◇。◇。◇。◇。◇。 【二流の人】 【坂口安吾】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一話】 【小田原にて】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  天正十八年、真夏のひざかりであった。小田原は北条征伐の最中《=さいちゅう》で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野《ヘーヤ》、海上一面に包囲陣をしいている。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いは《わ》ば豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君《淀ぎみ》と遊んでいた秀吉はそんなこととは知らなかった。  秀吉が最も怖れた人物は言ふ《う》までもなく家康だ。その貫禄は天下万人の認めるところ、天下万人以上《天下万人’以上》に秀吉自身が認めていたが、その次に黒田如水を怖れていた。黒田のカサ頭《#アタマ》(如水の頭一面に白雲のや《よ》うな頑疾《ガンシツ》があった)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ奴《+め》(如水は片足も悪かった)何を企むか油断のならぬ奴だと思っている。  如水はひどく義理堅くて、主《シュ》に対しては忠、臣節のためには強《-し》いて死地に赴くや《よ》うなことをやる。カサ頭《アタマ》ビッコになったのもそのせいで、彼がまだ小寺政職という中国の小豪族《ショウ豪族》の家老のとき、小寺氏は織田と毛利の両雄にはさまれて去就に迷っていた。そのとき逸早く信長の天下を見抜いたのが官兵衛(如水)で、小寺家の大勢《=タイセイ》は毛利に就くことを自然としていたが、官兵衛は主人を説いて屈服させる。即座に自《=みずか》らは岐阜に赴き、木下藤吉郎を通して信長に謁見、中国征伐を要請して、小寺家がその先鋒たるべしと買ってでた。このとき官兵衛は二十《ハタチ》を越して幾つでもない若さであったが、一生の浮沈をこの日に賭け、いは《わ》ば有金《=アリガネ》全部を信長にかけて賭博をはった。持って生《生ま》れた雄弁で、中国の情勢、地理風俗にまでわたって数万言、信長の大軍に出陣を乞ひ自《=みずか》ら手引して中国に攻め入るなら平定容易であると言って快弁を弄する。頗る信長の御意にかなった。  ところが、秀吉が兵を率いて中国に来てみると、小寺政職は俄に変心して、毛利に就いてしまった。官兵衛は自分の見透しに頼りすぎ、一身の賭博に思ひ《い》つめて、主家《=シュカ》の思惑というものを軽く見すぎたのだ。世の中は己《=おの》れを心棒に廻転すると安易に思ひ《い》こんでいるのが野心的な青年の常であるが、世間は左様に甘くない。この自信は必ず崩れ、又いくたびか崩れる性質のものであるが、崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へ《え》るのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ《い》立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によって難関に対処した。  官兵衛にはまだ父親が健在であった。そこで一族郎党を父につけて、之《これ》を秀吉の陣に送り約をまもる。自分は単身小寺の城へ登城して、強《し》いて臣節を全うした。殺されるかも知れぬ。それを覚悟で、敢て主人の城へ戻った。いは《わ》ば之《これ》も亦一身をはった賭博であるが、かかる賭博は野心児の特権であり、又、生命《イノチ》だ。そして賭博の勝者だけが、人生の勝者にもなる。  官兵衛は単身|主家《=シュカ》の籠城に加入して臣節をつくした。世は青年の夢の如くに甘々と廻転してくれぬから、此奴《コイツ》裏切り者であると土牢《=ツチロウ》の中にこめられる。一刀両断を免がれたのが彼の開運の元であった。この開運は一命をはって得たもの、生命《イノチ》をはる時ほど美しい人の姿はない。当然天の恩寵を受くべくして受けたけれども、悲しい哉、この賭博美《賭博’美》を再び敢て行ふ《う》ことが無かったのだ。ここに彼の悲劇があった。  この暗黒の入牢中《+ジュロウ中》にカサ頭《アタマ》になり、ビッコになった。滑稽なる姿を終生負はねばならなかったが、又、雄渾なる記念碑を負ふ《う》栄光をもったのだ。か《こ》ういう義理堅いことをやる。  主《シュ》に対しては忠、命《=イノチ》をすてて義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙《=ミョウ》なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外《#ほか》である。  中国征伐の最中《=さいちゅう》に本能寺の変が起った。牢の中から助けだされた官兵衛は秀吉の帷幕《=イバク》に加は《わ》り軍議に献策していたが、京から来た使者は先づ《ず》官兵衛の門を叩いて本能寺の変をつげ、取次をたのんだ。六月三日深夜のことで、使者はたった一日半《イチニチ半》で七十里の道《=みち》を飛んできた。官兵衛は使者に酒食を与へ《え》、堅く口止めしておいて、直ちに秀吉にこの由を告げる。  秀吉は茫然自失、うなだれたと思ふ《う》と、ギャッという声を立てて泣きだした、五分間ぐらい、天地を忘れて悲嘆にくれている。いくらか涙のおさまった頃を見はからひ《い》、官兵衛は膝すりよせて、ささやいた。天下《天下’》はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。  丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができていた。その翌日には毛利の人質がくる筈になっていたから、本能寺の変が伝は《わ》らぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげや《よ》うとしたけれども、もう遅い。金井坊という山伏が之《これ》も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしている。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。 「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういう風《ふう》に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せいぜい親ゆづりの領地を守《=まも》り、それもあなたのや《よ》うな智者のおかげで大過なしという人物です。天下を握る人物ではない。然るに、秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後《あと》は天下の唯一人者《唯一ジン者》で、之《これ》に比肩し得《=え》る人物は先づ《ず》いない。たまたま本能寺の飛報が二日のうちにとどいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちに踵《+キビス》をめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自《=みずか》ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云《=い》へ、秀吉を選び得る者《=もの》のみが又選ばれたる者《=モノ》でせ《しょ》う。信長との和睦を秀吉との和睦にかへ《え》ることです。損の賭《#賭け》のや《よ》うですが、この賭《#賭け》をやりうる人物はあなたの外《ほか》には先づ《ず》いない。あなたにも之《これ》が賭博に見えますか。否々《イナ/イナ》。これは自然天然の理《=コトワリ》というものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へ《え》る力《=チカラ》はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の和平も、挙げてこの中にあり、ですな」  隆景は温厚、然し明敏果断な政治家だから官兵衛の説くところは真実だと思った。輝元では天下は取れぬ。所詮人《所詮’人》の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはってサイコロをふる。外れても、元金《=ガンキン》の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。  けれども、官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右という時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然《そう》して、特に、去る者《=もの》の姿を見ると逃したことを悔《ク》ゆる心が騒ぎだす。  官兵衛は堤を切り、満目の湖を見てふりむいた。それから馬を急がせて秀吉の馬に追ひ《い》つき、ささやいた。毛利の人質を返してやりなさい。なぜ? 官兵衛はドングリ眼《マナコ》をギロリとむいて秀吉を見つめている。なぜだ! 秀吉は癇癪を起して怒鳴ったが、官兵衛は知らぬ顔の官兵衛で、ハイ、ドウドウ、馬を走らせているばかり。もとより秀吉は万人の心理を見ぬく天才だ。逃げる者《=もの》の姿を見れば人は追ふ《う》。光秀と苦戦をすれば、毛利の悔いはかきたてられ、燃えあがる。人質が燃えた火を消しとめる力になるか。燃えた火はもはや消されぬ。燃えぬ先、水をまけ。まだしも、いくらか脈はある。之《これ》も賭博だ。否々《イナ/イナ》。光秀との一戦。天下浮沈の大賭博《オオ博打》が今《いま》彼らの宿命そのものではないか。  アッハッハ。人質か。よから《ろ》う。返してやれ。秀吉は高らかに笑った。だが、カサ頭《アタマ》は食へ《え》ない奴《ヤツ》だ。頭から爪先まで策略で出来た奴《ヤツ》だ、と、要心の心が生《生ま》れた。官兵衛は馬を並べて走り、高らかな哄笑、ヒヤリと妖気を覚えて、シマッタと思った。  山崎の合戦《-かっせん》には秀吉も死を賭した。俺が死んだら、と言って、楽天家も死後の指図を残したほど、思ひ《い》つめてもいたし、張りきってもいたのだ。  ところが兵庫へ到着し、愈々決戦近しというので、山上《=サンジョウ》へ馬を走らせ山下《サンカ》の軍容を一望に眺めてみると、奇妙である。先頭の陣に、毛利と浮田の旗が数十旒、風に吹き流れているではないか。毛利と浮田はたった今《いま》和睦してきたばかり、援兵を頼んだ覚えはないから、驚いて官兵衛をよんだ。 「お前か。援兵をつれてきたのは」  官兵衛はニヤリともしない。ドングリ眼《マナコ》をむいて、大さ《そ》うもなく愛嬌のない声ムニャムニャとか《こ》う返事をした。小早川隆景と和睦のときついでに毛利の旗を二十旒だけ借用に及んだのである。隆景は意中を察して笑ひ《い》だして、私の手兵もそつ《っ》くりお借ししますから御遠慮《ご遠慮》なく、と言ったが、イエ、旗だけで結構です、軍兵の方《ほう》は断《=ことわ》った。浮田の旗は十旒で、之《これ》も浮田の家老から借用に及んで来たものだ。光秀は沿道間者《沿道’間者》を出しているに相違ない。間者地帯へはいってきたから、先頭の目につくところへ毛利と浮田の旗をだし、中国軍の反乱を待望している光秀をガッカリさせるのだ、と言った。  秀吉は呆れ返って、左右の侍臣をふりかへり、オイ、きいたか、戦争というものは、第一が謀略だ。このチンバの奴《ヤツ》、楠正成の次に戦争の上手《=じょうず》な奴《=ヤツ》だ、と、唸ってしまった。  けれども、唸り終って官兵衛をジロリと見た秀吉の目に敵意があった。又、官兵衛はシマッタと思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。  中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があった如水だが、貰った恩賞はたった三万石。小早川隆景が三|十五万石《十五’万石》。仙石権兵衛という無類《=むるい》のドングリが十|二万石《二’万石》の大名に取りたてられたのに、割が合は《わ》ぬ。秀吉は如水の策略を憎んだので故意に冷遇したが、如水の親友で、秀吉の智恵袋であった竹中半兵衛に対しても同断であった。半兵衛は秀吉の敵意を怖れて引退し、如水にも忠告して、秀吉に狎れるな、出すぎると、身を亡す、と言った。如水は自《=みずか》らを称して賭博師と言ったが、機至《’機至》る時には天下を的《マト》に一命をはる天来の性根が終生カサ頭《アタマ》にうづまいている。尤も、この性根は戦国の諸豪《=ショゴウ》に共通の肚の底だが、如水には薄気味の悪い実力がある。家康は実力第一の人ではあるが温和である。ところが黒田のカサ頭《アタマ》は常に心の許しがたい奴《ヤツ》だ、と秀吉は人に洩した。如水は半兵衛の忠告を思ひ《い》出して、ウッカリすると命《=イノチ》が危《危う》い、ということを忘れる日がなくなった。  九州征伐の時、如水と仙石権兵衛は軍監で、今日《こんにち》の参謀総長というところ、戦後には九州一ヶ《か》国の大名になる約束で数多の武功をたてた。如水は城攻めの名人で、櫓《ヤグラ》をつくり、高所へ大砲をあげて城中へ落す、その頃の大砲は打つというほど飛ばないのだから仕方がない、か《こ》ういう珍手《チンシュ》もあみだした。事に当って策略縦横、戦へ《え》ば常に勝ったが、一方の仙石権兵衛は単純な腕力主義で、猪突一方、石川五右衛門をねぢふせるには向くけれども、参謀長は荷が重い。大敗北を蒙り、領地を召しあげられる始末であった。けれども秀吉は毒気《毒け》のない権兵衛が好きなので、後日再び然るべき大名に復活した。如水は大いに武功があったが、一国を与へ《え》る約束が豊前のうち六郡、たった十|二万石《二’万石》。小早川隆景が七十万石《七十’万石》、佐々《サッサ》成政が五十万石《五十’万石》、いささか相違が甚《=ハナハダ》しい。  見透しは如水の特技であるから、之《これ》は引退の時だと決断した。伊達につけたるかカサ頭《アタマ》、宿昔青雲の志《=志し》、小寺の城中へ乗りこんだ青年官兵衛は今いづこ。  秀吉自身、智略にまかせて随分出すぎたことをやり、再三信長を怒《=おこ》らせたものだ。如水も一緒に怒《=おこ》られて、二人並《二人なら》べて首が飛びさ《そ》うな時もあった。中国征伐の時、秀吉と如水の一存で浮田と和平停戦した。之《これ》が信長の気に入らぬ。信長は浮田を亡《滅ぼ》して、領地を部将に与へ《え》るつもりでいたのである。二人は危《危う》く首の飛ぶところであったが、猿面冠者は悪びれぬ。シャアシャアと再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもいたのであるが如水は後悔警戒した。傾倒の度《=ド》も不足であるが、自恃の念も弱いのだ。  如水は律義であるけれども、天衣無縫の律義でなかった。律義という天然の砦がなければ支へ《え》ることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆえ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。  ある日、近臣を集めて四方山話の果《果て》に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴《ヤツ》は誰だと思ふ《う》、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふ《う》がよい、と秀吉が言った。徳川、前田、蒲生、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑ってきいていたが、よろし、先づ《ず》そのへんが当ってもを《お》る、当ってもを《お》らぬ。然し、乃公の見るところは又違ふ《う》。誰も名前をあげなかったが、黒田のビッコが爆弾小僧という奴《ヤツ》だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあって、俺が寝《寝’》もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴《ヤツ》にそれとなく問ひ《い》かけてみると、言下にピタリと同じことを答へ《え》を《お》る。分別の良《い》いこと話の外《ほか》だ。狡智|無類《=むるい》、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言った。  この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思った。家督を倅長政に譲りたいと請願に及んだが、秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴《メ》、要心深い奴《ヤツ》だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあったのだ。四十の隠居奇ッ怪千万《怪センバン》、秀吉はか《こ》うあしらひ《い》、人を介して何回となく頼んでみたが秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所の愛顧を蒙った、石田三成が淀君《淀ぎみ》党で、之《これ》に対する政所派という大名があり、長政などは政所派の重鎮、さ《そ》ういう深い縁《=エン》があるから、政所の手を通して執念深く願ひ《い》でる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめったにいない。秀吉も折れて、四十そこそこの若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ、返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ《う》一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候《日夜’伺候》し、益々御奉公の考へ《え》です。厭になるほど律義であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水という初老の隠居が出来上《出来上が》った。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であった。  ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人|気質《=カタギ》であるから、茶の湯を甚だ嫌っていた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどと堅苦しいことを言って軽蔑し、持って廻った礼式作法の阿呆《=アホ》らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。  秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたった一人。侍臣の影すらもない。差向ひ《い》だが、秀吉は茶をたてる様子もなかった。  秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めこみながら、結局《結局’》失敗、敗戦している。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。徴募の兵力、物資の輸送、数時間にわたって軍議をとげたが、秀吉の心痛事《心痛ジ》は別のところにある。小田原へ攻めるためには尾張、三河、駿河を通《=とお》って行かねばならぬ。尾張は織田信雄、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈を交へ《え》た敵手《相手》であり、現在は秀吉の麾下に属しているが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如く頭を下げた。両家の関係は《は-》かく密接であるから、同盟して反旗をひるがへ《え》すという怖れがあり、家康が立てば、信雄《ノブカツ》がつく、信雄《ノブカツ》は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂《動向/分裂》も必至だ。  さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでいるて。お主《=ぬし》は巧者だが、この古狸めを化かしおは《わ》して小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころというものだ。ワッハッハ。さ《そ》うですな、如水はアッサリ言下に答へ《え》た。先づ《ず》家康と信雄《ノブカツ》を先発させて、小田原へ先着させることですな。之《これ》という奇策も外《ほか》にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉、などという古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござら《ろ》う。殿下は《は-》ゆるゆると御出発《ご出発》、途中駿府の城などで数日《数日’》のお泊りも一興でござら《ろ》う。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござら《ろ》うて。  このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝《寝’》もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へ《え》たからだ。お主《=ぬし》は腹黒い奴《ヤツ》ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたから《ろ》う。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。  ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能というものが分らぬかな。お主《=ぬし》はきつい茶の湯ぎらひ《い》ということだが、ワッハッハ。お主《=ぬし》も存外窮屈な男だ。俺とお主《=ぬし》が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさから《ろ》う。ここが茶の湯の一徳というものだ。なるほど、と、如水は思った。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてている秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあった。  ところが愈《いよいよ》小田原包囲の陣となり、三ヶ《=か》月が空《=むな》しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命《メイ》をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物《ダイジンブツ》の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来ているや《よ》うな男だと思ひ《い》、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついていても戦《=いく》さは負けたかも知れぬ、之《これ》は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひ《い》の乱戦が始まりさ《そ》うになったから、如水は秀吉の命《メイ》を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であった。親父に代《=かわ》って長政が小牧山に戦ったが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎた蕗みたい、此奴《コイツ》は食へ《え》ない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭《アタマ》ビッコの怪物を眺めて肚裡《-とり》に呟いた。然し、与し易いところがある、と判断した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  温和な家康よりも黒田のカサ頭《アタマ》が心が許されぬ、と言ふ《う》のは、単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手《相手》と見たのは言ふ《う》までもなく家康だ。  名をす《捨》てて実《#ジツ》をとる、というのが家康の持って生《生ま》れた根性で、ドングリ共《ども》が名誉だ意地だと騒いでいるとき、土百姓の精神で悠々実質《悠々’実質》をかせいでいた。変な例だが、愛妾に就《就い》て之《此れ》を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好《ず》き、名流好《名流ず》きで、淀君《淀ぎみ》は信長の妹お市の方《=かた》の長女であり、加賀局《加賀ノツボネ》は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘、三条局《三条ノツボネ》は蒲生氏郷の娘、三丸殿《三の丸どの》は信長の第五女、姫路殿《姫路どの》は信長の弟信包の娘、主筋《=シュウスジ》の令嬢をズラリと妾《=めかけ》に並べている。たまたま千利休という町人の娘にふられた。  ところが、家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫《ゼンプ》に二人の子供があり、阿亀《お亀》の方《=かた》が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局《西郷ノツボネ》は戸塚|某《なにがし》の女房で一男一女《一男一女’》の子持ちの女、その他|神尾某《神尾ナニガシ》の子持ちの後家だの、甲州武士三井某《甲州’武士’三井なにがし》の女房(之《これ》も子持ち)だの、阿松の方《カタ》がただ一人《ひとり》武田信玄の一族で、之《これ》だけは素性がよかった。妾《メカケ》の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあという朝鮮人の侍女にも惚れたが、之《これ》は切支丹《キリシタン》で妾《=めかけ》にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮の近くのオタイネ明神というのがこの侍女の碑であると云《=い》ふ《う》。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であった。  秀吉は夢想家の甘さがあったが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ《う》地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦《-かっせん》に勝った、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足《ひと足》天下統一に近づいている。降参して実利を占めた。  和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦は《わ》ねばならぬ苦衷を訴へ《え》て、手放しでワアワアと泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでいる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱たる涙の中で狂ふ《う》が如くに叫んだというが、肚の中では大明遠征《ダイミン遠征》を考へ《え》ていた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄《ノブカツ》が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へ《え》もせず、アヽ《ア》、よから《ろ》う、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であった。秀吉は光秀を亡《滅ぼ》しているのだから、時世は秀吉のものだ。信雄《ノブカツ》は主人の息子、一緒なら秀吉と争ふ《う》ことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらい、何人でもくれてやる。  秀吉は関白となり、日《=ヒ》に増し盛運に乗じていた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡《滅ぼ》して、着々天下は統一に近づいている。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。  秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して目算も立てぬ、どうともなれ、と命《=いのち》をはって、自負、血気、壮んなること甚だしい。連日野《連日’野》に山に狩《/狩》りくらして秀吉の使者を迎へ《え》て野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物《’都見物》の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面《=たいめん》したい気持もないヨ。秀吉が攻めてくるなら美濃路に待っているぜ、と言って追ひ《い》返した。  けれども、金持喧嘩《金持ち喧嘩》せず、盛運に乗る秀吉は一向腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひ《い》なし。大事な鴨で、この古狸が天下をしよ《ょ》って美濃路にふてくされて、力んでいる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払《落ち付き払》ふ《う》こと、まことに天晴《あっぱ》れな貫禄であった。天下統一という事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらい、お安いことだと考へ《え》ている。そこで家康の足もとを|さらふ《攫う》実質的な奇策を案出したのであるが、か《こ》ういう放《=ハナ》れ業《=ワザ》ができるのも、一面夢想家ゆえの特技でもあり、秀吉は外交の天才であった。  先づ《ず》家康に自分の妹を与へ《え》てまげて女房にして貰ひ《い》、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆《=みな》の者《=もの》、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いていた。俺は今《いま》天下《=テンカ》のた《-た》め先例のないことを歴史に残してみようと思ふ《う》。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へ《え》られぬものだ。  ふてくされていた家康も悟るところがあった。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我《=ガ》を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命《=イノチ》ならいらない。覚悟をきめて上洛した。  家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらい図太い肚、命《=イノチ》をすてて乗りだしてくる人はすくない、彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人《=ただひとり》の主戦論者もなかったのだ。たった一人の主戦論者が家康であった。  彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかったのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命《=イノチ》がけで、生き延びた者《=もの》が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかったから、負けるときまった戦争を敢て戦ふ《う》必要はなかったのだが、家康ただ一人《ひとり》群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だったわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放《=はな》したところから、自分自身の運命を、否《いな》、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないということを彼らは知っている。自己の発見、創造、之《これ》のみが天才の道だ。家康は同盟というボロ縄で敢て己《=おの》れを縛り、己《=おの》れの理知を縛り、突き放《=はな》されたところに自己の発見と創造を賭けた。之《これ》は常に天才のみが選び得る火花の道。さ《そ》うして彼は見事に負けた。生きていたのが不思議であった。  大敗北、味方はバラバラに斬り|くづ《崩》され、入《=い》り乱れ前後《/前後》も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であった。家康が危《危う》くなると家来が駈けつけて之《此れ》を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之《これ》を見て眼血走《/眼血走》り歯《/歯》がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬の轡を浜松の方《ほう》にグイと向けて、槍の柄《=エ》で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひ《い》せまる敵を突き落して討死をとげた。  逃げる家康は総勢五騎であった。敵が後《後ろ》にせまるたびに、自《=みずか》ら馬上《-ばじょう》にふりむいて、弓によって打ち落した。顔も鎧も血で真ッ《っ》赤、や《よ》うやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開《=あ》け放しておけ、庭中《ニワジュウ》に篝をたけ、言ひ《い》すてて奥の間《マ》に入《=ハイ》り、久野という女房に給仕をさせて茶漬を三杯《3杯》、それから枕をもたせて、ゴロリとひつ《っ》くり返って前後不覚にねてしまった。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であった。天才とは何《なん》ぞや。自己を突き放《=はな》すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。  秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であったが、太刀、馬《ウマ》、黄金を献じ、主君に対する臣家《臣下》の礼をもって畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名《大小ミョウ》、呆気にとられる。秀吉に至っては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒《=おこ》らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらい、屁とも思っていなかった。  秀吉は別室で家康の手をとり、おしいただいて、家康殿《家康どの》、何事も天下の為ぢや。よくぞやって下された。一生恩にきますぞ、と、感極まって泣きだしてしまったが、家康はその手をおしいただいて畳におかせて、殿下、御もったいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずか《こ》う言った。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやった、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひ《い》もとめた豪華なベッドの上にひつ《っ》くり返って、サア、日本がおさまると、今度は之《これ》だ、之《これ》だ、と、ベッドを叩いて、酔つ《っ》払って、ねむってしまった。  小田原の北条氏は全関東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共《=君臣とも》にドングリの背くらべ、家門を知って天下を知らぬ平々凡々たる旧家であった。時代に就《就い》て見識が欠けていたから、秀吉から上洛をうながされても、成上《=成り上が》り者《=もの》の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃《ころ》の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれれば朝礼する、と言ってきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰っておいて、上洛しない。北条の思ひ《い》上ること甚《=ハナハダ》しく、成上《成り上が》りの関白が見事なぐらい|カラカハ《揶揄わ》れた。我慢しかねて北条征伐となったのだ。  秀吉は予定の如く、家康、信雄《ノブカツ》、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内《=サンダイ》して節刀を拝受、十七万の大軍を率いて出発した。駿府へ着いたのが十九日《19日》で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵った。これは又、あつ《っ》ぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保《=たも》つ者が、城《=しろ》を開《=あ》け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言は《わ》れても、さだめしお貸しのことでせ《しょ》うな、と青筋をたてて地団駄ふんだ。  小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取《陣ど》り、一夜のうちに白紙を用ひ《い》て贋城をつくるという小細工を弄したが、ある日、家康を山上《=サンジョウ》の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言った。というのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへ《え》ぎられてさ《そ》うは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之《此れ》をそつ《っ》くりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へ《え》です。いやいやと秀吉は制して、山を控へ《え》た小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸という城下《=ジョウカ》がある。海と河川を控へ《え》、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、ここに居られる方《ほう》がよい、と教へてくれた。さ《そ》うですか。万事お言葉の通りに致しませ《しょ》う、と答へ《え》たが、今は秀吉の御意のまま、言ひ《い》なり放題に振舞|ふ時《うとき》と考へ《え》て、家康はこだは《わ》らぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでいることを家康は知ってもいた。  二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍|十重二十重《/トエハタエ》に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人《時’一人》の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率いてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひ《い》て、持久策をとり、糧道を絶つことにした。  秀吉自身は淀君《淀ぎみ》をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方《シホウ》の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市《イチ》をたて、海運も亦|日《=ひ》に日《=ひ》に何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集《#集ま》る、見世物がかかる、遊女屋が八方《=ハッポウ》に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品《=シナ》が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくって書院、数寄屋、庭に草花を植え、招いたり招かれたり、宴会つづきだ。  この陣中の徒然に、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水という人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑していたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合という意味があったが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひ《い》に茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終って京都に帰った頃はいつ《っ》ぱしの茶の湯好《湯ず》きで、利休や紹巴《=ジョウハ》などと往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあった。一つには彼の棲む博多の町《=マチ》に、宗室、宗湛、宗九などという朱印船貿易の気宇遠大な豪商がいて茶の湯の友であったからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だったせいもある。  如水は高山右近のすすめで洗礼を受け切支丹《キリシタン》であったが、之《これ》も秀吉への迎合から、禁教令後《禁教令ゴ》は必ずしも切支丹《キリシタン》に忠実ではなかった。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきであったが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚《=シュンオク和尚》について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へ《え》て尊敬厚く、さりとて切支丹《キリシタン》の信教も終生捨ててはいなかった。彼の葬儀は切支丹《キリシタン》教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあった。  元々|切支丹《キリシタン》の韜晦という世渡りの手段に始めた参禅だったが、之《これ》が又、如水の性《ショウ》に合っていた。忠義《=チュウギ》に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放磊落でも天衣無縫に縁《=エン》がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとって、禅のひねくれた虚心坦懐《虚心タンカイ》はウマが合っていたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱という性格を彼に与へ《え》たが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについていた。青年の如水は何故《なにゆえ》に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業《=ワザ》であってもその流行を潔しとせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血《なお腐血》となって彼の血管をめぐっているが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ《い》腐った血で、その悪霊にすぎなかった。  ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下《下ろ》して至極好機嫌だった。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧《顧み》て大威張《オオ威張》りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者《=もの》が俺の外《ほか》に見当るかな。先づ《ず》なから《ろ》う、ワッハッハ。その傍《傍ら》に如水がドングリ眼《マナコ》をむいている。之《これ》を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにいたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操ってみたから《ろ》う。チンバなら、さだめし、出来るであら《ろ》う。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたった一人の人物だ。  如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられていることを知っていた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けている、と。  だが、か《こ》ういう時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひ《い》にでてくるのだら《ろ》う。二十六万の大軍を操る者《=もの》は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されているからである。歯《ハ》のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中《シンチュウ》にあるからだ。それを如水は知っていた。その犬が家康であることも知っていた。その犬に会ってみたいという思ひ《い》が、肚底《とてい》に逞しく育っていたのだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  小田原包囲百余日、管絃のざわめきの中にも造言の飛び交ふ《う》のはどこの戦場も変りがない。話題の主《ヌシ》は家康と信雄《ノブカツ》で、北条と通謀して夜襲をかける、奥州からは伊達政宗が駈けつける手筈になっているなどと、流言《=リュウゲン》必ずしも根のないことではない。当の家康の家来共《家来ども》が流言《=リュウゲン》の渦にむせびながら腕を撫し、いつ夜襲の主命下るか、猿めを退治て、あとはこつ《っ》ちの天下だと小狸共《コダヌキども》の胸算用で憶測最も逞しい。  ところが、家康は温和であった。之《これ》は秀吉の用ひ《い》た表現であるが、家康は温和な人だから宜しいが、黒田のカサ頭《アタマ》は油断のできない奴《ヤツ》だ、ということを言っていた。  秀吉は山崎合戦で光秀を退治て天下を自分の物としたが、光秀退治が秀吉一人の手によらず織田遺臣聯合軍というものによって為されたならば、天下の順は秀吉のところへは廻ってこない。信長には子供もあるし、柴田という天下万人の許した重臣もあり、之《これ》を覆す大義名分がないからである。秀吉は柴田と丹羽にあやかりたいというので羽柴という姓を名乗った。然しながら、柴田といへども信長の家臣だ。ところが、家康は家臣ではない。駿遠三の領主で、小なりといへども一王国の主人、信長の同盟国で、同盟国も格が下なら家臣と似たや《よ》うなものではあるが、ともかく独自の外交策によって信長と相結んだ立場であった。  信長と信玄の中間《チューカン》に介在して武田の西上《セイジョウ》を食ひ《い》とめ信長の天下を招来した縁《=えん》の下《=した》の力持が家康で、《:、》専ら田舎廻りの奔走、頼まれれば姉川へも駈けつけて急を救ふ《う》、越後の|米つき百姓《コメツキビャクショウ》の如き精神を一貫、行動した。下剋上は当時の自然で、保身、利得《=リトク》、立身《リッシン》のために同盟を裏切ることは天下公認の合理であったが、家康の同盟二十年、全く裏切ることがなく、専ら利得《=リトク》の香《+かんば》しからぬ奔命に終始して、信長の長大をはかるために犬馬の労を致したのである。土百姓の律義であった。素町人《=スチョウにん》の貯金精神というものだ。けれども一身一王国の存亡を賭けてニコニコ貯金に加入する、百姓商人に似て最も|然か《然》らざるもの、天下に賭けて命《=イノチ》をはった賭博者は多いけれども、ニコニコ貯金に命《=いのち》をはった家康は独特だった。  本能寺の変が起ったとき、家康は堺にいた。武田勝頼退治の戦功で駿河を分けて貰ったから、その御礼挨拶《オン礼挨拶》のために穴山梅雪と上洛して、六月二日という日には堺に宿泊したのである。平時の旅行であるから近臣数十人をつれているだけ、兵力がないから、本能寺の変と共に驚くべき速力をもって堺を逃げだし、逃げ足の早いこと、あの道この道と逃げ方の巧妙なこと、さすが戦争の名人である。穴山梅雪は逃げる途中に捕は《わ》れて横死をとげたが、家康は無事岡崎に帰着して、軍兵を催し、イザ改めて出陣という時には、光秀退治に及び候《そうろう》という秀吉の使者が来たのである。家康は不運であったが、然し、秀吉も家康も、四囲の情況によって自然に天下を望む自分の姿を見出すまで、不当に天下を狙ひ《い》、野望のために身が痩せるということがなかった。木下藤吉郎は柴田と丹羽にあやかるために羽柴秀吉と改名したが、秀吉の御謙遜だというのは後日の太閤で判断しての話で、改名の当時は全く額面通りの理由であったに相違ない。彼の夢は地位の上昇と共に育ちはしたが、信長存命の限りは信長の臣、これが夢の限界で、信長第一の臣、それから信長の後継者、さ《そ》ういう夢はあったにしても、本能寺の変、光秀退治、自然の通路がひらかれるまで、それを狙ひ《い》はしなかった。  家康の夢は|一さう《一層》地道だ。親代々の今川に見切をつけて信長と結んだ家康は、同盟二十年、約を守《=まも》り義にたがは《わ》ず、信長保険の利息だけで他意なく暮し、しかも零細な利息のために彼の為した辛労は甚大で、信玄との一戦に一身|一国《=イッコク》を賭して戦ふ《う》。蟷螂《=トウロウ》の斧、このとき万一の僥倖すらも考へ《え》られぬ戦争で、死屍累々、家康は朱《シュ》にそまり、傲然斧をふりあげて竜車の横ッ《っ》面をひつ《っ》かいたが、手の爪をはがした。目先の利かないこと夥しく、みすみす負ける戦争に命《=いのち》をかけ義をまもる、小利巧な奴に及びもつかぬ芸当で、時に際し、利害、打算を念頭になく一身の運命を賭けることを知らない奴《#ヤツ》にいは《わ》ば『芸術的』な栄光は有り得《え》ない。芸術的とは宇宙的、絶対の世界に於けるということである。  信長の横死。天下が俺にくるかも知れぬ、と考へ《え》たのは家康も亦、このときだ。けれども天運に恵まれず、堺に旅行中であったから這々《+ホウホウ》の体《+テイ》で逃げて帰る、秀吉にしてやられて、天下は彼から遠退いた。けれども、織田信雄と結んで秀吉と戦ふ《う》ことになって、俄に情熱は爆発する、天下を想ふ《う》亢奮は身のうちをたぎり狂って、家康時《家康/時》に四十の青春、始めて天下の恋を知った。  破竹の秀吉を小牧山で叩きつけて、戦争に勝ったが、外交に負けた。上昇期の秀吉はまさに破竹であった。滾々尽きず、善謀鬼略の打出の小槌に恵まれていたのだ。秀吉はアッサリ信雄《ノブカツ》に降伏して単独和議を結び、家康の戦争目的、大義名分というものを失はせたから、負けて勝った。家康も負けたや《よ》うな気がしない。秀吉|信雄《ノブカツ》両名の和議成立に祝福の使者を送って、小策|我関《われ関》せず、落付払《落ち付き払》っていたけれども、信濃あたりに反乱があって田舎廻りの奔走にかけづらふ《う》うち、秀吉は着々天下統一の足場をかためて、二人の位《=クライ》の距《=隔た》りが誰の目にもハッキリしたから、家康も一代の焦りをみせた。四十の恋というのがあるが、之《これ》も四十の初恋で、家康遂に青春を知り、千々に乱れ、ふてくされて、喧嘩を売ら《ろ》う、喧嘩を買|はふ《おう》、規格に|大小違ひ《大小’違い》はあっても恋の闇路に変りはない。  けれども飜然として目覚めた。上洛に応じ、臣下の礼を以て秀吉の前に平伏《平伏’》したが、四十の初恋、このまぼろしを忘れ得るであら《ろ》うか。けれども、ひとたび目覚めたとき、彼の肚裡《トリ》を測りうる一人の人もいなかった。  秀吉は彼に大納言を与へ《え》、つづいて内大臣を与へ《え》る。時人は彼を目して副将軍の如くに認めたが、その貫禄を与へ《え》ることが彼を温和ならしめる手段であると秀吉は信じた。雄心未だ勃々たる秀吉は死後の社稷のことなどは霞をへだてた話であったし、思ひ《い》のままに廻りはじめたパノラマのハンドルを|まは《回》す手加減に有頂天になっていた。家康という人はおだてておけば温和な人だ。俺の膝の上にのせてみせるから黙って見てをれ、か《こ》う侍臣に言ふ《う》秀吉だ。小田原陣でも、家康を陣屋に招いて群臣の居並ぶところでおだてあげて、大納言、貴公は海内一の弓取だから、この戦争では策戦万事御指南をたのむ、皆《=みな》の者《=もの》も戦略は徳川殿《徳川どの》にきくがよい、臆面もなくわめきたてて好機嫌。ところが或日のことである。秀吉は列座の大名共《大名ども》に腹蔵なく威張りはじめていたのである。古《いにしえ》に楠氏《クスノキ氏》あり、当今《=トウコン》は豊臣秀吉ここにあり、日本一の兵法の達者とは俺のことだ。戦へ《え》ば必ず勝つ。負けたためしは一度もない。古今東西天下無敵、ワッハッハ。すると家康が俄に気色《+ケシキ》ばみ、居《=い》ずまひ《い》を正して一膝《ヒトヒザ》のりだした。之《これ》は不思議、いささかお言葉が過ぎてござる。殿下は小牧山で拙者に負けたではござらぬか。余人《ヨジン》は知らず、拙者の控える目の前で日本一の兵法家はやめにしていただきたい。開《=ひら》き直って、か《こ》う言った。膝元からいきなり袴に火がついたとはこのこと、秀吉満面に朱《朱’》をそそぎ、皺《シワ》だらけの小さな顔《=かお》に癇癪の青筋だらけ、喉がつまって声《=コエ》が出ぬ。プイと立ち荒々しく奥へ消えた。この始末や如何《いか》に。暫時して、元の陽気な猿面郎、機嫌を直してニコニコ現れたのが秀吉で、イヤハヤ、大失敗、猿公木より墜落ぢや。小牧山で三河の狸に負けたことがあったとは残念千万。  大名共《大名ども》は呆れ返った。自慢のし返し、子供みたいに臆面もなく開《=ひら》き直って食ってかかる、古狸の家康もとより酒席の|ざれ言《戯言》の分らぬ男であら《ろ》う筈はないのだから、開《=ひら》き直る方《ほう》が結局《結局’》秀吉を安心させるということを心得た上での芝居だら《ろ》うと判断した。家康は老獪だから、と言って、侍臣達も家康の手のこんだ芝居を秀吉にほのめかしたが、秀吉は笑って、お前たちはさ《そ》う思ふ《う》か。一応は当っているかも知れぬ。然し、家康は案外あれだけの気のよいところもある仁ぢや、お前たちにはまだ分らぬ、アッハッハ、と言った。  小田原包囲百日、流言《=リュウゲン》などはどこ吹く風で、ある日、秀吉はたった数人の侍臣をつれ、家康の陣へ遊びに行《=い》った。井伊直政がにぢり寄って、目の玉《=たま》を怪しく光らせて、家康にささやいた。殿、猿めを殺すのは今でござる。夢をみて寝ぼけるな、隠し芸でも披露して関白を慰め申せ。家康とりあは《わ》ぬ。  秀吉は腹蔵なく酔つ《っ》払った。梯子酒というわけで、家康をうながし、連立《連れ立》って信雄《ノブカツ》の陣へ押掛ける。小田原は箱根の山々がクッキリと、晴れた日は空気に靄が少くて、道《=みち》はかがやき、影黒《影くろ》し、非常に空《=ソラ》の澄んだところだ。馬上《-ばじょう》から野良に働く鄙には稀な娘を見つけて、オウイ、俺は関白秀吉だ、俺のウチへ遊びにこいよウ。待ってるゾウ。胸毛を風になぶらせて、怒鳴っている。  然しながら、秀吉は一人立《=ひとりだ》ちのできない信雄《ノブカツ》を、一人立《=ひとりだ》ちの出来ない故に、警戒した。彼の主人信長はその終生足利義昭になやまされた。この十五代将軍は一人立《=ひとりだ》ちのできない策士の見本である。三好松永を覆滅して足利家再興のため、終生他力本願、専ら人の褌を当《当て》にして陰謀小策を終生の業《=ワザ》としたのである。佐々木承禎にたより、武田にたより、朝倉に、上杉に、北条に、最後に信長にたよって目的を達し、十五代将軍となることができた。そこで年下の信長を臆面もなく「父信長」などと尊敬して大いに徳としながら、さつ《っ》そく裏では父信長を殺すことを考へ《え》て、本願寺に密使を送り、信玄と結び、朝倉、浅井、上杉、毛利、信長と兄弟分の徳川家康、手当り次第に密使を差向けて信長退治のふれを廻す。一応の大義名分のあるところ、本人自体が無力なほど始末が悪く、不断に陰謀の策源地である。信長の困却《=コンキャク》ぶりをウンザリするほど見てきた秀吉であるから、小田原陣が終り己《=おの》れの足場が固定したのを見定めると、信雄《ノブカツ》の領地を没収して、秋田に配流、温和な狸の動きだす根を絶やしてしまった。  当時、中部日本、西日本は全く平定、帰順せぬのは関東の北条と奥州だった。この奥州で、自《=みずか》ら奥州探題を以て任じ、井戸の中から北国《=きたぐに》の雪空を見上げて、力《=りき》み返っていたのが伊達政宗という田舎豪傑である。この豪傑に片目の無いのは有名であるが、時に二十四才、ザンギリ髪という異形な姿を故意に愛用し、西に東に隣り近所の小豪族《ショウ豪族》を攻めたてて領地をひろげ、北の片隅でまるで天下《’天下》に怖《恐》るる者《=もの》もない気になっていた。  政宗は田舎者ではあるけれども野心と狡智にかけては黒田如水と好一対、前田利家や徳川家康から小田原陣に参加するや《よ》うにという秀吉の旨《=むね》を受けた招請のくるのを口先だけで有耶無耶にして、《:、》この時とばかり近隣の豪族を攻め立て領地をひろげるに寧日もない。家康が北条と通謀して秀吉を亡すだら《ろ》うという流言《=リュウゲン》をまともに受けて、そのドサクサに一気に京都へ攻めこんで天下を取る算段まで空想、むやみに亢奮して近隣をなぎ倒していた。  ところへ家康から手紙が来た。待ちかねた手紙であるが、甚だ冷静なる文面、思ひ《い》もよらぬ手紙である。秀吉への帰順、小田原攻めの加勢《=カセイ》をすすめ、天下の赴く勢《セイ》というものを説き、遠からざる北条の滅亡を断じ、北の片隅の孤独な思索には測りきれぬ天下の大が妖怪の如く滲《にじ》み出てをり、反乱どころの話ではない。百年このかた秀吉の番頭をつとめているかのや《よ》うな家康の手紙であった。政宗の背筋《=セスジ》を俄に恐怖が走った。野心と狡智の凝《=こ》りかたまった田舎豪傑、思ひ《い》もよらぬ天下の妖気を感得して、果もなく不安に沈み、混乱する。遠からずして北条が滅亡する、二十六万の大軍が余勢をかって奥州へ攻めこんでは身も蓋もない。目先はくもらぬ男であるから、即刻小田原へ駈けつけて秀吉の機嫌をとりむすばぬと命《=イノチ》が危《危う》いということを一途《=いちず》に思ひ《い》当てていた。  火急の陣ぶれ、夜《よ-》に日をつぎ、慌てふためいて箱根に到着、陳弁だらだら加勢を申出る。秀吉は石田三成を差向けて先づ《ず》存分に不信をなじらせたが、この三成が全身才智と胆力、冷水《=レイスイ》の如き観察力、批判力で腸《+ハラワタ》にえぐりこむ言葉の鋭いこと、言訳、陳弁、三拝《サンパイ》九拝、蒸気のカマの如き奥州弁で、豆の汗を流した。才能の限度に就《就い》て根柢から自信がぐらつき、秀吉の威力の前に身心のすくみ消える思ひ《い》である。  その翌日が謁見の日で、登る石垣山一里《石垣山’一里》の道《=みち》、屠所にひかれる牛の心で、生きた心持もなく広間にへ《-へ》いつくばっていると、ガラリと襖があいて、秀吉が真夏のこととは言ひ《い》ながら素肌に陣羽織、前ぶれもなくチョロチョロ現れてきた。ヤア、御苦労々々々《御苦労御苦労》、よくぞ来てくれたな。遠路大変だったら《ろ》う。何はおいても先づ《ず》一献ぢや。これよ、仕度を致せというので、政宗の夢にも知らぬ珍味佳肴、豪華つくせる大宴会、之《これ》が野戦の陣地とは夢又夢の不思議である。石垣山の崖上《ガケウエ》へ政宗をつれだして小田原城包囲の陣形を指し、田舎の小競合が身上のお前にはこの大陣立の見当がつくまいな。それ、そこが早川口、伊豆の通路がここでふさがれているから、こつ《っ》ちの浜辺を水軍でかためると伊豆からの連絡はもう出来ぬ、小田原の地形、関八州の交通網を指摘して二十六万の陣立を解説してきかせる。如何なる仕置かと思ひ《い》つめてきた二十四の田舎豪傑、ザンギリ頭《アタマ》の見栄などは忘れ果ててただただ茫然、素肌に陣羽織、猿芝居の猿のや《よ》うな小男が箱根の山よりも大きく見えてしまふ《う》のだった。この人のためならば水火を|いとは《厭わ》ず、という感動の極《極み》に達した。  とはいへ奥州探題を自任する政宗の威力必ずしも小ならず、彼を待望せる北条の失望落胆|如何《いか》ばかり。之《これ》もひとへに家康の尽力である。  家康は北条氏勝に使者をさしむけて氏政の陣から離脱させたり、小田原城内へ地下道を掘り之《これ》をくぐって城内へ侵入、モグラ戦術によって敵城の一角をくづしたり、神謀鬼策の一端《-いったん》を披露に及んで、雞群《鶏群》の一鶴、忠実無私《チュウジツ無私》の番頭ぶり、頼まれもせぬ米をついて大汗《オオアセ》を流している。 ◇。◇。◇。◇。◇。  早春はじめた包囲陣に真夏がきてもまだ落ちぬ。石田三成、羽柴雄利《羽柴カツトシ》に命じて降伏を勧告させたが徒労に終った。十万余の大軍をもち兵糧弾薬に不足を感ぜぬ籠城軍は四囲の情勢に不利を見ても籠城自体にさしたる不安がないのであった。  浮田秀家の陣所の前が北条十郎氏房の持口《持ち口》に当っていた。そこで秀家に命じ氏房を介して降伏を勧告させる。秀家から氏房の陣へ使者を送って、長々の防戦|御見事《お見事》、軽少ながら籠城の積鬱を慰めていただきたいと云って、南部酒と鮮鯛を持たせてやった。氏房からは返礼に江川酒を送ってよこし、之《これ》を機会に交りの手蔓をつくって、秀家氏房両名《秀家’氏房’両名》が各々の櫓《=ヤグラ》へでで《て》言葉を交すということにもなり、氏政父子に降伏をすすめてくれぬか、武蔵、相模、伊豆三国の領有は認《=みと》めるからと取次がせる。氏房自身に和睦の心が動いて、この旨《=むね》を氏政父子に取次いだが、三国《3国》ぐらいで猿の下風に立つなどとは話の外《ほか》だと受《受け》つけぬ。  北条随一の重臣に松田|憲秀《=ノリヒデ》という執権がをった。松田家《松田け》は早雲以来股肱閥閲の名家《メイケ》で、枢機に|あづか《与》り勢威をふるっていたが、憲秀《=ノリヒデ》に三人の子供があって、長男が新六郎、次男が左馬助、末男《マツナン》が弾三郎と云った。古来、上は蘇我、藤原の大臣家《大臣け》から下は呉服屋の白鼠共《白鼠ども》に至るまで、股肱閥閲の名家《メイケ》に限って子弟が自然|主家《=シュカ》を売るに至る、門閥政治のまぬがれ難い通弊であるが、新六郎は先に武田勝頼に通じて主家《=シュカ》に弓をひき、討手に負けて降参、累代の名家《メイケ》であるからというので命だけは助けられたという代者《代物》であった。父|憲秀《=ノリヒデ》と相談して裏切の心をかため、秀吉方《秀吉がた》に密使を送って、伊豆、相模の恩賞、子々孫々違背《子々孫々/違背》あるべからず、という証状を貰った。六月十五日を期し、堀秀治の軍兵を城内へ引入れて、一挙に攻め落すという手筈をたてた。  ところが次男の左馬助は容色美麗で年少の時から氏直の小姓にでて寵を蒙り日夜側近を離れず奉公励んでいる。遇々《偶々》父の館へ帰ってきて裏切の話を耳にとめ父兄を諫めたが容れられる段ではない。父を裏切り一門を亡す奸賊であるというので父と兄が刀の柄《ツカ》に手をかけ青ざめて殺気立つから、私の間違ひ《い》でありました、父上、兄上の御決意でありますなら私も違背は致しませぬ、と言って一時《=イチジ》をごまかした。けれども必死の裏切であるから憲秀《=ノリヒデ》新六郎も油断はない。氏直に訴へ《え》られては破滅であるから、左馬助の寝室に見張《見張り》の者《=もの》を立てておいたが、左馬助は具足櫃に身をひそめ、具足を本丸へとどけるからと称して小姓に担ぎださせ、無事氏直の前に立戻ることができた。父兄の陰謀を訴へ《え》、密告の恩賞には父兄の命《=イノチ》を助けてくれと懇願する、憲秀《=ノリヒデ》新六郎は時を移さず捕は《わ》れて、左馬助の苦衷憐《苦衷’憐》むべしというので、首をはねず、牢舎にこめる、寸前のところで陰謀は泡と消えた。  この裏切に最も喜んだのは秀吉で、大いに心を打込み、小田原落城眼前にありとホクソ笑んでいたのであるが、案に相違の失敗、心憎い奴は左馬助という小僧であると怒髪天をついて歯がみをした。  百計失敗に帰《=き》して暫時の空白状態、何がな工夫をめぐらして打開の方策を立てねばならぬ。秀吉はクスリと笑って如水を召寄せた。如水は小田原陣の頃からめつ《っ》きり差出口を控えてしまったが、表向き隠居したせいでもあり、同時に、秀吉の帷幕《=イバク》では石田三成が頭をもたげて一切の相談に|あづか《与》り、如水の影は薄くなっていたのである。三成の小僧の如き、如水は眼中に入《=い》れていないが、流れる時代、人才も亦常に流れ、澱みの中に川の姿はないのである。目の玉《=たま》をむき、黙々天下を横睨みに控えているが、如水はすでに川《カワ》の澱みに落ちたことをさとらない。尚満々《なお満々》たる色気、万策つきたら俺にたのめ、という意気込の衰へ《え》ることのない男、秀吉は苦笑して、これよ、即刻チンバ奴《メ》を連れて参れ、深夜であった。  改めて如水の方寸をたづね手段をもとめる。腹中常に策をひそめて怠りのない如水であるが、処女《=ショジョ》の含羞《恥じらい》、少々は熟慮の風《ふう》もして慎みのあるところを見せればいいに、サラバと膝をのりだして、待っていました、と言下に答へ《え》る。  徳川殿《徳川どの》を|わづらは《煩わ》す一手でござら《ろ》う。あの仁以外に人はござらぬ。北条の縁者であるし、関東の事情に精通し、和談の使者のあらゆる条件を具備してござる。三成など青二才の差出る幕ではないのに、この人を差しおいて三成だ秀家だと手間のかかったこと、これぐらいの道理《=どうり》がお分りにならぬか、という鼻息であった。  秀吉は心得ているから、好機嫌《好’機嫌》、よから《ろ》う、万事まかせるから大納言の陣屋へ出向いて然るべく運んで参れ。万事まかせてしまへ《え》ば何かしら|手ミヤゲ《手土産》を持って戻ってくる如水。  その翌日は焼けるや《よ》うな炎天だった。如水は徳川家康の陣屋へでかける。家康と如水、この日まで顔を見たことがない。顔ぐらいは見たかも知れぬが、膝つき合せて語り合ふ《う》のは始めてで、温和な狸と律義な策師と暗々裡に相許したから、遠く関ヶ原へつづく妖雲のひとひらがこのとき生《生ま》れてしまった。頭から爪先まで弓矢の金言で出来ている大将だと如水はたった一日で最大級に家康を買ひ《い》かぶる。家康は四十の初恋、如水は|四ツ年少《4つ年少》の弟だったが、この道《=みち》にかけては日本一の苦労人、下世話《ゲセワ》に言ふ《う》十五六《十ゴロク》から色気づくとは彼のこと、律義な顔《=かお》はしているが、仇姿ねたまも忘れ難《=がた》し、思ふ《う》はただ一人の人、まさしくこの恋人はかけがへ《え》のない天下《’天下》ただ一人《一人:》、いは《わ》ば恋仇《=コイガタキ》同志であるが、仕方がなければ百万石で間に合せるという手もあるし、恋仇《=コイガタキ》同志は妙《=みょう》に親近感にひかれるもので、まして振られた同志ではあり、ふられた同志というものは労は《わ》りあった挙句の果《果て》に、結局《結局’》実力の足りない方《#ほう》が恋の手引をするや《よ》うな妙な巡り合せになりがちなものだ。  家康は如水の口上をきき終って頷き、なるほど、御説の通り私の娘は氏直の女房で、私と北条は数年前まで同盟国、昵懇を重ねた間柄です。ところが、昵懇とか縁辺は平時のもので、いったん敵味方に分《分か》れてしまふ《う》と、之《これ》が又、甚だ具合のよからぬものです。色々と含む気持が育って、ない角《カド》もたち、和議の使者として之《これ》ぐらい不利な条件はないのですね、と言って拒絶した。如水が家康を見込んで依頼した口上とあべこべの理窟で逆をつかれたのであるが、理窟をまくしたてると際限を知らぬ口達者の如水、ところが、この時に限って、アッハッハ、左様ですか、とアッサリ呑みこんでしまった。  如水は家康に惚れたから、持前のツムジをまげることも省略して、呑込みよろしく引上げてきた。秀吉に対する忿懣の意識せざる噴出であった。否《イナ》、秀吉に対する秘密の宣戦布告であった。如水は邪恋に憑かれた救は《わ》れ難《がた》い妄執の男、家康の四十の恋を目にとめたが、その実力秀吉に頡頏《+ケッコウ》する大人物《ダイジンブツ》と評価して、俄に複雑な構想を得た。この人物に親睦すれば、再び天下は面白く廻りだしてくる時期があるかも知れぬ。天命は人事を以てはかり難し。天命果して徳川家康に幸するや否や。俄に眼前青空ひらけて、如水は思は《わ》ず百尺の溜息を吹き、猿めの前には隠居したが、又、人生は蒔き直し。  何食は《わ》ぬ顔、秀吉の前に立戻り、徳川大納言の口上は之々《これこれ》、駄目でござった。然し、ナニ、北条を|手なづ《手懐》けるぐらい、人の力は《は-》いり申さぬ。拙者一人でたくさん、吉報お待ち下されい。屁でもない顔付、自《=みずか》らか《こ》う力んで大役《=タイヤク》を買ってでた。壮んな血気は持前の如水であったが、人生蒔直しの構想を得た大亢奮に行きがが《か》りを忘れ、ムクムクと性根が動いて、大役《=タイヤク》を買ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  如水は城中へ矢文を送って和睦をすすめる第一段の工作にかかり、ついで井上平兵衛を使者に立てて酒二樽、糟漬の魴《+ホウ》十尾《-ジュウビ》を進物として籠城の積鬱を慰問せしめる。氏政からはこの返礼に鉛と火薬各十貫目《火薬/各十貫目》を届けて城攻めの節《セツ》の御用に、という挨拶。城中の弾薬貯蔵をほのめかす手段でもあったが、実際、鉄砲弾薬の貯蔵は豊富であった。之《これ》は先代氏康の用意で、彼は信玄、謙信と争ひ《い》譲るところのなかった良将《=リョウショウ》であり、当代氏政は単に先代の豊富な遺産を受けついだというだけだった。  そこで如水は更にこの答礼と称し、単身小田原城中へ乗りこんだ。肩衣に袴の軽装、身に寸鉄を帯びず、立《=た》ち姿は立派であるが、之《これ》がビッコをひいて、たった一人グラリクラリと乗込んで行く。存分用意の名調子、熱演まさに二時間、説き去り説き来《来た》る。時機がよかった。伊達政宗の敵陣参加で城中の意気に動揺のあったところへ、松田|憲秀《=ノリヒデ》の裏切発見、随一の重臣、執権の反逆であるから将兵に与へ《え》た打撃深刻《打撃/深刻》を極めている。氏政も和睦の心が動いていた。  如水は四国中国九州の例をひき、長曾我部《=チョウソカベ》、毛利、島津等、和談に応じた者《=もの》はいづ《ず》れも家名を存してを《お》る。師匠の信長は刃向ふ《う》者は必ず子々孫々根絶せしめる政策の人であったが、その後継者秀吉は和戦政策に限って全くその為すところ逆である。武田勝頼が天目山に自刃のとき、秀吉は中国征伐の陣中でこの報告をきいたが、思は《わ》ず長大息、あたら良将《=リョウショウ》を殺したものよ、甲斐信濃二ヶ国を与へ《え》て北方探題、長く犬馬の労をつくさせるものを、と嘆いた。同じ陣中にいた如水はまのあたりこの長大息を見て、秀吉の偽らぬ心事を知ったのである。これのみではない。秀吉と如水は二人合作の上で、浮田と和議をむすび、信長の怒《=いか》りにあって危《危う》く命《=いのち》を失ひ《い》かけたこともある。蓋し、信長はあくまで浮田を亡《滅ぼ》して、領地を部下の諸将に与へ《え》るつもり、然し、秀吉は木下藤吉郎の昔から和交を以て第一とすること誰よりも如水が良く知っている。今や日本六十余州、庶民はもとより武将に至るまで長々の戦乱に倦み和平《/和平》をもとめて自《=みずか》ら秀吉の天下を希んでいる。之《これ》を天下の勢ひ《い》と言ふ《う》。過去の盟約、累代の情義の如きも、この大勢《=タイセイ》の赴く前では水の泡に異ならぬ。しかも天下《’天下》の大勢《=タイセイ》は益々滔々たる大流となって秀吉の統一をのぞむ形勢にあるのだから、この大流に逆ふ《う》ことや最も愚。秀吉の内意は和平降伏の賞与として、武蔵、相模、伊豆三国を存続せしめるというのだから、和議に応じ、祖先の祭祀を絶《絶や》さぬ分別《フンベツ》が大切である。和平条約の実行については、万違背《よろず違背》のないこと、自分が神明に誓ふ《う》から、と言って、懇々説いた。  如水の熱弁真情《熱弁/真情》あふれ、和談の使者の口上を遠く外れて惻々たるものがあるから、かねて和平の心が動いていた氏政は思は《わ》ず厚情にホロリとした。そこで日光一文字の銘刀と東鑑一部を贈って厚く労をねぎらひ《い》、その日は即答をさけて、如水を帰《-かえ》した。この報告をうけた秀吉は大いに喜び、如水の言ふ《う》ままに、武蔵、相模、伊豆三国の領有を許す旨《=むね》を誓紙に書いて直判《ジキハン》を捺した。  如水は之《此れ》を|たづさへ《携え》て小田原城中にとって返し、重ねて氏政を説く。氏政の心も定まって、家臣一同の助命を乞ふ《う》、いは《わ》ば無条件降伏である。和談は成立、如水の労を徳として、氏直からは時鳥の琵琶という宝物《=ホウモツ》などが届けられたが、一族率いて軍門に降《くだ》ったのが七月六日であった。  ところが、降伏に先立って、松田|憲秀《=ノリヒデ》をひきだして、首をはねた。之《これ》は一応尤もな人情。裏切りを憎むは兵家の常道《ジョウドウ》で、落城、城《#しろ》を枕に、という時には、押込みの裏切者をひきだして首をは《刎》ね、それから城に火をかけて自刃する。けれども、北条の場合は、城《=しろ》を枕にと話が違って、降伏開城というのである。しかも尚裏切者を血祭にあげる、人情まことに憐むべしであるけれども、いは《わ》ば降伏に対する不満の意、不服従の表現と認められても仕方がない。北条方《北条ガタ》には智者がなく何事につけてもカドがとれぬ。か《こ》ういうことに敏感で、特に根に持つ秀吉だから、関白を怖れぬ不届きな奴原、と腹《’腹》をたてた。  そこで秀吉は誓約を裏切り、武蔵、相模、伊豆三国を与へ《え》るどころか、領地は全部没収、氏政氏照に死を命じる。蓋し、織田信雄の存在が徳川家康の動きだす根に当るなら、北条氏の存在は火勢を煽る油のや《よ》うな危険物。特別秀吉の神経は鋭い。そこで誓約を無視して、北条氏を断絶せしめてしまった。  顔をつぶしたのは如水である。  けれども、権謀術数は兵家《=ヘイカ》の習《習い》。まして家康に火の油、明《明ら》かに後日の禍根であるから、之《これ》を除いた秀吉の政策、上乗のものではなくても、下策ではない。権謀術数にかけては人に譲らぬ如水のことで、策の分らぬ男ではない。  けれども、如水は大いに|ひが《僻》んだ。俺の|ととのへ《整え》た和談だから、俺の顔をつぶしたのだ、と、事毎に自分の男のすたるや《よ》うに、自分の行く手のふさがるや《よ》うに仕向ける秀吉。凡愚にあらぬ如水であったが、秀吉との行きがが《か》り、ひがむ心《=こころ》はどうにもならぬ。心中《シンチュウ》甚だひねくれて、ふくむところがあった。  秀吉は宏量大度の如くありながら、又、小さなことを根にもって気根よく復讐をとげる男でもあった。憲秀《=ノリヒデ》の裏切を次男左馬助の密告でしくじった、この怒《=いか》りが忘れられぬ。そこで如水をよびよせたが、選《よ》りに選《よ》って如水をよぶとは、秀吉は無心であったか知れないが、之《これ》はあくどいやり方《=かた》だ。ハテ、何と言ったな、あの小僧め、憎むべき奴《ヤツ》、首をはねて之《これ》へ持て。アヽ《ア》、あの小僧、左様ですか、承知致した。  如水は引きさがったが、父の憲秀《=ノリヒデ》、之《これ》は落城のとき北条の手で殺された。然し、長男の新六郎はまだ生きて、之《これ》は厚遇を受けている。何食は《わ》ぬ顔、新六郎を戸外へ呼びだして、だしぬけに一刀両断、万感交々到って痛憤秀吉《痛憤’秀吉》その人を切断寸断する心、如水は悪鬼の形相《ギョーソー》であった。獅子心中の虫め。屍体を蹴って首をひろひ《い》、秀吉のもとへ|ブラ下《ぶら下》げて、戻ってきた。ハテナ、之《これ》は長男新六郎の首と違ふ《う》か? ハ、何事で? アッ、やったな! チンバめ! 秀吉は膝を立てて、叫んだ。俺に忠義《=チュウギ》の新六郎を、貴様、ナゼ、殺した!  之《これ》はしたり。左様でしたか。如水はいささかも動じなかった。冷静水《冷静’水》の如く秀吉の顔を見返して、軽く一礼。とんだ人違ひ《い》を致して相済まぬ仕儀でござった。あの左馬助は父の悪逆に忠孝の岐路に立ち父兄の助命を恩賞に忠義《=チュウギ》の道《=みち》を尽した健気な若者、年《とし》に似合は《わ》ぬ天晴な男でござる。この新六郎めは父|憲秀《=ノリヒデ》と謀《=たばか》り主家《=シュカ》を売った裏切者、かや《よ》うな奴が生き残ってお歴々との同席、本人の面汚しはさることながら、同席の武辺者がとんだ迷惑などと考へ《え》てをりましたもので、殿下のお言葉、よくも承りませず、新六郎とカン違ひ《い》を致した。イヤハヤ、年甲斐もない、とんだ粗相。また、とぼけを《お》る! チンバめ! 秀吉は叫んだが、追求はしなかった。  チンバめ、顔をつぶして、ふてくされを《お》る。持って生《生ま》れた狡智、戦略政策にかけて人並以上に暗《くら》からぬ奴、いささかの顔をつぶして、ひがむとは。秀吉は肚で笑ったが、如水は新六郎の首をはねて、いささか重なる鬱を散じた。家康にめぐる天運を頻りにのぞむ心が老いたる彼の悲願となったが、その家康は、さすがに器量が大きかった。  氏政は切腹、世子氏直は高野《コウヤ》へ追放、この氏直は家康の娘の聟だ。一家断絶、誓約無視は信長など濫用の手で先例にとぼしからぬことではあるが、見方によれば、家康の手をもぎ爪《/爪》をはぐやり方《=かた》、家康のカンにひびかぬ筈はない。けれども、家康は平気であった。  秀吉が家康をよびよせて、北条断絶、氏直追放の旨《=むね》を伝へ、氏直は貴殿の聟、まことにお気の毒だが、と言ふ《う》と、イヤイヤ、殿下、是非もないことでござる。思へ《え》ば殿下の懇《懇ろ》な招請三ヶ年、上洛に応ぜぬばかりか四隣《=シリン》に兵をさしむけて私利私闘にふける、遂に御成敗を蒙るは自業自得、誰を恨むところもござらぬ。一命生き|ながらへ《長らえ》るは厚恩、まことに有難いことでござる、と言って、敬々しく御礼に及んだものである。  家康は人の褌を当《当て》にして相撲をとらぬ男であった。利用し得《=え》るあらゆる物《’物》を利用する。然しそれに縋り、それに頼って生きようという男ではない。松田|憲秀《=ノリヒデ》の裏切露顕《裏切り露顕》の報をきいて、家康は家臣達にか《こ》う諭した。小田原城に智将がをらぬものだから、秀吉勢も命拾ひ《い》をしたものだ。俺だったら、裏切露顕《裏切り露顕》を隠しておいて、何食は《わ》ぬ顔、秀吉の軍兵を城中に引入れ、皆殺しにしてしまふ《う》。秀吉方一万ぐらいは失ってを《お》る。裏切などは当《当て》にするな、と言った。奇策縦横の男である故奇策《ゆえ奇策》にたよらぬ家康。彼は体当りの男である。氏直づれ、信雄《ノブカツ》づれの同盟がなくて生きられぬ俺ではない。家康は自信、覇気満々の男であった。  小田原落城、約束の如く家康は関八州を貰ふ《う》。落城が七月六日、家康が家臣全員ひきつれて江戸に移住完了したのが九月であった。その神速に、秀吉は度胆をぬかれた。移住完了の報をうけると、折から秀吉は食事中であったが、箸をポロリと落すのはか《こ》ういう時の約束で、秀吉は暫し呆然、あの狸めのやることばかりは見当がつかぬ、思は《わ》ず長大息に及んだという。  如水には、ビタ一文《=いちもん》恩賞の沙汰がなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二話】 【朝鮮で】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  釜山郊外|東莱《+トウライ》の旅館で囲碁事件というものが起った。  石田三成、増田長盛、大谷刑部の三奉行が秀吉の訓令を受けて京城を撤退してきて、報告のため黒田如水と浅野弾正をその宿舎に訪れた。ところが如水と弾正は碁を打っている最中《=サイチュウ》でふりむきもしない。三奉行はさ《そ》うとは知らず暫時控えていたが、そのうちに、奥座敷で碁石の音がする。待つ人を眼中になく打ち興じる笑声《=ショウセイ》まで洩れてきたから、無礼至極、立腹して戻ってしまった。さつ《っ》そくこの由を書きしたためて秀吉の本営に使者を送り、如水弾正の嬌慢を訴へ《え》る。  秀吉は笑ひ《い》だして、イヤ、之《これ》は俺の大失敗だ。あのカサ頭《アタマ》の囲碁気違ひ《い》め、俺もウッカリ奴《=ヤツ》めの囲碁好《囲碁ず》きのことを忘れて、陣中徒然、碁にふける折もあら《ろ》うが、打ち興じて仕事を忘れるな、と釘をさすのを忘れたのだ、さつ《っ》そく奴めしくじりをったか。之《これ》は俺の迂闊であった。まア、今回は俺にめんじて勘弁してくれ、と言って三成《三成’》らを慰めた。  ところが如水は碁に耽って仕事を忘れる男ではない。それほど碁好きの如水でもなかった。野性の人だが耽溺派とは趣の違ふ《う》現実家、却々もって勝負事に打ち興じて我《吾》を忘れる人物ではない。このことは秀吉がよく知っている。けれども斯う言って如水のためにとりなしたのは、秀吉が朝鮮遠征軍の内情軋轢に就《就い》て良く知らぬ。遠征軍の戦果遅々、その醜態にいささか不満もあったから、律儀で短気で好戦的な如水が三奉行に厭味を見せるのも頷ける。そこで如水のために弁護して、之《これ》は俺の大失敗だと言って笑ってすました。  たかが碁に打ち耽って来客を待たしたという、よしんば厭味の表現にしても、子供の喧嘩のや《よ》うなたあいもない話であるから、自分が頭を掻いて笑ってしまへ《え》ばそれで済むと秀吉は思っていた。  ところが、さ《そ》うは行かぬ。この小さな子供の喧嘩に朝鮮遠征それ自体の大きな矛盾が凝縮されていたのであったが、秀吉は之《これ》に気付かぬ。秀吉はその死に至るまで朝鮮遠征の矛盾悲劇に就《就い》てその真相の片鱗すら知らなかったのであるから、この囲碁事件を単なる頑固者と才子との性格的な摩擦だぐらいに、軽く考へ《え》てしかいなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  元来、如水が唐入《唐入り》(当時朝鮮遠征をか《こ》う言った。大明進攻《ダイミン進攻》の意である)に受けた役目は軍監で、つまり参謀であるが、軍監は如水壮年時代から一枚看板、けれども煙たがられて隠居する、ちや《ょ》うど之《これ》と入換《入れ代わ》りに秀吉|帷幕《=イバク》の実権を握り、東奔西走、日本全土を睥睨して独特の奇才を現はし|はじ《始》めてきたのが、石田三成であった。  如水は|ことさら《殊更》に隠居したが、なほ《お》満々たる色気は隠すべくもなく、三成づれに何ができるか、事務上の小才があって多少|儕輩《+セイハイ》にぬきんででいるというだけのこと。最後は俺の智恵をかりにくるばかりさ、と納まっていたが、世の中はさ《そ》ういうものではない。昨日までの青二才が穴を填《埋》め立派にやって行くものだ。さ《そ》うして、昨日の老練家は今日《=キョウ》の日は門外漢となり、昨日の青二才が今日の老練家に変っているのに気がつかない。  如水は唐入《唐入り》の軍監となり、久方振りの表役《オモテ役》、秀吉の名代《ミョーダイ》、総参謀長のつもりで、軍略はみんな俺に相談しろ、俺の智嚢のある限り、大明《ダイミン》の首都まで坦々たる無人の大道にすぎぬと気負ひ《い》立っていた。  けれども、総大将格の浮田秀家を始め、加藤も小西も、如水の軍略、否《いな》、存在すらも問題にせぬ。各々功《各々コウ》を争ひ《い》腕力にまかせて東西に攻めたてる。朝鮮軍が相手のうちは、これで文句なしに勝《=か》っていた。之《これ》は鉄砲のせいである。朝鮮軍には鉄砲がない。鉄砲の存在すらも知らなかった。彼らの主要武器たる弩《弓》は両叉の鉄をつけた矢を用ひ《い》、射勢はかなり猛烈だったが、射程がない。城壁をグルリと囲んだ日本軍が鉄砲のツルベうち、百雷の音、濛々たる怪煙と異臭の間《=あいだ》から見えざる物が飛び来って味方がバタバタと倒れて行く。魔法使を相手どって戦争している有様《=ありさま》であるから、魂魄消え去り為す術《=すべ》を失ひ《い》、日本軍が竹の梯子をよぢ登って足もとへ首をだすのに茫然と見まもっている。之《これ》では戦争にならない。京城《けーじょう》まで一気に攻めこんでしまった。  そこへ明《ミン》の援軍がやってきた。明《ミン》は西欧との通交も頻繁で、もとより鉄砲も整備しているから朝鮮を相手のや《よ》うには行かぬ。  如水は明軍を侮りがたい強敵と見たから、京城を拠点に要所に城を築いて迎へ《え》撃つ要塞戦法を主張、全軍に信頼を得ている長老小早川隆景が之《これ》に最も同意して、軍議は一決の如く思は《わ》れたのに、突然《突然’》小西行長が立って、一挙|大明進攻《ダイミン進攻》を主張し、単独前進を宣言して譲らないから、軍議は滅茶々々《メチャメチャ》になってしまった。結局《結局’》行長は単独前進する、果して明軍は数《数’》も多く武器もあるから、大敗北を蒙り、全軍に統一ある軍略を失っている日本軍、一角が崩れるとたあいもなくバタバタと敗退して、甚大の難戦に落ちこんでしまった。  如水は立腹、それみたことかとふてくされた。病気を理由に帰国を願ひ《い》でる。帰朝して遠征軍の不統一を上申し、各人功《各人/コウ》を争ひ《い》、自分勝手《ジブン勝手》の戦争にふけって統一がないのだから、整備した大敵を相手にすると全く勝ちめがない。総大将格の秀家に軍議統一の手腕がないのだから、と言って、満々たる不平をぶちまけた。もとより秀吉は不平の根幹が奈辺にあるか見抜いている。如水も老いた。若い者《=もの》に疎略にされて色気満々のチンバ奴《メ》がいきり立つこと。秀吉は、まだそのころは聡明な判断を失は《わ》なかった。  遠征軍はともかく立直って碧蹄館で大勝した。然し、明軍も亦立直って周到な陣を構へ対峙するに至って、戦局まったく停頓し、秀吉はたまりかねて焦慮した。自《=みずか》ら渡韓、三軍の指揮を決意したが、遠征の諸将からは、まだ殿下|御出馬《ご出馬》の時ではないと言って頻りにとめてくる。家康、利家、氏郷ら本営の重鎮に相談をかけると、殿下、思ひ《い》もよらぬことでござる、と言って各々太閤を諫めた。  当時日本国内は一応平定したけれども、之《これ》は表面だけのこと、謀反、反乱の流言《=リュウゲン》は諸国に溢れている。朝鮮遠征に心から賛成の大名などは一人もをらず、各人所領内に匪賊の横行、経済難、困じ果てている。町人百姓《町人/百姓》に至っては、大明遠征《ダイミン遠征》の気宇の壮、さ《そ》ういうものへの同感は極めて僅少で、一身一家の安穏を望む心が主《シュ》であるから、不平は自《=みずか》ら太閤の天下久しからず、謀反が起って|くつがへ《覆》る、お寺の鐘が鳴らなくなったから謀反の起る前兆だなどと取沙汰《取り沙汰》している。  家康が名護屋に向って江戸を立つとき、殿《トノ》も御渡海遊ばすか、と家臣が問ひ《い》かけると、バカ、箱根を誰が守る、不機嫌極《不機嫌極ま》る声《=コエ》で怒鳴った。まことに然り。謀反を起す者、家康如水の徒《=ト》ならんや。広大なる関八州は家康わづかの手兵を率いて移住を完了したばかり、土着の者すべて之北条《これ北条》恩顧の徒ではないか。日本各地おしなべて同じ事情で、領主の武力が|わづ《僅》かに土賊《ド賊》の蜂起を|押へ《押さえ》ているばかり。家康が関東へ移住と共に、施政の第一に為したことが、領内鉄砲《領内’鉄砲》の私有厳禁ということであった。  真実遠征に賛成の大名などは一人もをらぬ。伊達政宗は相《あい》も変らず領土慾、それとなく近隣へチョッカイをだして太閤の怒《=いか》りにふれ謀反の嫌疑を受けた。大いに慌ててこの釈明を実地の働きで表すために自《=みずか》ら遠征の一役《ひと役》を買って出て、部将の端《=ハシ》くれに連なり、頼まれぬ大汗《オオアセ》を流している。か《こ》ういう笑止な豪傑もいたけれども、家康も利家も氏郷も遠征そのことの無理に就《就い》て見抜くところがあったし、国内事情の危なさに就《就い》ても太閤の如くに楽天的では有り得《え》ない自分の領地を背負《せお》っていた。秀吉が名護屋にいるうちは睨みがきくが、渡韓する、戦果はあがらぬ、火の手が日本の諸方にあがって自分のお蔵に火がついて手を焼くハメになるのが留守番たち、一文《イチモン》の得にもならぬ。  家康、利家、氏郷、交々秀吉の渡韓を諫める。然し、秀吉は気負っているし、家康らは又、異見の根柢が遠征そのことの無理に発しているのであるが、之《これ》を率直に表現できぬ距《=隔た》りがあり、ダラダラと一は激《激’》し、一はなだめて、夜《ヨ》は深更に及んだけれども、キリがない。このときであった。襖を距《=隔》てた隣室から、破鐘《+ワレガネ》のや《よ》うな声できこえよがしの独りごとを叫びはじめた奴《ヤツ》がある。如水であった。 「ヤレヤレ。天下の太閤、大納言ともあら《ろ》う御歴々が、夜更けに御大儀、鼠泣かせの話ぢや。御存知なしとあらば、遠征軍の醜状いささかお洩し申さ《そ》うか。彼らは兵士にあらず、ぬすびと、匪賊でござる。日本軍の過《す》ぐるところ、残虐きは《わ》まり、韓民悉く恐怖して山中《サンチュウ》に逃避し去り、占領地域に徴発すべき物資なく、使役すべき人夫なく、満目ただ見る荒蕪の地、何《なん》の用にも立ち申さぬ。のみならず諸将功《諸将’コウ》を争ふ《う》て抜け駈けの戦果をあさり、清正の定めた法令は行長之《行長これ》を破り、行長の定めた法令は清正之《清正これ》を妨げる。総大将の浮田殿《浮田どの》、無能無策の大《#オオ》ドングリ、手を拱《-こまね》いでござるはまだしも、口を開《ひら》けば、事毎に之失敗《これ失敗》のもとへでござるよ。この将卒が唐入《唐入り》などとは笑止千万《笑止センバン》、朝鮮の征伐だにも思ひ《い》も寄り申さぬ。この匪賊めらを統率して軍規に服せしめ戦果をあげるは天晴大将の大器のみ。大将の器《=ウツワ》は張子では間に合は《わ》ぬ。日本広しといへども、江戸大納言、加賀宰相、然《そう》して、かく申す黒田如水、この三人をおいて天下にその人はござるまいて」  破鐘《ワレガネ》の独りごと。  如水は戦争マニヤであった。なるほど戦争の術策《=ジュッサク》に於《於い》て巧妙狡猾を極めている。又、所領の統治者としても手腕凡ならず、百姓を泣かすな、ふとらせるな、というのが彼の統治方針。百万石|二百万石《二百’万石》の領地でも大きすぎて困るという男ではない。けれども、所詮武将であり、武力あっての統治者だ。彼は切支丹《キリシタン》で常に外人宣教師と接触する立場にありながら、海外問題に就《就い》て家康の如く真剣に懊悩推敲する識見眼界を持ち合せぬ。民治家《ミンジカ》としても三成の如く武力的制圧を放れ、改革的な行政を施すだけの手腕見識はなかった。明国《ミン国》へ攻め入ればとて、この広大、且言語風俗《且/言語風俗》を異《イ》にする無数の住民を擁する土地を永遠に占領統治し得《う》べきものでもない。如水はかかる戦争の裏側を考へ《え》てをらぬ。否《イナ》、その考へ《え》の浮かばぬ如水ではなかったが、之《これ》を主要な問題とは《は-》せぬ如水であった。  四人は顔を見合せた。年甲斐もない血気自負、甚だ壮烈であるけれども、あまり距《=隔た》りのある如水の見識で、言葉もでない。秀吉まで毒気《毒け》をぬかれて、渡韓は有耶無耶、流れてしまった。  秀吉は渡海を諦めたが、如水の壮語に心中《シンチュウ》頷くところがあって、再び軍監として渡海せしめることにした。一応の任務を持たせて戦地に放《ほ》っておく限り、功にはやり、智嚢をかたむけ、常に何がしかのミヤゲを持って立ち戻る如水だからだ。それで旌旗を授け、諸将にふれて従前以上の権力をもたせ、浅野弾正と共に渡海せしめた。そこで二人は釜山《プサン》に到着、東莱《トウライ》の宿舎に落付く。囲碁事件の起ったのは、この時のことであった。  ちや《ょ》うど、このとき、前線では和議が起っていた。秀吉を封じて大明国王《ダイミン国王》にするという、こんな身勝手な条約に明軍が同意を示す筈は有り得《え》ないのだから、諸将は誰あって和議成立をまともに相手にしてはを《お》らぬ。如水は特別好戦的な男だから和談派の軟弱才子を憎むや切《セツ》、和談を嫌ふ《う》が故に、好戦的ですらあった。  朝鮮遠征の計画がすすめられているとき、石田三成は島左近を淀君《淀ぎみ》のもとに遣して、淀君《淀ぎみ》の力によってこの外征を思ひ《い》とどまるや《よ》う説得方を願は《わ》せた。小田原征伐が終り奥州も帰順して、ともかく六十余州平定、応仁以降うちつづく戦乱にや《よ》うやく終止符らしきものが打たれたばかり。万民が秀吉の偉業を謳歌するのは彼によって安穏和楽を信ずるからで、然る時に、息つくまもなく海外遠征、壮丁は使丁にとられ、糧食は徴発、海辺の村々は船の製造、再び諸国は疲弊して、豊臣の名は万民怨嗟の的となる。明《ミン》を征服したればとて、日本の諸侯をここに移して永住統治せしめることは不可能で、遠征の結果が単に国内の疲弊にとどまり実質的にはさらに利得《=リトク》の薄いことを三成は憂へたから、淀君《淀ぎみ》の力によって思ひ《い》とどまらせたいと計った。  とはいへ、三成は周到な男であるから、一方遠征に対して万全の用意を怠らず、密偵を朝鮮に派して地形道路軍備人情風俗《地形/道路/軍備/人情/風俗》に就《就い》て調査をすすめる、輸送の軍船、糧食の補給、之《これ》に要する人夫と船の正確な数字をもとめて徴発の方途を講じてもいた。  如水は三成の苦心の存するところを知らぬ。淀君《淀ぎみ》のもとに島左近を遣して外征の挙を阻止する策を講じたときいて、甚《=ハナハダ》しく三成を蔑み、憎んだ。如水の倅長政は政所の寵を得て所謂政所派の重鎮であり、閨閥に於《於い》て淀君派《=淀ぎみ派》に対立しているものだから、淀君派《=淀ぎみ派》の策動は間諜の手で筒抜けだ。小姓あがりの軟弱才子め、戦争を怖れ、徒に平安をもとめて婦女子の裾に縋りつく。  三成は如水隠退のあとを受けて秀吉の帷幕《=イバク》随一の策師となった男であるから、尚満々《なお満々》たる血気横溢の如水にとって、彼の成功は何よりも虫を騒がせる。三成は理知抜群の才子であるが、一面甚だ傲岸不屈、自恃の念が逞しい。如水の遺流《イ流》の如きはもとより眼中になく、独特の我流によって奇才を発揮している。人づきの悪い男で、態度が不遜であるから、如水は特別不快であり、三成の名をきいただけでも心中《シンチュウ》すでに平《平ら》でない。その才幹を一応納得せざるを得ないだけ憎しみと蔑みは骨髄に徹していた。たまたま淀君《淀ぎみ》の裾に縋って外征阻止をはかったときいたから、如水の軽蔑は激発して、彼が不当に好戦意慾に憑かれたのもさ《そ》ういうところに原因のひとつがあった。  だが、この遠征には、秀吉も知らぬ、家康も知らぬ、如水はもとよりのこと、三成すらも気づかなかった奇怪な陥穽があったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信長は生来《=セイライ》の性根が唯我独尊、もとより神仏を信ぜず、自分を常に他と対等の上に置く独裁型の君主であったが、晩年は別して傲慢になった。  秀吉が信長の命《メイ》を受けて中国征伐に出発のとき、中国平定後は之《此れ》をお前にやるから、と言は《わ》れて、どう致しまして、中国などは他の諸将に分与の程を願ひ《い》ませ《しょ》う。その代《=かわ》り、中国征伐のついでに九州も平らげてしまふ《う》から、九州の年貢の上《上が》りを一年分だけ褒美に頂戴致したい、之《これ》を腰にぶらさげて朝鮮と明《ミン》を退治してきます、と言って、信長を笑は《わ》せた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持をそらさぬ用意が秘められてをり、信長の意中を知る秀吉は巧みに之《これ》を利用して信長の哄笑を誘ったのだが、やがてそれが秀吉自身の心になってしまふ《う》のだった。  秀吉は九州征伐の計画中には同時に朝鮮遠征の計画をも合せ含めて、対馬の領主宗義調に徴状を発し、如水や安国寺恵瓊に向って、九州の次は朝鮮、その朝鮮を案内に立てて大明征伐《ダイミン征伐》が俺のスゴロクの上《上が》りだからお前達も用意しておけ、と言って痩せた肩を怒《いか》らせていたという。  ところが、九州が平定する。すると秀吉は忘れていない。さつ《っ》そく宗義調に命じて、平和的に朝貢するや《よ》う朝鮮にかけあへ、と言ってきた。宗《ソウ》は秀吉の気まぐれで、九州征伐余勢の気焔だら《ろ》うと考へ《え》、本心だとは思ふ《う》ことができないから、なんの朝鮮如き、殿下の御威光《ご威光》ならば平蜘蛛の如く足下《=あしもと》にひれふすでございませ《しょ》う、と良《い》い加減なお世辞を言って秀吉を喜ばせておいた。  だが、秀吉は人が無理だということを最もやる気になっていた。なぜなら、他人にはやれないことが自分にだけは出来るのだし、又、それを歴史上に残してみせるという増上慢にとり憑れてしまったからだ。この増上慢の根柢には科学性が欠けていた。彼はさしたる用意もなく、日本平定の余勢だけで大明遠征《ダイミン遠征》にとりかかった。人には出来ぬ、然し俺には出来るという信念だけがその根柢であったから、彼に向って直接苦言を呈する手段がなかったのである。  まだ小田原征伐が残っている、奥州も平定していないというのに、秀吉は宗|義智《=ヨシトシ》に督促を発して、まだ朝鮮が朝貢しないが、お前の掛合《掛合い》はどうしている。直ちに朝貢しなければ、清正と行長を攻めこませるから、と厳命を達してきた。  宗|義智《=ヨシトシ》は驚いた。義智《=ヨシトシ》の妻は小西行長の妹で義の兄弟、この両名は朝鮮のことに就《就い》ては首尾一貫連絡をとっている。行長の父は元来堺の薬屋で唐朝鮮《カラ朝鮮》を股にかけた商人《商人:》、そこで行長も多少は朝鮮の事情を心得ていたから、殿下が遠征の場合は拙者めに道案内を、と言って、兼々《+カネガネ》うまく秀吉の機嫌をとりむすび、よから《ろ》う、日本が平定すると唐入《唐入り》だから怠らず用意しておけ、その方《ほう》と清正両名が先陣だ、か《こ》う言って、清正と二人、肥後を半分づつ分けて領地に貰ひ《い》、その時から唐入《唐入り》の先陣は行長と清正、手筈はちやんときまっていた。  秀吉の計画は唐入《唐入り》、即ち明征伐《ミン征伐》で、朝鮮などは問題にしてをらぬ。朝鮮づれは元々日本の領地であった所であり、宗《ソウ》の掛合だけでただの一睨《ひと睨》み、帰順朝貢するものだと思っている。そこで朝鮮を道案内に立て明征伐《ミン征伐》の大軍を送る、之《これ》が秀吉のきめてかかったプラン、宗|義智《=ヨシトシ》に命じて掛合は《わ》せたところも帰順朝貢、仮道入明《カドウニュウミン》、即ち明征伐《ミン征伐》の道案内ということで、秀吉は簡単明快に考へ《え》ている。応じなければ即刻清正と行長を踏みこませるぞ、と言って義智《=ヨシトシ》に命じた。  然しながら朝鮮との交渉がしかく簡単に運ばぬことは、行長、義智《=ヨシトシ》、両名がよく心得ていた。朝鮮は明国《ミン国》に帰属していたが、明《#ミン》は大国であり、之《これ》に比すれば日本は孤島の一帝国にすぎぬ。あまつさへ《え》足利義満が国辱的な外交を行《=おこな》って日本の威信を失墜している。即ち彼は自《=みずか》ら明王《ミン王》の臣下となり、明王《ミン王》の名によって日本国王に封ぜられ、勘合符の貿易許可を得たものだった。だから朝鮮の目には、日本も自分と同じ明王《ミン王》の臣下、同僚としか映らず、同僚の国へ朝貢する、考へ《え》られぬ馬鹿なことだと思っている。まして、その同僚のお先棒を担《=かつ》いで主人退治の道案内をつとめるなどとは夢の中の話にしても阿呆《=アホ》らしい。  行長と義智《=ヨシトシ》は這般の事情を知悉しながら、之《これ》を率直に上申して秀吉の機嫌をそこねる勇気に欠けていたのである。真相を打開けて機嫌をそこねる勇気はない。然し、厳命であるから、ツヂツマは合せなければならぬ。  そこで博多聖徳寺の学僧玄蘇を正使に立て、義智《=ヨシトシ》自身は副使になって渡韓した。帰順朝貢などという要求は始めから持ちださない。けれどもシッポがばれては困るから秀吉の要求だけは相手に告げた上で、どうも成上《=成り上が》り者《=もの》の関白だから野心に際限《=サイゲン》がなく身の程を知らなくて自分らは無理難題に困っている。貴国の方《ほう》で帰順朝貢|仮道入明《カドウニュウミン》などという馬鹿々々《馬鹿馬鹿》しいことは出来る筈でないけれども、自分が間《あいだ》にはさまって困っているから体《=テイ》よくツヂツマを合せてくれ。つまり交隣通信使をだしてくれぬか。交隣通信使は二ヶ国間の対等の公使であるが、之《これ》を帯同して秀吉の前だけは帰順朝貢と称して誤魔化してしまふ《う》。その代《=かわ》り、御礼として、叛民の沙乙背同《サウルベドン》と俘虜の孔太夫を引渡すし、又、倭寇の親分の信三郎だの金十郎だの木工次郎というてあひ《い》を|引捕へ《引っ捕らえ》て差上《差し上》げるから、と言って、三拝《サンパイ》九拝懇願に及んだ。  ともかく朝鮮側の承諾を得ることができて、交隣通信使たる黄充吉《コウ-インキツ》、副使の金誠一《キン-セイイツ》らを伴って京都に上《=のぼ》り、之《これ》を帰順朝貢と称して上申したのだが、朝鮮王からの公文書は途中で偽造してシッポのでないものに造り変へ《え》ておいたのだ。  この朝鮮使節が上洛したのは小田原征伐の最中《=さいちゅう》だったが、朝鮮などは元々日本の臣下ときめてかかった秀吉、ああ、左様か、ヨシヨシ、待たしておけ、問題にしない。五ヶ《=か》月間、京都に待たせておいた。  小田原遂に落城、秀吉は機嫌よく帰洛する、途中駿府まで来たとき、小西行長が駈けつけてきて拝謁し、改めて朝鮮使節の来朝に就《就い》て報告する。秀吉は満足して、アッハッハ、あつ《っ》さり帰順朝貢しをったか、さもあら《ろ》う、それに相違あるまいな、と念を押したが、頭からきめてかかって疑ふ《う》様子がないのだから、行長は圧倒されて、否定どころか、多少の修正をほどこすだけの勇気もない。そこで秀吉がたたみかけて、然らば唐入《唐入り》の道案内も致すであら《ろ》うな、と問ひ《い》ただすと、それはもう、殿下の御命令に背く筈はございませぬ、か《こ》うハッキリと答へ《え》てしまった。  朝鮮使節の一行《=イッコウ》が交隣通信使にすぎぬなどとは秀吉もとより夢にも思は《わ》ず、行長と義智《=ヨシトシ》の外《ほか》には日本に一人の知る者《=もの》もない。三百名の供廻りをつれ、堂々たる使節の一行《=イッコウ》であるから、之《これ》が帰順朝貢とは殿下の御威光《ご威光》は大したもの、折から印度副王からの使節なども到着して京都は気色の変った珍客万来《チンキャク万来》、人々は秀吉の天下を謳歌したが、五ヶ《=か》月間の待ちぼうけ、この間《=あいだ》の使節一行をなだめるために行長と義智《=ヨシトシ》は百方陳弁、御機嫌をとりむすぶのに連日連夜汗を流し痩《/痩》せる思ひ《い》をしたのであった。  外交官というものは人情に負けると失敗だ。本国と相手国の中間《チューカン》に於《於い》て、その両方の要求を過不足《カブソク》なく伝へ《え》るだけの単なる通話機械の如き無情冷淡を必要とする。要《=よう》は之《これ》だけのものではあるが、考へ《え》るという働きあるために単なる機械に化することが至難事《シ難事》だ。本国の雰囲気にまきこまれても不可、相手国の雰囲気にまきこまれても不可、秀吉の怒《=いか》りを怖れて相手国の情勢を率直に伝へる勇気がなくても不可であり、朝鮮側の意向を先廻りして帰順朝貢の筈がないときめてかかる、之《これ》も亦不可。人情に負け、自分だけの思考によって動きだすと失敗する。とはいへ、単なる通話機械と化するには一個の天才が必要だ。行長も義智《=ヨシトシ》も外交官の素質がなかった。帳面づらと勘定を合せるだけの機智はあったが、商人型の外交員にすぎなかった。  けれども、行長はむしろ正直な男であった。秀吉の独断的な呑込み方に圧倒されて小細工を弄せざるを得ぬ立場になったが、之《これ》はその人選に当を得ぬ秀吉自身の失敗。  行長は切支丹《キリシタン》であったが如水も亦|切支丹《キリシタン》であった。行長はその斬罪の最後の日に到るまで極めて誠実なる切支丹《キリシタン》で、秀吉の禁教令後《禁教令ゴ》は追放のパードレを自領の天草《アマクサ》に保護して布教に当らせ、秀吉と切支丹《キリシタン》教徒の中間《チューカン》に立って斡旋につとめ、自《=みずか》らの切支丹《キリシタン》たることをついぞ韜晦したことがなかった。如水は然らず。彼はパードレに向って、自分は切支丹《キリシタン》であるために太閤の機嫌をそこね、昇進もおくれ禄高も少い、と言って、暗に切支丹《キリシタン》を韜晦する自分の立場を合理化し、一方に禅に帰依して太閤の前をつくろっていた。尤も之《これ》には両者の立場の相違もある。行長は太閤の寵を得てをり、如水はさらでも睨まれている。切支丹《キリシタン》を韜晦せずにはいられない危険な立場にいたのであったが、行長とても、多少の寵は禁教令の前に必ずしも身の安全の保証にはならぬ。高山右近の例によって之《此れ》を知りうる。行長は如水に比すれば正直であり、又、ひたむきな情熱児であった。  駿府の城で行長の報告をきいた秀吉は大満足。その晩は大酒宴《ダイ酒宴》を催して、席上|大明遠征《ダイミン遠征》軍の編成を書きたてて打興《打ち興》じ、遠征の金《-かね》に不自由なら貸してやるから心配致すな、|ソレ《それ》者共、というので、三百枚の黄金を広間にまきちらす馬鹿騒ぎ。  京都へ帰着。日本国関白殿下の大貫禄《ダイ貫禄》をもって天晴《あっぱ》れ朝鮮使節を聚楽第に引見する。  秀吉は紗の冠に黒袍束帯、左右にズラリと列坐の公卿が居流れる。物々しい儀礼のうちに国書と進物を受けたけれども、酒宴が始まると、もう、ダラシがない。朝鮮音楽の奏楽が始まると、鶴松(当時二歳)をだいて現れて、之《これ》をあやしながら縁側を行《往》ったり来たり、コレコレ泣くな、ホレ、朝鮮の音楽ぢや、と余念がない。すると鶴松が小便をたれた。秀吉アッと気付いて、ヤア小便だ小便だ。時ならぬ猿猴の叫び声。「容貌矮陋、面色|黎黒《+レイコク》」下賤無礼、話の外《ほか》の無頼漢《=ブライカン》だ、と朝鮮使節はプンプン怒って帰国の途《=と》についた。  さ《そ》うとは知らぬ秀吉、名護屋に本営を築城して、大明遠征《ダイミン遠征》にとりかかる。行長と義智《=ヨシトシ》は困惑した。遠征軍が平和進駐のつもりで釜山《プサン》に上陸すると、忽ちカラクリがばれてしまふ《う》。どうしても一足先《=ひとあしさき》に赴いて何とか弥縫《=ビホウ》の必要があるから、ひそかに秀吉に願ひ《い》でた。即ち、朝鮮使節はああ言って帰ったけれども、彼等は元来|表裏常《/表裏常》ならぬ国柄であるから、果して本心から道案内に立つかどうか分らない。日本軍が上陸してから俄に違約を蒙って齟齬を来《=きた》しては重大だから、彼らの本心を見究めるため、自分らを先発させて欲しい。朝鮮の真意が分り次第報告するが、ともかく三月一杯は全軍の出陣を見合せるや《よ》う訓令を発していただきたい、と願ひ《い》でで《て》、許可を得た。  行長と義智《=ヨシトシ》は直ちに手兵を率いて先発する。彼らは必死であった。釜山《プサン》に上陸、直ちに交渉を開始して、清正の軍勢は目と鼻の先の島まで来ているし、後詰の大軍はすでに対馬に勢揃ひ《い》を完了している。十数万の精鋭であるから、今、太閤を怒《=おこ》らせると、朝鮮はてもなく足下《=あしもと》に蹂躙されるのが運命である。かくなる以上は遠征の道案内に立つ方《ほう》が身の為だ、と言って、彼らも死物狂ひ《い》、なかば脅迫の言辞を弄して迫ったけれども、朝鮮の態度は傲慢で、下賤の猿面郎が大明遠征《ダイミン遠征》などとは蜂《=ハチ》が亀の甲《=コウ》を刺すや《よ》うなものだ、という頭から軽蔑しきった文書によって返答してきた始末であった。  宗|義智《=ヨシトシ》はこの数年間《スウ年間》屡次にわたって朝鮮側と屈辱的な折衝を重ね、太閤の意志とうらはらな返翰を得て、之《これ》を中途で握りつぶしていたのであるから、露顕の恐怖に血迷った。行長と打合せる余裕すらも失ひ《い》、単独鄭揆に交渉したが、軽蔑しきって返事もくれぬ。義智《=ヨシトシ》はすでに逆上した。進め、殺せ、狂乱叱咤、釜山《プサン》城へ殺到して、占領する。然し、血《=ち》の悪夢からさめた時には、単なる一小城《イチショウ城》の蹂躙と殺戮が自分を救ふ《う》何の役にも立たないことを見出《見い出》したばかりであった。彼は絶望を抑へ《え》るために亢奮し、ゴロゴロした屍体の中を歩き廻《回》って血刀をふりあげながら絶えず号令を叫んでいた。東莱《トウライ》の府使《府使’》へ急使を派して、仮道入明《カドウニュウミン》に応じなければ釜山《プサン》同様即刻武力をもって蹂躙すると脅迫したが、使者のもたらした返事は簡単な拒絶の数言《スウコト》にすぎなかった。義智《=ヨシトシ》はその言葉がよく聞きとれなかったや《よ》うな変な顔《=かお》でボンヤリしていたが、みんな殺すのだと呟いた。急に名状し難い勢ひ《い》で崩れた塀の上へ駈け上《=上が》ると進軍の命令を下《=くだ》していた。殺到して東莱城《トウライジョウ》を占領する。つづいて、水営。つづいて、梁山。義智《=ヨシトシ》の絶望と混乱のうちに飛火のや《よ》うに血煙がたち、戦争はまったく偶発してしまったのである。  かくなれば、是非もない。道は一つ。行長は決意した。他の誰よりも真ッ先に京城に乗込み、朝鮮王と直談判して仮道入明《カドウニュウミン》を強要し、ツヂツマを合せなければならぬ。京城へ。京城へ。行長は走った。  清正をはじめ待機の諸将はさ《そ》うとは知らない。行長が功をあせって彼等をだしぬいたとしか思は《わ》なかった。激怒して上陸、京城めがけて殺到する。統一も連絡もなく各々の道《=みち》を走ったが、鉄砲を知らぬ朝鮮軍は単に屍体を飛び越すだけの邪魔となったにすぎなかった。日本軍は一挙に京城を占領し、朝鮮王は逃亡した。  京城の一番乗は言ふ《う》までもなく行長だったが、一日遅れた清正は狡猾な策をめぐらし、自分の京城入城を知らせる使者を誰よりも早く名護屋本営へ走らせた。この報告には一番乗とは書き得ないので、ただ今《いま》入城、と書いておいたが、一番早く入城の報告を行ふ《う》ことによって太閤に一番乗を思ひ《い》こませるためであった。清正は行長にだしぬかれた怒りと一番乗が最大関心の大事であったが、行長は一番乗の報告などにかけづらってはいられなかった。  京城に到着、行長は直に密使を朝鮮軍の本営に送って、仮道入明《カドウニュウミン》、否々々《イナ/イナ/イナ》、彼は太閤の訓令も待たず、直に明《ミン》との和平交渉にとりかかった。即ち、明《ミン》との和平を斡旋せよ、単刀直入、朝鮮軍にきりだした。彼は破れかぶれであった。毒食は《わ》ば皿まで、彼はもう弥縫《=ビホウ》のための暗躍に厭気《=嫌け》がさして、卑屈な自分を呪ったが、所詮|弥縫《=ビホウ》暗躍がまぬがれがたい立場なら、いつ《っ》そ全てを自分一存のカラクリで仕上げてやれという自暴自棄《自暴ジキ》の結論に達していた。朝鮮の説得だの、朝鮮風情を相手に小さなツヂツマを合せているのは、もう厭だ。どうせ死ぬ命《=いのち》が一つなら、大明《ダイミン》を直接相手に大芝居《オオ芝居》、即刻媾和を結んでしまふ《う》。どんな国辱的な条件でも、秀吉が気付かなければいいではないか。自分が中間《チューカン》に立って誤魔化してしまふ《う》。一文《イチモン》の利得《=リトク》もなく一条の道義もないよしなき戦争、徒《徒ら》なる流血の惨事ではないか。間違へ《え》ば自分の命はなくなるが、無辜の億万人《億万にん》が救は《わ》れる。日本六十余州にも平和がくる。明《ミン》も、朝鮮も、無意味な流血から救は《わ》れるのだ。  そこで朝鮮本営へ密使を送って明《ミン》への和平斡旋方を切りだしたが、根が正直な男であるから自分一個の思ひ《い》つめた決意だけしか分らない。外交の掛引《駆け引き》だの、朝鮮方の心理などには頓着なく、お互《互い》に無役《無益》な血《=チ》を流すのは馬鹿々々《馬鹿馬鹿》しいことではないか、我々日本の将兵は数千里の遠征などは欲していないし、朝鮮も明《ミン》も恐らく同じことだら《ろ》う。要するに戦争の結果が単に三国の疲弊を招くだけのことにすぎないのだから、どつ《っ》ちの顔も立つや《よ》うにして、こんな戦争は一日も早く止《-よ》す方《ほう》がいい。さ《そ》うではないか。即刻明《即刻ミン》へ和平斡旋に出向いてくれ。和平の条件などは自分と明《ミン》とで了解し合へ《え》ばそれでいいので、どんな条件でも構は《わ》ぬ。自分が途中でスリ変へて本国へ報告してシッポがでなければ、それでいい、之《これ》が人道、正義と云《=い》ふ《う》ものではないか、と言って、洗ひ《い》ざらひ《い》楽屋を打開けて、単刀直入切りだした。  楽屋を打開けたものだから、朝鮮軍は軽蔑した。彼らは日本軍に文句なしの敗戦を喫したけれども、明軍を当《当て》にしている彼等、自分一個の実力評価の規準がない。自分は負けたが明軍がくれば日本などは問題外だときめている。その明軍の到着がすでに近づいていることが分っていたから、至極鼻息が荒くなっているところへ、行長が楽屋を打開けたから、日本軍はもはや戦意を失っている、明《#ミン》の援軍近しときいてすでに浮足立っているのだと判断した。こういう有様《=ありさま》の日本軍なら明《ミン》の援軍を待つまでもない、俺の力でも間に合ふ《う》だら《ろ》う、と唐突に気が強くなり頭から甜めてきた。そこで行長の交渉に返答すらも与へ《え》ず、返事の代《代わ》りに突然《突然’》全軍逆襲した。行長は不意をつかれて一度は崩れたが、何《なに》がさて相手は鉄砲もない朝鮮軍のことで、行長を甘く見たから一時鼻息を荒くしたというだけのこと、坡州から援兵が駈けつけて日本軍の腰が|すは《座》ると、もう駄目だ。元の木阿弥、てもなく撃退されてしまった。  明《ミン》の大軍が愈々近づく。之《これ》ぞ目指す大敵、将星一堂に会して軍略会議がひらかれる。このときだ、隠居はしても如水は常に一言居士、京城に主力を集中、その一日行程の要地に堅陣を構へ、守って明軍を撃破すべしと主張する。大敵を迎へ《え》て主力の一大会戦《=イチダイカイセン》であるから理《=リ》の当然、もとより全軍異議なく、軍議一決の如く思は《わ》れたとき、小西行長が立って奇怪な異見を立てはじめた。  行長の意見は傍若無人、軍略の提案ではなく自分一個の独立行動の宣言にすぎないのだった。諸氏、明軍来るときいて憶したりや、行長の調子は此《斯く》の如きものだった。源平の昔から勝機は常に先制攻撃のたまもの、之《これ》が戦争の唯一の鍵というものだ。自分の兵法に守勢はない、よって自分は即刻平壌に向って前進出撃するが、否《いな》、平壌のみにとどまらぬ。独力鴨緑江を越えて明国《=ミンコク》の首府に攻め入ることも辞さぬであら《ろ》う。傲然として、四囲の諸将を睥睨した。  然り。行長は平壌まで前進しなければならないのだ。他の誰よりも先頭に立たねばならぬ必要があるからである。朝鮮が和平斡旋を拒絶したから、道《=みち》は一つ、全軍の先頭にでて、直接明《直接ミン》の大将と談判しなければならないのだ。  諸将はこのことを知らぬから、行長の決然たる壮語、叱咤、万億の火筒の林も指先で摧《挫》くが如き壮烈無比なる見幕に驚いた。怒《=いか》り心頭に発したのは如水。豎子策戦《豎子/策戦》を知らず、徒に壮語を弄して一時《=いちじ》の快《カイ》を何とかなす、然し、つとめて声《=こえ》を和げ、余勢をかっての前進は常に最も容易であるが、遠く敵地に侵入して戦線をひろげ兵力を分散して有力な敵の主力を|邀へ《迎え》ることは不利である。諺に「用心は臆病にせよ」とはこのことだ、と説いたけれども、もとより戦略などが問題ではない行長、焦熱地獄も足下《’足下》にふんまいて進みに進む見幕は微塵も動かぬ。ボンクラ諸将は俄に心中《シンチュウ》動揺して、成程《+ナルホド》守る戦争は卑怯だなどと行長の尻馬に乗る。大将格の浮田秀家自体がこの動揺に襲は《わ》れてしまったから、軍議は蜂《=ハチ》の巣をつついた如く湧きかへ《え》って、結局、行長の前進を認めてしまった。  行長は平壌へ前進する。ほつ《っ》とくわけにも行かぬから、平壌から京城にかけて俄|ごしらへ《ゴシラエ》の陣立をつくり諸将が分担布陣したが、延びすぎた戦線、統一を欠く陣構へ《え》。すでに戦争は負《負け》である。  如水は全くふてくさった。怒気満々、病気と称して帰国を願ひ《い》でる。許可を得て本国へ引上げたが、今に見よ、行長め、負けてしまへ《え》。果して行長は敗北する、全軍大混乱。ザマを見よ、如水は胸をはらした。大政所の葬儀に列し、京大坂《京大阪》で茶の湯をたのしみ、暫しは戦地を忘れて閑日月《=カンジツゲツ》。然し、一足《ひと足》名護屋へ立戻ると、ここは戦況日夜到《戦況’日夜到》り、苦戦悲報、か《こ》うなると忽ちムズムズ気負ひ《い》立たずにはいられぬ如水。去年の憂さがもう分らぬ。たうとう襖越しに色気満々の独言となり、再び軍監を拝命渡韓するに至ったが、之《これ》は後《=のち》の話。  行長の平壌前進のおかげで全軍敗退、一時《=イチジ》は大混乱となったが、ともかく立直って碧蹄館に勝つことができた。小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包らの戦功であった。明軍も日本の侮り難い戦力を知って慎重布陣、両軍相対峙《両軍アイ対峙》してみだりに進攻を急ぐことがなくなったから、戦局全く停頓した。行長はぬからず使者を差向けて和議につとめる。日本の実力が分ってみると、明軍とても戦意はない。明《ミン》の朝廷は元々和談を欲《=ほっ》していた。  日本軍の朝鮮侵入、飛報に接した明《ミン》の朝廷はとりあへ《え》ず李如松に五万の兵を附して救援に差向け、之《これ》にて大事なしという考へ《え》であったが、朝鮮軍は風にまかれる木の葉の如く首府京城まで一気に追ひ《い》まくられてしまふ《う》。自力で立てない朝鮮軍は明《#ミン》の兵力を過信して安心しきっているけれども、自分の力量の限界に目安のついている明国《ミン国》では、日本軍の意想外《意想外’》な進出ぶりに少からず狼狽した。属領の如くに見ている日本と争ひ《い》苦戦してともかく追払っても元々だ。否《イナ》、苦戦しただけ損だという勘定が分っている。莫大な戦費を浪費して遊ぶ金《=かね》に事欠いては無意味だという計算は行届いているから、和談でケリがつくなら戦争などはやらぬがよい。日本の軍隊が強いのは一時的な現象だから、いづれ日本も落目になら《ろ》う、そのとき叩きつければよい。敵勢《テキゼイ》が勢ひ《い》に乗るときは下手《-したて》から誤魔化すに限る、という大司馬石星《ダイ司馬’石星’》の意見で、沈惟敬《=シンイケイ》という誤魔クラガシの天才を選びだし、口先一つで日本軍をだまして返せ、彼を和議使節として特派した。沈惟敬《=シンイケイ》は元来市井《元来’市井》の無頼漢《=ブライカン》で、才幹を見込まれて立身した特異の怪物であった。  沈惟敬《=シンイケイ》は朝鮮軍の情報から判断して、日本は明《ミン》との貿易復活を欲《=ほっ》しているのが本心で、侵略は本意でないという見透しを得た。そこで和議の可能、それも自国に有利な和議の可能に満々たる自信をいだいてを《お》った。救援軍の大将李如松《大将’李如松》は和議などは不要、ただの一撃、叩きつぶしてしまふ《う》と息まいているが、之《これ》を制して、五十日間の休戦を約束させ、単独鴨緑江を渡って平壌の行長と交渉を始めていた。  行長は根が正直者、国を裏切り暗躍に狂奔しているが、陰謀はその本性ではない。よしなき戦争は罪悪だという単純な立前で、三国《3国》いづれの立場からもこの戦争で利得《=リトク》を受ける者《=もの》はないのだから、いづれの思ひ《い》も同じこと、如何なる陰謀悪徳を重ねても和議には代へ《え》られぬ筈ときめている。自分の一存で如何なる条約を結んでも構は《わ》ぬ。本国への報告は両軍の大将が相談づくで誤魔化す限りシッポはでないし、シッポが出たら俺が死ぬ。それだけのこと。か《こ》ういう度胸をきめ、楽屋のうちをさらけだして談判にかかってきた。外交に異例の尻まくりの戦術、否《いな》、戦術ですらもない、全く殺気をこめ、眼は陰々と|すは《座》って一点を動かずという身構へ《え》で、死者《死にもの》ぐるひ《い》にかかってくる。  沈惟敬《=シンイケイ》は筋の正しい国政などとは縁《=エン》のない市井《=シセイ》の怪物、元来がギャングの親方であるから、人生の裏道で陰謀に半生《=ハンセイ》の命《=イノチ》をはりつづけて生きてきたこの道《=ミチ》の大先輩、行長の覚悟、尻《シリ》まくり戦術は自《=みずか》らのふるさとで、話をすれば、行長の決意|裏《/裏》も表《=おもて》もよく分る。この男はすべてをさらけだして、全く命《=いのち》をはっているのだと見極めをつけた。談判破裂となれば死者《死にもの》ぐるひ《い》で襲ひ《い》かかるに相違ない殺気であるから、ここは悪どく小策を弄せず、この男の苦心通りに和議を|ととのへ《整え》てやる方《ほう》が簡単にして上策だという判定を得た。それにつけても、行長が条約に譲歩の意をほのめかしているのだから、徹底的に明国《ミン国》に有利な条約まで持って行か《こ》うというのが沈惟敬《=シンイケイ》の肚だった。けれども条約を結ぶに就《就い》ては日本軍は先づ《ず》釜山《プサン》まで撤退すべしということ、並びに捕虜の朝鮮|二王子《2王子》を返還すべしということ、之《これ》は行長の一存のみでは決しかねる問題だ。朝鮮の二王子《2王子》を捕へ《え》たのは清正で、事は大きくないけれども、清正の意中が難物である。  この二ヶ条は一時的な面子の問題、和議のととのった後《あと》では軍兵の撤退も王子の返還も面倒のいらぬことだから、急ぐことはない。つまらぬことに拘泥せず実質的な媾和条約をかせぐ方《ほう》が利巧だという惟敬の考へ《え》、戻ってきて、この二ヶ条は今は無理だと朝鮮側を説いたけれども、宋応昌《宋オウショウ》はき《聞》き容れるどころか、激怒した。日本軍の釜山《プサン》撤退、二王子《2王子》の返還、朝鮮側では譲歩のできぬ必死の瀬戸際の大問題。オレに任せておけなどと大きなことを言って出掛けて、撤退もさせぬ二王子《2王子》も返還させぬ、それで媾和とは開《-あ》いた口がふさがらぬ。明国《ミン国》の威信を汚《穢》す食は《わ》せ者だ、というので、李如松が朝鮮側に輪をかけて立腹、刀に手をかける。沈惟敬《=シンイケイ》はむくれてしまった。喧嘩だ、刃物だと言って、身の程も知らぬ奴に限って鼻息の荒いこと。朝鮮軍など戦争らしい戦争もせず一気に追ひ《い》まくられて首府まですてて逃げだしたくせに、今更虫のよすぎる要求だ。明軍とて日本軍を釜山《プサン》まで押し戻せるものなら押し返してみるがいい。今に吠え面《=づら》かかぬや《よ》うにせよと言って、切るなり突《’突》くなり勝手にするがいいや、ヨタモノの本領、ドッカとあぐら、はどうだか、支那式によろしくあぐらに及んで|首すぢ《首筋》のあたりを揉みほぐしたりなぞしている。  媾和などど《と》は余計なことだと、そこで李如松は平壌の行長へ使者をたてて沈惟敬《=シンイケイ》が和議を結びにきたからと誘ひ《い》ださせて、突然之《突然これ》を包囲した。日本軍は大敗北、行長はからくも脱出、散々の総崩れである。  けれども日本は応仁以降打ちつづく戦乱、いづ《ず》れも歴戦の精兵だから、立直ると、一筋縄では始末のつかぬ曲者である。図に乗った明軍も碧蹄館で大敗を喫し、両軍相対峙《両軍アイ対峙》して戦局は停頓する。李如松も日本軍侮り難《がた》しと悟ったから、和談の交渉は本格的となり、惟敬の再登場、公然たる交渉が行はれ始めた。  日本には有勢《ウセイ》な海軍がなかった。応仁以降の戦乱はすべて陸戦。野戦に於《於い》ては異常なる進歩を示しているが、海軍は幼稚だ。海賊は大いに発達して遠く外洋まで荒してを《お》りこの海賊が同時に日本の海軍でもあったけれども、軍隊としては組織も訓練も経験も欠けている。近代化された装備もない。秀吉も之《これ》を知ってポルトガルの軍艦購入をもくろんでいたが、コエリヨが有耶無耶な言辞を弄して之《此れ》を拒絶したから、秀吉は激怒して耶蘇《ヤソ》禁教令を発令する結末に及んでしまった。  然るに、朝鮮側には亀甲船があり、之《これ》を|率ゆ《ヒキユ》るに名提督《メイ提督》李舜臣《リ-スンシン》がある。竜骨をもたない日本船は亀甲船の衝突戦法に破り去られて無残な大敗北。制海権を失ったから、日本の海上連絡は釜山《プサン》航路一つしかない。京城への海路補給が出来ないから、釜山《プサン》へ荷上げして陸路運送しなければならぬ。占領地帯は満目荒凉《満目コウリョウ》、徴発すべき人夫もなければ物資もない。補給難、折から寒気《=かんき》は加は《わ》り、食糧は欠乏する、二重《ニジュウ》の大敵身《大敵/身》にせまって戦《-いく》さに勝てど窮状は加は《わ》るばかり、和議を欲《’欲》し即刻本国へ撤退を希ふ《う》思ひ《い》は全軍心底の叫び、清正すらも一時撤退の余儀なきことを思ふ《う》に到っていたのであった。  そこで秀吉も訓令をだして一応軍兵を釜山《プサン》へ撤退せしめる、二王子《2王子》を返してやれ、本格的に和談の交渉をすすめよとあって、三成《三成’》らが訓令を|たづさへ《携え》兵をまとめて撤退せしめる、例の囲碁事件が起ったのはこの時の話。如水の好戦意慾などには縁《=エン》のない暗澹たる前線の雰囲気であった。  明《ミン》からも形式的な和平使節が日本へ遣は《わ》されることになる、このとき秀吉から日本側の要求七ヶ条というものをだした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 一《#一つ》、明《ミン》の王女を皇妃に差出す 一《#一つ》、勘合符貿易を復活する 一《#一つ》、両国《-りょうこく-》の大臣が誓紙を交換する 一《#一つ》、朝鮮へは北部四道を還し南部四道は日本が領有する 一《#一つ》、朝鮮から王子一人と家老を人質にだす 一《#一つ》、生擒《生け捕り》の二王子《2王子》は沈惟敬《=シンイケイ》に添へて返す 一《#一つ》、朝鮮の家老から永代相違《永代相違《エイダイ相違》》あるまじき誓紙を日本へ差出す ◇。◇。◇。◇。◇。  というのだ。  王女を皇妃に入《い》れるとか人質をだすのは日本の休戦条約の当然な形式《=ケイシキ》で、秀吉は当り前だと思っているが、負けた覚えのない明国《ミン国》が承諾する筈がない、南部四道も多すぎる、というので、行長は勝手に全羅道《=ゼンラドウ》と銀二万両という要求に作り変へ《え》て交渉したが、一寸《=イッスン》の土地もやらぬ、一文《イチモン》も出さぬ、と宋応昌《宋オウショウ》に蹴られてしまった。明側《ミン側》で要求に応じる旨《=むね》を示したのは貿易復活という一条だけだ。  クサることはないですよ、と沈惟敬《=シンイケイ》は行長にささやいた。彼はもう外交などという国際間の交渉が凡そ現状の実際を離れて威儀のみ張っているのにウンザリして、大官だの軍人だの政治家などという連中の顔は見るのも厭だ、まだしも行長にだけは最も個人的な好意をいだいていた。貿易さへ《え》復活すればいいではないですか、全羅道《全羅道’》だの銀二万両などに|こだは《拘》らなくとも、貿易さへ《え》復活すれば儲けは何倍もある、太閤の最も欲していることも貿易復活の一点に相違ないのだから之《これ》さへ《え》シッカリ握ってをけばあとの条件などはどうなら《ろ》うと構はない、《:、》実際問題として之《これ》が日本の最大の実利なのだ。あとのことはあなたと私が途中でごまかしてシッポがでたら、私も命はすてる、地獄まであなたにつきあふ《う》よ、と言って、行長を励ました。  そこで内藤如安(小西の一族で狂信的な耶蘇《ヤソ》教徒だ)を媾和使節として北京に送る、明国《=ミンコク》からは更に条件をだして貿易を復活するに就《就い》ては、足利義満の前例のや《よ》うに、明王《ミン王》の名によって秀吉を日本国王に封ずる、それに就《就い》ては秀吉から明《#ミン》へ朝貢して冊封を請願して許可を受ける、要するに秀吉が降伏して明《#ミン》の臣下となって日本国王にして貰ふ《う》、という意味だ、か《こ》ういう条件をだしてきた。この難題にさすが行長も思案にくれていると、行長さん、いい|ぢや《じゃ》ないか、惟敬は首をスポンと手で斬って、これ、ネ、私もあなたにつきあふ《う》よ、ネ。ここまで来たら、最後の覚悟は一つ、ネ、行長も頷いた。  そこで行長と惟敬が合作して秀吉の降表《降伏状》を偽造したが「万暦二十三年十二月二十一日、日本関白臣平秀吉誠惶誠恐、稽首頓首、上言請告《ジョウゲンセイコク》」と冒頭して、小西如安を差出して赤心を陳布するから日本国王に封じて下さい、と書いてある。  明側《ミン側》は大満足、日本へ冊封使を送る。この結果が秀吉の激怒となって再征の役が始まったが、秀吉が突立《突っ立》ち上《上が》って冠をカナグリすて国書を引裂いたという劇的場面は誰でも知っている。尤も引裂かれた筈の国書は引裂かれた跡もなく今日現存《こんにち現存》しているのである。伝説概ね斯《斯く》の如し。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  秀吉はもうろくした。朝鮮遠征がすでにもうろくの始まりだった。  鶴松(当時三才)が死ぬ。秀吉は気絶し、食事は喉を通らず、茶碗の上へ泣き伏して顔中飯粒だらけ、汁《=シル》や佳肴をかきわけて泳ぐや《よ》うに泣き仆れている。その翌日の通夜の席では狂へる如くに髻を切って霊前へささげた。すると秀吉につづいて焼香に立ったのが家康で、おもむろに小束《コヅカ》をぬき大きな手で頭をかかへて髻をヂョリヂョリ糞落付きに霊前へならべる。目を見合せた満座の公卿諸侯、これより心中《シンチュウ》に覚悟をかためて焼香に立ち頭をかかへてヂョリヂョリやる。葬儀の日に至って小倅の霊前に日本中《ニホンジュウ》の大名共《大名ども》の髻が山を築くに至ったという。秀吉は息も絶えだえだった。思ひ《い》だすたび邸内の諸方に於《於い》てギャアと一声《=ひとこえ》泣きふして悶絶する、たまりかねて有馬の温泉へ保養に行《=い》ったが、居ること三週間、帰京する、即日朝鮮遠征のふれをだした。悲しみの余り気が違って朝鮮征伐を始めたという当時一般の取沙汰《取り沙汰’》であった。  捨松(後《のち》の秀頼)が生《生ま》れた。彼のもうろくはこの時から凡愚をめざして急速度の落下を始める。秀吉はすでに子供の愛に盲ひ《い》た疑り深い執念の老爺にすぎなかった。秀頼の未来の幸を思ふ《う》たびに人の心が信用されず、不安と猜疑の虫に憑かれた老いぼれだった。生《生ま》れたばかりの秀頼を秀次の娘(これも生《生ま》れたばかり)に|めあは《娶》せる約束を結んだのも秀次の関白を穏便に秀頼に譲らせたい苦心の果だが、《:、》秀吉の猜疑と不安は無限の憎悪に変形し、秀次を殺し、三十余名《三十余メイ》の妻妾子供の首をはねる。息つくひまもなかった。秀次を殺してみれば、秀次などの比較にならぬ大きな敵がいるではないか。家康だった。秀吉は貫禄に就《就い》て考へ《え》る。自分自身の天下の貫禄に就《就い》て考へ《え》貫禄はその自体に存するよりも、時代の流行の中に存し、一つ一つは虫《=むし》けらの如くにしか思は《わ》なかった民衆たちのその虫《=むし》けらのや《よ》うな無批判の信仰故にくずれもせずに支持されてきた砂の三角の頂点の座席にすぎないことを悟っていた。その座席を支へ《え》るものは彼自身の力でなしに、無数の砂粒《スナツブ》の民衆であることを見つめ、無限の恐怖を見るのであった。愚かな、そして真に怖《恐》るべき砂粒《スナツブ》、それのみが真実の実在なのだ。この世の真実の土であり、命であり、力であった。天下の太閤も虚妄の影にすぎない。彼《彼’》の姿はその砂粒《スナツブ》の無限の形の一つの頂点であるにすぎず、砂粒《スナツブ》が四角になればすでに消えてしまふ《う》のだった。  そして又秀吉は家康の貫禄に就《就い》て考へ《え》る。その家康は砂粒《スナツブ》のない地平線に坐りながら、その高さが彼といくらも違はぬくらい逞しかった。けれども砂粒《スナツブ》は同時に底なしに従順暗愚無批判《従順暗愚/無批判》であり、秀吉がその頂点にある限り、家康は一分一厘《イチブ一厘》の位《=クライ》の低さをどうすることもできない。秀吉は家康を憫笑する。ともかく生きていなければ。家康よりも、一日も長く。長生きだけが、秀吉の勝ちうる手段であった。家康に対しても、又、砂粒《スナツブ》に対しても。死と砂粒《スナツブ》は唯一の宇宙の実在であり、ともかく生きることによって、秀吉はそれを制し得、そして家康の道《=みち》を|はば《阻》み得るだけだった。  けれども秀吉は病み衰へ《え》た。食慾なく、肉は乾き、皮はちぢみ、骨は痩せ、気力は枯れて病床に伏《=ふ》し、鬱々として終夜眠り得ず、めぐる執念ただ秀頼のことばかり。五大老五奉行《五大老’五奉行》から誓紙をとり、永世秀頼への忠勤、神明に誓って違背あるまじく、血判の血しぶきは全紙にと《飛》び|したた《滴》りそれを我が棺に抱《=だ》いて無限地底にねむるつもり。地底や無限なりや一年《/一年》にして肉は蛆虫これを食ひ《い/》血は枯れ紙《/紙》また塵となり残《/残》るものは白骨ばかり。不安と猜疑と執念の休みうる一《-ひと》もとの木蔭もなかった。前田利家の手をとり、おしいただいて、頼《=たの》みまするぞ、大納言、頼《たの》みまするぞ。乾きはて枯れはてた骨と皮との間《=あいだ》から奇妙や涙は生|あたた《温》かく流れでるものであった。哀れ執念の盲鬼《盲’鬼》と化し、そして秀吉は死んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三話】 【関ヶ原】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  秀吉の死去と同時に戦争を待ち構へ《え》た二人の戦争狂がいた。一人が如水であることは語らずしてすでに明らかなところであるが、も《もう》一人を直江山城守といひ《い》上杉百二|十万石《十’万石》の番頭で、番頭ながら三十万石《三十’万石》という天下の諸侯に例の少い大給料を貰っている。如水はねたまも天下を忘れることができず、秀吉の威風、家康の貫禄を身にしみて犇々と味ひ《わい》ながら、その泥の重さをはねのけ筍の如き本能をもって盲目的に小さな頭をだしてくる。人一倍義理人情の皮をつけた理窟屋の道学先生、その正体は天下のドサクサを狙ひ《い》、ドサクサまぎれの火事場稼ぎを当《当て》にしている淪落の野心児であり、自信のない自惚《自惚れ》児だった。  けれども直江山城守は心事甚だ清風明快であった。彼は浮世の義理を愛し、浮世の戦争を愛している。この論理は明快であるが、奇怪でもあり、要するに、豊臣の天下に横から手をだす家康は怪《#け》しからぬという結論だが、なぜ豊臣の天下が正義なりや、天下は廻り持ち、豊臣とても廻り持ちの一つにすぎず、その万代を正義化し得《=え》る何《-なん》のいは《わ》れも有りはせぬ。けれども、さ《そ》ういう考察は、この男には問題ではなかった。彼は理知的であったから、感覚で動く男であった。はつ《っ》きり言ふ《う》と、この男はただ家康が嫌ひ《い》なのだ。昔から嫌ひ《い》であった。それも骨の髄から嫌ひ《い》だという深刻な性質のものではなく、なんとなく嫌ひ《い》で時々からかってみたくなる性質の──彼は第一骨の髄まで人を憎む男ではなく、風流人で、通人で、その上に戦争狂であったわけだ。だから、家康が天下をとるなら、俺がひとつ横からとびだしてピンタをく《食》らは《わ》せてやら《ろ》うと大いに張切って内心の愉悦をおさへ《え》きれず、あれこれ用意を|ととのへ《整え》て時の到るのを待っている。彼《彼’》の心事明快で、家康をやりこめて代りに自分の主人を天下の覇者にしてやら《ろ》うなどどいうケチな考へ《え》は毛頭いだいていなかった。  この男を育て仕込んでくれた上杉謙信という半坊主の悟りすました戦争狂がそれに似た思想と性癖をもっていた。謙信も大いに大義名分だとか勤王などと言ひ《い》ふらすが全然嘘で、実際はただ「気持良く」戦ふ《う》ことが好きなだけだ。正義めく理窟があれば気持が良《い》いというだけで、つまらぬ領地問題だの子分の頼みだの引受けて屁理窟を看板に切った張った何十年《何十年/》あきもせず信玄相手の田舎戦争に憂身をやつしている。義理人情の長脇差、いは《わ》ば越後高田城持ちのバクチ打ちにすぎないので、信玄を好敵手とみて、大いに見込んで、塩をくれたり、そしてただ戦争をたのしんでいる。信玄には天下という目当てがあった。彼は田舎戦争などやりたくないが、謙信という長脇差は思ひ《い》つめた戦争遊びに全身打ちこみ、執念深く、おまけに無性に戦争が巧い。どうにも軽くあしらふ《う》というわけには行かず、信玄も天下を横に睨みながら手を放《=ハナ》すというわけに参らず大汗《オオアセ》だくで弱ったものだ。勤王だの大義名分は謙信の趣味で、戦争という本膳の酒の肴のや《よ》うなもの。直江山城《直江ヤマシロ》はその一番の高弟で、先生よりも理知的な近代化された都会的感覚をもっていた。それだけに戦争をたのしむ度合ひ《い》は|一さう《一層》高くなっている。真田幸村という田舎小僧があったが、彼は又、直江山城《直江ヤマシロ》の高弟であった。少年期から青年期へかけ上杉家へ人質にとられ、山城《=ヤマシロ》の思想を存分に仕込まれて育った。いづ《ず》れも正義を酒の肴の骨の髄まで戦争狂、当時最も純潔な戦争デカダン派であったのである。彼等には私慾はない。強ひ《い》て言へば、すこしばかり家康が嫌ひ《い》なだけで、その家康の横ッ《っ》面をひつ《っ》ぱたくのを満身の快《カイ》とするだけだった。  直江山城《直江ヤマシロ》は会津バンダイ山湖水を渡る吹雪の下に、如水は九州中津の南国の青空の下に、二人の戦争狂《戦争狂’》はそれぞれ田舎の逞しい空気を吸ひ《い》あげて野性満々天下の動乱を待ち構へ《え》ていたが、当の動乱の本人の三成と家康は、当の本人である為に、岡目八目の戦争狂どもの達見ほど、彼等|自《=みずか》らの前途の星《=ホシ》のめぐり合は《わ》せを的確に見定め嗅ぎ当てる手筋を失っていた。特に三成は四面《=シメン》見渡す敵にかこまれ、日夜の苦悶懊悩、そして、彼の思考も行動も日々夜々《ニチニチヤヤ/》ただ混乱を極めていた。  秀吉が死ぬ。遺骸は即日阿弥陀峯へ密葬して喪の発表は当分見合せとかたく言ひ《い》渡した三成《ミツナリ》、特に浅野長政と|はか《謀》って家康に魚《=サカナ》をとどけて何食は《わ》ぬ顔。その翌日、家康何も知らず登城の行列をねってくると、道《=みち》に待受けたのは三成の家老島左近、実《=じつ》は登城に及び申さぬ、太閤はすでにおかくれ、三成より特に内々《=うちうち》の指図でござった、と打開《打ち明》ける、前田利家にも同様打開《同様打ち明》けた。家康は三成の好意を喜び、とって帰《-かえ》すと、その翌日はすでに息子秀忠は京都を出発走《出発/走》るが如く江戸に向ふ《う》、父子東西に分《分か》れて天下の異変にそなへ《え》る家康例の神速の巻《巻:》、浅野長政は家康の縁者で、喪を告げぬとは不埒な奴と家康の怒《=いか》りを買ふ《う》、だまされたか三成めと長政は怒ったが、長政をだしぬくなどの量見は三成にはない。彼はただ必死であった。自信もなければ、見透しも計画もなく、無策の中から一日ごとの体当り。鍵はかかって家康と利家両名の動きの果《果て》にかかっていることが分るだけ。その両名に秘密をつげて、天下の成行《=なりゆき》をひきだすことと、そのハンドルを自分が握らねばならないことが分っているだけであった。  先づ《ず》家康が誰よりも先に覚悟をきめた。家康はびっくりすると忽ち面色変《面色変わ》り声《/声》が喉につかへて出なくなるほどの小心者で、それが五十の年《=とし》になってもどうにもならない度胸のない性質だったが、落付《落ち着き》をとりもどして度胸をきめ直すと、今度は最後の生死《=セイシ》を賭けて動きだすことのできる金鉄決意の男と成りうるのであった。年歯三十《年ヨワイ三十》、彼は命《=イノチ》をはって信玄に負けた、四十《40》にしてふてくされ小牧山で秀吉を破ったが外交の策略に負け、その時より幾星霜、他意のない秀吉の番頭、穏健着実、顔色を変へねばならぬ立場などからフッツリ縁《=えん》を切っている。その穏健な影をめぐって秀吉のひとり妄執果《妄執果て》もない断末魔の足掻《=あが》き。機会は自《=みずか》らその窓をひらき、そして家康をよ《呼》んでいた。家康は先づ《ず》時に乗り、そして生死の覚悟をきめた。  彼はただ、生死の覚悟をかためることが大事であり、その一線を越したが最後鼻唄まじりで地獄の道《=みち》をのし歩く頭ぬ《抜》けて太々《=ふてぶて》しい男であった。  彼は先づ《ず》誓約を無視して諸大名と私婚《シコン》をはかり、勢力拡張にのりだす。あつ《っ》ちこつ《っ》ちの娘どもを駆り集めて養女とし、これを諸侯に|めあは《娶》せる算段で、如水の息子の黒田長政の如きはかねての女房(蜂須賀の娘)を離縁して家康の養女を貰ふ《う》という御念《=ご念》の入った昵懇ぶり、《:、》これも如水の指金《差し金》だ。もとより四方《シホウ》に反撥は起り、これは家康覚悟の前。それは直ちに天下二分《天下ニブン》、大戦乱の危険をはらんでいるのであったが、家康は屁でもないや《よ》うな空《=ソラ》とぼけた顔《=カオ》、おやおやさ《そ》うかね、成行きの勝手放題の曲折にまかせ流《/流》れの上にねころんで最後の時を|はか《図》っている。  前田利家は怒った。そして家康と戦ふ《う》覚悟をきめた。彼は秀吉と足軽時代からの親友で、共々に助け合って立身出世、秀吉の遺言を受けて秀頼の天下安穏、命にかけても友情をまもりぬか《こ》うと覚悟をかためている。彼の目安は友情であり、その保守的な平和愛好癖《平和’愛好’ヘキ》であり、必ずしも真実の正義派ではなかった。彼は理知家ではなく、常識家で、豊臣の天下というただ現実の現象を守ら《ろ》うという穏健な保守派。これを天下の正義でござると押つけられては家康も迷惑だったが、利家はその常識と刺違へ《え》て死ぬだけの覚悟をもった男であった。利家は秀頼の幼小が家康の野心のつけこむ禍根であると思っていたが、実際は、豊臣家の世襲支配を自然の流れとするだけの国内制度、社会組織が完備せられていなかったのだ。秀吉は朝鮮遠征などという下らぬことにかけづらひ《い》国力を消耗し、豊臣家の世襲支配を可能にする国内整備の完成を放擲していた。秀吉は破綻なく手をひろげる手腕はあったが、まとめあげる完成力、理知と計算に欠けていた。家康には秀吉に欠けた手腕があり、そして時代そのものが、その経営の手腕を期待していた。時代は戦乱に倦み、諸侯は自《=みずか》らの権謀術数に疲れ、義理と法令の小さな約束に縛られて安眠したい大きな気風《キフウ》をつくっている。それにも拘らず天下自然の窓がなほ《お》家康の野心のためにひらかれ、天下は自《=みずか》ら二分《ニブン》して戦乱の風をはらんでいる。それは豊臣家の世襲支配の準備不足のためであり、いは《わ》ば秀吉の落度であった。その秀吉の失敗の跡を、家康は身に泌みて学び、否《いな》、遠く信長の失敗の跡から彼はすでに己《=おの》れの道《=みち》をつかみだしていた。彼は時代の子であった。彼が自《=みずか》ら定めた道が時代の意志の結び目に当っていた。彼は|ためらは《躊躇わ》ず時代をつかんだ。彼は命《=イノチ》をはったのだ。彼に課せられた仕上げの仕事が国内の整備経営という地味な道であったから、彼は保身の老獪児であるかのや《よ》うに見られているが、さにあらず、彼はイノチを賭けていた。秀吉よりも、信長よりも太々《=ふてぶて》しく、イノチを賭けて乗りだしていた。  利家は不安であった。彼の穏健な常識がその奇妙な不安になやんでいた。彼は家康の威風に圧倒されて正義をすて戦意を失ふ《う》自分の卑劣な心《=こころ》を信じることができなかったし、事実彼は勇気に欠けた卑怯な人ではなかったから、その不安がなぜであるか理解ができず、彼はただ家康の野望を憎む心に妙《=ミョウ》な空間がひろがりだしていることを知るのであった。彼は穏健常識の人であるから時代という巨大な意志から絶縁されてを《お》らず、彼はいは《わ》ばたしかに時代を感じていた。それが彼に不安を与へ《え》、心に空間を植えるのだったが、友情という正義への愛情に執着固定しすぎているので、その正体が理解できず、むしろ家康と会見し、一思ひ《い》に刺違へ《え》て死にたいなどと思ふ《う》のだった。その彼は、すでに一間《イッケン》の空間を飛び相手に迫って刺違へ《え》る体力すらも失っていた。  家康は利家の小さな正義を|あは《哀》れんだ。彼は利家を見下《=みくだ》していた。利家の会見に応じ、刺違へ《え》て殺されないあらゆる用意を|ととのへ《整え》て、懇願をきき、慰め、|いたは《労》り、慇懃であったが、すでにイノチを賭けている家康は二十《ハタチ》の青年自体であった。その青年の精神が傲然として利家の愚痴を見つめていた。利家の正義は愚痴であった。利家は老い、考へ《え》深く、平和を祈り、そしてただそれだけの愚痴の虫にすぎなかった。  その答礼に利家の屋敷を訪れた家康は、その夜三成一派《夜ミツナリ一派》から宿所を襲撃されるところであったが、万善《万全》の用意は家康の本領、はったイノチを最後の瀬戸際まで粗末に扱ふ《う》男ではない。身辺の護衛はもとより、ハダシに一目散、なりふり構はず水火かきわけて逃げだす用意のある男。その用心に三成は夜襲をあきらめ、島左近は地団太ふんで、大事去れり、ああ天下《’天下》もはや松永弾正、明智光秀なし、と叫んだが、要するに島左近は松永明智の旧時代の男であった。家康は本能寺の信長ではない。信長の失ふ《う》ところを全て見つめて、光秀の存在を忘れることのない細心さ、匙を投げた三成は家康を知っていた。  まるで家康の訪れを死の使者の訪れのや《よ》うに、利家は死んだ。その枕頭に日夜看病につとめていた三成の落胆。だが、三成も胆略すぐれた男であった。彼は利家あるゆえにそれに頼って独自の道《=みち》を失ってすらいたのであるが、それ故むしろ利家の死に彼|自《=みずか》らの本領をとりもどしていた。天才達は常に失ふ《う》ところから出発する。彼等が彼自体の本領を発揮し独自の光彩を放《=ハナ》つのはその最悪の事態に処した時であり、そのとき自我の発見が奇蹟の如くに行《=おこな》は《わ》れる。幸ひ《い》にして三成は落胆にふける時間もなかった。  利家が死ぬ、その夜であった。黒田長政、加藤清正ら朝鮮以来三成に遺恨を含む武将たちが、時至れりと三成を襲撃する。三成は女の乗物で逃げだして宇喜多秀家の屋敷へはいり、更にそこを脱《=ぬ》けだして、伏見の家康の門をたたき、窮余の策、家康のふところへ逃げこんだ。  なぜ三成が利家に頼っていたか。なぜ三成に自信がなかったか。彼には敵が多すぎた。その敵を敵と見定める心がなくて、味方にしうるものならばという慾があり不安があった。今はもう明《明ら》かな敵だった。彼は敵と、そして、自分をとりもどした。三成は家康を知っていた。彼は常に正面をきる正攻法の男、奇襲を好まぬ男であった。  追つ《っ》かけてきた武骨の荒武者ども家康の玄関先でわいわい騒いでいる。家康はこれをなだめて太閤の薨去日《薨去/日》も尚浅いのに私事からの争ひ《い》などとは如何なものと渋面《=ジュウメン》ひとつ、《:、》あなた方の顔も立つや《よ》うに|はからふ《計らう》から私にまかせなさい、と引きとらせた。そこで三成には公職引退を約束させ佐和山へ引退させる。尚その道で荒くれ共《ども》が現れてはと堀尾吉晴、結城秀康の両名に軍兵つけて守らせる。三成をここで殺しては身も蓋もない。ただ一粒の三成を殺すだけ。生かしておけば多くの実《=み》を結び、天下二分の争ひ《い》となり、厭でも天下がふところにころがりこもうという算段だ。家康は一晩じつ《っ》くり考へ《え》た。同じ思ひ《い》の本多正信が一粒の三成もし死なずばという金言を家康に内申しようと思ひ《い》たち、夜更けに参上してみると、家康は風気味《風邪気味》で寝所《=シンジョ》にこもってをり、小姓が薬を煎じている。襖の外《=そと》から、殿《トノ》はまだお目覚めでござるか。何事ぢや。石田治部のこといかが思召すか。さればさ、俺も今それを考へ《え》ているところぢや。左様ですか、御思案とならば、私めから申上《申し上》げることもござりますまい、と正信は呑込みよろしく退出したというのだが、もとより例の「話」にすぎない。家康は自信があった。僥倖にたよる必要がなかったのである。  三成は裸一貫ともかく命《=いのち》を拾って佐和山へ引退したが、彼は始めて独自の自我をとりもどしていた。彼は敵を怖れる必要がなくなり、そして、彼も亦|己《=おの》れのイノチを賭けていた。  直江山城《直江ヤマシロ》という楽天的な戦争マニヤが時節到来を嗅ぎ当てたのはこの時であった。彼は三成に密使を送り、東西呼応して挙兵の手筈をささやく。誰はばからず会津周辺に土木を起し、旧領越後の浪人どもをたきつけて一揆を起させ戦争火つけにとりかかったが、家康きたれと勇みたって喜んでいる。  けれども三成は直江山城《直江ヤマシロ》の如く楽天的ではあり得なかった。彼は死んではならなかった。是《=ぜ》が非でも勝たねばならぬ。彼は味方が必要だった。利家に代るロボットの総大将に毛利を口説き、吉川《キッカワ》、小早川、宇喜多、大谷、島津、ゆかりあっての口説であるがその向背は最後の時まで分りかねる曲芸。その条件は家康とても同じこと、のるかそるか、千番に一番のかねあひ《い》。三成は常に家康の大きな性格を感じていた。その性格は戦争という曲芸師の第一等の条件であった。自《=みずか》ら人望が集《集ま》るという通俗的な型で、自《=みずか》ら利用せられることによって利用している長者の風格であった。三成はそれに対比する自分自身の影に、孤独、自我、そして自立を読みだしている、孤独《:孤独》と自我と自立には常に純粋というオマジナヒ《イ》のや《よ》うな矜恃がつきまとふ《う》こと、陋巷に孤高を持す芸術家と異るところはなかったが、三成は己《=おの》れを屈して衆に媚《=こ》びる必要もあったので、彼は家康の通俗の型に敗北を感じていた。その通俗の魂を軽蔑し、それをとりまく|凡くら《ボンクラ》諸侯の軽薄な人気《=ニンキ》を|あは《哀》れんだが、通俗のもつ現世的な生活力の逞しさに圧迫され、孤高だの純粋だの才能などの現世的な無力さに自《=みずか》ら絶望を深めずにいられなかった。  三成には皆目|自《=みずか》らの辿る行先が分らなかった。彼はただ行ふ《う》ことによって発見し、体当りによって新たな通路がひらかれていた。それは自《=みずか》ら純粋な、そして至高の芸術家の道であったが、彼はその道《=みち》を余儀なくせられ、そして目算の立ち得ぬ苦悩があった。家康には目算があった。その小説の最後の行に至るまで構想がねられ、修正を加へ《え》たり、数行《スウギョウ》を加へ《え》てみたり減らしてみたり愉しんで書きつづければよかったのだ。家康は通俗小説にイノチを賭けていたのである。三成の苦心孤高の芸術性は家康のその太々《=ふてぶて》しい通俗性に敗北を感じつづけていたのだ。  直江山城《直江ヤマシロ》は無邪気で、そして痛快だった。彼は楽天的なエゴイストで、時代や流行から超然とした耽溺派であった。この男は時代や流行に投じる媚《=こび》がなかったが、時代の流れから投影される理想もなかった。彼は通俗の型《=カタ》を決定的に軽蔑し、通俗を怖れる理由を持たない代りに、ひとりよがりで、三成すらも自分の趣味の道具のひとつに考へ《え》ているばかりであった。家康も直江山城《直江ヤマシロ》を怖れなかった。怖れる理由を知らなかった。山城《=ヤマシロ》は家康を嫌っていたが、それはち|よつ《ょっ》と嫌ひ《い》なだけで、実《=じつ》は好きなのかも知れなかった。反撥とは往々さ《そ》ういうもので、そして家康は山城《ヤマシロ》に横ッ《っ》面をひつ《っ》ぱたかれて腹を立てたが、憎む気持もなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  如水雌伏《如水’雌伏》二十数年、乗りだす時がきた。如水|自《=みずか》らかく観じ、青春の如く亢奮すらもしたのであったが、時代は彼を残してとつ《っ》くに通りすぎていることを悟らないのだ。  家康も三成も山城《ヤマシロ》も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れていたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命《=いのち》を賭けた断崖であった。この涯《=果て》は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄《我が唄》を唄ふ《う》あの純粋な魂であった。  如水には心《=こころ》の崖がすでになかった。彼も昔は詩人であった。年歯《ヨワイ》二十余、義理と野心を一身に負ひ《い》死を賭けて単身小寺の城中に乗りこんだ如水ではなかったか。そして土牢《=ツチロウ》にこめられ執拗なる皮膚病とチンバをみやげに生きて返った彼ではないか。その皮膚病とチンバは今も彼の身にその青春の日の栄光をきざみ残しているのであるが、彼《彼’》の心は昔日の殻を負ふ《う》ているだけだ。  彼は二十《ハタチ》の若者の如き情熱亢奮をもって我が時は来《来た》れりと乗りだしたが、彼《彼’》の心に崖はなく、絶対の孤独をみつめてイノチを賭ける詩人の魂はなかった。彼はただ時代に稀な達見と分別《フンベツ》により、家康の天下を見ぬいていた。家康が負けないことも、そして自分が死なないことも知りぬいていた。己《=おの》れの才と策を自負し、必ず儲る賭博であるのを見ぬいていた。彼は疑らず、|ためらは《躊躇わ》なかった。すべてを家康にはり、倅長政の女房を離縁させて家康の養女を貰ふ《う》全身素ッ裸の賭事。彼は自《=みずか》ら評して常に己《=おの》れを賭博師という。然り、彼は賭博師で、芸術家ではなかったのだ。彼は見通しをたてて身体をはったが、芸術家は賭《賭け》の果《果て》に自我の閃光とその発見を賭《=か》けるものだ。  彼は悠々と上洛した。彼の胸には家康によせる溢れるばかりの友情があった。小田原にあひ《い》見てこのかたこの日に至って頂点に達した秘められた友愛。彼はそれを最も親身に、又、義理厚く表現したが、その友愛はただ自我|自《=みずか》らを愛する影にすぎないことを家康は見ぬいていた。如水の全身はただ我執だけ。それを秀吉に圧しつぶされて、そのはけ口《=グチ》が家康に投じられているだけのこと。友愛は野心と策略の階段にすぎないのだ。  だが、如水はただもう友愛の深みに自《=みずか》らを投げこんで、悪女の深情けとはこのこと、日夜の献策忠言、頼まれもせぬに長政を護衛につけたり、家康の伏見の上屋敷《=かみやしき》は石田長束増田《石田/ナツカ/増田》らの邸宅に近く不意の襲撃を受け易いと向島の下屋敷へ引越させたのも如水であった。その頃はまだ前田利家が生きていた。如水は細川忠興に入智恵《入知恵》して利家を訪ねさせ、家康利家の離間を狙ふ《う》は三成の計で、彼は《は-》かくして家康を仆し、おもむろに残った利家を片づけて天下を我物《我が物》にするつもり、とささやかせる。加藤清正、福島正則ら三成を憎みながらも家康を信用しない荒武者どもを勧誘して家康に加担せしめたのも如水であった。  だが関ヶ原の一戦、その勝敗を決したものは金吾中納言秀秋の裏切であるが、この裏切を楽屋裏で仕上げた者《=モノ》も如水であった。元来秀秋は秀吉の甥で秀吉の養子となったものである。秀吉は秀次以上に寵愛して育てたが、先づ《ず》秀次関白となり、ついで実子も生《生ま》れたので、然《しか》るべき大々名《ダイ大名》へ養子にやりたいと考へ《え》ている。この気持を見抜いたのが如水で、ちや《ょ》うど毛利に継嗣がないところから分家の小早川隆景を訪れ、秀秋を毛利の養子にしてはと持ちかける。隆景が弱ったのは秀秋は暗愚であり、又毛利家は他の血統を入《い》れないことにしているので、隆景は|ことは《断》るわけに行かず、覚悟をかため、自分の後継者の筈であった末弟《マッテイ》を毛利家へ入《=い》れ、秀吉に乞ふ《う》て秀秋を自分の養子とした。如水は毛利の為を考へ《え/》太閤の子を養子にすれば行末《行く末》良ろしから《ろ》うと計ったわけだが、隆景は実は大いに困ったので、如水の世間師的性格がここに現れているのである。か《こ》ういう因縁があるところへ、朝鮮後役《朝鮮ゴエキ》では秀秋は太閤の名代《=ミョウダイ》として出陣し如水はその後見として渡海した。帰朝後秀秋はその失策により太閤の激怒を買ひ《い/》筑前五十余万石から越前|十五万石《十五’万石》へ移されたが、移るに先立って太閤が死んだので、家康のはからひ《い》でそのままもとの筑前を領している。  関ヶ原の役となり元々豊臣《元々’豊臣’》の血統の秀秋は三成の招に応じて出陣したが、このとき如水は小倉へ走り、例の熱弁、秀秋の裏切りを約束させた。秀秋の家老平岡石見、稲葉佐渡両名も同意し、秀秋が馬関海峡を渡るに先立ちすでに関ヶ原の運命は定《決》まったもので、如水は直ちに家人神吉清兵衛《家人’神吉清兵衛》を関東へ走らせて金吾秀秋の内通を報告させた。如水黒幕《如水’黒幕》の暗躍により関ヶ原の大事はほぼ決したのだが、これは後日の話。  さて三成は佐和山へ引退する。大乱これより起るべし。如水は忽ちかく観じて、長政に全軍を|さづ《授》け、大事起らばためらうことなく家康に附して存分の働きを怠るなと言ひ《い》含め、お膳立はできたと九州中津へ引上げる。けれども秘密の早船《ハヤブネ》を仕立て、大坂、備後鞆、周防|上《+かみ》の関の三ヶ《=か》所に備へ《え》を設け、京坂の風雲は三日の後《=のち》に如水の耳にとどく仕組み。用意はできた。かくて彼は中津に於《於い》て、碁を打ち、茶をたて、歌をよみ、悠々大乱起るの日を待っている。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そのとき如水は城下《=ジョウカ》の商人伊予屋弥右衛門《商人伊予屋弥右衛門《商人◇伊予屋弥右衛門》》の家へ遊びにでかけ御馳走になっていた。そこへ大坂|留守居栗山《留守居’栗山》四郎右衛門からの密使野間《密使’野間》源兵衛が駈けつけて封書を手渡す。三成《ミツナリ》、行長《行長/》、恵瓊の三名主謀して毛利浮田島津《毛利/浮田/島津》らを語らひ《い/》家康討伐の準備|ととのへ《整え》る趣き、上方《=かみがた》の人心ために恟々たり、とある。如水は一読、面色には《わ》かに凜然《=リンゼン》、左右をかへ《え》りみて高らかに叫ぶ。天下分け目の合戦《-かっせん》できたり、急ぎ出陣用意。身をひるがへ《え》して帰城する、即刻|諸老臣《ショ老臣》の総出仕を命じたが、如水まさに二十《ハタチ》の血気、胸はふくらみ、情火はめぐり、落付きもなければ辛抱もない。  並居る老臣に封書を披露し、説き起し説き去る天下の形勢、説き終って大声一番、者共、いざ出陣の用意、と怒鳴ったという、血気横溢、呆気にとられたのは老臣どもで、皆々黙《皆々もく》して一語《=イチ語》を答へ《え》る者《=もの》もない。ややあって井上九郎衛門がすすみでて、君侯のお言葉は壮快ですが、さきに領内の精鋭は長政公に附し挙げて遠く東国に出陣せられてを《お》ります。中津に残る小勢では籠城が勢一杯《精一杯》で、と言ふ《う》と、如水はカラカラと笑って、貴様も久しく俺に仕へ《え》ながら俺の力がまだ分らぬか。上方《=カミガタ》の風雲をよそに連日の茶の湯、囲碁、連歌の会、俺は毎日遊んでいたがさ、この日この時の策はかねて上方《=かみがた》を立つ日から胸に刻んである。家康と三成が百日戦ふ《う》間に、九州は|一な《一舐》め、中国を平げて播磨でとまる。播磨は俺のふるさとで、ここまでは俺の領分さ、と吹きまくる大法螺、蓋し如水三十年間抑へ《え》に抑へ《え》た胸のうち、その播磨で、切り|したがへ《従え》た九州中国の総兵力を指揮して家康と天下分け目の決戦、そこまで言ひ《い》たい如水であるが、言ひ《い》きる勇気がさすがにない。彼の当《当て》にしているのは彼|自《=みずか》らの力ではなく、ただ天下のドサクサで、家康三成の乱闘が百日あればと如水は言ったが、千日あればその時は、という儚い一場《=いちじょう》の夢。然し如水はその悪夢に骨の髄まで憑かれ、ああ三十年見果てぬ夢、見あきぬ夢、ただ他愛もなく亢奮している。  領内へふれて十五六《十ゴロク》から隠居の者《=もの》に至るまで、浪人もとより、町人百姓職人《町人’百姓’職人》この一戦に手柄を立て名を立て家《/家》を興さん者は集れ、手柄に応じ恩賞望み次第とあり、如水自《:如水自》ら庭前《庭先》へでて集《#集ま》る者《=モノ》に金銀を与へ《え》、一人一人《=ひとりひとり》にニコポンをやる、一同二回三回行列して金銀の二重三重《ニジュウサンジュウ》とり、如水はわざと知らないう《ふ》りをしている。  九月九日に準備|ととのひ《整い》出陣、井上九郎衛門、母里太兵衛が諫めて、家康がまだ江戸を動いた知らせもないのに出陣はいかが、上方《=かみがた》に両軍開戦の知らせを待って九州の三成党《ミツナリ党》を平定するのが穏当でござら《ろ》うと言ったが、なに三成の陰謀は隠れもないこと、早いに限る、とそこは如水さすがに神速、戦争は巧者であった。  翌《明く》れば十日豊後に進入、総勢九千余の小勢ながら如水全能を傾け渾身の情熱又鬼策《情熱また鬼策》、十五日には大友義統を生捕り豊後平定。だが、|あは《哀》れや、その同じ日の九月十五日、関ヶ原に於《於い》て、戦争はただ一日《イチニチ》に片付いていた。百日間《=100日間》、如水は叫んだが、心中《シンチュウ》二百日千日《二百日’千日》を欲《’欲》し祈り期していた。ただの一日《イチニチ》とは! 如水の落胆。然し、何食は《わ》ぬ顔。家康の懐刀藤堂高虎《懐刀’藤堂高虎》に書簡を送り、九州の三成党《ミツナリ党》を独力攻め亡《滅ぼ》してみせるから、攻め亡《滅ぼ》したぶんは自分の領地にさせてくれ、倅《:倅》は家康に附し上国《ジョウ国》に働いているから、倅は倅で別の働き、九州は俺の働きだから恩賞は別々によろしく取りなしをたのむ、という文面。  かくて如水は筑前に攻めこみ、久留米、柳川を降参させる、別勢は日向《ヒュウガ》、豊前に、更に薩摩に九州一円平定したのが十一月十八日。  悪夢三十年の余憤《=ヨフン》、悪夢|くづ《崩》れて尚《なお》さめやらず、一生のみれんをこめて藤堂高虎に恩賞のぞみの書面を送らざるを得なかった如水、日《:日》は流れ、立《=た》ちかへ《え》る五十の分別《フンベツ》、彼は元々策《元々’策》と野心然《野心/然》し頭ぬ《抜》けて分別《フンベツ》の男であった。悪夢つひ《い》に|くづ《崩》る。春夢終《春夢’終》れりと見た如水、茫々五十年、ただ一瞬ひるがへ《え》る虚しき最後の焔《炎》。一生の遺恨をこめた二ヶ《=か》月の戦野も夢《/夢》はめぐる枯野のごとく、今はただ冷《冷やや》かに見る如水であった。  独力九州の三成党《ミツナリ党》を切り|したがへ《従え》た如水隠居の意外|きは《極》まる大活躍は、人々に驚異と賞讃をまき起していた。ただそれを冷《冷やや》かに眺める人は、家康と、そして本人の如水であった。家康は長政に厚く恩賞を与へ《え》たが、如水には一文《イチモン》の沙汰もない。高虎がいささか見かねて、如水の偉功抜群、隠居とは申せなにがしの沙汰があってはと上申すると、家康クスリと笑って、なに、あの策師がかへ、九州の働きとな、ふッふッふ、誰のための働きだというのだへ、と呟いただけであった。  けれども家康にソツはない。彼は幾夜も考へ《え》る。如水に就《就い》て、気根よく考へ《え》た。使者を遥々|つかは《遣わ》して如水を敬々しく大坂に迎へ《え》、膝もと近く引き寄せて九州の働きを逐一きく、あの時は又この時はと家康のきき上手《=じょうず》、如水も我《吾》を忘れて熱演、はてさて、その戦功は前代未聞でござるのと家康は嘆声をもらすのであった。思へ《え》ば当今《=トウコン》の天下統一万民和楽もひとへにあなたの武略のたまものです。なにがさて遠国のこととて御礼の沙汰もおくれて申訳もない、さつ《っ》そく朝廷に申上《申し上》げて位《=くらい》をすすめ、又、上方《=かみがた》に領地も差上《差し上》げねばなりますまい。今後は特別天下の政治に御指南をたのみます、と、言ひ《い》も言ったり憎らしいほどのお世辞、政治の御指南、朝廷の位、耳には快いが実は無い。如水は敬々しく辞退して、忝い御諚ですが、すでに年老ひ《い》又生来《また生来》の多病でこの先の御役に立たない私です。別してこのたびは愚息に莫大な恩賞をいただいてを《お》りますので、私の恩賞などとは|ひら《平》に御許しに|あづか《与》りたい、とコチコチになって拝辞する。秀忠がその淡泊に驚いて、ああ漢の張良とはこの人のことよと嘆声をもらして群臣に訓へ《え》たというが、それが徳川の如水に与へ《え》た奇妙な恩賞であった。如水は家康めにしてやられたわいとかねて覚悟の上のこと、バクチが外れたときは仕方がないさ、とうそぶいている。応仁以降うちつづいた天下《’天下》のどさくさは終った、俺のでる幕はすんだという如水の胸は淡泊にはれていた。どさくさはすんだ。どさくさと共にその一生もすんだという茶番のや《よ》うな儚さを彼は考へ《え》ていなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「坂口安吾全集◇ 04」筑摩書房】 【   1998(平成10)年5月22日初版第|1刷《イッサツ》発行】 【底本の《’の》親本:「二流の人」中篇小説新書、九州書房】 【   1947(昭和22)年1月30日発行】 【初出:「二流の人」中篇小説新書、九州書房】 【   1947(昭和22)年1月30日発行】 【入力:tatsuki】 【校正:小林繁雄】 【2007年1月5日作成】 【2012年9月13日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン/》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。