◇。◇。◇。 【ロウジュウの眼鏡】 【佐々木味津三】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  ゆらりとひと揺れ”大きく-ほざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯りが消えた。奇怪な消え方である。 「‥:‥?」  対馬守は、咄嗟にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅から隅へ眼を放ちながら、静かに闇の中の気配を窺った。  ──オランダ公使から贈られたタンヅツも、愛用の助広もすぐと手の届くザウにあったが、取ろうとしなかった。刺客だったら、とうに覚悟がついているのである。  だが音はない。  呼吸のはずみも殺気の動きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。  しかし油断はしなかった。──少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し/踏襲しようとしているために、国賊と罵り:、神州を穢す売国奴と憤って、折あらばとひそかに狙っている攘夷派の志士達は勿論その第一の敵である。開港政策を是認し/踏襲しようとしておりながら/倒れかかった江戸オオ公儀を今一度’支えなおさんために:、不可能と知りつつ攘夷の実行を約’して、和宮のご降嫁を願いたてまつった自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、むろん忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起こる外人襲撃を憤って、先日’自分が声明したあの言質に対する敵だった。 「公使館を焼き払い、外人を害めて、国難を招くがごときロウゼキを働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬をホフれっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑したてまつればよいのじゃ。さるを故なき感情にゲキして、国家を危うきに導くごとき妄動するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」  そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。──刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。  対馬守は端然として正座したまま、潔い最期を待つかのように、じいっと今一度’闇になった書院の中の気配を窺った。  だがやはり音はない。 「たそあるか」  失望したような、ほっとなったような気持ちで対馬守は、タンヅツと一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。 「道弥はおらぬか。灯りが消えたぞ」 「はっ。只今持参致しまするところでござります」  応じて時を移さずに新しい短檠を捧げ持ちながら、慇懃にそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍道弥ならで、茶坊主のタイムである。 「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろうのう?」 「只今四ツを打ちましてござります」 「もうそのような夜更けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」 「‥:‥?」 「首をひねっておるが、何としてじゃ」 「ちといぶかしゅうござります。油も糸芯も充分ござりますのに──」 「のう❢‥:‥充分あるのに消えると申すは不思議よのう。もし滅火の術を用いたと致さば──」 「忍びの術に達した者めの仕業でござります」 「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈じゃ。そう致すと少し──」 「キミの悪いことでござります。ご油断はなりませぬぞ」 「‥:‥‥‥」 「およろしくば?」 「なんじゃ」 「さそくにトノイの方々へご注進致しまして、取急ぎご警固のスウを増やすよう申し伝えまするでござりますゆえ、殿、御意は?」 「‥:‥‥‥」 「いかがでござります。およろしくば?」 「騒ぐまい。行けい」 「でも──」 「国政多難の昨今、廟堂に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」  秋霜’烈日とした声だった。  斥けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向かった。──読みかけていた一書は蕃書取調ジョに命じて訳述させた海外事情通覧である。  しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく-ほざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。  だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。 「タイム❢。 タイム❢。 また消えおったぞ」 「はっ。只今❢。 只今❢。 只今新しいお灯り持ちまするでござります。──重ね重ね奇態でござりまするな」 「ちと腑におちぬ。油壷/予に見せい」  覗いた対馬守のオモテは、まもなく明るい笑顔に変わった。消えた理由も、燃えない仔細も忽ちすべての謎が解けたからである。 「粗忽者どもよのう。みい。油ではない”まるで水じゃ。納戸の者どもが粗相致して水を差したであろう。取り替えさせい」 「いかさま、油と水とを間違えでもしたげにござります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするでござります」 「しかしながら──」 「はっ」 「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎めるでないぞ」 「はっ。心得ましてござります。御諚伝えましたらいずれも感泣致しますることでござりましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするでござります」 「うむ‥‥」  大きくうむと言いながら対馬守は、突然’何か胸のうちがすうと-ひらけたように感じて、知らぬまにじわりと雫が目がしらに湧き上がった。  安心❢。 ──いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって/思わぬまに湧き上がった涙だったに違いないのである。  銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机の左右に並べられた。  静かに端座して再び書見に向かおうとしたとき、──不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然’慌ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主タイムがうろたえながらそこに膝を折って言った。 「ご油断なりませぬぞ❢。 トノ❢。 ゆめご油断はなりませぬぞ❢」 「来おったか」 「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由にて/トノイの方々只今追うて参りましてござります❢」  さっと立ち上がると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。  同時に庭先の向こうで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那──。 「お見逃し下されませ❢。 お許しなされませ❢。 後生でござります。お見逃し下されませ❢」  必死に叫んだ声は女❢。 ──まさしく女の声である。  対馬守の身体は、思わずゴエンバタから暗い庭先へ泳ぎ出した。  同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍らしい者も一緒の二人だった。 「ご、御座ります。ここにお明かりがござります」 「‥:‥◇」  差し出したシショクの光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍って飛んだ。 「よっ。そち達は、そのほうどもは、道弥とお登代じゃな❢」  見られまいとして懸命にオモテを伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍の道弥だったのである。  不義❢  いや恋❢。 ──このごろじゅうから、ちらりほらりと-いれるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成り行きに、対馬守の口辺には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。  だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者としての冷厳な心を取り返して、/荒々しく叱りつけた。 「不埒者たちめがっ。引っ立てい❢」 「いえあの、そのようななぐさみごころからではござりませぬ❢。 二人とも、‥:‥二人ともに‥‥」  必死に道弥が言いわけしようとしたのを、 「聞きとうない❢。 言いわけ聞く耳も持たぬ❢。 みなの者をみい❢。 夜の目も眠らず/予の身を思うておるのに、呑気らしゅう/不義の戯れに遊びほうけておるとは’なんのことか❢。 見苦しい姿見とうもない❢。 早々に両名とも追放せい❢」  ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、/荒々しい言葉で抑えつけるように手厳しく叱っておくと、傍らを顧みて対馬守はふいっと言った。 「そろそろその時刻じゃ。忍びの用意せい」  ──ココノエの筑紫の真綿’軽く入れた風よけの目深頭巾にすっぽりオモテをつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  警固の従者はたった二人。  しかし、居捕りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。  ──危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の忍びは雨でない限り/毎夜の例なのである。  赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫って、風の冷たい濠ばた沿いを四谷見附のホウへ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく’屋台店なのである。 「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。ケドられぬように致せよ」  見附前の通りに、夜鳴きそばと出ているわびしい灯り行灯を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭に佇むと、遠くから客の在否を窺った。  しかし居ない。  刻限も丁度ころなら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿は一人も見えないのである。暫く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。 「タテ❢」 「はっ」 「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」 「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」 「その前はどうであった」 「三人でござりました」 「夜ごとに目立って客足が減るようのう。──嘆かわしいことじゃ。考えねばならぬ。──参ろうぞ」  忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。  牛込御門の前通りにやはり一軒’屋台の明かりが見える。  三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の様子を窺った。 「どうじゃ。いるか」 「はっ。おりまするが──」 「何人じゃ」 「たったひとりでござります」 「僅かにのう。酒はどうか。用いておるか」 「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している様子にござります」 「やはりここも次第に寂れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のようにシチ八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。ヤマムラ。そうであったな」 「はっ。御意にござります。年前はだいぶ酒もはずんで歌なぞも-うとうておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったようにござります。ゆうべもやはりひとりきりでござりました」 「そうのう。──胸が詰まって参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」  濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川ゴモンのホウへ曲ろうとするところに、煮込みおでんと、鮨の屋台が二軒見えた。──しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々、客らしい客の姿もないのである。 「タテ❢」 「はっ」 「そち今日、浅草へ参った筈よのう」 「はっ。事の序でにと存じまして、かえり道に両国河岸の模様もひと渡り見て参りましてござります」 「見世物なぞの様子はどんなであった」 「天保の饑饉の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりましてござります」 「不平の声は耳にせざったか」 「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人けの沈んだことはない。まるで生殺しに-おうているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立ち直るものならそのように、ハヨうどちらかへカタがつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりましてござります」  ──まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、サクゼコンヒのフンプンたる声に交じって、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積している不安動揺の声なのである。  対馬守は黙念として、静かに歩いていった。  右は水を隔てて高い土手。左は御三家筆頭’水戸徳川のお上屋敷である。──その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫に護らせんために、副将軍定府の権限と/三十五万石を与えて/ここに葵柱石の屋敷をも構えさせたのに:、今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川ご連枝たるスイ藩が、率先勤王倒幕の大旆をふりかざしながら、葵宗家に弓を引こうとしているのだ。 「タテ❢」  対馬守は、いかめしい築地塀を打ち睨むようにしながら卒然として言った。 「のうタテ❢」 「はっ」 「人は’な」 「はっ」 「首の座に直っておる覚悟を以って、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持ちの致すことはまたとないな。のう。どう思うか」 「御諚/よく分りかねまする。不意にまた何を仰せられまするのでござります」 「ダイジョウフの覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当たって事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始’果断を以って貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよのう」 「‥:‥‥‥」 「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊どのは、立派なご最期だった。よかれあしかれ国策をひっさげて、セイドウの一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨やましい事よのう」 「もう、申しようもござりませぬ‥‥」 「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。──天の川が澄んでおるな。風も-つめとうなった。少し急ぐか」  足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行く手をさえぎってきびしく言った。 「まてっ。何者じゃっ」 「まてとは何のことじゃ❢。高貴のお方でござるぞ。控えさっしゃい❢」  叱って、タテ、ヤマムラの従者両名がさっと身ダテになって身構えたのを、 「騒ぐでない」  しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。 「姿の様子、浪士取締り見廻り隊の者どもであろうな」 「‥:‥?」 「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」 「あっ。左様でござりましたか❢。 それとも存ぜずブチョウホウ恐れ入りましてござります。薩州浪士取締り早瀬助三郎’組下の五名にござります」 「早瀬が組下とあらば腕利きの者どもよな。ヤチュウ役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」 「ご念までもござりませぬ。ご老中様もお気をつけ遊ばしますよう──」  人形のように固くなって、勤王浪士取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の明かりがまた6つ見えた。闇に咲く淫靡な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。  しかし客足は反対に/ここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。  対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。──これ以上’検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。  足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。  寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早く気配を知って、寒げに老いた姿を見せながら手をつくと:、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守りながら、丹田に力の潜んだ声で言った。 「さぞかしお疲れにござりましょう。ご無事のご帰館、何よりに御座ります。今宵の様子は?」 「ききたいか」 「トノのご心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様でござります」 「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」 「ではやはり──」 「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」 「‥:‥‥‥」 「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」 「いえ不服ではござりませぬ。トノがご深慮を持ちまして、それ以外に道はないと仰せられますならば、いかようなご決断遊ばしましょうと、格之進なんの不服もござりませぬが──」 「不服はないがどうしたと申すのじゃ」 「手前’愚考致しまするに/屋台店の-よごとに寂れますのは、必ずしも町民どもの懐中’衰微のしるしとばかりは思われませぬ。一つは志士召し捕り、浪士取締りなぞと血腥い殺傷沙汰がつづきますゆえ、それを脅えての事かとも思われますのでござります」 「/一理ある。だがそちも常人よのう。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを見たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民どもの懐中が豊かならば自ずと活気が漲る筈じゃ。屋台店はそれら町民どものうちでも一番’下積みの者どもの集まるところじゃ。集まる筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積みの者どもに活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。タミは依らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目、いかような世になろうとカイチュウが豊かであらば/つねにあの者どもは楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人どもとの交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤す水じゃ。下積の者どもにも自ずと潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えは誤っておるか」 「さりながら、それでは’またまた──」 「井伊大老のテツを踏むと申すか❢」 「はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身が‥‥」 「死は前からの覚悟ぞ❢。たとえ逆徒の刃に斃れようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一毛じゃ。攘夷をとなうる者どもの言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人を懼れて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かも甚しい妄語を吐きおるが:、/国が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、タイ❢。 予の考えは誤りか」 「いえ、それを申すのではござりませぬ。京都とのお約束は何と召さるのでござります」 「あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か」 「はっ。恐れながら和宮様ご降嫁と引替えに、十年をいでずして必ず共に攘夷実行’遊ばさるとのご誓約をお交わしなさりました筈:、さるを、ご降嫁願いたてまつってフタツキと出ぬたった今、進んでお自らお破り遊ばしますは、二枚舌の:、いえ、そのお約束御反古の罪は何と遊ばしまするご所存でござります」 「そちも近頃、急に年とって参ったよのう──」  言下に冴え冴えとした微笑をのせると、凛として言った。 「それもこれもみな国策じゃ❢。 二枚舌ではない、国運の危うきを救う大策じゃ❢。 内争を防ぐことこそ第一の急、京都と江戸とのお仲睦じく渡らせられなば、/国の喜びこれに過ぎたるものはなかろうが、ご降嫁願いたてまつったも忠節の第一:、/国を思うがゆえに交易するも忠節の第一であろうぞ。──タイム❢。 心気を澄ましたい。笙を持てっ」  ──冬の深夜の星に対って、端然としながら正座すると、対馬守は蕭々として、日ごろ嗜む笙を鳴らした。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  その同じ夜更け──。  牛込柳町の奥まった一軒である。その一軒では、長いこともうすすり泣きの声がつづいてやまなかった。泣いているのは誰達でもない。秘めかくした恋を見咎められて、身縁りのこの家に、追放された当座の身を潜めている/あの道弥とお登代の二人だった。──いとしみ愛する心が強ければ強いだけに、美しく若い二人にとってはその恋を叱られたことが、限りなくも悲しかったに違いないのである。  お登代が泣き濡れた睫毛に雫をためて、思い出したようにまた言った。 「それにしてもあんまりでござります‥‥。殿様もあんまりでござります。‥‥」 「ならぬ❢。 言うでない❢。 なりませぬ❢」  ボツゼ-ンとして道弥がうなだれていたオモテをあげると、きびしく制して叱った。 「殿様をお恨みに思う筋は毫もない。お目を掠めたてまつった二人にこそ罪があるのじゃ。正直にこれこれとも少しハヨうお打ちあけ申し上げておいたら、きっとお許しもあったものを:、今までお隠し申し上げておいたのが悪かったのじゃ。なりませぬ❢。 殿様にお恨み申し上げてはなりませぬ❢」 「いいえ申します。申します。隠した恋ではござりましょうと、あれほどもおきびしゅうお叱りを受けるような淫らな戯むれではござりませぬ。それを、それを、只のひと言もお調べは下さりませいで、ご追放遊ばしますとはあんまりでござります。あんまりでござります」 「ならぬと言うたらなぜ辞めませぬ❢。 どのようなお仕置きうけましょうとも、御恩うけた殿様の蔭口利いてはなりませぬ。お手討ちにならぬが幸せな位じゃ。もう言うてはなりませぬ❢」 「でも、でも‥‥」 「まだ申しますか❢」 「あい、申します❢。 晴れて添いとげたいゆえに申します。わたくしはともかく、あなた様は’やっつからお身近く仕えて、人一倍ご寵愛うけたお気に入りでござります。親とも思うて我儘せい、とまでお殿様が仰せあった程のそなた様でござります。それを、それを、只のご近侍衆のように、不義はお家の法度、手討ちじゃと言わぬばかりな血も涙もないお仕打ちは、憎らしゅうござります。殿様ながらお憎らしゅうござります」  ──道弥も、ふいとそのことが思いのうちに湧き上がった。思い出せば成程そうだった。八つの年初めてお目見得に上って、お茶とのご所望があったとき、あやまってお膝の上にこぼしたら、ほほう水撒きが上手よのう、と仰せられた程の殿である。それからまたトオの年に若ぎみのお対手となって、お書院で戯むれていたら、二人して予の頭を叩き合いせい、とまで仰せられた程も人としての一面に於いて、情味豊かな対馬守である。  それだのに、なるほど厳しすぎると言えば厳しすぎるお仕打ちだった。──道弥は、悲しげにオモテをあげて、じっとお登代の目を見守った。目から、そうして乳房を通って、道弥の二つのマナコは怪しくおののき輝きながら、乳房の下のほのかなふくらみにそそがれた。  ヨツキ❢。 ──そこにはヨツキの愛の結晶がすでにもう宿されているのである。  これまでになっていることをお気づきだったら、ああまで強くお叱りにならなかったかも知れぬ。よしや一度はお叱りになったにしても、昔ほどのお豊かな情味をお持ちになっていたら─:─だが、そのとき道弥の心に浮び上がって来たものは、日夜のご心労にお窶れ遊ばしている殿のいたいたしいお姿だった。  あのお顔に刻まれている皺の一つ一つの暗い影は、とりもなおさず国難の暗い影なのである。  トノの一動は、江戸の運命を左右するのだ。  そうしてまた殿の一挙は、/国の運命をも左右するのだ。  おいたわしいことである。心に一刻半刻のゆるみをも持つことの出来ない殿の日夜は、只々おいたわしい限りである。──いや、それゆえにこそ、自分らごとき取るに足らぬものの恋なぞは、心にも止めていられないのだ。  カチカチと、オランダ渡りの置き時計が、静かな時の刻みをつづけていった。──もちろん殿から拝領の品だった。追放の身にはなっても、せめてこればかりはお形見にと思って持って来たのである。  恨んではならぬ❢  お護り申さねばならぬ❢ 「登代どの❢」  ほっと蘇ったようにオモテをあげると、道弥は不意にきいた。 「あすは十五日でござったな」 「あい。ツキナミお登城の日でござります」  きくや矢庭に立ち上がると、敢然として言った。 「行って参る❢。 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ」 「ま❢。 不意にどこへお越し遊ばすのでござります。このような夜中、何しに参るのでござります」 「せめてもお詫びのしるしに──:、いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。ケンゴでお暮らし召されよ‥‥」 「ま❢。 お待ちなされませ❢。 お待ちなされませ❢」  しかし道弥の姿は、もうオモテの闇に消えていった。──同時のように、/ジイジイと置き時計がナナツを告げた。 ◇。◇。◇。  大書院の置き時計もまたその時ナナツだった。  だが対馬守は、あれから今まで死像のようにじっと端座したままだった。──老職多井がそれを気遣って言った。 「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったようにござります。お忍びのあとのお疲れもござりましょうゆえ、ギョシン遊ばしましてはいかがでござります」 「‥:‥‥‥」 「な❢。 トノ❢」 「‥:‥‥‥」 「トノ❢」 「‥:‥‥‥」 「きこえませぬか。トノ❢。 もう夜あけに間もござりませぬ。暫しのマなりとお横におなり遊ばしましてはいかがでござります」 「‥:‥‥‥」 「な❢。 トノ❢」 「‥:‥‥‥」 「トノ❢」  そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっとオモテをあげると/突然’言った。 「あすは十五日であったな」 「はっ。月次総登城のご当日でござります。それゆえ暫しのマなりともギョシン遊ばしましてはと、先程から申し上げているのでござります。いかがでござります」 「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。‥‥屋台店の寂れがちらついておる‥‥。たしかに十五日じゃな」 「相違ござりませぬ」 「しかと間違いあるまい-な」 「おくどうござります」 「くどうのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心’告げるに丁度よい都合じゃ──硯を持てい」 「はっ?」 「紙料’持参せいと申しているのじゃ」  いぶかりながら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。 「ポルトガル国との交易通商は、最早’断乎として之を貫く以外に道はなし。早々に条約締結の運び致すよう、諸事抜かりなくオン手配しかるべくそうろう。人の命に明日はなし。その心して諸準備お急ぎ召さるべく/安藤対馬しかと命じ置きそうろう」  筆をおくと凛として言った。 「予が遺言に──:、いや、夜がいか程更けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」 「ではもうやはり──」 「聞くがまではない。ちらつく‥‥、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ‥‥」  声をおとして、他を顧みるように言うと、対馬守は静かにきいた。 「湯浴みの支度は整うておるであろうな」 「おりまするでござります」  ──入念な入浴だった。  そうして夜がしらじらと明けかかった。紊れも見えぬ足どりでお湯殿から帰って来ると、対馬守はいよいよ静かに言った。 「コウを焚け」  いかにも落ちついた声なのである。焚いてそのお膝の前に格之進が捧げ持っていったのをズバリと言った。 「聴くのでない。予がツムリに焚きこめい」  はっとなって老職は、打ちひしがれたようにオモテを伏せた。死を覚悟されているのである。斎戒沐浴して髪にコウを焚きこめる、─:─刺客の手にかかることがあろうとも、見苦しい首級を曝したくないとの床しいご覚悟からなのだ。  格之進の老眼からは、滝のようにハラハラと雫が散った。  香炉を捧げ持つ手がわなわなとふるえた。  声もカスレながらふるえた。 「お潔ぎよいことでござります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかはござりませぬ」 「長い主従であったよな」 「‥:‥‥‥」 「不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊どののご最期もそうであった。/登城を要して討つは、刺客どもにとって一番’目的を遂げ易い折りである。十五日であるかどうかをくどうきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客どももあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井❢」 「はっ‥‥」 「すがすがしい朝よな」  ──カラリと晴れて陽があがった。  /登城は坂下門からである。対馬守は颯爽として言った。 「供揃いさせい」 「整えおきましてござります」 「人数増やしたのではあるまい-な」 「いえ、万が一、いや、いずれに致せ/多いがよろしかろうと存じまして、屈強の者よりすぐり、二十名程増やしましてござります」 「要らぬ。減らせ❢」  言下に斥けると、さらに颯爽として言った。 「首の座に直るには供は要らぬ。シチハチ名で沢山ぞ。タテにヤマムラ、それから道弥、──道弥はおらなんだな。あれがおらばひとりでも沢山であろうのに、いずれにしても半分にせい」  命ぜられた供人達が平伏’しているお駕籠へ/対馬守は紊れた足音もなく進んでいった。しかしその刹那である。  一閃❢。 キラリ、朝陽に短く光りの尾が曳いたかと見るまに、どこからか飛んで来て、プツリ、お駕籠の棒先に突きささったのは手裏剣だった。  ぎょっとなって色めき立ったのを、静かに制して対馬守は見守った。火急に何か知らせねばならぬことでもあるのか”まさしく手裏剣ブミなのである。 「見せい」  押し開いた目に読まれたのは次の一文だった。 「新しき敵現われそうろうあいだ、ご油断召さるまじくそうろう。堀織部正どの恩顧の者どもにそうろう。  殿に筋違いのお恨み-いだき、寄り寄り密謀ちゅうのところを突き止めそうろうあいだ、取り急ぎおしらせつかまつりそうろう」  ふいっと対馬守のオモテには微笑が湧いた。 「誰ぞ蔭ながら予の身辺を護っている者があると見ゆるな」  だが一瞬にその微笑が消えて、怒りの声が地に散った。 「愚か者達めがっ。私怨じゃ。いいや、安藤対馬、堀オリベノカミ恩顧の者どもなぞに恨みをうける覚えはないわっ。人が嗤おうぞ。──行けっ」  痛罵と共に、姿は駕籠に消えた。──堀織部正は先の外国奉行である。フタ月前の去年’十一月八日、疑問の憤死を遂げたために、流布憶説まちまちだった。対馬守の進取的な開港主義が度を越えているとなして憤死したと言う説、外国奉行でありながら実際は攘夷論者であったがゆえに、任を負いかねて屠腹したと言う説:、それらのいろいろの憶説の中にあって、最も広く流布されたものは、品川御殿山’八万坪を無用の地との見地から、対馬守がこれを外国公使館の敷地に当てようとしたところ:、織部正が江戸要害説をコシツして肯んじなかったために、怒って幽閉したのを憤って自刃したと言う憶測だった。もしも堀家恩顧の家臣が恨みを-いだいているとするなら、その幽閉に対する逆恨みに違いないのである。 「馬鹿なっ。大義も通らぬ奸徒達にむざむざこのコウベ渡してなるものかっ。やらねばならぬ者がまだ沢山あろうぞ。ハヨう行けっ」  お駕籠は揺れらしい揺れも見せないで、しずしずと坂下門にさしかかっていった。供揃いはたった十人。一面の洗い砂利を敷きつめたその坂下御門マエに行きついたのは、冬の陽の冷たい朝まだきの五ツ前である。  と見えた刹那──、轟然としてツツオトが耳をつんざいた。一緒に羽ばたきのような足音が殺到したかと思われるや、突然’叫んで言った。 「国賊安藤対馬、斬奸じゃっ。覚悟せい❢」  チャリンと言う刃音が同時に伝わった。  刺客だ❢  シチハチ名らしい剣気である。 「来おったな」  対馬守は、待ちうけていた者に会うような、ゆとりのある態度で、従容と駕籠を降りた。──途端、目についたのは脱兎のごとくに迫って来る若侍の姿だった。それもジュウハチク。  三島──対馬守は咄嗟に思い当った。刃をふりかぶってアッキのごとくに襲撃して来たそのいちにんこそは、まさしく見覚えの堀織部正家臣’三島三郎兵衛である。マをおかずに大喝が飛んでいった。 「うろたえ者めが。退りおろうぞっ。私怨の刃に討たれるコウベ持っていぬわっ。退れっ。退れっ。退りおれっ」  叫んで、さっと身をすさったが、三島が必死の刃は、圧するセイキと共に、対馬守の肩先に襲いかかった。しかしその一刹那である。弾丸のように黒い影が横合いから飛びつけると、間一髪のうちに三島サブロベエの兇刃を払ってのけて、技もあざやか❢ ダッと一閃のまにそこへ斬ってすてた。──頭巾姿の顔も誰か分からぬ救い手である。  黒いその影は、つづいて右に走ると、さらにいちにん見事に刺客を斬ってすてた。そのまにタテがひとり、ヤマムラがいちにん、あとの四人を残りの近侍達が斬りすてて、広場の砂利は凄惨として血の海だった。  対馬守は自若として打ち見守ったままである。その目は、救い手の黒い姿に-そそがれて動かなかった。しかしやがて頷いた。 「道弥よな」  呟いたとき、頭巾を払って救い手が砂利に手をついた。──やはりそれはあの道弥だった。崩れるようにうっ伏すと道弥の声が悦びに躍って言った。 「ご無事で何よりにござります‥‥」  ふいっと対馬守のオモテに微笑が湧いた。だが一瞬である。打って変わった荒々しい声が飛んでいった。 「見苦しい❢。 退れっ。縁なき者の守護’受けとうないわっ。行けっ」 「では、では、これ程までにお詫び致しましても、─:─手裏剣ブミ放って急をお知らせ致しましたのも手前でござりました。蔭ながらと存じましてお護り申し上げましたのに、では、では、どうあっても──」 「知らぬ❢。 行けっ」 「やむをえませぬ❢。 ‥‥」  さっと脇差抜くと、道弥のその手は腹にいった。途端である。対馬守の大喝がさらに下った。 「たわけ者めがっ。言外の情け分らぬか。死んでならぬ者と、死なねばならぬ者がある──」  そうしてふいっと声をおとすと言った。 「ヤヤがテテナシゴになろうぞ。ハヨう行けっ」 「左様でござりましたか❢。 左様でござりましたか❢」  血の匂う砂利の上に道弥の涙が時雨のようにおち散った。  見眺めて対馬守は、ほころびかかった微笑を慌てて殺すと、急いで眼鏡をかけた。  はっと平伏’しながら、並居る侍臣達は、そのとき新しい発見をした。トノの眼鏡は時代の底の流れと、海の外を視る御用にのみ役立つと思っていたのに、人の情けの涙をもおしかくすお役に立つことを初めて知ったのである。  その時ナニ侯か登城した大名があったとみえて、城内遥かの彼方からドドンと高く登城しらせのお城太鼓が鳴り伝わった。 ◇。◇。◇。 【底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社】 【1997(平成9)年2月ハツカ第イッサツ発行】 【底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社】 【1934(昭和9)年発行】 【初出:「改題」】 【1930(昭和5)年発行】 【入力:大野晋】 【校正:noriko saito】 【2004年11月1日作成】 【青空文庫作成ファイル:】 【このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。】