◇。◇。◇。 【真田幸村】 【菊池寛】 ◇。◇。◇。 【第1章】 【真田対徳川《真田タイ徳川》】 ◇。◇。◇。  真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名《我が弟/実名》は武田信玄の舎弟典厩《舎弟’典厩》と同じ名にて字《/アザナ》も同じ」と云っているから信繁《/信繁》と云ったことは、確《確か》である。  『真田家古老物語』の著者桃井友直《著者’桃井友直》は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重《中ごろ幸重》、後に信賀《ノブヨシ》と称せられしものなり」と云っている。  大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仍《ノブヨリ》と書いている。これで見ると、徳川時代には信仍《ノブヨリ》で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかし、姓名判断《姓名判断’》などは、なかったのであるが、幸村ほど智才秀れしものは時《/時》に際し事《/事》に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。  真田は、信濃の名族海野小太郎《名族’海野小太郎》の末胤《マツイ-ン》で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田《とき武田》に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助《ダイスケ》を加えて、四代記にしてもいい位である。  一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼《なぜ秀頼》のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重《重な》っているのである。  上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左《利根川/左》に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後《あと》、真田が自力を以《以っ》て、切り取った土地である。  武田亡びた後《あと》、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代《代わ》りお前には上田をやると云った。  所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何《なん》にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわ《我》が鋒《鉾》を以《以っ》て、取った土地である。故《ゆえ》なく人に与えんこと叶わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使《使い》を出して、属すべき由云《由/云》い送った。天正十三年の事である。  家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等《井伊直政ら》に攻めさせた。  それを、昌幸が相当な軍略を以《以っ》て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。  この競合《競り合い》が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。  その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。  家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使《使い》を出すと、昌幸は「左様の使《使い》にて有間敷也《アルマジキナリ》。使《使い》の聞き誤りならん。|急き《急ぎ》帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想《気概’想》うべしである。  そこで、家康が秀吉に相談すると、 「真田尤也《真田もっともなり》、中務が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。  家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁《エニシ》に引かれて、後年父《後年/父》や弟と別れて、家康に随ったわけである。  所が、天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿《先年’徳川どの》と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使《使い》が板部岡江雪斎《板部岡’江雪斎》と云う男だ。  北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。  秀吉即ち、上州に於ける真田領地の中沼田《うち沼田》を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を名胡桃城《ナグルミ城》と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直《猪俣ノリナオ》と云う武士が、|我無しゃら《我武者羅》で、条約も何《なん》にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閣《太閤》に訴えた。太閣《太閤》は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。  昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。  これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎《坂部岡’江雪斎》を捕え、手枷足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は亡《滅》んだではないか。主家を亡《滅ぼ》して快きか」と、罵しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも怯《悪》びれず、《:、》「北条家に於《於い》て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務《武士/時務》を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽《つ》くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、半歳《ハンサイ》を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。  秀吉その答《答え》を壮とし「汝は京都に送り磔にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州《時ちょうど奥州》からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎《/江雪斎》も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。  とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じていたに違いない。  その後、昌幸は秀吉に忠誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀吉の身辺に在りて、相当好遇《相当’好遇》されたに違いない。 ◇。◇。◇。 【第2章】 【関ヶ原役《原のエキ》の真田】 ◇。◇。◇。  関ヶ原の時、真田父子三人家康《真田父子三人/家康》に従って、会津へ向《向か》う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸、《:、》信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。  昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は雄略百万の人に越えたる人なれば、討滅《討ち滅ぼ》さるべき人に非《-あら》ず、徳川方に味方するに如《-し》かずと云う。  茲で、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激論した。佐々木味津三君の大衆小説に、その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。  信幸、我本多《我れ本多》に親しければ石田に与しがたしと云うと、幸村、女房の縁《エニシ》に引かれ父《/父》に弓引くようやあると云う。  信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、その時党与《とき党与》の人々必ず戮を受けん。我々父と弟との危《危う》きを助けて家《/家》の滅びざらんことを計るべしと。幸村曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。何《なん》ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家《天正十三年以来/豊家》の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔く振舞うこそよけれ、何条汚《なんじょう汚》く生き延びることを計らんやと。信幸怒って将《まさ》に幸村を斬《切》らんとした。幸村は、首を刎ねることは許されよ、幸村の命は豊家のために失い申《もう》さん、志《志し》なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々《/各々》その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。  この会談の場所は、佐野天妙《佐野テンミョウ》であるとも云い、犬伏と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬《切》りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。  後年の我々が知っているように、石田方《石田ガタ》がはっきり敗れるとは分《分か》っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。  そして、昌幸の肚の中《うち》では、真田が東西両軍に別れていればい《/い》ずれか真田の血脈《ケツミャク》は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互《互い》に救い合おうと云うような事も、暗々裡《暗々リ》には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。  真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の玉《ギョク》を出して置く両建《/両建》と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以ではない。真田父子三人家康《真田父子三人/家康》に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石《ジュウナン万石》の大名として残った。  しかし、関ヶ原で跡方もなく亡《滅》んだ諸侯に比《-くら》ぶれば、いくらかま《-ま》しかも知れない。  信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、軍《戦さ》に勝ちたくば信州をやる証《印》ぞと云って刀《/刀》の下緒の|はし《端》を切って呉れた。  昌幸と幸村は、信州へ引き返す途中沼田《途中/沼田》へ立ち寄ろうとした。沼田城は、信幸の居城で、信幸の妻たる例の本多忠勝の娘が、留守を守っていたが、昌幸が入城せんとすると曰く、《:、》既に父子仇《父子/アダ》となりて引き分《分か》れ候上《そうろう上》は、たとい父にておわし候《そうろう》とも城《/城》に入《-い》れんこと思いも寄らずと云って、《:、》門を閉ざし女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を、玄関につながした。昌幸感心《昌幸’感心》して、日本一と世に云える本多中務の娘なりけるよ。弓取の妻は、かくてこそあるべけれと云って、寄らずに上田へ帰った。本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役《エキ》、たった五百騎で、秀吉が数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。蜻蛉切り長槍を取って武功随一の男である。ある時、忠勝子息の忠朝と、居城桑名城の濠に船を浮べ、子息忠朝に、櫂であの葦をないで見よと云った。忠朝も、強力無双《ゴウリキ無双》の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、葦が折れた。忠勝見《忠勝’見》て、当世の若者は手ぬるし、我にかせと、自身櫂《自身/櫂》を持って横に払うと、葦が切れたと云う。そんな事が可能かどうか分《分か》らぬが、とにかく秀吉に忠信《チュウシン》の冑を受け継ぐものは、忠勝の外《ほか》にないと云われたり、《:、》関東の本多忠勝、関西の立花宗茂と比べられたりした典型的《/典型的》の武人である。  昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせなかった話は、歴史的にも有名である。  関ヶ原役《原のエキ》に西軍が勝って諭功行賞《論功行賞》が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加えて、三ヶ国位《国くらい》は貰えたであろう。  真田安房守昌幸は戦国時代に於《於い》ても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位《政宗くらい》の仕事は出来たかも知れない男の一人である。その上武威赫々《うえ武威赫々》たる信玄の遺臣として、その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房守に劣るまじく」と云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少《少な》かったが、家康などは可なりうるさ《さ-》がっていたに違いない。  秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人《使番ひとり》、向《向こ》う側の味方の陣まで、使《使い》を命ぜられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途《男/帰途》、又搦手《また搦手》に来《来た》り、通らせてくれと云う。昌幸又易《昌幸また易》き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴《ヤツ》だが、通す奴も通す奴《ヤツ》だと云って感嘆したと云う。  此時の城攻《城攻め》に、後年の小野次郎左衛門事神子上典膳《小野次郎左衛門こと神子上典膳》が、一の太刀の手柄を表している。剣《ケン》の名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない、寄手力攻めになしがたきを知り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなかった。  関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以《以っ》て父弟の命に換えんことを乞う。だが昌幸に邪魔された秀忠の怒りは、容易に釈《’釈》けなかったが、信幸父《信幸/父》を誅せらるる前に、かく申す伊豆守《伊豆ノカミ》に切腹仰せつけられ候《そうら》えと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに異なる豆州哉《豆州かな》と、感嘆した。 ◇。◇。◇。 【第3章】 【大阪入城】 ◇。◇。◇。  関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の麓九度禿《麓/九度カムロ》の宿《シュク》に引退す。この時、発明した内職が、真田紐であると云うが‥‥《:‥》昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後三年《死後’三年》にして必ず、東西手切《東西’手切》れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って嗟嘆した。  幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸曰く策《/策》を教えて置くのは易いが、汝は我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうと云った。幸村是非《幸村’是非》にと云うたので、昌幸曰く「東西手切《東西’手切》れとならば、軍勢を率いて先ず美野青野《美野/青野》ヶ原で敵を迎えるのだ。しかし、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、四五日《シゴニチ》を支えることが出来るだろう。かくすれば真田安房守《/真田安房守》こそ東軍を支えたと云う噂が天下に伝《伝わ》り、太閤恩顧の大名で、大阪方《大阪ガタ》へ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生きていたれば、出来るので、汝は武略我《武略’我》に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行われないだろう」と云った。後年幸村大阪《後年’幸村’大阪》に入城し、冬の陣の時、城《しろ》を出で、東軍を迎撃すべきことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通りであると云うのである。  大阪陣の起る前、秀頼よりの招状が幸村の所へ来た。徳川家の禄を食みたくない以上、大阪に依って、事を成そうとするのは、幸村として止むを得ないところである。秀頼への忠節と云うだけではなく、親譲りの意地でもあれば、武人としての夢も、多少はあったであろう。  真田大阪入城《真田’大阪入城》のデマが盛んに飛ぶので、紀州の領主浅野長晟《領主’浅野長晟》は九度山附近の百姓《ヒャクショウ》に命じてひ《/ひ》そかに警戒せしめていた。  所が、幸村、父昌幸の法事を営むとの触込《触れ込》みで、附近の名主大庄屋《名主’大庄屋》と云った連中を招待して、下戸上戸《下戸ジョウゴ》の区別なく酒を強《し》い、酔いつぶしてしまい、《:、》その間《あいだ》に一家一門予《一家一門/予》て用意したる支度甲斐甲斐しく百姓《/ヒャクショウ》どもの乗り来《来た》れる馬に、いろいろの荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、槍、|なぎ《薙》刀の鞘をはずし、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川《紀伊川’》を渡り、大阪をさして出発した。附近の百姓《ヒャクショウ》ども、あれよあれよと騒いだが、村々在々の顔役共《顔役ども》は真田邸で酔いつぶれているので、どうすることも出来なかった。浅野長晟之《浅野長晟これ》を聴いて、真田ほどの者を百姓《ヒャクショウ》どもに監視させたのは、此方《こちら》の誤りであったと後悔した。  その辺、いかにも軍師らしくていいと思う。  大阪へ着くと、幸村は、只一人大野修理治長《ただひとり大野シュリ治長》の所へ行った。その頃、薙髪《剃髪》していたので、伝心月叟《伝心ゲッソウ》と名乗り、大峰の山伏であるが、祈祷の巻物差しあげたいと云う。折柄修理不在《折柄シュリ不在》で、番所の脇で待たされていたが、折柄十人許《折から十人許》りで、刀脇差の目利きごっこをしていたが、一人の武士、幸村にも刀拝見《刀’拝見》と云う。幸村山伏《幸村/山伏》の犬|おど《脅》しにて、お目にかけるものにてはなしと云って、差し出す。若き武士抜《武士/抜》きて見れば、刃《ヤイバ》の匂、金《かね》の光云《光’云》うべくもあらず。脇差も亦然り。とてもの事にと、中子を見ると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。唯者《只者》ならずと若武士ども騒いでいる所へ、治長帰って来て、真田であることが分ったと云う。  その後、幸村彼《幸村/か》の若武士達に会い、刀のお目利きは上《上が》りたるやと云って戯れたと云う。 ◇。◇。◇。 【第4章】 【真田丸】 ◇。◇。◇。  東西手切《東西’手切》れとなるや幸村は城を出で、東軍を迎え撃つことを力説し、後藤又兵衛も亦真田説《また真田説》を援けたが、大野渡辺等《大野渡辺ら》の容《-い》るる所とならず、遂に籠城説が勝った。前回にも書いてある通り、大阪城其物《大阪城その物》を頼《’頼》み切っているわけである。  籠城の準備として、大阪城へ大軍の迫る道は、南より外《ほか》ないので、此方面《この方面》に砦を築く事になった。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くには屈竟《クッ竟》の所なので、構築にかかったが、《:、》その工事に従事している人夫達《ニンプたち》が、いつとは《は’》なしに、此出丸《この出丸》を堅固に守らん人は、真田の外《ほか》なしと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、附《つ》いてしまった。  城中詮議《城中’詮議》の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下七十余人《部下’七十余ニン》しかないので辞退したが、後藤が、「人夫《ニンプ》ども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意ない事ではないか」と云ったので、《:、》「然らば、とてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ」と云って引き受けた。  真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸の曲尺《カネザシ》とて兵家《/兵家》の秘法になれりと『慶元記参考』にある。  真田は冬の陣中自分《陣中/自分》に附けられた三千人を率いて此の危険な小砦《ショウサイ》を守り、数万の大軍を四方《シホウ》に受け、恐るる色がなかった。 ◇。◇。◇。 【第5章】 【家康の勧誘】 ◇。◇。◇。  真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。媾和になってから家康は、幸村を勧誘せんとし、幸村の叔父隠岐守信尹《叔父/隠岐ノカミ信尹》を使《使い》として「信州にて三万石をやるから」と言って、味方になることを、勧めさせた。  幸村は、出丸の外に、叔父信尹を迎えて、絶えて久しい対面をしたが、徳川家に附く事だけはきっぱり断った。  信尹はやむなく引返して、家康にその由を伝えると、家康は「では信濃一国を宛行《宛ておこな》わん間如何《間いか》にと重《/重》ねて尋ねて参れ」と言った。信尹、再び幸村に対面してかく言うと、「信濃一国は申すに及ばず、天下に天下を添えて賜るとも、秀頼公に背きて不義は仕らじ。重ねてかかる使《使い》をせられなば存ずる旨あり」と、断平《断乎》として言って、追返した。  『常山紀談』の著者などは、この場合、幸村がかくも豊臣家のために義理を立通そうとしたのは、必ずしも、道にかなえり、とは言うべからずと言っている。 「豊臣家は真田数世《真田スウセイ》の君《クン》に非《-あら》ず、若し、君《クン》に不背《背かず》の義を論ぜば、武田家亡びて後世をすてて山中《サンチュウ》にかくれずばい《/い》かにかあるべき」  など評している。  が、幸村としてみれば、豊臣家には父昌幸以来の恩義があると共に、徳川家に対しては、前に書いておいた如く、矢張り父昌幸以来のいろいろの意地が重なっているのである。でないとした所が、今になって武士たるものが、心を動かすべき筈はないのである。  豊臣家譜代の連中が、関東方に附《つ》いて城攻《城攻め》に加《加わ》っているのに、譜代の臣でもない幸村が、断乎大阪方に殉じているなど会心の事ではないか。なお、これは余談だが、大阪方《大阪ガタ》についた譜代の臣の中で片桐且元《/片桐且元》など殊にいけない。  坪内逍遥博士の『桐一葉』など見ると、且元という人物は極めて深謀遠慮の士で、秀吉亡き後の東西の感情融和に、反間苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、嘘である。  『駿府記』など見ると、且元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり出《-い》で、御前で、藤堂高虎と大阪攻口を絵図をもって、謀議したりしている。  また、冬の陣の当初、大阪方《大阪ガタ》が堺に押し寄せた時、且元、手兵を派して、堺を助け、大御所への忠節を見せた、など『本光国師日記』に見えている。  且元のこうした忌《忌まわ》しい行動は、当時の心ある大阪の民衆に極度の反感を起さしめた。何某《ナニガシ》といえる侠客の徒輩が、遂に立って且元を襲い、その兵百人《兵’百人》ばかりを殺害したという話がある。  且元、後《のち》にこれを家康に訴え、その侠客を制裁してくれと頼んだが、家康は笑って応じなかった。  当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分《分か》るわけである。『桐一葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、誰も演るものがないからいいようなものの。 ◇。◇。◇。 【第6章】 【東西和睦】 ◇。◇。◇。  和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なることを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが、《:、》例によって、大野、渡辺等《渡辺ら》の容《-い》るる所とならなかったわけである。  幸村は、偶々越前少将忠直卿の臣原隼人貞胤《臣/原隼人貞胤》と、互《互い》に武田家にありし時代の旧友であったので、一日、彼を招じて、もてなした。  酒盃数献の後、幸村小鼓《幸村/小鼓》を取出し、自らこれを打って、一子大助に曲舞数番舞わせて興《キ-ョウ》を尽した。  この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。終には弓箭に罷成《罷りな》るべくと存ずれば、幸村父子は一両年《一両ネン》の内には討死とこそ思い定めたれ」と言って、床《トコ》の間《マ》を指し「《:「》あれに見ゆる鹿の抱角打《カカエヅノ打》ったる冑は真田家《/真田家》に伝えたる物とて、父安房守譲《父安房守’譲》り与えて候《そうろう》、重ねての軍《戦さ》には必ず着《き》して打死仕《討ち死に仕》らん。見置きてたまわり候《そうら》え」と云った。  それから、庭に出て、白河原毛《シロカワラゲ》なる馬の逞しきに、六文銭を金もて摺《-す》りたる鞍を置かせ、ゆらりと打跨《打ち跨》り、五六度乗《ゴロク度乗》まわして、原に見せ、「此の次ぎは、城壊れたれば、平場の戦なるべし。わ《我》れ天王寺表へ乗出し、この馬の息続《息’続》かん程は、戦って討死せんと思うにつけ、一入秘蔵《一入’秘蔵》のものに候《そうろう》」と言って、馬より下《-お》り、それから更《さ》らに酒宴を続け、夜半《ヤハン》に至って、この旧友たちは、名残を惜しみつつ分《別》れた。  果して、翌年、幸村は、この冑を被りこ《/こ》の馬に乗って、討死した。  また、この和睦の成った時、幸村の築いた真田丸も壊されることになった。  この破壊工事の奉行に、本多正純がやって来て、おのれの手で取壊そうとしたので、幸村大《幸村’大》いに怒り抗議《/抗議》を申込《申し込》んだ。  が、正純も中々引退らぬ。  両者が互いにいがみあっている由がやがて家康の耳に入った。すると、家康は「幸村が申条理也《申し条ことわりなり》、正純心得違也《正純心得違いなり》」と、早速判決《早速’判決》を下して、幸村に、自分の手で勝手に取壊すことを許した。  この辺り、家康大《家康おおい》に寛仁の度を示して、飽迄幸村《あくまで幸村》の心を関東に惹かんものと試みたのかも知れない。が幸村は、全く無頓着に、自分の人夫《ニンプ》を使って、地形までも跡方もなく削り取り、昌幸伝授《昌幸’伝授》の秘法の跡をとどめなかった。 ◇。◇。◇。 【第7章】 【天王寺口の戦】 ◇。◇。◇。  元和元年になると東西《/東西》の和睦は既に破れ関東《/関東》の大軍、はや伏見まで着《-ちゃく》すと聞《聞こ》えた。  五月五日、この日、道明寺玉手表《道明寺タマテ-オモテ》には、既に戦始《戦さ始ま》り、幸村の陣取った太子へも、その鬨の声、筒音など響かせた。  朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十本《旗三四十ポン》、人衆二三万許《ニンズ二’三万許》り、国府越より此方《こちら》へ踰来《超え来た》り候《そうろう》と告げた。これ伊達政宗《/伊達政宗》の軍兵であった。が、幸村静《幸村’静か》に、障子に倚りかかったまま、左《さ》あらんとのみ言った。  午後、物見の者、また帰って来て、今朝のと旗の色変《色’変わ》りたるもの、人衆二万《ニンズ二万》ほど竜田越《/竜田越》に押下《押し下》り候《そうろう》、と告げた。これ松平忠輝《/松平忠輝》が軍兵であった。幸村虚睡《幸村/ソラ眠》りしていたが、目を開き「よしよし、いか程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。  軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。  さて、夕炊《夕餉》も終って後《のち》、幸村徐ろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は《は’》道明寺表に陣取った。  明《明く》れば六日、早旦、野村辺《野村辺り》に至ると、既に渡辺内蔵助糺が水野勝成と戦端を開いていた。  相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍来《軍来た》ると分《分か》ると、糺は使《使い》を遣わして「只今の迫合《競り合い》に創《傷》を蒙りて復戦《”また戦》うこと成り難し。然《しか》る故、貴殿の蒐引《駆け引き》に妨げならんと存じ人衆《/ニンズ》を脇に引取候《引取りそうろう》。かくして横を討《-う》たんずる勢いを見せて控え候《そうろう》。これ貴殿の一助たるべきか」と言って来た。  幸村、喜んで「御働《お働》きの程、目を愕かしたり。敵はこれよりわれ等《ら》が受取ったり」と言って、軍を進めた。  水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等《松平忠輝ら》の連合軍であった。幸村愈現《幸村いよいよ現》われると聞き、政宗の兵《ヘイ》、一度に掛り来る。  ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が岡《’岡》になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右田疇に連《連な》っている。  幸村の兵《’兵》が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺《騎馬テッポウ-ハッピャクチョウ》が、一度に打立てた。  この騎馬鉄砲《騎馬テッポウ》は、政宗御自慢のものである。  仙台といえば、聞《聞こ》えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男《次男サンナン》の壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の備《備え》の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい荒々《/荒々》しき戦法《戦法’》である。  この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷《傷つ》き、死する者も相当あった。  然し、幸村は「爰を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、平伏したまま、退《ひ》く者はなかった。  始め、幸村は暑熱に兵《兵’》の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持《’持》たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以《以っ》て、「冑を着よ」と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。  これが、兵《兵’》の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍《忍び》の緒《オ》を締め、鎗をしごいて立った兵等《兵ら》の勇気は百倍した。  さしもの伊達の騎馬鉄砲《騎馬テッポウ》に耐えて、新附仮合《新附ケゴウ》の徒である幸村の兵に一歩《/一歩》も退《-ひ》く者のなかったのはそのためであろう。  幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟《煙》も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声《ダイオンジョウ》に下知した。声の下より、皆起って突《突っ》かかり、瞬く間に、政宗の先手《サキ手》を七八町《シチ八町》ほど退かしめた。政宗の先手《サキ手》には、かの片倉小十郎、石母田大膳等《石母田タイゼンら》が加《加わ》っていたが、「敵は小勢ぞ、引《ひっ》くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。  これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。  新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。  幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。  そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込《切り込》まんと約せしに時刻《/時刻》おそくなり、後藤を討死させし故、謀空《ハカリゴト/空》しくなり申候《申しそうろう》。これも秀頼公御運《秀頼公ご運》の尽きぬるところか」と。  この六日の朝は、霧深《霧ふか》くして、夜の明《明け》も分《分か》らなかったので幸村《/幸村》の出陣が遅れたのである。若し、そんな支障がな《な-》かったら、関東軍は、幸村等《幸村ら》に、どれ程深く切り込まれていたか分《分か》らない。  勝永も涙を面《オモテ》に泛べ「さり乍ら、今日の御働《お働》き、大軍に打勝《打ち勝た》れた武勇の有様、古《いにしえ》の名将にもまさりたり」と称揚した。  幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取《取っ》たる首を鞍《/鞍》の四方手《シオデ》に附け、相当の手傷を負っていたが、流《なが》るる血を拭《-ぬぐ》いもせずに、そこへ馳せて来た。  勝永これを見て、更に「あわれ父《/父》が子なり」と称えたという。  こうして、五月六日の戦《戦さ》は、真田父子の水際立《水際’だ》った奮戦に終始した。 ◇。◇。◇。 【第8章】 【真田の棄旗】 ◇。◇。◇。  五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田修理亮光重《吉田シュリノスケ光重》は能く河内の地に通じたるを以《以っ》て、先陣として二千余騎を率い大和川《/大和川》へ差《差し》かかった。  その後《あと》から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。  が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔に佇むもの多かった。大将修理亮《大将シュリノスケ》は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込《飛び込》んで渡った。  幸村は、夙にこの事あるを予期して、河底《川底》に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒れた。  折柄《折から》、五月雨の水勢烈しきに、容赦なく押流《押し流》された。  茲に最も哀れをとどめたのは、大将吉田修理亮《大将’吉田シュリノスケ》である。彼は、真先《真っ先》に飛込《飛び込》んで、間もなく馬の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、真倒《真っ逆さ》まに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体となって上《上が》った。  また、同じ刻限、天王寺表《天王寺オモテ》の嚮導、石川伊豆守《石川伊豆ノカミ》、宮本丹後守等三百余人《宮本丹後ノカミら三百ヨニン》が平野の南門《ミナミ門》に着した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって入《/入》りようがない。廻って東門を覗ったが、同様である。内《うち》には、六文銭の旗三四旒《旗サンヨン旒》、朝風に吹靡いて整々としていた。 「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂濶に手を出す可《べか》らず」そ《:そ》の上、越前勢も、大和川の失敗で、中々到着するけしきもないので石川等《/石川ら》は、東の河岸《カシ》に控えて様子を覗っていた。  夜がほのぼのと明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、内《うち》は森閑として、人の気配もなかった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手《サキ手》がやっとのことで押し寄せて来た。  大和川に流された吉田修理亮《吉田シュリノスケ》に代《代わ》って、本多飛騨守《本多飛騨ノカミ》、松平壱岐守等以下《松平壱岐ノカミら以下》の二千余騎である。  が、石川宮木等《石川宮木ら》は、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。  石川宮木等《石川宮木ら》が葵の紋に気付いた時は、既に手の下《くだ》しようのない烈しい戦いになっていた。ようやくのことで、彼等が、胄《カブト》を取り、大地にひざまずいたので、越前勢も鎮まった。  しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等は、その場を繕うために、雑兵の首十三《首/十三》ほどを切取《切り取》り、そこにあった真田の旗を証拠として附けて、家康に差出《差し出》した。  家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」と御褒めになり、その旗を家宝にせよとて、傍《傍ら》の尾張義直卿に進ぜられた。  義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色変《顔色’変わ》り「これは家宝にはなりませぬ」と言う。  家康もまた、よく見れば、旗の隅に細字《ホソ字》で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些かテレ隠しであったろう。  寄手の軍が、こんな朱敗《失敗》を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華表《/イシノハナオモテ》の西迄三隊《西まで三隊》に備え、旗馬印《ハタウマ印》を竜粧に押立《押し立》てていた。  殺気天《殺気’天》を衝き、黒雲《コクウン》の巻上《巻き上が》るが如し、という概があった。  陽《日》も上るに及んで、愈々合戦《いよいよカッセン》の開かれんとする時、幸村は一子大助《イッシ大助》を呼んで、「汝は城に還りて、君《く-ん》が御生害を見届け後果《のち’は》つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、仲々聴《なかなか聴》かなかった。そして、「あく迄父《まで父》の最期を見届けたい」と言うのをなだめ賺して、やっと城中に帰らせた。  幸村は、大助の背姿《後ろ姿》を見、「昨日誉田《昨日’誉田》にて痛手を負いしが、よわる体《テイ》も見えず、あの分《ぶん》なら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。  時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた原隼人《/原隼人》との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲ばしめると思う。 ◇。◇。◇。 【第9章】 【幸村の最期】 ◇。◇。◇。  幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。  幸村は、屡々越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の|竜の《タツノ》丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。  幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石掃部助全登《明石カモンノスケ-ナリトヨ》をして今宮表《/今宮オモテ》より阿部野へ廻《回》らせて、大御所の本陣を後《後ろ》より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々《/着々》と運ばなかった。  そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が御旗御馬印《オンハタお馬ジルシ》を、玉造口まで押出《押し出》させ、寄手の勢力を割いて明石《/明石》が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等《古林一平ジら》が、その緊急の使者に城中へ走った。  この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守《監使’榊原飛騨ノカミ》である。飛騨守は「今こそ攻めるべし、遅《おく》るれば必ず後《後ろ》より追撃されん」と忠直卿に言上した。  忠直卿早速《忠直卿さっそく》、舎弟伊予守忠昌《舎弟/伊予ノカミ忠昌》、出羽守直次《出羽ノカミ直次》をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以《以っ》て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方の備《備え》をもって、これに当《当た》っていた。  すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等《松平忠明ら》、渡辺大谷などの備《備え》を遮二無二切崩《遮二無二’切り崩》して真田《/真田》が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成等《水野勝成ら》も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂《つい》に三方《サンポウ》から敵を受けたのである。 「最早《もはや》これまでなり」と意を決して、冑の忍《忍び》の緒《オ》を増花形《マスハナガタ》に結び──これは討死の時の結びようである──馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵《/敵》に向《向か》ったと言う。  三方の寄手合《寄せ手’合》せて三万五千人、真田勢僅《真田勢わず》かに二千余人《二千余ニン》、《:、》しかも、寄手の戦績はかばかしく上《上が》らないので、家康は気を揉んで、稲富喜三郎、田付兵庫等《タヅケ兵庫ら》をして鉄砲の者を召連《召し連》れて、越前勢の傍《傍ら》より真田勢《/真田勢》を釣瓶打《釣瓶打ち》にすべしと命じた位である。  真田勢の死闘の程思《ほど思》うべしである。  幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺の間に中ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付《取り付》き差《/差し》うつむくところを、忠直卿の家士西尾仁右衛門《家士’西尾仁右衛門》が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。  西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胄《カブト》が、嘗《かつ》て原隼人《/原隼人》に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本闕けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。  西尾は才覚なき士で、その時太刀《とき太刀》を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。  幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸《伊豆ノカミ信幸》に賜ったので、信幸は二男内記《次男/内記》をして首級《/首級》は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。  この役《エキ》に、関西方に附いた真田家の一族は、尽く戦死した。甥幸綱、幸堯等《ユキタカら》は幸村と同じ戦場で斃れた。  一子大助《一子’大助》は、城中において、秀頼公の最期間近《最期’間近》く自刃して果て、父の言葉に従った。 ◇。◇。◇。 【底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社】 【  1987(昭和62)年2月10日第|1刷発行《イッサツ発行》】 【※《◇》底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-《の》86)(「三ヶ国」)を大振りに、《:、》地名などに用いる「ヶ」(「関ヶ原」等)を小振りにつくっています。】 【入力:網迫、大野晋、Juki】 【校正:土屋隆】 【2009年9月10日作成】 【2010年10月30日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。