◇。◇。◇。 【最後の大杉】 【内田魯庵】 ◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。  大杉とは親友という関係じゃない。が、最後のひと月’を同じ番地で暮らしたのは何かの因縁であろう。大杉が初めて来たのは赤旗事件の監房生活から出獄して間もなくだった。淀橋へ引っ越してから家が近くなったので頻繁に来た。思想上の話もしたし、社会主義の話もしたが、肝胆相照らしたというわけでもないから/多くは文壇や世間の噂ばなしだった。  大杉は興味がかなり広くて話題にも富んでいた。近年ファーブルのものを頻りに翻訳していたが、この種の文学的乃至学術的興味を早くから持っていて、主義者肌よりはむしろ文人肌であった。小説も好きなら芝居も好き、性的研究などにも興味を持って、性的研究に率先した小倉清三郎の「ソウタイ」の会などにも毎次’出席して、よく「ソウタイ」の会の噂をした。  百人チョウを引っ越してから家が遠くなったので自然’足が遠のいた。のみならず、神近やノエさんとの自由恋愛を大杉自身の口から早く聞かされたが:、常から放縦な恋愛を顰蹙する自分は大杉のかなりに打ち明けた正直な告白に/苦虫を潰さないまでも余り同感しなかったのを気拙く思ったと見えて、家が遠くなると同時に足が遠のいてしまった。日蔭の茶屋の事件があった時、早速’見舞の手紙を送ると/直ぐ自筆の返事をよこしたが、事件が落着してもそれぎり会わなかった。それから程経ってノエさんと二人で銀座をブラブラしている所へ偶然でっくわし、十五分ばかり立ち話をした事があったが、それ以来’最近の数年間は’ただ新聞で噂を聞くだけであった。  大杉がフランスから追い返され、神戸へ帰着して出迎えの家族と一緒に一等寝台車で東上した記事が写真入りで新聞を賑わしてから間もなくだった。ある朝’突然”大杉さんがいらしったと家人が取次いだ。大杉何という人だと訊くと、大杉栄さんで皆さんご一緒ですといった。近頃’何年にも顔を見せた事がない大杉が、シカモ家族を連れて来るというは余り思いがけなかったが、ともかく二階へ通せと半信半疑でいうと:、やがてトントン’梯子を上って来たのは白地の浴衣の紛れもない大杉であった。数年前の大杉と少しも違わない大杉であった。そのあとから子供を抱いて大きなお腹のノエさんと”新聞の写真でお馴染の魔子ちゃんがついて来た。  ノエさんとは数年前に銀座で出会った時に大杉が紹介してくれた。が、10分か15分の立ち話ちゅう、大杉から遠く離れていたからこの日が初対面同様であった。これが魔子で、これがルイゼで、このほかにまだ二人、近日お腹を飛び出すのもまだあるといって笑った。以前から見ると面差しが穏やかになって、取り分けて子供に物をいう時は物柔しく、こうして親子夫婦並んだところは少しも危険人物らしくも革命家らしくもなかった。 「イイお父さんになったネ、」と覚えずいうと、ノエさんと顔を見合わしてアハハハと笑った。 ◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。  久しぶりでウチジュウお揃いは珍らしいというと、昨日’同番地へ引っ越して来たといった。ツイそこのサ-カ屋の裏だというから段々’訊くと、近頃まで何とかいう女医が住んでいた家だ。 「あのウチはもとはお医者さんで、引っ越したてに家の塀のカドへ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持って頼みに来た、」というと、「そんなら僕も看板を出さしてもらおうかナ」といった。「アナーキストの看板じゃタウルの半ダースぐらいじゃ引受けられない」といって笑った。  魔子は臆面のない無邪気な子で、来ると早々’私の子と一緒に遊び出した。ノエさんの膝に抱かれたぎりのルイゼはまだあんよの出来ない可愛いい子で、何をいっても合点合点ばかりしていた。アッチもコッチもと’お菓子を慾張って食べこぼすのをノエさんがいちいち拾って世話するところはやはり世間並のお母さんであった。エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかった。「日本ばかりじゃ騒がし足りないと見えて、フランスまでも騒がして来たネ。雀百まで躍りやまずで、コンナに大ぜいの子持になってもやはり浮気は’やまんと見えるネ」というと、「やはり時代病かも知れない」と大杉は吃りながらいった。 「それでも」とノエさんは微笑みつつ、「尾行が申しましたよ。子供が出来てから大変’大人しくなったと。」  大杉が子供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも子煩悩であるのが頷かれた。ノエさんも子供が産れる度に、子供が大きくなるごとに青鞜時代の鋭どい機鋒が段々と丸くされたろうと思う。  ノエさんは子供を連れて先きへ’帰ったが、大杉は久しぶりでユックリと腰を落ち付けた。正午になって迎えが来ても根を生やして、有合の昼飯を一緒に済まして三時ごろまでも話し込んだ。フランスから帰りたてなので、/パリで捕縛されて監獄へほうり込まれた話をボツボツ話した。もっとも纏まった話でなく、ちぎれちぎれで思想上の立入った問題には触れなかった。路傍演説をして捕縛された話はしたが、その演説の内容は訊きもしなかったし話しもしなかった。ただフランス人は一般に案外’日本人よりも無知で、何しに来たというから社会学を勉強に来たというと、その社会学という言葉の意味の解るものが少なかったという事や:、フランスの巡査が人格も知識も日本の巡査よりも低劣で、第一’言語からして野卑で、教養あるフランス語が全く通じないという事や:、フランスの監獄が不整頓で不潔で、囚人の食事が粗悪で分量が少く、どの点から見ても日本の監獄以下であるという事や、何くれとなくフランスをくさした話ばかりした。 「ただフランスの監獄で便利なのは差入の自由です。日本同様監獄の前に差入物屋があって、ゼニさえ出せばどんなウマイものでも、酒でも煙草でも買う事が出来ます。僕は余り酒をやらんが、書物は格別’持たず、面会に来るものは’ないし、退屈で堪らんから白葡萄酒を買ってゴロゴロしながらチビチビ飲む。三日で一本’明けたが、終日’陶然としてイイ心持ちでした。ゼニさえあればフランスの監獄はさほど苦しくない。当てがいの食物が足りなくても不味くても差入物屋から取りさえすれば相当な贅沢が出来ます。気楽に読書でもしていようてにはフランスの監獄は贅沢が出来て気が散らんから持って来いですよ。」  そんな話をして半日を何年ぶりで語り過ごした。 ◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。  それからシゴニチして銭湯で会った。魔子を連れて洗粉や石鹸や七ツ道具を揃えて流しを取ったこの子煩悩のお父さんが:、官憲から鬼神のように恐れられてる大危険人物だとは恐らく番台の娘も流しの三助も気が付かなかったろう。が、表へ出て見ると湯屋のカドの交番でカスリの羽織の尾行が張番をしていた。  つい眼と鼻との間におりながらそれぎり大杉は来もしなかったし、私もお産があったと聞いたが見舞にも喜びにも行かなかった。が、大杉は始終’乳母車へ子供を乗せて近所を運動していたから、よく表で出会っては10分15フンの立ち話をした。魔子は毎日’遊びに来たからウチジュウが馴染になり、姿を見せない日は殆んどなかったから、大杉やノエとは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かった。  九月一日の地震のあと、近所隣りと一つにかたまって門外で避難していると、大杉はルイゼを抱いて魔子を連れてやって来た。 「どうだったい。エライ地震だネ。君の家は無事だったかネ?」と訊くと、 「壁が少し落ちたが、大した被害はない。だが、吃驚した。家が潰れるかと思った。」 「下町はヒドかろうナ。安政ほどじゃなかろうが二十七年のよりはタシカに大きい。これで先ず当分は目茶苦茶だ。」 「だが僕は、毎日毎日セッ付かれて困ってたんだから、地震のおかげで催促の手が少しは緩むだろうと地震に感謝している、」と軽く笑った。何でも大杉は改造社とアルスから近刊する著書の校正や書き足しの原稿に忙殺されていたのだそうだ。  かれこれ小一時間も自分たちと一緒に避難していたろう。余震の絶間なく揺る最中で、新宿から火事が出たとか、帝劇が今燃えてるとかいう警報が頻りであったので、近所隣りの人々がソワソワして往ったり来たりしていた。  そこへ安成二郎がコダックを下げて来て、いい獲物もがなとソコラココラの避難の集まりを物色していた。 「ドウだい、」と私は安成に向かっていった。「大杉に何処かソコラの木の下に立ってもらってアナーキストの避難は面白かろう。」  大杉は笑っていた。安成がこの写真を撮ったら好い記念だったろうに、惜しい事をした。(後に聞くと、それから大杉の自宅へ行って大杉夫妻を庭先で撮したのだが、名人だから光線が入ったのだそうだ。)  その晩は恐怖に明けてあくる朝、近所の川本の原に大ぜい避難していると聞いて様子を見に行った戻りに大杉の家を尋ねると、まだ寝ていたが私の声を聞くと起きて来た。 「よく家の中に寝たネ、」というと、 「たいてい大丈夫だろうと度胸をきめて家の中で寝た。もっとも、」と塀の外を指して:、「彼処へ避難所をこさいて置いて、いざといえば直ぐ逃げ出す用意はしていた。アナーキストでも地震の威力にはかなわない、」と笑った。  九月のジョウハンは恐怖時代だった。流言蜚語は間断なく飛んで物情恟々、何をするにも落ち付かれないで仕事が手に付かなかった。大杉も引籠って落ち付いて仕事をしていられないと見えて、ヒに何度となく乳母車を押しては近所を運動していたから、表へ出るとはバンコに出会った。遠州縞の湯上がりの尻絡げで、プロの生活には不似合いな金紋黒塗の乳母車を押して行く様子は/抱えの車夫か門番が主人の赤ちゃんのお守をしているとしか見えなかった。地震の当座/、私の家の裏木戸は大抵’明け放しになっていたので、よく裏木戸からヒョッコリ子供を抱いてノッソリ入って来ては/縁端へ腰を掛けて話し込んだ。  日は忘れたがある晩、夜警の提灯を持って家のカドに立ってると、買物帰りらしいノエさんが通りかかって声を掛けた。左の手には大きな部厚の洋書を二冊抱え、右には新聞と小さな風呂敷包を下げていた。 「報知の夕刊を御覧なすって?」 「イイエ。」その頃はまだ新聞が配達されなかった。 「鎌倉は大変ですワ。八幡さまが潰れて大仏さまが何寸とか前へ揺り出しましたって。御覧なさいまし、」と手に持つ新聞を見せた。  提灯の明かりではハッキリ解らなかったが、ちょっと覗いて直ぐ返すと、 「お宅へ持ってらしって御覧なさいまし、」と頻りにいったが、ノエさんも今’買って来たばかりでまだ読まないらしいので無理に押し返した。 「夜警は大変ですワネ。家から椅子を持って参りましょうか。イクラもありますから。」 「イエ、家にも持ってくればあるんですが、面倒だもんですから。」 「そうですか。でもお草臥れでしょうネ。大杉もご近所同士で家のカドへ夜警に毎晩’出ておりますワ。町内のお附合いですもの、」とノエさんは言った。  よく大杉は夜警に出ると思ったが、実際’毎晩ステッキを持って、自宅の曲り角へ夜警に出ていたのを見た。 ◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。  鮮人襲来の流言蜚語が八方に飛ぶと共に、鮮人の背後に社会主義者があるという声がイツとなく高くなって、鮮人狩が主義者狩となり、主義者の身辺が段々’危うくなった。この騒ぎを余所に大杉は相変らず従容として/子供の乳母車を推して運動していた。 「用心しなけりゃイカンぜ」とあるとき出会った時にいうと、 「用心したって仕方がない。捕まる時は捕まる」と笑っていた。後に聞くと、大杉に注意したものは何人もあったが、事実この頃の大杉は社会運動からは全く離れて子守ばかりしていたから、危険が身に迫ってるとは夢にも思ってないらしかった。  ある夕方、夜警に出ていると、警官がシゴニ-ン足早に通り過ぎながら、今’二人つれて来るからぶっちゃあいかんぞと呼ばわった。その頃の自警団は気が立っていて、警吏が検挙して来たものにさえ暴行を加えて憚らなかったからだ。  誰か挙げられるナ、主義者だろうと、誰いうとなく予覚して胸を躍らしていると、やがてシチ八人の警吏がめいめい弓張を照らしつつ”中背の浴衣掛けの尻端折の男と:、浴衣に引っ掛け帯の女の前後左右を囲んで行く跡から/シゴ十人の自警団がめいめい提灯を持ってゾロゾロついて行った。  提灯の薄明りで夜目にはシカと解らなかったが、背恰好が何となく似ていたので、「大杉じゃないか知らん、」と、ハッと思って急に不安になったので、大杉の家へ曲るカドの夜警の集まりへ行った。そこにはいつでも警吏がいた。 「今のは鮮人ですか?」と訊くと、「鮮人じゃない、」と誰かが答えた。 「ドコで挙げられたんですか、」と重ねて訊くと、「直ぐソコの自宅で挙げられたんだ」と同じ人が答えた。 「大杉じゃないですか、」と思い切って明らさまに訊くと、 「イヤ、大杉じゃない。大杉は家にいる、」と警察官らしいのが答えた。  それでやっと安心したが、まだ何となく不安で、家へ帰ってトコに就いてからも/警吏と自警団に護送されて行く男女の後姿が眼にチラクラした。(後に聞くと、この男女は直ぐ近所の近頃’検挙されたある社会主義者の家の留守番をしている某雑誌記者で、女は偶然’居合わした主義にも-なんにも関係のないものだそうだ。この男は沖縄人で相貌が内地人らしくないので疾うから狙われていたのだそうだと、当人があとに来ての話である。)  その頃から大杉に対する界隈の物騒な噂がたびたび耳に入った。大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、大杉は毎晩’子分をジュウゴ六人も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心が出来ないからヤッつけてやれ」とか:、ある近所の自警団では大杉を目茶苦茶に殴ってやれという密々の相談があるとか、嘘かマコトか知らぬが/そういう不穏の沙汰をたびたび耳にした。随分’相当’分別のある人までがそういう虚聞を信じて、私と大杉とが交際あるのを知らないで、「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩大ぜい集まって隠謀を企らんでるそうです、」と告げたものもあった。同じ近所のある口利きの男は、これも大杉と私と友人関係であるのを知らないで:、「柏木には危険人物がある、大杉一味の主義者を往来へ列べて置いて、片っ端からピストルでストンストン打ったらコキミが宜かろう」とパルチザンゼンたる気焔を吐いてイイ気持ちになってるものもあった。  こういう危険な空気が一部に醸されてるのを知ってるのか知らないのか、大杉は一向’平気で相変らず毎日’乳母車を押していた。近所に住む大杉のある友達がそれとなく警戒したが、迫害に馴れてる大杉は平気な顔をして笑っていたそうだ。ただ笑ってるばかりならイイが、「俺を捕まえようてには一師団の兵が要る」などと大言していた。大杉にはこういう子供げた見得を切って空言を吐く癖があったので、この見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなった。 ◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。  九月の十六日の朝’九時頃、大杉はノエさんと二人連れで、二人とも洋装で出掛けるのを家人は裏庭の垣根越しにチラと見た。直ぐ近くの聖書学院の西洋人だろうと思ってると、丁度’遊びに来ていた魔子も後影を見ると周章てて垣根の外へ飛び出したが、すぐ戻って来て、「うちのパパとママよ」といった。  その日の午後’魔子は来て「パパとママは鶴見の叔父さんとこへ行ったの。今夜は’お泊りかも知れないのよ」といった。  それぎり大杉は姿を見せなかった。が、自分もそのころ余り表へ出なかったから大杉を見掛けないでも格別’気にも留めなかった。  ニサンニチ経つと大杉が検挙されたという風説が立った。その前にも地方から来たある男が、大杉は拘留されて留置カンへ入れられたまま火事で焼死んだそうだネというから:、大杉は直ぐこの近所にいて、毎日’乳母車を押して運動しているといって無根の風説を笑った事があるので、また例の風説かと一笑に附していた。  するとそのあくる晩、十一時’過ぎに安成が来て、「大杉が行方不明となりました、」とひどく昂奮して、「十六日’鶴見へ行ったぎりで帰って来ません。うちでも心配して八方捜しているがサッパリ行方が分かりません。検挙されたなら検挙されたでドコかの警察にいそうなもんですが、ドコの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと隠す事は絶対にないので、全く警察にはいないようです、」と満面’不安の色を湛えて昂奮して話した。  血腥い噂がそこら中に広がってる時である。女のような美術家が袋叩きにされて半死半生になったという噂も聞いている。温厚玉のようなクンシが歴とした官職の肩書附きの名刺を示しても聞かれないで警察へ拘留されたという話も聞いている。ましてや大杉のような官憲からも睨まれ民衆の一部からも呪われてる人間はいつどんなところで奇禍を買わないとも限らんから、行方不明になったと聞くと不安に堪えられなかった。  /安成は、その日あたかも戒厳軍司令官を初めニサンの陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたという/明日’発表される軍憲の移動を話して:、こういう重職の交迭は決して只事ではない。よほどの重大な原因がなければならない。当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関連するというが、その突発事故というのは何だか、まだ発表を許されないと堅く緘黙している。が、ウッカリ当局者が滑らした口ぶりに由ると不法殺人であって、殺されたものは支那人や朝鮮人でないのは明言するというのだ。 「どうもそれが大杉らしいのです、」と安成は痛く昂奮していた。  ヨモヤとは思うが、大杉はノエと一緒に鶴見の弟の家から末の妹の子を連れて、弟に送られて川崎まで帰って来たのはタシカで、それから先きが行方不明なのだそうだ。マサカに足弱を連れて交通の不便なこの際に/野こえ山こえ行方を晦ましたとは思われない。ドコかに拘留されてるに違いないが、ドコの警察にもいないとすれば陸軍よりほかにはない。が、陸軍では知らないという。が、支那人でも朝鮮人でもないものを殺した不法殺人で戒厳軍司令官初めニサンの重職が解職され:、イチニの軍憲が司法へ廻されたというこの日の突発事件は/ヨモヤとは思うがドウも大杉と関連しているらしいというのが安成の憶測であった。  が、その翌る日も、そのまた翌る日も魔子は相変らず遊びに来た。子供の事で周囲の不安には一向’感じないらしく、毎日’来ては家の子供と一緒に歌を歌ったりダンスをしたりして無邪気に遊んでいた。大杉の家もやや人出入りが繁く取込んでるらしく想像されたが、安成もそれぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れていると:、あるとき魔子がイツモの通り遊びに来ていると家から迎えが来て帰った。暫らくするとまた来て、新聞社の人が来て写真を撮ったのよといった。新聞社が子供の写真を撮りに来たというは尋常ではないので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫って来たような感じがした。  その翌日である、大杉の非業の最期が公表されたのは。恐ろしい予感が刻々迫って来て、こういう悲惨を聞く日があるのを予期しない事はなかったが、その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は/何ともいい知れない慄きが体じゅうを走るような心地がした。殊に軍憲から発表された大杉ほか2名の一人がまだ可憐な子供であると思うと、三族を誅する時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。  朝の食卓は大杉夫婦を知る家族の沈痛な沈黙のうちに終わった。今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんの話をしてはイケナイよ、」と小さい子供を戒めた。ナンにも解らない小さい子供たちも何事か恐ろしい事があったのだという顔をして、黙って頷いていた。  暫らくすると魔子は果たしていつもの通り裏口から入って来た。家人を見ると直ぐ「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお爺さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの、」といった。お爺さんというのは東京より地方へ先きに広がった大杉の変事を/遠い郷里の九州で聞いて倉皇’上京したノエさんの伯父さんである。  茶の間へ来て魔子は私の妻を見てまた繰り返した。「伯母さん、/パパもママも殺されちゃったの。今日’新聞に出ていましょう。」  私は子供たちに「魔子ちゃんのお父さんの話をしてはイケナイよ、」と固く封じて/不憫な魔子の小さな心を少しでも傷めまいとしたが、怜悧な魔子は何もかも承知していた。が、物の弁えも充分でない七歳の子である。父や母の悲惨な運命を知りつつもイツモの通り無邪気に遊んでいた。同い年の私の子供は魔子を不憫がったと見えて、大事にしていた姉様やチヨガミを残らず魔子にやってしまった。 ◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。  その日は大杉の遺骸が帰るというので、留守番だけの大杉の家へ/二度も三度も様子を聴きに行った。この晩は大杉に親しいものだけが遺骸の前で通夜するという予定だったので、午後からは待ち受けしてボツボツ集まるものがあった。自動車の音の響くたんびに耳を傾けたが、イツまで待っても帰って来なかった。そのうちに遺骸は直ちに自宅へ引き取るはずだったが、余り腐爛しているので余儀なく直ちに火葬場へ送棺したと知らせて来た。  その夕方、遺骸を引き取って火葬場まで送った近親同志が帰って来た。待ち受けた我々は官憲の口から語られたという大杉の殺害された顛末や、引き渡された遺骸が腐爛して臭気が鼻を衝いて近寄る事さえ出来なかったという話を聞いた。大杉の思想の共鳴者でなくともその悲惨な運命には同情せずには’いられなかった。  その翌々日の朝、大杉ほか2名の遺骨は小さな箱へ入れられて自宅に迎えられた。大杉は無宗教であったが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供えた。その晩は近親と同志とホンの少数の友人だけが祭壇の前に団居して、生前を追懐しつつコウを手向けて形ばかりの告別式を営んだ。門前及び付近の要所々々は物々しく警官が見張って出入りするものにいちいち眼を光らした。折悪しく震災後の交通がまだ常態に復さないので、電車の通ずる宵のうちに散会したが、罪の道連れとなった不運の宗一の可憐な写真や/薄命の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見ては/誰しも涙ぐまずには’いられなかった。大杉の一生を花やかにしたノエさんとの恋愛の犠牲となった先妻の堀保子も、イヤで別れたのでない大杉に最後の別れを告げに来て/慎ましやかに控えていたが、恋と生活とにやつれた姿は淋しかった。(大杉と別れたあとの堀保子は”大杉は必ず再び自分の懐ろに戻ってくるものと固く確信して/孤独の清い生涯を守っていたが:、大杉が’はかなくなったあとはその希望も絶えて、同棲時代からの宿痾が俄に重なって、去年の春/ついに大杉の跡を追って易簀した。大杉の生涯は革命家のなま血’のしたたる戦闘であったが、同時に二人の女に縺れ合う恋の三つ巴の一代記でもあった。)  告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかった。遺子を中心としてノエさんの伯父さん老夫妻と大杉の実弟と、大杉の異体同心たるスウシの同志に守られていた。刑事の眼は門前に光って見慣れぬものはいちいち誰何したから、誰もイイ気持ちがしないで尋ねるものが余りなかった。いよいよ明日はひとまず郷里へ引上げるというその前夜、長い汽車の旅の子供の眠気ざましにもと些かの餞けを持って私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、なんの用事かと訊問された。  十月二日だった。五人の遺子はノエの伯父さん老夫婦に伴われてこの恨みの多い父の家を跡に郷里へと旅立った。親しい友や同志に送られて行ったが、魔子は先きへ立って元気よく「さよなら、さよなら❢。」といって駈けて行った。パパもママも煙のように消えてしまった悲みをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかった。 ◇。◇。◇。 (大正十二年九月記す ◇大正十三年十月補筆 ◇改造社出版『大正ダイ震火災誌』チュウ所掲「甘粕対大杉事件」参照) ◇。◇。◇。 【追記】 ◇。◇。◇。  大杉が警察のスパイであって/主義者の秘密を供給していたので、大杉’殺害が警察と陸軍との反目になったという噂が当時ある一部に広がった。近頃また警視庁の特高課とスパイの関係が暴露されて問題となったについて、警視庁のスパイには往々’意外の人があるという話から/大杉もまたスパイであったように臭わしたある人の談話がボウ紙に載っておる。  一体’噂ぐらい当てにならぬものは’ないので、大抵な噂の出どころが出鱈目である。出鱈目でないはずの当事者や関係者の話からして当てにならぬのが多い。大杉が果してスパイであったか否かの謎は大杉自身が鍵を握ってるので、ヨジンの推測は余り当てにならないが:、大杉がもし果たして真にスパイであったなら/問題の何とかいう男のように月給何百円も貰って自動車で出入りしないまでも/もう少し貧乏しないでも済んだろう。貧乏してまでも同志を欺く苦肉のハカリゴトをして/お上のご用を勤めていたというなら、それこそ楠正成ほどでなくとも/赤穂の義士ぐらいに値踏み出来る国家の功労者である。沖やヨコカワと一緒に招魂社に祀られてもイイわけだ。  大杉は時偶かねが手に入ると/むやみと自動車を飛ばしたりして不相当な贅沢をするので/同志者の反感を買った。この贅沢の資本がもしスパイの報酬として請取った-かねなら/コウ公然と同志の前で札びらを切る事はよも出来なかったろう。大杉は一時は米塩にも事欠いた苦境に苦しんでいた事もあったが、最後の柏木に落ち付いた時は八十円の家賃を払い、奉公人も置き、夫婦から子供までが洋装でかなり贅沢な生活をしていた。が、これがもしスパイの余得であったなら同志を欺くためにもこういう不当所得の見え透かされるような真似は決してしなかったろう。  大杉が誰のクニュウであったか”またどういう名目であったか知らぬが/後藤子爵から若干かね(タシカ三百円だと思った)を貰ったのは大杉自身から聞いている。私に話したくらいだからコウ公然と誰に話しても差支えない-かねであったのだろう。また大杉が警視庁に頼まれて仏訳の法華経の賃ヤクをした話もやはり大杉から聞いた。一体’仏典を欧洲語から邦訳するというも逆な話であるし、第一’警視庁が何の必要があって法華経を訳させたのか、頗る変梃な話であるが:、これは大杉を窮地に陥れて自暴自棄させないための生活の便宜を与える高等政策であったろう。後藤子爵が何らかの名目で-かねを与えたのもやはり同じ意味で、大杉を手なずけて犬とするつもりでもなかったろうし:、またたかが三百円’かそこらの僅かばかりの目腐れ金に尻尾を振る大杉でもなかった。(危険人物の激発を緩和する手段としてのこの種の高等政策は一向’珍らしくないので、幸徳秋水も長い肺患の療養費をある筋から給せられていたはずである。)  大杉のパリへ行った洋行費が問題となった。後藤子爵からある中間者を通じて与えられたという説があるが、大杉が子爵から何百円かを貰ったのはモウ十シゴ年も前で、二者の関係が今まで長く継続していたか否かは疑問である。大杉が柏木へ引っ越して来て久しぶりで会った時、私が第一に訊いたのはまたこの洋行費の出どころであった。「本屋へ出鱈目のウソをついてナナトコガリをしたのサ、」と大杉は言った。大杉の本が売れるにしたところで2軒や3軒の本屋でヨーロッパへ出掛ける旅費が調達出来るかとその時は疑ったが:、死後に大杉が本屋に残した負債が一万円以上ある事を聞いて打明話のまるきりウソでなかった事が解った。大杉がいよいよ帰朝するからと送金を打電した時に/ノエが調達に奔走してナナトコガリをしてやっとこさと工面したという話は”大杉の帰朝前に聞いている。それ以外に領事館からも汽船賃そのタを立て換えてもらったそうだ。神戸へ帰着してから出迎えのノエや子供と共に一等寝台車で東京へ帰った汽車賃は”大杉の自由行動を防止して同志から遮断する必要じょう/官憲が支弁したのである。前後の事情から考えて見てもこの疑問の渡欧費は全部が本屋から調達したのでなくとも、後ろ暗い-かねのデバが別にあったとは思われない。  歴史上の事実には、今だに真相が解らなくて黒白のハッキリしない人物が少くない。大杉が果してスパイであったか否かはまだ謎であるが、大杉の人物性行や日常生活から推して/スパイであったとはドウしても考えられない。大杉は直情径行でスパイの勤まる柄ではない。もしその一本気な肝癪や傍若無人な傲岸が/世間や同志を欺くの仮面であるなら、それは芝居が余り巧み過ぎる。ワザワザ旅費を遣ってフランスまで行って、フランスの監獄に-いれられてフランス人までを欺く必要もなかったろう。  芝居かどうかは知らぬが”大杉はアナーキストとして死んだ。百年稀に見る自然の大破壊を背景として”大陸軍を背後に控える一軍憲の手で/アナーキストに相応しい最後の幕を閉じた。欧洲戦の開幕の血祭となったジョーレスの運命は/あたかもこれに等しいもので、殺害当時’大杉はしばしばジョーレスと比較されたが、/ジョーレスの遺骸は今やパンテオンに祀られようと騒がれておるそうだ。骨となってまでも宙宇にさまよった大杉は永久に浮ぶ瀬はあるまいが、鼠色でも鳶色でも歴史上の大立物となったのはせめてもの満足であろう。 (大正十三年十月追記) ◇。◇。◇。 【底本:「新編◇ 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店】 【1994(平成6)年2月16日第1刷発行】 【2008(平成20)年7月10日第3サツ発行】 【底本の親本:「思い出す人々」春秋社】 【1925(大正14)年6月初版発行】 【初出:「読売新聞」】 【1923(大正12)年10月2日~6日、8日】 【◇初出時の表題は「この頃の大杉の思い出」です。】 【入力:川山’隆】 【校正:門田裕志】 【2014年7月16日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。