◇。◇。◇。 【最後の大杉】 【内田魯庵】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  大杉とは親友という関係じゃない。が、最後の一《ひ》と月《月’》を同じ番地で暮《暮ら》したのは何かの因縁であろう。大杉が初めて来たのは赤旗事件の監房生活から出獄して間もなくだった。淀橋へ移転《引っ越》してから家が近くなったので頻繁に来た。思想上の話もしたし、社会主義の話もしたが、肝胆相照らしたというわけでもないから多《/多》くは文壇や世間の噂ばなしだった。  大杉は興味がかなり広くて話題にも富んでいた。近年ファーブルのものを頻りに翻訳していたが、この種の文学的乃至学術的興味を早くから持っていて、主義者肌よりはむしろ文人肌であった。小説も好きなら芝居も好き、性的研究などにも興味を持って、性的研究に率先した小倉清三郎の「相対《ソウタイ》」の会などにも毎次出席《毎次’出席》して、能《よ》く「相対《ソウタイ》」の会の噂をした。  百人町《百人チョウ》を移転《引っ越》してから家が遠くなったので自然足《自然’足》が遠のいた。如之《のみ》ならず、神近や野枝《ノエ》さんとの自由恋愛を大杉自身の口から早く聞かされたが、《:、》常から放縦な恋愛を顰蹙する自分は大杉のかなりに打明《打ち明》けた正直な告白に苦虫《/苦虫》を潰さないまでも余り同感しなかったのを気拙く思ったと見えて、家が遠くなると同時に足が遠のいてしまった。日蔭の茶屋の事件があった時、早速見舞《早速’見舞》の手紙を送ると直《/直》ぐ自筆の返事を遣《よこ》したが、事件が落着してもそれぎり会わなかった。それから程経って野枝《ノエ》さんと二人で銀座をブラブラしている処《所》へ偶然邂逅《偶然でっくわ》し、十五分ばかり立|話し《ち話》をした事があったが、それ以来最近《以来’最近》の数年間は《は’》ただ新聞で噂を聞くだけであった。  大杉が仏蘭西《フランス》から追返《追い返》され、神戸へ帰着して出迎えの家族と一緒に一等寝台車で東上した記事が写真入りで新聞を賑わしてから間もなくだった。或《あ》る朝突然大杉《朝’突然”大杉》さんがいらしったと家人が取次いだ。大杉何という人だと訊くと、大杉栄さんで皆さん御一緒《ご一緒》ですといった。近頃何年《近頃’何年》にも顔を見せた事がない大杉が、シカモ家族を伴《連》れて来るというは余り思掛《思いが》けなかったが、左《と》も右《か》く二階へ通せと半信半疑でいうと、《:、》やがてトントン楷段《’梯子》を上って来たのは白地の浴衣の紛れもない大杉であった。数年前の大杉と少しも違わない大杉であった。その踵《あと》から児供《子供》を抱いて大きなお腹の野枝《ノエ》さんと新聞《”新聞》の写真でお馴染の魔子ちゃんがついて来た。  野枝《ノエ》さんとは数年前に銀座で邂逅《出会》った時に大杉が紹介してくれた。が、十分《10分》か十五分《15分》の立話中《立ち話ちゅう》、大杉から遠く離れていたからこの日が初対面同様であった。これが魔子で、これがルイゼで、この外《ほか》に|マダ《まだ》二人、近日お腹を飛出《飛び出》すのも|マダ《まだ》あるといって笑った。以前から見ると面差《面差し》が穏《穏や》かになって、取別《取り分》けて児供《子供》に物をいう時は物柔しく、こうして親子夫婦並んだ処《ところ》は少しも危険人物らしくも革命家らしくもなかった。 「イイお父さんになったネ、」と覚えずいうと、野枝《ノエ》さんと顔を見合わしてアハハハと笑った。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  久しぶりで全家《ウチジュウ》お揃いは珍らしいというと、昨日同番地《昨日’同番地》へ移転《引っ越》して来たといった。ツイそこの酒屋《サ-カ屋》の裏だというから段々訊《段々’訊》くと、近頃まで何とかいう女医が住んでいた家だ。 「あの家《ウチ》は本《も》とはお医者さんで、移転《引っ越》したてに家の塀の角《カド》へ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持って頼みに来た、」というと、「そんなら僕も看板を出さしてもらおうかナ」といった。「アナーキストの看板じゃタウルの半ダースぐらいじゃ引受けられない」といって笑った。  魔子は臆面のない無邪気な子で、来ると早々私《早々’私》の子と一緒に遊び出した。野枝《ノエ》さんの膝に抱かれたぎりのルイゼは|マダ《まだ》あんよの出来ない可愛いい子で、何をいっても合点合点ばかりしていた。アッチもコッチもと《と’》お菓子を慾張って喰《食》べこぼすのを野枝《ノエ》さんが一々拾《いちいち拾》って世話する処《ところ》はやはり世間並のお母さんであった。エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかった。「日本ばかりじゃ騒がし足りないと見えて、仏蘭西《フランス》までも騒がして来たネ。雀百まで躍りやまずで、コンナに多勢《大ぜい》の子持になってもやはり浮気はや《’や》まんと見えるネ」というと、「やはり時代病かも知れない」と大杉は吃りながらいった。 「それでも」と野枝《ノエ》さんは微笑みつつ、「尾行が申しましたよ。児供《子供》が出来てから大変温和《大変’大人》しくなったと。」  大杉が児供《子供》を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩《子煩悩》であるのが点頭《頷》かれた。野枝《ノエ》さんも児供《子供》が産れる度に、児供《子供》が長《大》きくなるごとに青鞜時代の鋭どい機鋒が段々と円《丸》くされたろうと思う。  野枝《ノエ》さんは児供《子供》を伴《連》れて先きへ《へ’》帰ったが、大杉は久しぶりでユックリと腰を落付《落ち付》けた。正午になって迎えが来ても根を生やして、有合の午飯《昼飯》を一緒に済まして三時ごろまでも話し込んだ。仏蘭西《フランス》から帰りたてなので、巴黎《/パリ》で捕縛されて監獄へ投《ほう》り込まれた咄《話》をボツボツ話した。尤《もっと》も纏まった話でなく、断《ちぎ》れ断《ちぎ》れで思想上の立入った問題には触れなかった。路傍演説をして捕縛された咄《話》はしたが、その演説の内容は訊きもしなかったし話しもしなかった。ただ仏蘭西人《フランス人》は一般に案外日本人《案外’日本人》よりも無知で、何しに来たというから社会学を勉強に来たというと、その社会学という言葉の意味の解るものが少《少な》かったという事や、《:、》仏蘭西《フランス》の巡査が人格も知識も日本の巡査よりも低劣で、第一言語《第一’言語》からして野卑で、教養ある仏語《フランス語》が全く通じないという事や、《:、》仏蘭西《フランス》の監獄が不整頓で不潔で、囚人の食事が粗悪で分量が少く、どの点から見ても日本の監獄以下であるという事や、何くれとなく仏蘭西《フランス》を貶《くさ》した話ばかりした。 「ただ仏蘭西《フランス》の監獄で便利なのは差入の自由です。日本同様監獄の前に差入物屋があって、銭《ゼニ》さえ出せばどんなウマイものでも、酒でも煙草でも買う事が出来ます。僕は余り酒を喫《や》らんが、書物は格別持《格別’持》たず、面会に来るものは《は’》ないし、退屈で堪らんから白葡萄酒を買ってゴロゴロしながらチビチビ飲む。三日で一本明《一本’明》けたが、終日陶然《終日’陶然》としてイイ心持《心持ち》でした。銭《ゼニ》さえあれば仏蘭西《フランス》の監獄はさほど苦しくない。当てがいの食物が足りなくても不味くても差入物屋から取りさえすれば相当な贅沢が出来ます。気楽に読書でもしていようてには仏蘭西《フランス》の監獄は贅沢が出来て気が散らんから持って来いですよ。」  そんな話をして半日を何年ぶりで語り過ごした。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  それから|四、五日《シゴニチ》して銭湯で会った。魔子を伴《連》れて洗粉や石鹸や七ツ道具を揃えて流しを取ったこの児煩悩《子煩悩》のお父さんが、《:、》官憲から鬼神のように恐れられてる大危険人物だとは恐らく番台の娘も流しの三助も気が付かなかったろう。が、表へ出て見ると湯屋の角《カド》の交番で飛白《カスリ》の羽織の尾行が張番をしていた。  |ツイ《つい》眼と鼻との間におりながらそれぎり大杉は来もしなかったし、私もお産があったと聞いたが見舞にも喜びにも行かなかった。が、大杉は始終乳母車《始終’乳母車》へ児供《子供》を乗せて近所を運動していたから、能《よ》く表で出会っては十分十五分《10分15フン》の立|話し《ち話》をした。魔子は毎日遊《毎日’遊》びに来たから全家《ウチジュウ》が馴染になり、姿を見せない日は殆んどなかったから、大杉や野枝《ノエ》とは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かった。  九月一日の地震のあと、近所隣りと一つに凝《かた》まって門外で避難していると、大杉はルイゼを抱いて魔子を伴《連》れてやって来た。 「どうだったい。エライ地震だネ。君の家は無事だったかネ?」と訊くと、 「壁が少し落ちたが、大した被害はない。だが、吃驚した。家が潰れるかと思った。」 「下町はヒドかろうナ。安政ほどじゃなかろうが二十七年のよりはタシカに大きい。これで先ず当分は目茶苦茶だ。」 「だが僕は、毎日々々《毎日毎日》セッ付かれて困ってたんだから、地震のお庇《かげ》で催促の手が少しは緩むだろうと地震に感謝している、」と軽く笑った。何でも大杉は改造社とアルスから近刊する著書の校正や書足《書き足》しの原稿に忙殺されていたのだそうだ。  かれこれ小一時間も自分たちと一緒に避難していたろう。余震の絶間なく揺る最中で、新宿から火事が出たとか、帝劇が今燃えてるとかいう警報が頻りであったので、近所隣りの人々がソワソワして往ったり来たりしていた。  そこへ安成二郎がコダックを下げて来て、|イイ《いい》獲物もがなとソコラココラの避難の集まりを物色していた。 「ドウだい、」と私は安成に向《向か》っていった。「大杉に何処かソコラの木の下に立ってもらってアナーキストの避難は面白かろう。」  大杉は笑っていた。安成がこの写真を撮ったら好い記念だったろうに、惜しい事をした。(後に聞くと、それから大杉の自宅へ行って大杉夫妻を庭前《庭先》で撮したのだが、名人だから光線が入ったのだそうだ。)  その晩は恐怖に明けて翌《あく》る朝、近所の川本の原に大勢避難《大ぜい避難》していると聞いて容子《様子》を見に行った戻りに大杉の家を尋ねると、|マダ《まだ》寝ていたが私の声を聞くと起きて来た。 「能《よ》く家の中に寝たネ、」というと、 「大抵大丈夫《たいてい大丈夫》だろうと度胸をきめて家の中で寝た。尤《もっと》も、」と塀の外を指して、《:、》「彼処へ避難所を拵《こさ》いて置いて、率《い》ざといえば直ぐ逃げ出す用意はしていた。アナーキストでも地震の威力には協《かな》わない、」と笑った。  九月の上半《ジョウハン》は恐怖時代だった。流言蜚語は間断なく飛んで物情恟々、何をするにも落付《落ち付》かれないで仕事が手に付かなかった。大杉も引籠って落付《落ち付》いて仕事をしていられないと見えて、日《ヒ》に何度となく乳母車を押しては近所を運動していたから、表へ出るとは番毎《バンコ》に邂逅《出会》った。遠州縞の湯上《湯上が》りの尻絡げで、プロの生活には不似合いな金紋黒塗の乳母車を押して行く容子《様子》は抱《/抱》えの車夫か門番が主人の赤ちゃんのお守をしているとしか見えなかった。地震の当座、《/、》私の家の裏木戸は大抵明《大抵’明》け放しになっていたので、能《よ》く裏木戸からヒョッコリ児供《子供》を抱いてノッソリ入って来ては縁端《/縁端》へ腰を掛けて話し込んだ。  日は忘れたが或《あ》る晩、夜警の提灯を持って家の角《カド》に立ってると、買物帰りらしい野枝《ノエ》さんが通り掛《かか》って声を掛けた。左の手には大きな部厚の洋書を二冊抱え、右には新聞と小さな風呂敷包を下げていた。 「報知の夕刊を御覧なすって?」 「否《イイ》エ。」その頃は|マダ《まだ》新聞が配達されなかった。 「鎌倉は大変ですワ。八幡さまが潰れて大仏さまが何寸とか前へ揺り出しましたって。御覧なさいまし、」と手に持つ新聞を見せた。  提灯の照明《明かり》ではハッキリ解らなかったが、ちょっと覗いて直ぐ返すと、 「お宅へ持ってらしって御覧なさいまし、」と頻りにいったが、野枝《ノエ》さんも今買《今’買》って来たばかりで|マダ《まだ》読まないらしいので無理に押返《押し返》した。 「夜警は大変ですワネ。家から椅子を持って参りましょうか。イクラもありますから。」 「イエ、家にも持ってくればあるんですが、面倒だもんですから。」 「そうですか。でもお草臥れでしょうネ。大杉も御近所同士《ご近所同士》で家の角《カド》へ夜警に毎晩出《毎晩’出》ておりますワ。町内のお附合いですもの、」と野枝《ノエ》さんはい《言》った。  能《よ》く大杉は夜警に出ると思ったが、実際毎晩《実際’毎晩》ステッキを持って、自宅の曲り角へ夜警に出ていたのを見た。 ◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。  鮮人襲来の流言蜚語が八方に飛ぶと共に、鮮人の背後に社会主義者があるという声がイツとなく高くなって、鮮人狩が主義者狩となり、主義者の身辺が段々危《段々’危》うくなった。この騒ぎを余所に大杉は相変らず従容として児供《/子供》の乳母車を推して運動していた。 「用心しなけりゃイカンぜ」と或時邂逅《あるとき出会》った時にいうと、 「用心したって仕方がない。捕まる時は捕まる」と笑っていた。後に聞くと、大杉に注意したものは何人もあったが、事実この頃の大杉は社会運動からは全く離れて子守ばかりしていたから、危険が身に迫ってるとは夢にも思ってないらしかった。  或《あ》る夕方、夜警に出ていると、警官が|四、五人足早《シゴニ-ン足早》に通り過ぎながら、今二人伴《今’二人つ》れて来るから殴《ぶ》っちゃ|ア不可《あいか》んぞと呼ばわった。その頃の自警団は気が立っていて、警吏が検挙して来たものにさえ暴行を加えて憚らなかったからだ。  誰か挙げられるナ、主義者だろうと、誰いうとなく予覚して胸を躍らしていると、やがて|七、八人《シチ八人》の警吏が各々弓張《めいめい弓張》を照らしつつ中背《”中背》の浴衣掛けの尻端折の男と、《:、》浴衣に引掛《引っ掛》け帯の女の前後左右を囲んで行く跡から|四、五十人《/シゴ十人》の自警団が各々提灯《めいめい提灯》を持ってゾロゾロ従《つ》いて行った。  提灯の薄明りで夜目にはシカと解らなかったが、背恰好が何となく似ていたので、「大杉じゃないか知らん、」と、ハッと思って急に不安になったので、大杉の家へ曲る角《カド》の夜警の集まりへ行った。そこにはいつでも警吏がいた。 「今のは鮮人ですか?」と訊くと、「鮮人じゃない、」と誰かが答えた。 「ドコで挙げられたんですか、」と重ねて訊くと、「直ぐソコの自宅で挙げられたんだ」と同じ人が答えた。 「大杉じゃないですか、」と思切《思い切》って明らさまに訊くと、 「イヤ、大杉じゃない。大杉は家にいる、」と警察官らしいのが答えた。  それで|ヤッ《やっ》と安心したが、|マダ《まだ》何となく不安で、家へ帰って床《トコ》に就いてからも警吏《/警吏》と自警団に護送されて行く男女の後姿が眼にチラクラした。(後に聞くと、この男女は直ぐ近所の近頃検挙《近頃’検挙》された或《あ》る社会主義者の家の留守番をしている某雑誌記者で、女は偶然居合《偶然’居合》わした主義にも何《-なん》にも関係のないものだそうだ。この男は沖縄人で相貌が内地人らしくないので疾うから覘《狙》われていたのだそうだと、当人が後《あと》に来ての話である。)  その頃から大杉に対する界隈の物騒な噂が度々耳《たびたび耳》に入った。大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、大杉は毎晩子分《毎晩’子分》を|十五、六人《ジュウゴ六人》も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心が出来ないからヤッつけてやれ」とか、《:、》或《あ》る近所の自警団では大杉を目茶苦茶に殴ってやれという密々の相談があるとか、嘘か実《マコト》か知らぬがそ《/そ》ういう不穏の沙汰を度々耳《たびたび耳》にした。随分相当分別《随分’相当’分別》のある人までがそういう虚聞を信じて、私と大杉とが交際あるのを知らないで、「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩多勢集《毎晩大ぜい集ま》って隠謀を企らんでるそうです、」と告げたものもあった。同じ近所の或《あ》る口利きの男は、これも大杉と私と友人関係であるのを知らないで、《:、》「柏木には危険人物がある、大杉一味の主義者を往来へ列べて置いて、片端《片っ端》からピストルでストンストン打ったら小気味《コキミ》が宜かろう」とパルチザン然《ゼン》たる気焔を吐いてイイ気持《気持ち》になってるものもあった。  こういう危険な空気が一部に醸されてるのを知ってるのか知らないのか、大杉は一向平気《一向’平気》で相変らず毎日乳母車《毎日’乳母車》を押していた。近所に住む大杉の或《あ》る友達がそれとなく警戒したが、迫害に馴れてる大杉は平気な顔をして笑っていたそうだ。ただ笑ってるばかりならイイが、「俺を捕まえようてには一師団の兵が要る」|ナドト《などと》大言していた。大杉にはこういう児供《子供》げた見得を切って空言を吐く癖があったので、この見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなった。 ◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。  九月の十六日の朝九時頃《朝’九時頃》、大杉は野枝《ノエ》さんと二人連れで、二人とも洋装で出掛けるのを家人は裏庭の垣根越しにチラと見た。直ぐ近くの聖書学院の西洋人だろうと思ってると、丁度遊《丁度’遊》びに来ていた魔子も後影を見ると周章てて垣根の外へ飛び出したが、すぐ戻って来て、「家《うち》のパパとママよ」といった。  その日の午後魔子《午後’魔子》は来て「パパとママは鶴見の叔父さん許《とこ》へ行ったの。今夜は《は’》お泊りかも知れないのよ」といった。  それぎり大杉は姿を見せなかった。が、自分もその頃余《ころ余》り表へ出なかったから大杉を見掛けないでも格別気《格別’気》にも留めなかった。  |二、三日経《ニサンニチ経》つと大杉が検挙されたという風説が立った。その前にも地方から来た或《あ》る男が、大杉は拘留されて留置檻《留置カン》へ入れられたまま火事で焼死んだそうだネというから、《:、》大杉は直ぐこの近所にいて、毎日乳母車《毎日’乳母車》を押して運動しているといって無根の風説を笑った事があるので、復《ま》た例の風説かと一笑に附していた。  するとその翌《あく》る晩、十一時過《十一時’過》ぎに安成が来て、「大杉が行方不明となりました、」と痛《ひど》く昂奮して、「十六日鶴見《十六日’鶴見》へ行ったぎりで帰って来ません。家《うち》でも心配して八方捜しているがサッパリ踪跡《行方》が解《分か》りません。検挙されたなら検挙されたでドコかの警察にいそうなもんですが、ドコの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと秘《隠》す事は絶対にないので、全く警察にはいないようです、」と満面不安《満面’不安》の色を湛えて昂奮して話した。  血腥い噂がそこら中に広がってる時である。女のような美術家が袋叩きにされて半死半生になったという噂も聞いている。温厚玉のような君子《クンシ》が歴とした官職の肩書附きの名刺を示しても聞かれないで警察へ拘留されたという話も聞いている。ましてや大杉のような官憲からも睨まれ民衆の一部からも呪われてる人間は何時《いつ》どんな処《ところ》で奇禍を買わないとも限らんから、行方不明になったと聞くと不安に堪えられなかった。  安成《/安成》は、その日あたかも戒厳軍司令官を初め|二、三《ニサン》の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたという明日発表《/明日’発表》される軍憲の移動を話して、《:、》こういう重職の交迭は決して尋常事《只事》ではない。よほどの重大な原因がなければならない。当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関連するというが、その突発事故というのは何だか、|マダ《まだ》発表を許されないと堅く緘黙している。が、ウッカリ当局者が滑らした口吻《口ぶり》に由ると不法殺人であって、殺されたものは支那人や朝鮮人でないのは明言するというのだ。 「どうもそれが大杉らしいのです、」と安成は痛く昂奮していた。  ヨモヤとは思うが、大杉は野枝《ノエ》と一緒に鶴見の弟の家から季《末》の妹の子を伴《連》れて、弟に送られて川崎まで帰って来たのはタシカで、それから先きが行方不明なのだそうだ。マサカに足弱を連れて交通の不便なこの際に野越《/野こ》え山越《山こ》え行方を晦ましたとは思われない。ドコかに拘留されてるに違いないが、ドコの警察にもいないとすれば陸軍より外《ほか》にはない。が、陸軍では知らないという。が、支那人でも朝鮮人でもないものを殺した不法殺人で戒厳軍司令官初め|二、三《ニサン》の重職が解職され、《:、》|一、二《イチニ》の軍憲が司法へ廻されたというこの日の突発事件はヨ《/ヨ》モヤとは思うがドウも大杉と関連しているらしいというのが安成の憶測であった。  が、その翌る日も、そのまた翌る日も魔子は相変らず遊びに来た。児供《子供》の事で周囲の不安には一向感《一向’感》じないらしく、毎日来《毎日’来》ては家の児供《子供》と一緒に歌を歌ったりダンスをしたりして無邪気に遊んでいた。大杉の家も|ヤヤ人出入《やや人出入り》が繁く取込んでるらしく想像されたが、安成もそれぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れていると、《:、》或時魔子《あるとき魔子》がイツモの通り遊びに来ていると家から迎えが来て帰った。暫らくすると復《ま》た来て、新聞社の人が来て写真を撮ったのよといった。新聞社が児供《子供》の写真を撮りに来たというは尋常ではないので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫って来たような感じがした。  その翌日である、大杉の非業の最期が公表されたのは。恐ろしい予感が刻々迫って来て、こういう悲惨を聞く日があるのを予期しない事はなかったが、その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何《/何》ともいい知れない悸《慄》きが身体中《体じゅう》を走るような心地がした。殊に軍憲から発表された大杉外二名《大杉ほか2名》の一人が|マダ《まだ》可憐な小児《子供》であると思うと、三族を誅する時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。  朝の食卓は大杉夫婦を知る家族の沈痛な沈黙の中《うち》に終《終わ》った。今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんの咄《話》をしてはイケナイよ、」と小さい児供《子供》を戒めた。何《ナン》にも解らない小さい児供《子供》たちも何事か恐ろしい事があったのだという顔をして、黙って点頭《頷》いていた。  暫らくすると魔子は果《果た》して平生《いつも》の通り裏口から入って来た。家人を見ると直ぐ「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお祖父《爺》さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの、」といった。お祖父《爺》さんというのは東京より地方へ先きに広がった大杉の変事を遠《/遠》い郷里の九州で聞いて倉皇上京《倉皇’上京》した野枝《ノエ》さんの伯父さんである。  茶の間へ来て魔子は私の妻を見て復《ま》た繰返《繰り返》した。「伯母さん、パ《/パ》パもママも殺されちゃったの。今日新聞《今日’新聞》に出ていましょう。」  私は児供《子供》たちに「魔子ちゃんのお父さんの咄《話》をしてはイケナイよ、」と固く封じて不便《/不憫》な魔子の小さな心を少しでも傷めまいとしたが、怜悧な魔子は何も彼《か》も承知していた。が、物の弁えも十分《充分》でない七歳の子である。父や母の悲惨な運命を知りつつもイツモの通り無邪気に遊んでいた。同い年の私の児供《子供》は魔子を不便《不憫》がったと見えて、大切《大事》にしていた姉様や千代紙《チヨガミ》を残らず魔子に与《や》ってしまった。 ◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。  その日は大杉の遺骸が帰るというので、留守番だけの大杉の家へ二度《/二度》も三度も容子《様子》を聴きに行った。この晩は大杉に親しいものだけが遺骸の前で通夜するという予定だったので、午後からは待受《待ち受》けしてボツボツ集まるものがあった。自働車《自動車》の音の響く度毎《たんび》に耳を傾けたが、イツまで待っても帰って来なかった。その中《うち》に遺骸は直ちに自宅へ引取《引き取》るはずだったが、余り腐爛しているので余儀なく直ちに火葬場へ送棺したと知らせて来た。  その夕方、遺骸を引取《引き取》って火葬場まで送った近親同志が帰って来た。待受《待ち受》けた我々は官憲の口から語られたという大杉の殺害された顛末や、引渡《引き渡》された遺骸が腐爛して臭気が鼻を衝いて近寄る事さえ出来なかったという咄《話》を聞いた。大杉の思想の共鳴者でなくともその悲惨な運命には同情せずには《は’》いられなかった。  その翌々日の朝、大杉外二名《大杉ほか2名》の遺骨は小さな箱へ入れられて自宅に迎えられた。大杉は無宗教であったが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供えた。その晩は近親と同志とホンの少数の友人だけが祭壇の前に団居して、生前を追懐しつつ香《コウ》を手向けて形ばかりの告別式を営んだ。門前及び附近《付近》の要所々々は物々しく警官が見張って出入《出入り》するものに一々眼《いちいち眼》を光らした。折悪しく震災後の交通が|マダ《まだ》常態に復さないので、電車の通ずる宵の中《うち》に散会したが、罪の道伴《道連》れとなった不運の宗一の可憐な写真や薄命《/薄命》の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見ては誰《/誰》しも涙ぐまずには《は’》いられなかった。大杉の一生を花やかにした野枝《ノエ》さんとの恋愛の犠牲となった先妻の堀保子も、イヤで別れたのでない大杉に最後の訣別《別れ》を告げに来て慎《/慎》ましやかに控えていたが、恋と生活とに痩《やつ》れた姿は淋しかった。(大杉と別れた後《あと》の堀保子は大杉《”大杉》は必ず再び自分の懐ろに戻ってくるものと固く確信して孤独《/孤独》の清い生涯を守っていたが、《:、》大杉が果敢《’はか》なくなった後《あと》はその希望も絶えて、同棲時代からの宿痾が俄に重《重な》って、去年の春終《春/つい》に大杉の跡を追って易簀した。大杉の生涯は革命家の生血《なま血’》の滴《した》たる戦闘であったが、同時に二人の女に縺れ合う恋の三つ巴の一代記でもあった。)  告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかった。遺子を中心として野枝《ノエ》さんの伯父さん老夫妻と大杉の実弟と、大杉の異体同心たる数四《スウシ》の同志に守られていた。刑事の眼は門前に光って看慣《見慣》れぬものは一々誰何《いちいち誰何》したから、誰もイイ気持《気持ち》がしないで尋ねるものが余りなかった。いよいよ明日は一《ひ》と先《ま》ず郷里へ引上げるというその前夜、長い汽車の旅の児供《子供》の眠気ざましにもと些かの餞けを持って私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、何《なん》の用事かと訊問された。  十月二日だった。五人の遺子は野枝《ノエ》の伯父さん老夫婦に伴われてこの恨《恨み》の多い父の家を跡に郷里へと旅立った。親しい友や同志に送られて行ったが、魔子は先きへ立って元気よく「さよなら、さよなら❢《❢。》」といって駈けて行った。パパもママも煙のように消えてしまった悲みをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかった。 ◇。◇。◇。 (大正十二年九月記《大正十二年九月記す》 ○《◇》大正十三年十月補筆 ○《◇》改造社出版『大正大震火災誌《大正ダイ震火災誌》』中所掲《チュウ所掲》「甘粕対大杉事件」参照) ◇。◇。◇。 【追記】 ◇。◇。◇。  大杉が警察のスパイであって主義者《/主義者》の秘密を供給していたので、大杉殺害《大杉’殺害》が警察と陸軍との反目になったという噂が当時或《当時あ》る一部に広がった。近頃また警視庁の特高課とスパイの関係が暴露されて問題となったについて、警視庁のスパイには往々意外《往々’意外》の人があるという話から大杉《/大杉》もまたスパイであったように臭わした或人《ある人》の談話が某紙《ボウ紙》に載っておる。  一体噂《一体’噂》ぐらい|アテ《当て》にならぬものは《は’》ないので、大抵な噂の出処《出どころ》が出鱈目である。出鱈目でないはずの当事者や関係者の話からして|アテ《当て》にならぬのが多い。大杉が果してスパイであった乎否乎《か否か》の謎は大杉自身が鍵を握ってるので、余人《ヨジン》の推測は余り|アテ《当て》にならないが、《:、》大杉がもし果《果た》して真にスパイであったなら問題《/問題》の何とかいう男のように月給何百円も貰って自働車《自動車》で出入《出入り》しないまでも最《/も》う少し貧乏しないでも済んだろう。貧乏してまでも同志を欺く苦肉の謀《ハカリゴト》をしてお《/お》上の御用《ご用》を勤めていたというなら、それこそ楠正成ほどでなくとも赤穂《/赤穂》の義士ぐらいに値踏み出来る国家の功労者である。沖や横川《ヨコカワ》と一緒に招魂社に祀られてもイイわけだ。  大杉は時偶金《時偶かね》が手に入るとむ《/む》やみと自働車《自動車》を飛ばしたりして不相当な贅沢をするので同志者《/同志者》の反感を買った。この贅沢の資本がもしスパイの報酬として請取った金《-かね》なら公々然《/コウ公然》と同志の前で札びらを切る事は豈夫出来《よも出来》なかったろう。大杉は一時は米塩にも事欠いた苦境に苦《苦し》んでいた事もあったが、最後の柏木に落付《落ち付》いた時は八十円の家賃を払い、奉公人も置き、夫婦から児供《子供》までが洋装でかなり贅沢な生活をしていた。が、これがもしスパイの余得であったなら同志を欺くためにもこういう不当所得の看《見》え透かされるような真似は決して做《し》なかったろう。  大杉が誰の口入《クニュウ》であったかま《”ま》たどういう名目であったか知らぬが後藤子爵《/後藤子爵》から若干金《若干かね》(タシカ三百円だと思った)を貰ったのは大杉自身から聞いている。私に話したくらいだから公々然《コウ公然》と誰に話しても差支《差支え》ない金《-かね》であったのだろう。また大杉が警視庁に頼まれて仏訳の法華経の賃訳《賃ヤク》をした咄《話》もやはり大杉から聞いた。一体仏典《一体’仏典》を欧洲語から邦訳するというも逆な話であるし、第一警視庁《第一’警視庁》が何の必要があって法華経を訳させたのか、頗る変梃な話であるが、《:、》これは大杉を窮地に陥れて自暴自棄させないための生活の便宜を与える高等政策であったろう。後藤子爵が何らかの名目で金《-かね》を与えたのもやはり同じ意味で、大杉を手馴《手な》ずけて犬とする|ツモリ《つもり》でもなかったろうし、《:、》また高《たか》が三百円《三百円’》かそこらの僅かばかりの目腐れ金に尻尾を振る大杉でもなかった。(危険人物の激発を緩和する手段としてのこの種の高等政策は一向珍《一向’珍》らしくないので、幸徳秋水も長い肺患の療養費を或《あ》る筋から給せられていたはずである。)  大杉の巴黎《パリ》へ行った洋行費が問題となった。後藤子爵から或《あ》る中間者を通じて与えられたという説があるが、大杉が子爵から何百円かを貰ったのはモウ十|四、五年《シゴ年》も前で、二者の関係が今まで長く継続していた乎否乎《か否か》は疑問である。大杉が柏木へ移転《引っ越》して来て久しぶりで会った時、私が第一に訊いたのはまたこの洋行費の出処《出どころ》であった。「本屋へ出鱈目のウソをついて七処借《ナナトコガリ》をしたのサ、」と大杉はい《言》った。大杉の本が売れるにしたところで二軒《2軒》や三軒《3軒》の本屋で欧羅巴《ヨーロッパ》へ出掛ける旅費が調達出来るかとその時は疑ったが、《:、》死後に大杉が本屋に残した負債が一万円以上ある事を聞いて打明|け咄《話》のまるきりウソでなかった事が解った。大杉がいよいよ帰朝するからと送金を打電した時に野枝《/ノエ》が調達に奔走して七処借《ナナトコガリ》をして漸《やっ》とこさと工面したという咄《話》は大杉《”大杉》の帰朝前に聞いている。それ以外に領事館からも汽船賃その他《タ》を立換《立て換》えてもらったそうだ。神戸へ帰着してから出迎えの野枝《ノエ》や児供《子供》と共に一等寝台車で東京へ帰った汽車賃は大杉《”大杉》の自由行動を防止して同志から遮断する必要上官憲《必要じょう/官憲》が支弁したのである。前後の事情から考えて見てもこの疑問の渡欧費は全部が本屋から調達したのでなくとも、後暗《後ろ暗》い金《-かね》の出場《デバ》が別にあったとは思われない。  歴史上の事実には、今だに真相が解らなくて黒白のハッキリしない人物が少くない。大杉が果してスパイであった乎否乎《か否か》は|マダ《まだ》謎であるが、大杉の人物性行や日常生活から推してス《/ス》パイであったとはドウしても考えられない。大杉は直情径行でスパイの勤まる柄ではない。もしその一本気な肝癪や傍若無人な傲岸が世間《/世間》や同志を欺くの仮面であるなら、それは芝居が余り巧み過ぎる。ワザワザ旅費を遣って仏蘭西《フランス》まで行って、仏蘭西《フランス》の監獄に入《-い》れられて仏蘭西人《フランス人》までを欺く必要もなかったろう。  芝居乎何乎《芝居かどうか》は知らぬが大杉《”大杉》はアナーキストとして死んだ。百年稀に見る自然の大破壊を背景として大陸軍《”大陸軍》を背後に控える一軍憲の手でア《/ア》ナーキストに相応しい最後の幕を閉じた。欧洲戦の開幕の血祭となったジョーレスの運命はあ《/あ》たかもこれに等しいもので、殺害当時大杉《殺害当時’大杉》はしばしばジョーレスと比較されたが、《、/》ジョーレスの遺骸は今やパンテオンに祀られようと騒がれておるそうだ。骨となってまでも宙宇にさまよった大杉は永久に浮ぶ瀬はあるまいが、鼠色でも鳶色でも歴史上の大立物となったのは切《せ》めてもの満足であろう。 (大正十三年十月追記) ◇。◇。◇。 【底本:「新編◇ 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店】 【1994(平成6)年2月16日第1刷発行】 【2008(平成20)年7月10日第3刷発行《サツ発行》】 【底本の親本:「思ひ《い》出す人々」春秋社】 【1925(大正14)年6月初版発行】 【初出:「読売新聞」】 【1923(大正12)年10月2日~6日、8日】 【※《◇》初出時の表題は「此頃《この頃》の大杉の思い出」です。】 【入力:川山隆《川山’隆》】 【校正:門田裕志】 【2014年7月16日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。