◇。◇。◇。◇。◇。 【間木老人】 【北條民雄】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  この病院に入院してから三ヶ月程過ぎたある日、宇津は、この病院が実験用に飼育している動物達の番人になつ《っ》てはくれまいかと頼まれた。病院とはいへ《え》、千五百名に近い患者を収容し、彼等同志の結婚すら許されているここは、完全に一つの特殊部落で、院内には土方《ドカタ》もいるし、女工もいるし、若芽のや《よ》うな子供達も飛び廻つ《っ》ていて、その子供達のためには、学校さへ《え》も設けられてあつ《っ》た。患者達も朽ち果てて行く自分の体を、毎日ぼんやり見て暮す苦しさから逃れたいためでもあら《ろ》うが、作業には熱心で、軽症者は激しい労働をも続けていた。彼等の日常の小使銭は、いふ《う》までもなくこの作業から生れてくるもので、夜が明けると彼等はそれぞれの部署へ出かけて行くのだった。か《こ》うした中にあつ《っ》て、宇津はまだどの職業にも属していなかつ《っ》たので、番人になつ《っ》てくれといふ《う》頼みを承知したのだつ《っ》た。勿論これも作業の一つで、一日五銭が支給された。宇津は元来内向的な男で、それに入院間《入院’間》もないため、自分の病気にまだ十分《充分》に馴れ切ることが出来ず、何時《いつ》でも深い苦悶の表情を浮べて、思ひ《い》悩んでいることが多かつ《っ》た。その上《うえ》凡てが共同生活で、十二畳半といふ《う》広い部屋に、六名づ《ず》つが思ひ《い》思ひ《い》の生活をする雑然さには、実際閉口《実際’閉口》していたのだつ《っ》た。さ《そ》ういふ《う》彼にとつ《っ》て、動物の番人はこの上ない適役であり、一つの部屋が与へ《え》られるといふ《う》ことが、彼にとつ《っ》て大変好都合だつ《っ》たのである。  動物小屋は、L字形《字型》に建てられた三号と四号の、二つの病棟の裏側で、終日じめじめと空気の湿つ《っ》た、薄暗い所であつ《っ》た。どうかすると、洞穴の中《なか》へ這入つ《っ》たや《よ》うな感じがし、地面には蒼く苔が食んでいた。もともとこの病院が、武蔵野特有の雑木林《雑木バヤシ》の中に、新しく墾かれて建てられたものであるため、人里離れた広漠たる面影が、まだ取り残されていた。患者の逃走を防ぐために、院全体が柊の高い垣根で囲まれていて、一歩外《一歩’外》へ出ると、もうそこは武蔵野の平坦な山である。小屋の周囲にも、松、栗、檜、それから種々《いろいろ》な雑木が、苔を割つ《っ》て生えていた。その中、小屋《コヤ》のすぐ背後にある夫婦松といは《わ》れる二本は、|づぬ《図抜》けて太く、三抱《ミ抱え》もあるだら《ろ》うか、《:、》それが天に冲する勢《勢い》で傘状《傘’状》に枝を張つ《っ》て、小屋《コヤ》を抱きかかへ《え》るや《よ》うに屋根を覆つ《っ》ていた。屋根には落葉《落ち葉》が積つ《っ》て、重さ《そ》うに厚く脹れて、家の中《なか》へは、太陽の光線も時たま糸を引くや《よ》うにさ《差》すくらいのものであつ《っ》た。宇津の部屋も、この動物小屋の内部にあつ《っ》て、動物の糞尿から発する悪臭が、絶えず澱んでいた。殆ど動物達と枕を並べて眠るや《よ》うなもので、初めの間彼《あいだ彼》も大変閉口したが、重病室の患者が出す強烈《/強烈》な膿の臭ひ《い》よりは耐へ《え》易く思つ《っ》た。  動物は、猿、山羊、モルモット、白ねずみ、兎──《─:》特殊なものとしては、鼠癩に患《+かか》つ《っ》た白ねずみが、三匹、特別の箱に這入つ《っ》ていた。これ等《ら》に食物を与へ《え》たり、月に二三度《二’三度》も下《-しも》の掃除をしてやるのが、彼の仕事だつ《っ》た。従つ《っ》て暇も多かつ《っ》たが、別段友人《別段’友人》があるといふ《う》訳でもないので、《:、》|大てい《大抵’》読書で一日を暮すか、病気のために腫れぼつ《っ》たく|むく《浮腫》んだ貌《顔》に深い苦悩を沈めて、飯粒を一つ一つ掴んで食ふ《う》白ねずみの小さな体を眺めているのだつ《っ》た。日が暮れ初《始》めて|あた《辺》りの林が黝ずんで来だすと、彼は散歩に出かけて、林の中を、長い間歩き廻つ《っ》た。さ《そ》ういふ《う》時、動物達のことはすつ《っ》かり忘れていた。彼は熱心に動物を観察して、そこにいろいろのことを発見したが、それに対して親しみやよろこびを感ずるといふ《う》ことは一度もなかつ《っ》た。  小屋を裏手に廻つ《っ》て、ち|よつ《ょっ》と行くと、そこに監房がある。赤い煉瓦造りの建物で、小さな箱のや《よ》うであつ《っ》た。陶器でも焼く竈《窯》のや《よ》うで、初めて見た時は、何であら《ろ》うかとひどく怪しんだものであつ《っ》た。 「どんな世界へ行つ《っ》ても、人間と獄とは、切り離されないのか。」  彼はそれが監房だと判つ《っ》た時、さ《そ》う呟いた。この小さな異常な社会の監房ではなく、一般社会の律法下《律法カ》の監獄に服役中の友人を思ひ《い》出したからだつ《っ》た。  院内は平和で、取るに足るや《よ》うな罪もなかつ《っ》た。随つ《っ》て監房も休業が多く、時たま、宇津が散歩の折に房内からひいひい女の泣声《泣き声》が聞えても、《:、》それは|大てい《大抵》、逃走し損つ《っ》た者か、他人の亭主を失敬した姦婦の片割れくらいのものらしかつ《っ》た。宇津も、間木といふ《う》不思議な老人に出会すまでは、感情に波をうたせるや《よ》うな変つ《っ》たこともなかつ《っ》た。L字型をした二つの病棟の有様も、彼にはもう慣れていた。夜など、病棟から流れ出る光りが、小屋の内部まであかくさし込んで、畳の上に木の葉《葉’》が映つ《っ》たりすると、美しいと思つ《っ》て長い間見続《あいだ見続》けたりした。病棟の内には重病者が一杯うようよと集まつ《っ》ていて、そこは完全な天刑病の世界である。光りを伝つ《っ》て眺めると、硝子窓を通して彼等の上半身が見えた。頭をぐるぐる白い繃帯で巻いたのや、すつ《っ》かり頭髪の抜けたくりくり坊主の盲人が、あやしく空間を探りながら歩くのが、手に取るや《よ》うに見えるが、入院当時のや《よ》うな恐怖は感じなかつ《っ》た。入院当時の数日は、絶海の孤島にある土人の部落か、もつ《っ》と醜悪な化物屋敷へ投げ込まれたや《よ》うな感じだつ《っ》た。そして、これが人間の世界であるといふ《う》ことはど《/ど》うしても信ずることが出来なかつ《っ》た。右を向いても左を見ても、毀れかかつ《っ》た泥人形に等しい人々ばかりで、自分だけが深い孤独に落ち込んで行くや《よ》うで、足掻きながら懸命に正常な人間を探したものだつ《っ》た。ぶらぶら院内を歩いている時など、向《向こ》うから誰かやつ《っ》て来ると、激しい興奮を覚えながら、熱心にその者を眺めた。そしてだんだん近づくにつれて、足に巻いた繃帯が見え出したり、腐つ《っ》た梨のや《よ》うにぶくぶくと脹らんだ顔面がじろりと彼を睨んでいることに気づいたりすると、一度にぐつ《っ》たりと力が抜け、げつ《っ》そりしてしまふ《う》のであつ《っ》た。その反対に、ひ|よつ《ょっ》こり看護婦の白い影でも、木立の間《あいだ》にちらりと見えると、ほつ《っ》と安心し、もうその方《ホウ》へ向つ《っ》て二三歩《二’三歩’》足を踏み出している自分に気づいたりするのだつ《っ》た。宇津は、自分が癩病に患《+かか》つ《っ》ていることを肯定しながら、自らを患者一般として取り扱ふ《う》ことの出来ぬ心の矛盾に、長い間苦しめられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼が間木老人と会つ《っ》たのは、動物小屋に来てから十日ばかりす《過》ぎた或る夜中だつ《っ》た。その日動物達《日’動物達》に夕食を与へ《え》てしまふ《う》と、すぐ床《トコ》の中《なか》へ這入つ《っ》て眠つ《っ》たが、悪い夢に脅かされて眼が覚めてしまつ《っ》た。そしていくら眠ら《ろ》うとしても、眼は益々冴え返つ《っ》て来るので、仕方なく起き上《上が》ると、小屋《コヤ》を出て、果樹園の方《ホウ》へぶらぶら歩いて行つ《っ》た。運良く月が出ていたので足許も明るく、眼《目》を遠くに注ぐと、茫漠とした武蔵野の|煙つ《/煙っ》たや《よ》うな美しさも望まれた。桃の林は黝ずんで、額《ヒタイ》を地に押しつけるや《よ》うにして蹲つ《っ》て見え、月は、その下で丸く大きく風船玉《風船ダマ》のや《よ》うに、空中に浮んで、そこから流れて来る弱い光りが、宇津の影を作つ《っ》ていた。宇津が歩くと、影も追つ《っ》て地を這つ《っ》た。自分の影に気がつくと宇津は、それが余りぴつ《っ》たり地に密着しているので、だんだん自分の体が浮き上つ《がっ》て行くや《よ》うに思は《わ》れて来てならなかつ《っ》た。すると奇怪な不安を激しく感じて、もう一歩も歩くことが出来なくなつ《っ》てしまつ《っ》た。また来たな、と呟くと一つ大きく呼吸した。か《こ》うした不安は幾度も経験しているので、さほどに驚かなかつ《っ》た。がこ《/こ》れが、何時何処《いつどこ》で不意に表は《わ》れて来るか皆目見当がつかず、その上《うえ》一旦突き上つ《がっ》て来ると、どうにも動きが取れなくなつ《っ》てしまふ《う》ので、それにはひどく弱つ《っ》た。これは病気に対する恐怖が、死に感応して起《起こ》るものであら《ろ》うと、彼は自分で解釈していた。不安は執拗な魔物のや《よ》うで、その都度自分《都度’自分》がだんだん気狂ひ《い》になつ《っ》て行くや《よ》うな、また新しい不安をも同時に感ずるのだつ《っ》た。か《こ》ういふ《う》時彼は、ぐうつ《っ》と胸一杯に空気を吸ひ《い》込んで、もう息が切れる、という間髪に鋭くハッハッと叫んで一度に息を抜くことにしていた。そこで大きく息を入れ、胸が張り切ると、ハッと鋭く抜か《こ》うとした途端に、 「枯野さん。」  といふ《う》呼声が、突然すぐ間近でしたので、吃驚して呼吸が声の出ないうちに抜けてしまつ《っ》た。 「枯野さんではありませんか。」  二三間《二’三ケン》しか離れていない近くで、今度はさ《そ》う言つ《っ》た。宇津は初めて、こんな自分の近くに人が居り、しかも自分に呼びかけていることを識つ《っ》て驚いた。 「いいえ。」  と彼は取敢へ《え》ず返事をした。その男は月影をすかして探るや《よ》うに宇津に近寄つ《っ》て来ると、 「これはどうも失礼しました。」  と静かに言ふ《う》と、 「どなたですか。」  と訊いた。何処か沈んだや《よ》うな調子の声で、何気ない気品といつ《っ》たものが感ぜられた。宇津はすぐ老人だなと感じた。月の蒼い光りの底を、闇が黝々《黒ぐろ》と流れて、どんな男かはつ《っ》きり見極めることは出来なかつ《っ》たが、宇津はすぐさ《そ》う感じた。しかし宇津は、こんな深く品《ヒン》を沈めた、余情を|有つ《持っ》た言葉を、まだ一度も聞いたことがなかつ《っ》たので、激しく心を打たれながら、何者であら《ろ》うかと怪しんだ。 「僕、宇津といふ《う》者です。」  ち|よつ《ょっ》との間《マ》を置いて、さ《そ》う答へ《え》ると、 「宇津?」  と鸚鵡がへ《え》しに言ふ《う》と、また、 「さ《そ》うですか。宇津? 宇津?」  ひどく何かを考へ《え》る様子で、さ《そ》う繰り返した。これはを《お》かしい奴だと、宇津は思ひ《い》ながら、 「御存じなんですか。」  と訊いて見た。 「いえ、いえ。」  と狼狽しながら強く否定して、 「わたしは間木といふ《う》者ですが──。」 「|はあ《ハア》。」  と応へ《え》ながら宇津は、老人の過去に、宇津といふ《う》固有名詞に関する何かあつ《っ》て、それから来る連想が心に浮んでいるのであら《ろ》うと察した。 「何時、入院されたのですか。」 「まだ入院後三ヶ月ばかりです。どうぞよろしく。」 「ほう、さ《そ》うですか。」  さ《そ》う言ひ《い》ながら老人がぽつぽつ歩き出したので宇津も追つ《っ》て歩いて行つ《っ》た。宇津は注意深く老人を観察しながら、どうしてこんな夜中に歩きま|はつ《わっ》ているのか、それが不思議でならなかつ《っ》た。  老人は病気の程度を訊いたり、懸命に治療に心掛ければ退院することも出来るであら《ろ》うから心配しないがいいと元気づけたりした。 「全治する人もあるのですか。」  と訊ねて見ると、老人は暫く何ごとかを考へ《え》る風《ふう》だつ《っ》たが、 「さあ、さ《そ》う訊ねられると、ち|よつ《ょっ》と答へ《え》に困るのですが‥‥《‥:》この病院の者は、落ちつく、といふ《う》言葉を使つ《っ》ていますが、つまり病菌を全滅させることは出来ませんが、活動不能の状態に陥れ《れ-》ることは出来るのです。」  と言つ《っ》て、癩菌は肺結核菌に類する桿状菌で、大楓子油《ダイフウシ油》の注射によつ《っ》てそれが切れ切れになつ《っ》て亡びて行くものだといふ《う》ことを、この病院の医者に聞いたし、顕微鏡下にもそのことが表は《わ》れていると説明して、《:、》無論《むろん》あなたなど軽症だから今の間《マ》にしつ《っ》かり治療に心掛けることが何よりで、養生法としては凡てのものに節制をすること、これだけだと強く言つ《っ》て、《:、》これさへ《え》守れば癩病恐《癩病’恐》るに足らぬと教へ《え》た。  入院以来宇津《入院以来’宇津》はもう幾度もこれと同じや《よ》うな言葉で慰められたり、力づけられたりして来たので、この言葉にもさほどの喜びを感じないのみか、《:、》老人の口から出る語気の鋭さに、一体この老人の過去は如何なるものであつ《っ》たのだら《ろ》うかと、それが気になつ《っ》て彼は、全神経を澄み亙《わ-た》らせて対象を掴まうとしていた。老人は所謂新患者に対して心使ひ《い》をする楽しさを感じてか、それからも宇津に、病院の制度のことや患者一般の気質などを話して、最後に、今何《今’何》か作業をやつ《っ》ているかと訊いた。 「動物小屋の番人をやつ《っ》ています。」  と答へ《え》ると、 「さ《そ》うですか、あそこは空気の悪い所ですから胸に気をつけなさい。この上に肺病まで背負ひ《い》込んではたまりませんよ。この病院に癩肺二《癩/肺/二》つに苦しんでいる者がかなり居りますが、そりや《ゃ》悲惨なものです。先日もあんたの小屋の裏にある監房へ入《い》れられて──《─:》女と一緒にここを逃走しようとして捕まつ《っ》た男なのですが、房内が真赤に染まる程ひどい喀血をして死にました。」  宇津は老人の言葉を聞きながら、竈《窯》のや《よ》うな監房を心に描《えが》いて、この病院には、人間の為し得ないや《よ》うな恐《恐ろ》しいことが、まだまだ埋つ《っ》ているに違ひ《い》ないと思つ《っ》て、深い不安と恐怖を感じたのだつ《っ》た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今まで宇津以外に誰もいない動物小屋の、薄暗い部屋へ、時々《ときどき》間木老人が訪ねて来るや《よ》うになつ《っ》た。宇津が豆腐殻《豆腐ガラ》に残飯を混ぜて、動物達の食餌を造つ《っ》ていると、老人はこつこつとやつ《っ》て来て、宇津の仕事振《仕事ぶ》りを眺めたり、時には手伝つ《っ》てくれたりした。今まで見たことのない老人の姿に、猿が鉄の網に縋つ《っ》てキヤ《ャ》ッキヤ《ャ》ッと鋭く叫んで、初めの間騒《あいだ騒》いで困つ《っ》たが、だんだん馴れて来ると、老人は、甘い干菓子を懐に忍ばせて来て、猿に握らせてやつ《っ》た。が老人《/老人》が一番可愛がるのは、小さな白鼠で、赤い珊瑚のや《よ》うな前足で一つびとつ飯粒《’飯粒》を掴んで食ふ《う》有様を見ると、素晴しい発見のや《よ》うに喜んだ。鼠癩に罹つ《っ》たのを見る時は、|大てい《大抵’》貌をしかめて、余りその方《ほう》へは《は-》行かなかつ《っ》た。  宇津は注意深く老人を眺めながら、何《なん》の気もなく行ふ《う》一つびとつの動作の中にも、言葉の端々にも、過去の生活が決して卑俗なものでなかつ《っ》たに違ひ《い》ないと思は《わ》れる、品位といつ《っ》たものを発見した。貌《顔》の形は勿論病《もちろん病い》のために変つ《っ》ていようが、しかしそこにも犯し難いものが感ぜられた。老人の話では、入院してからもう十年にもなり、入院当時は|貌ぢゆ《顔じゅ》う結節が出てい《-い》、その上《うえ》醜くふくらんでいたが、今ではすつ《っ》かり結節も無くなつ《っ》て、以前の健康な頃のや《よ》うに、すつ《っ》きりとふくらみも去つ《っ》たといふ《う》ことであつ《っ》た。無論《むろん》湿性であるから眉毛は全部抜けていたが、かなり慣れている宇津には、決して奇怪な感じを抱《-いだ》かせは《は-》しなかつ《っ》た。  仕事が終ると、二人は、暗い部屋で向ひ《かい》合つ《っ》て、ゆつ《っ》くりお茶を飲んだ。 「わたしは生《生ま》れつきお茶が大《ダイ》の好物でねえ、実際疲《実際’疲》れた時に味ふ《わう》一杯は捨てられませんよ。」  と、あるかなしの微笑を浮べながら老人はさ《そ》う言つ《っ》て、本式のお茶の点て方を宇津に教へ《え》たりした。  交は《わ》るにつれて宇津はこの老人にだんだん深い興味を覚えると同時に、次第に深く尊敬するや《よ》うになつ《っ》た。そして夕暮近く、静かな足どりで帰つ《っ》て行く老人の後姿を眺めながら、一体何者《一体’何者》であら《ろ》うかと考へ《え》るのだつ《っ》た。彼はまだ老人が何処の病舎にいるのか識らなかつ《っ》たので、ある日それを訊ねて見た。するとその答へ《え》が余り意外《意外’》であつ《っ》たので驚いてしまつ《っ》た。 「わたしは、十号に居ります。」  老人はさ《そ》う細い声で言つ《っ》て、暗い顔をしたのだつ《っ》た。十号はこの病院の特殊病棟で、白痴と、瘋癲病者の病棟である。  宇津はかなり注意深く老人を観察するのであるが、何処にも狂人らしいところは見えなかつ《っ》た。それかといつ《っ》て白痴であら《ろ》うとは、尚更思へ《え》なかつ《っ》た。その重々しい口調といひ《い》、行為の柔かさといひ《い》、到底さ《そ》ういふ《う》ことは想像することすら不可能であつ《っ》た。それではきつ《っ》と附添《付添い》をしているのであら《ろ》うと思つ《っ》た。附添《付添い》もこの院内の作業の一つで、一日十銭が支給されて、軽症者の手で行は《わ》れていた。しかし老人は附添《付添い》ではなく、やつ《っ》ぱし精神病者の一人であつ《っ》た。宇津が試みに、附添《付添い》さんもなかなか大変でせ《しょ》う、と訊いて見ると、老人は、こつこつと自分の頭を叩いて、 「やつ《っ》ぱり、これなんです。」  と言つ《っ》て、寂しさ《そ》うに貌《顔》を曇らせて、黙々と帰つ《っ》て行つ《っ》たのだつ《っ》た。ではあれでもやはり狂人なのだら《ろ》うかと、今更のや《よ》うに、その沈んだや《よ》うに落着いた言葉や行為の中に、或《あ》る無気味さを感じたのだつ《っ》た。そして初めて老人に会つ《っ》た時の状を想ひ《い》浮べて、あんな真夜中にああした所を歩き廻つ《っ》ていることにも、何か異常なものを思ひ《い》当つ《っ》たのだつ《っ》た。  この老人が陸軍大尉であることを宇津が識つ《っ》たのは、一ヶ月程過ぎた或る夕暮だつ《っ》た。その日彼は初めて間木老人の部屋を訪ねたのである。  十号は他の病棟とかなり離れていて、この病院の最も北寄りで、すぐ近くに小さな池があつ《っ》た。池といふ《う》と清らかな水を連想するが、これはどろんと濁つ《っ》た泥沼で、その周囲には八番線程の太さの針金で、頑丈に編まれた金網が張り巡らされてあつ《っ》た。勿論自殺防禦《勿論’自殺防禦》のためで、以前にはこの泥沼に首を突込《突っ込》んで死んだ者も、かなりの数に上るといふ《う》ことである。  他の病棟は一棟に二室で、一室に二十のベッドが並んでいるが、十号は中央に長い廊下が貫いていて、両側に五つ宛《ずつ》、十個《10個》の部屋があつ《っ》て、ここだけは日本式な畳であつ《っ》た。部屋は六畳で、各二人宛《各二人ずつ》が這入つ《っ》ているが、狂ひ《い》出すと監禁室に入《-い》れられた。狂人といつ《っ》ても|大てい《大抵》は強度の恐迫症患者で、他は被害妄想に悩まされている者が多かつ《っ》た。その他にも白痴や|てんかん《癲癇》持ちや、極度なヒステリー女など、色々いた。  附添《付添い》の手によつ《っ》て綺麗に光つ《っ》ている廊下を、初めて宇津は歩きながら、想像以上に森《+シン》と静かな空気に不思議な感を抱《-いだ》いたが、《:、》何か無気味なものが底に沈んでいるや《よ》うな恐しさをも同時に感じた。だんだん夕暮れて行くあたりの陰影が忍び込んで、そこの空気はぼんやり翳り、長い廊下の彼方に、細まつ《っ》て円錐形に見え、黝く浸《+滲》んで物の輪郭もぼやけていた。歩く度に空気が、ゆらりと揺れるや《よ》うに思は《わ》れ、自分の背後から不意に、|手負ひ猪《手負いジシ》のや《よ》うに狂人がうわつ《っ》と飛びついて来るのでは《は-》あるまいかと、彼は心配でならなかつ《っ》た。老人の部屋が幾番目にあるのか聞いていなかつ《っ》たので、うろうろと廊下に立つ《っ》て、細目にあいている部屋を、横目でちらりと覗いて見たり、《:、》誰か早く出て来《-く》れば訊ねて見るのだがと、二三歩《二’三歩》行つ《っ》たり来たりしていると、すぐ右手の部屋から、美しい女の唄声がも《漏》れ聞えて来た。宇津は立停つ《っ》て唄声の美しさに耳を澄ませて、ふうむふうむと感心しながら、ひ|よつ《ょっ》とすると朝鮮女かも知れぬと思つ《っ》た。唄はアリランで、原語のまま巧みに歌つ《っ》て行つ《っ》た。その唄声が病棟内を一ぱいに拡がつ《っ》て行くと、突然《突然’》廊下の突き当つ《っ》ている向《向こ》う端の部屋の障子があいて、そこから男が一人ふらりと浮き出て来た。誰もいない家へ初めて来て、うろうろする時の間《マ》の悪さを感じていた宇津は、ほつ《っ》と安心すると同時に、白痴か狂人かと神経を緊張させて、その男を眺めた。この病院で制定された棒縞の筒袖を着て縄《/縄》のや《よ》うに|綯ひよれ《ナイヨレ》た帯をしめていた。体重が二十四貫《二十四カン》もありさ《そ》うにぶくぶくと太つ《っ》た男で、丸で空気に流されるや《よ》うにふらふらと宇津の方《ホウ》へ近寄つ《っ》て来て、間近まで来ると、ひよ《ょ》いと立停つ《っ》てぼんやり彼を眺めた。白痴だな、と直覚したが、兎に角一応訊《角’一応’訊》ねてみようと思つ《っ》て、 「今日《こんにち》は。」  と先づ《ず》挨拶をしてみた。すると、対手は、|はあ《ハア》と言つ《っ》たまま、宇津の頭の上のあたりを眺めている。 「間木さんの部屋は何処でせ《しょ》うか。」  と訊くと、 「|はあ《ハア》。」  と言つ《っ》て、やつ《っ》ぱり同じ所を眺めているのだつ《っ》た。宇津は苦笑しながら、これは困つ《っ》たことになつ《っ》たものだと思つ《っ》ていると、対手は小さな、太い体とは正反対の細い女のや《よ》うな声で流行歌の一節を口吟《口ずさ》み始めた。宇津は思は《わ》ず微笑《微笑’》してじつ《っ》と聞いていると、急に歌をやめて、ぶつぶつ口《’口》の中で何か呟きながら外へ出て行つ《っ》てしまつ《っ》た。そこへ附添人《付添人》が来たので、それに訊いてや《よ》うやく老人の部屋へ這入つ《っ》た。老人は不在だつ《っ》たが、すぐ帰つ《っ》て来るだら《ろ》うといふ《う》附添人《付添人》の言葉だつ《っ》たので、彼は帰りを待つことにした。  部屋は六畳で、間木老人の他に、もう一人居るとのことであつ《っ》たが、その男もいなかつ《っ》た。畳はかなり新しく、まだほのかに青みを|有つ《持っ》ていたが、処々《所々》に破れ目《め》や、赤黒く血の浸《+滲》んだ跡等《跡ら》があつ《っ》た。壁は白塗りであつ《っ》たが、割れ目や、激しく拳固で撲りつけたらしい跡があつ《っ》た。その他爪《ほか爪》で引掻《引っ掻》いた跡や、ものを叩きつけて一部分壁土の脱落した所などもあつ《っ》て、狂人の部屋らしい色彩が感取された。あの温和な老人がか《こ》うしたことをやるのだら《ろ》うかと怪しんでみたが、老人と一緒にいる他の男がやつ《っ》たものであら《ろ》うと思つ《っ》た。それでは一体どんな男が住んでいるのであら《ろ》うかと考へ《え》ると、ち|よつ《ょっ》と気味《キミ》が悪《わる》くなつ《っ》て来だした。  南側には硝子窓があつ《っ》て、その下に小さな机が一つ置いてあつ《っ》た。机の上には巻紙が一本と、黒みがかつ《っ》て底光りのする立派な硯箱が載せられてあつ《っ》て、しつ《っ》とりと落着いた感じが宇津の心を捕へ《え》た。が、何《なに》よりも心を惹いたのは、巻紙と並んで横になつ《っ》ている一葉の写真で、この院内では見られない軍人が、指揮刀を前にして椅子に腰をおろしていた。宇津は激しく好奇心を動かせながら、それを眺めた。肩章《ケン章》によつ《っ》て大尉であることは直ぐに判つ《っ》た。無論《むろん’》老人の若い時のものに相違なかつ《っ》た。きりつ《っ》とした太い眉毛や、逞しい髯の立派さや、この写真で見る間木氏と、今の老人との隔《隔た》りは甚しかつ《っ》たが、それでも、幼《おさ》な心の想ひ《い》出をたどるや《よ》うな、ほのかな面輪の類似があつ《っ》た。 「ふうむ。」  と言ひ《い》ながら、宇津は熱心に視つめた。その時彼はふと父を想ひ《い》出した。彼の父もやはり軍人で、しかも老人と同じ大尉だからで、小さい頃そ《/そ》の父に幾度も日露戦争の実戦談を聞かされたことがあつ《っ》た。そしてひ|よつ《ょっ》とすると間木老人も父と一緒に北満の荒野で戦つ《っ》た勇士では《は-》あるまいかと思は《わ》れて来た。すると間木老人が宇津といふ《う》名前を聞いた時、宇津《ウツ》、宇津《ウツ》? と言つ《っ》て考へ《え》込んだりした様子なども、また新しく心に浮んで来て、これは大変なことになつ《っ》て来たと、宇津は心の中で呟いた。そして自分が今何《いま何》か大きな運命的なものの前で、ぽつんと立つ《っ》ているや《よ》うな不安と、新しいことに出会すに違ひ《い》ないといふ《う》興味とを覚えた。  宇津が次々に心に浮んで来る想念に我《吾》を忘れていると、突然、鈍く激しい物音がどんと響いて、続いてばたばたと廊下を駈け出す足音と共に、 「又やりやがつ《っ》た!」  といふ《う》叫声《叫び声》が聞えて来た。すると部屋部屋の硝子戸が、がたがたと開いて四辺が騒然としはじめた。どうしたのかと、宇津は怪しみながら入口を細目にあけて廊下を覗いて見た。彼がここへ這入つ《っ》て初めて会つ《っ》た太い白痴が、仰向けに倒れて、口から夥しいあぶくを吹いて眼を宙《チュウ》に引きつつ《っ》ていた。それを先刻廊下《先刻’廊下》を駈け出した男であら《ろ》う、上からかがまつ《っ》て懸命に|押へ《押さえ》つけている。勿論一眼《勿論’一目》で|てんかん《癲癇》だと解つ《っ》た。部屋部屋から飛び出して来た人々は、白痴を取り巻いて口々に何か喋り出した。女が二人と男が五人であつ《っ》たが、どれもこれも形相《-ぎょうそう》は奇怪に歪んで、それが狂的な雰囲気のためか身《/身》の毛の立つや《よ》うな怪しい一団を造り上げていた。しかもこれが何時《いつ》どのや《よ》うに狂ひ《い》出すか判らない連中ばかりだと思ふ《う》と、気色が悪くなつ《っ》て来て、これは足許の明るい中《うち》に帰つ《っ》た方《ほう》がよいや《よ》うに思は《わ》れ出し、立《立ち》上つ《がっ》て一歩廊下《一歩’廊下》へ踏み出した。するとその時又先刻《ときまた先刻》の美しいアリランの唄声が聞えて来た。唄声はさ《そ》う高くはないが、それでも人々の騒音に消されもしないで、あたり一ぱいに流れていつ《っ》た。この腐爛した世界を少しづ《ず》つ清めて行くや《よ》うで、宇津は立《立ち》止つ《っ》てじつ《っ》とそれを聞いた。その時急に表が騒々しくなると、狂人であら《ろ》う、一人の男が底抜けに大きな声で歌のや《よ》うなものを呶鳴りながら入口に現は《わ》れた。頭の中央が禿げ上つ《がっ》て周囲《/周囲》だけにちよ《ょ》びちよ《ょ》びと毛が生えていた。その周囲の毛が頬《ホオ》を伝つ《っ》て顎まで下《-お》りて来ると、そこには見事な、八寸もありさ《そ》うな鬚が波を打つ《っ》て垂れていた。貌全体が全《+まる》で毛だらけであつ《っ》たが、その癖眉毛がまるつ《っ》きり無いので、ひどく怪しげであつ《っ》た。彼はその禿げ亙《わた》つ《-っ》た頭を光らせながら、物凄い勢《勢い》で廊下を突き進んで来ると、白痴を取り巻いている人々を押し退けて中央に割り込み、突然胆《とつぜん肝》を潰すや《よ》うな太い声で、 「桜井のてんかん奴《め》!」  と呶鳴つ《っ》た。すると、今度は嗄《しゃが》れた声で、ひどく可笑しさ《そ》うに笑ひ《い》出した。一度笑ひ《い》出すと、止めようとしても止まらないらしく、彼は長い間最初《あいだ最初》と同じ音程で笑ひ《い》続けた。が暫くすると、綱でもぷつッと切断するや《よ》うに、ぴたりと笑ひ《い》止んで、眸を鋭く空間に注ぐと、貌《顔》を嶮しく硬直させて、何か考へ《え》る風《ふう》だつ《っ》たが、《:、》やがてがつ《っ》くりと首を落し、ひどく神妙さ《そ》うに黙々《/黙々》として宇津のいる部屋へ這入つ《っ》て来た。 「君は誰だ。間木君《間木くん》に用かね!」  神妙な貌《顔》つきに似ず鋭《/鋭》い口調でさ《そ》う言ふ《う》と、考へ《え》深さ《そ》うに鬚をしごきながら、どかりと坐つ《っ》た。心臓にうすら寒いものを覚えながら宇津が、 「|はあ《ハア》、待つ《っ》ているのですが。」  と答へ《え》てその男を見た。もう六十二三《六十ニサン》にはなるであら《ろ》う。間木老人と同年、或は三つ四つ下であら《ろ》う。しかし一本も白髪の混つ《っ》ていない漆黒の顎鬚は実際見事《実際’見事》なものであつ《っ》た。頭の光つ《っ》ている部分はかなり峻《険》しく尖つ《っ》ていて、そこに一銭銅貨大の結節の痕があつ《っ》た。そこだけ暗紫色に黒ずんでいて、墨か何かを塗つ《っ》たや《よ》うだつ《っ》た。男は暫く宇津を眺めていたが、 「何時、この病院へ来たのかね!」  と訊いた。 「五ヶ月、近くになります。」  と言ふ《う》と、 「ふうむ。」  と深く何事かを考へ《え》ていたが、 「形有るものは必ず破る、生有《セイ有》るものは必ず滅《めっ》す、生者必滅は天地大自然の業《ゴウ》だ。」  と息をつめて鋭く言ふ《う》と、激しい|眸ざ《眼差》しで宇津を視つめていたが、急に又以前《また以前》と同じ嗄声《嗄れ声》で爆笑し出した。が、すぐ又真面目《また真面目》くさつ《っ》た貌《顔》になつ《っ》て、 「抑々癩病と称する病《病い》は、古来より天刑病と称されしもので、天の、刑罰だ! 癒《治》らん、絶対に癒《治》らん!」  小気味がよいといふ《う》風《ふう》にきつ《っ》ぱり言ひ《い》切ると、又《また》しても笑ひ《い》出した。 「現代の医学では癒《治》らんといふ《う》のだ。だが俺は癒《治》す。現に癒《治》りつつあるのだから仕方があるまい。」  眸を光らせながら、宇津を覗き込んでさ《そ》う言つ《っ》た。 「どうすれば癒《治》りませ《しょ》うか。」  宇津は、こいつ可哀さ《そ》うに病気のためにひどく狂つ《っ》ていると思ひ《い》ながら、それでも顎鬚の壮観に何者であら《ろ》うと好奇心を起しながら試しに訊いてみた。 「先づ《ず》、信仰、の二字だ。仏法に帰依するのだ。」  微動だにしまいと思は《わ》れる程強《ほど強》い自信を籠《こ》めてさ《そ》う言ひ《い》切ると、それから長い間、驚くべき該博な知識を|有つ《持っ》て仏教を説いて、君も是非宗教《是非’宗教》を有《持》つや《よ》うにと勧めた。 「それでは、あなたに随つ《っ》て僕もやつ《っ》て見ませ《しょ》う。」  と言ふ《う》と、 「それが良《-い》い、それが良《-い》い。」  と幾度も言つ《っ》て、茶器を運んで来ると、買つ《っ》てから一週間以上も経つであら《ろ》うと思は《わ》れる、固く|こは《強》ばつ《っ》た羊羹を押入《押入れ》から取り出して、遠慮なく食ひ《い》給へと言つ《っ》て宇津の前へ放《抛》り出した。そして自らその一つを口に入れてむしや《ゃ》むしや《ゃ》と食ひ《い》始めた。食は《わ》ぬのもどうかと思は《わ》れたので、一つ口に入れて見ると、固い羊羹はごりごりと音を立てた。男は満足さ《そ》うに宇津を見ていたが、急に何かを思ひ《い》ついたや《よ》うに立上つ《がっ》て、押入《押入れ》から一封度程《1ポンドほど》の金槌を取り出し、早口に経文の一節を唱へ《え》出した。可笑しなことをやり出す男だと宇津は怪しみながら見ていると、いそがしげに着物をぬぎ捨て、褌一つになつ《っ》て宇津の前に坐ると、膝小僧を立ててそれをごつんごつんと叩き出した。膝小僧が痛さ《そ》うにだんだん赤らんで来ると、男は益々槌《益々’槌》に力を加へ《え/》一層高く経文を唱へ《え》て強く打ち続けた。かなり長い間叩《あいだ叩》いていたが、それを止《辞》めると、今度は両掌《両手》で打つ《っ》た跡をうんうん唸りながらもみ始めた。全身にじつ《っ》とり汗がにじんで来ると、ふうと大きな息を吐いて宇津の方《ほう》を眺め、 「君も病気を癒《治》したいであら《ろ》うが、それなら俺のや《よ》うにやり給へ《え》。」  と言つ《っ》て、前よりも力を入れてもんでいたが、現代の科学程《科学ほど》あてにならんものはな《無》い、医学は癩を斑紋型、神経型、結節型の三つに分割して大楓子油《ダイフウシ油》の注射をやるが、俺はこの分類に賛成出来ない、《:、》況んや皮膚病として取り扱ふ《う》などは噴飯ものだ、抑々癩菌は人体の何処にいるか、医者は入院患者に対して先づ《ず》鼻汁と耳朶の血液を採る、《:、》成程《なるほど》そこにも|一ぴき《一匹》くらいはいるかもしれん、がほ《/ほ》んとは骨の中にいるんだ、骨の中には癩菌が巣を造つ《っ》ている、だから俺はか《こ》うして膝小僧を叩くのだ、骨の中でもここが一番多く菌が蝟集しているのだ、《:、》ここには菌が、五つくらいも巣を造つ《っ》ているに相違ない、それが叩くと熱気と激しい震動で菌のやつが泡を食つ《っ》て骨の外側に這ひ《い》出して来るんだ、するとそこに結節が出来る、金槌で叩くのは結節を造るためだ、《:、》それならどうして自ら痛い目に会つ《っ》てまで結節を造るか、無論《むろん》それを直ちに除く方法があるが故だ。この病院では結節注射と称して大楓子油《ダイフウシ油》を結節にうつが、あれは愚の至りだ、注射をすると折角《折角’》出ている菌を又候《+またぞろ》骨の中へ追ひ《い》込んでしまふ《う》に過ぎんといふ《う》ことを誰も気づかないんだ、《:、》結節を除くには注射など零だ、たは《わ》しでこするのが一番良《一番い》い、こすり取つ《っ》てしまふ《う》のだ、《:、》俺の頭を見給へ、結節の痕があるだら《ろ》う、これは俺の発明したたは《わ》し療法でこすり取つ《っ》た痕だ、と口から泡を飛ばしながら言ふ《う》と、禿げ上つ《っ》た頭をつるりと撫でまは《わ》した。宇津は思は《わ》ず噴き出しながら、しかし同時に心の底に何か不安なものを覚え、反撥して見たい欲求をさへ《え》感じた。自分の中にある医学への信頼が脆くも破れて行きさ《そ》うに思は《わ》れた。 「たは《わ》しでこするのでは痛くてたまらんでせ《しょ》う。」  心の中に複雑な葛藤を沈めたまま、微笑《微笑’》してさ《そ》う言ふ《う》と、 「何、麻痺しているから一向感じがないんだ。」  と言つ《っ》て、又例《また例》のや《よ》うにからからと笑ひ《い》出した。宇津はその麻痺といふ《う》言葉に突然ぞつ《っ》と背筋《背すじ》が冷たくなつ《っ》て、早く間木老人が帰つ《っ》てくれればいいがと思案した。麻痺、と簡単に言つ《っ》てしまへ《え》ばそれまでのものであるが、生きた肉体の一部が枯木《枯れ木》のや《よ》うに感覚を失ひ《い》、だんだん腐つ《っ》て行く恐しさは、考へ《え》れば考へ《え》る程奇妙《ほど奇妙》な、気色の悪い無気味さである。それに人々の話を聞くと、今日は誰が足を一本切つ《っ》たの、腕を片方外科場《かたほう-外科バ》に置いて来たのと言ひ《い》、《:、》しかも切られる本人は、医者が汗を流しながら鋭い鋸でごりごり足をひいているのに、平然と鼻歌の一《ひと》くさりも吟じて知らん顔をしているといふ《う》のである。そしてそれが決して他人事ではなく、直接に自分自身に続いている事実で、その間《あいだ》にあるものはただ時間だけである。この病院に来て以来、人に幾度も慰められたが、その言葉の中には|定つ《決まっ》て、 「まだまだあんたなんか軽いんですから。」  安心しろと言は《わ》れたが、このまだまだといふ《う》言葉程げつ《っ》そりするものは他になかつ《っ》た。しかしこれが一等適切な正確な言葉なのである。  宇津が暗澹たる気持《気持ち》で相手の鬚を眺めていると、狂人は急に立《立ち》上つ《がっ》て、褌一つのまま憑《/憑》かれたや《よ》うに室内をぐるぐる廻り出した。どうしたのですかと訊くと、 「気が狂ひ《い》出して来たんだ。」  と早口に言つ《っ》て、その言葉が終らぬうちに、胆《肝》を潰すや《よ》うな大きな声で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呶鳴り出した。これはとんでもないことになつ《っ》て来たと宇津が弱つ《っ》ていると、そこへ運良く間木老人が帰つ《っ》て来たのでほつ《っ》とした。  老人の話では、この鬚男はもと政党|ごろ《ゴロ》か何かそのや《よ》うなことをやつ《っ》ていたらしく、《:、》入院当時はひどい沈黙を守つ《っ》て毎日仏《毎日’仏》を拝むことを仕事にしていたが、五六《ゴ六》ヶ月過ぎる頃から気分に異状を来したとのことであつ《っ》た。そしてひどく暗い顔になりながら、 「わたしも実は強迫観念に悩まされてこの病室に来ているのですが、あの男も初めはやつ《っ》ぱりそんな風《ふう》でした。」  そして鬚は幾度も監禁室に入《-い》れられたことや、癩菌が恰も蛆虫かなんぞのや《よ》うに指で触れ得るもののや《よ》うに思は《わ》れ、それが絶間なく肉体を腐らせて行くことに怒りと恐怖を覚え、《:、》監禁室の中でも一日に二三度《二’三度》は暴れ出《だ》して、壁に体を撲《打》ちつけ、全身を掻きむしるのだとも言ひ《い》、 「実際なんといふ《う》惨らし《-し》いことでせ《しょ》う。敵は自分の体の内部に棲んでいて、どこへでも跟《+つ》いて来るのです。それを殺すためには自分も死なねばならぬのです。自分も死なねばならぬのです。」  私も時々《ときどき》硫酸を頭から浴びて病菌を全滅させたい欲求を覚えます、と宇津は自ら思ひ《い》当るふしを言は《お》うとしたが、《:、》その時はつ《っ》と自分も褌一つの鬚と同じ心理を行《い》つ《っ》ていることに気づいて、深い不安を覚えて口を緘《噤》んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  宇津が十号を訪ねてから、暫くの間《あいだ》、老人は小屋を訪れて来なかつ《っ》た。宇津は例のや《よ》うに動物達の世話をしながら老人《/老人》は一体どうしているのであら《ろ》うかと、暫く会は《わ》ない老人を心配したり、こちらからもう一度訪ねてみようかと考へ《え》てみたりした。小屋の中はいつものや《よ》うに仄暗く、|二三日前《ニサンニチ前》に腹を割かれ、生々しい患者の結節を植えつけられた小猿が、心臓を搾るや《よ》うな悲鳴を発して、それがあたりを益々陰鬱《益々’陰鬱》なものにしていた。そして老人が再びここへ来るまでの間に、一つ、宇津の心に残つ《っ》たエピソードがあつ《っ》た。  それは十二時近くの夜中のことで、宇津がふと眼をさますと、裏手の監房のあたりから、荒々しい男の怒声と切《/切》なげな女の悲鳴が聞えて来るのだつ《っ》た。それと同時に、監房でもあけているのか、扉の音なども響いて来た。宇津は怪しみながら草履を引つ《っ》かけると、外へ出て見た。あたりは闇く、高い空を流れる風が、老松の梢にかかつ《っ》て、ざわめく音だけが聞《聞こ》えた。監房の前には小さな常夜燈が一つ点いていて、そこだけが、塗り込められた闇の中にぼうつ《っ》と明るく浮き出ていた。その小さな円形の光りの中で、黒い着物を着て鷹《/鷹》のや《よ》うに全身保護色している男が、二人がかりで若い女を、引きずるや《よ》うにして監房の中へ押し込んでいた。黒い男は、この院内の患者を絶えず監視している監督である。宇津は息をひそめながら、松の陰に身をしのばせて、幻想的な映画のスクリーンを見るや《よ》うに、津々《しんしん》たる興味をもつ《っ》て熱心に眺めた。争つ《っ》ているのであら《ろ》う、女の華美《+派手》な着物の縞目が、時々はたはたと翻つ《っ》て、それが夜目にもはつ《っ》きり見えた。が《が/》間もなく女は監房の内部へ消えて、厚い扉が、図太く入口を覆つ《っ》てしまつ《っ》た。黒い男は顔を見合は《わ》せて互《互い》に|にやり《ニヤリ》と笑ふ《う》風《ふう》だったが、それもそのまま闇の中に消え去つ《っ》て、もうあたりは以前の静寂《-せいじゃく》に復つ《っ》て、厚い扉だけが、暗い光りの下に肩を張つ《っ》ていた。宇津は松の横から出ると、監房の方《ホウ》へ近よ《寄》つ《っ》て行つ《っ》た。女が、ひいひい泣く声が、低く強く流れ出て来た。彼は扉の前に立つ《っ》て、暫く内部の泣声《泣き声》を聞いていたが、だんだん女に声をかけて見たくなつ《っ》て来だした。どうせ駈落《駆落ち》し損つ《っ》た片割れだら《ろ》うと思つ《っ》たが、この場合何《場合なん》と言つ《っ》たらいいのか、適当な言葉がなかなか浮《浮か》んで来なかつ《っ》たので、帰ら《ろ》うと思つ《っ》てそろそろ歩き出すと、 「おい!」  といふ《う》男の声が房内から飛び出て来たのでひどく吃驚して立止つ《っ》た。さては男の方《ほう》はもう先《’先》に這入つ《っ》ていたのかと思ひ《い》ながら、何か自分に言伝てでもあるのかと鋭く神経を沈めて、危《危う》く返事をしようとすると、《:、》急に女の泣声《泣き声》がぱつ《っ》たりと止んで、それから細々《ホソボソ》と語り合つ《っ》ているらしい男女の声が洩れて来た。その時人《とき人》の足音がこつりこつりと聞えて来たので、さては監督があたりを警戒しているのだなと、感づいたので、彼は急いで小屋《コヤ》へ帰つ《っ》た。  この一組《ヒトクミ》の逃走未遂者の中《うち》、男の方《ほう》はすぐその翌日退院処分《翌日’退院処分》を食つ《っ》て追放されたが、女は五日間監房《五日間’監房》の中で暮して出された。が《が/》数日過ぎると、女の体は松の枝にぶら下つ《っ》て死んでいた。恐らくは胎内に子供でも宿つ《っ》ていたのであら《ろ》う。  この小さな事件は、宇津の心に、悪夢のや《よ》うな印象を残した。彼は相変らず動物達と暮しながら、時々あの小さな光りの円形の中で行は《わ》れたことが、はつ《っ》きり心に蘇つ《っ》て、苦しめられた。その度に、不安とも恐怖ともつかない真暗《真っ暗》いもの|だが《が》、ひたひたと心を襲つ《っ》て来るのを感じた。彼はあの時、自分でも驚くほど冷静だつ《っ》たのに、どうしてか《こ》う後《あと》になつ《っ》て強く心を脅すのか不思議に思は《わ》れてならなかつ《っ》た。これはもはや一生涯《イッ生涯》心の斑点となつ《っ》て残るのでは《は-》あるまいかと思つ《っ》たりすると、自然心が鬱いで行つ《っ》た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第5章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  モルモットは一箱に一匹づ《ず》つ這入つ《っ》ていて、兎の箱と向ひ《かい》合つ《っ》て積み重ねられてあつ《っ》た。その間《あいだ》はち|よつ《ょっ》と谷間のや《よ》うに細まり、幅は三尺くらいしかなかつ《っ》た。宇津はその仄暗い間を、幾度も行つ《っ》たり来たりして、彼等に食餌を与へ《え》ていつ《っ》た。動物達は待ちかねたや《よ》うに飛びついて食つ《っ》た。宇津はその旺盛な食慾にもさほどの興味も覚えなかつ《っ》た。赤い兎の眼が光線の工合で時々《ときどき》鋭くキラリと光つ《っ》た。モルモットの眼は、僅かな光りの変化にも、眺める角度の些細な動きによつ《っ》ても、激しい色彩の変化を示した。実際モルモットの眼の色の変化の複雑さには宇津も、もう以前から驚かされていた。透き|とほ《通》るや《よ》うな空色にも、水々しいブダ《ド》ウ色にも、無気味な暗紫色にも、その他一切の色彩に変化して眼に映つ《っ》た。しかしそれが生物のためか、自然色の美しさではなく、どこか底気味の悪い鋭さがあつ《っ》た。宇津は時々その眼色《ガンショク》に全身を射竦められてしまふ《う》や《よ》うな深い恐怖を覚え、自分の全身が獰悪な猛獣に取り巻かれているや《よ》うな気がしだして、息をつめて急いで外へ出ることがあつ《っ》た。彼にはどうしても動物達と馴れ親しむといふ《う》ことが出来なかつ《っ》た。先日も子猿が、宇津の知らぬ間《マ》に誰かが投げ込んだものであら《ろ》う細い縄切れを、足首に巻きつけてキヤ《ャ》ッキヤ《ャ》ッと騒ぐので、取つ《っ》てやら《ろ》うと箱の前にしや《ゃ》がむと、《:、》猿は不意に金網の間から腕を出して、宇津の長い頭髪をぐいと掴んだ。彼は危《危う》く悲鳴を発する程驚《ほど驚》いて飛び退いたが、心臓が永い間激《あいだ激》しく鼓動した。今日も幾度も行つ《っ》たり来たりしているうちに、又恐怖《また恐怖》が全身に満ちて来だして、ずつ《っ》と前に見た猛獣映画の光景などが心に浮《浮か》び上つ《がっ》て来るので、急いで外へ出た。が又《”また》すぐ中へ這入つ《っ》て行つ《っ》た。自分はもう何時死《いつ死》んでもいい人間なんだと強く思つ《っ》たからだつ《っ》た。それならいつ《っ》そ今死んだらどうだら《ろ》う、何気なくさ《そ》う思つ《っ》て上を仰ぐと、綱を掛けるに手頃の梁が見えるので、彼は兎の箱の上へ這ひ《い》上つ《がっ》て手を伸ばして見た。心が変に楽しみに脹らんで来て、彼は|にやりにやり《ニヤリニヤリ》と笑つ《っ》た。それからそろそろ帯を解くと、梁に掛けた。二三度試《二’三度’試》しに引いて見たが、十人が一度に首をくくつ《っ》ても大丈夫確《大丈夫’確》かなものだつ《っ》た。これに首を結|はへ《わえ》て飛び下《降》りさへ《え》すれば‥‥《‥:》ふうむ、死なんて案外訳《案外わけ》なくやれるものなんだな、それではそんなに命を持て余さなくてもいいんだ、ここまで来て自分は平気なのだからもう何時でも死ねるに違ひ《い》ない、《:、》と思つ《っ》て安心すると、それならそんなに急いで死ぬ必要もないと思つ《っ》たので、彼は又帯《また帯》を締めると、下《した》へ降りた。その途端に、 「宇津さん。」  と呼ぶ間木老人の声が聞《聞こ》えたので、急いで外へ出ると、 「ほんとにやるのかと思ひ《い》ましたよ。」  と老人は軽い微笑を浮べながら言ふ《う》ので、ではすつ《っ》かり見られたな、と思ひ《い》ながら、 「いや、ち|よつ《ょっ》と試しにやつ《っ》て見たんです。」 「ハハハ、さ《そ》うですか試しにね。どうです、行けさ《そ》うですか。」 「案外たやすく行けるん|ぢや《じゃ》ないか、といふ《う》気がします。」 「ふうむ。」  と深く頷くと、何かに考へ《え》耽つ《っ》ていたが、 「あなたはどうして生きて行か《こ》うと思つ《っ》ていますか。」  と不意に鋭く、宇津の貌《顔》を視つめながら言つ《っ》た。か《こ》ういふ《う》時、老人の過去の軍人的な面影がちらりと見えた。宇津はそれを素早く感じながら、どう答へ《え》たらいいのかに迷つ《っ》た。もうかなり以前から、考へ《え》続けている問題だつ《っ》た。彼は自分の感覚の鋭敏さは、対象の中からこの問題を解決する何ものかを見つけ出さ《そ》うとする結果で、《:、》そして感覚が鋭敏になればなる程、対象と自分との間は切迫して、緊張し、恰も両端《両はし-》を結んで張り渡された一本の線の上に止つ《っ》ている物体のや《よ》うに、ち|よつ《ょっ》とゆるめればど《/ど》うと墜落する間髪に危《危う》く身を支へ《え》ているのだと思つ《っ》た。 「もう長い間探《あいだ探》しているのですが、僕には生きる態度といふ《う》ものが見つかりません。」  老人は深く頷いて、又長《また長》い|間考へ《あいだ考え》込んでいたが、やがてそろそろ宇津の部屋に這入つ《っ》て行き、 「お茶でも味は《わ》して下さい。」  と静かな、幾分淋《いくぶん淋》しげな声で言つ《っ》て、坐つ《っ》た。ひどく疲れているや《よ》うであつ《っ》た。  勿論ここでは本式のお茶など点てらるべくもなかつ《っ》たが、それでも宇津は、湯加減や濃度によく気をつけて老人に奨めた。老人はち|よつ《ょっ》と舌の先にお茶をつけて、何か考へ《え》耽りながら味つ《わっ》ていたが、 「桜井が死にましたよ。」  と言つ《っ》た。 「|へええ《ヘエエ》、あの|てんかん《癲癇》持ちの人ですか。」 「わたしの部屋にいる鬚を知つ《っ》ているでせ《しょ》う。あれと喧嘩をしましてね。腹立ちまぎれに井戸へ飛び込んだのです。」  何時《いつ》の時も二人の話は途切れ勝《が》ちで、無言の儘互《まま互》に別々のことを考へ《え》ながら向ひ《かい》合つ《っ》て坐つ《っ》ていることが多かつ《っ》たが、《:、》今日もそこまで言ふ《う》と、途切れてしまつ《っ》て、老人は窓外に眼をやつ《っ》て、林の中をちよ《ょ》こちよ《ょ》こ歩いたり急《/急》に駈け出したりして戯れている仔犬を眺めていた。が《が/》暫くすると、宇津の額をじつ《っ》と視つめながら、 「変なことを訊くや《よ》うですが、お父さんは御健在ですか。」 「|はあ《ハア》。」  と答へ《え》ると、 「何時《いつ》か一度お訊ねしたいと思つ《っ》ていたのですが、もしかしたらあなたのお父さんは日露戦争においでになられた方で、お名前は、彦三郎さんと言は《わ》れはしませんか。」 「|はあ《ハア》、さ《そ》うです。どうして御存じですか。」 「ふうむ。」  老人は唸るや《よ》うにさ《そ》う言ふ《う》と、宇津の貌《顔》を熱心に視つめ出した。 「そつ《っ》くりだ。その額《ヒタイ》が、そつ《っ》くりです。」  宇津は何か運命的な深いものに激しく心を打たれながら、まだ額《ヒタイ》だけは病気に浸潤されていないことを思ふ《う》と、急に額がかゆくなつ《っ》て来て、手を挙げると、老人は益々ふうむふうむと感嘆して、 「その手つき、その手つき。もう何もかも、そつ《っ》くりだ。」 「父を御存じなんですか。」 「知つ《っ》ているどころか、日露戦争の時には、同じ乃木軍に属していた、親友でしたよ。」  老人は遠い過去を思ひ《い》浮べているらしかつ《っ》た。宇津はもうどう言つ《っ》ていいのか、言葉が出なかつ《っ》た。 「あの頃は、わたしも元気でしたよ。元気一ぱいで、御国の為に働きました。ちや《ょ》うど奉天の激戦の時で、物凄い旋風が吹きまくつ《っ》ていました。その中を、風のために呼吸を奪は《わ》れながら、昼夜の別なく最左翼へわ《/わ》たし達の旅団は強行軍を行つ《っ》たのです。敵軍の本国との連絡を断つ為でした。その行軍の眼にも止まらぬ早業が、あの戦《戦さ》の勝因だつ《っ》たのです。けれどクロパトキンといふ《う》敵の将軍も偉いやつでしたよ。あのクロパトキンの逆襲の激しさには実際弱《実際’弱》らされましたよ。わたしはそのために、た《と》うとう、情ない話ですが、俘虜になつ《っ》てしまつ《っ》たんです。その時俘虜《とき俘虜》になつ《っ》た日本人が、千二百名もいました。少佐大佐なども数人やられました。」  老人はお茶を啜つ《っ》て、輝かせた瞳を曇らせながら、 「それからの八ヶ月間といふ《う》ものは、ロシヤの本国で俘虜生活を続けました。勿論そんなに苦しい生活ではありませんでしたが、本国へ送られるまでの長い間《あいだ》の生活は、実際例|へや《えよ》うもない程、苦《くる》しいものでした。自殺をする者もかなりいました。それから重傷を受けた者、片手を奪は《わ》れたもの、あの野戦病院から鉄嶺に送られた時は、地獄でしたよ。その時は夢中でよく覚えがありませんが、今から考へ《え》て見ると、地面に掘つ《っ》た深い洞窟のや《よ》うな所へわたし達は入《-い》れられたのですが、そこで重傷者は大部分死に、本国まで行つ《っ》た時は、もう半分くらいの人数でした。」  老人は長い間、ロシヤでの俘虜生活を語つ《っ》て、宇津には背中の砲弾の痕を見せたりした。疵痕は三寸くらいの長さで、幅は一寸内外《一寸’内外》であら《ろ》う、勿論普通一般《もちろん普通一般》の疵と変《変わ》りはなかつ《っ》たが、宇津は興味深《興味ブカ》くそれを眺めた。かなり深い負傷であつ《っ》たらしく、そこだけが五分程《ゴブほど》も低まつ《っ》ていた。 「どんな色をしていますか。」  と老人は背後の宇津に訊いた。 「さ《そ》うですね、色は健康な人の皮膚の色と大差ありませんが、皺が寄つ《っ》ています。」  と言ふ《う》と、 「さ《そ》うですか。」  と老人は、癩の疵でないことを示し得たことに幾分の喜びを感じたのであら《ろ》う、満足さ《そ》うに貌《顔》を晴れ晴れさせて、 「この病気の発病後に出来た疵は、どんなに治つ《っ》ても暗紫色をしているものなのです。」  と言つ《っ》て、老人は冷たくなつ《っ》たお茶をごくりと飲み、宇津が熱いのを再び注《-つ》ぐと、老人はそれをち|よつ《ょっ》と舌の先につけて下に置き、深く何ごとかを考へ《え》る風《ふう》だつ《っ》たが、深い溜息を吐《つ》くと、 「|ほんたう《本当》に、わたしは人間の運命といふ《う》ものを考へ《え》ると、生きていることが恐しくなつ《っ》て来ます。」  と弱々しく言つ《っ》て、 「みんな夢でした。それも、悪い夢ばかりでしたよ。」  と続けて言つ《っ》て、かすかな微笑を浮べた。そして何時《いつ》になくそこへ横は《わ》ると、長々と足を伸ばして、 「あなたは人を信ずる、といふ《う》ことが出来ますか。わたしはもう誰も信ずることが出来ません。いや|ほんたう《本当》に信じ合ふ《う》ことが出来たとしても、きつ《っ》と運命はそれを毀してしまひ《い》ますよ。不敵な運命がねえ。あなたのお父さんとの場合もさ《そ》うでした。|生涯交はら《生涯’交わろ》うと約束したのでしたが、私の方《ほう》から遂にその誓ひ《い》を破らねばならなかつ《っ》たのです。わたしは苦しみましたよ。けれどわたしは、俘虜になつ《っ》たり、遂には癩病にまでなつ《っ》てしまつ《っ》たのですからねえ。た《と》うとうわたしはここへ一人きりで隠れてしまつ《っ》たのです。ところが又《また》しても運命です。わたしの娘がこの病気になつ《っ》て、この病院へ来たのです。それからは、この娘だけを信じて、わたしのすべてはこの娘と共にするといふ《う》覚悟で暮して来たのです。娘は今年で三十に余るのですが、それも生涯独身《生涯’独身》で暮す覚悟だとわたしに誓ひ《い》ました。だのに、その娘《’娘》にも裏切られてしまつ《っ》たのです。」  宇津は悪夢のや《よ》うに思は《わ》れる先日の光景を鮮明に心に描《えが》いて、運命に打ち砕かれた老人の切なげな声を聞いた。いふ《う》までもなく老人の娘は|二三日前《ニサンニチ前》に自殺した女である。この病院へは、親子兄妹で来ているものがかなりあることは宇津も知つ《っ》ていたが、今目《いま目》のあたり老人を見て、その苦悶が一様のものでないことを、強く感じた。途端に、大きな運命の力の前に弱々しくうなだれて行か《こ》うとしている自分の姿を感じて、ぐつ《っ》と胸を拡げて反抗しようとしたが、宇津は自分に足場のないことを、この時切実《とき切実》に感じた。  その翌日老人《翌日’老人》は娘の死んだ松の枝で、同じや《よ》うに首をくくつ《っ》て死んだ。宇津は老人の死体を眺めながら、この時こそ安心し切つ《っ》ている老人の貌形《顔かたち》に、死だけが老人にとつ《っ》て幸福だつ《っ》たのだら《ろ》うと考へ《え》て、《:、》苦悶を浮べていない死貌《死に顔》に何か美しいものを感じたりしたが、自分の貌がだんだん蒼《青》ざめて行つ《っ》て、今自分《いま自分》が大きな危機の前に立つ《っ》ていることを自覚しつつ深《/深》い溜息を吐《-つ》いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「定本《テイホン》◇ 北條民雄全集◇ 上巻」東京創元社】 【   1980(昭和55)年10月二十日《月ハツカ》初版】 【初出《ショシュツ》:「文学界」】 【   1935(昭和10)年11月号】 【※《◇》底本《テイホン》は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【※《◇》初出時《ショシュツ時》の署名は「十條號一《十條’號一》」です。】 【入力:Nana o《/o》hbe】 【校正:富田晶子】 【2017年1月12日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。