◇。◇。◇。
【シベリヤの三等列車】
【林芙美子】
◇。◇。◇。
【イッシン】
　満洲の長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白く見えるだけで、雪はまだ降っていません。──去年、手ぶらで来ました時と違って、トランクが四つもありましたし、駅の中は兵隊の波で、全く赤帽を呼ぶどころの騒ぎではないのです。ギラギラした剣付きデッポウの林立している、日本兵の間をくぐって、やっと薄ぐらい待合所の中へ入りました。この待合所には、売店や両替所や、お茶を呑むところがあります。五銭のレモンティを呑みながら、見当もつかない茫々とした遠い道筋の事を考えたのですが、──:「このあいだ満鉄の社員が一人、ハルピンと長春との間で列車から引きずり降ろされて今だに不明なんですがね」とか、「チチハルの領事が惨殺されたそうですよ」なぞと、奉天通過の時の列車中の話です。あっちでもこっちでも戦争の話なのですが、どうもピリッと来ない。──とにかく、どこに居ても死ぬるのは同じことだと、妙に肝が坐って、何度もホームに出ては、一ツずつトランクを待合所に運んで、私はぼんやりと売店の陳列箱の中を見ていました。去年は古ぼけた栗島澄子や高尾光子の絵葉書なんか飾ってあったものですが、そんな物は何も無くなっていて、いたずらに、他席他郷カクを送るのハイの感が深いのみです。
　ここでは満洲人のジャパンツーリスト社員に大変’世話になり、妙に済まなさが先きに立って、擽ったい気持ちでした。ここだけでも二等にされたほうが-いいと言う言葉を素直に受けて、長春ハルピン間を二等の寝台に換えました。不安でしたが、やっぱり-かねを出しただけの事はあるなんぞと妙なところで感心してしまったりしたものです。
「内側からこうして鍵をかっておおき-になれば大丈夫ですよ」
　若い満人のビュウローの社員は、何度となく鍵を掛けて見せてくれました。ここからはロシヤ人のボーイで日本金のチップを喜ぶと言う事です。で、やれやれこれでよしと言った気持ちで鍵を締めて、寝巻きに着かえたりなんぞしていますと、何だか山の中へでも来た時のように/遠い耳鳴りを感じました。辺りがあまり静かだからでしょう。この列車からホームまではかなり遠いのです。列車が動き出しますと、満人のボーイがトコをのべに来てくれます。このボーイは次の駅で降りてしまうので、トコをのべに来るとき、持って来た紅茶の下皿に拾銭ダマ一ツ入れてやりました。やらなくてもいいと聞きましたが、大変’丁寧なので、やりたくなります。
　四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵をかって寝ちまう事だと電気を消そうと頭の上を見ますと、私の寝室番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭な気持ちがして、母が持たしてくれたキンコウさまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。迷信家だなんて笑いますが、今だにあの子供のような気持ちを私はなつかしく思うのですが‥‥。十三日の朝’八時頃、何事もなくハルピンに着きました。折悪しく私の列車は、貨物列車の間に這入って行ったので、ホクマンホテルのポーターに見つかりもせず、とてもの事に一人で行ってしまえと、四つのトランクをロシヤ人の赤帽にたのんで、とにかく駅の前まで運んで貰いました。──冬のハルピンは夏より好きです。やっぱり寒い国の風景は寒い時に限ります。空気がハリハリと硝子のようでいい気持ちでした。
「ヤポンスキーホテル・ホクマン」
　これだけでロシヤ人の運転手に通じるのですから剛気なものです。古い割栗の石みちを自動車が飛ぶように走って、街を歩いている満洲兵の行列なんかを区切ろうものなら、私はヒヤヒヤして首を縮めたものです。
　さて、一ツの難関は過ぎましたが、いよいよ戦いの本場を今晩は通らなければなりません。
◇。◇。◇。
【２シン】
　全く何度も言うようですが、私はハルピンが好きです。第一に物価が安いせいもあるでしょうけれども、歩いている人達が、拠り所もなく淋しげに見えるからでしょうか‥‥。ホクマンホテルへ着きますと、みんな覚えていてくれました。去年のままの顔馴染の女中達でした。「こっちは大丈夫でしたか❢。」まずこんな事から挨拶を交わしたのですが、ハルピンは日本で考えていた以上に平和でした。「こっちは何でもございませんよ」長崎から来た女中なぞは、ハルピンは呑気なところだと笑っています。窓から眺めた風景だけでも戦いはどこにあるのだろうと思わせるくらいでした。──日本の茶漬も当分’食べられないだろうと、朝御飯には味噌汁や香のものを頼みました。
「この間も日本の女のかたが一人でお通りになりました」
「その方も無事にシベリヤへ行かれたようですか？」
「はい、ご無事で行かれたようです。お立ちになります時、やっぱりこうして日本食を召し上がりながら、死んでしまうかも知れませんなんかと、淋しそうに言っていらっしゃいましたが、‥‥」
　音楽学校の先生でショウジさんと言う方らしい。東京の列車からご一緒にパリーまで道連れにして貰おうなんぞと思ったのですが、何しろ二等で行かれるのでは、ケタが違うので、私は６日遅れてしまったのです。
「その方、運が良かったのですね、私なんか無事に越せますかしら‥‥」そんな事を話しあっていますと、チチハルから、いま婦女子だけが全部’引上げて来たと言うニュースがはいりました。女中達は、二三日泊って様子を見てみたらどんなものかと言ってくれますが、様子なんぞ見ていたら、まず困ってしまうので、どんな事があっても、午後三時出発にきめてしまいました。ハルピンからシベリヤへ行く日本人は私一人です。エトランゼも居るにはいましたが、ごく少数で、ドイツの機械商人と、アメリカの記者ニ三人と、まあ、そのくらいのもので、あとは中国の人ばかりです。
「日本人の方でドイツへ行かれる方がいらっしゃるんですが、二三日’様子を見るとおっしゃっていますよ」
　だが、どうしても様子を見ている旅費が切り出せないので、私は列車に乗る事にきめて、街へ買物に出ました。寒さに向かってではありますし、又、シベリヤの食堂車で、いちいち食事をとっていた日には、とても高くかかると言う事でしたので、まず毛布や食料品を買い込む事にしました。
　ハルピンで買ったベニイロの毛布、これはもう大変な思い出ものです。パリーの下宿で、いま布団がわりに使用しています。
　安いあけびの籠を買って、それへどしどし買った食料品を詰める事にしました。何しろ初めてのシベリヤ行きなので、──用心して買物をしたつもりでも、たくさん抜けたところがあるんです。まず、葡萄酒を一本’買いましたが、ハルピ-ン出来を買ったので、苦くてとても飲めたものではありません。ほかに、紅茶、林檎を十個、梨五個、キャラメル、ソーセージ三種、牛缶二個、レモン二個、バターに角砂糖一箱、/パン二個、ゼリー、それから薬缶や、肉刺、匙、ニュームのコップなど揃へました。また、アルコールランプや、オキシフルや、醤油や、アルコール、塩などは、溝口と言う商品陳列館の人に貰って、これは大変’役に立ちました。──それこそ、風呂に這入る暇もなく停車場行です。大毎の小林氏が、チチハルとモスコーへ、誰か迎いに出てくれるように電報を打ってあげましょうと言って下すって、一人旅’には一番’嬉しいことでした。ここでも私は二等の寝台に買いかえて、乗る事にしましたが。──だいぶ番狂いで仕方もないのですが、二三日ハルピンで様子を見ていたと思えば-いいと、腰を落ちつけて何気なく、窓硝子を見ると:、何とホオの落ち込んでいる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまいました。
　ところで、荷物の事なのですけれども、小さいトランクを４つ持つより、大きいのを一ツと、手廻りの物を入れるスウツケースと、そのほうが利巧だと考えました。同室者は、ハイラルで降りる、ロシヤ人のお婆さんでした。髪の毛は真っ白でも帽子を被ると、赤いジャケツを着ていますので、三十歳の若さに見えました。晩の九時頃が、命の瀬戸際なのですが─:─この、ロシヤ婦人に大丈夫だと言われて少しは落ちつきが出来ました。
◇。◇。◇。
【３シン】
　十四日です。
　私は戦いの声を幽かに聞きました。──空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思っていましたが、やがて地鳴りのように変わり、砧のようにチョウチョウと言ったふうな音になり:、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅えきでは、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます。
　激しく扉を叩くと、私の前に寝ているロシヤの女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きっと、「女の部屋で-あやしかないよ」とでも言ってくれるのでしょう。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと言う真似をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでしょう、ダアダアと言って笑い出しました。私はこの女と一緒に夕飯を食堂で食べました。何かお礼をしたい気持ちでいっぱいなんですが、思いつきがなくて、─:─出発の前夜、銀座で買った紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になっても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ❢」と喜んでくれました。まるで子供のようです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合うのかと思うと、このロシヤのお婆さんにもひどくしっくりと似合いました。手真似で女学校の先生だと言っていましたが、もちろん白系のほうなのでしょう。
　ひわ色に白にぼたん色に/紙風船のだんだらが、くるくる舞って、何かセイセイした風景です:、窓のカーテンは深くおろしたままです、ハイラルには朝１０時頃着きました:、もう再び会う事はないだろう、この親切なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれると、私はすぐカーテンの隙間から、ホームに歩いて行く元気のいいお婆さんの後ろ姿を見ていました。パリーへ来るまで‥:‥来てまでも、私は沢山の親切なゆきずりのひとを知りました、何しても報いられないのですが、そのままお互いがお互いを忘れて行くのでしょうか。‥‥
◇。◇。◇。
　駅のロシヤ風の木柵のそばには、満人の兵隊とアメリカの記者団が何か笑いながら握手していました。──どうしたせいか、一望の端に見えるシベリヤの空が、ひどく東洋風なので/満人の人達のほうの顔が何だかしっかりとして見えました。──でもいずれの国も虎を背おっているかたちかも知れない。‥‥
　マンジウリに着いたのがお昼です。露満の国境です。まだ雪は降っていません。珍らしく日本風な太陽が輝いていました。日本風な──笑いますか、こんな言葉も一脈のノスタルジヤでしょう。‥‥ここでは大毎の清水氏や、ビュウローの日本のひとが出てくれました。二人ともいい方でした。──アンドンを出てから二度目の税関です。荷物を税関に運んで、調べて貰う間にパスポートにスタンプを押して貰いました。ガランとした税関の高い壁上には、大きなシベリヤ地図が描いてありました。ちょっと田舎の小学校の雨天体操場と言った感じです。シベリヤを通過する旅客は、ドイツの商人と私との二人きりです。鞄をあけたソヴィエートの税関に調べて貰っている間に、満人の憲兵が何度も私の姓名と職業を尋ねました。パスポートを調べられるのはもちろんですし、所持金まで聞かれました。もちろんこれはロシヤ側のほうです。で、私は人に教わったとおり、アメリカドルで三百ドルだと書いてみせました。写真機もタイプライターも持っていませんでしたが、もし持ってをれば、通過するあいだ封ぜられます。税関では、一つ面白い事がありました。下村千秋氏が玉木屋のつくだ煮を下すったのを持っていたのですが、どうしても開けて見せろと言うので、私は開いて貝を一ツ-つまんで食べて見せました。この様な、まるで土みたいな色をした食料品なぞ、不思議なのでしょう。一切の仕事が片づくと、さて、一週間を送るべき、モスコー行きの硬床ワゴンに落ち着きました。
◇。◇。◇。
【４シン】
　共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡っているとか、日本隊は今’軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられているとか、風説流々です。戦いを前にしての静けさとでも言いますのか、マンジウリの駅は、この風説に反してひっそりしていました。
　いよいよソヴェートロシヤ領です。
　青い空に真っ赤な旗が新鮮でした。赤い貨車が走っている。ヨウヨウとした野が続いて、まるで陸の海です。私はロシヤへ這入ってから二拾円だけルーブルに換えました。列車の中に国立銀行員が鞄を持ってやって来ます。国立銀行員だなんて言っても、よぼよぼの電気の集金人みたいな人でした。印刷したてらしいホヤホヤのルーブル紙幣を貰ったのですが、まるで、煙草のレッテルみたいで、麦の束が描いてありました。その紙幣を９枚に小銭を少し、ちょうど四十銭ほど換算賃をとられました。夕方、時計は七時ですが、明るい内にハラノルへ着きました。ショウ駅で、発車を知らせるのに小さい鐘を鳴らしていました。ところで、まず、私の寝室をここに書きましょう。/一室に四人ずつで、一ツ列車に八室があります。私は、一等も二等も覗いて見ましたけれど、シベリヤを行かれる方には三等をお薦めしたいと思います。けっして住み悪くはありませんでした。初め、列車ボーイに、日本金の参円もやればいいと聞いていました。つまり日が五拾銭の割でしょうが、私は何を考え事をしていたのか、思わず五円もやってしまいました。大変’気前のいいところを見せたわけです。──ここではルーブルでチップをやってもボーイは決して有難い顔をしないでしょう。日本金でやれば、国外で安いルーブルが買えるからだそうです。
　私の部屋のボーイは、飛車角みたいにずんぐりして、むっつり怒ったような顔をした青年でした。帽子には油じみた斧とカマの、ソヴェートの徽章がついています。五円やったからでもないでしょうけれども、大変’親切でした。私は二日間で私の名を覚えさせました。帽子をぬぐと額が雪のように白くて、髪は金色です。モスコーに母親とびっこの弟が居ると言う事が判りました。私にパリーへ行って何をするのだと聞きますので、お前のような立派な男をモデルにして絵を描くのだと言ったら、紙と鉛筆を持って来て描けと言うのです。私はひどく赤面しました。日本の旅は道づれ世は情けと言う言葉を、今更うまい事を言ったものだと感心しています。私の隣室は、ドイツ商人で、ボーイは、ゲルマンスキーの奴はブルジョワだと言って指を一本’出して笑っていました。なんでブルジョワだと聞くと、タイプライターも、蓄音機も、写真機も持っているからだと言っていました。この隣りのゲルマンスキーもなかなか愛想のいい人でしたが、その同室にいるロスキーは旅行中’一番’親切でした。私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑わせるんだから、可愛がってくれたのでしょう。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光った四十くらいの男と乗っていました。私このピエルミで降りると言う青年がとても好きで、よく廊下の窓に立っては話をするのですけれど、何しろ雲つくような大男なのです。あまり背が高いので、話が遠くて、よくかがんでもらったのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思うほど、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。
◇。◇。◇。
【５シン】
　十六日の夕方、ノボォーシビルスクと言うところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌け’がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでいました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでしょう。まるでぼんやりとして夢の続きばかりのようでした。ノボォーシビルスクでは十五歳くらいの男の子がひとり乗って来ました。もちろん隣室のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでしょうが、来るとすぐ私の部屋に這入って来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。長い事かかって聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のような事をしていて、それに一年ぶりで会いに行くのだと言う事でした。
　子供の母親の名前は、カピタリカーパと言う人だそうです。僕はピオニエールだよ、そう言って元気に出て行きましたが、とにかくシベリアの三等列車は呑気で面白い。十七日、昼食の註文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと言ったところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード？」と覗きます。それにダア（承知）とか、ニエット（不承知）とか答えればいいんで、訳はないのです。大変’昼が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、註文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しそうでした。窓に額をくっつけて、吹雪に折れそうな白樺のひょろひょろした林を見ていると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄ってくれたのですが、ロシヤ人はどうしてこう唄が好きなのでしょう。いっそこの人の奥さんになって、ピエルミで降りてしまはうかなんぞやけくそな事を考えたのですが、何しろ言葉が分からないし、私とは二尺くらいも背丈が違い過ぎるような気がしますし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫/ヒカズがあるので、楽しみです。甘いって、まあ‥:‥笑って下さい。自分で何か考えて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これでイチ二等に乗っている人達はどんな事をして暮らしているのでしょうか。
　お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。このミンスク氏の名は、ミンスクで下車するというので、私はいつもミンスクと呼んで笑わせていました。（ミンスクはポーランドの国境に近いほう）─:─まず、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ（肉なし）ウドン粉料理（すいとんの一種）プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭くらいのものでしょう。──悪くチを言うのではありませんよ。それがここでは３ルーブルです（約三円）。驚き桃の木サンショの木とはこの事でしょうか。思わず胸に何かこみあげて来るような気がしました。食べている人達はと言えば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と言っても、/ジャケツの糸がほぐれているようなのがおおかたなのですよ。──けっして労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでしょう。こっちの百姓の女は、絵描きが着るようなブルーズを着こんでいます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒っぽい仕事くらいに思っていましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくっていました。
　車窓から見た七日間のロシヤの女は、とてもハツラツと元気で、悪く言えば豚のようになっている女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタクゴトなのでしょう。イチ二等の廊下で、ぼんやり’同志の働きを見て、爪の化粧をしているロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。──林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、─:─まだ驚きましたのは、バイカルを過ぎたころ売りに来た、いなり寿司のような食料です。思わず雑誌を放りっぱなしにして、「アジン❢」と怒鳴りました。二個一ルーブルで買って、肉を刻んだのでも入っているのだろうと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、この様なぜいたくな買物をした記憶を持ったのは初めてです。ニワトリの小さい丸焼きが五ルーブルくらいです。とても手が出ません。牛乳が飲みたかったし、茹で玉子が欲しかったし、─:─だが、高くて手に入りませんでした。
◇。◇。◇。
【６シン】
　シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停まるたび、片栗粉のようにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですが、みんなツユウパア（毛皮裏）の外套を着込んで、足にはラシャヂで製った長靴を履いています。
　ブリッヂの鉄の棒にでも、ちょっと手をふれれば痛い感じがします。長く握っていると手が凍りつくとボーイが教えてくれました。このたびで一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰えた事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ？」そう言って、ボーイが私の薬缶をさげて湯を貰って来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋でシゴニ-ン、大きな事を言いながら飲むのです。もちろん紅茶も時々は持って行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでいるようでした。鰊くさい漁師が一人いて、ヤポンスキーの函館はよく知っていると言って、日本を説明するのでしょう。盛んにゲイシャ、チブチブチブ‥:‥と言うのです。そのチブチブが解らなかったのですが、あとで笑ってしまいました。チブチブと言うのはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ‥:‥と言って見せると、そうだと言って、又、みんなに説明するのです。なんの事はない/信州路行く汽車の三等と少しも変わりがありません。──十八日の夜。オムスクと言う所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、この子供はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでいました。ワーリャと言う子です。このワーリャは可愛かったのですが、ワーリャの母親は、いちいち物をくれくれと言って嫌でした。私は、三日月と言う日本の安い眉墨を持っていたのですが、「お前はパリーへ行けば買えるんだから、それをくれ」と言うのです。ほかの者ならパリーにもあるでしょうが、娘の頃から使いつけているもので、なんとしてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンドじゃないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」:そう何度’言い聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかかってはおそろしいと、半分’引き破って/くれてしまいました。
　日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、ロシヤでは、ホーウとか何とか、いい場合の意味らしい。──ワーリャはよたよた歩いてきて、私のホオへ唇をさしよせて来ます。──時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせいか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と言う人種は、いったいに音楽が好きなのでしょう。トロイカと言う映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されていると言っても走っている汽車のなかです。やるせなげな唄を耳にします。/窓外は、あの映画に出て来るウマゾリが走っています。このゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のように扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集まります。みんなの顔が生き生きして来ます。実際’音楽が好きなのでしょう。
◇。◇。◇。
　ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られていたと言う話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かったので、大変’楽でした。
　隣室のピエルミ氏は、毎日’詩集のようなものを読んでいます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると言ったら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもっと面白い事が出来るのにとくやしがってくれました。ところで、ある時ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストランじゃないか」そう聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰いに来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。
「なぜ、食堂で飯をあたえないのでしょう」
　ピエルミ氏は、子供っぽく笑って、わからないと言いました。実際、一’二度の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らっては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと言って、腹をおさえて悲しげにしてみせます。私は、もう苦い葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のようになったパンと、林檎を持って行かせて怒った顔をしてみせました。私の食料品も、おおかたは’人にやってばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残ったきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ（大根のようなのに人参少し）それに、うどん粉の酸っぱいのや（すいとんに酢をかけたようなもの）蕎麦のミにニワトリの骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまうと、落胆してしまうのです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブルはらいました。毛布と言っても、一枚の布と言ったほうがいいほどな古ぼけた柿色の毛布です。手荷物を嫌がらない人だったら、ハルピンあたりで二枚も毛布を買ったほうが長く使えるでしょう。枕や毛布を借りるのはエトランゼだけで、私の隣人達は、枕から毛布、薬缶まで持って乗り込んで来ます。背おった荷物の中から、こうした所帯道具が出るのは、三等車でなければ見られない図でしょう。夜は、ボーイの部屋でスープをご馳走になりました。スープと言っても塩汁です。大変うまかった。ピオニールも呼んでわけてやりました。ボーイは、私が泣いているので、どうしたのか:、「トウキョウ。ママパパ」恋しいかと言うのでしょう。私はスープを貰ってすすっていたら、ふいに涙が出て困りました。乗客たちは、私が小さいので、十七八の少女だとでも思っているのでしょう。それはそれはロシヤ人は、フランス人よりのっぽです。私は、このボーイにニュームのコップと、レモンと残った砂糖と、薬缶と、茶を、モスコーへ着いたら遣る約束をしました。家には湯わかしがボロボロだと言うのです。ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでしょうか、悪く言えば、三等列車のプロレタリヤはみんな、がつがつ飢えているようでした。
◇。◇。◇。
【底本：「日本のメイ随筆◇　別巻51◇　異国」作品社】
【1995（平成7）年5月25日第1刷発行】
【底本の親本：「林芙美子全集◇　第１０巻」文泉堂出版】
【1977（昭和52）年4月発行】
【入力：浦山敦子】
【校正：noriko saito】
【2010年3月4日作成】
【青空文庫作成ファイル：】
　このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（httpコロン/スラッシュスラッシュwww.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。