、恐るべきことではなかったか。  いったいどうしたわけであるか。かかる異常事が世に起こるものであろうか、そして誰も罰を受けないことがあり得るだろうか。ジャン・ヴァルジャンは社会組織全体よりも強力であって/自由の身となり、彼ジャヴェルは-なお政府のパンを食い続けてゆく、そういうことがあり得るだろうか。  彼の夢想は次第に恐ろしくなってきた。  そういう夢想の間にも彼はなお、フィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれた暴徒のことについて、多少の自責を持つはずであった。しかし彼はそのことを念頭に浮かべなかった。小さな過失はより大なる過失のうちに消えてしまった。それにまた、その暴徒は確かに死んでいた。法律上の追跡は-しにんにまで及ぶものではない。  ジャン・ヴァルジャンという一点こそ、彼の精神を圧する重荷であった。  ジャン・ヴァルジャンは彼をまったく困惑さした。彼の生涯の支柱だったあらゆる定理は/その男の前にくずれてしまった。彼ジャヴェルに対するジャン・ヴァルジャンの寛容は、彼を圧倒してしまった。昔彼が虚偽とし/狂愚として取り扱ってきた他の事実も思い出されて、今や現実のものとなってよみがえってきた。マドレーヌ氏の姿は、ジャン・ヴァルジャンの背後に再び現われ、その二つの姿が重なり合って一つとなり、崇敬すべきものとなった。恐ろしい何ものかが、囚人に対する賛嘆の情が、魂のうちに沁み通ってくるのをジャヴェルは感じた。徒刑囚に対する尊敬、そういうことがあり得るであろうか。彼は慄然として、身を支えることができなかった。いかにもだえても、内心の審判のうちにおいて、その悪漢の荘厳さを自白せざるを得なかった。それは実に耐え難いことであった。  慈善を施す悪人、あわれみの念が強く、やさしく、救助を事とし、寛大で、悪にムク-ユルに善をもってし、憎悪にムク-ユルに許容をもってし:、復讐よりも憐愍を取り、敵を滅ぼすよりも身を滅ぼすことを好み、おのれを打った者を救い、徳の高所にあってひざまずき、人間よりも天使に近い徒刑囚:、そういう怪物が世に存在することを、ジャヴェルは自認するの余儀なきに至った。  事情はそのまま存続するを得なかった。  あえて力説するが、あの怪物に、その賤しむべき天使に、その嫌悪すべき英雄に、彼を茫然たらしむるとともに/憤激さしたその男に、まさしく彼は何ら抵抗することなく屈服したのではなかった。ジャン・ヴァルジャンと向き合って馬車の中にいた間に、幾度となく法の虎は彼のうちに咆哮した。幾度となく彼はジャン・ヴァルジャンの上に飛びかかりたい念に駆られた。彼をつかみ/彼を食わんとした、すなわち彼を捕縛せんとした。実際それは誠に容易なことだった。衛舎の前を通りかかる時、「これは監視違反の囚人だ」と叫び、憲兵らを呼び、「この男を君たちに引き渡す」と言い:、それから自分は立ち去り、罪人’をそこに残し、その他のことはいっさいかまわず、自分は少しもそれに関与しなければよかったのである。ジャン・ヴァルジャンはエーキュウに法律の捕虜となり、法律の欲するままに処理せらるるだろう。それこそ最も正当なことだった。ジャヴェルはそれらのことをひとり考えた。そしてその方向を取り、手を下し、彼をつかもうとした。しかし今それができなくなったと同じく、その時にもそれができなかった。ジャン・ヴァルジャンの首筋に向かって痙攣的に手をあげるたびごとに、その手は非常な重さにアッセラれるように再び下にたれた。そして彼は自分に叫びかける一つの声を、異様な声を、頭の奥に聞いた。「よろしい。汝の救い主を引き渡せ。それからポンテオ・ピラト(訳者注◇ キリストを祭司の長らに引き渡せしユダヤの太守)のタライを取り寄せて汝の手を洗うがいい。」  次に彼の考えは自分自身の上に戻ってきて、壮大となったジャン・ヴァルジャンのソバに、堕落した自身/ジャヴェルの姿を見た。  一徒刑囚が彼の恩人だったのである!  しかしまた、何ゆえに彼は自分を生かしておくことをその男に許したのだったか。彼は防寨の中で殺さるべき権利を持っていた。彼はその権利をもちうべきだったろう。他の暴徒らを呼んでジャン・ヴァルジャ-ンを妨げ、無理にも銃殺されること、そのほうがよかったのである。  彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こぎにされたのを感じた。法典ももはや彼の手の中では丸太にすぎなかった。彼は訳のわからぬ一種の懸念と争わなければならなかった。その時まで彼の唯一の規矩だった合法的肯定とはまったく異なった/一つの感情的啓示が、彼のうちに起こってきた。元の公明正大さのうちに-とどまるだけでは、もう足りなくなった。意外な一連の事実が突発して、彼を屈服さした。一つの新世界が彼の魂に現われた。すなわち、甘受して”また返してやった親切、献身、慈悲、寛容、憐愍から発した峻厳の毀損、個人性の承認、絶対的裁断の消滅、永劫テイザイの消滅:、法律の目における涙の可能、人間に依存する正義とは反対の方向を取る一種の神に依存する正義。彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が/恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさし、彼を眩惑さした。鷲の目を持つことを強いられた梟であった。  彼は自ら言った、これも真実なのだ、世には例外がある、官憲も狼狽させられることがある、規則も事実の前に逡巡することがある、万事が法典の明文のうちに当てはまるものではない:、意外事は人を服従させる、徒刑囚の徳は役人の徳を罠にかからせることもある、怪物が神聖になることもある、宿命のうちにはそういう伏兵もある。そして彼は絶望の念をもって、自分はそういう奇襲を-さけることができなかったのだと考えた。  彼は親切というものの/世に存在することを認めざるを得なかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことではあるが、先刻’親切な行ないをなしてきた。彼は変性したのだった。  彼は自分が卑怯であるのを認めた。彼は自ら恐ろしくなった。  ジャヴェルの理想は、人間的たることではなく、偉大たることではなく、崇高たることではなかった。一点の非もないものとなることであった。  しかるに彼は今やホを誤っていた。  どうして彼はそうなったのか、どうしてそういうことが起こったのか? それは彼自身にもわからなかった。彼は両手で頭を押さえ、いかに考えてみても、自らそれを説明することができなかった。  確かに彼はジャン・ヴァルジャンを再び法律の下に置こうと常に考えていた。ジャン・ヴァルジャンは法律の虜であり、彼ジャヴェルは法律の奴隷であった。ジャン・ヴァルジャンを手にしてる間、それを放ちやろうという考えを持ってるとは、彼はただの瞬時も自ら認めなかった。彼の手が開いてジャ-ン・ヴァルジャンを放したのは、ほとんど自ら知らずに行なったことだった。  あらゆる種類の謎のような新奇なことが、彼の眼前に現われてきた。彼は自ら問い/自ら答えたが、その答えはかえって彼を脅かした。彼は自ら尋ねてみた。「私がほとんど迫害するまでに追求したあの囚徒は、あの絶望の男は、私を足の下に踏まえ、復讐することができ、しかも怨恨のためと/身の安全のために復讐するのが至当でありながら、私のイノチを助け、私を赦したが、それはいったい何故であったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。そして私もまたこんどは、彼を赦してやったが、それはいったい何故であったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。それでは果たして、義務以上の何かがあるのであるか?」そこになって彼はおびえた。彼のハカリははずれてしまった。一方の皿は深淵のうちに落ち、一方の皿は天に上がった。そしてジャヴェルは、上にあがったほうと/下に落ちたほうとに対して、等しく恐怖を感じた。彼はヴォルテール派とか/テツジンとか/不信者とか呼ばれるような人物では少しもなかった。否/かえって本能から、うち立てられたキリスト教会を尊敬していた。けれどもただ、社会全体のいかめしい一片としてしかそれを知らなかった。秩序は彼の信条であって、それだけで彼には充分だった。成年に達し/今の職務について以来、彼は自分の宗教のほとんど全部を警察のうちに置いてしまった。そして、少しも皮肉ではなく、最も真面目な意味において、彼は前にわれわれが言ったとおり、人が牧師であるごとく/探偵であった。彼は上官として総監ジスケ氏を持っていた。彼はこの日まで、神という他の上官のことをほとんど考えてみなかった。  この神という新しい主長を彼は意外にも感得して、そのために心が乱された。  彼はその思いがけないものに当面して困惑した。彼はその上官に対してはどうしていいかわからなかった。今まで彼が知っていたところでは、部下は常に身をかがむべきものであり、背反し/誹謗し/議論してはいけないものであり、あまりに無茶な上官に対しては辞表を呈するのほかはなかった。  しかしながら、神に辞表を呈するにはいかにしたらいいであろうか?  またそれはともかくとして、一つの事実がすべての上に顕然としてそびえ、彼の考えは常にその点に戻っていった。すなわち恐るべき違反の罪を犯したという一事であった。監視違反の再犯囚に対して、彼は目を閉じてきたのだった。ひとりの徒刑囚を放免してきたのだった。法律に属するひとりの男を盗んできたのだった。彼はまさしくそういうことを行なった。彼はもはや自分自身がわからなくなった。自分は果たして本来の自分であるか確かでなかった。自分の行為の理由さえも見失い、ただ眩惑のみが残っていた。彼はその時まで、暗黒なる清廉を生む/盲目的な信念にのみ生きていた。しかるに今や、その信念は彼を去り、その清廉は彼になくなった。彼が信じていたことはすべて消散した。自分の-ほっしない真実が頑強につきまとってきた。今後彼は別の人間とならなければならなかった。突然ソコヒの手術を受けた本心の異様な苦痛に悩んだ。見るのをきらっていたものを見た。自己が空しくなり、無用となり、過去のイノチから切り離され、罷免され、崩壊されたのを、彼は感じた。官憲は彼のうちに死滅した。彼はもはや存在の理由を持たなかった。  かき乱されたる地位こそは恐るべきものである。  花崗岩のごとき心であって、しかも疑念をいだく。法の鋳型の中で全部鋳上げられた懲戒の像であって、しかもその青銅の胸の中に、ほとんど心臓にも似たる不条理不従順なるある物を突然に認める。その日までアクだと思っていたものが善となり、その善に対して善を報いなければならなくなる。番犬であって、しかも敵の手を舐める。氷であって、しかも溶解する。釘抜きであって、しかも普通の手となる。突然に指が開くのを感ずる。つかんだ獲物を放つ。それは実に恐怖すべきことである。  もはや進むべき道を知らずして/後退する一個の人間の鉄砲弾であった。  自ら次のことを認めざるを得ないとは何たることであろう! すなわち、無謬なるもの/必ずしも無謬ではない。信条のうちにも誤謬があり得る。法典はすべてを説きつくすものではない。社会は完全ではない。官憲も動揺することがある。動かすべからざるもののうちに/割れ目のできることがある。裁判官も人間である。法律も誤ることがある。法廷も誤認することがある。大空の広大なる青ガラスにも亀裂が-みらるるのか?  ジャヴェルのうちに起こったことは、直線的な心の撓曲であり、魂の脱線であり、不可抗の力をもって真っ直ぐに突進し/神に当たって砕け散る、清廉の崩壊であった。確かにそれは異常なことだった。秩序の火夫が、官憲の機関車が、軌道を走る盲目なる鉄バにまたがって進みながら、光明の一撃を受けて落馬したのである。変更を許さざるもの、直接なるもの、正規なるもの、幾何学的なるもの、受動的なるもの、完全なるものが、撓んだのである。機関車に対してもダマスクスの道があったのである。(訳者注◇ 聖パウロのある伝説に由来し、突然’内心の光輝によって心機一転することをダマスクスの道という)  常に人の内部にあって真の良心となり/虚偽に反発する神、閃光をして消滅することを得ざらしむる禁令、光輝をして太陽を記憶せしむるの命令、魂をして虚構の絶対とそれに接する真の絶対とを見分けしむるの訓令、死滅せざる人間性、メツラクせざる人心:、そういう燦然たる現象を、おそらく人間の内部の最も麗しい不可思議を、ジャヴェルは知ったであろうか。ジャヴェルはそれを見通したであろうか。ジャヴェルはそれを了解したであろうか。イナ/イナ。しかしながら、その不可解にして明白なるものの圧力のもとに、彼は自分の頭脳が少しく-ひらけるのを感じた。  彼はその異変のために面目を一新した、というよりも/むしろその犠牲となった。彼は憤激しながらそれに打たれた。彼がその中に見たところのものは、存立のダイなる困難のみだった。爾来/えいきゅうに呼吸を妨げられるような心地がした。  頭の上に未知のものを持つこと、それに彼は慣れていなかった。  それまで自分の上に持ってたところのものは、明確’単純’セイチョウな表面であるように彼の目には見えていた。そこには、何ら未知のものもなく暗黒なものもなかった。規定されたるもの、整理されたるもの、鎖につなぎ止められたるもの、簡明なるもの、正確なるもの、範囲の定められたるもの、限定されたるもの、閉鎖されたるもの、ばかりであった。すべて予見されたるものであった。官憲は一つの平坦なるものであった。その中には何らの墜落もなく、それに対しては何らの眩惑もなかった。ジャヴェルが今まで未知のものを見てきたのは、ただ下方においてのみだった。不規律、意想外、混沌界の錯雑した入り口、いつすべり落ちるかもわからない深淵、そういうものは、賊徒や/悪人や/ザイニンなどのすべて下層地帯に存在していた。しかるにいまジャヴェルはあおむけに転倒し、異様な妖怪/すなわちジョーホウの深淵を見て、にわかに狼狽した。  どうしたことであろう、テットウ徹尾突きくずされ、絶対に失調させられるとは! およそ何に信頼したらいいか。確信していたものが崩壊してしまうとは!  社会の鎧の欠陥が/寛厚なる一罪人によって見いだされ得るのか。法律の正直なるシモベが、ひとりの男を放免するの罪と/それを捕縛するの罪との二つの罪の間に、突然’板ばさみになることがあり得るのか。国家が役人に与える訓令のうちにも、不確かなるものがあるのか。義務のうちにも行き止まりがあるものなのか。ああ/それらはすべて実際のことだったのか。刑罰の下に屈している昔の悪漢がすっくと立ち上がって/ついに正当となることがあるのも、真実だったのか。そんなことが信じ得られようか。それでは、法律も変容した罪悪の前に/宥免を-こいながら-しりぞかなければならないような場合が、世にはあるのか。  そうだ、それは事実であった。ジャヴェルはそれを見、それに触れた。ただにそれを否定し得なかったばかりでなく、自らその渦中のひとりであった。それはまさしく現実であった。現実がかかる異様な姿になり得るとは、実に呪うべきことだった。  もし事実がその本分を守るならば、必ずや事実は法を証明することをしかしないであろう。なぜならば、事実を世に送るものは神であるから。しかるに今や、無政府主義までが天からおりてこようとするのか。  斯くて、ますます加わってくる煩悶のうちに、茫然自失した幻覚のうちに、ジャヴェルの感銘を押さえ止め/訂正するすべてのものは消えうせ:、社会も/人類も/宇宙も皆、彼の目には爾来/ただ単に忌まわしいだけの姿となって映じた。そして、刑法、判決、至当なる立法の力、終審裁判所の決定、司法官職、政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、法律の無謬、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条:、国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公けの真理:、すべてそれらのものは、破片となり/塵芥となり/混沌たるものとなってしまった。秩序の監視ニンであり、警察の厳正なシモベであり、社会を保護する番犬である、彼ジャヴェル自身も、打ち負かされてしまった。そしてそれらの廃墟の上に、緑の帽を頭にかぶり/円光を額にいただいてるひとりの男が立っていた。彼が陥った惑乱はそういうものであり、彼が魂のうちに持った恐るべき幻はそういうものであった。  それは耐え得ることであったろうか。否。  きびしい状態があるとすれば、それこそまさにきびしい状態であった。それから脱する道は二つしかなかった。一つは、決然としてジャン・ヴァルジャンに向かって進んでゆき、徒刑囚たる彼を地牢に返納すること。今一つは‥‥。  ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、こんどは頭をもたげて、シャートレー広場の片隅にともってる/軒灯で示されている衛舎のほうへ、確乎たる足取りで進んでいった。  そこまで行って彼は、ひとりの巡査が中にいるのをガラスドから認め、自分もはいっていった。衛舎の扉のあけかただけででも、警察の者らは互いにそれと知り得るのである。ジャヴェルは自分の名前を告げ、名刺を巡査に示し、それから一本の蝋燭がともってる/そのテーブルの前にすわった。テーブルの上には、一本のペンと、鉛のインキ壺と、少しの紙とが載っていた。不時の調書や夜間巡邏の訓令などのために備えてあるものだった。  いつも一個の藁椅子がついてるそのテーブルは、規定の品である。いずれの分署にも備えてある。そして必ず、鋸屑がいっぱいはいってる黄楊の平皿と、赤い封蝋がいっぱいはいってるボール箱とが上に載っている。それは官省ふうの最下級をなすものである。国家の文学はまずそこで始まる。  ジャヴェルはペンと一枚の紙とを取って、書き始めた。彼が書いた文句は次のとおりだった。 ◇。◇。   職務上の注意事項  一、警視総監閣下の一瞥せられんことを願う。  二、予審廷より来る囚徒らは、身体検査中、靴を脱ぎ/裸足のまま敷石の上に佇立す。監獄に戻るにおよんで多くは咳を発す。ために病舎の費用を増すに至る。  三、製糸監は、ところどころに警官の配置あるをもってはなはだよろし。しかれども、重大なる場合のために、少なくとも二人の警官は互いに見得る位置を保つ要あるべし。斯くせば、もし何らかの理由によって、ひとりが務めを怠ることありとも、他のひとりがそれを監視し/補足するを得ん。  ④、マドロンネット監獄においては、たとい-かねを払うも/囚徒に椅子を与えざる特殊の規則あれど、その/何ゆえなるやを解する能わず。  五、マドロンネットにおいては、酒保の窓に二本の鉄棒あるのみ。これ酒保をして、囚徒に手をふるるをえせしむるものなり。  六、呼び出しにんと普通に称せられて/他の囚徒らを面会所に呼ぶの用をなす囚徒は、名前をコワダカに叫ぶごとに/当人より二スーずつ徴発す。これ一つの奪取なり。  七、一筋の糸のたれたるものあれば、該囚徒は織物工場において/十スーずつ賃金を差し引かる。これ請け負い者の弊風なり。織物はそのために粗悪となるものに-あらざればなり。  八、フォルス監獄を訪れる者が、サント・マリー・レジプシエンヌ面会所に至るために、必ず「小僧の中庭」を通るは、憂慮すべきことなり。  ⑨、毎日憲兵らが、警視庁の中庭において、司法官らの行なえる尋問を語り合うは、確かなる事実なり。神聖なるべき憲兵が、予審廷にて聞けることを繰り返し語るは、風紀の重大なる紊乱なり。  十、アンリー夫人は正直なる女にして、その酒保はきわめて清潔なり。しかれども、秘密監の罠の口をひとりの女が握るは、よきことにあらず。そは大文明の附属監獄にとりて恥ずべきことなり。 ◇。◇。  ジャヴェルは一つの句読点をも略さず、紙に確かなペンの音を立てながら、最も冷静正確な手跡で、右の各行をしたためた。そして最後の行の次に署名をした。 ◇。◇。 【一等警視◇ ジャヴェル】 ◇。◇。 【シャートレー広場の分署において】 【1832年’六月七日’午前一時頃】 ◇。◇。  ジャヴェルは紙の上の新しいインキをかわかし、紙を手紙のように折り、それに封をし、裏に「制度に関する覚え書き」としたため、それをテーブルの上に残し置き、そして衛舎から出て行った。鉄格子のはまってるガラス戸は彼の背後に閉ざされた。  彼はシャートレー広場を再び斜めに横ぎり、川岸通りにいで、ほとんど自動機械のような正確さで、ジュウゴ六分前に去った同じ場所へ戻ってきた。彼はそこに肱をつき、胸壁の同じ石の上に/同じ態度で身を休めた。前の時から身を動かしたとは思えない程だった。  一点のすき間もない闇だった。真夜中に引き続く墳墓のような時間だった。雲の天井が星を隠していた。空には凄惨な気が深くよどんでいた。シテ島の人家にももう一点の光も見えなかった。通りかかる者もなかった。街路も川岸通りも、見える限り寂然としていた。ノートル・ダームの堂宇と/裁判所の塔とが、暗夜のひな形のように見えていた。一つの街灯の光がカシブチを赤く染めていた。多くの橋の姿は、靄の中に相重なってぼかされていた。川の水は雨のために増していた。  読者の記憶するとおり、ジャヴェルがよりかかってるその場所は、ちょうどセーヌ川の急流の上であって、無限の螺旋のように解けてはまた結ばるる/恐るべき水の渦巻きを眼下にしていた。  ジャヴェルは頭をかがめて眺めいった。すべては真っ暗で、何物も見分けられなかった。泡立つ激流の音は聞こえていたが、川のオモテは見えなかった。おりおり、目が眩むばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて/茫漠たるうねりをなした。水には一種の力があって、最も深い闇夜のうちにも、どこからともなく光を取ってきて/それをヘビの形になすものである。が、再びその明るみも消え、すべてはまたおぼろになった。コウダイ無限なるものがそこに口を開いてるかと思われた。したにあるものは水ではなく、深淵であった。川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの/懸崖のようだった。  何物も見えなかったが、水の敵意ある冷たさと/ぬれた石の無味な匂いとは感ぜられた。荒々しい息吹がそのフチから立ちのぼっていた。目には見えないがそれと知らるる増水、波の悲壮なささやき、キョウコの気味悪い大きさ、頭に浮かんでくるその陰惨な空洞中への墜落:、すべてそれらの暗影は人を慄然たらしむるものに満たされていた。  ジャヴェルはその暗黒の口を眺めながら、しばらくじっとたたずんでいた。専心に似た注視で/目に見えないものを見守っていた。水は音を立てて流れていた。すると突然、彼は帽子をぬぎ、それをカシブチに置いた。一瞬間の後には、帰り遅れた通行人が遠くから見たならば/幽霊と思ったかも知れないような黒い高い人影が、胸壁の上にすっくと立ち現われ、セーヌ川のホウへ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中に真っ直ぐに落ちていった。鈍いミズオトが聞こえた。そして水中に没したその暗い姿の痙攣の秘密は、ただ影のみが知るところだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五編】 【孫と祖父】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【亜鉛の張られたる樹木/再びあらわる】 ◇。◇。◇。◇。◇。  上に述べきたった事件より少しあと、ブーラトリュエルはひどく心を動かされた。  ブーラトリュエルというのは、あのモンフェルメイュの道路コウフで、本書の暗黒なる場面において/読者が既に瞥見した男である。  読者はたぶん記憶してるだろうが、ブーラトリュエルはいろいろの怪しい仕事をやっていた。石割りをしながらも、大道で旅客の持ち物を強奪していた。土方で/かつ盗賊でありながら、一つの夢想をいだいていた。彼はモンフェルメイュの森の中に埋められてるという宝のことを信じていた。いつかは/ある木の根元の地中に-かねを見いだしてやるつもりでいた。そしてまずそれまでは通行人のポケットの-かねに好んで目をつけていた。  けれども当座の間は彼も謹慎していた。彼はわずかに身を脱したのだった。読者の知るとおり、彼はジョンドレットのあばら家の中で、他の悪漢らとともに捕縛された。ところが、悪徳も時には役に立つもので、泥酔のために助かった。彼がそこに盗賊としていたのか/もしくは被害者としていたのか、どうしてもわからなかった。待ち伏せの晩/泥酔していたことが証明されたので、免訴の申し渡しによって、自由の身となった。彼はまた森の中に逃げ込んだ。彼はガンエーからランニーへ至る道路工事に立ち戻り、政府の監視の下に、国家のために道路の手入れをなし:、しおれた顔つきをし、ひどく鬱ぎこみ、危うく身を滅ぼさんとした悪事に対してもだいぶ熱がさめていた。しかし身を救ってくれた酒に対しては、いっそうの愛着をもって親しんでいた。  道路コウフの藁小屋に戻って間もなく、彼がひどく心を動かされたことというのは、次のような事柄だった。  ある朝まだ日の出より少し前の頃、ブーラトリュエルはいつものとおり仕事に、またおそらくは待ち伏せに出かけたが、その途中で、樹木の枝葉の間にひとりの男を認めた。彼はそのうしろ姿を見ただけだったが、遠方からウスラアカりの中に眺めた所では、恰好にどうやら見覚えがあるような気がした。ブーラトリュエルは酒飲みではあったが、正確明晰な記憶力を持っていた。そういう記憶力は、法律的方面と多少の争いをしてる者にとっては、欠くべからざる護身の武器である。 「あの男は見かけたような奴だが、はてな?」と彼は自ら尋ねてみた。  しかし、頭の中にぼんやり残ってる誰かにその男が似てるというだけで、そのほかはなんにも自ら答えることができなかった。  それでもブーラトリュエルは、それを誰とはっきり決めることはできなかったが、いろいろ考え合わせ/推測してみた。男は土地の者ではない。どこからかやってきた者に相違ない。明らかに徒歩で来たのである。今時分モンフェルメイュを通る客馬車は一つもない。男は夜通し歩いたに違いない。それではいったいどこからきたのだろう? 遠方からではない。旅嚢も包みも持っていないのを見てもわかる。きっとパリーから来たのであろう。ところで、なぜこの森の中に来たのか、なぜこんな時刻に来たのか、何をしに来たのか?  ブーラトリュエルは宝のことを考えた。それから記憶をたどっていると、既に数年前、ある男のことで同じように心をひかれたことがあったのを、ぼんやり思い出した。どうもその男と同一人であるように考えられた。  そんなことを考えふけりながら、自分の瞑想の重みの下に、彼は頭を下げていた。それは自然のことではあるが、あまり上手なやり方ではなかった。彼が頭を上げた時、もうそこには誰もいなかった。男は森と薄暗がりとの中に消えてしまっていた。 「畜生め、」とブーラトリュエルは言った、「今一度見つけ出してやらあ。どこの奴か探し出してやらあ。うろついてる盗賊め、何か訳があるに違いねえ。嗅ぎ出してやるぞ。この森の中で、俺に内緒で仕事をしようたって、やれるものか。」  彼は鋭くとがった鶴嘴を取り上げた。 「さあ、」と彼はつぶやいた、「これで地面でも人間でも探せる。」  そして糸と糸とをつなぎ合わしてゆくように、男がたどったと思われる道筋にできるだけよく従いながら、彼は木立の中を進み始めた。  大股に百歩ばかり進んだ頃、上りかける太陽の光の助けを得た。ところどころ砂の上についてる足跡、踏みにじられた草、押し分けられた灌木、目をさましながら伸びをする美人の腕のような優しいゆるやかさで、茂みの中に身を起こしつつある/曲げられた若枝:、そういうものが彼に道筋を示してくれた。彼はそれに従っていった。それからそれを見失った。時は過ぎていった。彼は森の中に深くはいり込んだ。そして一種の高所に達した。ギーユリーの歌のフシを口笛で吹きながら/遠くの小道を通ってゆく朝の猟人をひとり見て、彼は木へ登ってみようと思いついた。年は取っていたがなかなか敏捷だ-った。ちょうどそこには、チチルス(訳者注◇ ブナの木の-したに横たわってる瞑想的な羊飼い──ヴィルギリウスの-し):とブーラトリュエルとにふさわしいブナの大木が一本あった。ブーラトリュエルはできるだけ高くそのブナに登った。  それはいい思いつきだった。木立が入り組んで森が深くなってる寂然たる方面を眺め回すと、突然’男の姿が見えた。  しかし男は、見えたかと思うまに”また隠れてしまった。  男は大木の茂みに覆い隠されてるかなり向こうのひらけた場所へ、はいり込んだ、というよりも/むしろすべり込んだのである。しかしブーラトリュエルはそのひらけた場所をよく知っていて、そこには臼石がうずたかく積んであり:、そのそばに、トタン板を樹皮へじかに打ち付けてある/枯れかかった栗の木が一本あるのを、よく見ておいた。そのひらけた場所は、ブラリュの地所と昔言われた所だった。積まれた石はなんにするためのものかわからなかったが、三十年前までは確かにそのまま残っていた。コンニチもまだたぶんそこにあるだろう。板塀がいくら長くもつと言っても、およそ石の積んだのくらい長くもつものは無い。ところがそこには一時のものでたくさんで、長くもたせなければならないような理由は一つもなかったのである。  ブーラトリュエルは喜びの余り大急ぎで、木からおりた、というよりむしろすべり落ちた。穴は見つかった。今は獣を捕えるだけだった。夢みていたあの大変な宝は、たぶんそこにあるに違いなかった。  しかしそのひらけた場所まで行くのは、そう容易なことではなかった。無数の稲妻形の/意地悪く曲がりくねってる知った小道から行けば、十五分くらいは充分かかるのだった。一直線に進んでゆくには、木の茂みがその辺はことに厚く、イバラが深く強くて、三十分はたっぷりかかるのだった。ブーラトリュエルはこの点を思い誤った。彼は一直線のほうを信じた。一直線ということは、尊むべき幻覚ではあるが、往々’人を誤らせることが多い。茂みが深く交差していたが、ブーラトリュエルはそれを最善の道のように思った。 「狼の大通りから行ってやれ。」と彼は言った。  ブーラトリュエルはいつも斜めな道を取るに慣れていて、こんどだけ真っ直ぐな道を歩くのは誤りだった。  彼は思い切って、入り乱れた藪の中につき進んだ。  柊や/イラグサや/山査子や/野薔薇や/薊や/気短かな茨などと戦わなければならなかった。非常な掻き傷を受けた。  低地の底では水たまりに出会って、それを渡らなければならなかった。  彼はついに四十分ばかりの後、ブラリュの空き地へたどりついた。汗を流し、着物をぬらし、息を切らし、肉を引き裂かれ、恐ろしい姿になっていた。  空き地には誰もいなかった。  ブーラトリュエルは石の積んである所へ走り寄った。石は元のとおりだった。動かされた跡はなかった。  男のほうは、森の中に消えうせていた。逃げてしまっていた。どこへ、どの方面へ、どの茂みの中へか? それを察知することはまったくできなかった。  しかも遺憾きわまることには、石の積んであるうしろに、亜鉛の張ってある木の前に、掘り返したばかりの新しいツチがあり、忘れられたか/捨てられたかした鶴嘴が一つあり、また穴が一つあった。  穴はからだった。 「泥坊め/」とブーラトリュエルは地平線に向かって両の拳を振り上げながら叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【マリユス/国内戦よりいでて/家庭戦の準備をなす】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスは長いあいだ死んでるのか生きてるのかわからない状態にあった。数週間’熱が続き、それに伴って意識の昏迷をきたし、また、傷そのものよりも/むしろ頭部の傷の刺激から来る/かなり危険な脳症の徴候を示していた。  彼は最初のうち幾晩も、熱に浮かされた痛ましい饒舌になり、妙に執拗な苦悩のうちに、コゼットの名を呼び続けた。ニサンの大きな傷はことに危険なものだった。大きな傷口のノウは常に内部へ吸収されがちなもので、その結果、大気のある影響を受けて患者を殺すことがある。それで天気の変化するごとに、わずかの暴風雨にも、医者は心配していた。「何よりもまず病人の気をいら立たせてはいけません、」と彼は繰り返し言っていた。絆創膏でガーゼや繃帯を止める仕方は当時まだ見いだされていなかったので、手当ては複雑で困難だった。ニコレットは敷布を一枚ほごしてメンザンシを作った。「天井ほどの大きな敷布」と彼女は言っていた。塩化洗浄薬と硝酸銀とを腐蝕部の奥まで達せさせるのも、容易なことではなかった。危険のあいだ、ジルノルマ-ン氏は孫の枕元につき添いながら呆然として、マリユスと同様に死んでるのか生きてるのかわからなかった。  毎日、時によると一日に二度も、門番の言うところによると「ごく立派な服装の白髪の紳士」が、病人の様子を尋ねにきて:、手当てのためと言ってメンザンシの大きな包みを置いていった。  ついに九月の七日、瀕死のマリユスが祖父の家に運ばれてきた/悲しい夜から満3カ月たった時、医者はそのイノチを保証すると明言した。回復期がやってきた。けれどもなお彼は、鎖骨の挫折からくる容態のために、二カ月余りも長椅子の上に身を横たえていなければならなかった。いつまでも口のふさがらない傷が残って、手当てを長引かし、病人をひどく退屈がらせることがよくある。  しかし、その長い病と/長い回復期とのために、彼は官憲の追求を免れた。フランスにおいてはいかなる激怒も、公けの激怒でさえ、六カ月も経てば消えてしまう。それに当時の社会状態にあっては、暴動は誰でもしやすい過失であって、それに対してはある程度まで目を閉じてやらなければならなかった。  なおその上、ジスケの無茶な命令は、負傷者を申し出るように医者に強いて、輿論をゲッコウさし:、また輿論のみでなく第一に国王をもゲッコウさしたので、負傷者らはそのゲッコウのために隠匿され/保護された。そして軍法会議では、戦争中に捕虜となった者のほかは、いっさい不問に付することに決した。それでマリユスは無事のままでいることができた。  ジルノルマ-ン氏は最初あらゆる心痛を経て、次にあらゆる狂喜を感じた。毎晩負傷者の傍らで夜を明かすのをやめさすのは、非常な骨折りだった。彼はマリユスの寝台のそばに自分の大きな肱掛椅子を持ってこさした。当て布や繃帯を作るためには家にある最上の布を使うように娘に言いつけた。けれどもジルノルマン嬢は、年取った利口な女だったので、老人の命に従うように見せかけながら、最上の布は-みんなしまっておいた。メンザンシを作るにはバチスト織りの布よりも粗悪な布のほうがよく、新しい布よりも擦り切れた布のほうがよいということを、ジルノルマ-ン氏はどうしても承認しなかった。手当ての時には、ジルノルマン嬢は謹んで席をはずしたが、ジルノルマ-ン氏はいつもそこについていた。鋏で死肉を切り取るとき、彼はいつも自ら「いた、いたい/」と呻いていた。震えを帯びてる老衰した姿で病人に煎薬の茶碗を差し出してる所は、見るも痛ましいほどだった。彼はやたらにいろんなことを医者に尋ねた。そしていつも同じ質問を繰り返してることには自ら気づかなかった。  マリユスがもう危険状態を脱したと医者から告げられた日、老人は常識を失った。彼は門番に慰労としてルイ金貨を三つ与えた。その晩自分の部屋に退くと、親指と人差し指とでカスタネットの調子を取って、ガヴォットを踊り、次のような歌を歌った。 ◇。◇。  ジャンヌの生まれはフーゼール、  羊飼い女のまことの巣。  われは愛す、そのショーイ、     すね者。 ◇。◇。  愛は彼女のうちに生く。  彼女の瞳のうちにこそ、  愛は置きぬ、その矢筒、     やたら者。 ◇。◇。  われは彼女を歌にせん。  ディアナよりもなおいとし、  わがジャンヌとその乳房、     ちから者。 ◇。◇。  それから彼は椅子の上にひざまずいた。少し開いてる扉のすきから彼の様子を注意していたバスクは、たしかに彼が祈りをしているのだと思った。  その時まで、彼はほとんど神を信じていなかったのである。  マリユスの容態がますますよくなってゆくごとに、祖父は狂わんばかりになった。やたらにうれしげな/機械的な行動をした。自分でなぜともわからずに階段を上ったり下ったりした。隣に住んでたひとりの美しい婦人は、ある朝/大きな花輪を受け取って茫然とした。それを贈ったのはジルノルマ-ン氏だった。そのために彼女は夫から疑られまでした。ジルノルマ-ン氏はニコレットを膝に抱き上げようとした。マリユスを男爵どのと呼んだ。「共和万歳/」と叫ぶこともあった。  彼は始終医者に尋ねた、「もう危険はないでしょうね。」彼は祖母のような目つきでマリユスを眺めた。マリユスが物を食べる時はそれから目を離さなかった。彼はもう自分を忘れ、自分を眼中に置いていなかった。マリユスが一家の主人となっていた。彼は喜びの余り/自分の地位を譲り与え、孫に対して自分のほうが孫となっていた。  そういう喜悦のうちにあって、彼は最も尊むべき子供となっていた。癒りかかった病人を疲らしたりわずらわしたりすることを恐れて、ほほえみかける時でさえそのうしろにまわった。彼は満足で、愉快で、有頂天で、麗しく、若々しくなった。その白髪は、顔に現われてる喜びの輝きに、一種のやさしい威厳を添えた。高雅な趣が顔の皺といっしょになる時には、いかにも景慕すべきものとなる。花を開いた老年のうちには言い知れぬ曙の気がある。  マリユスのほうは、人々に包帯をさせ/看護をさせながら、コゼットという一つの固定した観念をいだいていた。  熱と昏迷とが去って以来、彼はもうその名前を口にせず、あるいはもうそのことを考えていないのかとも思われた。しかし彼が黙っていたのは、まさしく彼の魂がそこに行ってるからだった。  彼はコゼットがどうなったか少しも知らなかった。シャンヴルリー街の事件はただ一片の雲のように記憶の中に漂っていた。エポニーヌや/ガヴローシュや/マブーフや/テナルディエ一家の者や、防寨の硝煙にものすごく包まれてる友人らなどは、みんなほとんど見分けのつかないほどの影となって/彼の脳裏に浮かんでいた。その血まみれの事件のうちに不思議にもフォーシュルヴァ-ン氏が現われたことは、暴風雨ちゅうの謎のように彼には思えた。自分のイノチについては彼はなんにもわからなかった。どうして”また誰から救われたのか少しも知らなかった。周囲の人々にもそれを知ってる者はなかった。周囲の人々から彼が聞き得たことは、辻馬車に乗せられて/夜中にフィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれてきたということだけだった。過去も現在も未来も、すべては彼にとって漠然たる観念の靄にすぎなかった。しかしその靄の中に、不動な一点が、明確な一つの形が、花崗岩でできてるようなある物が、一つの決意が、一つの意志が、存在していた。すなわち再びコゼットに会うことだった。彼にとっては、イノチの観念とコゼットの観念とは別々のものではなかった。彼は心のうちで、その一方だけを受け取ることはすまいと決していた。誰でも自分を生きさせようと望む者には、祖父にも/運命にも/地獄にも、消えうせたエデンの園を戻すように要求してやろうと、決心のホゾを固めていた。  それに対する障害は、彼も自らよく認めていた。  特に一事をここに力説しておくが、祖父のあらゆる親切や慈愛も、彼の心を奪うことは少しもできず、彼の心を和らげることはあまりできなかった。第一、彼はすべてのことをよく知っていなかった。次に、まだおそらく熱に浮かされてる病床の夢想のうちに彼は、自分を懐柔しようとする変な新しい試みと見做して、祖父のやさしい態度を信じなかった。彼は冷淡にしていた。祖父はそのあわれな老いた微笑を空しく費やすのみだった。マリユスはこう考えていた。自分がなんにも口をきかず/なされるままにしているあいだだけ、祖父も穏やかにしているのだ:、しかし問題が一度コゼットのことにおよんだなら、祖父の顔は一変し、その真の態度が仮面をぬいで現われて来るに違いない。その時こそきびしいことが起こってくる、家庭問題の再発、身分の相違、一度に出てくるあらゆる嘲弄や異議、フォーシュルヴァンとかまたはクープルヴァン、財産、貧乏、困窮、首につけた石、将来、などということが。そして激しい反対と、結局の拒絶。斯く考えてマリユスはあらかじめ心を固めていた。  それからなお、イノチを回復するにしたがって、心の古い痛みはまた現われてき、記憶の古傷はまた口を開いてきた。彼は再び過去のことを思いやった。ポンメルシー大佐は再びジルノルマ-ン氏と彼マリユスとのあいだにつっ立った。自分の父に対して/あれほど不正で酷薄であった人から、何ら真の好意が望まれるものではないと彼は考えた。そして健康とともに、祖父に対する一種の頑固さが彼に戻ってきた。そのために老人はやさしく心を痛めた。  ジルノルマ-ン氏は少しも様子に現わしはしなかったが、マリユスが家に運ばれてきて以来、意識を回復して以来、一度も自分を父と呼んだことのないのを、深く心にとめていた。もとよりマリユスは他人らしい敬称で彼を呼びはしなかった。しかしその父という語も”または敬称をも使わないように、一種の言い回し方をしていた。  危機は明らかに近づいてきた。  かかる場合にいつもあるとおり、マリユスはまず試みのために、いよいよ戦端を開く前に斥候戦をやってみた。いわゆる瀬踏である。ある朝/偶然にも、ジルノルマ-ン氏は手にした新聞のことから、コクヤク議会のことを少し論じ、ダントンや/サン・ジュストや/ロベスピエールに対して/王党らしい嘲りの口吻をもらした。すると、「九十三年に働いた人々は皆大人物です、」とマリユスはいかめしく言った。老人は口を噤んでしまって、その日は終日一言も発しなかった。  マリユスは一歩も譲ることをしない往年の祖父をいつも頭に置いていたので、その沈黙を深いフンヌの集中だと思い、それから激しい論争が起こることを予期し、頭の奥で戦いの準備をますます固めた。  彼は心にきめていた、もし拒絶される場合には、包帯を破りすて、鎖骨をはずし、残ってる傷を生々しくむき出し、いっさい食物を取るまいと。傷はすなわち戦いの武器だった。コゼットを得るかもしくは死ぬ、と彼は決心していた。  彼は病人の狡猾な忍耐で好機会を待っていた。  その機会は到来した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【マリユス/攻勢を取る】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある日ジルノルマ-ン氏は、戸棚の大理石板の上に/壜やコップを娘が片づけてる時、マリユスの上に身をかがめて、最もやさしい調子で彼に言った。 「ねえマリユス、儂がもしお前だったら、もう魚より肉のほうを食べるがね。ヒラメのフライも回復期のはじめには結構だが、病人が立って歩けるようになるには、上等のワキニクを食べるに限るよ。」  マリユスはもうほとんど体力をすべて回復していたが、更にその力を集中して、そこにハンミを起こし、握りしめた両の拳を敷布の上につき、祖父の顔をまともにじっと眺め、恐ろしい様子をして言った。 「そうおっしゃれば一つ申したいことがあります。」 「何かね?」 「私は結婚したいのです。」 「そんなことなら前からわかっている。」と祖父は言った。そして笑い出した。 「なんですって、わかっていますって?」 「うむ、わかっているよ。あのムスメをもらうがいい。」  マリユスはその一言に呆然として眩惑し、手足を震わした。  ジルノルマ-ン氏は続けて言った。 「そうだ、あのきれいなかわいい娘をもらうがいい。あのムスメは毎日、老人を代わりによこしてお前の様子を尋ねさしている。お前が負傷してからというもの、いつも泣きながらメンザンシをこしらえてばかりいる。儂はよく知ってる。オンム・アルメ街7番地に今’住んでいる。ああ/いいとも。好きならもらうがいい。お前はすっかりはまり込んでいるな。お前はつまらない計画を立てて、こう考えたんだろう。『あのジジイに、あの摂政時代と執政内閣時代との木乃伊に、あの古めかしい洒落者に:、あのゼロントとなったドラントに(訳者注◇ 共にモリエールの戯曲中の人物にて、ゼロントは欺かれやすい愚かな好々爺、ドラントは馬鹿げた気取りや):、きっぱりと思い知らしてやろう。彼だって昔は、おもしろいことをやって、色女をこしらえ、小娘をひっかけ、幾人ものコゼットを持っていたんだ。お化粧をし、翼をつけ、春のパンを食ったことがあるんだ。昔のことを少し思い出さして-やらなけりゃいけない。どうなるかみてるがいい。戦争だ。』そう思ってお前はカブトムシのツノをつかまえたわけだな。いい考えだ。そこで儂がワキニクはどうだと言い出したら、実は結婚したいのですが、と答えたんだな。それは話をそらすというものだ。お前は少し言い争うつもりでいたんだろう。儂がこれでも古狸であることを、お前は知らなかったんだ。どうだね。腹が立つかね。お爺さんを少し馬鹿にしてやろうなどと思っても、そうはいかないさ。議論なんかしかけようたって無駄なことさ。弁護士さん、癪にさわるかね。まあ怒るのは損だよ。お前のすきなようにしてやれば、文句もなかろうというものだ。馬鹿だね。まあ聞きなさい。儂もなかなかずるくてな、いろいろ調べてみたんだ。なるほどきれいで利口な娘だ。槍騎兵の話も嘘だった。メンザンシを山のように作ってくれたよ。実に立派な娘だ。お前に逆上せきってる。もしお前が死んだら、三人になるところだった、娘の葬式が儂の葬式に続いて出るところだった。儂もな、お前がよくなりかけてからは、娘を枕元に連れてきてやろうとは思ったが、美男子が負傷して寝てる所へ、夢中になってる若い娘をすぐに連れてくるのも、小説ならともかく、実際は-ちと困るからな。伯母さんもどう言うかわからないしね。お前は素裸になってる時のほうが多いくらいだった。いつもそばについてたニコレットに聞いてみなさい、婦人をソバに置けたかどうか。それからまた医者もどう言うかわからない。きれいな娘は決して人の熱を下げてくれるものではないからな。だが、もうそれでいい、こんな話はやめよう。すっかりきまってる。でき上がってる。まとまってることなんだ。あのムスメをもらうがいい。儂の意地悪さと言えばまあそんなものだ。ねえ、儂はナ、お前からきらわれてるのを見て取って、こう考えた。『こいつが俺を愛するようになるには、どうしたらいいかな。』そしてまた儂は考えた。『なるほど、コゼットが俺の手の中にある。コゼットを一つ-くれてやろう。そうしたら少しは俺を愛してくれるに違いない。あるいはまた、愛しない理由を言うに違いない。』ところがお前は、この爺さんがやかましく言い、大きな声を立て、反対をとなえ、その夜明けのような娘の上に杖を振り上げることと、思っていたんだろう。だがそんなことを儂がするものか。コゼットも結構、恋も結構、儂はもうそれで十分だ。だからどうか結婚してくれ。かわいいお前のことだもの、幸福になってくれ。」  そう言って、老人は涙にむせんだ。  彼はマリユスの頭を取り、それを年老いた胸に両腕で抱きしめた。そして二人とも泣き出した。泣くのは最上の幸福の一つの形である。 「お父さん/」とマリユスが叫んだ。 「ああ、では儂を愛してくれるか?」と老人は言った。  それは名状し難い瞬間だった。二人は息を詰まらして、口をきくこともできなかった。やがて老人はつぶやいた。 「さあ、これで口もあけた。儂をお父さんと言ってくれた。」  マリユスは祖父の腕から頭をはずして、静かに言った。 「ですがお父さん、もう私は丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います。」 「それも承知してる。明日会わしてやろう。」 「お父さん!」 「何かね。」 「なぜ今日はいけないんです。」 「では今日、そう/今日にしよう。お前は三度お父さんと言ったね、それに免じて許してやろう。儂が引き受ける。お前のそばへ連れてこさせよう。こうなるだろうと思っていた。ちゃんと-しにもなってる。アンドレ・シェニエの病める若者という悲歌のマックだ。九十三年のアク:‥‥大人物どもから斬首されたアンドレ・シェニエのね。」  ジルノルマ-ン氏はマリユスがちょっと眉をしかめたように思った。しかしあえて言っておくが、マリユスはまったく歓喜のうちに包まれ、1793年のことなんかよりも/コゼットのことを多く考えていて、老人の言葉に耳を傾けていなかった。けれども祖父は、折り悪しくアンドレ・シェニエを口にして自ら震え上がり、急いで弁解を始めた。 「斬首というのは適当でない。事実を言えば、革命の偉人たちは、確かに悪人ではなく英雄であったが、アンドレ・シェニエを少し邪魔にして、彼を断頭‥‥:すなわち、その英傑たちは、共和熱ガツ七日(1794年七月二十五日)、公衆の安寧のために、アンドレ・シェニエに願って‥‥。」  ジルノルマ-ン氏は自分の言おうとする言葉に喉をしめつけられて、あとを続けることができなかった。言い終えることも言い直すこともできず、娘がマリユスのうしろで枕を直してるあいだに、激情に心’転倒して、老年の足が許す限りの早さで、寝室の外に飛び出し、うしろに扉を押ししめ、真っ赤になり、喉をつまらし、口に泡を立て、目をむき出して:、ちょうど次の部屋で靴をみがいていた正直なバスクとばったり’顔を合わした。彼はバスクの襟をとらえ、真っ正面から勢い込めてどなりつけた。「畜生、その悪漢どもが殺害したんだ!」 「誰をでございますか。」 「アンドレ・シェニエをだ!」 「さようでございます。」とバスクは驚き恐れて言った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【フォーシュルヴァ-ン氏の小わきの包み】 ◇。◇。◇。◇。◇。  コゼットとマリユスとは再び会った。  その面会はどんなものであったか、それを語るのをわれわれはやめよう。世には描写すべからざるものがある。たとえば太陽もその一つである。  コゼットがはいってきた時には、バスクやニコレットをも加えて/一家の者が皆マリユスの部屋に集まっていた。  彼女は閾の上に現われた。その姿はあたかも円光に包まれてるかと思われた。  ちょうどその時祖父は鼻をかもうとしていた。彼はそれを急にやめ、ハンカチで鼻を押さえたまま、その上からコゼットを眺めた。 「みごとな娘だ/」と彼は叫んだ。  それから彼は大きな音を立てて鼻をかんだ。  コゼットは、酔い、喜び、おびえ、天に上ったような心地になっていた。彼女はおよそ幸福が与えうるだけの恐怖を感じていた。彼女は口ごもり、真っ青になり、また真っ赤になり、マリユスの腕に身を投じたく思いながら/あえてなし得なかった。大ぜいの人前で愛するのをはずかしがったのである。人は幸福なる恋人らに対して無慈悲である。彼らが最も二人きりでいたく思う時にはそこに控えている。しかし二人はまったく他人を必要としないのである。  コゼットと共に、白髪の老人がひとりそのあとから入ってきた。彼は荘重な顔つきをしていたが、それでもほほえんでいた。しかしそれはぼんやりした痛ましい微笑だった。この老人は「フォーシュルヴァ-ン氏」で、すなわちジ-ャン・ヴァルジャンであった。  彼は新しい黒服をまとい/白い襟飾りをつけて、門番が言ったとおり/極く立派な服装をしていた。  公証人ででもありそうなその几帳面な市民が、あの六月七日の夜、気絶したマリユスを腕にかかえ、ボロをまとい、不潔で/醜く/荒々しく:、血と泥とにまみれた顔をして、門の中にはいってきた恐ろしい死体運搬にんであろうとは、門番は夢にも思いつかなかった。しかしどことなく見覚えがあるように思った。フォーシュルヴァ-ン氏がコゼットと共にやってきた時、門番はそっと女房にささやかざるを得なかった。「何だかあの人は前に見たことがあるようにいつも思われてならないがね、どうも変だ。」  フォーシュルヴァ-ン氏はマリユスの部屋の中で、わきによけるように扉のそばに立っていた。彼は小わきに、紙にくるんだヤツオリボンらしい包みを抱えていた。包み紙は緑がかった色で、黴がはえてるようだった。 「あの人はいつもああして書物を抱えていなさるのかしら。」と書物ギライなジルノルマン嬢は、低い声でニコレットに尋ねた。 「そう、あの人は学者だ。」とその声を耳にしたジルノルマ-ン氏は同じ小声で答えた。「だがそんなことはかまわんじゃないか。儂が知ってるブーラールという人もやはり、いつも書物を持って歩いていて、ちょうどあのように古本を胸に抱いていた。」  そしてお辞儀をしながら、彼は高い声で言った。 「トランシュルヴァンさん‥‥。」  ジルノルマン老人は他意あってそんなふうに呼んだのではなかった。人の名前にとんちゃくしないのは、彼にとっては一つの貴族的な癖だった。 「トランシュルヴァンさん、わたしは、孫のマリユス・ポンメルシー男爵のために/御令嬢に結婚を申し込みますのを、光栄と存じます。」 「トランシュルヴァン氏」は頭を下げた。 「これできまった。」と祖父は言った。  そしてマリユスとコゼットとの方を向き、祝福するように両腕をひろげて叫んだ。 「互いに愛し合うことを許す。」  彼らは二度とその言葉を繰り返させなかった。言われるが早いかすぐに楽しく話し出した。マリユスは長椅子の上に肱をついて身を起こし、コゼットはそのそばに立って、互いに声低く語り合った。コゼットはささやいた。「ああ/うれしいこと、またお目にかかれたのね。ねえ、あなた、あなた! 戦争においでなすったのね。なぜなの。恐ろしいことだわ。ヨツキのあいだ私は生きてる気はしなかったわ。戦争に行くなんて、ほんに意地悪ね。私あなたに何をして? でも許して上げてよ。これからもうそんなことをしてはいけないわ。さっき、私たちに来るようにって使いがきた時、私はまた/もう死ぬのかと思ったの。でもうれしいことだったのね。私は悲しくて悲しくて、着物を着がえることもできなかったのよ。大変なナリをしてるでしょう。しわくちゃな襟飾りをしてるところをごらんなすって、お家の方は何とおっしゃるでしょうね。さあ、あなたも少し話してちょうだい。私にばかり口をきかしていらっしゃるのね。私たちはずっとオンム・アルメ街にいたのよ。あなたの肩の傷はさぞひどかったんでしょうね。手が入るくらいだったそうですってね。それに鋏で肉を切り取ったんですってね。ほんとに恐ろしい。私は泣いてばかりいたので、目を悪くしてしまったの。どうしてあんなに苦しんだかと思うとおかしいほどよ。お祖父様はご親切そうな方ね。静かにしていらっしゃいな、肱で起き上がってはいけないわ。用心なさらないと、障るでしょう。ああ/私ほんとに幸せだこと! 悪いことももう済んでしまったのね。私どうかしたのかしら。いろんなことをお話ししたいと思ったのに、すっかり忘れてしまった。やっぱりあなたは私を愛して下さるの? 私たちはオンム・アルメ街に住んでるのよ。庭はないの。私はいつもメンザンシばかりこしらえていたわ。ねえあなた、ごらんなさい、指にタコができてしまったわ。あなたが悪いのよ。」マリユスは言った。「おお/天使よ!」  天使という言葉こそ、使い古すことのできない唯一のものである。他の言葉はみな、恋人らの無茶な使用には耐え得ない。  それから、あたりに人がいるので、二人は口をつぐんで/もう一言も言わず、ただ優しく手を握り合ってるばかりだった。  ジルノルマ-ン氏は部屋の中にいる人々の方へ向いてコワダカに言った。 「みんな声を高くして話すんだ。楽屋のほうで音を立てるんだ。さあ、子供二人で勝手にしゃべくるように、少し騒ぐがいい。」  そして彼はマリユスとコゼットに近寄って、ごく低く言った。 「うちとけて親しむがいい。遠慮するにはおよばない。」  ジルノルマン伯母は、古ぼけた家庭に斯く突然’光がさし込んできたのを呆然として眺めていた。呆然さのうちには何らの悪意もなかった。それは二羽の山鳩に対する梟の/憤った妬ましい目つきでは少しもなかった。五十七歳の罪のない老女の唖然たる目つきであり、愛の勝利を眺めてる空しいイノチだった。 「どうだ、」と父は彼女に言った、「こんなことになるだろうと儂がかねて言ったとおりではないか。」  彼はちょっと黙ったが、言い添えた。 「他人の幸福も見るものだ。」  それから彼はコゼットのほうに向いた。 「実にきれいだ、実にきれいだ! グルーズの絵のようだ。おい、いたずらっ子さん、お前はひとりでこれからその娘さんを独占するんだな。儂と張り合わずにすんで幸せだ。儂がもし十五年も若けりゃ、剣を取ってもお前と競争するからな。いや、お嬢さん、わたしはお前さんに惚れ込んでしまった。しかし怪しむに当たらない。それはお前さんの権利だ。ああ/これで、美しい/きれいな/楽しい/かわいい結婚が一つ出来上がる。ここの教区はサン・ドゥニ・デュ・サン・サクルマンだが、サン・ポールで結婚式をあげるように許しを得てやろう。あの教会堂のほうが上等だ。ゼジュイット派が建てたものだ。あのほうが美しい。ビラーグ枢機官の噴水と向き合っている。ゼジュイット派建築の傑作は、ナムュール市にあって、サン・ルーと言われてる。お前たちが結婚したらそこへ行ってみるがいい。旅するだけの価値はある。お嬢さん、わたしも全然お前さんの味方だ。娘が結婚するのはいいことだ。結婚するようにできている。聖カテリナ(訳者注◇ 4世紀初葉の殉教者にして/若い娘の守護神)のような女で、儂がいつもその髪を解かせたく思うのが、世にはたくさんある。娘のままでいるのも結構なことだが、それはどうも冷たすぎる。聖書にもある、増せよ殖えよと。人民を救うにはジャンヌ・ダルクのような女も必要だが、しかし人民を作るにはジゴーニュ小母さん(訳者注◇ 人形芝居の人物にて、ショーイの下からたくさんの子供を出してみせる女)のような女が必要だ。だから美人はすべからく結婚すべし。実際/独身でいて何のためになるか儂にはさっぱりわからん。なるほど、教会堂に特別の礼拝所を持ち、聖母会の連中の噂ばかりする者も世にはある。しかし結婚して、夫は立派な好男子だし、一年たてば金髪の大きな赤ん坊ができ、元気に乳を吸い、腿は肥ってよくくくれ、曙のように笑いながら、薔薇色の小さな手でいっぱいに乳房を握りしめるとすれば:、晩の祈祷に蝋燭を持って象牙の塔(聖母マリア)を歌うよりも、よほど優っている。」  祖父は九十歳の踵でくるりと回って、バネがとけるような具合に言い出した。 ◇。◇。 「斯くてアルシペよ、夢想に限りを定めて、  やがてナが婚姻するは、まことなるか。 ◇。◇。  時にね。」 「なんです、お父さん。」 「お前には親しい友だちがあったか。」 「ええ、クールフェーラックという者です。」 「今どうしてる?」 「死んでいます。」 「それでいい。」  彼は二人のそばに腰を掛け、コゼットにも腰掛けさし、彼らの四つの手を自分の年老いた皺のある手に取った。 「実に立派な娘さんだ。このコゼットはまったく傑作だ。小娘でまた貴婦人だ。男爵夫人には惜しい。生まれながらの侯爵夫人だ。睫毛も立派だ。いいかね、お前たちは本当の道を踏んでるということをよく頭に入れとかなくてはいかん。互いに愛し合うんだ。愛して馬鹿になるんだ。愛というものは、人間の愚蒙で神の知恵だ。互いに慕い合うがいい。ただ、」と彼は急に沈み込んで言い添えた、「一つ悲しいことがある。それが儂の気がかりだ。儂の財産の半分以上は終身年金になっている。儂が生きてる間はいいが、儂が死んだら、もう二十年もしたら、かわいそうだが、お前たちは一文無しになる。男爵夫人たるこの真っ白な美しい手も、食うために働かなくてはならないことになるだろう。」  その時、荘重な落ち着いた声が聞こえた。 「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢は、六十万フランの-かねを持っています。」  その声はジャン・ヴァルジャンから出たのだった。  彼はその時まで一言も口をきかずにいた。誰も彼がそこにいることさえ知らないが-ようだった。そして彼は幸福な人々のうしろにじっと立っていた。 「ウューフラジー嬢というのは何のことだろう?」と祖父はびっくりして尋ねた。 「私です。」とコゼットは答えた。 「六十万フラン/」とジルノルマ-ン氏は言った。 「たぶん一万シゴ千フランはそれに足りないかも知れませんが。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  そして彼はジルノルマン嬢が書物だと思っていた包みをテーブルの上に置いた。  ジャン・ヴァルジャンは自ら包みを開いた。それは-ひと束の紙幣だった。人々はそれをひろげて数えてみた。千フランのが五百枚と/五百フランのが百六十八枚はいっていて、全部で五十八万四千フランあった。 「これは結構な書物だ。」とジルノルマ-ン氏は言った。 「五十八万四千フラン/」と伯母がつぶやいた。 「これで万事うまくいく、そうじゃないか。」と祖父はジルノルマン嬢に言った。「マリユスのヤツ、分限者の娘を狩り出したんだ。こうなったらお前も若い者の恋にかれこれ言えやしないだろう。学生は六十万フランの女学生を見つけ出す。美少年はロスチャイルド以上の働きをするというものだ。」 「五十八万四千フラン/」とジルノルマン嬢は半ばくちの中で繰り返していた。「五十八万四千フラン、まあ六十万フランだ。」  マリユスとコゼットとは、そのあいだただ互いに顔を見合っていた。二人はそんなことにほとんど注意もしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【かねは公証人よりも/むしろ森に託すべし】 ◇。◇。◇。◇。◇。  読者は長い説明を待つまでもなく既に了解したであろう。ジャン・ヴァルジャンはシャンマティユー事件のあと、最初の数日間の逃走によって、パリーにき、モントルイュ・スュール・メールでマドレーヌ氏の名前で儲けていた金額を、ちょうどよくラフィット銀行から引き出すことができた。そして再び捕えられることを気遣って──果たして間もなく捕えられたが──:モンフェルメイュの森の中のブラリュの地所と言われてる所に、その-かねを埋めて隠しておいた。金額は六十三万フランで、全部銀行紙幣だったので、わずかな嵩で一つの小箱に納めることができた。ただその小箱に湿気を防ぐため、更に栗の木屑をいっぱいつめた樫の箱に入れておいた。同じ箱の中に彼は、もう一つの宝である司教の燭台をもしまった。モントルイュ・スュール・メールから逃走する時彼がその二つの燭台を持っていったことを、読者は記憶しているだろう。ある夕方/ブーラトリュエルが最初に見つけた男は、ジャン・ヴァルジャンにほかならなかった。その後ジャン・ヴァルジャンは、かねがいるたびごとにそれを取りにブラリュの空き地にやってきた。前に言ったとおり彼が時々’家をあけたのは、そのためだった。彼は人の気づかない茂みの中に一本の鶴嘴を隠しておいた。それから彼は、マリユスが回復期にはいったのを見た時、その-かねの役立つ時機が近づいたのを感じて、それを取りに出かけていった。ブーラトリュエルが森の中で/こんどは夕方でなく早朝に見かけた男は、やはりジ-ャン・ヴァルジャンだった。ブーラトリュエルはその鶴嘴だけを受け継いだ。  実際に残ってた金額は五十八万四千五百フランだった。ジャン・ヴァルジャンはそのうち五百フランだけを自分のために引き去っておいた。「あとはどうにかなるだろう、」と彼は考えた。  その金額とラフィット銀行から引き出した六十三万フランとの間の差額は、1823年から1833年に至る十年間の費用を示すものである。そのうち修道院にいた五年間は、ただ五千フランかかったのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは二つの銀の燭台を暖炉棚の上に置いた。その立派なのを見てトゥーサンはひどく感心していた。  それからまたジャン・ヴァルジャンは、ジャヴェルから免れたことを知っていた。その事実が自分の前で話されるのを聞いて、彼は機関新聞で更に確かめてみた。その記事によると、ジャヴェルというひとりの警視が、ポン・トー・シャンジュと/ポン・ヌーフの二つの橋のあいだの洗濯舟の下に溺死してるのが発見された:、しかるに彼は元来/上官からもごく重んぜられ/何ら非難すべき点もない男であって、その際残していった手記によって考えれば、精神に異状を呈して自殺を行なったものらしい、というのだった。ジャン・ヴァルジャンは考えた。「実際彼は、私を捕えながら放免したところをみると、どうしても既にあの時から気が狂っていたに違いない。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【コゼットを幸福ならしむる二人の老人】 ◇。◇。◇。◇。◇。  結婚の準備は悉く整えられた。医者に相談すると、二月には行なってもいいという明言が得られた。今は12月だった。斯くて-まったき幸福の楽しい数週間が過ぎていった。  祖父も同じように幸福だった。彼はよくジュウシ五分間もコゼットに見惚れてることがあった。 「実にきれいな娘だ/」と彼は叫んだ。「そして至ってやさしく親切そうな様子だ。いとしき者よ/わが心よ、などと言ってもまだ足りない。これまで見たこともないほど美しい娘だ。やがては菫のように-かんばしい婦徳も出て来るだろう。まったく優美の至りだ。こんな婦人といっしょにおれば、誰でも立派な生活をしないわけにはゆかない。マリユス、お前は男爵で金持ちだ。もう弁護士なんかにはならないでくれ、頼むから。」  コゼットとマリユスとは、にわかに墳墓から楽園に移ったが-ようだった。その変化はあまりに意外だったので、二人はたとい目が眩みはしなかったとするも”まったく呆然としてしまった。 「どうしてだかお前にわかる?」とマリユスはコゼットに言った。 「いいえ。」とコゼットは答えた。「ただ神様が私たちを見てて下さるような気がするの。」  ジャン・ヴァルジャンはすべてのことをなし、すべてを平らにし、すべてを和らげ、すべてを容易なら-しめた。彼はコゼット自身と同じくらい熱心に、また表面上いかにもうれしそうに、彼女の幸福を早めようとした。  彼は市長をしていたことがあるので、コゼットの戸籍という/彼ひとりが秘密を握ってる困難な問題をも、よく解決することができた。その身元を露骨に打ち明けたら、あるいは結婚が破れるかも知れなかった。彼はあらゆる困難をコゼットに免れさした。彼女のために死に絶えた一家をこしらえてやった。それはいかなる故障をも招かない安全な方法だった。コゼットは死に絶えた一家のただひとりの末裔となり、彼の娘ではなくて、もう一人のフォーシュルヴァンの娘となった。二人のフォーシュルヴァン兄弟はプティー・ピクプュスの修道院で庭番をしていたことがあるので、そこに聞き合わされた。よい消息や立派な証明はたくさんあった。善良な修道女らは、身元なんかの問題はよく知りもせず/あまり注意してもいなかったし、また不正なことがされてようとも思っていなかったので:、小さなコゼットは二人のフォーシュルヴァンのどちらの娘であるかを本当に知ってはいなかった。彼女らは望まれるままの口をきき、しかも心からそう述べ立てた。身元証明書はすぐにでき上がった。コゼットは法律上ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢となった。彼女は両親ともにない孤児と確認された。ジャン・ヴァルジャンはうまく取り計らって、フォーシュルヴァンという名の下にコゼットの後見人と定められ、またジルノルマ-ン氏は後見監督人と定められた。  五十八万四千フランは、名を明かすことを欲しなかった/今は亡くなってるある人から、コゼットへ遺贈されたものとなった。その遺産は初め五十九万四千フランだったが、内一万フランはウューフラジー嬢の教育費に使われ、その内五千フランは修道院に支払われたものだった。その遺産は第三者の手に保管され、コゼットが丁年に達するか結婚するかする時/彼女に渡されることになっていた。それらのことは、読者の見るとおりいかにももっともなことであって、特に百万の半ば以上という-かねがついておればなおさらだった。もとよりいぶかしい点も所々ないではなかったが、人々はそれに気づかなかった。当事者のひとりは愛に目がおおわれていたし、他の人たちは六十万フランに目がおおわれていた。  コゼットは自分が長く父と呼び続けていた老人の娘でないことを聞かされた。彼はただ親戚であって、もう一人のフォーシュルヴァンという人が本当の父であった。他の時だったらそのことは彼女の心を痛ませたろう。しかし今は得も言えぬ楽しい時だったので、それはただわずかな影であり/一時の曇りにすぎなかった。彼女はまったく喜びに満たされていたので、その雲も長く続かなかった。彼女はマリユスを持っていた。青年がきて、老人は姿を消した。人生はそうしたものである。  それにまた、コゼットは長年のあいだ、自分の周囲に謎のようなことを見るに慣れていた。不可思議な幼年時代を経てきた者は皆、いつもある種のあきらめをしやすいものである。  それでも彼女は続けてジャン・ヴァルジャンを父と呼んでいた。  心も空に喜んでいるコゼットは、ジルノルマン老人にも深く感謝していた。実際老人はやたらに愛撫の言葉や贈り物を彼女に浴びせかけた。ジャン・ヴァルジャンが彼女のために、社会における正当な地位と/適当な身元とを作ってやってるあいだに、ジルノルマ-ン氏は結婚の贈り物に腐心していた。壮麗であることほど彼を喜ばせるものはなかった。ソボから伝えられてるバンシュ製レースのナガギヌをもコゼットに与えた。彼は言った。「こういう物もまた生き返ってくる。古い物も喜ばれて、儂の晩年の若い娘が儂の幼年時代のバアさんのような服装をするんだ。」  中ぶくれの立派なコロマンデル製のウルシトダナをも彼は開放してしまった。それはもう長年のあいだ開かれたことのないものだった。彼は言った。「この婆さんたちにもひとつ懺悔をさしてやれ。腹に何をしまってるか見てやろう。」そして彼は自分の幾人もの妻や/情婦や/お婆さんたちの用具がいっぱいつまってる引き出しの中を、大騒ぎでかき回した。南京繻子、緞子、模様ギヌ、友禅絹、トゥール製の炎模様アラギヌのナガギヌ、洗たくにたえる金縁の印度ハンカチ、織り上げたばかりで鋏のはいっていない裏表なしの花模様絹:、ゼノアやアランソン製の刺繍、古い金銀細工の装飾品、微細な戦争模様のついてる象牙の菓子箱、装飾布、リボン、それらをすべて彼はコゼットに与えた。コゼットはマリユスに対する愛に酔い/ジルノルマ-ン氏に対する感謝の念にいっぱいになって、心の置き所も知らず、繻子とビロードとをまとった限りない幸福を夢みていた。結婚の贈物が天使からささげられてるような気がした。彼女の魂はマリーヌのレースの翼をつけて/青空のうちに舞い上がっていた。  二人の恋人の恍惚の情におよぶものは、前に言ったとおり、ただ祖父の歓喜あるのみだった。斯くてフィーユ・デュ・カルヴェール街には楽隊の響きが起こったかのようだった。  祖父は毎朝コゼットへ何かの古物を必ず贈った。あらゆる衣裳が彼女のまわりに燦爛と花を開いた。  マリユスは幸福のうちにも好んで真面目な話をしていたが、ある日、何かのことについてこう言った。 「革命の人々は実に偉大です。カトーやフォキオン(訳者注◇ ローマおよびアテネの大人物)のように数世紀にわたる魅力を持っていて、各人がそれぞれ古代の記念のようです。」 「古代の絹/」と老人は叫んだ。「ありがとう、マリユス。ちょうど儂もそういう考えを探してるところだった。」  そして翌日、茶色の観世模様古代絹の見事なナガギヌがコゼットの結婚贈り物に加えられた。  祖父はそれらの衣裳から一つの哲理を引き出した。 「恋愛は結構だ。だが添え物がなくてはいかん。幸福のうちにも無用なものがなくてはいかん。幸福そのものは必要品にすぎない。だから大いに無駄なもので味をつけるんだ。宮殿と心だ。心とルーヴル美術館だ。心とヴェルサイユの大噴水だ。羊飼女にも公爵夫人のような様子をさせることだ。矢車草を頭にいただいてるフィリスにも十万フランの年金をつけることだ。大理石の柱廊の下に目の届く限り田舎ゲシキをひろげることだ。田舎ゲシキもいいし、また大理石と黄金との美観もいい。幸福だけの幸福はパンばかりのようなものだ。食えはするがご馳走にはならない。無駄なもの、無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それが儂は好きだ。儂はストラスブールグのダイ会堂で見た時計を覚えている。それはヨン階だての家ほどある大きな時計で、時間を教えてもいたが、親切にも時間を教えてはいたが、そのためにばかり作られたものではなさそうだった。正午や真夜中や、太陽の時間である昼の十二時や、恋愛の時間である夜の十二時や、そのほかあらゆる時間を報じたあとで、いろいろなものを出してみせた。月と星、陸と海、小鳥と魚、フォイボスとフォイベ(訳者注◇ 太陽の神と月の神):、また壁龕から出て来るたくさんのもの、十二使徒、皇帝カルル五世、エポニーネとサビヌス(訳者注◇ ローマ人の覊絆からゴール族を脱せしめんと企てた勇士夫婦):、その上になお、ラッパを吹いてる金色の子供もたくさんいた。そのたびごとになぜともなく空中に響き渡らせる楽しい鐘の’音は、言うまでもないことだ。ただ時間だけを告げる素裸のみじめな時計が、それと肩を並べることができようかね。儂はナ、ストラスブールグの大時計の味方だ。シュワルツワルト(黒森山)のホトトギスの声を出すだけの目ざまし時計より、それのほうがずっとよい。」  ジルノルマ-ン氏は特に、結婚式のことについて屁理屈’を並べていた。彼の賛辞のうちには十八世紀の事柄がやたらにはいってきた。 「お前たちは儀式の方法を心得ていない。近ごろの者は喜びの日をどうしていいかよく知らないのだ。」と彼は叫んだ。「お前たちの十九世紀は柔弱だ。過分ということがない。金持ちをも知らなければ、貴族をも知らない、何事にもイガグリ頭だ。お前たちのいわゆる第三階級というものは、無味、無色、無臭、無形だ。家を構える中流市民階級の夢想は、自分で高言してるように、新しく飾られた紫檀や/更紗のちょっとした化粧部屋にすぎない。さあお並び下さい、しまりやさんがけちけち嬢さんと結婚致します、といったような具合だ。その贅沢やカ-ビとしては、ルイ金貨を一つ蝋燭にはりつけるくらいのものだ。十九世紀とはそんな時代なんだ。儂はバルチック海’の向こうまでも逃げてゆきたいほどだ。儂は既に1787年から、何もかも駄目になったと予言しておいた。ローアン公爵や/レオンタイ侯や/シャボー公爵や/モンバゾン公爵や/スービーズ侯爵や/顧問官トゥーアル子爵が、ガタ馬車に乗ってロンシャンの競馬場に行くのを見た時からだ。ところが果たしてそれは実を結んだ。この世紀では誰でも皆、商売をし、相場をし、かねを儲け、そしてしみったれてる。表面だけを注意して塗り立ててる。おめかしをし、洗い立て、石鹸をつけ、ぬぐいをかけ、髯を剃り/髪を梳き、靴墨をつけ、てかてかさし、みがき上げ、ハケをかけ、外部だけきれいにし、一点のほこりもつけず:、小石のように光らし、用心深く、身ぎれいにしてるが、一方では色女をこしらえて、/手鼻をかむ馬方でさえ眉を-ひそむるような、肥溜めや塵溜を心の底に持っている。儂は今の時代に、不潔な清潔という題辞を与えてやりたい。なに/マリユス、怒ってはいけないよ。儂に少し言わしてくれ。別に民衆の悪くチを言うんじゃない。お前のいわゆる民衆のことなら十分感心してるのだが、中流市民を少しばか-り叩きつけてやるのは構わんだろう。もちろん儂もそのひとりだ。よく愛する者はよく鞭うつ。そこで儂はきっぱりと言ってやる。コンニチでは、人は結婚をするが/結婚の仕方を知らない。まったく儂は昔の風習の美しさが惜しまれる。すべてが惜しまれる。その優美さ、仁侠さ、礼儀正しい細やかなやり方、いずれにも見らるる愉快な贅沢さ、すなわち、上は交響曲から/下は太鼓に至るまで婚礼の一部となっていた音楽、舞踊:、食卓の楽しい顔、穿ちすぎた恋歌、小唄、花火、打ち解けた談笑、冗談や大騒ぎ、リボンの大きな結び目。それから新婦の靴下どめも惜しまれる。新婦の靴下どめは、ヴィーナスの帯と従姉妹同士だ。トロイ戦争は何から起こったか? ヘレネの靴下どめからではないか。なぜ人々は戦ったか、なぜ神のようなディオメーデは/メリオネスが頭にいただいてる/十本のツノのある青銅の大きな兜を打ち砕いたか、なぜアキレウスとヘクトルとは槍で突き合ったか? それも-みんなヘレネが靴下どめにパリスの手を触れさしたからではないか。コゼットの靴下留めからホメロスはイリアードをこしらえるだろう。その-しの中に儂のような饒舌な老人を入れて、それをネストルと名づけるだろう。昔はね、愛すべき昔では、人は賢い婚礼をしたものだ。立派な契約をし、次に立派なご馳走をしたものだ。キュジャスが出てゆくとガマーシュがはいってきたものだ(訳者注◇ 前者は法律学者の典型にて、後者はドン・キホーテの一挿話中に出てくる婚礼のオオ馳走をする田舎者)。というのも、胃袋というものは愉快な奴で、自分の分け前を求め、自分もまた婚礼をしようとするからだ。みんなよく食ったし、また食卓では、胸当てをはずして/適宜に襟を開いてる美人と隣合ってすわったものだ。みんな大きく口をあいて笑うし、あの時代は実に愉快な者ばかりだった。青春は花輪だった。若い男は皆、ライラックのヒトエダか/薔薇の一握りかを持っていた。軍人までも-みんな羊飼いだった。たとい竜騎兵の将校でも、フロリアン(訳者注◇ 十八世紀の後半の寓話作者)と人から呼ばるるスベを心得ていた。みんなきれいに着飾るように心掛けていた。刺繍をつけ緋ギヌをつけていた。市民は花の-ようだったし、侯爵は宝石のようだった。脚絆どめをつけたり長靴をつけたりはしなかった。はなやかで、艶々しく、観世模様をつけ、蝦茶色ずくめで、軽快で、華奢で、人の気をそらさないが、それでもなお’腰には剣を下げていた。ホウジャクも嘴と爪とを持ってるものだ。優美なる藍色服の人々の時代だった。その時代の一面は繊麗であり、一面は壮麗だった。そして人々は遊び戯れていたものだ。ところがコンニチでは誰もみな真面目くさってる。市民はけちで貞節ぶってる。お前たちの世紀は不幸なものだ。あまり首筋を出しすぎてると言っては優美の女神を追いやっている。あわれにも、美しさをも醜さと同じように包み隠してる。革命からあとは、誰でもズボンをはくようになった、踊り子までそうだ。道化女も真面目くさり、リゴドン踊りも理屈っぽくなってる。威儀を正してなけり-ゃいけない。襟飾りの中に顎を埋めていなけりゃ気を悪くされる。結婚しようとする二十歳の小僧の理想は、ロアイエ・コラール氏(訳者注◇ 立憲王党派の謹厳なる学者)のようになろうということだ。そしてお前たちは、そういう威容をばかり保ってついにどうなるか知ってるのか。ただ矮小になるばかりだ。よく覚えておくがいい、快活は単に愉快であるばかりでなく、また偉大である。だから快活に恋をするがいい。結婚するなら、熱情と/無我夢中と/大騒ぎと/混沌たる幸福とをもって結婚するがいい。教会堂でしかつめらしくしてるのもよいが、弥撒がすんだら、新婦のまわりに夢の渦巻きを起こさしてやるがいい。結婚は堂々としていて/しかも放恣でなくちゃいかん。ランスのダイ会堂からシャントルーの堂まで練り歩かなくちゃいかん。元気のない婚礼は思ってもいやだ。少なくともその当日だけは、オリンポスの殿堂にはいった気でなくてはネ。神々になった気でなくてはネ。ああ/みんなして、空気の精や/遊びの神や/笑いの神や/銀楯の精兵などになるがいい。小鬼になるがいい。結婚したての者は-みんなアルドブランディニ侯(訳者注◇ 十七世紀の初めに見いだされた華麗な結婚図の古い壁画の主人公)のようでなくちゃいけない。生涯にただ一度のその機会に乗じて、白鳥や鷲と共に火天まで舞い上がっていくんだ。そして翌日また中流市民のカエルの中に落ちてこないで-すむようにしなくちゃいけない。結婚について倹約したり、その光輝をそぐようなことをしてはいけない。光栄の日にケチケチするものではない。婚礼は所帯ではない。儂の思いどおりにやれたら、実に雅なものになるんだがな。木立の中にはバイオリンの音を響かしてやる。計画と言っては、空色と銀だ。儀式にはデ-ンヤの神々をも並べてみせる。森の精や海の精をも招きよせてみせる。アンフィトリテ(訳者注◇ 海の女神)の婚礼、薔薇色の雲、髪を結わえた素裸の水の精ども、女神に4行詩をささげるアカデミー会員、海の怪物に引かれた馬車。 ◇。◇。  トリトン(海の神)は先に駆けりつ、法螺の貝もて  人皆を歓喜せしむるガクを奏しぬ。 ◇。◇。  これが儀式の目録だ、目録の一つだ。さもなくば儂はもう-なんにも知らん、断じて!」  祖父が叙情詩熱に浮かされて、自ら自分の言葉に耳を傾けてるあいだに、コゼットとマリユスとは自由に顔を見合わして/恍惚としていた。  ジルノルマン伯母はいつもの平然たる落ち着きで/それらのことを眺めていた。彼女はゴロッカ月以来、ある程度までの感動を受けた。マリユスが戻ってきたこと、血’にまみれて運ばれてきたこと、防寨から運ばれてきたこと、死にかかっていたが次に生き返ったこと、祖父と和解したこと、婚約したこと、貧乏な女と結婚すること、分限者の女と結婚すること。六十万フランは彼女の最後の驚きだった。それから最初の聖体拝領の時のような無関心さがまた戻ってきた。彼女は欠かさず教会堂の祭式に列し、大念珠をつまぐり、祈祷書を読み、家の片隅で人々がわれ汝を愛すをささやいてるあいだに、他の片隅でアヴェ・マリアをささやき:、そしてマリユスとコゼットとを漠然と二つの影のように眺めていた。しかし実際彼女のほうが影の身であった。  ある惰性的な苦行の状態があるもので、そのとき人の魂は麻痺して中性となり、世話事とも言い得るすべてのことに無関心となり:、地震や大変災などを除いては、何事にも何ら人間らしい感銘を受くることなく、何ら楽しい感銘をも苦しい感銘をも受くることがなくなる。ジルノルマン老人は娘にこう言った。「そういう帰依の状態は、鼻風邪と同じものだ。お前は人間の匂いを少しも感じない。悪い匂いも-いい匂いも感じない。」  その上、六十万フランの-かねは、どうでもいいという気を老嬢に起こさした。父はいつも彼女をあまり眼中においていなかったので、マリユスの結婚承諾についても彼女に相談をしなかった。例のとおり熱狂的な行動を取り、奴隷となった専制者の態度で、ただマリユスを満足させようという一つの考えしか持っていなかった。伯母については、伯母が実際そこにいるかどうか、伯母が何かの意見を持ってるかどうか、それを彼は考えてもみなかった。彼女はきわめて温順ではあったが、そのために多少気を悪くした。そして内心では少し不満を覚えながら、表面は冷然として、自ら言った。「父はひとりで結婚問題をきめてしまったのだから、私もひとりで遺産の問題をきめてしまおう。」実際彼女は財産を持っていたが、父は財産を持たなかった。それで彼女は、そこに自分の決心をおいていた。結婚する二人が貧乏だったら貧乏のままにしておいてやれ、甥にはお気の毒様だ、一文無しの女を娶るなら彼も一文無しになるがいい。ところがコゼットの持っている百万の半ば以上の-かねは、伯母の気に入った、二人の恋人に対する心持ちを変えさした。六十万と言えば尊敬に価するものである。そして明らかに彼女は、若い二人にもう-かねの必要がなくなった以上、彼らに自分の財産を与えてやるより他にしようがなくなったのである。  新夫婦は祖父の所に住むことに話がまとまっていた。ジルノルマ-ン氏は家で一番美しい自分の部屋を是非とも彼らに与えようと思っていた。彼はこう言った。「それで儂も若返る。元から考えていたことだ。儂はいつも自分の部屋で結婚式を行ないたいと思っていたんだ。」彼はその部屋に、優美な古い珍品をやたらに備えつけた。また天井と壁には大変な織物を張らせた。それは彼がヒトカマそっくり持っていて、ユトレヒト製だと思ってるもので、キンポウゲイロの繻子のような地質に/サクラソウ色のビロードのような花がついていた。彼は言った。「ローシュ・ギヨンでアンヴィル公爵夫人の寝台の-とばりとなっていたのも、これと同じ織物だ。」また彼は暖炉棚の上に、裸の腹にマッフをかかえてるサクソニー製の人形を一つ据えた。  ジルノルマ-ン氏の図書室は弁護士事務室となった。読者の記憶するとおり、弁護士たる者は組合評議員会の要求によって事務室を一つ持っていなければならなかったので、マリユスにもその必要があったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 【幸福のさなかに浮かびくるマボロシ】 ◇。◇。◇。◇。◇。  二人の恋人は毎日’顔を合わしていた。コゼットはいつもフォーシュルヴァ-ン氏と共にやってきた。ジルノルマン嬢は言った。「こんなふうに嫁さんのほうから機嫌を取られに男の家へやって来るのは、まるでさかさまだ。」けれどもマリユスはまだ回復期にあったし、フィーユ・デュ・カルヴェール街の肱掛椅子は/オンム・アルメ街の藁椅子よりも二人の差し向かいに好都合だったので、自然とコゼットのほうからやって来る習慣になったのである。マリユスとフォーシュルヴァ-ン氏とは絶えず会っていたが、話をし合うことはあまりなかった。自然とそういうふうに黙契ができたかのようだった。娘にはすべて介添えがいるものである。コゼットはフォーシュルヴァ-ン氏といっしょでなければやってこられなかったろう。しかしマリユスにとっては、コゼットあってのフォーシュルヴァ-ン氏であった。彼はフォーシュルヴァ-ン氏をとにかく迎えていた。斯くて彼らは、万人の運命を一般に改善するという見地から政治上の事柄を、微細にわたることなく漠然と話題に上せて、しかりもしくは否というよりも多少多くの口をきき合うこともあった。一度マリユスは、教育というものは無料の義務的なものになして、あらゆる形式の下に増加し、空気や太陽のように万人に惜しまず与え:、イチゴンにして言えば、民衆全体が自由に吸入し得らるるようにしなければいけないという、平素の持論を持ち出したが、その時二人はまったく意見が合って、ほとんど談話とも言えるくらい口をきき合った。そしてフォーシュルヴァ-ン氏がよく語り/しかもある程度まで高尚な言葉を使うのを、マリユスは認めた。けれども何かが欠けていた。フォーシュルヴァ-ン氏には普通の人よりも、何かが足りなく”また何かが多すぎていた。  マリユスは頭の奥でひそかに、自分に向かっては単に親切で/冷然たるのみのフォーシュルヴァ-ン氏に対して、あらゆる疑問をかけてみた。時とすると、自分の思い出にさえ疑いをかけてみた。彼の記憶には、一つのあな、暗い一点、4カ月間の瀕死の苦しみによって掘られた深淵が、できていた。多くのことがその中に落ち込んでいた。そのために、斯く真面目な落ち着いた人物であるフォーシュルヴァ-ン氏を防寨の中で見たというのは、果たして事実だったろうかと自ら疑ってみた。  もとより、過去の明滅する幻が彼の脳裏に残したものは、単なる呆然さのみではなかった。幸福中にもまた満足中にも人をして/沈鬱に後方をふり返り見させる記憶の纒綿から、彼が免れていたと思ってはいけない。消えうせた地平線のほうをふり返り見ない頭には、思想もなければ愛もないものである。時々マリユスは両手で頭をおおった。そして騒然たるおぼろな過去が、彼の脳裏のウスラ明りの中を過ぎっていった。彼はマブーフが倒れる所を再び見、霰弾の下に歌を歌ってるガヴローシュの声を聞き、エポニーヌの額の冷たさを脣の下に感じた。アンジョーラ、クールフェーラック、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ボシュエ、グランテール、などすべての友人らが、彼の前に立ち現われ、次いでまた消えうせてしまった。それらの、親しい、悲しい、勇敢な、麗しい、あるいは悲壮な者らは、みんな夢であったのか? 彼らは実際存在していたのか? 暴動はすべてを硝煙のうちに巻き込んでしまっていた。それらのダイなる苦熱は/ダイなる幻を作り出す。彼は自ら問い、自ら憶測し、消えうせたそれらの現実に対して目眩を感じた。彼らはミンナどこにいるのか、みんな死んでしまったというのは真実であるか。彼を除いたすべての者は暗黒の中に墜落してしまっていた。それはあたかも芝居の幕のうしろに隠れたことのように彼には思われた。人生にも斯く幕のおりることがある。神は次の場面へと去ってゆく。  そして彼自身は、やはり同じ人間なのか。貧しかったのに富有となった。孤独だったのに家庭の人となった。望みを失ってたのにコゼットを娶ることとなった。彼は墳墓を通ってきたような気がした。暗黒な姿で墳墓に-はいり込み、純白な姿でそこから出てきたような気がした。しかもその墳墓の中に、他の者は-みな残ってるのである。ある時には、それら過去の人々がまた現われてき、彼の周囲に立ち並んで彼を陰鬱になした。その時彼はコゼットのことを考えて、また心が朗らかになるのだった。その災いを消散させるには、コゼットを思う幸福だけで充分だった。  フォーシュルヴァ-ン氏もそれら消えうせた人々のうちにほとんどはいっていた。防寨にいたフォーシュルヴァ-ン氏が、肉と骨とをそなえ/真面目な顔をしてコゼットのそばにすわってるこのフォーシュルヴァ-ン氏と同一人であるとは、マリユスには信じがたかった。第一のほうはおそらく、長いあいだの昏迷のうちに現滅’した悪夢の一つであろう。その上、二人ともきわめて謹厳な性格だったので、マリユスはフォーシュルヴァ-ン氏に向かって何か聞き糺すこともできがたかった。聞き糺してみようという考えさえ彼には浮かばなかった。二人のあいだのそういう妙な隔たりは、前に既に指摘しておいたとおりである。  二人とも共通の秘密を持っていながら、一種の黙契によって、そのことについては互いに一言も交じえない。そういう事実は案外たくさん世にあるものである。  ただ一度、マリユスは探りを入れてみたことがあった。彼は会話の中にシャンヴルリー街のことを持ち出して、フォーシュルヴァ-ン氏の方へ向きながら言った。 「あなたはあの街をよく御存じでしょうね。」 「どの街ですか。」 「シャンヴルリー街です。」 「そういう名前については別に何の考えも浮かびませんが。」とフォーシュルヴァ-ン氏は最も自然らしい調子で答えた。  答えは街の名前についてであって、街そのものについてではなかったが、それでもマリユスはよく了解できるような気がした。 「まさしく自分は夢をみたのだ。」とマリユスは考えた。「幻覚を起こしたのだ。誰か似た者がいたのだろう。フォーシュルヴァ-ン氏はあすこにいたのではない。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 【行方不明の二人の男】 ◇。◇。◇。◇。◇。  歓喜の情はきわめて大きかったけれども、マリユスの他の気がかりを全然消すことはできなかった。  結婚の準備が整えられてるあいだに、決まった日を待ちながら、彼は人を使って困難な既往の詮索を細密になさした。  彼は諸方面に恩を-こうむっていた。父のためのもあれば、自分自身のためのもあった。  まずテナルディエがいた。また彼’マリユスをジルノルマ-ン氏のもとへ運んでくれた未知の人がいた。  マリユスはその二人の者を探し出そうとつとめた。結婚し幸福になって彼らのことを忘れようとは思わなかった。その恩を報じなければ、これから光り輝いたものとなる自分の生活に影がさしはしないかを恐れた。その負債をいつまでも遅滞さしておくことは彼にはできなかった。楽しく未来にはいってゆく前に/過去の負いめを-みんな済ましたいと願った。  たといテナルディエは悪漢であろうとも、そのためにポンメルシー大佐を救ったという事実を少しも曇らせは-しなかった。テナルディエは世の中の誰にとっても一個の盗賊だったが、マリユスにとってだけはそうでなかった。  そしてマリユスは、ワーテルローの戦場の実景についてはまったく無知だったので、父はテナルディエに対して、イノチの恩にはなってるが/感謝の義務はないという妙な地位に立ってる特別の事情を、少しも知らなかった。  マリユスはいろいろの人に頼んだが、誰もテナルディエの行方を探しあてることはできなかった。その踪跡はまったくわからなくなってるらしかった。テナルディエの女房は予審中に監獄で死んでいた。その嘆かわしい一家のうちで生き残ってるのはテナルディエと娘のアゼルマだけだったが、二人とも暗黒の中に没し去っていた。社会の不可知なる深淵は再び黙々として彼らの上を閉ざしていた。その深淵の面には、なにかが陥ったことを示してくれ、また錘を投ずべき場所を示してくれるような、揺るぎや、震えや、かすかな丸い波紋さえも、もはや見られなくなっていた。  テナルディエの女房は死に、ブーラトリュエルは免訴となり、クラクズーは消えうせ、おもな被告は脱走してしまったので、ゴルボー屋敷の待ち伏せの裁判はほとんど空に終わってしまった。事件はかなり曖昧のままになっていた。重罪裁判廷は二人の従犯にんで満足しなければならなかった。すなわちパンショー/一名プランタニエ/一名ビグルナイユと/ドゥミ・リアール/一名ドゥー・ミリアールとであって、二人とも審理のうえ/10年の徒刑に処せられた。脱走した不在の共犯にんらに対しては、無期徒刑が宣告された。頭目であって主犯者たるテナルディエは、同じく欠席裁判所によって死刑を宣告された。テナルディエに関して世に残ってるものは、その宣告だけで、あたかも柩のそばに立ってる蝋燭のように、彼の葬られた名前の上に凄惨な光を投じていた。  その上この処刑は、再び捕縛される恐れのために/テナルディエを最後の深みへ追いやってしまったので、彼を覆う暗黒をいっそう深からしめ-るのみだった。  もう一人の男に関しては、すなわちマリユスを救ってくれた無名の男に関しては、初めのうち多少’捜索の結果が上がったけれど、それから急に行き止まってしまった。すなわち、六月六日の夜/フィーユ・デュカルヴェール街へマリユスを乗せてきた辻馬車を見いだ-すことができた。その御者の言うところはこうであった。六月六日、シャン・ゼリゼー川岸通りのダイ溝渠の出口の上で、午後の三時から夜まで、ある警官の命令で彼は「客待ち」をしていた。午後の九時ごろ、川の汀についてる下水道のテツゴウシグチが開いた。ひとりの男がそこから出てきて、死んでるらしい他の男を肩にかついでいた。そこに番をしていた警官は、生きている男を捕え、死んでいる男を押さえた。警官の命令で、御者は「その人たち」を馬車に乗せた。最初フィーユ・デュ・カルヴェール街へ行った。死んでる男はそこでおろされた。その死んでる男というのはマリユス氏であった。「こんどは」生きていたけれども、御者は確かに見覚えていた。それから二人はまた彼の馬車に乗った。彼は馬に鞭をあてた。古文書館の門からスウホの所で、止まれと声をかけられた。その街路で彼は-かねをもらって返された。警官はもう一人の男をどこかへ連れて行った。それ以上のことは少しも知らない。その晩は非常に暗かった。  前に言ったとおり、マリユスはなんにも覚えていなかった。防寨の中であおむけに倒れかかるとき/背後から力強い手でとらえられたことだけを、ようやく思い出した。それから-なんにもわからなくなった。意識を回復したのはジルノルマ-ン氏の家においてだった。  彼は推測に迷った。  御者の言う男が彼自身であることは疑いなかった。けれども、シャンヴルリー街で倒れて/アンヴァリードバシ近くのセーヌ川の汀で警官から拾い上げられたとは、どうしたのであったろうか。誰かが彼をイチバマチからシャン・ゼリゼーまで運んでくれたには違いなかった。だがどうして? 下水道を通ってか。それにしては驚くべき献身的な行為である。  誰かしら。誰だろうか?  マリユスが探してるのはその男であった。  彼の救い主であるその男については、なんにもわからず、何らの踪跡もなく、少しの手掛かりもなかった。  マリユスは警察のほうにはナイナイにせざるを得なかったが、それでもついに警視庁にまで探索を進めてみた。しかしそこでも他の所と同じく、何ら光明ある消息は得られなかった。警視庁では辻馬車の御者ほどもその事件を知っていなかった。六月六日/ダイ溝渠の鉄の扉の所でなされた捕縛などということは少しも知られていなかった。その件については何ら警官の報告も届いていなかった。警視庁ではそれを作り話だと見なした。それを捏造したのは御者だとされた。御者というものは、少しカネをもらいたいと思えば何でもやる、想像の話でもこしらえる。とは言うものの、その事柄はいかにも確からしかった。マリユスはそれを疑い得なかった。少なくとも、上に述べたとおり、自分がその男だということは疑い得なかった。  その不思議な謎においてはすべてが不可解だった。  その男、気絶したマリユスをかついでダイ溝渠のテツゴウシグチから出て来るのを御者が見たというその不思議な男:、ひとりの暴徒を救助してる現行を見張りの警官から押さえられたというその不思議な男、彼はいったいどうなったのか? 警官自身はどうなったのか? なぜその警官は口をつぐんでいたのであろうか。男はうまく逃走してしまったのであろうか。彼は警官を買収したのであろうか。マリユスがあらん限りの恩になってるその男は、なぜ生きてるしるしだに伝えてこなかったのか。その私心のない行ないは、その献身的な行ないにも劣らず驚くべきものだった。なぜその男は再び出てこなかったのか。おそらく彼はいかなる報酬を受けてもなお足りなかったのかも知れないが、しかし誰も感謝を受けて不足だとするはずはない。彼は死んだのであろうか、どういう人であったろうか、どういう顔をしていたのか? それを言い得る者はひとりもなかった。その晩は非常に暗かったと御者は答えた。バスクとニコレットとはすっかり狼狽して、血’にまみれた若主人にしか目を-そそがなかった。ただ、マリユスの悲惨な帰着を蝋燭で照らしていた門番だけが、問題の男の顔を眺めたのであるが、その語るところはこれだけだった、「その人は恐ろしい姿だった。」  マリユスは探査の助けにもと思って、祖父のもとへ運ばれてきたとき身につけていた血に-しんだ服をそのまま取って置かした。上衣を調べてみると、裾が妙なふうに裂けていた。その一片がなくなっていた。  ある晩マリユスは、その不思議なできごとや、試みてみたカズかぎりない探査や、あらゆる努力が無効に終わったことなどを、コゼットとジャ-ン・ヴァルジャンとの前で話した。ところが「フォーシュルヴァ-ン氏」の冷淡な顔つきは彼をいら立たした。彼はほとんどフンヌの震えを帯びてる強い調子で叫んだ。 「そうです、その人は-たといどんな人であったにせよ、崇高な人です。あなたはその人のしたことがわかりますか。その人は天使のようにやってきたのです。戦いの最中に飛び込んでき、私を奪い去り、下水道の蓋をあけ、その中に私を引きずり込み、私を担って行かなければならなかったのです。恐ろしい地下の廊下を、頭をかがめ、身体を曲げ、暗黒の中を、汚水の中を、一里半以上も、背に一つの死骸を担って一里半以上も、歩かなければならなかったのです。しかも何の目的でかと言えば、ただその死骸を救うということだけです。そしてその死骸が私だったのです。彼はこう思ったのでしょう。まだおそらくイノチの影が残ってるらしい、このかすかなイノチのために自分一身を賭してみようと。しかも彼は自分の一身を、一度だけではなく/幾度も危険にさらしたのです。進んでゆく一歩一歩が-みんな危険だったのです。その証拠には、下水道を出るとすぐに捕えられたのでもわかります。どうです、彼はそれだけのことをやったのです。しかも何らの報酬をも期待してはいなかったのです。私は何者だったのでしょう、ひとりの暴徒にすぎなかったのです、ひとりの敗北者にすぎなかったのです。ああ、もしコゼットの六十万フランが私のものであったら‥‥。」 「それはあなたのものです。」とジャン・ヴァルジャンはさえぎった。 「そうなれば、」とマリユスは言った、「あの人を見つけ出すために私はそれを-みんな投げ出してもかまいません。」  ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六編】 【不眠の夜】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【1833年二月十六日】 ◇。◇。◇。◇。◇。  1833年二月十六日から十七日へかけた夜は、祝福されたる夜であった。夜の影の上にはテンが-ひらけていた。マリユスとコゼットとの結婚の夜だった。  その日は実に麗しい一日だった。  それは祖父が夢想したような空色の祝典ではなく、新郎新婦の頭上に天使や愛の神が飛び回る夢幻的な祝いではなく、門の上に美しいフリーズをつけるのにふさわしい結婚ではなかった。しかしそれは楽しい微笑んでる一日だった。  1833年の結婚式のありさまは、コンニチとは非常に異なっていた。新婦を連れ、教会堂から出るとすぐに逃げ出し、自分の幸福を恥ずかしがって身を隠し:、破産者のように人を-さける様子と/ソロモンの賛歌のような歓喜とを一つにするという、あのイギリスふうの雅致は、まだフランスに行なわれていなかった。その楽園を駅馬車の動揺に任し、その神秘を馬車の軋る音で貫かせ、旅籠屋の寝床を結婚のトコとし:、そして一生のうちの最も神聖な思い出を、駅馬車の車掌や/宿屋の女中などと差し向かいになった光景に交じえながら、一晩だけの卑俗な寝床に残してくるという:、そういうやり方のうちに、貞節な/微妙な/謹直な何かがあることは、まだ了解されていなかった。  現今/十九世紀の後半においては、区長とその飾り帯、牧師とそのホウエ、法律と神、それだけでは足りなくなっている。それにクワウるに、ロンジュモーの御者(訳者注◇ 美声を持ったある駅馬車の御者が結婚の間際に女をすてて/オペラ役者になって浮かれ歩くという歌劇中の人物)をもってしなければならない。赤い縁取りと鈴ボタンのついてる青い上着、延べ金の腕章、ミドリ皮のズボン、尾を結んだノルマンディー馬への掛け声、ニセの金モール、塗り帽子、髪粉をつけた変な頭髪、大きな鞭、および丈夫な長靴。けれどもフランスではまだ、イギリスの貴族がするように、新郎新婦の駅馬車の上に/底のぬけた上靴や/破れた古靴などをやたらに投げつけるほど、優美のふうが進んではいない。その風習は、結婚の当日’伯母の怒りを買って古靴を投げつけられたのがかえって僥倖になったという、マールボルーあるいはマルブルーク公となったチャーチル(訳者注◇ 十八世紀はじめのイギリスの将軍で/おどけ唄の主人公として伝説的の人物となった人)に由来するものである。そういう古靴や上靴は、まだフランスの結婚式にははいってきていない。しかし気ながに待つがいい。いわゆるいい趣味はだんだんひろがってゆくもので、やがてはそれも行なわれるようになるだろう。  1833年には、また百年以前には、馬車を大駆けにさせる結婚式などというものは行なわれていなかった。  変に思われるかも知れないが、その頃の人の考えでは、結婚というものはごく打ち解けた公けの祝いであり、淳朴な祝宴は家庭の尊厳をケガするものではなく:、たといそのにぎわいは度を越えようと、猥らなものでさえなければ、少しも幸福の妨げとなるものではないとされ:、また、やがてイチ家族が生まれいずべき二人の運命の和合をまず家の中で始め、同棲生活がその楔として長く結婚の部屋を有することは、至って尊い善良なことだとされていた。  そして人々は、不謹慎にも自宅で結婚をしたのである。  マリユスとコゼットとの結婚も、現今廃っているその風習に従って、ジルノルマ-ン氏の家でなされた。  教会堂に掲示すべき予告、正式の契約書、区役所、教会堂、それら結婚上の仕事は/ごく当然な普通なことではあるが、いつも多少の面倒をきたすものである。そして二月十六日まででなければすっかり準備ができ上がらなかった。  しかるに、われわれはただ正確を期するためにこの一事を言うのであるが、十六日はちょうど謝肉祭’末日の火曜日だった。それで人々はいろいろ躊躇したり気にかけたりし、ことにジルノルマン伯母はひどく心配した。 「謝肉祭’末日なら結構だ。」と祖父は叫んだ。「こういう諺がある。 ◇。◇。  謝肉祭’末日の結婚ならば  謝恩を知らぬ子供はできない。 ◇。◇。  是非ともやろう。十六日にきめよう。マリユス、お前は延ばしたいか。」 「いいえ、ちっとも。」と恋人は答えた。 「ではその日が結婚だ。」と祖父は言った。  それで、世間のにぎわいをよそにして、十六日に結婚式があげられた。その日は雨が降った。けれども、たとい他の者は-みんな雨傘の下にいようとも、恋人らが眺める幸福の蒼天は、常に空の片隅に残ってるものである。  その前日、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマ-ン氏の面前で、五十八万四千フランをマリユスに渡した。  結婚は夫婦財産共有法によってなされたので、契約書は簡単だった。  トゥーサンはジャン・ヴァルジャンに不用となったので、コゼットが彼女を引き取って、小間使いの格に昇進さした。  ジャン・ヴァルジャンのほうは、ジルノルマン家のうちに特に彼のために設けられたきれいな部屋を提供された。そして、「お父様、どうかお願いですから、」とコゼットが切に勧めるので、彼も仕方なしに、その部屋に住もうというおおよその約束をした。  結婚の定日の数日前、ジャン・ヴァルジャンに一事が起こった。すなわち右手の親指を少し負傷したのである。大した傷ではなかった。そして彼はそれを気にかけたり包帯したり”または調べてみたりすることを誰にも許さなかった、コゼットにも許さなかった。それでも彼は、その手を布で結わえ、腕を首から吊らなければならなかった。そして署名することができなくなった。ジルノルマ-ン氏がコゼットの後見監督人として彼の代わりをした。  われわれは読者を区役所や教会堂まで連れて行くことをよそう。人は通例そこまで二人の恋人について行くものでなく、儀式が結婚の花束をボタンの穴にさすとすぐ、背を向けて立ち去るものである。だからわれわれはここに一事をしるすに-とどめよう。その一事は、もとより婚礼の一行からは気づかれなかったことであるが、フィーユ・デュ・カルヴェール街からサン・ポール教会堂までの道程の途中で起こったものである。  当時、サン・ルイ街の北端で敷石の修復がされていて、パルク・ロアイヤル街から先は往来がふさがれていた。それで婚礼の馬車は真っ直ぐにサン・ポールへ行くことができず、どうしても道筋を変えなければならなかった。一番簡単なのは大通りへ回り道をすることだった。ところがちょうど謝肉祭’末日なので大通りには馬車がいっぱいになってるだろうと、客のひとりは注意した。「なぜです?」とジルノルマ-ン氏は尋ねた。「仮装行列があるからです。」すると祖父は言った。「それはおもしろい。そこから行きましょう。この若い者たちは結婚して、これから人生の真面目な方面にはいろうとするんです。仮装会を少し見せるのも何かのためになるでしょう。」  一同は大通りから行くことにした。第一の婚礼馬車には、コゼットと/ジルノルマン伯母と/ジルノルマ-ン氏と/ジャン・ヴァルジャンとが乗った。マリユスは習慣どおり花嫁と別になって第二の馬車に乗った。婚礼の行列はフィーユ・デュ・カルヴェール街を出るとすぐに、マドレーヌとバスティーユの間を往来してる/絶え間のない長い馬車の行列の中にはいり込んだ。  仮装の人々は大通りにいっぱいになっていた。ときどき雨が降ったけれども、パイヤスや/パンタロンや/ジルなどという道化者らはそれに臆しもしなかった。その1833年の冬の上機嫌さのうちに/パリーはヴェニスの町のようになっていた。コンニチではもう/そういう謝肉祭’末日は見られない。こんにち存在しているものは-みんな広い意味の謝肉祭であって、本当の謝肉祭はもはや無くなっている。  横丁は通行人でいっぱいになっており、人家の窓は好奇な者でいっぱいになっていた。劇場の回廊の上にある平屋根には見物人が立ち並んでいた。仮装行列のほかにまた、謝肉祭’末日の特徴たる/あらゆる馬車の行列が見られた。ちょうどロンシャンにおけるがように、辻馬車、市民馬車、逍遥馬車、幌小馬車、二輪馬車、などが警察の規則で互いに一定の距離を保ち、あたかもレールにはめ込まれたようにして、整然と進んでいた。それらの馬車の中にある者は誰でも、見物人であると同時に”また人から見物されていた。巡査らは、平行して反対の方向へ行くその間断なき二つの行列を、大通りの両側に並ばせ、その二重の運行が少しも妨げられないように:、馬車の二つの流れを、一つはカミ手のアンタン大道のほうへ、一つはシモ手のサン・タントアーヌ郭外のほうへと、厳重に監視していた。上院議員や大使などの紋章のついた馬車は、みちの中央を自由に往来していた。ある壮麗なおもしろい行列、ことに飾り牛の行列なども、同様の特権を持っていた。そういうパリーの快活さのうちに、イギリスはその鞭を鳴らしていた、すなわちセーモアー卿と一般に綽名されてる駅馬車は、大きな音を立てて走り過ぎていた。  二重の行列は、羊飼いの番犬のように並んで駆けてる市民兵で付き添われていたが、その中には、爺さんやバアさんたちがいっぱい乗り込んでる/正直な家族馬車が交じっていて、その戸口には仮装した子供の鮮やかな一群が見えていた。七歳ばかりの道化小僧や/六歳ばかりの道化娘らで、公然と一般の遊楽に加わってることを感じ、道化役者の品位と/役人のしかつめらしさとをそなえてる、愉快な少年少女らであった。  時々、馬車の行列のどこかに混雑が起こり、両側のどちらかの列に結び目ができて、それが解けるまで立ち止まることもあった。一つの馬車に故障が起これば、それですぐに全線が動けなくなった。しかしやがて行進は始まるのだった。  婚礼の馬車は、バスティーユの方へ向かって/大通りの右側を進んでる列の中にはいっていた。ところがポン・トー・シュー街の高みで、しばらく行列が止まった。それと同時に、マドレーヌのほうへ進んでる向こう側の行列も同じく行進を止めた。そして行列のちょうどその部分に一つの仮装馬車があった。  それらの仮装馬車は、否/むしろそれらの仮装の荷物は、パリーになじみの深いものである。もしそういう馬車が、謝肉祭’末日や四旬節’中日などに見えないと、人々は何か悪いことがあるのだと思い、互いにささやき合う。「何か訳があるんだな。たぶん内閣が変わるのかも知れない。」通行人の上のほうに揺り動かされてるたくさんのカサンドルや/アールカンや/コロンビーヌなどの道化、トルコ人から野蛮人に至るまでありとあらゆる滑稽な者、侯爵夫人をかついでるヘラクレスシン:、アリストファネスに目を伏せさせた巫女のように、ラブレーにも耳を押さえさせるかと思われるばかりの無作法な女ども、麻屑の鬘、薔薇色の肉ジュバン、洒落者の帽子、藪睨みの眼鏡:、蝶になぶられてるジャノー(訳者注◇ 滑稽愚昧な人物)の三角帽、徒歩の者らに投げつける叫び声、腰にあてたコブシ、ブ作法な態度、裸の肩、仮面をつけた顔、ほしいままな醜態:、それから花の帽子をかぶった御者が撒き散らす無茶苦茶な悪くチ、そういうのがこの見世物のありさまである。  ギリシャにはテスピスの四輪馬車が必要であったが、フランスにはヴァデの辻馬車が必要である。(訳者注◇ 前者は悲劇の開祖たるギリシャ詩人、後者は通俗詩の開祖たるフランス詩人)  いかなるものもみんな道化化され得る、道化そのものも更に道化化され得る。古代ビの渋面であるサツルヌス祭も、次第に度を強めてきて/ついにカルナヴァル末日となっている。昔は葡萄蔓の冠をかぶり/太陽の光を浴び、神々しい半身裸体のうちに大理石で造られたような乳房を示していたバッカス祭も:、コンニチでは北部の湿ったボロの下に形がくずれてきて、仮面行列と言われるようになっている。  仮装馬車の風習は王政時代のごく古くからあった。ルイ十一世の会計報告によれば、「仮装辻馬車三台のために/トールヌア貨幣二十」を宮廷執事に使わせている。現今では、それら一群の騒々しい仮装人物らは、たいてい旧式な辻馬車の上段にいっぱい立ち並び、あるいは幌をおろした市営幌馬車にガヤガヤつまっている。六人乗りの馬車に/二十人も乗っている。椅子や/腰掛けや/幌の横や/轅にまでも乗っている。照灯にまたがってる者さえある。あるいは立ち、あるいは寝ころび、あるいはコシをかけ、あるいは足をねじ曲げ、あるいは脛をぶら下げてる。女は男の膝に腰掛けてる。遠くから見ると、それらのウヨウヨした頭が妙なピラミッド型をなしている。そしてこの一馬車の者どもは、群集の真ん中に/歓喜の山となってそびえている。コレや/パナールや/ピロン(訳者注◇ 皆’諧謔風刺に富んだ詩人)などのような言葉が、更に隠語を交じえてそれから流れ出る。その-じょうほうから群集の上に、野卑な文句が投げつけられる。できる限りたくさんの人を積んでるその馬車は、戦利品のようなありさまに見える。前部は喧騒をきわめ、後部は混雑をきわめている。一同は怒鳴り、わめき、吼え、笑い、有頂天になっている。快活の気はわき立ち、キシは燃え上がり、陽気さはヒイのようにひろがっている。二匹の痩馬は、花を開いてる滑稽を/神に祭り上げて引いてゆく。それは哄笑の凱旋車である。  その哄笑は、露骨というにはあまりに皮肉すぎる。実際その笑いには怪しげな気がこもっている。それは一つの使命を帯びてるのである。パリー人に謝肉祭を示すの役目を持ってるのである。  それら野卑’無作法な馬車には、何となく暗黒の気が感ぜらるるものであって、思索家をして夢想に沈ませる。その中には政府がいる。コウジンと公娼との不思議な和合がそこにはっきりと感ぜらるる。  いろいろの醜悪が積み重なって一つの快活さを作り上げること、破廉恥と卑賤とを積み上げて民衆を酔わすこと、スパイが醜業を支える’柱となって/衆人を侮辱しながらかえって衆人を笑わせること:、金ぴかのボロであり、半ば醜業と光明とであり、吠えまた歌っている、その生きた恐ろしい積み荷が、辻馬車の四つの車輪に運ばれてゆくのを見て、群集が喜ぶこと:、あらゆる恥辱でできてるその光栄に向かって、人々が手をたたいて喝采すること:、二十の頭を持った喜悦のカイダを自分たちの真ん中に引き回してもらうという以外には、群集にとって何らおもしろいにぎわいもないということ、それは確かに悲しむべきことである。しかしどうしたらいいのか。リボンと花とで飾られたオセンのそれらの車は、公衆の笑いによって侮辱されながら/赦されているではないか。すべての者の笑いは、一般の堕落を助ける。ある種の不健全なにぎわいは、民衆を分散さして多衆となす。そして多衆にとっては暴君にとってと同じく、諧謔が必要である。国王にはロクロールがあり、人民にはパイヤスがある(訳者注◇ 前者はルイ十四世の下にいた諧謔をもって知られし将軍、後者は卑俗な喜劇によく出て来る一種の道化役)。パリーは荘厳な大都市たることを-やむる時には/常に狂愚な大都会となる。謝肉祭はその政治の一部分となっている。うち明けて言えば、パリーは好んで破廉恥な喜劇を受け容れる。もし主人があれば、その主人はただ一事をしか求めない、すなわちわれに泥を塗ってくれと。ローマも同じ気質を持っていた。ローマはネロを愛していた。しかるにネロは巨大なる泥塗りにんであった。  さて、前に言ったとおり、婚礼の行列が大通りの右側に止まったとき偶然にも、仮面をつけた男女がふさのようにかたまって乗り込んでるその大きな四輪馬車の一つが、大通りの左側に止まった。そして仮装馬車はちょうど新婦の馬車と大通りをはさんで向かい合った。 「おや/」と仮装のひとりが言った、「婚礼だ。」 「嘘の婚礼だ。」と他のひとりが言った。「本物は俺たちのほうだ。」  そして、婚礼の列のほうへ言葉をかけるには少し離れすぎていたし、また巡査の制止の声を恐れていたので、仮装の二人は他のほうを向いた。  すぐに、仮装馬車の者らはごく忙しくなった。群集が彼らに悪罵の声をかけ始めた。それは仮装の者らに対する群集の愛撫である。いま言葉をかわした二人も、仲間の者らといっしょに、衆人に立ち向かわなければならなかった。彼らは道化者のあらゆる武器を持っていたが、無数の人々の悪謔を相手にして/他を顧みるの余裕がなかった。そして仮装の者らと群集との間に激しく諧謔がかわされた。  そのうちに、同じ馬車に乗っていた他の仮装の二人、すなわちお爺さんのふうをして馬鹿に大きな黒髭をつけてる/鼻の大きなスペイン人と、黒ビロードの仮面をつけてるごく若いやせたはすっぱ娘とが:、やはり婚礼の馬車に目を止めて、仲間の者らと道行びとらとが互いに野次りかわしてるあいだに、低い声で話をした。  彼らの二人の内緒話は、喧騒の声に包まれて他にもれなかった。去来する雨に、あけ放してある馬車の中はすっかり濡れていた。それに二月の風はまだ寒い。スペイン人に答えながら、首筋をあらわにしたはすっぱ娘のほうは、震え笑い/かつ咳をしていた。  その会話は次のとおりだった。(訳者注◇ 以下の会話は隠語を交じえたものと想像していただきたい) 「なあ、おい。」 「なによ、お父さん。」 「あの爺さんが見えるか。」 「どの爺さん?」 「向こうの、婚礼馬車の一番先のに乗ってる、こちら側のさ。」 「黒い布で腕を吊ってるほうの。」 「そうだ。」 「それがどうしたの。」 「どうも確かに見覚えがある。」 「そう。」 「この首を賭けてもいい、この命を賭けてもいい、俺は確かにあのパンタン人(パリー人)を知ってる。」 「なるほど今日は、パリーはパンタンだね。」:(訳者注◇ パンタンとは小さな操り人形のことにて仮面道化をさすのであるが、また下層の俗語ではパリーのことをパンタンという) 「少しかがんだらお前に花嫁が見えやしないか。」 「見えない。」 「花婿のほうは?」 「あの馬車には花婿はいないよ。」 「なあに!」 「いないよ、もう一人の爺さんが花婿なら知らないが。」 「とにかくよくかがんで花嫁を見てくれ。」 「見えやしないよ。」 「じゃいいさ。だが手をどうかしてるあの爺さんを、俺は確かに知ってる。」 「爺さんを知ってるったって、それがなにになるんだね。」 「それはわからねえ。だが時には何かになるさ。」 「あたしは爺さんなんかあまり気には止めないよ。」 「俺はあいつを知ってる!」 「勝手に知るがいいよ。」 「どうして婚礼の中に出てきたのかな。」 「よけいなことだよ。」 「あの婚礼はどこから出たのかな。」 「あたしが知るもんかね。」 「まあ聞けよ。」 「なに?」 「ちょっと頼まれてくれ。」 「なにを?」 「馬車からおりてあの婚礼の跡をつけるんだ。」 「どうして?」 「どこへ行くのか、そしてどういう婚礼か、少し知りてえんだ。急いでおりて駆けていけ、お前は若いから。」 「この馬車を離れることはできないよ。」 「なぜだ。」 「雇われているんだからさ。」 「畜生!」 「はすっぱ娘になって警視庁から一日分の給金をもらってるじゃないかね。」 「なるほど。」 「もし馬車から離れて、警視に見つかろうもんなら、すぐにつかまってしまう。よく知ってるくせに。」 「うん、知ってるよ。」 「今日は、あたしはお上から買われた身だよ。」 「それはそうだが、どうもあの爺さんが気になる。」 「爺さんなのが気になるの。若い娘でもないくせにね。」 「一番先の馬車に乗ってる。」 「だから?」 「花嫁の馬車に乗ってる。」 「それで?」 「花嫁の親に違いねえ。」 「それがどうしたのさ。」 「花嫁の親だというんだ。」 「そうさね、ほかに親はいやしない。」 「まあ聞けよ。」 「なんだね?」 「俺は仮面をつけてでなけりゃ/外にはあまり出られねえ。こうしてりゃ、顔が隠れてるから誰にもわからねえ。だが明日になったらもう仮面がなくなる。明日は灰の水曜日(四旬節’第イチニチ)だ。うっかりすりゃ捕まっちまう。また穴の中に戻らなき-ゃあならねえ。ところがお前は自由な身体だ。」 「あまり自由でもないよ。」 「でも俺よりは自由だ。」 「だからどうなのよ?」 「あの婚礼がどこへ行くか調べてもらいたいんだ。」 「どこへ行くか?」 「そうだ。」 「それはわかってるよ。」 「なに、どこへ行くんだ?」 「カドラン・ブルーへ-さ。」 「なにそっちの方面じゃねえ。」 「それじゃ、ラーペへ-さ。」 「それともほかのほうかも知れねえ。」 「それは向こうの勝手さ。婚礼なんてものはどこへ行こ-うと自由じゃないか。」 「まあそんなことはどうでもいい。とにかく、あの婚礼はどういうもので、あの爺さんはどういう男で、またあの人たちはどこに住んでるか、それを俺に知らしてくれというんだ。」 「いやだよ! 馬鹿馬鹿しい。一週間もたってから、謝肉祭の終わりの火曜日にパリーを通った婚礼がどこへ行ったか調べたって、なかなかわかるもんじゃないよ。藁小屋の中に落ちた針を探すようなもんだ。わかりっこないよ。」 「でもまあやってみるんだ。いいかね、アゼルマ。」  そのうち二つの列は、大通りの両側で/反対にまた動き出した。そして花嫁の馬車は仮装馬車から見えなくなってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【なお腕を吊れるジャン・ヴァルジャン】 ◇。◇。◇。◇。◇。  夢想を実現すること。誰がそれを許されているか。それには天における推薦を得なければならない。人は-みな/自ら知らずして候補に立つ、そして天使らが投票をする。コゼットとマリユスとはその選に入っていた。  区役所と教会堂とにおけるコゼットは、燦然として人の心を奪った。彼女の身じたくは、ニコレットの手伝いで主にトゥーサンがやったのである。  コゼットは白琥珀のショーイの上にバンシュ紗のナガギヌをまとい、イギリス刺繍のヴェール、みごとな真珠の首環、オレンジの帽をつけていた。それらはミナ白’色だったが、その白ずくめの中で彼女は光り輝いていた。美妙な純潔さが光明のうちに綻びて/姿を変えようとしてるありさまだった。処女が女神になろうとしてるのかと思われた。  マリユスの美しい髪は艶々として薫っていた。その濃い巻き毛の下には所々に、防寨での傷跡である青白い筋が少し見えていた。  祖父は昂然として頭をもたげ、バラス(訳者注◇ 革命内閣時代の華美’豪奢な人物)の時代のあらゆる優美さを最もよく集めた服装と態度とをして、コゼットを導いていた。ジャン・ヴァルジャンが腕を吊っていて/花嫁に腕を貸すことができなかったので、彼がその代わりをしているのだった。  ジャン・ヴァルジャンは黒い服装をして、そのあとに従い/ほほえんでいた。 「フォーシュルヴァンさん、」と祖父は彼に言った、「実にいい日ではありませんか。これで悲しみや苦しみはおしまいにしたいもんです。これからはもうどこにも悲しいことがあってはいけません。まったく私は喜びを主張します。悪は存在の権利を持つものではありません。実際’世に不幸な人々がいることは、青空に対して恥ずべきことです。悪は元来’善良である人間から来るものではありません。人間のあらゆる悲惨は、その首府として、またその中央政府として、地獄を持っています、言い換えれば悪魔のテュイルリー宮殿を持ってるのです。いやこれは、今では私も過激派のような言い方をするようになりましたかな。ところで私はもう、何ら政治上の意見は持っていません。すべての人が金持ちであるように、すなわち愉快であるように、それだけを私は望んでいるんです。」  あらゆる儀式を完成させるものとして、区長の前と牧師の前とで/ある限りの然りという答えを発したあと、区役所の書面とオクドノの書面とに署名したあと、二人互いに指輪を交換したあと:、香炉の煙に包まれて、真っ白な観世模様絹の天蓋の下に相並んでひざまずいたあと、二人互いに手を取り合って、すべての人々から賛美され/うらやまれつつ、マリユスは黒服をまとい/彼女は白服をまとい:、大佐の肩章をつけ/鉞で敷石に音を立てる案内人のあとに従い、魅せられてる見物人の人垣の間を進んで:、両ヒとも大きく開かれてる教会堂の表門の下まで行き、再び馬車に乗るばかりになって、すべてが終わった時、コゼットはまだそれが夢ではないかと疑っていた。彼女はマリユスを眺め、群集を眺め、空を眺めた。あたかも夢からさめるのを恐れてるが-ようだった。そのびっくりした不安な様子は/言い知れぬ一種の魅力を彼女に添えていた。家に戻るために、彼らはいっしょに相並んで同じ馬車に乗った。ジルノルマ-ン氏とジャン・ヴァルジャンとが二人に向き合ってすわった。ジルノルマン伯母は一段だけ位を落とされて、二番目の馬車に乗った。祖父は言った。「これでお前たちは、三万フランの年金を持ってる男爵/および男爵夫人となったわけだ。」コゼットはマリユスに近く寄り添って、天使のようなささやきで彼の耳元をなでた。「本当なのね。私の名もマリユスね。私はあなたの夫人なのね。」  彼ら二人は光り輝いていた。彼らは、再び来ることのない/見いだそうとて見いだせない瞬間にあり、あらゆる青春と喜悦との”まばゆい交差点にあった。彼らはジャン・プルーヴェールの-しを実現していた。二人の年齢を合わしても四十歳に満たなかった。精気のような結婚であって、その二人の若者は二つの百合の花であった。彼らは互いに見ることをせず、しかも互いに見とれ合っていた。コゼットはマリユスを光栄の中に眺め、マリユスはコゼットを祭壇の上に眺めていた。そしてその祭壇の上とその光栄の中とに、二人は共にカミとなって相交わり、その奥に、コゼットにとっては霞のうしろに、マリユスにとっては炎の中に:、ある理想的なものが、現実的なものが、口づけと夢との会合が、婚姻の枕が、横たわってるのだった。  過去のあらゆる苦しみは戻ってきて、かえって彼らを酔わした。苦痛、不眠、涙、煩悶、恐怖、絶望、それらのものも今は愛撫と光輝とに姿を変じて、まさに来たらんとする麗しい時間を/更に麗しくするように思われた。そしてあらゆる悲しみも/今は喜びの装いをする召し使いのように思われた。苦しんだのはいかに幸せなことであるか。彼らの不幸は今や彼らの幸福に曙の色を与えていた。二人の愛の長い苦悶はついに昇天の喜びに達したのである。  彼ら二人の魂のうちには、マリユスにあっては快楽の色に染められ/コゼットにあっては貞節の色に染められてる同じ歓喜があった。彼らは声低く語り合った。二人でプリューメ街の小さな庭を”また見に行こうと。コゼットのナガギヌの襞はマリユスの上に置かれていた。  そういう日こそは、ユメマボロシの確実との/得も言えぬ混同の日である。人は実際に所有し”また仮想する。いろいろ想像するだけの余裕がまだ残っている。真昼にあって真夜中のことを思うその日こそは、実に名状し難い情緒に満ちてるものである。彼ら二人の心の楽しさは、衆人の上にも流れ出し、通りすがりの者らにも喜悦の気を与えていた。  サン・タントアーヌ街のサン・ポール教会堂の前には、多くの人が立ち止まって、コゼットの頭の上に震えるオレンヂを/馬車のガラスド越しに眺めていた。  それから一同は、フィーユ・デュ・カンヴェール街の自宅に戻った。マリユスはコゼットと相並んで、かつて瀕死の身体を引きずり上げられたあの階段を、光り輝き/昂然として上っていった。貧しい人々は、戸口の前に集まって/もらった-かねを分かちながら、二人を祝福した。至る所に花が撒かれていた。家の中も教会堂に劣らず香りを放っていた。コウの次に薔薇の花となったのである。二人は無窮のうちに歌声を聞くような気がし、心のうちに神をいだき、宿命を星の輝く天井のように感じ、頭の上に朝日の光を見るがように思った。突然大時計が鳴った。マリユスはコゼットの美しい裸の腕と、胴衣のレース越しにかすかに見える薔薇色のものとを眺めた。そしてコゼットはマリユスの視線を見て、目の中までも真っ赤になった。  ジルノルマン一家の旧友の多数は、みんな招待されていた。人々はコゼットのまわりに集まって、先を争いながら男爵夫人と彼女に呼びかけた。  今は大尉になってるテオデュール・ジルノルマン将校も、従兄弟ポンメ-ルシーの結婚に列するため、任地のシャルトルからやってきていた。コゼットは彼の顔を忘れていた。  彼のほうでは、いつも婦人らからきれいだと思われてばかりいたので、もうコゼットのことも頭に残っていなかった。 「この槍騎兵の話を本当にしないでよかった。」とジルノ-ルマン老人はひとりで思った。  コゼットはこれまでにないほどジャ-ン・ヴァルジャンに対してやさしかった。また彼女はジルノ-ルマン老人としっくり調子が合っていた。老人が盛んに警句や格言を使って喜びを述べ立ててる間、彼女は愛と善良さとを/香りのように発散さしていた。幸福はすべての者が楽しからんことを欲するものである。  彼女はジャン・ヴァルジャンに話しかける時は、少女時代の声の調子に戻っていた。また、ほほえみを送って彼に甘えていた。  饗応の宴は食堂に設けられていた。  昼間のように明るい灯火は、ダイなる喜びの席にはなくてならないものである。靄と-くらさとは決して幸福な人々の好むものではない。彼らは黒い姿となるのを喜ばない。夜は-よいが、暗闇はいけない。もし太陽が出ていなければ、それを別に一つこしらえなければならない。  食堂は楽しい器具の巣であった。中央には、真っ白に光ってる食卓の上に、平たい延べ金の下飾りがついてるヴェニス製のダイ燭台が一つあって:、そのシホウの枝の蝋燭に囲まれた真ん中には、青や/紫や/赤や/緑などに塗った各種の鳥がとまっていた。オオ燭台のまわりには多くの飾り燭台があり、壁には3枝もしくは五枝に分かれた反射鏡がかかっていた。鏡、水晶器具、ガラス器具、皿、磁器、陶器、土器、金銀ザイク物、銀の器具など、すべてが輝き笑っていた。燭台のあいだあいだには花輪がいっぱい積まれていて、至るところ光か花かであった。  次の間では、三つのバイオリンと/一つの笛とがセイオン器をつけて、ハイドンの四部合奏曲を奏していた。  ジャン・ヴァルジャンは客間の入り口の横手の椅子に座っていて、扉が開くとほとんどそのうしろに隠れるようになっていた。食堂に入るちょっと前に、コゼットはふと引きずられるように彼のそばに寄ってゆき、両手で花嫁の衣裳をひろげながら/深い愛嬌の様子を示し、やさしい/いたずらそうな目つきをして尋ねた。 「お父さま、あなた/おうれしくて?」 「ああ、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「うれしい。」 「では笑ってちょうだいな。」  ジャン・ヴァルジャンは笑顔をした。  やがて、バスクは食事の用意が整ったことを告げた。  客人らは、コゼットに腕を貸してるジルノルマ-ン氏のあとについて、食堂に入り、予定の順序で食卓のまわりに並んだ。  花嫁の右と左とにある二つの大きな肱掛椅子には、一つにジルノルマ-ン氏がすわり、一つにジャン・ヴァルジャンがすわることになっていた。ジルノルマ-ン氏は席についた。しかしもう一つの肱掛椅子には誰もいなかった。  人々は「フォーシュルヴァ-ン氏」の姿を見回した。  彼はもうそこにいなかった。  ジルノルマ-ン氏はバスクに声をかけた。 「フォーシュルヴァ-ンさんはどこにおらる-るか知っていないか。」 「はい存じております。」とバスクは答えた。「フォーシュルヴァン様は、お手の傷が少し痛まれて、男爵お二方と会食ができないから、旦那様によろしく申し上げてほしいと私にお伝えでございました。そして今晩は御免を-こうむって、ミョウチョウ来るからと申されて、只今お帰りになりました。」  その-からの肱掛椅子のために、婚礼の宴は一時’白けた。しかしフォーシュルヴァ-ン氏は不在でも、ジルノルマ-ン氏がそこにいて、二人分にぎやかにしていた。もし傷が痛むようならフォーシュルヴァ-ン氏は早くからトコにつかれたほうがよいが、しかしそれもちょっとしたイタイタに過ぎない、と彼は断言した。そしてその言葉でもう充分だった。それにもとより、一座’喜びにあふれてる中にあって/その薄暗い一隅などは何でもないことだった。コゼットとマリユスはもう幸福の影しか頭に映らないような利己的な/至福な瞬間にあった。それにまたジルノルマ-ン氏は妙案を思いついた。「ところでその肱掛椅子が空いている。マリユス、お前がそこにすわるがいい。伯母さんのほうに権利はあるんだが、きっとお前に許してくれるよ。その席はお前のだ。それが正当で、また至極おもしろい。好運児と幸運女とは相並ぶべしだ。」人々は-みんな喝采した。マリユスはコゼットのそばにジ-ャン・ヴァルジャンの席についた。そして万事うまくいったので、初めジャン・ヴァルジャ-ンの不在を悲しく思っていたコゼットも、ついに満足するようになった。マリユスがジャ-ン・ヴァルジャンの代わりになった時、コゼットはもう’神を恨まなかった。彼女は白繻子の上靴をつけた小さなやさしい足を、マリユスの足の上にのせた。  肱掛椅子はふさがり、フォーシュルヴァ-ン氏はなくなってしまい、何も欠けた所はなかった。そして五分も経つうちには、食卓全体はすべてを忘れた上機嫌で、端から端まで笑いさざめいていた。  食後の茶菓子の時になって、ジルノルマ-ン氏は立ち上がり、九十二歳の高齢のために手が震えるのでこぼれないようにと、半分ばかり-つがしたシャンパンの杯を取り、新夫婦の健康を祝した。 「お前たちは二度の説教を逃れることはできない。」と彼は声を張り上げた。「朝に司祭の説教があり、晩に祖父の説教があるのだ。まあ儂の言うことを聞くがいい。儂はお前たちに一つの戒めを与える、それは互いに熱愛せよということだ。儂はくどくど泣き言を並べないで、すぐに結論に飛んでゆく、すなわち幸福なれというのだ。万物のうちで賢いのは/ただハトだけである。ところが哲学者らは言う、汝の喜びを節せよと。しかるに儂は言う、汝の喜びを奔放ならしめよと。むちゃくちゃにのぼせ上がるがいい、有頂天になるがいい。哲学者’どもの言うことは阿呆の至りだ。彼らの哲学なんかはその喉の中につき戻すがいいのだ。香りが多すぎ、開いた薔薇の花が多すぎ、歌ってる鶯が多すぎ、緑の木の葉が多すぎ、人生に曙が多すぎる、などということがあり得ようか。互いに愛しすぎるということがあり得ようか。互いに気に入りすぎるということがあり得ようか。気をつけるがいい、エステル、お前はあまりにきれいすぎる、気をつけるがいい、ネモラン、お前はあまりに麗しすぎる(訳者注◇ フロリアンの牧歌中の若い女と男)、などというのは-なんという馬鹿げたことだ。互いに惑わし/喜ばし/夢中にならせすぎるということがあり得るものか。あまり上機嫌すぎるということがあり得るものか。あまり幸福すぎるということがあり得るものか。汝の喜びを節せよだと、馬鹿な。哲学者’どもを打ち倒すべしだ。知恵はすなわち歓喜なり、歓喜せよ、歓喜すべし。いったいわれわれは、善良だから幸福なのか、もしくは幸福だから善良なのか? サンシーダイヤモンドは、アルレー・ド・サンシーの所有だったからサンシーといわれるのか、またはサン・シー(百六)カラットの重さがあるからサンシーと言われるのか? そういうことは儂にはわからない。人生はそんな問題で満ちている。ただ大切なのは、サンシーダイヤモンドを所有することだ、幸福を所有することだ。おとなしく幸福にしているがいい。太陽に盲従するがいい。太陽とはなんであるか? それは愛だ。愛といわば婦人だ。ああ/そこにこそ全能の力はあるんだ。それが婦人だ。この過激派のマリユスに聞いてみるがいい、彼がこのコゼットという小さな暴君の奴隷でないかどうかを。しかも甘んじてそうなってるではないか。実に婦人なるかなだ。ロベスピエールのごとき者でさえ長く地位を保つことはできない。常に婦人が君臨するのだ。儂がまだ王党だというのも、この婦人の王位に対してのことだ。アダムは何であるか? それはイブの王国だ。イヴにとっては89年(1789年)の事変なんかはない。百合の花を冠した国王の笏はあった、地球を上にのせた皇帝の笏はあった、鉄でできたシャールマーニュ大帝の笏はあった、黄金でできたルイ大王の笏はあった:、けれども革命は、親指と人差し指とで、イチモンの値打ちもない藁屑のようにそれらをへし折ってしまった。廃せられ/砕かれ/地に投ぜられて、もはや笏はなくなっている。ところが、蘭麝の香りを立てる刺繍した小さなハンカチに対して、革命をやれるならやってみるがいい。ひとつ見たいものだ。やってみなさい。なぜそれが強固かと言えば、一片の布だからだ。ああ/諸君は十九世紀ですね。どうです。われわれは十八世紀の者です。そしてわれわれも諸君と同じくらいに馬鹿であった。しかし諸君は、ころりがコレラ病と言われるようになり、ブーレ踊りがカチューシャ舞踏と言われるようになったからと言って、世界にダイ変化をきたしたと思ってはいけません。コンポンにおいては、常に婦人を愛せざるを得ないでしょう。その原則からは誰だってなかなか出られるものではない。それらの鬼女がわれわれの天使である。そうだ、愛と婦人と口づけ、その世界から誰も出られるものではない。儂はむしろそこに入りたいと思うくらいだ。ヴィーナスの星(金星)が、天空の偉大な洒落女が、大洋のセリメーヌが、あらゆるものをおのれの下に静めながら:、海の波濤をも一婦人のように物ともしないで、無窮の空に上ってゆくのを、諸君のうちに見られた方がありますか。大洋はすなわち謹厳なアルセストです(訳者注◇ モリエールの戯曲「人間ぎらい」ちゅうの主人公にてセリメーヌはその中の嬌艶な女)。ところで彼がいかに苦い顔をしていようと、ヴィーナス(愛の神)が現われてくれば、ほほえまざるを得ないのである。この粗暴な獣も屈服してしまう。われわれにしても同じことだ。フンヌ、暴風、雷鳴、天井までシブキが飛んでいようと、ひとりの婦人が舞台にアラワるれば、一つの星が上ってくれば、平伏’してしまうのである。マリユスは六カ月前には戦争をしていた。しかるにコンニチは結婚をしている。それは結構なことだ。マリユス、そうだとも、コゼット、お前たちのやることはもっともだ。大胆にふたり/頼り合って’生きてゆくがいい、互いに恋し合うがいい、さんざん他の者をうらやませるがいい、互いに崇拝し合うがいい。お前たち二人の嘴で、地上にありとあらゆる幸福の藁屑をつまみ取って、それで生涯の巣を作るがいい。愛し愛さるることは、若い時には麗しい奇蹟のような気がするものだ。だがそれは、自分たちが始めて考え出したことだと思ってはいけない。この儂もやはり夢をみたり、思いを馳せたり、憧れを-いだいたりしたことがある。儂もやはり、月のように輝いた魂を自分のものにしたことがある。恋愛は六千歳の子供だ。恋愛は長いシロヒゲをつけてもいい者なんだ。メトセラ(訳者注◇ ノアの祖父にて/九百六十九年’生きたと言わるる人物)もキューピッドに-くらぶれば鼻たらし小僧にすぎない。六十世紀も前から/男女は互いに愛しながら困難をきりぬけてきた。狡猾な悪魔は人間をきらい始めたが、いっそう狡猾な人間は女を愛し始めた。そうして、悪魔から受ける災いよりもいっそう多くのいいことをした。この妙策は、地上の楽園の初めから見いだされていたのである。この発明は古くからのものだが、いつまでも新しいものである。それを利用しなければいけない。フィレモンとボーシスになるまでは、まずダフニスとクロエになるがいい(訳者注◇ 前者は近代のオペラの中の二人の恋人、後者はギリシャの物語の中の二人の恋人)。お前たちが二人一緒にいさえすれば、何も不足なものはなく、コゼットはマリユスにとって太陽となり、マリユスはコゼットにとって全世界となる、そういうふうでなくてはいかん。コゼット、夫のほほえみをお前の晴天とするがいい、マリユス、妻の涙をお前の雨とするがいい。そして-ねがわくば、お前たちの家庭に決して雨が降らないようにな。お前たちは恋愛結婚といういい籤を引きあてた。その大変な賞品を得たのだから、それを大事にし、鍵をかけてしまって置き、やたらに使ってしまわないで、互いに愛し合い、その他のことは顧みないでいい。儂が言うことをよく心に止めておかなくてはいかん。これはボンサンス(良識)だ。良識は決して人を誤るものではない。互いに信仰し合わなくてはいかん。誰にでも神を拝む独特のやり方があるものだ。ところで神を拝む最もいい方法は、自分の妻を愛することだ。私はお前を愛する! というのが儂の教理要領だ。誰でも愛を持ってるものは-すなわち正教派だ。アンリ4世のセイトウシでは/飽食と酩酊との間に神聖というものが置かれていた。すなわち酔っ払いの神聖なる腹!(訳者注◇ 語気を強めるために、よし、畜生、などというのと同じ意味のもの):しかし儂はそういう宗派ではない。それには婦人が忘れられてる。アンリ4世のセイトウシにそういうことがあるのは儂の意外とするところだ。諸君、婦人なるかなです。人は儂を老人だと言う。しかし不思議にも儂は自分ながら若返ってくるような気がする。儂は森の中に行って睦言を聞きたいくらいだ。麗しく幸福である道を心得てるそれらの若者どもは、儂の心を酔わしてくれる。もし誰か見たいというなら、すてきな結婚をしてみせてもいい。いずれの点から考えても、神がわれわれ人間を作ったのは、こういうことをさせるためだったに違いない:、すなわち、夢中にかわいがり、喋々喃々し、美しく着飾り、鳩のようになり、雄鶏のようになり、朝から晩まで恋愛をつっつき回し:、かわいい妻のうちに自分の姿を映してみ、得意になり、意気揚々として、反りくり返ることだ。それが人生の目的である。御免を-こうむって申せば、われわれ老人がまだ若い頃/一般に考えていたことは、そういうようなことだった。ああ/その頃は、いかにあでやかなオンナが、愛くるしい顔ややさしい姿が、たくさんいたことだろう! 儂はその中を荒し回ったものだ。すべからく互いに愛し合うべし。もし愛し合うことがなかったならば、春があったとて何の役に立つか/儂にはわからない。そうなったら儂はむしろ’神に願って、神がわれわれに示してくれる美しいものを-みんな寄せ集め、それをわれわれから取り戻し、花や/小鳥や/きれいな娘を、再びその函に閉じ込めてもらいたいくらいだ。子供たちよ、この好々爺の祝福を受けてくれ。」  その一晩の饗宴は、にぎやかで/快活で/楽しいものだった。一座を支配する祖父の上機嫌’さは、すべてのものの基調となり、各人はほとんど100歳に近い老人の隔てない態度に調子を合わしていた。舞踏も少し行なわれ、また盛んに談笑された。甘えっ子の婚礼だった。高砂の爺さんを招いてもいいほどだった。それにまた、高砂の爺さんはジル-ノルマン老人のうちに含まれていた。  斯くて大騒ぎをしたあとに、静寂が落ちてきた。  新夫婦は退いていった。  十二時少し前に、ジルノルマン家は寺院のようにひっそりとなった。  ここでわれわれは筆を止めよう。結婚の夜の入り口には、ひとりの天使が立っていて、ほほえみながら’口に指をあてている。  愛の祝典があげらるる聖殿に対しては、人の魂は瞑想にはいってゆく。  それらの人家の上には光輝があるに違いない。その中にこもってる喜びは、光となって石の壁を通し、ほんのりと暗黒を照らすに違いない。その運命に関する神聖な祝いは、必ずや天国的な光明を/無窮のうちに送るに相違ない。愛は男女の融合が行なわれる崇高な坩堝である。一体と三体と極体と、人間の三位一体がそれから出てくる。斯く二つの魂が一つとなって生まれ出ることは、影にとっては感動すべきことに違いない。愛する男はひとりの牧師である。歓喜せる処女はびっくりする。かかる喜悦のあるものは神のもとまで達する。シンに結婚がある所には、すなわち恋愛がある所には、理想もそれに交じってくる。結婚のトコは、暗闇の中の一隅に曙を作り出す。もし上界の恐るべき”また麗しい形を肉眼で見得るものとするならば、夜の形象が、翼のある見知らぬ者らが、目に見えない境を過ぎりゆく青色の者らが:、身をかがめて、輝く人家のまわりに暗い頭を寄せ集め、満足し/祝福しつつ、処女の新婦を互いにさし示し:、やさしい驚きの様子をして、その聖い顔の上に人間の至福の反映を浮かべているのを、おそらく人は見るであろう。もしその極致の瞬間に、歓喜に眩惑せる二人の者が、他に誰もいないと信じつつも耳を澄ますならば、飛びかわす翼の音を部屋の中に聞くであろう。完全なる幸福は、天使をも参与させるものである。その小さな暗い寝所は、全天空を天井としている。愛に聖められた二つの脣が、創造のために相接する時、その得も言えぬ口づけの上には、星辰の広漠たる神秘のうちに、必ずや一つの震えが起こるに相違ない。  それらの幸福こそ/真正なるものである。それらの喜悦を他にしては真の喜悦は存しない。愛、そこにこそ唯一の恍惚たる喜びがある。他のすべては-みんな嘆きである。  愛’し/もしくは愛した、それで充分である。更に求むることをやめよ。人生の暗い襞のうちに見いだされ得る真珠は、ただそれのみである。愛することは成就することである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【そばより離さざる物】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ジャン・ヴァルジャンはどうなったか?  コゼットの優しい命令で笑顔をしたあと間もなく、誰からも注意を向けられていないのに乗じて、ジャン・ヴァルジャンは立ち上がり、人に気づかれぬうちに次の間へ退いた。八カ月以前に、彼が泥と/血と/埃とで真っ黒になって、祖父のもとへ/その孫を運んではいってきたのも、やはりその同じ部屋へであった。今やその古い壁板は、ミドリバと花とで飾られていた。かつてマリユスが横たえられた安楽椅子には、音楽師らが集まっていた。黒い上衣と/短いズボンと/白い靴足袋と/白い手袋とをつけたバスクは、これから出そうとする皿のまわりに/それぞれ薔薇の花を配っていた。ジャン・ヴァルジャンは首に吊った腕を彼に示し、席をはずす理由を伝えてくれるように頼んで、そこを出て行った。  食堂の窓は街路に面していた。ジャン・ヴァルジャンはしばらく、それらの明るい窓の下の影の中に、身動きもしないでたたずんでいた。彼は耳を澄ました。祝宴の混雑した物音が伝わってきた。祖父の堂々たるコワダカな言葉、バイオリンの響き、皿やコップの音、哄笑の声、などが聞こえてきた。そして彼はその愉快な騒ぎの中に、コゼットの楽しい/優しい声を聞き分けた。  彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街を去って、オンム・アルメ街へ帰っていった。  帰ってゆくのに彼は、サン・ルイ街と/キュルテュール・サント・カトリーヌ街と/ブラン・マントー教会堂のほうの道筋を取った。それは少し遠回りの道だったが、三カ月以前から、ヴィエイユ・デュ・タンプル街の/混雑と泥濘とを-さけるために:、コゼットと共に/オンム・アルメ街から/フィーユ・デュ・カルヴェール街へ行くのに、まいにち通いなれた道筋であった。  コゼットが通りつけたその道は、彼に他の道筋を取ら-せなかった。  ジャン・ヴァルジャンは自分の家に戻った。蝋燭をともして階段を上っていった。部屋はがらんとしていた。トゥーサンももういなかった。ジャン・ヴァルジャンの足音は、部屋の中にいつもより高く響いた。戸棚は-みんな開かれていた。彼はコゼットの部屋へ入った。寝台には敷布もなかった。綾布の枕は枕掛けもレース飾りもなくなって、床の下のほうにたたまれてる夜具の上にのせてあり、床はむき出しになって/もう誰も寝られないようになっていた。コゼットが大事にしていた細々した婦人用の器物は、みんな持ってゆかれていた。残ってるのはただ、大きな家具とシホウの壁ばかりだった。トゥーサンの寝床も同じように取り片づけてあった。ただ一つの寝床だけが用意されていて、誰かを待ってるようだった。それはジャン・ヴァルジャンの寝床だった。  ジャン・ヴァルジャンは壁を眺め、戸棚のニサンの戸を閉ざし、部屋から部屋へと歩き回った。  それから彼は自分の部屋に入り、テーブルの上に燭台を置いた。  彼は吊るしていた腕をはずし、別に痛みもしないかのように/その右手を使っていた。  彼は自分の寝台に近寄った。そして彼の目は、偶然にか”または意あってか、コゼットがうらやんでたつき物の上に、決して彼のそばを離れない小さな鞄の上に落ちた。六月四日/オンム・アルメ街にやってきた時、彼はそれを枕元の小卓の上に置いていた。彼はすばしこくその小卓の所へ行き、ポケットから一つの鍵を取り出し、そして鞄を開いた。  彼はその中から、十年前/コゼットがモンフェルメイュを去る時につけていた衣裳を、静かに取り出した。第一に小さな黒いナガギヌ、次に黒い襟巻き、次にコゼットの足はごく小さいので/今でもまだ履けそうな/丈夫な粗末な子供グツ:、次にごく厚い綾織りの下着、次にメリヤスのショーイ、次にポケットのついてる胸掛け、それから毛糸の靴足袋。その靴足袋には、小さな脛の形がまだかわいく残っていて、ほとんどジャン・ヴァルジャンの掌の長さ-ほどしかなかった。それらのものは-みんな黒い色だった。彼女のためにそれらの衣裳をモンフェルメイュまで持ってってやったのは彼だった。今’彼はそれらを鞄から取り出しては、一々寝床の上に並べた。彼は考え込んでいた。昔のことを思い起こしていた。冬で、ごく寒い十二月のことだった。彼女はボロを着て半ば裸のまま震えていた。そのあわれな小さな足は/木靴を履いて真っ赤になっていた。彼ジャン・ヴァルジャ-ンは、それらの破れ物を脱がせて、この喪服をつけさしてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、ことに相当な服装をして暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだに違いなかった。また彼はモンフェルメイュの森のことを思い出していた。コゼットと彼とは二人いっしょにその森を通っていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない木立のこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったこと、などがみんな思い出された。そして今’彼はそれらの小さな衣類を寝床の上に並べ、襟巻きをショーイのそばに置き、靴足袋を靴のそばに置き、下着をナガギヌのそばに置き、それらを一つ一つ眺めた。あのとき彼女はまだごく小さかった。大きな人形を腕に抱き、ルイ金貨をこの胸掛けのポケットに入れ、そして笑っていた。二人は手を取り合って歩いた。彼女が頼りとする者は、世にただ彼ひとりだった。  そこまで考えた時、ジャン・ヴァルジャンの敬すべき白髪の頭は寝床の上にたれ、その堅忍な老いた心は張り裂け、その顔はコゼットの衣裳の中に埋ってしまった。もしその時階段を通る者があったら、激しいすすり泣きの声が耳に聞こえたであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【きわみなき苦悶】 ◇。◇。◇。◇。◇。  われわれが既にその多くの局面を眺めてきた/古い恐るべき争闘が、再び始まった。  ヤコブが天使と争ったのはただ一夜だけであった。しかるに痛ましくも、ジャン・ヴァルジャンが暗黒の中で/自分の本心とつかみ合って猛烈に争うのを、幾度吾人は見たことであろう!  実に異常な争闘であった。ある時は足がすべり、ある時は足下の地面がくずれた。善へ進まんとあせる本心が、彼をつかみ/彼を圧倒したことも、幾度であったろう。1歩も譲らない真理が、彼の胸を膝の下に押さえつけたことも、幾度であったろう。彼が光明から投げ倒されて/その宥恕を願ったことも、幾度であったろう。彼のうちに”また彼の上に司教からともされた仮借なき光明が、盲目ならんと欲する彼を強いて眩惑さしたことも、幾度であったろう。巖に身を支え、詭弁によりかかり、塵にまみれ、あるいは本心を自分の下に打ち倒し、あるいは本心から打ち倒されながら、争闘のうちに彼が立ち直ったことも、幾度であったろう。曖昧な理屈を立てたあと、利己心の一見’道理’あるらしい狡猾な論法を用いたあと:、憤った本心から「奸佞の徒、みじめなる奴、」と耳に叫ばれるのを彼が聞いたのも、幾度であったろう。頑迷なる彼の思想が、瞭然たる義務の下に痙攣的なうめきを発したのも、幾度であったろう。神に対する抗争。暗い汗。多くの秘密な傷、彼ひとりだけが感ずる多くの出血。彼の痛ましい生が受くる多くの擦り傷。血’にまみれ、傷におおわれ、身を砕かれ、光に照らされ、心に絶望の念をいだき、魂に清朗の気をたたえて、彼がまた起き上がったのも、幾度であったろう。敗者でありながら/彼は勝者のように感じていた。そして彼の本心は、彼を挫き/苦しめ/打ち折ったあと、恐ろしい/煌々たる/落ち着いた姿をして彼の上につっ立ち、彼に言った、「今は平和に歩くがいい!」  しかし、斯く陰惨な争闘から出てきた後では、それもいかに悲しい平和であったことか!  けれどもその晩ジャン・ヴァルジャンは、最後の戦いをしてるような心地になった。  痛切な一つの問題が現われていた。  定められた運命は真っ直ぐなものではない。それは当の人間の前に”まっすぐな大道となって-ひらけゆくものではない。行き止まりもあり、袋庭もあり、真っ暗な曲がり角もあり、多くの道が交錯してる不安な四つ辻もある。ジャン・ヴァルジャンは今、それらの四つ辻のうち最も危険なものに立ち止まっていた。  彼は善と悪との最後の交差点に到達していた。その暗黒な接合点を眼前に見ていた。そしてこんども、他の痛ましい変転の折/既に幾度か起こったように、二つの道が前に-ひらけていた。一つは彼を誘惑し、一つは彼を恐れさした。いずれを取るべきであるか?  彼を恐れさする’道のほうを、神秘な指先がさし示していた。その指こそは、影の中に目を定めるたびごとに万人が認め得るところのものである。  ジャン・ヴァルジャンは-なお一度、恐るべき港と/ほほえめる陥穽とのいずれかを選択しなければならなかった。  それでは、魂は癒され得るが/運命はいかんともし難いということは、果たして真実なのか。不治の宿命! 恐るべきことである。  彼の前に現われた問題とは、次のようなものであった。  ジャン・ヴァルジャンはコゼットとマリユスとの幸福に対していかなる態度を取らんとしていたのか。しかもその幸福たるや、彼が自ら望み、彼が自ら作ってやったものである。彼はその幸福を自分の内臓のうちにしまい込んでいたが、今やそれを取り出して眺めていた。そして、自分の胸から血煙を立てる短刀を引きぬきながら/その上におのれの製作銘を-みとむる刀剣師のような一種の満足を、彼は感じ得るのであった。  コゼットはマリユスを得、マリユスはコゼットを所有していた。彼らはすべてを、富をさえも得ていた。しかもそれは彼が自ら成してやった-わざだった。  しかし、いま現に存在し/今そこにあるその幸福に対して、彼ジャン・ヴァルジャ-ンはどうしようとしていたのか。彼はその幸福の仲間にはいってもよかったであろうか。それを自分のものであるかのように取り扱ってもよかったであろうか。確かにコゼットは他人のものであった。しかし彼ジャン・ヴァルジャ-ンは、自分が保有し得るだけのものをコゼットから保有してもよかったであろうか:、推定されたものではあるが/しかし大切にされていた父たるの地位に、彼は今までどおり-とどまっていてもさしつかえなかったであろうか。平然としてコゼットの家にはいり込んでもよかったであろうか。その未来の中に自分の過去を、一言も明かさずに持ち込んでもよかったであろうか。当然であるかのようにそこに出てゆき、素性を隠しながら/その輝く炉辺にすわっても、さしつかえなかったであろうか。彼らの潔い手を自分の悲惨な手のうちに、ほほえみながら取ってもよかったであろうか。ジルノルマン家の客間の平和な炉火の前に、法律の不名誉な影をあとに引きずってる自分の足を置いても、よかったであろうか。コゼットとマリユスと共に、彼も幸運の分け前をもらってもよかったであろうか。自分の頭の上の曇りと/彼らの上の雲とを深めても、さしつかえなかったであろうか。彼ら二人の至福に自分の覆滅を、第三者として付け加えてもよかったであろうか。やはり何も打ち明けないでもよかったであろうか。イチゴンにして言えば、それら二人の幸福な者のそばに、宿命の気味悪い沈黙としてすわっていても、さしつかえないのであったろうか。  人は常に宿命とその打撃とになれていて、ある種の疑問が/恐ろしい赤裸の姿で現われてきても、あえて目をあげて/それを見つめ得るようになっていなければいけない。善と悪とはそのきびしい疑問の背後に控えている。「どうするつもりか、」とそのスフィンクスは尋ねる。  ジャン・ヴァルジャンはそういう試練になれていた。彼はそのスフィンクスをじっと見つめた。  彼はその残忍な問題をあらゆる方向から考究した。  あの麗しいコゼットは、難破者たる彼にとっては一枚の板子であった。しかるに今や如何にすべきであったか。それに取りついているべきか。それを離すべきか!  もしそれに取りついていれば、彼は破滅から免れ、日光のうちに上ってゆき、衣服と頭髪とから苦い水をしたたらせ、救われ、生きながらえることができるのだった。  もしそれを離せば!  その時は深淵あるのみだった。  斯く彼は自分の考えに悲痛な相談をなしてみた。あるいは更に適切に言えば、戦いを開いた。彼は心のうちで、あるいは自分の意志に対して/あるいは自分の確信に対して、猛然として飛びかかっていった。  泣くことができたのは、ジャン・ヴァルジャンにとって一つの幸せだった。それはおそらく彼の心を晴らしたであろう。けれども争いの初めは激烈だった。一つの暴風雨が、昔彼をアラスのほうへ吹きやったのよりもいっそう猛烈な暴風雨が、彼のうちに荒れ回った。過去は現在の前に再び現われてきた。彼はその両者を比較し、そしてすすり泣いた。一度涙の堰が開かるるや、絶望した彼は身をもだえた。  彼は道がふさがったのを感じていた。  ああ、利己心と義務との激戦において、昏迷し、奮激し、降伏を肯んぜず、地歩を争い、何らかの逃げ道をねがい:、一つの出口を求めつつ、巍然たる理想の前から一歩一歩退く時、後方にある壁の根本は、いかに凄惨なる抵抗を突然なすことであるか。  道をさえぎる聖なる影を感ずるココチは!  目に見えざる酷薄なるもの、それはいかに執拗につきまとってくることか!  本心との戦いには決して終わりがない、ブルツスといえどもあきらめるがいい。カトーといえどもあきらめるがいい。本心は神なるがゆえに、底を持たない。その井戸の中へ、一生の仕事を投げ込み、幸運を投げ込み、富を投げ込み、成功を投げ込み、自由や祖国を投げ込み、安寧も、休息も、喜悦も、みんな投げ込んでみよ。まだ、まだ、まだ足りない。瓶を-むなしゅうし、壺の底をはたけ。そして終わりに、おのれの心をも投げ込まなければならない。  いにしえの地獄の靄の中には、そういう大樽がどこかにある。  それを拒むのは許されないことであろうか。尽きることなき追求はその権利を持ってるのであろうか。限りなき鉄鎖は人力の耐え得ないものではないのであろうか。シシフス(訳者注◇ 死後地獄の中にてエーキュウに岩石を転がす刑に処せられし者)や/ジャン・ヴァルジャンが、「もうこれが力の限りだ/」と言うのを、誰か咎める者があろうか。  物質の服従には、磨損するがために一定の限度がある。しかるに、精神の服従には限度がないのであろうか。エーキュウの運動が不可能であるとするのに、それでもエーキュウの献身が求め得らる-るのであろうか。  第一歩は容易である。困難なのは最後の一歩である。シャンマティユーの事件も、コゼットの結婚および続いて来る事柄に-くらぶれば-なんであったろう。再び徒刑バにはいることも、虚無のうちに入りゆくことに-くらぶれば何であろう。  下降の第一段は、いかに暗いものであることか。更に第二段は、いかに暗黒なるものであることか!  このたびは、いかにして顔をそむけないでおられようぞ。  殉教は、一つの浄化である、侵蝕による浄化である。聖化せしむる苛責である。最初のうちはそれを甘んじて受くることができる。赤熱した鉄の玉座にすわり、赤熱した鉄の冠を額にいただき、赤熱した鉄の王国を甘諾し、赤熱した鉄の笏を執る。しかしなおその上に炎のマントを着なければならない。そしてその時こそ、みじめな肉体は反抗し、人はその苦痛を避けたく思うことが、ないであろうか。  ついにジャン・ヴァルジャンは、喪心の極み、平静のうちにはいった。  彼は計画し、夢想し、光明と陰影との神秘なハカリザラのコウテイを眺めた。  光り輝く二人の若者に自分の刑罰を添加すること、もしくは、救う道なき自分の陥没を/自分ひとりに-とどめること。前者はコゼットを犠牲にすることであり、後者は自己を犠牲にすることであった。  彼はいかなる解決をなしたか。いかなる決心を定めたか。宿命の森厳なる尋問に対して/彼が心のうちでなした最後の確答は、なんであったか。いかなる扉を開こうと彼は決心したか。イノチのいかなる方面の扉を、彼はいよいよ閉鎖しようと決心したか。シホウをとりまいてる測り知られぬ断崖のうち、いずれを彼は選んだか。いかなる絶端を彼は甘受したか。それらの深淵のいずれに向かって、彼は首肯したか?  彼の昏迷的な夢想は終夜続いた。  彼はそのまま同じ態度で、寝床の上に身をかがめ、巨大な運命のもとに平伏’し、おそらくは痛ましくも押しつぶされ:、十字架につけられた後俯向けに投げ出された者のように、拳を握りしめ両腕を十の字にひろげて、夜が明けるまでじっとしていた。十二時間のあいだ、冬の長い夜の十二時間のあいだ、頭も上げず一言も発しないで、凍りついたようになっていた。自分の思念が、あるいは蛇のように地面を這い、あるいは鷲のように天空を翔ってる間、死骸のように身動きもしないでいた。その不動の姿は、あたかも死人のようだった。と/突然’彼は痙攣的に身を震わし、その口はコゼットの衣裳に吸い着いて、それに口づけをした。彼がなお生きてることを示すものはただそれだけだった。  それを見ていた者は、誰であるか、誰かであるか? ジャン・ヴァルジャンはただひとりであって、そこには誰もいなかったではないか。  否、闇の中にある「あの人」が。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七編】 【苦杯の最後の一口】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【地獄の第七界と天国の第八圏】 ◇。◇。◇。◇。◇。  結婚の翌日は寂しいものである。人々は幸福な二人の沈思に敬意をヒョウし、またその眠りの長引くのに多少の敬意を表する。訪問や祝辞の混雑はしばらくあとにしか始まってこないものである。さて二月十七日の朝、もう正午少し過ぎた頃だったが、バスクがフキンと羽箒とを腕にして、「次の間を片づけ」ていた時、軽く扉をたたく音が聞こえた。呼びガネは鳴らされなかった。こういう日にとっては少し不謹慎な訪れ方だった。バスクが扉を開くと、フォーシュルヴァ-ン氏が立っていた。バスクは彼を客間に通した。客間はまだいっぱい取り散らされていて、前夜の歓楽のなごりをとどめていた。 「まあ旦那様、」とバスクは言った、「私どもは遅く起きましたので。」 「ご主人は起きておいでかね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。 「お手はいかがでございます。」とバスクは尋ね返した。 「だいぶいい。ご主人は起きておいでかね。」 「どちらでございますか、オオ旦那様と若旦那様と。」 「ポンメルシーさんのほうだ。」 「男爵様でございますか。」と言いながらバスクは真っ直ぐに身を伸ばした。  男爵などということは召し使いにとってはことに尊く思われるものである。彼らはそれから何かを受ける。哲学者が称号のヨマツとでも呼びそうなものを、彼らは自分の身にまとって喜ぶ。ついでに言うが、マリユスは共和の戦士であり、実際それを行為に示してきたが、今は心ならずも男爵となっていた。この称号に関して家庭内に小さな革命が起こっていた。その称号を好んで用いるのは今ではジルノルマ-ン氏であって、マリユスはむしろそれを避けていた。しかし、「予が子は予の称号を-もちうべし」とポンメルシー大佐から書き残されていたので、マリユスもそれに服従していた。その上、女たる自覚ができかかってきたコゼットは、男爵夫人たることを喜んでいた。 「男爵でございますか。」とバスクは繰り返した。「見て参りましょう。フォーシュルヴァ-ン様がおいでになりましたと申し上げましょう。」 「いや、私だと言わないでくれ。ナイナイにお話ししたいことがあると言ってる人とだけで、名前は言わないでくれ。」 「へえ/」とバスクは言った。 「ちょっとびっくりさ-してみたいから。」 「へえ/」とバスクは、前の「へえ/」を自ら説明するようにして繰り返した。  そして彼は出て行った。  ジャン・ヴァルジャンはひとりになった。  上に言ったとおり、客間の中はすっかり取り散らされていた。もし耳を澄ましたら、婚礼の漠然たる騒ぎがまだ聞こえそうにも思われた。床’の上には、花輪や髪飾りから落ちた各種の花が散らばっていた。根元まで燃えつきた蝋燭は、燭台の玻璃に蝋のしたたりを添えていた。器具はすっかりその位置が乱されていた。片隅には、サンヨンキャクの肱掛椅子が互いに丸く寄せられて/なお話を続けてるが-ようだった。部屋全体が笑っていた。ウタゲの果てた跡にもなお多くの優美さが残ってるものである。すべてが幸福だったのである。乱れてるそれらの椅子の上で、凋んでるそれらの花の間で、消えてるそれらの灯火の下で、人々は喜びの念を-いだいたのである。今や太陽の光は蝋燭の後を継いで、客間のうちに楽しくさし込んでいた。  数分間過ぎた。ジャン・ヴァルジャンはバスクと別れた所にじっと立っていた。顔は青ざめていた。その目は落ちくぼんで、不眠のためほとんど眼窩の中に隠れてしまっていた。その黒服には乱れた皺がついていて、一晩中’着通されたことを示していた。その肱は敷布とすれ合った跡が白く毛ばだっていた。彼は自分の足もとに、太陽の光で窓の形が床の上に投げられてるのを眺めていた。  扉の所に音がした。彼は目をあげた。  マリユスがはいってきた。頭を上げ、口もとに笑みを浮かべ、一種の輝きを顔に漂わせ、ゆったりとしたヒタイで、揚々たる目をしていた。彼もまた一睡もしていなかった。 「ああ/あなたでしたか、お父さん/」と彼はジャン・ヴァルジャ-ンを見て叫んだ。「バスクのヤツ/妙に尤もらしい様子’をしたりなんかして! それにしてもたいそう早くいらしたですね。まだ十二時半にしかなりませんよ。コゼットは眠っています。」  フォーシュルヴァ-ン氏に向かってマリユスが言った「お父さん」という言葉は、最上の喜びを意味するものだった。読者の知ってるとおり、彼らの間には常に、絶壁と/冷ややかさと/気兼ねとが、砕き融かさなければならない氷が、介在していた。ところが今やマリユスに喜びの時がきて、その絶壁も低くなり、その氷も融け、フォーシュルヴァ-ン氏は彼にとってもコゼットにとっても同じくひとりの父となったのである。  彼は続けて言った。喜悦の聖い発作の特色として、言葉は彼からあふれ出た。 「お目にかかって/ほんとにうれしく思います。昨日いて下さらなかったので私どもはどんなに寂しかったでしょう。よくきて下さいました、お父さん。お手はいかがです。よろしいほうで、そうではありませんか。」  そして、自らいいと答えたのに満足しながら、彼はなお言い続けた。 「私どもは二人でよくあなたの噂ばかりしています。コゼットはどんなにかあなたを慕っています。この家にあなたのお部屋があることもお忘れではありませんでしょうね。私どもはもうオンム・-アルメ街をあまり好み-ません。実際もう好ましくありません。どうしてあなたはあんな街路にお移りなすったのです。あすこは、不健康で、うるさくて、きたなくて、一方の端には柵があり、寒くて、とても行けや-しません。ここにお住みになったがよろしいです。今日からそうなすって下さい。そうでないとコゼットが承知しませんよ。まったくコゼットは私どもを自分の好きなとおりにするつもりでいます。あなたはあの部屋をご覧なすったでしょう。私どもの部屋のすぐわきで、庭に向いています。錠前も直してあれば、寝台も整っていて、すっかり用意ができています。ただお出でになりさえすればよろしいんです。コゼットはあなたの寝台のそばに、ユトレヒト製ビロードの大きな安楽椅子を据えて、お父様をいたわっておくれと言いました。春になるといつも、窓の正面にあるアカシアの茂みに、鶯がやってきます。二カ月のあいだも続いております。その鶯の巣がお部屋の左にあって、私どものが右手にあるわけです。晩には鶯が歌い、昼間はコゼットがお話相手になります。部屋は日当たりも上等です。コゼットがあなたの書物も並べてあげます。クック大尉の旅行記や/ヴァンクーヴァーの旅行記や、何でもご入り用なものを整えてあげます。確かごく大事にしていられる小さな鞄が一つありましたね。あのためには片隅にちゃんと置き場所をこしらえさしてあります。私の祖父はまったくあなたに心服しています。ちょうどいいお相手です。みんないっしょに住みましょう。あなたはトランプを御存じですか。もしおやりでしたら祖父はどんなに喜ぶでしょう。私が裁判所に弁論に出る時には、あなたがコゼットを散歩に連れていって下さい、昔’リュクサンブールでなすったように、コゼットに腕を貸して。私どもは是非ともごく幸福にしたいときめています。それにはあなたの幸福も欠けてはいけません。ねえお父さん。そして今日は、私どもといっしょに朝食をして下さい。」 「私は、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「あなたに一つ話したいことがあるんです。私は元徒刑囚だった身の上です。」  およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲を越すことがある。フォーシュルヴァ-ン氏の口から出た「私は元徒刑囚だった身の上です」という言葉は、マリユスの耳に響きはしたが、まとまった意味の範囲を越えたものだった。マリユスは了解しなかった。ただ何か言われたように思えたが、何であるかわからなかった。彼はぼんやりしてしまった。  その時彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気づいた。彼は自分の喜びに夢中になって、相手のひどく青ざめてるのがそれまで目にはいらなかった。  ジャン・ヴァルジャンは右腕を吊っていた黒’布を解き、手に巻いていた包帯をはずし、親指を出して、それをマリユスに示した。 「手はなんともなっていません。」と彼は言った。  マリユスはその親指を眺めた。 「初めからなんともなかったのです。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。  実際何らの傷痕もなかった。  ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。 「私はあなたの結婚の席にいないほうがよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することを逃れるために、怪我をしたと嘘を言いました。」  マリユスは口ごもった。 「どういうわけですか。」 「そのわけは、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は徒刑バにはいったことがある身だからです。」 「そんなことが/」とマリユスは恐れて叫んだ。 「ポンメルシーさん、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「私は十九年間’徒刑バにいました。窃盗のためにです。次に無期徒刑に処せられました。窃盗のためにです。再犯としてです。今では脱走の身の上です。」  マリユスはいたずらに、現実の前にたじろぎ、事実を拒み、明確を排しようとしたが、しかもその本意を屈しなければならなかった。彼はようやくいっさいを了解し始めた。そしてかかる場合の常として、言外のことまで了解した。内心に差してきた嫌悪すべき光に彼は戦慄を覚えた。慄然たる一つの観念が彼の精神を過ぎった。自分にあてられてる一つのおぞましい宿命を、未来のうちに垣間見た。 「すべてを言って下さい、すべてを言って下さい/」と彼は叫んだ。「あなたはコゼットの父ですね。」  そして彼は言い難い恐怖に駆られてニサンポ後ろにさがった。  ジャン・ヴァルジャンは天井まで伸び上がるかと思われるようなおごそかな態度で頭を上げた。 「今あなたは私の言うことを信じて下さらなければいけません。そして、私のような者の誓言は法廷からは受け入れられませんけれども‥‥。」  そこで彼はちょっと’口をつぐんだ。それから一種の崇厳’陰惨な力をもって、ゆっくりと一語一語’力を入れて言い添えた。 「‥‥私の言葉を信じて下さい。コゼットの父は私ですと! 神に誓って否と言います。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンと言います。コゼットとは何の縁故もありません。ご安心下さい。」  マリユスはつぶやいた。 「誰が証明してくれましょう‥‥。」 「私がです。私がそう言う以上は。」  マリユスは相手を眺めた。相手は沈痛で落ち着いていた。そういうセイヘイから偽りが出ようはずはなかった。氷のごとき冷ややかさは誠実なものである。その墳墓のごとき冷然さのうちには真実が感ぜられた。 「私はあなたの言葉を信じます。」とマリユスは言った。  ジャン・ヴァルジャンは承認するように頭を下げ、そしてまた言い続けた。 「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。ただ通りがかりの者にすぎません。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。なるほど私が彼女を愛していたのは本当です。既に年を取ってからごく小さな娘を見ると、それを愛したくなるものです。年を取ってくると、どの子供に対しても祖父のような気になるものです。私のような者でも人並みの心をいくらか持ってるらしいです。コゼットは孤児でした。父も母もありませんでした。それでせめて私でもあったほうがよかったのです。そういうわけで私は彼女を愛し始めました。子供という者はか弱いもので、偶然出会った私のような者でもその保護者となり得ます。私はコゼットに対して保護者の務めをしてきました。私はそれくらいのことを-いい行ないだと言い得ようとは思いませんが、しかしもし-いい行ないだとすれば、私がそれをしたことも考えてやって下さい。私の罪を多少なりと軽くするものとして考えていただきたいです。そして今日、コゼットは私の手もとを離れ、二人は行路をイにすることになりました。これから以後、私はもうコゼットに対しては何の関係もなくなります。彼女はポンメルシー夫人です。彼女の保護者が変わったわけです。そしてコゼットにはそれが幸せです。万事’好都合です。六十万フランの-かねについては、あなたは何とも言われませんが、私から先に-もうしあぐれば、それは委託されたものです。その委託金がどうして私の手にはいったか、それは問う必要はありますまい。私はただそれを返すまでです。それ以上私は人に求めらる-るところはないはずです。私は自分の本名を明かして本来の自分に返りました。それは私一個に関することです。ただ私は、私がどんな人間だか/あなたに知っていただきたいのです。」  そしてジャン・ヴァルジャンはマリユスの顔を正面からじっと眺めた。  マリユスが感じたことは、ただ雑然たる連絡もないことばかりだった。宿命のある種の風は人の魂のうちにそういう波を立たせるものである。  自分のうちのすべてのものが分散してしまうような惑乱の瞬間を知らない者は、およそ世にあるまい。そういうとき人は、いつも的はずれのことをでたらめに口にする。世には突然/意外なことが現われてくることもあって、人はそれに耐え得ないで、強烈な酒を飲んだように酔わされてしまう。マリユスは新たに現われてきた自分の地位に呆然としてしまって、ほとんど相手の自白を難ずるがような口のきき方をした。 「ですが、」と彼は叫んだ、「なぜあなたはそんなことを私に言うのです。誰に-しいられて言うのです。自分ひとりで秘密を守っておればいいではありませんか。あなたは告発されてもいず、捜索されてもいず、追跡されてもいないではありませんか。自ら好んでそんなことを打ち明けられるのには何か理由があるでしょう。言っておしまいなさい。何かあるでしょう。どういうつもりで自白をなさるのです。どういう動機で?」 「どういう動機?」とジャン・ヴァルジャンは、マリユスに話しかけるというよりも/むしろ自分自身に話しかけるような低い鈍い声で答えた。「なるほど、この囚徒が私は囚徒ですと言ったのは、どういう動機からかと、そうです、妙な動機でです。それは正直からです。不幸なことですが、私の心の中に私をつなぎ止めてる一筋の綱があります。ことに老年になるとその綱がますます丈夫になるものです。まわりの生活がすべて壊れかけてくるのに、その綱だけは頑固に残ります。もし私が、その綱を払いのけ、それを断ち切り、その結び目を解くか切り捨てるかして、遠くへ立ち去ることができてたら、私は救われたでしょう。ただ出立するだけでよかったでしょう。ブーロア街に駅馬車もあります。そうすれば、あなたは幸福になり、私は行ってしまうだけです。で/私はその綱を切ろうとつとめ、引きのけようとしたが、綱は丈夫で、中々切れるどころではなく、私の心をいっしょに引きもぎろうとするのです。そのとき私は、他の所へ行って生活することはできないと思いました。どうしても他へは行けません。で、なるほどあなたの言われるのは道理です、私は馬鹿です。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に部屋を一つ与えて下さるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれと安楽椅子に言って下さるし:、あなたのお祖父様は私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、みんないっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット‥‥いやごめん下さい、つい口癖になってるものですから:、で/私はポンメルシー夫人に腕を貸し、みんな同じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には暖炉の同じ片隅に集まり、夏には一緒に散歩をする。実に喜ばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮らしてゆく、一家族のように!」  その言葉を発して、ジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕を組み、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足下の床をにらみつけ、声は急に激しくなった。 「一家族! いや。私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者でありません。人が自分の家とする所では、どこへ行っても私はよけいな者となるのです。世にはたくさんの家庭があるが、私が加わり得る家庭はありません。私は不幸な者です。社会の外に抛り出されてる人間です。父母があったとさえも思えないくらいです。私があの娘さんを結婚さした日、私のすべては終わりました。彼女が幸福であること、愛する人といっしょにいること、親切な御老人がおらる-ること、二人の天使の家庭ができたこと、家中'喜びに満ちてること、万事よくいってること:、それを私は見て、自分で言いました、汝は入るべからずと、実際私は、嘘をつくこともでき、あなたがた皆を欺くこともでき、フォーシュルヴァ-ン氏となってることもできました。そして彼女のためである間は嘘もつきました。しかし今は私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。なるほど私がただ黙ってさえおれば、今のまま続いていったでしょう。あなたは、誰に-しいられて自白するのかと私にお尋ねなさる。それは下らないものです。私の良心です。けれども、黙っているのもまた容易いことでした。私は一晩中、黙っていようといろいろ考えてみました。あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる。実際’私があなたに申したことは普通のことではないので、あなたがそう言われるのも無理はありません。ところで私は一晩中、いろいろ理屈を並べてみ、至当な理由を並べてみて、できるだけの努力はしました。しかしどうしても私の力に及ばないことが二つあったのです。私の心をここにつなぎとめ/釘付けにし/コビりつかせてる綱を断ち切ることと、ひとりでいるとき私に低く話しかけるある者を黙らせることとです。それで私は今朝あなたにすべてを自白しにきました。すべてを、もしくはほとんどすべてをです。私にだけ関係したことで言う必要のないものは、胸にしまって申しません。要点は既に御存じのとおりのことです。私は自分の秘密を取り上げて、あなたの所へ持ってきました。そしてあなたの目の前に底まで開いて見せました。これは容易な決心ではなかったのです。私は終夜’苦しみました。私は自ら言ってみました。これはシャンマティユー事件とは違う、自分の名前を隠したとて誰に害を及ぼすものでもない:、フォーシュルヴァンという名前はあることをしてやった礼としてフォーシュルヴァン自身からもらったものである、それを自分の名前としておいてさしつかえない:、あなたからいただくあの部屋にはいったらどんなに幸福だろう、誰の邪魔にもなるまい、自分だけの片隅に引きこもっていよう:、コゼットはあなたのものであるが、私は彼女と同じ家にいることを考えていようと。そうすれば各自相応な幸福を得られるわけです。続けてフォーシュルヴァンとなっておれば、すべてはよくなるわけです。もちろんただ私の魂を別にしてはです。そうして私のまわりには喜びの光が満ち、私の魂の底だけが暗黒なばかりです。しかし人は幸福であるだけでは足りません。満足でなければいけません。そうして私はフォーシュルヴァ-ン氏となっており、自分の本当の顔を隠し、あなたの晴れやかな心の前に私は謎をいだき、あなたの白日の輝きの中に私は影をいだき:、何らの警告もせず/善良な顔をしてあなたの家庭に徒刑バを引き入れ、もしあなたに知られたら追い払われるに違いないと考えながら、あなたと同じ食卓につき:、もし召し使いたちに知られたら実に汚らわしいと言われるに違いないと思いながら、彼らから用をしてもらうことになるのです。当然あなたからきらわれるべき肱をあなたに接し、あなたの握手を騙り取ることになります。あなたの家では、尊い白髪と/烙印をおされた白髪との両方に、尊敬を分かつことになります。最も親しい談話の折り、皆が互いに心の底まで打ち開いてると思ってる時に、あなたのお祖父様と/あなたがた二人と/私と四人いっしょにいる時に、そこにはもう一人見知らぬ男がいることになります。私は自分の恐ろしい井戸の蓋を開くまいということにばかり注意して、あなたがたの生活のうちに立ち交わることになります。そうしてもはや葬られてる私が、イノチのあるあなたがたの邪魔に入ることになります。私はエーキュウに彼女につきまとうことになります。あなたと/コゼットと/私と三人とも、緑色の帽子をかぶることになります。あなたはそれでも平然としておられますか。私は最も踏みにじられた人間にすぎません。そしてこんどは最も恐ろしい人間となる訳です。そして毎日’罪悪を犯すこととなるでしょう。毎日'嘘をつくこととなるでしょう。毎日’暗夜の仮面をつけることとなるでしょう。毎日’自分の汚辱をあなたがたに分かつこととなるでしょう。毎日です、しかも私の愛するあなたがたに、私の子供たるあなたがたに、潔白なるあなたがたにです。黙っているのが何でもないことでしょうか。沈黙を守っているのが訳もないことでしょうか。いえ、訳もないことではありません。沈黙が虚偽となることもあります。しかも私の虚偽、私の欺瞞、私の汚辱、私の怯懦、私の裏切り、私の罪悪、それを私は一滴一滴と飲み、また吐き出し、また飲み込み:、夜中に終えてはまた昼に始め、そして私の朝の挨拶も偽りとなり、晩の挨拶も偽りとなり、その虚偽の上に眠り、その虚偽をパンと共に-くい:、しかもコゼットと顔を合わせ、天使のほほえみに地獄の者のほほえみで答え、忌むべき瞞着者となるわけです。幸福になるにはどうしたらいいでしょうか。ああ/この私が幸福になるには! そもそも私に幸福になる権利があるのでしょうか。私は人生の外にいる者です。」  ジャン・ヴァルジャンは言葉を切った。マリユスは耳を傾けていた。かかる一連の思想と苦悶との声は決して中断するものではない。ジャン・ヴァルジャンは再び声を低めたが、こんどはもう単に鈍い声ではなくて/凄惨な声だった。 「なぜそんなことを言うのかとあなたは尋ねなさる。告発されても/捜索されても/追跡されてもいないではないかと、あなたは言われる。ところが事実’私は告発されてるのです。捜索され、追跡されてるのです。誰からかと言えば、私自身からです。私の行く手をさえぎる者は私自身です。私は自分を引きつれ、自分を突き出し、自分を捕縛し、自分を処刑しています。人は自分自身を捕える時ほど、しかと捕えることはないものです。」  そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスのほうへ引っ張った。 「この拳をごらん下さい。」と彼は言い続けた。「この-こぶしは襟をつかんでどうしても放さないようには見えませんか。ところでこれと同じもう一つの-こぶしがあります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるが-ようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分のハラワタを引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」  そして更に痛切な音調で、彼は言い添えた。 「ポンメルシーさん、これは常識をはずれたことかも知れませんが、しかし私は正直な男です。私はあなたの目には低く堕ちながら、自分の目には高く上るのです。前にも一度そういうことがありましたが、こんどほど苦しいものではありませんでした。何でもないことでした。そう、私はひとりの正直な男です。しかし私の誤ったやり方のために、もしあなたがなお続けて私を重んずるようなことになれば、私はもう正直ではなくなります。ところが今あなたは私を賤しんでいられるから、私は正直な男と言えるのです。私は一つの宿命を担っていまして、人の尊敬はただ盗んでしか得られないのですが、そういう尊敬はかえって私を辱め/私の内心を苦しめます。そして自ら自分を尊敬するには、人から賤しまれなければいけないのです。そのとき私は始めて真っ直ぐに立てます。私は自分の良心に服従してる一徒刑囚です。他に類もないことだとは/自分でも知っています。しかしどうしたらいいのでしょう。それが事実です。私は自分自身に対して約束をしています。それを守るだけです。生涯のうちには身を縛られるようなことに出会いもすれば、義務のうちに引きずり込まれるような機会に会うこともあります。おわかりでしょう、ポンメルシーさん、私の生涯にはいろいろなことが起こったのです。」  ジャン・ヴァルジャンはまた言葉を切りながら、自分の言葉の後口がいかにも苦いかのようにようやく唾を飲み込んで、また続けた。 「そういう嫌悪すべきものを身に担っている場合、人はそれをひそかに他人へ分かち与えてはいけません、自分の疫病を他人に伝染さしてはいけません:、気づかれないようにして他人を自分の深みへ引きずり込んではいけません、他人にまでも自分の赤い着物をまとわせてはいけません:、狡猾なやり方をして自分のみじめさで他人の幸福を妨げてはいけません。聖い人々に近寄って、目に見えない自分の膿をひそかに他人になすること、それは忌むべきことです。フォーシュルヴァンは私にその名前を貸してくれは-しましたが、私にはそれを-もちうる権利はありません。彼は私にその名前を与えることもできましたが、私はそれを取ることができませんでした。一つの名前はすなわち一つの自己です。ところで私はひとりの田舎者にすぎませんが、このとおり少しは考えもし、少しは書物も読みました。そして物事のわきまえもあります。このとおり/相当に自分の意見も表白できます。私は自分で自分を教育しました。そう/確かに、他人の名前を盗み取ってその下に身を置くのは、不正直なことです。アルファベットの文字は、金入れや時計のように騙り取ることもできます。しかし、肉と骨とをそなえた偽りの名前となり、生きた偽りの鍵となり、錠前をこじあけて正直な人の家に-はいり込み:、決して真っ直ぐに物を見ず、いつも偸み見ばかりをし、自分の内部に汚辱をいだいていることは、どうして、どうして、どうして! それよりも/むしろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙を流し、爪で肉体をかきむしり、悩みにもだえて夜を過ごし、自分の心身を自ら食いつくすほうが、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しに参ったのです。おっしゃるとおり自ら好んでです。」  彼は苦しい息をついて、最後の言葉を投げつけた。 「昔/私は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日’私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」 「生きるため/」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」 「ああ、あなたの言われる意味はよくわかります。」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、幾度も続けて頭をゆるく上げ下げした。  それから沈黙が落ちてきた。二人とも黙り込んで、深く考えの淵に沈んでしまった。マリユスはテーブルのそばにすわり、折り曲げた指の一本の上に口のカドをもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩き回っていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、映ってる自分の姿も目に-いれないで/鏡の面を眺めながら、あたかも内心の推理に答えるかのように言った。 「でも、これで私は気が安らいだ!」  彼はまた歩き出して、部屋の先端まで行った。そして向き返ろうとした時、マリユスが自分の歩いてるのを眺めているのに気づいた。その時彼は、名状し難い調子でマリユスに言った。 「私の足は少し引きずり加減になっています。その理由ももうおわかりでしょう。」  それから彼はマリユスのホウへすっかり向き直った。 「ところで、まあ仮りにこうなったとしたらどうでしょう:、私がなんにも言わず、フォーシュルヴァ-ン氏となっており、あなたの家に-はいり込み、あなたの家庭のひとりとなり、自分の部屋をもらい、毎朝楽しく食事をし、晩は三人で芝居に行き:、私はテュイルリーの’園やロアイヤル広場にポンメルシー夫人の供をし、みんないっしょに暮らし、私も人並みの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなたがたもそこにおられ、いっしょに話をし/笑い合っている時に、突然ジャン・ヴァルジャンと叫ぶ声が聞こえ、警察の恐ろしい手が蔭から現われてき、私の仮面をにわかにはぎ取るとします!」  彼はまた口をつぐんだ。マリユスは慄然として立ち上がっていた。ジャン・ヴァルジャンは言った。 「それをあなたはどう思われます?」  マリユスは沈黙をもってそれに答えた。  ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。 「私は黙っていないほうが正しいと、あなたにもよくおわかりでしょう。で/どうか、あなたは幸福で、天にあって、ひとりの天使をまもる天使となり、ヒの光の中に住み、それに満足して下さい。そして、ひとりのあわれな罪人が、自分の胸を開いて義務をつくすために取った手段については、心をわずらわさないで下さい。今あなたの前に立ってるのは一人のみじめな男です。」  マリユスは静かに部屋を横切り、ジャン・ヴァルジャンのそばにきて、彼に手を差し出した。  しかしマリユスは相手が手を出さないので、進んでそれを取らなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンはなされるままに任した。マリユスはあたかも、大理石の手を握りしめたような気がした。 「私の祖父にはいくらも親しい人がいます。」とマリユスは言った。「あなたの赦免を得るように努めてみましょう。」 「それは無駄なことです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。「私は死んだ者と思われています。それで充分です。死んだ者は監視を免れています。静かに腐蝕してると見做されています。死は赦免と同じことです。」  そしてマリユスに握られていた手を放しながら、犯すべからざる威厳をもって言い添えた。 「その上、義務を果たすことは、頼りになる友を得ると同じです。私はただ一つの赦免をしか必要としません、すなわち自分の良心の赦免です。」  その時、客間の他のイッタンにある扉が少し静かに開いて、そのあいだからコゼットの頭が現われた。こちらからはその優しい顔だけしか見えなかった。髪は見事に乱れており、目蓋はまだ眠りの気にふくらんでいた。彼女は巣から頭を差し出す小鳥のような様子で、最初に夫を眺め、次にジャ-ン・ヴァルジャンを眺め、そして薔薇の花の奥にあるほほえみかと思われるような笑顔をして、彼らに言葉をかけた。 「政治の話をしていらっしゃるのね、私をのけものにして-なんということでしょう!」  ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。 「コゼット/」とマリユスはつぶやいた。そしてそのまま口をつぐんだ。あたかも彼ら二人は罪人ででもあるかのようだった。  コゼットは光り輝いて、なお二人をかわるがわる見比べていた。その日の中には、楽園の反映があるかと思われた。 「実際の所をつかまえたのよ。」とコゼットは言った。「フォーシュルヴァンお父様が、良心だの義務を果たすだのとおっしゃってるのを、私は戸の外から聞いたんですもの。それは政治のことでしょう。いやよ。すぐ翌日から政治の話をするなんていけないことよ。」 「そうではないんだよ、コゼット。」とマリユスは答えた。「僕たちは用談をしている。お前の六十万フランをどこに預けたら一番いいか話し合って‥‥。」 「いえ、そんなことではないわ。」とコゼットはそれをさえぎった。「私もはいって行ってよ。私が参ってもいいでしょう。」  彼女は思い切って扉から出て、客間の中にはいってきた。たくさんの襞と/大きな袖のある真っ白な広い化粧着をつけて、それを首から足先まで引きずっていた。古いゴチックの画面には天使のまとう/そういう美しいナガギヌが黄金色の空に描いてある。  コゼットは大鏡に映して自分の姿を頭から足先まで眺め、それから言い難い喜びにあふれて叫んだ。 「むかし王様と女王様とがおられました、というお噺のようだわ。私ほんとに嬉しいこと!」  そう言って彼女は、マリユスとジャン・ヴァルジャンとに会釈した。 「さあ私は、」と彼女は言った、「あなたがたのそばの肱掛椅子に座っていますわ。もう三十分もすれば御飯なのよ。なんでも好きなことを話しなさるがいいわ。男の方って話をしずには-いられないものね。私おとなしくしていますわ。」  マリユスは彼女の腕を取って、やさしく言った。 「僕たちは用談をしているのだからね。」 「あ/そうそう、」とコゼットはそれに答えて言った、「私’窓をあけたら、庭にたくさんピエロ(訳者注◇ 雀の俗称)がきていましたわ。小鳥のほうのよ、仮装のではないのよ。今日は灰の水曜日(四旬節’第イチニチ/)でしょう。でも小鳥には大斎日もないのね。」 「僕たちは用談をしているんだから、ねえ、コゼット、ちょっと向こうへ行ってておくれ。数字のことだからお前は退屈するに違いない。」 「まああなたは、今朝きれいな襟飾りをしていらっしゃるのね。ほんとにおしゃれだこと。いえ、数字でも私は退屈しませんわ。」 「きっと退屈するよ。」 「いいえ。なぜって、あなたのお話ですもの。よくはわからないか知れないけれど、おとなしく聞いていますわ。好きな人の声を聞いておれば、その意味はわからなくてもいいんですもの。ただ私はいっしょにいたいのよ。あなたといっしょにいますわ、ねえ。」 「大事なお前のことだけれど、それはいけないんだ。」 「いけないんですって!」 「ああ。」 「ヨゴざんすわ。」とコゼットは言った。「いろんなお話があるんだけれど。お祖父様はまだお起きになっていません。伯母様は弥撒に参られました。フォーシュルヴァンお父様の部屋では、暖炉から煙が出ています。ニコレットは煙突掃除人を呼びにやりました。トゥーサンとニコレットとはもう喧嘩をしました。ニコレットがトゥーサンの吃りをからかったんです。でも-なんにもあなたには話してあげないわ。いけないんですって? では私のほうでも、覚えていらっしゃい、いけないと言ってあげるわ。どちらが降参するでしょうか。ねえ、マリユス、私もあなたたちお二人といっしょにここにいさして下さいな。」 「いや、是非とも二人きりでなければいけないのだ。」 「では私はほかの者だとおっしゃるの?」  ジャン・ヴァルジャンはそれまで一言も発しなかった。コゼットは彼のほうを向いた。 「まずお父様、私はあなたに接吻していただきたいわ。私の加勢もしず/何ともおっしゃらないのは、どうなすったんです。そんなお父様ってあるものでしょうか。このとおり私は家庭の中でごく不幸ですの。夫が私をいじめます。さあすぐに私を接吻して下さいな。」  ジャン・ヴァルジャンは近寄った。  コゼットはマリユスのほうを向いた。 「私はあなたは嫌。」  それから彼女はジャン・ヴァルジャンに額を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは一歩進み寄った。  コゼットはさがった。 「お父様、まあお顔の色が悪いこと。お手が痛みますの。」 「それはもうよくなった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「よくお眠りにならなかったんですか。」 「いいや。」 「何か悲しいことでもおありになるの。」 「いいや。」 「私を接吻して下さいな。どこもお悪くなく、よくお眠りになり、ご安心していらっしゃるのなら、わたし何とも小言は申しません。」  そして新たに彼女は額を差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは天の反映の宿ってるそのヒタイに脣をあてた。 「笑顔をして下さいな。」  ジャン・ヴァルジャンはその言に従った。しかしそれは幽霊の微笑のようだった。 「さあ夫から私をかばって下さい。」 「コゼット/」とマリユスは言った。 「お父様、怒ってやって下さい。私がいるほうがいいと言ってやって下さい。私の前ででもお話はできます。私を馬鹿だと思っていらっしゃるのね。ほんとにおかしいわ、用談だの、かねを銀行に預けるだのって、大した御用ですわね。男って何でもないことに勿体をつけたがるものね。私/ここにいたいんです。私は今朝大変きれいでしょう、マリユス、私を見てごらんなさい。」  そしてかわいい肩を少しそびやかし、ちょっとすねてみた何とも言えない顔をして、彼女はマリユスを眺めた。二人の間には一種の火花があった。そこに人がいようと少しもかまわなかった。 「僕はお前を愛するよ/」とマリユスは言った。 「私はあなたを慕ってよ/」とコゼットは言った。  そして二人はどうすることもできないで/しかと抱き合った。 「もうこれで、私がここにいてもいいでしょう。」とコゼットは勝ち誇ったように/ちょっと口をとがらして化粧着の襞をなおしながら言った。 「それはいけない。」とマリユスは哀願するような調子で答えた。「僕たちはまだきまりをつけなければならないことがあるから。」 「まだいけないの?」  マリユスは厳格な口調で言った。 「コゼット、どうしてもいけないのだ。」 「ああ、あなたは太い声をなさるのね。いいわ、行ってしまいます。お父様も私を助けて下さらないのね。お父様もあなたも、二人ともあまり圧制です。お祖父様に言いつけてあげます。私がまた/じきに戻ってきてつまらないことをするとお思いなすっては、まちがいですよ。私だって矜りは持っています。こんどはあなたがたのほうからいらっしゃるがいいわ。私がいなけりゃあなたがたのほうで退屈なさるから、見ててごらんなさい。私は行ってしまいます、ようございます。」  そして彼女は出て行った。  二’三秒たつと、扉はまた開いて、彼女の鮮麗な顔が/扉の間からもう一度現われた。彼女は二人に叫んだ。 「ほんとに怒っていますよ。」  扉は再び閉ざされ、部屋の中は影のようになった。  彼女が現われたのは、あたかも道に迷った太陽の光が、自ら気づかないで突然’闇夜を過ぎったがようなものだった。  マリユスは扉が固く閉ざされたのを確かめた。 「かわいそうに/」と彼はつぶやいた、「コゼットがやがて知ったら‥‥。」  その一言にジャン・ヴァルジャンは全身を震わした。彼は昏迷した目でマリユスを見つめた。 「コゼット! そう、なるほどあなたはコゼットに話されるつもりでしょう。ごもっともで-す。だが私はそのことを考えていませんでした。人は一つの事には強くても、他の事にはそうゆかない場合があります。私はあなたに懇願します、哀願します、どうか誓って下さい、彼女には言わないと。あなたが、あなただけが、知っている、というので充分ではないでしょうか。私は他からしいられなくとも/自らそれを言うことができました。宇宙に向かっても、世界中に向かっても、公言し得るでしょう。私には結局どうでもいいことです。しかし彼女は、彼女には、それがどんなことだかわかりますまい。どんなにおびえるでしょう。徒刑囚、それがなんであるかも説明してやらなければなりますまい。徒刑バにはいっていた者のことだ、とも言ってやらなければなりますまい。彼女は、かつて一鎖の囚人らが通るのを見たことがあります。ああ!」  彼は肱掛椅子に倒れかかり、両手で顔を覆うた。声は聞こえなかったが、肩の震えを見れば、泣いてるのが明らかだった。沈黙の涕泣、痛烈な涕泣だった。  むせび泣きのうちには息のできないことがある。彼は一種の痙攣にとらえられ、息をするためのように椅子の背に身を反らせ、両腕をたれ、涙にぬれた顔をマリユスの前にさらした。そしてマリユスは、底のない深みに沈んでるかと思われる声で、彼が低くつぶやくのを耳にした。 「おお/死にたい!」 「ご安心なさい、」とマリユスは言った、「あなたの秘密は私だけで誰にももらしません。」  そしてマリユスは、おそらく読者が想像するほど心を動かされてはいなかったであろうが、一時間ばかり前から意外な/恐ろしいことにも慣れてこざるを得なかったし:、目の前で一徒刑囚の姿が徐々にフォーシュルヴァ-ン氏の姿に重なってくるのを見、痛むべき現実に次第にとらえられ:、その場合の自然の傾向として、相手と自分との間にできた隔たりを認めざるを得ないようになって、こう言い添えた。 「私は、あなたが忠実に”また正直に返して下すった委託金について、一言も言わないでは-おられないような気がします。それは実に清廉な行ないです。あなたはその報酬を受けられるのが正当です。どうかあなたから金額を定めて下さい、それだけ差し上げますから。いかほど多くともご遠慮にはおよびません。」 「御親切は感謝します。」とジャン・ヴァルジャンは穏やかに答えた。  彼はしばらく考え込んで、人差し指で親指の爪を機械的にこすっていたが、やがてクチを開いた。 「もうほとんど万事’済んだようです。そして最後にもう一つ残っていますが‥‥。」 「何ですか。」  ジャン・ヴァルジャンはこれを最後というように躊躇しながら、声という声も出さず、ほとんど息もしないで、言った、というよりむしろ口ごもった。 「すべてを知られた今となっては、ご主人としてあなたは、私がもうコゼットに会ってはいけないとお考えになるでしょうか。」 「そのほうがいいだろうと思います。」とマリユスは冷ややかに答えた。 「ではもう会いますまい。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。  そして彼は扉のほうへ進んでいった。  彼は取っ手に手をかけ、閂ははずれ、扉は少し開いた。ジャン・ヴァルジャンは通れるくらいにそれを開き、ちょっと立ち止まり、それからまた扉をしめて、マリユスの方へ向き直った。  彼はもう青ざめてるのではなく、ほとんど色を失っていた。目にはもう涙もなく、ただ悲壮な一種の炎が宿っていた。その声は再び不思議にも落ち着いていた。 「ですが、」と彼は言った、「もしおよろしければ、私は彼女に会いにきたいのです。私は実際それを非常に望んでいます。もしコゼットに会いたくないのでしたら、あなたにこんな自白はしないで、すぐにどこかへ行ってしまったはずです。けれども、コゼットのいる所に-とどまっており、やはり続けて会いたいと思いますから、すべてを正直にあなたに申さなければならなかったのです。私の考えの筋はおわかりでしょう、容易にわかることです。私は九カ年以上も彼女といっしょにいたのです。私どもは初めは大通りのあばら家に住み、それから修道院に住み、次にリュクサンブールの近くに住んでいました。あなたが始めて彼女に会われたのはリュクサンブールでですね。彼女の青いペルシの帽を覚えておいでですか。それから私どもは、アンヴァリード街区に行きました。鉄門と庭とのある家です。プリューメ街です。私は小さな後庭の離れに住んでいて、そこからいつも彼女のピアノを聞いていました。それが私のイノチでした。私どもは決して別々になったことはありませんでした。9年と何ヶ月か続いたのです。私は実の親のようであり、彼女は-じつの娘のようでした。あなたにもよくおわかりかどうか知りませんが、ポンメルシーさん、今’立ち去ってしまい、もう彼女に会わず、もう彼女に言葉もかけず、まったく彼女を失ってしまうのは、実に耐え難いことです。もし悪いとお考えになりませんでしたら、私は時々コゼットに会いに来たいのです。たびたびは参りません。長居もいたしません。オモテの小さな部屋にきめていただいてもよろしいです。階下の部屋ででもよろしいです。召し使い用の裏門から出入りしてもかまいません。しかしそれではかえって怪しまれましょう。やはり普通の表門からはいったほうがよろしいでしょう。まったくのところ私は、なおコゼットに会いたいのです。どんなにまれにでもよろしいです。私の地位になって考えて下さい。私はそれ以外に何の望みもありません。それにまた-もちろん用心もしなければなりません。私がまったくこなくなれば、かえって悪いことになり、人から不思議に思われるでしょう。で/最も都合よくするには、夕方参ったほうがいいでしょう、夜になろうとする頃。」 「毎晩こられてもよろしいです。」とマリユスは言った。「コゼットにお待ちさせます。」 「御親切はありがたく思います。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  マリユスはジャン・ヴァルジャンにお辞儀をし、幸福は絶望を扉の所まで送り出し、そして二人は別れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【語られし秘密の中の影】 ◇。◇。◇。◇。◇。  マリユスの心は転倒してしまった。  コゼットのそばについてるその男に対して、彼がいつも感じていた一種の隔たりは、今や彼にも了解できた。その男の身には何となく謎のような趣があって、彼は本能からそれに気づいて-いたのである。謎というのは、最も忌まわしい汚辱、徒刑バだった。あのフォーシュルヴァ-ン氏は徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであった。  幸福の最中に突然そういう秘密を知ることは、あたかも鳩の巣の中に蠍を見いだすがようなものだった。  マリユスとコゼットとの幸福は、今後’斯かるものと隣しなければならないように定められていたのか。それはもう動かし難い事実だったのか。成立した結婚の一部としてその男を受け入れなければならなかったのか。もはやいかんともする道はなかったのか。  マリユスは徒刑囚ともまた離れ難い関係となったのか。  いかに光明や喜悦の冠をいただこうとも、人生の紅の時期を、幸福な愛を、いかに味わおうとも、それを忍ぶことができようか。斯かる打撃は、恍惚たる大天使をも、光栄に包まれたる半神をも、必ずや戦慄させるであろう。  斯かる限界の激変の常として、マリユスは自ら-せむべき点はないかを顧みてみた。洞察の明を欠いてはいなかったか。注意の慎重さを欠いてはいなかったか。いつとなくうっかりしてはいなかったか。おそらく多少そのキミがあったかも知れない。ついにコゼットとの結婚に終わったその恋愛事件のうちに、まず周囲のことを明らかにしないで、不注意に踏み込んでゆきはしなかったか。およそ吾人が生活から少しずつ改善されてゆくのは、吾人が自ら自身に対してなす一連の認定によってであるが、彼も今、自分の性質の空想夢幻的な一面を自認した。そういう一面は、多くの者が有する一種の内心の雲であって、熱情や悲哀の激発のうちにひろがってゆき、魂の気温に従って変化し、その人全体を侵し、その本心を霧に包んでしまうものである。われわれは前にしばしば、マリユスの個性のこの独特な要素を指摘しておいた。マリユスは今になってようやく思い起こした、自分の恋に酔いながらプリューメ街で、無我夢中になっていたロクシチ週間のあいだ、あのゴルボーのあばら家における活劇のことを:、争闘のあいだ沈黙していて/次に逃げ出すという不思議な行動を被害者が取ったあの活劇のことを、コゼットに一口も語らなかったのを。その事件を少しもコゼットに話さなかったというのは、どうしたことだろうか。ごく最近のことだったのに! テナルディエという名前をさえ口外しなかったのは、ことにエポニーヌに会った日でさえ口をつぐんでいたのはどうしたことだったろうか。今となってみれば、彼はその当時の自分の沈黙を/ほとんど自ら説明に苦しむほどだった。けれどもいろいろ理由も考えられた。自分のそそっかしいこと、コゼットに酔ってしまっていたこと、すべてが恋に飲み尽くされていたこと、互いに理想の天地に舞い上がっていたこと:、またおそらく、その激越な楽しい心の状態にほとんどわからぬくらいの理性が交じっていて、ために漠然たる鋭い本能から、あの触れることを恐れていた恐怖すべき事件について、何らの役目もつとめたくなく:、ただのがれようとばかり-ほっしていて、その話をしまたは証人となるには同時に告訴者とならざるを得ない地位に/自分が立ってるあの事件を、記憶のうちに隠して堙滅さしてしまおうとしていたこと。それにまた、その数週間は電光のようであって、ただ愛し合うのほか-なんの余裕もなかった。それからまた、すべてを考量し、すべてをひっくり返してみ、すべてを調べて、ゴルボー屋敷の待ち伏せのことをコゼットに話し、テナルディエという名前を彼女に言ったところで、その結果はどうなったろうか。ジャン・ヴァルジャンが徒刑囚であることを発見したところで、彼’マリユスの心が変わり、またコゼットの心が変わったであろうか。それで彼は-ひいたであろうか。彼女を愛しなく-なったであろうか。彼女と結婚しなくなったであろうか。否。何かが今と違うようになったであろうか。否/少しも。それでは何も後悔し、何も自責することはなかったではないか。すべていいようになったのだ。恋人と呼ばるる酩酊者にとっては/一つの神があるものである。マリユスは盲目でありながら、洞察の明をそなえていたのと少しも変わらない道をたどったのである。恋は彼の目を覆っていた。しかしそれはどこへ導かんがためにか。楽園へ導かんがためにではなかったか。  しかし今後は、その楽園は傍らに地獄を引き連れてゆくことになったのである。  あの男に対して、ジャン・ヴァルジャンとなったフォーシュルヴァンに対して、元からマリユスがいだいていた隔たりの感じは、今は嫌悪の情を’まじうるに至った。  あえて言うが、その嫌悪の情の中にはまた、あわれみの念があり、ある驚きの念さえも含まれていた。  その盗人は、その再犯の盗人は、委託金をそのまま返した。しかもいくらであるかと言えば、実に六十万フランである。彼ひとりしかその秘密を知ってる者はなかった。そしてすべてを自分のものとなし得るのだった。しかも彼はそっくり返してしまった。  その上、彼は自ら進んで身分を打ち明けた。しかも何からも-しいられたのではない。彼がいかなる者であるかを人に知られたとすれば、それは彼自身の言葉によってである。その自白はただに屈辱を甘受するばかりではなく、また危険をも甘受するものであった。罪人にとっては、仮面は単なる仮面でなく、また一つの避難所である。彼はその避難所を自ら捨ててしまった。偽名は一身の安全を得さするものである。彼はその偽名を自ら投げ捨ててしまった。徒刑囚たる彼も正しい家庭のうちに長く身を隠し得たのであるが、彼は自らその誘惑に抵抗した。そしてそれらはいかなる動機からかと言えば、ただ良心の懸念からである。彼は偽りだとはどうしても思えない強い調子でそれを自ら説明した。要するにこのジャン・ヴァルジャンなる者がいかなる男であったにせよ、確かに目ざめたる一つの良心であった。そこには神秘な再生が始まっていた。そして外から眺めたところによれば、彼は既に長い以前から謹直のシモベとなっていた。斯かる正と善との発動は下賤な性格者にはありうべからざることである。良心の覚醒、それは魂の偉大さを示すものである。  ジャン・ヴァルジャンは誠実であった。その誠実さは、目に見えるものであり、手に触れられるものであり、否定しうべからざるものであり、そのために彼が自ら受けた悲痛の情によっても/明らかに知らるるものであって:、真実か否かの詮索を不用ならしめ、彼が言ったすべてに権威を与えていた。斯くてマリユスは不思議な地位にはさまれた。フォーシュルヴァ-ン氏の口から出てくるものは、すべて不誠実であり、ジャン・ヴァルジャンの口から発するものは、すべて誠実であった。  マリユスはいろいろ考慮してジャ-ン・ヴァルジャンに対する不思議な貸借表を作ってみ、その貸しと借りとを調べ上げ、一つの平均点に達せんとつとめた。しかしそれらはすべてあたかも暴風雨の中にあるが-ようだった。マリユスはその男に対して明確な観念を得ようとつとめ、言わばジャ-ン・ヴァルジャンの思想の奥底まで見きわめようとしたが、彼の姿はいかんともし難い靄の中に出没して/捉えがたかった。  正直に返された委託金、誠実になされた告白、それは善良’なることであった。それはあたかも雲の中にひらめく光のようなものだった。が/次にまた雲は暗くなった。  マリユスの記憶はいかにも混乱していたが、多少の影は浮かんできた。  ジョンドレットのあばら家におけるあの事件は果たしてどういうことであったろうか。警官がきた時、なぜあの男は訴えることをせずに逃げ出してしまったのか。そのことについてはマリユスも答えを見いだし得た。すなわちその男は脱走の身で/法廷から処刑されていたからである。  次に第二の疑問が起こってきた。なぜあの男は防寨にやってきたのか。というのは、今やマリユスは炙出しインキのように、記憶が激しい情緒のうちに再び現われてくるのを明らかに認めたからである。あの男は防寨にいた。しかも戦ってはいなかった。いったい何をしにきたのであるか。その疑問に対して、一つの幻が浮かんできて答えた、ジャヴェルと。ジャン・ヴァルジャンが縛られてるジャヴェルを防寨の外へ連れてゆくすごい光景を、マリユスは今’明らかに思い起こした:、そしてモンデトゥール小路のカドの向こうに恐ろしいピストルの音がしたのを、今なお耳にするが-ように覚えた。おそらくあのスパイとあの徒刑囚との間には、憎悪の念があったに違いない。互いに邪魔になっていたのであろう。それでジャン・ヴァルジャンは復讐をしに防寨へ来たのだ。彼は遅くやってきた。たぶんジャヴェルが捕虜になってることを知ってきたのかも知れない。コルシカのいわゆるヴェンデッタ(訳者注◇ コルシカの閥族間に行なわれる猛烈な復讐)はある種の下層社会に入りこんで/一つの法則となっている。半ば-善の方へ向かってる者でも/それを至当だと思うほど普通のことになっている。彼らは悔悟の途中において窃盗は慎むとしても、復讐には躊躇しない。それでジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺したのだ。あるいは少なくとも殺したらしい。  最後になお一つの問題が残っていた。そしてこれには何らの解答も得られなかった。マリユスはあたかも釘抜きに挟まれたように感じた。すなわち、ジャン・ヴァルジャンとコゼットと/あれほど長く生活を共にしてきたのは、どうしてだったろうか。この少女をあの男といっしょに置いた痛ましい-天の戯れは、何の意味だったろうか。天上には二重鍛えの鎖もあるもので、神は天使と悪魔とをつなぎ合わして喜ぶのであろうか。罪悪と潔白とが悲惨の神秘な牢獄において部屋を同じゅうすることもあるのか。人間の宿命と呼ばるる一連の囚徒のうちにおいて、二つのヒタイが、一つは素朴であり、一つは獰猛であり:、一つは曙の聖い白イロに浸り、一つは劫火の反映でエーキュウに青ざめている、二つのヒタイが、相並ぶこともあるのか。その説明し難い配合を誰が決定し得たのか。いかにして、いかなる奇跡によって、この-天の少女と地獄の老人との間に共同の生活が立てられたのか。何者が子羊を狼に結びつけ得たのか。そして更に不可解なことには、何者が狼を子羊に愛着させ得たのか。なぜならば、その狼は子羊を愛していたではないか、凶猛なる者がか弱い者を慕っていたではないか:、また九カ年間、天使は怪物によりかかって身を支えていたではないか。コゼットの幼年および青年時代、世の中への顔出し、イノチと光明とのホウへの潔い生育、それらは-みんなこの不思議な献身によって守られていたのである。ここに問題は、言わば’数限りない謎に分かれ、深淵の下に更に深淵が-ひらけてきて、マリユスはもはや目眩を感ぜずにはジャン・ヴァルジャンのほうをのぞき込むことができなかった。その深淵のごとき男はそもそも何者であったろうか。  創世紀の古い比喩はエーキュウにシンなるものである。現在のごとき人間の社会には、将来/ダイなる光によって変化されない限り、常に二種の人間が存在する。一つは高きにある者であり、一つは地下にある者である。一つは善に従う者、すなわちアベルであり、一つは悪に従うもの、すなわちカインである。しかるに今、このやさしい心のカインは、そもそもいかなるものであったろうか。処女に対して、敬虔な心を傾けて愛し、彼女を監視し、彼女を育て、彼女をまもり、彼女を敬い、自ら不潔の身でありながら、純潔をもって彼女を覆い包むこの盗賊は、そもそもいかなるものであったろうか。無垢なる者を尊んで、それに一つのシミをもつけさせなかったこの汚泥は、そもそもいかなるものであったろうか。コゼットを教育したこのジャン・ヴァルジャンは、そもそもいかなるものであったろうか。上りゆく一つの星をして/あらゆる影と雲とを免れさせ-んと-のみつとめた、この暗黒の男は、そもそもいかなるものであったろうか。  そこにジャン・ヴァルジャンの秘密があった。またそこに神の秘密があった。  その二重の秘密の前にマリユスはたじろいだ。ある意味において、一つは他を確実’ならしめていた。この一事の中に、ジャン・ヴァルジャンの姿とともにまた神の姿も見られた。神はおのれの道具を持っている。神は欲するままの道具を使用する。神は人間に対しては責任を持たない。吾人はいかにして神の意を知り得ようぞ。ジャン・ヴァルジャンはコゼットのために力を尽した。彼はある程度まで彼女の魂を作り上げた。それは争うべからざる事実だった。しかるに、その仕事をした者は恐るべき男であった。しかしなされた仕事は見事なものであった。神はおのれの心のままに奇跡を行なった。神は麗しいコゼットを作り上げ、その道具としてジャン・ヴァルジャンを使った。神は好んでこの不思議な共同者を選んだ。それはどういうつもりであったかを、吾人は神に-たずぬべきであろうか。肥料が春に手伝って/薔薇の花を咲かせるのは、別に珍しいことでもないではないか。  マリユスはそういう答えを自ら与えて、自らそれをよしと思った。上に指摘したあらゆる点に関して、彼はあえてジャ-ン・ヴァルジャンに肉迫してゆかなかった。あえて肉迫し得ないでいるのは自ら気づかなかった。彼はコゼットを鍾愛し、コゼットを所有し、そしてコゼットは純潔に光り輝いていた。それでもう彼には充分だった。この上いかなる説明を要しようぞ。コゼットは光輝そのものであった。光輝を更に明らかにする要があろうか。マリユスはすべてを持っていた。更に何を望むべきことがあろう。まったく、それで充分ではないか。ジャン・ヴァルジャン一身のことなどは、彼の関することではなかった。その男のいかんともし難い影をのぞき込みながら、彼はそのみじめなる男の/荘重な断言にすがりついた。「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。」  ジャン・ヴァルジャンはただ通りがかりの者にすぎなかった。それは彼が自ら言ったことである。そして彼は今’通りすぎようとしていた。彼がいかなる者であったにせよ、その役目はもう終わっていた。今後コゼットのそばで保護者の役目をする者はマリユスとなっていた。コゼットは蒼天のうちに、自分と似通った者を、恋人を、夫を、天国における男性を、見いだしたのである。翼を得/姿を変えたコゼットは、空虚な醜い脱殻たるジャン・ヴァルジャンを、地上に残してきたのだった。  斯くてマリユスはいろいろ考え回したが、いつも終わりには、ジャン・ヴァルジャンに対する一種の恐怖に落ちていった。おそらくそれは聖なる恐怖であったろう。なぜなら彼は、その男のうちに/天意的なものを感じていたからである。けれどもとにかく、いかに考えてみても、またいかに事情を酌んでやっても、常にこういう結論に落ちゆかざるを得なかった。すなわち、彼は徒刑囚である。換言すれば、社会の最も下の階段よりも更に下にいて、自分の立つべき階段を有しない者である。最下等の人間の次が、徒刑囚である。徒刑囚は言わば生きた人間の仲間にはいる者ではない。徒刑囚は法律から、およそ奪われ得る限りの人間性を/みんな奪われた者である。マリユスは民主主義者であったが、刑法上の問題については厳格な社会組織の味方であって、法律に問わるる者に対してはまったく法律と同じ精神で臨んでいた。彼もまだあらゆる進歩をしたとは言えなかった。人間によって書かれたものと/神によって書かれたものとを、法律と権利とを、彼はまだ区別し得なかった。ジンリキにて廃し”または回復し得ざるものをも処断するの権利を/人が有するか否かを、少しも精査し/考察していなかった。刑罰という語に少しも反感を持っていなかった。成文律を犯した者がエーキュウの罰を被るのは、きわめて至当なことであると考え、文明の方法として、社会的エイバツを承認していた。彼は天性善良であり、コンポンにおいては内心の進歩をもなし遂げていたので、必ずや将来更に進んだ考えを持つには違いなかったが、現在においてはまだ右のような地点にしかいなかった。  そういう思想状態にあったので、彼にはジャン・ヴァルジャンがいかにも醜い/いとうべきものに見えた。それは神に見棄てられたる男だった。徒刑囚だった。この徒刑囚という一語は、彼にとっては、審判のラッパの響きのように思えた。そして長くジャン・ヴァルジャンを眺めたあと、彼が最後に取った態度は顔をそむけることだった。しりぞけ(訳者注◇ サタンよ-しりぞけ)であった。  あえて実際のところを言うならば、マリユスはジャン・ヴァルジャンにいろいろ尋ねて、ついにジャ-ン・ヴァルジャンをして「あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる」と言わしめた程であったが、それでも重要な二’三の疑問は避けたのだった。それらの疑問が頭に浮かばないではなかったが、彼はそれを尋ねることを恐れた。すなわち、ジョンドレットのあばら家のこと、防寨のこと、ジャヴェルのこと。それらの疑問からはいかなる事実が現われてくるか見当がつかなかった。ジャン・ヴァルジャンは自白を躊躇するような男とは思われなかった。そしてマリユスは、強いて彼の口を開かせたあと、また中途で、彼の口をつぐませたくなるかも知れなかった。ある非常な疑念の場合において、一つの問いを発したあと、その答えが恐ろしくなって耳をふさごうとするようなことは、誰にでもあるものである。そういう卑怯な念’は、恋をしてる場合にことによく起こってくる。いとうべき事情を極度に聞きただすのは、賢明なことではない。自分のイノチと分かつべからざる方面が必ずや関係してくるような場合には、ことにそうである。ジャン・ヴァルジャンが吾を捨ててかかった説明からは、いかなる恐ろしい光が出て来るかわからなかったし、その忌むべき光がコゼットの身にまでおよぶかも知れなかった。その天使の額にも、地獄の光が多少残ってるかも知れなかった。電光の飛沫もなお雷である。人の宿命にも一種の連帯性があるもので、潔白それ自身といえどもなお、他物をも染める反射の痛ましい法則によって/罪悪の印が押されてることがある。最も純潔なるものにも、忌むべきものと隣した反映の跡がなお残ってることがある。正当か不当かは別として、とにかくマリユスは恐れを-いだいた。彼は既にあまりあるほどのことを聞かされていた。そのうえ深入りすることよりも/むしろ心を転ずることを求めていた。彼は吾を忘れて、ジャン・ヴァルジャンに対しては目を閉じながら、コゼットを両腕に抱き去った。  その男は闇夜であった。生きたる恐ろしい闇夜であった。いかにしてその奥底を探ることを成し得よう。闇に向かって問いを発するのは恐怖すべきことである。いかなる答えが出てくるかわかったものではない。そのために曙までもエーキュウに暗くされるかも知れない。  そういう精神状態にあったから、以来その男がコゼットと何らかの接触を保つということは、マリユスにとっては思うも耐え難いことだった。自ら躊躇して成し得なかったその恐ろしい問い、動かすべからざる決定的な解決が出て来るかも知れなかったその恐ろしい問い:、それをあえて発しなかったことを、彼は今となってほとんど自ら責めた。彼は自分があまりに善良で、あまりにおだやかで、更に言えば、あまりに弱かったのを知った。その弱さのために彼は、不注意な譲歩をするに至ったのである。彼はその感傷に乗ぜられた。彼は誤った。きっぱりと簡単にジャン・ヴァルジャンを拒絶すべきであった。ジャン・ヴァルジャンはむしろ火に-あたうべき部分であって、彼はそれを切り捨てて/自分の家を火災から免れさせるべきであった。彼は自ら自分を恨み、また自分の耳をふさぎ/目をふさいで巻き込んでいった/その情緒の突然の旋風を恨んだ。彼は自分自身に不満だった。  今はいかにしたらいいか。ジャン・ヴァルジャンの訪問は彼のはなはだしくいとうところだった。あの男を家に入れて何の役に立つか。どうしたらいいか。そこまで考えてきて彼は迷った。彼はそれ以上掘り下げることを欲せず、それ以上ふかく考慮することを欲しなかった。彼は自ら自分を測ることを欲しなかった。彼は約束を与えていた、言わるるままに約束してしまった。ジャン・ヴァルジャンは彼の誓約を得ていた。徒刑囚に対しても、否/徒刑囚に対してであるからなおさら、約束は守らなければならない。とは言え彼の第一の義務はコゼットに対するものだった。要するに彼は、何よりもまず嫌悪の念に揺すられた。  マリユスは、頭の中にあるあらゆる観念を一々取り上げ、そのたびごとに心を動かされながら、雑然たる全体のことを持ちあぐんだ。その結果ふかい惑乱に陥った。またその惑乱をコゼットに隠すのは容易なことではなかった。しかし愛は一つの才能である。マリユスはついにそれを隠しとげた。  そのうえ彼は、鳩の白きがように率直であって/何らの疑念をもいだいていないコゼットに、それとなくいろいろなことを尋ねてみた。彼女の子供の時のこと、彼女の若い時のこと、それについて彼女と話をしてみた。そしてあの徒刑囚がコゼットに対して、およそあり得る限り善良で慈悲深く/立派に振る舞ってきたことを、次第に確認するに至った。マリユスが推察し/仮定していたことはすべて事実だった。その気味悪いイラクサはこの百合を愛して/保護してきたのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八編】 【消えゆく光】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【下の部屋】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日、夜になろうとする頃、ジャン・ヴァルジャンはジルノルマン家を表門から訪れた。彼を迎えたのはバスクだった。バスクはちょうど中庭に出ていて、何か言いつけを受けてでもいるが-ようだった。誰ソレさんがこられるから気をつけておいでと召し使いに言うと、ちょうどその人がやってくる、そういうことも時々あるものである。  バスクはジャン・ヴァルジャンが近寄るのも待たないで、彼に言葉をかけた。 「二階がおよろしいか階下がおよろしいか伺うようにと、男爵様の仰せでございます。」 「階下にしよう。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。  バスクはもとよりきわめて恭しい態度で、低い部屋の扉を開いて、そして言った。「ただ今’奥様に申し上げます。」  ジャン・ヴァルジャンが通されたのは、丸天井のついた/じめじめした階下の部屋で、ときどき物置きに使われ、街路に面し、赤い板瓦が敷いてあり、鉄格子のついた窓が一つあるきりで、中は薄暗か-った。  それははたきや/ブラシや/箒でいじめられる部屋ではなかった。ほこりは静かに休らっていた。蜘蛛は何らの迫害も受けないでいた。立派な蜘蛛の巣が一つ、真っ黒に大きくひろげられ/蠅の死体で飾られて、窓ガラスの上に車輪のようにかかっていた。部屋は狭くて天井も低く、一隅には空き瓶が積まれていた。石黄ショクの胡粉で塗られた壁は、ところどころ大きく剥落していた。奥の方に黒塗りの木の暖炉が一つあって、狭い棚がついていた。中には火が燃えていた。それは「階下にしよう」というジャン・ヴァルジャンの返事が既に予期されてたことを、明らかに示すものだった。  二つの肱掛椅子が暖炉の両隅に置かれていた。椅子の間には、毛よりも糸目のほうがよけいに見えてる古い寝台敷き-が、絨毯の代わりにひろげられていた。  部屋の中は暖炉の火の輝きと/窓からさす薄明りとで照らされてるのみだった。  ジャン・ヴァルジャンは疲れていた。数日来’食も取らず/眠ってもいなかった。彼は肱掛椅子の一つに身を落とした。  バスクが戻ってきて、点した蝋燭を一本暖炉の上に置き、また出て行った。ジャン・ヴァルジャンは首をたれ、顎を胸に埋めて、バスクにも蝋燭にも目を向けなかった。  突然’彼は飛び上がるようにして身を起こした。コゼットが彼のうしろに立っていた。  彼は彼女がはいってくるのを見はしなかったが、その気配を感じたのだった。  彼は振り向いて彼女を眺めた。彼女はいかにもあでやかな美しさだった。しかし彼がその深い眼差しで眺めたのは、そのビではなくて魂であった。 「まあ、」とコゼットは叫んだ、「なんというお考えでしょう! お父様、私あなたが変わったお方だとは知っていましたが、こんなことをなさろうとは思いもよりませんでしたわ。ここで私に会いたいとおっしゃるのだと、マリユスが申すのですよ。」 「そう、私から願ったことだ。」 「そうおっしゃるだろうと思っていました。ようございます。仕返しをしてあげますから。でもまあ最初のことからしましょう。お父様、私を接吻して下さいな。」  そして彼女はホオを差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは不動のままでいた。 「お動きなさいませんのね。わかりますよ。罪人’のようですわ。でもとにかく許してあげます。イエス・キリストも言われました、他のホオをもめぐらしてこれに向けよと。さあ/ここにございます。」  そして彼女は他のホオを差し出した。  ジャン・ヴァルジャンは身動きもしなかった。あたかもその足は床に釘付けにされてるが-ようだった。 「本気でそうしていらっしゃるの。」とコゼットは言った。「私あなたに何かしましたかしら。ほんとに困ってしまいますわ。私あなたに貸しがありますのよ。今日は私どもといっしょに御飯を召し上がって下さらなければいけません。」 「食事は済んでいる。」 「嘘ですわ。私ジルノルマン様にあなたをしかっていただきますよ。お祖父様ならお父様を少したしなめることができます。さあ、私といっしょに客間にいらっしゃいよ、すぐに。」 「いけない。」  それでコゼットは多少’地歩を失った。彼女はウワテに出るのをやめて、こんどはいろいろ尋ねるようになった。 「どうしてでしょう! 私に会うのに家で一番きたない部屋をお望みなさるなんて。ここはほんとにひどいではありませんか。」 「お前も知っ‥‥。」  ジャン・ヴァルジャンは言い直した。 「奥さんも御存じのとおり、私は変人だ、私にはいろいろ変わった癖がある。」  コゼットは小さな両手をたたいた。 「奥さん! 御存じのとおり!‥‥それもまた変だわ。どういう訳でしょう?」  ジャン・ヴァルジャンは時々ごまかしにやる/例の悲痛なほほえみを彼女に向けた。 「あなたは奥さんになることを望んだ。そしていま奥さんになっている。」 「でもあなたに対してはそうではありませんわ、お父様。」 「もう私を父と呼んではいけない。」 「まあ何をおっしゃるの?」 「私をジャンさんと呼ばなければいけない、あるいはジャンでもいい。」 「もう父ではないんですって、私はもうコゼットではないんですって、ジャンさんですって。いったいどうしてでしょう。大変な変わりようではありませんか。何か起こったのですか。まあ私の顔を少し見て下さいな。あなたは私どもといっしょに住むのをおきらいなさるのね。私の部屋をおきらいなさるのね。私あなたに何をしまして! 何をしましたでしょう。何かあるのでございましょう。」 「いや-なんにも。」 「それで?」 「いつもと少しも変わりは無い。」 「ではなぜ名前をお変えなさるの。」 「あなたも変えている。」  彼はまた微笑をして言い添えた。 「あなたはポンメルシー夫人となっているし、私はジャンさんとなっても不思議ではない。」 「私にはわけがわかりませんわ。何だか馬鹿げてるわ。あなたをジャンさんと言ってよいか夫に聞いてみましょう。きっと許してはくれないでしょう。あなたはほんとに、大変私に心配をさせなさいますのね。いくら変わった癖があるからといって、この小さなコゼットを苦しめてはいけません。悪いことですわ。あなたは親切な方だから、意地悪をなすってはいけません。」  彼は答えなかった。  彼女は急に彼の両手を取り、拒むマを与えずそれを自分の顔のほうへ持ち上げ、顎の下の首元に押しあてた。それは深い愛情を示す所作だった。 「どうか、」と彼女は言った、「親切にして下さいな。」  そして彼女は言い進んだ。 「私が親切というのはこういうことですわ。意地っ張りをなさらないで、ここにきてお住みになって、またちょいちょいいっしょに散歩して下すって、プリューメ街のようにここにも小鳥がいますから、私どもといっしょにお暮らしなすって:、オンム・アルメ街のひどい家をお引き払いになり、私たちにいろんな謎みたいなことをなさらず、普通のとおりにしていらっして:、私どもといっしょに晩餐もなされば、私どもといっしょに昼御飯もお食べになり、私のお父様になって下さることですわ。」  彼は取られた手を離した。 「あなたにはもう父は要らない、夫があるから。」  コゼットは少し気を悪くした。 「私に父が要らないんですって! そんな無茶なことをおっしゃるなら、もう申し上げる言葉もありません。」 「トゥーサンだったら、」とジャン・ヴァルジャンは考えの拠り所を求めて/何でも手当たり次第につかもうとしてるかのように言った:、「私にはまったくいつも自己’一流のやり方があることを、一番に認めてくれるだろう。何も変わったことが起こったのではない。私はいつも自分の薄暗い片隅を好んでいた。」 「でもここは寒うございます。物もよく見えません。そしてジャンさんと言ってくれとおっしゃるのも、あまりひどすぎます。私にあなたなんておっしゃるのもいやです。」 「ところで、さっきここへ来る途中、」とジャン・ヴァルジャンはそれに答えて言った、「サン・ルイ街で私の目についた道具が一つある。道具屋の店先に置いてあった。私がもしきれいな女だったらあの道具をほしがったに違いない。ごく立派にできてる新式の化粧台だった。確かあなたが薔薇の木と言っていたあの道具だった。ハメキザイクも施してあった。鏡もかなり大きかった。引き出しもいくつか-ついていた。実にきれいなものだった。」 「ほんとに人を馬鹿にしていらっしゃるわ/」とコゼットは答え返した。  そしてこの上もないかわいい様子で、歯をくいしばり、脣を開いて、ジャン・ヴァルジャンに息を吹きかけた。それは猫のまねをしたビの女神だった。 「私はもう腹が立ってなりません。」と彼女は言った。「昨日から、みんなで私にひどいことばかりなさるんですもの。私はほんとに怒っています。私には訳がわかりません。マリユスが何か言ってもあなたは私をかばって下さらないし、あなたが何かおっしゃってもマリユスは私の味方になってくれません。私はひとりぽっちです。私はおとなしく部屋まで用意しています。もし神様にでもはいっていただけるのでしたら、ほんとに喜んでお入れしたいくらいです。誰もその部屋にはいって下さる人もありません。部屋の借り手がないので私は破産してしまいます。ニコレットに少しご馳走の支度をさしても、どなたも食べて下さいません。そして私のフォーシュルヴァンお父様はジャンさんと言えとおっしゃるしまた、壁には髯がはえていて、玻璃器の代わりには空き瓶が並んでおり、:、窓掛けの代わりには蜘蛛の巣が張っているような、恐ろしい古いきたないじめじめした窖のような所で、私に会ってくれとおっしゃるんですもの。あなたが一風変わった方だとは私も承知しています。あなたのいつものことですから。けれども結婚したばかりの者には、少し気を休ませてやるものですわ。あとでまたすぐに変わったこともできるではありませんか。あなたはあのオンム・-アルメ街のひどい’家がいいとおっしゃいますの。私はもういやでたまりません。いったい私に何を怒っていらっしゃいますの。わたし心配でなりませんわ。ああ!」  そして急に真面目になって、彼女はジャン・ヴァルジャンをじっと見つめ、こう言い添えた。 「あなたは、私が幸福であるのをおもしろく思っていらっしゃらないんですか。」  無邪気も時には自ら知らないで深くつき込むことがある。右の疑問は、コゼットにとってはごく単純なものだったが、ジャン・ヴァルジャンにとっては深くつき込んだものだった。コゼットはちょっとひっかくつもりだったが、実は深い傷を相手に与えた。  ジャン・ヴァルジャンは顔色を変えた。彼はしばらく返事もせずにじっとしていたが、次に自ら自分に話しかけるような/何とも言えない調子でつぶやいた。 「その幸福は私の生涯の目的であった。今’神は私が去るべきを示して下さる。コゼット、お前は幸福だ。私の日は終わったのだ。」 「ああ/お前と呼んで下すったのね/」とコゼットは叫んだ。  そして彼女は彼の首に飛びついた。  ジャン・ヴァルジャンは吾を忘れて、彼女を呆然と自分の胸に抱きしめた。彼はほとんど彼女をまた取り戻したような心地になった。 「ありがとう、お父様。」とコゼットは言った。  その感情の誘惑はジャン・ヴァルジャンにとって痛烈なものとなり始めた。彼は静かにコゼットの腕から身を-しりぞけ、そして帽子を取り上げた。 「どうなさるの。」とコゼットは言った。  ジャン・ヴァルジャンは答えた。 「奥さん、お別れします。皆様が待っていられましょうから。」  そして扉の閾の上で彼は言い添えた。 「私はあなたにお前と言いました。しかしもうこれからそんなことは-しないとご主人に申し上げて下さい。ごめん下さい。」  ジャン・ヴァルジャンはコゼットをあとにして出て行った。コゼットはその謎のような別れの言葉に茫然としてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【更にスウホの退却】 ◇。◇。◇。◇。◇。  翌日、同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。  コゼットはもう-なんにも尋ねもせず、不思議がりもせず、寒いとも言わず、客間のことも口に出さなかった。彼女はお父様ともまたはジャンさんとも言わなかった。そして自分はあなたと言われるままにしておいた。奥さんと言われるままにしておいた。ただ喜びの情が少し減じてるのみだった。もし悲しみが彼女にも可能であるとすれば、彼女はいくらか悲しんでいた。  愛せられる男は、好き勝手なことを語って、なんにも説明せず、しかもそれで愛せられている女を満足させるものであるが、おそらくコゼットもマリユスとそういう談話をかわしたのであろう。恋人らの好奇心は、自分らの愛より以外に遠くわたるものではない。  したの部屋は多少とりかたづけられた。バスクは空き瓶を取りのけ、ニコレットは蜘蛛の巣を払った。  その後毎日同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。彼はマリユスの言葉を文字どおりに解釈して/日々こざるを得なかったのである。マリユスはジャン・ヴァルジャンがやって来る時刻には、いつも外出するようにしていた。一家の人々は、フォーシュルヴァ-ン氏の一風変わったやり方に慣れてきた。それにはトゥーサンの助けもよほどあった。「旦那様はいつもあんなでございました」と彼女は繰り返し言った。祖父も、「あの人は変わり者だ」と断言した。そしてすべてはきまった。そのうえ九十歳にもなれば、もう交際などということはできなくて、ただいっしょに並ぶというだけである。そして新来の者は-みんな一つのわずらいとなってくる。もう他人を入れる余地はない。日常の習慣がすっかりでき上がっている。ジルノルマン老人には、フォーシュルヴァ-ン氏とかトランシュルヴァン氏とかいう「そんな人」は来ないほうがよかったのである。彼は言い添えた。「ああいう変わり者は何をするかわかったものではない。ずいぶん奇抜なことをやる。と言ってその理由は何もない。カナプル侯爵はもっとひどかった。立派な邸宅を買い入れて、自分はその物置きに住んでいた。ああいう人たちは表面だけ変なことをしてみたがるものだ。」  誰もその凄惨なウラ面には気づく者はなかった。第一/どうしてそんなことが推察し得られたろう? 印度にはそういう沼がいくらもある。異様な不思議な水がたたえていて、風もないのに波を立て、静穏であるべきなのが荒れている。人はただその理由もない混乱の表面だけを眺める。そして底に水蛇がのたうっていることを気づかない。  多くの人もそういう秘密な怪物を持っている、シンチュウにいだいている苦悩を、身を噛む竜を、内心の闇の中に住む絶望を。かかる人も普通の者と同じようにして暮らしている。彼のうちに無数の歯を持ってる恐ろしい苦悶が寄生し、惨めなる彼のうちに生活し、彼のイノチを奪いつつあることは、誰からも知られない。その男が一つの深淵であることは、誰からも知られない。その’淵の水は停滞しているが、きわめて深い。時々、理由のわからぬ波が表面に現われてくる。不思議なうねりができ、次に消えうせ、次にまた現われる。底から泡が立ちのぼってきては、消えてゆく。何でもないことのようであるが、実は恐ろしいことである。それは人に知られぬ獣の吐く息である。  ある種の妙な習慣、たとえば、他の人が帰る頃に-やってくるとか、他の人が前に出てるあいだ-うしろに隠れてるとか、壁色のマントをつけるとでも言い得るような態度をあらゆる場合に取るとか:、寂しい道を選ぶとか、人のいない街路を好むとか、少しも会話の仲間入りをしないとか、人込みやにぎわいを-さけるとか、のんきそうにして貧乏な暮らしをするとか:、かねがあるのにいつも鍵をポケットに入れ/蝋燭を門番の所に預けておくとか、潜門から出入りするとか、裏の階段から上ってゆくとか:、すべてそういう何でもなさそうな特殊の癖、表面に現われたる波紋や/泡や/捉え難い皺は、しばしば恐るべき底から発してくることがある。  斯くて数週間過ぎ去っていった。新しい生活は次第にコゼットをとらえていった。結婚のために生じた交際、訪問、家政、遊楽、それらの大事件が起こってきた。コゼットの楽しみは費用のかかるものではなかった。それはただマリユスといっしょにいるということだけだった。彼と共に出かけ、彼と共に家にいる、それが彼女の一番大事な仕事だった。互いに腕を組み合わし、白昼’街路を公然と、人通りの多い中をただ二人で歩くこと、これは彼らにとって常に新しい喜びだった。コゼットが気を痛めたことはただ一つきりなかった。すなわち、年取った二人の独身女は融和し難いけれど、祖父は達者であり、マリユスはときどき何かの弁論に出廷し、ジルノルマン伯母は新家庭のそばに差し控えた日々を送りつつ満足していた。ジャン・ヴァルジャンも毎日訪れてきた。  お前という呼び方は消えうせてしまい、あなたとか/奥さんとか/ジャンさんとかいうことになって、彼はコゼットに対してまったく別人のようになった。彼女の心を自分から離そうとした彼の注意は、うまく成功した。彼女はますます快活になり、ますますやさしみが減じてきた。それでもなお彼女はよく彼を愛してい、彼もそのことを感じていた。ある日’彼女は突然’彼に向かって言った。「あなたは私のお父様でしたが、今はそうでなくなり、あなたは私の伯父様でしたが、今はそうでなくなり、あなたはフォーシュルヴァン様でしたが、今はジャン様となられたのですね。するとあなたは、いったいどういう方なんでしょう。私そんなこと嫌ですわ。もしあなたがごくいい方だということを知らなかったら、私はあなたを怖がるかも知れません。」  彼はなおオンム・アルメ街に住んでいた。以前/コゼットが住んでいた街区を去るに忍びなかったのである。  初めのうち彼は、数分間しかコゼットのそばにいないで、すぐ帰っていった。  ところが次第に、彼は長居をするようになってきた。あたかも日が長くなるのに乗じた形だった。彼は早く来ては遅く帰っていった。  ある日、コゼットはふと「お父様」と言ってしまった。すると喜びのひらめきが、ジャン・ヴァルジャンの陰鬱な老年の顔に輝いた。彼は彼女をとらえた。「ジャンと言って下さい。」彼女は笑い出しながら答えた。「ああそうでしたわね、ジャンさん。」「それでよろしいです、」と彼は言った。そして彼は顔をそむけて、彼女に見えないように目をぬぐった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【プリューメ街の庭の思い出】 ◇。◇。◇。◇。◇。  それが最後であった。その最後のひらめき以来、光はまったく消えうせてしまった。もはや親しみもなく、抱擁をもって迎えられることもなく、お父様! という深いやさしみの言葉もなくなった。彼は自ら命じ/自ら行なって、自分のあらゆる幸福を相次いで卻けてしまった。一日にしてコゼットをすべて失ったあと、次に再び彼女を少しずつ失うという、悲惨な目に彼は出会った。  目もついには窖の明るみに慣れてくるものである。結局コゼットの姿を毎日見るというだけで彼には充分だった。彼の全生命はその時間に集中されていた。彼は彼女のそばにすわり、黙って彼女を眺め、あるいはまた、昔のこと、彼女の子供の折りのこと、修道院にいた頃のこと、当時の小さなお友だちのこと、などを彼女に話した。  ある日の午後──それは四月のはじめであって、既に暖かくなってるがまださわやかであり、ヒの光はきわめてうららかで、マリユスとコゼットとの窓のほとりの庭は春の目ざめの気に満ち:、山査子は芽ぐみ、丁子は古壁の上に宝石を飾り、薔薇色の金魚草は石の割れ目に花を開き、草の間には雛菊や金鳳花がかわいく咲きそめ、年内の白い蝶は始めて飛び出し:、永遠の婚礼の楽手たる春風は、古い詩人らが一陽来復と呼んだ黎明の大交響曲の最初の譜を樹木の間に奏していた──:そのある日の午後、マリユスはコゼットに言った。「プリューメ街の庭にまた行ってみようといつか話したね。今すぐに行こう。恩を忘れてはいけない。」そして二人は、二羽の燕のように春に向かって舞い上がった。プリューメ街の庭は曙のような気を彼らに与えた。愛の春とも言うべき何物かを彼らは過去に持っていた。プリューメ街の家はまだ借受期限内で、コゼットのものになっていた。二人はその庭に行き、その家に行った。そして昔に返って、吾を忘れてしまった。その夕方いつもの時刻に、ジャン・ヴァルジャンはフィーユ・デュ・カルヴェール街にやってきた。バスクは彼に言った。「奥様は旦那様とご一緒にお出かけになりまして、まだお帰りになっていません。」彼は黙って腰をおろし、一時間ばかり待った。コゼットは帰ってこなかった。彼はうなだれて帰っていった。  コゼットは「自分たちの庭」を散歩したことに気を奪われ、「過去のうちにイチニチを過ごした」ことを非常に喜んで、翌日もそのことばかり言っていた。ジャン・ヴァルジャンに会わなかったことな-んかは念頭になかった。 「どうしてあそこまで行きました?」とジャン・ヴァルジャンは彼女に尋ねた。 「歩いて。」 「そして帰りには?」 「辻馬車で。」  しばらく前からジャ-ン・ヴァルジャンは、若夫婦がごくつつましい生活をしてるのに気づいていた。そのために彼は心をわずらわされた。マリユスの倹約は厳重で、ジャン・ヴァルジャンに向かって彼が言った言葉は絶対的な意味を持っていた。彼は思い切って尋ねてみた。 「なぜあなたは自分の馬車を備えないのですか。小ぎれいな箱馬車なら/月に五百フランもあればいいでしょう。あなたがたは金持ちではありませんか。」 「私にはわかりません。」とコゼットは答えた。 「トゥーサンについてもそうでしょう。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「いなくなったままで、代わりも雇ってないのは、なぜですか。」 「ニコレットだけで充分ですから。」 「しかしあなたには小間使いがひとり要るでしょう。」 「マリユスがいてくれますもの。」 「あなたがたは自分の家を持ち、自分の召し使いを持ち、馬車を一つ備え、芝居の席も取っておいていい筈です。あなたがたには何でもできます。なぜ金持ちのようにしないのですか。かねを使えばそれだけ幸福も増すわけです。」  コゼットは答えなかった。  ジャン・ヴァルジャンの訪問の時間は決して短くはならなかった。否/かえって長くなった。心がすべってゆく時には、人は坂の途中で足を止めることはできない。  ジャン・ヴァルジャンは訪問の時間を長引かし、時のたつのを忘れさせようと思う時には、いつもマリユスのことをほめた。マリユスは美しく/気高く/勇気があり/才があり/雄弁であり/親切であるとした。コゼットは更にマリユスをほめた。ジャン・ヴァルジャンは何度も繰り返した。そして言葉の尽きることはなかった。マリユスという一語は無尽蔵な言葉だった。その四字の中には幾巻もの書籍が含まっていた。そういうふうにして、ジャン・ヴァルジャンは長く-とどまることができた。コゼットを眺め/そのそばですべてを忘れることは、彼にとってはいかに楽しいことであったろう。それは自分の傷口を結わえることだった。バスクが二度もきて、「食事の用意ができたことを奥様に申し上げてこいと、オオ旦那様が仰せられました、」と告げるようなことも、幾度かあった。  そういう日/ジャン・ヴァルジャンは、深く思いに沈みながら戻っていった。  マリユスの頭に浮かんだあの脱殻のたとえには、何か真実な点が含まっていたであろうか。ジャン・ヴァルジャンは果たして一つの脱殻であって、自分から出た蝶を/執拗に訪れて来る身であったろうか。  ある日、彼はいつもより長座をした。するとその翌日は暖炉に火がはいっていなかった。「おや、火がない、」と彼は考えた。そして自らその説明を下した。「なに当然のことだ。もう四月だ。寒さは済んでしまったのだ。」 「まあ、寒いこと/」とコゼットははいってきながら叫んだ。 「寒くはありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。 「では、バスクに火を焚くなとおっしゃったのはあなたですか。」 「ええ。もうすぐ五月です。」 「でも6月までは火を焚くものです。こんな低い部屋では一年中’火が要ります。」 「私はもう火は無駄だと思ったのです。」 「それもあなたの一風変わったところですわ。」とコゼットは言った。  翌日はまた火がはいっていた。しかし二つの肱掛椅子は、部屋の端の扉の近くに並んでいた。「どういうわけだろう?」とジャン・ヴァルジャンは考えた。  彼はその肱掛椅子を取りにゆき、いつものとおり暖炉のそばに並べた。  それでも再び火が焚かれたので彼は元気を得た。彼はいつもより長く話した。帰りかけて立ち上がった時、コゼットは彼に言った。 「主人は昨日’変なことを私に言いました。」 「どういうことですか。」 「こうなんです。コゼット、僕たちには三万フランの年金がはいってくる、二万七千はお前のほうから、三千はおじいさんから下さるので、というんです。それで三万ですわと私が答えますと、お前には三千フランで暮らしてゆく勇気があるかってききます。私は、ええ/あなたといっしょなら一文無しでも、と答えました。それから私は、なぜそんなことをおっしゃるの、と尋ねてみますと、ただ聞いてみたのだ、と答えたのですよ。」  ジャン・ヴァルジャンは一言も発し得なかった。コゼットはたぶん彼から何かの説明を待っていたのであろう。しかし彼は沈鬱な/無言のまま彼女の言葉に耳を傾けた。彼はオンム・アルメ街に戻っていった。彼は深く考え込んでいたので、入り口をまちがえて、自分の家に入らず、隣の家にはいり込んだ。そしてほとんど三階まで上っていってからようやく、まちがったことに気づいて、またおりていった。  彼の精神はいろいろの推測に苦しめられた。マリユスがあの六十万フランの出どころについて疑いをいだき、何か不正な手段で得られたものではないかと恐れてるのは、明らかだった。おそらく彼は、その-かねがジャン・ヴァルジャンから出たものであることを発見したのかも知れなかったし、その怪しい財産に不安の念をいだき、それを自分の手に取ることを好まず:、コゼットと二人でうしろぐらい金持ちとなるより/むしろ貧しい暮らしをしようと思ってるのかも知れなかった。  そのうえ漠然とジャン・ヴァルジャンは、自分が排斥されてるのを感じ始めた。  翌日、例の下の部屋にはいってゆくと彼は一種の戦慄を感じた。肱掛椅子は二つともなくなっていた。普通の椅子さえ一つもなかった。 「まあ、椅子がない/」とコゼットははいってきて叫んだ。「椅子はどこにあるんでしょう?」 「もうありません。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「あんまりですわ!」  ジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。 「持ってゆくように私がバスクに言いました。」 「なぜです。」 「今日はちょっとの間しかいないつもりですから。」 「長くいないからと言って、立ったままでいる理由にはなりません。」 「何でも客間に肱掛椅子がいるとかバスクが言っていたようです。」 「なぜでしょう。」 「たしか今晩お客があるのでしょう。」 「いえ誰も来はしません。」  ジャン・ヴァルジャンはそれ以上なんとも言うことができなかった。  コゼットは肩をそびやかした。 「椅子を持ってゆかせるなんて! こないだは火を消さしたりして、ほんとにあなたは変な方ですわ。」 「さようなら。」とジャン・ヴァルジャンはつぶやいた。  彼は「さようなら、コゼット」とは言わなかった。しかし「さようなら、奥さん」と言う力もなかった。  彼は気力も抜け果てて出て行った。  こんどは彼もよく了解した。  翌日彼はもう来なかった。コゼットは晩になってようやくそれに気づいた。 「まあ、」と彼女は言った、「ジャンさんは今日いらっしゃらなかった。」  彼女は軽い悲しみを覚えたが、すぐにマリユスの口づけにまぎらされて、ほとんど自ら気にも止めなかった。  その翌日も彼は来なかった。  コゼットは別にそれを気にもせず、いつものとおりその晩を過ごし、その夜を眠り、目をさました時ようやくそのことを頭に浮かべた。彼女はそれほど幸福だったのである。彼女はその朝すぐにジャン氏のもとへニコレットをやって、病気ではないか、また昨日は何故こなかったかと尋ねさした。ニコレットはジャン氏の答えをもたらしてきた。少しも病気ではない。ただ-いそがしかった。すぐにまた参るだろう、できるだけ早く。それにまたちょっと旅をしようとしている。奥さんは自分がいつもときどき旅する習慣になってるのを覚えていられるはずである。決して心配されないように。自分のことは考えられないように。  ニコレットはジャン氏の家へ行って、奥様の言葉をそのまま伝えたのだった。「昨日ジャン様は何故おいでにならなかったか」を尋ねに奥様からよこされたのだと。「私が参らないのはもう二日になります、」とジャン・ヴァルジャンは静かに答えた。  しかしその注意はニコレットの気に止まらなかった。彼女はそのことについては一言もコゼットに復命しなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【牽引力と消滅】 ◇。◇。◇。◇。◇。  1833年の晩春から初夏へかけた-数カ月のあいだ、マレーのまばらな通行人や/店頭にいる商人や/門口にぼんやりしてる人などは、さっぱりした黒服をまとってるひとりの老人を見かけた。老人は毎日’日暮れのころ同じ時刻に、オンム・アルメ街から/サント・クロア・ド・ラ・ブルトンヌリー街のホウへ出てきて、ブラン・マントー教会堂の前を通り:、キュルテュール・サント・カトリーヌ街へ入り、エシャルプ街まできて左に曲がり、そしてサン・ルイ街へ入るのだった。  そこまで行くと、彼は足をゆるめ、頭を前方に差し出し、なんにも見ず-なんにも聞かず、目を常に同じ一点にじっととらえていた。その一点は、彼にとっては星が輝いてるのかと思われたが、実はフィーユ・デュ・カルヴェール街のカドにほかならなかった。その街路に近づくに従って、彼の目はますます輝いてきた。内心の曙のように一種の喜悦の情がその眸に光っていた。そして魅せられ/感動されてるような様子をし、脣はかすかに震え動き、あたかも目に見えない何者かに話しかけてるがようで、ぼんやり微笑を浮かべて、できるだけゆっくり足を運んだ。向こうに行きつくことを願いながら、それに近寄る瞬間を恐れてるとでもいうようだった。彼を引きつけるらしいその街路から/もはや家の四’五軒しかへだたらない所まで行くと:、彼の歩調は非常にゆるやかになって、時とするともう歩いてるのでないとさえ思われるほどだった。その震える頭と/じっと定めた瞳とは、極を求める磁石の針を思わせた。斯くていくら到着を長引かしても、ついには向こうへ着かなければならなかった。彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街に達した。すると、そこに立ち止まり、身を震わし、最後の人家のカドから、一種’沈痛な臆病さで頭を差し出し、その街路をのぞき込んだ。その悲愴な眼差の中には、不可能ジから来る目眩と/閉ざされたる楽園とに似た何かがあった。それから一滴の涙が、徐々に目蓋の隅に溜まってきて、下に落ちるほど大きくなり、ついにホオをすべり落ち、あるいは時とすると口もとに止まった。老人はその苦い味を感じた。彼はそのまましばらく石のようになってたたずんだ。それから、同じ道を/同じ歩調で戻っていった。そのカドから遠ざかるに従って、目の光は消えていった。  そのうちしだ-いに、老人はフィーユ・デュ・カルヴェール街のカドまで行かないようになった。彼はよくサン・ルイ街の中ほどに立ち止まった、あるいは少し遠くに、あるいは少し近くに。ある日などは、キュルテュール・サント・カトリーヌ街のカドに止まって、遠くからフィーユ・デュ・カルヴェール街を眺めた。それから彼は何かを拒むが-ように、黙って頭を左右に振り、そして引き返していった。  やがて彼は、もう/サン・-ルイ街までも行かなくなった。パベ街までしか行かないで、頭を振って戻っていった。次にはトロア・パヴィヨン街より先へは行かなくなった。その次にはもうブラン・マントー教会堂から先へ出なくなった。ちょうど、もうバネを巻かれなくなった振り子が、次第に振動を狭めて/ついに止まってしまおうとしてるのによく似ていた。  毎日、彼は同じ時刻に家をいで、同じ道筋をたどったが、向こうまで行きつくことができなかった。そしておそらく自分でも気づかないで、行く距離を絶えず縮めていた。彼の顔にはただ一つの観念が浮かんでいた、すなわち、何の役に立とう? と。眸の光は消えうせて、もう外に輝かなかった。涙もまた涸れて、もう目蓋の隅に溜まらなかった。その思い沈んだ目は乾いていた。彼の頭はいつも前方に差し出されていた。時々その顎が震え動いていた。やせた首筋のしわは見るも痛ましいほどだった。時としては、天気の悪い時など、腕の下に雨傘を抱えていたが、それを開いてることはなかった。その辺の-かみさんたちは言った、「あの人はお馬鹿さんですよ。」子供たちは笑いながらそのあとについていった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九編】 【極度の闇、極度の曙】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 【不幸ものを憐れみ/幸福者を許すべし】 ◇。◇。◇。◇。◇。  幸福であるのは恐るべきことである。いかに人はそれに満足し、いかにそれをもって足れりとしていることか! 人生の誤れる目的たる幸福を所有して、真の目的たる義務を、いかに人は忘れていることか!  けれどもあえて言うが、マリユスを非難するのは不当であろう。  マリユスは前に説明したとおり、結婚前にもフォーシュルヴァ-ン氏に向かって問い質すことをせず、結婚後にもジャ-ン・ヴァルジャンに向かって問い質すことを恐れた。彼は心ならずも約束するに至ったことを後悔した。望みなきあの男にそれだけの譲歩をなしたのは誤りだったと、彼は幾度も自ら言った。そして今は、次第にジャン・ヴァルジャンを家から遠ざけ、できるだけ彼をコゼットの頭から消してしまおうと、ただそれだけを謀っていた。コゼットとジャ-ン・ヴァルジャンとの間にいつも多少’自分をはさんで、彼女がもう彼のことを気づかず/彼のことを頭に浮かべないようにと、願っていた。それは消し去ること以上で、蝕し去ることであった。  マリユスは必要であり/正当であると判断したことを行なってるに過ぎなかった。彼は苛酷なこともせず/しかも弱々しい情も動かさないでジャ-ン・ヴァルジャンを排斥し去ろうとしていたが:、それには、彼の考えによれば、読者が既に見てきたとおりの重大な理由があり、また次に述べる別の理由もあった。彼は自ら弁論することになったある訴訟事件において、偶然にも昔ラフィット家に雇われていた男と出会い、何も別に尋ねたわけではないが、不思議な話を聞かされた。もとより彼は秘密を厳守すると約束した手前もあり、ジャン・ヴァルジャンの危険な地位をも考えてやって、その話を深く探ることはできなかった。ただ彼はその時、果たすべき重大な義務があることを感じた。それはあの六十万フランを返却するということで、彼はその相手をできるだけひそかに探し求めた。そしてそのあいだ-かねに手をつけることを避けた。  コゼットに至っては、それらの秘密を少しも知らなかった。しかし彼女を非難するのもまた/あまり苛酷であろう。  一種の強い磁力がマリユスから彼女へ流れていて、そのために彼女は、本能的に”またほとんど機械的に、マリユスの欲するままになっていた。「ジャン氏」のことについても、彼女はマリユスの意志に感応して、それに従っていた。夫は彼女に何も言う必要はなかった。彼女は夫の暗黙の意向から漠然たる/しかも明らかな圧力を感じて、それに盲従した。彼女の服従はここではただ、マリユスが忘れてることは思い出すまいというのにあった。そのためには何ら努力の用はなかった。彼女は自らその理由を知らなかったし、また彼女に咎むべきことでもないが、彼女の魂はまったく夫の魂となり了せて:、マリユスの考えの中で影に蔽われてるものは皆、彼女の考えの中でも暗くなるのであった。  けれどもそれはあまり強く言えることではない。ジャン・ヴァルジャンに関することでは、その忘却と消滅とはただ表面的のものに過ぎなかった。彼女は忘れやすいというよりも/むしろうっかりしていた。心の底では、長く父と呼んできたその男をごく愛していた。しかし夫のほうをなおいっそう愛していた。そのために彼女の心は、多少平衡を失って一方に傾いたのである。  時々、コゼットはジャン・ヴァルジャンのことを言い出して怪しむこともあった。するとマリユスは彼女をなだめた。「留守なんだろう。旅に出かけるということだったじゃないか。」それでコゼットは考えた。「そうだ。あの人はいつもこんなふうにいなくなることがあった。それにしてもこう長引くことはなかったが。」ニサン度’彼女はニコレットをオンム・アルメ街にやって、ジャン氏が旅から帰られたかと尋ねさした。ジャン・ヴァルジャンはまだ帰らないと答えさした。  コゼットはそれ以上尋ねなかった。この世でなくてならないものは、ただマリユスばかりだったから。  なお言っておくが、マリユスとコゼットのほうでもまた不在になった。彼らはヴェルノンへ行った。マリユスはコゼットを父の墓へ連れて行った。  マリユスはコゼットを次第にジャン・ヴァルジャンから逃れさした。コゼットはされるままになっていた。  それにまた、子供の忘恩などと/ある場合にはあまりきびしく言われてることも、実は人が考えるほど常に咎むべきことではない。それは自分自身の忘恩である。他の所で言っておいたように、自然は「前方を見て」いる。自然は生きてるものを、来る者と去る者とに分かっている。去る者は闇の方へ向き、来る者は光明の方へ向いている。ここにおいて乖離が生じてきて、老いたる者にとっては宿命的なものとなり、若い者にとっては無意識的なものとなる。その乖離は初めは感じ難いほどであるが、木の枝が分かれるように次第に大きくなる。小枝はなお幹についたまま遠ざかってゆく。それは小枝の罪ではない。青春は喜びのある所へ、にぎわいのほうへ、強い光のほうへ、愛のほうへ、進んでゆく。老衰は終焉のほうへ進んでゆく。両者は互いに姿を見失いはしないが、もはや抱擁はしなくなる。若き者は人生の冷ややかさを感じ、老いたる者は墳墓の冷ややかさを感ずる。そのあわれなる子供らをとがめてはいけない。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 【あぶら尽きたるランプの最後のひらめき】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある日、ジャン・ヴァルジャンは階段をおりてゆき、街路にニサンポふみ出して、ある標イシの上に腰をおろした。それは、六月五日から六日へかけた晩、ガヴローシュがやってきた時、彼が考えふけりながら腰掛けていたのと、同じ石であった。彼はそこにしばらくじっとしていたが、やがてまた階上’へ上っていった。それは振り子の最後の振動だった。翌日、彼はもう部屋から出なかった。その翌日には、もう寝床から出なかった。  門番の女は、キャベツや馬鈴薯に少しの豚肉をまぜて、彼の粗末な食物をこしらえてやっていたが、その陶器ザラの中を見て叫んだ。 「まああなたは、昨日から何も召し上がらないんで-すね。」 「いや食べたよ。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「お皿はまだいっぱいですよ。」 「水差しを見てごらん。カラになってるから。」 「それは、ただ水を飲んだというだけで、なにも食べたことにはなりません。」 「でも、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「水だけしかほしくなかったのだとしたら?」 「それは喉がかわいたというもんです。いっしょに-なんにも食べなければ、熱ですよ。」 「食べるよ。明日は。」 「それともいつかは、でしょう。なぜ今日’召し上がらないんです。明日は食べよう、なんていうことがありますか。私がこしらえてあげたのに手をつけないでおくなんて! この煮物はほんとにおいしかったんですのに!」  ジャン・ヴァルジャンは婆さんの手を取った。 「きっと食べるよ。」と彼は親切な声で言った。 「あなたは分からず屋です。」と門番の女は答えた。  ジャン・ヴァルジャンはその婆さんよりほかにはほとんど誰とも顔を合わせなかった。パリーのうちには誰も通らない街路があり、誰も訪れてこない’家がある。彼はそういう街路の一つに住み、そういう家の一つにはいっていた。  まだ外に出かけた頃、彼はある鋳物屋の店で、ゴ六スー出して小さな銅の十字架像を買い、それを寝台の正面の釘にかけて置いた。そういう首つり台はいつ見ても快いものである。  一週間’過ぎたが、そのあいだジャン・ヴァルジャンは部屋の中さえ一歩も歩かなかった。彼はいつも寝たままだ-った。門番の女は亭主に言った。「上のお爺さんは、もう起きもしなければ、食べもしないんだよ。長くは-もつまい。何かひどく心配なことがあるらしい。私の推察じゃ、きっと娘が悪い所へかたづいたんだよ。」  亭主は夫としての威厳を含んだ調子でそれに答えて言った。 「もし-かねがあれば、医者にかかるさ。かねがなければ、医者にかからないさ。医者にかからなければ、死ぬばかりさ。」 「医者にかかったら?」 「やはり死ぬだろうよ。」と亭主は言った。  女房は自ら自分の敷石と言ってる所に生えかかってる草を、フルナイフで掻き取りはじめたが、そうして草を取りながらつぶやいた。 「かわいそうに。きれいな爺さんなのに。ヒヨッコのように真っ白だが。」  彼女は街路の向こう端に、近所の医者がひとり通りかかるのを見た。そして自分ひとりできめて、その医者に来てもらうことにした。 「三階でございますよ。」と彼女は医者に言った。「かまわずにはいって下さい。お爺さんはもう寝床から動けないので、鍵はいつも扉についています。」  医者はジャン・ヴァルジャンに会い、彼に話をしかけた。  医者がおりてくると、門番の女は彼に呼びかけた。 「どうでございましょう?」 「病人はだいぶ悪いようだ。」 「どこが悪いんでございましょうか。」 「どこと言って悪い所もないが、全体がよくない。見たところどうも大事な人でも失ったように思われる。そんなことで死ぬ場合もあるものだ。」 「あの人はあなたに何と言いましたか。」 「病気ではないと言っていた。」 「またあなたに来ていただけますでしょうか。」 「よろしい。」と医者は答えた。「だが私よりもほかの人に来てもらわなければなるまい。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 【今は一本のペンも重し】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ある晩/ジャン・ヴァルジャンは、辛うじて肱で身を起こした。自ら手首を取ってみると、脈が感ぜられなかった。呼吸は短くてときどき止まった。彼は今まで知らなかったほどひどく弱ってるのに気づいた。すると、何か最期の懸念に駆られたのであろう、彼は努力をして、そこにすわり、服をつけた。自分の古い労働服を着た。もう外にも出かけないので、またその服を取り出し、それを好んでつけたのだった。服をつけながら何度も休まなければならなかった。上衣の袖に手を通すだけでも、額から汗が流れた。  ひとりになってから彼は、控え室のほうに寝台を移していた。寂しい広間にはできるだけいたくなかったからである。  彼は例の鞄を開いてコゼットの古い衣裳を取り出した。  彼はそれを寝床の上にひろげた。  司教の二つの燭台は元のとおり暖炉の上に載っていた。彼は引き出しから二つの蝋燭を取って、それを燭台に立てた。それから、夏のこととてまだ充分’明るかったが、その蝋燭に火をともした。しにんのいる部屋の中にそんなふうに昼間から蝋燭がともされてるのは、ときどき見られることである。  一つの道具から他の道具へと行く一歩一歩に、彼は疲れきって腰をおろさなければならなかった。それは力を費やしてはまた回復するという普通の疲労ではなかった。ある限りの運動の残りだった。二度とはやれない最後の努力のうちにしたたり落ちてゆく、消耗し尽したイノチであった。  彼が身を落とした椅子の一つは、ちょうど鏡の前になっていた。その鏡こそは、彼にとっては宿命的なものであり、マリユスにとっては天意的なものであって、すなわち彼がコゼットの逆の文字を吸い取りがみの上に読み得た/その鏡だった。彼は鏡の中に自分の顔をのぞいたが、自分とは思えないほどだった。八十歳にもなるかと思われた。マリユスの結婚前には、ようやく五十歳になるかならないくらいに思えたが、この一年の間に三十ほども年を取ってしまっていた。今ヒタイにあるものは、もはや老年の皺ではなくて、死の神秘な標だった。無慈悲な爪の痕がそこに感ぜられた。両のホオはこけていた。顔の皮膚は、既に土をかぶったかと思われるような色をしていた。口の両隅は、古人がよく墓の上に刻んだ多くの面に見るように、下に垂れ下がっていた。彼は非難するような様子で空を眺めた。誰かを咎めずには-いられない/悲壮な偉人のひとりかと思われた。  彼はもはや悲哀の流れも涸れつくしたという状態に、疲憊の最後の一段にあった。悲しみも言わば凝結してしまっていた。人の魂についても、絶望の凝塊とでも言うべきものがある。  夜になった。彼は非常な努力をして、テーブルと古い肱掛椅子とを暖炉のそばに引き寄せ、テーブルの上にペンと/インキと/紙とを載せた。  それがすんで、彼は気を失った。意識を恢復すると、喉が乾いていた。水差しを持ち上げることができないので、それをようやく口のほうへ傾けて、一口飲んだ。  それから彼は寝床のほうを振り向き、立っておれないのでやはりすわったまま、小さな黒いナガギヌとその他の大事な品々とを眺めた。  そういう観照は、数分間と思ってるうちに/はや/幾時間にもなるものである。突然’彼は身震いをし、寒けに襲わるるのを感じた。彼は司教の燭台にともってる蝋燭に照らされたテーブルに肱をかけて、ペンを取り上げた。  ペンもインキも長く使わないままだったので、ペンの先は曲がり、インキは乾いていた。彼は立ちあがって数滴の水をインキの中に-そそがなければならなかった。それだけのことをするにも二’三回’休んで腰をおろした。それにまたペンは背のほうでしか字が書けなかった。彼はときどきヒタイを拭いた。  彼の手は震えていた。彼はゆっくりと次のような数ギョウを-したためた。 ◇。◇。  コゼット、私はお前を祝福する。私はここにちょっと説明しておきたい。お前の夫が、私に去るべきものであることを教えてくれたのは、至当なことである。けれども、彼が信じていることのうちには少し誤りがある。しかしそれも彼が悪いのではない。彼は立派な人である。私が死んだあとも、常に彼をよく愛しなさい。ポンメルシー君、私の愛児を常に愛して下さい。コゼット、私はここに書き残しておく。これは私がお前に言いたいと思ってることである。私にまだ記憶の力が残っていたら、数字も出てくるであろうが、よく聞きなさい。あの-かねはまったくお前のものである。そのわけはこうである。シロ飾り玉はノールウェーからき、黒飾り玉はイギリスからき、黒ガラス玉はドイツから来る。飾り玉のほうが軽くて貴くて/アタイも高い。その紛い玉はドイツでできるが、フランスでもできる。二寸シホウの小さなカナシキと/鑞を溶かすアルコールランプとがあればよい。その鑞は、以前は樹脂と油煙とで作られていて、一斤4フランもしていた。ところが私は漆とテレビン油とで作ることを考え出した。価はわずかに三十スーで、しかもずっと品がよい。留め金は紫のガラスでできるのだが、右の鑞でそのガラスを黒い鉄の小さな輪縁につける。ガラスは鉄の玉には紫でなければいけないし、金の玉には黒でなければいけない。スペインにその需要が多い。それは飾り玉の国で‥‥ ◇。◇。  そこで彼は書くのをやめ、ペンは指から落ち、ときどき胸の底からこみ上げてくる絶望的なすすり泣きがまた襲ってき、あわれな彼は両手で頭を押さえ、そして思いに沈んだ。 「ああ、万事終わった。」と彼は心の中で叫んだ(神にのみ聞こえる痛むべき叫びである)。「私はもう彼女に会うこともあ-るまい。それは一つのほほえみだったが、もう私の上を通りすぎてしまった。彼女を再び見ることもなく、私はこのまま闇夜のうちにはいってゆくのか。おお、1分でも、一秒でも、あの声をきき、あのナガギヌにさわり、あの顔を、あの天使のような顔を眺め、そして死ねたら! 死ぬのは何でもない。ただ恐ろしいのは、彼女に会わないで死ぬことだ。彼女はほほえんでくれるだろう、私に言葉をかけてくれるだろう。そうしたとて誰かに災いをおよぼすだろうか。いやいや、もう済んでしまった、エーキュウに。私はこのとおりただひとりである。ああ、私はもう彼女に会えないだろう。」  その時だれか扉をたたく者があった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 【物を白くするのみなる墨壺】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ちょうどその時、なおよく言えばその同じ夕方、マリユスが食卓を離れ、訴訟記録を調べる用があって、自分の事務室に退いた時、バスクが一通の手紙を持ってきて言った。「この手紙の本人が控え室にきております。」  コゼットは祖父の腕を取って、庭をひと回りしていた。  手紙にも人間と同じく、キミの悪いものがある。粗末な紙、荒い皺、ひと目見ただけでも不快の気を起こさせるものがある。バスクが持ってきた手紙はそういう種類のものだった。  マリユスはそれを手に取った。煙草の匂いがしていた。およそ匂いほど記憶を呼び起こさせるものは無い。マリユスはその煙草の匂いに覚えがあった。彼はオモテを眺めた。「御邸宅にて、ポンメルシー男爵閣下。」煙草の匂いに覚えがあるために、彼は手跡にも覚えがあることがわかった。驚きの情にも電光があると言っても不当ではない。マリユスはそういう電光の一つに照らされたようだった。  記憶の神秘な助手である匂いは、彼のうちに一世界をよみがえらした。紙といい、たたみ方といい、インキの青白い色といい、また見覚えのある手跡といい、ことに煙草の匂いといい、すべてが同じだった。ジョンドレットのあばら家が彼の目の前に現われてきた。  偶然の不思議なる悪戯よ! 斯くて、彼があれほど探していた二つの踪跡のうちの一つ、最近’更に多くの努力をしたがついに分からず/もうエーキュウに見いだせないと思っていた踪跡は、向こうから彼のホウへやってきたのである。  彼は貪るように手紙を披いて読み下した。 ◇。◇。 【    男爵閣下】  もし天にして小生に才能を与えたまいしならんには、小生は学士院(科学院)会員テナル男爵となり得そうらいしものを、ついにしからずして終わり候。小生はただその名前のみを保有し居候が、この一事によって閣下の御好意に浴するを得ば幸甚に御座候。小生に賜わる恩恵は報いらるるべき所これ有り候。と申すは、小生はある個人に関する秘密を握りおり、その個人は閣下に関係ある男にそうろう。小生はただ閣下のおためを計るの光栄を希望する者にて、おぼしめしこれ有りそうらわば/その秘密を御伝え申すべく候。男爵夫人閣下は素性たかき方にそうらえば、小生はただ閣下のたっとき家庭より/何ら権利なきその男を追いはらい得る、きわめて簡単なる方法をお知らせ申すべく候。コウトクの聖殿も長く罪悪とキョを共にする時は、ついには-けがるるものに御座候。   小生は控え室にて、閣下のお指図を相待ち居候。敬具。 ◇。◇。  手紙にはテナルと署名してあった。  その署名は必ずしも偽りではなかった。ただ/少し縮めただけのものだった。  その上、その冗文と文字使いとは事実を明らかに語っていた。出どころは充分’明瞭だった。疑問をはさむの余地はなかった。  マリユスは深く心を動かされた。そしてキ-ョウガイのあとに喜びの念を-いだいた。今はもはや、捜索しているもうひとりの男を、自分を救ってくれた男を、見いだすのみであって、それができればもう他に望みはなくなる訳だった。  彼は仕事机の引き出しを開き、中からいくばくかの紙幣を取り出し、それをポケットに入れ、机をまた閉ざし、そしてベルを鳴らした。バスクが扉を少し開いた。 「ここに通してくれ。」とマリユスは言った。  バスクは案内してきた。 「テナル様でございます。」  ひとりの男がはいってきた。  マリユスは新たな驚きを覚えた。はいってきたのはまったく見知らぬ男だった。  その男は、と言ってももう老人だが、大きな鼻を持ち、顎を首飾りの中につき込み、目には緑色の琥珀ギヌでフチ覆いした緑色の眼鏡をかけ:、髪は額の上に平らになでつけられて/眉の所まで下がり、イギリスの上流社会の御者がつけてる鬘のようだった。その髪は半ば白くなっていた。頭から足先まで黒ずくめで、その黒服は擦り切れては-いるが小ぎれいだった。ひとふさの飾り玉が内ポケットから出ていて、時計がはいってることを示していた。手には古い帽子を持っていた。前かがみに歩いていて/背中が曲がってるために、そのお辞儀はいっそう丁寧らしく見えた。  ひと目見ても不思議なことには、その上衣はよくボタンがかけられてるのにダブダブしていて、彼のために仕立てられたものではなさそうだった。  ここにちょっと余事を述べておく必要がある。  当時/パリーには、ボートレイイ街の造兵廠の近くの古い怪しいコヤに、ひとりの怜悧なユダヤ人が住んでいて、不良の徒を良民に変装してやるのを仕事としていた。長い時間を要しなかったので、悪者らにとっては、至って便利だった。日にサンジュッスー出せば、一日か二日の約束で、見てるまに服装を変えてくれて、できるだけうまく/あらゆる種類の良民に仕立ててくれた。衣裳を貸してくれるその男は、取り替えにんと呼ばれていた。それはパリーの悪者らがつけた名前で、別の名前は知られていなかった。彼はかなりそろった衣服部屋を持っていた。人々を変装してやる衣服は相当な品だった。彼は特殊な才能を持ち、いろいろの方法を心得ていた。店の釘にはそれぞれ、社会のあらゆる階級の擦れ切れた/皺だらけの衣裳がかかっていた。こちらに役人の服があり、あちらに司祭の服があり、一方に銀行家の服があり、片隅に退職軍人の服があり、他の隅には文士の服があり、向こうには政治家の服がある、という具合になっていた。その男はパリーで演ぜられる大きな泥坊芝居の衣裳方だった。その小屋は詐偽窃盗の出入りする楽屋だった。ボロをまとってるひとりの悪漢が衣服部屋にやってき、サンジュッスー出し、その日’演じようとする役目に従って適当な服装をえらみ、そして再び階段をおりてゆく時には、まったく相当な人間に変わっていた。翌日になると、その衣服は正直に返却された。盗賊らをすっかり信用してる取り替えにんは、決して品物を盗まれることがなかった。ただその衣服には一つ不便な点があった。すなわち「うまく合わない」ということだった。着る人の身体に合わして作られたものでなかったから、甲の者には小さすぎ、乙の者には大きすぎるという具合に、誰にもきっちり合わなかった。普通の者より小さいか大きいかが常である悪者らは、取り替えにんの衣服にははなはだ具合が悪かった。またあまりふとっていてもあまりやせていてもいけなかった。取り替えにんは普通の人間をしか頭に入れていなかった。ふとってもいずやせてもいず、背が高くも低くもない、始めてぶっつかった奴の身体に合わして、標準をきめていた。そのために着がえをすることが困難な場合もしばしば起こって、顧客らはできるだけの手段を尽してその困難を切りぬけようとしていた。並みはずれの体格を持ってる者には、気の毒な訳だった。たとえば、政治家の服装はすっかり黒ずくめで、従って適宜なものであったが、ピットにはあまり広すぎ、カステルシカラにはあまり狭すぎた。この政治家の服は、取り替えにんの目録の中には次のように指定されていた。それをここに書き写してみよう。「黒ラシャの上着、黒の厚ラシャのズボン、絹のチョッキ、靴、およびシャツ。」欄外に、前大使/としてあって、註がついていた。その注をも写してみよう。「別の箱にあり、程よき巻き髪の鬘、緑色の眼鏡、時計の飾り玉、および、ワタにくるみたる長さ1寸の小さな羽軸二本。」それだけで前大使たる政治家ができ上がるのだった。その服装は言わば衰弱しきっていた。縫い目は-しらばんでおり、一方の肱にはボタン穴’くらいの破れめができかかっていた。その上、上衣の胸にボタンが一つ取れていた。しかしそれは何でもないことだった。政治家の手はいつも上衣の中に差し込まれて/胸を押さえてるものであるから、ボタンが一つ足りないのを隠す役目をもするわけだった。  もしマリユスが、パリーのそういう隠密な制度に通じていたならば、いま/バスクが案内してきた客の背に、取り替えにんの所から借りてきた政治家の上衣を、すぐに見て取りえたはずである。  マリユスは予期していたのと違った男がはいってくるのを見て失望し、失望の念’は-やがて新来の客に対する嫌悪の情となった。そして男が低く頭を下げてる間、彼はその頭から足先までじろじろ眺めて、きっぱりした調子で尋ねた。 「なんの用ですか。」  男は鰐の媚びワラいとでも言えるように、歯をむき出して愛想笑いをしながら答えた。 「閣下にはホウボウでお目にかかる光栄を得ましたように覚えております。ことに数年前、バグラシオン大公夫人のお屋敷や、上院議員ダンブレー子爵のお客間などで、お目にかかったように存じております。」  まったく初対面の人にもどこかで前に会ったような様子をするのは、卑劣な男の/巧みな慣用手段である。  マリユスは男の話に注意していた。しかしいくらその声の調子や身振りに目をつけても、失望は大きくなるばかりだった。鼻にかかった声であって、予期していた鋭いかわいた声音とはまったく異なっていた。彼はまったく推定に迷わされた。 「僕は、」と彼は言った、「バグラシオン夫人もダンブレー氏も知りません。まだどちらの家にも足をふみ入れたことはかつてありません。」  その答えは無愛想だった。それでもなお男は慇懃に言い続けた。 「ではお目にかかりましたのは、シャトーブリアン氏のお宅でしたでしょう。私はシャトーブリアン氏をよく存じております。なかなか愛想のよいお方です。どうだテナル、いっしょに一杯やろうか、などとときどき申されます。」  マリユスの顔はますます険しくなった。 「僕はまだシャトーブリアン氏の宅に招かれたことはありません。つまらないことは抜きにしましょう。結局どういう用ですか。」  男はいっそうきびしくなったその声の前に、いっそう低く頭を下げた。 「閣下、まあどうかお聞き下さい。アメリカのパナマに近い地方にジョヤという村がございます。村と申しましても、家は一軒きりございません。堅い煉瓦作りのヨン階だてになっている大きな四角な家でありまして、その四角の各辺が五百’尺もあり、各階は下の階より十二シャクほど引っ込んで、それだけがぐるりと平屋根になっています。中央が中庭で、食料や武器が納められています。窓はなくてみな銃眼になり、戸はなくてみな梯子になっています。すなわち地面から二階の平屋根へ上れる梯子、次は二階から三階へ、三階から4階へとなっていまして、また中庭におりられる梯子もあります。部屋には扉がなくてみな揚げ戸になり、階段がなくてみな梯子になっています。晩になると、揚げ戸をしめ、梯子を引き上げ、トロンブロン銃やカラビン銃を銃眼に備えます。ウチへ入ることは到底できません。昼間は住処で、夜は要塞で、住民は800人というのがその村のありさまでございます。なぜそんなに用心をするかと申せば、ごく危険な地方だからであります。食人人種がたくさんおります。ではなぜそんな所へ行くかと言いますれば、実に素敵な土地でありまして、黄金が出るからであります。」 「結局どういうことになるんですか。」と失望から性急に変わって/マリユスは話をさえぎった。 「こういうことでございます、閣下。私はもう疲れ果てた古い外交官であります。古い文明のために力を使い果たしてしまいました。それで一つ野蛮な仕事をやってみようと思っているのでございます。」 「だから?」 「閣下、利己心は世界の大法であります。日傭稼ぎの貧乏な田舎女は、駅馬車が通れば振り返って見ますが、自分の畑の仕事をしてる地主の女は、振り向きもいたしません。貧乏人の犬は金持ちに吠えかかり、金持ちの犬は貧乏人に吠えかかります。みな自分のためばかりです。利益、それが人間の目的であります。かねは磁石であります。」 「だから? 結局なんですか。」 「私はジョヤに行って住みたいと思っております。家族は三人で、私の妻に娘、それもごく美しい娘でございます。旅は長くて、かねもよほどかかります。私は-かねが少しいるのでございます。」 「それが何で僕に関係があるんですか。」とマリユスは尋ねた。  男は首飾りから首を差し出した。禿鷹のよくやる身振りである。そして彼はいっそう笑顔を深めて答えた。 「閣下は私の手紙を御覧になりませんでしたでしょうか。」  それはほとんどそのとおりであった。実際、手紙の内容にマリユスはよく気を止めなかった。彼は手紙を読んだというよりむしろその手跡を見たのだった。何が書いてあったかはほとんど覚えていなかった。けれどもちょっと前から新しい糸口が現われてきた。彼は「私の妻に娘」という一事に注意をひかれた。そして鋭い目を男の上に据えていた。予審判事といえどもそれにおよぶまいと思われるほど、じっと目を注いでいた。ほとんど待ち伏せをしてるようなありさまだった。それでも彼はただこう答えた。 「要点を言ってもらいましょう。」  男は二つの内ポケットに両手をつき込み、セスジを真っ直ぐにせず/ただ頭だけをあげて、こんどはこちらから緑色の眼鏡越しにマリユスの様子をうかがった。 「よろしゅうございます、閣下。要点を申し上げましょう。私は一つ/買っていただきたい秘密を手にしております。」 「秘密!」 「秘密でございます。」 「僕に関しての?」 「はい/少しばかり。」 「その秘密とはどういうことです?」  マリユスは相手の言うことに耳を傾けながら、ますます注意深くその様子を観察していた。 「私はまず報酬を願わないでお話しいたしましょう。」と男は言った。「私がおもしろい人物である事もおわかりでございましょう。」 「お話しなさい。」 「閣下、あなたはお屋敷に盗賊と殺人犯とをお入れになっております。」  マリユスは慄然とした。 「僕の宅に? いや決して。」と彼は言った。  男は平然として、肱で帽子の塵をハラい、言い進んだ。 「人殺しでかつ盗賊であります。よくお聞き下さい、閣下。私が今’申し上げますのは、古いジキ遅れの干からびた事実ではありません。法律に対しては時効のために消され、神に対しては悔悟のために消されたような、そういう事実ではありません。最近の事実、現在の事実、今にまだ法廷から知られていない事実、それを申してるのであります。続けてお話しいたしますが、その男がうまくあなたの信用を得、名前を変えて御家庭にはいり込んでおります。その本名をお知らせ申しましょう。しかもただでお知らせいたしましょう。」 「聞きましょう。」 「ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」 「それは知っています。」 「なお私は報酬も願わないで、彼がどういう人物だかを申し上げましょう。」 「お言いなさい。」 「元は徒刑囚だった身の上です。」 「それは知っています。」 「私が申し上げましたからおわかりになりましたのでしょう。」 「いや。前から知っていたのです。」  マリユスの冷然たる調子、それは知っていますという二度の返事、相手に二の句をつがせないような簡明さ、それらは男の内心を多少’ゲッコウ-さした。彼は憤激した目つきをちらとマリユスに投げつけた。その眼差しはすぐに隠れて、一瞬の間にすぎなかったが、一度見たら忘れられないようなものだった。マリユスはそれを見のがさなかった。ある種の炎は/ある種の魂からしか発しない。思想の風窓である眸は、そのために焼かれてしまう。眼鏡もそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。  男はほほえみながら言った。 「私は何も男爵閣下のお言葉に逆らうつもりではございません。がとにかく、私がよく秘密を握っているということは認めていただきたいのでございます。これからお知らせ申し上げますことは、ただ私ひとりしか承知していないことであります。それは男爵夫人閣下の財産に関することでございます。非常な秘密でありまして、かねに代えたいつもりでいます。で”まず最初閣下にお買い上げを願いたいのです。お安くいたしましょう。二万フランに。」 「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは言った。  男はそのアタイを少しく下げる必要を感じた。 「閣下、一万フランくだされば申し上げましょう。」 「繰り返して言うが、君は僕に何も教えるものは無い筈です。君が話そうという事柄を僕はみんな知っています。」  男の目には新しいひらめきが浮かんだ。彼は声を高めた。 「それでも私は今日の食を得なければなりません。まったくそれは非常な秘密です。閣下、お話しいたしましょう。お話しいたしましょう。ニジュッフラン’恵んで下さい。」  マリユスは彼をじっと見つめた。 「僕も君の非常な秘密を知っています。ジャン・ヴァルジャンの名前を知ってると同様に、君の名前も知っています。」 「私の名前を?」 「そうです。」 「それはわけもないことでしょう、閣下。私はそれを手紙に書いて差し上げましたし、また自分で申し上げました、テナルと。」 「ディエ。」 「へえ!」 「テナルディエ。」 「それは誰のことでございますか。」  危険になると、ヤマアラシは毛を逆だて、甲虫は死んだまねをし、昔の近衛兵は方陣を作るが、この男は笑い出した。  それから彼は上衣の袖を指でハジいて/ほこりを払った。  マリユスは続けて言った。 「君はまたそのほか、労働者ジョンドレット、俳優ファバントゥー、詩人ジャンフロー、スペイン人’ドン・アルヴァレス、およびバリザールの家内とも言う。」 「なんの家内で?」 「なおきみは、モンフェルメイュで飲食店をやっていた。」 「飲食店? いえ、どうしまして。」 「そして君の本名はテナルディエというのだ。」 「さようなことはありません。」 「そして君は悪党だ。そら。」  マリユスはポケットから一枚の紙幣を取り出して、相手の顔に投げつけた。 「ありがとうございます。ごめん下さい。五百フラン! 男爵閣下!」  男は狼狽して、お辞儀をし、紙幣をつかみ、それを調べた。 「五百フラン/」と彼は茫然として繰り返した。そして半ば’口の中でつぶやいた、「いい代物だ!」  それから突然’彼は叫んだ。 「これでいいとしよう。楽にしましょう。」  そして猿のような敏捷さで、髪をうしろに撫で上げ、眼鏡をはずし、2本の羽軸を鼻から引き出してしまい込んだ。その羽軸は上に述べておいたもので、また本書の他の所でも読者が既に見てきたものである。斯くて彼は、あたかも帽子でも脱ぐようなふうに仮面をはいでしまった。  その目は輝き出した。所々でこぼこして/上のほうに醜い皺の寄ってる変なヒタイが出てきた。鼻は嘴のようにとがった。肉食獣のような獰猛’狡獪な顔つきが現われた。 「男爵の申されるとおりです。」と彼は全く鼻声がなくなった明らかな声で言った。「私はテナルディエです。」  そして彼は曲がっていた背を真っ直ぐにした。  まさしくその男はテナルディエだったので以後そう呼ぶが、テナルディエは非常に驚かされた。もし惑乱し得るとしたら、惑乱するところだった。彼は向こうを驚かすつもりできて、かえって反対に驚かされた。その屈辱は五百フランで償われた。そして結局’彼はそれを受け取ってしまった。しかしそれでもやはり呆然とさせられたには違いなかった。  彼はそのポンメルシー男爵とは初対面だった。そして彼が仮装していたにかかわらず、ポンメルシー男爵は彼を見破り、しかもその奥底までも見て取った。そのうえ男爵は、ただテナルディエのことをよく知ってるのみでなく、またジャン・ヴァルジャンのこともよく知ってるらしかった。斯く冷然として/しかも寛厚なるまだ青二才にすぎないこの青年は、そもそもいかなる人物だろうか:、人の名前を知っており、その名前をみな知っており、しかも財布の口を開いてくれ、裁判官のように悪人をいじめつけ、しかも欺かれた愚人のように-かねを出してくれるとは?  読者の記憶するとおり、テナルディエはかつてマリユスの隣の部屋に住んでいたけれども、彼を見たことは一度もなかった。そういうことは、パリーでは別に珍しくはない。彼は以前に自分の娘たちから、マリユスというごく貧しい青年が、同じ家に住んでるとぼんやり聞かされた。そしてその顔も知らないで、読者が知るとおりの手紙を彼に書いた。そのマリユスとこのポンメルシー男爵とを結びつけることは、彼の頭の中ではとうていできなかった。  ポンメルシーという名前については、読者の記憶するとおり、彼はワーテルローの戦場で、ただその終わりの三字(訳者注◇ メルシとはまたありがとうという意味である)と解釈しただけであって:、ただ一つの感謝の言葉としてあまり注意も払わなかったのは、無理ならぬことである。  ところで彼は、娘のアゼルマを使って、二月十六日の婚礼の跡を探らせ、また自分でもいろいろ詮索して、ついに多くのことを知るに至り、自分は暗黒の底にいながら、秘密の糸口を数多つかみ得た。そしてある日’ダイ溝渠の中で出会った男がいかなる人物であったかを、狡智によって発見した、あるいは少なくとも帰納的に察知し得た。その名前までも容易に推察した。また、ポンメルシー男爵夫人はコゼットであることをも知っていた。そしてこの方面では、慎重に差し控えたほうがいいと思った。コゼットは何者であるか? それは彼にもよくわからなかった。私生児であることは漠然とわかっていた。が/ファンティーヌの話にはどうも怪しいふしがあるように思われた。それを話してなんの役に立とう、その口止め料をもらうためにか? 否/彼は、それよりも更によい売り物を持っていた、あるいは持ってると思っていた。それに、何らの証拠もなくただ推察だけで、「あなたの夫人は私生児です」とポンメルシー男爵に告げたところで、それはただ夫の激怒を買うに過ぎなかったろう。  テナルディエの考えでは、マリユスとの会話はまだ始まったとも言えないものであった。もとより彼は、一旦退却し、戦略を改め、陣を撤し、方向を変えなければならなかった。けれども、大事な点はまだ先方に知られていないし、ポケットには五百フランせしめていた。その上、いざとなれば言うべきことも持っていたので、深い知識と/いい武器とをそなえてるポンメルシー男爵に対してもなお、自分のほうに強味があると感じていた。テナルディエのような者にとっては、一々の会話が皆’戦闘である。さていま始めんとする戦闘においては、彼の地位はどういうものであったか? 彼は相手がいかなる人物であるかを知らなかった、しかし問題がいかなるものであるかを知っていた。彼はすみやかに、自分の武力を心の中で調べてみて、「私はテナルディエです」と言ったあと、先方の様子を待ってみた。  マリユスは考えに沈んでいた。彼はついにテナルディエを捕まえたのである。あれほど見つけ出したいと思っていた男が、いま目の前にいるのだった。彼はポンメルシー大佐の要求を果たすことができるのだった。あの英雄がこの悪漢に多少なりとも恩を受けていること、墓の底から父が彼マリユスに向かって振り出した手形は今にまだ支払われていないこと、それに彼は屈辱を感じていた。そしてまた、テナルディエに対して複雑な精神状態の中にありながら彼は、大佐がかかる悪漢に救われた不幸について、返報してやる所がなければならないように考えられた。しかしそれはとにかく、彼は満足であった。今や、かかる賤しい債権者から大佐の影を解き放してやる時がきたのだった。負債の牢獄から父の記憶を引きぬいてしまう時がきたのだった。  そういう義務のほかに、彼にはもう一つなすべきことがあった。もしできるならばコゼットの財産の出どころを明らかにすることだった。今ちょうどその機会がきたように思われた。テナルディエはおそらく何か知ってるに違いなかった。この男を底まで探りつくしたら何かの役に立つかも知れなかった。で/彼はまずそれから始めた。  テナルディエはその「いい代物」を内ポケットにしまい込んで、ほとんど媚びるように/おとなしくマリユスを眺めていた。  マリユスは沈黙を破った。 「テナルディエ、僕は君の名前を言ってやった。そして今また、君のいわゆる秘密、君が僕に知らせようと思ってきたものを、僕から言ってもらいたいのか? 僕もいろいろ知ってることがある。君よりもくわしく知ってるかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは、君が言うとおり、人殺しで盗人だ。マドレーヌ氏という富有な工場主を破滅さしてその-かねを盗んだから、盗人である。警官ジャヴェルを殺害したから、人殺しである。」 「何だかよくわかりかねますが、男爵。」とテナルディエは言った。 「ではよくわからしてあげよう。聞きなさい。1822年ごろ、パ・ド・カレー郡に、ひとりの男がいた。彼は以前少しく法律に問われたことのある者だったが、マドレーヌ氏という名前で身を立て/名誉を回復していた。まったく一個の正しい人間となっていた。そしてある工業で、黒ガラス玉の製造で、全市を繁昌さした。自分の財産もできたが、それは第二の問題で、言わば偶然にできたのである。それから彼は貧しい人たちの養い親となった。病院を建て学校を開き、病人を見舞い、娘には嫁入じたくをこしらえてやり、ヤモメには暮らしを助けてやり、孤児は引き取って育ててやった。ほとんどその地方の守り神だった。彼は勲章を辞退したが、ついに市長に推された。ところがひとりの放免囚徒が、その人の旧悪の秘密を知っていて、その人を告発し/捕縛させ:、その捕縛に乗じてパリーにやってき、偽署をしてラフィット銀行から──この事実はその銀行の出納係から直接に聞いたことだ──:マドレーヌ氏のものである五十万以上の金額を引き出してしまった。そのマドレーヌ氏の-かねを奪った囚人というのが、すなわちジャ-ン・ヴァルジャンである。またもう一つの事実についても、僕は何も君から聞く必要はない。ジャン・ヴァルジャンは警官ジャヴェルを殺した。ピストルで殺した。斯く言う僕がその場にいたのだ。」  テナルディエは厳然たる一瞥をマリユスに投げた。あたかも一度打ち負けた者が再び勝利に手をつけ、失っていた地歩を一瞬間のうちに取り戻したかのようだった。しかしまたすぐに例の微笑が現われた。上位の者に対しては、下位の者はただ気兼ねした勝利をしか持ちえないものである。テナルディエはただこれだけマリユ-スに言った。 「男爵は、何だか筋道が違っていますようですが。」  そう言いながら彼は、時計の飾り玉を意味ありげにひねくって/それに力を添えた。 「なに/」とマリユスは言った、「君はそれに抗弁するのか。それは実際の事実だ。」 「いえ、譫言みたいなものです。男爵も打ち明けて言われましたから、私のほうでも打ち明けて申しましょう。何よりもまず真実と正義とが第一です。私は不正な罪を被ってる者を見るのを好みません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいません。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいません。」 「なんだと! それはどうしてだ?」 「二つの理由からです。」 「どういう理由だ? 言ってみなさい。」 「第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んだというわけにはなりません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには。」 「何を言うんだ。」 「そして第二はこうです。彼はジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身であるからには。」 「と言うと?」 「ジャヴェルは自殺したのです。」 「証拠があるか、証拠が/」とマリユスは吾を忘れて叫んだ。  テナルディエはあたかも古詩の句格めいた調子で言った。 「警官‥‥ジャヴェルは‥‥ポン・トー・シャンジュの橋の‥‥小船の下に‥‥おぼれて‥‥いました。」 「それを証明してみなさい!」  テナルディエは腋のポケットから、大きな灰色の紙包みを取り出した。いろいろの大きさにたたんだ紙が中にはいっているらしく見えた。 「私は記録を持っています。」と彼は落ち着いて答えた。  そしてまた言い添えた。 「男爵、私はあなたのために、このジャン・ヴァルジャンのことをすっかり探り出そうと思いました。私はジャン・ヴァルジャンとマドレーヌとは同一人であると申しましたし、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身にほかならないと申しましたが、そう申すにはもとより証拠があってのことです。しかも手で書いた証拠ではありません。書いたものは疑うこともでき、またどうにでもなるものです。けれども私が持ってるのは、印刷した証拠物であります。」  そう言いながらテナルディエは、黄ばみがかって色が褪せて/しかも強い煙草の匂いがする二枚の新聞紙を、包みの中から引き出した。そのうちの一枚は、折り目が破れて四角な紙片に切れており、もう一枚のよりずっと古いものらしかった。 「二つの事実と二つの証拠です。」とテナルディエは言った。そして彼はひろげた二枚の新聞紙をマリユスに差し出した。  その二枚の新聞は、読者の知ってるものである。古いほうのは、1823年七月二十五日のドラポー・ブラン紙の一枚であって:、その記事は本書の第二部/第二編/第一章で読者が見たとおり、マドレーヌ氏とジャ-ン・ヴァルジャンとが同一人である事を証明するものだった。もう一枚は、1832年六月十五日の機関紙であって、ジャヴェルの自殺を証明し、なおジャヴェルが自ら警視総監に語った口頭の報告が添えてあった。その報告によれば、ジャヴェルはシャンヴルリー街の防寨で捕虜になったが、ひとりの暴徒がピストルをもって彼を手中のものにしながら、彼の頭を射貫かないで空に向けて発射し:、その寛大なはからいのために一命を助かったというのだった。  マリユスは読んだ。その中には明らかな事実があり、確かな日付けがあり、疑うべからざる証拠があった。その二枚の新聞紙は、テナルディエが自説を支持するために/ことさら印刷さしたものではなかった。機関紙に掲げられた記事は、警視庁から公けに発表したものだった。マリユスも疑う余地を見いださなかった。銀行の出納係が伝えた話はまちがっていて、彼自身も誤解をしていたのだった。ジャン・ヴァルジャンはにわかに偉大なものとなって、雲の中から現われてきた。マリユスは喜びの叫びを自らおさえることができなかった。 「それでは、あのあわれむべき男は、驚くべき立派な人物だったのか! あの財産はまったく彼自身のものだったのか! 一地方全体の守護神たるマドレーヌであり、ジャヴェルの救い主たるジャン・ヴァルジャンであるとは! 実に英雄だ、聖者だ!」 「いえ/あの男は、聖者でも英雄でもありません。」とテナルディエは言った。「人殺しで盗賊です。」  そして彼は自らある権威を感じ始めたような調子で付け加えた。「落ち着いてお話ししましょう。」  盗賊、人殺し、もはや消え去ったと信じていたらそれらの言葉が再び現われて落ちかかってきたので、マリユスは氷の雨に打たれるような思いがした。 「それでもやはり/」と彼は言った。 「そうですとも。」とテナルディエは言った。「ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌのものを盗みはしませんでしたが、やはり盗賊です。ジャヴェルを殺しはしませんが、やはり人殺しです。」 「君はあの、」とマリユスは言った、「四十年前の盗みを言うのだろう。あれならば、その新聞にもあるとおり、悔悟と/克己と/徳操との生涯で贖われている。」 「男爵、私は殺害と窃盗と申すのです。しかも繰り返して言いますが、現在の事実です。あなたにこれからお知らせいたしますことは、まったく誰も知らないことであります。まだ世間に発表されていないことであります。そしてたぶんあなたは、ジャン・ヴァルジャンから巧みに男爵夫人へ贈られた財産の出どころも、それでおわかりになりますでしょう。私は特に巧みにと申しますが、実際そういう種類の寄贈によって、名誉ある家にもぐり込み、その安楽にあずかり:、同時にまた、自分の罪悪を隠し、盗んだものをおもしろく使い、名前を包み、家庭の人となるのですから、まあまずいやり方ではありません。」 「そう言うなら、僕にも言うべきことがある。」とマリユスは口を入れた。「だがまあ/続けて話してみなさい。」 「男爵、私はあなたにすべてを包まず申しましょう。報酬のほうは、あなたの寛大なおぼしめしにお任せいたします。その秘密は黄金の山を積んでもよろしいものです。こう申しますと、なぜジャ-ン・ヴァルジャンのほうへ行かないのかと言われるかも知れませんが、それはごく簡単な理由からであります。彼がすっかり-かねを出してしまったことを、しかもあなたのために出してしまったことを、私は存じております。そのやり方は実に巧いものだと思います。ところで彼はもうイチモンも持ってはいませんので、ただ私に空っぽの手を開いて見せるほかはありますまい。それに私は、ジョヤまで行くのに少し-かねが要りますので、何も持たない彼の所よりも、何でも持っておいでになるあなたのホウへ参ったのであります。ああ/少し疲れましたから、どうか椅子にすわることを許して下さい。」  マリユスは腰をおろし、彼にもすわるように身振りをした。  テナルディエはボタンジめの椅子に腰をおろし、二枚の新聞紙を取り、それを包み紙の中にまたたたみ込みながら、ドラポー・ブラン紙を爪ではじいてつぶやいた、「こいつ、手にいれるのにずいぶん骨を折らせやがった。」それから彼は膝を重ね、椅子の背によりかかった。自分の語ろうとする事に対して/安心しきってる者が取る態度である。そしていよいよ、落ち着き払い/一語一語’力を入れて、本題にとりかかった。 「男爵、今からおおよそ一年ばかり前、1832年六月六日、あの暴動のありました日、パリーのダイ下水道の中に、アンヴァリードバシとイエナバシとの間のセーヌ川への出口の所に、ひとりの男がいました。」  マリユスはにわかに自分の椅子を、テナルディエの椅子に近寄せた。テナルディエはその動作に目を注いで、相手の心をとらえ/一語一語に相手の胸のとどろきを感ずる弁士のように、おもむろに続けていった。 「その男は、政治とは別なある理由のために/身を隠さなければならないので、下水道を住居として、そこへ入る鍵を持っていました。重ねて申しますが、それは六月六日でした。晩の八時ごろだったでしょう。その男は、下水道の中に物音を聞いて、非常に驚き、身を潜めて待ち受けました。物音というのは人の足音で、何者かが暗闇の中を歩いて、彼のホウへやってきました。不思議なことに、彼以外にもひとり下水道の中にいたのです。下水道の出口の鉄格子は遠くありませんでした。それから漏れて来るわずかな光で、彼は新らしくきた男が何者であるかを見て取り、また背中に何か担いでるのを知りました。その男は背をかがめて歩いていました。それは前徒刑囚で、肩に担ってるのは一つの死体でした。で”まあ言わば、殺害の現行犯です。窃盗のほうはそれから自然にわかることです。人はただで他人を殺すものではありません。その囚徒は死体を川に投げ込むつもりだったのです。なお一つ注意までに申しますと、出口の鉄格子の所までたどりつく前に、下水道の中を遠くからやってきたその囚徒は、恐ろしい泥穴に必ず出会ったはずで、そこに死体をほうり込んで来ることもできたわけです。しかし、あすにも下水ニンプがその泥穴を掃除に来れば、殺された男を見つけ出すかも知れません。殺したほうではそんなことを嫌がったのです。そしてむしろ泥穴を、荷を担いだまま通りぬけて来ることにきめたのです。どれほど大変な努力をしたかは察しられます。それくらい危険なことはまたとあるものではありません。よく死なずに通りぬけてこられたのが不思議なほどです。」  マリユスの椅子は更に近寄った。テナルディエはそれに乗じて長く息をついて、言い続けた。 「閣下、下水道は広い練兵ジョウとは違います。隠れる物は何もなく、身を置くところさえ無いくらいです。そこに二人の男がいれば、互いに顔を合わさないわけにはゆきません。その二人も出会いました。そこに住んでいる男と/そこを通りぬけようとしてる男とは、互いに困ったとは思いながらも、あいさつをかわさないわけにはゆきませんでした。通りぬけようとしてる男は、そこに住んでる男に言いました。『お前には俺の背中のものが何だかわかるだろう。俺は出なけり-ゃならねえ。お前は鍵を持ってるようだから、それを俺に貸してくれ。』ところで、その囚徒は恐ろしく強いヤツでした。拒むわけにはゆきません。けれども鍵を持ってる男は、ただ時間を延ばすためにいろんなことをしゃべりました。彼はその’死んだ男をよく見ましたが、ただ年が若く、立派なナリをして金持ちらしく、また血’のために顔の形もわからなくなってるというほかは、なんにもよくわかりませんでした。それで、しゃべってるうちに彼は、人殺しの男に気づかれないように、そっとうしろから、殺された男の上衣の端を裂き取りました。言うまでもなく証拠品としてです。それによって事件を探索し/犯罪者にその犯罪の証拠品をつきつけてやるためです。彼はその証拠品をポケットにしまいました。それから彼は、鉄格子を開き、相手の男をその背中の厄介物と共に外へ送り出し、鉄格子をまた閉ざし、そして逃げてしまいました。事件にそれ以上関係したくないと思い、ことに殺害者がその被害者を川に投げ込む時/その近くにいたくないと思ったからでした。で、これまでお話し申せばもう充分おわかりでしょう。死体を担いでいたのはジャン・ヴァルジャンです。鍵を持っていたのは、現に斯く申し上げてる私です。そして上衣の切れは‥‥。」  そしてテナルディエは、一面に黒ずんだシミのついてる引き裂けた黒ラシャの一片を、ポケットから取り出し、両手の親指と人差し指とでつまんでひろげながら、それを目の所まで上げて、物語の結末とした。  マリユスは色を変えて立ち上がり、ほとんど息もつけないで黒ラシャの一片を見つめ、一言も発せず、その布切れから目を離しもせず、壁のほうへ退ってゆき:、うしろに差し出した右手で壁の上をなでながら、暖炉のそばの戸棚の錠前についていた一本の鍵を探した。そしてその鍵を探りあて、戸棚を開き、なおテナルディエがひろげてる布切れから驚きの眸を離さず、後ろ向きのまま戸棚の中に腕を差し伸ばした。  そのあいだテナルディエは言い続けていた。 「男爵、その殺された青年は、ジャン・ヴァルジャンの罠にかかったどこかの金持ちで、大金を所持していたものだと思える理由が、いくらもあります。」 「その青年は僕だ、その上衣はこれだ/」とマリユスは叫んだ。そして血に-しんだ古い黒の上衣を床’の上に投げ出した。  彼はテナルディエの手から布切れを引ったくり、上衣の上に身をかがめ、裂き取られた一片を/裂けてる裾の所へあててみた。裂け目はきっかり合って、その布切れのために上衣は完全なものとなった。  テナルディエは茫然とした。「こいつは-やられたかな、」と彼は考えた。  マリユスは身を震わし、絶望し、また驚喜して、すっくとつっ立った。  彼はポケットの中を探り、恐ろしい様子でテナルディエのほうへ進み寄り、五百フランと千フランとの紙幣をいっぱい握りつめた拳を差し出し、彼の顔につきつけた。 「君は恥知らずだ! 君は嘘つきで、中傷家で、悪党だ! 君はあの人に罪を着せるためにやってきて、かえってあの人を公明なものにした。あの人を破滅させようとして、かえってあの人を立派な者にした。そして君こそ盗賊だ。君こそ人殺しだ。おい/テナルディエ・ジョンドレット、キミがオピタル大通りのあばら家にいた所を、僕は見て知っている。君を徒刑バへ送るだけの材料を、いやそれよりもっと以上の所へ送るだけの材料を、僕は握っている。さあ、悪者の君に、千フランだけ恵んでやる。」  そして彼は一枚の千フラン紙幣をテナルディエへ投げつけた。 「おい/ジョンドレット・テナルディエ、卑劣きわまる悪漢、これは君にいい見せしめだ、秘密を売り歩き、内密なことを商売にし、暗闇の中を漁り回る、みじめな奴! この五百フランもくれてやる。拾ったらここを出ていっちまえ! それもワーテルローのお陰だ。」 「ワーテルロー/」とテナルディエは五百フランを千フランと共にポケットにしまいながらつぶやいた。 「そうだ、人殺しめが! 君はそこで‥‥大佐の命を救った。」 「将軍ので。」とテナルディエは頭を上げながら言った。 「大佐だ/」とマリユスは憤然として言った。「将軍ならイチモンもやりはしない。それからキミは、また悪事をしにここへきた。君は既にある限りの罪悪を犯している。どこへなりと行くがいい、姿を消してしまうがいい。ただ楽に暮らすようにと、それだけ僕は希望しておく。さあ、ここにまだ三千フランある。それを持ってゆけ。明日からでもアメリカへ行くがいい、娘といっしょに。君の妻はもう死んでいる、けしからん嘘つきめが! 出発の時には僕が見届けてやる、そしてその時二万フランは恵んでやる。どこへなりと行ってくたばってしまえ!」 「男爵閣下、」とテナルディエは足下まで頭を下げながら答えた、「御恩は長く忘れません。」  そしてテナルディエはなんにも訳が分からず、黄金の袋で打ちのめされ、頭の上に紙幣をまき散らす雷電に打たれ、ただあっけに取られたまま狂喜して、そこを出て行った。  彼はまったく雷に打たれたと同じだったが、しかしまた満足でもあった。もしその雷に対して避雷針を持っていたならば、かえって不満な結果となってたであろう。  ここにすぐ、この男のことを片づけておこう。今’述べてる事件から二日の後、彼はマリユスの世話によって、名前を変え、娘のアゼルマを連れ、ニューヨークで受け取れる二万フランの手形を持ち、アメリカへ向かって出発した。一度踏みはずしたテナルディエのみじめな徳性は、もはや矯正すべからざるものになっていた。彼はアメリカへ行っても、ヨーロッパにいる時と同様だった。悪人が手をふるる時には、善行も往々にして腐敗し、それから更に悪事が出てくるようになる。マリユスからもらった-かねで、テナルディエは奴隷売買を始めた。  テナルディエが出てゆくや否や、マリユスは庭に走っていった。コゼットはまだ散歩していた。 「コゼット! コゼット/」と彼は叫んだ。「おいで、早くおいで! すぐに行くのだ。バスク、辻馬車を一つ呼んでこい。コゼット、おいで。ああ、僕の命を救ってくれたのはあの人だった。一刻も遅らしてはいけない。すぐ肩掛けをつけるんだ。」  コゼットは彼が気でも狂ったのかと思ったが、その言葉どおりにした。  彼は息もつけないで、胸に手をあてて動悸を押ししずめようとしていた。彼は大股に歩き回った。コゼットを抱いて言った。 「ああ、コゼット、僕は実にあわれむべき人間だ!」  マリユスは熱狂していた。彼はジャン・ヴァルジャンのうちに、高い/仄暗い/言い知れぬ姿を認め始めた。非凡な徳操の姿が彼に現われてきた。最高にして/しかもやさしい徳であり、広大なるためにかえって謙譲なる徳であった。徒刑囚の姿はキリストの姿と変わった。マリユスはその異変に眩惑した。彼は自分の今’眺めているものがただ偉大であるというほか、なんにもはっきりとわからなかった。  間もなく一台の辻馬車が門前にやってきた。  マリユスはそれにコゼットを乗せ、次に自分も飛び乗った。 「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街7番地だ。」  馬車は出かけた。 「まあうれしいこと/」とコゼットは言った、「オンム・アルメ街なのね。私は今まで言いだしかねていましたのよ。私たちはジャンさんに会いに行くんですわね。」 「お前のお父さんだ、コゼット、今こそお前のお父さんだ。コゼット、僕にはもうすっかり飲み込めた。お前はガヴローシュに持たしてやった僕の手紙を受け取らなかったと言ったね。きっとあの人の手に落ちたに違いない。それで僕を救いに防寨へ来て下すったのだ。そして、天使となるのがあの人の務めでもあるように、ついでに他の人たちをも救われたのだ。ジャヴェルをも救われた。僕をお前に与えるために、あの深淵の中から僕を引き出して下すった。僕を背中にかついで、あの恐ろしい下水道を通られた。ああ/僕は実に恐ろしい恩知らずだ。コゼット、あの人はお前の守り神だったあと、僕の守り神になられた。まあ考えてもごらん、恐ろしい泥穴があったのだ、必ずおぼれてしまうような所が、泥の中におぼれてしまうような所が、コゼット、それをあの人は僕をつれて渡られた。僕は気を失っていた。なんにも見えず、なんにも聞こえず、自分がどんなことになってるか知ることができなかったのだ。僕たちはあの人を連れ戻し、否でも応でも家に引き取り、もう決して離すことではない。ああ/家にいて下さればいいが、すぐ会えればいいが! 僕はこれから一生あの人を敬い通そう。そうだ、そうしなければいけない、そうだろう、コゼット。ガヴローシュが僕の手紙を渡したのは、あのひとへだったに違いない。それですっかりわかる。お前にもわかったろう。」  コゼットには一言もわからなかった。 「おっしゃる通りですわ。」と彼女は言った。  馬車はそのうちにも馳せっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 【背後に昼を有する夜】 ◇。◇。◇。◇。◇。  扉をたたく音を聞いて/ジャン・ヴァルジャンは振り向いた。 「おはいり。」と彼は弱々しく言った。  扉は開かれた。コゼットとマリユスとが現われた。  コゼットは部屋の中に飛び込んできた。  マリユスは扉の框によりかかって、閾の上にたたずんだ。 「コゼット/」とジャン・ヴァルジャンは言った。そしてソウハクな/昏迷した/凄惨な様子で、目には無限の喜びを浮かべ、震える両腕を開いて、椅子の上に身を起こした。  コゼットは激しい感動に息も塞がって、ジャン・ヴァルジャンの胸に身を投げた。 「お父様/」と彼女は言った。  ジャン・ヴァルジャンは心’転倒して、ようやくにつぶやいた。 「コゼット! 彼女! あなた、奥さん! お前だったか! ああ!」  そしてコゼットの腕に抱きしめられて、彼は叫んだ。 「お前だったか! 来てくれたか! では私を許してくれるんだね。」  マリユスは涙を落とすまいとして目蓋を下げながら、一歩進み出て、泣き声をおさえようとして/びくびく震えてる脣の間からつぶやいた。 「お父さん!」 「おお/あなたも、あなたは私を許して下さるのですね/」とジャン・ヴァルジャンは言った。  マリユスは一言も発し得なかった。ジャン・ヴァルジャンは言い添えた。「ありがとう。」  コゼットは肩掛けをぬぎ捨て、帽子を寝台の上に投げやった。 「邪魔だわ。」と彼女は言った。  そして老人の膝の上にすわりながら、得も言えぬやさしい手つきで彼の白髪を払いのけ、そのヒタイに口づけをした。  ジャン・ヴァルジャンは呆然として、されるままになっていた。  コゼットはただ漠然としか事情を了解していなかったが、あたかもマリユスの負い目を払ってやりたいと思ってるかのように、いっそう親愛の度を強めていた。  ジャン・ヴァルジャンは口ごもりながら言った。 「人間というものは実に愚かなものです。私はもう彼女に会えないと思っていました。考えてもごらんなさい、ポンメルシーさん、ちょうどあなたがはいってこられる時、私はこう自分で言っていました。万事終わった、そこに彼女の小さなナガギヌがある、私はみじめな男だ、もうコゼットにも会えないのだ、と私はそんなことを、あなたが階段を上ってこられる時言っていました。実に私は馬鹿ではありませんか。それほど人間は馬鹿なものです。しかしそれは神を頭に置いていないからです。カミはこう言われます。お前は人から見捨てられるだろうと思うのか、馬鹿な、いや決して、そんなことになるものではないと。ところで、天使をひとり必要とするあわれな老人がいるとします。すると天使がやってきます。コゼットにまた会います。かわいいコゼットにまた会います。ああ、私は実に不幸でした。」  彼はそれからちょっと’口がきけなかった。が”また言い続けた。 「私は実際、ごく時々でもコゼットに会いたかったのです。人の心は噛みしめるべき骨を一つほしがるものです。けれどもまた、自分はよけいな者だと私は感じていました。あの人たちにはお前は要らない、お前は自分の片隅に引っ込んでいるがよい、人はいつでも同じようにしてることはできないものだ、そう私は自分で自分に言いきかせました。ああ/しかし、ありがたいことには、私はまた彼女に会った! ねえコゼット、お前の夫は実に立派だ。ああ/お前はちょうど、刺繍したきれいな襟をつけているね。私はその模様が好きだ。夫から選んでもらったのだろうね。それからお前にはカシミヤがよく似合うから是非買ってごらん。ああ/ポンメルシーさん、私に彼女をお前と呼ばして下さい。わずかの間ですから。」  コゼットは言い出した。 「あんなに私共を見限ってしまうなんて、何という意地悪でしょう。いったいどこへいらしたの、なんでこう長く行っていらしたの? 昔は、旅はいつもサンヨッカだけだったではありませんか。私はニコレットをやりましたが、いつもきまってお留守だという答えきりだったんですもの。いつからお戻りになっていましたの。なぜお知らせなさいませんでしたの。ほんとに様子も大変お変わりになっていますよ。まあ、悪いお父様ね! ご病気だったのでしょう、そして私どもにお知らせなさらなかったのでしょう。マリユス、この手にさわってみてごらんなさい、冷たいこと!」 「こうしてあなたもきて下すったのですね、ポンメルシーさん、あなたは私を許して下さるのですね/」とジャン・ヴァルジャンは繰り返した。  ジャン・ヴァルジャンが二度言ったその言葉に、マリユスの心にいっぱいたまっていたものが出口を得て、彼は急に言い出した。 「コゼット、聞いたか、この方はいつもこうだ、いつも僕に許しを求めなさる。しかも僕にどんなことをして下すったか、お前は知ってるか、コゼット。この方は僕の命を救って下すった。いやそれ以上をして下すった。お前を僕に与えて下すった。そして、僕を救って下すったあと、お前を僕に与えて下すったあと、コゼット、自分をどうされたか? 自分の身を犠牲にされたのだ。実に立派な方だ。しかも、その恩知らずの僕に、忘れっぽい僕に、無慈悲な僕に、罪人’の僕に、ありがとうと言われる。コゼット、僕はイッ生涯この方の足下にひざまずいても、なお足りないのだ。あの防寨、下水道、熱火の中、汚水の中、それを通ってこられたのだ、僕のために、お前のために、コゼット! あの死ぬばかりの所を通って僕を運んできて下すった。僕を死から助け出し、しかもご自分は甘んじてイノチを危険にさらされた。あらゆる勇気、あらゆる徳、あらゆる勇壮、あらゆる高潔、それらをすべて持っていられる。コゼット、この方こそ実に天使だ!」 「ま、まあ/」とジャン・ヴァルジャンは低く言った。「なぜそんなことを言われるのです。」 「だがあなたこそ、」とマリユスは崇敬の念のこもった奮激をもって叫んだ。「なぜそれを言われなかったのです? あなたも悪い。人の命を助けておいて、それを隠すなんて! その上になお、自分の素性を語るという口実のもとに、自分自身を誹謗なすった。実にひどいことです。」 「私は真実を申したのです。」とジャン・ヴァルジャンは答えた。 「いや、」とマリユスは言った、「真実はすべてでなければいけません。あなたはすべてを申されなかった。あなたはマドレーヌ氏であったのに、なぜそれを言われませんでした。あなたはジャヴェルを救ったのに、なぜそれを言われませんでした。私はあなたに命の恩になってるのに、なぜそれを言われませんでした。」 「なぜといって、私もあなたと同じように考えたからです。あなたの考えはもっともだと思いました。私は去らなければいけなかったのです。もしあの下水道のことを知られたら、私をそばに引き止められたに違いありません。それで私は黙っていなければなりませんでした。もしそれを私が話したら、まったく困ることになったでしょう。」 「何が困るのです、誰が困るのです/」とマリユスは言った。「あなたはここにこのままおられるつもりですか。私どもはあなたをお連れします。ああ、偶然ああいうことを知った時のことを考えると! 是非とも私どもはあなたを連れてゆきます。あなたは私どもの一部です。あなたは彼女の父で、また私の父です。もう一日もこのひどい’家で過ごされてはいけません。明日もここにいるなどと考えられてはいけません。」 「明日は、」とジャン・ヴァルジャンは言った。「私はもうここにいますまい、しかしあなたの家にもいますまい。」 「それはどういうことです?」とマリユスは答え返した。「ああ/そうですか、いやもう旅もお許ししません。もう私どものそばを離れられてはいけません。あなたは私どものものです。決してあなたを離しません。」 「こんどこそは是非そうします。」とコゼットも言い添えた。「下に馬車も待たしてあります。私あなたを連れてゆきます。やむを得なければ力ずくでも担いでゆきます。」  そして笑いながら彼女は、老人を両腕に持ち上げるような身振りをした。 「あなたのお部屋は、まだ私どもの家にそのままになっています。」と彼女は言い進んだ。「このごろはまあどんなに’庭がきれいになったでしょう! 躑躅が大変みごとになりました。みちにはカワズナを敷きましたし、菫色の小さな貝殻も交じっています。私の苺も食べていただきましょう。私がそれに水をやっていますのよ。そしてもう、奥さんというのもやめ、ジャンさんというのもやめ、私どもは共和政治になり、みんなお前と言うことにしましょう、ねえ、マリユス。番付けが変わったのよ。それからお父様、私はほんとに悲しいことがありましたの。壁の穴の中に駒鳥が一匹巣をこしらえていましたが、それを恐ろしい猫が食べてしまいました。巣の窓から頭を差し出していつも私を見てくれた、ほんとにかわいい小さな駒鳥でしたのに! 私’泣きましたわ。猫を殺してやりたいほどでしたの。でもこれからは、もう誰も泣かないことにしましょう。みんな笑うんですわ、みんな幸福になるんですわ。あなたは私どもの所へいらっしゃいますでしょうね。お祖父様もどんなに御満足なさるでしょう。庭に畑を差し上げますから、何かお作りなさいましよ。あなたの苺が私の苺の相手になれるかどうか、競争をしてみましょう。それからまた、私は何でもあなたのお望みどおりにいたしましょう。そしてまた、あなたも私の言うことを聞いて下さいますのよ。」  ジャン・ヴァルジャンはそれをよく聞かないで/ただぼんやり耳にしていた。その言葉の意味より/むしろその声の音楽を聞いていた。魂の沈痛な真珠である大きな涙の一滴が、次第に彼の目の中に宿ってきた。彼はつぶやいた。 「彼女がきてくれたことは、神が親切であらるる証拠だ。」 「お父様/」とコゼットは言った。  ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。 「いっしょに住むのは楽しいことに違いない。木には小鳥がいっぱいいる。私はコゼットと共に散歩する。毎日あいさつをかわし、庭で呼び合う、いきいきした人たちの仲間にはいる、それは快いことだろう。朝から互いに顔を合わせる。めいめい庭の片隅を耕す、彼女はその苺を私に食べさせ、私は自分の薔薇を彼女につんでやる。楽しいことだろう。ただ‥‥。」  彼は言葉をとぎらして、静かに言った。 「残念なことだ。」  涙は落ちずに、元へ戻ってしまった。ジャン・ヴァルジャンは涙を流す代わりにほほえんだ。  コゼットは老人の両手を自分の両手に取った。 「まあ/」と彼女は言った、「お手が前よりいっそう冷たくなっています。ご病気ですか。どこかお苦しくって?」 「私? いや、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は病気ではない。ただ‥‥。」  彼は言いやめた。 「ただ、なんですの?」 「私はもうじきに死ぬ。」  コゼットとマリユスとは震え上がった。 「死ぬ/」とマリユスは叫んだ。 「ええ、しかしそれは何でもありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。  彼は息をつき、ほほえみ、そしてまた言った。 「コゼット、お前は私に話をしていたね。続けておくれ。もっと話しておくれ。お前のかわいい駒鳥が死んだと、それから、さあ/お前の声を私に聞かしておくれ!」  マリユスは石のようになって、老人を眺めていた。  コゼットは張り裂けるような声を上げた。 「お父様、私のお父様! あなたは生きておいでになります。ずっと生きられます、私が生かしてあげます、ねえお父様!」  ジャン・ヴァルジャンはかわいくてたまらないような様子で彼女のホウへ頭を上げた。 「そう、私を死なないようにしておくれ。あるいはお前の言うとおりになるかも知れない。お前たちが来たとき私は死にかかっていた。ところがお前たちが来たのでそのままになっている。何だか生き返ったような気もする。」 「あなたにはまだ充分’力もあり元気もあります。」とマリユスは叫んだ。「そんなふうで死ぬものだと思っていられるのですか。いろいろ心配もあられましたでしょうが、これからもう無くなります。お許しを願うのは私のほうです、膝をついてお願いします! お生きになれます、私どもといっしょに、そして長く、お生きになれます。あなたにまた来ていただきます。私たち二人が、あなたの幸福という一つの考えしかもう持っていない私たち二人が、ここについております。」 「おわかりでしょう、」とコゼットは涙にまみれながら言った、「お死にはなさらないとマリユスも言っています。」  ジャン・ヴァルジャンはほほえみ続けていた。 「あなたが私をまた引き取って下すっても、ポンメルシーさん、それで私はこれまでと変わった者になるでしょうか。いや、神はあなたや私と同じように考えられて、決してその意見を変えられはしません。私が逝ってしまうのは為になることです。死はよい処置です。神は、私どもがどうなればよいかを/私どもよりよく知っていられます。あなたが幸福であられること、ポンメルシー氏がコゼットを得ること、青春は朝を娶ること、あなたがた二人のまわりにはライラックの花や鶯がいること:、あなたがたの生活は日の輝いた芝生のようであること、天の喜びがあなたがたの魂を満たすこと:、そして今、もうなんの役にも立たない私は、死んでゆくこと、すべてそれらは正しいことに違いありません。まあよく考えてみて下さい、今はもう-なんにもなすべきことはありません。私は万事終わったのだとはっきり感じています、一時間前に、私は一時’気を失いました。そしてまた昨晩、私はそこにある水差しの水をみな飲みました。コゼット、お前の夫は実にいい方だ、お前は私といっしょにいるよりはずっと幸せだ。」  扉の音がした。はいってきたのは医者だった。 「お目にかかって、またすぐお別れです、先生。」とジャン・ヴァルジャンは言った、「これは私の子供たちです。」  マリユスは医者に近寄った。彼はただ、「先生?‥‥。」と一言言いかけた。その調子には充分な問いが含まっていた。  医者は意味深い一瞥でその問いに答えた。 「万事が望みどおりにならないからといって、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「それで神を恨んではいけない。」  沈黙が落ちてきた。皆の胸は圧えつけられていた。  ジャン・ヴァルジャンはコゼットのほうを向いた。彼はエーキュウに失うまいとするように彼女を眺め始めた。彼は既に深い影の底に沈んではいたが、なおコゼットを眺めて恍惚たることができた。彼女の優しい顔の反映が/彼のソウハクな-おもてを照らしていた。墳墓にもその歓喜の情があり得る。  医者は彼の脈を診た。 「ああ/ご病人に必要なのはあなたがたでした。」と彼はコゼットとマリユスとを眺めながらつぶやいた。  そして彼はマリユスの耳元に身をかがめて/ごく低く言い添えた。 「もう手おくれです。」  ジャン・ヴァルジャンは-なおほとんどコゼットを眺めることをやめないで、心朗らかな様子をして/マリユスと医者とをじろりと見た。そして彼の口から聞き分け難い次の言葉がもれた。 「死ぬのは何でもないことだ。生きられないのは恐ろしいことだ。」  突然’彼は立ち上がった。斯くにわかに力が戻ってくるのは、時によると臨終の苦悶の徴候である。彼はしっかりした足取りで壁の所まで歩いてゆき、彼を助けようとしたマリユスと医者とを払いのけ、壁にかかってる小さな銅の十字架像をはずし、また戻ってきて、健全な者のように自由な動作で腰をおろした。そして十字架像をテーブルの上に置きながら、高い声で言った。 「実に偉大な殉教者だ。」  それから、彼の胸は落ちくぼみ、頭は震え動き、あたかも死に酔わされたかのようになって、両膝の上に置かれた両手は/ズボンの布に爪を立て始めた。  コゼットは彼の肩を支え、すすり泣きながら、彼に何か言おうとつとめたが、それもできなかった。ただ、涙の交じった痛ましい唾液とともに出て来る単語のうちに、次のような言葉がようやく聞き取られた。「お父様! 私たちのもとを離れて下さいますな。せっかくお目に掛かったままお別れになるなどということが、あるものでございましょうか。」  臨終の苦悶は紆余曲折すると言い得る。あるいは行き、あるいはきたり、あるいは墳墓のほうへ進み、あるいはイノチのほうへ戻ってくる。死んでゆくことのうちには暗中模索の動作がある。  ジャン・ヴァルジャンはその半ば失神の状態のあと、再び気を取り直し、あたかも暗黒の影を払い落とそうとするようにヒタイを振り立て、ほとんどまったく正気に返った。彼はコゼットの袖のヒト襞を取り、それに脣をあてた。 「回復してきました、先生、回復してきました/」とマリユスは叫んだ。 「あなたがたは二人ともいい人だ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「今’私の心を苦しめてる事はなんであるか、言ってみましょう。私の心を苦しめる事は、ポンメルシーさん、あなたがあの-かねに手をつけようとされないことです。あの-かねは、まさしくあなたの奥さんのものです。その訳を今二人に言ってきかしてあげます。私があなたがたに会ったのを喜ぶのも、一つはそのためです。黒い飾り玉はイギリスからき、白い飾り玉はノールウェーからきます。それらのことは-みんなこの紙に書いてありますから、それをお読みなさい。腕輪には、鑞付けにしたブリキの自在環の代わりに、はめ込んだブリキの自在カンをつけることを発明しました。そのほうがきれいで、品もよく、アタイも安いのです。それでどれくらい-かねが儲けられるかわかるでしょう。コゼットの財産はまったく彼女のものです。私がこんな細かな事を話すのも、あなたの心を安めようと思うからです。」  門番の女は、階段を上がってき、少し開いてる扉の間から中をのぞき込んでいた。医者はそこを去るように知らせたが、その心の篤いバアさんは、立ち去る前に臨終の人に向かってこう言わないでは-おられなかった。 「牧師様をお呼びしましょうか。」 「牧師様は一人おられる。」ジャン・ヴァルジャンは答えた。  そして彼は指で、頭の上の一点を指し示すようなふうをした。おそらく彼の目には、そこに何者かの姿を見ていたのであろう。  実際ミリエル司教がその臨終に立ち会っていられたかも知れない。  コゼットは静かに彼の腰の下に枕をさし入れた。  ジャン・ヴァルジャンはまた言った。 「ポンメルシーさん、どうか気遣わないで下さい。あの六十万フランはまさしくコゼットのものです。もしあなたがあれを使われなければ、私の生涯は無駄になってしまうでしょう。私どもはそのガラス玉’製造に成功したのでした。ベルリン玉と言われてるのと対抗しました。ドイツの黒玉も到底かないはしません。ごくよくできた玉の千二百もはいってるオオ包みが、わずかに三フランしか-しないのです。」  大事な人がまさに死なんとする時には、人はその人にしがみついて引き止めようとする目つきで、それを見つめるものである。二人とも、シンツウの余り/黙念として、死に対して何と言うべきかを知らず、絶望し/身を震わしながら、コゼットのほうはマリユスに手を取られ、二人で彼の前にじっと立っていた。  刻々にジャン・ヴァルジャンは弱っていった。彼は次第に沈んでいって、暗黒な地平に近づきつつあった。呼吸は間歇的になり、わずかな残喘にも途切らされた。もはや前腕の位置を変えるのも容易でなくなり、両足はまったく動かなくなり、そして手足のみじめさと/身体の疲憊とが増すとともに、魂の荘厳さが現われてきて、額の上にひろがってきた。他界の光は既にその眸の中に明らかに宿っていた。  彼の顔はソウハクになり、同時にまたほほえんでいた。もはやそこにはイノチの影はなくて、他のものがあった。呼吸は微弱になり、目は大きくなっていた。それは翼が感ぜらるる死骸であった。  彼はそばに来るようにコゼットに合図をし、次にマリユスに合図をした。明らかに臨終の最後の瞬間だった。そして彼は、遠くから来るかと思われるような声で、二人と彼との間には既に壁ができてるかと思われるようなかすかな声で、二人に話しかけた。 「近くにおいで、二人とも近くにおいで。私はお前たち二人を深く愛する。ああ、こうして死ぬのは結構なことだ。コゼット、お前もまた私を愛してくれるね。私は、お前がいつもお前の年寄りに愛情を持っていてくれたことを、よく知っていた。私の腰の下にこの括り蒲団を入れてくれるとは、なんというやさしいことだろう。お前は私の死を、少しは泣いてくれるだろうね。あまり泣いてはいけない。私はお前がほんとに悲しむことを望まない。お前たち二人はたくさん楽しまなければいけない。それから私は、あの締金のない金環で何よりもよく儲かったことを、言い忘れていた。十二ダース入りの大包みがジュッフランでできるのに、ロクジュッフランにも売れた。まったくよい商売だった。だから、ポンメルシーさん、あの六十万フランも驚く程のことではありません。正直な-かねです。安心して金持ちになってよろしいのです。馬車も備え、時々は芝居の桟敷も買い、コゼットは美しい夜会服も買うがいいし、それから友人たちにご馳走もし、楽しく暮らすがいい。私はさっきコゼットに手紙を書いておいた。どこかにあるはずだ。それから私は、暖炉の上にある二つの燭台を、コゼットにあげる。銀であるが、私にとっては、金でできてると言ってもいいし、ダイヤモンドでできてるといってもいいシナである。立てられた蝋燭を聖いオオ蝋燭に変える力のある燭台だ。私にあれを下すった人が、果たして私のことを天から満足の目で見て下さるかどうかは、私にもわからない。ただ私は自分でできるだけのことはした。お前たちは二人とも、私が貧しい者であるということを忘れないで、どこかの片隅に私を葬って、ただその場所を示すだけの石を/上に立てて下さい。それが私の遺言である。石には名前を刻んではいけない。もしコゼットが時々きてくれるなら、私は大変喜ぶだろう。あなたもきて下さい、ポンメルシーさん。私はいま白状しなければなりませんが、私はいつもあなたを愛したというわけではなかった。それは許して下さい。けれど今は、彼女とあなたとは、私にとってただ一人の者です。私はあなたに深く感謝しています。私はあなたがコゼットを幸福にして下さることをはっきり感じています。ああ、ポンメルシーさん、彼女の美しい薔薇色のホオは私の喜びでした。少しでも色が悪いと、私は悲しかったものです。それから、戸棚の中に五百フランの紙幣が一枚はいっています。私はそれに手をつけないでいます。それは貧しい人たちにやるためのものです。コゼット、その寝台の上にお前の小さなナガギヌがあるでしょう。お前はあれを覚えていますか。まだあの時から十年にしかならない。時の経つのは実に早いものだ。私たちはごく幸福だった。が/もうすべて済んでしまった。二人とも泣くにはおよばない。私はごく-とおくへ行くのではない。向こうからお前たちのほうを見ていよう。お前たちは夜になってただ眺めさえすればよい、私がほほえんでいるのがわかるだろう。コゼット、お前はモンフェルメイュを覚えていますか。お前は森の中にいて、大変恐がっていた。私が水桶のエを持ってやった時のことを、まだ覚えていますか。私がお前の小さな手に触ったのは、それが始めてだった。ほんとに冷たい手だった。ああ、その頃、その手は真っ赤だったが、今では大変白くなっている。それから大きな人形、あれも覚えていますか。お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。あれを修道院に持っていかなかったことを、お前は残念がっていたものだ。お前は幾度私を笑わしたことだろう。雨が降ると、溝の中に藁屑を浮かべて、それが流れてゆくのを見ていた。ある時私は、柳編みの羽子板と、黄や/青や/緑の羽毛のついた羽根とを、お前に買ってやったことがある。お前はもう忘れているでしょう。お前はごく小さい時はほんとにいたずらだった。いろんなわるさをしていた。自分の耳に桜ん坊を入れてしまったこともある。しかしそれはみな過去のことだ。人形を抱いて通った森、歩き回った木立の中、身を隠した修道院、いろんな遊びごと、他愛もない大笑い、それらはみな影にすぎなくなっている。私はそういうものがみな自分のものだと思っていた。しかし私の馬鹿げた考えだった。またあのテナルディエ一家の者は、みな悪者だった。しかしそれは許してやらなければいけない。コゼット、今ちょうどお前の母親の名前を言ってきかせる時がきた。お前の母親は、ファンティーヌという名前である。その名前をよく覚えておきなさい、ファンティーヌだ。それを口にするたびごとにひざまずかなくてはいけない。あの人は非常に難儀をした。お前を大変かわいがっていた。お前が幸福な目にあったのと、ちょうど同じくらい不幸な目に会った。それが神の配剤である。神は天にあって、われわれ-みなの者を見られ、大きな星のあいだにあって自分の仕業を知っていられる。私はもう逝ってしまう。二人とも、常によく愛し合いなさい。世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない。そして時々は、ここで死んだあわれな老人の事を考えて下さい。おお/コゼットや、このごろお前に会わなかったといっても、それは私の罪ではない。そのために私はどんなに苦しんだろう。私はよくお前が住んでいる街路のカドまで出かけて行った。私が通るのを見た人たちは、きっと変に思ったに違いない。私は気ちがいのようになっていた。あるときなどは帽子も被らないで出かけて行ったものだ。おお/私の二人、私はもうこれで目もはっきり見えない。まだ言いたいこともたくさんあるが、もうそれはどうでもよい。ただ私のことを少し考えておくれ。お前たちは祝福された人たちだ。私はもう自分で自分がよくわからない。光が見える。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちのかわいい頭をかして、その上にこの手を置かして下さい。」  コゼットとマリユスとは、そこにひざまずき、吾を忘れ、涙にむせび、ジャン・ヴァルジャンの両手に各々すがりついた。そのおごそかな手はもはや動かなかった。  彼はあおむけに倒れた。二つの燭台から来る光が彼を照らしていた。その白い顔は天のほうを眺め、その両手はコゼットとマリユスとの口づけのままになっていた。彼は死んでいた。  夜は星もなく、深い-くらさだった。必ずやその影の中には、ある広大なる天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 【草は隠し/雨は消し去る】 ◇。◇。◇。◇。◇。  ペール・ラシェーズの墓地の、共同埋葬所のほとり:、その墳墓の都の立派な一郭から遠く離れ、永遠の面前に死の醜い様式をひろげて見せている/いろいろ工夫を凝らされた石碑の、立ち並んでる所から遠く離れ、寂しい片隅の、古い壁のソバ:、昼顔のからんだ一本の大きなイチイの下、カヤクサや苔のはえている中に、一基の石がある。その石もまた、他の石と同じく、長いネンゲツの傷害や/苔や/黴や/鳥のフンなどを免れてはいない。水のために緑となり、空気のために黒くなっている。近くには小道もなく、草が高く茂っていてすぐに足を濡らすので、そのほうへ踏み込んでみようとする人もない。少し日がさす時には、蜥蜴がやってくる。あたりには、野生の燕麦がそよいでいる。春には、木の間に頬白がさえずる。  その石には何らの加工も施してない。ただ墓石に-もちうるということだけを考えて切られたものであり、ただ人をひとり覆うだけの長さと幅とにしようということだけを注意されたものである。  何らの名前も見られない。  ただ、既にもうイクネンか前に、誰かが4ギョウの句を鉛筆で書きつけていたが、それも雨やほこりに打たれて次第に読めなくなり、コンニチではおそらく消えてしまったであろう。その句は次のとおりであった。 ◇。◇。  彼は眠る。数奇なる運命にも生きし彼、  己が天使を失いし時に死したり。  さあそれもみな自然の数ぞ、  昼去りて夜の来るがごとくに。 ◇。◇。 【──終わり──】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「レ・ミゼラブル(四)」岩波文庫、岩波書店】 【   1987(昭和62)年5月18日改版第イッサツ発行】 【◇「オレンヂとオレンジ」:、「挺(何丁)と梃(一丁)」:、「ダイ燭台とオオ燭台」:、「イブとイヴ」:、「バネとバネ」の混在はテイホン通りにしました。】 【◇誤植の確認に「レ・ミゼラブル(六)」岩波文庫、岩波書店◇1960(昭和35)年8月30日第12サツ、「レ・ミゼラブル(7)」岩波文庫、岩波書店◇1961(昭和36)年12月10日第13サツを用いました。】 【入力:tatsuki】 【校正:門田裕志、小林繁雄】 【2007年2月17日作成】 【2013年4月21日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。