◇。◇。◇。◇。◇。 【間木老人】 【北條民雄】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  この病院に入院してから三ヶ月程過ぎたある日、宇津は、この病院が実験用に飼育している動物達の番人になってはくれまいかと頼まれた。病院とはいえ、千五百名に近い患者を収容し、彼等同志の結婚すら許されているここは、完全に一つの特殊部落で、院内にはドカタもいるし、女工もいるし、若芽のような子供達も飛び廻っていて、その子供達のためには、学校さえも設けられてあった。患者達も朽ち果てて行く自分の体を、毎日ぼんやり見て暮す苦しさから逃れたいためでもあろうが、作業には熱心で、軽症者は激しい労働をも続けていた。彼等の日常の小使銭は、いうまでもなくこの作業から生れてくるもので、夜が明けると彼等はそれぞれの部署へ出かけて行くのだった。こうした中にあって、宇津はまだどの職業にも属していなかったので、番人になってくれという頼みを承知したのだった。勿論これも作業の一つで、一日五銭が支給された。宇津は元来内向的な男で、それに入院’間もないため、自分の病気にまだ充分に馴れ切ることが出来ず、いつでも深い苦悶の表情を浮べて、思い悩んでいることが多かった。そのうえ凡てが共同生活で、十二畳半という広い部屋に、六名ずつが思い思いの生活をする雑然さには、実際’閉口していたのだった。そういう彼にとって、動物の番人はこの上ない適役であり、一つの部屋が与えられるということが、彼にとって大変好都合だったのである。  動物小屋は、L字型に建てられた三号と四号の、二つの病棟の裏側で、終日じめじめと空気の湿った、薄暗い所であった。どうかすると、洞穴のなかへ這入ったような感じがし、地面には蒼く苔が食んでいた。もともとこの病院が、武蔵野特有の雑木バヤシの中に、新しく墾かれて建てられたものであるため、人里離れた広漠たる面影が、まだ取り残されていた。患者の逃走を防ぐために、院全体が柊の高い垣根で囲まれていて、一歩’外へ出ると、もうそこは武蔵野の平坦な山である。小屋の周囲にも、松、栗、檜、それからいろいろな雑木が、苔を割って生えていた。その中、コヤのすぐ背後にある夫婦松といわれる二本は、図抜けて太く、ミ抱えもあるだろうか:、それが天に冲する勢いで傘’状に枝を張って、コヤを抱きかかえるように屋根を覆っていた。屋根には落ち葉が積って、重そうに厚く脹れて、家のなかへは、太陽の光線も時たま糸を引くように差すくらいのものであった。宇津の部屋も、この動物小屋の内部にあって、動物の糞尿から発する悪臭が、絶えず澱んでいた。殆ど動物達と枕を並べて眠るようなもので、初めのあいだ彼も大変閉口したが、重病室の患者が出す/強烈な膿の臭いよりは耐え易く思った。  動物は、猿、山羊、モルモット、白ねずみ、兎──:特殊なものとしては、鼠癩にかかった白ねずみが、三匹、特別の箱に這入っていた。これらに食物を与えたり、月に二’三度も-しもの掃除をしてやるのが、彼の仕事だった。従って暇も多かったが、別段’友人があるという訳でもないので:、大抵’読書で一日を暮すか、病気のために腫れぼったく浮腫んだ顔に深い苦悩を沈めて、飯粒を一つ一つ掴んで食う白ねずみの小さな体を眺めているのだった。日が暮れ始めて辺りの林が黝ずんで来だすと、彼は散歩に出かけて、林の中を、長い間歩き廻った。そういう時、動物達のことはすっかり忘れていた。彼は熱心に動物を観察して、そこにいろいろのことを発見したが、それに対して親しみやよろこびを感ずるということは一度もなかった。  小屋を裏手に廻って、ちょっと行くと、そこに監房がある。赤い煉瓦造りの建物で、小さな箱のようであった。陶器でも焼く窯のようで、初めて見た時は、何であろうかとひどく怪しんだものであった。 「どんな世界へ行っても、人間と獄とは、切り離されないのか。」  彼はそれが監房だと判った時、そう呟いた。この小さな異常な社会の監房ではなく、一般社会の律法カの監獄に服役中の友人を思い出したからだった。  院内は平和で、取るに足るような罪もなかった。随って監房も休業が多く、時たま、宇津が散歩の折に房内からひいひい女の泣き声が聞えても:、それは大抵、逃走し損った者か、他人の亭主を失敬した姦婦の片割れくらいのものらしかった。宇津も、間木という不思議な老人に出会すまでは、感情に波をうたせるような変ったこともなかった。L字型をした二つの病棟の有様も、彼にはもう慣れていた。夜など、病棟から流れ出る光りが、小屋の内部まであかくさし込んで、畳の上に木の葉’が映ったりすると、美しいと思って長いあいだ見続けたりした。病棟の内には重病者が一杯うようよと集まっていて、そこは完全な天刑病の世界である。光りを伝って眺めると、硝子窓を通して彼等の上半身が見えた。頭をぐるぐる白い繃帯で巻いたのや、すっかり頭髪の抜けたくりくり坊主の盲人が、あやしく空間を探りながら歩くのが、手に取るように見えるが、入院当時のような恐怖は感じなかった。入院当時の数日は、絶海の孤島にある土人の部落か、もっと醜悪な化物屋敷へ投げ込まれたような感じだった。そして、これが人間の世界であるということは/どうしても信ずることが出来なかった。右を向いても左を見ても、毀れかかった泥人形に等しい人々ばかりで、自分だけが深い孤独に落ち込んで行くようで、足掻きながら懸命に正常な人間を探したものだった。ぶらぶら院内を歩いている時など、向こうから誰かやって来ると、激しい興奮を覚えながら、熱心にその者を眺めた。そしてだんだん近づくにつれて、足に巻いた繃帯が見え出したり、腐った梨のようにぶくぶくと脹らんだ顔面がじろりと彼を睨んでいることに気づいたりすると、一度にぐったりと力が抜け、げっそりしてしまうのであった。その反対に、ひょっこり看護婦の白い影でも、木立のあいだにちらりと見えると、ほっと安心し、もうそのホウへ向って二’三歩’足を踏み出している自分に気づいたりするのだった。宇津は、自分が癩病にかかっていることを肯定しながら、自らを患者一般として取り扱うことの出来ぬ心の矛盾に、長い間苦しめられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼が間木老人と会ったのは、動物小屋に来てから十日ばかり過ぎた或る夜中だった。その日’動物達に夕食を与えてしまうと、すぐトコのなかへ這入って眠ったが、悪い夢に脅かされて眼が覚めてしまった。そしていくら眠ろうとしても、眼は益々冴え返って来るので、仕方なく起き上がると、コヤを出て、果樹園のホウへぶらぶら歩いて行った。運良く月が出ていたので足許も明るく、目を遠くに注ぐと、茫漠とした武蔵野の/煙ったような美しさも望まれた。桃の林は黝ずんで、ヒタイを地に押しつけるようにして蹲って見え、月は、その下で丸く大きく風船ダマのように、空中に浮んで、そこから流れて来る弱い光りが、宇津の影を作っていた。宇津が歩くと、影も追って地を這った。自分の影に気がつくと宇津は、それが余りぴったり地に密着しているので、だんだん自分の体が浮き上がって行くように思われて来てならなかった。すると奇怪な不安を激しく感じて、もう一歩も歩くことが出来なくなってしまった。また来たな、と呟くと一つ大きく呼吸した。こうした不安は幾度も経験しているので、さほどに驚かなかった。が/これが、いつどこで不意に表われて来るか皆目見当がつかず、そのうえ一旦突き上がって来ると、どうにも動きが取れなくなってしまうので、それにはひどく弱った。これは病気に対する恐怖が、死に感応して起こるものであろうと、彼は自分で解釈していた。不安は執拗な魔物のようで、その都度’自分がだんだん気狂いになって行くような、また新しい不安をも同時に感ずるのだった。こういう時彼は、ぐうっと胸一杯に空気を吸い込んで、もう息が切れる、という間髪に鋭くハッハッと叫んで一度に息を抜くことにしていた。そこで大きく息を入れ、胸が張り切ると、ハッと鋭く抜こうとした途端に、 「枯野さん。」  という呼声が、突然すぐ間近でしたので、吃驚して呼吸が声の出ないうちに抜けてしまった。 「枯野さんではありませんか。」  二’三ケンしか離れていない近くで、今度はそう言った。宇津は初めて、こんな自分の近くに人が居り、しかも自分に呼びかけていることを識って驚いた。 「いいえ。」  と彼は取敢えず返事をした。その男は月影をすかして探るように宇津に近寄って来ると、 「これはどうも失礼しました。」  と静かに言うと、 「どなたですか。」  と訊いた。何処か沈んだような調子の声で、何気ない気品といったものが感ぜられた。宇津はすぐ老人だなと感じた。月の蒼い光りの底を、闇が黒ぐろと流れて、どんな男かはっきり見極めることは出来なかったが、宇津はすぐそう感じた。しかし宇津は、こんな深くヒンを沈めた、余情を持った言葉を、まだ一度も聞いたことがなかったので、激しく心を打たれながら、何者であろうかと怪しんだ。 「僕、宇津という者です。」  ちょっとのマを置いて、そう答えると、 「宇津?」  と鸚鵡がえしに言うと、また、 「そうですか。宇津? 宇津?」  ひどく何かを考える様子で、そう繰り返した。これはおかしい奴だと、宇津は思いながら、 「御存じなんですか。」  と訊いて見た。 「いえ、いえ。」  と狼狽しながら強く否定して、 「わたしは間木という者ですが──。」 「ハア。」  と応えながら宇津は、老人の過去に、宇津という固有名詞に関する何かあって、それから来る連想が心に浮んでいるのであろうと察した。 「何時、入院されたのですか。」 「まだ入院後三ヶ月ばかりです。どうぞよろしく。」 「ほう、そうですか。」  そう言いながら老人がぽつぽつ歩き出したので宇津も追って歩いて行った。宇津は注意深く老人を観察しながら、どうしてこんな夜中に歩きまわっているのか、それが不思議でならなかった。  老人は病気の程度を訊いたり、懸命に治療に心掛ければ退院することも出来るであろうから心配しないがいいと元気づけたりした。 「全治する人もあるのですか。」  と訊ねて見ると、老人は暫く何ごとかを考えるふうだったが、 「さあ、そう訊ねられると、ちょっと答えに困るのですが‥‥:この病院の者は、落ちつく、という言葉を使っていますが、つまり病菌を全滅させることは出来ませんが、活動不能の状態に陥れ-ることは出来るのです。」  と言って、癩菌は肺結核菌に類する桿状菌で、ダイフウシ油の注射によってそれが切れ切れになって亡びて行くものだということを、この病院の医者に聞いたし、顕微鏡下にもそのことが表われていると説明して:、むろんあなたなど軽症だから今のマにしっかり治療に心掛けることが何よりで、養生法としては凡てのものに節制をすること、これだけだと強く言って:、これさえ守れば癩病’恐るに足らぬと教えた。  入院以来’宇津はもう幾度もこれと同じような言葉で慰められたり、力づけられたりして来たので、この言葉にもさほどの喜びを感じないのみか:、老人の口から出る語気の鋭さに、一体この老人の過去は如何なるものであったのだろうかと、それが気になって彼は、全神経を澄みわ-たらせて対象を掴まうとしていた。老人は所謂新患者に対して心使いをする楽しさを感じてか、それからも宇津に、病院の制度のことや患者一般の気質などを話して、最後に、今’何か作業をやっているかと訊いた。 「動物小屋の番人をやっています。」  と答えると、 「そうですか、あそこは空気の悪い所ですから胸に気をつけなさい。この上に肺病まで背負い込んではたまりませんよ。この病院に癩/肺/二つに苦しんでいる者がかなり居りますが、そりゃ悲惨なものです。先日もあんたの小屋の裏にある監房へいれられて──:女と一緒にここを逃走しようとして捕まった男なのですが、房内が真赤に染まる程ひどい喀血をして死にました。」  宇津は老人の言葉を聞きながら、窯のような監房を心にえがいて、この病院には、人間の為し得ないような恐ろしいことが、まだまだ埋っているに違いないと思って、深い不安と恐怖を感じたのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今まで宇津以外に誰もいない動物小屋の、薄暗い部屋へ、ときどき間木老人が訪ねて来るようになった。宇津が豆腐ガラに残飯を混ぜて、動物達の食餌を造っていると、老人はこつこつとやって来て、宇津の仕事ぶりを眺めたり、時には手伝ってくれたりした。今まで見たことのない老人の姿に、猿が鉄の網に縋ってキャッキャッと鋭く叫んで、初めのあいだ騒いで困ったが、だんだん馴れて来ると、老人は、甘い干菓子を懐に忍ばせて来て、猿に握らせてやった。が/老人が一番可愛がるのは、小さな白鼠で、赤い珊瑚のような前足で一つびとつ’飯粒を掴んで食う有様を見ると、素晴しい発見のように喜んだ。鼠癩に罹ったのを見る時は、大抵’貌をしかめて、余りそのほうへは-行かなかった。  宇津は注意深く老人を眺めながら、なんの気もなく行う一つびとつの動作の中にも、言葉の端々にも、過去の生活が決して卑俗なものでなかったに違いないと思われる、品位といったものを発見した。顔の形はもちろん病いのために変っていようが、しかしそこにも犯し難いものが感ぜられた。老人の話では、入院してからもう十年にもなり、入院当時は顔じゅう結節が出て-い、そのうえ醜くふくらんでいたが、今ではすっかり結節も無くなって、以前の健康な頃のように、すっきりとふくらみも去ったということであった。むろん湿性であるから眉毛は全部抜けていたが、かなり慣れている宇津には、決して奇怪な感じを-いだかせは-しなかった。  仕事が終ると、二人は、暗い部屋で向かい合って、ゆっくりお茶を飲んだ。 「わたしは生まれつきお茶がダイの好物でねえ、実際’疲れた時に味わう一杯は捨てられませんよ。」  と、あるかなしの微笑を浮べながら老人はそう言って、本式のお茶の点て方を宇津に教えたりした。  交わるにつれて宇津はこの老人にだんだん深い興味を覚えると同時に、次第に深く尊敬するようになった。そして夕暮近く、静かな足どりで帰って行く老人の後姿を眺めながら、一体’何者であろうかと考えるのだった。彼はまだ老人が何処の病舎にいるのか識らなかったので、ある日それを訊ねて見た。するとその答えが余り意外’であったので驚いてしまった。 「わたしは、十号に居ります。」  老人はそう細い声で言って、暗い顔をしたのだった。十号はこの病院の特殊病棟で、白痴と、瘋癲病者の病棟である。  宇津はかなり注意深く老人を観察するのであるが、何処にも狂人らしいところは見えなかった。それかといって白痴であろうとは、尚更思えなかった。その重々しい口調といい、行為の柔かさといい、到底そういうことは想像することすら不可能であった。それではきっと付添いをしているのであろうと思った。付添いもこの院内の作業の一つで、一日十銭が支給されて、軽症者の手で行われていた。しかし老人は付添いではなく、やっぱし精神病者の一人であった。宇津が試みに、付添いさんもなかなか大変でしょう、と訊いて見ると、老人は、こつこつと自分の頭を叩いて、 「やっぱり、これなんです。」  と言って、寂しそうに顔を曇らせて、黙々と帰って行ったのだった。ではあれでもやはり狂人なのだろうかと、今更のように、その沈んだように落着いた言葉や行為の中に、ある無気味さを感じたのだった。そして初めて老人に会った時の状を想い浮べて、あんな真夜中にああした所を歩き廻っていることにも、何か異常なものを思い当ったのだった。  この老人が陸軍大尉であることを宇津が識ったのは、一ヶ月程過ぎた或る夕暮だった。その日彼は初めて間木老人の部屋を訪ねたのである。  十号は他の病棟とかなり離れていて、この病院の最も北寄りで、すぐ近くに小さな池があった。池というと清らかな水を連想するが、これはどろんと濁った泥沼で、その周囲には八番線程の太さの針金で、頑丈に編まれた金網が張り巡らされてあった。勿論’自殺防禦のためで、以前にはこの泥沼に首を突っ込んで死んだ者も、かなりの数に上るということである。  他の病棟は一棟に二室で、一室に二十のベッドが並んでいるが、十号は中央に長い廊下が貫いていて、両側に五つずつ、10個の部屋があって、ここだけは日本式な畳であった。部屋は六畳で、各二人ずつが這入っているが、狂い出すと監禁室に-いれられた。狂人といっても大抵は強度の恐迫症患者で、他は被害妄想に悩まされている者が多かった。その他にも白痴や癲癇持ちや、極度なヒステリー女など、色々いた。  付添いの手によって綺麗に光っている廊下を、初めて宇津は歩きながら、想像以上にシンと静かな空気に不思議な感を-いだいたが:、何か無気味なものが底に沈んでいるような恐しさをも同時に感じた。だんだん夕暮れて行くあたりの陰影が忍び込んで、そこの空気はぼんやり翳り、長い廊下の彼方に、細まって円錐形に見え、黝く滲んで物の輪郭もぼやけていた。歩く度に空気が、ゆらりと揺れるように思われ、自分の背後から不意に、手負いジシのように狂人がうわっと飛びついて来るのでは-あるまいかと、彼は心配でならなかった。老人の部屋が幾番目にあるのか聞いていなかったので、うろうろと廊下に立って、細目にあいている部屋を、横目でちらりと覗いて見たり:、誰か早く出て-くれば訊ねて見るのだがと、二’三歩行ったり来たりしていると、すぐ右手の部屋から、美しい女の唄声が漏れ聞えて来た。宇津は立停って唄声の美しさに耳を澄ませて、ふうむふうむと感心しながら、ひょっとすると朝鮮女かも知れぬと思った。唄はアリランで、原語のまま巧みに歌って行った。その唄声が病棟内を一ぱいに拡がって行くと、突然’廊下の突き当っている向こう端の部屋の障子があいて、そこから男が一人ふらりと浮き出て来た。誰もいない家へ初めて来て、うろうろする時のマの悪さを感じていた宇津は、ほっと安心すると同時に、白痴か狂人かと神経を緊張させて、その男を眺めた。この病院で制定された棒縞の筒袖を着て/縄のようにナイヨレた帯をしめていた。体重が二十四カンもありそうにぶくぶくと太った男で、丸で空気に流されるようにふらふらと宇津のホウへ近寄って来て、間近まで来ると、ひょいと立停ってぼんやり彼を眺めた。白痴だな、と直覚したが、兎に角’一応’訊ねてみようと思って、 「こんにちは。」  と先ず挨拶をしてみた。すると、対手は、ハアと言ったまま、宇津の頭の上のあたりを眺めている。 「間木さんの部屋は何処でしょうか。」  と訊くと、 「ハア。」  と言って、やっぱり同じ所を眺めているのだった。宇津は苦笑しながら、これは困ったことになったものだと思っていると、対手は小さな、太い体とは正反対の細い女のような声で流行歌の一節を口ずさみ始めた。宇津は思わず微笑’してじっと聞いていると、急に歌をやめて、ぶつぶつ’口の中で何か呟きながら外へ出て行ってしまった。そこへ付添人が来たので、それに訊いてようやく老人の部屋へ這入った。老人は不在だったが、すぐ帰って来るだろうという付添人の言葉だったので、彼は帰りを待つことにした。  部屋は六畳で、間木老人の他に、もう一人居るとのことであったが、その男もいなかった。畳はかなり新しく、まだほのかに青みを持っていたが、所々に破れめや、赤黒く血の滲んだ跡らがあった。壁は白塗りであったが、割れ目や、激しく拳固で撲りつけたらしい跡があった。そのほか爪で引っ掻いた跡や、ものを叩きつけて一部分壁土の脱落した所などもあって、狂人の部屋らしい色彩が感取された。あの温和な老人がこうしたことをやるのだろうかと怪しんでみたが、老人と一緒にいる他の男がやったものであろうと思った。それでは一体どんな男が住んでいるのであろうかと考えると、ちょっとキミがわるくなって来だした。  南側には硝子窓があって、その下に小さな机が一つ置いてあった。机の上には巻紙が一本と、黒みがかって底光りのする立派な硯箱が載せられてあって、しっとりと落着いた感じが宇津の心を捕えた。が、なによりも心を惹いたのは、巻紙と並んで横になっている一葉の写真で、この院内では見られない軍人が、指揮刀を前にして椅子に腰をおろしていた。宇津は激しく好奇心を動かせながら、それを眺めた。ケン章によって大尉であることは直ぐに判った。むろん’老人の若い時のものに相違なかった。きりっとした太い眉毛や、逞しい髯の立派さや、この写真で見る間木氏と、今の老人との隔たりは甚しかったが、それでも、おさな心の想い出をたどるような、ほのかな面輪の類似があった。 「ふうむ。」  と言いながら、宇津は熱心に視つめた。その時彼はふと父を想い出した。彼の父もやはり軍人で、しかも老人と同じ大尉だからで、小さい頃/その父に幾度も日露戦争の実戦談を聞かされたことがあった。そしてひょっとすると間木老人も父と一緒に北満の荒野で戦った勇士では-あるまいかと思われて来た。すると間木老人が宇津という名前を聞いた時、ウツ、ウツ? と言って考え込んだりした様子なども、また新しく心に浮んで来て、これは大変なことになって来たと、宇津は心の中で呟いた。そして自分がいま何か大きな運命的なものの前で、ぽつんと立っているような不安と、新しいことに出会すに違いないという興味とを覚えた。  宇津が次々に心に浮んで来る想念に吾を忘れていると、突然、鈍く激しい物音がどんと響いて、続いてばたばたと廊下を駈け出す足音と共に、 「又やりやがった!」  という叫び声が聞えて来た。すると部屋部屋の硝子戸が、がたがたと開いて四辺が騒然としはじめた。どうしたのかと、宇津は怪しみながら入口を細目にあけて廊下を覗いて見た。彼がここへ這入って初めて会った太い白痴が、仰向けに倒れて、口から夥しいあぶくを吹いて眼をチュウに引きつっていた。それを先刻’廊下を駈け出した男であろう、上からかがまって懸命に押さえつけている。勿論’一目で癲癇だと解った。部屋部屋から飛び出して来た人々は、白痴を取り巻いて口々に何か喋り出した。女が二人と男が五人であったが、どれもこれも-ぎょうそうは奇怪に歪んで、それが狂的な雰囲気のためか/身の毛の立つような怪しい一団を造り上げていた。しかもこれがいつどのように狂い出すか判らない連中ばかりだと思うと、気色が悪くなって来て、これは足許の明るいうちに帰ったほうがよいように思われ出し、立ち上がって一歩’廊下へ踏み出した。するとそのときまた先刻の美しいアリランの唄声が聞えて来た。唄声はそう高くはないが、それでも人々の騒音に消されもしないで、あたり一ぱいに流れていった。この腐爛した世界を少しずつ清めて行くようで、宇津は立ち止ってじっとそれを聞いた。その時急に表が騒々しくなると、狂人であろう、一人の男が底抜けに大きな声で歌のようなものを呶鳴りながら入口に現われた。頭の中央が禿げ上がって/周囲だけにちょびちょびと毛が生えていた。その周囲の毛がホオを伝って顎まで-おりて来ると、そこには見事な、八寸もありそうな鬚が波を打って垂れていた。貌全体がまるで毛だらけであったが、その癖眉毛がまるっきり無いので、ひどく怪しげであった。彼はその禿げわた-った頭を光らせながら、物凄い勢いで廊下を突き進んで来ると、白痴を取り巻いている人々を押し退けて中央に割り込み、とつぜん肝を潰すような太い声で、 「桜井のてんかんめ!」  と呶鳴った。すると、今度はしゃがれた声で、ひどく可笑しそうに笑い出した。一度笑い出すと、止めようとしても止まらないらしく、彼は長いあいだ最初と同じ音程で笑い続けた。が暫くすると、綱でもぷつッと切断するように、ぴたりと笑い止んで、眸を鋭く空間に注ぐと、顔を嶮しく硬直させて、何か考えるふうだったが:、やがてがっくりと首を落し、ひどく神妙そうに/黙々として宇津のいる部屋へ這入って来た。 「君は誰だ。間木くんに用かね!」  神妙な顔つきに似ず/鋭い口調でそう言うと、考え深そうに鬚をしごきながら、どかりと坐った。心臓にうすら寒いものを覚えながら宇津が、 「ハア、待っているのですが。」  と答えてその男を見た。もう六十ニサンにはなるであろう。間木老人と同年、或は三つ四つ下であろう。しかし一本も白髪の混っていない漆黒の顎鬚は実際’見事なものであった。頭の光っている部分はかなり険しく尖っていて、そこに一銭銅貨大の結節の痕があった。そこだけ暗紫色に黒ずんでいて、墨か何かを塗ったようだった。男は暫く宇津を眺めていたが、 「何時、この病院へ来たのかね!」  と訊いた。 「五ヶ月、近くになります。」  と言うと、 「ふうむ。」  と深く何事かを考えていたが、 「形有るものは必ず破る、セイ有るものは必ずめっす、生者必滅は天地大自然のゴウだ。」  と息をつめて鋭く言うと、激しい眼差しで宇津を視つめていたが、急にまた以前と同じ嗄れ声で爆笑し出した。が、すぐまた真面目くさった顔になって、 「抑々癩病と称する病いは、古来より天刑病と称されしもので、天の、刑罰だ! 治らん、絶対に治らん!」  小気味がよいというふうにきっぱり言い切ると、またしても笑い出した。 「現代の医学では治らんというのだ。だが俺は治す。現に治りつつあるのだから仕方があるまい。」  眸を光らせながら、宇津を覗き込んでそう言った。 「どうすれば治りましょうか。」  宇津は、こいつ可哀そうに病気のためにひどく狂っていると思いながら、それでも顎鬚の壮観に何者であろうと好奇心を起しながら試しに訊いてみた。 「先ず、信仰、の二字だ。仏法に帰依するのだ。」  微動だにしまいと思われるほど強い自信をこめてそう言い切ると、それから長い間、驚くべき該博な知識を持って仏教を説いて、君も是非’宗教を持つようにと勧めた。 「それでは、あなたに随って僕もやって見ましょう。」  と言うと、 「それが-いい、それが-いい。」  と幾度も言って、茶器を運んで来ると、買ってから一週間以上も経つであろうと思われる、固く強ばった羊羹を押入れから取り出して、遠慮なく食い給へと言って宇津の前へ抛り出した。そして自らその一つを口に入れてむしゃむしゃと食い始めた。食わぬのもどうかと思われたので、一つ口に入れて見ると、固い羊羹はごりごりと音を立てた。男は満足そうに宇津を見ていたが、急に何かを思いついたように立上がって、押入れから1ポンドほどの金槌を取り出し、早口に経文の一節を唱え出した。可笑しなことをやり出す男だと宇津は怪しみながら見ていると、いそがしげに着物をぬぎ捨て、褌一つになって宇津の前に坐ると、膝小僧を立ててそれをごつんごつんと叩き出した。膝小僧が痛そうにだんだん赤らんで来ると、男は益々’槌に力を加え/一層高く経文を唱えて強く打ち続けた。かなり長いあいだ叩いていたが、それを辞めると、今度は両手で打った跡をうんうん唸りながらもみ始めた。全身にじっとり汗がにじんで来ると、ふうと大きな息を吐いて宇津のほうを眺め、 「君も病気を治したいであろうが、それなら俺のようにやり給え。」  と言って、前よりも力を入れてもんでいたが、現代の科学ほどあてにならんものは無い、医学は癩を斑紋型、神経型、結節型の三つに分割してダイフウシ油の注射をやるが、俺はこの分類に賛成出来ない:、況んや皮膚病として取り扱うなどは噴飯ものだ、抑々癩菌は人体の何処にいるか、医者は入院患者に対して先ず鼻汁と耳朶の血液を採る:、なるほどそこにも一匹くらいはいるかもしれん、が/ほんとは骨の中にいるんだ、骨の中には癩菌が巣を造っている、だから俺はこうして膝小僧を叩くのだ、骨の中でもここが一番多く菌が蝟集しているのだ:、ここには菌が、五つくらいも巣を造っているに相違ない、それが叩くと熱気と激しい震動で菌のやつが泡を食って骨の外側に這い出して来るんだ、するとそこに結節が出来る、金槌で叩くのは結節を造るためだ:、それならどうして自ら痛い目に会ってまで結節を造るか、むろんそれを直ちに除く方法があるが故だ。この病院では結節注射と称してダイフウシ油を結節にうつが、あれは愚の至りだ、注射をすると折角’出ている菌をまたぞろ骨の中へ追い込んでしまうに過ぎんということを誰も気づかないんだ:、結節を除くには注射など零だ、たわしでこするのが一番いい、こすり取ってしまうのだ:、俺の頭を見給へ、結節の痕があるだろう、これは俺の発明したたわし療法でこすり取った痕だ、と口から泡を飛ばしながら言うと、禿げ上った頭をつるりと撫でまわした。宇津は思わず噴き出しながら、しかし同時に心の底に何か不安なものを覚え、反撥して見たい欲求をさえ感じた。自分の中にある医学への信頼が脆くも破れて行きそうに思われた。 「たわしでこするのでは痛くてたまらんでしょう。」  心の中に複雑な葛藤を沈めたまま、微笑’してそう言うと、 「何、麻痺しているから一向感じがないんだ。」  と言って、また例のようにからからと笑い出した。宇津はその麻痺という言葉に突然ぞっと背すじが冷たくなって、早く間木老人が帰ってくれればいいがと思案した。麻痺、と簡単に言ってしまえばそれまでのものであるが、生きた肉体の一部が枯れ木のように感覚を失い、だんだん腐って行く恐しさは、考えれば考えるほど奇妙な、気色の悪い無気味さである。それに人々の話を聞くと、今日は誰が足を一本切ったの、腕をかたほう-外科バに置いて来たのと言い:、しかも切られる本人は、医者が汗を流しながら鋭い鋸でごりごり足をひいているのに、平然と鼻歌のひとくさりも吟じて知らん顔をしているというのである。そしてそれが決して他人事ではなく、直接に自分自身に続いている事実で、そのあいだにあるものはただ時間だけである。この病院に来て以来、人に幾度も慰められたが、その言葉の中には決まって、 「まだまだあんたなんか軽いんですから。」  安心しろと言われたが、このまだまだという言葉程げっそりするものは他になかった。しかしこれが一等適切な正確な言葉なのである。  宇津が暗澹たる気持ちで相手の鬚を眺めていると、狂人は急に立ち上がって、褌一つのまま/憑かれたように室内をぐるぐる廻り出した。どうしたのですかと訊くと、 「気が狂い出して来たんだ。」  と早口に言って、その言葉が終らぬうちに、肝を潰すような大きな声で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呶鳴り出した。これはとんでもないことになって来たと宇津が弱っていると、そこへ運良く間木老人が帰って来たのでほっとした。  老人の話では、この鬚男はもと政党ゴロか何かそのようなことをやっていたらしく:、入院当時はひどい沈黙を守って毎日’仏を拝むことを仕事にしていたが、ゴ六ヶ月過ぎる頃から気分に異状を来したとのことであった。そしてひどく暗い顔になりながら、 「わたしも実は強迫観念に悩まされてこの病室に来ているのですが、あの男も初めはやっぱりそんなふうでした。」  そして鬚は幾度も監禁室に-いれられたことや、癩菌が恰も蛆虫かなんぞのように指で触れ得るもののように思われ、それが絶間なく肉体を腐らせて行くことに怒りと恐怖を覚え:、監禁室の中でも一日に二’三度は暴れだして、壁に体を打ちつけ、全身を掻きむしるのだとも言い、 「実際なんという惨ら-しいことでしょう。敵は自分の体の内部に棲んでいて、どこへでもついて来るのです。それを殺すためには自分も死なねばならぬのです。自分も死なねばならぬのです。」  私もときどき硫酸を頭から浴びて病菌を全滅させたい欲求を覚えます、と宇津は自ら思い当るふしを言おうとしたが:、その時はっと自分も褌一つの鬚と同じ心理をいっていることに気づいて、深い不安を覚えて口を噤んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  宇津が十号を訪ねてから、暫くのあいだ、老人は小屋を訪れて来なかった。宇津は例のように動物達の世話をしながら/老人は一体どうしているのであろうかと、暫く会わない老人を心配したり、こちらからもう一度訪ねてみようかと考えてみたりした。小屋の中はいつものように仄暗く、ニサンニチ前に腹を割かれ、生々しい患者の結節を植えつけられた小猿が、心臓を搾るような悲鳴を発して、それがあたりを益々’陰鬱なものにしていた。そして老人が再びここへ来るまでの間に、一つ、宇津の心に残ったエピソードがあった。  それは十二時近くの夜中のことで、宇津がふと眼をさますと、裏手の監房のあたりから、荒々しい男の怒声と/切なげな女の悲鳴が聞えて来るのだった。それと同時に、監房でもあけているのか、扉の音なども響いて来た。宇津は怪しみながら草履を引っかけると、外へ出て見た。あたりは闇く、高い空を流れる風が、老松の梢にかかって、ざわめく音だけが聞こえた。監房の前には小さな常夜燈が一つ点いていて、そこだけが、塗り込められた闇の中にぼうっと明るく浮き出ていた。その小さな円形の光りの中で、黒い着物を着て/鷹のように全身保護色している男が、二人がかりで若い女を、引きずるようにして監房の中へ押し込んでいた。黒い男は、この院内の患者を絶えず監視している監督である。宇津は息をひそめながら、松の陰に身をしのばせて、幻想的な映画のスクリーンを見るように、しんしんたる興味をもって熱心に眺めた。争っているのであろう、女の派手な着物の縞目が、時々はたはたと翻って、それが夜目にもはっきり見えた。が/間もなく女は監房の内部へ消えて、厚い扉が、図太く入口を覆ってしまった。黒い男は顔を見合わせて互いにニヤリと笑うふうだったが、それもそのまま闇の中に消え去って、もうあたりは以前の-せいじゃくに復って、厚い扉だけが、暗い光りの下に肩を張っていた。宇津は松の横から出ると、監房のホウへ近寄って行った。女が、ひいひい泣く声が、低く強く流れ出て来た。彼は扉の前に立って、暫く内部の泣き声を聞いていたが、だんだん女に声をかけて見たくなって来だした。どうせ駆落ちし損った片割れだろうと思ったが、この場合なんと言ったらいいのか、適当な言葉がなかなか浮かんで来なかったので、帰ろうと思ってそろそろ歩き出すと、 「おい!」  という男の声が房内から飛び出て来たのでひどく吃驚して立止った。さては男のほうはもう’先に這入っていたのかと思いながら、何か自分に言伝てでもあるのかと鋭く神経を沈めて、危うく返事をしようとすると:、急に女の泣き声がぱったりと止んで、それからホソボソと語り合っているらしい男女の声が洩れて来た。そのとき人の足音がこつりこつりと聞えて来たので、さては監督があたりを警戒しているのだなと、感づいたので、彼は急いでコヤへ帰った。  このヒトクミの逃走未遂者のうち、男のほうはすぐその翌日’退院処分を食って追放されたが、女は五日間’監房の中で暮して出された。が/数日過ぎると、女の体は松の枝にぶら下って死んでいた。恐らくは胎内に子供でも宿っていたのであろう。  この小さな事件は、宇津の心に、悪夢のような印象を残した。彼は相変らず動物達と暮しながら、時々あの小さな光りの円形の中で行われたことが、はっきり心に蘇って、苦しめられた。その度に、不安とも恐怖ともつかない真っ暗いものが、ひたひたと心を襲って来るのを感じた。彼はあの時、自分でも驚くほど冷静だったのに、どうしてこうあとになって強く心を脅すのか不思議に思われてならなかった。これはもはやイッ生涯心の斑点となって残るのでは-あるまいかと思ったりすると、自然心が鬱いで行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第5章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  モルモットは一箱に一匹ずつ這入っていて、兎の箱と向かい合って積み重ねられてあった。そのあいだはちょっと谷間のように細まり、幅は三尺くらいしかなかった。宇津はその仄暗い間を、幾度も行ったり来たりして、彼等に食餌を与えていった。動物達は待ちかねたように飛びついて食った。宇津はその旺盛な食慾にもさほどの興味も覚えなかった。赤い兎の眼が光線の工合でときどき鋭くキラリと光った。モルモットの眼は、僅かな光りの変化にも、眺める角度の些細な動きによっても、激しい色彩の変化を示した。実際モルモットの眼の色の変化の複雑さには宇津も、もう以前から驚かされていた。透き通るような空色にも、水々しいブドウ色にも、無気味な暗紫色にも、その他一切の色彩に変化して眼に映った。しかしそれが生物のためか、自然色の美しさではなく、どこか底気味の悪い鋭さがあった。宇津は時々そのガンショクに全身を射竦められてしまうような深い恐怖を覚え、自分の全身が獰悪な猛獣に取り巻かれているような気がしだして、息をつめて急いで外へ出ることがあった。彼にはどうしても動物達と馴れ親しむということが出来なかった。先日も子猿が、宇津の知らぬマに誰かが投げ込んだものであろう細い縄切れを、足首に巻きつけてキャッキャッと騒ぐので、取ってやろうと箱の前にしゃがむと:、猿は不意に金網の間から腕を出して、宇津の長い頭髪をぐいと掴んだ。彼は危うく悲鳴を発するほど驚いて飛び退いたが、心臓が永いあいだ激しく鼓動した。今日も幾度も行ったり来たりしているうちに、また恐怖が全身に満ちて来だして、ずっと前に見た猛獣映画の光景などが心に浮かび上がって来るので、急いで外へ出た。が”またすぐ中へ這入って行った。自分はもういつ死んでもいい人間なんだと強く思ったからだった。それならいっそ今死んだらどうだろう、何気なくそう思って上を仰ぐと、綱を掛けるに手頃の梁が見えるので、彼は兎の箱の上へ這い上がって手を伸ばして見た。心が変に楽しみに脹らんで来て、彼はニヤリニヤリと笑った。それからそろそろ帯を解くと、梁に掛けた。二’三度’試しに引いて見たが、十人が一度に首をくくっても大丈夫’確かなものだった。これに首を結わえて飛び降りさえすれば‥‥:ふうむ、死なんて案外わけなくやれるものなんだな、それではそんなに命を持て余さなくてもいいんだ、ここまで来て自分は平気なのだからもう何時でも死ねるに違いない:、と思って安心すると、それならそんなに急いで死ぬ必要もないと思ったので、彼はまた帯を締めると、したへ降りた。その途端に、 「宇津さん。」  と呼ぶ間木老人の声が聞こえたので、急いで外へ出ると、 「ほんとにやるのかと思いましたよ。」  と老人は軽い微笑を浮べながら言うので、ではすっかり見られたな、と思いながら、 「いや、ちょっと試しにやって見たんです。」 「ハハハ、そうですか試しにね。どうです、行けそうですか。」 「案外たやすく行けるんじゃないか、という気がします。」 「ふうむ。」  と深く頷くと、何かに考え耽っていたが、 「あなたはどうして生きて行こうと思っていますか。」  と不意に鋭く、宇津の顔を視つめながら言った。こういう時、老人の過去の軍人的な面影がちらりと見えた。宇津はそれを素早く感じながら、どう答えたらいいのかに迷った。もうかなり以前から、考え続けている問題だった。彼は自分の感覚の鋭敏さは、対象の中からこの問題を解決する何ものかを見つけ出そうとする結果で:、そして感覚が鋭敏になればなる程、対象と自分との間は切迫して、緊張し、恰も両はし-を結んで張り渡された一本の線の上に止っている物体のように、ちょっとゆるめれば/どうと墜落する間髪に危うく身を支えているのだと思った。 「もう長いあいだ探しているのですが、僕には生きる態度というものが見つかりません。」  老人は深く頷いて、また長いあいだ考え込んでいたが、やがてそろそろ宇津の部屋に這入って行き、 「お茶でも味わして下さい。」  と静かな、いくぶん淋しげな声で言って、坐った。ひどく疲れているようであった。  勿論ここでは本式のお茶など点てらるべくもなかったが、それでも宇津は、湯加減や濃度によく気をつけて老人に奨めた。老人はちょっと舌の先にお茶をつけて、何か考え耽りながら味わっていたが、 「桜井が死にましたよ。」  と言った。 「ヘエエ、あの癲癇持ちの人ですか。」 「わたしの部屋にいる鬚を知っているでしょう。あれと喧嘩をしましてね。腹立ちまぎれに井戸へ飛び込んだのです。」  いつの時も二人の話は途切れがちで、無言のまま互に別々のことを考えながら向かい合って坐っていることが多かったが:、今日もそこまで言うと、途切れてしまって、老人は窓外に眼をやって、林の中をちょこちょこ歩いたり/急に駈け出したりして戯れている仔犬を眺めていた。が/暫くすると、宇津の額をじっと視つめながら、 「変なことを訊くようですが、お父さんは御健在ですか。」 「ハア。」  と答えると、 「いつか一度お訊ねしたいと思っていたのですが、もしかしたらあなたのお父さんは日露戦争においでになられた方で、お名前は、彦三郎さんと言われはしませんか。」 「ハア、そうです。どうして御存じですか。」 「ふうむ。」  老人は唸るようにそう言うと、宇津の顔を熱心に視つめ出した。 「そっくりだ。そのヒタイが、そっくりです。」  宇津は何か運命的な深いものに激しく心を打たれながら、まだヒタイだけは病気に浸潤されていないことを思うと、急に額がかゆくなって来て、手を挙げると、老人は益々ふうむふうむと感嘆して、 「その手つき、その手つき。もう何もかも、そっくりだ。」 「父を御存じなんですか。」 「知っているどころか、日露戦争の時には、同じ乃木軍に属していた、親友でしたよ。」  老人は遠い過去を思い浮べているらしかった。宇津はもうどう言っていいのか、言葉が出なかった。 「あの頃は、わたしも元気でしたよ。元気一ぱいで、御国の為に働きました。ちょうど奉天の激戦の時で、物凄い旋風が吹きまくっていました。その中を、風のために呼吸を奪われながら、昼夜の別なく最左翼へ/わたし達の旅団は強行軍を行ったのです。敵軍の本国との連絡を断つ為でした。その行軍の眼にも止まらぬ早業が、あの戦さの勝因だったのです。けれどクロパトキンという敵の将軍も偉いやつでしたよ。あのクロパトキンの逆襲の激しさには実際’弱らされましたよ。わたしはそのために、とうとう、情ない話ですが、俘虜になってしまったんです。そのとき俘虜になった日本人が、千二百名もいました。少佐大佐なども数人やられました。」  老人はお茶を啜って、輝かせた瞳を曇らせながら、 「それからの八ヶ月間というものは、ロシヤの本国で俘虜生活を続けました。勿論そんなに苦しい生活ではありませんでしたが、本国へ送られるまでの長いあいだの生活は、実際例えようもない程、くるしいものでした。自殺をする者もかなりいました。それから重傷を受けた者、片手を奪われたもの、あの野戦病院から鉄嶺に送られた時は、地獄でしたよ。その時は夢中でよく覚えがありませんが、今から考えて見ると、地面に掘った深い洞窟のような所へわたし達は-いれられたのですが、そこで重傷者は大部分死に、本国まで行った時は、もう半分くらいの人数でした。」  老人は長い間、ロシヤでの俘虜生活を語って、宇津には背中の砲弾の痕を見せたりした。疵痕は三寸くらいの長さで、幅は一寸’内外であろう、もちろん普通一般の疵と変わりはなかったが、宇津は興味ブカくそれを眺めた。かなり深い負傷であったらしく、そこだけがゴブほども低まっていた。 「どんな色をしていますか。」  と老人は背後の宇津に訊いた。 「そうですね、色は健康な人の皮膚の色と大差ありませんが、皺が寄っています。」  と言うと、 「そうですか。」  と老人は、癩の疵でないことを示し得たことに幾分の喜びを感じたのであろう、満足そうに顔を晴れ晴れさせて、 「この病気の発病後に出来た疵は、どんなに治っても暗紫色をしているものなのです。」  と言って、老人は冷たくなったお茶をごくりと飲み、宇津が熱いのを再び-つぐと、老人はそれをちょっと舌の先につけて下に置き、深く何ごとかを考えるふうだったが、深い溜息をつくと、 「本当に、わたしは人間の運命というものを考えると、生きていることが恐しくなって来ます。」  と弱々しく言って、 「みんな夢でした。それも、悪い夢ばかりでしたよ。」  と続けて言って、かすかな微笑を浮べた。そしていつになくそこへ横わると、長々と足を伸ばして、 「あなたは人を信ずる、ということが出来ますか。わたしはもう誰も信ずることが出来ません。いや本当に信じ合うことが出来たとしても、きっと運命はそれを毀してしまいますよ。不敵な運命がねえ。あなたのお父さんとの場合もそうでした。生涯’交わろうと約束したのでしたが、私のほうから遂にその誓いを破らねばならなかったのです。わたしは苦しみましたよ。けれどわたしは、俘虜になったり、遂には癩病にまでなってしまったのですからねえ。とうとうわたしはここへ一人きりで隠れてしまったのです。ところがまたしても運命です。わたしの娘がこの病気になって、この病院へ来たのです。それからは、この娘だけを信じて、わたしのすべてはこの娘と共にするという覚悟で暮して来たのです。娘は今年で三十に余るのですが、それも生涯’独身で暮す覚悟だとわたしに誓いました。だのに、その’娘にも裏切られてしまったのです。」  宇津は悪夢のように思われる先日の光景を鮮明に心にえがいて、運命に打ち砕かれた老人の切なげな声を聞いた。いうまでもなく老人の娘はニサンニチ前に自殺した女である。この病院へは、親子兄妹で来ているものがかなりあることは宇津も知っていたが、いま目のあたり老人を見て、その苦悶が一様のものでないことを、強く感じた。途端に、大きな運命の力の前に弱々しくうなだれて行こうとしている自分の姿を感じて、ぐっと胸を拡げて反抗しようとしたが、宇津は自分に足場のないことを、このとき切実に感じた。  その翌日’老人は娘の死んだ松の枝で、同じように首をくくって死んだ。宇津は老人の死体を眺めながら、この時こそ安心し切っている老人の顔かたちに、死だけが老人にとって幸福だったのだろうと考えて:、苦悶を浮べていない死に顔に何か美しいものを感じたりしたが、自分の貌がだんだん青ざめて行って、いま自分が大きな危機の前に立っていることを自覚しつつ/深い溜息を-ついた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「テイホン◇ 北條民雄全集◇ 上巻」東京創元社】 【   1980(昭和55)年10月ハツカ初版】 【ショシュツ:「文学界」】 【   1935(昭和10)年11月号】 【◇テイホンは、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5の86)を、大振りにつくっています。】 【◇ショシュツ時の署名は「十條’號一」です。】 【入力:Nana /ohbe】 【校正:富田晶子】 【2017年1月12日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”///www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。