▓。▓。▓。 【老いたる素戔嗚】 【芥川竜之介】 ▓。▓。▓。 【第1章】 ──── ▓。▓。▓。  高志の大蛇を退治した素戔嗚は、櫛名田姫を娶ると同時に、足名椎が治めていた部落のオサとなる事になった。  足名椎は彼ら夫婦のために、出雲の須賀へヤヒロドノを建てた。宮はチギが天雲に隠れるほど大きな建築であった。  彼は新しい妻と共に、静かな朝夕を送り始めた。風の声も浪のシブキも、あるいは夜空の星の光も今は再び彼を誘って、広漠とした太古の天地に、さまよわせる事は出来なくなった。既に父となろうとしていた彼は、この宮の太い棟木の下に、─:─赤と白とに狩の図を-えがいた、▓彼の部屋のシヘキの内に、高天原の国が与えなかった炉辺の幸福を見い出したのであった。  彼等は一緒に食事をしたり、未来の計画を話し合ったりした。時々は宮の周りにある、柏の林に歩みを運んで、その小さなハナブサの地に落ちたのを踏みながら、夢のような小鳥の啼く声に、耳を傾ける事もあった。彼は妻に優しかった。声にも、身ぶりにも、眼の中にも、昔のような荒々しさは、二度と影さえも現さなかった。  しかし稀に夢の中では、暗やみに蠢く怪物や、見えない手の揮うツルギの光が、もう一度’彼を殺伐な争闘の心に連れて行った。が、いつも眼がさめると、▓彼はすぐ妻の事や部落の事を思い出すほど、綺麗にその夢を忘れていた。  間もなく彼等は父母になった。彼はその生まれた男の子に、八島士奴美と言う名を与えた。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であった。  月日は川のように流れて行った。  そのあいだに彼は何人かの妻を娶って、更に多くの子の父になった。それらの子は-みんな人となると、▓彼の命ずるままに兵士を率いて、国々の部落を従へに行った。  彼の名は子孫の殖えると共に、次第に遠くまで伝わって行った。国々の部落は彼のもとへ、続々と貢を-たてまつりに来た。それらの貢を運ぶフネは、絹や毛皮や玉と共に、須賀の宮を仰ぎに来る国々の民をも乗せていた。  ある日彼はそう言う民の中に、高天原の国から来た三人の若者を発見した。彼等は-みんな当年の彼のような、筋骨の逞しい男であった。彼は彼等を宮に召して、手づから酒を飲ませてやった。それは今までナンピトも、この勇猛な部落のオサから、受けたことのない待遇であった。若者たちも始めの内は、▓彼の意嚮を量りかねて、多少の畏怖を-いだいたらしかった。しかし酒が回り出すと、▓彼の所望する通り、ミカの底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱った。  彼等が宮を下るとき、▓彼は一振りのツルギを取って、 「これは俺が高志の大蛇を斬った時、その尾の中にあったツルギだ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷のオンナギミに渡してくれい。」と言いつけた。  若者たちはそのツルギを捧げて、▓彼’の前に跪きながら、死んでも彼の命令に背かないと言う誓いを立てた。  彼はそれから独り海辺へ行って、▓彼等を乗せた舟の帆が、だんだん荒い波の向こうに、遠くなって行くのを見送った。帆は霧を破る日の光を受けて、ちょうど中空を行くように、たった一つ閃いていた。 ▓。▓。▓。 【第2章】 ──── ▓。▓。▓。  しかし死は素戔嗚夫婦をも赦さなかった。  八島士奴美がおとなしい若者になった時、櫛名田姫はふと病いに罹って、ヒト月ばかりのあとに命を殞した。何人か妻があったとは言え、▓彼が彼自身のように愛していたのは、やはり彼女ひとりだけであった。だから彼は喪屋が出来ると、まだ美しい妻の死骸の前に、七日ナナ晩’坐ったまま、モクネンと涙を流していた。  宮の中はそのあいだ、慟哭の声に溢れていた。殊に幼い須世理姫が、しっきりなく歎き悲しむ声には、宮の外を通るものさえ、涙を落さずには’いられなかった。彼女は──この八島士奴美のたった一人の妹は、兄が母に似ている通り、情熱の烈しい父に似た、男まさりの娘であった。  やがて’櫛名田姫の亡き骸は、生前’彼女が用いていた、玉や鏡や衣服と共に、須賀の宮から遠くない、コヤマの腹に埋められた。が、素戔嗚はその上に、黄泉路の彼女を慰むべく、今まで妻に仕えていた十一人の女たちをも、埋め殺す事を忘れなかった。女たちはみんな、装いを凝らして、いそいそと死に急いで行った。するとそれを見た部落の老人たちは、いずれも眉をひそめながら、ひそかに素戔嗚の暴挙を非難し合った。 「十一人❢。 ミコトは部落の旧習にぜんぜん無頓着でお出でなさる。第一の妃がおなくなりなすったのに、十一人しか黄泉のお供をおさせ申さないと言う法があろうか? たったみんなで十一人❢」  葬りが全く終ったあと、素戔嗚は急に思い立って、八島士奴美に世を譲った。そうして彼自身は須世理姫と共に、遠い海の向こうにあるネノガタスクニへ移り住んだ。  そこは彼が流浪中に、最も風土の美しいのを愛した、四面’海の無人島であった。彼はこの島の南のコヤマに、茅葺の宮を営ませて、安らかな余生を送る事にした。  彼は既に髪の毛が、麻のような色に変っていた。が▓、老年もまだ彼の力を奪い去る事が出来ない事は、ときどき彼の眼に去来する、精悍な光にも明らかであった。いや、▓彼’の顔はどうかすると、須賀の宮にいた時より、更に野蛮な精彩を加える事もないではなかった。彼は彼自身気づかなかったが、この島に移り住んで以来、今まで彼の中に眠っていた野性が、いつかまた眼をさまして来たのであった。  彼は娘の須世理姫と共に、蜂や蛇を飼い馴らした。蜂はもちろん蜜を取るため、蛇は征矢の鏃に塗るべき、劇烈な毒を得るためであった。それから狩や漁の暇に、▓彼は彼の学んだ武芸や魔術を、いちいち須世理姫に教え聞かせた。須世理姫はこう言う生活の中に、だんだん男にも負けないような、雄々しい女になって行った。しかし姿だけは依然として、櫛名田姫の面影をとどめた、気高い美しさを失わなかった。  宮の周りにある椋の林は、何度となく芽を吹いて、何度となくまた葉を落した。その度に彼は髯だらけの顔に、いよいよ皺の数を加え、須世理姫は-しじゅう微笑んだ瞳に、ますます涼しさを加えて行った。 ▓。▓。▓。 【第3章】 ──── ▓。▓。▓。  ある日素戔嗚が宮の前の、椋の木の下に坐りながら、大きなオジカの皮をハいでいると、海へ水を浴びに行った須世理姫が、見慣れない若者と一緒に帰って来た。 「お父様、この方にただ今お目にかかりましたから、ここまでお伴して参りました。」  須世理姫はこう言って、やっと身を起こした素戔嗚に、遠い国の若者を引き合わせた。  若者は眉目の描いたような、肩幅の広い男であった。それが赤や青のクビタマを飾って、太いコマツルギを佩いている様子は、殆ど年少時代そのものが目前に現れたように見えた。  素戔嗚は恭しい若者の会釈を受けながら、 「お前の名は何と言う?」と、不躾な問を抛りつけた。 「葦原醜男と申します。」 「どうしてこの島へやって来た?」 「食物や水が欲しかったものですから、わざわざ舟をつけたのです。」  若者は悪びれた顔もせずに、一々はっきり返事をした。 「そうか。ではあちらへ行って、勝手に食事をするが好い。須世理姫、案内はお前に任せるから。」  二人が宮の中に入った時、素戔嗚はまた椋の木かげに、器用に刀子を動かしながら、オジカの皮を剥ぎ始めた。が、▓彼の心はいつの間にか、妙な動揺を感じていた。それはちょうど晴天の海に似た、今までの静かな生活の空に、嵐を先ぶれる雲の影が、動こうとするような心もちであった。  鹿の皮を剥ぎ終った彼が、宮の中へ帰ったのは、もう薄ぐらい時分であった。彼は広いキザハシを上ると、いつもの通り何気なく、オオ広間の戸口に垂れている、白い-とばりを掲げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるで-ねぐらを荒らされた、二羽の睦まじい小鳥のように、倉皇と菅畳から身を起こした。彼は苦い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりと忌々しそうな視線をやると、 「お前は今夜ここへ泊って、舟旅の疲れを休めて行くが好い。」と、なかば命令的な言葉をかけた。  葦原醜男は彼の言葉に、嬉しそうな会釈を返したが、それでもまだ何となく、マの-わるげな気色は隠せなかった。 「ではすぐにあちらへ行って、遠慮なく横になってくれい。須世理姫──」  素戔嗚は娘を振り返ると、突然’嘲るような声を出した。 「この男をさっそく蜂のムロへ連れて行ってやるが好い。」  須世理姫は一瞬間、色を失ったようであった。 「早くしないか❢」  父親は彼女がためらうのを見ると▓、荒熊のように唸りだした。 「はい、ではあなた、どうかこちらへ。」  葦原醜男はもう一度、丁寧に素戔嗚へ礼をすると、須世理姫の後を追って、いそいそとオオ広間を出て行った。 ▓。▓。▓。 【第4章】 ──── ▓。▓。▓。  大広間の外へ出ると、須世理姫は肩にかけた領巾を取って、葦原ノ醜男の手に渡しながら’囁くようにこう言った。 「蜂のムロへお入りになったら、これを三遍お振りなさいまし。そうすると蜂が刺しませんから。」  葦原醜男は何の事だか、相手の言葉がのみこめなかった。が、問い返す暇もなく、須世理姫は小さな扉を開いて、ムロの中へ彼を案内した。  ムロの中はもう真っ暗であった。葦原醜男はそこへ入ると、手さぐりに彼女を捉えようとした。が、手は僅かに彼女の髪へ、指の先が触れたばかりであった。そうしてその次の瞬間には、慌しく扉を閉じる音が聞こえた。  彼は領巾をたまさ-ぐりながら、茫然とムロの中に佇んでいた。すると眼が慣れたせいか、だんだんあたりが思ったより、薄明るく見えるようになった。  その薄明りに透して見ると、ムロの天井からは幾つとなく、大樽ほどの蜂の巣が下がっていた。しかもそのまた巣の周りには、▓彼のコシに下げたコマツルギより、更にひとかさ大きい蜂が、何匹も悠々と這いまわっていた。  彼は思わず身を翻して、扉のほうへ飛んで行った。が、いくら推しても引いても、扉は開きそうなケシキさえなかった。のみならずそのとき一匹の蜂は、斜めに床の上へ舞い下りると、鈍い羽音を起こしながら、次第に彼のほうへ這い寄って来た。  余りの事に度を失った彼は、まだ蜂が足もとまで来ない内に、倉皇とそれを踏み殺そうとした。しかし蜂はその途端に、いっそう羽音を高くしながら、▓彼’の頭上へ舞い上がった。と同時に多くの蜂も、人の気配に腹を立てたと見えて、まるで風を迎えた火矢のように、ばらばらと彼の上へ落ちかかって来た。‥:‥  須世理姫は広間へ帰って来ると、壁に差した松明へ火をともした。火の光は赤々と、菅畳の上に寝ころんだ素戔嗚の姿を照らし出した。 「確かに蜂のムロへ入れて来たろうな?」  素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、また忌々しそうな声を出した。 「私はお父様のお言いつけに背いた事はございません。」  須世理姫は父親の眼を避けて、広間の隅へ席を占めた。 「そうか? ではもちろんこれからも、俺の言いつけは背くまい-な?」  素戔嗚のこう言う言葉の中には、皮肉な調子が交じっていた。須世理姫はクビタマを気にしながら、背くとも背かないとも答えなかった。 「黙っているのは背く気か?」 「いいえ。──お父様はどうしてそんな──」 「背かない気ならば、言い渡す事がある。俺はお前があの若者の妻になる事を許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなった夫を持たねばならぬ。いいか? これだけの事を忘れるな。」  夜が既に更けたあと、素戔嗚は鼾をかいていたが、須世理姫は独り悄然と、広間の窓に倚りかかりながら、赤い月が音もなく海に沈むのを見守っていた。 ▓。▓。▓。 【第5章】 ──── ▓。▓。▓。  翌朝’素戔嗚はいつもの通り、岩の多い海へ泳ぎに行った。するとそこへ葦原醜男が、意外にも彼の後を追って、勢いよく宮のほうから下って来た。  彼は素戔嗚の姿を見ると、愉快そうな微笑を浮べながら、 「お早うございます。」と、会釈をした。 「どうだな、夕べはよく眠られたかな?」  素戔嗚は岩角に佇んだまま、迂散らしく相手の顔を見やった。実際この元気の好い若者がどうしてムロの蜂に殺されなかったか? それは全然’彼自身の推測を超越していたのであった。 「ええ、おかげでよく眠られました。」  葦原醜男はこう答えながら、足もとに落ちていた岩のかけを拾って、力いっぱい海の上へ抛り投げた。岩は長い弧線を-えがいて、雲の赤い空へ飛んで行った。そうして素戔嗚が投げたにしても、届くまいと思われるほど、遠い沖の波の中に落ちた。  素戔嗚は唇を噛みながら、じっとその岩の行く方を見つめていた。  二人が海から帰って来て、朝餉の膳に向かった時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿の片腿を齧りながら、▓彼と向かい合った葦原醜男に、 「この宮が気に入ったら、何日でも泊って行くが好い。」と言った。  そばにいた須世理姫は、この怪しい親切を辞せしむべく、そっと葦原醜男のほうへ、意味ありげな-またたきを送って見せた。が、▓彼はちょうどその時、皿の魚に箸をつけていたせいか、▓彼女の合図には気もつかずに、 「難有うございます。ではもう二三日、ご厄介になりましょうか。」と、嬉しそうな返事をしてしまった。  しかし幸い午後になると、素戔嗚が昼寝をしている暇に、二人の恋人は宮を抜け出て/かの独木舟が繋いである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福を偸む事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横たわりながら、暫くはただ夢のように、葦原ノ醜男の顔を仰いでいたが、やがて彼の腕を引き離すと、 「今夜もここにお泊りなすっては、あなたのお命が危のうございます。私の事なぞはお構いなく、一刻も早くお逃げ下さいまし。」と、心配そうに促し立てた。  しかし葦原醜男は笑いながら、子供のように首を振って見せた。 「あなたがここにいる間は、殺されてもここを去らないつもりです。」 「それでもあなたのお体に、万いちの事でもあった日には──」 「ではすぐにも私と一緒に、この島を逃げてくれますか?」  須世理姫はためらった。 「さもなければ私はいつまでも、ここにいる覚悟をきめています。」  葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、▓彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起こして、 「お父様が呼んでいます。」と、気づかわしそうな声を出した。そうして咄嗟に岩の間を、若い鹿より身軽そうに、宮のほうへ上って行った。  あとに残った葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送った。と、▓彼女の寝ていたところには、夕べ彼が貰ったような、領巾がもう一枚’落ちていた。 ▓。▓。▓。 【第6章】 ──── ▓。▓。▓。  その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂のムロと向かい合った、もう一つのムロの中に、葦原ノ醜男を抛りこんだ。  ムロの中は昨日の通り、もう暗やみが拡がっていた。が、ただ一つ昨日と違って、その暗やみのそこここには、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のように、点々ときらめく物があった。  葦原醜男は心の中に、この光物の正体を怪しみながら、暫くは眼が暗やみに慣れる時の来るのを待っていた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明るくなるにつれて、その星のような光物が、殆ど馬さえ呑みそうな、凄じいオロチの眼に変わった。しかもオロチは何匹となく、あるいは梁に巻きついたり、あるいはタルキを伝わったり、あるいはまた床にとぐろを巻いたり、ムロいっぱいにキミ悪く、蠢き合っているのであった。  彼は思わず腰に下げたツルギのツカに手をかけた。が、たといツルギを抜いたところが、▓彼が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を巻き殺すのに違いなかった。いや、現に一匹のオロチが、▓彼’の顔を下から覗きこむと、それより更に大きい一匹は、梁に尾をからんだまま、ずるりと宙に吊り下って、ちょうど彼の肩の上へ、鎌首をさしのべているのであった。  ムロの扉はもちろん開かなかった。のみならずそのあとには、あの白髪の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮べながら、じっと扉の向こうの様子に耳を傾けているらしかった。葦原醜男は懸命にツルギのツカを握りながら、しばらくは眼ばかり動かせていた。その内に彼の足もとのオロチは、徐ろに山のようなとぐろを解くと、一際’高く鎌首を挙げて、今にも猛然と彼の喉へ噛みつきそうな気配を示し出した。  このとき彼の心の中には、突然’光がさしたような気がした。彼は昨夜ムロの蜂が、▓彼の周りへ群らがって来た時、須世理姫に貰った領巾を振って、危ない命を救う事が出来た。してみればさっき須世理姫が、海辺の岩の上に残して行った領巾にも、同じようなキドクがあるかも知れぬ。──そう思った彼は咄嗟のマに、拾って置いた領巾を取り出して、三度ひらひらと振り廻して見た。‥:‥  翌朝素戔嗚はまた石の多い海のほとりで、いよいよ元気のよさそうな葦原醜男と顔を合せた。 「どうだな。昨夜はよく眠られたかな?」 「ええ。おかげでよく眠られました。」  素戔嗚は顔じゅうに不快そうな色を漲らせて、じろりと相手を睨みつけたが、どう思ったかもう一度、いつもの冷静な調子に返って、 「そうか。それはよかった。ではこれから俺と一緒に、一泳ぎ水を浴びるが好い。」と隔意なさそうな声をかけた。  二人はすぐに裸になって、波の荒い明け方の海を、沖へ沖へと泳ぎ出した。素戔嗚は高天原の国にいた時から、並ぶもののない泳ぎ手であった。が、葦原ノ醜男は彼にも増して、殆ど海豚にも劣らないほど、自由自在に泳ぐ事が出来た。だから二人のミヅラの頭は、黒白二羽の鴎のように、岩の屏風を立てた岸から、見る見るうちに隔たってしまった。 ▓。▓。▓。 【第7章】 ──── ▓。▓。▓。  海は絶えず膨れ上って、雪のような波のシブキを二人の周りへ漲らせた。素戔嗚はそのシブキの中に、ときどき葦原醜男のほうへ意地悪そうな視線を投げた。が、相手は悠々とどんなに高い波が来ても、乗り越え乗り越え進んでいた。  それが暫く続く内に、葦原ノ醜男は少しずつ素戔嗚より先へ進みだした。素戔嗚はひそかに牙を噛んで、一尺でも彼に遅れまいとした。しかし相手は大きな波が、二’三度泡を撒き散らす間に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまった。そうして重なる波の向こうに、いつの間にか姿を隠してしまった。 「今度こそあの男を海に沈めて、邪魔を払おうと思ったのだが、──」  そう思うと素戔嗚は、いよいよ彼を殺さない内は、腹が癒えないような心もちになった。 「畜生❢。 あんな悪賢い浮浪人は、鰐にでも食わしてしまうが好い。」  しかしほどなく葦原醜男は、▓彼自身がまるで鰐のように、楽々とこちらへ返って来た。 「もっとお泳ぎになりますか?」  彼は波に揺られながら、日頃に変らない微笑を浮べて、遥に素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚はいかに強情を張っても、このうえ泳ごうと言う気にはなれなかった。‥:‥  その日の午後’素戔嗚は、更に葦原ノ醜男をつれて、島の西に開いたアラノへ、狐や兎を狩りに行った。  二人はアラノの外れにある、小高い大岩の上へ登った。アラノは目の及ぶ限り、二人のあとから吹き下ろす風に、枯れ草の波を靡かせていた。素戔嗚はしばらく黙然と、そう言う景色を見守ったあと、弓に矢を番えながら、葦原ノ醜男を振り返った。 「風があって都合が悪いが、とにかくどちらの矢が遠く行くか、お前と弓勢を比べて見よう。」 「ええ、比べて見ましょう。」  葦原醜男は弓矢を執っても、自信のあるらしい様子であった。 「いいか? 同時に射るのだぞ。」  二人は肩を並べながら、力いっぱい弓を引き絞って、そうして同時に切って離した。矢は波立ったアラノの上へ、一文字に遠く飛んで行った。が、どちらが先へ行ったともなく、ただ一度ヒの光にきらりと矢羽根が光ったまま、忽ち風下の空に紛れて、二本とも一緒に消えてしまった。 「勝負があったか?」 「いいえ──もう一度やって見ましょうか?」  素戔嗚は眉をひそめながら、苛立たしそうに頭を振った。 「何度やっても同じ事だ。それより面倒でもヒトッパシり、俺の矢を探しに行ってくれい。あれは高天原の国から来た、俺の大事な丹塗の矢だ。」  葦原醜男は言いつかったとおり、風に鳴るアラノへ飛びこんで行った。すると素戔嗚はその後ろ姿が、高い枯れ草に隠れるや否や、腰に下げた袋の中から、手早く火打鎌と石とを出して、岩の下の枯茨へ火を放った。 ▓。▓。▓。 【第8章】 ──── ▓。▓。▓。  色のない’炎は瞬く内に、濛々と黒煙を挙げ始めた。と同時にその煙の下から、茨やオザサの焼ける音が、けたたましく耳を弾き出した。 「今度こそあの男を片づけたぞ。」  素戔嗚は高い岩の上に、じっと弓杖をつきながら、兇猛な微笑を浮べていた。  火はますます燃え拡がった。鳥は苦しそうに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞い上った。が、すぐにまた煙’に巻かれて、紛々と火の中へ落ちて行った。それがまるで遠くからは、嵐に振われた無数の木の実が、しっきりなくこぼれ飛ぶように見えた。 「今度こそあの男を片づけたぞ。」  素戔嗚はこう心のうちに、もう一度’満足の吐息を洩らすと、何故か言いようのない寂しさがかすかに湧いて来るような心もちがした。‥:‥  その日の薄暮、勝ち誇った彼は腕を組んで、宮の門に佇みながら、まだ煙の迷っているアラノの空を眺めていた。するとそこへ須世理姫が、夕餉の仕度の出来たことを気がなさそうに報じに来た。彼女は近親の喪を弔うように、いつの間にかまっ白な裳を/夕明かりの中に引きずっていた。  素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏みにじりたいような気がし出した。 「あの空を見ろ。葦原醜男はイマ時分──」 「存じて居ります。」  須世理姫は眼を伏せていたが、思いのほかはっきりと、父親の言葉を遮った。 「そうか? ではさぞかし悲しかろうな?」 「悲しうございます。よしんばお父様がお亡くなりなすっても、これほど悲しくございますまい。」  素戔嗚は色を変えて、須世理姫を睨みつけた。が、それ以上’彼女を懲らす事は、どう言うものか出来なかった。 「悲しければ、勝手に泣くが好い。」  彼は須世理姫に背を向けて▓、荒々しく門の内へ入って行った。そうして宮のキザハシを上りながら、忌々しそうに舌を打った。 「いつもの俺なら口も利かずに、打ちのめしてやるところなのだが‥‥」  須世理姫は彼の去ったあとも、暫くは、暗く火照った空へ、涙ぐんだ眼を挙げていたが、やがてコウベを垂れながら、悄然と宮へ帰って行った。  その夜素戔嗚はいつまでも、眠りに就く事が出来なかった。それは葦原醜男を殺した事が、何となく彼の心の底へ毒をさしたような気がするからであった。 「俺は今までにもあの男を何度’殺そうと思ったかわからない。しかしまだ今夜のように、妙な気のした事はないのだが‥‥」  彼はこんな事を考えながら、青い匂いのする菅畳の上に、幾度となく寝返りを打った。眠りはそれでも彼の上へ、容易にくだろうとはしなかった。  そのあいだに寂しい暁は早くも暗い海の向こうに、うすら寒い色を拡げ出した。 ▓。▓。▓。 【第9章】 ──── ▓。▓。▓。  翌朝もう朝日の光が、海いっぱいに当っている頃であった。まだ寝の足りない素戔嗚は眩しそうに眉をひそめながら、のそのそ’宮の戸口へ出かけて来た。するとそこのキザハシの上には、驚くまい事か、葦原ノ醜男が、須世理姫と一緒に腰をかけて、何事か嬉しそうに話し合っていた。  二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚したらしい様子であった。が、すぐに葦原ノ醜男は相変わらず快活に身を起こして、一筋の丹塗矢をさし出しながら、 「幸い矢も見つかりました。」と言った。  素戔嗚はまだ驚きが止まなかった。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、悦ばしいような心もちもした。 「よく怪我をしなかったな?」 「ええ。全く偶然’助かりました。あの火事が燃えて来たのは、ちょうど私がこの丹塗矢を拾い上げた時だったのです。私は煙の中をくぐりながら、ともかく火のつかないほうへ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせって見たところが、到底’西風に煽られる火よりも早くは走られません。‥‥」  葦原醜男はちょいと言葉を切って、/彼の話に聞き入っている親子の顔へ微笑を送った。 「そこでもう今度は焼け死ぬに違いないと、覚悟をきめた時でした。走っている内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初’真っ暗でしたが、フチの枯れ草が燃えるようになると、忽ち底まで明るくなりました。見ると私の周りには、ナンビャッピキとも知れない野ネズミが、土の色も見えないほどひしめき合っているのです‥‥。」 「まあ、野ネズミでよろしうございました。それが蝮ででもございましたら‥‥」  須世理姫の眼の中には、涙と笑みとが刹那のあいだ、同時に動いたようであった。 「いや、野ネズミでも莫迦にはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食われたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通ってしまいました。」  素戔嗚はこの話を聞いている内に、だんだんまたこの幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度’殺そうと思った以上、どうしてもその目的を遂げないうちは、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかった。 「そうか。それは運が好かったな。が、運と言うものは、いつ風向きが変わるかわからないものだ。‥:‥が、そんな事はどうでも好い。とにかく命が助かったのなら、俺と一緒にこちらへ来て、頭の虱をとってくれい。」  葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼のあとについて、朝日の光のさしこんでいる、オオ広間の白い-とばりをくぐった。  素戔嗚は広間の真ん中に、不機嫌らしい-おおあぐらを組むと、ミヅラに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。すがれた蘆の色をした髪は、殆ど川のように長かった。 「俺の虱はちと手強いぞ。」  こう言う彼の言葉を聞き流しながら、葦原ノ醜男はその白髪を分けて、見つけ次第シラミをひねろうとした。が、髪の根に蠢いているのは、小さな虱と思いのほか、毒々しい、アカガネイロの、大きな百足ばかりであった。 ▓。▓。▓。 【第10章】 ──── ▓。▓。▓。  葦原醜男はためらった。するとそばにいた須世理姫が、いつの間に忍ばせて持って来たか、一握りの椋の実と赤土とをそっと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一緒に口へ含んで、さも百足をとっているらしく、床の上へ吐き出し始めた。  その内に素戔嗚は、夕べ寝なかった疲れが出て、我知らずにうとうと眠りに入った。  ‥:‥高天原の国を逐われた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山道を登っていた。岩むらの羊歯、カラスの声、それから冷たい鋼色の空、─:─彼の眼に入る限りの風物は、悉く荒涼それ自身であった。 「俺に何の罪があるか? 俺は彼等よりも-つよかった。が、つよかった事は罪ではない。罪は寧ろ彼等にある。嫉妬シンの深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」  彼はこう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行った。と、路を遮った、亀の背のような大岩の上に、六つの鈴のついている、白銅鏡が一面のせてあった。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は冴え渡ったオモテの上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、▓彼が何度も殺そうとした、葦原ノ醜男の顔であった。‥:‥そう思うと、急に夢がさめた。  彼は大きな眼を開いて、広間の中を見回した。広間にはただ朝日の光が、うららかにさしているばかりで、葦原ノ醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかった。のみならずふと気がついて見ると、▓彼’の長い髪は三つに分けて、天井のタルキに括りつけてあった。 「騙しおったな❢」  咄嗟に一切’悟った彼は、稜威の雄たけびを発しながら、力いっぱい頭を振った。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響きが起こった。それは髪を括りつけた、三本のタルキが三本とも一時にひしげ飛んだ響きであった。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まず右手をさし伸べて、太いアメの鹿児弓を取った。それから左手をさし伸べて、アメのハバヤの靫を取った。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上がると、三本のタルキを引きずりながら、雲の峰の崩れるように、傲然と宮の外へ揺るぎだした。  宮の周りの椋の林は、▓彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食った栗鼠も、ばらばらと大地に落ちるほどであった。彼はその椋の木の間を、嵐のように通り抜けた。  林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であった。彼はそこに立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向こうに、日輪さえかすかに蒼ませていた。そのまた浪の重なった中には、見覚えのある独木舟が一艘、沖へ沖へと出るところだった。  素戔嗚は弓杖をついたなり、じっとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼を嘲るように、小さい筵帆を光らせながら、かるがると浪を乗り越えて行った。のみならずトモには葦原醜男、舳先には須世理姫の乗っている様子も、手にとるように見る事が出来た。  素戔嗚はアメの鹿児弓に、しづしづとアメのハバヤを番えた。弓は見る見る引き絞られ、鏃は目の下の独木舟に向かった。が、矢は一文字に-たもたれたまま、容易にツルを離れなかった。その内にいつか彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、──しかしそこには同時にまた涙に似たものもないではなかった。彼は肩を聳やかせたあと、無造作に弓矢を抛り出した。それから、──さも堪え兼ねたように、滝よりも大きい笑い声を放った。 「俺はお前たちを-ことほぐぞ❢」  素戔嗚は高い切り岸の上から、遥かに二人をさし招いだ。 「俺よりももっとタヂカラを養へ。俺よりももっと知恵を磨け。俺よりももっと、‥‥」  素戔嗚はちょいとためらったあと、底力のある声に-ことほぎ続けた。 「俺よりももっと仕合せになれ❢」  彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡った。この時わが素戔嗚は、オオヒルメノムチと争った時より、高天原の国を逐われた時より、高志の大蛇を斬った時より、ずっと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちていた。 (大正九年) ▓。▓。▓。 【底本:「現代日本文学大系43”芥川竜之介集」筑摩書房】 【1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行】 【入力:j.utiyama】 【校正:かとうかおり】 【1999年1月17日公開】 【2004年2月18日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。