◇。◇。◇。 【斎藤緑雨と内田不知庵】 【坪内逍遥】 ◇。◇。◇。  緑雨が小説改良会設立案というのを提げて、初めて私のとこへ来たのは明治十八年の秋頃であったろうから、/彼との交際は二葉亭とよりも古く、竹のや(饗庭篁村)とよりも少し早い。不知庵の来訪は、明確には覚えていないが、二葉亭よりも遅かったから、早くも明治廿年以後であったろう。  二人とも、大久保へ移ってからは、多い時は月にシ五度、/少くも二回は欠かさない常得意で:、来れば短くて小半日、長い時は日曜の午前に来て夕食間際までいて帰って行くのが例であった。魯庵のその頃の話題は、主として西鶴の作の評、芭蕉論、内外の文学論、とりわけロシャ小説の礼讃:、二葉亭の噂、コウ、ロの比較、硯友社のわる口、文壇一般のアラさがし、時としては二葉亭との談論の二番煎じかと思うような社会政策の断片。のちには座談の名人とも言われた彼、その時分’から’ひとかどのヴァーチュアソーで、博覧強記で、蘊蓄は和漢の雑学が六シチブ、西洋のそれがサンヨンブというところ。話題の大部分は文壇ジンの悪口であったとはいうものの、さすがに批評家を本領とする彼のそれは漫罵ではなかった。それに、態度がいつも沈着で、読んで字の如き白目をチカ眼鏡の下に光らせて、能弁に/しかしごく低調に語る口吻が冷静であったので、聴いていて焦々するようなことはなかった。しかしその妙に冷やかな、始終’対手の弱点か欠点かを見透かそうとしているかのようなチカ眼鏡ゾコの白目は、誰れにも余り好かれなかったらしい。硯友社のある猛者の如きは「今に見ろ、暗の夜の横丁でても出っくわしゃあ、目に合せてくれる」と豪語していたという噂があった。  晩年には、頭も滑っこく禿げ、口前も如才なくなり、目にも愛嬌が出来、福徳円満の好々爺とも見られたが、明治三十ナンネンごろまでは:、その筆に現れていたとおりの皮肉ミが彼の眉間に漂っていた。で、/彼に嘲罵されて憤懣していた硯友社その他の作家連が、/彼と相知るに及んで、ますます彼を毛虫扱いにして、その訪問を忌避したのも一理ある。  因みにいう、明治廿ゴ六年のころだと憶う、不知庵と戸川残花とに勧められて:、三人連れ立って、数寄屋橋河岸(括弧クエスチョン)のある人相見を訪ねたことがある。その頃だいぶ評判になっていた人相見だとか聞いたが、往って見ると、当人は二階の六畳に小机を前に陣取っていたが、年齢は三十ゴロク、どこにどういう特色も見えない男であった。三人ともわざと袴を穿かず、けれども学者と見えたり、文士と見えたりしてはまずいというので、縞の羽織か何かの着流しで、先ずは商人めかして出掛けたものだ。真っ先に見て貰ったのが紹介役の不知庵。検断に曰く「あなたは剣難のソウがある。ご用心なさい、云々。」例の冷笑を目に湛えて内田が引退る。二番目は私だ。やや暫く検按していたが、曰く「あなたは非常に疑い深い人だ。しかし慥かに大ぜいの人のカシラになれる、云々。」残花が最後に膝を進めると、「あなたの奥さんはご姙娠でしょう。」残花が黙っていると「あなたお気がついていますか、ホクロのあることを?」残花、例の荒次郎式の長い顎をがくがくさせて、笑いながら「ホクロとは? どこにです?」「陽物に。」「え、陽物❢。」と声を出して、半ばテレ隠しらしく笑う。「ほんとです、お帰りになったら調べて御覧なさい。たしかに有ります。しかしあなたにも人のカシラになるソウがある。」云々。  若干の謝儀を置いて、三人とも外へ出ると、相顧みて、人相見のナンセンスを一笑に附したものの、不知庵の剣難云々だけはまんざらの間違いでもないように、その当時、私は感じたものだ。ホクロ云々は如何にも唐突で、冷やかな内田はもとより、私もただ鼻で笑って聞き流したのみであったが:、それにしても、やつ、残花に対して、なぜあんな事をいったのかが不審であり:、また残花が帰ってから、われわれ同様、聞き流しにしてしまったろうかどうかが、余計な事だが、今以て少々気懸かりである。ホクロはたしか二つと言った。  毛虫扱いにされたのは緑雨も同じだと言える。彼も不知庵に劣らず作家訪問をしたようである。冷静と/皮肉ミと/沈着と/話し声の低かった事とだけは、二人の間に共通性があったが:、同じく諷刺家であり、嘲罵家であり、批評家であり、江戸生れであったにも拘らず、性格は大ぶ違っていた。彼の歿した当時、次ぎのように私は評した。(原文に君とあるのを今は彼と改めてインショウする。) ◇。◇。◇。 「人となりは、決して彼の書いた嘲罵文などのみを読んで、軽率に想像している人々が思うようではなかった。本来は至極’内気な、義理がたい、臆病といってよいほどに用心ぶかく、気の小さい、しかしながら’頗る見識高い:、折々は人に憎まれるほど高慢のほのめく、親分や兄分になることを-すく、狷介な、選り好みの何に附けても難かしい、さりとて面と向かっては、至って口数の寡い:、優しい、おとなしい、ひょろひょろと痩せた、色の白い、目元に愛嬌のある、白い歯をチラと出して、冷ややかに笑う口元に忘れられぬ特質のある、先ずは上品な下町シキの若旦那であ-った。  いや、はじめて会った明治十八年前後の彼は、若旦那というよりも寧ろお嬢さんとも評すべき一種のハニカミ癖の持ち主で、ハンケチでしじゅう口元を覆いつつ、伏し目勝ちに物いうのがきまりであった。(花柳界では、「ハンケチさん」の異名で通っていたことを後に知った。)正直正太夫と名乗ってからは、その筆と共に態度も様子も変わり、新進の作者らには怖れられ、古参連には憎がられもしたが:、そのシニシズムは、どちらかというと、文学界だけの事で、本来の理想は江戸式通人のそれに似たものであったらしく、常識の豊かな、唯物主義の、楽観家であった。不遇や貧困と闘いつづけた割にはわるくひねくれず、高慢であっただけに卑屈や軽薄の弊はなく:、どことなく懐かしみのある、さすがに持って生まれた純真みを形無しにしてはしまわなかった男であった。敬意をヒョウして近附く後進者に対しては、兄分らしく、先輩らしく親切であった。いまとは違い、何事も東京中心の時代であって、文壇には江戸文芸のプレスチーヂがなお盛んであったのだから、都会風俗ツウであった彼は地方出の新進者に怖れられもし、敬せられもしたのである。」 ◇。◇。◇。  緑雨の作物を読むと、/彼は夙くからヒトカドの狭斜ツウであったらしく想像されるが、身銭を切ってしばしば遊ぶ余裕のあったとも思われぬ彼であったから:、それは、主として老通人で、『コンニチ新聞』というを発行していた小西義敬に愛され、その配下に雑報記者となり、カリュウ遊びのお侶役を兼ねていた結果であったろうと推測される。明治十九年ごろ、私も小西に頼まれて、『コンニチ新聞』へ何かサンヨン回’書いて送ったことがあった。その因縁から、ある日あるところへ招待された。それは俗に「コックリ様」と称した table-turning が初めて我が国へ持込まれた時なので:、そういう物に真先きに魅惑を感ずるのが狭斜の習いだから、座興かたがたその宴席へ例の三脚と円盤とが持出された。と、大小の芸妓らはいうに及ばず、主人役の小西までが騒ぎ立って、試験を始めた。最初は半信半疑でいた者までが余り覿面に当たるので、キミわるがり、盤へ手を載せるのをいやがる程のビュウシンぶり。緑雨がその一人であったからおかしい。とど、無理遣りに手を載せさせられた彼の方へ、問答の急所急所で、盤が微かな音まで立ててかしいだので、/彼は殆ど顔の色までも変えた。彼にはそれほどウブなところがあった。  心意生理学の知識を外国から伝えたは、多分、東京大学の医学部と文学部が真っ先きであったろう。私がカーペンターの Principles of Mental physiology でアンコンシャス・セレブレーション(無意識脳作用)という事を初めて学び:、千里眼だの、メスマリズムだの、スピリチュアリズムだの、読心術だの、テーブル・ターニングだの、テーブル・トーキングだのを知ったのは明治十シ五年の頃であったと思う。カーペンターの解釈では、テーブル・ターニングは期待注意( expectant attention )の作用だとなっていた。そうして私はそれを信じていたから、右の席上で、みんなが、どうかして私のホウへも盤をかしがせようと骨折ったが、つまり、不成功に終った。  前の話は明治十九年ごろの事だが、それよりよほど後、多分、廿サン四年の事かと思う、私が『早稲田文学』への寄稿の事か何かで、珍らしくも彼をその本所緑町の宅へ訪ねた事があった。と彼が「是非に」と勧めるから、午前もまだ十時ごろであったけれど、余儀なく伴われて柳橋のある旗亭へ往った。隅田川を向こうに見る四畳半の小座敷。主人の彼は酒を嗜まず、私も余りいけぬ口の上に、午前ではいよいよ下さらない。ほんのサンヨンシナを待合式に膳に並べて、楼婢を相手に、何の変哲もない雑談半ばへ「こんにちは」ともなんとも言わず、のっそりと無作法に入って来た女は三十ゴロクの大年増。芸妓とは見えたが、器量もジュウゴ六人並、おしろいけなしの普段着のまま。緑雨にも、私にも辞儀一つせず、楼婢にはちょっと目で挨拶をして座に着きながら、緑雨に:「お前、どうしたい? 久しく来なかったね」とまるで弟か甥に対するような口吻。例の行儀よくキチンと坐っていた緑雨は、ただニヤリとしたッきり、無言で盃を女に与える。返盃する。おいおいに緑雨も口をきく。塩は溶けたが、埒もない世間話ばかり。もちろん、三味線はヌキ。一体、なんの為にこの老妓を呼んだのか、第一、なんの為に私をこんな席へ引っ張って来たのか、とうとうわからずじまい。あるいは、斯ういう老妓と親類づきあいをしているぞ、というのが彼の味噌であったかも知れない。  文壇の通信係りとしての彼の面影を伝えるために、左に明治廿七年五月のかと思う書簡を掲げる。 ◇。◇。◇。 「拝啓‥‥如月このかたの御無沙汰、これは毎度のことゆえお詫び申す迄もこれなしと存じそうろう、その後’珍事もこれなくそうろうや:、春既に往き、夏未だ来たらず、世間にてはこれをよい時候と申しそうろう、断然’筆を-すつべしと思い定めても、人はやはり小生を筆持つ男としか扱わず:、いまだに定まる業もこれなし、この塩梅にては迚も世渡りはあいならせそうろう、ひまさえあれば横川以東郊外散歩を極め申しそうろう:、先夜’吾妻森へ出かけそうろうところ/星の光もかすかなる程の闇とて、みちの高低少しも分からず、犬に吠えらるることサンヨン度に及び大辟易:、一人の我れに反対する者なしとて、嘗て深夜の散歩を主張致しそうらいしも、今回に懲りてお廃止、」 ◇。◇。◇。  当人は非常の犬嫌いであった。当夜のおびえぶりを見るようだ。 ◇。◇。◇。 「今度の改革にて免職となりたるお役人の古手と同道、押上の土手をぶらつき、茶見世へ立寄そうろうところ、今日は風が吹いて灰が立つから煙草盆はあげませぬ、煙草を吸うなら煙管を出しなさい:、ちょっとうちへ’行って火をつけて来てあげようという、それではお茶と言えば、いま水をさしたばかり、ぬるいよとてくれず、茶見世の女にあってすらも斯くの仕合せ:、さてさてと申すばかりの身の上にそうろう、されど斯くまで喰い違いそうらわば、たとい世にある人々がこれをヒガミなりと申すまでも:、飽くまで喰い違うホウミョウならんと存じそうろう、聞けば不知庵もよほど窮しおるよし、されど小生ほどにはあらざるべし:、ただ身一つのことなれば、小生はなかなか身一つとは行かず、色々のものついて廻り、今や執達吏の手中に落ちて、来たる月曜日は公売処分を-うくるなり:、筆持つ人々に貧乏はたくさんあれど、これは小生が魁けなるべし:、月ヶ瀬行きの失策、寧ろ失体噺’山の如し、「狂言綺語」発行前の内輪もめと一緒になって、/彼’の党はシブンゴレツ、お互いに罵詈し合えり:、吉野行きの一連は、わざと大阪を避けて無事に帰り来りしよし、これは一厘五毛の割前もキチンと立てるほうの人々なれば、その筈なるべし。」 ◇。◇。◇。  月ヶ瀬行、云々は劇通連の事か? 吉野行、云々は不明。 ◇。◇。◇。 「南翠老人/大阪でオオ不出来、八方より攻撃せらる、多分’昨今は東京に参りおるならん、しかし逃げたのではなく、所用ありてとの事:、小桜縅の文壇’佳話、一つどころかみんなウソなり、小生が水蔭より文淵のことをたずねられて:「結構です、実に結構です、見当の違って居る段に於いて実に結構です」と答えしが、あの通りの佳話と相成り居り:、これはこれはとばかり、話もウッカリ出来ず、美妙はセツセと脚本を作り居りそうろうよし、無論みごとなものと考えそうろう:、しかし公けにせずに仕舞えばなお以て見事にそうろう、浪六茶屋の主人、編笠をかぶり青黛を施し、白博多の帯をしめて茶を汲み居りそうらいしとか:、この人’来年は富士見楼のお花見に雇われて、弁慶に扮し、ナナツ道具を背おって、牛込警察署へ拘引せられねば本物にあらず:、風のたよりまだまだたくさんなれど、又思いつき申しあぐべくそうろう、本月にいりて封書をしたためそうろうこと、これがはじめてにそうろう、早々。 ◇。◇。◇。  十九日斎藤」 ◇。◇。◇。 【坪内様】 ◇。◇。◇。 【底本:「明治文学遊学案内」筑摩書房】 【2000(平成12)年8月25日初版第1刷発行】 【底本’の親本:「柿の蔕」中央公論社】 【1933(昭和8)年7月5日発行】 【◇底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5の86)を、大振りにつくっています。】 【入力:川山’隆】 【校正:noriko saito】 【2015年2月二十日作成】 【2015年4月8日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。