◇。◇。◇。 【真田幸村】 【菊池寛】 ◇。◇。◇。 【第1章】 【真田タイ徳川】 ◇。◇。◇。  真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我が弟/実名は武田信玄の舎弟’典厩と同じ名にて/アザナも同じ」と云っているから/信繁と云ったことは、確かである。  『真田家古老物語』の著者’桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中ごろ幸重、後にノブヨシと称せられしものなり」と云っている。  大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、ノブヨリと書いている。これで見ると、徳川時代にはノブヨリで通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。  むかし、姓名判断’などは、なかったのであるが、幸村ほど智才秀れしものは/時に際し/事に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。  真田は、信濃の名族’海野小太郎のマツイ-ンで、相当な名族で、祖父の幸隆のとき武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子のダイスケを加えて、四代記にしてもいい位である。  一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、なぜ秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重なっているのである。  上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川/左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びたあと、真田が自力を以って、切り取った土地である。  武田亡びたあと、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代わりお前には上田をやると云った。  所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、なんにも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田は我が鉾を以って、取った土地である。ゆえなく人に与えんこと叶わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使いを出して、属すべき由/云い送った。天正十三年の事である。  家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政らに攻めさせた。  それを、昌幸が相当な軍略を以って、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。  この競り合いが、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。  その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。  家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使いを出すと、昌幸は「左様の使いにてアルマジキナリ。使いの聞き誤りならん。急ぎ帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概’想うべしである。  そこで、家康が秀吉に相談すると、 「真田もっともなり、中務が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。  家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房のエニシに引かれて、後年/父や弟と別れて、家康に随ったわけである。  所が、天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年’徳川どのと和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使いが板部岡’江雪斎と云う男だ。  北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。  秀吉即ち、上州に於ける真田領地のうち沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一をナグルミ城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。  江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣ノリナオと云う武士が、我武者羅で、条約もなんにも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閤に訴えた。太閤は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。  昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。  これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡’江雪斎を捕え、手枷足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は滅んだではないか。主家を滅ぼして快きか」と、罵しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも悪びれず:、「北条家に於いて、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士/時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運のつくる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、ハンサイを支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。  秀吉その答えを壮とし「汝は京都に送り磔にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時ちょうど奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき/江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。  とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じていたに違いない。  その後、昌幸は秀吉に忠誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀吉の身辺に在りて、相当’好遇されたに違いない。 ◇。◇。◇。 【第2章】 【関ヶ原のエキの真田】 ◇。◇。◇。  関ヶ原の時、真田父子三人/家康に従って、会津へ向かう途中、石田三成からの使者が来た。昌幸:、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。  昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は雄略百万の人に越えたる人なれば、討ち滅ぼさるべき人に-あらず、徳川方に味方するに-しかずと云う。  茲で、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激論した。佐々木味津三君の大衆小説に、その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。  信幸、我れ本多に親しければ石田に与しがたしと云うと、幸村、女房のエニシに引かれ/父に弓引くようやあると云う。  信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、そのとき党与の人々必ず戮を受けん。我々父と弟との危うきを助けて/家の滅びざらんことを計るべしと。幸村曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。なんぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来/豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔く振舞うこそよけれ、なんじょう汚く生き延びることを計らんやと。信幸怒ってまさに幸村を切らんとした。幸村は、首を刎ねることは許されよ、幸村の命は豊家のために失いもうさん、志しなればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い/各々その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。  この会談の場所は、佐野テンミョウであるとも云い、犬伏と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に切りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。  後年の我々が知っているように、石田ガタがはっきり敗れるとは分かっていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。  そして、昌幸の肚のうちでは、真田が東西両軍に別れていれば/いずれか真田のケツミャクは残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互いに救い合おうと云うような事も、暗々リには黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。  真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方のギョクを出して置く/両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以ではない。真田父子三人/家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、ジュウナン万石の大名として残った。  しかし、関ヶ原で跡方もなく滅んだ諸侯に-くらぶれば、いくらか-ましかも知れない。  信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、戦さに勝ちたくば信州をやる印ぞと云って/刀の下緒の端を切って呉れた。  昌幸と幸村は、信州へ引き返す途中/沼田へ立ち寄ろうとした。沼田城は、信幸の居城で、信幸の妻たる例の本多忠勝の娘が、留守を守っていたが、昌幸が入城せんとすると曰く:、既に父子/アダとなりて引き分かれそうろう上は、たとい父にておわしそうろうとも/城に-いれんこと思いも寄らずと云って:、門を閉ざし女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を、玄関につながした。昌幸’感心して、日本一と世に云える本多中務の娘なりけるよ。弓取の妻は、かくてこそあるべけれと云って、寄らずに上田へ帰った。本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山のエキ、たった五百騎で、秀吉が数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。蜻蛉切り長槍を取って武功随一の男である。ある時、忠勝子息の忠朝と、居城桑名城の濠に船を浮べ、子息忠朝に、櫂であの葦をないで見よと云った。忠朝も、ゴウリキ無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、葦が折れた。忠勝’見て、当世の若者は手ぬるし、我にかせと、自身/櫂を持って横に払うと、葦が切れたと云う。そんな事が可能かどうか分からぬが、とにかく秀吉にチュウシンの冑を受け継ぐものは、忠勝のほかにないと云われたり:、関東の本多忠勝、関西の立花宗茂と比べられたりした/典型的の武人である。  昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせなかった話は、歴史的にも有名である。  関ヶ原のエキに西軍が勝って論功行賞が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加えて、三ヶ国くらいは貰えたであろう。  真田安房守昌幸は戦国時代に於いても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗くらいの仕事は出来たかも知れない男の一人である。そのうえ武威赫々たる信玄の遺臣として、その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房守に劣るまじく」と云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少なかったが、家康などは可なりうるさ-がっていたに違いない。  秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番ひとり、向こう側の味方の陣まで、使いを命ぜられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男/帰途、また搦手に来たり、通らせてくれと云う。昌幸また易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通るヤツだが、通す奴も通すヤツだと云って感嘆したと云う。  此時の城攻めに、後年の小野次郎左衛門こと神子上典膳が、一の太刀の手柄を表している。ケンの名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない、寄手力攻めになしがたきを知り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなかった。  関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以って父弟の命に換えんことを乞う。だが昌幸に邪魔された秀忠の怒りは、容易に’釈けなかったが、信幸/父を誅せらるる前に、かく申す伊豆ノカミに切腹仰せつけられそうらえと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに異なる豆州かなと、感嘆した。 ◇。◇。◇。 【第3章】 【大阪入城】 ◇。◇。◇。  関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の麓/九度カムロのシュクに引退す。この時、発明した内職が、真田紐であると云うが‥:‥昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後’三年にして必ず、東西’手切れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って嗟嘆した。  幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸曰く/策を教えて置くのは易いが、汝は我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうと云った。幸村’是非にと云うたので、昌幸曰く「東西’手切れとならば、軍勢を率いて先ず美野/青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかし、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、シゴニチを支えることが出来るだろう。かくすれば/真田安房守こそ東軍を支えたと云う噂が天下に伝わり、太閤恩顧の大名で、大阪ガタへ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生きていたれば、出来るので、汝は武略’我に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行われないだろう」と云った。後年’幸村’大阪に入城し、冬の陣の時、しろを出で、東軍を迎撃すべきことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通りであると云うのである。  大阪陣の起る前、秀頼よりの招状が幸村の所へ来た。徳川家の禄を食みたくない以上、大阪に依って、事を成そうとするのは、幸村として止むを得ないところである。秀頼への忠節と云うだけではなく、親譲りの意地でもあれば、武人としての夢も、多少はあったであろう。  真田’大阪入城のデマが盛んに飛ぶので、紀州の領主’浅野長晟は九度山附近のヒャクショウに命じて/ひそかに警戒せしめていた。  所が、幸村、父昌幸の法事を営むとの触れ込みで、附近の名主’大庄屋と云った連中を招待して、下戸ジョウゴの区別なく酒をしい、酔いつぶしてしまい:、そのあいだに一家一門/予て用意したる支度甲斐甲斐しく/ヒャクショウどもの乗り来たれる馬に、いろいろの荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、槍、薙刀の鞘をはずし、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川’を渡り、大阪をさして出発した。附近のヒャクショウども、あれよあれよと騒いだが、村々在々の顔役どもは真田邸で酔いつぶれているので、どうすることも出来なかった。浅野長晟これを聴いて、真田ほどの者をヒャクショウどもに監視させたのは、こちらの誤りであったと後悔した。  その辺、いかにも軍師らしくていいと思う。  大阪へ着くと、幸村は、ただひとり大野シュリ治長の所へ行った。その頃、剃髪していたので、伝心ゲッソウと名乗り、大峰の山伏であるが、祈祷の巻物差しあげたいと云う。折柄シュリ不在で、番所の脇で待たされていたが、折から十人許りで、刀脇差の目利きごっこをしていたが、一人の武士、幸村にも刀’拝見と云う。幸村/山伏の犬脅しにて、お目にかけるものにてはなしと云って、差し出す。若き武士/抜きて見れば、ヤイバの匂、かねの光’云うべくもあらず。脇差も亦然り。とてもの事にと、中子を見ると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。只者ならずと若武士ども騒いでいる所へ、治長帰って来て、真田であることが分ったと云う。  その後、幸村/かの若武士達に会い、刀のお目利きは上がりたるやと云って戯れたと云う。 ◇。◇。◇。 【第4章】 【真田丸】 ◇。◇。◇。  東西’手切れとなるや幸村は城を出で、東軍を迎え撃つことを力説し、後藤又兵衛もまた真田説を援けたが、大野渡辺らの-いるる所とならず、遂に籠城説が勝った。前回にも書いてある通り、大阪城その物を’頼み切っているわけである。  籠城の準備として、大阪城へ大軍の迫る道は、南よりほかないので、この方面に砦を築く事になった。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くにはクッ竟の所なので、構築にかかったが:、その工事に従事しているニンプたちが、いつとは’なしに、この出丸を堅固に守らん人は、真田のほかなしと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、ついてしまった。  城中’詮議の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下’七十余ニンしかないので辞退したが、後藤が、「ニンプども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意ない事ではないか」と云ったので:、「然らば、とてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ」と云って引き受けた。  真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸のカネザシとて/兵家の秘法になれりと『慶元記参考』にある。  真田は冬の陣中/自分に附けられた三千人を率いて此の危険なショウサイを守り、数万の大軍をシホウに受け、恐るる色がなかった。 ◇。◇。◇。 【第5章】 【家康の勧誘】 ◇。◇。◇。  真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。媾和になってから家康は、幸村を勧誘せんとし、幸村の叔父/隠岐ノカミ信尹を使いとして「信州にて三万石をやるから」と言って、味方になることを、勧めさせた。  幸村は、出丸の外に、叔父信尹を迎えて、絶えて久しい対面をしたが、徳川家に附く事だけはきっぱり断った。  信尹はやむなく引返して、家康にその由を伝えると、家康は「では信濃一国を宛ておこなわん間いかにと/重ねて尋ねて参れ」と言った。信尹、再び幸村に対面してかく言うと、「信濃一国は申すに及ばず、天下に天下を添えて賜るとも、秀頼公に背きて不義は仕らじ。重ねてかかる使いをせられなば存ずる旨あり」と、断乎として言って、追返した。  『常山紀談』の著者などは、この場合、幸村がかくも豊臣家のために義理を立通そうとしたのは、必ずしも、道にかなえり、とは言うべからずと言っている。 「豊臣家は真田スウセイのクンに-あらず、若し、クンに背かずの義を論ぜば、武田家亡びて後世をすててサンチュウにかくれずば/いかにかあるべき」  など評している。  が、幸村としてみれば、豊臣家には父昌幸以来の恩義があると共に、徳川家に対しては、前に書いておいた如く、矢張り父昌幸以来のいろいろの意地が重なっているのである。でないとした所が、今になって武士たるものが、心を動かすべき筈はないのである。  豊臣家譜代の連中が、関東方について城攻めに加わっているのに、譜代の臣でもない幸村が、断乎大阪方に殉じているなど会心の事ではないか。なお、これは余談だが、大阪ガタについた譜代の臣の中で/片桐且元など殊にいけない。  坪内逍遥博士の『桐一葉』など見ると、且元という人物は極めて深謀遠慮の士で、秀吉亡き後の東西の感情融和に、反間苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、嘘である。  『駿府記』など見ると、且元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり-いで、御前で、藤堂高虎と大阪攻口を絵図をもって、謀議したりしている。  また、冬の陣の当初、大阪ガタが堺に押し寄せた時、且元、手兵を派して、堺を助け、大御所への忠節を見せた、など『本光国師日記』に見えている。  且元のこうした忌まわしい行動は、当時の心ある大阪の民衆に極度の反感を起さしめた。ナニガシといえる侠客の徒輩が、遂に立って且元を襲い、その兵’百人ばかりを殺害したという話がある。  且元、のちにこれを家康に訴え、その侠客を制裁してくれと頼んだが、家康は笑って応じなかった。  当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分かるわけである。『桐一葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、誰も演るものがないからいいようなものの。 ◇。◇。◇。 【第6章】 【東西和睦】 ◇。◇。◇。  和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なることを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが:、例によって、大野、渡辺らの-いるる所とならなかったわけである。  幸村は、偶々越前少将忠直卿の臣/原隼人貞胤と、互いに武田家にありし時代の旧友であったので、一日、彼を招じて、もてなした。  酒盃数献の後、幸村/小鼓を取出し、自らこれを打って、一子大助に曲舞数番舞わせてキ-ョウを尽した。  この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。終には弓箭に罷りなるべくと存ずれば、幸村父子は一両ネンの内には討死とこそ思い定めたれ」と言って、トコのマを指し:「あれに見ゆる鹿のカカエヅノ打ったる冑は/真田家に伝えたる物とて、父安房守’譲り与えてそうろう、重ねての戦さには必ずきして討ち死に仕らん。見置きてたまわりそうらえ」と云った。  それから、庭に出て、シロカワラゲなる馬の逞しきに、六文銭を金もて-すりたる鞍を置かせ、ゆらりと打ち跨り、ゴロク度乗まわして、原に見せ、「此の次ぎは、城壊れたれば、平場の戦なるべし。我れ天王寺表へ乗出し、この馬の息’続かん程は、戦って討死せんと思うにつけ、一入’秘蔵のものにそうろう」と言って、馬より-おり、それからさらに酒宴を続け、ヤハンに至って、この旧友たちは、名残を惜しみつつ別れた。  果して、翌年、幸村は、この冑を被り/この馬に乗って、討死した。  また、この和睦の成った時、幸村の築いた真田丸も壊されることになった。  この破壊工事の奉行に、本多正純がやって来て、おのれの手で取壊そうとしたので、幸村’大いに怒り/抗議を申し込んだ。  が、正純も中々引退らぬ。  両者が互いにいがみあっている由がやがて家康の耳に入った。すると、家康は「幸村が申し条ことわりなり、正純心得違いなり」と、早速’判決を下して、幸村に、自分の手で勝手に取壊すことを許した。  この辺り、家康おおいに寛仁の度を示して、あくまで幸村の心を関東に惹かんものと試みたのかも知れない。が幸村は、全く無頓着に、自分のニンプを使って、地形までも跡方もなく削り取り、昌幸’伝授の秘法の跡をとどめなかった。 ◇。◇。◇。 【第7章】 【天王寺口の戦】 ◇。◇。◇。  元和元年になると/東西の和睦は既に破れ/関東の大軍、はや伏見まで-ちゃくすと聞こえた。  五月五日、この日、道明寺タマテ-オモテには、既に戦さ始まり、幸村の陣取った太子へも、その鬨の声、筒音など響かせた。  朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十ポン、ニンズ二’三万許り、国府越よりこちらへ超え来たりそうろうと告げた。これ/伊達政宗の軍兵であった。が、幸村’静かに、障子に倚りかかったまま、さあらんとのみ言った。  午後、物見の者、また帰って来て、今朝のと旗の色’変わりたるもの、ニンズ二万ほど/竜田越に押し下りそうろう、と告げた。これ/松平忠輝が軍兵であった。幸村/ソラ眠りしていたが、目を開き「よしよし、いか程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。  軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。  さて、夕餉も終ってのち、幸村徐ろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は’道明寺表に陣取った。  明くれば六日、早旦、野村辺りに至ると、既に渡辺内蔵助糺が水野勝成と戦端を開いていた。  相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍来たると分かると、糺は使いを遣わして「只今の競り合いに傷を蒙りて”また戦うこと成り難し。しかる故、貴殿の駆け引きに妨げならんと存じ/ニンズを脇に引取りそうろう。かくして横を-うたんずる勢いを見せて控えそうろう。これ貴殿の一助たるべきか」と言って来た。  幸村、喜んで「お働きの程、目を愕かしたり。敵はこれよりわれらが受取ったり」と言って、軍を進めた。  水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝らの連合軍であった。幸村いよいよ現われると聞き、政宗のヘイ、一度に掛り来る。  ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が’岡になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右田疇に連なっている。  幸村の’兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬テッポウ-ハッピャクチョウが、一度に打立てた。  この騎馬テッポウは、政宗御自慢のものである。  仙台といえば、聞こえた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の次男サンナンの壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の備えの乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい/荒々しき戦法’である。  この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷つき、死する者も相当あった。  然し、幸村は「爰を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、平伏したまま、ひく者はなかった。  始め、幸村は暑熱に兵’の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も’持たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以って、「冑を着よ」と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。  これが、兵’の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍びのオを締め、鎗をしごいて立った兵らの勇気は百倍した。  さしもの伊達の騎馬テッポウに耐えて、新附ケゴウの徒である幸村の兵に/一歩も-ひく者のなかったのはそのためであろう。  幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、煙も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれとダイオンジョウに下知した。声の下より、皆起って突っかかり、瞬く間に、政宗のサキ手をシチ八町ほど退かしめた。政宗のサキ手には、かの片倉小十郎、石母田タイゼンらが加わっていたが、「敵は小勢ぞ、ひっくるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。  これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。  新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。  幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。  そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切り込まんと約せしに/時刻おそくなり、後藤を討死させし故、ハカリゴト/空しくなり申しそうろう。これも秀頼公ご運の尽きぬるところか」と。  この六日の朝は、霧ふかくして、夜の明けも分からなかったので/幸村の出陣が遅れたのである。若し、そんな支障がな-かったら、関東軍は、幸村らに、どれ程深く切り込まれていたか分からない。  勝永も涙をオモテに泛べ「さり乍ら、今日のお働き、大軍に打ち勝たれた武勇の有様、いにしえの名将にもまさりたり」と称揚した。  幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取ったる首を/鞍のシオデに附け、相当の手傷を負っていたが、ながるる血を-ぬぐいもせずに、そこへ馳せて来た。  勝永これを見て、更に「あわれ/父が子なり」と称えたという。  こうして、五月六日の戦さは、真田父子の水際’だった奮戦に終始した。 ◇。◇。◇。 【第8章】 【真田の棄旗】 ◇。◇。◇。  五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田シュリノスケ光重は能く河内の地に通じたるを以って、先陣として二千余騎を率い/大和川へ差しかかった。  そのあとから、越前勢の大軍が粛々と進んだ。  が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔に佇むもの多かった。大将シュリノスケは「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛び込んで渡った。  幸村は、夙にこの事あるを予期して、川底に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒れた。  折から、五月雨の水勢烈しきに、容赦なく押し流された。  茲に最も哀れをとどめたのは、大将’吉田シュリノスケである。彼は、真っ先に飛び込んで、間もなく馬の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、真っ逆さまに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体となって上がった。  また、同じ刻限、天王寺オモテの嚮導、石川伊豆ノカミ、宮本丹後ノカミら三百ヨニンが平野のミナミ門に着した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって/入りようがない。廻って東門を覗ったが、同様である。うちには、六文銭の旗サンヨン旒、朝風に吹靡いて整々としていた。 「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂濶に手を出すべからず」:その上、越前勢も、大和川の失敗で、中々到着するけしきもないので/石川らは、東のカシに控えて様子を覗っていた。  夜がほのぼのと明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、うちは森閑として、人の気配もなかった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢のサキ手がやっとのことで押し寄せて来た。  大和川に流された吉田シュリノスケに代わって、本多飛騨ノカミ、松平壱岐ノカミら以下の二千余騎である。  が、石川宮木らは、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。  石川宮木らが葵の紋に気付いた時は、既に手のくだしようのない烈しい戦いになっていた。ようやくのことで、彼等が、カブトを取り、大地にひざまずいたので、越前勢も鎮まった。  しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等は、その場を繕うために、雑兵の首/十三ほどを切り取り、そこにあった真田の旗を証拠として附けて、家康に差し出した。  家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」と御褒めになり、その旗を家宝にせよとて、傍らの尾張義直卿に進ぜられた。  義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色’変わり「これは家宝にはなりませぬ」と言う。  家康もまた、よく見れば、旗の隅にホソ字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些かテレ隠しであったろう。  寄手の軍が、こんな失敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から/イシノハナオモテの西まで三隊に備え、ハタウマ印を竜粧に押し立てていた。  殺気’天を衝き、コクウンの巻き上がるが如し、という概があった。  日も上るに及んで、いよいよカッセンの開かれんとする時、幸村はイッシ大助を呼んで、「汝は城に還りて、く-んが御生害を見届けのち’はつべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、なかなか聴かなかった。そして、「あくまで父の最期を見届けたい」と言うのをなだめ賺して、やっと城中に帰らせた。  幸村は、大助の後ろ姿を見、「昨日’誉田にて痛手を負いしが、よわるテイも見えず、あのぶんなら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。  時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた/原隼人との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲ばしめると思う。 ◇。◇。◇。 【第9章】 【幸村の最期】 ◇。◇。◇。  幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。  幸村は、屡々越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間のタツノ丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。  幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石カモンノスケ-ナリトヨをして/今宮オモテより阿部野へ回らせて、大御所の本陣を後ろより衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて/着々と運ばなかった。  そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公がオンハタお馬ジルシを、玉造口まで押し出させ、寄手の勢力を割いて/明石が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平ジらが、その緊急の使者に城中へ走った。  この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使’榊原飛騨ノカミである。飛騨守は「今こそ攻めるべし、おくるれば必ず後ろより追撃されん」と忠直卿に言上した。  忠直卿さっそく、舎弟/伊予ノカミ忠昌、出羽ノカミ直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以って押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方の備えをもって、これに当たっていた。  すると、意外にも、本多忠政、松平忠明ら、渡辺大谷などの備えを遮二無二’切り崩して/真田が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成らも、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、ついにサンポウから敵を受けたのである。 「もはやこれまでなり」と意を決して、冑の忍びのオをマスハナガタに結び──これは討死の時の結びようである──馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って/敵に向かったと言う。  三方の寄せ手’合せて三万五千人、真田勢わずかに二千余ニン:、しかも、寄手の戦績はかばかしく上がらないので、家康は気を揉んで、稲富喜三郎、タヅケ兵庫らをして鉄砲の者を召し連れて、越前勢の傍らより/真田勢を釣瓶打ちにすべしと命じた位である。  真田勢の死闘のほど思うべしである。  幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺の間に中ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取り付き/差しうつむくところを、忠直卿の家士’西尾仁右衛門が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。  西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にそのカブトが、かつて/原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本闕けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。  西尾は才覚なき士で、そのとき太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。  幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆ノカミ信幸に賜ったので、信幸は次男/内記をして/首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。  このエキに、関西方に附いた真田家の一族は、尽く戦死した。甥幸綱、ユキタカらは幸村と同じ戦場で斃れた。  一子’大助は、城中において、秀頼公の最期’間近く自刃して果て、父の言葉に従った。 ◇。◇。◇。 【底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社】 【  1987(昭和62)年2月10日第イッサツ発行】 【◇底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5の86)(「三ヶ国」)を大振りに:、地名などに用いる「ヶ」(「関ヶ原」等)を小振りにつくっています。】 【入力:網迫、大野晋、Juki】 【校正:土屋隆】 【2009年9月10日作成】 【2010年10月30日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(httpコロン”//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。