◇。◇。◇。 【老中《ロウジュウ》の眼鏡】 【佐々木味津三】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  ゆらりとひと揺れ大《”大》きく灯《-ほ》ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯りが消えた。奇怪な消え方である。 「‥‥《:‥》?」  対馬守は、咄嗟にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅から隅へ眼を放ち乍《なが》ら、静かに闇の中の気配を窺った。  ──オランダ公使から贈られた短銃《タンヅツ》も、愛用の助広もすぐと手の届く座右《ザウ》にあったが、取ろうとしなかった。刺客だったら、とうに覚悟がついているのである。  だが音はない。  呼吸のはずみも殺気の取《動》きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。  しかし油断はしなかった。──少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲《/踏襲》しようとしているために、国賊と罵り、《:、》神州を穢す売国奴と憤って、折あらばとひそかに狙っている攘夷派の志士達は勿論その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲《/踏襲》しようとしており乍《なが》ら倒《/倒》れかかった江戸大公儀《江戸オオ公儀》を今一度支《今一度’支》え直《なお》さんために、《:、》不可能と知りつつ攘夷の実行を約《約’》して、和宮の御降嫁《ご降嫁》を願い奉《たてまつ》った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘《むろん忘》れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起《起こ》る外人襲撃を憤って、先日自分《先日’自分》が声明したあの言質に対する敵だった。 「公使館を焼き払い、外人を害めて、国難を招くがごとき浪藉《ロウゼキ》を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠《ホフ》れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑し奉《たてまつ》ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激《ゲキ》して、国家を危うきに導くごとき妄動するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」  そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。──刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。  対馬守は端然として正座したまま、|潔よ《潔》い最期を待つかのように、じいっと今一度闇《今一度’闇》になった書院の中の気配を窺った。  だがやはり音はない。 「誰《た》そあるか」  失望したような、ほっとなったような気持《気持ち》で対馬守は、短銃《タンヅツ》と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。 「道弥はおらぬか。灯りが消えたぞ」 「はっ。只今持参致しまするところで厶《ござ》ります」  応じて時を移さずに|新ら《新》しい短檠を捧げ持ち乍《なが》ら、|いんぎん《慇懃》にそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍道弥ならで、茶坊主の大無《タイム》である。 「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃《のう》?」 「只今四ツを打ちまして厶《ござ》ります」 「もうそのような夜更けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」 「‥‥《:‥》?」 「首をひねっておるが、何としてじゃ」 「ちといぶかしゅう厶《ござ》ります。油も糸芯も充分厶《充分ござ》りますのに──」 「喃《のう》❢‥‥《:‥》充分あるのに消えると申すは不思議よ喃《のう》。もし滅火の術を用いたと致さば──」 「忍びの術に達した者めの仕業で厶《ござ》ります」 「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈じゃ。そう致すと少し──」 「気味《キミ》の|わる《悪》いことで厶《ござ》ります。御油断《ご油断》はなりませぬぞ」 「‥‥《:‥》‥‥」 「およろしくば?」 「何《なん》じゃ」 「さそくに宿居《トノイ》の方々へ御注進致《ご注進致》しまして、取急ぎ御警固《ご警固》の数《スウ》を増やすよう申し伝えまするで厶《ござ》りますゆえ、殿、御意は?」 「‥‥《:‥》‥‥」 「いかがで厶《ござ》ります。およろしくば?」 「騒ぐまい。行けい」 「でも──」 「国政多難の昨今、廟堂に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」  秋霜烈日《秋霜’烈日》とした声だった。  斥けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向《向か》った。──読みかけていた一書は蕃書取調所《蕃書取調ジョ》に命じて訳述させた海外事情通覧である。  しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯《-ほ》ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。  だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。 「大無《タイム》❢《❢。》 大無《タイム》❢《❢。》 また消えおったぞ」 「はっ。只今❢《❢。》 只今❢《❢。》 只今|新ら《新》しいお灯り持ちまするで厶《ござ》ります。──重ね重ね奇態で厶《ござ》りまするな」 「ちと腑におちぬ。油壷予《油壷/予》に見せい」  覗いた対馬守の面《オモテ》は、まもなく明るい笑顔に変《変わ》った。消えた理由も、燃えない仔細も忽ちすべての謎が解けたからである。 「粗忽者共《粗忽者ども》よ喃《のう》。みい。油ではないま《”ま》るで水じゃ。納戸の者共《者ども》が粗相致して水を差したであろう。取り替えさせい」 「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶《ござ》ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶《ござ》ります」 「しかし乍《なが》ら──」 「はっ」 「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎めるでないぞ」 「はっ。心得まして厶《ござ》ります。御諚伝えましたらいずれも感泣致しますることで厶《ござ》りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶《ござ》ります」 「うむ‥‥」  大きくうむと言い乍《なが》ら対馬守は、突然何《突然’何》か胸のうちがすうと開《-ひら》けたように感じて、知らぬまにじわりと雫が目がしらに湧き上《上が》った。  安心❢《❢。》 ──いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思《/思》わぬまに湧き上《上が》った涙だったに違いないのである。  銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机の左右に並べられた。  静かに端座して再び書見に向《向か》おうとしたとき、──不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然慌《突然’慌》ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無《茶坊主タイム》がうろたえ乍《なが》らそこに膝を折って言った。 「御油断《ご油断》なりませぬぞ❢《❢。》 殿《トノ》❢《❢。》 ゆめ御油断《ご油断》はなりませぬぞ❢」 「来おったか」 「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由にて宿居《/トノイ》の方々只今追うて参りまして厶《ござ》ります❢」  さっと立ち上《上が》ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。  同時に庭先の向《向こ》うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那──。 「お|見のが《見逃》し下されませ❢《❢。》 お許しなされませ❢《❢。》 後生で厶《ござ》ります。お|見のが《見逃》し下されませ❢」  必死に叫んだ声は女❢《❢。》 ──まさしく女の声である。  対馬守の身体は、思わず御縁端《ゴエンバタ》から暗い庭先へ泳ぎ出した。  同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍らしい者も一緒の二人だった。 「御《ご》、御座ります。ここに御灯《お明か》りが厶《ござ》ります」 「‥‥《:‥》※《◇》」  差し出した紙燭《シショク》の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍って飛んだ。 「よっ。そち達は、その方共《ほうども》は、道弥とお登代じゃな❢」  見られまいとして懸命に面《オモテ》を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍の道弥だったのである。  不義❢  いや恋❢《❢。》 ──この頃中《ごろじゅう》から、ちらりほらりと入《-い》れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行《成り行き》に、対馬守の口辺には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。  だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者としての冷厳な心を取り返して、荒々《/荒々》しく叱りつけた。 「不埒者たちめがっ。引っ立てい❢」 「いえあの、そのような弄《なぐさ》み心《ごころ》からでは厶《ござ》りませぬ❢《❢。》 二人とも、‥‥《:‥》二人ともに‥‥」  必死に道弥が言いわけしようとしたのを、 「聞きとうない❢《❢。》 言いわけ聞く耳も持たぬ❢《❢。》 みなの者をみい❢《❢。》 夜の目も眠らず予《/予》の身を思うておるのに、呑気らしゅう不義《/不義》の戯れに遊びほうけておるとは何《’なん》のことか❢《❢。》 見苦しい姿見とうもない❢《❢。》 早々に両名共追放《両名とも追放》せい❢」  ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々《/荒々》しい言葉で抑えつけるように|手きび《手厳》しく叱っておくと、傍らを顧みて対馬守はふいっと言った。 「そろそろその時刻じゃ。微行《忍び》の用意せい」  ──九重《ココノエ》の筑紫の真綿軽《真綿’軽》く入れた風よけの目深頭巾にすっぽり面《オモテ》をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  警囲《警固》の従者はたった二人。  しかし、居捕りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。  ──危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行《忍び》は雨でない限り毎夜《/毎夜》の例なのである。  赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫って、風の冷たい濠ばた沿いを四谷見附の方《ホウ》へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店《’屋台店》なのである。 「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取《ケド》られぬように致せよ」  見附前の通りに、夜な《鳴》きそばと出ているわびしい灯り行灯を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭に佇むと、遠くから客の在否を窺った。  しかし居ない。  刻限も丁度頃《丁度ころ》なら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿は|ひとり《一人》も見えないのである。暫く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。 「館《タテ》❢」 「はっ」 「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」 「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」 「その前はどうであった」 「三人で厶《ござ》りました」 「夜ごとに目立って客足が減るよう喃《のう》。──歎《嘆》かわしいことじゃ。考えねばならぬ。──参ろうぞ」  忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。  牛込御門の前通りにやはり一軒屋台《一軒’屋台》の灯《明かり》が見える。  三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子《様子》を窺った。 「どうじゃ。いるか」 「はっ。おりまするが──」 「何人じゃ」 「たったひとりで厶《ござ》ります」 「僅かに喃《のう》。酒はどうか。用いておるか」 「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子《様子》に厶《ござ》ります」 「やはりここも次第に寂れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人《シチ八人》もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村《ヤマムラ》。そうであったな」 「はっ。御意に厶《ござ》ります。年前は大分酒《だいぶ酒》もはずんで歌なぞも唄《-うと》うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶《ござ》ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶《ござ》りました」 「そう喃《のう》。──胸が詰《詰ま》って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」  濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川御門《小石川ゴモン》の方《ホウ》へ曲ろうとするところに、煮込みおでんと、鮨の屋台が二軒見えた。──しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々、客らしい客の姿もないのである。 「館《タテ》❢」 「はっ」 「そち今日、浅草へ参った筈よ喃《のう》」 「はっ。事の序《序で》にと存じまして、かえり道に両国河岸の模様もひと渡り見て参りまして厶《ござ》ります」 「見世物なぞの容子《様子》はどんなであった」 「天保の饑饉の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶《ござ》ります」 「不平の声は耳にせざったか」 「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気《人け》の沈んだことはない。まるで生殺しに会《-お》うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直《立ち直》るものならそのように、早《ハヨ》うどちらかへ片《カタ》がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶《ござ》ります」  ──まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非《サクゼコンヒ》の紛々《フンプン》たる声に交《交じ》って、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積している不安動揺の声なのである。  対馬守は黙然《黙念》として、静かに歩いていった。  右は水を隔てて高い土手。左は御三家筆頭水戸徳川《御三家筆頭’水戸徳川》のお上屋敷である。──その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫に護らせんために、副将軍定府の権限と三十五万石《/三十五万石》を与えてこ《/こ》こに葵柱石の屋敷をも構えさせたのに、《:、》今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川御連枝《徳川ご連枝》たる水藩《スイ藩》が、率先勤王倒幕の大旆をふりかざし乍《なが》ら、葵宗家に弓を引こうとしているのだ。 「館《タテ》❢」  対馬守は、いかめしい築地塀を打ち睨むようにし乍《なが》ら卒然として言った。 「のう館《タテ》❢」 「はっ」 「人はな《’な》」 「はっ」 「首の座に直っておる覚悟を以《以っ》て、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持《心持ち》の致すことはまたとないな。のう。どう思うか」 「御諚よ《/よ》く分りかねまする。不意にまた何を仰せられまするので厶《ござ》ります」 「大丈夫《ダイジョウフ》の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当《当た》って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断《終始’果断》を以《以っ》て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃《のう》」 「‥‥《:‥》‥‥」 「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿《井伊どの》は、立派な御最期《ご最期》だった。よかれあしかれ国策をひっ提《さげ》て、政道《セイドウ》の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨やましい事よ喃《のう》」 「申《もう》、申しようも厶《ござ》りませぬ‥‥」 「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。──天の川が澄んでおるな。風も冷《-つめ》とうなった。少し急ぐか」  足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手《行く手》をさえ切《ぎ》ってきびしく言った。 「まてっ。何者じゃっ」 「まてとは何のことじゃ❢《❢。》高貴のお方で厶《ござ》るぞ。控えさっしゃい❢」  叱って、館《タテ》、山村《ヤマムラ》の従者両名がさっと身楯《身ダテ》になって身構えたのを、 「騒ぐでない」  しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。 「姿の容子《様子》、浪士取締り見廻り隊の者共《者ども》であろうな」 「‥‥《:‥》?」 「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」 「あっ。左様で厶《ござ》りましたか❢《❢。》 それとも存ぜず不調法恐《ブチョウホウ恐》れ入りまして厶《ござ》ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下《早瀬助三郎’組下》の五名に厶《ござ》ります」 「早瀬が組下とあらば腕利きの者共《者ども》よな。夜中役目御苦労《ヤチュウ役目御苦労》じゃ。充分に警備致せよ」 「御念《ご念》までも厶《ござ》りませぬ。御老中様《ご老中様》もお気をつけ遊ばしますよう──」  人形のように固くなって、勤王浪土取締《勤王浪士取締》りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯《明かり》がまた六《6》つ見えた。闇に咲く淫靡な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。  しかし客足は反対にこ《/こ》こも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。  対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。──これ以上検分《以上’検分》する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。  足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。  寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早く気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍《なが》ら手をつくと、《:、》愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍《なが》ら、丹田に力の潜んだ声で言った。 「さぞかし御疲《お疲》れに厶《ござ》りましょう。御無事《ご無事》の御帰館《ご帰館》、何よりに御座ります。今宵の容子《様子》は?」 「ききたいか」 「殿《トノ》の御心労《ご心労》は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶《ござ》ります」 「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」 「ではやはり──」 「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」 「‥‥《:‥》‥‥」 「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」 「いえ不服では厶《ござ》りませぬ。殿《トノ》が御深慮《ご深慮》を持ちまして、それ以外に途《道》はないと仰せられますならば、いかような御決断遊《ご決断遊》ばしましょうと、格之進何《格之進なん》の不服も厶《ござ》りませぬが──」 「不服はないがどうしたと申すのじゃ」 「手前愚考致《手前’愚考致》しまするに屋台店《/屋台店》の夜毎《-よごと》に寂れますのは、必ずしも町民共《町民ども》の懐中衰微《懐中’衰微》の徴《しる》しとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕《志士召し捕》り、浪土取締《浪士取締》りなぞと|血腥さ《血腥》い殺傷沙汰がつづきますゆえ、それを脅えての事かとも思われますので厶《ござ》ります」 「一理《/一理》ある。だがそちも常人よ喃《のう》。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観《見》たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共《町民ども》の懐中が豊《豊か》ならば自《自ず》と活気が漲る筈じゃ。屋台店はそれら町民共《町民ども》のうちでも一番下積《一番’下積み》の者共《者ども》の集《集ま》るところじゃ。集《集ま》る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積《下積み》の者共《者ども》に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。民《タミ》は依らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目、いかような世になろうと懐中《カイチュウ》が豊《豊か》であらばつ《/つ》ねにあの者共《者ども》は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共《異人ども》との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤す水じゃ。下積の者共《者ども》にも自《自ず》と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えは誤っておるか」 「さり乍《なが》ら、それでは《は’》またまた──」 「井伊大老の轍《テツ》を踏むと申すか❢」 「はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身が‥‥」 「死は前からの覚悟ぞ❢《❢。》たとえ逆徒の刃に斃れようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一毛じゃ。攘夷を唱《とな》うる者共《者ども》の言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人を懼れて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かも甚しい妄語を吐きおるが、《:、》国《/国》が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、多井《タイ》❢《❢。》 予の考えは誤りか」 「いえ、それを申すのでは厶《ござ》りませぬ。京都との御約束《お約束》は何と召さるので厶《ござ》ります」 「あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か」 「はっ。恐れ乍《なが》ら和宮様御降嫁《和宮様ご降嫁》と引替えに、十年を出《いで》ずして必ず共に攘夷実行遊《攘夷実行’遊》ばさるとの御誓約《ご誓約》をお交わしなさりました筈、《:、》さるを、御降嫁願《ご降嫁願》い奉《たてまつ》って二月《フタツキ》と出ぬたった今、進んでお自らお破り遊ばしますは、二枚舌の、《:、》いえ、その御約束御反古《お約束御反古》の罪は何と遊ばしまする御所存《ご所存》で厶《ござ》ります」 「そちも近頃、急に年とって参ったよ喃《のう》──」  言下に冴え冴えとした微笑をのせると、凛として言った。 「それもこれもみな国策じゃ❢《❢。》 二枚舌ではない、国運の危うきを救う大策じゃ❢《❢。》 内争を防ぐことこそ第一の急、京都と江戸との御仲睦《お仲睦》じく渡らせられなば、国《/国》の喜びこれに過ぎたるものはなかろうが、御降嫁願《ご降嫁願》い奉《たてまつ》ったも忠節の第一、《:、》国《/国》を思うがゆえに交易するも忠節の第一であろうぞ。──大無《タイム》❢《❢。》 心気を澄ましたい。笙を持てっ」  ──冬の深夜の星に対って、端然とし乍《なが》ら正座すると、対馬守は蕭々として、日頃嗜《日ごろ嗜》む笙を鳴らした。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  その同じ夜更け──。  牛込柳町の奥まった一軒である。その一軒では、長いこともうすすり泣きの声がつづいてやまなかった。泣いているのは誰達でもない。秘めかくした恋を見咎められて、身縁りのこの家に、追放された当座の身を潜めているあ《/あ》の道弥とお登代の二人だった。──いとしみ愛する心が強ければ強いだけに、美しく若い二人にとってはその恋を叱られたことが、限りなくも悲しかったに違いないのである。  お登代が泣き濡れた睫毛に雫をためて、思い出したようにまた言った。 「それにしてもあんまりで厶《ござ》ります‥‥。殿様もあんまりで厶《ござ》ります。‥‥」 「ならぬ❢《❢。》 言うでない❢《❢。》 なりませぬ❢」  勃然《ボツゼ-ン》として道弥がうなだれていた面《オモテ》をあげると、きびしく制して叱った。 「殿様をお恨みに思う筋は毫もない。お目を掠め奉《たてまつ》った二人にこそ罪があるのじゃ。正直にこれこれとも少し早《ハヨ》うお打ちあけ申し上げておいたら、屹度御許《きっとお許》しもあったものを、《:、》今までお隠し申し上げておいたのが悪かったのじゃ。なりませぬ❢《❢。》 殿様にお恨み申し上げてはなりませぬ❢」 「いいえ申します。申します。隠した恋では厶《ござ》りましょうと、あれほどもおきびしゅうお叱りを受けるような淫らな戯むれでは厶《ござ》りませぬ。それを、それを、只のひと言もお調べは下さりませいで、御追放遊《ご追放遊》ばしますとはあんまりで厶《ござ》ります。あんまりで厶《ござ》ります」 「ならぬと言うたらなぜ止《辞》めませぬ❢《❢。》 どのような御仕置《お仕置》きうけましょうとも、御恩うけた殿様の蔭口利いてはなりませぬ。御手討《お手討》ちにならぬが|倖わ《幸》せな位じゃ。もう言うてはなりませぬ❢」 「でも、でも‥‥」 「まだ申しますか❢」 「あい、申します❢《❢。》 晴れて添いとげたいゆえに申します。わたくしはともかく、あなた様は八《’やっ》つからお身近く仕えて、人一倍御寵愛《人一倍ご寵愛》うけたお気に入りで厶《ござ》ります。親とも思うて我|まま《儘》せい、とまでお殿様が仰せあった程のそなた様で厶《ござ》ります。それを、それを、只の御近侍衆《ご近侍衆》のように、不義はお家の法度、手討ちじゃと言わぬばかりな血も涙もないお仕打ちは、憎らしゅう厶《ござ》ります。殿様乍《殿様なが》らお憎らしゅう厶《ござ》ります」  ──道弥も、ふいとそのことが思いのうちに湧き上《上が》った。思い出せば|なる《成》程そうだった。八つの年初めてお目見得に上って、お茶との御所望《ご所望》があったとき、過《あやま》ってお膝の上にこぼしたら、ほほう水撒きが上手よ喃《のう》、と仰せられた程の殿である。それからまた十《トオ》の年に若君《若ぎみ》のお対手となって、お書院で戯むれていたら、二人して予の頭を叩き合いせい、とまで仰せられた程も人としての一面に於《於い》て、情味豊《情味豊か》な対馬守である。  それだのに、なるほど厳しすぎると言えば厳しすぎるお仕打ちだった。──道弥は、悲しげに面《オモテ》をあげて、じっとお登代の目を見守った。目から、そうして乳房を通って、道弥の|ふた《二》つの眼《マナコ》は怪しくおののき輝き乍《なが》ら、乳房の下のほのかなふくらみにそそがれた。  四月《ヨツキ》❢《❢。》 ──そこには四月《ヨツキ》の愛の結晶がすでにもう宿されているのである。  これまでになっていることをお気づきだったら、ああまで強くお叱りにならなかったかも知れぬ。よしや一度はお叱りになったにしても、昔ほどの御豊《お豊か》な情味をお持ちになっていたら─《─:》─だが、そのとき道弥の心に浮び上《上が》って来たものは、日夜の御心労《ご心労》にお|やつ《窶》れ遊ばしている殿のいたいたしいお姿だった。  あのお顔に刻まれている皺の一つ一つの暗い影は、とりもなおさず国難の暗い影なのである。  殿《トノ》の一動は、江戸の運命を左右するのだ。  そうしてまた殿の一挙は、国《/国》の運命をも左右するのだ。  おいたわしいことである。心に一刻半刻のゆるみをも持つことの出来ない殿の日夜は、只々おいたわしい限りである。──いや、それゆえにこそ、自分等《自分ら》ごとき取るに足らぬものの恋なぞは、心にも止めていられないのだ。  カチカチと、オランダ渡りの置土圭《置き時計》が、静かな時の刻みをつづけていった。──勿論殿《もちろん殿》から拝領の品だった。追放の身にはなっても、せめてこればかりは御形見《お形見》にと思って持って来たのである。  恨んではならぬ❢  お護り申さねばならぬ❢ 「登代どの❢」  ほっと蘇ったように面《オモテ》をあげると、道弥は不意にきいた。 「あすは十五日で厶《ござ》ったな」 「あい。月次《ツキナミ》お登城の日で厶《ござ》ります」  きくや矢庭に立ち上《上が》ると、敢然として言った。 「行って参る❢《❢。》 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ」 「ま❢《❢。》 不意にどこへお越し遊ばすので厶《ござ》ります。このような夜中、何しに参るので厶《ござ》ります」 「せめてもお詫びのしるしに──、《:、》いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。健固《ケンゴ》でお暮《暮ら》し召されよ‥‥」 「ま❢《❢。》 お待ちなされませ❢《❢。》 お待ちなされませ❢」  しかし道弥の姿は、もう表《オモテ》の闇に消えていった。──同時のように、《、/》ジイジイと置土圭《置き時計》が四時《ナナツ》を告げた。 ◇。◇。◇。  大書院の置土圭《置き時計》もまたその時四時《時ナナツ》だった。  だが対馬守は、あれから今まで死像のようにじっと端座したままだった。──老職多井がそれを気遣って言った。 「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶《ござ》ります。お微行《忍び》のあとのお疲れも厶《ござ》りましょうゆえ、御寝遊《ギョシン遊》ばしましてはいかがで厶《ござ》ります」 「‥‥《:‥》‥‥」 「な❢《❢。》 殿《トノ》❢」 「‥‥《:‥》‥‥」 「殿《トノ》❢」 「‥‥《:‥》‥‥」 「きこえませぬか。殿《トノ》❢《❢。》 もう夜あけに間も厶《ござ》りませぬ。暫しの間《マ》なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶《ござ》ります」 「‥‥《:‥》‥‥」 「な❢《❢。》 殿《トノ》❢」 「‥‥《:‥》‥‥」 「殿《トノ》❢」  そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっと面《オモテ》をあげると突然言《/突然’言》った。 「あすは十五日であったな」 「はっ。月次総登城の御当日《ご当日》で厶《ござ》ります。それゆえ暫しの間《マ》なりとも御寝遊《ギョシン遊》ばしましてはと、先程から申し上げているので厶《ござ》ります。いかがで厶《ござ》ります」 「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。‥‥屋台店の寂れがちらついておる‥‥。たしかに十五日じゃな」 「相違厶《相違ござ》りませぬ」 「しかと間違いあるまい《い-》な」 「お諄《くど》う厶《ござ》ります」 「諄《くど》うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告《決心’告》げるに丁度よい都合じゃ──硯を持てい」 「はっ?」 「紙料持参《紙料’持参》せいと申しているのじゃ」  いぶかり乍《なが》ら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。 「ポルトガル国との交易通商は、|最早や《最早’》断乎として之を貫く以外に途《道》はなし。早々に条約締結の運び致すよう、諸事抜《諸事抜か》りなく御手配可然候《オン手配しかるべくそうろう》。人の命に明日はなし。その心して諸準備御急《諸準備お急》ぎ召さるべく安藤対馬《/安藤対馬》しかと命じ置き候《そうろう》」  筆をおくと凛として言った。 「予が遺言に──、《:、》いや、夜がいか程更けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」 「ではもうやはり──」 「聞くがまではない。ちらつく‥‥、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ‥‥」  声をおとして、他を顧みるように言うと、対馬守は静かにきいた。 「湯浴《湯浴み》の支度は整うておるであろうな」 「おりまするで厶《ござ》ります」  ──入念な入浴だった。  そうして夜が白々《しらじら》と明けかかった。紊れも見えぬ足取《足ど》りでお湯殿から帰って来ると、対馬守は愈々静《いよいよ静》かに言った。 「香《コウ》を焚け」  いかにも落ちついた声なのである。焚いてそのお膝の前に格之進が捧げ持っていったのをズバリと言った。 「聴くのでない。予が頭《ツムリ》に焚きこめい」  はっとなって老職は、打ちひしがれたように面《オモテ》を伏せた。死を覚悟されているのである。斎戒沐浴して髪に香《コウ》を焚きこめる、─《─:》─刺客の手にかかることがあろうとも、見苦しい首級を曝したくないとの床しい御覚悟《ご覚悟》からなのだ。  格之進の老眼からは、滝のようにハラハラと雫が散った。  香炉を捧げ持つ手がわなわなとふるえた。  声もカスレ乍《なが》らふるえた。 「お潔ぎよいことで厶《ござ》ります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかは厶《ござ》りませぬ」 「長い主従であったよな」 「‥‥《:‥》‥‥」 「不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊殿《井伊どの》の御最期《ご最期》もそうであった。登城《/登城》を要して討つは、刺客共《刺客ども》にとって一番目的《一番’目的》を遂げ易い機《折り》である。十五日であるかどうかを諄《くど》うきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客共《刺客ども》もあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井❢」 「はっ‥‥」 「すがすがしい朝よな」  ──カラリと晴れて陽があがった。  登城《/登城》は坂下門からである。対馬守は颯爽として言った。 「供揃いさせい」 「整えおきまして厶《ござ》ります」 「人数増やしたのではあるまい《い-》な」 「いえ、万が一、いや、いずれに致せ多《/多》いがよろしかろうと存じまして、屈強の者選《者よ》りすぐり、二十名程増やしまして厶《ござ》ります」 「要らぬ。減らせ❢」  言下に斥けると、さらに颯爽として言った。 「首の座に直るには供は要らぬ。七八名《シチハチ名》で沢山ぞ。館《タテ》に山村《ヤマムラ》、それから道弥、──道弥はおらなんだな。あれがおらばひとりでも沢山であろうのに、いずれにしても半分にせい」  命ぜられた供人達が平伏《平伏’》しているお駕籠へ対馬守《/対馬守》は紊れた足音もなく進んでいった。しかしその刹那である。  一閃❢《❢。》 キラリ、朝陽に短く光りの尾が曳いたかと見るまに、どこからか飛んで来て、プツリ、お駕籠の棒先に突きささったのは手裏剣だった。  ぎょっとなって色めき立ったのを、静かに制して対馬守は見守った。火急に何か知らせねばならぬことでもあるのかま《”ま》さしく手裏剣文《手裏剣ブミ》なのである。 「見せい」  押し開いた目に読まれたのは次の一文だった。 「|新ら《新》しき敵現われ候間《そうろうあいだ》、御油断召《ご油断召》さる間敷候《まじくそうろう》。堀織部正殿恩顧《堀織部正どの恩顧》の者共《者ども》に候《そうろう》。  殿に筋違いの御恨《お恨》み抱《-いだ》き、寄り寄り密謀中《密謀ちゅう》のところを突き止め候間《そうろうあいだ》、取急《取り急》ぎおしらせ仕候《つかまつりそうろう》」  ふいっと対馬守の面《オモテ》には微笑が湧いた。 「誰ぞ蔭乍《蔭なが》ら予の身辺を護っている者があると見ゆるな」  だが一瞬にその微笑が消えて、怒りの声が地に散った。 「愚か者達めがっ。私怨じゃ。いいや、安藤対馬、堀織部正恩顧《堀オリベノカミ恩顧》の者共《者ども》なぞに恨みをうける覚えはないわっ。人が嗤おうぞ。──行けっ」  痛罵と共に、姿は駕籠に消えた。──堀織部正は先の外国奉行である。二月前《フタ月前》の去年十一月八日《去年’十一月八日》、疑問の憤死を遂げたために、流布憶説まちまちだった。対馬守の進取的な開港主義が度を越えているとなして憤死したと言う説、外国奉行であり乍《なが》ら実際は攘夷論者であったがゆえに、任を負いかねて屠腹したと言う説、《:、》それらのいろいろの憶説の中にあって、最も広く流布されたものは、品川御殿山八万坪《品川御殿山’八万坪》を無用の地との見地から、対馬守がこれを外国公使館の敷地に当てようとしたところ、《:、》織部正が江戸要害説を固執《コシツ》して肯《肯ん》じなかったために、怒って幽閉したのを|憤お《憤》って自刃したと言う憶測だった。もしも堀家恩顧の家臣が恨みを抱《-いだ》いているとするなら、その幽閉に対する逆恨みに違いないのである。 「馬鹿なっ。大義も通らぬ奸徒達にむざむざこの首渡《コウベ渡》してなるものかっ。やらねばならぬ者がまだ沢山あろうぞ。早《ハヨ》う行けっ」  お駕籠は揺れらしい揺れも見せないで、しずしずと坂下門にさしかかっていった。供揃いはたった十人。一面の洗い砂礫《砂利》を敷きつめたその坂下御門前《坂下御門マエ》に行きついたのは、冬の陽の冷たい朝まだきの五ツ前である。  と見えた刹那──、轟然として銃音《ツツオト》が耳をつんざいた。一緒に羽ばたきのような足音が殺到したかと思われるや、突然叫《突然’叫》んで言った。 「国賊安藤対馬、斬奸じゃっ。覚悟せい❢」  チャリンと言う刃音が同時に伝わった。  刺客だ❢  七八名《シチハチ名》らしい剣気である。 「来おったな」  対馬守は、待ちうけていた者に会うような、ゆとりのある態度で、従容と駕籠を降りた。──途端、目についたのは脱兎のごとくに迫って来る若侍の姿だった。それも十八九《ジュウハチク》。  三島──対馬守は咄嗟に思い当った。刃をふりかぶって悪鬼《アッキ》のごとくに襲撃して来たそのいち人《にん》こそは、まさしく見覚えの堀織部正家臣三島三郎兵衛《堀織部正家臣’三島三郎兵衛》である。間《マ》をおかずに大喝が飛んでいった。 「うろたえ者めが。退りおろうぞっ。私怨の刃に討たれる首持《コウベ持》っていぬわっ。退れっ。退れっ。退りおれっ」  叫んで、さっと身をすさったが、三島が必死の刃は、圧する凄気《セイキ》と共に、対馬守の肩先に襲いかかった。しかしその一刹那である。弾丸のように黒い影が横合いから飛びつけると、間一髪のうちに三島三郎兵衛《三島サブロベエ》の兇刃を払ってのけて、技もあざやか❢ ダッと一閃のまにそこへ斬ってすてた。──頭巾姿の顔も誰か分《分か》らぬ救い手である。  黒いその影は、つづいて右に走ると、さらにいち人見事《にん見事》に刺客を斬ってすてた。そのまに館《タテ》がひとり、山村《ヤマムラ》がいち人《にん》、あとの四人を残りの近侍達が斬りすてて、広場の砂礫《砂利》は凄惨として血の海だった。  対馬守は自若として打ち見守ったままである。その目は、救い手の黒い姿に注《-そそ》がれて動かなかった。しかしやがて肯《頷》いた。 「道弥よな」  呟いたとき、頭巾を払って救い手が砂礫《砂利》に手をついた。──やはりそれはあの道弥だった。崩れるようにうっ伏すと道弥の声が悦びに躍って言った。 「御無事《ご無事》で何よりに厶《ござ》ります‥‥」  ふいっと対馬守の面《オモテ》に微笑が湧いた。だが一瞬である。打って変《変わ》った荒々しい声が飛んでいった。 「見苦しい❢《❢。》 退れっ。縁なき者の守護受《守護’受》けとうないわっ。行けっ」 「では、では、これ程までにお詫び致しましても、─《─:》─手裏剣文放《手裏剣ブミ放》って急をお知らせ致しましたのも手前で厶《ござ》りました。蔭乍《蔭なが》らと存じまして御護《お護》り申し上げましたのに、では、では、どうあっても──」 「知らぬ❢《❢。》 行けっ」 「やむをえませぬ❢《❢。》 ‥‥」  さっと脇差抜くと、道弥のその手は腹にいった。途端である。対馬守の大喝がさらに下った。 「たわけ者めがっ。言外の情分《情け分》らぬか。死んでならぬ者と、死なねばならぬ者がある──」  そうしてふいっと声をおとすと言った。 「嬰児《ヤヤ》が|父なし児《テテナシゴ》になろうぞ。早《ハヨ》う行けっ」 「左様で厶《ござ》りましたか❢《❢。》 左様で厶《ござ》りましたか❢」  血の匂う砂礫《砂利》の上に道弥の涙が時雨のようにおち散った。  見眺めて対馬守は、ほころびかかった微笑を慌てて殺すと、急いで眼鏡をかけた。  はっと平伏《平伏’》し乍《なが》ら、並居る侍臣達は、そのとき|新ら《新》しい発見をした。殿《トノ》の眼鏡は時代の底の流れと、海の外を視る御用にのみ役立つと思っていたのに、人の情《情け》の涙をもおしかくす御役《お役》に立つことを初めて知ったのである。  その時何侯《時ナニ侯》か登城した大名があったとみえて、城内遥かの彼方からドドンと高く登城しらせのお城太鼓が鳴り伝わった。 ◇。◇。◇。 【底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社】 【1997(平成9)年2月二十日第《月ハツカ第》|1刷発行《イッサツ発行》】 【底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社】 【1934(昭和9)年発行】 【初出:「改題」】 【1930(昭和5)年発行】 【入力:大野晋】 【校正:noriko saito】 【2004年11月1日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】