◇。◇。◇。 【老いたる素戔嗚尊《素戔嗚》】 【芥川竜之介】 ◇。◇。◇。 【第一章《第1章》】 ──── ◇。◇。◇。  高志の大蛇を退治した素戔嗚は、櫛名田姫を娶ると同時に、足名椎が治めていた部落の長《オサ》となる事になつ《っ》た。  足名椎は彼等夫婦《彼ら夫婦》の為《ため》に、出雲の須賀へ八広殿《ヤヒロドノ》を建てた。宮は千木《チギ》が天雲に隠れる程大《ほど大》きな建築であつ《っ》た。  彼は新しい妻と共に、静《静か》な朝夕を送り始めた。風の声も浪の水沫《シブキ》も、或《あるい》は夜空の星の光も今は再彼《再び彼》を誘つ《っ》て、広漠とした太古の天地に、さまよは《わ》せる事は出来なくなつ《っ》た。既に父となら《ろ》うとしていた彼は、この宮の太い棟木の下に、─《─:》─赤と白とに狩の図を描《-えが》いた、彼《◇彼》の部屋の四壁《シヘキ》の内に、高天原の国が与へ《え》なかつ《っ》た炉辺の幸福を見出《見い出》したのであつ《っ》た。  彼等は一|しよ《緒》に食事をしたり、未来の計画を話し合つ《っ》たりした。時々は宮の|まは《周》りにある、柏の林に歩みを運んで、その小さな花房《ハナブサ》の地に落ちたのを踏みながら、夢のや《よ》うな小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあつ《っ》た。彼は妻に優しかつ《っ》た。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のや《よ》うな荒々しさは、二度と影さえも現さなかつ《っ》た。  しかし稀に夢の中では、暗黒《暗やみ》に蠢く怪物や、見えない手の揮ふ《う》剣《ツルギ》の光が、もう一度彼《一度’彼》を殺伐な争闘の心につ《連》れて行つ《っ》た。が、何時《いつ》も眼がさめると、彼《◇彼》はすぐ妻の事や部落の事を思ひ《い》出す程《ほど》、綺麗にその夢を忘れていた。  間もなく彼等は父母になつ《っ》た。彼はその生《生ま》れた男の子に、八島士奴美と|云ふ《言う》名を与へ《え》た。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であつ《っ》た。  月日は川のや《よ》うに流れて行つ《っ》た。  その間《あいだ》に彼は何人かの妻を娶つ《っ》て、更に多くの子の父になつ《っ》た。それらの子は皆人《-みんな人》となると、彼《◇彼》の命ずる儘《まま》に兵士を率いて、国々の部落を従へに行つ《っ》た。  彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝|はつ《わっ》て行つ《っ》た。国々の部落は彼のもとへ、続々と貢を奉《-たてまつ》りに来た。それらの貢を運ぶ舟《フネ》は、絹や毛革《毛皮》や玉と共に、須賀の宮を仰ぎに来る国々の民をも乗せていた。  或日彼《ある日彼》はさ《そ》う|云ふ《言う》民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は皆当年《-みんな当年》の彼のや《よ》うな、筋骨の逞しい男であつ《っ》た。彼は彼等を宮に召して、手づから酒を飲ませてやつ《っ》た。それは今まで何人《ナンピト》も、この勇猛な部落の長《オサ》から、受けたことのない待遇であつ《っ》た。若者たちも始めの内は、彼《◇彼》の意嚮を量りかねて、多少の畏怖を抱《-いだ》いたらしかつ《っ》た。しかし酒が|まは《回》り出すと、彼《◇彼》の所望する通り、甕《ミカ》の底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱つ《っ》た。  彼等が宮を下る時《とき》、彼《◇彼》は一振《一振り》の剣《ツルギ》を取つ《っ》て、 「これは|おれ《俺》が高志の大蛇を斬つ《っ》た時、その尾の中にあつ《っ》た剣《ツルギ》だ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷の女君《オンナギミ》に渡してくれい。」と|云ひ《言い》つけた。  若者たちはその剣《ツルギ》を捧げて、彼《◇彼’》の前に跪きながら、死んでも彼の命令に背かないと|云ふ《言う》誓ひ《い》を立てた。  彼はそれから独り海辺へ行つ《っ》て、彼等《◇彼等》を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向《向こ》うに、遠くなつ《っ》て行くのを見送つ《っ》た。帆は霧を破る日の光を受けて、丁度中空《ちょうど中空》を行くや《よ》うに、たつ《っ》た一つ閃いていた。 ◇。◇。◇。 【第二章《第2章》】 ──── ◇。◇。◇。  しかし死は素戔嗚夫婦をも赦さなかつ《っ》た。  八島士奴美がおとなしい若者になつ《っ》た時、櫛名田姫はふと病《病い》に罹つ《っ》て、一月《ヒト月》ばかりの後《あと》に命を殞した。何人か妻があつ《っ》たとは|云へ《言え》、彼《◇彼》が彼自身のや《よ》うに愛していたのは、やはり彼女一人《彼女ひとり》だけであつ《っ》た。だから彼は喪屋が出来ると、まだ美しい妻の死骸の前に、|七日七晩坐つ《七日ナナ晩’坐っ》た儘《まま》、黙然《モクネン》と涙を流していた。  宮の中はその間《あいだ》、慟哭の声に溢れていた。殊に幼い須世理姫が、しつ《っ》きりなく歎き悲しむ声には、宮の外を通るものさえ、涙を落さずには《は’》いられなかつ《っ》た。彼女は──この八島士奴美のたつ《っ》た一人の妹は、兄が母に似ている通り、情熱の烈しい父に似た、男まさりの娘であつ《っ》た。  やがて櫛名田姫《’櫛名田姫》の亡き骸は、生前彼女《生前’彼女》が用ひ《い》ていた、玉や鏡や衣服と共に、須賀の宮から遠くない、小山《コヤマ》の腹に埋められた。が、素戔嗚はその上に、黄泉路の彼女を慰むべく、今まで妻に仕へ《え》ていた十一人の女たちをも、埋め殺す事を忘れなかつ《っ》た。女たちは皆《みんな》、装ひ《い》を凝らして、いそいそと死に急いで行つ《っ》た。するとそれを見た部落の老人たちは、いづ《ず》れも眉をひそめながら、私《ひそか》に素戔嗚の暴挙を非難し合つ《っ》た。 「十一人❢《❢。》 尊《ミコト》は部落の旧習に全然無頓着《ぜんぜん無頓着》で御出《お出》でなさる。第一の妃が御《お》なくなりなすつ《っ》たのに、十一人しか黄泉の御供《お供》を御《お》させ申さないと|云ふ《言う》法があら《ろ》うか? たつ《っ》た皆《みんな》で十一人❢」  葬りが全く終つ《っ》た後《あと》、素戔嗚は急に思ひ《い》立つ《っ》て、八島士奴美に世を譲つ《っ》た。さ《そ》うして彼自身は須世理姫と共に、遠い海の向《向こ》うにある根堅洲国《ネノガタスクニ》へ移り住んだ。  其処《そこ》は彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面海《四面’海》の無人島であつ《っ》た。彼はこの島の南の小山《コヤマ》に、茅葺の宮を営ませて、安らかな余生を送る事にした。  彼は既に髪の毛が、麻のや《よ》うな色に変つ《っ》ていた。が、《◇、》老年もまだ彼の力を奪ひ《い》去る事が出来ない事は、時々彼《ときどき彼》の眼に去来する、精悍な光にも明《明ら》かであつ《っ》た。いや、彼《◇彼’》の顔はどうかすると、須賀の宮にいた時より、更に野蛮な精彩を加へ《え》る事もないではなかつ《っ》た。彼は彼自身気づかなかつ《っ》たが、この島に移り住んで以来、今まで彼の中に眠つ《っ》ていた野性が、何時《いつ》か又眼《また眼》をさまして来たのであつ《っ》た。  彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼ひ《い》馴らした。蜂は勿論蜜《もちろん蜜》を取る為《ため》、蛇は征矢の鏃に塗るべき、劇烈な毒を得る為《ため》であつ《っ》た。それから狩や漁の暇に、彼《◇彼》は彼の学んだ武芸や魔術を、一々須世理姫《いちいち須世理姫》に教へ《え》聞かせた。須世理姫はか《こ》う|云ふ《言う》生活の中に、だんだん男にも負けないや《よ》うな、雄々しい女になつ《っ》て行つ《っ》た。しかし姿だけは依然として、櫛名田姫の面影を止《とど》めた、気高い美しさを失は《わ》なかつ《っ》た。  宮の|まは《周》りにある椋の林は、何度となく芽を吹いて、何度となく又葉《また葉》を落した。其度《その度》に彼は髯だらけの顔に、愈皺《いよいよ皺》の数を加へ《え》、須世理姫は始終微笑《-しじゅう微笑》んだ瞳に、益涼《ますます涼》しさを加へ《え》て行つ《っ》た。 ◇。◇。◇。 【第三章《第3章》】 ──── ◇。◇。◇。  或日素戔嗚《ある日素戔嗚》が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きな牡鹿《オジカ》の皮を剥《ハ》いでいると、海へ水を浴びに行つ《っ》た須世理姫が、見慣れない若者と一|しよ《緒》に帰つ《っ》て来た。 「御父様《お父様》、この方に唯今御目《ただ今お目》にかかりましたから、此処《ここ》まで御伴《お伴》して参りました。」  須世理姫はか《こ》う|云つ《言っ》て、やつ《っ》と身を起《起こ》した素戔嗚に、遠い国の若者を引き合は《わ》せた。  若者は眉目の描いたや《よ》うな、肩幅の広い男であつ《っ》た。それが赤や青の頸珠《クビタマ》を飾つ《っ》て、太い高麗剣《コマツルギ》を佩いている容子《様子》は、殆ど年少時代そのものが目前に現れたや《よ》うに見えた。  素戔嗚は恭しい若者の会釈を受けながら、 「御前《お前》の名は何と|云ふ《言う》?」と、無躾《不躾》な問を抛りつけた。 「葦原醜男と申します。」 「どうしてこの島へやつ《っ》て来た?」 「食物や水が欲しかつ《っ》たものですから、わざわざ舟をつけたのです。」  若者は悪びれた顔もせずに、一々はつ《っ》きり返事をした。 「さ《そ》うか。ではあちらへ行つ《っ》て、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」  二人が宮の中に|はいつ《入っ》た時、素戔嗚は又椋《また椋》の木かげに、器用に刀子を動かしながら、牡鹿《オジカ》の皮を剥ぎ始めた。が、彼《◇彼》の心は何時《いつ》の間にか、妙な動揺を感じていた。それは丁度晴天《ちょうど晴天》の海に似た、今までの静《静か》な生活の空に、嵐を先触《先ぶ》れる雲の影が、動か《こ》うとするや《よ》うな心もちであつ《っ》た。  鹿の皮を剥ぎ終つ《っ》た彼が、宮の中へ帰つ《っ》たのは、もう薄暗《薄ぐら》い時分であつ《っ》た。彼は広い階段《キザハシ》を上ると、何時《いつ》もの通り何気なく、大広間《オオ広間》の戸口に垂れている、白い帷《-とばり》を掲げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるで塒《-ねぐら》を荒らされた、二羽の睦《睦ま》じい小鳥のや《よ》うに、倉皇と菅畳から身を起《起こ》した。彼は苦い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりと忌々しさ《そ》うな視線をやると、 「お前は今夜此処《今夜ここ》へ泊つ《っ》て、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、半《なか》ば命令的な言葉をかけた。  葦原醜男は彼の言葉に、嬉しさ《そ》うな会釈を返したが、それでもまだ何となく、間《マ》の悪《-わる》げな気色は隠せなかつ《っ》た。 「ではすぐにあちらへ行つ《っ》て、遠慮なく横になつ《っ》てくれい。須世理姫──」  素戔嗚は娘を振り返ると、突然嘲《突然’嘲》るや《よ》うな声を出した。 「この男を早速蜂《さっそく蜂》の室《ムロ》へつ《連》れて行つ《っ》てやるが好い。」  須世理姫は一瞬間、色を失つ《っ》たや《よ》うであつ《っ》た。 「早くしないか❢」  父親は彼女がためらふ《う》のを見ると、《◇、》荒熊のや《よ》うに唸り出《だ》した。 「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」  葦原醜男はもう一度、叮嚀《丁寧》に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追つ《っ》て、いそいそと大広間《オオ広間》を出て行つ《っ》た。 ◇。◇。◇。 【第四章《第4章》】 ──── ◇。◇。◇。  大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた領巾を取つ《っ》て、葦原醜男《葦原ノ醜男》の手に渡しながら《ら’》囁くや《よ》うにか《こ》う|云つ《言っ》た。 「蜂の室《ムロ》へ|御はひ《お入》りになつ《っ》たら、これを三遍御振《三遍お振》りなさいまし。さ《そ》うすると蜂が刺しませんから。」  葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかつ《っ》た。が、問ひ《い》返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、室《ムロ》の中へ彼を案内した。  室《ムロ》の中はもう|まつ《真っ》暗であつ《っ》た。葦原醜男は其処《そこ》へ|はひ《入》ると、手さぐりに彼女を捉へ《え》ようとした。が、手は僅《僅か》に彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであつ《っ》た。さ《そ》うしてその次の瞬間には、慌しく扉を閉ぢ《じ》る音が聞《聞こ》えた。  彼は領巾をたまさぐ《-ぐ》りながら、茫然と室《ムロ》の中に佇んでいた。すると眼が慣れたせいか、だんだんあたりが思つ《っ》たより、薄明《薄明る》く見えるや《よ》うになつ《っ》た。  その薄明りに透して見ると、室《ムロ》の天井からは幾つとなく、大樽程《大樽ほど》の蜂の巣が下つ《がっ》ていた。しかもその又巣《また巣》の|まは《周》りには、彼《◇彼》の腰《コシ》に下げた高麗剣《コマツルギ》より、更に一《ひと》かさ大きい蜂が、何匹も悠々と這ひ《い》ま|はつ《わっ》ていた。  彼は思は《わ》ず身を翻して、扉の方《ほう》へ飛んで行つ《っ》た。が、いくら推しても引いても、扉は開きさ《そ》うな気色《ケシキ》さへ《え》なかつ《っ》た。のみならずその時一匹《とき一匹》の蜂は、斜《斜め》に床の上へ舞ひ《い》下《下り》ると、鈍い翅音《羽音》を起《起こ》しながら、次第に彼の方《ほう》へ這ひ《い》寄つ《っ》て来た。  余りの事に度を失つ《っ》た彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺さ《そ》うとした。しかし蜂は其途端《その途端》に、一層翅音《いっそう羽音》を高くしながら、彼《◇彼’》の頭上へ|舞上つ《舞い上がっ》た。と同時に多くの蜂も、人の|けはひ《気配》に腹を立てたと見えて、まるで風を迎へ《え》た火矢のや《よ》うに、ばらばらと彼の上へ落ちかかつ《っ》て来た。‥《‥:》‥  須世理姫は広間へ帰つ《っ》て来ると、壁に差した松明へ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。 「確《確か》に蜂の室《ムロ》へ入れて来たら《ろ》うな?」  素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々しさ《そ》うな声を出した。 「私は御父様《お父様》の御云《お言》ひ《い》つけに背いた事はございません。」  須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。 「さ《そ》うか? では勿論《もちろん》これからも、|おれ《俺》の|云ひ《言い》つけは背くまい《い-》な?」  素戔嗚のか《こ》う|云ふ《言う》言葉の中には、皮肉な調子が|交つ《交じっ》ていた。須世理姫は頸珠《クビタマ》を気にしながら、背くとも背かないとも答へ《え》なかつ《っ》た。 「黙つ《っ》ているのは背く気か?」 「いいえ。──御父様《お父様》はどうしてそんな──」 「背かない気ならば、|云ひ《言い》渡す事がある。|おれ《俺》はお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなつ《っ》た夫を持たねばならぬ。好《い》いか? これだけの事を忘れるな。」  夜が既に更けた後《あと》、素戔嗚は鼾をかいていたが、須世理姫は独り悄然と、広間の窓に倚りかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守つ《っ》ていた。 ◇。◇。◇。 【第五章《第5章》】 ──── ◇。◇。◇。  翌朝素戔嗚《翌朝’素戔嗚》は何時《いつ》もの通り、岩の多い海へ泳ぎに行つ《っ》た。すると其処《そこ》へ葦原醜男が、意外にも彼の後を追つ《っ》て、勢《勢い》よく宮の方《ほう》から下つ《っ》て来た。  彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快さ《そ》うな微笑を浮べながら、 「御早《お早》うございます。」と、会釈をした。 「どうだな、昨夕《夕べ》はよく眠られたかな?」  素戔嗚は岩角に佇んだ儘《まま》、迂散らしく相手の顔を見やつ《っ》た。実際この元気の好い若者がどうして室《ムロ》の蜂に殺されなかつ《っ》たか? それは全然彼自身《全然’彼自身》の推測を超越していたのであつ《っ》た。 「ええ、御《お》かげでよく眠られました。」  葦原醜男はか《こ》う答へ《え》ながら、足もとに落ちていた岩のかけを拾つ《っ》て、力一《力いっ》ぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を描《-えが》いて、雲の赤い空へ飛んで行つ《っ》た。さ《そ》うして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思は《わ》れる程《ほど》、遠い沖の波の中に落ちた。  素戔嗚は唇を噛みながら、|ぢつ《じっ》とその岩の行く方を見つめていた。  二人が海から帰つ《っ》て来て、朝餉の膳に向つ《かっ》た時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿の片腿を噛《齧》りながら、彼《◇彼》と向ひ《かい》合つ《っ》た葦原醜男に、 「この宮が気に入つ《っ》たら、何日でも泊つ《っ》て行くが好い。」と|云つ《言っ》た。  傍《そば》にいた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そつ《っ》と葦原醜男の方《ほう》へ、意味ありげな瞬《-またた》きを送つ《っ》て見せた。が、彼《◇彼》は丁度《ちょうど》その時、盤《皿》の魚に箸をつけていたせいか、彼女《◇彼女》の相図《合図》には気もつかずに、 「難有うございます。ではもう二三日、御厄介《ご厄介》になりませ《しょ》うか。」と、嬉しさ《そ》うな返事をしてしまつ《っ》た。  しかし幸ひ《い》午後になると、素戔嗚が昼寝をしている暇に、二人の恋人は宮を抜け出て彼《/か》の独木舟が繋いである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福を偸む事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横は《たわ》りながら、暫くは唯夢《ただ夢》のや《よ》うに、葦原醜男《葦原ノ醜男》の顔を仰いでいたが、やがて彼の腕を引き離すと、 「今夜も此処《ここ》に御泊《お泊》りなすつ《っ》ては、あなたの御命《お命》が危《危の》うございます。私の事なぞは|御かまひ《お構い》なく、一刻も早く御逃《お逃》げ下さいまし。」と、心配さ《そ》うに促し立てた。  しかし葦原醜男は笑ひ《い》ながら、子供のや《よ》うに首を振つ《っ》て見せた。 「あなたが此処《ここ》にいる間は、殺されても此処《ここ》を去らない心算《つもり》です。」 「それでもあなたの御体《お体》に、万一《万いち》の事でもあつ《っ》た日には──」 「ではすぐにも私と一|しよ《緒》に、この島を逃げてくれますか?」  須世理姫はためらつ《っ》た。 「さもなければ私は何時《いつ》までも、此処《ここ》にいる覚悟をきめています。」  葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女《◇彼女》は彼を突きのけると急に海草の上から身を起《起こ》して、 「御父様《お父様》が呼んでいます。」と、気づかは《わ》しさ《そ》うな声を出した。さ《そ》うして咄嗟に岩の間を、若い鹿より身軽さ《そ》うに、宮の方《ほう》へ上つ《っ》て行つ《っ》た。  後《あと》に残つ《っ》た葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つ《っ》た。と、彼女《◇彼女》の寝ていた所《ところ》には、昨夕彼《夕べ彼》が貰つ《っ》たや《よ》うな、領巾がもう一枚落《一枚’落》ちていた。 ◇。◇。◇。 【第六章《第6章》】 ──── ◇。◇。◇。  その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂の室《ムロ》と向ひ《かい》合つ《っ》た、もう一つの室《ムロ》の中に、葦原醜男《葦原ノ醜男》を抛りこんだ。  室《ムロ》の中は昨日の通り、もう暗黒《暗やみ》が拡がつ《っ》ていた。が、唯一《ただ一》つ昨日と違つ《っ》て、その暗黒《暗やみ》の|其処此処《そこここ》には、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のや《よ》うに、点々ときらめく物があつ《っ》た。  葦原醜男は心の中に、この光物の正体を怪しみながら、暫くは眼が暗黒《暗やみ》に慣れる時の来るのを待つ《っ》ていた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明《明る》くなるにつれて、その星のや《よ》うな光物が、殆ど馬さへ《え》呑みさ《そ》うな、凄じい大蛇《オロチ》の眼に変つ《わっ》た。しかも大蛇《オロチ》は何匹となく、或《あるい》は梁に巻きついたり、或《あるい》は桷《タルキ》を伝|はつ《わっ》たり、或《あるい》は又床《また床》にとぐろを巻いたり、室一《ムロいっ》ぱいに気味悪《キミ悪》く、蠢き合つ《っ》ているのであつ《っ》た。  彼は思は《わ》ず腰に下げた剣《ツルギ》の柄《ツカ》に手をかけた。が、たとひ《い》剣《ツルギ》を抜いた所《ところ》が、彼《◇彼》が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を巻き殺すのに違ひ《い》なかつ《っ》た。いや、現に一匹の大蛇《オロチ》が、彼《◇彼’》の顔を下から覗きこむと、それより更に大きい一匹は、梁に尾をからんだ儘《まま》、ずるりと宙に吊り下つ《っ》て、丁度彼《ちょうど彼》の肩の上へ、鎌首をさしのべているのであつ《っ》た。  室《ムロ》の扉は勿論開《もちろん開》かなかつ《っ》た。のみならずその後《あと》には、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、|ぢつ《じっ》と扉の向《向こ》うの容子《様子》に耳を傾けているらしかつ《っ》た。葦原醜男は懸命に剣《ツルギ》の柄《ツカ》を握りながら、暫時《しばらく》は眼ばかり動かせていた。その内に彼の足もとの大蛇《オロチ》は、徐《徐ろ》に山のや《よ》うなとぐろを解くと、一際高《一際’高》く鎌首を挙げて、今にも猛然と彼の喉へ噛みつきさ《そ》うな|けはひ《気配》を示し出した。  この時彼《とき彼》の心の中には、突然光《突然’光》がさしたや《よ》うな気がした。彼は昨夜室《昨夜ムロ》の蜂が、彼《◇彼》の|まは《周》りへ群《群ら》がつ《っ》て来た時、須世理姫に貰つ《っ》た領巾を振つ《っ》て、危《危な》い命を救ふ《う》事が出来た。してみればさつ《っ》き須世理姫が、海辺の岩の上に残して行つ《っ》た領巾にも、同じや《よ》うな奇特《キドク》があるかも知れぬ。──さ《そ》う思つ《っ》た彼は咄嗟の間《マ》に、拾つ《っ》て置いた領巾を取出《取り出》して、三度ひらひらと振り廻して見た。‥《‥:》‥  翌朝素戔嗚は又石《また石》の多い海のほとりで、愈元気《いよいよ元気》の好《よ》ささ《そ》うな葦原醜男と顔を合せた。 「どうだな。昨夜はよく眠られたかな?」 「ええ。御《お》かげでよく眠られました。」  素戔嗚は顔中《顔じゅう》に不快さ《そ》うな色を漲らせて、じろりと相手を睨みつけたが、どう思つ《っ》たかもう一度、何時《いつ》もの冷静な調子に返つ《っ》て、 「さ《そ》うか。それはよかつ《っ》た。ではこれから|おれ《俺》と一|しよ《緒》に、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なささ《そ》うな声をかけた。  二人はすぐに裸になつ《っ》て、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にいた時から、並ぶもののない泳ぎ手であつ《っ》た。が、葦原醜男《葦原ノ醜男》は彼にも増して、殆ど海豚にも劣らない程《ほど》、自由自在に泳ぐ事が出来た。だから二人の|みづら《ミヅラ》の頭は、黒白二羽の鴎のや《よ》うに、岩の屏風を立てた岸から、見る見る内《うち》に隔たつ《っ》てしまつ《っ》た。 ◇。◇。◇。 【第七章《第7章》】 ──── ◇。◇。◇。  海は絶えず膨れ上つ《っ》て、雪のや《よ》うな波の水沫《シブキ》を二人の|まは《周》りへ漲らせた。素戔嗚はその水沫《シブキ》の中に、時々葦原醜男《ときどき葦原醜男》の方《ほう》へ意地悪さ《そ》うな視線を投げた。が、相手は悠々とどんなに高い波が来ても、乗り越え乗り越え進んでいた。  それが暫く続く内に、葦原醜男《葦原ノ醜男》は少しづ《ず》つ素戔嗚より先へ進み出《だ》した。素戔嗚は私《ひそか》に牙を噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二三度泡《二’三度泡》を撒き散らす間に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまつ《っ》た。さ《そ》うして重なる波の向《向こ》うに、何時《いつ》の間にか姿を隠してしまつ《っ》た。 「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払は《お》うと思つ《っ》たのだが、──」  さ《そ》う思ふ《う》と素戔嗚は、愈彼《いよいよ彼》を殺さない内は、腹が癒えないや《よ》うな心もちになつ《っ》た。 「畜生❢《❢。》 あんな悪賢い浮浪人は、鰐にでも食は《わ》してしまふ《う》が好い。」  しかし程《ほど》なく葦原醜男は、彼自身《◇彼自身》がまるで鰐のや《よ》うに、楽々とこちらへ返つ《っ》て来た。 「もつ《っ》と御泳《お泳》ぎになりますか?」  彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遥に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚は如何《いか》に剛情《強情》を張つ《っ》ても、この|上泳が《うえ泳ご》うと|云ふ《言う》気にはなれなかつ《っ》た。‥《‥:》‥  その日の午後素戔嗚《午後’素戔嗚》は、更に葦原醜男《葦原ノ醜男》をつれて、島の西に開いた荒野《アラノ》へ、狐や兎を狩りに行つ《っ》た。  二人は荒野《アラノ》の|はづ《外》れにある、小高い大岩の上へ登つ《っ》た。荒野《アラノ》は目の及ぶ限り、二人の後《あと》から吹下《吹き下ろ》す風に、枯草《枯れ草》の波を靡かせていた。素戔嗚は少時黙然《しばらく黙然》と、さ《そ》う|云ふ《言う》景色を見守つ《っ》た後《あと》、弓に矢を番へ《え》ながら、葦原醜男《葦原ノ醜男》を振り返つ《っ》た。 「風があつ《っ》て都合が悪いが、兎《と》に角《かく》どちらの矢が遠く行くか、お前と弓勢を比べて見よう。」 「ええ、比べて見ませ《しょ》う。」  葦原醜男は弓矢を執つ《っ》ても、自信のあるらしい容子《様子》であつ《っ》た。 「好《い》いか? 同時に射るのだぞ。」  二人は肩を並べながら、力一《力いっ》ぱい弓を引き絞つ《っ》て、さ《そ》うして同時に切つ《っ》て離した。矢は波立つ《っ》た荒野《アラノ》の上へ、一文字に遠く飛んで行つ《っ》た。が、どちらが先へ行つ《っ》たともなく、唯《ただ》|一度日《一度ヒ》の光にきらりと矢羽根が光つ《っ》た儘《まま》、忽ち風下の空に紛れて、二本とも一|しよ《緒》に消えてしまつ《っ》た。 「勝負があつ《っ》たか?」 「いいえ──もう一度やつ《っ》て見ませ《しょ》うか?」  素戔嗚は眉をひそめながら、苛立たしさ《そ》うに頭を振つ《っ》た。 「何度やつ《っ》ても同じ事だ。それより面倒でも一走《ヒトッパシ》り、|おれ《俺》の矢を探しに行つ《っ》てくれい。あれは高天原の国から来た、|おれ《俺》の大事な丹塗の矢だ。」  葦原醜男は|云ひ《言い》つかつ《っ》た通《とお》り、風に鳴る荒野《アラノ》へ飛びこんで行つ《っ》た。すると素戔嗚はその後姿《後ろ姿》が、高い枯草《枯れ草》に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の枯茨へ火を放つ《っ》た。 ◇。◇。◇。 【第八章《第8章》】 ──── ◇。◇。◇。  色のない焔《’炎》は瞬く内に、濛々と黒煙を挙げ始めた。と同時にその煙の下から、茨や小篠《オザサ》の焼ける音が、けたたましく耳を弾き出した。 「今度こそあの男を片づけたぞ。」  素戔嗚は高い岩の上に、|ぢつ《じっ》と弓杖をつきながら、兇猛な微笑を浮べていた。  火は益燃《ますます燃》え拡がつ《っ》た。鳥は苦しさ《そ》うに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞ひ《い》上つ《っ》た。が、すぐに又煙《また煙’》に巻かれて、紛々と火の中へ落ちて行つ《っ》た。それがまるで遠くからは、嵐に振は《わ》れた無数の木の実が、しつ《っ》きりなくこぼれ飛ぶや《よ》うに見えた。 「今度こそあの男を片づけたぞ。」  素戔嗚はか《こ》う心の中《うち》に、もう一度満足《一度’満足》の吐息を洩らすと、何故か|云ひや《言いよ》うのない寂しさがかすかに湧いて来るや《よ》うな心もちがした。‥《‥:》‥  その日の薄暮、勝ち誇つ《っ》た彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷つ《っ》ている荒野《アラノ》の空を眺めていた。すると其処《そこ》へ須世理姫が、夕餉の仕度の出来たことを気がなささ《そ》うに報じに来た。彼女は近親の喪を弔ふ《う》や《よ》うに、何時《いつ》の間にかまつ《っ》白な裳を夕明《/夕明か》りの中に引きずつ《っ》ていた。  素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいや《よ》うな気がし出した。 「あの空を見ろ。葦原醜男は今時分《イマ時分》──」 「存じて居ります。」  須世理姫は眼を伏せていたが、思ひ《い》の外《ほか》はつ《っ》きりと、父親の言葉を遮つ《っ》た。 「さ《そ》うか? ではさぞかし悲しから《ろ》うな?」 「悲しうございます。よしんば御父様《お父様》が御歿《お亡》くなりなすつ《っ》ても、これ程悲《ほど悲》しくございますまい。」  素戔嗚は色を変へ《え》て、須世理姫を睨みつけた。が、それ以上彼女《以上’彼女》を懲らす事は、どう|云ふ《言う》ものか出来なかつ《っ》た。 「悲しければ、勝手に泣くが好い。」  彼は須世理姫に背を向けて、《◇、》荒々しく門の内へ|はひつ《入っ》て行つ《っ》た。さ《そ》うして宮の階段《キザハシ》を上りながら、忌々しさ《そ》うに舌を打つ《っ》た。 「何時《いつ》もの|おれ《俺》なら口も利かずに、打ちのめしてやる所《ところ》なのだが‥‥」  須世理姫は彼の去つ《っ》た後《あと》も、暫くは、暗く火照つ《っ》た空へ、涙ぐんだ眼を挙げていたが、やがて頭《コウベ》を垂れながら、悄然と宮へ帰つ《っ》て行つ《っ》た。  その夜素戔嗚は何時《いつ》までも、眠《眠り》に就く事が出来なかつ《っ》た。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心の底へ毒をさしたや《よ》うな気がするからであつ《っ》た。 「|おれ《俺》は今までにもあの男を何度殺《何度’殺》さ《そ》うと思つ《っ》たかわからない。しかしまだ今夜のや《よ》うに、妙な気のした事はないのだが‥‥」  彼はこんな事を考へ《え》ながら、青い匂《匂い》のする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打つ《っ》た。眠《眠り》はそれでも彼の上へ、容易に|下ら《くだろ》うとはしなかつ《っ》た。  その間《あいだ》に寂しい暁は早くも暗い海の向《向こ》うに、うすら寒い色を拡げ出した。 ◇。◇。◇。 【第九章《第9章》】 ──── ◇。◇。◇。  翌朝もう朝日の光が、海一《海いっ》ぱいに当つ《っ》ている頃であつ《っ》た。まだ寝の足りない素戔嗚は眩しさ《そ》うに眉をひそめながら、のそのそ宮《’宮》の戸口へ出かけて来た。すると其処《そこ》の階段《キザハシ》の上には、驚くまい事か、葦原醜男《葦原ノ醜男》が、須世理姫と一|しよ《緒》に腰をかけて、何事か嬉しさ《そ》うに話し合つ《っ》ていた。  二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚したらしい容子《様子》であつ《っ》た。が、すぐに葦原醜男《葦原ノ醜男》は不相変快活《相変わらず快活》に身を起《起こ》して、一筋の丹塗矢をさし出しながら、 「幸ひ《い》矢も見つかりました。」と|云つ《言っ》た。  素戔嗚はまだ驚きが止まなかつ《っ》た。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、悦ばしいや《よ》うな心もちもした。 「よく怪我をしなかつ《っ》たな?」 「ええ。全く偶然助《偶然’助》かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私《ちょうど私》がこの丹塗矢を拾ひ《い》上げた時だつ《っ》たのです。私は煙の中をくぐりながら、兎《と》も角火《かく火》のつかない方《ほう》へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつ《っ》て見た所《ところ》が、到底西風《到底’西風》に煽られる火よりも早くは走られません。‥‥」  葦原醜男はちよ《ょ》いと言葉を切つ《っ》て、彼の話に聞き入つ《っ》ている親子の顔へ微笑を送つ《っ》た。 「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひ《い》ないと、覚悟をきめた時でした。走つ《っ》ている内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初|まつ《’真っ》暗でしたが、縁《フチ》の枯草《枯れ草》が燃えるや《よ》うになると、忽ち底まで明《明る》くなりました。見ると私の|まは《周》りには、何百匹《ナンビャッピキ》とも知れない野鼠《野ネズミ》が、土の色も見えない程《ほど》ひしめき合つ《っ》ているのです‥‥。」 「まあ、野鼠《野ネズミ》でよろしうございました。それが蝮ででもございましたら‥‥」  須世理姫の眼の中には、涙と笑《笑み》とが刹那の間《あいだ》、同時に動いたや《よ》うであつ《っ》た。 「いや、野鼠《野ネズミ》でも莫迦にはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食は《わ》れたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通つ《っ》てしまひ《い》ました。」  素戔嗚はこの話を聞いている内に、だんだん又《また》この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺《一度’殺》さ《そ》うと思つ《っ》た以上、どうしてもその目的を遂げない中《うち》は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつ《っ》た。 「さ《そ》うか。それは運が好かつ《っ》たな。が、運と|云ふ《言う》ものは、何時風向《いつ風向》きが変《変わ》るかわからないものだ。‥《‥:》‥が、そんな事はどうでも好い。兎《と》に角命《かく命》が助つ《かっ》たのなら、|おれ《俺》と一|しよ《緒》にこちらへ来て、頭の虱をとつ《っ》てくれい。」  葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後《あと》について、朝日の光のさしこんでいる、大広間《オオ広間》の白い帷《-とばり》をくぐつ《っ》た。  素戔嗚は広間のま《真》ん中に、不機嫌らしい大《-おお》あぐらを組むと、|みづら《ミヅラ》に結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。素枯《すが》れた蘆の色をした髪は、殆ど川のや《よ》うに長かつ《っ》た。 「|おれ《俺》の虱はちと手強いぞ。」  か《こ》う|云ふ《言う》彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男《葦原ノ醜男》はその白髪を分けて、見つけ次第虱《次第シラミ》を|捻ら《ひねろ》うとした。が、髪の根に蠢いているのは、小さな虱と思ひ《い》の外《ほか》、毒々しい、銅色《アカガネイロ》の、大きな百足ばかりであつ《っ》た。 ◇。◇。◇。 【第十章《第10章》】 ──── ◇。◇。◇。  葦原醜男はためらつ《っ》た。すると側《そば》にいた須世理姫が、何時《いつ》の間に忍ばせて持つ《っ》て来たか、一握りの椋の実と赤土とをそつ《っ》と彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一|しよ《緒》に口へ含んで、さも百足をとつ《っ》ているらしく、床の上へ吐き出し始めた。  その内に素戔嗚は、昨夕寝《夕べ寝》なかつ《っ》た疲れが出て、我知らずにうとうと眠《眠り》に|はひつ《入っ》た。  ‥《‥:》‥高天原の国を逐は《わ》れた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路《山道》を登つ《っ》ていた。岩むらの羊歯、鴉《カラス》の声、それから冷たい鋼色の空、─《─:》─彼の眼に入る限りの風物は、悉く荒涼それ自身であつ《っ》た。 「|おれ《俺》に何の罪があるか? |おれ《俺》は彼等よりも強《-つよ》かつ《っ》た。が、強《つよ》かつ《っ》た事は罪ではない。罪は寧ろ彼等にある。嫉妬心《嫉妬シン》の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」  彼はか《こ》う憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つ《っ》た。と、路を遮つ《っ》た、亀の背のや《よ》うな大岩の上に、六つの鈴のついている、白銅鏡が一面のせてあつ《っ》た。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は冴え渡つ《っ》た面《オモテ》の上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼《◇彼》が何度も殺さ《そ》うとした、葦原醜男《葦原ノ醜男》の顔であつ《っ》た。‥《‥:》‥さ《そ》う思ふ《う》と、急に夢がさめた。  彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻《見回》した。広間には唯朝日《ただ朝日》の光が、うららかにさしているばかりで、葦原醜男《葦原ノ醜男》も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつ《っ》た。のみならずふと気がついて見ると、彼《◇彼’》の長い髪は三つに分けて、天井の桷《タルキ》に括りつけてあつ《っ》た。 「欺《騙》し|をつ《おっ》たな❢」  咄嗟に一切悟《一切’悟》つ《っ》た彼は、稜威の雄たけびを発しながら、力一《力いっ》ぱい頭を振つ《っ》た。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響《響き》が起つ《こっ》た。それは髪を括りつけた、三本の桷《タルキ》が三本とも一時にひしげ飛んだ響《響き》であつ《っ》た。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まづ《ず》右手をさし伸べて、太い天《アメ》の鹿児弓を取つ《っ》た。それから左手をさし伸べて、天《アメ》の羽羽矢《ハバヤ》の靫を取つ《っ》た。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上《上が》ると、三本の桷《タルキ》を引きずりながら、雲の峰の崩れるや《よ》うに、傲然と宮の外へ揺るぎ出《だ》した。  宮の|まは《周》りの椋の林は、彼《◇彼》の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つ《っ》た栗鼠も、ばらばらと大地に落ちる程《ほど》であつ《っ》た。彼はその椋の木の間を、嵐のや《よ》うに通り抜けた。  林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつ《っ》た。彼は其処《そこ》に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向《向こ》うに、日輪さへ《え》かすかに蒼ませていた。その又浪《また浪》の重なつ《っ》た中には、見覚えのある独木舟が一艘、沖へ沖へと出る所《ところ》だつ《っ》た。  素戔嗚は弓杖をついたなり、|ぢつ《じっ》とこの舟へ眼を注いだ。舟は彼を嘲るや《よ》うに、小さい筵帆を光らせながら、軽々《かるがる》と浪を乗り越えて行つ《っ》た。のみならず舳《トモ》には葦原醜男、艫《舳先》には須世理姫の乗つ《っ》ている容子《様子》も、手にとるや《よ》うに見る事が出来た。  素戔嗚は天《アメ》の鹿児弓に、しづしづと天《アメ》の羽羽矢《ハバヤ》を番へ《え》た。弓は見る見る引き絞られ、鏃は目の下の独木舟に向つ《かっ》た。が、矢は一文字に保《-たも》たれた儘《まま》、容易に弦《ツル》を離れなかつ《っ》た。その内に何時《いつ》か彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、──しかし其処《そこ》には同時に又涙《また涙》に似たものもないではなかつ《っ》た。彼は肩を聳やかせた後《あと》、無造作に弓矢を抛り出した。それから、──さも堪へ《え》兼ねたや《よ》うに、瀑《滝》よりも大きい笑ひ《い》声を放つ《っ》た。 「|おれ《俺》はお前たちを祝《-ことほ》ぐぞ❢」  素戔嗚は高い切り岸の上から、遥かに二人をさし招いだ。 「|おれ《俺》よりももつ《っ》と手力《タヂカラ》を養へ。|おれ《俺》よりももつ《っ》と智慧《知恵》を磨け。|おれ《俺》よりももつ《っ》と、‥‥」  素戔嗚はちよ《ょ》いとためらつ《っ》た後《あと》、底力のある声に祝《-ことほ》ぎ続けた。 「|おれ《俺》よりももつ《っ》と仕合せになれ❢」  彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つ《っ》た。この時わが素戔嗚は、大日孁貴《オオヒルメノムチ》と争つ《っ》た時より、高天原の国を逐は《わ》れた時より、高志の大蛇を斬つ《っ》た時より、ずつ《っ》と天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちていた。 (大正九年) ◇。◇。◇。 【底本:「現代日本文学大系43芥川竜之介集《”芥川竜之介集》」筑摩書房】 【1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行】 【入力:j.utiyama】 【校正:かとうかおり】 【1999年1月17日公開】 【2004年2月18日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。