◇。◇。◇。◇。◇。 【真珠夫人】 【菊池寛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第1話】 【奇禍】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈《だんだん烈》しくなって行く焦燥《もどか》しさで、満たされていた。国府津迄《国府津まで》の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持《心持ち》を可《か》なり、いら立たせているのであった。  彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。  時《とき》は六月の初《初め》であった。汽車の線路に添うて、潮《ウシオ》のように起伏《起伏’》している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。ただ、所々植付《ところどころ植付》けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏《初夏’》の風の下に、漂わせているのであった。  常《つね》ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。ただ仏蘭西人《フランス人》らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六《ジュウゴロク》の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初から惹いているだけである。彼は、若い男鹿《オジカ》の四肢のように、スラリと娜《しなやか》な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭《かた》みに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。此《こ》の一行の外《ほか》には、洋服を着た会社員らしい二人連《二人連れ》と、田舎娘とその母親らしい女連《女連れ》が、乗り合わしているだけである。  が、あの湯治階級と云《言》ったような、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金《/プラチナ》や宝石《/宝石》の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局気楽《結局/気楽》だった。彼等は、屹度声高《きっとコワダカ》に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに依って、現在以上に信一郎の心持《心持ち》をいらいらさせたに違いなかったから。  日は、深く翳っていた。汽車の進むに従って、隠見する相模灘はすすけた銀の如く、底光を帯たまま澱んでいた。先刻《さっき》まで、見えていた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了《しま》っていた。相模灘を圧《-あっ》している水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、暗鬱な雲が低迷していた。もう、午後四時《午後4時》を廻《回》っていた。 『静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の廻転《回転》が殊更遅くなるように思われた。信一郎は、|いらいら《イライラ》しくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、空《クウ》に描《-えが》いて見た。何よりも先ず、その石竹色に湿《潤》んでいる頬《ホオ》に、微笑の先駆《先駆け》として浮かんで来る、笑靨《笑窪》が現われた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品《ヒン》のいい鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている処女《乙女》らしい含羞性《シャイネス》、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処《そこ》には居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を|見廻わ《見回》した。が、例の仏蘭西《フランス》の少年が、その時、 「|お母親さん《ママン》!」と声高《コワダカ》に呼びかけた外《ほか》には、乗合の人々は、銘々に何かを考えているらしかった。  汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  湯の宿の欄干に身を靠《-もた》せて、自分を待ちあぐんでいる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転《回転》に連れて消えたりか《/か》つ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与えていたのである。  つい三月《ミ月》ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考えても、上京の途《道》すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行《ホネムーン》らしい幾日かの事を考えても、《:、》彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味しているかをしみじみと悟ることが出来た。  結婚の式場で示した彼女の、処女《乙女》らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於《於い》て、自分に投げて来た全身的な信頼、《:、》日が経つに連れて、埋もれていた宝玉のように、だんだん現れて来る彼女のいろいろな美質、《:、》そうしたことを、取とめもなく考えていると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々《/初々》しい静子の透き通るような|くくり顎《ククリ顎’》の辺《辺り》を、軽く撫《パット》してやりたくて、仕様がなくなって来た。 『僅か一週間、離れていると、もうそんなに逢いたくて、堪らないのか。』と自分自身心《自分自身’心》の中《うち》で、そう反問すると、信一郎は駄々っ子か何かのように、じれ切っている自分が気恥しくないこともなかった。  が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取っては、僅一週間《僅か一週間》ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月《ミ月》も四月《ヨツキ》もに相当するように思われた事だろう。静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行《温泉行き》を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許から、妻を半日でも一日《1日》でも、手放して置くことが、不安な淋《寂》しい事のように思われて、仕方がなかった。それかと云《言》って、結婚のため、半月以上《ハンツキ以上》も、勤先《勤め先》を欠勤している彼には休暇を貰う口実などは、何も残っていなかった。彼は止むなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴うと、直《す》ぐその日に東京へ帰って来たのである。  今朝着いた手紙から見ると、もうスッカリ好くなっているに違いない。明日の日曜に、自分と一緒に帰ってもいいと、云《言》い出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎えに来ているかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利く女じゃない。あれは、おとなしく慎しく待っている女だ、屹度《きっと》、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸っている木橋《キバシ》をじっと見詰めているに違いない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとどろかす毎に、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟かしているに違いない。  信一郎の、こうした愛妻を中心とした、いろいろな想像は、重く垂下《垂れ下》がった夕方の雲を劈くような、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の樹《樹’》の間から、国府津に特有な、あの凄味を帯びた真蒼《真っ青》な海が、暮れ方の光を暗く照り返していた。  秋の末か何かのように、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条たる色を帯びていた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇ったように、座席を蹴って立ち上《上が》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、|我先き《我先》にと降りてしまった。此《こ》の駅が止まりである列車は、見る見る裡に、洗われたように、虚しくなってしまった。  が、停車場《停車じょう-》は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、|暫ら《暫》く斑《マダラ》にたゆたった丈《だけ》であった。  信一郎は、身支度をしていた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢《気配》を見せていた。が、その電車も、此《こ》の前の日曜の日の混雑とは丸切り違って、まだ腰をかける余地さえ残っていた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎に止まる、のろのろした途中の事が、直《す》ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換えると行く手にはもっと難物が控えている。それは、右は山左《山/左》は海の、狭い崖端《ガケハナ》を、蜈蚣か何かのようにのたくって行く軽便鉄道である。それを考えると、彼は電車に乗ろうとした足を、思わず踏み止めた。湯河原まで、何《ど》うしても三時間かかる。湯河原で降《-お》りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなってしまう。彼は汽車の中で感じたそれの十倍《10倍》も二十倍も、いらいらしさが自分を待っているのだと思うと、何《ど》うしても電車に乗る勇気がなかった。彼は、少しも予期しなかった困難にでも逢ったように急に悄気てしまった。丁度《ちょうど》その時であった。つかつかと彼を追いかけて来た大男があった。 「もしもし如何《いかが》です。自動車にお召しになっては。」と、彼に呼びかけた。  見ると、その男は富士屋自動車と云《言》う帽子を被っていた。信一郎は、急に援け舟にでも逢ったように救われたような気持《気持ち》で、立ち止《止ま》った。が、彼は賃銭の上の掛引《掛引き》のことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。 「そうだね《-ね》え。乗ってもいいね。安ければ。」と彼は可《か》なり余裕を以《以っ》て、答えた。 「何処《どこ》までいらっしゃいます。」 「湯河原まで。」 「湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方《こっち》からお勧めするのですから。」  十五円と云《言》う金額を聞くと、信一郎は自動車に乗ろうと云《言》う心持《心持ち》を、|スッカリ《すっかり》無くしてしまった。と云《言》って、彼は貧しくはなかった。一昨年法科《一昨年’法科》を出て、三菱へ入ってから、今まで相当な給料を貰っている。その上、郷国《国》にある財産からの収入を合わすれば、月額五百円近い収入を持っている。が十五円と云《言》う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二三時間縮《二’三時間縮》める為に払うことは余りに贅沢過ぎた。たとい愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。 「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考えている事とは、全く反対な理由を云《言》いながら、洋服を着た大男を振り捨てて、電車に乗ろうとした。が、大男は執念《-しゅうね》く彼を放さなかった。 「まあ、一寸《ちょっと》お待ちなさい。御相談《ご相談》があります。実は、熱海まで行こうと云《言》う方があるのですが、その方と合乗《相乗り》して下さったら、如何《いかが》でしょう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円丈出《七円だけ出》して下されば。」  信一郎の心は可《か》なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやろうとした手を、引っ込めながら云《言》った。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎えて来る為に、駅の真向いにある待合所の方《ホウ》へ行った。  信一郎は、大男の後姿《後ろ姿》を見ながら思った。どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗《相乗り》でもた《/た》かが三四十分《サンヨンジュップン》の辛抱だから、介意《構わ》ないが、それでも感じのいい、道伴《道連れ》であって呉《く》れればいいと思った。傲然とふんぞり返るような、成金風《成金フウ》の湯治階級の男なぞであったら、堪らないと思った。彼はでっぷりと肥った男が、実印を刻んだ金指環をでも、光らせながら、大男に連れられて、やって来るのではないかしらと思った。それとも、意外に美しい女か何かじゃないかし《-し》らと思った。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗《相乗り》を承諾することもあるまいと、思い返した。  彼は一寸《ちょっと》した好奇心を唆られながら、|暫ら《暫》くの伴侶たるべき人の出て来るのを、待っていた。  三分ばかり待った後《あと》だったろう。やっと、交渉が纏《纏ま》ったと見え、大男はニコニコ笑いながら、|先き《先》に立って待合所から立ち現れた。その刹那に、信一郎は大男の肩越《肩越し》に、チラリと角帽を被った学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを欣《喜》んだ。殊に、自分の母校──と云《言》う程の親しみは持っていなかったが──の学生であるのを欣《喜》んだ。 「お待たせしました。此《こ》の方です。」  そう云《言》いながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。 「御迷惑《ご迷惑》でしょうが。」と、信一郎は快活に、挨拶した。学生は頭を下げた。が、何《なん》にも物は云《言》わなかった。信一郎は、学生の顔を、一目見《ひと目見》て、その高貴な容貌に打たれざるを得なかった。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。品《ヒン》のよい鼻と、黒く澄み渡った眸とが、争われない生《生ま》れの|け高《気高》さを示していた。殊に、|け高《気高》く人懐《人懐か》しそうな眸が、此《こ》の青年を見る人に、いい感じを与えずにはいなかった。クレイヴネットの外套を着て、一寸《ちょっと》した手提鞄を持った姿は、又《また》なく瀟洒に打ち上って見えた。 「それで貴君様《貴方様》の方《ほう》を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海へ行くことに、此方《こちら》の御承諾《ご承諾》を得ましたから。」と、大男は信一郎に云《言》った。 「そうですか。それは大変御迷惑《大変ご迷惑》ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となった。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。 「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が云《言》った。  運転手の手は、ハンドルにかかった。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車《いま発車》したばかりの電車を追いかけるように、凄《凄ま》じい爆音を立てたかと思うと、まっしぐらに国府津の町を疾駆した。  信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許に行けるかと思うと、汽車中で感じた焦燥《もどか》しさや、いらだたしさは、後《あと》なく晴れてしまった。自動車の軽動《ジャン》に連れて身体が躍るように、心も軽く楽《/楽》しい期待に躍った。が、信一郎の同乗者たるか《/か》の青年は、自動車に乗っているような意識は、少しもないように身《/身》を縮めて一隅に寄せたままそ《/そ》の秀でた眉を心持《心持ち》ひそめて、何かに思い耽っているようだった。車窓に移り変《変わ》る情景にさえ、一瞥をも与えようとはしなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  小田原の街に、入る迄《まで》、二人は黙々として相並んでいた。信一郎は、心の中では、此青年《この青年》に一種の親しみをさえ感じていたので、何《ど》うにかして、話しかけたいと思っていたが、深い憂愁にでも、囚われているらしい青年の容子《様子》は、信一郎にそうした機会をさえ与えなかった。  殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付《顔付き》は、愈々《いよいよ》その|け高《気高》さを加えているようであった。が、その顔は何《ど》うした原因であるかは知らないが、蒼白《ソウハク》な血色を帯びている。二つの眸は、何かの悲しみのため力なく湿《潤》んでいるようにさえ思われた。  信一郎はなるべく相手の心持《心持ち》を擾《乱》すまいと思った。が、一方から考えると、同じ、自動車に二人切《二人き》りで乗り合わしている以上、黙ったまま相対していることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるようにも思われた。 「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」  と、信一郎は漸く口を切った。会話のための会話として、判り切ったことを尋ねて見たのである。 「いや、此《こ》の前の上りで来たのです。」と、青年の答えは、少し意外だった。 「じゃ、東京からいらっしたんじゃないんですか。」 「そうです。三保の方《ホウ》へ行っていたのです。」  話しかけて見ると、青年は割合ハキハキと、然《しか》し事務的な受け答《答え》をした。 「三保と云《言》えば、三保の松原ですか。」 「そうです。彼処《あすこ》に一週間ばかりいましたが、飽きましたから。」 「やっぱり、御保養《ご保養》ですか。」 「いや保養と云《言》う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と云《言》いながら、青年の表情は暗い陰鬱《/陰鬱》な調子を帯びていた。 「神経衰弱ですか。」 「いやそうでもありません。」そう云《言》いながら、青年は力無さそうに口を緘《噤》んだ。簡単に言葉では、現わされない原因が、存在することを暗示するかのように。 「学校の方《ほう》は、ズーッとお休みですね。」 「そうです、もう一月《ひと月》ばかり。」 「尤《もっと》も文科《ブン科》じゃ出席してもしなくっても、同じでしょうから。」と、信一郎は、先刻青年《さっき青年》の襟に、Lと云《言》う字を見たことを思い出しながら云《言》った。  青年は、立入って、いろいろ訊かれることに、一寸不快《ちょっと不快》を感じたのであろう、又黙《また黙》り込もうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずっと文芸の方《ほう》に親しんで来た信一郎は、此《こ》の青年とそうした方面の話をも、して見たいと思った。 「失礼ですが、高等学校は。」|暫ら《暫》くして、信一郎はま《”ま》たこう口を切った。 「東京です。」青年は振り向きもしないで答えた。 「じゃ私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないようですが、何年にお出になりました。」  青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたようであった。華やかな青春の時代を、同じ向陵《向ヶ丘》の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合う特殊の親しみが、青年の心を湿《潤》おしたようであった。 「そうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校《一昨年’高等学校》を出ました。貴君《貴方》は。」  青年は初めて微笑を洩《洩ら》した。淋《寂》しい微笑だったけれども微笑には違いなかった。 「じゃ、高等学校は丁度僕《ちょうど僕》と入れ換わりです。お顔を覚えていないのも無理はありません。」そう云《言》いながら、信一郎はポケットから紙入《紙入れ》を出して、名刺を相手に手交《手渡》した。 「ああ《あ/》渥美さんと仰しゃいますか。僕は生憎名刺《あいにく名刺》を持っていません。青木淳と云《言》います。」と、云《言》いながら青年は信一郎の名刺をじっと見詰めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  名乗り合ってからの二人は、前の二人とは別人同士であるような親しみを、お互《互い》に感じ合っていた。  青年は羞《-はにか》み家《屋》であるが、その癖人一倍、人懐《人懐こ》い性格を持っているらしかった。単なる同乗者であった信一郎には、冷めたい横顔を見せていたのが、《:、》一旦同じ学校の出身であると知ると、直《す》ぐ先輩に対する親しみで、懐《なつ》いて来るような初心《/ウブ》な優しい性格を、持っているらしかった。 「五月の十日に、東京を出て、もう一月《ひと月》ばかり、当《当て》もなく宿《泊ま》り歩いているのですが、何処《どこ》へ行っても落着《落ち着》かないのです。」と、青年は訴えるような口調で云《言》った。  信一郎は、青年のそうした心《’心》の動揺が、屹度青年時代《きっと青年時代》に有勝《ありがち》な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違いないと思った。が、何《ど》う云《言》って、それに答えてよいか分《分か》らなかった。 「一層《いっそ》のこと、東京へお帰りになったら何《ど》うでしょう。僕なども精神上《精神じょう》の動揺のため、海へな《’な》り山へな《’な》り安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却って孤独から来る淋《寂》しさ迄《まで》が加わって、愈堪《いよいよ堪》えられなくなって、又都会《また都会》へ追い返されたものです。僕の考えでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思うのです。」と、信一郎は自分の過去の二三《二’三》の経験を思い浮べながらそ《/そ》う云《言》った。 「が、僕の場合は少し違うのです。東京にいることが何《ど》うにも堪らないのです。当分東京《当分’東京》へ帰る勇気は、トテもありません。」  青年は、又黙《また黙》ってしまった。心の中の何処《どこ》かに、可《か》なり大きい傷を受けているらしい青年の容子《様子》は信一郎の眼にもいたましく見えた。  自動車は、もうとっくに小田原を離れていた。気が付いて見ると、暮れかかる太平洋の波が、白く砕けている高い崖の上を軽便鉄道《/軽便鉄道》の線路に添うて、疾駆しているのであった。  道は、可《か》なり狭かった。右手には、青葉の層々《ソウソウ》と茂った山が、往来を圧するように迫っていた。左は、急な傾斜を作って、直《す》ぐ真下には、海が見えていた。崖がやや滑かな勾配になっている所は蜜柑畑《蜜柑バタケ》になっていた。しらじらと咲いている蜜柑の花から湧く、高い匂《匂い》が、自動車の疾駆するままに、車上の人の面《オモテ》を打った。 「日暮《日暮れ》までに、熱海に着くといいですな。」と、信一郎は|暫ら《暫》くしてから、沈黙を破った。 「いや、若《も》し遅くなれば、僕も湯河原で一泊《1泊》しようと思います。熱海へ行かなければならぬと云《言》う訳もないのですから。」 「それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己《近づき》になったのですから、ゆっくりお話《話し》したいと思います。」 「貴方は永く御滞在《ご滞在》ですか。」と、青年が訊いた。 「いいえ、実は妻が行《-い》っているのを迎えに行くのです。」と、信一郎は答えた。 「奥さんが!」そう云《言》った青年の顔は、何故だか、一寸淋《ちょっと寂》しそうに見えた。青年は又黙《また黙》ってしまった。  自動車は、風を捲いて走った。可《か》なり危険な道路ではあったけれども、日に幾回となく往返《ゆきかえリ》しているらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句気楽そうに、奔放自在にハンドルを廻《回》した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、時々《ときどき》ハッと息を呑ませることさえあった。 「軽便かしら。」と、青年が独語《独り言》のように云《言》った。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々と云《言》う響《響き》が、山と海とに反響《こだま》して、段々近《だんだん近》づいて来るのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  轟々ととどろく軽便鉄道の汽車の音《’音》は、段々近《だんだん近》づいて来た。自動車が、ある山鼻を廻《回》ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えていた。絶えず吐く黒い煙と、喘いでいるような恰好とは、何か|のろ《ノロ》臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。信一郎の乗っている自動車の運転手は、此《こ》の時代遅れの交通機関を見ると、丁度《ちょうど》お伽噺の中で、亀《カメ》に対した兎のように、いかにも相手を馬鹿にし切ったような態度を示した。彼は擦れ違うために、少しでも速力を加減することを、肯んじなかった。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁《ガイヘキ》の間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを廻《回》しかけたが、それは、彼として、明《明ら》かな違算であった。其処《そこ》は道幅が、殊更狭くなっているために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあって、軌道と岩壁との間には、車体を容れる間隔《間隔’》は存在していないのだった。運転手が、此《こ》の事に気が付いた時、汽車は三間《三ケン》と離れない間近に迫っていた。 「馬鹿!《/》 危《危な》い! 気を付《つ》けろ!」と、汽車の機関士の烈《激》しい罵声が、狼狽した運転手の耳朶《ジダ》を打った。彼は周章てた。が、遉《さすが》に間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は辛《-から》く衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホッとした。が、それはまたたく暇もない瞬間だった。左へ躱した自動車は、躱し方が余りに急であった為、機みを打ってそのまま、左手の岩崖を墜落しそうな勢いを示した。道の左には、半間《ハンゲン》ばかりの熊笹が繁っていて、その端《外れ》からは十丈《十ジョウ》に近い断崖が、海へ急な角度を成していた。  最初の危機には、冷静であった運転手も、第二の危険には度を失ってしまった。彼は、狂人のように意味のない言葉を発したかと思うと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂いの《’の》努力は間に合った。三人の生命《命》を託した車台は、急廻転《急回転》をして、海へ陥《’落ち》ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走ったかと思うと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶっ突《つか》ったのである。  信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈《激》しい力で、狭い車内を、二三回左右《二’三回’左右》に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、ただ嵐のような混沌たる意識の外《ほか》、何も存在しなかった。  信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のように折り曲げられて、一方へ叩き付けられている自分を見出《見い出》した。彼はやっと身を起《起こ》した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で|廻わ《回》した彼は自分《/自分》が少しも、傷付いていないのを知ると、まだフラフラする眼を定めて、自分の横にいる筈の、青年の姿を見ようとした。  青年の身体は、直《す》ぐ其処《そこ》にあった。が、彼の上半身は、半分開かれた扉《ドア》から、外へはみ出しているのであった。 「もしもし、君!《/》 |君!《きみ/》」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたように、ゾッとした。 「君!《/》 君!《/》」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答えなかった。ただ、人の心を掻きむしるような低いうめき声が続いている丈《だけ》であった。  信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味《薄キミ》の悪い紫赤色を呈している。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であった。而《しか》もその血は、唇から出る血とは違って、内臓から迸《-ほとばし》ったに違いない赤黒い血であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第2話】 【返すべき時計】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、青年の身体をや《/や》っと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されていた運転手は、漸く身を起《起こ》した。額《ヒタイ》の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、凡《全》ての血の色を無くしていた。彼は|オズオズ《怖ず怖ず》車内をのぞき込んだ。 「何処《どこ》もお負傷《怪我》はありませんか。お負傷《怪我》はありませんか。」 「馬鹿!《/》 負傷《怪我》どころじゃない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずには《は-》いられなかった。彼は運転手の放胆な操縦が、此《こ》の惨禍の主なる原因であることを、信じたからであった。 「|はっはっ《ハッハッ》。」と運転手は恐れ入ったような声を出しながら、窓にかけている両手をブルブル顫《震》わせていた。 「君!《/》 君!《/》 気を確《確か》にしたまえ。」  信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返そうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えは《果》てそうなうめき声を続けている丈《だけ》であった。  口から流れている血の筋は、何時の間にか、段々太《だんだん太》くなっていた。右の頬《ホオ》が見る間《マ》に脹《腫》れふくらんで来るのだった。信一郎は、|ボンヤリつッ《ぼんやり突っ》立っている運転手を、再び叱り付けた。 「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当《手当て》をしないと助からないのだぞ。」  運転手は、夢から醒めたように、運転手席に着いた。が、発動機の壊れている上に、前方の車軸までが曲っているらしい自動車は、一寸《イッスン》だって動かなかった。 「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のように顫《震》え声で云《言》った。 「じゃ、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴なら、遠くはないだろう。医者と、そうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原《また小田原》へ電話が通ずるのなら、直《す》ぐ自動車を寄越すように頼むのだ。」  運転手は、気の抜けた人間のように、命ぜらるる儘《まま》に、フラフラと駈け出した。  青年の苦悶は、続いている。半眼に開いている眼は、上ずッた白眼《シロメ》を見せているだけであるが、信一郎は、ただ青年の上半身を抱き起《起こ》しているだけで、何《ど》うにも手の付けようがなかった。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、ただ茫然と見詰めているだけであった。  信一郎は青年の奇禍を傷むのと同時に、あわよ《よ-》く免れた自身の幸福を、欣《喜》ばずには《は-》いられなかった。それにしても、何《ど》うして扉《ドア》が、開いたのだろう。其処《そこ》から身体が出たのだろう。上半身が、半分出た為に、衝突の時に、扉《ドア》と車体との間で、強く胸部を圧し潰ぶされたのに違いなかった。  信一郎は、ふと思いついた。最初、車台が海に面する断崖へ、顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違いなかった。もし、そうだとすると、車体が最初怖れられたように、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此青年《この青年》であったかも知れなかった。  車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだった。自動車の苟《かりそ》めの合乗《相乗り》に青年《/青年》と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運《好運’悪運》の両極に立ったわけだった。  信一郎は、そう考えると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になったような、青年のいたましい姿を、一層《いっそう》あわれまずには《は-》いられなかった。  彼は、ふとウィスキイの小壜がトランクの中にあることを思い出した。それを、飲ますことが、こうした重傷者に何《ど》う云《言》う結果を及ぼすかは、ハッキリと判らなかった。が、彼としては此《こ》の場合に為し得る唯一の手当《手当て》であった。彼は青年の頭を座席の上に、ソッと下《下ろ》すとトランクを開けて、ウィスキイの壜を取り出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  口中に注《-そそ》ぎ込まれた数滴《スーテキ》のウィスキイが、利いたのか、それとも偶然そうなったのか、青年の白く湿《潤》んでいた眸が、だんだん意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかったうめき声が切《/切》れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。 「気を確《確か》にしたまえ! 気を! 君!《/》 君!《/》 青木君!《/》」信一郎は、力一杯《力’一杯》に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。  青年は、じっと眸を凝すようであった。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りそうになる意識を懸命に取り蒐めようとするようだった。彼は、じいっと、信一郎の顔を、見詰めた。やっと自分を襲った禍の前後を思い出したようであった。 「何《ど》うです。気が付きましたか。青木君!《/》 気を確《確か》にしたまえ! 直《す》ぐ医者が来るから。」  青年は意識が帰って来ると、此《こ》の苟《かりそめ》の旅の道連《道連れ》の親切を、しみじみと感じたのだろう。 「あり──ありがとう。」と、苦しそうに云《言》いながら、感謝の微笑を湛えようとしたが、それは劃《仕切り》なく襲うて来る苦痛の為に、跡なく崩れてしまった。腸《ハラワタ》をよじるような、苦悶の声が、続いた。 「少しの辛抱です。直《す》ぐ医者が来ます。」  信一郎は、相手の苦悶のいたいたしさに、狼狽しながら答えた。  青年は、それに答えようとでもするように、身体を心持起《心持ち起》しかけた。その途端だった。苦しそうに咳き込んだかと思うと、顎から洋服の胸へかけて、流れるような多量の血を吐いた。それと同時に、今迄充血《今まで充血》していた顔が、サッと蒼《青》ざめてしまった。  青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血《ナイシュッケツ》をしたことが余りに明《明ら》かだった。  医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分《分か》った。青年の顔に血色がなかった如く、信一郎の面《オモテ》にも、血の色がなかった。彼は、彼と偶然知己《偶然チキ》になって、直《す》ぐ死に去って行く、ホンの瞬間の友達の運命を、じっと見詰めている外《ほか》はなかった。  太平洋を圧《-あっ》している、密雲に閉ざされたまま、日は落ちてしまった。夕闇の迫っている崖端《ガケハナ》の道には、人の影さえ見えなかった。瀕死の負傷者を見守る信一郎は、ヒシヒシと、身に迫る物凄い寂寥を感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗う浪の音が淋《寂》しく聞えて来た。  吐血をしたまま、仰向けに倒れていた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるような容子《様子》をした。 「何《なん》です! 何《なん》です!」信一郎は、掩いかぶさるようにして訊いた。 「僕の──僕の──|鞄!《トランク/》」  口中の血に咽せるのであろう、青年は喘ぎ喘ぎ絶《/絶》え入《い》るような声で云《言》った。信一郎は、車中を見廻《見回》した。青年が、携えていた旅行用の小形《小型》の鞄《トランク》は座席の下に横倒しになっているのだった。信一郎は、それを取り上げてやった。青年は、それを受け取ろうとして、両手を出そうとしたが、彼の手はもう彼の思うようには、動きそうにもなかった。 「一体、此《こ》の鞄《トランク》を何《ど》うするのです。」  青年は、何か答えようとして、口を動かした。が、言葉の代《代わ》りに出たものは、先刻《さっき》の吐血の名残りらしい少量の血であった。 「開けるのですか。開けるのですか。」  青年は肯こうとした。が、それも肯こうとする意志だけを示したのに、過ぎなかった。信一郎は鞄《トランク》を開けにかかった。が、それには鍵がかかっていると見え、容易には開かなかった。が、此場合瀕死《この場合/瀕死》の重傷者に、鍵の在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだった。信一郎は、満身の力を振《振る》って、捻《ね》じ開けた。金物に付いて、革がベリベリと、二三寸引《二’三スン引》き裂かれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「何を出すのです。何を出すのです。」  信一郎は、薬品をでも、取り出すのであろうと思って訊いた。が、青年の答《答え》は意外だった。 「雑記帳《ノートブック》を。」青年の声は、かすかに咽喉を洩れると、云《言》う程度に過ぎなかった。 「ノート?」信一郎は、不審《訝》りながら、鞄《トランク》を掻き廻《回》した。いかにも鞄《トランク》の底に、三帖綴《三帖綴り》の大学ノートを入れてあるのを見出《見い出》した。  青年は、眼で肯《頷》いた。彼は手を出して、それを取った。彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、ただノートの表紙を|滑べ《滑》り廻《回》る丈《だけ》で、一枚の紙さえ破れなかった。 「捨てて──捨てて下さい! 海へ《へ’》、海へ《へ’》。」  彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的な眸で、じいっと、信一郎を見詰めた。  信一郎は、大きく肯《頷》いた。 「承知しました。何か、外《ほか》に用がありませんか。」  信一郎は、大声で、而《しか》も可《か》なりの感激を以《以っ》て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云《言》いたい所であった。が、そう云《言》い出すことは、此《こ》のうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう云《言》ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。  信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処《そこ》に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮《夕暮れ》の光に透《透か》して見ると、青年は腕時計をはめているのであった。 「時計ですか。此時計《この時計》を何《ど》うするのです。」  烈《激》しい苦痛に、歪んでいる青年の面《オモテ》に、又別《また別》な苦悶が現われていた。それは肉体的な苦悶とは、又別《また別》な──肉体の苦痛にも劣らないほどの──《─:》心の、魂の苦痛であるらしかった。彼の蒼白《真っ青》だった面《オモテ》は微弱ながら、俄に興奮の色を示したようであった。 「時計を──時計を──返して下さい。」 「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になって訊き返した。 「お願い──お願い──お願いです。返して下さい。返して下さい。」  もう、断末魔らしい苦悶の裡に、青年は此世《この世》に於ける、最後の力を振りしぼって叫んだ。 「一体、誰にです? 誰にです。」  信一郎は縋り付くように、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしているらしかった。ただ、低い切れ切れのうなり声が、それに答えただけだった。信一郎は、今此《今こ》の答えを得て置《おか》なければ永劫《/永劫》に得られないことを知った。 「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」  青年の四肢が、ピクリピクリと痙攣し始めた。もう、死期の目睫の間《カン》に迫っていることが判った。 「時計を誰に返すのです。青木君!《/》 青木君!《/》 しっかりし給え。誰に返すのです。」  死の苦しみに、青年は身体を、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死の耳に通じないように見えた。 「時計を誰に返すのです。名前を云《言》って下さい。名前を云《言》って下さい。名前を!」  信一郎の声も、狂人のように上ずッてしまった。その時に、青年の口が、何かを云《言》おうとして、モグモグと動いた。 「青木君、誰に返すのです?」  永久に、消え去ろうとする青年の意識が、ホンの瞬間、此世《この世》に呼び返されたのか。それとも死際の無意味な囈語《譫言》であったのだろうか。青年は、 「瑠璃子!《/》 瑠璃子!《/》」と、子供の片言のように、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思うと、それがサッと潮の引くように、衰えてしまってガクリとなったかと思うと、もう、ピクリともしなかった。死が、遂に来たのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎から咽喉にかけての、血を拭ってやった。  だんだん蝋色《ロウイロ》に、白んで行く、不幸な青年の面《顔》をじっと見詰めていると、信一郎の心も、青年の不慮の横死を悼む心で一杯になって、ほたほたと、涙が流れて止まらなかった。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔《死に顔》を見ている心と、少しも変らなかった。何と云《言》う、不思議な運命であろうと、信一郎は思った。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき妻夫《妻お-っと》、愛児《まなご》の臨終にさえ、いろいろな事情や境遇のために、居合わさぬ事もあれば、間に合わぬ事もあるのに、《:、》ホンの三十分《30分》か四十分《40分》の知己《知り合い》、ホンの暫時の友人、云《言》わば路傍の人に過ぎない、苟《かりそめ》の旅の道伴《道連れ》でありながら、その死床《シニドコ》に侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると云《言》うことは、何と云《言》う不思議な機縁であろうと、信一郎は思った。  が、青年の身になって、考えて見ると、一寸《ちょっと》した小旅行の中途で思《/思》いがけない奇禍に逢って、淋《寂》しい海辺の一角で、親兄弟は勿論親しい友達さえも居合わさず、他人に外《ほか》ならない信一郎に、死水を──《─:》それは水でなく、数滴《スーテキ》のウィスキイだったが──《─:》取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまった情なさ、淋《寂》しさは、どんなであっただろう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇えたことだろう。殊に、母か姉妹か、或《あるい》は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲《-ほっ》しただろう。彼が、口走った瑠璃子と云《言》う言葉は、屹度《きっと》、そうした女性の名前に違いないと思った。  その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考えられ始めた。彼は、最初にこう疑って見た。他人同然の彼に、何《ど》うして時計のことを云《言》ったのだろう。若《も》し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗《/名乗》り合ったばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返《当然’返》さる《-る》べきものではなかろうか。が、信一郎は、直《す》ぐこう思い返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかったのだろう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかったのであろう。而《しか》も秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外《ほか》には、何の手段もなかったのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるように、此青年《この青年》も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだろう。いや、信頼する外《ほか》には、何の手段もなかったのだ。  信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずには《は-》おられなかった。名乗り合ったばかりの自分に、心からの信頼を置いている。人間として、男として、此《こ》の信頼に背く訳には、行かないと思った。  人が、臨終の時に為す信頼は、基督正教《カトリック》の信徒が、死際の懺悔と同じように、神聖な重大なものに違いないと思った。縦令《たとい》、三十分四十分《30分’40分’》の交際であろうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬いねばならぬと思った。  そう思いながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を脱《外》して見た。時計も、それを腕に捲く腕輪も、銀か白銅《ニッケル》らしい金属で出来ていた。ガラスは、その持主《持ち主》の悲惨な最期に似て、微塵に砕け散っていた。夕暮《夕暮れ》の光の中で、透《透か》して見ると、腕輪に附《付》いている止め金が、衝突のとき、皮肉を切ったのだろう。軽い出血があったと見え、その白っぽい時計の胴に、所々真赤《ところどころ真っ赤》な血が浸《-にじ》んでいた。今までは、興奮のために夢中になっていた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思わず戦慄を禁じ得なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  が、時計を返すとして、一体誰《一体’誰》に返したらいいのだろうかと、信一郎は思った。青年が、死際に口走った瑠璃子と云《言》う名前の女性に返せばいいのかしら。が、瑠璃子と云《言》ったのは、時計を返すべき相手の名前を、云《言》ったのだろうか。時計などとは何の関係もない、青年の恋人か姉《/姉》か妹《/妹》かの名ではないのかしら。 『時計を返して呉《く》れ。』と云《言》ったとき、青年の意識は、可《か》なり確《確か》だった。が、息を引き取る時《とき》には、青年の意識は、もう正気を失っていた。 『瑠璃子!《/》』と、叫んだのは、ただ狂った心の最後の、偶然な囈語《譫言》で、あったかも知れなかった。が、瑠璃子と云《言》う名前は、青年の心に死の刹那に深《/深》く喰い入った名前に違いなかった。丁度《ちょうど》、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰い入っていたように。  信一郎は、再度その小形《小型》な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透《透か》して見た。じっと、見詰めていると最初銀《最初/銀》かニッケルと思った金属は、銀ほどは光が無くニ《/ニ》ッケルほど薄っぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫《二’三度撫》でて見た。それは、紛ぎれもなく白金《プラチナ》だった。しかも撫でている指先が、何かツブツブした物に触れたので、眸を凝すと、鋭い光を放つ一顆《一カ》の宝石が、鏤められていた。而《しか》もそれは金で象眼された小さい短剣の柄《ツカ》に当《当た》っていた。それは希臘風《ギリシヤ風》の短剣の形だった。復讐の女神ネメシスが、逆手《サカ手》に掴んでいるような、短剣の形だった。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇しい好奇心を、唆られずには《は-》いられなかった。時計の元来の所有者は、女性に違いなかった。が、その象眼は、何と云《言》う女らしからぬ、鋭い意匠だろう。  日は、もうとっぷりと、暮れてしまった。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うているばかりだった。運転手は、なかなか帰って来なかった。淋《寂》しい海岸の一角に、まだ生|あたた《温》かい死屍を、ただ一人で見守っていることは、無気味な事に違いなかった。が、先刻《さっき》から興奮し続けている信一郎には、それが左程、厭わしい事にも気味《/キミ》の悪い事にも思われなかった。彼はある感激をさえ感じた。人として立派な義務を尽しているように思った。  信一郎は、ふとこう云《言》う事に気が付いた。たとい、青年からああした依託を受けたとしても、ただ黙って、此《こ》の高価な白金《プラチナ》の時計を、死屍から持ち去ってもいいだろうか。もし、臨検の巡査にでも、咎められたら、何と返事をしたらいいだろう。死人に口なく、死に去った青年が、自分のために、弁解して呉《く》れる筈はない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥ぎ取る恐《/恐》ろしい卑《/卑》しい盗人と思われても、何の云《言》い訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果《果た》して信じられるだろうか。  そう考えると、信一郎の心は、だんだん迷い始めた。妙ない《-い》きがかりから、他人の秘密にまで立ち入って、返すべき人の名前さえ、判然《はっきり》とはしない時計などを預って、つまらぬ心配や気苦労《キグロウ》をするよりも、《:、》ただ乗り合わした一個の旅の道伴《道連れ》として、遺言も何も、聴かなかったことにしようかしら。  が、こう考えたとき、信一郎の心の耳に、『お願いで──お《:お》願いです。時計を返して下さい。』と云《言》う青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるように、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然《しか》しながら、力強く囁いた。 『そうだ。そうだ。兎《と》に角《かく》、瑠璃子と云《言》う女性を探して見よう。たとい、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹度《きっと》、此《こ》の青年に一番親しい人に違いない。その人が、屹度時計《きっと時計》を返すべき本当の人を、教えて呉《く》れるのに違いない。又《また》、自分が時計を盗んだと云《言》うような、不当な疑いを受けたとき、此人《この人》が屹度弁解《きっと弁解》して呉《く》れるのに違いない。』  信一郎は、『瑠璃子』と云《言》う三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、蔵めようとした。  その時に、急に|近よ《近寄》って来る人声がした。彼は、悪い事でもしていたように、ハッと驚いて振り返った。警察の提灯を囲んで、四五人《シゴニ-ン》の人が、足早《足バヤ》に駈け付けて来るようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  駈け付けて来たのは、オドオドしている運転手を先頭にして、年若《トシ若》い巡査と、医者らしい袴をつけた男と、警察の小使《小使い》らしい老人との四人であった。  信一郎は、彼等を迎えるべく扉《ドア》を開けて、路上へ降りた。  巡査は提灯を車内に差し入れるようにしながら、 「何《ど》うです。負傷者は?」と、訊いた。 「先刻《さっき》、息を引き取ったばかりです。何分胸部《なにぶん胸部》をひどく、やられたものですから、助からなかったのです。」と、信一郎は答えた。  |暫ら《暫》くは、誰もが口を利かなかった。運転手が、ブルブル顫《震》え出したのが、|ほの暗《仄暗》い提灯の光の中でも、それと判った。 「兎も角、一応診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に云《言》った。運転手は顫《震》えながら、車体に取り付けてある洋燈《ランプ》に、点火した。周囲が、急に明るくなった。 「お伴《連れ》じゃないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。 「そうです。ただ国府津から乗合《乗り合》わしたばかりなのです。が、名前は判って居ます。先刻名乗《さっき名乗》り合いましたから。」 「何と云《言》う名です。」巡査は手帳を開いた。 「青木淳と云《言》う文科大学生《ブン科大学生》です。宿所は訊かなかったけれど、どうも名前と顔付《顔付き》から考えると、青木淳三《青木淳三’》と云《言》う貴族院議員のお子さんに違いないと思うのです。無論断言《無論’断言》は出来ませんが、持物《持ち物》でも調べれば直《す》ぐ判るでしょう。」  巡査は、信一郎の云《言》う事を、一々肯《一々頷》いて聴いていたが、 「遭難の事情は、運転手から一通《ひと通》り、聴きましたが、貴君《貴方》からもお話を願いたいのです。運転手の云《言》うことばかりも信ぜられませんから。」  信一郎は言下に「運転手の過失です。」と云《言》い切りたかった。過失と云《言》うよりも、無責任だと云《言》い切りたかった。が、戦きながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳《聞き耳》を澄ましている運転手の、罪を知った容子《様子》を見ると、そう強くも云《言》えなかった。その上、運転手の罪を、幾何声高《いくらコワダカ》に叫んでも、青年の甦る筈もなかった。 「運転手の過失もありますが、どうも此方《このかた》が自分で扉《ドア》を、開けたような形跡もあるのです。扉《ドア》さえ開かなかったら、死ぬようなことはなかったと思います。」 「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから云《言》った。「いずれ、遺族の方《かた》から起訴にでもなると、貴君《貴方》にも証人になって戴くかも知れません。御名刺《お名刺》を一枚戴きたいと思います。」  信一郎は乞わるる《-る》ままに、一枚の名刺を与えた。  丁度《ちょうど》その時に、医者は血に塗《-ま》みれた手を気にしながら、車内から出て来た。 「ひどく血を吐きましたね。あれじゃ負傷後、幾何《いくら》も生きていなかったでしょう。」と、信一郎に云《言》った。 「そうです。三十分も生きていたでしょうか。」 「あれじゃ助かりっこはありません。」と、医者は投げるように云《言》った。 「貴君《貴方》もとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に云《言》った。「が、死んだ方に比《-くら》ぶれば、むしろ命拾いをしたと云《言》ってもいいでしょう。湯河原へ行《-い》らっしゃるそうですね。それじゃ小使《小使い》に御案内《ご案内》させますから真鶴までお歩きなさい。死体の方《ほう》は、引受《引き受》けましたから、御自由《ご自由》にお引き取り下さい。」  信一郎は、兎《と》に角当座《かく当座》の責任と義務とから、放たれたように思った。が、ポケットの底にある時計の事を考えれば、信一郎の責任は何時果《/いつ果》されるとも分《分か》らなかった。  信一郎は車台に近寄って、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。  巡査達に挨拶して、二三間行った時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思い出した。彼は驚いて、取って帰《-かえ》した。 「忘れ物をしました。」彼は、やや狼狽しながら云《言》った。 「何《なん》です。」車内を覗き込んでいた巡査が振り顧《返》った。 「ノートです。」信一郎は、やや上ずッた声で答えた。 「これですか。」先刻《さっき》から、それに気の付いていたらしい巡査は、座席の上から取り上げて呉《く》れた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハッと思った。が、光は暗かった。その上、巡査の心にそうした疑《疑い》は微塵も存在しないらしかった。彼は、やっと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  真鶴から湯河原迄《湯河原まで》の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になっていた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現われて来たのだろう、頭がズキズキと痛み始めた。  青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白《青白》んで行った死顔《死に顔》などが、ともすれば幻覚となって、耳や目を襲って来た。  静子に久し振《振り》に逢えると云《言》ったような楽しい平和な期待は、偶然な血腥い出来事のために、滅茶苦茶になってしまったのである。静子の初々しい面影を、描《えが》こうとすると、それが何時の間にか、青年の死顔《死に顔》になっている。「静子!《/》 静子!《/》」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハッキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子!《/》 瑠璃子!《/》」と、云《言》う悲痛な断末魔の声を、想い浮べさせたりした。  馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲ったと思うと、眼の前に、山懐にほのめく、湯の街の灯影《火影》が見え始めた。  信一郎は、愛妻に逢う前に、何《ど》うかして、乱れている自分の心持《心持ち》を、整えようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になって、自分の激動《ショック》を妻に伝染《-うつ》すまいとした。血腥い青年の最期も、出来るならば話すまい《い-》とした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だった。  藤木川の左岸に添うて走った馬車が、新しい木橋《キバシ》を渡ると、橋袂の湯の宿の玄関に止まった。 「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎えた。ふと気が付くと、玄関の突き当《当た》りの、二階への階段の中段に、降りて出迎えようか(それともそれが可《か》なりはしたない事なので)降りまいかと、躊躇っていたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、艶然《にっこり》と笑って、はち切れそうな嬉しさを抑えて、いそいそと駈け降りて来るのであった。 「いらっしゃいませ。何《ど》うして、こう遅かったの。」静子は一寸不平《ちょっと不平》らしい様子を嬉しさの裡に見せた。 「遅くなって済まなかったね。」  信一郎は、劬わるように云《言》い捨てて、先に立って妻の部屋へ入った。  その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套のポケットに入れているのに、気が付いた。先刻真鶴《さっき真鶴》まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう捨てようと思いながら、小使《小使い》の手前、何《ど》うしても果《果た》し得なかったのである。当惑の為に、彼の表情はやや曇った。 「御気分《ご気分》が悪そうね。何《ど》うかしたのですか。湯衣《浴衣》にお着換《着が》えなさいまし。それとも、お寒いようなら、褞袍になさいますか。」  そう云《言》いながら静子は甲斐々々《甲斐甲斐》しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取ったり、襯衣《シャツ》を脱ぐのを手伝ったりした。  その中《うち》に、上衣を衣桁にかけようとした妻は、ふと、 「あれ!」と、可《か》なりけたたましい声を出した。 「何《ど》うしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。 「何でしょう。これは、血《血’》じゃなくて。」  静子は、真蒼《真っ青》になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈《電灯》の真近《間近》に持って行った。それは紛ぎれもなく血《血’》だった。一寸四方《イッスン四方》ばかり、ベットリと血が浸《-に》じんでいたのである。 「そうか。やっぱり付いていたのか。」  信一郎の声も、やや顫《震》いを帯びていた。 「何《ど》うかしたのですか。何《ど》うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可《か》なり上ずッていた。  信一郎は、妻の気を落着《落ち着》けようと、可《か》なり冷静に答えた。 「いや何《ど》うもしないのだ。ただ、自動車が崖にぶっ突かってね。乗合《乗り合》わしていた大学生が負傷《怪我》したのだ。」 「貴君《貴方》は、何処《どこ》もお負傷《怪我》はなかったのですか。」 「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」 「そしてその学生の方は。」 「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云《言》うんだね。」  静子は、夫が免れた危険を想像する丈《だ》けで、可《か》なり激しい感動に襲われたと見え、目を刮《瞠》ったまま|暫ら《暫》くは物も云《言》わなかった。  信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持《気持ち》を、滅茶滅茶にされた事が、可《か》なり大きい禍であるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依って、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。  夫と妻とは、蒼白《真っ青》になりながら、黙々として相対していた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔《/魔》の符でもあるように、気味悪《キミ悪》く感ぜられ始めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第3話】 【美しき遅参者】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の横死は、東京の各新聞に依って、可《か》なり精しく伝えられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵《/青木男爵》の長子であったことが、それに依って証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩《洩ら》していた。信一郎は結局それを気安いことに思った。  信一郎が、静子を伴って帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行われることになっていた。  信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると云《言》う事を、名乗って出るような心持《心持ち》は、少しもなかった。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取った青年が、傷ましかった。他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい涙《/涙》ぐましい気がした。  遺族の人々とは、縁もゆかりもなかった。が、弔《とむら》われている人とは、可《か》なり強い因縁が、纏わっているように思った。彼は、心からその葬いの席に、列《連な》りたいと思った。  が、その上、もう一つ是非とも、列《連な》るべき必要があった。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるる女性も、返すべき時計の真の持主《持ち主》も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列《連な》っているのに違《違い》ない。青年に、由縁《ゆかり》のある人を物色すれば、時計を返すべき持主《持ち主》も、案外容易に、見当が付くに違《違い》ない。否、少くとも瑠璃子と云《言》う女丈《女だけ》は、容易に見出《見い出》し得るに違《違い》ない、信一郎はそう考えた。  その日は、廓然《カクゼン》と晴れた初夏の一日《イチニチ》だった。もう夏らしく、白い層雲が、むくむくと空の一角に湧いていた。水色の空には、強い光が、一杯に充ち渡って、生々の気が、空にも地にも溢れていた。ただ、青山の葬場に集まった人丈《人だけ》は、活々《生き生き》とした周囲の中に、しめっぽい静かな陰翳を、投げているのだった。  青年の不幸な夭折が、特に多くの会葬者を、惹き付けているらしかった。信一郎が、定刻の三時前に行ったときに、早くも十幾台の自動車と百台《/百台》に近い俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨ててあった。控席に待合《待ち合》わしている人々は、もう五百人に近かった。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から後から到着するのだった。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為に、政界の巨頭は、大抵網羅《大抵’網羅》しているらしかった。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にも直《す》ぐそれと判った。葉巻を横銜えにしながら、場所柄をも考えないように哄笑している巨漢は、逓信大臣のN氏だった。それと相手になっているのは、戦後の欧洲を、廻《回》って来て以来、風雲を待っているらしく思われているG男爵だった。その外首相《ほか首相》の顔も見えた。内相もいた。陸相もいた。実業界の名士の顔も、五六人《ゴ六人》は見覚えがあった。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もいなかった。彼は、受附《受付》へ名刺を出すと、控場《控えジョウ》の一隅へ退いて、式の始まるのを待っていた。  誰も彼に、話しかけて呉《く》れる人はなかった。接待をしている人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、ただ儀礼的な一揖を酬いただけだった。  誰からも、顧みられなかったけれども、信一郎の心には、自信があった。千に近い会葬者が、集まろうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けているのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けているのは自分一人ではないか。その死床《シニドコ》に侍して介抱してやったのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上《社交じょう》の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに欣《喜》ぶかも知れない。そう思うと、信一郎は自分の会葬が、他の何人《ナンピ-ト》の会葬よりも、意義があるように思った。彼はそうした感激に耽りながら、じっと会葬者の群《群れ》を眺めていた。急に、皆が静かになったかと思うと、戞々《カッカツ》たる馬蹄の響《響き》がして、霊柩を載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台《シチ八台》も続いた。信一郎は、群衆を擦り脱《ぬ》けて、馬車の止まった方《ホウ》へ近づいた。|次ぎ次ぎ《次々》に、馬車を降りる一門の人々を、仔細に注視しようとしたのである。  霊柩の直《す》ぐ後《後ろ》の馬車から、降り立ったのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であった。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、直《す》ぐ判った。それほど二人はよく似ていた。ただ学習院の制服を着ている此青年《この青年》の背丈《背タケ》が、国府津で見たその人の兄よりも、一二寸高《イチニ寸高》いように思われた。  その|次ぎ《次》の馬車からは、二人の女性が現われた。信一郎は、その孰《-いず》れかが瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。二人とも、死んだ青年の妹であることが、直《す》ぐ判った。兄に似て二人とも端正な美しさを持っていた。年の上の方も、まだ二十《ハタチ》を越していないだろう。その美しい眼を心持泣《心持ち泣》き脹《腫ら》して、雪のような喪服を纏うて、俯きがちに、しおたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも亦美《また美》しかった。  それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であろう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降《一人二人ずつ降》り立った。信一郎は、その裡の誰かが、屹度瑠璃子《きっと瑠璃子》に違いないと思いながら、一人から他へと、慌しい眼を移した。が、ただいらいらする丈《だけ》で、ハッキリと確《確か》める術《スベ》は、少しもなかった。  霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩れ入《い》った。手狭な式場は見る見る、一杯になった。  式が始まる前の静けさが、其処《そこ》に在った。会葬者達は、銘々|慎し《慎》みの心を、表に現わして紫や緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視しているのであった。  式場が静粛に緊張して、今にも読経の第一声が、この静けさを破ろうとする時だった。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないようなけたたましい、自動車の響《響き》が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、遉《さすが》に振向《振り向》きもしなかった。が、会葬者の殆ど過半が、此無遠慮《この不遠慮》な闖入者に対して叱責《/叱責》に近い注視を投げたのである。  自動車は、式場の入口に横附《横付》けにされた。伊太利製《イタリー製》らしい、優雅な自動車の扉《ドア》が、運転手に依って排せられた。  会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないように、翼を拡げた白孔雀のような、|け高《気高》さと上品さとで、その踏段から地上へと、スックと降り立ったのは、まだうら若い一個の女性だった。降りざまに、その面《オモテ》を掩うていた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てて、無造作に自動車の中へ投《’投》げ入れた。人々の環視の裡に、微笑とも嬌羞とも付かぬ表情を、湛えた面《オモテ》は、くっきりと皎く輝いた。  白襟紋付の瀟洒な衣は、そのスラリとした姿を一層気高《いっそう気高》く見せていた。彼女は、何の悪怯《悪び》れた容子《様子》も見せなかった。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早《足バヤ》に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。  会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、此《こ》の美しい無遠慮《不遠慮》な遅参者の姿を追った。が、そうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いていたのである。  彼は、何よりも|先き《先》に、此女性《この女性》の美しさに打たれた。年は二十《ハタチ》を多くは出ていなかっただろう。が、そうした若い美しさにも拘わらず、人を圧するような威厳が、何処《どこ》かに備わっていた。  信一郎は、頭の中で自分の知っている、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、此婦人《この婦人》の美しさを、少しでも冒すことは出来なかった。  泰西の名画の中からでも、抜け出して来たような女性を、信一郎は驚異に似た心持《心持ち》で|暫ら《暫》くは、茫然と会衆の頭越しに見詰めていたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、その美しき女性に、釘付けにされたように、会葬者の眸も、一時は此《こ》の女性の身辺に注《-そそ》がれた。が、その裡に、衆僧が一斉に始めた読経の朗々たる声は、皆の心持《心持ち》を死者に対する敬虔な哀悼に引き統べてしまった。  が、此女性《この女性》が、信一郎の心の裡に起《起こ》した動揺は、お経の声などに依って却々静《なかなか静》まりそうにも見えなかった。  彼は、直覚的に此女性《この女性》が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持っていることを信じた。此女性《この女性》の美しいけれども颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻されている、鋭い短剣の形を想い起さしめた。彼は、読経の声などには、殆ど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。  が、見詰めている中《うち》に、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持主《持ち主》であるかなどと云《言》う疑問よりも、此《こ》の女性の美しさに、段々囚《だんだん囚》われて行くのだった。  此《こ》の女性の顔形は、美しいと云《言》っても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは、日本の近代文明が、初《初め》て生み出したような美しさと表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。その眸は、飽くまでも、理智に輝いていた。顔全体には、爛熟した文明の婦人に特有な、智的な輝きがあった。  婦人席で多くの婦人の中に立っていながら、此《こ》の女性の背後丈《背後だけ》には、ほのぼのと明るい後光が、射しているように思われた。  年頃から云《言》えば娘とも思われた。が、何処《どこ》かに備わっている冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示しているように思われた。  信一郎が、此《こ》の女性の美貌に対する耽美に溺れている裡に、葬式のプログラムはだんだん進んで行った。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此《こ》の女性もしとやかに席を離れて死者の為に一抹の香《コウ》を焚いた。  やがて式は了った。会葬者に対する挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥と自動車とが暫くは右往左往に、入り擾《乱》れた。  信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残《取り残》された。彼は群衆に押されながら、意識して、彼《か》の女性に近づいた。  女性が、式場を出外《出は》ずれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り捲かれた。大学生達は皆死《-みんな死》んだ青年の学友であるらしかった。彼女は何か二言三言言葉《二言三言’言葉》を換《-かわ》すと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、《:、》その娜《しな》やかな身を飜《ひるがえ》して忽ち車上の人となったが、つと上半身を出したかと思うと、 「本当にそう考えて下さっては、妾困《わたくし/困》りますのよ。」と、嫣然と云《言》い捨てると、扉《ドア》をハタと閉じたが自動車《/自動車》はそれを合図に散りかかる群衆の間を縫うて、徐ろに動き始めた。  大学生達は、自動車の後を、|暫ら《暫》く立ち止まって見送ると、その儘肩《まま肩》を揃えて歩き出した。信一郎も学生達の後を追った。学生達に話しかけて、此女性《この女性》の本体を知ることが時計《/時計》の持主《持ち主》を知る、唯一の機会であるように思ったからである。  学生達は、電車に乗る積《積り》だろう。式場の前の道を、青山三丁目の方《ホウ》へと歩き出したのであった。信一郎は、それと悟られぬよう一間《/一間》ばかり、間隔を以《以っ》て歩いていた。が、学生達の声は、可《か》なり高《-たか》かった。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。 「青木の変死は、偶然だと云《言》えばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、直《す》ぐ自殺じゃないかと思ったよ。」と、一番肥っている男が云《言》った。 「僕もそうだよ。青木の奴《ヤツ》、やったな! と思ったよ。」と、他の背の高い男は直《す》ぐ賛成した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変《ヘン》だったよ。」と、ただ一人夏外套《一人/夏外套》を着ている男が云《言》った。  信一郎は、そうした学生の会話に、好奇心を唆られて、思わず間近く接近した。 「兎《と》に角《かく》、ヒドく悄気ていたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、彼奴《あいつ》の事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サッパリ付かないね。」と、肥った男が云《言》った。  そう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を直《す》ぐ思い出した。その悲しみに閉された面影がアリアリと頭に浮《浮か》んだ。 「相手って、まさか我々の荘田夫人《ショウダ夫人》じゃあ《-あ》るまいね。」と、一人が云《言》うと、皆高々と笑った。 「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。  其処《そこ》は、もう三丁目の停留場だった。四人連《四人連れ》の内の三人は、其処《そこ》に停車している電車に、無理に押し入るようにして乗った。ただ、後《あと》に残った一人丈《一人だけ》、眼鏡をかけた、皆の話を黙って聴いていた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方《ホウ》へ歩き出した。信一郎は、その男の後を追った。相手が、一人の方《ほう》が、話しかけることが、容易であると思ったからである。  半町ばかり、付いて歩いたが、何《ど》うしても話しかけられなかった。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるように思われた。彼は、幾度も中止しようとした。が、此機会《この機会》を失しては、時計を返すべき緒《糸口》が、永久に見付け得られないようにも思った。信一郎は到頭思《とうとう思》い切った。先方《センポウ》が、一寸振《ちょっと振》り返るようにしたのを機会に、つかつかと傍《そば》へ歩き寄ったのである。 「失礼ですが、貴君《貴方》も青木さんのお葬いに?」 「そうです。」先方《センポウ》は突然な問を、意外に思ったらしかったが、不愉快な容子《様子》は、見せなかった。 「やっぱりお友達でいらっしゃいますか。」信一郎はやや安心して訊いた。 「そうです。ずっと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」 「なるほど。それじゃ、嘸《さぞ》お力落しでしたろう。」と云《言》ってから、信一郎は少し躊躇していたが、「つかぬ事を、承わるようですが、今貴君方《今あなた方》と話していた婦人の方《かた》ですね。」と云《言》うと、青年は直《す》ぐ訊き返した。 「あの自動車で、帰った人ですか。あの人が何《ど》うかしたのですか。」  信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。 「いや、何《ど》うもしないのですが、あの方は何と仰しゃる方でしょう。」  学生は、一寸信一郎《ちょっと信一郎》を憫れむような微笑を浮べた。ホンの瞬間だったけれども、それは知るべきものを知っていない者に見せる憫《/憫》れみの微笑だった。 「あれが、有名な荘田夫人《ショウダ夫人》ですよ。御存《ご存》じなかったのですか。曾《かつ》て司法大臣をした事のある唐沢男爵の娘ですよ。唐沢さんと云《言》えば、青木君のお父様と、同じ団体に属している貴族院の老政治家ですよ。お父様同士《父さま同士》の関係で、青木君とは近しかったんです。」  そう云《言》われて見ると、信一郎も、荘田夫人《ショウダ夫人》なるものの写真や消息を婦人雑誌《/婦人雑誌》や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思い出した。が、それに対して、何の注意も払っていなかったので、その名前は何《ど》うしても想い浮ばなかった。が、此《こ》の場合名前《場合/名前》まで訊くことが、可《か》なり変に思われたが、信一郎は思い切って訊ねた。 「お名前は、確か何とか云《言》われたですね。」 「瑠璃子ですよ、我々は、玉桂の瑠璃子夫人と云《言》っていますよ。ハハハハ。」と、学生は事もなげに答えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  葬場に於ける遅参者が、信一郎の直覚していた通《とおり》、瑠璃子と呼ばるる女性であることが、此大学生《この大学生》に依って確《確か》められると、彼はその女性に就いて、もっといろいろな事が、知りたくなった。 「それじゃ、青木君とあの瑠璃子夫人とは、そう大したお交際《つきあい》でもなかったのですね。」 「いやそんな事もありませんよ。此半年《この半年》ばかりは、可《か》なり親しくしていたようです。尤《もっと》もあの奥さんは、大変お交際《つきあい》の広い方で、僕なぞも、青木君同様可《青木君同様か》なり親しく、交際している方《ほう》です。」  大学生は、美貌の貴婦人を、知己の中に数え得ることが、可《か》なり得意らしく、誇らしげにそう答えた。 「じゃ、可《か》なり自由な御家庭《ご家庭》ですね。」 「自由ですとも、夫の勝平氏《カツヘイ氏》を失ってからは、思うままに、自由に振舞っておられるのです。」 「あ! じゃ、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可《か》なり意外に思いながら訊いた。 「そうです。結婚してから半年か其処《そこ》らで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂ったのです。今では、荘田家《ショウダケ》はあの奥さんと、美奈子と云《言》う十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家《/ショウダケ》を切り廻《回》しているのです。」 「なるほど。それじゃ、後妻に来《-こ》られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながらそ《/そ》う呟いた。  大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来ていた。学生は、今発車《いま発車》しようとしている塩町行《シオチョウ行き》の電車に、乗りたそうな容子《様子》を見せた。  信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。 「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかかりたいと思うのですが、紹介して下さる訳には‥‥。」と、言葉を切った。  大学生は、信一郎のそうしたやや不自然な、ぶっきら棒な願いを、美貌の女性の知己になりたいと云《言》う、世間普通な色好《/色好》みの男性の願《願い》と、同じものだと思ったらしく、一寸嘲笑《ちょっと嘲笑》に似た笑いを洩そうとしたが、直《す》ぐそれを噛み殺して、 「貴君《貴方》の御身分《ご身分》や、御希望《ご希望》を精しく承らないと、僕として一寸紹介《ちょっと紹介》して差上《差し上》げることは出来ません。尤《もっと》も、荘田夫人《ショウダ夫人》は普通の奥さん方《がた》とは違いますから、突然尋《突然’尋》ねて行かれても、屹度逢《きっと逢》って呉《く》れるでしょう。御宅《お宅》は、麹町の五番町です。」  そう云《言》い捨てると、その青年は身体を捷《すばしこ》く動かしながら、将《まさ》に動き出そうとする電車に巧に飛び乗ってしまった。  信一郎は、一寸《ちょっと》おいてきぼりを喰ったような、稍々不快《やや不快》な感情を持ちながら、|暫ら《暫》く其処《そこ》に佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのようであったのが、恥《恥ずか》しかった。どんなに、あの女性の本名が知りたくてもも《/も》っと上品な態度が取れたのにと思った。  が、そうした不愉快さが、段々消《だんだん消》えて行った後《あと》に、瑠璃子と云《言》う女性の本体を掴み得た満足が其処《そこ》にあった。而《しか》も、瑠璃子と云《言》う女性が、今も尚《-なお》ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持って来た時計の持主《持ち主》らしい、凡《全》ての資格を備えていることが何よりも嬉しかった。短剣を鏤めた白金《プラチナ》の時計と、今日見《今日’見》た瑠璃子夫人の姿とは、ピッタリと合いすぎるほど、合っていた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度《きっと》、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取《受け取》って呉《く》れるに違《違い》ない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違《違い》ない。そう思うと、信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、歴々《ありあり》と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢いたくなった。其処《そこ》へ、彼のそうした決心を促すように、九段両国行《ク段両国行》きの電車が、軋って来た。此電車《この電車》に乗れば、麹町五番町迄《麹町五番町まで》は、一回の乗換《乗り換え》さえなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  電車が、赤坂見附から三宅坂通《三宅坂どお》り、五番町に近づくに従って、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢《ポーズ》を取って、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方《ほう》が、より多く彼の心を占めているのに気が付いた。彼は自分の心持《心持ち》の中に、不純なものが交《’交じ》りか《-か》けているのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢いたがっているのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢いたがっているのではないか。』と云《言》う叱責に似た声を、彼は自分の心持《心持ち》の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑わしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、ただ青年の遺言通《遺言どおり》に、時計を真の持主《持ち主》に返せばいいのだ。荘田瑠璃子《ショウダ瑠璃子》が、どんな女性であろうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。ただ、夫人が本当に時計の持主《持ち主》であるかどうかが、問題なのだ。自分はそれを確《確か》めて、時計を返しさえすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、そう強く思い切ろうとした。が、幾何強《いくら強》く思い切ろうとしても、白孔雀を見るような、﨟たけた若き夫人の姿は、彼が思うまい《-い》とすればするほど、愈鮮明《いよいよ鮮明》に彼の眼底を去ろうとはしなかった。  青い葉桜の林に、キラキラと夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草《アオクサ》が美しく茂ったお濠の堤《土手》に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼《彼’》の眼の前に五番町の広い通《とおり》が、午後の太陽の光の下に白く輝いていた。彼は、一寸《ちょっと》した興奮を感じながらも、暫くは其処《そこ》に立ち止まった。紳士として、突然訪《突然’訪》ねて行くことが、余りにはしたないようにも思われた。手紙位《手紙くらい》で、一応面会《一応’面会》の承諾を得る方《ほう》が、自然で、かつは礼儀ではないかと思ったりした。が、そうした順序を踏んで相手が、会わないと云《言》えば、それ切りになってしまう。少しは不自然でも、直截《チョクサイ》に訪問した方《ほう》が、却って容易に会見し得るかも知れない。殊に、今は死んだ青年の葬儀から帰ったばかりであるから、此《こ》の夫人も、きっと青年のことを、考えているに違《違い》ない。其処《そこ》へ、自分が青年の名に依って尋ねて行けば、案外快く引見するに違いない。そう考えると信一郎は崩れかかった勇気を振い興して、五番町の表通と横町《横丁》とを軒並に、物色して歩いた。彼は、五番町の総てを漁った。が、何処《どこ》にも、荘田《ショウダ》と云《言》う表札は、見出《見い出》さなかった。三十分近く無駄に歩き廻《回》った末、彼は到頭通《とうとう/通》り合わした御用聴《-ご用聞き》らしい小僧に尋ねた。 「荘田《ショウダ》さんですか。それじゃあの停留場の直《す》ぐ前の、白煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教えて呉《く》れた。  その家《’家》は、信一郎にも最初から判っていた。信一郎は、電車から降りたとき、直《す》ぐその家に眼を与《や》ったのであるが、花崗岩《花崗石》らしい大きな石門から、楓の並樹の間を、爪先上りになっている玄関への道の奥深《奥ふか》く、青い若葉の蔭に聳える宏壮な西洋館が──《─:》大きい邸宅の揃っている此界隈《この界隈》でも、他の建物を圧倒しているような西洋館が荘田夫人《ショウダ夫人》の家であろうとは夢にも思わなかった。  彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧されながら、|暫ら《暫》くはその門前に佇立した。玄関への青い芝生の中の道が、曲線《カーブ》をしている為に車寄《/車寄》せの様子などは、見えなかったが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒に而《/しか》も荘重な感じを見る者に与えた。開け放した二階の窓にそよいでいる青色の|窓掩い《カーテン》が、如何《いか》にも清々しく見えた。二階の縁側《ヴェランダ》に置いてある籐椅子には、燃えるような蒲団《クッション》が敷いてあって、此家《この家》の主人公が、美しい夫人であることを、示しているようだ。  入《はい》ろうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思い悩んだ。手紙で訊き合《合わ》して見ようか、それでも事は足りるのだと思ったりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思わず踵《キビス》を廻《返》そうとした時だった。噴泉の湧くように、突如として樹の間から洩れ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしっかと掴んだのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲《ノクチュルン》だった。彼は、廻《返》そうとした踵《キビス》を、釘付けにされて、|暫ら《暫》くはその哀艶《アイエン》な響《響き》に、心を奪われずには《は-》いられなかった。嫋々たるピアノの音《’音》は、高く低く緩《/緩》やかに劇しく、時には若葉の梢を馳《駆》け抜ける五月の風のように囁き、時には青い月光の下に、俄に迸り出《-い》でたる泉のように、激《ゲキ》した。その絶えんとして、又続《また続》く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のように、蠱惑的に彼の心を囚えた。  彼《彼’》の心に、鍵盤《キイ》の上を梭《オサ》のように馳《駆》けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った刹那の白い輝かしい顔が浮《浮か》んだ。  彼は時計を返すなどと云《言》うことより、兎《と》に角《かく》も、夫人に逢いたかった。ただ、訳もなく、惹き付けられた。ただ、会うことが出来さえすれば、その事丈《事だけ》でも、非常に大きな欣《喜》びであるように思った。  躊躇していた足を、踏み返した。思い切って門を潜《-くぐ》った。ピアノの音《’音》に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心も|あや《妖》しき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでいる車寄せで、彼は一寸躊躇《ちょっと躊躇》した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう扉《ドア》の横に取付けてある呼鈴に触れていた。  茲《ここ》まで来ると、ピアノの音《’音》は、愈間近《いよいよ間近》く聞《聞こ》えた。その冴えた触鍵《タッチ》が、彼の心を強く囚えた。  呼鈴を押した後《あと》で、彼は妙な息苦しい不安の裡に、一分《1分》ばかり待っていた。その時、小さい靴の足音がしたかと思うと扉《/ドア》が静かに押し開けられた。名刺受《名刺受け》の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。 「奥さまに、一寸《ちょっと》お目にかかりたいと思いますが、御都合《ご都合》は如何《いかが》でございましょうか。」  彼は、そう云《言》いながら、一枚の名刺を渡した。 「一寸《ちょっと》お待ち下さいませ。」  少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当《当た》りの二階を、栗鼠のように、すばしこく馳《駆》け上《上が》った。  信一郎は少年の後を、じっと見送っていた。骰子《サイ》は投げられたのだと云《言》ったような、思い詰めた心持《心持ち》で、その二階に消える足音を聞いていた。  忽ちピアノの音が、ぱったりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知ったと云《言》うことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝していた。が、ピアノの鳴る代《代わ》りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい微笑《笑い》を浮べた少年は、トントンと飛ぶように階段を馳《駆》け降りて来た。 「一体、何《ど》う云《言》う御用《ご用》でございましょうか、一寸聞《ちょっと聞》かしていただくように、仰しゃいました。」  信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会う確《確か》な望みを得た。 「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、一寸《ちょっと》お目にかかりたいのですが‥‥。」と、云《言》った。少年は、又勢《また勢》いよく階段を馳《駆》け上《上が》って行った。今度は、以前のように早くは、馳《駆》け降りて来なかった。会おうか会うまいかと、夫人が思案している様子が、ありありと感ぜられた。五分近《5分近》くも経った頃だろう。少年はやっと、二階から馳《駆》け降りて来た。 「御紹介状《ご紹介状》のない方には、何方《どなた》にもお目にかからないことにしてあるのですが、貴君様《貴方様》を御信用申上《ご信用申し上》げて、特別にお目にかかるように仰しゃいました。どうぞ、此方《こちら》へ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上った処は、広間だった。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可《か》なり精緻な模写が掲げてあった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第4話】 【女王蜘蛛】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面している広い明るい部屋だった。花模様の青い絨氈《絨毯》の敷かれた床の上には、桃花心木《マホガニー》の卓子《テーブル》を囲んで、水色の蒲団《クッション》の取り附《付》けてある腕椅子《アームチェイア》が五六脚置《五’六脚置》かれている。壁に添うて横わっている安楽椅子の蒲団《クッション》も水色だった。|窓掩い《カーテン》も水色だった。それが純白の布で張られている周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充ちていた。信一郎は勧められるままに、扉《ドア》を後にして、椅子に腰を下《下ろ》すと、落着《落ち着》いて部屋の装飾を見廻《見回》した。三方の壁には、それぞれ新しい油絵が懸っていた。左手《ユンデ》の壁にかかっているのは、去年の二科《ニカ》の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のあ《/あ》る洋画家の水浴する少女の裸体画だった。此家《この家》の女主人公《女主人公’》が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上《社会ジョウ》の因襲に囚われていないことを示しているように、画中の少女は、一糸も纏っていない肉体を、冷たそうな泉の中に、その両膝の所迄《所まで》、|オズオズ《怖ず怖ず》と浸しているのであった。その他卓子《他テーブル》の上に置いてある灰皿にも、炉棚《マンテルピース》の上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、此家《この家》の女主人公《女主人公’》の繊細な鋭い趣味が、一々現われているように思われた。  杜絶《途絶》えたピアノの音《’音》は、再び続かなかった。が、その音の主は、なかなか姿を現わさなかった。少年が茶を運んで来た後《あと》は、|暫ら《暫》くの間、近づいて来る人の気勢《気配》もなかった。三分経《3分経》ち、五分経《5分経》ち、十分経《10分経》った。信一郎の心は、段々不安《だんだん不安》になり、段々《だんだん》いらいらして来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であったように、悔いられた。  その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚《マンテルピース》の上の姿見に、自分の顔が映っていた。彼が何気なく自分の顔を見詰めていた時だった。ふと、サラサラと云《言》う衣擦れの音がしたかと思うと、背後《後ろ》の扉《ドア》が音もなく開かれた。信一郎が、周章《あわて》て立ち上がろうとした時だった。正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然たる微笑の会釈を投げたのである。 「お待たせしましたこと。でも、御葬式《お葬式》から帰って、まだ着替えも致していなかったのですもの。」  長い間の友達にでも云《言》うような、男を男とも思っていないような夫人の声は、媚羞《ビシュウ》と狎々《馴れ馴れ》しさに充ちていた。しかも、その声は、何と云《言》う美しい響《響き》と魅力とを持っていただろう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまった。 「いや突然伺《突然’伺》いまして‥‥。」と、彼は立ち上りながら答えた。声が、妙に上ずッて、少年か何かのように、赤くなってしまった。  深海色《フカミイロ》にぼかした模様の錦紗縮緬《金紗縮緬》の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるように、椅子に落着《落ち着》けた。 「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳《ジュン》さんのように、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のようでございますもの。」  初対面の客に、ロクロク挨拶もしない中《うち》に、夫人は何のこだわりもないように、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人から|スッカリ《すっかり》先手を打たれてしまって、|暫ら《暫》くは何《-なん》にも云《言》い出せなかった。彼は我にもあらず、十分受《十分’受》け答《答え》もなし得ないで、ただモジモジしていた。夫人は、相手のそうした躊躇などは、眼中にないように、自由で快活だった。 「淳《ジュン》さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の申でございましょうかしら。妾《わたし》と同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホホホホホ。」  信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸ったように、話手の美しさに酔《え》いながら、|暫ら《暫》くは茫然としていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人は、口でこそ青年の死を悼んでいるものの、その華やかな容子《様子》や、表情の何処《どこ》にも、それらしい翳さえ見えなかった。ただ一寸《ちょっと》した知己《知り合い》の死を、死んでは少し淋《寂》しいが、然《しか》し大したことのない知己の死を、話しているのに過ぎなかった。信一郎は、可《か》なり拍子抜けがした。瑠璃子と云《言》う名が、青年の臨終の床《トコ》で叫ばれた以上、如何《いか》なる意味かで、青年と深い交渉があるだろうと思ったのは、自分の思い違いかしら。夫人の容子《様子》や態度が、示している通り、死んでは少し淋《寂》しいが、然《しか》し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。そう、疑って来ると、信一郎は、青年の死際の囈語《譫言》に過ぎなかったかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪《突然’訪》ねて来た自分の軽率な、芝居がかった態度が気恥しくて堪らなくなって来た。彼は、夫人に会えば、こう云《言》おうあ《/あ》あ云《言》おうと思っていた言葉が、咽喉にからんでしまって、ただ|モジモジ《もじもじ》興奮するばかりだった。 「妾《わたくし》、今日すっかり時間を間違えていましてね。気が付くと、三時過ぎでございましょう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行って、本当にきまりが悪うございましたわ。」  その癖、夫人はきまりが悪かったような表情は少しも見せなかった。あの葬場でも、それを思い出している今も。若い美しい夫人の何処《どこ》に、そうした大胆な、人を人とも思わないような強い所があるのかと、信一郎はただ呆気に取られている丈《だけ》であった。先刻《さっき》からの容子《様子》を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来ているかなどと云《言》うことは、丸切り夫人《’夫人》の念頭にないようだった。信一郎の方《ほう》も、訪ねて来た用向《用向き》をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸く心を定《決》めて、|オズオズ《怖ず怖ず》話し出した。 「実は、今日伺《今日’伺》いましたのは、死んだ青木君の事に就《就い》てでございますが‥‥」《。」》  そう云《言》って、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかが、見たかったのである。が、夫人は無雑作だった。 「そうそう取次《/取次ぎ》の者が、そんなことを申しておりました。青木さんの事って、何でございますの?」  帝劇で見た芝居の噂話をでもしているように夫人の態度は平静だった。 「実は、貴方さまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさえ私には分《分か》らないのです、もし、人違《人違い》だったら、何《ど》うか御免下《ごめん下》さい。」  信一郎は、女王の前に出た騎士のように慇懃だった。が、夫人は卓上に置いてあった支那製の団扇を取って、煽ぐともなく動かしながら、 「ホホホ何《/なん》のお話か知りませんが大層面白くなりそうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違いでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云《言》った。  信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度に揶揄《からかわ》れたように、まごつきながら云《言》った。 「実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然《ただ偶然》、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」 「ほほう貴君《貴方》さまが‥‥」《。」》  そう云《言》った夫人の顔は、遉《さすが》に緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、直《す》ぐ身を躱すように、以前の無関心な態度に帰ろうとした。 「そう! まあ何と云《言》う奇縁でございましょう。」  その美しい眼を大きく刮《見開》きながら、努めて何気なく云《言》おうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだわりがあるように思われた。 「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」  信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突っ込むようにそう言った。 「遺言を貴君《貴方》さまが、ほほう。」  そう云《言》った夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリアリと読まれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  今迄《今まで》は、秋の湖のように澄み切っていた夫人の容子《様子》が、青年の遺言と云《言》う言葉を聴くと、急に僅《僅か》ではあるが、擾《乱》れ始めた。信一郎は手答えがあったのを欣《喜》んだ。此《こ》の様子では、自分の想像も、必ずしも的《’的》が外れているとは限らないと、心強く思った。 「衝突の模様は、新聞にもある通《通り》ですが、それでも負傷《怪我》から臨終までは、先ず三十分も間《マ》がありましたでしょう。その間、運転手は医者を呼びに行っていましたし、通りかかる人はなし、私一人が臨終に居合わしたと云《言》うわけですが、《:、》丁度息《ちょうど息》を引き取る五分位前《五分くらい前》でしたろう、青木君は、ふと右の手首に入れていた腕時計のことを言い出したのです。」  信一郎が、茲《ここ》まで話したとき、夫人の面《オモテ》は、急に緊張した。そうした緊張を、現すまいとしている夫人の努力が、アリアリと分《分か》った。 「その時計を何《ど》うしようと、云《言》われたのでございますか。その時計を!」  夫人の言葉は、可《か》なり急き込んでいた。其《そ》の美しい白い顔が、サッと赤くなった。 「その時計を返して呉《く》れと云《言》われるのです。是非返して呉《く》れと云《言》われるのです。」信一郎も、やや興奮しながら答えた。 「誰方にでございましょうか。誰方に返して呉《く》れと云《言》われたのでございましょうか。」  夫人の言葉は、更に急き込んでいた。一度赤くなった顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放って、信一郎の答えいかにと、見詰めているのだった。  信一郎は、夫人の鋭い視線を避《-さ》けるようにして云《言》った。 「それが誰にとも分《分か》らないのです。」  夫人の顔に現れていた緊張が、又《また》サッと緩んだ。暫らく杜絶《途絶》えていた微笑が、|ほの《仄》かながら、その口辺《口元》に現われた。 「じゃ、誰方に返して呉《く》れとも仰しゃらなかったのですの。」夫人は、ホッと安堵したように、何時の間にか、以前の落着《落ち着き》を、取り返していた。 「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫っていたのでしょう、私の問《問い》には、何とも答えなかったのです。ただ臨終に貴女《貴方》のお名前を囈語《譫言》のように二度繰り返したのです。それで、万一貴女《万一貴方》に、お心当りがないかと思って参上したのですが。」  信一郎は、肝腎な来意を云《言》ってしまったので、ホッとしながら、彼は夫人が何《ど》う答えるかと、じっと相手の顔を見詰めていた。 「ホホホホホ。」先ず美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。 「淳《ジュン》さんは、本当に頼もしい方でいらっしゃいましたわ。そんな時にまで私《わたくし》を覚えていて下さるのですもの。でも、私腕時計《わたくし/腕時計》などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸拝見《ちょっと拝見》させていただけませんかしら。」  もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかった。澄み切った以前の美しさが、帰って来ていた。信一郎は、求めらるるままに、ポケットの底から、ハンカチーフに括《くる》んだ謎の時計を取り出した。 「確か女持には違いないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」 「妹さんのものじゃございませんのでしょうか。」夫人は無造作に云《言》いながら、信一郎の差し出す時計を受取《受け取》った。  信一郎は断るように附《付》け加えた。 「血が少し附《付》いていますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰い入ったのです。」  そう信一郎が云《言》った刹那、夫人の美しい眉が曇った。時計を持っている象牙のように白い手が、思い做《な》しか、かすかにブルブルと顫《震》え出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  時計を持っている手が、微かに顫《震》えるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したようだった。ほんのもう、痕跡しか残っていない血が、夫人の心を可《か》なり、脅《おびや》かしたようにも思われた。  一分ばかり、無言に時計をいじくり廻《回》していた夫人は、何かを深く決心したように、そのひそめた眉を開いて、急に快活な様子を取った。その快活さには、可《か》なりギゴチない、不自然なところが、交《交じ》っていたけれども。 「ああ《あ/》判りました。やっと思い付きました。」夫人は突然云《突然’云》い出した。 「私此時計《わたくし/この時計》に心覚えがございますの。持主《持ち主》の方も存じておりますの。お名前は、一寸申上《ちょっと申し上》げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらっしゃいますわ。でも、私《わたくし/》あの方と青木さんとが、こうした物を、お取り換《交わ》しになっていようとは、夢にも思いませんでしたわ。屹度《きっと》、誰方にも秘密にしていらしったのでございましょう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかったのでございましょう。道理で見ず知らずの貴方にお頼みになったのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換《交わ》しになったものを、遺品《形見》としてお返しになりたかったのでは、ございませんかしら。」  夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく云《言》った。が、何処《どこ》となく力なく空々しいところがあったが、信一郎は夫人の云《言》うことを疑う確《確か》な証拠は、少しもなかった。 「私《わたくし》も、多分そうした品物だろうとは思っていたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思いますが、御名前《お名前》を教えていただけませんでしょうか。」 「左様でございますね。」と、夫人は首を傾《-かし》げたが、直《す》ぐ「私《わたくし》を信用していただけませんでしょうか、私《わたくし》が、女同士で、そっと返して上げたいと思いますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思いになるか分《分か》らないと、存じますのよ。いかが?」と、承諾を求めるように、ニッコリと笑った。華やかな艶美な微笑だった。そう云《言》われると、信一郎はそれ以上、かれこれ言うことは出来なかった。兎《と》に角《かく》、謎の品物が思ったより容易に、持主《持ち主》に返されることを、欣《喜》ぶより外《ほか》はなかった。 「じゃ、貴女《貴方》さまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前丈《名前だけ》は、承ることが出来ませんでしょうか。貴女《貴方》さまを、お疑い申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎は|オズオズ《怖ず怖ず》云った。 「ホホホホ貴方様《/貴方様》も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽ち信一郎を突き放すように云《言》った。その癖、顔一杯に微笑を湛えながら、「恋人を突然奪《突然’奪》われたその令嬢に、同情して、黙って私《わたくし》に委《任》して下さいませ。私《わたくし》が責任を以《以っ》て、青木さんの霊《魂》が、満足遊ばすようにお計いいたしますわ。」  信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかった。そうした令嬢が、本当にいるか何《ど》うかは疑われた。が、夫人が時計の持主《持ち主》を、知っていることは確かだった。それが、夫人の云《言》う通《とおり》、子爵の令嬢であるか何《ど》うかは分《分か》らないとしても。 「それでは、お委《任》せいたしますから、何《ど》うかよろしくお願いいたします。」  そう引き退るより外《ほか》はなかった。 「確《確か》にお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上《申し上》げて置きますわ。屹度《きっと》、その方も感謝なさるだろうと存じますわ。」  そう云《言》いながら、夫人はその血の附《付》いた時計を、懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。  信一郎は、時計が案外容易《案外’容易》に片づいたことが、嬉しいような、同時に呆気ないような気持《気持ち》がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のように立ち上《上が》った。  信一郎が、勧められるのを振切《振り切》って、将《まさ》に玄関を出ようとしたときだった。夫人は、何かを思い付いたように云《言》った。 「あ、一寸《ちょっと》お待ち下さいまし。差上《差し上》げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、暇《イトマ》を告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後《後ろ》から呼び止めたので、信一郎は一寸意外《ちょっと意外》に思いながら、振り顧《返》った。 「つまらないものでございますけれども、之《これ》をお持ち下さいまし。」  そう云《言》いながら、夫人は何時《いつ》の間《マ》に、手にしていたのだろう、プログラムらしいものを、信一郎に呉《く》れた。一寸開《ちょっと開》いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであった。 「御親切《ご親切》に対する御礼《お礼》は、妾《わたくし》から、致そうと存じておりますけれど、これはホンのお知己《近づき》になったお印に差し上げますのよ。」  そう云《言》いながら、夫人は信一郎に、最後の魅するような微笑を与えた。 「いただいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘《まま》ポケットに入れた。 「御迷惑《ご迷惑》でございましょうが、是非お出で下さいませ、それでは、その節またお目にかかります。」  そう云《言》いながら、夫人は玄関の扉《ドア》の外へ出て|暫ら《/暫》くは信一郎の歩み去るのを見送っているようであった。  電車に乗ってから、|暫ら《暫》くの間信一郎《あいだ/信一郎》は夫人に対する酔《エイ》から、醒めなかった。それは確かに酔心地《酔い心地》とでも云《言》うべきものだった。夫人と会って話している間、信一郎はそのキビキビした表情や、優しいけれども、のしかかって来るような言葉に、云《言》い知れぬ魅力をさえ感じていた。男を男とも思わないような夫人に、もっとグングン引きずられたいような、不思議な欲望をさえ感じていたのである。  が、そうした酔《エイ》が、だんだん醒めかかるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかかり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処《どこ》かに、嘘偽りがあるように思われてならなかった。最初冷静《最初/冷静》だった夫人が、遺言と云《言》う言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を|暫ら《暫》く見詰めてから、急に持主《持ち主》を知っていると云《言》い出したりしたことが、今更のように、疑念の的になった。疑ってかかると、信一郎は大事な青年の遺品《形見》を、夫人から体《テイ》よく捲き上げられたようにさえ思われた。従って、夫人の手に依って、時計が本当の持主《持ち主》に帰るかどうかさえが、可《か》なり不安に思われ出した。  その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリアリと甦って来た。『時計を返して呉《く》れ』と云《言》う言葉の、語調までが、ハッキリと甦って来た。その叫びは、恋人に恋の遺品《形見》を返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だった。その叫びの裡には、もっと鋭い骨《/骨》を刺すような何物かが、混《交》じっていたように思われた。『返して呉《く》れ』と云《言》う言葉の中に『突っ返して呉《く》れ』と云《言》うような凄い語気を含んでいたことを思い出した。たとい、死際であろうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈だと思われた。  そう考えて来ると、瑠璃子夫人の云《言》った子爵令嬢と青年との恋愛関係は、烟《煙》のように頼りない事のようにも思われた。夫人はああした口実で、あの時計を体《テイ》よく取返《取り返》したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体《テイ》よく取返《取り返》したのではあるまいか。  が、そう疑って見たものの、それを確《確か》める証拠は何もなかった。それを確《確か》めるために、もう一度夫人に会って見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度体《一度テイ》よく追い返されることは余りに判り切っている。  信一郎は、夫人の張る蜘蛛の網にかかった蝶か何かのように、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体《テイ》よく、捲き上げられたように思われた。彼は、自分の腑甲斐なさが、口惜《悔》しく思われて来た。  彼《彼’》の手を離れても、謎の時計は、やっぱり謎の尾を引いている。彼は何《ど》うかして、その謎を解きたいと思った。  その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思い出したのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年から、海へ捨てるように頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡に、持っていた。海に捨てる機会を失《失く》したので、焼こうか裂こうかと思いながら、ついその儘《まま》になっていたのである。  それを、今になって披いて見ることは、死者に済まないことには違《違い》なかった。が、時計の謎を知るためには、──《─:》それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外《ほか》に、何の手段も思い浮ばなかった。あんな秘密な時計をさえ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主《持ち主》を知るために、ノートを見る位《くらい》は、許して呉《く》れるだろうと、信一郎は思った。  でも家に帰って、まだ旅行から帰ったままに、放《抛》り出してあったトランクを開いたとき、信一郎は可《か》なり良心の苛責を感じた。  が、彼が時計の謎を知ろうと云《言》う慾望は、もっと強《つよ》かった。美しい瑠璃子夫人の謎を解こうと云《言》う慾望は、もっと強《つよ》かった。  彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くような興奮と恐怖とで、|オズオズ《怖ず怖ず》表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚《二’三枚》は、白紙だった。その|次ぎ《次》の五六枚《五’六枚》も、白紙だった。彼は、裏切られたようなイライラしさで、全体を手早くめくって見た。が、何《ど》の頁《ページ》も、真白《真っ白》な汚れない頁《ページ》だった。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくって行ったとき、やっと其処《そこ》に、インキの匂《匂い》のまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだった。  信一郎は胸を躍らしながら、貪るようにその一行一行《1行1行》を読んだのである。可《か》なり興奮して書いたと見え、字体が荒んでいる上に、字の書き違《違い》などが、彼処《かしこ》にも此処《ここ》にもあった。 ◇。◇。◇。 ──彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、ただ彼女の網にかかった蝶《/蝶》の身悶えに、過ぎなかったのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見ていたのだ。  今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云《言》って、一個の腕時計を呉《く》れた。それを、彼女の白い肌から、直《す》ぐ自分の手首へと、移して呉《く》れた。彼女は、それをか《掛》け替《替え》のない秘蔵の時計であるようなことを云《言》った。彼女を、純真な女性であると信じていた自分は、そうした賜物を、どんなに欣《喜》んだかも知れなかった。彼女を囲んでいる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人《ただ一人》であると思った。勝利者であると思った。自分は、人知れず、得々として之《こ》れを手首に入れていた。彼女の愛の把握が其処《そこ》にあるように思っていた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるように思っていた。  が、自分のそうした自惚《自惚れ》は、そうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂《踏》み潰されてしまったのだ。皮肉に残酷に。  昨日自分《昨日’自分》は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲《-まく》り上げて、腕時計を出して見ているのに気が附《付》いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭《驚》きは、何んなであったろう。若《も》し、大尉が其処《そこ》に居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違《違い》ない。自分が、それを持っている手は思わず、顫《震》えたのである。  自分は急き込んで訊いた。 「これは、何処《どこ》からお買いになったのです。」 「いや、買ったのではありません。ある人から貰ったのです。」  大尉の答《答え》は、憎々しいほど、落着《落ち着》いていた。しかも、その落着《落ち着き》の中に、得意の色がアリアリと見えているではないか。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 ──その時計は、自分の時計と、寸分違ってはいなかった。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取ってか《掛》け替《替え》のない、たった一つの時計ではなかったのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないように、 「何《ど》うです。仲々奇抜《なかなか奇抜》な意匠でしょう。一寸類《ちょっと類》のない品物でしょう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けていた。自分は、自分の右の手首に入れているそれと、寸分違わぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉《/大尉》の誇《プライド》を叩き潰してやりたかった。が、大尉に何《-なん》の罪があろう。自分達立派《自分たち立派》な男子二人に、こんな皮肉な残酷《/残酷》な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女《みんな彼女》ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向《真っ向》から時計を叩き返してやりたいと思った。  が、彼女と面と向《向か》って、不信を詰責しようとしたとき、自分は却って、彼女から忍びがたい|恥かし《辱》めを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而《しか》も、美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤《憤り》と恨《恨み》との為に、わなわな顫《震》えながら而《/しか》も指一本彼女《指一本’彼女》に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢な心臓を、一思いに突き刺し得る丈《だけ》の勇気と力とを。  が、二つとも自分には欠けていた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追い、自分を悩ませる。 ◇。◇。◇。  手記は茲《ここ》で中断している。が半頁《/半ページ》ばかり飛んでから、前よりももっと乱暴な字体で始まっている。 ◇。◇。◇。  何《ど》うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のように、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲《取り囲》まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思う。 ◇。◇。◇。  又一寸中断《またちょっと中断》されてから、 ◇。◇。◇。  そうだ、一層死《いっ-そ死》んでやろうか《か-》しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ。自分の真実の血で、彼女の偽《偽り》の贈物《贈り物》を、真赤《真っ赤》に染めてやるのだ。そして、彼女の僅《僅か》に残っている良心を、|恥し《辱》めてやるのだ。 ◇。◇。◇。  手記は、茲《ここ》で終っている。信一郎は、深い感激の中に読み了った。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持《心持ち》は自殺であると云《言》ってもよかったのだ。青年は死場所を求めて、箱根から豆相《ズソウ》の間を逍遥《彷徨》っていたのだった。彼の奇禍は、彼の望み通《どおり》に、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤《真っ赤》に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残っている良心を、|恥し《辱》め得るだろうか。『返して呉《く》れ』と云《言》ったのは『叩き返して呉《く》れ』と云《言》う意味だった。信一郎は果《果た》して叩き返しただろうか。  彼女が、瑠璃子夫人であるか何《ど》うかは、手記を読んだ後も、判然《はっきり》とは判らなかった。が、ただ生易しく平和の裡に、返すべき時計でないことは明《明らか》だった。その時計の中に含まれている青年の恨みを、相手の女性に、十分思《充分思》い知らさなければならない時計だったのだ。ただ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久《エーキュウ》に慰められていないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂《いわゆる》『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。  が、『彼女』とは一体誰であろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第5話】 【そのかみの事】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「あら! お危《危の》うございますわ。」と、赤い前垂掛《前垂掛け》の女中姿をした芸者達に、追い纏《まと》われながら、荘田勝平《ショウダカツヘイ》は庭の丁度中央《ちょうど真ん中》にある丘の上へ、登って行った。飲み過ごした三鞭酒《シャンペン酒》のために、可《か》なり危《危なっ》かしい足付《足付き》をしながら。  丘の上には、数本《スーホン》の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝《ゆ》く春の名残りを止《-とど》めていた。其処《そこ》から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うらうらと射《-さ》している。五万坪に近い庭には、幾つもの小山《コヤマ》があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の湧く泉水《’泉水》があった。  その小山《コヤマ》の上にも、麓にも、芝生の上にも、泉水の畔りにも、数奇《スキ》を凝らした四阿の中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美《派手》な裾模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々打《三々伍々’打》ち集うているのだった。  人の心を浮き立たすような笛や鼓の音が、楓の林の中から聞えている。小松の植込《植込み》の中からは、其処《そこ》に陣取っている、三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いている。拍子木が鳴っているのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だった。それに吸い付けられるように、裾模様や振袖の夫人達が、その方《ホウ》へゾロゾロと動いて行くのだった。  勝平《カツヘイ》は、そうした光景や、物音を聞いていると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依って帝都の上流社会がこんなに集まっている。自分の名に依って、大臣も来ている。大銀行の総裁や頭取も来ている。侯爵や伯爵の華族達も見えている。いろいろな方面の名士を、一堂の下《もと》に蒐めている。自分の名に依って、自分の社会的位置で。  そう考えるに付けても、彼は此《こ》の三年以来自分に振りかかって来た夢のような華やかな幸運が、振り顧みられた。  戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であったのが、偶々持《たまたま持》っていた一隻《1隻》の汽船が、幸運の緒《糸口》を紡いで極端な遣繰《遣り繰》りをして、《:、》一隻一隻《1隻一隻》と買い占めて行った船が、お伽噺の中の白鳥のように、黄金の卵を、|次ぎ次ぎ《次々》に産んで、わずか三年後の今は、千万円を越す長者になっている。  しかも、金《かね》の出来るに従って、彼は自分の世界が、だんだん拡がって行くのを感じた。今までは、『其処《そこ》にいるか』とも声をかけて呉《く》れなかった人々が、何時の間にか自分の周囲に蒐《集》まって来ている。近づき難いと思っていた一流の政治家や実業家達《実業家たち》が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くようになっている。自分を招待したり、自分に招待されたりするようになっている。その他、彼の金力が物を云《言》うところは、到る処にあった。緑酒紅燈《緑酒紅灯》の巷でも、彼は自分の金《-かね》の力が万能であったのを知った。彼は、金《かね》さえあれば、何でも出来ると思った。現に、此《こ》の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金《-かね》を投じて買ったのである。現に、今日の園遊会も、一人宛百金《一人宛て100金》に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を招んだのである。  聞えて来る笛の音《ネ》も、鼓の音も奏楽の響《響き》も、模擬店でビールの満《マン》を引いている人達の哄笑も、勝平《カツヘイ》の耳には、彼の金力に対する讃美の声のように聞《聞こ》えた。『そうだ。凡《全》ては金《-かね》だ。金《かね》の力さえあればどんな事でも出来る』と、心の裡で呟きながら、彼が日頃の確信を、一層強《いっそう強》めたときだった。 「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールの杯《コップ》を右の手に高く翳しながら、蹌踉《ひょろひょろ》と近づいて来る男があった。それは、勝平《カツヘイ》とは同郷の代議士だった。その男の選挙費用も、悉く勝平《カツヘイ》のポケットから、出ているのだった。 「|やあ《ヤア》! お蔭さまで。」と、勝平《カツヘイ》は傲然と答えた。『茲《ここ》にも俺《儂》の金《-かね》の力で動いている男が一人いる。』と、心の中で思いながら。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「よく集まったものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えていますね。我輩一昨日《吾輩/一昨日》は、英国大使館の園遊会《ガードンパーティ》に行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。尤《もっと》も、此名園《この名園》を見る丈《だけ》でも、来る価値《値打ち》は十分《充分》ありますからね。ハハハハ。」  代議士の沢田は真正面からお世辞を云《言》うのであった。 「いい天気で、何よりですよ。ハハハハハ。」と、勝平《カツヘイ》は鷹揚に答えたが、内心の得意は、包隠《包み隠》すことが出来なかった。 「素晴らしい庭ですな。彼処《あすこ》の杉林から泉水の裏手へかけての幽邃な趣は、とても市内じゃ見られませんね。五十万円でも、これじゃ高くはありませんね。」  そう云《言》いながら、沢田は持っていたビールの杯《コップ》を、またグイと飲み乾した。色の白い肥った顔が、咽喉の処まで赤くなっている。彼は、転げかかるように、勝平《カツヘイ》に近づいて右の二の腕を捕えた。 「主人公が、こんな所に、逃げ込んでいては困りますね。さあ、彼方《あっち》へ行きましょう。先刻《さっき》も我党《我が党》の総裁が、貴方を探していた。まだ挨拶をしていないと云《言》って。」  沢田は、勝平《カツヘイ》を|グングン《ぐんぐん》麓の方《ホウ》へ、園遊会の賑《賑わ》いと混雑の方《ホウ》へ引きずり込《こ》もうとした。 「いや、もう少しこの儘《まま》にして置いて下さい。今日一時《今日’一時》から、門の処で一時間半も立ち続けていた上に、先刻三鞭酒《さっきシャンペン酒》を、六七杯《ロクシチ杯》も重ねたものだから。もう|暫ら《暫》く捨てて置いて下さい。直《す》ぐ行きますよ、後《あと》から直《す》ぐ。」  そう云《言》って、捕えられていた腕を、スラリと抜くと、沢田はその機みで、一間ばかりひょろひょろと下へ滑って行ったが、其処《そこ》で一寸踏《ちょっと踏》み止《とど》まると、 「それじゃ後ほど。」と云《言》ったまま空《/カラ》になった杯《コップ》を、右の手で振り廻《回》すようにしながら、ふらふら丘《’丘》の麓にある模擬店の方《ホウ》へ行ってしまった。  園内の数ヶ所で始まっている余興は、それぞれに来会した人々を、分け取りにしているのだろう。勝平《カツヘイ》の立っている此《こ》の広い丘の上にも五六人《ゴ六人》の人影しか、残っていなかった。勝平《カツヘイ》に付き纏っていた芸妓達も、先刻踊《さっき踊》りが始まる拍子木が鳴ると、皆《みんな》その方《ホウ》へ馳《駆》け出してしまった。  が、勝平《カツヘイ》は四辺《辺り》に人のいないのが、結局気楽《結局’気楽》だった。彼は、其処《そこ》に置いてある白い陶製の腰掛《腰掛け》に腰を下《下ろ》しながら、快い休息を貪っていた。心の中は、|燃ゆる《モユル》ような得意さで一杯になりながら。  彼が、|暫ら《暫》く、ぼんやりと咲き乱れている八重桜の梢越しに、薄青く澄んでいる空を、見詰めている時だった。 「茲《ここ》は静かですよ。早く上っていらっしゃい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方《ほう》を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下《見下ろ》しながら、誰かを麾いている所だった。  青年は、今日招待《今日’招待》した誰かが伴って来た家族の一人であろう。勝平《カツヘイ》には、少しも見覚えがなかった。青年も、此《こ》の家の主人公が、こんな淋《寂》しい処《所》に、一人いようなどとは、夢にも気付いていないらしく、麓の方《ほう》を麾いてしまうと、ハンカチーフを出して、其処《そこ》にある陶製の腰掛《腰掛け》の埃を払っているのだった。  急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。 「まあ、ひどい混雑ですこと。妾《わたし/》いやになりましたわ。」 「どうせ、園遊会なんてこうですよ。あの模擬店の雑沓は、何《ど》うです。見ている丈《だけ》でも、あさましくなるじゃありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下《見下ろ》しながら、答えた。  それには何とも答えないで、昇って来るらしい人の気勢《気配》がした。青年の言葉に、一寸傷《ちょっと傷》つけられた勝平《カツヘイ》は、じっと其方《-そのほう》を、睨むように見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  やがて、女は丘の上に全身を現した。年《/年》は十八か九であろう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れている八重桜の、絢爛たる美しさをも奪っていた。目も醒《-さ》むるような藤納戸色の着物の胸のあたりには、五色《5色》の色糸のかすみ模様の繍が鮮《鮮や》かだった。そのぼかされた裾には、さくら草が一面に散り乱れていた。白地に孔雀を浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた。 「疲れたでしょう。お掛けなさい。」  青年は、埃を払った腰掛《腰掛け》を、女に勧めた。彼女は勧められるままに、腰を下《下ろ》しながら、横に立っている青年を見上げるようにして云《言》った。 「妾来《わたし/こ》なければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう行こう云《言》って、お勧めになるものですから。」 「僕も、妹のお伴で来たのですが、こう混雑しちゃ厭ですね。それに、此《こ》の庭《’庭》だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセコセしていて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。殊に、あの四阿の建て方なんか厭ですね。」  年の若い二人は、此日《この日》の園遊会の主催者なる勝平《カツヘイ》が、ただ一人こんな淋《寂》しい処《所》にいようなどとは夢にも考え及ばないらしく、勝平《カツヘイ》の方《ほう》などは、見向きもしないで話し続けた。 「お金さえかければいいと思っているのでしょうか。」  美しい令嬢は、その美しさに似合わないような皮肉な、口の利き方をした。 「どうせ、そうでしょう。成金と云《言》ったような連中は、金額と云《言》う事より外《ほか》には、何《なん》にも趣味がないのでしょう。凡《全》ての事を金《-かね》の物差《物差し》で計ろうとする。金《かね》さえかければ、何でもいいものだと考える。今日の園遊会なんか、一人宛五十円《一人ずつ五十円》とか百円とかを、入《い》れるとか何とか云《言》っているそうですが、あの俗悪な趣向を御覧《ご覧》なさい。」  青年は、何かに激《ゲキ》しているように、吐き出すように云《言》った。  先刻《さっき》から、聞くともなしに、聞いていた勝平《カツヘイ》は、烈《激》しい怒《怒り》で胸の中が、煮えくり返るように思った。彼は、立ち上《上が》りざま、悪口《悪くチ》を云《言》っている青年の細首《ホソ首》を捕えて、邸《屋敷》の外へ放《抛》り出してやりたいとさえ思った。彼は若い時、東京に出たときに労働をやった時の名残りに、残っている二の腕の力瘤を思わず撫でた。が、遉《さすが》に彼の位置が、つい三四分前《サンヨンプン前》まで、あんなに誇らしく思っていた彼の社会的位置が彼《/彼》のそうした怒《怒り》を制して呉《く》れた。彼は、ムラムラと湧いて来る心を抑えながら、青年の云《言》うことを、じっと聞き澄《澄ま》していた。 「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢な生活を、謳歌しているようですが、金《かね》で贏《かち》うる彼等の生活は、何んなに単純で平凡でしょう。金《かね》が出来ると、女色《ニョショク》を漁る、自動車を買う、邸《屋敷》を買う、家を新築する、分《分か》りもしない骨董を買う、それ切りですね。中《なか》に、よっぽど心掛《心掛け》のいい男が、寄附《寄付》をする。物質上《物質ジョウ》の生活などは、いくら金《-かね》をかけても、直《す》ぐ尽きるのだ。金《かね》で、自由になる芸妓などを、弄んでいて、よく飽きないものですね。」  青年は、成金全体に、何《なに》か烈《激》しい恨みでもあるように、罵りつづけた。 「飽きるって。そりゃどうだか、分《分か》りませんね。貴方のように、敏感な方なら、直《す》ぐに飽きるでしょうが、彼等のように鈍い感じしか持っていない人達は、何時迄同《いつまで同》じことをやっていても飽きないのじゃなくって!」女は、美しい然《しか》し冷めたい微笑を浮べながら云《言》った。 「貴方は、悪口《悪くチ》は僕より一枚上ですね。ハハハハハハ。」  二人は相顧みて、会心の笑いを笑い合った。  黙って聞いていた勝平《カツヘイ》の顔は、憤怒《フンヌ》のため紫色になった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍《そば》に居合す此邸《この屋敷》の主人の勝平《カツヘイ》にどんな影響を与えているかと云《言》う事は、夢にも気の付いていないように、無遠慮《不遠慮》に自由に話し進んだ。 「でも、お招ばれを受けていて、悪口《悪くチ》を云《言》うのは悪いことよ。そうじゃなくって。」  令嬢は、右の手に持っている華奢な象牙骨《象牙ボネ》の扇を、弄りながら、青年の顔を見上げながら、遉《さすが》に女らしく云《言》った。 「いや、もっと云《言》ってやってもいいのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凛々しい顔を、一層引《いっそう引》き緊めながら、「第一華族階級《第一’華族階級》の人達が、成金に対する態度なども、可《か》なり卑しいと思っているのですよ。平生門閥《いつも門閥》だとか身分だとか云《言》う愚《/愚》にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか云《言》って、軽蔑している癖に、相手が金《-かね》があると、平民だろうが、成金だろうが、此方《こっち》からペコペコして接近するのですからね。僕の父なんかも、何時の間にか、あんな連中と知己《知り合い》になっているのですよ。此間《このあいだ》も、あんな連中に担がれて、何とか云《言》う新設会社の重役になるとか云《言》って、騒いでいるものですから、僕はウンと云《言》ってやったのですよ。」 「おや! 今度は、お父様にお鉢が廻《回》ったのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニッコリ笑った。 「其処《そこ》へ来ると、貴女《貴方》のお父様なんか立派《’立派》なものだ。何処《どこ》へ出しても恥かしくない。いつでも、清貧に安んじていらっしゃる。」青年は靴の先で散り布いている落花を踏み躙りながら云《言》った。 「父のは病気ですのよ。」女は、一寸美《ちょっと美》しい眉を落し《とし/》「あんなに年が寄っても、道楽が止められないのですもの。」そう云《言》った声は、一寸淋《ちょっと寂》しかった。 「道楽じゃありませんよ。男子として、立派な仕事じゃありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦って来られたのですもの。」  青年は、女を慰めるように云《言》った。が、先刻成金《さっき成金》を攻撃したときほどの元気はなかった。二人は話が何時《いつ》か、理に落ちて来た為だろう。孰《ど》ちらからともなく、黙ってしまった。青年は、他の一つの腰掛《腰掛け》を、二三尺動《ニサンシャク動》かして来て、女と並んで腰をかけた。生|あたた《温》かい晩春の微風が、襲って来た為だろう。花が頻りに散り始めた。  勝平《カツヘイ》は先刻《さっき》から、幾度此《幾度こ》の場を立ち去ろうと思ったか、分《分か》らなかった。が、自分に対する悪評を怖れて、コソコソと逃げ去ることは、傲岸な彼の気性が許さなかった。張り裂けるような憤怒《フンヌ》を、胸に抑えて、じっと青年の攻撃を聞いていたのであった。  彼は、つい十分《10分》ほど前まで、今日の園遊会に集まっている、凡《全》ての人々は自分の金力に対する讃美者であると思っていた。讃美者ではなくとも、少くとも羨望者であると思っていた。否少《否/少》くとも、自分の持っている金《-かね》の力丈《力だけ》は、認めて呉《く》れる人達だと思っていた。今日集《今日’集》まっている首相を初め、いろいろな方面の高官も、M公爵を筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、角力や俳優達も、自分の持っている金力の価値丈《価値だけ》は認めて呉《く》れる人だと思っていた。認めていて呉《く》れればこそやって来たのだと思っていた。それだのに、歯牙にもかけたくない、生若い男女の学生が、たとい貴族の子女であるにしろ、今日の会場の中央《真ん中》で、たとい自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活を罵るばかりでなく、自分が命綱とも思う金《-かね》の力を、頭から否定している。金《かね》を持っている自分達の生活を、否人格《否/人格》まで、散々に辱めている。そう考えて来ると、先刻《さっき》まで晴やかに華やかに、昂ぶっていた勝平《カツヘイ》の心は、苦い韮を喰ったように、不快な暗《/暗》いものになってしまった。彼は、|かす《掠》り傷を負った豹のような、凄い表情をしながら、二人の後姿《後ろ姿》を睨んでいた。もう一言何《一言’何》とか云《言》って見ろ。そのままには済まさないぞ。彼の激昂《ゲッコウ》した心《’心》がそうした呻《呻き》を洩《洩ら》していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そうした恐ろしい豹が、彼等の背後に蹲《うずく》まっていようとは、気の付いていない二人は、今度は四辺《辺り》を憚るように、しめやかに何やら話し始めた。  もう一言、学生が何か云《言》ったら、飛び出して、面と向《向か》って云《言》ってやろうと、逸っていた勝平《カツヘイ》も、相手が急に静《静か》になったので、拍子抜がしながら、而《しか》もその儘立《まま立》ち去ることも、業腹なので、二人の容子《様子》を、じっと睨み詰めていた。  自分に対する罵詈のために、カッとなってしまって、青年の顔も少女の顔も、十分眼《十分’目》に入らなかったが、今は少し心が落着《落ち着》いたので、二人の顔を、更めて見直した。  気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかった。殊に、少女の顔に見る浄い美しさは、勝平《カツヘイ》などが夢にも接したことのない美しさだった。彼は、心の中で、金《かね》で購《贖》った新橋や赤坂の、名高い美妓の面影と比較して見た。何と云《言》う格段な相違が其処《そこ》にあっただろう。彼等の美しさは、造花の美しさであった。偽真珠《ニセ真珠》の美しさであった。一目丈《一目だけ》は、ごまかしが利くが二目見《/フタメ’見》るともう鼻に付く美しさであった。が、この少女は、夜毎《夜ごと》に下《下り》る白露に育まれた自然の花のような生《/生》きた新鮮な美しさを持っていた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げられる、天然真珠の如き輝きを持っていた。一目見《ひと目見》て美しく、二目見《フタメ’見》て美しく、見直せば見直す毎に蘇って来る美しさを持っていた。  勝平《カツヘイ》が、今迄金《今まで-かね》で買い得《え》た女性の美しさは、此少女《この少女》の前では、皆偽物《みんな偽物》だった。金《かね》で買い得るものと思っていたものは、皆贋物《みんな偽物》だったのだ。勝平《カツヘイ》は此少女《この少女》の美しさからも、今迄《今まで》の誇《プライド》を可《か》なり傷《傷つ》けられてしまった。  それ丈《だけ》ではなかった。此二人《この二人》が、恋人同士であることが、勝平《カツヘイ》にもすぐそれと判った。二人の交している言葉は、低くて聞えなかったが、時々《ときどき》お互《互い》に投げ合っている微笑には、愛情が籠《込》もっていた。愛情に燃えていながら、而《しか》も浄く美しい微笑だった。  二人の睦じい容子《様子》を見ている裡に、勝平《カツヘイ》の心の中の憤怒《フンヌ》は何時の間にか、嫉妬をさえ交えていた。『凡《全》ての事は金《-かね》だ。金《かね》さえあればどんな事でも出来る。』と思っていた彼の誇《誇り》は、根柢から揺り動かされていた。此《こ》の二人の恋人が、今感《今’感》じ合っているような幸福は、勝平《カツヘイ》の全財産を、投じても得られるか、何《ど》うか分《分か》らなかった。少女の顔に浮ぶ、浄いし《/し》かも愛に溢れた微笑の一つでさえ、購《贖》うことが出来るだろうか。いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の媚を呈し、万の微笑を贈る女は、幾何《いくら》でもいる。が、その媚《媚び》や微笑の底には、袖乞いのような卑しさや、狼のような貪慾さが隠されていた。此《こ》の若い男女が交しているような微笑とは、金剛石《ダイヤモンド》と木炭のように違っていた。同じ炭素から成っていても、金剛石《ダイヤモンド》が木炭と違うように、同じ笑《笑み》でも質が違っていたのだ。  青年が、勝平《カツヘイ》の金力をあんなに、罵倒するのも無理はなかった。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平《カツヘイ》の前で示しているのだった。  青年の罵倒が単なる悪口《悪くチ》でなく、勝平《カツヘイ》に取っては、苦い真理である丈《だけ》に、勝平《カツヘイ》の恨みは骨に入った。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、勝平《カツヘイ》にマザマザと見せ付けた丈《だけ》に、勝平《カツヘイ》の憤《憤り》は、肝に銘じた。彼は、一突《ヒト突》き刺された闘牛のように、怒っていた。もう、自制もなかった。彼が、先刻《さっき》まで誇っていた社会的位置に対する遠慮もなかった。彼は樫の木に出来る木瘤のような掌を握りしめながら、今にも青年に飛びかかるような身構えをしていた。  その時に、蹲《うずく》まっていた青年がつと立ち上《上が》った。女も続いて立ち上りながら云《言》った。 「でも、何か召し上ったら何《ど》う。折角いらしったのですもの。」 「僕は、成金輩《成金バラ》の粟《ゾク》を食むを潔しとしないのです。ハハハハ。」  青年は、半分冗談で云《言》ったのだった。が、憤怒《フンヌ》に心の狂いかけていた勝平《カツヘイ》にとっては、最後の通牒だった。彼は、寝そべっていた獅子のように、猛然と腰掛《腰掛け》から離れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》の激怒には、まだ気の付かない青年は、連《連れ》の女を促して、丘を下《-くだ》ろうとしているのだった。 「もし、もし、|暫ら《暫》く。」勝平《カツヘイ》の太い声も、遉《さすが》に顫《震》えた。  青年は、何気ないように振返《振り返》った。 「何か御用《ご用》ですか。」落着《落ち着》いた、しかも気品のある声だった。それと同時に、連《連れ》の女も振返《振り返》った。その美しい眉に、一寸勝平《ちょっとカツヘイ》の突然な態度を咎めるような色が動いた。 「いや、お呼び止めいたして済《-す》みません。一寸御挨拶《ちょっとご挨拶》がしたかったのです。」と、云《言》って勝平《カツヘイ》は、息を切った。昂奮の為に、言葉が自由でなかった。二人の相手は、勝平《カツヘイ》の昂奮した様子を、不思議そうにジロジロ見ていた。 「先刻《さっき》、皆様に御挨拶《ご挨拶》した筈ですが、貴君方《貴方がた》は遅くいらしったと見えて、まだ御挨拶《ご挨拶》をしなかったようです。私が、此家《この家》の主人の荘田勝平《ショウダカツヘイ》です。」  そう云《言》いながら、勝平《カツヘイ》はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブルブルと顫《震》えていた。  遉《さすが》に、青年の顔も、彼に寄り添うている少女の顔もサッと変《変わ》った。が、二人とも少しも悪怯《悪び》れたところはなかった。 「ああそうですか。いや、今日はお招きに与《-あずか》って有難うございます。僕は、御存《ご存》じの杉野直《杉野ただし》の息子です。茲《ここ》に、いらっしゃるのは、唐沢男爵のお嬢さんです。」  青年の顔色は、青白くなっていたが、少しも狼狽した容子《様子》は見せなかった。昂然とした立派な態度だった。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子《様子》にも、微塵狼狽《微塵’狼狽》えた様子はなかった。 「いや、先刻《さっき》から貴君《貴方》の御議論《ご議論》を拝聴していました。いろいろ我々には、参考になりました。ハハハ。」  勝平《カツヘイ》は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑しようとした。が、彼の笑い声は、咽喉にからんだまま、調子外れの叫び声になった。  自分の罵倒が、その的《’的》の本人に聴かれたと云《言》うことが、明《明ら》かになると、青年も遉《さすが》に当惑の容子《様子》を見せた。が、彼は冷静に落着《落ち着》いて答えた。 「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止むを得ません。僕の不謹慎はお詫びします。が、持論は持論です。」  そう云《言》いながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。  自分が飛び出して出さえすれば、周章狼狽して、一溜りもなく参ってしまうだろうと思っていた勝平《カツヘイ》は、当《当て》が外れた。彼は、相手が思いの外《ほか》に、強いのでタジタジとなった。が、それ丈彼《だけ彼》の憤怒《フンヌ》は胸の裡に湧き立った。 「いや、お若いときは、金《かね》なんかと云《言》って、よく軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判りになりますよ。金《かね》が、人生に於《於い》てどんなに大切であるかが。」  勝平《カツヘイ》は、出来る丈高飛車《だけ高飛車》に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかった。 「僕などは、そうは思いません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金《かね》でも溜《貯》めて見ようと云《言》うことに、なるのじゃありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでいる実業家は好きです。が、事業を金《-かね》を得る手段と心得たり、又得《また得》た金《-かね》の力を他人に、見せびらかそうとするような人は嫌いです。」  もう、其処《そこ》に何等《なんら》の儀礼もなかった。それは、言葉で行われている格闘だった。青年の顔も蒼《青》ざめていた。勝平《カツヘイ》の顔も蒼《青》ざめていた。 「いや、何とでも|仰しゃ《仰》るがよい。が、理窟じゃありません。世の中のことは、お坊ちゃんの理想通《理想どおり》に行くものではありません。貴君《貴方》にも金《-かね》の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、屹度来《きっと来》ますよ。」  勝平《カツヘイ》は、その大きい口を、きっと結びながら青年を睨みすえた。が、青年の直《す》ぐ傍《そば》に、立ち竦んだまま、黙っている彫像のような姿に目を転じたとき、勝平《カツヘイ》の心は、再びタジタジとなった。その美しい顔は勝平《/カツヘイ》に対する憎悪に燃えていたからである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、何かを答えようとしたとき、女は突如彼《いきなり彼》を遮ぎった。 「もういいじゃございませんか。私達《私たち》が、参ったのがいけなかったのでございますもの。御主人《ご主人》には御主人《ご主人》の主義があり貴君《/貴方》には貴君《貴方》の主義があるのですもの。その孰《-いず》れが正しいかは、銘々一生《銘々’一生》を通じて試して見る外《ほか》はありませんわ。さあ、失礼をしてお暇しようじゃありませんか。」  少女は、青年より以上に強《つよ》かった。其処《そこ》には火花が漏れるような堅さがあった。それ丈《だけ》、勝平《カツヘイ》に対する侮辱も、甚だしかった。こんな男と言葉を交えるのさえ、馬鹿馬鹿しいと、云《言》った表情が、彼女の何処《どこ》かに漂っていた。孔雀のように美しい彼女は、孔雀のような襟度を持っているのだった。  青年も、自分の態度を、余り大人気《大人げ》ないと思い返したのだろう。女の言葉を、戈を収める機会にした。 「いや、飛んだ失礼を申上《申し上》げました。」  そう云《言》い捨てたまま、青年は女と並んで足早に丘を下って行った。敵に、素早く身を躱されたように、勝平《カツヘイ》は心の憤怒《フンヌ》を、少しも晴さない中《うち》に、やみやみと物別れになったのが、口惜《悔》しかった。もっと、何とか云《言》えばよかった。もっと、青年を|恥し《辱》めてやればよかったと、口惜《悔》しがった。睦じそうに並んで、遠ざかって行く二人を見ていると、勝平《カツヘイ》は自分の敗れたことが、マザマザと判って来た。青年の罵倒に口惜《悔》しがって、思わず飛び出したところを、手もなく扱われて、うまく肩透しを喰ったのだった。どんな点《点’》から、考えて見ても、自分にいい所はなかった。敗戦だった。醜い敗戦だった。そう思うと、わざわざ五万を越す大金を消《使》って、園遊会をやったことまでが、馬鹿らしくなった。大臣や総裁や公爵などの挨拶を受けて、有頂天にまで行った心持《心持ち》が、生若い男女《’男女》のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。  彼の憤りと恨みとが、胸の中で煮えくり返った時だった。その憤りと恨みとの嵐の中に、徐々に鎌首を擡げて来た一念があった。それは、云《言》うまでもなく、復讐の一念だった。そうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金《かね》の力で、骨までも思い知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪の眼を投げた少女を、金《かね》の力で髄までも、思い知らしてやるのだ。そう思うと、彼《彼’》の胸に、新しい力が起《起こ》った。  青年の父の杉野直《杉野ただし》と云《言》う子爵も、少女の父の唐沢男爵も、共に聞《聞こ》えた貧乏華族である。黄金の戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だった。  が、何《ど》うして戦ったらいいだろう。彼等の父を苛めることは何でもないことに違いない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかった。その時に、勝平《カツヘイ》の心に先刻《さっき》の二人の様子が浮かんだ。睦じく語っている恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、電《稲妻》のように、彼の心にある悪魔的な考えが思い浮かんだ。その考えは、電《稲妻》のように消えないで、徐々に彼の頭に喰い入った。  まだ、春の日は高《-たか》かった。彼が招いた人達は園内の各所に散って、春の半日を楽しく遊び暮《暮ら》している。が、その人達を招いた彼丈《彼だけ》は、ただ一人怏々たる心を懐いて、長閑な春の日に、悪魔のような考えを、考えている。 「あら、まだ茲《ここ》にいらしったの、方々探《ほうぼう探》したのよ。」  突如、後《後ろ》に騒がしい女の声がした。先刻《さっき》の芸妓達が帰って来たのである。 「さあ! 彼方《あっち》へいらっしゃい。お客様が皆、探しているのよ。」二三人彼《二’三人彼》のモーニングコートの腕に縋った。 「ああ行くよ行くよ。行って酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたように、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなった来客達の集まっている方《ホウ》へ拉せられた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第6話】 【父と子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『またお父様と兄様の争いが始まっている。』そう思いながら、瑠璃子は読みかけていたツルゲネフの『父と子』の英訳の頁《ページ》を、閉じながら、段々高《だんだん高》まって行く父の声に耳を傾けた。 『父と子』の争い、もっと広い言葉で云《言》えば旧時代と新時代との争い、旧思想と新思想との争い、それは十九世紀後半の露西亜《ロシア》や西欧諸国丈《西欧諸国だけ》の悩みではなかった。それは、一種《1種》の伝染病として、何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入しているのだった。  五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のように違っている。一方が北を指せば、一方は西を指している。老人が『山』と云《言》っても、青年は『川』とは答えない。それだのに、老人は自分の握っている権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがっている者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行こうとする。其処《そこ》から、色々な家庭悲劇が生《生ま》れる。  瑠璃子は、父の心持《心持ち》も判った。兄の心持《心持ち》も判った。父の時代に生《生ま》れ、父のような境遇に育ったものが、父のような心持《心持ち》になり、父のような目的のために戦うのは、当然であるように想われた。が、兄のような時代に生《生ま》れ、兄のような境遇に育ったものが、兄のように考えるのも亦当然《また当然》であるように思われた。父も兄も間違ってはいなかった。お互《互い》に、間違っていないものが、争っている丈《だけ》に、その争いは何時《いつ》が来ても、止むことはなかった。何時《いつ》が来ても、一致しがたい平行線の争いだった。  母が、昨年死んでから、淋《寂》しくなった家庭は、取り残された人々が、その淋《寂》しさを償うために、以前よりも、もっと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だった。調和者《ピースメーカー》としての母がいなくなった為、兄と父との争いは、前よりも激しくなり、露骨になった。 「馬鹿を云《言》え! 馬鹿を云《言》え!」  父のしわがれた張り裂けるような声が、聞《聞こ》えた。それに続いて、何かを擲つような物音が、聞えて来た。  瑠璃子は、その音をきくと、何時《いつ》も心が暗くなった。また父が兄の絵具を見付けて、擲っているのだ。  そう思っていると、又《また》カンバスを引き裂いているらしい、帛《絹》を裂く激しい音が聞《聞こ》えた。瑠璃子は、思わず両手で、顔を掩うたままかすかに顫《震》えていた。  芸術と云《言》ったようなものに、粟粒ほどの理解も持っていない父が悲しかった。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位《くらい》に卑しく見貶《見下》している父の心が悲しかった。それと同じように、芸術をいろいろな人間の仕事の中で、一番尊《一番たっと》いものだと思っている、兄の心も悲しかった。父から、描けば勘当だと厳禁されているにも拘わらず、コソコソと父の眼を盗んで、写生に行ったり、そっと研究所に通《-かよ》ったりする兄の心が、悲しかった。が、何よりも悲劇であることは、そうしたお互《互い》に何の共鳴も持っていない人間同士が、父と子であることだった。父が、卑しみ抜いていることに、子が生涯を捧げていることだった。父の理想には、子が少しも同感せず子《/子》の理想には父が少しも同感しないことだった。  カンバスが、引き裂かれる音がした後《あと》は、|暫ら《暫》くは何も聞えて来なかった。争いの言葉が聞えて来る裡は、それに依って、争いの経過が判った。が、急に静《静か》になってしまうと、却って妙な不安が、聞いている者の心に起《起こ》って来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も云《言》えなくなっているのではないかと思うと、急に不安になって来て、争いの舞台《シーン》たる兄の書斎の方《ホウ》へ、足音を忍ばせながらそっと近づいて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子は、そっと足音を立てないように、縁側《ヴェランダ》を伝《つと》うて兄の書斎へ歩み寄った。とどろく胸を押えながら縁側《ヴェランダ》に向いている窓の硝子越《ガラス越》しに、そっと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処《そこ》にあった。長身の父は威丈高に、無言のまま、兄を睨み付けて立っていた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光っている。腰の所へやっている手は、ブルブル顫《震》えている。兄は兄で、昂然とそれに対していた。たださえ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失って、死人《死にん》のように蒼《青》ざめている。  父と子とは、思想も感情もスッカリ違っていたが、負けぬ気の剛情《強情》なところ丈《だけ》が、お互《互い》に似ていた。父子《親子》の争いは、それ丈激《だけ激》しかった。  二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散っていた。父の足下には、三十号の画布《カンバス》が、枠に入ったまま、ナイフで横に切られていた。その上に描かれている女の肖像も、無残にも頬《ホオ》の下から胸へかけて、一太刀浴《ヒト太刀’浴》びているのだった。  そうした光景を見た丈《だけ》で、瑠璃子の胸が一杯になった。父が、此上兄《このうえ兄》を|恥し《辱》めないように、兄が大人しく出て呉《く》れるようにと、心私《心ひそ》かに祈っていた。  が、父と兄との沈黙は、それは戦いの後《あと》の沈黙でなくして、これからもっと怖《恐ろ》しい戦いに入る前の沈黙だった。  画布《カンバス》までも、引き裂いた暴君のような父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のように、沸いたのに違いなかった。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だったが、今日は心の底から、憤っているらしかった。憤怒《フンヌ》の色が、アリアリとその秀でた眉のあたりに動いていた。 「考えて見るがいい。堂々たる男子が、画筆などを弄んでいて何《ど》うするのだ。」父は、今迄張《今まで張》り詰めていた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すように云《言》った。 「考えて、見る迄《まで》もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答えも冷たく鋭かった。 「馬鹿を云《言》え! 馬鹿を!」父は、又《また》カッとなってしまった。「画《絵》などと云《言》うものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云《言》わば余戯なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいい。が、俺《儂》の子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺《儂》の子は、画描きなどにはなって貰いたくないのだ!」  父は、そう叫びながら、手近にある卓《デスク》の端を力委《力任》せに二三度打《二’三度打》った。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼する有様が、何処《どこ》となく偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可《か》なり淋《寂》しいものにした。 「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、俺《儂》の子として、父の志を継ぐことを、名誉だとは思わないのか、俺《儂》の志を継いで、俺《儂》が年来の望みを、果させて呉《く》れようとは思わないのか。お前は、唐沢の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話している、お祖父様《じい様》の御無念《ご無念》を忘れたのか。」  それは、父が少し昂奮すれば、定《決》まって出る口癖だった。父は、それを常に感激を以《以っ》て語った。が、子はそれを感激を以《以っ》て聞くことが、出来なかった。唐沢の家が、三万石の小大名《ショウ大名》ではあったが、足利時代以来の名家《メイケ》であるとか、維新の際には祖父が勤王の志《志し》が、厚かったにも拘わらず、薩長に売られて、朝敵の汚名を取り、悶々の裡に憤死したことや、《:、》その死床《シニドコ》で洩《洩ら》した『敵《カタキ》を取って呉《く》れ。』という遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦って来たことなど、それは父にとって重大な一生を支配する生活の刺戟だったかも知れない。が、子に取っては、彼の画題となる一茎の草花に現われている、自然の美しさほどの、刺戟も持っていなかった。時代が違って《て-》い、人間が違っていた。何《なん》の共通点もない人間同士が、血縁でつながっていることが、何より大きい悲劇だった。 「黙っていては分《分か》らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の王《キング/》リアは、こう云《言》って石のように黙っている子に挑んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お父さん!」兄は静《静か》に頭を擡《あ》げた。平素《いつも》は、黙々として反抗を示す丈《だけ》の兄だったが、今日は徹底的に云《言》って見ようという決心が、その口の辺《辺り》に動いていた。「貴方が、|幾何仰しゃ《いくら仰》っても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊に現在のような議会政治には、何の興味も持っていないのです。僕は、お父さんの|仰しゃ《仰》るように、法科を出て政治家になるなどと云《言》うことには、何《なん》の興味もないのです。」兄の言葉は、針のように鋭く澄んで来た。 「もう少し待って下さい。もう少し、気長《気なが》に私のすることを見て居て下さい。その中《うち》に、画《絵》を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだろうと思うのです。」 「ああ《あ/》よして呉《く》れ!」父は排《はら》い退《の》けるように云《言》った。「そんな事は聞きたくない。馬鹿な! 画描きなどが、画《絵》を描くことなどが、‥‥。」父は苦々しげに言葉を切った。 「お父さんには、幾何云《いくら云》っても解らないのだ。」兄も投げ捨てるように云《言》った。 「解ってたまるものか。」父の手がまたかすかに顫《震》えた。  二人が、敵同士のように黙って相対峙《アイ対峙》している裡に、二三分過《ニサンプン過》ぎた。 「光一!《/》」父は改まったように呼びかけた。 「何《なん》です!」兄も、それに応ずるように答えた。 「お前は、今年の正月俺《正月’儂》が云《言》った言葉を、まさか忘れはしまいな。」 「覚えています。」 「覚えているか、それじゃお前は、此《こ》の家にはおられない訳だろう。」  兄の顔は、憤怒《フンヌ》のために、見る見る中《うち》に真赤《真っ赤》になり、それが再び蒼《青》ざめて行くに従って、悲壮な顔付《顔付き》になった。 「分《分か》りました。出て行けと|仰しゃ《仰》るのですか。」怒《怒り》のために、兄はわなわな顫《震》えていた。 「二度と、画《絵》を描くと、家には置かないと、あの時云って置いた筈だ。お前が、俺《儂》の干渉を受けたくないのなら、此家《この家》を出て行く外《ほか》はないだろう。」父の言葉は鉄のように堅かった。  瑠璃子は、胸が張り裂けるように悲しかった。一徹な父は、一度云い出すと、後《あと》へは引かない性質《タチ》だった。それに対する兄が、父に劣らない意地張《意地っ張り》だった。彼女が、常々心配していた大破裂《カタストロフ》がとうとう目前に迫って来たのだった。  父の言葉に、カッと逆上《ギャクジョウ》してしまったらしい兄は、前後の分別《フンベツ》もないらしかった。 「いや承知しました。」  そう云《言》うかと思うと、彼は俯きながら、狂人のように其処《そこ》に落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻《回》し始めた。机の上に在った二三冊《二’三冊》のノートのようなものを、風呂敷に包んでしまうと、彼は父に一寸目礼《ちょっと目礼》して、飛鳥《ヒチョウ》のように室《部屋》から駈け出そうとした。  父が、駭《驚》いて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手《ユンデ》に縋っていた。 「兄さん! 待って下さい!」 「お放しよ。瑠璃ちゃん!」  兄は、荒々しく叱するように、瑠璃子の手をもぎ放した。  瑠璃子が、再び取り縋ろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳《駆》け下っていた。 「兄さん! 待って下さい!」  瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳《駆》け下ったとき、帽子も被らずに、玄関から門の方《ホウ》へ足早に走っている兄の後姿《後ろ姿》が、チラリと見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  兄の後姿《後ろ姿》が見えなくなると、瑠璃子はよよと泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿《潤》おした。  母が亡くなってからは、父子三人《親子三人》の淋《寂》しい家《’家》であった。段々差《だんだん差》し迫って来る窮迫に、召使《召使い》の数も減って、ただ忠実な老婢《婆や》と、その連合《連れ合い》の老僕とがいる丈《だけ》だった。  それだのに、僅かしか残っていない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるように、兄がいなくなる。父と兄とは、水火のように、何処《どこ》まで行っても、調和するようには見えなかったけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だった。母が亡くなってからは、更に二人は親しみ合った。兄はただ一人の妹を愛した。殊に父と不和になってから、肉親の愛を換《交わ》し得るのはただ妹だけだった。妹もただ一人の兄を頼った。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでいた。瑠璃子には父の一徹も悲しかった。兄の一徹も悲しかった。  が、何よりも気遣われたのは、着のみ着の儘《まま》で、飛び出して行った兄の身の上である。理性の勝った兄に、万一の間違《間違い》があろうとは思われなかった。が、貧乏はしていても、華族の家に生《生ま》れた兄は、独立して口を糊して行く手段を知っている訳はなかった。が、一時の激昂《ゲッコウ》のために、カッと飛び出したものの屹度帰《きっと帰》って来て下さるに違《違い》ない。或《あるい》は麻布の叔母さんの家にでも、行くに違《違い》ない。やっと、そう気休めを考えながら、瑠璃子は涙を拭《ぬぐ》い拭《ぬぐ》い、階段を上って行った。二階にいる父の事も、気がかりになったからである。  父はやっぱり兄の書斎にいた。先刻《さっき》と寸分違《寸分ちが》わない位置にいた。ただ、傍《そば》にあった椅子を引き寄せて、腰を下《下ろ》したままじっと俯いているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであった。此《こ》の頃《ごろ》、交じりかけた白髪が急に眼に立つように思った。 『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖《このごろ口癖》のように云《言》う通《とおり》、口の辺《辺り》が淋《寂》しく凋《しな》びているのが、急に眼に付くように思った。  一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋《寂》しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、その儘床《まま床》の上に、再び泣き崩れた。  最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家の頬《ホオ》にも、一条の涙の痕が印せられた。 「瑠璃子!《/》」父の声には、先刻《さっき》のような元気はなかった。 「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。 「出て行ったかい! 彼《あれ》は?」遉《さすが》に何処《どこ》となく恩愛の情が纏わっている声だった。 「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。 「いやいい。出て行くがいい。志《志し》を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても路傍の人だ。瑠璃子!《/》 お前には、父さんの心持《心持ち》は解るだろう。お前丈《前だけ》は、俺《儂》の心持《心持ち》は解るだろう。お前が男であったら、屹度《きっと》お父さんの志を継いで呉《く》れるだろうとは、平生思《いつも思》っているのだが。」父は元気に云《言》った。が、声にも口調にも力がなかった。  瑠璃子は、それには何とも答えなかった。が、瑠璃子の胸に、一味焼くような激しい気性と、父にも兄にも勝るような強い意志があることは、彼女の平生《いつも》の動作が示していた。それと同じように、貴族的な気品があった。昔気質の父が時々瑠璃子《ときどき瑠璃子》を捕えて『男なりせば』の嘆を漏すのも無理ではなかった。  まだ父が、何か云《言》おうとする時であった。邸前《屋敷前》の坂道を疾駆して馳《駆》け上る自動車の爆音が聞《聞こ》えたかと思うと、やがてそれが門前で緩んで、低い警笛《アラーム》と共に、一輛の自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父子《親子》の悲しい淋《寂》しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もっとこうしていたかった。父の気持《気持ち》も訊き、兄に対する善後策も講じたかった。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪をさえ感じたのである。  老婢《婆や》は、何かに取り紛れているのだろう、容易に取次ぎには出て来《-こ》ないようだった。 「老婢《婆や》はいないのかしら!」そう呟くと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下《-お》りかけた。 「大抵の人だったら、会えないと断るのだよ。いいかい。」  そう言葉をかけた父を振り顧《返》って見ると、相変らず蒼い顫《震》えているような顔色をしていた。  瑠璃子が、階段を下《-お》りて、玄関の扉《ドア》を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸意外《ちょっと意外》な人だったのに駭《驚》いた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵であったからである。 「おや入らっしゃいまし。」そう云《言》いながら、彼女は心の中で可《か》なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとっては懐しい恋人の父だった。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかった。同じ政治団体に属していたけれども、二人は少しも親しんでいなかった。父は、内心子爵《内心’子爵》を賤しんでいた。政商達と結託して、私利を追うているらしい子爵の態度を、可《か》なり不快に思っているらしかった。公開の席で、二三度可《二’三度か》なり激しい議論をしたと云《言》う噂なども、瑠璃子は何時《いつ》となく聴いていた。  そうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかった。それかと云《言》って、自分の恋人の父を、情《すげ》なく返す気にもなれなかった。彼女が躊躇しているのを見ると、子爵は不審《訝し》そうに訊いた。 「いらっしゃらないのですか。」 「いいえ!」彼女は、そう答えるより外《ほか》はなかった。 「杉野です。一寸《ちょっと》お取次を願います。」  そう云《言》われると、瑠璃子は一も二もなく取次がずには《は-》いられなかった。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺《どよめき》が起《起こ》った。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消そうとすればするほど、その動揺《どよめき》は大きくなった。  杉野子爵の長男直也《長男’直也》は、父に似ぬ立派な青年だった。音楽会で知り合ってから、瑠璃子は知らず識らずその人に惹き付けられて行った。男らしい顔立《顔立ち》と、彼の火のような熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だった。二人の愛は、激しく而《しか》も清浄だった。  二人は将来を誓い合った。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のように繰返《繰り返》した。  青年は今年の四月学習院《四月’学習院》の高等科を出ている。『学校を出ると云《言》うことが、学習院を出ることを、意味するなら。』そう考えると瑠璃子は踏んでいる足が、階段に着かぬように、そわそわした。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざわざ尋ねて来る。そう考えて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻き擾《乱》されてしまった。  が、つい此間青年《このあいだ青年》と園遊会で会ったとき、彼はおくびにも、そんなことは云《言》わなかった。正式に突然求婚《突然’求婚》して、自分を駭《驚》かそうと云《言》う悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟の間《マ》に空想した。  が、苦り切っている、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなった。縦令《たとい》、それが瑠璃子の思う通りの求婚であったにしろ、父がオイソレと許すだろうか。心の中で、賤しんでいる者の子息に、最愛の娘を与えるだろうか。子は子である。父は父である。之《こ》れ位《くらい》の事理の分《分か》らない父ではない。が、兄が突然家出《突然’家出》して、さなきだに淋《寂》しい今、自分を手離《手放》して、他家へやるだろうか。そう思うと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽ち半以上切《半ば以上切》り取られてしまった。が、万一そうなら、又万一父《また万一’父》が容易に承諾したら? 「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可《か》なりはずんでいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父は娘の心を知らなかった。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情がありありと動いた。 「杉野!《/》 ふーむ。」父は苦り切ったまま容易に立とうとはしなかった。  父が、杉野子爵に対してこうした感情を持っている以上、又兄《また兄》の家出と云《言》う傷ましい事件が起《起こ》っている以上、《:、》縦令子爵《たとい子爵》の来訪が、瑠璃子の夢見ている通《とおり》の意味を持っていたにしろ、容易に纏まる筈はなかった。そう考えると、彼女の心は、墨を流したように暗くなってしまった。 「仕方がない! お通《通し》しなさい!」  そう云《言》ったまま、父は羽織を着るためだろう、階下《下》の部屋へ下《-お》りて行った。  瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつわる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降《-お》りて行った。 「お待たせいたしました、何《ど》うぞお上《上が》り下さいませ。」 「いや、どうも突然伺《突然’伺》いまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立って、応接室に通った。  古いガランとした応接室には、何の装飾もなかった。明治十幾年《明治十イクネン》に建てたと云《言》う洋館は、間取りも様式も古臭《古くさ》く旧式《/旧式》だった。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子の蒲団《クッション》が、破れかけていることなどが気になった。  父は、直《す》ぐ応接室へ入った。心の中の感情は可《か》なり隔たっていたが、面と向《向か》うと、遉《さすが》に打ち解けたような挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかかった。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまま用向きらしい話には、容易に触れなかった。  立ち聞きをするような、はしたない事は、思いも付かなかった。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云《言》って、不快ではない心配を続けていた。  恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去った一年間の、恋人とのいろいろな会合が、心の中に|蘇え《蘇》って来た。どの一つを考えても、それは楽しい清浄な幸福《/幸福》な思出《思い出》だった。二人は火のような愛に燃えていた。が、お互《互い》に個性を認め合い、尊敬し合った。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿《潤》んでいる公園の木下暗《コノシタ闇》を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合いながら、辿った秋の一夜の事も思い出した。新緑の戸山ヶ原の橡の林の中で、その頃読んだトルストイの『復活』を批評し合った初夏の日曜の事なども思い出した。恋人であると共に、得難い友人であった。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だった。  恋人の凛々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろいろな美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。若《も》し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであったら、(それが何と云《言》う子供らしい想像であろう)とは、打消《打ち消》しながらも、瑠璃子の真珠のように白い頬《ホオ》は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだった。  が、来客の話は、そう永くは続かなかった。瑠璃子の夢のような想像を破るように、応接室の扉《ドア》が、父に依って荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行った。  見ると父は、兄の家出を見送った時以上に、蒼い苦り切った顔をしていた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追われるように玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てて、あわただしく去ってしまっ《-っ》た。  父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交《交じ》った眼付《眼付き》で、しばらくの間見詰《あいだ見詰》めていた。 「お父様ど《/ど》うか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそるおそる父に訊いた。 「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は唾でも吐きかけるように罵った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  杉野子爵に対する、父の|燃ゆる《モユル》ような憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のように、オドオドしてしまった。胸の中に、ひそかに懐いていた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られていた。踏んでいた床が、崩れ落ちて、其儘底知《そのまま底知》れぬ深い淵へ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持《心持ち》がした。之迄《これまで》でさえ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに傷《傷ま》しめたか分《分か》らない。それだのに、今日はその暗い翳が、明らさまに火を放って、爆発を来したらしいのである。 「一体何《一体ど》うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」  瑠璃子は、父の顔を見上げながら、|オズオズ《怖ず怖ず》訊いた。父は、口にするさえ、忌々しそうに、 「訊くな。訊くな。汚らわしい。俺達《儂達》を侮辱している。俺《儂》ばかり《-り》ではない、お前までも侮辱しているのだ。」と、歯噛《歯噛み》をしないばかりに激昂《ゲッコウ》しているのだった。  自分までもと、云《言》われると、瑠璃子は更に不安になった。自分のことを、一体何《一体ど》う云《言》ったのだろう。自分に就いて、一体何を云《言》ったのだろう。恋人の父は、自分のことを、一体何《一体ど》う侮辱したのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙っている訳には行かなかった。 「一体どんなお話が、ございましたの。妾《わたくし》の事を、杉野さんは何《ど》う|仰しゃ《仰》るのでございますか。」 「訊くな。訊くな。訊かぬ方《ほう》がいい。聞くと却って気を悪くするから。あんな賤しい人間の云《言》うことは、一切耳《一切’耳》に入れぬことじゃ。」  やや興奮の去りかけた父は、却って娘を宥めるように優しく云《言》いながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てて置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかった。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父に違《違い》なかった。その人が、自分のことを、何《ど》う云《言》ったかは、瑠璃子に取っては是非にも訊きたい大事な事だった。 「でも、何と|仰しゃ《仰》ったか知りたいと思いますの。妾《わたくし》のことを何と|仰しゃ《仰》ったか、気がかりでございますもの。」  瑠璃子は、父を追いながら、甘えるような口調で云《言》った。娘の前には、目も鼻もない父だった。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だった。瑠璃子が執拗に二三度訊《二’三度訊》くと、どんな秘密でも、明《明か》しかねない父だった。 「なにも、お前の悪口《悪くチ》を云《言》ったのじゃない。」  父は憤怒《フンヌ》を顔に現しながらも、娘に対する言葉丈《言葉だけ》は、優しかった。 「じゃ、何《ど》うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」 「それを侮辱するから怪《-け》しからないのだ。俺《儂》を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかかるのだ。」  父は、又杉野子爵《また杉野子爵》の態度か言葉かを思い出したのだろう、その人が、前にでもいるように、拳を握りしめながら、激しい口調で云《言》った。 「何《ど》うしたと云《言》うのでございます、お父様、ハッキリと|仰しゃ《仰》って下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を何《ど》う|仰しゃ《仰》ったのです。一体どんな用事で、入《い》らしったのでございます。」  瑠璃子も、可《か》なり興奮しながら、本当のことを知りたがって、畳みかけて訊いた。 「彼《あ》の男は、お前の縁談があると云《言》って来たのだ。」父の言葉は意外だった。 「妾《わたくし》の縁談!《/》」瑠璃子は、そう云《言》ったまま、二の句が次げなかった。彼女は化石したように、父の書斎の入口に立ち止まった。父は、瑠璃子の駭《驚》きに、深い意味があろうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体を、安楽椅子に投げるのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第7話】 【買い得るか】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は電火《稲妻》にでも、打たれたように、ハッと駭《驚》いた。  やっぱり、自分の子供らしい想像は当《当た》ったのだ。杉野子爵は子のために、直接話《直接ハナシ》を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らせたに違《違い》ない。そう思うと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなった。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかった。自分の一生の運命を狂わすかも知れない、父の態度が、恨めしかった。瑠璃子は父に抗議するように云《言》った。 「縁談のお話が、何《ど》うして妾《わたくし》を、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応妾《一応わたくし》にも、話して下さってから、お断りになっても、遅くはないと思いますわ。」  瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だった。彼女は、父にでも兄《/兄》にでも恋人《/恋人》にでも、自己を主張せずには、いられない女だった。  瑠璃子の抗議を、父は憫むように笑った。 「縁談!《/》 ハハハハハ。普通の縁談なら、無論瑠璃《無論’瑠璃》さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云《言》う名目で、貴女《貴方》を買いに来たのじゃ。金《かね》を積んで、貴女《貴方》を買いに来たのじゃ。怪《け》しからん! 俺《儂》の娘を!」  父の眼は、激怒のために、狂わしいまでに、輝いた。そう云《言》われると、瑠璃子は、一言もなかったが、そうした縁談の相手は、一体誰だろうかと、思った。 「彼《あ》の男が来て娘をやらんかと云《言》う。平素から、快く思っていない男じゃが、折角来《折角’来》て呉《く》れたものだから、無碍に断るのもと、思ったから、与《や》らんこともないと云《言》うと、段々相手《だんだん相手》の男のことを話すのじゃ。人を馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると云《言》うのじゃ。俺《儂》は、頭から怒鳴り付けてやったのじゃ。すると、彼《あ》の男が、|オズオズ《怖ず怖ず》何を云《言》い出すかと思うと、支度金は三十万円まで出すと、云《言》うのじゃ。俺《儂》は憤然と立ち上《上が》って、彼《あ》の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わなわな顫《震》えた。 「此年《この年》になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしている。政戦三十年、家も邸《屋敷》も抵当に入っている。が、三十万円は愚か、千万一億の金《-かね》を積んでも、娘を金《-かね》のために、売るものか。」  父は、傍の見る眼も、傷ましいほど、激昂《ゲッコウ》している。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒《フンヌ》のために今にも砕けそうに、緊張している。瑠璃子も、胸が一杯になった。父の怒《怒り》を、尤《もっと》もだと思った。が、その怒《怒り》を宥《-なだ》むべき何《/なん》の言葉も、思い浮ばなかった。  が、それに付けても、杉野子爵は、何の恨《恨み》があって、こうした侮辱を、年老いた父に与えるのだろう。そう思うと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるような怒りが、湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思い返すと、身も世もないような悲しみが伴った。 「彼《あ》の男は、金《かね》のために、あんなに賤しくなってしまったのだ。政商連《政商づれ》と結託して、金《かね》のためにばかり、動いているらしいのだ。今日の縁談なども、纏まれば幾何《いくら》と云《言》う、口銭が取れる仕事だろう。ハハハハハ。」父は、怒《怒り》を嘲《嘲り》に換えながら、蔑むように哄笑した。 「何でも、今日の縁談の申込《申し込》み手と云《言》うのが、ホラ瑠璃《/瑠璃》さんも行っただろう。此間園遊会《このあいだ園遊会》をやった荘田《/ショウダ》と云《言》う男らしいのだ。」  父は何気なく云《言》った。が、荘田《ショウダ》と云《言》う名を聞くと、瑠璃子は直《す》ぐ、豹の眼のように恐ろしい執拗なそ《/そ》の男の眼付《眼付き》を思い出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあったけれども、悪魔に頬《ホオ》を、舐められたような気味悪さが、全身をゾクゾクと襲って来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  荘田《ショウダ》と云《言》う名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思ったのも、無理ではなかった。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な機みから、激しい言葉を交して以来、その男の顔付《顔付き》や容子《様子》が、悪夢の名残りのように、彼女の頭から離れなかった。  太いガサツな眉、二段に畳まれている鼻、厚い唇、いかにも自我の強そうな表情、その顔付《顔付き》を思い出して見る丈《だけ》でも、イヤな気がした。そんな男と、云《言》い争いをしたことが、執念深い蛇とでも、恨《恨み》を結び合ったように、何となく不安だった。処《ところ》が、その男が意外にも自分に婚を求めている。そう思う丈《だけ》でも、彼女は妙な悪寒を感じた。よく伝説の中にある、白蛇《シロ蛇》などに見込まれた美少女のように。  瑠璃子は、相手の心持《心持ち》が、容易には分《分か》らなかった。容易に、その事を信ずることが出来なかった。 「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田《ショウダ》と|仰しゃ《仰》ったのでございますの?」 「確かに、あの男だと云《言》わないが、何《ど》うも彼奴《あいつ》の事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田《ショウダ》の事を賞めているのだ。何《ど》うも彼奴《あいつ》らしい。金《かね》が出来たのに、付け上《上が》って、華族の娘をでも貰いたい肚らしいが、俺《儂》の娘を貰いに来るなんて狂人の沙汰だ!」  父は相手の無礼を怒ったものの、先方《センポウ》に深い悪意があろうとは思わないらしく、先刻《さっき》から見ると余程機嫌《よほど機嫌》が直っているらしかった。  が、瑠璃子はそうではなかった。此《こ》の求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰いたいと云《言》うような単なる虚栄心だとは、何《ど》うしても思われなかった。父の一喝に逢って、這々の体《テイ》で、逃げ帰った杉野子爵は、ほんの傀儡《カイライ》で、その背後に怖ろしい悪魔の手が、動いていることを感ぜずには《は-》いられなかった。そう思って来ると、八重桜の下で、自分達二人《自分たち二人》を、睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮《浮か》んで来た。そう思って来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のような意地悪さを、感ぜずには《は-》いられなかった。  瑠璃子は思った。自分が傷つけた蛇《ヘビ》は、ホンの僅《僅か》な恨《恨み》を酬いるために猛然と、襲いかかっているのだと。が、そう思うと、瑠璃子は却って、必死になった。来《く》るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の中《うち》でそう決心した。 「いや、杉野の奴一喝《ヤツ/一喝》してやったら、一縮みになって帰ったよ。ああ云《言》って置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」  父は、もう凡《全》てが済んでしまったように、何気なく云《言》った。が、瑠璃子にはそうは思われなかった。一度飛び付き損った蛇は、二度目の飛躍の準備をしているのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目《三度目/四度目/五度目/十度目》の準備まで整っているのかも知れない。そう思うと、瑠璃子は又更《また更》に自分の胸の処女《乙女》の誇《誇り》が、烈火のように激しく燃えるのを感じた。 「本当に口惜《悔》しゅうございます。あんな男が妾《わたくし》を。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思いますわ。」  瑠璃子は、興奮して、涙をポロポロ落しながら云《言》った。それは口惜《悔》しさの涙であり、怒《怒り》の涙だった。 「だから、聴かない方《ほう》が、いいと云《言》ったのだ。そうだ! 杉野が怪《-け》しからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、彼奴《あいつ》が怪《-け》しからんのだ。が、あんな堕落した人間の云《言》うことは、気に止めぬ方《ほう》がいい。縁談どころか、瑠璃さんには、何時《いつ》までも、茲《ここ》にいて貰いたいのだ。殊に、光一がああなってしまえば、お父様の子は《は-》お前丈《前だけ》なのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離《手放》しはしないぞ。ハハハハ。」  父は、瑠璃子を慰めるように、快活に笑った。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になっていた。何時《いつ》までも、父の傍《そば》にいて、父の理解者であり、慰安者であろうと思った。 「妾《わたくし》もそう思っていますの。何時《いつ》までも、お父様のお傍《側》にいたいと思っていますの。」  そう云《言》って瑠璃子は初めてニッコリ笑った。嵐の過ぎ去った後《あと》の平和を思わせるような、寂しいけれども静かな美《/美》しい微笑《微笑み》だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  二つの忌わしい事件が、渦を捲いて起《起こ》った日から、瑠璃子の家は、暴風雨《嵐》の吹き過ぎた後《あと》のような寂しさに、包まれてしまった。  家出した兄からは、ハガキ一つ来なかった。父は父でおくびにも兄の事は云《言》わなかった。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願《捜索願い》を出すなどと云《言》うことを、父は夢にも思っていないらしかった。自分を捨てた子の為には、指一《指ひと》つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかった。  こうした父と兄との間に挟まって、ただ一人、心を傷めるのは瑠璃子だった。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探って見た。兄が、その以前父《以前’父》に隠れて通《-かよ》ったことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑している二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処《どこ》でも兄の消息は判らなかった。  兄の友達の二三《二’三》にも、手紙で訊き合《合わ》して見た。が、どの返事も定《決》まったように、兄に|暫ら《暫》く会ったことがないと云《言》うような、頼りない返事だった。縦令父《たとい父》とは不和になっても、自分丈《自分だけ》には安否位《安否くらい》は、知らせて呉《く》れてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかった。が、彼女の心を傷ましめ《め-》ることは外《ほか》にもう一つあった。それは、これまで感情の疎隔していた父と杉野子爵との間が、到頭最後《とうとう最後》の破裂に達したことである。あんな事件が起《起こ》った以上、再び元通りになることは、殆ど絶望のように思われた。従って、自分達の恋が、正式に認められるような機《折り》は、永久に来《-こ》ないように思われた。自分が、恋を達するときは、やっぱり兄と同じように、父に背かなければならぬ時だと思うと、彼女の心は暗かった。  突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては何事《’何事》も起らなかった。十日経ち二十日経《二十日’経》った。父は、その事をもうスッカリ忘れてしまったようだった。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のように、何となく気がかりだったが、一度限《一度ぎり》で何の音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐の企てでもあるように思ったのは、自分の邪推であったようにさえ、瑠璃子は思った。  その裡に五月《5月》が過ぎ六月《6月》が来た。政治季節の外《ほか》は、何の用事もない父は、毎日のように書斎にばかり、閉じ籠もっていた。瑠璃子は何《ど》うかして、父を慰めたいと思いながらも、父の暗い眉や凋《/しな》びた口の辺《辺り》を見ると、ただ涙ぐましい気持《気持ち》が先に立って、話しかける言葉さえ、容易に口に浮ばなかった。兄がいる裡は、父と時々争《ときどき争》いが起《起こ》ったものの、それでも家の中が、何となく華やかだった。父娘二人になって見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのように、ジメジメと淋《寂》しかった。  六月のある晴れた朝だった。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾《乱》された心も、だんだん薄らいで行く頃だった。瑠璃子は、その朝、顔を洗ってしまうと平素《いつも》の通り、老婢《婆や》が自分の室《部屋》の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。  父宛に来た書状も、一通《ひと通》り目を通すのが、彼女の役だった。その朝は、父宛の書留が一通雑じっていた。それは内容証明の書留だった。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と云《言》う金貸業者の名前だった。 『ああ《あ/》また督促かしら。』と、瑠璃子は思った。そうした書状を見る毎に、平素《いつも》は感じない家《’家》の窮状が彼女にもヒシヒシ感ぜられるのであった。  彼女は、何気なく封を破った。が、それは平素《いつも》の督促状とは、違っていた。簡単な書式のようなものだった。一寸意外《ちょっと意外》に思いながら読んで見た。最初の『債権譲渡通知書《債権譲り渡し通知書》』と云《言》う五字から、先ず名状しがたい不快な感じを受けた。 ◇。◇。◇。 【   債権譲渡通知書《債権譲り渡し通知書》】 ◇。◇。◇。 【通知人川上万吉は被通知人《被通知ニン》に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合《今般/都合》に依り荘田勝平殿《ショウダカツヘイどの》に譲渡し候に付き通知候也《通知候なり》】 【  大正六年六月十五日】 【通知人《通知ニン》◇ 川上万吉】 【   被通知人《被通知ニン》◇ 唐沢光徳殿《唐沢ミツノ-リどの》】 ◇。◇。◇。  荘田勝平《ショウダカツヘイ》と云《言》う名前が、目に入ったとき、その書式を持っている瑠璃子の手は、その儘《まま》しびれてしまうような、厭な重くるしい衝動《ショック》を受けずには《は-》いられなかった。  悪魔は、その爪を現し始めたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手が、あの儘思《まま思》い切ったと思ったのは、やっぱり自分の早合点《ハ-ヤガテン》だったと瑠璃子は思った。求婚が一時の気紛れだと思ったのは、相手を善人に解し過ぎていたのだ。相手はその二つの眼が示している通り、やっぱり恐ろしい相手だったのだ。  が、それにしても何と云《言》う執念ぶかい男だろう。父が負うている借財の証書を買入《買い入》れて、父に対する債権者となってから、一体何《一体ど》うしようと云《言》う積りなのかしら。卑怯にも陋劣にも、金《かね》の力であの清廉な父を苦しめようとするのかしら。そう思うと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤る熱い血が、沸々と声を立てて、煮え立つように思った。  父の借財は多かった。藩閥内閣打破の運動が、起《起こ》る度に、父は《は-》なけ無《な》しの私財を投じて惜しまなかった。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無《な》しの私財を散じて惜しまなかった。父が持って生《生ま》れた任侠の性質は、頼まるる毎に連帯の判《ハン》も捺した。手形の裏書《裏書き》もした、取れる見込のない金《-かね》も貸した。そうした父の、金《かね》に対する豪快な遣り口は、最初から多くはなかった財産を、何時の間にか無一物にしてしまった。が、財産は無くなっても、父の気質《キシツ》は無くならなかった。初めは親類縁者から金《-かね》を借りた。親類縁者が、見放してしまうと、高利貸《高利ガシ》の手からさえ、借《借り》ることを敢《敢え》てした。住んでいる家《’家》も、手入は届いていないが、可《か》なりだだっ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入っていることを、瑠璃子さえよく知っている。  金力と云《言》ったものが、丸切り奪われている父が、黄金魔と云《言》ってもよいような相手から、赤児《赤子》の手を捻じるように、苛責《いじめ》られる。そう思って来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になって来た。金《かね》さえあれば、どんな卑しい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、憤ろしく呪わしく思われた。  瑠璃子は、今の場合、こうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭なことだった。父が、どんなに怒《-おこ》り、どんなに口惜《悔》しがるかが余りに見え透いていたから。  でも、こうした重要な郵便物を、父に隠し通《’通》すことは出来なかった。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行って見た。が、父はまだ起きてはいなかった。スヤスヤと安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪っている父の窶れた寝顔を見ると、瑠璃子は出来る丈《だけ》こうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかった。彼女は、そっと忍び足に枕元に寄り添って、枕元の小さい卓子《テーブル》の上に置いてある、父の手文庫の中にその呪われた紙片を、そっと音を立てずに入れた。何時《いつ》までも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、そう祈らずには《は-》いられなかった。  その日、食事の度毎《たび毎》に顔を合せても、父は何とも云《言》わなかった。夜の八時頃、一人で棊譜《棋譜》を開いて盤上に石を並べている父に、紅茶を運んで行ったときにも、父は二言三言瑠璃子《二言三言’瑠璃子》に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も云《言》わなかった。  願《ねが》わくは、何時《いつ》までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にそう祈った。どうせ、一度は触れるにしても、一日《イチニチ》でも二日でも|先き《先》へ、延ばしたかった。  が、翌日眼《翌日’目》を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を想《思》い浮べながら、その朝の郵便物に眼をやったとき、彼女は思わず、口の裡で、小さい悲鳴を挙げずには《は-》いられなかった。其処《そこ》に、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられていたのである。  それを取り上げた彼女の手は、思わずかすかに顫《震》えた。もう、父に隠すとか隠さないとか云《言》う余裕は、彼女になかった。彼女はそれを取り上げると、救いを求むる少女のように、父の寝室に駈け込んだ。  父は起きてはいなかったが、床《トコ》の中で眼を覚ましていた。 「お父様!《/》 こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時《いつ》になく上ずッていた。 「昨日のと同じものだろう。いや心配せいでもええ、お前が心配せいでもええ。」  父は、静かにそう云《言》った。昨日の書状も、父は何時の間にか、見ていたのである。  瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思わずには《は-》いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  唐沢の家を呪詛するような、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日《また翌日》も、無心な配達夫《配達フ》に依って運ばれて来た。  初《初め》ほどの驚駭《ショック》は、受けなかったけれども、その一葉々々《イチヨウイチヨウ》に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝いた。 「なに、捨てて置くさ。同一人に債権の蒐《集》まった方《ほう》が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていい。」  父は何気ないように、済ましているようだったが、然《しか》し内心の苦悶は、表面《うわべ》へ出《-で》ずにはいなかった。殊に、父は相手の真意を測りかねているようだった。何のために、相手がこれほど、執念深《執念ぶか》く、自分を追窮して来るのか、判りかねているようだった。  が、瑠璃子には相手の心持《心持ち》が、判っている丈《だけ》、わずかばかりの恨《恨み》を根に持って、何処《どこ》までも何処《どこ》までも、付き纏って来る相手の心根の恐ろしさが、しみじみと身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になった。彼の金力を罵った自分達丈《自分達だけ》を苦しめる丈《だけ》なら、まだいい、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずには《は-》いられなかった。  こうして、父が負うている総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たった一つの黒い堅《/堅》い冷《/冷》たい手に、握られてしまった頃であった。  ある朝、彼女は平生《いつも》のように郵便物を見た。──こうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違いなかった。其処《そこ》には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出《見い出》されたから──。が、今では不安な、いやな仕事になってしまった。  彼女は、その朝も|オズオズ《怖ず怖ず》郵便物に目を通した。幾通《幾ツウ》かの手紙の一番最後に置かれていた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれている四字に、釘付けにされずにはいなかった。それは紛れもなく荘田勝平《ショウダカツヘイ》の四字だったのである。  黒手組の脅迫状を受けたように、悪魔からの挑戦状を受けたように、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とあ《/あ》る恐怖とが、ごっちゃになって、わくわくと胸《/胸》にこみ上げて来た。  彼女は、その封筒の端をソッと、醜い蠑螈《イモリ》の尻尾をでも握るように、摘み上げながら、父の部屋へ持って行った。  父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。|暫ら《暫》くは開いて見ようとはしなかった。 「何と申して参ったのでございましょう。」瑠璃子は、気になって、急かすように訊いた。  父は、荒々しく封筒を引き破った。 「何だ!」父の声は、初から興奮していた。 「──此度小生《このたび小生》に於《於い》て、買占め置き候貴下《そうろうキカ》に対する債権に就《つい》て、御懇談《ご懇談》いたしたきこと有之《これあり》、且つ先日杉野子爵《先日’杉野子爵》を介して、申上《申し上》げたる件に付きても、重々《ジュウジュウ》の行違有之《行き違いこれあり》、《:、》右釈明旁々近日参邸《みぎ/釈明かたがた近日’参邸》いたし度く──《─:》ああ《あ/》何と云《言》う図々しさだ。何と云《言》う! 獣《ケダモノ》のような図々しさだ。よし、やって来い。やって来るがいい。来《く》れば、面と向《向か》って、あの男の面皮を引き剥《む》いて呉《く》れる《-る》から。」  父は、そう云《言》いながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老い凋《しな》んだ手が、怒《怒り》のために、ブルブル顫《震》えるのが、瑠璃子の眼には、傷ましくかなしかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父も瑠璃子も、心の中に戦いの準備を整えて、荘田勝平《ショウダカツヘイ》の来るのを遅しと待っていた。  手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前《屋敷前》の坂道を、見下《見下ろ》していると、遥に続いているプラタナスの並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラキラと反射しながら、《:、》眩しいほどの速力で、坂《サカ》を馳《駆》け上《上が》ったかと思うと、急に速力を緩めて、低いうめくような警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしていたことながら、瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような憎悪に、囚われずには《は-》いられなかった。  自動車の扉《ドア》は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬっとその巨《大》きい頭を出したのは、紛れもないあの男だった。何が嬉しいのか、ニコニコと得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方《ホウ》へ歩いて来るのだった。  瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考え迷った。顔を合わしたり、一寸《ちょっと》でも言葉を交すのが厭でならなかった。が、それかと云《言》って、平素気《いつも気》が付けば取次ぎに出る自分が、此《こ》の人に限って出ないのは、何だか相手を怖れているようで彼女自身《/彼女自身》の勝気が、それを許さなかった。そうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。彼《あ》の男こそ、自分の清浄な処女《乙女》の誇《誇り》の前に、愧じ怯れていいのだ。そう思うと、瑠璃子は処女《乙女》にふさわしい勇気を振い興して、孔雀のような誇《誇り》と美しさとを、そのスラリとした全身に湛えながら、落着《落ち着》いた冷たい態度で、玄関へ現れた。  勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の姿を見ると、此間会《このあいだ会》った時とは別人ででもあるように、頭を叮嚀に下げた。 「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳《申し訳》もございません。今日は、あのう! お父様はお在宅《いで》でございましょうか。」  こうも白々しく、──ああした非道《ヒドウ》なことをしながら、こうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆れたほど、相手は何事もなかったように、平和で叮嚀であった。  瑠璃子は、一寸拍子抜《ちょっと拍子抜》けを感じながらも、冷たく引き緊めた顔を、少しも緩めなかった。 「在宅《いま》すことは、在宅《いま》すが、お目にかかれますかどうか一寸伺《ちょっと伺》って参ります。」  瑠璃子は、そう高飛車に云《言》いながら、二階の父の居間に取って返した。 「やって来たな。よし、下の応接室に通して置け。」  瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にそう云《言》った。  応接室に案内する間も、勝平《カツヘイ》は叮嚀に而《しか》も馴々しげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍《そば》へ寄せ付けもしなかった。 「|やあ《ヤア》!」挨拶とも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入って来た。父は相手と初対面ではないらしかった。二三度《二’三度》は会っているらしかった。が、苦り切ったまま時候の挨拶さえしなかった。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿う縁側《ヴェランダ》の椅子に、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語も洩さないように相手の話に耳を聳《そばだ》てた。 「此《こ》の間から、一度伺おう伺おうと思いながら、つい失礼いたしておりました。今度、閣下に対する債権を、私が買い占めましたことに就《つい》ても、屹度私《きっと私》を怪《-け》しからん奴だと、お考えになっただろうと思いましたので、今日はお詫び旁《かたがた》、私の志《志し》のある所を、申述《申し述》べに参ったのです。」  勝平《カツヘイ》は、いかにも鄭重に、恐縮したような口調で、|ボツリボツリ《ぼつりぼつり》話し始めたのであった。丁度暴風雨《ちょうど嵐》の来《-く》る前に吹く微風のように、気味《キミ》の悪い生|あたた《温》かさを持った口調だった。 「うむ。志《志し》! 借金の証書を買い蒐めるのに、志《志し》があるのか。ハハハハハハハ。」父は、頭から嘲るように詰った。 「ございますとも。」相手は強い口調で、而《しか》も下手《-したて》から、そう云《言》い返した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「初《初め》から申上《申し上》げねば分《分か》りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節《セイセツ》を、平生から崇拝致している者であります。」  そう云《言》って、勝平《カツヘイ》は叮嚀に言葉を切った。老狐が化《化か》そうと思う人間の前で、木の葉を頭から被っているような白々しさであった。人を馬鹿にしている癖に、態度丈《態度だけ》はいやに、真剣に大真面目であるようだった。 「殊に近頃になって、所謂政界《いわゆる政界》の名士達なるものと、お知己《近づき》になるに従って、大抵の方には、殆ど愛想を尽《つか》してしまいました。お口丈《口だけ》は立派なことを云《言》っていらしっても、一歩裏へ廻《回》ると、我々町人風情《我々’町人風情》よりも、抜目がありませんからな。口幅ったいことを、申す様《よう》でございますが、金《かね》で動かせない方と云《言》ったら、数える丈《だけ》しかありませんからね。」  父は黙々として、一言も発しなかった。いざと云《言》う時が来たら、一太刀に切って捨てようとする気勢《気配》が、ありありと感ぜられた。が、勝平《カツヘイ》は相手の容子《様子》などには、一切頓着しないように、臆面もなく話し続けた。 「いつか、日本倶楽部《日本クラブ》で、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、益々閣下《ますます閣下》に対する私の敬慕の念が高くなったのです。多年の間、利慾権勢《利欲権勢》に目もくれず、ただ国家のために、一意奮闘していらっしゃる。こう云《言》うお方こそ、本当の国士本当《国士/本当》の政治家だと思ったのです。」  父が、面と向《向か》ってのお世辞に、苦り切っている有様が、室外にいる瑠璃子にもマザマザと感ぜられた。 「御存《ご存》じの通り、私は外《ほか》に能のある人間でありません。ただ、二三年来《ニサン年来》の幸運で、金丈《かねだけ》は相当儲けました。私は、今何《いま何》に使っても心残りのない金《-かね》を、五百万円ばかり現金で持っています。ああ使え、こう寄附《寄付》しろと云《言》って呉《く》れる人もありますが、私は閣下のようなお方に、後顧の憂いなからしめ、国家のために思い切り奮闘していただけるようにする事も、可《か》なり意義のある立派な仕事だと思ったのです。それには、是非ともお交際《つきあい》を願って、いろいろな立ち入った御相談《ご相談》にも、与らせて戴きたいと、それで実はあんな突然なお申込《申し込み》を‥‥」《。」》  そう云《言》って、言葉を切った、がいかにも恐縮に堪えないと云《言》う口調で、 「ところが、その申込《申し込み》が杉野さんの思い違《違い》で、と云《言》うよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどととんでもない。ハハハハ。御立腹遊《ご立腹遊》ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑い話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅、今年二十五になります。亡妻の遺児《忘れ形見》です。」  一寸殊勝《ちょっと殊勝》らしく声を落しながら、 「その倅とても、年《歳》こそお嬢様に似合いでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、若《も》し万一お嬢様を下さるような事がありましたら、これほど有難い──《─:》私の財産を半分無くしても惜しくはない──仕合せだと思いますのですが。が、そのお話は、兎も角、閣下の御債務《ご債務》は凡《全》て、私に払わせていただきたいと思いましたから、一月《ひと月》あまりも心掛けて、もう大抵は買い蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ丈《だけ》は私の寸志です。どうか御心置《お心置》きなく、お受取《受け取》り下さるように。」そう云《言》いながら、父の負うている借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかった。  虚心平気に、勝平《カツヘイ》の云《言》い分を聴けば、無躾《不躾》なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な無遠慮《/不遠慮》なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思われなかった。が、瑠璃子にはそうではなかった。瑠璃子と、その恋人とを思い知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪って、自分の妻に──《─:》名前丈《名前だけ》は妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に──しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを慮って、自分の名義で買う代《代わ》りに、息子の名義で買おうとする、瑠璃子を商品と見ている点に於《於い》ては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思い知らせようとする、蛇のような執念には何の相違もない。正面から飛びかかって父から、手ひどく跳付《撥ねつ》けられた悪魔は、今度は横合《横合い》から、そっと騙《たぶら》かそうと掛っているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子には、相手の心が十分《充分》に見透かされている。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部《うわべ》の理由丈《理由だけ》に、うかうかと乗せられて、もしや相手の無躾《不躾》な贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子は|ひそ《密》かに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく云《言》うものの、父が相手の差し出す餌にふれた以上、それを機《シオ》に、否応なしに自分を、浚って行こうとする相手の本心が、彼女には余りに明《明ら》かであった。  父を何《ど》うにか騙して娘を浚って行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与えればよいのだと相手が謀《企》んでいるらしいのが、瑠璃子には、余りに判り過ぎているように思えた。  が、瑠璃子の心配は無駄だった。父は相手が長々と喋べり続けたのを聞いた後で、二三分《ニサンプン》ばかり黙っていたらしいが、急に居ずまいを正したらしく、厳格な一分《/イチブ》も緩みのない声で云《言》った。 「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考《かんが》うる所《ところ》あって、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限通《期限どおり》に、ちゃんと弁済する。それから、縁談の事じゃが、本人が貴方であろうが御子息《ご子息》であろうが、お断りすることには変《変わ》りがない。何《ど》うか悪しからず。」  父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で云《言》い放った。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずには《は-》いられなかった。何と云《言》う凛々しい態度であろう。どんなに此《こ》の先苦しもうとも、ああした父を、父としていることは、何という幸福であろうかと思うと、熱い涙が知らず識らず、頬《ホオ》を伝って流れた。  真向《真っ向》から平手でピシャッと、殴るような父の返事に、相手は|暫ら《暫》くは、二の句が、次げないらしかった。が、|暫ら《暫》くすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。 「ふふむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申上《申し上》げても、私の心がお分《分か》りになりませんのですか。」  相手の言葉付は、一眸の裡に変《変わ》っていた。豹が、一太刀受けて、後退《あとじざり》しながら、低くうなっているような無気味な調子だった。 「ハハハハ、好意!《/》 ハハハハ、お前さんは、こんなことを好意だと、云《言》い張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ、ハハハハハハハ。」父は、相手を蔑すみ切ったように嘲笑った。 「ハハハ、閣下も、貧乏をお続けになったために、何時の間にか、僻んでおしまいになったと見える。此《こ》の荘田《ショウダ》が、誠意誠心申上《誠意誠心申し上》げていることが、お分《分か》りにならない。」  相手も、負けてはいなかった。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上《上が》ったのだった。 「ハハハハハ、誠意誠心か! 人の娘を、金《かね》で買うと云《言》う恥知らずに、誠意などがあって、堪るものか。出直してお出《いで》なさい!」父は、低い力強い声で、そう罵った。 「よろしい! 出直して参りましょう。閣下、覚えて置いて下さい! 此《こ》の荘田《ショウダ》は、好意を持っておりますと同時に、悪意も人並に持っているものでございますから。お言葉に従って、いずれ出直して参りますから。」そう云《言》い捨てると、相手は荒々しく扉《ドア》を排して、玄関へ出て行った。  瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立っていた。半白《ハンパク》の髪が、逆立っているようにさえ見えた。 「お父様!《/》」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄った。 「ああ《あ/》瑠璃子か。聞いていたのか。さあ! お前もしっかりして、飽くまでも戦うのだ。強くあれ、そうだ飽くまでも強くあることだ!」  そう云《言》いながら父は、彼の痩せた胸懐《ムナブトコロ》に顔を埋めている娘の美しい撫肩を、軽く二三度叩《二’三度叩》いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第8話】 【罠】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  羊の皮を被って来た狼の面皮を、真正面《マ正面》から、引き剥いだのであるから、その|次ぎ《次》の問題は、狼が本性を現して、飛びかかって来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避《-さ》くるかにあった。  が、その狼の毒牙は、法律に依って、保護されている毒牙だった。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。  勝平《カツヘイ》に買い占められた証書の一部分の期限はも《/も》う十日と間《マ》のない六月の末であった。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増《ネン一年増》えて行ったものの、何《ど》うにか遣繰《遣り繰り》は付いていた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責《いじめ》るための道具に使われている以上、相手が書換や猶予の相談に応ずべき筈はなかった。  六月の末日が、段々近《だんだん近》づいて来るに従って、父は毎日のように金策に奔走した。が、三万を越している巨額の金《-かね》が、現在の父に依って容易に、才覚さるべき筈もなかった。  朝起きると、父は蒼《青》ざめながらも、眼丈《マナコだけ》は益鋭《ますます鋭》くなった顔を、曇らせながら、黙々として出て行った。玄関へ送って出る瑠璃子も、 「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶する外《ほか》は何の言葉もなかった。が、送り出す時《とき》は、まだよかった。其処《そこ》に、僅《僅か》でも希望があった。が、夕方、その日の奔走が全く空《クウ》に帰して、悄然と帰って来る父を迎えるのは、何《ど》うにも堪らなかった。父と娘とは、黙って一言も、交わさなかった。お互《互い》の苦しみを、お互《互い》に知っていた。  今迄《今まで》は、元気であった父も、折々は嗟嘆の声を出すようになった。夕方の食事が済んで、父娘が向《向か》い合っている時などに、父は娘に詫びるように云《言》った。 「皆《みんな》、お父様が悪かったのだ。自分の志《志し》ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れていたのじゃ。俺《儂》の家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思いをするのだ。」  父の耿々の気が──三十年火《三十年’火》のように燃えた野心が、こうした金《-かね》の苦労のために、砕かれそうに見えるのが、一番瑠璃子《一番’瑠璃子》には悲しかった。  父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられていた。父が、金策の話をしても、彼等は体《テイ》よく断った。断られると、潔癖な父は、二度と頼もうとはしなかった。  六月が二十五日となり、二十七日となった。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄を起《起こ》したのであろう。もう、ふッつりと出なくなった。幡随院長兵衛が、水野の邸《屋敷》に行くように、父は怯《悪》びれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けているようだった。  今年の春《春’》やっと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、何《ど》うしようと云《言》う術《スベ》もなかった。彼女は、ただオロオロして、一人心《ひとり心》を苦しめる丈《だけ》だった。  彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、ただ恋人の直也がある丈《だけ》だった。が、彼女は恋人に、まだ何も云《言》っていなかった。  家の窮状を訴えるためには、いろいろな事情を云《言》わなければならない。荘田《ショウダ》の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云《言》わなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云《言》わなければならない。それでは、恋人に訴えるのではなくして、恋人を責めるような結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分《分か》っていた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに禍しているかと云《言》うことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分《分か》らない。そう思うと、瑠璃子は、出来る丈《だけ》は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思った。  父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉《ボツ交渉》に、否凡《否/全》ての人間の喜怒哀愁とは、何の渉《係わ》りもなく、六月は暮れて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  もう、明日が最後の日という六月二十九日の朝だった。荘田勝平《ショウダカツヘイ》の代理人と云《言》う男が、瑠璃子の家を訪ずれた。鷲の嘴のような鼻をした四十前後《/四十前後》の男だった。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺《辺り》に太い金の鎖を、仰々しくきらめかしていた。  父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨を相手に伝えると、相手は薄気味《薄キミ》の悪い微笑をニヤリと浮べながら、 「いや、お会い下さらなくっても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝え下さい。外《ほか》の事ではございませんが、今度手前共《今度’手前共》の主人が、拠ん所ない事情から、買入《買い入》れました、此方《こちら》の御主人《ご主人》に対する証文の中《うち》、一部の期限が明日に当《当た》っていますから、《:、》是非ともお間違《間違い》なくお払い下さるように、当方にも事情がございまして、何分御猶予《なにぶんご猶予》いたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違《間違い》のないよう。もし、万一お間違《間違い》がありますと、手前共の方《ほう》では、直《す》ぐ相当な法律上の手段に訴えるような手筈に致しておりますから。後でお怨みなさらないように。」と、云《言》ったが、此《こ》の冷たそうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮《浮か》んだのであろう。彼は急に、口調を和《和ら》げながら、 「どうかお嬢様、こんなことを申上《申し上》げる私の苦しい立場もお察し下さい。怨《怨み》も報《報い》もない御当家《ご当家》へ参って、こんなことを申上《申し上》げる私は可《か》なり苦しい思いを致しているのでございます。然《しか》し、これも全く、使われています主人の命令でございますから。それでは、いずれ明日改《明日’改》めて伺いますから。」  瑠璃子が、大理石で作った女神の像のように、冷たく化石したような美しい顔の、眉一つ動かさず黙って聞いているために、男はある威圧を感じたのであろう。そう云《言》ってしまうと、コソコソと、逃《に》ぐるように去ってしまっ《-っ》た。  父に、この督促を伝えようかしら。が伝えたって何《-なん》にもならない。何万と云《言》う金《-かね》が、今日明日に迫って、父に依って作られる筈がなかった。が、もし払わないとすると、向《向こ》うでは直《す》ぐ相当な法律上の手段に、訴えると云《言》う。一体それはどんなことをするのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が湧いて来て、進まないながら、父の部屋へ、上って行かずには《は-》いられなかった。 「うむ! 直《す》ぐ法律上の手段に訴える!」  父はそう云《言》って、腕を拱いて、遉《さすが》に抑え切れない憂慮の色が、アリアリと眉の間に溢れた。 「執達吏を寄越すと云《言》うのだな。アハハハハハ、まかり違ったら、競売にすると云《言》うのかな。それもいい、こんなボロ屋敷なんか、ない方《ほう》が結句気楽《結句’気楽》だ! ハハハハハ。」  父は、元気らしく笑おうとした。が、それは空しい努力だった。瑠璃子の眼には、笑おうとする父の顔が、今にも泣き出すように力なくみじめに見えた。 「何《ど》うにかならないものでございましょうか、|ほんとう《本当》に。」  父の大事などには、今迄一度《今まで一度》も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生《いつも》のたしなみを忘れてしまった。  父も、それに釣り込まれたように、 「そうだ! 本多さえ早く帰っておれば、何《ど》うにかなるのだがな。八月には帰ると云《言》うのだから、此《こ》の一月《ひと月》か二月《フタツキ》さえ、何《ど》うにか切り抜ければ──」  父は、娘に対する虚勢も捨てたように、首を|うな垂《項垂》れた。そうだ、父の莫逆《バクギャク》の友たる本多男爵さえ日本におればと、瑠璃子も考えた。が、その人は、宮内省の調度頭《調度ノカミ》をしている男爵は、内親王の御降嫁《ご降嫁》の御調度買入《ご調度買い入》れのために、欧洲へ行っていて、此《こ》の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだった。  住んでいる家に、執達吏が、ドヤドヤと踏み込んで来て家財道具に、封印をベタベタと付ける。そうした光景を、頭の中に思い浮べると、瑠璃子は生きていることが、味気ないようにさえ思った。  父も娘も、無言のままに、三十分も一時間も坐っていた。いつまで、坐っていても父娘の胸の中の、黒い|いや《嫌》な塊が、少しもほぐれては行かなかった。  その時である。また唐沢家《唐沢け》を訪《-おとな》う一人の来客があった。悪魔の使《使い》であるか、神の使《使い》であるかは分《分か》らなかったけ《け-》れど。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父と娘《子》とが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の眉をひそめて、向《向か》い合って坐っている時に、尋ねて来た客は、木下と云《言》う父の旧知だった。政治上の乾分とも云《言》うべき男だった。父が、日本で初《初め》ての政党内閣に、法相の椅子を、ホンの一月半《ひと月半》ばかり占めた時、秘書官に使って以来、ズッと目をかけて来た男だった。長い間、父の手足のように働いていた。父も、いろいろな世話を焼いた。が、二三年来父《ニサン年来父》の財力が、尽きてしまって、乾分の面倒などは、少しも見ていられなくなってから、此《こ》の男も段々《だんだん》、父から遠ざかって行ったのだ。  が、父は久し振《振り》に、旧知の尋ねて来たことを欣《喜》んだ。溺《おぼ》るる者は、藁をでも掴むように、窮し切っている父は、何処《どこ》かに救いの光を見付けようと、焦っているのだった。その男は、今年の五月来《五月’来》た時とは、別人のような立派な服装《なり》をしていた。 「何《ど》うだい! 面白い事でもあるかい!」  父は、心の中《うち》の苦悶を、此《こ》の来客に依って、少しは紛《-ま》ぎらされたように、淋《寂》しい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。 「お蔭さまで此《こ》の頃は、何《ど》うにかこうにか、一本立《一本立ち》で食って行けるようになりました。もう、二年お待ち下さい! その中《うち》には、閣下への御恩報《ご恩報》じも、万分の一の御恩報《ご恩報》じも、出来るような自信もありますから。」  そう云《言》いながら、得意らしく哄笑した。此《こ》の場合の父には、そうした相手のお世辞さえ嬉しかった。 「そうかい! それは、結構だな、俺《儂》は、相変らず貧乏でのう。年頃《年ごろ》になった娘にさえ、いろいろの苦労をかけている始末でのう。」  父はそう云《言》いながら、茶を運んで行った瑠璃子の方《ほう》を、詫びるように見た。 「いや、今に閣下にも、御運《ご運》が向いて来る時代が参りますよ。此《こ》の|頃《ごろ/》ポツポツ新聞などに噂が出ますように、若《も》し|××《ペケペケ》会中心の貴族院内閣でもが、出来るような事がありましたら、閣下などは、誰を差し措《お》いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くの御辛抱《ご辛抱》です。三十年近い間の、閣下の御清節《ごセイセツ》が、報われないで了ると云《言》うことは、余りに不当なことですから。‥‥いやどうも、閣下のお顔を見ると、思わずこ《/こ》うした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参ったのは、一寸《ちょっと》お願いがあるのです。」  そう云《言》いながら、その男は立ち上《上が》って、応接室の入口に、立てかけてあった風呂敷包《風呂敷包み》を、卓《テーブル》の上に持って来た。その長方形《’長方形》な恰好から推して、中《なか》が軸物であることが分《分か》っていた。 「実は、之《これ》を閣下に御鑑定《ご鑑定》していただきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願いしたいと思うたものですから。」  瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂に入《い》っていた。殊に北宗画南宗画に於《於い》ては、その道の権威だった。 「うむ! 品物《/品物》は何《なん》なのだな。」父は余り興味がないように云《言》った。書画を鑑定すると云《言》ったような、落着《落ち着》いた気分は、彼の心の何処《どこ》にも残っていなかったのである。 「夏珪《カケイ》の山水図です。」 「馬鹿な。」父は頭から嘲るように云《言》った。「そんな品物が、君達《君たち》の手にヒョコヒョコあるものかね。それに、見れば、大幅《タイフク》じゃないか。まあ黙って持って帰った方《ほう》がいいだろう。見なくっても分《分か》っているようなものだ。ハハハハハハ。」  父は、丸切り相手にしようとはしなかった。相手は、父にそう云《言》われると、恐縮したように、頭をかきながら、 「閣下に、そう手厳しく出られると、一言《イチゴン》もありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。贋物《偽物》は覚悟の前ですから。持っている当人になると、怪しいと思いながら、諦められないものですから。ハハハハハハハ。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  久し振《振り》で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気《すげ》なく、断りかねたのであろう、それかと云《言》って、書画を鑑定すると云《言》ったような、静かな穏《穏や》かな気持《気持ち》は、今の場合、少しも残ってはいないのだった。 「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰いたいね。」父は余儀なさそうに云《言》った。 「いや決して、直《す》ぐ只今見て下さいなどと、そんな御無理《ご無理》をお願いいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、一月《ひと月》でも二月《フタツキ》でも、お預けしておきますから、何《ど》うかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に懇願した。 「だが、夏珪《カケイ》の山水なんて、大した品物を預っておいて、若《も》しもの事があると困るからね。尤《もっと》も、君などが、そうヒョックリ本物《/本物》を持って来ようなどとは、思わないけれども、ハハハハハ。」  父は、品物が贋物《偽物》であることに、何の疑いもないように笑った。 「いやそんな御心配《ご心配》は、御無用《ご無用》です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です、ハハハハ。閣下のお口から、贋だと一言|仰しゃ《仰》って下さると当人も諦めが、付くものですから。」  相手に、そう如才なく云《言》われると、父も断りかねたのであろう。口では、承諾の旨を答えなかったけれども、有耶無耶の裡に、預ることになってしまった。  その用事が、片付くと客は、取って付けたように、政局の話などを始めた、父は|暫ら《暫》くの間、興味の乗らないような合槌を打っていた。  客が、帰って行くとき、父は玄関へ送って出ながら、 「凡そ何時取《いつ取》りに来る?」と訊いた。やっぱり、軸物のことが少しは気になっているのだった。 「御覧《ご覧》になったら、ハガキででも、御一報《ご一報》を願えませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」  客は幾度も繰返《繰り返》しながら、帰って行った。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、 「之《これ》を蔵《しま》って置け、俺《儂》の居間の押入《押入れ》へ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の云《言》い付《付け》に従って、その長方形の風呂敷包《風呂敷包み》を、取り上げようとした時だった。父の心が、急にふと変《変わ》ったのだろう。 「あ、そう。やっぱり一寸見《ちょっと見》て置くかな。どうせ贋に定《決ま》っているのだが。」  そう云《言》いながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くと遉《さすが》に丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺《幅3尺》に近い大幅《タイフク》だった。 「瑠璃さん! 一寸掛《ちょっと掛》けて御覧《ご覧》。その軸の上へ重ねてもいいから。」  瑠璃子は父《父’》の命ずるままに、応接室の壁に古くから懸っている、父が好きな維新の志士雲井龍雄《志士/雲井タツオ》の書の上へ、夏珪《カケイ》の山水を展開した。  先ず初め、層々《ソウソウ》と聳えている峰巒の相《姿》が現れた。その山が尽きる辺《辺り》から、落葉し尽くした疎林が淡々と、浮かんでいる。疎林の間には一筋の小径《小道》が、遥々と遠く続いている。その小径《小道》を横ぎって、水の乾《涸》れた小流《サナガレ》が走っている。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎている。夕暮《夕暮れ》が近いのであろう、蒼茫たる薄靄が、ほのかに山や森を掩うている。その寂寞を僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音《ネ》であるのだろう。  父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかった。が、じっと見詰めている眸には感激の色がアリアリと動いていた。五分ばかりも黙っていただろう。父は感に堪えたように、もう黙っては《は-》いられないように云《言》った。 「逸品だ。素晴らしい逸品だ。此間《このあいだ》、伊達侯爵家の売立に出た夏珪《カケイ》の『李白観瀑』以上の逸品だ!」  父は熱に浮かされたように云《言》っていた。夏珪《カケイ》の『李白観瀑』は、つい此間行《このあいだ行》われた伊達家の大売立に九万五千円と云《言》う途方もない高価《高値》を附《付》せられた品物だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「不思議だ! 木下などが、こんな物を持って来る!」父は|暫ら《暫》くの間は魅せられたように、その山水図に対して、立っていた。 「そんなに、此絵《この絵》がいいのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、こう訊いた。 「いいとも。徽宗皇帝、梁楷、馬遠、牧渓、それから、この夏珪《カケイ》、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんな小幅《ショウフク》だって五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄見《今まで見》た中での傑作だ。北宗画と云《言》うのは、南宗画とはまた違った、柔かい佳《/い》い味のあるものだ。」  父は、名画を見た欣《喜》びに、つい明日《-あす》に迫る一家の窮境を忘れたように、瑠璃子に教えた。 「そうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物《偽物》だからいくら預っていても、心配ないと思って預かったが、本物だと分《分か》ると急に心配になった。そうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に蔵《しま》って置いておくれ!」  父は十分《10分》もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後《あと》、そう云《言》った。  瑠璃子は、それを持って、二階への階段を上りながら思った。自分の手中には、一幅十万円《イップク十万円》に近い名画がある。此《こ》の一幅《イップク》さえあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であろうとも、長さ一丈《一ジョウ》を超えず、幅五尺に足らぬ布片《布切れ》に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さえある。それと同時に、同じ金額のために、いろいろな侮辱や迫害を受けている自分達父娘もある。そう思うと、手中にあるその一幅《イップク》が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示しているように思われて、その品物に対して、妙な反感をさえ感じた。  その日の午後、二階の居間に閉じ籠った父は、何《ど》うしたのであろう。平素《いつも》に似ず、檻に入《-い》れられた熊のように、部屋中を絶間なしに歩き廻《回》っていた。瑠璃子は、階下の自分の居間にいながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸を向けずには、いられなかった。常には、軽い足音さえ立てない父だった。今日は異常に昂奮している様子が、瑠璃子にもそれと分《分か》った。|暫ら《暫》く音が、絶えたかと思うと、又立《また立》ち上《上が》って、ドシドシと可《か》なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き廻《回》るのだった。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激昂《ゲッコウ》すると、直《す》ぐ日本刀を抜いて、ビュウビュウと、部屋の中で振り廻《回》すのが癖だったと、亡き母から聞いたことを思い出した。  あんなに、父が昂奮しているとすると、若《も》し明日荘田《明日ショウダ》の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮《/短慮》な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思うと、瑠璃子は心配の上に、又新《また新》しい心配が、重なって来るようで、《:、》こんな時家出した兄でも、いて呉《く》れればと、取止めもない愚痴さえ、心の裡に浮《浮か》んだ。  その日、五時を廻《回》った時だった。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云《言》った。もう、金策の当《当て》などが残っている筈はないと思うと、彼女は父が突然出《突然’出》かけて行くことが、可《か》なり不安に思われた。 「何処《どこ》へ行《い》らっしゃるのでございますか。もう直《す》ぐ御飯《ご飯》でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止め《め-》るように云《言》った。 「いや、木下から預った軸物が急に心配になってね。これから行って、届けてやろうと思うのだ。向《向こ》うでは、ああした高価なものだとは思わずに、預けたのだろうから。」父の答えは、何だか曖昧だった。 「それなら、直《す》ぐ手紙でもお出しになって、取りに参るように申したら、如何《いかが》でございましょう。別に御自身《ご自身》でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だった。 「いや、一寸行《ちょっと行》って来よう。殊に此家《この家》は、何時差押《いつ差押》えになるかも知れないのだから。預って置いて差押えられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するように云《言》った。そう云《言》えば、父が直《す》ぐ返しに行こうと云《言》うのにも、訳がないことはなかった。  が、父が車に乗って、その軸物の箱を肩に靠《-もた》せながら、何処《いずこ》ともなく出て行く後姿《後ろ姿》を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  到頭呪《とうとう呪》われた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとして朗かな朝だった。明るい日光の降り注いでいる庭の樹立《木立》では、朝早《あさ早》くから蝉がさんさんと鳴きしきっていた。  が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のように澱んでいた。父が、昨夜遅《昨夜’遅》く、十二時に近く、酒気を帯びて帰って来たことが、彼女の新しい心配の種だった。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だったのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗《/執拗》な圧迫のために、自棄になったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。  つい此間来《このあいだ来》た、鷲の嘴のような鼻をした男が、今にも玄関に現れて来そうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、じっと坐っていることさえ、出来なかった。あの男が、父に直接会って、弁済を求める。父が、素気《すげ》なく拒絶する。相手が父を侮辱するような言葉を放つ。いらいらし切っている父が激怒する。恐ろしい格闘が起《起こ》る。父が、秘蔵の貞宗の刀を持ち出して来る。そうした厭な空想が、ひっきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だった。一度玄関に訪《-おとな》う声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽癈兵《ニセ癈兵》だった。午後になってからも、却々来《なかなか来》る様子はなかった。瑠璃子は絶えずいらいらしながら厭《/厭》な呪《/呪》わしい来客を待っていた。  父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合わせたときにも、苦り切ったまま一言も云《言》わなかった。昨日よりも色が蒼く、眼が物狂わしいような、不気味な色を帯びていた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないように、俯いたまま食事をした。それほど、父の顔は傷《傷ま》しく惨《惨め》に見えた。昼の食事に顔を合《合わ》した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交《交わ》さなかった。まして、今日が呪われた六月三十日であると云《言》ったような言葉は、孰《どち》らからも、おくびにも出さなかった。その癖、二人の心には六月三十日と云《言》う字が、毒々しく烙《焼》き付けられているのだった。  が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あかあかと照し出す頃になっても、あの男は来なかった。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思うと、瑠璃子は妙《-みょう》に拍子抜けをしたような、心持《心持ち》にさえなろうとした。  が、然《しか》し悪魔に手抜かりのある筈はなかった。その犠牲《生贄》が、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかかる猫のように瑠璃子父子《/瑠璃子親子》が、一日を不安な期待の裡に、苦しみ抜いて、やっと一時逃れの安心に入ろうとした間隙《隙》に、《:、》かの悪魔の使者は護謨輪《ゴムワ》の車に、音も立てず、そっと玄関に忍び寄ったのだった。 「いや、大変遅くなりまして相済《-あいす》みません。が、遅く伺いました方《ほう》が、御都合《ご都合》が、およろしかろうと思いましたものですから、お父様は御在宅《ご在宅》でしょうか。」  瑠璃子が、出迎えると、その男は妙な薄笑いをしながら、言葉丈《言葉だけ》はいやに、鄭重だった。  来《く》る者が、到頭来《とうとう来》たのだと思いながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧き立って来るのだった。 「お父様!《/》 荘田《ショウダ》の使《使い》が参りました。」  そう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに顫《震》えを帯びるのを、何《ど》うともする事が出来なかった。 「よし、応接室に通して置け。」  そう云《言》いながら、父は傍《傍ら》の手文庫を無造作に開いた。部屋の中は可《か》なり暗《-くら》かったが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束が、──《─:》そうだ一寸《/1寸》にも近い束が、二《2》つ三《3》つ入れられてあるのが、アリアリと見えた。  瑠璃子は、思わず『アッ』と声を立てようとした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父の手文庫に思いがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、駭《驚》いたのも無理ではなかった。駭《驚》くのと一緒に、有頂天になって、躍り上《上が》って、欣《喜》ぶべき筈であった。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に云《言》い知れぬ不安が、潮《ウシオ》の如くヒタヒタと彼女の胸を充した。  瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るように、無言のままじっと見詰めていた。  父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たように、ペコペコした。 「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、荘田《ショウダ》に使われておりまする矢野と申しますものでございます。今日止《今日’止》むを得ません主命《シュメイ》で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願い致しまする次第で、何の御猶予《ご猶予》も致しませんで、誠に恐縮致しておる次第でござります。」父は、そうした挨拶に返事さえしなかった。 「証文を出して呉《く》れたまえ。」父の言葉は、匕首《ア-イクチ》のように鋭く短かった。 「|はあ《ハア》! |はあ《ハア》!」  相手は、周章《あわて》たように、ドギマギしながら、折鞄の中から、三葉《三ヨウ》の証書を出した。  父は、じっと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにしていた札束を、相手の面前に、突き付けた。  相手は、父の鋭い態度に、オドオドしながら、それでも一枚一枚算《一枚一枚’算》え出した。 「荘田《ショウダ》に言伝をしておいて呉《く》れたまえ、いいか。俺《儂》の云《言》うことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉《く》れ給え。此《こ》の唐沢は貧乏はしている。家も邸《屋敷》も抵当に入っているが、金銭のために首の骨を曲げるような腰抜けではないぞ。日本中《日本じゅう》の金《-かね》の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞと。いいか。帰って、そう云《言》うのだ! 五万や十万の債務は、期限通何時《期限通りいつ》でも払ってやるからと。」  父は、犬猫をでも叱咤するように、低く投げ捨てるような調子で云《言》った。相手は何と、罵られても、兎《と》に角厭《かく厭》な役目を満足に果《果た》し得たことを、もっけの幸《幸い》と思っているらしく、一層丁寧《いっそう丁寧》に慇懃だった。 「|はあ《ハア》! |はあ《ハア》! 畏まりました。主人に、そう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと云《言》う者は、金《かね》ばかりありましても、人格などと云《言》うものは皆目持《皆目’持》っていない者が、多うございまして、《:、》私の主人なども、使われている者の方《ほう》が、愛想を尽《-つ》かすような、卑しい事を時々《ときどき》、やりますので。いや、閣下のお腹立《腹立ち》は、全く御尤《ごも-っと》もです。私からも、主人に反省を促すように、申します事でございます。それでは、これでお暇致《いとま致》します。」  丁度烏賊《ちょうど烏賊》が、敵を怖れて、逃げるときに厭な墨汁を吐き出すように、この男も出鱈目な、その場限りの、遁辞を並べながら、怱卒として帰って行った。  そうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴したのだった。この|次ぎ《次》の期限までには、半年の余裕がある。その間《あいだ》には、父の親友たる本多男爵も帰って来る。そう思うと、瑠璃子はホッと一息ついて安心しなければならない筈だった。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別《また別》な、もっと性質《タチ》のよくない不安が、何時の間にか入れ換《換わ》っていた。 「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかったのう。もう安心するがいい。これで何事もないのだ。」  父は、客が帰った後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にそう云《言》った。  が、瑠璃子の心は、怏々として楽しまなかった。 『お父様!《/》 あなたは、あの大金を何《ど》うして才覚なさったのです。』  そう云《言》う不安な、不快な、疑いが咽喉まで出かかるのを、瑠璃子は、やっと抑え付けた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第9話】 【ユージット】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  一家の危機は過ぎた。六月《6月》は暮れて、七月《7月》は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟のように見出《見い出》された、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子の心の新しい不安は、日《ヒ》の経つに連れても、容易には薄れて行かなかった。  七月《7月》も半《半ば》になった。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹が、咲き始めた。真紅や、白や、琥珀のような黄や、いろいろ変《変わ》った色の、少女《乙女》のような優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を彩る唯一の色彩だった。  荘田《ショウダ》の、思い出す丈《だけ》でも、憤ろしい面影も、だんだん思い出す回数が、少くなった。鷲鼻の男の顔などは、もう何時の間にか、忘れてしまった。凡《全》てが、一場の悪夢のように、その厭な苦い後感《ゴ感》も何時《いつ》しか消えて行くのではないかと思われた。  が、それは瑠璃子の空しい思違《思い違い》だった。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放っていたのだった。  七月の末だった。父は、突然警視総監《突然’警視総監》のT氏から、急用があると云《言》って、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔《二’三度顔》を合せた丈《だけ》で、私交《シコウ》のある間ではなかった。殊に、父は政府当局からは常に、白眼を以《以っ》て見られていたのだから。 「何《なん》の用事だろう?」  父は、一寸不審《ちょっと不審》そうに首を傾けた。警視総監と云《言》ったような言葉丈《言葉だけ》でも、瑠璃子には妙《-みょう》に不安の種だった。  が、父は何か考え当《当た》る事があったのだろう、割合気軽《割合’気軽》に出かけて行った。が、掻き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送った後《あと》も、|暫ら《暫》くは静まらなかった。  父は、一時間も経たぬ間に帰って来た。瑠璃子は、ホッと安心して、いそいそと玄関に出迎えた。  が、父の顔を一目見《ひと目見》たとき、彼女はハッと立竦《立ち竦》んでしまった。容易ならぬ大事が、父の身辺に起《起こ》ったことが、直《す》ぐそれと分《分か》った。父の顔は、土のように暗く蒼《青》ざめていた。血の色が少しもないと云《言》ってよかった。眼丈《眼だけ》は、平素《いつも》のように爛々と、光っていたが、その光り方は、狂人の眼のように、物凄く而《しか》も、ドロンとして力がなかった。 「お帰りなさいまし。」と、云《言》う瑠璃子の言葉も、しわがれたように、咽喉にからんでしまった。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しそうに、コソコソと二階へ上って行こうとした。  父の狼狽したような、血迷ったような姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になってしまった。彼女は、父を慰めよう、訳を訊こうと思いながら、|オズオズ《怖ず怖ず》父の後《あと》から、随《つ》いて行った。  が、父は自分の居間へ入ると、後《あと》から随《つ》いて行った瑠璃子を振り返りながら云《言》った。 「瑠璃さん! どうか、お父様を、|暫ら《暫》く一人にして置いて呉《く》れ!」  父の言葉は、云《言》い付けと云《言》うよりも哀願だった。父としての力も、権威もなかった。  それにふと気が付くと、そう云《言》った刹那、父の二つの眼には、抑えかねた涙が、ほたほたと湧き出しているのだった。  父が涙を流すのを見たのは、彼女が生《生ま》れて十八になる今日まで、父が母の死床《シニドコ》に、最後の言葉をかけた時、たった一度だった。  瑠璃子は、父にそう云《言》われると、止むなく自分の部屋に帰ったが、一人自分の部屋にいると、墨のような不安が、胸の中を一杯に塗り潰してしまうのだった。  夕食の案内をすると、父は、『喰《食》べたくない』と云《言》ったまま、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと云《言》う物音一つさせなかった。  十時が来ると、寝室へ移るのが、例だった。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上って行った。そして、|オズオズ《怖ず怖ず》扉《ドア》を開けながら云《言》った。 「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然《モク念》としていた父は、手を拱《-こまね》いたまま、振向《振り向》きもしないで答えた。 「俺《儂》は、もう少し起きているから、瑠璃さんは|先き《先》へお寝《寝み》なさい!」  そう云《言》われると、瑠璃子は、愈不安《いよいよ不安》になって来た。寝室へ退くことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさえが、心配で堪らなくなって来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、烈《激》しい胸騒ぎがして、何《ど》うしても足が、進まなかった。彼女は、足音を忍ばせながら、そっと、引き返した。彼女は、灯《ひ》もない廊下の壁に、寄り添いながら立っていた。父が、寝室へ入るまでは、何《ど》うにも父の傍《そば》を離れられないように思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  二十分経ち三十分経っても、父は寝室へ行くような様子を見せなかった。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするような物音一つ聞えて来なかった。瑠璃子も、息を凝しながら、ずっと|ほの暗《仄暗》い廊下の暗《闇》に立っていた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかった。それほど、彼女の神経は、異常に緊張しているのだった。じじと鳴く庭前《庭先》の、虫の声さえ手に取るように聞えて来た。  十二時を打つ時計の音が、階下の闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかった。  夜が、深くなって行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だんだん深くなって行った。十二時を打つのを聞くと、もうじっと、廊下で待っていられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。云《言》い争ってでも、父を寝室へ連れて行こうと決心した。彼女が、そう決心して、扉《ドア》の白い瀬戸物の取手《取っ手》に、手を触れたときだった。何時《いつ》もは、訳もなくグルリと廻転《回転》する取手《取っ手》が、ガチリと音を立てたまま、彼女の手に逆《逆ら》うように、ビクリともし《-し》なかった。 『内部《うち》から鍵をかけたのだ!』  そう思った瞬間に、瑠璃子は鉄槌で叩かれたように、激しい衝動《ショック》を受けた。気味の悪い悪寒が、全身を水のように流れた。 「お父様!《/》」彼女は、我《吾》を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だった。が、瑠璃子が、そう声をかけた瞬間、今迄静《今まで静か》であった父が、俄に立ち上《上が》って、何かをしているらしい様子が、アリアリと感ぜられた。 「お父様!《/》 お開けなすって下さい! お父様!《/》」  瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかった。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スッカリ動顛させてしまった。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充ち溢れた。彼女は、扉《ドア》を力一杯押《力’一杯’押》した。その細い、華奢な両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。 「お父様!《/》 お父様!《/》 お開けなすって下さい!」  彼女の声は、狂女のそれのように、物凄かった。魔物に、その可憐な弟を奪われて、鉄の扉《ドア》の前で、狂乱するタンタジールの姉のように、命掛《命掛け》の声を振搾《振り絞》った。 「お父様!《/》 何《ど》うして茲《ここ》をお閉めになるのです。茲《ここ》をお閉めになって何《ど》う遊ばそうとなさるのです。お開《あ》け下さい! お開《あ》け下さい。」  が、父は何とも返事をしなかった。父が返事をしない事に依って、瑠璃子は、目が眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入ろうと、電《稲妻》のように、ヴェランダへ走って出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸が掩われていた。彼女は、死物狂いになって、再び扉《ドア》の所へ帰って来た。そして、必死に、そのかよわい、しなやかな身体を、思い切り扉《ドア》に投げ付けて見た。が、扉《ドア》は無慈悲に、傲然と彼女の身体を突き返した。  彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。 「お父様!《/》 なぜ、開けて下さらないのです。何《ど》う遊ばそうと云《言》うのです。此瑠璃《この瑠璃》を捨てて置いて何《/ど》う遊ばそうと云《言》うのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きていないつもりでございますよ。お父様!《/》 お恨みでございます。どんな事情がございましょうとも、私に一応話《一応’話》して下さいましても、およろしいじゃございませんか。お父様の外《ほか》に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開《あ》け下さいませ。兎《と》に角《かく》、お開《あ》け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」  狂ったように、扉《ドア》を掻き、打ち、押し、叩いた後、彼女は扉《ドア》に、顔を当てたままよよと泣き崩れた。  その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更《夜更け》の闇を物凄く顫《震》わせるのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  よよと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凛々しく奮い起《起こ》して、女々しく泣き崩れているべき時ではないと思った。彼女は、最後の力、その繊細な身体にある丈《だ》けの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のように堅い扉《ドア》を乱打した後、身体全体を、烈《激》しい音を立てて、それに向《向か》って、打ち付けた。その時に、何かの奇蹟が起《起こ》ったように、今迄《今まで》はガタリとも動かなかった扉《ドア》が軽々《/カルガル》と音もなく口を開いた。機みを喰った彼女の身体は、つつと一間ばかりも流れて、危《危う》く倒れようとした。その時、父の老いてはいるけれども、尚力強《なお力強》い双腕が、彼女の身体を力強く支えたのである。 「お父様!《/》」と、上ずッた言葉が、彼女の唇を洩れると共に、彼女は|暫ら《暫》くは失神したように、父の懐に顔を埋《埋ず》めたまま烈《/激》しい動悸を整えようと、苦しさにあえいでいた。  気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だった。卓《テーブル》の上には、遺書《書き置き》らしく思われる書状が、数通重《スウツウ重》ねられている。 「瑠璃さん! あわれんでお呉《く》れ! お父さんは死に損《損な》ってしまったのだ! 死ぬことさえ出来ないような臆病者になってしまったのだ! お前の声を聞くと、俺《儂》の決心が訳もなく崩されてしまったのだ! お前に恨まれると思うと、お父様は死ぬことさえ出来ないのだ。」  父は、瑠璃子の昂奮が、漸く静まりかけるのを見ると、呟くように語り始めた。 「まあ、何を|仰しゃ《仰》るのでございます、死ぬなどと。まあ何を|仰しゃ《仰》るのでございます。一体何《一体ど》うしたと云《言》って、そんな事を|仰しゃ《仰》るのでございます。」 「ああ恥《/恥ずか》しい。それを訊いて呉《く》れるな! 俺《儂》はお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴《あいつ》の恐ろしい罠に、手もなくかかったのだ。あんな卑しい人間のかけた罠に、狐か狸かのように、手もなくかかったのだ。恥《恥ずか》しい! 自分で自分が厭になる!」  父は、座にも堪えないように、身悶えして口惜《悔》しがった。握っている拳がブルブルと顫《震》えた。 「彼奴《あいつ》と仰しゃりますと、やっぱり荘田《ショウダ》でございますか。荘田《ショウダ》が、何をいたしましたのでございますか。」  瑠璃子も烈《激》しい昂奮に、眼の色を変えながら、父に詰め寄って訊いた。 「今から考えると、見え透いた罠《ワナ》だったのだ。が、木下までが、俺《儂》を売ったかと思うと俺《/儂》は此《こ》の胸が張り裂けるようになって来るのだ!」  父は、木下が眼前《目の前》にでもいるように、前方を、きっと睨みながら、声はわなわなと顫《震》えた。 「|へえ《ヘエ》! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も|暫ら《暫》くは茫然となった。 「金《かね》は、人の心を腐らすものだ。彼奴《あいつ》までが、十何年と云《言》う長い間、目をかけて使ってやった彼奴迄《あいつまで》が、金《かね》のために俺《儂》を売ったのだ。金《かね》のために、十数年来の旧知を捨てて、敵の犬になったのだ。それを思うと、俺《儂》は坐っても立ってもおられないのだ!」 「木下が、何《ど》うしたと云《言》うのでございます。」  瑠璃子も、父の激昂《ゲッコウ》に誘われて桜色《/桜色》に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問い詰めた。 「此間《このあいだ》、彼奴《あいつ》が持って来た軸物を、何《なん》だと思う、あれが、俺《儂》を陥れ《れ-》る罠《ワナ》だったのだ。あれは一体誰のものだと思う。友達のものだと云《言》う、その友達は誰だったと思う。」  父は、眼を熱病患者《熱病’患者》のそれのように光らせながら、じっと瑠璃子を見下《見下ろ》した。 「あれは誰のものでもない、あの荘田《ショウダ》のものなのだ。荘田《ショウダ》のものを、空々しく俺《儂》の所へ持って来たのだ。」 「何《なん》の為《ため》でございましたろう。何《なん》だってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、直《す》ぐお返しになったではございませんか。」  瑠璃子が、そう云《言》うと父の顔は、見る見る曇ってしまった。彼は、崩れるように後《後ろ》の腕椅子に身を落した。 「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかかる者もやっぱり卑しかったのだ。」  父は、そう云《言》うと肉親の娘の視線をも避《-さ》けるように、面《オモテ》を伏せた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  |暫ら《暫》くは、強い緊張の裡に、父も子も黙っていた。が、父はその緊張に堪えられないように、面《オモテ》を俯けたまま、呟くように云《言》った。 「瑠璃さん! お前にスッカリ云《言》ってしまおう。俺《儂》はな《-な》、浅墓にも、相手の罠にかかって飛んでもないことをしてしまったのだ。あの木下の奴《ヤツ》!《/》 彼奴迄《あいつまで》が、荘田《ショウダ》の犬になっていようとは夢にも悟らなかっ《-っ》たのだ。お前に云《言》うのも恥《恥ずか》しいが、俺《儂》は木下が、あの軸物を預けて行ったとき、フラフラと魔がさしたのだ。一月《ひと月》でも二月《ふた月》でも何時《いつ》まででも預けて置くと云《言》う、此方《こっち》が通知しない中《うち》は、取りに来《-こ》ないと云《言》う。俺《儂》は、そう聴いたときに、此《こ》の一軸で一時の窮境を逃れようと思ったのだ。素晴らしい逸品だ、殊に俺《儂》の手から持って行けば、三万や五万は、直《す》ぐ融通が出来ると思ったのだ。果《果た》して融通は出来た。が、それは罠の中の餌に、俺《儂》が喰い付いたのと、丁度同《ちょうど同》じだったのだ。彼奴《あいつ》は、俺《儂》を散々餓《散々かつ》えさした揚句、俺《儂》の旧知を買収して、俺《儂》に罠をかけたのだ。飢《かつ》えていた俺《儂》は、不覚にも罠の中の肉に喰い付いたのだ。罠をかける奴の卑しさは、論外だが、かかった俺《儂》の卑しさも笑って呉《く》れ。三十年の清節《セイセツ》も、清貧もあったものではない!」  父は、のたうつように、椅子の中で、身を悶えた。之《こ》れを聞いている瑠璃子も、身体中《体中》が、猛火の中に入ったように、烈《激》しい憤怒《フンヌ》のために燃え狂うのを感じた。 「それで、それで、何《ど》うなったと云《言》うのでございます。」  彼女は、身を顫《震》わしながら訊いた。卓《テーブル》の上にかけている白い蝋のような手も、烈《激》しい顫《震》えを帯びていた。 「あの軸物の本当の所有者は荘田《ショウダ》なのだ。彼奴《あいつ》は、俺《儂》に対して横領の告訴を出しているのだ。」  父は吐くように云《言》った。蒼白い頬《ホオ》が烈《激》しく痙攣した。 「そんな事が罪になるのでございますか。」  瑠璃子の眼も血走ってしまった。 「なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、堪らないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入《質入れ》してもいけないのだ。」 「でも、そんなことは、世間に幾何《いくら》もあるではございませんか。」 「そうだ! そんなことは幾何《いくら》でもある、俺《儂》もそう思ってやったのだ。が、向《向こ》うでは初《初め》から謀ってやった仕事だ。俺《儂》が少しでも、蹉《つまず》くのを待っていたのだ。蹉《つまず》けば後《-あと》から飛び付こうと待っていたのだ。」  瑠璃子の胸は、荘田《ショウダ》に対する恐ろしい怒《怒り》で、火を発するばかりであった。 「人非人奴《ニンピニンめ》! 人非人奴《ニンピニンめ》! どれほどまで執念《しゅうね》く妾達《わたし達》を、苦しめるのでございましょう。ああ口惜《悔》しい! 口惜《悔》しい!」  彼女は、平生《いつも》のたしなみも忘れたように、身を悶えて、口惜《悔》しがった。 「お前が、そう思うのは無理はない。お父様だって、昔であったら、そのままにはして置かないのだが。」  父の顔は益凄愴《ますます凄愴》な色を帯びていた。 「ああ、男でしたら、男に生《生ま》れていましたら。残念でございます。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は卓《テーブル》の上に、泣き伏した。  何処《どこ》かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切って、遠くから響いて来る電車の音《’音》さえ、絶えてしまった。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しんしんと迫って来た。 「それで、その告訴は何《ど》うなるのでございますか。まさか取上《取り上》げにはなりませんでしょうね。」  瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配そうに訊いた。  涙に洗われた顔は、一種《1種》の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「さあ! 其処《そこ》なのだ! 今日警視総監《今日’警視総監》が、個人として俺《儂》に会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が云《言》うのには、この位《くらい》なことで、貴方を社会的に葬《-ほうむ》ってしまうことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるように懇々云って見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやって来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと云《言》うのだ。何《ど》うも先方では貴方に対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、此際先方《このさい先方》に詫を入れて、内済にして貰ったら何《ど》うかと云《言》うのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だろうが、然《しか》し、貴方の社会的地位や名誉には換えられないから、此際思《このさい思》い切って謝罪して見たら何《ど》うかと云《言》って呉《く》れるのだ。先方《/先方》が告訴を取り下げさえすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと云《言》っていると云《言》うのだ。」  父は低くうめくように云《言》って来たが、茲《ここ》まで来ると急に烈《激》しい調子に変《変わ》りながら、 「だが、瑠璃子考《瑠璃子/考》えておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさえ、俺《儂》に取ってどんな恥辱であるか。俺《儂》は、それよりも寧ろ死を選《-えら》みたいのだ。然《しか》し謝罪しないとなると、何《ど》うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前此罪《前/この罪》は破廉恥罪なのだ! 爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、俺《儂》の社会的位置は、滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と云《言》われた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑されることを考えておくれ。死以上の恥辱だ。何《ど》の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、俺《儂》が死のうと決心した心《’心》の裡を、お前は察して呉《く》れるだろう。」  瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のように黙って聴いていた。火のように熱した身体中《体中》の血が今は却って、氷のように冷たくなっていた。 「俺《儂》が死ねば、彼奴《あいつ》の迫害の手も緩むだろうし、それに依って、汚名を流さずして済む。つまり、俺《儂》は悪魔の手に買い取られた俺《儂》の社会的名誉を、血を以《以っ》て買い戻そうと思ったのだ。お前のことを、思わないではない。父の外《ほか》には頼る者もないお前のことを思わないではない。が、破廉恥の罪人《ザイニ-ン》になることを考えると、泥棒と同じ汚名を被《-こうむ》ることを考えると、何も考えておられなくなったのだ。」  父は、そう云《言》いながら、心の裡の苦しさに堪えられないように、頻りに身を悶えた。 「が、扉《ドア》の外でお前が突然叫《突然’叫》び出した声を聞くと、刀を持っていた俺《儂》の手が、しびれてしまったように、何《ど》うしても俺《儂》の思い通《通り》に、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱っても、手が何《ど》うしても云《言》うことを聴かないのだ。俺《儂》は、今初《今’初》めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もっと大きいことが分《分か》ったのだ。俺《儂》は、社会上《社会ジョウ》の位置を失っても、お前の為に生き延びようと思ったのだ。破廉恥罪の名を被ても、お前の父として、生き延びようと思ったのだ。名誉や位置などは、なくなっても、お前さえあれば、まだ生き甲斐があると云《言》うことが、分《分か》ったのだ。いや名誉《/名誉》や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方《ほう》が人間として、どれほど立派であるかと云《言》うことが、今やっと分《分か》ったのだ。俺《儂》は、今光一《いま光一》を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子!《/》 お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人《罪人’》のお父様を見捨てないで、いつまでも俺《儂》の傍《そば》を離れて呉《く》れるな。」  父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いていた。彼は、子に対する愛に依って、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救われようとしているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  そうだ!子の心は、凄《凄ま》じい憤怒《フンヌ》と復讐の一念とに、湧き立った。父が、子に対する愛のために、敵の与えた恥辱を忍ぼうとするのに拘わらず子《/子》の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂ってしまった。 「お父様、それでいいのでございましょうか。お父様!《/》 金《かね》さえあれば悪人がお父様のような方を苦しめてもいいのでございましょうか。而《しか》も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云《言》う、そんなことが、許されることでございましょうか。」  瑠璃子は、平生《いつも》のおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるように、熱狂していた。父は子の激昂《ゲッコウ》を宥めるように、「だが瑠璃子!《/》 悪人がどんな卑しい手段を講じてもお父様さえ、しっかりしていればよかったのだ。国の法律に触れたのはやっぱり俺《儂》の不心得だったのだ。」 「いいえ! 妾《わたくし》は、そうは思いません。」瑠璃子は、昂然として父の言葉を遮ぎった。「荘田《ショウダ》のやりましたような奸計を廻らしたならば、どんな人間をだって、罪に陥すことは容易だと思います。お父様が信任していらっしゃる木下をまで、買収してお父様を罠に陥し入れるなど、悪魔さえ恥じるような卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田《ショウダ》こそ厳罰に処《’処》せらるべきものだと思います。荘田《ショウダ》のような悪人の道具になるような法律を、妾《わたくし》は心から呪いたいと思います。」  眦が、裂けると云《言》ったらいいのだろう。美しい顔に、凄《凄ま》じい殺気が迸《-ほとばし》った。父も子の烈《激》しい気性に、気圧されたように、黙々として聴いていた。 「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるような、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦って、相手の悪意を懲《懲ら》しめてやって下さいませ。ああ妾《/わたくし》が男でございましたら、‥‥本当に男でございましたら‥‥」《。」》  瑠璃子は、熱に浮かされたように、昂奮して叫び続けた。 「が、瑠璃子!《/》 法律と云《言》うものは人間の行為の形丈《形だけ》を、律するものなのだ。荘田《ショウダ》が、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。俺《儂》は切羽詰《切羽詰ま》って一寸逃《ちょっと逃》れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかったのだ。が、俺《儂》の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、荘田《ショウダ》の恐ろしい心ではなくして、俺《儂》の一寸《ちょっと》した心得違《心得違い》の行為なのだ。行為の形なのだ!」 「若《も》し、法律がそんなに、本当の正義に依って、動かないものでしたら、妾《わたくし》は法律に依ろうとは思いません。妾《わたくし》の力で荘田《ショウダ》を罰してやります。妾《わたくし》の力で、荘田《ショウダ》に思い知らせてやります。」  気が狂ったのではないかと思うほど、瑠璃子の言葉は烈《激》しくなった。父は呆気に取られたように、子の口もとを見詰めていた。 「金《かね》の力が、万能でないと云《言》うことをあの男に知らせてやらねばなりません。金《かね》の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このままで、お父様が、有罪になるような事がございましたら、荘田《ショウダ》は何と思うか分《分か》りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思い知らせてやらねばなりません。金《かね》の力などは、本当の正義の前には土塊にも等しいことを、あの男に思い知らせてやりたいと思います。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は父の顔をじっと見詰めていたが、思い切ったように云《言》った。 「お父様!《/》 お願いでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しましょうと、妾《わたくし》の勝手に委《任》せて下さいませんか。」  瑠璃子の顔に、鉄のように堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と愛児《-まなご》の顔を見詰めていた。 「お父様? 妾《わたくし》は、ユージットになろうと思うのでございます。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ユージット?」老いた父には、娘の云《言》った言葉の意味が分《分か》らなかった。 「左様でございます。妾《わたくし》はユージットになろうと思うのでございます。ユージットと申しますのは猶太《ユダヤ》の美しい娘の名でございます。」 「その娘になろうと云《言》うのは、どう云《言》う意味なのだ?」父は、激しい興奮から覚めて、やや落着《落ち着》いた口調になっていた。 「ユージットになろうと申しますのは、妾《わたくし》の方《ほう》から進んで、あの荘田勝平《ショウダカツヘイ》の妻になろうと云《言》うことでございます。」  瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く氷《”氷》の如く冷やかであった。 「えーッ。」と叫んだまま、父は雷火に打たれた如く茫然となってしまった。 「お父様!《/》 お願いでございます。どうか、妾《わたくし》をないものと諦めて、妾《わたくし》の思うままに、させて下さいませ!」  瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。 「馬鹿なッ!《/》」父は、烈《激》しい、然《しか》し慈愛の籠った言葉で叱責した。 「馬鹿なことを考えてはいけない! 親の難儀を救うために子が犠牲になる。親の難儀を救うために娘が、身売《身売り》をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考える。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考える。お父様《父さん》を救おうとして、お前があんな豚のような男に身を委す。考える丈《だけ》でも汚らわしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助かろうなどと、そんなさもしいことを考える父だと思うのか。俺《儂》は、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋《指一本’髪一筋》も、犠牲にしようとは思わない。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えるとは、平生《いつも》のお前にも似合わないじゃないか。」  父は、思いの外《ほか》に、激昂《ゲッコウ》して、瑠璃子をたしなめるように云《言》った。が、瑠璃子は、ビクともしなかった。 「お父様!《/》 お考え違いをなさっては、困ります。お父様の身代《身代わ》りになろうなどと、そんな消極的な動機から、申上《申し上》げているのではありません。妾《わたくし》は、法律の網を潜《くぐ》るばかりでなく、法律を道具に使って、善人を陥れ《れ-》ようとする悪魔を、法律に代《代わ》って、罰してやろうと思うのです。一家が受けた迫害に、復讐するばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやろうと思うのです。お父様の身代《身代わ》りになろうと云《言》うような、そんな小さい考えばかりではありません。」  瑠璃子は、昂然と現代の烈女と云《言》ってもいいように、美しく勇ましかった。 「お前の動機は、それでもいい。だが、あの男と結婚することが、何《ど》うしてあの男を罰することになるのだ。何《ど》うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」 「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凛然と火花を発するように云《言》った。 「お父様、昔猶太《昔ユダヤ》のベトウリヤと云《言》う都市が、ホロフェルネスと云《言》う恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子を搏《手打ち》にするような猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺とが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたった一人連《ひとり連》れた切りで、羅衣《薄物》を纏った美しい姿を、虎のようなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中でたった一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万《イクマン》の同胞の命と貞操とを救ったのです。その少女の名こそ、今申《いま申》し上げたユージットなのでございます。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれていた。牝獅子《メジシ》の乳で育ったと云《言》う野蛮人の猛将を、細い腕《カイナ》で刺し殺した猶太《ユダヤ》の少女《乙女》の美しい姿が、勇ましい面影が、蝕画《エッチング》のように、彼女の心にこびりついて離れなかった。少女に仮装して、敵将を倒した日本武尊《倭健命》よりも、本当の女性である丈《だけ》に、それ丈《だ》け勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしている丈《だけ》に、限りなく悲壮であった。 「妾《わたくし》はユージットのように、戦って見たいと思うのです。」  二千有余年も昔の、猶太《ユダヤ》の少女《乙女》の魂が、大正の日本に、甦って来たように、瑠璃子は炎の如く熱狂した。  が、父は冷静だった。彼は、熱狂し過ぎている娘を、宥めるように、言葉静かに説き諭した。 「瑠璃子!《/》 お前のように、そう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考えては困る。数万の人の命に代《代わ》るような、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違いない。が、あんな獣《ケダモノ》のような卑しい男を、懲《懲ら》すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊と交換するほど、馬鹿馬鹿しいことじゃないか。」 「だが、お父様!《/》」と、瑠璃子は直《す》ぐ抗弁した。 「相手は、お父様の仰しゃる通り、取るに足りない男には違いありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金《かね》さえあれば、帝王のように強いのです。お父様は、相手を『獣《ケダモノ》のように卑しい男』とお蔑すみになっても、その卑しい男が、金《かね》の力で、お父様のような方に、こんな迫害を加え得るのですもの。妾《わたくし》が、戦わなければならぬ相手は荘田勝平《ショウダカツヘイ》と云《言》う個人ではありません。荘田勝平《ショウダカツヘイ》と云《言》う人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪《アク》です。金《かね》の力で、どんなことでも出来るような不正な不当な社会全体です。金《かね》さえあれば、何でも出来ると云《言》ったような、その思想です。観念です。妾《わたくし》は、それを破って見たいと思うのです。」  瑠璃子は、処女《乙女》らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨ててしまったように、叫びつづけた。  父は子の烈《激》しい勢《勢い》を、持ち扱ったように、黙って聞いていた。 「それに、お父様!《/》 ユージットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操《ミサオ》を捨ててかからなければ、油断をしなかったからです。妾《わたくし》は、妻と云《言》う名前ばかりで、相手を懲《懲ら》し得る自信があります。何《ど》うか妾《わたくし》を無いものと、お諦めになって、三月《ミツキ》か半年かの間、荘田《ショウダ》の許へやって下さいまし。匕首《ア-イクチ》で相手を刺し殺す代《代わ》りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧《ご覧》に入れますから。」  其処《そこ》には、もう優しい処女《乙女》の姿はなかった。相手の卑怯な執念深い迫害のために、到頭最後《とうとう最後》の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取って立ち上がった彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のように美しく凄愴だった。 「瑠璃さん! あなたは、今夜は何《ど》うかしている。お父様《父さん》も、ゆっくり考えよう。あなたも、ゆっくりお考えなさい。あなたの考えは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時‥‥」《。」》 「でも、お父様!《/》」瑠璃子は少しも屈しなかった。「妾《わたくし》は、毒に報いるのには毒を以《以っ》てしたいと思います。陰謀に報いるには、陰謀を以《以っ》てしたいと思います。相手が悪魔でも恥じるような陰謀を逞くするのですもの。此方《こっち》だって、突飛な非常手段で、懲《懲ら》しめてやる必要があると思います。現代の社会では万能な金《-かね》の力に対抗するのには、非常手段に出るより外《ほか》はありません。妾《わたくし》は、自分の力を信じているのでございます。あんな男一人滅《男ひとり滅》ぼすのには余る位《くらい》の力を、持っているように思います。お父様!《/》 どうか妾《わたくし》を信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちゃんと成算があるのでございます。」  瑠璃子の興奮は何処《どこ》までも、続くのだった。父は黙々として、何も答えなくなった。父と娘との必死な問答の裡に、幾時間も経ったのであろう、明け易い夏の夜は、ほのぼのと白《-しら》みかけていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第10話】 【美奈子】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「ハハハハ、唐沢の奴《ヤツ》、面喰《面食ら》っているだろう。ハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、籐製《トウ製》の腕椅子の裡で、身体をのけ反るようにしながら、哄笑した。 「どうも、貴方も人間が悪くていけない。あんない《-い》い方を苛めるなんて、何《ど》うも甚だ宜しくない。貴方が、持って行けと云《言》ったから、つい持って行ったものの、どうも寝覚《寝覚め》が悪くっていけない。私は随分唐沢《随分’唐沢》さんにお世話になったのですからね。」  木下は、遉《さすが》に烈《激》しい良心の苛責に堪えられないように、苦しげに云《言》った。 「ああ《あ/》いいよ。分《分か》っているよ。君の苦衷も察しているよ。俺《儂》だって、何も唐沢が憎くって、やるのじゃないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。一寸《ちょっと》した意地でやり始めたのだが、やり始めると俺《儂》の性質でね、徹底的にやり徹さないと気が済まないのだ。親を苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。ハハハハハ、誤解して呉《く》れちゃ困るよ。ハハハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、その赤い大きい顔の相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のように、得意な哄笑を笑い続けた。 「どうだ! 俺《儂》が云《言》った通《とおり》だろう。君《キミ》は、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか云《言》って、反対したじゃないか。何《ど》うだ! 人間は、金《かね》に窮すればどんなことでもするだろう。金《かね》に依って、保護されていない人格などは、要するに当《当て》にならないのだ。清廉潔白など云《言》うことも、本当に経済上《経済ジョウ》の保証があって出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当《当て》になるものか、ハハハハハハ。」 (此《こ》の世をばわ《/わ》が世とぞ思う望月《/望月》の欠《/欠》けたることの)無いように、勝平《カツヘイ》は得意だった。 「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思っているのです。何《ど》うもやりそうですよ。屹度《きっと》やりますよ。」木下は、心からそう信じているように、眉をひそめながら云《言》った。 「うむ! 自殺かね。」遉《さすが》に荘田《ショウダ》も、一寸誘《ちょっと誘》われて眉をひそめたが、直《す》ぐ傲岸な笑いで打ち消した。 「ハハハハハ、大丈夫だよ。人間はそう易々《ヤスヤス》とは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方《センポウ》が泣きを入れさえすれば、そうは苛めないよ。もともと、一寸《ちょっと》した意地からやっていることだからね。」 「それでも、もしお嬢さんをよこすと云《言》ったら御結婚《ご結婚》になりますかね。」 「いや、それだがね。俺《儂》も考えたのだよ。いくら何《なん》だと言っても、二十五六《二十ゴロク》も違うのだろう。世間が五月蠅《五月蠅い》からね。只でさえ『成金!《/》 成金!《/》』と、いやな眼《マナコ》で見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、俺《儂》が花婿になることは思い止《とど》まったよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年丈《トシだけ》は似合っているからね。その事は先方《センポウ》へも云《言》って置いたよ。」 「御子息《ご子息》の嫁に!」  そう云《言》ったまま、木下は二の句が継げなかった。荘田《ショウダ》の息《ソク》、勝彦と云《言》うその息《ソク》は、二十《ハタチ》を二《2》つ三《3》つも越していながら、子供のようにたわいもない白痴だった。白痴に近い男だった。そうだ! 年丈《トシだけ》は似合っている。が、瑠璃子の夫としては、何と云《言》う不倫な、不似合《不似合い》な配偶だろう。金《かね》のために旧知を売った木下にさえ、荘田《ショウダ》の思い上《上が》った暴虐が、不快に面憎く感ぜられた。 「なに、俺《儂》があのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金《かね》の力で、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいいのだよ。金《かね》の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、ああそうそう、もう一人の人間とに、思い知らしてやればいいのだよ。」  荘田《ショウダ》は、何物も恐れないように、傲然と云《言》い放った。  丁度《ちょうど》、その時だった。荘田《ショウダ》の背後《後ろ》の扉《ドア》が、ドンドンと、激しく打ち叩かれた。 「電報!《/》 電報!《/》」と、誰かが大声で叫んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「電報!《/》 電報!《。》」  扉《ドア》は、続け様に割れるように叩かれた。今迄《今まで》、傲然と反り返っていた荘田《ショウダ》は、急に悄気切ってしまった。彼はテレ隠しに、苦笑しながら、 「おい! 勝彦!《/》 おい! よさないか、お客様がいるのだぞ。おい! 勝彦!《。》」  客を憚って、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかった。 「電報!《/》 電報!《。》」強い力で、扉《ドア》は再び続けざまに、乱打された。 「まあ! お兄様!《/》 何を遊ばすのです。さあ! 彼方《あっち》へ行《い》らっしゃい。」優しく制している女の声が聞《聞こ》えた。 「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ。美奈さん。」男は抗議するように云《言》った。 「あら! 電報じゃありません、お客様の御名刺《ご名刺》じゃありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」  そうした問答が、聞《聞こ》えたかと思うと、扉《ドア》が音もなく開いて、十六──恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、眸のいきいきとした可愛い少女だった。彼女は、兄の恥を自分の身に背負《背お》ったように、顔を真赤《真っ赤》にしていた。 「お父様!《/》 お客様でございます。」  客に、丁寧に会釈をしてから、父に向《向か》って名刺を差し出しながら、しとやかそうに云《言》った。傲岸な父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は狼に伍した羊のように、美しく、しとやかだった。 「木下さん。これが娘です。」  そう云《言》った荘田《ショウダ》の顔には、娘自慢《ムスメ自慢》の得意な微笑が、アリアリと見えた。が、彼の眼が、開かれた扉《ドア》の所に立って、キョトンと室内を覗いている長男の方《ホウ》へ転ずると、急にまた悄気てしまった。 「ああ《あ/》美奈さん。兄さんを早う向《向こ》うへ連れて行ってね。それから、杉野さんをお通しするように。」  娘に、優しく云《言》い付けると、客の方《ホウ》へ向きながら、 「御覧《ご覧》の通りの馬鹿ですからね。唐沢のお嬢さんのような立派な聡明な方に、来ていただいて、引き廻《回》していただくのですね。ハハハハハ。」  馬鹿な長男が去ると、荘田《ショウダ》は又以前《また以前》のような得意な傲岸な態度に還って行った。  其処《そこ》へ、小間使《小間使い》に案内されて、入って来たのは、杉野子爵だった。 「|やあ《ヤア》! 荘田《ショウダ》さん! 懸賞金はやっぱり私のものですよ。到頭《とうとう》、先方《センポウ》で白旗《シロハタ》を上げましたよ、ハハハハ。」 「白旗《シロハタ》をね、なるほど。ハハハハハ。」荘田《ショウダ》は、凱旋の将軍のように哄笑した。 「案外脆《案外’脆》かったですね。」木下は傍から、合槌を打った。 「それがね。令嬢が、案外脆《案外’脆》かったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人《チチ一人’子一人》の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉《く》れるのなら荘田家《/ショウダケ》へ輿入れしてもいいと云《言》うのです。」 「なるほど、うむ、なるほど。」  荘田《ショウダ》は、血の臭《匂い》を嗅いだ食人鬼のように、満足そうな微笑を浮べながら、肯《頷》いた。 「ところが、令嬢に註文があるのです。荘田君《ショウダ君》!《/》 お欣《喜》びなさい! 私に対する懸賞金は倍増《倍増し》にする必要がありますよ、令嬢の註文がこうなのです。同じ荘田家《ショウダケ》へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やっぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立って見たいとこう云《言》ってあるのです。手紙をお眼にかけてもいいですが。」  そう云《言》いながら、子爵はポケットから、瑠璃子の手紙を取り出した。丁度敵《ちょうど-カタキ》から来た投降状でも出すように。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするように、荘田《ショウダ》は瑠璃子が杉野子爵宛《杉野子爵宛て》に寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと云《言》ったような、賤しい微笑が、その赤い顔一面に拡がった。 「うむ! 成る程!《/》 成る程!《。》」  舌鼓をでも打つように、一句一句を貪るように読み了ると、彼は腹を抱えんばかりに哄笑した。 「ハハハハハ。強いようでも、やっぱり女子《オナゴ》は弱いものじゃ。ハハハハハ。なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考えていなかったが、こうなると一番若返《一番/若返》るかな、ハハハハハ、じゃ、杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部《ショウモン全部》は、お嬢様に、結婚《マリエジ》の進物《プレゼント》として差しあげる。そうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と云《言》うことにしよう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。そうそう、貴君方《貴方がた》に対するお礼もあったけ。」  王女のように、美しく気高い処女《乙女》を、到頭征服《とうとう征服》し得たと云《言》う欣《喜》びに、荘田《ショウダ》は有頂天になっていた。彼は、呼鈴《ベル》を鳴らして女中を呼ぶと、 「お嬢さんに、そう云《言》うのだ、俺《儂》の手提金庫に小切手帳が入っているから持って来るように。」と命じた。  良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何《いくら》になるだろうかと銘々心の裡で、荘田《ショウダ》の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾に空想しながら、美奈子が小切手帳を持って、入って来るのを待っていた。 「十八の娘にしては、なかなか達筆だ! 文章も立派なものだ!」  荘田《ショウダ》は、尚飽《なお飽》かず瑠璃子の手紙に、魂を擾《乱》されていた。  が、丁度《ちょうど》その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依って、魂を擾《乱》されていたのは荘田勝平丈《ショウダカツヘイ》だけではなかった。  瑠璃子は、杉野子爵に宛てて、一通《1通》の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、一通《1通》の手紙を送った。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅《/堅》い鉄のような心とで書いた。直也に送った手紙は、熱い涙と堅《/堅》い鉄のような心とで書いた。  荘田勝平《ショウダカツヘイ》が、一方の手紙を読んで、有頂天になったと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたように思った。 ◇。◇。◇。  父を恐ろしい恥辱より救い、唐沢一家を滅亡より救う道は、これより外《ほか》にはないのでございます。‥‥  法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲《懲ら》しめる手段は、これより外《ほか》にはないのでございます。妾《わたくし》の行動を奇嬌だとお笑い下さいますな。芝居気《芝居っ気》があるとお笑い下さいますな。現代に於《於い》ては、万能力を持っている金《-かね》に対抗する道は、これより外《ほか》にはないのでございます。‥‥名ばかりの妻、そうです、妾《わたくし》はありとあらゆる手段と謀計とで以《以っ》て、妾《わたくし》の貞操をあ《/あ》の悪魔のために汚《-けが》されないように努力する積《積り》です。北海道の牧場では、よく牡牛と羆とが格闘するそうです。妾《わたくし》と荘田《ショウダ》との戦いもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のような角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、妾《わたくし》も、自分の操を汚《-けが》されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思います。  妾《わたくし》の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。‥‥  が、どうか妾《わたくし》を信じて下さい。妾《わたくし》には自信があります。半年と経たない裡に精神的《/精神的》にあの男を殺してやる自信があります。  直也様よ、妾《わたくし》のためにどうか、勝利をお祈り下さい。 ◇。◇。◇。  手紙は尚続《なお続》いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  妾《わたくし》は、勝利を確信しています。が、それは実質の勝利で、形から云《言》えば、妾《わたくし》は金《-かね》のために荘田《ショウダ》に購《贖》われる女奴隷と、等しいものかも知れません。妾《わたくし》が、自分の操を清浄に保《-たも》ちながら、荘田《ショウダ》を倒し得ても、社会的には妾《わたくし》は、荘田《ショウダ》の妻です。何人《ナンピ-ト》が妾《わたくし》の心も身体も処女《乙女》であることを信じて呉《く》れるでしょう。妾《わたくし》は貴君丈《貴方だけ》には、それを信じて戴きたいと思います。が、妾《わたくし》にはそれを強いる権利はありません。  男性化《マンリファン(男性化)》と言う言葉があります。妾《わたくし》の現在はそれです。妾《わたくし》は女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎《/慎》しやかさを捨てて、ただ復讐と膺懲のために、狂奔する化物のような人間になろうとしているのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思わずには、いられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のような心と謀計とが必要です。  貴君《貴方》を愛し、また貴君《貴方》から愛されていた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡《全》ての女性らしさを、自分から捨ててしまうのです。凡《全》ての女性らしさを、復讐の神に捧げてしまうのです。愛も恋も、慎しやかさも淑《淑やか》さも、その黒髪も白き肌《ハダエ》も。  |次ぎ《次》のことを申上《申し上》げるのは、一番厭でございますが、荘田《ショウダ》からの最初の申込《申し込》みを取り継がれた方は、貴君《貴方》のお父様です。従って、求婚に対する妾《わたくし》の承諾も、順序として、貴君《貴方》のお父様に、取次いでいただかねばなりません。妾《わたくし》は、貴君《貴方》に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後《あと》に、貴君《貴方》のお父様宛《父様宛て》に、もう一つの、もっと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。  それを思うと、妾《わたくし》の心が暗くなります。が、妾《わたくし》はあくまで強くなるのです。ああ、悪魔よ! もっと妾《わたくし》の心を荒ませてお呉《く》れ! 妾《わたくし》の心から、最後の優しさと恥しさを奪っておくれ! ◇。◇。◇。  一句一句鋭《一句一句’鋭》い匕首《ア-イクチ》の切先で、抉《えぐ》られるように、読み了った直也は最後の一章《1章》に来ると、鉄槌で横ざまに殴り付けられたような、恐ろしい打撃を受けた。  最初は、縦令《たとい》どんな理由があるにしろ、自分を捨てて、荘田《ショウダ》に嫁ごうとする瑠璃子が恨めしかった。心を喰い裂くような烈《激》しい嫉妬を感じた。が、だんだん読んで行く裡に、唐沢家に対する荘田《ショウダ》の迫害の原因が、荘田《ショウダ》に対する自分の罵倒であったことが、マザマザと分《分か》って来た。瑠璃子を唐沢家《唐沢ケ》から奪おうとするのは、つまり自分の手から奪おうとするのだ。|荘田が《ショウダの》、自分に対する皮肉な恐《/恐》ろしい復讐なのだ。意趣返しな《-な》のだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると云《言》う。が、それを自分が漫然と見ていられるだろうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒してまで、戦っている時に、第一の責任者たる自分が、茫然と見ていられるだろうか。が、そんなことは兎《と》に角直也《かく直也》には、自分の恋人が縦令操《たとい操》は許さないにしても、荘田《ショウダ》と──《─:》豚のように不快な荘田《ショウダ》と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪まらなかった。瑠璃子は、飽くまでも、操を汚《-けが》さないと云《言》うが、そんなことは、聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的《ロマンチック》な空想で、縦令彼女《たとい彼女》の決心が、どんなに堅かろうとも、一旦結婚した以上、獣《ケダモノ》のように強い荘田《ショウダ》の為に、ムザムザと蹂《踏》み躙られてしまいは《は-》せぬか。どんなに強い精神でも、鉄のように強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のように烈《激》しく、石のように堅くても、羅衣《薄物》にも堪えないような、その優しい肉体は、荘田《ショウダ》の強い把握のために、押し潰されてしまいは《は-》せぬか。そう考えると、直也の心は、恐ろしい苦悶と焦燥のために、烈《激》しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪う悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒《フンヌ》と恥辱とのために、逆上《ギャクジョウ》した。  彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除していた。 「お父様は何《ど》うした。」  彼は女中を叱咤するように云《言》った。 「今しがた、荘田様《ショウダ様》へ行《い》らっしゃいました。」  瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取ったように、荘田《ショウダ》の所へ馳《駆》け付けたのだと思うと、直也の心は、恐ろしい憤怒《フンヌ》のために燃え上《上が》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子が、小切手帳を持って来ると、荘田《ショウダ》は、傍《傍ら》の小さい卓《デスク》の上にあった金蒔絵の硯箱を取寄せて不器用《/不器用》な手付《手付き》で墨を磨りながら、左の手で小切手帳を繰拡げた。 「ハハハハハ、貴方にも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、そう得々と哄笑しながら、最初の一葉《イチヨウ》に、金二万円也《金二万円ナリ》と、小学校の四五年生位《シゴネンセイくらい》の悪筆で、その癖溌剌《くせ溌剌》と筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家《唐沢ケ》へ送るものらしかった。  その|次ぎ《次》の一葉《イチヨウ》を、木下も杉野も、爛々と眼を、梟のように光らせて、見詰めていた。荘田《ショウダ》は、無造作に壱万円也《壱万円ナリ》と書き入れると、その|次ぎ《次》の一葉《イチヨウ》にも、同じ丈《だけ》の金額を書き入れた。 「何《ど》うです。これで不足はないじゃろう。ハハハハハ。」と、荘田《ショウダ》は肩を揺がせながら笑った。  食事を与えられた犬のように、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出そうとしている時だった。荘田《ショウダ》の背後《後ろ》の扉《ドア》が、軽く叩かれて、小間使《小間使い》が入って来て、 「旦那様!《/》 あの杉野《/杉野》さんと云《言》う方が、御面会《ご面会》です。」と、云《言》った。 「杉野!《/》」と、荘田《ショウダ》は首を傾《-かし》げながら云《言》った。「杉野さんなら茲《ここ》にいらっしゃるじゃないか。」 「いいえ! お若い方でございます。」 「若い方? いくつ位《くらい》?」と、荘田《ショウダ》は訊き返した。 「二十三四《ニジュウサンシ》の方で、学生の服を着た方です。」 「ううむ。」と、荘田《ショウダ》は一寸考《ちょっと考》え込んだが、ふと杉野子爵の方《ほう》を振向《振り向》きながら、 「杉野さん! 貴君《貴方》の御子息《ご子息》じゃないかね。」と、云《言》った。 「私の倅、私の倅がお宅へ伺うことはない。尤《もっと》も、私にでも用があるのかな。そうじゃありませんか。私に会いたいと云《言》うのじゃありませんか。」  子爵は小間使《小間使い》の方《ほう》を振り向きながら云《言》った。小間使《小間使い》は首を振った。 「いいえ! 御主人《ご主人》にお目にかかりたいと|仰しゃ《仰》るのです。」 「ああ《あ/》分《分か》った! 杉野さん! 貴君《貴方》の御子息《ご子息》なら、僕の所へ来る理由が、大《大い》にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと云《言》う今の場合、是非とも来《-こ》なければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと云《言》ってね。貴君方《貴方がた》は、別室で待っていただくかね。いや、立会人があった方《ほう》が、結局いいかな。そうだ! 早くお通しするのだ!」  興奮した熊のように、荘田《ショウダ》は卓《テーブル》に沿うて、二三歩《二’三歩》ずつ左右に歩きながら、叫んだ。  杉野子爵には、荘田《ショウダ》の云《言》った意味が、十分に判らなかった。何《なん》の用事があって、自分の息子が、荘田《ショウダ》を尋ねて来るのか見当も立たなかった。が、それは兎も角、自分が荘田《ショウダ》から、邪《疚》しい金《-かね》を受け取ろうとする現場へ、肉親の子──《─:》しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目《ヨンモク》も置いている子が──《─:》突然現《突然’現》れて来ることは、いかにも愧しいキマリの悪い事に違いなかった。彼は顔には現さなかったが、心の裡では、可《か》なり狼狽した。荘田《ショウダ》が、早く気を利かして、小切手帳をしまって呉《く》れればいい、呉《く》れるものは、早く呉《く》れて、早く蔵《しま》って呉《く》れればいいと、虫のいいことを、考えていたけれど、《:、》荘田《ショウダ》は妙《-みょう》に興奮してしまって、小切手帳のことなどは、念頭にもないようだった。マザマザと見えている壱万円也《壱万円ナリ》と云《言》う金額が、杉野や木下等《木下ら》の罪悪を、歴々《ありあり》と語っているように、子爵には心苦しかった。 「一体、私の倅は何《なん》だって、貴方をお尋ねするのです。前から御存《ご存》じなのですか。何《なん》の用事があるのでしょう。」杉野子爵は、堪らなくなって訊いた。 「いや、今に直《す》ぐ判ります。やっぱり、今度の私の結婚に就《就い》てです。が、媒介の手数料《コンミッション》を貰いに来るのでないことは、確《確か》ですよ。ハハハハハ。」  と、荘田《ショウダ》は腹を抱えるように哄笑した。その哄笑が終らない中《うち》に、彼の背後《後ろ》の扉《ドア》が、静かに開かれて、その男性的な顔を、蒼白《ソウハク》に緊張させている、杉野直也が姿を現した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  直也の姿を見ると、荘田《ショウダ》の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相《-ぎょうそう》が、傲岸な荘田《ショウダ》の心にも鋭い刃物に触れたような、気味悪《キミ悪》い感じを与えたのに違《違い》なかった。が、彼はさり気なく、鷹揚に、徹頭徹尾勝利者《徹頭徹尾’勝利者》であると云《言》う自信で云《言》った。 「いやあ! 貴君《貴方》でしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! 何《ど》うか此方《こっち》へお入り下さい! 丁度《ちょうど》、貴君《貴方》のお父様も来ていらっしゃいますから。」  外面丈《うわべだけ》は可《か》なり鄭重に、直也を引いた。直也は、その口を一文字に緊《引》きしめたまま、黙々として一言も発しなかった。彼は、父の方《ほう》をなるべく見ないように──《─:》それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔な基督教徒《キリスト教徒》が異教徒《/異教徒》と同席する時のような、憎悪と侮蔑とのために、なるべく父の方《ほう》を見ないように、《:、》荘田《ショウダ》の丁度向《ちょうど向か》い側に卓《テーブル》を隔てて相対した。 「何《ど》う云《言》う御用《ご用》か、知りませんが、よく入らっしゃいました。貴君《貴方》があんなに軽蔑なさった成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。ハハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、直也と面と向《向か》って立つと、直《す》ぐ挑戦の第一の弾丸を送った。  直也は、それに対して、何かを云《言》い返そうとした。が、彼は烈《激》しい怒りで、口の周囲《周り》の筋肉が、ピクピクと痙攣する丈《だけ》で、言葉は少しも、出て来なかった。 「何《ど》う云《言》う御用《ご用》です。承ろうじゃありませんか。何《ど》う云《言》う御用《ご用》です。」  荘田《ショウダ》はのしかかるように畳かけて訊いた。直也は、心の裡に沸騰する怒りを、何《ど》う現してよいか、分《分か》らないように、|暫ら《暫》くは両手を顫《震》わせながら、荘田《ショウダ》の顔を睨んで立っていたが、突如として口を切った。 「貴君《貴方》は、良心を持っていますか。」 「良心を!」と、荘田《ショウダ》は直《す》ぐ受けたが、問《問い》が余りに唐突であったため|暫ら《/暫》くは語《言葉》に窮した。 「そうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君《貴方》は良心を持っていますか。」  直也は、卓《テーブル》を叩かんばかりに、烈《激》しく迫った。 「アハハハハハ。良心!《/》 うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合わしているものだ。そして、それを金持《金持ち》に売り付けたがる。ハハハハ、私も度々買わされた覚えがある。が、私自身には生憎良心《あいにく良心》の持ち合せがない、ハハハハ。いつかも、貴君《貴方》に云《言》った通り、金《かね》さえあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡って行けますよ。良心は、羅針盤のようなものだ。ちっぽけな帆前や、たかが五百噸《五百トン》や千噸《千トン》の船には、羅針盤が必要だ。が、三万《3万》とか四万《4万》とか云《言》う大軍艦になると、羅針盤も何も入《要》りやしない、大手を振って大海が横行出来る。ハハハハ。俺《儂》なども、羅針盤の入《要》らない軍艦のようなものじャ。ハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、飽くまでも、自分の優越を信じているように、出来る丈直也《だけ直也》を、じらすように、ゆっくりと答えた。  それを聴くと、直也は堪らないように、わなわなと身体を顫《震》わせた。 「貴君《貴方》は、自分がやったことを恥だとは思わないのですか。卑劣な盗人でも恥じるような手段を廻らして、唐沢家《唐沢ケ》を迫害し、不倫な結婚を遂げようと云《言》うような、浅ましいやり方を、恥ずかしいとは思わないのですか。貴君《貴方》は、それを恥ずる丈《だけ》の良心を持っていないのですか。」  直也は、吃々とどもりながら、威丈高に罵った。が、荘田《ショウダ》はビクともしなかった。 「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動しているのですよ。何を恥じる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金《-かね》の力を、あざ嗤った。が、御覧《ご覧》なさい! 貴君《貴方》は、金《かね》の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪われてしまったではありませんか。貴君《貴方》こそ、自分の不明を恥じて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此《こ》の通り、ちゃんと前非を悔いている。御覧《ご覧》なさい! 此《こ》の手紙を!」  そう云《言》いながら、荘田《ショウダ》は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のような憤《憤り》と、恋人を奪われた墨のような恨《恨み》とで、狂ってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「御覧《ご覧》なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方《ほう》から、却って私の妻になりたいと望んでおられる。有力な男性的《/男性的》な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! こう書いてある。アハハハ。何《ど》うです! お嬢様にも、ちゃんと私の価値が判ったと見える。金《かね》の力が、どんなに偉大なものかが判ったと見える! アハハハ。」  荘田《ショウダ》は、得々とその大きい鼻を、うごめかしながら、言葉を切った。  直也は、湧き立つばかりの憤怒《フンヌ》と、嵐のような嫉妬に、自分を忘れてしまった。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田《ショウダ》と媒介人《媒介ニン》たる自分の父とに、面と向《向か》って、その不正と不倫とを罵り、《:、》少しでも残っている荘田《ショウダ》の良心を、呼び覚して、不当な暴虐《/暴虐》な計画を思い止《とど》まらせようと決心したのだが、実際に会って見ると、自分のそうした考えが、獣《ケダモノ》に道徳を教えるのと同じであることを知った。そればかりでなく、荘田《ショウダ》の逆襲的嘲弄に、直也自身まで、獣《ケダモノ》のように荒んでしまった。彼《彼’》の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来た拳銃《ピストル》にかかっていた。その拳銃《ピストル》は、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持って行って以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激昂《ゲッコウ》して家を出るとき、ふと此《こ》の拳銃《ピストル》の事が、頭に浮《浮か》んだ。荘田《ショウダ》の家へ、単身乗《単身’乗》り込んで行く以上、召使《召使い》や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。そうした場合の用意に持って来たのだが、然《しか》し今になって見ると、それが直也に、もっと血腥い決心の動機となっていた。  暴に|報ゆる《ムクユル》には暴を以《以っ》てせよ。相手が金《-かね》を背景として、暴を用いるなら、こちらは死を背景とした暴を用いてやれ。憤怒《フンヌ》と嫉妬とに狂った直也は、そう考えていた。そうした考えが浮《浮か》ぶと共に、直也の顔には、死そのもののような決死の相《ソウ》が浮《浮か》んでいた。 「貴君《貴方》の、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓いなさい! でなければ‥‥でなければ‥‥。」そう云《言》ったまま、直也の言葉も遉《さすが》に後が続かなかった。 「でなければ、何《ど》うすると云《言》うのです。アハハハハハハ。貴君《貴方》は、この荘田《ショウダ》を脅迫するのですな。こりゃ面白い! 中止しなければ、何《ど》うすると云《言》うのです。」  直也は、無我夢中だった。彼は、自分も父《/父》も母《/母》も恋人《/恋人》も、国の法律も、何もかも忘れてしまった。ただ眼前数尺《目の前スーシャク》の所にある、大きい赤ら顔を、何《ど》うにでも叩き潰したかった。 「中止しなければ‥‥こうするのです。」  そう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されていた。その手先には、白い光沢《ツヤ》のある金属が鈍《/鈍》い光を放っていた。 「何!《/》 何をするのだ。」と、荘田《ショウダ》が、悲鳴とも怒声《’怒声》とも付かぬ声を挙げて、扉《ドア》の方《ホウ》へタジタジと二三歩後《二’三歩後》ずさりした時だった。  直也の父は、狂気のように息子の右の腕に飛び付いた。 「直也!《/》 何をするのだ! 馬鹿な。」  その声は、泣くような叱《/叱》るような悲鳴に近い声だった。  父の手が子の右の手に触れた刹那だった。轟然たる響《響き》は、室内の人々の耳を劈いた。  その響きに応ずるように、荘田《ショウダ》も木下《/木下》も子爵《/子爵》も「アッ」と、叫んだ。それと同時に、どうと誰かが崩れるように倒れる音がした。帛《絹》を裂くような悲鳴が、それに続いて起《起こ》った。その悲鳴は、荘田《ショウダ》の口から洩るる《-る》ような、太いあさましい悲鳴とは違っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  父の手が直也の手に触れた丁度《ちょうど》その刹那に、発せられた弾丸《玉》は、皮肉にも二十貫に近い荘田《ショウダ》の巨躯を避けて、《:、》わずかに開かれた扉《ドア》の隙から、主客の烈《激》しい口論に、父の安否を気遣って、そっと室内をのぞき込んでいた荘田《ショウダ》の娘美奈子《娘/美奈子》の、かよわい肉体を貫ぬいたのであった。  荘田《ショウダ》は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危《危う》さをも忘れて飛び付くように、娘の身体に掩いかかった。  美奈子は、二三度起《二’三度起》き上ろうとするように、身体を悶えた後《あと》に、ぐったりと身体を、青い絨毯の上に横《横た》えた。絶え入《い》るような悲鳴が続いて、明石縮らしい単衣の肩の辺《辺り》に出来た赤黒い汚点《シミ》が、見る見る裡に胸一面に拡がって行くのだった。 「美奈子!《/》 気を確《確か》に持て! おい! 繃帯を持って来い! なければ白木綿《白’木綿》だ! 近藤さんを呼べ! そうだ! 自動車を迎えにやれ! いなかったら、誰でもいい外科《/外科》の博士を。そうだ! その前に、誰でもいいから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」  狼狽して、前後左右にただウロウロする、召使《召使い》の男女を荘田《ショウダ》は声を枯《枯ら》して叱咤した。彼はそう云《言》いながらも、右の掌で、娘の傷口を力一杯押《力’一杯’押さ》えているのだった。  直也は、自分の放った弾丸が、思いがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪われた人間のように、茫然として立っていた。色は土の如く蒼く、眼は死魚《死んだ魚》のそれのように光を失った。彼はまだ短銃《ピストル》を握ったまま、突っ立っていた。直也の父も、木下も、此《こ》の犯人の手から、短銃《ピストル》を奪い取ることさえ忘れていた。殊に、子爵の顔は子のそれよりも、血の気がなかった。彼は自分の罪が、ヒシヒシと胸《’胸》に徹《こた》えて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾な行為が、子の上に覿面に報いて来たことが、恐ろしかった。彼は子の短慮と暴行とを叱《-しっ》すべき言葉も、権威も持っていなかった。彼の身体を支えている足は、絶えずわなわなと顫《震》えた。  荘田《ショウダ》は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまうと、やっと小康を得たように、室内へ帰って来た。その巨《大》きい顔は殺気を帯びて物凄い相《ソウ》を示した。 「お蔭で傷は浅いです。可哀そうに、あれは大層親思《たいそう親思》いですから、あんな飛沫《トバシリ》を喰うのです。」  彼は、氷のような薄笑いを含んで、直也の顔をマジマジと見詰めながら云《言》った。赤手にして一千万円を超《-こ》ゆる暴富を、二三年《二’三年》の裡に、攫取《カクシュ》した面魂が躍如として、その顔に動いた。 「いや、私は暴に報いるに、暴を以ってしません。ただ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委《任》せる丈《だけ》です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息《ご子息》は直《す》ぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでいて下さい。おい警視庁《/警視庁》の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直《す》ぐ来て呉《く》れと。いいか。」  荘田《ショウダ》は、冷然として、鉄の如く堅く冷《/冷やや》かに、商品の註文をでもするような口調で、小間使《小間使い》に命じた。  小間使《小間使い》の方《ほう》が恐ろしい命令に、躊躇して、ウロウロしている時だった。仮の繃帯が了って、自分の部屋へ運ばれようとしていた美奈子が、父の烈《激》しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであろう。彼女は、ふり搾るような声を立てた。 「お父様!《/》 お願いでございます。何《ど》うぞ、内済にして下さいませ! 妾《わたくし》が、短銃《ピストル》で打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」  彼女は、哀願するように、力一杯《力’一杯》の声を出した。  荘田《ショウダ》は、娘からの思いがけない抗議に、狼狽えながら、尚《なお》も頑然として云《言》った。 「お前さんの知ったことじゃない。お前さんは、そんなことは、一切考えないで、気を落着《落ち着》けているのだ。いいか。いいか。」 「いいえ! いいえ! 妾《わたくし》を打ったために、あの方が牢へ行かれるようなことが、ございましたら、妾《わたくし》は生きては、おりません。お父様!《/》 どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」  美奈子は、息を切らしながら、とぎれとぎれに云《言》った。傲岸不屈な荘田《ショウダ》も、遉《さすが》に黙ってしまった。  直也の二つの眼には、あつい湯のような涙が、湧くように溢れていた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い情《’情け》に対する感激の涙だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第11話】 【心の武装】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  記憶のよい人々は、或《あるい》は覚えているかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃えて報道した唐沢男爵の愛嬢瑠璃子《愛嬢’瑠璃子》の結婚を。それは近年にない大評判《センセイショナル》な結婚であった。  此《こ》の結婚が、一世の人心を湧かし、姦《かまびす》しい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔《隔た》っていた為であった。二三《二’三》の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道人心《世道’人心》に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついその六七年前《ロクシチ年前》、時《とき》の宮内大臣田中伯《宮内大臣’田中伯》が、還暦を過ぎた老体を以《以っ》て、まだ二十《ハタチ》を過ぎたばかりの処女《乙女》──《─:》爵位と権勢に憧《アコガ》るる虚栄の女と、婚約をした為に一世の烈《激》しい指弾と抗議とを招いた事件だった。  無論、新郎の荘田勝平《ショウダカツヘイ》は、当時の田中伯よりも若かった。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かった。  新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を顰《-ひそ》めた。が、此《こ》の結婚が姦《かまびす》しい世評を産んだ原因は、ただ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかった。もう一つの原因は、成金、荘田勝平《ショウダカツヘイ》が、唐沢家の娘を金《-かね》で買ったと云《言》う噂だった。或新聞紙《ある新聞紙》は貴族院第一の硬骨を以《以っ》て、称せらるる唐沢男爵に、そうした卑しい事のあるべき筈はないと、打消《打ち消》した。他の新聞紙は宛《あたか》も事件の真相を伝える如くに云《言》った、曰く『荘田勝平《ショウダカツヘイ》は唐沢男《唐沢男爵》に私淑しているのだ。彼は数十万円《スウジュウ万円》を投じて唐沢家の財政上の窮状を救ったのだ。唐沢男《唐沢男爵》が、娘を与えたのは、その恩義に感じたからである。』と。他の新聞紙は、またこんな記事を載せた。結婚の動機は、唐沢瑠璃子の強い虚栄からである。彼女は学習院の女子部にいた頃から、同窓の人々の眉を顰《-ひそ》めさせるほど、虚栄心《虚栄心’》に富んだ女であった、と。そうした記事に伴って女子教育家や社会批評家の意見が紙面を賑わした。或者《ある者》は、成金の金《-かね》に委《任》せての横暴が、世の良風美俗を破ると云《言》って憤慨した。或者《ある者》は、米国の富豪の娘達《娘たち》が、欧洲の貴族と結婚して、富と爵位との交換を計るように、日本でも貧乏な華族と富豪が頻々として縁組を始めたことを指摘して、面白からぬ傾向である、華族の堕落であると結論した。  が、そうした轟々たる世論を外《よそ》に、荘田《ショウダ》は結婚の準備をした。春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかった彼は、晴《晴れ》の結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込《意気込み》であった。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に公然《大ぴら》に華美《/華美》に豪奢に、式を挙げようと決心していた。  彼は、あらゆる手段で、朝野《チョウヤ》の名流を、その披露の式場に蒐めようとした。彼は、あらゆる縁故を辿って、貴族顕官の列席を、頼み廻《回》った。  九月二十九日の夕であった。日比谷公園の樹の間に、薄紫のアーク燈《灯》が、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から、《:、》軽快な車台で夕暮《夕暮れ》の空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まって来た。最新輸入の新しい型《カタ》の自動車と交《交じ》っては、昔ゆかしい定紋の付いた箱馬車に、栗毛の駿足を並べて、優雅に上品に、軋《軋ら》せて来る堂上華族も見えた。遉《さすが》に広いホテルの玄関先も、後から後から蒐《集》まって来る馬車や自動車を、収め切れないでは《/は》み出された自動車や馬車は往来に沿うて一町《/一町》ばかりも並んでいた。  祝宴が始まる前の控場《控えじょう》の大広間には、余興の舞台が設けられていて、今しがた帝劇の嘉久子と浪子とが、二人道成寺を踊り始めたところだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新郎の勝平《カツヘイ》は、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立って、|次ぎ次ぎ《次々》に到着する人々を迎えていた。  彼は嘘から出た真と云《言》う言葉を心の裡で思い起《起こ》していた。本当に、彼の結婚は嘘から出た真であった。彼は、妙にこじれてしまった意地から、相手を苦しめる為に、申込《申し込》んだ結婚が、相手が思いの外《ほか》に、脆かった為、手軽に実現したことが少しくすぐったいようにも思った。それと同時に、名門のたった一人の令嬢をさえ、自分の金《-かね》の力で、到頭買《とうとう買》い得《え》たかと思うと、心の底からむらむらと湧く得意《/得意》の情を押えることが出来なかった。  が、結婚の式場に列《連な》るまで、彼は瑠璃子を高価《高値》で購《贖》った装飾品のようにしか思っていなかった。五万円に近い大金を投じて、落藉《ひか》した愛妓に対するほどの感情をも持っていなかった。『此《こ》のお嬢さん屹度《/きっと》むずがるに違いない。なに、むずかったって、高《タカ》の知れた子供だ。ふふん。』と云《言》ったような気持《気持ち》で神聖《/神聖》なるべき式場に列《連な》った。  が、雪のように白い白紋綸子の振袖の上に目《/目》も覚《-さ》むるような唐織錦の裲襠を被た瑠璃子の姿を見ると、彼は生れて初《始》めて感じたような気高さと美しさに、打たれてしまって、《:、》神官が朗々と唱え上げる祝詞の言葉なども耳に入らぬほど、じっと瑠璃子の姿に、魅せられていた。その輪廓の正しい顔は凄いほど澄みわたって、神々しいと云《言》ってもいいような美しさが、勝平《カツヘイ》の不純な心持ちをさえ、浄めるようだった。  式が、無事に終って、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに云《/言》い知れぬ嬉しさが、勝平《カツヘイ》の胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかった。が、日頃傲岸不遜《日頃’傲岸不遜》な、人を人とも思わない勝平《カツヘイ》であるにも拘わらず、話しかけようとする言葉が、一つ一つ咽喉にからんでしまって、《:、》小娘か何かのように、その四十男の巨《大》きい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢家《唐沢ケ》をあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体何《一体ど》う思っているだろうと、云《言》うことが一番心配《一番’心配》になり始めた。  式服を着換《着が》えて、今勝平《いま勝平》の横に立っている瑠璃子は、前よりもっと美しかった。御所解模様《ゴショドキ模様》を胸高《ムナダカ》に総縫《総縫い》にした黒縮緬の振袖が、そのスラリとした白皙の身体に、しっくりと似合っていた。勝平《カツヘイ》は、こうして若い美しい妻を得たことが、自分の生涯を彩る第一の幸福であるようにさえ思われた。今までは、彼の唯一《ただ一》つの誇《誇り》は、金力であった。が、今はそれよりも、もっと誇っていいものが、得られたようにさえ思った。  大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵や子爵が殊に多かった。大抵は、夫人を同伴していた。美人の妻を持っているので、有名な小早川伯爵が来たとき、勝平《カツヘイ》は同伴した伯爵夫人を、自分の新妻と比べて見た。伯爵夫妻が、会釈して去った時、勝平《カツヘイ》の顔には、得意な微笑が浮《浮か》んだ。虎の門第一の美人として、謳われたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴われて、その美しい姿を現わしたとき、勝平《カツヘイ》はまた思わず、自分の新妻と比べて見ずには《は-》いられなかった。無論、この令嬢も美しいことは美しかった。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るような澄んだ神々しさはなかった。 『やっぱり、育ちが育ちだから。』勝平《カツヘイ》は、口の中で、こんな風《ふう》に、新しい妻を讃美しながら、日本中《日本じゅう》で、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、平素《いつも》に似ない愛嬌を振り蒔いていた。  来客の足が、やや薄らいだ頃だった。此《こ》の結婚を纏めた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入って来た。 「|やあ《ヤア》! お目出度《めでと》うございます。お目出度《めでと》うございます!」  彼は勝平《カツヘイ》に、ペコペコと頭を下げてから、その傍《傍ら》の新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今迄《今まで》は凡《全》ての来客の祝賀を、神妙に受けていた瑠璃子は木下《/木下》の顔を見ると、その高島田に結った頭を、昂然と高く持したまま、一寸《1寸》は愚か一分《イチブ》も動かさなかった。勝手が違って、狼狽する木下に、一瞥も与えずに、彼女は怒れる女王の如き、冷然たる儀容を崩さなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  祝宴が開かれたのは、午後七時を廻《回》っていた時分だった。集合電燈《シャンデリア》の華やかな昼のような光の下《-した》に五百人《/五百人》を越す紳士とそ《/そ》の半分に近い婦人とが淑かに席に着いた。紳士は、大抵フロックコートか、五つ紋の紋付であったが、婦人達は今日を晴《晴れ》と銘々きらびやかな盛装を競っていた。  花嫁と云《言》ったような心持《心持ち》は、少しも持たず、戦場にでも出るような心で、身体には錦繍を纏っているものの、心には甲冑を装うている瑠璃子ではあったが、《:、》こうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒されると、必死な覚悟をしている彼女にも、恥しさが一杯だった。列席の人々は、結婚が非常な評判《センセイション》を起《起こ》した丈《だけ》、それ丈《だけ》、花嫁の顔を、ジロジロと見ているように、瑠璃子には思われた。金《かね》で操を左右されたものと思われているかも知れないことが、瑠璃子には──勝気な瑠璃子には、死に勝る恥のようにも思われた。が、彼女は全力を振《振る》って、そうした恥しさと戦った。人は何とも思え、自分は正しい勇《/勇》ましい道を辿っているのだと、彼女は心の中で、ともすれば撓みがちな勇気を振い起《起こ》した。  が、苦しんでいるものは、瑠璃子丈《瑠璃子だけ》ではなかった。新郎の勝平《カツヘイ》と、一尺も離れないで、黙々と席に就いている父の顔を見ると、瑠璃子は自分の苦しみなどは、父の十分の一にも足りないように思った。自分は、自分から進んで、こうした苦痛を買っているのだ。が、父は最愛の娘を敵に与えようとしている。縦令《たとい》、それが娘自身の発意《ハツ意》であるにしろ、男子として、殊に硬骨な父として、どんなに苦しい無念《/無念》なことであろうかと思った。  が、苦しんでいる者は、外《ほか》にもあった。それは今宵の月下氷人を勤めている杉野子爵だった。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知ってから、どれほど苦しんでいるか分《分か》らなかった。瑠璃子に対する荘田《ショウダ》の求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐であったことを知ってから、彼はその復讐の手先になっていた、自分のあさましさが、しみじみと感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考えると、彼は立っても坐っても、いられないような良心の苛責を受けた。  日比谷大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさえなし得なかった。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のように、悄然とその頭《コウベ》を垂れていた。  今宵の祝賀の的であるべき花嫁を初め、親や仲人が、銘々の苦しみに悶えているにも拘わらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだった。価高《アタイ高》い洋酒が、|次ぎ《次》から|次ぎ《次》へと抜かれた。料理人が、懸命の腕を振《振る》った珍しい料理が後から後から運ばれた。低くはあるが、華やかなさざめきが卓《テーブル》から卓《テーブル》へ流れた。  デザートコースになってから、貴族院議長のT公爵が立ち上《上が》った。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もっと荘重にして云《言》った。 「私は、茲《ここ》に御列席《ご列席》になった皆様を代表して、荘田唐沢両家《ショウダ唐沢両家》の万歳を祈り、新郎新婦の前途を祝したいと思います。何《ど》うか皆様新郎新婦《皆様/新郎新婦》の前途を祝《いお》うて御乾杯《ご乾杯》を願います。」  公爵は、そう云《言》いながら、そのなみなみと、つがれた三鞭酒《シャンペン酒》の盃を、自分と相対して立っている逓相の近藤男爵の盃に、カチリと触れさせた。  それと同時に、公爵の音頭で、荘田唐沢両家《ショウダ唐沢両家》の万歳が、一斉に三唱された。  丁度《ちょうど》その時であった。その祝辞を受《-う》くるべく立ち上ろうとした唐沢男爵の顔が、急に蒼《青》ざめたかと思うと、ヒョロヒョロとその長身の身体が後《後ろ》に二三歩《二’三歩》よろめいたまま、枯木の倒れるように、力なく床の上に崩れ落ちた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  唐沢男爵の突然な卒倒は、晴《晴れ》の盛宴を滅茶苦茶にしてしまった。遉《さすが》に、心の利いた給仕人は、手早く一室に担ぎ込んだが、列席の人々の動揺は、どうともすることが出来なかった。瑠璃子は、花嫁である身分も忘れて、父の傍《傍ら》に馳《駆》け付けたまま、晴着の振袖を気にしながら、懸命に介抱した。  給仕人が、必死になって最後のコーヒ《ヒー》を運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立って来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になっていた来客は、潮の引くように、一時に流れ出てしまって、煌々たる電燈《電灯》の光の流れている大広間《オオ広間》には、勝平《カツヘイ》を初めとし四五人《/シゴニン》の人々が寂しく取り残された丈《だけ》だった。  瑠璃子の父は、幸《幸い》に軽い脳貧血であった。呼びにやった医者が来ない前に、もう、常態に復していた。が、彼は黙々として自分を取り囲んでいる杉野や勝平《カツヘイ》には、一言も言葉をかけなかった。  父が、用意された自動車に、やっと恢復した身体を乗せて、今宵からは、最愛の娘と離れて、ただ一人住むべき家《’家》へ帰って行く後姿《後ろ姿》を見ると、《:、》鉄のように冷《冷た》くつぼんでいる瑠璃子の心も、底から掻き|廻わ《回》されるような痛みを感ぜずには《は-》いられなかった。  瑠璃子は、父の自動車に身体をピッタリと附《付》けながら、小声で云《言》った。 「お父様|暫ら《/暫》く御辛抱《ご辛抱》して下さいませ。直《じ》きにお父様の許へ帰って行きます。どうぞ、妾《わたくし》を信じて待っていて下さいませ。」  遉《さすが》に彼女の眼にも、湯のような涙が、ほたほたと溢れた。  父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯きながら、 「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵受《今宵’受》けた恥を忘れるな。」  父が低く然《しか》し、力強くこう呟いた時、自動車は軽く滑り出していた。  父を乗せた自動車が、出で去った後《あと》の車寄《車寄せ》に附《付》けられた自動車は、荘田《ショウダ》がつい此間《このあいだ》、伊太利《イタリー》から求めた華麗《/華麗》なフィヤット型の大自動車であった。新郎新婦を、その幾久しき合衾《ゴウキン》の床《トコ》に送るべき目出度《/めでた》き乗物《乗り物》だった。  瑠璃子は、夫──それに違いはなかった──に招かるるまま、相並んで腰を降《降ろ》した。が、その美しい唇は彫像のそれのように、堅く堅く結ばれていた。  勝平《カツヘイ》は、何《ど》うにかして、瑠璃子と言葉を交えたかった。彼は、瑠璃子の美しさがしみじみと、感ぜられれば感ぜられる丈《だけ》、ただ黙って、並んでいることが、愈苦痛《いよいよ苦痛》になり出した。  彼は、瑠璃子の顔色を窺《-うかが》いながら、|オズオズ《怖ず怖ず》口を開いた。 「大変沈んでおられるようじゃが、そう心配せいでもようござんすよ。俺《儂》だって貴女《貴方》が思っているほど、無情な人間じゃありません。貴女《貴方》のお父様を、苛めて済まんと思っているのです。罪滅ぼしに、出来る丈《だけ》のことはしようと思っているのです。貴女《貴方》も、俺《儂》を敵《カタキ》のように思わんでな。これも縁じゃからな。」  勝平《カツヘイ》は、誰に対しても、使ったことのないような、丁寧な訛のある言葉で、哀願するような口調でしみじみと話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかった。二人の間に重苦しい沈黙が|暫ら《暫》く続いた。 「実は恥を云《言》わねばならないのだが、今年の春、俺《儂》の家の園遊会で、貴女《貴方》を見てから、年甲斐もなく、ハハハハハ。それで、つい、心にもなく貴女《貴方》のお父様までも、苦しめて、どうも何とも済まないことをしました。」  勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の心を解こうとして心にもない嘘を云《言》いながら、大きく頭を下げて見せた。  その刹那に、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思うと、彼女の容子《様子》は、一瞬の裡に変《変わ》っていた。 「そんなに云《言》って下さると妾《/わたくし》の方《ほう》が却って痛み入りますわ。妾《わたくし》のような者を、それほどまでして、望んで下さったかと思うと、ホホホホホ。」  と、車内の薄暗《薄闇》の裡でもハッキリと判るほど、瑠璃子は勝平《カツヘイ》の方を向いて、嫣然と笑って見せた。勝平《カツヘイ》は、その一笑を投げられると、魂を奪われた人間のように、フラフラとしてしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、勝平《カツヘイ》は三鞭酒《シャンペン酒》の酔《酔い》が、だんだん廻《回》って来たその巨《大》きい顔の相好を、たわいもなく崩してしまいながら、 「ああ、そうでがすか。貴女《貴方》の心持《心持ち》はそうですか、それを知らんもんですから、心配したわい。」  彼は余りのうれしさに、生《生ま》れ故郷の訛りを、スッカリ丸出しにしながら、身体に似合わない優しい声を出した。 「貴女《貴方》が心の中から、私のところへ、欣《喜》んで来て下さる。こんな嬉しいことはない。貴女《貴方》のためなら俺《儂》の財産をみんな投げ出しても惜しみは《は-》せん。アハハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、恥しそうに顔を俯《ふ》している瑠璃子の、薄暗《薄闇》の中でも、くっきりと白い襟足を、貪るように見詰めながら、有頂天になって云《言》った。 「貴女《貴方》が来て下《くだ》されば、俺《儂》も今迄《今まで》の三倍も五倍もの精力で、働きますぞ。うんと金《-かね》を儲けて、貴女《貴方》の身体をダイヤモンドで埋《埋ず》めて上げますよ。アハハハハハハ。」  荘田《ショウダ》は、何《ど》うかして、瑠璃子の微笑と歓心とを贏《勝》ちえようと、懸命になって話しかけた。  十時を過ぎたお濠端の闇を、瑠璃子を乗せた自動車を先頭に、美奈子を乗せた自動車を中に、召使達《召使い達》の乗った自動車を最後に、三台の自動車は、瞬く裡に、日比谷から三宅坂へ、三宅坂から五番町へと殆ど三分《3分》もかからなかった。  瑠璃子が、夫に扶けられて、自動車から宏壮な車寄《車寄せ》に、降り立った時、遉《さすが》にその覚悟した胸が、烈《激》しくときめくのを感じた。単身敵《単身’敵》の本城へ乗り込んで行く、刺客のような緊張と不安とを感じた。勝平《カツヘイ》に扶けられている手が、かすかに顫《震》えるのを、彼女は必死に制しようとした。  瑠璃子が、勝平《カツヘイ》に従って、玄関へ上がろうとした時だった。其処《そこ》に出迎えている、多数の召使《召使い》の前に、ヌッとつッ立っている若者が、急に勝平《カツヘイ》に縋り付くようにして云《言》った。 「お父さん! お土産だい! お土産だい!」  勝平《カツヘイ》は、縋り付かれようとする手を、瑠璃子の手前、きまり悪そうに、払い退けながら、 「ああ分《分か》っている、分《分か》っている。後で、沢山やるからな。さあ! 此方《こちら》へおいで。お前の新しいお母様が出来たのだからな。挨拶をするのだよ。」  勝平《カツヘイ》は、その若者を拉しながら先に立った。若者は、振り向き振り向き瑠璃子の顔をジロジロと珍らしそうに見詰めていた。  勝平《カツヘイ》は|先き《先》に立って、自分の居間に通った。 「美奈子も、茲《ここ》へおいで。」  彼は、娘を呼び寄せてから、改めて瑠璃子に挨拶させた後《あと》、勝平《カツヘイ》はその見るからに傲岸な顔に、恥《恥ずか》しそうな表情を浮べながら、自分の息子を紹介した。 「これが俺《儂》の息子ですよ。御覧《ご覧》の通《とおり》の人間で、貴女《貴方》にさぞ、御面倒《ご面倒》をかけるだろうと思いますが、ゼヒ、面倒を見てやっていただきたいのです。少し足りない人間ですが、悪気はありませんよ。極く単純で、此方《こっち》の云《言》うことは可《か》なり聴くのです。おい勝彦!《/》 これが、お前のお母様だよ。さあさあ挨拶するのだ。」  勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロジロと見詰めていたが、父にそう促されると急《/急》に気が付いたように、 「お母様じゃないや。お母様は死んでしまったよ。お母様は、もっと汚い婆あだったよ。此人《この人》は綺麗だよ。此人《この人》は美奈ちゃんと同じように、綺麗だよ。お母様じゃないや、ねえそうだろう、美奈ちゃん。」彼は妹に同意を求めるように云《言》った。妹は顔を、火のように赤くしながら、兄を制するように云《言》った。 「お母様と申上《申し上》げるのでございますよ。お父様のお嫁になって下さるのでございますよ。」 「何んだ、お父様のお嫁!《/》 お父様は、ずるいや。俺《儂》に、お嫁を取って呉《く》れると云《言》っていながら、取って呉《く》れないんだもの。」  彼は、約束した菓子を貰えなかった子供のように、すねて見せた。  瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、勝平《カツヘイ》が中途から、世間体を憚って、自分を息子の嫁にと、云《言》い出したことを、思い出した。金《かね》で以《以っ》て、こんな白痴の妻──《─:》否弄《否/弄》び物に、自分をしようとしたのだと思うと、勝平《カツヘイ》に対する憎悪が又新《また新》しく心の中に蒸し返された。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝彦と美奈子とが、彼等自身の部屋へ去った頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚の床《トコ》に入るべき時刻は、刻々に迫っていた。  勝平《カツヘイ》は、先刻《さっき》から全力を尽くして、瑠璃子の歓心を買おうとしていた。彼は、急に思い出したように、 「おお《お/》そうそう、貴女《貴方》に、結婚進物《マリエイジプレゼント》として、差し上げるものがありましたっけ。」  そう云《言》いながら、彼は自分の背後に据え付けてある小形《小型》の金庫から、一束の証書を取り出した。 「貴女《貴方》のお父様に対する債権の証文は、みんな蒐めた筈です。さあ、これを今貴女《いま貴方》に進上しますよ。」  彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないように、無造作に、瑠璃子の前に押しやった。  瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、遉《さすが》にその白い頬《ホオ》に、興奮の色が動いた。彼女は、二三分《ニサンプン》の間、それを見るともなく見詰めていた。 「あのマ《/マ》ッチは、ございますまいか。」彼女は、突如《いきなり》そう訊いた。 「マッチ?」勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかった。 「あのマ《/マ》ッチでございますの。」 「ああマ《/マ》ッチ! マッチなら、幾何《いくら》でもありますよ。」彼は、そう云《言》いながら、身を反らして、其処《そこ》の炉棚《マンテルピース》の上から、マッチの小箱を取って、瑠璃子の前へ置いた。 「マッチで、何をするのです。」勝平《カツヘイ》は不安らしく訊ねた。  瑠璃子は、その問《問い》を無視したように、黙って椅子から立ち上《上が》ると、鉄盤で掩うてあるストーヴの前に先刻三度目《/さっき三度目》に着替えた江戸紫の金紗縮緬の袖を気にしながら、蹲《うずく》まった。 「貴君《貴方》、瓦斯《ガス》が出ますかしら。」彼女は、其処《そこ》で突然勝平《突然/カツヘイ》を、見上げながら、馴々しげな微笑を浴びせた。  初めて、貴君《貴方》と呼ばれた嬉しさに、勝平《カツヘイ》は又相好《また相好》を崩しながら、 「出るとも、出るとも。瓦斯《ガス》は止めてはない筈ですよ。」  勝平《カツヘイ》が、そう答え了らない裡に、瑠璃子の華奢な白い手の中に燐寸《マッチ》は燃えて、迸り始めた瓦斯《ガス》に、軽い爆音を立てて、移っていた。  瑠璃子は、その火影に白い顔をほてらせて、|暫ら《暫》く立っていたが、ふと身体を飜《ひるがえ》すと、卓《テーブル》の上にあった証書を、軽く無造作に、薪をでも投げるように、漸く燃え盛りかけた火の中に投じてしまった。  呆気に取られている勝平《カツヘイ》を、嫣然《にっこり》と振り向きながら、瑠璃子は云《言》った。 「水に流すと云《言》うことがございますね。妾達《わたくし達》は、此《こ》の証文を火で焼いたように、これまでのいろいろな感情の行き違いを、火に焼いてしまおうと思いますの‥‥ホホホホ、《:、》火に焼く! その方《ほう》がよろしゅうございますわ。」 「ああそうそう、火に焼く、そうだ、後《あと》へ何も残さないと云《言》うことだな。そりゃ結構だ。今までの事は、スッカリ無いものにして、お互《互い》に信頼し愛《/愛》し合って行く。貴女《貴方》が、その気でいて呉《く》れれば、こんな嬉しいことはない。」  そう云《言》いながら、勝平《カツヘイ》は瑠璃子に最初の接吻をでも与えようとするように、その眸を異常に、輝かしながら、彼女の傍《そば》へ近よ《寄》って来た。  そう云《言》う相手の気勢《気配》を見ると、瑠璃子は何気ないように、元の椅子に帰りながら、端然たる様子に帰ってしまった。  その時に、扉《ドア》が開いた。 「彼方《あちら》の御用意《ご用意》が出来ましたから。」  女中は、淑やかにそう云《言》った。  絶体絶命の時が迫って来たのだ。 「じゃ、瑠璃さん! 彼方《あちら》へ行きましょう。古風《/古風》に盃事をやるそうですから、ハハハハハハ。」  勝平《カツヘイ》が、卑しい肉に飢えた獣《ケダモノ》のように笑ったとき、遉《さすが》に瑠璃子の顔は蒼《青》ざめた。  が、彼女の態度は少しも乱れなかった。 「あの、一寸電話《ちょっと電話》をかけたいと思いますの。父のその後の容体が気になりますから。」  それは、此《こ》の場合突然《場合/突然》ではあるが、尤《もっと》もな希望だった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「電話なら、女中にかけさせるがいい。おい唐沢さんへ‥‥」《。」》  と、勝平《カツヘイ》が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。 「いいえ! 妾《わたくし》が自身で掛けたいと思いますの。」 「自身で、うむ、それなら、其処《そこ》に卓上電話がある。」  と、云《言》いながら、勝平《カツヘイ》は瑠璃子の背後《後ろ》を指し示した。  いかにも、今迄気《今まで気》が付かなかったが、其処《そこ》の小さい桃花心木《マホガニー》の卓《テーブル》の上に、卓上電話が置かれていた。  瑠璃子は、淑やかに椅子から、身を起《起こ》したとき、彼女の眉宇の間には、凄《凄ま》じい決心の色が、アリアリと浮《浮か》んでいた。 「あのう。番町の二八九一番!《/》」  瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くように言った。 「番町の二八九一番!《/》」  そう繰り返しながら、送話器を持っている瑠璃子の白い手は、かすかにかすかに顫《震》えていた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待っていた。やっと相手が出たようだった。 「ああ《あ/》唐沢ですか。妾瑠璃子《わたくし/瑠璃子》なのよ、貴女《貴方》は婆や。」  相手の言葉に聞き入るように、彼女は受話器にじっと、耳を押し付けた。 「そう。あなたの方から、電話を掛けるところだっ《-っ》たの。それは、丁度《ちょうど》よかったのね。それでお父様の御容体《ご容体》は。」  そういい捨てると、彼女は又《また》じっと聞き入った。 「そう!‥‥それで‥‥入沢さんが、入《い》らしったの!‥‥それで、なるほど‥‥」《。」》  彼女は、短い言葉で受け答《答え》をしながらも、その白い面《オモテ》は、だんだん深い憂慮に包まれて行った。 「えぃ! 重体!《/》 今夜中《今夜じゅう》が‥‥もっと、ハッキリと言って下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰って来てはいけないって! でもお医者は何と|仰しゃ《仰》るの? えぃ! 呼んだ方《ほう》がいいって! 妾《わたくし》! 何《ど》うしようかしら。ああああ。」  彼女は、もうスッカリ取り擾《乱》してしまったように、身を悶えた。 「何《ど》うしたのだ。何《ど》うしたのだ。」  勝平《カツヘイ》は、遉《さすが》に色を変えながら、瑠璃子の傍《そば》に、近づいた。 「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまったようでございますの。妾《わたくし/》こうしてはおられませんわ。ねえ! 一寸帰《ちょっと帰》って来ましてもようございましょう。お願いでございますわ。ねえ貴方!《/》」  瑠璃子は、涙に濡れた頬《ホオ》に、淋《寂》しい哀願の微笑を湛えた。 「ああ《あ/》いいとも、いいとも。お父様の大事には代えられない。直《す》ぐ自動車で行って、しっかり介抱して上げるのだ。」 「そう言って下さると、妾本当《わたくし/本当》に嬉しゅうございますわ。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は勝平《カツヘイ》に近づいて、肥った胸に、その美しい顔を埋《埋ず》めるような容子《様子》をした。勝平《カツヘイ》は、心の底から感激してしまった。 「ゆっくりと行っておいで、向《向こ》うへ行ったら、電話で容体を知らして呉《く》れるのだよ。」 「直《す》ぐお知らせしますわ。でも、此方《こちら》から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田《ショウダ》へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申しているそうでございますから。」 「うむよ《/よ》しよし。じゃ、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈《だけ》の手当《手当て》をして上げるのだよ。」  自動車の用意は、直《す》ぐ整った。 「容体がよろしかったら、今晩中に帰って参りますわ。悪かったら、明日になりましても御免《ごめん》あそばしませ。」  瑠璃子は、自動車の窓から、親しそうに勝平《カツヘイ》を見返った。 「もう遅いから、今宵は帰って来《-こ》なくってもいいよ。明日は、俺《儂》が容子《様子》を見に行って上げるから。」  勝平《カツヘイ》は、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切ってしまっていた。 「そう。それは有難うございますわ。」  彼女は、爽《爽や》かな声を残しながら、戸外の闇に滑り入った。が、自動車が英国大使館前の桜並樹《桜並木》の樹下闇《コノシタ闇》を縫うている時だった。彼女の面《オモテ》には、父の危篤を憂うるような表情は、痕も止《-とど》めていなかった。人を思う通《とおり》に、弄んだ妖女《ウィッチ》の顔に見るような、必死な薄笑いが、その高貴な面《オモテ》に宿っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第12話】 【護りの騎士】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考えていたように、生易しいことではなかった。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とを廻らさねばならなかった。  結婚後|暫ら《暫》くは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田《ショウダ》の家に帰って行かなかった。勝平《カツヘイ》は毎日のように、瑠璃子を訪れた。日に依っては、午前午後の二回に、此《こ》の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかった。  彼は訪問の度毎《たび毎》に、瑠璃子の歓心を買うために、高価な贈物《贈り物》を用意することを、忘れなかった。  それが、ある時は金剛石入《ダイヤ入》りの指輪だった。ある時は、白金《プラチナ》の腕時計だった。ある時は、真珠の頸飾《首飾り》だった。瑠璃子は、そうした贈物《贈り物》を、子供が玩具を貰うときのように、無邪気に何《/なん》の感謝なしに受取《受け取》った。  が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止《-とど》まることは、許されなかった。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかった。敵を避けていることが、勝気な彼女に心苦しかった。もっと、身体を危険に晒して勇ましく戦わなければならぬと思った。形式的にでも、結婚した以上、形《カタチ》の上丈《上だけ》では飽くまでも、妻らしくしなければならないと思った。敵の卑怯に報いるに卑怯を以《以っ》てしてはならない。此方《こちら》は、飽くまでも、正々堂々と戦って勝たねばならない。そう思いながら、彼女は勝平《カツヘイ》が迎えの自動車に同乗した。  久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、勝平《カツヘイ》は訳もなく笑い崩れながら、 「アハハハハハ。そんなに、実家《お里》を恋しがらなくてもいいよ。親一人子一人《親ひとり仔ひとり》のお父様に別れるのは淋《寂》しいだろう。が、何も心配することはないよ。俺《儂》を恐がらなくってもいいよ。俺《儂》だって、こんな顔をしているが、お前さんを取って喰おうと云《言》うのじゃないよ。娘!《/》 そうだ、美奈子に新しい姉が出来たと思って、可愛がって上げようと思うのだ。アハハハハハ。」と、勝平《カツヘイ》は何《ど》うかして、瑠璃子の警戒を解こうとして、心にもないことを云《言》った。  勝平《カツヘイ》の言葉を聴くと、今迄捗々《今まで捗々》しい返事もしなかった瑠璃子は、甦えったように、快活な調子で云《言》った。 「オホホホ、|ほんとう《本当》に、娘にして下さるの、妾《わたくし》のお父様になって下さるの! 妾本当《わたくし/本当》にそうお願いしたいのよ。|ほんとう《本当》のお父様になっていただきたいのよ。」  そう言いながら、彼女は《は-》こぼるるような嬌羞を、そのしなやかな身体一面《体’一面》に湛えた。 「ああ、いいとも、いいとも。」勝平《カツヘイ》は、人の好い本当の父親《テテオヤ》のように肯《頷》いて見せた。 「ホホホホ、それは嬉しゅうございますわ、本当に、妾《わたくし》を娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいいのよ。でも、そうじゃございませんか。妾《わたくし》、まだ年弱《トシヨワ》の十八でございましょう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございましょう、それに、いろいろな事件で、興奮して、まだその興奮が続いているのでございましょう。結婚生活に対する何《-なん》の準備も出来なかったのでございますもの。貴君《貴方》の本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思いますの。貴君《貴方》に対する愛情と信頼とを、もっと心の中で、準備したいと思いますの。だから、|暫ら《暫》くの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花と云《言》うのがございましょう。あれでございますの。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は嫣然《にっこり》と笑った。勝平《カツヘイ》は、妖術にでもかかったように、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めていた。瑠璃子は相手を人とも思わないように傍若無人だった。 「ねえ! お父様!《/》 妾《わたくし》の可愛いお父様!《/》 そうして下さいませ。」  そう云《言》いながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平《カツヘイ》にしなだれるように、寄せかけながら、その白い手を、勝平《カツヘイ》の膝の上に置いて静《静か》に軽く叩いた。  瑠璃子の処女《乙女》の如く慎しく娼婦《/娼婦》の如く大胆な媚態に、心を奪われてしまった勝平《カツヘイ》は、自分の答《答え》が何《ど》う云《言》うことを約束しているかも考えずに答えた。 「ああ《あ/》いいとも、いいとも。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》は心の裡で思った。どうせ籠の中に入れた鳥である。その中《うち》には、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡《全》ての女性は、何時の間にか、掴み潰されているのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいい。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だんだん分《分か》って来るだろう。  勝平《カツヘイ》はそうした余裕のある心持《心持ち》で、瑠璃子の請《請い》を容れた。  が、それが勝平《カツヘイ》の違算であったことが、直《す》ぐ判った。十日経ち二十日経《ハツカ経》つ裡に、瑠璃子の|美く《美》しさは勝平《カツヘイ》の心を、日《ヒ》に夜《ヨ》についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香《匂い》が勝平《/カツヘイ》の旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはいなかった。  その夜も、勝平《カツヘイ》は若い妻を、帝劇に伴った。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼《/眼》は舞台の方から、しばしば帰って来て、《:、》愛妻の白い美しい襟足から、そのほっそりとした撫肩を伝《-つと》うて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せているふくよかな、両膝を、貪るように見詰めていた。彼は、こうして妻と並んでいると、身も心も溶けてしまうような陶酔を感じた。そうした陶酔の醒《覚》め際に、彼の烈《激》しい情火が、ムラムラと彼の身体全体を、嵐のように包むのだった。  瑠璃子は、勝平《カツヘイ》のそうした悩みなどを、少しも気が付かないように、雲雀のように快活だった。彼女は、勝平《カツヘイ》との感情の経緯を、もうスッカリ忘れてしまったように、|ほんとう《本当》の娘にでも、なりきったように、勝平《カツヘイ》に甘えるように纏わっていた。 「おい瑠璃さん。もう、お父様ごっこも大抵にしてよそうじゃないか、貴女《貴方》も、少しは私が判っただろう。ハハハハハ。約束の半年を一月《ひと月》とか二月《フタツキ》とかに、縮めて貰えないものかねえ!」  勝平《カツヘイ》は、その夜自動車《夜/自動車》での帰途、冗談のように、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。 「まあ! 貴君《貴方》も、性急《せっかち》ですのねえ。妾達《わたくし達》には約婚時代《許嫁時代》というものが、なかったのですもの。もっと、こうして楽しみたいと思いますもの。何かが来ると云《言》うことの方《ほう》が、何かが来たと云《言》うことよりも、どんなに楽しいか。それに妾本当《わたくし/本当》はもっと処女でいたいのよ。ねえ、いいでしょう。妾《わたくし》の|わが儘《我儘》を、許して下さってもいいでしょう!」  そう云《言》う言葉と容子《様子》とには、溢れるような媚びがあった。そうした言葉を、聴いていると、勝平《カツヘイ》は、タジタジとなってしまって、一言でも逆うことは出来なかった。  が、その夜、勝平《カツヘイ》は自分一人寝室に入ってからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかった。眼の中には、彼女の柔《柔らか》い白い肉体が、人魚のように、艶めかしい媚態を作って、何時《いつ》までも何時《いつ》までも、浮《浮か》んでいた。鼻には、彼女の肉体の持っている芳香が、ほのぼのと何時《いつ》までも、漂っていた。耳には、そうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、何時《いつ》までも何時《いつ》までも消えなかった。  彼は、そうした妄想を去って、何《ど》うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまった。おしまいには、見上げて居る天井に、幾つも幾つも妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送った。 『彼女は、ただ恥かしがっているのだ。処女《乙女》としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方《こちら》から取り去ってやればそれでいいのだ!』  彼は、そう思い出すと、一刻も自分の寝台《ベッド》にじっと、身体を落ち着けていることが出来なかった。子供らしい処女《乙女》らしい恥らいを、その儘《まま》に受け入れていた自分が、あまりにお人好しのように思われ始めた。  彼は、フラフラとして、寝台《ベッド》を離れて、夜更けの廊下へ出た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  廊下へ出て見ると、家人達《カジン達》はみんな寝静まっていた。まだ十月《10月》の半《半ば》ではあったが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひやひやと、流れていた。が、烈《激》しい情火に狂っている勝平《カツヘイ》の身体には、夜の冷《-つめ》たさも感じられなかった。彼は、自分の家の中を、盗人《ヌスビト》のように、忍びやかに、夢遊病者のように覚束なく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。  彼女の部屋は、階下に在った。廊下の燈火は、大抵消《大抵’消》されていたが、階段に取り付けられている電燈《電灯》が、階上《階上’》にも階下にも、ほのかな光を送っていた。  勝平《カツヘイ》は、彼女に与えた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかった。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと云《言》う事より、外《ほか》には何もない。彼女の信頼を得るように、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一の方法だと勝平《カツヘイ》は心の中で思っていた。それだのに、彼女に一旦与えた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、そうした心苦しさも、勝平《カツヘイ》の身体全体に、今潮《いまウシオ》のように漲って来る烈《激》しい慾望を、何《ど》うすることも出来なかった。  階段を下《-お》りて、左へ行くと応接室があった。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与えた部屋があった。  瑠璃子の部屋に近づくに従って、勝平《カツヘイ》の心には烈《激》しい動揺があった。それは、年若い少年が初《/初》めて恋人の唇を知ろうとする刹那のような、烈《激》しい興奮だった。彼は、そうした興奮を抑えて、じっと瑠璃子の部屋へ忍び寄ろうとした。  丁度《ちょうど》、その時に、勝平《カツヘイ》は我《吾》を忘れて『アッ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼《今’彼》が近づこうとしたその扉《ドア》に、一人の人間が紛《/紛》れもない一人の男性が、ピッタリと身体を寄せていたからである。冷たい悪寒《-悪寒》が、勝平《カツヘイ》の身体を流れて、爪の先までをも顫《震》わせた。彼は、電気に掛けられたように廊下の真中《真ん中》へ立《’立》ち竦んでしまった。  が、相手は勝平《カツヘイ》の近づくのを知っている筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかった。扉《ドア》に彫《-ほ》り付けられている木像か何かのように、闇の中にじっと立ち尽しているようだった。 『盗賊《泥棒》!《/》』最初勝平《最初カツヘイ》は、そう叫ぼうかとさえ思ったが、彼の四十男に相当した冷静が彼《/彼》の口を制したが、その|次ぎ《次》に、ムラムラと彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬だった。一人の男性が、妻の寝室の扉《ドア》の前に立っている。それだけで、勝平《カツヘイ》の心を狂わすのに十分《充分》だった。  彼は、握りしめた拳を、顫わしながら、必死になって、一歩一歩扉《一歩一歩ドア》に近づいた。が、相手は気味《キミ》の悪いほど、冷静にピクリとも動かない。勝平《カツヘイ》が、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉を掴みながら、低く、 「誰だ!」と、叱した時、相手は勝平《カツヘイ》の顔を見て、ニヤリと笑った。それは紛れもなく勝彦だったのである。  自分の子の卑しい笑い顔を見たときに、剛愎な勝平《カツヘイ》も、ガンと鉄槌で殴られたように思った。言い現し方もないような不快な、あさましいと云《言》った感じが、彼《彼’》の胸の裡に一杯になった。自分の子があさましかった。が、あさましいのは、自分の子丈《子だ》けではなかった。もっと、あさましいのは、自分自身であったのだ。 「お前!《/》 何をしているのだ! 茲《ここ》で。」  勝平《カツヘイ》は、低くうめくように訊いた。が、それは勝彦に訊いているのではなく、自分自身に訊いているようにも思われた。  勝彦は、離れの日本間《日本マ》の方《ほう》で寝ている筈なのだ。が、それがもう夜の二時過《二時過ぎ》であるのに、瑠璃子の部屋の前に立っている。それは、勝平《カツヘイ》に取っては、堪《た》えられないほど、不快なあさましい想像の種だった。 「何をしているのだ! こんな処《ところ》で。こんなに遅く。」何時《いつ》もは、馬鹿な息子に対し可《/か》なり寛大である父であったが、今宵に限っては、彼は息子に対して可《か》なり烈《激》しい憎悪を感じたのである。 「何をしていたのだ! おい!」  勝平《カツヘイ》は、鋭い眼で勝彦を睨みながら、その肩の所を、グイと小突いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「茲《ここ》に何をしていたのだ、茲《ここ》に!」  父が、必死になって責め付けているのにも拘らず、勝彦はただニヤリニヤリと、たわいもなく笑い続けた。薄気味《薄キミ》のわるいとりとめもなき子の笑いが、丁度自分《ちょうど自分》の恥《恥ずか》しい行為を、嘲笑っているかのように、勝平《カツヘイ》には思われた。  彼は、瑠璃子やま《”ま》た、直《す》ぐ|次ぎ《次》の扉《ドア》の裡に眠っている美奈子の夢を破らないようにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなって行くのを抑えることが出来なかった。 「おい! こんなに遅く、茲《ここ》に何をしていたのだ。おい!」  そう云《言》いながら、勝平《カツヘイ》は再び子《/子》の肩を突いた。父にそう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤《赤ら》めて、口ごもりながら云《言》った。 「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をそう呼び慣《なら》っていた。 「姉さん! 姉さんの所へ!」  勝平《カツヘイ》は、そう云《言》いながらも、自分自身地《自分自身/地》の中へ、入ってしまいたいような、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、韮を噛むような嫉妬が、ホンの僅かではあるが、心の裡に萌して来るのを、何《ど》うすることも出来なかった。が、父のそうした心持《心持ち》を、嘲るように、勝彦は又《また》ニタリニタリと愚かな笑いを、笑いつづけている。 「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何《なん》の用があって来たのだ。こんなに夜遅く。」  勝平《カツヘイ》は、心の中の不愉快さを、じっと抑えながら、訊く所まで、訊き質さずには《は-》いられなかった。 「何も用はない。ただ顔を見たいのだ。」  勝彦は、平然とそ《/そ》れが普通な当然《/当然》な事ででもあるように云《言》った。 「顔を見たい!」  勝平《カツヘイ》は、そう口では云《言》ったものの、眼が眩《-くら》むように思った。他人は、誰も居合わさない場所ではあったが、自分の顔を、両手で掩い隠したいとさえ思った。  彼は、もう此《こ》の上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかった。が、今にして、息子のこうした心《’心》を、刈り取って置かないと、どんな恐ろしい事が起《起こ》るかも知れないと思った。彼は不快と恥しさとを制しながら云《言》った。 「おい! 勝彦こ《/こ》れから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」  そう云《言》いながら、勝平《カツヘイ》は、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして云《言》った。 「だって、お姉さまは、来てもかまわない!《/》 と云《言》ったよ。」勝平《カツヘイ》は、頭からガンと殴られたように思った。 「来てもかまわない! 何時《いつ》、そんな事を云《言》った? 何時《いつ》そんなことを云《言》った?」  勝平《カツヘイ》は、思わず平常《普段》の大声を出してしまった。 「何時《いつ》って、何時《いつ》でも云《言》っている。部屋の前になら、何時《いつ》まで立っていてもいいって、番兵になって呉《く》れるのならいいって!」 「じゃ、お前は今夜だけじゃないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」  そう云《言》いながらも、勝平《カツヘイ》は子に対して、可《か》なり激しい嫉妬を懐《-いだ》かずには《は-》いられなかった。  それと同時に、瑠璃子に対しても、恨《恨み》に似た烈《激》しい感情を持たずには《は-》いられなかった。 「そんな事を姉《’姉》さんが云《言》った! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」  彼は、息子を押し退けながら、その背後《後ろ》の扉《ドア》を、右の手で開けようとした。が、それは釘付けにでもされたように、ピタリとして、少しも動かなかった。彼は声を出して、叫ぼうとした。  その途端に、ガタリと扉《ドア》が開く音がした。が、開いたのはその扉《ドア》ではなくして、美奈子の寝室の扉《ドア》であった。  純白の寝衣《寝巻》を付けた少女はまろぶように、父の傍《そば》に走り寄った。 「お父様!《/》 何と云《言》うことでございます。何も云《言》わないで、お休みなさいませ。お願いでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」  美奈子の心からの叫びに、打たれたように、勝平《カツヘイ》は黙ってしまった。  勝彦は、相変らず、ニヤリニヤリと妹の顔を見て笑っていた。  丁度此《こ》の時、扉《ドア》の彼方《あなた》の寝台《ベッド》の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤を、聞くともなく耳にすると、《:、》其美《その美》しい顔に、凄い微笑を浮べると、雪のような羽蒲団《羽根ブトン》を又再《また再》び深々《ふかぶか》と、被った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  自分の寝室へ帰って来てからも、勝平《カツヘイ》は悶々として、眠られぬ一夜を過してしまった。恋する者の心が、競争者の出現に依って、焦り出すように、勝平《カツヘイ》の心も、今迄《今まで》の落着《落ち着き》、冷静、剛愎の凡《全》てを無くしてしまった。競争者、それが何と云《言》う堪らない競争者であろう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻《巡》って争っている。親が女の許へ忍ぶと子《/子》が先廻《先回》りしている。それは、勝平《カツヘイ》のような金《-かね》の外《ほか》には、物質の外《ほか》には、何物をも認めないような堕落《/堕落》した人格者に取っても堪らないほどあさましいことだった。  もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知っていれば、罵り|恥かし《辱》めて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤《もっと》も、勝平《カツヘイ》に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何《ど》うかは疑問であった。)が、勝彦は盲目的な本能と烈《/烈》しい慾望の外《ほか》は、何も持っていない男である。相手が父の妻であろうが、何であろうが、ただ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力《ゴウリキ》を持っている彼は、どんな乱暴をするかも分《分か》らなかった。  その上に、勝平《カツヘイ》は自分の失言に対する苦い記憶があった。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思ったとき、その事を冗談のように勝彦に、云《言》い聴かせたことがある。何事をも、直《す》ぐ忘れてしまう勝彦ではあったが、事柄が事柄であった丈《だけ》に、その愚《愚か》な頭の何処《どこ》かにこびり付かせているかも知れない。そう考えると、勝平《カツヘイ》の頭は、愈重苦《いよいよ重苦》しく濁ってしまった。 『そうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追いやろう。何とか賺して、東京を遠ざけよう。』勝平《カツヘイ》はわが子に対して、そうした隠謀をさえ考え始めていた。  興奮と煩悶とに労れた勝平《カツヘイ》の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後《あと》は、何時《いつ》しか朦朧としてしまって、寝苦しい眠りに落ちていた。  眼が覚めた時、それはもう九時を廻《回》っていた。朗かな十月《10月》の朝であった。青い紗の窓掛《カーテン》を透《透か》した明るい日の光が、室中《部屋中》に快い明るさを湛えた。  朝の爽《爽や》かな心持《心持ち》に、勝平《カツヘイ》は昨夜の不愉快な出来事を忘れていた。尨大《膨大》な身体を、寝台《ベッド》から、ムクムクと起すと、上草履を突っかけて、朝の快い空気に吸い付けられたように、縁側《ヴェランダ》に出た。彼は自分の宏大な、広々と延びている庭園を見ながら、両手を高く拡げて、快い欠伸をした。が、彼が拡げた両手を下《下ろ》した時だった。十間ばかり離れた若い楓の植込《植込み》の中を、泉水の方《ホウ》へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大《膨大》な立派な体格だった。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかった。勝彦の大きい身体の蔭から、時々《ときどき》ちらちら美しい色彩の着物が、見えた。勝平《カツヘイ》は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあったが、美奈子丈《美奈子だけ》には、やさしい大人しい兄だった。勝平《カツヘイ》は何時《いつ》もの通り兄妹の散歩であると思っていた。が、植込《植込み》の中の道が右に折れ、勝平《カツヘイ》の視線と一直線になったとき、その男女は相並んで、後姿《後ろ姿》を勝平《カツヘイ》に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だった。而《しか》も彼女の白い、遠目にも、くっきりと白い手は、勝彦の肩、そうだ、肩よりも少し低い所へ、そっと後《後ろ》から当てられているのだった。  それを見たとき、勝平《カツヘイ》は煮えたぎっている湯を、飲まされたような、凄じい気持《気持ち》になっていた。ニヤリニヤリと悦に入っているらしいわが子の顔が、アリアリと目に見えるように思った。彼は、縁側《ヴェランダ》から飛び降りて、わが子の顔を思《/思》うさま、殴り付けてやりたいような恐ろしい衝動を感じた。  が、それにも増して、瑠璃子の心持《心持ち》が、グッと胸に堪《-こた》えて来た。昨夜《夕べ》の騒ぎを知らぬ筈がない、親子の間の、浅ましい情景《シーン》を知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さえ、眼を覚《覚ま》しているのに、瑠璃子が知らない筈はない。知っていながら、昨夜《夕べ》の今日勝彦《今日’勝彦》をあんなに近づけている。  そう思うと、勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の敵意を感ぜずには《は-》いられなかった。そうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かったのだ。云《言》わば降伏した敵将の娘を、妻にしているようなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵《ゾウ》しているかも知れない。  が、そう警戒は《’は-》しながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかった。それと同時に、眼前《目の前》の情景《シーン》に対する嫉妬の心は少しも減じなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》が、縁側《ヴェランダ》の欄干に、釘付けにされながら、二人の後姿《後ろ姿》が全く見えなくなった若い楓の林を、じっと見詰めている時に、その林《’林》の向《向こ》うにある泉水の畔から、瑠璃子の華やかな笑いが手に取るように聞えて来た。  それは、雲雀の歌うように、自由な快活な笑いだった。結婚して以来、もう一月以上《ひと月’以上》の日が経つ内、勝平《カツヘイ》に対しては決して笑ったことのないような自由《/自由》な快活な笑い声であった。茲《ここ》からは見えない泉水のほとりで、縦令馬鹿《たとい馬鹿》ではあるにしろ年齢だけは若い、身体丈《身体だけ》は堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じている有様が、勝平《カツヘイ》の眼に、マザマザと映って来るのであった。  彼は苦々しげに、二人に向《向か》ってでも吐くように、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色を凝《-こ》めながら、階下へ降りて行った。  勝平《カツヘイ》は、抑え切れない不快な心持《心持ち》に、悩まされつつ、罪のない召使《召使い》を、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗ってしまうと、苦り切った顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰って来なかった。 「奥さんは何《ど》うしたのだ。奥さんは!」勝平《カツヘイ》は、オドオドしている十五六《十ゴロク》の小間使《小間使い》を、噛み付けるように叱り飛した。 「お庭でございます。」 「庭から、早く帰って来るように云《言》って来るのだ。俺《儂》が起きているじゃないか。」 「ハイ。」小さい小間使《小間使い》は、勝平《カツヘイ》の凄《凄ま》じい様子に、縮み上《上が》りながら、瑠璃子を呼びに出て行った。  瑠璃子が、入って来《-く》れば、此《こ》の押え切れない憤《憤り》を、彼女に対しても、洩そう。白痴の子を弄んでいるような、彼女の不謹慎を思い切り責めてやろう。勝平《カツヘイ》はそう決心しながら、瑠璃子が入って来るのを待っていた。  二三分《ニサンプン》も経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思うと、瑠璃子は少女のようにいそいそと快活に、馳《駆》け込んで来た。 「まあ! お早う! もう起きていらしったの。妾《わたくし/》ちっとも、知らなかったのよ。お寝坊の貴方の事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思っていたのよ。昨夜《夕べ/》あんなに遅く帰って来たのに、よくまあ早くお目覚《目覚め》になったこと。この花美《花’美》しいでしょう。一番大きくて、一番色の烈《激》しい花なのよ。妾《わたくし》これが大好き。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は右の手に折り持《も》っていた、真紅の大輪のダリヤを、食卓《テーブル》の上の一輪挿《一輪挿し》に投げ入れた。  勝平《カツヘイ》は、何《ど》うかして瑠璃子をたしなめようと思いながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向《向か》うと、彼は我にもあらず、凡《全》ての言葉が咽喉のところに、からんでしまうように思った。 「昨夜、よくお眠りになって? 妾芝居《わたくし/芝居》で疲れましたでしょう、今朝まで、グッスリと寝入ってしまいましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」  昨夜《昨ヤ》の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知っているのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、勝平《カツヘイ》に話しかけた。  勝平《カツヘイ》は、心の裡に、わだかまっている気持《気持ち》を、瑠璃子に向《向か》って、洩すべき緒《糸口》を見出《見い出》すのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと云《言》うのに、それを材料として、話を進めることも出来なかった。  彼は、瑠璃子には、一言も答えないで、そのいらいらしい気持《気持ち》を示すように、自棄に忙《-せわ》しく箸を動かしていた。  勝平《カツヘイ》の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めていないように、平然と、その美しい微笑を続けながら、 「妾《わたくし》、今日三越《今日’三越》へ行きたいと思いますの。連れて行って下さらない?」  彼女は、プリプリしている勝平《カツヘイ》に、尚小娘《なお小娘》か何かのように、甘えかかった。 「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」  勝平《カツヘイ》は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使った。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すように云《言》った。 「あら、そう。それでは、勝彦さんに一緒に行っていただくわ。‥‥いいでしょう。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、勝平《カツヘイ》の巨《大》きい顔は、益苦《ますます苦》り切ってしまった。  相手のそうした表情を少しも眼中に置かないように、瑠璃子は無邪気にしつこく云《言》った。 「勝彦さんに、連れて行っていただいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾一人《わたくし一人》だと買物《買い物》をするのに何だか定《決ま》りが付かなくって困りますのよ。表面丈《ウワベだけ》でもいいからい《/い》いとか何とか合槌を打って下さる方が欲しいのよ。」 「それなら、美奈子と一緒に行《い》らっしゃい。」  勝平《カツヘイ》は、怒った牡牛のようにプリプリしながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめることが出来なかった。 「美奈子さん。だって、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰って来ないのですもの。それから支度をしていては、遅くなってしまいますわ。」  瑠璃子は、大きい駄々っ子のような表情を見せながら、その癖顔丈《くせ顔だけ》は、微笑を絶たなかった。勝平《カツヘイ》は又黙《また黙》ってしまった。瑠璃子は追撃するように云《言》った。 「何《ど》うして勝彦さんに一緒に行っていただいては、いけませんの。」  勝平《カツヘイ》の顔色は、咄嗟に変《変わ》った。その顳顬の筋肉が、ピクピク動いたかと思うと、彼は顫《震》える手で箸を降《降ろ》しながら、それでも声丈《声だ》けは、平静な声を出そうと努めた《た-》らしかったが、変に上ずッてしまっていた。 「勝彦!《/》 勝彦勝彦と、貴女《貴方》はよく口にするが、貴女《貴方》は勝彦を一体何《一体なん》だと思っているのです。もう、一月以上此家《ひと月’以上この家》にいるのだから、気が付いたでしょう。親の身として、口にするさえ恥《恥ず》かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧《ご覧》の通東西《通り/東西》も弁じない白痴ですよ。ああ云《言》う者を三越に連れて行く。それは此《こ》の荘田《ショウダ》の恥、荘田一家《ショウダ一家》の恥を、世間へ広告して歩くようなものですよ。貴女《貴方》も、動機は兎も角、一旦此《一旦こ》の家の人となった以上、こう云《言》う馬鹿息子《-馬鹿息子》があると云《言》うことを、広告して下さらなくってもいいじゃありませんか。」  勝平《カツヘイ》は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまま、じっと聴いていた瑠璃子は、眉一つさえ動かさなかった。勝平《カツヘイ》の言葉が終《終わ》ると、彼女は駭《驚》いたように、眼を丸くしながら、 「まあ! あんなことを。そんな邪推していらっしゃるの。妾勝彦《わたくし/勝彦》さんを馬鹿だとか白痴だとか賤しめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、妾初《わたくし/初》めてお目にかかりましたのよ。それに妾《わたくし》の云《言》ったことなら、何でもして下さるのですもの。此間《このあいだ》、お家が広いので、夜寝室《夜’寝室》の中に、一人いると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩部屋《毎晩/部屋》の外で番をしてやろうと|仰しゃ《仰》るのですよ、《:、》妾冗談《わたくし/冗談》だとばかり、思っていますと、一昨夜二時過《”一昨夜’二時過》ぎに、廊下に人の気勢《気配》がするので、扉《ドア》を開けて見ますと、勝彦さんが立っていらっしゃるじゃありませんか。それが、丁度中世紀《ちょうどチュウ世紀》の騎士《ナイト》が、貴婦人を護る時のように、儼然として立っていらっしゃるのですもの。妾可笑《わたくし/可笑》しくもあれば、有難くも思ったわ。妾此《わたくしこ》の頃、智恵のある怜悧な方には、飽き飽きしていますの。また、その智恵を、人を苦しめたり陥れたりする事に使う人達に、飽き飽きしていますのよ。また、人が傷《傷つ》け合ったり陥れ合ったりする世間その物にも、愛想が尽きていますのよ。妾《わたくし》、勝彦さんのような、のんびりとした太古の心で、生きている方が、大好きになりましたのよ。貴方の前でございますが、何《ど》うして勝彦さんを捨てて、貴方を選んだかと思うと、後悔していますのよ。オホホホホホホ。」  爽《爽や》かな五月《サツキ》の流《流れ》が、蒼い野を走るように、瑠璃子は雄弁だった。黙って聴いていた勝平《カツヘイ》の顔は、怒《怒り》と嫉妬のために、黒ずんで見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第13話】 【余りに脆き】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》は、冗談かそれとも真面目かは分《分か》らないが、人を馬鹿にしているように、からかっているように、勝彦を賞める瑠璃子の言葉を聞いていると、思わずカッとなってしまって、《:、》手に持っている茶碗や箸を、彼女に擲《投げ》つけてやりたいような烈《/烈》しい嫉妬と怒《怒り》とを感じた。が、口先ではそんな厭がらせを云《言》いながらも、顔丈《顔だけ》は此《こ》の頃《ごろ》の秋の空のように、澄み渡《わた》った麗かな瑠璃子を見ていると、不思議に手が竦んで、茶碗を投げ付くることは愚か、一指を触《-ふ》るることさえも、為し得なかった。  が、勝平《カツヘイ》は心の中で思った。此《こ》の儘《まま》にして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなって行くに違いない。そして自分を苦しめるのに違いない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、何《ど》うしても二人を引き離して置く必要がある。勝平《カツヘイ》は、咄嗟にそう考えた。 「アハハハハハ。」彼は突然取《突然’取》って付けたように笑い出した。「まあいい! 貴女《貴方》がそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよかろう。貴女《貴方》のようなのは、天邪鬼と云《言》うのだ。アハハハハハ。」  勝平《カツヘイ》は、嫉妬と憤怒《フンヌ》とを心の底へと、押し込みながら、何気ないように笑った。 「何《ど》うも、有難う。やっと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかったように微笑《微笑’》した。  その時に、勝平《カツヘイ》は急に思い付いたように云《言》った。 「そうそう。貴女《貴方》に話すのを忘れていた。此間中頭《このあいだじゅう頭》が重いので、一昨日、近藤に診て貰うと、神経衰弱の気味《キミ》らしいと云《言》うのだ。海岸へ《へ’》でも行って、少し静養したら何《ど》うだと云《言》うのだがね、そう云《言》われると、俺《儂》も此《こ》の七月以来会社《七月以来/会社》の創立や何かで、毎日のように飛び廻《回》っていたものだからね、《:、》精力主義の俺《儂》も可《か》なりグダグダになっているのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思うが、まあ|暫ら《暫》く葉山へでも行って、一月《ひと月》ばかり遊んで来ようかと思うのだ。尤《もっと》も、彼処からじゃ、毎日東京に通《-かよ》っても訳はないからね。それに就いては、是非貴女《是非貴方》に一緒に行っていただきたいと思うのだがね。」勝平《カツヘイ》は、熱心に、退引ならないように瑠璃子に云《言》った。 「葉山へ!」と云《言》ったまま、遉《さすが》に彼女は二の句を云《言》い淀んだ。 「そうです! 葉山です。彼処に、林子爵が持っていた別荘を、此春譲《この春’譲》って貰ったのだが、此夏美奈子《この夏美奈子》が避暑に行った丈《だけ》で、俺《儂》はまだ二三度《二’三度》しか宿《泊ま》っていないのだ。秋の方《ほう》が、静《静か》でよいそうだから、ゆっくり滞在したいと思うのだが。」  勝平《カツヘイ》は、落着《落ち着》いた口調で言った。葉山へ行くことは、何の意味もないように云《言》った。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでいる勝平《カツヘイ》のよからぬ意思を、明《明ら》かに読み取ることが出来た。葉山で二人丈《二人だけ》になる。それが何《ど》う云《言》う結果になるかは瑠璃子には可《か》なりハッキリ分《分か》るように思った。が、彼女はそうした危機を、未然に避《-さ》くることを、潔しとしなかった。どんな危機に陥っても、自分自身を立派に守って見せる。彼女には、女ながらそうした烈《激》しい最初の意気が、ピクリとも揺《揺ら》いでいなかった。 「結構でございますわ、妾《わたくし》も、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」  彼女は、その清麗な面《オモテ》に、少しの曇も見せないで、爽《爽や》かに答えた。 「ああ《あ/》行って呉《く》れるのか。それは有難い。」  勝平《カツヘイ》は、心から嬉しそうにそう云《言》った。葉山へさえ、伴って行けば、当分勝彦《当分’勝彦》と引き離すことが出来る上に、其処《そこ》では召使《召使い》を除いた外《ほか》は、瑠璃子と二人切《二人き》りの生活である。殊に、鍵のかかり得るような西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまえば、高《たか》が一個の少女である。普通の処女《乙女》がどんなに嫌い抜いていても、結婚してしまえば、男の腕に縋り付くように、彼女も一旦その肉体を征服してしまえば、余りに脆き一個の女性であるかも知れない。勝平《カツヘイ》はそう思った。 「それなら丁度《ちょうど》ようございますわ。三越へ行って、彼方《あちら》で入用《入り用》な品物を揃えて参りますわ。」  彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないように、寧ろいそいそとしながら云《言》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  愛し合った夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈だけれども、瑠璃子の場合は、そうではなかった。勝平《カツヘイ》と二人限《二人きり》で、東京を離れることは、彼女に取っては死地に入ることであった。東京の邸《屋敷》では、人目が多い丈《だけ》に、勝平《カツヘイ》も一旦与えた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかったが、葉山では事情が違っていた。今迄《今まで》は敵と戦うのに、地の利を得ていた。小さいながらも、彼女の城廓があった。殊に盲目的に、彼女を護っている勝彦と云《言》う番兵もあった。が、葉山には、何もなかった。彼女は赤手にして、敵と渡り合わねばならなかった。勝敗は、天に委《任》せて、兎《と》に角《かく》に、最後の必死的な戦いを、戦わねばならなかった。  そうした不安な期待に、心を擾《乱》されながらも、彼女はいろいろと、別荘生活に必要な準備を整えた。彼女は、当座の着替《着替え》や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口《ひと振り》の短剣を入《-い》れることを忘れなかった。それが、夫と二人限《二人き》りの別荘生活に対する第一の準備だった。  父の男爵が、瑠璃子の烈《激》しい執拗《/執拗》な希望に、到頭動《とうとう動》かされて、不承々々《不承ブショウ》に結婚の承諾を与えて、最愛の娘を、憎み賤しんでいた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口《ひと振り》の短剣を手渡した。 「これは、お前のお母様が家へ来るときに持って来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀を離さずに、それで自分の操を守ったものだ。貴女《貴方》も普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のような結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴女《貴方》の現在の決心を、しっかりと守るようになさい。」  父の言葉は簡単だった。が、意味は深かった。彼女はその匕首《ア-イクチ》を身辺から離さないで、最後の最後の用意としていた。そうした最後の用意が、如何《いか》なる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛のように巨《大》きい勝平《カツヘイ》と相対していながら、彼女は一度だって、怯れたことはなかった。  瑠璃子が|暫ら《暫》く東京を離れると云《言》うことが分《分か》ると、一番に驚いたのは勝彦だった。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと云《言》って、父の大きいトランクを引っ張出《張り出》して来て、自分の着物や持物《持ち物》を滅茶苦茶に詰め込んだ。おしまいには、自分の使っている洗面器までも、詰め込んで召使達《召使い達》を笑わせた。彼は、瑠璃子に捨てて置かれないようにと、一瞬の間も瑠璃子を見失わないように後《あと》へ後へと付き纏った。  それを見ると、勝平《カツヘイ》は眉を顰めずには《は-》いられなかった。  出立の朝だった。自分が捨てて置かれると云《言》うことが分《分か》ると、勝彦は狂人のように暴れ出《だ》した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のようになってしまう彼だった。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も跣足《裸足》で馳《駆》け降りて来ながら、扉《ドア》を無理矢理に開けようとした。執事や書生が三四人《サンヨニン》で抱き止めようとしたが、馬鹿力の強い彼は、後《後ろ》から抱き付こうとする男を、二三人《二’三人》も其処《そこ》へ振り飛ばしながら、自動車に縋り付いて離れなかった。  白痴でありながらも、必死になっている顔色を見ると、瑠璃子は可《か》なり心を動かされた。主人に慕い纏わって来る動物に対するようないじらしさを、此《こ》の無智な勝彦に対して、懐《いだ》かずには《は-》いられなかった。 「あんなに行きたがっていらっしゃるのですもの。連れて行って上げてはいけないのですか。」  瑠璃子は夫を振返《振り返》りながら云《言》った。その微笑が、一寸皮肉《ちょっと皮肉》な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかった。 「馬鹿な!」  勝平《カツヘイ》は、苦り切って、一言《イチゴン》に斥けると、自動車の窓から顔を出しながら云《言》った。 「遠慮をすることはない。グングン引き離して彼方《あっち》へ連れて行け。暴れるようだったら、何時《いつ》かの部屋へ監禁してしまえ。当分の間、監視人《監視ニン》を付けて置くのだぞ、いいか。」  勝平《カツヘイ》は、叱り付けるように怒鳴ると、丁度勝彦《ちょうど勝彦》の身体が、多勢《大ぜい》の力で車体から引き離されたのを幸《幸い》に、運転手に発車の合図を与えた。  動き出した車の中で瑠璃子は一寸居《ちょっと居》ずまいを正しながら、背後《後ろ》に続いている勝彦のあさましい怒号に耳を掩わずには《は-》いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  葉山へ移ってから、二三日の間は、麗かな秋日和が続いた。東京では、とても見られないような薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うていた。海は毎日のように静かで波《/波》の立たない海面は、時々緩《ときどき緩》やかなうねりが滑かに起伏《起伏’》していた。海の色も、真夏に見るような濃藍の色を失って、それ丈親《だけ親》しみ易い軽い藍色に、はるばると続いていた。その端《果て》に、伊豆の連山が、淡くほのかに晴れ渡っているのだった。  十月《10月》も終《終い》に近い葉山の町は、洗われたように静かだった。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人《/人》の気勢《気配》がしなかった。  御用邸《ご用邸》に近い海岸にある荘田別荘《ショウダ別荘》は、裏門を出ると、もう其処《そこ》の白い砂地には、崩れた波の名残りが、白い泡沫《ホーマ-ツ》を立てているのだった。  勝平《カツヘイ》は、葉山からも毎日のように、東京へ通っていた。夫の留守の間、瑠璃子は何人《ナンピ-ト》にも煩わされない静寂の裡に、浸っていることが出来た。  瑠璃子はよく、一人海岸《ひとり/海岸》を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映っていた。遥に遥に悠々と拡がっている海や、その上を限《限り》なく広大に掩うている秋《/秋》の朗かな大空を見詰めていると、人間の世のあさましさが、しみじみと感ぜられて来た。自分自身が、復讐に狂奔して、心にもない偽りの結婚をしていることが、あさましい罪悪のように思われて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであった。  葉山へ移ってから、三四日《三’四日》の間、勝平《カツヘイ》は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであろう。人のよい好々爺になり切って、夕方東京《夕方/東京》から帰って来る時には、瑠璃子の心を欣《喜ば》すような品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかった。  葉山へ移ってから、丁度五日目《ちょうど五日目》の夕方だった。其日《その日》は、午過《昼過》ぎから空模様があやしくなって、海岸へ打ち寄せる波の音《’音》が、刻一刻凄じくなって来るのだった。  海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音《’音》が、何となく不安だった。別荘番の老爺《親父》は暗く澱んでいる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は時化かも知れないぞ。』と、幾度も幾度も口ずさんだ。  夕刻になるに従って、風は段々吹《だんだん吹》き募って来た。暗く暗く暮れて行く海の面《オモテ》に、白い大きい浪がしらが、後から後から走っていた。瑠璃子は硝子戸の裡から、不安な眉をひそめながら、海の上を見詰めていた。烈《激》しい風が砂を捲いて、パラパラと硝子戸に打ち突けて来た。 「ああ《あ/》早く雨戸を閉めておくれ。」  瑠璃子は、狼狽して、召使《召使い》に命じると、ピッタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限って、妙に薄暗く思われる電燈《電灯》の下に、小さく縮かまっていた。人間同士の争いでは、非常に強い瑠璃子も、こうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だった。海岸に立っている、地形の脆弱な家は、時々今《ときどき今》にも吹き飛ばされるのではないかと思われるほど、打ち揺《揺ら》いだ。海岸に砕けている波は、今にも此《こ》の家を呑みそうに轟々たる響《響き》を立てている。  瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時《いつ》もは、夫の帰るのを考えると、妙に身体が、引き緊ってムラムラとした悪感《悪寒》が、胸を衝いて起《起こ》るのであったが、今宵に限っては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平《カツヘイ》の鉄のような腕《カイナ》が何となく頼もしいように思えた。逗子の停車場《停車じょう-》から自動車で、危険な海岸伝いに帰って来ることが何となく危まれ出した。 「こう荒れていると、鐙摺のところなんか、危険じゃないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、そうした心配を口に出してしまった。  その途端に、吹き募った嵐は、可《か》なり宏壮な建物を打ち揺すった。鎖で地面へ繋がれている廂が、吹きちぎられるようにメリメリと音を立てた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「こんなに荒れると、本当に自動車はお危のうございますわ。一層《いっそ》こんな晩は、彼方《あちら》でお宿《泊ま》りになるとおよろしいのでございますが。」  女中も主人の身を案ずるようにそう云《言》った。が、瑠璃子は是非にも帰って貰いたいと思った。何時《いつ》もは、顔を見ている丈《だけ》でも、ともすればムカムカして来る勝平《カツヘイ》が、何となく頼もしく力強《/力強》いように感ぜられるのであった。  日が、トップリ暮れてしまった頃から、嵐は益吹《ますます吹》き募った。海は頻りに轟々と吼え狂った。波は岸を超え、常には干乾びた砂地を走って、別荘の土堤《土手》の根元まで押し寄せた。 「潮が満ちて来ると、もっと波がひどくなるかも知れねえぞ!」  海の模様を見るために出ていた、別荘番の老爺《親父》は、漆のように暗い戸外から帰って来ると、不安らしく呟いた。 「まさか、此間《このあいだ》のような大暴風雨《大嵐》にはなりますまいね。」  女中も、それに釣り込まれたように、オドオドしながら訊いた。皆の頭に、まだ一月《ひと月》にもならない十月一日の暴風雨《嵐》の記憶がマ《/マ》ザマザと残っていた。それは、東京の深川本所に大海嘯《大津波》を起《起こ》して、多くの人命を奪ったばかりでなく、湘南各地の別荘にも、可《か》なり|ヒドイ《酷い》惨害を蒙らせたのであった。 「まさか先度のような大暴風雨《大嵐》にはな《ナ》るまいかと思うが、時刻も風の方向《向き》もよく似ているでなあ!」  老爺《親父》は、心なしか瑠璃子達を脅すように、首を傾《-かし》げた。  夜に入ってから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリボツリと聞え出したかと思うと、それが忽ち盆を覆すような大雨となってしまった。天地を洗い流すような雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安《いっそう不安》に充たしめた。  恐ろしい風が、グラグラと家を吹き揺すったかと思う途端に、電燈《電灯》がふっと消えてしまった。こうした場合に、燈火《明かり》の消えるほど、心細いものはな《無》い。女中は闇の中から手探りにやっと、洋燈《ランプ》を探し当てて火を点じたが、|ほの暗《仄暗》い光は、一層瑠璃子《いっそう瑠璃子》の心を滅入らしてしまった。  暗い燈火《明かり》の下に蒐《集》まっている瑠璃子と女中達を、もっと脅かすように、風は空を狂い廻《回》り、波は断《頻り》なしに岸を噛んで殺到した。  風は少しも緩みを見せなかった。雨を交えてからは、有力な味方でもが加わったように、益々暴威《ますます暴威》を加えていた。風と雨と波とが、三方《サンポウ》から人間の作った自然の邪魔物を打ち砕こうとでもするように力を協せて、此建物《この建物》を強襲した。  ガラガラと、何処《どこ》かで物の砕け落ちる音がしたかと思うと、それに続いて海に面している廂が吹き飛ばされたと見え、ベリベリと云《言》う凄《凄ま》じい音が、家全体を震動した。今迄《今まで》は、それでも、慎しく態度の落着《落ち着き》を失っていなかった瑠璃子もつ《/つ》い度を失ったように立ち上《上が》った。 「何《ど》うしようかしら、今の裡に避難しなくてもいいのかしら。」  そう云《言》う彼女の顔には、恐怖の影がアリアリと動いていた。人間同士の交渉では、烈女のように、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かった。  女中達も、色を失っていた。女中は声を挙げて別荘番《/別荘番》の老爺《親父》を呼んだけれども、風雨の音《’音》に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかった。  ベリベリと云《言》う廂の飛ぶ音は、尚続《なお続》いた。その度に、家がグラグラと今《/今》にも吹き飛ばされそうに揺《揺ら》いだ。  丁度《ちょうど》、此《こ》の時であった。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥って、藁にでも縋り付きたいように思っている時だった。凄《凄ま》じい風雨の音《’音》にも紛れない、勇ましい自動車の警笛《サイレン》が、暗い闇を衝いてかすかにかすかに聞えて来た。 「ああ《あ/》お帰りになった!」瑠璃子は甦えったように、思わず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠っていることを否定することが出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  風雨《/風雨》の烈《激》しい音にも消されずに、警笛《サイレン》の響《響き》は忽ちに近づいた。門内の闇がパッと明るく照されて、その光の裡に雨《/雨》が銀糸を列《連》ねたように降っていた。  瑠璃子と女中達二人《女中たち二人》とは、その燦然と輝く自動車の頭光《ヘッドライト》に吸われたように、玄関へ馳《駆》け付けた。  微醺を帯びた勝平《カツヘイ》は、その赤い巨《大》きい顔に、暴風雨《嵐》などは、少しも心に止めていないような、悠然たる微笑を湛えながら、のっそりと車から降りた。 「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでしょうね。お道が。」  瑠璃子のそうした言葉は、平素《いつも》のように形式丈《形式だけ》のものではなく、それに相当した感情が、ピッタリと動いていた。 「なに、大したことはなかったよ。それよりもね、貴女《貴方》が蒼くなっているだろうと思ってね。此間《このあいだ》の大暴風雨《大嵐》で、みんなびくびくしている時だからね。いや、鎌倉まで一緒に乗り合わして来た友人にね、此《こ》の暴風雨《嵐》じゃ道が大変だから、鎌倉で宿《泊》まって行かないかと、云《言》われたけれどもね。やっぱり此方《こっち》が心配でね。是非葉山へ行くと云《言》ったら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰うと、それだから困るのだと、ハハハハハハ。」  凄じい風の音《’音》、烈《激》しい雨の音を、聞き流しながら、勝平《カツヘイ》は愉快に哄笑した。自然の脅威を跳ね返しているような勝平《カツヘイ》の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼《/頼》もしく思わずには《は-》いられなかった。男性の強さが、今始《今’始》めて感ぜられるように思った。 「妾何《わたくし”ど》うしようかと思いましたの。廂がベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」  瑠璃子は、まだ不安そうな眼付《眼付き》をしていた。 「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨《嵐》の時だって、土堤《土手》が少しばかり、崩された丈《だけ》なのだ。あんな大暴風雨《大嵐》が、二度も三度も続けて吹くものじゃない。」  勝平《カツヘイ》は、瑠璃子が後《後ろ》から、着せかけた褞袍に、くるまりながら、どっかりと腰を降ろした。  が、勝平《カツヘイ》のそうした言葉を、裏切るように、風は刻々吹き募って行った。可《か》なり、ピッタリと閉されている雨戸迄《雨戸まで》が、今にも吹き外されそうに、バタバタと鳴り響いた。 「さあ! お酒の用意をして下さらんか、こうした晩は、お酒でも飲んで、大《大い》に暴風雨《嵐》と戦わなければならん、ハハハハ。」  勝平《カツヘイ》は、暴風雨《嵐》の音《’音》に、怯えたように耳を聳《そばだ》てている瑠璃子にそう云《言》った。  酒盃《サカズキ》の用意は、整った。勝平《カツヘイ》は吹き荒ぶ暴風雨《嵐》の音《’音》に、耳を傾けながら、チビリチビリと盃を重ねていた。 「妾《わたくし》、本当に早く帰って下さればいいと思っていましたのよ。男手がないと何となく心細くってよ。」 「ハハハ、瑠璃子さんが、俺《儂》を心から待ったのは今宵が始めてだろうな、ハハハハハ。」  勝平《カツヘイ》は機嫌よく哄笑した。 「まあ! あんなことを、毎日心《毎日’心》からお待ちしているじゃありませんか。」  瑠璃子は、ついそうした心易い言葉を出すような心持ちになっていた。 「何《ど》うだか。分《分か》りゃしませんよ。老爺《親父》め、なるべく遅く帰って来《-く》ればいいのに。こう思っているのじゃありませんか。ハハハハハ。」  瑠璃子の今宵に限って、温かい態度に、勝平《カツヘイ》は心から悦に入っているのだった。 「それも、無理はありません。貴女《貴方》が内心俺《内心’儂》を嫌っているのも、全く無理はありません。当然です、当然です。俺《儂》も嫌がる貴女《貴方》を、何時《いつ》までも名ばかりの妻として、束縛していたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと云《言》うことが分《分か》っているのです。所がですね。初めは|ホン《-ほん》の意地から、結婚した貴女《貴方》が、一旦形式丈《一旦形式だけ》でも同棲して見ると、‥‥一旦貴女《一旦貴方》を傍《そば》に置いて見ると、死んでも貴女《貴方》を離したくないのです。いや、死んでも貴女《貴方》から離れたくないのです。」  余程酒が進んで来たと見え、勝平《カツヘイ》は管《クダ》を捲くようにそう云《言》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  風は益々吹《ますます吹》き荒れ雨《/雨》は益々降《ますます降》り募っていた。が、勝平《カツヘイ》は戸外のそうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子が酌《つ》いでやった酒を、チビリチビリと嘗めながら、熱心に言葉を継いだ。 「まあ、簡単に云《言》って見ると、|スッカリ《すっかり》心から貴女《貴方》に惚れてしまったのです! 俺《儂》は今年四十五ですが、此年《この年》まで、本当に女と云《言》うものに心を動かしたことはなかったのです。勝彦や美奈子の母などとも、ただ、在来《ありきたり》の結婚で、給金の入《要》らない高等な女中をでも、傭ったように考《-かんが》うて、接していたのです。金《かね》が出来るのに従って、金《かね》で自由になる女とも沢山接《たくさん接》して見ましたが、どの女もどの女も、ただ玩具か何かのように、弄んでいたのに過ぎないのです。俺《儂》は女などと云《言》うものは、酒や煙草などと同じに、我々男子《我々’男子》の事業の疲れを慰めるために存在している者に過ぎないとまで高を括っていたのです。所がです、俺《儂》のそうした考えは貴女《貴方》に会った瞬間に、見事に打ち破られていたのです。男子の為に作られた女でなくして、女自身のために作られた女、俺《儂》は貴女《貴方》に接していると、直《す》ぐそう云《言》う感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、俺《儂》は貴女《貴方》を、そう思っているのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いていた侮蔑や軽視は、貴女《貴方》に対してはだんだん無くなって行くのです。その反対に、一種《1種》の尊敬、まあそう云《言》った感じが、だんだん胸の中に萌して来たのです。結婚した当座は、何《なん》の此《こ》の小娘が、俺《儂》を嫌うなら嫌って見ろ! 今に、征服してやるから。と、こう思っていたのです。所が、今では貴女《貴方》の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思い出したのです。貴女《貴方》の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いいと思い始めたのです。何《ど》うです、瑠璃子さん! 俺《儂》の心が少しはお分《分か》りになりますか。」  勝平《カツヘイ》は、そう云《言》って言葉を切った。酔っては《は-》いたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリアリと動いていた。こうした心の告白をするために、故意《わざ》と酒盃《サカズキ》を重ねているようにさえ、瑠璃子に思われた。 「俺《儂》は、世の中に金《/かね》より貴いものはな《無》いと思っていました。俺《儂》は金《-かね》さえあれば、どんな事でも出来ると思っていました。実際貴女《実際’貴方》を妻にすることが、出来た時でさえ、金《かね》があればこそ、貴女《貴方》のような美しい名門の子女を、自分の思い通《どおり》にすることが出来るのだと思っていたのです。が、俺《儂》が貴女《貴方》を、金《かね》で買うことが出来たと想ったのは、俺《儂》の考違《考え違い》でした。金《かね》で俺《儂》の買い得《え》たのは、ただ妻と云《言》う名前丈《名前だけ》です。貴女《貴方》の身体をさえ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでいるのです。まして、貴女《貴方》の愛情の断片《切れ端》でも、俺《儂》の自由にはなっていないのです。俺《儂》は貴女《貴方》の俺《儂》に対する態度を見て、つくづく悟ったのです。俺《儂》の全財産を投げ出しても、貴女《貴方》の心の断片《切れ端》をも、買うことが出来ないと云《言》うことを、つくづく悟ったのです。が、そう思いながらも、俺《儂》は貴女《貴方》を思い切ることが出来ないのです。俺《儂》は金《-かね》で買い損ったものを、俺《儂》の真心で、買おうと思い立ったのです。いや、買うのではない、貴女《貴方》の前に跪いて、買うことの出来なかったものを哀願しようとさえ思っているのです。また、そうせずには《は-》いられないのです。先刻《さっき》も申しました通《通り》、もう一刻も貴女《貴方》なしには生きられなくなったのです。」  変に言葉までが改まった勝平《カツヘイ》は、恋人の前に跪いている若い青年か、何かのように、激《ゲキ》していた。彼の巨《大》きい真赤《真っ赤》な顔は、何処《どこ》にも偽りの影がないように、真面目に緊張していた。彼は大きい眼を刮《む》きながら、瑠璃子の顔を、じっと見詰めていた。敵意のある凝視なら、睨み返し得る瑠璃子であったが、そうした火のような熱心の凝視には却《/却》って堪えかねたのであろう、彼女は、眩しいものを避《-さ》けるように、じっと顔を俯けた。 「何《ど》うです! 瑠璃子さん! 俺《儂》の心を、少しは了解して下さいますか。」  勝平《カツヘイ》の声は、瑠璃子の心臓を衝くような力が籠っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  酒の力を借りながら、その本心を告白しているらしい勝平《カツヘイ》の言葉を、聴いていると、今までは獣的《ブルータル》な、俗悪な男、《:、》精神的には救われるところのない男だと思い捨てていた勝平《カツヘイ》にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずには《は-》いられなかった。  あれ丈《だけ》、傲岸で黄金の万能を、主張していた男が、金《かね》で買えない物が、世の中に儼《ゲン》として存在していることを、潔く認めている。金《かね》では、人の心の愛情の断片《欠片》をさえ、買い得《え》ないことを告白している。彼は、今自分《いま自分》の非を悟って、瑠璃子の前に平伏《平伏’》して彼女《/彼女》の愛を哀願している。敵は脆くも、降《くだ》ったのだ。そうだ! 敵は余りにも、脆くも降《くだ》ったのだ、瑠璃子は心の裡で思わず、そう叫ばずには《は-》いられなかった。 「瑠璃子さん! 俺《儂》はお願いするのだ。俺《儂》は、俺《儂》の前非を悔いて貴女《貴方》に、お願いするのじゃ。貴女《貴方》は、心から俺《儂》の妻になって下さることは出来んでしょうか。これまでの偽りの結婚を、俺《儂》の真心で浄めることは出来んでしょうか。俺《儂》は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいい。俺《儂》の財産を、みんな投げ出してもいい。いや俺《儂》の身体も生命《命》もみんな投げ出してもいい。俺《儂》は、貴女《貴方》から、夫として信頼され愛《/愛》されさえすれば、どんな犠牲を払ってもいいと思っているのです。俺《儂》は、先刻自動車《さっき自動車》から降りて、貴女《貴方》と顔を見合せた時、俺《儂》は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日丈《今日だけ》は、貴女《貴方》が心から俺《儂》を迎えて呉《く》れている。貴女《貴方》の笑顔が心からの笑顔だと思うと、俺《儂》は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着《落ち着》いて考えて見ると、貴女《貴方》が俺《儂》を喜んで迎えて呉《く》れたのも、夫としてではない、ただこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでいるのだと思うと、又急《また急》に情《情け》なくなるのです。俺《儂》が貴女《貴方》を、賤しい手段で、妻にしたと云《言》う罪を、俺《儂》の貴女《貴方》に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」  勝平《カツヘイ》は、酒のために、気が狂ったのではないかと思われるほどに激昂《ゲッコウ》していた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたように何時《/何時》の間にか知らず知らず、それに動かされていた。 「瑠璃子さん、貴女《貴方》も今までの事は、心から水に流して、俺《儂》の本当の妻になって下さい。貴女《貴方》が心ならずも、俺《儂》の妻になったことは、不幸には違いない。が、一旦妻《一旦’妻》になった以上、貴女《貴方》が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、そうは思っていないのです。社会的に云《言》えば、貴女《貴方》は飽くまでも、荘田勝平《ショウダカツヘイ》の妻です。貴女《貴方》も、こうした羽目に陥ったことを、不幸だと諦めて、心から俺《儂》の妻になって下さらんでしょうか。」  勝平《カツヘイ》の眼は、熱のあるように輝いていた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラフラと動かされて、思わず感激の言葉を口走ろうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やっとそれを制した。 『相手が余りに脆いのではない! お前の方《ほう》が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈《激》しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒そうと云《言》う強い決心を忘れたのか。勝平《カツヘイ》の口先丈《口先だけ》の懺悔に動かされて、余りに脆くお前の決心を捨ててしまうのか。お前は勝平《カツヘイ》の態度を疑わないのか。彼は、お前に降伏したような様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしているのだ。兜を脱いだような風《ふう》を装いながら、お前に飛び付こうとしているのだ。お前が、勝平《カツヘイ》の告白に感激して、お前の手を与えて御覧《ご覧》!《/》 彼は、その手を戴くような風《ふう》をしながら、何時の間にかお前を蹂《踏》み躙ってしまうのだ。お前は敵の暴力と戦うばかりでなく、敵の甘言とも戦わなければならぬ。敵は、お前の誇《プライド》に媚びながら、逆にお前を征服しようとしているのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』  瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらそう叫んだ。彼女は、ハッと眼が覚めたように、居ずまいを正しながら云《言》った。 「あら、あんな事を|仰しゃ《仰》って? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」  そう云《言》いながら、彼女は冷たい、然《しか》しながら、美しい笑顔を見せた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第14話】 【嵐を衝いて】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の言葉だけは、打ち解けていても、笑顔は氷のように冷たいのを見ると、絶望したように云《言》った。 「ああ貴女《/貴方》は、何《ど》うしても俺《儂》を理解して下さらぬのじゃ。俺《儂》の最初の罪を何《ど》うしても許して下さらぬのじゃ。貴女《貴方》は、俺《儂》と勝彦とを、操って俺《儂》に、畜生道の苦しみを見せようとしているのじゃ。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴女《貴方》が、何時《いつ》までも俺《儂》を敵《カタキ》と見るのなら、俺《儂》も、俺《儂》も敵《カタキ》になっていてもいい。俺《儂》が貴女《貴方》の前に、跪いてこれほどお願《願い》しているのに、貴女《貴方》は俺《儂》の真心を受け容れて下さらんのじゃから。」  もう先刻《さっき》から、一升以上も飲み乾している勝平《カツヘイ》は、濁った眸を見据えながら、威丈高に瑠璃子にのしかかるような態度を見せた。相手が下手《-したで》から出ると、ついホロリとしてしまう瑠璃子であったが相手《/相手》が正面からかかって呉《く》れれば、一足だって踏み退く彼女ではなかった。  相手の態度が急変すると、瑠璃子は先刻《さっき》の勝平《カツヘイ》の神妙な態度は、ただ自分を説き落すための、偽りの手段であったことが、ハッキリしたように思った。 「あら、あんな事を|仰しゃ《仰》って、貴君《貴方》の真心は、初《初め》から分《分か》っているじゃありませんか。」  瑠璃子は、相手の脅《脅し》を軽く受け流すように、嫣然《にっこり》と笑った。 「ああ、貴女《貴方》のその笑顔じゃ。それは俺《儂》を悩ますと同時に、嘲けり恥《/恥》しめ罵《/罵》しっているのじゃ。ああ《あ/》俺は貴女《貴方》のその笑顔に堪えない。俺《儂》は貴女《貴方》のその笑顔を、初《初め》はど《-ど》んなに楽しんでいたか分《分か》らないが、だんだん見ていると、貴女《貴方》のその美しい笑顔の皮一つ下には、俺《儂》に対する憎悪と嘲笑とが、一杯に充ちているのだ。貴女《貴方》の笑顔ほど皮肉なものはな《無》い。貴女《貴方》の笑顔ほど、俺《儂》の心を突き刺すものはな《無》い。貴女《貴方》は、その笑顔で俺《儂》を悩まし殺《/殺》そうとしているのだ。いや、俺《儂》ばかりじゃない! あの馬鹿の勝彦をまで悩ましておるのじゃ。」  勝平《カツヘイ》の態度には、愈々乱酔《いよいよ乱酔》の萌《兆し》が見えていた。彼《彼’》の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのように瑠璃子をジロジロと見詰めていた。  風も雨も、海岸の此一角《この一角》に、その全力を蒐めたかのように、益々吹《ますます吹》き荒《すさ》び降《/降》り増《まさ》った。が瑠璃子は人と人との必死の戦いのために、そうした暴風雨《嵐》の音をも、聞き流すことが出来た。 「疑心暗鬼と云《言》うことがございますね。貴君《貴方》のは、それですよ。妾《わたし》を疑ってかかるから、妾《わたし》の笑顔迄《笑顔まで》が、夜叉の面《オモテ》か何かのように見えるのでございますよ。」  そう云《言》いながらも、瑠璃子はそ《/そ》の美しい冷たい笑いを絶たなかった。勝平《カツヘイ》は、その巨《大》きい身体をのたうつようにして云《言》った。 「貴女《貴方》は、俺《儂》を飽くまでも、馬鹿にしておられるのじゃ。貴女《貴方》は人間としての俺《儂》を信用しておられんのじゃ。貴女《貴方》は、俺《儂》の人格を信じておられないのじゃ。俺《儂》に人間らしい心《’心》のあることを信じておられないのじゃ。よし、貴女《貴方》が俺《儂》を人間として扱って下さらないなら、俺《儂》は獣《ケダモノ》として、貴女《貴方》に向《向か》って行くのじゃ。俺《儂》は獣《ケダモノ》のように、貴女《貴方》に迫って行くのじゃ。」  勝平《カツヘイ》の眸は|燃ゆる《モユル》ように輝やいた。 「そうだ! 俺《儂》は獣《ケダモノ》として貴女《貴方》に迫って行く外《ほか》はない!」  そう云《言》ったかと思うと、勝平《カツヘイ》は羆が人間を襲う時のように、のッと立ち上《上が》った。  瑠璃子も弾かれたように、立ち上《上が》った。  立ち上《上が》った勝平《カツヘイ》は、フラフラと蹌《よろ》めいてや《/や》っと踏み堪えた。彼はその凄《凄ま》じい眸を、真中《真ん中》に据えながら、瑠璃子の方《ホウ》へジリジリと迫って来た。  かよわい瑠璃子の顔は、真蒼《真っ青》だった。身体はかすかに顫《震》えていたけれども、怯《悪》びれた所は少しもなかった。その美しい眉宇は、|きっ《キッ》と、緊《引》きしまって、許すまじき色が、アリアリと動いた。  丁度《ちょうど》、その時だった。風に煽られた大雨が一頻り沛然《/沛然》として降り注いで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  荒《あ》るるままに、夜は十二時に近かった。  台所にいる筈の女中達は、眠りこけてでもいるのだろう、話声一《話し声ひと》つ聞えて来なかった。ただ吹き暴《あ》るる大風雨《/ダイ風雨》の裡に勝平《カツヘイ》と瑠璃子と丈《だけ》が、取り残されたように、睨みながら、相対していた。  空に風と雨とが、戦っているように、地に彼等は戦っているのだった。瑠璃子は戦うべき力もなかった。武器も持ってはいなかった。ただ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平《カツヘイ》の獣的な攻撃を躊躇させていた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかった。勝平《カツヘイ》の眼が、段々狂暴《だんだん’狂暴》な色を帯びると共に、彼は勢猛《勢いモウ》に瑠璃子に迫って来た。彼女は、相手の激しい勢《勢い》に圧されるようにジ《/ジ》リジリと後退りをせずには《は-》いられなかった。  勝平《カツヘイ》の今少《今’少》し前の懺悔や告白が、こうした態度に出るまでの径路であった──《─:》一旦下手《一旦シタテ》から説いて見て、それで行かなければ腕力に訴える──かと思うと、勝平《カツヘイ》に対して、懐いていた一時の好感は、煙のようになくなって、ただ苦い苦い憎悪の滓丈《滓だけ》が、残っていた。指一《指ひと》つ触れさせてなるものか、そうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のように堅くしていた。  が、彼女の精神的な強さも、勝平《カツヘイ》の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかった。何時の間にか追い詰められたように、部屋の一方に、海に面した硝子戸の方《ホウ》へ、逃《のが》るる《-る》道のない硝子戸の方《ホウ》へ、瑠璃子は圧し付けられている自分を見出《見い出》した。  其処《そこ》で、追い詰められた牝鹿と獅子とのように、二人は|暫ら《暫》くは相対していた。  暴風雨《嵐》は、少しも勢いを減じていなかった。岸を噛んで殺到する波濤の響《響き》が、前よりも、もっと恐ろしく聞えて来た。が、相争っている二人の耳には、波の音《’音》も風の音《’音》も聞えては来なかった。 「何をなさるのです。貴君《貴方》は?」  勝平《カツヘイ》が、その堅肥《固太》りの巨《大き》い手を差し出そうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。 「何をしようと、俺《儂》の勝手だ。夫が妻を、生《生か》そうが殺そうが。」  勝平《カツヘイ》は、そう云《言》いながら、再び猿臂を延《延ば》して、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴もうとしたが、軽捷な彼女に、ひらりと身体を避《-よ》けられ《れ-》ると、酒に酔った足元は、ふらふらと二三歩蹌《二三歩よろ》めいて、のめりそうになった。 「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振うなんて。」  彼女は、汚れた者を叱するように、吐き捨てるように云《言》った。彼女の声は、遉《さすが》にわなわなと顫《震》えていた。 「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、俺《儂》はもう獣《ケダモノ》になり切っているのじゃ。」  勝平《カツヘイ》は、そう云《言》ったかと思うと前《/前》よりももっと烈《激》しい勢《勢い》で瑠璃子に迫った。こうしたあさましい人間の争いを、讃美するかのように、風は空中に凄《凄ま》じい歓声を挙げ続けている。  瑠璃子は、ふとその時護《とき護》り刀のことを思い出した。こうした非常な場合には、それを抜き放って自分を護る外《ほか》はない。が、そう思い付いたものの、それはトランクの底深く、蔵《しま》ってあるので、急場の今は、何の援けにもならなかった。  彼女は、最後の手段として、声を振り搾《しぼ》って女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音《’音》に消されてしまって、台所の方《ほう》からは、物音も聞えて来なかった。  瑠璃子が、愈窮《いよいよ窮》したのを見ると、勝平《カツヘイ》は愈威丈高《いよいよ威丈高》になった。彼は、獣《ケダモノ》そのままの形相《-ぎょうそう》を現していた。|ほの暗《仄暗》い洋燈《ランプ》の光で、眼が物凄く光った。 「|あれ《アレ》!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平《カツヘイ》の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グッと握り占めていた。 「何をするのです。お放しなさい!」  彼女は必死になって、振りほどこうとした。が、強い把握は、容易に解けそうもなかった。 「何を! 何をするのです!」  瑠璃子は、死者狂《死に者狂》いになって突き放した。が、突き放された勝平《カツヘイ》は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかかった。  その時だった。瑠璃子の背後《後ろ》の雨戸と硝子戸とが、バタバタと音を立てて外れると、恐ろしい一陣の風が、サッと室《部屋》の中へ《へ’》吹き込んだ。  洋燈《ランプ》は忽ちに消えてしまった。が、灯《明かり》の消える刹那だった。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子《/今’瑠璃子》に飛びかかろうとする勝平《カツヘイ》に、横合《横合い》からどうと組み付くのが、灯《明かり》の消《-き》ゆるたゆたいの瞬間に瞥見された。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  硝子戸の外れるのと共に、室《部屋》の中へ《へ’》吹き入った風と雨とは、忽ちに、二十畳《二十ジョウ》に近い大広間に渦巻いた。床《トコ》の間《マ》の掛軸が、バラバラと吹き捲られて、跳ね落ちると、ガタガタと烈《激》しい音がして、鴨居の額《ガク》が落ちる、六曲の金屏風が吹き倒される。一旦吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇を縦横《ジュウオウ》に馳《駆》け廻《回》って、何時《いつ》までも何時《いつ》までも狂奔した。  而《しか》も、此《こ》の風雨の暴《荒》れ狂う漆黒の闇の中に、勝平《カツヘイ》は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けていたのだ。 「貴様は誰だ! 誰だ!」  不意の襲撃に驚いたらしく勝平《カツヘイ》は、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかった。  肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の音《’音》にも紛れず、凄《凄ま》じい音を立てた。身体と身体とが、打ち合う音、筋肉と筋肉とが、軋み合う音、それは風雨の争いにも、負けないほどに恐ろしかった。  其《そ》の中《うち》にど《/ど》うと家中《’家じゅう》を揺がせる地響《地響き》を打って、一方が投げ出される音が聞《聞こ》えた、それに続いて転がり合いながら、格闘する凄《凄ま》じい音が続いた。 「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺《爺や》を呼んで来い! 瑠璃子!《/》 瑠璃子!《/》」  戦いが不利と見えて、勝平《カツヘイ》の声は悲鳴に近かった。  瑠璃子は、物事の烈《激》しい変化に、気を奪られたように、ボンヤリ闇の中に立っていた。身に迫った危険を、思いがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在った。  勝平《カツヘイ》の悲鳴を聴いていると、助けてやらねばならぬと思いながら、一種《1種》の小気味よさを感ぜずには《は-》いられなかった。自分に獣《ケダモノ》の如く迫って来た彼が、突然の侵入者に依って、脆くも取って伏せられている。そう思うと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞくぞくとこみ上げて来る。  格闘は尚続《なお続》いた。組み合いながら、座敷中《座敷じゅう》をのたくっている恐ろしい物音が絶えなかった。 「瑠璃子!《/》 瑠璃子!《/》 早く、早く。」  援けを呼ぶ勝平《カツヘイ》の声は、だんだん苦《/苦》しそうに喘いで来た。  瑠璃子の心の裡に、もっと勝平《カツヘイ》を苦しませてやれ、こうした不意の出来事に依って、もっと彼を懲《懲ら》してやれと云《言》う、勝平《カツヘイ》に対する憎悪の心持《心持ち》と、《:、》平生《いつも》の憎悪は兎《と》に角《かく》、不時の災難に苦しんでいる相手を、援けてやろうと云《言》う人間的な心持《心持ち》とが、相争った。  其裡《その裡》に、ゼイゼイと息も絶えそうに、喘ぎ始めた勝平《カツヘイ》の声が、聞え出した。 「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」  勝平《カツヘイ》は、到頭最後《とうとう最後》の悲鳴を出してしまった。そうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平《カツヘイ》に対する憐憫《憐れみ》が湧かずにはいなかった。彼女は、始めて我に返ったように、台所の方《ほう》に駆け出しながら、大声を出した。 「老爺《爺や》! 老爺《爺や》! 早く来ておくれ! 泥棒!《/》 泥棒!《/》」  瑠璃子の声も、スッカリ上ずッてしまっていた。が、そう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人《突然’恋人》の直也の事が閃いた。彼は、勝平《カツヘイ》を射とうとして誤って、美奈子を傷つけた為、危《危う》く罪人となろうとしたのを、勝平《カツヘイ》に対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は敵の勝平《カツヘイ》からそうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがって、学業を捨ててしまって、遠縁の親戚が経営しているボ《/ボ》ルネオの護謨園《ゴム園》に走ろうとしている。瑠璃子は、そんな噂を、耳にはさんでいる。が、あの多血性な恋人は、そうした逃避的な態度を、捨てて、その恋の敵《カタキ》を倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫ったのであろうか。否、自分に訣別するため、外《よそ》ながら自分を見ようとした時、偶然自分《偶然’自分》が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだろうか。  強盗!《/》 泥棒!《/》 強盗や泥棒が、ああした襲撃を為すだろうか。もし、あれが直也だっ《-っ》たら、縦令《たとい》、勝平《カツヘイ》を倒したにしろ、彼の一生はムザムザと埋《埋も》れてしまうのだ。尤《もっと》も、今でも自分のために、半分埋《半分’埋も》れかけているのだが。  そう思うと、瑠璃子は老爺《爺や》を呼ぶ声も出なくなってしまって、再び其処《そこ》へ立ち竦んだ。  が、瑠璃子の声に騒ぎ立った女中は、声を振り搾《しぼ》って老爺《爺や》を呼んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺《爺や》は驚いて馳《駆》け付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取って返して、古い猟銃用の村田銃を持って来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子《様子》もなく、灯《明かり》を点じて、戸外同様に風雨の暴《荒》れ狂う広間の方《ホウ》へと、勇ましく立ち向《向か》った。もう六十を越した老人ではあったが、根が漁師育ちである丈《だ》けに、胆力はガッシリと据《-すわ》っていた。  瑠璃子は、勝平《カツヘイ》と相搏っている相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思うと、此《こ》の一徹の老人が、一気に銃口を向けやし《-し》ないかと思う心配で、心が怪しく擾《乱》れた。それかと云《言》って、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇うような口は利けなかった。台所に顫《震》えている女中を後《あと》に残しながら、固唾を飲みながら、老人の後《あと》から、随《つ》いて行った。  座敷は、風雨で滅茶苦茶になっていた。室《部屋》の中に渦巻く風のために、硝子戸が三枚も外れていた。其処《そこ》から吹き入る雨のために、水を流したように、濡れた畳が、カンテラの光に物凄く映っていた。今にも、天井が吹き抜かれるように、バリバリと恐ろしい音を立てて、鳴り続けた。  老人は、カンテラの光を翳しながら、 「旦那!《/》 旦那!《/》 喜太郎が参りましたぞ!」と|次ぎ《次》の間から、先ず大声で怒鳴った。  が、勝平《カツヘイ》はそれに対して、何とも答えなかった。ただ勝平《カツヘイ》が発しているらしい低いうめき声が聞える丈《だけ》だった。 「旦那!《/》 旦那!《/》 しっかりなさい!」  そう云《言》いながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほの暗《グラ》く照《照ら》し出された大広間の中央《真ん中》に、勝平《カツヘイ》は仰向《仰向け》に打ち倒れながら、苦しそうにうめいているのだった。 「旦那!《/》 旦那!《/》 しっかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何《ど》うしただ!」  喜太郎は、勝平《カツヘイ》の耳許で勢《勢い》よく叫んだ。が、勝平《カツヘイ》はただ低く、喘息病みか何かのように咽喉《/咽喉》のところで、低く|うめ《呻》く丈《だけ》だった。 「旦那!《/》 怪我をしたか。何処《どこ》だ! 何処《どこ》だ!」  老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、勝平《カツヘイ》の身体を撫で廻《回》した。が、何処《どこ》にも傷らしい傷はなかった。が、それにも拘わらず、半眼に開かれている勝平《カツヘイ》の眼は、白く釣り上がっている。 「ああ! こりゃいけねえ。奥様、こりゃいけねえぞ。」  そう云《言》いながら、老人は勝平《カツヘイ》の身体を半抱《半ば抱》き起すようにした。が、巨《大》きい身体は少しの弾力もなく石《/石》の塊か何かのように重かった。  瑠璃子は、遉《さすが》に驚いた。 「もし、貴君《あなた》! もし貴君《あなた》! 貴君《あなた》!」  彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くようにして叫んだ。が、勝平《カツヘイ》の身体に残っている生気は、こうしている間にも、だんだん消えて行くように思われた。  おずおず顫《震》えながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハッキリと少《/少》しも取り擾《乱》さない口調で云《言》った。 「ブランデーの壜を大急ぎで持っておいで。それから、吉川様へ直《/す》ぐお出下《いで下》さるように電話をおかけなさい! 直《す》ぐ! 主人が危篤でございますからと。」  女中の一人は、直《す》ぐブランデーの壜を持って来た。瑠璃子は、それをコップに酌《つ》ぐと、甲斐甲斐しく勝平《カツヘイ》の口を割って、口中へ注ぎ入れた。  勝平《カツヘイ》の蒼《青》ざめていた顔が、心持赤《心持ち赤》く興奮するように見えた。彼の釣り上った眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したように見えた。 「旦那!《/》 旦那!《/》 相手は何《ど》うしただ。強盗ですか。何方《どちら》へ逃げました。」  老人の別荘番は、主人の敵《カタキ》を取りたいような意気込《意気込み》で訊いた。  勝平《カツヘイ》はその大きい声が、消えかかる聴覚に聞《聞こ》えたのだろう、口をモグモグさせ初《始》めた。 「何でございますか。何でございますか。」  瑠璃子も、勝平《カツヘイ》を励ますために、そう叫ばずには《は-》いられなかった。  その時に、室《部屋》の薄暗い一隅で、何者とも知れずカ《/カ》ラカラと悪魔の嗤うように声高《声’高》く笑った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラカラと頓狂に笑い出す声を聴くと、元気のある度胸《/度胸》の据《据わ》った喜太郎迄《喜太郎まで》が、ハッと色を変えた。村田銃の方《ホウ》へ差し延《延ば》した左の手が、二三度銃身《二’三度銃身》を掴み損《そこな-》っていた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味《キミ》の悪い冷た《た-》さが、ぞっと襲って来た。 「誰だ! 誰だ!」  喜太郎は狼狽えながら、しわがれた声で闇の中の見知らぬ人間を誰何した。が、相手はまだ笑い声を収めたまま、じっとしている。 「誰だ! 誰だ! 黙っていると、射ち殺すぞ!」  相手が黙っているので、勢いを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方《ホウ》へ差し向けた。  暗い片隅に蹲《うずく》まっている人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯《明かり》で、|朧ろ《朧》げながら判って来た。 「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来《こ》ないと射つぞ!」  喜太郎は、益々勢《ますます勢い》を得ながらそ《/そ》れでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでいた。  相手が、割に落着《落ち着》いているところを見ると、それが強盗でないことは、判っていた。が、不意に耳を襲った頓狂な笑い声に依っては、それが何人《ナンピ-ト》であるかは、瑠璃子にも判らなかった。彼女は、じっと眸を凝して、それが自分の怖れている如く、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めていた。  丁度《ちょうど》その時に、喜太郎の大きい怒声に依って、朧気な意識を恢復したらしい勝平《カツヘイ》は、低くうめくように云《言》った。 「射つな、射ったらいけないぞ!」  それは、一生懸命な必死《/必死》な言葉だった。そう云《言》ってしまうと、勝平《カツヘイ》はまたグ《/グ》タリと死んだようになってしまった。  主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟ったように鉄砲を、投げ出すと、じりじりと見知らぬ男の方《ほう》に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だんだん蹲《うずく》まったままで、身を退《-ひ》かしていたが、壁の所まで、追い詰められると、矢庭に、スックと立ち上《上が》った。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景《シーン》を想像した。が、瑠璃子の想像は忽ち裏切られた。 「|やあ《ヤア》! 若旦那じゃねえか!」  喜太郎は、驚駭《驚き》とも何とも付かない、調子外れの声を出した。  瑠璃子も、その刹那弾《刹那/弾》かれたように立ち上《上が》った。 「奥様!《/》 若旦那だ! 若旦那だ。」  喜太郎は、意外なる発見に、狂ったように叫び続けた。瑠璃子も思わず、瀕死の勝平《カツヘイ》の傍《そば》を離れると、二人が突っ立ちながら、相対している方《ホウ》へ近づいた。  いかにも、その男は勝彦だった。何時《いつ》も見馴れている大島の不断着《普段着》が、雨でズブ濡れに濡れている。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光っている。日頃は、無気味《グロテスク》な顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵は殺気を帯びている。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤《赤ら》めながら、ニタリと笑った。  |暫ら《暫》くの間は、瑠璃子も言葉が出なかった。が、凡《全》ては明《明ら》かだった。東京の家に監禁せられていた彼は、瑠璃子を慕うの余り、監禁を破って、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やって来たのに違いなかった。 「お父様をあんなにしたのは、貴君《貴方》でしたか。」  瑠璃子は、可《か》なり厳粛な態度でそう訊いた。  勝彦は、黙って肯《頷》いた。 「東京から、一人で来たのですか。」  勝彦は黙って肯《頷》いた。 「汽車に乗ったのですか。」  勝彦は、又黙《また黙》って肯《頷》いた。 「お父様を、何《ど》うしてあんなにしたのです。何《ど》うしてあんなにしたのです。」  瑠璃子に、そう問い詰められると、勝彦は顔を赤めながら、モジモジしていた。もし勝彦が、聡明な青年であったならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救った騎士《ナイト》のように勇ましく、 『貴女《貴方》を救うために。』と答え得たのであるが。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、ただニタリニタリと笑い続けている丈《だけ》だった。  老人の喜太郎は、張り詰めていた勇気が、急に抜け出してしまったように云《言》った。 「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとっちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末に了《お》えねえや。奥様!《/》 こんな人に介意《構》っているよりか旦那《/旦那》の容体が大事だ!」  喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるように非難しながら、座敷の真中《真ん中》に、生死も判らず横わり続けている勝平《カツヘイ》の方《ホウ》へ行った。  が、瑠璃子は喜太郎のように心から勝彦を、非難する気には、なれなかった。口では勝彦を咎めるようなことを云《言》いながら、心の中では此《こ》の勇敢な救い主に、一味温かい感謝の心を持たずには《は-》いられなかった。  丁度《ちょうど》、その時に、勝平《カツヘイ》のうめき声が、急に高くなった。瑠璃子は思わず、その方《ほう》に引き付けられた。  彼《彼’》の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い巨《大》きい四肢は、最後のあり丈《ったけ》の力を籠《込》めたように、烈《激》しく畳の上にのたうった。 「水!《/》 水!《。》」  勝平《カツヘイ》は、苦しそうな呻き声を洩《洩ら》した。  女中が、転がるように持って来た水を、コップのまま口へ注《-そそ》ごうとしたが、思い通《どおり》にはならないらしい口辺《口元》の筋肉は、当《当て》がわれたコップの水を、咽喉の辺《辺り》から胸にかけて滾《こぼ》してしまった。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平《カツヘイ》の口中へ注いでやった。名ばかりではあるが、妻としての情であった。  水に依って、湿《潤》された勝平《カツヘイ》の咽喉は、初めてハッキリした苦悶の言葉を発した。 「ああ《あ/》苦しい。胸が苦しい。切ない。」  彼は、そう叫びながら、心臓の辺《辺り》を幾度も掻きむしった。 「直《す》ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱《ご辛抱》です。」  瑠璃子も、オロオロしながら、そう答えた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだろう。彼は、空虚《虚ろ》な視線を妻の方《ほう》に差し向けながら、 「瑠璃子さん、俺《儂》が悪かった。みんな、俺《儂》が悪かった。許して下さい!」  彼は、身体中《体中》に残った精力を蒐めながら、やっと切々に云《言》った。つい一時間前の告白を疑った瑠璃子にも、男子のこうした瀕死の言葉は疑えなかった。瑠璃子の冷たく閉じた心臓にも、それが針のように刺し貫いた。 「ああ《あ/》苦しい。切ない! 心臓が裂けそうだ!」  勝平《カツヘイ》は、心臓を両手で抱くようにしながら、畳の上を、二三回転《二’三回転》げ廻《回》った。 「美奈子!《/》 美奈子はいないか!」  彼は、突如苦《いきなり苦》しそうに、半身《ハンミ》を起《起こ》しながら、座敷中《座敷じゅう》を見廻《見回》した。併し美奈子が其処《そこ》にいる訳はなかった。二三秒間身体《ニサン秒間身体》を支え得た丈《だけ》で、またどうと後《後ろ》へ倒れた。 「美奈子さんも直《す》ぐ来ます。電話で呼びますから。」  瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、そう云《言》った。 「ああ《あ/》苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女《貴方》は、俺《儂》を憎んでいても、子供達は憎みはしないでしょう。貴女《貴方》を頼むより外《ほか》はない! 俺《儂》の罪を許して子供達を見てやって下さい! 頼みます! 勝彦!《/》 勝彦!《。》」  彼は、そう云《言》いながら、再び身体を起《起こ》そうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであろう。が、愚《愚か》なる子は、父の臨終の苦しみを外《よそ》に、以前のままに、ケロリとして立ったまま、此場《この場》の異常な光景《シーン》を、ボンヤリと凝視している丈《だけ》であった。 「ああ《あ/》苦しい! 切ない!」  勝平《カツヘイ》は最後の苦痛に入ったように、何物かを掴もうとして、二三度虚空《二’三度虚空》を掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平《カツヘイ》は、瑠璃子の白い腕に触れるとそ《/そ》れを生命《命》の最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からの宥《許し》を感じながら、妻からの情を感じながら、最後の呼吸《息》を引き取ってしまったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  勝平《カツヘイ》の最後の息が絶えようとしている時に、医師がやって来た。レインコートの下へまで、激しい雨が浸《-し》み入ったと見え、洋服の所々《ところどころ》から、雫がタラタラと落ちていた。 「車で来ようと思ったのですが、家を二間ばかり離れると、直《す》ぐ吹き倒されそうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ廻《回》ったようですから、もう大丈夫です。まさか、先度のようなことはありませんでしょう。」  医師は、遉《さすが》に職業的な落着《落ち着き》を見せながら、女中達の出迎えを受けて、座敷へ通って来た。 「お電話じゃ十分判りませんでしたが、何《ど》うなさったのです。強盗と組打ちをなさったと云《言》うのは本当ですか。」  医師は、横わっている勝平《カツヘイ》の傍近《そば近》く、膝行り寄りながら、瑠璃子にそう訊いた。  瑠璃子は、遉《さすが》に落着《落ち着》きを失わなかった。 「いいえ! 女中が狼狽えて、そんなことを申したのでございましょう。強盗などとは嘘でございます。お恥《恥ず》かしいことでございますが、つい息子と‥‥」《。」》  そう云《言》ったものの、後《あと》は続け得なかった。医師は直《す》ぐその場の事情を呑み込んだように、勝平《カツヘイ》の身体に手をやって、一通検《一通り検》めた。 「何処《どこ》もお負傷《怪我》はないのですね。」 「はい! 負傷《怪我》はないようでございます。」瑠璃子は静かに答えた。 「御心配《ご心配》はありません。何処《どこ》か打ち所が悪くって気絶をなさったのです。」  医師は事もなげにそう云《言》いながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒《五秒/十秒》、医師はじっと耳を傾けていた。それと同時に、彼の眸に、勝平《カツヘイ》の蒼《青》ざめて行く顔色が映ったのだろう。彼は、急に狼狽したように前言を打ち消した。 「ああ《あ/》こりゃいけない!」  そう云《言》いながら、彼は手早く聴診器を、鞄の中から、引きずり出しながら、勝平《カツヘイ》の肥り切った胸の中の心臓を、探るように、幾度も幾度も当《当て》がった。 「ああ《あ/》こりゃいけない!」  彼は再び絶望したような声を出した。 「いけませんでございましょうか。」  そう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂慮《憂い》が含まれていた。 「こりゃいけない! 心臓麻痺らしい《-い》です。何時《いつ》か診察したときにも、よく御注意《ご注意》して置いた筈ですが、可《か》なり酷い脂肪心《脂肪シン》だから、よく御注意《ご注意》なさらないと、直《す》ぐ心臓麻痺を起《起こ》し易いと、幾度も云《言》った筈ですが。喧嘩だとか格闘だとか、興奮するようなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」  医師は、いかにも、自分の与えた注意が守られなかったのが、遺憾に堪えないように、耳は聴診器に当《当て》がいながら、幾度も繰り返した。 「心臓の周囲に、脂肪が溜ると、非常に心臓が弱くなってしまうのです。火事の時などに、駈け出した丈《だけ》で、倒れてしまう人があるのです。それに酒を召し上っていたのですね。酒を飲んでいる上に、烈《激》しい格闘をやっちゃ堪りません。お子さんとなら、また何《なん》だって早《/早》くお止めにな《-な》らなかった《-た》のです。」  そう云《言》われると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるように感じた。 「もう駄目だとは思いますが、諦めのために、カンフル注射をやって見ましょう。」  医師は、手早くその用意をしてしまうと、今肉体《いま肉体》を去ろうとして、たゆとうている魂を、呼び返すために、巧みに注射針《注射バリ》を操って、一筒《イットウ》のカンフルを体内に注いだ。  医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸《二’三度人工呼吸》を試みた、が、勝平《カツヘイ》の身体は、刻一刻、人間特有の温《温か》みと生気とを失いつつあった。その巨《大》きい顔に、死相がアリアリと刻まれていた。 「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」  医師は、死に対する人間の無力を現すように、悄然と最後の宣告を下した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  戦《戦い》は終った。不意に突然《/突然》に意外《/意外》に、敵は今彼女《今/彼女》の眼前《目の前》に、何の力もなく何《/なん》の意地もなく土塊の如くに横わっている。  彼女は見事に勝った。勝ったのに違いなかった。傲岸な、金《かね》の力に依って、人間の道を蔑しようとした相手は倒れている。そうだ! 勝利は明《明ら》かだ。  が、勝平《カツヘイ》の死顔《死に顔》をじっと見詰めている時に、彼女の心に湧いて来たものは、勝《勝ち》の欣《喜》びではなくしてむ《/む》しろ勝《勝ち》の悲しみだった。勝利の悲哀だった。確《確か》に勝って《て-》いる。が、勝平《カツヘイ》の肉体に勝った如く、彼の精神にも勝ち得ただろうか。勝平《カツヘイ》は、その瀕死《瀕死’》の刹那に於《於い》て、精神的にも瑠璃子に破られていただろうか。  否《いな》! 否《いな》! 瑠璃子自身の良心が、それを否定している。愈々《いよいよ》、死が迫って来た時の勝平《カツヘイ》の心は、彼の一生の凡《全》ての罪悪を償い得るほどに、美しく輝いていたではないか。  彼は、自分の容《許》しを瑠璃子に乞うた上、二人の愛児《-まなご》の行末《行く末》を、瑠璃子に頼んでいる。彼は名ばかりの妻から、夫として堪《/堪》えがたき反抗《反抗’》を受けながら、尚彼女《なお彼女》に美しき信頼を置こうとしている。  それよりも、もっと瑠璃子の心を穿ったものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だった。格闘の相手が──従って彼の死の原因が──勝彦であることを知りながらも、此《こ》の愚《愚か》なる子の行末《行く末》を、苦しき臨終の刹那に気遣っている。彼の人間らしい心は、その死床《シニドコ》に於《於い》て、燦然として輝いたではないか。  彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依って、彼に悶々の悩みを嘗めさせ、《:、》それが半ば偶然であるとは云《言》え、勝彦を操ることに依って、畜生道の苦しみを味わせた自分を死《/死》の刹那に於《於い》て心から信頼している。そうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、可《か》なり深い痛手を負わずには《は-》いられなかった。  悪魔だと思って刺し殺したものは、意外にも人間の相《ソウ》を現している。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路に於《於い》て、刺し殺した結果に於《於い》て、悪魔に近いものになっている。  自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐《ガイ》のないものだった。恋人を捨てて、処女《乙女》としての誇《誇り》を捨てて、世の悪評を買いながら、全力を尽くして、戦った戦いは、戦い栄《バエ》のしない無名の戦《戦い》だった。  負けた勝平《カツヘイ》は、負けながら、その死床《シニドコ》に人間として救われている。が、見事に勝った瑠璃子は、救われなかった。  自分の一生を賭してかかった仕事が、空虚な幻影であることが、分《分か》った時ほど、人間の心が弛緩し堕落《/堕落》することはない。  彼女の心は、その時以来別人《とき以来/別人》のように荒んだ。清浄《/清浄》なる処女時代《乙女時代》に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかった。敵と戦うために、自分自身心《自分自身/心》に塗った毒は、いつの間にか、心の中深《うち深》く浸《-し》み入って消えなかった。  その上に、もっと悪いことには、名ばかりの妻として、擅にした物質上《物質ジョウ》の栄華が、何時の間にか、彼女の心に魅力を持ち始めていた。  彼女は、荒んだ心と、処女《乙女》としての新鮮さと、未亡人としての妖味とを兼ね備えた美しさと、その美《’美》を飾るあらゆる自由とを以《以っ》て、《:、》何時《いつ》となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀の如く、その双翼を拡げていた。  怪頭醜貌の女怪ゴルゴンは、見る人をして悉く石に化《-か》せしめたと希臘神話《ギリシヤ神話》は伝えている。  黒髪皎歯清麗真珠《コクハツ’皎歯’清麗’真珠》の如く、艶容人魚の如き瑠璃子は、その聡明なる機智と、その奔放自由なる所作とを以《以っ》て、彼女を見、彼女に近づくものを、果《果た》して何物に化《-か》せしめるであろうか。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第15話】 【魅惑】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  奇禍のために死んだ青年の手記を見た後《あと》も、美しき瑠璃子夫人は、尚信一郎《なお信一郎》の心に、一つの謎として止《-とど》まっていた。手記に依れば、青年を飜弄し、彼をして、形は奇禍であるが、心持《心持ち》の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるようにも思われた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨みが籠っている筈の、時計の持主《持ち主》であることを否定していた。  信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中《/五里霧中》の裡へ、突き放されたように思った。血腥い青木淳の死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしている。その霧の中に、チラチラと時折、瞥見するものは、半面紫色になった青年の死顔《死に顔》と、艶然たる微笑を含んだ夫人の皎玉《コウギョク》の如き美観とであった。  青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、──《─:》青年の怨みを籠《込》めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されている。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、此《こ》の謎を一通《一通り》は解かねばならぬと思った。時計が、その真の持主《持ち主》に、青年の望んだ通《通り》の意味で、返されることの為に、出来る丈《だけ》は尽さねばならぬことを感じた。  が、その謎を解くべき、唯一の手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡っている。ただ、それの受取《受け取》のように、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉《イチヨウ》の入場券が、信一郎の紙入《紙入れ》に、何の不思議もなく残っている丈《だけ》である。  が、此《こ》の何の奇もない入場券と、『是非お出下《いで下》さいませ。その節お目にかかりますから。』と云《言》う夫人の言葉とが、今の場合夫人《場合/夫人》に近づく、従って夫人の謎を解くべき唯一の心細い頼《/頼》りない手がかりだった。夫人と信一郎とを結び付けている細い細い蜘蛛の糸のような、継《繋》ぎであった。尤《もっと》も、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。  音楽会の期日は、六月の最後の日曜だった。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇する心持《心持ち》もあった。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈しているが、本当は一度言葉を交えた瑠璃子夫人の美貌に惹き付けられているのではないか。彼《彼’》の心の裡で、反噬するそうした叫びもあった。その上、今日までは、こうした会合へ出るときは、屹度新婚《き-っと新婚》の静子を伴わないことはなかった。が、今日は妻を伴うことは、考えられないことだった。会場で出来る丈《だけ》、夫人に接近して夫人《/夫人》を知ろうとするためには、妻を同伴することは、足手纏《足手まと》いだった。  昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替《着替え》をすることが、必要だった。 「一寸散歩《ちょっと散歩》に。」と云《言》ってブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかった。 「一寸音楽会《ちょっと音楽会》に行って来るよ。着物を出しておくれ。」  そうした言葉が、何《ど》うしても気軽に出《で》なかった。それは、何でもない言葉だった。が、信一郎に取っては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だった。 「音楽会に行くから、お前も支度《仕度》をおしなさい。」  そうした言葉丈《言葉だけ》しか、聞かなかった静子には、それが可《か》なり冷たく響くことは、信一郎には余《/余》りによく判っていた。  彼は、ぼんやり縁側に立っているかと思うと、また、何かを思い出したように二階へ上った。が、机の前に坐っても、少しも落着《落ち着》かなかった。彼は、思い切って妻に云《言》う積りで、再び階下《下》へ降りて来た。  が、解き物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るような微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に云《言》って退《の》ける筈の言葉が、またグッと咽喉にからんでしまった。 「あら! 貴君《貴方》、先刻《さっき》から何をそんなに、ソワソワしていらっしゃるの?」  無邪気な妻は夫の図星を指してしまった。指|ささ《さ》れてしまうと、信一郎は却って落着《落ち着》いた。 「うっかり忘れていたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送って行かなければならないのだった!」  彼は、咄嗟に今日出発《今日’出発》する筈の専務のことを思い出したのだ。 「何時《ナンジ》の汽車? これから行っても、間に合うのでございますか?」  静子は一寸心配《ちょっと心配》そうに云《言》った。 「間に合うかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」  そう云《言》いながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻《回》ったばかりだった。 「じゃ、早くお支度《仕度》なさいまし。」解き物を、掻きやって、妻は、甲斐々々《甲斐甲斐》しく立ち上《上が》った。  信一郎は、最初の冷たい言葉を云《言》う代《代わ》りに、最初の嘘を云《言》ってしまった。その方《ほう》が、ズッと悪いことだが。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その日の音楽会は、露西亜《ロシア》のピアニスト若《/若》きセザレヴィッチ兄妹の独奏会だった。  去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊《さすらい》の旅に出た露西亜の音楽家達《音楽家たち》が、幾人《イクニン》も幾人《イクニン》も東京の楽壇を賑わした。其中《そのなか》には、ピアノやセロやヴァイオリンの世界的名手《世界的メイシュ》さえ交《交じ》っていた。セザレヴィッチ兄妹もやっぱり、漂泊《さすらい》の旅の寂しさを、背負《背お》っている人だった。殊に、妹のアンナ・セザレヴィッチの何処《どこ》か東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を唆《さら》っていた。その日の演奏は、確か三四回目《サンヨ-ンカイメ》の演奏会だった。上流社会の貴夫人達の主催にかかる、その日の演奏会の純益は、東京にいる亡命の露人達《ロシア人たち》の窮状を救うために、投ぜられる筈だった。  信一郎が、その日の会場たる上野《/上野》の精養軒の階上の大広間の入口に立った時、会場はザッと一杯《一杯’》だった。が、人数は三百人にも足らなかっただろう。七円と云《言》う高い会費が、今日の聴衆を、可《か》なり貴族的に制限していた。極楽鳥のように着飾った夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでいた。その中に諸所瀟洒《諸所’瀟洒》なモオニングを着て、楽譜を手に持っている、音楽研究の若殿様と云《言》ったような紳士が、二三人宛交《二’三人ずつ交》じっていた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、直《す》ぐ油に交じった水のような寂しさを感じた。こうした華やかな群《グループ》の中に、女王《クイン》のように立ち働いている荘田夫人《ショウダ夫人》が、自分に──片隅に小さく控えている自分に、少しでも注意を向けて呉《く》れるかと思うと、《:、》妻の手前を繕《-つく》ろってまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿馬鹿《/馬鹿馬鹿》しくなって来た。  信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方《ほう》のアンナが、華やかな拍手に迎えられて壇上《/壇上》に現われた、《:、》スラヴ美人の典型と云《言》ってもいいような、碧い眸と、白い雪のような頬《ホオ》とを持った美《/美》しい娘だった。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応えると、水色のスカートを飜《ひるがえ》しながら、快活にピアノに向《向か》って腰を降《降ろ》した。と、思うと、その白い蝋のような繊手は、直《す》ぐ霊活な蜘蛛か何かのように、鍵盤の上を、駈け廻《回》り始めた。曲は、露西亜の国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌《バラッド》だった。  その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方《ほう》に走っていた。彼は、若い婦人の後姿《後ろ姿》を、それからそれと一人一人検めた。が、たった一度、相見た丈《だけ》の女は、後姿《後ろ姿》に依っては、直《す》ぐそれと分《分か》りかねた。  妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、壇上《’壇上》へ運ばれた。露西亜の少女は、それを一々溢れるような感謝で受取《受け取》ると、子供のように欣《喜》びながら、ピアノの上へ幾つも幾つも置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりそうなので、司会者が周章《あわて》て取り降《降ろ》した。聴衆が、此《こ》の少女の無邪気さをどっと笑った。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑ってしまった。  丁度《ちょうど》その途端、信一郎の肩を軽く軟打《パット》するものがあった。彼は駭《驚》いて、振り顧《返》った。そこに微笑《微笑’》する美しき瑠璃子夫人の顔があった。 「よくいらっしゃいましたのね。先刻《さっき》からお探ししていましたのよ。」  信一郎の言うべきことを、向《向こ》うで言いながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処《/そこ》に空いていた椅子に腰を下《下ろ》した。 「あまりお見えにならないものですから、いらっしゃらないのかと思っていましたのよ。」  信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向《向こ》うは親しく馴々しく、友達か何かのように言葉をかけた。 「先日は、何《ど》うも失礼しました。」  信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。 「いいえ! 妾《わたくし》こそ。」  彼女は、小波一《小波ひと》つ立たない池《/池》の面《オモテ》か何かのように、落着《落ち着》いていた。  丁度《ちょうど》、その時に兄のニコライ・セザレヴィッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立とうとはしなかった。 「妾《わたくし》、暫らく茲《ここ》で聴かせていただきますわ。」  彼女は、信一郎に云《言》うともなく独語《独り言》のように呟いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  丁度《ちょうど》その時、兄のセザレヴィッチの奏き初めた曲は、ショパンの前奏曲《プレリュウド》だった。聴衆は、水を打ったような静寂《シジマ》の裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めていた。が、その中で、信一郎の注意丈《注意だけ》は、彼の左半身の触覚に、溢れるように満《-満》ち渡っていた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐っていたからである。彼女は、故意にそうしているのかと思われるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方《ホウ》へ寄せかけるように、坐っていた。  信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打っている彼女の肉体の暖かみをさえ、感じ得るように思った。  彼女は、演奏が初まると、直《す》ぐ独語《独り言》のように、「雨滴《レインドロップス》のプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云《言》った。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中《うち》、『雨滴《雨だれ》の前奏曲』として、知られたる傑作だった。  彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでいる辺《辺り》を、其処《そこ》に目に見えぬ鍵盤が、あるかのように、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けているのだった。而《しか》も、それと同時に、彼女の美しい横顔《プロフィイル》は、本当に音楽が解るものの感ずる恍惚《/恍惚》たる喜悦で輝いているのだった。其処《そこ》には日本の普通の女性には見られないような、精神的な美しさがあった。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されていないような、神々しい美しさがあった。  信一郎は、時々彼女《ときどき彼女》の横顔を、そのくっきりと通った襟足を、そっと見詰めずには《は-》いられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずには《は-》いられなかった。  曲が、終りかけると、彼女は何人《ナンピ-ト》よりも、先に慎しい拍手を送った。  快い緊張から夢のように醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。 「妹の方《ほう》が、技巧は確《確か》ですけれども、どうも兄の方《ほう》が、奔放で、自由で、それ丈天才的《だけ天才的》だと思いますのよ。」 「僕も同感です。」信一郎も、心からそう答えた。 「貴君《貴方》、音楽お好き? ホホホホ、わざわざ来て下さったのですもの、お好きに定《決ま》っていますわね。」  彼女は、二度目に会ったばかりの信一郎に、少しの気兼もないように、話した。 「好きです。高等学校にいたときは、音楽会の会員だったのです。」 「ピアノお奏きになって?」 「簡単なバラッドや、マーチ位《くらい》は奏けます。ハハハハハ。」 「ピアノお持ちですか。」 「いいえ。」 「じゃ、妾《わたくし》の宅へ時々《ときどき》、奏きにいらっしゃいませ。誰も気の置ける人はいませんから。」  彼女は、薄気味《薄キミ》の悪いほど、馴々しかった。その時に、壇上には、妹のアンナが立っていた。 「バラキレフの『イスラメイ』を演るのですね。随分難しいものを。」  そう云《言》いながら、彼女は立ち上《上が》った。 「みんなが、妾《わたくし》を探しているようですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下《下’》の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでしょうね。」 「|はあ《ハア》! 結構です。」  信一郎は、何かの命令をでも、受けたように答えた。 「それでは後ほど。」  彼女は、軽く会釈すると、静まり返っている聴衆の間の通路を、怯《悪び》れもせず遥か前方の自分の席へ帰って行った。信一郎は可《か》なり熱心な眼付《眼付き》で、彼女を見送った。  彼女が、席に着こうとしたとき彼女《/彼女》の席の周囲にいた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰って来たのを、女王でもが、帰還したように、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれているのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずには《は-》いられなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  それから、演奏が終ってしまうまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行った魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のような時間を過してしまった。  最後の演奏が終って、華やかな拍手と共に、皆が立ち上《上が》ったとき、信一郎は夢から、さめたように席を立ち上《上が》った。  彼は、自分から先刻《さっき》の約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかった。それかと云《言》って、その儘帰《まま帰》ってしまうには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎていた。彼は聴衆に先立って階段を降りたものの、階段の下で誰かを待ってでもいるように、躊躇していた。  美しい女性の流れが、|暫ら《暫》くは階段を滑っていた。が、待っても、待っても夫人の姿は見えなかった。  彼が、待ちあぐんでいる裡に、聴衆は降《-お》り切ってしまったと見え、下足の前に佇んでいる人の数がだんだん疎《’疎ら》になって来た。  彼は『一緒にお茶を飲もう。』と云《言》うことが、ただ一寸《ちょっと》した、夫人のお世辞であったのではないかと思った。それを金科玉条のように、一生懸命に守って、待ちつづけていた自分が、少し馬鹿らしくなった。夫人は、屹度混雑《きっと混雑》を避けて、別の出口から、もうとっくに帰り去ったに違いない。そう思って、彼は軽い失望を感じながら、踵《キビス》を返そうとした時だった。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦《衣擦れ》の音《’音》と、流暢な仏蘭西語《フランス語》の会話とが聞えて来た。彼が、軽い駭《驚》きを感じて、見上げると、階段の中途を静《静か》に降《下》りかかってい《い-》るのは、今日の花形《スタア》なるアンナ・セザレヴィッチと瑠璃子夫人《/瑠璃子夫人》とだった。その二人の洗い出したような鮮《鮮か》さが、信一郎の心を、深く深《-ふか》く動かした。一種敬虔《1種’敬虔》な心持《心持ち》をさえ懐《-いだ》かせた。白皙な露西亜美人《ロシア美人》と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮していた。殊に、そのスラリとして高い長身は、凡《全》ての日本婦人が白人の女性と並び立った時の醜さから、彼女を救っていた。  信一郎は、うっとりとして、名画の美人画をでも見るように、|暫ら《暫》くは見詰めていた。  それと同じように、彼を駭《驚》かしたものは瑠璃子夫人《/瑠璃子夫人》の暢達な仏蘭西語《フランス語》であった。仏法出の法学士である信一郎は、可《か》なり会話にも自信があった。が、水の迸《ほとば》しるように、自然に豊富に、美しい発音を以《以っ》て、語られている言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはいなかった。  瑠璃子は、階段の傍《傍ら》に、ボンヤリ立っている信一郎には、一瞥も与えないで、アンナを玄関まで送って行った。  其処《そこ》で、後から来た兄のセザレヴィッチを待ち合わすと、兄妹が自動車に乗ってしまう迄《まで》、主催者の貴婦人達と一緒に見送っていた。彼女一人《彼女ひとり》、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。  兄妹を乗せた自動車が、去ってしまうと、彼女は、初めて信一郎を見付けたように、いそいそと彼の傍《そば》へやって来た。 「まあ! 待っていて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」  彼女は、そう云《言》いながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやっぱり白金《プラチナ》の時計だった。それを見た刹那、不安な|いや《/嫌》な連想が、電火《稲妻》のように、信一郎の心を走《馳》せ過ぎた。 「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでいますと、遅くなってしまいますわ。如何《いかが》でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいいでございましょう。」 「|はあ《ハア》! それで結構です。」  信一郎は、従順な僕《-しもべ》のように答えた。 「貴君《あなた》! お宅は何方《どちら》!」 「信濃町《信濃マチ》です。」 「それじゃ、院線で御帰《お帰》りになるのですか。」 「市電でも、院線でも孰《どち》らででも帰れるのです。」 「それじゃ、院線で御帰《お帰》りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでしょう。妾《わたくし》の自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」  彼女は、それが何でもないことのように、微笑《微笑’》しながら云《言》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  わずか二度しか逢っていない、而《しか》も確かな紹介もなく妙《/妙》な事情から、知己《知り合い》になっている男性に──《─:》その職業も位置《/位置》も身分《/身分》も十分分《十分’分か》っていない男性に、突然自動車《突然’自動車》の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎の方《ほう》が、却ってタジタジとなってしまった。信一郎は、一寸狼狽《ちょっと狼狽》しながら、急いでそれを断ろうとした。 「いいえ恐れ入ります。電車で帰った方《ほう》が勝手ですから。」 「あら、そんなに改まって遠慮して下さると困りますわ。妾本当《わたくし/本当》は、お茶でもいただきながら、ゆっくりお話がしたかったのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなってしまったのですもの。せめて、一緒に乗っていただいて、お話《話し》したいと思いますの。死んだ青木さんのことなども、お話《話し》したいことがございますのよ。」 「でも御迷惑《ご迷惑》じゃございませんか。」  信一郎は、もう可《か》なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではこう云《言》って見た。 「あら、御冗談《ご冗談》でございましょう。御迷惑《ご迷惑》なのは、貴君《貴方》ではございませんか。」  夫人の言葉は、銘刀のように鮮《鮮や》かな冴《冴え》を持っていた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧《-あっ》せられたように、モジモジしている間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立って、声高《声’高》く自動車を呼んだ。  暮れなやむ初夏の宵の夕暗《夕闇》に、今点火《いま点火》したばかりの、眩しいような頭光《ヘッドライト》を輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色大型《青色’大型》の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付《横付け》になった。会衆は悉く散じ去って、供待《供待ち》する俥も自動車一台も残っていなかった。 「さあ! 貴君《貴方》から。」  信一郎の確《確か》な承諾をも聴かないのにも拘わらず、夫人はそれに定《決ま》った事のように、信一郎を促した。  そう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛交《半分ずつ交じ》ったような心持《心持ち》で、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲していたのにも拘わらず、乗ることが何となく不安だった。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すように不安だった。 「あら、何をそんなに遠慮していらっしゃるの。じゃ、妾《わたくし》が御先《お先》に失礼しますわ。」  そう云《言》うと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台《ステップ》を軽く踏んで、ヒラリと車中の人になってしまった。 「さあ! 早くお乗りなさいませ。」  彼女は振り顧《返》って、微笑と共に信一郎を麾《さしま》ねいた。  相手が、そうまで何物にも囚われないように、奔放に振舞っているのに、男でありながら、こだわり通しにこだわっていることが、信一郎自身にも、厭になった。彼は、思い切って、踏台《ステップ》に足を踏みかけた。  信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。  夫人は駭《驚》いたように、それを制した。 「あら、そんなことをなさっちゃ、困りますわ。まあ、殿方にも似合わない、何と云《言》う遠慮深い方でしょう。さあ此方《こちら》へおかけなさい! 妾《わたくし》と並んで。そんなに遠慮なさるものじゃありませんよ。」  信一郎を、窘めるように、叱るように、夫人の言葉は力を持っていた。信一郎は、今は止むを得ないと云《言》ったように、夫人と擦れ擦れに腰を降《降ろ》した。夫人の身体を掩うている金紗縮緬のいじり痒いような触感が、衣服越《着物越》しに、彼の身体に浸みるように感ぜられた。  給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るように、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。  給仕人達《給仕人’たち》の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈《激》しい興奮の裡に、夢みる人のように、恍惚としていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  つい知り合ったばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たった二度目に会ったときに、もう既に自動車に、同乗すると云《言》うことが、《:、》信一郎には、宛《さなが》ら美しい夢のような、二十世紀の伝奇譚《ロマンス》の主人公になったような、不思議な歓びを与えて呉《く》れた。万世橋駅迄《万世橋駅まで》の三四分《サンヨンプン》が、彼の生涯に再び得がたい貴重《/貴重》な三四分《サンヨンプン》のように思われた。彼の生涯を通じて、宝石のように輝く、尊い瞬間のように思われた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思っていた。が、そう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇《コノシタ闇》を、後《あと》に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、そうだ、豊《豊か》に輝ける夏の夜の描《/えが》けるが如き、光と色との中に、馳《駆》け入っているのだった。時《とき》は速い翼を持っている。が、此《こ》の三四分《サンヨンプン》の時間は、電光その物のように、アッと云《言》う間もなく過ぎ去ろうとしている。  試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却《却っ》てわくわくして、少しも手が付かないように、《:、》信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去ろうとする時間を前にして、ただ茫然と手を拱《-こまね》いている丈《だけ》だった。  然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着《落ち着》いていた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗っているように、微笑を車内の薄暗《薄闇》に、漂わせながら、急に話しかけようと《と-》もしなかった。  丁度《ちょうど》、自動車が松坂屋の前にさしかかった時、信一郎は、やっと──《─:》と言っても、ただ一分間ばかり黙っていたのに過ぎないが──《─:》会話の緒《糸口》を見付けた。 「先刻《さっき》、一寸立《ちょっと立》ち聴《聞》きした訳ですが、大変仏蘭西語《大変フランス語》が、お上手でいらっしゃいますね。」 「まあ! お恥《恥ず》かしい。聴いていらしったの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈《だけ》。でもあのアンナと云《言》う方、大変感じのいい方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」 「何《ど》うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」  信一郎は心でもそう思った。 「まあ! お賞めに与《与か》って有難いわ。でも、本当にお恥《恥ず》かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈《だけ》なのですよ。貴君《貴方》は仏法の出身でいらっしゃいますか。」 「そうです。高等学校時代から、六七年《ロクシチネン》もやっているのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人《フランス人》が来ると、私丈《私だけ》が仏蘭西語《フランス語》が出来ると云《言》うので、応接を命ぜられるのですが、その度毎《たび毎》に、閉口するのです。奥さんなんか、このまま直《す》ぐ外交官夫人として、巴里辺《パリー辺り》の社交界へ送り出しても、立派《/立派》なものだと思います。」  信一郎は、つい心からそうした讃辞を呈してしまった。 「外交官の夫人!《/》 ホホホ、妾《わたくし》などに。」  そう云《言》ったまま、夫人の顔は急に曇ってしまった。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出《出ず》ることではなかったか。彼女が、仏蘭西語《フランス語》の稽古をしたことも、みんなそうした日のための、準備ではなかったか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出《思い出》となって了《しま》っている。外交官の夫人と云《言》われて、彼女の華やかな表情が、急に光を失ったのも無理はなかった。  瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車《/電車》の右側の坦々たる道を、速力を加えて疾駆していた。万世橋迄《万世橋まで》は、もう三町もなかった。  信一郎は、もっとピッタリするような話がしたかった。 「仏蘭西文学《フランス文学》は、お好きじゃございませんか。」  信一郎は、夫人の顔を窺うように訊いた。 「あのう──好きでございますの。」  そう云《言》ったとき、夫人の曇っていた表情が、華やかな微笑で、拭い取られていた。 「大好きでございますの。」  夫人は、再び強く肯定した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「仏蘭西文学《フランス文学》が大好きですの。」と、夫人が答えた時、信一郎は其処《そこ》に夫人に親しみ近《/近》づいて行ける会話の範囲が、急に開《-ひら》けたように思った。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛していると云《言》うことは、ある未知の二人を可《か》なり親しみ近《/近》づける事だ。  信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かったように欣《喜》びながら、勢《勢い》よく訊き続けた。 「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」 「はい、近代のものとか、古典《クラシックス》とか申し上げるほど、沢山はよんでおりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌いでございますわ。何《ど》うも日本の文壇などで、仏蘭西文学《フランス文学》とか露西亜文学《ロシア文学》だとか申しましても、英語の廉価版《チープエジション》のある作家ばかりが、流行っているようでございますわね。」  信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。 「モウパッサンが、お嫌いなのは僕も同感ですが、じゃ、どんな作家がお好きなのです?」 「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」 「メリメは、どんなものがお好きです。」 「みんないいじゃありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作は|ほんとう《本当》にいいじゃありませんか。」 「あの女主人公《ヒロイン》を何《ど》うお考えになります。」 「好きでございますよ。」  言下にそう答えながら、夫人は嫣然《にっこり》と笑った。 「妾《わたくし/》そう思いますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思いますの。男性の甚だしい我儘だと思いますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移していながら、平然と済《済ま》していますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直《す》ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾《わたくし》、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考える度毎《たび毎》に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずには《は-》いられないのです。」  夫人の美しい顔が、興奮していた。やや薄赤くほてった頬《ホオ》が、悩しいほどに、魅惑的《チャーミング》であった。  信一郎は生れて初《始》めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会ったように思った。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考えずには《は-》いられなかった。彼女は、愛らしく慎《/慎》しく従順貞淑《/従順貞淑》な妻には違いない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないように、広い広い隔《隔たり》が横わっている。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違いない。  が、話が少しでも、高尚になり精神的《/精神的》になると、もう小学生と話しているような、もどかしさと頼りなさがあった。同伴の登山者が、わずか一町か二町か、離れているのなら、麾いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れていれば、何《ど》うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔《隔たり》を感ぜずには《は-》いられなかった。  が、彼は今までは、諦めていた。日本婦人《ニホンフジン》の教養が現在の程度で止まっている以上、そうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。  が、彼は今瑠璃子夫人《いま瑠璃子夫人》と会って話していると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云《言》っても、思想の上から云《言》っても優《/優》に男性と対抗し得るような女性の存在し始めたことを知ったのである。夫人と話していると、妻の静子に依って充されなかった欲求が、わずか三四分《サンヨンプン》の同乗に依って、十分に充たされたように思った。  そう思ったとき、その貴い三四分間《サンヨンプンカン》は、過ぎていた。自動車は、万世橋の橋上《ハシジョウ》を、やや速力を緩めながら、走っていた。 「いやどうも、大変有難うございました。」  信一郎は、そう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。  その時に、瑠璃子夫人は、突然何《突然’何》かを思い出したように云《言》った。 「貴君《あなた》! 今晩お暇《ひま》じゃなくって?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「貴君《あなた》! 今晩お暇《ひま》じゃなくって?」  と、云《言》う思いがけない問《問い》に、信一郎は立ち上ろうとした腰を、つい降《下ろ》してしまった。 「暇と云《言》いますと。」  信一郎は、夫人の問《問い》の真意を解《-げ》しかねて、ついそう訊き返さずには《は-》いられなかった。 「何かお宅に御用事《ご用事》があるかどうか、お伺いいたしましたのよ。」 「いいえ! 別に。」  信一郎は夫人が、何を云《言》い出すだろうかと云《言》う、軽い好奇心に胸を動かしながら、そう答えた。 「実は‥‥。」夫人は、微笑を含みながら、一寸云《ちょっと云》い澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜人《ロシア人》を、晩餐旁帝劇《晩餐かたがた帝劇》へ案内してやろうと思っていましたの。それでボックスを買って置きましたところ、向《向こ》うが止むを得ない差支《差し支え》があると云《言》って、辞退しましたから妾一人《/わたくし一人》でこれから参《-まい》ろうかと思っているのでございますが、一人ボンヤリ見ているのも、何だか変でございましょう。如何《いかが》でございます、もし、およろしかったら、付き合って下さいませんか。どんなに有難いか分《分か》りませんわ。」  夫人は、心から信一郎の同行を望んでいるように、余儀ないように誘った。  信一郎の心は、そうした突然の申出《申し出》を聴いた時、可《か》なり動揺せずにはいなかった。今までの三四分間《サンヨンプンカン》でさえ彼に取ってどれほど貴重な三四分間《サンヨンプンカン》であるか分《分か》らなかった。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味わっていると、彼には今まで、閉されていた楽しい世界が、夫人との接触に依って、洋々と開かれて行くようにさえ思われた。  そうした夫人と、今宵一夜を十分《充分》に、語ることが出来ると云《言》うことは、彼にとってどれほどな、幸福と欣《喜》びを意味しているか分《分か》らなかった。  彼は、直《す》ぐ同行を承諾しようと思った。が、その時に妻の静子の面影が、チラッと頭を掠め去った。新橋へ、人を見送りに行ったと云《言》う以上、二時間もすれば帰って来《-く》るべき筈の夫を、《:、》夕餉の支度を了《お》えて、ボンヤリと待ちあぐんでいる妻の邪気《あどけ》ない面影が、|暫ら《暫》く彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄《まで》も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハッキリと分《分か》っていた。 「如何《いかが》でございます。そんなにお考えなくっても、手軽に定《決》めて下さっても、およろしいじゃありませんか。」  夫人は躊躇している信一郎の心に、拍車を加えるように、やや高飛車にそう云《言》った。信一郎の顔をじっと見詰めている夫人の高貴《ノーブル》な厳《/おごそ》かに美しい面《オモテ》が、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛《/可愛》い面影を打ち消した。 「そうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だってある。飽き飽きするほど幾夜だってある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がそ《/そ》う幾度もあるだろうか。こんな浪漫的《ロマンチック》な美しい機会が、そう幾度だってあるだろうか。生涯に再びとは得がたいた《/た》だ一度の機会であるかも知れない。こうした機会を逸しては‥‥」《。」》  そう心の中で思うと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのように、フワフワとなってしまった。彼は思い切って云《言》った。 「もし貴女《貴方》さえ、御迷惑《ご迷惑》でなければお伴《伴’》いたしてもいいと思います。」 「あらそう。付き合って下さいますの。それじゃ、直《す》ぐ、丸の内へ。《!》」  夫人は、後《あと》の言葉を、運転手へ通ずるように声高《声’高》く云《言》った。  自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首《シャシュ》を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐように、馳《駆》けり《-り》始めた。  電車道の、鋪石《ペーヴメント》が悪くなっている故《せい》か、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けている。  車が、小川町の角《カド》を、急に曲ったとき、夫人は思い出したように、とぼけたように訊いた。 「失礼ですが、奥様おありになって?」 「はい。」 「御心配《ご心配》なさらない! 黙って行《-い》らしっては?」 「いいえ。決して。」  信一郎は、言葉丈《言葉だけ》は強く云《言》った。が、その声には一種の不安が響いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第九章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  帝劇の南側の車寄《車寄せ》の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処《そこ》にはどんな人々がいるかも知れない群衆の中へ、こうした美しい、それ丈人目《だけ人目》を惹き易い女性と、たった二人連《ふたり連》れ立《だ》って、公然と入って行くことが、可《か》なり気になった。  が、信一郎のそうした心遣いを、救けるように、舞台では今丁度幕《今ちょうど幕》が開いたと見え、廊下には、遅れた二三《二’三》の観客が、急ぎ足に、座席《シート》へ帰って行くところだった。  夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下《下ろ》したとき、信一郎はやっと、自分の心が落着《落ち着》いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、|ほの暗《仄暗》いのが嬉しかった。  夫人は席へ着いたとき、二三分《ニサンプン》ばかり舞台を見詰めていたが、ふと信一郎の方《ほう》を振り返ると、 「本当に御迷惑《ご迷惑》じゃございませんでしたの。芝居はお嫌いじゃありませんの。」 「いいえ! 大好きです。尤《もっと》も、今の歌舞伎芝居には可《か》なり不満ですがね。」 「妾《わたくし》も、そうですの。外《ほか》に行く処《ところ》もありませんからよく参りますが、妾達《わたくしたち》の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸《/丸》きり違っているのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云《言》えば、みんな個性のない自我《/自我》のない、古い道徳の人形のような女ばかりでございますのね。」 「同感です。全く同感です。」  信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。 「親や夫に臣従しないで、もっと自分本位の生活を送ってもいいと思いますの。古い感情や道徳に囚われないで、もっと解放された生活を送ってもいいと思いますの。英国のある近代劇の女主人公《女主人公’》が、男が雲雀《スカイラーク》のように、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だって雲雀《スカイラーク》のように、多くの男と戯れる権利があると申しておりますが、そうじゃございませんでしょうか。妾《わたくし》もそう思うことがございますのよ。」  夫人は、周囲の静けさを擾《乱》さないように、出来る丈信一郎《だけ信一郎》の耳に口を寄せて語りつづけた。夫人の温い薫るような呼吸が、信一郎のほてった頬《ホオ》を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中《身体じゅう》が、溶《とろ》けてしまいそうな魅力を感じた。 「でも、貴君《貴方》なんか、そうした女性は、お好きじゃありませんでしょうね。」そう、信一郎の耳に、あたたかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然《にっこり》と笑って見せた。男の心を、掻き擾《乱》してしまうような媚《媚び》が、そのスラリとした身体全体に動いた。  夫人の大胆な告白と、美しい媚《媚び》のために、信一郎は、目が眩んだように、フラフラとしてしまった。美しい妖精に魅せられた少年のように、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、ただ茫然と黙っていた。  夫人は、ひらりと身を躱すように、真面目なし《/し》んみりとした態度に帰っていた。 「でも、妾《わたくし》、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君《貴方》が初めてなのよ、《:、》文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、直《す》ぐ誤解されてしまうのですもの、妾《わたくし》、かねてから、貴君《貴方》のようなお友達が欲しかったの、《:、》本当に妾《わたくし》の心持《心持ち》を、聴いて下さるような男性のお友達が、欲しかったの、《:、》二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと云《言》うのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと云《言》うのは、嘘でございますわね。本当に自覚している異性の間なら、立派な友情が何時《いつ》までも続くと思いますの。貴方と妾《わたくし》との間で、先例を開いてもいいと思いますわ。ホホホホ。」  夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近《ホオ’近》く寄せられていた。信一郎は、うっとりとした心持《心持ち》で、阿片吸入者《アヘン吸入者》が、毒と知りながら、その恍惚たる感覚に、身体を委《任》せるように、夫人の蜜のように甘い呼吸と、音楽のように美しい言葉とに全身を浸していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第16話】 【客間の女王】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取っては、夢とも現《-うつつ》とも分《’分か》ちがたいような恍惚《/恍惚》たる時間だった。  夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香《香り》が、彼の感覚を爛《爛ら》し、彼の魂を溶かしたと云《言》ってもよかった。  彼は、其夜《その夜》、半蔵門迄《半蔵門まで》、夫人と同乗して、其処《そこ》で新宿行《新宿行き》の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくっきりと白い顔を、のぞかしながら、 「それでは、此次《この次》の日曜に屹度《きっと-》お訪ね下さいませ。」と、媚びるような美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するように思った。彼は、其処《そこ》に化石した人間のように立ち止まって、葉桜の樹下闇《コノシタ闇》を、ほのぼのと照し出しながら、遠く去って行く自動車の車台の後《あと》の青色の灯《明かり》を、何時《いつ》までも何時《いつ》までも見送っていた。彼の頬《ホオ》には、尚夫人《なお夫人》の甘い快い呼吸《息》の匂《匂い》が漂うていた。彼《彼’》の耳の底には、夫人の此世《この世》ならぬ美しい声の余韻が残っていた。彼の感覚も心も、夫人に酔うていた。  彼《彼’》の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のような言葉が、一つ一つ記憶の裡に甦《よみ》がえって来た。『自分を理解して呉《く》れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きじゃありませんの』と云《言》ったような馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚《媚び》のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。  自分が、生《生ま》れて始めて会ったと思うほどの美しい女性から、唯一人《ただ一人》の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。  彼《彼’》の頭の裡には、もう半面紫色になった青木淳の顔もなかった。謎の白金《プラチナ》の時計もなかった。愛している妻の静子の顔までが、此《こ》の﨟たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻《しばしば掻》き消されそうになっていた。  十二時近く帰って来た夫を、妻は何時《いつ》ものように無邪気に、何の疑念もないように、いそいそと出迎えた。そうした淑かな妻の態度に接すると、信一郎は可《か》なり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今迄《今まで》は可《か》なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのを何《ど》うともすることが出来なかった。  その|次ぎ《次》の日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描《-えが》いていることが多かった。 「あら、何をそんなにぼんやりしていらっしゃいますの、今度の日曜は何日? と云《言》ってお尋ねしているのに、ただ『うむ!《/》 うむ!《/》』と云《言》っていらっしゃるのですもの。何をそんなに考えていらっしゃるの?」  静子は、夫がボンヤリしているのが、可笑しいと云《言》いながら、給仕をする手を止めて、笑いこけたりした。夫が、他の女性のことを考えて、ボンヤリしているのを、可笑しいと云《言》って無邪気に笑いこける妻のいじらしさが、分《分か》らない信一郎ではなかったが、《:、》それでも彼は刻々に頭の中に、浮《浮か》んで来る美しい面影を拭い去ることが出来なかった。  到頭夫人《とうとう夫人》と約束した|次ぎ《次》の日曜日が来た。その間《あいだ》の一週間は、信一郎に取っては、一月《ひと月》も二月《ふた月》もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでいるように、夫人がやっぱりその日曜を待ち望んでいて呉《く》れることを信じて疑わなかった。  夫人が、自分を唯一人《ただ一人》の真実の友達として、選んで呉《く》れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろいろに頭の中に描《-えが》かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が云《言》った。もしそれがそうなったら、何《ど》うしたらよいだろう。あの自由奔放な夫人は、屹度云《きっと云》うだろう。 「それが、そうなったって、別に差支《差し支え》はないのよ。」  夫のない夫人はそれで差支《差し支え》がないかも知れない。が、自分は何《ど》うしたらいいだろう。妻のある自分は。結婚して間《マ》もない愛妻のある自分は。  信一郎は、そうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。  夫人を訪ねるのも、二度目であった。が、妻を欺くのも二度目であった。 「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合わして、多摩川へ行く筈なのだよ。」  帽子を持って送って出た静子に、彼は何気なくそう云《言》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  電車に乗ってからも、妻を欺いたと云《言》う心持《心持ち》が、可《か》なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分が尋ねて行くのを、じっと待っていて呉《く》れるのだと思うと、電車の速力さえ平素《いつも》よりは、鈍いように思われた。  夫人と会ってからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮《浮か》んで来た。文芸や思想の話に就《就い》ても、今日はもっと、自分の考えも話して見よう。自分の平生《いつも》の造詣を、十分披瀝して見よう。信一郎はそう考えながら、夫人のそれに対する溌剌たる受答《受け答え》や表情を絶えず頭の中に描き出しながら何時《/何時》の間にか五番町の宏壮な夫人の邸宅の前に立っている自分を見出《見い出》した。  お濠の堤《土手》の青草《アオクサ》や、向《向こ》う側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もっと激しい夏の色が動いていた。  十日ほど前には、可《か》なりびくびくと潜《-くぐ》った花崗石らしい大石門を、今日は可《か》なり自信に充ちた歩調で潜《-くぐ》ることが出来た。  楓を植え込んである馬車廻《馬車回》しの中《なか》に、ただ一本の百日紅が、もう可《か》なり強い日光の中に、赤く咲き乱れているのが目に付いた。  遉《さすが》に、大理石の柱が、並んでいる車寄せに立ったとき、胸があやしく動揺するのを感じた。が、夫人が別れ際に、再び繰り返して、 「本当にお暇《ひま》なとき、何時《いつ》でもいらしって下さい。誰も気の置ける人はいませんのよ。妾《わたくし》がお山の大将をしているのでございますから。」と、言った言葉が、彼に元気を与えた。その上に、あれほど堅く約束した以上、屹度心《きっと心》から待っていて呉《く》れるに違《違い》ない。心から、歓び迎えて呉《く》れるに違《違い》ない。そう思いながら、彼は「|押せ《プッセ(押せ)》!」と、仏蘭西語《フランス語》で書いてある呼鈴に手を触れた。  この前、来たときと同じように、小さい軽い靴音が、それに応じた。扉《ドア》が静《静か》に押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受《名刺受け》の銀の盆を、手にしながら、笑靨《笑窪》のある可愛い顔《’顔》を現した。 「あのう、奥様にお目にかかりたいのですが。」  信一郎が、そう言うと少年は待っていたと言わんばかりに、 「失礼でございますが、渥美さまとおっしゃいますか。」  信一郎は軽く肯《頷》いた。 「渥美さまなら、直《す》ぐ何《ど》うかお通り下さいませ。」  少年は、慇懃に扉《ドア》を開けて、奥を指《指さ》した。 「何《ど》うか此方《こちら》へ。今日は奥の方《ほう》の客間にいらっしゃいますから。」  敷き詰めてある青い絨毯の上を、少年の後《あと》から歩む信一郎の心は、可《か》なり激しく興奮した。自分の名前を、ちゃんと玄関番へ伝えてある夫人の心遣いが、嬉しかった。一夜夫人《一夜/夫人》と語り明したことさえ生涯《/生涯》に二度と得がたい幸福であると思っていた。それが、一夜限りの空しい夢と消えないで、実生活の上に、ちゃんとした根《’根》を下《下ろ》して来たことが、信一郎には此上《この上》なく嬉しかった。彼は絨毯の上を、しっかりと歩んでいた積《積り》であったが、もし傍観者があったならば、その足付《足付き》が、宛然躍《まるきり躍》っているように見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人限《二人ぎ》り、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮《暮ら》すことが出来る。そうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れそうに一杯だった。  長い廊下を、十間《10間》ばかり来たとき、少年は立ち止まって、其処《そこ》の扉《ドア》を指した。 「此方《こちら》でございます。」  信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子に身体を埋《う-ず》ませるように掛けながら、自分を待っているのを想像した。  彼は、興奮の余り、かすかに顫《震》えそうな手を扉《ドア》の把手《ハンドル》にかけた。彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、その扉《ドア》を静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるように、ワーッと彼を襲って来たものは、数多い男性が一斉に笑った笑い声だった。  彼は、不意に頭から、水をかけられたように、ゾッとして立ち竦んだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  彼がハッと立ち竦んだ時には、もう半身は客間の中に入っていた。  凡《全》てが、意外だった。瑠璃子夫人の華奢なスラリとした、身体の代《代わ》りに、其処《そこ》に十人に近い男性が色々な椅子に、いろいろな姿勢で以って陣取っていた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のように、客間の中央に、女王のような美しさと威厳とを以《以っ》て、《:、》大きい、彼女の身体を埋《埋ず》めてしまいそうな腕椅子に、ゆったりと腰を下《下ろ》していた。  楽しい予想が、滅茶滅茶になってしまった信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思った。が、彼が一足踏《一足’踏》み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に蒐《集》まっていた。 「ああ、お前もやって来たのだな。」と、云《言》ったような表情が、薄笑いと共に、彼等の顔の上に浮《浮か》んでいた。信一郎は、そうした表情に依って可《/か》なり傷つけられた。  瑠璃子夫人は、遉《さすが》に目敏く彼を見ると、直《す》ぐ立ち上《上が》った。 「あ、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻《さっき》からお待ちしていました。」  そう云《言》いながら、彼女は部屋の中を見廻《見回》して、空椅子《カラ椅子》を見付けると、その空椅子《カラ椅子》の直《す》ぐ傍《そば》にいた学生に、 「ああ阿部《/阿部》さん一寸《/ちょっと》その椅子を!」と、云《言》った。  するとその学生は、命令をでも受けたように、 「はい!」と、云《言》って気軽に立ち上《上が》ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるままに、夫人の腕椅子の直《す》ぐ傍《そば》へ持って来た。 「さあ! お掛けなさいませ。」  そう云《言》って、夫人は信一郎を麾《さしま》ねいた。孰《どち》らかと云《言》えば、小心《ショウシン》な信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人の傍近《そば近》く坐ることが、可《か》なり心苦しかった。彼は、自分の頬《ホオ》が、可《か》なりほてって来るのに気が付いた。  信一郎が椅子に着こうとすると夫人《/夫人》は一寸押《ちょっと押》し止《とど》めるようにしながら云《言》った。 「そうそう。一寸御紹介《ちょっとご紹介》して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱へ出ていらっしゃる。それから、茲《ここ》にいらっしゃる方は、──《─:》そう右《/右》の端から順番に起立していただくのですね、さあ小山《コヤマ》さん!」  と彼女は傍若無人と云《言》ってもよいように、一番縁側《一番ヴェランダ》の近くに坐っている、若いモ《/モ》ーニングを着た紳士を指した。紳士は、柔順《素直》にモ《/モ》ジモジしながら立ち上《上が》った。 「外務省に出ていらっしゃる小山男爵《コヤマ男爵》。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。其《そ》の次の方が、帝大の文科《ブン科》の三宅さん、作家志望でいらっしゃる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらっしゃる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存《ご存》じ? 近代劇協会にいたことのある方ですわ。其《そ》の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらっしゃる。彼処に一人離れていらっしゃる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんな私のお友達ですわ。」  夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上《上が》る男性を、出席簿でも調べるように、淀みなく紹介した。  信一郎は、可《か》なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快《ほど不愉快》だった。自分一人を友達として選ぶと云《言》った夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒《フンヌ》と嫉妬との入り交じったような激昂《ゲッコウ》で、眼が眩《-くら》めくようにさえ感じた。彼は直《す》ぐ席を蹴って帰りたいと思った。が、何事もないように、こぼれるように微笑《微笑’》している夫人の美しい顔を見ていると、胸の中の激しい憤怒《フンヌ》が春風に解くるように、何時の間にか、消えてゆくのを感じた。  コロネーションに結った黒髪は、夫人の長身にピッタリと似合っていた。黒地に目も醒めるような白い棒縞のお召が、夫人の若々しさを一層引立《いっそう引立》てていた。白地の仏蘭西縮緬《フランスチリメン》の丸帯に、施された薔薇の刺繍は、匂入りと見え、人の心を魅するような芳香が、夫人の身辺を包んでいる。  信一郎の失望も憤怒《フンヌ》も、夫人の鮮《鮮やか》な姿を見ていると、何時の間にか撫でられるように、和《なご》んで来るのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「渥美さん! 今大変《いま大変》な議論が始まっているのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だろうと云《言》う問題なのでございますよ。貴君《貴方》の御説《お説》も伺わして下さいませな。」  夫人は、信一郎を会話の圏内に入《い》れるように、取り做《な》して呉《く》れた。が、初めて顔を合わす未知の人々を相手にして、直《す》ぐおいそ《そ-》れ!《/》 と文学談などをやる気にはなれなかった。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴君《貴方》が初めてなのよ。」と、云《言》うような、今となっては白々しい嘘が、彼の心を抉《-えぐ》るように思い出された。 「だって奥さん! 独歩には、いい芽があるかも知れません。が、然《しか》しあの人は先駆者だと思うのです。本当に完成した作家ではないと思うのです。」  信一郎が、何も云《言》い出さないのを見ると、三宅と云《言》う文科《ブン科》の学生が、可《か》なり熱心な口調でそう云《言》った。先刻《さっき》から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じているらしかった。 「それに、独歩のような作品は、外国の自然派の作家には幾何《いくら》でもあるのだからね。先駆者と云《言》うよりも、或意味《ある意味》では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことは確《確か》だが、それがあの人の創造であるとは云《言》われないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! そうではありませんか、奥さん!」  モーニングを着た小山男爵《コヤマ男爵》は、自分の見識に対する夫人の賞讃を期待しているように、自信に充ちて云《言》った。 「でも妾《わたくし》、可《か》なり独歩を買っていますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見ていた作家は、独歩の外《ほか》にそ《/そ》う沢山はないように思いますのよ。ねえ、そうじゃございませんか。渥美さん。」  夫人は、多くの男性の中から、信一郎丈《信一郎だけ》を、選んだように、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでいなかった。四五年《シゴネン》も前に、『運命論者』や『牛肉と馬鈴薯《バレイショ》』などを読んだことがあるが、それが何《ど》う云《言》う作品であったか、もう記憶にはなかった。が、夫人に話しかけられて、ただ盲従的に返答することも出来なかった。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何か彼《か》にか自分の意見を云《言》わねばならぬと思った。 「そうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏しているように思うのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉《コーヨー》などに代表させたいと思うのです。」 「尾崎紅葉!《/》」小山男爵《コヤマ男爵》は、『クスッ』と冷笑するような口調で云《言》った。 「『金色夜叉』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」  文科《ブン科》の学生の三宅が、その冷笑を説明するように、吐出《吐き出》すように云《言》った。  瑠璃子夫人は、三宅の思い切った断定を嘉納するように、ニッと微笑を洩《洩ら》した。信一郎は初めて、口を入れて、直《す》ぐ横面《横っ面》を叩かれたように思った。瑠璃子夫人までが、微笑で以《以っ》て、相手の意見を裏書《裏書き》したことが、更に彼《彼’》の心を傷《傷つ》けた。彼は思わず、ムカムカとなって来るのを何《ど》うともすることが出来なかった。彼は、自分の顔色が変《変わ》るのを、自分で感じながら、死身になって口《’口》を開いた。 「『金色夜叉』を通俗小説だと云《言》うのですか。」  彼の口調は、詰問になっていた。 「無論、それは読む者の趣味の程度に依ることだが、僕には全然通俗小説だと思われるのです。」  若い文科大学生《ブン科大学生》は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語った。 「それは、貴君《貴方》が作品と時代と云《言》うことを考えないからで《で-》す。現在の文壇の標準から云《言》えば、『金色夜叉』の題目《テーマ》なんか、通俗小説に違《違い》ないです。が、然《しか》しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過していることを忘れているからです。現在の文壇で、貴君《貴方》が芸術的小説だと信じているものでも、二十年も経《-た》てば、みんな通俗小説になってしまうのです。過去の作品を論ずるのには、時代と云《言》うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今読《今’読》めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」  信一郎は、思いの外《ほか》に、スラスラと出て来る自分の雄弁に興奮していた。 「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」  彼は、きっぱりと断定するように云《言》った。 「それもそうですわね。」  瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したように、しみじみそう云《言》った。信一郎は俄に勇敢になって来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分《分か》りそうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵《コヤマ男爵》との二人が、躍気《躍起》になった。  殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤《心持ち薄赤》くしながら可《/か》なり興奮した調子で云《言》った。 「時代が経《-た》てば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説は何時《いつ》が来たって、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、何時《いつ》が来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的な閃《閃き》がありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉《コーヨー》の考え方とか物の観方《見方》と云《言》うものは、常識の範囲を、一歩《1歩》も出ていないのですからね。ただ、洗煉された常識に過ぎないのですよ。例えば『三人妻』など云《言》う作品だって如何《/いか》にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的型《常識的タイプ》に過ぎないのですからね。紅葉《コーヨー》を以《以っ》て、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支《差し支》えないが、第一の文豪として、紅葉《コーヨー》を推す位《くらい》なら、むしろ露伴柳浪美妙《露伴/柳浪/美妙》、そんな人の方《ほう》を僕は推したいね。」  三宅の語り終るのを待ち兼《か》ねたように、小山男爵《コヤマ男爵》は、横から口を入れた。 「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれていると云《言》うことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向《バンニン向》きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」  二人の、攻撃的な挑戦的《/挑戦的》な口調を聴いていると、信一郎もつい、ムカムカとなってしまった。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、嗾《けし》かけるような微笑を湛えて、『貴君《貴方》も負けないで、しっかりおやりなさい。』と、云《言》うように信一郎の顔を見ていた。 「それは可笑しいですな。」  そう云《言》いながら、信一郎は何処《どこ》か貴族的な傲慢さが、漂うている小山男爵《コヤマ男爵》の顔をじっと見た。 「そんな暴論はありませんよ。広く読まれているのが、通俗小説の証拠ですって、そんな暴論はないと思いますね。そう云《言》う議論をすれば、沙翁《シェクスピア》の戯曲だって、通俗戯曲だと云《言》うことになるじゃありませんか。ホーマアの詩《-し》だって、ダンテの神曲《シン曲》だって、みんな広く読まれていると云《言》う点で、通俗的作品と云《言》うことになりそうですね。僕は、そうは思いませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経《-た》てば、だんだん通俗化して行くのだと思うのですね。トルストイの作品が日本などでも段々通俗化《だんだん通俗化》して来たように、通俗化して行かない作品こそ、却って何かの欠陥があると思うのですね。御覧《ご覧》なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝わるのじゃありませんか。『金色夜叉』が通俗化しているからと云《言》って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀れていればこそ、民衆の教養が進むに従って、段々通俗化《だんだん通俗化》して行ったのだと思うのです。紅葉《コーヨー》の考え方や、観方《見方》はいかにも常識的かも知れません。が、然《しか》し作品全体の味とかそ《/そ》の表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか。あの作品の規模の大きさから云《言》っても、画面的に描き出す手腕から云《言》っても、明治時代無二《明治時代/無二》の作家と云《言》ってもよいと思うのです。いや、あの鼈甲牡丹のように、絢爛華麗《絢爛’華麗》な文章丈《文章だけ》を取っても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分《充分》だと思うのです。」  信一郎は、可《か》なり熱狂して喋った。法科に籍を置いていたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さえなければ、欣《喜》んで文科《ブン科》をやった筈の信一郎は、文学に就《就い》ては自分自身の見識を持っていた。  信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通《文学ツウ》に過ぎない小山男爵《コヤマ男爵》は、もうとっくに圧倒されたと見え、その白い頬《ホオ》を、心持赤《心持ち赤》くしながら、不快そうに黙ってしまった。  三宅は、云《言》い込められた口惜《悔》しさを、何《ど》うかして晴そうと、駁論の筋道を考えているらしく口《/口》の辺りをモグモグさせていた。 「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらっしゃる。妾全《わたくし/全》く感心してしまいましたわ。」  瑠璃子夫人は、心から感心したように、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。  信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のように、晴れがましい揚々《/揚々》たる気持《気持ち》になっていた。 「然《しか》し‥‥。」と、三宅と云《言》う青年が、必死になって駁論を初《始》めようとした時だった。  廊下に面した扉《ドア》を、外《ソト》からコツコツと叩く音がした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「誰方?」  夫人は、扉《ドア》を叩く音に応じてそう云《言》った。 「僕です。」  外の人は明晰な、美しい声でそう答えた。 「あら、秋山さんなの。丁度《ちょうど》よいところへ。」  夫人は、そう云《言》いながら、いそいそと椅子を離れた。信一郎が、入って来たときは、夫人はただ椅子から、腰を浮かした丈《だけ》だったのに。  夫人が、手ずから扉《ドア》を開けると、『僕です。』と、名乗った男は、軽く会釈をしながら、入って来た。信一郎は、一目見《ひと目見》たときに、何処《どこ》かで見覚えのある顔だと思ったが、一寸思《ちょっと思》い出せなかった。が、一目見《ひと目見》た丈《だけ》で、作家か美術家であることは、直《す》ぐ解った。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのように、振り乱していた。が、頭は極端に奔放であるにも拘わらず、薩摩上布の衣物《着物》に、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、可《か》なり瀟洒たるものだった。夫人はその男とは、立ちながら話した。 「暫く御無沙汰致《ご無沙汰致》しました。」 「|ほんとう《本当》に長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになったって、新聞に出ていましたが、行《い》らっしゃらなかったの。」 「いや、何処《どこ》へも行きやしません。」 「それじゃ、やっぱり例の長篇で苦しんでいらしったの。本当に、妾《わたくし》の家へいらっしゃる道を忘れておしまいになったのかと思っていましたの。ねえ! 三宅さん。」  夫人は、三宅と云《言》う学生を顧みた。 「|やあ《ヤア》!」 「|やあ《ヤア》!」  三宅とその男とは顔を見合《見合わ》して挨拶した。 「本当に、|暫ら《暫》くお見えになりませんでしたね。貴君《貴方》が、いらっしゃらないと、此処《ここ》の客間《サロン》も淋しくていけない。」  三宅は、後輩が先輩に迎合するような、口の利き方をした。 「さあ! 秋山さん! 此方《こっち》へお掛けなさいませ。本当によい所へ入《い》らしったわ。今貴君《いま貴方》に断定を下していただきたい問題が、起《起こ》っていますのよ。」  そう云《言》いながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍《傍ら》へ、置き換えた。 「さあ! お掛けなさいませ! 貴君《貴方》の御意見《ご意見》が、伺いたいのよ。ねえ! 三宅さん!」  信一郎に、説き圧《お》されていた三宅は、援兵を得たように、勇み立った。 「さあ、是非秋山さんの御意見《ご意見》を伺いたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代《いま明治時代》の第一の小説家は、誰かと云《言》う問題が、起《起こ》っているのですがね、貴君《貴方》のお考えは、何《ど》うでしょう。こう云《言》う問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」  三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするように云《言》った。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するように信一郎に云《言》った。 「此《こ》の方、秋山正雄さん、御存《ご存》じ! あの赤門派の新進作家の。」  秋山正雄、そう云《言》われて見れば、最初見覚えがあると思ったのは、間違っていなかったのだ。信一郎が一高の一年に入った時、その頃三年であった秋山氏は文科《ブン科》の秀才として、何時《いつ》も校友会雑誌に、詩や評論を書いていた。それが、大学を出ると、見る間《マ》に、メキメキと売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するような盛名を馳せている。その上、教養の広く多方面な点では若《/若》い小説家としては珍らしいと云《言》われている人だった。  信一郎は、自分が有頂天になって、喋べった文学論が、こうした人に依って、批判される結果になったかと思うと、可《か》なりイヤな羞しい気がした。有頂天になっていた彼の心持《心持ち》は忽《/忽》ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依っては、此《こ》の教養の深い文学者《文学シャ》──しかも先輩に当《当た》っている──と、文学論を戦わせなければならぬかと思うと、彼は思わず冷汗《冷や汗》が背中に湧いて来るのを感じた。  信一郎の心が、不快な動揺に悩まされているのを外《よそ》に、秋山氏は、今火《いま火》を点けた金口《キングチ》の煙草を燻らしながら、落着《落ち着》いた調子で云《言》った。 「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎《と》に角皆様《かく皆様》の御意見《ご意見》を承わろうじゃありませんか。」  そう云《言》いながら、秋山氏は額に掩いかかる長髪を、二三度続《二’三度続》けざまに後《後ろ》へ掻き上げた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「大分《だいぶ》いろいろな御意見《ご意見》が出たのですがね。茲《ここ》にいらっしゃる渥美君、確かそう仰しゃいましたね。」三宅は、一寸信一郎《ちょっと信一郎》の方を振り顧《返》った。「大変紅葉《大変コーヨー》をお説きになるのです。紅葉《コーヨー》を措《-お》いて明治時代の文豪は、外《ほか》にないだろうと、こう|仰しゃ《仰》るのです。文章丈《文章だけ》を取っても、鼈甲牡丹のような絢爛さがあるとか何とか|仰しゃ《仰》るのです。」  三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝えている語調の中には、『此《こ》の素人が』と云《言》った語気が、ありありと動いていた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方《ほう》をジロリと一瞥したが、吸いさしの金口《キングチ》の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、擬《紛い》の鼈甲牡丹なら三四十銭《サンヨン十銭》で、其処《そこ》らの小間物屋に売っていそうですね。」  瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どっと笑った。 「紅葉山人《コーヨー山人》の絢爛さも、きィ《い》ちゃん、みィ《い》ちゃん的読者を欣《喜》ばせる擬《紛い》の鼈甲牡丹じゃありませんかね。一寸見《ちょっと見》は、光沢《ツヤ》があっても、触って見ると、牛の骨か何かだと云《言》うことが、直《す》ぐ分《分か》りそうな。」  秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるような才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたような、おひゃらかしてしまうような態度に出ることは、信一郎は予々知《かねがね知》っていた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられているのだと思うと、信一郎は不愉快とも憤怒《フンヌ》とも付かぬ気持《気持ち》で、胸が一杯だった。が、こうした文学者を相手に、議論を戦わす勇気も自信もなかった。相手の辛辣な皮肉を黙々として、聴いている外《ほか》はなかった。ただ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕《捕ま》えて、真向《真っ向》から皮肉を浴びせているのが、可《か》なり大人気《大人げ》ないようにも思われて、それが恨めしくも、憤ろしくもあった。 「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」  秋山氏は、一刀の下《もと》に、何かを両断するように云《言》った。  瑠璃子夫人は、『おや。』と云《言》ったような軽《’軽》い叫びを挙げながら云《言》った。 「三宅さんも、先刻《さっき》そんなことを云《言》ったのよ。あ、分《分か》った! 三宅さんのは秋山さんの受売《受け売り》だったのね。」  三宅は、赤面したように、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドッと笑った。  秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、 「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」  一座は、秋山氏の皮肉を、又《また》ドッと笑った。その笑《笑い》が静まるのを待ち兼ねて、三宅が云《言》った。 「今僕《今’僕》が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが云《言》われるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考えなければならない。文学史的に見なければならない。こう|仰しゃ《仰》るのです。」 「文学史的に見る。それは卓見《タクケン》だ。」秋山氏は、ニヤニヤと冷笑《/冷笑》とも微笑とも付かぬ笑いを浮べながら云《言》った。 「だが、紅葉山人《コーヨー山人》と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いているのなら、『金色夜叉』が通俗小説であっても、一向差支《一向’差し支え》ないが、《:、》紅葉山人《コーヨー山人》と同時代に生きていて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいている人が外《ほか》にあるのですからね。幾何文学史的《いくら文学史的》に見ても、紅葉《コーヨー》を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人《コーヨー山人》などは、明治文学の代表者と云《言》うよりも、徳川時代文学の殿将《デンショウ》ですね。あの人の考え方にも、観方《見方》にも描き方にも、徳川時代文学の殻が、こびりついているじゃありませんか。」  遉《さすが》の信一郎も、黙っていることは出来なかった。 「そう云《言》う観方《見方》をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いているじゃありませんか。何も、紅葉一人丈《コーヨーひとりだけ》じゃないと思いますね。」 「いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいている作家がありますよ。」 「そんな作家が、本当にありますか。」  信一郎も可《か》なり激《ゲキ》した。 「ありますとも。」  秋山氏は、水の如く冷たく云《言》い放った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第17話】 【汝妖婦《汝/妖婦》よ!】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「誰です。一体その人は。」  信一郎は、可《か》なり急き込んで訊いた。  が、秋山氏は落着《落ち着》いたまま、冷然として云《言》った。 「然《しか》し、こう云《言》う問題は、銘々の主観の問題です。僕が、此《こ》の人がこうだと云《言》っても、貴君《貴方》にそれが分《分か》らなければ、それまでの話ですが、兎《と》に角云《かく云》って見ましょう。それは、誰でもありません。あの樋口一葉《樋口イチヨウ》です。」  秋山氏は、それに少しの疑問もないように、ハッキリと云《言》い切った。  瑠璃子夫人は、それを聴くと、躍り上るようにして欣《喜》んだ。 「一葉《イチヨウ》! 妾《わたくし》スッカリ忘れていましたわ。そうそう一葉《/イチヨウ》がいますね。妾《わたくし》が、今まで読んだ小説の女主人公《女主人公’》の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。」 「御尤《ごもっと》もで《で-》す。勝気で意地っ張《張り》なところが貴女《貴方》に似ているじゃありませんか。」  秋山氏は、夫人を揶揄するように云《言》った。 「まさか。」  と、夫人は打ち消したが、其《そ》の比較が、彼女の心持《心持ち》に媚び得たことは明《明ら》かだった。 「一葉《イチヨウ》! そうそうあ《/あ》れは天才だ、夭折した天才だ! 一葉《イチヨウ》に比べると、紅葉《コーヨー》なんか才気《/才気》のある凡人に過ぎませんよ。」  小山男爵《コヤマ男爵》は、信一郎に云《言》い伏せられた腹癒《腹癒せ》がやっと出来たように、得々として口を挟んだ。 「そうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハッキリと分《分か》りますね。渥美さんの御意見《ご意見》じゃ、『金色夜叉』よりも六七年《ロクシチネン》も早く書かれた『たけくらべ』の方《ほう》が、もっと早く通俗小説になっている筈だが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説じゃありませんね。決してありませんね。」  三宅も、信一郎の方《ほう》を意地悪く見ながら、そう云《言》った。  其処《そこ》にいた多くの人々も、銘々に口を出した。 「『たけくらべ』! ありゃ明治文学第一《明治文学’第一》の傑作ですね。」 「ありゃ、僕も昔読んだことがある。ありゃ確《確か》にいい。」 「ああそうそう、吉原《ヨシワラ》の附近《付近》が、光景になっている小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがいたじゃありませんか。」 「女主人公《女主人公’》が、それを潜《密か》に恋している。が、勝気なので、口には云《言》い出せない。その中《うち》に、一寸《ちょっと》した意地から不和になってしまう。」 「信如《シンニョ》とか何とか云《言》う坊さんの子が、下駄の緒を切らして困っていると、美登利が、紅入友禅か何かの布片《切れ》を出してやるのを、信如《シンニョ》が妙な意地と遠慮とで使わない。あの光景なんか今《/今》でもハッキリと思い出せる。」  代議士の富田氏までが、そんなことを云《言》い出した。こうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すように云《言》った。 「兎《と》に角《かく》、明治の作家の中《うち》で、本当に人間の心を描《-えが》いた作家は、一葉《イチヨウ》の外《ほか》にはありませんからね。硯友社の作家が、文章などに浮身《浮き身》を窶して、本当に人間が描《-えが》けなかった中で、一葉丈《イチヨウだけ》は嶄然として独自の位置を占めていますからね。一代の驕児高山樗牛《驕児’高山樗牛》が、一葉丈《イチヨウだけ》には頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪として一葉《イチヨウ》を推しますね。」  秋山氏は、如何《いか》にも芸術家らしい冷静と力とを以《以っ》て、昂然とそう云《言》い放った。  信一郎は、もう先刻《さっき》からじりじりと湧いて来る不愉快さのために、一刻もじっとしては《は-》いられないような心持《心持ち》だった。凡《全》てが不愉快だった。凡《全》てが、癪に触った。樫の棒《’棒》をでも持って、一座の人間を片ッ《っ》端から、殴り付けてやりたいようにいらいらしていた。  そうした信一郎の心持《心持ち》を、知ってか知らずにか、夫人は何気ないように微笑《微笑’》しながら、 「渥美さん! しっかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いようでございますね。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、フラフラと立ち上《上が》るのを見ると、皆は彼が大《大い》に論じ始めるのかと思っていた。が、今彼《いま彼’》の心には、樋口一葉《樋口イチヨウ》も尾崎紅葉《/尾崎紅葉》もなかった。ただ、瑠璃子夫人に対する──夫人の移《/移》り易きこと浮草《/浮草》の如き不信《/不信》に対する憎《憎し》みと、恨みとで胸の中が燃え狂っていたのだった。  彼は一刻も早く此席《この席》を脱したかった。彼は其処《そこ》に蒐《集》まっている男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずには《は-》いられなかった。 「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」  彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分《分か》らなかった。  彼は、吃りながら、そう云《言》ってしまうと、泳ぐような手付《手付き》で、並んだ椅子の間を分けながら扉《ドア》の方《ホウ》へ急いだ。  遉《さすが》に一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人を挟《差しは》さんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあったが、そんな時に、形もなく打ち負《負か》された方《ほう》でも、こんなにまで取り擾《乱》したものは一人もなかった。  真蒼《真っ青》な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送った。  信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかった。後《あと》に残した華やかな客間を、心の中《中’》で唾棄した。夫人の艶美な微笑《微笑’》も蜜のような言葉も、今は空の空なることを知った。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持っていることを知った。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知った。彼女は、目的があって、男性を翻弄しているのではなく、ただ翻弄することの面白さに、翻弄していることを知った。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅していることを知った。丁度《ちょうど》、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄に人を毒殺するように。 『汝妖婦《汝/妖婦》よ!』  信一郎は、心の中で、そう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間《10間》に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。  周章てて見送ろうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与えなかった。  彼は突き破るような勢いで、玄関の扉《ドア》に手をかけた。  が、その刹那であった。  信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐように、 「渥美さん! 渥美さん! 一寸《ちょっと》お待ち下さい。」と、云《言》う夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪う妖魚《サイレン》の声として、そのまま聞き流して、戸外へ飛び出そうと思った。が、彼のそうした決心にも拘わらず、彼の右の手は、しびれたように、扉《ドア》の把手《ハンドル》にかかったまま動かなかった。 「何《ど》うなすったのです。本当にびっくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息を|はず《弾》ませながら云《言》った。  心配そうに見張った黒い美しい眸、象牙彫のように気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬《ホオ》、《:、》こうした神々しい﨟たけた夫人の顔を見ていると、彼女の嘘、偽りが、夢にもあろうとは思われなかった。彼女の微笑や言葉の中に、微塵賤《微塵’賤》しい虚偽が、潜んでいようとは思われなかった。 「何《ど》うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。妾《わたくし》、皆さんがお帰りになった後で、貴君《貴方》と丈《だけ》で、ゆっくりお話《話し》していたかったの。秋山さんと云《言》う方は、本当に|あまんじゃく《アマンジャク》よ。反対のために反対していらっしゃるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になってしまいますわね。客間《サロン》にいらっしゃるのがお厭なら、図書室《ライブラリー》の方《ホウ》へ、御案内《ご案内》いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになって、待っていらっしゃいませ。妾《わたくし》、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰っていただきますわ。ほんの少しの間、待っていて下さらない?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『ほんの少し待っていて下さらない?』と、云《言》う夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦《汝/妖婦》よ!』と、心の中で叫んでいた信一郎の決心も、またグラグラと揺ごうとした。  が、彼は揺ごうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グッと引き止め《め-》ることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜のような言葉に乗ぜられて、散々な目にあったではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしているのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に|与うる《アタウル》ものは、幻滅と侮辱との外《ほか》には、何もないのだ。男性の威厳を思え! 今日夫人《今日’夫人》から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかったのか。男性の威厳を思え! 夫人の言葉をスッパリと突き放してしまえ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、そう叫ぶ声があった。  信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る丈《だけ》の勇気を、やっと蒐めながら云《言》った。 「でも、奥さん! 私、このままお暇《イトマ》いたした方《ほう》がいいように思うのです。ああした立派な方が蒐《集》まっている客間には、私のような者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」  信一郎は、可《か》なりキッパリと断りながら、急いで踵《クビス》を返そうとした。 「まあ! 貴君《貴方》、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何か妾《わたくし》が貴君《貴方》のお気に触るようなことをいたしましたの、《:、》折角いらして下すって、直《す》ぐお帰りになるなんて、余《あんま》りじゃありませんか。客間に蒐《集》まっていらっしゃる方なんて、妾仕方《わたくし/仕方》なくお相手いたしておりますのよ。妾《わたくし》が、妾《わたくし》の方《ほう》から求めてお友達になりたいと思ったのは、本当は貴君《貴方》お一人なのですよ。」  信一郎は、そう云《言》いながら、何事もないように、笑っている夫人の美しさに、ある凄味をさえ感じた。夫人の口吻《口ぶり》から察すれば、夫人は周囲に集まっている男性を、蠅同様に思っているのかも知れない。もし、そうだとすると、信一郎なども、新来の初心《/ウブ》な蠅として、ただ一寸《ちょっと》した珍しさに引き止められているのかも知れない。そうした上部丈《ウワベだ》けの甘言に乗って、ウカウカと夫人の掌上《手の上》などに、止まっている中《うち》には、あの象牙骨《象牙ボネ》の華奢な扇子か何かで、ビシャリと一打《一打ち》にされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思った。 「でも、今日は帰らせていただきたいと思います。又改《また改》めて伺いたいと思いますから。」  信一郎は、可《か》なり強くなって、キッパリと云《言》った。  夫人も、遉《さすが》にそれ以上は、勧めなかった。 「あらそう。何《ど》うしてもお帰りになるのじゃ仕方がありませんわ。やっぱり、妾《わたくし》の心持《心持ち》が、貴君《貴方》にはよく分《分か》らないのですね。じゃ、左様なら。」  夫人は、淡々として、そう云《言》い切ると、グルリと身体を廻らして、客間の方《ホウ》へ歩き出した。  夫人から引き止められている内は、それを振切《振り切》って行く勇気があった。が、こうあっさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋《-さみ》しかった。  夫人と別れてしまうことに依って、異常な絢爛《/絢爛》な人生の悦楽を、味《味わ》う機会が、永久に失われてしまうようにも思われた。自分の人生に、明けかかった冒険《ロマンス》の曙が、またそのまま夜の方《ホウ》へ、逆戻りしたようにも思われた。  が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しおらしい花の美しさが、今彼《今’彼’》の心の裡によみがえった。  淋《さみ》しいし《/し》かし安心な、暗いし《/し》かし質素な心持《心持ち》で、彼は大理石の丸柱の立った車寄《車寄せ》を静《静か》に下った。もう此《こ》の家を二度と訪《-おとな》うことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺することもあるまい。彼がそんなことを考えながら、トボトボと門の方《ホウ》へ歩みかけた時だった。彼はふと、門への道に添う植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合っている二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾッとして其処《そこ》に立ち止まらずには《は-》いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、駭《驚》いて立ち竦んだのも、無理ではなかった。玄関から門への道に添う植込《植込み》の間から、透けて見える、キチンと整った庭園の丁度真中《ちょうど真ん中》に、庭石に腰かけながら、語り合っている二人の男を見たのである。  二人の男を見たことに、不思議はなかった。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与えた。  彼の方《ほう》へ面《オモテ》を向けて、腰を下《下ろ》している学生姿の男を見た時に、彼は思わず『アッ!』と、声を立てようとした。品《ヒン》のよい鼻、白皙の面《オモテ》、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳と瓜二つの顔だった。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかったならば、彼はそれを不慮《/不慮》の死を遂げた青年の亡霊と思い過《誤》ったかも知れなかった。  が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭《驚》いたものの直《/す》ぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。  然《しか》し、彼が最初の駭《驚》きから、やっと恢復した時、今度は第二の駭《驚》きが彼を待っていた。青年と相対して語っている男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けている。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のように閃いたものは、村上海軍大尉という名前であった。青年が、遺して行った手記の中に出て来る村上海軍大尉と云《言》う名前だった。  青木淳が、烈《激》しい忿恨《フンコン》を以《以っ》て、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリアリと甦って来た。 ◇。◇。◇。 『昨日自分《昨日’自分》は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見ているのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭《驚》きは、何《ど》んなであったろう。若《も》し、大尉が其処《そこ》に居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違《違い》ない。』 ◇。◇。◇。  信一郎は、青木淳の弟と語っている軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑《疑い》もなかった。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金《プラチナ》の時計を与えて、『これは、妾《わたくし》の貴君《貴方》に対する愛の印として、貴君《貴方》に差し上げますのよ。本当は、か《掛》け替《替え》のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云《言》いながら二人を翻弄し去った女性が、果《果た》して何人《ナンピ-ト》であるかが、信一郎にはもうハッキリと分《分か》ってしまった。 『汝妖婦《汝/妖婦》よ!』  彼は心の中《うち》で再びそう声高《声’高》く、叫ばずには《は-》いられなかった。  が、信一郎の心を、もっと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を──形は奇禍であるが、心は自殺を──遂げたと云《言》うことを夢にも知らないで、《:、》その肉親の弟が、又同《また同》じ蜘蛛の網に、ウカウカとかかりそうになっていることだった。いや恐らくかかっているのかも知れない。いや、兄と同じように、もう白金《プラチナ》の時計を貰っているのかも知れない。ああして、話している中《うち》に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持っている筈の弟は、それを見て兄と同じように激昂する。兄と同じように自殺を決心する。  そう考えて来ると、信一郎は、烈々と輝いている七月の太陽の下に、尚周囲《なお辺り》が暗くなるように思った。兄が陥った深淵へ又《また》、弟が陥《落》ちかかっている。それほど、悲惨なことはない。そう思うと、信一郎は、 『おい! 君《きみ》!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、飜弄《翻弄》しようとする毒婦を憎まずには《は-》いられなかった。 『汝妖婦《汝/妖婦》よ!』彼は、心の中でもう一度そう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めているにも拘らず、当の青年は、何が可笑しいのか、軽く上品に笑っているのが、手に取るように聞えて来た。  信一郎は、見るべからざるものを見たように、面《オモテ》を背けて足早に門を駈け出《-い》でたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  新宿行《新宿行き》の電車に乗ってからも、信一郎の心は憤怒《フンヌ》や憎悪の烈《激》しい渦巻で一杯だった。  瑠璃子夫人こそ、白金《プラチナ》の時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなって、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。  青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取った夫人の態度が、空恐《空恐ろ》しいように思い返された。『妾《わたくし》が預って本当の持主《持ち主》に返して上げます。』と、事もなげに云《言》い放った夫人の美しい面影が、空恐ろしいように想《思》い返された。 ◇。◇。◇。 『が、彼女と面と向《向か》って、不信を詰責しようとしたとき、自分は却って、彼女から忍びがたい|恥かし《辱》めを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而《しか》も美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤《憤り》と恨《恨み》との為にわなわな顫《震》えながら而《/しか》も指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢な心臓を、一思いに突き刺し得る丈《だけ》の力と勇気とを。‥‥彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲《取り囲》まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思う。‥‥そうだ、一層死《いっ-そ死》んでやろうか《か-》しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ、自分の真実の血で、彼女の偽の贈物《贈り物》を、真赤《真っ赤》に染めてやるのだ。そして、彼女の僅《僅か》に残っている良心を、|恥し《辱》めてやるのだ。』 ◇。◇。◇。  青木淳の遺して逝った手記の言葉が、太陽の光に晒されたように、何の疑点もなくハッキリと解って来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。 『汝妖婦《汝/妖婦》よ!』  信一郎は、十分《充分》な確信を以《以っ》て、心の中でそう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨《恨み》を呑んで死んだのである。白金《プラチナ》の時計を『返して呉《く》れ。』と云《言》うことは、『叩き返して呉《く》れ。』と云《言》うことだったのだ。彼女の僅《僅か》に残っている良心を|恥かし《辱》めてやるために、叩き返して呉《く》れと云《言》うことだった。  そうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまったのである。 『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』  信一郎の心に、そう叫ぶ声が起《起こ》った。『それで彼女の僅《僅か》に残っている良心を|恥かし《辱》めてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取って返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨《恨み》の籠った時計を、不得要領に、返すなどと云《言》うことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』  信一郎の心の中《うち》の或《あ》る者が、そう叫び続けた。が、心の中《うち》の他の者は、こう呟いた。 『危《危う》きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打《太刀打ち》が出来ると思うのか。お前は、今の今迄危《今まで危う》く夫人に翻弄されかけていたではないか。夫人の張る網から、やっと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変えて駈付《駈け付》けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまうのだ。』  こうした硬軟二様の心持《心持ち》の争いの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近《家’近》く帰っていた。停留場からは、一町とはなかった。  電車通《電車通り》を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止まっているのに気が付いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎の興奮していた眸には、最初その自動車が、漠然と映っている丈《だけ》だった。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従って、『社の連中と多摩川へ行く。《/》』などと云《言》う口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰って行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈《だけ》の、口実を考え出すことが、可《か》なり心苦しかった。彼は、電車の中でも、何処《どこ》か外《ほか》で、ゆっくり時間を潰して、夕方になってから、帰ろうかとさえ思った。が、彼の本当の心持《心持ち》は、一刻も早く家に帰りたかった。妻の静子の優しい温順《/温順》な面影に、一刻も早く接したかった。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管欲《ひたすら欲》するように、《:、》他人との軋轢や争いに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持っている平和や、妻の持っている温味の裡に、一刻も早く、浴したかったのである。縦令《たとい》、もう一度妻を欺く口実を考えても、一刻も早く家に帰りたかったのである。  が、彼が一歩一歩、家に近づくに従って、自分の家の前に停《停ま》っている自動車が、気になり出した。勿論、此《こ》の近所に自動車が、停《停ま》っていることは、珍らしいことではなかった。彼《彼’》の家から、つい五六軒向《ゴロッ軒向こ》うに、ある実業家の愛妾が、住《住ま》っているために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まっていた。今日の自動車も、やっぱり何時《いつ》もの自動車ではないかと、信一郎は最初思っていた。が、近づくに従って、何時《いつ》もとは、可《か》なり停車の位置が違っているのに気が付いた。何《ど》うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかった。  が、段々家《だんだん’家》に近づくに従って、恐ろしい事実が、漸く分《分か》って来た。何だか見たことのある車台だと云《言》う気がしたのも、無理ではなかった。それは、紛れもなくあの青色大型《青色’大型》の、伊太利製《イタリー製》の自動車だった。信一郎も一度乗ったことのある、あの自動車だった。そうだ、此《こ》の前の日曜の夜に、荘田夫人《ショウダ夫人》と同乗した自動車に、寸分も違っていなかった。  夫人が、訪ねて来たのだ! そう思ったときに、信一郎の心は、烈《激》しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。  出先で、妖怪に逢い這々《/這々》の体《テイ》で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻《先回》りして、自分の家に這入《入》り込《こ》んでいる。昔の怪譚《怪談》にでもありそうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまった。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦《慄》いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻《先回》りして、その家庭の平和をまで、掻き擾《乱》そうとしている。静かな慎しい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾《乱》そうとしている。  信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真中《真ん中》に立ち竦んだまま、何《ど》うしてよいか分《分か》らなかった。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変《変わ》って行った。  温和《大人》しい妻が、美しい、溌剌たる夫人の突然な訪問を受けて狼狽している有様が、ありありと浮《浮か》んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交《交わ》りを結んでいたと云《言》うことが、どんなに彼女を痛ましめたであろうかと思うと、信一郎は一刻も、じっとしてはいられなかった。温和《大人》しい妻が夫人のために、どんなに云《言》いくるめられ、どんなに飜弄されているかも知れぬと思うと、一刻も逡巡しているときではないと思った。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞えばいい。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救ってやるのが第一の急務だと思った。  それにしても、夫人は何の恨みがあって、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであろう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾《乱》そうとするのであろうか。今は夫人の美しさに、怖れているときではない。戦え! 戦って、彼女の僅《僅か》に残っているかも知れぬ良心を|恥し《辱》めてやる時だ! そうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦ってやる時だ! そう思いながら、信一郎は必死の勇《ユウ》を振《振る》って、敵《テキ》の城の中へ《へ’》でも飛び込むような勢《勢い》で、自分の家へ飛び込んだのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  玄関先に立っている、もしくは客間に上《上が》り込んでいる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突っかかって行く覚悟の臍《ホゾ》を固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜《くぐ》った。  見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下《下ろ》しているのが先ず眼に入った。信一郎は、彼等を悪魔《/悪魔》の手先か何かを見るように、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかった。手早く眼《目》をやった玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨ててはなかった。信一郎は、少しは救われたように、ホッとしながら、玄関へ入ろうとした。  運転手は素早く彼の姿を見付けた。 「いやあ。お帰りなさいまし。先刻《さっき》からお待ちしていたのです。」  彼は、馴れ馴れしげに、話しかけた。信一郎はそれが、可《か》なり不愉快だった。が、運転手は信一郎を、もっと不愉快にした。彼は、無遠慮《不遠慮》に大きい声で、奥の方《ホウ》へ呼びかけた。 「奥さん! やっぱり、お帰りになりましたよ。何処《どこ》へもお廻《回》りにならないで、直《す》ぐお帰りになるだろうと思っていたのです。」  運転手は、いかにも自分の予想が当《当た》ったように、得意らしく云《言》った。運転手が、そう云《言》うのを聴いて、信一郎は冷汗《冷や汗》を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明《明ら》かに分《分か》った。 「御主人《ご主人》はお帰りになりましたか。」  運転手は、最初そう訊ねたに違いない。 「いいえ、まだ帰りません。」  妻は、自身若《自身も》しくは女中をしてそう答えさせたに違いない。 「それじゃ、お帰りになるのをお待ちしていましょう。」  運転手は、そう云《言》ったに違いない。 「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだろうと思います。」  何も知らない、信一郎を信じ切っている妻は、そう答えたに違いない。それに対して、この無遠慮《不遠慮》な運転手はこう云《言》い切ったに違いない。 「いいえ、直《す》ぐお帰りになります。只今私《只今’私》の宅からお帰りになったのですから、外《よそ》へお廻《回》りにならなければ三十分もしない裡に、お帰りになります。」  初めて会った他人から、夫の背信を教えられて、妻は可《か》なり心を傷《傷つ》けられながら赤面《/赤面》して黙ったに違いない。そう思うと、突然運転手《突然’運転手》などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒《フンヌ》を感ぜずには《は-》いられなかった。  信一郎は、可《か》なり激しい、叱責するような調子で運転手に云《言》った。 「一体何《一体なん》の用事があるのです?」  運転手は、ニヤニヤ気味悪《/キミ悪》く笑いながら、 「宅の奥様のお手紙を持って参ったのです。何《なん》の御用事《ご用事》があるか私には分《分か》りません。返事を承わって来い! お帰《帰り》になるまで、お待して返事を承わって来い! と、申し付けられましたので。」  運転手は、待っていることを、云《言》い訳するように云《言》った。  手紙を持って来たと聴くと、信一郎は可《か》なり狼狽した。妻に、内密《内緒》で、ある女性を訪問したことが露顕している上に、その女性から急な手紙を貰っている。そうしたことが、どんなに妻の幼い純《/純》な心《心’》を傷《傷つ》けるかと思うと、信一郎は顔の色が蒼くなるまで当惑した。彼は、妻に知られないように、手早く手紙を受け取ろうと思った。 「手紙!《/》 手紙なら、早く出したまえ!」  信一郎は、低く可《/か》なり狼狽した調子でそう云《言》った。  運転手が、何か云《言》おうとする時に、夫の帰りを知った妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しそうに笑いながら、 「お手紙なら、此方《こちら》にお預りしてありますのよ。」と、云《言》いながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷っている信一郎の眼にも美しく映った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第18話】 【面罵】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  妻から、荘田夫人《ショウダ夫人》の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるように熱くなった。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののように、真面《まとも》から見ることが出来なかった。  が、静子の顔は、平素《いつも》と寸分違わぬように穏《穏や》かだった。春のように穏《穏や》かだった。夫の不信を咎めているような顔色は、少しも浮《浮か》んでいなかった。見知らぬ女性から、夫へ突然舞《突然’舞》い込んで来た手紙を、疑っているような容子《様子》は、少しも見えなかった。夫の帰宅を、いそいそと出迎えている平素《いつも》の優しい静子だった。  信一郎は、妻の神々しい迄《まで》に、慎しやかな容子《様子》を見ると、却って心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切っている妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心《/心》の中で懺悔した。  妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのように、厭わしく感ぜられた。もし、人が見ていなかったら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、そうすることは却って彼女に疑惑を起させる所以だった。信一郎は、おずおずと封を開いた。  手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂《匂い》が、信一郎の鼻を魅するように襲った。が、もうそんなことに依って、魅惑せらるる信一郎ではなかった。  彼は敵からの手紙を見るように警戒《/警戒》と憎悪とで、あわただしく貪るように読んだ。 ◇。◇。◇。 『先刻《さっき》は貴君《貴方》を試したのよ。妾《わたくし》の客間へ、妾《わたくし》と戯恋《フラート》しに来る多くの男性と貴君《貴方》が、違っているか何《ど》うかを試したのですわ。妾《わたくし》は戯恋《フラート》することには倦き倦きしましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしているような真似をする。擬似恋愛《フラーテイション》! 妾《わたくし》は、それに倦き倦きしましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先丈《手先だけ》で、恋をしているような真似をする。恋をしているような所作丈《所作だけ》をする。恋をしているような姿勢丈《姿勢だけ》を取る。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲に蒐《集》まっている、そうした戯恋者《ギレン者》のお相手をすることには、本当に倦き倦きしましたのよ。妾《わたくし》は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞う方が欲しいのよ。凡《全》ての動作を手先丈《手先だけ》でなく心の底から、行う方が欲しいのよ。  貴君《貴方》が忿然として座を立たれたとき、妾《わたくし》が止めるのも、肯《き》かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿《後ろ姿》を見たとき、この方こそ、何事をも真剣になさる方だと思いましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思いましたの。妾《わたくし》が長い間、探ねあぐんでいた本当の男性だと思いましたの。 【信一郎様!《/》】  貴方は妾《わたくし》の試《テスト》に、立派に及第遊ばしたのよ。  今度は、妾《わたくし》が試される番ですわ、妾《わたくし》は進んで貴方に試されたいと思いますの。妾《わたくし》が、貴方のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直《す》ぐ此《こ》の自動車でいらしって下さい!瑠璃子』 ◇。◇。◇。  手紙の文句を読んでいる中《うち》に、瑠璃子夫人の怪しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなった蛇か何かのように、また信一郎の頭の中に、ムクムクと動いて来た。  夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持《心持ち》が、満更虚偽ばかりでもないように、思われた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛《/阿諛》や追従《/追従》や甘言《/甘言》や、戯恋《/ギレン》に倦き倦きしているのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めているかも知れない。そう思っていると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るような頬《ホオ》が、信一郎の眼前《目の前》に髣髴した。  が、|次ぎ《次》の瞬間には青木淳《/青木淳》の紫色の死顔《死に顔》や、今先刻見《今さっき見》たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮《浮か》んで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従って、夫人に対する憤ろしい心持《心持ち》が、また信一郎の心に甦って来た。こうした、人の心に喰い込んで行くような誘惑で、青木淳を深淵へ誘ったのだ。否青木淳《否/青木淳》ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否彼女《否/彼女》の周囲に蒐《集》まる凡《全》ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させているのだ。彼女を早くも嫌って恐れて、逃れて来た自分にさえ、尚執念深《なお執念ぶか》く、その蜘蛛の糸を投げようとしている。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸う吸血鬼《ヴァンパイア》だ。そう思って来ると、信一郎の心に、半面血《半面’血》に塗《-まみ》れながら、 『時計を返して呉《く》れ。』  と絶叫した青年の面影が、又歴々《又ありあり》と浮かんで来た。そうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかったのだ! 青年の恨みを、十分に籠《込》めて叩き返さなければならぬ時計だったのだ! 殊に、青年の手記の中《うち》の彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハッキリと分《分か》ってしまった以上、自分にその責任が、儼《ゲン》として存在しているのだ。恐ろしいものだからと云《言》って、面《オモテ》を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代《代わ》って、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代《代わ》って、彼女の僅かしか残っていぬかも知れぬ良心を|恥かし《辱》めてやる必要があるのだ! そうだ! 一身の安全ばかりを計って逃《/逃》げてばかりいる時ではないのだ! そうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪の幸《幸い》である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救うために、否凡《否/全》ての男性を彼女の危険から救うために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。  信一郎の心が、こうした義憤的な興奮で、充された時だった。妻の静子は、──神の如く何事《/何事》をも疑わない静子は、信一郎を促すように云《言》った。 「急な御用《ご用》でしたら、直《す》ぐいらしっては、如何《いかが》でございます。」  妻のそうした純な、少しの疑惑をも、挟《差し挟》まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此《こ》の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰《蔭》ながら、妻に誓うため、夫人の面《オモテ》に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。  信一郎の心は、今最後《いま最後》の決心に到達した。彼は、その白い面《オモテ》を、薄赤く興奮させながら、妻に云《言》うともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。 「じゃ直《/す》ぐ引返すことにしよう。早くやってお呉《く》れ!」  彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫《震》えるのを感じた。 「畏まりました。七分もかかりません。」  そう云《言》いながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗った。 「じゃ、静子、行って来るからね。ホンの一寸《ちょっと》だ! 直《す》ぐ帰って来るからね。」  信一郎は、小声で云《言》い訳のように云《言》いながら、妻の顔を、なるべく見ないように、車中の人となった。  が、ガソリンが爆発を始めて、将《まさ》に動き出そうとする時だった。信一郎は、周章《あわて》て窓から、首を出した。 「おい! 静子!《/》 おれの本箱の下の引き出しの、確か右だったと思うが、ノートが入ってる。それを持って来ておくれ!」 「はい。」と云《言》って気軽に、立ち上《上が》った妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持って降りて来た。 『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でそう叫んだ。  爪黒《ツマグロ》の鹿の血と、疑着の相ある女の生血《生き血》とを塗った横笛が、入鹿を亡ぼす手段の一つであるように、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此《こ》のノートの外《ほか》にはないと、信一郎は思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  五番町までは、一瞬の間だった。  こうした行動に出たことが、いいか悪いか迷う暇さえなかった。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日客間《今日’サロン》で見たいろいろな人々の顔が、嵐のように渦巻いている丈《だけ》だった。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。  もう再びは潜《-くぐ》るまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅《僅か》に緩めながら進み入った。もう再びは、足を踏むまいと思った車寄せの石段を、彼は再び昇った。が、先刻《さっき》は夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒《フンヌ》とで、心を狂わせながら。  取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代《代わ》りに、十七ばかりの少女だった。 「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上《上が》り下さいませ。」  信一郎は、それに会釈する丈《だけ》の心の余裕もなかった。彼は黙々として、少女の後《あと》に従った。  少女は先刻《さっき》の客間《サロン》の方《ホウ》へ導かないで、玄関の広間《ホール》から、直《す》ぐ二階へ導く階段を上って行った。 「あの、お部屋の方《ほう》にお通し申すように|仰しゃ《仰》っていましたから。」  信一郎が一寸躊躇《ちょっと躊躇》するのを見ると、少女は振り返ってそう言った。  階段を昇り切った取っ付きの部屋が、夫人の居間だった。少女は軽く叩《ノック》したが、内から応ずる気勢《気配》がしなかった。 「あら! いらっしゃらないのかしら。それではどうか、お入りになって、お待ち下さいませ。屹度《きっと》、お化粧部屋の方《ほう》にいらっしゃるのですから。」  そう云《言》って、少女は扉《ドア》を開けた。  信一郎は、おそるおそるその華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な洗煉《/洗煉》された趣味が、隅から隅まで、行き渡《わた》っていた。敷詰《敷き詰》めてある薄桃色の絨毯にも、水色の|窓掩い《カーテン》にも、ピアノの上に載せてある一輪挿《一輪挿し》の花瓶にも、桃花心木《マホガニー》の小さい書架に、並べてある美しい装幀の仏蘭西《フランス》の小説にも、《:、》雪のように白い絹で張りつめられた壁にかかっているクールベエ《ー》らしい風景画にも炉棚《/マンテルピース》の上の少女の青銅像《ブロンズ》にも、夫人の高雅な趣味が光っていた。凡《全》ての装飾が、金で光っている丈《だけ》ではなく、その洗煉された趣味で光っているのだった。  信一郎は、部屋の装飾に、現われている夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう昂めようとしている反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くような危険を、感ぜずには《は-》いられなかった。  が、こうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑わす魅力の一つなのだ。信一郎は、そう云《言》う風《ふう》に考え直しながら、青色の羽蒲団《羽根蒲団》の敷いてある籐椅子に、腰をおろしていた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いているのが見えた。  夫人は、なかなか姿を見せなかった。小間使《小間使い》が氷の入った果実汁《シロップ》を持って来た後《あと》も、なかなか姿を見せなかった。  彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直していた。その裡に、ふと三尺《3尺》とは離れていない卓《デスク》の上に、眼が付いた。其処《そこ》には、先刻信一郎《さっき信一郎》が受け取ったのと同じ色のレタア《ー》ペイパア《ー》と、金飾《金飾り》の華やかな婦人持《婦人持ち》の万年筆とが、置かれていた。先刻《さっき》の手紙は、恐らくこの桃花心木《マホガニー》の小さい卓《テーブル》で書いたのに違いない。そう思って見ている中《うち》に、ふと一枚のレタア《ー》ペイパア《ー》に、英語か仏蘭西語《フランス語》かが書かれているのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方《ほう》に延ばしながら、それを読んだ。 【(Shinichiro)】  彼は、自分の名前が書かれているのに驚いた。が、その|次ぎ《次》の二字を見たときに、彼の駭《驚》きは十倍《10倍》した。 【(Shinichiro, my love!)】 『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』  而《しか》も、その同じ句がそのレタア《ー》ペイパア《ー》の上に、鮮《鮮や》かな筆触で幾つも幾つも走り書きされているのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』  信一郎の頭は、この短い文句でスッカリ掻き擾《乱》されてしまった。彼は十七八《ジュウシチハチ》の少年か何かのように、我にも非《-あら》ず、頬《ホオ》が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めていた心持《心持ち》が、ともすれば揺ぎ始めようとする。  彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るように、わざとこんな文句を、書き散《散ら》して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、そう云《言》う考えの後《あと》から、又別《また別》な考えが浮《浮か》んで来た。あの悧巧《利口》な聡明《/聡明》な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やっぱり、夫人の本心から出た自然の書き散《散ら》しに違いない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚《自惚れ》が、ムクムクと頭を擡げようとする。あの先刻受《さっき受》け取った手紙も、こうして見ると、夫人の本心を語っているのかも知れない。夫人を妖婦のように思うのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごっこに飽き飽きしているのだ。彼女の周囲に、蒐《集》まる胡蝶のような戯恋者《ギレン者》に、飽き飽きしているのだ。本当に、心をも身をも捨ててかかる、真剣な異性の愛に飢えているのかも知れない。世馴れた色男風《ダンディ風》の男性に、慊《飽き》たらない彼女は、自分のような初心《ウブ》な生真面目《/生真面目》な男性を求めていたのかも知れない。  夫人に対する信一郎の敵意がもう半崩《半ば崩》れかけている時だった。 「御免下《ごめん下》さいまし。」  銀鈴に触れるような爽《爽や》かな声と共に、夫人は静かに扉《ドア》をあけて入って来た。  湯上《湯上が》りらしく、その顔は、白絹《シラギヌ》か何かのように艶々しく輝いていた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスッキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出していた。  わずか四五尺《シゴシャク》の間隔で、じっとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかかったような、陶酔を感ずるのを、何《ど》うともすることが出来なかった。 「まあ! 本当によくいらっしゃいましたこと。妾《わたくし》、もうあれ切りか《か-》と思いましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思っていましたよ。」  信一郎が、彼女の入って来たのを見て、立ち上《上が》ろうとするのを、制しながら、信一郎と向きあって小さい卓《テーブル》を隔てながら、腰を下《下ろ》した。  信一郎は、ともすれば後退《後じさ》りしそうな自分の決心に、頻りに拍車を与えながら、それでも最初の目的通《目的通り》、夫人と戦って見ようと決心した。 「先刻《さっき》は大変失礼しましたこと。あの方達を帰《-かえ》してしまった後で、ゆっくり貴君《貴方》とお話がしたかったのよ。差し上げました御手紙御覧下《お手紙/ご覧下》すって?」 「見ました。」  信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しっかりと云《言》い放った。 「何《ど》うお考え遊ばして?」  夫人は、追窮するように、美しく笑いながら訊いた。信一郎は、可《か》なりハッキリした口調で云《言》った。 「貴女《貴方》の本当のお心持《心持ち》が、分《分か》らないものですから、何《ど》うお答えしてよいか当惑する丈《だけ》です。」 「あれでお分《分か》りにならないの。あれで、十分分《十分分か》って下すってもいいと思いますの。妾《わたくし》が、貴君《貴方》のことを何《ど》う考えていますか。」  夫人の顔に可《か》なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈《だけ》の力を以《以っ》て云《言》った。 「奥さん! 何《ど》うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女《貴方》の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」  信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向《向か》ってハ《/ハ》ッキリと断言した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その刹那、夫人の顔が、遉《さすが》に鋭く緊張した。 「あら、貴君《貴方》までが、そんなことを考えていらっしゃるの。妾《わたくし》が貴君《貴方》の家庭を擾《乱》すような女だと思っていらっしゃるの。貴君《貴方》にも、やっぱり妾《わたくし》の真意が分《分か》って下さらないのですわね。妾《わたくし》が、何を求めているかが、やっぱり分《分か》って下さらないのですわね。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲の戯恋者《ギレン者》には飽き飽きしたと申しているではありませんか。妾《わたくし》は戯恋《ギレン》の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。妾《わたくし》が、この方こそと思ってお選《-えら》みした貴君《貴方》からそんな誤解を受けるなんて、妾《わたくし》には忍びがたい恥辱ですわ。」  そう云《言》っている夫人の顔には、もうあの美しい微笑《微笑’》は浮《浮か》んでいなかった。少しく、忿怒《フンヌ》を帯びた顔は、振い付きたいような美しさで、輝いていた。  美しい夫人の顔に、忿怒《フンヌ》の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可《か》なりタジタジとなった。が、彼は自分のため、青木淳のため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦的な魂と、戦わねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけ面《オモテ》を背けながら云《言》った。 「いや! 貴女《貴方》のお心が、分《分か》らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女《貴方》から|選ま《エラマ》れると云《言》うことが可《か》なり危険なことであるような気がするのです。僕は、安穏な家庭の幸福で、満足している平凡な人間です。何《ど》うか僕を、このままに残して置いて下さい!」  信一郎の語気は、可《か》なり強《-つよ》かった。 「まあ! 何と云《言》うことを|仰しゃ《仰》るのです。妾《わたくし》を、爆弾か何かのように、触ることさえ、お嫌いだと云《言》うのですね。」  夫人は、半ば冗談のように、云《言》おうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリアリと感じたと見え、先刻《さっき》までの夫人とは、丸切違《丸切り違》ったような鋭さが、その美しさの裏に、潜み初《始》めていた。 「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女《貴方》に|選ま《エラマ》れて飛んだ目にあったあ《/あ》る男性のことを知っているのです。その男も、真面目な初心《/ウブ》な男でしたから、僕が貴女《貴方》に|選ま《エラマ》れたのと、同じような意味で、貴女《貴方》に|選ま《エラマ》れたのではないかと思うのです。若《も》し、同じような意味で|選ま《エラマ》れたとすると、その男が飛んだ目に逢ったように、僕も何時《いつ》かは、飛んだ目に逢いそうです。ハハハハ。」  信一郎は、懸命な勇気を以《以っ》て、云《言》い終ると調子外れの笑い方をした。彼は烈《激》しい興奮のために、妙に上ずッてしまっていたのである。  夫人の顔色が、一寸変《ちょっと変》った。が、少しも取り擾《乱》す容子《様子》はなかった。彼女は、信一郎の顔を、じっと見詰めていたが、憫笑するような笑いを、頬《ホオ》の辺《辺り》に浮べると、一寸腰《ちょっと腰》を浮かして、傍《傍ら》の卓《テーブル》の上の呼鈴を押しながら云《言》った。 「貴君《貴方》と妾《わたくし》とは、やっぱり縁なき衆生だったのですわね。やっぱりあれっ切りにして置けばよかったのですわね。妾《わたくし》の思い違いよ。貴君《貴方》を、スッカリ見損っていたのですわね。貴君《貴方》の躊躇や、臆病を、妾反対《わたくし/反対》に解釈していたのですわ。妾男性《わたくし/男性》の中で臆病な方が、一等嫌いなのですわ。差し出された女の唇に、接吻を与えるほどの勇気さえないような男性が、一等嫌いなのでございますよ。オホホホホホ。妾自身《わたくし自身》、御覧《ご覧》の通《通り》のお転婆でございますから、やっぱり強い男性の方《かた》が、一等好きなのでございますよ。」  信一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、烈《激》しかった。信一郎は夫人の真向《真っ向》からの侮辱に、目が眩んだ。彼は屈辱と忿怒《フンヌ》とのために、胸がくらくらするように煮えた。信一郎が口籠りながら何か云《言》おうとしたときに、呼鈴に応じて先刻《さっき》の小間使《小間使い》が顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハッキリと云《言》った。 「お客様がお帰りになるそうだから、自動車の支度をするように。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  西洋では、厭な来客を追い帰すとき、又来客《また来客》と喧嘩したとき、『扉《ドア》を指さし示す』ことが、習慣である。直《す》ぐ出て行って呉《く》れと云《言》う意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。  が、来客の前で、勝手に|帰り支度《カエリジタ-ク》を、整えてやることも、『扉《ドア》を指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違いない。  夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを十倍《10倍》もの烈《激》しさで、跳ね返し得る女であった。  信一郎は、平手で真向《真っ向》から顔を、ピシャリと、叩かれたような侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかったら、立ち上《上が》りざま殴り付けてでもやりたいような激怒を感じた。それと同時に、突き放されたような淋《-さみ》しさが、激怒の陰に潜んでいることをも、感ぜずには《は-》いられなかった。  信一郎の顔が、激怒のために、真赤《真っ赤》に興奮しているのにも拘わらず、夫人はその白い面《オモテ》が、心持蒼《心持ち蒼》んでいる丈《だけ》で、冷然として彫像《/彫像》か何かのように動かなかった。  信一郎も、相手から受けた、余りに思いがけない侮辱の為に、|暫ら《暫》くは、口さえ利けなかった。  夫人も、黙々として一語も洩らさなかった。その中《うち》に、バタバタと廊下に軽い足音がしたかと思うと、先刻《さっき》の女中が、顔を出した。 「あの、お支度《仕度》が出来まし《し-》てございます。」 「そう。」と、夫人は軽く会釈して、女中を去らせると、静かに信一郎の方《ほう》を振向《振り向》きながら、彼女の最後の通牒を送った。 「それでは、どうかお帰り下さいませ。妾《わたくし》がお呼び立ていたした罪は、幾重にもお詫いたしますわ。でも、お互《互い》に理解しない者同士が、何時《いつ》まで向《向か》い会っていても、全く無意味だとも思いますわ。何《ど》うか安穏な御家庭《ご家庭》で何時《/いつ》までも平和にお暮《暮ら》し遊ばせ!」  夫人は、一寸皮肉《ちょっと皮肉》な微笑を浮べると、静《静か》に立って信一郎に、扉《ドア》の方《ほう》を指さし示した。  信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めていた。このまま、帰ってしまえば、徹頭徹尾全敗《徹頭徹尾/全敗》である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは云《言》え、男性たるものが、こうも手軽に、人形か何かのように飜弄せられることは、何《ど》うにも堪らないことだと思った。今こそ全力を尽して彼女と、戦うべき日であると思った。激怒《/激怒》のために、波立つ胸を、彼はじっと抑え付けながら云《言》った。 「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」  信一郎の言葉は、可《か》なり顫《震》えを帯びていた。 「おや! 御用事《ご用事》。それじゃ直《す》ぐ承わろうじゃありませんか。妾《わたくし》、またこんな部屋には、一刻もお止《とど》まりになるお心はなくなったのだろうと思っていました。」  夫人は、凄いほどに、落着《落ち着》いていた。  信一郎は、蒼白《真っ青》になりながら、懸命に冷静《/冷静》な態度を失うまいとした。 「奥さん! 帰るときが来《-く》れば、お指図を待たなくっ《-っ》ても帰ります。が、只今伺ったのは、貴女《貴方》のお手紙の為ばかりじゃないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴って帰った以上、貴女《貴方》のお召状丈《召状だけ》で、ノメノメとやっては来ません。」 「おや! それでは、妾《わたくし》はその点でも飛んだ思違《思い違》いをしていましたのね。」  夫人は、針のような皮肉を含みながら、冷やかに笑った。信一郎はいらだった。 「貴女《貴方》に申し上《あ》ぐべきこと、当然お願いすべき用事があればこそ参ったのです。それが済むまでは、貴女《貴方》が幾ら帰れと|仰しゃ《仰》ったって、帰れません。貴女《貴方》も一度僕と会った以上、自分の用事丈《事だけ》が、済んだと云《言》って、そう手軽に僕を追い返す権利はありません。」 「大変御尤《大変ごもっと-》もな仰せです。それではその用事とかを承わろうじゃありませんか。」  夫人の皮肉な態度は突き刺すようなトゲトゲしさを帯び初《始》めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やっと自分自身を支えることが出来た。 「用事と云《言》って、外《ほか》ではありませんが、いつか貴女《貴方》にお預けして置いたあの白金《プラチナ》の時計を、返していただきたいと思うのです。死んだ青木君から遺託を受けたあの時計をです。」  信一郎は、一生懸命だった。彼は、身体が激昂《ゲッコウ》のために、わななこうとするのをやっと、抑えながら喋べった。が、その声は変に咽喉にからんでしまった。  夫人の冷《-つめ》たさは、愈々加《いよいよ加》わった。その美しい面《オモテ》は、象牙で彫《刻》んだ仮面《仮面’》か何かのように、冷たく光っていた。『何を!』と云《言》ったような利かぬ気の表情が、その小さい真赤《真っ赤》な唇のあたりに動いていた。 「あら、あれは妾《わたくし》にお預けして下さったのじゃないのですか。一旦お預けして下さった以上、男らしくもないじゃありませんか。また返せなどと|仰しゃ《仰》るのは。」  信一郎を揶揄っているように、冷かしているように、夫人の語気は、ますます辛辣になって行った。 「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分《分か》らなかったからです。また、何《ど》う云《言》う心持《心持ち》で返すのかが、分《分か》らなかったからです。今こそ、返すべき女性がハッキリと分《分か》ったのです。また、何《ど》う云《言》う態度で、あの時計を返すべきかも、ハッキリと分《分か》ったのです。僕は、あの時計を貴女《貴方》から返していただいて、その本当の持主《持ち主》に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君《/青木君》に対して、感じているのです。どうか直《す》ぐお返しを願いたいと思います。」  夫人の顔は、遉《さすが》に少しく動揺した。が、信一郎が予想していたように、狼狽の容子《様子》は露ほども見せなかった。 「そんなに、面倒臭い時計《’時計》なのですか、それじゃ、お預りするのではなかったわ。それじゃ只今直《只今す》ぐお返しいたしますわ。」  夫人は、手軽に、借りていたマッチをでも返すように、手近の呼鈴《ベル》を押した。  二人は、黙々として、|暫ら《暫》く相対している裡に、以前の小間使《小間使い》が、扉《ドア》を静《静か》に開《-あ》けた。 「あのね。応接室の、確か炉棚《マンテルピース》の上の手文庫の中だったと思うのだがね。壊れた時計がある筈だから持って来て下さいね。若《も》し手文庫の中になかったら、あの辺《辺り》を探して御覧《ご覧》!《。》 確かあの近所に放り散《散ら》かして置いた筈だから。」  信一郎が、あれほどまでに、心を労していた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのように、放りぱ《っぱ》なしにしていたのだった。青木淳が臨終にあれほどの恨《恨み》を籠《込》めた筈の時計は、夫人に依って、意味のない一個の壊れ時計として、炉棚の上に、信一郎から預かった時以来忘れられていたのである。  夫人から、そんなにまで手軽く扱われている品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になっていることが、信一郎には一寸気恥《ちょっと気恥》しいことのように思われた。  が、夫人のああした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である、《:、》口先でこそあんなことを云《言》いながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残っている以上、心の中では可《か》なり良心の苛責を受けているのに違《違い》ない。信一郎は、やっとそう思い返した。  小間使《小間使い》は、探すのに手間が取れたと見え、|暫ら《暫》くしてから帰って来た。そのふっくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味《薄キミ》のわるい光を放っていた。  夫人は小間使《小間使い》から、無造作にそれを受取《受け取》ると、信一郎の卓《テーブル》の上に軽く置きながら、 「さあ! どうぞ。よく検《あら》ためてお受取《受け取》り下さいませ! お預りしたときと、寸分違っていない筈ですから。」  夫人は、毒を喰《食ら》わば皿までと云《言》ったように、飽くまでも皮肉であり冷淡《/冷淡》であった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴に|うす《薄》く残っている血痕を見たときに、弄ばれて非業《非業’》の死方《死に方’》をした青年《青年’》に対する義憤の情が、旺然として胸に湧いた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら而《/しか》も平然として彼の死を冷視している──《─:》神聖な遺品《形見》の時計をさえ、蔑み切っている夫人に対して、|燃ゆる《モユル》ような憎しみを、感ぜずには《は-》いられなかった。  信一郎は、かすかに顫《震》える手で、その時計を拾い上げながら、夫人の面《オモテ》を真向《真っ向》から見詰めた。 「いや、確《確か》にお受取《受け取》りしました。お預けした品物に相違ありません。」  彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変《変わ》っていた。 「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振いながら云《言》った。 「一旦お返し下さった此時計《この時計》を──改めて、そうです、青木君の意志として──《─:》私は、改めて貴女《貴方》に受取《受け取》っていただきたいのです。」  そう云《言》って、信一郎は、夫人の顔をじっと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽するだろうと予期しながら。が、夫人の顔は、やや殺気を帯びているものの、その整った顔の筋肉一《筋肉ひと》つさえ動かさなかった。 「何だか手数のかかるお話でございますのね。子供のお客様ごっこじゃありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度《/一度》お預かりした丈《だけ》で、懲々《懲り懲り》いたしましたわ。」  夫人は噛んで捨てるように云《言》った。  信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎《憎し》みと憤怒《フンヌ》とで、煮え立っていた。 「いや、此度《このたび》はお預けするのではないのです。いや、最初から此《こ》の時計は貴女《貴方》にお預けすべきでなくお《/お》返ししなければならぬ時計だったのです。時計の元の持主《持ち主》として、貴女《貴方》に受取《受け取》っていただくのです。貴女《貴方》は、此《こ》の品物を当然受取《当然’受け取》るべきお心覚えがあるでしょう。ないとは、まさか仰しゃれないでしょう。」  信一郎も、女性に対する凡《全》ての遠慮を捨てていた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対していた。  信一郎に、そう云《言》い切られると、夫人は|暫ら《暫》く黙っていた。白い瓢の種のような綺麗な歯で、下唇《シタ唇》を二三度噛《二’三度噛》んだがや《/や》がて気を換えたように、 「それでは、貴君《貴方》は此時計《この時計》の元の持主《持ち主》を、妾《わたくし》だと|仰しゃ《仰》るのですか。」 「そうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凛としてそう云《言》い放った。 「おやそう!」夫人は事もなげに応《受》けながら、「貴君《貴方》が、そうお考えになりたければ、そうお考えになっても、別に差支《差し支え》はございませんよ。それでは、この時計もお受取《受け取》りして置こうじゃありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」  夫人の態度は、愈逆《いよいよ逆》になり、愈々毒《いよいよ毒》を含んでいた。 「それで、御用事《ご用事》と|仰しゃ《仰》るのはこれ丈《だけ》!」  夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪らないように急《/急》き立てるように附《付》け加えた。  信一郎は、夫人の自分に対する烈《激》しい憎悪に傷《傷つ》きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支えた。 「いや、大変お手間を取らして相済《-あいす》みません。が、もう一言、そうです、青木君の言伝があるのです。時計の元の持主《持ち主》にこう伝えて呉《く》れと頼まれたのです。」  信一郎は、そう云《言》って言葉を切った。  夫人は遉《さすが》に、緊張した。やさしく烟《煙》っている眉を、一寸顰《ちょっと顰》めながら、信一郎が何を云《言》い出すかを待っているようだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第19話】 【彼女の云分《言い分》】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  遺言と云《言》っても、信一郎は青木淳の口《クチ》ずから受けているのではない。が、彼は青木淳の死前《死ゼン》の恨《恨み》の籠ったノートを受け継いでいる。 『彼女の僅かに残っている良心を|恥かし《辱》めてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けているのだった。 「いや、遺言と云《言》っても、外《ほか》ではありません。この時計を返すときに元の持主《持ち主》にこう云《言》って呉《く》れと頼まれたのです。青木君が瀕死の重傷に苦しみながら、途切れ途切れに云《言》ったことですから、ハッキリとは分《分か》りませんが、何でもこう云《言》う意味だったと思うのです。純真な男性の感情を弄ぶことがどんなに危険であるかを伝えて呉《く》れ。弄ぶ女に取っては、それは一時《1時》の戯れであるかも知れぬが、弄ばれる男に取っては、それが死であると。奥さん! 貴女《貴方》は、こう云《言》う話を御存《ご存》じですか。池の中に多くの蛙が浮《浮か》んでいると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何《なん》て云《言》ったか御存《ご存》じですか。蛙はこう云《言》ったのです。貴君方《貴方がた》に取って遊戯であることが、我々に取っては死である、と。青木君の死際の云分《言い分》も、つまりそれなのです。貴女《貴方》は、青木君の死を単なる奇禍だと思ってはいけません。形は奇禍ですが、心持《心持ち》に於いては立派な自殺です。ただ自動車の偶然の衝突があ《/あ》の人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女《貴方》は青木君の死を奇禍だと考えることに依って、貴女《貴方》の良心を欺いてはなりません。正しく自殺です。而《しか》も池の中の蛙《カエル》が、子供が戯れに投げた石に当《当た》って死んだように、貴女《貴方》が戯れに与えた白金《プラチナ》の時計に依って死んだのです。蛙が若《も》し人間としての働きがあったならば、その石を子供に投げ返すように、僕は青木君に代《代わ》って、此《こ》の時計を貴女《貴方》に投げ返すのです。そうです、貴女《貴方》の良心に向《向か》って投げ返すのです。貴女《貴方》の心に僅かにでも、良心が残っているのなら、貴女《貴方》はそれで此《こ》の時計を受け止めて下さい。そうしてその受け止めた痛みに依って、貴女《貴方》の心を浄めていただきたいと思うのです。そうして、男性に対する貴女《貴方》の危険な戯れを、今日限り廃《よ》していただきたいと思うのです。それが青木君の死に対する貴女《貴方》のせめてもの償いです。僕が、先刻貴女《さっき貴方》のお戯れの相手をするのは危険だと云《言》ったのはこう云《言》う意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女《貴方》の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のような既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」  信一郎の興奮は、彼を可《か》なりな雄弁家にしてしまった。夫人はと見ると、遉《さすが》に彼の言葉が一々肺腑《いちいち肺腑》を衝いていると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いていた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめているかと思うと、内心ある感激を感ぜずには《は-》いられなかった。そうだ! 此《こ》の美しき女性をた《/た》だ|恥かし《辱》める丈《だけ》が、能ではない。自分の言葉に依って、夫人の心を、少しでも浄くし改《/改》めてやりたいと思った。 「いや! 奥さん。僕は何も貴女《貴方》に恩怨があるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女《貴方》を敬慕しているものです。貴女《貴方》のその秀れた美しさと、貴女《貴方》の教養や趣味に対して、心から敬慕しているものです。が、僕は貴女《貴方》がそうした天分や教養を邪道に使っているのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為にばかりでなく、貴女自身《貴方自身》のために、僕の云《言》ったことをよく玩味していただきたいと思うのです。」  こう信一郎が、述べ来った時、今まで傾聴しているような態度をしていた夫人は、つと頭を上げた。 「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告《ご忠告》なら、御免《ご免》を蒙りたいと思います。御用事丈《ご用事だけ》を承わる筈であったのでございますから。」  鋼鉄のような凛とした冷たさが、その澄んだ声の内に響いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 『御忠告《ご忠告》ならば、御免《ご免》を蒙る。』と、夫人がきっぱりと云《言》い放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶った。青木淳は、『僅《僅か》に残っている良心』と、書いている。が、僅《僅か》に残っている良心どころか良心《/良心》らしいものは、片《欠片》さえ残っていない。女らしい、つつましい心の代《代わ》りに、そこに翼を拡げているものは、恐ろしい吸血鬼《ヴァンパイヤ》である。純真な男性の血を好んで嗜《たし》なむ怪物である。夫人の良心に訴えて、少しでも彼女を、いい方《ほう》に改めさせてやろうと思ったのは、悪魔に基督《キリスト》の教《教え》を説くようなものであると思った。  信一郎は外面如菩薩と云《言》う古い言葉を、今更らしく感心しながら、|暫ら《暫》くは夫人の顔を、じっと見詰めていたが、 「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言丈《遺言だけ》を伝えれば、僕の責任は尽きていたのでした。」  彼は、そう云《言》って潔く此部屋《この部屋》から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思い浮べた。そうだ! あの青年を、夫人の危険から救ってやることは、自分の責任だと思った。 「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女《貴方》にもう一言云《一言’言》わなければならぬことがあるのです。これは貴女《貴方》に対するおせっかいな忠告じゃないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟《ヒッキョー》は青木君の遺言の延長として申上《申し上》げるのです。それは、外《ほか》でもありません。貴女《貴方》が如何《いか》なる男性の感情を、どんなに弄ぼうが、それは貴女《貴方》の御勝手《ご勝手》です。いや御勝手《ご勝手》と云《言》うことにして置きましょう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶこと丈《だけ》は、僕が青木君に代《代わ》って、断然お断りして置きます。まさか、貴女《貴方》も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵へ突き陥した後で、その肉親の弟をも、同じ処《ところ》へ突き陥すような残酷なことはなさるまいとは思いますけれども、念のためにお願《願い》して置くのです。いやど《/ど》うもお邪魔しました。」  夫人の顔が、遉《さすが》に蒼白《ソウハク》に転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした。が、それを見ると、夫人は屹となって呼び止めた。 「渥美さん! お待ちなさい!」  その凛とした声には、女王のような威厳が備わっていた。 「貴君《貴方》は、自分の|仰しゃ《仰》ることさえ|仰しゃ《仰》ってしまえば、それでお帰りになってもいいとお考えになるのですか。貴君《貴方》が、妾《わたくし》に御用事《ご用事》がある中《うち》は、貴君《貴方》に帰る権利が、妾《わたくし》になかったように、妾《わたくし》が貴君《貴方》に申上《申し上》げることが残っている以上貴君《以上/貴方》はお帰りになる権利はありません。妾《わたくし》は一言丈貴君《一言だけ貴方》に申上《申し上》げることが残っています。」  美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走っていた。信一郎を、屹と見詰めて立っている姿は、『怒れる天女』と云《言》ったような、美しさと神々しさとがあった。 「貴君《貴方》は、今青木《いま青木》さんの遺言とやらを、長々しく仰しゃいましたが、それを妾《わたくし》が受けると思っていらっしゃるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言《ご遺言》なんか、一言半句《イチゴン半句》だって、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承わるような覚えは、さらさらありません。今承《いま承》わったお言葉全部を、そのまま御返上《ご返上》します。」  夫人の声にも、憎《憎し》みと怒りとが、燃えていた。が、信一郎はたじろがなかった。 「死人に口がないと思って、そんなことを|仰しゃ《仰》っては困ります。貴女《貴方》を、今日訪問《今日’訪問》した客に村上と云《言》う海軍大尉があった筈です。まさか、ないとは仰しゃいま|すまいね《スマイネ》。」 「よく御存《ご存》じですね。」  夫人は、平然として答えた。 「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女《貴方》に、もし少しでも良心が残っていらっしゃるのなら、今貴女《いま貴方》にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧《ご覧》なさい!」  そう云《言》いながら、信一郎はポケットに曲げて入れていたノートを夫人《/夫人》の眼前《目の前》に突き付けた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取《受け取》った。ノートの重さにも堪えないような華奢な手で、それを無造作に受け取った。  鋼鉄の如き心と云《言》うのは、恐らく今の場合の夫人の心を云《言》うのだろう。鬼が出るか蛇が出るか分《分か》らないそのノートを、受け取りながら、一糸紊《一糸みだ》れたところも、怯んだところも見せなかった。 「おや、青木さんのノートでございますのね。」  夫人は、平然と云《言》いながら、最初の頁《ページ》から繰り初《始》めた。繰っているその白い手は、落着《落ち着》きかえっている。  が、信一郎は思った。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨《/フンコン》の文字に接すると、屹度良心《きっと良心》の苛責に打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀の如き虚飾の驕りを擾《乱》されて、女らしい悔恨に打たれるに違いない。そう思いながら、頁《ページ》を繰る夫人の手許と、やや蒼んでいる美しい面《オモテ》から、一瞬も眼も放たず、じっと見詰めていた。  その裡に、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。遉《さすが》に美しい眸は、卓《テーブル》の上に開かれたノートの頁《ページ》の上に、釘付《釘付け》にされたように、止ってしまった。  美しい面《オモテ》が、最初薄赤《最初’薄赤》く興奮して行った。が、それがだんだん蒼白《ソウハ-ク》になり、唇の辺りが軽く痙攣するように動いていた。  夫人が、深い感動を受けたことは、明《明ら》かだった。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破と泣き伏すことを予期していた。泣き伏しながら、非業に死んだ青年の許しを乞うことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のような涙が、ハラハラと迸《ほとば》しることを待っていた。悔恨と懺悔との美しい涙が。  が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまった。一時動揺したらしい夫人の表情は、直《す》ぐ恢復した。涙などは、一滴だって彼女の長い睫をさえ湿《潤》さなかった。  彼女は、一言も云《言》わずに、ノートを信一郎の方《ホウ》へ押しやった。  信一郎は、夫人の必死的《デスペレート》な態度に圧《-あっ》せられて、此《こ》の上何か云《言》う勇気をさえ挫かれた。  二人は、二三分《ニサンプン》の間、黙々として相対していた。信一郎は、その険しい重《/重》くるしい沈黙に堪えかねた。 「如何《いかが》です。此《こ》のノートを読んで、貴女《貴方》は何ともお考えにならないのですか。」  信一郎の声の方《ほう》が、却ってあやしい顫《震》えをさえ帯びていた。  夫人は、黙して答えなかった。  信一郎は、畳みかけて訊いた。 「貴女《貴方》は、青木君が血を以《以っ》て書いた、此《こ》のノートを読んで、何ともお考えにならないのですか。青木君の云《言》い草じゃないが、貴女《貴方》の少しでも残っている良心は、此《こ》のノートを読んで、顫い戦《慄》かないのですか。貴女《貴方》の戯れの作った恐ろしい結果に戦慄しないのですか。」  信一郎は、可《か》なり興奮して突きかかった。  が、夫人は冷然として、氷の如く冷《冷やや》かに黙っていた。 「奥さん! 黙っていらしっては分《分か》りません。貴女《貴方》は! 貴女《貴方》は此《この》ノートを読んで何ともお考えにならないのですか。」  信一郎は、いらだって叫んだ。 「考えないことはありませんわ。」  彼女の沈黙が冷《冷や》かな如く言葉《/言葉》そのものも冷《冷や》かであった。 「お考えになるのなら、そのお考えを承わろうじゃありませんか。」  信一郎は益々《ますます》いらだった。 「でも、死んだ方に悪いのですもの。」 「死んだ方に悪い! 貴女《貴方》はまだ死者を蔑もうとなさるのですか。死者を誣いようとなさるのですか。」  信一郎は火の如く激昂《ゲッコウ》した。  その激昂《ゲッコウ》に、水を浴びせるように夫人は云《言》った。 「でも、妾《わたくし》、此《この》ノートを読んで考えましたことは、青木さんも普通の男性と同じように、自惚れが強くて我儘《/我儘》であると云《言》うこと丈《だけ》ですもの。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人の言葉は、信一郎を唖然《’唖然-》たらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷《冷や》かな顔を見詰めていた。どんな妖婦でも、昔の毒婦伝に出て来るような恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書《書き置き》を、こうまで冷酷に評し去る勇気はないだろう。自分を恨んでいる、血に滲《-にじ》んだ言葉を自惚れと我儘だと云《言》って評し去る女はないだろう。  が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残ったものは、夫人に対する激しい憎悪だった。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失った美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考えた自分が、間違っていたのだ。彼は心の中の憎悪を吐き捨てるように云《言》った。 「いやもう、なにも言いたくありません。貴女《貴方》は、貴女《貴方》のお考えで、男性を弄ぶことをおつづけなさい! その中《うち》に、純真な男性の怒《怒り》が、貴女《貴方》を粉微塵に砕く日が来るでしょう。」  信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激昂《ゲッコウ》しながら、叫んだ。  が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になって行った。彼女は、冷たい冷笑をさえ頬《ホオ》の辺りに、浮べながら、落着《落ち着》き返って云《言》った。 「男性を弄ぶ! 貴君《貴方》は、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のように考えていらっしゃるのですか。だから、妾《わたくし》が男性の我儘だと云《言》うのですわ。若《も》し、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りに依って、粉微塵に砕かれる資格があるでしょう、《:、》貴君《貴方》だって、貴君《貴方》の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥《恥ず》かしいと思うことはありませんか、《:、》貴君《貴方》が妾《わたくし》の良心にお訴えになったように、妾《わたくし》も貴君《貴方》の良心に、それを伺いたいと思いますの。」  夫人の態度は、明《明らか》に熱していた。赤く熱すると云《言》うよりも、白く冷たく而《/しか》も極度に熱していた。 「女性が男性を弄ぶと貴君方男性《貴方がた男性》は、直《す》ぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴君《貴方》などは、眼の色を変えてまで、叱責なさろうとする。が、御覧《ご覧》なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでいるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動し易い心を、弄ぶのに過ぎないじゃありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙し尽すじゃありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きた惨たらしい死骸が、幾つ転がっているかも分《分か》りません。貴君《貴方》の眼の前にいる女性なども、案外にもそうした生きた死骸の一つだか分《分か》りませんよ。」  夫人の美しい眸は爛々と輝いた。その美しい声は、烈《激》しい熱《-ネツ》のために、顫《震》えていた。 「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違った男性本位の道徳に、妾《わたくし》は一身を賭しても、反抗したいと思っていますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろいろな組織までが、そうした間違った考え方を、助けているのでございますもの。御覧《ご覧》なさい! 世の中には、お女郎屋だとか待合《/待合い》だとかお《/お》茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在しているのですもの。そう云《言》うものを国家が許し、法律が認めているのですもの。また、そう云《言》うものが存在している世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと云《言》う人達が、晏然として手を拱いているのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、幾何口《いくら口》を酸くして説いても、妾《わたくし》はそれを男性の得手勝手だと思いますの。男性の我儘だと思います。丁度此《ちょうどこ》の青木さんのノートが、男性の我儘を示しているように。」  虐げられたる女性全体の、反抗の化身であるように、夫人の態度は、跳ね返る竹の如き鋭さを持《’持》っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夫人は、心の中に抑えに抑えていた女性としての平生《いつも》の鬱憤を、一時《1時》に晴《晴ら》してしまうように、烈《激》しく迸《-ほとばし》る火花のように喋べり続けた。 「人が虎を殺すと狩猟と云《言》い、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々人《たまたま人》を殺すと、兇暴とか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。丁度《ちょうど》それと同じように、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、《:、》社会的にも妾だとか、芸妓《芸者》だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、《:、》反対に偶々一人《たまたま一人》か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦《/妖婦》だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾《わたくし》は、そうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやろうと思っていますの。」  彼女は、一寸言葉《ちょっと言葉》を途切《-とぎ》らせてから、 「青木さんとの事だって、そうでございますわ。貴君《貴方》などは、凡《全》ての責任を妾《わたくし》に負わせようと遊ばす。妾《わたくし》が、清浄無垢《ショウジョウ無垢》な青木さんを迷わしたようなことをお云《言》いになる。が、あの時計だって、妾《わたくし》が青木さんに、どうかお受け取りになって下さいと云《言》って、差し出したものじゃあございませんわ。青木さんが、幾度も呉《く》れ呉《く》れと|仰しゃ《仰》ったから差し上げたのよ。自分がおねだりなすったことなどは、ちっとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚れが強くって我儘だと申したのですわ。またあの方が、幾何自殺《いくら自殺》をすると書いておありになっても、それはあの方の詠嘆に過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかったら、あの方は今日あたりは、妾《わたくし》の客間《サロン》へお見えになったかも知れませんよ。また縦令自殺《たとい自殺》の決心が、本当でおありになったとしても、それを妾一人《私一人》の責任のように、御解釈《ご解釈》なさることは、御免蒙《ごめん蒙》りたいと思いますわ。だって、あの方の性格の弱さに対してまで、妾《わたくし》は責任を持ちたくありませんもの。妾《わたくし》との戯恋《フラーテイション》の一寸《ちょっと》した幻滅で、自殺をなさるような方は、男子としての生存的意志を、持っていないと申上《申し上》げてもいいのですもの。妾《わたくし》とのいきさつで、自殺なさらなくっても、又《また》なにか別なことで、直《す》ぐ自殺してしまう方ですもの。」  信一郎は、夫人の言葉を聴いている中《うち》に、それを夫人の捨鉢な不貞腐《/不貞腐れ》の言葉ばかりだとは、聞きながされなかった。彼は、その美しい夫人の裡に、如何《いか》なる男性にも劣らないような、鋭い理智と批判とを持った一個の新しい女性、《:、》如何《いか》なる男性とも、精神的に戦い得るような新《/新》しい強い女性を認めたのである。  彼の夫人に対する憎悪は、三度四度目に、又《また》ある尊敬に変《変わ》っていた。旧道徳の殻を踏み躙っている夫人を、古い道徳の立場から、非難していた自分が、可《か》なり馬鹿らしいこ《こ-》とに気が付いた。  夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩な動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もっと根本的な主義から思想《/思想》から、萌しているのだと思った。 「妾《わたくし》、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云《言》うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。妾一身《わたくし/一身》を賭して男性の暴虐と我儘とを懲《懲ら》してやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いている女性の生きた死骸のために復讐《/復讐》をしてやりたいと思いますの。本当に妾《わたくし》だって、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」  そう云《言》いながら、夫人は一寸頭《ちょっと頭》をうなだれた。緊張し切っていた夫人の顔に、悲しみの色が、サッと流れた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  物凄いと云《言》ってよいか、死身と云《言》ってよいか、兎《と》に角《かく》、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可《か》なり振盪した。  これほどまで、深い根拠から根ざしている夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめる外《ほか》はない。縦令《たとい》、その道が彼女を、どんな深淵に導こうとも、それは彼女に取って覚悟の前の事に違いない。多くの男性を飜弄した報いのために、縦令彼女自身《たとい彼女自身》を亡ぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。 「いや! 奥さん、僕は貴女《貴方》のお心が、始めて解ったように思います。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女《貴方》に忠告がましいことを言ったのを、お詫します。貴女《貴方》が、一身を賭して、貴女《貴方》の思い通り、生活なさることを、他《ハタ》からかれこれ云《言》うことの愚《愚か》さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たった一つ丈《だけ》お願いがあるのです。聴いて下さるでしょうか。」 「どんなお願いでございましょうか。妾《わたくし》にも出来ることでございましたら。」  信一郎が夫人の本心を知ってから、可《か》なり妥協的な心持《心持ち》になっているのにも拘わらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩んでいなかった。 「外《ほか》でもありません。先刻《さっき》も申しました通り、青木君の弟丈《弟だけ》を、貴女《貴方》の目指す男性から除外していただきたいと思うのです。青木君の死をまざまざと知っている丈《だけ》、あの方の弟までが、貴女《貴方》の客間に出入《出入り》することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任が孰《どち》らにありましょうとも、青木君が貴女《貴方》を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対して丈《だけ》は、慎んでいただきたいと思うのです。」 「貴君《貴方》は、御忠告《ご忠告》をなさらないと云《言》う口の下から、またそう云《言》うことを|仰しゃ《仰》っていらっしゃるのですね。」そう云《言》いながら、遉《さすが》に夫人は一寸苦笑《ちょっと苦笑》ともなく微笑《/微笑》ともなく笑った。「自分の生活丈《生活だけ》を自分の思い通《どおり》にしようとするものは、利己主義ではない、《:、》他人の生活をまで、自分の思い通にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君《貴方》などこそ、本当の利己主義でいらっしゃいますわね。青木さんの弟が妾《わたくし》を慕っていらっしゃるとする。そう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活じゃございませんでしょうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方じゃございませんかしら。そう云《言》う他人の真剣な生活を、貴君《貴方》が傍から心配なさることは少しもないと思いますわ。妾《わたくし》のために、あの方が、一身を犠牲にするような事があったとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと云《言》う事になりは致しませんでしょうか。」  夫人の考え方は、凡《全》ての妥協と慣習とを踏み躙っていた。 「果《果た》してそんなものでしょうか。僕は断じてそうは思いません。」  信一郎は可《か》なり激しく、抗議せずには《は-》いられなかった。 「それは、銘々の考え方の違《違い》ですわ。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の考え方に依って生きる自由を持っています。」  夫人は、この長い激論を打ち切るように云《言》った。 「そうです。それはそうかも知れません。が、貴女《貴方》が貴女《貴方》の考えに依って生きる自由があるように、僕も僕の考えを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威から救うことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕《/僕》の神聖な義務だと思うのです。」 「どうか、御随意《ご随意》に。」夫人は、冷然と云《言》った。 「青木さんの弟に取っては、本当に有難迷惑だとは思いますが、然《しか》し止むを得ませんわ。貴君《貴方》が躍起になった御忠告《ご忠告》が、あの方の妾《わたくし》に対するお心を、どの位醒《くらい覚ま》させるか、ゆっくり拝見したいと思いますわ。」  夫人は、最後の止《-とど》めを刺すように、高飛車に冷然《/冷然》と笑いながら、云《言》い放った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第20話】 【初恋】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子夫人を、あの太陽に向《向か》って、豪然と咲き誇っている向日葵に譬えたならば、《:、》それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎《慎まし》やかに花を付けるあの可憐な雛罌粟《ヒナゲシ》の花のような女性が、夫人の手近にいることを、人々は忘れはしまい。それは云《言》うまでもなく、彼《か》の美奈子である。  父の勝平《カツヘイ》が死んだとき十七であった美奈子は、今年十九になっていた。その丸顔の色白の面《オモテ》は、処女《乙女》そのものの象徴のような、浄さと無邪気《あどけなさ》とを以《以っ》て輝いていた。  男性に対しては、何の真情をも残していないような瑠璃子夫人ではあったが、彼女は美奈子に対しては母《/母》のような慈愛と姉《/姉》のような親しさとを持っていた。  美奈子も亦《また》、彼女の若き母を慕っていた。殊に、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉じ込められた為に、彼女の親しい肉親の人々を凡《/全》て彼女の周囲から、奪われてしまった寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向《向か》っていた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。  二人は、過去の苦い記憶を悉く忘れて、本当の姉妹のように愛し合った。瑠璃子が、勝平《カツヘイ》の死んだ後《あと》も、荘田家《ショウダケ》に止《-とど》まっているのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると云《言》ってもよかった。この可憐な少女と、その少女の当然受《当然’受》け継ぐべき財産とを、守ってやろうと云《言》う心も、無意識の裡に働いていたと云《言》ってもよかった。  従って瑠璃子は、美奈子を処女《’乙女》らしく、女らしく慎《/慎》しやかに育てて行くために、可《か》なり心を砕いていた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかった。  彼女を追う男性が、蠅のように蒐《集》まって来る客間《サロン》には、決して美奈子を近づけなかった。  従って、美奈子は母の客間《サロン》に、どんな男性が蒐《集》まって来るのか、顔丈《顔だけ》も知らなかった。無論紹介《無論/紹介》されたことなどは、一度もなかった。ただ門の出入《出入り》などに、そうした男性と、擦れ違うことなどはあったが、ただ軽い黙礼の外《ほか》は口一《口ひと》つ利かなかった。  母が日曜の午後を、華麗な客間で、多くの男性に囲まれて、女王のように振舞っているのを外《よそ》に、《:、》美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花《挿しバナ》のお復習《さらい》に静かな半日を送るのが常だった。  時々《ときどき》は、客間に於ける男性の華やかな笑い声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあったが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかった。そうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣な生活を非難するように、 「まあ! 大変お賑《賑や》かでございますわね。奥様もお若くていらっしゃいますから。」  などと、美奈子の心を察するように、忠勤ぶった蔭口を利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなく窘めるのが常だった。  が、日曜の午後を、彼女はもっと有意義に過すこともあった。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであった。  彼女は、女中を一人連《ひとり連》れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。  彼女は夢のような幼い時の思出《思い出》などに耽りながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺《辺り》に低徊していることがあった。  六月の終りの日曜の午後だった。その日は死んだ母の命日に当《当た》っていた。彼女は、女中を伴って、何時《いつ》ものようにお墓参りをした。  墓地には、初夏の日光が、やや暑くるしいと思われるほど、輝かしく照っていた。墓地を劃《仕切》っている生籬《生垣》の若葉が、スイスイと勢いよく延びていた。美奈子は裏の庭園で、切って来た美しい白百合《シラユリ》の花を、右手《メテ》に持ちながら、懐しい人にでも会うような心持《心持ち》で、《:、》墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方《ホウ》へ近づいて行った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処《そこ》の墓石の辺《辺り》にも、彼処《かしこ》の生籬《生垣》の裡にも、お墓詣《墓参》りの人影が、チラホラ見えた。  清々しく水が注《-そそ》がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇っているお墓なども多かった。  小さい子供を連れて、亡き夫のお墓に詣《参》るらしい若い未亡人や、珠数を手にかけた大家の老夫人《老夫人’》らしい人にも、行き違った。  荘田家《ショウダケ》の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れていないところにあった。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯《所帯》の苦労に苦しみ抜いて、碌々夫の栄華の日にも会わずに、死んで行った糟糠の妻に対する、せめてもの|心や《’心遣》りとして、此処《ここ》に広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、直《す》ぐ其処《そこ》に埋められると云《言》うことは夢にも知らないで。  亡き父の豪奢は、周囲を巡っている鉄柵にも、四辺《辺り》の墓石を圧《あっ》しているような、一丈《一ジョウ》に近い墓石にも偲ばれた。  美奈子は、女中が水を汲みに行っている間、父母の墓の前に、じっと蹲りながら、心の裡で父母の懐しい面影を描き出していた。世間からは、いろいろに悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けていたような父ではあったが、《:、》自分に対しては、世にか《掛》け替《替え》のない優しい父であったことを思い出すと、何時《いつ》ものように、追慕の涙が、ホロホロと止めどもなく、二つの頬《ホオ》を流れ落ちるのだった。  女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾《替えほ》してから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪り取ったままに、まだ香《香り》の高い白百合《シラユリ》の花を、挿入《挿し入》れた。こうしたことをしていると、何時の間にか、心が清浄に澄んで来て、父母の霊が、遠い遠い天《-天》の一角から、自分のしていることを、微笑みながら、見ていて呉《く》れるような、《:、》頼もしいような懐《/懐》しいような、清々しい気持《気持ち》になっていた。  美奈子は、花を供えた後も、じっと蹲《うずく》まったまま、心の中で父母の冥福を祈っていた。微風が、そよそよと、向《向こ》うの杉垣の間から吹いて来た。 「|ほんとう《本当》に、よく晴れた日ね。」  美奈子は、やっと立ち上《上が》りながら、女中を見返ってそう云《言》った。 「左様でございます。|ほんとう《本当》に、雲の片一《カケひと》つだってございませんわ。」  そう云《言》いながら、女中は眩しそうに、晴れ渡《わた》った夏の大空を仰いでいた。 「そんなことないわ。ほら、彼処《あすこ》にかすったような白い雲があるでしょう。」  美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持《気持ち》になってそう云《言》った。が、美奈子の見附《見付》けたその白いかすかな雲の一片を除いた外《ほか》は、空はほがらかに何処《/どこ》までも晴れ続いていた。 「今日は余りいいお天気だから直《す》ぐ帰るのは惜しいわ。ぶらぶら散歩しながら、帰りましょう。」  そう云《言》いながら、美奈子は女中を促して、懐しい父母の墓を離れた。  何時《いつ》もは、歩き馴れた道を、青山三丁目の停留場に出るのであったが、其日《その日》は清い墓地内を、当《当て》もなくぶらぶら歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。  自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈《-か》り込まれた生籬《生垣》に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹らしい男女が、お詣りしているのに気が付いた。  美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子《様子》を可《か》なり注意して見た。兄の方《ほう》は、二十三四《二ジュウサンシ》だろう。銘仙らしい白い飛白《カスリ》に、袴を穿いて麦藁《/麦藁》の帽子を被った、スラリとした姿が、何処《どこ》となく上品な気品を持っていた。妹はと見ると、まだ十五か十六だろう、青味がかった棒縞のお召にカ《/カ》シミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあ《/あ》ざやかに美しかった。  美奈子達が、段々近《だんだん近》づいてそ《/そ》の墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返った妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽《/軽》く会釈した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  妹らしい方《ほう》から会釈されて、美奈子も周章てながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思い出せなかった。長い睫に掩われたその黒い眸を、何処《どこ》かで見たことのあるように思った。が、それが何《ど》うしても美奈子には思い出せなかった。 「人違いじゃないのかしら。」  そう思って、美奈子は一寸顔《ちょっと’顔》を赤くした。  が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度《再び》その兄妹らしい男女を見返ったとき、今度は兄の方《ほう》が、美奈子の方《ほう》を振り返っていた。恐らく妹が、挨拶したので、一寸《ちょっと》した興味を持った為だろう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那美奈子《刹那/美奈子》は、若い男性と、咄嗟に顔を見合わした恥かしさに、弾かれたように、顔を元に返した。  それはホンの一瞬の間だった。が、その一瞬の間に一目見《ひと目見》た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿を振《振る》ったかのように、ハッキリと刻み付けられてしまった。  彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆どなかった。が、今見《いま見》た青年の顔は、彼女の注意の凡《全》てを、支配するような不思議な魅力を持っていた。  白いくっきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凛々しく引きしまった唇、顔全体を包んでいる上品な匂《匂い》。  お墓参りの後《あと》の、澄《/澄》み渡ったような美奈子の心持《心持ち》は、忽ち掻き擾《乱》されてしまった。彼女ののんびりとしていた歩調は、急に早くなった。彼女の心は、強い力で後《後ろ》へ引かれながら、身体丈《身体だ》けは彼女の意志とは反対に、前へ前へと急いでいた。丁度《ちょうど》、恐ろしいものからでも逃れるように。  彼女の擾《乱》れていた心が、だんだん和《-なご》んで来るのに従って、先刻《さっき》の妹の方《ほう》から受けた挨拶のことを、考えていた。先方《センポウ》は、自分を知っているに違《違い》ない。少くとも、妹の方丈《ほうだけ》は、自分を知っていて呉《く》れるに違《違い》ない。が、そうは思って見るものの、妹が誰であるか何《ど》うしても思い出されなかった。  が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失ったばかりの肉親のお墓詣《墓参》りをしていたこと丈《だけ》は、明《明ら》かだった。幾本も立っている卒都婆が、どれもこれも墨の匂《匂い》が新しかった。  美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあった家を、それからそれと数えて見た。が、何《ど》うしても兄妹の所属は判らなかった。  妹の方《ほう》が、人違《人違い》をしたのかも知れない。そう思うことは美奈子は、何だか淋《-さみ》しかった。やっぱり、此方《こちら》が思い出せないのだ。その中《うち》には、また屹度《きっと》あの人達と顔を合せる機会があるに違いない。屹度機会《きっと機会》が来るに違いない。 「お嬢様!《/》 何方《どっち》へ行《い》らっしゃるのでございます?」  そう云《言》って呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズンズン前へ、出口のない小径《小道》の方《ホウ》へと、進んでいるところだった。 「其方《そちら》へいらっしゃいますと突き当《当た》りでございますよ。」  そう言いながら、女中は笑った。 「おや! おや! 妾《わたし》ぼんやりしていたわ。」  美奈子も、てれかくしに笑った。  二人は何時の間にか霞町の方《ホウ》へ近づいていた。 「霞町から乗って、青山一丁目で乗換《乗り換》えすることにいたしましょうか。」  女中の発議《ハツギ》に委《任》したように、美奈子は黙って霞町の方《ホウ》へ、だらだらした坂《サカ》を降《-くだ》っていた。心の中では、まだ一心に、そ《/そ》の妹《妹’》の顔と兄の顔とを等分に考えながら。  塩町行《シオチョウ行き》の電車の昇降台の棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、 「ああそ《/そ》うそう!」と、自分自身に言った。  彼女は、やっと妹を思い出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にいた人だ。そうそう! 先刻見《さっき見》たときバンドをしていたのをスッカリ忘れていた。向《向こ》うでは此方《こっち》の顔丈《顔だけ》を覚えていて呉《く》れたのだ。そう思うと、美奈子は兄妹に対して一入なつかしい心が湧いて来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  少女の顔丈《顔だけ》は、やっと思い出したけれども、名前は何《ど》うしても思い出せなかった。家へ帰ってからも、美奈子は、お茶の水にいた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡げて、それらしい名前を、思い出そうとしたけれども、やっぱり徒爾《無駄》だった。  自分ながら、何《ど》うしてあの兄妹に、不思議に心を惹かされるのか、美奈子には分《分か》らなかった。が、兄の方《ほう》の白い横顔や、妹の会釈した時の微笑などが何《ど》うしても忘れられなかった。自分にも、あんなに親しい兄《兄’》があったら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であったら、などと取り止めもないことを、考えながら、やっぱり忘れられないのは、一目顔《一目’顔》を見合わせた丈《だけ》の兄妹だった。否、本当に忘れられないのは、兄の方一人丈《ほう一人だけ》だったかも知れない。ただ兄を想い出すごとに、妹は影の形に伴うごとく、彼女の記憶の裡に、甦って来るのかも知れなかった。異性の兄の方丈《ほうだけ》を考えることは、彼女の慎しい処女性が、彼女自身にそれを許さなかった。彼女は、自身でも兄妹のことを考えているように、言訳《言い訳》しながら、本当は兄丈《兄だけ》のことを考えていたのかも知れなかった。  美奈子は、兄の方《ほう》の美しい凛々《/凛々》しい姿を、心の裡で、じっと噛みしめるように、想い出しているとほ《/ほ》のぼのと夜の明けるように、心の裡に新しい望《望み》や、新しい世界が開《-ひら》けて行くように思った。今まで夢にも知らなかったような、美しい世界が開《-ひら》けて行くように思った。  が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハッキリと知れないことが、寂しかった。あの時に、偶然逢ったばかりで、今後永く永く、否一生逢《否/一生逢》わずに終るのではないかと思ったりすると、淡い掴みどころのないような寂しさが、彼女の心を暗くしてしまうのだった。  彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知ったと云《言》ってもよかった。否彼女《否/彼女》の心の少女らしい平和は、永久に破られたと云《言》ってもよかった。  美奈子は、以前よりも温和《大人》しい、以前よりも慎しい少女になっていた。  その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画《プラン》が考えられていた。そうだ! 此《こ》の次の日曜にも、お墓詣《墓参》りをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取って親しい父か母かであったならば、此次《この次》の日曜にも二人は屹度《きっと》、お詣りをしているのに違《違い》ない。  そう考えて来ると、美奈子には次の日曜が廻《-めぐ》って来るのが、一日千秋《一日千秋’》のように、もどかしく待たれた。  が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜《夕べ》からの梅雨らしい雨が、じめじめと降っているのだった。 「今日はお墓詣《墓参》りに行こうと思っていたのですけれども。」  美奈子は、朝母《朝/母》と顔を見合《見合わ》すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのように、滾《こぼ》すように言った。瑠璃子には美奈子の失望が分《分か》らなかった。 「だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。」 「でも、今日も何だか行きたかったの。妾楽《わたくし”楽》しみにしていたのです。」 「そう! じゃ、自動車《車》で行って来てはどう。自動車《車》を降《-お》りてから、三十間も歩けばいいのですもの。」  瑠璃子は、優しく言った。 「でも!」そう言って、美奈子は口籠った。  雨を衝いてでも、風を衝いてでも、自分は行ってもいい。が、先方《向こう》は? そう思うと、美奈子は寂しかった。普通にお墓詣《墓参》りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。そう思って来ると、雨降りにでも行こうと云《言》う自分の心、否《いな/》お墓詣《墓参》りと云《言》うことを、ダシに使おうとしている自分の心が、美奈子は急に恥かしくなった。彼女は、われにも非《-あら》ず顔を赤くした。 「おや! 美奈さん。何がそんなに恥《恥ずか》しいの。お墓詣《墓参》りするのが、そんなに恥《恥ずか》しいの?」  明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかった。 「あら! そうではありませんわ。」  と、美奈子は周章てて、打ち消したが、彼女の素絹《白絹》のように白い頬《ホオ》は、耳の附根《付根》まで赤くなっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その次の日曜は、珍らしい快晴だった。洗い出したような紺青色《ウルトラマリン》の空に、眩しい夏の太陽が輝《/輝》かしい光を、一杯に漲らしていた。  美奈子は、朝眼《朝/目》が覚めると、寝床《ベッド》の白いシーツの上に、緑色の窓掩《カーテン》を透《透か》して、朝の朗かな光が、戯れているのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になった。今日は何だか、楽しい嬉《/嬉》しい出来事に出逢いそうな気がした。彼女は、いそいそとして、床《トコ》を離れた。  午前中は、いろいろな事が手に付かなかった。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子は何時《いつ》になく幾度《/幾度》も幾度も弾き違えた。 「美奈さんは、今日は何《ど》うかしているじゃないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透《見透か》されると、美奈子の心は、愈々掻《いよいよ掻》き擾《乱》されて、到頭中途《とうとう中途》で合奏を止《辞》めてしまった。  午後になるのを待ち兼ねたように、美奈子はお墓詣《墓参》りに行くための許しを、母に乞うた。何時《いつ》もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、云《言》いにくかった。  墓地は、何時《いつ》ものように静かだった。時候がもうスッカリ夏になった為か、此《こ》の前来たときのように、お墓詣《墓参》りの人達は多くはなかった。が、周囲は、静寂であるのにも拘わらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そわそわとして、足が地に付かなかった。恐いような怖ろしいような、それでいて浮き立つような唆られるような心地がした。  父母のお墓の前に、じっと蹲《うずく》まったけれども、心持《心持ち》はいつものように、しんみりとはしなかった。こんな心持《心持ち》で、お墓に向《向か》ってはならないと、心で咎めながらも、妙に心が落着《落ち着》かなかった。  彼女は、平素《いつも》とは違って、何かに周章《あわて》たように、父母の墓前から立ち上《上が》った。 「すみや、今日も霞町の方《ホウ》へ出て見ない!」  美奈子は、一寸顔《ちょっと顔》を赤《赤ら》めながら何気《/何気》ないように女中に云《言》った。女中は黙って従《つ》いて来た。  美奈子の心は、一歩毎にその動揺を増して行った。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽の端か、妹の方《ほう》のあざやかな着物が、チラリとでも見えは《は-》せぬかと、幾度も透《透か》して見た。が、その辺《辺り》は妙《-みょう》に静まり返って、人気《人け》さえしなかった。  彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行ったとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のようにムザムザと、夏の大空に消えてしまった。  心覚えの墓地は、空しかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っている丈《だけ》であった。供えた花が、凋れている丈《だけ》であった。美奈子の心を、寂しい失望が一面に塞してしまった。  せめて墓に彫《-ほ》り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思った。が、生籬越《生け垣ごし》に見た丈《だけ》では、それが何《ど》うしても、確《確か》められなかった。それかと云《言》って、女中を連れている手前、それを確かめるために、墓地の廻《回》りを歩いたりすることも出来なかった。  美奈子は、満されざる空虚を、心の裡に残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。  彼女は、その途端ふ《/ふ》と学校で習った『株《クイゼ》を守って兎を待つ』と、云《言》う熟語を思い出した。約束もしない人が、何《ど》うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだろう。そう思って来ると、自分の子供らしさが、恥《恥ずか》しいと同時に、寂しい頼《/頼》りない気がした。或《あるい》は、あれ切りもう一生逢われない人かも知れない。  彼女は、怏々として、暗いむすぼれた心持《心持ち》で電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳って来たようにさえ思われた。  が、美奈子の乗った九段両国行《九段両国行き》の電車が、三宅坂に止まったとき、運転手台の方から、乗って来る人を見たとき、美奈子は思わずその美しい目を眸った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子が、駭《驚》いて目を眸ったのも、無理ではなかった。車内へツカツカと、這入《入》って来て、彼女の直《す》ぐ斜前《斜め前》へ腰を降ろしたのは、紛れもない、墓地で見た彼《/か》の青年であった。美奈子が二週間もの間、外《よそ》ながらもう一度見たいと思っていたあ《/あ》の青年であった。彼女は、一目見《ひと目見》たばかりではあったが、上品なその目鼻立《目鼻立ち》を見ると、直《す》ぐそれと気が付いた。  その青年に、つい目と鼻の位置に坐られると、美奈子は顔を赧《赤ら》めて、じっと俯むいてしまう女だった。が、心の裡では思った、何と云《言》う不思議な偶然《チャンス》だろう。その人に逢えると思った場所では、逢えないで、悄然と帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と云《言》う不思議な偶然だろう。そう思うと同時に、不思議な偶然の向《向こ》うには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、先刻《さっき》まで凋れかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、じっと見詰める丈《だけ》の勇気はなかった。車台の床に投げられている彼女の視線には、青年が持っている細身の籐のステッキの尖端《端》だけしか映っていなかった。  あの方は、自分の顔を覚えていてくれるかしら。美奈子はそんなことを、わくわくする胸で、取り止めもなく考えていた。兎《と》に角《かく》、妹が挨拶をした以上、自分の顔丈位《顔だけくらい》は、覚えていて呉《く》れるかしら。覚えていて呉《く》れれば、どんなに幸福であろうかなどと思ったりした。  電車は、直《す》ぐ半蔵門で止った。もう、自分の家までは二分《2分》か三分《3分》かの間である。動き出せば直《す》ぐ止《止ま》る、わずかの距離であった。美奈子は、もっともっと此《こ》の電車に乗っていたかった。そうだ! 青年の乗っている限り、此《こ》の電車に乗っていたいと思った。  彼女は、女中をそれとなく先へ降《降ろ》して、神田辺《神田辺り》に買物《買い物》があると云《言》って、此《こ》のままずっと乗り続けていようかと思ったりした。が、そうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だった。  その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れていた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢《勢い》よく走っていた。美奈子は電車が、平素《いつも》の二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥を得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。青年は、此《こ》の前見たときと同じような白い飛白《カスリ》の着物に絽《/絽》セルらしい袴を穿いていた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凛々《/凛々》しい面影が、美奈子の小さい胸を圧し付けるように、迫って来るのだった。美奈子は、此《こ》の青年と向《向か》い合って坐りながら、もっともっと九段までも両国までも、《:、》いないなも《/も》っと遥かに遥かに遠い処《ところ》まで、一緒に乗って行きたいような、切ない情熱が、胸に湧いて来るのを何《ど》うすることも出来なかった。このまま別れてしまうと、また何時会《いつ会》われるか分《分か》らない。二年も三年も、いな一生《/一生》もう二度と会われないのではあるまいかなどと思ったりすると、美奈子は、何《ど》うしても座席が離れられなかった。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかった。  五番町の停留場の赤い柱《ハシラ》が見え出すと、主人よりも|先き《先》に立ち上《上が》った。 「参りましたよ。」  彼女は主人を促すように云《言》った。美奈子がそれに促されて、不承々々《不承ブショウ》に席を離れようとしたときだった。降《お》りそうな気勢《気配》などは、少しも見せなかった青年が、突然立《突然’立》ち上《上が》ると男《/男》らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力で動いている電車から、軽くヒラリと飛び降りた。 『おや!』女中が、傍《そば》にいなかったら、彼女は駭《驚》いて声を出したかも知れなかった。 『御近所《ご近所》の方かしら。』そう思った美奈子は、電車を降《お》りながら美しい眸を凝して、その後姿《後ろ姿》を見失うま《-ま》いと、眼も放たず見詰めていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿《後ろ姿》を、じっと彼女から見詰められているとは少しも気が付かないように、籐の細身のステッキを、眩しい日の光の裡に、軽く打ち振りながら、グングン急ぎ足で歩いた。  美奈子は、一体此《一体こ》の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿《後ろ姿》を眼で追っていた。  その時に、彼女を駭《驚》かすような思いがけないことが、起《起こ》った。 「おや! あの方、家《うち》へいらっしゃるのじゃないかしら。」  美奈子は、思わずそう口走らずには《は-》いられなかった。  九段の方《ホウ》へグングン歩いて行くように見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だんだんその門に吸い付けられるように歩み寄るのであった。  青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やっぱり通りがかりに、一寸邸内《ちょっと邸内》の容子《様子》を軽《/軽》い好奇心から覗くのではないかと思った。が、佇ずんで一寸何《ちょっと何》か考えたらしい青年は、思い切ったように、|グングン《ぐんぐん’》家の中《なか》へ入って行った。ステッキを元気に打ち振りながら。 「お客様ですわ、奥様の。」  女中は、美奈子の前の言葉に答えるように言った。  いかにも、女中の言う通《とおり》、母の客間《サロン》を訪《-おとな》う青年の一人に違いないことが美奈子にも、もう明《明ら》かだった。 「お前、あの方知《方’知》っているの?」  美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすようにしながら、何気なく訊いた。 「いいえ! 存じませんわ。妾《わたくし》はお客間《客マ》の方《ほう》の御用《ご用》をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きっと存じておりますわ。」  きくやと云《言》うのは、母《母’》に従《つ》いている小間使《小間使い》の一人だった。  美奈子は、兎《と》に角《かく》その青年が、自分の家に出入りしていると云《言》うことを知ったことが、可《か》なり大きい欣《喜》びだった。自分の家に出入りしている以上、会う機会、知己《知り合い》になる機会が、幾何《いくら》でも得られると思うと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈《激》しく波立って行くのだった。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合っていること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何若《いくら若》い男性を、その周囲に惹き付けていようとも、それは美奈子に取って、何の関係もないことだった。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられているのを知ると、美奈子は平気ではいられなかった。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持《心持ち》が、揺ぎ初《始》めた。  美奈子が、心持足《心持ち足》を早めて、玄関の方《ホウ》へ近づいて見ると、青年は取次が帰って来るのを待っているのだろう。其処《そこ》に、ボンヤリ立っていた。  彼は不思議そうに、美奈子をジロジロと見たが、美奈子が此《こ》の家の家人であることに、やっと気が付いたと見え、少し周章気味《周章て気味》に会釈した。  美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふっくりとした頬《ホオ》は、見る見る染めたように真赤《真っ赤》になった。その時に丁度《ちょうど》、取次の少年が帰って来た。青年は待ち兼《か》ねたようにその後《あと》に従《-つ》いて入った。  美奈子が、玄関から上《上が》って、奥の離れへ《へ’》行こうとして客間の前を通ったとき、一頻り賑《賑や》かな笑い声が、美奈子の耳を衝いて起《起こ》った。今までは、そうした笑い声が、美奈子の心を擦《-かす》りもしなかった。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はそうではなかった。その笑い声が、妙に美奈子の神経を衝き刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑している母に対して、羨望に似た心持《心持ち》が、彼女の心に起《起こ》って来るのを何《ど》うともすることも出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その日曜の残りを、美奈子はそわそわした少《/少》しも落着《落ち着》かない気持《気持ち》の裡に過さねばならなかった。かの青年が、自分の家の一室にいることが、彼女の心を掻き擾《乱》してしまったのだ。  今までは、一度も心に止めたことのない客間《サロン》の方《ほう》が、絶えず心にかかった。青年が母に対してどんな話をしているのか、母が青年にどんな答《答え》をしているかと云《言》ったようなことを、想像することが、彼女を益々不安《ますます不安》にさせ、いらいらさせた。  彼女は、到頭部屋《とうとう部屋》の中に、じっと坐っていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気を紛らすために、庭の中を歩いて見たい為だった。が、庭の中を彼方此方《あっちこっち》と歩いている裡に、彼女の足は何時の間にか、だんだん洋館の方《’ホウ》へ吸い付けられて行くのだった。彼女の眸は、時々我《ときどき我》にもあらず、客間の縁側《ヴェランダ》の方《ホウ》へ走るのを、何《ど》うともすることが出来なかった。その縁側《ヴェランダ》からは、時々思《ときどき思》い出したように、華やかな笑い声が外へ洩れた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見《とうとう見》えなかった。  大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美《派手》に晩餐を振舞う瑠璃子であったが、《:、》その日は何《ど》うしたのか、夕方が近づくと皆客《みんな客》を帰《-かえ》してしまって、美奈子とたった二人限《二人き》り、小さい食堂で、平日のように差し向《向か》いに食卓に就いた。  その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取って母のような優しさと姉《/姉》のような親しみとを持っていた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかったよ《よ-》うな感情を持ち初《始》めていた。母の若々しい神々《/神々》しいほどの美貌が、何となく羨ましかった。母が男性と、殊にあの青年と、自由に交際っているのが、何となく羨ましいように、妬ましいように思われて仕方がなかった。が、美奈子はそうしたはしたない感情を、グッと抑え付けることが出来た。彼女は平素《いつも》の初々しい温和《/大人》しい美奈子だった。  順々に運ばれる皿数《コーセス》の最後に出た独活《アスパラガス》を、瑠璃子夫人がその白魚のような華奢な指先で、摘み上げたとき、彼女は思い出したように美奈子に云《言》った。 「ああそうそう! 美奈さんに相談しようと思っていたの。貴女此夏《貴方/この夏》は何処《どこ》へ行《’行》きましょうね。四五日《シゴニチ》の裡に、何処《どこ》かへ行こうと思っているの。今日なんかもう可《か》なり暑いのですもの。」 「妾《わたし》、何処《どこ》だっていいわ。貴女《貴方》のお好きなところなら何処《どこ》だっていいわ。」美奈子は、慎ましくそう云《言》った。 「軽井沢は去年行ったし、妾今年《わたし/今年》は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅まで開通したそうだし、便利でいいわ。」 「妾箱根《わたし/箱根》へはまだ行ったことがありませんの。」 「それだと尚《なお-》いいわ。妾温泉《わたし/温泉》では箱根が一番いいと思うの。東京には近いし景色はいいし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋《/部屋》の都合を訊き合せましょうね。」  そう云《言》って、瑠璃子は言葉を切ったが、直《す》ぐ何か思い出したように、 「そうそう、まだ貴女《貴方》にお許しを願わなければならぬことがあるの。女手《オンナデ》ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒《ひとり一緒》に行っていただこうと思うの。貴女《貴方》、介意《構》わなくって?」 「介意《構》いませんとも。」美奈子はそう答えた。もし、昨日の美奈子であったら、それをもっと自由に快活《/快活》に答えることが出来たであろう。が、今の美奈子はそう答えると共に、胸が怪しく擾《乱》れるのを、何《ど》うともすることが出来なかった。 「温和《大人》しい学生の方《かた》なの。いろいろな用事をして貰うのにいいわ。」  瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱いにでもしているような口調で云《言》った。  学生と聴くと、美奈子の胸は更に烈《激》しく波立った。押え切れぬ希望と妙《/妙》な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第21話】 【箱根行】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「御機嫌《ご機嫌》よく行ってらっ《-っ》しゃいませ。」  玄関に並んだ召使達《召使い達》が、口を揃えて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗った自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。  乾燥した暑い日が、四五日《シゴニチ》も続いた七月の十日の朝だった。自動車の窓に吹き入って来る風は、それでも稍涼《やや涼》しかったが、空には午後からの暑気を思わせるような白い雲が、彼方此方《あちらこちら》にムクムクと湧き出していた。  美奈子は、母と並んで腰をかけていた。前には、母の気に入りの小間使《小間使い》と自分《/自分》の附添《付添い》の女中とが、窮屈そうに腰をかけていた。  美奈子は、母から箱根行《箱根行き》のことを訊かされてから、母が一緒に伴って行くと云《言》う青年のことが、絶えず心にかかっていた。が、母の方《ほう》からはそれ以来、青年のことは何《-なん》とも口に出さなかった。母が口に出さない以上、美奈子の方《ほう》から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかった。  出立の朝になっても、青年の姿は見えなかった。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさえ思った。そう思うと美奈子は、失望したような、何となく物足りないような心持《心持ち》になった。  自動車が、日比谷公園の傍《そば》のお濠端を走っている時だった。美奈子は、やっと思い切って母に訊いて見た。 「あの、学生の方とかをお連れするのじゃなかったの?」  瑠璃子は、初めて気が付いたように云《言》った。 「そうそう。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴女《貴方》まだ御存《ご存》じないのでしょう。」 「はい! 存じませんわ。」 「学習院の方よ。時々制服《ときどき制服》を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?」 「いいえ! 一度もお目にかかったことありませんわ。」 「青木さんと云《言》う方よ。」  母は何気ないように云《言》った。 「青木さん!」美奈子は一寸駭《ちょっと驚》いたように云《言》った。「その方は此間《このあいだ》、亡くなられたのではございませんの。」  美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木某《青木なにがし》が、横死したと云《言》うことは、薄々知っていた。 「いいえ! あの方の弟さんよ。兄さんは、帝大の文科《ブン科》にいらしったのよ。」  茲《ここ》まで聴いたとき美奈子にはもう凡《全》てが、判っていた。此《こ》の旅行の同伴者《同伴シャ》が、何人《ナンピ-ト》であるかがも《/も》うハッキリと判った。新しく兄を失った青木と云《言》う青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何《/なん》の疑《疑い》も残っていなかった。  美奈子の心は、嵐の下の海のように乱れ立った。かの青年と、少くとも向《向こ》う一箇月間一緒に暮《暮ら》すと云《言》うことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分《充分》だった。それは嬉しいことだった。が、それは同時に怖《恐ろ》しいことだった。それは、楽しいことだった。が、それは同時に烈《激》しい不安を伴った。  美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子夫人は、その真白《真っ白》な腕首に喰い入っている時計を、チラリと見ながら独言《/独り言》のように呟いた。 「もう、九時だから、青木さんは屹度来《きっと来》ていらっしゃるに違いないわ。」  そうだ! 青年は、停車場《停車じょう-》で待ち合わせる約束だったのだ。もう、二三分《ニサンプン》の後《あと》にその人と面と向《向か》って立たねばならぬかと思うと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだった。  が、美奈子は少女らしい勇気を振い起《起こ》して、自分の心持《心持ち》を纏めようとした。あの青年と会っても、取り乱すことのないように、出来る丈自分《だけ自分》の心持《心持ち》を纏めて置こうと思った。美奈子の心持《心持ち》などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦の大《/大》きい建物の前に下《下ろ》していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子等《美奈子ら》の自動車の着くのを、先刻《さっき》から待ち受けていたかのように、駅の群集の間から、五六人《ゴ六人》の青年紳士が、自動車から降り立ったばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであった。 「お見送りに来たのですよ。」  皆は、口を揃えて云《言》った。  夫人は軽い快い駭《驚》きを、顔に表しながら云《言》った。 「おや! 何《ど》うして御存《ご存》じ?」 「ハハハ、お駭《驚》きになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スッカリ判っているのですからね。」  外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にそう云《言》った。 「それは驚きましたね、小山《コヤマ》さん! 貴君間諜《貴方/スパイ》でも使っているのじゃないの? オッホホホ。」  夫人も華やかに笑った。 「使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。」 「じゃ! 行先《行き先》も判って?」 「判っていますとも。箱根でしょう。而《しか》も、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。」  今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、そう附《付》け加えた。 「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」  夫人は、当惑したらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でそう答えた。  若い男性に囲まれながら、彼等を軽く扱《あし》らっている夫人の今日の姿は、又《また》なく鮮《鮮や》かだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、その漆のように匂う黒髪を掩うていた。大粒の真珠の頸飾《首飾》りが、彼女自身の象徴《シンボル》のように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下《下が》っていた。  平素見馴《いつも見慣》れている美奈子にさえ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間《ホール》に渦巻いている群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注《-そそ》がれて、彼等が切符を買ったり手荷物《/手荷物》を預けたりする|忙が《忙》しい手を緩めさせた。  美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立っていた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のいないのを知った。一寸期待《ちょっと期待》が外れたような、安心したような気持《気持ち》になっていた。その内に、母を見送りの男性は、一人増《ひとり増》え二人加《”二人’加》った。が、かの青年は何時《-いつ》まで待っても見えなかった。その男性達は、美奈子の方《ほう》には、殆ど注意を向けなかった。ただ美奈子の顔を、外《よそ》ながら知っている二三人《二’三人》が軽く会釈した丈《だけ》だった。 「奥さん! まだ判っていることがあるのですがね。」  暫くしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おずおずそう云《言》った。 「何《なん》です? |仰しゃ《仰》って御覧《ご覧》なさい。」  夫人は、微笑《微笑’》しながら、しかも言葉丈《言葉だけ》は、命令するように云《言》った。 「云《言》っても介意《構》いませんか。」 「介意《構》いませんとも。」  夫人は、ニコニコと絶《/絶》えず、微笑を絶たなかった。 「じゃ申上《申し上》げますがね。」彼は、夫人の顔色を窺《-うかが》いながら云《言》った。「青木君を、お連れになると云《言》うじゃありませんか。」  それに附《付》け加えて、皆は口を揃えるように云《言》った。 「何《ど》うです、奥さん。当《当た》ったでしょう。」  皆の顔には、六分《六ブ》の冗談と四分《/ヨンブ》の嫉妬が混じっていた。 「奥さん、いけませんね。貴女《貴方》は、皆に機会均等だと云《言》いながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」  小山《コヤマ》と云《言》う外交官らしい男が、冗談半分に抗議を云《言》った。  美奈子は、母が何と答えるか、じっと聞耳《聞き耳》を立てていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「まあ! 青木さんを連れて行くっ《-っ》て。嘘ばっ《-っ》かり。青木さんなんか、まだ兄さんの忌《イミ》も明けていない位《くらい》じゃありませんか。」  瑠璃子夫人は、事もなげに打消《打ち消》した。美奈子は、母《母’》が先刻自分《さっき自分》に肯定したことを、こうも安々《ヤスヤス》と、打ち消しているのを聴いたとき、内心少《内心少な》からず驚いた。自分に対しては可《か》なり親切な、誠意のある母が、こうも男性に向《向か》っては白々しく出来ることが、可《か》なり異様に聞《聞こ》えた。 「忌《イミ》もまだ明けないだろうって。奥さんにも似合わない旧弊なことを|仰しゃ《仰》るのですね。忌位明《イミくらい明》けなくったって、いいじゃありませんか。殊に、奥さんと一緒に行くんだったら、死んだ兄さんだって、冥土で満足しているかも知れませんよ。死んだ青木淳君《青木淳くん》の瑠璃子夫人崇拝《瑠璃子’夫人崇拝》は人一倍だったのですからね。あの男の貴女《貴方》に対する態度は、狂信に近かったのですからね。」  長髪の画家が、一寸皮肉《ちょっと皮肉》らしく言った。  夫人は、美しい顔を、少し曇らせたようだったが、直《す》ぐ元の微笑に帰って、 「まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠青木《証拠/青木》さんは、お見えにならないじゃありませんか。」 「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアッと云《言》っている間に、汽笛一声発車《汽笛一声/発車》してしまうのじゃありませんか。貴女《貴方》のなさることは、大抵そんなことですからね。」  此《こ》の内で、一番年配らしい三十二三《三十ニサン》の夏《/夏》の外套を着た紳士が、始めて口を入れた。 「御冗談《ご冗談》でございましょう! 富田さん。青木さんをお連れするのだったら、そうコソコソとはいたしませんよ。まさか、貴君《貴方》が赤坂の誰かを湯治に連れていらっしゃるのとは違っていますから。」  瑠璃子夫人の巧みな逆襲に、みんなは声を揃えて哄笑した。富田《/富田》と呼ばれた紳士は苦笑しながら言った。 「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行こうと思っているのですが、彼方《あちら》でお訪ねしても、介意《構》いませんか。」  瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、而《しか》も乱麻を断つように答えた。 「いいえ! いけませんよ。此《こ》の夏は男禁制!《/》 誰かの歌に、こんなのが、あるじゃありませんか。『大方の恋《/恋》をば追わず此《/こ》の夏は真白草花白《/真っ白クサバナ/白》きこそよけれ』妾《:わたくし》も、そうなのよ、此《こ》の夏は、本当に対人間《タイ人間》の生活から、少し離れていたいと思いますの。」 「ところが、奥さん。その真白草花《真っ白草花》と云《言》うのが、案外にも青木弟《青木ジュニョル》だったりするのじゃありませんか。」  小山《コヤマ》と呼ばれた外交官らしい紳士が、突込《突っ込》んだ。 「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになったら、その償《償い》として、皆さんを箱根へ御招待《ご招待》しますわ。御覧《ご覧》なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないじゃありませんか。」  夫人はそう言いながら、美奈子達を促して改札口の方《ホウ》へ進んだ。若い紳士達は、蟻の甘きに従《つ》くように、夫人の後《あと》から、ゾロゾロと続いた。  夫人が、汽車に乗った後《あと》も、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかった。若い男達は、やっと夫人の言葉を信じ初《始》めた。 「向《向こ》うから、お呼び寄せになるか何《ど》うかは別として、今日同行《今日’同行》なさらないこと丈《だけ》は、信じましたよ。ハハハハハ。」  小山《コヤマ》と云《言》う男が、発車間際になって、そう言った。 「まだそんな負惜しみを、言っていらっしゃるの!」  夫人は、そう言いながら、嫣然《にっこり》と笑って見せた。  美奈子は、何が何だったか、判らなくなった。母の自動車の中の言葉では、青木と云《言》う青年が──墓地で逢った彼《あ》の人に相違ない青年が──東京駅で待っているようだった。而《しか》も母は、今そのことをきっぱり打ち消している。  美奈子は安心したような、而《しか》も失望したような妙《/妙》な心持《心持ち》の混乱に悩んでいた。  汽車が出るまで、到頭青木《とうとう青木》は姿を、見せなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車が動き初《始》めても、青木の姿は、到頭見《とうとう見》えなかった。 「それ御覧《ご覧》なさい! 疑いはお晴れになったでしょう!」  夫人は、車窓から、その繊細な上半身を現しながら、見送っている人達に、そうした捨台辞《捨て台詞》を投げた。  男性達が、銘々いろいろな別辞を返している裡に、汽車は見る見る駅頭を離れてしまった。 「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんな小旅行《トリップ》の出発を、わざわざ見送って呉《く》れたりなどして。」  夫人は美奈子に対する言い訳のように呟きながら席《/席》に着いた。  母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけている以上に、もっと気にかけていたのは美奈子だった。その人と一緒に汽車に乗ったり、一緒に宿屋に宿《泊ま》ったり、同じ食卓に着いたりすることを考えると、彼女の小さい心は、戦《慄》いていたと云《言》ってもよかった。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあったのだ。が、その人は到頭姿《とうとう姿》を現わさない。母も前言を打ち消すような事を言っている。美奈子の心配はなくなった。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。ただ白々しい寂しさ丈《だけ》が、彼女の胸に残っていた。  美奈子の心持《心持ち》を少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしているのを慰めるように言った。 「美奈さんなんか、何《ど》うお考えになって。妾達女性《わたしたち女性》を追うているああ云《言》う男性を。ああ云《言》う女性追求者と云《言》ったような人達を。」  美奈子は黙って答《答え》をしなかった。母が交際っている人達を、厭だとも言えなかった。それかと言って、決して好きではなかった。 「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考えないでしょうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでいる人が、頼もしいわね。」  美奈子も、ついそれに賛成したかった。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やっぱりそうした男性らしくない女性追求者の一人かと思うと、美奈子はやっぱり黙っている外《ほか》はなかった。 「妾達《わたしたち》を、追うて来る人でも、身体と心との凡《全》てを投じて、来る人はまだいいのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。狼の散歩旁々人《散歩かたがた/人》の後《あと》から従《つ》いて行くようなものなのよ。つい、蹉《つまず》いたら、飛びかかってやろう位《くらい》にしか思っていないのですもの。」  美奈子は、母の辛辣な思い切った言葉に、つい笑ってしまった。男性のことを話すと、敵か何かのように罵倒する母が、何故多くの男性を近づけているかが、美奈子にはただ一つの疑問だった。 「青木さんと云《言》う方、一緒にいらっしゃるのじゃないの?」  美奈子は、やっと、心に懸っていたことを訊いてみた。母は、意味ありげに笑いながら言った。 「いらっしゃるのよ。」 「後《あと》からいらっしゃるの?」 「いいえ!」母は笑いながら、打ち消した。 「じゃ、先にいらっしゃったの?」 「いいえ!」母は、やっぱり笑いながら打ち消した。 「じゃ何時《/いつ》?」  母は笑ったまま返事をしなかった。  丁度《ちょうど》その時に、汽車が品川駅に停車した。四五人《シゴニ-ン》の乗客が、ドヤドヤと入って来た。  丁度《ちょうど》その乗客の一番後《一番後ろ》から、麻の背広を着た長身白皙の美青年が、姿を現わした。瑠璃子夫人の姿を見ると、ニッコリ笑いながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持っていた。 「おや! いらっしゃい!」  夫人は、溢れる微笑を青年に浴びせながら言った。 「さあ! おかけなさい!」  夫人はその青年のために、座席《シート》を取って置いたかのように、自分の右に置いてあった小さいトランクを取り除《の》けた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、駭《驚》きに目を眸りながら、それでもそっと青年の顔を窃《盗》み見た。それは、紛れもなく彼《/か》の青年であった。墓地で見、電車に乗り合わし、自分の家を訪ねるのを見た彼《/か》の青年に違いなかった。  美奈子は、胸を不意に打たれたように、息苦しくなって、じっと面《/オモテ》を伏せていた。  が、美奈子のそうした態度を、処女《乙女》に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云《言》った。 「これが先刻《さっき》お話《話し》した青木さんなの。」  紹介された青年は、美奈子の方《ほう》を見ながら、丁寧に頭を下げた。 「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかかったことがありましたね。」  そう云《言》われて、『はい。』と答えることも、美奈子には出来なかった。彼女はそれを肯定するように、丁寧に頭を下げた丈《だ》けだったが、青年が自分を覚えていて呉《く》れたことが、彼女をどんなに欣《喜》ばしたか分《分か》らなかった。  青年は、瑠璃子の右側近く腰を降《降ろ》した。 「貴君《貴方》、大変だったのよ。今東京駅《今’東京駅》でね。皆知《みんな知》っていらっしゃるのよ。妾《わたし》が今日立《今日’立》つと云《言》うことを。そればかりでなく貴君《貴方》が一緒だと云《言》うこと迄知《まで知》っていらっしゃるのよ。だから、極力打《極力’打》ち消して置いたのよ。若《も》し青木さんが一緒だったら、その|償い《ツグノ-イ》として皆さんを箱根へ御招待《ご招待》しますって。それでも皆善人《みんな善人》ばかりなのよ、おしまいには妾《わたし》の云《言》うことを信じてしまったのですもの。だから、妾《わたし》が云《言》わないことじゃないでしょう。品川か新橋か孰《どち》らかでお乗りなさいと。妾《わたし》、貴君《貴方》が妾《わたし》の云《言》うことを聴かないで、ひょっくり東京駅へ来やしないかと思って、びくびくしていましたの。」  夫人は、弟にでも話すように、馴々しかった。青年は姉の言葉をでも、聴いているように、一言一句に、微笑《微笑’》しながら肯《頷》いた。  それを、黙って聴いている美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラムラと湧いて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないような、不快な気持《気持ち》だった。彼女は、母に対して、不快を感じているのでなく、青年に対して、不快を感じているのでなく、《:、》ただ母と青年とが、馴々しく話しあっていることが、不思議に、彼女の心に苦い滓《澱》を掻き乱すのであった。殊に青年が人目を忍ぶように、品川からただ一人、コッソリと乗ったことが、美奈子の心を、可《か》なり傷《傷つ》けた。母と青年との間に、何か後暗《後ろ暗》い翳でもあるように、思われて仕方がなかった。 「何《ど》うして、僕が奥さんと一緒に行くことが分《分か》ったのでしょう。僕は誰にも云《言》ったことはないのですがね。」  青年は一寸云《ちょっと言》い訳のように云《言》った。 「何分《なに/分か》っていてもいいのですよ。薄々分《薄々分か》っている位《くらい》が、丁度《ちょうど》いいのですよ。貴君《貴方》となら、分《分か》っていてもいいのですよ。」  夫人は、軽い媚を含みながら云《言》った。 「光栄です。本当に光栄です。」  青年は冗談でなく、本当に心から感激しているように云《言》った。  母と青年との会話は、自由に快活《/快活》に馴々《/馴々》しく進んで行った。美奈子は、なるべくそれを聴くまいと《-と》した。が、母が声を低めて云《言》っていることまでが、神経のいらだっている美奈子の耳には、轟々たる車輪の、響《響き》にも消されずに、ハッキリと響いて来るのだった。  母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、益々傷《ますます傷つ》けられて行くのだった。時々母《ときどき母》が、 「美奈さん! 貴女《貴方》は何《ど》う思って?」  などと黙っている彼女を、会話の圏内に入《-い》れようとする毎に、美奈子は淋しい微笑を洩す丈《だけ》だった。  美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが同時《/同時》に限りない歓喜がその中に潜んでいるように思われた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しい丈《だけ》であることが、ハッキリと分《分か》った。此先一月《この先ひと月》も、こうした寂しさ苦しさを、味わっていなければならぬかと思うと、美奈子の心は、墨を流したように真暗《真っ暗》になってしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  汽車は、美奈子の心の、恋を知り初めた処女《乙女》の苦《/苦》しみと悩みとを運びながら、|グングン《ぐんぐん》東京を離れて行った。  夫人と青年との親しそうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久し振《振り》に逢った弟をでも、愛撫するように、耳近く口を寄せて囁いたり、軽く叱するように言ったりした。青年は青年で、姉にでも甘えるように、姉から引き廻《回》されるのを欣《喜》ぶように、柔順に温和に夫人《/夫人》の言葉を、一々微笑《いちいち微笑’》しながら肯《き》いていた。  美奈子は、母と青年との会話を、余り気にしている自分が、何だか恥しくなって来た。彼女は、成《な》るべく聞くまい見まいと思った。が、そう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙の面《オモテ》に浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。  青年の面《オモテ》には、歓喜と満足とが充ち溢れているのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映っていないことが、美奈子にもありありと感ぜられた。母の傍《そば》にいる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ほどにも、芥ほどにも、感ぜられてはいまいと思うと、美奈子は烈《激》しい淋《-さみ》しさで胸が掻き擾《乱》された。  が、それよりも、もっと美奈子を寂しくしたことは、今迄愛情《今まで愛情》の唯一の拠り処としていた母が、たとい一時ではあろうとも、自分よりも青年の方《ホウ》へ、親しんでいることだった。  大船を汽車が出たとき、美奈子は何《ど》うにも、堪らなくなって、向《向こ》う側の座席が空いたのを幸《幸い》に、景色を見るような風《ふう》をして、其処《そこ》へ席を移した。  母と青年との会話は、もう聞えて来《-こ》なくなった。が、一度掻き擾《乱》された胸は、|たやす《容易》く元のようには癒えなかった。  彼女は、こうした苦しみを味わいながら、此先一月《この先ひと月》も過さねばならぬかと思うと、どうにも堪らないように思われ出した。そうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分丈帰《自分だけ帰》って来よう。美奈子は、小さい胸の中でそう決心した。  丁度《ちょうど》、そう考えていたときに、 「美奈子さん! 一寸《ちょっと》いらっしゃい!」  と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、じっと抑えながら、元の座席へ帰って行った。顔丈《顔だけ》には、強いて微笑を浮べながら。 「貴女《あなた》! 青木さんと、青山墓地で、会ったことがあるでしょう!」  母は、美奈子が坐るのを待ってそう言った。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコニコ笑っていた。美奈子は、何か秘密にしていたことを母に見付けられたかのように、顔を真赤《真っ赤》にした。 「貴女《貴方》は覚えていないの?」  母は、美奈子をもっとドギマギさせるように言った。 「いいえ! 覚えていますの。」  美奈子は周章《あわて》てそう言った。  美奈子は、青年が自分を覚えていて呉《く》れたことが、何よりも嬉しかった。 「青木さんの妹さんが、よく貴女《貴方》を知っていらっしゃるのですって。ねえ! 青木さん。」  夫人は賛成を求めるように、青木の方《ほう》を振り顧《返》った。 「そうです。たしか美奈子さんより二三年下《二’三年した》なのですが、お顔なんかよく知っているのです。此間《このあいだ》も『あれが荘田《ショウダ》さんのお嬢さんだ』と言うものですから一寸驚《ちょっと驚》いたのです。僕の妹を御存《ご存》じありませんか。」  青年は、初めて親しそうに、美奈子に口を利いた。 「はい、お顔丈《顔だけ》は存じていますの。」  美奈子は、口の裡で呟くように答えた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷《傷つ》いていた心は、緩和薬《バルサム》をでも、塗られたようになごんでいた。今まで、恐ろしく寂しく考えられていた避暑地生活に、一道《一筋》の微光が漂って来たように思われた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  それから汽車が、国府津へ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素妹《いつも妹》を相手にしていると見えて、その言葉には、女性──殊に年下の女性に対する親しみが、自然に籠っていた。青年の一言一言は、美奈子の|こじ《拗》れかかろうとした胸を春風《/春風》のように、撫でさするのであった。美奈子は最初陥っていた不快な感情から、いつの間にか、救われていた。自分が、妙にひがんで、嫉妬に似た感情を持っていたことを、はしたないとさえ思い始めていた。  国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女《乙女》らしい、感情と表情とを取り返していた。  国府津のプラットフォームに降《-お》り立った時、瑠璃子は駆け寄った赤帽の一人に、命令した。 「あの、自動車を用意させておくれ!──そう、一台じゃ、窮屈だから──二台ね、宮の下まで行って呉《く》れるように。」  赤帽が命を受けて馳《駆》け去ったときだった。今まで他の赤帽を指図して手荷物《/手荷物》を下《下ろ》させていた青年が驚いて瑠璃子の方《ほう》を振り顧《返》った。 「奥さん! 自動車ですか。」  青年の語気は可《か》なり真面目だった。 「そうです。いけないのですか。」  瑠璃子は、軽く揶揄するように反問した。 「あんなにお願いしてあったのに聴いて下さらないのですか。」  温和《大人》しい青年は、可《か》なり当惑したように、暗い表情をした。  瑠璃子は、華やかに笑った。 「あら! まだ、あんなことを気にしていらっしゃるの。妾貴君《わたし/貴方》が冗談に云《言》っていらしったのかと思ったのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと云《言》って、自動車を恐がるなんて、迷信《/迷信》じゃありませんか。男らしくもない。自動車が衝突するなんて、一年に一度あるかないかの事件じゃありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」  夫人は、子供の臆病をでも叱するように云《言》った。 「でも、奥さん。」青年は、可《か》なり懸命になって云《言》った。「兄が、やっぱり此《こ》の国府津から自動車に乗ってやられたのでしょう。それからまだ一月《ひと月》も経っていないのです。殊に、今度箱根へ行くと云《言》うと、父と母とが可《か》なり止めるのです。で、やっと、説破して、自動車には乗らないと云《言》う条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと云《言》ってあ《/あ》れほど申上《申し上》げて置いたじゃありませんか。」 「お父様やお母様が、そうした御心配《ご心配》をなさるのは、尤《もっとも》と思いますわ。でも貴君迄《貴方まで》が、それに感化《かぶ》れると云《言》うことはないじゃありませんか。縁起などと、云《言》う言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」 「でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞した殆ど同じ自動車に、まだ一月《ひと月》も経つか経たないかに乗ると云《言》うことは、縁起だとか何とか云《言》う問題以上ですね。貴女《貴方》だって、もし近しい方が、自動車でああした奇禍にお逢いになると、屹度自動車《きっと自動車》がお嫌いになりますよ。」 「そうかしら。妾《わたし》は、そうは思いませんわ。だってお兄さんだって妾《わたし》には可《か》なり近しい方だったのですもの。」  そう云《言》って夫人は淋しく笑った。 「でも、いいじゃありませんか。妾《わたし》と一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」  そう云《言》って、嫣然と笑いながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のような威厳と娼婦《/娼婦》のような媚《媚び》とが、二つながら交《交じ》っていた。  瑠璃子の前には、小姓か何かのように、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤んだまま、その秀でた眉を、|ふか《深》く顰《-ひそ》めていた。背丈《背タケ》こそ高く、容子《様子》こそ大人びているが、名門に育った此《こ》の青年が対人的《/対人的》にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザマザと分《分か》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第22話】 【ある三角関係】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その裡に、美奈子達の一行は改札口を出ていた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待っていた。  青年は、瑠璃子夫人の力に、グイグイ引きずられながらも、自動車に乗ることは、可《か》なり気が進んでいないらしかった。  彼は哀願するように、|オズオズ《怖ず怖ず》と夫人に云《言》った。 「何《ど》うです? 奥さん。僕お願いなのですが、電車で行って下さることは出来ないでしょうか。兄の惨死の記憶が、僕にはまだマザマザと残っているのです。兄を襲った運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いているように、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識らず近づいているような、不安な心持《心持ち》がするのです。」  青年は、可《か》なり一生懸命らしかった。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるような容子《様子》も見せなかった。彼女は、意志の弱い男性を、グングン自分の思い通《通り》に、引き廻《回》すことが、彼女の快楽の一つであるかのように云《言》った。 「まあ! 貴君《貴方》のように、そうセンチメンタルになると、いやになってしまいますよ。妾《わたし》は運命だとか胸騒ぎだとか云《言》うような言葉は、大嫌いですよ。妾《わたし》は徹底した物質主義者《マテリアリスト》です。電車なんか、あんなに混んでいるじゃございませんか。さあ、乗りましょう。いいじゃございませんの。自動車が崖から落《落っ》こちても、死なば諸共《’諸共》ですわ。貴君《貴方》、妾《わたし》と一緒なら、死んでも本望じゃなくて? オホホホホホホ。」  夫人は、奔放にそう云《言》い放つと、青年が何《ど》う返事するかも待たないで、美奈子を促しながら、一台の自動車に、ズンズン乗ってしまった。  此《こ》の時の青年は、可《か》なりみじめだった。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子《様子》が、美奈子にも、可《か》なりみじめに、寧ろ気の毒に思われた。  彼は、泣き出しそうな硬《/強》ばった微笑を、強いて作りながら、美奈子達の後《あと》から乗った。 「そんなにクヨクヨなさるのなら、連れて行って上げませんよ。」  夫人は、子供をでも叱るように、愛撫の微笑を目元に湛えながら云《言》った。  青年は、黙っていた。彼は、夫人の至上命令のため、止むなく自動車に乗ったものの、内心の不安と苦痛《/苦痛》と嫌悪《/嫌悪》とは、その蒼白い顔にハッキリと現われていた。臆病などと云《言》うことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純《/純》な彼の心に、自動車に対する、《:、》殊に箱根の──唱歌にもある嶮しい山や、壑《谷》の間を縫う自動車に対する不安を、植え付けているのであった。  美奈子は、心の中から青年が、気の毒だった。  母が故意に、青年の心持《心持ち》に、逆らっていることが、可《か》なり気の毒に思われた。  自動車が、小田原の町を出はずれた時だった。美奈子は何気ないように云《言》った。 「お母様。湯本から登山電車に乗って御覧《ご覧》にならない。此間《このあいだ》の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西《/スイス》の登山鉄道に乗っているような感じがするとか云《言》って、出ていましたのよ。」  美奈子には、優しい母だった。 「そうですね。でも、荷物なんかが邪魔じゃない?」 「荷物は、このまま自動車で届けさえすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思いますわ。」 「そうね。じゃ、乗り換えて見ましょうか。青木さんは、無論御賛成《無論ご賛成》でしょうね。」  瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑った。青年は、黙って苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子《/美奈子》の少女らしい優《/優》しい好意に対する感謝の情が、歴々《ありあり》と動いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まった。 『暮《暮ら》したし木賀底倉《/木賀底倉》に夏三月《/夏ミツキ。》』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬《憧れ》であった。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかったけれども、温泉《出で湯》は滾々として湧いて尽きなかった。青葉に掩われた谿壑から吹き起《起こ》る涼風は、昔ながらに水の如き冷た《た-》さを帯びていた。  殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼《ヨク》の端《外れ》にあった。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳《対岸/明神岳/明星岳》の翠微が、手に取るごとく迫っていた。東方、早川の谿谷《渓谷》が、群峰の間にただ一筋、開かれている末遥に、地平線に雲のいぬ晴《/晴》れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光っている相模灘が見えた。  設備の整ったホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰《-かえ》してからは、美奈子達三人《美奈子たち三人》の生活は、もっと密接になった。  美奈子は、最初青年《最初/青年》に対して、口も碌々利けなかった。ただ、折々母を介して簡単な二言三言を交える丈《だけ》だった。  母が青年と話しているときには、よく自分一人その場を外して、縁側《ヴェランダ》に出て、其処《そこ》にある籐椅子に何時《いつ》までも何時《いつ》までも、坐っていることが、多かった。  又何《また何》かの拍子《’拍子》で、青年とただ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、じっとしていることが出来なかった。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。  そうした折にも、美奈子は、やっぱりそっと部屋を外して、縁側《ヴェランダ》に出るのが常だった。とにかく、彼女の小さい胸は、息《やすら》う暇もない水鳥の脚のように動いていた。  彼女に一番楽しいのは、夕暮《夕暮れ》の散歩かも知れなかった。晩餐が終ってから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。早川の断崖に添うた道を、底倉から木賀へ、時には宮城野まで、岩に咽ぶ早川の水声に、夏を忘れながら。  箱根へ来てから、五日ばかり経ったある日の夕方だった。美奈子達が、晩餐が終ってから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日来《日き》たばかりの知合《知合い》の仏蘭西大使《フランス大使》の令嬢と出会った。日本好《日本ズキ》の此《こ》の令嬢は、瑠璃子とは可《か》なり親しい間柄だった。彼女は思いがけない処《所》で、瑠璃子に会ったのを可《か》なり欣《喜》んだ。瑠璃子は誘われるままに、大使令嬢の部屋を訪ねて行った。  美奈子と、青年とは部屋に帰ったものの、手持無沙汰に、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮《夕暮れ》の空に対していた。  二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待っていた。が、二十分経っても三十分経っても、瑠璃子は帰りそうにも見えなかった。  青年は平素《いつも》のように、散歩に出たいと見え、ステッキを持ったり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待っているらしかった。が、瑠璃子は却々帰《なかなか帰》って来なかった。  青年はやや待ちあぐみかけたらしかっ《-っ》た。彼はもう明るく電燈《電灯》の点いた部屋の中を、四五歩宛行《四五歩ずつ往》ったり来たりしていたが、半独語《半ば独り言》のように美奈子に云《言》った。 「お母様は、却々《なかなか》お帰りになりませんね。」 「はい。」  窓に倚って輝《/輝》き初《始》めた星の光をボンヤリ見詰めていた美奈子は、低い声で聞《/聞こ》えるか聞《聞こ》えないかのように答えた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかったが、美奈子を一人ぼっちにして置くことが、気が咎めるらしかった。彼は、到頭云《とうとう言》い|憎く《憎》そうに云《言》った。 「美奈子さん。如何《いかが》です、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしていても、なかなかお帰りになりそうじゃありませんから。」  青年は、口籠りながらそ《/そ》う云《言》った。 「ええっ!」  美奈子は彼女自身の耳を疑っているかのように、つぶらなる目を刮《瞠》った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子に取っては、青年から散歩に誘われたことが、可《か》なり大きな駭《驚》きであった。四五日一緒《シゴニチ一緒》に生活して来たと云《言》うものの、二人向《二人向か》い合っては、短い会話一つ交したことがなかった。  その相手から、突然散歩《突然’散歩》に誘われたのであるから、彼女が駭《驚》きの目を刮《瞠》ったまま、わくわくする胸を抑えたまま、何とも返事が出来なかったのも、無理ではなかった。  青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心当惑《内心’当惑》している為だと思ったのであろう。彼は、自分の突然な申出《申し出》の無躾《不躾》さを恥じるように云《言》った。 「いらっしゃいませんですか。じゃ、僕一人行って来ますから。僕は、日《ヒ》の暮方には、どうも室《部屋》の中にじっとしていられないのです。」  青年は、弁解のように、そう云《言》いながら室《部屋》を出て行こうとした。  美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分《分か》らなかった。青年とた《/た》った二人切《二人き》りで、散歩すると云《言》うことが、彼女にとってど《/ど》んな駭《驚》きであり欣《/喜》びであっただろう。彼女は、駭《驚》きの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであった。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めて呉《く》れるのを待ったであろう。もう一度、勧めてさえ呉《く》れれば、美奈子は心も空に、青年の後《あと》から従《つ》いて行くのであったのだ。  が、青年には美奈子の心は、分《分か》らなかった。彼には、美奈子が返事をしないのが、処女《乙女》らしい恥しさと後退《/尻込み》のためだとより、思われなかった。彼は、最初から誘わなければよかったと思いながら、一寸気《ちょっと気》まずい思いで、部屋を出た。  青年が、部屋を出る後姿《後ろ姿》を見ると、美奈子は取返《取り返》しの付かないことをしたように思った。もう再びとは、得がたい黄金の如《’如》き機会を、永久に失うような心持《心持ち》がした。その上、青年の勧めに、返事さえしなかったことが、彼女の心を咎め初《始》めた。それに依って、相手の心を少しでも傷《傷つ》けはしなかったかと思うと、彼女は立っても坐っても、いられないような心持《心持ち》がし初《始》めた。  一二分《一’二分》、考えた末、彼女は到頭堪《とうとう堪》らなくなって部屋を出た。長い廊下を急ぎ足に馳《駆》けすぎた。ホテルの玄関で、草履を穿くと、夏の宵闇の戸外へ、走り出《-い》でた。  玄関前の広場にある噴水のほとりを、透《透か》して見たけれども、その人らしい影は見えなかった。彼女は、到頭宮《とうとう宮》の下の通《通り》に出た。  青年の行く道は、分《分か》っていた。彼女は、胸を躍らしながら、底倉の方《ホウ》へと急いだ。  温泉町《出で湯マチ》の夏の夕は、可《か》なり人通《人通り》が多かった。その人かと思って近づいて行くと、見知らない若い人であったりした。  が、美奈子が宮の下の賑やかな通《’通り》を出はずれて、段々淋《段々さみ》しい崖上《ガケウエ》の道へ来かかったとき、《:、》丁度道《ちょうど道》の左側にある理髪店の軒端に佇みながら、若い衆が指している将棋を見ている青年の横顔を見付けたのである。  青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなに顫《震》えたか分《分か》らなかった。でも、彼女はあり丈《たけ》の勇気で、近づいて行った。 「茲《ここ》にいらっしたのですか。妾《わたくし》も、散歩にお伴《供》いたしますわ。母は、帰りそうにもありませんですから。」  彼女は、低い小さい声で、途切れ途切れに言った。青年は、駭《驚》いて彼女を振り返った。投げた礫が忘れた頃に激しい水音《ミズオト》を立てたように、青年は自分の一寸《ちょっと》した勧誘が、少女の心を、こんなに動かしていることに、駭《驚》いた。が、それは決して不快な駭《驚》きではなかった。 「じゃ、お伴《供’》しましょうか。」  そう言いながら、青年は歩き初《始》めた。美奈子は二三尺《ニサンシャク》も間隔を置きながら従った。夢のような幸福な感じが、彼女の胸に充ち満ちて、踏む足も地に付かないように思った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  初め、連れ立ってから、半町ばかりの間《あいだ》、二人とも一言も、口を利かなかった。初めて、若い男性、しかも心の奥深《奥ふか》く想っている若い男性とただ二人、歩いている美奈子の心には、散歩をしていると云《言》ったような、のんきな心持《心持ち》は少しもなかった。胸が絶えず、わくわくして、息は抑えても抑えても弾むのであった。  青年も、黙っていた。ただ、黙ってグングン歩いていた。二人は、散歩とは思われないほどの早さで、歩いていた。何処《どこ》へ行くと云《言》う当《当て》もなしに。  早川の谿谷《渓谷》の底遥かに、岩に激《ゲキ》している水は、夕闇を透《透か》して|ほのじろ《ホノジロ》く見えていた。その水から湧き上《上が》って来る涼気は、浴衣を着ている美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだった。  青年が、何時《いつ》までも黙っているので、美奈子の心は、妙に不安になった。美奈子は自分が後を追って来たはしたなさを、相手が不愉快に思っているのではないかと、心配し始めた。自分が思い切って後を追って来たことが、軽率ではなかったかと、後悔し初《始》めた。  が、二人が丁度《ちょうど》、底倉と木賀との間を流れている、蛇骨川の橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止《止ま》って空を仰ぎながら、 「御覧《ご覧》なさい! 月が、出かかっています。」  そう云《言》われて、今迄俯《今まで俯》きがちに歩いて来た美奈子も、立ち止《止ま》って空を振り仰いだ。  早川の対岸に、空を劃って聳えている、連山の輪廓を、ほのぼのとした月魄《ツキシロ》が、くっきりと浮き立たせているのであった。  相模灘を、渡って来た月の光が今丁度箱根《今ちょうど箱根》の山々を、照し初《始》めようとしている所だった。 「まあ! 綺麗ですこと。」  美奈子もつい感嘆の声を洩《洩ら》した。 「旧の十六日ですね、きっと。いい月でしょう。空が、あんなによく晴れています。東京の、濁ったような空と比べると何《ど》うです。これが本当に緑玉《エメラルド》と云《言》う空ですね。」  青年は、心ゆくように空を見ながら云《言》った。美奈子も、青年の眸を追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたように澄み切っていた。 「本当に美しい空でございますこと。」  美奈子も、しみじみとした気持《気持ち》でそう云《言》った。丁度《ちょうど》、今までかけられていた沈黙の呪《呪い》が解かれたように。 「やっぱり空気がいいのですね。東京の空と違って、塵埃や煤煙がないのですね。」 「山の緑が映っているような空でございますこと。」  美奈子も、つい気軽になってそう云《言》った。 「そうです。本当に山の緑が映っているような空です。」  青年は、美奈子の云《言》った言葉を噛みしめるように繰り返した。  二人は、また|暫ら《暫》く黙って歩いた。が、もう先刻《さっき》のようなギゴチなさは、取り除かれていた。美しい自然に対する讃美の心持《心持ち》が、二人の間の、心の垣《カキ》を、ある程度まで取り除《の》けていた。美奈子は、青年ともっと親しい話が出来ると云《言》う自信を得た。青年も、美奈子に対してある親しみを感じ初《始》めたようだった。  四五尺《シ五尺》も離れて歩いていた二人は、何時の間にか、孰《どち》らからともなく寄添うて歩いていた。  美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるようで、しかもそれを考えに纏めようとすると、何も纏まらなかった。唖が、大切な機会に喋べろうとするように、ただい《/い》らいら焦り立っているばかりだった。 「そうそう、貴女《貴方》に申上《申し上》げたいことがあったのです。つい、此間中《このあいだじゅう》から機会がなくて。」  青年は、大切なことをでも、話すように言葉を改めた。動き易い少女の心は、そんなことにまで烈《激》しく波立つのだった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手がどんなことを云《言》い出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待っていた。  青年は、一寸云《ちょっと言》い憎そうに、口籠っていたが、やっと思い切ったように云《言》った。 「此間中《このあいだじゅう》から、お礼を申上《申し上》げよう申上《申し上》げようと思いながら、ついその儘《まま》になっていたのです。此間《このあいだ》はどうも有難うございました。」  夕闇に透いて見える彼の白い頬《ホオ》が、思い做《な》しか少し赤らんでいるように思われた。美奈子も相手から、思いがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるように熱くなった。彼女は、青年から礼を云《言》われるような心覚えが、少しもなかったのである。 「まあ! 何でございますの! わたくし!」  美奈子は、当惑の目を刮《瞠》った。 「お忘れになったのですか。お忘れになっているとすれば、僕は愈々感謝《いよいよ感謝》しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。来《く》る道で僕があんなに自動車に乗ることを厭がったのを。ハハハハハハ。自分ながら、今から考えると、余り臆病になり過ぎていたようです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当に恐かったのです。妙に気になってしまったのです。ベソを掻きそうな顔をしていたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持《気持ち》がしていたのです。それに、荘田夫人《ショウダ夫人》と来ては、極端に意地がわるいのですからね。僕が恐がれば恐がるほど、しつこく苛めようとするのですからね。本当にあの時の、貴女《貴方》のお言葉は地獄に仏だったのです。ハハハハ。考えて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだ所《ところ》を貴女方《貴方がた》に見せてしまった!」  青年は、冗談のように云《言》いながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、可《か》なり真面目であるらしかった。 「まあ! あんなことなんか。妾《わたくし》、本当に電車に乗りたかったのでございますわ。」  美奈子は、顔を真赤《真っ赤》にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来る嬉しさで一杯《一杯’》だった。 「あの時、僕は本当に貴女《貴方》の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥《恥ずか》しいし、お母様も意地になって、ああうまくは行かなかったのでしょうが、貴女《貴方》の自然な無邪気《/無邪気》な申出《申し出》には、遉《さすが》の荘田夫人《ショウダ夫人》も、直《す》ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人《ショウダ夫人》を、女性の中で最も聡明な人だと思っていましたが、《:、》貴女《貴方》のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人《ショウダ夫人》の聡明さとは又別《また別》な本当《/本当》に女性らしい聡明さを持った方があるのを知りました。」 「まあ! あんなことを。妾《わたくし”》お恥かしゅうございますわ。」  そう云《言》って、美奈子は本当に浴衣の袖で顔を掩うた。処女《乙女》らしい嬌羞が、その身体全体に溢れていた。が、彼女の心は、憎からず思っている青年からの讃辞を聴いて、張り裂けるばかりの歓びで躍っていた。  山の端を離れた月は、此《こ》の峡谷に添うている道へも、その朗かな光を投げていた。美奈子はつい二三尺離《ニサンシャク離》れて、月光の中に匂うている青年の白皙《/白皙》の面《オモテ》を見ることが出来た。青年の黒い眸が、時々自分《ときどき自分》の方《ホウ》へ向《向か》って輝くのを見た。  二人は、もう一時間前《/一時間前》の二人ではなかった。今まで、遠く離れていた二人の心は、今可《今か》なり強い速力で、相求め合っているのは確かだった。  二人は、また黙ったまま、歩いた。が、前のような|固くる《堅苦》しい沈黙ではなかった。黙っていても心持丈《心持ちだけ》は通《-かよ》っていた。 「もっと歩いても、大丈夫ですか。」  木賀を過ぎて宮城野近《宮城野’近》くなったとき、青年は再び沈黙を破った。 「はい。」  美奈子は、慎しく答えた。が、心の裡では、『何処《どこ》までも何処《どこ》までも』と云《言》う積《積り》であったのだ。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  木賀から、宮城野まで、六七町《ロクシチ町》の間、早川の谿谷《渓谷》に沿うた道を歩いている裡に、二人は漸く打ち解けて、いろいろな問《問い》を訊いたり訊かれたりした。  美奈子の処女《乙女》らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心を可《か》なり動かしたようだった。それと同時に青年《/青年》の上品な素直《/素直》な優《/優》しい態度が、美奈子の心に、深く深《-ふか》く喰い入ってしまった。  宮城野の橋まで来ると、谿《谷》は段々浅《だんだん浅》くなっている。橋下《キョウカ》の水には水車が懸っていて、銀《白金》の月光を砕きながら、コトコトと廻《回》り続けていた。  月は、もう可《か》なり高く上っていた。水のように澄んだ光は、山や水《/水》や森《/森》や樹木《/樹木》を、しっとり濡《濡ら》していた。二人は、夏の夜の清浄な箱根に酔いながら、可《か》なり長い間橋《あいだ/橋》の欄干に寄り添いながら、佇んでいた。  美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮《刻一刻’ウシオ》のように満ちわたって来るのだった。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないような、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシヒシとこみ上げて来るのだった。  話は、何時の間にか、美奈子の一身の上にも及んでいた。美奈子は到頭《とうとう》、兄の悲しい状態まで話してしまった。 「そうそう、そんな噂は、薄々聴いていましたが、お兄さんがそんなじゃ、貴女《貴方》には本当の肉親と云《言》ったようなものは、一人もないのと同じですね。」  青年は悵然としてそう云《言》った。心の中の同情が、言葉の端々に溢れていた。そう云《言》われると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持《心持ち》を、抑えることが出来なかった。 「母が、本当によくして呉《く》れますの。実《じつ》の母のように、実の姉のように、本当によくして呉《く》れますの。でも、やっぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分《分か》らないと思いますの。」  美奈子は、つい誰にも云《言》わなかった本心を云《言》ってしまった。 「御尤《ごもっ-と》もです。」青年は可《か》なり感動したように答えた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかったのですが、兄を不慮に失ってから、肉親と云《言》うものの尊《トオト》さが、分《分か》ったように思うのです。でも、貴女《貴方》なんか‥‥。」そう云《言》って、青年は一寸云《ちょっと云》い淀んだが、 「今に御結婚《ご結婚》でもなされば、今のような寂しさは、自然無《自然な》くなるだろうと思います。」 「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考えて見たこともございませんわ。」  美奈子は、恥かしそうに周章《周章て》て打ち消した。 「じゃ、当分御結婚《当分ご結婚》はなさらない訳ですね。」  青年は、何故だか執拗に再《/再》びそ《-そ》う訊いた。 「まだ、本当に考えて見たこともございませんの。」  美奈子は、益々狼狽《ますます狼狽》しながらも、ハッキリと口では、打ち消した。が、青年が何《ど》うしてそうした問題を繰り返して訊くのかと思うと、彼女の顔は焼けるように熱くなった。胸が何とも云《言》えず、わくわくした。彼女は、相手が何《ど》うして自分の結婚をそんなに気にするのか分《分か》らなかった。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂うように熱した。  彼女は、熱にでも浮《浮か》されたように、平生の慎みも忘れて云《言》った。 「結婚なんて申しましても、妾《わたくし》のようなものと、妾《わたくし》のような、何の取りどころもないようなものと。」  彼女の声は、恥かしさに顫《震》えていた。彼女の身体も恥かしさに顫《震》えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子の声は、恥かしさに打ち顫《震》えていたけれども、青年は可《か》なり落着《落ち着》いていた。余裕のある声だった。 「貴女《貴方》なんかが、そんな謙遜をなさっては困りますね。貴女《貴方》のような方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでしょう。貴女《貴方》ほど──そう貴女《貴方》ほどの‥‥」《。」》  そう云《言》いかけて、青年は口を噤んでしまった。が、口の中では、美奈子の慎ましさや美しさに対する讃美の言葉を、噛み潰したのに違いなかった。  美奈子は、青年が此《こ》の次に、何を言い出すかと云《言》う期待で、身体全体が焼けるようであった。心が波濤のように動揺した。小説で読んだ若い男女の|恋の場《ラヴシーン》が、熱病患者《熱病’患者》の見る幻覚のように、頭の中に頻りに浮《浮か》んで来た。  が、美奈子のもしやと云《言》う期待を裏切るように、青年は黙っていた。月の光に透いて見える白い頬《ホオ》が、やや興奮しているようには見えるけれども、美奈子の半分も熱していないことは明《明ら》かだった。  美奈子も裏切られたように、かすかな失望を感じながら、黙ってしまった。  沈黙が五分ばかりも続いた。 「もう、そろそろ帰りましょうか。まるで秋のような冷気を感じますね。着物が、しっとりして来たような気がします。」  青年は、そう言いながら欄干を離れた。青年の態度は、平生《いつも》の通りだった。優しいけれども、冷静だった。  美奈子は夢から覚めたように、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪らなかった。自分の独合点《独り合点》の興奮を、相手が気付かなかったかと思うと、恥しさで地《/地》の中《なか》へで《’で》も隠れたいような気がした。  が、丁度二三町《ちょうど二’三町》も帰りかけたときだった。青年は思い出したように訊いた。 「お母様は何時《-いつ》まで、ああして未亡人でいらっしゃるのでしょうか。」  青年の問《問い》は、美奈子が何と答えてよいか分《分か》らないほど、唐突《出し抜け-》だった。彼女は、一寸答《ちょっと答》に窮した。 「いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人《ショウダ夫人》は、本当はまだ処女《’処女》なのだ。そして、将来は屹度再婚《きっと再婚》せられる。屹度再婚《きっと再婚》せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろいろな噂があるものですから、貴女《貴方》にでも伺って見れば本当の事が分《分か》りゃしないかと思ったのです。」 「妾《わたくし》、ちっとも存じませんわ。」  美奈子はそう答えるより外《ほか》はなかった。 「こんなことを言っている者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家《ショウダケ》の令嬢に対して母《/母》としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚《当然’再婚》せられるだろう。こう言っている者もあるのです。」  青年は、ホンの噂話のようにそう言った。が、青年の言葉を、噛《噛み》しめている中《うち》に、美奈子は傍《傍ら》の渓間《谷間》へでも突落されたような烈《/烈》しい打撃を感ぜずには《は-》いられなかった。  青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今《いま》ハッキリと分《分か》った。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかったのだ。ただ、自分が結婚した後《あと》に起《起こ》る筈の、母の再婚を確《確か》めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかった。彼女の処女《乙女》らしい興奮と羞恥とは、物の見事に裏切られてしまったのだ。  彼女は、照っている月が、忽ち暗くなってしまったような思《思い》がした。青年と並んで歩くことが堪らなかった。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じていた。  彼女はそれでも、砕かれた心をやっと纏めながら返事だけした。 「妾《わたくし》、母《母’》のことはちっとも存じませんわ。」  彼女の低い声には、綿々たる恨《恨み》が籠っていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第23話】 【夜の密語】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年との散歩が、悲しい幻滅に終ってから、避暑地生活は、美奈子に取って、喰わねばならぬ苦い苦い韮になった。  開《ひら》きかけた蕾が、そうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思いがけない寒気に逢ったように、傷つき易い少女の心は、深い深い傷を負ってしまった。  それでも、温和《大人》しい彼女は、東京へ一人で帰るとは云《言》わなかった。自分ばかり、何の理由も示さずに、|先き《先》へ帰ることなどは、温和《大人》しい彼女には思いも及ばないことだった。  彼女は止《-とど》まって、而《そう》して忍ぶべく決心した。彼女の苦しい辛《-つら》い境遇に堪えようと決心した。  青年の心が、美奈子にハッキリと解ってからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるような生活をした。  青年と母とが、向《向か》い合っているときなどは、彼女は、そっと席を外した。その人から、想われていない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまい《-い》と思う、美奈子の心は悲しかった。  そう気が付いて見ると、青年の母に対する眸が、日一日輝《ヒイチニチ’輝》きを増して来るのが、美奈子にもありありと判った。母の一顰一笑に、青年が欣《喜》んだり悲しんだりすることが、美奈子にもありありと判った。  が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかった。寂しかった。苦しかった。  一人の男に、二人の女、或《あるい》は一人の女に、二人の男、恋愛に於ける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子と青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子丈《美奈子だけ》が一番苦しかった。可憐な優しい美奈子丈《美奈子だけ》が苦しんでいた。 「美奈さん! 何《ど》うかしたのじゃないの?」  美奈子が、黙ったまま、露台《バルコニー》の欄干に、長く長く倚っているときなど、母は心配そうに、やさしく訊ねた。が、そんなとき、 「いいえ! どうもしないの。」  寂しく笑いながら答える、小さい胸の内に、堪《た》えられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさえ判らなかった。  青年も、美奈子が、──一度あんなに彼に親しくした美奈子が、また掌を飜《返》すように、急に再び疎々しくなったことが、彼の責任であることに、彼も気が付いていなかった。  夕暮《夕暮れ》の楽しみにしていた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかった。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭がってはいないまでも、決して欣《喜》んではいないだろうと思うと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかった。彼女が二度も断ると母は屹度云《きっと云》った。 「じゃ、妾達《わたしたち》も行くのを廃《よ》しましょうね。」  そう云《言》われると、美奈子も不承々々《不承ブショウ》に、承諾した。 「まあ! そんなに、おっしゃるのなら参りますわ。」  美奈子は口丈《口だけ》は機嫌よく云《言》って、重い重い鉛のような心を、持ちながら、母の後《あと》から、従《つ》いて行くのだった。  が、ある晩、それは丁度箱根《ちょうど箱根》へ来《’来》てから、半月《ハンツキ》も経った頃だが、美奈子の心は、何時《いつ》になく滅入ってしまっていた。  母が、どんなに云《言》っても、美奈子は一緒に出る気にはならなかった。その上、平素《いつも》は、青年も口先丈《口先だけ》では、母と一緒に勧めて呉《く》れるのが、その晩に限って、たった一言も勧めて呉《く》れなかった。 「妾《わたくし》、今夜はお友達に手紙を書こうと思っていますの。」  美奈子は、到頭《とうとう》そんな口実を考えた。 「まあ! 手紙なんか、明日の朝書《朝’書》くといいわ。ね、いらっしゃい。二人丈《二人だけ》じゃつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」  そう云《言》われて、青年は不服そうに肯《頷》いた。青年のそうした表情を見ると、美奈子は何《ど》うしても断ろうと決心した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「でも、妾《わたくし》、今晩だけは失礼させて、いただきますわ。一人でゆっくり、お手紙をかきたいと思いますの。」  美奈子が、可《か》なり思い切って、断るのを見ると、母《母’》はさ《-さ》までとは、云《言》い兼《か》ねたらしかった。 「じゃ、美奈さんを残して置きましょうか。」  母は青年に相談するように云《言》った。  そう聴いた青年の面《オモテ》に、ある喜悦の表情が、浮《浮か》んでいるのが、美奈子は気が付かずには《は-》いられなかった。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷《傷つ》けてしまった。 「じゃ、美奈さん! 一寸行《ちょっと行》って来ますわ。寂しくない?」  母は、平素《いつも》のように、優しい母だった。 「いいえ、大丈夫ですわ。」  口丈《口だけ》は、元気らしく答えたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼を拡げて、一杯にわだかまっていたのだ。  母と青年との姿が、廊下の端《外れ》に消えたとき、扉《ドア》の所に立って見送っていた美奈子は、自分の部屋へ駈け込むと、床に崩れるように、蹲《うずく》まって、安楽椅子の蒲団《クッション》に顔を埋めたまま、|暫ら《暫》くは顔を上げなかった。熱い熱い涙が、止め度もなく流れた。自分丈《自分だ》けが、此世《この世》の中に、生き甲斐のないみじめな人間のように、思われた。誰からも見捨てられたと云《言》ったような寂しさが、心の隅々を掻き乱した。  友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさが紛らせるかと思って、机の前に坐って見たけれども纏《/纏ま》った文句は、一行《1行》だって、ペンの先には、出て来なかった。母と青年とが、いつもの散歩路を、寄り添いながら、親しそうに歩いている姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかった。  その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いていなかったが、人間の心に免れがたい嫉妬とが、彼女を立っても坐っても、いられないように、苛み初《始》めていた。彼女は、高い山の頂きにでも立って、思うさま泣きたかった。彼女は、到頭《とうとう》じっとしては《は-》いられないような、|いらいら《苛々》した気持《気持ち》になっていた。彼女は、フラフラと自分の部屋を出た。的《当て》もなしに、戸外に出たかった。暗い道を何処《どこ》までも何処《どこ》までも、歩いて行きたいような心持《心持ち》になっていた。が、母に対して、散歩に出ないと云《言》った以上、ホテルの外へ《へ’》出ることは出来なかった。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思った。其処《そこ》は可《か》なり広い庭園で、昼ならば、遥に相模灘を見渡す美しい眺望を持っていた。  美奈子が、廊下から、そっとその庭へ降り立ったとき、西洋人の夫妻が、腕を組合《組みあ》いながら、芝生の小路を、逍遥《逍遥’》している外《ほか》は、人影は更に見えなかった。  美奈子は、ホテルの部屋々々《部屋部屋》からの灯影《火影》で、明るく照《照ら》し出された明るい方《ほう》を避けて出来《/出来》る丈《だけ》、庭の奥の闇の方《ホウ》へと進んでいた。  樹木の茂った蔭にある椅子《ベンチ》を、探し当てて、美奈子は腰を降《降ろ》した。  部屋々々《部屋部屋》の窓から洩れる灯影《火影》も、茲《ここ》までは届いて来なかった。周囲は人里離れた山林のように、静かだった。止宿している西洋の婦人の手すさびらしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来る外《ほか》は、人声も聞えて来なかった。  闇の中に、たった一人坐っていると、いらいらした、寂しみも、だんだん落着《落ち着》いて来るように思った。殊にヴァイオリンのほのかな音が、彼女の傷《傷つ》いた胸を、撫でるように、かすかにかすかに聞えて来るのだった。それに、耳を澄《澄ま》している中《うち》に、彼女の心持《心持ち》は、だんだん和らいで行った。  母が帰らない中《うち》に、早く帰っていなければならぬと思いながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、其処《そこ》に坐り続けていた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかった。先刻《さっき》ちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎているのだろうと思った。  が、その足音は不思議に、だんだん近づいて来た。二言三言、話声《話し声》さえ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であった。しかも、何だか聞きなれたような声だった。彼女は『オヤ!』と思いながら、振り返って闇の中を透《透か》して見た。  闇の中に、人影が動いた。一人でなく二人連《二人連れ-》だった。二人とも、白い浴衣を着ているために、闇の中でも、割合|ハッキリ《はっきり》と見えた。美奈子は、じっと二人が|近よ《近寄》って来るのを見詰めていた。十秒、二十秒、その裡にそれが何人《ナンピ-ト》であるかが分《分か》ると、彼女は全身に、水を浴びせられたように、ゾッとなった。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子とであったからである。而《しか》も、二人は、彼等が恋人同志であることを、明《明ら》かに示すように、身体が触れ合わんばかりに、寄り添うて歩いているのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられているように、美奈子には感ぜられた。  美奈子は、恐ろしいものを見たように、身体がゾクゾクと顫《震》えた。彼女は、地《チ》が口を開いて、自分の身体《体》を此《こ》のまま呑んで呉《く》れればいいとさえ思った。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいような気持《気持ち》だった。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思うと、彼女は、動くことさえ出来なかった。彼女は、そのまま椅子に凍り付いたように、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待っていようと思った。が、ああ《あ/》それが何と云《言》う悪魔の悪戯だろう! 母達は、だんだん美奈子のいる方《ホウ》へ歩み寄って来るのであった。彼女の心は当惑のために張り裂けるようだった。母と青年とが、若《も》し自分を見付けたらと思うと、彼女の身体全体は、益々顫《ますます震》え立って来た。  が、母と青年とは、闇の中の樹蔭《木陰》の椅子《ベンチ》に、美奈子がたった一人蹲《一人うずく》まっていようとは、夢にも思わないと見え、美奈子のいる方《ホウ》へ、益々近《ますます近》づいて来た。美奈子は、絶体絶命だっ《-っ》た。母達が気の付かない内に、自分の方《ほう》から声をかけようと思ったが、声が咽喉にからんでしまって、何《ど》うしても出て来なかった。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行った時だった。今まで、美奈子の方《ホウ》へ真直《真っ直ぐ》に進んで来ていた母達は、つと右の方《ホウ》へ外れたかと思うと、其処《そこ》に茂っている樹木の向《向こ》う側に、樹木を隔てて美奈子《/美奈子》とは、背中合せの椅子に、腰を下《下ろ》してしまった。  美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホッと一息した。が、また直《す》ぐ、母と青年とが、話し初《始》める会話を、何《ど》うしても立聞《立ち聞》かねばならぬかと思うと、彼女はまた新しい当惑に陥《落》ちていた。彼女は母と青年とが、話し初《始》めることを聞きたくなかった。それは、彼女にとって余りに恐ろしいことだった。殊に、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いているところを見ると、それが世間並《世間並み》の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかった。今まで、信頼し愛《/愛》している母の秘密を知りたくなかった。美奈子は、自分の眼が直《す》ぐ盲《メクラ》になり、耳が直《す》ぐ聾することを、どれほど望んでいたか判らなかった。若《も》し、それが出来なければ、一目散に逃げたかった。若《も》し、それも出来なかったら、両手で二つの耳を堅く堅く掩うていたかった。  が、彼女がどんなに聴くことを、厭がっても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、いなかったのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声《話し声》を妨げる少《/少》しの物音もなかったのである。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は静《静か》だった。母と青年との話声《話し声》は、二間ばかり隔《隔た》っていたけれども、手に取るごとく美奈子の耳──その話声《話し声》を、毒のように嫌っている美奈子の耳に、ハッキリと聞えて来た。 「稔さん! 一体何《一体なん》なの? 改まって、話したいことがあるなんて、妾《わたし》をわざわざこんな暗い処へ連れて来て?」  そう言っている母の言葉や、アクセントは、平生《いつも》の母とは思えないほど、下卑ていて娼婦《/娼婦》か何かのように艶かしかった。而《しか》も、美奈子のいるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々しく呼んでいるのだった。こうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、止《とど》めの一太刀を受けたと云《言》ってもよかった。今まで、あんなに信頼していた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶滅茶に引き裂いた。  瑠璃子に、そう言われても、青年は却々話《なかなか’話》し出そうと《-と》はしなかった。沈黙が、二三分間彼等《ニサンプンカン彼等》の間に在った。  母は、もどかしげに青年を促した。 「早く、おっしゃいよ! 何をそんなに考えていらっしゃるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、淋《さみ》しがっているのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言って御覧《ご覧》なさい! まあ、自烈《じれ》ったい人ですこと。」  美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉《蓮っ葉》に乱暴なのを聴いて、益々心《ますます心》が暗くなった。  青年は、それでも却々話《なかなか’話》し出そうと《-と》はしなかった。が、母の気持《気持ち》が可《か》なり浮いているのにも拘わらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。 「さあ! 早くおっしゃいよ。一体何《一体なん》の話なの?」  母は、子供をでも、すかすように、な《-な》まめいた口調で、三度催促《ミタビ催促》した。 「じゃ、申上《申し上》げますが、いつものように、はぐらかして下さっては困りますよ。僕は真面目で申しあげるのです。」  青年の口調は、可《か》なり重々しい口調だった。一生懸命な態度が、美奈子にさえ、アリアリと感ぜられた。 「まあ! 憎らしい。妾《わたし》が、何時貴君《いつ貴方》を、はぐらかしたのです。厭な稔さんだこと。何時《いつ》だって、貴方のおっしゃることは、真面目で聴いているではありませんか。」  そう言っている母の言葉に、娼婦のような技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。 「貴女《貴方》は、何時《いつ》もそうなのです。貴女《貴方》は、何時《いつ》も僕にそうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言うことを、何時《いつ》もそんな風にはぐらかしてしまうのです。」  青年は、恨みがましくそ《/そ》う言った。 「まあ、そんなに怒らなくっ《-っ》てもいいわ。じゃ、妾貴君《わたし/貴方》の好きなように、聴いて上げるから言《/言》って御覧《ご覧》なさい!」  母は、子供を操るように言った。  母の態度は、心にもない立聞《立ち聞き》をしている美奈子にさえ恥《恥ずか》しかった。  青年は、また黙ってしまった。 「さあ! 早くおっしゃいよ。妾《わたし/》こんなに待っているのよ。」  母が、青年の頬近《ホオ近》く口《/口》を寄せて、促している有様が、美奈子にも直《す》ぐ感ぜられた。 「瑠璃子さん! 貴女《貴方》には、僕の今申《いま申》し上げようと思っていることが、大抵お解りになってはいませんか。」  青年は、到頭必死《とうとう必死》な声でそ《/そ》う云《言》った。美奈子は、予期したものを、到頭聴《とうとう聴》いたように思うと、今までの緊張が緩むのと同時に、暗い絶望の気持《気持ち》が、心の裡一杯《裡いっぱい》になった。それでも彼女は母が、一体どう答えるかと、じっと耳を澄《澄ま》していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子は青年をじらすように、落着《落ち着》いた言葉で云《言》った。 「解っているかって? 何がです。」  ある空々しさが、美奈子にさえ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、可《か》なり激《ゲキ》してしまった。烈《激》しい熱情が、彼の言葉を、顫《震》わした。 「お解りになりませんか。お解りにならないと云《言》うのですか。僕の心持《心持ち》、僕の貴女《貴方》に対する心持《心持ち》が、僕が貴女《貴方》をこんなに慕っている心持《心持ち》が。」  青年は、もどかしげに、叫ぶように云《言》うのだった。陰《蔭》で聞いている美奈子は、胸を発矢《ハッシ》と打たれたように思った。青年の本当の心持ちが、自分が心私《心ひそ》かに思っていた青年の心が、母の方《ホウ》へ向《向か》っていることを知ると、《:、》彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のように、身体も心も、ブルブル顫《震》えるのを、抑えることが出来なかった。が、母が青年の言葉に何と答えるかが、彼女には、もっと大事なことだった。彼女は、砕かれた胸を抑えて、母が何と云《言》い出すかを、一心に耳を澄《澄ま》せていた。  が、母は容易に返事をしなかった。母が、返事をしない内に、青年の方《ほう》が急き立ってしまった。 「お解りになりませんか。僕の心持《心持ち》が、お解りにならない筈はないと思うのですが、僕がどんなに貴女《貴方》を思っているか。貴女《貴方》のためには、何物をも犠牲にしようと思っている僕の心持《心持ち》を。」  青年は、必死に母に迫っているらしかった。顫《震》える声が、変に途切れて、|傍聞き《ワキギキ》している美奈子までが、胸に迫るような声だった。  が、母は平素《いつも》のように落着《落ち着》いた声で云《言》った。 「解っていますわ。」  母の冷静な答《答え》に、青年が満足していないことは明《明ら》かだった。 「解っています。そうです、貴女《貴方》は何時《いつ》でも、そう云《言》われるのです。僕が、何時《いつ》か貴女《貴方》に申上《申し上》げたときにも、貴女《貴方》は解っていると|仰しゃ《仰》ったのです。が、貴女《貴方》が解っていると|仰しゃ《仰》るのと、解っていないと|仰しゃ《仰》るのと、何処《どこ》が違うのです。恐らく、貴女《貴方》は、貴女《貴方》の周囲に集まっている多くの男性に、皆一様《みんな一様》に『解っている』『解っている』と|仰しゃ《仰》っているのではありませんか。『解っている』程度のお返事なら、お返事していただかなくても、同じ事です。解っているのなら、本当に解っているように、していただきたいと思うのです。」  青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉じて、じっと聴きすましている美奈子にさえ、アリアリと感ぜられた。  が、母は、何と云《言》う冷静さだろうと美奈子でさえ、青年の言葉を、陰《蔭》で聴いている美奈子でさえ、胸が裂けるような息苦しさを感じているのに、《:、》面と向《向か》って聴いている当人の母は、息一つ弾ませてもいないのだった。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、じっと楽しんででもいるかのように、落着《落ち着》いている母だった。 「解っているようにするなんて? 何《ど》うすればいいの?」  言葉丈《言葉だけ》はなまめかしく馴々しかった。  母の取り済《済ま》した言葉を、聴くと、青年は火のように激《ゲキ》してしまった。 「何《ど》うすればいいの? なんて、そんなことを、貴女《貴方》は僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めし気《げ》に云《言》った。「貴女《貴方》は僕を、最初から、僕を玩具にしていらっしゃるのですか。僕の感情を、最初から弄んでいらっしゃるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴女《貴方》に申上《申し上》げたことを、貴女《貴方》は何と聴いていらっしゃるのです。」  青年の若い熱情が──、恋の炎が、今烈々《いま烈々》と迸《-ほとばし》っているのであった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、段々激《だんだんゲキ》して来るのを、聴いていると、美奈子はもう此《こ》の上《うえ》、隠れて聴いているのが、堪らなかった。  彼女の小さい胸は、いろいろな烈《激》しい感情で、張り裂けるように一杯だった。青年の心を知ったための大きい絶望もあった、が、それと同時に、青年の烈《激》しい恋に対する優しい同情もあった。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交《交じ》っていた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆えすのに十分《充分》だった。  その上、他人の秘密、他人《人》の一生懸命な秘密を、窃《盗》み聴《聞》きしていることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐っていることが出来なかった。その椅子《ベンチ》が針の蓆か、何かでもあるように、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わずかに二間位《ニケンくらい》しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊に樹木の蔭を離れると、如何《いか》なる機みで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がいたことに気が付いたときの、駭《驚》きと当惑とを思うと、美奈子の立ち上ろうとする足は、そのまますくんでしまうのだった。  美奈子が、退っ引きならぬ境遇に苦しんでいることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のように落着《落ち着》いた声で静《静か》に云《言》った。 「だから、解っていると云《言》っているのじゃないの。貴君《貴方》のお心は、よく解っていると云《言》っているのじゃないの。」  青年の声は、前よりももっと迫っていた。 「本当ですか。本当ですか。本心でそう|仰しゃ《仰》っているのですか。まさか、口先丈《口先だけ》で云《言》っていらっしゃるのじゃあ《-あ》ります《-す》まいね。」  青年が、そう訊き詰めても母は、黙っていた。青年は、愈々焦《いよいよ焦》った。 「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女《貴方》のお言葉丈《言葉だ》けは、もう幾度聴いたか分《分か》らない。貴女《貴方》は、それと同じような言葉を、僕に幾度繰返《幾度繰り返》したか分《分か》らない。僕は言葉丈《言葉だけ》ではなく、証拠を見せて貰いたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていただきたいのです。」  青年が、焦っても激《ゲキ》しても、動かない母だった。 「証拠なんて! 妾《わたし》の言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎じゃあるまいし、まさか、起請を書くわけにも行かないじゃないの。」  母の貴婦人《レディ》らしからぬ言葉遣いが、美奈子の心を傷ましめた。 「証拠と云《言》って、品物を下さいと云《言》うのじゃありません。僕が、先日云ったことに、ハッキリと返事をしていただきたいのです。ただ『待っていろ』ばかりじゃ僕はもう堪らないのです。」 「先日云《先日言》ったことって、何?」  母は、相手を益々《ますます》じらすように、しかもなまめかしい口調で云《言》った。 「あれを、お忘れになったのですか、貴女《貴方》は?」  青年は憤然とした《た-》らしかった。 「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願いしたのを、貴女《貴方》はもう忘れて、いらっしゃるのですか。じゃ、繰り返してもう一度、申上《申し上》げましょう。瑠璃子さん、貴女《貴方》は僕と結婚して下さいませんか。」  結婚と云《言》う思いがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたように思った。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでいようとは夢にも思っていないことだった。 「あのお話!《/》 あれには貴君《貴方》、ハッキリとお答えしてあるじゃないの。」  母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すように答えた。 「あのお答えには、もう満足出来なくなったのです。」  母のハッキリした答えと云《言》うのは、どんな内容だろうと思うと、美奈子は悪い悪いと思いながらじ《/じ》っと耳を澄まさずには《は-》いられなかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「あんなお答《答え》には、僕はもう満足出来なくなったのです。あんな生ぬるいお答《答え》には、もう満足出来なくなったのです。貴女《貴方》は、美奈子さんが、結婚してしまうまで、この返事は待って呉《く》れと|仰しゃ《仰》る。が、貴女《貴方》のお心丈《心だけ》をお定《決》めになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さって、ただ、時期を待てと|仰しゃ《仰》るのなら僕は何時《いつ》までも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否生涯待《否/生涯待》ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女《貴方》のはただ『返事を待て』と|仰しゃ《仰》るのです、お返事丈《返事だけ》ならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女《貴方》のお心一つで、何《ど》うともお定《決》めになることが、出来ることじゃありませんか。僕に約束さえして下されば、僕は欣《喜》んで五年でも七年でも待っている積りです。」  青年の声は、だんだん低くなって来た。が、その声に含まれている熱情は、だんだん高くなって行くらしかった。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠っていた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとどろかせながら、息を潜めて聞いていた。  母が何とも答えないので、青年は又言葉《また言葉》を続けた。 「返事を待て、返事を待って呉《く》れと、|仰しゃ《仰》る。が、その返事がいい返事に定《決》まっていれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待って、その返事が悪い返事だったら、一体何《一体ど》うなるのです。僕は青春の感情を、貴女《貴方》に散々弄ばれて、揚句の端《果て》に、突き離されることになるのじゃありませんか。貴女《貴方》は、僕を何《ど》ちらとも付かない迷いの裡に、釣って置いて、何時《いつ》までも何時《いつ》までも、僕の感情を弄ぼうとするのではありませんか。僕は、貴女《貴方》のなさることから考えると、そう思うより外《ほか》はないのです。」 「まさか、妾《わたし》そんな悪人ではないわ。貴君《貴方》のお心は、十分お受けしているのよ。でも、結婚となると妾考《わたし/考》えるわ。一度ああ云《言》う恐ろしい結婚をしているのでしょう。妾結婚《わたし/結婚》となると、何か恐ろしい淵の前にでも立っているようで、足が竦んでしまうのです。無論、美奈子が結婚してしまえば、妾《わたし》の責任は無くなってしまうのよ。結婚しようと思えば、出来ないことはないわ。が、その時になって、本当に結婚したいと思うか、したくないか、今の妾《わたし》には分《分か》らないのよ。」  母は、初めて本心の一部《’一部》を打ち明けたように云《言》った。 「が、それは貴女《貴方》の結婚に対するお考えです。僕が訊きたいと思うのは、僕に対する貴女《貴方》のお考えです。貴女《貴方》が結婚するかしないかよりも、貴女《貴方》が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換えて云《言》えば、僕を、結婚してもいいと思うほど、愛していて下さるか何《ど》うかが、僕には大問題なのです。」  青年の言葉は|、一句一句一生懸命《、一句一句’一生懸命》だった。 「つまり、こう云《言》うことをお尋ねしたのです。貴女《貴方》が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人《ナンピ-ト》を措《-お》いても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いているのです。時期などは、何時《いつ》でもいい、五年後でも、十年後でも、介意《構》わないのです、《:、》ただ、若《も》し貴女《貴方》が結婚しようと決心なさったときに、夫として僕を選んで下さるか何《ど》うかをお訊ねしているのです。」  青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈な恋が、火花を発していると云《言》ってもよかった。  事理の徹った退引ならぬ青年の問《問い》に、母が何と答えるか、美奈子は胸を顫《震》わしながら待っていた。  母は、|暫ら《暫》く返事をしなかった。夜は、もう十時に近かった。やや欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のような光を落していた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第24話】 【約束の夜に】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「そのお返事は、出来ないことはないと思うのです。否か応か、孰《どち》らかの返事をして下さればいいのです。貴女《貴方》が、今まで僕に示して下さったいろいろな愛の表情に、ただ裏書《裏書き》をさえして下さればいいのです。貴女《貴方》の将来のお心を訊いているのではないのです。現在の、貴女《貴方》のお心を訊いているのです。現在の、貴女自身《貴方自身》のお心が、貴女《貴方》に分《分か》らない筈はないと思うのです。ただ、現在の貴女《貴方》のお心をハッキリお返事して下さればいいのです。将来、結婚と云《言》う問題が貴女《貴方》のお考えの裡に起《起こ》ったときには、僕を夫として選ぼうと現在思っているかどうかを訊かしていただきたいのです。」  青年の問《問い》には、ハッキリとした条理が立っていた。詭弁を弄しがちな瑠璃子にも、もう云《言》い逃れる術《スベ》は、ないように見えた。 「妾《わたし》、貴君《貴方》を愛していることは愛しているわ。妾《わたし》が、此間中《このあいだじゅう》から云《言》っていることは、決して嘘ではないわ。が、貴君《貴方》を愛していると云《言》うことは、必ずしも貴君《貴方》と結婚したいと云《言》うことを意味していないわ。けれど、貴君《貴方》に、結婚したいと云《言》う希望が、本当におありになるのなら、妾《わたし》は又別《また別》に考えて見たいと思うの。」  瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激《また/ゲキ》してしまった。 「考えて見るなんて、貴女《貴方》のそう云《言》うお返事はもう沢山です。『考えて見る』『解っている』そう云《言》う|一時逃れ《一時ノガレ》のお返事には、もうあきあきしました。僕は、全か若《も》しくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女《貴方》が、若《も》し『否《イナ》』と仰しゃれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦って、貴女《貴方》に決して未練がましいことは云《言》わないつもりです、僕は貴女《貴方》に、承諾して呉《く》れとは云《言》わないのです。孰《どち》らでも、ハッキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端な気持《気持ち》の中《うち》に、いつまでも苦しんでいたくないのです。僕は、貴女《貴方》の全部を掴みたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女《貴方》の全部を失いたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止まないのです。」  青年は、男らしく強くは云《言》っているものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その顫《震》えている語気《’語気》で明《明ら》かに分《分か》った。 「一体考えて見るなんて、何時《いつ》まで考えて御覧《ご覧》になるのです。五六年《五’六年》も考えて見るお積《積り》なのですか。」  青年は、恨《恨み》がましくやや皮肉らしく、そう云《言》った。 「いいえ。明後日まで。」  瑠璃子の答《答え》は、一生懸命に突《-つ》っ掛って来た相手を、軽く外したような意地悪さと軽快さとを持っていた。  青年は、手軽く外されたために、ムッとして黙ったら《-ら》しかったが、然《しか》し、答そのものは、手答《手応え》があるので、彼は暫くしてから、口を開いた。 「明後日!《/》 本当に明後日までですか。」 「嘘は云《言》いませんわ。」  瑠璃子の返事は、殊勝だった。 「じゃ、そのお返事は何時聴《いつ聴》けるのです。」  青年の言葉に、やっと嬉しそうな響きがあった。 「明後日の晩ですわ。」  瑠璃子の本心は知らず、言葉丈《言葉だ》けにはある誠意があった。 「明後日の晩、やっぱり二人切《二人き》りで、散歩に出て下さいますか。貴女《貴方》は、何時《いつ》でも、美奈子さんをお誘いになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴女《貴方》は美奈子さんを、いろいろ勧めてお連れになる。僕がどんなに貴女《貴方》と二人切《二人きり》の時間を持ちたいと思っている時でも、貴女《貴方》は美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」  聴いている美奈子は、もう立つ瀬がなかった。彼女の頬《ホオ》には、涙がほろほろと流れ出した。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでいるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかった。口惜《悔》しさと、恨めしさと、絶望との涙が、止めどもなく頬《ホオ》を伝って流れ落ちた。自分が、心私《心ひそ》かに想《思い》を寄せていた青年から、邪魔物扱いされていたことは、彼女の魂を蹂《踏》み躙ってしまうのに、十分《充分》だった。もう一刻も、止《とど》まっていることは出来なかった。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかった。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂っていた。彼女は、どんなことがあろうとも、もう一秒も止《-とど》まっていることは出来なかった。  彼女は、それでも物音を立てないように、そっと椅子から、立ち上《上が》った。立ち上《上が》った刹那から、脚がわなわなと顫《震》えた。一歩踏み出そうとすると、全身の血が、悉く逆流を初めたように、身体がフラフラとした。倒れようとするのをやっと支えた。最後の力を、振い起《起こ》した。わななく足を支えて、芝生の上を、静《静か》に静《静か》に踏み占め、椅子から、十間《10間》ばかり離れた。彼女は、そこまでは、這うように、身体を沈ませながら辿ったが、其処《そこ》に茂っている、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林へまで、辿り付くと、《:、》もう最後の辛抱をし尽したように、疎林の中を縫うように、母達《母たち》のいる位置を、遠廻《遠回》りしながら、ホテルの建物の方《ホウ》へと足を早めた。否馳《いな/駆》け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるように。恐ろしい罪と恥とから逃げるように。彼女は、凡《全》てを忘れて、若い牝鹿のように、逃げた。  夢中に、庭園を馳《駆》けぬけ、夢中に階段を馳《駆》け上り、夢中に廊下を走って、自分の寝室へ馳《駆》け込むと彼女《/彼女》は寝台《ベッド》へ身体を瓦破と投げ付けたまま、泣き伏した。  涙は、幾何流《いくら流》れても尽きなかった。悲しみは、幾何泣《いくら泣》いても、薄らがなかった。  凡《全》ては失われた。凡《全》ては、彼女の心から奪われた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持っていたただ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であった母を。  春の花園のように、光と愛と美しさとに、充ちていた美奈子の心は、此《こ》の嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と悲哀《/悲哀》の外《ほか》は、何も残っていなかった。  恋人から、邪魔物扱いされていることが、悲しかった。が、それと同じに、母が──あれほど、自分には優しく、清浄である母が、男に対して、娼婦のように、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかった。自分の頼み切った母が、夜そ《/そ》っと眼を覚《覚ま》して見ると、自分の傍《傍ら》には、いないで、有明の行燈を嘗めているのを発見した古い怪譚《怪談》の中の少女のように、美奈子の心は、あさましい駭《驚》きで一杯だった。  自分に、優しい母を考えると、彼女は母を恨むことは出来なかった。が、あさましかった。恥かしかった。恨めしかった。  母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れているのではなかった。山中で、怪物に会って、馳《駆》け込んだ家が、丁度怪物《ちょうど怪物》の棲家であるように、母と青年とから逃れて来ても、彼等は相《-あい》つづいて、同じ此《こ》の部屋に帰って来るのだった。  そう思うと、いっそ美奈子は、此《こ》の部屋から逃げ出したかった。遠く遠く何人《/ナンピ-ト》にも見出《見い出》されない、山の中へ《へ’》入って、此《こ》の悲しみを何時《いつ》までも何時《いつ》までも泣き明したかった。いな、少くとも此夜丈《この夜だ》けでも、母と青年との顔を見たくなかった。母と青年とが、並んで帰って来るのを見たくなかった。いな、青年から邪魔物扱いされている以上、もう部屋に止《-とど》まりたくなかった。が、此《こ》の部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人何処《一人どこ》へ行くところがあろう。ただ一人、縋り付く由縁《よすが》とした母を離れて何処《いずこ》へ行くところがあろう。そう思うと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリアリと浮《浮か》んで来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  死んだ父母の面影が、浮《浮か》んで来ると、美奈子は懐しさで、胸がピッタリと閉された。  今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫でさすって呉《く》れる者は、死んだ父母の外《ほか》には、広い世の中に誰一人ないように思われた。  そう思うと、亡き父が、あの強い腕《カイナ》を差し伸べて、自分を招いていて呉《く》れるように思われた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれていた。美奈子は、父の腕《カイナ》が、恋しかった。父の、その強い腕《カイナ》に抱かれたかった。そう思うと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情《情け》ない目に会っていることが、味気《味キ》なかった。  が、それよりも、彼女はこの部屋に止《-とど》まっていて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰って来るのを迎えるのに堪えなかった。何処《どこ》でもいい、山でもいい、海でもいい、母と青年とのいないところへ逃れたかった。彼女は、泣き伏していた顔を、上げた。フラフラと寝台《ベッド》を離れた。浴衣を脱いで、明石縮の単衣に換えた。手提《手提げ》を取り上げた。彼女の小さい心は、今狂《いま狂》っていた。もう何の思慮も、分別《フンベツ》も残っていなかった。ただ、突き詰めた一途な少女心《乙女心》が、張り切っていた丈《だけ》である。  彼女が、着物を着換《着が》えてしまう間、幸《幸い》に母と青年とは帰って来なかった。  彼女は、部屋を馳《駆》け出そうとしたとき、咄嗟に兄のことを考えた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉じ込められている。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡にも、肉親に対する愛だけは、残っている。彼女は、彼女が時々兄《ときどき兄》を訪《-おとな》うときに、兄がどんなに嬉しそうな表情をするかを、覚えている。縦令《たとい》、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、然《しか》しながら純な態度は、屹度自分《きっと自分》を慰めて呉《く》れるに違《違い》ない。少くとも、あの愚かな兄丈《兄だけ》は、何時行《いつ行》っても屹度《きっと》、自分に、あの人《/人》のよ《良》い、愚かしいが然《しか》し浄い親愛の情を表して呉《く》れるに違《違い》ない。そう思うと、美奈子は急に、兄に会いたくなった。夜は十時に近かったがま《”ま》だ湯本行《湯本行き》の電車はあるように思った。もし、横須賀行《横須賀行き》の汽車に間に合わなかったら、国府津か小田原かで、一泊してもいいとさえ思った。  部屋の扉《ドア》を、そっと開けて、彼女は廊下を窺った。西洋人の少年少女が二人連《二人’連》れ立って、自分の部屋へ、帰って行くらしいのを除いた外《ほか》には人影はなかった。  彼女は、廊下を左へ取った。その廊下を突き当《当た》って左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知っていた。  彼女は、廊下を馳《駆》け過ぎた。階段を、一気に馳《駆》け降りた。そして、階段の突き当《当た》りにある、扉《ドア》を押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。  が、その扉《ドア》を押し開いた刹那であった。 「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、扉《ドア》を開けようとした人が、思わず内部から開いたので、駭《驚》いて発した声だった。美奈子は、直《す》ぐ、そう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかった。それは、正しく母だった。母の後《あと》に、寄り添うように立っているのは、もとより彼《-か》の青年だった。 「美奈さんじゃないの!」  母は、可《か》なり駭《驚》いていた。狼狽していたと云《言》ってもよかった。美奈子は、全身の血が、凍ってしまったように、じっと身体を縮ませながら、立っていた。 「何《ど》うしたの? こんなに遅く?」  青年との会話には、あんな冷静を保《-たも》っていた母が、別人ではないかと思うほど、色を変えていた。  美奈子が、黙っていると、母は益々気遣《ますます気遣》わしげに云《言》った。 「一体何《一体ど》うしたの、こんなに遅く、着物を着換《着が》えて、手提《手提げ》なんか持って。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母に問い詰められて、美奈子は、漸くその重い唇を開いた。 「あの、手紙を出しに、郵便局まで行こうと思っていましたの。」  彼女は、生《生ま》れて最初の嘘を、ついてしまった。彼女の、蒼い顫《震》いを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。 「郵便局!《/》」瑠璃子は、反射的にそう繰返《繰り返》したが、その美しい眉は、深い憂慮のために、暗くなってしまった。「こんなに遅く郵便局へ!」  瑠璃子は、呟くように云《言》った。が、それは美奈子を咎めていると云《言》うよりも、自分自身を咎めているような声だった。  母子《親子》の間に、|暫ら《暫》くは沈黙が在った。美奈子は、ただ黙って立っている外《ほか》は、何《ど》うすることも出来なかった。 「郵便局!《/》 郵便局なら、僕が行って来て上げましょう。」  母の後《’後ろ》に立っていた青年は、此《こ》の沈黙を救おうとしてそう云《言》った。  美奈子は、一寸狼狽《ちょっと狼狽》した。託すべき手紙などは持っていなかったからである。 「いいえ。結構でございますの。」  美奈子は、平素《いつも》に似ず、きっぱりと答えた。その拒絶には、彼女の、芽にして、蹂《踏》み躙られた恋の千万無量の恨《恨み》が、籠っていたと云《言》ってもよかった。  聡明な瑠璃子には、美奈子の心持《心持ち》が、可《か》なり判ったらしかった。彼女は、涙がにじんでは《は-》いぬかと思われるほどの、やさしい眸で、美奈子を、じっと見詰めながら云《言》った。 「ねえ! 美奈さん。今晩は、よして呉《く》れない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといいわ。ねえ美奈さん! いいでしょう。」  彼女は、美奈子を抱きしめるように、掩いながら、耳許近く、子供でもすかすように云《言》った。  平素《いつも》なら、母の一言半句《イチゴン半句》にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれていた。彼女は、黙って返事をしなかった。 「何《ど》うしても、行くのなら、妾《わたし》も一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待っていて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでしょう。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は早くも、先に立って歩もうとした。  美奈子は、一寸進退《ちょっと進退》に窮した。母と一緒に郵便局へ行っても、出すべき手紙がなかった。それかと云《言》って、今まで黙っていながら、今更行《今更’行》くことをよすとも、言い出しかねた。  その裡に、青年は此《こ》の場を避《-さ》けることが、彼にとって、一番適当なことだと思ったのだろう。何《なん》の挨拶もしないで、建物の中へ入ると、階段を勢《勢い》よく馳《駆》け上《上が》ってしまった。  母一人《母’ひとり》になると、美奈子の張り詰めていた心は、弛《ゆる》んでしまって、新しい涙が、頬《ホオ》を伝い出したかと思うと、どんなに止《-と》めようとしても止まらなかった。到頭《とうとう》、しくしくと声を立ててしまった。  美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心から駭《驚》いたら《-ら》しかった。美奈子の身体を抱えながら叫ぶように云《言》った。 「美奈さん! 何《ど》うしたの、一体何《一体ど》うしたの。何が悲しいの。貴女一人残《貴方ひとり残》して置いて済まなかったわ。御免《ごめん》なさいね、御免《ごめん》なさいね。」  青年に対しては、あれほど冷静であった母が、本当に二十前後《ハタチ前後》の若い女に帰ったように、狼狽えているのであった。 「貴女《貴方》、泣いたりなんかしたら、厭ですわ。今迄貴女《今まで貴方》の泣き顔は、一度だって、見たことがないのですもの。妾《わたし》、貴女《貴方》の泣き顔を見るのが、何よりも辛いわ。一体何《一体ど》うしたの。妾《わたし》が、悪かったのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を云《言》って下さいね。」  そう云《言》っている母の声に、烈《激》しい愛と熱情とが、籠っていることを、疑うことは出来なかった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  その夜は、美奈子も強いて争いかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰って来た。  翌日になると、夜が明けるのを待ち兼《か》ねていたように、美奈子は母に云《言》った。 「お母様、妾葉山《わたし/葉山》へ行って来ようかと思っているの。兄さんにも、随分会わないから、どんな容子《様子》だか、妾見《わたし/見》て来たいと思うの。」  が、母は許さなかった。美奈子の容子《様子》が、何となく気にかかっているらしかった。 「もう二三日してから行って下さいね。それだと、妾《わたし》も一緒に行くかも知れないわ。箱根も妾何《わたし/何》だか飽き飽きして来たから。」  その日一杯、平素《いつも》は快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまっていた。青年には、口一《口ひと》つ利かなかった。美奈子にも、用事の外《ほか》は、殆ど口を利かなかった。ただ一人、縁側《ヴェランダ》にある籐椅子に、腰を降《降ろ》しながら、一時間も二時間も、石のように黙っていた。  瑠璃子の態度が、直《す》ぐ青年に反射していた。瑠璃子から、口一《口ひと》つ利かれない青年は、所在なさそうに、主人から嫌われた犬のように、部屋の中をウロウロ歩いていた。彼のオドオドした眼は、|燃ゆる《モユル》ような熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注《そそ》がれていた。美奈子は、青年の容子《様子》に、抑え切れぬ嫉妬を感じながらも、然《しか》し何となく気の毒であった。犬のように、母を追うている、母の一挙一動に悲しんだり欣《喜》んだりする青年の容子《様子》が、気の毒であった。  その日は、事もなく暮れた。平素《いつも》のように、夕方の散歩にも行かなかった。食堂から帰って来ると三人は気まずく三十分ばかり向《向か》い合っていた後《あと》に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内《うち》に、退いてしまった。  翌る日が来ても、瑠璃子の容子《様子》は前日と少しも変らなかった。美奈子には、時々優《ときどき優》しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言わなかった。青年の顔に、絶望の色が、段々濃《だんだん濃》くなって行った。彼《彼’》の眼は、恨めしげに光り初《始》めた。  到頭《とうとう》、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交《交わ》された約束の夜が来た。  美奈子は、夜が近づくに従って、青年が自分の存在を、どんなに呪っているかも知れないと思うと部屋《/部屋》にいることが、何《ど》うにも苦痛になって来た。  晩餐の食堂《食堂’》から、帰るときに、美奈子は、そっと母達から離れて、自分一人《自分ひとり》ホテルの図書室へでも行こうと思った。そうすれば、青年は彼の希望通り、母とたった二人限《二人き》りで、散歩に行くことが出来るだろう。母も、自分に何《なん》の気兼なしに青年とたった二人、散歩に出ることが出来るだろう。  美奈子は、そう思いながら、そっと母達から離れる機会を待っていた。が、母は故意にやっていると思われるほど、美奈子から眼を離さなかった。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰って来た。  部屋に帰ってから、暫くの間、瑠璃子は黙っていた。五分十分経《5分’10分’経》つに連れて、青年がじりじりし初《始》めたことが、美奈子の眼にも、ハッキリと判った。而《しか》も、青年がいらいらしていることが、自分がいるためであると思うと、美奈子は何《ど》うにも、辛抱が出来なかった。自分が、青年の大事な大事な機会の邪魔をしていると思うと、美奈子は何《ど》うにも、辛抱が出来なかった。 「妾《わたし》、お母様、図書室へ行って来ますわ。一寸本《ちょっと本》が読みたくなりましたから。」  美奈子は、そう云《言》って、母の返事をも待たず、つかつかと部屋を出ようとした。  母は、駭《驚》いたように呼び止めた。 「図書室へ行くのなんかお《/お》よしなさいね。昨夕《夕べ》は出なかったから、今日は散歩に出ようじゃありませんか。」  美奈子は、一寸駭《ちょっと駭》いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は烈《激》しい怒りのために、黒くなっていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子は、母の真意を測りかねた。  母も、確《確か》に青年とたった二人限《二人きり》、散歩する約束をした筈である。そして、あの大切な返事を青年に与える約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであろう。そうした機会を、彼等に与えようとして、席を外《-はず》そうとする、自分を呼び止めるとは。 「ええっ!」美奈子は、つい返事とも、駭《驚》きとも何とも付かぬ言葉を出してしまった。 「ねえ! 図書室なんか、明日いらっしゃればいいのに。今夜は強羅公園へ行こうと思うの。ねえ! いいでしょう。」  母はいつもよりも、もっと熱心に美奈子に勧めた。 「でも。」  美奈子は、躊躇した。彼女は、そうためらいながらも、青年の顔を見ずには《は-》いられなかったのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子に腰を下《下ろ》していたが、その白い顔は、烈《激》しい憤怒《フンヌ》のために、充血していた。彼は、爛々たる眸を、恨めしげに母の上に投げてい《-い》たのである。美奈子は、そうした青年の容子《様子》を見ることが、心苦しかった。彼女は、青年のために、心の動顛している青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従うことは出来なかった。 「いいじゃありませんの。図書室なんか、今晩に限ったことはないのでしょう。ねえ! いらっしゃい。妾《わたし/》お願いしますから。」  母は、余儀ないように云《言》った。そう云《言》われれば、美奈子は、同行を強いて断るほどの口実は何もなかった。ただ彼女には、自分を極力同行《極力’同行》せし《-し》めようとする母の真意が、何《ど》うしても分《分か》らなかった。 「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人限《二人きり》じゃ淋《-さみ》しいし張合《/張り合い》がありませんわねえ!」  母は、青年に同意を求めた。  何もかも知っている美奈子は、母のやり方が、恐ろしかった。青年が、嫌いだと云《言》うものを、|グングン《ぐんぐん》咽喉に押し込むような、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかった。美奈子は、ハラハラした。青年が、母の言葉を、何《ど》う取るかと思うと、ハラハラせずには《は-》いられなかった。青年は、果《果た》してカッとなったらしかった。それかと云《言》って、美奈子の前では、何の抗議を云《言》うことも出来ないらしかった。 「僕!《/》 僕!《/》 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」  それが、青年の精一杯の反抗であった。青年の顔は、今蒼白《いまソウハク》に変じ、彼の言葉は、激昂のために、顫《震》えた。 「何故?」瑠璃子は詰問するように云《言》った。 「何故いらっしゃらない。だって、貴君《貴方》は先刻食堂《さっき食堂》で、今夜は強羅まで行こうと|仰しゃ《仰》ったのじゃないの。今になって、よそ《-そ》うなんて、それじゃ故意に、妾達《わたしたち》の感情を害しようとなさっているのだわ。」  青年は、唇をブルブル顫《震》わした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は云《言》えなかった。 『貴女《貴方》は約束と違うじゃありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々と湧き立っている云《言》い分であった。が、それを、何《ど》うして美奈子の前で口にすることが出来るだろう。  青年の、籐椅子の腕に置いている手が、わなわな顫《震》えるのが、美奈子は、先刻《さっき》から気が付いていた。  母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐げているかが、美奈子にもよく判った。美奈子は、もう一度、青年を救ってやりたいと思った。 「妾《わたくし》やっぱり、図書室へ参りますわ。今日急《今日’急》に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お関所の歴史なんか、今夜じゃなくてもいいじゃないの。」  瑠璃子は、美奈子が、再度図書室《再度’図書室》へ行《’行》こうと云《言》うのを聴くと、少しじれたように、そう云《言》った。 「何《ど》うして妾《-わたし》と一緒に行くのが、お嫌いなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限って何《ど》うしてそんなに煮え切らないの。」  瑠璃子は、青年の火のような憤怒《フンヌ》も、美奈子の苦衷も、何も分《分か》らないように、平然と云《言》った。 「ねえ! 美奈さん、お願いだから行って下さいね。貴女《貴方》が、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! そうでしょう、青木さん!」  弱い兎を、苛責《いじ》める牝豹か何かのように、瑠璃子は何処《どこ》までも、皮肉に逆《/逆》に逆に出るのであった。美奈子は、青年の顔を見るのに堪えなかった。青年がどんなに怒っているか、また美奈子がいるために、その怒《怒り》を少しも洩すことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずには《は-》いられなかった。  瑠璃子には、青年の憤怒《フンヌ》などは、眼中にないようだった。それでも、暫くしてから、青年をなだめるように云《言》った。 「さあ! 三人で機嫌よく行こうじゃありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらっしゃるの。」  そう、可《か》なり優しく云《言》ってから、彼女は意味ありげに附《付》け加えた。 「妾此間中《わたし/このあいだじゅう》から、考えていることがあって、くさくさしてしまったの。散歩でもして、気を晴らしてから、もっとよく考えて見たいと思うの。」  それは、暗に青年に対する云《言》い訳のようであった。まだ、十分に考えが纏《纏ま》っていないこと、従って今夜の返事を待って呉《く》れと云《言》う意味が、言外に含まれているようだった。  それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたら《-ら》しかった。彼は不承々々《不承ブショウ》に椅子から、腰を離した。  美奈子も、やっと安心した。やっぱり、母は、真面目に、此二三日口《この二三日/口》も利かずに、青年の申出《申し出》を、考えたに違いない。それが、到頭纏《とうとう纏》りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違いない。それを、青年が不承々々《不承ブショウ》ではあるが、承諾した以上、今夜の約束は延ばされたのだ。そう思うと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思うと彼女《/彼女》は漸く同伴する気になった。  三人は、それぞれに、いつもよりは、少しく身拵《身拵え》を丁寧にした。 「往きと帰りは、電車にしましょうね。歩くと大変だから。」  瑠璃子は、そう云《言》いながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙ってそれに続いた。  三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだった。暮れなやむ夏の夕暮《夕暮れ》のま《”ま》だほの明るい暗《闇》を、煌々たる頭光《ヘッドライト》で、照《照ら》し分けながら、一台の自動車が、烈《激》しい勢《勢い》で駈け込んで来た。  美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上って来た外人客であろうと思ったので、あまり注意もしなかった。  が、美奈子と一緒に歩いていた母は、自動車の中から、立ち現われた人を見ると、急に立ち竦んだように目を眸った。いつもは、冷然と澄《澄ま》している母の態度に、明《明ら》かな狼狽が見えていた。夕暗《夕闇》の中ではあったが、美しい眼が、異様に光っているのが、美奈子にも気が付いた。  美奈子も、駭《驚》いて相手を見た。母をこんなに駭《驚》かせる相手は、一体何《一体なん》だろうかと思いながら。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第25話】 【一条の光】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  相手は、まだ三十《三十’》になるかならない紳士だった。金縁の眼鏡が、その色白の面《オモテ》に光っていた。純白な背広が、可《か》なりよく似合っていた。彼は一人ではなかった。直《す》ぐその後《あと》から、丸顔の可愛い二十《ハタチ》ばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。  美奈子は、夫婦とも全然見覚えがなかった。  瑠璃子が、相手の顔を見ると、ハッと駭《驚》いたように、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハッと顔色を変えながら、立竦《立ち竦》んでしまった。  紳士と瑠璃子とは、互《互い》に敵意のある眼付《眼付き》を交しながら、十秒二十秒三十秒《十秒/二十秒/三十秒》ばかり、相対して立っていた。それでも、紳士の方《ほう》は、挨拶しようかしまいかと、一寸躊躇《ちょっと躊躇》っているらしかったが、瑠璃子が黙って顔を背けてしまうと、それに対抗するように、また黙って顔を背けてしまった。  が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立っている青年の顔を見ずにはいなかった。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もっと動揺した。彼の駭《驚》きは、前よりも、もっと烈《激》しかった。彼は、声こそ出さなかったが、殆んど叫び出しでもするような表情をした。  彼は、狼狽《あわて》たように瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚らわしいものをでも見たような表情をしながら、妻を促して、足早《足バ-ヤ》に階段を上ってしまった。  美奈子は、何だかその不知人《ストレンジャー》が、気になったが、母に訊くことが、悪いように思って、何《ど》うしても口に出せなかった。すると、ホテルの門を出た頃に、先刻《さっき》から黙っていた青年が初めて瑠璃子に口を利いた。 「一体今《一体いま》の人は誰です。御存《ご存》じじゃありませんか。」 「いいえ! ちっとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。妾達《わたし達》を、じっと見詰めたりなんかし《-し》て。」  瑠璃子は、何気なく云《言》ったら《-ら》しかった。が、声が平素《いつも》のように、澄んだ自信の充ち満ちた声ではなかった。 「そうですか、御存《ご存》じないのですか。でも、先方《センポウ》は、僕達のことをよく知っているようですねえ。」  青年は、不審《訝》しげにそう云《言》った。が、瑠璃子は、聞えないように返事をしなかった。  三人は、底気味の悪い沈黙を、お互《互い》の間に醸しながら、宮の下の停留場から、強羅行《強羅行き》の電車に乗った。  が、電車に乗っても、三人は散歩に行くと云《言》ったような気持《気持ち》は少しもなかった。美奈子は、人身御供にでもなったような心持《心持ち》で、ただ母の意志に従っていると云《言》うのに過ぎなかった。  青年は、無論最初《無論’最初》から滅入っていた。大事な返事を体《テイ》よく延ばされたことが、彼にとっては、何よりの打撃であったのだ。彼が楽しんでいる筈はなかった。  瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであったが、玄関で紳士に逢ってからは、隠し切れぬ暗い翳が、彼女の美しい顔の何処《どこ》かに潜んでいるようだった。  夜の箱根の緑の暗《闇》を、明るい頭光《ヘッドライト》を照しながら、電車は静かな山腹の空気を顫《震わ》して、轟々と走りつづけたかと思うと直《/す》ぐ終点の強羅に着いていた。  電車を去ってから、可《か》なり勾配の急な坂を二三町上《二’三町上》ると、もう強羅公園の表門に来た。  電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客は可《か》なり多いらしかった。  公園の表門の突き当《当た》りにある西洋料理店《レストラン》の窓から、明るい光が洩れ、玉を突いているらしい避暑客の高笑いが、絶え間なく聞えていた。  夜の公園にも、涼を求めているらしい人影が、彼方にも此方にもチラホラ見えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  三人は、西洋料理店《レストラン》の左から、コンクリートで堅めた水泳場の傍《そば》を通って、段々上《だんだん上》の方に登って行った。  公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であった。箱根の山の大自然の中に、茲《ここ》ばかり一寸人間《ちょっと人間》が細工をしたと云《言》ったような、こましゃくれた、しかし、厭味のない小公園《ショウ公園》だった。  園《エン》の中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となって迸《-ほとばし》って、肌寒いほどの涼味を放っていた。  三人は、黙ったまま園内を、彼方此方《あちらこちら》と歩いた。誰も口を利かなかった。皆が、舌を封《-ふう》ぜられたかのように、黙々としてただ歩き廻《回》っていた。  三人が、少し歩き疲《’疲》れて、片陰の大きい楢《/楢》の樹の下の自然石《ジネンセキ》の上に、腰を降《降ろ》した時だった。先刻《さっき》から一言も、口を利かなかった瑠璃子が、突然青年《突然’青年》に向《向か》って話し出《だ》した。しかも可《か》なり真剣な声で。 「青木さん! 此間《このあいだ》のお話ね。」  青年は、瑠璃子が何を云《言》っているのか、丸切り見当が付かないらしかった。 「えっ! えっ!」彼は可《か》なり狼狽したように焦っていた。 「此間《このあいだ》のお話ね。」  瑠璃子は、再びそ《/そ》う繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のような冷た《た-》さと堅さがあった。 「此間《このあいだ》の話?」  青年は、如何《いか》にも腑に落ちないと云《言》ったように、首を傾《-かし》げた。  丁度《ちょうど》その時、美奈子は母と青年との真中《真ん中》に坐っていた。自分を、中央にして、自分を隔てて母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女は可《か》なり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか皆目見当《/皆目’見当》が付かなかった。 「お忘れになったの。先夜《センヤ》のお話ですよ。」  瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味していないように真面目だった。 「先夜《センヤ》って、何時《いつ》のことです。」青年の声が、だんだん緊張した。 「お忘れになったの? 一昨日の晩のことですよ。」  青年が色を変えて駭《驚》いたことが、美奈子にもハッキリと感ぜられた。美奈子でさえ、あまりの駭《驚》きのために、胸が潰れてしまった。母は、果《果た》して一昨日の夜《’夜》のことを、美奈子の前で話そうとしているのかしら、そう思った丈《だけ》で、美奈子の心は戦《慄》いた。 「一昨日の晩!《/》」青年の声は、必死であった。彼は一生懸命の努力で続けて云《言》った。 「一昨日の晩? 何か特別に貴女《貴方》とお話をしたでしょうか。」  必死に、逃路を求めているような青年の様子が、可《か》なり悲惨だった。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と云《言》い出すかと待っていた。 「お忘れになったの。」  瑠璃子は、静《静か》に冷たく云《言》った。冗談を云《言》っているのでもなければ、揶揄っているのでもなければ、じらしているのでもなかった。彼女も、今夜は別人のように真面目であった。 「忘れる? 一昨日の晩!《/》」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何《いか》にも苦しそうであった。「僕には、ちっとも解りません。一昨日の晩、僕が何か申上《申し上》げたでしょうか。」  青年の声は、わなわなと顫《震》えた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるように云《言》った。  が、その投げ付けたつもりの言葉の裡に、みじめな哀願の調子が、アリアリと響いていた。  青年の哀願の調子を跳ね付けるように、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だった。 「一昨日の晩のお話のお返事を、妾今夜致《わたし/今夜’致》そうと思いますの。」  風が、少し出た故《せい》だろう、冷たい噴水の飛沫が三人の上に降りかかって来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のように、峻厳であった。  青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙ってはいられなかった。『抜く抜く』と云《言》う冗談が、本当の白刃になったように、彼はもうそれを真正面から受止める外《ほか》はなかった。 「奥さん、貴女《貴方》は何を|仰しゃ《仰》るのです。貴女《貴方》は、お約束をお忘れになったのですか。あれほど僕がお願いしたお約束をお忘れになったのですか。」  美奈子が、真中《真ん中》にいることも、もうスッカリ忘れたように、青年は我《吾》を忘れて激昂した。興奮に湧き立った温かい呼吸《息》が、美奈子の冷《冷た》い頬《ホオ》に、吐き付けられた。 「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云《言》っているのじゃありませんか。」 「何《ナン》! 何《ナン》! 何と|仰しゃ《仰》るのです。」  青年はスックと立ち上《上が》った。もう美奈子を隔てて、話をするほどの余裕もなくなったのであろう、彼は、激しく瑠璃子の前に詰めよった。  美奈子は、浅ましい恐《/恐》ろしい物を見たように、面《オモテ》を伏せてしまった。 「奥さん! 貴女《貴方》は、貴女《貴方》は何を|仰しゃ《仰》るのです。僕!《/》 僕!《/》 僕が、一昨夜申上《一昨夜’申し上》げたこと、あのお返事を今、なさろうとするのですか。あの、あのお返事を!」  激しい興奮のために、彼の身体は顫《震》え、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉にからんで、容易には出て来なかった。 「まあ! お坐りなさい! そう、貴君《貴方》のように興奮なさっては、話が、ちっとも分《分か》らなくなりますわ。まあ! 坐ってお話しなさいませ。妾《わたし》、今夜はよくお話《話し》したいと思いますから。」  瑠璃子の態度は、水の如く冷たく澄んでいた。たしなめられて、青年は不承々々《不承ブショウ》に元《/元》の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のように、熱い息を吐いていた。 「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今茲《今ここ》でなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕丈《僕だけ》の私事です。私事的《プライヴェート》な事です。それを今茲《今ここ》でお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上《申し上》げたのです。あの晩申上《晩申し上》げた事を、貴女《貴方》は覚えていて下さらないのですか。」  青年は、美奈子が聴いていることなどは、もう介意《構》っていられないように、熱狂して来た。  美奈子は、真中《真ん中》でじっと聴いているのに堪えられなくなって来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。 「あのう、お母様!《/》 妾《わたくし》は一寸失礼《ちょっと失礼》させていただきたいと思いますわ。お話が、お済みになった頃に帰って参りますから。」  美奈子は、皮肉でなく真面目にそう云《言》わずには《は-》いられなかった。  溺れる者は、藁をでも掴むように、青年はもう夢中だった。 「そうです。奥さん! もし貴女《貴方》が、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸失礼《ちょっと失礼》させていただきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承わりたいのです。」  興奮した青年に、水を浴せるように、瑠璃子は云《言》った。 「いいえ! 妾《わたし》、美奈さんにも、是非とも聞いていただきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合っていただきたいと思ったのです。あんなお話は、二人切《二人き》りで、すべきものではないと思いますもの。たださえ、妾色々《わたし/色々》な風評の的になって、困っているのですもの。ああいうお話はなるべく陰翳の残らないように、ハッキリと片《カタ》を付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴女《貴方》このお話の、証人《ウィットネス(証人)》になって下さるでしょうねえ。」 「あ! 奥さん! 貴女《貴方》は! 貴女《貴方》は!」  青年は、狂《狂’》したように叫びながら立ち上《上が》ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年が、狂気したように、叫び出したのにも拘わらず、瑠璃子は、冷然として、語りつづけた。 「美奈さん、貴女《貴方》には、お話《話し》しなかったけれども、妾青木《わたし/青木》さんから、一昨日の晩、突然結婚《突然’結婚》の申込《申し込み》を受けたのです。そうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと云《言》うお約束をしたのです。結婚の申込《申し込み》を直接受けたことを、妾本当《わたし/本当》に心苦しく思っているのです。せめて、お返事をするとき丈《だけ》でも貴女《貴方》に立ち合っていただきたいと思いましたの。」  美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分《皆目’分か》らなかった。ただ、彼女にも、|ボンヤリ《ぼんやり》分《分か》ったことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴《聞》きしたことを、母が気付いていると云《言》うことだった。美奈子が、居堪《いたた》まれなくなって逃げ出したときの後姿《後ろ姿》を、母が気付いたに違いないと云《言》うことだった。  そう思うと、自分の心持《心持ち》が、明敏な母に、すっかり悟られているように思われて、美奈子は一言も返事をすることさえ出来なかった。  青年の顔は、真蒼《真っ青》になっていた。眼ばかりが、爛々と暗《闇》の中に光っていた。 「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! 妾《わたし》、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よくよく考えて見ましたところ、貴君《貴方》のお申出《申しいで》に応ずることが出来ないのでございます。」  瑠璃子の言葉に、闘牛が、止《とど》めの一撃を受けたように、青年の細長い身体が、タジタジと後《後ろ》へよろめいた。  彼は、両手で頭を抱えた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。  美奈子は、見ているのに堪えなかった。もし、母が傍《そば》にいなかったら、走り寄って、青年の身体を抱えて、思うさま慰めてやりたかった。  二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやっと、その苦悶から這い上《上が》って来た。  母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眥《眦》は裂けていた。 「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を|恥し《辱》めるのです。僕がそっとお願いしたことを、美奈子さんの前で、貴女《貴方》にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、|恥し《辱》めるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな|辱し《辱》めを受けたことはありません。」  青年は、血を吐くように叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿《怒り》のために狂い始めていた。 「貴女《貴方》は、妖婦です、僕は敢《敢え》て、そう申上《申し上》げるのです。貴女《貴方》を、貴婦人だと思って、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さった貴女《貴方》の愛の言葉を、貴女《貴方》の真実だと思ったのが、僕の誤りでした。真実の愛を以《以っ》て、貴女《貴方》の真実な愛を購《贖》うことが出来ると思ったのは、僕の間違《間違い》でした。奥さん! 貴女《貴方》は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなって、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。此恨《この恨》みは、屹度晴《きっと晴》らしますから、覚えていて下さい。覚えていて下さい。」  青年は、狂ったように、瑠璃子を罵りつづけた。  瑠璃子は、青年の罵倒を、冷然と聞き流していたが、青年の声が、漸く絶えた頃に、やっと口《’口》を開いた。 「青木さん! 貴君《貴方》のように、そう怒るものじゃなくってよ。妾《わたし》の貴君《貴方》に対する愛が、丸切り嘘だと云《言》うのは、余りヒドいと思いますわ。妾《わたし》が、貴君《貴方》を愛していることは本当ですわ。ただ、その愛は夫に対するような愛ではなくて、弟に対するような愛なのです。妾《わたし》、昨日今日考えて、やっとそれが分《分か》ったのです。妾《わたし》、貴君《貴方》を弟に持ちたいと思うわ。が、貴君《貴方》を夫にしようとは、夢にも思ったことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、妾貴君《わたし/貴方》に何時《いつ》までも、何時《いつ》までも、交際っていただきたいと思うのよ。ねえ! 美奈さん。貴女《貴方》に妾《わたし》の心持《心持ち》は分《分か》らない!」  瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分《分か》らなかった今夜の瑠璃子の心持《心持ち》が、闇の中に、一条の光が生《生ま》れたように、美奈子にもほのぼのと分《分か》って来たように思えた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  美奈子には、母の心持《心持ち》が、朝霧の野《’野》に、日の昇るように、ようやく明《明ら》かになって来た。  母は自分の心持《心持ち》をスッカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持《心持ち》をスッカリ知って了《しま》ったのだ。  母が、自分の面前で、何のにべもないように、青年を斥けたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。そう思うと、烈《激》しい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみじみと、胸の底深くに《-に》じんで出た。  母は、やっぱり自分を愛して呉《く》れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。そう思うと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも慊《飽き足》らなく思ったことが、深く悔いられた。  母の心持《心持ち》は、もっと露骨になって来た。 「青木さん。貴君《貴方》が、妾《わたし》と結婚なさろうなんて、それは一時《1時》の迷いです。貴君《貴方》のお若い心の一時《1時》の出来心《ウイム(出来心)》です。貴君《貴方》には妾《わたし》の心が少しも分《分か》っていないのです。いいえ、妾《わたし》の本体が少しも分《分か》っていないのです。妾《わたし》の心が、どんなに荒んでいるかそ《/そ》れが貴君《貴方》には、少しも分《分か》っていないのです。妾《わたし》が、貴君《貴方》を本当に愛しているかどうかさえ、貴君《貴方》には分《分か》らないのです。そうそう、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方の誤解なり。』と云《言》う皮肉な言葉がありますが、貴君《貴方》の妾《わたし》に対する、結婚申込《結婚申込み》なんか、本当に貴君《貴方》の誤解から出ているのです。」  青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入っていないようだった。彼は、烈《激》しい怒《怒り》のために、口が利けなくなったように、ただ身体を顫《震》わせている丈《だけ》だった。  が、そんなことは少しも意に介せないように、瑠璃子は落着《落ち着》いた口調で、話し|つづ《続》けた。 「貴君《貴方》は、妾《わたし》の心持《心持ち》が分《分か》らないばかりでなく、貴君《貴方》に対する誰の心持《心持ち》も分《分か》っていないのです。貴君《貴方》には、まだ、本当に人の心が分《分か》らないのです。真珠のような美しい──いいえ、どんな宝石にも換えがたいような、美しい心を持った処女《乙女》が、貴君《貴方》に恋しても、貴君《貴方》には、それが分《分か》らないのです。貴君《貴方》はもっと足を地上に降《降ろ》して、しっかり物を見なければならないと思います。」  美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へ《へ’》でも消えてしまいたいような恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になってしまった。  が、茲《ここ》まで黙って聴いていた青年は、憤然として、立ち上《上が》った。 「奥さん! もう沢山です。貴女《貴方》は、僕を|散々恥し《散々辱》めて置きながら、此《こ》の上何を仰しゃろうと云《言》うのです。男として、堪《耐》えられないような恥辱を僕に与えて置きながら、此上何《このうえ何》を云《言》おうと|仰しゃ《仰》るのです。貴女《貴方》に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だましのようなお言葉で、いつまで僕を操ろうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女《貴方》には、お目にかからない心算《つもり》です。男性に対する貴女《貴方》の態度が、何時《いつ》まで天罰を受けずにいるか外《/よそ》ながら拝見しているつもりです。僕の貴女《貴方》に対する恋、それは、僕に取っては初恋です。大切な懸命な初恋でした、凡《全》てを犠牲にしてもいいと思った初恋です。が、それが‥‥」《。」》  青年は、茲《ここ》まで云《言》うと、自分自身で、こみ上げて来る口惜《悔》しさに堪《’堪》え切《き》れなくなったように、ハラハラと涙を落した。 「‥‥それが貴女《貴方》のために、ムザムザと蹂《踏》み躙られてしまったのだ。覚えていらっしゃい! 奥さん。」  彼は、自分の感情を抑え切れなくなったように、こう叫んだ。  立っている華奢な長身が、いたましくわなわなと顫《震》えて、男泣きの涙が、幾条《幾筋》となく地に落ちた。先刻《さっき》から美奈子は、青年の容子《様子》を見ているのに、堪えないように、目を伏せていたが何《/何》と思ったのか此時《この時/》ふと顔を上げた。 「お母様!《/》」  彼女は|かす《掠》れたような声で、初めて口を開いた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「お母様!《/》」  そう叫んだ美奈子の言葉には、思い切った処女《乙女》の真剣さが、籠っていた。 「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆっくりお考え下さいませ。青木さんが何《ど》う|仰しゃ《仰》ったのか知りませんが、もう一度考え直して下さいませ。妾《わたくし》、妾《わたくし》‥‥」《。」》  美奈子は、もっと何か云《言》いたそうだったが、烈《激》しい興奮のために、胸が迫ったのだろう、そのまま口籠ってしまった。  去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸《ちょっと》ためらいながら、美奈子の方《ほう》を振り返った。 「美奈子さん。貴女《貴方》の御厚意《ご厚意》は、大変有難うございます。が、もう凡《全》ては終ったのです。僕の心は、蹂《踏》み躙られたのです。僕の心には、今悲《いま悲し》みと怨みとがあるばかりです。さようなら、貴女《貴方》には、いろいろ失礼しました。」  そう云《言》い捨てると、青年は弾かれたように、身体を飜《ひるがえ》すと、緩い勾配の芝生の道を、一気に二十間ばかり、馳《駆》け降りると、《:、》その白い浴衣を着た長身で、公園の闇を切る姿を見せていたが、直《す》ぐ樹立《木立》の蔭に見えず《なく》なった。  美奈子は、淋《/さみ》しみとも悲しみとも、あきらめとも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うていた。  瑠璃子も、一寸青年《ちょっと青年》の後姿《後ろ姿》を見ていたようだったが、直《す》ぐ思い返したように立ち上《上が》ると、美奈子の傍《そば》に寄って来て、すれすれに腰をかけた。 「美奈子さん! 駭《驚》いて?」  軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊いた。 「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」  美奈子は、消え入るような声で云《言》った。彼女は暫く考えていたが、 「青木さんなんかよりも、妾美奈《わたし美奈》さんに済まないと思っていますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」  母の声には、深い本心が、アリアリと動いていた。美奈子でさえ、一度も聴いたことのないようなしんみりとした、心の底からにじみ出たような声だった。 「美奈さん。間違っていたら、御免《ごめん》なさい。妾《わたし》、貴女《貴方》のお心が分《分か》ったの。青木さんに対する貴女《貴方》のお心が。」  そう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サッと色を変えながら、うつ伏してしまった。 「美奈さん、貴女《貴方》は、一昨日の晩、妾《わたし》と青木さんとが、話したことをすっかり、お聴きになったのでしょう。いいえ、貴女《貴方》がお聴きになったのではなく、貴女《貴方》がいらっしゃるとは知らずに、妾達《わたしたち》がいろいろなことを話しましたでしょう。妾《わたし》、あの晩部屋《晩”部屋》へ帰ろうとして、外出なさろうとする貴女《貴方》のお顔を見たときに、もう凡《全》てが分《分か》ったような気がしたのです。絶望その物のような貴女《貴方》のお顔を見て、妾《わたし》は、凡《全》てが分《分か》ったような気がしたのです。妾《わたし》は、それまでにもしやと思ったことが、一二度《一’二度》あったのです。そのもしやが、本当だと云《言》うことが分《分か》ると、妾《わたし》は、大変なことが起《起こ》ったと思ったのです。妾《わたし》の犯した失策が、取り返しのつかないものだと云《言》うことを知ったのです。」  母の言葉が、ますます真剣な悲痛《/悲痛》な響《響き》を帯びて来た。  美奈子は、俎上に上ったような心持《心持ち》で、母の言葉をじっと聴いている外《ほか》はなかった。恥かしさと悲しさとで、裂けるような胸を持ちながら。 「妾《わたし》、今度のことで、妾《わたし》の生活が全然破産《全然’破産》したことを知ったのです。男性に向《向か》って吐いた唾《ツバキ》が、自分に飛び返って来たことを知ったのです。どうか、美奈さん。妾《わたし》の懺悔を聴いて下さい。」  快活な、泣き言などは、ちっとも云《言》ったことのない母の声が、悲しみに湿《潤》んでいた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「青木さんなんかに、妾初《わたし/初》めから、何の興味も持っていなかったのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、妾《わたし》のホンの意地からなのです。ある別な男の方に対する妾《わたし》の意地からなのです。ある男の方が、妾《わたし》に、青木さん丈《だ》けは、誘惑して呉《く》れては困ると言ったような、おせっかいなことを言ったものですから、《:、》妾《わたし》はつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなったのです。外《よそ》ながら、そのおせっかいな人に思い知らせて、やりたくなったのです。美奈子さん、それが妾《わたし》の性分なのです。今までの妾《わたし》の生活、貴女《貴方》のお家へ来たことなども、みんな妾《わたし》のそう云《言》った性分が、妾《わたし》を動かしたのです。」  母は何時《いつ》になく、しんみりとした沈《/沈》んだ調子になっていた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。 「それは、自分でも何《ど》うともすることが出来ない性分です。誰かから抑えられると、その二倍も三倍もの烈《激》しさで、跳返《跳ね返》したいような気になるのです。それが、妾《わたし》の性格の致命的《フェータル(致命的)》な欠陥かも知れません。妾《わたし》は自分のそうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさえ、此頃考《このごろ考》えているのです。」  母は、こう言って悵然としたが、また直《す》ぐ言葉を続けた。 「子供が、触ってはいけないと言われた草花に、却って触りたくなるような心持《心持ち》で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何《なん》の興味があったと云《言》う訳でもないのです、おせっかいなことを言った人に対する意地で、ついそんなことをしてしまったのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかったのです。」  母の言葉は、沈み切っていた。強い悔《悔い》が、彼女の心を苛んでいることを示していた。 「妾《わたし》の想像が違ったら、御免下《ごめん下》さい。貴女《貴方》の清浄な純《/純》な心に映った男性を妾《わたし》が奪うと云《言》う恐ろしいことをしていたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」  涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿《潤》んでいた。 「貴女《貴方》に対して、何とお詫びしていいか分《分か》らないのです。貴女《貴方》の心に萌んだ美しい想《思い》の芽を妾《わたし》が蹂躙していようとは、妾《わたし》が! 貴女《貴方》を何物よりも愛している妾《わたし》が。」  瑠璃子の眼に、始めて涙が光った。 「取り返しの付かない、恐ろしいことです。妾《わたし》が、ただホンの悪戯のために、ホンの意地の為めに、宝石にも換えがたい貴女《貴方》の純な感情を蹂《踏》み躙っていようとは、思い出す丈《だけ》でも、妾《わたし》の心は張り裂けるようです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、妾《わたし》の罪を許して下さい!」  瑠璃子は苛責に堪えないように、面《オモテ》を伏せて終《しま》った。 「まあ! お母様、何を|仰しゃ《仰》るのです。許して呉《く》れなんて、妾《わたし》、何も‥‥」《。」》  美奈子は、烈《激》しい恥しさに堪えながら、母を慰めようとした。 「こんなことは、許しを願えるようなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『|許し難いこと《イントレランス》』です。貴女《貴方》が許して下さっても、妾《わたし》の心は何時《いつ》までも、何時《いつ》までも苦しむのです。妾《わたし》が、世の中で一番愛している貴女《貴方》に、恐ろしい不幸を浴びせていようとは恐《/恐》ろしいことです。恐ろしいことです。」  冷静な母の態度も、心の烈《激》しい其《そ》の苛責の為《た》めに、だんだん乱れて行った。  美奈子は、最初自分の心を母からマザマザと指摘された恥しさで、動乱していたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意にだ《/だ》んだん動かされ初《始》めた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第八章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「妾《わたし》が、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性を傷《傷つ》けないで、却って女性、しかも妾《わたし》には、一番親しい、一番愛している貴女《貴方》を傷《傷つ》けようとは、夢にも思わなかったのです。何と云《言》う皮肉でしょう。何と云《言》う恐ろしい皮肉でしょう。」  母の心の悶えは、益々烈《ますます烈》しくなって行くようだった。 「妾《わたし》の生活が、破産する日が、到頭来《とうとう来》たのです。妾《わたし》の生活の罰が、妾《わたし》の最も愛する貴女《貴方》の上に振りかかって来ようとは。」  瑠璃子の声はかすかに顫《震》えていた。 「妾《わたし》は、今までどんな人から、どんなに妾《わたし》の生活を非難されても、ビクともしなかったのです。妾《わたし》の生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかったのです。妾《わたし》は、孔雀のように勝ち誇っていたのです。凡《全》ての男性を蹂《踏》み躙っていたのです。が、男性ばかりを蹂《踏》み躙っているつもりで、得意になっていると、その男性に交《交じ》って、女性!《/》 しかも妾《わたし》には一番親しい女性を蹂《踏》み躙っていたのです。」  瑠璃子は、そう云《言》い切ると、じっと面《-オモテ》を垂れたまま黙ってしまった。  美奈子は、母の真剣な言葉に依って、胸をヒタヒタと打たれるように思った。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと云《言》う心持《心持ち》、自分を傷《傷つ》けたために、母が感じている苦悶、そうしたものが美奈子に、ヒシヒシと感ぜられた、《:、》自分をこれほど迄《まで》、愛して呉《く》れる母には、自分も凡《全》てを犠牲にしてもいいと思った。 「お母様!《/》 もう何も、|仰しゃ《仰》って下さいますな、妾《わたし》、青木さんのことなんか、|ほんとう《本当》に何でもないのでございます。」  美奈子は、白い頬《ホオ》を夜目にも、分《分か》るほど真赤《真っ赤》にしながら、恥《恥ず》かしげにそう云《言》った。 「いいえ! 何でもないことはありません。処女《乙女》の初恋は、もう二度とは得《’得》がたい宝玉です。初恋を破られた処女《乙女》は、人生の半《半ば》を蹂《踏》み潰されたのです。美奈さん、妾《わたし》にはその覚えがあります。その覚えがあります。」  そう云《言》ったかと思うと、あれほど気丈な凛々しい瑠璃子も、顔に袖を掩うたまま、しばらく咽び入《い》ってしまった。 「妾《わたし》には、その覚えがありますから、貴女《貴方》のお心が分《分か》るのです。身に比べてしみじみと分《分か》るのです。」  母にそう云《言》われると、今まで抑えていた美奈子の悲しみは、堤をきられた水のように、彼女の身体を浸した。彼女の烈《激》しいすすり泣きが、瑠璃子の低いそれを圧《-あっ》してしまった。  瑠璃子までが、昔の彼女に帰ったように、二人はいつまでもいつまでも泣いていた。  が、先に涙を拭ったのは、美奈子だった。 「お母様!《/》 貴女《貴方》は、決して妾《わたし》にお詫《詫び》をなさるには、当《当た》りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。妾《わたし》の父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、妾《わたし》に報いて来たのです。父の犯した罪が子の妾《わたし》に報いて来たのです。お母様の故《せい》では決してありませんわ。」そう云《言》いながら、美奈子はしくしくと泣きつづけていたが、「が、妾今晩《わたし今晩》、お母様の妾《わたし》に対するお心を知ってつくづく思ったのです。お母様さえ、それほど妾《わたし》を愛して下されば、世の中の凡《全》ての人を失っても妾《わたし》は淋しくありませんわ。」  そう云《言》いながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍《そば》にすり寄った。瑠璃子は、彼女の柔《柔らか》いふっくりとした撫肩《ナデカタ》を、白い手で抱きながら云《言》った。 「本当にそう思って下さるの。美奈さん! 妾《わたし》もそうなのよ。美奈さんさえ、妾《わたし》を愛して下されば、世の中の凡《全》ての人を敵にしても、妾《わたし》は寂しくないのです。」  二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬《ホオ》と白い頬《ホオ》とを触れ合《合わ》せた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第26話】 【火を煽る者】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の身体は、燃えた。  烈《激》しい憤怒《フンヌ》と恨みとのために、火の如く燃え狂った。  彼は、その燃え狂う身体を、何物かに打ち突けたいような気持《気持ち》で走った。闇の中を、滅茶苦茶に走った。闇の中を、礫のように走った。滅茶苦茶に、走りでもする外《ほか》、彼の嵐のような心を抑える方法は何もなかった。樹《木》にでも、石にでも、当《当た》れば当《当た》れ、川にでも渓《谷》にでも陥《落ち》らば陥《落ち》れ、彼はそうした必死的《デスペレート》な気持《気持ち》で、獣《ケダモノ》のように風《/風》のように、ただ走りに走った。  強羅の電車停留場まで、一気に馳《駆》け降りたけれども、其処《そこ》には電車の影は、なかった。彼は、そこに二三分間待《ニサンプンカン待》ったが、心の底から沸々と湧き上《上が》っている感情の嵐は、彼を一分《1分》もじっとさせていなかった。電車を待っているような心の落着《落ち着き》は、少しもなかった。彼は、宮の下まで、走りつづけようと決心した。そう決心すると、前よりは、もっと烈《激》しい勢《勢い》で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳《駆》け始めた。  初め馳《駆》けている間、彼の頭には、何もなかった。ただ、彼をあんなに|恥し《辱》めた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなったり、小さくなったり、幾つにも分《分か》れて、巴のように渦巻いたりした。  が、だんだん走りつづけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落着《落ち着き》が、彼の狂いかけていた頭を、だんだん冷静にしていた。  彼の走る速力が緩むのと同時に、彼《彼’》の頭は、だんだんいろいろな事を考え初《始》めていた。  彼が、死んだ兄と一緒に、荘田《ショウダ》の家へ、出入《出入り》し初《始》めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮《浮か》んで来た。  荘田夫人《ショウダ夫人》の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行った頃の思い出が、後から後から頭の中に浮《浮か》んで来た。  夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟《自分たち兄弟》を愛して呉《く》れたこと、従って自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと、《:、》その中《うち》に、兄が夫人に熱狂してしまったこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、自分が兄に対して軽い嫉妬を感じたこと、そうしたことが、とりとめもなく、彼《彼’》の頭の中に浮《浮か》んだ。  実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いていることを知ったとき、彼は兄に対する遠慮から心《/心》ならずも、夫人に対する愛を抑えていた。  突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去った。彼は、兄に対する遠慮から、抑えていた心を、自由に夫人に向《向か》って放った。  夫人は、それを待ち受けていたように、手をさし延べて呉《く》れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまった。  彼は、夫人から、蜜のような甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛していて呉《く》れることを、疑う余地は、少しもなかった。  彼は直截《チ-ョクサイ》に夫人に結婚を求めた。 「妾《わたし》も、ぜひそうしていただきたいのよ。でも、もう少し考えさせて下さいよ。貴君《貴方》、箱根へ一緒に行って下さらない。妾《わたし》、此《こ》の夏は、箱根で暮《暮ら》そうと思っていますのよ。箱根へ行ってから、ゆっくり考えてお答えしますわ。」  夫人は、美しい微笑でそう云《言》った。  箱根へ同行を誘って呉《く》れる! それは、もう九分《キュウブ》までの承諾であると彼は思った。  箱根に於ける避暑生活は、彼に取って地上の極楽である筈であった。  思いきや、其処《そこ》に地獄の口が開かれていようとは。 「裏切者め!」  青年は、走りながら、思わず右の手のステッキを握りしめた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を馳《駆》け続けたために、身体こそやや疲れていたものの、彼の憤怒《フンヌ》は少しも緩んではいなかった。部屋へ飛び込めば、直《す》ぐ鞄《トランク》の中へ、凡《全》てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分《1分》だっていたくない。彼女が、帰って来ない裡に、一刻も早く去ってしまうのだ。  彼は心の裡で、そうした決心を堅めながら、烈《激》しい勢《勢い》で、玄関へ駈け上《上が》った。其処《そこ》に立っていたボーイが、彼の面色を見ると、駭《驚》いて目を眸った。それも、無理はなかった。彼《彼’》の眼は血走り、色は蒼《青》ざめ、広い白い額《ヒタイ》に、一条の殺気が迸《-ほとばし》って、温和な上品な平素《いつも》の彼とは、別人のような、血相を示していたからである。が、ボーイが、駭《驚》こうが駭《驚》くまいが、そんなことはどうでもよかった。彼は駭《驚》いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るように馳《駆》け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈《激》しく駆け上《上が》ろうとしたときだった。彼は余りに急いだため、余りに夢中であったため、丁度《ちょうど》その時、上から降りようとした人に、烈《激》しく打《ぶ》っ衝《つか》ってしまった。  余りに強く衝《突》き当《当た》ったため、彼の疲れていた身体は、ひょろひょろとして、二三段《ニサン段’》よろけ落ちた。 「いやあ。失礼!《/》」  相手の人は、駭《驚》いて彼を支えた。が、衝突の責任は、無論此方《無論-こっち》にあった。 「いいえ。僕こそ。」  彼は、そう答えると、軽く会釈したままで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまま階段を馳《駆》け上《上が》った。  が、彼が六七段《ロクシチ段》も、馳《駆》け上《上が》ったときだった。まだ立ち止まって、じっと彼の後姿《後ろ姿》を見ていた相手の男が、急に声をかけた。 「青木君!《/》 青木君じゃありませんか。」  不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭《驚》いた。彼は、思わず階段の中途に、立ち竦んでしまった。 「ええっ!」  青年は、返事とも駭《驚》きとも分《分か》らないような声を出した。 「間違っていたら御免下《ごめん下》さい! 貴君《貴方》は、青木君じゃありませんか。あの、青木淳君《青木淳くん》の弟さんの。」  相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着《落ち着》いた声でそう訊いた。青年は、やや|ほの暗《仄暗》い電燈《電灯》の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩《さっき散歩》へ出るときに、玄関で逢った、彼の見知らない紳士であった。彼は、どうして此《こ》の男が、自分の名前を知っているのだろうかと、不審に思いながら答えた。 「そうです。青木です。ですが、貴君《貴方》は‥‥」《。」》  青年は、一寸相手《ちょっと相手》が、無作法に呼び止めたことを咎めるように訊き返した。 「いや、御存《ご存》じないのは、尤《もっと》もです。」  そう云《言》いながら、紳士は階段を二三段上《ニサン段上》りながら、青年に近づいた。 「お兄さんの知人と云《言》っても、ホンのお知合になったと云《言》う丈《だ》けに過ぎないのですが、然《しか》しその‥‥」《。」》  紳士は、一寸云《ちょっと云》い澱んだ。青年は、自分がいらいらし切っているときに、何の差し迫った用もなさそうな人から、ただ兄の知人であると云《言》った理由丈《理由だけ》で、呼び止められるのに堪えなかった。 「そうですか。それでは、又《また》いずれ、ゆっくりとお話《話し》しましょう。一寸只今《ちょっと只今》は、急いでいますから。」  そう云《言》い捨てると、青年は振り切るように、残った階段を馳《駆》け上ろうとした。  すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。 「ああ《あ/》一寸《ちょっと》お待ち下さい。私も急に、貴君《貴方》にお話《話し》したいことがあるのです。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。 「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云《言》われると、青年はむっとした。何と云《言》う執拗な男だろう。何と云《言》う無礼な男だろうと腹立たしかった。 「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はこうしては《は-》いられないのです。」  青年は、そう云《言》い切ると、相手を振り払うように、階段を馳《駆》け上ろうとした。が、相手はまだ諦めなかった。 「青木君!《/》 一寸《ちょっと》お待ちなさい。貴君《貴方》は、お兄さんからの言伝を聴こうとは思わないですか。そうです、貴君《貴方》に対する言伝です。特に、現在の貴君《貴方》に対する言伝です。」  そう云《言》われると、青年は遉《さすが》に足を止めずには《は-》いられなかった。 「言伝!《/》 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」  青年は嘲るように、云《言》い放った。 「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君《貴方》のお顔の色を見ると、それを云《言》わずには《は-》いられなかったのです。貴君《貴方》は、今可《今か》なり危険な深淵の前に立っている。私は貴君《貴方》がムザムザその中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずには《は-》いられないのです。」  そう云《言》いながら、相手は青年と同じ階段のところまで上って来た。 「危険な深淵!《/》 そうです。貴君《貴方》のお兄さんが、誤って陥った深淵へ貴君《貴方》までが、同じように陥《落》ちようとしているのです。」  青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可《か》なり真面目で、自分に対して好意を持っていて呉《く》れることが、直《す》ぐ分《分か》った。が、相手が妙に、意味ありげな云《言》い廻《回》しをすることが、彼のいらいらしている神経を、更にいら立たせた。 「それが一体何《一体ど》う云《言》うことなのです。僕には少しも分《分か》りませんが。」  青年は、腹立たしげに、相手を叱するように云《言》った。 「それでは、もっと具体的に云《言》いましょう。青木君!《/》 貴君《貴方》は、一日も早く、荘田夫人《ショウダ夫人》から遠ざかる必要があるのです。そうです。一日も早くです。あの夫人《夫人’》は、貴君《貴方》の身体を呑んでしまう恐ろしい深淵です。貴君《貴方》のお兄さんは、それに呑まれてしまったのです。」  紳士は、そう云《言》って、じっと青年の顔を見詰めた。 「貴君《貴方》は、兄さんの誤《誤ち》を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」  そう云《言》うかと思うと、紳士は一寸青年《ちょっと青年》に会釈したまま、階段をスタスタと降りかけた、もう云《言》う丈《だ》けのことは、スッカリ云《言》ってしまったと云《言》う風《ふう》に。  今度は、青年の方《ほう》が、狼狽して呼び止めた。 「待って下さい! 待って下さい! そんなことを本当に兄が云《言》ったのですか。」  紳士は顔丈《顔だ》けを振り向けた。 「文字通《文字通り》に、そう云《言》われたとは云《言》いません。が、それと同じことを私に云《言》われたのです。」 「何時《いつ》! 何処《どこ》で?」  青年は、可《か》なり焦って訊いた。 「お兄さんが死なれる直《す》ぐ前です。」  そう云《言》って、紳士は淋しい微笑を洩《洩ら》した。 「死ぬ直《す》ぐ前? それでは貴君《貴方》は、兄の臨終に居合《居合わ》したと云《言》うのですか。」  青年は、可《か》なり緊張して訊いた。 「そうです。貴君《貴方》のお兄さんの臨終に居合《居合わ》したた《/た》った一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたった一人の人間も私です。」  紳士は落着《落ち着》いて、静《静か》に答えた。 「ええっ! 兄の遺言を。一体兄《一体’兄》は何と云《言》ったのです。何と云《言》ったのです。その遺言を貴君《貴方》が、今まで遺族の者に、隠しているなんて!」  青年は、相手を詰問するように云《言》った。 「いや、決して隠してはいません。現在貴君《現在’貴方》に、その遺言を伝えているじゃありませんか。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰い入ってしまった。 「本当に、貴君《貴方》は兄の臨終に居合《居合わ》したのですか。それで、兄は何と云《言》いました。兄は死際に何と云《言》いました?」  青年は、昂奮し焦《/焦》った。 「いや、それに就いて、貴君《貴方》にゆっくりお話《話し》したいと思っていたのです。茲《ここ》じゃ、どうもお話《話し》しにくいですが、いかがです僕の部屋へ。」  紳士は可《か》なり落着《落ち着》いていた。 「貴君《貴方》さえお差支《差し支》えなけ|れや《りゃ》。」 「じゃ、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻《ちょうど妻》は、湯に入っていますので誰もいませんから。」  紳士の部屋は、階段を上ってから、左へ二番目の部屋だった。  紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を勧めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降《降ろ》した。 「申し遅れました。僕は渥美と云《言》うものですが。」  そう云《言》って紳士は、改めて挨拶した。 「いや、実は避暑に出る前に、貴君《貴方》に一度是非お目にかかりたいと思っていたのです。貴君《貴方》にお目にかけたいもの、貴君《貴方》に申上《申し上》げたいこともあったのです。それで、それとなく貴君《貴方》のお宅へ電話をかけて、貴君《貴方》の在否を探って見ると、意外にも宮の下へ来ていられると云《言》うのです。それで、実は私は小涌谷の方《ホウ》へ行くつもりであったのですが、貴君《貴方》にお目にかかれはしないかと云《言》う希望があったものですから、二三日、此処《ここ》へ宿《泊ま》って見る気になったのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君《貴方》にお目にかかろうとは、貴君《貴方》ばかりでなく荘田夫人《ショウダ夫人》にお目にかかろうとは。」  紳士は一寸意味《ちょっと意味》ありげな微笑を洩《洩ら》しながら、 「実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと云《言》う一人の旅客は私なのです。」 「ええっ!」  思わず、青年は、駭《驚》きの目を眸った。 「お兄さんの死は、形は奇禍のようですが、心持《心持ち》は自殺です。私は、そう断言したいのです。お兄さんは、死場所《死に場所》を求めて、三保から豆相《ズソウ》の間を彷徨っていたのです。奇禍が偶然にお兄さんの自殺を早めたのです。」  紳士の表情は、可《か》なり厳粛であった。彼が、いい加減なことを云《言》っているとは、どうしても思われなかった。 「自殺!《/》 兄はそんな意志があったのですか。」  青年は駭《驚》きながら訊いた。 「ありましたとも。それは、貴君《貴方》にも直《す》ぐ判りますが。」 「自殺!《/》 自殺の意志。もしあったとすれば、それは何《-なん》のための自殺でしょう。」 「ある婦人のために、弄ばれたのです。」  紳士は苦々しげに云《言》った。 「婦人のために、弄ばれる。」  そう繰り返した青年の顔は、見る見る色《’色》を変えた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハッと思い当《当た》ったのである。 「それは本当でしょうか。貴君《貴方》は、それを断言する証拠がありますか。」  青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。 「ありますとも。お兄さんの遺言と云《言》うのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えて呉《く》れと云《言》うことだったのです。」 「ううむ!」  青年は、低く呻るように答えた。 「実は、私はその恨みを伝えようとしたのです。が、その婦人は、恨《恨み》を物の見事に跳ねつけてしまったのです。そればかりでなく、死んだお兄さんを辱めるようなことまでも云《言》ったのです。その婦人はお兄さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしているのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私の故《せい》ではありません、あの方の弱い性格の故《せい》だと、その婦人は云《言》っているのです。そればかりではありません‥‥」《。」》  紳士も、自分自身の言葉に可《か》なり興奮してしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  紳士は興奮して叫び続けた。 「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲りないで、青木君の弟である‥‥」《。」》 「ああ《あ/》もう沢山です。」青年は、相手に縋り付くような手付《手付き》をして云《言》った。「判りました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと云《言》う証拠がありますか?」  青年の眸は必死の色を浮べていた。 「ありますとも。お見せしましょう。が、そう興奮しないで、ゆっくり気を落着《落ち着》けて下さい。」  そう云《言》いながら、紳士は椅子を離れると、部屋の片隅に置いてある大きな鞄《トランク》に近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。 「これです。此《こ》の筆蹟には覚えがあるでしょう。」  そう云《言》いながら、相手はノートを、籐の卓子《テーブル》の上に置いた。青年は、焼き付くような眼で、それをじっと見詰めた。表紙の青木淳と云《言》う字が、いかにも懐しい兄の筆蹟だった。 「じゃ、拝見します。」  彼はかすかに、顫《震》える手付《手付き》で、そのノートを取り上げた。  恐ろしい沈黙が部屋の中に在った。ノートの頁《ページ》のめくられる音が、時々気味悪《ときどき気味悪》くその沈黙を破った。  二分三分《2分/3分》、青年は、だまって読みつづけた。その中に、青年の腰かけている椅子が、かすかな音を立て初《始》めた。見ると、青年の身体が、怒《怒り》のために激しく顫《震》えていたのである。 「何《ど》うです! これほど、確《確か》な証拠はないでしょう。遭難当時のお兄さんの心持《心持ち》が、ハッキリ解っているでしょう。途中で、奇禍に逢われなかったら、お兄さんは屹度《きっと》、熱海か何処《どこ》かで、自殺をしておられる筈です。」  紳士は、ノートを覗き込むようにしながら云《言》った。  青年の顔は、恐ろしい感情の激発のために、紫色にふくらんでいた。  紳士は、青年の感情をもっと狂わすように云《言》った。 「其処《そこ》に白金《プラチナ》の時計のことが、書いてあるでしょう。お兄さんは、死なれる間際に、その時計を返して呉《く》れと云《言》われたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物《贈り物》は、お兄さんの血で、真赤《真っ赤》に染められていたのです。衝突のときに、硝子《ガラス》が壊れたと見え、血が時計の胴に浸《にじ》んでいたのです。」 「それを何《ど》うしました。それを何《ど》うしました。」  青年は、激情のために、半狂《半ば狂》っていた。 「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持《心持ち》を酌んで、それを叩き返してやろうと思ったのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやろうと思ったのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまったのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面《まとも》に太刀打《太刀打ち》は出来ない人です。」 「妖婦!《/》 妖婦!《/》」  青年は狂ったように、口走った。 「いや、その点で私はお兄さんの、委託に背いてしまったのです。取返《取り返》しの付かないことをしてしまったのです。が、その代《代わ》り、私は貴君《貴方》を何《ど》うかして、救いたいと思ったのです。お兄さんに対する僕の責任として、貴君《貴方》が同じ過ちを犯すのを、何《ど》うかして救いたいと思ったのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女《貴方》の後悔として、青木君の弟丈《弟だけ》は弄んで呉《く》れるな。弟さん丈《だけ》は何《ど》うか、誘惑して呉《く》れるな。私は、そう云《言》って事を別けて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳付《跳ね付》けたのです。いや、跳付《撥ね付》けたばかりではありません。私のそうした依頼を嘲るように、いやそれに対する意地のように、わざと貴君《貴方》を一緒に連れて来ているのです。」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  青年の面《オモテ》が、火のような激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥めるように云《言》った。 「いや、貴君《貴方》がお怒りになり、お駭《驚》きになるのも尤《もっと》もです。が、ああした人には、|近よ《近寄》らないのが万全の策です。貴君《貴方》が怒って先方にぶつかって行くと、いよいよ相手の術策に陥ってしまうのです。あの方の張っている蜘蛛の網の中で手《/手》も足も出なくなってしまうのです。ただ、一刻も早く茲《ここ》を去られるのが得策です。いや、茲《ここ》ばかりではありません。夫人の周囲から、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟りなしと云《言》う言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。ハハハハハハハ。」  紳士は軽く笑った、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩めようとして。 「然《しか》し、兎《と》に角私《かく私》としては、これでお兄さんに対する責任を少しは尽したように思うのです。そう云《言》う意味で、貴君《貴方》が僕の云《言》うことを、よく聴いて下さったのを有難く思うのです。いや、私が一歩遅かったら、貴君《貴方》もどんな目に逢っているかも知れなかったのです。」  紳士は、自分の忠告が間に合ったことを、欣《喜》ぶような顔色を示した。が、彼の忠告は間に合っただろうか。いな、彼の忠告は、|後の祭《ツーレート(後の祭)》だった。一時間だけ、遅れ過ぎた。  彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、却ってその火を煽り立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人から弄ばれていたのだ。否、弄ばれたと思っていたのだ。夫人から、弄ばれた恨《恨み》と憤《憤り》とに、燃えていた青年の心を、彼はいやが上に煽った。 『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女に弄ばれて、身を過《誤》ったのだ! 身を亡《滅ぼ》したのだ!』と。 「いや! 御忠告《ご忠告》ありがとう! 御忠告《ご忠告》ありがとう!」  青年は、そう云《言》いながら立ち上《上が》った。が、あまり興奮した為だろう、彼は、眼が眩んだように、よろめいた。  紳士は、周章《あわて》て、青年の身体を支えた。 「いや、あまりに興奮なさっては困りますよ。お心を落着《落ち着》けて、気を静めて!」  が、青年はそれを振切《振り切》った。 「いや、捨てて置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」  そう云《言》いながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では云《言》ったものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかった。  彼《彼’》の頭の中には、激情の嵐が吹き荒れた。怒《怒り》と恨《恨み》との洪水が漲った。理性の燈火は、もうふッつりと消えてしまっていた。 「兄を弄んだ上に、この俺を!」  そう思うと、彼の全身の血は、怒《怒り》のためにぐんぐんと煮え返った。 「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだ二月《フタツキ》と経たない今、この俺を! 箱根まで誘い出して、謂われのない恥辱を与える!」  そう考えると、彼の頭の裡は、燃えた。身体中《体中》の筋肉が、異様に痙攣した。  もう世の中の他の凡《全》ては、彼の頭から消え去った。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥も、愛も同情も。ただ恐ろしい憎《憎し》み丈《だけ》が残った。その憎《憎し》みは、爆発薬のような烈《激》しさで、彼《彼’》の胸の裡を縦横《ジュウオウ》にのたうった。  そうした彼の心の裡に、焼き付いたように残っているのは、先刻読《さっき読》んだ兄の手記中の一節だった。 『そうだ、一層死《いっ-そ死》んでやろうか《か-》しら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせるために。』  が、兄が死んでも彼女は、少しも思い知ろうとはしなかった。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思い知らせるには、そうだ! 彼女を思い知らせるには。  そう考えたとき、彼の全身の血は、海嘯のように、彼の狂いかけた頭へ逆上《ギャクジョウ》して来た。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第27話】 【破裂点】 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第一章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  強羅公園で、お互《互い》の心からなる浄い愛に、溶け合った美奈子と瑠璃子とが、其処《そこ》に一時間以上も費して、宮の下へ帰って来たのは、夜の十時《10時》を廻《回》った頃だった。  二人とも、心の裡では、青年のことが気になっていたけれども、それを口に出すことを避《-避》け合った。  が、部屋へ入ったとき、瑠璃子は遉《さすが》に青年の寝室の扉《ドア》に立ち寄って、そっと容子《様子》を窺った。 「もう、青木さんは寝たのかしら。」  そう云《言》って、彼女は扉《ドア》に手をかけて見た。それは平素《いつも》になく内部から、鍵が、かけられたと見え、ビクリとも動かなかった。 「ああ。もう、寝ていらっしゃる!」  瑠璃子は、やっと安堵したように云《言》った。  美奈子と瑠璃子とが、同じ寝室に入って、寝台《ベッド》の中に横わったのは、もう十一時を廻《回》った頃だった。  電燈《電灯》を消してからも、美奈子は母と|暫ら《暫》くの間、言葉を交えた。その裡に、十二時が鳴った。彼女は、駭《驚》いて眠《眠り》に入ろうとした。が、その夜の烈《激》しい経験は、──彼女が生《生ま》れて以来初《以来’初》めて出会ったような複雑な、烈《激》しい出来事は、彼女の神経を、極度に掻き擾《乱》していた。彼女が、いくら眠ろうとあせっても、意識は冴え返って、先刻《さっき》の恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年の凄いほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、巴のように馳《駆》け廻《回》った。  眠ろう眠ろうとあ《-あ》せればあせるほど、神経が益々《ますます》いらだって来た。記憶が、異常に興奮して、自分の生い立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に|次ぎ次ぎ《次々》に思い浮《浮か》んで来た。  その裡に一時が鳴った。  瑠璃子も、寝台《ベッド》の中で、|暫ら《暫》くの間は、眠り悩んでいたようだったが、その裡に、おだやかな鼾の声が聞え初《始》めた。  母が、眠《眠り》に就いたのを知ると、美奈子は益々《ますます》あせっていた。口の中で、数を算えて見たり、深呼吸をして気持《気持ち》を落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だった。先刻聴《さっき聴》いたばかりの青年の怨みの声が、落ち着こうとする美奈子の心の裡に、幾度も幾度も甦って来た。  その裡に、二時が鳴った。  烈《激》しい興奮のために、頭脳《頭》も眼も、疲れ切っていながら、それが妙にいらいらして、眠《眠り》は何《ど》うしても来なかった。  その裡に、到頭三時《とうとう三時》が鳴った。  遉《さすが》に、彼女の意識は疲れてしまった。不快な、重くるしい眠《眠り》が、彼女のぐたぐたになった頭脳を蝕み始めていた。現《うつつ》ともなく夢ともな《無》いような、いやな半睡半醒の状態が、|暫ら《暫》く続いた。彼女はとろとろとしたかと思うと、ハッと気が付いたり、気が付いたかと思うと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるように、いやな眠りの中に、陥って行ったりした。  彼女が、砂を噛むような現《-うつつ》と、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよっていたときだった。彼女は、何者かが自分を襲って来るような、無気味な感じがした。寝室の扉《ドア》が、かすかに動いているような感じがした。自分に襲いかかっている人の足音を聴くような気がした。が、それが夢であるか現《-うつつ》であるか確《確か》める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌《’混沌》としていた。  到頭《とうとう》、悪夢が、彼女を囚えてしまった。彼女は母と一緒に田舎路《田舎道》を歩いていた。それが、死んだ母のようでもあり、現在の母であるようにも思われた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のような勢いで、彼女達の方《ホウ》へ向《向か》って来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判った。狼狽している美奈子達を目がけて激しい勢いで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫った。美奈子が、アッと思う間もなく、牡牛の鉄のような角《ツノ》は、母の脇腹を抉っていた。母の、恐ろしい呻り声《ごえ》が美奈子の魂を戦《慄》かしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢は断《き》れた。が、不思議に呻き声のみは、尚続《なお続》いていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第二章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子は夢現《夢うつつ》の間に聞き続けていた。 「ううむ! ううむ!」  腸《ハラワタ》を断つような呻き声が、段々彼女《だんだん彼女》の耳の近くに聞え初《始》めた。彼女の意識が、醒めかかるに連れてその呻き声は段々高《だんだん高》くなった。 「ううむ! ううむ!」  彼女は、到頭寝台《とう-とうベッド》の上に醒《覚》めた。醒《覚》めたと同時に、彼女は冷水を浴びたような悪寒を感じた。 「ううむ! ううむ!」  ひきしぼるような悲鳴は、彼女の身辺からマザマザと起《起こ》っているのであった。 「お母様!《/》」  それは、悲鳴だった。 「お母様!《/》 お母様!《/》」  美奈子は、|つづ《続》け様《ざま》に、縋り付くような悲鳴を揚げた。  母の答《答え》はなかった。  低い、|しぼ《絞》り出るような悲鳴が、物凄く闇の中に起《起こ》っているだけだった。 「あ! お母様!《/》」  美奈子は、堪らなくなって、寝台《ベッド》から転《-まろ》び落ちた。  母の寝台《ベッド》は、二尺とは離れていなかった。彼女が、顫《震》える手を、寝台《ベッド》の一端《イッタ-ン》にかけたとき、生|あたた《温》かい液体が、彼女の手にベットリと、触れた。 「お母様!《/》」彼女の声は、わなわなと顫《震》えていた。  彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢な肉体が、手の下でかすかにうごめいた。 「お母様!《/》 お母様!《/》 何《ど》う遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。  低い呻き声が、しばらく続いていた。 「お母様!《/》 お母様!《/》 気を確《確か》になさいませ。」美奈子は、狂ったように叫んだ。  母は、烈《激》しい苦悩の下から、しぼり出すように答えた。 「燈火《明かり》を! 燈火《明かり》を!」  傷《傷つ》ける者、死《/死》なんとする者が、第一に求めるものは光明だった。  美奈子は立上《立ち上が》って電燈《電灯》を探し求めた。狼狽《あわて》ている故《せい》か、電燈《電灯》がなかなか手に触れなかった。  が、ようやくスイッチを捻《-ひね》ったとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザマザと照し出した。母の白い寝衣《寝巻》、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタベタと一面に浸《にじ》んでいる。 「|あっ《アッ》!」  美奈子は、一眼見《ひと目’見》ると床《床’》の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣う心が、直《す》ぐ彼女を起ち上らせた。 「お母様!《/》 しっかりな《-な》さいませ!」  彼女は、そう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負いながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかった。右の脇腹の傷口を、両手でじっと押えながら、全身を掻きむしるほどの苦痛を、その利かぬ気で、その凛々しい気性で、じっと堪《-こら》えているのだった。  彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑えている両手の間から、惜しげもなく流れ出しているのだった。  美奈子も一生懸命だった。自分の寝台《ベッド》のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重《/幾重》にも幾重にもくくった。 「お母様!《/》 気を確《確か》になさいませ。直《す》ぐ医者を呼びますから。」  彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入ったのだろう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のように、光沢《ツヤ》のあった白い頬《ホオ》は、蒼《青》ざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、眉は釣り上がり、唇は刻一刻紫色《刻一刻’紫色》に変《変わ》っていた。  美奈子が、寝室を出て、居間の方《ほう》にある卓上の電話を取り上げたときだった。彼女は、青年の寝室の扉《ドア》が開かれて、其処《そこ》に寝台《ベッド》が空しく横たわっているのを知った。  恐《恐ろ》しい悲劇の実相が、彼女に判然《はっきり》と判った。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第三章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶えていた。が、彼女はその苦痛を、じっと堪《-こら》えていた。華奢な身体に、致命の傷を負いながら、彼女は悲鳴一《悲鳴ひと》つ揚げなかった。ただ抑え切れない苦痛を、低いうめき声に洩《洩ら》しているだけであった。  美奈子の方《ほう》が、却って逆上《ギャクジョウ》していた。彼女は、母の胸に縋りながら、 「お母様!《/》 しっかりして下さい。しっかりして下さい!」と、おろおろ叫んでいるだけだった。  その裡に、瑠璃子は、ふと閉していた眼を開いた。そして、異様《/異様》な光を帯び初《始》めた眸で、じっと美奈子を見詰めた。 「お母様!《/》 お母様!《/》 しっかりして下さい!」  美奈子は、泣き声で叫んだ。 「美奈さん!」  瑠璃子は、身体に残っている力を、振りしぼったような声を出した。 「わーたーし、わたし今度は、もう──駄目かも知れないわ。」  一語二語、腸《ハラワタ》から、|しぼ《絞》り出るような声だった。 「お母様!《/》 そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」 「いいえ! わたし、覚悟していますの。美奈さんには、すみませんわね。」  そう云《言》った母の顔は、苦痛のために、ピクピクと痙攣した。  美奈子は、|わあっ《ワアッ》! と泣き出《だ》さずには《は-》いられなかった。 「それで、わたし貴女《貴方》に、お願いがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打っていただきたいの!」  瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪えながら、途切れ途切れに話しつづけた。 「神戸!《/》 神戸って、何方《どなた》にです?」  美奈子は、怪しみながら訊いた。 「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、云《言》い澱んだようだったが、「あの、杉野直也です。わたし、新聞で見たのです。月初《月初め》に、ボルネオから帰って、神戸の南洋貿易会社《南洋’貿易会社》にいる筈です。死ぬ前に一度逢《一度’逢》えればと思うのです。」  瑠璃子は、やっと喘ぎながら云《言》い終ると、精根が全く尽きたように、ガクリとくずおれてしまった。  二年の間、恋人のことを忘れはてたように見せながらも、真《シン》は心の底深く思い続けていたのであろう。恋人の消息を、外《よそ》ながら、貪り求めていたのであろう。  医者が、来たのは夏の夜が、はや白々《-しらじら》とあけ初《始》める頃であった。  一時間近くもかかったために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々として人事不省の裡にあった。  内科専門のま《”ま》だ年若い医者は、覚束ない手付《手付き》で、瑠璃子の負傷《怪我》を見た。  それは、可《か》なり鋭い洋刀《ナイフ》で、右の脇腹を一突き突いたものだった。傷口《/傷口》は小さかったが、深さは三寸《三寸’》を越していた。 「重傷です。私は応急の手当《手当て》をしますから、直《す》ぐ東京から、専門の方《かた》をお呼び下さい。今のところ生命《命》には、別条ないと思いますが、然《しか》し最も余病を併発し易い個所ですから、何とも申せません。」  医者の眉は、憂わしげに曇った。  いたいけな美奈子には、背負《背お》い切れないような、大切な仕事を、彼女は烈《激》しい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかった。その中で、一番厭だったのは、医者が去るのと、入れ違いに入って来た巡査との応答だった。 「加害者は、逃げたのですか。」  美奈子は、何とも答えられなかった。 「その青木と云《言》う学生と、貴女《貴方》のお母様は何《ど》う云《言》う御関係《ご関係》があったのです。」  美奈子は、何とも答えられなかった。 「何か兇行をするに就《就い》て、最近の動機ともなったような事件がありましたでしょうか。」  美奈子は、何とも答えられなかった。ただ、彼女自身、恐ろしい罪の審問を受けているように、心が千々に苛《さい》なまれた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第四章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  夜は明け放《放た》れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々として、照し初《始》めた。が、人事不省の裡に眠っている瑠璃子は、昏々として覚めなかった。生と死の間の懸崖に、彼女の細《-ほそ》き命は一縷の糸に依って懸っていた。  その日の二時過《二時す》ぐる頃、美奈子の打った急電に依って、予て美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗近藤博士《泰斗’近藤博士》が、馳《駆》け付けた。が、博士に依って、あらゆる手当《手当て》が施された後《あと》も、瑠璃子の意識は返って来なかった。  その前後から、烈《激》しい高熱に襲われ初《始》めた瑠璃子は、取りとめもない囈言《譫言》を云《言》いつづけた。その囈言《譫言》の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。  夕暮《夕暮れ》になって、瑠璃子の父の老男爵が馳《駆》け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思ってはいなかった男爵は、その娘《’娘》と一年近くも会っていなかった。が、死相を帯びながら、瀕死の床《トコ》に横わっている瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然としてほうり落ちた。娘のこうした運命が、九分《9ブ》までは自分の責任だと思うと、娘の額に手をやった男爵の手は、わなわな顫《震》えずにはいなかった。  美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打ったけれども、恐らく彼は東京を離れていたのだろう、夜になっても姿を見せなかった。  東京から急を聴いて馳《駆》け付けた女中や、執事などで、瑠璃子の床《トコ》は賑やかに取巻かれた。が、母を──肉親は繋がっていなくとも心の内では母《母’》とも姉《-あね》とも思う瑠璃子を、失おうとする美奈子の心細さは、時の経つと共に、段々募《だんだん募》って行った。  丁度夜《ちょうど夜》の十時《10時》に近い頃だった。母はやや安眠に入ったと見え、囈言《譫言》が、暫らく杜絶《途絶》えて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂っていたときだった。廊下に面した扉《ドア》を、低く、聞えるか聞えないかに、トントンと打つ音がした。女中が立ってそれを開いたが、直《す》ぐ美奈子の所へ帰って来た。 「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸《ちょっと》お目にかかりたいと申しております。」  美奈子は、立ち上《上が》って扉《ドア》の所へ行った。 「どうか、一寸《ちょっと》こちらへ。」  支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸不安《ちょっと不安》な気持《気持ち》に襲われながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。 「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町《いま箱根町》から電話がかかっているのです。実は蘆の湖で今夕水死人《コンセキ/水死ニン》の死体が上《上が》ったと云《言》うのですが、それが二十三四《二十サンシ》の学生風《学生ふう》の方で、舟の中に残して置いた数通《スウツウ》の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあったと云《言》うのです。」  そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立っている廊下の床が、ズーッと陥込《落ち込》むような感じがしたかと思うと、支配人が駭《驚》いて彼女の右の肩口を捕えていた。 「ああ危《/危な》い! しっかりして下さい!」  彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支えた。が、|暫ら《暫》くの間、天井と床とがグルグル廻《回》るような気がした。 「いや、お駭《驚》かせしてすみません、ただ青木さんの東京のお処だけが承りたかったのです。」  美奈子が、顫《震》える声で、それに答えると、支配人は幾度も詫びながら、倉卒として去った。  もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまっていた。彼女が部屋へ帰って来たとき、彼女の顔色は、傷《傷つ》いている瑠璃子のそれと少しも変《変わ》っていなかった。  が、丁度《ちょうど》その時に、瑠璃子は長い昏睡から覚めていた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐しげな眸で物《/物》を云《言》いたそうにした。 「お母様!《/》 お気が付きましたか。」  少し明るい気持《気持ち》になりながら、美奈子は母の耳許で叫んだ。 「ああ、美奈さん。まだ? まだ?」 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第五章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  消えかかる灯のように、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続《また続》いた。  翌日になって、彼女の熱《ネツ》は段々下《だんだん下が》って行った。傷の痛みも、段々薄《だんだん薄》らいで行くようだった。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶な面《オモテ》に、刻一刻深《刻一刻’深》く刻まれて行った。  彼女の枕頭に、殆ど附《付》き切っている近藤博士の顔は、それにつれて、憂わしげに曇って行った。 「何《ど》うでしょう、助かりましょうか。」  父の男爵は、傍《そば》に誰もいないのを見計って、囁くように訊いた。 「希望はあります。けれど‥‥」《。」》  そう答えたまま、博士の口は重く噤まれてしまった。  美奈子は、そうした問《問い》を発することが、恐ろしかった。彼女はただ、力一杯《力’一杯》、心と身体との力一杯消《力’一杯’消》え行こうとする母の魂に、縋り付いている外《ほか》はなかった。昨夜中《昨夜じゅう》、眠らなかった美奈子の身体は綿のように疲れていた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去ろうとはしなかった。  瑠璃子は、昏睡から覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問《問い》を繰返《繰り返》していた。が、その人は容易に、来なかった。電報が運よく届いているかどうかさえ、判然《はっきり》しなかった。  午後三時頃だった。瑠璃子は、その衰えた視力で、美奈子をじっと見詰めていたが、ふと気が付いたように云《言》った。 「青木さんは?」  美奈子は愕然《ぎょっ》とした。彼女は、|暫ら《暫》くは返事が出来なかった。 「青木さんは?」  母は、繰り返した。美奈子は、顫《震》える声で答えた。 「何処《どこ》へ行かれたか分《分か》りませんの。あの晩《晩’》からずうっと分《分か》りませんの。」  が、瑠璃子は、美奈子の表情で凡《全》てを悟ったらしかっ《-っ》た。寂しい微笑《微笑’》らしい影が、その唇のほとりに浮《浮か》んだ。 「美奈さん、本当を云《言》って下さい。妾覚悟《わたし/覚悟》していますから。どうせ助からないのですから。」  美奈子は、何とも口《’口》が利けなかった。 「自首したの?」  美奈子は、首を振った。瑠璃子の衰えた顔に、絶望的な色が動いた。 「じゃ、自殺?」  美奈子は、黙ってしまった。彼女の舌は、釘付けられたように動かなかった。 「そう! 妾《わたし》、そうだと思っていたの。でも今度丈《今度だけ》は、妾悪意《わたし/悪意》はなかったの。」  そう云《言》いながら、瑠璃子は目を閉じた。美奈子に凡《全》てが判っていた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥けたのだった。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと云《言》ってもよかった。そう思うと、美奈子は身も世もないような心持《心持ち》がした。  日暮《日暮れ》に近づくに従って、瑠璃子の容態《容体》は、険悪になった。熱が、反対にぐんぐん下《下が》って行った。呼吸が──それも何の力もない──愈々《いよいよ》せわしくなって行った。  博士は、到頭今夜中《とうとう今夜じゅう》が危険だと云《言》うことを、宣言した。  瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだった。ホテルの玄関に、横着《横付け》になった一台の自動車があった。それは昔の恋人の危急に駭《驚》いて、瀕死の床を見舞うべく駈け付けて来た直也だった。熱帯地に於ける二年の奮闘は、彼の容貌をも変えていた。一個白面《一個’白面》の貴公子であった彼は、今や赭《赤黒》い男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持っていた。見るからに、颯爽たる風采と面魂とを持っていた。その昔ながらに美しい眸は、自信と希望とに燃えていた。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第六章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  直也が瑠璃子の部屋に入って来たとき、瑠璃子は夢ともなく現《-うつつ》ともないように眠っていた。  生命《命》そのもの、活動そのものと云《言》ったような直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云《言》ったような瑠璃子の蒼《青》ざめた瀕死の姿とは、何と云《言》う不思議な、しかしあわれな、対照をしただろう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前《/二年前》の恋人同士として、其処《そこ》に何と云《言》うおそろしい隔《隔たり》が出来たことだろう。  美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許に口を寄せて叫んだ。 「お母さま、あの、直也様がいらっしゃいました。」  段々《だんだん》、衰えかけている瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかった。美奈子は再び叫んだ。 「お母さま、直也様がいらっしゃいました。」  瑠璃子の土のように蒼い面《顔》の筋肉が、かすかに、動いたように思った。美奈子の声が漸く聞《聞こ》えたのである。美奈子は、三度目に力を籠《込》めて叫んだ。 「お母様、直也様がいらっしゃいました。」  ふと母の頬《ホオ》が、──二日の間に青白く萎びてしまった頬《ホオ》が、ほのかにではあるがう《/う》す赤く染まって行ったかと思うと、その落窪《落ち窪》んだ二つの眼から、大粒の涙がほろほろと、止めどもなく湧き出《-い》でた。と、今まで毅然として立っていた、直也の男性的な顔が、妙にひきつッたかと思うと、彼の赭《赤黒》い頬《ホオ》を、涙が、滂沱として流れ落ちた。  美奈子は、恋人同士に、二人限《二人き》りの久《/久》し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与えようと思った。 「お母様!《/》 それでは、妾《わたくし》はお|次ぎ《次》へ行っておりますから。」  そう云《言》って、美奈子は|次ぎ《次》の部屋に去ろうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて云《言》った。 「美奈さん! あなたも──どうかど《/ど》うかいて下さい。」  それは、かすかな、僅《僅か》に唇を洩るる《-る》ような声だった。 「お母様、妾《わたくし》もいるのですか。妾《わたくし》もいるのですか。」美奈子は、再び訊いた。母は、肯《頷》いた。いな肯《/肯》くように、その重い頭を、動かそうとしたのだ。  やがて、瑠璃子は、その衰えはてた眸を持ち上げながら、何かを探るような眼付《眼付き》をした。 「瑠璃さん! 僕です、僕です。分《分か》りますか。杉野ですよ。」  直也も、激《ゲキ》して来る感情に堪えないように叫びながら、瑠璃子に掩いかぶさるように、その赭い顔を、瑠璃子の顔に触れるような近くへ持って行った。  瀕死の眼にも恋人の顔が分《分か》ったのだろう、彼女の衰えた顔にも嬉《/嬉》しげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかった。微笑む丈《だけ》の力も、彼女にはもう残っていなかったのだ。 「直也さん!」  瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼったのだろう、が、しかし、それはかすかな、うめくような声として、唇を洩れたのに過ぎなかった。 「何《なん》です? 何《なん》です?」  直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋り付くように云《言》った。 「わ──た──し、あなたには何も云《言》いませんわ。ただお願いがあるのです。」  それだけ続けるのが、彼女には精一杯だった。 「願いって何《-なん》です?」 「聴いてくれますか。」 「聴きますとも。」  直也は、心の底から叫んだ。 「あの──あの──美奈さんを、貴君《貴方》にお頼みしたいのです。美奈さんは──美奈さんは──みなし──みなし──みなしご‥‥」《。」》  そこまで、云《言》ったとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたように、彼女はぐったりとなってしまった。  母が、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼《一番’信頼》する直也に、自分の将来を頼む為であったかと思うと、美奈子は母の真心に、その死よりも強き愛に、よよとばかり、泣き伏してしまった。  その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久《エーキュウ》に離れた。烈々たる炎の如き感情《’感情》の動くままに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく何《-なん》の悔《悔い》をも懐《-いだ》くことなく縹渺《/縹渺》として天外に飛び去ったことだろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【第七章】 ──── ◇。◇。◇。◇。◇。  母を失った美奈子の悲嘆は、限りもなかった。彼女は、世の中の凡《全》てを失うとも、母さえ永らえて呉《く》れればと、嘆き悲しんだ。  母の亡骸が、棺に納められた後、彼女は涙の裡に母の身辺のものを、片づけにかかっていた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けていた、白い肌襦袢に、手を触れなければならなかった。それには、所々血《ところどころ血》が滲《-にじ》んでいた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかった。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、厭だった。彼女は、恐る恐るそれを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴《胴’》のところに、布類とは違った堅い手触りを感じた。彼女は駭《驚》いて見直した。其処《そこ》には何か紙片《紙きれ》のようなものが、軽く裏側から別に布を掩うて、縫い付けられていた。彼女はそれを見ようか見まいかと思いまどった。母の秘密を、死後に暴くことになりはしないかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのようにも思われた。彼女は、思い切って、おそるおそるそれを取り出して見た。意外にも、それは台紙を剥がした一葉《イチヨウ》の写真だったのである。写真は、絶えず母の肌と触れていたために、薄れてはいたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だった。  美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心が判ったように思った。母が、黄金の力のために偽《偽り》の結婚をしたときも、美しき妖婦として、群がる男性を翻弄していたときにも、《:、》彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しき操は、汚れなき真珠の如く燦然《/燦然》として輝いていたのであった。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋を蹂《踏》み躙られた恨《恨み》を、多くの男性に報いていたと云《言》ってもよかった。  美奈子は、母に対する新しい感激の涙に咽びながら、隣室にいた直也を呼ぶと、黙ってその写真と肌襦袢とを示した。  |暫ら《暫》く、それを見詰めていた直也は、溢れ出《-い》ずる涙が、美奈子の手前一寸《手前/ちょっと》は支えていたが、到頭堪《とうとう堪》えきれなくなったと見え、男泣きに泣き出してしまった。 ◇。◇。◇。◇。◇。  青木稔と瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろいろに書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸う、美しき吸血魔《ヴァンパイア》とすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦カルメンの死に比しているものもあった。夫人の華麗奔放、放縦不羈《ホウジュウ不羈》の生活を伝聞していた人々は、新聞の報道を少しも疑わなかった。夫人の美しさを頌えると同時に、夫人の態度を非難する嵐のような世評の中に在って、夫人の本当の心、その本当の姿を知っているものは、美奈子と直也の外《ほか》にはなかった。  が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たった二人の男性と女性とから、理解されていることは、大輪の緋牡丹の|崩るる《クズルル》如く散り去った彼女に取って、さぞ本望であっただろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節《シーズン》を通じての傑作として、美術批評家達《美術批評家たち》の讃辞を浴びたことを記憶しているだろう。  それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持った若き夫人の立姿《立ち姿》であった。而《しか》も、この肖像画の成功はそ《/そ》の顔に巧みに現わされた自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると云《言》われていた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、|K. K.《K-K》 と署名《サイン》されているのに気が付いただろう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進していた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向《手向け》であったのであろう。 ◇。◇。◇。◇。◇。  瑠璃子を失った美奈子の運命が、此先何《この先ど》うなって行くか、それは未来のことであるから、此《こ》の小説の作者にも分《分か》らない。が、われわれは彼女を安心して、直也の手に委《任》せて置いてもいいだろうと思う。 ◇。◇。◇。◇。◇。 【底本:「真珠夫人(上《ジョウ》)《):》」新潮文庫、新潮社】 【   2002(平成14)年8月1日発行】 【《【:》   「真珠夫人(下《ゲ》)《):》」新潮文庫、新潮社】 【   2002(平成14)年8月1日発行】 【初出《ショシュツ》:「大阪毎日新聞」《」:》、「東京日々新聞」《」:》】 【   1920(大正9年)6月9日~《から》12月22日】 【※《◇》底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」《」:》(区点番号5-《の》86)を、大振りにつくっています。】 【※《◇/》「甲斐々々《甲斐甲斐》しく」と「甲斐甲斐しく」の混在は、底本通《底本どお》りです。】 【入力:kompass】 【校正:トレンドイースト、門田裕志、Juki】 【2014年5月14日作成】 【2016年9月7日修正】 【青空文庫作成ファイル:】  このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:《コロン”》//www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。