【女百貨店】 【吉行エイスケ】 ◇。◇。◇。 【第1章】 ──── ◇。◇。◇。 「ハロー。」  貨幣の豪奢で化粧されたスカートに廻転窓のある女だ。黄昏色の歩道に靴の市街を構成して意気に気どって歩く女だ。イズモ町《=ちょう》を過ぎて商店の飾窓の彩玻璃《色硝子》に衣裳の影をうつしてプロフェショナルな女がかるく通行の男にウィンクした。  空《=ソラ》はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆うと、絢爛な渦巻きがとおく去って、女の靴の踵《カカト》が男の弛緩した神経をこつこつとたたいた。つぎの瞬間には男女が下落したカワセ関係のようにくっついて、街頭の放射線から人口呼吸の必要なところへ立去って行った。  午後十一時ごろであった。大阪からながれてきたチヨダ・ビルのダンサー達が廃《疲》れた皮膚をしてアスハルトの冷たい街路に踊る靴をすべらした。都会の建物の死面に女達は浮気な影をうつして、唇の封臘をとると一人の女が青褪めた朋輩に話しかけた。 「あのなあ、蒙古《+モウコ》人がやってきはって、ピダホヤグラガルチュトゴリジアガバラちゅうのや。あは《ハ》は《ハ》は《ハ》。」 「けったいやなあ、それなんや。」 「それがなあ。散歩してーえな、ちゅうことなのや。おお寒《さ》む。」  酒と歌と踊のなかからでてきた男女が熱い匂のする魅力にひかれて、洪水のようにながれる車体に拾われると、夥しい巡査がいま迄の蛮地のエロチシズムの掃除を始めて、街は伝統とカルチュアが支配する帝王色《帝王ショク》に塗りかえられた。 ◇。◇。◇。  同じ時刻。太田ミサコの黒いスカートが冷たい路上で地下の電光に白く煌いた。彼女の横顔が官衙と銀行と、店舗のたちならんだ中央街の支那ホテルのまえまでくると細かく顫《震》えた。形のいい鼻の粗い魅力がうす黒い建物に吸いこまれると灰色のホテルの壁にそって彼女の影がコンクリートの階段を中年女の靴音をのこして一歩、一歩、女の強い忍従が右に折れると、或る部屋の扉を繊奢な澱みもなく暴々《荒々》しくノックした。 「カム・イン。」  太い男の声が扉のすき間からもれると、太田ミサコは部屋につかつかと這入ると、彼女は盲目のように寝衣《パジャマ》の男を見つめた。 「やあ、部屋をまちがえた花嫁のようにてれているじゃないか。」と、巨大な男は彼女に青い尻をむけて云った。  すると太田ミサコは、ソファに片脚あげて、ストッキングを結んだ華美な薔薇の花模様の結び目をゆるめると、 「いくら破廉恥でも淫売婦の逢い曳じゃないのよ。」 「これは失礼。だが、不眠症になるような取引を申しこまれたのはどこのマクロー様かね。」太田ミサコは鉤形の鼻を鳴らして殺風景な部屋椅子に腰を下ろすと、埃のつんだ卓子《テーブル》に片ひじついて、 「ほほ、それではバル・セロナ生《生ま》れの伊達ものには見えないわ。それともお前さんは妾《私》に弱味でもあると思っているの。」  すると、奇怪な男がおどけて云った。 「ミサコ女史よ、巴里《パリー》ではミモザの花は一輪いくらしますか。」 「ムーラン・ルージュの恋物語でございますか。はい、一輪お高《たこ》うございますわ。」  色の黒い肥まんした男が腹をかかえてわらいだした。片ひじついた彼女の鋼鉄のような腕に血管が運河のように青く浮きでた。 「それでご用は?」と、無作法に両股をひろげて男が云った。  すでに彼女は隠密にものを云う女になっていた。 「あら、こう云ったからって妾《私》は打算と赤鼻が好きさ。ぜひお願いしますわ。と、云うのは妾《私》が愛撫してくれる男を待っているわけじゃないわ。実《=じつ》はマクローにだって衣裳が要るように、あなた妾《私》を労働女にして街に棄てないでちょうだい。分って。」  厚化粧した彼女の覊絆の下で男が云った。 「わしはそのお礼によって、あとくされと紛議をかもさないように奥さんにご用立てしましょう。」 「利子は妾《私》よ。」ずばりと彼女は云うと、化学的な香料のにおいを発散させながら、黄煙草《キ煙草》のけむりで太田ミサコは傲慢なわらいを浮べた顔《=かお》をくもらせた。  しかし、タイプライター刷のような事務的な男の言葉がつづいた。 「カァ《ア》キイ色《-イロ》の小切手を出しましょう。失礼ですが、奥さんは必要なもののありかをご存じですか。」 「いただくわ。契約するわ。」 「期日は。」 「只今だわ。契約期限切れは赤の他人《=タニン》だわ。」と憤懣の色をうかべて彼女がこたえた。  赤い首巻きを締めるように、肥満した男の太い呼吸がばったりやむと、人口的な都会の性格が夥しく牀にふれた。一刻《=いっこく》後、太田ミサコはグリーブスな武者わらいをして、ハンド・バッグに一枚の紙片の重さを感じながら支那ホテルの階段に榴弾の音をたてて下降した。 ◇。◇。◇。 【第2章】 ──── ◇。◇。◇。  戸外に彼女がでると、萎黄病のように燻《=くす》んでしめった月が建物の肋骨にかかっていた。  彼女が臘虎の外套に顔《=かお》をうずめて銀色の夜半《=よわ》の灯《=あかり》のもとを、二、三歩すすまないうちに、金格子《カネゴウシ》の門衛室の扉がひらいて青馬のような近視眼鏡をかけた小肥《小太り》なボッブの女が小走りにちかづくと、悪意のあることばで、「やあ、奥さん。あなた身重になるつもり!」 「ああ、あなた探訪記者だわね。」 「深夜のミイラとりだわよ。」  彼女は女記者のむくんだ肩を美しく手いれされた指でふれて、起重機のそびえた黄色い空《=ソラ》を見あげながら、 「ちょいと。」 「なーに。」 「これ少しよ。」 「まあ、妾《私》に。でもこれじゃ駄目だわ。」  太田ミサコはとっさに記者の近視眼のめがねのしたで、ずるそうな意志が図解されているのをみとめた。 「あなた、いらないの。」と、強く云いきるとふたたび建物の影にそって歩きだした。  狼狽した女記者の太い拳《=コブシ》が彼女の眼前につきだされた。夜半《=よわ》の都会が同盟罷業のような閑寂さを感じさせた。 「あなたいらないの。」 「いただくわ。」 「ではお願いがあるわ。あなた妾《私》を明朝たずねてきていただきたいの。妾《私》の考えではあなた中々見こみがあるわ。」  困憊した女記者を尻目にかけて、彼女は一枚の名刺を手渡すと、既に通りかかった車《=クルマ》にのると、疲労したからだをクッションに埋めて都会の大桟橋《ダイ桟橋》を右に折れた。 「畜生!これっぽっしの目腐《=めくさ》れ金《=がね》で妾《私》をろうらくして、売女奴《売女め》!」 ◇。◇。◇。 【仏国ポール商会代理店◇ 太田ミサコ◇ 日比谷街◇ 36】 ◇。◇。◇。 と、記された花模様の名刺を太い手首に丸めこむと、かの女は豚のように空中に跳ねた。 ◇。◇。◇。 【第3章】 ──── ◇。◇。◇。  翌朝《=ヨクアサ》、太田ミサコは支那ホテルからの電話でめざめた。  肥大した男の恋愛のつづきを受理する女のように頑健な裸《露わ》な腕を寝床からさしだすと、受話器を整形された小さな耳にあてた。「あんたはミサコさんかね。」と、相手の男が云った。われ鐘のような濁った声《=こえ》が彼女に黒奴《ニグロ》のようなジャマン・チーズの腐った臭《匂い》のする厚い唇を思い出させた。 「妾《私》、太田ミサコですわ。」と、彼女がこたえた。すると男のエロチックな天性が哀願的に、「わしは昨夜中《昨夜じゅう》あんたのことを思いつづけると眠ることができなかった。いまでもあんたの呼吸がわしの耳に鳴りつづけるのだ。するとわしはドイツの軍艦のようなあんたのからだを思う。」「ああ、もし、もし。」「わしは気がくるってホテルの高層から飛びおりようと思った。」 「御用は?」  電話の男がどもって号《叫》んだ。 「あんたはわしのことをどう思っていてくれる。」 「妾《私》、あなた様《=さま》をおきらい申しておりますわ。」と、かの女は冷やかにこたえると、そのまま沈黙して受話器を耳から離さなかった。すると牀をける足音と、しばらくしてもの凄い音響が電流をつたって彼女に勇気をあたえた。  彼女は寝床に起きあがると中年女の壮烈な教練を始めた。窓のカーテンがひらいて眼下にヒビヤ・パークと警視庁の鉄筋の骨組が朝の太陽のもとに赤光《=シャッコウ》をうけて|眼ざ《目覚》めた。女の両脚《両足》のように緑色の電車路が横たわって、そのうえを労働者の溢れた満員の割引電車が通り過ぎた。サラリーメンの洪水のために死骸のような建物の堰が破られて、空《=ソラ》にそびえる高楼の窓が花のようにひらくと、女事務員の青と赤の色彩が花粉の媒介の役目をした。  前門の経済通報社の万事相談室には早朝から夥しい人がつめかけていた。タイプライターと、夕刊新聞のタクシーと、自転車で疾走する給仕の金《=きん》ボタンと、江東一帯の工場地から聞える仕事始めのサイレンの音響と人物の交錯のなかを、太田ミサコは小肥《小太り》なボッブの昨夜《昨ヤ》の女記者の太い脚がアスハルトの道路をふんでやってくるのを認めた。  部屋のアザミの造花のおかれた卓子《テーブル》に、ミサコと対して女記者は巨木のような脚をくむと、すぱりすぱりと朝日の紙巻タバコの煙を吐きだしながら、 「お早《=ハヨ》うございます。マダム・ミサ。妾《私》は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾《私’》顔まけして了《しま》ったわ。」 「妾《私》のお願いと云うのはね。」 「ところがマダム、いくら流行病とは云いながら彼《+あ》のアマは朝の市街を厚化粧であるいているんだ!」 「そのくらいで結構、妾《私》にはそれがだれだか分っているのさ。」  疑うように女記者が彼女の顔をのぞいた。しかしミサコは冷却した女のようにことばをつづけた。 「あなたにお願いと云うのはね《ネ》、妾《私》の同業の厚化粧ぐみをね、彼奴《アイツ》たちはどうせろくなことはやらないのさ。」 「まったくですわ。ねえ、マダム。」 「妾《私》は正道《セイドウ》をあんたも知っているように歩んでるわ。だからさ。妾《私》はあんたのような正しい心《=ココロ》をもった女らしい人が好きなのさ。」 「あら!」  太田ミサコはとっさに、はにかんだ女記者のまえに二、三枚の紙幣《=シヘイ》をとりだすと、 「これ、手附さ。あいつ達のネタを一週間以内にもってくれば手附の十倍《10倍》の報酬を進呈するわ。」 「売りこむのは?」 「|××《ペケペケ》の夕刊新聞。」  ふたたびミサコは肥大した女を威喝するように女記者に云った。 「あんた、もし裏切るようなことがあれば妾《私》がどんなことをする女か知っている?」  太く短い女は立《立ち》あがると、|いらいら《イライラ》して部屋を踵《=かかと》のない靴であるいた。やがて落ちつきをとりかえすと女記者がこたえた。 「では、さようなら。マダム。」 「さようなら。あんたは、たのもしい方《=かた》だわ。」と、彼女が云った。  しおれた女の足音が遠のくと、ミサコは女記者が青バスに太い拳《=コブシ》をさしあげるのを見た。ふたたびカーテンを閉すと、強大な彼女の自信が昨夜《=サクヤ》からの疲労のために惨めにもくずれ始めた。 ◇。◇。◇。 【第4章】 ──── ◇。◇。◇。  一刻《=いっこく》後、太田ミサコはタクシーのクッションにもたれて官省広場の並木道を疾走していた。大島のかさねを黒いコートでつつんで、リスの毛皮を左乳に垂らした、頬紅をささない蒼白《ソウハク》な厚化粧の女が、いつも一点をみつめ前後の気配を感ずる都会の女の乗った車《=クルマ》が、中央九番街のクロス・ワード模様の東洋銀行のまえで停止すると、彼女のフェルトの草履が石畳を踏んで衣服の黒い裾裏《裾ウラ》が地上を流れる風《=カゼ》にはねかえった。  ミサコが廻転扉から出納口につかつかと進むと、コケットな彼女の嬌態に狼狽した行員が自覚を失った指先で紙幣《=シヘイ》をかきあつめた。奥の大|卓子《テーブル》の支配人が彼女にかるく会釈をかえした。一枚の小切手が一《=ひと》かたまりの紙幣《=シヘイ》となって出納口からでてくると、銀行を背負《せお》ったような女は、ふたたび銀座方面へガソリンの尾を曳いた。彼女の傲がんなこころがすこしの反省もなく、イズモ町《=ちょう》の彼女経営の流行品店を素通りして、築地河畔のコルビジェ風のアパートメントの一室を訪れた。雑誌『流行』の宣伝部長のカリタは、ミサコを自室に案内すると、隣室の同棲者に三人の食事を云いつけた。  ミサコはお互の少時間の自由を、対岸を流れる濁水に眼をうつして云った。 「あんた、妾《私’》妊娠したかも知れないわ。」 「そんなこと、不思議なものか。あんたが奥さんである以上は。」  彼女が片眼をつむって、白魚のような指を鼻にまいて、「あんたの、ベビかもしれなくってよ。」 「すると。」 「妾《私》うれしいわ。」  カリタが礼儀ただしく立ちあがって食堂の扉を開《=ひら》いた。彼の同棲者が微笑《-びしょう-》しながら二人を迎えると、三人が食卓をかこんだ。シークな部屋であった。  飛行機が蒼空《青空》を踊り靴をはいて通過した。首からぶらさげた三角のナフキンに、茶褐色の斑点をつけてミサコが云った。 「マダム、カリタは妾《私》のことをどう思っていてくれますでしょう。」  彼の同棲者の細い首が食卓の魚《=サカナ》の尾に傾いて、 「おくさま、カリタはいつもミサコさまのことを|可愛い《可愛》い天使だと申しております。」 「まあ、うれしい。」とミサコは艶然《+エンゼン》とわらうと、 「妾《私》の困難な仕事も妾《私》の道徳的な突進も妾《私》の女馬鹿もいつもカリタの近代人《=近代じん》らしい截断によって世間に通用するんだわ。」  すると、『流行』の宣伝部長は化粧した冷酷な顔《=かお》に鼻眼鏡をかけながら、 「そうさ、俺達の友情はこの東京で育つに工合がいいんだ。お前ミサコさんに世間ありふれたお粗末な友情でおつきあいしては不可《+いか》んよ。」 「分っているわよ。」と、彼の同棲者が意味ありげにこたえた。 ◇。◇。◇。 【第5章】 ──── ◇。◇。◇。  イズモ町《=ちょう》の太田ミサコ経営のポール流行品店では、早朝から商品窓のマネキンに黒山のような人だかりがしていた。入口の勘定台の女の鋼鉄のような指が動くたびに、金銭登録器がすばらしい音をたてて開閉した。そこから一列に輸入品の帽子が並べられて、その後《あと》で職業女の赤い唇がひらいたりしぼんだりした。左右の陳列棚にはスペイン・ショールや夜会服が模造人形に装飾されて、その下に並べられた化粧品からは嗜好的な香《香り》が発していた。  奥の三面鏡にはたえまなく綺羅を着かざったブルジョワ婦人が、三面鏡があたえる美化された三つの姿態に惚《=ほ》れ惚《=ぼ》れと見ほれてしまった。すると女のような外交員が、もみ手をしながらおきまりの讃辞を役者のようにしゃべりだした。それが二階のビュティ・パーラーの髪の焼ける臭気と、鏝のかみあう響と、シャンプする水の流れる音に交錯した。  三階のマネキンの事務所では、競馬馬《競馬ウマ》のような女の舞台女優気どりの饒舌がきこえてきた。衣裳をつけぬ女が|けあいどり《ケアイドリ》のように騒ぎまわっていた。このポール商会を太田ミサコの夫が事務服をつけて急がしそうに右往左往した。午前十時であった。  ミサコはポール商会のまえで車がとまったとき、カリタに隣家のとざされた商店の買収のことを話していた。彼女が店につかつかと入ると同時にミサコの金属のかちあうような鋭い声《=コエ》がきこえた。 「ちぇ、なんだい、マネキンは窓の外を男さえ通ればそわそわしているし、陳列棚についたお前さんたちの白粉の粉《#コ》が、お前さんたちを淫売とでもおもわすよ。まあ! あなた。その風態《フウテイ》は何よ。もっと、紳士的に、もっと、威厳をもって、まあ、この人は髭をそるのを忘れたわ、ああ妾《私》、死にたい!」  恐る恐る、彼女の夫が云った。 「お前、さっきから隣の地主が奥の部屋で待ってるよ。ところでお前、お前こそ唇に食事のあとがついてるじゃないか。」  彼女の顔が廃艦のような色にかわると、ポール商会に金属的な悲鳴が聞こえた。 「馬鹿、うすのろ、妾《私》を侮辱したね、妾《私》のプライドをきずつけたんだ。ああ、口惜《悔》しい。」  ミサコの馬の脚のような涙に驚愕して、彼女の夫は帽子をつかむと街路に逃げだした。うすい唇に白い歯《歯’》をうかべてカリタが云った。 「ミサコさん、あなたが泣くと僕はあなたという人がどんなに正直な美しい心《=ココロ》を持った女であるか分るんだ。僕は英国女のようにもの堅いあなたを尊敬しているんです。」  彼女が泣くのをよして、お化粧を|一きわ《一際》濃く塗りながら、 「彼《+あ》の人は妾《私》にいつも恥をかかすのです、彼《あ》の人が愚鈍なために、妾《私》は、妾《私》が良妻であるにもかかわらず世間から誤解をまねくようなことになるんだわ。」  ミサコが堅固な意志をとりかえすと、ふたたびポール商会は、事務と秩序と美にたいする感覚をとりかえして、使傭人たちが忙しそうに饒舌り、お世辞と商才が火華のように顧客を魅了した。 ◇。◇。◇。 【第6章】 ──── ◇。◇。◇。 「この方《=かた》は妾《私》の顧問弁護士でございます。」  カリタをかえりみて彼女が相手の痩せた男に云った。 「妾《私》はいつも間違いのないようにお取引を致しますかわりに、それだけに、駈引《駆け引き》のある商人的なお取引はいやなのでございます。それに妾《私》は女でございますから、お話しがむつかしくなりますと手を引くより外《ほか》に道《’道》がございません。では、三マルとして手を打っていただきとうございます。妾《私》は女でございますもの、それなのにあなた様《=さま》の土地は無力な妾《私》がつねから欲しいと思った土地なんでございます。三マルでおゆずりくださいませ。いつまでもご恩にきますわ。」  痩せた老年の男が憤怒《フンヌ》のために立《立ち》あがった。 「いまになって三マルとはひどいではないか。昨日まであんたは四マル半ぐらいなら妾《私》がいただくから他には話さないでくれと狂気のようになってわしにたのんだ。わしはあんたを信じた。あんたは、わしが今日限り|抵当なが《抵当流》れにならなくてはならないわしの土地についてはよく承知なんだ。」 「妾《わたし》残念に存じます。妾《私》の無力をわたしは悲しく存じますわ。」 「あんたはわしを死ぬような目にあわしなすった。」 「どうか、妾《私》を悪い女にしないでください。あなたのお顔を見ていると、妾《私》はいまになってどうしていいか分らなくなってしまったのです。」 「万事休す。わしはだまされた。」  影を失った、老いた男を横目で見ながらミサコは右肩をかるくゆすった。生真面目な顔《=かお》をしたカリタが彼にむかって、 「お気の毒に存じます。しかし何分相手が女だものですから、あさはかにも欲しい一念から堅い口《=くち》をききましたのでしょう。それでは抵当権はそのまま当方に引うけることに致しましょう。値違《ネ違》い八千円をもってお取引いたすことにしまして、私が代理人としてこれから登記所へまいります。」  ミサコは二人を送りだすと、暈《目眩》を感じたが、そのまま都会の火事の騒音のなかに巻きこまれてしまった。  ふたたび、都会がパノラマのように彼女の眼前に展けてきた。それとともに彼女は夫の真剣な看護を意識した。 「おい、どうしたのだ。」 「妾《私》、どのくらい寝ていて。」 「いまさっき、アタゴ山のサイレンが鳴ったよ。」 「すると正午だわね。」 「そうだよ、おまえどうかしていない。」  ミサコはいまさらのように善良な夫を見つめていたが、 「あなた、ナナコはまだ学校を引けないわね。」 「あのおてんばのことは、どうも、俺には分らないよ。」 「ねえ、あなた。妾《私》はいいママだわねえ。」 「あの娘《ムスメ》にとって、お前はいいママかも知れないよ。」と、彼女の夫がこたえた。  ミサコの二枚の唇が白昼のテーターテイトのなかで溺れた。 「妾《私》はナナコにたいして厳格な精神をもっているわ。でも妾《私》は眼のまわるように忙しいのよ。妾《私》があの土地を買収したのも、妾《私》はこの土地にポール商会のビルデングを建てるつもりなのよ。それについて妾《私》は二重《=ニジュウ》にも、三重《3重》にも金策をしなくてはならない破目になっているのよ。あなた、分って。妾《私》が流行界の女王になったらあなたどうするつもり? あんたやはりまえと同じように悠悠としているの、妾《私》それをかんがえるとなさけなくなるわ。妾《私》のバッグにいま現金が一万円あるのよ。あなた、この金《-かね》をこの月一杯で一万五千円にすることはできない。あなたがそんなに徐々な人だから、妾《私》は一刻《=いっこく》だってじっとしていることはできないわ。妾《私》をとりまく事業と、企画とナナコと、妾《私》の善良な夫のために妾《私》はどんなことでもしてのけるわ。」  ミサコは歳入のた《足》らない夫の沈黙からはなれると、階下に彼女をおとずれた人々に居留守をつかって裏口から銀座にあらわれた。 ◇。◇。◇。 【第7章】 ──── ◇。◇。◇。  太田ミサコにとって市街は相場の高低表であった。しかし彼女にとってこの街は無意味なものの羅列に過ぎなかった。有閑者がこの街を自分の調査機関のようにたえまなく往来して、記憶をタイプライターで刷りあげると、不生産的な、非社会的な報告書しかつくれないような愚な街であった。  だが、彼女が|オワリ町《尾張町》の十字路までやってくると、中央の「ゴー」「ストップ」と書かれた赤い建札《建て札》の廻転がはじめて意識的なものを彼女に感じさすことができた。ミサコがスキヤ橋の方向に顔《=かお》をむけるとふたたび生きた記録に彼女は接した。A新聞社の電気告知の綴文字が事件をたえまなく運搬した。 『|ほんじつ《本日》を|もつ《以》て|きんゆしゆつ《金輸出》は|かいきん《解禁》されました。』 『|せんだがや《千駄ヶ谷》の|しようじよごろ《少女殺》しの|はんにんけんきよ《犯人検挙》されました。』 『|ぞうわいじけん《贈賄事件》のため|しゆうようちゆう《収容中》の|××《ペケペケ》は|ふきそ《不起訴》と|けつてい《決定》しました。』 『|せいゆうかい《政友会》はついに|かいさんかいひうんどう《解散回避運動》をす《捨》てて|かんぶかい《幹部会》は、うんぬん。』  伝書鳩がまた新しい事件をもって新聞社の楼上にまい下りた。ラジオの経済通報が全市に|ひび《響》きわたった。ミサコは通りがかりのタクシーに乗るとカブト町《=ちょう》に向って車《=クルマ》を疾走さしていた。  東株ビルデングの石造の大建築が、人物をザンバのように呑みこんでいた。数百の受話器が仲買人たちの耳に瞬間に数千の符牒を発した。踏むものが一巡するごとに、人々がなだれをうって台場台場をうずめた。そのたびに、黒いつめえりをつけた行員が矢のように場内を馳せまわった。  太田ミサコは売あびせのために底値を入《=い》れた|××《ペケペケ》新株の反撥を予想して買いあつめると、雑株安をねらって、引たたぬ|××《ペケペケ》百貨店株を後場引値で、これを指名人に買わすとさっさと場内を引あげた。強弱の火華を消して無念無想の境地をもとめて人々が四散した。 ◇。◇。◇。 【第8章】 ──── ◇。◇。◇。  白いカラーをつけた、黒奴《ニグロ》のジャズ・シンガーが高層から拡声器に厚い唇をあてて流行歌を唱いだした。都会に宵暗がせまって、満艦飾をした女がタクシーを盛《=さか》り場にとめると、貴婦人気どりで歩道を行《往》ったり来たりした。地下室の踊場では、タキシードの男と、夜会服から黄色い腕をだした踊子とが胸と胸の国境をデリケートな交錯で色どりながら踊った。  ポール流行品商会の二階の美容室では、太田ミサコが弟子に|からだ中《体中》に花粉をはたかせていた。ひる間商品窓に飾ってあった、マルセーユの歌劇女のき《着》るような華美な衣裳をつけて、白い羽根のついた黒い帽子を目深にかぶり、ネロリ油の強烈な蠱惑的な香《香り》をさしてサーカスの女のようなミサコは高慢な夜を感じていた。  夜の界わいを、極度に断截された近代娘《モダンガール》たちが、短いスカートと男のような乳房と新しい恋愛教科書によった独立の精神をもった彼女たちが、キャバレットとバーと夜の百貨店へくりだした。ホワイトマンによって教練された女達のなかにまじって、十九世紀の万国旗《バンコクキ》に包まれた太田ミサコが船出する。  一刻《=いっこく》後、東京劇場の中央の位置に人々は彼女を|見出だ《見い出》した。幕間になると彼女は放蕩親爺の好色眼と若い男たちの漫然とした不可解な顔《=カオ》と、理智的な侮蔑のなかをクジャクのように満開して、奈落から通ずる楽屋へ座頭《ザガシラ》のヤマジ・マツノスケを訪ねた。マツノスケは彼女を見ると番頭を遠ざけてから云った。 「やあ、奥さん。驚くべき美しさですなあ。あんたはいつでも僕に女性にたいする懐疑を棄てさせますよ。」  ミサコはオペラ・バッグから祝儀袋をだすと彼にわたしながら、 「妾《私》はあんたのお世辞をきくともう夢中になってしまっているのよ。しかし妾《私》は宣伝はわすれないわ。幕間はあんた、場内の視聴を妾《私》に貸してちょうだい。」  マツノスケはわざと豪快にわらってから、 「やあ、有《あり》がとう。今夜で|千秋らく《千秋楽》になると、わっちは関西でふたを開《=あ》けやすが、あんたはどうなさる。」  すると彼女の眼が烱々とかがやいた。欲情的に声をふるわせてミサコが云う。 「それはね《ネ》、マツノスケ。妾《私》はね《ネ》、あんたに離れてはいられぬし、かたがた大阪に急用があって今夜これから出発するわ。妾《私》、待っていてよ。」 「お後《あと》をしたって。」と頭を掻きながらマツノスケは苦笑して云った。奈落から拍子木がさえた音をたてた。  マツノスケに別れると、ミサコはそのまま楽屋口から冷たい街路に出た。  出発半時間前、中央ステイションのプラット・ホームには、ミサコの夫と彼女の女弟子たち、カリタ夫妻が彼女を見送りにきていた。後《=おく》ればせに小肥りな女記者がかけつけてきた。  ミサコは、小さなワニ皮の旅行鞄に少時の憂愁をかくして、皮手袋を脱《+と》ると見送りの人々と握手をかわした。やがてサイレンが鳴りやむと、夜の急行列車が都会のアーチの門をくぐるように動きだした。  列車が品川を過《=す》ぎると、彼女のかたわらに美男のアメリカ人がにこにこしながらやってきた。手品師のウイ《ィ》ルキンスであった。ミサコが無愛想《=ブアイソウ》に云った。 「ハロー、ウイ《ィ》ルキンス。よくやってこられたのね。」 「かけおちしましょう。ミサコさん。」と、彼がなれなれしくこたえた。  太田ミサコの顔が瞬間、蒼褪《青ざ》めたが、この計算を愛する女が事務的に男の愛情をためしてたずねた。 「ウイ《ィ》ルキンス。約束のもの持ってきて?」 「五百円、たしかに。」 ◇。◇。◇。 【底本:「吉行エイスケ作品集」文園社《ブンエン社》】 【   1997(平成9)年7月10日初版発行】 【   1997(平成9)年7月18日第2刷《サツ》発行】 【底本の《’の》親本:「吉行エイスケ作品集◇ 2◇ 飛行機から墜ちるまで」冬樹社《トウジュ社》】 【   1977(昭和52)年11月30日第|1刷《イッサツ》発行】 【入力:霊鷲《タマワシ》類子、宮脇|叔恵《トシエ》】 【校正:大野晋】 【2000年6月13日公開】 【2009年3月19日修正】 【青空文庫作成ファイル:】 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。