◇。◇。◇。 【シベリヤの三等列車】 【林芙美子】 ◇。◇。◇。 【|1信《イッシン》】  満洲の長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白く見えるだけで、雪はまだ降つ《っ》ていません。──去年、手ぶらで来ました時と違つ《っ》て、トランクが四ツ《つ》もありましたし、駅の中は兵隊の波で、全く赤帽を呼ぶどころの騒ぎではないのです。ギラギラした剣附鉄砲《剣付きデッポウ》の林立している、日本兵の間を|潜つ《くぐっ》て、やつ《っ》と薄暗《薄ぐら》い待合所の中へ|はい《入》りました。此待合所《この待合所》には、売店や両替所や、お茶を呑むところがあります。五銭のレモンティを呑みながら、見当もつかない茫々とした遠い道筋の事を考へ《え》たのですが、──「《:「》此間満鉄《このあいだ満鉄》の社員が一人、ハルピンと長春との間で列車から引きずり降ろされて今だに不明なんですがね」とか、「チチハルの領事が惨殺されたさ《そ》うですよ」なぞと、奉天通過の時の列車中の話です。あつ《っ》ちでもこつ《っ》ちでも戦争の話なのですが、どうもピリッと来ない。──兎《と》に角《かく》、何処《どこ》に居ても死ぬるのは同じことだと、妙に肝が坐つ《っ》て、何度もホームに出ては、一ツづ《ず》つトランクを待合所に運んで、私は呆《ぼ》んやりと売店の陳列箱の中を見ていました。去年は古ぼけた栗島澄子や高尾光子の絵葉書なんか飾つ《っ》てあつ《っ》たものですが、そんな物は何も無くなつ《っ》ていて、いたづ《ず》らに、他席他郷送客杯《他席他郷カクを送るのハイ》の感が深いのみです。  ここでは満洲人のジャパンツーリスト社員に大変世話《大変’世話》になり、妙に済まなさが先きに立つ《っ》て、擽つ《っ》たい気持ちでした。ここだけでも二等にされた方《ほう》が良《-い》いと|云ふ《言う》言葉を|すなほ《素直》に受けて、長春ハルピン間を二等の寝台に換へ《え》ました。不安でしたが、やつ《っ》ぱり金《-かね》を出しただけの事はあるなんぞと妙なところで感心してしまつ《っ》たりしたものです。 「内側からか《こ》うして鍵をかつ《っ》ておおきに《-に》なれば大丈夫ですよ」  若い満人のビュウローの社員は、何度となく鍵を掛けて見せてくれました。ここからはロシヤ人のボーイで日本金のチップを喜ぶと|云ふ《言う》事です。で、やれやれこれでよしと|云つ《言っ》た気持ちで鍵を締めて、寝巻きに着かへ《え》たりなんぞしていますと、何だか山の中へでも来た時のや《よ》うに遠《/遠》い耳鳴りを感じました。四囲《辺り》があまり静かだからでせ《しょ》う。此列車《この列車》からホームまではかなり遠いのです。列車が動き出しますと、満人のボーイが床《トコ》をのべに来てくれます。此《この》ボーイは次の駅で降りてしまふ《う》ので、床《トコ》をのべに来る時《とき》、持つ《っ》て来た紅茶の下皿に拾銭玉一《拾銭ダマ一》ツ入れてやりました。やらなくてもいいと聞きましたが、大変丁寧《大変’丁寧》なので、やりたくなります。  四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵をかつ《っ》て寝ちまふ《う》事だと電気を消さ《そ》うと頭の上を見ますと、私の寝室番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭な気持ちがして、母が持たしてくれた金光《キンコウ》さまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。迷信家だなんて笑ひ《い》ますか《が》、今だにあの子供のや《よ》うな気持ちを私はなつかしく思ふ《う》のですが‥‥。十三日の朝八時頃《朝’八時頃》、何事もなくハルピンに着きました。折悪しく私の列車は、貨物列車の間に這入つ《っ》て行つ《っ》たので、北満《ホクマン》ホテルのポーターに見つかりもせず、とてもの事に一人で行つ《っ》てしまへ《え》と、四ツ《つ》のトランクをロシヤ人の赤帽にたのんで、兎《と》に角駅《かく駅》の前まで運んで貰ひ《い》ました。──冬のハルピンは夏より好きです。やつ《っ》ぱり寒い国の風景は寒い時に限ります。空気がハリハリと硝子のや《よ》うでいい気持ちでした。 「ヤポンスキーホテル・ホクマン」  これだけでロシヤ人の運転手に通じるのですから剛気なものです。古い割栗の石道《石みち》を自動車が飛ぶや《よ》うに走つ《っ》て、街を歩いている満洲兵の行列なんかを区切ら《ろ》うものなら、私はヒヤヒヤして首を縮めたものです。  さて、一ツの難関は過ぎましたが、いよいよ戦ひ《い》の本場を今晩は通らなければなりません。 ◇。◇。◇。 【2信《シン》】  全く何度も|云ふや《言うよ》うですが、私はハルピンが好きです。第一に物価が安いせいもあるでせ《しょ》うけれども、歩いている人達が、|よりどころ《拠り所》もなく淋しげに見えるからでせ《しょ》うか‥‥。北満《ホクマン》ホテルへ着きますと、皆覚《みんな覚》えていてくれました。去年のままの顔馴染の女中達でした。「こつ《っ》ちは大丈夫でしたか❢《❢。》」まづ《ず》こんな事から挨拶を交は《わ》したのですが、ハルピンは日本で考へ《え》ていた以上に平和でした。「こつ《っ》ちは何でもございませんよ」長崎から来た女中なぞは、ハルピンは呑気なところだと笑つ《っ》ています。窓から眺めた風景だけでも戦ひ《い》はどこにあるのだら《ろ》うと思は《わ》せる位《くらい》でした。──日本の茶漬も当分食《当分’食》べられないだら《ろ》うと、朝御飯には味噌汁や香のものを頼みました。 「此間《この間》も日本の女の方《かた》が一人でお通りになりました」 「その方も無事にシベリヤへ行かれたや《よ》うですか?」 「はい、御無事《ご無事》で行かれたや《よ》うです。お立ちになります時、やつ《っ》ぱりか《こ》うして日本食を召し上《上が》りながら、死んでしまふ《う》かも知れませんなんかと、淋しさ《そ》うに|云つ《言っ》ていらつ《っ》しや《ゃ》いましたが、‥‥」  音楽学校の先生でショウジさんと|云ふ《言う》方らしい。東京の列車から御一緒《ご一緒》にパリーまで道連れにして貰は《お》うなんぞと思つ《っ》たのですが、何しろ二等で行かれるのでは、ケタが違ふ《う》ので、私は六日遅《6日遅》れてしまつ《っ》たのです。 「その方、運が良かつ《っ》たのですね、私なんか無事に越せますかしら‥‥」そんな事を話しあつ《っ》ていますと、チチハルから、今婦女子《いま婦女子》だけが全部引上《全部’引上》げて来たと|云ふ《言う》ニュースがはいりました。女中達は、二三日泊つ《っ》て様子を見てみたらどんなものかと|云つ《言っ》てくれますが、様子なんぞ見ていたら、まづ《ず》困つ《っ》てしまふ《う》ので、どんな事があつ《っ》ても、午後三時出発にきめてしまひ《い》ました。ハルピンからシベリヤへ行く日本人は私一人です。エトランゼも居るにはいましたが、ごく少数で、ドイツの機械商人と、アメリカの記者二三人《記者ニ三人》と、まあ、その位《くらい》のもので、あとは中国の人ばかりです。 「日本人の方でドイツへ行かれる方がいらつ《っ》しや《ゃ》るんですが、二三日様子《二三日’様子》を見るとおつ《っ》しや《ゃっ》ていますよ」  だが、どうしても様子を見ている旅費が切り出せないので、私は列車に乗る事にきめて、街へ買物に出ました。寒さに向つ《かっ》てではありますし、又、シベリヤの食堂車で、一々食事《いちいち食事》をとつ《っ》ていた日には、とても高くかかると|云ふ《言う》事でしたので、まづ《ず》毛布や食料品を買ひ《い》込む事にしました。  ハルピンで買つ《っ》た紅色《ベニイロ》の毛布、これはもう大変な思ひ《い》出ものです。パリ─《ー》の下宿で、いま蒲団《布団》がは《わ》りに使用しています。  安いあけびの籠を買つ《っ》て、それへどしどし買つ《っ》た食料品を詰める事にしました。何しろ初めてのシベリヤ行きなので、──用心して買物をしたつもりでも、沢山抜《たくさん抜》けたところがあるんです。まづ《ず》、葡萄酒を一本買《一本’買》ひ《い》ましたが、ハルピ《ピ-》ン出来を買つ《っ》たので、苦味《苦》くてとても飲めたものではありません。外《ほか》に、紅茶、林檎を十個、梨五個、キャラメル、ソーセージ三種、牛鑵二個《牛缶二個》、レモン二個、バターに角砂糖一箱、パ《/パ》ン二個、ゼリー、それから|ヤカン《薬缶》や、肉刺、匙、ニュームのコップなど揃へました。また、アルコールランプや、オキシフルや、醤油や、アルコール、塩などは、溝口と|云ふ《言う》商品陳列館の人に貰つ《っ》て、これは大変役《大変’役》に立ちました。──それこそ、風呂に這入る暇もなく停車場行です。大毎の小林氏が、チチハルとモスコーへ、誰か迎ひ《い》に出てくれるや《よ》うに電報を打つ《っ》てあげませ《しょ》うと|云つ《言っ》て下すつ《っ》て、一人旅《一人旅’》には一番嬉《一番’嬉》しいことでした。ここでも私は二等の寝台に買ひ《い》かへ《え》て、乗る事にしましたが。──大分番狂《だいぶ番狂》ひ《い》で仕方もないのですが、二三日ハルピンで様子を見ていたと思へ《え》ば良《-い》いと、腰を落ちつけて何気なく、窓硝子を見ると、《:、》何と頬《ホオ》の落ち込んでいる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまひ《い》ました。  ところで、荷物の事なのですけれども、小さいトランクを四《4》つ持つより、大きいのを一ツと、手廻りの物を入れるスウツケースと、その方《ほう》が利巧だと考へ《え》ました。同室者は、ハイラルで降りる、ロシヤ人のお婆さんでした。髪の毛は真白《真っ白》でも帽子を被ると、赤いジャケツを着ていますので、三十歳の若さに見えました。晩の九時頃が、命の瀬戸|ぎは《際》なのですが─《─:》─この、ロシヤ婦人に大丈夫だと|云は《言わ》れて少しは落ちつきが出来ました。 ◇。◇。◇。 【3信《シン》】  十四日です。  私は戦ひ《い》の声を幽かに聞きました。──空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つ《っ》ていましたが、やがて地鳴りのや《よ》うに変《変わ》り、砧のや《よ》うにチョウチョウと|云つ《言っ》た風《ふう》な音になり、《:、》十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々《駅えき》では、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます。  激しく扉を叩くと、私の前に寝ているロシヤの女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きつ《っ》と、「女の部屋で怪《-あや》しかないよ」とでも|云つ《言っ》てくれるのでせ《しょ》う。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと|云ふ《言う》真似をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでせ《しょ》う、ダアダアと|云つ《言っ》て笑ひ《い》出しました。私は此女《この女》と一緒に夕飯を食堂で食べました。何か御礼《お礼》をしたい気持ちでいつ《っ》ぱいなんですが、思ひ《い》つきがなくて、─《─:》─出発の前夜、銀座で買つ《っ》た紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になつ《っ》ても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ❢」と喜んでくれました。まるで子供のや《よ》うです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふ《う》のかと思ふ《う》と、このロシヤのお婆さんにもひどくしつ《っ》くりと似合ひ《い》ました。手真似で女学校の先生だと|云つ《言っ》ていましたが、勿論白系《もちろん白系》の方《ほう》なのでせ《しょ》う。  ひわ色に白にぼたん色に紙風船《/紙風船》のだんだらが、くるくる舞つ《っ》て、何か清々《セイセイ》した風景です、《:、》窓のカーテンは深くおろしたままです、ハイラルには朝十時頃着《朝10時頃着》きました、《:、》もう再び会ふ《う》事はないだら《ろ》う、此深切《この親切》なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれると、私はすぐカーテンの隙間から、ホームに歩いて行く元気のいいお婆さんの後姿《後ろ姿》を見ていました。パリーへ来るまで‥‥《:‥》来てまでも、私は沢山の深切《親切》なゆきずりのひとを知りました、何しても報いられないのですが、そのままお互ひ《い》がお互ひ《い》を忘れて行くのでせ《しょ》うか。‥‥ ◇。◇。◇。  駅のロシヤ風の木柵の傍《そば》には、満人の兵隊とアメリカの記者団が何か笑ひ《い》ながら握手していました。──どうしたせいか、一望の端に見えるシベリヤの空が、ひどく東洋風なので満人《/満人》の人達の方《ほう》の顔が何だかしつ《っ》かりとして見えました。──でもいづ《ず》れの国も虎を背|負つ《おっ》ているかたちかも知れない。‥‥  マンジウリに着いたのがお昼です。露満の国境です。まだ雪は降つ《っ》ていません。珍らしく日本風な太陽が輝いていました。日本風な──笑ひ《い》ますか、こんな言葉も一脈のノスタルジヤでせ《しょ》う。‥‥ここでは大毎の清水氏や、ビュウローの日本のひとが出てくれました。二人ともいい方でした。──安東《アンドン》を出てから二度目の税関です。荷物を税関に運んで、調べて貰ふ《う》間にパスポートにスタンプを押して貰ひ《い》ました。ガランとした税関の高い壁上には、大きなシベリヤ地図が描いてありました。一寸田舎《ちょっと田舎》の小学校の雨天体操場と|云つ《言っ》た感じです。シベリヤを通過する旅客は、ドイツの商人と私との二人きりです。鞄をあけたソヴィエートの税関に調べて貰つ《っ》ている間に、満人の憲兵が何度も私の姓名と職業を尋ねました。パスポートを調べられるのは勿論《もちろん》ですし、所持金まで聞かれました。勿論《もちろん》これはロシヤ側の方《ほう》です。で、私は人に教|はつ《わっ》た通《とお》り、米《アメリカ》ドルで三百ドルだと書いてみせました。写真機もタイプライターも持つ《っ》ていませんでしたが、若《も》し持つ《っ》てをれば、通過する間封《あいだ封》ぜられます。税関では、一ツ《つ》面白い事がありました。下村千秋氏が玉木屋のつくだ煮を下すつ《っ》たのを持つ《っ》ていたのですが、どうしても開けて見せろと|云ふ《言う》ので、私は開いて貝を一ツ摘《-つま》んで食べて見せました。此様《この様》な、まるで土みたいな色をした食料品なぞ、不思議なのでせ《しょ》う。一切の仕事が片づくと、さて、一週間を送るべき、モスコー行きの硬床ワゴンに落ち着きました。 ◇。◇。◇。 【4信《シン》】  共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡つ《っ》ているとか、日本隊は今軍隊《今’軍隊》が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられているとか、風説流々です。戦ひ《い》を前にしての静けさとでも|云ひ《言い》ますのか、マンジウリの駅は、此風説《この風説》に反してひつ《っ》そりしていました。  いよいよソヴェートロシヤ領です。  青い空に真赤《真っ赤》な旗が新鮮でした。赤い貨車が走つ《っ》ている。杳々《ヨウヨウ》とした野が続いて、まるで陸の海です。私はロシヤへ這入つ《っ》てから二拾円だけルーブルに換へ《え》ました。列車の中に国立銀行員が鞄を持つ《っ》てやつ《っ》て来ます。国立銀行員だなんて|云つ《言っ》ても、よぼよぼの電気の集金人みたいな人でした。印刷したてらしいホヤホヤのルーブル紙幣を貰つ《っ》たのですが、まるで、煙草のレッテルみたいで、麦の束が描いてありました。その紙幣を九枚《9枚》に小銭を少し、丁度四拾銭程換算賃《ちょうど四十銭ほど換算賃》をとられました。夕方、時計は七時ですが、明るい内にハラノルへ着きました。小駅《ショウ駅》で、発車を知らせるのに小さい鐘を鳴らしていました。ところで、まづ《ず》、私の寝室をここに書きませ《しょ》う。一室《/一室》に四人づ《ず》つで、一ツ列車に|八ツ《八》室があります。私は、一等も二等も覗いて見ましたけれど、シベリヤを行かれる方には三等をお薦めしたいと思ひ《い》ます。けつ《っ》して住み悪くはありませんでした。初め、列車ボーイに、日本金の参円もやればいいと聞いていました。つまり日が五拾銭の割でせ《しょ》うが、私は何を考へ《え》事をしていたのか、思は《わ》ず五円もやつ《っ》てしまひ《い》ました。大変気前《大変’気前》のいいところを見せたわけです。──ここではルーブルでチップをやつ《っ》てもボーイは決して有難い顔をしないでせ《しょ》う。日本金でやれば、国外で安いルーブルが買へ《え》るからださ《そ》うです。  私の部屋のボーイは、飛車角みたいにづ《ず》んぐりして、むつ《っ》つり怒つ《っ》たや《よ》うな顔をした青年でした。帽子には油じみた斧と鎌《カマ》の、ソヴェートの徽章がついています。五円やつ《っ》たからでもないでせ《しょ》うけれども、大変深切《大変’親切》でした。私は二日間で私の名を覚えさせました。帽子をぬぐと額が雪のや《よ》うに白くて、髪は金色です。モスコーに母親とびつ《っ》この弟が居ると|云ふ《言う》事が判りました。私にパリーへ行つ《っ》て何をするのだと聞きますので、お前のや《よ》うな立派な男をモデルにして絵を描くのだと|云つ《言っ》たら、紙と鉛筆を持つ《っ》て来て描けと|云ふ《言う》のです。私はひどく赤面しました。日本の旅は道づれ世は情《情け》と|云ふ《言う》言葉を、今更うまい事を|云つ《言っ》た|のも《もの》だと感心しています。私の隣室は、ドイツ商人で、ボーイは、ゲルマンスキーの奴はブルジョワだと|云つ《言っ》て指を一本出《一本’出》して笑つ《っ》ていました。何《なん》でブルジョワだと聞くと、タイプライターも、蓄音機も、写真機も持つ《っ》ているからだと|云つ《言っ》ていました。此隣《この隣》りのゲルマンスキーも仲々愛想《なかなか愛想》のいい人でしたが、その同室にいるロスキーは旅行中一番深切《旅行中’一番’親切》でした。私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑は《わ》せるんだから、可愛がつ《っ》てくれたのでせ《しょ》う。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光つ《っ》た四十位《四十くらい》の男と乗つ《っ》ていました。私此《私この》ピエルミで降りると|云ふ《言う》青年がとても好きで、よく廊下の窓に立つ《っ》ては話をするのですけれど、何しろ雲つくや《よ》うな大男なのです。あまり背が高いので、話が遠くて、よくかがんでもらつ《っ》たのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思|ふ程《うほど》、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。 ◇。◇。◇。 【5信《シン》】  十六日の夕方、ノボォーシビルスクと|云ふ《言う》ところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気《嫌け’》がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでいました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでせ《しょ》う。まるで呆《ぼ》んやりとして夢の続きばかりのや《よ》うでした。ノボォーシビルスクでは十五歳位《十五歳くらい》の男の子が一人乗《ひとり乗》つ《っ》て来ました。勿論隣室《もちろん隣室》のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでせ《しょ》うが、来るとすぐ私の部屋に|はいつ《這入っ》て来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。長い事かかつ《っ》て聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のや《よ》うな事をしていて、それに一年振《一年ぶ》りで会ひ《い》に行くのだと|云ふ《言う》事でした。  子供の母親の名前は、カピタリカーパと|云ふ《言う》人ださ《そ》うです。僕はピオニエールだよ、さ《そ》う|云つ《言っ》て元気に出て行きましたが、兎《と》に角《かく》シベリアの三等列車は呑気で面白い。十七日、昼食の註文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと|云つ《言っ》たところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード?」と覗きます。それにダア(承知)とか、ニエット(不承知)とか答へ《え》ればいいんで、訳はないのです。大変昼《大変’昼》が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、註文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しさ《そ》うでした。窓に額をくつ《っ》つけて、吹雪に折れさ《そ》うな白樺のひよ《ょ》ろひよ《ょ》ろした林を見ていると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄つ《っ》てくれたのですが、ロシヤ人はどうしてか《こ》う唄が好きなのでせ《しょ》う。いつ《っ》そ此人《この人》の奥さんになつ《っ》て、ピエルミで降りてしまはうかなんぞやけくそな事を考へ《え》たのですが、何しろ言葉が分《分か》らないし、私とは二尺位《二尺くらい》も背丈が違ひ《い》過ぎるや《よ》うな気がし|まし《ま》すし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫日数《大丈夫/ヒカズ》があるので、楽しみです。甘いつ《っ》て、まあ‥‥《:‥》笑つ《っ》て下さい。自分で何か考へ《え》て行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これで一二等《イチ二等》に乗つ《っ》ている人達はどんな事をして暮らしているのでせ《しょ》うか。  お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。此《この》ミンスク氏の名は、ミンスクで下車するといふ《う》ので、私はいつもミンスクと呼んで笑は《わ》せていました。(ミンスクはポーランドの国境に近い方《ほう》)─《─:》─まづ《ず》、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すいとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位《二拾銭くらい》のものでせ《しょ》う。──悪口《悪くチ》を|云ふ《言う》のではありませんよ。それがここでは三《3》ルーブルです(約三円)。驚木桃《驚き桃》の木山椒《木サンショ》の木とは此事《この事》でせ《しょ》うか。思わず胸に何かこみあげて来るや《よ》うな気がしました。食べている人達はと|云へ《言え》ば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と|云つ《言っ》ても、《、/》ジャケツの糸がほぐれているや《よ》うなのがおほ《お》かたなのですよ。──けつ《っ》して労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでせ《しょ》う。こつ《っ》ちの百姓の女は、絵描きが着るや《よ》うなブルーズを着こんでいます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒つ《っ》ぽい仕事位《仕事くらい》に思つ《っ》ていましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくつ《っ》ていました。  車窓から見た七日間のロシヤの女は、とてもハツラツと元気で、悪く|云へ《言え》ば豚のや《よ》うになつ《っ》ている女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタク事《ゴト》なのでせ《しょ》う。一二等《イチ二等》の廊下で、呆《ぼ》んやり同志《’同志》の働きを見て、爪の化粧をしているロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。──林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、─《─:》─まだ驚きましたのは、バイカルを過ぎた頃売《ころ売》りに来た、いなり寿司のや《よ》うな食料です。思は《わ》ず雑誌を|はふ《放》りつ《っ》ぱなしにして、「アジン❢」と怒鳴りました。二個一ルーブルで買つ《っ》て、肉を刻んだのでも|はいつ《入っ》ているのだら《ろ》うと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、此様《この様》なぜいたくな買物をした記憶を持つ《っ》たのは初めてです。鶏《ニワトリ》の小さい丸焼きが五ルーブル位《くらい》です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつ《っ》たし、茹で玉子が欲しかつ《っ》たし、─《─:》─だが、高くて手に|あひ《入り》ませんでした。 ◇。◇。◇。 【6信《シン》】  シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停《停ま》るたび、片栗粉のや《よ》うにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですか《が》、皆《みんな》ツユウパア(毛皮裏)の外套を着込んで、足にはラシャ地《ヂ》で製つ《っ》た長靴をは《履》いています。  ブリッヂの鉄の棒にでも、一寸手《ちょっと手》をふれれば痛い感じがします。長く握つ《っ》ていると手が凍りつくとボーイが教へ《え》てくれました。此度《このたび》で一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰へ《え》た事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ?」さ《そ》う|云つ《言っ》て、ボーイが私の|ヤカン《薬缶》をさげて湯を貰つ《っ》て来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋で四五人《シゴニ-ン》、大きな事を|云ひ《言い》ながら飲むのです。勿論紅茶《もちろん紅茶》も時々は持つ《っ》て行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでいるや《よ》うでした。鰊くさい漁師が一人いて、ヤポンスキーの函館はよく知つ《っ》ていると|云つ《言っ》て、日本を説明するのでせ《しょ》う。盛《盛ん》にゲイシャ、チブチブチブ‥‥《:‥》と|云ふ《言う》のです。そのチブチブが解らなかつ《っ》たのですが、あとで笑つ《っ》てしまひ《い》ました。チブチブと|云ふ《言う》のはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ‥‥《:‥》と|云つ《言っ》て見せると、さ《そ》うだと|云つ《言っ》て、又、皆《みんな》に説明するのです。何《なん》の事はない信州路行《/信州路行》く汽車の三等と少しも変《変わ》りがありません。──十八日の夜。オムスクと|云ふ《言う》所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、此子供《この子供》はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでいました。ワ─《ー》リャと|云ふ《言う》子です。此《この》ワーリャは可愛かつ《っ》たのですが、ワーリャの母親は、一々物《いちいち物》を呉《く》れ呉《く》れと|云つ《言っ》て嫌でした。私は、三日月と|云ふ《言う》日本の安い眉墨を持つ《っ》ていたのですが、「お前はパリーへ行けば買へ《え》るんだから、それを呉《く》れ」と|云ふ《言う》のです。外《ほか》の者ならパリーにもあるでせ《しょ》うが、娘の頃から使ひ《い》つけているもので、何《なん》としてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンド|ぢや《じゃ》ないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」さ《:そ》う|何度云ひ《何度’言い》聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかかつ《っ》てはおそろしいと、半分引《半分’引》き破つ《っ》て呉《/く》れてしまひ《い》ました。  日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、ロシヤでは、ホーウとか何とか、いい場合の意味らしい。──ワーリャはよたよた歩いてきて、私の頬《ホオ》へ唇をさしよせて来ます。──時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせいか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と|云ふ《言う》人種は、いつ《っ》たいに音楽が好きなのでせ《しょ》う。トロイカと|云ふ《言う》映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されていると|云つ《言っ》ても走つ《っ》ている汽車の中《なか》です。やるせなげな唄を耳にします。窓外《/窓外》は、あの映画に出て来る馬橇《ウマゾリ》が走つ《っ》ています。此《この》ゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のや《よ》うに扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集《集ま》ります。皆《みんな》の顔が生々《生き生き》して来ます。実際音楽《実際’音楽》が好きなのでせ《しょ》う。 ◇。◇。◇。  ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られていたと|云ふ《言う》話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かつ《っ》たので、大変楽《大変’楽》でした。  隣室のピエルミ氏は、毎日詩集《毎日’詩集》のや《よ》うなものを読んでいます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると|云つ《言っ》たら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもつ《っ》と面白い事が出来るのにとくやしがつ《っ》てくれました。ところで、或時《ある時》ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストラン|ぢや《じゃ》ないか」さ《そ》う聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰ひ《い》に来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。 「なぜ、食堂で飯をあたへ《え》ないのでせ《しょ》う」  ピエルミ氏は、子供つ《っ》ぽく笑つ《っ》て、わからないと|云ひ《言い》ました。実|さい《際》、一二度《一’二度》の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らつ《っ》ては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと|云つ《言っ》て、腹をおさへ《え》て悲しげにしてみせます。私は、もう苦味《苦》い葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のや《よ》うになつ《っ》たパンと、林檎を持つ《っ》て行かせて怒つ《っ》た顔をしてみせました。私の食料品も、おほ《お》かたは人《’人》にやつ《っ》てばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残つ《っ》たきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ(大根のや《よ》うなのに人参少し)それに、うどん粉の酸つ《っ》ぱいのや(すいとんに酢をかけたや《よ》うなもの)蕎麦の実《ミ》に鶏《ニワトリ》の骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまふ《う》と、落胆してしまふ《う》のです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブル|払ひ《はらい》ました。毛布と|云つ《言っ》ても、一枚の布と|云つ《言っ》た方《ほう》がいい程《ほど》な古ぼけた柿色の毛布です。手荷物を嫌がらない人だつ《っ》たら、ハルピンあたりで二枚も毛布を買つ《っ》た方《ほう》が長く使へ《え》るでせ《しょ》う。枕や毛布を借りるのはエトランゼだけで、私の隣人達は、枕から毛布、|ヤカン《薬缶》まで持つ《っ》て乗り込んで来ます。背|負つ《おっ》た荷物の中から、か《こ》うした世帯道具《所帯道具》が出るのは、三等車でなければ見られない図でせ《しょ》う。夜は、ボーイの部屋でスープをご馳走になりました。スープと|云つ《言っ》ても塩汁です。大変うまかつ《っ》た。ピオニールも呼んでわけてやりました。ボーイは、私が泣いているので、どうしたのか、《:、》「トウキョウ。ママパパ」|恋ひ《恋》しいかと|云ふ《言う》のでせ《しょ》う。私はスープを貰つ《っ》てすすつ《っ》ていたら、ふいに涙が出て困りました。乗客達《乗客たち》は、私が小さいので、十七八の少女だとでも思つ《っ》ているのでせ《しょ》う。それはそれはロシヤ人は、フランス人よりのつ《っ》ぽです。私は、此《この》ボーイにニュームのコップと、レモンと残つ《っ》た砂糖と、|ヤカン《薬缶》と、茶を、モスコーへ着いたら遣る約束をしました。家には湯わかしがボロボロだと|云ふ《言う》のです。ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせ《しょ》うか、悪く云《言》えば、三等列車のプロレタリヤは皆《みんな》、|ガツガツ《がつがつ》飢えているや《よ》うでした。 ◇。◇。◇。 【底本:「日本の名随筆《メイ随筆》◇ 別巻51◇ 異国」作品社】 【1995(平成7)年5月25日第1刷発行】 【底本の親本:「林芙美子全集◇ 第一〇巻《第10巻》」文泉堂出版】 【1977(昭和52)年4月発行】 【入力:浦山敦子】 【校正:noriko saito】 【2010年3月4日作成】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http|://《コロン/スラッシュスラッシュ》www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。