◇。◇。◇。◇。◇。 【武蔵野】 【国木田独歩】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原《小手指ヶ原》久米川は古戦場なり《り:》太平記元弘三|年五月《=ネンゴガツ》十一日源平|小手指原《小手指ヶ原》にて戦うこと一日がうちに三十余たび《び:》日暮れは平家三里退《平家’三里ひ》きて久米川に陣を取る明《/明く》れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処《ところ》とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画《絵》や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は|詳わ《詳》しくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。  さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易《ヨウイ》でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。  それで今、すこしく端緒《+タンチョ》をここに開《=ひら》いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果《果た》したい。まず自分がかの問に下すべき答《答え》は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語《イチ語》である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美《ビ》であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美《ビ》といわんよりむしろ詩趣といいたい、そのほうが適切と思われる。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種《タネ》にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。 ◇。◇。  九月七日──「《:「》昨日も今日も南風強《南風つよ》く吹《-ふ》き雲《/雲》を送りつ雲を払《=ハラ》いつ、雨降《雨’降》りみ降らずみ、日光雲間《日光’雲間》をも《洩》るるとき林影一時《/りんえい一時’》に煌めく、──」 ◇。◇。  これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低《空’低》くしきりに雨を送るその晴間には日《ヒ》の光|水気《+スイキ》を帯《=お》びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日《=ヒ》に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強《風つよ》く秋声野《秋声’ヤ》にみ《満》つ、浮雲変幻《+フウン変幻》たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野《=の》との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色|風《=カゼ》の音《’音》は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。  まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。 ◇。◇。  九月十九日──「《:「》朝、空曇《空’曇》り風死す、冷霧寒露《レイム寒露》、虫声《チュウセイ》しげし、天地の心《心/》なお目《メ》さめぬがごとし」  同二十一日──「《:「》秋天拭《秋天’拭》うがごとし、木葉火《木葉’火》のごとくかがやく」  十月十九日──「《:「》月明《月あか》らかに林影黒《リンエイくろ》し」  同二十五日──「《:「》朝は霧深く、午後は晴る、夜に入《い》りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧《/霧》の晴れぬ間《マ》に家を出《い》で野《/野》を歩み林を訪《おとな》う」  同二十六日──「《:「》午後林《午後’林》を訪《おとな》う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」  十一月四日──「《:「》天高く気澄《気す》む、夕暮に独り風吹く野《=の》に立てば、天外の富士近く、国境《-くにざかい》をめぐる連山地平線上《連山’地平線上》に黒《-くろ》し。星光一点《星光’一点》、暮色ようやく到り、林影《リンエイ》ようやく遠し」  同十八日──「《:「》月を蹈《+踏》んで散歩す、青煙地《青煙’地》を這い月光林《/月光’林》に砕く」  同十九日──「天晴《あっぱ》れ、風清く、露冷《露冷や》やかなり。満目黄葉の中緑樹《中/緑樹》を雑《+まじ》ゆ。小鳥梢《小鳥’梢》に囀《+テン》ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟《黙思コウギン》し、足《アシ》にまかせて近郊をめぐる」  同二十二日──「《:「》夜更けぬ、戸外は林をわたる風声《フウセイ》ものすごし。滴声《テキセイ》しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」  同二十三日──「《:「》昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯《冬枯れ》の淋しき様《さま》となりぬ」  同二十四日──「《:「》木葉いまだまったく落ちず。遠山《エンザン》を望めば、心も消え入《=い》らんばかり懐し」  同二十六日──夜十時記《夜十時’記》す「屋外は風雨の声|ものすご《’物凄》し。滴声相応《テキセイあい応》ず。今日《=キョウ》は終日霧たちこめて野《=の》や林や永久《+トコシエ》の夢に入《い》りたらんごとく。午後犬を伴《-ともの》うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林《水流’林》より出《=い》でて林に入る、落葉《落ち葉》を浮かべて流《-なが》る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉《落ち葉》の上をわたりゆく音静かなり」  同二十七日──「《:「》昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白《富士山まし》ろに連山の上《=ウエ》に聳《-そび》ゆ。風清く気澄《気す》めり。  げに初冬の朝なるかな。  田面《田づら》に水あふれ、林影倒《リンエイ逆しま》に映れり」  十二月二日──「《:「》今朝霜《今朝’霜》、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒《日光’寒》し」  同二十二日──「《:「》雪初めて降る」  三十年一月十三日──「《:「》夜更けぬ。風死し林黙《林もく》す。雪しきりに降る。燈《明かり》をかかげて戸外をうかがう、降雪火影《降雪’火影》にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙《武蔵野’沈黙’》す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風《=カゼ》の音《’音》す、はたして風声《フウセイ》か」  同十四日──「《:「》今朝大雪、葡萄棚堕《葡萄ダナ堕》ちぬ。  夜更けぬ。梢をわたる風《=カゼ》の音《’音》遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒《テキセイ/ノキ》をめぐる」  同二十日──「《:「》美しき朝。空《=ソラ》は片雲なく、地《=チ》は霜柱白銀《霜柱’白銀》のごとくきらめく。小鳥梢《小鳥’梢》に囀《+テン》ず。梢頭針《梢頭’針》のごとし」  二月八日──「《:「》梅咲《梅さ》きぬ。月ようやく美《ビ》なり」  三月十三日──「《:「》夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」  同二十一日──「《:「》夜十一時。屋外の風声《フウセイ》をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁れし」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  昔の武蔵野は萱原のは《果》てなき光景をもって絶類の美《=ビ》を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類いで冬はことごとく落葉《落葉’》し、春は滴るばかりの新緑萌え出《-い》ずるその変化が秩父嶺以東十数里《秩父ネ以東十スウリ》の野《=の》いっせいに行なわれて、《:、》春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風《=カゼ》に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉《コウヨウ》に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者《=モノ》には解《=カイ》しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林《落ち葉バヤシ》の美《=ビ》をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林《=マツバヤシ》のみが日本の文学美術の上《=ウエ》に認められていて、歌にも楢林《ナラバヤシ》の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生《時’学生》として初めて東京に上《#のぼ》ってから十年になるが、かかる落葉林《落ち葉バヤシ》の美を解《カイ》するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。 ◇。◇。 「秋九月中旬《秋’九月中旬》というころ、一日自分が樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降《=ふ》り|そそ《注》ぎ、その晴れ間《=マ》にはおりおり|生ま暖《生暖》かな日かげも射《-さ》してまことに気まぐれな空合い。あわあわしい白《+し》ら雲が空《+そ》ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬《=またた》く間《マ》雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《+賢》し気《+げ》にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空《青空》がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉《葉’》が頭上でかすかに戦《-おのの》いだが、その音《’音》を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話《=ハナ》し声《=ゴエ》でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、《:、》ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語《+囁き》の声であった。そよ吹く風《カゼ》は忍ぶように木末《+梢》を伝ッ《っ》た、照ると曇るとで雨にじめつく林《’林》の中のようすが間断なく移り変わッた、《:、》あるいはそこにありとある物《=モノ》すべて一時《イチジ》に微笑《微笑’》したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹《=シラギヌ》めく、やさしい光沢を帯《=お》び、地上に散り布いた、《:、》細かな落ち葉はにわかに日《=ヒ》に映じてまばゆきまでに金色《=キンイロ》を放《=ハナ》ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨の類い)のみごとな茎、《:、》しかも熟《+つ》えすぎた葡萄めく色を帯《=お》びたのが、際限もなく|もつ《縺》れ|から《絡》みつして目前に透かして見られた。  あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬《=またた》く間《マ》に物《=モノ》のあいろも見えなくなり、樺の|木立ち《’木立》も、降《=ふ》り積ッ《っ》たままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む──《─:》と小雨が忍《偲》びやかに、怪し気《げ》に、私語《=シゴ》するようにバラバラと降ッ《っ》て通ッ《っ》た。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪めてもさすがになお青かッ《っ》た、がただそちこちに立つ稚木《若木》のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、《:、》おりおり日の光りが今ま雨に濡れたばかりの細枝の繁みを漏れて滑りながらに脱《=ぬ》けてくるのをあびては、キラキラときらめいた」 ◇。◇。  すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭にある一節《=イッセツ》であって、自分がかかる落葉林《落ち葉バヤシ》の趣きを解《カイ》するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林《落ち葉バヤシ》の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類いでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさ《-さ》まで珍重するに足らないだろうと。  楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉《=ラクヨウ》する。時雨が私語《+囁》く。凩が叫ぶ。一陣の風小高《風’小高》い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群《群れ》かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林《’林》が一時《イチジ》に裸体《+裸》になって、蒼《青》ずんだ冬の空が高くこの上《=ウエ》に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮《鮮や》かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適っているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。  鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声《コエ》。叢の蔭、林の奥にすだく虫の音《=ね》。空車《+カラグルマ》荷車の林を廻り、坂《サカ》を下《=お》り、野路を横ぎる響。蹄で落葉《落ち葉》を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者《=モノ》のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道《=ミチ》をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音《+筒音》。自分が一度犬《一度’犬》をつれ、近処《近所》の林を訪《おとな》い、切株に腰をかけて書《+本》を読んでいると、突然林《突然’林》の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥《+寝》ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹《+栗の木》もずいぶん多いから。  もしそれ時雨の音に至ってはこれほど幽寂のものはない。山家《=ヤマガ》の時雨は我国《我が国》でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜を越え、田を横ぎり、また林を越えて、《:、》しのびやかに通り過《+ゆ》く時雨の音のいかにも幽《+静》かで、また鷹揚な趣きがあって、優しく懐《+ゆか》しいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林《シンリン》で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代《=かわ》り、武蔵野の時雨のさらに人なつかしく、私語《+囁》くがごとき趣はない。  秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ヶ谷、または小金井の奥の林を訪《おとの》うて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風《葉’風》なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、《:、》自然の静蕭を感じ、エタルニテー(永遠)の呼吸身《呼吸’身》に迫るを覚《おぼ》ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干《星斗’闌干》たる時《とき》、星《=ホシ》をも吹き落としそうな野分がすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風《=カゼ》の音《’音》は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄い風《’風》の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。  熊谷《=クマガイ》直好の和歌に、 ◇。◇。 【よもすか《が》ら木葉《/木葉》かたよる音《/音》きけは《ば》】 【   しのひ《び》に風《=カゼ》のか《/か》よふなりけり】 ◇。◇。  というがあれど、自分は山家《=ヤマガ》の生活を知っていながら、この歌の心をげにもと感じたのは、じつに武蔵野の冬の村居の時であった。  林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風《=カゼ》に動く葉末葉末に砕け、その美しさい《言》い|つく《尽》されず。日光とか碓氷とか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原《平原’》の林が隈なく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放《=ハナ》つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原《平原’》の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろかろう。林が尽きると野《=の》に出る。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  十月二十五日の記に、野《=の》を歩み林を訪《おとな》うと書き、また十一月四日の記には、夕暮に独り風吹く野《=の》に立てばと書いてある。そこで自分は今一度ツルゲーネフを引く。 ◇。◇。 「自分はたちどまった、花束を拾い上げた、そして林を去ッ《っ》て|のら《野良》へ出た。日は青々とした空《#ソラ》に低く漂ッ《っ》て、射す影も蒼《青》ざめて冷やかになり、照るとはなくただジミな水色のぼかしを見るように四方《シホウ》に充ちわたった。日没にはまだ半時間もあろうに、モウゆうやけがほの赤く天末《天マツ》を染めだした。黄いろく|から《乾》びた刈株をわたッて烈しく吹きつける野分に催されて、そりかえッた細かな落ち葉があわただしく起き上がり、林に沿うた往来を横ぎって、自分の側《ソバ》を駈け通ッ《っ》た、《:、》|のら《野良》に向かッて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたように煌きはしないがちらついていた。また枯れ草、莠、藁の嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛の巣は風《=カゼ》に吹き靡かされて波たッていた。  自分はたちどまった‥‥心細くなってきた、眼に遮る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気《げ》もおかし気《げ》もなく、さびれは《果》てたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心《ショウシン》な鴉が重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回《+巡》らして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上がッて、声をちぎるように啼きわたりながら、林の向《向こ》うへかくれてしまッた。鳩が幾羽《幾ワ》ともなく群《群れ》をなして勢いこんで穀倉《コクグラ》のほうから飛んできた、が|フト《-ふと》柱を建てたように舞い昇ッ《っ》て、さてパッといっせいに野面《野づら》に散ッ《っ》た──アア秋だ! 誰だか禿山の向《向こ》うを通るとみえて、|から車《カラグルマ》の音が虚空に響きわたッた‥‥」《:」》 ◇。◇。  これはロシアの野《=の》であるが、我武蔵野《我が武蔵野》の野《=の》の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏《高低起伏’》している。それも外見には一面の平原《ヘイゲン》のようで、むしろ高台《タカダイ》のところどころが低く窪んで小さな浅い谷《=タニ》をなしているといったほうが適当であろう。この谷《=タニ》の底はたいがい水田である。畑《ハタケ》はおもに高台《タカダイ》にある、高台《タカダイ》は林と畑とでさまざまの区劃をなしている。畑《ハタケ》はすなわち野《=の》である。されば林とても数里《スウり》にわたるものなく否《/否》、おそらく一里にわたるものもあるまい、《:、》畑《=ハタケ》とても一眸|数里《スウり》に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃《+イッケイ》の畑の三方《3方》は林、というような具合で、農家がその間《あいだ》に散在してさらにこれを分割している。すなわち野《=の》やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、たちまち林《’林》に入るかと思えば、たちまち野《=の》に出るというような風《ふう》である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野《ダイ原野’》大森林とは異なっていて、その趣も特異である。  稲の熟するころとなると、谷々の水田が黄ばんでくる。稲が刈り取られて林の影が倒《+逆》さに田面《田づら》に映るころとなると、大根畑の盛《さか》りで、大根がそろそろ抜かれて、あちらこちらの水溜《+水た》めまたは小さな流れのほとりで洗われるようになると、野《=の》は麦の新芽で青々となってくる。あるいは麦畑の一端《-いったん》、野原のままで残り、尾花野菊《尾花’野菊》が風《=カゼ》に吹かれている。萱原の一端《-いったん》が|しだい《次第》に高まって、そのは《果》てが天ぎわをかぎっていて、《:、》そこへ爪先あがりに登ってみると、林の絶え間《=マ》を国境《-くにざかい》に連なる秩父の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ってはまた地平線下《地平線カ》に没しているようにもみえる。さてこれよりまた畑《ハタケ》のほうへ下るべきか。あるいは畑《ハタケ》のかなたの萱原に身を横たえ、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避《-さ》けながら、南の空《=ソラ》をめぐる日の微温き光に顔《=カオ》をさらして畑の横の林が風《=カゼ》にざわつき煌き輝くのを眺《ナガ》むべきか。あるいはまたただちにかの林へとゆく路《-みち》をすすむべきか。自分は《は-》かくためらったことがしばしばある。自分は困ったか否《/いな》、けっして困らない。自分は武蔵野を縦横《ジュウオウ》に通じている路《-みち》は、どれを撰《+選》んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  自分の朋友がかつてその郷里から寄せた手紙の中に「《:「》この間《=あいだ》も一人《ひとり》夕方に萱原を歩みて考え申候《申し候う》、《:、》この野《=の》の中に縦横《ジュウオウ》に通ぜる十数の径《道》の上を何百年の昔よりこのかた朝《/朝》の露さやけしといいては出《=い》で夕《/夕べ》の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人《/何百人》のあわれ知る人や逍遥しつらん相悪《:相悪》む人は相避《相さ》けて異《=こと》なる道《=ミチ》をへだたりていき相愛《-あい愛》する人は相合《相合い》して同じ道《=ミチ》を手に手とりつつかえりつらん」との一節《=イッセツ》があった。野原の径《小道》を歩みてはかかるいみじき想いも起こるならんが、武蔵野の路《=ミチ》はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避《相さ》けんとて歩むも林の回り角《カド》で突然《突然’》出逢うことがあろう。されば路《道》という路《-みち》、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野《=の》を横ぎり、真直《+真っ直ぐ》なること鉄道線路のごときかと思えば、《:、》東よりすすみてまた東にかえるような迂回の路《=ミチ》もあり、林にかくれ、谷《=タニ》にかくれ、野《=ノ》に現われ、また林にかくれ、野原の路《=ミチ》のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径《小道》の想いにもまして、武蔵野の路《=ミチ》にはいみじき実《ジツ》がある。  武蔵野に散歩する人は、道《みち》に迷うことを苦にしてはならない。どの路《道》でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美《ビ》はただその縦横《ジュウオウ》に通ずる数千条の路《道》を当《当て》もなく歩くことによって始めて獲《+え》られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕《=ユウ》、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路《道》をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処《ところ》がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野《=の》とがかくもよく入《=い》り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処《ところ》がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路《=ミチ》のあるのはこのゆえである。  されば君もし、一《=イチ》の小径《小道》を往き、たちまち三条に分かるる処《ところ》に出たなら困るに及ばない、君《キミ》の杖を立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路《道》が君《=キミ》を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小《-しょう》なる路《道》を撰《+選》んでみたまえ。あるいはその路《道》が君《=キミ》を妙な処《ところ》に導く。これは林の奥の古い墓地で苔むす墓が四《#よ》つ五つ並んでその前にすこしばかりの空地《空き地》があって、その横のほうに女郎花など咲いていることもあろう。頭の上の梢で小鳥が鳴いていたら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路《=ミチ》を進んでみたまえ。たちまち林《’林》が尽きて君《=キミ》の前に見わたしの広い野《=の》が開《ひら》ける。足元からすこしだらだら下がりになり萱《/萱》が一面に生え、尾花の末が日《ヒ》に光っている、《:、》萱原の|先き《先》が畑《=ハタケ》で、畑《ハタケ》の先に背の低い林が一叢《-ひとむら》繁り、その林の上《=ウエ》に遠い杉の小杜《=コモリ》が見え、地平線の上に淡々《=あわあわ》しい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間《あいだ》にすこしずつ見える。十月小春《十月’小春》の日《=ヒ》の光|のどか《’長閑》に照り、小気味《=コギミ》よい風《=カゼ》がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下《お》りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷《=タニ》の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間《=あいだ》に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮《=鮮や》かに映している。水のほとりには枯蘆がすこしばかり生えている。この池のほとりの径《道》をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君《キミ》はかならず坂《サカ》をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処《ところ》と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。  もし君《キミ》、何《=なに》かの必要で道を尋ねたく思わば、畑《=ハタケ》の真中《真ん中》にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上《40以上》の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女《+乙女》であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽を取って慇懃に問いたまえ。鷹揚に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。  教えられた道をゆくと、道《=ミチ》がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道《=ミチ》はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然《突然’》農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外《=ソト》に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路だなと君《=キミ》は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解るだろう。  真直《+真っ直ぐ》な路《=ミチ》で両側とも十分《充分》に黄葉した林が四五丁《シ五丁》も続く処《ところ》に出ることがある。この路《道》を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮《夕照’鮮や》かにかがやいている。おりおり落葉《-らくよう》の音が聞こえるばかり、あたりは《は-》しんとしていかにも淋《=さみ》しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇わず。もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路《=ミチ》は落葉《落ち葉》に埋《-うも》れて、一足《ひと足》ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針のごとく細く蒼空《青空》を指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋《=さみ》しい。落葉《落ち葉》をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。  同じ路《道》を引きかえして帰るは愚である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路《-みち》を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀《=シロガネ》の鎖のような雪が|しだい《次第》に遠く北に走って、終は暗憺たる雲のうちに没してしまう。  日が落ちる、野《=の》は風《=カゼ》が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路《=ミチ》をいそぎたまえ、《:、》顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放《=ハナ》っているのを見る。風《=カゼ》が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野《=の》に出る。君《キミ》はその時、  ◇。◇。 【山は暮れ野《/野》は黄昏の薄《/ススキ》かな】 ◇。◇。  の名句を思いだすだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中《=シチュウ》の寓居を出《=い》でて三崎町の停車場《停車じょう-》から境まで乗り、そこで下《-お》りて北へ真直《+真っ直ぐ》に四五丁《シ五丁》ゆくと桜橋という小さな橋がある、《:、》それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、《-》「今時分、|何に《何》しに来ただア」と問うたことがあった。  自分は友と顔見あわせて笑って、《-》「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、《-》「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話《#ハナ》してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語《イチ語》で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜《+真桑瓜》を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出《い》でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草《アオクサ》の間《=あいだ》を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿《+潤》おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗うようであった。  茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上《みなかみ》のほうへとのぼり初めた。ああその日《=ヒ》の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛《さか》りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日《=ヒ》の光を知らぬ人の話である。  空《=ソラ》は蒸暑い雲が湧きいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間《=あいだ》の底に蒼空《青空》が現われ、《:、》雲の蒼空《青空》に接する処《ところ》は白銀《=シロガネ》の色とも雪の色とも譬えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々《=あわあわ》しい色を帯《=お》びている、そこで蒼空《青空》が一段と奥深《奥ふか》く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間《=あいだ》をかき乱して、すべての空《#ソラ》の模様を動揺、参差、任放、錯雑のありさまとなし、《:、》雲を劈く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方《あっちこっち》に交叉して、不羈奔逸の気《=き》がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉《=クサバ》の末に至るまでが、光と熱《ネツ》とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間《あいだ》から広い野《=の》が見える、野良一面、糸遊上騰《=イトユウジョウトウ》して永くは見つめていられない。  自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空《=ソラ》、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘ぎ喘ぎ辿ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。  長堤三里《長堤サンリ》の間《あいだ》、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪の間《=あいだ》から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そして|あくび《欠伸》をして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏が時をつくる、それが米倉《コメグラ》の壁や杉の森や林や藪に籠って、ほがらかに聞こえる。堤の上《=ウエ》にも家鶏の群《群れ》が幾組《イククミ》となく桜の陰《蔭》などに遊んでいる。水上《みなかみ》を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋《=ハシ》の上《=ウエ》に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上《みなかみ》が突然《突然’》薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬《=またた》く間《マ》に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上《#ミナカミ》がまばゆく煌いてきて、両側《両側’》の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草《春’草》のように鮮《鮮や》かに緑の光を放《=ハナ》ってくる。橋《=ハシ》の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸《=リョウギシ》に激《激’》して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量《+水嵩》があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉みあって、みずから音を発するのである。何たる人|なつ《懐》かしい音だろう! ◇。◇。 【“《-》──|Let《レット》 |us《アス》 match】 【This water's pleasant tune】 【With some old Border song,《-》 or catch,】 【That suits a summer's noon.”】 ◇。◇。  の句も思いだされて、七十二歳の翁《=オキナ》と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと|見廻わ《見回》したくなる。自分はこの流れの両側《=リョウガワ》に散点する農家の者を幸福《+シヤワセ》の人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子とステッキ一本で散歩する自分たちをも。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官《=ハンガン》になって地方に行《#い》っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる──《─:》武蔵野は俗にいう関八州の平野《ヘーヤ》でもない。また道灌が傘の代《代わ》りに山吹の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境《-くにざかい》または村境《村ザカイ》が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。  僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙が巍峨として聳えていたり、鉄管事件の裁判があったりする八百八街《八百ヤガイ》によって昔の面影を想像することができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日《=キョウ》の光景では|たと《例》え徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ。  しかしその市《#シ》の尽《-つ》くる処《ところ》、すなわち町|外《+は》ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描《えが》くにはかならずこの町外れを一《=イチ》の題目とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂《=どうげんざか》の近傍、目黒の行人坂、また君《=キミ》と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神《+キシモジン》あたりの町《=マチ》、新宿、白金《#シロガネ》‥‥  また武蔵野の味《=アジ》を知るにはその野《=の》から富士山、秩父山脈国府台等《秩父山脈’国府台など》を眺めた考えのみでなく、またその中央に包まれている首府東京《首府’東京》をふり顧《+返》った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里《3里5里》の外《#ソト》に出《い》で平原《ヘイゲン》を描《えが》くことの必要がある。君《=キミ》の一篇《イッペン》にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あう|おもしろ《面白》味が描《#か》いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟《カテイ》をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行《イチ二里行》き、また半里行きて家並があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木《クサキ》ばかりになる、《:、》この変化のあるのでところどころに生活を点綴《+テンテツ》している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描《えが》くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋《+レンタン家屋》を描写するの必要がある。  また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入《#い》れなければならぬ。|六つ《ムツ》玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処《ところ》の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処《ところ》の趣味とともに無限の意義がある。  また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開《-ひら》けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸の金糸堀のあたりから木下川辺《+キネガワヘン》へかけて、水田と立木と茅屋とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子の「あぶずり」で眺《ナガ》むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波でわかる。筑波の影が低く遥かなるを見ると我々は関八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。  しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。  そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通《=とお》って川越近傍まで達し、君《キミ》の一編《イッペン》に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間《=あいだ》に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか‥‥ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入《-い》れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間《=あいだ》に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。  東の半面は亀井戸辺《亀井戸へん》より小松川へかけ木下川《+キネガワ》から堀切を包んで千住近傍へ到って止《=と》まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである── ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外れを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町|外《+は》ずれを「武蔵野」の一部に入《-い》れるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描《えが》くに波打ちぎわを描《えが》くも同じことである。しかし自分はこれを後|廻わ《回》しにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。  第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分《#充分》に書いてみたいが、さてこれも後|廻わ《回》しにして、さらに武蔵野を流《なが》るる水流を求めてみたい。  小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈《=ツノハズ》などの諸村の間《=あいだ》を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池《+井の頭池》善福池などより流れ出《=い》でて神田上水となるもの。目黒辺《目黒へん》を流れて品海に入《ハイ》るもの。渋谷辺を流れて金杉に出《い》ずるもの。その他名《他’名》も知れぬ細流小溝《+細流ショウキョ》に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、《:、》これが今の武蔵野の平地高台《平地タカダイ》の嫌いなく、林をくぐり、野《=の》を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって(小金井は取除け)流《なが》るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。自分はもと山多《/山多》き地方に生長したので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、《:、》初めは武蔵野の流れ、多摩川を除いては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹いたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原《平原’》の景色に適ってみえるように思われてきた。  自分が一度、今より四五年前《シ五年前》の夏の夜《=ヨル》の事であった、かの友と相携えて近郊を散歩したことを憶《#おぼ》えている。神田上水の上流の橋《=ハシ》の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月冴《月’冴》えて風清く、野《=の》も林も白紗《+ハクシャ》につつまれしようにて、何ともいいがたき良夜であった。かの橋《=ハシ》の上《=ウエ》には村のもの四五人集《シ五人’集》まっていて、欄に倚って何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁《+ロウオウ》がまざっていて、しきりに若い者《もの》の話や歌をまぜッ《っ》かえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧たる楕円形のうちに描《#えが》きだして、田園詩の一節《=イッセツ》のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は|緩る《緩》やかに流《なが》るる水面《=ミナモ》に澄んで映っている。羽虫が水を摶つごとに細紋起《サイ紋起》きてしばらく月の面《-おもて》に小皺がよるばかり。流れは林の間《=あいだ》をくねって出てきたり、また林の間《=あいだ》に半円を描《-えが》いて隠れてしまう。林の梢に砕けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺《シゴシャク》の処《ところ》をかすめている。  大根の時節に、近郊《+キンゴウ》を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  かならずしも道玄坂《=どうげんざか》といわず、また白金《#シロガネ》といわず、つまり東京市街の一端《-いったん》、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道《青梅ドウ》となり、あるいは中原道《中原ドウ》となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、《:、》郊外の林地|田圃《+デンポ》に突入する処《ところ》の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚び起こすも妙ではないか。なぜ|かよう《斯様》な場処が我らの感を惹くだら《ろ》うか。自分は一言《イチゲン》にして答えることができる。すなわちこのような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二《2》つ三《3》つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。  見たまえ、そこに片眼の犬が蹲《踞》っている。この犬の名の通《=とお》っているかぎりがすなわちこの町外れの領分である。  見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子に映っている。外《=ソト》は夕闇がこめて、煙の臭《=にお》いとも土の臭《=にお》いともわかちがたき香りが淀んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車《+カラグ-ルマ》の轍の響が喧《#かしま》しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。  見たまえ、鍛冶工《+鍛冶屋》の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人《=ニサンニン》の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧の上《=ウエ》に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並の後ろの高い樫の梢まで昇ると、向《向こ》う片側の家根《屋根》が白《+し》ろんできた。  かんてらから黒い油煙が立っている、その間《あいだ》を村の者町《者’町》の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方《あっちこっち》に積んで並べてある。これが小さな野菜市《野菜イチ》、小さな糶売場《+セリバ》である。  日が暮れるとすぐ寝てしまう家《イエ》があるかと思うと夜の二時ごろまで店の障子に火影を映している家《=イエ》がある。理髪所《+床屋》の裏が百姓家《=百姓や》で、牛《牛’》のうなる声《=コエ》が往来まで聞こえる、《:、》酒屋《サカ屋》の隣家《+隣》が納豆売の老爺の住家《住処》で、毎朝早く納豆納豆と嗄声《+シワガレゴエ》で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通《=とお》りはじめる。ごろごろがたがた絶え間《=マ》がない。九時十時となると、蝉が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃《砂埃り》が馬の蹄、車《=クルマ》の轍に煽られて虚空に舞い上がる。蠅の群《群れ》が往来を横ぎって家《’家》から家《イエ》、馬から馬へ飛んであるく。  それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都《’都》の空《#ソラ》のかなたで汽笛の響がする。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「日本文学全集12◇ 国木田独歩◇ 石川啄木集」集英社】 【   1967(昭和42)年9月7日初版】 【   1972(昭和47)年9月10日9版】 【底本《底本’》の親本:「国木田独歩全集」学習研究社】 【※《◇》底本は、物《=モノ》を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。】 【入力:j.utiyama】 【校正:八巻美惠《ヤマキ-ミエ》】 【1998年10月21日公開】 【2004年6月17日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン-/-》//《-/》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。